チリ・アジェンデ政権と軍事クーデター、ビクトール・ハラとネルーダ、軍事政権下のたたかい
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【このページの目次】
◆チリ民主政権・軍事クーデターリンク集
◆Wiki=チリ民主政権へのクーデター
◆ビクトル・ハラとパブロ・ネルーダ
◆世界の共産党員物語=パブロ・ネルーダ
◆世紀を刻んだ歌『人生よありがとう Gracias a la Vida』
◆チリ・クーデターから40年(朝日新聞)
◆大島博光=ネルーダ、チリ人民連帯、大島リンク集
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🔵チリ民主政権・軍事クーデターリンク集
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★★チリ・アジェンデ最後の演説とビクトール・ハラの歌27m
★★チリ・アジェンデ最後の演説7m
★★映画=サンチャゴに雨が降る(フランス・ブルガリア共同制作)
または
❶http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v15480813tdctxDeg
❷http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v15481488mxy7d33e
または
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一九七〇年、チリ共産党・社会党による人民連合と軍部反動派の血みどろの戦いを描く。製作はジャック・シャリエ、監督はチリからフランスに亡命したエルヴィオ・ソトー、撮影はジョルジュ・バルスキー、音楽はアストル・ピアソラが各々担当。出演はジャン・ルイ・トランティニャン、ローラン・テルズィエフ、アニー・ジラルド、ビビ・アンデショーン、リカルド・クッチョーラ、ベルナール・フレッソン、ニコール・カルファン、モーリス・ガレル、ジョン・アビー、セルジュ・マルカン、アンリ・ポワリエなど。
◆ストーリー
一九七〇年九月四日の夜、チリの首都サンチャゴ。アウグスト・オリバレス(リカルド・クッチョーラ)はテレビで大統領選の速報を報道していた。「人民連合」のサルバドル・アジェンデ(M・ペトロフ)が、国民党、キリスト教民主党を押え、当選確実だったが、内務省はなぜか最終結果の発表を遅らせていた。キリスト教民主党出身のエドゥアルド・フレイ大統領は、社会党、共産党などの革新六党の「人民連合」政権の誕生を阻止するため、チリ駐在のアメリカ大使、アメリカ電信電話会社(ITT)と共に軍事クーデターを提案していたのだ。
一方、「人民連合」本部では、上院議員(ジャン・ルイ・トランティニャン)がデモにくり出そうとする学生や労働者を押さえていた。首都の第二機甲連隊が出動してクーデターの危機が切迫したが、陸軍総司令官のレオ・シュナイダー将軍は、憲法を守ると声明してクーデターは防がれた。一九七一年五月、繊維工場ホール。四月五日の地方選挙で「人民連合」は五〇・八パーセントという得票を得て大勝利したばかり。労働組合指導者ホルヘ・ゴンザレス(モーリス・ガレル)は「人民連合」政権をたたえ、ブスコビッチ経済相(ベルナール・フレッソン)を壇上に招いた。ブスコビッチは「人民連合」政権が子供たちに一日半リットルのミルクを保証したこと、アメリカが四二年間に四二億ドルも収奪した銅山の固有化について話した。一九七四年始め。オリバレスの家を友人のカルベ記者(ローラン・テルズィエフ)が妻モニク(ビビ・アンデショーン)を共ない訪れた。アメリカ、右翼、資本家一体となっての「人民連合」への圧力を語り合っているとき、窓ガラスを破って石が投げ込まれた。石をくるんだ紙には「死=ジャカルタ」とあった。同年三月二三日。ITTとCIAに支援された右翼=ブルジョワの代表者がトラック業者、商店主、医師会の代表に反政府ストをそそのかして実行させた。その資本家ストのためにチリ全土が混乱状態になり、アジェンデは内戦をさけるため、国民投票の実施を決意した。同年九月六日、新たに陸軍総司令官に就任したアウグスト・ピノチェット将軍(アンリ・ポワリエ)は、国民投票予定日の九月十日にクーデターを起こすことを決定した。同十一日午前七時半。アジェンデ大統領はモネダ宮(大統領府)で、クーデターに抵抗することを決意した。オリバンテスは妻マリア(アニー・ジラルド)に別れの電話をかけた。やがてサンチャゴの街路に戦車が走り始めた。軍隊ではクーデター反対の兵士たちが逮捕された。連絡にとびちる学生、バリケードを作る労働者、ラジオは「サンチャゴに雨が降っています」と危機を暗号で告げた。程なく、軍隊がモネダ宮へ攻撃を開始、アジェンデ大統領みずから自動小銃をとると共に、国民に向けて悲壮な最後のラジオ放送を行なった。攻撃部隊は宮殿内に突入し、アジェンデもオリバレスも倒れた。繊維工場でも武装した労働者たちは勇敢に抵抗したが、圧倒的な武力に押しつぶされ、ゴンザレスらは銃殺された。大学でも学生たちの大量逮捕が始まった。「人民連合」の歌を唄ってみんなをはげまそうとしたフォーク歌手(D・ゲラシモフ)は兵士たちに虐殺された。街頭では進歩的な本が焼かれ、アカと密告された人の殺害が続いた。ピノチェット将軍らは軍事評議会の記者会見をし、いったん固有化した銅山をアメリカ資本に返還すると言明した。「人民連合」派のノーベル賞詩人パブロ・ネルーダが死んだ。九月二六日のそのネルーダの葬儀。それは、クーデター後初めてのファシズムに反対するデモとなった。
★★チリの独裁者・ピノチェト46m
★★戒厳令下チリ潜入記
❶(58m)
❷(56m)
または
❶http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v15608669SbFkEEBm
❷http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v15614038GyabyPTD
★★1973年戒厳令下のチリ(スペイン語)20m
★★1973年戒厳令下のチリ(スペイン語)56m
★★伊藤 千尋 =チリの民主化プロセスに学ぶ社会の動かし方
2014.08.01 58m
https://m.youtube.com/watch?v=pbRGM4LtfpM
国際ジャーナリスト=伊藤 千尋さん
チリ在住35年の日本人=藤尾 明憲さん
軍事クーデター以前のチリ
アジェンデ政権が取り組んだ政策
軍事クーデターを仕掛けたアメリカ
ピノチェト独裁政権の政策
チリ国内のイデオロギー構成
1988年の国民投票で何が起きたのか
軍事独裁を選挙で終わらせた
何が社会を動かしたのか
その後のチリの政治の歩み
チリの民主化に何を学ぶべきか
★★チリ・ピノチェト独裁を追いつめた判事85m
❶
❷
◆バチェレ大統領の父親の獄死無罪
(赤旗16.10.12)
★★デモクラシーナウ=チリ・クーデターから40年 ビクトル・ハラの遺族が米国で容疑者を提訴
http://democracynow.jp/video/20130909-1
★★もう1つの9/11:1973年9月11日 米支援のピノチェトがチリの実権を握った日
http://democracynow.jp/video/20100915-3
(上記のデモクラシーナウ2つ=iPhoneやiPadの場合は、Puffinソフトにアドレスをコピーするとすぐ見れます)
◆映画=「チリの闘い」
★予告編2m=https://m.youtube.com/watch?v=6IutHxQ0GqU
(評・映画)「チリの闘い」過去との対話促す記録映像
2016年9月9日朝日新聞
「チリの闘い」
南米のチリで43年前に起こった出来事が、生々しく迫る。3部作のドキュメンタリー映画で4時間半と長いが、一気に見てしまう。
1973年3月、チリの議会選挙で、アジェンデ大統領の率いる与党が勝利する。70年に成立した社会主義政権を、民衆が改めて支持したのである。経営者や地主など富裕層は、軍部と組み、反政権の動きを活発化させる。6月のクーデター未遂事件後、9月にクーデターが決行され、アジェンデは自殺らしい死を遂げて、軍事政権が発足する。
そんな激動の7カ月が記録映像でつづられる。反政権派の狙いは混乱と危機を生み出すことで、首都サンティアゴを中心に、チリ全土が騒然となる。それらの背後に米国CIAの影がちらつくのが印象深い。
第1部と第2部がクーデターまでをつづる。第3部はその間の労働者や農民の活動を描き、全編の白眉(はくび)を成す。人々が自主的な組織を作り、食料など必需品の確保と流通や、工場や農地の運営を行うのである。
監督はパトリシオ・グスマン。クーデターの後、逮捕されるが、フランスへ亡命。カメラマンは逮捕された後、行方不明。フィルムは奇跡的に国外に持ち出され、グスマンはキューバの支援のもと、70年代後半に3部作を完成させた。
多様な映像を編集した作品で、衝撃的なシーンが続く。軍人がカメラに発砲する場面もあり、撃たれた報道カメラマンは死んだ。しかし、映像は残る。
見終わって深く息をつくと共に、第3部のあの人々は、いま、どうしているかと思う。過去の記録を見ることの中、それと現在との対話が始まるのである。
(山根貞男・映画評論家)9月10日公開
(赤旗16.09.06)
◆8401巣山=第三世界の変革①チリ革命.pdf
◆7308大月文庫・コルバラン=チリ人民連合政府樹立への道.pdf
◆7311日本共産党=アメリカの各個撃破政策とチリクーデター.pdf
◆7402歴史評論・チリ人民連合政権の崩壊=後藤・河合・平田.pdf
◆7511岡倉・寺本編=チリにおける革命と反革命(1).pdf
◆7511岡倉・寺本編=チリにおける革命と反革命(2).pdf
◆Wiki=サルバドール・アジェンデ、チリ・クーデタ、人民連合、ピノチェト、ビクトル・ハラ、ネルーダなど参照。
【アジェンデ大統領】
【ビクトル・ハラ】
◆アジェンデ人民連合政府とチリ・クーデター
米国CIAなどの支援を得てピノチェト陸軍司令官は1973年9月、選挙を通じて誕生したアジェンデ人民連合政府をクーデターで倒し、軍事独裁政権をつくった。90年の民政移管までの弾圧で約3200人が死亡もしくは行方不明になった。2011年までの調査によると、拷問や投獄などの被害者総数は4万人を超える。今日チリ政府は軍事政権の犯罪を追及し続けている。アジェンデの最期の演説でのべているように「私たちが蒔いた種は決して刈り取られることはない」「歴史は彼らを裁くだろう」が今日のチリに受けつがれている。なおビクトル・ハラは人民連合を支持した国民的歌手。ビノチェトが逮捕した人々を収容した陸上競技場で虐殺された。
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🔵Wiki=チリ・クーデター
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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チリ・クーデター(西: Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生したクーデターである。
目次
1 概要
2 1970年選挙
3 アジェンデ大統領の任期中
4 クーデターの勃発
5 クーデター後のチリ
6 チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品
6.1 小説
6.2 映画
6.3 音楽
6.4 その他
7 脚註
8 参考文献
9 外部リンク
◆概要
サルバドール・アジェンデ
東西冷戦の最中の1970年、サルバドール・アジェンデ博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。
しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部、さらにドミノ理論による南アメリカの左傾化を警戒するアメリカ合衆国は反発し、アメリカ政府に支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。そして、遂には1973年にアウグスト・ピノチェト将軍らの軍部が軍事クーデターを起こした。
首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデは最後のラジオ演説を行った後、銃撃の末に自殺した。クーデター後にピノチェトは「アジェンデは自殺した」と公式に発言したが、実際にはモネダ宮殿ごと爆破されたため、当時は誰も遺体を確認できなかった。
モネダ宮殿に籠城したもとでのアジェンデ最後の演説では、徹底抗戦の姿勢が示されていた。このため一時期反乱軍によって殺害されたのではないかとの意見もあった。2011年5月23日、当局はアジェンデの遺体を墓から掘り返し、再度検視を行うと発表[1]、これにより死亡の状況が明らかになると期待された[2]。同年7月19日検視が終了し、自殺であるとの結果が発表された[3][4][5][6]。
このクーデター以降、軍事政府評議会による軍事政権の独裁政治が始まり、労働組合員や学生、芸術家など左翼と見られた人物の多くが監禁、拷問、殺害された。軍事政権は自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛したが、冷戦の終結によりアメリカにとっても利用価値がなくなった軍事政権は1989年の国民投票により崩壊した。
なお、一般に「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。
◆1970年選挙
候補者 得票数 %
アジェンデ 1,070,334 36.30%
アレッサンドリ 1,031,051 34.98%
トミッチ 821,000 27.84%
総計 2,922,385
1970年に行われた大統領選挙では、人民連合は社会主義者として知られるアジェンデ、国民党は元大統領のホルヘ・アレサンドリ(英語版、スペイン語版)、キリスト教民主党はラドミロ・トミッチ(英語版、スペイン語版)をそれぞれ擁立した。アジェンデが得票で首位になるが、過半数には至らなかったため、当時のチリ憲法の規定に従い議会の評決による決選投票が行われる。
冷戦におけるラテンアメリカにおける社会主義勢力の影響力拡大を懸念したアメリカ政府はこの動きに危機感を抱き、政府の意向を受けたCIAは元々反アジェンデ派の多い軍部にクーデターを依頼した。
しかし、陸軍総司令官のレネ・シュナイダー将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、アメリカの依頼を拒否した。決選投票直前の10月22日に、シュナイダー将軍が襲撃されて重傷を負い、26日に死亡した。陸軍のロベルト・ビオー将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票でキリスト教民主同盟は人民連合を支持、アジェンデ大統領が誕生した。
政権交代後しばらくは経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に支持を伸ばした。しかし、アメリカの支援を受けた反共主義を掲げる保守・右派系組織が次々に誕生し、CIAがこうした勢力に対する公然非公然の支援を行い政権打倒の動きを強めるなど次第に政情が不安定化する。
また、政権交代後にアジェンデが進めた性急な国有化政策や社会保障の拡大などの社会主義的な経済改革は、自由経済であるもののその規模が大きいわけではない当時のチリ経済の現状にそぐわないものであり、結果的にインフレと物不足を引き起こした。さらにアメリカのリチャード・ニクソン政権が経済制裁を行い、その中でも、当時のチリ経済が銅の輸出に大きく依存していたため、アメリカが保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させたことがチリ経済に大きな打撃を与えたと言われる。これらの結果、政権末期にはチリ経済は極度の混乱状態に陥った。
しかし、それにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持はさほど低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票で議席を増加させた。しかし、大統領選の決選投票ではアジェンデ支持に回ったキリスト教民主党が、アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官の意向を受けたCIAの働きかけで反アジェンデに転回したため、アジェンデ政権は窮地に追い込まれていく。
これらの工作によるアジェンデの排除が不可能と考えた反アジェンデ勢力は、武力による排除を目指すようになった。1973年6月には軍と反共勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した。8月、シュナイダー将軍の後任で、やはり「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であったカルロス・プラッツ(英語版、スペイン語版)陸軍総司令官(その後国防相も兼任していた)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任したことで、軍部のクーデターの動きへの抑制が効きにくい状態となる。プラッツの後任の陸軍総司令官がアウグスト・ピノチェトであった。
◆クーデターの勃発
アウグスト・ピノチェト
1973年9月11日、ピノチェト将軍はCIAの全面的な支援の下、軍事クーデターを起こした。元々反アジェンデ派が優勢な軍部はほとんどがピノチェトに同調したために政府側は有効な対応をとることができず、それゆえクーデターに対する抵抗は労働者・学生らによる自発的で悲惨なものにならざるを得なかった。
アジェンデ大統領の周囲には大統領警備隊などごくわずかの味方しかいなかったが、それでも彼は辞任やモネダ宮殿からの退去を拒否し、ホーカー ハンター戦闘機と機甲部隊の激しい砲爆撃のなかで炎上するモネダ宮殿内で、自ら自動小銃を握って反乱軍と交戦中に命を落とした。アジェンデが自殺したことは2011年判明したが、その死因については不明である(自動小銃による自殺説が挙げられている)。
クーデター後ただちに、陸軍のアウグスト・ピノチェト、海軍のホセ・トリビオ・メリーノ(José Toribio Merino)、空軍のグスタボ・リー(Gustavo Leigh)、国家憲兵隊のセサル・メンドサ=ドゥラン(César Mendoza Durán)を構成員とする軍政評議会が発足した。
政権を握った軍部は「左翼狩り」を行い、労働組合員を始めとして多くの活動家が虐殺され、その中には人気のあったフォルクローレの歌い手ビクトル・ハラもいた。ハラが殺されたサッカースタジアムには、他にも多くの左翼が拘留され、そこで射殺されなかったものは投獄、あるいは非公然に強制収容所に送られた。
前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダ(チリ共産党員であった)はガンで病床にあったが、9月24日に病状が悪化して病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受けて危篤状態に陥り、そのまま病院到着直後に亡くなった。
日本では当時の政権与党である自民党の他、民社党などが反共産主義を理由にクーデターを支持した。民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、1973年12月18日、ピノチェトは大内啓伍と面会した。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と呼んだ。ピノチェトは、クーデタ後すぐに共産党独裁国家キューバとの国交を断絶。社会主義・共産主義陣営も対抗して、次々とチリとの断交に踏み切った。社会主義国を名目とする一党独裁国家の中では、ルーマニアと中華人民共和国だけがピノチェト政権との外交関係を維持した。
◆クーデター後のチリ
クーデター後の焚書
クーデターにより多くの左派市民が外国に亡命したが、その中には著名なフォルクローレ・グループや歌手も多数含まれていた。先の陸軍総司令官カルロス・プラッツはアルゼンチンに亡命していたが、クーデターの翌年74年9月にピノチェトの創設した秘密警察「DINA(英語版)」の仕掛けた車爆弾によって妻とともに暗殺された。またアジェンデ政権末期には軍部と連携してアジェンデ打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後には非合法化され、75年10月には、キリスト教民主党の前大統領エドゥアルド・フレイ・モンタルバの下で副大統領を務めていたベルナルド・レイトン(英語版、スペイン語版)が、妻と共に亡命先のイタリアで襲撃され重傷を負った。
1976年9月には、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあったオルランド・レテリエル(英語版、スペイン語版)が滞在先のアメリカのワシントンD.C.でDINAによる車爆弾で暗殺された。この事件は、よりによってアメリカの首都でのテロ活動であったため、ジミー・カーター大統領が態度を硬化させ、一時ピノチェト政権との関係が悪化した。その後関係は一時は回復したが、元の状態にまでは戻らず、アメリカ国内にはピノチェト政権に対する不信感が残った。そして、冷戦の終結により、利用価値が無くなったとされてアメリカに見放される形で、ピノチェトは1990年に大統領を辞任するが、レテリエル暗殺はその伏線にもなっている。
これら一連の非公然のテロ活動は、チリのDINA単独によるものではなく、ブラジルやアルゼンチン、ボリビア、バラグアイその他ラテンアメリカ各国の軍事政権と非公然に連携し、互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害していったコンドル作戦の一環だったことが今日では知られている。
国内ではピノチェトの強権政治が続き、依然として反政府派市民に対する弾圧、非公然の処刑(暗殺)や強制収容所への拉致、国外追放などが頻発した。同時にシカゴ学派の新自由主義経済に基づく経済運営が行われ、外見的には経済は発展したが、同時に貧富の格差の拡大と、対外累積債務の拡大を招いた。ピノチェト政権は政権中後期に混乱状態に陥ったチリ経済の実情を公表しなかった。
ピノチェトの独裁政権は1989年に民政移管し、コンセルタシオン・デモクラシアからキリスト教民主党出身のパトリシオ・エイルウィンが19年ぶりの選挙で大統領に当選・就任するまで続いた。そして、ピノチェトは大統領辞任後も終身の上院議員・陸軍総司令官として影響力を保持していたが、独裁政治による弾圧や虐殺行為、不正蓄財などの罪で告発され、総ての特権を剥奪された。なお2005年9月にチリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとして、左派の活動家に対する誘拐・殺人の罪状を棄却した。また、2005年10月にはピノチェトと家族の総ての資産が差し押さえられたが、結局ピノチェト自身の罪が裁かれることなく2006年に死去した。
◆チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品
小説
ラテンアメリカ
イサベル・アジェンデ/木村榮一訳『精霊たちの家』国書刊行会 1989年 ※下記の映画『愛と精霊の家』の原作
ガブリエル・ガルシア=マルケス/後藤政子訳『戒厳令下チリ潜入記~ある映画監督の冒険』岩波新書 1986年
アントニオ・スカルメタ/鈴木玲子訳『イル・ポスティーノ』徳間文庫 1985年 ※同名映画の原作。映画版はイタリアに舞台を移し、時代もパブロ・ネルーダの亡命時代に設定している。
アメリカ合衆国
トーマス・ハウザー/古藤晃訳『ミッシング』ダイナミック・セラーズ 1982年 ※下記映画の原作
日本
五木寛之『戒厳令の夜(上・下)』新潮文庫(初版は新潮社、1976年)
深田祐介『革命商人(上・下)』新潮文庫(初版新潮社、1979年。)
大石直紀『サンチャゴに降る雨』光文社 2000年。
映画
「サンチャゴに雨が降る」(1975年、フランス・ブルガリア合作、エルビオ・ソト監督、出演:ジャン=ルイ・トランティニャン他、音楽:アストル・ピアソラ)(ビデオソフト邦題「特攻要塞都市」)
「ミッシング」(1982年、アメリカ作品、C.コスタ・ガヴラス監督、出演:ジャック・レモン、シシー・スペイセク他、音楽:ヴァンゲリス)
「戒厳令下チリ潜入記」(原題:Acta General de Chile)(1986年、スペイン作品、ミゲル・リティン監督)(ドキュメンタリー映画)
「愛と精霊の家」(1993年、ドイツ・デンマーク・ポルトガル合作、ビレ・アウグスト監督、原作:イサベル・アジェンデ、出演:ジェレミー・アイアンズ、メリル・ストリープ、グレン・クローズ、アントニオ・バンデラス他)
「愛の奴隷」(1994年、アメリカ・スペイン・アルゼンチン合作、ベティ・カプラン監督、原作:イサベル・アジェンデ、出演:ジェニファー・コネリー、アントニオ・バンデラス他)
「死と処女」(1995年、アメリカ作品、ロマン・ポランスキー監督、出演:シガニー・ウィーバー、ベン・キングスレー、スチュアート・ウィルソン)
「11’09”01/セプテンバー11」第6話(2002年、イギリス、ケン・ローチ監督、出演:ウラジミール・ヴェガ)
「マチュカ~僕らと革命~」(2004年、チリ=スペイン=イギリス=フランス、アンドレス・ウッド監督、出演:マティアス・ケール、アリエル・マテルーナ、マヌエラ・マルテリィ、アリーン・クッペンハイム他)
「ぜんぶ、フィデルのせい」(2006年、フランス、ジュリー・ガブラス監督、出演:ニナ・ケルヴェル、ジュリー・ドパルデュー、ステファノ・アコルシ、バンジャマン・フイエ他) – 1970年代フランスのブルジョワ知識人家庭が、アジェンデ政権の発足やフランコ政権のファシスト的状態に影響を受け、奮闘する様をブルジョワ生活に未練を抱く娘の視点から、アジェンデ政権崩壊までの時期を通して描く。
音楽
キラパジュン El pueblo unido jamas sera vencido(邦題「不屈の民」)他多数
インティ・イリマニ Canto a los caidos(倒れたものに捧げる歌)ほか多数
シルビオ・ロドリゲス Santiago de Chile(「Días y flores(スペイン語版)」収録)ほか
スティング「孤独なダンス」They Dance Alone(1987年のLP『ナッシング・ライク・ザ・サン』に収録)
フレデリック・ジェフスキー 「不屈の民」変奏曲
など
その他
『MASTERキートン』 – 第24話「14階段」にてピノチェト政権下のチリを扱っている。
『プリンプリン物語』 – 劇中に登場する独裁国家「アクタ共和国」の国名は軍事政権下のチリと「塵芥」をかけたものとされる[7]。
『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』 – 冒頭で民主選挙で選ばれた大統領が軍部のクーデターに遭遇し、大統領府に籠城して最後の抵抗を試みようとするくだりが描かれており、チリ・クーデターを意識した展開となっている。
◆脚註
^ “Chile’s buried secrets”. LAT. http://www.latimes.com (2011年5月23日). 2011年7月21日閲覧。
^ “Chilean leader’s body exhumed”. LAT. http://www.latimes.com (2011年5月24日). 2011年7月21日閲覧。
^ “Allende’s Death Was a Suicide, an Autopsy Concludes”. NYT. http://www.nytimes.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。
^ “Informe del Servicio Médico Legal confirma la tesis del suicidio de ex Presidente Allende”. http://www.latercera.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。
^ “チリ・故アジェンデ大統領は「自殺」 クーデターで死亡”. asahi.com (朝日新聞社). (2011年7月20日). オリジナルの2011年7月22日時点によるアーカイブ。 2011年7月21日閲覧。
^ “アジェンデ元大統領は自殺 遺体掘り起こし確認 頭撃ち抜いて チリ”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011年7月20日). オリジナルの2011年8月28日時点によるアーカイブ。 2011年7月21日閲覧。
^ http://www.geocities.jp/hirajirou2002/prinprin/charactor/ruchi.htm
◆参考文献
中川文雄、松下洋、遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II アンデス・ラプラタ地域』山川出版社、1985年。
増田義郎編『新版各国史26 ラテンアメリカ史II 南アメリカ』山川出版社、2000年。
ロバート・モス/上智大学イベロ・アメリカ研究所訳『アジェンデの実験』時事通信社、1974年。
朝日新聞社編『沈黙作戦 チリ・クーデターの内幕』朝日新聞社、1975年。
ジョアン・E・ガルセス/後藤政子訳『アジェンデと人民連合 チリの経験の再検討』時事通信社、1979年。
アウグスト・ピノチェト/G.ポンセ訳『チリの決断』サンケイ出版、1982年。
J.L.アンダーソン、S.アンダーソン/山川暁夫監修、近藤和子訳『インサイド・ザ・リーグ 世界を覆うテロ・ネットワーク』社会思想社、1987年。
伊藤千尋『燃える中南米』岩波新書、1988年。
高橋正明(文)、小松健一(写真)『チリ 嵐にざわめく民衆の木よ』大月書店、1990年。
外部リンク
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🔵ビクトル・ハラとパブロ・ネルーダ
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◆◆“もう一つの9・11”とその30周年
2003年9月 木村奈保子
今年の9月11日もまた、新聞やTVでは、米の同時多発テロの2周年が話題とされた。さすがに今年はイラク占領体制が財政的にも軍事的にも破綻し戦争が泥沼化している真っ最中なので、ブッシュ政権のお歴々が昨年のように勇ましく自信を持って「テロとの戦い」や戦争賛美を内外に披瀝することは出来なかった。
しかし私は、この「9・11」ではなく、「もう一つの9・11」の方に皆さんの注意を喚起したい。とりわけ今年は、その30周年でもあるので、中南米や北米を中心に英語やスペイン語のサイトを見ると、あちこちで例年にない大き取り組みが行われていた。ところが日本のメディアはどうか。「もう一つの9・11」報道はほとんど皆無であった。そのことを非常に残念に思うのは、単にチリ人民、途上国人民の悲惨と過酷にメディアが目を向けなくなったというだけの問題ではない。
そこにある種の恐ろしさを感じざるを得ないからである。日本でも、軍事クーデタが、あり得ない遠い将来の夢物語、あるいはどこかの途上国でしか起こり得ない事件とは言えなくなったのではないのか。有事法制を強行し改憲を公言する小泉政権が、更にその軍国主義と反動政治に磨きを掛けた再改造内閣を発足させ、メディアが「選挙の顔」「若返り」と持ち上げる状況は異常としか言いようがない。まるで軍隊が政治の表舞台に出るまでの下手な前座を見ているかのような錯覚を覚える。
「もう一つの9・11」--1973年9月11日、チリで反革命軍事クーデターがおこり、史上初めて選挙によって成立した社会主義政権は崩壊した。人民連合のアジェンデ大統領は、大統領府に激しい爆撃を受けながらも、そこに最後までとどまり、チリの婦人、青年、人民、労働者を讃える言葉を遺して死んでいった。
アジェンデ大統領がその最後の演説の中で危惧したとおり、ファシズムは、人民連合を支持した人々を徹底的に弾圧し言葉では言い表せないありとあらゆる迫害を行った。ピノチェット軍事政権のもとで、数万の人が虐殺・拘束され、20数万人が亡命したが、行方も生死も分からない人々を含めてその実数は未だ不明である。
◆軍事クーデタの真っ只中で虐殺されたビクトル・ハラ
そうした多くの犠牲者の一人に、ビクトル・ハラがいる。彼は、歌い手であった。チリの町や村を巡り歩き、人々の間で歌い継がれているフォルクローレを、古びた珍しい研究対象としてではなく、現代に通じる生きた表現として歌い、創作していく「新しい歌(ヌエバ・カンシオン)」運動の中心人物であった。彼はクーデターの当日、工科大学にいた。戦車は大学に突入し、そこにいた全員が拘束され、チリスタジアムに連れて行かれた。それは、彼がしばしば演奏会を行った場所であった。彼は四日間にわたり拷問を受け、ギターを弾けないよう、手が砕かれた。それでも、彼は人民連合を讃える歌『ベンセレーモス(我々は勝利する)』を歌った。彼の背後から撃ち込まれた銃弾がその最後の息を止めるまで。
彼の歌は、チリの人々の心をとらえただけではない。日本でも彼の歌に強い関心をもっている人々がいる。
「モノノフォン」http://homepage1.nifty.com/hebon/fhp/fhp_16.htm
(ビクトル・ハラの音楽と生涯について詳しく書かれている。)
ビクトル・ハラについての詳しい紹介は上記のホームページでなされているので割愛する。しかし、私が最も好きな曲『仕事場への道すがら』だけは、ここで紹介しておきたい。
朝日てらす 町かどの
仕事場への 道すがら
見知らぬ人の 急ぐ足どり
行き交うごとに見れば
いつも 思いおこすお前のこと
生きることのしあわせの 道づれよ
今日と明日の歴史を 開こうと
二人始めた仕事の 終わり知らず
夕日てらす 屋根屋根に
仕事終えて 帰る道
時の流れや 明日の世界を
友と語り合えば
いつも 思いおこすお前のこと
生きることのしあわせの 道づれよ
今日と明日の歴史を 開こうと
二人始めた仕事の 終わり知らず
家につけば お前はそこに
二人の夢は …
今日と明日の歴史を 開こうと
(日本語歌詞:フロイント・コール)
この曲は、人民連合のために精力的に活動していた若い建築労働者が暗殺された時、彼の心情に思いを馳せて作り上げられた。1973年、アメリカの経済制裁に苦しめられ、有産者のストが続き、CIAが転覆活動を企てており、軍ではクーデター未遂事件があるというとてつもなく過酷で困難な時期に作られたとは思えないほど、おだやかで信頼にみちた愛を歌っている。
◆ハラ虐殺関与の軍人米で裁判
(赤旗16.06.04)
◆ハラ虐殺関与の軍人に28.5億円の賠償命じる
(赤旗16.06.29)
◆パブロ・ネルーダの葬儀と最初の反軍政行動
このクーデターの犠牲者として、パブロ・ネルーダの名前もぜひ挙げておきたい。彼はクーデター以前から病に伏していたのだが、この事件の衝撃は彼の病状を悪化させた。彼を病院に運ぶ救急車は戒厳令の下で厳しい検問を受けた。クーデターによる精神的・肉体的苦痛が彼の死期を早めた。1973年9月24日、ネルーダは69歳の生涯を終えた。彼の葬儀に参列した人々からは自然発生的に「インターナショナル」の歌声が湧き起こり、それはピノチェット軍政への最初の大衆的な抗議行動となった。
ネルーダは少年期から詩を発表していたが、彼の詩と人生にとって大きな契機となったのは、スペインで、フランコ将軍が反乱を起こし、マドリードが爆撃され、親友であった詩人ガルシア・ロルカが暗殺された事件であった。彼は、この時の心情と情景を『そのわけを話そう』で歌う。
…
きみたちは尋ねる--なぜ わたしの詩が
夢や木の葉をうたわないのか
故国の大きな火山をうたわないのか と
来て見てくれ 街街に流れている血を
来て見てくれ
街街に流れている血を
来て見てくれ
街街に流れている
この血を!
ネルーダの生涯は、この時からファシズムとの闘いの生涯となった。彼の詩はファシズムを撃つ弾丸となった。第二次世界大戦時には、ナチスドイツと戦うソ連を擁護し、1945年にチリ共産党に入党した。ベトナム戦争時にはアメリカを激しく攻撃した。1970年の大統領選挙では、共産党から大統領候補として指名されたが、社会党の候補者アジェンデを人民連合の統一候補として擁立するために辞退した。アジェンデは当選して大統領となり、ネルーダは詩人としてノーベル文学賞を受賞した。人民連合政権は、人類史を拓く新たな試みとなるはずだったが…。
彼の名前は、『イル・ポスティーノ』という映画で記憶されている人も多いかもしれない。愛を歌い上げたコミュニスト詩人として名高いネルーダを敬愛する若い郵便配達夫マリオとの交流が叙情とユーモアをもって描かれている。
マリオに事務的にチップを渡す、そっけないネルーダ。詩人になりたいと願うマリオに、詩の技法を余裕たっぷり説明していたはずが、逆に素朴かつ難解な問いを突きつけられてとまどうネルーダ。ビートルズの歌「プリーズ・ミスター・ポストマン」に合わせて踊るネルーダ…。何となく近寄りがたい偉人というイメージがみごとに壊されて、そこから新しい人間像が浮かび上がってくる。そして、彼らへの親近感を深めれば深めるほど、彼らを襲う過酷な運命に涙を禁じ得ない。
個人的な話になるが、この1973年の9.11は、私の世界を見る目の原点となった事件であった。そのころから現在に至るまでの私の観点・感覚は、この事件の報道に接したときに形作られたものから基本的に変わっていない。
その数年後、私は知人からさまざまな歌を紹介されることになった。その中でも特に私の心をとらえたのが、中南米のフォルクローレ、とりわけ「新しい歌」を歌う人々の歌であった。これはいったい何の偶然なのであろうか。それとも必然なのであろうか。
最後にネルーダの詩『きこりよ めざめよ』から、平和を歌いあげた箇所を引用して、この「もう一つの9.11」によせた紹介を終わりたい。
日ごとに訪れる 夕ぐれに 平和あれ
橋のうえに 平和あれ 酒に 平和あれ
わたしの使う言葉に 平和あれ
そしてわたしの胸にのぼってきて
土の匂いと愛にみちた 古いむかしの歌を
くりひろげてくれる 言葉に 平和あれ
パンの匂いで目がさめる
朝がたの都会に 平和あれ
……
スペイン・ゲリラの
ひき裂かれた心臓に 平和あれ
そこでは ハートの刺繍のある座布団が
いちばん なつかしい
ワイオミングの小さな博物館に 平和あれ
パン屋と かれの愛に 平和あれ
小麦粉のうえに 平和あれ
やがて芽を出してくる麦に 平和あれ
茂みを探す 恋びとのうえに 平和あれ
生きとし生けるるものに 平和あれ
すべての大地と 水のうえに 平和あれ
※参考文献※
『世界近現代史 授業が楽しくなる「歌と演説」』鳥塚義和著 日本書籍 2500円
『過ぎ去らない人々』徐京植(ソ・キョンシク)著 影書房 2200円
『イル・ポスティーノ』A・スカルメタ著 鈴木玲子訳 徳間文庫 485円
『愛と革命の詩人ネルーダ』大島博光著 大月書店(国民文庫) 583円
『ビクトル・ハラ 終わりなき歌』ジョーン・ハラ著 矢沢寛訳 新日本出版社(品切れ)
『パブロネルーダの生涯』マルガリータ・アギレ著 松田忠徳訳 新日本出版社(品切れ)
『ネルーダ最後の詩集 チリ革命への賛歌』大島博光訳 新日本文庫(品切れ)
『Residence sur la terre』Pablo Neruda著 Guy Suares訳 Gallimard
◆◆映画=「ネルーダ 大いなる愛の逃亡者」
赤旗17.11.07
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🔵世界の共産党員物語=パブロ・ネルーダ
「月刊学習」87年
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❶森の子として
チリの生んだノーベル賞詩人パブロ・ネルーダはまた、きわめて波瀾に富んだ生涯を送った偉大な共産党員詩人でした。とりわけ彼はその生涯で二つのファシズムに出会います。一つはスペインのフランコのファシズムであり、もう一つは祖国チリにおけるピノチェットのファシズムです。それらは彼の運命にとって決定的なものとなるのです。
パプロ・ネルトダー本名ネフタリ・リカルド・レイエスは一九〇四年四月、チリ中部のパラルに生まれました。まもなく一家はチリ南部の森のなかの小さな町テムコに移り、彼はそこで森の子として少年時代を過します。深い森の大自然は、少年の彼をすでに詩人として育てることになります。
父親は鉄道員で、敷設列車の列車長でした。
父親が部下を連れて家に帰ってきた時の光景を彼は思い出して書いています。
とつぜん 扉がばたばたと揺れて
鉄道の強者(つわもの)どもを引きつれて
おやじが帰ってきた
しゃがれ声が 食堂にあふれた
酒瓶は みるまに空っぽになり
すすり泣きや 暗い愚痴や
一文なしの男たちの声など
鋼(はがね)のように鋭い 貧乏の爪あとが
おれのところまで聞こえてくるのだ
まるで心配や苦労ばかりが住んでいる
離れ小島からのように
(『大いなる歌』)
少年のネルーダが眼にし耳にしたのは、労働者たちの現実の生活でした。砂利を投げるスコップの音であり、貧乏を嘆く愚痴の声でした。いわば彼は生まれながらにして労働者たちの世界から出てきたのです。
一九ニー年、十七歳のネルーダはサンチアゴの大学に入学してフランス語を学ぶかたわら、フランス象徴派やモダニズムの詩人たちに熱中します。
外交官として各国へ
第一次大戦後のラテン・アメリカでは、以前のヨーロッパ資本にかわって、アメリカ帝国主義・独占資本の影がますます重くのしかかっていました。アメリカ独占資本と結びついた、ひとにぎりの特権グループ・大地主たちの支配と収奪のために、人民の生活は苦しく悲惨なものとなっていたのです。そのような現実は、ラテン・アメリカ一円に独立と解放をめざした闘争をよび起こさずにはいなかったのです。
学生のネルーダも、フランスの社会主義者たちの著作を翻訳したり、組合運動に参加します。フランス共産党で始まったパルビュスの「クラルテ運動」──社会主義的ヒュマニズムをかかげた「クラルテ運動」は、チリの学生たちのなかにも影響と共鳴を呼び起こして、そのチリ版である「クラリーダ」(光明)が発刊され、ネルーダもそれに協力して詩を発表します。しかし思想的には、彼はまだアナーキズムに近いところで足踏みしています。
一九二七年、かねてから外国へ行きたいと思っていたネルーダは、外交官になってビルマのラングーンをふりだしに、カルカッタ、マドラス、コロンボをまわります。その数年のあいだに、詩集『地上の住みか』(一九三三年)を書いて、詩人としての名声を高めます。
一九三四年、ネルーダは総領事としてマドリードに赴任します。そこで、ロルカ、アルベルティ、エルナンデスなど、若いスペインの詩人たちとの交友が始まります。
❷ファシストへの怒り歌
スペインでは、すでに三年前(一九三一年九四月)の選挙の結果、平和裏に王制が廃止されて、スペイン共和国が誕生していました。スペインの若い詩人たちは、共和国を支援して、希望に燃えて新しい「ルネッサンス」を迎えていたのです。
しかしファシストたちは若い共和国の隙(すき)をうかがっていたのです。そして一九三六年七月、ヒットラーとムッソリーニに支援されたファシスト・フランコの軍隊はスペイン人民に襲いかかり、ここにスペイン市民戦争が始まります。
ファシストどもの反乱による悲惨な流血の光景をまのあたりに見て、ネルーダは最初のヒューマニズムの叫びをあげ、ファシストへの怒りをうたうのです。「そのわけを話そう」という有名な詩がそれです。
ある朝 まっ赤な火が
大地から吹き出して
すべてのものを なめつくした
そのときから 戦火が燃えあがり
そのときから 硝煙がたちこめ
そのときから 血が流れた
悪党どもは空の高みからやってきて
子供たちを殺した
街じゅうに 子供たちの血が
子供の血として素朴に流れた
来て見てくれ 街街に流れている血を
(『心のなかのスペイン』)
こうして書かれたファシズム反対・スペイン人民支援の詩は『心のなかのスペイン』という詩集となってスペイン人民戦線の兵士たちに愛読されたのです。
ネルーダはこの時代を回想して書いています。
「わたしはマドリードで生涯のもっとも重大な時期を過した。われわれはみなファシズムにたいする偉大なレジスタンス(抵抗闘争)に魅きつけられていた。それがスペイン戦争だった。この体験はわたしにとって何か体験以上のものであった。スペイン戦争の前、わたしは多くの共和派の詩人たちを知っていた。ガルシーア・口ルカは、このスペイン史上もっとも輝かしい政治的世代の象徴であった。これらの人間を物理的に破壊するということは、わたしにとって怖(おそ)るべきドラマであった。こうしてわたしの古い生活はマドリードで終った…」(ロルカは、一九三六年八月ファシストによって銃殺された)。
◆新しい旗のもとに立つ
スペイン戦争が終って、チリに帰ったネルーダは、もう以前の彼ではありませんでした。スペイン戦争は、燃えさかる戦火と流された血をとおして、生死を賭けたファシズムとの闘争をとおして、真実はどこにあるか、人類の未来と希望はだれの肩にかかっているのかを、ネルーダに指し示したのです。血にまみれた英雄的なスペイン人民がネルーダに教えたものは、生きてたたかう義務でした。この光に照らして、彼は二十年来遠ざかっていた自分の泉、自分の兄弟たち、自分の祖国をみいだすのです。「新しい旗のもとに立つ」という詩に彼は書きます。
ある日 人類の夢で
胸おどらせながら
たくましい使者がやってきた
おれの飢えた夜のなかに──
そっと忍び足で歩くおれの狼の足どりを
人間の足どりにあわせるようにと
こうしてネルータは、たたかう人民の側に立って、「人間の足どり」にあわせて、たたかいに参加してゆきます。共産主義者として。
一九三九年、第二次世界大戦が勃発すると彼はチリに帰り、やがてメキシコ駐在領事として赴任します。
一九四二年のある朝、メキシコ市の壁という壁に、ひとつの詩が貼りめぐらされたのです。それはスターリングラードにおいて、ヒットラーのナチス・ドイツ軍の包囲作戦とたたかうソヴエト赤軍の英雄的な抵抗にささげられた熱烈な賛歌でした。作者はネルーダでした。
かつてわたしは流れる時や水を歌い
死の蒼ざめた姿や悲しみをうたった
わたしはまた大空を歌い林檎を歌った
だがいまわたしは歌うスターリングラードを
わたしが歌うのはおまえの城壁を守り
倒れていった偉大な死者たちのこと
死にゆくおまえを見てわたしの声は鳴りひびいた
鐘のように風のように スターリングラードよ
砲弾にぶち抜かれた 大地の胸を
死者たちはかがやく勲章で飾った
死んだものも 生きているものも
立ち上り奮(ふる)いたったスターリングラードよ
・・・
ネルーダはスペイン市民戦争をとおして、ソヴエトだけが世界を守るだろうということを学びとっていたのです。
❸大いなる歌
◆党の隊列へ
一九四三年の秋、ネルーダはメキシコからチリへ帰ると、革命運動に参加します。チリじゅうをまわって、坑夫や農民や船員たちに語りかけ、詩を朗読したのです。こうして一九四五年三月、ネルーダは共産党公認候補として出馬し、上院議員に当選し、七月共産党に入党します。彼は、のちにこの時代のことをつぎのように書いています。
「わたしは長いこと、いりくんだ言葉の迷路をさまよい、審美眼をやしない、探求をくりかえすきびしい勉強をくぐりぬけて、やっと人民の詩人になった。こういうわたしに与えられたいちばんすばらしい賞はつぎのようなものだ。──ひとりの男がロタの炭坑、あるいは硝石坑や銅坑の奥から上がってくる。もっと正確にいえば、地獄から抜けだしてくる。骨の折れる仕事で顔はゆがみ、眼はほこりで赤く血走っている。男はざらざらした手をわたしに差しだして言う。《おら、もうずっと前からあんたを知っていただよ、兄弟!》わたしの生涯のなかの、こういう素朴な瞬間こそ、わたしのすばらしい賞なのだ………これこそがわたしの月桂冠なのである。──一九四五年七月十五日、わたしはチリ共産党に入党した。」(『回想録』)
この労働者の握手と挨拶ほどに、ネルーダをよろこばせたものはなかったのです。
チリは銅、硝石、マンガンなどの重要資源のゆたかな国です。第一次大戦後、アメリカ帝国主義はこの豊かな資源にたいして支配権をふるうようになります。時の大統領ビデーラも民主主義擁護を公約しながら、やがてアメリカ帝国主義に屈服して祖国の利益と人民を売り渡してしまいます。
一九四八年一月、ネルーダは上院でビデーラを痛烈に攻撃し告発します。それにたいしてビデーラは、逮捕令状と投獄をもって答えます。ネルーダは地下にもぐらざるをえなくなります。
あの暗い日日 わたしは歩きつづけた
身をやつし 姿を変えて
わたしは警察に追われるお尋ね者
わたしは町まちをよぎり
森を抜け
戸口から戸口へと
ひとの手から手へと 渡り歩いた
夜はつらいものだ だが人びとは
兄弟の合図を送ってくれた……
(『大いなる歌』──「お尋ね者」)
ネルーダとデリア・デル・カリル
◆南米諸国人民へのよびかけ
このように「兄弟の合図」と隠れ家はネルーダの行くさきざきで彼を待っていたのです。この地下生活のなかで、彼は詩集『大いなる歌』を書きつづけます。それは、雪の野のあばら家で、アンデスのきこり小屋で、バルパライソの貧しい水夫の家で書かれたのです。
こうして彪大な詩集『大いなる歌』は一九五〇年に刊行されます。この詩集にはアメリカ大陸の大自然の地理、動物、植物がうたわれ、南アメリカ諸国と諸国人民のいりくんだ民族の歴史、征服者、侵略者どもに反抗してたたかった戦士たちや革命家たちの英雄像がうたいこめられています。この詩集はまさに新大陸のエンサイクロペデイア(百科全書)であり、その宇宙創成史(コスモロロジー)です。そしていちばんすばらしい点は、いまなおアメリカ帝国主義にあやつられた軍事政権、ファシズム体制に抑圧され、搾取されている南アメリカ諸国人民にたいして、この詩集が独立と解放の道に立ち上がるように呼びかけ、はげましていることです。そこにこそネルーダの意図もあったのです。
『大いなる歌』のなかの「マチュ・ピチュの頂き」は、そういうネルーダの呼びかけを集約的に示しています。マチュ・ピチュというのはペルーにあるインカ帝国の大遺跡のあるところです。この山の上の石の城塞は、スペイン侵略者によってペルーのクスコが征服された後、不屈なインカの一党がたてこもったところだと言われています。そこに眠っている人民に呼びかけるというかたちで、ネルーダは現在と未来の南アメリカ諸国の人民に呼びかけているのです。
兄弟よ 立ち上って
わたしといっしょによみがえろう!
地の底から わたしをよく見てくれ
静まり返った農夫よ 織工よ 羊飼いよ
組んだ足場に挑んだ 煉瓦工よ
アンデスの涙を運んだ者よ
この新しい生活のコップに 注(つ)いでくれ
大地に埋められた きみたちの古い苦しみを
きみたちの血を 傷痕(きずあと)を
いく世紀ものあいだ 傷口にめりこんだ鞭(むち)を
きらめく血まみれの斧(おの)を──
わたしにくれ 闘争を 銑を 火山を
わたしの血の叫びに わたしの声に答えてくれ
(新日本文庫『ネルーダ最後の詩集』)
◆わたしの党に
「大いなる歌」が刊行されると大きな反響をよび、ネルーダにはレーニン国際平和賞が与えられます。とりわけそのなかの「きこりよ めざめよ」は評判となりました。「きこり」というのは貧農の子として生まれたエイブラハム・リンカーンを指すと同時に、アメリカ人民を指しているのです。この長詩は、平和への賛歌であると同時に、世界の憲兵とうぬぼれて世界の人民に暴虐な戦争をしかけているアメリカ帝国主義に手きびしい警告を投げつけています。
だが北アメリカよ もしもおまえが
ごろつきどもに銃をもたせて
この国境をぶち壊そうとするなら
シカゴの牛殺しどもを連れてきて
おれたちの愛する音楽や 秩序を
支配しょうとするなら
おれたちは石のあいだ
大気のなかから飛び出して
おまえに噛みついてやる
畑のウネから躍り出て
種蒔く手で ぶちのめしてやる
地獄の火でおまえを焼いてやる……
アメリカ帝国主義の侵略をあばいた詩人は、エイブラハム・リンカーンの輝かしい民主主義的伝統にめざめて立ち上がるようにアメリカ人民によびかけるのです。
エイプラハムよ やって来い
やってきて イリノイの
黄金(こがね)と緑の大地を よみがえらせろ
新しい奴隷主義者にむかって
奴隷をむちうつ鞭にむかって
毒をふりまく印刷所にむかって
白人の若者も 黒人の若者も
歌いながら微笑みながら、進め
憎しみをあふりたてるものに抗し
かれらの血で肥る商人に抗して
勝利をめざして 堂堂と進め
きこりよ 眠りをさませ
(『きこりよめざめよ』)
『大いなる歌』にはまた「わたしの党に」という詩があります。彼はここで、共産党員になったおかげで、自分が古い人間から新しい人間にどのように変ったか、どのようにこの世界を見るすべを学んだか、どのように敵とたたかうすべを学んだかを語っています。
わたしの党に
見知らぬひとと 兄弟になった
あなたのおかげで わたしは
生れ変ったように祖国をとり戻した
あなたは わたしに与えてくれた
孤独なひとの 知らない自由を
あなたは わたしをまっすぐにしてくれた
まっすぐに伸びる 木のように
あなたのおかげで わたしは学んだ
兄弟たちの 堅い寝床で眠るすべを
あなたはわたしを現実の上に据え
しっかりと 岩のうえに立つように
あなたのおかげで わたしは悪党どもの敵となり
怒り狂う人たちをまもる壁となった
あなたはわたしを うち滅ばされぬものにしてくれた
なぜならあなたの中で、わたしはもはや自分自身で終ることはないのだから
(角川書店『ネルーダ詩集』166ページ)
❹チリ・クーデターに抗して
◆ピカソとともに
一九四九年、警察に追われるネルーダは馬に乗ってアンデスを越え、チリをぬけ出して長い亡命の旅に出ます。ヨーロッパからソビエト、中国を回って歩くことになります。
一九五〇年十一月、第二回平和擁護世界大会がワルシャワでひらかれました。その会場に、官憲の眼をくぐって、こつ然とネルーダが姿を現わすと、わきあがる満場の拍手によって迎えられたのでした。この有名なエピソードは、ネルーダが世界じゅうの人びとから敬愛されていたことを物語っています。この大会で、彼はピカソとともに世界平和賞を受賞したのです。
一九五二年、彼は三年半にわたる亡命生活から祖国に帰り、ふたたび政治闘争と文化活動、詩作を始めます。
◆人民連合の勝利とノーベル賞受賞
さて一九七〇年九月、チリの大統領選挙において、全左翼勢力によって結成された人民連合は、社会党のアジェンデを立候補させてこれに勝利します。こうして選挙によって平和裡に人民連合政府が誕生したことは、世界じゅうから祝福され、注目されたのです。
一九七一年三月、ネルーダは駐仏大使に任命されてパリに赴任します。十月にはノーベル文学賞が彼に与えられます。人民連合の勝利とこの受賞のよろこびを、彼は「その日から」という詩に書きます。
その日から眠がさめると 世界は見た
いきなり 人民の勝利を 高く掲げる
まぎれもない 真実の チリの姿を
よろこび祝う 世界の声に あわせて
われらの海と 大地は 歌った
あの頃だ 田舎者の 詩人がひとり
パラルからまっすぐストックホルムへ出かけて行って
星をひとつ もらったのは
国をおさめてる 本職の王様の手から
こうして チリの名は もてはやされた
世界の町町から 鉱山から 畑から
……
この詩のなかのパラルは、チリ中部の町の名で、ネルーダの生地です。また「星をひとつもらった」というのはノーベル賞を指しています。「王様の手から」というのは、ノーベル文学賞は、スウェーデン王立アカデミーが授与することになっているからです。
◆うじ虫はうごめく
人民連合政府の成立とノーベル文学賞受賞のよろこびは、しかしつかのまのことでした。
人民連合政府はさっそくアメリカ独占資本に支配されていた銅山を国有化します。幼稚園のすべての子どもたちに、毎日〇・五リットルの牛乳を無料で配給した政策は有名なものです。こういう人民連合政府を倒すために、アメリカ帝国主義とその手下どもは、謀略をめぐらし、シュナイダー将軍が彼らの申し出でを断ると、将軍を暗殺するというようなテロ活動をくりひろげ、転覆活動を開始します。ネルーダの「蛆虫(うじむし)はまたぞろうごめく」という詩はそういう状況をとらえています。
情勢は たちまち きびしくなった
蛆虫(うじむし)どもは またぞろ うごめき出し
ごろつきどもや 反対党といっしょになって
「チリには 共産主義の危険がある!」
こんな いい加減な策略(デマ)をでっちあげ
……
一九七二年になると、人民連合にたいする帝国主義と反動の圧力と謀略活動はますます強くなります。この年の十一月、ネルーダは病気のため駐仏大使を辞任して情勢の切迫した祖国チリに帰ると、ふたたびチリ人民の闘争に参加するのです。
こうしてネルーダ最後の詩集『ニクソンサイドのすすめとチリ革命への讃歌』が書かれるのです。この詩集でネルーダは、帝国主義とその手下のファシストどもの暴虐暴圧を痛烈な風刺によってバクロし、槍玉にあげています。彼はまず「まえがき」に書きます。
「かれ(ニクソン)はまた、チリ革命を孤立化させ、崩壊させるために経済封鎖にも干渉した。
そのためにかれは、種々の手下や、Ⅰ・T・T(多国籍企業=『国際電信電話株式会社』)のスパイ網のような、公然たるスパイどもを使い、また一方ではチリを裏切ったチリ人ファシストどものなかの、もっとも陰険なもの、腹黒いもの、挑発者などをも使った。
このようにこの詩集の長い題名は、世界の現情勢と近い過去とを反映している……。
わが人民の敵に立ちむかうわたしの歌は攻撃的であり、アラウカニアの石つぶてのように痛烈なのだ…‥」
◆あくどいピラリン
一九七三年七月、右翼ファシストの攻勢はいよいよ激烈となります。トラック運送業者たちは反革命ストライキをおこない、お屋敷街の上流夫人たちが街頭に出て、シチュー鍋を叩いて、「肉をよこせ、自由をよこせ」と猿芝居のデモを行う始末です。ネルーダはそれを「情熱的なストライキ」のなかで痛烈に風刺しています。
手の込んだ 謀略の筋書を 練りあげて
匕首(あいくち)を手にした Ⅰ・T・Tの後(うしろ)から
ぞくぞくと現われるは 悪どいピラリンども
寡頭制に 忠勤はげむ ごろつきども
組合を売った 札つきの ダラ幹ども
へんてこな エプロンかけた お医者ども
大親分のニクソンといっしょに
やつらは 資本家ストを ぶちまくった
驢馬(ろば)どものスト でぶっちょどものスト
成上りの プレー・ボーイどものスト
それに 大商店の旦那どもも くわわって
みんな隠した 玉ねぎと サーディンを
油と煙草(たばこ)を シチュー鍋と小麦粉を
あとには 光もパンもなんにもない
匕首つきつけられた 人民と祖国が残った
この詩のなかのピラリンこそは、トラック・ストの首謀者です。また、右翼の扇動で医者やバス経営者たちがストをおこない、商店までストをうったのです。この資本家ストは一九七三年九月十一日のピノチェト軍部ファシストらによるクーデターの前哨戟だったのです。その日、大統領府の「ラ・モネダ」は包囲爆撃され、アジェンデは最後まで戦って銃殺されます。
血なまぐさいテロが、全チリ人民のうえに襲いかかりました。共産党、社会党、労働組合などは解散させられ、大学は軍隊によって封鎖されたのです。たくさんの活動家や市民が虐殺されて、河や海に投げこまれたのです。十一日以来、ネルーダの家はファシストの監視下におかれました。サンチアゴとイズラ・ネグラにあるネルーダの家を、ファシストの兵隊どもは数回にわたって土足で踏み荒らし、家宅捜索をし、貴重な蔵書類を持ち去ったのです。こうした圧迫のなかで一九七三年九月二十四日、ネルーダは死んだのです。公式の死因は癌でした。しかし一九七四年三月に来日したアジェンデ未亡人はこう語ったのです。
「偉大な詩人パブロ・ネルーダは胸の痛みで死んだのです。彼は精神の面と肉体の面とで二重に殺されたのです……」
「胸の痛み」というのは、ネルーダがチリ人民と祖国の運命を心にかけていた心痛のことです。「わたしは黙ってはいない」のなかに彼はこう書いています。
犬や何かはわたしにはどうでもいい
わたしには ただ 人民だけが大事なのだ
ただ 祖国だけが わたしを決定づけるのだ
わが祖国と人民が わたしの任務をさだめ
わが人民と祖国が わたしの義務をあきらかにする
もしも奴らが 人民のうち建てたものをうち殺すなら
そのとき死ぬのは わが祖国なのだ
それが心配だ 心痛のたねなのだ
◆人民への愛と奉仕の一生
最後までチリ人民と祖国への愛と奉仕に心をくだき、ファシストに痛撃をくらわしたネルーダは、まさにその心痛のなかで死んだのです。アジェンデ未亡人が「偉大な詩人パブロ・ネルーダ」と呼んだひびきのなかには、やはりこういう詩人への尊敬と敬愛の念がこめられていたのです。
二日後のネルーダの葬儀は、カービン銑の監視下にもかかわらず盛大におこなわれ、参列者の間から「インターナショナル」の合唱がわきあがりました。それはファシズム反対の最初の大デモンストレーションとなったのです。
(本文中の詩は新日本文庫『ネルーダ最後の詩集』からの引用です。)
❺チリ人民の希望と悲劇の歌い手
昨年(一九七三年)一〇月一六日、「チリ軍事革命以後」という特派員報告が、NHK・TVで放映された。民主的な選挙によって選ばれ、合法的に成立したチリ人民連合政権にたいして、アメリカ帝国主義に支援された軍部反動勢力が、九月十一日、クーデターというファッショ的暴挙を行ってから、二○日ばかりあとの、サンティアゴ市街のルポルタージュであった。
アジェンデが人民の委託を死守して、最後まで英雄的にたたかった大統領官邸モネダ宮の壁や鉄柵のうえには、なまなましい弾痕が、文字どおり蜂の巣のような黒い穴となって残っていた。
路上の装甲車にバズーカ砲がすえつけられ、そのバズーカ砲の威嚇のもとに、家宅捜索が行なわれ、押収された本が、三階、四階の高みから投げ捨てられ、ひらひらと舞った。路上では、これも山のように積まれた本が、──市民たちの心の糧であり、かれらをみちびく光明でもあった書籍類が、ロボットのような兵隊たちによって焼かれていた。本の表紙のレーニンの肖像もめらめらと燃えていた。
芝生の緑もあざやかな国立サッカー場の金網のなかのスタンドには、試合に熱狂する観客ではなく、まるで家畜の群のように、たくさんの人たちが、カービン銃に監視されて、とじこめられていた。拷問でうけたなまなましい背中の傷あとを、肌ぬぎになって、外国の記者たちに見せて、訴えている若者もいた。そしてスタンドの下の留置室にも多くの人たちがとじこめられ、ひそかに処刑が行なわれているということを、ナレーターはつげていた。
それから、このカメラ・ルポルタージュは思いもかけぬ情景を写し出した。──九月二五日のパブロ・ネルーダの葬式の場面であった。赤と白と青のチリ国旗に包まれたネルーダの柩が運び出されて、霊柩車に移された。霊柩車の屋根は白いカーネーションの花束でおおわれていた。そのあとに、マチルデ夫人らしい人の、悲しみをこえた、きびしい、沈痛な表情をした、彫りの深い顔が見えた。葬儀は、林立するカービン銃の包囲のなかで行なわれたにもかかわらず、ネルーダを敬愛するたくさんの労働者市民の長い列によって飾られたのである。
その後、べネゼエラのカラカスに亡命した、ネルーダ未亡人マチルデ・ウルーティア夫人は、夫の最後の数日について、べネゼエラの「エル・ナシオナル」紙のインタビュアーにこう語っている。
「クーデターがおきて、アジェンデ大統領が倒される日まで、かれは調子がよく、元気でした。……病床にこそついていましたが、かれの病気は少しばかり回復していたのです。しかし、クーデターの日は、かれにはとてもたえがたいものでした。
わたしたちがサルバドル(アジェンデ大統領)の死を知ったとき、医師はただちにわたしを呼んで申しました。『パブロには何も知らせてはいけませんよ。病状が悪くなるかも知れませんから』。
パブロはベッドの前にテレビをすえていました。運転手に新聞を買いにやらせました。そのうえ、あらゆる放送が聞けるラジオも持っていたのです。わたしたちはメンドサ(アルゼンチン)放送で、アジェンデの死を知ったのですが、このニュースがかれを死に追いやったのです。そうです、それがかれを殺したのです。」
マチルデ夫人は、アジェンデの死んだ翌日のことを、つぎのように語っている。
「パブロは目をさますと、熱発していました。けれども、手当をすることができなかったのです。主治医は逮捕されてしまい、助手の医師は、危険をおかしてイスラ・ネグラまで来てくれようとはしなかったからです。」
「こうしてわたしたちは、医師の手当をうけずに、孤立していました。数日がすぎて、パブロの容態は悪化したのです。わたしは医師を呼んで申しました。『かれを病院に入れなければなりません。とても悪いのです』。
かれは一日じゅうラジオにかじりついて、べネゼエラ放送、アルゼンチン放送、モスクワ放送などを聞いていました。とうとう、わたしたちは何もかも真相を知ったのです。パブロの意識は、はっきりしていました。眠りこむまでは、頭も冴えていたのです。
五日めに、かれをサンティアゴの病院に入院させるために、わたしは病人用の寝台車を呼びました。車は途中で、検問にひっかかってとり調べられましたが、それはひどくかれにこたえたのです。」
──乱暴でも行なわれたのですか──
「そうです。たいへん乱暴なもので、かれにはとてもこたえたのです。わたしはかれのわきに坐っていました。かれらは、わたしを車から引きずり降ろして、とり調べ、それから寝台車を調べました。それはなんとも、かれにはたえがたいものでした。
わたしはかれらにいいました。『これはパブロ・ネルーダです。重態なのです。どうか通してください』。まったくおそろしいことでした。かれは危篤状態になって病院に着いたのです。パブロ・ネルーダは、二二時三〇分になくなったのです。だれも病院に来ることはできませんでした。夜間外出禁止令が出ていたからです。それからわたしは、サンティアゴの家にかれを移させました。家はこわされ、本もなくなり、何もありませんでしたが、そこでお通夜をしたのです。サンティアゴで過ごすことのできた最後の時だったのに、たくさんの人たちが来てくれました。
葬列が、墓地のあるサン・クリストバルの丘にさしかかった時、四方八方から人びとが集まって来ました。みんな働く人たちで、真剣な、きびしい顔をしていました。一団の人びとが『パブロ・ネルーダ!』と叫ぶと、残りの半分の人びとが『プレセンテ(ここにいるぞ!』と答えました。それはまるで自殺行為だったのですが、さいわいに、何ごともおきませんでした。このたくさんの人びとは、軍部の弾圧にもかかわらず、『インターナショナル』を歌いながら、墓地に入ったのです。)
あたかも死んだネルーダが歌いだしたかのように、参列者の中から期せずして湧きあがった、この『インターナショナル』の歌ごえは、ファシスト軍事政権に反対する最初の大きなデモンストレーションとなったのである。
(なお、ネルーダの死因は公式には癌ということになっている。しかし、このたび(一九七四年三月)来日されたアジェンデ婦人は、インタビューの折に、わたしにこう語った。──偉大な詩人パブロ・ネルーダは胸の痛みで死んだのです。かれは、肉体の面と構神の面と、二重に殺されたのです。病気の手当てや薬もあたえられず、そのうえかれの詩集は焼かれたのです。……」)
ネルーダはその生涯で、二つのファシズムに出会った。そしてそのことは、かれを今世紀の偉大な典型的詩人のひとりに育てあげたのである。
一九三六年、かれは領事として駐在していたマドリードで、ヒットラーとムッソリーニに支援されたフランコのファシズムに出会った。スペインの民主主義を圧殺するファシストの暴虐をまのあたりにみて、かれは最初のヒューマニズムの叫びをあげ、共産主義者としての一歩をふみだした。
そして一九七三年、アメリカ帝国主義にあやつられたチリ軍部ファシストの暴虐とたたかいながら、かれは死んだ。死の直前の九月一五日に、かれはクーデターに抗議し、つぎのような詩を書いて、ファシストどもに痛撃をくわえた。
腹黒い奴ら
ニクソンと フレイ(*l)と ピノチェト(*2)ども
ポルダベリ(*3)と ガラスタソ(*4)と パンセル(*5)ども
今日 この一九七三年九月のなんという酷(むご)たらしさ
おお 貪欲なハイエナども
多くの血と火でかちとった旗をかじりとるネズミども
大農場でたらふく満腹している奴ら
極悪な略奪者ども
干回も身を売った腹黒い奴ら
ニューヨークの狼どもにけしかけられた裏切者ども
わが人民の汗と涙を絞りとり
わが人民の血で汚れた機械ども
アメリカのパンと空気を売りこむ売春屋ども
淫売宿のボスども ペテン師ども
人民を拷問にかけむちうち飢えさせる法律しかもたぬ死刑執行人ども!
(一九七三・九・一五)
*1 フレイ=元チリ大統領、 2 ピノチェトー=チリ軍事評議会議長、 3 ポルダベリ=ウルグアイの独裁者、 4 ガラスタソ=ブラジルの独裁者、 5 バンセル=ボリビアの独裁者
人民の委託を死守して、機関銃を手にしてたおれたアジェンデのように、ネルーダもまた最後まで、詩という武器を手にしてたたかいたおれたのである。
チリ人民の希望と苦しみと悲劇の歌い手であり証人であったネルーダという星は、チリの空にのぼる血まみれの星として輝きつづけるであろう。
(『愛と革命の詩人ネルーダ』序章 大月書店 1974.6)
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🔵ビクトル・ハラ
世紀を刻んだ歌『人生よありがとう Gracias a la Vida』
~南米 歌い継がれた命の賛歌~
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★★Violeta Parra “Gracias a la vida”5m
★★バエズ “Gracias a la vida”5m
【番組紹介】 NHK・BS2 2003年9月21日再放送
人生よありがとう
こんなにたくさん 私にくれて
私にくれた ふたつの明星
それを開くと
はっきり見分けられる
黒いものと 白いものを
高い空から 星々の底を
人混みの中から 愛する人を
人生よありがとう
こんなにたくさん 私にくれて
笑いをくれた 涙をくれた
そして私は見分ける 幸せと苦しみ
私の歌をつくる ふたつのものを
あなたたちの歌 それこそがこの歌
すべての人の歌 それが私自身の歌
人生よありがとう
こんなにたくさん 私にくれて
ビオレータ・パラの『人生よありがとう』――私はこの歌を20年以上前から知っているし、今でもとても好きな歌である。しかし、この番組を見てこの歌に対する私の思いはさらに強くなった。この歌が辿った運命が私の想像以上のものであったのだ。番組の冒頭、軍政に抗議する集会で『人生よありがとう』を歌う人々の姿を見ただけで、私のこの歌に対する印象は、大きく変えられることとなった。不勉強だと言われるかも知れないが、この歌がこのような闘いの真っ只中で歌われていたとは、私は全く知らなかった。
実際に、この歌はチリをはじめラテン・アメリカの軍事独裁政権の下で生き、闘ってきた多くの人々を励まし、力を与えてきた。なぜこの歌がそうした場で歌われたのか。その魅力の源はどこにあるのか。さらに、広く音楽一般の力というものについても考えさせられる番組であった。
今年の9月11日は、「もう1つの9.11」と言われるチリの軍事クーデターから30周年であった。ビオレータ・パラの歌と『人生よありがとう』は、チリ革命の歴史と切り離すことはできない。その様々な局面で、色々な思いを込めて歌い継がれてきた。番組は、メキシコの若い女性歌手、マリア・イネス・オチョアが、それが歌われた場所を訪ね歩く形で、描かれる。
1.アジェンデ政権を生んだ「新しい歌」
1970年、チリに、歴史上初めて選挙で選ばれた社会主義政権として、アジェンデ政権が誕生する。ビオレータの死から3年後のことである。アジェンデ政権は成立後、銅鉱山の国有化、大農場の解体、ミルクの無料支給など、それまで外国資本や大地主に搾取、抑圧され、苦しい生活を強いられていた民衆のための政策を実行に移した。
このアジェンデ政権を生みだした運動を、音楽で支えたミュージシャンたちがいた。その1人がビクトル・ハラである。彼は、学生時代にビオレータと知りあい、民衆に根ざした歌を歌う彼女にあこがれ、尊敬するようになる。当時中南米で起こっていた「新しい歌(ヌエバ・カンシオン)」運動。チリでは、ビクトルを中心とする、ビオレータの魂を受け継いだ若いミュージシャンたちがその運動に共鳴し、「歌で社会を変えられる」と信じ、活動していた。
アジェンデ大統領自身も、ビオレータと『人生よありがとう』がとても好きだったという。
2.禁じられた歌
アジェンデ政権の誕生は、しかし、チリ経済を食い物にしてきた者たちにとっては、大きな脅威であった。中でも、銅鉱山を牛耳りチリの富を奪い続けてきたアメリカは、失った利権を回復するために、何としてもアジェンデ政権を倒したいと考えた。ニクソンは、アメリカが備蓄していた銅を売却し、チリの輸出の80%を占める銅の国際価格を暴落させた。その他様々な経済的締め付けを行い、チリ経済を破綻の淵に追い込んだ。さらに、CIAを通じてチリ国内の反アジェンデ勢力を煽動し、アジェンデ支持勢力との対立を先鋭化させた。そしてついに、1973年9月11日、ピノチェト陸軍総司令官にクーデターを起こさせた。大統領官邸は爆撃され、アジェンデ大統領は殺害された。
このクーデター後、弾圧の嵐が荒れ狂う。多数のアジェンデ支持者が連行、暴行、虐殺された。クーデターから3ヶ月足らずの間に、現在判明しているだけで2000人近くが殺害された。ビクトル・ハラもその1人だった。クーデターの翌12日、チリ・スタジアムに連行されたが、捕らわれた人々を励まそうと、軍の命令を無視し歌ったため、ギターを弾けぬよう手を砕かれ、殺されたとも言われている。
ビクトルが手を後ろに組まされ、5千人の仲間とともに歩かされたという、スタジアムの細い通路を歩く、彼の妻ジョーン・ハラとマリア。コンサートなども行われた場所だというが、とてもそんな明るい雰囲気は感じられない。何とも陰鬱な場所になってしまっていた。ここで、いったい何人が殺されたのか。
ジョーンは、ビクトルが最期に残した詩を読む。
俺たちは五千人
首都の片隅に閉じこめられて
国中でいったい何人閉じこめられているのか
ここだけで一万の手がある
耕し 工場を動かしてきた手が
歌よ おまえは何と無力なのか
恐怖を歌わねばならないとは!
私が生きているという恐怖
死んでいくという恐怖を
この歌が 沈黙と叫びに終わる
その無限の瞬間に 私はいる
今感じる 見たこともない恐怖が
この瞬間に ほとばしるのを
大統領に就任したピノチェトは、左翼的と見なした本や映像、音楽を禁止し、焼き払った。その中に『人生よありがとう』も含まれた。チャランゴやケーナといった楽器までもが、「アジェンデ政権を連想させる」という理由で禁止された。
3.捕らわれの人々を励ました歌
しかし、歌は死ななかった。
マリアは、チリ最南端、マゼラン海峡に浮かぶドーソン島を見る。ドーソン島は、強制収容所の島であった。クーデター後、ここに最大400人が収容、強制労働に従事させられ、暴行、拷問を受けた。しかし、ここで『人生よありがとう』が歌われていたというのである。なぜかギターがあり、『人生よありがとう』やビクトル・ハラの歌を歌っていたという。絶望に陥りそうな毎日の中で、自らを励ますために歌った。捕らわれていた男性は言う。「私たちは音楽の価値を知った。特別な時間の中でね」。
同じくチリ最南端の町プンタ・アレーナス。マリアは、3人の女性に、町にあった「拷問センター」に案内される。「私はここに連行された。拷問の機械や器具があった」、「爪に電極を付け、電流を流した」、「金属製のベッドに裸でねかせて、電流を流していた」‥‥。
ここでも、『人生よありがとう』が歌われた。「胸が張り裂けそうな歌だった」が、「いつでも希望を持っていた。音楽はそれを助けてくれた」。「私たちは生き残った。拷問から生き延びたのだから。だから『人生よありがとう』なの。拷問を受けた昨日は消せないけれど、歌うことで前に進めた。それは私の命があったから」。
3人の女性は、比較的淡々と話しているように見えたが、話し終えた直後、1人が耐えきれなくなったように泣き崩れる。「私におきたこと、30年間誰にも話してこなかった。母は何も知らずに死んだわ。父にも一度も話してないの。私は強くならなくちゃ。今日は全部話せなかったけど」。凄惨な体験による心の傷の深さが感じられる。
4.国境を越えた歌
クーデター直後の弾圧を逃れ、、25万人以上がチリから海外に亡命したと言われている。亡命者はその後も増え続けた。海外ではチリ軍政に抗議し、亡命者との連帯を訴える声が高まった。メキシコで出されたレコード『メキシコ・チリ連帯』。このレコードには、マリアの母、アンパロ・オチョアの歌う『不正のただ中へ』(ビオレータ・パラ作詞)も納められていた。アメリカでは、ジョーン・バエズが『人生よありがとう』を歌った。
また、軍事クーデターと軍政は、チリだけではなく、他の中南米諸国にも共通した問題であった。アルゼンチンでは、76年3月にクーデターが起こる。アルゼンチンで「新しい歌」運動を担っていたメルセデス・ソーサも、スペインへの亡命を余儀なくされた。しかし、彼女はヨーロッパで精力的に活動し、大きな支持を得る。『人生よありがとう』は、彼女の歌声を通じて、世界的に有名な歌になった。
5.軍政と闘い、責任を問う歌
チリで軍政に抗議する集会を撮影した映像が残されている。もちろん、命懸けで撮影されたものである。催涙ガス入りの放水を浴び、護送車に放り込まれる参加者。そうした中で、またも『人生よありがとう』が聞こえてくる。連行されながらも、彼女らは歌うことをやめない。
マリアは、行方不明者家族の会の集会を訪ねる。軍政時代の17年間に、逮捕、拉致され、今も消息の分からない人々が、1000人以上いる。その家族が、真相を究明し責任を追及する運動を、軍政時代から今も続けている。その集会でも歌われる『人生よありがとう』。「なぜこの歌を?」「人生・命への賛歌だから。行方不明者の母、妻、娘である私が求めているものへの賛歌」。「(行方不明者が死んでいても)真実を知らせるため、命がけで闘っている私たちにとって『人生よありがとう』と言うことは決して矛盾ではない」。「私たちに闘い続ける力を、この歌はいっぱいくれるから」。
国内の反軍政闘争の高揚と国際的な批判に押され、チリの軍事政権は88年、信任投票を実施し、敗北。90年、チリはようやく民政を回復した。マリアは旅の最後に、サンティアゴのある公園を訪れる。そこでは、信任投票の後、勝利を祝う大集会が行われ、『人生よありがとう』が歌われた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
『人生よありがとう』という歌がこれほどの力を持ったのは、文字通り命を賭けた闘いという極限の環境にさらされたからなのかもしれない。毎日のように仲間が暴行、拷問され、命を落としていき、明日は自分かも知れない。そうした中で、「生命への賛歌」である『人生よありがとう』は、大きな輝きを放ち、希望を見失わないための力を与える歌となったのだろう。それにしても、捕らわれ、強制労働させられ、拷問を受ける中で、「人生よありがとう こんなにたくさん私にくれて‥‥」と歌う気持ちは、どのようなものであったか。
民政を回復したチリだが、軍政による大量殺人、人権侵害の責任は、30年たった今までほとんど追及されないままである。ピノチェトは一旦裁判にかけられたものの、「高齢」を理由に中止され、今も自由の身である。何よりも、クーデターの真の首謀者であるアメリカは、責任を問われないばかりか、その後も様々なやり方で他国への侵略を繰り返した。現在のブッシュ政権になって、ますますその性格を露骨にし、アフガニスタン、イラクの政権を倒し、多数の人々を殺戮した。アメリカの利益を冒す政権は、どのような手段を使ってでも倒すことを厭わない。その政権が、独裁政権か民主主義の政権かというような区別などないことを、「もう1つの9.11」は示している。
自らの利益のために平気で人命を踏みにじるものと対峙する時、生命への賛歌『人生よありがとう』は、それと闘う鋭い武器となる。この武器を、今一度アメリカに、ブッシュ政権に、突きつけたい。
2003年9月28日
◆チリ・クーデターから40年(朝日13.9.17)
政治家・裁判官、謝罪相次ぐ
クーデターから40年を迎えた11日、ピニェラ大統領は大統領府で演説し、「人権侵害の責任は実行者や命令者だけでなく、一定の立場にありながら何もしなかった者にもある」と語り、当時の政治家らにも責任があるとの考えを示した。
こうした発言は最近になって目立つ。8月には当時の政治家やマスコミ、裁判官らを「消極的共犯者」と呼んで反響を呼んだ。
チリの調査会社CERCによると、軍政を「良かった」と評価する国民は、1989年の22%から今年7%まで減った。政界では最近、過去の行為を謝罪する議員が与野党で相次ぎ、行方不明者の保護申請を放置していたと批判のある司法界でも9月、裁判官の団体が被害者に謝罪声明を出し、最高裁も「司法機能の放棄で怠慢だった」と認めた。
国立人権研究所(INDH)のディレクター、ロレナ・フリエスさん(53)は「犠牲者家族の運動が国際的な注目を集めたことや、経済成長で国民に人権意識が芽生えたことが近年の変化を生んだ」と話す。かつてピノチェト政権下で制定された恩赦法に守られていた関係者も、99年以降は訴追できるようになった。
人権侵害、正当化できない クーデター時の大統領の娘、アジェンデ上院議員
あの日、何が起きたのか。40年経った今、何を思うのか。大統領府で空爆を受け、自殺したとされるサルバドール・アジェンデ大統領(当時)の娘、イサベル・アジェンデ上院議員(68)に話を聞いた。
あの朝、ただ父に会いたくて大統領府に向かった。空爆が始まる直前、父は何も言わず静かに私を抱きしめて避難するようにと送り出した。軍が何をしたのか歴史の証人となることを望んでいたのだろう。父は「大統領は誇りを失ったり、屈したりしてはいけない」と亡命の勧めにも応じなかった。尊厳を守るため自ら命を絶つという勇気ある決断をしたに違いない。
父の政権下ではストライキが多発し必需品の供給が不足し、経済が停滞していたのは事実だ。だが、米国が介入し、貿易を妨害していたことも影響していた。軍政期には新自由主義を導入して市場を開き経済は成長したが、国内産業を破壊し、貧富の差が拡大するなど代償も大きかった。
そもそも軍政期の人権侵害を巡ってはいかなる正当化もできない。行方不明者が今も多くいる中、真実解明と裁判による正義の追究なくして国民は和解しえない。軍は情報開示を徹底する必要がある。
40年を機に、改めてチリの経験に学び、世界で人権侵害が起きないよう願っている。だが、今なお人権侵害は報告され、中東での紛争も絶えない。ヒトは必ずしも過去に学ぶことのできない動物なのかもしれない。痛ましいことだ。
◆チリの軍事クーデター
1973年9月11日、ピノチェト陸軍司令官らを中心とする軍と警察が協力して大統領府を攻撃。70年の選挙で民主的に選ばれたアジェンデ大統領が死亡し、政権は崩壊した。社会党や共産党の支持を受けてキューバと親交を結び、基幹産業の国有化や農地改革など社会主義的政策を進めていた同政権を冷戦下の米国が危険視し、政権転覆に関与したとされる。ピノチェト大統領の軍事独裁政権は90年まで続き、反体制派の約3万8千人が拘束や拷問などの被害を受けた。処刑による死者や行方不明者は3200人余りに上る。
◆クーデターを巡る動き
1970年11月 社会党のアジェンデ氏が大統領就任
73年 9月 軍のクーデターでアジェンデ政権崩壊
74年12月 ピノチェト陸軍司令官が大統領就任
88年10月 ピノチェト大統領の信任を問う国民投票。否認が上回る
90年 3月 選挙で選ばれたエイルウィン大統領就任。民政移管果たす
98年 3月 ピノチェト陸軍司令官が退役。終身上院議員に就任
2000年 8月 チリ最高裁、ピノチェト氏に認められた終身上院議員としての免責特権剥奪(はくだつ)を決定
12月 ピノチェト氏、左派活動家に対する誘拐と殺害で初めて起訴され、自宅軟禁を命じられる
06年11月 ピノチェト氏が「政治的責任」を初めて認める。クーデターは正当化
12月 ピノチェト氏死亡
10年 1月 クーデターや軍政期の人権侵害について展示した「記憶と人権の博物館」開館
【映画=「NO」1988年軍事独裁者ピノチェトが任期をさらに8年延長提案、国民投票で反対53.6%で否決した闘いを描く。14.08.30赤旗】
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🔵大島博光=ネルーダ、チリ人民連帯
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◆大島=パブロ・ネルーダ Pablo Neruda25記事
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-25.html
◆大島=ネルーダ最後の詩集
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-1804.html
◆大島=Pablo Neruda “大いなる歌” Canto General
27記事
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-185.html
◆大島=Pablo Neruda 『マチュ・ピチュの高み』
9記事
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-164.html
◆大島=Pablo Neruda 「チリ革命への賛歌」
20記事
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-144.html
チリ人民の希望と悲劇の歌い手 Singer of hope and tragedy of Chilean people
昨年(一九七三年)一〇月一六日、「チリ軍事革命以後」という特派員報告が、NHK・TVで放映された。民主的な選挙によって選ばれ、合法的に成立したチリ人民連合政権にたいして、アメリカ帝国主義に支援された軍部反動勢力が、九月十一日、クーデターというファッショ的暴挙を行ってから、二○日ばかりあとの、サンティアゴ市街のルポルタージュであった。
アジェンデが人民の委託を死守して、最後まで英雄的にたたかった大統領官邸モネダ宮の壁や鉄柵のうえには、なまなましい弾痕が、文字どおり蜂の巣のような黒い穴となって残っていた。
路上の装甲車にバズーカ砲がすえつけられ、そのバズーカ砲の威嚇のもとに、家宅捜索が行なわれ、押収された本が、三階、四階の高みから投げ捨てられ、ひらひらと舞った。路上では、これも山のように積まれた本が、──市民たちの心の糧であり、かれらをみちびく光明でもあった書籍類が、ロボットのような兵隊たちによって焼かれていた。本の表紙のレーニンの肖像もめらめらと燃えていた。
芝生の緑もあざやかな国立サッカー場の金網のなかのスタンドには、試合に熱狂する観客ではなく、まるで家畜の群のように、たくさんの人たちが、カービン銃に監視されて、とじこめられていた。拷問でうけたなまなましい背中の傷あとを、肌ぬぎになって、外国の記者たちに見せて、訴えている若者もいた。そしてスタンドの下の留置室にも多くの人たちがとじこめられ、ひそかに処刑が行なわれているということを、ナレーターはつげていた。
それから、このカメラ・ルポルタージュは思いもかけぬ情景を写し出した。──九月二五日のパブロ・ネルーダの葬式の場面であった。赤と白と青のチリ国旗に包まれたネルーダの柩が運び出されて、霊柩車に移された。霊柩車の屋根は白いカーネーションの花束でおおわれていた。そのあとに、マチルデ夫人らしい人の、悲しみをこえた、きびしい、沈痛な表情をした、彫りの深い顔が見えた。葬儀は、林立するカービン銃の包囲のなかで行なわれたにもかかわらず、ネルーダを敬愛するたくさんの労働者市民の長い列によって飾られたのである。
その後、べネゼエラのカラカスに亡命した、ネルーダ未亡人マチルデ・ウルーティア夫人は、夫の最後の数日について、べネゼエラの「エル・ナシオナル」紙のインタビュアーにこう語っている。
「クーデターがおきて、アジェンデ大統領が倒される日まで、かれは調子がよく、元気でした。……病床にこそついていましたが、かれの病気は少しばかり回復していたのです。しかし、クーデターの日は、かれにはとてもたえがたいものでした。
わたしたちがサルバドル(アジェンデ大統領)の死を知ったとき、医師はただちにわたしを呼んで申しました。『パブロには何も知らせてはいけませんよ。病状が悪くなるかも知れませんから』。
パブロはベッドの前にテレビをすえていました。運転手に新聞を買いにやらせました。そのうえ、あらゆる放送が聞けるラジオも持っていたのです。わたしたちはメンドサ(アルゼンチン)放送で、アジェンデの死を知ったのですが、このニュースがかれを死に追いやったのです。そうです、それがかれを殺したのです。」
マチルデ夫人は、アジェンデの死んだ翌日のことを、つぎのように語っている。
「パブロは目をさますと、熱発していました。けれども、手当をすることができなかったのです。主治医は逮捕されてしまい、助手の医師は、危険をおかしてイスラ・ネグラまで来てくれようとはしなかったからです。」
「こうしてわたしたちは、医師の手当をうけずに、孤立していました。数日がすぎて、パブロの容態は悪化したのです。わたしは医師を呼んで申しました。『かれを病院に入れなければなりません。とても悪いのです』。
かれは一日じゅうラジオにかじりついて、べネゼエラ放送、アルゼンチン放送、モスクワ放送などを聞いていました。とうとう、わたしたちは何もかも真相を知ったのです。パブロの意識は、はっきりしていました。眠りこむまでは、頭も冴えていたのです。
五日めに、かれをサンティアゴの病院に入院させるために、わたしは病人用の寝台車を呼びました。車は途中で、検問にひっかかってとり調べられましたが、それはひどくかれにこたえたのです。」
──乱暴でも行なわれたのですか──
「そうです。たいへん乱暴なもので、かれにはとてもこたえたのです。わたしはかれのわきに坐っていました。かれらは、わたしを車から引きずり降ろして、とり調べ、それから寝台車を調べました。それはなんとも、かれにはたえがたいものでした。
わたしはかれらにいいました。『これはパブロ・ネルーダです。重態なのです。どうか通してください』。まったくおそろしいことでした。かれは危篤状態になって病院に着いたのです。パブロ・ネルーダは、二二時三〇分になくなったのです。だれも病院に来ることはできませんでした。夜間外出禁止令が出ていたからです。それからわたしは、サンティアゴの家にかれを移させました。家はこわされ、本もなくなり、何もありませんでしたが、そこでお通夜をしたのです。サンティアゴで過ごすことのできた最後の時だったのに、たくさんの人たちが来てくれました。
葬列が、墓地のあるサン・クリストバルの丘にさしかかった時、四方八方から人びとが集まって来ました。みんな働く人たちで、真剣な、きびしい顔をしていました。一団の人びとが『パブロ・ネルーダ!』と叫ぶと、残りの半分の人びとが『プレセンテ(ここにいるぞ!』と答えました。それはまるで自殺行為だったのですが、さいわいに、何ごともおきませんでした。このたくさんの人びとは、軍部の弾圧にもかかわらず、『インターナショナル』を歌いながら、墓地に入ったのです。)
あたかも死んだネルーダが歌いだしたかのように、参列者の中から期せずして湧きあがった、この『インターナショナル』の歌ごえは、ファシスト軍事政権に反対する最初の大きなデモンストレーションとなったのである。
(なお、ネルーダの死因は公式には癌ということになっている。しかし、このたび(一九七四年三月)来日されたアジェンデ婦人は、インタビューの折に、わたしにこう語った。──偉大な詩人パブロ・ネルーダは胸の痛みで死んだのです。かれは、肉体の面と構神の面と、二重に殺されたのです。病気の手当てや薬もあたえられず、そのうえかれの詩集は焼かれたのです。……」)
ネルーダはその生涯で、二つのファシズムに出会った。そしてそのことは、かれを今世紀の偉大な典型的詩人のひとりに育てあげたのである。
一九三六年、かれは領事として駐在していたマドリードで、ヒットラーとムッソリーニに支援されたフランコのファシズムに出会った。スペインの民主主義を圧殺するファシストの暴虐をまのあたりにみて、かれは最初のヒューマニズムの叫びをあげ、共産主義者としての一歩をふみだした。
そして一九七三年、アメリカ帝国主義にあやつられたチリ軍部ファシストの暴虐とたたかいながら、かれは死んだ。死の直前の九月一五日に、かれはクーデターに抗議し、つぎのような詩を書いて、ファシストどもに痛撃をくわえた。
腹黒い奴ら
ニクソンと フレイ(*l)と ピノチェト(*2)ども
ポルダベリ(*3)と ガラスタソ(*4)と パンセル(*5)ども
今日 この一九七三年九月のなんという酷(むご)たらしさ
おお 貪欲なハイエナども
多くの血と火でかちとった旗をかじりとるネズミども
大農場でたらふく満腹している奴ら
極悪な略奪者ども
干回も身を売った腹黒い奴ら
ニューヨークの狼どもにけしかけられた裏切者ども
わが人民の汗と涙を絞りとり
わが人民の血で汚れた機械ども
アメリカのパンと空気を売りこむ売春屋ども
淫売宿のボスども ペテン師ども
人民を拷問にかけむちうち飢えさせる法律しかもたぬ死刑執行人ども!
(一九七三・九・一五)
*1 フレイ=元チリ大統領、 2 ピノチェトー=チリ軍事評議会議長、 3 ポルダベリ=ウルグアイの独裁者、 4 ガラスタソ=ブラジルの独裁者、 5 バンセル=ボリビアの独裁者
人民の委託を死守して、機関銃を手にしてたおれたアジェンデのように、ネルーダもまた最後まで、詩という武器を手にしてたたかいたおれたのである。
チリ人民の希望と苦しみと悲劇の歌い手であり証人であったネルーダという星は、チリの空にのぼる血まみれの星として輝きつづけるであろう。
(『愛と革命の詩人ネルーダ』序章 大月書店 1974.6)
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