マララさん=女性差別・教育差別とたたかっている勇気ある少女

マララさん=女性差別・教育差別とたたかっている勇気ある少女


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【このページの目次】

◆映画「わたしはマララ」の紹介

◆マララさんリンク集

◆マララさんに学びたい=筆者コメント

◆マララさんインタビュー(朝日新聞)

◆マララさんシリア難民のための学校をつくる

◆クローズアップ現代=マララさんインタビュー

◆パキスタンの学校テロから2

Wiki=マララ・ユスフザイ

◆マララさんの言葉

◆マララさん=たたかう17

◆マララさんの国連演説(137月)

◆マララさんのノーベル賞受賞の演説(1412月)

◆マララさんの父親の講演から

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◆◆マララさん動向

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◆◆マララさん、銃撃後初の帰国 「草の根の活動が世界を変える」

2018330日朝日新聞

イスラマバードで29日、アバシ首相(右から2人目)と面談したマララ・ユスフザイさん(同3人目)=パキスタン政府のツイッターから

 女子教育の重要性を訴えて2012年10月にイスラム武装勢力に銃撃されたノーベル平和賞受賞者マララ・ユスフザイさん(20)が29日、故郷パキスタンに一時帰国した。銃撃後に治療のために英国に渡った彼女にとって初めての帰国。面談したパキスタンのアバシ首相らに「草の根の活動が世界を変える」と訴えた。

 マララさんは29日未明、首都イスラマバード近郊の空港に到着。マララさんは首相や国会議員らとの集会で「『マララ基金』を通じた児童の教育支援を加速させたい」と語った。「帰国を果たせたことは夢のようだ」と、涙を拭う場面もあった。

 マララさんは14年にノーベル平和賞を受賞し、現在は英オックスフォード大に通っている。地元テレビは速報し、SNSでは「お帰りなさい」と歓迎する投稿があふれた。一方で、武装勢力の攻撃の可能性が拭えないため、移動時は10台以上の武装車両が取り囲んだ。今後の訪問先も公表されていない。(イスラマバード=乗京真知)

◆◆(書評)『ナビラとマララ 「対テロ戦争」に巻き込まれた二人の少女』 宮田律〈著〉

2017514日朝日新聞

◆『ナビラとマララ 「対テロ戦争」に巻き込まれた二人の少女』 二人の境遇を分けたものは?

 イスラムの女性たちに教育をと訴え、17歳でノーベル平和賞を受賞したマララ・ユースフザイさんはご存じですよね。2012年、15歳のとき、マララさんは「パキスタン・タリバン運動(TTP)」のメンバーに銃撃され、大きな傷を負った。それでも暴力に屈することなく教育の重要性を訴える彼女の姿は世界中の人々の心を打った。

 では、同じようにイスラムの女性たちに教育を、と訴えたナビラ・レフマンさんはご存じ? マララさんが銃撃されたのと同じ12年、ナビラさんはアメリカの無人機「ドローン」が撃ったミサイルで祖母を失い、自身も大けがを負った。8歳のときだった。

 二人は同じパキスタンの部族地域出身。対テロ戦争の犠牲者という立場もまったく同じ。けれど、ナビラさんのその後は、マララさんとは全然ちがった。ナビラさんは、アメリカの議会で自らの被害を説明し、部族地域でのドローン攻撃を停止するよう求めたが、スピーチを聞きにきた下院議員はたったの5人。

 〈みなさんは不思議に思いませんか?〉と宮田さんは問いかける。マララさんを銃撃したのはアメリカの敵であるTTP。ナビラさんたちを攻撃したのはアメリカのCIA。〈「加害者が誰なのか?」という違いこそが、彼女たちの訴えが世界に届くかどうかを決めているのです〉

 読書対象は小学校高学年以上。これ、9・11以後に生まれた子どもたちのための本なんです。中東の複雑な情勢を理解するのは正直、大人でも難しい。だけど本書はねばり強く説明する。「対テロ戦争」にいたるまでの欧米とイスラム諸国の長い歴史。同時多発テロ、イラク戦争……

 来日した11歳のナビラさんは語った。「戦争に大金を使うのでしたら、そのお金を教育や学校に使うべきだと思います」。難しいところは飛ばしていいよ。戦争の現実は二人の声から十分に伝わるはずだから。

 評・斎藤美奈子(文芸評論家)

     *

 『ナビラとマララ 「対テロ戦争」に巻き込まれた二人の少女』 宮田律〈著〉 講談社 1296円

 みやた・おさむ 55年生まれ。現代イスラム研究センター理事長。『イスラムは本当に危ない世界なのか』など。

◆◆映画「わたしはマララ」1512月に日本公開

★★NHKマララさんインタビュー48m

17歳の少女がノーベル平和賞を受賞!」2014年、世界中がそのニュースに湧き、パキスタン生まれのマララ・ユスフザイは一夜で時の人となった。この輝く瞳でまっすぐ前を見つめる可憐な少女が、いったい何を成し遂げたのか?『不都合な真実』でアカデミー賞®長編ドキュメンタリー賞を受賞したデイヴィス・グッゲンハイム監督が、マララの生い立ちを振り返り、彼女の素顔に迫る。

パソコンで大好きなブラッド・ピットやテニス・プレイヤーのフェデラーの画像を見てはにかむマララは、どこにでもいるふつうの女の子。しかし、左眼のあたりに傷跡が残る。女子が学校へ行くことを禁じるタリバン政権を批判するブログを書き続けたために、15歳の時に銃撃され瀕死の重傷を負ったのだ。

カメラは最愛の娘の死を覚悟した両親をとらえる。苦労して大学に進んだ父は、母と結婚して生まれた娘に、アフガニスタンの英雄的な少女マラライの名に因み、勇敢という意味も持つマララと名付けた。やがて父は男女共学の学校を設立する。全ての女の子に教育をというマララの夢は、父の希望でもあり、字の読めない母の悲願でもあった。

伝説の少女マラライは、銃弾に散った。だが、マララは再び立ち上がり、自らの手で宿命を変えた。家族の愛と平和を望む世界中の人々の願いに守られて──。

「ノーベル平和賞は始まりにすぎない」とマララは言う。ふつうの女の子が、目の前の小さなことから世界は変えられるよと、私たちの未来を祝福してくれる感動のドキュメンタリーが誕生した。

 デイビス・グッゲンハイム監督による、マララさんを描く映画「わたしはマララ」は10月から米国で公開され、世界中で上映される(日本では12月から)。マララさんは「この映画を通じて、人々が意識を向上させ、今も世界中で6600万人以上の女子が学校に通えずにいるということを思い起こしてほしい」と語った。マララさんは、同じ年頃の子どもたちに以下のような呼びかけをしている。

◆学校に通う年ごろのみなさんへ

 マララ・ユスフザイさんは、ボードゲームのモノポリーが好(す)きなごくふつうの18歳(さい)の女(おんな)の子(こ)です。イギリスのバーミンガムで女子校(じょしこう)に通(かよ)っていて、ふだんは毎日(まいにち)、宿題(しゅくだい)と向(む)き合(あ)い、テストに向けて勉強(べんきょう)しています。息抜(いきぬ)きのゲームでズルをして弟(おとうと)たちとケンカになることもありますが、本人(ほんにん)によると「ほんのちょっぴりだけ」だそうです。

 そのマララさんが去年(きょねん)、ノーベル平和賞(へいわしょう)を受(う)けました。今度(こんど)は映画(えいが)の主人公(しゅじんこう)にもなりました。彼女が特別(とくべつ)な有名(ゆうめい)人で、何(なに)か特権(とっけん)を持(も)っているからでしょうか?

 そうではありません。マララさんはあなたたちと同(おな)じようなごくふつうの一人(ひとり)の子として、「学校(がっこう)に行(い)きたい」と思(おも)った。その望(のぞ)みを隠(かく)さず、ブログに書(か)くなどして、おおっぴらに声(こえ)を上(あ)げた。そのことが気(き)に入(い)らない者(もの)たちが、マララさんを黙(だま)らせて、見(み)せしめにするため、撃(う)ち殺(ころ)そうとしたのです。

 今(いま)から3年前(ねんまえ)の2012年10月(がつ)まで、マララさんは、生(う)まれ育(そだ)ったパキスタンのスワート渓谷(けいこく)という地方(ちほう)で暮(く)らしていました。学校帰(がえ)りのバスに乗(の)り込(こ)んできた男(おとこ)たちが、「マララはどこだ」と聞(き)き、彼女の頭(あたま)をねらって銃(じゅう)を2発(はつ)、撃ったのです。奇跡的(きせきてき)に命(いのち)は助(たす)かりましたが、意識不明(いしきふめい)の重体(じゅうたい)になり、緊急手術(きんきゅうしゅじゅつ)のためイギリスに運(はこ)ばれました。

 男たちは、パキスタンで政府(せいふ)のやっていることを認(みと)めず、武器(ぶき)を手(て)にこの地方の人々(ひとびと)を支配(しはい)していた「パキスタン・タリバーン運動(うんどう)」のメンバーでした。

 パキスタンのほとんどの人はイスラム教(きょう)を信(しん)じています。マララさんもそうです。ところが、この「タリバーン」は、「イスラム教は女への教育(きょういく)を認めない」と主張(しゅちょう)して、学校を壊(こわ)したり、勉強する女の子たちに暴力(ぼうりょく)をふるったりしました。マララさんはそれに対(たい)し批判(ひはん)したのです。

 そのために撃たれてしまいました。でも声を上げることをやめませんでした。パキスタンだけでなく世界中(せかいじゅう)に、学校に通えない何千万人(なんぜんまんにん)もの子供(こども)たちがいることを知(し)り、その子たちの代(か)わりに、「あらゆる子供に教育を」と主張しています。

 今も命をねらう者たちがいるのに、とても勇気(ゆうき)がいることです。だから、彼女の言っていることは正(ただ)しいと支持(しじ)する姿勢(しせい)を示(しめ)すために、ノーベル平和賞が贈(おく)られたのです。

 映画もできて、世界中の注目(ちゅうもく)は増(ま)す一方(いっぽう)です。私(わたし)は同じ年頃(としごろ)の子を持つ一人の親(おや)としてちょっと気がかりで、聞(き)いてみました。

 でも、マララさんは「私は私。背(せ)の高(たか)さも同じです」と冷静(れいせい)でした。平和賞は世界中の子供たちへ贈られたもので、映画も、世界中の女の子の物語(ものがたり)だと受け止(と)めています。

 パキスタンにはまだ彼女を快(こころよ)く思わず、文化(ぶんか)の違(ちが)う西洋(せいよう)にちやほやされる操(あやつ)り人形(にんぎょう)だとみる人もいます。でも、私が聞いたのは、時(とき)にとつとつとしていましたが、彼女自身(じしん)が考(かんが)えた言葉(ことば)でした。

 マララさんは何より、ふるさとのパキスタンに戻(もど)りたいのに、身(み)の危険(きけん)にさらされるので帰(かえ)れずにいます。生まれ故郷(こきょう)を奪(うば)われているのは、今、国(くに)の中(なか)で戦争(せんそう)をしているシリアから、家族(かぞく)と逃(のが)れてくる何万人もの子たちと変(か)わりません。「難民(なんみん)」なのです。

 子供たちをそんな目(め)にあわさず、のびのび学校に通える平和な世界をつくる。それが大人(おとな)が取(と)り組(く)まなければいけない宿題です。

◆◆優しさに満ちた父娘の物語 ドキュメンタリー「わたしはマララ」

20151211日朝日新聞

「わたしはマララ」

 パキスタンで女性の教育権を求めたため過激派に銃撃され、その後も英国で活動を続けている昨年のノーベル平和賞受賞者、マララ・ユスフザイの歩みを描くドキュメンタリー「わたしはマララ」が、11日から公開される。マララ自身と監督に、作品に託した思いや舞台裏を聞いた。

 監督は、地球温暖化を扱った「不都合な真実」でアカデミー賞をとったデイビス・グッゲンハイム。最初はカメラを回さず、じっくり話だけを聞いたという。マララは「彼には、ひとが心のうちに閉ざしていたものを発見させる才能がある」と振り返る。

 これは「父と娘の物語」(グッゲンハイム)だ。教育を受ける意味、抑圧の下で声を上げる覚悟……。学校を運営していた父のジアウディンからマララが受け継いだものが描かれる。

 ただし、マララ自身が身の危険からパキスタンに戻れずにいる中、彼女の歩みを同国でのロケでたどることは事実上不可能だった。「過去」については、アニメーション映像にマララや父の語りで伝えるハイブリッド形式の映画となった。マララは「アニメーションはすばらしかった。ほかの誰かが語るのではなく、自身ですべてを語れたのもよかった」と話した。

 故国では「父親の操り人形」「欧米の言いなり」などと批判されることもあるマララだが、映画はそうした冷たい視線にも触れ、マララを過度には偶像視しない。弟たちとけんかしたりゲームに興じたりする、ふつうの18歳女子の素顔も描く。その分だけ、イスラム過激派のテロに臆さず活動を続けるマララの力強さが浮き彫りになってくる。

 グッゲンハイムは語る。「マララたちは、苦い感情を抱いてもおかしくない。でもこの一家は、愛と優しさ、希望に満ちている」。映画が描くマララの物語は、世界のあちこちでテロや紛争の嵐が吹きすさぶ今だからこそ、いっそう普遍的な意味を持つのだろう。(ロンドン=梅原季哉)

◆映画=私はマララ

(赤旗15.12.11

◆◆マララさんインタビュー=「一本の鉛筆を」教育で得る未来

(映画の公開にあたって)

「アエラ」15.12.12

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◆◆マララさんリンク集

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★★マララさん 国連スピーチ 日本語字幕

17m20137月の国連演説)

http://m.youtube.com/watch?v=iak1X8VedW0

 「テロリストは私と友人を銃弾で黙らせようとしたが、私たちは止められません。私の野心、希望、夢は何も変わりません。……言葉の力を信じています。教育という目標のために連携すれば、私たちの言葉で世界を変えることができるのです。……1人の子供に1人の教師、1冊の本と1本のペン――。それがあれば世界を変えることができます」

One child, one teacher, one book and one pen can change the world. Education is the only solution. Education first. Thank you.

◆◆マララさん 国連スピーチ=英文と対訳

http://s.webry.info/sp/studyenglish.at.webry.info/201307/article_23.html

★★マララさん ノーベル平和賞 授賞式スピーチ 

(日本語字幕)27m 20141210

http://m.youtube.com/watch?v=x9nQxzQgkdo

ノーベル平和賞の授賞式で、史上最年少の受賞となったパキスタン人のマララ・ユスフザイさんと、インドの人権活動家カイラシュ・サティヤルティさんに、メダルと賞状が送られた。

「なぜ戦車をつくることは簡単で、学校を建てることは難しいのですか?私たちは動くべきです。待っていてはいけない。政治家や世界の指導者だけでなく、私たち全ての人が、貢献しなくてはなりません。

みなさん『これで終わりにしましょう』と決めた

最初の世代になりましょう。……誰もいない教室も、失われた子供時代も、無駄にされた可能性も。もう「これで終わりにしましょう。……子供時代を工場で過ごすのも、女の子が幼いうちに強制的に結婚させられることも、戦争で子供の命が失われることも、子供が学校に通えないことも『もう、これで終わりにしましょう』」

◆◆マララさんノーベル賞受賞演説=英文と対訳

http://英語力.biz/759

◆◆不屈の少女マララ43m

★★昼オビ=命が狙われる少女マララ(Malala)30m

高橋和夫解説

http://m.youtube.com/watch?v=UkTKrFcdJos

またはhttp://www.dailymotion.com/video/x280ps1_14-10-13-rx-ho-ノーベル平和賞マララユスフザイ高橋和夫_news

★★16歳不屈の少女(「クローズアップ現代」201418日)26m

http://www.dailymotion.com/video/x1a0gjg_クローズアップ現代-201418放送_news#from=embediframe

◆上記のクローズアップ現代の全文起こし

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3449_all.html

★ノーベル平和賞にパキスタン少女10m

★マララさん 銃撃事件の波紋12m

★もう1人のマララたち~世界の女の子に教育を~/プラン・ジャパン6m

Malala Yousafzai Story: The Pakistani Girl Shot in Taliban Attack | The New York Times32m下部英語

Malala Yousafzai, 16, and Her Miraculous Story of Surviving Being Shot by the Taliban(マララさん銃撃事件)5m英語

【一部のイスラム教徒内での女性差別、女性の教育差別傾向について】

◆岩本珠枝=イスラムと女性の人権一国連での討議をとおしてPDF18p

クリックして19_houritsu4.pdfにアクセス

◆イスラムにおける人権

http://www.islamreligion.com/jp/articles/2575/

◆またWiki=イスラームと女性、サウジアラビアの女性の人権やヤフー知恵袋などを参照のこと。

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q12128712132

世界的には克服されつつある

◆朝日デジタル=マララさん特集を検索のこと。

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◆◆マララさんに学びたい=朝日新聞読者欄・筆者コメント

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◆◆朝日新聞読者欄から

◆(声)若い世代 マララさんの勇気学びたい

201515日朝日新聞

 中学生 佐伯結菜(東京都 13)

 マララ・ユスフザイさん(17)のノーベル平和賞受賞に感動しました。

 マララさんは女子教育を認めないイスラム過激派の反政府武装勢力「パキスタン・タリバーン運動」におびえながら、学校に自由に通えない日常をブログにつづり、注目を集めました。15歳の時、スクールバスに乗り込んできた武装勢力の男に頭と首を撃たれ、意識不明の重体になりました。それでも、彼女は「すべての子どもたちが良質な教育を」「教育なしに平和は来ない」などと訴え続けています。ノーベル賞授賞式でスピーチする姿から、とても力強い意志が伝わってきました。

 パキスタンでは先月、学校が武装集団に襲撃され、148人の子どもらが殺害されました。マララさんの勇気を無駄にしないためにも、この悲惨な出来事の背景をみんなが正しく知り、間違いなんだと主張することが重要です。世界中が協力してほしいと思います。

◆(声)マララさんの思い、世界へ届け

20141214日朝日新聞

 学習塾経営 高良悦子(福岡県 52)

 マララ・ユスフザイさんとカイラシュ・サティヤルティさんのノーベル平和賞受賞演説を読み、深く感銘を受けました。世界で多くの子どもが争いに巻き込まれ、貧困にあえいでいます。2人はそんな状況の中で声を上げ、危険と闘いながら活動しています。

 先日、1人の中学生がマララさんの国連での演説を学校で教わったと、「1人の子ども、1人の先生、1冊の本そして1本のペンで世界を変えられる」という部分を英語で暗唱してくれました。その後の文の意味を聞かれ、「教育こそが唯一の解決策である。一番に教育を」と教えると感心していました。

 2人の受賞が世界に影響を与え、関心を持つ子が増えるのはうれしいことです。2人を応援したいと思います。

◆◆マララさんに学びたい=筆者コメント 

マララ・ユスフザイさんは1997712日、北部山岳地帯のスワート地区(マラカンド県)に生まれた。父親のジアウディンさんは私立学校を経営する教育者で、マララさんもこの学校に通い、医者を目指していた。

同地はイスラム保守勢力が強く、07年には反政府勢力パキスタン・タリバーン運動(TPP)が政府から統治権を奪い、09年まで実効支配している。イスラム過激派 TPPは女性の教育・就労権を認めず、この間、200以上の女子学校を爆破したという。

091月、当時11歳だったマララさんは、英BBC放送のウルドゥー語ブログに、こうしたタリバーンの強権支配と女性の人権抑圧を告発する「パキスタン女子学生の日記」を投稿。恐怖に脅えながらも、屈しない姿勢が多くの人々の共感を呼び、とりわけ教育の機会を奪われた女性たちの希望の象徴となった。

同年、米ニューヨーク・タイムズも、タリバーン支配下でのマララさんの日常や訴えを映像に収めた短編ドキュメンタリーを制作している。11年には、パキスタン政府から第1回「国家平和賞」(18歳未満が対象)が与えられ、「国際子ども平和賞」(キッズライツ財団選定)にもノミネートされた。

2012109日、スクールバスで下校途中、武装集団に銃撃され重傷を負った。現地で弾丸摘出手術を受けた後、イギリスの病院に移送され、一命をとりとめたが、15歳の女子学生を狙い撃ちにしたテロ事件は、世界中に大きな衝撃を与えた。犯行声明を出した反政府勢力パキスタン・タリバーン運動(TPP)は、教育権を求める女性の「反道徳的」活動への報復であり、シャーリア(イスラム法)に基づくものとテロ行為を正当化している。

マララさんは201412月にはノーベル平和賞を受賞した。世界的に称賛の声が広がっているが、TTPはマララさんがスワート地区に戻れば、再び命を狙うと宣言している。TPPは201412月に軍関係の学校を銃撃し多数の子どもたちがまた犠牲となった。マララさんは、激しい怒りを表明。国連はじめ各国が糾弾した。さすがのアフガンのタリバンもこの行動を批判した。さらにナイジェリア北東部の村がイスラム過激派「ボコ・ハラム」の武装勢力に襲われ、少なくとも33人が死亡、180人を超える子どもや女性らが誘拐された。「ボコ・ハラム」は、「女性に教育は必要ない」と20144月にも200人の女生徒を学校から誘拐した。マララさんに学びながら、国連を中心に国際的な反テロのたたかい、教育と女性をまもる取り組みを

今こそ強めていくべきときだ。

◆◆ナビラ・レフマンさん=米無人機攻撃の住民被害を訴えるパキスタンの少女

20151118日朝日新聞

ナビラ・レフマンさん

 パキスタンで相次ぐ米国の無人機攻撃による住民被害。その悲劇を伝えようと15日に初来日し、「私が海外でできるのは、罪のない人がたくさん殺されていると声を上げ続けることです」と訴えた。

 故郷のパキスタン北西部の部族地域は、イスラム過激派のパキスタン・タリバーン運動(TTP)の拠点だ。ボン、ボンと鼓膜を揺する米無人機の爆撃音を聞いて育った。一帯での無人機による住民の犠牲は数百人と言われる。

 2012年10月24日。無人機の爆撃は突然始まった。畑で野菜を摘んでいた家族をミサイルが襲った。祖母は死亡。爆発でえぐれた地面に肉片が散った。自身も吹き飛ばされ、右腕から流血した。ほかに家族8人が負傷した。

 1年後、被害を告発する弁護士の勧めで教員の父と訪米した。数週間前には、同じパキスタンの少女でTTPに銃撃されたマララ・ユスフザイさん(18)がオバマ大統領と面会していた。だが、ナビラさんに耳を貸したのは議員5人だけ。米政府も取り合わなかった。

 昨夏には政府軍とTTPの戦火が故郷に迫り、避難民に。仮設小屋で一人、教科書をめくる。治安上の理由や貧しさなどで国内では550万人以上の子どもが学校に通えずにいる。「大学に行って弁護士になるのが夢です。困っている子どもたちを助けるために」。薄茶色の瞳が少しだけ笑った。

 (文・乗京真知 写真・角野貴之)

Nabila Rehman(11歳)

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◆◆マララさん語る=テロ思想根絶へ「兵器より子供に本を」「教育は義務であり責任」

インタビュー全文

2015925日朝日新聞

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マララさんの歩み

 マララ・ユスフザイさんがインタビューで朝日新聞とやりとりした際、マララさんの答え全文は以下の通り。

18歳のマララさん「無人機ではテロ思想を殺せない」

 ――あなたがノーベル賞を受けた後も、例えばボコ・ハラム(ナイジェリアの過激派)は女子生徒たちを誘拐し、人質にとったままです。今回の映画を通じ、女子教育をターゲットにする勢力に向かって何と言いたいですか。

 今回の映画は私たち家族の物語、私たちがテロリズムによって影響を受け、それでも教育を受ける権利や平和のために立ち上がったさまを描いています。でも同時に確かなのは、これは私たち一家族だけの話ではなく、世界中の何百万人もの人たちの物語、教育を奪われた何百万人もの女の子の物語だということです。だからこの映画を通じて、人々の意識が向上し、今でも多くの子供、世界中で6600万人以上の女子が学校に通えずにいるのだということを思い起こしてほしいと願っています。この問題について人々の理解を助け、その解決策を見いだす助けになればと願っています。

 ――あなたを撃った者たちはイスラム教の正しい信徒だと自称していますね。今年1月には、シリアで過激派組織「イスラム国」(IS)に2人の日本人が殺されました。イスラム教の真の意味についてどう考えますか。

 イスラムは平和の宗教です。イスラムという語自体が平和を意味するのです。問題はすべて、イスラムについての人々の異なる解釈、そしてそれがおのおのの目的と一緒にされてしまうことの方にあります。残念なことに、立ち上がって、これは正しくないと表明する宗教学者はあまりいませんし、これは真のイスラムではないと声を上げる人もあまりいない。私はできる限り努力して、イスラムが扱っているのは平和だということを言おうとしてきました。

 イスラムは真実と兄弟愛であり、その教えの中では明確に、あなたがもし一人の人間を殺せば、それは人類全体を殺害することであり、逆にもし一人の命を救えばそれは人類全体を救済することだと説かれています。教育を受けることはあらゆる個人の権利であるばかりではなく、義務であり責任なのです。学び、知識を得て、教育を受けるべきなのです。残念ながら、自分たちが真のイスラム教徒だと自称している人たちがいますが、彼らはイスラム教についての真実の、正しい知識を持っていないのです。

 正しいタイミングで声を上げることが大切です。もし声を上げなければ、事態はそのまま続きます。スワート渓谷(パキスタン北部、マララさんの故郷)でも、もし私が黙ってしまっていれば、父が黙ってしまっていれば、同じ状況が続いていたと思います。

 ――今年は被爆70年で、一方であなたの国パキスタンも隣国インドも核兵器を持っています。核というもの、あるいは兵器全般についてどう考えますか。

 残念なことに、兵器は常に破壊をもたらします。人々を殺害し、破壊する。世界は兵器にお金を費やしすぎています。もし世界の指導者たちが、軍に費やす総額のわずか8日分だけでも支出をやめようと言いさえすれば、その8日分の額だけで、世界中のあらゆる子供が12年間にわたり教育を受けるための1年分を確保できるのです。だから世界の政治指導者たちが軍と兵器、戦争への支出を止めれば事態は実際に大きく変わるはずなのですが、彼らにとっての優先事項として決めてしまっているのです。

 でも、私たちは戦いをやめず、彼らに対して、教育や保健衛生こそが人々にとって重要なのだと思い出させる必要があります。銃を製造することで人を助けることはできないのです。子供に銃を渡して、助けていることになりますか。私はこのお金を銃には使わず、代わりに学校や医療に使うと言うことこそ、その人を、その子供を助けることになるのです。

 ――オバマ米大統領に対して無人機の問題を提起したそうですが、それが理由ですか。

 私が無人機攻撃の問題に触れたのは、無人機がテロリストを殺害できるのは確かですが、テロリズムを、テロリズムの思想自体を殺すことはできないからです。テロリズムに対してそれを止めたければ、あらゆる児童が質の高い教育を受けられるよう保証する必要があります。こうした人たちの多くは教育を受けておらず、職がなく失業中で、希望もないのです。そして彼らは銃を取るのです。子供たちに銃を取らせたくないのであれば、本を与えなければなりません。

 変革はこれが歴史上初めてというわけではありません。努力が必要です。何度も何度もいう必要があります。いつかは彼らも耳を傾けざるを得なくなります。無視し続けることはできません。私を支持してくれる人が多ければ多いほど、私の声は人々の声になり、どんな指導者でも人々の声を無視できはしません。

 ――ノーベル賞を受賞したことで何か変わりましたか。

 私はそれでも同じ私です。背の高さも同じで、体が変わったわけでもない。

 でもこの賞がもたらしてくれたチャンスは、教育に対する注目、例えばノーベル平和賞を共同受賞したカイラシュ・サティヤルティさんや、マララ基金、そのほか多くの団体が教育のためにしていることについての注目、世界の注目を彼らの発言に集め、ナイジェリアやケニアの女の子たちに集めることができました。ノーベル賞をとった時、私は授賞式に5人の友達、ナイジェリアやパキスタン、シリアからの友達を招きました。あの日、この賞は私に対してのものではなく、あの年の賞はこれは児童に対してのものだという風に、とにかく感じたのです。

 うまくいけば、今後また本を書くかもしれません。別の映画ができるかもしれません。でも、今回の映画を通じて望んでいるのは、意識の向上です。これは一つの家族、ひとりの少女だけの話ではなく、何百万人もの子供たちが苦しんでいて、そこに今注目する必要があるということです。あらゆる子供に12年の教育が保証されるべきです。紛争の下で苦しんでいる子供たちもいます。そうした子供たちはもはや無視されるべきではないのです。彼らは未来そのものであって、もし無視するのならそれは未来を無視することです。だからこの映画がそうした意識を向上するよう願っていますし、学校の生徒たちもこの映画を見られるよう願っています。「マララと共に立つ生徒たち」というキャンペーンをやっていて、途上国でも先進国でも学校の生徒がこの映画を見られるようにしたいと思っています。

 ――パキスタンに戻る可能性があると聞きましたが、来年、直近の計画は何ですか。大学に進学しますか。

 まだ2年(英国の高校が)残っています。Aレベル(英国での大学進学前の高校卒業資格課程)を済ませてから、それから大学に行きます。でも、もうまもなくパキスタンを訪問できるのではないかと期待しています。学校教育が終わった後は、パキスタンに戻ることはとてもはっきりしています。

 ――パキスタン国内では、マララさんに対して、彼女は父親に命じられたことを発言しているだけだといった冷たい見方をする人もいます。

 そうした人はとても少数なのだと思いますが、批判されるのは時にはいいことで、そこから学べます。正しい人たちもいます。でも、私のキャンペーンは教育に向けてのものです。誰か個人を標的にしているわけではありません。無知、そしてテロリズムというイデオロギーが標的であって、人々を批判しようとしているわけではありません。女子は教育を受けるに値しないという考えを相手にしているのです。私のキャンペーンは教育への戦い、あらゆる女の子が学校に行く権利をめざし、あらゆる児童が12年間の教育、しかも質の高い教育を受けられるようにめざす戦いなのです。

 疑念は常にあると思います。ただ、私たちの国パキスタンでは、いつも、情勢が良い方向には向かっておらず、テロや爆弾事件が毎日のように起きています。ほとんど毎日、爆弾で人がなくなったと耳にします。人々は政治家への信頼を失い、希望を失っています。そうした信頼の欠如、希望の不在が、人々がよいことが起きると期待できずにいる一つの理由だと思います。

 脚光を浴びがちなのは少数派で、そちらがニュースになります。一方で多数派は沈黙を守っているので、そうした黙っている人たちの数が多くても、こちらの人たちが考えていることは、声を上げる少数派と比べると力に欠けます。

 ――映画によってそうした見方が変わると期待していますか。

 今回の映画が人々の意識を向上させ、私たち家族の物語を、この一つの家族がどうやって教育のために立ち上がったか人々がより深く理解してくれればと思います。私たちの話をより近く感じてくれるようになれば。

 でも、私自身はあまり考えていません。なぜなら、もし私が、自分に敵対している人たちのことばかり常に考え、どうしたらその態度を変えられるかとばかり考えていたら、どうやっても前には進めません。だから自分の課題に集中することが大事なんだと思います。教育に焦点をあて、信条に従って正しいことをやっていると考えることが大切です。あなたが仮に預言者か何かだったとしても、それに対して批判する人は常にいます。

 ――(記者会見で)あなたのメッセージが響くのは、あなたが特別な存在であるとか特権を得ているからではなく、まさに普通であり、同じような子供たちを代表しているからと思いますが、その半面、自分があまりに注目されすぎていて、単に自分自身でありたいと思うような時はありませんか。どうやって自分を保っていますか。

 とてもいい質問ですね。今現在、私には二つの違う生活があるみたいです。一人の女の子は、家では弟とけんかもして、普通の女の子のように暮らしています。学校に行き、宿題をしなければならないし、試験も受けなければならない、そういったことです。私は最近はGCSE(英国で義務教育を終了した生徒が受験する統一テスト)を受けたばかりです。そういう女の子が一方にいます。その一方でもう1人の女の子がいて、外の世界に向けて声をあげ、教育の権利を提唱している。

 二つの別の人生があるみたいに見えますね。でも、現実には私という1人の人間がそのすべてをしているんです。そして、私は毎日、できるかぎり努力してその二つをつなげ、それが私の人生なのだと考えるようにしています。学校へ行くふつうの生徒で、テストも受けなければならない一方で、この活動を通じて声をあげて女子の声を伝えようとしているとしても、私は私です。ある意味で私は二つをつなげていますが、でもどちらも私の人生の一部であり、どちらの意味でもそれが私なのです。

 ――あなたがふつうであることに感銘を受けます。ふだんの生活で余暇はどんな風に過ごしていますか。趣味は。

 友達と一緒に過ごして、買い物に行ったり、ビデオを見たり音楽を聴いたりしています。それから弟たちとのけんかですね。

 ――音楽はどんなものを。

 特にこれというのはなくて最新のものをきいています。あとは私たちが遊ぶのは、特定のゲームにはまっているんですけど、私たちの家族はほとんどモノポリー中毒です。モノポリーをするときほんの少しズルをすることがありますが、大してしていませんよ。弟たちは私がズルをするって思っているけれど、私からすれば、ほんのちょっぴりだけ、そんなにしていないんです。

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◆◆マララさん「教育は特権ではなく権利」シリア難民のための学校をつくる

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2015926日朝日新聞

記者会見で発言する友人を見守るマララさん(右)=25日午後、米ニューヨークの国連本部、金成隆一撮影

 昨年のノーベル平和賞受賞者でパキスタン出身のマララ・ユスフザイさん(18)が25日、国連サミットの開幕式に出席し、「教育は特権ではない。権利であり、平和です」と呼び掛けた。

 マララさんは各地から集まった約200人の若者と2階の傍聴席に立ち、階下の首脳らに向けて「見て下さい。将来の世代が声を上げています。世界の子どもに平和と繁栄と教育を約束して下さい」と訴えた。

 その後、シリアやパキスタン、ナイジェリア出身の友人と記者会見に出席。「平和の実現」や「教育機会の拡充」などの願いを語る友人の姿を見守った。

 この日のサミットでは、国際社会が2016~30年に取り組む「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全会一致で採択された。(ニューヨーク=金成隆一)

◆◆マララさんから学んだ勇気、シリア難民向け女学校(レバノン)

2015830日朝日新聞

マララ・ユスフザイさんが設立したシリア難民向けの女学校で、生徒がパソコンの使い方を学んでいた=レバノン東部、翁長忠雄撮影

 真新しい教室で、少女たちがコンピューターの画面と向き合っていた。生徒のララさんは英語で書いた。

 「私は、学校が好き」

 女子が教育を受ける権利を訴えて、史上最年少でノーベル平和賞を受賞したパキスタン出身のマララ・ユスフザイさん(18)が7月に開いた、シリア難民向けの女学校だ。内戦で隣国レバノンに逃れた14~20歳の約90人が学ぶ。

 開校式にはマララさん本人が訪れた。9カ月前に逃れてきたアーヤ・ハスフィさん(15)と妹のタスマンさん(13)が、学校近くの難民キャンプを案内した。

 2人が「先生になりたい」と夢を話すと、マララさんは「かなうといいですね」と答えてくれたという。タスマンさんは「とても優しかった。彼女のおかげで、勉強する勇気がわいてくる」と言った。

 壁に、マララさんの国連での演説の一節が貼られていた。「一人の子ども、一人の先生、一冊の本、一本のペンが世界を変える」

 (バリエリアス〈レバノン東部〉=翁長忠雄)

NGO「マララ基金」が資金を拠出して設立された学校で、教室に座るシリア難民の少女たちとマララさん(中央)=ロイター

 昨年のノーベル平和賞受賞者マララ・ユスフザイさんは12日、レバノンのシリア国境に近いベカー高原を訪れ、シリア難民のための女子校を開校した。女子教育を支援するNGO「マララ基金」が資金を拠出する。14~18歳の200人が学ぶという。

 マララさんはロイター通信に「私がここに来たのは、シリア難民の声に人々が耳を傾けねばならないからだ。難民たちは今まで無視され続けてきた」と述べた。12日はマララさんの18歳の誕生日。開校のスピーチで「きょうは私が大人になった最初の日です。世界の子どもたちを代表し、世界の指導者に対して銃弾でなく本に投資することを求めます」と訴えた。

 マララさんは同基金の共同設立者の一人。マララさんはノーベル平和賞の受賞演説で、賞金を基金に寄付すると表明した。基金はパキスタンのイスラム過激派「パキスタン・タリバーン運動」やナイジェリアの過激派「ボコ・ハラム」の脅威にさらされている女子生徒を支援している。

 過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭などでシリア難民は急増し、国外に逃れた約400万人のうちレバノンには少なくとも約120万人いるとされる。学齢期の子どもは約50万人に上るが、このうち約2割しか公教育を受けられていないという。

 レバノンの人口は約500万人で、さらに難民を受け入れるのは困難な状況だ。レバノン政府はシリア人の入国審査を厳しくしている。(カイロ=翁長忠雄)

 「すべての子どもに教育を」と訴え、ノーベル平和賞を受けたマララ・ユスフザイさん(18)の夢が、実を結びつつある。彼女がレバノンに開いたシリア難民向けの女学校を記者が訪れた。内戦で母国を離れ、学校に通えなかった子どもたち。マララさんの生き様に励まされ、「学ぶ喜び」に胸をときめかせる。

 「先生たちがよく教えてくれるので楽しい。大学でも学び、コンピューターのエンジニアになりたい」。生徒の一人、ゼナブ・ハジ・ムーサさん(15)は将来の夢を語った。

 2012年、シリア中部ホムスからレバノンへ一家8人で逃れてきた。マララさんの半生について知ったのは、入学後だ。

 パキスタン出身のマララさんは、ブログなどで女性の教育の権利を訴えた。12年、15歳の時にイスラム過激派に頭を撃たれ、意識不明の重体に陥った。だが奇跡的に快復し、14年にノーベル平和賞を受けた。賞金は、女子教育の実現に取り組む「マララ基金」に寄付された。女学校は、この基金の出資でできた。

 運営する地元NGO職員のファーティメ・ビリモさん(30)によると、生徒たちは、入学するまでマララさんのことを知らなかった。その生き様を知り、「自分たちと同じ年頃なのに、撃たれても教育のために声を上げ続けるなんて」と感銘を受けたという。

 生徒は学校でコンピューター、アラビア語、数学、英語を学ぶ。ゼナブさんは「強い反対にもめげないマララさんの生き方が、私は好きです。彼女は私の模範です」と話した。

 難民の子たちの学習環境は整っていない。女学校近くの難民キャンプには、14歳までが対象の学校しかない。またレバノンの公立校は通常、英語かフランス語で授業をするため、アラビア語で授業を受けてきたシリア人が授業についていくのは難しい。

 子どもたちをとりまく意識も問題だ。男子は家計を助けるため、13~14歳になると農作業や建設作業の現場で働くことが多い。女子だと10代半ばで結婚させられる人も多い。「学問はいらない」と娘を家から出したがらず、弟や妹の面倒を見させる親もいる。女学校に通い始めたが、親族に連れ戻された生徒もいる。

 「イスラム国」(IS)など過激派組織が勢力を広げる中、難民がシリアに戻るめどは立たない。

 ワシャーム・シャヒーン校長(70)は「子どもたちは高いフラストレーションを抱えている」と語った。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、8月時点でシリア難民は401万人。このうちレバノンに111万人いる。(バリエリアス〈レバノン東部〉=翁長忠雄)

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◆◆クローズアップ現代=不屈の少女マララさん

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201418日(水)放送

今、16歳の少女の言葉が世界の人々の心を揺り動かしています。

マララ・ユスフザイさん

「1人の子ども、1人の先生、1冊の本、1本のペンが世界を変えることができます。」

一昨年(2012年)女性の教育を否定するイスラム過激派に襲撃された1人の少女。

パキスタン出身のマララ・ユスフザイさんです。

頭を撃たれ一時、生死の境をさまよいました。

イギリスに緊急搬送され、奇跡的に一命を取り留めたマララさん。暴力に屈することなく活動を再開し、世界のリーダーたちに教育の重要性を訴え続けています。その姿は、世界各地の女性たちに勇気を与えています。

女性「私は暴力を決して認めません。」

今回、初めて日本のメディアのロングインタビューに応じ、教育にかける熱い思いを語りました。

マララ・ユスフザイさん

「私はすべての人に伝えたい。自分の権利のために声を上げる必要があるときにはそうすべきなのです。」

マララさんの強い信念は、いかにして生まれたのか。

16歳、不屈の精神に迫ります。

【不屈の少女 マララさん 独占インタビュー

ゲストマララ・ユスフザイさん】

◆バーミンガムでの新しい生活が始まり1年ちょっとになるが?

ゲストマララ・ユスフザイさん

バーミンガムでの新しい生活が始まり1年ちょっとになるが?

銃撃されたのは大変な経験でしたけど、お医者さんも驚くくらい早く回復しています。

ここバーミンガムでは、とても良い学校で勉強でき本当に幸せです。

学べて本も読めるのですから。

少し寂しく感じることがある?

そうなんです。

友だちに会えなくて寂しいです。

イギリスで同級生が口にするジョークは、私にはそう思えなかったり、また私のジョークが通じないこともあり、とても難しいです。

パキスタンでは、誰が一番良い成績を取るか、いつも競い合っていたので、よく勉強し楽しかったです。

イギリスでも学校で一番になりたいです。

◆不屈の少女 マララさん 信念の源は

マララさんが生まれ育ったパキスタン北西部のスワート地区です。男性優位の部族の慣習が根強い保守的な地域です。女性は年頃になると、人前で肌を出したり、1人で外出したりすることも許されません。

多くの女性は学校に通えず、読み書きができません。

3人きょうだいの長女として育ったマララさん。

教育者の父親の下、女の子も自由に生きるべきだと育てられ、学校に進学。将来の夢は、世界各地を冒険することでした。しかし、成長するにつれ、弟たちが自由にできることも自分には許されない社会の在り方に疑問を抱くようになりました。

当時の思いが自伝につづられています。

自伝『わたしはマララ』より

男は子どもでもおとなでも自由に外を出歩けるのに、母とわたしは、家族や親類の男が― 五歳の男の子でもいい― つきそっていないと、出かけることができない。

わたしは子どもの頃から、絶対、そんなふうにはなりたくなかった。

5年前、マララさんの人生を大きく揺るがす出来事がありました。

イスラム過激派のパキスタン・タリバン運動が町を占拠。イスラムの教えに反しているとして、女性が教育を受ける権利を否定します。学校などを次々と爆破し、マララさんも学校に通えなくなりました。

さらに命令に従わなかった人たちに対して、むち打ちや処刑を行うなど恐怖で支配していったのです。

なんとかして学校に戻りたい。

当時11歳だったマララさんは、ブログで厳しい現状を訴えることにしました。

タリバンのせいで27人いた同級生は11人になってしまった

ブログは国内外のメディアで取り上げられ、大きな反響を呼んだのです。

大人でさえ声を上げられない中で、言葉を発したマララさんの勇気は社会を動かしました。

マララ・ユスフザイさん

「圧政や迫害に反対の声を上げましょう。

権利を奪おうとするものを恐れないで。」

マララさんは、ペンの持つ力に初めて気付かされたと言います。

自伝『わたしはマララ』より

ペンが生みだす言葉は、マシンガンや戦車やヘリコプターなんかよりずっと強い力を持っている。

ファズルラー(過激派の幹部)のようなたったひとりの人間がすべてを破壊できるのなら、たったひとりの少女がそれを変えることもできるはずだ。

しかし、一昨年10月マララさんをイスラム過激派銃撃したのです。頭を撃たれ、3日間にわたり生死の境をさまよい続けました。

「マララ、マララ!」

世界各地でマララさんの回復を願う人々の輪が広がりました。

何度も手術を受け、一命を取り留めたマララさん。

現在はイギリスで家族に支えられながら教育の普及に向け、再び歩み始めています。

◆不屈の16歳 マララさん 教育にかける思い

どんな疑問から女の子を取り巻く状況がおかしいと考えるように?

私自身は本当に恵まれてると思うんです。

父は私に自由や、弟たちと対等な権利を与えてくれました。でも近所には、対等な権利なんて与えられない女の子がたくさんいて、学校に通うことも許されていませんでした。

あるとき、オレンジを売る小さな少女に会いました。

その子は手に紙を持っていて、何かを書こうとしていたんです。「勉強は好き?」と尋ねると「大好き」と答えました。話を聞いてみると、学校には行きたいけれど、家族のためにお金を稼がなければいけないと言うんです。

まだ、とても小さな女の子でした。そのとき、私は思いました。この子はオレンジを売るのではなく、学校に行ってオレンジがどうやってできるのか、自然や生物について学ぶべきではないかと。

暗黒の日々と表現される日々をどんな気持ちで過ごしたか?

毎晩、人が殺されるような社会で暮らすのは本当につらかったです。テロや過激派の支配など21世紀なのにこんな野蛮なことが起きるのかと思っていました。

(とても怖かったでしょう?)

はい。でも、たとえタリバンが学校の扉を閉ざしても、学びたいという私たちの心までは閉ざせないと思っていました。

教育の価値に改めて気付かされた?

奪われて初めていかに重要なものであるかを思い知らされました。学校に行くということは、知識を得るだけでなく、自分の未来を切り開くことだと思います。

だから、もう学校に行けないと言われたときは、まるで石器時代に引き戻されたかのようでした。

もし明日から学校に行かず、ずっと家にいなさい、唯一の仕事は、料理や皿洗いをし結婚して子どもを産み、子どもたちの世話をすることだけ。

それが、たった1つの生き方だと言われたら、そんな日々を想像できますか?

だから私はふるさと・スワートではこんなことが起きている、私たちの存在を無視しないでほしいと世界に訴えることにしたのです。

自分の声が本当に届いているのかどうか心配では?

はい。誰が耳を傾けてくれるのか、全く分かりませんでした。私自身も、女性が声を上げることの重要性に気付いていませんでした。

政府や軍が行動を起こして初めて女性の声がこんなにも力を持っていたのかと気付かされたんです。

私は今、こう考えています。

女の子が学校に行くべきでないのは、長年の文化で決められているからと言う人がいるけれど、その文化を創ったのは私たち自身であり、変える権利も私たちにあるのだと思います。

◆世界を動かす マララさんのメッセージ

マララさんは銃撃事件から9か月後、国連の壇上に立ちました。

マララ・ユスフザイさん

「タリバンは銃弾で、私たちを黙らせることはできませんでした。弱さや恐れ、絶望は消え、強さと勇気が生まれました」

マララさんのメッセージは、世界中の女性たちに勇気を与えています。

アフリカのウガンダから国連に招待されたナキア・ジョイスさんもその1人です。

◆立ち上がった ウガンダのマララ

ウガンダ北部のパデール県。住民の多くは自給自足で暮らしています。この地域の人々の情報源となっているラジオ局です。

地元で唯一の女性ジャーナリストとして活動しているナキアさん。マイクを通して、ウガンダの女性の権利向上を訴えています。そこで繰り返し伝えているのが、マララさんの言葉です。

ナキア・ジョイスさん

「みんな学校へ行きましょう。当然の権利なんだから。」

ナキアさん自身も女性だからというだけで差別される環境で育ちました。13歳のときにはマララさんと同じような体験もしました。

友達と学校に向かっていたある日、武装した集団に銃撃されたのです。とっさに草陰に隠れて助かりましたが、少女2人が殺されました。

理不尽な暴力に対し、無力感を感じていたナキアさん。命を失いかけたマララさんが、それでも闘っている姿に心を揺り動かされたと言います。

ナキア・ジョイスさん

「マララさんが私に自信をくれたんです。

若いマララさんが、権利について声を上げられるのなら、私にもできると思いました。」

ナキアさんは女性蔑視が深刻な農村部を取材し、ラジオを通して現状を変えたいと強く思うようになりました。ウガンダの農村部では、今も学校に行けるのは主に男の子。女の子は家にいて家事をするべきだという慣習が根強く残っています。

男性

「息子は学校に行き家族を養ってくれますが、娘はどうせ嫁に行ってしまう。女は家事をやっていればいいんです。」

この日の取材では、村の男性を集め、なぜ女性を蔑視するのか意見をぶつけました。

ナキア・ジョイスさん

「男性のみなさん、女性に暴力を振るうなんてひどいと思いませんか?」

農村部では女性が人前で発言することは、慣習として許されていません。それに反して声を上げるナキアさんに、男性からは厳しい言葉が向けられます。

男性

「女を男と対等に扱うなんて、オレは反対だ。

女のせいで、いろいろなもめ事が起きるんだ。」

男性

「女が男と同じように振る舞おうなんて、あんたどうかしているよ。」

以前は、言い返すこともできなかったナキアさん。

しかし、マララさんと出会ったことで自信をつけ強く訴えられるようになりました。

ナキア・ジョイスさん

「私は暴力を決して認めません。

私は女性のために声を上げているんです。」

これからもラジオを通して女性の権利のために闘い続けたい。現状を少しでも変えていくことが、自らの役割だとナキアさんは考えています。

ナキア・ジョイスさん

「少女であっても機会さえあれば、国全体を変えることができると知りました。

1日ではできませんが、変化は必ず起きると思います。私もマララさんのような象徴になりたい。特に女の子の権利のために闘い続けたい。」

◆16歳でリーダーに その思いは

16歳でリーダーに 重荷だと感じないか?

私の「責任」だと考えています。

以前は教育のために発言することは、私の「権利」だと思っていましたが、今は「やるべきこと」だと考えています。

応援してくれる人々の気持ちを思うと、「1人じゃない」と希望が湧いてくるんです。

祖国パキスタンでの名声のための活動という声を聞いて

名声のためにやっていると言われてもそれはそれで、かまいません。

でも、教育という大きな目的だけは支持してほしいと思います。

女性たちをどのように勇気づけるか?

女性が男性に頼らなければ権利を主張できない時代もありました。

でも、すべての女性に伝えたいのは今は自分たちで、権利を主張すべきだということです。

私たちには自由があるのだから自由を与えてほしいと誰かに頼む必要はありません。

(女性は声を上げるのをためらいがちだが?)

そうですね。

きっと、それは私たち女性が自分たちには力や能力がないと思っているからです。

でも私たちは女性や男性である前に同じ人間なのです。

だから自分たちを1人の人間として対等に考えるべきだし、もともと持っている可能性を信じるべきだと思うんです。

10年後、20年後 何をしていると思うか?

すべての子どもたちが学校に通っている姿を見ていたいです。

(あなた自身は?)

それが私の望むことです。

多くの学校を建て、この目で見てみたいのです。

学校に行くというのは、単に教室で本を読むことではなく、学ぶことを通じて、新しい世界と出会うことだと思います。

大切なのは、友達と机や、いすを並べることで、みんな平等なのだと学ぶことなのです。

黒人でも白人でも、イスラム教徒でもヒンズー教徒でも、お金持ちでも貧しくても、そんなことは重要ではなく、私たちは平等なのだと教えてくれるのです。

私は、それを実現するためにも政治家になりたいんです。

政治家に対する不信感と同時に政治家になりたい 矛盾では?

すべての政治家が堕落しているわけではないと思います。私が政治家になりたいのは、それが国全体を発展させるのに最善の方法だと思うからです。

医師になれば、地域の人たちを助けることができると思います。教師になれば、多くの人を育てられるでしょうが、国全体を変えることはできません。

だから私は政治家になりたいのです。そしてパキスタンで、オレンジを売っていたあの女の子が学校に行く姿を見たいんです。できるだけ早くパキスタンに戻って、ふるさとの人たちの力になりたいと思っています。

◆◆学びの場、消えぬ不安 パキスタン学校テロから2カ月

2015217日朝日新聞

パキスタン北西部ペシャワルの学校でイスラム過激派による無差別テロが起きてから16日で2カ月。市内にある別の女子学校では、2週間前から事務員が自動小銃で武装。屋上には狙撃要員が配置されている。冬休みが明けても約3割が欠席していたが、ようやく戻ったという。

 パキスタン北西部ペシャワルでイスラム過激派が学校に乱入し、児童生徒ら160人以上を殺害するテロが起きてから16日で2カ月がたった。政府はすべての学校の武装化を指示したが、テロの不安は消えない。周辺地域では700校が再開できないままだ。

◆遺志継ぎ、教え続ける

 襲撃された「ペシャワル陸軍公立学校」が再開にこぎつけた1月12日の朝、登校した図書室担当の女性教員、フィザ・ルバブさん(26)は、涙を抑えることができなかった。

 あまりに多くの同僚と子どもたちを失った。そのことを改めて思い知らされた。同じ家からいつも一緒に通っていた叔母で同校教員のソフィア・ヘジャブさん(39)も、もういない。

 1年半前、教員になったのはソフィアさんの勧めだった。ソフィアさんは、子育てが一段落した後に学位を取り直し、4年前から同校で国語のウルドゥー語を教えていた。女性が働きに出ることを好まない保守的なイスラム社会。家族を説得し、生き生きと教壇に立つソフィアさんがいつしか理想の女性になっていた。

 昨年12月16日、反政府武装勢力パキスタン・タリバーン運動(TTP)が送り込んだ6人のテロリストは、最も多くの生徒が集まっていた講堂の周辺で銃を乱射し始めた。

 フィザさんは20メートルほど離れた図書室で生徒45人を守るのに必死だった。うち14人は肩や胸、手足から血を流し、2人は息も絶え絶え。「身を隠して。声を出さないで」。軍部隊に救出されるまでの2時間あまり、ただ耐えるしかなかった。

 ソフィアさんが犠牲になったことを知ったのは、自分が救出されてから数時間後。講堂にいて、出入り口から生徒16人を逃がしたところで後頭部を撃たれて亡くなったと同僚に聞いた。

 学校へ行くのは今でも怖い。「包帯を巻いて通ってくる生徒たちを見て、私は勇気を奮い立たせた。生き残った生徒も教員も、精神的な後遺症が残っていない者はいない。でも、私が学校に通い続け、子供に教えることが叔母の遺志だと思う」とフィザさんは話す。

◆狙撃銃・有刺鉄線で要塞化

 政府と軍が威信をかけて再開させた現場の学校とは対照的に、周辺の学校では混乱が長引いている。

 政府は国内すべての教育機関に、安全策を強化するよう指示した。ペシャワルがあるカイバルパクトゥンクワ州では、12月下旬から1月初めまでの冬休みを利用し、学校周囲の外壁のかさ上げや有刺鉄線の設置、出入りの際の金属探知機による荷物検査、狙撃銃を持った警備員の屋上への配置など、事実上、学校を要塞(ようさい)化する措置を求めた。

 安全策が十分だと警察当局が承認するまで再開を禁じたため、州内の約2万8500校の大半は冬休みが終わっても再開できない状態が続いた。ようやく今月、大半は再開に踏み切ったが、州教育当局によると、治安が悪い地域を中心に700校あまりがまだ休校したまま。州政府は教員らに校内での銃所持を認める方針も決定。「襲撃された場合、治安部隊が駆けつけるまで対応する必要がある」(州情報相)として教員らに銃の取り扱い訓練もした。

 ペシャワルの住宅街で約800人が通う公立ドゥラザク女子校では、最近になって授業が再開したが、校門前と屋上に職員が自動小銃を持って立つようになった。他に数人の職員が拳銃を所持しているという。

 州内ではテロ後も、夜間に女子校校舎が爆破されたり、校長あてに脅迫電話がかかってきたりする事件が続く。校門前で銃を構える事務員のシャビル・メフムードさん(35)は「襲撃される可能性がある以上、武装するしかない」と話す。

◆過激派、対ソ連戦略から肥大化 アフガン侵攻が契機

 古来シルクロードの要衝として栄えたペシャワルは、1979年に隣国アフガニスタンへ侵攻したソ連軍と戦うイスラム勢力の出撃拠点となって以来、イスラム過激主義による混乱の中心となってきた。

 南下するソ連への防壁としたい米国や、アフガンやインドに対する戦略カードとして使いたいパキスタンが支援した武装集団が、ムジャヒディン(イスラム聖戦士)、タリバーン(宗教学生)などと名前を変えながら、暴力を「聖戦」とする危険思想を育んだ。

 戦う相手はアフガンを占領する外国軍だったはずが、次第に変化。ペシャワルのキリスト教会(2013年9月、80人死亡)、インド国境の検問所の観光客(昨年11月、60人死亡)、ペシャワルのイスラム教少数派シーア派の礼拝所(今月13日、20人死亡)など標的を変えてテロを起こす。過激派は国際テロ組織アルカイダなどとも関係を深め、「イスラム国」に参加を表明したグループもいる。

 暴力をのみ込んで肥大化した過激主義の行き着く先が学校テロだったと言える。米同時多発テロになぞらえ、「パキスタンの9・11」(アジズ首相顧問)というほどの衝撃だった。シャリフ首相は「根絶やしにするまで戦う」と宣言。政府と野党は、軍事作戦の全面的な支持で足並みをそろえた。

 性急なテロ対策には危うさも目立つ。政府は08年に凍結した死刑執行を復活。テロ犯を中心に20人あまりに執行した。裁判官や証人に対する過激派の脅迫がやまない現状を打開する理由で、テロ裁判を軍部管轄下に移すための憲法改正にも踏み切った。

 ソ連侵攻以来、住み続けてきたアフガン難民の弾圧も強まっている。不法滞在者を送還する名目だが、合法難民も家を捜索されたり、拘束されたりする例が相次ぎ、今年に入って3万人以上が帰還を余儀なくされた。(ペシャワル=武石英史郎)

◆パキスタン・タリバーン運動(TTP)

パキスタン政府の打倒やイスラム法による統治を目指し、2007年に発足。女性の社会進出や女子教育を敵視し、12年に女子学生マララ・ユスフザイさんを銃撃した。隣国アフガニスタンの反政府勢力タリバーンや国際テロ組織アルカイダと関係が深く、最近では、一部が分派して中東の過激派組織「イスラム国」への参加を表明した。パキスタン軍は昨年6月から、TTPの拠点がある同国北西部の部族地域で掃討作戦を続けている。

◆◆Wiki=マララ・ユスフザイさん

Malala Yousafzai

ノーベル平和賞受賞

生誕 1997712日(17歳)

パキスタン カイバル・パクトゥンクワ州ミンゴラ(英語版)

国籍 パキスタンの旗 パキスタン

肩書き スワート県子供会議議長

任期 2009 – 2011

宗教 イスラム教徒

宗派 スンニ派

受賞 シモーヌ・ド・ボーボワール賞(英語版)(2013年)

サハロフ賞(2013年)

ノーベル平和賞(2014年)

補足

マララ・デー(英語版)(712日)

ノーベル賞受賞者 ノーベル賞

受賞年:2014

受賞部門:ノーベル平和賞

受賞理由:銃撃を受けながらも女性差別を訴えた

マララ・ユスフザイ(英語: Malala Yousafzai、パシュトー語: ملاله يوسفزۍMalālah Yūsafzay1997712)は、パキスタン出身の女性。フェミニスト・人権運動家。ユースフザイやユサフザイとも表記される。カイバル・パクトゥンクワ州ミンゴラ(英語版)生まれ。2014年ノーベル平和賞受賞。

◆来歴

スンニ派の家庭に生まれる。父親のジアウディン(en:Ziauddin Yousafzai)は地元で女子学校の経営をしており、娘のマララは彼の影響を受けて学校に通っていた。マララという名はパシュトゥーン人の英雄であるマイワンドのマラライにちなんでつけられた 。彼女は数学が苦手だったが、医者を目指していた。2007年に武装勢力パキスタン・ターリバーン運動(TTP)が一家が住むスワート渓谷(英語版)(スワート県(英語版))の行政を掌握すると恐怖政治を開始し、特に女性に対しては教育を受ける権利を奪っただけでなく、教育を受けようとしたり推進しようとする者の命を優先的に狙うような状況になった。2009年、11歳の時にTTPの支配下にあったスワート渓谷で恐怖におびえながら生きる人々の惨状をBBC放送の依頼でBBCのウルドゥー語のブログにペンネームで投稿してターリバーンによる女子校の破壊活動を批判、女性への教育の必要性や平和を訴える活動を続け、英国メディアから注目された。マララは、イスラム世界における初の女性政府首脳である元パキスタン首相ベーナズィール・ブットーに刺激を受けたと語っている。

一方、アメリカのパキスタンに対する軍事干渉には批判的な見解を示し、201310月にアメリカのオバマ大統領と面会した際は、無人機を使ったアメリカのテロ掃討作戦をやめるよう求めた。

2009年、TTPがパキスタン軍の大規模な軍事作戦によってスワート渓谷から追放された後、パキスタン政府は彼女の本名を公表し、「勇気ある少女」として表彰した。その後、パキスタン政府主催の講演会にも出席し、女性の権利などについて語っていたが、これに激怒したTTPから命を狙われる存在となる。

◆銃撃事件

2012109日、通っていた中学校から帰宅するためスクールバスに乗っていたところを複数の男が銃撃。頭部と首に計2発の銃弾を受け、一緒にいた2人の女子生徒と共に負傷した。

この事件についてTTPが犯行を認める声明を出し、彼女が「親欧米派」であり、「若いが、パシュトゥーン族が住む地域で欧米の文化を推進していた」と批判、彼女に対するさらなる犯行を予告した。わずか15歳の少女に向けられたこの凶行に対し、パキスタン国内はもとより、潘基文・国際連合事務総長やアメリカのヒラリー・クリントン国務長官など世界各国からも非難の声が上がったが、TTPは「女が教育を受ける事は許し難い罪であり、死に値する」と正当性を主張して徹底抗戦の構えを示した。アンジェリーナ・ジョリーは事件を受け、パキスタン、アフガニスタンの少女のために5万ドル(約400万円)を寄付した。寄付金は、パキスタン、アフガニスタンにおける女性教育のために闘った女性、少女を表彰する賞の創設などに使われるという。

20131110日、ホワイトハウスでオバマ大統領一家と会談。

1013日、容疑者とみられる5人が逮捕された。

彼女は首都イスラマバード近郊のラーワルピンディーにある軍の病院で治療を受け、1014日には試験的に短時間だけ人工呼吸器を外すことに成功した[1015日、さらなる治療と身の安全確保のため、イギリス・バーミンガムの病院へ移送された。翌16日には筆談で「ここはどこの国?」と質問し、19日には病院職員に支えられながらではあるが、事件後初めて立ち上がった。

銃弾は頭部から入り、あごと首の間あたりで止まっていて、外科手術により摘出されたものの、頭部に感染症の兆候があったが、奇跡的に回復し、201313日に約2カ月半ぶりに退院した。家族とともにイギリス国内の仮の住まいでリハビリをしながら通院を続け、22日に再手術を受けた。

201319日、シモーヌ・ド・ボーボワール賞(英語版)を受賞した。同年712日、国際連合本部で演説し、銃弾では自身の行動は止められないとして教育の重要性を訴えた。国連は、マララの誕生日である712日をマララ・デー(英語版)と名付けた。また、同年1010日にはサハロフ賞を受賞した。

2014912日、パキスタン軍はマララ襲撃に参加したイスラム過激派10人を逮捕したと発表した。ただし、パキスタン・ターリバーン運動から分離した過激派ジャマトゥル・アハラールは、「あの襲撃には3人が関与し、うち1人は殉死し、2人は生きている」として軍の発表を否定している。また、パキスタン・ターリバーン運動の指導者マウラナ・ファズルッラーが襲撃を命じたとの説も否定している。

2014年、ノーベル平和賞受賞。17歳でのノーベル賞受賞者は史上最年少者。マララは受賞において「この賞は、ただ部屋にしまっておくためのメダルではない。終わりではなく、始まりに過ぎない」と表明した。マララの母国パキスタンのナワーズ・シャリーフ首相は「マララさんの功績は比べるものがないほど偉大だ」と賞賛した。しかし、マララの出身地スワト地区では、イスラム過激派に対する恐怖から、表立って祝う動きは殆ど見られない。パキスタンの有力紙は受賞決定を大いに歓迎し、マララを賞賛したが、パキスタンの一部保守層には、マララがイスラームに敬意を

払っていないとして、ノーベル賞受賞は「西洋の指示に従った結果」と皮肉る意見もある。マララに対する批判者は、Twitterで「MalalaDrama(マララ茶番)」というハッシュタグを使っている。

その他、インドのナレンドラ・モディ首相、欧州連合、国連の潘基文事務総長などが、マララの受賞を祝福した。アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は「人類の尊厳のために奮闘するすべての人たちの勝利だ」とし、日本の安倍晋三総理大臣は「女性が教育を受ける権利を訴え続けたことは、世界中の人々に勇気を与えた」と受賞を称えた。在日パキスタン人など日本国内のイスラム教徒も受賞を祝福した。

また、米タイム誌が発表した「2014年最も影響力のある25人のティーン」の一人に選ばれた。

◆◆マララさんの言葉

ワシントンの世界銀行で演説するマララさん=2013年10月11日、AP

 マララ・ユスフザイさん(17)は、パキスタン北部スワート地区で生まれ育ちました。女子教育を認めないイスラム武装勢力タリバーンが一帯を支配する中、2009年に学校に自由に通えない日常をつづったブログを始め、注目を集めるようになりました。

 15歳だった12年10月、下校中のスクールバスに乗り込んできた武装勢力の男に頭と首を撃たれ、一時は意識不明の重体に陥りました。英国バーミンガムの病院に運ばれ、奇跡的に回復すると、世界に向けた発言を再開しました。

 マララさんが訴え続けているのは、子供が教育を受ける権利の大切さ。ここで紹介する発言の数々には、「すべての子供に安全な環境で教育を」という願いと、「教育なしには平和は来ない」との信念が込められています。

◆私には教育を受ける権利がある 2011年放送CNN

 「私には教育を受ける権利があります。遊んだり、歌ったり、市場に行ったり、自由に発言したりする権利があるのです」

◆1冊の本、1本のペンで世界に変革を 2013年7月国連演説

 「テロリストは私と友人を銃弾で黙らせようとしたが、私たちは止められません。私の野心、希望、夢は何も変わりません」

 「言葉の力を信じています。教育という目標のために連携すれば、私たちの言葉で世界を変えることができるのです」

 「本とペンを手に取ろう。最も強力な武器なのです。1人の子供に1人の教師、1冊の本と1本のペン――。それがあれば世界を変えることができます。教育こそが解決策なのです」

◆全ての子供に教育を 2013年10月7日放送BBC

 「パキスタンに帰りたいが、まずは力強くならなくてはいけません。力を身につけるために必要なことはただ一つ。それが教育なのです。教育を受け、そしてパキスタンに戻ります」

「(ノーベル)賞をもらえなくても、それは重要なことではありません。私の目標は、(世界が)平和になり、すべての子どもが教育を受けられるようになることですから」

◆タリバーンの子供にも教育を 2013年10月11日世界銀行イベント

 「(襲撃される前)タリバーンが来れば、『銃を撃つ前に話を聞いて』と言おうと思っていました。そして『あなたたちの子供にも教育を受けさせたい』と」

 「テロとの戦いに銃を使うのは最善の手段ではありません。戦車や銃をつくったり、兵士のために大金を費やしたりしています。そのお金を本やペン、教師、そして学校のために使わなければいけないのです」

◆政治家に、首相になって国をよくしたい 2013年10月14日放送CNN

 「(故郷では)教育を受けた女性は、医師か教師になるのが精いっぱい。そうでもなければ、家事や育児をして、四方を囲まれた家の中で男性に言われるがままの暮らしをするしかありません」

 「医師になれば小さなコミュニティーを助けることができますが、政治家は国全体を助けられます」

 「首相になりたい。そうなればいいな、と思います。政治を通じ、国を治す『医師』として子供が学校に行けるようにできます。教育の質を向上させることも。予算の多くを教育に注ぐことができるようにもなります」

◆教育こそ国の強さ 2013年11月20日サハロフ賞受賞

「国の強さを決めるのは兵士や武器の数ではなく、識字率や教育を受けた人々の多さです。考え方を変えましょう」

 「(学校に行けない)子どもたちが欲しいのは、iPhone(アイフォーン)でもチョコレートでもありません。1冊の本と1本のペンです」

◆少女たちの解放を/2014年7月ナイジェリア

 「少女たちは私の姉妹。ボコ・ハラムに警告します。平和の宗教であるイスラムの名を誤用しないで。直ちに武器を置き、少女たちを解放しなさい」

◆◆マララさんの父親の講演から

ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんの父親であり教育者のジアウディン・ユスフザイ氏が、家父長社会では「女性が教育を受ける権利」が奪われ、いまだに男尊女卑の悪しき精神が引き継がれていることを解説。講演の最後に、マララのような子供を育てる秘けつを教えてくれます。

★★動画TED17miPhoneは字幕なし)

http://www.at-douga.com/?p=12192

ジアウディン・ユスフザイ: 私の娘、マララ

多くの家父長社会と 部族社会では 父親が息子の出世で有名になりますが 私は そんな中で数少ない 娘によって有名になった父親です これを光栄に思います

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マララが教育のための キャンペーンを始めて 女性の権利を求めて立ち上がったのは 2007年のことでした 彼女の努力が認められたのは 2011年のことです パキスタン政府から 「国民平和賞」を授与されると 一躍有名になりました パキスタンを代表する 有名な女の子になったのです それまでマララは 「ジアウディンの娘」でしたが 今では私が 「マララの父親」と呼ばれます

ご来場の皆さま 人類の歴史を振り返ってまいりますと 女性の歴史とは 不公正の物語であり 不平等 暴力、搾取がつきものでした ご存知のとおり 家父長社会は 子どもが産声を上げた時から 始まります 女の子が生まれると その誕生は祝福されません 誰からも歓迎されず 実の両親にすら 喜ばれません 近所の人たちが訪れては 母親をなぐさめます 父親に「おめでとう」と 言う人はいません 女の子を産んだことで 母親は とても肩身の狭い思いをします 初めての子供が 女の子だった時 母親は悲しみにくれ 2人目の子供が女の子だと 母親はショックを受けます 今度こそ息子でありますようにと 願いながら 3人目の子供も女の子だと 犯罪者のごとく 罪悪感にかられます

この苦しみは 母親だけのものではありません 娘に受け継がれます 生まれた女の子が 大きくなると また苦しみをうけるのです 彼女が5歳になると 就学すべき年齢なのに 家にいなければいけません 彼女の兄弟達は 学校に行けるのにです

彼女が12歳になるまでは どうにか良い生活を送ります 楽しいことができます 道端で友達と一緒に遊んだり 一人で外を歩いたりできるのです 蝶々みたいに自由です ところが十代になると 13歳になると 女性は男性のつきそいなしに 出かけることを禁じられます 家の中に閉じ込められるのです もはや自由を謳歌できる 一個人ではなくなります 女性は父親や兄弟 そして家族にとっての いわゆる「名誉」になるのです ですから女性が この「名誉」を傷つけると 殺されることすらあります

面白いことに この「名誉」と呼ばれるものが 女の子の人生に 影響を及ぼすだけでなく 家族の男性陣の人生にまで 影響を与えるのです 7人の娘たちと1人の息子から成る 家族がいまして この1人の息子は 湾岸諸国に出稼ぎに出ています 7人の姉妹と両親を 食べさせるためです なぜかというと 7人の姉妹が スキルを磨いて 家を出て生活費を得ることが 恥だと考えているからです ですから彼は 「名誉」と呼ばれるもののために 自身の生きる喜びや 姉妹の幸せを犠牲にしているのです

家父長社会にある もう一つの規範が 「服従」と呼ばれるものです 良い女の子として 求められるのは とても物静かで慎ましく とても従順なことです これが良い条件です 良い女の子とは おとなしくなければいけません 彼女達に求められるのは 父親や母親、年長者による決定を 黙って 受け入れることです たとえ本人が嫌だったとしてもです ですから自分が気に入らない男性や 年の離れた男性との結婚でも 受け入れざるをえないのです 従順さに欠けると 受け取られたくないからです

まだ幼くして結婚させられても 受け入れなくてはいけません さもないと従順ではないという 烙印を押されるからです すると どうなると思いますか? ある女流詩人の言葉を借りるなら 「結婚を強いられ 夫婦関係を強いられ 次から次へと 息子や娘を産んだ」と この状況で皮肉なのは この母親が 同じ「服従」の大切さを 娘に説いて 同じ「名誉」の重要さを 息子に教えるのです こうやって悪しきサイクルが 果てしなく続いていくのです

ご来場の皆さま 何百万人の女性の このような窮状を 変えるためには 違う考え方を持つことです 男性と女性が これまでの考え方を変えること 開発途上国の 部族社会や家父長社会にいる 男性と女性が 家族や社会にある いくつかの規範を 断ち切ることです 国内にはびこる 女性の基本的人権に反する 社会の体制を作る 差別的な規範を 廃止することです

親愛なる兄弟姉妹の皆さま マララが生まれた日のことです 初めて溢れてきた思いは 実のところ 生まれたての子どもは 苦手な私でしたが― 生まれたばかりの マララの目を見ると 心から とても誇らしい気持ちになりました 彼女が生まれる ずっと前から 名前は決めていました 私はアフガニスタンで 自由のために戦った 伝説のヒロインに魅せられていました 彼女はマイワンドのマラライと呼ばれました 娘の名前は 彼女にちなんだものです マララが生まれて 数日後のことです 私のいとこが 我が家にやって来て 偶然にも 家系図を持ってきたのです ユスフザイ家の家系図で それを見ると 300年前の祖先まで さかのぼるものでした でも そこに書かれているのは 男の名前だけで ペンを手にした私は 私の名前から線を引いて 「マララ」と書きました

彼女が成長し 4歳半になると 私が経営する学校への 入学を認めました 皆さんは私が 女児の入学許可について あえて申し上げるのを 不思議に思われるでしょうか そう 話さなければいけないんです カナダやアメリカ その他の多くの先進国では 当たり前のことかもしれませんが 貧しい国々や 家父長社会、部族社会では 就学とは女の子にとって 一大事です 学校に通えるということは 自分のアイデンティティや名前を 認めてもらえること 学校に通えるということは 将来のために 自分の可能性を 探せる 夢や希望をかなえる場所に 足を踏み入れることです

私には5人の姉妹がおりますが 誰一人として 学校に通えませんでした 皆さん驚かれるでしょうが 2週間前のことです カナダビザの申請書を 作成していたんですが 自分の家族について 記載する箇所があり 姉妹の内 何人かの 名字を思い出せませんでした といいますのも 私の姉妹の氏名が書かれた書類を 一度たりとも見たことがなかったのです こういったことから 私は娘を大切にしました 父が私の姉妹 つまり父の娘達に 与えられなかったもの これを変えなければと思いました

私は娘の知性と聡明さを 大事にしてきました 私の友人が来ると 娘をそばに座らせ 様々な会合に 一緒に連れて行きました これら全ての良い価値観が 彼女自身に根付けばと願いました これはマララだけに 願ったことではありません こうした良い価値観全てを 男女分け隔てなく 私の学校の全生徒に教えました 教育を通して 子ども達を解き放ちました 私が女の子達 女子生徒に教えたのは 服従の教えを学ばないこと 男子生徒に教えたのは 偽りの名誉の教えを 学ばないことです

親愛なる兄弟姉妹の皆さん 私達は女性の権利のために 戦ってきました そして社会に もっともっと沢山の 女性の居場所を作るため 努力してきました ところが新しい障壁が 立ちはだかりました 人権を脅かし 特に女性の権利を危険にさらしている タリバン化と呼ばれたものです

タリバン支配下では 全ての政治、経済 社会活動において 女性の参画が完全に否定されます 数百にのぼる学校が破壊されました 女の子は学校に通うことを 禁じられます 女性はベールをかぶるよう強要され 市場に買い物に行くことすら 禁じられました 音楽は取り上げられ 女の子が鞭で打たれ 歌手が殺されました 何百万もの人々が苦しみましたが 声をあげた人は ほとんどいませんでした 一番恐ろしかったのは 殺人や鞭打ちが横行している そんな中で 自分達の権利のために 声をあげることでしょう 本当に本当に怖かったです

マララは10歳になると 教育を受ける権利のため 立ち上がりました BBC放送のブログに日記を投稿し 米ニューヨーク・タイムズの 短編ドキュメンタリー制作に協力し あらゆる場所で声をあげました マララの声が一番パワフルでした その声は勢いを増しながら 世界中に広がり これがタリバンが 彼女の活動を 容認できなくなった理由でした 2012109日のことです マララは至近距離で 額を撃たれました

私と私の家族にとって まさに世界の終わりでした 世界が大きなブラックホールに 飲み込まれたのです 私の娘が 生と死のはざまを さまよっている間 私は妻の耳元で つぶやきました 「私達の娘に起こったことは 私の責任だろうか?」

彼女はすぐに 「どうか自分を責めないで あなたは正義のために立ち上がった 自分の命の危険をさらしてまで 真実を求めて 平和を求めて 教育を求めた そんなあなたに感化されて 娘は後に続いたのよ 2人とも正しい道を歩んできたから 神様はきっとマララを守ってくださる」

この言葉に助けられて 自分を責めることは 二度とありませんでした

マララが病院で 耐え難い苦痛を経験し 顔の神経損傷による 重度の頭痛を抱えていた時 妻の顔に 暗い影がさしたのを見かけたものです そんな時でさえ 娘は不満をもらしませんでした よく私達に言ってくれたのは 「笑えなくたって 顔が麻痺していても大丈夫 よくなるから どうか心配しないでね」 彼女は私達をなぐさめ 癒してくれました

親愛なる兄弟姉妹の皆さん 私達がマララから学んだことは 最も困難な時でさえ 立ち向かっていく力です 皆さんに ぜひお伝えしたいのは マララが 子供と女性の権利を取り戻す 希望の象徴であったとしても 普通の16歳の女の子と 何ら変わりないことです 宿題が終わらない時は 泣きますし 弟達と喧嘩します 私には それがとても嬉しいんです

周りの人達から マララみたいに強くて 勇敢で雄弁で 落ちついた子供の 育て方の秘訣を聞かれます 私の答えは 「私が何かしてあげたのではなく あることをしなかったお陰でしょう 彼女の『翼』を切り取らなかった それだけです」

ありがとうございました

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ありがとうございました 本当にありがとうございました 

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引用元:TED

【マララさんの父親の発言15.03.30赤旗】

◆◆マララさん国連演説

19137月)

パキスタンで昨年10月、女子が教育を受ける権利を訴えて武装勢力に頭を撃たれたマララ・ユスフザイさん(16)12日午前(日本時間同日夜)、ニューヨークの国連本部で演説し、「すべての子どもに教育を受ける権利の実現を」と訴えた。元気な姿とともに、銃撃されても信念を曲げず、教育を受けられない子どものための活動を続けると世界にアピールした。朝日新聞デジタルが伝えた。

12日はマララさんの16歳の誕生日。国連はマララさんの取り組みや銃撃後の不屈の精神をたたえて「マララ・デー」と名付け、世界各地の若者リーダーのほか、国連の潘基文事務総長、国連世界教育特使のブラウン前英首相らによる会合を企画したと共同通信は伝えている。

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慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において。

パン・ギムン国連事務総長、ブク・ジェレミック国連総会議長、ゴードン・ブラウン国連世界教育特使、尊敬すべき大人の方々、そして私の大切な少年少女のみなさんへ、アッサラーム・アライカム(あなたに平和あれ)。

今日、久しぶりにこうしてまたスピーチを行えてとても光栄です。このような尊敬すべき人たちと共にこのような場にいるなんて、私の人生においても、とてもすばらしい瞬間です。そして、今日、私が故ベナジル・ブット首相のショールを身にまとっていることを名誉に思います。

どこからスピーチを始めたらいいでしょうか。みなさんが、私にどんなことを言ってほしいのかはわかりません。しかしまずはじめに、我々すべてを平等に扱ってくれる神に感謝します。そして、私の早い回復と新たな人生を祈ってくれたすべての人たちに感謝します。

私は、みなさんが私に示してくれた愛の大きさに驚くばかりです。世界中から、温かい言葉に満ちた手紙と贈り物をもらいました。それらすべてに感謝します。純真な言葉で私を励ましてくれた子どもたちに感謝します。祈りで私を力づけてくれた大人たちに感謝します。私の傷を癒し、私に力を取り戻す手助けをしてくれたパキスタン、イギリス、アラブ首長国連邦の病院の看護師、医師、そして職員の方々に感謝します。

国連事務総長パン・ギムン氏のGlobal Education First Initiative(世界教育推進活動)と国連世界教育特使ゴードン・ブラウン氏と国連総会議長ブク・ジェレミック氏の活動を、私は全面的に支持します。みなさんのたゆまないリーダーシップに感謝します。みなさんはいつも、私たち全員が行動を起こすきっかけを与えてくれます。

親愛なる少年少女のみなさんへ、つぎのことを決して忘れないでください。マララ・デーは私一人のためにある日ではありません。今日は、自分の権利のために声を上げる、すべての女性たち、すべての少年少女たちのためにある日なのです。

何百人もの人権活動家、そしてソーシャルワーカーたちがいます。彼らは人権について訴えるだけではなく、教育、平和、そして平等という目標を達成するために闘っています。 何千もの人々がテロリストに命を奪われ、何百万もの人たちが傷つけられています。私もその1人です。

そして、私はここに立っています。傷ついた数多くの人たちのなかの、一人の少女です。

私は訴えます。自分自身のためではありません。すべての少年少女のためにです。

私は声を上げます。といっても、声高に叫ぶ私の声を届けるためではありません。声が聞こえてこない「声なき人々」のためにです。それは、自分たちの権利のために闘っている人たちのことです。平和に生活する権利、尊厳を持って扱われる権利、均等な機会の権利、そして教育を受ける権利です。

親愛なるみなさん、2012109日、タリバンは私の額の左側を銃で撃ちました。私の友人も撃たれました。彼らは銃弾で私たちを黙らせようと考えたのです。でも失敗しました。私たちが沈黙したそのとき、数えきれないほどの声が上がったのです。テロリストたちは私たちの目的を変更させ、志を阻止しようと考えたのでしょう。しかし、私の人生で変わったものは何一つありません。次のものを除いて、です。私の中で弱さ、恐怖、絶望が死にました。強さ、力、そして勇気が生まれたのです。

私はこれまでと変わらず「マララ」のままです。そして、私の志もまったく変わりません。私の希望も、夢もまったく変わっていないのです。

親愛なる少年少女のみなさん、私は誰にも抗議していません。タリバンや他のテロリストグループへの個人的な復讐心から、ここでスピーチをしているわけでもありません。ここで話している目的は、すべての子どもたちに教育が与えられる権利をはっきりと主張することにあります。すべての過激派、とりわけタリバンの息子や娘たちのために教育が必要だと思うのです。

私は、自分を撃ったタリバン兵士さえも憎んではいません。私が銃を手にして、彼が私の前に立っていたとしても、私は彼を撃たないでしょう。 これは、私が預言者モハメッド、キリスト、ブッダから学んだ慈悲の心です。 これは、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、そしてムハンマド・アリー・ジンナーから受け継がれた変革という財産なのです。 これは、私がガンディー、バシャ・カーン、そしてマザー・テレサから学んだ非暴力という哲学なのです。 そして、これは私の父と母から学んだ「許しの心」です。 まさに、私の魂が私に訴えてきます。「穏やかでいなさい、すべての人を愛しなさい」と。

親愛なる少年少女のみなさん、私たちは暗闇のなかにいると、光の大切さに気づきます。私たちは沈黙させられると、声を上げることの大切さに気づきます。同じように、私たちがパキスタン北部のスワートにいて、銃を目にしたとき、ペンと本の大切さに気づきました。

「ペンは剣よりも強し」ということわざがあります。これは真実です。過激派は本とペンを恐れます。教育の力が彼らを恐れさせます。彼らは女性を恐れています。女性の声の力が彼らを恐れさせるのです。 だから彼らは、先日クエッタを攻撃したとき、14人の罪のない医学生を殺したのです。 だから彼らは、多くの女性教師や、カイバル・パクトゥンクワやFATA(連邦直轄部族地域/パキスタン北西部国境地帯)にいるポリオの研究者たちを殺害したのです。 だから彼らは、毎日学校を破壊するのです。 なぜなら、彼らは、私たちが自分たちの社会にもたらそうとした自由を、そして平等を恐れていたからです。そして彼らは、今もそれを恐れているからです。

私たちの学校にいた少年に、あるジャーナリストがこんなことを尋ねていたのを覚えています。「なぜタリバンは教育に反対しているの?」。彼は自分の本を指さしながら、とてもシンプルに答えました。「タリバンはこの本の中に書かれていることがわからないからだよ」

彼らは、神はちっぽけで取るに足りない、保守的な存在で、ただ学校に行っているというだけで女の子たちを地獄に送っているのだと考えています。テロリストたちは、イスラムの名を悪用し、パシュトゥン人社会を自分たちの個人的な利益のために悪用しています。

パキスタンは平和を愛する民主的な国です。パシュトゥン人は自分たちの娘や息子に教育を与えたいと思っています。イスラムは平和、慈悲、兄弟愛の宗教です。すべての子どもに教育を与えることは義務であり責任である、と言っています。

親愛なる国連事務総長、教育には平和が欠かせません。世界の多くの場所では、特にパキスタンとアフガニスタンでは、テロリズム、戦争、紛争のせいで子どもたちは学校に行けません。私たちは本当にこういった戦争にうんざりしています。女性と子どもは、世界の多くの場所で、さまざまな形で、被害を受けています。

インドでは、純真で恵まれない子どもたちが児童労働の犠牲者となっています。ナイジェリアでは多くの学校が破壊されています。アフガニスタンでは人々が過激派の妨害に長年苦しめられています。幼い少女は家で労働をさせられ、低年齢での結婚を強要されます。

貧困、無学、不正、人種差別、そして基本的権利の剥奪――これらが、男女共に直面している主な問題なのです。

親愛なるみなさん、本日、私は女性の権利と女の子の教育という点に絞ってお話します。なぜなら、彼らがいちばん苦しめられているからです。かつては、女性の社会活動家たちが、女性の権利の為に立ち上がってほしいと男の人たちに求めていました。 しかし今、私たちはそれを自分たちで行うのです。男の人たちに、女性の権利のために活動するのを止めてくれ、と言っているわけではありません。女性が自立し、自分たちの力で闘うことに絞ってお話をしたいのです。

親愛なる少女、少年のみなさん、今こそ声に出して言う時です。

そこで今日、私たちは世界のリーダーたちに、平和と繁栄のために重点政策を変更してほしいと呼びかけます。 世界のリーダーたちに、すべての和平協定が女性と子どもの権利を守るものでなければならないと呼びかけます。 女性の尊厳と権利に反する政策は受け入れられるものではありません。

私たちはすべての政府に、全世界のすべての子どもたちへ無料の義務教育を確実に与えることを求めます。 私たちはすべての政府に、テロリズムと暴力に立ち向かうことを求めます。残虐行為や危害から子どもたちを守ることを求めます。 私たちは先進諸国に、発展途上国の女の子たちが教育を受ける機会を拡大するための支援を求めます。 私たちはすべての地域社会に、寛容であることを求めます。カースト、教義、宗派、皮膚の色、宗教、信条に基づいた偏見をなくすためです。女性の自由と平等を守れば、その地域は繁栄するはずです。私たち女性の半数が抑えつけられていたら、成し遂げることはできないでしょう。

私たちは世界中の女性たちに、勇敢になることを求めます。自分の中に込められた力をしっかりと手に入れ、そして自分たちの最大限の可能性を発揮してほしいのです。

親愛なる少年少女のみなさん、私たちはすべての子どもたちの明るい未来のために、学校と教育を求めます。私たちは、「平和」と「すべての人に教育を」という目的地に到達するための旅を続けます。誰にも私たちを止めることはできません。私たちは、自分たちの権利のために声を上げ、私たちの声を通じて変化をもたらします。自分たちの言葉の力を、強さを信じましょう。私たちの言葉は世界を変えられるのです。

なぜなら私たちは、教育という目標のために一つになり、連帯できるからです。そしてこの目標を達成するために、知識という武器を持って力を持ちましょう。そして連帯し、一つになって自分たちを守りましょう。

親愛なる少年少女のみなさん、私たちは今もなお何百万人もの人たちが貧困、不当な扱い、そして無学に苦しめられていることを忘れてはいけません。何百万人もの子どもたちが学校に行っていないことを忘れてはいけません。少女たち、少年たちが明るい、平和な未来を待ち望んでいることを忘れてはいけません。

無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとってもっとも強力な武器なのです。

1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一に)。ありがとうございました。

◆◆闘う17歳「本とペンを」=マララさんらノーベル平和賞

20141011日朝日新聞

マララさんの歩み/語録

 女子教育を敵視する暴力に言葉の力で立ち向かうパキスタンの少女、マララ・ユスフザイさん(17)。貧しさから労働を強いられる子供たちを解放するインドの活動家、カイラシュ・サティヤルティさん(60)。学校にふつうに通うということ。今年のノーベル平和賞は、こんな当たり前の権利のために闘う2人の勇気に贈られる。

◆銃撃に屈せず権利訴える マララさん

 マララさんは今年7月、17歳の誕生日をアフリカのナイジェリアで迎えた。イスラム武装勢力「ボコ・ハラム」が4月に誘拐した200人以上の女子生徒の解放を訴えるためだ。生徒の家族らを前に演説した。「少女たちは私の姉妹。ボコ・ハラムに警告します。平和の宗教であるイスラムの名を誤用しないで。直ちに武器を置き、少女たちを解放しなさい」

 イスラム諸国では今、過激で不寛容な主張がどんどん幅をきかせている。穏健派は「反イスラム」と断罪され、攻撃の対象になる。そんな現状にひるまない勇気と、心に響く言葉こそ、マララさんの力の源だ。

 ナイジェリアと母国パキスタンは、小学校へ通えない子供の数はそれぞれ約900万人と500万人で世界ワースト1位と2位。女子教育を敵視する武装勢力の脅威にさらされている。

 マララさんも数年前までは、武装勢力の恐怖の中で生きる無名の少女だった。故郷のパキスタン北部スワート地区では2007年ごろ、反政府勢力パキスタン・タリバーン運動(TTP)が政府機関を追い出し、極端な宗教解釈に基づく支配を敷いた。女子学校の爆破が相次いだ。

 マララさんの父親はスワート地区で私財を投じて学校を開いていた。その知人だった英BBCの記者に頼まれて09年1月、マララさんは学校に行けなくなる様子を「グルマカイ(トウモロコシの粉)」のペンネームで現地語のブログに連載し、国内で反響を呼んだ。

 報復テロを恐れ、大人さえも口を閉ざす時代。翌月、北西部の中心都市ペシャワルで開かれた政治集会で「私の名はグルマカイではない。マララ・ユスフザイ。他の誰でもない」と宣言し、タリバーンとの闘いの先頭に名乗り出た。

 その後、内外メディアに頻繁に登場。教育の権利を訴えたが、12年10月、スクールバスで下校途中、武装した男に銃撃された。

 意識不明のまま、英国に搬送され、奇跡的に回復。昨年7月、16歳の誕生日に国連で演壇に立った。

 「私は誰も憎んでいない。タリバーンの息子や娘たちに教育を受けさせたい。本とペンを手に取ろう。一人の子供、先生、本とペンが世界を変える」

 演説は高い称賛を浴び、マララさんは教育の権利を訴える国際的なシンボルになった。英国の学校で勉強を続けながら、戦乱が続くシリアやガザの子供たちについて発言を続けている。(イスラマバード=武石英史郎)

 マララ・ユスフザイさん 1997年、パキスタン北部の山岳地帯で生まれる。12年10月、タリバーンに撃たれ意識不明の重体に。だが、英国に搬送され一命をとりとめた。

◆労働・売買から8万人救う サティヤルティさん

 「(受賞は)虐げられている子供たちにとって大きな名誉。児童労働と搾取の深刻さを世界に改めて知らせる機会となってほしい」

 サティヤルティさんは10日、ニューデリーの自ら主宰するNGO事務所で語った。1980年から子供たちを過酷な労働や搾取から救出する活動を続ける。

 原点は小学校に通い始めた6歳の日にある。教室から外を見ると、同じ年格好なのに靴磨きで働く子がいた。「先生になぜと尋ねると、貧しいからだと。子供から子供時代を奪う残酷さをそのとき感じた」

 これまでに労働現場や人身売買などから救出した子供の数は8万人を超える。

 デリー大学の学生マナン・アンサリさん(18)もその一人。6歳から地方の鉱山で働いていた。両親とも文字が読めない労働者。子供を学校に行かせる発想はなかった。日給10ルピー(約18円)ほどで泥まみれで働いた。7歳のころ、サティヤルティさんのNGOの運動員が来て両親を説得。児童施設に預けさせた。

 マナンさんはそこで学び、高校で好成績を収めて名門大に進学。将来は医師になりたい。サティヤルティさんを親しみを込めて「お兄さん」と呼ぶ。

 サティヤルティさんによると、インドで働かされる子供は「政府統計では500万人。でも民間の推計では5千万人」。「私が生きているうちに、児童労働はなくなってほしい。そのためにはまだ、やることがたくさん残っている」

 (ニューデリー=貫洞欣寛)

     *

 カイラシュ・サティヤルティさん 1954年、インド中部ビディシャ生まれ。エンジニアだった80年に児童労働問題の活動に身を投じた。世界最大のNGO連合体「児童労働に反対するグローバルマーチ」の活動を呼びかけた。

◆サティヤルティさんのノーベル平和賞受賞演説(要旨)

20141211日朝日新聞

 カイラシュ・サティヤルティさんの受賞演説の要旨(抜粋)は次の通り。

 私の人生の唯一の目的は、全ての子どもたちが自由に成長し、食べ、眠り、笑い、泣き、遊び、学校に行けるようにすること。そして何より、夢を持てるようにすることです。

 この数十年で学校に行けない子どもは半減し、死亡率や栄養失調も減り、数百万の子どもたちが亡くなるのを防ぐことができました。児童労働者の数も3分の1減りました。

 私たちは、急速なグローバル化の時代に生き、高速なインターネットを通してつながっています。

 しかし、つながっていないものもあります。思いやりの欠如です。一人ひとりの思いやりを世界的な思いやりにつなげましょう。世界に広げましょう。受け身の思いやりではなく、正義、平等、自由につながる変革の思いやりで。

 マハトマ・ガンジーは、「本当の平和を教えるのであれば、子どもたちから始めなければならないだろう」と言いました。私は、子どもたちへの思いやりを通して世界を団結させよう、と付け加えたい。

 親の借金のために働かされてきたインドの8歳の少女を救ったとき、彼女は「なぜもっと早く来てくれなかったの」と言いました。怒気を帯びた質問は、私を揺さぶり、世界を揺さぶる力がありました。彼女の問いは、全ての人に投げかけられたものです。

 私は、子どもへのいかなる暴力も根絶するため、すべての政府や企業などに要求します。奴隷制や人身売買、児童婚、児童労働、性的虐待、非識字は、いかなる文明社会でも許されません。

 私自身が初めて学校に行った日、校門の前で靴を磨く同い年の少年に出会いました。「なぜ彼は外で働き、一緒に学校に来ないの?」と教師に尋ねても、何も答えませんでした。少年の父親も「考えたことがない。働くために生まれたんです」と答えました。

 私は子どもながら、この少年が教室で一緒に勉強するという展望を持っていました。今こそ、すべての子どもが生存や教育などの権利を持つときです。

 知識を民主化し、正義を普遍化し、ともに思いやりを世界中に広げよう!

 搾取から教育へ、貧困から繁栄へ、奴隷から自由へ、暴力から平和への運動を求めます。

 ともに進みましょう!

◆◆マララさんノーベル賞受賞演説

マララさんノーベル平和賞受賞演説の全文〈邦訳〉

 今年のノーベル平和賞に選ばれたパキスタンのマララ・ユスフザイさん(17)は10日、オスロでの受賞演説で、世界中の子どもたちが質の高い教育を平等に受けられるよう、行動を起こすときだと訴えた。

     ◇

 慈悲あまねく慈愛深きアラーの御名において。

 国王、王妃両陛下、皇太子、皇太子妃両殿下並びにノルウェー・ノーベル賞委員会の皆様、親愛なる姉妹、兄弟たち、今日は私にとって素晴らしく幸せな日です。恐れ多いことに、ノーベル賞委員会は私をこの重要な賞に選んでくださいました。

 みなさんの絶え間ない支援と愛に感謝しています。今でも世界中から手紙やカードを届けてくださることに、お礼を申し上げます。みなさんの優しい励ましの言葉に、私は元気づけられ、刺激を受けています。

 私を無条件に愛してくれる両親に感謝します。父は、私の翼を切るのではなく、私を羽ばたかせてくれました。母は私に、がまん強くなろう、いつも真実だけを語ろうという気にさせてくれます。真実を語ることこそが、私たちが信じるイスラムの真のメッセージです。

 そして、私に自分を信じ、勇敢にさせてくれたすべてのすばらしい教師たちに感謝しています。

 最初のパシュトゥン人、パキスタン人として、そして最年少でこの賞をいただくことをとても誇りに思います。また、年下の弟たちといまだにけんかをしているノーベル平和賞の受賞者も、私が初めてだと確信しています。世界中が平和になってほしいのですが、私と弟たちに平和が訪れるのはまだ先になりそうです。

 また、長年、子どもの権利を守り続けてきたカイラシュ・サティヤルティさんとともに受賞できることを光栄に思います。実際、私が生きてきた期間の2倍もの時間を、この問題に注いでこられたのです。私たちがともに活動し、インド人とパキスタン人がともに子どもの権利という目標を達成することができると世界に示せることを誇りに思います。

 親愛なる兄弟、姉妹のみなさん、私はパシュトゥン族の「ジャンヌ・ダルク」である、(伝説の人物の)「マイワンドのマラライ」にちなんで名付けられました。「マララ」という言葉には、「悲しみに打ちひしがれた」「悲しい」という意味があります。ですが、その名前に「幸せ」という意味を添えようと、私の祖父はいつも「マララ」と呼びます。マララ、それは世界で一番幸せな少女のことであり、きょう、大切なことのためにともに闘っているのがとても幸せです。

 今回の賞は私だけのものではありません。教育を望みながら忘れ去られたままの子どもたち、平和を望みながら脅かされている子どもたち、変化を求めながら声を上げられない子どもたちへの賞なのです。

 私は彼らの権利を守るため、彼らの声を届けるために、ここに来ました。今は、彼らを哀れむときではありません。教育の機会を奪われた子どもたちを目にしなくなるよう、行動を起こすときです。

 人々は私をいろんなふうに呼ぶのだと知りました。

 ある人は、タリバーンに撃たれた少女と。

 ある人は、自分の権利のために闘う少女と。

 今は、「ノーベル賞受賞者」とも呼ばれます。しかし、弟たちは今も「うるさい、いばった姉」と呼びます。

 私が知る限り、私は、全ての子どもたちが質の高い教育を受けられることを望み、女性が平等な権利を持つことを望み、そして世界の隅々までが平和であることを願う、熱心で頑固な人間でしかありません。

 教育は人生の恵みの一つであり、不可欠なものの一つでもあります。このことを、私は17年の人生で経験しました。パキスタン北部スワート渓谷にある故郷で、私はいつも学校と、新しい物事を学び、発見することを愛していました。友だちと一緒に(植物染料の)ヘナを使って、特別な日に、自分たちの手を飾り付けたことを思い出します。花や模様を描くかわりに、私たちは数学の公式や方程式を手に書きました。

 私たちの未来はまさに教室の中にあり、私たちは教育を強く求めていました。ともに座り、学び、読みました。私たちはきちんとした身なりの制服に袖を通すのが好きでしたし、大きな夢を持って教室の席に座っていました。両親に誇らしく思ってもらい、優れた成績をあげたり、何かを成し遂げたりという、一部の人が男子にしかできないと思っていることを、女子でもできると証明したかったのです。

 こうした日々は続きませんでした。観光と美の地だったスワートは突然、テロリズムの地に変わってしまいました。私は10歳でした。400以上の学校が破壊されました。女性たちはむちで打たれました。人々が殺されました。そして、私たちのすてきな夢は悪夢へと変わったのです。

 教育は「権利」から「犯罪」になりました。女の子たちは学校に行くのを阻まれました。

 ですが、私をとりまく世界が突然変わったとき、私の中の優先順位も変わりました。

 私には二つの選択肢がありました。一つは何も言わずに、殺されるのを待つこと。二つ目は声を上げ、そして殺されること。私は二つ目を選びました。声を上げようと決めたのです。

 私たちの権利を否定し、情け容赦なく人々を殺し、イスラムの名を悪用するテロリストの不正な行為をただ傍観することはできませんでした。声を上げ、彼らに言おうと決めたのです。「聖典コーランの中で、アラーの神は一人を殺せば、人類全体を殺したも同然だということをおっしゃったことを学ばなかったのでしょうか? 預言者ムハンマドが『自らも他者も傷つけてはいけない』と説いていることや、コーランの最初の言葉が『読め』という意味の『イクラ』であることを知らないのですか?」

 2012年、テロリストたちは私たちを止めようとし、バスの中で私と今ここにいる友人を襲いました。しかし、彼らの考えも、銃弾も、勝利をおさめることはできませんでした。私たちは生き残り、その日から私たちの声は大きくなり続けています。

 私が自分の身に起こったことをお伝えするのは、珍しい話だからではありません。どこにでもある話だからです。

 これは、多くの女の子たちの物語なのです。

 今日は彼女たちの話もしましょう。私は、パキスタンやナイジェリア、シリアからこの物語を共有する仲間たちを連れてきました。あの日、スワートで一緒に撃たれ、学ぶことをやめずにいる勇敢なシャジアとカイナートも一緒です。さらに、カイナート・ソムロは激しい暴力と虐待を受け、兄弟を殺されましたが、屈することはありませんでした。

 マララ基金の活動を通じて出会い、今では姉妹のような少女たちも一緒にいます。勇敢な16歳のメゾンはシリア出身です。今はヨルダンで難民として暮らし、少年少女たちの勉強を手助けしながらテントを行き来しています。そして、アミナの出身地であるナイジェリア北部では、(イスラム過激派の)「ボコ・ハラム」が、少女たちが学校に行きたいと望んだというだけで、彼女らにつきまとい、脅し、誘拐しています。

 私は身長5フィート2インチ(157・5センチ)の、一人の女の子、一人の人間に見えるでしょう。高めのハイヒールを入れるとですけれどね。本当は5フィートしかありません。でも、私の意見は、私一人だけでなく大勢を代弁しているのです。

 私はマララであり、シャジアでもあります。

 私はカイナート。

 私はカイナート・ソムロ。

 私はメゾン。

 私はアミナ。私は、教育を奪われている6600万人の女の子なのです。

 そして、今日、私は自分ではなく、その6600万人の声を上げているのです。

 人々は、なぜ女の子が学校に行くべきなのか、なぜそれが重要なのか、と私に尋ねたがります。しかし、より大事な問いは、なぜ行くべきじゃないのか、なぜ学校に行くべき権利を持っていないのかだと思います。

 今日、私たちは、世界の半分で急速な進歩や近代化、開発を目の当たりにしています。しかしながら、いまだに数百万もの人々が戦争や貧困、不正といった極めて古い問題に苦しむ国々もあります。

 罪のない人々が命を落とし、子どもたちが孤児になるような紛争がいまだに起きています。シリアや(パレスチナ自治区)ガザ、イラクで、多くの家族が難民となっています。アフガニスタンでは、自爆攻撃や爆発で家族が殺されています。

 アフリカの多くの子どもたちは、貧しさのために学校へ行くことができません。申し上げたように、ナイジェリア北部には今も、学校に行く自由がない女の子たちがいます。

 インドやパキスタンのような多くの国で、カイラシュ・サティヤルティさんが言われるように、社会的なタブーのために多くの子どもたちが教育を受ける権利を奪われています。児童労働や女児の児童婚が強制されています。

 私と同い年で、とても仲がいい級友の一人は、いつも勇敢で自信に満ちた女の子で、医者になることを夢見ていました。でも、夢は夢のままです。12歳で結婚を強いられ、すぐに男の子を産みました。たった14歳、まだ彼女自身が子どもでした。彼女なら、とてもいいお医者さんになれたでしょう。でも、なれませんでした。女の子だったからです。

 彼女の話があったから、私はノーベル賞の賞金をマララ基金にささげるのです。マララ基金は、女の子たちがあらゆる場所で質の高い教育を受けられるよう援助し、声をあげるのを助けるものです。基金の最初の使い道は、私が心を残してきた場所パキスタンに、特に故郷のスワートとシャングラに、学校を建てることです。

 私の村には、今も女子のための中学校がありません。私の友だちや姉妹たちが教育を受けることができ、ひいては夢を実現する機会を手に入れることができるように、中学校を建てたい。これが私の願いであり、義務であり、今の挑戦です。

 これは私にとって出発点であり、立ち止まる所ではありません。全ての子どもたちが学校にいるのを見届けるまで、闘い続けます。

 親愛なる兄弟、姉妹の皆さん。マーチン・ルーサー・キングやネルソン・マンデラ、マザー・テレサ、アウンサンスーチーのような変革をもたらした偉大な人たちも、かつてこの舞台に立ちました。カイラシュ・サティヤルティさんと私のこれまで、そしてこれからの歩みもまた、変化を、それも息の長い変化をもたらすものであればと願っています。

 私の大きな希望は、子どもたちの教育のために闘わなければならないのは、これが最後になってほしい、ということです。この問題をこれっきりで解決しましょう。

 私たちはすでに、多くのステップを踏んでいます。今こそ飛躍するときです。

 今は、指導者たちにいかに教育が大切か、わかってもらおうと話すときではありません。彼らはすでにわかっています。彼らの子どもは良い学校に通っているのです。今は彼らに行動を求めるときなのです、世界中の子どもたちのために。

 世界の指導者たちには、団結し、教育を全てに優先するようお願いします。

 15年前、世界の指導者たちは地球規模の一連の目標「ミレニアム開発目標(MDGs)」を決めました。その後、いくつかの成果はありました。学校に通えない子どもの数は半減しました。とはいえ、世界は初等教育の拡大にばかり注力していましたし、成果が全員に行き届いたわけではありません。

 来年、2015年には、世界の指導者たちが国連に集い、次の一連の目標「持続可能な開発目標」を策定します。来たるべき世代のための野心的目標を決めるのです。

 なぜ世界の指導者たちは、途上国の子どもたちには読み書きなど基礎的な能力があれば十分、という見方を受け入れるのでしょうか。彼らの子どもには、代数や数学や科学や物理の宿題をさせながら。

 指導者たちは、全ての子どもに無料で、質の高い初等・中等教育を約束できるように、この機会を逃してはなりません。

 非現実的だとか、費用がかかりすぎるとか、難しすぎるとか言う人たちもいるでしょう。不可能だとさえ。それでも、今こそ世界がより大きな視野で考える時なのです。

 親愛なる兄弟、姉妹の皆さん。いわゆる大人の世界の人たちは理解しているのかもしれませんが、私たち子どもにはわかりません。どうして「強い」といわれる国々は戦争を生み出す力がとてもあるのに、平和をもたらすにはとても非力なの? なぜ銃を与えるのはとても簡単なのに、本を与えるのはとても難しいの? 戦車を造るのはとても簡単で、学校を建てるのがとても難しいのはなぜ?

 現代に暮らす中で、私たちは皆、不可能なことはないと信じています。人類は45年前に月に到達し、まもなく火星に着陸するでしょう。それならば、この21世紀に、すべての子どもに質の高い教育を与えられなければなりません。

 親愛なる姉妹、兄弟の皆さん、仲間である子供たちのみなさん。私たちは取り組むべきです。待っていてはいけない。政治家や世界の指導者だけでなく、私たち皆が貢献しなくてはなりません。私も、あなたたちも、私たちも。それが私たちの務めなのです。

 「最後」にすることを決めた、最初の世代になりましょう。空っぽの教室、失われた子ども時代、無駄にされた可能性を目にすることを「最後」にすることを決めた、最初の世代になりましょう。

 男の子も女の子も、子ども時代を工場で過ごすのはもう終わりにしましょう。

 少女が児童婚を強いられるのはもう終わりにしましょう。

 罪のない子どもたちが戦争で命を失うのはもう終わりにしましょう。

 学校に行けない子どもたちを見るのはもう終わりにしましょう。

 こうしたことは、もう私たちで最後にしましょう。

 この「終わり」を始めましょう。

 そして今すぐにここから、ともに「終わり」を始めましょう。

 ありがとうございました。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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