戦国のゲルニカ、真田昌幸・真田幸村

◆◆戦国のゲルニカ、真田昌幸・真田幸村

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【このページの目次】

◆筆者=『戦国のゲルニカ』と真田父子 の戦略・戦術

◆戦国のゲルニカ、真田昌幸・真田幸村(信繁)リンク集

◆戦国のゲルニカとは

◆大河ドラマ「真田丸」を10倍楽しむ方法

◆真田昌幸の生涯

◆真田幸村(信繁)の生涯

🔴【筆者コメント】=『戦国のゲルニカ』と真田父子 の戦略・戦術

NHKの大河ドラマ『真田丸』の視聴率が上がってきた。面白い。このページでは、『戦国のゲルニカ』と真田昌幸、真田幸村の父子の生涯を扱いたい。

◆『戦国のゲルニカ』(新日本出版社)という本がよく売れている。1615年の大阪夏の陣のたたかいを黒田長政が絵師に命じて書かせた屏風絵である。その最大の特徴は、これまでの武将たちどうしのたたかいの絵図の側面(例えば真田幸村のたたかいなど)も描かれているが、雑兵や大阪の庶民にたいする徳川軍による極めて残酷な暴力や殺りく、強姦など戦争の悲惨さをリアルに描いていることにある。「戦国のゲルニカ」といわれるゆえんである。その具体的な内容については、動画の「夏の陣屏風」や「その時歴史が動いた」を見てほしい。これは「ゲルニカ」と同じような反戦絵図だという見解(本や「その時歴史が動いた」)もあれば、単純に「ゲルニカ」のような反戦図とはいえないという見解(当ブログ紹介)も存在する。

もう一つ、豊臣方から徳川方の配下に入って大名となった黒田長政が、なぜ徳川方の道徳的権威を失墜させるこんなリアルな絵図を描いたのか。真田幸村の堂々とした戦闘場面も描かれている。関ヶ原のたたかい如何では、天下をねらった父親、黒田官兵衛の思いが込められているのか。それとも夏の陣の真実を脚色なしにリアルに描こうとしたのか。謎が多い。いずれにしても今日からみて画期的な絵図であることは確かである。

◆さて大河ドラマ「真田丸」に合わせて、戦国武将のさまざまの記事が書かれている「戦国武将列伝」から真田昌幸、真田幸村の二人の生涯を引用させていただいた。物語風に書かれているので、本当に面白い。真田家は、室町時代以来続く国衆、小大名で、力をもっている戦国大名の配下に入りながら力を蓄えていかざるをえない宿命にある。上田城の建設も武田滅亡後上杉と徳川の直接対決となった条件を利用して昌幸が徳川家康に頼みこんで援助もえながらつくらせたもの、これが後に家康を苦しめることになる。真田家は武田上杉北条豊臣徳川などの大名の配下につく変遷をたどり、豊臣方についた昌幸・幸村亡きあとも、長男の信之を以前から徳川方につかせていた。徳川幕府のもとで信之は、上田から松代へ国替えさせられたが、真田家として10万石の大名として生き続けた。余り知られていない真田信之もそれなりに大きな役割を果たしたのだ(なお真田幸村の本当の名前は、真田信繁。幸村は、江戸川時代に庶民にもてはやされるなかで作られた名前。家康に徹底して抵抗した信繁という名前を使うことが許されなかった)。

◆何よりも、歴史的に有名なのは、徳川家康を四度にわたって心胆寒からしめる窮地に陥れた勇猛なたたかいにある。1585年第一次上田合戦での完膚なき勝利(昌幸主導・信之)。真田3000VS徳川2万。1600年関ヶ原のたたかいの直前、徳川の忠臣をそろえた徳川秀忠を総大将とする徳川軍とのたたかい=第二次上田合戦での勝利。真田3000VS徳川3.8万。そのため徳川の主力軍が関ヶ原に間に合わず家康の怒りをかった(昌幸主導・幸村。信之はすでに徳川方)。そのため徳川主力軍で西軍とたたかう予定が狂い、秀吉配下にあった西国大名に依拠してたたかいかろうじて勝利した。そのため西国の領地配分は徳川子飼いを配置できず、西国大名支配下の西国は徳川幕藩体制のアキレス腱となり、結果的に徳川幕府崩壊の一因となった。1614年大坂冬の陣での真田丸という砦でのたたかい(幸村)(豊臣方・真田の敗北)、1615年大坂夏の陣での徳川の本陣をつく茶臼山のたたかい(幸村戦死)、である。これらのたたかいは、すべて、少数である真田幸村たちが、圧倒的に多数の徳川軍と五分五分でたたかい、では、徳川を完膚なきまで打ち負かした。これらの奇抜なたたかいの数々がのちに、猿飛佐助や霧隠才蔵などの「真田十勇士」など民衆に愛される物語を生み出したのである。

◆「戦国武将列伝」で真田父子のたたかい(下記に引用)を分析すると、1つは、武士だけでなく、農民や町人など民衆を日頃から大切にしてその生活をまもる政治を行なっており(昌幸が仕えていた武田信玄の「人は石垣」の思想)、❶❷のたたかいに見られるように民衆に依拠してたたかったこと。2つは、真田父子が、「孫氏の兵法」を身につけ、孫氏が強調した「奇策」によってたたかったことがよくわかる。

このように真田父子のたたかい方は、ベトナム戦争で軍事的には圧倒的に力をもった米軍を打ち負かしたベトナム人民のたたかいを思いおこさせる。「兵とは詭道(きどう=はかりごと)なり。故に、能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれをみだし、卑にしてこれを驕(おご)らせ、佚(いつ)にしてこれを労し、親(しん)にしてこれを離す。其の無備を攻め、其の不意に出(い)ず。此れ兵家の勢、先きには伝うべからざるなり。」(「孫氏」)このような戦略・戦術に基づいて、見事に打ち負かしたのである。

(当ブログ=「ベトナム人民のたたかいに学ぶ」とくにザップ将軍のインタビュー

また当ブログ=「中国思想家現代語訳(1)=論語・孟子・老子・孫子」の「孫氏」参照のこと。真田家の戦略・戦術を今日の安倍「一強体制」を打ち負かす統一戦線結成に生かしたいものだとつくづく思う。まずは動画から見てほしい。

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🔵「戦国のゲルニカ」・真田昌幸・真田幸村・真田信繁リンク集

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「戦国のゲルニカ

★★大坂 夏の陣・戦国 日本のゲルニカ / その時歴史が動いた

42m

または

または

★★大坂夏の陣図屏風の世界【黒田屏風】大坂の役 大阪の陣

(上記の絵の詳細)7m

★★BS「新発見 大坂図屏風の謎~オーストリアの古城に眠る秀吉の夢~も面白い

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🔴【真田幸村など真田一族関係リンク集】

真田昌幸=実に知恵者の顔!
真田幸村(真田信繁)
真田幸村
上田城
和歌山九度山に隔離された真田幸村=真田紐発明
九度山の真田庵
大坂夏の陣=真田丸からのたたかい
大河ドラマ〜

★★英雄たちの選択=大阪城の真田信繁

★★その時歴史が動いた=「真田幸村 どん底からの挑戦 家康を追いつめた伝説の名将」

2003年)43m

https://m.youtube.com/watch?v=ZvmfCw_WdzY

または

https://m.youtube.com/watch?v=5uhZo-X_-3Q

または

または

http://video.fc2.com/content/20120615WqGW17AC/

★★その時歴史が動いた=真田幸村の最強の父昌幸

(全4回)計43m

https://m.youtube.com/watch?v=tPtOL38ZJEI

https://m.youtube.com/watch?v=zNBODeIZs8w

https://m.youtube.com/watch?v=wdTr2QNqghk

https://m.youtube.com/watch?v=knBuKf8NEYM

★★英雄たちの選択=大阪の陣400年真田丸と真田幸村

041158m

または

★★BS歴史館=炎の突撃! 真田幸村 戦国最後の華~苦難を越える勇気~ 

2012年)59m

https://m.youtube.com/watch?v=XF7BJuKpBRs

★★歴史秘話ヒストリア・これが真田丸=地中に残された幻の城(16.1.6放映)46m

http://www.miomio.tv/watch/cc254632/

iPhoneiPadの場合Puffinから見て下さい)

★★歴史秘話・戦国時代最後のヒーロー真田幸村

(下記APPクリック)

★★歴史秘話ヒストリア・真田幸村大坂冬の陣43m

★★歴史秘話=「発掘! 真田幸村の激闘」

https://m.youtube.com/watch?v=veiaDyIrq14

★★知恵泉・真田三代の知謀50m

http://video.9tsu.com/video/%E7%9F%A5%E6%81%B5%E6%B3%89%EF%BC%9D%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%B8%89%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%AC%80

★★歴史秘話=真田一族・戦国最強の絆

https://m.youtube.com/watch?v=DHeHa3mVNJg

★★歴史秘話ヒストリア・真田幸村と伊達政宗43m

★鶴瓶・タモリのブラタモリ16.1.2放映=上田城探索40m

http://video.9tsu.com/mobile/video/ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯_1月2日?check=1

★★歴史ミステリー 真田幸村は、なぜ死を覚悟して突撃した!?110m

https://m.youtube.com/watch?v=sigr5vZlToo

★★ザ・今夜はヒストリー(1615年)大坂夏の陣

345m

https://m.youtube.com/watch?v=q73gJXfJMMo

https://m.youtube.com/watch?v=Bo7aDYZDkUk

https://m.youtube.com/watch?v=yiz0jc_cdT0

または

http://video.fc2.com/content/201205259LeshgHC/

★★歴史ミステリー= 真田幸村は徳川家康になぜ敵対した?真田丸と赤備えに隠された衝撃の秘策(全3回)45m

https://m.youtube.com/watch?v=92HUhpS5Rpk

https://m.youtube.com/watch?v=O2hbyyr4E38

https://m.youtube.com/watch?v=0hIV65gjk34

★★NHKラジオ2016-09-11 真田幸村と 大坂の陣/智将幸村の戦い方・生き方/北川 きたがわ ひろし )・大阪城天守閣館長50m

https://m.youtube.com/watch?v=D7g2xCEWpVo

★真田親子(昌幸・信幸・幸村) VS 徳川軍15m

★真田幸村 大阪夏の陣全貌 家康本陣突撃9m

★真田幸村 大阪冬の陣 真田丸攻防戦15m

★★現在の大河ドラマ・真田丸

http://doramano.blog135.fc2.com/blog-category-882.html?sp

★★旧NHK大河ドラマ・真田太平記(池波正太郎原作。真田幸村=草刈正雄、真田昌幸=丹波哲郎、真田信之=渡瀬恒彦)45m×全45回。こちらの大河も実に面白い。見にくい場合やiPhoneやiPadの場合は、Puffinソフトにアドレスをコピーするとすぐ見れる。

Youkuで「真田太平记」検索のこと。

真田太平記No. 1 http://v.youku.com/v_show/id_XNDMzNDkxOTI=.html?from=s7.8-1.2&x

★★アニメ・真田十勇士26m×12

Youkuで「真田十勇士」検索のこと。

◆戦国武将列伝からのリンク

真田昌幸(当ブログ引用)

http://senjp.com/sanada-m/

真田幸村(当ブログ引用)

http://senjp.com/sanada-yuki/

真田信之

http://sanadada.com/443/

真田の里(観光紹介)

http://sanadada.com/218/

真田丸

http://senjp.com/sanadamaru/

大河ドラマ「真田丸」と真田幸村

http://sanadada.com/119/

真田昌幸など真田関係記事

http://sanadada.com

真田氏関係記事

http://senjp.com/category/sen/sana/

🔷🔷(時代の栞)「真田太平記」 1974年週刊誌連載開始・池波正太郎 歴史ブームと地域振興

2019710日朝日新聞

復元された上田城の東虎口櫓門と北櫓。外国人観光客にも人気だ=長野県上田市

上田城を訪れた池波正太郎(左)と益子輝之さん=1973年

◆生き方貫く小大名、平成では主役

 静岡市では今年、ある戦国武将の生誕500年を祝う催しがいくつも開かれている。

 その名は今川義元。桶狭間で若き織田信長にあっけなく敗れた公家さんぽい殿様、とは後世の人物像らしい。市のホームページは「政治・経済政策ともにとても精通した優秀な戦国大名」で、駿府発展の礎を築いた、と書く。

 地元ゆかりの武将や大名の掘り起こしは、昭和の後半からの断続的な歴史ブームが底流にある。

 並行して、「お城ブーム」も脈々と続く。高度成長期、戦災などで焼失した天守閣を鉄筋コンクリート製で再建する城下町が相次いだ。住民は丈夫なシンボルを、行政は観光の目玉を求め、実在しなかった天守閣まで建てられた。「エレベーターは大きなミス」とケチをつけられた大阪城は戦前の再建だ。

 木造で櫓(やぐら)や門を復元するようになった現在に至るまで、城を生かした地域振興は見慣れた光景となった。

     *

 地元がかつての領主を誇りにする代表的な存在が、長野県上田市の真田氏だ。

 池波正太郎が「真田太平記」の連載を「週刊朝日」で始めたのは、1974年だった。

 70年代、戦後長く活躍してきたスターが一線を退き始めた。大鵬や長嶋茂雄が引退し、美空ひばりはNHK「紅白歌合戦」から姿を消した。

 「地方の時代」という言葉が使われ始めた。地方分権の主張は、中央への一極集中が進むことへの反発もあった。

 信州上田や上州沼田を拠点とする小さな大名ながら、歴史の主役たる徳川家を再三苦しめた真田一族の物語は、意識が地方へ向かい、脇役に注目する時代と共鳴した……と書きたいところだが、書き手にはそんな意識はなかったようだ。

 担当編集者だった重金敦之さん(80)は、池波に「江戸の市井ものなら1年、真田なら3年かかる」と言われ、即座に「真田でお願いします」と応じた。「長くキープしたかったからですよ」。いずれNHK大河ドラマの原作に、とのもくろみもあった。連載完結の3年後にドラマ化されたが、当時の「大河」は近現代ものを取り上げていたため、大型時代劇として水曜に放送された。

 いまならドラマと提携した観光イベントが目白押しだろう。だが、上田市の池波正太郎真田太平記館の元館長、土屋郁子さん(73)によると、当時の上田は大して盛り上がらなかったという。客が増えたのは幸村が入ったとされる郊外の別所温泉ぐらいだった。

 それが2000年代に入ると、お城ブームと相まって、「大河」の誘致が全国で活発になった。主役も信長や豊臣秀吉のような乱世の英雄から、毛利元就や前田利家といったバイプレーヤーに移っていった。上田市もあらためて幸村のドラマ化を求め、80万筆もの署名を集めた。

 折しもアクションゲームシリーズ「戦国BASARA」で幸村は熱血キャラの主役になり、女性ファンが急増するなど追い風が吹く。16年、ついに「大河」で「真田丸」が放送された。

     *

 現在の上田市は「真田氏発祥の地」を前面に出し、家紋の「六文銭」ののぼりが街にはためく。砥石(といし)・米山城跡など関係する史跡には立派な案内図がある。多くは「真田丸」の放送前年に作られた。ご丁寧に「隠し道」まで地図に描き込まれ、トイレも駐車場もある行き届きぶりだ。

 どこか違和感がある、と思っていたら、池波に上田を案内した元市職員、益子輝之さん(78)が言い当てた。「真田の魅力は『滅びの美学』なんですよね。整備されているより、草が茂ってる方がマニアにはいいのでは」

 確かに豊臣家に殉じて散った幸村にひかれる人は多いだろう。でも「太平記」の読者がひそかに共感するのは、辛抱強く徳川家に仕えて真田の家を存続させた兄の信之ではないか、とサラリーマン記者は考えたりする。(井上秀樹)

◆大河で父役、役者冥利に尽きる 俳優・草刈正雄さん(66)

 1985年開始の「真田太平記」で真田幸村を演じました。

 昔、おふくろに連れられて映画で「真田十勇士」とかを見た記憶がありますね。だから、真田の話は忍者のようなイメージがありました。池波正太郎さんの原作を読みまして、お兄ちゃんの信之が苦労をされたんだと知りました。

 共演の丹波哲郎さん、渡瀬恒彦さんと撮影前に沼田やゆかりの寺を1泊2日ぐらいで回ったんですよ。丹波さんは昌幸の役を愛してましたね。池波さんに「昌幸は俺にやらせろ」と電話したという、うわさがあるぐらい。長台詞(ぜりふ)は苦手だったそうですけど、真田太平記のときはきっちり台詞が入って面白い芝居をしました。(信之役の)渡瀬さんも重厚で落ち着いた芝居をするんですよ。挟まれた僕は不安で。「どうやっていこうかな」とずっと考えていた気がします。

 3年前の大河ドラマ「真田丸」で昌幸を演じたときはプレッシャーがありましたね。撮影の待ち時間でボーッとしてると、丹波さんの霊が上から降りてきて「おい、ちゃんとやれよ」と言われてるような感じがしました。ああそうだ、真田太平記もこのスタジオだったなあ、と思い出しながら。

 好きな登場人物? なんちゅうたって昌幸ですよ。息子たちに泣きつくし、スケベなところもあるし、豪快なところも弱みも見せるし、とっても人間ぽい。役者冥利(みょうり)に尽きますよ。僕の宝物ですね。

◆本の内容 

   戦国から江戸初期、真田家の父子は権力者と対峙(たいじ)しながら生き方を貫く。昌幸は徳川の上田攻めを2度退け、子の幸村は大坂夏の陣で家康を追い詰める。その兄信之は松代へ移封されるが家を守る。お江や佐助ら忍びの者の暗躍も丹念に描かれた。

◆「真田太平記」をめぐる動き

1950年代 広島城、名古屋城などの天守閣が再建。以後、70年代まで全国にコンクリート製の城が建つ

  60年  池波正太郎が「錯乱」で直木賞

  74年  「真田太平記」連載開始(~82年)

  85年  NHKドラマ「真田太平記」放送(~86年)

  90年  池波正太郎が67歳で死去

  90年代 城の木造復元がブームに

  98年  池波正太郎真田太平記館が開館

2005年  ゲーム「戦国BASARA」発売

  06年  「日本100名城」に上田城、高遠城、松代城が入る

  09年  上田市で真田幸村の大河ドラマ誘致運動が始まる

  16年  NHK大河ドラマ「真田丸」放送

  17年  「続日本100名城」に名胡桃(なぐるみ)城、沼田城、岩櫃(いわびつ)城が入る

     *

 時代の栞(TOKI NO SHIORI)

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🔵「戦国のゲルニカ

「大坂夏の陣図屏風」ら)

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◆◆『戦国のゲルニカ』(新日本出版社)の紹介

◆内容紹介

大坂夏の陣は東西両軍合わせて21万人がぶつかり合い、大坂城も城下町も全焼するという激戦であった。この史上空前の大戦を描いた屏風がきわめて特異なのは、戦災に巻き込まれた庶民や敗走兵たちの悲惨な実態が、生々しく克明に刻まれていること。ピカソの反戦画「ゲルニカ」に比肩しうる壮大な合戦図に、戦争の何が描かれているか部分ごとに解説し、制作の謎にも迫る!

歴史資料・美術品として第一級の重要文化財!凄惨な大戦を経験した400年前の先人たちは何を告発するのか。現代に生きる我々はそこから何を読みとるべきか。元大阪城天守閣館長が壮大なる反戦画を解き明かす。

◆著者紹介

1937年、兵庫県生まれ。京都大学文学部史学科卒業。高槻高校教員を経て、1962年、大阪城天守閣学芸員。

73年、同主任、92年より同館長、2000年退職。西宮市在住。主な著書に、歴史群像シリーズ『城と城下町2 大坂大阪』(監修、学習研究社、2008)、『大阪城話』(東方出版、2003)、『大阪城秘ストリー』(東方出版、1996)、『豊臣秀吉を再発掘する』(新人物往来社、1996)、『図説再見大阪城 2版増補』(大阪都市協会、1990)、『大阪城ものがたり : 10の章と100の節』(ナンバー出版、1983)、『大阪の世相』(共著、毎日放送、1973)など多数。

◆書評・『戦国のゲルニカ』

(日刊ゲンダイ16.01.15

◆◆その時歴史が動いた=「大坂夏の陣図屏風 戦国のゲルニカ」の感想

ブログ=ポルフィの日記から

http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/touch/20101217/1292559983

二年半ほど前、NHKの「その時歴史が動いた」の再放送で、「戦国のゲルニカ」というタイトルで「大坂夏の陣図屏風」の特集があった。

「大坂夏の陣図屏風」は、大阪夏の陣の戦争の様子を描いた屏風絵だが、「戦国時代のゲルニカ」とも呼ばれるそうで、通常の屏風絵と異なり、詳細に戦場の悲惨さや庶民の被害を描いているところに特色があるとのこと。

たしかに、身の毛もよだつような悲惨な様子が描かれていた。

大阪城は、外堀の内部に多くの庶民の家が並ぶ、町を内側に抱えた城塞都市だったそうだが、冬の陣の後に外堀が埋められ、しかも夏の陣が急に始まったため、一般市民が脱出する暇がなく、多くの非戦闘員が戦争の巻き添えになったらしい。

大坂城に突入する兵士などの姿とともに、逃げ惑う大坂市民と、そんな一般市民から金品を奪おうとする兵士、一般市民の首を取って武将の首と偽り褒美にあやかろうとする兵士、逃げる女性を取り囲み陵辱しようとする兵士と、確かに目を覆うような光景が描かれています。

関が原の十五年後にあった戦争で、その間束の間平和だっただけに、雑兵たちが一儲けする物獲りの場ともなったらしく、略奪や暴行などすさまじかったらしい。

「にせ首」と呼ばれる、非戦闘員の首をはねて戦場で採った首に見せかける行為が数多く行われたそうで、多くの庶民の命が奪われたらしい。

また、奴隷狩りもずいぶん行われて、大阪の陣だけで少なくとも五、六千人以上が奴隷として連れて行かれたそうだ。

大阪冬の陣夏の陣が、こんなに悲惨な市街戦だったとは知らなかったので、見ていてとても驚かされた。

そういえば、徳川家康は、大阪の陣の戦争に入る前に、たびたび居城に腹心の僧侶を集めて、かなり深い内容に及ぶ仏教に関する問答を行っていたと聴いたことがある。

「方便によって大罪を犯しても人間は許されるのか?」みたいなテーマにも及んでいるそうで、書名を忘れてしまったけれどその問答を記した書物も残っているそうだ。

また、若い時からも浄土宗の登誉上人の勧めでたくさん南無阿弥陀仏の念仏を称えていそうだけれど、大阪の陣のあってのちの晩年は一日に六万回以上の念仏を称えていたそうである。

おそらく、家康は、大阪の陣が始まればそれぐらい悲惨な戦争になるのは想定していたし、戦争が終わった後は、大阪の陣を含めたいろんな戦争の罪業を誰よりも深く自覚していたからこそ、日々六万もの念仏を称えずにはいれなかったのだろう。

それでも、自分が死んだあとにまで豊臣の勢力が残っていたら、再び天下大乱になると思って大阪の陣を始めないわけにはいかなかったのだろうか。

もちろん、家康の責任もあるのだろうけれど、天下の大勢が決したあとも大阪城を引き渡すわけでもなく抵抗の意思を示して浪人をかき集めた豊臣方・淀君などの責任もずいぶんあったような気がする。

「大坂夏の陣図屏風」は、黒田長政が絵師に命じて描かせて、長く黒田家の所蔵だったのを、戦後に大阪市に譲られたとのこと。

黒田長政が、この「戦後時代のゲルニカ」とも言うべき悲惨な戦争の記録を描かせた、と聴いて、とても意外な気がした。

黒田長政は、一般的には偉大な父親と比べて一見地味な印象がある。だが、案外、一番まともで立派な人物だったのかもしれない。

考えてみれば、長政の父親の如水は、関が原の戦いの時に、九州を平定してそののち天下を平定する野望を持っていたことはよく言われること。

また、長政が幼少時代から一緒に育った家臣の後藤又兵衛は、如水の死後長政と対立し、大阪冬夏の陣では大阪方に参加して、真田幸村とともに大阪方で最も活躍した猛者。

長政の息子の忠之は、長政の死後、太平の世にもかかわらず軍艦を建造したりして幕府に疑われるような振る舞いをし、黒田騒動を引き起こした人物。

こう考えると、長政の周囲にはこの上なくデインジャラスな人物が満ち満ちている。

長政という人は、案外もっともまともで理性的な人で、戦争の悲惨さもよく直視しており、自分の周囲の人物や自分自身への戒めのために「大坂夏の陣図屏風」を強い意思で後世に記録としてのこそうと考えたのかもしれない。

長政が関が原等で家康に積極的に協力したのも、単に考えなしで単純に協力したというのではなく、家康しか天下の平和をもたらす人間はいないと見込んで、父親の如水の天下取りの意向を無視してまで家康に積極的に協力して早期の政情の安定を図っていたのかもしれない。

そう考えると、長政という人は、如水よりもある意味しっかりした人物だったのかもなぁという気がしてくる。

にしても、「大坂夏の陣図屏風」を見ていると、あらためて、豊臣の多くの人を巻き添えにした悲惨な滅び方に比べて、江戸幕府の幕引きは見事だったと思う。

場合によっては、大阪の陣以上に悲惨な内戦や市街戦を、徳川幕府が自己の立場に執着していれば巻き起こしていたのかもしれない。

そう考えると、江戸幕府の幕引きにおける、勝海舟や山岡鉄舟や西郷隆盛、徳川慶喜の功績と偉大さというのは、本当に大きかったなぁと改めて思う。

特に、勝海舟は、万が一和平交渉が破れて江戸が戦場になった場合のことを考えて、新門辰五郎などと計って、江戸の市民を脱出させる準備も進めていたというのだから、その深謀遠慮たるや計り知れないと思う。

大阪の陣の時にも、勝海舟並の人間が豊臣方にいれば、ああした悲劇は回避できたのかもしれないが、いなかったのだろう。

「大坂夏の陣図屏風」は、大阪城で年に数週間は見れるとのこと。いつか実物を見てみたいなあと思う。

◆◆「大坂夏の陣図屏風」とは

ブログ=クラバートの樹No.34より

http://hypertree.blog.so-net.ne.jp

2011/08/11 08:37

http://hypertree.blog.so-net.ne.jp/2011-08-11

(筆者=このブログ氏の見解は、「その時歴史が動いた」や藤本氏の本の見解と少し異なる。悲惨な戦争の事実を描いているし、そこに価値がある。しかしピカソの「ゲルニカ」のように、怒りをこめて告発したものでなく、当時の時代的制約があることを指摘している)

前回の、No.33「日本史と奴隷狩り」で、藤本久志 著『新版 雑兵たちの戦場』に添って戦国時代の「濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)」の実態を紹介したのですが、この本の表紙は「大坂夏の陣図屏風」の左隻(させき)の一部でした。今回はこの屏風についてです。

なお、以下の図は『戦国合戦絵屏風集成 第4巻』(中央公論社 1988)から引用しました。また絵の解説も、この本を参考にしています。

◆大坂夏の陣図屏風・左隻

「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣蔵)は六曲一双の屏風です。これは黒田長政が徳川方の武将として大坂夏の陣(1615)に参戦したあと、その戦勝を記念して作らせたものです。現存する黒田家文書によると、長政自身が存命中に自ら作成を指示したとされています。

黒田長政は黒田官兵衛の長男として播磨・姫路城で生まれ、秀吉に仕えた戦国武将でした。秀吉の死後、関ヶ原の合戦(1600)では東軍として戦い、東軍勝利の立役者の一人となります。その功績で筑前・福岡藩50万石の藩主になりました。

「大坂夏の陣図屏風」の右隻の六曲には、徳川軍と豊臣軍の戦闘場面が描かれています。そして左隻には大坂城から淀川方面へ逃げる敗残兵や民衆、それを追いかけたり待ち受けたりする徳川方の武士・雑兵が描かれています。この左隻の中に『雑兵たちの戦場』の表紙になった「濫妨狼藉の現場」が描かれているのです。その左隻の第1扇から第6扇までを以下に掲げます。

大坂夏の陣図屏風・左隻 : 第1扇(右)から第3扇まで

大坂夏の陣図屏風・左隻 : 第4扇(右)から第6扇まで

一見してわかるようにものすごい人の数です。六曲一双で5071人と言いますから、左隻は2千人程度でしょうか。数えたわけではないのですが、とにかくおびただしい人の数であることは間違いありません。以下は、その左隻の人物群の中から「濫妨狼藉の現場」を中心に、ごく一部を紹介します。

部分図1 第1扇 中央より少し上

画面の中央、金雲の間の黒っぽい部分は大坂城周辺の川です。避難民は川を渡って逃げますが、画面中央では兵士が避難民の男から荷物を奪おうとしています。男は奪われまいと、男の妻(でしょうか)に荷物を渡そうとしています。 

部分図2 部分図1の下方を拡大

部分図1の下部の中央を拡大したものです。裸足で逃げる婦女から、兵士が赤い包みを奪おうとしています。 

部分図3 第3扇 中央の左方

『雑兵たちの戦場』の表紙になった部分です。画面の右上では東軍の兵士が、左手を切り落とされた落武者の首を打とうとしています。落武者の首は「追い首」といってあまり功名にはなりませんが、東軍の功名の中には「追い首」が多く、それどころか町人・農民などの首(にせ首)も少なくなかったと言います。

画面左下では、泣きじゃくる若い娘を東軍の兵士が連れていこうとしています。その右は母親でしょうか、観念した様子で、娘を慰めています。

部分図4 第3扇 部分図3の少し下

画面左下方では、荷物を持ち、乳飲み子を抱え、子供を背負った避難民が左方向へ逃げ、そこに兵士が追いすがります。右上では兵士が男を捕まえています。荷物を奪おうとしてるのか、あるいは「にせ首」を狙ったのか。画面右下の鳥居は天満天神を表しています。 

部分図5 第5扇 中央より少し下、右方

兵士たちが若い娘を取り囲んでいます。乱暴しようとしているのか、あるいは「人取り」か。その両方かもしれません。 

部分図6 第6扇 中央より少し上

神崎川を渡って北に逃げた避難民を待ち受けるのは、野盗の一団です。太刀や長刀を振りかざして、身ぐるみを剥がし(画面右端)、あるいは荷物を奪い、人を捕らえています。画面中央の上にふんぞり返っている男が、野盗のリーダでしょうか。その前には「戦利品」が積まれています。

「江戸初期の村人にとっても、戦争は魅力ある稼ぎ場であった。慶長十九年(1614)冬、大坂で戦争が始まる、という噂が広まると、都近くの国々から百姓たちがとめどなく戦場の出稼ぎに殺到しはじめていた。」(『新版 雑兵たちの戦場』。No.33「日本史と奴隷狩り」参照)。大坂の陣は野盗・盗賊の「出稼ぎ」の場でもあったようです。

◆戦国のゲルニカか?

以前、NHK総合で「その時、歴史は動いた」という番組がありました。そこで「大坂夏の陣図屏風・左隻」が「戦国のゲルニカ」という番組タイトルのもとに紹介されたことがあります(2008625日)。

NHKといえども、番組視聴率をあげるためには視聴者の「気を引く」タイトルを付けたいわけです。日本の「戦国」と「ゲルニカ」という異色の組み合わせは、確かに「気を引く」タイトルであることは確かです。もちろん「ゲルニカ」とはピカソの有名な絵を指しています。しかしこういったタイトルは、視聴者を誤ったものの見方に導くものでもあると思うのです。

確かに「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風・左隻」には共通点があります。それは「戦争に一般市民が巻き込まれ、多数の死傷者が出た状況を念頭に描かれた絵」という共通点です。しかし、共通点はこの1点でしかありません。あとの点は全然違っている。

ゲルニカ

ピカソ「ゲルニカ」(1937[site : ソフィア王妃芸術センター]

◆「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風」の相違点

まず相違点の第1点は「ゲルニカ」は、当時としては「あまりなかった状況」を描いた絵だということです。1936年からのスペイン内戦(スペイン市民戦争)は、スペイン共和国軍と、共和国を転覆させようとするフランコ反乱軍の戦いです。そのフランコ軍を支援していたのがドイツでした。1937426日、ドイツ空軍は共和国軍の支配地域であるスペイン北部・バスク地方の小都市、ゲルニカ(人口、7000人程度)を無差別爆撃します。無差別爆撃とは、軍事目標であろうとなかろうと、とにかくその地域全体の壊滅をねらった爆撃です。従って、多数の一般市民に死傷者が出ますが、それは「折り込み済み」の作戦なのです。ゲルニカでは事前のドイツ軍の警告もなかったとこともあり、数百人の死者がでました。

ゲルニカという小さな都市にどれほどの軍事的意味があったのか、意見は分かれるところだと思います。こういった「市民戦争」では補給基地も全国的に散らばるので、軍事的意味がない都市はないと思います。ゲルニカも共和国軍の拠点の一つではあったようです。しかしゲルニカの近くには、スペイン北部の工業都市であるビルバオ(当時、共和国側)があります。軍事目標を攻撃するならこちらの方がよほど「価値」が高いものがある。ゲルニカを狙ったのは多数の死者を出し、共和国軍にドイツに支援されたフランコ軍の「脅威」を示すものだったと考えられます。

もちろん軍事目標を狙った爆撃で一般人が「巻き添え」になることは、それ以前にもありました。しかし一般人の殺傷が「折り込み済み」である都市の無差別爆撃という手法は、当時の世界の戦争行為としては決して一般的なものではありませんでした。だからこそ、フランコ軍・ドイツ軍は世界中から非難を受けたわけです。

この「ゲルニカ無差別爆撃」に怒りを感じてピカソが描いたのがゲルニカ(1937)です。この絵は今、マドリードのソフィア王妃芸術センターにあり、スペインの宝となっています。

一方、「大坂夏の陣図屏風・左隻」はどうでしょうか。そこには逃げまどう避難民とともに、雑兵たちの「濫妨狼藉」が描かれています。そして戦争時における農民や町民に対する濫妨狼藉(人と物の略奪、暴力行為)は、前回の No.33「日本史と奴隷狩り」で紹介したように、日本の戦国時代において「しばしば」行われていました。大坂夏の陣の終了後、蜂須賀軍は「奴隷狩り」の戦果を177人と徳川幕府に報告しているぐらいなのです(No.33 参照)。屏風の注文主である黒田長政も秀吉に仕え、朝鮮出兵にも参加して朝鮮半島各地を転戦しています。No.33 で紹介したように、そこでも数々の濫妨狼藉があったわけです。

もちろん、大坂夏の陣が一般の戦国時代の戦争と違った面もあります。それは大坂城およびその周辺という「市街地 人口密集地域」で戦争が行われたということです。従って濫妨狼藉の被害も通常の戦国時代の戦闘よりは大きかった。これは確かだと思います。しかし濫妨狼藉そのものは日本全国で、また朝鮮半島で、戦争時には当然のように行われていたことも事実なのです。それは『雑兵たちの戦場』で詳述されている通りです。

ゲルニカの無差別爆撃は、当時としては「それまでになかった状況」、大坂夏の陣における濫妨狼藉は、当時として「それまでにもよくあった状況」です。ここがまず違います。ゲルニカは最初の無差別爆撃、大坂夏の陣は最後の濫妨狼藉なのです。

しかし残念なことにゲルニカが先例となった「都市の無差別爆撃(絨毯爆撃)」はその後何回か繰り返され、まれな状況ではなくなってしまいました。

 ・重慶(1938-43。日本軍)

 ・ドレスデン(1945.2.13。英米連合軍)

 ・東京(1945.3.10。アメリカ軍。東京大空襲)

などです。また広島・長崎も「都市の無差別爆撃」だと言えるでしょう。たった一つの爆弾による無差別爆撃です。

重慶は当時の中国国民党政府が移転してきた都市であり、もちろん軍事的意味はあります。しかし重慶爆撃は第二次大戦の戦勝国からは強く非難され、また重慶市民には今でも反日感情が根強いようです。ドレスデンには「軍事基地や軍需工場、関連施設」があったわけではありません。ドレスデンは芸術と文化と歴史の町です。この無差別爆撃は、ドイツ文化を破壊しドイツ国内の厭戦気分を盛り上げようとするかのようです。1945.3.10 の東京大空襲も、日本の軍需産業を支える東京下町の町工場群を破壊した、という言い訳はできるでしょうが、苦しい説明です。10万人が死んだと言われる大空襲の目的は「10万人が死ぬこと」だった(日本の降伏を早めるため)と考えられます。 

「ゲルニカ」と「大坂夏の陣図屏風」のもう一つの相違点は、絵の描き手(注文主)です。いうまでもなく「ゲルニカ」を描いたのはピカソという画家であり、一市民です。ゲルニカ市民およびスペイン共和国軍という、ゲルニカで被害をうけた側の立場に立った画家です。

それに比較して「大坂夏の陣図屏風」を画家に描かせたのは、黒田長政という大坂夏の陣で勝利した側の大名です。勝利者が自分の功績、ないしは徳川方の戦績を記録するために描かせたものが「大坂夏の陣図屏風」なのです。そこが決定的に違います。

◆現代人の感覚で歴史を見る落とし穴=「大坂夏の陣図屏風」を評して

戦争に巻き込まれた非戦闘員の悲惨な姿を描き、戦争を告発した 、というような意見があります。この屏風を「戦国のゲルニカ」だとする表現は、このような見方からきています。しかし、はたしてそうなのでしょうか。

また、絵を引用した『戦国合戦絵屏風集成 第4巻』の解説には、豊臣恩顧の大名でありながら、心ならずも徳川氏に従って、豊臣氏の滅亡に力をかさなければならなかった黒田長政が、滅びゆく旧主のために捧げた挽歌ともいうべきものではなかっただろうか 、と書かれています。こんなことを言ってよいのでしょうか。

最低限、推定できるのは、この屏風を見たはずの黒田長政の家臣をはじめとする周囲の人たちは、戦争の悲惨さを描いた(ないしは告発した)ものだとか、豊臣家への挽歌だとは思わなかった 、ということです。なぜそう言えるのかと言うと、もし、この屏風を見た黒田長政の家臣をはじめとする周囲の人たちが、戦争の悲惨さを描いたものだとか豊臣家への挽歌だと思ったのであれば、黒田長政は事前にそれが予測できたはず だからです。そして戦争の悲惨さや豊臣家への挽歌を描いた絵だと周囲が受け取るような絵を、黒田長政が注文するはずがない のです。もし仮にそんなものを注文して作らせ、それが噂になって、その噂が徳川幕府の耳に入ればどうなるか。理由は何とでもつけられます。謹慎ぐらいならまだましで、悪くすると長政は切腹、黒田家は取り潰しではないでしょうか。そんなリスクを福岡藩のトップがおかすはずはない。長政のように紆余曲折を経ながら戦国の世を生き抜き、徳川体制の藩主にまで上り詰めた人間というのは、余計なリスクを負わない「したたかさ」があって当然なのです。

父親の黒田官兵衛もそうですが、長政はキリシタン大名ですね。しかし長政は、秀吉が「バテレン追放令」(No.33「日本史と奴隷狩り」 参照)を出すとキリスト教を棄教し、徳川時代にはキリスト教徒を厳しく弾圧します。この程度は、当時を生き抜くための「したたかさ」以前の「分別」のたぐいでしょう。当時のカトリックの教えに従ってせっせと領内の寺院・神社を破壊した高山右近や大村純忠(No.28「マヤ文明の抹殺」)とはわけが違うのです。

黒田長政は豊臣家に恩義がある・・・・・・。これは全くの事実です。そのため家康は、大坂冬の陣では長政の徳川方での参戦を許さなかった。関が原の合戦の東軍勝利の立役者であるにもかかわらず、です。長政は夏の陣でやっと参戦を許され、そして徳川方は勝利し、徳川の世は確固としたものになった。

黒田長政のような立場の人間は、もとから徳川方だった大名以上に、徳川家に対する恭順の「しるし」を表そうとするはずです。大坂夏の陣の時のように・・・・・・。たとえ内心では豊臣家に恩義を感じていたとしても(それはありうる)、ゆめゆめそうは見られないように細心の注意を払って行動したでしょう。

日光東照宮の重要文化財・石鳥居いしどりいは、石材だけで作られた鳥居では日本最大と言われていますが、この鳥居を寄進したのは黒田長政です。もちろん福岡藩主にまでとりたててもらった家康への恩義からだろうし、徳川幕府への忠誠の証としての石鳥居です。長政が「豊臣家への挽歌を描いた絵」を注文するはずがないと思うのです。

「大坂夏の陣図屏風」の右隻は戦闘場面であり、当然黒田長政が描かれているし、家康も秀忠もいます。右隻は戦勝記念画なのです。そして左隻は、戦勝の結果としての「戦果」を描いています。ここには、大坂城から淀川にいたる戦場が実況中継のように描かれています。この左隻は徳川方にとってポジティブな情景(戦果としての濫妨)か、ないしはニュートラルなものだと思います。少なくとも徳川方にとってネガティブなものではない。

大坂夏の陣図屏風の中心テーマは、

  右隻が「武士たちの戦場」

  左隻が「雑兵たちの戦場」

だと思います。藤本久志さんの著書『雑兵たちの戦場』の表紙には、本の題名そのものズバリの絵、つまり「大坂夏の陣図屏風・左隻=雑兵たちの戦場」が用いられているのです。「大坂夏の陣図屏風・左隻」を見て「ゲルニカ」のように考えてしまうのは、現代人の感覚で歴史を見る落とし穴にはまっているのだと思います。

要するに「大坂夏の陣図屏風・左隻」は、中野京子さん流に言うと「怖い絵」なのです。No.19「ベラスケスの怖い絵」で紹介したように、中野さんは「ラス・メニーナス」に描かれている小人症の「慰み者」に着目し、『ラス・メニーナス』をもう一度見直してほしい。ここには、生きた人間を何の疑問も持たず愛玩物とした「時代の空気」が漂っている。それが何とも言えず怖い。と書いています。

この表現をそのまま借用すると、『大坂夏の陣図屏風・左隻』をもう一度見直してほしい。ここには、生きた人間を何の疑問も持たずに濫妨狼藉した「時代の空気」が漂っている。それが何とも言えず怖い、と言えるでしょう。絵は「見方」によってその意味がガラッと変わることがあります。『大坂夏の陣図屏風・左隻』は、「ゲルニカ」ではなくて「怖い絵」だと思います。

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🔵大河ドラマ・真田丸を10倍楽しむ方法

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◆◆体制批判を託された真田幸村

2015330日朝日新聞(文化の扉)

体制批判を託された? 真田幸村

 猿飛佐助らを率いて徳川家康を討ち取る寸前まで迫ったといわれる真田幸村。ドラマやゲームでは二枚目に描かれているが、「幸村」という名前も含め、実像から離れたイメージが大きくなっている。

◆「日本一の兵」、徳川軍に打撃/英雄像、後世の脚色も

 多勢に無勢、負けるとわかっていながら、大坂の陣で豊臣軍についた幸村。夏の陣では、少ない手勢を率いて敵陣に突入し、老練な家康をあわてさせて自害を覚悟させたという。

 1567年、信濃(長野県)の東部地域を治めていた真田昌幸の次男として生まれた幸村は、若い頃、越後の上杉景勝や大坂の豊臣秀吉のもとで人質として過ごした。信濃の小勢力に過ぎない真田氏は周囲の勢力と状況によって敵となったり、同盟を結んだりして生きぬくしかなかった。

 昌幸は、1572年の三方ケ原の戦いで家康を破った武田信玄に仕え、その戦略を学んだ。1600年、徳川家康と石田三成による「関ケ原の戦い」に際し、三成方についた昌幸と幸村(兄の信幸は家康方に)。関ケ原へ向かう徳川秀忠軍を信濃・上田城で迎え撃つ。3千とも5千とも言われる真田軍は昌幸の巧みな用兵で3万8千の秀忠軍を打ち負かした。大坂の陣で幸村は、戦上手の父から受け継いだ才覚を余すところなく発揮。冬の陣でも「真田丸」を拠点に徳川軍に大打撃を加えた。その活躍は、敵方が「日本一の兵(つわもの)」とたたえるほどだった。

 大坂冬の陣で幸村が築いたという「真田丸」。大坂城は北・西・東は河川で囲まれながら、南は平らな台地で守りが弱く、その弱点を補うために幸村が築いたとされてきた。しかし、城郭考古学が専門の奈良大学長の千田嘉博さんは、「弱点を補うのではなく、敵を引きつけて攻撃する拠点」との見方を示す。

 千田さんによると、これまでの真田丸は、徳川軍の攻撃をわかりやすく説明した「軍学のテキスト」の図から考えられていたという。しかし、現地の様子を詳しく描き、広島藩・浅野家に伝えられてきた「諸国古城之図」や、当時の地形を探った大阪文化財研究所と大阪歴史博物館による「大阪上町台地の総合的研究」から、真田丸は、城との間に幅200メートル、深さ10メートルほどの谷があるような場所につくられていたことが判明。当時の火縄銃の射程を超え、城からの援護は期待できず、相手に狙われやすい場所だが、幸村はあえてそこを選んだ可能性があるという。

 「局地戦では徳川軍に勝つことで、徳川軍に『自分たちは大軍なのに苦戦している』と思わせることを狙ったのではないか。真田丸が全滅しても、守りを固めた大坂城にはリスクがない」と千田さんは説明する。

 真田丸だけではなく、幸村自身についても、判明していないことが多い。

 そもそもこの人物、史料に残る名前は「信繁」。「幸村」は後世の講談などで呼ばれるようになった名前。容姿も、現代のドラマやゲームのような二枚目ではなさそう。小柄で、大坂の陣の時には歯も抜けていた。49歳で亡くなったといわれているが、本当の年齢はわからないという。猿飛佐助など、幸村と共に活躍が伝わる「真田十勇士」も実際はいなかった。

 ではなぜ、架空の英雄「幸村」が広まったのだろう。「真田三代」などの著書がある山梨県立中央高校教諭の平山優さん(日本中世史)は「徳川の世になり、体制への不満があっても、大っぴらに批判はできない。家康を苦しめた信繁について、名前を変え、脚色して伝えることで政権を批判し、喝采したのではないか」と話す。

 猿飛佐助らの活躍を紹介してヒットした「立川文庫」は大正期に出版された。「デモクラシーの一方で言論弾圧もあり、不安も感じていた時代」と平山さん。時代への不満や不安が、幸村への関心を高めるのかもしれない。2016年のNHK大河ドラマは幸村が主役の「真田丸」という。(藤井裕介)

 <読む> 海音寺潮五郎や司馬遼太郎をはじめ、多くの作家が幸村を描いている。猿飛佐助らと共に、史実ではあり得ない奇想天外な戦いを繰り広げる柴田錬三郎の「真田幸村」が昨年、文春文庫で新装版として出された。

 <見る> 幸村が登場するドラマなども多い。池波正太郎原作のNHKドラマ「真田太平記」(1985~86年)、ゲームをもとにした宝塚歌劇のミュージカル「戦国BASARA」(2013年)などをDVDで見ることができる。

◆そのころ世界は

 幸村が活躍した16~17世紀、世界でも王朝の交代など各地で大きな変化が起きていた。中国では、ヌルハチの樹立した後金(後の清)が勢力を拡大して14世紀から続いた明を倒す。ロシアでもロマノフ王朝が生まれた。それぞれ、20世紀まで支配を続けることになる。ヨーロッパでは、スペインの無敵艦隊を破った英国が勢力を増し、北米大陸への入植を始めたり、東インド会社を設立したりする。フランスやオランダなども海外に進出する。

◆◆『真田丸』を100倍楽しむ基礎知識~これを読めば大人気の理由がよくわかる 

20160221日週刊現代

◆「時代」と「地理」を押さえる

「乱世、ここに極まれり―」

NHK大河ドラマ『真田丸』の幕開けは、戦国の世も大詰めの1582(天正10)。上杉謙信と武田信玄はすでに世を去り、その息子たちがしのぎを削った時代である。

そんな中、信州の弱小豪族「国衆(詳しくは後述)」にすぎない真田家が、いかに大名たちと渡り合い、たくましく生き抜くのか。本作の醍醐味は、まさにここにある。

同年は、戦国最大の激動の年だ。まず、真田家が長年仕えた武田家が滅亡。主君を失った真田家は、意を決して織田家につくが、今度は「本能寺の変」で信長が落命してしまう。

真田家が地盤としてきた「小県」のある信州は、上の地図でも分かる通り、四方を名だたる列強に囲まれている。後ろ盾を失えば、いつ誰が襲いかかってくるか分からない。真田家の強みは何だったのか。

ひとつは、惣領・昌幸(草刈正雄)の「謀略力」だ。昌幸は織田の懐に飛び込むにあたり、上杉あての偽の手紙を見せて「オレは上杉からも誘われている。雇ったほうが得だぞ」とアピールし、自分を高く売りつけた。何を隠そう昌幸は、のちに「表裏比興の者」(裏表ある食わせ者)の異名をとる、戦国きっての知恵者。息子の信幸(大泉洋)と信繁(堺雅人)は、したたかな昌幸の背中を見て成長してゆく。

もうひとつは、真田の所領・小県の絶妙な「位置」である。小県の近くには、中山道と上州街道が通る。列強はこの要衝を狙って兵を送り込むが、地の利を知り 尽くす真田に撃退された。これから描かれる「上田合戦」では、徳川の大軍を相手に、真田流の痛快な戦いぶりが見られるはずだ。

(武田と織田という重しが外れた信濃は、各地の国衆が勝手に動く混乱状態に。昌幸らは新たな主、つまり後ろ盾を決めるため会議を何度も開く。その結論は……

◆戦国の中小企業、「国衆」の男たち

先にも触れた通り、真田家は今のところ、一国一城の主たる大名ではなく、土着の豪族である「国衆」と呼ばれるポジションにいる。武田のような大名が大企業の経営者だとすれば、昌幸をはじめ、室賀正武(西村雅彦)、出浦昌相(寺島進)たち旧武田家臣の国衆は中間管理職、あるいは中小下請け企業の社長、といったところだ。

(室賀正武(右) 正武は昌幸とは幼馴染だが、何かと場を仕切ろうとする昌幸に反発を抱き、ときに単独行動をとる。しだいに両者の対立は深まってゆく 出浦昌相(左) 甲州透っ破(忍び)のリーダーでもある昌相は、昌幸に惚れ込み重臣に。江戸時代、真田家が松代藩を治めるようになると武者奉行に就任した。第5回では、昌幸がこう漏らすシーンがあった)

「わしらのような国衆には、力のある大名にすがるしか、生き残る道はない」

「誰が最後の覇者になるか、しかとこの目で見極めて、食らいついてやるわ」

武田という「勤め先」を失い放り出された国衆たちは、昌幸のリーダーシップのもと意見を交わし、新たな主と活路を模索する。ただし表向きは一致していても、そこは戦国の世。生き残るためには、ときに仲間を欺くことさえある。この国衆同士の駆け引きからも目が離せない。

彼ら国衆は武士ながら、ふだんは領地の農民たちと交わって暮らしている。武士と農民の区別は、厳しい身分制度が確立した江戸時代に比べ、まだかなり緩やかだったのだ。

また農民にも、普段は農業をしているが、戦の際には農具や手近な武器をとって馳せ参ずる「地侍」と呼ばれる人々が少なくなかった。信繁が恋する女性・梅(黒木華)の兄である堀田作兵衛(藤本隆宏)が、その代表格。暮らし向きこそ豊かではないが、彼らもまた、真田に仕えるりっぱな家臣の一員である。

◆列強に「人質」を出して生きのびる

(信繁は上杉家へ=物語では少し先の話だが、信繁は景勝のもとで家臣の直江兼続らとも親交を深め、信頼を得る。人質期間は教育的意味もあった)

『真田丸』で頻繁に登場するのが、「人質を誰にしようか」と悩むシーン。武家社会では、人質は重要な外交手段であり、常識だった。誰かの家臣となる場合や同盟を結ぶ場合には、「裏切りません」という証として、相手に一族の女性や子供を預けなければならなかったのだ。つまり「人質の行き先=その時の(表向きの)上司・提携先の家」と考えてほぼ差し支えない。

江戸時代、徳川幕府は諸大名の妻子を江戸に集め、かつ大名には「参勤交代」で1年おきに領地と江戸を行き来させていた。これは戦国時代の人質システムを、より大規模にしたものに他ならない。

(松は織田家へ=武田を裏切った夫・小山田茂誠を救うためにも織田の人質に志願した松だが、光秀の謀叛がすべてを狂わせた。当時は必要とあれば、女子供も容赦なく磔刑にされた)

まだ弱小武家にすぎない真田家の人々も、この人質システムに運命を翻弄される。

例えば信幸・信繁の姉である松(木村佳乃)は、真田が正式に織田の臣下となったことを受けて、第4回で人質になることを志願し、織田の本拠地・安土へ赴いた。だが、その後すぐに織田が滅び、明智光秀の軍勢が安土へなだれ込んだため、決死の逃避行を余儀なくされてしまう。

また、織田の臣下となった昌幸の「直属の上司」にあたる武将・滝川一益(段田安則)は、信長亡き後、真田の忠誠を試すため、やはり人質を要求してくる。昌幸が悩んだ末に白羽の矢を立てたのは、自身の母・とり(草笛光子)だった。とりは真田家重臣の娘・きり(長澤まさみ)とともに、滝川が本拠とする沼田城へ出発するのだが……

(とり、きりは滝川家へ=織田家の重臣・滝川一益は、信長亡き後、再起の道を模索する。ただ、一益のもとに母を差し出した昌幸だが、この時点では内心、まだ誰につくかを決めかねていた)

のちには主人公・信繁も人質に出されることとなる。紆余曲折あって昌幸は上杉の陣営につくことを決意、当主の上杉景勝(遠藤憲一)に打診する。景勝の出した条件は、信繁を人質に差し出すことだった。このとき、信繁は19歳。

もちろん、もし裏切れば人質は殺される。かくも冷徹な戦国時代の人間関係―だが、その裏側にある心模様も、ドラマの重要な見どころだ。

(真田の佐助=佐助(右端)は、必要とあらば味方をも欺く手練。甲州の忍びは、もとは武田信玄が盗賊を集めて組織した)

◆忍び」の力量が生死を分ける

(徳川の半蔵 半蔵()は代々の忍びの家系。武田を裏切って徳川についた梅雪は、無謀な別行動で横死した)

「佐助!」と呼ぶと、どこからともなく飛んでくる、百姓のなりをした無口な男。藤井隆が演じる真田家の忍び・佐助は、実在については諸説あるが、有名な「真田十勇士」のひとり「猿飛佐助」を踏まえたキャラクターだ。

戦国時代は、まさに忍びの全盛期。別名の「透っ破」が「すっぱ抜く」の語源でもある通り、諜報活動の要として、実際に武将たちに重用された。

5回では、信長の死を知った徳川家康が、大坂・堺から伊賀の山道を通り、岡崎城へ命からがら帰還した。この「伊賀越え」の道中、一行は伊賀の忍びにして家康の家臣・服部半蔵(浜谷健司)の助けを得る。一方、途中から別行動をとった旧武田家臣の穴山梅雪(榎木孝明)は、落ち武者狩りに遭って死ぬ。

まだ武士と農民の区別も曖昧な戦国時代。歴戦の武将といえど、彼ら忍びの諜報・斥候なしには、土民に命を奪われかねなかったのだ。

◆◆実際は歯抜け・白髪説 真田幸村なぜイケメン化?

2016217日朝日新聞

真田幸村こんなイケメンに変身

 戦国武将のイケメン化が止まらない。NHK大河ドラマ「真田丸」で話題の真田幸村。大坂の陣の時には歯が抜け、白髪交じりだったとされるが、ゲームやマンガではキラキラの美少年に。一体なぜなのか。

◆ゲームに登場、中性的美少年

 戦国武将のアクションゲーム「戦国BASARA」は2005年の第1作以来、関連作品含め累計380万本を売り上げた。購入者の約3割は女性で、歴女ブームの立役者とも言われる。ゲームの主人公は、幸村と伊達政宗。幸村は中性的な顔立ちの美少年キャラで、ライダースジャケット風の赤い衣装をまとう。

 史実によると、大坂の陣で豊臣側についた幸村は、大坂城に築いた出城「真田丸」で奮戦。夏の陣では、徳川家康の本陣に切り込み、一時は家康に自害を覚悟させたとされる。その雄姿は、敵方からも「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」とたたえられた。そんな幸村も、大坂の陣以前の蟄居(ちっきょ)時代には、我が身を憂える手紙を残している。

 「去年よりにわかに年より、ことのほか病者になり申し候、歯なども抜け申し候、ひげなども黒きはあまりこれなく候」。病気がちで、歯が抜け、ひげの白髪も増えた、との内容だ。

 が、近年のゲームやアニメでは、幸村の「高齢化問題」はなかったことに。若々しく、美しくが定番だ。

◆絵柄の多様化、支持層を拡大

 戦国BASARAの発売元のカプコンの小林裕幸プロデューサーは「映画でもドラマでも、カッコイイ男が熱く戦う姿は人を引き付ける。幅広い層に受け入れてもらうために、爽やかにカッコ良く描いている部分はありますね」と明かす。

 ゲームを機に、歴史に開眼する人もいる。「歴ドル」の小日向えりさんは「そういう歴女の友達がいます。イケメンキャラにひかれて恋に落ち、その人物に興味を持って史実を研究する。最終的には『肖像画でさえもいとおしい、愛せる』と言っていました」。

 イケメン化はマンガでも進む。1980年代までの幸村像は簡素で武骨なものが多いが、00年代以降は線が細く中性的な描写も目立つ。マンガ評論家の伊藤剛さんは「最近は、学習マンガや自治体のキャラクターにも『萌(も)え系』の絵が浸透している。絵柄の多様化は、『歴史上の人物は写実的に描かれるものだ』との従来の考え方が『お約束』に過ぎないことを示しているのかも」と指摘する。

◆悲劇的な人生、昔から美談に

 そもそも、幸村の美化は今に始まったことではない。史料に残る名前は「信繁」。「幸村」の通り名は、死後に軍記物の講談などで広まったとされる。

 ドラマ「真田丸」の時代考証も務める平山優さんは、講談の幸村像には、徳川幕府への不満を募らせた庶民のヒーロー願望が投影されているとみる。おおっぴらな批判ができないために、実名を避けたのだという。「家康を追い詰めながら華々しく死んだ幸村の悲劇性は、日本人の琴線に触れる。だからこそ、そのイメージは繰り返し再生産されてきた」

 そして平成。ゲームやマンガ、大河ドラマなど、「イケメン幸村」が百花繚乱(ひゃっかりょうらん)だ。平山さんは言う。「幸村は時代時代で表情を変化させてきた。これからも思いもしないキャラクターとして姿を現すのではないでしょうか」(神庭亮介)

◆◆大河ドラマ「真田丸」を10倍楽しむ六文銭

(週刊文春16.02.11

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🔵真田昌幸の生涯

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真田昌幸~戦国時代を巧みに生き抜き真田家を守った名将(戦国武将列伝より)

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 真田昌幸(さなだまさゆき)は、1547年真田幸隆の3男として生まれた。幼名は真田源五郎。

 母は河原隆正の妹・恭雲院、又は阿続方という説もある。

 2016NHK大河ドラマ「真田丸」では、草刈正雄さんが真田昌幸を演じる。

 この頃、父・真田幸隆は武田晴信(のちの武田信玄)の軍門に入ってまだ数年と考えられ、1545年に旧領に復帰したばかり。信濃先方衆として、戦場では常に最前線で戦っていた。その為、戦功も多く、真田幸隆の活躍が目立つ。

 真田源五郎(真田昌幸)7歳になると、父母の元を離れて1553年、甲斐・甲府へ人質として送られた。

 真田本家の跡取りである真田幸隆の嫡男・真田信綱や2男・真田昌輝ではなく、3男を人質としたのは武田晴信の配慮とも言える。

 この頃の1553年と言うと、武田晴信は4月に小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。村上義清が信濃を追われて上杉へ逃れた。しかし、上杉は和田城主・大井信広を武田から上杉に寝返えさた為、81日に武田晴信は大井信広・大井信定が討ち取るなど北信濃の状態が安定せず、信濃衆から人質を取る事に。そして1553810日に真田幸隆から3男・真田源五郎を預かる変わりに秋和の地(上田近郊)350貫を加増し、真田幸隆は約3000(9000?)にした。9月には川中島に上杉兼信自ら出陣し、武田晴信と対峙している。

◆武田信玄の近習として活躍

 人質とは名目上のことであり、真田源五郎(真田昌幸)は、甲府で過ごす間にその才能を見出され、武田晴信の奥近習衆に加わり、将来、武田氏の重臣になるべく英才教育を15年間受ける事となる。

 この奥近習衆には「奥近習六人衆」と呼ばれた蒼々たる若き武将がおり、真田昌幸のほかには、三増峠の戦いでも活躍した土屋昌次や曽根昌世、山県昌景からも信頼を得た三枝守友、譜代家老衆である甘利虎泰の嫡男・甘利昌忠、長坂光堅の子・長坂昌国がいる。

 1561年の第4次川中島の戦いでは15歳の真田源五郎(真田昌幸)が初陣したとされ、武田信玄の近習として武田信玄の警護にあたった。

 その後、1561年~1564年頃には、武田信玄の母方である大井氏の支族になる武藤家の養子に入り真田源五郎(真田昌幸)は武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)を称した模様だ。

 1564年頃には、遠江・尾藤頼忠(のちの宇多頼忠)の娘・山之手殿(寒松院)を妻に迎えた。山之手殿の出身は諸説あって、菊亭晴季の娘とも。京之御前様と呼ばれていたこともあるようで、公家の娘である可能性も高く、武田信玄の仲介で真田昌幸の正室になったものと推測する。

 15657月には長女が、15663月には長男・武藤源三郎(真田信之)が誕生。続いて1567年には2男・武藤弁丸(真田幸村、真田信繁)が生まれた他、1568年には次女も誕生している。

 156910月、三増峠の戦いで、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は馬場信春隊の検使の旗本を務め、一番槍の功をたてた。

 15701月、駿河花沢城攻めに武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)も参陣したと名が見られる。

 駿河攻めの際には、曽根昌世と武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、武田信玄から「我が両眼だ」と称されている。

 1572年春には、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)の名が奉行人として見られる。そして、武田信玄は10月に西上開始し、12月、三方ケ原の戦いでは真田一族も参戦し徳川家康・織田連合軍に勝利している。

 1573412日、武田信玄が帰陣途中、伊那駒場で病没する。真田幸隆は落胆のあまり、七日六夜の間、食を断ったという。

 1574519日、62歳の真田幸隆も武田信玄を追うように死去。真田幸隆の嫡子・真田信綱(真田昌幸の兄)が、真田本家の家督を継ぐ。

 1575521日、長篠で戦いで武田勝頼は敗北し、多くの武田重臣も討死。真田家も当主・真田信綱(39)だけでなく、2男の真田昌輝も戦死。

 兄2人が討死したが、武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、武田勝頼の旗本衆として戦っていた為、戦死は免れていた。

 真田家は、本来であれば討死した真田信綱の嫡男・真田信興が継ぐところであるが、高坂昌信が武田勝頼に助言したこともあり、武藤喜兵衛が真田家を継ぐことになる。

 そして、真田昌幸として真田に戻ると真田信幸・真田幸村も真田の里に戻ったとされる。

 長篠の戦いで負傷した武田兵の療養場所として武田勝頼が当時上州を支配していた真田昌幸に命じ、伊香保温泉を整備した。有名な伊香保温泉の石段もこの時に完成。

 1576年、海野長門守、海野能登守の兄弟が真田昌幸に属する。

 1578年、武田と上杉が同盟。御館の乱に乗じて相模の北条氏直が占領していた東上野・沼田領を狙ったため、武田勝頼は真田昌幸に侵攻するよう指示。真田昌幸は名胡桃城の鈴木主水、小川城の小川可遊斎を味方に引き入れ、沼田城は矢沢頼綱に正面攻撃させる。矢沢頼綱は真田幸隆の弟で、百戦錬磨の武将であった。

 1580111日、真田昌幸は名胡桃城で軍議を行う。そして、131日に明徳寺城を攻略し、沼田周辺に放火してあと、名胡桃城に引き返した。この後、真田昌幸は沼田城攻略軍を叔父の矢沢城主・矢沢綱頼に任せ一旦甲府に戻る。

 15803月、矢沢綱頼は沼田城を包囲する。4月上旬、真田昌幸が名胡桃城に入ったところで金子泰清、渡辺左近允らが投降。そして5月になると沼田城の藤田信吉も武田に投降し、518日、真田昌幸は無血で沼田城に入城し、630日、藤田信吉は沼田城をあとにしている。 以後、藤田信吉は武田勝頼の家臣として真田昌幸に仕えた。藤田信吉は、はじめ用土・小野姓を称してようだが、沼田城開城の恩賞として12月に武田勝頼から藤田姓と能登守を賜り、上野国沼田や南雲に5700貫の所領を拝領している。

 15811月、武田勝頼より甲斐・韮崎の新府城普請奉行に真田昌幸が任じられる。

 また、沼田から会津に逃れていた旧沼田城主・沼田景義が沼田城奪回を目指し大胡氏・那波氏らの加勢を加えて3000の兵で挙兵し、田北の原の戦いで沼田城代の藤田信吉と海野勢は敗戦。沼田衆には旧城主の沼田氏に参陣する者も多かったようだ。しかし、真田昌幸の計略により不意打ちを受けた沼田景義は討死し沼田氏は滅亡している。

◆真田の生き残り作戦開始 武田滅亡により北条氏直に近づきつつ、織田信長に臣従

 15823月、織田信長が武田攻めを開始。武田勢は初戦こそ奮戦するものの、家臣の裏切りが相次ぎ、織田勢が甲斐に侵攻すると、撃退する為の兵すら集める事が困難となり、武田は内から崩壊した。真田昌幸は、武田勝頼に難攻不落な岩櫃城(いわびつじょう)に逃れるよう進言したが、武田勝頼は小山田信茂の岩殿城を目指すこととなる。

 新府城を33日に発つとその逃亡途中、小山田信茂も裏切り、311日、武田勝頼は甲斐・田野で討死。

 この時、実は当初、武田勝頼は真田昌幸の岩櫃城へ落ちる決断をした。

 そのため、1582228日早朝、真田昌幸は急ぎ岩櫃城に戻り、鎌原氏、植栗氏、湯本氏、池田氏などの家臣を召集。

 岩櫃城の南側に、武田勝頼を迎える為の「御殿」の建設を昼夜3日間で完成させたと言う。現在の潜龍院跡である。

 しかし、新府城から急使が来て、武田勝頼は小山田信茂の進言を受けて、岩殿山城へ逃れる事に変更したのだ。

 この報告に驚いた真田昌幸は、箕輪城の内藤家にも連絡し、自ら2500を率いて上田城に入ったが、届く報告は武田勢の敗報や謀反ばかり。

 「吾妻に下らないで、勝頼公のそばに居ればよかった。」と大声を上げて泣いたと伝わる。

 武田が滅亡した事により、独自に生きる道を選択することを迫られることとなった真田昌幸であったが、武田信玄から吸収した外交・戦略、父・真田幸隆から受け継いだ神出鬼没の用兵が、生涯、戦国大名へと独自に進む上で役に立つ事となった。

 加津野家を継いだ真田昌幸の弟・信尹も武田家滅亡後は真田姓に戻り真田信尹と称した。

 鉢形城主の北条氏邦は真田昌幸に手紙を送り、北条氏直への臣属をすすめたが、真田昌幸は織田信長に臣従する。真田昌幸は織田信長に馬を贈り、48日に本領安堵。滝川一益の旗下になる。

 真田昌幸は、下記の旧武田遺臣を迎え入れている。

 禰津氏、小山田壱岐守、原隼人の子・原三左衛門、原監物、板垣修理、内藤修理の子・内藤五郎左衛門、瀬下若狭守、大熊五郎左衛門、加茂氏、安中左近、白倉武助、丸山土佐守、来福寺左京、丸子三右衛門、浦野源太郎、室賀兵部少輔、青柳清庵、桜井勘左衛門、小泉源五郎、出浦対島守、羽田筑後守

 そして、158362日、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が死去した。

◆本能寺の変により北条氏直に臣従するが、徳川家康の傘下へ

 織田信長の死が厩橋城(前橋城)の滝川一益に伝わったのが69日。滝川一益は明智光秀を討つ為、兵を厩橋城に集めて16000の兵力で616日出発し倉賀野城に入る。しかし、上野奪回の為、北条氏直が56000の兵を進めている知らせが入り、618日に神流川の戦いとなったが、滝川勢は大敗する。

 滝川一益が厩橋城を見捨てて本拠地の伊勢長島城に逃亡すると、真田昌幸はやむなく北条氏直に臣従する。一説によると真田昌幸が滝川一益が碓氷峠から小諸を経て逃走するのを手助けしたとも言われている。

 真田昌幸は、旧領・沼田城をなんなく奪い返したが、旧武田領の甲斐・信濃・上野の空白地帯となり、駿河・徳川家康、相模・北条氏直、越後・上杉景勝らが勢力を争うことになる。

 1582712日、北条氏直が海野平に進攻し、真田勢は北条の圧迫を受ける。

 しかし928日、真田昌幸の弟に当たる真田信尹(旧名・加津野信昌)や依田信蕃の斡旋により、真田昌幸は北条を見限り、徳川家康に寝返り、本領安堵と甲州で2000貫を得た。

 しかし、徳川家康が北条氏直との和睦条件として沼田領を譲渡すると発言。代替地が不透明な事もあり「沼田は弓矢に問うて切り取った土地。徳川殿からの頂戴した土地ではない。」と真田昌幸は反発し、徳川家康と対立。以後、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に近づいた。

 15831月、埴科の虚空蔵山で真田昌幸は上杉勢を破る。4月、上田城の普請開始。城下町の建設にも乗り出し居城を砥石城から上田城に移した。

1584年、真田昌幸は小県の丸子城を落とす。そして、出浦氏、長井氏らが真田に帰属する。

 15855月、真田昌幸の勧めで高井の須田信正が上杉景勝に反す。621日には沼田城代・矢沢頼綱の子・矢沢頼幸に上田領内の足軽衆を付属させた。

◆上杉景勝と同盟すると徳川家康に攻められるも豊臣秀吉の仲介により以後、豊臣秀吉に臣従

 徳川と北条を敵に回した真田昌幸はたまらず、1585715日、 越後の上杉景勝と同盟する。真田幸村(真田信繁)を上杉に人質として出した。一度上杉を裏切った事があった為、臣従の証として真田幸村(真田信繁)だけでなく、叔父・矢沢頼綱の嫡子・矢沢頼幸と軍兵も越後に送った。そして、上杉景勝より九ヶ条の起請文を受ける。その中には、真田に手違いがあっても、謀反の噂があっても、惑わされずに上杉景勝は情をかけるとも記載されている。

 これに対して徳川家康は北条氏直と連合軍を組み真田攻めを開始。北条氏邦は沼田城に侵攻。7000を率いる鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らは上田城攻め。上田城近くの神川西まで侵攻した徳川勢を城下まで誘い込み、真田昌幸と子の真田信幸は僅か2000(諸説あり、5000とも)にて包囲攻撃し82日に撃退、約1200名を討ち取った。徳川勢は上田城攻略失敗の閉塞感を打破する為、丸子城攻めを敢行するがこれも失敗する。徳川勢は退却せずに、上田城への再攻を伺っていたが、徳川家の重臣・石川数正が豊臣家に寝返った事から全面撤退した。

 この徳川勢の大軍相手に大勝利したことにより、真田昌幸の武名は天下に知られる事となる。

 95日には禰津昌綱が真田昌幸の同心に加わる。929日、北条勢が沼田城を攻撃したが矢沢頼綱は撃退する。11月~12月頃には真田昌幸は、豊臣秀吉に臣従して、真田幸村は上杉から豊臣秀吉へ人質として出仕した。

 1586525日、北条氏直は沼田城を攻撃するが敗退。717日、再び真田昌幸を討つために徳川家康自ら駿府まで出馬。19日には甲府に入る。83日、豊臣秀吉の奉行・増田長盛と石田三成より、真田昌幸は「表裏比興の者」と称される。87日、豊臣秀吉が徳川家康に働きかけ、徳川家康の真田攻めは中止。

 ただし、豊臣秀吉は上杉景勝に真田昌幸支援を禁じ、徳川家康家臣の水野忠重に真田討伐を指示する書状を送った。さらに上杉景勝にも信濃国割を伝え徳川家康と協力するように命じ、真田昌幸の領する上州沼田についても指示している。

 しかし、この真田討伐は突如中止。10月、徳川家康はついに大坂に行き、豊臣秀吉に臣下の礼をとった。

 これにより、豊臣秀吉は関東を徳川家康に任せることにして、上杉景勝へは真田昌幸が所領を徳川家康に返せば罪を免じると知らせ、真田昌幸の上洛を命じた。114日、豊臣秀吉の命により、真田昌幸は徳川家康の与力大名となる。

 15873月、真田昌幸は駿府に出向き、徳川家康と会見。その後、上洛して豊臣秀吉に拝謁。

 1588年、沼田城代の矢沢頼綱を沼田から呼び戻して、信濃小県郡内に知行を与える。

 1589213日、真田信幸が徳川家康に出仕。徳川家康は真田信幸の才能を高く評価し、本多忠勝の娘・小松姫を徳川家康の養女とした上で、真田信幸に娶らさせた。

 豊臣秀吉が沼田領の裁定を下す。714日、沼田領の利根川より東を北条氏に明け渡し、真田氏は代替地として信濃伊那郡・箕輪領を与えられた。

 1589113日、真田昌幸が在京している間に、北条氏邦の家臣・猪股邦憲が、真田領の名胡桃城を攻め、真田家臣・鈴木主水が自害する事件が起こる。この北条氏の行動に豊臣秀吉は、諸大名に対して北条征伐の宣戦布告状を1124日達する。

 15903月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は3000の兵にて、前田利家を大将とした北国軍に加わり、上杉景勝・直江兼続・前田慶次らと共に小田原城攻めに参戦。419日には松井田城攻め。この松井田城攻めが真田幸村の初陣とされる。6月には忍者を伴って、成田長親で知られる忍城攻めにも一時参加し、75日小田原城が降伏した。

 7月下旬、豊臣秀吉より沼田領を安堵され、真田昌幸は真田信幸に支配を委ねた。

 15923月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は朝鮮の役に参陣する為、肥前・名護屋城に赴く。15938月、真田昌幸は名護屋より大坂に戻り、そして上田に入った。12月、真田信幸が伏見城普請を命じられ、15943月伏見城普請開始。真田昌幸、真田信幸、真田幸村(真田信繁)3人分で役儀を1680人と定めた。11月、真田信幸が伊豆守、真田幸村が左衛門佐に任ぜられる。

 1598818日、豊臣秀吉が死去。

(真田昌幸の甲冑)

◆石田三成に協力するか、徳川家康に協力するか、究極の生き残り術

 1600年、真田昌幸、真田信幸、真田信繁は在京しており、徳川家康に促されて会津の上杉景勝を討つため、国元に戻り出陣の準備を行い、7月の上旬に上田を発ち関東に向かう。宇都宮で徳川勢と合流する予定だったが、 721日、下野・犬伏の陣に石田三成の密使が真田昌幸に届く。その長束正家、増田長盛、前田玄以の連署状を見て、真田昌幸、真田信幸、真田信繁の3人は今後の真田家の方針を話し合った。真田昌幸の妻・山手殿は羽柴秀長の家臣で13000石だった宇多頼忠の娘であるが、宇多頼忠のもう1人の娘は石田三成の正室になっているだけでなく、山手殿自身、大阪で石田三成の人質になっていたと考えられる。

 真田信幸は徳川四天王の1人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を妻に迎えており、一時、徳川家に出仕もしていた事から、徳川家康を裏切る事はできない。

 このような事情から、真田昌幸と真田幸村は石田三成につくことを決めて徳川の陣を離れ上田に帰参。真田信幸はこのまま徳川勢として小山に進み、徳川秀忠にその旨を報告。この真田の決断は、犬伏の別れとも呼ばれている。

 徳川家康は724日小山に着陣すると、即日、真田信幸を賞して、離反した真田昌幸の所領についても真田信幸に安堵させた。

 一方、真田昌幸と真田幸村は今生の別れと、上田に引き返す途中、沼田に寄って孫(真田信幸の子)の顔を見てから上田に帰ろうと思い、夜半に沼田城に使者を出し入城を申し入れたが、城を守る真田信幸の正室・小松殿は入城を拒否したと言われる。

 ただし、翌日、沼田城下の正覚寺に孫を連れて小松殿は真田昌幸と会ったと伝わる。そして、真田昌幸と真田幸村(真田信繁)723日に上田に帰参。

 宇都宮城を824日に出発し、中仙道を通り、関ヶ原を目指した徳川秀忠軍38000は、92日に小諸城に到着。翌日、真田昌幸と、徳川秀忠軍に同行していた兄・真田信幸と本多忠政が会見。真田昌幸は頭を丸めて降伏する旨を伝えたが、上田城に兵糧・弾薬などを運び込み、上田城周辺の各所に伏兵をしのばせるなど、軍備を固める為の時間稼ぎであった。降伏の約束を守らない真田昌幸に使者を出したが、逆に宣戦布告されると徳川秀忠は怒り、95日攻撃命令を出す。

 砥石城には真田信繁(真田幸村)が入っており、徳川勢に抵抗する姿勢を見せたが、真田信幸勢が砥石城に進撃すると、真田幸村は兄との戦闘を避けて上田城に撤退し、砥石城は真田信幸が占領し守備した。

 徳川秀忠は96日に上田城外の染谷台に陣を進め、上田城を包囲。様だ昌幸と真田信繁が約50騎を率いて城外に偵察に出たのを見た徳川勢は、真田昌幸らを追って上田城に接近し、上田城付近に潜んでいた真田の伏兵と戦闘となった。徳川軍は次々に兵を進めた所に、伊勢崎城(虚空蔵山)から討って出た伏兵が、手薄になった徳川秀忠本陣を襲撃。更に真田鉄砲隊が射撃開始し、真田幸村隊が城から討って出て、徳川秀忠軍を挟み撃ちし、徳川勢は損害を被った。

 その後、徳川勢は援軍を得たので、真田昌幸、真田幸村は2000で上田城で篭城。徳川秀忠は99日に上田城攻めを諦めて、先に進む事を決意した。

 このように徳川勢は二度にわたって真田昌幸に敗れたこととなる。

 この時、真田昌幸は、大阪に駆けつけず、あえて上田城の防戦に徹し徳川勢の進行を遅らせただけでなく、徳川秀忠の首は狙わなかったとされている。

 万が一、石田三成の西軍が敗れても、大戦に参加していなければ、真田は生き残る可能性があるだろうと言う計算と、徳川秀忠勢が関ヶ原に向かうのを遅らせて、石田三成の勝利に貢献した場合でも真田は生き残ると言う2面性の作戦であった?ように思えてならない。

 結果的に、関ヶ原へと急ぐ徳川秀忠は、砥石城には真田信幸と、小諸城には仙石秀久を引き続き入れて上田城を牽制したこともあり、真田昌幸は上田城から出て追撃する事は無かった。

 そして、徳川秀忠は悪天候もあり、915日の関ヶ原決戦に間に合うことも無かったのである。

 関ヶ原の結果、石田三成に協力した真田昌幸と真田幸村は窮地に立たされる。

 真田信幸は父・真田昌幸と決別すべく、名前を信之に改めて、以後、真田信之と名乗り、真田昌幸と真田幸村には上田領没収と死罪が下されると、徳川家康に味方した真田信之は懸命な助命嘆願をする。真田昌幸と真田幸村は何とか命は助けられ、16人の家来と高野山麓の九度山に蟄居。山手殿は真田信之に引き取られ上田に留まった。この後、出家して名を寒松院と改めている。九度山に付き従った16人の家臣は真田十勇士の元とされている。

 九度山に向かう際「悔しい。家康をこのようにしてやりたかった」と真田昌幸は涙ながらに語ったともされている。

 真田昌幸53歳、真田幸村(真田信繁)33歳の時のことであった。

 真田信之は沼田領30000石に加え、旧領30000石も安堵され、合計95000石で上田藩主となった。

 真田昌幸と真田幸村は九度山の真田庵で暮らし、真田信之からの仕送りもあったが、有名な「真田紐」を作り販売もしたという。

 16032月、徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれる。

 161164日、大阪の陣を目前にして真田昌幸は配流先の九度山で病死。享年65歳。本領の真田長谷寺に葬られたが、正式の葬儀は行われず、真田昌幸の一周忌がすむと、上田から真田昌幸に随行した家臣の大部分は帰国し、真田信之に帰参した。

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🔵真田幸村の生涯ラ

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◆真田幸村の生涯=戦国武将列伝

真田幸村とは 【真田信繁の生涯】 詳細版~徳川家に徹底対抗する人生を全うした名将

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 真田幸村(真田信繁)とは?どのような人物だったのか?

 真田幸村は1567年に武藤喜兵衛昌幸(のちの真田昌幸)2男として甲府で生まれた。すなわち、出身地は甲府であり、真田幸隆の孫にあたる。幼名は真田弁丸。のち真田源次郎。

 母は、武藤喜兵衛の正室・山手殿と考えられるが、別の説では157022日誕生。

 江戸時代に松代藩95000石の大名となる兄・武藤源三郎(のちの真田信之)15663月に誕生している。

 なお、真田幸村(さなだゆきむら)と言う名を記載した史料は見つかっていない。

 「幸村」は江戸時代に書かれた書物による通称であり、正しい名前は真田信繁(さなだのぶしげ)であるが、このページでは「真田幸村」として明記させて頂く。

 信繁と言う名は、武田信玄の弟・武田信繁を尊敬していた父・武藤喜兵衛昌幸(のちの真田昌幸)が、自分の2男に授けた名であった。

 父・武藤昌幸(真田昌幸)

 母・山手殿

 長男・真田信之(真田信幸)

 二男・真田幸村(真田信繁)

 この頃、祖父・真田幸隆や武藤昌幸は武田信玄の重臣として活躍していたが、武田信玄が出陣先の伊那駒場で1573年に病没すると、翌年1574年には真田幸隆も亡くなった。

 そして、真田幸村が9歳前後の1575年には長篠の戦いで武田勝頼は大敗。

 この時、真田家当主の真田信綱と、その次弟・真田昌輝が討死し、3男だった父・武藤喜兵衛昌幸(武藤昌幸)は、真田家を継ぐことになり、真田昌幸として家督を継いだ。

 こうして真田昌幸と真田幸村(真田信繁)は信州・真田郷に戻ったが、武田勝頼への人質として、母・山手殿と兄・真田信幸(真田信之)らは、甲府に送られていたようだ。

 なお、真田幸村(16)は岩櫃城にいたとも考えられている。

◆武田家の滅亡 

 15823月に織田信長・織田信忠の軍勢により、武田勝頼が敗れた武田攻めの際、山手殿や真田幸村らは、新府城にいたようで、迫る織田勢からなんとか脱出し、岩櫃城を目指した。

 上田から旧領・真田の地を抜けて、鳥居峠を越えようすると、前方から軍勢が迫って来たのを見て、家老・矢沢頼綱や真田信之・真田幸村や、山手殿、矢沢薩摩守の母らは討死や自害を覚悟したと言うが、その軍勢は鎌原幸重や恩田庄兵衛が率いた真田勢の迎えであり、一行は大笹村に宿泊した翌日、無事に岩櫃城へ辿りついた。

 こうして、母・兄とも再会したのだが、主君・武田勝頼は311日に討死し武田氏が滅亡(武田滅亡)

 以後、戦国の厳しい情勢の中、真田家は独自の道を模索する事になる。

 武田家を滅ぼした織田家にやむなく臣従すると、箕輪城に入った織田家の家臣・滝川一益の配下に加わった。

 真田家は、真田昌幸の母(河原隆正の妹)が人質として差し出されていた模様だ。

 しかし、武田家が滅亡した僅か3ヶ月後である158262日、織田信長が本能寺の変で明智光秀により横死する。

 すると、相模の北条氏直、北条氏政、北条氏邦、北条氏照、北条氏規ら北条家がすかさず北関東に56000の兵を進めて倉賀野に侵攻。

 まだ上野を支配開始したばかりで、旧武田家臣らを完全に掌握できていなかった滝川一益は、619日、神流川の戦いで北条家に敗れると、人質を連れて旧領の伊勢に向けて僅かな供と共に落ち延びて行った。

 父・真田昌幸は独自行動を開始して、621日、叔父の矢沢頼綱を沼田城に派遣して奪還。

 また、嫡男・真田信幸(真田信之)は岩櫃城に入ると、17歳ながら軍勢800を率いて、北条家の手に落ちた手子丸城を巧みに攻撃し1日で奪還するなど、早くも能力を発揮。

 このように、真田家は独自勢力を目指して旧武田家臣の取り込みを模索した。

 空白地帯となった甲斐・信濃を巡っては、北条氏直、徳川家康、上杉景勝の3者が争う事となり、上杉景勝・直江兼続が624日に長沼城に入ると、真田昌幸は最初、上杉家に臣従。

 しかし、滝川一益を追った北条勢は碓氷峠を越えて、626日に佐久へ入ると、79日に一転して真田昌幸は北条家に臣従した。

 北条氏直は川中島で上杉景勝と対峙したが、甲斐に侵攻した徳川家康に対抗するため転進。川中島では松田憲秀と真田昌幸が上杉勢を監視した。

 上杉景勝が、新発田重家に対処する為、89日に越後に戻ると、真田昌幸は沼田城に戻っている。

 一方、滝川一益の逃亡に同行させられていた人質は、629日小諸城で木曽義昌に預けられ、その後、917日に徳川家康に引き渡されるに至る。

 そのような経緯もあり、佐久の諸将は次第に徳川家康に従うようになっており、真田昌幸も、北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃を介して925日に徳川家に臣従した。

 これが契機となり、若神子で対峙していた北条氏直と徳川家康は和睦し、上野の沼田領は北条家に与えら、真田家には佐久が与えられる事となった。

 しかし、佐久は元々も真田の地元で、沼田は真田家が自ら頑張って獲得した領地であったこともあり、事実上の領地縮小に納得いかない真田昌幸は、翌年1583年からは上田城の改修を始め、沼田領や吾妻領を巡って北条家と争う事になった。

 なお、1583年に北条方の丸子城主・丸子三左衛門を真田昌幸が攻めたが、地元ではこの時が真田幸村の初陣との伝承がある。(下記写真は丸子城)

◆一次上田合戦

 1583815日、徳川家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぐなど、徳川家康との関係を強化した北条氏直は、沼田領を明け渡すよう迫ったが真田昌幸は無視。

 このまま徳川家康を頼っていても、いずれは沼田領を失う恐れが強まったことから、2年後の15857月、真田昌幸は越後の上杉景勝に臣従することにする。

 715日、真田幸村(19)は人質となる為、越後の上杉景勝の元に向かった。

 この時、上杉景勝は関白に就任した豊臣秀吉にいち早く臣従していたことから、真田家は上杉家だけでなく、事実上、豊臣家の傘下に入った。

 小牧・長久手の戦いを終えた徳川家康は、北条家との約束を果たすため、15857月、沼田領の引き渡しを求め、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら7000を信濃に派遣。

 徳川勢は甲斐から諏訪道を北国街道に進出し、上田の信濃国分寺付近に陣を構えた。

 これに対して真田の兵力は僅か1200であったとされ、まだ完成していない上田城には真田昌幸700、砥石城には真田信幸(真田信之)300、矢沢城には矢沢頼康200が上杉家からの援軍と共に篭城した。

 7000とも伝わる圧倒的な徳川勢に対して、上田城から200をおとり部隊として、城の手前の神川に配置し城下町のあちこちには柵を交互に置いた。

 1585年閏82日、徳川勢が、正面のおとり部隊に攻撃すると、200の部隊は速やかに城に逃げ込み、徳川勢を引き寄せ、城下町に引き入れた。

 そこで、事前に住民を避難させていた城下町に火を放ち、風が強かったこともあり、徳川勢は炎に包囲され、大軍ゆえに柵で身動きが取れない状況に陥った。

 そこを鉄砲隊によって射撃開始し、大混乱に陥った徳川勢には、隠れていた農民兵が襲い掛かり、火災から逃れるように神川へ逃げ込むと、上流で川の堰を切った。

 川が増水すると、徳川勢の兵や馬は流され、そこへ支城などから真田勢は総攻撃を開始。

 徳川の戦死者は1300を超えて、徳川勢は浜松へ撤退した。

 なお、真田側の損害は、最大に見積もっても40名だと言う大勝利を挙げた。

 翌日、徳川勢は丸子城を攻撃するも、ここも落とせず、徳川家康は井伊直政、大須賀康高、松平康重ら5000の救援を派遣し、828日に上田より撤退開始した。

 小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉ですら勝てなかった徳川勢であったが、真田勢は10倍の徳川勢に対して勝利を上げ「徳川敗北」の報は天下に知れ渡り、真田昌幸恐るべしと一目置かれる存在となった。

 この第1次上田城の戦いに連動し15859月から15865月まで、沼田城にも北条勢が数回に渡って攻撃をしたが、城代・矢沢頼綱(矢沢頼康の父)が撃退している。

◆越後での真田幸村

 上田合戦が始まる直前に、人質として越後に赴いた真田幸村の話をしておく。

 父・真田昌幸は一度上杉家を裏切った事があった為、臣従の証として真田幸村だけでなく、この時、叔父・矢沢頼綱の嫡子・矢沢頼幸と軍兵も越後に一緒に送っていた。

 そして、上杉景勝より九ヶ条の起請文を受けたが、その中には真田家に手違いがあったり、謀反の噂があっても、惑わされずに上杉景勝は真田に情をかけるとも記載されている。

 なお、上杉景勝は、上杉家を離反して徳川家康のもとに走った屋代秀正の旧領3000貫文の内、1000貫文を真田幸村に与えた。

 上杉家の重臣・直江兼続らも真田幸村を人質ではなく客将として迎えたようだ。

 19歳の真田幸村は越後で始めて広大な海を見た。

 騙したり、裏切る事により活路を見出してきた真田のやり方と異なり、何よりも「義」を重んじる上杉家の方針を目の当たりにし、感じるものもあったのであろう。

 上田合戦に勝利した真田昌幸は徳川家康との次なる戦いに備え、上杉家を通じて豊臣秀吉に臣従する。

 その為、越後滞在も5ヶ月程度とつかの間で、158511月~12月頃に真田幸村は、越後から大阪の豊臣秀吉へ人質として出仕した。

 1586年、徳川家康は豊臣秀吉に屈服すると、真田家は徳川家康の与力大名に命じられた。

 この時、真田信幸(真田信之)の才能を高く評価していた徳川家康は、重臣・本多忠勝の娘・小松姫を養女とすると、駿府城に真田信幸を出仕させて、婚姻の世話をしている。

 そして、豊臣秀吉の天下統一も、残す敵は関東の北条氏直のみとなった。

◆小田原征伐に真田幸村も参陣

 1590年には豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)が始まる。

 その際、上杉勢は10000の兵にて北国軍として210に春日山城を出陣し、上杉景勝や直江兼続らは215日海津城に入った。

 北国軍の総大将である前田利家も前田慶次ら18000220日に金沢を発し、信濃で上杉勢に合流。

 そして真田幸村も真田昌幸3000の軍勢に加わり、軽井沢で北国軍に合流。

 松平康国の4000と合わせて北国軍は35000の大軍となった。

 なお、この小田原攻めで、真田家の軍勢に初めて真田幸村の名が見られ、真田幸村の初陣とする説がある。

 しかし、真田幸村は次男と言う事もあり、若い頃の記録はほとんどない。

 1567年誕生説の場合、1590年では24歳であるため、実際にはもっと早く初陣は果たしていると言うより、攻められる事が多かった真田家だけにもっと昔から否が応でも、少なからず戦いに参加していたものと小生は考えている。

 北国軍が碓氷峠に差し掛かった際、北条勢も碓氷峠を防衛の最前線と考え、松井田城主・大道寺政繁は碓氷峠に与良与左衛門ら800の兵を置いていた。

 真田勢からは真田信幸(真田信之)がまず碓氷峠と松井田の物見に出たが、待ち構えていた与良勢と遭遇し、激しい戦闘になった。

 物見の真田信幸一行は少数であったが、見事与良を討ち取り北条勢を撃退。

 その後、真田勢は大道寺勢と遭遇し乱戦になったが、初陣の真田幸村は敵勢に突っ込み、かく乱させるなど活躍したと言う。

 そして北国軍は420日に松井田城を兵糧攻めし、大道寺政繁は降伏。箕輪城の垪和信濃守は城内で謀反が起こり追放され、箕輪城はほぼ無血で占領。

 真田昌幸と真田幸村は豊臣秀吉から箕輪城仕置きを命じられる。

 614日には北条氏邦の鉢形城を落とし、八王子城も攻め、620日大量虐殺の上、八王子城(下記写真)も陥落させている。

その後、真田幸村は石田三成の忍城水攻めにおいても、大谷吉継らと参加したとされている。

 小田原攻めの功により、真田家は豊臣秀吉より正式に沼田領を安堵され、以後、真田昌幸・真田幸村は上田の統治、真田信幸(真田信之)は沼田の統治に当たった。

◆朝鮮出兵

 15923月、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は朝鮮の役に参陣する為、肥前・名護屋城に赴く。

 15938月、名護屋より大坂に戻り、そして上田に入った。

 15943月伏見城普請開始。真田昌幸、真田信幸、真田幸村の3人分で役儀を1680人と定めた。11月、真田信幸が伊豆守、真田幸村が左衛門佐に任ぜられる。

 なお、この1594年頃に、真田幸村は大谷吉継の娘 (竹林院)を正室に迎えた。

 のち、2人の間には、真田幸昌・片倉守信・あぐり(蒲生郷喜室)・菖蒲(片倉定広室)・おかね(石川貞清室)らが生れている。

 1598818日、豊臣秀吉が死去。

◆関ヶ原の戦い

 1600年、真田昌幸、真田信幸、真田幸村は在京しており、徳川家康に促されて会津の上杉景勝を討つため、国元に戻り出陣の準備を行い、7月の上旬に上田城を発ち関東に向かった。

 宇都宮で徳川勢と合流する予定だったが、石田三成の密使により蜂起したとの報せが721日、下野・犬伏の陣(佐野市)の真田昌幸に届く。

 その長束正家、増田長盛、前田玄以の連署状を見て、真田昌幸、真田信幸、真田幸村の3人は今後の真田家の方針を話し合った。

 真田昌幸の妻・山手殿は羽柴秀長の家臣で13000石だった宇多頼忠の娘だとする説があるが、宇多頼忠のもう1人の娘は石田三成の正室になっているので、不明な点がある。

 いずれにせよ、山手殿自身が大阪で石田三成の人質となり、河原綱家の機転により逃れて上田城に帰還することに成功したが、当然、真田昌幸らはまだ知る由もなかったと推測される。

 兄・真田信幸は徳川四天王の1人・本多忠勝の娘(徳川家康の養女)を妻に迎えており、一時、徳川家に出仕もしていた事から、徳川家康を裏切る事はできない。

 このような事情から、真田昌幸と真田幸村は石田三成につくことを決めて徳川の陣を離れ本領・上田へ引き帰すことになり、真田信幸はこのまま徳川勢として小山に進み、徳川秀忠にその旨を報告した。この真田の決断は「犬伏の別れ」とも呼ばれ、兄・真田信幸(真田信之)は以後運命を共にすることはなかった。

 徳川家康は724日小山に着陣すると、即日、徳川に味方することを決断した真田信幸を賞して、離反した真田昌幸の所領についても真田信幸に安堵させた。

 一方、真田昌幸と真田幸村は今生の別れと、上田城に戻る途中、沼田城に寄り道して、孫(真田信幸の子)の顔を見てから上田に帰ろうと思い、夜半に沼田城に使者を出し入城を申し入れた。

 しかし、城を守る真田信幸の正室・小松姫(小松殿)は、真田信幸(真田信之)に害が及ばないように入城を拒否したと言われる。

 ただし、城外であればと、翌日、沼田城下の正覚寺に孫を連れて小松姫(小松殿)は真田昌幸と会ったと伝わる。

 そして、真田昌幸と真田幸村は723日に上田城に帰参し、石田三成と連絡を取り戦いに備えた。

◆第2次上田合戦

 宇都宮城を824日に出発し、中仙道を通り、関ヶ原を目指した徳川秀忠軍38000は、92日に小諸城に到着。

 翌日、真田昌幸と、徳川秀忠軍に同行していた兄・真田信幸と本多忠政が会見し、真田昌幸に降伏を促した。

 この時、真田昌幸は3500と僅かな兵力であり、頭を丸めて降伏する旨を伝えた為、これまでの徳川家の汚点を自らの手で拭う事ができたと徳川秀忠は喜んだ。

 しかし、上田城に兵糧・弾薬などを運び込み、上田城周辺の各所に伏兵をしのばせるなど、軍備を固める為の時間稼ぎであったと言う。

 降伏の約束を守らない真田昌幸に使者を出したが、逆に「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」と宣戦布告されると徳川秀忠は怒った。

 遅参しないよう進軍を急ぐようにと徳川家康からは命を受けており、本多正信と榊原康政らは真田昌幸は侮れないので先を急ぐべきと進言したが、徳川勢にはかつて真田昌幸に敗戦したことを恨む者も多く、3万以上と言う圧倒的な兵力差であったことから、すぐに片付くだろうと初陣の徳川秀忠は95日に上田城への攻撃命令を出した。

 それこそ、真田昌幸の思う壺であった。

 1日でも多く徳川勢の大軍を足止めできれば、石田三成の調略や軍の配置・準備はそれだけ進み、西軍が有利になるだけでなく、決戦に遅らせることができれば、3万の徳川勢を倒したのと同じとなる。

 既に、降伏の返事を先延ばしにして3日間、足止めさせた。

 ここで、徳川秀忠が上田城を攻撃しても、先を急ぐのだからなんとか防いでいれば、そのうち引き上げるだろうから長期戦にはならない。

 すなわち、負けないと言う公算があったのだ。

 砥石城には真田幸村が入っており、徳川勢に抵抗する姿勢を見せたので、真田信幸勢を差し向けた。

 これは、真田信幸が本当に徳川の為に戦うのか、弟・真田幸村と戦わせて試そうとした意味もあったが、真田幸村は兄との戦闘を避けて、あっさり上田城に撤退した。

 かつて、武田信玄さえも攻略に苦しんだ砥石城を、簡単に真田信幸が占領した為、かえって徳川勢は疑心暗鬼となり、真田信幸を遠ざける為、そのまま守備させたと言う。

 その為、徳川勢は上田城に詳しい真田信幸抜きで、上田城攻めすることとなったが、結果的に、真田幸村は兄弟で血を争うことなく、東西両軍の真田勢は傷つかずに済んだ。(下記写真は戸石城)

 徳川秀忠は96日に上田城外の染谷台に陣を進め、上田城を包囲。

 短期決戦を狙った徳川秀忠は、98日、牧野康成に田畑の稲を刈り取らせて、真田勢が城から討って出るのを誘った。

 その誘いにまんまと乗ったと見せかけた真田昌幸と真田幸村は、約50騎を率いて城外に偵察に出る。

 それを見た牧野康成は、総大将自ら出て来たのに驚き、戦闘禁止の命を破って攻撃開始。そこに本多忠政も加わり、徳川勢が真田昌幸らを追って上田城に接近すると、真田勢は上田城に逃走し、徳川勢の先鋒は上田城の大手門まで迫った。

 その時、大手門を開くと真田の鉄砲隊が一斉射撃。

 戦闘開始を見た大軍の徳川勢は次から次へと上田城の大手門めがけて急いでおり、打撃を受けた先鋒が退却しようにも、後ろからは続々と功を焦る後続が押し寄せており、進退窮まったところに、上田城付近に潜んでいた真田の伏兵が襲い掛かり、上田城からも討って出て、散々に徳川勢を蹴散らした。

 更に、昨晩のうちに密かに城を出ていた真田幸村200が、伊勢崎城(虚空蔵山)から討って出てた伏兵と共に、手薄になった徳川秀忠本陣を襲撃。

 徳川秀忠は挟み撃ちされ、家臣から馬を与えられて、かろうじて小諸城に逃れた。

 また、第1次上田合戦同様に、神川の上流を密かに堰き止めていた為、真田幸村の合図で濁流が染谷台に押し寄せ、上田城に接近していた徳川勢は大損害を被った。

 98日に徳川家康から届いた書状を読むと「99日までに美濃・赤坂に着陣すべし」とあった。

 徳川秀忠は松代城に森忠政を抑えとして残すこととし、99日に急ぎ先に進軍開始。

 徳川軍は二度にわたって真田昌幸に敗れたこととなる。

 そして、徳川秀忠は悪天候もあり、結果的に915日の関ヶ原の戦いに間に合わず、4日後の919日に到着したのだ。

 松代城の森忠政は、葛尾城にも兵を置いて上田城を見張らせていた為、真田幸村が夜討や朝駆けをしたとされている。

 なお、最初に戦闘を起こした徳川勢の牧野康成は抜け駆けしたとして、のち謹慎処分を受けている。

◆九度山での幽閉生活

 関ヶ原の戦いの結果、石田三成は敗れて、協力した真田昌幸と真田幸村は窮地に立たされた。

 真田信幸は父・真田昌幸と決別すべく、名前を「信之」に改めて、以後、真田信之と名乗る。

 真田昌幸と真田幸村は上田領没収と死罪が下されると、徳川家康に味方した真田信之は妻の父・本多忠勝と共に懸命な助命嘆願をした。

 その甲斐もあって真田昌幸と真田幸村は何とか命は助けられ、109日、16人の家来と高野山蓮華定院に送られた。

 しかし、真田幸村が妻の竹林院を伴った為、高野山は女人禁制で不便と言う事で、冬からは高野山麓の九度山にて蟄居する。(高野山が寒かったため、麓に移ったとも。)

 九度山に付き従った16人の家臣は、筧十蔵、穴山小助、根津甚八、由利鎌之介、三好伊三入道、猿飛佐助、望月六郎ら真田十勇士のモデルとされる。

 なお、真田昌幸の妻・山手殿は真田信之の元に留まり、1601年頃から大輪寺で余生を送った。

 兄・真田信之は沼田領30000に加え、旧領30000も安堵され、合計95000石で上田藩主となった。

 真田昌幸と真田幸村は九度山の真田庵で暮らし、紀伊藩からの年50石の合力や、山手殿からの仕送りで生活したが、借金をするなど苦しい生活であったようである。

 有名な「真田紐」は竹林院が自ら上田地方の紬技術を応用して考案し、家臣たちに行商させたという。

 九度山では多少の監視はあったものの、暗い部屋から出れなかったと言う事ではなく、日頃は狩や囲碁をしたり、深夜まで兵書を読み交わし、近隣の郷士らと兵術や鉄砲の鍛錬をしていたと伝わり、人の出入りなどは自由だったようだ。

 真田昌幸の長男・真田大助(1601年又は1602年誕生、母は大谷吉継の娘・竹林院。のち真田昌幸)、次男・真田大八(母は竹林院)や、あぐり(のち蒲生郷喜の室)・菖蒲(のち片倉定広の室)・おかね(のち石川貞清の室)ら女子3人も九度山で生まれたとされる。

 16032月、徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれた。

 161164日、大阪冬の陣を目前にして真田昌幸は配流先の九度山で病死。享年65歳。

 正式の葬儀は行われず、真田昌幸の一周忌がすむと、上田から真田昌幸に随行した家臣の大部分は帰国して真田信之に帰参。

 残った、真田幸村の家臣は高梨内記など23名しかいなかったとされる。

 翌年1612年に、真田幸村は出家し、伝心月叟と名乗った。

◆九度山を脱出

 大阪城の淀殿は、豊臣秀頼による天下を夢見ていたが、頼りにしていた結城秀康、浅野長政、堀尾吉晴、加藤清正、池田輝政、浅野幸長、前田利長も亡くなり、将軍職が徳川秀忠に世襲されると分かると、豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えるようになる。

 1614年、徳川家と豊臣家の関係が悪化し、8月に京都方広寺の豊臣家が大仏開眼供養が実施しようとしたが、徳川家康は梵鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」と記載されている事に難癖をつけた。

 大仏殿造営を行った片桐且元は、急ぎ駿府の徳川家康に弁明しようとしたが、徳川家康は片桐且元に面会せず、本多正純に命じて豊臣方の不都合を攻めた。

 大阪に戻った片桐且元は、淀殿に大坂城を明け渡すか、豊臣秀頼か淀君のいずれかを人質として江戸に送らなければ、徳川家康の怒りを収められないと報告。

 徳川と豊臣の板挟みにあった片桐且元は大坂城内で孤立し、身の危険を感じて摂津茨木の居城に篭った。

 最終的に豊臣家は徳川家に対抗する方法を選択するが、関ヶ原の戦い以降、豊臣家は65万石、兵は30000前後しかない。

 豊臣秀頼の名を持って、故太閤秀吉恩顧の大名、福島正則、蜂須賀家政、細川忠興、蒲生秀行、佐竹義宣、島津家久、前田利常、浅野長晟、池田利隆らに徳川家康に抵抗するよう使者をだしたが、誰一人豊臣に味方はしなかった。

 一方、徳川家に対して不満を持つ諸国の浪人を呼び集める策もとり、102日より大阪城に浪人を集め始め、長宗我部盛親、後藤又兵衛(後藤基次)、毛利勝永、明石全登、塙直之、大谷吉治らも応じた。

 この際、豊臣勢は九度山で蟄居中の真田幸村宛にも使者を出し、大阪城に入るよう、黄金200枚、銀30貫を贈った。

 真田幸村は109日に家族を伴って九度山を脱出。

 父・真田昌幸の旧臣(上田領)たちにも参戦を呼びかけ、子の真田大助(真田幸昌)とともに大坂城に入城すると、上田からも旧臣約100人が大阪城に参じたと言う。

 しかし、この時、真田幸村は48歳でその容姿は、歯は抜け落ち、白髪交じりで腰も曲がっていたため、大阪城へ入城の際の門番に山賊と勘違いされたと伝わる。

 九度山の監視役であった紀州の浅野長晟は、真田幸村脱出を知って追っ手を出したが、九度山の郷民は3時間前に逃亡したのを3日前に出たとかばい、追うのを諦めさせたとか、紀州の浅野長晟はわざと逃がしととも言われている。

 101日、徳川家康は大坂城討伐を江戸の将軍・徳川秀忠に通達し、自らは1011日に駿府城を出発。

 また、本多正純らに命じて、近畿西国の諸藩に大阪攻めを命じ、伊勢・近江・美濃・尾張・三河・遠江の諸藩は淀や瀬田に布陣させ、北国勢は大津や、阪本、堅田へ、中国勢は池田、西国勢は西宮、兵庫にそれぞれ布陣させた。四国勢には船団を編成させ、和泉の沿海に停泊。大和の諸城主には各自の城の守備を固めさせた。

 1014日に京都所司代・板倉勝重は浪人が多数、大阪城に入り、真田も入ったと徳川家康に報告した。

 父・真田昌幸や、兄・真田信之と比べて、真田幸村はこの時点ではほとんど無名。

 真田?と聞いて「篭城した真田は昌幸か?」と徳川家康一瞬驚いたが、使者が、篭城したのは子の真田幸村で、真田昌幸は既に病死していると告げると、徳川家康は安堵したと言われている。

 1123日に徳川家康は二条城に入った。

 真田幸村は大坂城では援軍が期待できない以上、単なる篭城では勝てないと力説し、積極策に出ることを主張。

 徳川勢の軍が揃わないうちに先制攻撃をして、豊臣秀頼自ら出馬し天王寺に旗を立て、真田幸村、毛利勝永、後藤基次らで伏見城を落とし、宇治・瀬田に陣を構え、東軍の渡河を阻止。木村重成らが京都所司代を屠って京都を占領し、長宗我部盛親、明石全登らは大和から奈良を攻撃し、豊臣秀頼側の近衆が片桐且元の茨木城を攻撃して大津に砦を築き、畿内を制圧してから遠征疲れの徳川本隊と戦うことを提案。浪人衆の後藤基次、毛利勝永らも真田幸村の提案に賛成した。

 しかし、豊臣恩顧の大野治長らは、徳川家康の行軍速度が遅い間に、もっと多くの浪人が大阪城に入り、豊臣方が大軍と知れば、徳川から豊臣に寝返る大名が出てくると主張。また、豊臣秀吉が築いた広大で強固な大坂城は絶対に落城しないと、結果的に篭城策を取る事に決まった。

 篭城すると決すると、真田幸村は大阪城の南側防御に弱点があると指摘。南方の天王寺方面に抜ける丘陵地帯に砦を築く許可を願い出た。しかし、無名の新参者で尚且つ、真田本家は徳川方である真田幸村の提案は信用されなかったが、後藤基次らの後押しもあり、なんとか砦を作る許可を得た。

大坂城の堀を背負い、三方を空掘りで囲み、柵は三重にめぐらして、矢倉などを設けた堅固な砦となり、大阪城と繋がるトンネルもあったと言い、のち「真田丸」と呼ばれ、真田幸村の率いた軍は、鎧を赤で統一した「真田の赤備え」とした。

 1115日、徳川家康は奈良の大和路から、徳川秀忠は河内路から大阪城へと迫り、1119日大坂冬の陣の火蓋が切って落とされた。

◆大阪冬の陣

 浪人を合わせると約10万人となった豊臣側が期待していた豊臣恩顧の大名の寝返りがなく、初戦は20万と言う大軍である徳川勢が有利に戦いを進め、戦局は豊臣側不利で推移した。

 そんな中、唯一、真田幸村率いる真田丸の兵5000が徳川勢をかく乱し、僅かではあるが戦果を上げていた。

 真田丸の眼前には伊達政宗、藤堂高虎、松平忠直10000、井伊直孝4000、寺沢広高、松倉重政、前田利常12000が布陣し、そのうしろには徳川家康本陣、徳川秀忠本陣が控えた。

 真田幸村は、真田丸に攻め寄る徳川勢大名の中より、加賀藩2代目の前田利常に注目した。前田氏は豊臣恩顧の大名で、徳川政権下では最大の外様大名であり、次々と外様大名が因縁をつけられて取り潰しや改易にあう中、必ずしも徳川家を信用していないと判断した模様だ。

 積極的に攻めてこない徳川勢に対して、真田幸村は前田利常の陣だけに、毎日、鉄砲隊により射撃した。前田利常は徳川家康から城を攻撃するなと命じられており、はじめのうちこそは、真田幸村の鉄砲にも耐えていたが、毎日死傷者が出て、次第に真田隊の攻撃に苛立ちはじめる。

 123日、前田利常の許可無く、前田勢の本多正重、山崎長徳らが痺れをきかして、真田の鉄砲隊が潜んでいた真田丸から約200mの地点にある篠山に押し寄せた。真田幸村は前田勢の出撃をみて、鉄砲隊を退却させた。そんな事に気がつかず、篠山に到着した前田勢は敵はどこだと右往左往。それを見た真田丸の真田兵が嘲笑し愚弄したので、前田勢は敵だけでなく味方からも笑い者となり、前田家の面子を潰した。

 前田勢は理性を失い、翌日124日の夜にも篠山へ押し寄せたが、やはり誰も居なかったため、また笑い者になると、そのまま真田丸を攻撃せんと、真田丸の堀際まで攻め立てた。藤堂高虎、井伊直孝、松平忠直は前田勢が抜け駆けしたと思い、功を焦って一斉に真田丸を攻撃するために軍を進めた。

 真田丸の真田幸村は、前田勢が充分城壁にとりついたところまで、誘き寄せてから、鉄砲で一斉に迎え撃ち、空掘りに攻め込んだ敵兵数百を討ち取り、後続部隊を釘付けにした。被害にたまらず退却しようとした徳川勢であったが、真田丸の西後方の大阪城壁を守る石河康勝隊で火薬桶に火縄を誤って落としたために大爆発が起き、真田丸の矢倉も焼ける事件が発生。

 これを大阪城で寝返る手はずになっていた南条元忠が寝返った合図と勘違いした徳川勢は、大阪城になだれ込もうと平野口に殺到した。

 ちなみに、南条元忠は前日に徳川に内通していることが発覚し、切腹させられていたが、当然、徳川勢は知らなかった。

 城壁に殺到する狭いところに大軍で押し寄せた徳川勢を真田幸村は再度鉄砲で攻撃。徳川勢の被害は増大し、退却しようにも、うしろからは大勢の兵が進んでくるので、退却もままならず、徳川勢は大混乱に陥った。そこに、真田幸村は真田丸から真田大助、伊木七郎右衛門ら500人を出して、寺沢広高、松倉重政に甚大な被害を与えた。また松平忠直隊480騎、前田利常隊は300騎が戦死すると言う大損害を受けた。

 日常は穏やかでありながら、いざという時は武勇を発揮する真田幸村が烏合の衆である浪人衆を巧みに束ねて、的確な指揮が行き届いた結果の戦果であり、真田昌幸の息子という扱いではなく、48歳近くになり、初めて武将・真田幸村として、その武名を世の中に知らしめる事となった。

 結果、強固な大阪城を力攻めするのは難しいと悟った徳川家康は、123日から大阪城に和睦の使者を出す。大坂城内では、真田幸村ら浪人衆を中心に、講和に反対する意見が多かったが、京にも砲音が届き途切れることはなかったと言う大砲の攻撃に悩まされていた淀君と、真田丸以外では不利の戦が続いていると大野治長らは大坂城の外堀の埋め立ての条件を承諾して1219日、和睦することにした。

 その和睦交渉の間、徳川家康の側近・本多正純の傍にいた真田信尹が、真田丸を訪ねて真田幸村に面会。信濃10万石を条件に徳川への寝返りを勧めたが、10万石なら飛びつくであろうと思っていた徳川家康の思惑を、真田幸村はあっさり断っている。最初は信濃の中より1万石の条件を出したところ、断られたので、信濃110万石の条件を再び提示したとも言われ「一万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか?」と真田幸村は断ったとも言われている。

 なお、大坂冬の陣に本家・真田信之は、病気のため出陣していない。代わりにまだ若い真田信吉や真田信政と2人の子が、真田信之の名代として参陣していた。それを知り、真田幸村は大坂の陣では六文銭の旗印を使わず、真紅の旗印を使い、甥に対して気を遣ったとされている。

 また、戦後、真田信吉や真田信政や真田家臣とも会見し、上田に住む姉・村松に宛てた手紙では、冬の陣で大坂方につき、上田の真田本家に迷惑をかけた事を詫びている。

 豊臣が和睦に応じたのは、時間を稼げればそのうち、老齢の徳川家康も亡くなり、そのときこそ豊臣恩顧の大名も味方につき情勢を打破できるだろうとの期待もあったと考えられる。その為、日数が掛かる、外堀・内堀・二の丸埋立ての条件をのんだと考えられるが、埋め立てを命じられた徳川側の諸大名は、命じられたよりも多くの人夫を動員し、作業も徹夜で行い、短期間に外堀を埋めた。そして、豊臣勢が担当する事になっていた部分まで「工事が進んでいないので手伝う」と埋め立てし、最終的に二の丸までを埋めてしまい、大阪城は堀を失い、数ヶ月で本丸のみになってしまった。

 なお、真田丸は埋め立て前の一番最初に取り壊されてしまっている。

 そのため、豊臣は再びの篭城に備えて、兵糧、弾薬を城内に運び、再度浪人を募集し大阪城に入れ始める。これに対して、徳川家康は、豊臣秀頼が大坂城を出て国替えに応じ、集めた浪人衆を追放することで、徳川への恭順を示せと厳しく要求した。

 この要求を到底、豊臣は受け入れる事はできず、再び戦いとなるのである。

◆大阪夏の陣

 1615年、再び徳川勢は大阪城を取り囲み、大坂夏の陣がはじまるのである。

 46日頃、徳川家康は諸大名に鳥羽・伏見に集結するように命令。

 徳川家康は418日に、徳川秀忠は421日に二条城に到着。約155000の兵を二手に分けて、55日京を発った。

 大軍が押し寄せる前に、紀州藩・浅野長晟に打撃を与えるため、豊臣方は大野治房を主将に、塙直之、岡部則綱、淡輪重政ら兵3000で先制攻撃のため出陣し426日に筒井定慶の守る大和郡山城を落として紀州に侵攻。

 浅野長晟は428日に5000を率いて和歌山城を出発。樫井の戦いとなり、豊臣勢の塙直之、淡輪重政が討死。大野治房らは堺まで退却し56日まで浅野勢と対峙した。

 一方、大和路から大坂城に向かう、水野勝成を先鋒大将にし、総大将・松平忠輝、後見役・伊達政宗など総勢34000の徳川軍を、河内平野に侵入する狭い場所にて有利に迎撃する作戦を立てる。56日、後藤基次指揮の2600が道明寺に到着。しかし、内応者などからこの豊臣勢の動きを事前に察知していた徳川軍は既に迎撃体制を取っていた。

 早朝、後藤基次指揮の2600は単独で松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃をし、奥田忠次を討取り、松倉勢も追い詰めたが、徳川勢の水野勝成、堀直寄が来援し、その後、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加えた。後藤基次は丹羽氏信勢に側面を衝かれ、後藤基次は戦死し部隊は壊滅した。

 午後になり、薄田兼相、明石全登、山川賢信ら豊臣勢3600が道明寺に到着し、徳川軍を迎え撃ったが、薄田兼相は戦死し、豊臣勢は後退した。

 更に、豊臣勢の毛利勝永、真田幸村ら12000が道明寺に到着。後退してきた兵を吸収して、誉田村付近に着陣した。伊達勢の片倉重長は、真田勢を見ると攻め寄せ、激戦となったが決着はつかず、徳川軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣して、両軍が対峙・にらみ合いの状態になった。

 そこへ、豊臣勢には大阪城より退却命令が届き、真田信茂を殿軍とし、午後4時過ぎから天王寺方面へ撤退を開始した。

 豊臣勢は、後藤基次の部隊のみが予定通りの作戦行動が行え、他の各部隊はことごとく遅参し、充分な兵力で徳川勢を撃つことができなかった。

 道明寺の戦いで後藤、薄田らの将を失い、若江・八尾の戦いでは木村重成を失った豊臣勢だったが、まだ50000の兵が残されていた。戦国の世最大にして最後の戦いとなる天王寺・岡山の戦いが始まる。

 豊臣勢は最後の決戦のため、大阪城を57日出陣。真田幸村は士気を高める為、豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗する。

 天王寺口は茶臼山に真田幸村、子の真田幸昌、一族の真田信倍ら3500、茶臼山前方に真田幸村の寄騎・渡辺糺、大谷吉治、伊木遠雄ら2000、茶臼山西に福島正守、福島正鎮、石川康勝、篠原忠照、浅井長房ら2500、茶臼山東に江原高次、槇島重利、細川興秋ら(兵数不明)、四天王寺南門前には毛利勝永勢、木村重成・後藤基次の残兵など6500が布陣。

 岡山口は大野治房を主将に新宮行朝、岡部則綱らが、後詰に御宿政友、山川賢信、北川宣勝ら計4600が布陣。

 そして、別働隊として、茶臼山から北西に離れた木津川堤防沿いに明石全登勢300、全軍の後詰として四天王寺北東の後方に大野治長、七手組の部隊15000が布陣した。

 対する徳川勢は、天王寺口先鋒に本多忠朝を大将とした秋田実季、浅野長重、松下重綱、真田信吉、六郷政乗、植村泰勝ら5500。二番手に榊原康勝を大将とし、小笠原秀政、仙石忠政、諏訪忠恒、保科正光ら5400。三番手に酒井家次を大将とし、松平康長、松平忠良、松平成重、松平信吉、内藤忠興、牧野忠成、水谷勝隆、稲垣重綱ら5300、その後方に徳川家康の本陣15000を置いた。

 岡山口は先鋒前田利常、本多康俊、本多康紀、片桐且元ら計20000。二番手は井伊直孝、藤堂高虎勢ら7500と、細川忠興(兵数不明)。その後方に近臣を従えた徳川秀忠の本陣23000を置いた。

 57日の正午頃、豊臣勢・毛利勝永指揮下の寄騎が、物見に出ていた徳川勢・本多忠朝隊を銃撃した事により戦闘開始。真田幸村は自隊を先鋒・次鋒・本陣など数段に分け、天王寺口の松平忠直隊と一進一退の激戦を続けたが、「紀州の浅野長晟が裏切った」という虚報を徳川勢に流すと、越前・松平勢が動揺したのに乗じて突破。徳川家康本陣へ迫り、三度に渡り徳川家康本陣へ突撃を繰り返した。

 真田幸村の攻勢に徳川家康本陣は大混乱に陥り後退を開始。三方ヶ原の戦い以降倒れたことのない家康の馬印が倒れるなど、徳川家康は窮地に追い込まれ、騎馬で逃げる徳川家康は切腹を幾度もなく口走ったが、側近に止めたられと言われている。

 しかし、さすがの真田隊も死傷者が増え戦力が低下。真田幸村は疲労のため安居天神で休息をとっていたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾宗次(西尾仁左衛門)に槍で刺され討ち取られたとされるが、徳川家康は「幸村を討ち取った」という報告を真に受けようとしなかったとも言われている。堺にある南宗寺境内には「家康の墓」も現存しており、徳川家康は真田幸村勢に傷つけられ亡くなったと言う俗説もある。また真田幸村は傷を負い、安居天神で自刃したと言う説や、真田勢の兵士の手当てをしていたところ襲われたと言う説もある。

 上記写真は安居天神。

 いずれにせよ、徳川家康を震えあがらせた真田幸村(真田幸村)の名は不朽のものとなったのである。

 大阪夏の陣にて真田幸村に付き従った家臣は、真田勘解由、大塚清兵衛、高階主膳(高梨主膳か?)、海野小平太(海野六郎)、望月善太夫(望月六郎)、禰津小六(根津甚八)、山岡軍平、柏田玄仲、角輪佐吉、利光久兵衛、沼田清次郎、真田権太夫、森川隼人、瀧川平太夫、丹生弥二郎、星田勘平、馬渕六郎太夫。

 別の史料では、真田与左衛門、江原左平太、福岡平三郎、青柳清庵、本郷左近、早川平左衛門、真田勘解由、高梨主膳とある。

 豊臣勢は乱戦の中、大谷吉治も戦死、御宿政友は重傷、毛利勝永は真田勢壊滅の後、四方から集中攻撃を受けたため大阪城内に撤退。別働隊の明石全登は天王寺口の友軍が壊滅したことを知ると松平忠直勢らに突撃しその後姿を消した。

 真田幸村の嫡男・真田幸昌は、父とともに最後まで付き従うつもりだったが、大坂城の落城を見届けるように命じられ、やむなく大坂城に引き返したとされる。大坂城落城の際には13歳又は16歳であり、若年のために脱出するように勧められたが、豊臣秀頼が切腹すると、真田幸昌は加藤弥平太の介錯で切腹した。大阪城の淀殿、豊臣秀頼らの自害の地に建てられた地蔵の前に、淀殿や豊臣秀頼、大野治長と並んで真田幸昌(真田大助)の名前も記されている。

 真田幸村討死の翌58日、豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害し、太閤秀吉の誇った大坂城は炎上し落城。天下は完全に徳川家のものとなった。

 しかし、大阪ではその後、真田幸村は生きており、豊臣秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという噂が流れ、さらなる噂では薩摩の島津家領内に逃げて隠れていると言う噂も出て、徳川家を脅かしたと言う。

◆真田幸村への賞賛 

 大阪夏の陣で、真田幸村の神がかり的な戦いぶりを目の当たりにした島津家当主・島津忠恒(島津家久)は手紙にこう記している。

真田は日本一の兵(つわもの)

真田の奇策は幾千百。

そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。

真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。

女も童もその名を聞きて、その美を知る。

彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。

前にいるかと思えば後ろにいる。

真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。

合戦場において討死。

古今これなき大手柄。

 徳川家康は真田幸村の首実検の際に「幸村の武勇にあやかれよ」と、側にいた武将に言うと、皆、こぞって遺髪を取り合ったという。

 そして「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」と、石田三成の事でさえ褒める事が無かった徳川家にて、褒め称える事を許したと言う。

 兄・真田信之は、弟の人柄をこう評している

 「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒り腹立つことはなかった」

 「幸村こそ国を支配する本当の侍であり、彼に比べれば、我らは見かけを必死に繕い肩をいからした道具持ち。それ程の差がある。」

 真田幸村は、そのまま生きていたければ、九度山で暮らせばよかった。

 しかし、己の保身など顧みず、戦局不利で死が待つのみと分かっていても、降参もせず、また、家臣らも誰一人掛けることなく、武士の誇りを持って本懐を遂げ、敵味方関係なく賞賛を受けた。

 それが「真田幸村」なのだと思う。

 真田幸村を討って褒美を授かった松平忠直の家臣・西尾宗次(西尾仁左衛門)は、故郷に「真田地蔵尊」を建て菩提を弔った。

 現在は、福井市立郷土歴史博物館にて展示されている。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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