統一戦線の歴史❶世界

◆◆統一戦線の歴史❶世界(反ファッショ統一戦線・フランス・スペイン・中国)

憲法とたたかいのブログトップ 

【このページの目次】

◆統一戦線の歴史(世界)リンク集

◆統一戦線とは=小学館百科全書

◆統一戦線の歴史的教訓=共産党文献から

◆フランス人民戦線

◆スペイン人民戦線

◆中国での民族統一戦線

◆戦後の統一戦線(ベトナム、チリ)

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◆◆統一戦線の歴史(世界)リンク集

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【統一戦線一般】

◆Wiki=コミンテルン、コミンテルン年表、統一戦線、人民戦線、フランス人民戦線、スペイン人民戦線、抗日民族統一戦線、八・一宣言、国共合作、南ベトナム解放戦線、人民連合

◆◆ディミトロフ=反ファシズム統一戦線

国民文庫版=坂井信義、村田陽一訳

http://www.geocities.jp/mlismtxt001/kokuminbunko425/mokuji.html

───コミンテルン=共産主義インタナショナル第七回世界大会(1935年7月25日~8月25日)の日程第二項『ファシズムの攻勢と、ファシズムに反対し労働者階級の統一をめざす闘争における共産主義インタナショナルの任務』にかんするゲオルギー・ディミトロフの主報告とその結語であり、付録として同大会の諸決議、および一九四三年六月における共産主義インタナショナル解散の決定にかんする資料をおさめたもの。

◆◆当ブログ=不破『スターリン秘史―巨悪の成立と展開』(第1~5巻)を語る

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/54550077.html

(スターリンの覇権主義を解明した全5卷の著作のわかりやすい解説。と同時に、現代史の新しい視点を私たちに提供。コミンテルン、統一戦線、フランス人民戦線、スペイン人民戦線、ディミトロフなど統一戦線解明に欠かせない著作でもある。上記はダイジェストなので全6卷の著作物の購入を)

【コミンテルン第7回大会、下の写真中列右から2人目は片山潜】

◆近代デジタルライブラリー – コミンテルン第七回大会の決議

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460513/4

◆中林賢二郎=世界労働運動史㊤(労旬デジタルライブラリー)

http://www.junposha.com/library/?_page=book_contents&sys_id=32

◆◆中林賢二郎=世界労働運動史㊦(労旬デジタルライブラリー)統一戦線は㊦の9章と10章

http://www.junposha.com/library/?_page=book_contents&sys_id=33

★★志位=「綱領」第11回講義=民主連合政府と民主主義革命(統一戦線とは何か・統一戦線の歴史)

★志位講義資料

クリックして11_02_koryo.pdfにアクセス

◆◆平田好成=コミンテルン第7回大会論PDF20p

クリックしてA03890813-00-000030160.pdfにアクセス

◆嶋崎=コミンテルンと統一戦線PDF27p

http://ci.nii.ac.jp/els/110006261706.pdf?id=ART0008278316&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414937819&cp=

◆嶋崎=コミンテルンの統一戦線論PDF18p

http://ci.nii.ac.jp/els/110006261984.pdf?id=ART0008278954&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414938066&cp=

◆世界史の窓=コミンテルン

http://www.y-history.net/appendix/wh1501-108.html

◆世界史の窓=人民戦線/反ファシズム人民戦線/民族統一戦線

http://www.y-history.net/appendix/wh1504-106_1.html

◆世界恐慌・ファシズムと統一戦線

http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/yogo/04yogo15_4.htm

◆石川=コミンテルンの転換ー第7回世界大会論ノート

PDF30p

http://ci.nii.ac.jp/els/110006263141.pdf?id=ART0008281317&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414766841&cp=

◆石川=1905年以来の統一戦線の史的発展段階PDF36p

クリックしてp069.pdfにアクセス

◆田中=第二次国内革命戦争時期における統一戦線の範囲と”ソビエト”のスローガン(文化編)PDF17p

http://ci.nii.ac.jp/els/40004878932.pdf?id=ART0007336664&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414935369&cp=

◆小杉=コミンテルンにおける「民族統一戦線」の構想と展開PDF72p

クリックしてioc08004.pdfにアクセス

◆石川=統一戦線論史覚え書き(戦間期危機への対応)PDF28p

クリックして502kawanari.pdfにアクセス

◆石川=戦間期ヨーロッパ統一戦線運動再考PDF27p

クリックしてAN00040793_v45_n2_p19-44.pdfにアクセス

◆石川=ファッショ化過程の「不可逆点」と統一戦線

(プーランツアス)

◆大原社研=反ファシズム統一の課題と国際労働運動

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-249.html

◆加藤哲郎=反ファシズム統一戦線研究の新段階(ソ連崩壊による情報独占の崩壊過程でのコミンテルン評価)

クリックしてronso1060400720.pdfにアクセス

◆資料集 ソ連共産党、コミンテルンと日本

1917-1941年の紹介

http://www.nisso.net/topics/komintern/kominternNihon.htm

【ドイツ共産党と統一戦線】

◆五十嵐 仁=コミンテルン初期における統一戦線政策の形成 : 特にドイツ共産党との関係を中心にPDF70p

http://ci.nii.ac.jp/els/110000588348.pdf?id=ART0001060530&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414936623&cp=

◆木全=ドイツ共産党の統一戦線運動の構造 : 一九二一年後半から一九二二年を中心としてPDF30p

クリックしてrekisikenkyu11_p43-72.pdfにアクセス

◆山田 徹=ドイツ共産党の統一戦線運動の構造 : 一九二一年後半から一九二二年を中心として

❶PDF44p=http://ci.nii.ac.jp/els/110000587632.pdf?id=ART0001059206&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414936023&cp=

❷PDF34p=http://ci.nii.ac.jp/els/110000050408.pdf?id=ART0000388139&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414936170&cp=

❸PDF36p=http://ci.nii.ac.jp/els/110006159960.pdf?id=ART0008127191&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414935076&cp=

❹PDF35p=http://ci.nii.ac.jp/els/110000050433.pdf?id=ART0000388208&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414936355&cp=

◆石川=コミンテルン初期のファシズム認識ードイツ共産党の分析を中心にPDF43p

クリックしてp035.pdfにアクセス

◆石川=一九三二年の反ナチ統一戦線問題 : ドイツ共産党の動向を中心としてPDF37p

http://ci.nii.ac.jp/els/110006262256.pdf?id=ART0008279604&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414936500&cp=

◆小出達夫=反ファシズム統一戦線とドイツ共産党:KPD1934・8・ 1決議より1935・1・30決議までPDF28p

クリックして49_P121-147.pdfにアクセス

◆熊野 直樹=統一戦線行動・ユンカー : ヴァイマル共和国末期におけるドイツ共産党の農村進出と農村同盟

PDF22p

http://ci.nii.ac.jp/els/110006262768.pdf?id=ART0008280611&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414934970&cp=

◆山田 徹 =ルール闘争期のドイツ共産党 : 統一戦線運動の展開と挫折

❶PDF57p=http://ci.nii.ac.jp/els/110000050448.pdf?id=ART0000388247&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414935575&cp=

❷PDF21p=http://ci.nii.ac.jp/els/110000587665.pdf?id=ART0001059287&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414935772&cp=

❸PDF53p=http://ci.nii.ac.jp/els/110000050497.pdf?id=ART0000388372&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414935822&cp=

【フランス人民戦線、フランス人民戦線政府】

(以下の4つのPDFはスマホの場合=画像クリック→最初のページのみ→エラー表示画面の上部の下向き矢印マークを強くクリック→全ページ表示)

◆7105フランス人民戦線史

https://docs.google.com/folderview?id=0B6sgfDBCamz5Ml9veVF6alZsRUk&usp=docslist_api

◆7409平瀬徹也=フランス人民戦線

https://docs.google.com/folderview?id=0B6sgfDBCamz5SENGTS10Wmx6SWM&usp=docslist_api

◆7701労働運動史研究会・佐藤=フランス人民戦線と労働運動

https://docs.google.com/folderview?id=0B6sgfDBCamz5S0dvWV9KWUVCbjQ&usp=docslist_api

◆7711平田好成=フランス人民戦線史

https://docs.google.com/folderview?id=0B6sgfDBCamz5Y2wwVDlMUW9SWVU&usp=docslist_api

◆平田好成=フランス人民戦線政府論PDF24p

クリックしてAN00040793_v5-1_p57-79.pdfにアクセス

◆平田好成=フランス人民戦線政治史総括の一視点PDF26p

クリックしてA03890813-00-000100023.pdfにアクセス

【人民戦線の宣誓。1935年7月14日に組織されたデモ。人民戦線の選挙協力は、7月15日に公式に確認された。上記写真のプラカードからは、次のような文が読み取れます。「我々は軍備縮小し、ファシスト諸連盟を解散させるために、公式の宣誓をする。民主主義的自由を守り、発展させるため・・・」】

◆竹岡=フランスファシズムと火の十字架団②PDF27p

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◆平瀬=フランス人民戦線研究の最近の動向20p

PDF20p

クリックしてKJ00005493219.pdfにアクセス

◆渡辺=21世紀のフランス人民戦線研究史20p

クリックしてosipp_033_001.pdfにアクセス

◆渡辺=ブルム内閣とスペイン内戦不干渉政策①PDF51p

クリックしてKJ00000085966.pdfにアクセス

◆渡辺=ブルム内閣とスペイン内戦不干渉政策②PDF43p

http://ci.nii.ac.jp/els/110000062455.pdf?id=ART0000405420&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414929166&cp=

◆渡辺=書評・ジャクソン「フランス人民戦線史」PDF7p

クリックしてKJ00000085636.pdfにアクセス

◆大島博光=人民戦線/レジスタンスFront Populaire/Résistance

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-57.html

◆相沢=書評・ジャクソン「フランス人民戦線史」

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/shohyo/aizaway.html

◆杉江=フランス人民戦線とその外交PDF17p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1968/35/1968_35_36/_pdf

◆向井=1936年のフランス社会政策(1) 一「人民戦線」内閣の政策経験一33p

クリックしてoer_010_3_107_139.pdfにアクセス

◆向井=現代フランス勞働政策史の一劃期 – 人民戰線政府のもとにおける強制仲裁制度の成立 -PDF25p

クリックしてeca0762_083.pdfにアクセス

◆書評・原=フランス戦間期経済史PDF15p

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◆飯田=フランスのバカンス制度一考察PDF18p

クリックして05_iida.pdfにアクセス

◆JIL・鈴木=フランスのバカンスと年休PDF10p

クリックして045-054.pdfにアクセス

◆フランスのバカンスの過ごし方

http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-459.html

【スペイン人民戦線、スペイン内乱】

◆スペイン内戦年表(1936-39)

クリックして3041_nenpyou.pdfにアクセス

(以下の2つのPDFは、スマホの場合=画像クリック→最初のページのみ→エラー表示画面の上部の下向き矢印マークを強くクリック→全ページ表示)

◆スペイン共産党=スペイン人民戦線政府の成立PDF

https://docs.google.com/folderview?id=0B6sgfDBCamz5TzZzOVpqLVdIRUk&usp=docslist_api

◆7011スペイン共産党=スペイン人民戦線史

https://docs.google.com/folderview?id=0B6sgfDBCamz5Q2hXSkhfRi1xWW8&usp=docslist_api

◆当ブログ=スペイン市民戦争

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3045258.html

◆当ブログ=ロバート・キャパのスペイン市民戦争の写真の謎

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2900839.html

◆書評・ウェーラン「キャパとスペイン内戦」

クリックして502kawanari.pdfにアクセス

【ゲルニカ】

★ピカソとゲルニカ(知への旅)44m

https://m.youtube.com/watch?v=8KNtS8Y7iFk

★ピカソ(100人-20世紀)20m

https://m.youtube.com/watch?v=IJZ6axIo_D8

◆ピカソとゲルニカ

http://www.art-library.com/sp/picasso/guernica.html

★★映画=誰が為に鐘は鳴る(For Whom The Bell Tolls) (スペイン市民戦争描く) 

160m

❶https://m.youtube.com/watch?v=tYV9Is_9tEc

❷https://m.youtube.com/watch?v=TnVoRrIJIAo

◆映画=誰が為に鐘は鳴るの紹介

http://aga.zouri.jp/t65.html

◆映画=蝶の舌の紹介

http://www.asmik-ace.com/Butterfly/spain1.html

◆小倉=ポストフランコのスペイン内戦映画論PDF15p

クリックしてto2011.pdfにアクセス

【スペイン人民戦線ポスター】

★Spanish Civil War Propaganda Posters 1936 – 1939 Spanish Music 8m

★Spanish Civil War – Propaganda Posters7m

https://m.youtube.com/watch?v=J8lyvl2rubE

★Spanish Civil War Propaganda Posters 5m

★Posters of the Spanish Civil War – TeacherTub3m

http://www.teachertube.com/mobile/video/posters-of-the-spanish-civil-war-46167

★Female Imagery in the Spanish Civil War(スペイン市民戦争の女性のたたかい=ポスターその他)17m

★スペイン市民戦争=ドロレス・イバルリ 

http://video.fc2.com/content/20131216HChRVFF2

◆1936-39年スペイン内戦写真集(「ライフ」)

Googleで検索のこと

◆世界史の窓=スペイン内戦

http://www.y-history.net/appendix/wh1504-112.html

◆裏辺金好=スペイン内戦

http://www.uraken.net/rekishi/reki-sekai006.html

◆渡辺=スペイン内戦の原因PDF15p

クリックして3-366.pdfにアクセス

◆書評・ビーバ「スペイン内戦」

❶http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/26567/1/oep059_3_320.pdf

❷http://www.fben.jp/bookcolumn/2011/06/post_2923.html

❸http://www.fben.jp/bookcolumn/2011/06/post_2939.html

◆神代=スペイン内戦の特質PDF10p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/hispanica1956/1958/3/1958_3_11/_pdf

◆深澤=スペイン内戦における反乱派政権の経済政策:財政・通貨政策を中心に(上)PDF18p

クリックしてCSI2010_1008.pdfにアクセス

◆深澤=スペイン内戦における反乱派政権の経済政策:財政・通貨政策を中心に(下)PDF21p

クリックしてCSI2010_1021.pdfにアクセス

◆田島=ドイツ外交政策とスペイン内戦 1936年(1) -「ナチズム多頭制」の視角からPDF55p

クリックして32(1)_p273-323-2.pdfにアクセス

◆田島=ドイツ外交政策とスペイン内戦 1936年(2) -「ナチズム多頭制」の視角からPDF39p

クリックして32%282%29_p107-141-2.pdfにアクセス

◆小倉=スペイン内戦とメキシコの人民政府支援PDF18p

クリックして45-3.pdfにアクセス

◆徳永=スペイン内戦とヘミングウエイ・「誰がために鐘は鳴る」(1)

http://ci.nii.ac.jp/els/110004686390.pdf?id=ART0007420117&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414923808&cp=

◆船山=1930年代とヘミングウエイPDF10p

クリックしてywjcyp-43-02.pdfにアクセス

◆小沼=オーウェルとスペイン内戦(上)36p

クリックして14_t0069-0104.pdfにアクセス

◆店村=スペイン内戦と文学者たちPDF12p

http://ci.nii.ac.jp/els/110004686387.pdf?id=ART0007420114&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414925331&cp=

◆川成=スペイン内戦に殉じたイギリス文学者、ラルフ・フォックス覚書きPDF4p

クリックしてKJ00000085966.pdfにアクセス

◆島田=コミンテルンとスペイン内戦

http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=summary&thesisID=132

◆書評・島田「ソ連・コミンテルンとスペイン内戦」

クリックして649kurihara.pdfにアクセス

◆川成=スペイン内戦とイギリス人の反応PDF30p

クリックしてkyoyo109_kawanari.pdfにアクセス

◆西崎=アメリカのカトリックとスペイン内戦PDF19p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/51/0/51_0_59/_pdf

◆渡辺=スペイン内戦とカトリック青年PDF24p

クリックして00012064.pdfにアクセス

◆渡辺=スペイン内戦期のカトリック看護師PDF19p

クリックして00011707.pdfにアクセス

◆川成=スペイン内戦と国際旅団の誕生PDF12p

クリックしてkyoyo82_kawanari.pdfにアクセス

◆鳳山雑記帳=スペイン内戦①~⑤

http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/627015/528771/58483817

①内戦はなぜ起こったのか

②戦争の経過

③独・伊とソ連の軍事援助と陸海空の戦闘

④コンドル軍団とゲルニカ爆撃 バスクの悲劇

⑤国際旅団とジャック・白井

◆岡本=スペイン内戦期のユーゴ共産党PDF11p

クリックして039-049.pdfにアクセス

◆川成「ジャック白井と国際旅団」の紹介

http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3149&syosekino=7015

◆スペイン内戦に散ったジャック白井

http://homepage2.nifty.com/tankenka/sub1-67.htm

◆スペイン内戦におけるジャック白井の姿 ―ハリー・フィッシャーの視点を通して―

http://www.occn.zaq.ne.jp/tlaloc/secila/ponencia/14-02/resumen.html

◆ソーベニア「スペイン人民戦線史研究」の意義

クリックして200000010063_000250900_1.pdfにアクセス

◆書評・中井=ソーベニア「スペイン内戦と列強」

クリックして200000010063_000248530_108.pdfにアクセス

◆野々山=スペイン内戦と民衆ー2つの自伝PDF12p

クリックしてacs011003.pdfにアクセス

◆歴史教育における批判的思考ー「スペイン内戦」の教育を通じてPDF15p

クリックしてKJ00000049232.pdfにアクセス

◆渡辺=スペイン内戦期のマドリッド教会の石板

クリックして00012740.pdfにアクセス

◆1939年首都マドリッド陥落と独裁者フランコ

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【中国の抗日民族統一戦線】

◆藤井=抗日民族統一戦線の考察

❶PDF29p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/8/2/8_53/_pdf

❷PDF27p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/8/3/8_1/_pdf

◆抗日民族統一戦線PDF10p

クリックして125-134.pdfにアクセス

◆抗日民族統一戦線

①http://www3.kct.ne.jp/~atonoyota/gendai/50-20china4.html

②http://www3.kct.ne.jp/~atonoyota/gendai/51-20china5.html

◆笠原正明=連蒋抗日民族統一戦線の形成PDF32p

http://ci.nii.ac.jp/els/110006958271.pdf?id=ART0008861576&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414938608&cp=

◆1930年代中国政治史研究:中国共産党の危機と再生(概要)

http://www.law.osaka-u.ac.jp/~tanakahi/30s_ccp/gaiyo.htm

◆衛藤=中国共産党と抗日民族統一戦線PDF23p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/3/1/3_67/_pdf

◆田中=抗日民族統一戦線樹立における王明の役割PDF24p

http://ci.nii.ac.jp/els/40004878898.pdf?id=ART0007336644&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414769511&cp=

◆土田=コミンテルンと日中戦争PDF18p

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◆敗北の構造 : 陳独秀と統一戦線PDF18p

クリックしてkenkyu0003000330.pdfにアクセス

◆毛沢東選集第二巻の「当面の抗日統一戦線における戦術の問題」

http://www.geocities.jp/maotext001/maosen-2/maosen-2-587.html

◆毛沢東の『新段階論』と統一戦線の思想

http://www6.plala.or.jp/GEKI/geki/1/53sindankairon.html

◆光田=東征と中国共産党の「統一戦線」政策 : 『毛沢東年譜』所収の史料を中心としてPDF33p

http://ci.nii.ac.jp/els/110006159960.pdf?id=ART0008127191&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414935076&cp=

◆石井=K. A. ウィットフォーゲルの中国革命論(その2)-毛沢東の台頭と第二次統一戦線の形成と崩壊をめぐり(上)PDF40p

クリックしてkyouyoronshu_467_1.pdfにアクセス

(下)PDF32p

クリックしてkyouyoronshu_472_1.pdfにアクセス

◆光田=抗日戦前期の毛沢東の国際情勢認識PDF26p

クリックしてhougaku-74_37-62.pdfにアクセス

◆抗日民族統一戦線の形成と全面抗戦ルートの制定 

http://shanquan104.blog.sohu.com/242996040.html

◆天児=統一と抗争の論理 : 抗日民族統一戦線における毛沢東の 発想PDF18p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/3/1/3_67/_pdf

◆寺広=満州における抗日統一戦線

PDF24p

クリックしてrekisikenkyu6_p23-46.pdfにアクセス

◆上田=満州における抗日統一戦線の形成ー抗日民族統一戦線の先駆的役割として PDF46p

クリックしてerar-v37n1.2p1-46.pdfにアクセス

◆「満州」における抗日パルチザンの活動

http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/kougi/kindai_note/15Manshu.htm

◆丸田=抗日戦争期の中国共産党の根拠地PDF20p

クリックしてp1-20.pdfにアクセス

◆中国共産党第5回全国代表大会

時間   1927年4月27日-5月9日 

場所   武漢 

代表総数 80人 

当時の党員総数 5万7967人 

大会の主要な内容 大会は、蒋介石が「四・一二」反革命クーデターを起こし、中国革命にとって重大な瀬戸際であったこの時機に開かれた。大会は、コミンテルン執行委員会第七回拡大会議で採択された中国革命問題に関する決議を受け入れ、この決議の精神によって、陳独秀がブルジョア階級と支配権を争奪することを無視した右翼日和見主義の誤りを犯したことを批判しながらも、大会はこの時の中国革命の実際状況を適合し右翼日和見主義の誤りを正す方法をなにも打ち出せなかったため、陳独秀は大会後も右翼日和見主義の誤りをおかしつづけた。大会は、「この時の主要な任務は土地革命を実施し、農村革命民主政権をうちたてることである」と指摘したが、農民の土地に対する要求を満足させる具体的な政治網領は提出できなかった。このため、この代表大会は危機から革命を実際的に救う任務を達成することができなかった。大会は中央委員29名と中央委員候補10名からなる中央委員会を選出した。 中央委員会は、陳独秀、張国タオ、李維漢、蔡和森、李立三、瞿秋白、譚平山の7人からなる中央政治局を選出し、陳独秀を中央委員会総書記とした。

◆【戦後の統一戦線】

◆小沼新=ヴェトナムにおける統一戦線の発展 (第三世界–その政治的諸問題)PDF26p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1969/39/1969_39_65/_pdf

◆小沼=ホ・チ・ミン–その思想と行動 (第三世界政治家研究)PDF22p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1977/57/1977_57_61/_pdf

◆逸見 重雄=ホー・チ・ミン評伝PDF11p

http://ci.nii.ac.jp/els/110000184165.pdf?id=ART0000543884&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414941548&cp=

◆逸見 重雄=パリにおけるホー・チ・ミン : ベトナム民族解放運動の起点PDF32p

http://ci.nii.ac.jp/els/110000400154.pdf?id=ART0000837894&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1414941695&cp=

◆◆きょうの潮流=統一戦線政府樹立80周年

赤旗16.07.28

ことしはフランスとスペインに人民戦線政府ができて80年にあたります。ファシズムや独裁に立ち向かう各国の人民は、立場の違いを超えて共同の目標のもとに行動する、統一戦線という知恵を生み出しました▼思想家の内田樹(たつる)さんは、参院選中の野党共闘への攻撃に対して「政治的立場の違う政党が限定的な政策の一致を足場に一時的な共闘関係を持ちうることは、民主主義の最もすぐれた点」と鋭く反論しました▼フランスの人民戦線は、「パンと自由と平和のための戦線」とよばれ、バカンスも獲得しました。第2次大戦が始まり、ドイツ軍に占領されると、思想・信条を超えてレジスタンス(抵抗運動)が展開されました▼そのなかで生まれた有名な合言葉が「神を信じる人も信じない人も」です。共産党員作家アラゴンが「バラと木犀(もくせい)草」と題した詩の中で繰り返しました。「神を信じたものも/信じなかったものも/ドイツ兵に囚われた…神を信じたものも/信じなかったものも/その足跡はかがやいていた…」(大島博光訳)▼詩の冒頭の献辞には、犠牲になった共産党員、王政主義者、カトリックの学生らの名を掲載。詩は、若者、キリスト者を勇気づけました。レジスタンスは、ナチスからの解放に大きく貢献し、いまも国家の顕彰の対象です▼私たちも先の参院選での共闘が、1+1が2以上の力を発揮することを体験しました。野党と市民の共闘は、政治を国民の手に取り戻すたたかいの産物です。大切に、大きく育てたい。

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◆◆統一戦線とは

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小学館(百科全書)

(1)統一戦線とは

一般的には、特定の具体的な政治状況のなかで、諸階級・諸党派・諸政治勢力が、それぞれの独自の要求を保持しながらも、状況のなかでの基本的争点について、一致点に基づく共同の闘争を行うこと。この意味では、歴史的には古くから存在し(「合従連衡」「大同団結」など)、保守反動勢力、急進革新勢力のいずれについても当てはまる戦術形態(統一戦線戦術)である。

より現代的には、革新諸勢力の、政治変革と社会主義への移行を展望しての、基本政策上の一致点に基づく戦略的運動形態をさし、コミンテルン第7回大会での「反ファシズム統一戦線」(1935)、これに基づくフランス、スペインでの「人民戦線」、中国革命での「抗日民族統一戦線」(国共合作)、アメリカのベトナム侵略に抵抗したベトナム「解放民族戦線」、チリでアジェンデ大統領を生み出した「人民連合」、フランスにおける「左翼連合」などがこれに含まれる。また、この現代的意味では、国内での政治変革についてのみならず、国際政治についても国際統一戦線として述べられることがある。

(2)統一戦線の歴史

統一戦線という術語が政治用語として定着してくるのは、第一次世界大戦後の共産主義運動、コミンテルンの政治戦術としてである。ロシア革命過程での、労働者と農民の階級同盟(労農同盟)を基礎としたボリシェビキ、メンシェビキ、左翼エスエルなどの共同闘争は事実上統一戦線としての意味をもっていたが、1920年代初頭に、ドイツにおいて、ドイツ共産党や共産党系労働組合が、それまでドイツ十一月革命の社会主義革命としての流産の責任を負うものとして攻撃してきた社会民主党や社会民主主義的労働組合に対し、戦後インフレ下の生活擁護と旧体制復活をもくろむ右翼勢力の台頭に対する共同闘争を呼びかけた際に用いられたのが、統一戦線の政治用語としての由来である。

このドイツ共産党で生まれた統一戦線戦術は、戦後革命的情勢の退潮のもとで運動再構築の必要に迫られていたレーニンらコミンテルン指導部によって支持され、1921年のコミンテルン第3回大会から22年の第4回大会にかけて、世界共産主義運動の共通の路線として形成された。この段階の統一戦線は、「プロレタリア統一戦線」「労働者統一戦線」とよばれたように、各国に生まれたばかりの共産主義政党がなお労働者大衆のなかに基盤を確立しておらず、多くの労働者は第二インターナショナル以来の伝統をもつ社会民主主義政党や改良主義的労働組合を自分たちの組織と考えているとする現実的状況認識に基づいて、労働者の多数派を革命の方向へ獲得していくために、主として社会民主主義政党・労働組合の下部労働者を共同闘争に引き入れ、この共同闘争の過程で共産主義の影響下に置いていこうとするものであった。この「初期統一戦線」期にも、社会民主主義政党指導部と共産党との交渉も承認されていたし、この労働者統一戦線を基盤とした「労働者政府」や、多数の農民を抱えている国々での「労働者・農民政府」の可能性も考えられていた。この方針に基づいて、1922年には三つのインターナショナル(コミンテルン、第二インターナショナル、第二半インターナショナル)間の共同闘争についての国際会議が開かれ、23年にはドイツのザクセン、チューリンゲン州政府での「労働者政府」の一時的樹立も行われた。

しかし、ドイツの「労働者政府」がすぐに敗北し、統一戦線の支持者であったレーニンが死去してのち、1920年代後半から30年代前半のコミンテルンでは、統一戦線ということばは残されたものの、もっぱら社会民主主義系下部労働者を共産党に獲得するためのマヌーバー(策略)とされ、政党・労働組合指導者間の頂上交渉は「下からの統一戦線」の名のもとに抑制された。世界恐慌が勃発(ぼっぱつ)しファシズムが台頭してきた30年代初頭には、社会民主主義とくにその左翼を主要敵とみなし社会民主主義そのものをファシズムと同列に扱う「左翼社会民主主義主要敵論」「社会ファシズム論」が採用され、ドイツでのヒトラー・ナチズム政権樹立を許す一因となった。これはまた、ファシズム国家も民主主義国家もブルジョアジーの独裁として社会主義=プロレタリア独裁と対置する思考と結び付いていた。

1935年のコミンテルン第7回大会において、ドイツ・ファシズム政権成立の衝撃を受け、革命勢力の孤立をようやく自覚した共産主義勢力は、ファシズムに反対するすべての政治勢力を結集し、ファシズムに対してただちに社会主義を対置するのではなく、ブルジョア民主主義を擁護し、労働者階級に社会的基盤をもつ社会民主主義政党と積極的に交渉していくという、反ファシズム統一戦線を提唱した。これは、34年のフランス、オーストリア、スペインなどでの共産党と他党派との共同闘争の経験を踏まえたもので、労働者階級ばかりでなくファシズムに反対する中間層をも含む統一戦線が人民戦線として公認され、これを基盤とした統一戦線政府・人民戦線政府が社会主義への移行を準備するものとして戦略的に位置づけられた。この反ファシズム統一戦線・人民戦線の提唱に基づいて、フランスやスペインでは、政策協定を基礎にした人民戦線政府がつくられたが、その際、共産党と社会民主主義政党ばかりでなく、知識人やさまざまな反ファシズム大衆団体も重要な役割を果たした。第二次大戦は、それ自体としてみても、ファシズム枢軸諸国に対する反ファシズム連合諸国の国際統一戦線的性格をもっていたが、この過程での中国抗日民族統一戦線、反ファシズム・レジスタンス運動、アジアの民族解放闘争は、それぞれに統一戦線運動として展開された。戦争末期から戦後にかけての、東欧やアジアでの人民民主主義国家の成立は、統一戦線を基礎にした社会主義への移行と位置づけられた。

(3)現代の統一戦線

第二次大戦後、革命路線としての統一戦線は、戦略的なものとして一般化した。それと同時に、各国での統一戦線は、それぞれの国の歴史的・文化的伝統に立脚した、それぞれの国家と政治の性質と勢力関係に応じた具体的なものでなければならないことも明らかになった。社会主義への統一戦線的移行を現実に経験した後進国や中進国の場合、民族的解放と国家的独立、土地革命や外国資本の没収・国有化、戦犯追放や国家機構の民主化が、統一戦線の主要な内容となった。発達した資本主義的生産力をもち民主主義的伝統の根づいてきた先進国の場合、独占ブルジョアジーや多国籍企業への規制や国有化、民主的経済運営や政治的・軍事的諸制度の民主化の徹底が、反独占ないし反帝反独占統一戦線の課題とされた。すでにコミンテルン第7回大会(1935)は、「主要敵」と「中心問題」に応じた統一戦線・人民戦線を提唱していたが、「主要敵」を除くすべての政治勢力は、「中心問題」にかかわる統一戦線の主体となりうる。したがって、統一戦線形成の主体は、一つの階級ないし政党政派ではなく、民族、国民大衆、人民、市民などとして把握される圧倒的多数で多階層的な人々の集合である。このなかで労働者階級とそれに基礎を置く労働者政党・労働組合組織は、量的にも政治指導においても中核的役割を果たしうるが、その他の階級・階層・政治勢力の独自の要求と自律的運動も存在意義が認められ、役割を果たしうる。また、労働者階級内部においても、共産主義政党と社会主義政党、労働組合その他の大衆諸組織は、相互にその自主性を尊重しつつ対等・平等の立場で統一戦線に加わるのであり、この意味で統一戦線は、本質的に民主主義的な運動形態であり、運動の組織形態である。もともと世界観や政治的綱領の相違を前提にしての共同闘争である統一戦線は、統一戦線内での意見の相違を当然に前提とするし、諸党派のヘゲモニー競争も、それが統一戦線の共同目標達成を阻害するものでない限り、認められる。重要なのは、共通の一定の目標や利害をもちながら、その世界観や綱領上の相違を理由として統一戦線そのものを否定する傾向であり、こうした傾向は、より低次のレベルでの共同闘争と、統一戦線としての組織的共闘の前段階である統一行動のなかで、実践的に克服されていく。

発達した資本主義国の社会主義への移行は、まだ人類未踏の実験であるが、それが暴力革命の形態をとらない平和革命を目ざし、選挙と議会での多数派形成による合意による革命路線であり、社会主義社会においても複数政党制や民主的政権交代を承認する民主主義的社会主義を目標として設定するならば、そこに至る過程は統一戦線の民主主義的発展以外にはありえない。西欧諸国やわが国でのこれまでの経験は、統一戦線には政党ばかりでなく諸大衆組織・市民団体も加わるべきこと、これらの諸勢力は共通の目標を政策協定として明確にすべきこと、統一戦線の民主的運営のためには政策協定ばかりでなく組織協定も必要なこと、中央政府に対する闘争ばかりでなく地方政治レベルの統一戦線や住民運動・市民運動の共闘の積み重ねが強固な統一戦線の基盤となること、ベトナム反戦や反核運動のような国際統一戦線的闘争も国内での統一戦線発展に重要な役割を果たしうること、などを教えている。イタリアの「オリーブの木」、フランスの「左翼連合」、わが国の「革新自治体」などの経験は、こうした原理に基づく現代先進国の統一戦線運動の実験であったといえよう。

◆◆統一戦線の歴史的教訓

日本共産党「極左日和見主義者の中傷と挑発」

からの抜粋(1967年4月29日)

───レーニンの指導のもとに、第3回世界大会(1921年)以後、第2インタナショナルおよび第2半インタナショナルなどとの統一戦線のための闘争にとりくんできたコミンテルンは、レーニンが指導した最後の大会であった第4回世界大会(1922年)において、この統一戦線戦術から不可避的に生じる結論として、統一戦線政府を樹立する政治的課題とその可能性の問題を討議し、とくに、「ブルジョア社会がとくに不安定な諸国、労働者政党とブルジョアジーのあいだの力関係から、だれが政府をつくるかという問題の解決が、当面の実践的な必要となっている諸国」では、労働者の統一戦線にもとづく「労働者政府」――統一戦線政府のための闘争が、大きな政治的意義をもっていることを明らかにした。ここで、とくに重要なことは、大会が、ブルジョア権力が打倒され、労働者階級が権力をにぎる以前に、「労働者政府」が樹立される場合があることをはっきりみとめたこと、そして、この統一戦線政府がなによりもまず議会外の大衆闘争を基礎にしてつくりあげられることを主張しながら、同時に純粋に議会内の諸政党の新しい連合による多数にもとづいて樹立される可能性もあり、その場合においてさえ統一戦線政府の樹立が革命運動の発展をさらに有利にする契機となりうることを指摘していたことである。

「このような労働者政府は、それが大衆闘争のなかから生まれ、労働者大衆のもっとも抑圧された部分がつくりだした、闘争力ある労働者諸組織に支持されるばあいにのみ、可能である。労働者政府は、それが、議会内での事態の転換によって生まれ、したがってその起源がまったく議会内にあるというばあいでも、革命的労働運動を活気づける機会をあたえることができる」(コミンテルン第4回大会の「戦術にかんするテーゼ」)。

レーニンの理論的、政治的指導のもとにおこなわれた、統一戦線政府についてのコミンテルン第4回大会の決定は、自分たちの「反議会主義」をこともあろうにレーニンによって正当化しようとする極左日和見主義者たちの議論を、決定的に粉砕するものということができる。

統一戦線政府のための闘争は、レーニンの死後、コミンデルンの戦術方針から一時期すがたを消したが、1935年のコミンテルン第7回世界大会は、ドイツにおけるファシズムの権力獲得という新たな情勢のもとで、レーニンのこの思想をふたたびとりあげ、それをいっそう発展させた。

当時、世界資本主義の全般的危機のふかまりを背景に、ほとんどすべての資本主義諸国で、人民は、ブルジョア民主主義の諸制度を一掃してファシズム独裁をうちたて、新たな帝国主義世界戦争に道をひらこうとする凶暴な金融資本の攻撃に直面していた。

ファシズムはイタリア(1922年)につづいて、1933年には、ドイツでも権力を獲得したが、ドイツにおけるヒトラーの権力獲得は、ファシズム独裁が人民になにをもたらすかを、全世界の人民のまえにきわめて具体的にしめした。ヒトラーは、政権獲得後、ただちに、共産党だけでなく、ファシズムに妥協的態度をとっていた社会民主党をも解散させ、多数の共産主義者、民主主義者を投獄し、暴力で労働組合などあらゆる大衆的民主運動を圧殺し、文字どおりの反動的テロ支配をうちたてて、勤労大衆の犠牲のうえに帝国主義的侵略戦争への道をまっしぐらにすすみはじめた。ファシズムのこうした凶暴な攻撃は、資本主義諸国の情勢を大きく変化させ、反ファシズム、民主主義擁護の任務を労働者階級の当面の最大の任務とするとともに、共産党が社会民主主義政党その他の政党と民主主義的な統一戦線を結成し、独占資本とファシズムに反対する統一戦線に人民の多数を結集することのできる新しい条件をつくりだした。

こうした情勢のもとで、1935年7月、コミンテルン第7回大会がひらかれた。この第7回大会は、ファシズムの攻勢を粉砕して、民主主義、平和、勤労者の生活を守ることが、各国の労働者階級と共産党の当面の中心任務となってきたことを明らかにし、労働者階級を先頭に勤労農民、都市小ブルジョアジー、インテリゲンチアなど広範な人民を民主主義的な共同綱領のもとに結集して反ファシズム人民戦線を樹立することをめざす統一戦線政策を明確にうちだした。そして第7回大会は、政治的危機の一定の条件のもとでは、独占ブルジョアジ―の権力が革命的に打倒される以前に、反ファシズム人民戦線にもとづく統一戦線政府の樹立が可能であり、かつ必要ともなることを、明らかにしたのである。

「大衆運動の高揚とともに、プロレタリアートの利益のために、プロレタリア統一戦線政府もしくは反ファッショ人民戦線政府――それはまだプロレタリア独裁の政府ではないが、ファシズムと反動にたいする決定的な措置の実現をひきうける政府である――が可能であり、かつ必要であるとみなされる場合には、共産党はそういう政府が樹立されるようにとりはからわなければならない」。(コミンテルン第7回大会決議「ファシズムの攻勢とファシズムに抗する労働者階級の統一のための闘争における共産主義インタナショナルの任務」)

「われわれは、プロレタリア統一戦線政府もしくは反ファッショ人民戦線政府の樹立が可能なだけでなく、プロレタリアートの利益からみて必要であるような情勢がおこる可能性をみとめるものである。……私はここで、プロレタリア革命の勝利後に樹立されるような政府のことをいっているのではない。……私はソビエト革命の勝利の前夜に、またその以前に、可能性のある統一戦線政府についていっているのである。

この統一戦線政府はどういう種類の政府であろうか? またどういう情勢のもとでこういう政府は問題となりうるのであろうか?

それはなによりもまず、ファシズムに反対し、反動に反対する闘争をおこなう政府である。それは、統一戦線運動の結果うまれ、かつ共産党と労働者階級の大衆団体の活動を制限せず、逆に反革命的な金融王やそのファシスト的な手先にたいし断固たる措置をとるような政府でなければならない。

その国の共産党は、増大しつつある統一戦線運動に依拠しながら、適当な瞬間に、一定の反ファシズム綱領にもとづき、そラいう政府の樹立を宣言するであろう」。(ディミトロフ「ファシズムの攻勢と共産主義インタナショナルの任務」、コミンテルン第7回大会での報告)

このコミンテルン第7回大会の翌年、1936年には、フランスとスペインで、人民戦線が総選挙でファシスト右翼や中間勢力をおさえて投票と議席の過半数をかちとり、統一戦線政府を樹立することに成功した。フランスとスペインにおけるこの経験は、共産党と統一戦線勢力が議会で多数をしめて統一戦線政府を合法的に樹立することが一定の条件のもとでは現実に可能であることを実践によってはじめて具体的に実証したものとして、国際共産主義運動の歴史のなかでもきわめて重要な意義をもつ経験であった。

フランスでは、ドイツにおけるヒトラーの成功にはげまされたファシスト反動は、独占ブルジョアジーの支持のもとに、共和制を破壊しファシズム独裁をうちたてるために、1934年2月、パリで暴動をくわだてた。これにたいして、フランスの労働者階級は、共産党のよびかけにこたえ、社会党指導部や労働組合右翼幹部の動揺や妨害をのりこえて、ファシズムの攻勢に対抗する巨大な統一行動にたちあがり、また、大資本によって経済生活と自由をおびやかされていた農民や都市小ブルジョアジーの広範な層のあいだでも、大資本の抑圧に反対しファシズムに反対する要求と闘争が強まった。こうして、ファシズムの差し迫った脅威に直面して、フランスには、広範な勤労人民を「パンと自由と平和」のための共同のたたかいにたちあがらせ、反ファシズムの共同綱領のもとに、労働者階級の統一、「労働者階級と中産階級の同盟」を実現し、人民の多数を反ファシズムの統一戦線に結集することのできる情勢が、急速につくりだされた。

このような情勢と労働者を先頭とする全国的な大衆闘争の前進の圧力のもとに、1934年7月、共産党と社会党のあいだで行動統一協定が調印され、ついで1935年には、急進社会党や労働組合その他の社会団体もくわわって、反ファシズムの人民の統一戦線=人民戦線が成立した。人民戦線の成立は、労働者階級と人民の反ファシズム闘争をさらに前進させ、ファシズムと大資本の攻勢をうちやぶる大きな力となり、1936年4~5月の国会選挙では、人民戦線は大勝利を博した。すなわち、共産党、社会党、急進社会党を中心とする「人民連合」は、総投票数980万票のうち550万票(うち共産党150万票)をえ、議席では610議席のうち375議席(うち共産党72議席)をしめ、右翼諸党を圧倒して得票と議席の過半数を獲得することに成功したのである。そして、この選挙結果にもとづいて、社会党のブルムを首班に、人民戦線に基礎をおく一種の統一戦線政府――いわゆる「人民戦線内閣」がつくられた。共産党は、この政府に閣僚をおくらなかったが、必要な批判をしながら、これを積極的に支持する態度をとった。

選挙における人民戦線の勝利と人民戦線の支持する内閣の成立は、労働者階級の全国的なストライキをはじめ、人民の自覚と闘争の新たなたかまりをひらいた。人民戦線に支持されたブルム内閣は、人民の大衆闘争の支持と圧力のもとに、ファッショ団体の解散、賃下げなしの週40時間労働制と有給休暇、団体協約権の確立、恩給年金切下げの停止、フランス銀行の改革、軍需工業の国営化、失業救済の大土木工事など、人民戦線綱領にふくまれていた、人民の差し迫った要求にこたえる一連の民主的諸政策を実行した。

フランスの「人民戦線内閣」は、その後、人民戦線に対抗する独占ブルジョアジーの圧力、これと結びついた急進社会党、社会党幹部の動揺と裏切りなどのために、内政面でも、外交面でも一連の後退をつづけ、人民戦線綱領をつぎつぎと放棄して次第に統一戦線政府としての性格をうしない、1938年には、ヒトラー・ドイツによるヨーロッパ侵略を公然と許した「ミュンヘン協定」の締結に前後して、急進社会党が人民戦線からの脱退を宣言し、人民戦線自体が解体されるにいたった。人民戦線のこうした後退と崩壊の根本には、当時の内外情勢の制約とともに、のちにフランス共産党自身が自己批判しているように、工場、地域を基礎にした人民戦線委員会の全国的組織を十分発展させることができず、けっきょく上層部での話しあいが統一戦線の主要な形式になってレまったという、人民戦線の基本的な弱点がよこたわっていた。

しかし、こうした結末にもかかわらず、この人民戦線とその選挙での勝利が、ファシズムと大資本の攻勢から民主的自由と人民の利益を守り、労働者階級と人民の闘争を前進させるうえで、積極的な役割をはたしたことは、明白な事実である。フランスにおける人民戦線の経験は、コミンテルン第7回大会が各国の党と労働者階級のまえに提起した展望――党と統一戦線勢力が議会で多数をしめて統一戦線政府を樹立し、議会と政府を、ファシズムと独占資本に反対するたたかいに活用するという展望がたんに理論上可能であるだけでなく、一定の条件のもとでは現実に可能であることを実践によって具体的にしめした最初の経験のひとつとして、国際的にも大きな意義をもち、世界の反ファッショ民主勢力をはげまし勇気づけたのである。

さらに、スペインの経験は、党と民主勢力が議会の多数を獲得して統一戦線政府を樹立したというだけではなく、この統一戦線政府が、ファシズムと反動にたいする闘争をつうじて、民主主義的な革命権力に転化していったという点で、とりわけ大きな意義をもっていた。

スペインの当時の情勢は、1931年に王制が打倒され、共和制が実現されたものの、国内では封建的反動勢力がひきつづき大きな力をもち、国は未解決のブルジョア民主主義革命の課題に直面したまま、封建的反動と結合したファシズムの攻勢におびやかされていた。こうした情勢のなかで、スペインの労働者階級は、たび重なる弾圧、とくに1934年の武装蜂起の敗北の痛手にも屈せず、共産党のはげましのもとに、1935年以来強力な人民戦線運動を組織し、1936年1月には、社会党、共産党、左翼共和派、労働組合などのあいだに人民戦線協定を成立させた。この人民戦線は、労働者、農民をはじめ、スペインの民主的前進をのぞむ人民の大多数を代表していた。1936年2月の国会選挙で、人民戦線は、反動勢力をうちやぶり、473議席のうち、269議席を獲得した。こうして、人民戦線が国会の議席の多数をしめることを基礎にして、左翼共和党のアサニャを首班に、人民戦線諸党の支持をうけたブルジョア民主主義政府がつくられた。これにたいして、フランコを中心とするスペインのファシスト反動派は、民主主義革命の前進を暴力でおしつぶすために、ドイツのヒトラー政府とイタリアのファッショ政府の援助のもとに、1936年7月、全国的な反乱を開始した。そして、この緊迫した情勢のもとで、9月、ブルジョア共和政府にかわって共産党員の閣僚をふくむ人民戦線政府が成立した。この人民戦線政府は、スペイン・ファシストおよびドイツ、イタリアの干渉軍にたいするはげしい共和国防衛の戦争を遂行しつつ、人民の支持とますます大きくなる共産党の指導的役割のもとで、急速に組織された労農義勇兵と共和国に忠誠をしめしつづけた幹部将校、兵士を中心に、新しい革命的民主的軍隊をつくりあげ、中央、地方の国家機構を根本的に民主的に変革し、さらに、反乱に加担した地主、企業家の土地や工場の没収、徹底した土地改革、勤労者の民主的権利の保障、基幹工業部門の国有化など、独占資本や大地主の経済的支配を打破して人民の経済的必要をみたす措置をとるなど、一連の革命的民主的な政策を実行した。こうして、国内戦の砲火のなかで、統一戦線政府は民主主義的な革命権力に転化してゆき、スペイン共和国は、人民が権力をにぎる新しい型の民主共和国に発展していったのである。

この民主共和国は、人民戦線自体が、右翼降伏主義分子や、無政府主義者、トロツキストなどの極左分子による重大な内部的弱点をもち、さらに国際的にも、各国の共産党員、反ファシストによる国際義勇軍の支援という壮挙にもかかわらず、世界の反帝平和、民主主義と社会主義の勢力が国際的な力関係でまだ相対的に劣勢にあったという事情もあって、1939年3月、共和国の最後の拠点マドリードの陥落を最後に、その発展を完成しないまま、スペインのファシスト反動派と独伊ファシスト干渉軍の武力によって消滅させられた。

フランスとスペインの人民戦線政府は、どちらも、人民戦線内部の弱点、とくに右派諸党の動揺や裏切り、国際的な不利な条件などのために、その任務を完遂しえずに、中途で挫折した。しかし、それは、統一戦線政府がその任務を確実にはたすためには、共産党と労働者階級がいっそう大きな指導的役割を発揮し、人民の統一戦線を真に広範で強固なものとする必要があることをおしえているのであって、この挫折の事実が、統一戦線政府の最初の経験としての歴史的意義をうしなわせるものでないことは、いうまでもない。フランスとスペインの人民戦線の経験、とくにスペイン革命の経験は、反動とファシズムに反対して人民の大多数を団結させるならば、議会で多数をしめて統一戦線政府を樹立することが可能であることを現実にしめした。それはまた、共産党と労働者階級の指導的役割が十分に発揮される条件のもとでは、この統一戦線政府を革命権力に向かって前進させ、独占資本や地主の支配を打破する革命の諸任務を遂行することができることを実際にしめした。さらにそれは、ソビエト共和国ではなく、普通選挙にもとづく国会を最高機関とする民主共和国が、人民の民主主義的権力の国家形態となることができることを具体的に明らかにした。これらの点で、フランスとスペインの人民戦線の経験は、国際共産主義運動に、あたらしく大きな政治的教訓をのこしたのである。───

◆◆フランス人民戦線政府 

front populaire フランス語 

1930年代、ファシズムの台頭に抗して組織された統一戦線運動。フランスとスペインでは人民戦線政府が成立した。しかし、この運動はロシア革命以来の国際共産主義運動の方向転換と密接に関連していて、他の諸国にも大きな影響を与えた。また、政治面だけではなく、ファシズムの危機に揺らぐ時代状況のなかで新たな可能性を開く試みとして思想・文化の面でも注目を集め、第二次世界大戦前夜の一時期を画した。

1933年ドイツでヒトラーが政権を握り国際的にファシズムの脅威が増大するなかで、フランスでは34年2月6日、右翼・ファッショ的諸団体が政府、議会を攻撃する騒乱事件が起こった。当時、社会党と共産党は1920年に分裂して以来対立状態にあり、労働運動も分裂していた。しかも国際的にコミンテルンが社会民主主義をファシズムに道を開くものとして第一の攻撃目標としていたことは、ファシズムに対する労働運動などの抵抗力を著しく弱くしていた。しかし、その分裂状況を超えようとする動きは、社会党のセーヌ県連など下部において現れていた。また、1933年元急進社会党のガストン・ベルジュリを中心にする「共同戦線」の名をとった試みもあった。他方、1932年8月、作家のアンリ・バルビュスやロマン・ロランらの提唱によりアムステルダムで国際反戦大会が開かれ、翌年パリで行われた2回目の大会の会場の名とあわせて、アムステルダム・プレイエル運動とよばれる知識人を中心にする運動が生み出されていた。こうした状況のなかで二月六日事件は人々に衝撃を与え、反ファッショ勢力結集と大衆的な行動の機運は急速に拡大することとなった。2月12日、労働総同盟(CGT)の提唱したゼネストに共産党系の統一労働総同盟(CGTU)も参加、また社共両党がそれぞれデモを組織し、共同行動への最初の一歩となった。

人民戦線形成に至る過程には、社会党、共産党、それに急進社会党を加える政党レベルでの行動協定を伴う戦線統一の動きと、知識人を中心として文化的模索をはらんだ党派を超える運動の試み、それに、増大する危機に直面しつつ、現実を超える新たな方向への期待を含めた下からの人々の動きが絡み合っている。2月以後、統一した運動への意識的な動きとしてまず表面に現れたのは、3月5日に発足した反ファシスト知識人監視委員会であった。社会党と共産党はこうした機運のなかで同年の7月27日、統一行動協定に調印した。翌35年、アムステルダム・プレイエル運動の提唱で7月14日を期して統一示威運動を行うことが計画され、6月そのための委員会が社共両党に急進社会党も加わり、またCGT、CGTU、さらに知識人監視委員会のほか、人権連盟や青年婦人運動などの代表も参加して組織された。7月14日はパリをはじめ各地での大規模な示威行動の日となり、人民戦線はここに成立した。共産党が急進社会党と接近し共和政擁護を掲げた背後には、同年5月仏ソ相互援助協定を結んで、国際的に孤立から脱却しようとしていた当時のソ連の外交政策の変化と、コミンテルンの政策転換の動きがあった。7月末より開かれたコミンテルン第7回大会は、フランス人民戦線の結成を高く評価し、国際共産主義運動の課題を反ファシズム統一戦線の形成に置いた。

【レオン・ブルム首相】

1936年4~5月に行われた議会選挙で人民戦線派が圧勝し、社会党が第一党となった。この結果、6月4日に社会党のレオン・ブルムを首相とする人民戦線内閣が生まれた。この間、選挙の時期より労働者による工場占拠を伴ったストライキの波が起こり、6月には未曽有(みぞう)の規模で拡大した。これは人々による直接的な意志表示の欲求と新たな可能性への期待が、人民戦線の勝利の祝祭という様相をも呈しながら噴出したものであった。新政府は労働総同盟代表(CGTとCGTUは1936年3月合同を実現していた)と経営者側代表との間に、賃上げや組合運動の自由を認める協定を6月8日に締結(マチニヨン協定)させる一方、有給休暇、団体協約、週40時間労働などの労働・社会立法を相次いで成立させた。また政府内に新たに余暇・スポーツ庁が設けられ、休暇旅行やスポーツの組織化と大衆的普及が計られた。しかし人民戦線政府は短命に終わった。おりから始まったスペイン内戦にレオン・ブルム政府は不干渉政策をとり、国際的なファシズムの攻勢に対して、この政府が旧来の国際秩序に寄りかかった無力なものであることを示した。また資本の国外流出をはじめとしてもたらされた財政・経済困難に対し、政府は平価切下げを行うなどのほかに有効に対処しえなかった。そして、資本家の側の抵抗や右翼の新たな活動に対し、工場占拠などで示された大衆的エネルギーの噴出を恐れた政府は、かえって、人民戦線の形成を支えた下からの活力を失わせていった。1937年2月13日レオン・ブルムは人民戦線政策の「一時停止」を表明、6月22日には財政全権を求める法案否決を機に総辞職に追い込まれた。その後も人民戦線派の短命内閣が続き、1938年3~4月には第二次ブルム内閣も組閣されたが、同年11月急進社会党と共産党が決裂することにより、人民戦線は完全に終止符を打った。

◆フランス人民戦線エピソード(1)フランスでの反ファッショのデモから統一戦線がはじまった

(小林勇)

1960年安保闘争のときには、いわゆるフランス・デモをさかんにやったものである。両手をひろげて隣りの人と手を結び、道路一杯に広がって行進するのである。たが本場(?)フランスのデモで両手をひろげるのは、道路の両側面で、行進を守るように進んでいる人たちだけ、あとは道路をぎっしり埋めつくしたデモ隊がゆっくりと、力強く前進していくのである。それにしても1934年2月12日のパリのデモは、これまでとは一風変わっていた。その日の昼すぎ、それぞれ別個に隊列をくんだ二つのデモ隊が,ヴァンセンヌ散歩場を幅一杯に,ゆっくりと向かいあって進んだ。一つは反共の労働総同盟(CGT)、もう一つは労働総同盟から排除された統一労働総同盟(CGTU)であった。あと30mでぶつかるという地点で、二つのデモ隊がしばらく停止した。すれ違って進むか、引きかえして背を向けるか、それしかないように見えたが、もはやそれは不可能であった。数日前から力強く吹いていた統一の風が突風化した。二つの隊列はそのまま進み,歓呼の声をあげてまじりあい、一つの隊列にとげあった。

この日フランス全国の300都市て500万の労働者が24時間の全国ストを展開した。これはフランス労働運動史上初めてといっていいほどに成功したゼネストであった。パリでは100万をこえる労働者がストに参加し、デモを展開した。パリのデモも最大の大衆的示威運動となったのである。1933年にヒトラーが政権をにぎることに成功したことから、各国のファシスト勢力も大いに奮いたった。翌34年2月、フランスの反動勢力もいよいよ実力を行使する時が来たと考えた。かれらは当時、フランスの政界をゆるがした一大汚職事件を利用した。それは日本のリクルート事件にも匹敵するものであった。ファシストの諸団体は反政府デモをくりかえし,さらに暴動をひきおこして下院の奪取までくわだてた。この混乱で内閣は総辞職し、そのあとをついだ内閣もわずか一日で辞職、結局,半ファシスト的なズーメルク政権が出現した。

2月12日のゼネストはこうした状況のなかでたたかわれた。フランスの労働者階級はセネストの成功をかちとることにより、ファシズムを敗退させた。この反ファシズム闘争で決定的な勝利の要因は、労働者階級のたたかいであった。しかしこのたたかいが有効てあるためには、労働者階級の統一が必要であった。2月の闘争はまず行動の統一を実現した。そればかりか、1936年の組織の統一を可能にしたのである。もともと分裂(1921年)は、反共の幹部によるものであった。だがそれ以後CGTは、労資協調の傾向を強め、しだいに力を失なってきた。それでもかれらは、たび重なる統一の呼びかけをかたくなに拒否してきたのだが、ついに2月12日のデモで、統一派も総同盟派もがっちり腕をくみ、ついに組織の統一にまで前進した。そればかりか統一行動の発展は、中間層の人びともひきつけ、人民戦線の強力な基盤をつくりあげたのである。この点で2月12日のデモは、フランス労働運動史のーエピソードというには、その意義は余りにも大きいかもしれない。

◆フランス人民戦線エピソード(2)有給休暇、バカンスはマティニョン協定から始まった

年休獲得の起源は、1933年1月のヒトラーによるドイツでの政権掌握と国際的なファシズムの脅威増大、それに対するフランスの労働組合の闘いによるところが大きい。

右翼諸勢力の攻勢に対抗してフランスでは、社会党と共産党が統一行動協定を結んだり、CGTとCGTUという労働組合の全国組織がゼネストで闘った。35年7月14日50万人といわれる大示威運動をへて、労働組合組織の統一を実現。翌36年5月議会選挙の勝利で、6月4日社会党のブルムを首相とする人民戦線内閣が成立。5月中旬より各地の工場などで労働者のストライキ運動が爆発的に拡大し、その多くは工場を占拠した。6月にはストライキ件数は1万2000件、190万人ゼネストでフランス中が沸き立ったという。

この労働者・労働組合の闘いの圧力のもと、ブルム内閣の調停によって6月8日、政府・資本家代表・労働総同盟代表によりマティニョン協定が結ばれた。この協定を基礎に議会では有給休暇、団体協約、週40時間労働の3法をはじめ各種の社会・労働立法が成立した。史上初の有給休暇法であった。

フランス人民戦線政府が制定したこの2週間の年休法は、普通の労働者がバカンスで大型の余暇生活を享受する慣習をつくりだすうえで決定的役割を果たした。

その後人民戦線は短命に終わり、週40時間労働は巻き返しで消滅したが、有給休暇法は休暇日数を増やし、各国に波及していった。日本では戦後労働基準法制定で初めて年次有給休暇が実現したが、その根拠はフランスをはじめ世界の労働者の闘いにあった。

◆◆スペイン内戦(スペイン市民戦争)

小学館(百科)

斉藤 孝

Spanish Civil War 

1936年7月から1939年3月まで、スペインにおいて人民戦線政府に対して軍部・右翼諸勢力が起こし、2年半続いた内戦。

あらまし

スペインでは1936年1月15日、共和主義左派、社会党、共産党、マルクス主義統一労働者党(POUM)、労働総同盟などの間で人民戦線の名をとった協定が成立した。これは2月に予定されていた選挙のための戦術協定という性格が強かったが、選挙において人民戦線派が過半数を獲得する勝利を収め、2月19日共和主義左派の中心マヌエル・アサニャを首相とする人民戦線内閣が誕生した(アサニャは5月10日大統領となる)。選挙の勝利は、1933年来「暗い2年間」とよばれる反動化の進行の下で弾圧を受けてきた大衆行動の激しい高揚によって迎えられた。労働者のストライキ、反動のシンボルでもあった教会の襲撃、政治犯の釈放、農村における小作農民による土地占拠などが各地に広がり、他方で人民戦線に反発する右翼やファッショ団体のテロが頻発した。人民戦線は選挙協定の枠を越え、政府は動揺しつつも土地改革を含めて一定の改革の方向を打ち出し、スペインはしだいに人民戦線とファシズム、右翼保守勢力との直接対決の場となっていった。7月17日、スペイン領モロッコで軍部が起こした反乱は、この状況を決定づけた。以来スペインは3年近くに及ぶ内戦に入り、反乱側を援助するドイツ、イタリアの介入により、国際的な焦点となったのである。

(1)内戦の発生

1936年2月16日、スペインでは総選挙の結果、共和主義者、社会党、共産党の協力による人民戦線が右翼の国民戦線に対して勝利を得て、19日、共和主義者が中心となってアサニャを首班とする人民戦線政府が成立した。これは、1931年の第二共和政の成立以来激しくなっていた国内の政治的対立に、ますます拍車をかけるものであった。人民戦線政府は、1934年10月の反ファシスト政府蜂起(ほうき)における政治犯の釈放や農地改革、カトリック教会の特権の縮小などを課題としたが、大衆は徹底した社会変革を望んでいた。とくにスペインにおいて強力であったアナキスト系の労働者や農民は、人民戦線政府の意向を超えて革命化していた。これに対して、自由主義的な中間層や社会党・共産党の指導下にある労働者などは、人民戦線政府に協力する態度をとっていた。一方、大資本・地主・教会を基盤とする右翼諸勢力は、軍部を中心としてひそかに政府打倒の計画を進めた。

陰謀は、フランコら何人かの将軍を指導者として練られた。1936年7月17日のモロッコにおける駐屯軍の蜂起を機に、翌18日、軍部がスペイン各地で反乱を起こし、フランコはカナリア諸島からクーデターの宣言を放送した。反乱は短期決着をねらったクーデターとして始まったが、労働者の抵抗など人民戦線政府側の反撃にあって、クーデター計画は失敗に帰した。フランコの指揮下にモロッコに拠点を確保した反乱軍は、ドイツ、イタリアの援助を得て本土に上陸し、以後長期的な内戦になった。

(2)内戦の国際化

軍部の反乱に対して、いち早く対処したのは労働者であった。スペインの二大労働組合であるCNT(労働全国連合、アナキスト系)とUGT(労働総同盟、社会党系)は、武器を労働者に分配することを要求し、マドリードやバルセロナでは、労働者や市民が武器庫や銃砲店を襲って武器を手に入れ、反乱軍と戦った。1936年7月19日、ヒラールJos Giral(1879-1962)が新たに共和諸派による政府を組織し、労働者団体を武装することを決定した。軍部の蜂起は、同月20日までにはスペイン本土ではカディスとセビーリャを除いてほとんど鎮圧された。モロッコでは反乱軍が拠点を築いたが、海軍の大部分が反乱軍に協力しなかったので、モロッコから本土へ軍を輸送することはできなかった。反乱軍の総指揮にあたるはずのサンフルホ将軍は死亡し、他の有力な指導者が逮捕されたりしたために、モロッコで蜂起に成功したフランコ将軍が、反乱軍のなかで指導権を握った。

フランコは、ドイツとイタリアに援助を求め、ドイツとイタリアの飛行機がモロッコへ送られた。この両国の介入はその規模を拡大し、内戦の長期化とともにこの介入も長期化することになった。ドイツのフランコ側に対する経済援助は約5億4000万マルクと推定され、ドイツがスペインに送った兵力は約1万であった。イタリアは、ドイツの2倍の約68億リラの経済援助を与え、送った兵力は約7万2000であった。また、サラザール独裁下のポルトガルはフランコ側を支持し、国土をドイツ・イタリア軍の通路と軍需品の輸送路として提供した。こうして、本来、軍のクーデターとして始まったものが、短時日のうちに内戦へ、さらに国際的内戦へと拡大した。

(3)初期の戦局とイギリス・フランス・ソ連の対応

1936年8月、モロッコから本土に上陸したフランコ軍は、北上してマドリードを目ざし、また北方のレオン、ガリシア地方を制圧し、同年9月末マドリードをほぼ半円形に囲んだ。ここにスペイン本土は共和国政府に残された地域と、反乱軍(ナショナリストと自称)に占領された地域とに二分されるに至った。ここに至るまでイギリス、フランスの両国政府は、共和国、ナショナリストのどちらの側も援助しないという「不干渉」原則を提唱していた。当時フランスでは、ブルムが人民戦線政府の首相となったばかりであり、ブルムはスペインの共和国側を援助する方針であったが、イギリスの圧力と国内の右翼の脅迫に屈して不干渉政策をとらざるをえなかったのである。

不干渉政策は、ヨーロッパ諸国に受け入れられて、不干渉協定が成立した。この協定は、合法政府としての共和国政府の武器購入の権利を奪うものであり、その意味において共和国側に不利に作用するものであった。しかし、ドイツ、イタリアの武力介入は続けられ、ソ連はこれに対抗して、1936年10月末、共和国側に戦車や飛行機、大砲などを送った。ソ連から送られた人数は約2000人程度で、多くは技術的な部門で活動した。なお、メキシコのカルデナス政権もスペイン共和国に対して武器を送った。アメリカは、スペイン内戦に対しては中立の態度をとっていたが、石油資本はフランコに対する石油の供給を続けていた。

(4)共和国側の内部事情

共和国側ではマドリードはじめ多くの都市で、市民はフランコ側に好意的な分子を逮捕し、また教会を焼き打ちしたりした。貴族や富豪はフランコ軍の占領地域へ逃げた。経営者や地主の逃亡した企業や土地は、人民戦線諸政党の代表によって管理され、宮殿や大邸宅は労働者組織の施設として利用された。

第二共和政の課題であった農地改革は、ここにその実現の機会を迎え、フランコ軍側に走った地主の土地の利用を農民に許した。アラゴン地方では、アナキストによる農業の集産主義化が開始された。集産主義とは、小さい村や共同体を単位とする協同組合に似た組織によって共同作業や消費の配分を営むもので、その規模や形態は一様ではなかった。カタルーニャでは、工場の大部分が労働組合によって収用され、資産家や経営者などは逃亡したり、投獄されたり、あるいは処刑されたりした。

このように共和国側内部の事情は、内戦前と比べて著しく変化した。その中でも、労働者が部分的に権力を掌握したことが重要である。ヒラールを中心とする共和国政府は、自由主義的ブルジョアジーからなり、旧来の国家機構を把握している。社会党、共産党は、これを閣外から支持していた。軍部のなかにも合法的な共和国政府に忠誠を誓う勢力もあった。またカタルーニャでは、自治政府の大統領コンパニースLuis Companys(1883-1940)は、アナキストを含む民兵委員会や経済評議会を設置して、労働者による軍事と経済の管理を認めていた。しかし、アナキストは、政府を無視して独自の社会革命に立ち上がったのである。アナキストの強い地域では、上流階級や教会に属するものへのテロリズムが統制なく行われるなど、反乱軍に対する戦闘にとっては不必要な行動が多かったが、政府はこれを取り締まる力をもたなかった。アナキストの組織であったFAI(イベリア・アナキスト連合)やその傘下の労働組合CNTは、人民戦線協定に参加しておらず、フランコらの反乱に対して、人民戦線政府を擁護するためではなくて、社会革命の好機として反フランコ闘争に立ち上がったのであった。

人民戦線政府を擁護し、共和国の秩序を確立するというたてまえから左翼諸勢力の統一を主張したのは共産党であった。1936年9月4日、ヒラール内閣は退陣して、労働者に信望のある社会党左派のラルゴ・カバリェロが内閣を組織した。カバリェロ内閣は社会党、共産党からも入閣させ、さらに11月にはアナキストを入閣させた。共産党員がブルジョアジーとの連立内閣に入り、さらにアナキストが政府機関に参加しないという原則を破って入閣した。これは、アナキストの性急な革命主義を抑え、アナキストの民兵を吸収して一元的な政府軍に改組するためであった。一方、アナキストの側では、武器を手に入れる手段として入閣したのであった。共産党は、ソ連からの武器を得るチャンネルとなり、内戦開始後その勢力を著しく伸張した。共産党は、ばらばらな民兵組織を正規軍とし、指揮系統を一元化することを主張していた。

(5)内戦の実態

スペイン内戦の特徴は処刑と報復殺人の横行であった。左翼のテロリズムが自然発生的で激情的に行われたのに対して、反乱軍側によるテロは組織的、計画的であり、また大量であった。戦場における死者の数は10万ないし15万とみられるが、処刑または報復殺人は共和国側では約2万、反乱軍側では内戦後の処刑を含めて約30万から40万ほどの処刑または大量殺人があったとみられている。

反乱軍側によって殺されたもののなかには、詩人ガルシア・ロルカがいた。ロルカは共和国側を支持する立場にたっていたのである。哲学者ウナムーノは反乱軍の反知性主義や野蛮な行為を批判したために、反乱軍によって軟禁され、まもなく死んだ。外国の新聞記者も反乱軍の占領地域から追放され、軍によるテロを報道することができなかった。また、人民戦線側とくにアナキストの教会焼き打ちや僧侶(そうりょ)に対する無差別的な殺害は、穏健な民衆を離反させる結果を招いた。

(6)フランコ体制の形成

元来フランコ軍は、大衆運動としての基礎を欠いており、カルロス党やファランヘ党などの在野右翼団体に頼らざるをえないのであった。フランコは内戦の過程でナショナリスト側において指導的地位を獲得し、1936年10月、自ら「統領」と名のり、ファランヘ党からその大衆向けのイデオロギーを借用し、この党をテロ部隊として利用した。

ファランヘ党の指導者ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラは、1936年3月に人民戦線側によって逮捕され、同年11月処刑された。その後、ファランヘ党には別の指導者をたてようとする動きがあったが、フランコは、ファランヘ党やカルロス党を吸収し、自分の支配下の政党を組織しようとして、1937年4月ナショナリスト派すべての党派を合同し、「伝統主義者(カルロス党)とJONSのスペイン・ファランヘ」という新政党を結成した。彼はこの党の党首となった。これは一般に「ファランヘ党」として知られるが、ホセ・アントニオが創立したものとは組織的に異なっていた。ドイツとイタリアは、1936年11月、フランコ政権をスペインの正統政府として承認を与えていた。

(7)マドリード防衛戦

(ヘミングウエイ)

スペイン内戦の特色として、さらに国際義勇兵の活躍があげられる。1936年10月、フランコ軍はマドリード市の郊外に迫り、11月6日、総攻撃を開始した。アーネスト・ヘミングウェイ、アンドレ・マルローやジョージ・オーウェルなどの作家がスペインに赴いたことは有名であるが、そのほかこのころ、イギリス、フランス、アメリカなど多くの国の知識人や労働者、さらにドイツ、イタリアからの亡命者などが、共和国の防衛に感激と同情を寄せてスペインに集まり、無名の兵士として銃をとった。彼らは国際旅団に組織され、マドリードの戦場に姿を現した。この国際義勇兵を組織的にスペインに送り込むことに努めたのは、コミンテルン(第三インターナショナル、当時の共産主義者の国際組織)であった。この義勇兵の数は正確にはわからないが、3万から4万とみられている。

共和国政府はマドリードからバレンシアへ移転したが、マドリードはその後2年半ほどもちこたえた。「ノ・パサランNo pasarn(やつらを通すな)」というのが、マドリード市民の合いことばであった。マドリード市の攻防戦が長期化するうちに、戦局はしだいに共和国の敗色が濃くなった。フランコ軍に対するドイツ・イタリアの武力援助とイギリス・フランスの不干渉政策という状況の下では、共和国側は圧倒的に不利であった。

(8)ゲルニカ爆撃

スペイン内戦は、一面では中央集権に対する地域自治の闘争でもあった。内戦開始後まもなくバスク地方は自治政府をつくり、保守的なカトリック教徒も共和国を支持していた。1937年4月、制空権を掌握したドイツ空軍のコンドル兵団は、バスク地方の町ゲルニカを爆撃した。画家ピカソはゲルニカ爆撃に憤慨して名作『ゲルニカ』を完成させた。以後バスク地方を制圧したフランコ軍はバスクの自治を奪い、バスク語を禁止した。カトリック教徒も共和国を支持する限り厳しい弾圧にあった。このゲルニカ爆撃とバスク弾圧によって、フランコは国際世論の非難を浴びた。

(9)共和国の敗北

内戦中フランコ側がともかく統一を保ちえたのに対して、共和国側は構成要素がしだいに分裂し始めた。スペイン共産党の勢力伸張は、同時に当時のスターリン的な政治指導の誤りをスペインにも持ち込むことになった。ソ連における「粛清」がスペインでも行われ、反フランコ勢力の内部に致命的な分裂を生じた。1937年5月のバルセロナにおける市街戦では、共産党はアナキストおよび反スターリン的マルクス主義者を一掃した。共和国側は、以後政治的危機が続き、カバリェロ内閣にかわったネグリン内閣ももはや大勢を挽回(ばんかい)することはできなかった。1939年1月バルセロナは陥落し、3月マドリードも陥落して、内戦はフランコの勝利に帰した。

(10)内戦の総括

スペイン内戦は、スペインの歴史からみれば、19世紀のカルリスタ戦争に続く、最大規模の内戦であった。王党派や教会・軍部・地主などにとっては、内戦は、第二共和政を打倒し、伝統的スペインを再興するための「十字軍」であった。そしてスペインの資本主義は、このような伝統的勢力に支持されて労働運動を鎮圧することができたのであった。一方、共和派ブルジョアジーにとって第二共和政の課題は、フランス革命をスペインに実現することであった。また社会党やアナキストの労働運動にとっては、ロシア革命の任務を果たすこと、すなわち資本主義社会の打倒が目標であった。この二つの革命の課題が重なり合って提出されていたことは、当時のスペイン社会の構造の複雑さを物語っていたのである。しかも、ファシズム諸国の台頭というヨーロッパの情勢の変化が、スペイン国内の対立を刺激し、またスペイン内部の動きが国際対立を激化させたのである。当時のヨーロッパの国際対立は政治イデオロギー上の対立とも重なっており、スペインはイデオロギーの戦場でもあった。

◆◆中国の抗日民族統一戦線

◆抗日民族統一戦線の結成、国共を出会わせた7.7

長征途上の1935年に、中国共産党が内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を呼びかける八・一宣言を発表した。これに呼応した張学良らが36年に西安事件を起こすと国共の接近が進み、37年の盧溝橋事件を契機に日中戦争が始まると、第2次国共合作が成立した。

今から約80年前、中華民国という国で南京を都とした南京国民政府が全国政権となっていた。しかし国民政府は国の中と外に敵をかかえ、困難な状況におかれていた。

まず、中では中国共産党が各地に地方政権を樹立して、国民政府と対立していた。共産党によるそれらの地方政権をまとめていたのが、江西省の瑞金に都を置き、毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国臨時政府。

一方、外からは日本が1931年の柳条湖事件以来、中国の東北地方を軍事的に占領し、そこに「満州国」を樹立していた。その後も日本は華北への侵略を進めて、中国の国家的統一を揺るがせていた。

▼国内統一に注力

当時国民政府の主席であった蒋介石(しょうかいせき)は、日本軍との戦いよりも、国内の共産党との戦いを優先する「安内攘外(あんないじょうがい)」と呼ばれる政策をとっていた。蒋介石は「日本軍は皮膚の病であるが、共産党は内臓の病である。内臓の病は生死に関わる」として、国内の統一に力を注ぎ、共産党への攻撃をおこなっていた。

この結果、共産党による中華ソビエト共和国臨時政府は崩壊し、34年に新しい根拠地を求めて国民政府による包囲網からの脱出を図る「長征」が始まった。

▼八・一宣言

国民政府の追撃をかわしつつ、共産党は35年に「八・一宣言」を発表し、内戦の停止と抗日民族統一戦線の構築を求めました。

宣言ハイネ、中国共産党と中華ソビエト共和国政府の連名で、1935年8月1日付けで発表された。正式題名は「抗日救国のため、全国同胞に告げる書」。当時、中国共産党の紅軍主力は長征の途上で、四川(しせん/スーチョワン)省北部の毛児蓋(もうじがい)にあり政治局会議を開いていた。一方、7月から8月にモスクワでコミンテルン第7回大会が開かれ、陳紹禹(ちんしょうう/チェンシャオユー)(王明)が中共代表として抗日統一戦線について報告していた。毛児蓋の会議で毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)は、ソビエト基地を守ろうとする張国(ちょうこくとう/チャンクオタオ)らに対し、民主的な抗日民族統一戦線の組織を主張し、張らは退けられた。八・一宣言も「国民党軍が紅軍攻撃をやめれば」ともに救国にあたる用意があるとして、目前に迫った日本の対中国侵略に一致して立ち上がることを呼びかけている。宣言は毛児蓋(もうじがい)で決定し発表された形をとっているが、実際にはモスクワの中共代表団が中共中央の名で発表したものと推定されている。

▼西安事件

国民政府の張学良が36年に西安事件を起こした。1936年12月、中国の西安(せいあん/シーアン)で蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)が監禁された。36年、旧東北軍の張学良(ちょうがくりょう/チャンシュエリヤン)は東北軍総司令として、西北軍総司令の楊虎城(ようこじょう/ヤンフーチャン)とともに陝西(せんせい/シャンシー)省北部の中共軍を包囲していた。張は剿匪(そうひ)総司令部(匪は中共をさす)の副司令でもあったが、彼の部下の兵士たちは、中共の内戦停止、一致抗日の呼びかけを支持していた。「先安内後攘(じょう)外」(国内平定が先決、外敵は後回し)という政策をとり、抗日運動を抑圧していた蒋は、自ら対共作戦督促のため、張軍の布陣する西安に飛んで華清池(かせいち/ホアチンチ)に滞在した。ちょうど一二・九運動1周年に向けて西安の青年たちはデモを行い、張らを牽制(けんせい)した。張、楊は民衆の要求を背景に12月12日、蒋を逮捕し、内戦停止、抗日、政治犯釈放などを要求した。中共は南京(ナンキン)では親日派の何応欽(かおうきん/ホーインチン)が覇権をねらっていること、南京の親英米派は一定の条件のもとに抗日に参加しうることなどの状況判断にたって平和解決に乗り出し、25日、蒋介石は釈放されて南京に戻り、内戦は停止された。この事件は抗日民族統一戦線結成の契機となり、中国近代史における重要な転換点となった。共産党との戦いを促しに来た蒋介石を逮捕。

▼中国を変えた抗日民族統一戦線

こうして内戦の停止と統一戦線の結成をせまる事態が生まれた。

国民政府内部の造反であるこの事件は、中国のさらなる分裂をまねくとの見方も当時あったが、共産党から周恩来もかけつけて蒋介石の説得にあたった結果、内戦停止と抗日民族統一戦線の結成を約束して、蒋介石は自由の身となった。

しかし西安事件によって国民党と共産党が接近して第2次国共合作が成立した、という風にすんなりとはいかなかった。国民党の蒋介石も共産党の毛沢東も、共に相手に対する不信感をぬぐい去ることができず、その後も小競り合いが続いていた。

▼日中戦争の勃発

そんな両者が最終的に合作を決意したのは、37年7月7日の盧溝橋(ろこうきょう)事件に始まる日中全面戦争が勃発したことである。強力な日本軍が中国の華北に侵入を開始すると、もう国共内戦なんてやっている場合ではなくなった。

ちなみに現在、東京国立博物館で開催中の「台北故宮博物院展」に出品されている重要文物は、一連の戦火による混乱を逃れるため、北京から南京、重慶へと流浪を余儀なくされていた。

一年に一度オリヒメとヒコボシが出会う7月7日は、中国において国民党と共産党を出会わせる日にもなった、歴史上の転換点であった。

◆◆Wiki・西安事件の経過=第二次国共合作・統一戦線結成の契機をつくる

(部分的に不十分な点もあるが、引用掲載)

1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。事件収束に至る真相の詳細はいまだ不明だが、この事件によって、その後の共同抗日と国共合作が促されたとされる。

【張学良】

【楊虎城】

◆背景

陝西省華清池の五間廰(2008年撮影)

陝西省臨潼華清池にある西安事変記念碑

1934年1月8日に欧州旅行から帰国した東北軍(zh)首領の張学良はドイツ・イタリアの民衆が心を合わせて指導者を擁護しながら復興を遂げていることに感銘を受け、帰国するやいなや「われわれも領袖を擁護しなければならない」と語り、中央の蒋介石支持を明らかにした。9・18事件後、東北の地盤を失った張学良は蒋介石から河南省、湖北省、安徽省の剿共副総司令に任命され共産党軍の長征による北上を阻止する任務についたが、1935年9月には指揮下の第67軍の第110師団が壊滅的損害を被り師団長・参謀長を失った。1935年10月には西北剿共副総司令に任命され西安に司令部を進めたが、指揮下の第57軍の第109師団の師団長が捕虜になるなど損害を出し続けていた。このような状況に置かれていた張学良は楊虎城に剿共が嫌になったと打ち明け、1936年に入ると共産軍との接触を始めた。1936年4月9日、張学良の働きかけによって周恩来・張学良会談が延安で開かれた。

西安の地方軍閥である楊虎城(第17路軍総指揮)は、中央軍・共産軍どちらの進出も望んでおらず、共産軍と相互不可侵協定を結んでおり、西安に進出した張学良に司令部を提供することもなく、蒋介石の剿共作戦に批判的であった。

共産軍は中国政府軍の剿共戦により21万人から7万人まで勢力を弱め、陝西省・甘粛省の2省に追い詰められていた。このため、蒋介石は共産軍を殲滅する最後の軍議を西安で開き、20個師団と100機を超える航空機を投入して2週間から1月間以内に8年間にわたる剿共戦を終わらせようとしていた。蒋介石は将軍たちに「剿匪の完全成功まで、いまや最後の5分間の段階にきている。各自はこの機会を逃すことなく、勇敢迅速に行動してほしい」と繰り返し命令していた。

日本との間には、1936年9月23日に上海共同租界内で日本人水兵射殺事件が前年度の中山水兵射殺事件の解決をみる前に再び引き起こされ、9月24日に蒋介石は臨戦態勢をとるよう軍政部長等に命令を下す状況に陥っていた。10月1日、ナチス・ドイツから派遣されているファルケンハウゼン将軍によって立案された上海・漢口租界の日本軍への奇襲攻撃作戦が蒋介石に伝達された。10月5日、蒋介石と川越大使との会談が行われ、蒋介石は日中友好を力説した。

1936年10月、国民政府行政院長(首相)蒋介石は、紅軍(中国共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じたが、共産党と接触していた張学良と楊虎城は共産党への攻撃を控えていた。このため、蒋介石は攻撃を督促するために12月4日には西安を訪れていた。

◆拉致

1936年12月11日午後10時、張学良は親衛隊第二旅長唐君堯、騎兵第六師長白鳳翅、親衛隊第二営長孫銘九に抗日のための蒋介石連行計画を打ち明け、翌日の作戦計画の取り決めがなされた。12月12日午前1時、張学良は緊急幹部会議を行いその他の幹部にも作戦実施を告げた。

12月12日午前5時、西安からトラックに分乗した拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名)が出発した。西安では楊虎城の第17路軍が陝西省政府、憲兵隊、警察、保安隊、飛行場、蒋介石配下の将軍等が宿泊する西安賓館を襲撃した。第17路軍は憲兵団長揚鎮亜を射殺し、西安賓館の将軍等を一箇所に集めて監禁するとともに脱出を試みた邵元沖元立法院院長代理を射殺した。蒋介石が滞在している華清池(zh)から500mに位置する臨潼県城には第105師師長劉多茎と親衛隊第二旅長唐君堯が到着し、拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名)の到着を待った。

午前6時25分、蒋介石拉致実行部隊(張学良の親衛隊第2営第7連120名。)が華清池(zh)の五間廰表門で守備についていた憲兵の誰何に応答することなくトラックで侵入を図ろうとしたため、憲兵が威嚇射撃を行うと、トラックから実行部隊が降り立ち憲兵と銃撃戦となった。降り立った実行部隊たちは塀を乗り越えて門内に侵入した。銃声を受けて異変を察知した特務員蒋堯祥は侍衛官竺培基の指示を受け調べに向かったところ実行部隊に銃撃され応戦中に左胸を打ち抜かれながらも変を叫んで知らせた。蒋介石は侍衛官竺培基から避難するよう伝えられると、竺培基、特務員施文彪、従兵蒋孝鎮の4名で塀を乗り越えて脱出した。一行は裏山の標高790mの斯家山の頂上付近まで退避したが、途中警護の者達は次々と銃弾に倒れ、蒋介石は一人岩間に身を潜めた。午前7時30分には警備隊は制圧され護衛侍従長銭大鈞、侍従室第3組長蒋孝先など20名、実行部隊は17名の死傷者を出した。実行部隊は捕らえた憲兵の一人に拳銃を突きつけて尋問するとともに2千元を渡し蒋介石の情報を提供をすれば釈放すると条件を出したため、憲兵は蒋介石が裏山に逃げたことを自白した。蒋介石の発見に2万元の懸賞金がかけられ、午前9時には発見された。捕らえられた蒋介石は西安に連行された。

◆略奪

その間、楊虎城の第17路軍によって陝西省政府、保安隊、警察、銀行、西安賓館、西安駅、農村合作事処、民家などで略奪が行われた。西安駅では中央軍の兵糧が略奪され将兵たちによって転売された。西安賓館では書類以外全てが略奪の対象となり、宿泊していたアメリカ人女性記者はメガネから下着にいたるまで奪われた。張学良の銀行である東北辺業銀行では制止に入った西北剿共総司令部員張式維が射殺された。

午後8時になると甘粛省蘭州では東北軍第51軍が中央軍第8師、第24師留守処、綏靖公署、公安総局、中央銀行、農民銀行、郵便局などを襲撃し掠奪を行った。

◆8項目の要求

張学良は監禁した蒋介石に対し以下の8項目を要求し全国に流した。

南京政府の改組、諸党派共同の救国

内戦の停止

抗日七君子の釈放

政治犯の釈放

民衆愛国運動の解禁

人民の政治的自由の保証

孫文遺嘱の遵守

救国会議の即時開催

◆武力討伐の動き

監禁された蒋介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶した。12月13日、黄埔軍官学校書記長鄧文儀は第28師、第51師に西安攻撃を進言するとともに軍官学校卒業生7万余人の名で強硬策を国民政府に進言した。中国全国の将軍から中央政府への支持と張学良討伐を要請する電報が国民政府に続々と到着していった。ドイツ軍事顧問団のファルケンハウゼン中将からはドイツ人顧問をともなった戦車旅団、ドイツ式訓練を受けた第83師、第87師を西安に派遣し反乱軍への奇襲攻撃と共産軍への空爆を行い、蒋介石釈放交渉を行うとする作戦が献策された。第28師は進撃し、洛陽の空軍部隊は渭南への爆撃を行った。政府軍の進撃と爆撃が行われると、張学良は蒋介石に4-7日以内に南京に送還する予定であったが政府軍の攻撃のために出来なくなったと述べた。これを聞いた蒋介石は何かを待たなければならないために自分たちでは決定できないのであると推理した。事情を知った一般世論からも張学良は強い批判を浴びることとなった。

◆国共合作

しかし中国共産党の周恩来、秦邦憲、葉剣英が西安に入り話し合いが行われ、国民政府側の蒋介石、宋子文、宋美齢(蒋介石夫人)との間に前8項目に関する合意ができて蒋介石は解放された。翌1937年2月の三中全会では西安事件をきっかけに国民政府の態度が硬化し、中国共産党の完全掃滅を決議し、その後も妥協を行わず中共を追詰めたが、日中戦争が勃発し、国民政府は中共掃滅を放棄し、第二次国共合作が成立する。蒋介石と周恩来との間でどのような会談が持たれたかは、戦後も一貫して張学良は語らなかった。

蒋介石監禁の報を受けた中国共産党は、蒋介石殺害を検討したが、スターリンの鶴の一声で立ち消えとなった。スターリンは「蒋介石を釈放しなければコミンテルンを除名する」と恫喝している。これは陳立夫のスターリンへの働きかけもあったし、蒋介石と和睦することで、共産党勢力を温存し、国民党と手を組んで抗日戦を継続することが、日本を中国に釘付けにして対ソ戦を回避させるスターリンの思惑が働いたという。中ソ両国の間で「ソ連側の国民政府支持、新疆・外蒙古に対するソ連政策の撤回、中国側の防共政策の放棄」を骨子とする諒解が成立し、中国に対して共同防共を働きかけて来た、日本の外交政策は破綻した。今まで日中交渉に当たっていた外交部長張群は更迭された。

蒋介石の息子の蒋経国が留学中のソ連に政治的人質に捕られ、帰国を条件に国共合作を認めたという。

後年、蒋介石は数々のインタビュー内において、西安事件に関して一切発言しようとはしなかった。この会談で具体的に何が話し合われたのか、なぜそれまで頑なに共産党との合意を拒否していた蒋介石の態度が変わったのかについては、関係者が全て鬼籍に入った今となっては、永遠の謎となってしまった。

胡適は「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べている。

◆拉致首謀者への処罰

張学良

事件の首謀者である張学良は、事件を起こした責任をとるとして、自ら進んで国民政府の軍法会議にかけられることになった。当然の事ながら反逆した事で国民党内部で誰も軍法会議に異議を唱えず、張学良の極刑を主張する声もあった。そして、張学良は50年間に渡り軟禁されることとなった。軟禁解除後は100歳まで長生きし、2001年にハワイで客死した

楊虎城

楊虎城は事件後に蒋介石の命令で欧州へ外遊に出され、日支事変が勃発後に帰国すると蒋介石に家族ともども監禁された。その後、1946年に毛沢東中国共産党主席によって楊虎城の釈放が要請されたが蒋介石は拒否した。中国共産党の攻勢で重慶陥落が目前となった1949年9月17日、アメリカと国民党政府が設置した政治犯収容所で楊虎城はその娘、秘書夫妻、警護兵とともに蒋介石の命令によって殺害された。

◆日本への影響

この事件により中国全土の抗日気運は高まり、日中の対立は避けられないものとなった。 また当時朝日新聞社の記者でソビエト連邦のスパイであった尾崎秀実は、スターリンが蒋介石の暗殺を望んでいないという情報を元に蒋介石の生存や抗日統一民族戦線の結成など事件の顛末を正確に予測。対支分析家として近衛文麿の目に止まり近衛の私的機関昭和研究会へ参加することとなる。以後日本の中枢情報がゾルゲ諜報団を通じてソ連に筒抜けになる。

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◆◆戦後の統一戦線

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◆南ベトナム解放民族戦線

活動期間 1960年-1975年

活動目的 サイゴン政権からの南ベトナムの「解放」とベトナム民族の統一

指導者 グエン・フー・ト

活動地域 南ベトナム

関連勢力 北ベトナム軍(ベトナム人民軍)

敵対勢力 サイゴン政権

アメリカ軍

韓国軍

オーストラリア軍

南ベトナム解放民族戦線(みなみベトナムかいほうみんぞくせんせん、越:Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam/𩈘陣民族解放沔南越南, 英: Viet Cong)は、南ベトナムで1960年12月に結成された反サイゴン政権・アメリカ・反帝国主義を標榜する統一戦線組織。

略して解放戦線と呼ばれたが、越南共産(ベトナムコンサン)を略したベトコン(越共)と通称されることも多い。

◆概要

1950年代後半のベトナム共和国は政情が不安定であり、貧富格差の問題や政権腐敗、仏教徒に対する弾圧などが生じていた。ゴ・ディン・ジエム大統領に反発する勢力も増加していた。また、北ベトナムはジュネーヴ協定に基づく統一選挙が実施されなかったため、武力闘争によるベトナム統一を検討し始めた。

これらにより、1960年12月20日、タイニン省チョウタン県タンラップ村[2]において、元ベトミン等を中心に南ベトナム政府に対する反政府組織として、南ベトナム解放民族戦線が結成された。議長の席は空席のまま、副議長兼書記長をフイン・タン・ファトが務めた。1962年2月16日-3月3日、戦線の第1回大会が開催される。この大会で中央委員会が設置され、31人が選出された[3]。また、グエン・フー・ト弁護士が中央委員会幹部会議長に選出された。解放戦線は実質的にベトナム労働党が主導していたが、ジエム政権などに反発する仏教徒や自由主義者、華僑なども多数参加していた。これにより、ベトナム共和国国内に内戦状態が発生し、ベトナム戦争が始まった。南ベトナム軍のほか、アメリカ軍・韓国軍などと戦ったが、圧倒的かつ近代的な戦力を有する敵に対してゲリラ戦で臨み、一定の損害を与えた。弾薬や燃料以外の補給体制が極めて貧弱であったが、農村を遊撃根拠地とすることで、物資の現地調達(略奪含む)や現地徴兵により長期戦を戦った。

しかし、捕虜となった米兵や南ベトナム兵を過酷に虐待し、サイゴン政権の情報員や密告者とみなした市民や動揺分子とみなした兵士を人民裁判で即刻処刑するなども行い、テト攻勢でフエを一時占領した際にもサイゴン政権の官吏・関係者・関係の無い民間人(学生やキリスト教の神父、外国人医師などの一般市民)などを大量処刑し、無差別テロを行ったとされる(フエ事件)。また、南ベトナム政権に揺さぶりをかけるため、各地で一般市民を巻き込む無差別爆弾テロ事件も数多く起こした。

1968年2月12日のフォンニィ・フォンニャットの虐殺‎はベトコンによる謀略であるとする主張が韓国軍からなされているが、韓国軍からの報告を受け取ったアメリカ軍では、アメリカ軍監察官のロバート・モレヘッド・コック大佐による調査が行われ、1970年1月10日に韓国海兵隊による虐殺事件であったことを明らかにした報告書が提出された。

ベトナム統一後、隣国のカンボジアで親中のポル・ポト政権が誕生し、中国が南部ベトナムへの干渉を図った事で、北ベトナム政府が、中国の影響力が強い南部独自の軍事力が干渉を受ける危険性を危惧して、軍事部門は北ベトナム軍に吸収し、組織は「ベトナム祖国戦線(英語版)」に合流する形で解体した。解放戦線兵士は北の指導部から疎んじられるようになり、解放戦線議長のグエン・フー・トが僅かに名誉職である国会議長に就任した程度で、中には反発する元兵士も出た。

南ベトナムの民衆はおろかサイゴン政権の要人にも秘密メンバーを獲得していたことでも知られており、今尚メンバーだった事を公表していない人々が多数存在している。

◆構成

1960年12月の結成大会時は、暫定執行委員会が指導部の役割を果たし、委員長と総書記が置かれたが[4]、議長は空席とされた。

1962年2-3月、第1回全国大会が開催され、52人で構成する中央委員会と、最高機関としての幹部会が設立され、幹部会議長、幹部会副議長の職が置かれた。また、書記局が設立され、書記長職が置かれた[5][6]。

中央委員会の付属機関として、軍事委員会、公共保健衛生委員会、情報・文化・教育委員会、対外関係委員会、経済問題委員会、通信・電機委員会が設けられた。

◆参加組織編集

戦線は、諸抵抗組織の緩やかな連合体であり、以下の政党・団体等が参加した。

政党

ベトナム人民革命党

南ベトナム急進社会党

南ベトナム民主党

大衆団体

解放労働者協会

解放農民協会

解放婦人連合会

解放学生・生徒連盟

解放青年同盟

人民革命青年団

解放作家芸術家協会

愛国民主ジャーナリスト協会

旧抵抗戦士協会

愛国軍人家族会

解放赤十字社

宗教団体

南ベトナム仏教会

愛国キリスト教徒協会

ホア・ハオ教

諸派

アジア・アフリカ連帯ベトナム委員会

◆Wiki=チリ人民連合

人民連合(Unidad Popular、 UP)は、チリにおいて1960年代末から70年代にかけて存在した左翼政党連合の名称である。1970年に成立したアジェンデ政権の与党であったが、73年のクーデターによって崩壊した。日本では、国名を加えて「チリ人民連合」と称されることも多い。

起源は、1937年に社会党・共産党・急進党・労働組合などが結集して結成された人民戦線に遡る。人民戦線は1938年の大統領選挙で急進党のペドロ・アギレ・セルダを、1942年の大統領選でも急進党のファン・アントニオ・リオスを当選させたが、その後人民戦線の各党間の対立が激しくなり、社会党が人民戦線を脱退、残る共産党と急進党の同盟によって1946年に大統領に当選した急進党ガブリエル・ゴンサレス・ビデラは、1948年、それまで共闘していた共産党を非合法化、人民戦線は名実ともに崩壊した。

1956年、非合法下の共産党は社会党・他左翼諸党派と再び連合して人民行動戦線(FRAP)を結成、1958年にイバニェス政権下で共産党が再合法化されると、同年の大統領選挙では社会党のサルバドール・アジェンデが人民行動戦線の統一候補として立候補、28.8%の得票を得たが、3人の有力候補の中で僅差で2位となり敗北した。続く1964年の大統領選挙でもアジェンデは再び人民行動戦線から立候補、得票を39%に伸ばしたが、保守・中道の統一候補となったキリスト教民主党のエドゥアルド・フレイに大差で敗れた。

1969年、キリスト教民主党の左派が脱党、またかつて人民戦線の共闘相手だった急進党が左傾化したことなどから、人民行動戦線はより広範な政党連合に移行、人民連合と改称した。そして1970年、3度目の立候補となったサルバドール・アジェンデが大統領に当選した。しかし、アジェンデ政権下で、人民連合に所属しない武装組織の左翼革命運動(MIR)を極とする急進派と共産党を極とする穏健派の対立が発生し、アジェンデ政権末期の政治的混乱の一因ともなった。1973年のクーデターによってアジェンデ政権は倒れ、人民連合も崩壊した。

構成政党

人民連合に参加、あるいは関係があったのは、以下の各党である。

▼チリ社会党 Partido Socialista de Chile,PS

▼チリ共産党 Partido Comunista de Chile,PCCH

▼急進党 Partido Radical,PR

▼人民統一行動運動  Movimiento de Acción Popular Unitario, MAPU

中道政党のキリスト教民主党から左派が分裂して1969年に結成した政党。議会勢力としては小党派だったが農民運動に影響力があった。小党だが、党内で左翼革命運動よりの急進派と共産党よりの穏健派の対立があり、急進派は各地で土地占拠運動などを展開した。クーデターの後路線を変更して政策を穏健化させ、1988年に主流派は中道左派の「民主主義のための党」 (Partido por la Democracia,PPD) に参加、一部は社会党に合同したが、一部の分派はMAPUラウタロ派として武力闘争を行った。

▼独立人民行動 Acción Popular Independiente, API 小党派

▼キリスト教左翼 Izquierda Cristiana, IC

MAPUと同様、キリスト教民主党の左派から分裂して1971年に結成。MAPUからも一部の党員が合流した。1973年の総選挙で1議席を得ただけの小党派だが、17年間の軍事政権下でも存続し、現在は共産党・ヒューマニスト党などとともに左翼連合フント・ポデーモス・マスに参加している。

▼左翼革命運動 Movimiento de Izquierda Revolucionaria, MIR

正式には人民連合の加盟政党ではない。1965年、社会党左派から分裂して結成。キューバ革命に影響されて議会主義を否定し、武力闘争路線を取った。従って選挙に候補を立てることはなく、公式には人民連合ともアジェンデともいっさい無関係だった。しかし実際には社会党左派、MAPU、労働運動などに影響力を持ち、人民連合内各党の急進化と党内での穏健派との抗争の大きな要因となるとともに、穏健派の共産党と激しく対立した。また、指導者格のしかし1973年のクーデター以降、軍事政権の弾圧によって壊滅的打撃を受けると、武力闘争に路線変更した共産党と共同歩調をとるようになる。その後いくつかのグループに分裂したが、主流派は1989年の民政復帰とともに武力闘争を放棄、左翼連合フント・ポデーモス・マスに参加している。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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