治安維持法のもとでたたかった人びと=伊藤千代子などの群像・野呂栄太郎・尹東柱・三木清獄死・長野県教員「2・4事件」・北海道「生活図画事件」・横浜事件・治安維持法体制

治安維持法のもとでたたかった人びと=伊藤千代子などの群像・野呂栄太郎・尹 東柱・三木清獄死・長野県教員「24事件」・北海道「生活図画事件」・横浜事件・治安維持法体制


🔴憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

【このページの目次】

◆治安維持法のもとでたたかった人びとリンク集

◆伊藤千代子の生涯

=略歴・土屋文明うたう・碑文・最後の手紙・塩沢富美子との出会い・広井暢子千代子語る

◆こころざし半ばで倒れた多くの人びと

=『抵抗の群像』を読む・不屈の青年群像・市川正一・上田茂樹・岩田義道・河上肇・飯島喜美・相沢良・高橋とみ子・田中サガヨ・高島満兎・古川苞 ・公爵の娘=岩倉靖子・司法官赤化事件・新島繁・池田勇作・古川友一・遠藤元治・藤本仁太郎・鵜沼勇四郎・乗富道夫・寺田行雄・和田四三四・関淑子・加藤四海・亀戸事件とは・治安維持法犠牲者の戦後・八坂スミ(小林多喜二については当ブログ=小林多喜二参照)

◆野呂栄太郎

◆尹 東柱(ユン・ドンジュ)・鶴彬・〈徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢に満つるとも〉を詠んだ石井百代さん・宮澤・レーン事件

◆三木清獄死事件・長野県教員「24事件」・「北海道「生活図画事件」三浦綾子「銃口」・横浜事件

◆治安維持法体制

治安維持法はどんな法律・なぜ小林多喜二や山本宣治が殺されたのか・治安維持法の歴史・治安維持法条文・特別高等警察・治安維持法と共謀罪

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🔵治安維持法のもとでたたかった人びとリンク集

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★★ETV10万人の検挙者を出した治安維持法(データで読み解く戦争の時代)58m

1925年に制定された当初、主に共産党などの取締りを目的としていた治安維持法。しかし、20年間にわたる施行期間の中で、取締りの対象は、共産党の外郭団体、そして戦争遂行などの国策に妨げとなる人々へと拡大していった。番組では、取締りの実態を記録した司法省や内務省などの公文書の中から、10万人にのぼる検挙者のデータを抽出。なぜ一般の市民まで巻き込まれることになったのか、検証を行った。数々の共産党弾圧・長野県教員「24事件」・北海道「生活図画事件」・朝鮮での弾圧など

出演

松本五郎,杉浦正男,元小樽商科大学教授荻野富士夫,大竹一燈子,谷岡健治,三浦みを,九州大学名誉教授内田博文,シン・ゼチョル,シン・サンジン,京都大学名誉教授水野直樹,

★★ラジオ・萩上チキ=治安維持法90年、たたかった人びと=杉浦正男さん62m

https://m.youtube.com/watch?v=Iy8aXTGa2fQ

15.04.26赤旗】

【日刊ゲンダイ17.05.12

◆当ブログ=小林多喜二から学ぶ


治安維持法のもとでたたかった人びと=小林多喜二の生き方と虐殺の過程をこのブログでみてほしい。

◆当ブログ=阪口喜一郎=そびゆるマストの反戦兵士

◆当ブログ=山本宣治


◆当ブログ=反戦文学作品紹介、反戦川柳を書いた鶴彬つるあきら


◆当ブログ=戦前軍部に反対の声をあげた人びと=斎藤隆夫・水野広德・宮武外骨・長谷川如是閑など


◆当ブログ=いまプロレタリア文学がおもしろい


◆当ブログ=反戦住職・竹中彰元の生き方


◆当ブログ=日本ファシズムの研究=古屋哲夫ほか


◆当ブログ=わかりやすい昭和史(高校日本史、半藤、ファシズムへの道)



◆当ブログ=戦争国家の民衆動員とは=古屋哲夫氏などの研究から


◆当ブログ=文学者・文化人、マスコミのアジア太平洋戦争協力


◆当ブログ=ゾルゲ事件と尾崎秀実の『愛情はふる星のごとく』


★★種まく人々=治安維持法犠牲者のたたかいとその志倭引き継いだ人々の記録40m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v125095973dhDEaegb

★★『組曲虐殺』から考える治安維持法と現代島村 教授(フェリス女学院大学)152mにレジメあり)

★★治安維持法を考える宮田汎さん60m

★★そもそも総研=秘密保護法案:治安維持法から学ぶこと22m

https://m.youtube.com/watch?v=dt4aKRYVbH8

★不屈の日本共産党員小林多喜二5m

★不屈の日本共産党員市川正一5m

★不屈の日本共産党員宮本顕治2m

★★日本共産党の歴史(1922-1992100m

◆李修京=平和を希求し,武力に抵抗した文学青年考察 : 尹東柱,小林多喜二,鶴彬,槇村浩を中心にPDF18p

クリックして18804314-61-08.pdfにアクセス

◆(伊藤千代子)千代子こころざしの会

http://www.lcv.ne.jp/~tiyoko17/index.html

◆みんなの「伊藤千代子」のブログ

http://s.webry.info/sp/f-mirai.at.webry.info/theme/9bd3032aff/index.html

◆◆0507藤田=時代の証言者-伊藤千代子.pdf

◆廣登が征く(伊藤千代子ツアーなど)

http://blog.livedoor.jp/fujita19340829/archives/19142573.html

◆産別会議記念図書室

http://www.zenrouren-kaikan.jp/tosho/index.html

伊藤千代子・小林多喜二PDFあり

千代子の会No.4=女学校時代PDF20p

クリックして20080923_chiyoko_no4.pdfにアクセス

藤田=小林多喜二と前橋

http://www.zenrouren-kaikan.jp/tosho/study20081101_fujita.html

野呂アイ=高橋とみ子と尚絅女学校のもう一つの歴史

http://www.zenrouren-kaikan.jp/tosho/study20080923_noro.html

◆◆9302日本共産党=こころざしつつたふれし少女.pdf

◆◆8410山岸一章=相沢良の青春.pdf

◆治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟・中央

http://www7.plala.or.jp/tian/

◆治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟大阪

http://s.webry.info/sp/f-mirai.at.webry.info/theme/107c17ae6d/index.html

◆治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟広島(「聳ゆるマスト」の阪口喜一郎など反戦水兵など治安維持法下のたたかい資料豊富)

http://www5.hp-ez.com/hp/kokubai/page7/index

◆大島博光・治安維持法の時代

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-191.html

◆大島博光・小林多喜二と伊藤千代子

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-78.html

◆詩聖・尹東柱

http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/history/71.htm

◆治安維持法

http://www7.plala.or.jp/tian/

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🔵伊藤千代子の生涯

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千代子と交流のあった土屋文明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年(明治38年)721 – 1929年(昭和4年)924日)は、昭和初期の社会運動家。日本共産党員。

長野県諏訪郡湖南村南真志野(現・諏訪市)の農家に生まれる。2歳で母と死別、9歳で亡母の実家・岩波家に移り養育される。諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)に進学、同校教諭(のち校長)で歌人の土屋文明から英語・国語・修身の授業を受ける。同校卒業後は諏訪郡の高島尋常高等小学校の代用教員となるが、1924年(大正13年)私立尚絅女学校(宮城県仙台市、現・尚絅学院女子高等学校)高等科英文予科を経て、翌年には東京女子大学英語専攻部2年に編入。同大学社会科学研究会で活躍。

1927年(昭和2年)830日、長野県岡谷で起こった製糸業最大の争議「山一林組争議」(女工ら労働者による30日ストライキ)の労働者支援を行う。同年秋、労働農民党の浅野晃と結婚。翌1928年(昭和3年)、初の普通選挙を戦う労働農民党の藤森成吉候補らの支援活動を行う。同年2月日本共産党に入党。党中央事務局で文書連絡や印刷物の整理などの活動を始めて半月後[1]、三・一五事件の弾圧により検挙され警視庁滝野川署から市ヶ谷刑務所に収監、拷問により転向を強要されるが拒否し続ける。ところが拘禁精神病を発病し、松沢病院に収容され、急性肺炎により病死。享年25。郷里の龍運寺墓地に葬られる。

◆関連文献

東栄蔵『伊藤千代子の死』未来社、197910

藤森明『こころざしいまに生きて 伊藤千代子の生涯とその時代』学習の友社、199511

藤田廣登『時代の証言者伊藤千代子』学習の友社、20057

◆◆伊藤千代子略歴

(千代子こころざしの会作成)

1905年(明治38)

7月21日 0才 伊藤千代子、長野県諏訪郡湖南村南真志野(現諏訪市)の農家に生まれる

1907年(明治40)

2月20日 2才 千代子の母・まさよ死去、養祖母・よ祢が母親がわりになる

1908年(明治41)

2月17日 3才 婿養子であった若い父・義男、妻・まさよの死去により協議離婚

1912年(大正 元)

4月1日 7才 千代子、湖南尋常高等小学校へ入学

1914年(大正 3) 9才 亡母の実家で千代子を養育することになり、中洲村(現諏訪市)中金子の岩波家へ移る。転校した金子分教場で平林たい子と同クラスになる。生徒24名。

《第一次世界大戦はじまる》

1916年(大正 5)

9月1日 11才 金子分教場併合で、新築の中洲尋常高等小学校へ。担任・川上茂の「早教育」(特別授業)を受ける

1917年(大正 6) 12才 ひきつづき、川上茂の、「早教育」(特別授業)を受ける。読書・勉学すすむ

《ロシア10月社会主義革命》

1918年(大正 7)

4月1日 13才 小学校を卒業し、諏訪高等女学校へ入学

歌人・土屋文明、同校へ赴任

1919年(大正 8) 14才 土屋文明から英語・国語・修身の授業を受け、大きな影響を受ける

1920年(大正 9) 15才 土屋文明、諏訪高女校長となる

1921年(大正10)

16才 千代子、土屋テル子夫人宅で英語補習を受ける(文明着任以来)

千代子、軽い肋膜炎で学校を少し休む

1922年(大正11)

4月1日 17才 千代子、諏訪高女を卒業。生徒総代で卒業証書授与

高島尋常高等小学校の代用教員になる

土屋文明、松本高女へ移る

《日本共産党創立》

1923年(大正12) 18才 女子英学塾を2回受験(不合格)

《治安警察法による第一次弾圧》

1924年(大正13)

4月 19才 小学校教師を突然退職し、仙台の尚絅女学校高等科英文予科へ入学

1925年(大正14)

4月 20才 東京女子大学英語専攻部2年へ編入学

大学内の社会科学研究会結成に参加

《治安維持法公布 男子普通選挙法公布》

1926年(昭和 元) 21才 学外のマルクス主義学習会に参加。浅野晃を知る

学内の「社研」組織拡大。講師活動で塩沢富美子らを指導

大学内の社会諸科学研究会につづき、マルクス主義学習会を組織して活躍する

1927年(昭和 2) 22才 女子学連結成に参画、委員になる

8月~ 

岡谷の山一林組製糸工場大争議を支援

秋、労働農民党オルグの浅野晃(元諏訪中学校教師)と結婚

《日本共産党「27年テーゼ」決定》

1928年(昭和 3)

2月20日 23才 初の総選挙に労働農民党から立候補した藤森成吉らの支援活動

2月29日 《「赤旗」創刊。普選初の総選挙(山本宣治ら当選)》

3月15日 

千代子、日本共産党に入党し、中央事務所の活動任務につく

《3・15弾圧事件。〔県下で80人検挙〕》

千代子、3・15事件の大弾圧で検挙され、警視庁滝野川署に連行される。悪名高い毛利基警部の取調べ・拷問を受ける。

市ヶ谷刑務所に収監される。

獄中で学習をつづけ、同志を励ましたたかう

《緊急勅令による治安維持法改悪(最高刑を死刑に)》

《特高警察を全府県に設置》

1929年(昭和 4)

24才 《3月5日、山本宣治、右翼に刺殺される(改悪治維法強行可決 に反対したため)》

4・16事件、検挙者約千人。〔県下20人検挙〕》

浅野晃・水野成夫ら、天皇制権力に屈服し獄中転向

千代子、転向強要攻撃が強まるなか拒否してたたかう

8月1日 千代子、拘禁精神病発病

8月17日 松澤病院へ収容される

9月 

千代子の身内・伊藤一郎氏ら面会。正常に回復という

9月24日 

千代子、急性肺炎により病状悪化

誰にも看取られることなく24歳2ヶ月の生涯を閉じる

          ◇

千代子の遺骨、帰郷し、龍雲寺墓地に葬られる

🔴伊藤千代子と土屋文明(千代子こころざしの会作成)

 短歌というものが、単に文学の一分野というにとどまるものでなく、かくも深い影響力を持っているのだ、ということを私たちは片や伊藤千代子の24年の短い生涯、片や土屋文明の100歳の大往生というツインの歴史から感動をもって受けとめている。

 土屋文明とは『アララギ』の総帥、歌人土屋文明のことである。その若き日の4年間が教育者として諏訪高女とともにあったのである。

 大正 7年3月25日 長野県立諏訪高等女学校教諭

   9年1月31日 補同校校長

  11年3月14日 補長野県松本高等女学校校長

 伊藤千代子と土屋文明との運命的な出会いは、諏訪高等女学校へ入学した1918年(大正7年)4月であった。土屋文明からは英語、国語、修身の授業を受ける。さらに土屋テル子夫人宅で英語補修を受けていたといわれる。この4年間に豊かな感受性とひたむきな情熱をひそめる千代子は、歌人教師土屋文明に大変大きな影響を受けることとなった。その後、波瀾の生涯を経て24歳の若さで実質獄死する。

 それから5年後、弾圧が極に達していた時代に『アララギ』1935年(昭和10年)11月号を飾ったのが以下の6首であった。

 某日某学園にて         土屋文明

・語らへば眼かがやく處女(をとめ)等に思ひいづ 諏訪女学校にありし頃のこと 

・清き世をこひねがひつつひたすらなる 處女等の中に今日はもの言ふ 

・芝生あり林あり白き校舎あり 清き世ねがふ少女あれこそ

・まをとめのただ素直にて行きにしを 囚へられ獄に死にき五年がほどに

・こころざしつつたふれし少女(をとめ)よ 新しき光の中におきておもはむ

・高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき

「某日某学園にて」6首が「伊藤千代子がこと」3首への変身の経緯

 土屋文明が昭和10年に詠んだ「某日某学園にて」6首は、昭和17年に『六月風』に収録、戦後も昭和49年自選『土屋文明歌集』(岩波文庫)に収録されている。

 今回、伊藤千代子顕彰碑碑文の一部として、文明6首のうち後半3首を刻むことになったが、何故この3首なのか。

 伊藤千代子像を鮮明に表象した土屋文明とともに、それ以上に鮮烈に千代子の短い生涯を記憶の中に保存していたのは、塩沢富美子(野呂栄太郎夫人)であった。伊藤千代子と塩沢富美子の出会いは昭和2年4月であり、獄は府中刑務所で、一緒であった。千代子のことについて、長い沈黙ののち、ほとばしるようにして書いたのが、1976年(昭和51年)5月号『信州白樺』への寄稿「信州への旅」であった。

前年10月墓参をすませている。

 塩沢富美子はさらに10年後1986年『野呂栄太郎とともに』を著わしたが、この中でも再び千代子の回想を記している。

 塩沢富美子は、土屋文明とはまたちがった形で、千代子との終生忘れがたい思いを歌に詠み綴った。1979年(昭和54年)、「追憶」と題するものである。

・市ヶ谷の未決監庭の片すみに こぶしの花をはじめてみたり

・花の下に佇みてわが名呼ぶ伊藤千代子を 獄窓よりみしが最後になりぬ

・きみによりはじめて学びし「資本論」 わが十八の春はけわしく 

・学窓を去りにし君はあらしの中 くぐりて捕われき三月十五日

・獄の君を変名の便りで慰さめし われ同じ道に蹤く燃ゆる心で

・余りにも疾く獄に送られしわれに 勇気づけんと君は呼びかく

・縞の着物束ねし黒髪長身のきみは 歩くふりしてわれに呼びかく

・運動場にだされし三十分に何気なく きみは獄窓に近づきて呼ぶ

・君と交せし二言三言のその言葉 忘れ得ず生きし五十年を

・ひそやかなわれとの会話ききとがめ 獄吏走りきて君を連れ去る

・身も心もいためつけられただひとり 君は逝きけり二十四歳

・君と交わせし言葉忘れず五十年 春さきがけて花咲くこぶしよ

・年ごとに春さきがけてこぶし咲く わが胸の白き花君はかえらじ

 言語に絶する苦難の時代を生き延びた塩沢富美子は、戦後・新しき時代に生きることになるが、片時も夫・栄太郎そして同志千代子のことを忘れることはなかった。その真骨頂を後世・未来に伝えねば・・・の使命感に燃えて生きたといってよい。

 かくして、前記『信州白樺』への寄稿「信州への旅」、そして『野呂栄太郎とともに』として結実することになった。この取材の過程で、塩沢富美子は土屋文明を訪ねている。

 おそらく、生涯秘めてきた千代子への思い、上記「追憶」歌にこめた思いを文明にこもごも語ったにちがいない。そして千代子の実像をようやくにして知った文明が、塩沢富美子のたっての願いにこたえて、93歳にして、やや利かなくなった腕をふるわせながら、渾身の力をこめて、新たな歌を詠む心境で書き綴ったのが、3首であった。歌題はもはや「某日某学園にて」ではなく、「伊藤千代子がこと」であった。

「伊藤千代子がこと」

・まをとめのただ素直にて行きにしを 囚へられ獄に死にき五年がほどに

・こころざしつつたふれし少女(をとめ)よ 新しき光の中におきておもはむ

・高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき

 この自筆の3首は塩沢富美子の部屋を飾っていたが、その後日本共産党中央委員会へ寄贈されたものである。

 こうした歴史経過を考慮して、党中央の配慮もあり、また3首を碑文の一部として刻むについて、遺族のご理解も得られ、晴れて 伊藤千代子顕彰碑の一角を飾ることになった次第である。

《伊藤千代子生誕100年記念事業の一環として碑文は直筆のものに代えられた。》

 さて、土屋文明が伊藤千代子らについて詠った歌はこれらにとどまらない。

昭和22年(1947年)、「諏訪少女」と題して再び千代子の回想を詠んだ。『自流泉』(昭和23年)に、「諏訪少女」の一連が載っている。

・われ老いてさらばう時に告げ来る 諏訪の少女のきよき一生を

・書き残し死にゆきし人の数十首思ひきや跣足(はだし)にて遊びし中の一人ぞ

・槻(つき)の木の丘の上なるわが四年 幾百人か育ちゆきにけむ

・湖の光る五月のまぼろしに 立ち来むとして恋しなつかし

・処女なりし君をほのかに思ひいづ 淡々しくわりんのその紅も

昭和30年(1955年)、『青南集』の「諏訪を過ぎて」の5首中、

・訴ふと川を渡りし少女等の 歎きの数も水の上の霧

・清き生()を紅葉づる山にかくせれば 道に会はさむ真処女もなく

・少女等は七緒を貫ける真珠(しらたま) 散りのまにまに吾老いにけり

  土屋文明は、松本高女へ転任と決まっての告別式で、涙ぐむ生徒に「涙に甘えるな」の訓辞を残した。 目標を高くせよ、しっかり勉強するんだ、‥‥。このような苦言はすばらしく新鮮で、生徒の心に深く根をおろしたのであった。 このような土屋文明であったが故に、伊藤千代子のようにいわばひとすじに思想に殉じた生き方にも限りない共感をよせ、 深い憤りと愛おしみを寄せもしたのであった。

◆土屋文明

明治23-平成2(18901990)。歌人。群馬県高崎市出身。幼少期に育てられた叔父に俳句を教わり、旧制高崎中学時代から俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿。卒業後、恩師の紹介により伊藤左千夫を頼って上京し、創生したばかりの『アララギ』の最年少の同人となりました。大正14(1925)1歌集『ふゆくさ』を出版。昭和5(1930)斎藤茂吉に代わり、『アララギ』の編集発行人になりました。芸術院会員。61年文化勲章受賞。

◆◆伊藤千代子顕彰の碑文(千代子こころざしの会作成)

 伊藤千代子は1905年(明治38)7月21日、ここ諏訪の南真志野の農家に生まれ幼くして母と死別、湖南小学校から中洲小学校へ転校し、祖父母の援助で諏訪高等女学校(現二葉高校)に学び、高島小学校の代用教員の後仙台尚絅女学校から東京女子大学へと進んだ。

 千代子は常に生活に苦しむ人々に心をよせ、世の中の矛盾と不公平さを許せず、学内で「資本論」を学ぶなど、社会科学研究会で中心的に活動した。郷里では初の普通選挙をたたかう革新候補の藤森成吉を支援、岡谷での歴史的大争議であった山一林組の製糸工女らを激励し、社会変革の道にすすんだ。

 1928年(昭和3)2月、千代子は日本共産党に入党。3月15日の治安維持法による野蛮な弾圧で逮捕、市ヶ谷刑務所に投獄される。千代子は獄中での狂暴な拷問や虐待にも屈せず、同志を励ましたたかい続けたが、ついに倒れ1929年9月24日、24歳の若さで短い生涯を閉じた。

 千代子の死後、女学校時代の恩師でアララギ派の歌人土屋文明は暴圧化のきびしい言論統制の中の1935年、教え子伊藤千代子の崇高な生涯を悼み歌に詠んだ。

 千代子のこころざしは今も多くの人々に受け継がれ、生きている。

◆◆伊藤千代子の故郷を訪ねる旅

赤旗18.01.25

◆◆伊藤千代子を詠んだ歌とは?

200455()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、戦争に反対して拷問され、亡くなったという伊藤千代子、その死を惜しんで土屋文明がうたった歌とは?(福岡・一読者)

 〈答え〉 戦前、天皇制国家の専制支配と侵略戦争に反対して、たたかった日本共産党員など多くの人々が死刑法である治安維持法で逮捕され命を落としました。この中には、多くの若い女性もいました。

 『日本共産党の八十年』は、化粧用のコンパクトに「闘争・死」の文字を刻み獄死した飯島喜美、弾圧機関である特別高等警察におそわれ重傷を負い死去した高島満兎(まと)、獄中でチリ紙に「信念をまっとうする上においては、いかなるいばらの道であろうと」という姉あての手紙を残した田中サガヨ、それに、伊藤千代子の四人をあげ、「それぞれが二十四歳の若さで、侵略戦争に反対し、国民が主人公の日本をもとめて働いたことは日本共産党の誇り」と記しています。

 伊藤千代子(1905~1929年)は、東京女子大に入学すると社会諸科学研究会に入り、長野県の製糸工場の大争議の支援などのなかで、22歳で入党。党中央事務局で文書連絡や印刷物の整理などの活動を始めて半月後の3・15事件で逮捕されました。拷問をうけ、獄中で党員の夫の天皇制政府への屈服を知り、衝撃を受けますが、同調を拒否。市ケ谷刑務所で栄養失調になり、病院に転送後亡くなりました。

 諏訪高等女学校(現諏訪二葉高校)校長を務めた歌人、土屋文明は一九三五年、短歌誌『アララギ』で、教え子・千代子を悼んで次のように詠みました。

 まをとめのただ素直にて行きにしを 囚えられ獄に死にき五年がほどに

 こころざしつつたふれしをとめよ 新しき光の中におきて思はむ

 高き世をただ目ざす処女(おとめ)らここにみれば 伊藤千代子がことぞかなしき

 (喜)〔2004・5・5(水)〕

◆◆伊藤千代子最後の手紙公開にあたって

畠山忠弘・前苫小牧市議会議員

 戦前の暗黒時代に平和と民衆の幸せのためにたたかい、逮捕され、獄死同然で逝った伊藤千代子最後の手紙四通が北海道苫小牧市立中央図書館で一日から、公開されています。

 長野県諏訪市出身の伊藤干代子の手紙が、なぜ、苫小牧市立中央図書館にあるのか。なぜ、今公開なのかについて簡単にふれてみたいと思います。

 私が、東京の伊藤干代子研究室、藤田広登氏から、「伊藤千代子獄中最後の手紙四通は、千代子の最期をたどる上で貴重な手紙で、苫小牧市立中央図書館にあるかもしれない、ぜひ、探して欲しい」との手紙をいただいたのは、二〇〇二年一月のことでした。

 伊藤干代子の夫であった浅野晃が、自分の持っている著書や書籍、書簡類を、苫小牧市立中央図書館に寄贈しており、伊藤千代子の四通の手紙も、それまで預けていた、長野市の伊藤千代子研究家・東栄蔵氏に手紙を出し、取り戻したということまでは明らかだが、その後がわからないとのことでした。

 夫であった浅野晃は、千代子が一九二八年三月十五日に逮捕されたあと、二十日ほど遅れて逮捕されましたが、水野成夫らに同調して、獄中で変節し、その変節文書を使って思想検事は、千代子にも変節を強く迫りました。しかし、千代子はきぜんとして拒否し最期までたたかったことはよく知られています。だが、官憲による厳しい拷問や脅迫に加え、最愛の夫である晃の変節に直面し、拘禁精神病を発言し、一九二九年九月二十四日、肺炎で、誰にもみとられることなくこの世を去ります。

 公開された手紙四通は、浅野晃の母親と妹にあてた手紙で、一九二九年五月八日から、七月二十九日までに書かれたものです。このうち、最後の手紙は、亡くなる二ヵ月ほど前に書かれたもので、千代子の最期を知る上で、極めて重要な意味を持つものでした。

公開された手紙のーつから

 「朝露にぬれた麦畑や大根畑のひろびろとつづいた野方町からあの岡から谷の辺りはどんなに気持ちいいだろうと私も時々思い出していました。ここではね今地しぼりの花ざかりです。高い煉瓦の塀に沿ってまるい黄色な頭を春風にユラユラゆすぶっています、淑ちゃんは地しぼりを御存じですか、強情な大変力のある面白い花ですよ。ダリアの畑へでも菊へでもおかまいなしにずんずん押し込んでいって肥料を横収りにしてしまいます。

 田舎では野菜や桑を荒らすのでお百姓は眼の仇にしていぢめています。命あるものはみんなあらん限りに生きようとしているのですね。生きようとするからこそ、その大切な命をも投げ出すのですね。(略)」(五月八日 浅野淑子あて)(しんぶん赤旗 20050407

ひと=伊藤千代子の獄中最後の手紙の公開に尽力した

 畠山忠弘さん

 国の主人公は、天皇でなく国民だ、と主張する日本共産党員というだけで、逮捕され、刑務所に入れられた戦前。一九二八年。

 その党に二十二歳で加わり、十六日目に逮捕・投獄。拷問され、変節を迫られ、愛する夫の転向に直面しても「節」を曲げず。しかし、苛烈(かれつ)な造反に病に倒れ、二十四歳で世を去った伊藤千代子とは。

 「彼女の最後の手紙が苫小牧市にあることは、まったく知りませんでした」

 三年前の正月、東京の研究家から、その旨の手紙を受け取り、「確認」を頼まれたのです。千代子を知るにつけ、粘り強い信念、心根のやさしさに驚嘆。魅力のとりこになりました。

 手紙は、疎開先・苫小牧市の文化振興に功ありとして、市立中央図書館に「コーナー」が設けられている、千代子の夫の未公開資料の中にありました。

 「命あるものはみんなあらん限り生きようとしているのですね……」(義妹への手紙)。獄舎のれんが屏にしがみつくように咲く「地しぼり」の花に自らを重ねた千代子の生きざまと無念。これを世に知らせたい。当時、同市の共産党市議団長。闘志がわきました。

 議員団で協議、市議会で公開を迫り、中央図書館に通い、資料を集め、千代子の地元・諏訪市にも二度行きました。この四月一日から、夫の母や妹、弟への手紙四通が公開の運びに。

 市議を退いた今も、人々の面倒をとことん見ています。七月三日に同市で開催する「伊藤千代子最後の手紙公開記念の集い」の準備に忙しい毎日です。

  文・写真 土田 浩一

(しんぶん赤旗 2005.5.12

◆◆伊藤千代子の進学と塩沢富美子との出会い

(藤森 明著「こころざし いまに生きて」学習の友社 p26-53=京都学習情報)

 千代子は、代用教員時代に貯えた資金で仙台の尚桐学校高等科に入ったが、田舎の祖母たちも千代子の固い決意にほだされて、かわいそうな孫のためにと、やがて援助するようになっていった。

 開校は入試に当っても、英語の学力が重視されていたので、千代子はしだいに自信を深め、次の飛躍をめざしたのであろう。それが一九二五(大正一四)年四月に、かねてから心に期していた東京女子大学英語専攻部への進学となった。

 東京女子大学は、一九一ハ(大正七)年に青山女学院と女子学院専門部が合体し、キリスト教主義に基づいて創立され、初代学長が新渡戸稲造であって比較的新しい校であった。その新渡戸学長が国際連盟に派遣されることになった後は、安井哲子が新たに学長になり、校舎は西荻窪の武蔵野の林の中にあった。

 大学時代の千代子は、いつも地味な着物に紺の袴をつけ、髪は後に巻いて、すらりとした長身で、面長な色白の顔に黒い瞳は大きく、信州人特有の赤い頬をしていたという。それに口数の少ない人で、話をするときは低い静かな声で説得力があり、やさしくて目立たない人柄が、みんなから好感をもたれ、学生間の彼女に対する信頼感も大きなものがあったようである。

 そんな彼女が、ひとたび動き出すと彼女のまわりには、多くの学生たちが集まってくる。「社会諸科学研究会」は、すでに学校公認で公然と活動していたが、この研究会と並行して「マルクス主義学習会」をひそかにつくり、その講師になっていたのが、伊藤千代子であり、〝知は力なり〟をかかげて学習を広げた。

 千代子は、「資本主義のからくり」という初歩的なものから、マルクスの『賃労働と資本』や『共産党宣言』、それにレーニンの『国家と革命』や『唯物弁証法』、さらにエンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』、マルクスの『資本論』など、政治・哲学・経済学に関する入手できる本を紹介し、これらをテキストにして毎週一~二回の学習会を、放課後に寄宿舎の部屋へ集まって勉強会を開いていた。

 のちに千代子の遺志を継ぐことになる塩沢富美子(旧姓下田、野呂栄太郎夫人)は、当時を回想して、次のように書き残している。

「私たちはそれに吸いこまれるように……勉強しました。そして私たちは今更のように、今まで自分が如何に真実を知らなかったかを知り、目からうろこが落ちるような思いで、新しい社会と国家を考えるようになりました」。

 英語専攻科の四年生になっていた千代子が、寄宿舎の東寮から西寮に移って、下級生の塩沢富美子と同じ寮生活になり、食事も同じテーブルでするようになると、副寮長は何となく、千代子と富美子の接近を警戒の目で見ている様子があったという。

 それから間もなく、秋も深まるころに突然、千代子が寮を去り、空いたその部屋に移った富美子は、びっくりして更に次のように述懐している。

「窓ぎわの作りつけの机の引出しをあけてみると、そこにおびただしいローソクの燃えたれが残っておりました。その頃、寮は十時の消燈でしたから、そしてマルクスやレーニンの本を読むことは大っぴらにできませんでしたので、夜、ローソクをともして勉強していて、それを私たちは〝ローベン〟と称していましたが、千代子さんがいかに勉強していたかということを思いました」。

 下級生で、しかも学習活動の仲間でもあった富美子は、どうして千代子が寮を去ったのか、そして学校にくることがまれになったかの事情を、あまり細かく聞くことはいけないとさとり、何か外での仕事をはじめたためだろうぐらいに思っていた。たまに現われては、一年生の富美子の教室に濃紺の袴をつけて静々と千代子が入ってきて「どう? 元気? 勉強している?」などといわれると、富美子は胸がドキドキして、何もしやべれなくなるが、それでも一生懸命に話をしてくれたという。

 千代子の燃えるような情熱と勉強ぶりに深く感動していた塩沢富美子は、その後の生涯にわたる導きの星として、千代子を敬愛しつづけ、その心に残された足跡に励まされ、彼女は幾多の試練をのり越えていくのである。

──略──

千代子の発病と最期

 千代子は、諏訪高女時代に軽い胸膜炎(乾性)を病んだことがあって、もともとそう丈夫ではなかった。それが三・一五の弾圧で投獄されてからのひどい拷問と虐待に、よく耐えて一年六ヵ月も獄中にあった。

 逮捕されてから市ケ谷刑務所に送られるまでの間に、相当にひどい拷問と虐待を受けて千代子の体はボロボロ、高熱を出して一〇日も寝たままの状態で独房に放り込まれていた。

 ようやく元気を取りもどした千代子は、薄暗い独房の中では、外も眺められず、あっても見上げるような高いところに小さな窓がひとつ、そこでトイレのふたをおこして、それを踏み台にし、うるさい看守の足音が聞えるまで、トイレの小窓から外の僅かな自然を眺めて喜んでいたという。

 こうして千代子は、自分のことは後回しにしても、獄中の同志を励まし続け、看守に改善や処置することを要求する先頭に立っていた。

 同じ獄中にあって、奥に隔離される千代子の独房の近くへ肋膜炎で移された原菊枝は、「千代子さんの監房での生活ぶりは、実に輝けるものだった」、また、「いつも真面目に党のことを考え、外で働いている多くの同志のこと、そして中に同じく入っていて金銭にも、衣服にも困っている多くの同志のことを考えて、決して自分だけの生活の満足を計るようなことはしなかった」と述懐している。

 千代子の体がめっきり衰弱してきたのを心配した原菊枝は、千代子に「あなたは体が弱いのだから、少しは栄養をとらなければ」といっても、千代子は「それはそうですけれども、……」といって、獄中の同志のことを考え、励ますことで不屈にがんばっていた。

 それがその年の暮れころから足の裏に黒い斑点が出るようになり、千代子は座ると痛いといって、医者に診察してもらったが、リューマチだから仕方がないといって放っておかれた。

 それから年が明けて一ヵ年が過ぎたころ、千代子の頚部のリンパ腺が四ヵ所も五ヵ所も大きくはれ上ってきた。そこでまた例の医者に診てもらうと水銀軟膏を少しくれたという。当時は水銀軟膏を用いるのに、シラミの炎症に殺菌用として塗ったことはあるが、リンパ腺に効くわけはなかった。

 千代子が獄中に入れられた年の夏から冬にかけての千代子の月経は、ニヵ月に一回くらいしかなかったと自分でいっているが、このころになると全くなくなって、「私は、とうとう中性になった。中性って、ちっとも気持のいいものではないね」と笑っていたという。

 しかし、このころから、千代子は物忘れはするし、語学の方も一日休むとすぐやり直し、差し入れされたカントの本をよく読んでもわからないことが多く、「どうも頭が悪くなって仕方がない」といっていたという。

 原菊枝は後に千代子の病気について「あの最後の病気が、この当時から徐々に頭へ食い込んでいたのではないだろうかと、私は後になって思い合わせている」と書いている。

 刑務所の中の医者は、決してどこが悪いかの病名やどの程度に悪いかの病気の進行状況は教えなかった。

 五、六月ころになると、千代子は今度こそ保釈運動を外の人に頼んで出られるようにするといって、自分の布団をみんな宅下げにして、刑務所のセンベイ布団に包まれ、この方がみんなと同じだから気持がいいといって、愉快そうに笑っていたという。千代子は原菊枝にも「私が出たら、きっとあなたを出してあげるから待っていらっしゃい」と話していたという。

 保釈は裁判所の職権であって、事件の審判のほかは、決して各自の思想・信条には立ち入らないことになってはいたが、その人間の考え方の如何によって保釈にもするし、死んでも出さないという悪法の乱用をしていた。千代子はこのことを十分に承知していたはずであり、保釈運動は必要なたたかいではあったが、容易なことではなかった。千代子は、この時点で相当に身心がまいった状態になっていて、ときに妄想がはじまっていたのではなかろうか。

 そんな千代子に、思いがけない大衝撃を与える事件がおそってきて、彼女の神経をズタズタにしてしまうのである。

 それは、千代子の共産党入党の推薦者であり、党指導部の大幹部であった水野成夫が、天皇制権力に屈服して日本共産党の解体を主張する「日本共産党労働者派」と称する運動に転落したことである。このいわゆる「解党派」は党を破壊していく役割をもっていたから、党はかれらを除名した。

 ところが、権力の側はこれをテコに、獄中にあった同志たちへの転向をすすめる攻撃を強めてくる。千代子たちにも、当然、およんできたが、獄中の彼女らは結束して、断固、反対していた。

 それが、こともあろうに、千代子にとって最も身近で信頼していた夫であり、同志でもあった浅野晃が、天皇制権力に屈服した解党派グループの一員であることを知らされた千代子はがく然とする。しかも、衝撃と悲嘆にくれる千代子に毎日、検事局から呼び出しがかけられ、解党派への同意と転向を執拗にせまられ、強要される。それに対して千代子は、一人で最後の力を振りしぼって、きっばりと拒絶し、たたかった。それにしても千代子にとって、最も信頼し、愛する同志であった夫の裏切りと転向への悲しみ、怒りは、どんなであったであろう。

 担当した亀山慎一検事は、千代子には絶対に見せないという浅野との約束の上中書を見せ、千代子を解党派に落す意図で読ませた。心身ともに弱って極限にあった千代子は、ついにそのショックと苦痛に押しつぶされ、激しく発狂した。

 同じ獄中にいた原菊枝の記憶では、投獄された女性一六人のうち四人が発狂したといわれ、「人間の脳髄はいつどうなるか信じられないものだ。まさか自分は気狂いになりたいとか、なってもいいと考えたのでもあるまいに、不可抗力的に脳髄が狂ってしまうのだ」と脳の破壊されていく恐ろしさを記している。

 千代子が発狂して、かなりひどくなってからも、同志を思う心からか、看守を呼びつけて何やら同志の病気のことで、せき込むように熱心に訴えている千代子の姿に、獄中の同志たちも、みんな涙を流したという。

 千代子の病状がさらに悪化して、ようやく東京荏原(えんばら)の松沢病院に移されたのは、八月中旬ころであったと見られる。一会した人たちの後日談を総合してみると、発狂したといっても一時的なもので、精神異常の拘禁性ノイローゼを克服して正常化に向かっていたという。

 しかし、千代子は、満足な治療も与えられないまま、九月二四日の午前零時四〇分、急性肺炎により、誰にも看とられることもなく、生涯を終えた。

 千代子がこの世に生きて二四歳ニヵ月という若さで命を奪われ、囚われの身になって、わずかに一年六ヵ月後にむかえた死であった。

 千代子の死は、まさに天皇制権力と、それに屈服して解党派に走った裏切りものたちへの憤りの中の無念の死であったのである。

◆◆広井暢子=伊藤千代子の足跡をたどってみて

(広井暢子著「女性革命家たちの生涯」新日本出版社 p27-32。京都学習情報)

 伊藤千代子さんの二十四年の生涯をまとめてきました。

 すでに彼女が死んで半世紀以上もたち、しかも共産党員や活動家が「非国民」「国賊」といわれた社会、党活動も非公然をよぎなくされた時代の資料は今のゆたかな情報化社会では考えられないほど限定されたものしかありません。

 私が伊藤千代子さんの名をはじめて知ったのは、『月刊学習』で婦人共産党員の生き方を紹介するために調査対象としてピックアップしている時でした。その後、東栄蔵さんの書いた『伊藤千代子の死』を読んだ私は、土屋文明さんの歌を介して短歌を詠む人たちの間で関心がもたれ、生いたちを中心に調査されていたことに感銘をうけるとともに、戦前の共産党の歴史にかさねて彼女の生き方を調べ明らかにしたいと思ったのでした。

 短歌にかかわる人のなかでは、短歌誌『未来』に〝伊藤千代子がことぞかなしき〟を書いた吉田漱さんもいます。また、諏訪で伊藤千代子さんの墓をまもっているまたいとこの伊藤善知さんによると、やはり短歌にかかわって千代子さんを知り、だいぶ前に高知県から千代子さんの墓を訪ねて来た人がいたということです。その人が「赤旗」をすすめ郵送してくれていたといいます。今回の調査でその話を聞いた『月刊学習』編集部の田畑さんがその場で「赤旗」の購読をすすめ、地元の人に配達をしてもらうようにしたそうです。

 諏訪地方で育った千代子さんが、同級生や代用教員の仲間、教え子のなかで、忘れられない印象をあたえていたことはこれまで書いたところですが、戦後に地元の新聞が千代子さんのことを報道したとき、病死した千代子さんの棺が荒縄でぐるぐるまきにしばられて監視つきで送られてきたと書かれたといいます。しかし伊藤善知さんは千代子さんは、火葬にされ骨つぼに入れられて帰郷したのが事実であると語っています。

 小学校時代の現存する同級生の数人に電話(男性ばかりでしたが)をしても新しい情報を得られませんでした。七十年前の記憶をたどることの困難は当然でした。もっと早い時期に、千代子さんの情報、資料をあつめておきたかったと悔やまれました。

 そんななかで、小学校の同級生で、千代子さんが諏訪をはなれるまで交流のあった松本ムメヨさんが諏訪市に健在でした。毎年、九月二十四日が近づくと千代子さんのことを思いだすという松本さんは「面長でロが小さく、背がすらっとしていてお姫様のように美しい人だった」千代子さんのことを「どうぞみんなに知らせてください」と話され、また、この取材に協力してくれた諏訪市の「赤旗」出張所の同志は「諏訪市にこんな立派な先輩がいたことをはじめて知りました。すぐれた先輩のたたかいに大いに学んでいきたい」と語っていました。

 千代子さんが仙台の学校へ行ったのは〝なぜか〟ということがいろいろといわれていました。今回の調査でやはり彼女は英語を学びたいという意欲をもち、そのために仙台の尚網女学院に進学したことが本当のところだろうという確信を持ちました。それは、一つは三瓶孝子さん(経済学者)が東京女子大の入学試験を同じ仙台で一緒にうけているのですが、その試験場で英語を学ぶために仙台にきていることを話していること、このとき東京女子大に合格したのは三瓶さんと千代子さんの二人だったというわけですから、その印象は強かったと思います。

 もう一つは、新たにわかったことですが、土屋文明さんの夫人のところに千代子さんが英語を習いに通っていたという事実です。これは、土屋文明さんの家族の方が『月刊学習』一九八五年四月号の伊藤千代子の話を土屋さんに話したところ、土屋さんの知っていることもほぼ同じような内容であることをいわれながら、その話のなかで、三年前に亡くなった夫人が英語を教えていたことを話されたことで判明したことです。土屋さんの夫人は津田英語塾を卒業した人でした。

 土屋さんにとっては、諏訪高女の一女生徒というだけでなく、直接土屋さんの家に出入りし、向学心に燃えた女生徒として、その姿が強く焼きつき、その人がらとともに、忘れがたい女生徒だったのでしょう。新たな事実がわかるたびに喜びとともに〝もっと早く手を打たねば〟と思うばかりです。

 千代子さんの東京女子大時代の活動、さらに三・一五で検挙、獄中のたたかいなどについて、調査を必要とする内容が次々とでてきました。そんなときに千代子さんの裁判所の聴取書や訊問調書がみつかりました。戦前の裁判所の予審は、共産党員の思想そのものを罰とする立場でおこなわれ権力の側の彼らにとって有利な材料を裏づけようとするため、すべてを無条件に使うことはできません。しかし、他の裏づけ資料をあわせるなら一定の資料ともなります。

 ところが、これらの記録が旧かなづかいの旧漢字用語、そのうえ写真複写であるために、私には判読じたいがやっかいなことでした。それを、日本共産党中央委員会党史資料室の蓮見さんが現代かなづかいに直して、便箋にきれいに書きなおしてくれるという労をとってくださったことで、それが活用可能となったということもありました。

 聴取書の第二回、三月二十四日付を読み、最後に「警部毛利基」の名をみたときには身体がふるえる思いがしました。小林多喜二の死の場面がうかび〝千代子さんあなたも毛利に……〟と思わず「ああ」とうなってしまいました。

 彼女が科学的社会主義を知り社会活動に参加しだしたのは東京女子大でしたが、当時の、学生運動のなかでも女子学生の中心的存在であったこと、すでに反党分子や党を脱落した人たちもふくめて、党員や活動家が数は少なくともいたこと、そして当時の活動のようすを知る手がかりもいくらか見つけだすことができました。

 こうした資料を照らしあわせながら千代子さんの活動の足跡をあとづけていったのですが、なかでも塩澤富美子さんが戦後一時期に発行されていた『新女性』や『信州白樺』に千代子さんの思い出を書かれた内容は、千代子さん像をいっそう鮮明にするものでした。

 塩澤さんのお宅で話をうかがったとき、千代子さんの姿にはじめて出会いました。そして、塩澤さんが千代子さんの全人格に敬愛をいだき「私が頼ってきた人で、姉のような感じでした」という言葉に、大学の寮で静かに社会のあり方や矛盾、学業について語りあう二人の姿が目にうかぶようでした。決してアジテーターではなかったけれど、説得力があり、心の強さを秘めていた千代子さんだったと話す塩澤さん。同じ時代に共通の思想で結ばれた二人がとても似ているという印象をもったのは私だけではないようです。

 今回の調査で、千代子さんの三・一五検挙のときのようす、そのときの党の任務などが明らかになりました。党の中央事務局で全力で任務を果たしていた彼女が検挙、投獄されたとき、ひるむことなく敢然とたたかったのでした。

 『月刊学習』四月号(一九八五年)で伊藤千代子さんのことがとりあげられているのを知って一冊の本が届けられました。『月刊学習』を印刷している光陽印刷の矢作さんからでした。その本は矢作さんの夫人の母・原菊枝さんの『女子党員獄中記』復刻版で、そのなかに千代子さんの獄中のようすが書かれていました。これまで書かれた千代子さんの獄中の姿といえば精神に異常をきたしたときのようすばかりが中心でした。

でも私は、その状況だけをとりだして千代子さんの獄中を書き残すのは、読み手には強烈かもしれないけれど、正しい継承ではないし、正確ではないと思ってきました。彼女は敵権力によって拘禁性の精神病におとしいれられたのであり、それは夫の党への裏切りに遭遇したことへの怒りと悲しみの深さとしてみるべきだと思うのです。また、彼女の獄中での同志や肉親にたいする態度につらぬかれている共産党員像をこそ書かれなければと思ったのです。

 今回の調査で彼女の精神状況がその後たしかに回復していたこともわかり、その死はまさに天皇制権力と党を裏切った者たちへの憤りのなかでの死であったのです。

 そしていま、千代子さんの墓は、諏訪市湘南の南真志野の竜霊寺にあります。細長い黒御影石の墓の表には「圓覚院智光貞珠大姉」と刻まれています。この墓の近くに、かつての千代子さんの実家がありました。

 戦後四十年の年に、こうして千代子さんを記録でき、私自身にとっても忘れられない出会いとなりました。

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🔵こころざし半ばで倒れた数多くの人びと

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◆◆『抵抗の群像』を読む

(「労働相談・労働組合日記」から)

「かつてこのような抵抗の青春を生き闘った人々がいたという歴史の真実」(まえがき)

今日、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟編「抵抗の群像」第一集・二集(光陽出版社)が届きました。治安維持法のもとで生きたたかった160人の先輩たちの手記がおさめられています。

治安維持法は、1925(大正14)年422日に公布され、「私有財産の否認」「国体(天皇制)を変革することを目的として結社を組織」したり、「結社への支援」「協議もしくは煽動」、「目的のためにする行為をなしたる者」を取り締まる、後には死刑も含めた歴史・世界に名だたる悪法です。社会主義・共産主義者の弾圧と同時に、労働組合・農民運動・知識人・自由主義者・宗教人・・・あらゆる民衆の運動を弾圧するために使われました。

1933220日、警視庁・築地警察署特高の拷問で29歳の若さで虐殺されたプロレタリア作家小林多喜二が有名ですが、治安維持法下の悪逆非道は、特高警察による虐殺死80名、拷問・虐待による獄死1617名。逮捕送検者7万5681名、未送検者の逮捕・拘束者は数十万人にのぼっています。

一読しただけで弾圧への憎しみがわいてきます。と同時に感動もしています。

あれだけの凄まじい弾圧下で、私たちの先輩たちは闘い続けたことにです。

倒れても倒れても立ち上がり続けたことにです。

それは、「虐殺死80名、拷問・虐待による獄死1617名。逮捕送検者7万5681名、未送検者の逮捕・拘束者は数十万人」がまさに証明しています。すごい数です。こんなにも多くの数の人々が拷問や獄を怖れず果敢に闘っていたことに、あらためて驚いています。

「抵抗の群像」は、その内の160名の方々を私たちに教えてくれます。無名(と言っては失礼だとは思いますが)の英雄・抵抗者、無数の「小林多喜二」が、民衆の、労働者の解放のために人生を賭けて、命をかけて奮闘していたこと、私たちのこの地域に、東京に、日本に、世界に、歴史に、確かに存在していたのだと。

◆◆戦前、多くの不屈の青春があった

2004715()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 日本共産党は青年が中心になって創立したと聞きました。どんな状況だったのですか?

 (東京 一読者)

 〈答え〉 日本共産党は82年前のきょう(7月15日)東京・豊多摩郡渋谷町の民家での会合をつうじ創立されました。創立から一年ほどの間に参加した党員は百人余。創立時、市川正一(30)、国領五一郎(20)、渡辺政之輔(23)、川合義虎(20)、河田賢治(22)、谷口善太郎(23)ら、多くが20代~30代でした。

 当時は、天皇絶対の専制政治で、党は非合法の政党として出発せざるをえませんでした。しかし、党は当初から、天皇専制にかわる主権在民の民主政治をつくるための民主主義革命の旗をかかげ、弾圧をうけながらも「シべリア出兵反対、朝鮮人民の独立闘争支持」「18歳以上のすべての男女に普通選挙権を」と、勇敢にたたかいました。

 中国への本格的な侵略が開始されると、治安維持法・特高警察による弾圧はいよいよはげしく、32年には、党中央委員・上田茂樹(31)=以下いずれも死亡時の年齢=、党中央委員岩田義道(34)らが虐殺され、翌33年2月には党九州地方委員長西田信春(30)、作家・小林多喜二(29)が残虐な拷問をうけ絶命、同月、『日本資本主義発達史講座』の編集でも知られる野呂栄太郎(33)も事実上の拷問死させられます。33年12月には、党中央委員として活動中の宮本顕治(現名誉役員)が逮捕されますが、25歳の若さでした。

 党幹部だけでなく、広島・呉港で現役水兵・兵士の反戦運動を組織した阪口喜一郎(31)、党中央事務局で連絡・印刷などの活動をした伊藤千代子(24)、獄中からちり紙で姉へ「信念をまっとうする上においてはいかなるいばらの道であろうと」と手紙を書いた田中サガヨ(24)、化粧用コンパクトに「闘争・死」の文字を刻み獄死した飯島喜美(24)、日本共産青年同盟中央機関紙「無産青年」配布網を組織した高島満兎(まと)(24)。みんな人生はこれからという若さでした。こうした無数の人々、青年たちの不屈のたたかいは、日本共産党の誇りであり、いまの私たちのたたかいをも勇気づけ、励ましてくれるものです。(喜)

◆◆敗戦を前に獄死した市川正一とは?

2007816()「しんぶん赤旗」

〈問い〉 宮城刑務所で獄死した市川正一とは、どんな人ですか? (福島・一読者)

〈答え〉 市川正一は、日本共産党の創立当時からの党員であり、第2次大戦前の日本共産党の誇るべき指導者の一人です。天皇制権力の野蛮な迫害で16年間も獄につながれ、敗戦の半年前の1945年3月15日、ついに、宮城刑務所で衰弱死しました。53歳でした。

 市川は、山口県宇部市に生まれ、早稲田大学を卒業、読売新聞社に入社、18年、同社への軍部の影響浸透に反対してストライキを計画して失敗し退社、その後、国際通信社の翻訳記者などをします。このころから、河上肇の出していた『社会問題研究』などを購読し、社会主義を研究、22年には、早稲田の同窓の平林初之輔、青野李吉らと、月刊雑誌『無産階級』を発刊。23年1月、日本共産党の結成を知ると、すぐに入党しました。

 その後、市川は党の理論機関誌『赤旗』や雑誌『マルクス主義』の編集委員をし、『日本金融資本発達史』を著すなどしながら、26年の日本共産党再建大会で党中央委員に選ばれ、金融恐慌下の国民生活の防衛闘争や中国への侵略に反対する「対支非干渉同盟」の組織、28年2月の「赤旗」創刊と初の普通選挙で山本宣治ら2人を当選させるたたかいの先頭に立ちました。

 29年4月28日、検挙された市川は、「われわれは日本共産党員であるがゆえにこの法廷に立たされている」と、自分たちが他のいかなる「犯罪」によるものでもなく、日本の労働者階級と人民の利益を擁護してたたかう、日本共産党の一員であるがゆえに、ただそのゆえにのみ、法廷にたたされているとのべて、裁判の反人民的性格をきびしく糾弾しました。これは、党の性格と伝統、その任務と目的をひろく国民に知らせるためにおこなったものでした。

 市川は陳述を「一言でいうと、私の全生活は、日本共産党員となった時代とそれ以前の時代との二つにわけられる。そして日本共産党員となった時代が、自分の真の時代、真の生活である」という言葉で始め、「党の発展は必然である。党の勝利、すなわちプロレタリアートの勝利は必然である」という言葉で結びました。(翌32年、『日本共産党闘争小史』として、非合法出版)

 市川は、獄中の非人間的な待遇のために栄養失調となり、歯を失ってほとんど食事もできない状態になりますが、それでもなお燃えるような闘志をもって侵略戦争に反対し、断固としてたたかいつづけました。

 〈参考〉『不屈の知性』(小林栄三著)、『獄中から―心優しき革命家・市川正一書簡集』、『戦前日本共産党幹部著作集・市川正一集1~3巻』(以上、新日本出版社)、『市川正一公判陳述』(新日本文庫)(喜)

◆市川正一の最期

2015315()赤旗 きょうの潮流

 戦前の日本共産党の幹部、市川正一(しょういち)が亡くなってからきょうで70年になります。終戦の5カ月前に、仙台の宮城刑務所で53歳の生涯を閉じました刑務所当局は「老衰」と発表しましたが、身長168センチあった人の体重が、31・6キロになっていました。歯は5、6本となり、飯粒などを机の上で指ですりつぶして食べていました。16年にわたる獄中生活下の栄養失調によるものでした宮城の党員たちが、東北大医学部でホルマリン池槽に放置されている遺体を発見したのが、1948年3月。人体解剖の教材用でした。それを撮影した故庄司幸助氏(元党衆院議員)は「解剖し尽くされ、骨の間に茶褐色のわずかばかりの肉のささくれが残っていた。むごいことをするものだと思った」と証言を残しています市川正一は早稲田大を卒業後、党創立直後に入党し、29年に「四・一六事件」で逮捕。「日本共産党員になった時代が真の時代、真の生活である」と公言した姿勢そのままに、苦難に耐えぬく勇気と気概をもった革命家でした公判では、弾圧された被告を代表して陳述をしました。裁判長の執(しつ)拗(よう)な脅しに屈せず「科学の光明と冷静な論理の力で相手を圧倒していく陳述」(志位和夫委員長)で、党の本当の姿を国民の前に堂々と明らかにしました郷里の山口県光市にある市川正一の碑には、多くの人びとに勇気を与えた陳述の言葉が刻まれています。「党の発展は必然である。党の勝利、すなわちプロレタリアートの勝利は必然である」

【大島博光=市川正一たたえる詩】

◆◆特高に逮捕され闇に葬られた党創立者の一人、上田茂樹とは?

20071020()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 特高に逮捕され闇に葬られた党創立者の一人、上田茂樹とはどんな人ですか?(香川・一読者)

 〈答え〉 上田茂樹は、大分県中津藩(現中津市)の出身で自由民権運動の闘士だった上田長次郎(のちに戴憲と改名)の八男として1900年7月27日、札幌で生まれました。

 父の事業失敗で、中津の中学を2年で中退し、17年に上京、昼は保険会社に働き、夜は正則英語学校で勉強、このころから社会主義文献を読み始め、山川均、堺利彦らのML研究会に参加、21年暮れ、山川らと「前衛社」という雑誌の発行を始めました。父が65歳で病没、その半年後の22年7月15日、22歳の茂樹は、父たち自由民権のたたかいを真っすぐに継承する日本共産党の結成に参加、翌年、中央委員になります。

 23年6月、第一次共産党弾圧で渡辺政之輔らとともに茂樹は投獄され、そのことで関東大震災中の虐殺を運よく免れ、12月に保釈されると、24年5月、日本共産党の理論機関誌『マルクス主義』の創刊に参加、ついで25年9月に創刊された合法面の機関紙としての「無産者新聞」の編集にたずさわります。26年5月、治安維持法違反で禁固10カ月の判決を受け下獄、翌年1月出獄すると、すぐに27年テーゼに基づき、党中央アジプロ(宣伝煽動)部と党関東地方委員長を担当、工場細胞(現支部)づくりに全力をあげます。その一方、『無産階級の世界史』『世界歴史』を執筆、パブロビッチ『帝国主義の経済的基礎』など5冊の訳書を刊行、学習会講師としても活動します。

 この最中の28年3月15日の大弾圧で逮捕され、獄中で結核を再発しますが、30年はじめには結核病舎で30人の同志たちの指導者として、待遇改善のためにたたかいます。のちに「赤旗」は「上田同志の獄内闘争の最大のものは31年8月29日の朝鮮併合記念日の反対デモ、そしてそのデモヘの暴力弾圧に反対して組織されたハンガーストライキである。このハンストは、デモに参加した朝鮮人被告の懲罰反対を要求して組織され、病舎のみでなく市ヶ谷刑務所全体をまきこむにいたった。刑務所はこの形勢に驚いて、ついに懲罰を取り消さざるをえなかった」と書きました。

 かっ血、重肺患のため、執行停止で出獄した上田茂樹は党中央委員として直ちに活動に復帰しますが、32年4月2日、街頭連絡中にスパイの手引きによって逮捕され、そのまま消息を絶ちます。警視庁で虐殺されたことは確実ですが、虐殺者の追及も遺体の捜索もされないままに今日に至っています。31歳の若さでした。「赤旗」は「同志上田茂樹は敵の追及に一言も答えなかった。そして同志上田は虐殺されたのだ。ただちに大衆的抗議を!」と訴えました。

 上田茂樹が消された翌33年2月には西田信春が消息不明になり(後に官憲による拷問死とわかる)、次いで小林多喜二が虐殺されました。

 反戦平和と民衆の解放のために不屈にたたかい抜いた彼らの人生は、日本共産党の歴史に深く刻まれています。(喜)

◆◆中国侵略に反対し殺された岩田義道とは?

2005611()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、岩田義道という愛知県出身の日本共産党員が戦争に反対して殺されたと知りました。どんな人だったのですか?(名古屋・一読者)

 〈答え〉 岩田義道は、戦前の日本共産党中央委員の一人です。1928年2月創刊の「赤旗」の編集・宣伝に携わり、32年4月に活版化、部数を800部から7000部へと戦前最高へと引き上げました。当時は天皇が国の権限すべてを握っている社会で、戦争や天皇絶対に異を唱えたり、「赤旗」を持っていたりするだけで、特別高等警察(特高)に逮捕されました。

 岩田は28年3月15日の日本共産党と支持者への大弾圧(3・15事件)の際には逮捕をのがれ、途中一時期の投獄をはさみ、31年1月から地下活動に移ります。同年9月18日、中国東北部へ侵略が開始される(「満州事変」)と、岩田らを指導部とする党は翌19日、「帝国主義戦争反対、中国から手を引け」の檄(げき)を発表し、侵略反対のたたかいをすすめました。この最中に、党内に潜んでいたスパイの手引きによって岩田は特高に捕らえられ、3日後の32年11月3日、虐殺されます。遺体を見た友人の鈴木安蔵(静岡大名誉教授)は「たくましい彼の顔は紫色に腫(は)れ上がり、鉄の鎖でしめられた両足、手首のすさまじい残虐な拷問の跡とともに、われわれの眼を蔽(おお)わしめるのみであった」と書いています。

 岩田は1898年、現在の愛知県一宮市に生まれ、小学校を出てから東京の紙問屋や、郷里の小学校の教員として働いたのち、松山高校、京都大学へ進学。働く中で貧しい人々の苦しみに直面し、どうしたら貧しい人を救えるか考えます。模索の中で、経済学者の山田盛太郎にマルクス主義を勧められた岩田は、京大時代、『資本論』を原文で3回も通読するなど、猛烈な学習でマルクス主義への確信を深めていきました。1925年には「マルクスの弁証法についての一考察」という論文を書き、『日本資本主義発達史講座』の編集にも党指導部としてかかわり重要な役割を果たします。

 地下活動に入れば「二度と会うことはできなくなるだろう」と考えた岩田は、河上肇に金を借り、船頭だった両親に舟を贈っています。死を覚悟した生活にも、揺るぎない確信と優しさをもち続けた人でした。(佐)

◆◆『貧乏物語』を書いた河上肇とは?

2007823()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 『貧乏物語』を書いた河上肇は日本共産党員だったのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 河上肇(はじめ)は、戦前の絶対主義的天皇制が支配した暗黒の時代、非合法下の日本共産党にすすんで加わった誠実な経済学者です。

 河上が京都帝国大学教授となるのは1915年のことです。河上は、16年9月から、大阪朝日新聞に「貧乏物語」を連載し、資本主義社会の生む貧困と害悪を暴露して読者に感銘を与えました。しかし、それはまだ、社会のすべての人が「心がけを一変」して無用のぜいたくをやめれば「貧乏の根絶」が可能だというものでした。学問上で科学的社会主義への接近を始めた河上は19年には30版も重ねていた『貧乏物語』を絶版にし、同じころ『社会問題研究』という個人雑誌を発行し、マルクスの理論を紹介。『賃労働と資本』『資本論』第1巻の翻訳書等も刊行しました。

 26年、治安維持法の最初の適用として学生社会科学連合会への弾圧が加えられ、同会の指導教授となっていたことが口実にされ大学を追放されます。

 その後、河上は30年2月の総選挙・京都1区に労農党から立候補。非合法下の日本共産党と接触し、国崎定洞が送ってくれたコミンテルン機関紙掲載の「32年テーゼ」を翻訳、32年9月、53歳で日本共産党に入党します。身を潜めていた家で入党通知をうけた河上は「たうたうおれも党員になることが出来たのか」と、「たどりつき、ふりかヘりみれば、やまかはを、こえてはこえて、きつるものかな」という一首を詠みます。

 しかし、はげしい暴圧とテロのなかで33年1月12日に検挙され、転向を強要されます。河上は「獄中独語」と題する文章を書きます。それは「実際運動とは関係を絶ち元の書斎に隠居する」というもので、同じ時期に、党を公然と攻撃・破壊する側にまわった佐野、鍋山らの転向声明とは、大きく異なっていました。37年6月、出獄した河上は、健康悪化のなかで、自叙伝を執筆。多くの知識人が時流に乗って侵略を賛美したことに憤慨して、「言ふべくんば真実を語るべし、言ふを得ざれば黙するに如(し)かず」という詩をひそかにつくっています。

 終戦2カ月後、河上を党に迎えるために党幹部が訪問すると、栄養失調で衰弱しふせっていた身を起こし正座し「終始弱い態度しか取り得ざりしものにて、諸君に対し面目なし」とのべ、戦後も党員として認められた感激を日記に「隠居の老人役に立つべき仕事あらば本望」と記しました。46年1月30日、党の前進を願いつつ、67歳の生涯を終えた河上に、党中央委員会は「革命の闘士、同志河上肇の死をいたみ、われら一同闘争に邁進する」とその死を深く悼む電報を送りました。(喜)

 〈参考〉『不屈の知性』(小林栄三著、新日本出版社)、『河上肇・自叙伝』(岩波文庫) 

◆◆コンパクトに「闘争・死」と刻み 獄死した飯島喜美とは?

2005818()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 反戦平和のたたかいで、若くして死んだ飯島喜美とはどんな女性ですか?(京都・一読者) 

 〈答え〉 飯島喜美は、コンパクトに「闘争・死」と刻み、野蛮な拷問に屈せず、信念を誇り高くつらぬき、24歳で獄死した日本共産党員です。

【飯島喜美のコンパクト】

 喜美は、1911年、千葉県旭市の、ちょうちん職人の家に13人きょうだいの長女として生まれ、小学卒業後、すぐに女中奉公に出て、15歳で、『女工哀史』の舞台となった東京モスリン紡織亀戸工場に入りました。 工場は2交代12時間の過酷な労働と、低賃金、強制的な天引き貯金、監獄のような寄宿舎では読む本も制限されて手紙も開封されていました。

 喜美は、工場でひそかに開かれていた、科学的社会主義の研究会に参加。28年の賃上げ要求ストライキでは、16歳で500人の女工たちのサブリーダーを務め、会社側に要求を認めさせました。

 29年の4・16弾圧(天皇制政府による日本共産党と支持者へのいっせい検挙)で喜美も亀戸署に検束されますが、それに屈せず、日本共産青年同盟(共青)に加盟、5月に日本共産党に入党。翌30年には、労働組合の国際組織プロフィンテルン第5回大会に、日本の女性として初めて参加しています。

 帰国した31年10月は、中国東北部への侵略開始(31年9月、いわゆる「満州事変」)の直後でした。喜美は、重大な情勢のなか反戦運動を広げるために、日本共産党中央婦人部で、女性労働者を組織する活動にとりくみました。「赤旗」32年7月15日付の「戦争が拡がる 婦人は起(た)って反対せねばならぬ」というよびかけなどに喜美の活動の様子がうかがえます。

 しかし、スパイの手引きにより33年5月逮捕されます。獄中で結核となり、まともな治療もされないなかで、信念を貫きましたが、35年12月18日、24歳の誕生日の翌日、栃木刑務所で獄死しました。

 遺品の真ちゅう製のコンパクトは父親の倉吉さんが保存し、後に党中央委員会に寄贈されました。反戦平和と社会進歩のために命をささげた飯島ら青年たちのたたかいは、日本共産党の誇りです。(喜)

 参考 『新版・不屈の青春』(山岸一章著、新日本出版社)、『時代を生きた革命家たち』(広井暢子著、同)

◆きょうの潮流 赤旗19.07.15

 「闘争」「死」と刻まれたコンパクト。肌身離さず持ち歩き、自身の顔を映し出す大切なものにしるした凄烈(せいれつ)な文字。それは、どんな弾圧にも屈せずたたかい抜く覚悟の証しだったのでしょう飯島喜美さん。戦前の紡績工場で女工哀史そのままの過酷な労働を強いられ、社会進歩にめざめていきます。16歳の若さで500人の女工たちの先頭に立ち、ストライキを指導。迫害も恐れず、日本共産党に入党しました世界中の労働組合が集まった国際会議では日本の女性労働者を代表して演説。より良い働き方や社会をめざすことに情熱を傾けながら、時の暗黒政府によって検挙・獄死させられました。わずか24歳でしたその短くも誇りある生涯をまとめた『飯島喜美の不屈の青春』が最近、学習の友社から出版されました。喜美と同じ会社に勤めた著者の玉川寛治さんは戦前回帰に動く今の安倍政権にたいする危機感があったといいます「人権のかけらもない治安維持法によって多くの国民が犠牲になった。それを反省するどころか適法だと公言し恥じない政権に抗し、喜美たちのたたかいを受け継ぐ決意を込めた」。足跡への反響は大きく、わが身に引き寄せた感想も日本の歴史のなかで反戦平和と民主主義の旗を掲げつづけてきた党は、きょう創立97周年を参院選のさなかに迎えました。闇夜につながる勢力とのつばぜり合いのなかで。時代を切り開いてきた先人の声が聞こえてくるようです。いまこそ、日本共産党員魂を呼び起こせと。

◆◆戦前の反戦運動で命奪われた若者、相沢良とは

2005813()「しんぶん赤旗」

相沢良記念碑

 〈問い〉 戦前、反戦運動をしたことで命を奪われた若者が少なくありません。戦後60年、その一人ひとりを思い起こし心に刻むことが大事ではないでしょうか?津軽出身の相沢良という女性もそんな一人と聞きました。どんな人かご紹介ください。(青森・一読者)

 〈答え〉 相沢良は、戦前、主権在民と反戦の運動に身を投じ、拷問と獄中生活による病気で25歳8カ月の短い生涯を閉じた女性です。足跡を丹念にたどって『相沢良の青春』(新日本出版社)を著した故山岸一章は「少女時代から、いつも本を手もとから離したことがなく、ゆたかな教養と理論的確信をつかんでいた」「私が最も感動したのは、いつでも自発的に、能動的に困難な活動を自分の任務にし名誉欲や名声欲をかけらも残してないこと」と、若い死を惜しんでいます。

 良は1910年、青森市浪岡の三代続く村医者の家に生まれ、県立青森高等女学校から東京・大森の帝国女子医専に進学します。良が入学した28年は、中国への侵略拡大をはかろうとしていた時期で、3月15日には日本共産党への大弾圧があり、大学では社会科学研究会も解散させられ、反戦運動は非公然の活動に移っていました。

 帝国女子医専にも日本共産青年同盟(共青)班がつくられ、良は地下の党に直接協力する活動の責任者に。逮捕状の出た東京市バスの労働者を下宿に1カ月半もかくまったこともありました。30年5月のメーデーに参加。停学処分を受け中退、横浜の富士紡績保土ケ谷工場の労働者に。全協(日本労働組合全国協議会)分会機関紙「赤い富士絹」を配布中に検挙され、津軽に戻り、体力が回復すると、青年と読書会を開催。中国侵略開始前夜の31年4月には上京し日本反帝同盟と連絡をとり、「共青の青森派遣オルグ」として青森に戻っています。このことから山岸氏は「(共産党に)入党したと考えられる」としています。

 31年12月、良は特高に追われ、花嫁姿に変装して北海道へ。札幌で、フルヤ製菓や豊平のゴム工場の労働者とサークルをつくり、「クロさん」の愛称で慕われました。33年4月4日良は検挙され、野蛮な拷問にも信念を貫き、懲役5年の刑に。獄中で肺エソになり、刑務所を出されたときは、手足は針金のように細く、出所7日目の36年1月28日、家族にみとられ亡くなりました。良を偲び故郷の浪岡と札幌に顕彰碑が造られ、浪岡では毎年5月、碑前祭がおこなわれています。(喜)

◆◆24歳の命を奪われた高橋とみ子

2006629()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、反戦平和のたたかいの中で命を奪われた伊藤千代子。その千代子が学んだ仙台市の尚絅(しょうけい)女学校の後輩に高橋とみ子という女性がおり、その人も24歳で命を奪われたと聞きました。どんな人だったのですか?(宮城・一読者)

 〈答え〉 1934年、治安維持法による暴圧の中、宮城の地で日本共産青年同盟に加わり活動していた高橋とみ子は、特高警察によって、24歳の命を奪われました。

 32年に結成された直後のプロレタリア美術家同盟やエスペランチスト同盟にも加わっていたとみ子は、当時仙台市内にあった片倉製糸や旭紡績の女工たちに、洋裁や生け花を教えながら、日本労働組合全国協議会(全協)仙台支部の組織化をすすめていました。紡績工場の過酷な労働に怒りを込め、苦しい境遇にあった女工たちに心を寄せて、自身も女工たちと同じような地味な装いをする、心優しい人でした。

 彼女が逮捕されたのは、34年10月20日、県内の留置場をたらいまわしにされたあげく、11月21日県北の中新田(なかにいだ)警察署で殺されました。警察は自殺と発表して、拷問死を覆い隠し、真実がわかったのは戦後になってからでした。

 彼女が逮捕されたときの弾圧の背景には、28年3月15日や29年4月16日の全国いっせい弾圧を受けても不屈にとりくまれた運動がありました。32年には県内で125人が逮捕されましたが、それを乗り越える運動の新たな高揚が起きていたのです。それを根絶やしにしようと34年の大弾圧となったのです。

 とみ子が運動に参加したのは、プロレタリア美術家同盟仙台支部の結成に参加した次兄辰夫の影響とともに、尚絅女学校の存在が大きかったものと推測されます。尚絅女学校はバプテスト系の学校で、進歩的開明的校風があり、20年代には、近代思想の高波の中で、社会主義・共産主義を自由に論ずる状況もあったといわれています。

 とみ子が入学する2年前の28年、女子学生社会科学連合会第1回大会に同校も参加し、地方委員も出していました。とみ子の卒業時、教師排斥のストライキも起きています。

 とみ子が虐殺された翌年と2年後、旭紡績の女工たちは2度にわたり賃上げと待遇改善をもとめてストライキに立ち上がり、一人の解雇者もだすことなく全面勝利しました。現実社会の矛盾とそこから生まれる要求に立脚した堂々たるたたかいでした。

 毎年11月には、とみ子をしのび、そのたたかいを顕彰する墓前祭が開かれています。(遠)

【赤旗16.11.07

◆◆命をかけて反戦の信念を貫いた田中サガヨとは?

2005817()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 先日、伊藤千代子のことが紹介されていましたが、千代子と同じように、侵略戦争に反対してたたかい、24歳で亡くなった田中サガヨ、飯島喜美、高島満兎のこともご紹介ください。(京都・一読者)

 〈答え〉 「お姉さんお久しいございます。今又私はとらわれの身となっております」という書き出しで、留置場でチリ紙に走り書きした手紙を残した田中サガヨは、70年前の1935年、24歳10カ月の若さで、天皇制権力によって命を奪われた日本共産党員の女性です。

 サガヨは山口県下関市豊田で1910年、造り酒屋の三女に生まれ、高等女学校を卒業後、タイプの技術を習得。29年、働きながら勉強をすることをめざし、兄・尭平(ぎょうへい、49年の衆院選で山口2区から日本共産党公認で当選)をたよって上京。東大社研にいた兄から科学的社会主義の理論を学びます。やがて検挙された兄の救援活動をするなかで、共産党とともに歩む決意を固めます。

 兄が「一命を捨てる覚悟があるのか」というと、「もちろんよ、私も随分考えてのことよ。一命を棄てるの、覚悟の、そんな神がかりの言葉はどうかと思うの。私の聞きたいのは、私のようなものでも、一生懸命やれば何かできるかしら」といって、32年に入党しました。前年の31年秋には、天皇制政府が中国東北部(旧「満州」)への侵略を開始。反戦平和のたたかいをすすめる共産党にたいする攻撃を集中した時期でした。サガヨは、「赤旗」中央配布局の仕事につきました。「赤旗」は32年4月から活版印刷になり発行部数は7千部に。「日本帝国主義の満洲強奪の駆引、『満洲国承認』に反対せよ!」(32年9月15日付)、など、侵略戦争反対を訴えますが、33年2月には小林多喜二が虐殺され、宮本顕治氏が逮捕された翌日の33年12月27日、サガヨも銀座4丁目で逮捕され、拷問を受け、重い結核にかかります。保釈は認められず、病状が悪化し、35年4月、市ケ谷刑務所を出されますが、20日後の5月14日に生涯を閉じました。

 チリ紙には「信念をまっとうする上においては、如何なるいばらの道であろうと、よしや死の道であろう(と)覚悟の前です。お姉さん。私は決して悪い事をしたのではありません。お願いですから気をおとさないで下さい」と書かれていました。

 現憲法にはサガヨらが命をかけた反戦平和と主権在民の主張は刻みこまれました。(喜)

 参考 『時代を生きた革命家たち』(広井暢子著、新日本出版社)

◆◆反戦平和の信念を貫いた共産党員、高島満兎とは?

2005820()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 反戦平和のたたかいで、若くして死んだ高島満兎とはどんな女性ですか?(京都・一読者)

 〈答〉 戦前、日本が中国への侵略戦争を始めたころ、反戦運動をおこなったことで、残虐さではナチスのゲシュタポと並び称せられる特別高等警察(特高)に捕まり野蛮な拷問をうけ、少なくない人々が命を奪われました。特高におそわれ、2階から飛び下りて下半身不随となり、1934年7月13日、24歳9カ月の生涯を閉じた高島満兎もそんな一人です。

 満兎は1909年10月、福岡県久留米市の造り酒屋の2女に生まれ、快活な少女として育ち、久留米高女(現明善高校)に在学中は陸上の選手でした。26年、日本女子大学に入学、クラスでも寮でも「まとしゃん」とよばれ慕われました。

 満兎の生き方に影響を与えたのは長兄・日郎(じつろう)でした。日郎は、旧制中学を卒業後、油絵を描いていましたが、労働農民党の活動に参加。27年夏、検挙されると、留置場の壁に「労働者、農民を苦しめる天皇制を打倒せよ!」と書き、不敬罪で4年間、鹿児島刑務所に。仮出獄した翌32年3月、24歳で急逝します。

 この兄との交流を通じて、満兎は29年ころから学生社会科学連合会(学連)の目白班に参加。卒業前に日本共産青年同盟(共青)に加盟します。(満兎に共青加盟をよびかけたと思われる早大共青班の加藤為作も豊多摩刑務所で32年、24歳で獄死しています)

 30年4月、大学を卒業した満兎は「無産青年」編集局で組織部の仕事につき各地に配布網を広げることに没頭しました。千葉医大の共青班は、満兎の指導で、75人ほどの「無産青年」読者会を組織し、国鉄千葉機関区に「帝国主義戦争反対!」のビラをまいたり、共青のポスターをはったりしています。中国東北部への侵略開始というきびしい情勢下でのたたかいで、満兎は31年暮れから32年にかけて結核で入院しますが、途中で病院をぬけだし、活動。この年に日本共産党に入党し、共青中央の農民対策部長となり、長野などで共青再建のために奔走しました。しかし、33年3月、東京・新宿の借家で寝ていたときに特高の襲撃をうけ、骨盤を複雑骨折。ギプスに包まれ、下半身を動かすこともできないまま翌年、亡くなりました。新しい時代の夜明けを信じながら。(喜)

 参考 『新版・革命と青春』(山岸一章著、新日本出版社)、『時代を生きた革命家たち』(広井暢子著、同)

◆◆忘れ去られた反戦の医師・末永敏事の発掘

赤旗日曜版17.10.29

◆◆戦前の日本共産党員・古川苞とは

2006621()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前の日本共産党員、古川苞(しげる)とはどんな人ですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 日本共産党の戦前史には、野蛮な天皇制国家の専制支配と侵略戦争に反対して勇敢にたたかい抜いた、多くの若き活動家の名が刻みこまれています。古川苞(1906―35年)もその一人です。

 古川は、主に東京・東部の葛飾、江東、江戸川、墨田、台東、足立で活動。34年、4度目の検挙のとき、特高の拷問に一言もしゃべらず、60日間のハンストをし、蛎(カキ)男に警視庁も悲鳴(読売新聞昭和9年7月19日付)と報道されました。腸結核で重体となり仮釈放、日本共産党再建の志を最後まで捨てずに『資本論』の学習をしつつ、35年12月15日葛飾区で死去しました。29歳でした。

 古川の生涯については、作家の山岸一章が研究し、『不屈の青春』(新日本出版社)にまとめています。山岸はその中で、「黙々と地味な仕事に骨身を惜しまず自己犠牲をつらぬいた」人として彼を讃えています。

 古川は、北海道小樽市に生まれ、水産技師だった父について宮崎、東京、山形を転々、23年に山形高校に入学、24年、学生社会科学連合会(学連)結成に呼応して校内に亀井勝一郎らとともに山形社会思想研究会を結成しました。26年、東京帝大文学部に入学すると、新人会に加入、本所柳町元町の東大セツルメント(=貧困地区に託児所などを設け生活向上に助力する活動)で市民学校の講師をしています。当時、東京モスリン亀戸工場労働者で飯島喜美らとともに働いていた伊藤憲一(後に党衆院議員、大田区議)は、古川の教えを受けた一人で、「彼の真剣な態度は、生徒の信頼を一身に集めていた。講義の終わりに、戦争はなぜおこるかという質問をだして討論をやらせた」と語っています。(前掲書)

 28年2月1日「赤旗」創刊と同時に読者になり、3・15事件で検挙、翌29年2月、日本共産党に入党、同年の4・16事件でも検挙され、拷問で病気が悪化、健康を回復すると、弾圧をぬってひそかに「赤旗」印刷の仕事につきます。そのころは、中国東北部に侵攻を開始し(満州事変、31年9月)、国内では、戦争に反対する日本共産党を容赦なく弾圧した時期でした。

 小林多喜二の虐殺(33年)につづき、34~35年には、高島満兎、高橋とみ子、田中サガヨ、飯島喜美(いずれも24歳)らの命が奪われました。野呂栄太郎(33年11月検挙、34年2月、33歳で絶命)、宮本顕治の検挙(33年12月)後の35年には党中央の機能が失われるなかで、古川は実質的な党東京市委員長として「党を死守してたたかった、もっともすぐれた闘士」(前掲書)でした。(喜)

◆◆治維法違反で検挙、自殺した公爵の娘、岩倉靖子とは?

200849()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、華族の子弟にも日本共産党支持者がいたのですか? 「赤化華族」事件と岩倉靖子について知りたいです。(長野・一読者)

 〈答え〉 戦前、戦争反対、主権在民を主張した日本共産党と科学的社会主義の理論は、いわゆる無産階級にとどまらず社会各層の人びとの心をとらえました。1932年には、警察も「最近に発覚せるシンパ(支持者のこと)ハ官吏、大学教授、弁護士、文士、新聞記者、学者、銀行会社員、名家富豪の子弟等極めて広汎ニ亘り」(同年12月の警保局保安課「日本共産党ノ運動概要」)と記したほどでした。「名家富豪の子弟」には、天皇の「藩屏」(はんぺい=帝室を守護する者の意味)である華族もふくまれていました。

 33年の「華族赤化」事件とは1月18日の八条隆孟(当時27歳、父は子爵)の検挙に始まり、3月下旬、森俊守(24歳、父は旧三日月藩主で子爵)、久我通武(父は男爵、祖父は侯爵)、山口定男(23歳、祖父は明治天皇の侍従長)、上村邦之丞(20歳、海軍大将の孫)、岩倉靖子(20歳、後述)、亀井茲健(22歳、父は昭和天皇の侍従で伯爵)、小倉公宗(23歳、父は子爵)、松平定光(23歳、父は旧桑名藩主で子爵)、さらに9月に中溝三郎(25歳、本人が男爵)の10人が治安維持法違反で検挙された事件です。(この事件とは別に、新人会に参加した山名義鶴、大河内信威、黒田孝雄、京都学連事件で検挙された石田英一郎、築地小劇場を創設した土方与志、宮崎竜介の妻・柳原白蓮らの華族が知られています)

 八条らは、東京帝大の学習院出身者でつくる「目白会」の中で後輩たちと読書会をひらき、「無産者新聞」を普及、数十人を組織していたといわれます。天皇制政府は衝撃をうけ、改心した者には温情で、そうでない者には厳罰の方針をとり、八条、森、岩倉の3人を起訴、他はあっさりと反省手記を書いたということで釈放しました。

 女性でただ一人検挙された岩倉靖子は、明治維新の立役者で華族でも最上流の公爵となった岩倉具視(ともみ)のひ孫です。靖子は「人夫などが汗水たらして働いている姿を見て帰っては可哀そうだと涙ぐみ、同族や富豪のぜいたくぶりを見ては、どうして世の中に等差がひどいのかと思い沈む」少女でした。

 女子学習院から日本女子大にすすみ、いとこの夫・横田雄俊(大審院院長・秀雄の4男、長男は戦後の最高裁長官・正俊)の影響で、32年3月、社交クラブ「五月会」をつくり上流中流階級の女性に日本共産党の影響を広げようとします。

 検挙後、「肉親の情」「家門の名誉」で迫る取り調べにも、靖子は仲間についての具体的な供述は拒否し抵抗したため、他の検挙者と違って市ケ谷刑務所に収監されました。そして、保釈直後の33年12月21日早朝、自宅で自殺しました。遺書には「説明もできぬこの心持を善い方に解釈して下さいませ」と鉛筆でしたためてありました。人間の良心を乱暴にふみにじり、屈服させようとした天皇制権力のむごさは今日もなお糾弾されなければなりません。(喜)

 〈参考〉浅見雅男『公爵家の娘・岩倉靖子とある時代』中公文庫、荻野冨士夫『昭和天皇と治安体制』新日本出版社

◆◆戦前の「司法官赤化事件」とは?

2008910()「しんぶん赤旗」

〈問い〉 戦前の1930年代にあった「司法官赤化事件」とは、どんな事件だったのですか?(福岡・一読者)

 〈答え〉 「司法官赤化事件」とは、1932年から33年にかけて、10人をこえる裁判官や裁判所の職員が、全国各地で治安維持法違反を理由に逮捕され、そのうち東京地裁の尾崎陞(すすむ)判事など4人の判事と書記の西館仁など5人の裁判所関係者が起訴された事件です。

 天皇制の絶対的な権力のもとで、「天皇の名で」裁判をおこなう裁判所にまで、日本共産党の組織が及んでいたということで、「神聖な司法部まで」日本共産党の影響があった重大問題だと大々的に報道されました。

 事件は、これらの人々が、日本共産党に資金カンパをしたとか、「赤旗」の配布を受けていたとか、研究会に参加したとか、あるいは一部の人が活動家に住居を世話したとか、日本共産党員になったとかいう、今でいえば全く当然の何でもない普通の活動が罪にとわれたものです。

 しかし、そもそも治安維持法は、こうした日本共産党への加入や活動支援、協力を、「国体の変革(国の政治のあり方を根本的に変える)」として、天皇制のもとでは、許せない考え方だとし、最高刑は死刑をもって厳罰に処すという、思想を罰する悪法でした。

 裁判の結果は、判事の尾崎が6年、滝内礼作、為成養之助が各3年、福田力之助が2年、組織の活動の中心メンバーで、「転向しなかった」とされた書記の西館仁は8年と、この5人には懲役の実刑が科せられました。

 なお、戦後前記の4判事は、いずれも弁護士となり、自由法曹団に加入して、各方面で活躍しました。また、西館仁は日本共産党中央委員・北海道委員長などとして活動しました。(法)

◆◆映画「母べえ」で「父べえ」のモデル=ドイツ文学者の新島繁は誰?

2008315()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 映画「母べえ」で、坂東三津五郎が演じた「父べえ」のモデルは実在の人で小林多喜二とも交流があったと聞きました。どういう人だったのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 映画の実在の主人公はドイツ文学者の新島繁(本名・野上巌)で「母べえ」の綾子さんともども戦前戦後の二十数年間を杉並で暮らしました。

 新島は1901(明治34)年山口県生まれ。県立山口中学、山口高等学校をへて東大文学部ドイツ文学科を卒業、26年日本大学予科のドイツ語教授となり、プロレタリア文化運動に積極的に参加しました。こうした活動が大学当局ににらまれ思想上の理由で日大を追われ失職します。新島はやむなく31年、杉並区高円寺に古書店大衆書房を開き、綾子さんは代用教員をして生活を支えます。この古書店には、近くの馬橋に住んでいた小林多喜二が時たま、「インタナショナル」(野呂栄太郎主幹の産業労働調査所発行)などを買いに立ち寄っていました。

 新島は、33年3月15日、二人の娘、「初べえ」と「照べえ」の手を引いて敬愛する多喜二の労農葬会場・築地小劇場へかけつけました。しかし、会場付近は警官隊が包囲していて近づけませんでした。

 新島は32年10月、戸坂潤、岡邦雄、永田広志、服部之総(しそう)らが中心になって、哲学者、社会・自然科学者などが幅広く参加する唯物論研究会の結成に参加。後に幹事となり、『社会運動思想史』を書きます。

 この唯研は、科学的社会主義にもとづく文化運動が弾圧・解体されていったとき、唯物論の学問的研究を掲げて創立された研究団体でした。特高警察は38年11月から翌年にかけて、その中心幹部をはじめ43人を治安維持法違反として一斉に検挙しました。新島もその一人で、都内の警察署をたらい回しにされ拷問をともなう取り調べを受け、40年4月起訴され、未決勾留入獄します。

 映画の主人公は獄死しますが、新島は獄中で初志を貫けず、心ならずも「上申書」を提出することによって同年12月保釈出獄します。

 敗戦を迎えた新島は、戦中に多喜二のようにたたかえずに挫折した過ちへの深い反省に立って、日本共産党にいち早く入党し精力的に活動を始めます。執筆活動をしながら自由懇話会、全日本教員組合、民主主義科学者協会などの設立に尽力し、杉並区民生委員などの地域活動、原水禁運動、松川事件救援活動などに献身しました。

 54年綾子さんの死去後、55年神戸大学に赴任し57年教授となりますが同年12月病死しました。地元杉並では「唯研弾圧事件」60周年にあたる1998年から新島繁の業績に光をあてる顕彰運動をすすめてきました。

◆野上=映画「母べえ」のモデルだった父

(赤旗17.09.04

◆◆敗戦の前年に獄死した池田勇作とは?

2009124()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 山形県には戦前、獄死した池田勇作という忘れてはいけない先駆者がいると聞きました。どんな人だったのですか?(山形・一読者)

 〈答え〉 池田勇作は、戦前、弾圧に屈せず、反戦を訴え、プロレタリア文学を志し、40年6月に治安維持法違反で検挙され、1944(昭和19)年3月13日、東京・豊多摩刑務所で30歳の若さで獄死した人です。勇作の妻、郁(旧姓阿部、日本女子大卒、紀伊国屋書店勤務)も夫とともに検挙され半年後釈放されますが勇作の遺骨を抱いて故郷・余目町に帰り、終戦の3日前8月12日、過酷な取り調べのために発症した結核で病死します。

 池田勇作は1913年、鶴岡市で下級士族の家に生まれ、訓導をする伯母たちに支えられ旧制中学に学び、4年生(16歳)の時、仲間と共に社会科学研究会をつくります。その後中退し上京、電機学校(現東京電機大)に入学。東京では築地小劇場に刺激を受けますが伯母の死で学費が途絶えて31年春、帰郷。「荘内春秋」新聞の編集に加わり、「プロレタリアスポーツとは何か」など多くの記事を寄稿。その一方、プロレタリア作家同盟、演劇同盟、映画同盟また同文化連盟などの支部を鶴岡の町に次々と発足させ、それらの活動を「荘内春秋」や「荘内新報」に載せる活動を精力的におこないます。また、作家同盟機関誌『荘内の旗』を創刊しますが、多喜二労農葬の日(33年3月15日)に4回目の予防検束を受け、第1号はすべて押収され、第2号も所在不明。第3号の1冊だけが奇跡的に発見され、そこに多喜二への思いと虐殺への怒りをこめた作品「黙祷(二)」(筆名、浮田進一郎)をみることができます。この時期の著作には戯曲「遺族」(演劇同盟機関紙『鍬と銃』)など14編が見いだされています。

 36年2月、再び上京、岡部隆司らとともに日本共産党の再建運動に取り組む一方、雑誌『機械工の友』の創刊(38年9月)から編集に深くかかわり読者会を精工舎や東京計器など数社に組織、『中央公論』に「生田修」名で2編、ダイヤモンド誌に1編とほかに絶筆となる長編小説「河岸」を「最上駿作」名で発表しています。これらの作品は、「労働者の幸せのためにこそ新しき政治が打ち立てられるべき」(「一旋盤工の生活より」『中央公論』54年巻)という勇作の思想にそって、労働者の向上心と仲間同士の助け合い、励ましあい、家族への温かい思いやりの大切さ、を描いています。

 池田勇作は、これまであまり知られていませんでしたが、池田道正・山形大学名誉教授らの努力で、昨年春、遺作集『魂への道標―池田勇作と郁の軌跡』が出版され、ブログhttp://ikeda-yusaku.blogspot.com/もつくられています。(道)

◆◆敗戦直前、拷問でたおれた古川友一とは?

2008221()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 小林多喜二の1928年1月1日の日記に寺田とともに登場する古川とはどういう人ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二は小樽高商時代の初期に虐げられ貧しい人々に共感の目を注いで小説を書いていました。その多喜二が北海道拓殖銀行に勤務しながら小樽の階級闘争の現実に直面します。それまでマルクス主義の周辺で模索していた多喜二が、その思想的動揺を振り切っていくきっかけとなったのは1927年秋に彼が小樽社会科学研究会に参加したことがあげられます。この社会科学研究会で中心的役割を果たしていたのが小樽きっての理論家といわれた古川友一(こがわ・ともいち)です。

 古川は1889年青森県弘前に生まれ、朝陽尋常小学校卒業後、樺太(現サハリン)を経て小樽市役所に勤務します。そして1926年労農党小樽支部結成に参加、ついで社会科学研究会を組織し、そこには当時の小樽の労働・農民運動の活動家や小樽高商の学生が参加していました。

 この社会科学研究会は、毎週火曜日に開かれることから「火曜会」と呼ばれていました。会合は主に古川の家で行われていました。テキストには「資本論解説」「金融資本論」「レーニンの弁証法」「共産党宣言」などが使われチューターは古川がつとめました。

 28年2月の第1回普通選挙では山本懸蔵候補を応援、2月中旬には多喜二とともに東倶知安方面遊説に参加します。多喜二の『東倶知安行』に登場する吉川は古川です。古川は、その直後の3・15弾圧で検挙、小樽署で拷問を受けます。『一九二八年三月十五日』の冒頭に登場するインテリの小川龍吉も古川友一がモデルです。失職した古川を髪結いをして支えた妻のキヨが、お恵のモデルです。

 その後、古川は労農派の立場で、ひそかに資本論研究会を続けますが小樽での活動の場を奪われ43年ごろ上京、小樽高商で多喜二と同期生であり当時同盟通信社にいた板垣武雄の尽力で43年、同盟通信社に勤務します。

 44年6月、御茶ノ水の自宅に突然踏み込んできた特高警察に連行され東京・府中刑務所に収監されます。小樽での資本論研究会活動が理由ですが、彼が反戦の立場をとり短波受信機を持っていたことからスパイ容疑をかけられたともいわれています。

 古川はその後、厳寒の小樽署に連行され激しい拷問をうけましたが節を曲げず不屈にたたかい、「脚気衝心」(脚気にともなう心筋障害)のため小樽病院で45年1月12日死去しました。享年56歳でした。(登)

◆◆反戦に命を捧げた遠藤元治とは?

20071110()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、新潟県で戦争に反対する人民戦線運動に参加し、特高の拷問のために命を奪われた遠藤元治(もとじ)とはどんな人ですか?(新潟・一読者)

 〈答え〉 遠藤元治は、戦前、侵略戦争に反対し、27歳で命を奪われた新潟県長岡市出身の日本共産党員です。遠藤ら、反戦平和・主権在民の旗を掲げた党の戦前の不屈のたたかいは、真の愛国主義・民主主義を体現したもので、一政党の誇りにとどまらない日本の戦前史の誇りといえるものです。

 遠藤は、1911(明治44)年、長岡市の実業家の3男として生まれ、長岡中学をへて、1929年(昭4年)、第三高等学校(京都大学の前身)へ入学します。ちょうど、世界恐慌で失業、農業危機が深刻となり、労働争議・小作争議が続発、天皇制政府は中国への侵略を準備し、治安維持法改悪に反対した山本宣治が右翼テロによって刺殺された直後でした。

 前年には大学でも軍事教練がとりいれられましたが、三高には、まだ自由の伝統が残り、自由寮はその名の通り、出入りの制限もなく、寮監もおらず、学生の自由に任されていました。そこに、寮に門限を設け、正副総代も学校が任命するなどの規制が出されます。

 30(昭5)年7月2日、全学900余のうち700人以上が参加する学生大会がひらかれ、学生たちは寮に籠城(ろうじょう)します。しかし一週間後、警官隊が寮に乱入、遠藤(当時2年)は、責任者として退学処分になります。

 その後、遠藤は、神戸のゴム工業所事務員となり、大阪地方の全協(日本労働組合全国協議会)で活動、33年3月ころに故郷の新潟県に戻ります。

 当時、新潟の党は前年(32年)の弾圧によってほぼ壊滅していました。遠藤は、同年4月ごろに入党、農民組合の書記をしながら、東京・新潟間を往復し、「赤旗」(現在の「しんぶん赤旗」)を配布、県党再建に力をそそぎました。

 しかし、天皇制政府は、32年11月には党中央委員・岩田義道を、翌33年2月にはプロレタリア作家小林多喜二を拷問で虐殺、遠藤も33年8月11日、逮捕されます。遠藤は、過酷な拷問にも「死をもって党の秘密を守る」と二十数日間ハンストをおこない、極度に衰弱、その後、懲役2年の刑で市ケ谷刑務所へ送られますが、35年暮れ、執行猶予処分を受け、実家で特高の監視つきの療養をしばらく続けます。

 そして、遠藤は、ふたたび敢然として、北日本農民組合(北農)に青年部を確立し、これをテコに農民運動の統一と反戦活動の拡大に情熱を傾けるなか、37年3月、約40人が検挙された「北農青年部事件」でふたたび検挙され、はげしい拷問と獄中の虐待のため重体となり39年10月11日、仮出獄、2日後の13日、その尊い生命を人民解放のために捧(ささ)げつくし生涯を終えました。(喜)

 〈参考〉『美しい未来を求めて―反戦にいのちを捧げた遠藤元治27歳の生涯』(加藤栄二著、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟新潟県本部発行)

◆◆戦前、22歳で命を奪われた日本共産党員、藤本仁太郎とは?

2007113()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、関西地方の日本共産党員のたたかいはすごかったと先輩に聞きましたが、そのなかで、22歳で命を奪われた、藤本仁太郎という名がありました。どんな人ですか?(大阪・一読者)

 〈答え〉 戦前、天皇制権力の暴圧のもとで、少なくない日本共産党員が侵略戦争に反対し国民主権の世の中をつくるためにたたかい、命を奪われました。1934年(昭和9年)12月8日の夜明けに22歳11カ月の生涯を終えた藤本仁太郎(じんたろう)もそんな一人です。

 藤本は、32年10月30日の弾圧で壊滅した日本共産党関西地方委員会の再建のために21歳の若さで関西地方委員長となります。翌年3月に逮捕され、特高警察の残虐な拷問と獄中の虐待によって重体となり、仮釈放され23日後に亡くなりました。

 藤本は兵庫県城崎郡日高町(現豊岡市日高町)の自作農家の6人きょうだいの二男で、村の高等小学校を卒業すると製糸工場の給仕となり、昼は働き夜は中学講義録で勉強しました。

 世界恐慌下、低賃金と激しい労働、劣悪な労働環境の製糸工場の中で、藤本は、女性労働者の待遇改善の要求を支持して会社側とあらそい、30年3月、在職4年で退職します。その後、生家の農業を手伝い、村の青年団に入って、プロレタリア文学・芸術運動の機関誌『戦旗』をかくれて読むように。読書会や回覧雑誌を組織する計画をたてますが、警察からのよびだしと親の反対をうけ、その年(30年)の12月上旬、家を出て神戸へ行き、シバタゴム工場で働き始めます。工場では、文化サークルを組織、翌年に非合法化下の日本共産党に入党、工場に党員4人の細胞(現支部)をつくり、細胞長になり、工場新聞を発行しました。

 当時、関西の党組織は31年8月26日の大弾圧で約1千人が検挙され、下司順吉、峠一夫など185人が起訴されて壊滅的な打撃をうけた直後でした。検挙を逃れた共産党員は、各工場に細胞をつくり、藤本は再建された党神戸市委員会の委員に選ばれました。神戸製鋼のある職場では党員7人で、500人中200人の労働者を革命的な工場委員会に組織しますが、32年7月、ストライキ準備中に工場だけで120人以上が検挙されました。その一人、岡山県津山市出身の須江操は、特高警察の野蛮な拷問でひん死の状態になって、仮出所後4日目に21歳で死去しました。

 32年10月30日の大弾圧のさい、逮捕をまぬがれた藤本は、ひるむことなく、関西の党組織再建の中心になります。33年2月26、27日には、小林多喜二の虐殺に抗議したプロレタリア演劇団の追悼劇上演(中之島公会堂で5千人の労働者が参加)や、同27日の神戸三菱造船労働者2千人によるストライキなど勇敢なたたかいをつづけました。

 しかし、計画していた、小林多喜二の労農葬の3日前の3月12日夜、ついに藤本は天王寺の路上で逮捕されたのです。

 ふたたび、戦争への道を歩まないためにも、これら反戦平和のためにたたかい抜いた一人ひとりの人生を語り継ぐことが必要ではないでしょうか。(喜)

 〈参考〉『新版・不屈の青春~戦前共産党員の群像』(山岸一章著、新日本出版社)

◆◆戦前、秋田の若き農民運動指導者 鵜沼勇四郎とは?

2007929()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、秋田の若き農民運動指導者で獄死した鵜沼(うぬま)勇四郎とは?(秋田・一読者)

 〈答え〉 日本共産党の党名には、反戦平和と国民のくらしを守ってたたかい、命を奪われた多くの人生が刻まれています。秋田県の若き農民運動指導者で、1938年(昭和13年)6月12日、28歳で獄死した鵜沼勇四郎もそうした一人です。

 鵜沼は、10年(明治43年)、秋田県湯沢市の旧幡野村の小作農の家に生まれました。当時の秋田は、大正年間に入って急速に巨大化した地主制度と、29年(昭和4年)の大恐慌や続く凶作で、農村の窮乏化はすすみ、欠食児童、教員の給料欠配、婦女子の「身売り」などが激増しました。

 昭和に入ってからは小作争議が34年487件、35年471件と全国一に広がっていました。北秋田郡前田村(現北秋田市)争議、南秋田郡下井河村(現井川町)争議、平鹿郡沼館町(現横手市)団平争議、雄勝郡湯沢町(現湯沢市)小川家争議などがその代表的な争議です。

 鵜沼は、これらの小作争議を指導するなかで、32年に日本共産党に入党、秋田県党再建の責任者となり、32年4月から同年11月10日のいわゆる11・10弾圧(102人検挙)までの7カ月間に、県南を舞台に、20数人までに党員をふやしました。

 鵜沼は、高等科2年のころは、石川啄木の歌集をふところにしのばせている多感な少年でした。18歳のころには、プロレタリア文学の雑誌『文芸戦線』や『戦旗』を読み、友人とスイカ畑の番小屋で、ひそかに社会科学の研究会をひらいたりしました。

 彼を決定的に変えたのは、29年の前田村小作争議でした。大地主の一方的な小作料引き上げの通告に抵抗する農民組合にたいして、地主側は暴力団を使い、石合戦や日本刀で切り結ぶ凄絶(せいぜつ)なものでした。鵜沼は緊迫すると、がまんできず、家から2日間歩きとおして争議団本部にかけつけました。

 前田村から帰った鵜沼は、雄勝農民組合の書記として職業的に活動するようになり、各地の小作争議の援助に飛び回り始めます。弱冠20歳。このころからずっと野良着で通したといわれます。彼がかかわった争議には、必ず婦人部と少年団がつくられて、地域ぐるみでたたかったことが特徴でした。デモでは、だれもが声をそろえて歌えるように、「モシモシ、××××さんよ、世界のうちでお前ほど、強欲非道なやつはない、どうして、そんなにひどいのか」と替え歌を作って歌いました。

 32年検挙された鵜沼は実刑6年を受け、獄中ではエスペラント語を勉強していましたが、結核と刑務所の虐待によって、出獄間際に獄死しました。鵜沼と一緒にたたかった沼館町の島田平兵衛も全資産を農民運動に投じて同年7月、28歳で死去、十文字町(現横手市)出身の小川正治も41年8月、巣鴨刑務所で獄死しています。(喜)

 〈参考〉『新版・不屈の青春~戦前共産党員の群像』(山岸一章著、新日本出版社) 

◆◆『蟹工船』執筆に協力した乗富道夫とは?

2008223()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 小林多喜二の『蟹工船』執筆に協力した乗富道夫という人がいると聞きましたがどういう人ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二が1921年小樽高商に入学した時、樺太から年長の乗富(のりとみ)道夫が同期生として入学してきます。二人は学内の近代劇研究会に属していました。乗富は多喜二がマルクス主義に興味を持ち始めたころにはすでにマルクス主義の立場をとっており理論的には多喜二をリードしていました。

 乗富は卒業論文に「共産党宣言」の英独語版翻訳を提出し教授会ではそれをめぐって紛糾したといわれています。

 24年、二人は小樽高商を卒業し、多喜二は小樽に残り、乗富は安田銀行函館支店に勤務します。そこで乗富道夫は政治研究会函館支部結成に参加、労農党に入党、労働組合の闘争支援を行い、活動家の資本論学習会のチューターをつとめます。さらには野呂栄太郎の主宰する産業労働調査所の函館支所長として労働者教育や調査活動を進めていました。蟹工船の実態調査などもその一環として進めていました。

 一方、小林多喜二が北洋漁業、とりわけロシア領海近くの蟹工船での漁夫虐待事件やあくどい搾取の実態に関心をもち始めるのは27年です。前年の新聞報道により蟹工船の実態が赤裸に暴露されたことに触発されたからです。銀行の友人たちの協力で新聞の切り抜き作業を行ってもいました。

 当時、多喜二は拓銀で働くかたわら磯野小作争議や港湾労働運動支援を続けていました。そこに函館から応援に来ていたメンバーから函館の安田銀行にいる同期生の乗富道夫が蟹工船に関する詳しい調査を行い、その資料をもっていることが伝えられたのです。こうして多喜二は函館の乗富と3年ぶりに再会し、その協力のもとに蟹工船の実態のより正確な情報、資料を入手できたのです。

 こうして乗富の調査・研究協力が多喜二の『蟹工船』の執筆に大きな役割を果たしたのです。

 『蟹工船』は、雑誌『戦旗』の1929年5、6月号に発表され全国的な反響を呼び起こしました。

 その後、乗富は、労働争議支援のため再三にわたり検挙されます。そのため、銀行を解雇され、特高警察からもマークされ函館での活動の場を奪われ、多喜二と前後して上京します。そして計理士(公認会計士の前身)として生活していきます。活動の状況はよくわかっていませんが、多喜二の虐殺遺体が杉並・馬橋に帰った33年2月21日夜、寺田らとともに枕辺に駆けつけていることからみて、上京後も多喜二との連携を保っていたことは確かです。多喜二の死の数年後、乗富は肺結核で病没しました。(登)

 〈参考〉藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』(学習の友社)

◆◆小林多喜二の盟友、寺田とは? 

2008220()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 小林多喜二が1928年1月1日の「折々帳」(日記)で「古川、寺田、労農党の連中を得たことは画期的なことである」と書いていますが、寺田とはどういう関係の人ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 多喜二の日記に登場する寺田は、青森県出身、小樽高商(現小樽商科大学)で多喜二の2年後輩の寺田行雄のことです。

 寺田は多喜二が卒業し拓銀小樽支店に入社した翌年の1925年、小樽高商社会科学研究会の結成に参加、ついで同年10月、大震災による外国人の騒乱を想定した学内の軍事教練押しつけへの反対運動の中心メンバーとして活動し35日間の停学処分を受けました。

 26年同校卒業後、北海タイムス(現北海道新聞)小樽支局に入社、記者業務のかたわら小樽の労働運動、農民運動とのつながりをつよめ、同年、小樽社会科学研究会(古川友一主宰)に加入して小林多喜二に何度も参加を働きかけます。多喜二は27年9月ごろに小樽社研に参加、ここでの学習を糧にして「断然マルキシズムに進展していった」と28年1月1日の日記で高らかに宣言したのです。

 こうして、多喜二と寺田は小樽の労働・農民運動の前進のために協力しあうようになり、28年2月の第1回普通選挙で労農党から立候補した共産党員山本懸蔵を応援してたたかい、その直後の3月15日の大弾圧に遭遇し、寺田は検挙、拷問を受けます。『一九二八年三月十五日』に登場する「佐多」は寺田がモデルです。

 寺田は翌29年4月16日の弾圧でも検挙されましたが、多喜二の上京後も小樽に残って活動を続け全協小樽産別組合の組織化や労働新聞配布などにより3度目の検挙を受け札幌刑務所に勾留され、北海タイムス社を解雇されます。

 31年10月執行猶予で出獄しましたが、小樽での活動の場を奪われ、一足先に上京していた家族と合流、杉並・高円寺に移り住みます。隣駅の阿佐ケ谷・馬橋には多喜二一家が住んでおり、こうして2人の活動を家族ぐるみで支えあう関係が小樽から東京へひきつがれたのです。

 多喜二の虐殺遺体が馬橋に帰ったあとの通夜、葬儀は寺田一家が協力して進められました。火葬場まで付き添った寺田の次姉セツさんが多喜二の分骨を分けてもらい供養を続け、戦後、大館の小林多喜二生誕の地碑建立のおり散骨したのはこのような事情からでした。

 寺田は多喜二虐殺後も杉並に残り反戦活動に全力をあげ37年の人民戦線事件で4度目の検挙を受けましたが節を曲げずにたたかいました。その後、大阪で旭区の増田きみさんと結婚、43年4月8日、大阪府茨木市外の春日村(現茨木市五日市)の北川療養所で結核のため病没。享年38歳でした。(登)

〈参考〉藤田廣登著『小林多喜二とその盟友たち』学習の友社

◆◆戦争反対の人民戦線めざし獄死した和田四三四とは? 

20071115()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、国家総動員体制で侵略戦争に突入していったとき、大阪でこれに抵抗して、日本共産党再建と人民戦線運動の推進にあたったという和田四三四とはどんな人ですか?(福岡・一読者)

 〈答え〉 戦前、日本が無謀な太平洋戦争に突入していく時代、弾圧で日本共産党中央委員会が壊滅した(35年春)後も、命を賭して反戦平和のためにたたかった人たちがいました。1942年8月13日、32歳の若さで獄死した和田四三四(わだ・しさし)もその一人です。

 和田は、伊予松山藩主だった松平家の一族で、父の松平定安、母マツの6男として、1910(明治43)年に松山市で生まれ、のちに道後湯之町の和田家の養子となり、松山中学(現松山東高)をへて、31年3月、松山高商(現松山大)を卒業します。松山高商時代は、寡黙で目立たず一人コツコツと『中央公論』や『改造』などを読み、山岳部に入っていたといいます。

 卒業後しばらく同大学図書館に勤めた後、32年に大阪に出て、1年ほど、港区の法律事務所で労働運動を研究、その後、全労大阪金属港南支部連合会の書記となり、港南消費組合結成に尽力します。

 反ファシズム人民戦線運動が広がり、34年3月にはジュネーブで全世界の労働者代表会議がひらかれます。四三四の実兄は、「この会議に弟は、日本の労働者代表として出席する予定だった。それで弟を激励したが、2月下旬、事情ができ、代わりが行くことになったと。理由は、もし一カ月大阪を不在にすると、港南消費組合が弾圧で壊滅するおそれがある。自分は大阪を死守するということだった」と、感銘した思い出として語っています。

 34年、和田は日本共産党へ入党、同年9月1日の室戸台風で大正区、港区に大被害がでると昼夜をわかたず救援活動を行いました。35年3月~36年5月、大原社会問題研究所大阪支所の嘱託となります。和田はここで働きながら、36年3月、奥村秀松、宮木喜久雄らとともに党関西地方委員会を再建し『統一戦線樹立のために』など各種パンフレットを発行、ついで7月には党中央再建準備委員会をつくり、共産主義者の結集と人民戦線運動の推進にあたりました。しかし、同年12月、9府県約240人の検挙という弾圧をうけ、和田、奥村は獄死、日本における人民戦線運動は中絶しました。

 『人民戦線史序説』の著者、岩村登志夫氏の「(和田は)常に世界的視野に立って行動していたがそれができたのはなぜ?」との問いかけに、実兄は「大原社研で東京からしばしば訪れた大内兵衛、森戸辰男らと交流、とくに所長の高野岩三郎氏とは親しかった。当時のトップレベルの自由主義者、マルクス経済学者らと交流をたもっていたこと。また、先祖から父親に至るまで自由主義、人道主義的精神が流れており、それが彼の血肉となって思想として受け継がれてきた」と語っています。(喜)

 〈参考〉青木書店『日本社会運動人物辞典』、犬丸義一・中村新太郎著『物語・日本労働運動史』(新日本選書)、松山大学温山会報第33号、仙波恒徳「異端の先輩、和田四三四」

◆◆戦前、26歳で逝った共産党員・関淑子とは?

200796()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 「日本のうたごえ」の指導者、関鑑子さんの妹、淑子さんとはどんな人ですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 関淑子(せき・よしこ)は、戦後の「日本のうたごえ」運動をリードした関鑑子(あきこ)の9歳下の妹で、不屈にたたかい抜いた日本共産党員です。1935年1月27日、病気保釈中に特高警察の目をくぐって活動中、東京・浅草で不慮の火災に遭い、26歳の若さで亡くなりました。

 淑子の父は、美術評論家の岩二郎(如来)、母トヨは日本で最初の看護婦の資格をとった人で、自由で進歩的な考えをもった家庭で育ちました。キリスト教の洗礼も受けていた淑子の転機は27年8月。娘の死を悼む父の手記にはこう記されています。

 「北海道における姉の音楽会出席不能の理由説明のため、左翼劇団の人々に伴はれ、その地に赴きしところ、劇団の人々とともに豚箱に投げ込まれ、理不尽なる拷問を受け、この時における淑子の当局に対する憤まんのいかに深刻なりしかは、これが動機となりて、淑子は真剣にマルキシズムの研究に没頭、卒業を前にして退学し、遂に実行運動に人り

 北海道から帰るとまもなく、津田英学塾(現在の津田塾大)を退学、関東金属労組本部の書記になり事務所に住みこみます。29年の4・16事件で検挙され、留置場で知った金舜実という朝鮮人女性が、バケツに氷を入れて両足を長時間浸される拷問にも屈しない姿に「強く感銘を受けた」と淑子はのちに語っています。

 同年11月ごろ、全協(全国労働組合協議会)の活動家・佐藤秀一(45年2月24日、豊多摩刑務所で獄死)と結婚。31年1月ごろ、八カ月の赤ちゃんを早産し亡くします。淑子は赤ちゃんの小さな骨壷を肌身はなさず持って、日立亀戸工場などの労働者を組織する活動、同年夏から共産青年同盟の活動に。翌32年3月ごろ、横浜で検挙された淑子はひどい拷問を受けます。父は手記で、「淑子を素裸にして箕巻きにし逆さに吊して責めたることあり、つひに仮死の状態に陥りたるにより当局も驚き、兄姉を呼出して引渡したる人権蹂躙の極致にして」と告発しました。

 危篤状態で釈放され一時療養した淑子は、じきに共青の中央機関紙「無産青年」の仕事にかかわります。

 同年9月また逮捕され、獄中で重態となり翌年秋、保釈に。病気の体をおして淑子は、特高の目をくぐって、ベークライト工場や舞踊研究所で働き、党組織との連絡を回復するために努力を続けました。このため、裁判は欠席のまま懲役3年に逃亡罪1年が加えられました。

 焼死したとき、スーツケースには、最後まで勉強していた独文の『ドイツイデオロギー』と独和辞典が残されていました。

 府立第2高女(現竹早高校)時代の友人、菅野清子は次の歌を詠みました。

 こころざし竟(つい)に抂(ま)げずとききしときひそかにわれの君を誇りし

 〈参考〉山岸一章著『革命と青春~日本共産党員の群像』(新日本選書)(喜)

◆◆戦前、特高に殺された加藤四海とは?

2007811()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 東京・目黒区の出身で、戦前、反戦活動をして特高警察に殺された加藤四海という人がいると聞きました。どんな人ですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 日本共産党という党の名前には、中国などへの侵略戦争と植民地支配に反対して、不屈にたたかった人びとの歴史が刻みこまれています。

 太平洋戦争が始まる前の年、1940年(昭和15年)5月11日に東京・目黒警察署に検挙され、翌12日に虐殺された加藤四海(よつみ)も、そんな日本共産党員の一人です。享年30歳の若さでした。

 四海は1910年、東京・港区下高輪で、農商務省の地質技官の5人きょうだいの末っ子に生まれ、14歳で中目黒に転居。麻布中学に入って社会主義運動に関心をもちます。27年4月、東京商科大学(現一橋大学)に入学したときは、第1次山東出兵(同年5月)で侵略戦争拡大が急テンポにすすみ日本共産党が「対支非干渉運動を全国に起せ!」とよびかけたころで、四海は学内で学生連合会や社会科学研究会のリーダーの役割を果たしていたとみられます。

 29年、四海が大学3年のとき、東京商大には、東大、法大、早大などとともに、反帝同盟の学生班がつくられ、9月4日、銀座街頭デモの計画が立てられます。しかし、開始直前、約100人が検挙され、四海は、進歩的な学者だった上田貞次郎の息子・正一とともに二人だけ退学処分になります。

 四海は、これにめげず、農民運動に参加する決意をかため、茨城県南部の農村へ。当時19歳の四海は「黒ぶちの眼鏡をかけ、やせ形で一見いかにもよわよわしい感じがする」青年だったといわれます。四海は、谷原誠二の別名で、現在の龍ケ崎市八代に事務所をつくり、源清田、生板、羽原、美並などの村々に農民組合を組織し、30年から翌年にかけての原村羽原と美並村の小作争議にかかわります。31年、大田村でおこなった演説会の弾圧で、四海は首謀者と目され一カ月勾留。その直後に、日本共産党に入党、29年の4・16事件後2年数カ月ぶりに再建された党茨城県委員会の責任者になりました。同年9月、満州事変がぼっ発。あらしのような弾圧のなかで、四海は農民運動だけでなく、水戸高校の学生運動も指導。32年秋、検挙され、水戸地方裁判所で「わたしは絶対に転向しない」と宣言して、函館刑務所で5年間の獄中生活を送ります。

 獄を出たときには、党中央は壊滅していましたが、四海は不屈な精神で、党の再建をめざして、山代吉宗、春日正一、山代巴、徳毛宜策らと連絡をとり京浜グループを形成、東京と神奈川にわかれて、工場別の学習サークルをつくり、党再建を準備、40年5月、25人が検挙されます。

 特高警察は、京浜グループにたいして残虐な拷問をおこない、山代吉宗は敗戦の年の1月14日に広島刑務所で、板谷敬は同年2月16日に横浜刑務所で獄死。茨城県で四海とともにたたかった米山真一も、34年1月、水戸警察署で拷問をうけ、釈放後まもなく死去しています。

 加藤四海については、作家・山岸一章が関係者に丹念に取材し『新版・不屈の青春―戦前日本共産党員の群像』(新日本出版社)に収録しています。(喜)

◆◆関東大震災直後の亀戸事件とは?

200791()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 関東大震災直後に起きた亀戸事件とは?(山梨・一読者)

 〈答え〉 1923年9月1日午前11時58分、死者9万1千人をこえた関東大震災が起きました。2日成立したばかりの山本権兵衛内閣は翌3日、東京府と神奈川県に戒厳令をしき、軍隊を動員しました。混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が暴動をたくらんでいるというデマが流れ、当局も「震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ」(内務省警保局長から各地方長官あての電報)としたことなどで、流言は広がり、多くの町内で在郷軍人や青年団が「自警団」を組織し、朝鮮人に襲いかかりました。軍隊も、とくに江東方面では朝鮮人を「敵」として追いたて殺害しました。虐殺された総数は正確にはわかっていませんが、6千人を超えるという調査もあります。

 前年創立の日本共産党にたいして、警察は、震災3カ月前の6月5日、いっせい弾圧を加え、30余人を検挙しました。しかし、南葛(現在の江東、墨田)を中心に労働運動はなお活発でした。このため、軍と警察は一体になって、震災の混乱に乗じて、社会主義者を一挙に根絶やしにしようとします。

 9月3日、被災者救援のため活動中の南葛労働会の本部から、川合義虎(21)=民青同盟の前身である日本共産青年同盟初代委員長=と、居合わせた労働者、山岸実司(20)、鈴木直一(23)、近藤広造(19)、加藤高寿(26)、北島吉蔵(19)、さらに同会の吉村光治(23)、佐藤欣治(21)、純労働組合の平沢計七(34)、中筋宇八(24)らが相次ぎ亀戸署に留置されました。

 同署では、その夜から翌日にかけて、多数の朝鮮人が虐殺されました。川合ら10人は軍に引き渡され、5日未明、近衛師団の騎兵第13連隊の兵士によって刺殺されました。これがいわゆる「亀戸事件」です。

 「社会主義者狩り」は、亀戸ばかりではありませんでした。9日ごろには、共産党の合法部隊だった農民運動社を近衛騎兵連隊の一隊が襲い、浅沼稲次郎夫妻ら8人をとらえ重営倉にいれ、後手にしばったまま梁(はり)につりさげました。堺利彦ら第1次共産党弾圧の被告が収容されていた市ケ谷刑務所にも軍隊がおしかけ、被告たちの引き渡しを迫りました(刑務所長が拒否したため、被告たちは命びろいした)。獄外にいた山川均も追われますが、友人宅を転々と逃げ、助かりました。士官たちは、吉野作造や大山郁夫ら民本主義のリーダーもねらい、大山は拘引されましたが、新聞社が行方をさがしたので、釈放されたのでした。16日には、アナーキスト・大杉栄夫妻と6歳になる甥(おい)が甘粕憲兵大尉によって絞殺される甘粕事件が起きます。このように大震災時に、驚くべき野蛮なテロリズムに支配勢力が走ったことは、国民にはけっして忘れることのできない教訓です。(喜)

 〈参考〉『亀戸事件~隠された権力犯罪』(加藤文三著、大月書店)、『物語・日本近代史3』(犬丸義一・中村新太郎著、新日本出版社)

◆◆治安維持法の犠牲者は戦後どう扱われたの?

2005922()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、戦争に反対して特高に拷問され命を落とした人が少なくないと聞きました。平和の礎(いしずえ)となった、こうした人びとをけっして忘れてはいけないと思います。治安維持法の犠牲者にたいして戦後、政府はどんな扱いをしたのですか?(愛知・一読者)

 〈答え〉 1925年施行の治安維持法は、太平洋戦争の敗戦後の45年10月に廃止されるまで、弾圧法として猛威をふるいました。拷問で虐殺されたり獄死した人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕された人は数十万人におよびます(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)。

 この法律は思想そのものを犯罪とし、天皇制をかえて国民主権の政治を願った日本共産党員には最高、死刑という重罰を科すものでした。また、活動に少しでも協力すれば犯罪とされ、宗教者や自由主義者も、弾圧の対象とされました。

 戦後、当然この法律は廃止されました。しかし、治安維持法で弾圧された犠牲者にたいしては「将来に向かってその刑の言渡を受けなかったものとみなす」とされただけで、なんの謝罪も損害補償もされませんでした。一方、拷問・虐殺に直接・間接に加わった特高たちは何の罪にも問われませんでした。

 ドイツやイタリアでは、第二次大戦時のナチス政権下の犠牲者や「反ファシスト政治犯」犠牲者に対しての国家賠償を早くに実施しています。戦争犠牲者に対する戦後補償は国際社会の常識です。日本弁護士連合会も「公式に謝罪をし、肉体的、精神的被害に関する補償を含めた慰謝の措置をとることが、侵害された人権の回復措置として必要不可欠である」と勧告しています。

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は、1968年に当時の犠牲者や遺族、家族の人びとを中心に、設立されました。治安維持法の時代の実態やその教訓を学び、治安維持法など戦前の悪法で弾圧の被害をうけた犠牲者に国としての責任を認めさせ、謝罪させ、国家賠償をおこなう法律を制定するよう、運動をすすめています。その後、国家賠償要求同盟は、直接に被害をうけた人や親族の運動にとどまらず、ふたたび戦争と暗黒政治の復活を許さないためにたたかう多くの人たちが加入、犠牲者に対する国家賠償法の制定を要求する国会請願行動を毎年続けています。(喜)

◆◆治安維持法国賠償同盟創立50年記念映画=「種まく人びと」

(赤旗17.06.05

★★種まく人々=治安維持法犠牲者のたたかいとその志倭引き継いだ人々の記録40m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v125095973dhDEaegb

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🔵野呂栄太郎と『日本資本主義発達史』

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◆◆野呂栄太郎ってどんな人なの?

2004211()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 今年、没後七十年を迎えるという、野呂栄太郎はどんな人だったのですか。 (大阪・一読者)

 〈答え〉 野呂栄太郎は戦前の日本共産党の指導的幹部の一人です。日本資本主義の成り立ちや諸矛盾を科学的社会主義の「科学の目」で分析・解明し、その後の日本資本主義の科学的研究の出発点を切り開いた経済学者でもあります。

 一九〇〇年に北海道の開拓農村で生まれ、少年時代に関節炎で片足を切断しました。二〇年に慶応義塾大学に進み、科学的社会主義の理論・運動に接し、社会科学を研究する学生団体の設立・運営や、日本最初の労働運動のための研究調査機関である産業労働調査所の活動に加わりました。

 一九二六年~三〇年発表の五論文を収めた主著『日本資本主義発達史』(三〇年刊行)は、まず、「皇国史観」などの非科学的歴史観がまかり通っていた日本の歴史を具体的に分析し、階級社会と国家の成立や支配階級・支配体制の変動など、日本社会の発展・変革の過程をあとづけました。

 明治維新をへて資本主義に進んだ日本についても、絶対主義的な天皇制と、封建的要素の強い地主制、はじめから権力と結びついて発展をとげた財閥・独占資本の相互関係を浮き彫りにし、その反動的・侵略的性格や諸矛盾を明らかにしました。

 これらは侵略戦争と植民地支配に反対し、天皇中心の社会を国民が主人公の社会に変革する課題を掲げた、戦前の日本共産党の路線を豊かに発展させるものでした。

 野呂は三〇年ごろ日本共産党に入党し、合法面では『日本資本主義発達史講座』の編集で中心的役割を担いました。肺結核との闘病を抱えていましたが、三二年十月の弾圧で党指導部が破壊されると、中央委員の一人として党指導部の再建に着手しました。スパイの手引きで三三年十一月に検挙され、翌年二月十九日、拷問による病状悪化で生涯を閉じました。(博)

◆野呂栄太郎と『日本資本主義発達史』リンク

◆野呂栄太郎『日本資本主義発達史講座』(1935岩波書店)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281718

◆倉田稔=経済学者・野呂栄太郎PDF27p

http://ci.nii.ac.jp/els/contents110006555708.pdf?id=ART0008536702

◆松本剛=<研究余滴> 野呂栄太郎関連文献の収集PDF4p

クリックしてade_20_43.pdfにアクセス

◆山田舜=野呂栄太郎 一九二九年

PDF22p

クリックして3-540.pdfにアクセス

PDF25p

クリックして3-608.pdfにアクセス

◆飯田鼎=野呂栄太郎と『日本資本主義発達史』研究 : 日本におけるマルクス経済学研究()PDF21p

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19811001-0083.pdf?file_id=77221

◆山本義彦=野呂栄太郎論 : 日本資本主義の史的展開

PDF43p

クリックして080613005.pdfにアクセス

PDF21p

クリックして080613007.pdfにアクセス

PDF44p天皇制国家

クリックして080613009.pdfにアクセス

PDF38p天皇制国家

クリックして080613009.pdfにアクセス

野呂猪俣現段階論争の意義と限度 : 野呂栄太郎論(3)PDF71p

クリックして080613006.pdfにアクセス

◆福冨正実=日本資本主義論争と野呂栄太郎論(I) : 守屋典郎氏の野呂理解における偏見についてPDF31p

クリックしてC040038000302.pdfにアクセス

◆青空文庫・野呂栄太郎著作(書簡中心)

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person287.html

◆◆野呂栄太郎と『日本資本主義発達史』

のろえいたろう

19001934

(小学館百科全書)

共産主義者。マルクス主義の立場からの日本資本主義発達史研究の開拓者の1人。明治33430日北海道生まれ。慶応義塾大学在学中から学生運動、労働者教育運動に参加。卒業後は産業労働調査所で、日本および世界の政治・経済の現状分析および日本資本主義発達史研究に従事し、猪俣津南雄(いのまたつなお)などの日本資本主義論に厳しい批判を行った。1931年(昭和6)から『日本資本主義発達史講座』(193233)を企画し、中心となってその編集にあたったが、この『講座』に予定された彼自身の論文は、ついに書かれることなく終わった。3210月、日本共産党中央部が一斉検挙でほとんど壊滅したあと、彼が、片足は小学生のときの病気がもとで義足であるうえに、重い肺結核を病む身で、党中央部の再建を目ざして地下活動に入ったためであった。地下に潜行した彼は、獄中の最高幹部佐野学(まなぶ)、鍋山貞親(なべやまさだちか)が転向声明(19336月)を発するという困難な状況のもとで党中央部の再建と機関紙『赤旗(せっき)』の刊行に努めたが、331128日に逮捕され、翌34219日東京・品川署で獄死した。まだ33歳の若さであった。生前に刊行された彼の著作は『日本資本主義発達史』(1930)一冊だけだが、この一冊は講座派理論の礎石を据えたものであり、その後の日本資本主義論に多大の影響を及ぼした。[山崎春成]

『『野呂栄太郎全集』全2冊(196567・新日本出版社) ▽塩沢富美子著『野呂栄太郎の想い出』(1976・新日本出版社) ▽塩沢富美子著『野呂栄太郎とともに』(1986・未来社)』

◆『日本資本主義発達史』

野呂栄太郎(のろえいたろう)の代表作。1930年(昭和5)に鉄塔書院から出版。日本における科学的歴史学の先駆をなす作品であり、日本の『資本論』ともよばれた。192425年(大正1314)野呂は日本労働学校その他で『資本論』を教えたが、労働者は、『資本論』を武器に日本歴史を分析するとどういうことになるのかとしばしば質問した。この労働者の要求にこたえるべく執筆したのが本書であり、主として明治維新以後の日本資本主義の発展過程、その構造的矛盾の分析に重点が置かれている。本書の特徴は、なによりも野呂が生きていた時代の192030年代の日本社会の現状分析と、明治維新に対する歴史分析とを結合させた点にあり、明治維新のブルジョア革命としての不徹底さが、日本帝国主義による国内抑圧と中国侵略とを必然化させたのだと説いた。野呂は、社会発展の原動力をその社会に内在する矛盾の生成・発展・衰滅・新たなる矛盾の生成という観点からとらえる唯物弁証法を本書の随所で駆使しており、そのダイナミックな手法が多くの読者を魅了した。「工業における資本主義の急速にして高度の発達と農業におけるそれの局限的にして低度の発達――この不均衡の加速度的激化――ここに、日本資本主義の根本的にして致命的な矛盾がある」という有名な文章にみられるように、野呂は、日本資本主義と半封建的地主制との矛盾対立的な結合の仕方そのもののなかに、日本におけるあらゆる政治的反動化の基礎をみいだしたのである。この見地から野呂は、専制的天皇制・地主的土地所有の廃止などを要求するブルジョア民主主義革命の遂行を日本革命の第一義の課題とした。本書は、日本人民解放のために捧(ささ)げられた革命的実践の書としても不朽の声価を得ている。岩波文庫、『野呂栄太郎全集 上』(新日本出版社)所収。[中村政則]

『塩沢富美子著『野呂栄太郎の想い出』(1976・新日本出版社) ▽守屋典郎著『日本資本主義分析の巨匠たち』(1982・白石書店)』

◆◆八坂スミさんとは?

2006715()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 先日の本欄で石井百代さんのことが紹介されていましたが、もう一人、「生きることが/反戦平和につながれば/わたしは生きる/這いずろうとも」と歌った八坂スミさんとはどんな人ですか?(三重・一読者)

 〈答え〉 戦前、戦後の日本共産党の84年間の歩みには、平和と国民だれもが幸せに生きられる社会を願って、誠実にたたかい抜いた無数の人々の名が刻みこまれています。

 この歌を残した八坂スミさん(本名・石塚ルイ、1891―1986)もそんな日本共産党員の一人です。この歌は八坂さんの90歳のときの作品で、これを収めた歌集『わたしは生きる』は、86年度の多喜二・百合子賞を受賞しました。作品が「今日の社会や政治のあり方に対する、作者のおう盛で積極的な関心が特徴的」であり、政治詠も「作者自身の共産党員としての生き方、格調の高い、平明で澄みとおった歌風とよく溶けあって、独特のみずみずしさ、のびやかさが」あると評価されました。授賞式で八坂さんは、「私の歌の土台は共産党員であること」「党に人間らしく生きることを教えてもらいました」と語っています。

 八坂さんは、福岡市博多で生まれ、福岡高等女学校を卒業し20歳で結婚。封建的な家制度の中で苦しみ1923年、婚家をでて上京します。早大の学生だった甥(おい)の下宿で学生たちの世話をするなかで、日本共産党員の吉田寛の友人だった長村宜平を通じて、河上肇の『貧乏物語』や「赤旗」などにふれ、社会主義に共鳴、活動家をかくまったりします。疎開していた北海道浦河で終戦をむかえ入党。47年帰京し、地域の活動、婦人民主クラブや「草の実会」会員として女性の運動にも参加しています。「八坂スミ」のペンネームも新宿区落合八の坂に住んだことに由来します。

 その後転居した埼玉・戸田市では、共働きの家庭が増えて、「放課後の子どもを放っておけない」と自宅を開放、学童保育を始めた八坂さん。すでに70歳を過ぎていました。

 古食卓ひとつがわが家の机にて児らくる午後は拭き清め待つ

 八坂さんは、渡辺順三さんを囲むアカハタ短歌会にも参加します。その後、沼津の老人ホームに入所しますが、78歳のときに戸田市に戻り一人暮らしを始めます。

 選挙のときには、力をふりしぼって、「反戦平和の党支持を」と訴えました。

 食べぬ日もあった/曲折の八十二年、しあわせは/これからですよ―というような/党の躍進(1973年)

 這うことも/できなくなったが/手にはまだ/平和を守る/一票がある(1982年)

 比例代表選挙が導入され、初めての政党選択選挙で「抜群の躍進」をしたときは―

 身に沁(し)む/九十二年の生き甲斐/「日本共産党」と 堂々ときょうは書ける日

 党員の誇りとたたかう気迫にあふれた95歳の生涯でした。(広)

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🔵詩人・尹 東柱(ユン・ドンジュ)の獄死

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同志社大の詩碑

★★尹東柱の生涯=たやすく書かれた詩35m

◆尹東柱の詩

http://www002.upp.so-net.ne.jp/izaya/Yundonju.htm

★カンハヌル主演映画[ドンジュ]映像2m

★ドンジュの映画(韓国語)

Wikiからの略歴

191712 – 19452

間島(現・中国吉林省延辺朝鮮族自治州)出身の詩人。本貫は坡平尹氏。号は海煥(ヘファン、해환)。

第二次世界大戦下の日本において治安維持法違反の嫌疑で逮捕され獄死した。朝鮮語での詩作を続け若くして非業の死を遂げた尹東柱は、大韓民国において国民的詩人として有名であり、北朝鮮でも一定の評価を受けている。

1932年、龍井のキリスト教系学校・恩真中学に入学、一家も龍井に移住した。1935年に平壌のプロテスタント系学校・崇実中学校に編入学するが、崇実中学は神社参拝問題のために1936年に当局によって廃校とされた。東柱は龍井に帰り、日本人経営の光明学園中学部に編入。1936年頃より、延吉で発行されていた雑誌『カトリック少年』に、「尹童柱」「尹童舟」などの名義で童詩を発表し始める。

1938年、光明学園を卒業し、ソウルの延禧専門学校(現・延世大学校)文科に入学する。この在学中に崔鉉培から朝鮮語を学んでいる。1940年には創氏改名によって「平沼東柱」となった。この間、朝鮮日報や雑誌『少年』に詩を投稿している。

194112月、延禧専門学校を卒業。学校卒業時に、代表作「序詩」を含む自選詩集『空と風と星と詩』の出版を計画するが、恩師とも相談の上、内容的に出版は難しいとの判断から出版を断念。友人に配布したものが後世に伝わることとなった。

一旦帰郷した東柱は、父に日本留学を勧められ、1942年に日本に渡り、4月に立教大学文学部英文科選科に入学する。4月から6月にかけてソウルの友人に「たやすく書かれた詩」など5編を送ったのが、現存する最後の作品である。夏休みに帰郷したのが最後の帰郷となった。

19429月、京都に移り、10月同志社大学文学部英文学科選科に入学する。1943714日、在学中に治安維持法違反の嫌疑で下鴨警察署に逮捕された。このとき、従弟の宋夢奎、同じ下宿の高熙旭も逮捕されている。友人との会話の中で、朝鮮人徴兵や民族文化圧迫などの政策を非難したり、友人に対して朝鮮語・朝鮮史の勉強を勧めたり、朝鮮独立の必要性を訴えたり、民族的文学観を語ったりしたことなどが、民族意識の鼓吹・民族運動の煽動にあたる罪とされた[2]。逮捕の際に蔵書やノート・原稿類が押収されたが、そのまま所在不明となっており、このため京都で書かれたであろう作品は確認することができない。

1944222日、尹東柱と宋夢奎は起訴され、331日に京都地方裁判所で懲役2年の判決を言い渡される。尹東柱と宋夢奎は福岡刑務所に収監された。

【同志社大にある記念碑】

1945216日、福岡刑務所で獄死した(満27歳没)。なお、獄中で注射を繰り返し打たれていたことから毒殺を疑う説もある。絶命前に言葉を叫んでいるが、日本人看守には理解されなかった。尹東柱について書かれた伝記の中には、この言葉を朝鮮語であったろうと推測するものもある。遺体は父が引き取り、龍井の東山教会墓地に葬られた。なお、ともに投獄された宋夢奎も310日に獄死した。

◆◆尹東柱(ユン・ドンジュ)詩集から

◆自画像 (1939年 専門学校2年) 

山の辺を巡り田園のそば 人里離れた井戸を

独り尋ねては そっと覗いて見ます。

井戸の中は 月が明るく 雲が流れ 空が広がり

青い風が吹いて 秋があります。

そして一人の男がいます。

なぜかその男が憎くなり 帰って行きます。

帰りながら ふと その男が哀れになります。

引き返して覗くと男はそのままいます。

またその男が憎くなり 帰って行きます。

帰りながら ふと その男がなつかしくなります。

井戸の中には 月が明るく 雲が流れ 空が広がり

青い風が吹いて 秋があり

追憶のように男がいます。

◆たやすく書かれた詩 

194263日 立教大在学中) 

窓辺に夜の雨がささやき

六畳部屋は他人の国、

詩人とは悲しい天命と知りつつも

一行の詩を書きとめてみるか、

汗の匂いと愛の香りふくよかに漂う

送られてきた学費封筒を受け取り

大学ノートを小脇に

老教授の講義を聴きにゆく。

かえりみれば 幼友達を

ひとり、ふたり、とみな失い

わたしはなにを願い

ただひとり思いしずむのか?

人生は生きがたいものなのに

詩がこう たやすく書けるのは

恥ずかしいことだ。

六畳部屋は他人の国

窓辺に夜の雨がささやいているが、

灯火をつけて 暗闇をすこし追いやり、

時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし、

わたしはわたしに小さな手をさしのべ

涙と慰めで握る最初の握手。

◆空と風と星と詩 序詩  (19411120日)

(伊吹郷訳)

死ぬ日まで空を仰ぎ

一点の恥辱なきことを、

葉あいにそよぐ風にも

わたしは心痛んだ。

星をうたう心で

生きとし生けるものをいとおしまねば

そしてわたしに与えられた道を

歩みゆかねば。

今宵も星が風に吹き晒らされる。

◆◆ユン・ドンジュ略年表

(ユン・ドンジュ追悼会で配布された小冊子より抜粋)

1910年 日本の韓国「併合」。朝鮮半島の植民地化。

1917年(大正6年) 1230日 中国東北部(満州)間島省和龍県明東村に長男として生まれる。(注:現在の中国延辺朝鮮族自治区)

1925年(大正14年) 治安維持法制定(41年に改正され、重罰化)

1931年 満州事変。関東軍による中国東北部(満州)の占領へ。

19323月 傀儡国家満州国誕生。

1935年(昭和10年)9月 平壌の崇実中学に編入学

19363月 神社参拝拒否で崇実中が自主廃校となり故郷の中学に編入。

1938年 ソウルの延禧専門学校(現・延世大学)に入学。いとこの宋夢奎(ソン・モンギュ)と寄宿舎に入る。

1940211日 朝鮮総督府の制令により「創氏改名」が施行される。創氏改名に抗議し投身自殺した人も出る。

1941年 延禧専門学校卒業。手書きの朝鮮語による詩集「空と風と星と詩」を3部作り、恩師と親友に贈る。日本に渡る前に尹を「平沼」と創氏。平沼東柱を名乗った。いとこは宋村と創氏し、宋村夢奎と名乗る。

19422月ごろに渡日。立教大学文学部英文科に選科生として入学。10月には同志社大学文化学科英文学専攻に選科生として編入。いとこの宋村は京大史学科選科に入学。

1943714日 治安維持法違反の嫌疑で逮捕される。いとこの宋村も逮捕。

1944年 裁判の結果、2年の刑が確定し福岡刑務所に収攬される。

1945216日 福岡刑務所で獄死。36日に故郷に埋葬される。いとこの宋村は310日に獄死。

1948年 韓国で詩集「空と風と星と詩」が刊行される。

1984年 尹東柱全詩集「空と風と星と詩」(伊吹郷訳、記録社)が刊行される。

1995年 没後50年 延世大学で50周年追悼会開催。同志社大に「序詩」の碑が建立される。韓国KBSNHKが共同で「空と風と星と詩~尹東柱・日本統治下の青春と死」を制作し、放映する。

◆◆尹東柱(ユンドンジュ)どこからきて、どこへゆく

2017914日朝日新聞

天ケ瀬吊橋=京都府宇治市

 木々の葉、そして川面、濃淡さまざまな緑が風に揺れていた。なるほどハイキングには申し分ない。京都府宇治市の山あい、宇治川の両岸を結ぶ天ケ瀬吊橋(つりばし)を歩く。

 尹東柱(ユンドンジュ)がこの吊橋を渡った時、風は吹いただろうか。1945年2月、日本敗戦の半年前に福岡刑務所で獄死した詩人である。27歳だった。逮捕されたのは留学生として過ごしていた京都で、容疑は治安維持法違反――独立運動に関わったとされた。

 逮捕の2カ月ほど前、尹東柱は同志社大学の学友たちと宇治川にハイキングに来ている。この橋で仲間に囲まれた写真が、確認されている生前最後の一枚となった。

 生誕100年を迎え、この10月には詩を刻んだ「記憶と和解の碑」が吊橋に程近い川沿いに建つ。立命館大学名誉教授の安斎育郎(77)を代表に、建立委員会が実現に努めてきた。日韓交流に役立てたい、過去に誠実に向き合うことが大切だと安斎は言う。

 「人が生きる上で一番重要な価値は『自由』だと私は思っている。それを尹東柱は決定的に奪われた」

 韓国では国民的詩人として名高い。朝鮮人が移住していた中国東北部の村に生まれ、クリスチャンの家で育った。ソウルの延禧(ヨンヒ)専門学校(現・延世〈ヨンセ〉大学)を卒業して日本に留学し、立教大学、続いて同志社大学に通う。朝鮮は日本の支配下で、中国東北部が日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」となった時代を尹東柱は生きた。

 早くから文学を志し、詩を書いている。日本留学時代の詩は、立教大学にいた頃の5編しか残されていない。詩集刊行が果たされたのは戦後――理不尽な死の後だった。

 「空と風と星と詩」と題された詩集で、最も広く知られた「序詩」は同志社大学の詩碑にもハングルの原詩と共に刻まれている。

 〈死ぬ日まで空を仰ぎ/一点の恥辱(はじ)なきことを、/葉あいにそよぐ風にも/わたしは心痛んだ。/星をうたう心で/生きとし生けるものをいとおしまねば/そしてわたしに与えられた道を/歩みゆかねば。/今宵(こよい)も星が風に吹き晒(さ)らされる。〉(伊吹郷訳)

 「風が吹いて」という一編は〈風がどこからきて/どこへゆくのか、/風が吹いているが/おれの苦悩(くるしみ)には理由(わけ)がない。〉(同)と始まる。

 尹東柱の詩は時代背景と切り離せない。だが、そこにとどまるものでもない。

 作家の多胡吉郎(61)は尹東柱の詩に魅せられ、長年その足跡を追ってきた。「最後の一枚」を発見したのも多胡である。NHKディレクターとして日韓共同で番組を制作した時のことだった。熱意と熟慮の探究は著書「生命(いのち)の詩人・尹東柱」に詳しい。

 「あの若さで、怒り、悲しみ、苦しみ、全て自分の内深くに一度ため、言葉を紡ぎ出している。他者を非難するような一行がどこにもない」。その大きさ、民族も国も超えた「輝ける魂」にひかれてやまないと多胡は語った。

 越境者の旅は、日本で断ち切られた。風のように自由であったなら――あり得たはずの詩(うた)を思う。=敬称略(文と写真・福田宏樹)

◆◆心やさしい若者の獄中死

赤旗18.05.28

◆◆(問う「共謀罪」)語れば罪、獄死詩人に光 戦時下留学の尹東柱、映画に

朝日新聞17.05.24

 「共謀罪」法案は「内心の処罰」との批判もある。言論や思想の自由が制約されると、どうなるのか。今夏、東京と大阪で公開される韓国映画は、治安維持法を切り口に問いかける。

 「空と風と星の詩人~尹東柱(ユンドンジュ)の生涯~」(110分)。植民地下の朝鮮半島から日本に留学中、友人らと朝鮮の独立を語り合ったとして治安維持法違反の罪で投獄され、27歳で獄死した詩人、尹東柱の人生に迫ったモノクロ映画だ。

 治安維持法は1925年に成立した当初、「国体」の変革を目的とする結社を禁じていた。だが、28年の改正で「目的遂行罪」が追加された。結社をつくる目的のために集ったり、語ったりしたとみなされれば、取り締まりの対象になった。尹に適用されたのも、この条項だった。

 尹は42年、「平沼東柱」という名前で立教大に入学。転入した同志社大に在籍中、中国で朝鮮の独立運動にかかわった幼なじみたちと下宿先などで語り合い、朝鮮文化や民族意識の高揚を図ったなどとして44年3月、京都地裁から懲役2年の有罪判決を受けた。確定後、福岡刑務所で翌45年2月、亡くなった。

 「共謀罪」法案も、犯罪の計画や準備行為を処罰する内容。尹の詩碑がある同志社大のコリア研究センター長、太田修教授(日朝関係史)は「治安維持法によく似た法案が議論されている今、ただ集まって、話をしただけで処罰された尹東柱を検証し、教訓とする意義は大きい」と指摘する。

 イ・ジュンイク監督は「尹は、日本の軍国主義に非暴力で抵抗した。その価値観、世界観が人類に正しい方向を示してくれる」という。映画は、東京都新宿区のシネマート新宿(03・5369・2831)で7月22日から公開される。

 (岡本玄)

(映画の一場面。治安維持法違反の罪に問われ、取り調べを受ける尹(左))

◆◆韓国の詩人・尹東柱(ユンドンジュ)生誕100年=映画「空と風と星の詩人ー尹東柱の生涯」

(赤旗日曜版17.07.23

◆早世の詩人=尹東柱(ユンドンジュ)

15.02.10朝日新聞

生前1冊の詩集も出せなかった若き詩人が、没後70年の今なお、多くの人をひきつけている。

 終戦まで半年という1945年2月、27歳で獄死した詩人、尹東柱(ユンドンジュ)。同志社大学在学中、思想犯として治安維持法違反の疑いで捕まった。

 日本からの独立運動に関わったという嫌疑をかけられた。特別高等警察(特高)に目を付けられたのは、運動歴のあった幼なじみと親しかったためだった。

 在日コリアンの詩人、金時鐘(キムシジョン)(86)は「尹東柱の詩に政治的な内容はない。時節に同調しない詩を、朝鮮語で書き続けたことが、すぐれて政治的だった」。ハングルで書くこと自体が危険視された時代だった。

 同志社大学の今出川キャンパスには、尹の詩碑がある。自筆のハングルと、日本語訳が刻まれている。

死ぬ日まで空を仰ぎ

一点の恥辱(はじ)なきことを、

葉あいにそよぐ風にも

わたしは心痛んだ。

星をうたう心で

生きとし生けるものをいとおしまねば

そしてわたしに与えられた道を

歩みゆかねば。

今宵(こよい)も星が風に吹き晒(さ)らされる。

 41年作の、最も有名な一編「序詩」だ。詩集の巻頭につける予定だった。間もなく太平洋戦争が勃発。出版は断念せざるを得なかった。

 「二十代でなければ絶対に書けないその清冽(せいれつ)な詩風」。そう紹介した、詩人・茨木のり子の文章は、日本の高校教科書にも掲載された。

 この詩碑が建ったのは20年前、50周忌の年。同大出身の在日コリアンらが働きかけた。南北双方で敬愛される詩人。「ワンコリア」の同窓会設立のきっかけになった。大学側は「尹東柱の詩の言葉は、まさに創立者・新島襄の良心教育の願いに呼応している」と、応じた。

 若者らしい純粋さがまぶしい尹の言葉はしかし、見方を変えると違った意味が立ち現れる。

 「生きとし生けるもの」は、原詩を直訳すると、「すべての死にゆくもの」だ。その一つは、当時の日本の植民地政策の中で失われゆく母語ではなかったか。実際、「朝鮮語の印刷物がこれから消えていくから、何でも買い集めよ」と、弟妹に頼むほど、危機感を持っていたという。

 今、韓国から尹の詩碑を訪ねる旅行者が後を絶たない。修学旅行生だけで年間約1万人が訪れ、個人旅行で立ち寄る若者も多い。

 「尹東柱評伝」の翻訳者で詩人の愛沢革(あいざわかく)(65)は「尹の詩は、自分がどう生きるべきかを問い続ける道だ。やさしい言葉で、後世の読者を励ましている」と言う。(成川彩)

◆◆尹東柱、悲運の生涯をたどる 韓国の詩人、生誕100年 多胡吉郎さん著作

20175101630

多胡吉郎さん

 第2次大戦中に留学先の日本で治安維持法違反の罪に問われ、27歳で獄死した韓国の国民的詩人、尹東柱(ユンドンジュ)。生誕100年を迎え、元NHKディレクターで作家の多胡吉郎(たごきちろう)さんが『生命(いのち)の詩人・尹東柱』(影書房)を出版した。

 尹は、植民地時代の朝鮮から1942年に留学し、立教大学や同志社大学で学んだ。学校など公の場所で日本語が強制されるなか、ハングルで詩を書き、死後、韓国で高く評価された。

 詩は日本語にも訳され、詩人の故茨木のり子さんがエッセーで紹介するなど日本人のファンも少なくない。母校の立教大学では卒業生らが毎年、2月16日の命日の頃に追悼の会を開き、福岡や京都でも市民らが集う。

 多胡さんは95年に韓国放送公社(KBS)と尹のドキュメンタリーを共同制作。尹の研究がライフワークとなった。著書ではこれまでに集めた資料、インタビュー記録などを整理し、尹と日本の関わりを中心にまとめた。

 韓国では尹は日本の支配に抵抗し、悲運の死を遂げた英雄として描かれるが、多胡さんは事実の究明にこだわった。ハングルで詩を書いたことが罪とされた、と言われることもあるが、「特高月報」や判決文などに言及はないという。

 刑務所で人体実験のために謎の注射を打たれて死んだとの説も広がる。多胡さんは、関係者の証言などを詳細に検討。栄養失調や結核の可能性もあり、「真相は謎」と結論づけた。

 多胡さんの当初の尹への関心は、その生涯を通して隣国の人の痛みを知る、というものだった。韓国語を勉強し、やがて詩を通して尹の清らかな心にひかれていった。「詩は私の20代の頃の純粋な魂を呼び覚ましてくれる。人生にとってかけがえのない宝となりました」と語る。(桜井泉)

◆尹東柱の願い

(赤旗17.05.29

◆◆韓国の「尹東柱文学館」を訪ねて

(赤旗17.03.21

◆◆荻野富士夫=3.15共産党弾圧事件90

赤旗18.03.14

◆◆長女「歴史繰り返すのか」 治安維持法で検挙、学者の裁判記録

2017628日朝日新聞(問う「共謀罪」)

新村猛氏

 「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織的犯罪処罰法が7月11日に施行される。国会では治安維持法との類似が議論されたが、同法で検挙された研究者の遺族は、当時の裁判記録をたどって、「共謀罪」拡大適用に警鐘を鳴らす。

 名古屋大学名誉教授だった故・新村猛(しんむらたけし)氏の名古屋市の自宅で2014年秋、ぶ厚いつづりなどが見つかった。治安維持法で摘発されたときの予審調書や弁護資料。発見した長女の原夏子さん(83)は「記録が残っているなんて」と驚いた。猛氏はこの事件で職を失ったため、釈放後は父・出(いづる)氏の辞典編集を手伝い、戦後、「広辞苑」を送り出した。

 同志社大学予科の教授だった猛氏は1937年11月8日朝、京都市の自宅から警察署に連行された。研究者仲間と雑誌「世界文化」で反ファシズム運動を紹介していた。非合法だった共産党とは関係ないので、治安維持法で検挙されるとは思わなかったという。

 1925年成立の治安維持法は28年の改定で結社に参加していなくても「目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」も罪とした(目的遂行罪)。あいまいな規定で拡大適用されていった。

 猛氏も「目的遂行罪」にあたるとされ、39年夏、京都地裁で、懲役3年執行猶予5年が言い渡された。だが、今回見つかった弁護士の接見メモには罪を否定する言葉が並んでいた。〈意図ハ全部アトヨリ附(つけ)加エラレタルモノニシテ其(その)当時存在シタルモノニアラズ〉

 夏子さんは、今国会の採決強行に憤り、「歴史を繰り返すのか」と案じる。父は「共産党拡大のため」という意図がでっちあげなのに執筆や会議を手がかりに処罰された。「電話やメールなど手がかりがたくさん残る今はもっと怖い」

 猛氏の次男恭(やすし)さん(70)=横浜市=は、「共謀罪」の「犯罪集団に不正権益を得させるなどの目的で犯行を計画した者を処罰する」とする規定と、目的遂行罪が似ていることが気がかりだ。「恣意(しい)的に拡大解釈される危険がある。自由な研究が阻害されないか」

 参院法務委員会の議論で、法務省刑事局長は「組織的犯罪集団の構成員でない者」も処罰対象となることを認めた。「共謀罪」に反対する山下幸夫弁護士は「どんな団体や個人にも適用される可能性があり、政府の方針に反対する者が処罰されうるという点で、治安維持法と果たす機能は似たもの」と話す。「ただ、萎縮しないことも大切だ」(河原理子)

 <新村猛(しんむら・たけし)> 1905~92年。フランス文学者、名古屋大学名誉教授。父で言語学者の新村出(いづる)を手伝って「広辞苑」(初版55年、岩波書店)を編み、第4版まで改訂にあたった。平和運動に積極的にかかわり、原水爆禁止運動の統一に尽力した。

🔴◆◆〈徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢に満つるとも〉の短歌にこめられた女性の思い 

(新聞と9条)女たちは書いてきた44

2016126日朝日新聞

短歌を通して護憲や平和を訴えた石井百代さん=1978年ごろ、遺族提供

 2016年、東京・世田谷文学館に中野重治が戦時下に発表した小説などの肉筆原稿が展示された。治安維持法違反で2年あまり拘禁され、出獄後に書いた「転向5部作」の一部。寄贈者は筑摩書房で中野の担当編集者だった故・石井立(たつ)の遺族だ。

 立の母・石井百代(1903~82)は78年9月18日の朝日歌壇への投稿で一躍有名になった。

 〈徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢に満つるとも〉

 四女の井村マリ子(83)は「徴兵反対とは言うだけで思想犯に問われ、牢に入れられるという実感を持つ、母の世代ならではの歌」とみる。

 百代の長男・立は京都帝大在学中に学徒動員の対象になり、入隊検査で肺浸潤が見つかった。休学、療養している間に、学友の多くが戦死した。次男の和夫(89)は陸軍予科士官学校に在学中に朝鮮半島へ。終戦時、18歳だった。百代は〈兄や妹の夫も戦死し、甥(おい)と従兄弟(いとこ)二人も死に……次女の夫は原爆死〉と記録している。

 夫・正は耳鼻科医院を開業していたが、48歳で軍医にとられ、戦後は戦争責任を問われて、公職追放になった。立はそんな正を誘って哲学書の翻訳を始めた。中野をはじめ、戦時中に思想弾圧を受けた作家とも交流し、「友の死の上に築かれた平和を守り抜かねば」と百代に説いた。

 百代はその切実さに打たれ、半面「お国のため。仕方がない」と息子たちを差し出した自分を恥じた。立が40歳で亡くなると、恥の思いは一層強くなった。

 投稿した短歌には「有事立法を聞いて」と添え書きした。前年の77年に福田赳夫首相が防衛庁長官に有事立法の研究を指示。百代は女性たちの勉強会でそれを知り、詠んだ。井村は言う。「感覚的に迫るものがあったのでしょう。有事立法は徴兵につながる。体を張って止めなければ、と」

 短歌は週刊誌で作家の瀬戸内寂聴が取り上げ、平和集会のビラやプラカードにさかんに引用された。「祖母」を「妻」と詠み替える人があっても、百代は「いいじゃないの、詠み人知らずの歌みたいで」とおおらかだったという。

 歌への反響が続いていた79年正月に、百代が書いた歌稿が残っている。

 〈憲法を画餅(がべい)にすなと言いし子の遺影に祈る母に力を〉(阿久沢悦子)

◆◆共謀罪・治安維持法・鶴彬=今はまだ岸辺漂う笹舟が 編集委員・福島申二

(鶴彬については、当ブログ=鶴彬・反戦川柳を参照のことhttp://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/9709845.html?p=2

朝日新聞17.05.28

 江戸の川柳に〈足おとで二ツに割れるかげぼうし〉というのがある。

 うまいなあと思う。恋仲のふたり、月夜の逢(あ)い引きだろうか。人目を忍んで寄り添うところへ誰かの足音が聞こえ、はじかれたように体を離す。

 しかし別の解釈もあるなとふと思ったのは、いわゆる「共謀罪」法案からの連想だ。2人は実は、何かあやしいひそひそ話をしていたのかもしれない。そこへ人の気配を感じて――。つまり、そうしたことだけで「ご用」となりかねない危うさを、この法案ははらんでいる。

 川柳を持ち出したのは当方といささか縁があるからで、本紙「朝日川柳」の選者を週に1回務めている。日々1500前後の投句を頂戴(ちょうだい)するから、選外の句にも捨てがたいものがある。最近多かった共謀罪がらみの句から紹介すると。

  私までは及ばぬものと共謀罪

  観劇にオペラグラスも憚(はばか)られ

  党内に治安維持法あるような

  思い出しておくれと多喜二鶴彬(つるあきら)

 一句目は、自分は関係ないと思っていても、いつ「一般人」ではなくなるかも知れない法案の本質をうがつ。二句目は法務大臣の「花見かテロの下見か」の珍答弁を風刺する。三句目は、安倍色に染まって内部から異論も反対も出ない「自由民主」党を痛烈に皮肉っている。

 そして四句目。戦前の社会を締め上げた治安維持法の犠牲になった作家小林多喜二と川柳人の鶴彬の名には、忘れてはならない歴史の教訓が張りついている。

     *

 鶴彬の本名は喜多一二(かつじ)といい、小林多喜二に字面が似ているのは不思議な因縁だ。カーキ色の時代に立ち向かうように川柳を作り、29歳で獄死した生涯は、有志の寄付などで映画にもなり、作品も知られるようになってきた。

  屍(かばね)のゐないニュース映画で勇ましい

  銃剣で奪った美田の移民村

  初恋を残して村を売り出され

 二句目は旧満州への開拓入植、三句目は娘の身売りである。「日本に向かって『この道を行くべからず』と叫び続けた人だった」と、映画を作った神山征二郎監督からお聞きしたことがある。

 戦前の治安維持法は、成立すると可能な限り拡大解釈された。解釈が限界を超すと改悪が図られた。「不当に範囲を拡張して無辜(むこ)の民にまでは及ぼさない」と言って生まれた法がおそるべき怪物と化していく中で、おびただしい理不尽と悲劇が起き、戦争で国は破滅した。

 「はじめにおわりがある。抵抗するなら最初に抵抗せよ」と朝日新聞の大先輩で反骨のジャーナリストだった故・むのたけじ氏は言っていた。真を射る言葉は苦い昭和の体験に根ざしている。

 今の共謀罪をただちに治安維持法の再来とは言えないだろうし、当時とは司法や社会のありようも違う。とはいえ相似形は疑いようがない。泳げぬ者が海に落ちたような大臣答弁のしどろもどろこそが、この法案がいかに曖昧(あいまい)で、恣意的(しいてき)に拡大解釈されうるかを物語っている。

 犯罪者を捕らえるというより、捕らえたい者を犯罪者にする道具になりかねない。「テロ」「五輪」と反論を封じやすい語に包まれて、危うい卵は参議院に送られ、産み落とされようとしている。

     *

 笹舟(ささぶね)を岸辺から浮かべると、しばらくはくるくる漂っているが、ひとたび川の流れに乗ると一気に下っていく。

 今の政権になって、特定秘密保護法や集団的自衛権を含む安保法が相次いで成立した。今度は共謀罪、さらに3年後の憲法改変の旗を揚げ、政権は自らの望む「国のかたち」への作り替えを急ぐ。

 「平和安全法制(安保法)の時、戦争法案って言われた。特定秘密保護法が成立する時、自由がなくなると言われた。2年経って、何も変わらない」と菅官房長官が先日語ったそうだ。

 すぐ目に見えて変わるものなら分かりやすい。本当に怖いのは、共謀罪にしても、確かな自覚症状のないままにこの国を深いところから蝕(むしば)んでいくことだ。

 いまはまだ岸辺を漂っている日本という笹舟が、あるとき一気に戻れぬ流れに乗ってしまわないか。不安は膨らむ。

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🔵宮澤・レーン事件

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◆◆Wiki=宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件

宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件(みやざわひろゆき・レーンふさい ぐんきほごほういはんいはんえんざいじけん)は、1941年に発生した軍機保護法違反罪の冤罪事件。宮澤・レーン事件と通称される。

宮澤弘幸(1919年、東京府代々幡町代々木初台生まれ)は北海道帝国大学工学部電気工学科の学生であったが、1941128日、太平洋戦争の開戦をラジオで知ると、同学のアメリカ人英語教師であるハロルド・レーン、ポーリン・レーン夫妻宅に駆けつけた。その際に偶然眼にした根室第一飛行場のことを夫妻に対して話したとの廉(かど)で、またレーン夫妻はこの伝聞を駐日アメリカ大使館駐在武官に伝えたとの廉(かど)で、事前に張り込んでいた特高警察によりそれぞれ敵国のスパイとして逮捕された。

19421216日(宮澤)・同月14日・21日(レーン夫妻)に1審の札幌地方裁判所で軍機保護法違反の罪に当たるとして宮澤とハロルドに懲役15年、ポーリンに懲役12年の有罪判決を受け、194355日~611日に大審院でいずれも上告棄却判決を受けた。

なお当該飛行場の存在は事件前に報道されており公知の事実であった。宮澤は逮捕後、特高警察によって拷問と取調べを受けた。宮澤は北大が学生を勤労奉仕として送り込んだ樺太の「工事隊」にも参加しており、一審判決ではこれも「大日本帝国の軍事機密の探知」と認定した。

宮澤は網走刑務所・宮城刑務所に服役し、栄養失調と結核を患った。終戦後の19451010日に釈放されたものの、1947222日に結核がもとで死去した(27歳没)。レーン夫妻は19439月に交換船で帰米し、終戦後の1951年に北大に復帰した(ハロルドは1963年、ポーリンは1966年に札幌で死去)。

参考文献

上田誠吉『人間の絆を求めて』花伝社、1988

上田誠吉『ある北大生の受難』花伝社、2013

★レーン・宮沢事件風化させない 保護法廃止、命日に訴え 追悼集会(2014/02/22)北海道新聞3nm

◆田村=宮澤・レーン事件とは

http://tamutamu2014.web.fc2.com/miyazawajikenn.htm

◆逸見勝亮 宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件再考 : 北海道大学所蔵史料を中心に 北海道大学大学文書館年報 20103PDF25p

クリックしてARHUA5_006.pdfにアクセス

◆宮澤・レーン事件広める会

http://miyazawa-lane.com

DVDレーン・宮澤事件紹介

http://vpress.la.coocan.jp/miyazawa.html

◆リーフレット=宮澤・レーン事件

http://www.liveinpeace925.com/pamphlet/leaf_miyazawa_lane2.htm

◆◆マンガでみる宮澤・レーン事件

クリックしてleaf_miyazawa_lane.pdfにアクセス

◆山本玉樹=宮澤・レーン事件の教訓をいま

赤旗17.05.28

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🔵1945年 哲学者・三木清の獄死 「共謀罪」に重なる治安維持法

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★★100de名著=三木清・人生論ノート

https://m.youtube.com/watch?v=oRXn0zV8IoU

https://m.youtube.com/watch?v=ZVWnVoRS74Q

https://m.youtube.com/watch?v=m9Aef73y51E

https://m.youtube.com/watch?v=8X7ztcokEVA

◆青空文庫・三木清著作

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person218.html

◆青空文庫・三木清=人生論ノート

http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html

 (昭和20年)

 「『共謀罪』が無くても、テロ犯は取り締まれます」

 日本弁護士連合会の共謀罪法案対策本部事務局長、山下幸夫弁護士(54)は、3月に横浜市であった神奈川県弁護士会主催の講演会で、聴衆約160人を前に語った。

 爆発物、化学兵器、ウイルスなどテロ準備が対象の法律はすでにある。国会で審議中の「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織的犯罪処罰法改正案は、「準備行為」が拡大解釈されれば犯罪と無関係の市民を監視し、政府と異なる意見表明を脅かす可能性がある。「社会を一つの方向に導く現代版の『治安維持法』です」と山下弁護士は述べる。

     *

 1925年に制定された治安維持法は、国体の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社やその加入を禁止し、思想運動や大衆運動を弾圧した。45年10月4日の連合国軍総司令部(GHQ)の「人権指令」で廃止された。

 指令8日前の9月26日、「人生論ノート」などで知られる哲学者の三木清は、東京の豊多摩拘置所の独房で、寝台から落ちて亡くなっているのが発見された。朝日新聞は「治安維持法等の容疑により拘引されたものと云(い)はれてゐる」「(三木の)獄死事件は(中略)思想警察への強い反発として多くの反響を呼んでゐる」と伝えた。

 三木の研究者で和歌山大名誉教授の永野基綱(もとつな)さん(80)によると、三木は2度、警察に検挙されている。最初は30年。知人に「頼まれて出した金」が共産党への運動資金だったため、治安維持法違反の罪で懲役1年執行猶予2年の有罪判決を受けた。法政大教授の職も失った。45年には疎開先の埼玉で、治安維持法関連で特高警察にマークされていた昔の友人を一晩泊め、金銭と服を提供。これが獄死につながる検挙となった。

 共産党員ではなく、首相を務めた近衛文麿の政策研究会の一員だった三木が検挙された背景を、研究者の永野さんは「三木は歴史と社会の中で生きる人間が直面する非人間的な問題を批判した。いわば行動的なヒューマニズムを貫いたからだ」と解説する。

(1925年2月、治安維持法に反対して、労働団体などがデモ行進した=東京・芝)

 一方、治安維持法や特高警察について研究する小樽商科大の荻野富士夫・特任教授(64)=日本近現代史=は「治安維持法の目的遂行罪による解釈の拡大がなければ、三木は獄死することはなかった」と話す。目的遂行罪は、28年の改正で、最高刑を死刑に引き上げるのとともに導入された。潜伏の手助けやカンパ、出版物配布の援助などが対象とされ、行為が目的遂行罪に当たるかは、本人の意図の有無ではなく、特高警察や思想検事の判断だった。

     *

 当初のターゲットだった共産党員だけでなく、宗教団体や自由主義・民主主義者へと取り締まりは広がった。太平洋戦争直前の41年の改正では再犯のおそれを理由に拘禁を続ける予防拘禁制が取り入れられた。警察の統計では治安維持法違反による検挙者は約7万人。しかし荻野さんは「思想事件」の検挙者は数倍だとみる。令状を読み上げられることもなく、罪名がわからないまま取り調べられ、「違反する」運動にかかわらぬように警告後、釈放されるケースも多かったという。

 九州地方の男性(91)も44年9月17日朝、突然、下宿から刑事に連行された。「戦死者は靖国神社に合祀(ごうし)するのではなく、キリスト教徒らの遺族の意思を尊重すべきだ」と書いた文集が検閲に引っかかったらしい。刑事に殴られる取り調べが1週間続き、釈放された。「治安維持法違反の検挙だと思っている。自由に発言できない時代が再び来ないことを願っている」

 荻野さんは「治安維持法を歴史的事項にとどめるのではなく、現代への教訓と考え、人権を脅かす法には声を上げ続けるしかない」と語る。(平出義明)

◆社会のあり方、考え続ける 「三木清研究会」事務局長・室井美千博さん(67)

 1999年に発足した三木清研究会は、彼の郷里である、現在の兵庫県たつの市を中心とした会員が講演会や研究発表、「人生論ノート」の読書会をおこなっています。私は、三木が卒業した旧制兵庫県立龍野中学(現龍野高校)の後輩だったこともあって、高校時代から三木の著作にふれてきました。

 「人生論ノート」は戦時色が濃い38年に文芸誌「文学界」で始まった連載をまとめ、太平洋戦争が始まる41年に刊行されました。その一編「幸福について」にある「幸福の要求が今日の良心として復権されねばならぬ」という言葉は、ファシズムの時代への批判であるとともに、現代にもあてはまります。

 「中央公論」の36年の論文「日本的性格とファシズム」では「単なる役割における人間はなほ真の人間ではなく、いわば偽善者即(すなわ)ち仮面を被(かぶ)つた人間である。真の人格はそのような役割を脱ぎ棄(す)てて裸の人間になつた時にあらわれる」といい、真の人格を認めない全体主義はファシズムでありヒューマニズムに対立すると述べています。

 三木は穏健な思想の持ち主です。その彼を獄死させた社会のあり方には憤りを感じます。三木は自ら考えることの重要さを訴えています。「今」がどのような時代か、一人ひとり問い続けることが大事だと思います。

◆治安維持法の関連年表

<1925年>

 治安維持法制定

<28年>

 共産党員の大量検挙(3・15事件)

 治安維持法改正で最高刑が死刑になり、結社員だけでなく結社と関係する者(シンパ)も取り締まりの対象に

<30年>

 三木清が共産党への資金提供容疑で検挙される

<31年>

 満州事変

<33年>

 作家の小林多喜二が特高警察による拷問で死亡

<37年>

 日中戦争始まる

<38年>

 国家総動員法制定

<41年>

 予防拘禁制の導入と罰則強化を盛り込む治安維持法の改正(3月)

 太平洋戦争始まる(12月)

<42年>

 神奈川県特高警察が共産党再建謀議の容疑で言論・出版関係者らを逮捕。拷問で4人が獄死。「中央公論」「改造」が廃刊させられた(横浜事件)

<45年>

 三木清検挙

 終戦(8月)

 三木清が獄死

 GHQの「人権指令」

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🔵長野・戦前の「2・4事件

600人の青年教師たちを治安維持法違反で検挙(赤旗17.05.06)

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Wiki=二・四事件

二・四事件(にいよんじけん)は、193324日から半年あまりの間に、長野県で多数の学校教員などが治安維持法違反として検挙された事件。弾圧の対象となったのは、県内の日本共産党、日本共産青年同盟、日本プロレタリア文化連盟関係団体や、労働組合、農民組合など広範囲に及んだが、特に日本労働組合全国協議会(全協)や新興教育同盟準備会の傘下にあった教員組合員への弾圧は大規模で、全検挙者608名のうち230名が教員であった。このため、この事件は「教員赤化事件」、「左翼教員事件」などとも呼称された。

4月までに検挙された教員のうち28名が起訴され、このうち13名が有罪となって服役した。また、検挙された教員のうち、115名が何らかの行政処分を受け、懲戒免職や諭旨退職によって教壇から追われた者も33名にのぼった。

この事件を契機に、全国各地で同様の弾圧が行なわれ、193312月までに岩手県、福島県、香川県、群馬県、茨城県、福岡県、青森県、兵庫県、熊本県、沖縄県で多数の教員が検挙され、「教員赤化事件」ないし「赤化教員事件」は、長野県の事件に限定せず、全国における一連の事件を指す総称として用いられるようになった。

もともと長野県では、大正時代から白樺派などの影響を受けた自由主義教育が盛んであったが、1930年代に入ると、そのような伝統の上に、左翼的教育運動である新興教育運動が広がりを見せるようになった。1931年秋には新興教育研究所(新教)の支部が伊那と諏訪に設けられ、19322月には、日本労働組合全国協議会(全協)傘下の日本一般使用人組合教育労働部長野支部が結成されたのを機に、新教の2支部は統合されて長野支部となった。

百数十名の教員を組織したこの運動は、教育理念や教材について、例えば、アララギ派、三沢勝衛、木村素衛などを俎上に載せた組織的批判活動を展開し、組合員ではない教員にも影響を及ぼすようになっていった。新興教育運動は、マルクス主義ないし弁証法的史的唯物論を掲げた左翼運動であったが、細野武男の回想によれば「さるかに合戦一つを説明するのでも階級闘争やと言って説明」するようなものであったという。

二・四事件で弾圧された教員の多くは、子どもたちや父母を始め、周囲から信頼されていた優れた教員であった。このため、例えば、7名が逮捕された木曽地区の中心人物であった日義村の日義小学校の名取簡夫(なとり ふみお)が検挙された後、名取を慕っていた生徒たちの間に「同盟休校」を行い、警察書に出向いて名取の解放を求めようとする動きなども起こったという。

しかし、二・四事件の弾圧によって、長野県の教育は、新興教育のみならず自由主義的伝統も失われ、満蒙開拓青少年義勇軍の大規模な送り出しに象徴される戦争協力体制への著しい傾斜を見せることになった。

◆新興教育運動と 「二・四事件」 (長野県教員 赤化事件) の社会的意義PDF28p

柿沼肇

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🔵「生活図画教育」事件とは?=戦前の北海道での治安維持法弾圧事件

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★★生活図画事件=松本さん・菱谷さん表現の自由が弾圧された当時の様子を語りました。(15/08/19)6m

赤旗19.05.20

https://m.youtube.com/watch?v=lHcNu8J5UU8

★★1600915 伝える、伝わる~生活図画事件の証言~ (TVF2016応募作品)20m

https://m.youtube.com/watch?v=WNumEC916uM

★★生活図画事件を体験した美術教師松本五郎

(きかんし)90m

★★2014 09 21 生活図画事件講演会

事件の概略33m

本編43m

質疑36m

🔷🔷日常を絵にしただけなのに=治安維持法被害者語る 赤旗日曜版19.07.28

◆◆Q&A「生活図画教育」事件

2008510()「しんぶん赤旗」

 (北海道・一読者)

〈答え〉 生活図画教育とは、1932~40年、北海道旭川師範学校・熊田満佐吾、旭川中学校・上野成之両教師とその教え子たちが実践した美術教育です。

 それは、教え子たちに、身の回りの生活を見つめさせ、題材を選び、自らと現実の生活をより良く変革することをめざす絵の教育でした。しかし、戦争を推し進める国家権力はこうした教育さえ許さず、41年北海道綴方(つづりかた)教育連盟への弾圧に次いでこれらの教師たちを弾圧しました。これが「生活図画事件」といわれるものです。

 熊田は「リアリズムの図画を通してその時代の現実を正しく反映させなければならない」として「美術とは何か」「美術は人間に何をもたらすか」を学生に討論させ、工場などで働く人びとを描かせました。

 上野は、31~35年に続いた大凶作の現実に生徒の目を向けさせ、「凶作地の人たちを救おう」「欠食児童に学用品を送ろう」をテーマに美術部員にポスターを共同制作させました。ポスター「スペイン動乱は何をもたらしたか」の制作では「戦争という現実を考え直してみる目を要求した」と後年、語っています。

 これらの実践は、32年旭川中等学校美術連盟の組織へと発展、卒業生は「北風画会」を結成し毎年、旭川市内で展覧会を開き、市民に親しまれました。

 教師となった卒業生は、生活図画教育のみならず、生活綴方にも取り組み、アイヌ差別やいじめの解決、地域青年団の活動など、戦後民主教育の先駆ともいえる実践をしました。

 41年1月北海道綴方教育連盟の教師53人とともに熊田は検挙されました。師範学校は美術部員を取り調べ、卒業直前に5年生5人を留年・思想善導、1人を放校にします。9月、特高は留年の5人を含む熊田の教え子(国民学校教師)21人、上野と教え子3人を検挙します。軍隊に入隊または入隊直前3人(判明分)は、後に憲兵に取り調べを受け、1人が虐待で亡くなっています。

 裁判では、稲刈り途中で腰を伸ばした農婦を描いた「凶作地の人たちを救おう」のポスターについて、「地主ト凶作ノ桎梏(しっこく)ニ喘(あえ)グ農民ヲ資本主義社会機構ヨリ解放セントスル階級思想ヲ啓蒙スルモノ」として処断し、これらの絵を総括して「プロレタリアートによる社会変革に必要な階級的感情及意欲を培養し昂揚する為の絵画である」(旭川区裁堀口検事)と断定。治安維持法目的遂行罪として熊田を3年半、上野、本間勝四郎を2年半の実刑に、12人を執行猶予付の有罪としました。生活綴方と並んで戦前民主教育の一つの峰ともいえる生活図画教育を弾圧した80日後、日本はマレー半島と真珠湾に攻撃をしかけました。()

 〈参考〉宮田汎編著『生活図画事件』〔自費出版、連絡先電話&FAX011(385)5753)〕

 〔2008・5・10(土)〕

◆◆「生活図画事件」に学ぼう

(ブログhttp://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/204ded10c539c6c7389af067e895bae8

戦時下、生活のありのままを描く「生活図画教育」を実践していた北海道の教員や学生らが治安維持法違反容疑で逮捕された事件があった。

大量の逮捕者が出た思想弾圧事件だが、あまり知られていない。

偏見を恐れ、口を閉ざしていた関係者の一人が当時を証言した。

特定秘密保護法など戦前の思想統制と似た時代が到来する中、「一人一人が小さくても声を上げなければ」と訴える。 

(出田阿生)

 二枚の絵がある。題名は「レコードコンサート」と「休憩時間」。一枚は、レコードをかけ、クラシック音楽を聴く学生たち。もう一枚は、勤労動員で製紙工場の拡張工事に汗を流した後、原野で休憩している若者。北海道音更町の松本五郎さん(九三)が、二十歳のときに仲間を描いたものだ。

 これら何げない日常風景の絵が、「犯罪」の証拠とされ、一九四一年九月、当時、旭川師範学校五年生だった松本さんは、治安維持法違反容疑で逮捕された。

 絵が好きだった松本さんは、師範学校の美術部長に就いていた。師事していた教員の熊田満佐吾(まさご)さんは「生活図画」という教育運動を進めていた。単に美しい絵を描くのではなく、生活のありのままを絵に写し取り、より良い生き方を考える。そんな教育手法だった。

 当時、同様の教育運動の作文は「生活綴方(つづりかた)教育」、美術は「生活図画教育」と呼ばれていた。

 ところが四〇年一月、生活綴方教育が「子どもに資本主義社会の矛盾を自覚させ、共産主義につながる」として、教員らが一斉検挙される事件が起きる。逮捕されたのは、五十六人ともいわれる。

 翌年一月、今度は生活図画教育を指導していた熊田さんが特別高等(特高)警察に逮捕される。松本さんら教え子も、同年九月、寄宿舎に突然やってきた警察官に連行された。

 共産主義思想を学んだこともなく、全く身に覚えがない。「二、三日で帰れるだろう」と思っていた。だが、それは大間違いだった。

 接見禁止で外部との連絡を絶たれ、独房に放置された。シラミの卵が産みつけられた布団を体に巻いて、眠れぬ夜を過ごした。神経衰弱になり、毛髪が針金に変化したような錯覚に陥った。

 取調べがようやく始まったのは、約二カ月後。説明すれば分かってもらえるという期待はすぐに裏切られた。「コミンテルンや唯物史観とは何か、紙に書けと言われた。『知らない』と応えると『そこに本がたくさんあるから参考にして詳しく書け』と強要された。何度も書き直しを命じられた」

 こうして、操り人形のように描かされた「論文」が、「共産主義者」を裏付ける証拠となった。

 「検事が思わず失笑した警察の調書もあった」という。松本さんは古事記の「因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)の紙芝居を作ったことがあった。ワニザメに毛をむしられ「赤裸」になったウサギを、大国主命(おおくにぬしのみこと)が治すという物語。調書では「アカ(共産主義者)を助ける意味だ」とこじつけた。

 「何を言っても受け入れられない」と、あきらめた。氷点下三〇度になる極寒の刑務所で、手足や顔の皮膚が凍傷でただれる冬を過ごし、四二年末に釈放された。その後、懲役一年三月、執行猶予三年の判決を受けた。

人生壊され

 「逮捕されて人生を壊されたのは、純粋に夢の実現に向けて燃えていた教員志望の青年たちだった。『たとえ勤労動員で授業がつぶれても学生の本分は学問。感性を磨き、どう生きるかを考えよ』と説く熊田先生の教えに感動した。それがすべて罪とされた」

 師範学校を退学処分となった松本さんは、戦後、卒業資格を取得して教員になった。「竹やりで戦車に立ち向かえという国家総動員体制では、科学的な思考は邪魔になる。自分の頭できちんと考える教育をすることが危険視されたのだろう」と松本さんは言う。

現存者2

 「生活綴方事件」については、事件を題材とした作家三浦綾子さんの小説「銃口」で広く知られている。だが、生活図画事件は知る人は少ない。しかも、逮捕された人の中で、現存者は松本さんを含め二人だけだ。

 長年話さなかったのは、思い出すことのつらさに加え、偏見を恐れたからだという。松本さんとともに逮捕された仲間の一人は、勤め先で「思想犯で刑務所に入っていたことがあるらしい」といううわさを社内で流され、会社の要職を外されたという。元号が平成にかわった後の話だ。

 「もう事件について黙っているときではない」。松本さんが事件について語り始めたのは八十歳を過ぎてから。「語ってほしい」と自らの教え子たちに背中を押されたことも大きかった。今年九月には「証言 生活図画事件」を自費出版した。

 今、教育基本法には「愛国心」が盛り込まれ、国家安全保障戦略にまで「わが国と郷土を愛する」という文言が入った。そして、特定秘密保護法によって、国民の知る権利が奪われようとしている。

 「知る権利が奪われたら、為政者が思いのままになる。人権より国家を優先させる時代にしてはならない」と松本さんは憂える。「今ならまだ間に合う。誰かがなんとかしてくれるだろうと思うのは駄目。一人一人が声を上げ続けなければ」

「関係ない」が統制招く 小樽商科大荻野富士夫教授

 大正デモクラシー時代、子どもに作文や図画を自由に創作させる教育運動が各地で起きた。一九三〇年代半ばには生活に密着した形を目指して「生活教育運動」となり、特に東北地方や北海道で盛んだった。こうした運動が四〇年前後に集中して弾圧を受けた。

 共産主義者ではない教員や学生が大量に検挙された。「現状を客観的にとらえ、改善を考えよう」という教育趣旨を、当局が「危険思想の芽生え」として摘み取ろうとしたのだ。

 北海道での弾圧が突出しているわけではない。自然条件が厳しい土地柄で、苦しい生活を直視する教育をすれば、社会の矛盾に気づきかねないと当局が警戒した側面はあるかもしれない。

 父や兄が徴兵されて人手不足なのはなぜなのか。子どもがそうしたことを考えれば、戦争反対とまでいかなくても厭戦(えんせん)的な気持ちにつながる。

 治安維持法制定当時、政府は「慎重に運用」「一般国民とは関係ない」と説明した。多くの人が「自分とは関係ない」と思っていたら思想統制の社会が到来した。安倍晋三首相の靖国神社参拝や改憲への動きを見ると、特定秘密保護法が将来どう運用されるのか、やはり安心できない。

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生活図画事件 人々の暮らしを写実的に描く「生活図画」という教育運動が弾圧された事件。「資本主義の矛盾を自覚させ、共産主義を広めかねない」として、旭川師範学校や旭川中の教師、学生らが治安維持法違反容疑で逮捕された。逮捕者は27人にも上るとされる。

◆◆三浦綾子文学館『銃口』展示

~いま、考えておきたい平和のこと~

★★「銃口」が今訴えること ~三浦綾子の遺言~6m

★★文学解説 銃口 201507 森下辰衛(三浦綾子記念文学館特別研究員)22m

★★1時間でわかる三浦綾子2014 at 北海道教育大学旭川校62m

★★ドキュメント・光あるうちに 三浦綾子37m

開催にあたって

この度、昨年ご好評を頂いた『銃口』展を開催する運びとなりました。

『銃口』は、昭和の戦争がすすむ時代<天皇は神>という教育を受けた一人の男性が、やがて教師となり熱心に教えた綴り方(作文)教育で突然警察に捕まるという「北海道綴方教育連盟事件」(生活図画事件)を題材に、<昭和と戦争>を描いた作品です。

作品には、三浦綾子自身が軍国主義教育に何の疑いも持たなかった教師体験の反省から、「この昭和という体験は、どうしても書きのこしておきたい。戦争を二度とおこしてはならない、おこさせてはならないと、若い人たちが真剣に考えてくれれば」という願いが込められています。

『銃口』は<三浦綾子の遺言>とも言われ、書き終えた綾子は「昭和時代が終わっても、なお終わらぬものに目を外すことなく、生きつづけるものでありたい」と次の世代へ大切なメッセージを託しました。

戦後70年の今、少しずつ風化しその時代を語れる人が少なくなってきた中で、語り継ぐべきことを一人でも多くの方に知って頂ければと願っています。

現代も様々な形で人間に向けられている銃口。それに対して無関心に生きることは、結果的に自分が自分に銃口を向けることになるのではないでしょうか。

そのことに気付き、その危険に目をそらすことなく、人間が人間らしく生きることの大切さを再認識するきっかけになれば幸いです。

『銃口』(上)あらすじ

昭和元年、北森竜太は、北海道旭川の小学4年生。父親が病気のため納豆売りをする転校生中原芳子に対する担任坂部先生の温かい言葉に心打たれ、竜太は、教師になることを決意する。竜太の家は祖父の代からの質屋。日中戦争が始まった昭和12年、竜太は望んで炭鉱の町の小学校へ赴任する。生徒をいつくしみ、芳子との幸せな愛をはぐくみながら理想に燃える二人の背後に、無気味な足音……それは過酷な運命の序曲だった。

『銃口』(下)あらすじ 昭和16年、竜太は思いもよらぬ治安維持法違反の容疑で拘留、七か月の独房生活の後、釈放された。坂部も同じ容疑で捕らえられ釈放されたもののすでに逝くなっていたことを知り慟哭。芳子や家族に支えられ、ようやく立ち直った矢先に、召集の赤紙が届く。それは芳子との結婚式の直前だった。軍隊生活、そして昭和20815日終戦。満州から朝鮮への敗走中、民兵から銃口を突きつけられる。そこへ思いがけない人物が現れて助けられ、やっとの思いで祖国の土を踏む。再会した竜太と芳子にあの黒い影が消える日はいつ来るのか……

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🔵横浜事件と治安維持法

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★★20170301 UPLAN【後半】短縮版「横浜事件」上映=横浜事件ビデオ42m

★横浜事件国家賠償 訴え退ける6m 20160630

★「司法は責任をとらずに逃げた」横浜事件国賠訴訟で不当判決5m

★横浜事件国家賠償訴え退ける-20160630

★戦時中最大の言論弾圧事件横浜事件7m

https://m.youtube.com/watch?v=d7tnNsKg9Qc

◆◆(問う「共謀罪」)「監視」の先、弾圧懸念 横浜事件ゆかりの人

2017613日朝日新聞

「横浜事件」端緒の地を伝える碑の前に立つ、柚木哲秋さんと金沢敏子さん=富山県朝日町

 組織的犯罪処罰法改正案が導入しようとする「共謀」の処罰。その先にあるのはもの言えぬ社会では――。戦時下最大の思想弾圧とされる「横浜事件」=キーワード=とかかわりをもった人たちは、参院での審議を見つめる。

 事件の舞台の一つ、富山県朝日町(旧・泊町)の料理旅館「紋左(もんざ)」。1942年夏、評論家として活躍していた細川嘉六(かろく)が旅館に招いた出版・言論関係者らが船遊びや宴会に興じた際に撮った写真が残っている。

 細川を囲み旅館の庭で浴衣姿で収まった人たちはその後、「共産党再建準備会」の会合に参加した疑いをかけられ、治安維持法違反容疑で相次いで検挙された。

 地元テレビ局ディレクターだったころ、事件を知った金沢敏子さん(65)は「権力に批判的な人を捕まえるため、当局に写真が利用された。日常の楽しみの場が、『危険な場』にでっちあげられたのです」と話す。「自分が暮らす地域で起きたこととは」とショックを受け、研究会を作った。

 「共謀罪」法案が成立すれば、さまざまな犯罪に適用され、当局の監視の網は日常にぐっと身近になる。「友人との平穏な語らいの場面まで監視されることにならないか」。金沢さんは国会審議から目を離せずにいる。

 旅館には「泊・横浜事件端緒の地」と刻んだ碑が立つ。主人の柚木哲秋さん(66)は事件の資料コーナーもホールにつくった。事件当時、旅館を営んでいた祖母も、特高に事情をきかれた。ここで起きたことを語り継ごうと思っている。

 金沢市の元大学教授、平館道子さん(82)も「人間の心に土足で入るようなもの」と法案に反対する。

 父利雄さんは旧ソ連経済に詳しい旧満鉄東京支社の調査部員で、旅館を訪ねた翌年、連行された。「研究していた内容がとがめられたのよ」と母に聞いた。取り調べを経て、再会した際に父の手に傷があった。

 「論文も何もかも、奴隷のことばで書いていたよ」という父の言葉が忘れられない。権力の許す範囲でしか表現できなかったという意味だ。「本を読み、考えることさえ自由にならない時代があった。次の世代が暗くならないよう、いま、声を上げています」(高木智子)

 ◆キーワード

 <横浜事件> 1942~45年、言論・出版に携わっていた約60人が「共産主義を宣伝した」などの治安維持法違反容疑で神奈川県警特高課に逮捕された。拷問で4人が獄死、約30人が有罪判決を受けた。のちの再審で免訴の判決が出て、横浜地裁は2010年、刑事補償を認める決定で実質的な「無罪」判断を示した。

◆◆国の賠償責任認めず 横浜事件、「違法な対応」は認定 東京地裁判決

201671日朝日新聞

 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」=キーワード=をめぐり、再審で2008年に「免訴」が確定した元被告2人の遺族が「裁判記録を焼かれたため、生前に再審を開始できなかった」などとして、国に計1億3800万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が30日、東京地裁であった。本多知成裁判長は、国に賠償責任はないとして、遺族の請求を棄却した。遺族は控訴するという。

 判決は、元被告らを逮捕した神奈川県警特別高等課(特高)による拷問を知りながら起訴した検察官や、有罪とした裁判官に「職務上、不十分で違法な対応があった」と認定。裁判記録は「裁判所職員の何らかの関与のもとで廃棄された」とも認めた。そのうえで、1947年の国家賠償法施行より前の公務員の違法行為について、国は賠償責任を負わないと結論づけた。

 遺族側は、元被告の死後に始まった再審で「無罪」とせず、有罪か無罪かを判断せずに裁判を打ち切る「免訴」としたことも違法だと主張したが、判決は「無罪判決で名誉回復されるという心情は理解できるが、免訴により有罪判決は効力を失い、不利益は回復された」と述べた。

 訴えていたのは中央公論社の編集者だった木村亨さんと旧満鉄調査部員の平舘利雄さんの遺族。2人は43年に「共産主義を宣伝した」として逮捕され、治安維持法違反の罪で有罪とされた。86年に再審を請求したが、裁判記録がないことなどから棄却された。

 2人の死後、遺族の請求で始まった再審では、治安維持法の廃止を理由に免訴が確定。横浜地裁は10年、刑事補償を認める決定の中で、実質的に「無罪だった」と判断していた。

◆遺族「これからも闘う」

 「司法の犯罪を司法自らが裁かなければ、浄化はできない。何も得るものがない判決だった」。故・木村亨さんの妻で原告の木村まきさん(67)は、判決後の会見で失望をにじませた。

 まきさんは「横浜事件でひどいことは色々あるが、拷問と裁判記録の焼却が大きい」という。亨さんは98年に死去。「意図的に記録を焼却して再審請求を妨げ、被害回復の機会を与えないまま死亡させるに至った」と訴えてきた。

 判決は「たとえ廃棄に裁判所職員がかかわっていたとしても、再審の判断をする際に違法行為があったわけではない」として賠償責任を否定。まきさんは「どうしてこんな判決になるのか、不思議でならない。これからも闘い続けたい」。河村健夫弁護士も「裁判所が自分で焼いておいて、記録がないからと再審を棄却した。理解に苦しむ判断」と批判した。(千葉雄高)

◆キーワード

 <横浜事件> 1942~45年、中央公論や改造社、朝日新聞社などの言論・出版関係者約60人が「共産主義を宣伝した」などとして神奈川県警特別高等課に治安維持法違反容疑で逮捕された事件の総称。拷問による取り調べで4人が獄死したほか、約30人が有罪判決を受けた。元被告らが86年から4度にわたり再審請求したが1次、2次は棄却。3次と4次は再審を認めたものの、いずれも治安維持法の廃止などを理由に有罪、無罪を示さない「免訴」の判決が言い渡された。

◆◆(ひと)木村まきさん 横浜事件を記録する遺族

2015423日朝日新聞

木村まきさん

 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」。中央公論社の編集者だった元被告・故木村亨(とおる)さんの妻として裁判を闘い記録を残す。その過程を弁護団と「横浜事件と再審裁判」にまとめ出版した。「遺族の責任を痛感します。耳を澄まして死者の声を聴き、応えたい」

 1942~45年、共産主義を宣伝したなどとして編集者らが治安維持法違反容疑で逮捕され、4人が獄死。約30人が有罪になった。裁判記録は焼かれ、再審請求は「記録がない」と退けられた。

 98年、夫の急逝直後、自ら請求人になった。再審の扉は開くが、有罪無罪を判断しない「免訴」が確定した。「他界した元被告らを有罪の悪夢から解放したい」と、今も国家賠償訴訟で争う。

 司法は逃げずに事件と向き合ってほしい。そう願い、裁判官に「私と夫の心と身体に触れてほしい。胸や背中に聴診器を当て、触診し、打診し、問診し、心と身体の声を聞いてほしい」と訴えた。

 書籍編集者時代、市民運動の会合で34歳年上の亨さんと出会い、「父に似ている」とひかれ、92年に結婚。夫が体験した事実を全て記録したいと、約130本のビデオ映像と2千枚の写真を撮り「全発言」を集めた本も出版した。

 2年余り拘束された夫が拷問の恐怖などを記した約80冊の日記やメモを守って暮らす。「同じ事件が起きぬよう、今の問題として伝え続けます」

 (文・写真 高波淳)

    *

 きむらまき(66歳)

◆◆横浜事件

よこはまじけん

(小学館百科全書)

太平洋戦争下に特別高等警察によってでっち上げられた最大の言論弾圧事件。1942年(昭和17)総合雑誌『改造』89月号に掲載された細川嘉六(かろく)の論文「世界史の動向と日本」は、内務省の事前検閲は通過していたが、陸軍報道部長谷萩那華雄(やはぎなかお)18951949、戦犯として刑死)によって共産主義宣伝論文であると批判された。これをきっかけとして神奈川県特高は細川を検挙、さらに細川の知人や関係者が次々と検挙された。

その検挙者の一人の家で1枚の写真が発見された。写真は、細川が『改造』『中央公論』『東洋経済新報』などの編集者や満鉄(南満州鉄道)調査部の人々と郷里の富山県泊(とまり)町(現朝日町)へ旅行したときのもので、神奈川県特高はこの会合を「泊共産党再建事件」としてフレームアップ(捏造(ねつぞう)、でっち上げ)し、編集者や調査員を続々検挙した。細川検挙に前後して、世界経済調査会の川田寿(ひさし)190579)夫妻もアメリカ共産党と関係ありとして検挙され、さらに細川の関係していた昭和塾関係者も検挙された。これらの事件を口実として44年、改造社、中央公論社は軍閥政府から強制的に解散させられた。さらに日本評論社や岩波書店の編集者も検挙された。自白を強いる拷問は凄惨(せいさん)を極め、獄中死者、出獄直後の死者は4名を数えた。

 治安維持法違反で摘発された約60名のうち半数が起訴のうえ有罪となり、敗戦の年(1945910月に懲役2年、執行猶予3年の判決で釈放された。元被告たちは、拷問した元特高警察官を告訴したが、有罪となったのは3名だけで、その警察官も投獄されなかった。戦後復刊された『改造』は1955年(昭和30)廃刊、『中央公論』は60年に『風流夢譚(むたん)』事件などで編集方針を後退させた。横浜事件と特高弾圧に関する記録は被害者によって精力的に書かれ、治安維持法や特高の恐ろしさを伝えた。86年末には元被告のなかの『改造』『中央公論』編集者たちが横浜事件の再審を裁判所に要求する運動を始めた。1994年(平成6)にも再審請求をしたが、いずれも「当時の訴訟記録が存在しない」などを理由に棄却された。98年には第三次再審請求が出され、「ポツダム宣言に違反する治安維持法は814日のポツダム宣言の受諾と同時に失効した」、その効力を失った法を根拠に有罪判決をすることはできない、「無罪、もしくは刑の廃止があったとして免訴を言い渡すべきだった」として、裁判のやり直しを求めている。1945年の判決から半世紀以上を経て元被告人の多くは亡くなった。第三次の請求人6人のうち元被告本人は1人であったが、その1人も20033月末に亡くなった。それから半月後の415日、第三次再審請求に対して、横浜地方裁判所は、再審の開始を認める決定を出した。同地裁は、「ポツダム宣言受諾によって同法は実質的に効力を失っており、元被告らには免訴を言い渡すべき理由があった」とし、法令適用の誤りを理由に再審開始を認めたのである。[松浦総三]

『松浦総三著『戦時下の言論統制』(1975・白川書院新社) ▽美作太郎ほか著『横浜事件』(1977・日本エディタースクール出版部) ▽中村智子著『横浜事件の人びと』増補版(1979・田畑書店) ▽木村亨著『横浜事件の真相――つくられた「泊会議」』(1982・筑摩書房) ▽畑中繁雄・梅田正己著『日本ファシズムの言論弾圧抄史――横浜事件・冬の時代の出版弾圧』(1986・高文研) ▽青山憲三著『横浜事件 元「改造」編集者の手記』(1986・希林書房) ▽笹下同志会編『横浜事件資料集』(1986・東京ルリユール) ▽神奈川新聞社編・刊『「言論」が危うい――国家秘密法の周辺』(1987・日本評論社発売) ▽海老原光義著『横浜事件――言論弾圧の構図』(1987・岩波書店) ▽小野貞・気賀すみ子著『横浜事件・妻と妹の手記』(1987・高文研) ▽森川金寿著『細川嘉六獄中調書――横浜事件の証言』(1989・不二出版) ▽小泉文子著『もうひとつの横浜事件――浅石晴世をめぐる証言とレクイエム』(1992・田畑書店) ▽小野貞・大川隆司著『横浜事件――三つの裁判』(1995・高文研) ▽横浜事件の再審を実現しよう! 全国ネットワーク編『世紀の人権裁判 横浜事件の再審開始を!』(1999・樹花舎・星雲社発売) ▽木村亨著、松坂まき編『横浜事件 木村亨全発言』(2002・インパクト出版会)』

◆◆(問う「共謀罪」 表現者から)「戦前と違う」とは思わない 半藤一利さん

2017420日朝日新聞

作家・半藤一利さん(86)

 戦争は昔の話。本当にそう言い切れるのだろうか

     ◇

 私が11歳のとき太平洋戦争が始まった。東京大空襲では、逃げている途中に川に落ちて危うく死にそうになる経験もした。

 向島区(現・墨田区)の区議だったおやじは「日本は戦争に負ける」なんて言うもんだから、治安維持法違反で3回警察に引っ張られた。

 当時は戦争遂行のための「隣組」があった。「助けられたり、助けたり」という歌詞の明るい歌もあるが、住民同士を相互監視させる機能も果たした。いつの世も、民衆の中には政府に協力的な人がいる。「刺す」という言い方もあったけれど、おやじを密告した人がいたんだろう。

 歴史を研究してきた経験から言えるのは、戦争をする国家は必ず反戦を訴える人物を押さえつけようとするということだ。昔は治安維持法が使われたが、いまは「共謀罪」がそれに取って代わろうとしている。内心の自由を侵害するという点ではよく似ている。

 治安維持法は1925年の施行時、国体の変革を図る共産主義者らを取り締まるという明確な狙いがあった。その後の2度の改正で適用対象が拡大され、広く検挙できるようになった。

 政府は今回の法案の対象について「『組織的犯罪集団』に限る」「一般の人は関係ない」と説明しているが、将来の法改正によってどうなるか分からない。

 私に言わせると、安倍政権は憲法を空洞化し、「戦争できる国」をめざしている。今回の法案は(2013年成立の)特定秘密保護法や、(15年成立の)安全保障法制などと同じ流れにあると捉えるべきだ。歴史には後戻りができなくなる「ノー・リターン・ポイント」があるが、今の日本はかなり危険なところまで来てしまっていると思う。

 「今と昔とでは時代が違う」と言う人もいるが、私はそうは思わない。戦前の日本はずっと暗い時代だったと思い込んでいる若い人もいるが、太平洋戦争が始まる数年前までは明るかった。日中戦争での勝利を提灯(ちょうちん)行列で祝い、社会全体が高揚感に包まれていた。それが窮屈になるのは、あっという間だった。その時代を生きている人は案外、世の中がどの方向に向かっているのかを見極めるのが難しいものだ。

 今回の法案についてメディアはもっと敏感になるべきだ。例えば、辺野古(沖縄県名護市)での反基地運動。警察が「組織的な威力業務妨害罪にあたる」と判断した集会を取材した記者が、仲間とみなされて調べを受ける可能性はないか。「報道の自由」を頭から押さえつけるのは困難でも、様々なやり方で記者を萎縮させることはできる。

 法案が複雑な上、メディアによって「共謀罪」「テロ等準備罪」など様々な呼び方があり、一般の人は理解が難しいだろう。でも、その本質をしっかり見極めてほしい。安倍首相は法律ができなければ、「東京五輪を開けないと言っても過言ではない」と答弁した。それが仮に事実だったとしても、わずか2週間程度のイベントのために、100年先まで禍根を残すことがあってはならない。(聞き手・岩崎生之助)

     *

 はんどう・かずとし 「日本のいちばん長い日」「ノモンハンの夏」など昭和史関連の著作多数。「文芸春秋」の元編集長。

◆◆共謀罪はなぜ現代版治安維持法なのか

(赤旗日曜版17.04.09

◆◆共謀罪と治安維持法

(赤旗17.03.14

【共謀罪と治安維持法=赤旗17.03.21

◆◆治安維持法の教訓、今こそ「共謀罪」法案、自民内で了承

 犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織的犯罪処罰法の改正案に対し、「市民への監視が強まるのでは」との懸念の声が上がっている。「一般人は対象外」と政府は説明するが、「善良なる国民には関係ない」として成立した戦前戦中の治安維持法の姿を重ねる人たちもいる。「息苦しい時代を繰り返さないで」と訴える。

◆特高が監視、「時代逆戻りダメ」

 「夜中に寝ているところを引っ張られて」。三重県松阪市の太田まささん(102)が警察に拘束されたのは1933(昭和8)年3月。県内の共産党員ら150人が治安維持法違反容疑で一斉に検挙された。

 当時18歳。容疑は「赤旗」を読んだことだった。松阪は農民運動が盛んで、若い活動家も多かった。「お兄さんたちと話したくて出かけた」。取り調べでは「会合の出席者は」「転向しろ」と怒鳴られ、肩やひざをたたかれた。「女だからその程度で済んだ」

 不起訴となった後、結婚して東京に移った。そこにも、同法を盾に思想を取り締まった特別高等警察(特高)が来た。「過去が夫に知れたらどうするの」と太田さんは訴えた。「ずっと監視されていたんですね」

 戦後、同法は廃止されたが、荻野富士夫・小樽商科大特任教授(日本近現代史)は「特高の手法は公安警察に受け継がれた。イスラム教徒の監視などは典型例だ」と指摘する。2010年、警視庁公安部作成とみられる内部文書がネット上に流出し、国内のイスラム教徒の情報収集が明らかになった。「モスクの出入り」などの項目もあり、特高の監視名簿と似ていた。荻野氏は「共謀罪が成立すれば、広範な監視が正当化される恐れがある」とみる。

 数年前に足を骨折した太田さん。「時代を逆戻りさせちゃならん。足さえ動けば、反対を訴えるのに」

◆夫の苦難、「誰も他人事でない」

 中央公論社の編集者だった木村亨さん(故人)は晩年、病室のカレンダーの5月26日に、赤いペンで「投獄 拷問開始」と書き込んでいた。1943(昭和18)年の同日早朝、特高警察に踏み込まれ、家族の目の前で連行された。

 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」。雑誌編集者ら約60人が逮捕され、拷問で4人が獄死した。木村さんらが旅館で開いた出版記念パーティーが、「共産党再建の準備会」と決めつけられた。

 有罪判決を受けた木村さんは戦後、再審請求を続けた。92年に結婚して活動を支えてきた妻まきさん(68)は「当時は戦争を嫌う、20代のジャーナリストに過ぎなかった。治安維持法違反なんて、夢にも思っていなかった」と話す。

 治安維持法について政府は当初、「不当に範囲を拡張して無辜(むこ)の民にまで及ぼすことはない」(小川平吉司法大臣)と強調した。しかし、拡大解釈や法改正を経て市民を弾圧する道具となり、拷問が横行した。

 木村さんは治安維持法と共謀罪が似ていると集会などで訴える。「国が邪魔な人の息の根を止められる。誰にとっても他人事(ひとごと)ではない」(黄チョル、後藤遼太)

◆処罰の対象、広がった歴史 専門家、「乱用」懸念

 1925(大正14)年に成立した治安維持法は、国体(天皇を中心とした国のあり方)の変革と私有財産制度の否認を目的とした組織や宣伝を禁じた。当初は共産党が狙いだったが、壊滅後は矛先を労働組合や芸術運動、宗教団体、言論人、官僚にまで広げた。28年の法改正で「目的遂行罪」が追加され、共産党とつながりがなくても、結果的に目的遂行に資する行為が対象に。41年の改正では、党の支援団体に属したり、団体の準備をしたりするだけで対象になった。制定時の「あいまいな解釈は許さぬ」「思想に立ち入らない」などという政府答弁に反して、適用範囲は際限なく広がっていった。

 渡辺治・一橋大名誉教授は、治安維持法と今回の法案の類似性について「天皇制転覆とテロ。どちらも、国民に不人気な『悪』の取り締まりを口実にしている」と指摘。「犯罪が起きる前に取り締まろうとする点、組織の一網打尽を狙う点も共通している。犯罪の予防を突き詰めると、権力による乱用が不可避だ」と危惧する。

◆◆書評・奥平康弘『治安維持法小史』

(赤旗17.04.30

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🔵治安維持法体制とは

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治安維持法とはどんな法律だったか?

2002213()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 テレビで戦前、治安維持法という法律があったと聞きましたが、どんな法律なのですか。(千葉・一読者)

 〈答え〉 治安維持法は創立まもない日本共産党などを標的に、一九二五年に天皇制政府が制定した弾圧法です。「国体を変革」「私有財産制度を否認」することを目的とする結社の組織・加入・扇動・財政援助を罰するとしました。「国体」とは天皇が絶対的な権力をもつ戦前の政治体制で、「私有財産制度を否認」とは社会主義的な思想や運動をねじまげて描いた政府の表現です。

 この法律は、結社そのものを罰する点でも、思想や研究までも弾圧する点でも、前例のないものでした。そのうえ二八年には大改悪が加えられました。

 まず、最高刑が懲役十年だったのを、国体変革目的の行為に対しては死刑・無期懲役を加え天皇制批判には極刑でのぞむ姿勢をあらわにしました。

 また「結社の目的遂行の為にする行為」一切を禁止する「目的遂行罪」も加わり、自由主義的な研究・言論や、宗教団体の教義・信条さえも「目的遂行」につながるとされていき、国民全体が弾圧対象になりました。

 さらに四一年には、刑期終了後も拘禁できる予防拘禁制度などの改悪が加えられました。

 治安維持法の運用では、明治期制定の警察犯処罰令など、一連の治安法規も一体的に利用し現場では令状なしの捜索や取り調べ中の拷問・虐待が日常的に横行しました。

 日本共産党は二八年三月十五日や二九年四月十六日の大弾圧など、治安維持法による、しつような弾圧を受け、拷問で虐殺された作家の小林多喜二や党中央委員の岩田義道をはじめ、獄死者、出獄直後の死亡者など、多くの犠牲者を出しています。

 政府発表は治安維持法の送検者七万五千六百八十一人、起訴五千百六十二人ですが、一連の治安法規も含めた逮捕者は数十万人、拷問・虐待による多数の死者が出ました。(清)

◆◆治安維持法って何?

2017227日赤旗

 Q 共謀罪が「現代版治安維持法」と呼ばれることがあるけど、治安維持法って何?

 A 戦前の絶対主義的天皇制のもとで政府が気にくわない主張や活動をする団体をつくることや、そのメンバーになることを犯罪とした法律です。1925年につくられました(45年10月廃止)。

 Q 政府の気にくわないことって?

 A 処罰対象は「国体を変革すること」「私有財産制度の否認」などとなっています。

 当時の絶対主義的天皇制のもとでは、民主化を求めることは弾圧対象でした。治安維持法は、「国体を否定しまたは神宮もしくは皇室の尊厳を冒とく」として処罰対象にしているので、国や宗教について、政府と違う考えを持つことも許さない規定です。政治や労働、文化運動にとどまらず、多くの宗教者も弾圧されました。あいまいな規定のため、当時の特高による乱用と拡大解釈で、誰でもが容疑者になりえました。

 Q 罰則は重かったの?

 A 2回の改悪が行われ、最高刑は死刑まで引き上げられました。有罪判決を受けて、刑期満了になっても再犯しそうな人を拘束する「予防拘禁」もありました。警察が人の思想・信条にいったん目をつけたら、徹底して圧殺できる仕組みです。

 Q 犠牲者はどれくらいいるの?

 A 検束・勾留された人は数十万人にのぼります(表)。命を落とした人は、氏名が特定できるだけで500人余りいます。

 (2017・2・27)

◆◆小林多喜二、山本宣治が殺されたわけは?

200634()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 小林多喜二や山本宣治が殺されたのは「3・15事件」における特高警察の拷問を告発したためだと聞きましたが、どういうことですか?(北海道・一読者)

 〈答え〉 1928年3月15日未明、天皇制政府は、内務省、検事局や警察の総力をあげて、日本共産党員、支持者をいっせいに検挙しました。日本共産党が同年2月、「赤旗」(せっき)を創刊し、初の普通選挙で11人を労農党から立候補させ、山本宣治、水谷長三郎の2人の当選をかちとった直後でした。

 弾圧は、反戦平和と主権在民を掲げ国民の前に敢然と姿をあらわした共産党の圧殺が不可欠だったからでした。田中義一内閣はその年の4月、中国侵略をひろげ(第2次山東出兵)、国内では治安維持法を改悪(最高刑を「死刑」に)、特別高等警察(特高)の網を整備し、弾圧体制の強化をはかりました。

 3月15日の弾圧では、党組織の壊滅へ、検挙者にはげしい拷問を加えたことが特徴で、その後は「殺しても上司が引き受ける」という暗黙の了解で、歯止めがなくなり、虐殺も急増しました。

 小林多喜二が住む北海道小樽でも「3・15」からの二カ月間で500人もの人々が検束され、小樽警察は署長官舎に拷問室を急造し毛布で窓をおおって防音し、拷問をくり返しました。これを知った多喜二は、未定稿の「防雪林」の執筆を中断し「一九二八年三月一五日」を一気に書き上げ、野獣化した特高を告発します。

 山本宣治も翌1929年2月8日の帝国議会で追及しました。

 「福津正雄という人間は、冬の寒空に真裸で四つばいさせられて、竹刀で殴って『もう』と牛の鳴声をいえといって『もう』といわせ、あるいはその床をなめろといって、床をなめさせた、静秀雄という被告は竹刀で繰返し殴られて、もん絶した。ふと、眼がさめてみたら枕許に線香が立ててあった」「鉛筆を指の間にはさみ、あるいは三角型の柱の上に坐らせて、そうしてその膝の上に石を置く。あるいは足をしばって逆さまに天井からぶら下げて、顔に血液が逆流し、そうしてもん絶するまで、うっちゃらかしておく生爪をはがして苦痛をあたえる、というような実例がいたる所にある」

 政府側はこの事実を「断じて認めることはできませぬ」「これに対して所見を述べる必要はありませぬ」と答弁を拒否。戦後もその態度を変えていません。

 山本代議士は、この追及をした一カ月後、刺殺されました。犯人は右翼団体の一員で捜査にあたった特捜課長と親しい間柄だったことはのちに判明しています。多喜二も5年後の1933年2月20日、築地警察署で特高によって虐殺されます。5日は山宣没後77年です。(喜)

◆◆治安維持法

ちあんいじほう

小学館百科全書

第一次世界大戦後に高揚した社会運動、とりわけ日本共産党を中心とする革命運動の鎮圧を標榜(ひょうぼう)して1925年(大正14)に制定された法律。その後1928年(昭和3)の改正を経て、共産党員のみならず、その支持者さらには労働組合・農民組合の活動、プロレタリア文化運動の参加者にまで適用されるようになった。日本共産党指導部の壊滅した1935年以降、同法は宗教団体や学術研究サークルなどにまでその牙(きば)を向け、ファシズムへ向けて国民を思想統制する武器として「活躍」した。同法は1941年いっそう権力にとって都合のよいように改正されたが、敗戦直後の1945年(昭和201015GHQ(連合国最高司令官総司令部)の指令に基づいて廃止された。同法により検挙され、また起訴された者の数がどれほどになるかは、いろいろな統計によってかなりの食い違いがある。さらに統計から漏れた検挙者の数も相当多数に上ると推測される。そういう限定をつけたうえで、司法省の調査によるものをみると、1943年の4月までで同法により検挙された者は67223名、起訴された者は6024名に上っている。これが一つの目安となろう。同法の軌跡は、成立期(19251928年)、本格的発動期(19281935年)、拡張期(19351941年)、拡散期(19411945年)の四つに区分することができる。

◆成立期

社会運動取締りのための新しい治安立法の最初の試みは、1922年(大正11)第45議会に提出された過激社会運動取締法案であった。同法案の流産後、政府は緊急勅令で再度同法の制定をねらったが実現するに至らず、1923年関東大震災に乗じて、いわゆる治安維持令を緊急勅令の形で出すにとどまった。しかしこれは取締り当局の満足のいくものではなく、かくして治安維持法案が1925年の第50議会に提出されることになった。若干の修正を受けただけで成立した同法は、その第1条で「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的」として結社を組織したり、それに加入した者に10年以下の懲役・禁錮刑を科している。ほかに同法は、国体変革等の目的実行のための協議(2条)、目的実行の煽動(せんどう)3条)、目的達成のための犯罪の煽動(4条)、目的達成のための利益供与(5条)などの処罰を規定している。同法の最初の発動は、1926年(大正15)京都大学の学生を主体とした全日本学生社会科学連合会関係者に対してなされた(学連事件)。しかし、この発動は権力が同法発動の主たる対象としていた日本共産党とはさしあたり関係のない対象に向けられていること、また学連に対しては同法2条の実行協議罪が発動されていること(後年同法の発動はほとんど1条に限られる)などの点で、後の本格的発動とは様相を異にしていた。いわば小手調べの段階であった。

◆本格的発動期

同法の本格的発動は、1928年(昭和3315日、日本共産党関係者に対する全国一斉検挙(三・一五事件)であった。その後も共産党関係者に対する一斉検挙はたび重ねて行われていく。一方、政府は三・一五事件を宣伝して「共産党の陰謀」を印象づけながら、同法改正案を第55議会に提出した。それが不成立に終わると、政府は緊急勅令という形で改正を強行した。この1928年改正では、(1)国体変革を目的とした結社の組織者、指導者に対して最高刑に死刑が導入され、(2)結社のメンバーでなくとも、結社の「目的遂行ノ為(ため)ニスル行為」をなした場合には同法で処罰する旨の規定(いわゆる目的遂行罪)が加えられた。(1)は運動参加者への威嚇という効果をねらったものであるが、とくに(2)の改正が果たした役割は大きかった。目的遂行罪により同法は適用の対象を一挙に拡大し、労働組合の活動、文化運動、果ては弁護士の治安維持法被告のための活動までもが、日本共産党の「目的遂行ノ為ニスル行為」であるという理由で処罰されるに至った。こうした適用対象の飛躍的拡大に伴って、当局は運動参加者に対し、この重罰の威嚇や拷問、長期の拘禁などによって転向を強要した。たび重なる弾圧と、転向強要によって、社会運動は急速に衰退し、1935年には日本共産党指導部も壊滅して、治安維持法はそれが標榜していた目的を達することになった。

◆拡張・拡散期

しかし治安維持法は、天皇制のファシズム化に伴い新しい役割を受け持つこととなる。それを象徴したのが1935年末、大本(おおもと)教への同法の発動に始まる一連の宗教団体弾圧であった。天皇制の「国体」神話を認めない宗教が、この法によって抹殺され、国民のイデオロギー統制が進む。また、それまで処罰の対象とならなかった唯物論研究会のような研究活動や、非共産党系の労農グループにまで同法の牙は向けられていった。こうした治安維持法の濫用(らんよう)を法的に追認し、さらにいっそう広い対象に発動できるようにするために、1941年同法は大改正される。すなわち改正法は第1章で、「国体変革」結社に対する刑をさらに引き上げ、その「支援結社」「準備結社」あげくのはてには結社といえない「集団」の活動をも取り締まると規定してその対象を拡大した。また宗教団体を処罰するために「国体否定」(変革まではいかずともよい)結社処罰罪が新設された。さらに第2章では弁護人の制限、控訴の否定など同法に特別な刑事手続が新設され、第3章では非転向者を引き続き拘禁する予防拘禁制が導入された。こうして同法は、もはや権力の行使を規制するという意味での法とはいえない代物となったのである。

『奥平康弘著『治安維持法小史』(1977・筑摩書房)』

◆治安維持法から

大正一四年四月二二日公布

第一条〔1〕国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮(きんこ)ニ処ス

2〕前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二条 前条第一項ノ目的ヲ以(もっ)テ其()ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為()シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第三条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ヲ煽動(せんどう)シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第四条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ騒擾(そうじょう)、暴行其ノ他生命、身体又ハ財産ニ害ヲ加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第五条 第一条第一項及前三条ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若(もしく)ハ約束ヲ為シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ為シタル者亦(また)同シ

第六条 前五条ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減軽又ハ免除ス

第七条 本法ハ何人ヲ問ハス本法施行区域外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス

   附則

大正十二年勅令第四百三号(治安維持ノ為ニスル罰則)ハ之ヲ廃止ス

◆【治安維持法中改正ノ件】

  昭和三年六月二九日公布

治安維持法中左ノ通改正ス

第一条〔1〕国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

2〕私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

3〕前二項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二条中「前条第一項」ヲ「前条第一項又ハ第二項」ニ改ム

第三条及第四条中「第一条第一項」ヲ「第一条第一項又ハ第二項」ニ改ム

第五条中「第一条第一項及」ヲ「第一条第一項第二項又ハ」ニ改ム

   (『旧法令集』による)

◆◆特別高等警察(特高)

とくべつこうとうけいさつ

天皇制国家の下で、その国家に反対する社会運動ならびに思想の取締りを担当した警察の組織と活動。国家的治安の維持にあたる政治警察をフランスやドイツでは高等警察(フランス語でla haute police、ドイツ語でHoch Polizei)と称していた。日本では、この高等警察の任務の主たる部分をなす反体制運動の取締りをもっぱら行う機構が、そこから分離独立して特別高等警察となったのである。警察活動のこの部門は、「特高」とよばれて悪名をはせ、天皇制警察の代名詞のようになっている。

 高等警察からの特別高等警察の分立は、1910年(明治43)の大逆(たいぎゃく)事件を契機として翌年8月に警視庁に特別高等課(以下、特高課、特高警察と略す)が設けられたのを嚆矢(こうし)とする。以後、同課は、12年(大正110月に大阪府に、22年以降北海道、京都府のほか七県に順次設置され、三・一五事件を機に28年(昭和3)には残りの全県に設置された。特高警察の生涯はいくつかの時期に区分してみることができる。

第一期

警視庁に設置された当初の特高課は、特高、検閲の二係をもつだけであり、同盟罷業の取締り、爆発物取締り、出版物の検閲を担当した。特高警察のこの時代の活動は、主として、特別要視察人名簿にリストアップされた社会主義などの活動家たちを監視することにあった。

第二期

特高警察の活動が本格化するのは、ロシア革命を機に労働・農民運動、さらには社会主義、共産主義の運動が広範に展開されるに至ってからのことである。とくに、それら運動の取締りを名として1925年(大正14)に制定された治安維持法は特高警察の最大の武器となり、同法による28年の三・一五検挙は「特高」の名を一躍高からしめた。以後特高警察は従来高等警察の行っていた事務を次々に吸収し、組織的にも肥大化の一途をたどる。その結果、たとえば、警視庁では32年(昭和7)、特高、外事、労働、内鮮、検閲、調停の六課を擁して特別高等警察部ができた。さらに、1930年代前半に軍人・右翼による暗殺・クーデターの試みが頻発するに伴い、特高警察はこの取締りをも担当するようになる。

第三期

1937年(昭和12)日中全面戦争勃発(ぼっぱつ)以降、特高警察は従来の活動に加え、さらに反戦・反軍的活動の取締りに乗り出した。キリスト者などの宗教団体の取締りもこのような見地からいっそう厳しく行われるようになった。戦争が進むにつれ、特高警察は、一方では運動や組織とは無縁な庶民の言動にまで目を光らせるとともに、時の政権の反対者の抑圧・監視活動をも行うようになる。こうした特高警察は、敗戦直後の45104日付で出されたGHQ(連合国最高司令部)の指令「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」により解体された。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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