今井正監督の映画の世界

◆◆今井正監督の映画の世界

左=山本薩夫 右=今井正

憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

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🔵今井正監督リンク集

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★沼津兵學校(1943年)今井  

https://m.youtube.com/watch?v=MUDRnU52FFs

★望樓の決死隊(1943年)/今井

https://m.youtube.com/watch?v=StzplvT-MXY

★怒りの海(1944

https://m.youtube.com/watch?v=iVO41n1u27Q

★愛と誓ひ(1945/今井正

https://m.youtube.com/watch?v=Qq0RRxkCrAM

★民衆の敵(1946

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm17437465

は下記

★★青い山脈(1949

🔵映画=青い山脈(前後編)

https://drive.google.com/file/d/1O_LSazetYVezHxD9MmKXh4SIZtJM248Z/view?usp=drivesdk

後編90m

★★ にごりえ 1953

https://m.youtube.com/watch?v=BsSuuE-5SDY

★★映画「山びこ学校」(今井正監督)115m

◆山びこ学校 やまびこがっこう

(小学館百科全書)

中学生の生活記録集。無着成恭(むちゃくせいきょう)編。1951年(昭和26)青銅社刊(1956年『新版・定本山びこ学校』百合出版刊)。山形県山元村(現上山(かみのやま)市)山元中学校の学級文集『きかんしゃ』の作品を中心に編まれた実践記録文集で、学級全員43名の散文、詩、日記、版画などが収められている。日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞した江口江一の作文『母の死とその後』などが代表的。貧しい山村の実生活のなかで、子供たちが感じる疑問を率直に取り上げ、学級で話し合い、ときにはデータを調べて書いたもので、担任の無着成恭は「あとがき」で「私は社会科で求めているようなほんものの生活態度を発見させる一つの手がかりを綴方(つづりかた)に求めた」「貧乏を運命とあきらめる道徳にガンと反抗して、貧乏を乗り超えて行く道徳へと移りつつある勢いに圧倒され」たと述べている。綴方を書くことによって自分たちの貧しい生活や現実社会に対する鋭い洞察力と論理的な思考力を養い、豊かな村づくりを目ざして率直に自分の考えを述べ合う子供たちを育て上げたところに、綴方教育を超えた人間教育があったと評価され大きな反響をよんだ。生徒の一人佐藤藤三郎(とうざぶろう)1935 )は農業問題評論家、地域のリーダーとして活躍。[西田良子]

『『山びこ学校――山形県山元中学校の生活記録』増補改訂版(1987・百合出版) ▽『山びこ学校』(角川文庫・岩波文庫)』

◆生活綴り方運動(小学館百科全書)

https://kotobank.jp/word/生活綴方運動-1553101#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29

◆生活記録(小学館百科全書)

https://kotobank.jp/word/生活記録-1553089#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29

★★映画=どっこい生きている(失業の街でニコヨンで働く労働者たち描く)

★★ここに泉あり(1955

https://drive.google.com/file/d/1AtwXOHYt1hhWvSPxo14R0GDCTRrN0e28/view?usp=drivesdk

★★映画=「ひめゆりの塔」

1953年今井正監督。津島恵子、香川京子など。沖縄県立第一高女の先生と生徒たちの悲劇)120m

下記の「映画の旅人」=「ひめゆりの塔」参照。

⭕️http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=53835791

または

⭕️http://video.fc2.com/content/201606131bGsYWkQ

★★映画=ひめゆりの塔(今井正監督82年版)(栗原小巻ほか。今井正監督は、2回「ひめゆりの塔」を制作した)

https://drive.google.com/open?id=1gQ_rKLMdtZDd9LEvPsnSEUGAwXcLLfG2

★★映画=今井正監督・「真昼の暗黒」

★★映画=キクとイサム(混血児がたくましく生きる姿描く)

◆『キクとイサム』から60年 赤旗19.04.28

赤旗18.10.29

★★映画=橋のない川(1992)原作住井すゑ、今井正監督

第一部127m

第二部140m

◆映画=橋のない川のストーリー(映画COM

明治末年。小森村は奈良盆地の一隅にある貧しい被差別部落だった。村の人々は、耕やす田畑はせまく、草履づくりでその日を送っていた。日露戦争で父を亡くした誠太郎、孝二の兄弟は小学生だったが、伸び伸びと育っていた。しかし、被差別部落民に対する世間の偏見はひどく、明治四年に公布された解放令も名ばかりで、就職、結婚も思うようにいかないのが現実だった。誠太郎と孝二がそんな世間の冷い目の中で明るさを失わなかったのは、母ふでのお蔭だった。ふではシンの強い女だった。間もなく誠太郎は尋常料を卒業し、何でもやると言って大阪へ奉公に行った。孝二が六年になったある日、村が火事になった。在所の消防団は、小森村だからほっとけ、と取り合わなかった。火事を起したのは、空腹の弟のために豆を炊こうとした武だった。武はその夜自殺した。武の父藤作は、武の死体を抱きながらこの村にも消防ポンプを買うのだ、と決心した。

明治四十五年。天皇大葬の夜、孝二は同じクラスの杉本まちえが、被差別部落民の自分に好意を持っているのを知って、信じられぬほど、喜ぶのだった。奈良盆地に春が訪れた頃、藤作の努力で、小森村は消防ポンプを買った。そして、村対抗の提灯落し競争で、藤作たちはみごとに勝ったが、在所の人々の手で優勝旗を焼かれてしまった。それを見ていた孝二たちは、改めて人間差別に対する怒りを燃やすのだった。大正十一年三月三日、封建的な差別と貧困を打破るために団結した被差別部落の人々は、全国水平社を創立した。それは被差別部落民による最初の人権宜言だった。

★夜の鼓(1958) 今井正監督 冒頭部分13m

https://m.youtube.com/watch?v=ZHRm7_84zvU

★★武士道残酷物語(1963

http://v.youku.com/v_show/id_XMzA4NDY0OTQ4.html?x

(画面のAPPから)

★★海軍特別年少兵(今井正監督)125m

https://drive.google.com/open?id=1B-I-hYAAUj7qLcRE1pjIyMgY2Kk3JKl6

★★戦争と青春(1991110m

PCの場合全画面表示で見ると過剰広告減)

昭和20年、東京下町を一瞬にして焦土と化した東京大空襲の悲劇を描く反戦ドラマ。原作・脚本は早乙女勝元が執筆。脚本協力に「母さんの樹」の橘祐典、「遥かなる甲子園」の大澤豊、「想い出のアン」の吉田憲二。監督は今井正。

★★今井正監督=小林多喜二予告編1m

◆◆今井正=小林多喜二https://drive.google.com/file/d/1s1kxN3sgoH4ElPKMrudmwkG7b6sqbgfS/view?usp=drivesdk

(日刊ゲンダイ18.07.12

【赤旗18.07.13

★★【ドキュメント映画】薩チャン 正ちゃん 戦後民主的独立プロ奮戦記

★★戦後独立プロ奮戦記94m

PCの場合全画面表示で見ると過剰広告減)

予告編10m

【解説】

1950年代から60年代にかけ、業界を独占していた大手映画会社から独立した監督たちが、自分たちのプロダクションを作って数々の名作を世に送り出した。そんな時代を代表する監督・山本薩夫と今井正を中心に、当時を知る関係者の貴重なインタビューや彼らの代表作のシーンを織り交ぜ、独立プロの黄金期を描き出す渾身のドキュメンタリー。

ストーリー

経営側と組合が激しく対立して進駐米軍まで介入した東宝争議レッドパージと呼ばれた共産党員弾圧によって、東宝から追われることになった山本薩夫や今井正ら映画監督たち。彼らは独立プロを立ち上げ、質の高い硬派な社会派映画で大手会社に対抗する。

2015829日(土)公開 / 上映時間:94 / 製作:2015年(日本) / 配給:新日本映画社

◆薩チャン 正ちゃん 戦後民主的独立プロ奮戦記

(赤旗日曜版15.08.23

【赤旗15.08.28

【赤旗15.09.01

【「薩チャン正ちゃん」二人の巨匠特集に寄せて】

(赤旗16.07.22

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🔵今井 正(いまい ただし)監督の生涯と作品

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◆◆今井正監督の生涯(Wikiから)

今井 正(いまい ただし、191218 – 19911122日)は、日本の映画監督。

戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠である。東京帝国大学卒業後、東宝の前身J.O.スタヂオに入り、入社2年で監督に昇進。戦後は独立プロ運動の中心人物として数多くの社会派映画を手がけた。『純愛物語』でベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)、『武士道残酷物語』で同映画祭グランプリを受賞、キネマ旬報ベスト・テンでは5本の監督作がベスト・ワンに選出されるなど、賞歴も多く作品の評価は高い。日本映画復興会議初代議長でもある。主な監督作に『青い山脈』『また逢う日まで』『真昼の暗黒』『キクとイサム』など。

◆生い立ち 

1912年(明治45年)18日、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の東京都渋谷区広尾)の祥雲寺の中にある霊泉院に、その住職である父・六助と母・カネの長男として生まれる。父は岐阜県の農家の3男で、子供の頃にお寺の小僧に出されて上京し、日露戦争出征を経て、霊泉院の住職になった。母は近くの香林院の住職の妻の妹で、北里研究所の前身である痘苗製造所に勤めた経験のある人だった。生後、今井は中耳炎にかかり、右耳の鼓膜がなくなり聴覚を失っている。

渋谷町立臨川小学校を経て、1924年(大正13年)に旧制芝中学校に入学する。この頃から映画を多く観るようになり、本人の回想では新宿武蔵野館でジャック・カトラン(英語版)主演の『嘆きのピエロ(フランス語版)』などを観たという。チャップリンの喜劇もほとんど観ており、英文でファンレターを書いて出したこともあった。

1929年(昭和4年)、中学を卒業して旧制水戸高校に入学。在学中、マルクス主義に関心を持ち、雑誌『戦旗』に感激してからは学内の秘密組織読書会のメンバーとなった。翌年、特高に連行され、1年間の停学処分を受ける。1933年(昭和8年)、東京帝国大学文学部美術史科に入学。学内の秘密組織に入り、同年に本富士警察署に検挙される。翌1934年(昭和9年)にまた1年間の停学処分を受け、そのまま中退する。

◆映画監督に

1935年(昭和5年)4月、京都のJ.O.スタヂオの入社試験を合格して入社。500人近くの応募者の中から選ばれたのは今井と京大卒の3人のみだった。初任給は50[7]、当時の同僚に市川崑と岸松雄がいた。伊丹万作監督の『新しき土』で初めてロケハンに参加。石田民三監督の『花火の街』でチーフ助監督につき[8]、中川信夫監督の『日本一の岡ッ引』ではスクリプターを担当、ほか志波西果、並木鏡太郎、渡辺邦男監督に1作ずつ助監督についた。

1937年(昭和12年)、J.O.スタヂオは合併で東宝映画京都撮影所となったが、所長の渾大防五郎に抜擢されて入社2年目で監督昇進を指名される。異例のスピード出世となった。処女作の『沼津兵学校』に取り掛かるが、出演俳優が兵役に取られるなどして完成が遅れ、2年後の1939年(昭和14年)に公開された。陸軍少将飯塚国五郎の実話を基にした『われらが教官』、井伏鱒二原作の『多甚古村』、石川達三原作の『結婚の生態』などと作品が続くが、いずれも成功作とはいえなかった。1943年(昭和18年)、朝鮮の国境警備隊と抗日ゲリラとの戦いを描いた『望楼の決死隊』を監督。西部劇さながらのアクションシーンを取り入れ、入念に作られたアクション映画として評判となったが、植民地支配を正当化する軍国主義映画のため、マルクス主義者の今井としてはマイナスになる作品だった。同年、教育召集のため麻布の歩兵第1連隊に入隊、3ヶ月で除隊した。

◆フリーに 

戦後の映画界は、GHQの干渉で民主主義啓蒙映画の製作を指示されていた。1946年(昭和21年)の戦後第1作『民衆の敵』もその1本であり、戦中の財閥の腐敗を描いた。続いて作った『人生とんぼ返り』は、撮影技師中尾駿一郎と初めてコンビを組んだ作品で、榎本健一と入江たか子が主演した人情喜劇となった。

1949年(昭和24年)、石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』前後篇を監督。戦後民主主義を高らかに謳い上げ、同名の主題歌とともに大ヒットを記録。今井も第1級の監督として注目される。この頃から自由に作品を作りたいと感じ、『青い山脈』製作後に東宝を退社してフリーとなる[1950年(昭和25年)、フリーの立場で『また逢う日まで』を監督。戦争によって引き裂かれた恋人の悲劇を描き、主演の岡田英次と久我美子のガラス窓越しのキスシーンが話題となった。作品はキネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞に輝いた。

1950年代

その後、GHQの指令で左翼系映画人たちを映画会社5社から締め出すレッドパージが施され、それによって仕事ができなくなると感じた今井は、生計を立てる為に屑物の仕切り屋を開業するが、集めた鉄くずが朝鮮戦争の兵器に使われることを知るとこの仕事を辞めた。その頃、レッドパージで追放された映画人が次々と独立プロを立ち上げて活動するようになり、今井も1951年(昭和26年)に山本薩夫・亀井文夫らの新星映画社で『どっこい生きてる』を監督する。当時ニコヨンと呼ばれた日雇い労働者たちの生活を描いた作品である。

1953年(昭和28年)、東映に招かれて『ひめゆりの塔』を監督。沖縄戦で看護婦として前線に送られたひめゆり学徒隊の悲劇を描いた本作は大ヒットを記録し、発足以来赤字に悩んでいた会社を救った。その後、文学座と組んだ樋口一葉原作のオムニバス映画『にごりえ』、高崎市民オーケストラの草創期を描いた『ここに泉あり』など、独立プロ運動の1番手としてヒューマニズム映画の傑作を発表する。

1956年(昭和31年)、八海事件の裁判で弁護士を担当した正木ひろしの手記の映画化『真昼の暗黒』を監督。映画化にあたっては入念な調査を行い、裁判で死刑を宣告された被告の無罪を主張、警察・検察・裁判所の非を徹底的に批判した。製作時は裁判が継続中だったため、最高裁判所から圧力がかかるも、今井はそれに屈せず作品を作り上げ、キネ旬1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞した。

1957年(昭和32年)、東映で『米』を監督。霞ヶ浦や湖岸の田園風景を背景に農村の貧困を描き、今井にとって初のカラー作品となる。同年公開の『純愛物語』は、原爆症の少女と不良少年の恋を描いた恋愛映画で、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞した。1958年(昭和33年)の『夜の鼓』は独立プロで製作し、近松門左衛門の『堀川波鼓』を映画化した今井の初の時代劇である。この作品は封建時代の武士の妻の姦通事件を扱い、武家社会をリアリズムで描き出した異色作として評価された。

1959年(昭和34年)、人種差別批判をテーマにした『キクとイサム』を監督。黒人との混血の姉弟と、彼らを引き取って育てる老婆の交流を描き、本作は今井の代表作となった。今井は戦争や差別や貧困など社会的テーマを掘り下げ、それに翻弄される弱者の姿を同情を込めて美しく描いた作品を発表し続けた。

1960年代・1970年代

1961年(昭和36年)、『あれが港の灯だ』を再び東映で撮り、李承晩ラインをめぐる日韓関係の悪化を、在日朝鮮人の若い漁師を通して描いた。1962年(昭和37年)の『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』では老人問題を取り上げている。1963年(昭和38年)、中村錦之助主演で『武士道残酷物語』を監督。封建社会の残酷さを7つの物語で描き、第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞する。

テレビの進出で映画が斜陽化する中、今井もテレビドラマに進出し、1966年(昭和41年)から「今井正アワー」で5本のドラマを演出。翌1967年(昭和42年)には渥美清主演の『渥美清の泣いてたまるか』で4本を演出し、後に『天皇の世紀』でも2本を演出している。

1968年(昭和43年)2月、住井すゑ原作の『橋のない川』を映画化するために図書月販の傍系会社ほるぷ映画を設立し、その社長に就任する。翌1969年(昭和44年)に『橋のない川』第一部、1970年(昭和45年)に第二部を製作するが、第二部製作中に今井が党員の日本共産党と部落解放同盟の対立により、同盟から妨害を受け、公開後も上映阻止運動が起きた。1971年(昭和46年)、永年にわたって幽閉生活を強いられている家族を描いた『婉という女』を監督するが、完成後に資金難からほるぷ映画は解散する。

その後は、渥美清企画・主演の『あゝ声なき友』、古巣の東宝で8.15シリーズの第6作『海軍特別年少兵』、小林多喜二の生涯を描いた『小林多喜二』、室生犀星原作の『あにいもうと』などを監督するが、1950年代の時と比べると不遇だった。

◆晩年・死去

1982年(昭和57年)、胃癌のため稲城市立病院に入院して手術を受ける。この4年後には白内障と緑内障で両目を手術し、左眼を失明する。ほかにも脳血栓や心臓大動脈瘤など次々と病気を発症した。

1991年(平成3年)、遺作『戦争と青春』を監督、一般市民から一口10万円の出資を募る市民プロデューサー方式で製作した[17]。同年、上映キャンペーンのため全国各地を回るが、埼玉県草加市での上映挨拶に向かう途中、車中でくも膜下出血に倒れ、1122日午後320分に草加市立病院で死去[18]79歳没。

◆人物・作風

イタリア映画におけるネオ・リアリズムの影響を受けた映画監督の一人でもあり、厳しい演技指導や映像へのこだわりでも知られた。例えば潮健児は自伝で、『米』のラストシーンの収録に、船の帆の貼り具合や船の位置、果ては雲の位置までを気にするあまり1週間かかったなどのエピソードを紹介している。

日本共産党員であり、娯楽色豊かなヒット作を連打し、党派を超えた巨匠として日本映画に君臨した点では、山本薩夫と双璧だが(戦中に戦意高揚映画の秀作を撮っているところまで相似している)、最後まで大手からの監督依頼が絶えなかった山本に比べると、晩年は若干不遇であった。

◆今井正関連書籍

映画の本工房ありす編『今井正「全仕事」 スクリーンのある人生』、ACT1990 

新日本出版社編集部編『今井正の映画人生』、新日本出版社、1992 

高部鐵也『燃えつまみれつ 映画監督今井正物語』、文芸社、20025 

今井正監督を語り継ぐ会編『今井正映画読本』、論創社、2012 

崔盛旭『今井正 戦時と戦後のあいだ』、クレイン、2013 

◆◆今井正監督の作品の紹介 

沼津兵学校 1939年 黒川彌太郎・丸山定夫・大川平八郎・花井蘭子・鳥羽陽之助・深見泰三 撮影準備に入りながら、俳優が次々兵隊のとられて、ついに完成まで2年を費したといういわく付きの作品。

多甚古村(たじんこむら) 1940年 清川荘司・竹久千恵子・滝沢修 井伏鱒二の同名小説の映画化。

望楼の決死隊 1943年 高田稔・原節子・秦薫・沈影・菅井一郎・斎藤英雄・金信哉 日中戦争の直前の鮮満国境における国境警察官たちの苦労と活躍を描いた戦意高揚アクション映画。

怒りの海 1944年 大河内伝次郎・原節子・河津清三郎・山根寿子・月田一郎・村田知英子 〝軍艦の父〟平賀譲をモデルにした伝記映画。

民衆の敵 1946年 藤田進・河野秋武・菅井一郎・志村喬・江川宇礼雄・鳥羽陽之助・清水将夫 今井正の戦後第一作。

青い山脈・

 続青い山脈 1949年 原節子・池部良・伊豆肇・木暮実千代・竜崎一郎・若山セツ子・杉葉子 石坂洋次郎の原作を今井正が演出したユーモア青春編。

また逢う日まで 1950年 岡田英次・久我美子・滝沢修・杉村春子・河野秋武・風見章子 ロマン・ロランの小説「ピェールとリュイス」を水木洋子が脚色し、巨匠・今井正が監督した名作。

どっこい生きている 1952年 河原崎長十郎・中村翫右衛門・河原崎しず江・飯田蝶子・岸旗江・木村功 一株50円の株主を募集して、400万円の製作費で作られた独立プロ作品。

イタリアン・ネオ・レアリスモに影響を受けた今井正の代表作。

山びこ学校 1952年 木村功・滝沢修・東野英治郎・岡田英次・殿山泰司・織本順吉・金子信雄・西村晃 無着成恭が編集して、当時大ベストセラーに成った作文集『山びこ学校』を原作として映画化したもの。

にごりえ 1953年 

田村秋子・丹阿谷谷津子・久我美子・中村伸郎・淡島千景・杉村春子

明治の女流作家、樋口一葉の3つの短編小説『十三夜』『大つごもり』『にごりえ』をオムニバス形式で映画化した作品。

ひめゆりの塔 1953年 津島恵子・岡田英次・信欽三・石島房太郎・殿山泰司・香川京子・関千恵子 太平洋戦争で国内唯一の戦場になった沖縄を舞台に、勤労奉仕で最前線へと駆り出された女学生たちを描いた今井正監督の名作。

ここに泉あり 1955年 岸恵子・岡田英次・小林桂樹・山田耕筰・三井弘次・加東大介・草笛光子・沢村貞子・大滝秀治・十朱久雄・東野英治郎 群馬県高崎市の群馬交響楽団が、様々な困難を克服して設立されていった過程をを、ポピュラーな名曲や童話などを盛り込んで描く。水木洋子の脚本。

真昼の暗黒 1956年 草薙幸二郎・左幸子・松山照夫・内藤武敏・矢野宣 〝八海事件〟に基づく、弁護士・正木ひろしの「裁判官」を原作として橋本忍が脚本を担当、今井正が演出した問題作。 

1957年 望月優子・江原真二郎・中村雅子・木村功・中原ひとみ 名匠・今井正監督が手掛けた初めてのカラー作品。農家の母を演じる望月優子の体当たりの演技が評判となり〝日本のおかあさん〟女優と呼ばれるようになった。

純愛物語 1957年 江原真二郎・中原ひとみ・岡田英次・木村功・加藤嘉・宮口精二・東野英治郎・井川比佐志 新人の中原ひとみを主演に起用し、みずみずしいタッチで描いて大ヒットした青春ドラマ。

夜の鼓 1958年 三国連太郎・有馬稲子・森雅之・日高澄子・雪代敬子・奈良岡朋子 近松門左衛門の姦通もの3作の内の一つ「堀川波の鼓」を翻案した、今村正監督初の時代劇。脚本・橋本忍。

キクとイサム 1959年 北林谷栄・高橋恵美子・奥の山ジョージ・清村耕次・朝比奈愛子 水木洋子のオリジナル脚本を名匠・今井正が映画化、占領時代の落とし子である混血児姉弟が明るく生きる様を乾いたタッチで描く。

あれが港の灯だ 1961年 江原真二郎・岡本四郎・安田千永子・高津佳男・長谷川裕見子・浪花千栄子・清川虹子・岸田今日子 日本と韓国の緊迫する国際関係を背景にして、身分を隠しながら生きなければならない在日韓国人の青年の姿を描き、民族問題を痛切に訴えた作品。

にっぽんのお婆ちゃん

1962年 北林谷栄・ミヤコ蝶々・飯田蝶子・浦辺粂子・原泉・村瀬幸子・岸輝子・東山千栄子・斎藤達雄・渡辺篤・織田政雄・殿村泰司 高齢化社会問題を当時としては画期的に先取りし、コメディタッチでありながらも鋭く描いた問題作。

武士道残酷物語 1963年 中村錦之助・東野英治郎・渡辺美佐子・荒木道子・森雅之・有馬稲子・加藤嘉・木村功・三田佳子 己れを犠牲にしてまで主君に仕える日本人の被虐的精神構造を、江戸時代から現代までの7つのエピソードで描くオムニバス映画。ベルリン映画祭金熊賞受賞

仇討 1964年 中村錦之助・田村高廣・丹波哲郎・三田佳子・佐々木愛・小沢昭一・進藤英太郎 武士道の重圧から逃れようとしてあがきながら、ついに果たせずに死んでいく軽輩の侍・新八の姿を、彼の精神的な葛藤を中心に描いた時代劇の力作。

越後つついし親不知

1964年 佐久間良子・小沢昭一・三国連太郎・北林谷栄・田中春男 原作は、水上勉の同名の小説。

不信のとき 1968年 田宮二郎・岡田茉莉子・若尾文子・柳歩・中野ひろみ・加賀まりこ 有吉佐和子のベストセラー小説を映画化。

橋のない川

 (一部・二部) 1969年 北林谷栄・伊藤雄之助・長山藍子・小沢昭一・山村聡・原田大二郎 1961年に出版されて大きな反響を呼んだ住井すゑの長編小説の映画化。

婉という女 1971年 岩下志麻・山本学・北大路欣也・中村賀津雄・緒方拳・川原崎長一郎 社会派の巨匠・今井正には珍しく、異常な状況下におかれた女の〝性〟にメスを入れた時代劇。

海軍特別年少兵 1972年 地井武男・小川真由美・佐々木勝彦・三国連太郎 太平洋戦争末期、海軍史上最年少の少年兵たちが、防人として、祖国のためと信じ疑うことも許されずに死んでいった・・・。「ああ声なき友」の脚本家・鈴木尚之と再び組んだ今井正が、独特の詩情で語る、東宝〝8・15〟もの第6作。

あにいもうと 1976年 秋吉久美子・草刈政雄・池上季実子・大滝秀治・賀原夏子・下条アトム・大和田獏 室生犀星原作の『兄いもうと』の3度目の映画化。

妖婆 1976年 京マチ子・三国連太郎・稲野和子・江原真二郎・児玉清・志垣太郎・神保美喜 少女から妖婆までを演じた京マチ子の熱演ぶりが話題を呼んだ。

子育てごっこ 1979年 加藤剛・栗原小巻・牛原千恵・加藤嘉・渡辺美佐子 自由主義者の作家のもとで学校教育も受けずわがまま一杯に育った娘を、岩手県の山の中の小学校分校教師夫妻が預かり、自然の中で人間らしさをしつけていく様子を描いたドラマ。原作・三好京三

ひめゆりの塔 1982年 栗原小巻・古手川祐子・大場久美子・斉藤とも子・田中好子・井川比佐志 1953年の同名映画を、前作の水木洋子のシナリオをそのまま用いいてリメイク。

戦争と青春 1991年 工藤夕貴・佐野佳亮・井川比佐志・奈良岡朋子・樹木希林・川原崎長一郎

他の作品

われらが教官(1939年、東宝映画)

女の街(1940年、東宝映画)

閣下(1940年、東宝映画)

結婚の生態(1941年、南旺映画)

怒りの海(1944年、東宝)

愛の誓ひ(1945年、東宝)

人生とんぼ返り(1946年、東宝)

地下街二十四時間(1947年、東宝)

女の顔(1949年、太泉映画)

どっこい生きてる(1951年、新星映画)

愛すればこそ 第二話 とびこんだ花嫁(1955年、独立映画)

由紀子(1955年、中央映画)

純愛物語(1957年、東映)

夜の鼓(1958年、現代ぷろ)

白い崖(1960年、東映)

あれが港の灯だ(1961年、東映)

仇討(1964年、東映)

砂糖菓子が壊れるとき(1967年、大映)

不信のとき(1968年、大映)

あゝ声なき友(1972年、松竹)

小林多喜二(1974年、多喜二プロ)

妖婆(1976年、永田プロ)

あにいもうと(1976年、東宝映画)

子育てごっこ(1979年、五月舎)

ゆき(1981年、にっかつ児童映画)

ひめゆりの塔(1982年、芸苑社)

戦争と青春(1991年、こぶしプロ)

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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