フランス映画の世界

◆◆フランス映画の世界=クレマンなど詩的リアリズムとたたかい・愛とロマン・犯罪心理

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【このページの目次】

◆ラ・マルセイエーズ(ルノアール)

◆巴里の屋根の下(クレール)

◆どん底(クレール)(ゴーリキー原作)

◆自由を我等に(クレール)

◆鉄路の闘い(クレマン)

◆禁じられた遊び(クレマン)

◆海の牙(クレマン)

◆パリは燃えているか(クレマン)

◆居酒屋(ゾラ原作)(クレマン)

◆ジェルミナル(ゾラ原作)

◆ゾラの生涯(ドレフュス事件支援)

◆カサブランカ

◆レ・ミゼラブルの数々の映画

◆地下室のメロディー

◆太陽がいっぱい

◆サンチャゴに雨が降る

◆解説=フランス映画史

◆監督と俳優紹介=クレール・ルノアール・クレマン

ジャン・ギャバンなど

◆詩的リアリズム・アヴンギャルドなど

(作品の紹介はムービーウォーカーから引用)

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🔵ラ・マルセイエーズ(ルノアール監督)

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120m1938(フランス革命描く)

ナチスドイツのヨーロッパに対する侵攻が激しさを増していた折りに撮られたフランス革命期の自由なフランスの心を謳い上げたヒューマン・ドラマ。監督は、「獣人」「ゲームの規則」「フレンチ・カンカン」など様々な作風で多くの傑作を残しているジャン・ルノワール。1789年7月のパリ・バスチーユ監獄を占領したマルセイユ義勇兵たちの愛唱歌ラ・マルセイエーズが、彼らの進軍と共に国民を席巻していく様をドラマティックに描いた、J・ルノワールのフランス革命外伝。銃を取れ、隊列を組め、汚れた血で田畑を潤せと勇ましく唄う、おなじみの仏国歌誕生の背景を、マルセイユの税関吏アルノーとその親友ボーミエという二人の革命兵士の闘いぶりを核に、亡命貴族の策謀や王家の暮らしの点描など交え、実に人間的に語ってさすがである。ボーミエの好物でもある、南仏伝来のトマトに舌鼓を打つルイ16世のなんとも天真爛漫な様子には同情を禁じ得なくなるほどだ。ベルサイユ宮殿占拠の描写なども凡百の歴史活劇にはない重層的迫力がある。たぶんにナチス・ドイツの台頭を視野に置いた、国民の決起を促す側面も持つ。仏労働総同盟と一般の募金で製作された一篇。

◆ストーリー

フランス、ルイ16世(ピエール・レノワール)治下、貴族たちは市民たちによるバスティーユ牢獄襲撃の突然の報告に慌てふためくが、それが自分たちの今の生活を揺るがす革命に発展するとはまだ信じられず、相変わらず舞踏会に興じていた。しかし民衆の怒りは高まっていた。彼らを強い絆でつないでいたのはラ・マルセイエーズの歌であった。王宮ではマリー・アントワネット(リーズ・ドラマール)をはじめ、まだオーストリアやプロシアの力が自分たちを完璧に守ってくれると信じていた。しかし民衆の力は日を追ってふくれあがり、やがて無数の鐘の音とともに王宮を囲んだ。王や王妃は、難を逃れて議会に入った。近衛兵の中にも革命派に加わるものが多かったが、スイスからの部隊は激しく戦った。やがて、王宮は民衆のものとなった。しかし、この革命を成功させては自分たちに影響が出ると、プロシアは大軍を押し寄せつつパリへと攻め込んで来る。民衆たちは銃を手にとって死を覚悟でプロシアの大軍の前へ進んでいった。彼らはようやく自由を手に入れようとしていた。

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🔵巴里の屋根の下(ルネ・クレール監督)1930

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「幕間」「イタリアの麦藁帽子」「二人の臆病男」の監督者としてフランス映画界に於て最も注目されているルネ・クレール氏の第一回全発声作品で、氏自ら原作脚色台詞を執筆したものである。キャメラは「燈台守」のジョルジュ・ペリナール氏がローレエ氏を助手としてクランクし、前衛派のジョルジュ・ラコンブ氏がマルセル・カルネ氏、ウッサン氏、ド・シャーク氏と共に助監督をつとめている。主役は「ヴェルダン 歴史の幻想」のアルベール・プレジャン氏が演じ新進のポーラ・イレリー嬢、「カルメン(1926)」「東洋の秘密」のガストン・モド氏が助演し、エドモンド・グレヴィル氏、ビル・ボケッツ氏、ポール・オリヴィエ氏等も出演している。台詞はフランス語である。

◆ストーリー

パリの場末の裏町に二人の若者が住んでいる。アルベエルは歌を歌って歌譜を賣るのが商売、ルイは露店商人である。二人はいつも連立っているので美しいルーマニア娘のポーラに逢った時も一緒だった。そこで彼等は彼女に挨拶をする者を賽ころで決める。しかしその間に界隈の不良の親分フレッドが彼女をカフェに誘い入れて了う。翌日アルベエルは歌を売っていて聴衆の中にポーラを見出して近づきになるがフレッドが出現したので手をひく。フレッドはポーラを好餌と目して口説きにかかると、彼女はフレッドの荒っぽさに心を惹かれ、晩にはダンスへ行くことを承諾する。其晩バル・ミュゼットでアルベエルとルイとは彼女がフレッドと踊っているのを見て失望する。フレッドは素早くポーラの部屋の鍵を彼女の手提げ袋から抜取って了い彼女に無理に接吻しようとする。ポーラは怒ってフレッドの頬を打ってダンス場を跳出して了う。アルベエルはルイと別れて帰る途上彼女と出会い、うちに帰るにも鍵を取られて困っているポーラに自分の宿に来いと勧める。彼女は彼の招待を受けた。其夜二人は寝台を挟んで床の上に別々に寝た。これが縁となりポーラはアルベエルの愛情にほだされて結婚することになる。嬉しさに有頂点となった彼は準備を始める。が彼の知合いの泥棒から贓品がはいっていると知らないで鞄を預かっていたために窃盗の嫌疑をうけてアルベエルは拘引投獄される。自分の荷物を纏めてアルベエルの許へ来ようとしたポーラは彼が曵かれて行く姿を見た。彼が二週間入牢している間にポーラはルイと親しくなり夢中に惚れて了う。そして彼に対する嫉妬からフレッドに誘われるままにミュゼットに踊りに行く。その日はアルベエルが無罪放免された日だった。彼は酔ってミュゼットに行きフレッドが怒りの眼を剥いているのに関せずポーラと踊った。当然の結果裏町の一隅で決闘が始まる。多勢に無勢でアルベエルが危ないところをポーラの急報を受けて駆けつけたルイの機転の発砲で助かる。騒ぎを聞いて集まった警官達にフレッド一味は一網打尽される。カフェに落付いて無事を悦び合ったアルベエルはポーラがルイと深く愛し合っているのを知って、親友に彼女を譲った。翌る日歌を売るアルベエルは妙に淋しそうに見えた。

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🔵どん底(ルノアール監督)1936(ゴーリキー原作)90m

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マクシム・ゴーリキーの有名な戯曲の映画化で、フランス第一流の監督として知られているジャン・ルノワールが監督に当たったもの。戯曲の改作にはE・ザミアチンとジャック・コンパネーズが協力し、ルノワール自身「女だけの都」「我等の仲間」のシャルル・スパークと協同で脚色し、台詞を書いた。撮影は「沐浴」のF・ブルガースがジャック・メルカントンと協力し、音楽は「シュヴァリエの流行児」と同じくジャン・ヴィーネが作曲しロジェ・デゾルミエールが演奏指揮した。出演俳優は「我等の仲間」のジャン・ギャバン、「女だけの都」のルイ・ジューヴェ、「禁男の家」のジュニー・アストル、未輸入の「マイエルリンク」のシュジ・プリム、「南方飛行」のジャニー・オルト、「乙女の湖」のウラジミール・ソコロフ、「ゴルゴダの丘」のロベール・ル・ヴィギャン、「外人部隊(1933)」のカミーユ・ベール、歌い手として名あるアンドレ・ガブリエロその他である。

◆ストーリー

コスチレフは宿屋を業としている。宿屋とは名ばかり、地下室に木の寝台を並べただけのルンペン宿である。彼は更に金貸しであり、故買者である。地下室の特別室に居る泥棒ペペルが盗んだ品はコスチレフが捌く。ペペルはコスチレフの若い女房ワシリッサと密通している。ワシリッサはペペルが泥棒して金を貯めたら、手に手をとって逃げる積もりだ。所がペペルは彼女に愛想を尽かしている。そしてワシリッサに虐使されてる妹のナターシャの純真さに心を惹かれている。ナターシャは泥棒ではあるが、姉と不義はしているがペペルが気性の良い、強い男であることを知っていて、秘かに想っているのだが、ペペルは知らない。ペペルは一夜、或る男爵の邸宅に忍び入った。その邸宅の主人公は浪費と賭博で明日は差し押さえという境遇、ペペルは盗んだ拳銃を返せ、と要求された。自殺に入用だというのだ。どん底から浮かび出ようともがいている泥棒の子と、どん底に堕ちかけた男爵とはこうして知り合った。二人は酒を飲み賭博をして夜を明かした。それから数日後、無一文のルンペン姿の男爵は、コスチレフの宿の客となった。ワシリッサはペペルが縁を切るというのでいらいらする。おまけに贓品故買を官憲に嗅ぎつけられて、お役人がやって来た。所が此の太っちょのお役人はナターシャに思し召しがある。ペペルがナターシャに気があるのを苦にしているワシリッサは、妹をお役人に遣ってしまえば、一石二鳥、心配事が二つ片づく、と思いついた。日曜日にナターシャは姉の命令で、お役人と一緒に郊外の遊園の料亭の客となった。それを知ったペペルは、役人を殴り倒してナターシャを連れ出した。ナターシャは嬉しかった。ペペルの気持ちをはっきり知ると、彼女も恋を告白した。役人は怒ってコスチレフを詰問した。コスチレフは、ナターシャが役人の所へ謝りに行かぬ、と頑張るので怒って、ワシリッサと二人掛りでナターシャを殴り蹴った。急を聞いてペペルは駆けつけナターシャを救った。コスチレフは宿の者一同に踏んだり蹴ったり撲たれたりした揚げ句、ペペルの一撃でこと切れた。ペペルは拘引され、投獄された。ワシリッサは嫌な亭主が死んで遺産が手に入ったので、どん底を出て行った。ナターシャはペペルの出獄の日まで、今迄通りどん底の宿で暮らした。ペペルが出獄して、ナターシャと相携えて、どん底を立出た晩に、アルコール中毒の無名俳優は縊れて死んだ。ペペルとナターシャを見送った男爵は、役者のブランコ往生を見つけて、歌い騒いで居るどん底の住民達に言った、「役者が縊れて死んだ。今夜は歌は止めろ」と。

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🔵自由を我等に(ルネ・クレール監督)193190m

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「巴里の屋根の下」「ル・ミリオン」に次いでルネ・クレールが原作脚色した映画で、スタッフは殆ど全部右二作と同じ顔ぶれであるが音楽は所詮「大人組」の一人ジョルジュ・オーリックが特に作曲した。出演俳優は「ル・ミリオン」のレイモン・コルディ、舞台から来たアンリ・マルシャンが二人の主役で、フィルム・オッソの専属女優ローラ・フランス及びジェルメーヌ・オーセエ、「ル・ミリオン」のポール・オリヴィエ、ジャック・シェリイなどである。

◆ストーリー

脱獄囚ルイとエミイルは官憲に発見され、ルイだけが成功する。利口なルイは世の中へ出てから忽ち出世して縁日のレコード売りから蓄音器店の主人、最後に大蓄音器工場の社長となる。一方、刑を終えて出獄したエミイルは途上、乙女に出会い、彼女に近づこうとして彼女の働いている工場までついて来る。その工場はルイの工場である。エミイルはそのまま工場で働くことになるが、どうもエミイルの呑気な性質は労働に適さない。いろんな失敗の揚句、首を切られる時になって社長の前に引っ張り出される。初めはエミイルが無心にでも来たのかと思ったルイも真意を知って喜んで彼を迎え、自宅の晩餐会に招待する。ルイは、エミイルのジャンヌへの恋心を聞いて尽力を約束する。しかし、その夜ルイのもとには昔の周囲の者が彼の正体を知って無心に来、エミイルはジャンヌに恋人のあるのを知って失望する。そこでルイは、無心に来た悪者どもを金庫室内に閉じ込めてしまう。翌日はルイの発明にかかる全て機械力で自動的に動く新しい工場の上棟式であるルイが式場に出席していると悪漢共の密告でルイの前身を知った警官がルイの捕縛のために乗り込んで来る。式場は忽ち大騒動となり、ルイとエミイルはその隙につけ込んで逃亡する。数日後、工場は機械力のおかげで人手を借りずに仕事を開始する。そこを遠く離れた畠道には二人の放浪者が唄いさざめきながら歩いて行く。富のイリュージョンを失ったルイ、恋のイリュージョンを失ったエミイルの二人である。しかし二人とも人間に与えられた膨大の富「自由」を取り戻したのに狂喜した。さんさんと降り注ぐ太陽の光、自由万歳!

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🔵鉄路の闘い(ルネ・クレマン監督)1946

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90m 

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◆作品 

「しのび逢い」のルネ・クレマンの長篇処女作品である。一九四五年に製作された。フランス映画総同盟とフランス国鉄の抵抗委員会の企画製作になるドキュメンタリ的レジスタンス映画である。脚本と監督はルネ・クレマン、台辞は「処女オリヴィア」のコレット・オードリー、撮影は「巴里の気まぐれ娘」のアンリ・アルカンの担当。音楽は「七つの大罪」のイヴ・ボードリエである。キャストは素人ばかりの、レジスタンス運動に加わった労働者によって構成されている。一九四六年第一回カンヌ映画祭でグランプリと撮影賞を獲得した。 

◆ストーリー 

一九四四年、フランスのある地方駅。機関区長アトスと助手カマルグを中心としてレジスタンスが組織された。ナチから追われる仲間は機関車の水槽に浸って脱走した。レポやパンフレットが輸送され、ロンドンへ情報が伝達された。あらゆる抵抗・妨害が仕組まれ、非合法の集会があちこちで持たれた。そして最初のサボタアジュが決行された。主謀と見られた六人が捕えられ、銃殺された。仲間は機関車の汽笛を全部鳴らしてその死を弔った。六月、連合軍がノルマンディに上陸して第二戦線が実現した。ドイツ軍輸送司令部は西部戦線へ向けてアップェルケルンと名付ける十二本の列車群を編成した。アトスたちはこの輸送妨害を決意した。まず、迂回線が爆破され、ドイツ軍は抵抗組織マキが待伏せる本線を使用しなければならなくなった。アトスの命をうけたカマルグは機関車と貨車八輌を転覆させた。あわてて運ばれて来た三〇トン起重機も転覆した。ドイツ軍は、装甲列車を先発として輸送列車を出発させた。マキの攻撃は失敗に終った。アトスらは装甲列車をやりすごし、先頭の輸送列車を谷底に転落させた。ドイツ軍はやむなく残りの十一本の列車群を電車線にひき入れたが、直ちに全線の電流が切られた。ドイツ軍は再び機関車を要求した。しかし、レジスタンス命令によって全機関車の火は落された。動きを失ったアップェルケルンは連合軍の空爆によって炎上した。ノルマンディ戦線は突破され、ドイツ軍は敗走した。解放のしらせに町は沸き立った。自由と解放の第一列車が明るい歌声をのせて出発していった。 

◆◆大島博光解説 

フランス映画総同盟と国鉄の抵抗委員会の共同企画及び製作による、独軍占領下における鉄道員のレジスタンス運動を描いたセミ・ドキュメンタリー・タッチのルネ・クレマン長篇処女作。第1回カンヌ国際映画祭で国際審査員賞を受賞。

44年、連合軍のノルマンディー上陸に慌てた独軍は軍用列車を増発して物資や兵員補給を図ったが、鉄道員たちは、サボタージュと列車転覆でこれを阻止するたたかいを組む。第2次大戦中のナチス占領下のフランス国鉄労働者のレジスタンス活動を描いた素晴らしい作品。出演しているのは実際にレジスタンスに参加して闘った人々で、監督のルネ・クレマン自身もレジスタンス運動に参加していたという。1945年のパリ解放と同時に着手され、登場する装甲列車や戦車もドイツ軍が残していった実物で、実際にあったたたかいを再現して記録映画のような迫力。 

19446月、連合軍がノルマンディーに上陸すると、ドイツ軍は兵器や兵士を前線に送るために輸送列車を走らせる。フランス国鉄のレジスタンスの人々はこれを妨害するために機関車を逆走させたり、転覆させたり、様々な活動をする。 

見せしめにつぎつぎと銃殺される活動家、ドイツ兵の目を盗んで必死に列車を工作する労働者の表情もリアル。 レジスタンスは列車が走行できないようあらゆる破壊工作を実行する。予め燃料を抜いたり、ブレーキ管に刃物で傷を付けたり、線路のポイントに木の板を挟んで脱線を図ったり、手作業で線路の一部を外したりして列車の進行を阻止する。脱線した列車が谷底へ豪快に転落していく描写は圧巻の一言だ。 

列車や線路に対する地道な破壊工作だけでなく、線路を取り囲んでレジスタンス対ドイツ軍の激しい攻防戦も描かれる。列車に積載された戦車に向かってロケット弾を発射するレジスタンスに対し、ドイツ軍も歩兵と戦車による砲撃で対抗する。 

印象的な森の中で装甲列車を果敢に襲撃するシーンでは、圧倒的なドイツ軍の火器によりレジスタンスの闘士たちは無残に粉砕されてしまう。 

しかし、装甲列車を避けて輸送列車を脱線させる計画が成功し、戦車をのせた列車がつぎつぎと折り重なるように宙を飛んで谷底へ落下していく。ついに列車輸送は挫折し、ドイツ軍は敗残兵のように徒歩と自転車で帰っていき、解放列車が走る日がくる。 

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終盤、フランス国旗が至るところに掲揚され、解放された市民が国民のもとに還った列車で嬉しそうに移動していく様子が感動的だ。過ぎ去った列車の後部には、フランス万歳!の文字と鉄道レジスタンスに対する称賛のメッセージが描かれる。鉄道レジスタンスの勇気ある行動がドイツから列車と線路を奪還し、そして国そのものの奪還に対して多大な功績を残したことを讃えている。 

また、特定の人物に焦点を絞っていない点も素晴らしい。本作には明確な主人公は存在しない。破壊活動に関わったすべての人間がこの戦いの主役なのだ。 

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🔵禁じられた遊び(ルネ・クレマン監督)1953

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https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5OEtjem5EczVoN2c

「ガラスの城」のルネ・クレマンが監督した一九五二年作品。戦争孤児になった一少女と農家の少年の純心な交情を描くフランソワ・ボワイエの原作小説を、「肉体の悪魔(1947)」のコンビ、ジャン・オーランシュとピエール・ボスト、それにクレマンが共同で脚色した。台詞はオーランシュ、ボスト、原作者ボワイエの三人。撮影は「ドイツ零年」のロベール・ジュイヤール、音楽はナルシソ・イープスの担当。出演者はクレマンが見出したブリジット・フォッセーとジョルジュ・プージュリーの二人の子役を中心に、リュシアン・ユベール、スザンヌ・クールタル、ジャック・マラン、ローレンス・バディら無名の人たち。なお、この作品は五二年のヴェニス映画祭のグラン・プリとアカデミー外国映画賞を受賞した。

◆ストーリー

一九四〇年六月のフランス。パリは独軍の手におち、田舎道を南へ急ぐ難民の群にもナチの爆撃機は襲いかかって来た。五歳の少女ポーレット(B・フォッセイ)は、機銃掃射に両親を奪われ、死んだ小犬を抱いたままひとりぼっちになってしまった。彼女は難民の列からはなれてさ迷ううち、牛を追って来た農家の少年ミシェル(G・プージュリー)に出会った。彼は十歳になるドレ家の末っ子で、ポーレットの不幸に同情して自分の家へ連れ帰った。ドレ家では丁度長男のジョルジュが牛に蹴られて重傷を負い、大騒ぎしているところだった。ポーレットはミシェルから死んだものは土に埋めるということを始めて知り、廃屋になった水車小屋の中に彼女の小犬を埋め十字架を立てた。墓に十字架が必要なことを知ったのも彼女にとって新知識であり、以来彼女はこのお墓あそびがすっかり気に入ってしまった。ジョルジュは容態が悪化して急死した。そのとき、隣家のグーアルの息子フランシスが軍隊を脱走して帰って来た。グーアル家とドレ家は犬猿の仲だったが、フランシスとドレの娘ベルトとは恋仲であった。ジョルジュの葬式の日、ドレは葬式馬車の十字架がなくなったことに気づいたが、これはミシェルがポーレットを喜ばすために盗んだのだった。ミシェルは更に教会の十字架を盗もうとして司祭にみつかり、大叱言を喰った。しかしミシェルとポーレットはとうとう教会の墓地まで出かけて、たくさんの十字架を持ち出した。ジョルジュが死んではじめての日曜日、ドレ一家は墓参に出かけたが、ジョルジュの墓の十字架がなくなっているのを見て、ドレは、グーアルの仕業にちがいないと思い込み、そこへ来たグーアルと大格闘をはじめた。しかし司祭の言葉で盗んだのはミシェルだとわかり、ドレはミシェルが何のために十字架を盗んだのか理解に苦しんだ。翌朝、ドレ家に二人の憲兵が訪れた。ドレはてっきり十字架泥棒がばれたものと思ったが、実はポーレットを孤児院にひきとりに来たのだった。ミシェルの必死の懇願にもかかわらずポーレットは連れさられた。雑踏する駅の一角、ポーレットは悲しく母を呼び求めて、ひとり人々の間を駈け去って行った。

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🔵海の牙(ルネ・クレマン監督)1948

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https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5Mm1EUlVHeUV0a3M

抗戦映画の傑作と称せられる「鉄路の戦い」を作ったルネ・クレマンが戦後監督した作品で、「どん底」の脚色者ジャック・コンパネーズがヴィクトル・アレクザンドロフと協力執筆したストーリーを、クレマンがジャック・レミーと協力脚色し、「望郷(1937)」「格子なき牢獄」のアンリ・ジャンソンが台詞を書いている。撮影は「美女と野獣」のアンリ・アルカンが指揮し、音楽はイヴ・ボードリエが作編曲している。出演者は「あらし(1939)」のマルセル・ダリオ、「高原の情熱」のポール・ベルナール、新進のアンリ・ヴィダル、「リビア白騎隊」のフォスコ・ジアケッチ、フロランス・マルリイ、ミシェル・オークレール、新人アンヌ・カンピオン、ジャン・ディディエら。

◆ストーリー

今次大戦の末期、ドイツの一潜水艦がオスロの基地を出発した。秘密の命令を帯びたフォン・ハウザー将軍、ゲシュタポのフォルスター、その部下のウイリイ、イタリア人のガローシ、その妻で将軍の妾であるヒルデ、ノルウエーの学者エリックセン、その娘イングリッド、フランスの新聞記者クーテュリエらが乗っている。潜艦は敵に遭遇し、短い戦闘をまじえて危地を脱したがヒルデがかなりの重傷を負った。軍医がいないので、その夜フランスの海岸から、一人の医師を無理に連れて来る。医者はギベールといい、ヒルデを介抱するのにも潜艦は南米へ向け走りつづけた。ギベールはヒルデが全快した時、自分は殺されるのだと覚悟する。航海は続けられて潜艦生活になれない客人達は、神経異常となり、中にもヒルデは夫のガローシを面はする有様である。ラジオでベルリン陥落、ヒットラー死亡の報を得るや、絶望したガローシは投身自殺した。燃料が尽きかけた時、艦は南米の某小港に到着した。フォルスターはウイリイを遣し、ラルガに連絡させた。ところがドイツが降伏したので、ラルガは何の指令も受取っておらぬから油はないと、シラを切った。ウイリイも脱走しようとしたが、フォルスターにつかまり、二人はラルガを事務所に訪れ、その場でウイリイはラルガを射殺させられた。潜水艦が出航準備中、クーテュリェも逃亡を企てたが、フォルスターに射殺された。エリックセンも娘イングリッドを残したまま、ゴム製救命艇で逃げ出した。燃料不足のまま潜艦は出港し、何も知らぬ乗組員は最初に出合った船から燃料を奪い、その時はじめてドイツ降伏の事実を知った。将軍等はその船に捕虜として乗うつったが、フォルスターはナチ狂信者の本領を発揮し、その船を撃沈してしまう。ところが潜艦内でも暴動が起り、フォルスターはウイリイに殺され、ギベエルはなぐられて失神した。生き残った乗組員は燃料のない潜艦をすて、ウイリイ、イングリッドと共にボートに乗った。眼が覚めるとギベエルは、ただ一人潜艦に乗っていた、かくて漂流十二日、飢渇で死にひんした時英国船に出合って救われた。ボートで逃れた連中の生死は全く不明であった。

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🔵パリは燃えているか(ルネ・クレマン監督)1966

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★★映画=パリは燃えているか180m 

(レジスタンスの映画)

前編120m

後編60m

◆作品 

196612月公開 

ラリー・コリンズとドミニク・ラピエールの原作を、ゴア・ヴィダルとフランシス・フォード・コッポラが共同脚色、フランス語追加台詞をマルセル・ムーシー、ドイツ語追加台詞をグレーテ・フォン・モローが担当、ルネ・クレマンが監督したパリ解放の2週間を描いた大戦裏話。撮影は「悪徳の栄え」のマルセル・グリニョン、音楽は「ドクトル・ジバゴ」のモーリス・ジャールが担当した。なおサウンドはウィリアム・R・サイベル、第2班監督はアンドレ・スマッジ、第2班撮影監督はジャン・ツールニェ、装置・美術はウィリー・ホルト、セットはロジャー・ボルパー、衣裳はジャン・ゼイ、編集はロバート・ローレンス、特殊効果はロバート・マクドナルドがそれぞれ担当した。出演はジャン・ポール・ベルモンド、アラン・ドロン、ブリュノ・クレメール、ゲルト・フレーベ、レスリー・キャロン、オーソン・ウェルズ、ピエール・ヴァネック、カーク・ダグラス、クロード・リッシュ、ロバート・スタック、グレン・フォードほか多数。製作はポール・グレーツ。 

◆ストーリー 

19448月、第2次世界大戦の連合軍の反撃作戦が始まっていた頃、フランスの装甲師団とアメリカの第4師団がパリ進撃を開始する命令を待っていた。独軍下のパリでは地下組織に潜ってレジスタンスを指導するドゴール将軍の幕僚デルマ(アラン・ドロン)と自由フランス軍=FFIの首領ロル大佐(ブルーノ・クリーマー)が会見、パリ防衛について意見をたたかわしていた。左翼のFFIは武器弾薬が手に入りしだい決起すると主張、ドゴール派は連合軍到着まで待つという意見であった。パリをワルシャワのように廃墟にしたくなかったからだ。一方独軍のパリ占領軍司令官コルティッツ将軍(ゲルト・フレーベ)は連合軍の進攻と同時に、パリを破壊せよという総統命令を受けていた。将軍は工作隊に命じて、工場、記念碑、橋梁、地下水道など、ありとあらゆる建造物に対して地雷を敷設させていた。このような時に、イギリス軍諜報部から連合軍はパリを迂回して進攻するというメッセージがレジスタンス派に届いた。ロル大佐は自力でパリを奪回しようと決意した。これを知ったデルマは、これをやめさせる人間は政治犯として、独軍に捕らえられているラベしかないと考え、ラベの妻フランソワーズ(レスリー・キャロン)とスウェーデン領事ノルドリンク(オーソン・ウェルズ)を動かして、ラベ救出を図ったが失敗した。結局、ドゴール派と左翼派の会議の結果決起と決まった。そして決まったとなるや逸速くドゴール派が市の要所を占領してしまった。市街戦が始まった。パリ占領司令部は、独軍総司令部からパリを廃墟にせよという命令をうけておりその上、市街戦が長びけば爆撃機が出動すると告げられていた。コルティッツ将軍は、すでにドイツ敗戦を予想していて、パリを破壊することは全く無用なことと思っていた。そこでノルドリンク領事を呼び、一時休戦をして、パリを爆撃機から守り、その間に連合軍を呼べと、遠回しに謎をかけた。ノルドリンクから事情を知ったデルマは、ガロア少佐(ピエール・ヴァネック)を連合軍司令部に送った。ガロアはパリを脱出、ノルマンディの米軍司令部に到着した。パットン将軍(カーク・ダグラス)はパリ解放は米軍の任務ではないと告げ、ガロアを最前線のルクレク将軍(クロード・リッシュ)に送った。ルクレク将軍は事態の急を知ってシーバート将軍(ロバート・スタック)を動かし、ブラドリー将軍(グレン・フォード)を説いた。ブラドリーは全軍にパリ進攻を命令した。825日、ヒットラーの専用電話はパリにかかっていてパリは燃えているかと叫び続けていた。 

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🔵居酒屋(ルネ・クレマン監督)1956ゾラ原作

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★★居酒屋(1956)

https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5VzZrNVM4TmdDV0U

十九世紀フランス自然主義文学の巨匠エミール・ゾラの名作居酒屋を「首輪のない犬」のコンビ、ジャン・オーランシュとピエール・ボストが共同脚色し台詞も担当、「しのび逢い」以来のルネ・クレマンが監督に当る。撮影は「夜の騎士道」のロベール・ジュイヤール、音楽は「男の争い」のジョルジュ・オーリック。主演は「ナポレオン(1955)」のドイツ女優マリア・シェル、「オルフェ」のフランソワ・ペリエ。他に「犯罪河岸」のシュジ・ドレール、「快楽」のマチルド・カサドジュなど。

◆ストーリー

今からおよそ百年前、パリの裏町。洗濯女のジェルヴェーズ(マリア・シェル)は十四の時、ランチェ(アルマン・メストラル)と一緒になり田舎から出て来たのだが、怠け者の上に漁色家のランチェは彼女が貯えた金を使い果しても働こうとしない。しかも彼はジェルヴェーズを正式に入籍しようとも考えない。八つと五つの子供迄あるのに。やがて共同洗濯場に子供等が、父親が向いの家の女と家出したと言ってくる。その女の妹ヴィルジニイが憎さげに笑ったためジェルヴェーズは彼女と大喧嘩。見事溜飲をさげたが何の甲斐もない。彼女はやがて屋根職人のクポー(フランソワ・ペリエ)と正式に結婚、口うるさい姉夫婦はいたが彼女は幸せそうだった。二人は一心に働きナナも生れた。やがて六百フランの貯えが出来て彼女の長年の夢洗濯屋を開く事になった。しかしその日、クポーが屋根から落ち、生命は取りとめたが貯えは使い果した。幸い彼女に好意を寄せる鍛治工のグジェ(ジャック・アルダン)がその金を用立ててくれた。彼女にはその傍にいるだけでも安らぎを覚えるグジェだった。洗濯屋は繁昌した。しかしクポーは屋根へ上る勇気を失い近くの居酒屋へ入りびたり、グジェに返す金まで飲んでしまうようになった。ジェルヴェーズも変った。彼女は自分の祝名祭に大宴会を思いたつ。招待客の中にはヴィルジニイもいた。彼女は仲直りを装って復讐を企てていた。宴会の半ば昔の男ランチェが通りがかったが、それも彼女指し金だった。ジェルヴェーズは彼の姿に息を呑んだが、クポーは彼を招じ入れ、あまつさえ妙な男気を出して自分達の隣室を提供した。唯一人彼女が信頼するグジェもストライキ運動をして一年の刑を受けた。支柱を失った思いの彼女は仕事もおろそかになってくる。夜はクポーの酒の匂いのしみ込んだベッドで寝る彼女。もう何もかも投げやりだった。或夜ランチェに誘い込まれても抵抗する気力すらなかった。グジェが出獄してきた。彼女は醜い関係を隠そうとしたが、心の片隅に残る純真さが嘘をつくことを許さなかった。絶望したグジェは彼女の上の男の子を連れて旅立った。ランチェがヴィルジニイと関係のある事を知るとそれでも彼女は最後の気力をふるい起そうとした。彼等の思う壺にはまって店を手放したくなかった。だがその時アルコール中毒の発作からクポーが、店を滅茶滅茶に壊してしまった。--やがて彼女の店の跡にはヴィルジニイが小綺麗な菓子屋を開いた。そしてお人好しの巡査の夫と、まとわりつくランチェ。クポーは死に、今は落ちぶれたジェルヴェーズは、かつての居酒屋で、酒にしびれる頭でグジェを思い起していた。そして垢にまみれたナナがちょこちょこ出入りしていた。

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🔵ジェルミナル(クロード・ベリ監督)1994(ゾラ原作)

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★★ゾラ原作・ジェルミナル=産業革命期の初期炭鉱労働者のたたかい70m

★★ゾラ原作・ジェルミナル=産業革命期の初期炭鉱労働者のたたかい70m

フランス主義文学の巨匠エミール・ゾラの同名小説を「老人と子供」「愛と宿命の泉」のベテラン監督クロード・ベリが35億円という空前の製作費をかけて壮大に映画化したもの。19世紀末の北フランスの炭坑にやってきた若き機械工と、彼の生活を助けるユマ家族の苦悩に満ちた末路を、当時燃えさかった労働運動、ストライキを大きくフューチャーしながら描いている。主演のルノーは痛烈なメッセージ・ソングを発表し続けて国内で絶大な信頼を得るシンガーで、これが映画初主演。そのほか「ジョナスは2000年に25才になる」「夜よ、さようなら」の個性派女優ミュウ・ミュウ、「シラノ・ド・ベルジュラック」「ゴダールの決別」で今や現代フランス映画界を代表する俳優となったジェラール・ドパルデュー、「地下室のメロディー」のジャン・カルメら、豪華な演技陣が脇を固める。脚本はベリと彼の妹アルレット・ランマンとの共同。撮影は「インド夜想曲」「めぐり逢う朝」のイヴァ・アンジェロ。SFXには「バットマン」のデレク・メディングスが加わっている。

◆ストーリー

19世紀末の北フランス、モンスー炭坑。不況の嵐が吹き荒れ、町には失業者が溢れかえっている。この町に仕事を求めて元機械工のエチエンヌ・ランチエ(ルノー)がやってくる。労働者のリーダー格、マユ(ジェラール・ドパルデュー)は彼と意気投合して、彼に職と住居の世話をしてやる。そんなマユも老いた老父ボンヌモール(ジャン・カルメ)と7人の家族を抱えているために決して生活は楽ではなかった。そうした中で、長男や長女が成り行きとはいえ伴侶を得て独立していった。もっとも長女のカトリーヌ(ジュディット・アンリ)の方はほのかにランチエに恋心を抱いていたのだが: 。モンスー炭坑は落盤事故でマユの次男が負傷したことに対して労働者側にきわめて不誠実な対応をし、権利意識に燃える労働者たちはストライキに突入した。会社側はベルギーから移民労働者を受け入れてこれに対抗し、神経戦は長期化の様相を呈しはじめる。いつしかマユの妻マウード(ミュウ・ミュウ)がストライキの先頭に立っている。今や労働者たちは飢えと不安で極限状態。武力衝突が発生し、マユは軍隊の威嚇射撃を胸に受けて死ぬ。修羅場のあと、それでも支配人の娘の婚礼が華やかに執り行われた。やがて労働者たちはリーダーのランチエから離れて、仕事に戻っていく。闘争は敗北したのだ。ところがアナーキストの破戒工作のためにランチエとカトリーヌと彼女の別居中の夫シャヴァル(ジャン・ロジェ・ミロ)は一斉に生き埋めになってしまう。シャヴァルは捨て鉢になってカトリーヌを抱こうとするが、ランチエは彼を殺し、カトリーヌと結ばれる。しかし救助隊が2人を発見したとき、彼女の息はなかった。その頃、新婚の支配人の娘がマユ家を慰問に訪れると、ぼけているはずの老父ボンヌモールが彼女を殺害してしまう。数日後、町を離れようとするランチエは、生活のために再び炭坑で働くマウードとすれちがい、あんたのせいじゃないよ、と言われ、今度こそ勝ってみせるぞ、と決意を新たにする。空には4月の太陽が輝き、大地を暖め、種子が芽生えようとしていた。それは彼ら労働者の未来を予告するかすかな手応えとなっているように、ランチエには思えた。

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🔵ゾラの生涯(ドレフュス事件描く)1948

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★★映画・フランスの文豪・ゾラの生涯=ドレフュス事件無罪を勝ち取るたたかい115m

フランスの文豪ゾラの生涯とドレフュス事件を大きく扱った伝記映画で、「科学者の道」と同じくポール・ムニが主演し、ウィリアム・ディーターレーが監督したものである。マシュウ・ジョセフスンの「ゾラとその時代」に取材して、ハインツ・ヘラルドとゲザ・ハーゼッグがストーリーを書き、この二人にノーマン・ライリー・レインが加わって脚本を執筆している。主演のムニをめぐって「桃色の店」のジョセフ・シルドクラウト、「クリスマスの休暇」のゲイル・ソンダーガード、「呪いの家」のドナルド・クリスプ、「どん底」のウラジミル・ソコロフ、「町の人気者」のヘンリー・オニール、「アメリカ交響楽」のモーリス・カーノフスキー、グローリア・ホールデン、エリン・オブライエン・ムーア、ルイス・カルハーン、ロバート・パラットらが主要な役を演じている。撮影は「恋の十日間」のトニー・ゴーディオが指揮した。この映画は1937年度アカデミー賞の作品賞、脚本賞、助演男優賞を得た大作である。

◆ストーリー

若き日のエミール・ゾラは、パリの屋根裏の破れ部屋でポール・セザンヌと同居し 、真実追求の激しい情熱を著作に打ち込んだ。真を書いたゆえにようやく得た出版社での職も失ったが、ある日警官に追われていた巷の女ナナを救い、彼女の身の上話を小説に書いて大好評を得、続いて書いたルーゴン・マッカール$書十数巻はゾラを一流作家とし、やがて富と地位を得て文豪の名声を博した。そのころ全世界を騒がせていたドレフュス事件が起こった。軍の機密を某国にもらしている参謀部将校が、何者であるか突き止め得なかった軍首脳部は、ユダヤ人であるが故にドレフュス大尉を犯人と断じ、反逆罪に問い悪魔島へ終身刑の囚人として送った。夫の無罪を信じるドレフュス夫人は、ゾラを訪れて世論に訴えて夫を救ってくれと頼み、書類を渡した。ゾラは有名な「余は訴う」と題する一文を草してドレフュス事件の再審を天下に訴えた。軍首脳部はすでに真犯人がエステルハジー少佐であることを知っていたが、一度有罪と決してドレフュスの処刑をくつがえすのは、首脳部の責任を問われる恐れがあるので、真相をもみ消すことに尽力した。軍は裁判所に干渉し、ゾラを中傷罪として逆に訴えるとともに、いくつかの新聞にゾラは国賊なりと書かせて大衆を扇動したのであった。かくて、ゾラの友人である弁護士ラボリの熱弁もかいなく、ゾラは有罪となり二年の禁固が申し渡された。友人たちは計ってゾラを英国に亡命させた。その後も友人たちは正義のための論陣を張り続け、そのうちに政変があってフランスの政府は一変した。このためドレフュス大尉を処刑した軍首脳部はことごとく退職させられ、真犯人エステルハージ少佐は自決してしまった。ゾラは愛国者として迎えられ、ドレフュスも悪魔島から召還され、改めて軍籍に戻り中佐に昇進した。その喜びの日の前夜、ゾラは書斎で執筆中ガス中毒で死亡した。ゾラをパンテオンに祭る日には、アナトール・フランスじゃ悼辞を述べた。

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🔵カサブランカ(マイケル・カーテイス)1946

アメリカ作成映画

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https://m.youtube.com/watch?v=9YwBMWvbE9A 

https://m.youtube.com/watch?v=B5PtJ88nMS4 

◆作品=カサブランカ

19466月公開 

ウォーナア・ブラザース社ファースト・ナショナル1942年度製作で、43年映画アカデミー作品賞及監督賞を得た作品。マレイ・バネット及ジョアン・アリスン合作舞台劇から、ジュリアス・J及びフィリップ・G両エプスタインとハワアド・コホの3名が共同脚色し、古く欧州映画界から渡米し、ウォーナー・ブラザアス社で大衆的作品に腕を振っていた老練マイケル・カーテイスが監督に当り、これも老巧のアーサア・エディスシが撮影を担当している。出演者は、スウエデン映画界のスタアで、「間奏楽」によってアメリカ映画界にデビューし、以来、「アダムには4人の息子があった」「天国の怒り」「ジキル博士とハイド氏(1941)」「カサブランカ」「誰が為に鐘は鳴る」「ガスライト」(アカデミー演技賞獲得)「サラトガ本線」「セント・メリィ寺院の鐘」「呪縛」等に出演し、今日最高の人気を持つイングリッド・バーグマンと、「デッド・エンド」等で知られたハンフリー・ボガートと英国の舞台を経てニューヨークの劇壇から映画入りをした新人ポール・ヘンリードの3人が主演し、「透明人間」等のクロード・レインズ、ドイツ映画界で「M」等に主演し後渡米して活躍中のピーター・ローレ、最近評判の傍役シドニー・グリーンストリート、ドイツ映画界の名優コンラード・ファイト等が助演するほか、S・サコール、マドレーヌ・ル・ボオ、ドーリー・ウィルソン、ヘルムート・ダンティーン、マルセル・グリオ、カート・ボイス、コリンヌ・ムラ、レオニード・キンスキイ、ジョン・クェーレン等の老練、中堅、新人が顔を並べている。 

◆ストーリー 

まだ独軍に占領されない仏領モロッコの都カサブランカは、暴虐なナチスの手を脱れて、リスボンを経由し、アメリカへ行くために、1度は通過しなければならぬ寄港地である。この町にアメリカ人リークが経営しているナイト・クラブは、それら亡命者たちの溜り場だった。独軍の将校シュトラッサアは、ドイツ側の飛脚を殺して旅券を奪った犯人を追って到着する。旅券を盗んだウガルテという男は、リークに旅券の保管を頼む。リークはこれをピアノの中へ隠す。リークと奇妙な友情関係にあるフランス側の警察署長ルノオは、シュトラッサの命をうけてウガルテを逮捕した。そのあとへ、反ナチ運動の首領ヴィクトル・ラスロと妻のイルザ・ラントが現れる。2人はウガルテの旅券を当てにしているのだが、イルザは、この店の経営者がリークであると知って驚く。憂うつなリークは、店を閉めたあと、盃を傾けながら、彼女とのことを回想する。独軍侵入直前のパリで、彼はイルザと熱烈な恋に身を焦していた。が、いよいよ独軍が侵入して来たとき、2人は一緒に脱れることを約束した。が、彼女は、約束の時間に姿を現さず、そのまま消息を断ってしまったのだった。こうした回想にふけっているとき、イルザが一人で訪れて来た。が、彼は素気ない言葉で彼女を立ち去らせる。ラズロは闇商人フェラリの口から問題の旅券はリークが持っているらしいと聞き、彼を訪れて懇請するが、リークは承諾しない。2人の会見の模様を夫からきかされたイルザは、再びリークを訪れ、パリで彼と恋に陥ちたのは、夫ラズロが独軍に捕われ殺されたと信じ切っていたためであり、約束を破って姿を消したのは出発の直前、夫が無事であることが判明し、しかも病気で彼女の看護を求めていると知ったためである。と事情を語った。これでリークの心もとけ、2人の愛情は甦った。翌日、リークは署長ルノオを訪れ、ラズロに旅券を渡すからそのとき彼を捕えろ、俺はイルザと逃げる、と語り、手はずを整えさせた。が、その夜、店へラズロとイルザが現れ、ルノオがこれを逮捕しようとしたとき、突然リークはルノオに拳銃をつきつけ、ラズロ夫妻の旅客機を手配するため、飛行場へ電話をかけるように命じた。ルノオは、電話をシュトラッサアへつなぎ、暗に2人が出発しようとしていることを知らせた。飛行場へ赴いたリイクはラズロとイルザをリスボン行の旅客機に乗せてやる。一足違いで駆けつけたシュトラッサアは、これを阻止しようとして却ってリークに射殺された。彼の死によって独軍及びヴイシイ政府の呪縛から逸したルノオは、リックと相携へてこのカサブランカを脱出し、反独戦線に加わることを誓うのだった。 

★「カサブランカ」で歌われたフランス国歌=ラ・マルセイエーズ8.24m 

フランス革命のなかでつくられた革命歌。ナチス支配のときは、レジスタンスの共通歌となった。パルチザンたちの間で、牢獄で、強制収容所で、ナチの死刑執行人たちの銃殺隊の面前で、いたるところでマルセイエーズは歌われた。ひとり戦いの歌としてだけでなく、希望の歌、解放の歌、平和の歌として歌われた。1942年の映画「カサブランカ」では、横暴なドイツ将校に抵抗する歌となった。レジスタンスとのかかわりについては、大島博光「レジスタンスにおけるマルセイエーズ」を参照のこと。 

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-2268.html?sp

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🔵レ・ミゼラブルの数々の映画

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(ユゴー原作の「レ・ミゼラブル」の数々の映画は、

犯罪心理を描くフランス映画の元祖、源流である)

★★ミュージカル映画=レ・ミゼラブル150m

(アメリカ作成映画だが、フランスの協力)

(通常のレ・ミゼラブルと違いフランス革命の労働者・市民の自由獲得のためのバリケード闘争の映像がすごい)

https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5SXF5NFRkNzczRlk

https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5WmpzT1BfdHk3WnM

https://drive.google.com/open?id=1TxbtLj7BBB6U4ITLO5WW7DtPOFzWFWqF

レ・ミゼラブル

201212

85年の初演以来、世界43か国で上演され、各国の観客動員数記録を塗り替えている、ヴィクトル・ユゴーの小説を基にした大ヒット・ミュージカルを、『英国王のスピーチ』のトム・フーパー監督が映画化。19世紀のフランスを舞台に、元囚人の男ジャン・バルジャンの波乱の生涯が描かれる。バルジャンを演じるのはヒュー・ジャックマン。

◆ストーリー

格差と貧困にあえぐ民衆が自由を求めて立ちあがろうとしていた19世紀のフランス。ジャン・バルジャン(ヒュー・ジャックマン)は、パンを盗んだ罪で19年間投獄され、仮釈放されたものの生活に行き詰まり、再び盗みを働く。しかし、その罪を見逃し赦してくれた司教の慈悲に触れ、身も心も生まれ変わろうと決意。マドレーヌと名前を変え、工場主として成功を収め、市長の地位に上り詰めたバルジャンだったが、警官のジャベール(ラッセル・クロウ)は彼を執拗に追いかけてくるのだった。そんな中、以前バルジャンの工場で働いていて、娘を養うため極貧生活を送るファンテーヌ(アン・ハサウェイ)と知り合い、バルジャンは彼女の幼い娘コゼットの未来を託される。ところがある日、バルジャン逮捕の知らせを耳にした彼は、法廷で自分の正体を明かし再び追われることになり、ジャベールの追跡をかわしてパリへ逃亡。コゼットに限りない愛を注ぎ、父親として美しい娘に育てあげる。だが、パリの下町で革命を志す学生たちが蜂起する事件が勃発、バルジャンやコゼットも次第に激動の波に呑まれていく……

★★映画=レ・ミゼラブル120m

https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5S2V6c0w3VkFzM2s

https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5ZXVReGlfNUg0WGs

◆当ブログ=「レ・ミゼラブル」とユゴー=保守から自由主義者に、コミューン追悼まで

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/8949611.html

(赤旗17.06.09

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🔵地下室のメロディー(アンリ・ヴェルヌイユ監督。ジャン・ギャバンとアラン・ドロン主演)

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https://drive.google.com/open?id=1Xzlsw05B78EYWsnJstXfv9UgTkBkrB44

(ムービーウォーカーから)

19638月公開

監督はギャバンとベルモンドを組ませた「冬の猿」や「野獣は放たれた」のアンリ・ヴェルヌイユ。主演者には「ギャンブルの王様」のジャン・ギャバンと「太陽はひとりぼっち」のアラン・ドロン。またギャバンの女房に「地の果てを行く」「我等の仲間」でギャバンと名コンビをうたわれたヴィヴィアーヌ・ロマンス。カジノの踊り子でドロンの手管にかかって利用される女ブリジットに「地下鉄のザジ」のグラマー、カルラ・マルリエ、ドロンの義兄ルイにモーリス・ビローが扮している。撮影には「ヘッドライト」のルイ・パージュ、ファンキィなモダンジャズのフィーリングをきかせた音楽は「戦士の休息」のミシェル・マーニュ、そしてシナリオは「殺人鬼に罠をかけろ」のミシェル・オーディアール、これにヴェルヌイユと「現金に手を出すな」の原作者で、暗黒街のスラングの権威アルベール・シモナンが参加している。

◆ストーリー

五年の刑を終って娑婆に出た老ギャングのシャルル(ジャン・ギャバン)は足を洗ってくれと縋る妻ジャネット(ヴィヴィアーヌ・ロマンス)をふりすてて、昔の仲間マリオを訪ねた。マリオはある計画をうち明けた。カンヌのパルム・ビーチにあるカジノの賭金をごっそり頂こうという大仕事だ。相棒が必要なので刑務所で目をつけていたフランシス(アラン・ドロン)と彼の義兄ルイを仲間に入れた。賭金がどのように金庫に運ばれるのかをたしかめると、シャルルは現場での仕事の段取りをつけた。各自の役割がきまった。決行の夜、フランシスは空気穴を通ってエレベーターの屋根にかじりついた。金勘定に気をとられている会計係とカジノの支配人の前に飛びおりた覆面のフランシスの手にマシンガンがあった。彼は会計係から、鍵を奪ってシャルルを表から入れた。札束を鞄に詰めると、シャルルとフランシスは、ルイの運転するロールス・ロイスを飛ばした。金は借りた脱衣所にかくした。警察が乗り出したころ、シャルルとフランシスは何食わぬ顔で別なホテルに納まっていた。完全犯罪は成功したのだ。しかし朝食をとりながら、眺めていた新聞のある記事と写真が一瞬シャルルの眼を釘づけにした。無表情な彼の顔に、かすかな動揺が起った。

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🔵太陽がいっぱい(ルネ・クレマン監督)2004

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https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5bFlPbTB2cVRyOUU

ルネ・クレマンの「海の壁」以来の映画。アラン・ドロンが天使の顔をした悪人を演じるサスペンス・ドラマ。出演はドロンのほか、新星マリー・ラフォレ、「死刑台のエレベーター」のモーリス・ロネら。フランス映画で活躍したスターたちの代表作をニュープリントで上映する「フランスがいっぱい」などでも上映。

◆ストーリー

トム・リプレイ(アラン・ドロン)は、フィリップ(モーリス・ロネ)と酔っぱらってナポリに遊びにきた。近くの漁村モンジベロからだ。--トムは貧乏なアメリカ青年だ。中学時代の友人・金持のドラ息子フィリップを、父親から頼まれて連れ戻しにきたのだ。五千ドルの約束で。フィリップにはパリ生れのマルジェ(マリー・ラフォレ)という美しい婚約者がいた。--ナポリから帰った時、アメリカから契約をやめる手紙が来ていた。フィリップが約束の手紙を出さなかったからだ。トムが邪魔になっていた。友人のパーティーに向うヨットの上で、トムはますます彼からさげすまれた。裸でボートに放り出され、全身が火傷のように日焼けした。--彼は決意し、まず小細工をして、マルジュとフィリップに大喧嘩をさせた。彼女が船から下りたあと、フィリップに向い、刺し殺した。死体はロープで縛り、海へ捨てた。陸へ上ると、彼はフィリップになりすました。ホテルに泊り、身分証明書を偽造し、サインを真似、声まで真似た。金も衣類も使った。ヨットを売り払う交渉も、親元からの送金を引き出す仕事もうまくいった。マルジュあてのフィリップの手紙をタイプし、送った。彼女は彼を忘れられずにいた。ホテルにフィリップの叔母が現れたが、姿をくらますことができ、別の下宿に移った。 そこに、フィリップの友人が訪ねてきて、何かを察したようだった。トムは平生から憎んでいたその男を殺し、死体を捨てた。それは発見され、刑事が調べにきた。死体確認に集った時、トムはマルジェにフィリップはモンシベロに戻ったと告げた。女刑事が盗み聞いていた。トムはモンジベロの家にその夜いくと、遺書を書き、送金を全部ひき出したのをマルジェに残し、自殺したことにした。警官もマルジュも駈けつけたが、彼は逃げおおせた。彼は元のトムに戻り、傷心のマルジェをいたわり、愛を告げた。彼女もついに彼を受け入れ、結婚することになった。遺産も手に入るだろう。彼が海水浴のあと、極上の酒に酔っていた時、フィリップのヨットが売られるために陸に引きあげられていた。スクリューにからまったロープの先からフィリップの死体が現われた。

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🔵サンチャゴに雨が降る(エルヴィオ・ソトー監督) 1976

(フランス・ブルガリア共同制作。チリクーデター描く) 

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◆作品=サンチャゴに雨が降る 

19765月公開 

一九七〇年、チリ共産党・社会党による人民連合と軍部反動派の血みどろの戦いを描く。製作はジャック・シャリエ、監督はチリからフランスに亡命したエルヴィオ・ソトー、撮影はジョルジュ・バルスキー、音楽はアストル・ピアソラが各々担当。出演はジャン・ルイ・トランティニャン、ローラン・テルズィエフ、アニー・ジラルド、ビビ・アンデショーン、リカルド・クッチョーラ、ベルナール・フレッソン、ニコール・カルファン、モーリス・ガレル、ジョン・アビー、セルジュ・マルカン、アンリ・ポワリエなど。 

◆ストーリー 

一九七〇年九月四日の夜、チリの首都サンチャゴ。アウグスト・オリバレス(リカルド・クッチョーラ)はテレビで大統領選の速報を報道していた。「人民連合」のサルバドル・アジェンデ(M・ペトロフ)が、国民党、キリスト教民主党を押え、当選確実だったが、内務省はなぜか最終結果の発表を遅らせていた。キリスト教民主党出身のエドゥアルド・フレイ大統領は、社会党、共産党などの革新六党の「人民連合」政権の誕生を阻止するため、チリ駐在のアメリカ大使、アメリカ電信電話会社(ITT)と共に軍事クーデターを提案していたのだ。一方、「人民連合」本部では、上院議員(ジャン・ルイ・トランティニャン)がデモにくり出そうとする学生や労働者を押さえていた。首都の第二機甲連隊が出動してクーデターの危機が切迫したが、陸軍総司令官のレオ・シュナイダー将軍は、憲法を守ると声明してクーデターは防がれた。一九七一年五月、繊維工場ホール。四月五日の地方選挙で「人民連合」は五〇・八パーセントという得票を得て大勝利したばかり。労働組合指導者ホルヘ・ゴンザレス(モーリス・ガレル)は「人民連合」政権をたたえ、ブスコビッチ経済相(ベルナール・フレッソン)を壇上に招いた。ブスコビッチは「人民連合」政権が子供たちに一日半リットルのミルクを保証したこと、アメリカが四二年間に四二億ドルも収奪した銅山の固有化について話した。一九七四年始め。オリバレスの家を友人のカルベ記者(ローラン・テルズィエフ)が妻モニク(ビビ・アンデショーン)を共ない訪れた。アメリカ、右翼、資本家一体となっての「人民連合」への圧力を語り合っているとき、窓ガラスを破って石が投げ込まれた。石をくるんだ紙には「死=ジャカルタ」とあった。同年三月二三日。ITTとCIAに支援された右翼=ブルジョワの代表者がトラック業者、商店主、医師会の代表に反政府ストをそそのかして実行させた。その資本家ストのためにチリ全土が混乱状態になり、アジェンデは内戦をさけるため、国民投票の実施を決意した。同年九月六日、新たに陸軍総司令官に就任したアウグスト・ピノチェット将軍(アンリ・ポワリエ)は、国民投票予定日の九月十日にクーデターを起こすことを決定した。同十一日午前七時半。アジェンデ大統領はモネダ宮(大統領府)で、クーデターに抵抗することを決意した。オリバンテスは妻マリア(アニー・ジラルド)に別れの電話をかけた。やがてサンチャゴの街路に戦車が走り始めた。軍隊ではクーデター反対の兵士たちが逮捕された。連絡にとびちる学生、バリケードを作る労働者、ラジオは「サンチャゴに雨が降っています」と危機を暗号で告げた。程なく、軍隊がモネダ宮へ攻撃を開始、アジェンデ大統領みずから自動小銃をとると共に、国民に向けて悲壮な最後のラジオ放送を行なった。攻撃部隊は宮殿内に突入し、アジェンデもオリバレスも倒れた。繊維工場でも武装した労働者たちは勇敢に抵抗したが、圧倒的な武力に押しつぶされ、ゴンザレスらは銃殺された。大学でも学生たちの大量逮捕が始まった。「人民連合」の歌を唄ってみんなをはげまそうとしたフォーク歌手(D・ゲラシモフ)は兵士たちに虐殺された。街頭では進歩的な本が焼かれ、アカと密告された人の殺害が続いた。ピノチェット将軍らは軍事評議会の記者会見をし、いったん固有化した銅山をアメリカ資本に返還すると言明した。「人民連合」派のノーベル賞詩人パブロ・ネルーダが死んだ。九月二六日のそのネルーダの葬儀。それは、クーデター後初めてのファシズムに反対するデモとなった。

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🔵フランス映画史

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(小学館百科全書)

フランスは19世紀末に、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」によって世界で最初に映画を発明し、その後もアメリカと並んで映画の発展にもっとも貢献した国である。娯楽性を追求するアメリカ映画に対して、サイレント期・トーキー期を通じて一貫して映画の芸術性を探求してきたフランス映画は世界的にも高く評価されている。産業面では、伝統的に多数の小プロダクションが分立し、それぞれが小規模ながらも独自な製作活動を展開している。また、第二次世界大戦後は国立映画庁(CNC)の設置や映画助成金制度の制定など、国家による保護育成策が推進されてきた。2000年代後半以降の映画製作本数は年間200270本(外国との合作を含む)、複合映画館(シネマ・コンプレックス)を含めて映画館数は約2000館(スクリーン数は約5400面)、外国映画をも含めた年間の観客動員数は約2億人、国民1人当りの年間鑑賞回数は約3回で、これは日本の2.3倍強である。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆映画=リュミエール

赤旗17.11.01

◆映画の誕生とサイレント初期

1895年、リュミエール兄弟は映画撮影機と映写機を兼ねる「シネマトグラフ」を発明し、同年12月にパリのグラン・カフェで有料上映会を行って、ここに世界最初の映画が誕生した。撮影を担当したのは弟のルイで、彼は『工場の出口』『列車の到着』など、日常生活の光景を記録した多数の実写映画を撮った。一方、シネマトグラフに注目した奇術師のジョルジュ・メリエスは、舞台での奇術やトリック撮影の技法を使って、『月世界旅行』(1902)をはじめ多くの空想的劇映画をつくった。これらは見せ物として多大な人気を博し、パテ、ゴーモンなどの映画会社も設立されて、映画はたちまちのうちに大衆娯楽として定着した。

 1908年にはフィルム・ダール社が設立され、たわいない見せ物の域を脱して、映画を芸術に高めようとする努力がなされた。同社は高名な劇作家や舞台俳優を招いて、『ギーズ公の暗殺』(1908)ほかの文芸映画を製作したが、それらの作品は基本的には演劇的理念に従うものであった。1910年代には、ルイ・フイヤードLouis Feuillade18731925)が『ファントマ』(19131914)などの連続活劇を、またマックス・ランデールが自ら主演して多くの喜劇映画を撮り、それらの人気は広く外国にも及んだ。こうして、フランス映画は世界の映画市場を支配した観があったが、第一次世界大戦とともに映画産業は深刻な打撃を受け、以後はアメリカ映画に王座を奪われた。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

1920年代のサイレント映画

1920年代にフランス映画は前衛的な映画運動の隆盛をみた。その端緒となったのはルイ・デリュックLouis Delluc18901924)が提唱した「フォトジェニー」photognie論で、これは現実の光景から映画独自の美を抽出することを説き、彼自らも『狂熱』(1921)、『さすらいの女』(1922)などでその理念を実践した。また、ジャン・エプステインはフォトジェニーの概念をさらに発展させ、「機械の知性」としてのカメラの特性を活用して新たな世界観を開拓することを主張し、『アッシャー家の末裔(まつえい)』(1928)などの特異な作品を発表した。一方、アベル・ガンスやジェルメーヌ・デュラックGermaine Dulac18821942)は映画におけるリズムの重要性に注目し、映画を一種の視覚的音楽として構想した。ガンスの『鉄路の白薔薇(しろばら)』(1923)、『ナポレオン』(1927)はそのもっとも壮大な具現である。こうした試みは、一連の斬新(ざんしん)な表現技法、すなわち、意図的な「ぼかし」や画面の歪曲(わいきょく)、急速モンタージュ、スローモーション等を駆使して、文学や演劇の桎梏(しっこく)を脱した「純粋映画」cinma purを実現し、それによって映画固有の美学を構築しようとするものであった。

 さらにこれと並行して、当時の前衛的芸術運動であったダダイスムやシュルレアリスムに加わった映画人たちは、夢と幻想、人間の根源的な狂気や無意識の情念を、挑発的なスタイルで表現した。ルネ・クレールの『幕間』(1924)、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』(1928)はその代表的作品である。これらの「前衛映画」人は、自らの考えをしばしば書物にも著し、芸術としての映画の可能性を理論と実作の両面において模索した。このほか、革命を逃れてパリに亡命した多数のロシア映画人は、アレクサンドル・カメンカAlexandre Kamenka18881969)のおこしたアルバトロス社に拠()ってユニークな創作活動を展開し、アレクサンドル・ボルコフAlexandre Volkov18781942)の『キイン』(1924)などの話題作を生み出した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

1930年代のトーキー映画

1920年代末にアメリカでトーキー映画が開発されて大成功を収めたが、フランスでも1930年代初めからトーキー映画の製作が開始された。しかし、おりからの世界恐慌によってパテとゴーモンの二大会社は弱体化し、以後は群小のプロダクションが製作を支えることになった。クレールの『巴里(パリ)の屋根の下』(1930)は音に対する独創的な処理を試みつつ、下町の人々の生活を情感豊かなリアリズムによって描き出し、1930年代のフランス映画に一つの方向づけを与えた。その流れをくむものとしては、ジャック・フェデーの『外人部隊』(1934)、『女だけの都』(1935)、ジュリアン・デュビビエの『望郷』『舞踏会の手帖(てちょう)』(ともに1937)、マルセル・カルネの『霧の波止場』(1938)、『日は昇る』(1939)などがあげられる。いずれも巧みな脚本、入念な照明、精巧なセットといった、優れた職人芸に支えられた映画であり、陰影に富んだその独特の雰囲気は世界中の観客を魅了し、長らくフランス映画といえばこの時期の名作をさすほどであった。

 ジャン・ルノアールもまた、同様の雰囲気をもった『牝犬(めすいぬ)』(1931)、『十字路の夜』(1932)などを撮り、人道主義的な大作『大いなる幻影』(1937)も手がけたが、そのスタイルはより開放的であり、『ゲームの規則』(1939)はそうした彼の資質を最大限に発揮した傑作である。ジャン・ビゴは痛烈な社会風刺を込めた『新学期 操行ゼロ』(1933)や、船上生活者の暮らしをみずみずしい感性で描いた『アタラント号』(1934)によって、希有(けう)な才能を示した。このほか、1930年代には演劇人が映画に進出し、マルセル・パニョルの『パン屋の女房』(1938)やサッシャ・ギトリの『とらんぷ譚(ものがたり)』(1936)などの、自作戯曲を映画化した作品は映画と演劇との融合を図る試みとして興味深い。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆戦時下から戦後映画へ 

第二次世界大戦中、ナチスの占領下でフランス映画は低迷したが、ロベール・ブレッソンの『ブローニュの森の貴婦人たち』(1944)や、非占領地区の南フランスで撮られたカルネの『天井桟敷(さじき)の人々』(1944)など、いくつかの優れた作品が生み出された。第二次世界大戦後、1946年に国立映画庁が設置され、翌年には映画助成金制度が制定されて、フランス映画は再建に向けて歩み出した。ルネ・クレマンは『鉄路の闘い』(1946)でドキュメンタリー的手法でレジスタンス運動を描き、ジャン・コクトーは『美女と野獣』(1946)で独特の幻想的世界をつくりだした。また、アンリ・ジョルジュ・クルーゾの『犯罪河岸』(1947)やジャック・ベッケルの『現金(げんなま)に手を出すな』(1954)などは、第二次世界大戦後のフランス映画に「フィルム・ノアール」film noir(暗黒映画)のジャンルを定着させた。そして、クレールやクロード・オータン・ララらの巨匠たちは、『夜の騎士道』(1955)や『青い麦』(1954)といった洗練された商業映画によって高い人気を得た。このほか、ブレッソンは『田舎(いなか)司祭の日記』(1950)や『抵抗』(1956)で孤高の創作活動を続け、また、渡米したマックス・オフュルスやルノアールも帰国して、『快楽』(1952)や『フレンチ・カンカン』(1954)などの円熟した作品を発表した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆ヌーベル・バーグの登場と映画の革新

しかし、第二次世界大戦後に映画の復興が進むとともにその弊害も現れてきた。多くの作品は伝統に縛られて自由な発想を欠き、撮影所の閉鎖的な体質は容易に新しい人材を受け入れなかった。そうした状況のなかで、「良質の映画」の伝統に異議申し立てを行い、映画製作に新鮮な活力をもたらしたのが、1950年代末に始まる「ヌーベル・バーグ」nouvelle vague(新しい波)である。その中心となったのは、アンドレ・バザンの主宰する映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の批評家から実作に転じた若い監督たちで、彼らはアンリ・ラングロアHenri Langlois19141977)の運営するシネマテーク・フランセーズなどでの豊富な映画鑑賞体験に基づき、確固たる映画史観のもとに、既成の映画作法を打ち破る斬新な作品を発表した。

 その端緒となったジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)、フランソワ・トリュフォーの『大人は判(わか)ってくれない』(1959)、クロード・シャブロルの『いとこ同志』(1958)などの登場は、映画界のみならず社会的にも大きな反響をよんだ。同じく『カイエ・デュ・シネマ』誌の批評家出身で、『獅子(しし)座』(1959)のエリック・ロメールEric Rohmer1920 )、『パリはわれらのもの』(1961)のジャック・リベットJacques Rivette19282016)のほか、『死刑台のエレベーター』(1957)のルイ・マル、『二十四時間の情事』(1959)のアラン・レネ、『シェルブールの雨傘』(1963)のジャック・ドゥミなど、多くの才能豊かな監督が輩出した。その後もゴダールの『気狂(きちが)いピエロ』(1965)、トリュフォーの『夜霧の恋人たち』(1968)をはじめ意欲的な作品が次々に生み出され、ヌーベル・バーグは1960年代のフランス映画を決定的にリードした。

 ドキュメンタリー映画の分野では、現実への積極的な介入を通して社会の真実をとらえようとする「シネマ・ベリテ」cinma-vritの運動が起こり、ジャン・ルーシュJean Rouch19172004)の『我は黒人』(1958)、クリス・マルケルChris Marker19212012)の『美しき五月』(1963)などの重要な成果がもたらされた。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆ポスト・ヌーベル・バーグと作家主義

フランス社会を大きく揺るがした1968年の五月革命は映画界にも波及し、ヌーベル・バーグの集団的な運動は後退して、それぞれの監督が独自の道を歩き始めた。その極端な例はゴダールで、彼はいっさいの商業映画を否定し、『イタリアにおける闘争』(1970)などの戦闘的な政治映画に身を投じた。一方、トリュフォーは『恋のエチュード』(1971)などで円熟した手腕をみせ始め、ロメールは『クレールの膝(ひざ)』(1970)をはじめとする「六つの教訓話」シリーズを連作した。

 また、1970年代には、特異な問題意識とスタイルをもった新たな監督が注目を集めた。女流作家のマルグリット・デュラスは『インディア・ソング』(1975)ほかの作品で映像と言語の関係を鋭敏な感性で追求し、同じく作家のアラン・ロブ・グリエは『快楽の漸進的横滑り』(1973)などで映画における物語構造の解体を企てた。ジャン・ユスターシュJean Eustache19381981)の『ママと娼婦(しょうふ)』(1972)やアンドレ・テシネAndr Tchin1943 )の『フランスの思い出』(1975)は、フランス社会の根源的な矛盾を鋭くえぐり出した。このほか、『一緒に老()けるわけじゃなし』(1972)のモーリス・ピアラMaurice Pialat19252003)、『サン・ポールの時計屋』(1973)のベルトラン・タベルニエ、『頭の中の指』(1974)のジャック・ドアイヨンJacques Doillon1944 )、『一番うまい歩き方』(1976)のクロード・ミレールClaude Miller19422012)など、それぞれに個性的な監督が活動を開始した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆多様性の時代

1980年代のフランス映画は、そうした多様性を継承しつつ、安定した発展をみせた。すなわち、『秘密の子供』(1982)のフィリップ・ガレルPhilippe Garrel1948 )や『30歳で死す』(1982)のロマン・グーピルRomain Goupil1951 )がきわめて私的な映画づくりを展開する一方で、ピアラ、タベルニエ、ドアイヨン、ミレールらは中堅監督として認められ、さらに『勝手に逃げろ/人生』(1980)で商業映画に復帰したゴダール、『終電車』(1980)で国民的支持を得たトリュフォー、新たに「喜劇と諺(ことわざ)」シリーズに着手したロメールなど、ヌーベル・バーグ世代はいまや巨匠とみなされるに至った。

 その一方で、1980年代には新しい世代が登場した。『ディーバ』(1981)のジャン・ジャック・ベネックスJean-Jacques Beineix1946 )、『薔薇(ばら)の名前』(1986)のジャン・ジャック・アノーJean-Jacques Annaud1943 )、続いて『ニキータ』(1990)のリュック・ベッソンLuc Besson1959 )、『ポンヌフの恋人』(1991)のレオス・カラックスLos Carax1960 )、『デリカテッセン』(1991)のジャン・ピエール・ジュネJean-Pierre Jeunet1953 )とマルク・キャロMarc Caro1956 )など、一部で新しいエンターテインメントを志向しながら、それぞれが個性的で多様な世界を表現し始めた。

 こうした若い世代の活躍には目を見張るものがあり、製作本数が減少した1990年代前半においても年間2030本以上の長編デビュー作が製作された。そして、1990年代には、ジャン・ポール・ラプノーJean-Paul Rappeneau1932 )の『シラノ・ド・ベルジュラック』(1990)やレジス・バルニエRgis Wargnier1948 )の『インドシナ』(1992)などのように、歴史劇やメロドラマを中心に「良質の映画」の伝統を受け継いだ中堅監督たちが活躍をみせ、さらに『そして僕は恋をする』(1995)のアルノー・デプレシャンArnaud Desplechin1960 )や『家族の気分』(1996)のセドリック・クラピッシュCdric Klapisch1961 )をはじめ、マチュー・カソビッツMathieu Kassovitz1967 )、エリック・ゾンカErick Zonca1956 )、セドリック・カーンCdric Kahn1966 )、フランソワ・オゾンFranois Ozon1967 )、ブリュノ・デュモンBruno Dumont1958 )といった若い才能が次々と出現した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆現状

2000年代に入ったフランス映画は、全世帯の約80パーセントがビデオデッキを備え、800万世帯以上がケーブル・テレビに加入するほど、新たな映像時代を迎えている。そんな状況の中、ゴダールやシャブロルたち巨匠をはじめ、ベッソンやデプレシャンたち中堅が活躍する一方で、『私はどのように父を殺したか』(2000)のアンヌ・フォンテーヌAnne Fontaine1959 )、『ヒューマンネイチュア』(2001)のミシェル・ゴンドリーMichel Gondry1963 )をはじめ、クリストフ・バラティエChristophe Barratier1963 )、ロバン・カンピオRobin Campillo1962 )、ステファヌ・ブリゼStphane Briz1966 )といった若い世代が登場し、新鮮な感性によってフランス映画の幅を広げている。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

 21世紀初頭の最大の特徴は、女性監督の台頭だろう。ベテランのクレール・ドニClaire Denis1948 )は『ガーゴイル』(2001)、『ホワイト・マテリアル』(2009)など異文化と女性の問題を扱う作品を発表し続け、カトリーヌ・ブレイヤCatherine Breillat1948 )は『ロマンスX』(1999)などでフェミニズムの追及を続けている。パスカル・フェランPascale Ferran1960 )は、『レディ・チャタレイ』(2006)で新しいチャタレイ像を示した。さらに若い世代では、バレリー・ドンゼッリValerie Donzelli1973 )は、『わたしたちの宣戦布告』(2011)で障害のある子どもを育てる若い夫婦を鮮烈に描き、ミア・ハンセン・ラブMia Hansen-Love1981 )は、『あの夏の子供たち』(2009)で夫の死後生きてゆく若い母の強い生き方をみせた。

 男性監督では、フランソワ・オゾンやベルギー出身のダルデンヌ兄弟Jean-Pierre Dardenne1951 )、Luc Dardenne1954 )が評価の高い作品を作り続けている。グザビエ・ボーボワXavier Beauvois1967 )は『神々と男たち』(2010)がようやくヒットし、クリストフ・オノレChristophe Honor1971 )は『美しいひと』(2008)など着実につくり続けている。最近では、『アーティスト』(2011)でアカデミー作品賞など7部門を制したミシェル・アザナビシウスMichel Hazanavicius1967 )や『最強のふたり』(2011)が世界中でヒットしたエリック・トレダノEric Toledano1970 )とオリビエ・ナカーシュOlivier Nakache1973 )のコンビのように、海外でもヒットする娯楽作品を手がける監督も増えている。[古賀 太]

◆俳優

優れた映画製作国の例に漏れず、フランスもまた多くの優秀な映画俳優を生み出した。第二次世界大戦前では、男優のアルベール・プレジャンAlbert Prjean18941979)、ジャン・ギャバン、モーリス・シュバリエ、シャルル・ボアイエ、女優のフランソワーズ・ロゼーらのスターが一世を風靡(ふうび)し、またミシェル・シモンMichel Simon18951975)やルイ・ジューベなどの特異な個性をもった俳優が活躍した。第二次世界大戦後では、男優のジェラール・フィリップやジャン・マレー、ジャン・ルイ・バロー、女優のダニエル・ダリュー、シモーヌ・シニョレSimone Signoret19211985)、ミシュリーヌ・プレールMicheline Presle1922 )らが充実した仕事ぶりをみせた。1950年代後半にはアラン・ドロンとブリジット・バルドーの二大スターが出現し、またヌーベル・バーグはジャン・ポール・ベルモンド、ジャン・クロード・ブリアリJean-Claude Brialy19332007)、ジャンヌ・モロー、アンナ・カリーナAnna Karina1940 )、カトリーヌ・ドヌーブらを世に送り出した。1980年代から1990年代にかけては、ジェラール・ドパルデューGrard Depardieu1948 )、ダニエル・オートゥイユDaniel Auteuil1950 )、イザベル・アジャーニIsabelle Adjani1955 )、サンドリーヌ・ボネールSandrine Bonnaire1967 )、ジュリエット・ビノシュJuliette Binoche1964 )らが活躍した。その後、2000年代にかけては、ジャン・マルク・バールJean-Marc Barr1960 )、ブノワ・マジメルBenot Magimel1974 )、バレリア・ブルーニ・テデスキValeria Bruni-Tedeschi1964 )、シャルロット・ゲンズブールCharlotte Gainsbourg1971 )らの個性豊かな演技が目だっている。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

 女優のベテランでは、カトリーヌ・ドヌーブが『幸せの雨傘』(2010)など活躍を続けているが、2010年代、外国でも有名な女優は、マリオン・コティヤールMarion Cotillard1975 )である。『エディット・ピアフ 愛の賛歌』(2007)がアカデミー賞主演女優賞を得て以来、『インセプション』(2010)などハリウッドへの出演が続く。子役時代から活躍してきたビルジニー・ルドワイヤンVirginie Ledoyen1976 )もダニー・ボイルDanny Boyle1956 )監督の『ザ・ビーチ』(2000)ほか外国でも活躍。彼女とともにフランソワ・オゾン監督『8人の女たち』(2002)に出演したリュディビーヌ・サニエLudivine Sagnier1979 )は、同監督の『ジャック・メスリーヌ』(2008)の評価が高い。そのほかレア・セドゥーLa Seydoux1985 )は『マリー・アントワネットに別れをつげて』(2012)で主演し、若手の注目株である。

 男優では、マチュー・アマルリックMathieu Amalric1965 )が『潜水服は蝶(ちょう)の夢を見る』(2007)などアート系の映画で活躍し、『さすらいの女神たち』(2010)で監督・主演を務めた。メルビル・プポーMelvil Poupaud1973 )も、『ぼくを葬る』(2005)などアート系で活躍。メジャーでは、喜劇俳優のダニー・ブーンDany Boon1966 )が監督・出演した『シュティスへようこそ』(2008)が、フランス映画最大の2000万人を超すヒット。この映画に主演したアルジェリア系のカド・メラドKad Merad1964 )も人気抜群である。[古賀 太]

◆参考文献

『飯島正著『フランス映画史』(1950・白水社) ▽岡田晋・田山力哉著『世界の映画作家29 フランス映画史』(1975・キネマ旬報社) ▽M・マルタン著、村山匡一郎訳『フランス映画 1943――現代』(1987・合同出版) ▽J・ドゥーシェ他著、梅本洋一訳『パリ、シネマ――リュミエールからヌーヴェルヴァーグにいたる映画と都市のイストワール』(1989・フィルムアート社) ▽村山匡一郎著『映画100年 STORYまるかじり――フランス篇』(1994・朝日新聞社) ▽ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定・村山匡一郎・出口丈人・小松弘訳『世界映画全史5 無声映画芸術への道――フランス映画の行方1 19091914』(1995・国書刊行会) ▽清水馨著『しねま・ふらんせ100年物語』(1995・時事通信社) ▽中川洋吉著『カルチエ・ラタンの夢 フランス映画七十年代』(1998・ワイズ出版) ▽細川晋監修、遠山純生編『ヌーヴェル・ヴァーグの時代 19581963』(1999・エスクァイアマガジンジャパン) ▽山田宏一著『山田宏一のフランス映画誌』(1999・ワイズ出版) ▽中川洋吉著『生き残るフランス映画――映画振興と助成制度』(2003・希林館、星雲社発売) ▽山崎剛太郎著『一秒四文字の決断――セリフから覗くフランス映画』(2003・春秋社) ▽中条省平著『フランス映画史の誘惑』(集英社新書)』

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◆◆リュミエール(兄弟)

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りゅみえーる

(小学館百科全書)

兄オーギュストAuguste Lumire18621954)、弟ルイLouis Lumire18641948) フランスの映画発明家、製作者。オーギュストは1019日、ルイは105日ともにブザンソン生まれ。父は写真家で、一家はリヨンで写真乾板工場を経営していたが、エジソンののぞきからくり式の「キネトスコープ」をもとに、現在の映画と同じ原理でフィルムをスクリーン上に映写する装置を発明、18952月に撮影機兼映写機「シネマトグラフ」の特許をとった。これは大ぜいの観客が同時に映像を見られる点で画期的であり、951228日からパリで行われた初の有料一般公開は大成功を収め、翌年からは兄弟が外国に派遣した多数のカメラマンが宣伝と撮影を行うなど世界的発展を遂げて、今日の映画の基礎が築かれた。作品は『工場の出口』『赤ん坊の食事』『列車の到着』など、日常生活や街頭風景を実写した短い記録映画がほとんどである。

 映画に関する業績で中心的な役割を担ったルイは、実写映画が大衆に飽きられて製作を打ち切った1903年以後も、カラー写真や立体写真の研究で数々の新方式を開発、19年科学アカデミー会員に選ばれ、4866日南仏バンドルで没した。オーギュストは54410日リヨンで没。[武田 潔]

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◆◆詩的リアリズム

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してきりありずむ

ralism potique

(小学館百科全書)

1930年代後半のフランス映画のスタイルをさす用語。第二次世界大戦前夜の不安定な世相と時代の鬱屈(うっくつ)した気分を反映した、繊細で叙情的な描写、厭世(えんせい)的だがロマンティックな物語、スタジオでのセット撮影などを特徴とする。国際的に高く評価され、興行的成功を収めた。ジャック・フェデーの『外人部隊』(1934)、ジュリアン・デュビビエの『望郷』(1937)、マルセル・カルネの『霧の波止場』(1938)などが代表的な作品で、『大いなる幻影』(1937)や、『ゲームの規則』(1939)といったジャン・ルノアールの作品を含めることもある。時代は下るが、カルネの『天井桟敷(さじき)の人々』(1945)が詩的リアリズムの集大成であり最後の作品とされている。詩的リアリズムを牽引(けんいん)した脚本家としては、フェデーやデュビビエと組んだシャルル・スパークCharles Spaak19031975)と、カルネとのコンビで知られる詩人ジャック・プレベールが有名で、俳優ではジャン・ギャバンが代表的である。[伊津野知多]

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◆◆ルネ・クレール監督

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くれーる

Ren Clair

18981981

フランスの映画監督。本名Ren Chomette1111日パリに生まれる。初めはジャーナリストとして詩、戯曲、歌詞、映画論などを書いた。俳優として映画入りしたが、前衛(純粋)映画の短編『眠るパリ』(1923)や『幕間』(1924)をつくって監督に転じた。彼のサイレント映画時代を代表する傑作は、ボードビル喜劇の映画化『イタリア麦の帽子』(1927)である。馬に食われた花嫁の帽子と同じ物を探してパリ中を駆け巡る話で、愉快な風刺と機知に富んだリズミカルな映画処理が秀抜であった。トーキー時代の第一作『巴里(パリ)の屋根の下』(1930)はクレールの名を世界的に広めた名作である。音声の氾濫(はんらん)を極力抑え、音声と映像の非同時的な巧みな編集効果により、アルベール・プレジャンの歌うシャンソンの楽しさを全編にみなぎらせた点に成功の原因があった。『ル・ミリオン』(1931)はボードビル映画の傑作、『自由を我等(われら)に』(1931)は現代批判の愉快な風刺喜劇だった。『巴里祭』(1932)は彼のパリ物の代表作品である。その後不振の時期がくる。イギリス、アメリカに渡り、第二次世界大戦後帰国して『沈黙は金』(1947)で華々しく復活、数本の名作を発表したが、『夜ごとの美女』(1952)のボードビル的集大成に彼の真価は発揮された。1960年映画人最初のアカデミー会員に選ばれ、1981314日パリで没した。[飯島 正]

◆資料 監督作品一覧

眠るパリ Paris qui dort1923

幕間 Entr’acte1924

イタリア麦の帽子 Un chapeau de paille d’Italie1927

巴里の屋根の下 Sous les toits de Paris1930

ル・ミリオン Le million1931

自由を我等に  nous la libert1931

巴里祭 Quatorze Juillet1932

最後の億萬長者 Le dernier milliardaire1934

幽霊西へ行く The Ghost Goes West1935

焔の女 The Flame of New Orleans1941

奥様は魔女 I Married a Witch1942

提督の館 Forever and a Day1943

ルネ・クレールの明日を知った男 It Happened Tomorrow1944

そして誰もいなくなった And Then There Were None1945

沈黙は金 Le silence est d’or1947

悪魔の美しさ La beaut du diable1949

夜ごとの美女 Les belles de nuit1952

夜の騎士道 Les grandes manoeuvres1955

リラの門 Porte des Lilas1957

フランス女性と恋愛 La franaise et l’amour1960

【巴里の屋根の下】

ぱりのやねのした

Sous les toits de Paris

フランス・ドイツ合作映画。1930年作品。ドイツ系のフィルム・ソノール・トービス社と契約を結んだルネ・クレール監督のトーキー第1回作品で、フランスの初期トーキーの代表作となった。物語は街角の歌手が誤って刑務所に入れられてしまい、出所すると恋人は友人に奪われていたというもので、アルベール・プレジャンAlbert Prjean18941979)が主演し、パリの下町の庶民生活を愛情込めて描いた。ルネ・クレールは実際の物音や台詞(せりふ)を録音するよりも、登場人物たちの大きな身振りを歌声や音楽で見せることに重点を置き、サイレント的な美学を貫いた。パリではあまりあたらなかったが、ベルリン、ニューヨーク、東京(1931年公開で、キネマ旬報ベストテン第2位)など世界各地でヒットした。実際はロシア出身の美術監督ラザール・メールソンLazare Meerson18971938)による精巧なパリのセットが使われたが、外国ではこの映画は長い間にわたってパリのイメージをつくりあげた。[古賀 太]

【巴里祭】

ぱりさい

Quatorze Juillet

フランス映画。1932年ルネ・クレール監督作品。翌年日本公開。原題は「714日」。パリ情緒豊かな下町を舞台に、革命記念日の祭り気分に沸き立つ街の情景を描く。美しい花売り娘アンナ(アナベラ)と若いタクシー運転手ジャン(ジョルジュ・リゴー)の恋を中心に、陽気な商人や気むずかしい老人やわんぱくな悪童たちなどが背景を彩る。ちょっとした誤解から仲たがいする2人の恋物語も軽いが、周囲の人物も添景的で、全体にスケッチ映画といった趣(おもむき)は、同じクレールのトーキー第一作『巴里の屋根の下』と似通っている。祭りの前夜から当夜にかけてのパリの街は、提灯(ちょうちん)や万国旗に飾られて、ときにはにわか雨まで加わって情緒を盛り上げる。[登川直樹]

【自由を我等に】

じゆうをわれらに

A nous la libert

フランス映画。1931年、ルネ・クレール製作・監督・脚本作品。刑務所を脱走したルイとエミールのその後の人生を描く喜劇。エミールが経営することになるオートメーション化された蓄音機会社は、人間を搾取する資本主義の象徴として描かれ、それから自由になって生き続ける2人の姿は、1929年の世界恐慌以降のヨーロッパの知識層に支持された。ジョルジュ・オーリックの軽妙な音楽とラザール・メールソンLazare Meerson18971938)の簡潔な美術も好評。フランスではあたらなかったが、日本では1932年(昭和7)に公開されてヒットし、その年のキネマ旬報ベストテンの第1位となった。チャップリンが『モダンタイムス』(1936)を発表したとき、ベルトコンベヤーのシーンなどがこの映画を想起させたため、製作会社のトービスはチャップリンを訴えたが、監督のルネ・クレールは「尊敬するチャップリンに真似してもらえたのなら光栄です」というコメントを出した。[古賀 太]

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◆◆ルノアール(Jean Renoir)監督

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るのあーる

Jean Renoir

18941979

フランスの映画監督。1894915日パリに生まれる。父は印象派の画家オーギュスト・ルノアールである。第一次世界大戦後、前衛芸術家たちと交わり、非商業的な前衛映画をつくったが、彼の本質はリアリズムにあり、早くもゾラ原作の『女優ナナ』(1926)で彼らと決別した。サイレント映画より現実的なトーキーの時代となって、いっそう彼の本領は発揮された。いくつかの佳作ののち、モーパッサン原作の『ピクニック』(1936)で生粋(きっすい)のフランス的リアリズムを完成させ、ゴーリキー原作の『どん底』(1936)ですら、フランス的にみごとに消化した。1930年代後半はフランス映画の黄金期として知られるが、ルノアールはこの時代に画期的な傑作『大いなる幻影』(1937)を発表し、第二次世界大戦中のドイツの捕虜収容所を舞台に、国境を越えた人間愛の精神を高揚した。この映画は知性に裏づけられた詩的リアリズムの成果であった。続く『獣人』(1938)はゾラの映画化で鉄道の脅威を描き、1939年の『ゲームの規則』はブルジョア生活の空虚を鋭く批判した傑作であった。大戦中はアメリカに亡命して数編の映画をつくった。その後インドに渡って『河』(1951)をつくったが、これまた悠々たる大河のような壮大な傑作だった。その後は昔日のおもかげはないが、ヌーベル・バーグの青年たちは彼を師と仰ぎ、彼の功績はいまや不朽なものと一般に認められている。1979212日ロサンゼルスで没した。[飯島 正]

◆資料 監督作品一覧

カトリーヌ Catherine1924

水の娘 La Fille de l’eau1924

女優ナナ Nana1926

チャールストン Sur un air de Charleston1927

マッチ売りの少女 La petite marchande d’allumettes1928

のらくら兵 Tire au flanc1928

坊やに下剤を On purge bb1931

牝犬 La chienne1931

素晴らしき放浪者 Boudu sauv des eaux1932

ボヴァリィ夫人 Madame Bovary1933

トニ Toni1935

ピクニック Partie de campagne1936

どん底 Les bas-fonds1936

大いなる幻影 La grande illusion1937

ラ・マルセイエーズ La Marseillaise1938

獣人 La bte humaine1938

ゲームの規則 La rgle du jeu1939

スワンプ・ウォーター Swamp Water1941

自由への闘い This Land Is Mine1943

南部の人 The Southerner1945

小間使の日記 The Diary of a Chambermaid1946

浜辺の女 The Woman on the Beach1947

河 The River1951

黄金の馬車 Le carrosse d’or1953

フレンチ・カンカン French Cancan1954

恋多き女 Elena et les hommes1956

コルドリエ博士の遺言 Le testament du Docteur Cordelier1959

草の上の昼食 Le djeuner sur l’herbe1959

捕えられた伍長 Le caporal pingl1961

『西本晃二訳『ジャン・ルノワール自伝』(1977・みすず書房) ▽アンドレ・バザン著、奥村昭夫訳『ジャン・ルノワール』(1980・フィルムアート社)』

【大いなる幻影】

おおいなるげんえい

La Grande Illusion

フランス映画。1937年作品。監督ジャン・ルノアール。第一次世界大戦中の実話をもとに脚本家シャルル・スパークの協力を得て、人間の友愛と平等を訴えた作品。フランス軍の大尉(ピエール・フレネー)と中尉(ジャン・ギャバン)が偵察飛行中に撃墜され、ドイツ軍の捕虜となる。捕虜収容所の所長(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)は自分と同じ貴族階級出身の大尉に親近感を抱くが、機械工上がりの中尉は捕虜仲間のユダヤ人銀行家の息子と脱走を企て、大尉の犠牲によりついにそれに成功する。ルノアールは正確でリアルな描写を通じて(フランス語、ドイツ語、英語の併用もその一つ)、国籍、言語、階級、人種などの違いを超えた大きなヒューマニズムを説いた。フランス、アメリカでは公開当時から大成功を収めたが、ファシズム下のドイツ、イタリアでは上映が禁止され、日本でも第二次世界大戦前は公開されなかった。1949年(昭和24)日本公開。[武田 潔]

【ゲームの規則】

げーむのきそく

La Rgle du Jeu

フランス映画。1939年作品。監督ジャン・ルノアール。ブルジョワの館を舞台に、貴族、飛行士、密猟者、使用人たちが入り乱れて色恋沙汰(いろこいざた)を繰り広げるドタバタ劇。ルノアールは「陽気な悲劇」を目ざしたというが、第二次世界大戦前夜という時代状況のなか、退廃的で風紀を乱すとして不評を買い、公開直後に上映禁止に。失意のルノアールはアメリカに渡った。しかし、複数の登場人物個々のリアルな存在感を生かす即興的演出、奥行きのある縦の構図を生かした画面の中を縦横無尽に動き回るカメラ、長回し撮影など、古典的な映画の常識を超えた新しさは、アンドレ・バザンやヌーベル・バーグの世代に高く評価された。1959年のベネチア国際映画祭で復元版が上映されたのを機に再評価が進み、現在では映画史上もっとも有名な作品の一つとなっている。[伊津野知多]

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◆◆ルネ・クレマン監督

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くれまん

Ren Clment

19131996

フランスの映画監督。ボルドー生まれ。パリで建築を学んだのち、1931年ごろから個人的に映画をつくり始め、陸軍映画班に入ってドキュメンタリー映画に携わった。1937年から1943年までに7本の短編を監督したのち、フランスの鉄道員たちのレジスタンスを描いた『鉄路の闘い』(1945)で注目された。続いてドイツの潜水艦を舞台にした『海の牙(きば)』(1946)、戦争孤児を叙情的に描いた『禁じられた遊び』(1952)など反戦と深くかかわる作品を発表した。ゾラの小説の映画化『居酒屋』(1955)で文学性の高い作品に転じたが、さらにその世界からも離れ、『太陽がいっぱい』(1960)以後は娯楽的傾向を強めた。[出口丈人]

◆資料 監督作品一覧

左側に気をつけろ Soigne ton gauche1936

鉄路の闘い La battailledu rail1945

海の牙 Les maudits1946

鉄格子の彼方 Au dera des grilles1949

ガラスの城 Le chteau de verre1950

禁じられた遊び Jeux interdits1952

しのび逢い Monsieur Ripois1954

居酒屋 Gervaise1955

海の壁 Barrage contre le pacifique1958

生きる歓び Quelle joie de vivre1960

太陽がいっぱい Plein soleil1960

危険がいっぱい Les flins1964

パリは燃えているか Paris brle-t-il?1966

雨の訪問者 Le passager de la pluie1970

パリは霧にぬれて La maison sous les arbres1971

狼は天使の匂い La course du livre travers les champs1972

危険なめぐり逢い La baby sitter1975

【禁じられた遊び】

Jeux interdits

フランス映画。1952年作品。監督ルネ・クレマン。1940年、戦火から避難するなか、両親をドイツ機の機銃掃射で失った幼女ポレット(ブリジット・フォッセーBrigitte Fossey1947 )は、愛犬の死体を抱いて彷徨(さまよ)ううち、少年ミシェルと出会い、彼の家にいつく。ミシェルはポレットに、死者を葬ることを教え、廃れた水車小屋に愛犬を埋葬した。しかし、これをかわいそうに感じたポレットは、周りにお墓をたくさんつくってやりたいと言い出し、ミシェルはその願いにこたえて、さまざまな動物の死体を探しては墓をつくっていった。遊びは十字架を盗むまでエスカレートしていく。第二次世界大戦で人々の受けた傷を、いたいけな子供の遊びに託して描き、ナルシソ・イエペスによるギターのテーマ音楽とともに、世界的な評判をよんだ作品。第25回アカデミー名誉賞(後の外国映画賞)、第13回ベネチア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞など受賞。[出口丈人]

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◆◆その他の映画作品の解説

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【美女と野獣】

フランス映画。1946年作品。監督ジャン・コクトー。フランスの童話作家ボーモン夫人の童話を、詩、小説、絵画、演劇、映画などさまざまな芸術分野で活躍する才人コクトーが自らの脚色で映画化した代表作。野獣の館の、人の腕になっている燭台(しょくだい)や柱の動く彫像など、コクトーの出自を物語るシュルレアリスム的なオブジェをはじめとして、衣装や装置は独特の美意識に貫かれており、奇妙で幻想的な大人向けのおとぎ話の世界をつくりあげている。主演はジャン・マレー。音楽は『詩人の血』(1930)からコクトーの主要作品を担当しているジョルジュ・オーリック。撮影はルネ・クレマンの『鉄路の闘い』(1945)でも高い評価を受けたアンリ・アルカンHenri Alekan19092001)。ルネ・クレマンが技術顧問として参加している。フランスの映画賞ルイ・デリュック賞受賞。[伊津野知多]

『鈴木豊訳『美女と野獣』(角川文庫)』

【天井桟敷の人々】

てんじょうさじきのひとびと

Les Enfants du Paradis

フランス映画。1945年作品。日本公開は52年(昭和27)。マルセル・カルネ監督の代表作。舞台俳優ジャン・ルイ・バローの発案で19世紀のパントマイム役者バチスト・ドビュローの映画を計画、これを中心に、殺人狂の文学者ラスネル、舞台の名優フレデリック・ルメートルなど当時の実在人物を登場させ、さらに見世物女芸人ガランスやモンレー伯爵、バチストの妻となるナタリーなど架空の人物を絡ませている。脚本はジャック・プレベールで、19世紀パリの盛り場を舞台に性格の鮮やかな人物を登場させ、第一部「犯罪大通り」、第二部「白い男」の2部よりなる3時間15分の壮大な群像ドラマ。撮影は第二次世界大戦中に南フランスで開始され、ナチスの干渉、撮影所の変更、俳優の交代など多くの困難を克服し、戦後ようやく完成、当時空前の大作として大きな反響をよんだ。バローのパントマイムも名演技だが、ピエール・ブラッスール、アルレッティ、マリア・カザレスら多彩な演技陣がこの大作を飾った。[登川直樹]

J・プレヴェール著、山田宏一訳『天井桟敷の人々』(1981・新書館)』

【死刑台のエレベーター】

しけいだいのえれべーたー

Ascenseur pour l’chafaud

フランス映画。1957年作品。監督ルイ・マル。社長夫人(ジャンヌ・モロー)とその恋人(モーリス・ロネMaurice Ronet19271983)が共謀して社長殺しを企てるも、予期せぬできごとがおこって完全犯罪が破綻(はたん)していくさまをサスペンスフルに描く。25歳のルイ・マルの単独長編監督デビュー作にして、フランスの映画賞ルイ・デリュック賞を受賞、新しい映画の到来を告げる一作となった。撮影はヌーベル・バーグのカメラマンとして活躍することになるアンリ・ドゥカエHenri Deca19151987)が担当し、夜のロケーション撮影など、ざらついた質感のある画面作りで注目された。また、モダン・ジャズ・トランペッターのマイルス・デービスがラッシュ・フィルムを見ながら即興演奏したものを、音楽に使うという斬新な試みも話題になった。[伊津野知多]

【シェルブールの雨傘】

しぇるぶーるのあまがさ

Les Parapluies de Cherbourg

フランスとドイツの合作映画。1964年作品。監督ジャック・ドゥミ。すべての台詞(せりふ)が歌になっている異色のフランス製ミュージカル映画。ハリウッドのミュージカル映画とは異なる独特の試みで、カンヌ国際映画祭のグランプリを受賞したほか、世界的に高い評価を受けたジャック・ドゥミの代表作。興行的にも大成功を収めた。シェルブールの町を舞台に、カトリーヌ・ドヌーブ演じる若い娘と貧しい自動車修理工の青年の恋と別離を描く。ドゥミの長編第1作『ローラ』(1960)からコンビを組んでいた作曲家のミシェル・ルグランが担当した楽曲の、ポピュラーで耳に残るメロディが秀逸。ドゥミ監督、ルグラン音楽、ドヌーブ主演の組み合わせによる作品は、ほかにも『ロシュフォールの恋人たち』(1966)、『ロバと王女』(1970)、『モン・パリ』(1973)の3作がある。色とりどりの原色を大胆に用いた衣装と美術が鮮やかで、おとぎ話のような効果を高めている。[伊津野知多]

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◆◆ジャン・ギャバン(俳優)

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ぎゃばん

Jean Gabin

19041976

フランスの映画俳優。パリ郊外メリエルに生まれる。種々の職業を経て、シャンソン歌手としてミュージック・ホールやオペレッタに出演し、トーキー到来とともに映画界に入った。ジョセフィン・ベーカーの相手役などを経て、1930年代にはデュビビエ監督の『地の果てを行く』『我等(われら)の仲間』『望郷』、ジャン・ルノアール監督の『どん底』『大いなる幻影』などの名作に出演し、フランスを代表するスターとなった。1950年以降は『現金(げんなま)に手を出すな』(1953)、『ヘッドライト』(1955)、『可愛(かわい)い悪魔』(1958)、『地下室のメロディー』(1962)、『シシリアン』(1969)、『暗黒街のふたり』(1973)などの諸作に年輪の重みを感じさせる円熟した演技を示した。1954年にレジオン・ドヌール勲章を授与された。[畑 暉男]

【現金に手を出すな】

げんなまにてをだすな

Touchez pas au grisbi

フランス・イタリア合作映画。1954年作品。暗黒ものを得意とした小説家アルベール・シモナンAlbert Simonin19051980)が前年に書いた同名小説を、シモナンも脚本に加わり、ジャック・ベッケルが監督した。物語は、初老のギャング、マックスとリトンが最後の大仕事としてオルリー空港で金塊強奪に成功するが、リトンの口の軽さから思わぬ方向に展開するというもの。第二次世界大戦後のフランスのフィルム・ノワール(犯罪映画)の先駆けともいえる作品で、マックス役のジャン・ギャバンは、新しい世の中にとまどう初老の男の孤独を演じ、戦後の最初の代表作となった。また、リノ・バンチュラLino Ventura19191987)が脇役で(クレジットはリノ・ボリニ)出演しており、その後フランスのギャング映画に欠かせない存在となった。日本公開は1955年(昭和30)。[古賀 太]

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◆◆ヌーベル・バーグ

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ぬーべるばーぐ

nouvelle vague

(小学館百科全書)

1958年ごろから輩出した新しいフランス映画をさす総称で、フランス語で「新しい波」を意味する。初め週刊誌『レクスプレス』が一般的に使ったが、クロード・シャブロルの『いとこ同志』(1958)、フランソワ・トリュフォーの『大人は判(わか)ってくれない』(1959)、ジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)などが登場すると、映画製作の経験がほとんどない20代の青年たちがつくる斬新(ざんしん)な映画とそのグループをさす呼称になった。中心になったのは映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』で批評の筆をとっていた人々(前記3人を含む)であるが、とくにゴダールの『勝手にしやがれ』はアメリカのギャング映画を下敷きにしながら、映画文法の無視、演劇的演技や心理描写の拒否、といった一見アマチュアリズムの居直りとも思える映画スタイルによって観客を驚かした。ヌーベル・バーグ誕生に大きな影響を与えた先達としては、映画監督のアレクサンドル・アストリュックAlexandre Astruc1923 )、『カイエ・デュ・シネマ』の理論家アンドレ・バザンがいる。トリュフォーらはバザンの批評をさらに進め、ハリウッド映画を高く評価して批評軸の転換をもたらした。『カイエ・デュ・シネマ』派にはほかにジャック・ドニオル・バルクローズJacques Doniol-Valcroze19201989)、エリック・ロメール、ジャック・リベットJacques Rivette19282016)らがおり、同派以外にはルイ・マル、アラン・レネ、ロジェ・バディム、アニエス・バルダらがいて、文学的・演劇的フランス映画の伝統に新風を吹き込んだ。[岩本憲児]

『佐藤忠男著『ヌーベルバーグ以後――自由をめざす映画』(1971・中央公論社) ▽飯島正著『ヌーヴェル・ヴァーグの映画体系』全3巻(19801984・冬樹社) ▽遠山純生編『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』(2010・紀伊國屋書店)』

【勝手にしやがれ】

かってにしやがれ

Au Bout de Souffle

フランス映画。1959年作品。ジャン=リュック・ゴダールの長編デビュー作であり、同年製作のクロード・シャブロル監督『いとこ同志』、フランソワ・トリュフォー監督『大人は判(わか)ってくれない』に続き、ヌーベル・バーグの名を世間に定着させ、さらに現在ではその象徴となった記念碑的作品。原題の意味は「息切れ」。車を盗み、行きがかりで警官を殺して逃避行を続けながらも、ミシェル(ジャン・ポール・ベルモンド)は女友達のパトリシア(ジーン・セバーグJean Seberg19381979)にまとわりつき、おしゃべりに時を忘れる。しかしコミュニケーションは成立していない。編集を終えていたシーンの何か所かをあとから細かく除去したために生じたジャンプカット、ドラマのなかに他の映画の引用をあえて持ち込む姿勢など、一見プロとは思えない表現をあちらこちらに印象深く散りばめながら、刻々変化していく人間の意識のありさま、偶然と不条理の支配する実存的現実の肌触りを見事に描いた。[出口丈人]

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🔴🔴No.2

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◆◆フランス映画史

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(小学館百科全書)

フランスは19世紀末に、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」によって世界で最初に映画を発明し、その後もアメリカと並んで映画の発展にもっとも貢献した国である。娯楽性を追求するアメリカ映画に対して、サイレント期・トーキー期を通じて一貫して映画の芸術性を探求してきたフランス映画は世界的にも高く評価されている。産業面では、伝統的に多数の小プロダクションが分立し、それぞれが小規模ながらも独自な製作活動を展開している。また、第二次世界大戦後は国立映画庁(CNC)の設置や映画助成金制度の制定など、国家による保護育成策が推進されてきた。2000年代後半以降の映画製作本数は年間200270本(外国との合作を含む)、複合映画館(シネマ・コンプレックス)を含めて映画館数は約2000館(スクリーン数は約5400面)、外国映画をも含めた年間の観客動員数は約2億人、国民1人当りの年間鑑賞回数は約3回で、これは日本の2.3倍強である。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆映画=リュミエール

赤旗17.11.01

◆映画の誕生とサイレント初期

1895年、リュミエール兄弟は映画撮影機と映写機を兼ねる「シネマトグラフ」を発明し、同年12月にパリのグラン・カフェで有料上映会を行って、ここに世界最初の映画が誕生した。撮影を担当したのは弟のルイで、彼は『工場の出口』『列車の到着』など、日常生活の光景を記録した多数の実写映画を撮った。一方、シネマトグラフに注目した奇術師のジョルジュ・メリエスは、舞台での奇術やトリック撮影の技法を使って、『月世界旅行』(1902)をはじめ多くの空想的劇映画をつくった。これらは見せ物として多大な人気を博し、パテ、ゴーモンなどの映画会社も設立されて、映画はたちまちのうちに大衆娯楽として定着した。

 1908年にはフィルム・ダール社が設立され、たわいない見せ物の域を脱して、映画を芸術に高めようとする努力がなされた。同社は高名な劇作家や舞台俳優を招いて、『ギーズ公の暗殺』(1908)ほかの文芸映画を製作したが、それらの作品は基本的には演劇的理念に従うものであった。1910年代には、ルイ・フイヤードLouis Feuillade18731925)が『ファントマ』(19131914)などの連続活劇を、またマックス・ランデールが自ら主演して多くの喜劇映画を撮り、それらの人気は広く外国にも及んだ。こうして、フランス映画は世界の映画市場を支配した観があったが、第一次世界大戦とともに映画産業は深刻な打撃を受け、以後はアメリカ映画に王座を奪われた。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

1920年代のサイレント映画

1920年代にフランス映画は前衛的な映画運動の隆盛をみた。その端緒となったのはルイ・デリュックLouis Delluc18901924)が提唱した「フォトジェニー」photognie論で、これは現実の光景から映画独自の美を抽出することを説き、彼自らも『狂熱』(1921)、『さすらいの女』(1922)などでその理念を実践した。また、ジャン・エプステインはフォトジェニーの概念をさらに発展させ、「機械の知性」としてのカメラの特性を活用して新たな世界観を開拓することを主張し、『アッシャー家の末裔(まつえい)』(1928)などの特異な作品を発表した。一方、アベル・ガンスやジェルメーヌ・デュラックGermaine Dulac18821942)は映画におけるリズムの重要性に注目し、映画を一種の視覚的音楽として構想した。ガンスの『鉄路の白薔薇(しろばら)』(1923)、『ナポレオン』(1927)はそのもっとも壮大な具現である。こうした試みは、一連の斬新(ざんしん)な表現技法、すなわち、意図的な「ぼかし」や画面の歪曲(わいきょく)、急速モンタージュ、スローモーション等を駆使して、文学や演劇の桎梏(しっこく)を脱した「純粋映画」cinma purを実現し、それによって映画固有の美学を構築しようとするものであった。

 さらにこれと並行して、当時の前衛的芸術運動であったダダイスムやシュルレアリスムに加わった映画人たちは、夢と幻想、人間の根源的な狂気や無意識の情念を、挑発的なスタイルで表現した。ルネ・クレールの『幕間』(1924)、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』(1928)はその代表的作品である。これらの「前衛映画」人は、自らの考えをしばしば書物にも著し、芸術としての映画の可能性を理論と実作の両面において模索した。このほか、革命を逃れてパリに亡命した多数のロシア映画人は、アレクサンドル・カメンカAlexandre Kamenka18881969)のおこしたアルバトロス社に拠()ってユニークな創作活動を展開し、アレクサンドル・ボルコフAlexandre Volkov18781942)の『キイン』(1924)などの話題作を生み出した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

1930年代のトーキー映画

1920年代末にアメリカでトーキー映画が開発されて大成功を収めたが、フランスでも1930年代初めからトーキー映画の製作が開始された。しかし、おりからの世界恐慌によってパテとゴーモンの二大会社は弱体化し、以後は群小のプロダクションが製作を支えることになった。クレールの『巴里(パリ)の屋根の下』(1930)は音に対する独創的な処理を試みつつ、下町の人々の生活を情感豊かなリアリズムによって描き出し、1930年代のフランス映画に一つの方向づけを与えた。その流れをくむものとしては、ジャック・フェデーの『外人部隊』(1934)、『女だけの都』(1935)、ジュリアン・デュビビエの『望郷』『舞踏会の手帖(てちょう)』(ともに1937)、マルセル・カルネの『霧の波止場』(1938)、『日は昇る』(1939)などがあげられる。いずれも巧みな脚本、入念な照明、精巧なセットといった、優れた職人芸に支えられた映画であり、陰影に富んだその独特の雰囲気は世界中の観客を魅了し、長らくフランス映画といえばこの時期の名作をさすほどであった。

 ジャン・ルノアールもまた、同様の雰囲気をもった『牝犬(めすいぬ)』(1931)、『十字路の夜』(1932)などを撮り、人道主義的な大作『大いなる幻影』(1937)も手がけたが、そのスタイルはより開放的であり、『ゲームの規則』(1939)はそうした彼の資質を最大限に発揮した傑作である。ジャン・ビゴは痛烈な社会風刺を込めた『新学期 操行ゼロ』(1933)や、船上生活者の暮らしをみずみずしい感性で描いた『アタラント号』(1934)によって、希有(けう)な才能を示した。このほか、1930年代には演劇人が映画に進出し、マルセル・パニョルの『パン屋の女房』(1938)やサッシャ・ギトリの『とらんぷ譚(ものがたり)』(1936)などの、自作戯曲を映画化した作品は映画と演劇との融合を図る試みとして興味深い。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆戦時下から戦後映画へ 

第二次世界大戦中、ナチスの占領下でフランス映画は低迷したが、ロベール・ブレッソンの『ブローニュの森の貴婦人たち』(1944)や、非占領地区の南フランスで撮られたカルネの『天井桟敷(さじき)の人々』(1944)など、いくつかの優れた作品が生み出された。第二次世界大戦後、1946年に国立映画庁が設置され、翌年には映画助成金制度が制定されて、フランス映画は再建に向けて歩み出した。ルネ・クレマンは『鉄路の闘い』(1946)でドキュメンタリー的手法でレジスタンス運動を描き、ジャン・コクトーは『美女と野獣』(1946)で独特の幻想的世界をつくりだした。また、アンリ・ジョルジュ・クルーゾの『犯罪河岸』(1947)やジャック・ベッケルの『現金(げんなま)に手を出すな』(1954)などは、第二次世界大戦後のフランス映画に「フィルム・ノアール」film noir(暗黒映画)のジャンルを定着させた。そして、クレールやクロード・オータン・ララらの巨匠たちは、『夜の騎士道』(1955)や『青い麦』(1954)といった洗練された商業映画によって高い人気を得た。このほか、ブレッソンは『田舎(いなか)司祭の日記』(1950)や『抵抗』(1956)で孤高の創作活動を続け、また、渡米したマックス・オフュルスやルノアールも帰国して、『快楽』(1952)や『フレンチ・カンカン』(1954)などの円熟した作品を発表した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆ヌーベル・バーグの登場と映画の革新

しかし、第二次世界大戦後に映画の復興が進むとともにその弊害も現れてきた。多くの作品は伝統に縛られて自由な発想を欠き、撮影所の閉鎖的な体質は容易に新しい人材を受け入れなかった。そうした状況のなかで、「良質の映画」の伝統に異議申し立てを行い、映画製作に新鮮な活力をもたらしたのが、1950年代末に始まる「ヌーベル・バーグ」nouvelle vague(新しい波)である。その中心となったのは、アンドレ・バザンの主宰する映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の批評家から実作に転じた若い監督たちで、彼らはアンリ・ラングロアHenri Langlois19141977)の運営するシネマテーク・フランセーズなどでの豊富な映画鑑賞体験に基づき、確固たる映画史観のもとに、既成の映画作法を打ち破る斬新な作品を発表した。

 その端緒となったジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)、フランソワ・トリュフォーの『大人は判(わか)ってくれない』(1959)、クロード・シャブロルの『いとこ同志』(1958)などの登場は、映画界のみならず社会的にも大きな反響をよんだ。同じく『カイエ・デュ・シネマ』誌の批評家出身で、『獅子(しし)座』(1959)のエリック・ロメールEric Rohmer1920 )、『パリはわれらのもの』(1961)のジャック・リベットJacques Rivette19282016)のほか、『死刑台のエレベーター』(1957)のルイ・マル、『二十四時間の情事』(1959)のアラン・レネ、『シェルブールの雨傘』(1963)のジャック・ドゥミなど、多くの才能豊かな監督が輩出した。その後もゴダールの『気狂(きちが)いピエロ』(1965)、トリュフォーの『夜霧の恋人たち』(1968)をはじめ意欲的な作品が次々に生み出され、ヌーベル・バーグは1960年代のフランス映画を決定的にリードした。

 ドキュメンタリー映画の分野では、現実への積極的な介入を通して社会の真実をとらえようとする「シネマ・ベリテ」cinma-vritの運動が起こり、ジャン・ルーシュJean Rouch19172004)の『我は黒人』(1958)、クリス・マルケルChris Marker19212012)の『美しき五月』(1963)などの重要な成果がもたらされた。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆ポスト・ヌーベル・バーグと作家主義

フランス社会を大きく揺るがした1968年の五月革命は映画界にも波及し、ヌーベル・バーグの集団的な運動は後退して、それぞれの監督が独自の道を歩き始めた。その極端な例はゴダールで、彼はいっさいの商業映画を否定し、『イタリアにおける闘争』(1970)などの戦闘的な政治映画に身を投じた。一方、トリュフォーは『恋のエチュード』(1971)などで円熟した手腕をみせ始め、ロメールは『クレールの膝(ひざ)』(1970)をはじめとする「六つの教訓話」シリーズを連作した。

 また、1970年代には、特異な問題意識とスタイルをもった新たな監督が注目を集めた。女流作家のマルグリット・デュラスは『インディア・ソング』(1975)ほかの作品で映像と言語の関係を鋭敏な感性で追求し、同じく作家のアラン・ロブ・グリエは『快楽の漸進的横滑り』(1973)などで映画における物語構造の解体を企てた。ジャン・ユスターシュJean Eustache19381981)の『ママと娼婦(しょうふ)』(1972)やアンドレ・テシネAndr Tchin1943 )の『フランスの思い出』(1975)は、フランス社会の根源的な矛盾を鋭くえぐり出した。このほか、『一緒に老()けるわけじゃなし』(1972)のモーリス・ピアラMaurice Pialat19252003)、『サン・ポールの時計屋』(1973)のベルトラン・タベルニエ、『頭の中の指』(1974)のジャック・ドアイヨンJacques Doillon1944 )、『一番うまい歩き方』(1976)のクロード・ミレールClaude Miller19422012)など、それぞれに個性的な監督が活動を開始した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆多様性の時代

1980年代のフランス映画は、そうした多様性を継承しつつ、安定した発展をみせた。すなわち、『秘密の子供』(1982)のフィリップ・ガレルPhilippe Garrel1948 )や『30歳で死す』(1982)のロマン・グーピルRomain Goupil1951 )がきわめて私的な映画づくりを展開する一方で、ピアラ、タベルニエ、ドアイヨン、ミレールらは中堅監督として認められ、さらに『勝手に逃げろ/人生』(1980)で商業映画に復帰したゴダール、『終電車』(1980)で国民的支持を得たトリュフォー、新たに「喜劇と諺(ことわざ)」シリーズに着手したロメールなど、ヌーベル・バーグ世代はいまや巨匠とみなされるに至った。

 その一方で、1980年代には新しい世代が登場した。『ディーバ』(1981)のジャン・ジャック・ベネックスJean-Jacques Beineix1946 )、『薔薇(ばら)の名前』(1986)のジャン・ジャック・アノーJean-Jacques Annaud1943 )、続いて『ニキータ』(1990)のリュック・ベッソンLuc Besson1959 )、『ポンヌフの恋人』(1991)のレオス・カラックスLos Carax1960 )、『デリカテッセン』(1991)のジャン・ピエール・ジュネJean-Pierre Jeunet1953 )とマルク・キャロMarc Caro1956 )など、一部で新しいエンターテインメントを志向しながら、それぞれが個性的で多様な世界を表現し始めた。

 こうした若い世代の活躍には目を見張るものがあり、製作本数が減少した1990年代前半においても年間2030本以上の長編デビュー作が製作された。そして、1990年代には、ジャン・ポール・ラプノーJean-Paul Rappeneau1932 )の『シラノ・ド・ベルジュラック』(1990)やレジス・バルニエRgis Wargnier1948 )の『インドシナ』(1992)などのように、歴史劇やメロドラマを中心に「良質の映画」の伝統を受け継いだ中堅監督たちが活躍をみせ、さらに『そして僕は恋をする』(1995)のアルノー・デプレシャンArnaud Desplechin1960 )や『家族の気分』(1996)のセドリック・クラピッシュCdric Klapisch1961 )をはじめ、マチュー・カソビッツMathieu Kassovitz1967 )、エリック・ゾンカErick Zonca1956 )、セドリック・カーンCdric Kahn1966 )、フランソワ・オゾンFranois Ozon1967 )、ブリュノ・デュモンBruno Dumont1958 )といった若い才能が次々と出現した。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

◆現状

2000年代に入ったフランス映画は、全世帯の約80パーセントがビデオデッキを備え、800万世帯以上がケーブル・テレビに加入するほど、新たな映像時代を迎えている。そんな状況の中、ゴダールやシャブロルたち巨匠をはじめ、ベッソンやデプレシャンたち中堅が活躍する一方で、『私はどのように父を殺したか』(2000)のアンヌ・フォンテーヌAnne Fontaine1959 )、『ヒューマンネイチュア』(2001)のミシェル・ゴンドリーMichel Gondry1963 )をはじめ、クリストフ・バラティエChristophe Barratier1963 )、ロバン・カンピオRobin Campillo1962 )、ステファヌ・ブリゼStphane Briz1966 )といった若い世代が登場し、新鮮な感性によってフランス映画の幅を広げている。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

 21世紀初頭の最大の特徴は、女性監督の台頭だろう。ベテランのクレール・ドニClaire Denis1948 )は『ガーゴイル』(2001)、『ホワイト・マテリアル』(2009)など異文化と女性の問題を扱う作品を発表し続け、カトリーヌ・ブレイヤCatherine Breillat1948 )は『ロマンスX』(1999)などでフェミニズムの追及を続けている。パスカル・フェランPascale Ferran1960 )は、『レディ・チャタレイ』(2006)で新しいチャタレイ像を示した。さらに若い世代では、バレリー・ドンゼッリValerie Donzelli1973 )は、『わたしたちの宣戦布告』(2011)で障害のある子どもを育てる若い夫婦を鮮烈に描き、ミア・ハンセン・ラブMia Hansen-Love1981 )は、『あの夏の子供たち』(2009)で夫の死後生きてゆく若い母の強い生き方をみせた。

 男性監督では、フランソワ・オゾンやベルギー出身のダルデンヌ兄弟Jean-Pierre Dardenne1951 )、Luc Dardenne1954 )が評価の高い作品を作り続けている。グザビエ・ボーボワXavier Beauvois1967 )は『神々と男たち』(2010)がようやくヒットし、クリストフ・オノレChristophe Honor1971 )は『美しいひと』(2008)など着実につくり続けている。最近では、『アーティスト』(2011)でアカデミー作品賞など7部門を制したミシェル・アザナビシウスMichel Hazanavicius1967 )や『最強のふたり』(2011)が世界中でヒットしたエリック・トレダノEric Toledano1970 )とオリビエ・ナカーシュOlivier Nakache1973 )のコンビのように、海外でもヒットする娯楽作品を手がける監督も増えている。[古賀 太]

◆俳優

優れた映画製作国の例に漏れず、フランスもまた多くの優秀な映画俳優を生み出した。第二次世界大戦前では、男優のアルベール・プレジャンAlbert Prjean18941979)、ジャン・ギャバン、モーリス・シュバリエ、シャルル・ボアイエ、女優のフランソワーズ・ロゼーらのスターが一世を風靡(ふうび)し、またミシェル・シモンMichel Simon18951975)やルイ・ジューベなどの特異な個性をもった俳優が活躍した。第二次世界大戦後では、男優のジェラール・フィリップやジャン・マレー、ジャン・ルイ・バロー、女優のダニエル・ダリュー、シモーヌ・シニョレSimone Signoret19211985)、ミシュリーヌ・プレールMicheline Presle1922 )らが充実した仕事ぶりをみせた。1950年代後半にはアラン・ドロンとブリジット・バルドーの二大スターが出現し、またヌーベル・バーグはジャン・ポール・ベルモンド、ジャン・クロード・ブリアリJean-Claude Brialy19332007)、ジャンヌ・モロー、アンナ・カリーナAnna Karina1940 )、カトリーヌ・ドヌーブらを世に送り出した。1980年代から1990年代にかけては、ジェラール・ドパルデューGrard Depardieu1948 )、ダニエル・オートゥイユDaniel Auteuil1950 )、イザベル・アジャーニIsabelle Adjani1955 )、サンドリーヌ・ボネールSandrine Bonnaire1967 )、ジュリエット・ビノシュJuliette Binoche1964 )らが活躍した。その後、2000年代にかけては、ジャン・マルク・バールJean-Marc Barr1960 )、ブノワ・マジメルBenot Magimel1974 )、バレリア・ブルーニ・テデスキValeria Bruni-Tedeschi1964 )、シャルロット・ゲンズブールCharlotte Gainsbourg1971 )らの個性豊かな演技が目だっている。[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

 女優のベテランでは、カトリーヌ・ドヌーブが『幸せの雨傘』(2010)など活躍を続けているが、2010年代、外国でも有名な女優は、マリオン・コティヤールMarion Cotillard1975 )である。『エディット・ピアフ 愛の賛歌』(2007)がアカデミー賞主演女優賞を得て以来、『インセプション』(2010)などハリウッドへの出演が続く。子役時代から活躍してきたビルジニー・ルドワイヤンVirginie Ledoyen1976 )もダニー・ボイルDanny Boyle1956 )監督の『ザ・ビーチ』(2000)ほか外国でも活躍。彼女とともにフランソワ・オゾン監督『8人の女たち』(2002)に出演したリュディビーヌ・サニエLudivine Sagnier1979 )は、同監督の『ジャック・メスリーヌ』(2008)の評価が高い。そのほかレア・セドゥーLa Seydoux1985 )は『マリー・アントワネットに別れをつげて』(2012)で主演し、若手の注目株である。

 男優では、マチュー・アマルリックMathieu Amalric1965 )が『潜水服は蝶(ちょう)の夢を見る』(2007)などアート系の映画で活躍し、『さすらいの女神たち』(2010)で監督・主演を務めた。メルビル・プポーMelvil Poupaud1973 )も、『ぼくを葬る』(2005)などアート系で活躍。メジャーでは、喜劇俳優のダニー・ブーンDany Boon1966 )が監督・出演した『シュティスへようこそ』(2008)が、フランス映画最大の2000万人を超すヒット。この映画に主演したアルジェリア系のカド・メラドKad Merad1964 )も人気抜群である。[古賀 太]

◆参考文献

『飯島正著『フランス映画史』(1950・白水社) ▽岡田晋・田山力哉著『世界の映画作家29 フランス映画史』(1975・キネマ旬報社) ▽M・マルタン著、村山匡一郎訳『フランス映画 1943――現代』(1987・合同出版) ▽J・ドゥーシェ他著、梅本洋一訳『パリ、シネマ――リュミエールからヌーヴェルヴァーグにいたる映画と都市のイストワール』(1989・フィルムアート社) ▽村山匡一郎著『映画100年 STORYまるかじり――フランス篇』(1994・朝日新聞社) ▽ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定・村山匡一郎・出口丈人・小松弘訳『世界映画全史5 無声映画芸術への道――フランス映画の行方1 19091914』(1995・国書刊行会) ▽清水馨著『しねま・ふらんせ100年物語』(1995・時事通信社) ▽中川洋吉著『カルチエ・ラタンの夢 フランス映画七十年代』(1998・ワイズ出版) ▽細川晋監修、遠山純生編『ヌーヴェル・ヴァーグの時代 19581963』(1999・エスクァイアマガジンジャパン) ▽山田宏一著『山田宏一のフランス映画誌』(1999・ワイズ出版) ▽中川洋吉著『生き残るフランス映画――映画振興と助成制度』(2003・希林館、星雲社発売) ▽山崎剛太郎著『一秒四文字の決断――セリフから覗くフランス映画』(2003・春秋社) ▽中条省平著『フランス映画史の誘惑』(集英社新書)』

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◆◆リュミエール(兄弟)

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りゅみえーる

(小学館百科全書)

兄オーギュストAuguste Lumire18621954)、弟ルイLouis Lumire18641948) フランスの映画発明家、製作者。オーギュストは1019日、ルイは105日ともにブザンソン生まれ。父は写真家で、一家はリヨンで写真乾板工場を経営していたが、エジソンののぞきからくり式の「キネトスコープ」をもとに、現在の映画と同じ原理でフィルムをスクリーン上に映写する装置を発明、18952月に撮影機兼映写機「シネマトグラフ」の特許をとった。これは大ぜいの観客が同時に映像を見られる点で画期的であり、951228日からパリで行われた初の有料一般公開は大成功を収め、翌年からは兄弟が外国に派遣した多数のカメラマンが宣伝と撮影を行うなど世界的発展を遂げて、今日の映画の基礎が築かれた。作品は『工場の出口』『赤ん坊の食事』『列車の到着』など、日常生活や街頭風景を実写した短い記録映画がほとんどである。

 映画に関する業績で中心的な役割を担ったルイは、実写映画が大衆に飽きられて製作を打ち切った1903年以後も、カラー写真や立体写真の研究で数々の新方式を開発、19年科学アカデミー会員に選ばれ、4866日南仏バンドルで没した。オーギュストは54410日リヨンで没。[武田 潔]

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◆◆詩的リアリズム

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してきりありずむ

ralism potique

(小学館百科全書)

1930年代後半のフランス映画のスタイルをさす用語。第二次世界大戦前夜の不安定な世相と時代の鬱屈(うっくつ)した気分を反映した、繊細で叙情的な描写、厭世(えんせい)的だがロマンティックな物語、スタジオでのセット撮影などを特徴とする。国際的に高く評価され、興行的成功を収めた。ジャック・フェデーの『外人部隊』(1934)、ジュリアン・デュビビエの『望郷』(1937)、マルセル・カルネの『霧の波止場』(1938)などが代表的な作品で、『大いなる幻影』(1937)や、『ゲームの規則』(1939)といったジャン・ルノアールの作品を含めることもある。時代は下るが、カルネの『天井桟敷(さじき)の人々』(1945)が詩的リアリズムの集大成であり最後の作品とされている。詩的リアリズムを牽引(けんいん)した脚本家としては、フェデーやデュビビエと組んだシャルル・スパークCharles Spaak19031975)と、カルネとのコンビで知られる詩人ジャック・プレベールが有名で、俳優ではジャン・ギャバンが代表的である。[伊津野知多]

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◆◆ルネ・クレール監督

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くれーる

Ren Clair

18981981

フランスの映画監督。本名Ren Chomette1111日パリに生まれる。初めはジャーナリストとして詩、戯曲、歌詞、映画論などを書いた。俳優として映画入りしたが、前衛(純粋)映画の短編『眠るパリ』(1923)や『幕間』(1924)をつくって監督に転じた。彼のサイレント映画時代を代表する傑作は、ボードビル喜劇の映画化『イタリア麦の帽子』(1927)である。馬に食われた花嫁の帽子と同じ物を探してパリ中を駆け巡る話で、愉快な風刺と機知に富んだリズミカルな映画処理が秀抜であった。トーキー時代の第一作『巴里(パリ)の屋根の下』(1930)はクレールの名を世界的に広めた名作である。音声の氾濫(はんらん)を極力抑え、音声と映像の非同時的な巧みな編集効果により、アルベール・プレジャンの歌うシャンソンの楽しさを全編にみなぎらせた点に成功の原因があった。『ル・ミリオン』(1931)はボードビル映画の傑作、『自由を我等(われら)に』(1931)は現代批判の愉快な風刺喜劇だった。『巴里祭』(1932)は彼のパリ物の代表作品である。その後不振の時期がくる。イギリス、アメリカに渡り、第二次世界大戦後帰国して『沈黙は金』(1947)で華々しく復活、数本の名作を発表したが、『夜ごとの美女』(1952)のボードビル的集大成に彼の真価は発揮された。1960年映画人最初のアカデミー会員に選ばれ、1981314日パリで没した。[飯島 正]

◆資料 監督作品一覧

眠るパリ Paris qui dort1923

幕間 Entr’acte1924

イタリア麦の帽子 Un chapeau de paille d’Italie1927

巴里の屋根の下 Sous les toits de Paris1930

ル・ミリオン Le million1931

自由を我等に  nous la libert1931

巴里祭 Quatorze Juillet1932

最後の億萬長者 Le dernier milliardaire1934

幽霊西へ行く The Ghost Goes West1935

焔の女 The Flame of New Orleans1941

奥様は魔女 I Married a Witch1942

提督の館 Forever and a Day1943

ルネ・クレールの明日を知った男 It Happened Tomorrow1944

そして誰もいなくなった And Then There Were None1945

沈黙は金 Le silence est d’or1947

悪魔の美しさ La beaut du diable1949

夜ごとの美女 Les belles de nuit1952

夜の騎士道 Les grandes manoeuvres1955

リラの門 Porte des Lilas1957

フランス女性と恋愛 La franaise et l’amour1960

【巴里の屋根の下】

ぱりのやねのした

Sous les toits de Paris

フランス・ドイツ合作映画。1930年作品。ドイツ系のフィルム・ソノール・トービス社と契約を結んだルネ・クレール監督のトーキー第1回作品で、フランスの初期トーキーの代表作となった。物語は街角の歌手が誤って刑務所に入れられてしまい、出所すると恋人は友人に奪われていたというもので、アルベール・プレジャンAlbert Prjean18941979)が主演し、パリの下町の庶民生活を愛情込めて描いた。ルネ・クレールは実際の物音や台詞(せりふ)を録音するよりも、登場人物たちの大きな身振りを歌声や音楽で見せることに重点を置き、サイレント的な美学を貫いた。パリではあまりあたらなかったが、ベルリン、ニューヨーク、東京(1931年公開で、キネマ旬報ベストテン第2位)など世界各地でヒットした。実際はロシア出身の美術監督ラザール・メールソンLazare Meerson18971938)による精巧なパリのセットが使われたが、外国ではこの映画は長い間にわたってパリのイメージをつくりあげた。[古賀 太]

【巴里祭】

ぱりさい

Quatorze Juillet

フランス映画。1932年ルネ・クレール監督作品。翌年日本公開。原題は「714日」。パリ情緒豊かな下町を舞台に、革命記念日の祭り気分に沸き立つ街の情景を描く。美しい花売り娘アンナ(アナベラ)と若いタクシー運転手ジャン(ジョルジュ・リゴー)の恋を中心に、陽気な商人や気むずかしい老人やわんぱくな悪童たちなどが背景を彩る。ちょっとした誤解から仲たがいする2人の恋物語も軽いが、周囲の人物も添景的で、全体にスケッチ映画といった趣(おもむき)は、同じクレールのトーキー第一作『巴里の屋根の下』と似通っている。祭りの前夜から当夜にかけてのパリの街は、提灯(ちょうちん)や万国旗に飾られて、ときにはにわか雨まで加わって情緒を盛り上げる。[登川直樹]

【自由を我等に】

じゆうをわれらに

A nous la libert

フランス映画。1931年、ルネ・クレール製作・監督・脚本作品。刑務所を脱走したルイとエミールのその後の人生を描く喜劇。エミールが経営することになるオートメーション化された蓄音機会社は、人間を搾取する資本主義の象徴として描かれ、それから自由になって生き続ける2人の姿は、1929年の世界恐慌以降のヨーロッパの知識層に支持された。ジョルジュ・オーリックの軽妙な音楽とラザール・メールソンLazare Meerson18971938)の簡潔な美術も好評。フランスではあたらなかったが、日本では1932年(昭和7)に公開されてヒットし、その年のキネマ旬報ベストテンの第1位となった。チャップリンが『モダンタイムス』(1936)を発表したとき、ベルトコンベヤーのシーンなどがこの映画を想起させたため、製作会社のトービスはチャップリンを訴えたが、監督のルネ・クレールは「尊敬するチャップリンに真似してもらえたのなら光栄です」というコメントを出した。[古賀 太]

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◆◆ルノアール(Jean Renoir)監督

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るのあーる

Jean Renoir

18941979

フランスの映画監督。1894915日パリに生まれる。父は印象派の画家オーギュスト・ルノアールである。第一次世界大戦後、前衛芸術家たちと交わり、非商業的な前衛映画をつくったが、彼の本質はリアリズムにあり、早くもゾラ原作の『女優ナナ』(1926)で彼らと決別した。サイレント映画より現実的なトーキーの時代となって、いっそう彼の本領は発揮された。いくつかの佳作ののち、モーパッサン原作の『ピクニック』(1936)で生粋(きっすい)のフランス的リアリズムを完成させ、ゴーリキー原作の『どん底』(1936)ですら、フランス的にみごとに消化した。1930年代後半はフランス映画の黄金期として知られるが、ルノアールはこの時代に画期的な傑作『大いなる幻影』(1937)を発表し、第二次世界大戦中のドイツの捕虜収容所を舞台に、国境を越えた人間愛の精神を高揚した。この映画は知性に裏づけられた詩的リアリズムの成果であった。続く『獣人』(1938)はゾラの映画化で鉄道の脅威を描き、1939年の『ゲームの規則』はブルジョア生活の空虚を鋭く批判した傑作であった。大戦中はアメリカに亡命して数編の映画をつくった。その後インドに渡って『河』(1951)をつくったが、これまた悠々たる大河のような壮大な傑作だった。その後は昔日のおもかげはないが、ヌーベル・バーグの青年たちは彼を師と仰ぎ、彼の功績はいまや不朽なものと一般に認められている。1979212日ロサンゼルスで没した。[飯島 正]

◆資料 監督作品一覧

カトリーヌ Catherine1924

水の娘 La Fille de l’eau1924

女優ナナ Nana1926

チャールストン Sur un air de Charleston1927

マッチ売りの少女 La petite marchande d’allumettes1928

のらくら兵 Tire au flanc1928

坊やに下剤を On purge bb1931

牝犬 La chienne1931

素晴らしき放浪者 Boudu sauv des eaux1932

ボヴァリィ夫人 Madame Bovary1933

トニ Toni1935

ピクニック Partie de campagne1936

どん底 Les bas-fonds1936

大いなる幻影 La grande illusion1937

ラ・マルセイエーズ La Marseillaise1938

獣人 La bte humaine1938

ゲームの規則 La rgle du jeu1939

スワンプ・ウォーター Swamp Water1941

自由への闘い This Land Is Mine1943

南部の人 The Southerner1945

小間使の日記 The Diary of a Chambermaid1946

浜辺の女 The Woman on the Beach1947

河 The River1951

黄金の馬車 Le carrosse d’or1953

フレンチ・カンカン French Cancan1954

恋多き女 Elena et les hommes1956

コルドリエ博士の遺言 Le testament du Docteur Cordelier1959

草の上の昼食 Le djeuner sur l’herbe1959

捕えられた伍長 Le caporal pingl1961

『西本晃二訳『ジャン・ルノワール自伝』(1977・みすず書房) ▽アンドレ・バザン著、奥村昭夫訳『ジャン・ルノワール』(1980・フィルムアート社)』

【大いなる幻影】

おおいなるげんえい

La Grande Illusion

フランス映画。1937年作品。監督ジャン・ルノアール。第一次世界大戦中の実話をもとに脚本家シャルル・スパークの協力を得て、人間の友愛と平等を訴えた作品。フランス軍の大尉(ピエール・フレネー)と中尉(ジャン・ギャバン)が偵察飛行中に撃墜され、ドイツ軍の捕虜となる。捕虜収容所の所長(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)は自分と同じ貴族階級出身の大尉に親近感を抱くが、機械工上がりの中尉は捕虜仲間のユダヤ人銀行家の息子と脱走を企て、大尉の犠牲によりついにそれに成功する。ルノアールは正確でリアルな描写を通じて(フランス語、ドイツ語、英語の併用もその一つ)、国籍、言語、階級、人種などの違いを超えた大きなヒューマニズムを説いた。フランス、アメリカでは公開当時から大成功を収めたが、ファシズム下のドイツ、イタリアでは上映が禁止され、日本でも第二次世界大戦前は公開されなかった。1949年(昭和24)日本公開。[武田 潔]

【ゲームの規則】

げーむのきそく

La Rgle du Jeu

フランス映画。1939年作品。監督ジャン・ルノアール。ブルジョワの館を舞台に、貴族、飛行士、密猟者、使用人たちが入り乱れて色恋沙汰(いろこいざた)を繰り広げるドタバタ劇。ルノアールは「陽気な悲劇」を目ざしたというが、第二次世界大戦前夜という時代状況のなか、退廃的で風紀を乱すとして不評を買い、公開直後に上映禁止に。失意のルノアールはアメリカに渡った。しかし、複数の登場人物個々のリアルな存在感を生かす即興的演出、奥行きのある縦の構図を生かした画面の中を縦横無尽に動き回るカメラ、長回し撮影など、古典的な映画の常識を超えた新しさは、アンドレ・バザンやヌーベル・バーグの世代に高く評価された。1959年のベネチア国際映画祭で復元版が上映されたのを機に再評価が進み、現在では映画史上もっとも有名な作品の一つとなっている。[伊津野知多]

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◆◆ルネ・クレマン監督

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くれまん

Ren Clment

19131996

フランスの映画監督。ボルドー生まれ。パリで建築を学んだのち、1931年ごろから個人的に映画をつくり始め、陸軍映画班に入ってドキュメンタリー映画に携わった。1937年から1943年までに7本の短編を監督したのち、フランスの鉄道員たちのレジスタンスを描いた『鉄路の闘い』(1945)で注目された。続いてドイツの潜水艦を舞台にした『海の牙(きば)』(1946)、戦争孤児を叙情的に描いた『禁じられた遊び』(1952)など反戦と深くかかわる作品を発表した。ゾラの小説の映画化『居酒屋』(1955)で文学性の高い作品に転じたが、さらにその世界からも離れ、『太陽がいっぱい』(1960)以後は娯楽的傾向を強めた。[出口丈人]

◆資料 監督作品一覧

左側に気をつけろ Soigne ton gauche1936

鉄路の闘い La battailledu rail1945

海の牙 Les maudits1946

鉄格子の彼方 Au dera des grilles1949

ガラスの城 Le chteau de verre1950

禁じられた遊び Jeux interdits1952

しのび逢い Monsieur Ripois1954

居酒屋 Gervaise1955

海の壁 Barrage contre le pacifique1958

生きる歓び Quelle joie de vivre1960

太陽がいっぱい Plein soleil1960

危険がいっぱい Les flins1964

パリは燃えているか Paris brle-t-il?1966

雨の訪問者 Le passager de la pluie1970

パリは霧にぬれて La maison sous les arbres1971

狼は天使の匂い La course du livre travers les champs1972

危険なめぐり逢い La baby sitter1975

【禁じられた遊び】

Jeux interdits

フランス映画。1952年作品。監督ルネ・クレマン。1940年、戦火から避難するなか、両親をドイツ機の機銃掃射で失った幼女ポレット(ブリジット・フォッセーBrigitte Fossey1947 )は、愛犬の死体を抱いて彷徨(さまよ)ううち、少年ミシェルと出会い、彼の家にいつく。ミシェルはポレットに、死者を葬ることを教え、廃れた水車小屋に愛犬を埋葬した。しかし、これをかわいそうに感じたポレットは、周りにお墓をたくさんつくってやりたいと言い出し、ミシェルはその願いにこたえて、さまざまな動物の死体を探しては墓をつくっていった。遊びは十字架を盗むまでエスカレートしていく。第二次世界大戦で人々の受けた傷を、いたいけな子供の遊びに託して描き、ナルシソ・イエペスによるギターのテーマ音楽とともに、世界的な評判をよんだ作品。第25回アカデミー名誉賞(後の外国映画賞)、第13回ベネチア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞など受賞。[出口丈人]

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◆◆その他の映画作品の解説

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【美女と野獣】

フランス映画。1946年作品。監督ジャン・コクトー。フランスの童話作家ボーモン夫人の童話を、詩、小説、絵画、演劇、映画などさまざまな芸術分野で活躍する才人コクトーが自らの脚色で映画化した代表作。野獣の館の、人の腕になっている燭台(しょくだい)や柱の動く彫像など、コクトーの出自を物語るシュルレアリスム的なオブジェをはじめとして、衣装や装置は独特の美意識に貫かれており、奇妙で幻想的な大人向けのおとぎ話の世界をつくりあげている。主演はジャン・マレー。音楽は『詩人の血』(1930)からコクトーの主要作品を担当しているジョルジュ・オーリック。撮影はルネ・クレマンの『鉄路の闘い』(1945)でも高い評価を受けたアンリ・アルカンHenri Alekan19092001)。ルネ・クレマンが技術顧問として参加している。フランスの映画賞ルイ・デリュック賞受賞。[伊津野知多]

『鈴木豊訳『美女と野獣』(角川文庫)』

【天井桟敷の人々】

てんじょうさじきのひとびと

Les Enfants du Paradis

フランス映画。1945年作品。日本公開は52年(昭和27)。マルセル・カルネ監督の代表作。舞台俳優ジャン・ルイ・バローの発案で19世紀のパントマイム役者バチスト・ドビュローの映画を計画、これを中心に、殺人狂の文学者ラスネル、舞台の名優フレデリック・ルメートルなど当時の実在人物を登場させ、さらに見世物女芸人ガランスやモンレー伯爵、バチストの妻となるナタリーなど架空の人物を絡ませている。脚本はジャック・プレベールで、19世紀パリの盛り場を舞台に性格の鮮やかな人物を登場させ、第一部「犯罪大通り」、第二部「白い男」の2部よりなる3時間15分の壮大な群像ドラマ。撮影は第二次世界大戦中に南フランスで開始され、ナチスの干渉、撮影所の変更、俳優の交代など多くの困難を克服し、戦後ようやく完成、当時空前の大作として大きな反響をよんだ。バローのパントマイムも名演技だが、ピエール・ブラッスール、アルレッティ、マリア・カザレスら多彩な演技陣がこの大作を飾った。[登川直樹]

J・プレヴェール著、山田宏一訳『天井桟敷の人々』(1981・新書館)』

【死刑台のエレベーター】

しけいだいのえれべーたー

Ascenseur pour l’chafaud

フランス映画。1957年作品。監督ルイ・マル。社長夫人(ジャンヌ・モロー)とその恋人(モーリス・ロネMaurice Ronet19271983)が共謀して社長殺しを企てるも、予期せぬできごとがおこって完全犯罪が破綻(はたん)していくさまをサスペンスフルに描く。25歳のルイ・マルの単独長編監督デビュー作にして、フランスの映画賞ルイ・デリュック賞を受賞、新しい映画の到来を告げる一作となった。撮影はヌーベル・バーグのカメラマンとして活躍することになるアンリ・ドゥカエHenri Deca19151987)が担当し、夜のロケーション撮影など、ざらついた質感のある画面作りで注目された。また、モダン・ジャズ・トランペッターのマイルス・デービスがラッシュ・フィルムを見ながら即興演奏したものを、音楽に使うという斬新な試みも話題になった。[伊津野知多]

【シェルブールの雨傘】

しぇるぶーるのあまがさ

Les Parapluies de Cherbourg

フランスとドイツの合作映画。1964年作品。監督ジャック・ドゥミ。すべての台詞(せりふ)が歌になっている異色のフランス製ミュージカル映画。ハリウッドのミュージカル映画とは異なる独特の試みで、カンヌ国際映画祭のグランプリを受賞したほか、世界的に高い評価を受けたジャック・ドゥミの代表作。興行的にも大成功を収めた。シェルブールの町を舞台に、カトリーヌ・ドヌーブ演じる若い娘と貧しい自動車修理工の青年の恋と別離を描く。ドゥミの長編第1作『ローラ』(1960)からコンビを組んでいた作曲家のミシェル・ルグランが担当した楽曲の、ポピュラーで耳に残るメロディが秀逸。ドゥミ監督、ルグラン音楽、ドヌーブ主演の組み合わせによる作品は、ほかにも『ロシュフォールの恋人たち』(1966)、『ロバと王女』(1970)、『モン・パリ』(1973)の3作がある。色とりどりの原色を大胆に用いた衣装と美術が鮮やかで、おとぎ話のような効果を高めている。[伊津野知多]

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◆◆ジャン・ギャバン(俳優)

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ぎゃばん

Jean Gabin

19041976

フランスの映画俳優。パリ郊外メリエルに生まれる。種々の職業を経て、シャンソン歌手としてミュージック・ホールやオペレッタに出演し、トーキー到来とともに映画界に入った。ジョセフィン・ベーカーの相手役などを経て、1930年代にはデュビビエ監督の『地の果てを行く』『我等(われら)の仲間』『望郷』、ジャン・ルノアール監督の『どん底』『大いなる幻影』などの名作に出演し、フランスを代表するスターとなった。1950年以降は『現金(げんなま)に手を出すな』(1953)、『ヘッドライト』(1955)、『可愛(かわい)い悪魔』(1958)、『地下室のメロディー』(1962)、『シシリアン』(1969)、『暗黒街のふたり』(1973)などの諸作に年輪の重みを感じさせる円熟した演技を示した。1954年にレジオン・ドヌール勲章を授与された。[畑 暉男]

【現金に手を出すな】

げんなまにてをだすな

Touchez pas au grisbi

フランス・イタリア合作映画。1954年作品。暗黒ものを得意とした小説家アルベール・シモナンAlbert Simonin19051980)が前年に書いた同名小説を、シモナンも脚本に加わり、ジャック・ベッケルが監督した。物語は、初老のギャング、マックスとリトンが最後の大仕事としてオルリー空港で金塊強奪に成功するが、リトンの口の軽さから思わぬ方向に展開するというもの。第二次世界大戦後のフランスのフィルム・ノワール(犯罪映画)の先駆けともいえる作品で、マックス役のジャン・ギャバンは、新しい世の中にとまどう初老の男の孤独を演じ、戦後の最初の代表作となった。また、リノ・バンチュラLino Ventura19191987)が脇役で(クレジットはリノ・ボリニ)出演しており、その後フランスのギャング映画に欠かせない存在となった。日本公開は1955年(昭和30)。[古賀 太]

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◆◆ヌーベル・バーグ

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ぬーべるばーぐ

nouvelle vague

(小学館百科全書)

1958年ごろから輩出した新しいフランス映画をさす総称で、フランス語で「新しい波」を意味する。初め週刊誌『レクスプレス』が一般的に使ったが、クロード・シャブロルの『いとこ同志』(1958)、フランソワ・トリュフォーの『大人は判(わか)ってくれない』(1959)、ジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)などが登場すると、映画製作の経験がほとんどない20代の青年たちがつくる斬新(ざんしん)な映画とそのグループをさす呼称になった。中心になったのは映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』で批評の筆をとっていた人々(前記3人を含む)であるが、とくにゴダールの『勝手にしやがれ』はアメリカのギャング映画を下敷きにしながら、映画文法の無視、演劇的演技や心理描写の拒否、といった一見アマチュアリズムの居直りとも思える映画スタイルによって観客を驚かした。ヌーベル・バーグ誕生に大きな影響を与えた先達としては、映画監督のアレクサンドル・アストリュックAlexandre Astruc1923 )、『カイエ・デュ・シネマ』の理論家アンドレ・バザンがいる。トリュフォーらはバザンの批評をさらに進め、ハリウッド映画を高く評価して批評軸の転換をもたらした。『カイエ・デュ・シネマ』派にはほかにジャック・ドニオル・バルクローズJacques Doniol-Valcroze19201989)、エリック・ロメール、ジャック・リベットJacques Rivette19282016)らがおり、同派以外にはルイ・マル、アラン・レネ、ロジェ・バディム、アニエス・バルダらがいて、文学的・演劇的フランス映画の伝統に新風を吹き込んだ。[岩本憲児]

『佐藤忠男著『ヌーベルバーグ以後――自由をめざす映画』(1971・中央公論社) ▽飯島正著『ヌーヴェル・ヴァーグの映画体系』全3巻(19801984・冬樹社) ▽遠山純生編『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』(2010・紀伊國屋書店)』

【勝手にしやがれ】

かってにしやがれ

Au Bout de Souffle

フランス映画。1959年作品。ジャン=リュック・ゴダールの長編デビュー作であり、同年製作のクロード・シャブロル監督『いとこ同志』、フランソワ・トリュフォー監督『大人は判(わか)ってくれない』に続き、ヌーベル・バーグの名を世間に定着させ、さらに現在ではその象徴となった記念碑的作品。原題の意味は「息切れ」。車を盗み、行きがかりで警官を殺して逃避行を続けながらも、ミシェル(ジャン・ポール・ベルモンド)は女友達のパトリシア(ジーン・セバーグJean Seberg19381979)にまとわりつき、おしゃべりに時を忘れる。しかしコミュニケーションは成立していない。編集を終えていたシーンの何か所かをあとから細かく除去したために生じたジャンプカット、ドラマのなかに他の映画の引用をあえて持ち込む姿勢など、一見プロとは思えない表現をあちらこちらに印象深く散りばめながら、刻々変化していく人間の意識のありさま、偶然と不条理の支配する実存的現実の肌触りを見事に描いた。[出口丈人]

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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