高倉健の映画の世界

◆◆高倉健の映画の世界

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🔵高倉健リンク集

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★★NHK高倉健インタビュー100m

http://www.dailymotion.com/video/x1robmi_高倉健インタビュー1_shortfilms

http://www.dailymotion.com/video/x1qzd91_高倉健インタビュー2_shortfilms

★★高倉健追悼140m

https://m.youtube.com/watch?v=nOMcSgmLtOg

★★拝啓 高倉健様55m

http://varadoga.blog136.fc2.com/blog-entry-79551.html

9tsuまたはmioで見て下さい)

高倉健さんがこの世を去って1年。「人間・高倉健」の魅力についてはいろいろなエピソードが語られてきたが、「俳優・高倉健」については謎が多い。俳優としてのすごさは何だったのか?「無言・無表情・棒読み」は演技か素か?そして、なぜ私たち日本人は戦後70年にわたり健さんに喝采を送り続けてきたのか?高倉健さんに様々な形で関わった人たちが登場、「拝啓 高倉健様」という証言、手紙などを通し俳優としての魅力をさぐる

★★TBS報道特集「健さん文太さん」2014122723m

★★クローズアップ現代=高倉健70歳 素顔のメッセージ26m

または

★★プロフェッショナル仕事の流儀 ~高倉健スペシャル~ 72m- FC2

http://video.fc2.com/content/20141118S3XByNkv

★★高倉健さん83歳逝く不器用な男の銀幕伝説

https://m.youtube.com/watch?v=6tmq-u7DU9g

★★追悼 高倉健さん 最高の密着映像100時間50m×2100m

(1)http://www.dailymotion.com/video/x2awm2x_-100-_animals

(2)http://www.dailymotion.com/video/x2awf33_-100-_animals

★追悼 高倉健さんの富山刑務所での講演が涙を誘います8m

★文芸春秋、高倉健の最期の手記全文の内容を文春編集者が大公開!5m

https://m.youtube.com/watch?v=pjSGFRo0Uq4

★高倉健さんの死を悼む中国でのたくさんの報道8m

https://m.youtube.com/watch?v=T-jG9uf2iM4

★★高倉健の朗読60m

★★北海道キネマ図鑑 高倉健冬の旅 19970218110m

https://m.youtube.com/watch?v=Wn33BT2PNJ0

★「高倉健という生き方~最後の密着映像100時間~」48m – FC2

http://video.fc2.com/content/20141126wfrrW9N4/

★たけしと高倉健対談44m

またはhttp://video.fc2.com/content/2014112450VgdF6e/

★高倉健&吉永小百合8m

https://m.youtube.com/watch?v=gkI-X5__dO

★吉永小百合さんと夢の共演 高倉健の貴重な素顔 徹子の部屋 「動乱」を撮り終えて

https://m.youtube.com/watch?v=lAJJfdsi-DY

★高倉健さん、人となり計70m(2)(6)は下部から

(1)https://m.youtube.com/watch?v=6Z0sT04xTv8

★高倉健さん追悼143m

http://video.fc2.com/content/20120716s6xHh42y/

★【幸福の黄色いハンカチ】 追悼/ 高倉健さん主演映画名場面 

https://m.youtube.com/watch?v=b-mt7lHGtjs

★武田鉄矢が語る、高倉健!映画『幸福の黄色いハンカチ』での撮影秘話、名言、エピソードを語る8m

https://m.youtube.com/watch?v=7CQbk_HXUso

★とくダネ・高倉健特番(1)13m

★とくダネ・高倉健特番(2)59m

★高倉健さん 逝去 報道ステーション15m

https://m.youtube.com/watch?v=iG4vLIRXWjk

★山田洋次監督、高倉健さんとの思い出を語る6m

https://m.youtube.com/watch?v=ppYM_JXevDQ

★山田洋次監督が語る、高倉健!初めて会った時の印象、撮影秘話、映画『幸福の黄色いハンカチ』でのエピソード

https://m.youtube.com/watch?v=b0BzOfeBYec

★【高倉健:俳優人生】:健さんを偲んでその業績を振り返ります(親交の深かった方々の声とともに)

https://m.youtube.com/watch?v=SL6rPobDF7c

★高倉健さん逝く、寂しいな 東映任侠映画、幸福の黄色いハンカチ、鉄道員(ぽっぽや)あなたへ12m

https://m.youtube.com/watch?v=JuRY37-Y49Y

【高倉健主演の映画】

★★あなたへ

★★ホタル=ある朝鮮人特攻兵士の物語130m

★高倉健「網走番外地」全10作ダイジェスト 25m

https://m.youtube.com/watch?v=W8yQaFuOXLY

★★駅 125m

★★野性の証明140m

または

http://video.fc2.com/content/20120716s6xHh42y/

★★居酒屋兆治120m

★★夜叉120m

★「チロルの挽歌 ()」山田太一 脚本90m

https://m.youtube.com/watch?v=RP1t-xuMVek

★「チロルの挽歌 ()」山田太一 脚本90m

https://m.youtube.com/watch?v=CFPxks_A4sQ

★★幸せの黄色いハンカチ

110mhttps://drive.google.com/open?id=1MepbupFw2fmJJs4iIttr0Db2wSy9ib4z

または

★リメイク版

https://m.youtube.com/watch?v=XwqxOiChpBE

★★南極物語 (1983) 143m

または

http://v.youku.com/v_show/id_XMzM1OTAxOTky.html?x&from=y7.2-1-96.3.11-1.15-1-1-10-0

http://v.youku.com/v_show/id_XMjk1Njk0MjIw.html?x&from=y7.2-1-96.3.1-1.15-1-1-0-0

★★遥かなる呼び声123m

または

★★山田洋次シナリオ・リメイク版テレビドラマ=遥かなる山の呼び声 あべ

★★鉄道員

または

http://www.dailymotion.com/video/x1pao1h_poppo-1_lifestyle

http://www.dailymotion.com/video/x1p9uxg_poppo-2_lifestyle

★★映画「動乱」(高倉健・吉永小百合)110m

PCの場合全画面表示で見ると過剰広告減)

★★新幹線大爆破

http://www.tudou.com/programs/view/d-7nLzffK-A/

(接続困難な場合、Puffinアプリにアドレスをコピーして見てください)

★★四十七人の刺客

★★千里走单骑(130819

★★八甲田山180m

http://v.youku.com/v_show/id_XMjE4NDA3NzY=.html?x&from=y7.2-1-96.3.10-1.15-1-1-9-0

http://v.youku.com/v_show/id_XMjE4Mzg3NTI=.html?x&from=y7.2-1-96.3.1-1.15-1-1-0-0

または

https://m.youtube.com/watch?v=qsLoZfzjEAA

https://m.youtube.com/watch?v=11q_FQjbOFg

◆◆当ブログ=司馬遼太郎の世界と「坂の上の雲」、日露戦争と明治の研究に日露戦争と八甲田雪中行軍のリンクと解説あり

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3015371.html

★★君よ憤怒の河を渡れ150m

https://m.youtube.com/watch?v=qTS2HuNecSw

または

◆ムービー・ウォーカー=高倉健映画特集

http://movie.walkerplus.com/person/82813/

◆ヤフー・高倉健映画解説

http://movies.yahoo.co.jp/person/高倉健/52794/

◆朝日デジタル・高倉健特集

http://www.asahi.com/topics/word/高倉健.html

◆◆ 高倉健さん死去

20141119日朝日新聞

任侠(にんきょう)映画の「健さん」として一時代を築き、「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」「鉄道員(ぽっぽや)」など寡黙で一本気な「日本の男」を演じ続けた俳優で、文化勲章受章者の高倉健(たかくら・けん、本名小田剛一〈おだ・ごういち〉)さんが10日、悪性リンパ腫のため、都内の病院で死去した。83歳だった。最後の作品となった12年の「あなたへ」まで、生涯に205本の映画に出演した。

 福岡県生まれ。明治大学商学部を卒業後、就職難で実家に戻り、家業を手伝うが、55年に上京。芸能プロのマネジャーになろうと面接を受けたところ、居合わせた東映幹部にスカウトされ、俳優として第2期ニューフェースとなった。

 56年、映画「電光空手打ち」「流星空手打ち」の連作に主演デビュー。高校時代はボクシング、大学では相撲や合気道で鍛えたスポーツマン風の容姿がかわれ、現代劇スターとして売り出した。若い頃は「大学の石松」などの熱血青年役が多く、美空ひばり、片岡千恵蔵らとも共演した。中村錦之助の「宮本武蔵」シリーズでは佐々木小次郎を演じるなどしていたが、主演俳優としては伸び悩んでいた。

 「健さん」のストイックな魅力は、アウトロー役で開花した。61年石井輝男監督「花と嵐とギャング」の無鉄砲なチンピラ役で注目を浴び、ギャング映画に相次いで主演。65年に石井監督と組んだ「網走番外地」シリーズは、本人が歌う主題歌とともに大ヒットした。

 前後して始まった任侠路線の「日本侠客伝」「昭和残侠伝」も人気シリーズとなり、看板スターの地位を確立。渡世の仁義に命をかけて悪に切り込むヒーロー像は、全共闘運動高揚期の若者から熱い支持を獲得。唐獅子牡丹(からじしぼたん)を背負った「健さん」の決めぜりふ「死んでもらいます」や「義理と人情を秤(はかり)にかけりゃ……」という主題歌の歌詞は、流行語にもなった。

 70年にヘンリー・フォンダと共演の「燃える戦場」で念願のハリウッド進出を果たす。74年にも米国映画「ザ・ヤクザ」に出演した。だが、任侠路線の不振から、出演作は次第に減少。「ゴルゴ13」「新幹線大爆破」などで新境地を模索したが、76年に東映を離れる。

 独立後は「君よ憤怒の河を渉れ」「八甲田山」などの大作に相次いで主演。正義を求める不屈の男としてアウトローのイメージを払拭(ふっしょく)していった。山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」では、不器用な男の一途さを好演し、78年、第1回日本アカデミー賞主演男優賞、キネマ旬報主演男優賞、毎日映画コンクール男優演技賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞した。

 その後も、映画を中心に活躍。「野性の証明」「動乱」「海峡」「南極物語」などの大作に主演する一方、「駅 STATION」「居酒屋兆治」「あ・うん」などで無骨ななかに男の哀愁や優しさをにじませ、ファン層を広げた。

 89年にはリドリー・スコット監督の米国映画「ブラック・レイン」で久々に国際舞台に登場。92年の米国映画「ミスター・ベースボール」が200本目の出演作。94年には市川崑監督の「四十七人の刺客」で大石内蔵助を演じた。

 私生活を表に出すのを嫌った。売り出し中の59年、人気歌手の故江利チエミと結婚し、12年後に離婚。その後は独身を通した。律義で飾らない人柄で知られ、交友関係は幅広かった。その一方で、自ら「放浪癖がある」と語ったように孤独を好む一面も。長期間にわたり海外に一人旅に出ることも多く、行方不明騒ぎや死亡説が流れ、本人が反論の会見を開いたこともあった。

◆貫いた映画人 高倉健さん死去、慕われた「最後のスター」

 「最後の映画スター」だった高倉健さんが逝った。83歳だった。「健さん」と慕われ、敬意を払われ、公私ともにそのイメージを守り続けた。わずかにテレビ出演はあったものの、人生とことん、ひたすら映画俳優にこだわった人だった。

 「ぼくの名前は 高倉健。映画俳優のしごとをしている。もう四十年以上も 映画のしごとをしている。 ジェット機のパイロットの役」「剣術の達人の役、田舎の駅長の役」「気を入れて、いろんな人の役をやってきた」

 70歳の誕生日に出した「南極のペンギン」(集英社)という絵本の冒頭で、健さんはこんな文章で自分の足跡を書いた。

 24歳の時に東映第2期のニューフェースとして映画界入り。最後の作品は、降旗康男監督の「あなたへ」(2012年)だった。

 「網走番外地」(65年)で野性味いっぱいに高度経済成長時代の日本のムードと任侠(にんきょう)という世界を融合させ、映画全盛時代のなか、ポスト鶴田浩二として東映の看板スターを担い続けた。が、70年代、40代の働き盛りに、東映の路線変更と共に、ヤクザ映画から足を洗う

 決定的な転機は46歳で出演した「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」(77年)だった。東映から独立後で、健さん自身、自らの進むべき道を探しあぐねていた時代だった。

 結果、健さんをヤクザ映画のスターから国民的ヒーローに押し上げる作品になったのだが、本人にしてみれば、「映画人」とは何か――よほど、悩んでいた時期だったのだろう。

 健さんは撮影の合間に、山田洋次監督に「芸術ってなんですかねえ」と聞いてしまう。質問を受けて3日たってから、山田監督は答えた。

 「ジャンルは違っていても、この作者がこれだけ頑張っているんだから、おれももっと頑張れるんじゃないか――そんな生きる勇気を与えることが芸術じゃないんですかねえ」

 健さんは忘れないように太文字のペンで台本の裏にそっと、しかし一生懸命書いた。その紙切れを生涯、「お守り」のようにして財布に入れていた。

 山田監督の言葉は、きっと「いつも息子のあかぎれを心配していた」ふるさと(福岡県)の母親(故人)への思いとも重なったのだろう。

🔷24人の8月15日、健さんが結んだ 「伝えなければ」遺志継ぎ、ゆかりの人で証言集

朝日新聞202083

 映画俳優の故・高倉健さんと親交のあった人らの戦争体験をまとめた証言集「高倉健の想いがつないだ人々の証言『私の八月十五日』」が出版された。終戦を迎えた場所や年齢、生き方も全く異なる24人の記憶が、高倉さんを通じて一つの本にまとまった。

 「私の八月十五日」は、東京都国立市の出版社「今人舎」が2015年、絶版になっていた戦争体験の証言集を復刊させたもので、その後シリーズ化され、これまでに7巻が発行されている。高倉さんはこの復刊にあたって自身の戦争体験を寄稿。体験を自ら朗読した音声データも託したという。

 今回、同社が戦後75年の節目に総集編を企画し、資金援助を募るなかで、高倉さんの養女・小田貴月さん(56)から協力したいと申し出があった。

 泣く大人たち

 戦争体験をあまり語らなかった高倉さんだが、小田さんによると、晩年は「体験を伝えていかなければいけない年齢になった」とつぶやいていたという。

 北九州市の炭鉱で勤労奉仕をした際に、操縦士の顔が見えるほどの至近距離から機銃掃射を受けたこと。学校で和文のモールス信号を習ったこと。14歳で迎えた終戦の日、寺の境内で大人たちがラジオを囲んで泣いていたことなどをぽつりぽつりと語るようになっていた。

 ロケ地の縁で

 小田さんは「高倉なら何をしただろうかと考えた」と話す。「戦争を体験した市井の人がどんな気持ちであの戦争を見つめていたのかを伝えるべきだ」と、昨年11月から高倉さんとゆかりのある人を頼りに証言の聞き取りを始めた。証言者の中には、高倉さんが写真集の撮影の際に訪れた山梨県の飲食店の女性や、手紙でやりとりがあった細川護熙元首相がいる。

 そのほかにも、「幸福の黄色いハンカチ」や「鉄道員(ぽっぽや)」などの映画撮影で度々訪れていた北海道、遺作となった映画「あなたへ」のロケ地・長崎県で高倉さんと知り合った人から紹介された人も多い。証言者は北海道から鹿児島まで全国各地の24人。

 小田さんは「今の子どもたちにこそ、読んでほしい」と語る。「証言を通じて、子どもたちがこれからの生き方を考えるきっかけになれば」と話した。(金子和史)

◆(記者レビュー)健さんの生きざま偲ぶ

20141128日朝日新聞

フジ系の番組では禁欲的な姿勢を貫いた高倉健の言葉を紹介した

 10日に亡くなった俳優の高倉健を偲(しの)び、テレビ各局が追悼番組を相次いで放送している。「最後の大スター」にふさわしく、たくさんの枠で生きざまを掘り下げた。

 特に23日放送のNHKスペシャルは、生前に撮影された貴重なインタビューに、北大路欣也や小林稔侍の証言を交え、見応えがあった。

 実は高倉は俳優になった当初、演技を人に笑われていたという。その後、年に10本以上に主演するようになったが、心をすり減らし、3カ月も失踪。3年がかりだった映画「八甲田山」の撮影では、ほかの仕事を断ち、所有するマンションやベンツを手放した。そして、主役の責任感から現場を最優先し、肉親の葬式には出たことがなかった。エピソードを積み重ねた番組は、高倉はなぜ格好いいのか、抜きんでた存在感の理由を解き明かしていた。

 「人を想(おも)うことは美しい」という高倉の言葉を軸に構成したNHK「クローズアップ現代」や、ロケ地の人々と手紙のやり取りを続けた逸話を紹介したフジ系の特番も、人物像を厚みのあるものにした。

 任侠(にんきょう)路線からの転換点となった「幸福の黄色いハンカチ」が28日午後9時から日テレ系で放送されるなど、主演作品も続々と届けられている。その魅力を改めてかみ締める機会になりそうだ。(中島耕太郎)

◆高倉健さんが出演した主な作品 

「電光空手打ち」(1956年)

「日本侠客伝」シリーズ(64年~)

「網走番外地」シリーズ(65年~)

「昭和残侠伝」シリーズ(65年~)

「新幹線大爆破」(75年)

「君よ憤怒の河を渉れ」(76年)

「八甲田山」(77年)

「幸福の黄色いハンカチ」(77年)

「駅 STATION」(81年)

「南極物語」(83年)

「居酒屋兆治」(83年)

「夜叉」(85年)

「ブラック・レイン」(89年)

「あ・うん」(89年)

「鉄道員(ぽっぽや)」(99年)

「ホタル」(2001年)

「単騎、千里を走る。」(06年)

「あなたへ」(12年)

◆◆高倉健=被災地心に 写真の少年に手紙

2014.11.19河北新報

「毎朝、写真を見るとぎゅっと気合が入る」

 東日本大震災の被災地への思いは、1枚の写真との出合いがきっかけだった。気仙沼市でがれきの中、唇をかみしめて水を運ぶ少年。10日死去した俳優の高倉健さんは、最後の主演映画「あなたへ」(2012年公開)の台本にこの写真を貼り、持ち歩いていたという。高倉さんは被災地のことを常に胸に刻み、少年と心の交流を続けていた。

 がれきの中を歩く少年は、同市鹿折中2年の松本魁翔(かいと)君(14)。震災の津波で同市新浜町の自宅が全壊し、近くの親類の家に身を寄せていた当時小学4年の松本君は「みんなの役に立ちたい」と黙々と井戸水を運んでいた。

 高倉さんは新聞から切り抜いた写真を「宝物」と言って台本に貼り付け「毎朝、写真を見るとぎゅっと気合が入る」と語っていた。

 高倉さんと松本君は手紙も交わしている。「気仙沼を立派にして健さんを招待したい」と松本君が送った手紙に昨年4月、高倉さんから返事が届いた。「常に被災地を忘れないことを心に刻もうと映画の台本に魁翔君の写真を貼って毎日撮影にのぞんでいました」

 「私は魁翔君があまり注目されすぎてしまうことをのぞみませんでした。人生で一度しか味わえない子供時代の日常生活を、できるだけ平穏に過ごしてほしいと願っているからです」と、松本君を思いやる心情もつづられていた。

 手紙は「遠くからですが、貴方(あなた)の成長を見守っています。負けないで!」と締めくくられていた。

 「健さんは心が熱い熱い人。俺もこういう人になりたいと思った」と松本君。手紙をもらったことはこれまで秘密にしてきたが「俺のように、読んだ人が元気をもらってくれるならうれしい」と言う。

 松本君は「健さんには大きな力をもらった。気仙沼が復興する姿を見守っていてほしい」と、高倉さんに復興を誓った。

◆高倉健さん「アリラン」に込めた思い=ホタル

(14.11.30赤旗日曜版)

🔵降旗康男監督をしのぶ

◆◆「鉄道員」「ホタル」など降旗康男監督をしのぶ 赤旗日曜版19.06.16

◆◆降旗康男監督、高倉健を語る=最後覚悟のラストシーン

15.04.28朝日新聞

 昨年11月に旅立った映画俳優、高倉健。享年83。その出演作のうち20本のメガホンを取り、最も信頼されていたのが降旗康男監督(80)だった。亡くなった時には「残念の一語に尽きる」と短いコメントを出しただけで、沈黙を貫いてきた降旗監督が今、その出会いから別れまでを語る。

◆道がもっと長かったら、まだまだ健さんを追い続けたかった

 昨秋、健さんとの新作が具体化し始めた時、入院の話を聞きました。10月末に「病気がうまくいかない」という手紙をもらい、「回復するまで待っています」と返事をしました。

 それから間もなくです、訃報(ふほう)が届いたのは。きちんとお別れを言えていれば、コメント出来たのかもしれません。その時はただ「え?」としか思えなかった。新作の脚本ですか? 細断してもらいました。

 健さんと出会ったのは1957年、僕が東映で最初に助監督に付いた美空ひばりさんの映画です。横浜ロケの後、ひばりさんが健さんを自宅に呼んでね。取り巻きの連中は酒を飲んで盛り上がっちゃった。でもこれから東京で撮影の続きがあり、僕は健さんを連れ帰る役でした。一方、宴席が苦手な健さんも逃げたがっていて、2人で目配せをして抜け出したんです。

 以来、撮影所で顔を合わせると「おう、やってるかい」と健さんは声をかけてくれました。僕は助監督をしながら、健さん主演の企画を会社に出していました。そのうちの1本が「地獄の掟に明日はない」でした。

 健さんが演じた暴力団員は長崎で原爆に遭っていて、独特のニヒリズムを秘めています。当時奥さんだった江利チエミさんが健さんに「あなたには、こういう映画が合っている」と言ってくれたと聞いてね、すごくうれしかったです。

 その後、東映時代に「新網走番外地」シリーズを6本撮りましたが、どれもワンパターン。健さんと僕は、いつも俊藤浩滋プロデューサーに「この企画、もっと面白く練ってから撮影しましょうよ」と訴えました。そんなところから気心が通じていったんでしょうね。

 東映を辞めた後、しばらくテレビドラマの演出をしていましたが、「冬の華」で劇場映画に復帰しました。健さんが僕を呼んでくれたんじゃないかな。

 僕にとって、健さんの作品で最も印象深いのが特攻隊を描いた「ホタル」です。鹿児島・知覧基地の近くで食堂を営んでいた鳥浜トメさんの番組を健さんが見て、「特攻とは何だったのかを問う映画を作りたい」と言ってきたのが始まりでした。

 これはまた随分面倒な話を持ってきたな、と感じました。しかし同時に、絶対にやらなきゃいけないテーマだとも思いました。これは高倉健がいなければ実現しなかった映画なんです。

 健さんは東映で特攻隊の映画にいくつか出ていてね。でも忠君愛国を信じて飛び立つ映画の中の若者と、トメさんの話は全然違っていた。本当のことを伝えずにギャラをもらい、そのまま死んでいくのは嫌だ、と。

 知覧に行くと、朝鮮出身の特攻隊員の碑がありました。植民地の若者が出撃する話を中心に据えようと思い付き、韓国ロケもすることになりました。すると、健さんが「韓国に行くのなら『アリラン』を歌わなきゃいけませんね」と言ったんです。その言葉から脚本が出来上がっていきました。

 健さんが亡くなった時、「ホタル」はほとんど取り上げられなかった。韓国とぎくしゃくしている今の時代にふさわしくないと判断されたんでしょうか。

 結局、「あなたへ」が最後の作品になりました。この映画のクランクアップは、健さんが門司港の岸壁を歩く長回しのラストシーンでした。今になって、健さんがどこか遠くへ去ってしまうように見えると言われますが、僕自身、あれが健さんの最後のシーンになってもいいように、との思いで撮ったんです。

 道がもっと長かったら、まだまだ健さんをカメラで追い続けていきたかった。終わってほしくなかった。健さんのラストショットにしては、決して100点じゃなく、80点でもないけれど、72点くらいにはなったかなと、今は思っています。

 (聞き手 編集委員・石飛徳樹)

19.05.28赤旗

🔷🔷降旗康男さん死去 映画監督 「鉄道員」「居酒屋兆治」 朝日新聞2019527

 「居酒屋兆治」「鉄道員(ぽっぽや)」など、高倉健さんの主演作を数多く手がけた映画監督の降旗康男(ふるはた・やすお)さんが20日、肺炎のため東京都内で死去した。84歳だった。葬儀は近親者で営んだ。お別れの会は開かない。喪主は妻典子さん。

 1957年、東京大学文学部仏文科を卒業して東映に入社。66年に「非行少女ヨーコ」で監督デビューする。2作目の「地獄の掟(おきて)に明日はない」で初めて高倉さんの主演映画を撮る。以来、「新網走番外地」シリーズなど、コンビで娯楽映画を量産した。

 74年に東映を退社。同じくフリーになっていた高倉さんの主演で「冬の華」を発表。それまでの娯楽路線とは少し異なる、哀感と叙情性の濃いヤクザ映画として高い評価を得た。以後、「駅 STATION」や「夜叉(やしゃ)」「ホタル」など、高倉さんの後期の映画はほとんど手がけている。

 99年、浅田次郎さんの直木賞受賞作「鉄道員」を映画化。北海道を舞台に、高倉さん演じるローカル線の駅長と家族の物語を、木村大作カメラマンの美しい映像とともに描き出し、日本アカデミー賞最優秀監督賞と最優秀脚本賞を得た。

 2001年度に芸術選奨文部科学大臣賞。14年に高倉さんが死去。12年の「あなたへ」まで、高倉さんとのコンビ作は20本に上った。

 「赤い疑惑」(TBS系)などテレビドラマの演出も多い。16年に「追憶」を監督した後、パーキンソン病を患っていた。

🔴◆高倉健出演の降旗康男監督作品

1966 「地獄の掟に明日はない」

1968 「獄中の顔役」

1969 「新網走番外地 流人岬の血斗」

1970 「日本女侠伝 真赤な度胸花」

     「捨て身のならず者」

     「新網走番外地 大森林の決斗」

     「新網走番外地 吹雪のはぐれ狼」

1971 「ごろつき無宿」

     「新網走番外地 嵐呼ぶ知床岬」

     「新網走番外地 吹雪の大脱走」

1972 「新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義」

1978 「冬の華」

1981 「駅 STATION」

1983 「居酒屋兆治」

1985 「夜叉」

1989 「あ・うん」

1999 「鉄道員〈ぽっぽや〉」

2001 「ホタル」

2006 「単騎、千里を走る。」(チャン・イーモウ〈張芸謀〉と共同監督)

2012 「あなたへ」

◆降旗監督と高倉健さん=ホタル

14.11.24赤旗)

◆◆降旗康男監督=映画人生60 新作の「追憶」、健さんの役者魂を次の、世代へ

(赤旗17.04.24

◆◆(映画の旅人)「南極物語」=北海道稚内市

◆健さん、どうか仲間に

 1982年1月下旬、青森県の竜飛岬。吹き飛ばされそうな強風の中、映画「海峡」の撮影が深夜まで続いていた。主演の高倉健さんは自分の出番後も、共演の吉永小百合さんやスタッフを気遣って現場の片隅に残り、黙々と屈伸運動をしていた。

 東京から健さんを追ってきたフジテレビの映画部長、角谷優(まさる)さん(76)は足元から襲う冷気に震えながら、意を決して話しかけた。「寒いですね」

 健さんは硬い表情で答えた。「こたえますね。角谷さんの依頼は知っています。どうしてこう北へ北へという映画ばかり話がくるのでしょう。もうこんどは勘弁してほしい気持ちです」。「八甲田山」「動乱」「駅 STATION」……。健さんは極寒の地での仕事が続いていた。角谷さんは「南極に行ってくださいとは言えなかった」と振り返る。

 一方で、製作資金の工面や安全面の確保など様々な困難を乗り越えながら、「南極物語」の企画はすでに動き出していた。

 角谷さんは思いを手紙にしたためた。「いま南極にいる蔵原惟繕(これよし)監督は、肋骨(ろっこつ)の骨を折った痛みに耐えながら実景を撮るため頑張っています。弟の惟二(これつぐ)プロデューサーたちは、真っ暗な北極で犬の訓練をしています。国民全体にみてもらう作品にするために、あなたが必要です。どうか仲間の一人になってくれませんか」。健さんが泊まっていた宿の部屋のドアに手紙をはさんで、青森を去った。

 約半月後、健さんの元妻・江利チエミさんが亡くなった。健さんは人前から姿を消した。

 「南極物語」の製作発表の日が刻々と迫っていた。「主演が決まらないまま会見はできない。配給会社など各方面からせっつかれ、監督や私たちは困り果てました」と角谷さん。

 健さんのエッセー『あなたに褒められたくて』(集英社文庫)に当時の心境がつづられている。「自分でもどうにもならないほど、気持ちが滅入(めい)ってしまって、これまで何度かお世話になった、大津の街の灯(あか)りが遠くにキラキラ美しく見えるある寺で、数日過ごさせていただき、住職にいろいろ有難いお話を聞かしていただきながら、心を整えようと努めてました」

 《行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし》

 比叡山の寺にいた健さんは、天台宗大阿闍梨(だいあじゃり)の酒井雄さいさんにもらったこの言葉に背中を押され、出演を決める。製作発表の前日の3月4日、蔵原監督の元に承諾の電話をした。

 直後から北極圏のカナダのレゾリュートで撮影の準備が始まった。第2次越冬隊長を演じた大林丈史さん(73)は、現場で昭和基地のセット設営に一から関わった。「零下50度にもなるブリザード地獄。丸太が凍っていて釘が曲がり打てなかった」

 4月下旬、健さんと渡瀬恒彦さんがレゾリュートに着いた。雪焼けしたスタッフたちが一列になって出迎えた。惟二プロデューサー(79)は「僕らの顔をみた途端、健さんの顔色がぱっと変わりましたね。『よろしくお願いします』というと、健さんは直立して敬礼した」。

 後から「出遅れた」とつぶやいたという健さん。大好きなコーヒーを一切断って、北極圏そして南極でのロケに挑んだ。

 (文・写真 伊藤恵里奈)

◆映写室 「南極物語」(1983年)

 1957年、風雪と氷に閉ざされた南極に昭和基地が設けられた。潮田暁(高倉健)と越智健二郎(渡瀬恒彦)ら観測隊員たちは、物資や人員を運ぶために選ばれた樺太犬と苦労を共にしながら極寒の地で調査をした。

 翌年2月、第2次観測隊に犬たちを引き継ぐため、犬係の潮田と越智はタロ、ジロら15頭を鎖につないだまま基地を離れて観測船「宗谷」に戻った。

 だが悪天候が南極を襲い、第2次隊は昭和基地にたどりつけず、越冬中止に追い込まれた。潮田たちの必死の抗議もむなしく、犬たちは無人の基地に取り残された。

 南極の自然美と生命の輝きを見事に引き立てた音楽は、「炎のランナー」でアカデミー賞作曲賞をとったばかりのヴァンゲリスが手がけた。ロンドンでの音楽録音に立ち会った録音技師の紅谷愃一(けんいち)さん(83)は「ヴァンゲリスは気分屋でなかなか音楽ができなくてハラハラした」と笑う。しかし出来上がった曲を聴いて「さすがだ」と感心した。「躍動感があり、犬が走ってくるシーンにぴったり。音量を絞っても厚みと広がりがあるんです」

◆邦画興行成績1位に長く君臨し続けた「南極物語」

 南極物語のもう「一人」の主役は、犬たち。「実際に南極観測で活躍した犬たちは稚内で訓練されたんです」。2010年、第52次隊に参加した北海道の稚内市職員、市川正和さん(43)は語る。「私は大先輩の犬たちと稚内の縁のおかげで、南極にいけた」

 1956年、日本が初めて南極観測に参加するにあたり、北海道の樺太犬が交通と物資輸送の手段に選ばれた。寒さと粗食に耐え、どんな吹雪になっても方向感覚を失わない。極地に最適だった。道内から約40頭が集められ、冬の稚内公園で厳しい訓練がおこなわれた。22頭が選抜された。タロ、ジロは前年秋に稚内市内で生まれたばかりの子犬だった。市川さんと第46次隊の近江幸秀さん(53)、2人の市職員を南極に送った元市長の横田耕一さん(66)は「日本最北にある稚内と南極は、地理的には離れているけど縁が深いんです」と語る。

    *

 稚内公園にある「南極観測樺太犬訓練記念碑」の除幕式は、映画で再現された。健さん演じる潮田は大学の職を辞めて謝罪の行脚に出ていた。基地に置き去りにされた犬の元の飼い主たちが悲しみにくれる様子をじっとみつめていた。

 そこで外国人記者から置き去りの理由を問い詰められた潮田は、思わず「自分たちの手で殺してやればよかったんですね」と返す。それほど心理的に追い詰められていた。実際、犬たちを置いて帰国した観測隊員たちは、当時世間から「犬殺し」と激しく非難されたという。

 「南極物語」をみた人は犬たちの運命とけなげさに涙するだろう。「可愛そうだから殺した方がよかった」という考えは一見、優しさ故の切ない発想にみえる。だが、底には「人間のエゴ」が見え隠れする。蔵原監督は潮田の苦悩を描くことで、人間のドラマに昇華した。

 晴れた日、稚内市の南西の空には壮大な利尻山(標高1721メートル)が浮かぶ。蔵原監督は夕日に映える利尻山を背景に、犬の元飼い主の少女(荻野目慶子)に向かって、潮田に心境の変化を語らせる。「どんな生きものにも命があって誰もその命を奪う権利なんかないんだ」。

 記者は健さんと同じ風景をみるチャンスを狙ったが、かなわなかった。当時ロケを支援した元市職員の三国健さん(69)は「監督たちは、利尻山が一番きれいにみえる時期と場所を選びに選んだ」と振り返る。こだわり抜いて撮った場面から一転、南極の白い大地をかけぬけるタロ、ジロの生の躍動、そして感動のラストへと場面が盛り上がっていく。

 撮影時、荷役の役割を車にとってかわられた樺太犬は、北海道ではほぼ絶滅していた。代わりにカナダのイヌイットから集めた犬が活躍。タロ、ジロ役の犬はイヌイットの少女が可愛がっていた子犬を頼み込んだ末に買いとった。

 タロ、ジロ役の犬は映画のキャンペーンで全国をまわった後、稚内市に寄贈された。他の役の5頭の犬も市内の愛犬家にひきとられた。映画をきっかけに犬ぞり復活の機運が高まり、84年に第1回「全国犬ぞり稚内大会」が稚内公園で開かれた。当初はタロ、ジロ役の犬も出場。やがて全国各地の犬ぞり愛好家が出る「犬たちの甲子園」と呼ばれる大会になる。今年で32回目になり、真冬の一大イベントとして親しまれている。

 2月下旬に開かれた今年の大会。「南極物語」のテーマ曲が響いていた。大会常連の札幌市の林洋さん(65)は愛犬をなでながら、「タロ、ジロの物語には本当に感動したね。私も犬がめんこくて大好きなんだ。愛情を持って根気よく接するとちゃんと伝わるよ」とほほえむ。

    *

 「蔵原監督は本当に犬を大事にしていました」と角谷優さんは振り返る。北極圏ロケでは犬たちに獣医師2人が付いた。のちに「マリリンに逢いたい」などで知られる宮忠臣ドッグトレーナーが中心となり、根気よく調教した。犬にあまり「演技」をさせず、自然な表情を追った結果、撮ったフィルムは上映時間の40倍にのぼる約50万フィートになった。

 約1年後にタロとジロに再会するラストシーンは、一番最初の北極圏のロケで撮る予定だった。だが健さんは納得しなかった。「一番重要なシーンは、犬と十分なじんでから撮りたい」。こだわりによって、撮影日程の最後にまわされた。

 映画の公開日は、83年7月23日に決まっていた。年明けに北海道でラストシーンを撮る予定だったものの、暖冬で流氷がこない。結局、ラスト数分間のためだけに、米アラスカ州ノームに向かった。

 健さんや渡瀬さんは一年かけて犬たちと心を通わせていた。「あまり甘やかしてはいけない」とスタッフたちが一定の距離を保つ中、こっそりビスケットをやっていたという。「ばれたとき健さんは照れながら『懐いてもらわないとね』と言い訳していましたね」と角谷さんは笑う。かくして健さんと犬たちは心の底から再会を喜びあうシーンを演じきった。すべての撮影が無事に終わり、スタッフたちは雪の上で抱き合って泣いた。

 巨額の製作費、2度にわたる南極ロケ、犬が主役――。「色々な奇跡が重なって完成できた」と関わった人たちは口々にいう。「南極物語」は社会現象になるほど大ヒット。「もののけ姫」に抜かれるまで14年間にわたり、邦画興行成績の歴代1位に君臨し続けた。

◆ぶらり

 南極観測に縁が深い稚内市。「青少年科学館」には、実際に南極で使われた犬ぞりや第1次隊の建物、隊員が着用した防寒具、南極観測船「宗谷」「ふじ」「しらせ」の模型、新聞記事など貴重な資料がそろう。

 樺太犬の訓練地だった「稚内公園」からは海を一望できる。「南極観測樺太犬訓練記念碑」や「樺太犬供養塔」のほか、市のシンボルといえる「氷雪の門」がある。かつて多くの日本人が暮らしていた樺太への望郷の念と、戦中・戦後に現地で亡くなった人たちの慰霊のために建てられた。近くには、1945年8月に真岡(現ホルムスク)の郵便局で集団自決した女性電話交換手を悼む慰霊碑「九人の乙女の碑」もある。

 稚内空港近くには映画やテレビで活躍した動物たちがくらす「動物ふれあいランド」がある。かつてはタロ、ジロ役の犬が余生を過ごした場所。オープンは4月下旬から9月末まで。

 「おじちゃんなんて嫌い」。健さん演じる潮田が樺太犬リキの飼い主だった少女に涙ながらに訴えられる場面は、JR抜海(ばっかい)駅で撮影された。日本最北の無人駅で、映画ファンや多くの鉄道ファンが訪れる。構内にはノートが置かれ、旅人たちが思いを書き残している。稚内では毎年8月に「稚内みなと南極まつり」が開かれ、「南極おどり」や南極にいった樺太犬をしのぶイベントもある。

◆見る・読む

 「南極物語」は一昨年、フジテレビジョンからブルーレイ版が発売された。DVDもある。

 お薦めは、健さんが俳優人生を優しい語り口で振り返った絵本『南極のペンギン』(集英社)。自ら朗読したCDも出ている。健さんのエッセー『あなたに褒められたくて』(集英社文庫)や『旅の途中で』(新潮文庫)からは、数々の名作の撮影当時のエピソードや健さんの飾らない人柄が伝わる。角谷さんの『映画の神さまありがとう~テレビ局映画開拓史~』(扶桑社)=写真=では、「南極物語」の製作側の苦労や撮影時のエピソードを知ることができる。

◆朝日新聞社説

20141119日朝日新聞)

日本映画には、誰もが親しみを込めて「名前」で呼び、その名を聞くだけで、風姿と人柄が思い浮かぶヒーローが、ふたりいる。

 ひとりは「寅さん」。シリーズ48作を数える「男はつらいよ」で、主演の渥美清さんと山田洋次監督らが作り上げた、スクリーンの中の人物だ。

 もうひとりは「健さん」。

 83歳で旅立った、俳優の高倉健さんである。

 映画以外にはほとんど出演せず、観客に私生活を見せなかった最後の「銀幕スター」。生涯で205本に出演したが、観客はいつも、演じる役の中に「健さん」を見てきた。

 格好良く、自分のためではなく、他人のために命を賭ける「男の中の男」を。

 人気を決定づけた任侠(にんきょう)映画では、義理と人情のはざまで、我慢に我慢を重ねた末に敵陣に斬り込む、悲壮美と迫力が、熱く支持された。

 その後は様々な作品で、過酷な自然と闘う人間の強さ、不器用に愛を求める男の切なさ、実直に仕事を守り続ける者の誇りなどを体現し続けた。

 スクリーンの中に息づく、信義に厚く、損得勘定とは無縁の寡黙な姿を、人々は生き方の一つの規範と受け止めた。そしてそれを、人間・高倉健と重ねてきた。

 素顔の健さんも、観客の期待を裏切らない生き方を貫いた。

 礼節を重んじ、過酷な撮影現場でも、決して楽をしようとはしなかったという。

 有名無名を問わず、出会った人との交流を大切にし、いつもこまやかな心配りをしていたことが、多くの追悼談話で語られている。

 背筋の伸びた、たくましい健さんの後ろ姿。その背骨には、母の言葉があった。

 「辛抱ばい」

 「家族に恥ずかしいことをしなさんな」

 映画の中で「入れ墨を入れたり、寒いところへ行ったり」する息子の身を案じ続けていたというおかあさんの、素朴だが、重い人生訓である。

 この教えを一途に守った健さんの姿勢は、役を通してスクリーンからにじみ出た。それは国内だけでなく、海外でも、尊敬できる人間像、生き方の美学として受け止められてきた。いま、中国からも、アメリカからも哀惜の言葉が届く。

 逆境に耐え、自らを律する。そう望んだ母の教えに照らして、恥ずかしくないか。健さんを磨き上げ、輝かせたのは、その自省の深さだったのだろう。

◆高倉健さん死去、中国各界から悼む声

20141119日朝日新聞

東京国際映画祭に到着した中国人映画監督の張芸謀さん(左)と高倉健さん=2005年10月22日、ロイター

 高倉健さんの死去のニュースに、中国では高い関心が寄せられている。中国メディアが18日、速報で伝え、各界から悼む声が相次いだ。中国外務省は同日、哀悼の意を表明した。

 国営新華社通信は「伝説の日本人俳優・高倉健」として、過去の歩みを詳しく報道。共産党機関紙・人民日報のネット版人民網などは、1978年に中国で上映された、高倉さん主演の「君よ憤怒の河を渉(わた)れ(中国名・追捕)」は文化大革命後の最初の外国映画だったとし、「中国本土でセンセーションを巻き起こし、アイドルとなった」と論評した。

 同映画は「冤罪(えんざい)」がテーマ。多くの知識人らが冤罪で命を落とした文革の記憶と重なり、当時の中国では異例の1億人(延べ)以上の観客を動員したとされる。高倉さんの、映画で身につけた服装も流行した。19日には、北京市内で追悼上映会が開かれるという。

 高倉さんは中国映画「単騎、千里を走る。(千里走単騎)」(日本公開は2006年)に出演。同映画の監督、張芸謀(チャンイーモウ)氏のプロダクションは中国版ツイッター「微博(ウェイポー)」に「彼の声や笑顔はいまなお目に浮かぶ。古い友人が去るのはただただつらく悲しいが、天国でも幸福を祈る」とのコメントを寄せた。微博にはこの日、国営中央テレビの司会者や作家、市民らが「中国映画に男らしさは何かを示してくれた」「唯一好きな日本人芸術家だ」など次々にしのぶ言葉を書き込んだ。

 日本映画に精通する月刊誌「人民中国」の王衆一編集長は「ハリウッドとは違う、無口で我慢強い、東洋的なかっこいい男を体現し、中国人の心をつかんだ。残念です」と話した。(北京=倉重奈苗)

◆◆(beランキング)あなたの好きな健さん映画

15.01.10朝日新聞

 最後の映画スターと呼ばれた高倉健さんの急逝から、はや2カ月。今もレンタルビデオ店には追悼コーナーが設けられ、作品のテレビ放映や劇場での上映も相次ぎ、改めてその人気の高さを印象づけました。皆さんに好きな作品を尋ねたところ、多くの支持を集めたのは、堅気になった健さんでした。

 1位は公開時に主要映画賞を総なめにした「幸福の黄色いハンカチ」だった。「何度見てもラストシーンは感動して鳥肌が立つ。北海道のロケ地にも行きました。黄色いハンカチロケ地前というバス停まであり、さらに感動」(香川、26歳女性)をはじめ、ハンカチたなびく結末に心揺さぶられた人が多数。「走り寄って抱きつくわけでもなく、洗濯物を干す妻に荷物を渡して家の中に入っていく。朝出ていった仕事から帰ってきたような雰囲気が印象に残る」(三重、59歳女性)、「中学3年生の時、体育館に集められ鑑賞。笑えて切なくて。反抗的な態度ばかりとっている悪ガキが多かったが、みな楽しんで見ていた」(埼玉、42歳男性)、「やくざ映画の香りを残しながら、寡黙な主人公を過不足なく演じた最も印象的な作品」(京都、72歳男性)などと、世代を超えて支持された。

 アウトローだけでなく、一途な職業人を好演したのも健さんの持ち味。長く「寡黙、義理人情のワンパターンで好きではなかった」という大阪の女性(55)は、2位の「鉄道員(ぽっぽや)」を見て印象が変わった。「黙々と仕事をこなし、悲しみも愚痴も心に押し込めている姿がとても心に残った」と書く。「これは泣けた。昭和の男の仕事に対する向き合い方はこんな風に不器用だ。楽しい仕事なんてない! 苦しいことばかりだ! 今の人間の楽しんで仕事をするなんて私にはわからん」(東京、67歳男性)という声もあった。

 健さんをヒーローにした任侠(にんきょう)路線の作品は、「嫌い」「見ていない」という声が意外と目立った。だが、福岡の男性(60)は「自分にとっての健さんは任侠ものに限る」と言いきる。「やくざ映画は日本が忘れてはならない精神を秘めていて、健さんはその象徴的存在。まじめさ、やさしさ、不器用さ、寡黙さは武闘系にこそ似合う。堅気になってはいけない人だった。今でもそう思う」と説く。ストーリーはマンネリでも、殴り込みのシーンで客席から声援が飛ぶ一体感、主人公になった気分で映画館から出てきた高揚感を懐かしむ声は、少数派ながら熱っぽい。

堅気になって国民的人気に?

 以下、読者のコメントから、忘れられない名シーンを紹介。

 「夜叉」=「男の中の男。ビートたけしに背中を切られ、はらりと夜叉の入れ墨が現れるシーンは忘れられない。そして最後の田中裕子の笑み。背筋が凍りました」(静岡、55歳女性)▽「野性の証明」=「薬師丸ひろ子を背負いながら、拳銃一丁で戦車に向かっていくラストシーンに感動」(茨城、56歳男性)▽「駅 STATION」=「倍賞千恵子さんと2人でお酒を飲みながら紅白歌合戦の『舟唄』(八代亜紀)を聴くシーンは涙が出る。北海道の雪景色と昭和の雰囲気が最高」(兵庫、51歳女性)▽「あ・うん」=「モダンで知的でシャイな健さんが楽しめる。富司純子と雷光の中、黙って見つめ合うシーンは言葉がない分お互いの秘めた思いが立ち上ってくるようだ」(北海道、70歳女性)などなど、それぞれの健さんが皆さんの胸の内にいる。

 映画の役が本人の人柄と同じだというイメージが広がり、「ご本人もそれが自然であるかのような生き方をされていたように思う」と京都の男性(70)は同情する。「いつも無口で純朴な良い人でいるのは大変です。しんどかったのでは」。没後に紹介された誠実な人柄をたたえる声は多いが、こうした見方をする人もいた。

 とはいえ「最後まで高倉健を演じ続けた不世出の名優。日本男児かくあるべしを背中で示すことができた数少ない人だった」(香川、46歳男性)のは間違いない。だからこそ最後の映画スターだったのだ。(山内浩司)

 <調査の方法> 朝日新聞のウェブサイトでデジタル会員登録者を対象に11月下旬~12月上旬にアンケートをした。回答者は1562人。高倉健さんの出演作205本のうち、主要作品83本から好きな作品を5本まで選んでもらった。21位以下は「冬の華」「ゴルゴ13」「ミスター・ベースボール」「夜叉」「日本侠客(きょうかく)伝 花と龍」「海峡」「昭和残侠伝」の順。BDはブルーレイディスク。「幸福の黄色いハンカチ」(C)1977・2010松竹株式会社

◆「往く道は精進、悔いなし」=高倉健さん「最期の手記」

文芸春秋2015年新年号に掲載された「高倉健 最期の手記」

 俳優、高倉健さんが83歳で死去する4日前の11月6日に書き上げた手記が、10日発売の月刊誌「文芸春秋」1月号に掲載された。終戦の日の記憶に始まり、新人俳優時代から代表作「八甲田山」の撮影など、人生の節目を率直に振り返っている。

 任侠(にんきょう)シリーズを上映中の映画館で観客の熱気に触れた感激や、多忙の中、撮影所を抜け出し「数十日間の孤独なストライキ」を断行した思い出もつづる。極寒の撮影に耐えた「八甲田山」では森谷司郎監督の「どうしてそんなに強いの?」の問いに「生きるのに必死だからですよ!」と答えた逸話も語られる。

 「僕に一つの道を示し続けて下さっている」と言う比叡山大阿闍梨の故酒井雄※(※=哉の戈が弋)氏から贈られた座右の銘「往(ゆ)く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし」を引いた上で、手記は「合掌」の一語で静かに締めくくられている。(2014/12/10-11:29

◆◆クローズアップ現代=人を想う~映画俳優・高倉健さん~

20141120日(木)放送

映画のクランクアップ直後の高倉健さん。

9年前、2か月に及ぶ密着取材で俳優人生を支えてきた思いを語りました。

◆不器用で寡黙な男

高倉健さん

「人を想うということは、いかに美しいかということ。人間が人間のことを想う、これ以上に美しいものはない。」

不器用で寡黙な男。

『鉄道員(ぽっぽや)』より

ぽっぽやを全うしようとしている。

高倉さんは半世紀を超える俳優人生で、一途な男を演じ続けてきました。

『あなたへ』より

われわれが伝えなければ。

高倉健さん

「誰かを好きになるということが、一番やっぱり強いと思いますね。」

ありがとう。

圧倒的な存在感。

数々の名優にも大きな影響を与えました。

『動乱 第1部 海峡を渡る愛/第2部 雪降り止まず』より

東京に帰って何があるんですか。

吉永小百合さん

「高倉さんの息づかいとか、そういうものが伝わってきて、映画のおもしろさっていうのはこれなんだって。」

『あなたへ』より

量が多いですから、先どうぞ。

いえいえ、とんでもない。

ビートたけしさん

「高倉健さんが立ったときに、独特の孤独感がある。」

日本中を魅了し続けた映画俳優、高倉健。

不器用ですから。

貫き通した映画、そして人への思いに迫ります。

◆「人を想う」

人を想う 映画俳優・高倉健さん

13年前、クローズアップ現代に出演した高倉健さん。当時70歳。映画への情熱を支えているものについてこう語っていました。

高倉健さん

「あの、やっぱり、誰かを好きになるっていうことが一番、やっぱり強いと思いますね。

僕はやっぱり自分が一番ぴっとするのは、好きなスタッフに見つめられるとき、やっぱりぶるぶるっとしますですよね。それは本当にもう、口に出して言ってもなかなか分かってもらえないと思います。

自分が心で感じることですから、鳥肌が本当にこう、立つんですね。」

高倉さんが大切にした人を想う気持ち。

それは、長い映画人生を通じて育まれたものでした。

◆仁きょう映画

『網走番外地』より

あたくし関東竜神一家、橘真一という駆け出し者でございます。先夜のお礼にまいりました。

高倉さんがデビューしたのは1956年、25歳のときでした。数多く出演した仁きょう映画。義理と人情を重んじる役柄は、多くの人々の心をつかみます。

『昭和残侠伝』より

湯浅死んでもらうぜ。

高まる一方だった人気とは裏腹に、高倉さんは悩みを深めていました。高倉さんの映画のポスターを手がけ、親交を深めていた、美術家の横尾忠則さん。

当時、高倉さんから悩みを打ち明けられていました。

横尾忠則さん

「健さんは、やくざ映画はいいかげん足を洗いたいとおっしゃっていました。何かわかりませんが、自分がいつの間にか人生で抱えた荷物のようなものを外して、それを表現という媒体を通して、吐き出していきたいという気持ちがあったと思う。」

◆「幸福の黄色いハンカチ」

『幸福の黄色いハンカチ』より

ゆうさん、ほら、見てみろ!

転機となったのは1977年、映画「幸福の黄色いハンカチ」。

ほら、ちゃんとあったじゃないの!

演じたのは仁きょうものではなく、不器用な生き方しかできない一本気の男。高倉さんは目の色を変えて役作りに励みました。

しょうゆラーメンとカツ丼ください。

特に力を入れたのが、刑務所から出所したばかりの男が、久しぶりに町なかで食事をするシーン。

高倉さんは特別な準備をしていました。

この映画で共演していた武田鉄矢さんです。

武田鉄矢さん

「1杯のビールがやってきたときに、彼が、飲んだあと震えるんですよね。その短いワンカットのために、健さんは前日から食事を抜かれたり、その何秒かに 、あの人は数日間の努力と今まで生きてきた人生の重たいもの全部をかける方だった。」

その後、社会の荒波の中で懸命に生きる男を演じるようになっていった高倉さん。人を思いやる主人公の姿にみずからを重ねていきました。

高倉健さん

「普通の人っていうんでしょうか、そういう役が多いですね。これは、どうしてそういうふうになっているのか、自分では分かりません。自分がきっと、なんかそういう人に、なんかを感じるようになっているのかもしれないですけど。感じられないと、やらないというふうに決めていますから。なんか笑ってちょっと色っぽくてああ、いいな、生きてるのいいな、そういうのに出たいっていつも思うんですよ。」

◆「動乱」

『動乱 第1部 海峡を渡る愛/第2部 雪降り止まず』より

本日、供与した弾薬はすべて実包である。

その3年後に出演した映画、「動乱」。

高倉さんは、昭和初期に起きた二・二六事件の首謀者となった将校を演じます。

私は

その妻を演じたのは吉永小百合さん。

私を許してくれ。

時代に翻弄されながらも互いを想い絆を確かめ合う夫婦を共演しました。

私は幸せです。

今年(2014年)9月、吉永さんは高倉さんと共演したときのことをこう振り返っています。

吉永小百合さん

「すごい集中力で、こんな方がいらっしゃるんだと知りました。高倉さんの息づかいとか、そういうものが伝わってきて、お互いにしっかり間を取って芝居をしているんですけど、でも別の世界に、カメラマンとかスタッフの方がいらっしゃらないような状況になっていました。」

演技の幅を広げた高倉さんは、数々の映画賞を受賞していきます。映画俳優として不動の地位を築いていったのです。さまざまな役を演じる中で、高倉さんは主人公の生き方にさらにみずからを重ねていきます。

常に追い求めていたのは、人を想う生き方を演じることでした。

◆「鉄道員(ぽっぽや)」

68歳で出演した映画「鉄道員(ぽっぽや)」では、雪深い北国で働く鉄道員を演じました。

『鉄道員(ぽっぽや)』より

そりゃお父さん、ぽっぽやだもん。

死んだはずの娘に再会するこのシーン。

台本には書かれていない涙が、自然に流れてきました。

高倉健さん

「悲しみとか喜びを受けたときに、自然に出るのが涙なんですね。だからやっぱり感激してたっていうことなんだよね。涙って、目薬をメーキャップさんがさして、涙出なくても出てるように、映画やドラマの場合はそういうこともできますよね。

出すつもりがなくて困ったと思っても出ることがあるんでね。」

年齢を重ねるにつれ、演じることが高倉さんの人生そのものになっていたのです。

高倉健さん

「俳優という仕事はとっても嫌な仕事だと思って、でも生きていくためにこれしかないと。

好きな、ほれた女の子と一緒になるには、一緒に暮らすのには、もう俳優しかないと思ってなったんですが、もしかすると人の小説や音楽とまた違う、本当に映画でなければできない、ある思いを伝えるジャンルなのかなと、どこかでちょっとそういう気が起きているのかもしれません。もう小田剛一(高倉さんの本名)よりも高倉健のほうがはるかに長くなりましたから、どっちが本当の自分だか分かりません。」

多くの映画で共演した女優の三田佳子さん。

高倉さんは人生のすべてをかけて、映画俳優・高倉健を演じていたのではないかと言います。

三田佳子さん

「健さんは、私たちのように平均的に生きないで、そのままを貫いた。富士山みたいなもの。富士山はやはり孤高ではないか。愛されてもいるが、畏れられてもいる、そういう存在にならざるを得ない。でも健さんは、そういうことを全うされたと思います。」

◆中国での映画づくり

日本を代表する映画俳優の高倉さん。

2005年、国境を越えて、新たな映画作りに挑みます。

中国で撮影した映画「単騎、千里を走る」。

病気で倒れた息子との約束を果たすため、単身、中国を旅する父親の物語です。

高倉さんは、映画の役と同様に、付き人も伴わず、たった1人で中国に渡りました。NHKでは、このときの様子を密着取材していました。

メガホンを執ったのは、世界的な映画監督、張芸謀(チャン・イーモウ)さん。

俳優歴50年の高倉さんに対し、チャン監督は、あえて中国の農村で暮らす普通の人々を共演させました。

張芸謀さん

「日本人・高倉健が、中国に生きる人々とぶつかることで生まれる友情や感動を、この映画に込めたかったのです。」

現地の人

「あれ、どこかでお会いしたような。

もしかして日本の映画に出ていませんか?」

実は高倉さんは、中国全土にその名を知られています。改革開放以降、初めて入ってきた外国映画が、高倉さん主演の日本映画だったからです。

現地の人

「生まれて初めてだよ、わしが映画に出るなんて。」

高倉健さん

「村長、心痛。」

日本の大スターを前に、素人の出演者たちは、緊張を隠しきれません。NGを繰り返し、困り果てる青年もいました。

高倉さんは緊張を解きほぐそうと、気を配ります。

3時間かけて、ようやくOKが出ると、青年は高倉さんのもとへ歩み寄りました。

「『どこでもいいですから、コーヒー一杯ごちそうしたい』と。そういう気持ちがあります。」

高倉さんの通訳を務めた張景生さん。

高倉さんの気遣いは、中国の人々の心を揺さぶったといいます。

張景生さん

「ちょっと手が寒くてブルブルこすっているスタッフを見たら、カイロを出して、使ってよと。

本当に心から、一つ一つの積み重ねで、そういうのが現場で隅々まで伝わって、みんな想像以上の高倉さんからいただいた、よくしてくれた親切とかね、それをみんな応えたい。」

一方、中国の人たちと撮影を続けていく中で、高倉さんの心にも変化が生じていました。

映画の中で仮面劇の役者が、生き別れた息子に一目会いたいと、想いを吐き出すシーン。

この役を演じていた農民は、実際に離れて暮らすみずからの息子を想い、涙を流しました。

なぜ、役者ではない農民の演技が、これほど心を打つのか。芝居とは何かを、改めて突きつけられました。

高倉健さん

「巻き込まれますよね、やっぱりお芝居じゃない何かを感じる。非常に新鮮ですね。お芝居ってなんだったのかなって思いますよ。今頃になって、ちょっと遅いんだけど。やっぱりなんか、強烈に伝わってきますね、生きてるってこと。」

「ラストシーンに入ります。

高倉さんのラストシーン!」

高倉健さん

「ああ、ちきしょう。」

ことばも文化も違う人々との交流。

高倉さんは、人を想うことの大切さをかみしめていました。

高倉健さん

「人を感動させるのはお金ではない、力ではない、物ではない。なんか違うものがあるはずなんだよね。

何十年たっても人を想うってことは、いかに美しいかってことでしょう。人を想うってことだよね。人間が人間のことを想う、これ以上に美しいものはないよね。」

◆「あなたへ」

そして2012年、人生最後の作品となった、「あなたへ」の撮影に臨みます。自分の骨をふるさとの海に散骨してほしいという妻の願いをかなえようと、1人、旅に出る男の物語です。

NHKの密着取材には、共演者やスタッフへの気遣い、撮影に協力してくれた人々と触れ合う姿が記録されています。

高倉健さん

「船に乗ってらっしゃるんですか?」

「いえいえ。」

高倉健さん

「乗ってない?」

「昔はね。」

高倉健さん

「サインしに来たの?走ってきたの?

持ってきたんだから、なんかちょっと書かないと、書かないと悪いような気もするけど。一枚だけね、じゃあ。せっかく走ってきたからな。」

高倉健さん

「やっぱり出会う人でしょうね、一番大事なの。

どういう人に人生で出会うか。そこで決まるんじゃないですかね。やっぱりいい人に出会うと、いろんなものをもらいますよね。」

◆半世紀を超える俳優人生

半世紀を超える俳優人生。

出演した作品は205本。

映画、そして高倉健を愛する人々と共に歩んだ、83年の人生でした。

高倉健さん

「これやらないと食ってけないと思ってやり出してから、もう五十何年たつのかね、二百何十本もやってきて。まだ分かりませんよ。

まだ分かんないんですけど、分かんないからやりたいんでしょうね。」

◆◆Wiki=高倉健

高倉 健(たかくら けん、1931216 – 20141110日)は、日本の俳優・歌手。愛称、健さん。福岡県中間市出身、身長180cm、血液型B型。高倉プロモーション所属。日本を代表する映画スターで、半世紀以上活躍してきた。代表作は映画『網走番外地シリーズ』、『日本侠客伝シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』、『新幹線大爆破』、『幸福の黄色いハンカチ』、『八甲田山』、『南極物語』、『鉄道員(ぽっぽや)』など、いずれも邦画史上に残るヒットを記録している。2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。

◆俳優になるまで

1931年に福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた。母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は61敗だった。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた。福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。

大学を卒業したが思ったような就職先がなく一旦帰郷した。家業を手伝っていたが、10か月後に上京。[要出典]1955年に大学時代の知人のつてで、新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。同期に今井健二・丘さとみ・岡田敏子・五味龍太郎らがいた。

◆主演スター

ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所で6か月の修行(エキストラ出演など)を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという。しかし採用から1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。

演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌1956年の映画『電光空手打ち』で主役デビュー。元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、初めて顔にドーランを塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。その後、アクション・喜劇・刑事・ギャング・青春もの・戦争・文芸作品・ミステリなど、幅広く現代劇映画に出演し、この頃から主演スターの一人として活躍していたが、まともな演技のトレーニングも受けたこともないまま、数多くの作品に出演し続けることがコンプレックスになっていた。1960年代前半まで時代劇映画をメインにしていた東映では、片岡千恵蔵・中村錦之助・美空ひばりの映画などにも助演していた。

◆仁侠映画

1963年に出演した『人生劇場 飛車角』以降、仁侠映画を中心に活躍、耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した。本作を切っ掛けに、翌1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる。『網走番外地』シリーズの主題歌(同タイトル)は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ、『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』もカラオケなどで歌い継がれている。

70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「不条理な仕打ちに耐え、ついには復讐を果たす着流しのアウトロー」である高倉演じる主人公は、学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を受けたが、本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開、という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている。当時の風貌は、劇画『ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であったという。

◆独立

映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』 (1966年、にんじんプロダクション / 國光影業) を皮切りに、ハリウッド映画や東映以外の作品にも出演していたが、1970年に「ヤクザ映画にも出演し続けるが、好きな映画を作る自由も認めてほしい」と、東映社長・大川博の了承をもらい、高倉プロを設立する。しかし翌19718月に大川が死去。社長が岡田茂に代わり、特例は認めないと反故にされた。

197211月、高倉の海外旅行が「高倉健 蒸発」「仕事を放り出して蒸発することで、高倉プロを認めさせる最後の手段に出た」と報道された。帰国した高倉は「僕はそんな手段を使って、会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と説明したものの、1973年の『仁義なき戦い』が大ヒットすると、岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらく止めや」と実録路線に変更したため、高倉と岡田の関係は悪化。「このまま東映にいたら、ヤクザ役しかできなくなる」という危機感も加わり、東映作品の出演を拒みだした高倉は1976年に東映を退社した。

フリー転向後、同年の映画『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ / 大映) にて主演。10年以上、出演し続けた仁侠映画のイメージから脱却した。1977年には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の2作品に主演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これ以後も数々の作品に出演し、合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。これと前後してアメリカ映画や中国映画などの海外作品にも出演しており、1998年には紫綬褒章を受章した。一方でテレビドラマへの出演は1977年の初主演作『あにき』をはじめ、5作品である。その出演理由も「故郷にいる母親に、テレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。CMにも数多く出演しているが、富士通のパソコンFMVCMでは『幸福の黄色いハンカチ』で夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦役で共演、コミカルな演技を見せた。200642日の『世界遺産』(TBS)で初めてナレーションを務めた。

◆晩年

200611月に行われた天皇・皇后両陛下主催の文化勲章受章者・文化功労者を招いたお茶会に出席。

20128月、前作『単騎、千里を走る。』から6年ぶり、205本目の主演作品となる映画『あなたへ』で銀幕復帰。1127日、本作により「第37回報知映画賞」主演男優賞を受賞した。高倉の同映画賞での受賞は1977年に『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』で主演男優賞を受賞して以来、35年ぶりである。本作では126日に発表された「第25回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞」でも主演男優賞を受賞。作品は石原裕次郎賞を受賞した。2013122日に発表された日本アカデミー賞優秀主演男優賞にも選出されたが、「若い人に譲りたい」との理由で、これは辞退している。受賞辞退は2002年の『ホタル』以来2度目となる。1010日には「五十有余年におよぶ活躍と、孤高の精神を貫き、独自の境地を示す映画俳優としての存在感」により、第60 菊池寛賞に選出された。授賞式は欠席し、代理人を通じて「思いがけない受賞で驚いています。非常に光栄です。ありがとうございます」とのコメントを寄せた。

20131025日、政府は高倉を含む5人に文化勲章を授与することを決定。113日、皇居で親授式が行われた。親授式後の記者会見で高倉は、「日本人に生まれて本当によかったと、今日思いました」と述べている。また、この受章については親授式前の10月にも、「今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。」とのコメントを発表している。

主演となる次回作の映画『風に吹かれて』の準備をしていたが、20141110日午前349分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去。83歳没。高倉の遺志により近親者によって密葬が執り行われ、終わった同月18日に高倉プロモーションから「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」の言葉が添えられたFAXでその死が発表された。5年ほど前に前立腺癌で手術を受けて寛解したものの、その定期検査で悪性リンパ腫が発見されて療養していた。「入院中の姿を見せたくない」と親しい関係者だけにしか知らせておらず、容体が急変して意識不明になったのは亡くなる数日前で安らかな笑顔で旅立っていた。

◆没後

各界から追悼が寄せられ、芸能界では東映ニューフェイスの後輩で長年交遊し共演してきた千葉真一が「日本の映画界にとって、そしてわたくしにとって大変大事な方の訃報に今でも信じられない気持ちです。人生においても俳優としても唯一尊敬し続けた方でした」と話し絶句した。高倉が出演した『あゝ同期の桜』(1967年)でメガホンをとった映画監督の中島貞夫は「役作りに執念を持ち、役と一体になりきる人だった。存在をすべてかけて映画を撮っていた希有な俳優だった」と振り返り、『駅 STATION』の脚本を手がけた倉本聰は「あれだけ健康に留意していた健さんが私より先に亡くなるなんて。自分より年下でも、相手が板前さんでもタクシー運転手でも駅員さんでも、きちんと立ち止まって礼をする人だった」と沈痛な様子で語り惜しんだ。『南極物語』で共演した渡瀬恒彦は「東映に入社して45年、私にとってずっと『親方』の様な存在でした。突然のことで、只々言葉もありません」と偉大なる先輩の死を悼んだ。遺作となった『あなたへ』(2012年)で共演した浅野忠信はツイッターで「ご冥福をお祈りします。本当に悲しいです。ありがとうございました」、 『あ・うん』(1989年)で共演以来、公私ともに付き合いがあった板東英二は「つい一週間前に健さんの事務所に直接お伺いし、お手紙を預けてきた所でした。いつもご丁寧な方がお返事が来ずに不思議だと思っていましたが、驚きで声も出ません」と突然の訃報を驚いた。高倉の新たなイメージを作った『新幹線大爆破』(1975年)をはじめ、複数の高倉主演映画を監督した佐藤純彌は「時代を背負ったスターと共に仕事が出来たことは幸せでした。決して死なないような気がして訃報を聞いた時は、ひとつの時代が終わったことを実感しました」と希代のスターをしのんだ。 遺作を監督し、次回作もタッグを組む予定だった降旗康男は「残念の一語に尽きる」とそのひと言に万感の思いを込めた。

スポーツ界からは親交のあった長嶋茂雄が「彼から教わったことは多かった」と追悼の辞を発表。政界では石原慎太郎が「最後のビッグスターだった。名声が長くもった希有な人だった」と悼んだ。

1119日には「唐獅子牡丹」などのヒット曲を放った功績に対し、『第56回日本レコード大賞』より特別栄誉賞が贈賞されることが発表された。

◆人柄

礼儀正しい人物として知られ、すべての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う。

千葉真一は高倉を 一生あこがれの存在で永遠の師匠 と公言している。「(千葉が)デビューして間もない頃、健さんが食事によく連れて行ってくれた。また、学生服しか持っておらず、取材向きの洋服がない時に健さんからスーツをもらった」、「役者として少し売れてきた後でも(千葉自身の)撮影がない時には、健さんの付き人をしていた」、「(千葉が)離婚した時に健さんから手紙で励まされ、それが心の支えになった」、「(千葉が)東映の労働組合委員長と撮影進行で衝突して、映画界を辞めようと思った時に、健さんが思いとどまらせ、一緒に謝ってくれた」など、「健さんは厳しい人だけど、ちゃんと愛がある。そばにいて、俳優としても人間としても、大切なことをいっぱい教わった」と語っている。

役者として人間として尊敬している人物は多く、『幸福の黄色いハンカチ』で共演した武田鉄矢は、現場で高倉を発見すると100メートルほど離れた所からでも「健さーん!」と叫びながら手を振り、全力疾走で走ってきたという。石倉三郎、小林稔侍、板東英二らからもこよなく慕われており、石倉は芸名に「倉」の字をもらい、小林も息子の名前に「健」を付けている。

気持ちの通じ合った共演者にはブライトリング、ロレックス、ヴァシュロン・コンスタンタンなどの腕時計やライターなど、記念の品に感謝の言葉と「高倉健」の名前を彫ったモノをプレゼントする習慣があり、千葉真一、田中邦衛、渡瀬恒彦、板東英二、宇崎竜童、ビートたけしが貰っている。田中も高倉をこよなく尊敬し、出かける際にはその時計を身に付けている。『あなたへ』で共演した岡村隆史は撮影現場での取材中、「岡村! 嘘ばっか言ってんじゃないよ(笑)!」と近寄ってきた高倉から、「忘れもんだよ」と高倉の私物であるポルシェ911のキャップ(帽子)にオリジナルのバッジが添えられた物を、プレゼントされている。

『ブラック・レイン』で共演したマイケル・ダグラスは大阪京橋の野外シーンロケで、日本人のファンが高倉に憧れて接する姿を目撃。その様子をダグラスは「アメリカではブルース・スプリングスティーンの時だけだよ。あんなに尊敬される姿を見られるのは!」と驚いていた。『君よ憤怒の河を渉れ』が中華人民共和国に輸入され、中国人の半分が観たともいわれており、宣伝のために田中邦衛と訪中した時、宿泊先のホテルには高倉を一目見たいというファンが大勢詰め掛けた。高倉のファンである映画監督・張芸謀(チャン・イーモウ)は『単騎、千里を走る。』の撮影の際、高倉が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と発言している。20064月には北京電影学院の客員教授に就任している

『夜叉』で共演したビートたけしは撮影中のエピソードとして、真冬の福井ロケのある日、オフだったにもかかわらず、高倉がロケ現場へ激励に現れた。厳しい寒さの中、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は全く焚火にあたろうとしない。スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めるが、高倉は「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた。このためスタッフだけでなく、共演者誰一人申し訳なくて、焚火にあたれなかったと発言している。やがて「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」と泣きつかれ、「じゃあ、あたらせていただきます」となり、やっと皆で焚火にあたることができた。撮影初日が終わり、役者・スタッフの泊まる旅館へ到着し、食堂へ行くと、高倉と監督の前だけ、皆とは違った「ふぐ刺し」が並んでいた。これを見た高倉は「自分も皆さんと同じ料理にしてください」と遠慮し、手をつけなかったという。突然の事で数も揃わないことから、高倉と監督以外は「カワハギの薄造り」で急場をしのぎ、事なきを得たという。

上記の人柄や1984年の日本生命のCMでの「自分、不器用ですから」の台詞で武骨で寡黙なイメージがあるが、実際は常に誰かが側に居てほしいと言うほどに話し好き、いたずら好きで、ユーモアを交えながら共演者やスタッフを和ませている。またロケ先では周辺を散策し、地元の住民との交流も欠かさない。漫才師から役者業に進出してきたたけしに対抗して、田中邦衛と組んで漫才界に進出しようという話題になったことがあり、田中は「止めといたほうがいい」と制止した。高倉が「それじゃお前は何をやるんだ?」と言うと、田中は「二種免許取ります」と返答したという。たけしは高倉と田中がタクシーの運転手になる可能性を、真剣に検討していることに大ウケした。昼間に高倉とたけしが車に同乗して移動していた時に、渋谷駅ハチ公改札前近くのスクランブル交差点で信号待ちの為に停車したところ、高倉は窓を開けていきなり「おーい、高倉ー!」と大声で何度も車外へ叫び続け、信号が変わり車が走り出すとようやく窓を閉めて元に戻り「いやあ、こんなに沢山の人が通っているのに、誰も気が付かないもんなんだなあ、俺がここに居るって」と独りで喜んでいた。高倉とたけしが車に同乗していることを多数の一般人に知れてしまうと、野次馬で混乱が発生する危険性が容易に予想されたにも拘らず、大都会での他人に対する無関心を逆手にとって面白がっていたとたけしが語っている。

◆役作り・姿勢

余計なテクニックを廃し、最小限の言葉で、演じる人物の心に込み上げるその瞬間の心情を表す台詞・動きを表現する芝居を真骨頂としており、基本的に本番は1テイクしか撮らせない。これについて「映画はその時によぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じる事は僕にはできない」と述べている。また「普段どんな生活をしているか、どんな人と出会ってきたか、何に感動し何に感謝しているか、そうした役者個人の生き方が芝居に出ると思っている」としており、肝に銘じているという。「俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方。生き方が出るんでしょうね。テクニックではないですよね」とも言い切る。仕事に対する姿勢の一端として「親族の葬儀なども一度も参列していないし、それを理由に撮影中止にしてもらったことはない。それは自分にとってのプロとしてのプライドであり、課してきたこと」「(この仕事に就いた時から)捨ててるもんだと思いますよ。捨てなくたって、やろうと思えばできるんだもんね」と語っている。『あ・うん』撮影時に母親を亡くした時も葬儀には参列せず、軽妙な役柄を演じ切った。

「俳優にとって身体は唯一の資本」を信条とし、細心の注意を払っている。筋力トレーニング・ジョギングを欠かさなかったが、2012年時点ではウォーキングやストレッチを日課としている。トレーニングの際には脳への刺激や咀嚼力の維持を目的に、マウスピースを使用している。酒を飲まず、煙草も1日に80本も吸うヘビースモーカーであったが、映画『八甲田山』が3年がかりの長期ロケとなったため、完成の願掛けに正月の成田山の初詣の際、禁煙して以来、30年以上絶っている。都内に居る時には毎日、血糖値測定や健康チェックを行い、朝食ではミューズリーやグラノーラなどのシリアルにプレーンヨーグルトをかけたものを常食とし、毎日しっかり摂ることで体のリズムを整え、夕食まで殆ど食べない生活を続けている。こうした努力により、体重は70 kg以下を維持しており、若い頃からウエストサイズは変わっていない。

自身は賭け事も一切せず、麻雀好きの片岡千恵蔵からは「麻雀ができないで、なんで良い役者になれるか 健坊」と何度も怒られたが、結局覚える事は無かったという。また銀座のような歓楽街に出ていくこともしない。この事については「変わってると言えば、変わってるのかもしれないね。だから『色気が無い』とか言われちゃうんじゃないの? やっぱりそっちを少しは勉強しておかなくちゃいけなかったのかもしれない。でももう遅いからね、それは……」と述懐している。このような仕事への真摯な姿勢は北大路欣也も影響を受けたと述べている

本来はチョコレートなど甘い物好きであるが、我慢するように心がけているという。ビートたけしは『夜叉』の撮影中の話として、現場で食事をほとんど口にしない高倉だが、待ち時間には付き人に声をかけ、チョコレートの詰め合わせの箱を持って来させて、中から大好きな「ナッツ入りチョコレート」を選んで食べていたという。ある日付き人がそのお気に入りのチョコレートを食べてしまった事から「俺の好きなナッツの入ったやつ、まだ残ってたろ? なんで喰っちまったんだよ!!」と子供のように口を尖らせて怒っている様子を目撃し、イメージとのギャップに思わず笑ってしまった、と語っている。

撮影現場で座らないということについて「疲れますよ、やっぱり。ただ、座ると何となくもう・・・。だんだん精神的にファイトが無くなるような気がして、立っていたほうがいいなと・・・」と自分に課した事のひとつである事を明かしている。一方では「たけちゃんがあっちこっちで『座らない』『火に近づかない』なんて言うもんだから、おいそれと出来なくなった」と冗談にして答えている。「撮影現場でも座りますよ」とも語っているが、それはあくまで「座っている場面を演じている時に……」である。何よりも「現場に居てこそ感じられる事がある。その場の景色や空気、スタッフの努力など、見ていて鳥肌が立つ思いの時がある。だからこそここに居たい」「自分よりもお金を貰っていない人たちのほうがはるかに頑張っている。現場はそうした人たちによって成り立っている。そんなことに気づくまで何十年もかかった」と、出番以外も常に現場に立ち続ける事への思いを語っている。

完全なオフの期間を含めて都内にいる時にはほぼ毎日、40年来懇意にしている港区高輪にある理髪店に通い、髪を切っている。ここには高倉専用の個室が用意されており、撮影に入る際には店主と髪型を打ち合わせて、役柄のイメージでカットしてもらう。この個室で長時間過ごす事もあり、高倉の私物も数多く持ち込まれている。事務所からの連絡を受けるためにFAX電話も設置されている。

常に感性に磨きをかけ、「感じやすい心」を保っておくために、読書や刀剣・美術品鑑賞、映画、音楽など、常に気に入ったものに触れる機会を作り、海外旅行へも出かけていく。撮影に際して、台本のカバーや裏表紙には有名、無名に関係なく、気に入った「心を震わせる」フレーズや詩歌などを貼りつけたり、忍ばせて持ち歩いている。『あなたへ』の撮影では、相田みつをの詩や会津八一の短歌などと一緒に、雑誌に掲載されていたという東日本大震災の被災地での1コマを撮影した写真も一緒に貼りつけて持ち歩いていた。山本周五郎の著作のフレーズや、主人公の生き方について書かれた木村久邇典の『男としての人生山本周五郎のヒーローたち 』もお気に入りの1冊として持ち歩いている。長期間の撮影の中では、ベテランの高倉でも感情のコントロールが出来ない時があり、そうしたときは持っているこうした物にすがっているという。また台本だけでなく、自宅の洗面所などにもこうしたものが貼られており、気持ちを盛り上げている。この事について「俳優ってそれほど頼りないものなんですよ」と語っている。

映画『網走番外地」ではヒロインもラブロマンスも無く、刑務所や脱獄が主題の映画となって売り上げが見込めないと予算をカットされた。添え物映画でモノクロ作品にすると社長の大川博に言われ、意見すると「嫌なら主演を梅宮辰夫に変える」とまで言われてしまう。仕方なくロケ地の北海道で撮影に入ったが、監督の石井輝男がなかなかやって来ない。スタッフと様子を見に旅館へ行くと、石井が窓の隙間から雪が入り込んだ粗末な部屋で丸くなって寝ていた。高倉は「この映画をヒットさせるためなら。監督を笑顔にするためなら、俺はどんなことでもするぞ」とスタッフに漏らし、『網走番外地』シリーズは年23作、計18作のシリーズとなった。

1976年に東映から独立以降、作品の内容、スタッフ、ギャラなど自分が本当に納得できる作品を選んで出演している。一方で、「より厳しい状況に身を置いて、役者としての自分を磨くこと」も信条としている。初の松竹出演となった『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭で、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入ったビールを深く味わうように飲み干した後、ラーメンとカツ丼を食べるシーンがある。その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで山田洋次監督からOKが出た。あまりにも見事だったので、山田が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせた。

1983年に『居酒屋兆治』の準備をしていた矢先、映画監督・黒澤明から「鉄修理(くろがねしゅり)」役で『乱』への出演を打診されている。「でも僕が『乱』に出ちゃうと、『居酒屋兆治』がいつ撮影できるかわからなくなる。僕がとても悪くて、計算高い奴になると追い込まれて、僕は黒澤さんのところへ謝りに行きました」と述懐している。黒澤は当初から高倉を想定してこの役をつくり、自ら高倉宅へ足繁く4回通った。「困ったよ、高倉君。僕の中で鉄(くろがね)の役がこんなに膨らんでいるんですよ。僕が降旗康男君(『居酒屋兆治』の監督)のところへ謝りに行きます」と口説いたが、高倉は「いや、それをされたら降旗監督が困ると思いますから。二つを天秤にかけたら誰が考えたって、世界の黒澤作品を選ぶでしょうが僕には出来ない。本当に申し訳ない」と丁重に断った。黒澤から「あなたは難しい」と言われたが、その後偶然『乱』のロケ地を通る機会があり、「畜生、やっていればな……」と後悔の念があったと語っている。

東映を離れ、フリーに転じてから、1つの作品を終えるたびにスクリーンから離れ、マスコミや公の場から距離を置く事を決まり事としている。それは、1つの作品を終えるたびに高倉を襲うという、深い喪失感に関係しているという。特に『あなたへ』に主演する前には、自身最長となる6年間の空白期間が生じた。前回主演した日中合作の映画『単騎、千里を走る。』の後、中国人の共演者やスタッフたちと別れるときに感じた気持ちと『あなたへ』の出演を決めたことについて、「分かんないね……。多分ね、この別れるのに涙が出るとかっていうのは、お芝居ではないところで、泣いているのだと思うんですよね。ああ楽しかったとか、別れたくないとか、もう二度と会えないかもしれないとか。特に中国のスタッフは。だから、そういうものを自分がお金に取っ替えてるっていう職業ってのは、悲しいなあってどっかで思ったのかもしれないね。それを売り物にするものでは、ないんじゃないかなっていう。でもしょうがないですよね、同じ人とずっとはやれないんだから。そういう切ない仕事なんですよ。だから、それはそんなに気を入れなければいいんだっていう、そのこともわかってるんだけども、やっぱり出会って仕事だ、出会って仕事だって言う。分かってるんだけど、強烈なのを受けると、しばらく。なんとなく、恋愛みたいなものなんじゃないの。多分、恋愛だよね。じゃなきゃ泣きませんよ。お金もらうところじゃないんだもん、映ってないところで泣くんだから。泣くんですよ。大の大人が(笑)。それが中国は強烈だったってことでしょうね。いや、今でも分かりませんよ。じゃあ、なんで今度(『あなたへ』)はやったのって言ったら、こんなに断ってばかりいると、またこれ断ったら(降旗)監督と、もうできなくなる年齢が来てるんじゃないかなと、2人とも。それはもう1本撮っておきたいよなっていうのが、今回の。本音を言えばそうかもしれないよ。」と、その心情を初めて漏らしている。

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Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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