チリ・アジェンデ政権と軍事クーデター、ビクトール・ハラとネルーダ、軍事政権下のたたかい

チリ・アジェンデ政権と軍事クーデター、ビクトール・ハラとネルーダ、軍事政権下のたたかい

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【このページの目次】

◆チリ民主政権・軍事クーデターリンク集

Wiki=チリ民主政権へのクーデター

◆ビクトル・ハラとパブロ・ネルーダ

◆世界の共産党員物語=パブロ・ネルーダ

◆世紀を刻んだ歌『人生よありがとう Gracias a la Vida 

◆チリ・クーデターから40(朝日新聞)

◆大島博光=ネルーダ、チリ人民連帯、大島リンク集

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🔵チリ民主政権・軍事クーデターリンク集

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★★チリ・アジェンデ最後の演説とビクトール・ハラの歌27m

★★チリ・アジェンデ最後の演説7m

★★映画=サンチャゴに雨が降る(フランス・ブルガリア共同制作)

または

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v15480813tdctxDeg

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v15481488mxy7d33e

または

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一九七〇年、チリ共産党・社会党による人民連合と軍部反動派の血みどろの戦いを描く。製作はジャック・シャリエ、監督はチリからフランスに亡命したエルヴィオ・ソトー、撮影はジョルジュ・バルスキー、音楽はアストル・ピアソラが各々担当。出演はジャン・ルイ・トランティニャン、ローラン・テルズィエフ、アニー・ジラルド、ビビ・アンデショーン、リカルド・クッチョーラ、ベルナール・フレッソン、ニコール・カルファン、モーリス・ガレル、ジョン・アビー、セルジュ・マルカン、アンリ・ポワリエなど。

◆ストーリー

一九七〇年九月四日の夜、チリの首都サンチャゴ。アウグスト・オリバレス(リカルド・クッチョーラ)はテレビで大統領選の速報を報道していた。「人民連合」のサルバドル・アジェンデ(M・ペトロフ)が、国民党、キリスト教民主党を押え、当選確実だったが、内務省はなぜか最終結果の発表を遅らせていた。キリスト教民主党出身のエドゥアルド・フレイ大統領は、社会党、共産党などの革新六党の「人民連合」政権の誕生を阻止するため、チリ駐在のアメリカ大使、アメリカ電信電話会社(ITT)と共に軍事クーデターを提案していたのだ。

一方、「人民連合」本部では、上院議員(ジャン・ルイ・トランティニャン)がデモにくり出そうとする学生や労働者を押さえていた。首都の第二機甲連隊が出動してクーデターの危機が切迫したが、陸軍総司令官のレオ・シュナイダー将軍は、憲法を守ると声明してクーデターは防がれた。一九七一年五月、繊維工場ホール。四月五日の地方選挙で「人民連合」は五〇・八パーセントという得票を得て大勝利したばかり。労働組合指導者ホルヘ・ゴンザレス(モーリス・ガレル)は「人民連合」政権をたたえ、ブスコビッチ経済相(ベルナール・フレッソン)を壇上に招いた。ブスコビッチは「人民連合」政権が子供たちに一日半リットルのミルクを保証したこと、アメリカが四二年間に四二億ドルも収奪した銅山の固有化について話した。一九七四年始め。オリバレスの家を友人のカルベ記者(ローラン・テルズィエフ)が妻モニク(ビビ・アンデショーン)を共ない訪れた。アメリカ、右翼、資本家一体となっての「人民連合」への圧力を語り合っているとき、窓ガラスを破って石が投げ込まれた。石をくるんだ紙には「死=ジャカルタ」とあった。同年三月二三日。ITTとCIAに支援された右翼=ブルジョワの代表者がトラック業者、商店主、医師会の代表に反政府ストをそそのかして実行させた。その資本家ストのためにチリ全土が混乱状態になり、アジェンデは内戦をさけるため、国民投票の実施を決意した。同年九月六日、新たに陸軍総司令官に就任したアウグスト・ピノチェット将軍(アンリ・ポワリエ)は、国民投票予定日の九月十日にクーデターを起こすことを決定した。同十一日午前七時半。アジェンデ大統領はモネダ宮(大統領府)で、クーデターに抵抗することを決意した。オリバンテスは妻マリア(アニー・ジラルド)に別れの電話をかけた。やがてサンチャゴの街路に戦車が走り始めた。軍隊ではクーデター反対の兵士たちが逮捕された。連絡にとびちる学生、バリケードを作る労働者、ラジオは「サンチャゴに雨が降っています」と危機を暗号で告げた。程なく、軍隊がモネダ宮へ攻撃を開始、アジェンデ大統領みずから自動小銃をとると共に、国民に向けて悲壮な最後のラジオ放送を行なった。攻撃部隊は宮殿内に突入し、アジェンデもオリバレスも倒れた。繊維工場でも武装した労働者たちは勇敢に抵抗したが、圧倒的な武力に押しつぶされ、ゴンザレスらは銃殺された。大学でも学生たちの大量逮捕が始まった。「人民連合」の歌を唄ってみんなをはげまそうとしたフォーク歌手(D・ゲラシモフ)は兵士たちに虐殺された。街頭では進歩的な本が焼かれ、アカと密告された人の殺害が続いた。ピノチェット将軍らは軍事評議会の記者会見をし、いったん固有化した銅山をアメリカ資本に返還すると言明した。「人民連合」派のノーベル賞詩人パブロ・ネルーダが死んだ。九月二六日のそのネルーダの葬儀。それは、クーデター後初めてのファシズムに反対するデモとなった。

★★チリの独裁者・ピノチェト46m

★★戒厳令下チリ潜入記

❶(58m)

❷(56m)

または

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v15608669SbFkEEBm

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v15614038GyabyPTD

★★1973年戒厳令下のチリ(スペイン語)20m

★★1973年戒厳令下のチリ(スペイン語)56m

★★伊藤 千尋 =チリの民主化プロセスに学ぶ社会の動かし方

2014.08.01 58m

https://m.youtube.com/watch?v=pbRGM4LtfpM

国際ジャーナリスト=伊藤 千尋さん

チリ在住35年の日本人=藤尾 明憲さん

軍事クーデター以前のチリ

アジェンデ政権が取り組んだ政策

軍事クーデターを仕掛けたアメリカ

ピノチェト独裁政権の政策

チリ国内のイデオロギー構成

1988年の国民投票で何が起きたのか

軍事独裁を選挙で終わらせた

何が社会を動かしたのか

その後のチリの政治の歩み

チリの民主化に何を学ぶべきか

★★チリ・ピノチェト独裁を追いつめた判事85m

◆バチェレ大統領の父親の獄死無罪

(赤旗16.10.12

★★デモクラシーナウ=チリ・クーデターから40年 ビクトル・ハラの遺族が米国で容疑者を提訴

http://democracynow.jp/video/20130909-1

★★もう1つの9/111973911日 米支援のピノチェトがチリの実権を握った日

http://democracynow.jp/video/20100915-3

(上記のデモクラシーナウ2つ=iPhoneiPadの場合は、Puffinソフトにアドレスをコピーするとすぐ見れます)

◆映画=「チリの闘い」

★予告編2mhttps://m.youtube.com/watch?v=6IutHxQ0GqU

(評・映画)「チリの闘い」過去との対話促す記録映像

201699日朝日新聞

「チリの闘い」

 南米のチリで43年前に起こった出来事が、生々しく迫る。3部作のドキュメンタリー映画で4時間半と長いが、一気に見てしまう。

 1973年3月、チリの議会選挙で、アジェンデ大統領の率いる与党が勝利する。70年に成立した社会主義政権を、民衆が改めて支持したのである。経営者や地主など富裕層は、軍部と組み、反政権の動きを活発化させる。6月のクーデター未遂事件後、9月にクーデターが決行され、アジェンデは自殺らしい死を遂げて、軍事政権が発足する。

 そんな激動の7カ月が記録映像でつづられる。反政権派の狙いは混乱と危機を生み出すことで、首都サンティアゴを中心に、チリ全土が騒然となる。それらの背後に米国CIAの影がちらつくのが印象深い。

 第1部と第2部がクーデターまでをつづる。第3部はその間の労働者や農民の活動を描き、全編の白眉(はくび)を成す。人々が自主的な組織を作り、食料など必需品の確保と流通や、工場や農地の運営を行うのである。

 監督はパトリシオ・グスマン。クーデターの後、逮捕されるが、フランスへ亡命。カメラマンは逮捕された後、行方不明。フィルムは奇跡的に国外に持ち出され、グスマンはキューバの支援のもと、70年代後半に3部作を完成させた。

 多様な映像を編集した作品で、衝撃的なシーンが続く。軍人がカメラに発砲する場面もあり、撃たれた報道カメラマンは死んだ。しかし、映像は残る。

 見終わって深く息をつくと共に、第3部のあの人々は、いま、どうしているかと思う。過去の記録を見ることの中、それと現在との対話が始まるのである。

 (山根貞男・映画評論家)910日公開

(赤旗16.09.06

8401巣山=第三世界の変革チリ革命.pdf 

7308大月文庫・コルバラン=チリ人民連合政府樹立への道.pdf 

7311日本共産党=アメリカの各個撃破政策とチリクーデター.pdf 

7402歴史評論・チリ人民連合政権の崩壊=後藤・河合・平田.pdf

7511岡倉・寺本編=チリにおける革命と反革命(1).pdf

7511岡倉・寺本編=チリにおける革命と反革命(2).pdf 

Wiki=サルバドール・アジェンデ、チリ・クーデタ、人民連合、ピノチェト、ビクトル・ハラ、ネルーダなど参照。

【アジェンデ大統領】

【ビクトル・ハラ】

◆アジェンデ人民連合政府とチリ・クーデター

米国CIAなどの支援を得てピノチェト陸軍司令官は1973年9月、選挙を通じて誕生したアジェンデ人民連合政府をクーデターで倒し、軍事独裁政権をつくった。90年の民政移管までの弾圧で約3200人が死亡もしくは行方不明になった。2011年までの調査によると、拷問や投獄などの被害者総数は4万人を超える。今日チリ政府は軍事政権の犯罪を追及し続けている。アジェンデの最期の演説でのべているように「私たちが蒔いた種は決して刈り取られることはない」「歴史は彼らを裁くだろう」が今日のチリに受けつがれている。なおビクトル・ハラは人民連合を支持した国民的歌手。ビノチェトが逮捕した人々を収容した陸上競技場で虐殺された。

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🔵Wiki=チリ・クーデター

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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チリ・クーデター(西: Golpe de Estado Chileno)とは、1973911日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生したクーデターである。

目次

1 概要

2 1970年選挙

3 アジェンデ大統領の任期中

4 クーデターの勃発

5 クーデター後のチリ

6 チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品

6.1 小説

6.2 映画

6.3 音楽

6.4 その他

7 脚註

8 参考文献

9 外部リンク

◆概要

サルバドール・アジェンデ

東西冷戦の最中の1970年、サルバドール・アジェンデ博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。

しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部、さらにドミノ理論による南アメリカの左傾化を警戒するアメリカ合衆国は反発し、アメリカ政府に支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。そして、遂には1973年にアウグスト・ピノチェト将軍らの軍部が軍事クーデターを起こした。

首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデは最後のラジオ演説を行った後、銃撃の末に自殺した。クーデター後にピノチェトは「アジェンデは自殺した」と公式に発言したが、実際にはモネダ宮殿ごと爆破されたため、当時は誰も遺体を確認できなかった。

モネダ宮殿に籠城したもとでのアジェンデ最後の演説では、徹底抗戦の姿勢が示されていた。このため一時期反乱軍によって殺害されたのではないかとの意見もあった。2011523日、当局はアジェンデの遺体を墓から掘り返し、再度検視を行うと発表[1]、これにより死亡の状況が明らかになると期待された[2]。同年719日検視が終了し、自殺であるとの結果が発表された[3][4][5][6]

このクーデター以降、軍事政府評議会による軍事政権の独裁政治が始まり、労働組合員や学生、芸術家など左翼と見られた人物の多くが監禁、拷問、殺害された。軍事政権は自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛したが、冷戦の終結によりアメリカにとっても利用価値がなくなった軍事政権は1989年の国民投票により崩壊した。

なお、一般に「911」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。

1970年選挙

候補者 得票数 %

アジェンデ 1,070,334 36.30% 

アレッサンドリ 1,031,051 34.98%

トミッチ 821,000 27.84%

総計 2,922,385 

1970年に行われた大統領選挙では、人民連合は社会主義者として知られるアジェンデ、国民党は元大統領のホルヘ・アレサンドリ(英語版、スペイン語版)、キリスト教民主党はラドミロ・トミッチ(英語版、スペイン語版)をそれぞれ擁立した。アジェンデが得票で首位になるが、過半数には至らなかったため、当時のチリ憲法の規定に従い議会の評決による決選投票が行われる。

冷戦におけるラテンアメリカにおける社会主義勢力の影響力拡大を懸念したアメリカ政府はこの動きに危機感を抱き、政府の意向を受けたCIAは元々反アジェンデ派の多い軍部にクーデターを依頼した。

しかし、陸軍総司令官のレネ・シュナイダー将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、アメリカの依頼を拒否した。決選投票直前の1022日に、シュナイダー将軍が襲撃されて重傷を負い、26日に死亡した。陸軍のロベルト・ビオー将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票でキリスト教民主同盟は人民連合を支持、アジェンデ大統領が誕生した。

政権交代後しばらくは経済も好調であった。そのため、19714月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に支持を伸ばした。しかし、アメリカの支援を受けた反共主義を掲げる保守・右派系組織が次々に誕生し、CIAがこうした勢力に対する公然非公然の支援を行い政権打倒の動きを強めるなど次第に政情が不安定化する。

また、政権交代後にアジェンデが進めた性急な国有化政策や社会保障の拡大などの社会主義的な経済改革は、自由経済であるもののその規模が大きいわけではない当時のチリ経済の現状にそぐわないものであり、結果的にインフレと物不足を引き起こした。さらにアメリカのリチャード・ニクソン政権が経済制裁を行い、その中でも、当時のチリ経済が銅の輸出に大きく依存していたため、アメリカが保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させたことがチリ経済に大きな打撃を与えたと言われる。これらの結果、政権末期にはチリ経済は極度の混乱状態に陥った。

しかし、それにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持はさほど低下していなかった。19733月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票で議席を増加させた。しかし、大統領選の決選投票ではアジェンデ支持に回ったキリスト教民主党が、アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官の意向を受けたCIAの働きかけで反アジェンデに転回したため、アジェンデ政権は窮地に追い込まれていく。

これらの工作によるアジェンデの排除が不可能と考えた反アジェンデ勢力は、武力による排除を目指すようになった。19736月には軍と反共勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した。8月、シュナイダー将軍の後任で、やはり「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であったカルロス・プラッツ(英語版、スペイン語版)陸軍総司令官(その後国防相も兼任していた)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任したことで、軍部のクーデターの動きへの抑制が効きにくい状態となる。プラッツの後任の陸軍総司令官がアウグスト・ピノチェトであった。

◆クーデターの勃発

アウグスト・ピノチェト

1973911日、ピノチェト将軍はCIAの全面的な支援の下、軍事クーデターを起こした。元々反アジェンデ派が優勢な軍部はほとんどがピノチェトに同調したために政府側は有効な対応をとることができず、それゆえクーデターに対する抵抗は労働者・学生らによる自発的で悲惨なものにならざるを得なかった。

アジェンデ大統領の周囲には大統領警備隊などごくわずかの味方しかいなかったが、それでも彼は辞任やモネダ宮殿からの退去を拒否し、ホーカー ハンター戦闘機と機甲部隊の激しい砲爆撃のなかで炎上するモネダ宮殿内で、自ら自動小銃を握って反乱軍と交戦中に命を落とした。アジェンデが自殺したことは2011年判明したが、その死因については不明である(自動小銃による自殺説が挙げられている)。

クーデター後ただちに、陸軍のアウグスト・ピノチェト、海軍のホセ・トリビオ・メリーノ(José Toribio Merino)、空軍のグスタボ・リー(Gustavo Leigh)、国家憲兵隊のセサル・メンドサ=ドゥラン(César Mendoza Durán)を構成員とする軍政評議会が発足した。

政権を握った軍部は「左翼狩り」を行い、労働組合員を始めとして多くの活動家が虐殺され、その中には人気のあったフォルクローレの歌い手ビクトル・ハラもいた。ハラが殺されたサッカースタジアムには、他にも多くの左翼が拘留され、そこで射殺されなかったものは投獄、あるいは非公然に強制収容所に送られた。

前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダ(チリ共産党員であった)はガンで病床にあったが、924日に病状が悪化して病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受けて危篤状態に陥り、そのまま病院到着直後に亡くなった。

日本では当時の政権与党である自民党の他、民社党などが反共産主義を理由にクーデターを支持した。民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、19731218日、ピノチェトは大内啓伍と面会した。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と呼んだ。ピノチェトは、クーデタ後すぐに共産党独裁国家キューバとの国交を断絶。社会主義・共産主義陣営も対抗して、次々とチリとの断交に踏み切った。社会主義国を名目とする一党独裁国家の中では、ルーマニアと中華人民共和国だけがピノチェト政権との外交関係を維持した。

◆クーデター後のチリ

クーデター後の焚書

クーデターにより多くの左派市民が外国に亡命したが、その中には著名なフォルクローレ・グループや歌手も多数含まれていた。先の陸軍総司令官カルロス・プラッツはアルゼンチンに亡命していたが、クーデターの翌年749月にピノチェトの創設した秘密警察「DINA(英語版)」の仕掛けた車爆弾によって妻とともに暗殺された。またアジェンデ政権末期には軍部と連携してアジェンデ打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後には非合法化され、7510月には、キリスト教民主党の前大統領エドゥアルド・フレイ・モンタルバの下で副大統領を務めていたベルナルド・レイトン(英語版、スペイン語版)が、妻と共に亡命先のイタリアで襲撃され重傷を負った。

19769月には、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあったオルランド・レテリエル(英語版、スペイン語版)が滞在先のアメリカのワシントンD.C.DINAによる車爆弾で暗殺された。この事件は、よりによってアメリカの首都でのテロ活動であったため、ジミー・カーター大統領が態度を硬化させ、一時ピノチェト政権との関係が悪化した。その後関係は一時は回復したが、元の状態にまでは戻らず、アメリカ国内にはピノチェト政権に対する不信感が残った。そして、冷戦の終結により、利用価値が無くなったとされてアメリカに見放される形で、ピノチェトは1990年に大統領を辞任するが、レテリエル暗殺はその伏線にもなっている。

これら一連の非公然のテロ活動は、チリのDINA単独によるものではなく、ブラジルやアルゼンチン、ボリビア、バラグアイその他ラテンアメリカ各国の軍事政権と非公然に連携し、互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害していったコンドル作戦の一環だったことが今日では知られている。

国内ではピノチェトの強権政治が続き、依然として反政府派市民に対する弾圧、非公然の処刑(暗殺)や強制収容所への拉致、国外追放などが頻発した。同時にシカゴ学派の新自由主義経済に基づく経済運営が行われ、外見的には経済は発展したが、同時に貧富の格差の拡大と、対外累積債務の拡大を招いた。ピノチェト政権は政権中後期に混乱状態に陥ったチリ経済の実情を公表しなかった。

ピノチェトの独裁政権は1989年に民政移管し、コンセルタシオン・デモクラシアからキリスト教民主党出身のパトリシオ・エイルウィンが19年ぶりの選挙で大統領に当選・就任するまで続いた。そして、ピノチェトは大統領辞任後も終身の上院議員・陸軍総司令官として影響力を保持していたが、独裁政治による弾圧や虐殺行為、不正蓄財などの罪で告発され、総ての特権を剥奪された。なお20059月にチリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとして、左派の活動家に対する誘拐・殺人の罪状を棄却した。また、200510月にはピノチェトと家族の総ての資産が差し押さえられたが、結局ピノチェト自身の罪が裁かれることなく2006年に死去した。

◆チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品

小説

ラテンアメリカ

イサベル・アジェンデ/木村榮一訳『精霊たちの家』国書刊行会 1989 下記の映画『愛と精霊の家』の原作

ガブリエル・ガルシア=マルケス/後藤政子訳『戒厳令下チリ潜入記~ある映画監督の冒険』岩波新書 1986

アントニオ・スカルメタ/鈴木玲子訳『イル・ポスティーノ』徳間文庫 1985年 ※同名映画の原作。映画版はイタリアに舞台を移し、時代もパブロ・ネルーダの亡命時代に設定している。

アメリカ合衆国

トーマス・ハウザー/古藤晃訳『ミッシング』ダイナミック・セラーズ 1982 下記映画の原作

日本

五木寛之『戒厳令の夜(上・下)』新潮文庫(初版は新潮社、1976)

深田祐介『革命商人(上・下)』新潮文庫(初版新潮社、1979年。)

大石直紀『サンチャゴに降る雨』光文社 2000年。

映画

「サンチャゴに雨が降る」(1975年、フランス・ブルガリア合作、エルビオ・ソト監督、出演:ジャン=ルイ・トランティニャン他、音楽:アストル・ピアソラ)(ビデオソフト邦題「特攻要塞都市」)

「ミッシング」(1982年、アメリカ作品、C.コスタ・ガヴラス監督、出演:ジャック・レモン、シシー・スペイセク他、音楽:ヴァンゲリス)

「戒厳令下チリ潜入記」(原題:Acta General de Chile)(1986年、スペイン作品、ミゲル・リティン監督)(ドキュメンタリー映画)

「愛と精霊の家」(1993年、ドイツ・デンマーク・ポルトガル合作、ビレ・アウグスト監督、原作:イサベル・アジェンデ、出演:ジェレミー・アイアンズ、メリル・ストリープ、グレン・クローズ、アントニオ・バンデラス他)

「愛の奴隷」(1994年、アメリカ・スペイン・アルゼンチン合作、ベティ・カプラン監督、原作:イサベル・アジェンデ、出演:ジェニファー・コネリー、アントニオ・バンデラス他)

「死と処女」(1995年、アメリカ作品、ロマン・ポランスキー監督、出演:シガニー・ウィーバー、ベン・キングスレー、スチュアート・ウィルソン)

11’09”01/セプテンバー11」第6話(2002年、イギリス、ケン・ローチ監督、出演:ウラジミール・ヴェガ)

「マチュカ~僕らと革命~」(2004年、チリ=スペイン=イギリス=フランス、アンドレス・ウッド監督、出演:マティアス・ケール、アリエル・マテルーナ、マヌエラ・マルテリィ、アリーン・クッペンハイム他)

「ぜんぶ、フィデルのせい」(2006年、フランス、ジュリー・ガブラス監督、出演:ニナ・ケルヴェル、ジュリー・ドパルデュー、ステファノ・アコルシ、バンジャマン・フイエ他) – 1970年代フランスのブルジョワ知識人家庭が、アジェンデ政権の発足やフランコ政権のファシスト的状態に影響を受け、奮闘する様をブルジョワ生活に未練を抱く娘の視点から、アジェンデ政権崩壊までの時期を通して描く。

音楽

キラパジュン El pueblo unido jamas sera vencido(邦題「不屈の民」)他多数

インティ・イリマニ Canto a los caidos(倒れたものに捧げる歌)ほか多数

シルビオ・ロドリゲス Santiago de Chile(「Días y flores(スペイン語版)」収録)ほか

スティング「孤独なダンス」They Dance Alone1987年のLP『ナッシング・ライク・ザ・サン』に収録)

フレデリック・ジェフスキー 「不屈の民」変奏曲

など

その他

MASTERキートン』24話「14階段」にてピノチェト政権下のチリを扱っている。

『プリンプリン物語』劇中に登場する独裁国家「アクタ共和国」の国名は軍事政権下のチリと「塵芥」をかけたものとされる[7]

『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』冒頭で民主選挙で選ばれた大統領が軍部のクーデターに遭遇し、大統領府に籠城して最後の抵抗を試みようとするくだりが描かれており、チリ・クーデターを意識した展開となっている。

◆脚註

^ Chile’s buried secrets. LAT. http://www.latimes.com (2011523). 2011721日閲覧。

^ Chilean leader’s body exhumed. LAT. http://www.latimes.com (2011524). 2011721日閲覧。

^ Allendes Death Was a Suicide, an Autopsy Concludes. NYT. http://www.nytimes.com (2011719). 2011721日閲覧。

^ Informe del Servicio Médico Legal confirma la tesis del suicidio de ex Presidente Allende. http://www.latercera.com (2011719). 2011721日閲覧。

^ チリ・故アジェンデ大統領は「自殺」 クーデターで死亡. asahi.com (朝日新聞社). (2011720). オリジナルの2011722日時点によるアーカイブ。 2011721日閲覧。

^ アジェンデ元大統領は自殺 遺体掘り起こし確認 頭撃ち抜いて チリ. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011720). オリジナルの2011828日時点によるアーカイブ。 2011721日閲覧。

^ http://www.geocities.jp/hirajirou2002/prinprin/charactor/ruchi.htm

◆参考文献

中川文雄、松下洋、遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II アンデス・ラプラタ地域』山川出版社、1985年。

増田義郎編『新版各国史26 ラテンアメリカ史II 南アメリカ』山川出版社、2000年。

ロバート・モス/上智大学イベロ・アメリカ研究所訳『アジェンデの実験』時事通信社、1974年。

朝日新聞社編『沈黙作戦 チリ・クーデターの内幕』朝日新聞社、1975年。

ジョアン・E・ガルセス/後藤政子訳『アジェンデと人民連合 チリの経験の再検討』時事通信社、1979年。

アウグスト・ピノチェト/G.ポンセ訳『チリの決断』サンケイ出版、1982年。

J.L.アンダーソン、S.アンダーソン/山川暁夫監修、近藤和子訳『インサイド・ザ・リーグ 世界を覆うテロ・ネットワーク』社会思想社、1987年。

伊藤千尋『燃える中南米』岩波新書、1988年。

高橋正明(文)、小松健一(写真)『チリ 嵐にざわめく民衆の木よ』大月書店、1990年。

外部リンク

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🔵ビクトル・ハラとパブロ・ネルーダ

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◆◆もう一つの9・11とその30周年

2003年9月 木村奈保子

 今年の9月11日もまた、新聞やTVでは、米の同時多発テロの2周年が話題とされた。さすがに今年はイラク占領体制が財政的にも軍事的にも破綻し戦争が泥沼化している真っ最中なので、ブッシュ政権のお歴々が昨年のように勇ましく自信を持って「テロとの戦い」や戦争賛美を内外に披瀝することは出来なかった。

 しかし私は、この「9・11」ではなく、「もう一つの9・11」の方に皆さんの注意を喚起したい。とりわけ今年は、その30周年でもあるので、中南米や北米を中心に英語やスペイン語のサイトを見ると、あちこちで例年にない大き取り組みが行われていた。ところが日本のメディアはどうか。「もう一つの9・11」報道はほとんど皆無であった。そのことを非常に残念に思うのは、単にチリ人民、途上国人民の悲惨と過酷にメディアが目を向けなくなったというだけの問題ではない。

 そこにある種の恐ろしさを感じざるを得ないからである。日本でも、軍事クーデタが、あり得ない遠い将来の夢物語、あるいはどこかの途上国でしか起こり得ない事件とは言えなくなったのではないのか。有事法制を強行し改憲を公言する小泉政権が、更にその軍国主義と反動政治に磨きを掛けた再改造内閣を発足させ、メディアが「選挙の顔」「若返り」と持ち上げる状況は異常としか言いようがない。まるで軍隊が政治の表舞台に出るまでの下手な前座を見ているかのような錯覚を覚える。

 「もう一つの9・11」--1973年9月11日、チリで反革命軍事クーデターがおこり、史上初めて選挙によって成立した社会主義政権は崩壊した。人民連合のアジェンデ大統領は、大統領府に激しい爆撃を受けながらも、そこに最後までとどまり、チリの婦人、青年、人民、労働者を讃える言葉を遺して死んでいった。

 アジェンデ大統領がその最後の演説の中で危惧したとおり、ファシズムは、人民連合を支持した人々を徹底的に弾圧し言葉では言い表せないありとあらゆる迫害を行った。ピノチェット軍事政権のもとで、数万の人が虐殺・拘束され、20数万人が亡命したが、行方も生死も分からない人々を含めてその実数は未だ不明である。

◆軍事クーデタの真っ只中で虐殺されたビクトル・ハラ

 そうした多くの犠牲者の一人に、ビクトル・ハラがいる。彼は、歌い手であった。チリの町や村を巡り歩き、人々の間で歌い継がれているフォルクローレを、古びた珍しい研究対象としてではなく、現代に通じる生きた表現として歌い、創作していく「新しい歌(ヌエバ・カンシオン)」運動の中心人物であった。彼はクーデターの当日、工科大学にいた。戦車は大学に突入し、そこにいた全員が拘束され、チリスタジアムに連れて行かれた。それは、彼がしばしば演奏会を行った場所であった。彼は四日間にわたり拷問を受け、ギターを弾けないよう、手が砕かれた。それでも、彼は人民連合を讃える歌『ベンセレーモス(我々は勝利する)』を歌った。彼の背後から撃ち込まれた銃弾がその最後の息を止めるまで。

 彼の歌は、チリの人々の心をとらえただけではない。日本でも彼の歌に強い関心をもっている人々がいる。

「モノノフォン」http://homepage1.nifty.com/hebon/fhp/fhp_16.htm

(ビクトル・ハラの音楽と生涯について詳しく書かれている。)

 ビクトル・ハラについての詳しい紹介は上記のホームページでなされているので割愛する。しかし、私が最も好きな曲『仕事場への道すがら』だけは、ここで紹介しておきたい。

朝日てらす 町かどの

仕事場への 道すがら

見知らぬ人の 急ぐ足どり

行き交うごとに見れば

いつも 思いおこすお前のこと

生きることのしあわせの 道づれよ

今日と明日の歴史を 開こうと

二人始めた仕事の 終わり知らず

夕日てらす 屋根屋根に

仕事終えて 帰る道

時の流れや 明日の世界を

友と語り合えば

いつも 思いおこすお前のこと

生きることのしあわせの 道づれよ

今日と明日の歴史を 開こうと

二人始めた仕事の 終わり知らず

家につけば お前はそこに

二人の夢は 

今日と明日の歴史を 開こうと

  (日本語歌詞:フロイント・コール)

 この曲は、人民連合のために精力的に活動していた若い建築労働者が暗殺された時、彼の心情に思いを馳せて作り上げられた。1973年、アメリカの経済制裁に苦しめられ、有産者のストが続き、CIAが転覆活動を企てており、軍ではクーデター未遂事件があるというとてつもなく過酷で困難な時期に作られたとは思えないほど、おだやかで信頼にみちた愛を歌っている。

◆ハラ虐殺関与の軍人米で裁判

(赤旗16.06.04

◆ハラ虐殺関与の軍人に28.5億円の賠償命じる

(赤旗16.06.29

◆パブロ・ネルーダの葬儀と最初の反軍政行動

 このクーデターの犠牲者として、パブロ・ネルーダの名前もぜひ挙げておきたい。彼はクーデター以前から病に伏していたのだが、この事件の衝撃は彼の病状を悪化させた。彼を病院に運ぶ救急車は戒厳令の下で厳しい検問を受けた。クーデターによる精神的・肉体的苦痛が彼の死期を早めた。1973年9月24日、ネルーダは69歳の生涯を終えた。彼の葬儀に参列した人々からは自然発生的に「インターナショナル」の歌声が湧き起こり、それはピノチェット軍政への最初の大衆的な抗議行動となった。

 ネルーダは少年期から詩を発表していたが、彼の詩と人生にとって大きな契機となったのは、スペインで、フランコ将軍が反乱を起こし、マドリードが爆撃され、親友であった詩人ガルシア・ロルカが暗殺された事件であった。彼は、この時の心情と情景を『そのわけを話そう』で歌う。

きみたちは尋ねる--なぜ わたしの詩が

夢や木の葉をうたわないのか

故国の大きな火山をうたわないのか と

来て見てくれ 街街に流れている血を

来て見てくれ 

街街に流れている血を

来て見てくれ 

街街に流れている

この血を!

 ネルーダの生涯は、この時からファシズムとの闘いの生涯となった。彼の詩はファシズムを撃つ弾丸となった。第二次世界大戦時には、ナチスドイツと戦うソ連を擁護し、1945年にチリ共産党に入党した。ベトナム戦争時にはアメリカを激しく攻撃した。1970年の大統領選挙では、共産党から大統領候補として指名されたが、社会党の候補者アジェンデを人民連合の統一候補として擁立するために辞退した。アジェンデは当選して大統領となり、ネルーダは詩人としてノーベル文学賞を受賞した。人民連合政権は、人類史を拓く新たな試みとなるはずだったが

 彼の名前は、『イル・ポスティーノ』という映画で記憶されている人も多いかもしれない。愛を歌い上げたコミュニスト詩人として名高いネルーダを敬愛する若い郵便配達夫マリオとの交流が叙情とユーモアをもって描かれている。

 マリオに事務的にチップを渡す、そっけないネルーダ。詩人になりたいと願うマリオに、詩の技法を余裕たっぷり説明していたはずが、逆に素朴かつ難解な問いを突きつけられてとまどうネルーダ。ビートルズの歌「プリーズ・ミスター・ポストマン」に合わせて踊るネルーダ。何となく近寄りがたい偉人というイメージがみごとに壊されて、そこから新しい人間像が浮かび上がってくる。そして、彼らへの親近感を深めれば深めるほど、彼らを襲う過酷な運命に涙を禁じ得ない。

 個人的な話になるが、この1973年の9.11は、私の世界を見る目の原点となった事件であった。そのころから現在に至るまでの私の観点・感覚は、この事件の報道に接したときに形作られたものから基本的に変わっていない。

 その数年後、私は知人からさまざまな歌を紹介されることになった。その中でも特に私の心をとらえたのが、中南米のフォルクローレ、とりわけ「新しい歌」を歌う人々の歌であった。これはいったい何の偶然なのであろうか。それとも必然なのであろうか。

 最後にネルーダの詩『きこりよ めざめよ』から、平和を歌いあげた箇所を引用して、この「もう一つの9.11」によせた紹介を終わりたい。

日ごとに訪れる 夕ぐれに 平和あれ

橋のうえに 平和あれ 酒に 平和あれ

わたしの使う言葉に 平和あれ

そしてわたしの胸にのぼってきて

土の匂いと愛にみちた 古いむかしの歌を 

くりひろげてくれる 言葉に 平和あれ

パンの匂いで目がさめる

朝がたの都会に 平和あれ

……

スペイン・ゲリラの

ひき裂かれた心臓に 平和あれ

そこでは ハートの刺繍のある座布団が

いちばん なつかしい

ワイオミングの小さな博物館に 平和あれ

パン屋と かれの愛に 平和あれ

小麦粉のうえに 平和あれ

やがて芽を出してくる麦に 平和あれ

茂みを探す 恋びとのうえに 平和あれ

生きとし生けるるものに 平和あれ

すべての大地と 水のうえに 平和あれ

参考文献※

『世界近現代史 授業が楽しくなる「歌と演説」』鳥塚義和著 日本書籍 2500円

『過ぎ去らない人々』徐京植(ソ・キョンシク)著 影書房 2200円

『イル・ポスティーノ』A・スカルメタ著 鈴木玲子訳 徳間文庫 485円

『愛と革命の詩人ネルーダ』大島博光著 大月書店(国民文庫) 583円

『ビクトル・ハラ 終わりなき歌』ジョーン・ハラ著 矢沢寛訳 新日本出版社(品切れ)

『パブロネルーダの生涯』マルガリータ・アギレ著 松田忠徳訳 新日本出版社(品切れ)

『ネルーダ最後の詩集 チリ革命への賛歌』大島博光訳 新日本文庫(品切れ)

Residence sur la terrePablo Neruda著 Guy Suares訳 Gallimard

◆◆映画=「ネルーダ 大いなる愛の逃亡者」

赤旗17.11.07

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🔵世界の共産党員物語=パブロ・ネルーダ

「月刊学習」87

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森の子として

 チリの生んだノーベル賞詩人パブロ・ネルーダはまた、きわめて波瀾に富んだ生涯を送った偉大な共産党員詩人でした。とりわけ彼はその生涯で二つのファシズムに出会います。一つはスペインのフランコのファシズムであり、もう一つは祖国チリにおけるピノチェットのファシズムです。それらは彼の運命にとって決定的なものとなるのです。          

 パプロ・ネルトダー本名ネフタリ・リカルド・レイエスは一九〇四年四月、チリ中部のパラルに生まれました。まもなく一家はチリ南部の森のなかの小さな町テムコに移り、彼はそこで森の子として少年時代を過します。深い森の大自然は、少年の彼をすでに詩人として育てることになります。

 父親は鉄道員で、敷設列車の列車長でした。

 父親が部下を連れて家に帰ってきた時の光景を彼は思い出して書いています。

 とつぜん 扉がばたばたと揺れて

 鉄道の強者(つわもの)どもを引きつれて

 おやじが帰ってきた   

 しゃがれ声が 食堂にあふれた

 酒瓶は みるまに空っぽになり

 すすり泣きや 暗い愚痴や

 一文なしの男たちの声など

 鋼(はがね)のように鋭い 貧乏の爪あとが

 おれのところまで聞こえてくるのだ

 まるで心配や苦労ばかりが住んでいる

 離れ小島からのように

        (『大いなる歌』)

 少年のネルーダが眼にし耳にしたのは、労働者たちの現実の生活でした。砂利を投げるスコップの音であり、貧乏を嘆く愚痴の声でした。いわば彼は生まれながらにして労働者たちの世界から出てきたのです。

 一九ニー年、十七歳のネルーダはサンチアゴの大学に入学してフランス語を学ぶかたわら、フランス象徴派やモダニズムの詩人たちに熱中します。

外交官として各国へ

 第一次大戦後のラテン・アメリカでは、以前のヨーロッパ資本にかわって、アメリカ帝国主義・独占資本の影がますます重くのしかかっていました。アメリカ独占資本と結びついた、ひとにぎりの特権グループ・大地主たちの支配と収奪のために、人民の生活は苦しく悲惨なものとなっていたのです。そのような現実は、ラテン・アメリカ一円に独立と解放をめざした闘争をよび起こさずにはいなかったのです。

 学生のネルーダも、フランスの社会主義者たちの著作を翻訳したり、組合運動に参加します。フランス共産党で始まったパルビュスの「クラルテ運動」──社会主義的ヒュマニズムをかかげた「クラルテ運動」は、チリの学生たちのなかにも影響と共鳴を呼び起こして、そのチリ版である「クラリーダ」(光明)が発刊され、ネルーダもそれに協力して詩を発表します。しかし思想的には、彼はまだアナーキズムに近いところで足踏みしています。

 一九二七年、かねてから外国へ行きたいと思っていたネルーダは、外交官になってビルマのラングーンをふりだしに、カルカッタ、マドラス、コロンボをまわります。その数年のあいだに、詩集『地上の住みか』(一九三三年)を書いて、詩人としての名声を高めます。

 一九三四年、ネルーダは総領事としてマドリードに赴任します。そこで、ロルカ、アルベルティ、エルナンデスなど、若いスペインの詩人たちとの交友が始まります。

ファシストへの怒り歌

 スペインでは、すでに三年前(一九三一年九四月)の選挙の結果、平和裏に王制が廃止されて、スペイン共和国が誕生していました。スペインの若い詩人たちは、共和国を支援して、希望に燃えて新しい「ルネッサンス」を迎えていたのです。

 しかしファシストたちは若い共和国の隙(すき)をうかがっていたのです。そして一九三六年七月、ヒットラーとムッソリーニに支援されたファシスト・フランコの軍隊はスペイン人民に襲いかかり、ここにスペイン市民戦争が始まります。

 ファシストどもの反乱による悲惨な流血の光景をまのあたりに見て、ネルーダは最初のヒューマニズムの叫びをあげ、ファシストへの怒りをうたうのです。「そのわけを話そう」という有名な詩がそれです。

 ある朝 まっ赤な火が

 大地から吹き出して

 すべてのものを なめつくした

 そのときから 戦火が燃えあがり

 そのときから 硝煙がたちこめ

 そのときから 血が流れた

 悪党どもは空の高みからやってきて

 子供たちを殺した

 街じゅうに 子供たちの血が

 子供の血として素朴に流れた

 来て見てくれ 街街に流れている血を

        (『心のなかのスペイン』)

 こうして書かれたファシズム反対・スペイン人民支援の詩は『心のなかのスペイン』という詩集となってスペイン人民戦線の兵士たちに愛読されたのです。

 ネルーダはこの時代を回想して書いています。

「わたしはマドリードで生涯のもっとも重大な時期を過した。われわれはみなファシズムにたいする偉大なレジスタンス(抵抗闘争)に魅きつけられていた。それがスペイン戦争だった。この体験はわたしにとって何か体験以上のものであった。スペイン戦争の前、わたしは多くの共和派の詩人たちを知っていた。ガルシーア・口ルカは、このスペイン史上もっとも輝かしい政治的世代の象徴であった。これらの人間を物理的に破壊するということは、わたしにとって怖(おそ)るべきドラマであった。こうしてわたしの古い生活はマドリードで終った」(ロルカは、一九三六年八月ファシストによって銃殺された)。

◆新しい旗のもとに立つ

 スペイン戦争が終って、チリに帰ったネルーダは、もう以前の彼ではありませんでした。スペイン戦争は、燃えさかる戦火と流された血をとおして、生死を賭けたファシズムとの闘争をとおして、真実はどこにあるか、人類の未来と希望はだれの肩にかかっているのかを、ネルーダに指し示したのです。血にまみれた英雄的なスペイン人民がネルーダに教えたものは、生きてたたかう義務でした。この光に照らして、彼は二十年来遠ざかっていた自分の泉、自分の兄弟たち、自分の祖国をみいだすのです。「新しい旗のもとに立つ」という詩に彼は書きます。

 ある日 人類の夢で

 胸おどらせながら

 たくましい使者がやってきた

 おれの飢えた夜のなかに──

 そっと忍び足で歩くおれの狼の足どりを

 人間の足どりにあわせるようにと

 こうしてネルータは、たたかう人民の側に立って、「人間の足どり」にあわせて、たたかいに参加してゆきます。共産主義者として。

 一九三九年、第二次世界大戦が勃発すると彼はチリに帰り、やがてメキシコ駐在領事として赴任します。

 一九四二年のある朝、メキシコ市の壁という壁に、ひとつの詩が貼りめぐらされたのです。それはスターリングラードにおいて、ヒットラーのナチス・ドイツ軍の包囲作戦とたたかうソヴエト赤軍の英雄的な抵抗にささげられた熱烈な賛歌でした。作者はネルーダでした。

 かつてわたしは流れる時や水を歌い

 死の蒼ざめた姿や悲しみをうたった

 わたしはまた大空を歌い林檎を歌った

 だがいまわたしは歌うスターリングラードを

 わたしが歌うのはおまえの城壁を守り

 倒れていった偉大な死者たちのこと

 死にゆくおまえを見てわたしの声は鳴りひびいた

 鐘のように風のように スターリングラードよ

 砲弾にぶち抜かれた 大地の胸を

 死者たちはかがやく勲章で飾った

 死んだものも 生きているものも

 立ち上り奮(ふる)いたったスターリングラードよ

 ・・・

 ネルーダはスペイン市民戦争をとおして、ソヴエトだけが世界を守るだろうということを学びとっていたのです。

大いなる歌

◆党の隊列へ

 一九四三年の秋、ネルーダはメキシコからチリへ帰ると、革命運動に参加します。チリじゅうをまわって、坑夫や農民や船員たちに語りかけ、詩を朗読したのです。こうして一九四五年三月、ネルーダは共産党公認候補として出馬し、上院議員に当選し、七月共産党に入党します。彼は、のちにこの時代のことをつぎのように書いています。

 「わたしは長いこと、いりくんだ言葉の迷路をさまよい、審美眼をやしない、探求をくりかえすきびしい勉強をくぐりぬけて、やっと人民の詩人になった。こういうわたしに与えられたいちばんすばらしい賞はつぎのようなものだ。──ひとりの男がロタの炭坑、あるいは硝石坑や銅坑の奥から上がってくる。もっと正確にいえば、地獄から抜けだしてくる。骨の折れる仕事で顔はゆがみ、眼はほこりで赤く血走っている。男はざらざらした手をわたしに差しだして言う。《おら、もうずっと前からあんたを知っていただよ、兄弟!》わたしの生涯のなかの、こういう素朴な瞬間こそ、わたしのすばらしい賞なのだ………これこそがわたしの月桂冠なのである。──一九四五年七月十五日、わたしはチリ共産党に入党した。」(『回想録』)

 この労働者の握手と挨拶ほどに、ネルーダをよろこばせたものはなかったのです。

 チリは銅、硝石、マンガンなどの重要資源のゆたかな国です。第一次大戦後、アメリカ帝国主義はこの豊かな資源にたいして支配権をふるうようになります。時の大統領ビデーラも民主主義擁護を公約しながら、やがてアメリカ帝国主義に屈服して祖国の利益と人民を売り渡してしまいます。

 一九四八年一月、ネルーダは上院でビデーラを痛烈に攻撃し告発します。それにたいしてビデーラは、逮捕令状と投獄をもって答えます。ネルーダは地下にもぐらざるをえなくなります。

 あの暗い日日 わたしは歩きつづけた

 身をやつし 姿を変えて

 わたしは警察に追われるお尋ね者

 わたしは町まちをよぎり

 森を抜け

 戸口から戸口へと

 ひとの手から手へと 渡り歩いた

 夜はつらいものだ だが人びとは

 兄弟の合図を送ってくれた……

 (『大いなる歌』──「お尋ね者」)

ネルーダとデリア・デル・カリル

◆南米諸国人民へのよびかけ

 このように「兄弟の合図」と隠れ家はネルーダの行くさきざきで彼を待っていたのです。この地下生活のなかで、彼は詩集『大いなる歌』を書きつづけます。それは、雪の野のあばら家で、アンデスのきこり小屋で、バルパライソの貧しい水夫の家で書かれたのです。

 こうして彪大な詩集『大いなる歌』は一九五〇年に刊行されます。この詩集にはアメリカ大陸の大自然の地理、動物、植物がうたわれ、南アメリカ諸国と諸国人民のいりくんだ民族の歴史、征服者、侵略者どもに反抗してたたかった戦士たちや革命家たちの英雄像がうたいこめられています。この詩集はまさに新大陸のエンサイクロペデイア(百科全書)であり、その宇宙創成史(コスモロロジー)です。そしていちばんすばらしい点は、いまなおアメリカ帝国主義にあやつられた軍事政権、ファシズム体制に抑圧され、搾取されている南アメリカ諸国人民にたいして、この詩集が独立と解放の道に立ち上がるように呼びかけ、はげましていることです。そこにこそネルーダの意図もあったのです。

 『大いなる歌』のなかの「マチュ・ピチュの頂き」は、そういうネルーダの呼びかけを集約的に示しています。マチュ・ピチュというのはペルーにあるインカ帝国の大遺跡のあるところです。この山の上の石の城塞は、スペイン侵略者によってペルーのクスコが征服された後、不屈なインカの一党がたてこもったところだと言われています。そこに眠っている人民に呼びかけるというかたちで、ネルーダは現在と未来の南アメリカ諸国の人民に呼びかけているのです。

 兄弟よ 立ち上って

 わたしといっしょによみがえろう!

 地の底から わたしをよく見てくれ

 静まり返った農夫よ 織工よ 羊飼いよ

 組んだ足場に挑んだ 煉瓦工よ

 アンデスの涙を運んだ者よ

 この新しい生活のコップに 注(つ)いでくれ

 大地に埋められた きみたちの古い苦しみを

 きみたちの血を 傷痕(きずあと)を

 いく世紀ものあいだ 傷口にめりこんだ鞭(むち)を

 きらめく血まみれの斧(おの)を──

 わたしにくれ 闘争を 銑を 火山を

 わたしの血の叫びに わたしの声に答えてくれ

 (新日本文庫『ネルーダ最後の詩集』)

◆わたしの党に

 「大いなる歌」が刊行されると大きな反響をよび、ネルーダにはレーニン国際平和賞が与えられます。とりわけそのなかの「きこりよ めざめよ」は評判となりました。「きこり」というのは貧農の子として生まれたエイブラハム・リンカーンを指すと同時に、アメリカ人民を指しているのです。この長詩は、平和への賛歌であると同時に、世界の憲兵とうぬぼれて世界の人民に暴虐な戦争をしかけているアメリカ帝国主義に手きびしい警告を投げつけています。

 だが北アメリカよ もしもおまえが

 ごろつきどもに銃をもたせて

 この国境をぶち壊そうとするなら

 シカゴの牛殺しどもを連れてきて

 おれたちの愛する音楽や 秩序を

 支配しょうとするなら

 おれたちは石のあいだ

 大気のなかから飛び出して

 おまえに噛みついてやる

 畑のウネから躍り出て

 種蒔く手で ぶちのめしてやる

 地獄の火でおまえを焼いてやる……

 アメリカ帝国主義の侵略をあばいた詩人は、エイブラハム・リンカーンの輝かしい民主主義的伝統にめざめて立ち上がるようにアメリカ人民によびかけるのです。

 エイプラハムよ やって来い

 やってきて イリノイの

 黄金(こがね)と緑の大地を よみがえらせろ

 新しい奴隷主義者にむかって

 奴隷をむちうつ鞭にむかって

 毒をふりまく印刷所にむかって

 白人の若者も 黒人の若者も

 歌いながら微笑みながら、進め

 憎しみをあふりたてるものに抗し

 かれらの血で肥る商人に抗して

 勝利をめざして 堂堂と進め

 きこりよ 眠りをさませ

     (『きこりよめざめよ』)

 『大いなる歌』にはまた「わたしの党に」という詩があります。彼はここで、共産党員になったおかげで、自分が古い人間から新しい人間にどのように変ったか、どのようにこの世界を見るすべを学んだか、どのように敵とたたかうすべを学んだかを語っています。

   わたしの党に

 見知らぬひとと 兄弟になった

 あなたのおかげで わたしは

 生れ変ったように祖国をとり戻した

 あなたは わたしに与えてくれた

 孤独なひとの 知らない自由を

 あなたは わたしをまっすぐにしてくれた

 まっすぐに伸びる 木のように

 あなたのおかげで わたしは学んだ

 兄弟たちの 堅い寝床で眠るすべを

 あなたはわたしを現実の上に据え

 しっかりと 岩のうえに立つように

 あなたのおかげで わたしは悪党どもの敵となり

 怒り狂う人たちをまもる壁となった

 あなたはわたしを うち滅ばされぬものにしてくれた

 なぜならあなたの中で、わたしはもはや自分自身で終ることはないのだから

 (角川書店『ネルーダ詩集』166ページ)

チリ・クーデターに抗して

◆ピカソとともに

 一九四九年、警察に追われるネルーダは馬に乗ってアンデスを越え、チリをぬけ出して長い亡命の旅に出ます。ヨーロッパからソビエト、中国を回って歩くことになります。

 一九五〇年十一月、第二回平和擁護世界大会がワルシャワでひらかれました。その会場に、官憲の眼をくぐって、こつ然とネルーダが姿を現わすと、わきあがる満場の拍手によって迎えられたのでした。この有名なエピソードは、ネルーダが世界じゅうの人びとから敬愛されていたことを物語っています。この大会で、彼はピカソとともに世界平和賞を受賞したのです。

 一九五二年、彼は三年半にわたる亡命生活から祖国に帰り、ふたたび政治闘争と文化活動、詩作を始めます。

◆人民連合の勝利とノーベル賞受賞

 さて一九七〇年九月、チリの大統領選挙において、全左翼勢力によって結成された人民連合は、社会党のアジェンデを立候補させてこれに勝利します。こうして選挙によって平和裡に人民連合政府が誕生したことは、世界じゅうから祝福され、注目されたのです。

 一九七一年三月、ネルーダは駐仏大使に任命されてパリに赴任します。十月にはノーベル文学賞が彼に与えられます。人民連合の勝利とこの受賞のよろこびを、彼は「その日から」という詩に書きます。

 その日から眠がさめると 世界は見た

 いきなり 人民の勝利を 高く掲げる

 まぎれもない 真実の チリの姿を

 よろこび祝う 世界の声に あわせて

 われらの海と 大地は 歌った

 あの頃だ 田舎者の 詩人がひとり

 パラルからまっすぐストックホルムへ出かけて行って

 星をひとつ もらったのは

 国をおさめてる 本職の王様の手から

 こうして チリの名は もてはやされた

 世界の町町から 鉱山から 畑から

 ……

 この詩のなかのパラルは、チリ中部の町の名で、ネルーダの生地です。また「星をひとつもらった」というのはノーベル賞を指しています。「王様の手から」というのは、ノーベル文学賞は、スウェーデン王立アカデミーが授与することになっているからです。

◆うじ虫はうごめく

 人民連合政府の成立とノーベル文学賞受賞のよろこびは、しかしつかのまのことでした。

 人民連合政府はさっそくアメリカ独占資本に支配されていた銅山を国有化します。幼稚園のすべての子どもたちに、毎日〇・五リットルの牛乳を無料で配給した政策は有名なものです。こういう人民連合政府を倒すために、アメリカ帝国主義とその手下どもは、謀略をめぐらし、シュナイダー将軍が彼らの申し出でを断ると、将軍を暗殺するというようなテロ活動をくりひろげ、転覆活動を開始します。ネルーダの「蛆虫(うじむし)はまたぞろうごめく」という詩はそういう状況をとらえています。

 情勢は たちまち きびしくなった

 蛆虫(うじむし)どもは またぞろ うごめき出し

 ごろつきどもや 反対党といっしょになって

 「チリには 共産主義の危険がある!」

 こんな いい加減な策略(デマ)をでっちあげ

 ……

 一九七二年になると、人民連合にたいする帝国主義と反動の圧力と謀略活動はますます強くなります。この年の十一月、ネルーダは病気のため駐仏大使を辞任して情勢の切迫した祖国チリに帰ると、ふたたびチリ人民の闘争に参加するのです。

 こうしてネルーダ最後の詩集『ニクソンサイドのすすめとチリ革命への讃歌』が書かれるのです。この詩集でネルーダは、帝国主義とその手下のファシストどもの暴虐暴圧を痛烈な風刺によってバクロし、槍玉にあげています。彼はまず「まえがき」に書きます。

 「かれ(ニクソン)はまた、チリ革命を孤立化させ、崩壊させるために経済封鎖にも干渉した。

 そのためにかれは、種々の手下や、Ⅰ・TT(多国籍企業=『国際電信電話株式会社』)のスパイ網のような、公然たるスパイどもを使い、また一方ではチリを裏切ったチリ人ファシストどものなかの、もっとも陰険なもの、腹黒いもの、挑発者などをも使った。

 このようにこの詩集の長い題名は、世界の現情勢と近い過去とを反映している……

 わが人民の敵に立ちむかうわたしの歌は攻撃的であり、アラウカニアの石つぶてのように痛烈なのだ

◆あくどいピラリン

 一九七三年七月、右翼ファシストの攻勢はいよいよ激烈となります。トラック運送業者たちは反革命ストライキをおこない、お屋敷街の上流夫人たちが街頭に出て、シチュー鍋を叩いて、「肉をよこせ、自由をよこせ」と猿芝居のデモを行う始末です。ネルーダはそれを「情熱的なストライキ」のなかで痛烈に風刺しています。

 手の込んだ 謀略の筋書を 練りあげて

 匕首(あいくち)を手にした Ⅰ・TTの後(うしろ)から

 ぞくぞくと現われるは 悪どいピラリンども

 寡頭制に 忠勤はげむ ごろつきども

 組合を売った 札つきの ダラ幹ども

 へんてこな エプロンかけた お医者ども

 大親分のニクソンといっしょに

 やつらは 資本家ストを ぶちまくった

 驢馬(ろば)どものスト でぶっちょどものスト

 成上りの プレー・ボーイどものスト

 それに 大商店の旦那どもも くわわって

 みんな隠した 玉ねぎと サーディンを

 油と煙草(たばこ)を シチュー鍋と小麦粉を

 あとには 光もパンもなんにもない

 匕首つきつけられた 人民と祖国が残った

 この詩のなかのピラリンこそは、トラック・ストの首謀者です。また、右翼の扇動で医者やバス経営者たちがストをおこない、商店までストをうったのです。この資本家ストは一九七三年九月十一日のピノチェト軍部ファシストらによるクーデターの前哨戟だったのです。その日、大統領府の「ラ・モネダ」は包囲爆撃され、アジェンデは最後まで戦って銃殺されます。

 血なまぐさいテロが、全チリ人民のうえに襲いかかりました。共産党、社会党、労働組合などは解散させられ、大学は軍隊によって封鎖されたのです。たくさんの活動家や市民が虐殺されて、河や海に投げこまれたのです。十一日以来、ネルーダの家はファシストの監視下におかれました。サンチアゴとイズラ・ネグラにあるネルーダの家を、ファシストの兵隊どもは数回にわたって土足で踏み荒らし、家宅捜索をし、貴重な蔵書類を持ち去ったのです。こうした圧迫のなかで一九七三年九月二十四日、ネルーダは死んだのです。公式の死因は癌でした。しかし一九七四年三月に来日したアジェンデ未亡人はこう語ったのです。

 「偉大な詩人パブロ・ネルーダは胸の痛みで死んだのです。彼は精神の面と肉体の面とで二重に殺されたのです……

 「胸の痛み」というのは、ネルーダがチリ人民と祖国の運命を心にかけていた心痛のことです。「わたしは黙ってはいない」のなかに彼はこう書いています。

 犬や何かはわたしにはどうでもいい

 わたしには ただ 人民だけが大事なのだ

 ただ 祖国だけが わたしを決定づけるのだ

 わが祖国と人民が わたしの任務をさだめ

 わが人民と祖国が わたしの義務をあきらかにする

 もしも奴らが 人民のうち建てたものをうち殺すなら

 そのとき死ぬのは わが祖国なのだ

 それが心配だ 心痛のたねなのだ

◆人民への愛と奉仕の一生

 最後までチリ人民と祖国への愛と奉仕に心をくだき、ファシストに痛撃をくらわしたネルーダは、まさにその心痛のなかで死んだのです。アジェンデ未亡人が「偉大な詩人パブロ・ネルーダ」と呼んだひびきのなかには、やはりこういう詩人への尊敬と敬愛の念がこめられていたのです。

 二日後のネルーダの葬儀は、カービン銑の監視下にもかかわらず盛大におこなわれ、参列者の間から「インターナショナル」の合唱がわきあがりました。それはファシズム反対の最初の大デモンストレーションとなったのです。

 (本文中の詩は新日本文庫『ネルーダ最後の詩集』からの引用です。)

チリ人民の希望と悲劇の歌い手

 昨年(一九七三年)一〇月一六日、「チリ軍事革命以後」という特派員報告が、NHKTVで放映された。民主的な選挙によって選ばれ、合法的に成立したチリ人民連合政権にたいして、アメリカ帝国主義に支援された軍部反動勢力が、九月十一日、クーデターというファッショ的暴挙を行ってから、二日ばかりあとの、サンティアゴ市街のルポルタージュであった。

 アジェンデが人民の委託を死守して、最後まで英雄的にたたかった大統領官邸モネダ宮の壁や鉄柵のうえには、なまなましい弾痕が、文字どおり蜂の巣のような黒い穴となって残っていた。

 路上の装甲車にバズーカ砲がすえつけられ、そのバズーカ砲の威嚇のもとに、家宅捜索が行なわれ、押収された本が、三階、四階の高みから投げ捨てられ、ひらひらと舞った。路上では、これも山のように積まれた本が、──市民たちの心の糧であり、かれらをみちびく光明でもあった書籍類が、ロボットのような兵隊たちによって焼かれていた。本の表紙のレーニンの肖像もめらめらと燃えていた。

 芝生の緑もあざやかな国立サッカー場の金網のなかのスタンドには、試合に熱狂する観客ではなく、まるで家畜の群のように、たくさんの人たちが、カービン銃に監視されて、とじこめられていた。拷問でうけたなまなましい背中の傷あとを、肌ぬぎになって、外国の記者たちに見せて、訴えている若者もいた。そしてスタンドの下の留置室にも多くの人たちがとじこめられ、ひそかに処刑が行なわれているということを、ナレーターはつげていた。

 それから、このカメラ・ルポルタージュは思いもかけぬ情景を写し出した。──九月二五日のパブロ・ネルーダの葬式の場面であった。赤と白と青のチリ国旗に包まれたネルーダの柩が運び出されて、霊柩車に移された。霊柩車の屋根は白いカーネーションの花束でおおわれていた。そのあとに、マチルデ夫人らしい人の、悲しみをこえた、きびしい、沈痛な表情をした、彫りの深い顔が見えた。葬儀は、林立するカービン銃の包囲のなかで行なわれたにもかかわらず、ネルーダを敬愛するたくさんの労働者市民の長い列によって飾られたのである。

 その後、べネゼエラのカラカスに亡命した、ネルーダ未亡人マチルデ・ウルーティア夫人は、夫の最後の数日について、べネゼエラの「エル・ナシオナル」紙のインタビュアーにこう語っている。

 「クーデターがおきて、アジェンデ大統領が倒される日まで、かれは調子がよく、元気でした。……病床にこそついていましたが、かれの病気は少しばかり回復していたのです。しかし、クーデターの日は、かれにはとてもたえがたいものでした。

 わたしたちがサルバドル(アジェンデ大統領)の死を知ったとき、医師はただちにわたしを呼んで申しました。『パブロには何も知らせてはいけませんよ。病状が悪くなるかも知れませんから』。

 パブロはベッドの前にテレビをすえていました。運転手に新聞を買いにやらせました。そのうえ、あらゆる放送が聞けるラジオも持っていたのです。わたしたちはメンドサ(アルゼンチン)放送で、アジェンデの死を知ったのですが、このニュースがかれを死に追いやったのです。そうです、それがかれを殺したのです。」

 マチルデ夫人は、アジェンデの死んだ翌日のことを、つぎのように語っている。

「パブロは目をさますと、熱発していました。けれども、手当をすることができなかったのです。主治医は逮捕されてしまい、助手の医師は、危険をおかしてイスラ・ネグラまで来てくれようとはしなかったからです。」

 「こうしてわたしたちは、医師の手当をうけずに、孤立していました。数日がすぎて、パブロの容態は悪化したのです。わたしは医師を呼んで申しました。『かれを病院に入れなければなりません。とても悪いのです』。

 かれは一日じゅうラジオにかじりついて、べネゼエラ放送、アルゼンチン放送、モスクワ放送などを聞いていました。とうとう、わたしたちは何もかも真相を知ったのです。パブロの意識は、はっきりしていました。眠りこむまでは、頭も冴えていたのです。

 五日めに、かれをサンティアゴの病院に入院させるために、わたしは病人用の寝台車を呼びました。車は途中で、検問にひっかかってとり調べられましたが、それはひどくかれにこたえたのです。」

 ──乱暴でも行なわれたのですか──

「そうです。たいへん乱暴なもので、かれにはとてもこたえたのです。わたしはかれのわきに坐っていました。かれらは、わたしを車から引きずり降ろして、とり調べ、それから寝台車を調べました。それはなんとも、かれにはたえがたいものでした。

 わたしはかれらにいいました。『これはパブロ・ネルーダです。重態なのです。どうか通してください』。まったくおそろしいことでした。かれは危篤状態になって病院に着いたのです。パブロ・ネルーダは、二二時三〇分になくなったのです。だれも病院に来ることはできませんでした。夜間外出禁止令が出ていたからです。それからわたしは、サンティアゴの家にかれを移させました。家はこわされ、本もなくなり、何もありませんでしたが、そこでお通夜をしたのです。サンティアゴで過ごすことのできた最後の時だったのに、たくさんの人たちが来てくれました。

 葬列が、墓地のあるサン・クリストバルの丘にさしかかった時、四方八方から人びとが集まって来ました。みんな働く人たちで、真剣な、きびしい顔をしていました。一団の人びとが『パブロ・ネルーダ!』と叫ぶと、残りの半分の人びとが『プレセンテ(ここにいるぞ!』と答えました。それはまるで自殺行為だったのですが、さいわいに、何ごともおきませんでした。このたくさんの人びとは、軍部の弾圧にもかかわらず、『インターナショナル』を歌いながら、墓地に入ったのです。)

 あたかも死んだネルーダが歌いだしたかのように、参列者の中から期せずして湧きあがった、この『インターナショナル』の歌ごえは、ファシスト軍事政権に反対する最初の大きなデモンストレーションとなったのである。

 (なお、ネルーダの死因は公式には癌ということになっている。しかし、このたび(一九七四年三月)来日されたアジェンデ婦人は、インタビューの折に、わたしにこう語った。──偉大な詩人パブロ・ネルーダは胸の痛みで死んだのです。かれは、肉体の面と構神の面と、二重に殺されたのです。病気の手当てや薬もあたえられず、そのうえかれの詩集は焼かれたのです。……」)

 ネルーダはその生涯で、二つのファシズムに出会った。そしてそのことは、かれを今世紀の偉大な典型的詩人のひとりに育てあげたのである。

 一九三六年、かれは領事として駐在していたマドリードで、ヒットラーとムッソリーニに支援されたフランコのファシズムに出会った。スペインの民主主義を圧殺するファシストの暴虐をまのあたりにみて、かれは最初のヒューマニズムの叫びをあげ、共産主義者としての一歩をふみだした。

 そして一九七三年、アメリカ帝国主義にあやつられたチリ軍部ファシストの暴虐とたたかいながら、かれは死んだ。死の直前の九月一五日に、かれはクーデターに抗議し、つぎのような詩を書いて、ファシストどもに痛撃をくわえた。

  腹黒い奴ら

ニクソンと フレイ(l)と ピノチェト(2)ども

ポルダベリ(3)と ガラスタソ(4)と パンセル(5)ども

今日 この一九七三年九月のなんという酷(むご)たらしさ

おお 貪欲なハイエナども

多くの血と火でかちとった旗をかじりとるネズミども

大農場でたらふく満腹している奴ら

極悪な略奪者ども

干回も身を売った腹黒い奴ら

ニューヨークの狼どもにけしかけられた裏切者ども

わが人民の汗と涙を絞りとり

わが人民の血で汚れた機械ども

アメリカのパンと空気を売りこむ売春屋ども

淫売宿のボスども ペテン師ども

人民を拷問にかけむちうち飢えさせる法律しかもたぬ死刑執行人ども!

          (一九七三・九・一五)

 *1 フレイ=元チリ大統領、 2 ピノチェトー=チリ軍事評議会議長、 3 ポルダベリ=ウルグアイの独裁者、 4 ガラスタソ=ブラジルの独裁者、 5 バンセル=ボリビアの独裁者

 人民の委託を死守して、機関銃を手にしてたおれたアジェンデのように、ネルーダもまた最後まで、詩という武器を手にしてたたかいたおれたのである。

 チリ人民の希望と苦しみと悲劇の歌い手であり証人であったネルーダという星は、チリの空にのぼる血まみれの星として輝きつづけるであろう。

(『愛と革命の詩人ネルーダ』序章 大月書店 1974.6)

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🔵ビクトル・ハラ

世紀を刻んだ歌『人生よありがとう Gracias a la Vida 

~南米 歌い継がれた命の賛歌~

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★★Violeta Parra “Gracias a la vida”5m

★★バエズ “Gracias a la vida”5m

【番組紹介】 NHK・BS2 2003年9月21日再放送

人生よありがとう

こんなにたくさん 私にくれて

私にくれた ふたつの明星

それを開くと

はっきり見分けられる

黒いものと 白いものを

高い空から 星々の底を

人混みの中から 愛する人を

人生よありがとう

こんなにたくさん 私にくれて

笑いをくれた 涙をくれた

そして私は見分ける 幸せと苦しみ

私の歌をつくる ふたつのものを

あなたたちの歌 それこそがこの歌

すべての人の歌 それが私自身の歌

人生よありがとう

こんなにたくさん 私にくれて

 ビオレータ・パラの『人生よありがとう』――私はこの歌を20年以上前から知っているし、今でもとても好きな歌である。しかし、この番組を見てこの歌に対する私の思いはさらに強くなった。この歌が辿った運命が私の想像以上のものであったのだ。番組の冒頭、軍政に抗議する集会で『人生よありがとう』を歌う人々の姿を見ただけで、私のこの歌に対する印象は、大きく変えられることとなった。不勉強だと言われるかも知れないが、この歌がこのような闘いの真っ只中で歌われていたとは、私は全く知らなかった。

 実際に、この歌はチリをはじめラテン・アメリカの軍事独裁政権の下で生き、闘ってきた多くの人々を励まし、力を与えてきた。なぜこの歌がそうした場で歌われたのか。その魅力の源はどこにあるのか。さらに、広く音楽一般の力というものについても考えさせられる番組であった。

 今年の9月11日は、「もう1つの9.11」と言われるチリの軍事クーデターから30周年であった。ビオレータ・パラの歌と『人生よありがとう』は、チリ革命の歴史と切り離すことはできない。その様々な局面で、色々な思いを込めて歌い継がれてきた。番組は、メキシコの若い女性歌手、マリア・イネス・オチョアが、それが歌われた場所を訪ね歩く形で、描かれる。

1.アジェンデ政権を生んだ「新しい歌」

 1970年、チリに、歴史上初めて選挙で選ばれた社会主義政権として、アジェンデ政権が誕生する。ビオレータの死から3年後のことである。アジェンデ政権は成立後、銅鉱山の国有化、大農場の解体、ミルクの無料支給など、それまで外国資本や大地主に搾取、抑圧され、苦しい生活を強いられていた民衆のための政策を実行に移した。

 このアジェンデ政権を生みだした運動を、音楽で支えたミュージシャンたちがいた。その1人がビクトル・ハラである。彼は、学生時代にビオレータと知りあい、民衆に根ざした歌を歌う彼女にあこがれ、尊敬するようになる。当時中南米で起こっていた「新しい歌(ヌエバ・カンシオン)」運動。チリでは、ビクトルを中心とする、ビオレータの魂を受け継いだ若いミュージシャンたちがその運動に共鳴し、「歌で社会を変えられる」と信じ、活動していた。

 アジェンデ大統領自身も、ビオレータと『人生よありがとう』がとても好きだったという。

2.禁じられた歌

 アジェンデ政権の誕生は、しかし、チリ経済を食い物にしてきた者たちにとっては、大きな脅威であった。中でも、銅鉱山を牛耳りチリの富を奪い続けてきたアメリカは、失った利権を回復するために、何としてもアジェンデ政権を倒したいと考えた。ニクソンは、アメリカが備蓄していた銅を売却し、チリの輸出の80%を占める銅の国際価格を暴落させた。その他様々な経済的締め付けを行い、チリ経済を破綻の淵に追い込んだ。さらに、CIAを通じてチリ国内の反アジェンデ勢力を煽動し、アジェンデ支持勢力との対立を先鋭化させた。そしてついに、1973年9月11日、ピノチェト陸軍総司令官にクーデターを起こさせた。大統領官邸は爆撃され、アジェンデ大統領は殺害された。

 このクーデター後、弾圧の嵐が荒れ狂う。多数のアジェンデ支持者が連行、暴行、虐殺された。クーデターから3ヶ月足らずの間に、現在判明しているだけで2000人近くが殺害された。ビクトル・ハラもその1人だった。クーデターの翌12日、チリ・スタジアムに連行されたが、捕らわれた人々を励まそうと、軍の命令を無視し歌ったため、ギターを弾けぬよう手を砕かれ、殺されたとも言われている。

 ビクトルが手を後ろに組まされ、5千人の仲間とともに歩かされたという、スタジアムの細い通路を歩く、彼の妻ジョーン・ハラとマリア。コンサートなども行われた場所だというが、とてもそんな明るい雰囲気は感じられない。何とも陰鬱な場所になってしまっていた。ここで、いったい何人が殺されたのか。

 ジョーンは、ビクトルが最期に残した詩を読む。

俺たちは五千人

首都の片隅に閉じこめられて

国中でいったい何人閉じこめられているのか

ここだけで一万の手がある

耕し 工場を動かしてきた手が

歌よ おまえは何と無力なのか

恐怖を歌わねばならないとは!

私が生きているという恐怖

死んでいくという恐怖を

この歌が 沈黙と叫びに終わる

その無限の瞬間に 私はいる

今感じる 見たこともない恐怖が

この瞬間に ほとばしるのを

 大統領に就任したピノチェトは、左翼的と見なした本や映像、音楽を禁止し、焼き払った。その中に『人生よありがとう』も含まれた。チャランゴやケーナといった楽器までもが、「アジェンデ政権を連想させる」という理由で禁止された。

3.捕らわれの人々を励ました歌

 しかし、歌は死ななかった。

 マリアは、チリ最南端、マゼラン海峡に浮かぶドーソン島を見る。ドーソン島は、強制収容所の島であった。クーデター後、ここに最大400人が収容、強制労働に従事させられ、暴行、拷問を受けた。しかし、ここで『人生よありがとう』が歌われていたというのである。なぜかギターがあり、『人生よありがとう』やビクトル・ハラの歌を歌っていたという。絶望に陥りそうな毎日の中で、自らを励ますために歌った。捕らわれていた男性は言う。「私たちは音楽の価値を知った。特別な時間の中でね」。

 同じくチリ最南端の町プンタ・アレーナス。マリアは、3人の女性に、町にあった「拷問センター」に案内される。「私はここに連行された。拷問の機械や器具があった」、「爪に電極を付け、電流を流した」、「金属製のベッドに裸でねかせて、電流を流していた」‥‥。

 ここでも、『人生よありがとう』が歌われた。「胸が張り裂けそうな歌だった」が、「いつでも希望を持っていた。音楽はそれを助けてくれた」。「私たちは生き残った。拷問から生き延びたのだから。だから『人生よありがとう』なの。拷問を受けた昨日は消せないけれど、歌うことで前に進めた。それは私の命があったから」。

 3人の女性は、比較的淡々と話しているように見えたが、話し終えた直後、1人が耐えきれなくなったように泣き崩れる。「私におきたこと、30年間誰にも話してこなかった。母は何も知らずに死んだわ。父にも一度も話してないの。私は強くならなくちゃ。今日は全部話せなかったけど」。凄惨な体験による心の傷の深さが感じられる。

4.国境を越えた歌

 クーデター直後の弾圧を逃れ、、25万人以上がチリから海外に亡命したと言われている。亡命者はその後も増え続けた。海外ではチリ軍政に抗議し、亡命者との連帯を訴える声が高まった。メキシコで出されたレコード『メキシコ・チリ連帯』。このレコードには、マリアの母、アンパロ・オチョアの歌う『不正のただ中へ』(ビオレータ・パラ作詞)も納められていた。アメリカでは、ジョーン・バエズが『人生よありがとう』を歌った。

 また、軍事クーデターと軍政は、チリだけではなく、他の中南米諸国にも共通した問題であった。アルゼンチンでは、76年3月にクーデターが起こる。アルゼンチンで「新しい歌」運動を担っていたメルセデス・ソーサも、スペインへの亡命を余儀なくされた。しかし、彼女はヨーロッパで精力的に活動し、大きな支持を得る。『人生よありがとう』は、彼女の歌声を通じて、世界的に有名な歌になった。

5.軍政と闘い、責任を問う歌

 チリで軍政に抗議する集会を撮影した映像が残されている。もちろん、命懸けで撮影されたものである。催涙ガス入りの放水を浴び、護送車に放り込まれる参加者。そうした中で、またも『人生よありがとう』が聞こえてくる。連行されながらも、彼女らは歌うことをやめない。

 マリアは、行方不明者家族の会の集会を訪ねる。軍政時代の17年間に、逮捕、拉致され、今も消息の分からない人々が、1000人以上いる。その家族が、真相を究明し責任を追及する運動を、軍政時代から今も続けている。その集会でも歌われる『人生よありがとう』。「なぜこの歌を?」「人生・命への賛歌だから。行方不明者の母、妻、娘である私が求めているものへの賛歌」。「(行方不明者が死んでいても)真実を知らせるため、命がけで闘っている私たちにとって『人生よありがとう』と言うことは決して矛盾ではない」。「私たちに闘い続ける力を、この歌はいっぱいくれるから」。

 国内の反軍政闘争の高揚と国際的な批判に押され、チリの軍事政権は88年、信任投票を実施し、敗北。90年、チリはようやく民政を回復した。マリアは旅の最後に、サンティアゴのある公園を訪れる。そこでは、信任投票の後、勝利を祝う大集会が行われ、『人生よありがとう』が歌われた。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 『人生よありがとう』という歌がこれほどの力を持ったのは、文字通り命を賭けた闘いという極限の環境にさらされたからなのかもしれない。毎日のように仲間が暴行、拷問され、命を落としていき、明日は自分かも知れない。そうした中で、「生命への賛歌」である『人生よありがとう』は、大きな輝きを放ち、希望を見失わないための力を与える歌となったのだろう。それにしても、捕らわれ、強制労働させられ、拷問を受ける中で、「人生よありがとう こんなにたくさん私にくれて‥‥」と歌う気持ちは、どのようなものであったか。

 民政を回復したチリだが、軍政による大量殺人、人権侵害の責任は、30年たった今までほとんど追及されないままである。ピノチェトは一旦裁判にかけられたものの、「高齢」を理由に中止され、今も自由の身である。何よりも、クーデターの真の首謀者であるアメリカは、責任を問われないばかりか、その後も様々なやり方で他国への侵略を繰り返した。現在のブッシュ政権になって、ますますその性格を露骨にし、アフガニスタン、イラクの政権を倒し、多数の人々を殺戮した。アメリカの利益を冒す政権は、どのような手段を使ってでも倒すことを厭わない。その政権が、独裁政権か民主主義の政権かというような区別などないことを、「もう1つの9.11」は示している。

 自らの利益のために平気で人命を踏みにじるものと対峙する時、生命への賛歌『人生よありがとう』は、それと闘う鋭い武器となる。この武器を、今一度アメリカに、ブッシュ政権に、突きつけたい。

2003年9月28日

◆チリ・クーデターから40(朝日13.9.17)

政治家・裁判官、謝罪相次ぐ

 クーデターから40年を迎えた11日、ピニェラ大統領は大統領府で演説し、「人権侵害の責任は実行者や命令者だけでなく、一定の立場にありながら何もしなかった者にもある」と語り、当時の政治家らにも責任があるとの考えを示した。

 こうした発言は最近になって目立つ。8月には当時の政治家やマスコミ、裁判官らを「消極的共犯者」と呼んで反響を呼んだ。

 チリの調査会社CERCによると、軍政を「良かった」と評価する国民は、1989年の22%から今年7%まで減った。政界では最近、過去の行為を謝罪する議員が与野党で相次ぎ、行方不明者の保護申請を放置していたと批判のある司法界でも9月、裁判官の団体が被害者に謝罪声明を出し、最高裁も「司法機能の放棄で怠慢だった」と認めた。

 国立人権研究所(INDH)のディレクター、ロレナ・フリエスさん(53)は「犠牲者家族の運動が国際的な注目を集めたことや、経済成長で国民に人権意識が芽生えたことが近年の変化を生んだ」と話す。かつてピノチェト政権下で制定された恩赦法に守られていた関係者も、99年以降は訴追できるようになった。

人権侵害、正当化できない クーデター時の大統領の娘、アジェンデ上院議員

 あの日、何が起きたのか。40年経った今、何を思うのか。大統領府で空爆を受け、自殺したとされるサルバドール・アジェンデ大統領(当時)の娘、イサベル・アジェンデ上院議員(68)に話を聞いた。

 あの朝、ただ父に会いたくて大統領府に向かった。空爆が始まる直前、父は何も言わず静かに私を抱きしめて避難するようにと送り出した。軍が何をしたのか歴史の証人となることを望んでいたのだろう。父は「大統領は誇りを失ったり、屈したりしてはいけない」と亡命の勧めにも応じなかった。尊厳を守るため自ら命を絶つという勇気ある決断をしたに違いない。

 父の政権下ではストライキが多発し必需品の供給が不足し、経済が停滞していたのは事実だ。だが、米国が介入し、貿易を妨害していたことも影響していた。軍政期には新自由主義を導入して市場を開き経済は成長したが、国内産業を破壊し、貧富の差が拡大するなど代償も大きかった。

 そもそも軍政期の人権侵害を巡ってはいかなる正当化もできない。行方不明者が今も多くいる中、真実解明と裁判による正義の追究なくして国民は和解しえない。軍は情報開示を徹底する必要がある。

 40年を機に、改めてチリの経験に学び、世界で人権侵害が起きないよう願っている。だが、今なお人権侵害は報告され、中東での紛争も絶えない。ヒトは必ずしも過去に学ぶことのできない動物なのかもしれない。痛ましいことだ。

◆チリの軍事クーデター

1973年9月11日、ピノチェト陸軍司令官らを中心とする軍と警察が協力して大統領府を攻撃。70年の選挙で民主的に選ばれたアジェンデ大統領が死亡し、政権は崩壊した。社会党や共産党の支持を受けてキューバと親交を結び、基幹産業の国有化や農地改革など社会主義的政策を進めていた同政権を冷戦下の米国が危険視し、政権転覆に関与したとされる。ピノチェト大統領の軍事独裁政権は90年まで続き、反体制派の約3万8千人が拘束や拷問などの被害を受けた。処刑による死者や行方不明者は3200人余りに上る。

◆クーデターを巡る動き

1970年11月 社会党のアジェンデ氏が大統領就任

  73年 9月 軍のクーデターでアジェンデ政権崩壊

  74年12月 ピノチェト陸軍司令官が大統領就任

  88年10月 ピノチェト大統領の信任を問う国民投票。否認が上回る

  90年 3月 選挙で選ばれたエイルウィン大統領就任。民政移管果たす

  98年 3月 ピノチェト陸軍司令官が退役。終身上院議員に就任

2000年 8月 チリ最高裁、ピノチェト氏に認められた終身上院議員としての免責特権剥奪(はくだつ)を決定

     12月 ピノチェト氏、左派活動家に対する誘拐と殺害で初めて起訴され、自宅軟禁を命じられる

  06年11月 ピノチェト氏が「政治的責任」を初めて認める。クーデターは正当化

     12月 ピノチェト氏死亡

  10年 1月 クーデターや軍政期の人権侵害について展示した「記憶と人権の博物館」開館

【映画=「NO1988年軍事独裁者ピノチェトが任期をさらに8年延長提案、国民投票で反対53.6%で否決した闘いを描く。14.08.30赤旗】

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🔵大島博光=ネルーダ、チリ人民連帯

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◆大島=パブロ・ネルーダ Pablo Neruda25記事

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-25.html

◆大島=ネルーダ最後の詩集

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-1804.html

◆大島=Pablo Neruda “大いなる歌” Canto General

27記事

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-185.html

◆大島=Pablo Neruda 『マチュ・ピチュの高み』

9記事

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-164.html

◆大島=Pablo Neruda 「チリ革命への賛歌」

20記事

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-144.html

 チリ人民の希望と悲劇の歌い手 Singer of hope and tragedy of Chilean people

 昨年(一九七三年)一〇月一六日、「チリ軍事革命以後」という特派員報告が、NHKTVで放映された。民主的な選挙によって選ばれ、合法的に成立したチリ人民連合政権にたいして、アメリカ帝国主義に支援された軍部反動勢力が、九月十一日、クーデターというファッショ的暴挙を行ってから、二日ばかりあとの、サンティアゴ市街のルポルタージュであった。

 アジェンデが人民の委託を死守して、最後まで英雄的にたたかった大統領官邸モネダ宮の壁や鉄柵のうえには、なまなましい弾痕が、文字どおり蜂の巣のような黒い穴となって残っていた。

 路上の装甲車にバズーカ砲がすえつけられ、そのバズーカ砲の威嚇のもとに、家宅捜索が行なわれ、押収された本が、三階、四階の高みから投げ捨てられ、ひらひらと舞った。路上では、これも山のように積まれた本が、──市民たちの心の糧であり、かれらをみちびく光明でもあった書籍類が、ロボットのような兵隊たちによって焼かれていた。本の表紙のレーニンの肖像もめらめらと燃えていた。

 芝生の緑もあざやかな国立サッカー場の金網のなかのスタンドには、試合に熱狂する観客ではなく、まるで家畜の群のように、たくさんの人たちが、カービン銃に監視されて、とじこめられていた。拷問でうけたなまなましい背中の傷あとを、肌ぬぎになって、外国の記者たちに見せて、訴えている若者もいた。そしてスタンドの下の留置室にも多くの人たちがとじこめられ、ひそかに処刑が行なわれているということを、ナレーターはつげていた。

 それから、このカメラ・ルポルタージュは思いもかけぬ情景を写し出した。──九月二五日のパブロ・ネルーダの葬式の場面であった。赤と白と青のチリ国旗に包まれたネルーダの柩が運び出されて、霊柩車に移された。霊柩車の屋根は白いカーネーションの花束でおおわれていた。そのあとに、マチルデ夫人らしい人の、悲しみをこえた、きびしい、沈痛な表情をした、彫りの深い顔が見えた。葬儀は、林立するカービン銃の包囲のなかで行なわれたにもかかわらず、ネルーダを敬愛するたくさんの労働者市民の長い列によって飾られたのである。

 その後、べネゼエラのカラカスに亡命した、ネルーダ未亡人マチルデ・ウルーティア夫人は、夫の最後の数日について、べネゼエラの「エル・ナシオナル」紙のインタビュアーにこう語っている。

 「クーデターがおきて、アジェンデ大統領が倒される日まで、かれは調子がよく、元気でした。……病床にこそついていましたが、かれの病気は少しばかり回復していたのです。しかし、クーデターの日は、かれにはとてもたえがたいものでした。

 わたしたちがサルバドル(アジェンデ大統領)の死を知ったとき、医師はただちにわたしを呼んで申しました。『パブロには何も知らせてはいけませんよ。病状が悪くなるかも知れませんから』。

 パブロはベッドの前にテレビをすえていました。運転手に新聞を買いにやらせました。そのうえ、あらゆる放送が聞けるラジオも持っていたのです。わたしたちはメンドサ(アルゼンチン)放送で、アジェンデの死を知ったのですが、このニュースがかれを死に追いやったのです。そうです、それがかれを殺したのです。」

 マチルデ夫人は、アジェンデの死んだ翌日のことを、つぎのように語っている。

「パブロは目をさますと、熱発していました。けれども、手当をすることができなかったのです。主治医は逮捕されてしまい、助手の医師は、危険をおかしてイスラ・ネグラまで来てくれようとはしなかったからです。」

 「こうしてわたしたちは、医師の手当をうけずに、孤立していました。数日がすぎて、パブロの容態は悪化したのです。わたしは医師を呼んで申しました。『かれを病院に入れなければなりません。とても悪いのです』。

 かれは一日じゅうラジオにかじりついて、べネゼエラ放送、アルゼンチン放送、モスクワ放送などを聞いていました。とうとう、わたしたちは何もかも真相を知ったのです。パブロの意識は、はっきりしていました。眠りこむまでは、頭も冴えていたのです。

 五日めに、かれをサンティアゴの病院に入院させるために、わたしは病人用の寝台車を呼びました。車は途中で、検問にひっかかってとり調べられましたが、それはひどくかれにこたえたのです。」

 ──乱暴でも行なわれたのですか──

「そうです。たいへん乱暴なもので、かれにはとてもこたえたのです。わたしはかれのわきに坐っていました。かれらは、わたしを車から引きずり降ろして、とり調べ、それから寝台車を調べました。それはなんとも、かれにはたえがたいものでした。

 わたしはかれらにいいました。『これはパブロ・ネルーダです。重態なのです。どうか通してください』。まったくおそろしいことでした。かれは危篤状態になって病院に着いたのです。パブロ・ネルーダは、二二時三〇分になくなったのです。だれも病院に来ることはできませんでした。夜間外出禁止令が出ていたからです。それからわたしは、サンティアゴの家にかれを移させました。家はこわされ、本もなくなり、何もありませんでしたが、そこでお通夜をしたのです。サンティアゴで過ごすことのできた最後の時だったのに、たくさんの人たちが来てくれました。

 葬列が、墓地のあるサン・クリストバルの丘にさしかかった時、四方八方から人びとが集まって来ました。みんな働く人たちで、真剣な、きびしい顔をしていました。一団の人びとが『パブロ・ネルーダ!』と叫ぶと、残りの半分の人びとが『プレセンテ(ここにいるぞ!』と答えました。それはまるで自殺行為だったのですが、さいわいに、何ごともおきませんでした。このたくさんの人びとは、軍部の弾圧にもかかわらず、『インターナショナル』を歌いながら、墓地に入ったのです。)

 あたかも死んだネルーダが歌いだしたかのように、参列者の中から期せずして湧きあがった、この『インターナショナル』の歌ごえは、ファシスト軍事政権に反対する最初の大きなデモンストレーションとなったのである。

 (なお、ネルーダの死因は公式には癌ということになっている。しかし、このたび(一九七四年三月)来日されたアジェンデ婦人は、インタビューの折に、わたしにこう語った。──偉大な詩人パブロ・ネルーダは胸の痛みで死んだのです。かれは、肉体の面と構神の面と、二重に殺されたのです。病気の手当てや薬もあたえられず、そのうえかれの詩集は焼かれたのです。……」)

 ネルーダはその生涯で、二つのファシズムに出会った。そしてそのことは、かれを今世紀の偉大な典型的詩人のひとりに育てあげたのである。

 一九三六年、かれは領事として駐在していたマドリードで、ヒットラーとムッソリーニに支援されたフランコのファシズムに出会った。スペインの民主主義を圧殺するファシストの暴虐をまのあたりにみて、かれは最初のヒューマニズムの叫びをあげ、共産主義者としての一歩をふみだした。

 そして一九七三年、アメリカ帝国主義にあやつられたチリ軍部ファシストの暴虐とたたかいながら、かれは死んだ。死の直前の九月一五日に、かれはクーデターに抗議し、つぎのような詩を書いて、ファシストどもに痛撃をくわえた。

  腹黒い奴ら

ニクソンと フレイ(l)と ピノチェト(2)ども

ポルダベリ(3)と ガラスタソ(4)と パンセル(5)ども

今日 この一九七三年九月のなんという酷(むご)たらしさ

おお 貪欲なハイエナども

多くの血と火でかちとった旗をかじりとるネズミども

大農場でたらふく満腹している奴ら

極悪な略奪者ども

干回も身を売った腹黒い奴ら

ニューヨークの狼どもにけしかけられた裏切者ども

わが人民の汗と涙を絞りとり

わが人民の血で汚れた機械ども

アメリカのパンと空気を売りこむ売春屋ども

淫売宿のボスども ペテン師ども

人民を拷問にかけむちうち飢えさせる法律しかもたぬ死刑執行人ども!

               (一九七三・九・一五)

 *1 フレイ=元チリ大統領、 2 ピノチェトー=チリ軍事評議会議長、 3 ポルダベリ=ウルグアイの独裁者、 4 ガラスタソ=ブラジルの独裁者、 5 バンセル=ボリビアの独裁者

 人民の委託を死守して、機関銃を手にしてたおれたアジェンデのように、ネルーダもまた最後まで、詩という武器を手にしてたたかいたおれたのである。

 チリ人民の希望と苦しみと悲劇の歌い手であり証人であったネルーダという星は、チリの空にのぼる血まみれの星として輝きつづけるであろう。

(『愛と革命の詩人ネルーダ』序章 大月書店 1974.6)

◆大島=ラテンアメリカ14記事

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-23.html

◆大島=チリ連帯詩集8記事

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-190.html

◆大島=チリのアルピジェラ Chilean arpillera53記事

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-171.html

◆大島=チリ連帯 Solidarity with Chilean People

30記事

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-16.html

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戦艦大和の特攻の悲劇=戦艦大和・戦艦武蔵の最期

戦艦大和の特攻の悲劇=戦艦大和・戦艦武蔵の最期

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【このページの目次】

◆戦艦大和・戦艦武蔵リンク集

◆戦艦武蔵の最期

◆昭和史再訪=戦艦大和の最期

◆映画の旅人=男たちの大和

◆筆者コメント=無謀な戦艦大和の特攻作戦

◆吉田満=戦艦大和の最期(口語体)

◆毎日新聞データ・戦艦大和は不沈艦だったのか

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🔵戦艦大和・戦艦武蔵リンク集

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🔴【戦艦大和関係】

★★その時歴史が動いた=戦艦大和沈没・大艦巨砲主義の悲劇43m

★★映画=男たちの大和144m

この映画は、原作の辺見作品と同じく反戦的色彩の強い作品。

★★巨大戦艦大和~乗組員たちが見つめた生と死~73m

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001230007_00000または

★★巨大戦艦 大和 ~乗組員たちが見つめた生と死

180m Youku

http://v.youku.com/v_show/id_XNDQ1MDg3MzA4.html?x

★★歴史列伝・戦艦大和125m(CMあり)

★戦争証言・戦艦大和の最期 10m- 61年目の真実 

http://m.youtube.com/watch?v=9Dwq_FiIowE

★巡洋艦「矢矧」の乗組員が見た戦艦大和の最後1~7 – 60mYouTube

★戦艦大和の最後 群青 25m

★戦艦大和 その栄光と終焉17m

http://video.fc2.com/content/20130821cyFpRhG6

★海底の戦艦大和48m

http://video.fc2.com/content/20130913hraLCfqw

★悲運の戦艦大和 10m

http://video.fc2.com/content/20110512ut3ZdM32

★ドキュ「戦艦陸奥」 197050m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDEzNDU4MjI4.html?x

★★戦艦「大和(やまと)」の潜水調査

朝日新聞16.06.24

動画

http://digital.asahi.com/articles/ASJ6J4K6XJ6JPITB009.html?iref=video_all

 太平洋戦争末期、乗組員約3千人とともに東シナ海に沈んだ戦艦「大和(やまと)」の潜水調査に、広島県呉市が行政機関として初めて成功した。22日、そのデジタル映像や写真を報道機関に公開。艦首にある菊の紋章も鮮明に浮かび上がった。

 呉市は先月、鹿児島県枕崎市沖約200キロの海域で調査。71年前、米軍の攻撃を受けて沈み、海底約350メートルに横たわる大和の船体を無人の潜水探査機で10日間撮影した。公開されたのは、波の抵抗を減らす球状艦首(バルバスバウ)や3枚翼で直径5メートルのスクリューなどが映る約3分半の映像だ。

 1985年と99年の民間調査はアナログ映像で撮影。デジタルの今回は、より鮮明にとらえた。呉市は映像の解析を進めて大和の構造や沈没時の状況を詳しく調べ、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の展示の充実をはかる。

 この映像は7月23日から大和ミュージアムで一般公開する。解説を加えた新たな映像も9月に公開予定。調査船で現地へ行った大和ミュージアムの新谷博・学芸課長は「海に沈む大和の鮮明な姿を多くの人に見てもらい、平和を考えるきっかけになれば」と話す。(泉田洋平)

◆◆呉市が海に眠る戦艦大和公開4m

622日、広島県呉市が鹿児島県沖約270kmの海域の水深350メートルの海底付近で撮影した戦艦大和のハイビジョン映像を公開した。大和は194547日に米軍の攻撃を受けて沈没し、約3000人の乗務員が死亡した。

世界最大の263メートルを誇り、46cm砲は40kmの射程距離を持っていたが、日本の敗戦が濃厚の中、最後の戦いに赴いた。同日1402分、左舷中央部に爆弾3発命中し、その後10本の魚雷が突き刺さった。爆発のキノコ雲は高さ600メートルにも及んだ。助かった人数は276名だけだったという。

26日に生放送された『みのもんたのよるバズ!』(AbemaTV)には日本海軍史研究家の畑野勇氏が登場し、呉市が公開した映像を次々と解説していった。

艦首の菊の紋章については「菊の紋章は天皇と皇室を表します。日本海軍の紋章はすべてついています。チーク材に金箔。1.5メートルもあったといいます」などと説明した。また、真鍮で作られた5メートルものスクリューの製造技術が当時としては相当高かったことや、大和は大きい軍艦だが速度50kmで進み、スクリューやバルバスバウ(球状艦首)などの当時の最新技術を惜しみなく注ぎこまれたと説明した。

MCのみのもんた氏(71)から「なんで、引き上げることしないんですか?」と聞かれ、畑野氏は「引き上げて下さいと言う人もいれば、いたましい思いをかきたてられるのでそっとしておいてくださいと言う人もいます。どちらの意見も正しいってことで。後世にいかに伝えるかが重要です」と語った。また、海が荒れているため、引き上げにはかなりの資金・人手が必要だという。

★★深層NEWS 戦艦大和の新事実44m 20160811

https://m.youtube.com/watch?v=gLIvQDr34bk

🔴【戦艦武蔵関係】

★★ドキュメント=戦艦武蔵の最期135m

https://m.youtube.com/watch?v=zTcDLfQIz9U

https://m.youtube.com/watch?v=expnFW1ONNE

★★兵士たちの証言 : 戦艦 武蔵 シブヤン海に沈む NHK(3/7)44m

http://www.dailymotion.com/video/x2iuuia_兵士たちの証言-戦艦-武蔵-シブヤン海に沈む-nhk_school

★★NHKスペシャル戦艦武蔵の最期50m

★★NHK戦争証言特集=戦艦大和・武蔵

http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/special/vol12.htm

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★戦艦武蔵の最期9m

★★ドラマ・戦艦武蔵90m

または

https://m.youtube.com/watch?v=FpGmglbkt8A

★★NEXT戦艦武蔵知られざる悲劇30m

http://www.myvi.ru/watch/18245827111_t1ZFloWSI0OPaO8A3Kxobw2

★★戦艦武蔵の甲板士官の遺言55m

NHK戦争証言=戦艦武蔵の最期10m

【電子文藝館 反戦・反核文学一覧より】

http://bungeikan.jp/domestic/

の左側の反戦・反核文学

◆渡辺 清「戦艦武蔵の最期(抄)」 

http://bungeikan.jp/domestic/detail/846/

◆渡辺 清(戦艦武蔵乗員)「少年兵における戦後史の落丁」 l 

http://bungeikan.jp/domestic/detail/845/

◆◆(書評)『戦艦武蔵』 一ノ瀬俊也〈著〉

2016911日朝日新聞

『戦艦武蔵』=戦争忘却を促す「事実への逃避」

 戦艦大和が様々に語られてきたのに対し、なぜ武蔵はそうならなかったか。これが本書の問いである。すでに著者は『戦艦大和講義』(人文書院)において、大和をめぐる言説やサブカルチャーを通じて日本精神史の照射を試みた。が、今回の切り口は違う。むろん、本書を読むことで、武蔵の建造から沈没までの戦史を知ることができる。が、著者の狙いは、歴史/物語、あるいは真実/虚構の二分法に疑義を呈することだ。

 例えば、現代人は戦争を知らないと言われる。だが一ノ瀬によれば、海軍の動向を振り返ると、必ずしもリアリズムからではなく、当時から既に戦争をファンタジー化し、巨艦信仰を背景に開戦に突入した。また、艦長の遺書には広く共有された語りの様式美が刷り込まれていること、生き残った乗員の証言が人々の望むように脚色され定型化することなども分析している。

 本書は物語論である。大和の沈没が日本再生のための崇高な死とされ、感動の涙で消費されるのに対し、元乗組員・佐藤太郎の小説『戦艦武蔵』は通俗時代劇の話法を踏襲しているという。これを批判した吉村昭の記録小説『戦艦武蔵』は事実だけを探求したとされるが、一ノ瀬によれば、都合よく台詞の創作や事実の取捨選択をした教訓の物語に過ぎず、戦争責任の問題もぼかされた。大和に比べて、武蔵は多くの生存者が残り、海軍での恨みつらみを抱えていたことも武蔵の物語を暗くしたという。

 最後に著者が問題視するのは、「客観的な真実」を神聖化し、物語を排除することで、なぜ戦争が起きたのか、兵士の死がもつ意味を人々が考えなくなる近年の動向だ。これを「事実への逃避」と呼ぶ。かくして武蔵は何者でもなくなり、無味乾燥な教科書の一ページや軍事マニアのネタとしてのみ記録される。そして、ただの記号的な事実になるとき、太平洋戦争は本当に忘却されるのではないかと痛感させられた。

 評・五十嵐太郎(建築批評家・東北大学教授)

 『戦艦武蔵』 一ノ瀬俊也〈著〉 中公新書 929円

 いちのせ・としや 71年生まれ。埼玉大学教授。日本近現代史。『旅順と南京』『日本軍と日本兵』など。

◆戦艦「武蔵」か 新たな動画公開NHKニュース

1534 

フィリピンのレイテ島近くのシブヤン海で、太平洋戦争末期に撃沈された当時としては世界最大級の軍艦、「武蔵」とみられる動画が新たに公開されました。

旧日本海軍の戦艦「武蔵」は、太平洋戦争末期の昭和19年10月、レイテ島に上陸を始めたアメリカ軍に反撃するためレイテ湾に向かう途中、アメリカ軍による魚雷などの攻撃を受け撃沈されましたが、その後、船体は見つからず、どこで沈没したかは謎のままになっていました。

ところが、アメリカのIT企業マイクロソフトの共同創業者で資産家のポール・アレン氏が、「シブヤン海で、『武蔵』の船体を発見した」として2枚の写真を投稿したのに続いて、4日、新たに自身のホームページに「旧日本海軍の『武蔵』」とタイトルをつけた1分余りの動画を新たに公開しました。

「武蔵に間違いない」

広島県呉市の「大和ミュージアム」の館長で、旧海軍の歴史を研究している戸高一成さんは、公開された動画を見たうえで、「写真を見た時点で、ほぼ間違いないと思っていたが、この動画で、間違いなく『武蔵』だと言ってよいと思う。非常に驚きました。艦首の辺りは、武蔵など大和型の戦艦の特徴がよく出ていると思います」と指摘しています。

さらに、「動画を見て、比較的よい状態で残っていると感じました。『武蔵』については、どのような状況で最期を迎えたのか、不明な部分がかなりあり、今回の発見で、こうした点が明らかになると期待されます」と指摘しています。

そのうえで、「太平洋戦争の記憶が薄れ、過去になりつつあるなか、改めて戦争のことを考える意識を高めるうえで、戦後70年の節目の年に発見されたことは、大変、意義があると思う」と話しています。

造船所の史料館では驚きの声

武蔵を建造した長崎市の造船所の史料館を訪れた人たちは「見つかるとは思わなかった」などと話し、驚いた様子でした。

戦艦「武蔵」は、旧日本海軍からの極秘の指令を受けて、昭和13年から長崎市の三菱重工業長崎造船所で建造され、昭和17年にしゅんこうした、当時としては世界最大級の軍艦で、昭和19年10月、フィリピンのレイテ島の近くにあるシブヤン海で魚雷などを受けて沈没し、乗員1000人余りが死亡しました。

武蔵の船体の一部とされる写真や動画がツイッターに投稿され、注目を集めるなか、三菱重工業長崎造船所にある史料館には、多くの人たちが見学に訪れています。展示されている資料は、およそ50点で、船を建造するときに使われた22キロの大型ハンマーや、海軍に提出した見積書などがあります。

また、進水式で縄を切る際に使われたおのや、横須賀に寄港した際に撮影した昭和天皇も写っている記念写真なども展示されています。

訪れた人たち、長崎市の西岡千晴さん(25)は、「自分が生きている間に武蔵が見つかるとは思いませんでした。船員や船の供養になるので、できれば日本に戻してほしい」などと話していました。

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🔵吉田満=「戦艦大和の最期」

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http://azure2004.sakura.ne.jp/yamato/yamato-shoko.html

口語体http://azure2004.sakura.ne.jp/yamato/yamato_ginza_kyuji.html

◆◆昭和史再訪=戦艦大和の最期

2010731日朝日新聞夕刊紙面より 

広島県呉市の大和ミュージアムに展示されている10分の1の戦艦大和。当時の資料と共に戦時下の日本の一端を伝える(資料提供・大和ミュージアム)

戦艦「大和」の全長263メートルは、JR山手線東京駅のホームより長い。最大幅38.9メートル。20.7メートルの主砲の射程42キロ。水圧で動く砲台の動きは驚くほど素早く、まるでタコが足を動かすようにくるくると標的に向かって動いたという。内部にはエレベーターもあり、その豪勢さは皮肉交じりに「大和ホテル」と言われたこともあったという。

大正111922)年のワシントン海軍軍縮条約で、戦艦の新規建造は禁じられていた。だが日本海軍は条約はいずれ失効すると見据え、昭和91934)年に「史上最大最強の戦艦」の設計に着手。それが戦艦大和だった。

建造費は約13780万円。広島県呉市にある呉市海事歴史科学館・大和ミュージアムによると、「今なら、東京―大阪間の新幹線開通費にも匹敵する巨額」だ。

建造は極秘裏のうちに進められた。艦の具体的内容は大蔵省のごく一部にしか知らされなかった。ではどのように予算計上したのか。

戦前、海軍の造船技術畑を歩んだ日本軍艦史研究の第一人者、故・福井静夫氏は、著書「日本戦艦物語 II」に経緯を記している。

予算編成では、第三次補充計画(通称(三)<マルサン>計画)と呼ばれるもののなかに取り込んだ。「大和」は第一号艦、「武蔵」は第二号艦と表記。海軍部内や大蔵省に対する「(三)計画」の折衝書類には、戦艦を意味するものはほとんど記載されていなかったという。

戦後40年、海底で全容を確認

1945329日、戦艦大和は沖縄特攻「天一号作戦」のもと、第二艦隊(司令長官・伊藤整一中将)の旗艦(艦長・有賀幸作大佐)として呉を出航。徳山に寄り、一路、沖縄を目指した。47日正午過ぎから、九州南西沖で米軍による激しい攻撃を受け、午後2時過ぎに沈没した。

大和沈没が朝日新聞で報道されたのは戦後の45928日、「わが戦艦大和の最期」。翌年812日、大和に乗艦していた能村次郎大佐らを取材したルポが掲載された。82年に沈没地点(後に北緯304317秒、東経1280400秒と判明)が確認され、85年に「海の墓標委員会」(辺見じゅん委員長)が海底に眠る大和の全容を確認、遺品の一部を引き揚げた。

 1946812日朝日新聞朝刊2

昭和1211月、呉海軍工厰(こうしょう)で大和の建造が始まった。「仮想敵国アメリカに(建造が)漏洩(ろうえい)して、同国に同様の建造を許したのでは、基本計画は元も子もなくなる」(呉市史)ため、軍港は海側が855メートルにわたって目隠しされた。設計図面にも艦の全体像は最後まで表れず、身元調査を経て憲兵隊が許可した工員だけが作業に従事した。

起工からほぼ4年。開戦直後の昭和161216日に大和は完成した。

「不沈艦」とうたわれた戦艦大和はしかし、沖縄特攻作戦(天一号作戦)で沖縄に向かう途中、巡洋艦1隻、駆逐艦8隻とともに米軍戦闘機の猛攻撃を受け、わずか2時間余りで沈没した。大和ミュージアムの資料によると、大和には3332人が乗り組み、うち生存者は1割にも満たない276人だった。

大和ミュージアムでボランティアで案内人を務める住田勝彦さんは、乗艦者名簿の前で声をつまらせている来館者の姿を、しばしば見かけるという。「ご遺族の方か関係者だろうと思いますが、戦争が残した傷の深さをあらためて痛感するのです」

大和ミュージアムの中央のホールには、実物の10分の1の大きさの戦艦大和が展示してある。

館長の戸高一成さんは「1930年代は世界的には、航空時代に入っていた。日本は従来の戦艦技術を極めたが、航空機と戦艦とでは技術進歩の速度が何倍も違った。そこに大和の悲劇もある」と話した。

「大和に関する膨大な資料のうち、明らかになっているのはまだ氷山の一角。関係者の証言も含めもっと大事にしていきたい。歴史は正確なデータがなければ、未来に向けて正しい判断ができない」

(羽毛田弘志)

大和最後の乗組員の一人として語り部を続ける 八杉康夫さん

◆平和の意味、問い続ける

15歳で海軍志願兵。横須賀海軍砲術学校で、標的までの距離と大砲の弾の発射角度を高等数学で計算する技術を学び、測距儀を扱う上等水兵として昭和2013日、大和乗艦の発令を受けた。

46日、真新しい褌(ふんどし)と肌着に着替えた。7日は曇天。午前10時ごろ「戦闘配食、急げ!」の号令が出た。レンズで敵機を捕捉した途端、雲の上に上昇して測距不能になった。真上から機銃や爆弾による猛攻を受け、こちらはむやみに撃つばかりだった。米軍は日本のレーダー技術の未熟さを研究し尽くしていた。

艦沈没とともに、海に放り出された。漂流中、上官の高射長が「お前は若いんだ。頑張って生きろ」と言って艦の丸太を流してくれ、私はそれにつかまって生き延びた。

命からがら戻った呉で本土決戦部隊の訓練をし、87日、原爆が投下された広島の復旧のため広島入りした。死体置き場にいた被爆した少年が、私の足をつかみ水を求めた。重体者に水はやるなと教えられ、「衛生兵以外は負傷者を救助するな」と軍の命令を受けていた私は「待っておれよ。戻るから」と言ってしまった。絶命前に水を飲ませればよかった。命を救われた私が、水を乞(こ)う少年に手をさしのべなかった。人生で最も苦しい思い出に今も悩む。平和とは何か? これからも問いながら生きていきたい。

◆◆映画の旅人=「男たちの大和/YAMATO」

201397日朝日新聞

【画像】坊ノ岬(水平線の右)近くの海岸から南西海上を望む。戦艦大和はここから約200キロ沖の海底に眠っている=鹿児島県枕崎市

◆あの火柱は大和なのか

 唐の高僧、鑑真和上が薩摩国秋妻屋浦(あきめやうら、現在の鹿児島県南さつま市坊津町秋目)に着いたのは、奈良時代中期の天平勝宝5(753)年12月20日だった。仏教の戒律を伝えるため日本への渡航を試みて12年、失明する苦難を乗り越え、波荒い東シナ海を渡り、ようやく上陸したのである。

 鑑真が着いた坊津町秋目は、カツオ漁で知られる枕崎市から車で50分、入り組んだ入り江の奥にある小さな集落だ。太平洋戦争末期、近くの山に軍の防空監視所ができ、若い女性が交代で敵機を見張った。その一人が「海のむこうに、赤い火柱を見た。大和だったのではないか」と話しているという。この女性が93歳で健在と聞いた私は、地元の方の案内で、おばあさんを訪ねた。「ええ、海に火の玉のようなものが」

 敗色濃い1945年4月6日、日本海軍が誇る巨大戦艦大和は、水上特攻として片道だけの燃料を積んで山口・徳山沖を出発、沖縄へ向かった。翌7日、ここの近海で米軍機の猛攻を浴び爆発、沈没した。おばあさんは、あの火柱は大和沈没時と信じている。鑑真到着から約1200年後のことである。

 「ここいらでは、いろいろ大和伝説がありまして」。枕崎でボランティアガイドをしながら、地元に残る大和の言い伝えを調べている北川忠武さん(70)は苦笑する。

 山で草を刈っていたら、海から煙が上がった。海で異変があったので役場に聞きに行くと、大和が沈んだといわれた。浜に大和の乗組員の死体があがったので収容した。海から雷のような音を聞いた――などなど。

 「大和出撃は極秘だから、役場が知るはずはないし、大和沈没の年に、近くで輸送船が撃沈されたから、漂流死体はそのときのものでしょう。ここから沈没地点までは200キロで、100キロ先の屋久島でも見えるのは年に数回だけ。しかも大和沈没の日は曇りで視界が悪く、音はともかく、見えるはずはない。個々の記憶が、みな大和に結びついてしまう」と北川さん。

 昭和末期、潜水調査で海底の大和が発見され、最も近い本土の枕崎に慰霊碑ができたころから、こうした話が取りざたされた。映画「男たちの大和」も、元乗組員の娘は枕崎から漁船をチャーターして現場に向かう。

 それまで長年、大和沈没地点は徳之島沖とされてきた。大和についての代表的著作、吉田満著『戦艦大和ノ最期』に「徳之島ノ北西二百浬(かいり)ノ洋上、『大和』轟沈(ごうちん)シテ巨体四裂ス」と記されていたからである。大和伝説は、この古典的名著から始まっていた。

文・牧村健一郎

写真・山本和生

◆兵士の目で戦争を描いた「男たちの大和/YAMATO」

 戦艦大和の語り部として知られる八杉康夫さん(85)が、大和に乗艦したのは1945年1月、17歳の上等水兵としてだった。目標との距離を測る測距儀が担当で、持ち場は艦長がいる艦橋(ブリッジ)の上、大和のてっぺんである。

 4月7日午後2時20分、米軍機の猛攻で大破した大和は大きく傾斜し、高さ20メートル以上の高所にいた八杉さんの目の前に海面がせり上がってきた。飛び込み、海上を漂流、「もうだめかと観念したとき、(上官の)高射長が、つかまっていた丸太を渡してくれた。高射長はいつのまにか波間に消えた」と、八杉さんは広島県福山市の自宅で往時を振り返る。

 評判になった吉田満の『戦艦大和ノ最期』は、本になるとすぐ読んだ。吉田は東京帝大在学中に学徒出陣、大和に電測士として乗艦、やはり九死に一生を得て生還した。八杉さんは、士官室にいる吉田少尉の顔を知っていたという。一読、文語体の荘重な文章に、さすが帝大出、と感銘を受けた。だが疑問も持った。

 まず、沈没地点だ。『最期』では徳之島の北西二百浬(かいり、初版は西方20浬)と徳之島を起点にしているが、大和が米軍機の第2波攻撃を受けた時、便所で鉢合わせた士官が「とても奄美大島まで行けん」と話すのを忘れられなかった。徳之島は奄美より南にある。そこまで大和が行ったとは思えないのだ。

 『最期』の記述をもとに、徳之島で大和の慰霊祭が行われ、八杉さんも参加したが、釈然としなかった。その後、公開された米軍資料などで場所が絞られ、80年から魚群探知機などを使った現地調査も実施され、82年5月、ついに海底に眠る大和が確認された。北緯30度43分、東経128度4分。枕崎からは200キロほどだが、徳之島からはもっと離れていた。ひん曲がった鉄板、長靴、さらに頭蓋骨(ずがいこつ)がモニターに映し出され、八杉さんら大和乗組員は涙が止まらなかった。

 『最期』には、救助船を指揮する下士官が、船べりをつかんで離さない漂流兵の手首を短刀で切る、という衝撃的な記述がある。船べりはかなり高く、海上から手が届くわけはない、あり得ないことだ、と八杉さんは憤慨した。

 ある時、大和の番組で東京のNHK放送センターにいると、たまたまその吉田がいて、喫茶室で会った。いくつか疑問を呈すると、吉田は言葉少なく、「あれはノンフィクションで描いたのではありませんから」と答えたという。

 八杉さんは映画「男たちの大和」で、敬礼の仕方など、海軍軍人の所作を指導した。映画の感想を聞くと、「まあ、兵隊の気持ちは出ていたね」

 これまで戦記もの映画といえば、山本五十六ら司令官、指導者が主役をはるケースが多かった。53年公開の映画「戦艦大和」(新東宝)も、士官だった吉田の本が原作だ。「だから今回は『艦底からみた大和』を描きたかった」と元東映のプロデューサーで「男たちの大和」を企画した坂上順さん(73)は言う。戦いを「下から支えている側」から描きたい。いたって地味な烹炊(ほうすい)員(調理担当の兵士=反町隆史)を、主役の一人として登場させたのも、そんな思いからだった。

 佐藤純弥監督(80)も「兵士一人ひとりを見つめる」映画にしたいと考えた。戦時中、親しかった叔父が35歳で徴兵され、一兵卒として満州に行き、シベリアに抑留、現地で病死した。この叔父の無念さを忘れることができない。

 ただ、悲劇の全体を俯瞰(ふかん)する目、客観的、批判的な視点も必要だ。『最期』の中で「負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ(略)日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」という言葉を残した臼淵大尉(長嶋一茂)は、この映画でもはずせなかった。

 ジャーナリストで日銀副総裁も務めた藤原作弥さん(76)が、吉田満に初めて会ったのは72年ころ、日銀の記者クラブだった。当時、藤原さんは時事通信の金融記者、吉田は日銀政策委員会庶務部長で、よく記者クラブに顔を出していた。学生時代に『最期』を読んでいた藤原さんは声をかけ、以降、親交を結んだ。

 藤原さんも、敗戦後、満州から命からがら引き揚げてきた。「生かされてきた」という思いは吉田と共通する。「あの作品は、戦後すぐ、ほぼ一日で書き上げたといわれますから、ディテールに多少問題があっても仕方ない。フィクション、ノンフィクションの垣根を超え、滅びゆくものへの哀惜をこめた、平家物語のような作品といえます」

 映画「男たちの大和」は予想外だったという。派手な戦闘場面が売り物の大スペクタル映画だろう、という先入観があったが、見終わった印象は「戦争を描きながら平和を訴える、静かな祈りのメッセージだった」と話す。

 長年、生き残った大和乗組員と接してきた「大和ミュージアム」の相原謙次副館長(58)も言う。「彼らの多くは、家族にも『大和に乗っていた』とは言わなかった。異口同音に、死んだ仲間に生かされてきた、と言っていました」。自分だけが生き残ってしまった、という罪悪感に似た気持ちを秘めて、その後を生きてきたのだろう。

 大和は乗組員3332人、そのうち生存者は1割にも満たない276人、現在健在なのは10人足らずという。 

◆あらすじ

 鹿児島・枕崎漁港に若い女性(鈴木京香)が現れ、大和が沈没した海域に連れて行ってくれ、と頼む。元大和乗組員だった漁師の神尾(仲代達矢)は、女性が自分の恩人だった内田兵曹の養子と知り、要望を入れ、少年乗組員とともに現場にむかう。近づくにつれ、米軍機の襲来で仲間は次々に倒れ、自分だけが九死に一生を得たあの日の出来事を、ありありと思い出す。

 2005年公開。原作はノンフィクション作家・辺見じゅん(1939~2011)の『男たちの大和』(新田次郎賞受賞)で、辺見は1985年の大和の潜水調査の際、潜水艇に乗り組み、海底350メートルに眠る大和を実見している。この調査は辺見が委員長の「海の墓標委員会」が実施、実弟の角川春樹が事務局長だった。角川は映画「男たちの大和」にも製作として参加している。

 99年の2度目の潜水調査では、艦首の菊の紋章がより鮮明に撮影され、多くの遺品が引き揚げられた。「男たちの大和」の冒頭で、これらの映像が紹介されている。

 大和のロケセットは、広島県尾道市向島の造船所に原寸大で作られた。艦首から艦橋付近までの190メートルの巨大なセットで、撮影後は一般公開され、100万人が訪れる人気スポットになった。また映画公開の05年に、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)がオープン、十分の一の巨大な大和の模型が人気を呼び、映画との相乗効果もあって161万人が入場、地方の施設にもかかわらず、05年度の美術館・博物館入場者の全国1位になった。映画も大ヒット、とりわけ若者層に人気で、観客は400万人を記録した。

ぶらり

 唐の高僧・鑑真の来日を記念する鑑真記念館(電話0993・68・0288)が、本土上陸の第一歩をしるした鹿児島県南さつま市坊津町秋目にある=写真1枚目。鑑真座像や遣唐使船の模型などがある。坊津は中世以降、海外交易の要の港として発展、坊津歴史資料センター輝津(きしん)館(電話0993・67・0171)には、往事の貿易品や朱印状などがあり、来年2、3月には、「戦艦大和-坊ノ岬沖海戦」と題する企画展を開く予定だ。

 東シナ海を一望する枕崎郊外の断崖の上に、平和祈念展望台=写真2枚目=があり、大和を含む第2艦隊の戦没者を慰霊する碑がある。ここで毎年4月、慰霊祭があったが、関係者が高齢化し、慰霊祭は昨年で終了した。すぐ近くの火之神公園は、雄大な景観で知られ、映画「男たちの大和」のロケが行われた。

 今年4月、JR枕崎駅の駅舎が復活=写真3枚目=した。駅移転のため、駅舎が取り壊され、長年、ホームだけだったが、地元の熱意で再建され、「本土最南端の終着駅」の誇りを取り戻した。

 大和を建造し、海軍・呉鎮守府があった広島県呉市に、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館、電話0823・25・3017)があり、大和の模型や遺品、ゼロ戦などが展示されている。市内には、大和を建造したドック跡や旧呉鎮守府司令長官官舎を復元した入船山記念館など、旧海軍関係の史跡がある。

見る読む

 映画「男たちの大和」のDVDは東映から発売されている。税込みで3990円。

 原作は辺見じゅん著『決定版 男たちの大和』(上下巻、ハルキ文庫)。吉田満の『戦艦大和ノ最期』は各種あるが、講談社文芸文庫版は鶴見俊輔の解説、古山高麗男による作家案内が秀逸だ。大和ナンバー2の副長だった能村次郎の『慟哭(どうこく)の海』は、指揮官から見た記録で、貴重だが、絶版なので図書館か古書店で探すほかない。

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🔵【筆者コメント】 =無謀な戦艦大和の特攻作戦

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454月日本海軍の連合艦隊司令部と軍令部は、戦艦「大和」を旗艦とする第2艦隊を沖縄本島の浅瀬に突入、座礁させ、沿岸砲台となって米上陸部隊に艦砲射撃を加えることを目的とする「天一号作戦」を発令した。

 しかし、沖縄本島周辺海域に展開する米英海軍の勢力は空母19隻、戦艦18隻、巡洋艦32隻、駆逐艦12隻、その他戦闘機・急降下爆撃機・雷撃機など1633機と、第2艦隊とはとても比較にならないほどの強大な戦力を誇っていた。

一方の第2艦隊には空母も戦闘機も同伴しないため、沖縄への出撃は自殺行為に等しく、沖縄本島の浅瀬に座礁して艦砲射撃を敢行するなど、到底無理な作戦であった。

もちろん、第2艦隊の首脳達も一発返事で受諾したわけではなかった。仮に沖縄へ出撃したとしても、1100機を越える米英空母艦載機の猛襲を突破して沖縄に到達出来る可能性はゼロに等しく、艦隊首脳たちは当初、『犬死にだ』などと猛反発したという。

「作戦」の名に価しないこの無謀な特攻には驚かされる。戦闘機の援護なし・片道の燃料で沖縄戦へ=陸にのりあげ大砲陣地として活用しようというもの。「こんな作戦は成功しない」という意見、理性あるものなら誰もが思ったであろう。この「成功なし」という意見を「1億総特攻の先駆けとなる。後世に巨艦使わずとう海軍へのそしりだけは避けたい」と理屈にもならない意見で葬り去った。

こうして「海軍特攻」「総員死に方用意」が掲げられ乗組員を駆り立てた。吉田満みつる「戦艦大和の最期」には以下のようなエピソードが紹介されている。

ー出撃前夜、戦艦大和では乗組員3332名全員による最後の酒宴が開かれた。

吉田満少尉(1979)は副電測士(レーダー運用担当副士官)として大和に乗り込んでいた。沖縄突入作戦の是非と戦死の意味について議論となった士官たちが乱闘騒ぎを引き起こし、その場に駆け付けた室長の臼淵磐大尉(21歳)がこう言い放ち、乱闘騒ぎを鎮静化させたという。「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。

日本は『進歩』ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずして、いつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。日本新生に先駆けて散る。正に、本望じゃないか」といった。臼淵大尉のこの名言により、乱闘騒ぎで殺気立っていた士官たちは改めて沖縄突入作戦への決意を新たにしたと言われている。2人の将校の経歴は以下の通り。

臼淵 磐(いわお)

東京・青山出身で、海軍兵学校卒のエリート海軍士官(大尉)。

1944年10月、戦艦「大和」に配属され、フィリピン海戦に参加。

翌年4月7日の沖縄特攻作戦で、持ち場の後部副砲(15.5センチ砲)射撃指揮所に米急降下爆撃機の投下した爆弾が命中し、爆死。享年21歳。 

沖縄出撃前夜、作戦の是非を巡って乱闘騒ぎとなった士官たちに「日本新生論」を説き、騒ぎを鎮静化させたことでも有名だが、実際に日本新生論を語ったかどうかは不明とされる。

吉田 満

東京出身、元戦艦大和乗組員。

1943年12月、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部在学中に学徒出陣で海軍に徴用され、少尉に任官。1944年末に戦艦大和に配属され、副電測士(レーダー副担当士官)となる。(当時21歳)

1945年4月7日の沖縄特攻作戦で東シナ海に沈没した大和から脱出し、生き残りの駆逐艦に救助され奇跡的に生還。

戦後は日銀に約30年ほど勤務し、GHQの検閲に阻まれながらも戦争手記「戦艦大和ノ最期」を1952年に発表する。

しかし、同手記で描かれている、生き残りの駆逐艦「初霜」の乗組員が救助艇にしがみつく大和乗組員の腕を軍刀で叩き斬ったとの虚偽記載に元駆逐艦乗組員から猛反発を食らい、後に八杉氏と対面することになった吉田は「初霜事件」が創作であったことを認める。日銀退社後、東洋英和女学院の理事に就任。1979年9月、56歳で他界。

こうして死者2740人、駆逐艦に救助された生存者300人というまさに悲惨な結果を招いた。特攻というと零戦による特攻が代表的な例としていつも紹介され陸軍海軍合わせて3800人の死者が生まれた。この戦艦大和特攻だけで、その7割の規模の死者を出しているのだ。しかも大和乗組員の証言や「男たちの大和」が描いているように、生き残った者は「生き残り」ではなく「死に損ない」とさいなまされたのだ。こんな大規模な悲劇は他に余りない。

もともと戦艦大和自体、日露戦争時代と同じ「大艦巨砲主義」の産物であった(「その時歴史が動いた」参照)。太平洋戦争時は、「航空主兵時代」=空母と航空機が戦争の主力となっていた。日本海軍も真珠湾作戦やマレー沖海戦プリンスオブウェールズ撃沈で「航空時代」到来自覚していたはず。またミッドウエー・サイパンでも体験したはず。米は計画中の戦艦をすべて空母に変更した。しかし日本海軍の「作戦要務令」=明治以来艦艇中心・航空は補助=艦隊決戦主義が貫かれた。そして防御のためのレーダーの開発、V型信管の開発、暗号解読の立ち遅れなどが生まれた。陸軍よりも合理性あった海軍でも大和は計画段階から反対意見あったが続行することとなった。さらに2番艦の戦艦武蔵の建造も続行した。44年にようやく信濃などの戦艦を 空母にきりかえた。戦艦大和の世界最大の46センチ砲も艦隊決戦かなかったから1回も使わなかったのである。戦艦大和の悲劇は、ここから始まっていたのだ。

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🔵吉田満『戦艦大和の最期』(口語体)

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 昭和二十年四月、少尉として乘組んでゐた。配置は電測士乙(副電測士)甲は大森中尉。

 二日、大和は、呉軍港の碇泊地最外廓に打たれた二十六番ブイに繋留中。ドツクの整備を待つてたゞちに入渠し、出動に備へて、艦内外部の修理と兵器の増備を行ふ豫定であつた。

 早朝、突如、艦内スピーカー。「〇八一五(八時十五分)ヨリ出港準備作業ヲ行フ 出港ハ一〇〇〇(十時)」

 かくも不時の出港は前例がない。されば待望のときか。

 通信士からは緊迫した信號の動きを傳へてくる。われわれを待つものは出撃のほかにない。

 入渠整備の豫定と稱しての碇泊も、眞實は發動の僞裝であつた。

 あゝいかにこの時を、この時をのみ、期して待つたことか。

 出撃こそその好機。

 また出撃は、晝夜の別も寛嚴のけじめもない猛訓練を一擧に終止させ、そこからわれわれを解き放つてくれる。

◆一

 待望の時。

 米軍が沖繩の一角に上陸してから十日を經ぬころである。作戰はその方面に向ふものに相違ない。

 噂がさゝやかれる――關門海峽を通過し、佐世保か釜山で重油を補給して一路南に向ふか。或ひは、豐後水道を堂々直進するか。――さゝやきはたかまり、ひろがつてゆく――作戰海面はどこか。

 大和に從ふ僚艦は何々。艦隊編成如何。南海に決戰場を求め一擧に雌雄を決するのか。――喧々囂々

 その聲を壓して艦内スピーカーが凛とひゞく。

「各分隊、可燃物ヲ上甲板ニ出セ」

「各自ハ身ノ廻リ整理ヲナセ、終レバ私物ヲ水線下ニ格納セヨ」

「艦内警戒閉鎖トナセ」(浸水および火災防止のため通路のハツチも各室の扉蓋も嚴重に閉鎖する)

「陸上ヘノ最終便(連絡艇)ハ〇八三〇(八時半)ニ出ス」

「艦内閉鎖ハ各分隊長點檢セヨ」

 命令號令が亂れとぶ。

 時が追ひ拔くやうに流れ去る。

 陸上への最終便の短艇指揮を指命され、第一波止場に向ふ。

 全天、薄雲に蔽はれ、海面は煙り、睡るやうな軍港街は全く平生とかはらぬ姿である。

 波止場に着き、所用を達したのち、三度上陸場附近を點呼して、未乘艦者の殘留してゐないことを確かめた。出撃に際して出港におくれゝば銃殺が例である。

 これが俺の足の踏むさいごの土か、ふとそんなことを思ひ浮かべる。

 歸艦後即刻とりこめるため、短艇揚收準備を急がせながら返路を大和に向ふ。微風がこゝろよい。

 大和は外舷をくまなく銀灰色に塗粧した直後で、四周を壓して磐石の如く横たはつてゐる。

 大和に近く投錨した矢矧(新型巡洋艦)から、「出撃準備ヲ完了シ……」と發光信號を點滅させてゐるのがよめる。生氣を匂はすやうにそれは閃いて見えた。

 ひそかに歡聲が湧きあがつてくる。

 すべてたゞこの機に備えて來た、まさにその時。快哉――

 歸艦してもいま更ら身の廻り整理の要もない。そのまゝ出港準備作業にとりかゝる。

 十時、大和はしずかに前進をはじめた。出港は呉軍港内に大和一艦のみ。ひそかな、しかし悠容たる出陣。

 碇泊する僚艦からは、千萬のまなこが無言の歡呼をこめて注視してゐる。それが痛く胸を射る。

 われらこそかれらの輿望を切に擔ふもの。

 一兵にいたるまでも誇らかに胸を張つて甲板に整列する。

 想へば巨艦の、往つてふたたび還らぬ最後の出撃であつた。

 各電探兵器の作動良好を確かめ、分隊長に屆ける。

 つねのごとく途次、訓練を反覆しつゝ周防難に向ふ。

 艦長は幕僚と、艦橋で作戰討議をたゝかはせてをられる。海圖臺のわきには、赤表紙の分厚な書册が置かれ、背文字は太く「天一號作戰關係綴」と讀まれる。

 「天」號作戰とは、回生の天機といふ意味でもあらうか。

 海圖臺には、沖繩本島周邊のもつとも詳密な海圖數枚が用意され、その上に、大和主砲の射程、四十粁(十里)の縮尺目盛に合はせたコンパスが、米軍の上陸地點を中心に弧を描く。かはされる言葉は少いが、コンパスを握る指の爪は、こもる力に白く濁つてゐる。

 薄暮のころ入港して、三田尻沖に假泊する。大和の通過できぬ狹水道を經て先廻りした驅逐艦が、すでに數隻入港してゐた。

 この錨地に結集し一時投錨して、陸上との交通を絶つたまゝ出動の命を待つ。

 僚艦がそれぞれ別個に呉を出港してきたのは、機密保持のためである。

 こゝに戰備を整へつゝ機の熟するのを待つあひだ、しばしの休息に回天の英氣を養ひ、白日の心境に必死の鬪魂を磨かうとする。

 總員集合、令達。戰鬪服裝に身を固めた三千の乘組員は、無氣味な靜肅をたゝえて密に整列する。

 艦長は、本作戰の目的、大和の使命を述べられ、總員の奮起を切望された。

 米機動部隊が近接し、明早朝來襲の算大、との情報が入る。身うちがひきしまる。

 戰鬪服裝のまゝ寢につく。心ははやるが、思ひ切り熟睡する。

 三日、早朝、豫期したごとく米機來襲の報。配置に就く。

 急速出港、第二警戒航行序列に散開する。(警戒航行序列は、各艦の位置を、警戒および防禦に適するごとく定めて航行する對勢をいふ。第一序列はそのうちの防空對勢)。

 スクリユーを廻はす機關は停止させてあるが、不時の來襲に即應するため、機械も鑵も煖めて、ただちに機動出來るごとく待機しつゝ漂泊せねばならぬ。

 出動は米機動部隊の避退後であらう。焦つてはならない。「時」をこそ捉へねばならぬ。

 午前、B29一機が盲爆をおこなつた。中型爆彈一箇を投じたが、損害はない。

 だが寫眞偵察を敢行したのではないか。本艦隊の動向すでに蔽ひ切れぬのか。

 午後、内地の各地が猛烈な空襲にさらされてゐると、情報がしきりに入る。(しばらく待つてくれ、もうすこし……われわれが出撃さへすれば……)心のうちに叫びつゞける。

 日の落ちるのを待つて、昨夜投錨したその同じ錨地に假泊する。

 この非常のときに、數日前卒業したばかりの新候補生五十餘名が、大和乘組の光榮に頬を紅潮させ、大發(木造艇)を横付けに乘艦してきた。そして直ちにいく組かに分れて艦内見學をはじめた。

 かれらが眞の戰力となるのはいつの頃か。

 通信科の敵信班が、米機間の緊急電報をぬすみ、即刻飜譯して、「機動部隊ハ明日一日各地ヲ空襲ノ上、東方ニ避退セン」と情報を屆けてくる。

 いよいよ出撃も近い。

 夜食がなんとうまいのか。

 快的に熟睡する。

 四日、早朝、米機來襲の報。配置につき、出港して漂泊をはじめる。

 年前午後、前日と同樣、滿を持して警戒する。

 驅逐艦「響」が、漂泊中觸雷した。ひそかに米機から投下されてあつた機雷の、作動圈内に入つたものであらう。被害は比較的輕微であるが、鑵に損傷を受けたため航行不能に陷つた。驅逐艦「初霜」が曳航して呉に回航することにきまる。

 艦長から「士氣をいかに振作するかについてはかられる。

 呉を出港してからほとんど緊急配備のため、傳統の猛訓練は止むを得ず中絶されてゐた。三日間の休養により兵員の體力はやゝ恢復したが、あの積日の過勞はなほ挽回されるに至つてゐない。だが訓敵中絶による氣力の弛緩をこそ戒しめねばならぬ。

 艦長は結論を出された。「明日ヨリ警戒配備ノマヽ綜合訓練ヲ強行セン」

 米機動部隊がわが出動を牽制してくるとき、最善をつくしてこれに對さねばならぬ。訓練再開による士氣昂揚。

 夕食後巡洋艦「矢矧」から、第二水雷戰隊司令官が來艦され、司令長官と要談される。作戰の詳細な檢討か。

 艦内、きはめて平穩。

 通信參謀から、「艦隊各艦アテ書類アルユエ二一〇〇(九時)短艇用意セヨ」と命達され、艇指揮の指命を受ける。

 艦橋にのぼると、星なき暗夜に、本日の空襲により炎上中らしい微光が二點みとめられる。遠からぬ陸岸か。

 用命を圓滑に達するため、各艦の假泊隊形、風向風速、潮、海圖を確かめ、手帳にしるして舷門におりた。豫想所要時、二時間半。

 使用艇はなじみの一號大發、艇長は手練の椙本兵曹。

 まさに絶好の夜間短艇達着訓練といふべきか。乘艦當初、今日に備へて連日の黎明達着訓練が。重ねられたことを想ひうかべ、感無量。

 艇長も艇員も終始默々として一語を發する者もない。

 散開して假泊する各艦を一順すると、いづれも暗黒の洋上に、動かぬもののごとく鎭坐してゐる。そこに、つゝしみ睡る無數の毅魂。

 歸還して、任務完了を通信參謀に屆ける。十一時半を過ぎてゐた。

 すでに一點の微光もない。眞の暗夜。

 寢室の机に向つて、一日の電測訓練記録を整理する。終つて瞑目、少時。

 やがて春陽も近い。

 わが迎へる春はいづこの春か。

 五日、午前、砲術長から、電測時訓練に關して照會がある。電探大標的を、「矢矧」に曳航させるとき、射距離、曳索長をいかにすべきか、と。

 昨日の決定に基き、艦内各部の訓練が再開され、綜合應急訓練は熾烈を極める。艦長は徹底的に缺陷を指摘し、反覆訓練をつゞけられる。

 錬度いまだ充分でなく、完全なものは何一つない。艦橋は痛烈な叱聲であふれ、殺氣がみなぎつた。

 午後、米機動部隊避退、の報がとゞく。

 沖繩の戰況に關し大本營發表がある。刻々に切迫の度を加へてゐる。

 胸中に火が走る。

 訓練の合間、艦橋で休憩中「櫻、櫻」と叫ぶ聲。見れば三番見張員が、見張用の眼鏡を陸岸に向け目を當てたまゝ片手をあげてゐる。

 早咲きの花か。

 先を爭つてその眼鏡にとりつき、こまやかな花瓣のひとひらひとひらをまな底に灼きつけようと、瞳をこらした。霞む眼鏡の視界のなかで、この見收めの内地の櫻は、誘ふやうに絶え間なく搖れてゐた。

◆ニ

 一次室(青年士官室)で、戰艦對航空機論がたゝかはされる。戰艦必勝論、絶無。

 夜、五時半頃、突如として艦内スピーカーが、

「候補生退艦用意」

「各分隊、酒ヲ受取レ」

「酒保開ケ」

 と矢つぎ早やに令達する。いよいよ出動準備か。

 候補生の退艦用意はきはめて迅速。完了をまつて一次室に招き別盃をかはす。

 航海士鈴木少尉が乾盃しようとして、盃を手からすべらし、床にくだけ散らした。顏色を失ひ、一瞬悄然とうなだれた。

 不吉な兆しだといふのか、この期に及んで、凶兆におびえるとはどうしたことか、そんな輕悔の視線がしたゝかにそゝがれた。

 だが蔑視する者、貴樣らは何を恃むのか。何に依つて、平靜を保つのか。

 たゞおのれの死に、何か一片の特殊をねがつてゐるに過ぎぬのではないか。異常なものを空に描き、その異常の故の亢奮に縋つてゐるのではないのか。

 われを迎へるものは、まさしく死。あの唯一の、しかもあやまつことのない死にほかならぬ。

 この平凡極まる死を、よく受け入れる用意があるといふのか。

 鈴火少尉とそむしろ眞率に、死の正體に眼覺めたといふべきではないか。

 直觀せねばならぬ。おのれを詐つてはならぬ。

 誰の盃もひとしく微塵にくだけてゐる。たゞこのしばらくを、もろ手に支へてゐるに過ぎない。

 死はも早や眞近に明かにあり、さへぎるものも、のがれるすべもない。

 死に面接し、死を捉へぬばならぬ。死こそ眞實に堪へるもの、いな、眞實を強要するもの。も早や僞る餘地はない。

 いまにして、耳目を掩つて死にむかはうと、酒氣を招かねばならぬとは。

 この俺に缺けたものは何か。この弱さは何なのか。

 甲板士官江口少尉が、出動前夜の最後の無禮講を控へて、なほ精神棒をふるひ、兵の入室態度を叱正してゐる。

 老兵が一人怒聲で叩かれ、眸を殺して魯鈍な動作をくり返してゐる。

 苦痛の表情さへ失つたあの老兵も、一日後のわがいのちを知らぬわけはない。そのことを思ひ浮かべても見ないのか。考へつきて惱み呆けたのか。

 おそらく彼の息子にも年の近い若輩の江口少尉、その氣負つた面貌にあふれるものを、覇氣とよび、軍規ととなへるべきか。

 一次室から、所屬分隊の居住地へ遠征。痛飮快飮を重ねる。

 出撃。斗酒なほ辭せず。

 乘員三千、すべて戰友、一心同體。

 廊下で少年兵に遭ふ。一面識もないが、童顏に、微醺のせいか、紅く稚氣をたゝへてゐる。

 きびしく答禮を返し、身をかはさうとすると、閃めくもの――俺たちの墓場はお互ひに遠くはないのだ。俺たちは、ひとつのむくろ――肩をかゝへて、「お前」と叫んでやりたい衝動を辛うじてこらへる。

 十一時、副長がみづからスピーカーを通じて、「今日ハ皆愉快ニヤツテ大イニヨロシイ。コレデ止メヨ」と親しく、つよく命達された。

 血の氣が顏からひき、肩から腕が痙攣する。叱聲、怒聲がとび散り、ひろがつて壁にひゞく。

 この胸のうちに、疼いてゐたあの心は、はたとまなこをとぢた。

 六日、時、驅逐艦一隻づつを兩舷に横付けさせ、全力をもつて、急速燃料搭載、不要物件卸し方の夜間作業を行ふ。

 月明の夜、出撃の氣は艦内に漲る。

 一時頃、B29一機、大和の眞上を通過。「作業ソノマヽ、對空戰鬪配置ニツケ」の命令。しかし高々度のため發砲せず。

 大和偵察の執拗さに齒ぎしりする。

 二時頃、驅逐艦に移乘して、候補生たちは退艦して行つた。なほゆたかな春秋に富む龍駒を、この決死行に拉致するには忍びない。

 大和乘組はかれら宿年の夢想であつたらう。いま出撃といふこの時に、果たしかけた夢を、なげうたねばならぬかれらの心中を想ひやつた。前途よ、洋々たれ。

 最近に、他の艦船に轉勤の命令を受けてゐたものは、この機會に退艦する。渡された横木の上を驅逐艦に移乘してゆくかれらのまなじりには、さいごの時に戰友と訣れねばならぬ無念さもうかゞはれるが、それを見送る甲板上の眸に浮く羨望の色もかくしがたい。

 こちらは死におもむくもの、かれらはともかく安きに身をかはす者である。

 戰鬪に堪へぬ重患者も退艦をゆるされた。足手まとひである。

 四十を過ぎる程の老兵は如何にすべきか。いくさの用には立たず、その家族の上なども思ひ合はせて、この際死出の旅から免れさせることをわれわれ青年士官は艦長に具申したが、幹部協議の末、一部の退艦がゆるされた。

 かれらを見送る頃、不要物件卸し方の作業も終了する。

 大和は刻々に身を固め、戰ひの裝ひをとゝのへる。

 未明、熱料塔載作業終了と同時に、兩側の驅逐艦の横付けを離す。

 矮小な驅逐艦の重油搭載量はいか程のものか。しかもその提供を受けて、辛うじて大和の巨躯が油でふくらんだ。

 恐らくは艦隊保有量の底をはたいての補給であらう。明日からは驅逐艦の鑵は干あがるか。それらを米機は高空から仔細に偵察してゐる。

 朝、スピーカーは舟出の氣勢をこめて、「出港ハ一六〇〇(四時)、總員集合ヲ一八〇〇(六時)ニ行フ、前甲板」とつたへる。艦内の閉鎖状況が重ねて點檢される。

 異常な緊迫を目前に控へた、一種氣づまりな無聊にいつか落ちこむ。と、「郵便物ノ締切ハ一〇〇〇(十時)」スピーカーが流れる。

 郵便物の締切、何の締切か、俺のこの手で書く文字の終止符。

 氣が進まぬが、皆はげまし合つて家にしたゝめようとする。これが遺筆だと知りつくしてゐては筆が走らぬ。だがこの俺の手の一文字をも心待つ人たち。その心に報いねばなるまい。しかし――母の悲しみをどうしたらいいのか。ひたぶるに、はてもなく悲しんでくれる母。さうにきまつてゐる。この歎きを、先立つ俺が少しでも慰めてあげるすべがあらうか。いささかでも、この身に代つて背負ふすべもあるといふのか。

 ない。ないのだ。ないとすれば、何一つお返しもせずに先立つて死に果てるとの俺の不幸を、どうして詫びたらよいのだ。いかにして報いたらよいのだ。

 ――いな、おもてをあげよ。涙をぬぐへ。俺はも早やたゞ出陣の戰士。すでにあるは戰のみ。母を想ふな。打ち伏すおくれ毛を想ふな。

 たぐひなく勁い肉親の愛は尊からう。がそれにつきない。より大いなるもののために斷ち切るとき、いやまさる眷戀の情は、さらに尊ぶに値しよう――

 わが身を鼓舞しつゝやうやく筆を進める。「私のものはすべて處分して下さい。皆樣ますますおげんきで、どこまでも生き拔いて行つて下さい。そのことをのみ念じます」これ以上、書くことばもない。

 ――あゝ、これをよむ人、母上、そこひもない嘆き。泣かれもしよう、喚かれもしよう。私は、默つて、俯して、死んでまいります。いまはこの死が、實りゆたかなものであることを、願ふのみです。幸ひ私の死がそのやうにめぐまれたものであつたら、どうかよろこんで下さい。祝つてやつて下さい。私はたゞ、ひたすらに死の途を歩みます。

 讀む人の心の肌にふれる思ひで、よみ返すことができず、郵便箱に押し入れると、私室をのがれ出た。

 これで、あの親しい人たちと俺とを、うつし世に結ぶ一切のものは失はれてしまつた。俺はいまそのことを知つてゐる。あの人たちは知らない。

 だがいつの日かは知られるだらう。

 知り給ふ日、この身はすでに亡いとすれば、も早や再び、あの人たちと心ふれ、魂を合はすことは出來ぬのか。

 一次室に集合し、恩賜の煙草、酒保の支給を受ける。

 哨戒直や航海科の當直員にあたつてゐて、いち早く配置に就く者がある。かれらはいづれも純白の風呂敷に清裝一揃へを包み、軍刀をひつさげて閾に立ち、踵を揃へて默禮すると、身をひるがへして去つてゆく。

 見送る戰友の口から、「げんきでやれよ」「貴樣らしく死ね」、と餞けのことばが飛ぶ。怒つたかれらの肩は、この荒つぽい別辭を浴びて消えていつた。

 血肉をわけ合つたほどに交りの濃い戰友たち、その訣れにも、肩を叩いたり手を握つたりする者はない。一見固いこの一瞬の底にこそ、かけがいのない者との訣別にふさはしい、何かが流れてゐるのであつた。

 前後二回、B29一機づつの高々度偵察。

◆三

 午後、出港準備作業。ゆくてに入港を約束せぬ出港である。

 身の廻り品を、定められた配置、前檣(前部のマスト)頂上に近い上部電探室に置く。これよりいかなることがあつても、配置を下ることはない。

 兵器の作動、極めて良好。

 大軍艦旗は翩翻とひるがへつてゐる。

 大和はほゞ戰鬪準備を完了した。

 四時、出港、旗艦「大和」第二艦隊司令長官坐乘。これに從ふもの、九、「矢矧」「冬月」「涼月」「雪風」「霞」「磯風」「濱風」「初霜」「朝潮」

 日本海軍最後の艦隊出撃であらう。選ばれた十隻。

 哨戒直に立つ。艦橋(艦の心臟且頭腦)に勤務して、艦内各部の見張員を掌握し、その報告を取捨選擇して、艦長以下の各幹部に復誦し直結するのを任務とする。

 左に司令長官(中將)、右に參謀長(少將)、新參の學徒兵として、この身の幸運を想ふ。

 原速(十二ノツト)で悠々豐後水道を直進する。

 矢は弦を放たれた。

 六時、總員集合。最後の總員集合であらう。

 散れば二度と會することはない。たゞ渾然の氣魄に結ばれるのみ。

 大和は舷側に横波を蹴立ててひたすらに進む。左右の僚艦の艦尾を噛んで白波が數條耀く。いまこそわれらを貫くひとすじのものが、この潮流をおかして驀進する。その途はわが生の有終を飾るべき場、また必定の死につらなる場でもある。

 作戰がすでに發動したため、艦長は指揮所、艦橋を離れられることがない。副長が代つて、聯合艦隊司令長官から艦隊に宛てた壯行の詞を達せられる。本作戰をして戰勢挽回の天機となさん、と。

 君が代奉唱。軍歌。萬歳三唱。

 清明な月光、遙かに仰ぎ見る前檣頭、いまさら何をいふことがあらうか。

 解散して、一番主砲右舷のハツチを下りようとすると、前方の錨甲板に佇む士官をみとめた。月に冴えた頬に、濃く影を落とした太い眉、森少尉である。闊達な人柄と艦内隨一の酒量できこえ、またその美しいいひなづけを以て鳴る彼。

 暗い波間に投げてゐた眸をこちらに返すと、耳元に口を近づけて怒つたやうに言ふ。「俺は死ぬからいゝ。死んでゆく奴は仕合はせだ。俺はいゝ。だがあ奴はどうするのか、あ奴はどうしたら仕合はせになつてくれるのか。……きつと俺よりもいゝ奴があらわれて、あ奴と結婚して、そしてもつとすばらしい仕合せを與へてくれるだろう。きつとさうだ。……俺と結ばれたあ奴の仕合はせはもう終つた。俺はこれから死にに行く。だからそれ以上の仕合はせをつかんでもらうんだ。もつといい奴と結婚するんだ。その仕合はせを心から受ける氣特になつて欲しいんだ。

 俺は眞底悲しんでくれるものを殘して死ぬ。俺は果報者だ。だが殘された奴はどうなるのだ。いい結婚をして仕合はせになる。俺はそれが、それだけが望みだ。あ奴が仕合はせになつてくれたとき、俺はあ奴のなかに生きる。生きるんだ。だがこの俺の願ひをどうしてつたへたらいゝのか。別れてくるとき、自分の口からもくり返し言つた。それからも、何度となく手紙で書いてきた。俺を超えて、仕合はせを得てくれ、それだけがさいごの望みだと。……しかしそれをどうして確かめるのだ。あ奴が必らずそうしてくれると、何が保證してくれるんだ。祈るのか。祈らずにをれない、この俺の氣持は本當なのか。たしかなのか。そして、たゞ祈るだけでいゝのか。自分を投げ出して祈ればそれでいゝのか。どうかあ奴にまできこえてくれと、腹の底から叫ぶしかないのか」

 あらいその聲に涙はない。涙のゆとりはない。彼は切願のあまり、眞實怒りにせきこんでゐる。

 怒りを吐きつゞける彼、うなづきつゝことばもない自分、この二人を蔽ふものは、これが見收めの澄んだ月空。二人の足を支へるものは、今夜かぎり二度と踏むことのない、堅い大地のやうな最上甲板の觸感。

 いひなづけの方、あなたはこよなき愛を獲られた。

 彼の全心こめた祈りは、きゝいれられるだらうか。ききいれて下さるにちがひない。

 彼は怒つたまゝ口を結び、凝然と波頭にみ入つてゐる。漆黒の波間に、はかなく、またたくましくくだける銀白の波頭。

 この目に涙が滲んできて、顏をそむけた。風が頬の涙をつめたく吹き過ぎる。

 好漢森少尉、あすは貴樣も天晴れのはたらきに散り果てるか。

 立ちつくす彼の肩を突き放すと、「ハツチ」に走りより、ラツタルを駈けおりた。

 も早やすべては定まつてゐる。いかにせんすべもない。かれは祈り、ひたすらに祈るだらう。そして散華する。その人が祈りにこたへる。そのやうにしかならぬ。ほかに途はない――

 なにか憤ろしく、床さへ踏み拔きたいもどかしさで走りつづけた。

 たゞちに配置に就く。

 艦橋で作戰談をきく。本作戰は、沖繩の米上陸地點にたいするわが特攻機の攻撃と不離一體の作戰である。過量の炸藥を裝備した鈍重な特攻機にとり、優秀な米戰鬪機の邀撃はまさに致命的である。だが尋常ならばその猛反撃は必至であり、特攻機攻撃は挫折する確率が大きい。そこでその間米迎撃機群を吸收して、その方面を手隙にするための囮が他に必要となる。それは多くを吸收するための魅力と、長く吸收するための對空防禦力を備へたものでなければならぬ。大和こそ最適の囮とみとめられ、その壽命を長引かせるために、九隻の護衞艦が選ばれたのであつた。

 沖繩海面は一應の目標に過ぎず、眞に目指すところは、米精鋭機動部隊の集中攻撃の標的であつた。したがつて全艦とも燃料塔載量は辛うじて往路をみたすのみで、いかにして歸還するかはまつたくかへりみられてゐない。敵地に向けて發進するふねが往きの然料しか持たぬ、これは勇敢といふよりは無暴であり、むしろ自暴自棄である。

 だが萬一沖繩上陸地點に到達しえた場合の積極作戰も、もちろんもくろまれてゐた。大和の主砲による上陸軍の攻撃である。砲彈最大限が滿載され、そのうち徹甲彈(通常艦船撃沈のために用いられ貫徹力大)をもつて輸送船團の潰滅、三式對空彈(航空機撃墜用のもの、彈片はいちじるしく細分しくまなく四散する)をもつて人員の殺傷が期せられた。

 すなはち、まづ全艦突入の對勢により、身をもつて米海空勢力を吸收し、特攻機奏功のみちをひらく。命脈あれば、さらにたゞ突進、敵の眞只中にのしあげ、全員火となり風となり全彈打ちつくす。もしなほ餘力あれば、一躍して陸兵となり、つひに黄土と化する。

 世界海戰史上、空前絶後の特攻作戰であらう。

 はたしてその成否如何。

 士官のあひだにはげしい論戰。わが航空兵力はどれだけあるのか。恐らく零に近いものではあるまいか。

 必敗論が壓倒した。

 大和の出動が當然豫期される諸條件の符合、米軍のこれまでの愼重極まる偵察振り、情報にあるごとく沖繩周邊に待機する優秀かつ大量の機動部隊群、皆無にもひとしいわが制空力、提灯をさげて暗夜をゆくにも劣る情勢といふべきか。

 まづ豐後水道で潜水艦魚雷に傷付くか。あるひは途半ばに航空魚雷に斃れるか。(青年士官のほゞ一致した結論となつたこの豫測は、あまりにも鮮やかに的中した。)

 必敗を根據づけようとする痛烈な作戰討議をかたはらに、哨戒長臼淵大尉は、薄暮の洋上に眼鏡を向けたまゝ低く囁くやうに言ふ。

「進歩のないものは決して勝たない。負けて目ざめることが最上の途だ。日本は進歩を輕蔑してきた。わたくし的な潔癖や徳義にこだはつて、眞の進歩を忘れてゐた。敗れて目ざめる、それ以外にどうして日本が救はれるか。いま目ざめずしていつ救はれるか。俺たちはその先導になるのだ。新生にさきがけて散るのだ。」彼、臼淵大尉の持論である。

 何故日本は負けねばならぬのか、何故俺たちはこのやうにして死なねばならぬのか、この問ひは若い士官たちのあひだに毎夜のやうに持ち出され、時には夜を徹してつきつめた口論が沸騰することもあつた。

 第一線に來て見れば、艦隊の敗戰の状はすでに蔽ひ難く、決定的な敗北は單なる時間の問題に過ぎず、大和に乘組むおのれのいのちもまた旦夕に迫つてゐることは疑ひ得ない。何がもたらす敗北か。何の故の出陣の死か。この敗戰、死は何をあがなひ、いかに報いられるのか。これは執拗に解決を迫る設問であつた。

 敗戰の救ひへの先導、臼淵大尉のこの結論には、それを裏付ける論據と實踐が用意されてゐた。彼は大和きつての勇猛な指揮官であり、總員の士氣をほゞその掌中に握り、かつもつとも俊敏、もつとも進歩的な砲術士官であつた。

 艦隊の先鋒はやうやく水道の半ばを過ぎた。これより敵地に入る。

 潜水艦に對する電波哨戒を始める。徹宵哨戒とならう。

 電探室は、兵器の熱源に蒸せかへり、人いきれに息苦しい。當直には非番の兵四名が、暗い一隅に折重なつて眠つてゐる。

 かれらの肉體はなほどれだけのいのちを保たうといふのか。數時間か、また十數時間か。

 泥のやうに朽ち果てて、そのことも知らぬげに無心に睡り呆けてゐる。すでに疲勞があまりに重いか

 當直員四名は、愼重緊密な探信を行つてゐる。平靜で、訓練時と何ら變らぬ。

 かれらの一擧一動はいま刻々に艦隊を率いつゝある。その運命を導きつゝある。あの終りもないかに思はれた至烈の訓練の成果を示すのはたゞこの時。

 その躯間に漲る生氣、眉間にほとばしる嬉々とした自負、胸中は、傲りを知らぬ集注に充ちみちてゐるのであらう。めぐまれたかれら。

 逆探が潜水艦らしいものを探知した。電探を同方向にむけるとやはり微感度がある。(米艦の輻射した電波をまづ逆探によつて捕捉し、その方向に間歇的にわが電探を指向してこれを確かめる。はじめに電波を輻射してわが所在の探知されるのを防ぎつゝ、米軍の動向を逸早く捕捉するためである)。

 潜水艦は一乃至三方向から終始觸接してくるごとくである。魚雷發射を覺悟せねばならぬ。

 もとより夜間のため視覺兵器は無用。同方向に水中聽音機を指向し、魚雷發射音に備へる。發射音をきけば、音高、音速、音向にしたがつて魚雷をかはす。

 通信科の敵信班が、サイパン宛敵緊急電話を傍受した。暗號文でなく平文で、「大和以下十隻、基準針路何々、速力何ノツト……」 わが足跡を詳細に報告しつゞけてゐる。豫期したところではあつたが、すでに周到極まる觸接が開始されてゐる。

 十一時四十五分、艦橋勤務立直の十五分前、艦橋當直に立てば、電測士甲、大森中尉と交代し電測距離を報告する。

 電探室の張り詰めたカーテンを押しひらき、烈風に吹きつけられるまゝ、一歩一歩ラツタルをのぼる。

 暗雲が月を蔽ひ、いよいよ濃密を加へた視界に一點の光源もなく、無際限の闇黒あるのみ。

 この身は飜弄されて紙のやうにラツタルに纏ひつく。

 ――待て。こゝでさいごの家郷禮拜をしよう。絶好の機會だ。この機を失したならば二度とその機會はあるまい。一人でも目にふれる人があると、神聖をけがすやうで氣が進まぬからだ。あす、日がのぼつてからではおそい――よく氣がついた。ありがたい。

 針路から家郷の方向を推定して正對し、手摺をにぎりしめ頭を垂れた。手摺の鋲の肌が掌に密着してつめたいが、掌のうちはやゝ汗ばんで温い。

 父、母、姉、そして一年前陣沒して今は亡き兄、はつきりとわがみ前に立ち給ふ。

 數々の瞳、面差しが、網膜をよぎつて消える。短いわが生涯に、忘れがたい人たち。

 それらすべての姿は、眼界を蔽ひ、身近くまのあたりに拜せられた。「ありがたうございました」唇が思はず呟きをくり返す。唇は間歇して痙攣を刻んでゐる。

 この我がまゝな幼い自分を、よくもゆるして交はつてくれた方たち。身にあまる御厚意と庇護、そして鞭撻――

 私はいま死んで參ります。たやすい死の途をめぐまれました。死ぬ者は安樂におもむく者です。だがあなた方は、あすからの日々を、いかに耐へいかに忍ばれるでせうか。その艱苦、私などのはかり知るところではありません。

 しかしそこに、ひとすじの光りを希ふことを私にもおゆるし下さい。忍苦の途からひとりのがれてゆく私はまことにふさはしくないけれど、なほ一掬の祈りを汲ませて下さい。あなた方のゆく手には歡びこそ、新生のさちこそありますやうにと――

 いつまでこのやうな陶醉にひたることがゆるされよう。あゝわが知り得た、浴しえた、至幸のとき。

 吹きつのる突風が、片々のこの身を艦橋に吹き入れた。

 艦橋は、鈍い無明のうちに殺氣をはらんでゐる。人の動きはほとんどなく、それぞれのかすかなかたちが影繪のごとく固着してゐる。二十名にあまる士官、下士官、傳令兵が、所要の位置に根を据えてみづからの任務に沒入してゐる。その充實感があふれて息苦しい。

 夜間の識別の便のため、艦内帽の後部に、長官は「シチ」、艦長は「カ」、副長は「フ」と小型の螢光板をつけてをられる。その淡光があたりを領してたのもしいが、わづかに動くと、夢幻のなかの文字のやうに美しく、むしろ微笑ましい。

 あすこそは戰ひの日。ひたすらに、悔いなき戰ひを戰はう。

 いまや虎穴に入らうとしてゐる。

 つひに魚雷發射音をきかぬまゝ、接岸航行に移つた。のちに一擧に航空魚雷を以て屠ることを期してか、潜水艦は偵察を行つたのみで、これまで魚雷攻撃を控へてくれた。意想外のことである。

 水道はやうやく陸岸も高く海邊も深い箇所にさしかゝり、この場合夜間潜水艦にたいしもつとも安全な接岸航行がとられた。

 暗夜のため視界はきはめて狹く、坐礁の危險を防いで陸岸までの距離を愼重に電測しつゝ、極力接岸をはかつて進む。(大和裝備の電測兵器によれば測距の誤差は五十米を出ない)。 

 突入完了まではすべてこのやうに細心周密でなければならぬ。大事の身である。

 大和はもとより攻守の中心勢力。陸測距離を逐一艦橋で報告しながら、この身の重責を思ひ、息をひそめてたかぶりを抑へる。

◆四

 七日「黎明、大隅海峽を通過し、西南進をつづける。

 大和は、塔載してきた〇式水上偵察機一機をカタパルトで射出し、鹿兒島基地に避退させ、むざ/\海底行きの道伴れとなることを防いだ。

 艦隊上空に一機の味方直衞機もない。水上特攻艦隊は一切の空軍援助から見放された。その後二度と味方機を見ることはなかつた。

 だがよし、なけなしの三百や五百の戰鬪機群が出動してゐたとしても、延べ三千機の壓倒的猛襲を前にしては、空拳のあはれさをのこすにとどまつたであらう。

 日の出と同時に潜水艦は電探の感度から消え去り、交替に、マーチン偵察機が觸接をはじめた。艦隊對空砲火の射距離限度附近を巧みに旋回しつゝ追躡をつづける。折を見て發砲すると鮮やかにこれをかはし、ふたたびやゝ近接して追躡をつづけてくる。

 對空用の電探が活躍をはじめた。觸接機の程度の距離のものは、もちろん一機ものがさず、刻々に測距、測角を報じてくる。雲高が低く視界は極端に不良で、對勢は全く不利であるが、觸接機の動靜は手にとるやうに知られる。

 だがその觸接の何と巧妙なことか。天候を利して雲間に隱顯しつゝ追躡をつづける。

 編隊右翼の「初霜」が落伍しはじめた。「ワレ機關故障」の旗旒信號が掲げられる。艦影は次第に遠ざかり、無電は急速修理中の旨をつたへてくる。

 脱落か。凄慘な豫感が背筋をはしる。

 幕僚の動きや、信號の授受はやゝ活溌だが、艦橋はいつたいに極めて平靜、嵐の前の靜けさといふのがこれか。

 朝食。電探室前のラツタルを攀ぢのぼり、電波輻射用ラツパの臺上に出て、顏を潮風にふかれながら握り飯を頬張る。さいごの朝食であるだけに、なにか大空にじかに包まれながらたべて見たい氣特に誘はれたのであつた。

 電探名測手の片平兵曹をよび、膝を接してたべはじめる。母の乳をはなれて朝めしというものをたべはじめてから、けふまでそれを何度重ねただらうかなどゝ、こころ愉しく數へて見たりする。朝飯といふものとももう縁がなくなる、そのことがおかしいことでもあるやうに、笑ひがこみあげてくる。

 だが片平兵曹は、默々と急いでたべおはり、するどく會釋して臺を下りて行つた。こめかみからひたひにかけて、孤獨になりたい焦燥の色がありありとうかんでゐた。

 彼には郷里に懷姙中の妻がある。しかも待ちこがれた初ひ子である。彼はつひにわが子にひとめふれることもなく散り果てるであらう。そのことはも早やうごかしがたく定まつてゐる。

 しかしひとを避けるのはなにゆえか。――士官は手紙の檢閲を通じて部下の下士官の懷情をくま/\まで熟知してゐる。自分より年下のしかも獨身の士官の口から、萬一慰藉のことばでもきかされはせぬかと、それをおそれたのではあるまいか。

 陰性潔辟な彼らしい。だがその偏狹な苦辱の眸のまゝに朽ちるとき、妻のうちによみがへることもかなはぬことを彼は知らぬのか。

 一方わが死を悲しみくれるものは骨肉のみ。彼のごとくに、死にぎわに心を閉ぢさせるほど斷ちがたい糸もない。愛戀の火の燃えるものもない。

 これは幸ひといふべきか、不幸といふべきか。

 散つてうづく嘆きをのこす苦しみと、ただ骨肉の嘆きに送られる安らひと、いづれが生甲斐に價するものか。

 思ひふけりつゝうつろにひらいた瞼は、眠りを求めて熱を含んでゐる。涼風が痛い。

 朝の日がにぶく黄光を波頭に照り返して眩ゆく、それがまたこころよい。まばゆさに吸はれてまなこをとぢると、涙が滲んでくる

 海はあくまで青く、重い波が舷側を打つ。

 九州の最南端の陸岸はすでに艦尾方向に消えた。ふたたび内地を肉眼に見ることはないであらう。刻々に離れて、ただひたすらに離れゆくのみ。

 一點の島影もない。基準進路二百五十度。

 日本の船團と遭遇する。數隻の小輸送船團。どこから還つてきたのか。

 内地ももう間近い。霞む船影、疲れ果てた船あしに、かれらの傷ましい勞苦を想ふ。こゝに辿り着くまで、どれほどの犧牲が拂はれたことか。

 大和に向ひ、「御成功祈ル」と發信してくる。微笑が艦橋に溢れた。

 辛うじていのち永らへ老人が、死裝束の血氣の若者に送る餞けのことば。だがその期待に、われわれはそうことができようか。

「初霜」がいよ/\視界外に遠ざかりつゝある。單獨で脱落すれば米機の集中は必至。これを拾ひあげるため、やがて豫定の變針點に達したとき、反轉して「初霜」の位置まで逆行し、編隊に組入れ、のちふたゝび豫定針路に變針することに一決した。

 九時頃、上部電探(對艦船用)室にゆく。大和は、たま/\艦隊の當直は非番。(十隻を二直に分け、交互に當直に立つて電波哨戒を行ふ)兵たちは勤務から解かれて、默々と配置に坐つてゐる。

 老兵は背を曲げた姿勢で、ぶざまに蹲り、青黒い顏に苦澁をたゝへてゐる。太て/\しく死によりかゝつた投げやりとも見え、また死に打ちひしがれた困憊とも見える。

 數々の悦樂がすべてわが身に喪はれることをかこつてゐるのか。あすから妻子に訪れる難澁の日々を歎いてゐるのか。――叱る氣持も起らぬ。

 恩賜の煙草をくばる。ポケット、ウイスキーをのみ廻はす。

 班長宮澤兵曹は、顏もあげず、「兵器の調子は完璧です」といふ。彼は、結婚四日目にはからずも出撃を迎へたのだ。

 ひとのいいのろけ振りでよく笑はせた彼。

 だが出港以來その精勵さはますます加はり、度を過してすさまじい。少憩中も兵器の調整を怠らぬ。

 勤務をゆるめてふとわれに返る一瞬の空漠が、堪へがたいのだらう。

 傳令が嬉々として、「吉田少尉、今日の夜食は汁粉です」といふ。主計科の兵隊にでもきいたものか。かわいゝ糸切齒を見せて、いさゝか手柄顏。

 彼には班長のことばに出ぬたゝかひも、老兵の心痛も全く意中にない。たださいごの夜食がもつとも人氣のある夜食であることが、そしてそれを誰にでも知らせてよろこばせてやることだけが、重大關心事である。そしてその先にある死は忘れ去られてゐる。――だが突入は今夜半の豫定。夜食まで無事ならば作戰の成功は疑ひない。そのときの汁粉はどんな味がするか。

 九時四十五分、哨戒當直に立つ。自分が大和最後の哨戒直とならうとは、思ひも設けぬこと。

 暗雲はいよ/\低く驟雨がある。視界は局限され、哨戒至難、當直の任務もつとも重大である。

 頬が引きつれる。緊張のあまりか。

 艦橋中央の羅針儀臺に突つ立ち、眼鏡を握りしめる。各部と通ずる傳聲管の蛇口や、夥しい電話機の巣にかこまれ、蹠の痛むまでゆかの格子を踏む。

 對潜哨戒を嚴にする。眼鏡による捕捉は不可能に近い。

 變針して、南進をつづける。沖繩海面に向ふことを隱蔽するため、當初はむしろ西進し、やゝ迂回して南下するコースが選ばれた。その南下直進の針路に入つたわけである。

 晝食は戰鬪配食。片手に皿、壁に倚りかゝつて氣ぜはしい食事。

 最後の飯の味か、(夕食時までこの餘裕が保てるとは思はれぬ)誰もそんな豫感に刺されつゝも、心のこもつた首途のこの銀飯(白米飯)をくふ。さつぱりとしてうまい。

 湯呑になみ/\とつがれた熱い紅茶をすゝる。それはあたゝかく身うちにふれて腹に泌みた。胸のおくに疼くもの。

 食後、艦長を中心に和氣藹々、歡談がかはされる。突然艦長が、「電測士」とよばれる。

 艦長「貴樣は一人息子だつたな」

「さうであります」

「後顧の憂ひなしか、どうだ」(出港數日前、この擧を豫期して家庭の状況を全員に問はれた。後顧の憂ひなし、と私は答申した。)

「ありません」

「本當にないか]

 うなづくも打ち消すもならず、ただ炯々の眼光に一閃たゝへた悲愁の色を直視した。

 勇猛と技倆を以つてうたはれた名艦長が、士官の末輩に至るまで、その身上をいかに知悉してをられたか。いまにして初めて知つた。――「本當にないか」と念を押す、その聲音、こちらが答へられぬと見て、ひときはしみ入る眼光。

 鋭氣俊敏の參謀たちのまなざしも、柔和の光りがうかがはれた。ただ滿腹の倦怠と安堵だけではない。數歩をへだてずに死にゆくわれら弟たちに寄せる、肉親にも近いいたはりのかげであつた。

◆五

 十二時、征途の半ばに達した。

 長官は左右を顧み珍らしく破顏一笑「午前中はどうやら無事にすんだな」

 十二時二十分、電探が大編隊らしいもの三目標を探知する。後部對空電探室から、室長長谷川兵曹のいつも變らぬしづかな濁み聲が流れるやうに測距測角を報じてくる。

 いまゝで無數にくり返された訓練目標射撃に、これと同じ状況、同じ對勢、同じ調子の探信がどれだけ行はれたか分らぬ。今のこの事態こそ、これこそ紛れもない實戰なのだと、自分に承知させるのに骨が折れる。

 目標發見。ただちに艦隊各艦に緊急信號が發せられる。

 スピーカーがその旨を達しをはると、艦内はさらに靜肅の度を加へた。じーんと重い緊張。

 對空戰鬪迫る。探知方向にたいし各部の見張を集中する。

 十二時三十二分、二番見張員の蠻聲「グラマン二機、左二十五度(方向角)、高角八度、四〇(距離四千)、右ニ進ム」

 肉眼捕捉

 ときに雲高は千乃至千五百米、機影發見は至近に過ぎ、照準至難、最惡の對勢。

「今ノ目標ハ五機……十機以上……三十機以上」雲の切れ間から大編隊が現はれ、大きく右に旋回。

「敵機は百機以上、突込んでくる」叫ぶ聲は航海長か。

「射撃始メ」艦長下命。

 高角砲二十四門、機銃百五十門、一瞬砲火を開く。護衞驅逐艦の主砲も一齊に閃光を放つ。

 戰鬪開始。招死の血戰は火蓋を切つた。

 われは初陣。

 肩の肉が盛りあがり躍り出さうとするのを抑へつゝ膝にかゝる重量をはかり、この身は昂奮にたぎりつゝみづからのたかぶりを眺め、奧齒を噛みならしつゝ微笑みをひたひにたゝへる。

 壓倒する騷音のうちに、身近かの兵が彈片にたをれその頭骨が壁を叩くのをきゝ分け、瀰漫する硝煙のうちにその血の匂ひをさぐる。

「敵は電爆混合」甲高い聲。

 編隊の左外輪「濱風」がたちまち赤腹を出す。艦尾を上にして逆立つ。轟沈まで數十砂を出ない。ただ一面に白泡をのこすのみ。

 雷跡が水面に白く針を引くごとくしづかに交叉して迫つてくる。その目測距離と測角を回避盤に睨みながら、艦を魚雷方向と平行に持つていつてぎり/\にかはす。要は見張と計算と決斷だ。

 艦長は最高部の防空指揮所、航海長は艦橋、二者一體の操艦。

 艦長の號令が傳聲管を貫いてわが耳を聾するばかり、語尾がわれて凄まじい怒聲だ。

 爆彈、機銃彈が艦橋に集中する。

 大和は最大戰速(二十六ノット)を振りしぼり、左右に舵一杯をとりつゝ必死に回避をつづける。さすがに艦内の動搖震動は甚しい。

 あはや寸前に魚雷をかはすこと數本。つひに前部左舷に一本をゆるした。

 敵來襲の第一波が去つた。

 傾斜はほとんどないが、後部副砲射撃指揮所附近に直撃彈二發。

 米機はすべてF6F及びTBF。爆彈は二十五番か。(二百五十キロ)

 雷跡は相當顯著だが雷速は從來に比しやゝ速いか。(航海長)

 襲撃はきはめて巧妙、避彈の巧緻、照準の不敵、恐らく全米軍切つての精鋭に相異ない。(參謀長)

 長官は默然と腕を組み微動もせず、參謀長は温顏をほころばせ、虚心に敵をたゝへる。

 航海長、左右をかへりみて莞爾「たうとう一本當てちやつたね。」こたへて笑ふものもない。

 擔架が死體三箇を艦橋から盜むごとく運び去る。機銃彈の彈瘡によるもの。

 それをまたぬすみ見るわが失態を愧ぢ憤りつゝ、一抹の憫情がおのれをあはれむごとく湧きかへるのをどうすることもできぬ。

 測的分隊長傳令、「後部電探室被彈、直チニ被害ヲシラベ報告セヨ」

 後部電探室被彈か。たま/\哨戒直に當つてゐなければ俺は當然そこに配置してゐたのだ。同室勤務の童顏大森中尉、温厚長谷川兵曹、そして部下の誰かれの顏がさつとまな底にうかぶ。

 艦橋後部のラツタルを驅けおりようとすると、手摺右の鐵壁に喰ひ入る肉一片。肱で彈いてゆき過ぎる。

 信號科の下士官が旗甲板から「雷測士、そとは機銃彈でとてもいかんです」と叫ぶ。その叱聲が彈雨の間にち切れて耳を刺す。

 犬死するぞ、と氣づかつてくれたのだ。

 ありがたう。おもてを向け手をかざして、「了解」の意をあらはす。だがそれに反應した動作に移る餘裕はない。

 俺には任務がある。いな。わが身に代つて戰友のあまたが果てたかも知れぬ。危急に驅せる責務があるのだ。

 ラッタルを滑り落ち、硝煙が鼻を衝くうちを走る。手摺にひどく擦りつけた掌の、皮のはげたところが燃えて痛い。

 すぐそばの機銃指揮塔に胸から上をあらはして立つた士官がたま/\振り向く。こちらは走りながら視線がぶつかる。同期の高田少尉。鐵兜をま深くかぶり、淺黒い顏をほころばせて、「げんきでやれや」と喚きながら鞭を振つてくれる。

「オウ」突嗟にこたへて走り過ぎたが、これが大阪ものの、あの善良な高田少尉の見收めとならうとは。

 煙突の下部附近を驅け拔けようとして、助田少尉に遭ふ。白鉢卷から血糊二本をしたゝらし、杖にすがり辛うじて歩いてくる。彼の配置は後部副砲射撃指揮所、直撃彈二發の中でいかにして爆死を免れたのか。唯一の生存者か。

 日頃人なつこく柔和な彼も、鋭い一瞥を投げたのみ。小柄の、雨衣も裂け散つてゆがんだ肩の、うしろ姿が痛々しい。思はず默禮してたゝずみ、氣をとり直して急ぐ。

 電探室前に走り寄つたが、ラツタルの跡形もない。止むなくロープを下ろして滑りおりる。

 堅牢安固の電探室が、眞二つに裂け、上半分は吹き飛んでない。整備に整備を重ねてけふの決戰に備へて來た兵器は、四散して殘骸もみとめられぬ。部品の殘滓さへない。

 朽ちた壁に叩きつけられた、ひとかゝへ大の紅い肉塊。手足や首などの、突出物をもがれた胴體。――あたりにはじかれた四個の肉塊をかゝへて來て前に並べる。

 他の八名は全く飛散して屍臭さへ漂はぬ。何といふ空漠。

 焦げた爛肉に點々と軍裝の被布らしいカーキ色の屑がはりついてゐる。脂臭が芬々と鼻をつく。首や四肢の附け根の位置を確かめ得ぬどころか、四箇の死屍のあひだに何らの判別の手がゝりさへ見出せぬ。ただ芯が燒けて手ざはりも粗い赤肌を撫でまはすのみだ。

 これがあの戰友部下の若い肉體と同じものか。この肉塊はただ、その時を經て變り果てた姿に過ぎぬのか。――信じられぬ。訝しい。

 悲憤でもない。恐怖でもない。ただ堪へ切れぬ不審感。

 ときに脛に無氣味にひびきながら、艦尾方向から押しつぶすやうな音波が押し寄せてきた。顏をあげれば左後方から第二波の來襲。

 俺には艦橋勤務がある。俺の死場所はこゝではない。

 すでに被爆の衝撃もある。やがて彈雲が蔽ひ包むのだ。

 頭を下げ片手を手摺にふれながら狂氣して走る。一切は眼中にない。

 前檣直下のラツタルに躍りあがらうとする瞬時、網膜の周邊が緊張すると、あの機銃指揮塔が片影もない。煮湯を呑む思ひで首を曲げ、まなこをくりあけてみつめたが、深くえぐられたあとには、ただ濛々と白煙が逆卷くのみ。

 一瞬に、彼も部下も塔も根こそぎ奪はれた。

 高田少尉、ゆるしてくれ。あのとき俺は貴樣の激勵のことばにこたへなかつた。激勵を返さずに走り去つてしまつた。

 番頭のやうに篤實で、酌のうまかつた奴。

 目をとぢてラツタルを馳せのぼる。俺の通過がもう數十砂早かつたら、見事貴樣と同體に散華してゐたものを。

 ひるむおのれを鞭打ち敵愾心をかき立て、「總員戰死、兵器全壞、使用不能」と、分隊長に屈ける報告を聲高に繰返しながら、ラツタルを突きのぼる。機銃彈がキン/\と背を叩き、風壓は振り落とさんばかり縱横に煽り立てる。

 ただちに分隊長に報告。

 空戰の利刄、對空電探はかくて緒戰に粉粹された。暗天のもと、蔽ひ迫る米機、ただ肉眼を以て對するのみ。

 耳底に低くさゝやく聲が、消えようとして消えぬ。電測士甲、大森中尉の聲。三時間前、哨戒直に立つ直前に、電話を流れて耳底に殘つた、あのさいごの聲。

「吉田少尉、貴樣には面倒なことばかりさせて、苦勞をかけたなあ……すまんかつたなあ」――さうではない……ちがひます。私こそ怠慢でした。私こそ氣まゝでした。……

「貴樣には……」「貴樣には……」聲が絶えない。ときには笑みを含み、ときには愁ひを含んでこのいのちに觸れ、いのちを責めてさゝやく。

 彼もすでに亡い。彼を死なせて、何をこたへたらよいのか。いかに報いたらよいのか。

 米機の突入はすべて緩降下對勢による。

 日本機のごとく過長の距離を直進することなく、左右に稻妻型に反轉しつゝ突込んでくる。直進してくる目標は、對勢の變化が上下方向だけだが、反轉横向すると左右變化が大かつ速やかとなり、機銃のごとき單純な兵器の照準能力を全く超絶する。

 投雷投彈のためには照準する間、或る距離の直行は不可缺だが、米機はこの不利な對勢をわづかにたもつのみで、たちまち飛燕の肉迫コースに移る。

 機銃彈の彈着状況は頗る不良とならざるを得ぬ。

 かゝる襲撃法はその投雷の優秀、照準の巧捷によるのは勿論だが、雲高が低く主砲の彈幕もうすく、高角砲また屏息して、近接が比較的容易なためでもある。

 さらに機銃員が敵機の過量かつ急撃に眩惑された點も蔽ひがたい。

 吹流しや風船の假設目標にたいする訓練射撃の成果に、一喜一憂してきた機銃員、かれらの目にはまさに一つの驚異、一つの眩覺。間斷もない炸裂の殺到、ゆるみない光、音、衝迫の集中だ。

 五發の發砲ごとに一發づゝ赤色の曳踉彈を發射して、その彈着状況(赤い尾が目標をかすめるのが確認される)により修正を行はうとするが、對勢變化が急激なため容易に捕捉できぬ。

 いたづらに追從するのみ。

 二十五粍機銃彈の速力は、米機のそれのわづか數倍に過ぎぬ。それで曳踉射撃は無理か。

 第二波も、ふたゝび百機以上、左後方。雷撃機が多いか。

 大和に向ふもの、約二十本。左舷に三本をゆるした。後檣附近。

 量の壓倒的優勢は、大和の性能を以てしても、避雷を全く絶望とした。

 まさに天空四周より閃々迫りくる火の槍ぶすま。

 わが海軍に比絶する大和の彈幕は、少からぬ脅威を與へはしたが、米編隊は一部の犧牲をあらかじめ計量して、ことさら迂遠な回避方法をとらず、まつしぐらに照準のベスト・コースをなだれ込む。そしてその間投雷投彈のため素早く直進を行ふや、横向快走して砲火を避けつゝ銃撃を敢行する。

 銃撃はさいごの反轉後直線的に艦橋に迫りつゝ概ね二齊射。硝煙、唸り、火柱が、かれらの息吹きのやうに艦橋の窓めがけて吹きこむ。

 紅潮した米搭乘員の顏がいづれも至近に押し迫つて、面詰されるやうな錯覺を起こす。

 砲火に仕とめられゝば一瞬火を吐き海中に沒するが、必らず投雷投彈を終了してゐる。戰鬪終止までつひに、進んで體當りする輕擧に出るものは一機もなかつたが、任務未了のまゝ撃墜されたものも極く少かつたに相異ない。

 正確緻密沈着なそのコースの反覆は、むしろ端正なスポーツマンシツプの香を放ち、未知の底知れぬ強靱さを祕めて迫つてくる。

 いまやたゞ被害を局限し戰鬪力を温存して相手の消粍を待つほかない。

 二十五粍機銃の三聯裝砲塔(六疊間大)が直撃をくらひ、つぎつぎに空中に數回轉して落下する。機銃員の死傷もおびたゞしい。

 各砲塔の銃口は、指揮塔から電氣誘導により操縱されるためたゞ發射のみを行ふのが常態だが、電波はやがて斷絶して、指揮系統も滅裂、止むなく各個に銃測照準にすがりはじめる。照準はいよいよ不正確を極める。

 萎縮、動搖のきぎしあきらか。

 飛行甲板から白煙が上る。

 艦の左右、前方に至近彈集中、いく層もの大水柱内に突入する。豪雨に數倍する水量が窓からほとばしつて吹きこむ。

 海圖臺は慘憺と水びたしになる。水をぬぐひながら血涙を呑む。

 首筋から胸、腹へと潮水が流れてなまあたゝかく、肌着がすけばぞくぞくする。全身にくまなくしたゝる。あたりの散亂は手がつけられぬ。

 顎紐が顎に喰ひ入つてくる。ぬれた眉は微風にさはやか。

◆六

 第二波が去ると、踵を接して第三波の來襲。左正横から百數十機。驟雨の去來のごとし。

 直撃彈多數、煙突附近に集中命中。臼淵大尉が直撃彈に斃れた。

 死を以て新生への目ざめを切望したあの智勇兼備の若武者は、散つて一片の肉一滴の血ものこさぬ。眞の建設を夢見、その故にこそ敢鬪をさゝげた若者の骨肉は、虚空にあまねく飛散した。

 塚越中尉、井學中尉、關原中尉、七里少尉、……機銃指揮官戰死の報はあとを絶たぬ。

 魚雷、すべて左舷に五本。傾斜計の指度がわづかに上昇しはじめる。

 連續被害のため、應急員の死傷多く、防水遮防作業はほとんど不可能となる。

 ――魚雷命中すれば、防水區劃の一部に浸水する。區劃は細分されてゐて浸水を局限するが、やがて水壓は非浸水區劃との境界の鐵壁をしなはせ、これを潰滅させて浸水を擴大する。そこで非浸水區劃の内側から太い圓材(丸太)を以て鐵壁を支へ、決潰を遮防せねばならぬ。――應急員の任務。

 だが被雷は間斷なく繼起し、浸水は跳梁を重ね、一切を覆滅し去る勢ひ。たゞ兵員の救出に汲々とするのみ。

 すなはち、遮防作業中、附近に被雷が相ついで起る。たちまち水攻めにさらされ、ラツタルをつたつて上方へ、内部へと脱出せねばならぬ。鐵壁に切られた丸窓をくぐり拔け、足元のハツチの留め金をガツキリ締めてそこで浸水を押しとどめる。そしてその壁を遮防線とする。

 だがそのためには、われにつゞいてラッタルを突きあがる戰友の頭を蹴落として、ハツチを閉じる間隙を作らねばならぬ。

 いかに至難のことか。血の出る猛訓練もよく達し得ぬ異常の應急作業。

 いたづらに開かれがちなハッチを拔けて、浸水は奔騰しつゝなだれ込む。傾斜の進行は意想外に速い。すでに五體に不安感がある。

 傾斜が五度に達すれば、戰鬪力は半減する。彈藥の運搬に支障をきたし、重心の喪失感は士氣をそこなふ。猶豫はできぬ。

 浸水した防水區劃とまさに對稱をなす反對舷の區劃に注水し、傾斜復舊をはからぬばならぬ。そのための吃水線の沈下は。――速力の低下は。――萬止むを得ぬ。

 この注水は、注排水管制所の所掌。ランプの指示する片舷の浸水區域を見て、所要の對稱區域に、ボタン一つでたちどころに海水をみたす機能。――この注水の敏捷適確こそ、大和の特技の尤なるもの、しかもそれもはかない希望に過ぎなかつたか。

 後部奧深く位置した注排水管制所が、魚雷二本、直撃彈數發の集中を浴びて、脆くも機能を失つた。

 天われにくみせざるか。

 魚雷及び爆彈の連續集中は最も苦手。あたかもこの要衝の位置を知悉して狙撃したごとき執拗精確な攻撃だ。

 管制所の破壞は、つひに右舷區劃の注水を全く不可能とした。訓練時の想定にはかつてない最惡の不可測の事態。かくも遺憾悲運をきはめた事態が、それのみが唯一の現實とならうとは。

 米軍はよく渾身の膂力を、連續強襲、魚雷片舷集中の二點にそゝいだか。

 艦長が數度「傾斜復舊ヲ急ゲ」と、スピーカーも裂けんばかりにくり返し令達される。

 だが防水區劃の注水はすでに不能となつた。いまや、右舷の防水區劃以外の各室に海水を注入するほか方策もない。

 敵は脚下に迫り傾覆をはかつてゐる。あやふし。いかなる犧牲をも甘んじてこれを恢復せねばならぬ。

 全力運轉中の右舷機械室、罐室に無斷注水する。「急ゲ」と私は電話一本で指揮所を督促した。

 兩室は、海水ポンプで注水可能の、最大最低位の部屋。傾斜復舊に最大の效果が期待されるのだ。

 機關科員數百名が、海水奔流の瞬間、その飛沫の一滴となつてくだけ散つた。奔入する潮のうち、何も見ず何もきかず、人肉はすべて一塊となつて溶け渦流となつて四散したか。沸き立つ水壓の暴威。

 かれらこそこれまで、炎熱、噪音とたゝかひ、默々と艦を走らせてきた機關科員。もつとも勞苦の重い勤務に、汗と油にまみれてひたすら精進してきた兵員なのだ。

 かれらの生命はからくも艦の傾斜をあがなつた。だが走力はむなしく隻脚を強ひられ、速度計の指針は折れたやうに振れてかたむいた。

 第四波、左前方より飛來。百五十機以上。

 魚雷數本、左舷の、各部。直撃彈十發以上、後檣後甲板。

 艦橋は、機銃彈による被害が續出する。目の高さに横にくり拔かれた狹い見張窓から、彈片は削りそがれて無軌道に戯れるやうに噴きこむ。

 彈道がどこからどう貫くのか、皆目見當もつかぬ。避けるすべもない。裸身をつぶてにさらすのみ。

 一瞬、前後、左の三方から落ちこむやうな重壓が來る。後方の兵とは背と胸を接し、左方の士官とは肩を觸れてゐたが、それがそのまゝ倒れてきたのだ。

 振りほどくやうにこの身をぬけ出すと、もたれ合つた三本の背柱は、よじれながら崩れ落ちた。

 前の兵もうしろの兵もぬぎ捨てた服のやうにうごかぬ。即死。

 左方、西尾少尉は、唐突に起きあがり、左膝を立てた姿勢で、右腿部を縛らうと懸命だ。ほとばしる鮮血を吸つて手拭ひが眞紅にふくれあがる。たちまち血の氣が顏面からひく。かなりのふかで――衞生兵をよび、擔架を敷かせる。

 その上にうつ伏すと、顏をあをむけ、何かを見上げるやうにして、かすかに笑みをうかべた。われ悔いなし、の平安か。そのまゝ意識を失ふ。

 眉目秀麗な彼、その散華のさまはあまりに鮮やかで、いまはの微笑がしばらくは瞼から消えぬ。

 三人の肉塊は、尺にみたぬへだたりで、彈道から俺をさへぎつたのだ。

 電探傳令岸本上水(十八歳)が唇をふるはす。纏ひつく肉片や血しぶきに脅えたのだ。しかもつたへる報告にみちた、戰友の悲運。

 一發顎を張りとばして氣合ひを入れてやる。さつと童顏が紅潮する。可愛い。

 降下する一團の飛霰がたび重なるにつれて、艦橋員の損傷はやうやくあらはれてきた。まき散らされた肉片は處理できたが、血痕は痣になつてのこつた。

 すでに人員は半減していちじるしく行動が樂になつたことを感じながら、誰が消えたかをかへりみるゆとりはない。

 上部電探室にゆく。兵器は動搖逸脱して全く使用に堪へぬ。連續被害および本艦發砲の衝撃のためだ。

 至錬の本兵器も、つ心に爲すところなくして止むか。

 きはめて狹い室内に、兵らは重なり合ひ、動搖震動にたへてゐる。これが、日本海軍至寶の電探兵。

 機銃彈々片が側壁を盲貫して闖入してくる。さらに動く者もない。硝煙と火花を吹きつけ森水長の首を掠めてゆかに落下した。耳の下から太く赤い火ぶくれになつた。

 縱順で有能な電探測者森水長。

 うつむいたまゝ差し出すのを取れば、拇指頭大の鋭い一片。手にこゝろよいぬく味がのこる。

 火傷のあとをさすりながら彼はひつそりと笑ひつゞける。

 その後つひに沈沒まで、再びこゝにおりてかれらを脱出させる機會がなかつた。かれらはその姿勢のまゝ、總員、艦と運命を共にしたといふ。妻子ある兵も少くなく、紅顏の少年兵がまた多かつた。

 ただ一人の生存者青山兵曹の言によれば、のち沈沒の寸前、轟々たる爆發音、相つぐ衝撃のうちに、かれらは折重なつて斃れ、默然と死相をさらし、かれが晩出しようとして「行くぞ」と叫んでも、數人の者がたゞわづかに瞳をあげただけだといふ。

 戰鬪中自分の任務を持たぬものには、かゝる例もすくなくない。状況不明のまゝに、ショツク、停電、横轉、被彈、に重圍されると、「今死ぬか、いま死ぬか」の切迫感に堪へ切れず、先づ舌がしびれてくる。次には手足の自由がうばはれ、つひには瞳孔がひらき切る。

 肉體はなほぬくみを保つてゐるが、實はあはれにも死を待ちこがれたむくろに過ぎぬ。

 だが、かれらにまさつて精勵な兵があらうか。この兵らにしてなほ死神に屈せぬばならぬのか。

 魚雷集中。防水の完璧を誇る送受信室が、つひに浸水についえた。通信長以下通信科員の過半をこゝに失つた。

 艦隊旗艦大和に通信機能なし。たゞ發光と旗旒によるのみ。巨人がその耳口を失つて、なほ何をなしうるか。

 傾斜計指度、十七度。實速力、十餘ノツト。

 右舷の注水區域を擴大し、傾斜復舊を急ぐ。

 爆彈集中のため、應急中樞の第二應急部指揮所が潰滅し去つた。内務長以下の應急幹部の根幹、全滅。副長(副艦長、兼、應急防禦最高指揮官)は、たまたま第一應急部指揮所にあつて無事。

 忽忙の間、第五波、前方から急襲。百機以上。

 ときに「矢矧」が、大和の前方三千米に全く停止し、「磯風」を横付けさせようとしてゐる。

「矢矧」に座乘の水雷戰隊司令官が、沈汲寸前の「矢矧」を捨てゝ、「磯風」に移乘されるのか。(司令官の戰死は、作戰の遂行にたいし甚大な支障となる。)

 この状況を見て、大和に突込まうとする米機の一部が、反轉して二艦に向つた。――「矢矧」は魚雷十數本の巣と化し、たゞうす黒い飛沫となづて四散。「磯風」は停止し、黒煙を吐きつゝある。

 右に「冬月」、左に「雪風」が、水柱の幕帶を突破しつゝ大和あてに發信してくる。「ワレ異常ナシ」

 屈強二艦躍の、その名を賭けての力鬪。

 護衞に任ぜられた九隻のうち、その任を果たしつゝ、あるのは、この二艦のみ。他の或るものは姿を沒し、或るものは停り、傾いた。

 二艦の、兵一員にいたるまでの鬪魂と錬度を、思ひみよ。

 落伍した「初霜」は全く消息を絶つた。すでに米機の重圍下、惡戰苦鬪の末、相果てたものか。

 直上に敵機なし。緒戰以來はじめての空隙。

 大和は「もとより少からぬ彈雨を浴びたが、状況すでに不明。艦内の通信機關はまさに寸斷された。指揮統率は尋常でない。

 止むなく無傷の兵を探し出し、肩を叩いて傳令に走らすが、目をはなさぬうちに、ことごとく機銃彈に狙はれてころげ落ちる。巨體の細胞は切りはなされ、脈絡を絶たれ、それぞれ死滅してゆく。

 後甲板、消火にうごめく影。

 機銃砲塔の全壞多く、甲板はたゞ一面荒涼として、鐵塊の龜裂をのこすのみ。

 等身大の細身の人肉が、高く測距儀の袖から垂れさがつて搖れやまぬ。

 漆黒に塗粧した露天甲板は、いたるところくり拔かれ、一面の變色だ。露出した兵器はことごとく損傷し、空中線はその片鱗さへない。

 傾斜過度のため高角砲以上は全く沈默し(運彈不能)、機銃のみ掉尾の血戰。

 艦橋下部に被彈多く、臨時治療室の軍醫官は總員戰死。その他數なき死傷も傳へるにすべなく、さいごのさまを知るものもない。

 すでに多數集積した士官の戰死報告も、やがて中絶するまゝ記憶より脱してゆく。

 艦橋に降りそゝいだ機銃彈はその數を知らぬ。人員消粍ますます甚しい。

 爆彈また眞向からきそひ落ち、吹きつけるつぶてとなつて、ことごとくひたひぎわをかすめ去る。しかも艦橋幹部に一人の死傷者もない。

 初彈以來すでにいくばくの時を經過したのか。瞬時の閃芒か。しからずか。

 胸裡、ひそかに歡心が湧く。いさゝかの疲勞もない。

 空腹をおぼえ、傾斜計をにらみつゝ菓子をくふ。うまい。雨着の兩ポケツトに詰まつた菓子。

 第六、第七、第八波、相ついで來襲。各百機内外、いづれも後方。

 敵はつひにわが鈍足に乘じて舵をくだくか。豫感が背筋を冷やす。

 たがいにせんすべもない。雷跡の綾なす糸をぬけるには、も早や機動力がか細い。

 汗ばむ掌をにぎり合はせ、艦尾の衝撃に神經をとぐ。

 はたして後部に魚雷集中し、艦尾はしばし宙に浮き火柱水柱に包まれる。

 副舵が取舵(左旋回)一杯のまゝ、舵取室を浸水に奪はれる。主舵を面舵(右旋回)一杯としても、固定した副舵が抵抗となりわづかに右旋回をなすのみ。

 一切の行動は左旋回の範圍内に限られる。半身不髓。

 しかも主舵舵取室もまた浸水に瀕しつゝある。

 米軍の來襲作戰は次のごとしか。――量的壓倒による彈幕突破、天候を利しての緩降下雷撃、魚雷片舷集中、傾斜急増による速力激減、鈍速にたいしての必中爆撃、對空兵力の覆滅、後方よりの雷撃による舵の破碎、再び雷爆集中、致命の追撃。

 巨艦、こゝに進退を失ふか。

 直撃彈が、爆彈、ロケツト彈、燒夷爆彈をまじへて降りそゝぎその數を知らぬ。煙突附近より黒煙がのぼる。

 傾斜急増、殘速七ノツト、わづかに左旋回を行ふ。

「霞」が右前方から、「ワレ舵故障」の旗旒を掲げて盲進してくる。おなじく舵をもがれたものか。

 われまた避けるすべもない。不髓のこの身がいら立たしい。

 膽をくだきつゝ辛うじてこれをかはす。

 主舵操舵長(中尉)からの電話が、妙に濕つたひゞきで耳に沁みる。隣室までの浸水をつたへつゝ、その間刻々の操舵を復誦してくる。

 やがてさすがに切迫した聲が、「浸水マ近シ、浸水マ近シ」とくり返す……一瞬の破壞音をのこして、消息を絶つ。

「ワレ舵故障」の旗がするするとのぼる。この旗旒が大和にはためくのも、これが最初、かつ最後。

 不沈の巨艦も、いまや水面をのたうち廻る絶好の爆撃目標に過ぎぬか。

◆七

 傾斜三十五度

 米主力は雲間に集結待機しつゝあるのか。數機ないし十數機づつとどめを刺さんと殺到する。弱體の目標にたいし、效率攻撃。

 われ避彈不能、全彈命中、ゆかに俯して被害の衝撃に堪へる。必中の被彈は、この肌に刺されるにもひとしくむごくこたへる。

 艦長「シツカリ頑張レ」數回繰返される。この聲を聞いたものは何人あつたか。

 電源が斷たれ、令達器は使用不能。肉聲のとゞくかぎりのものがこの聲にわづかに肩を引きしめたのみ。

 中部左舷に大水柱上る。足元をすくはれた薄氷感。

 航海長より艦長へ「いまの雷跡は見えませんでしたか」

 艦長「見えなかつた。」

 航海長「見えませんでしたか」

 この魚雷こそつひに致命傷となつたか。或ひは潜水艦がひそかに近接し集中發射したものではないか。威力絶大。

 傾斜計の指度が目に見えて顯著となる。

 わづかに疲勞をおぼえ、ゆかに肱をつけでよりかゝる。身をなゝめ横たへるのに絶好の傾斜。こゝろも輕い。

 肩で息を吐きながら菓子を頬張りサイダーを呑む。炭酸がのどをはじけて、うまい。自分が喰つてゐるのか。ただ食慾が滿たされてゐるのか。

 ふと、あばらの下から、なにびとかの聲、「お前、死に瀕したもの、死の豫感をたのしめ、死を抱擁しろ。さて死神の顏色はどうだ。……いゝか、お前が生涯をかけて果たしたものは何なのだ。あるのか。あれば示せ。あればうたへ」

 こぶしを胸に合はせ、身を悶えつゝ「俺の一生は短いのだ、あまりに短く、あまりに幼かつた……ゆるしてくれ。放せ。胸を衝くな。いつてくれ。えぐるな。消えろ」なんと弱い呟き。

 周圍の人の氣配は變らぬ。もの憂く見かはして、互ひに生きのこつたことを確かめ合ふ。活動したあとのこの身の熱氣が感應し合ふのみで、それ以上には何もない。

 しばしの虚脱、敵襲も小休止。

 たゝかつた。――濁りない回想。

 あたりはしづか。まことに閑か。

 傾斜計の指度が、この靜寂のなかを、滑るやうに進む。

 副長から艦長に「傾斜復舊ノ見込ナシ」すき透る副長の聲。

 聲高に艦橋一杯にこれを復誦する。

 傾斜復舊不能――沈沒確實――作戰挫折――そして目前の死、――想ひは瞬間に結論をつかむ。だがうろたへるまでもない。みな、引きつれたやうに身を固くしたまゝだ。

 その中を長官の周圍に匍ひ寄るのは參謀たちか。さいごの協議か。

 やがて、いや、一瞬ののちかも知れぬ、長官がつと身を起こす。參謀長が左手を羅針儀に支へつゝ、長官ににじり寄るやうにして敬禮。永い沈默。目が互ひの目を射る。

 長官は答禮を返ししづかに左右をかへりみ、幕僚の一人一人と念入りの握手、一瞬微笑まれたやうに思へたが、長身をひるがへして、艦橋の長官私室へ。(沈沒まで、この部屋の扉は開かれず、また絶え間ない破壞音の故か、自決の銃聲もきかれず、携帶拳銃をすて、身を以て艦の最期を味ははれたか。第二艦隊司令長官伊藤整一中將の御最期。長官はこの作戰に終始反對し、とくに發進時期の遲延をおそれ、しばしば中央に具申したが、つひにいれられす。半日の遲延、これがさいごの痛痕事となつた。その故か、初彈以來、長官は窓ぎわの椅子に腕組みしたまゝ、彈雨血霰のなかを、石のごとく寡默を押し通し、組まれた腕は、この答禮のときはじめて解けたのだ。)

 長官が艦橋をよぎると、副官(少佐)が、終始長官に侍從する任にあるため、死をも共にすべく、身がるにあとを追つた。參謀長が一躍してうしろからがつきとこれを捉へる。ラツタルを二三段駈けおりた副官、そのバンドにむんづと片手をかけ、片手に手摺を握りしめつゝ齒を噛み鳴らす參謀長。

 兩者無言。滿面朱をそゝぎ、氣合ひを應じ合ふこと數秒、つひに副官が顏をそむけつゝゆづる。

 參謀長はこれを艦橋に引きあげてはげしく突き放す。

 艦隊はこゝに首上を、やがて主城を失ふか。

 松本少尉と艦橋後部で遭ふ。顏面蒼白、指をあげて、「俺たちも時間の問題だからな」とさゝやきかける。

 指さすところは艦の後部、乾舷とよばれる最上甲板に、水がひたひたと寄せあがつてゐる。浮城のごとしといはれたあの乾舷。乾舷に波がかゝれば顛覆は確實。

 こゝろやさしき詩人、松本少尉、すでにみづからの過情に斃れたか。

 この時なほ大和の終焉を夢想する氣持さへ湧かぬ。緊張のゆえか。巨艦の雄渾に魅了されたのか。

 艦橋の生存者は十名を出ない。倉皇として脱出しようとする者がある。

 配置を去つてどこに行くか。他に死處でもあるといふのか。

 去るものは去るべきだ。たゞこの得難い寸秒の間、かれらの心中、いさゝかの悔恨もないか。

 このとき、幸ひに泰んじ得られたおのれを何に謝すべきか。

 あたりはいよいよひそやか。もとより戰ひの終結を急ぐ破壞音は止まぬが、このわが耳朶にふれるは優しいしゞまのみ。

 目にうつるものすべてに白光が射し、すきとほり、まなこは、初めて見ることを知つたごとき愕き。瞳孔も、その底までも澄み切つたか。

 ふたゝび胸奧の聲、「お前、憐れむべきもの、つひにむなしく死の軍門に降るか。死にゆくお前を力づける何ものもないか。かへりみてみづからにとるべきもの一片とてないか。」

「待て。待つてくれ。俺の半生はむしろ惠まれたもの。……あたゝかい肉親。すぐれた師友。こゝろよい環境、ゆたかな希望、乏しからぬ資質……

聲「そのどれに眞のお前があるか。それらすべてが、死にゆくお前に加へるものは何なのだ」

 「いや、それだけじやない。さらにかがやくもの。……消えぬもの」

聲「何だ」

 「あの數々の想ひ出……美しく、こゝろひらけ、悔いなき……

聲「眞實か」

 「……どうしたんだ、この不安は、なぜ俺はこんなに、いら立つんだ」

聲「さて……。お前は謙虚といふことを知つてゐるか。お前は頭を垂れたことがあるか。」

 「……あゝ、謙虚……俺。不遜のやから……ゆるしてくれ、辛うじて謙讓といひ得る行爲のたつた一つあつたと、答へさせてくれ」

聲「そのとき、眞に謙讓だつたか。何にたいして……いかに……

 「もうやめろ。詰問するな。俺は自分で自分をさばく。」

聲「は、は、みづからをさばくか。愚かもの。死臭にまかれつゝなほみづからを欺くか」

 「このわづかの安逸を奪つてくれるな。恐ろしい。殺してくれ。懼れから救つてくれ。殺せ」

 艦長「御眞影はどうか」

 責任者九分隊長から、私室に御眞影を奉持してすでに内側から扉に鍵した旨の應信がある。身を以て護られることは疑ひをゆるさぬ。

 見れば航海長、掌航海長(操艦航行の責任者およびその補佐)が、ロープでからだを羅針儀に縛りつけようとしてゐる。もとより萬一浮上するごとき恥辱を、あらかじめ防ぐためだ。

 とつさにこれにならはうとし、かねて用意のロープをまさぐつた。

「何をするか。若いものは泳がんか」參謀長の怒聲が、鐵拳をまじへて降つてくる。からだごとぶつかつてきて、はしから毆りつけられる。

 意をひるがへし、齒をかみくだく思ひで繩を投げ捨てる。止むなく命にしたがつたが、憤懣は消えぬ。今に至つて脱出するとは、何のための特攻出撃か。

 眞實は、數分前、長官をかこむさいごの協議に、作戰中止、人員救濟の上歸投の決定が、爲されたのだ。われわれだけが、それを知らされてゐなかつた。

 僚艦にはすでに、その旨の信號が發せられ、大和の前檣頂の應急燈は、このとき兩側の驅逐艦に、必死に「チカヨレ、チカヨレ」を連發してゐたのだ。(驅逐艦は、沈沒の渦流或ひは誘爆の衝撃をおそれて、敢て近接せず。賢明の策だつた)

 さきに脱出した參謀たちは、一點射しきたる生還の光明を見たのだ。歸投の決定に參加し、身を處して生せながらへる途をさぐつたのだ。

 われわれもそれを關知してゐたらどうだつたか。よく泰んじてこの身の顛倒に堪へ得たか。

 いのちあると知るものは蒼ざめ、いのちなしと氣負ふものはきほひ立つ。

 死出の同志はその半ばを失つていまや必死行に成算もなく、征途また半ばに達して燃料はわづかに歸路をみたすに足りる。――さいごの機會に下された伊藤長官の獨斷、作戟拾收命令。

 狹い視界内を水平線が縱にふれながら壓迫してくる。どす黒い波形がたてにあふれるやうに押しひろがる。傾斜八十度。

 暗號士から、暗號書の處置終了を傳聲管でとゞけてくる。おのれの腕に軍機書類をことごとく抱き、艦橋暗號室に入り内からこれをとざした、と。

 鉛板を表紙に打つて沈降に萬全を期し敵の手中に落ちることを極力防止し、さらに潮水に消えるインキで印刷しかつ文字と異る紙型を重ねて刻印した暗號書、しかもなほ身を持つて機密を保持せねばならぬ。、

 艦長「總員上甲板」さいごの下命。艦長傳令から口傳へで各部に傳へる。

 寥々たる生存者。すでに時期を失したことは明らかだが、たゞ一人でも多く救はうとされたのだ。

 あゝこの時この命令を、「總員退去」の意に解した者、一兵とてあつたか。

 かつてない特攻葬送作戰の、征途半ばに展開した惡戰苦鬪の末に、誰か一縷の生還を期するものがあらう。まして殘存僚艦が、すでに作戰任務を解かれたと知るべきよしもない。

「總員死に方用意」、ひとしく待ち設けたもの、たゞこれのみ。

 大和の最後が數刻おそくとも、燃料は歸還を保するに足りず、殘黨以て突入のほかなかつたのだ。

 どこからか落下してきた暗號書二册を、無意識に海圖臺内に收める。

 艦橋たちまち人影を見ぬ。

 去るべきか、配置。無二の死所、艦橋。

 そこで俺のすることはもうないのか。

 刹那、不覺の焦燥、ゆかの椅子に指をかけ見張臺から脱出する。

 さきの奴のかゝとにしたゝかに蹴落とされ、一度艦橋の底にころげこんだが、「やれやれ」とのどでぼやきながら匍ひ出す。

 うしろに明るい聲、「よし、俺がしんがりだ」通信士、渡邊少尉。(彼は腹まで窓のそとに乘り出したとき、艦もろともに海に呑まれた。氣壓か、水壓か、窓から打ち出されるやうに撥ねて、水中に投じたといふ)窓をよじり出て、さいごにふりむけば、いとしい艦橋が、なにかほの暗く、横轉してひどく狹く見える。

 航海長、掌航海長は、再三の脱出のすゝめもきかず、肩を引く腕もはらひのけ、互ひに身三箇所づつを固縛し合つて、膝をつきあはせてゐる。肩が一つのやうに組み合つてゐる。

 操艦の責めはそれほど重いものか。

 ともにかつと目玉をみひらき、迫りくる海面を睨み据えたまゝ、茂木中佐、花田中尉御最後。

 艦長附森少尉の、沈沒の瞬時まで叫びつゞけた「頭張レ」の聲、兵の肩をどやしつゞけた姿が、いまも髣髴とする。鐵兜、防彈チヨツキをつひに捨てず、敢鬪をつくした彼、こゝろ憎き覺悟。(われわれは艦橋内部の配置ゆえに、かゝる重武裝を持たなかつた。)

 屹立する艦體、露出した艦底、巨鯨などいふも愚か。

 ふと身近に戰友あまたをみとめた。

 彼の眉があまりに濃く、彼の耳があまりに青い。誰も幼い表情、いな、無表情といふべきか。

 誰もが恍惚と、――彼らしいまな差しにふけつてゐる。俺も恐らくさうだらう。

 何にみいつてゐるのか。

 視界を蔽ふ渦、敷きつめた波の沸騰、巨艦を支へる氷かとみまがふその純白と透明。――しかも耳を聾する濤音が一そうの放心脱魂にさそふ。

 見るは一面の白。きくはたゞ地鳴りする渦流。

「沈むか」はじめて、灼くがごとく身に問ひたゞす。

 水が甲板を侵しはじめる。だが、人影がただ波に吸はれてゆくものか。

 打ち出す彈丸のやうに、湧きあがる水壓が人體をはじきとばすのだ。それも思ひ思ひの方向に。

 かるがると彈ねる。樂さうに――と見る間に、五十米の距離を一瞬に渦流はよぎつた。早くも足元に飛沫がせりあがり、いびつな鏡のやうないく面もの水が、(十面もそれ以上も)別々に躍りながら鼻先にきらめく。それぞれがなかに人間を浸し、人間は跳ねてゐるものも、逆立ちするものも――

 この精巧な硝子模樣が、莊麗な泡沫の生地をいろどる。

 しかもその泡にうかべた眞青の縞の、この美しさ、やさしさ、と思ふ瞬間、渦流に逸し去られてゐた。無意識に息を吸ひこんでゐた。

 吹きあげられ、投げ出され叩きのめされるまゝ、八つ裂きの責め苦のうちに思ふ――さいごにちらと見た裟婆よ、ゆがみ顛倒しつゝも、たへなりしその色。――息を詰めた胸に、この色の慰めが明るい。

 事前に遠く泳ぎ得て、この渦流を免れた者は皆無。かゝる大艦の脱出には、三百米の、渦流中心からの距離を要するといふ。救出決定はおそきに過ぎた。

 總員戰死、これこそさだめであつたのだ。

 ときに大和の傾斜はまさに九十度(かゝる例稀有、一般艦船は三十度で沈むのを常とする)、主砲々彈が、彈庫内で横轉し、細い尖端の方向に滑つて、天井に激突、誘爆を若起。

 未曾有の例のため、この椿事を夢想する者もない。

 艦すでに全く水中、身もまた渦中、

 一發一艦必轟沈の徹甲彈、一發一編隊必墜の三式彈、計二千發を下らぬ。

 先づ前部主砲彈庫が誘爆した。沈沒後約二十秒か。

 沈沒前ならば、爆風直截のため、人肉はすべて彈片と化して四散しただらう。水流がわれわれを弄びつゝよく風壓を減殺してくれたのだ。誘爆なかりせば、もとより渦流のうち、急轉海底に沈降するほかない。

 あなや覆らうとして赤腹をあらはし、水中に沒するとたちまち、一大閃光を噴き火の巨柱を暗天ま深く突き上げ、砲塔も砲身も、全艦の細片がことごとく舞ひ散つた。

 さらに底から湧きのぼる暗褐の濃煙が、しばしすべてを噛みすべてを蔽ひつくす。

 火柱は實に六千米(驅逐艦航海士の觀測)

◆八

 鹿兒島よりよく望見しえたといふ(のち新聞紙にも報道)先端を傘のごとく開き、その中に米機多數を屠つた。

 前部彈庫一方の誘爆のみでは、吹き起こす力が濁流に及ばなかつたのか。渦の中を引きまはされつゝ、やがて全身に異常なシヨツクを感じ(このとき爆風が吹き過ぎた)反對方向に逆卷かれると、頭上にうごめく厚い障壁に突きあたつた。――これこそすでに浮上して火雨の洗禮にさらされつゝある戰友のむくろだつたのだ。かれらは、身を以て、火箭から守つてくれたのだ。

 そのうちふたゝび水面近くから引きもどされた。

 約二十秒後、さらに後部彈庫の誘爆。爆風はこの身を水面に押し流した。

 だが艦體の蔭にあつたわれら少數のものを除き、すべて身を彈巣となしたらう。またわれわれのみが水中爆傷をかはすことを得た。

 艦橋上部の構造物に密着した者こそもつとも安全にいく重にも守られ、先に脱出しながら甲板に近付いたものは、近付くに從つて風壓に暴露したのだ。

 しかもわれわれとて身にいさゝかの彈瘡を帶びぬものはない。傷あさきもののみがよくその後の苦鬪に堪へ得たのだ。

 俺もつむじの左に長い裂傷と火傷とを受けた。のち軍醫官の診斷によれば、破片は相當大きく、たゞ頭部に切線方向に接觸したため致命傷を免れたといふ。

 接觸時にはわが身もまた疾風のごとく吹き廻されつゝあつたが、それと彈丸とが切線方向にふれる確率はどれ程のものか。

 人と生れて切線なるもののお蔭を蒙らうとは。笑ふべきか。

 煙突に呑まれたものも極めて多い。恐るべきその吸引力(五歩右にあれば私も危かつた。歸還後、全生還者について、入水のときの位置をしらべたが、煙突の周圍は廣範圍の空隙をなしてゐた。)

 火柱が逆落とした吹き落ち、赤熱の鐵片木塊が沖天に飛散し轟々落下して、辛うじていち早く浮きあがつた多くの戰友を殺傷した。

 渦中迂回の末さいごに浮上したわれわれはその灼熱の空を見ず、たゞ濛々たる硝煙を仰いだ。

 煤煙はやがて潮に斷たれて晴れ渡り、一面に泡立つ重油のうねりをのこすのみ。

 渦に卷かれながらの、この身の責め苦にひきくらべ、何と他愛もない想ひが浮き立つてゐたことか――サイダーが十センチほど殘つてた……菓子も五袋はあつた……沈沒場所の水深、四百三十米は海圖でたしかめたが、この勢ひで落ちてゆけばどの位かゝるものか。……四百三十米の距離感……

 だが呼吸が、つまつてきた。二度目のシヨツク後間もなく、つひに衝きあがる胸苦しさが口元までこみあげ、ガバと水を呑みはじめ――鼻と口から、ふいごで吹きこむやうに海水が入る。その顎のうごきを無意識にかぞへる………………十五……十七……この分じや、からだじゆうが水であふれるまで、死ねんのだらう。まだか……まだだめか……殺せ、殺してくれ……目のふちがうす明るく、瞼の裏が黄色く、鼻孔のきな臭さが苦悶をぼかすやうで、足元もかるく、何もかも夢心地にかすみはじめ――ぼかつと、水面に出た。

 誘爆が五砂おそくても敢へなかつただらう。

 落下する火柱にあたらぬほどに迂回し、しかも呼吸の極限までに浮上したもののみが救はれたのだ。

「薄明るくなつたので、やれやれ冥途かとホツとしたよ」と渡邊大尉。「ナムアミダブツと、二度言つたやうな氣がする。念佛のことなんか考へたこともなかつたが」と迫候補生。

 かく重疊した僥倖の、どの一つを缺いても、ふたたび日を見ることはできなかつたものを。

「大和轟沈 一四二〇(二時二十分)」敵味方同時に飛電を發する。間斷なき對空戰鬪二時間、ここに終止。

 重油がしみてまづ目が開かぬ。息を吐きながらこじあけ、耳をぬぐひ、漂ふこと數分――なんだ、まだ裟婆か、冥途じやなかつたのか、浮きあがつためか。また生きるんだな、畜生――

 細雨降りしきる洋上に、重油、寒冷、機銃掃射、出血、鰭とたゝかふ。

 ま近に見れば、灰色に光る波、うねりも荒く、重油を纏ひ密にねばる外洋の波。泥糊のごとき重油層。一面の氣泡、漂ふ無殘の木片。

 放歌してみづからはげますもの。この身の重さに喘ぐもの。哀れ發狂して沈みゆくものもある。(重油の吸收は生理に異常をきたす)

 重油の黒一色のため流血は見えぬが、深傷の者は苦しみ方がせはしい。

 元氣過ぎて餘り跳ねるものは鱶の餌食となるのか、瞬間に吸ひこまれる。

 若い兵の多くは、母を戀ふらしい斷末の聲をひき、力つきて沈んでゆく。天をつかむやうにさし上げたもろ手が、むなしくぬけ落ちる。それに笑ひ狂つた唱聲がまじる。

 聲がわたる。「准士官以上は姓名申告。附近の兵をにぎれ」叫ぶあの頭から耳へのかたちは副砲長か。

 ――さうだ、俺は士官だつた、兵隊をにぎる、一人でも多く收拾して次の行動を待つ。――俺はいま何を放心してゐたのか。

 聲をからして、眼鼻もわかちがたい兵を集め、抑へ、しづかに、何ものかを待たせる。

 脚絆をといて筏を組み、重傷者を拾ひあげねばならぬが、木塊はことごとく四裂して、筏に堪える長さのものがない。

 重油に刺された目は、うねりをこえて波間に何を求めるか。――

 大和の艦影。鼠色の鐵塊。立泳ぎで伸びをしながら、憑かれたやうにさがし求める。

 ある筈もない。無情な波のかなたに、あるのは泡、泡。

 この足の踏まえてゐたものが消え失せるとは、何と想像もつかぬ寂莫なのか。

 機銃掃射。心地よげな機影。海面を流れ過ぎる彈あしの帶。恐怖はない。――俺をよけてゆくのが不思議だ。

 醜怪な漆黒の頭、顏面、その飄逸さにふつふつと笑がこみあげつゝも、舌端は無念の火を吐き舌打ちをつゞけ、絶えずあたりを睥睨する。

 肌着までとつぷり水びたしになる。齒の根を鳴らし、こぶしを固めてかち合はせつゝ寒さに呻く。わけのわからぬ無念と、どうにもならぬ寒さと。

 後生大事にまたがつてゐた椅子の切片がしきりに沈み、したゝかに水を呑まされる。苦澁のあまり手を離して見ると、忽ちひとりで沈んでいつた。クツシヨンの藁に海水が沁みこんで重くなつたものだらう。わざわざおもりをかゝえてゐたにもひとしい。

「御苦勞樣」聲に出して自分を慰めてやらうとしたが、聲がのどにつまり笑ひはひたひにかたまつて、こめかみがわづかに顫へただけだ。

 あたらしい木片を求めようと身を轉ずると、身近かの兵の視線に遭ふ。魚のやうな臆病小心の眸。「安心しろ。お前なんかいぢめんから」さう呟きつゝよけて泳いで、やうやく細片數個を捉へる。

 兩脇にはさんでから振れ向けば、その兵は體をひねつたまゝこちらをすかして見てなほ憎々しげだ。よく見れば、通信科の少年兵だ。少年。

 何がこれ程までに、彼の血相を變へさせるのか。それはもうどうすることもできぬのか。

 何ものかが胸をつき、立泳ぎの足先をじりじりと曲げて、これに堪へる。

 凍死は睡るごとく深く安らかだといふ。このまゝ睡魔のおとづれを待てばよい。

 だがむらがる兵の、重油に濁る目、喘ぐ口、この執念をいかにすべきか。

 望むべくは、時を得てたゞ死を潔くすることのみ。ひたすらにかくみづからを鞭打つ。

 ふと思ふ。この貴重の時。眞の音樂をきくのは今を措いて他にあらうか。

 聽かう。心さへ直ければきける。一瞬を得るのだ。

 自らの音樂を持たなかつたのか。すべては僞りだつたのか。

 ――待て、今きこえてきたもの、たしかに、バッハの主題だ。

 ――ちがふ。作爲だ。眩覺じやないか。

 いな、思ふな。構へるな。

 あゝこの時、わが身の救はれることを思ひ知つてゐたら、果してよく晏如を保ち得たらうか。

 見よ、俺に向つて笑みかける顏。童顏の、あの少女のやうな野呂水長。

 直接の部下ではなく、たゞ艦橋で數度傳令に使つたことがあるのみ。利發謹直、拔群の模範兵、彼。

 丸顏の頬のかたはらに浮沈みする黒い木片。ほころぶ口元にかすかに齒の白さ。

 俺が濁流からぬけ出したことを喜んでくれてゐるのだ。この眸、無私無心の笑ひよ。反射的に釣りこまれて笑ふ。

 ふと涙ぐみ、涙あふれ、やむなく鼻を重油に漬けて顏をそむけた。――も早やともに死の手中にある俺たちが、こんなにゆたかな生をたのしむのはふさはない。――こらへるべきか。

 この笑は、この涙は、いかなる心情か。

◆九

 驅逐艦(月型)が全速で直進してくる。餘りにまともに艦首を向けてくる。救はれやうもないくせに、今更ら回避するのもおかしいが、兵をつれてわづかながら針路から遠ざかる。

 至近まで來て面舵一杯をとり、艦尾を大きく左に振る――漂流者の間を縫い、逞しい波をかき立てて滑り去つた。

 俺たちはその降り斜面の半ばに漂つてゐた。ここから數メートルふねに近くその波の頂きより向ふに出たものは、スクリユーに根こそぎ吸ひこまれた。

 信號兵を總動員して、五箇の手旗が、「シバラク待テ」を發信してゐる。信號兵が旗をふりながら機銃彈でころげ落ちるのがよく見える。「シバラク待テ」――勇躍(俺たちを救ひ、戰鬪員を補充して突入するか)

 軍歌をやめさせ、兵をはげまし、きたるべきものを待たせる。おのれのいのちに沒してゐる兵たちの目には手旗信號のうつるゆとりもない。

 驅逐艦停止。空爆下決死。

 泳ぎ着かねばならぬ。目測二百メートル。

 はやる兵を抑へ、木ぎれを押し合つて泳ぎ進む。あせるのは禁物。餘力を盡瘁して、ゆきつくと力つきるのは分り切つてゐる。長い戰鬪と漂流、肉體はも早や極限にある。

 雨着の裾、編上靴の重み、脚絆の煩はしさ、重油。飴の中を歩くにもひとしい。

 二百メートルを泳ぎ切る永さ。漂流の全時間にもまさるか。

 漂流時間――渦に落ちてから、事實はすでに三時間近くを經てゐたのだ。

 だが實感では、せいぜい二十分足らすだ。この忌まはしい時間を、かくも逆に短くうけとるのは何ゆえか。――徹底した空虚の故。全き虚無的消耗の故だ。

 命の綱を前にして、赤裸の人間を見る。

 重油いよいよ濃く、波艦體に打ち返り、惡感が背筋を走つてやまぬ。

 人を求め、聲を求めて見上げれば、焦慮たゞ堪へがたい。つれなくそゝり立ち、蔽ひかぶさる艦體。

 眼底灼け、下肢はすでに麻痺感がある。

 泥油にちぬられた綱、掌、群がりひしめく力。綱も掌も重油にしたゝつてゐる。

 先頭切つてゆき着いた兵二人は、綱にとびつき、ずるつとそのまゝ、姿を沒した。――(助かつた)といふ氣のゆるみ。二どと浮きあがることはあり得ぬ。

 三人目をうしろからかゝへ、右手首に噛りついて齒のかどで油をそぎ落とす。皮ごと剥ぐかも知れぬ。血のにじむほど綱を捲きつけてやり「あげーえ」と甲板に叫ぶ。一本の手首が辛うじて一人の體重を支へる。しづかに綱が引かれる。

 と、その足首にしがみつく奴。靴は綱よりもすがり易い。引きあげられる奴の靴底を見のがし得ぬのだ。一本の手首は、二人の體重を支へ切れぬ。どうとはづれて、そのまゝ。

 次からは、一人をあげさせると、下に構へてゐて、まとひつく腕をなぐり返す。

 綱を見上げる目の執着の光り。かれらのこの生きんとするちから。尊いか、みにくいか。思ふな。一人でも多くの兵を救ふんだ。

 生きんとするかれらは必死、生かさうとするわれも必死。格鬪。

 ふと氣付くと、兵の影がない。いく名救へたか、わづか四名か。――過半數はむなしく水中に沒し去つた。

「急げ、急げ」と叫ぶ聲。甲板からだ。艦はしづかに前進をはじめた。

 目の前に繩梯子一つ。ゆがんで垂れさがり、位置は艦尾にもつとも近く、スクリユーの渦はすぐ身近かだ。さいごの、ぎりぎりの機會。

 のめるやうにくひさがる。兩手六本の指の第二關節が、わづかにかゝる。下半身を波が洗ふ。

 ほしいまゝに浪費を重ね、ひとをなぐりつゞけてきた膂力が、いよいよおのれを支へるとき、このか細さはどうしたことか。衰へ、つきんとし、生へのわが執着を試みるかに、ぬけ去る。死力をつくして、この身とたゝかふ。

 放してやれ、まゝよ、この指先きを、たゞわづかにゆるめただけで、それだけで――樂になるんだ。樂になりたい。樂になれ。死んでやれ――あゝ死のいかに甘く、いかに安易なことか。

「がんばれ、がんばれ」甲板から、耳を突き刺す兵の聲。兵ともつれ合つた俺の振舞ひも目撃してゐたのだ。眞情に生きたこの激勵。

「生きろ、生きろ、こゝまできて死んで相すむか。死んでゆるされるか」身うちに叫ぶ聲。

 初めて、眞に初めて、生を求める意地がカツとひらく。

 生きたい希ひじやない。生きねばならぬ責務だ。

 肉體が消えて、魂魄がやうやくに燃え、すべてを奪はれたとき、眞のおのれが殘つた。

 血と油にまみれ、繩にからまれた俺にあるものは、あの消えることのない火、止まぬ傾きのみ。

 いまこそ死ぬべきとき、死をゆるされるとき。故にこそまた、生きるとき、生きねばならぬとき。

 たゝかつて生きるか、くじけて死に果てるか、長い苦鬪の果て――二名の兵が兩手にとりつき、繩からもぎとつて甲板に投げ出す。倒れたまゝ顏をあげる力もない。たゞもうこの身を支へねばならぬことからまぬかれたのだと、とけるやうに全身に感ずる。

 俺は、生きるべくさだめられたものか。

 兵が軍裝をぬがせてくれ、のどに指を入れて重油を吐かせ、「貴重品はございませんか」ときく。貴重品どころか。その持ち合はせもない。毛布をまとはせてくれる。

「頭を怪我してをられます。治療室へ」と注意され、片手をあげると、指が二本きづの中に入る。痛みもない。氣もつかなかつた。

 治療室を求めてゆくと、死屍壘々。いく度もつまづき倒れる。奮戰隨一の「冬月」だ。

 倒れてゐると、突きとばすやうにしてゆく士官の横顏。「田邊少尉」なつかしい學友。さうだ、かれは「冬月」の航海士だつた。

 全身重油まみれのこの姿を眺めまはして、「何だそのざまは」と哄笑する。だが彼こそ狹い廓下を膝で歩いてゆくじやないか。恐らく自分では氣付いてゐまい。數十時間、重要勤務に頑張りつゞけたのだ。足が立たず、膝をひきづつてゐる。

 そのくせ人を笑ふとは。

 治療室で、傷を縫合して貰ふ。軍醫官二名、しめた鉢卷が血しぶきに染まつてゐる。部屋の一隅は、天井から坂をなして死體の山。目藥を刺す。

 艦内は、血なまぐさいなどと生やさしいものじやない。青臭く、のどがむせる。

 作戰變更をきく。突入にあらす、歸投と。聲もなく唇をかむ。

 發熱、相當。過勞と重油吸收のためか。惡感が止まぬ。

 士官寢室に辿りつき、倒れるごとく折重なつて寢る。

「大和の乘員きけ、元氣なものは本艦の作業を手傳へ」怒鳴りこんでくる山森中尉、自分も辛うじて壁によりかゝつて立つてゐる。無念の形相だ。誰もからだがいふことをきかぬ。

 夜通し、「配置ニ就ケ」の緊急ブザー、「對潜戰鬪」の號令をきゝつゞける。「雷跡右四本」などとつたへる聲、惡夢のやうにきく。――もう泳ぐのはたくさんだ。こんどこそ死んでやる。

 ――終夜の潜水艦攻撃をからくも切り拔けた。被雷二本はいづれも不發でことなきを得た。

 艦隊中殘存艦は「冬月」「涼月」「雪風」「朝潮」の四艦。「冬月」は「霞」を「雪風」は「磯風」をそれぞれ處分する。

「霞」「磯風」は停止のため、放置して敵に捕獲され、機密の洩れるのを防ぎ、敢へて撃沈するめだ。

 横付けは五分間、かけられた二本の横木の上を、士官はすべて軍帽をつけ軍刀を提げ、公用書類を手に移乘してくる。五分を經過すれば殘員の有無にかゝはらず横木を叩き落とし、儀禮的に一周ののち、手練の魚雷一閃、處分を了る。

「涼月」、准士官以上總員、死傷、しかも機械、罐故障、「冬月」あてに、「ワレ後進シテ鹿兒島ニ向フ」と發信してきた(のち修理に成功、佐世保に變更。)

「冬月」「雪風」、八日朝佐世保に入港、「朝潮」同日晝、「涼月」薄暮、炎上のまゝ沈みつゝ入港し、たゞちにドツクに入る。

 副長、「雪風」の短艇に救助された。あの痩躯で、しかも下部の配置から、いかにして脱出されたのか。

 特攻作戰ゆえに、艦長の戰死は必至だ。戰鬪經過報告(きはめて貴重)および艦一切の殘務整理等、すべての責任は副長にある。これらはすべて充分豫期してゐたのだ。

 やうやく救助艇に達したが、力つきて、まさに沈まんとするのを引きあげると、すでに困憊その極に達し、全く意識なく、やむなく毆打をつづけつゝ艦に急いだといふ。ひたひから後頭にかけて、長い彈瘡。

 艦長附森少尉を洋上に目撃した兵がある。彼は濁流をのがれながらも、つひに還らなかつたのか。死をねがつて、過たずゆき着いたか。

 瘡が深かつたか。武裝が重かつたか。

 或ひは舷側で兵は救はうとし、鼓舞叱咤、その職に斃れ、その任に殉じたか。

 いかに彼、死に挑み、正對し、たゝかひ、それをかち得、かくして生をつくし生を全うしたことか。

 大和最後尾の機銃群指揮官、兵器が被彈して作動停止するや、部下の全員を砲塔下に集め、菓子を分け恩賜の煙草一本をのみまはしたが、何か心殘りあるかに思ひ、尿意だと氣付せ、一列にならび一齊に放尿した。そして總員肩をそろへ波濤の上に倒れた。だがかれのみ兵のさいごを見とゞけんと二、三歩おくれたためか、寸秒の間、ひとり微速に回轉するスクリユーに捲きあげられ、兵すべてを捲き落としつゝ、はからずも渦中から掬はれた。

「世にも恐ろしい巨大なものが眼前に迫つて、ハツト俺は氣を失つてゐた」と彼はいう。右肩から左脇腹に袈裟掛けに裂かれたが、武裝に守られて瘡も淺く、化膿を免れたのだ。

「朝潮」救助艇艇指揮「船べりに手をかけてどうしても離れん奴がゐるから引上げてやつたが、えらい苦勞した。」漂泊生還、數度におよぶ測的分隊長だ。しかも及ばす、治療室に運ばれたとき、すでに呼吸なし。人口呼吸二時間。

 よく蘇生はしたが、苦悶の状、なほ見るに堪へなかつたといふ。水中爆傷による胸腔壓迫だ。

 彼、半年前、驅逐艦先任將校として南海に轉戰したとき、集中爆撃を受けて撃沈されたが、甲板上にあらかじめ用意した筏を以てその乘員の大半を救出し、漂泊しつゝ僚艦を待つた。逃走中の海防艦に遭遇するや、これを横付けさせ、總員移乘してたゞちに戰鬪配置につき、みづからは艦橋にのぼり操艦および砲戰指揮を行ひ、氣魄と錬度とを以てよく危機を脱し歸投したといふ。剛睫氣鋭の彼、一觸人を斬り肺腑に迫る。

 八日、朝、一夜を睡つて體力は全く恢復したが、目が痛い。甲板に出て顏を洗ふ。陽光がしみる。

 内地の山の美しさに思はず嘆息をあげる。「やつぱり生きるのもいゝなあ」

 だがこの春陽の明色は、數なき死のかたはらになほ保たれたわがいのちを愧ぢさせるほど、かがやかしくはればれしい。

 大和の乘員總員集合。言ひ放つ副砲長。「貴樣らにはひと仕事したといふやうな色が見える。そんなことでどうするか。いまこそいよ/\貴樣ら古強者を必要とするのだ。すぐにでも俺について突つ込んでゆく。いゝか。」

 同夜から佐世保軍港外の病院分院に入り、傷の治療をうける。

 白衣の身、波近き病棟、花匂ふ夜、思ふこと多し。何か不甲斐なさに堪えず、病院長に願ひ出てとくにゆるされ、治療の途中から呉に赴き、新任地を求める。

 副長「より以上の死に場所を得る。それで何をいふことがあるか」。

 素志を達して、ふたたび特攻隊配屬となる。

 休暇を賜はり、電報を打つて故郷に旅立つ。――父上、母上、諦めてをられるかも知れぬ。よろこびの心構へをしていただかねばならぬ。

 家に着く。父、「まあ、一杯やれ」。母は――状差しに私からの電報を見つけた。文字が形をなさぬまでに涙ににじんだその一葉の紙。こんなに自分の死を悲しんでくれる魂のあることを、俺は少し忘れかけてゐはしなかつたか。一場の戰鬪に傲りかけてはゐなかつたか。頭の傷を、誇つてはゐなかつたか。内地の人の堪へてゐる生活の眞實を、少しでも汲まうとしてゐたのか。

 あの數日の體驗、この乏しい感懷が、死線を超えた實感なのか。

 さうじやない。

 俺たちは萬に一の生をも期することはゆるされなかつた。みづから死を撰んだんじやなく、死に捉へられたのだ。

 精神の死といはんよりは肉體の死。人間の死といはんよりは動物の死。

 これほど安易な死はあるまい。

 一瞬とて死に直面したことがあつたか。出港以來みづからを凝硯したことがあつたか。その間に、一刻の生甲斐をも感じ得られたか。

 俺を死との對決から救つたものは、戰鬪の異常感だ。また去りゆく者の悲懷、あきらかな祖國の悲運だ。

 ひるがへつて、あの報いられぬ無數の戰災の死を思ひ見たことがあるか。

 自分の周圍にあのとき、父が、母がゐたとしたらどうか。脱出の機會、生還の餘地があつたとしたらどうだつたか。

 悲慘な生活のうちに果てるとしたならどうだ。ただ値もない犧牲となると想へばどうだ。

 あの俺の位置に立つて、俺のごとくに振舞はぬものはあるまい。婦女子といへどももとよりしかり。

 必死の途はきはめて容易だ。死自體は平凡かつ必然だ。死の尊ふべきは、ただその自然さによる。大地自然が尊ばれるごとくに。

 しかり。死の體驗の故に俺たちを問ふな。あれは死じやない。いかに職責を全うしたかを、その行ひのみを問ふてくれ。

 俺は果たして分をつくしたか。分に立つて死に直面したか。いな、唯々諾々と死神に屈したのではなかつたか。特攻の美名にかくれて、死の掌中に陶醉したのではなかつたか。

 ほかでもない、薄行の故だ。

 俺は日常の勤務に精勵だつたか。一擧手一投足に至誠をつくしたか。一刻一刻に全力を傾けたか。

 しかしこの試錬を賜はつたのは何ゆえか。

 一たび死の與へられた幸運を謝すべきか。或ひはついに死を奪はれた僥倖を謝すべきか。

 間髮、幽明の岐路、暗鬪のうちに逆行すればどうだつたのか。俺を迎へたものは死か。あの忌まはしく貧しきものが死か。死か。

 思ふな。死はも早やお前にかゝはりはない。この時を、不斷眞摯への轉機となせ。

 死は身に近ければむしろわれより遠ざかり、生が完きとき初めて死に直面する。

 眞摯の生、それのみが死に對する正道。虚心。眞摯。――徳之島西方二十哩の海底に、埋積する三千のむくろ。かれら終焉の胸中はたしていかん。

底本:「軍艦大和」銀座出版社

    1949(昭和24)年810日 発行

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🔵戦艦大和は不沈艦だったのか

毎日新聞・データでみる太平洋戦争

http://sp.mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data5.html

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70年前の194547日、沖縄を目指した戦艦大和が航空攻撃を受け、九州・坊ノ岬沖で乗員2740人と共に撃沈された。上空直援のない裸艦隊の出撃は無謀でしかなかったが、メンツにこだわった海軍は「一億総特攻の先駆け」とうそぶいた。この海上特攻作戦で、巨大戦艦が撃墜したとされる敵機はわずかに3機。就役後3年半足らずの生涯のうち、世界最大の46センチ主砲が敵戦艦に火を噴くことはついになかった。国家予算の4%強の建造費をつぎ込み、大艦巨砲主義の誇大妄想が生んだリバイアサン。大東亜共栄圏を夢見た日本の象徴は、無敵の〝不沈艦〟だったのか。データをひもといてみた。【高橋昌紀/デジタル報道センター】

◆◆米軍編隊、効果的に大和を挟撃

1分間に13本の魚雷投下し次々命中

海軍の公式記録である「軍艦大和戦闘詳報」(1945420日作成)によると、第1遊撃部隊による沖縄突入の海上特攻作戦で、戦艦大和が上げた戦果は撃墜3機、撃破20機とされている。戦訓として、同詳報は米軍機の被弾・防火対策がほぼ完全だったと指摘。「機銃弾は相当命中し火を発するもの多数ありしも間もなく消火し 撃墜に至らざりしもの極めて多かりき」(一部略、原文はカタカナ)という。

米軍はまた、戦闘機・爆撃機・雷撃機を組み合わせた対艦攻撃法に習熟していた。編隊は高性能の機上レーダーに誘導され、敵艦隊上空に到達。各機は高周波無線機を搭載しており、戦闘空域にいる機上の「攻撃調整官」がタイミングを計り、効果的に攻撃目標を振り分けた。直援機のない水上艦艇にとって、同時多方向からの統制された攻撃を回避し続けることは難しかった。

戦史研究家の原勝洋氏は戦例として、第84雷撃機中隊(空母バンカーヒル所属)の記録を挙げる。計14機が小隊ごとの5編隊に分かれ、大和の左舷側を3編隊、右舷側を2編隊が個別に挟撃。わずか1分ほどの間に13本の魚雷を投下し、計9本の命中を報告した(報告に重複があったと思われる)。これは日本艦隊に対する第2次空襲(47日午後057分~同127分)の一部で、同時に参加した第84戦闘機中隊も通常爆弾14発の投下、ロケット弾112発の発射の記録を残している。

◆情報戦で既に敗れていた日本艦隊

日本艦隊は情報戦の段階で、既に敗れていた。海上特攻作戦は突然に決まったため、物資補給に関する交信などが急増。米軍は暗号を解読(通称「マジック情報」)し、その意図を45日には察知されてしまった。6日午後320分の出撃直後には豊後水道で、哨戒中の米潜水艦2隻に発見される。

「大和出撃」の報に米第5艦隊のスプルーアンス大将は、第54任務部隊(旧式戦艦10隻など)に迎撃準備を命令した。しかし、第58任務部隊(正規空母7隻など)のミッチャー中将は戦艦に対する絶対的優位性を証明するため、独断での航空攻撃を決意した。大和が引き返すことを恐れ、潜水艦に攻撃禁止を命じたという。

大和最後の出撃航路

◆大和側死者3721人、米軍は12

7日午後034分、大和は主砲による対空射撃を開始。3次にわたる空襲を受け、約2時間後の午後223分に転覆した。損害には諸説あり、「軍艦大和戦闘詳報」は魚雷10本、爆弾6発とする。第1遊撃部隊(戦艦1、軽巡洋艦1、駆逐艦8)の残存艦は駆逐艦4隻のみ。大和の2740人を含め、計3721人が戦死した。米軍は計367機が出撃。10機が撃墜され、戦死者は12人だった。

大和の損害

◆鈴木貫太郎〝終戦内閣〟組閣 戦局逼迫に「一同唖然」

47日の帝都・東京。4カ月後にはポツダム宣言を受諾する鈴木貫太郎内閣が組閣された。親任式後の控室で、閣僚らに海戦の結果が伝わってきたという。

「一同は、そこまで戦局が逼迫(ひっぱく)していたのかと唖然(あぜん)とした」

内閣書記官長(当時の官僚トップ、現在の内閣官房長官の前身)となった迫水久常氏は後に回想している。

「この戦艦大和沈没の悲報は、国民の間に大きな信頼を獲(か)ち得ていただけに、これからの一つの使命を暗示しているように感じたのであった」

◆◆1933年、海軍軍縮派を一掃

◆「海軍無制限時代」に突入

「ワシントン海軍軍縮条約」(1922年)と後の「ロンドン海軍軍縮条約」(1930年)により、列強の海軍力には制限が加えられた。しかし、軍整備は天皇の大権に属するとして、「統帥権干犯問題」が政争化する。海軍内では国際協調路線の「条約派」に対し、戦備増強を唱える「艦隊派」が反撃。1933年に大角岑生(おおすみ・みねお)海相により、「条約派」の提督たちは一斉に予備役に編入されてしまった。この「大角人事」を経て、日本は軍縮条約を破棄。「ネイバル・ホリデー(海軍休日)」は終わり、世界の海軍は無制限時代に突入する。

大和型戦艦の建造について、海軍航空本部長の山本五十六、海軍省軍務局長の豊田副武(そえむ)らは反対を唱えたという。だが、帝国海軍は航空主兵論をしりぞけ、大艦巨砲主義を固守する。

◆大和1隻の建造費で何が買えたのか

国家予算に占める割合

大和型戦艦の2隻(大和、武蔵)は1937年の第3次海軍軍備充実計画(通称・マルサン計画)で、建造が決定された。1隻当たりの予算は11759万円に上り、その年度の国の一般会計歳出(決算ベース)では約4.3%を占める。

これはどの程度の規模なのか。JR東海によるリニア中央新幹線(品川―名古屋)の土木工事費(駅舎、車両などを除く)は約4158億円。国の一般会計予算(2014年度計約958823億円)と比べると、約4.2%に相当する。感覚的には大和1隻の建造費用はほぼ、リニアの建設費に匹敵するといえよう。

この大和型戦艦2隻の予算要求に対する大蔵省査定において、海軍は〝ごまかし〟をした。すなわち、駆逐艦3隻と潜水艦1隻の予算を架空計上。大和型戦艦の建造費は過少(35000トン級戦艦並み)に見積もった。これは予算額から、実際の大きさ(64000トン)を推察されることを避けるためだった。大和型戦艦の秘匿対策は徹底しており、艦載した世界最大の46センチ主砲は書類上は「九四式四十糎(センチ)砲」と命名された。

大蔵省(現財務省)査定ごまかし

◆「大和は昭和3大バカ査定の一つ」

貴重な国力を費やした巨大戦艦は、華々しい戦果を上げられずに水没した。

19871223日未明、東京・霞が関の大蔵省。88年度の政府予算大蔵原案の説明会の席上、整備新幹線計画(510兆円超)の採算性を批判する同省の田谷広明主計官はたとえ話をした。

「昭和の3大バカ査定といわれるものがある。それは戦艦大和・武蔵、伊勢湾干拓、青函トンネルだ」「航空機時代が到来しているのに大艦巨砲主義で大和、武蔵をつくった」

◆◆世界最大の主砲口径46センチにこだわり

◆敵国艦隊の「弱点」突くつもりが

なぜ、日本海軍は世界最大の砲口径46センチ(18インチ)にこだわったのか。それは仮想敵国の〝弱点〟に由来する。米海軍は太平洋と大西洋に分断されており、当時のスエズ運河の閘門(こうもん)幅は33.3メートルだった。通過するために艦の大きさが制限され、主砲の搭載能力に影響した。その最大値を日本海軍は40.8センチ(16インチ)と判断。当時の米英海軍の主力艦の砲口径も実際、その数値だった。これを上回ることで、建艦能力の差がもたらす数的な劣勢を補おうとした。大和型戦艦は相手の射程外からの「アウトレンジ」攻撃を期待し、同級戦艦の46センチ砲からの打撃にも耐えられるように耐弾防御を施す。

主砲の射撃は

射撃データ入力

斉射(一斉射撃)

着弾観測

射撃データ修正

斉射

の繰り返しとなる。敵艦の前後を砲弾が包み込む「挟叉(きょうさ)」を続けていくうち、やがては命中弾を得られるようになる。しかし、敵艦は回避運動をとるかもしれない。自艦も動いている。風速、波浪などの自然条件も影響する。

さらに46センチ砲を最大射程4万メートル超で射撃した場合、砲弾(1.46トン)が着弾するのは約90秒後。有効射程とされる2万~3万メートルにおいても、30秒前後かかるという。敵艦の未来位置を予測し、命中させるには神業的と言える技量が要求された。

砲弾到達図

◆係留しているだけで燃料大食らい

一方で、交戦時には、敵弾を回避するための操舵(そうだ)性能が要求される。大和型戦艦1番艦の大和は就役前の公試運転で、20ノットで転舵したところ、艦首が回頭を始めたのは約40秒後だった。最大速力27ノットでは約90秒後にもなった。基準排水そ量64000トンという巨大さは当然、機動性の低下をもたらした。空母が中心の高速機動部隊に追随するには速力が十分ではなく、艦隊運用は難しかった。燃費は1リットル当たり62センチ。航行しなくとも、港に停泊しているだけで自家発電用などに重油を消費した。ちなみに、より小さい長門級戦艦(32720トン)でさえ、150トン消費したとされる。前時代的な大艦巨砲主義に基づいた大和型戦艦は就役後も、金食い虫だった。

連合艦隊は大和を温存。将兵は皮肉を込め、豪華装備の巨大戦艦を「大和ホテル」とあだ名した。

全長 263m

最大幅 38.9m

公試排水量 69,100t

満載排水量 72,809t

重油搭載量 6300t

航続距離 16ノットで7200海里

速力 27ノット

基準排水量 64,000t

軸馬力 前進153,445馬力

乗員数 2,500人(就役時)

主砲 45口径46cm3連装砲×3

副砲 55口径15.5cm 3連装砲×4

高角砲 12.7cm 2連装×6

機銃 25mm 3連装×8 / 13mm 連装×4

飛行機 水上偵察機・観測機×6

◆◆すでに終わっていた戦艦の時代

◆航空機、潜水艦の餌食に

太平洋戦争開戦劈頭(へきとう)の19411210日、日本海軍基地航空隊は英東洋艦隊のZ部隊を壊滅させた。3時間足らずで、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈。「戦争の全期間を通じて、私はそれ以上の衝撃を受けたことがなかった」と英首相ウィンストン・チャーチルを涙に暮れさせた。

英海軍によるタラント空襲(194011月、伊戦艦3隻撃沈破)、日本海軍による真珠湾空襲(米戦艦4隻撃沈破)は港内に錨泊(びょうはく)中の艦隊に対する攻撃だった。しかし、このマレー沖海戦では史上初めて、航行中の戦艦が航空攻撃のみで撃沈された。大和就役は6日後の19411216日。既に戦艦の時代は終わっていた。

欧州海域では独海軍の「ビスマルク」が英空母機の魚雷攻撃でかじを傷つけられたために航行の自由を失い、優勢な英戦艦隊に捕捉された。姉妹艦「ティルピッツ」はフィヨルド内に退避中、大型爆撃機からの特殊爆弾「トールボーイ」に転覆させられた。ソ連海軍「マラート」は独空軍ルーデル大佐の急降下爆撃を受け、大破着底。伊海軍「ローマ」は独空軍の誘導爆弾「フリッツX」のたった1発の命中で、轟沈(ごうちん)してしまった。

真珠湾空襲の第1航空艦隊航空参謀などを務めた源田実(戦後に航空自衛隊航空幕僚長)は戦時中、大和型戦艦を揶揄(やゆ)したという。「ピラミッド、万里の長城と並び、大和と武蔵は『世界三大無駄』の一つだ」

◆日本海軍 決戦の主力は戦艦

時代の変化に順応したのは真珠湾で痛打された米海軍で、

低速の旧型戦艦は陸上砲撃支援

高速の新型戦艦は機動部隊護衛

――と新たな役割を担わせた。日本機動部隊を率いた小沢治三郎中将は「敵の輪形陣(空母を中心とした隊形)を鉄壁としているのは、戦艦群である」と指摘する。味方航空機による上空直援があれば、戦艦は本来の打たれ強さを発揮できた。

日本海軍はしかし、期待できる航空戦力を失っていた。艦隊決戦の主力は日露戦争の時代と変わらず、戦艦に担わせるしかなかった。194410月の一連のレイテ沖海戦で、日本海軍が喪失した戦艦は3隻。大和型2番艦の「武蔵」は空襲を受け、シブヤン海に沈んだ。史上最後の戦艦同士の砲撃戦が起き、扶桑型戦艦の「扶桑」と「山城」が夜間に米旧式戦艦6隻の待ち伏せを受け、全滅した。日本海軍はお家芸とした砲雷撃戦においても、新式レーダーを装備したうえに数的優勢に立った米海軍に敵し得なくなっていた。

◆第ニ次世界大戦中に海没した主な戦艦

ロイヤル・オーク[]

アドミラル・グラフ・シュペー[]

コンテ・ディ・カブール[]

フッド[]

ビスマルク[]

アリゾナ[]

オクラホマ[]

レパルス[]

プリンス・オブ・ウェールズ[]

比叡[]

霧島[]

陸奥[]

ローマ[]

シャルンホルスト[]

武蔵[]

扶桑[]

山城[]

ティルピッツ[]

金剛[]

信濃[]

グナイゼナウ[]

アドミラル・シェア[]

日向[]

伊勢[]

榛名[]

主砲:Cm×門数 / 基準排水量:トン

軍港内での大破着底を含む

出典:「世界の戦艦プロファイル」など

日本の連合艦隊は戦艦10隻をもって、太平洋戦争に突入した。開戦後に就役した大和型2隻を含めると計12隻。4年足らずの戦いで、残存したのは1隻だけだった。その「長門」は1945915日に艦籍を抹消され、大蔵省財務局の管理下に移された。4671日。マーシャル群島ビキニ環礁での原爆実験で、「長門」は標的艦の1隻に使われた。呉軍港に擱座した戦艦3隻は47年までに解体され、各27004400トンの貴重な鋼材を得ることができたという。

◆◆末期には、大和の廃艦を検討していたが

◆昭和天皇「もう艦はないのか」で「海上特攻」へ

戦艦大和を軍港に係留し、浮き砲台とする――。

事実上の〝大和廃艦〟を大戦末期の19451月、日本海軍は検討していた。南方油田地帯からの輸送ルートはほぼ途絶。「戦艦ヲ主トシテ燃料ノ見地ヨリ第二艦隊ヨリ除キ軍港防空艦トス」(「第二艦隊改編要領」)。この結果、第1戦隊(戦艦3隻)の「長門」は横須賀、「榛名」は呉に回航された。ところが、大和だけは残された。連合艦隊首席参謀の神重徳(かみ・しげのり)大佐は「大和ヲ旗艦」として、「第二艦隊ヲ特攻的ニ」使用したいとの意向を明らかにしたという。

1945329日の東京・宮城(きゅうじょう)。3日前に沖縄に上陸した米軍を迎撃する「天一号作戦」について、海軍軍令部総長の及川古志郎大将は昭和天皇に奏上した。航空機による特攻作戦を徹底的に実施するとの及川総長の説明に対し、天皇は「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」と下問したともされる。奏上の結果を伝達された連合艦隊司令長官の豊田副武(とよだ・そえむ)大将は同日夜、緊急電報を発した。

「怖レ多キ御言葉ヲ拝シ、恐懼(きょうく)ニ耐ヘズ」「全将兵殊死奮戦誓ツテ聖慮ヲ安ンジ奉リ」「作戦ノ完遂ヲ期スベシ」

1遊撃部隊(大和と第2水雷戦隊)には45日午後、出撃準備の命令を下した。豊田長官は再び、全軍に電報を発する。

「皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ」「帝国海軍力ヲ此ノ一戦ニ結集シ光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揮スルト共ニ其ノ栄光ヲ後昆(こうこん)ニ伝ヘントスルニ外ナラズ」「以テ皇国無窮ノ礎ヲ確立スベシ」(GF機密第〇六〇〇〇一番電)

◆目的地到達前に壊滅必至もメンツにこだわり

海上特攻は実施部隊の意向とは異なるものだった。第2水雷戦隊(古村啓蔵少将、旗艦は軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」)の司令部は独自に検討を重ね、突入作戦が目的地到達前に壊滅することはほとんど必至との結論に達していた。43日には「水上部隊は兵器・弾薬・人員を陸揚げし、残りは浮き砲台とする」との案を第2艦隊司令部に意見具申。同意を得ていた。

しかし、出撃命令が先んじた。連合艦隊参謀長の草鹿(くさか)龍之介中将が大和に出向き、第2艦隊司令長官の伊藤整一中将の説得に当たる。「一億総特攻の魁(さきがけ)となってほしい」。草鹿参謀長自身も海上特攻には否定的だったが、伊藤長官に懇請したという。

5航空艦隊司令長官の宇垣纏(まとめ)中将は独断で、出撃した第1遊撃部隊の上空直援(7日午前610時)を行った。大和沈没を記した7日付の日記。

「全軍の士気を昂揚(こうよう)せんとして反(かえ)りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐(ふくしゅう)の念を抱かしむる外何等(なんら)得る処(ところ)無き無暴の挙と云(い)はずして何ぞや」

〝大砲屋〟である宇垣長官は、戦艦は野戦7個師団に相当するとし、大和も決戦のために保存すべきだったと指摘。昭和天皇の下問に「海軍の全兵力を使用する」と無思慮に奉答してしまい、無謀な海上特攻に至ったとして、及川総長を批判している。

戦後、大和特攻を回想し、もう一人の海軍トップ、豊田長官は吐露した。「成功率は50パーセントはないだろう。うまくいったら奇跡だ、というくらいに判断したのだけれども……(後略)」

◆◆大和の真実「片道燃料」はうそだった

◆タンクに6割以上の4000トン搭載

片道燃料での特攻出撃――。大和をめぐる「伝説」のなかでも、特に有名なものの一つだろう。事実は異なっていたようだ。確かに連合艦隊は第1遊撃部隊の搭載燃料を片道分の2000トン以内とすることを指示(GF機密第〇六〇八二七番電)。しかし、連合艦隊参謀の小林儀作中佐は戦後に証言する。

「呉のタンクは350万トンあったが、当時は大部分が空になっていた。しかし、タンクの底はおわんを伏せたように山型になっているので、両サイドには油がたまっている。武士の情を知らん様なことはできない。タンクの底の重油を集めれば約5万トンの在庫があった。『緊急搭載であわてて積み過ぎた』ということにした」(一部抜粋)

担当の呉鎮守府補給参謀の今井和夫中佐をはじめ、同鎮守府の参謀長や先任参謀、第2艦隊先任参謀の山本裕二大佐らも、承知していたという。この結果、第1遊撃部隊には計1475トンが補給された。大和への割り当ては4000トンで、燃料タンクの6割以上に達する。矢矧は1250トン、駆逐艦は満載だった。

元海軍軍令部員(中佐)の吉田俊雄氏によると、警戒や戦闘行動時には燃料消費量が急増するが、満載の3分の2の重油があれば往復は可能とみられる。沖縄への往路の5分の3で沈没した駆逐艦は、油を34割程度消費していたという。

1遊撃部隊の出撃時における燃料積載状況

「バカ野郎」激怒した大井参謀

「人情美談といえばそうともいえる。(中略)しかし、お涙頂戴や武勇伝で戦略指導ができるものではない」。海上護衛総司令部参謀の大井篤大佐は指摘する。総司令部は島国日本のシーレーン防衛を担っていた。ところが大和の特攻に必要として、重油割当量7000トンのうち約6割が割かれることになった。

この重油は中国大陸からの物資輸送、日本海での対潜水艦哨戒に役立つはずだった。「大和隊に使う4000トンは、一体、日本に何をもたらすのだろう」。45日付の豊田長官の訓示(前述)を連合艦隊参謀から聞き、大井大佐は激怒する。

「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。バカ野郎」

46センチ主砲が火を噴いたのはたったの1

戦艦大和の46センチ砲が敵艦に火を噴いたのは、たったの1回だった。レイテ沖海戦におけるサマール沖海戦(19441025日)で、主砲用1式徹甲弾104発、3式通常弾6発を砲撃。戦艦「長門」「金剛」「榛名」、重巡洋艦「羽黒」「利根」などを含めた第1遊撃部隊(栗田健男中将)は合計1300発以上を発射した。ただし、米海軍が失ったのは護衛空母「ガンビア・ベイ」と駆逐艦2隻、護衛駆逐艦1隻の4隻でしかなかった。このうち駆逐艦「ホエール」について、「日本戦艦戦史」(木俣滋郎著)は大和の副砲がとどめを刺したと記している。

◆◆山折哲雄=戦艦大和「いびつな時代」の「いびつな象徴」

宗教学者・山折哲雄さんインタビュー

日本人にとって、戦艦大和とはどのような存在なのか。〝不沈艦〟を生み出した天皇主権下の日本を「いびつな時代」という宗教学者の山折哲雄さん(83)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

宗教学者の山折哲雄さん=京都市中京区で2015323日、後藤由耶撮影

◆戦後70年の今を生きるために必要な三つのこと

戦艦大和とは日本そのものでした。大和という国土を象徴し、大和という民族を象徴していたからです。世界で最大最強の不沈戦艦だった。だからこそ、最初の朝廷が置かれた奈良の古代名が与えられたというわけです。大和という言葉は、日本人そのものの源流につながっている。「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」と、本居宣長は詠みました。大和という言葉を耳にして、日本人は何がしか自己の根拠にふれた感情を抱かざるをえない。1隻の戦艦としての存在をそれは超えていた。海戦の主役が航空機となっても、日本海軍の象徴であり続けたというわけです。どうも、富士山との共通性を感じますね。古来、日本人は山を神とあがめてきました。その中心が富士山でした。巡洋艦や駆逐艦を従えて海上を突き進む戦艦大和の勇姿(ゆうし)はまるで、富士山のように輝きそびえていたことでしょう。

「巨大なるもの」への根強い信仰が、日本人にはもともとあります。大和朝廷創成の記紀神話で、天照大神に「国譲り」をした大国主命(おおくにぬしのみこと)は非常に大きな神様でした。皇孫である聖武天皇は「国家鎮護」を祈り、大和の中心に当時最大の盧舎那大仏(東大寺)を祀(まつ)りました。ところが、そうした「巨大なるもの」の傍らに、「小さきもの」が存在していたことに注意しなければなりません。大国主命には少彦名命、そして盧舎那大仏には釈迦誕生仏です。

「巨大なるもの」をあがめる一方で、こうした「小さきもの」をいとおしみ、大事にするという心性です。たとえば一寸法師、桃太郎、瓜子姫などを例に挙げ、そうした日本人の特質を解き明かしたのが民俗学者の柳田国男でした。戦艦大和の場合はどうでしょうか

 日本人にとって、戦艦大和とはどのような存在なのか。不沈戦艦を生み出した天皇主権下の日本を「いびつな時代」という宗教学者の山折哲雄さん(83)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

 戦艦大和とは日本そのものでした。大和という国土を象徴し、大和という民族を象徴していたからです。世界で最大最強の不沈戦艦だった。だからこそ、最初の朝廷が置かれた奈良の古代名が与えられたというわけです。大和という言葉は、日本人そのものの源流につながっている。「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」と、本居宣長は詠みました。大和という言葉を耳にして、日本人は何がしか自己の根拠にふれた感情を抱かざるをえない。1隻の戦艦としての存在をそれは超えていた。海戦の主役が航空機となっても、日本海軍の象徴であり続けたというわけです。どうも、富士山との共通性を感じますね。古来、日本人は山を神とあがめてきました。その中心が富士山でした。巡洋艦や駆逐艦を従えて海上を突き進む戦艦大和の雄姿はまるで、富士山のように輝きそびえていたことでしょう。

 「巨大なるもの」への根強い信仰が、日本人にはもともとあります。大和朝廷創成の記紀神話で、天照大神に「国譲り」をした大国主命(おおくにぬしのみこと)は非常に大きな神様でした。皇孫である聖武天皇は「国家鎮護」を祈り、大和の中心に当時最大の盧舎那大仏(東大寺)を祀(まつ)りました。ところが、そうした「巨大なるもの」の傍らに、「小さきもの」が存在していたことに注意しなければなりません。大国主命には少彦名命(すくなひこなのみこと)、そして盧舎那大仏には釈迦誕生仏です。

 「巨大なるもの」をあがめる一方で、こうした「小さきもの」をいとおしみ、大事にするという心性です。たとえば一寸法師、桃太郎、瓜子姫などを例に挙げ、そうした日本人の特質を解き明かしたのが民俗学者の柳田国男でした。戦艦大和の場合はどうでしょうか。3000人を数えた乗組員たちは、一人一人がまさにいとおしき「小さきもの」たちでした。しかし、「巨大なるもの」はついに彼らを守ることができなかった。時の軍事権力が国威発揚を担わせた不沈戦艦があっけなく、沈没してしまったからです。「大きなもの」と「小さきもの」との美しい均衡は戦争になっては崩壊せざるをえなかったということです。

 わが国には「パクス・ヤポニカ(日本の平和)」と呼ばれるべき時代がありました。大きな戦争がなかった平安期の350年間と江戸期の250年間です。それは宗教的な権威と政治的権力が見事にバランスがとれていたため、実現しました。それが、天皇と藤原摂関家の関係であり、また天皇と徳川将軍家の二重構造でした。権威と権力が一つに集中することなく、社会のバランスが保たれていた。カトリックとプロテスタントの両派に皇帝・国王たちが入り乱れて世界を二分した西洋におけるような破滅的な宗教戦争は起きなかった。この日本の「パクス・ヤポニカ」の安定した状態が危機に陥るのはしばしば、強力な専制君主が現れたときです。承久の乱(1221年)を起こした後鳥羽、建武新政(1333年~)を断行した後醍醐の時代がそれで、この時2人は権威だけでなく、権力を手に入れようとしました。

 そして、明治天皇の時代がやってきます。維新後の天皇は国家神道の祭司長であり、近代憲法の主権者となった。世界は帝国主義の時代になっているということもあり、それに対応する独立国家としての西欧化が必要だった。しかし、この時1000年以上の間、根付いてきた「神仏習合」を否定したことは、破滅的な影響を与えました。

 当時の日本の支配層が西洋のような神道の一神教化を目指したということもあった。このことは日本人の美徳である異なる文明への寛容性を損ねることにもつながりました。かつての大和朝廷は中国の律令制度を導入しましたが、政治を混乱させる宦官(かんがん)制度は受け入れませんでした。自分の背丈に合わせ、制度や文物を受容してきたのです。その柔軟性が徐々に失われていったということです。西洋からは近代思想だけでなく、植民地思想も学んでいますが、「和魂洋才」と言いますか、そこに和の魂を一本通すことを怠ったといえるかもしれません。日本はその後、過度の集団主義へと傾斜していき、たとえ天皇が権力を振るわなくとも、天皇と一体化した政府・軍部が天皇の権威をかさに着て戦争の時代に入っていく。天皇を「玉」と呼び、まるで将棋の駒のように扱い操作する。

 太平洋戦争における敗戦で、天皇権威と政治権力に分立する政治システムが回復されました。象徴天皇を軸とする平和国家がつくられた。しかし、この現行憲法の改正で、天皇を国家元首化しようとの主張が自民党から提出されております。これは非常に危険なことです。先進国の国家元首は米国大統領、フランス大統領はもちろん、英国国王でさえ、正式に就任するのに議会の承認が必要となっています。

 議会主義による代議員制度の下で、国民に選択権がある。ところが、日本では国民は議会を通して次の天皇を選ぶことはできないことになっています。この点を無視したまま天皇の元首化を認めると、まるで王権神授説の復活でもあるかのようなことになる。明治憲法のように天皇を国家元首にしてはならないのです。

 今、われわれは戦後70年の「パクス・ヤポニカ」の状態を否定するかのような難しい時代を迎えています。この時代を生きるためどうしたらよいか、さしあたり三つのことを示したいと思います。

 一つ、人間とは何か。

 二つ、日本人とは何か。

 三つ、自己とは何か。

 これらの問いを循環させながら問いつづけることで、現代の難しい問題の解決に向かって進んでいってほしいと思います。特に日本人としてのアイデンティティーだけを追求すれば、偏狭なナショナリズムに陥ってしまう。かつての大日本帝国は大和民族の優秀性を掲げてうぬぼれ、唯我独尊の「八紘一宇(はっこういちう)」を唱えました。それは先にいった平安期、江戸期の「パクス・ヤポニカ」の時代とは異なり、本来の日本のあり方を示すものではありませんでした。そのようないびつな時代にあって、それを象徴するようないびつな幻想の「不沈戦艦」が戦艦大和だったのではないでしょうか。

◆◆参考文献 

「日米全調査 戦艦大和」 吉田満、原勝洋

「真相・戦艦大和ノ最期」 原勝洋

「戦艦大和・武蔵 そのメカニズムと戦闘記録」 秋元健治

「日本戦艦戦史」 木俣滋郎

「日本海軍史」 海軍歴史保存会

「世界の戦艦プロファイル」 ネイビーヤード編集部編

「世界の艦船 イギリス戦艦史」 海人社

「世界の艦船 イタリア戦艦史」

「世界の艦船 ドイツ戦艦史」

「世界の艦船 アメリカ戦艦史」

「徹底図解 戦艦大和のしくみ」 矢吹明紀、南波健一郎、市ヶ谷ハジメ

「戦艦大和ノ最期」 吉田満

「戦艦武蔵」 吉村昭

「ニミッツの太平洋海戦史」 CW・ニミッツ、EB・ポッター

「第二次世界大戦回顧録」 ウィンストン・チャーチル

「戦藻録」 宇垣纏

「海上護衛戦」 大井篤

「大本営参謀の情報戦記」 堀栄三

「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」 戸部良一

「山本五十六」 半藤一利

「大日本帝国の興亡」 ジョン・トーランド

「ドイツ海軍戦記」 CD・ベッカー

「戦史叢書 海軍軍戦備」 防衛庁防衛研修所戦史室

「戦史叢書 大本営海軍部・大東亜戦争開戦経緯」

「戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊」

「戦史叢書 海軍捷号作戦」

「戦史叢書 沖縄方面海軍作戦」

「大蔵省百年史」 大蔵省百年史編集室

「昭和国勢総覧」 東洋経済新報社編

「日本文明とは何か パクス・ヤポニカの可能性」 山折哲雄 など

🔴◆◆戦艦大和:総員死ニ方用意1945年4月6日最後の出撃

 「総員死ニ方用意」。そう書かれた黒板が砲塔に掲げられると、乗組員たちはざわめいた。死の準備をせよ、という命令だ。戦艦大和は2日後の1945年4月7日、米軍の猛攻を受けて沈没し、約3000人が戦死した。18歳で水兵長として乗り組んでいた名古屋市在住の畦地哲さん(あぜち・さとし、88)は、今も自問する。「死を前提とする作戦だった。それは作戦と呼べるのか」【川上晃弘】

 4月6日、沖縄に向け山口県を出港した。仲間たちは艦上で「覚悟を決めた」「いざとなれば自決する」と言い合ったが、ぴんとこない。「戦死は当然と考えていたが、実際に自分が死ぬのだとは毛頭思えなかった」

 25ミリ3連装機銃の射手だった。敵機に照準を定め引き金を引く。照準器は最新鋭で、敵機の速度や進入角度を入力すると発射角度が自動的に計算される。艦首を0度とし時計回りに160~180度(右舷最後部)が受け持ち範囲だった。

 運命の7日昼過ぎ、見張りの声が響いた。「大編隊発見」。見上げると100機以上の敵機が近づき、高度2500メートルから1機ずつ急降下を始めていた。日本の戦闘機より急角度でスピードも速い。照準を合わせ、射程1500メートル前後で引き金を引く。全機を狙う余裕はなく、1番機の次は3番機と一つおきに狙うのが鉄則だった。

 次々に照準を合わせるため命中の確認はできない。畦地さんの右手人さし指に、引き金を引く感触が今も残る。「とても軽い。ちょっと引くとババババッと。敵機が多い時は引きっぱなしだった」

 恐ろしいのは直撃弾だ。「爆弾が向かってくるのは何となく分かる。これは死ぬ、と何度か思った」。それて海中に落ちると艦橋を超す水柱が上がる。びしょぬれになり、そのたびに「俺は生きてる」と実感した。

 攻撃はどれほど続いたか。ある時点でぴたりとやんだ。「また来ると身構えていたが、もう現れなかった。気づいたら船体が大きく傾いていた」。戦闘終了を意味する「総員退去」の声を聞いた。持ち場を離れて最上甲板に出ると、遺体の一部が転がっていた。砲声はなく、静けさが広がっていた。仲間が何人か寄り添うように座っている。「いよいよだ」「思い残すことはない」。みなさばさばした表情だった。

 船がゆっくり傾いていく。傾斜がきつくなると、一人で船の横っ腹を歩いた。黒色から赤色に変わる喫水線まで行き、そこで靴を脱いで息を吸い、頭から海へ飛び込んだ。

 何秒間潜ったか。顔を上げると数十メートル先に大和が見えた。直後に火柱が上がり、黒煙に変わった。大和の姿はもう見えなかった。

 同僚と浮遊物につかまり漂流を続け、そこで歌ったのが、敵艦隊を沈没させた時の軍歌「轟沈(ごうちん)」だった。「自艦が沈められ『轟沈』はおかしいけれど、元気が出ればどんな歌でも良かった」。数時間後、味方の駆逐艦に救助された。

    ◇

 「結局、運だった」。生死の境目について畦地さんは言う。敵の攻撃も予想され駆逐艦の救助活動は日没で終わった。海面にはまだ複数の乗組員が漂っている。「彼らは救助直前に望みを断たれた。助かった私と彼らの間に何の違いもない」

 戦後は名古屋で親族の運送業を手伝うなどして生計を立てた。大和は今も海に沈む。遺骨や船体を引き揚げる話もあったが、畦地さんは反対する。

 「彼らは大和と共に逝った。大和を枕に休ませてあげることが一番の供養と思う」

 ◇戦艦大和

 全長263メートル、基準排水量6万5000トン、46センチ砲3連装砲塔3基を搭載した史上最大の戦艦。1941年12月に就役し連合艦隊の旗艦を務めたが、海戦の主体は既に航空機に移行。威力を発揮できぬまま、米軍の沖縄上陸を阻止する「水上特攻部隊」として航空機の護衛なしに出撃し、45年4月7日に屋久島沖で米軍機に攻撃され沈没した。乗組員約3300人で生還者は276人。

20150407日毎日新聞

🔴◆◆母の千人針で生還 戦艦大和元乗組員・名張の北川さん、平和への思い訴え /三重

 「沖縄特攻作戦を命じられたとき、顔面蒼白(そうはく)になりました」。戦艦大和の元乗組員、北川茂さん(90)=名張市豊後町=は69年前を「覚悟はしていたが、いざ、死んでこいと言われると……。二度と故郷に戻れないと思い、涙ぐみました」と振り返る。政府・与党の集団的自衛権の行使容認については「今の憲法9条を変える必要はない。69年間も平和を堅持したのだから」と訴える。15日は終戦の日−−

 広島の海軍呉海兵団にいた1945(昭和20)年2月17日、21歳だった北川さんは伝令兵で大和への乗艦を命じられた。全長263メートル、全幅38・9メートルの世界最大の戦艦は、大阪城のように大きく、感動した。巡洋艦は食事や休憩の連絡は伝令係がメガホンで伝え、全員に届くまでに10分近くかかったが、大和には艦内放送やエレベーターが備わっていた。

 戦局が悪化した3月下旬、上官から身辺整理を命じられ、「御賜煙草(おんしたばこ)」を授かった。荷物をまとめていると、下宿のおばさんが察して、お汁粉を作ってくれた。

 4月5日、甲板に集められ、沖縄特攻作戦を命じられた。飛行機の特攻は聞いていたが、「なぜ戦艦が特攻を」と動揺した。6日、巡洋艦1隻と駆逐艦8隻と共に出撃した。

 大和は7日午後2時23分、左舷への魚雷攻撃で沈没した。乗員3332人中、生存者は276人。海に落ちた北川さんは大和が沈む水流に巻き込まれたが、大和の水中爆発で海面に押し上げられた。沈没後も敵機の攻撃は続き、上半身裸の乗員は撃ち殺されたが、服を着て海と同色となった北川さんは助かった。同僚と2人で丸太にしがみつき、約4時間後、駆逐艦に救助された。「母が作ってくれた千人針を巻いていたのが良かったのかも」。今も大事な宝物だ。

 先月の閣議決定で集団的自衛権の行使が容認されたが、北川さんは「戦争するのが前提としか思えない。これからも体験談を語り継ぎ、平和への思いを訴えていく」と熱く語った。【行方一男】〔三重版〕

20140815日毎日新聞

◆◆戦艦大和:艦長、駐米時の日記発見、「豊かさ、比較にならぬ」

 「戦艦大和」艦長などを務めた海軍軍人が昭和初期、アメリカ滞在中につけていた英文の日記が見つかった。当時すでに「仮想敵国」だった米国の武力を探る一方、その豊かな国力を肌で感じていたことが分かる。当時の軍人によるアメリカ滞在日記が公になることはほとんどなく、貴重な1次資料だ。

 日記をつけていたのは松田千秋・元海軍少将(1896~1995年)。長男の孝行さん(81)が遺品から見つけ、孫で毎日映画社ディレクターの文治さん(44)が解読を進めた。

 当時少佐だった松田は1929年に渡米し翌年、在米大使館付武官補佐官に就任、計2年間、主にワシントンに駐在した。見つかったのは29年6~9月のもので、約120ページ。

 サンディエゴでは「飛行機に乗り街を見下ろした。約100隻の駆逐艦があり、20隻は稼働中だった」と記した後「標的」を意味するとみられる「guntargets」と書くなど、米軍艦に強い関心を示している。

 一方、アメリカは人も建物も大きく、食事に行っても食べきれないほど出てくるなど、豊かさに驚く記述も目につく。アメリカ通の軍人が少ない中、実体験でアメリカの国情を感じていたようだ。戦後は「アメリカは資源の豊かさや生産性など、日本とは比較にならないと思った」と振り返ったという。

 松田少佐は第2次近衛文麿内閣の直属機関で、開戦前の41年4月にスタートした「総力戦研究所」の所員として研究生を指導。諸外国の国力や国際情勢を踏まえつつ戦争のシミュレーションを行い、「日米戦日本必敗」の結論を下した。42年、松田少佐は海軍のシンボル「戦艦大和」の2代目艦長に就任するなど第一線で戦った。

 日記の内容は14日午後9時、BS11の「報道ライブ21 INsideOUT」で放送される。ほかにも武官補佐官時代の記録など手つかずの資料が多いため、文治さんは専門家と協力して研究を進める。【栗原俊雄】

20140814日毎日新聞

🔴◆◆大和撃沈70年:最後の特攻、敵機撃墜たった3機

 70年前の1945年4月7日、沖縄を目指していた戦艦大和が鹿児島・坊ノ岬沖で撃沈された。無謀な海上特攻作戦を海軍は「1億総特攻の先駆け」と美化し、乗員2740人を戦死させた。世界最大の46センチ主砲が敵戦艦に火を噴くことはなく、この最後の艦隊出撃で、撃墜したとされる敵機はわずか3機だった。大艦巨砲主義の誇大妄想が生んだ不沈戦艦への信仰に対し、宗教家の山折哲雄さん(83)は「大和とは、いびつな時代のいびつな象徴だった」と指摘する。【高橋昌紀/デジタル報道センター】

 海軍の公式記録である「軍艦大和戦闘詳報」(昭和20年4月20日作成)などによると、大和が上げた戦果は撃墜3機、撃破20機とされている。米海軍機の被弾・防火対策は優れており、撃墜することが難しかったという。上空直援が無かった日本の第1遊撃部隊(大和、軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」、駆逐艦8隻)に対し、米空母機動部隊は雷・爆撃機と護衛の戦闘機で構成した戦爆連合367機を投入。未帰還10機・戦死12人の損失だけで、日本艦隊を壊滅させた。第2艦隊司令長官の伊藤整一中将はじめ、日本側の全戦死者は大和の2740人を含む計3721人。残存艦艇は駆逐艦4隻だけだった。

 この海上特攻作戦は連合艦隊司令長官の豊田副武(そえむ)大将でさえ、成功すれば「奇跡」とみていた。矢矧を旗艦とした第2水雷戦隊司令部は「水上部隊は兵器・弾薬・人員を陸揚げし、残りは浮き砲台とすべし」との意見具申を行っていた。作戦に反対する伊藤中将ら現場指揮官に対し、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介中将は「一億総特攻の魁(さきがけ)となってほしい」と説得したという。

 劇的な最期を遂げた不沈戦艦は戦後、さまざまな神話を生んだ。連合艦隊は沖縄への片道燃料(艦隊総計2000トン以内)だけで、特攻艦隊を送り出したとされる。しかし、実際には「武士の情を知らん様なことはできない」(連合艦隊参謀・小林儀作中佐)と、大和には満タンの6割超に当たる4000トン、第1遊撃部隊全体では1万トン超を秘密裏に給油。沖縄への往復は十分に可能だったとみられる。

 無敵のゆえんとなった世界最大の46センチ主砲が敵艦隊に向けられたのは結局、レイテ決戦におけるサマール沖海戦(1944年10月25日)の1回だった。米護衛空母部隊に向け、大和は主砲弾100発以上を発射。しかし、その戦果は駆逐艦1隻撃沈だけだったとみられる。当時の国家予算の4%強を投入した巨大戦艦について、戦後の大蔵官僚は「日本三大バカ査定の一つ」と断じた。

 「大国主命、奈良の大仏……。古来、日本人は『巨大なるもの』への信仰がある」。宗教学者の山折さんは説明する。ただし、もちろん、巨大戦艦は神仏などではなかった。「明治維新以降は、平和な平安、江戸期とは異質な時代だった」と指摘し、大和については「(乗員という)『小さきもの』を守ることもできなかった」と話している。

20150407日毎日新聞

🔴◆◆戦艦大和:沈没70年 呉で追悼式 戦死3千人の冥福祈る

 旧日本海軍の戦艦「大和」が沈没してから丸70年となった7日、大和が建造された広島県呉市にある旧海軍墓地で追悼式が営まれ、遺族や海上自衛隊関係者ら約300人が黙とうをささげた。参列者は、特攻として出撃し海に沈んだ戦艦の非業の最期に思いをはせ、戦死した約3000人の乗組員の冥福とともに、平和への誓いを新たにした。

 大和は呉の海軍工廠(こうしょう)で建造され、1941年12月に就役した。戦艦としては世界最大級の全長263メートル、最大射程約42キロに及ぶ46センチ口径の主砲3基を搭載していた。だが45年4月6日、米軍が上陸した沖縄に向かう水上特攻作戦のため停泊地の徳山(現山口県周南市)沖を出撃し、翌7日に鹿児島県沖で米軍機の猛攻を受けて沈没。乗組員3332人のうち9割以上が亡くなった。

 追悼式は乗組員の遺族や市民らでつくる「戦艦大和会」が主催。高齢化などで生存者が年々減り、会主催の追悼式は2005年以来。会長の広一志さん(91)=呉市=は、41年8月から2年間、信号兵として大和に乗船した。

 「若い世代は(日米開戦の)12月8日を知らない人もいる。大和を通じて、若い人にも戦争を知ってほしい」と話した広さんは、「失った大和の友人たちにも夢があり、生きていれば家庭も持ったはず。彼らの犠牲のおかげで今の平和がある。だからこそ、平和を大切にしていきたい」と話した。【石川裕士】

◆◆論点:戦後70年を前に、記憶をどう語り継ぐ

20150407日毎日新聞=論点戦後70年を前に㊤

 第二次世界大戦の敗戦から69年がたった。最前線で戦った人たちはもちろん、「銃後」にあって空襲や飢えなどに苦しんだ人たちも高齢化し、そうした体験を聞き取ることが難しくなっている。一方、国内では若者の右傾化が指摘されるなど社会情勢は大きく変化している。今後、私たちの社会は悲惨な体験や記憶をどう語り継いでいったらいいのだろうか。

◇悲惨さ隠し美化する危険−−星野智幸・作家

 東日本大震災のショックで人恋しくなったのか、ここ数年、僕は旧友たちに立て続けに会った。ある男性は、昔と変わらずに懐かしく感じた一方で、ふと韓国や中国の話になると「あそこだけは行きたくない」と激越な調子になって驚かされた。かつて政治には全く無関心だったのに、急に国防問題を持ち出す友もいた。自衛隊の存在を誇り、その意義を得々と語るのだ。

 僕が知っている友人たちとは似て非なる物言いだった。そして、そんな例が何人も続いたのだ。仕事がないとか家庭崩壊とか、特段の苦境にある人たちではない。マジョリティーがそうなっていることを怖いと感じた。過去の戦争が美しい物語として記憶され始めている背景には、そのような変化があると思う。

 彼らは職を失いはしていなくても、職場環境は悪化している。非正規雇用は増える一方だ。正社員にも過大な責任が課され、本来の職務を十分に果たしきれない。誰もが自分への価値を見失っていく。そこへ大震災が起こり、先の見えない不安が強まる。代わりにアイデンティティーを与えてくれる組織なり共同体なりを渇望していたところへ、日本の正しさや強さを強調されると、多くの人が簡単に取り込まれてしまった。

 戦争は美しくも格好良くもない。人間の手足が吹き飛び、内臓が飛び出す。極めてグロテスクだ。ところが、社会から必要とされていないと感じて苦しむ人たちは、戦争の悲惨さを想像する余裕がない。戦争のもたらす痛みより、今の自分の苦しさの方が重く、それを解消してくれるなら戦争をも肯定してしまう。

 近年、戦争を描く小説や映画で最も求められるのは「泣ける」こと。冷徹なリアリズムは敬遠される。涙は現実の悲惨さを感動に変えてしまう。泣かせるための装置が「自己犠牲」だ。あの犠牲は、他人のために意味があったのだ、と。日本が起こした昭和の戦争は間違っておらず、特攻隊をヒーロー視して感謝する、国家規模の大きな物語が人気を集める。失われつつある自らのアイデンティティーが救われるからだ。東日本大震災後の「絆」の連呼も同じこと。千差万別の津波被害や原発事故の物語が、分かりやすい大きな物語にまとめられてしまう。それが今、歴史の解釈にまで及んでいる。

 だが冷静に考えねばならない。そこで払われた犠牲は国家のためだ。その国家は国民を守ったのか。社会をよくしてくれたのか。戦時中はさんざん命を使い捨てにした揚げ句、都合よく英霊に祭り上げた。今後も同じことが起こるだろう。それを今、最も苦しんでいる人たちが受け入れ、求めてしまっているのだ。

 これまで新聞をはじめとするジャーナリズムが取り組んできた、個々の戦争体験者を探し出して実態を伝える手法は、社会が渇望している物語とはすれ違っている。しかし、やめてしまえば戦争の個々の事実はなかったことにされてしまう。言葉にしておくことは決定的に大事だ。

 感動を目的とした一元的な大きな物語は、歴史の中の矛盾する事実を切り捨ててしまう。それを消さずに小さな物語の集まりとして描けるのが文学だ。個々人の体験をフィクションに変換しながら、あくまでも個人的な言葉で語るからだ。大きな物語のいかがわしさを破る力が、そこにはある。【聞き手・鶴谷真】

◇無数の悲劇、伝える責任−−八杉康夫・「戦艦大和」元乗組員

 戦争は地獄だ。悲惨な体験をした人こそ、その実態を伝えることができる。

 私は1945年4月、米軍が上陸した沖縄に向けて特別攻撃隊(特攻)として出撃した「戦艦大和」の乗員で17歳だった。3000人以上が戦死し生還者は300人に満たなかった。戦後に生還者や遺族らによって「大和会」が結成され、先輩たちが「大和」の歴史を伝えていた。

 しかし、そうした人たちが次々と亡くなった。戦争の、特攻の悲劇を伝える人がいなくなってしまうと思い、25年ほど前から自分の体験を講演や学校の授業などで話すようになった。これまでに北海道から鹿児島まで、600回以上、話をしている。

 本当の戦争は、バーチャルなゲームとは違う。無数の悲劇を生む。たとえば米軍機の攻撃を受けた「大和」の甲板は血だらけで、あちこちに死体や負傷者が横たわっていた。衛生兵が、ちぎれた腕や足を海へ投げ捨てていた。

 沈没後は重油の海を漂った。駆逐艦が救助のためにロープを下ろしてくれたのだが、生存者が奪い合った。「どけー、俺のだあ」などと怒号が飛び交っていた。階級も年齢も関係なかった。本当の修羅場で、人間の本性をみた気がした。

 その後、呉で海軍陸戦隊に配属になった。広島に原爆が投下された翌日の8月7日、救助活動のため現地に入った。街には黒こげになった遺体がたくさんあった。身元が分かるはずもなく、引き取り手もほとんどみつからなかっただろう。3日間作業をして、私自身も被爆した。戦後は後遺症に苦しんだ。

 「大和」もそうだが、近年「特攻」が映画や小説などで注目されているようだ。

 家族や国を思い「特攻」で亡くなった若者たちは、尊いと思う。私は彼らの遺影や遺書をみると、自然に涙が流れ、手を合わせる。しかし、特攻という作戦自体は間違っていた、と伝えたい。若い人が死んでしまったら、その国はどうなってしまうのか。

 ただ戦争を始めた当時の為政者を責めるつもりもない。当時はまさに帝国主義の、食うか食われるかの世界だった。為政者たちはそういう時代の教育を受け、その時点では適切と思った決定をした。彼らを今の価値観で裁いてみても、説得力は乏しいはずだ。

 一方で、その歴史から学ぶべきことは多い。たとえば当時の日本は「自存自衛のため」と戦争を始めたが、資源の少ない日本が自存自衛できるわけもなく、共存共栄しかなかった。それは現代でも同じだ。さらに外国の領土に色気を出したり、国家間の対立を武力で解決しようとしたりすると、大きなつけが回ってくる、ということも語り伝えなければならない。過去の戦争を美化するような人には「それなら、実際に戦争を経験してみろ」と言いたい。

 私は「大和」の沈没と原爆で2度地獄からはい上がってきた。死んでいった人たちのことを伝えるのが使命だ。今後も体が続く限り戦争の実態を伝えたい。しかし、そう遠くない将来、我々のような戦争体験者はいなくなるだろう。

 教員から体験談を求められたり新聞やテレビの取材を受けたりすることが多い。ほとんど応じている。教育やジャーナリズムは今後一層、戦争の実態をしっかりと学び、伝える責任があると思うからだ。【聞き手・栗原俊雄】

◇「体験の持つ力」信じたい−−田所智子・戦場体験放映保存の会事務局次長

 「戦場体験放映保存の会」(東京都北区滝野川6、03・3916・2664)は2004年に発足した。社会人や学生などのボランティアが第二次世界大戦で国内外の戦場にいた軍人や軍属、民間人の生の声を映像で記録し、インターネットで放映している。

 今、聞き取りに携わっているのは20代前半から80代までの30人。設立当初からのモットーは三つで、まずは「無色」。つまり特定の党派の立場ではないこと。そして「無償」、さらに「無名」。為政者や軍幹部たちは、戦後に自分たちの考えや体験を伝えることもできた。そうした機会がなかった兵士たちの話を聞き記録しようということだ。初代代表の上田哲(故人。元社会党衆院議員)の発案だった。

 私はその前、イラク戦争の反対デモに参加するなど反戦平和活動にかかわっていたが、戦争の実態をどれほど知っているのか疑問があり、放映保存活動に参加した。当初は「無色」に不安があった。「戦争体験者の、都合よく美化された話を記録するだけになってしまうんじゃないか。たとえば『反戦・平和』といった旗を掲げた方がいいのでは」と。上田に「歴史の評価は、定まるべき所に定まってゆくはず。人間の、民主主義の力を信じようよ」と言われて、半信半疑で始めた。

 以来10年、およそ2500人の証言を集めた。当初は関東での聞き取りが中心だったが、未曽有の規模で行われた戦争の実情を知るには、証言も相当の数を集めなければならない。10年に「戦場体験キャラバン」を始めて、全国各地におもむいている。

 「無色」を貫いたからこそ、これほど多くの人たちが協力してくれたと思う。政治色を帯びると、戦争体験者は「自分の体験談が都合のいいように利用されてしまうのでは」と恐れただろう。「無色でなければ参加しなかった」というスタッフもいる。

 極限状態である戦争では、国家のありよう、個人の人間性があらわになる。それぞれの体験はまさに「事実は小説よりも奇なり」で、聞き取りを始めたらやめられなくなった。聞く人がいないまま埋もれていた体験がたくさんあったし、今もあると思う。

 体験者の戦争の評価はさまざまだ。「加害体験」を語る人がいる一方、「あの戦争で俺は男になった」という人もいる。何を話してくれてもいい、映像の編集はしないのが、基本的な方針だ。見る人が自分で解釈する余地をできるだけ多く残したいから。

 戦争体験者は減っていく。時間との闘いという危機感は持っている。しかし正直言って、証言者の減少より怖いのは「戦争の実相を知ろうとしている人が、減っているんじゃないか」ということだ。人間は生々しく、ときにグロテスクな事実よりも、理想を投影した心地よい物語を求めがちであり、戦争の記憶が遠くなっていくほどその志向は高まるだろう。それでも、「体験そのものが持つ力」を信じて聞き取りを続けたい。

 戦後のある時期までは、戦争世代ならではの共通の価値観があったと思う。それは、たとえば「とにかく戦争はごめんだ」ということだ。

 戦争体験を引き継ぐからには、そうした価値観まで紡ぎ直したいと個人的には思う。今後は、他の団体との連携など、証言を活用する方法も工夫しなければならないと感じている。【聞き手・栗原俊雄】

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 ◇戦後生まれが約8割

 総務省の人口推計によると、2013年10月1日現在の総人口約1億2730万人のうち、「戦後生まれ」は約1億119万人で、全体の79.5%を占める。一方、1960年代後半に数千団体に上ったとされる戦争体験者らの「戦友会」は高齢化などで90年代以降、相次ぎ解散。日本海軍の象徴であった戦艦大和の元乗組員らによる「戦艦大和会」も、戦後50年の95年に活動を休止した。近年は再び特攻ブームといわれ、作家で歌人、辺見じゅんの「男たちの大和」、百田尚樹の小説「永遠の0(ゼロ)」がともにベストセラーとなり映画化されるなど特攻隊員への関心が高まっている。

人物略歴

◇ほしの・ともゆき

 1965年米国生まれ。早稲田大卒。新聞社勤務後、メキシコ留学。「俺俺」で2011年大江健三郎賞。最新刊に「夜は終わらない」。

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人物略歴

◇やすぎ・やすお

 1927年広島県福山市生まれ。15歳で海軍に志願。戦後は音楽家となり楽器の調律事務所も経営。著書に「戦艦大和 最後の乗組員の遺言」。

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人物略歴

◇たどころ・さとこ

 1966年8月6日、兵庫県生まれ。大阪大医学部卒。同会の設立から参加。共編著に「戦場体験キャラバン 元兵士2500人の証言から」(彩流社)。

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ベトナム戦争、ベトナム人民のたたかいから学ぶ

ベトナム戦争、ベトナム人民のたたかいから学ぶ

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【このページの目次】

◆ベトナム戦争・ベトナム解放リンク集・ベトナム「東遊運動」。ペンタゴン・ペーパーズ。沢田教一。

◆枯れ葉剤問題

◆ベトナム人民の闘争への日本の労働者・市民の連帯闘争=相模原戦車闘争、10.21国際反戦行動とは

◆古田元夫=ベトナム戦争の世界史的意義

◆ベトナム戦争の歴史=小学館百科全書

◆ベトナム反戦運動=小学館百科全書

◆ホーチミン=小学館百科全書

◆ベトナム戦争終結40

◆大島博光=ベトナム詩集

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🔵ベトナム戦争詳細リンク集

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🔴【筆者コメント】 =ベトナム人民のたたかい

ベトナム戦争で軍事的には圧倒的に力をもった米軍を打ち負かしたベトナム人民のたたかいの原動力とは何か。ボー・グエン・ザップ将軍の動画や論文、またザップ将軍に学んだズン将軍のベトナム戦争最終戦のたたかいの手記を見てほしい。

そこには、人民が強大な権力とたたかってきた過去の階級闘争、戦争の戦略・戦術の科学的な教訓が押さえられている。

古くは、中国の戦国時代の教訓を押さえた「孫氏」がある。またナポレオン戦争のなかの教訓を整理し「戦争は他の手段をもってする政治の継続である」(つまり戦争は、広い意味での政治闘争の一環に位置づけられなければならない)と喝破し、その立場から戦略と戦術を見事に解明したクラウゼヴィッツの「戦争論」がある。さらにエンゲルスやレーニンなどが弁証法や階級闘争論を詳しく研究した科学的社会主義の立場からの政治・軍事論がある。ベトナム人民、ベトナムの指導者たちは、それらを十分踏まえながらベトナム戦争をたたかったのである。フランスや日本の植民地支配、フランスの再支配、そして最も強大なアメリカの支配のもとで、勝利や失敗を重ねながら鍛えあげていったのである。

もっと古くさかのぼれば、ベトナムはたえず中国の支配とたたかってきた歴史をもっている。最近知ったのだが、日本は鎌倉時代に二度の強大なフビライ帝国であった蒙古の襲来を受けたが、たまたまの気象条件の悪化で救われたが、当然のことながら蒙古の三度目の襲来が準備・予定されていた。これを諦めさせたのは、なんと蒙古のベトナム侵略をベトナム王朝はじめベトナム人民が奇襲その他で打ち破ったことの波及効果であった。日本はベトナム人民のたたかいに救われたのである(当ブログ=日本と朝鮮半島2000年の「蒙古襲来」参照)。ベトナム人民のたたかいの歴史は古いのである。以下のコラムも参考にしてほしい。

◆ホー・チーミンの『将棋に学ぶ』と題する獄中詩

ひろく見わたし こまかくよんで

断固としてたえず攻めねばならない

さしそこなうと 飛車ふたつでも役にた

たないが

機をつかめば 歩ひとつでも成功できる

◆孫氏の兵法

(当ブログ=中国思想参照)

「兵とは詭道(きどう=はかりごと)なり。故に、能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれをみだし、卑にしてこれを驕(おご)らせ、佚(いつ)にしてこれを労し、親(しん)にしてこれを離す。其の無備を攻め、其の不意に出(い)ず。此れ兵家の勢、先きには伝うべからざるなり。」(「孫氏」)

★★池上彰・世界を歩く=ベトナム戦争(なぜ米軍に勝ったのか・テト攻勢・沢田教一・北爆・枯れ葉剤・反戦運動)=ベトナム戦争を総合的に学ぶ上でよく出来た動画

https://drive.google.com/open?id=1nVr7bdPUgD8KNPh9oCS_bFcYFZnbKWgH

🔴【ベトナム人民の立場からみたベトナム戦争】

★★ホー・チ・ミンとベトナム解放 50m

◆ホーチミン主席の足跡(詳細な情報)

http://vietkon.blog73.fc2.com/blog-category-42.html

9602古田元夫=ホーチミン.pdf

★★ベトナム人民の立場から見たベトナム解放の歴史(ディスカバリーチャンネル) 90m

★★ボー・グエン・ザップが語るベトナム戦争 60m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1159139538m7BdnMy

★★ザップ元将軍ベトナム戦争語りき45m

【石川文洋=ザップ将軍】(赤旗17.12.15

◆◆6504弘文堂新光社版・ザップ=人民の戦争・人民の軍隊.pdf

7605世界政治資料連載・ズン=南ベトナム解放作戦秘話.pdf 

6803新日本新書・友好協会編=ベトナムの人民戦争.pdf

★★ベトナム解放=戦いはベンチェ蜂起に始まった 48m

★★ベトナム解放=勝利に導いた2万キロの戦略路 

48m

★★映画=ベトナム激戦史1967=攻防ケサン基地(ベトナム作成).85m

★★映像の世紀06 –独立の旗のもとに

(ホーチミンの苦闘も紹介)

または

https://m.youtube.com/watch?v=TYXpwFbzx8M

★ゲリラ戦の勝利=キューバ・ベトナム解放のたたかい(20世紀の市民18 

または

http://video.fc2.com/content/20140207JLRTvvFA

🔴◆◆日本電波ニュース社のベトナム戦争報道

★★ホー・チ・ミン主席単独インタビュー(1966年撮影)17m

https://m.youtube.com/watch?v=zXEDS8Iu7mk

★★映画「ハノイはたたかう」(1966年製作)17m

https://m.youtube.com/watch?v=S94tHaez4Qo

★★映画「祖国の土を守る」(1967年製作)20m

https://m.youtube.com/watch?v=oatUUXRqeSM

★★映画「真実は告発する」(1967年製作)28m

https://m.youtube.com/watch?v=vbH3-TW2qPI

★★映画「ホー・チ・ミン主席の国葬」(1969年製作)9m

https://m.youtube.com/watch?v=cokUQL04bkA

★★映画「勝利はこだまする」(1968年製作)22m

https://m.youtube.com/watch?v=uiAwkBaHlTM

★★映画「NIXON NO!」(1972年製作)17m

https://m.youtube.com/watch?v=zpL3YoU7wDU

★★映画「独立と自由ほど尊いものはない」(1975年製作)22m

https://m.youtube.com/watch?v=g8eg3evTriE

★★映画「カンボジアからの証言」(1979年製作)16m

🔴【ベトナム反戦運動】

★★ベトナム反戦の始まり=67年の戦場での敗北とウイスコンシン大学の反戦70m

★★ベトナム戦争と米のベトナム反戦運動(映像の世紀09

★★ストーン=アメリカ現代史第7回 ベトナム戦争 運命の暗転

ケネディの後を継いだジョンソンは、ベトナム戦争への関与を深めていく。そして、第二次世界大戦で投下された爆弾の三倍以上という夥しい量を、北ベトナムを中心に投下する。多くの戦場でモラルが低下し、現場指揮官が大規模な空爆でも状況が好転しないと進言する中、ジョンソンは強硬路線を取り続けた。やがて、国防長官のマクナマラとの対立が顕在化し、マクナマラは世界銀行総裁に転出させられた。国内ではベトナム反戦運動が高まり、FBIは、この背後に共産主義者が扇動しているとみて、すす大がかりな電話盗聴や諜報活動を展開。対象には黒人公民権運動のリーダー、キング牧師もいた。

🔴【ベトナム戦争の映画】

★★映画=プラトーン

★映画=プラトーン冒頭(ストーン監督)Platoon(プラトーン)8mAdagio For Strings

◆◆ベトナム戦争の残酷さを描いたアカデミー賞作品『プラトーン』(Platoon)の紹介

COIS BLOGから引用

https://genchan.net/movie/8184)

「プラトーン」は1986年のアメリカ映画で、アカデミー賞最優秀作品賞に輝き、監督はオリバー・ストーン、主演はチャーリー・シーンです。 また、ゴールデングローブ賞ドラマ部門にも受賞しました。タイトルの『プラトーン』は軍隊の編制単位のことで、3060名程度で編成される小隊の意味みたいです。

◆この映画を超えるベトナム映画はない。

戦争映画だが、戦争による人間の心の心理を中心に描いた映画だったような。あまり記憶は無いが。

戦争という厳しい環境な中でも人間は順応して行き、その中で人間は残酷にもなって行きます。

ただの戦争映画では無く、主人公の心の動き、そして仲間の戦争という過酷な環境の中でのそれぞれの葛藤が繰り広げられます。いろいろと感じることの多い映画だと思います。

◆反戦映画の傑作

本作の監督オリバー・ストーンが実際に戦争に参加したからこそ、ここまでの狂気を描くことができたのでしょう。また、出演している俳優のクオリティの高さ。出演者は素晴らしい演技をしてリアリティを感じてしまうほどです。

いかに戦争が酷いものか分かってしまう。っていうか、アメリカって国はほんと戦争すきだなぁ。。。 戦争=儲かる精神は大っ嫌いだし、俺たちが世界を支配している的な考え方ははっきり言って大っ嫌いだが、戦争の醜さを知る為には観た方がいい映画だと思います。

◆あらすじ

1967年、激戦のベトナムに若い志願兵クリスがやってきた。少数民族や貧しい者たちからの徴兵に憤った彼は名門大学を中退してベトナム行きを志願したのだ。

だが、いきなり最前線小隊『プラトーン』に配属された彼を待ちうけていたのは、想像を遥かに超えた過酷な戦争の現実だった。

戦争の名のもとでの殺人、疑惑と憎悪、そして人間性の喪失との戦い……。死の恐怖が渦巻く最前線の中、彼はやがてベトナム人への虐殺・略奪・強姦など、戦争の狂気とその現実を体験していく──。

★「ハーツ・アンド・マインズ 」=映画で見るベトナム戦争の真実8m

https://m.youtube.com/watch?v=4qdsgmvA_tU

★★映画=HEARTS AND MINDS ハート・アンド・マインド(1974)(ベトナム解放後ベトナム戦争を米側とベトナム民衆の側の両面からとらえた迫真のドキュメント)

🔷映画=ハートアンドマインド

https://drive.google.com/file/d/14wNpbRCZSVzqTHU6fNRChZNquGmg0hFd/view?usp=drivesdk

または英語版

https://m.youtube.com/watch?v=1d2ml82lc7s

★★映画=マクナマラ元国防長官とベトナム戦争(ジョンソン大統領と対立して途中辞任。ベトナム侵略戦争に否定的なマクナマラの告白とベトナム戦争の映像)120m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v118857560DnqnQZJ9

【ジョンソン大統領とマクナマラ】

🔴◆◆ペンタゴン・ペーパーズ暴露事件=マクナマラたちの冷静な戦況分析の暴露=ベトナム反戦運動に大きな影響を与えた

【暴露したエルズバーク】

公式には『合衆国・ベトナム関係、194567年』と題されるアメリカ国防総省機密文書が19716月アメリカ新聞紙上で暴露された事件。ベトナム戦争が拡大し泥沼化するに伴い、66年ころから国防長官マクナマラをはじめ戦争立案者の間で疑問が生まれ始め、マクナマラは同年、米政府が将来二度と同じ失敗を繰り返さぬ教訓とするため、できるだけ客観的な戦争の分析記録をつくるように命じた。執筆者の多くは政策に携わって失敗を認めた学者グループであったが、途中で何度も執筆者がかわり、未完成に終わった。713月ころ、ケネディ政権に参画しベトナムにも駐在した経験をもつダニエル・エルズバーグが、反戦運動に役だたせる目的でペーパーズの膨大なコピーを『ニューヨーク・タイムズ』『ワシントン・ポスト』などに暴露させようと持ち込み、両紙は熟慮のすえ6月になってその一部を印刷して公表、ニクソン政権は両紙その他の新聞を告訴して、記事を差し止めようとしたが敗訴した(71629日最高裁決定)。その結果、政府印刷局(GPO)は全12巻を公刊しなければならなくなった。ペンタゴン・ペーパーズの暴露は、確かに燃え上がる当時のベトナム反戦運動をアメリカ内外で大いに励ました。GPO版の公刊前にグラベル上院議員が上院で上院記録に入れた分を印刷した全四巻、ニューヨーク・タイムズ版全一巻などがある。[陸井三郎]

『ニューヨーク・タイムズ編、杉辺利英訳『ベトナム秘密報告――米国防総省の歴史的記録』(1972・サイマル出版会)』

赤旗19.05.21

◆◆スピルバーグ監督・映画「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」 赤旗18.03.23

【赤旗日曜版18.04.01

◆(クロスレビュー)映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」

朝日新聞18.04.16

(「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」から。メリル・ストリープ(右)がワシントン・ポスト社主のキャサリン・グラハムを、トム・ハンクスが編集主幹ベン・ブラッドリーを演じた。スピルバーグ監督は「今すぐこの映画を作らなければ」と短期間で完成させた。(C)Twentieth Century Fox Film Corporation and Storyteller Distribution Co., LLC.)

 スティーブン・スピルバーグ監督の「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」が公開中だ。泥沼化するベトナム戦争の状況について、歴代の政権が事実と異なる説明を国民にしていたことを示す米国防総省の最高機密文書を報じたワシントン・ポストの物語だ。スピルバーグの意欲作を識者が読み解いた。

◆メディア連帯、日本に重なる 牧原出(東京大学教授〈行政学〉)

 当時のアメリカのメディアと政治の関係が、丁寧に描かれている。様々な動きが層を織りなし、最後はメディアと政権の対立構図を超えて裁判所で決定が下る部分も、米ならではと感じます。あざとく権力をふるうニクソン大統領下でベトナム戦争の正当性が疑われ、反対運動も強まっていたころ。ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストに続き各社が文書を入手して報じるなどメディアは連帯して権力に立ち向かった。

 やはり日本に重ねたくなる。民主党政権の混乱から、決定できる強いリーダーシップが必要との世論を背景に、現政権が異論を封じてきた。そこに新聞が森友学園文書の改ざんを報じ、テレビや雑誌が続いた。加計(かけ)学園問題では中村時広・愛媛県知事が文書の存在を認めるなど、文書は廃棄できない風潮になってきた。記録が残れば、官邸からの無理筋な介入もあからさまになる。隠された公文書が明らかになることは衝撃的事件で、政治の風景を一変させる。映画を見て改めて感じました。

◆今のフィルター通じ描いた 坂井佳奈子(「エル・ジャポン」編集長)

 スピルバーグは時代の「におい」を敏感に感じ取る監督。「ワンダーウーマン」など女性が活躍する映画が増えてきた今の時代のフィルターを通じて、1971年の出来事を描いたと感じました。今作の題材も映画化される時代が早ければ、男性であるブラッドリー編集主幹しか登場しない作品になっていたかもしれません。

 グラハムの父はワシントン・ポストの社主でしたが、彼女は46歳まで専業主婦だった。ですが父の後を継いだ夫の突然の死で、米国の主要紙で初の女性社主にならざるをえなかった。悩みながらもしなやかに進む彼女の姿には男女問わず感銘を受けると思います。

 グラハムがスーツ姿の男性陣が控える会議室に入る場面や、彼女が裁判所を出て階段を下りるときに女性たちに取り囲まれる場面など、監督があえて時代をデフォルメした描写が印象的でした。50年ほど前と今で女性の置かれた状況がどう変化したのか考えたり、当時のファッションに着目したりと掘り下げても楽しめる作品です。

◆巧みな演出、考える自由奪う アーロン・ジェロー(イエール大学教授〈日本映画史〉)

 トランプ政権が報道の自由をおびやかし、フェイクニュースが蔓延(まんえん)する中、メディアリテラシーの重要性が高まっている。映画でも、観客が画面の中から何が重要なのかを能動的に見つけられるような作品が求められています。

 スピルバーグは脱帽するほど映画作りがうまく、カメラワーク一つで観客の視点や感じ方まで誘導できてしまう。一方でそれは観客の「考える自由」を奪っているのでは。裁判所を出たグラハムの周りを女性たちが取り囲む演出には、わざとらしさを感じました。

 この映画は政府とメディアだけでなく、政府と市民との関係がどうあるべきかを問いかけている。我々一人一人が行動しないと、今の世の中は変わらない。

 だからこそ今作はヒーローたちの活躍をドラマ仕立てにするのではなく、決して完璧ではなかったブラッドリーの人間臭さや、ワシントン・ポストに機密文書を持ち込んだヒッピー風の女性の素性など「普通の人たち」の内面をもう少し描いてみせてほしかった。

◆(ここに注目!)女性に焦点、脚本家の斬新さ

 最高機密文書を巡り、ニューヨーク・タイムズに出し抜かれたワシントン・ポスト。そのお飾り的な存在だったグラハム社主に焦点を当てたのが、今作で長編映画デビューした32歳の女性脚本家リズ・ハンナの斬新さだ。ほかにも多くの女性が制作に参加した。短期間でエンタメ作品に仕上げたスピルバーグのセンスの良さも要所要所で光っている。

 ニクソン大統領辞任に至る一連の政治スキャンダルをとりあげた作品は過去にもある。だが「大統領の陰謀」(1976年)しかり、多くは熱き男たちのドラマになっている。

 メリル・ストリープは、周囲の男性の意向を気にしていたグラハムが確固たる信念を持つまでに成長する過程を体現してみせた。意外にもトム・ハンクスとは初共演。名優2人をみるだけで至福の時間を味わえる。(伊藤恵里奈、岩田智博)

◆◆ペンタゴン・ペーパーズと今日の日本の公文書問題=公文書にみる民主主義の成熟度

2018423日朝日新聞(編集委員・佐藤武嗣)

 「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」。日本国憲法は第15条で公務員の役割をこう定めている。森友・加計問題をめぐる公文書改ざんや、面会記録に知らんぷりを決め込む官僚には、一体どこを見て仕事をしているのかと憤る。

 安倍一強を背景に、服従を強いるかのように人事権を振りかざすのが悪いのか。安倍官邸に取り入ろうとする官僚の忖度(そんたく)が悪いのか。いずれにしても、「国民の知る権利」が、ないがしろにされていることだけは確かである。

    *

 公文書の意義とは何か。2008年に福田内閣で始まった「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」の最終報告ではこう説明している。

 「国の活動や歴史的事実の正確な記録である『公文書』は、過去・歴史から教訓を学ぶとともに、未来に生きる国民に対する説明責任を果たすために必要不可欠な国民の貴重な共有財産である」

 公文書は、権力者のために記すのではない。ましてや権力者や、それを忖度した者が改ざんするのは、国民と民主主義への背信行為だ。

 数年前、留学先の米国の大学で、ニクソン大統領を辞任に追い込んだ「ウォーターゲート事件」を特報したワシントン・ポスト紙のボブ・ウッドワード記者の講演を聞いた。「世の中で最も恐ろしいのは何だと思う?」。彼の答えは「Secret government(秘密の政府)」。政府の中で何が起きているのか分からないことほど、民主主義にとって恐ろしいものはないと強調した。

 確かに独裁国家は、後世に記録を残す必要もないし、むしろ都合の悪い記録は残したくない。公文書の在り方は、その国の民主主義の成熟度を測る尺度とも言える。

    *

 政府と公文書。それにメディアはどう向き合うか。権力者は内部記録漏洩(ろうえい)に敏感だ。

 ウッドワード氏の講演で、私は「機密文書を入手し、それを報じて国益を損なう可能性がある場合、どう判断するのか」と聞いた。「知ったことは書くのが基本。ペンタゴン・ペーパーズをめぐる司法判断でも保証されている」。それが彼の答えだった。

 ペンタゴン・ペーパーズとは、トルーマン政権など4代の政権によるベトナム戦争の政策判断や秘密工作、軍事記録が記された最高機密文書で、ニューヨーク・タイムズ紙が入手して特報した。当時のニクソン政権は記事掲載差し止めを連邦裁判所に要求。これはスピルバーグ監督の映画「ペンタゴン・ペーパーズ」でも描かれている。

 「ペンタゴン・ペーパーズの司法判断」とは、連邦最高裁の判決だ。「報道の自由は守られ、政府の機密事項を保有し、国民に公開できる。制限を受けない自由な報道のみが政府の偽りを効果的に暴くことができる」と政府の差し止めを退けた。

 ペンタゴン・ペーパーズはメディアの特報から40年を経た11年、最高機密を含む約7千ページが全文開示され、今では誰もが米国立公文書館のホームページで閲覧できる。

★★映画=ワシントンポストのウォーターゲート事件の追及.140m

(ペンタゴン・ペーパーズ=マスコミの追及に続いて起きたのがベトナム戦争の最終盤に生じたニクソンの盗聴事件へのワシントンポストの2人の記者の追及。この映画は余すところなく描く)

★★ハンバーガーヒルの戦闘(1987)英語版

https://m.youtube.com/watch?v=23TB2y7j_4c

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🔵ジャーナリストによるベトナム戦争の糾弾

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🔴戦場カメラマン・沢田 教一

沢田 教一(さわだ きょういち、1936222 – 19701028日)は、日本の報道写真家。ベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』でハーグ第9回世界報道写真コンテスト大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞を受賞した。

★★ピューリツァー賞受賞カメラマン・沢田教一が見つめたベトナム戦争52m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v126271629epCTMaCh

🔵戦場カメラマン・沢田教一http://m.pandora.tv/view/keiko6216/62584399

★★沢田教一とベトナム戦争(写真集)8m

★★世界の歴史的瞬間を捉えた写真(ベトナムで焼身自殺をした僧侶、沢田教一)6m

https://m.youtube.com/watch?v=UHRYwvGQGew

★★NHK国際報道=沢田教一生誕80年記念展示会を見たベトナム留学生8m

★藤巻健二さん「沢田教一、寺山修司の思い出」6m

★ピューリッツァー賞受賞作品集(沢田写真含む)

https://m.youtube.com/watch?v=3ph_IYpMpb

★★「ホテル マジェスティック~戦場カメラマン澤田教一~」記者会見(玉木宏)計24m

https://m.youtube.com/watch?v=4_XwB5MVmjo

https://m.youtube.com/watch?v=2S3pcV783vU

https://m.youtube.com/watch?v=KztqLzLEawU

https://m.youtube.com/watch?v=-wbAtYkOUfg

◆◆「安全への逃避」、抱かれていた女性「私の涙拭いてくれた」 沢田教一展、東京で開幕

2017816日朝日新聞

母親に抱かれた自身(写真右端)が写っている「安全への逃避」を見るフエさん(右)と沢田サタさん=16日、鬼室黎撮影

 ベトナム戦争を写し、ピュリツァー賞など数々の賞を受けた故沢田教一さんの写真展「写真家 沢田教一展――その視線の先に」(朝日新聞社主催)が16日、日本橋高島屋(東京都中央区)で開幕した。

 会場には、ベトナムの古都フエでの市街戦など戦争の悲劇をはじめ、妻のサタさん(92)や故郷の青森を写した約150点の写真とともにカメラなどの遺品約30点も展示されている。

 沢田さんは、必死の形相で川を渡る家族を捉えた「安全への逃避」(1965年)でピュリツァー賞と世界報道写真大賞を受賞した。

 当時2歳で母親に抱かれて写真に写ったグエン・ティ・フエさん(54)も初来日し、開会式に同席した。「あの時、沢田さんがポケットから出したハンカチで私の涙を拭いてくれたことを母から聞いた。写真が戦争を終わらせる一つの力になったと思う」と語った。

◆◆(書評)『戦場カメラマン 沢田教一の眼』

沢田教一〈撮影〉斉藤光政〈編集〉沢田サタ〈協力〉

201589日朝日新聞

『戦場カメラマン 沢田教一の眼』  

 ◇「戦争とは」「生とは」を凝視

 私は「写真を見る」作法を知らない。だが、ずぶの素人である私が見ても、この本に収められた写真の名状しがたい「すごさ」は分かる気がする。そこには、ぎりぎりまで研ぎ澄まされた「生のすがた」が、ほんのちょっとしたきっかけで死の領域に転がり落ちかねない危うさをともなって写しこまれている。

 カメラマン沢田教一は1936(昭和11)年青森市生まれ。65年にライカとローライフレックスを携え、ベトナムに赴いた。戦場カメラマンは戦闘機や戦闘車両に同乗し、最前線に赴く。ベトナム戦争時は少佐待遇であったというからたいへん大事にされたわけだが、交戦相手の攻撃はもちろん斟酌(しんしゃく)してくれない。銃弾や爆撃や地雷で落命しても自己責任。命がいくつあっても足りぬ仕事である。

 綿密な取材を欠かさぬ沢田は、戦闘の大事な局面に必ず居合わせた。決定的なシーンを次々に撮影して、瞬く間に頭角を現していった。ピュリツァー賞を始めとする数々の栄誉に輝いて「世界のSAWADA」となった彼を、人は「死に神に見放された男」と呼んだ。けれども戦場を離れることを決めた矢先、銃撃に斃(たお)れる。34歳であった。

 本は3部構成をとる。1・3部はカラーで、多くは未発表のもの。ふるさと青森と、インドシナの平和な風景がそこにある。2部が戦場のモノクロ写真。戦争と平和というコントラストを見せながら、「人間が生きている」という点で両者は繋(つな)がっている。

 平和というのは戦争を準備するための期間をいう、という実にイヤな言葉がある。私たちの日本は戦争を放棄したからもうその言葉とは縁切りだ、と言ってやりたい。でも昨今の安保情勢を見ていると、人間は何かと戦い続けなければ平和を得られぬのだな、と痛感させられる。まさにそんな時期だけに、戦争とは何か、生とは何か、を凝視し続ける本書は必読である。

 評・本郷和人(東京大学教授・日本中世史)    

 山川出版社・2700円/さいとう・みつまさ 東奥日報編集委員兼論説委員/さわだ・さた 沢田教一の妻。

🔴★★アナザーストーリーズ・ベトナム戦争の闇を暴いた一枚の少女の写真58m

(ニック撮影「戦争の恐怖」ピュリッツァー賞受賞)

(ベトナム人写真家ニックAP通信)

ニックは「戦争の恐怖」という一枚の写真を撮影した。ベトナム戦争を終わらせたと言われる1枚の写真である。ナパーム弾でやけどを負い、裸で逃げる少女。奇跡的に生き残った少女と救助したカメラマンが突きつけた真実とは?それはアメリカ政府が隠し続けていたウソを暴き、反戦のうねりを決定づけた。ニックが撮影したのは197268日。彼女の命を救ったジャーナリストたちの行動。AP通信は当初裸の写真への異論が出た。71年ペンタゴンペーパズ暴露事件の直後。ナパーム弾が民間人に使われた事実としてニュース性高いと判断し配信を開始。政府はプロパガンダだと反論した。しかしこの写真は、軍の星条旗新聞に掲載=誤爆の例として。こうしてこの写真は大きな反響をよび、ピュリッツァー賞を受賞した。

この写真にショックを受けたピーター・デバイス監督が現地取材してベトナム戦争のドキュメント映画「ハーツアンドマインド」を完成。少女の映像も掲載。配給会社は中止。裁判で差し止め撤回劇場公開。この映画もアカデミー賞受賞。ニックは危険にさらされ国外へ。

9歳の少女の後の数奇すぎる人生とは?=奇跡的に生き残った少女がその時の様子を証言。カナダのトロント。フック55歳。ナパームが服に。火傷の治療イギリスの記者ウエイン探しあてる。いい治療先あっせん。ドイツの記者もドイツの病院へ。この写真は 恥ずかしかった。医師になりたい。しかしベトナム政府は広告塔に。29歳で結婚。カナダへ亡命。夫もカナダに。あの写真から逃れたい。普通の生活をしたい。NGOキム財団=平和のための組織を結成。ノーモアワーの運動を展開している。

「すべての政府はウソをつく」、忖度(そんたく)を打ち破ったジャーナリストの物語。

◆ベトナム戦争写真集。ピューリッツァー賞から沢田教一の作品画像まで

https://xtreeem.com/I0002095

NAVERまとめ・戦場カメラマン・10

https://matome.naver.jp/m/odai/2134067878016323101

★★ジャーナリストたちが見たベトナム戦争90m

★★戦争を記録した男たち=ファインダーのなかのベトナム戦争80m

https://m.youtube.com/watch?v=LSIKB9WKVWg

🔴【アリ=黒人差別に反対、ベトナム反戦を実践したアメリカの偉大なボクサー】

詳細は、当ブログ=アメリカの黒人の歴史(コロンブスの植民地略奪から奴隷貿易)と黒人差別反対闘争

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3985273.html参照

★★モハメド・アリの物語50m

★★ブロファイラー・ボクシングの王者アリはなぜ国とたたかったのか58m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v117591958DrN34jYZ

★★映像の世紀プレミアム・英雄たち・アリ=黒人差別とベトナム反戦のたたかい18m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v119444197qsBYy5yA

★★池上彰現代史講座(7) ベトナム戦争と日本100m

🔴BSドキュメント=ベトナム戦争(1)(8)

★★ベトナム戦争=ソンミ村虐殺の真実(前編)(後編)

100m

◆米軍のソンミ虐殺事件50年=戦争の真実伝える地に

赤旗18.03.23

(以下50m平均)

★ベトナム戦争(1)仏の肩代わり・特殊戦争54-64

★ベトナム戦争(2)米軍上陸64-66

★ベトナム戦争(3)米国の戦争へ

★ベトナム戦争(4)深まる混迷・テト攻勢前後68-70

★ベトナム戦争(5)負傷兵と衛生兵・看護師68-70

(ベトナム戦争(6)欠)

★ベトナム戦争(7)ハンバーガーヒル11日間の泥沼の闘い69

★ベトナム戦争(8)米軍撤退71-75

★ラオス・CIA・ベトナム戦争全5

★★パリ秘密交渉の内幕47m

https://m.youtube.com/watch?v=ppxvqIE7I2E

★世紀の戦車対決=ベトナム戦争86m

https://m.youtube.com/watch?v=EJY_DoZj8_U

https://m.youtube.com/watch?v=wMrQFF2UJfg

★カラーでみるベトナム戦争90m

http://video.fc2.com/content/20131027z7Ptn0yK

❷http://video.fc2.com/content/20131027wWFdY1Bm

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🔵ベトナム戦争の被害=枯れ葉剤

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(ベトちゃんに見られるように米軍がベトナム戦争でまいたダイオキシン、PCB汚染によっていまもベトナムに300万人にも及ぶ深刻な被害者がつくり出された。それだけでなく枯れ葉剤・ドラム缶を扱った米兵や沖縄の基地従業員・周辺住民にも影響を与えた。以下の動画は、それを告発するものである)

◆詳細はWiki=枯れ葉剤(下記に掲載)

ベトちゃんとドクちゃん

◆◆枯れ葉剤、なお続く苦しみ ベトナム戦争終結から40年超

2018年12月5日朝日新聞

(次女のチャムさんを抱く父親のグエン・バン・ザウさんと母親のグエン・ティ・ロアンさん=ビエンホア、鈴木暁子撮影)

 ベトナム戦争中に米軍が散布した、猛毒のダイオキシンを含む枯れ葉剤。ベトナムでは多くの人がその影響とみられる障害に苦しみ、各地に高濃度のダイオキシンが残る。戦争終結から40年以上経っても枯れ葉剤との闘いは続いている。

 (ビエンホア=鈴木暁子)

 ◆重い介護、高齢化する家族

 横たわっていた次女のチャムさん(25)を、父親のグエン・バン・ザウさん(55)がいとおしそうに抱きかかえた。チャムさんは頭蓋(ずがい)の一部がない状態で生まれ、ずっと寝たきりだ。

 母親のグエン・ティ・ロアンさん(56)が早朝に体を拭き、おむつを替え、ご飯や肉を柔らかくして2時間かけて食べさせる。外出は週1回の買い物だけ。

 ザウさんらが住むビエンホアはベトナム戦争時に米軍基地があった。貯蔵されていた枯れ葉剤が地下水や川へ漏れ出したとされ、その影響とみられる障害を持つ人が地域に約千人いる。

 ザウさんは戦争後の1980年代初頭、兵士としてこの地域に配属された。井戸の水を飲み、作物を植え、現地の魚や鶏を食べた。「体に影響があるとは全く知らなかった」。チャムさんの双子の姉は健康だが、今後症状が出るのではないかと夫婦は心配する。

 ベトナム政府が支援する「枯れ葉剤/ダイオキシン被害者協会」(VAVA)によると、こうした障害者に対しては公的施設が限られるため家庭での介護が多い。グエン・バン・リン会長(76)は「家族の高齢化で、介護の負担が課題になっている」と話す。

 グエン・バン・バットさん(67)は70年から85年まで兵士として枯れ葉剤が散布された南部にいた。ビエンホアで調理師をしていた妻のグエットさん(67)との間に生まれた次女タインさん(36)に知的障害があり、着替えなどで介助が必要だ。暴れることがあり、グエットさんは「力が強く手に負えない時がある」と言う。タインさんの姉妹も体調がすぐれない。「私たちが死んだら娘らはどうなるのか心配でたまらない」

 ◆断定できぬ因果関係

 VAVAによると、枯れ葉剤は約480万人が浴び、うち約300万人が死亡または重い障害を負った。だが体内のダイオキシン濃度を測る検査は十分されず、症状と枯れ葉剤の因果関係は断定できない。

 金沢大の城戸照彦教授らは、枯れ葉剤が散布された地域に住む女性の母乳のダイオキシン濃度を調べ、子供のステロイドホルモンの値との間に相関関係があることを突き止めた。ただ城戸教授は「ダイオキシンが生体に影響していると言えても、それがどんな健康障害に結びつくかは、子供が思春期を迎えた時の発達状況を研究しなければわからない。因果関係の証明には長い時間がかかりさらに研究が必要だ」と話す。

 ベトナム政府は、戦争に参加した元兵士で枯れ葉剤の影響が疑われる31万2千人に手当を支給している。VAVAによると、月額538万9千ドン(1万ドン=約48円)を上限に、障害の程度に応じて支給。元兵士の子で影響を受けたとみられる人も支給対象だ。枯れ葉剤の散布地域で生活し、その影響とみられる重度障害を持つ人への支援もある。

 枯れ葉剤の影響を受けた子供は今も生まれているのか。枯れ葉剤が原因とみられる障害のある60人が通院・入院するホーチミンのツーズー病院の医師は「出生前診断の技術が進んだため人数は減っている」と話し、障害が判明すると出産をあきらめる家族が一定数いることを明かした。

 ◆米 除染は支援、人へは補償せず

 「我々は支援を約束した。米国は過去の一部を正すことでその約束を守る」。10月、ベトナムを訪れたマティス米国防長官は、立ち入り禁止の看板が立つビエンホアの米軍基地跡地に降り立ち、土壌汚染の改善への支援を強調した。

 2009年に28カ所とされた高濃度汚染地区の中でも、ダナン、フーカット、ビエンホアの米軍基地跡地は特にダイオキシン残留度が高い「ホットスポット」とされてきた。

 米国は1億1千万ドル(約124億円)をかけてダナンで土壌の除染を今年11月に終えた。さらに最大規模の約50万立方メートルの汚染土壌があるというビエンホアでの除染に向け、米国際開発局が今年5月、10年間で3億9千万ドル(約441億円)の無償支援をすることでベトナム政府と合意した。

 だが米国政府は、自国の退役軍人の健康被害への補償はしても、ベトナム人に対しては何もしていない。

 ビエンホア中心部にあるビエンフン湖の前にはダイオキシンの危険を説明する看板がある。「釣りをしたり泥に触れたりするな」「子供を遊ばせないで」。ベトナム政府が14年、ビエンホア周辺の16の湖で高濃度のダイオキシンが見つかったと公表。看板はその後に立てられた。

 周囲を歩いていた高齢の女性は「枯れ葉剤が流れ込んでいるといわれる。魚を釣って食べたら大変だ」。ところが子供を遊ばせていた20代女性は、湖と枯れ葉剤の影響について「よくわからない」。

 VAVA幹部のファム・チュオンさんは「枯れ葉剤の問題は教科書に載っていない。若者には十分な情報が行き渡らず、関心も低い」と話す。

 ◆キーワード

 <枯れ葉剤> ベトナム戦争中、密林にひそむ敵の掃討を目的に、米軍の依頼で化学薬品会社が開発した除草剤。このうち多く使われた「エージェント・オレンジ」と呼ばれるものに猛毒のダイオキシンが含まれていた。ベトナム政府によると1961~71年に米軍が300万ヘクタールの土地に7千数百万リットルを散布。現地にいたベトナム人や米兵ががんなどの病気になり、子や孫に先天性障害児が生まれた。ダイオキシン遺伝子に作用したのではないかとみられている。

🔵BS枯葉剤=ベトナム・沖縄・アメリカ50mhttp://m.pandora.tv/view/keiko6216/62472517

◆◆枯れ葉剤被害のいま・未来のために

赤旗18.11.09

◆◆「兄の体、今も一緒に生きている」 分離手術30年、ドクさん語る

2018105日朝日新聞

分離手術から30年の記念式典であいさつするグエン・ドクさん(左)と家族=4日、ホーチミン

 ベトナム戦争で米軍が使った枯れ葉剤の影響とみられる結合双生児として生まれた「ベトちゃん・ドクちゃん」の分離手術から30年となる4日、双子の弟のグエン・ドクさん(37)がベトナム南部ホーチミンで記念式典に参加した。ドクさんは日本とベトナムの支援者に感謝し、「恩返しとして、社会の役に立つよう頑張りたい」と語った。

 ドクさんは1981年、枯れ葉剤が大量にまかれたベトナム中部の村で、双子の兄のベトさんと下半身の一部がつながった状態で生まれた。大腸や膀胱(ぼうこう)などを複雑に共有する兄弟の分離手術は、88年10月4日にホーチミンのツーズー病院で行われ、日本の医師団も協力。日本の市民団体が募金で支援を続けてきた。

 手術後、寝たきりだった兄のベトさんは2007年に26歳で亡くなった。ドクさんはベトさんについて、取材に「私のためすべてを犠牲にした勇気ある人だった。兄の体は今も私の中に残っている。今も一緒に生きている」と話した。

 ドクさんは、枯れ葉剤の影響とみられる障害がある人が入院するツーズー病院に事務員として勤務する。06年に結婚。09年に双子が生まれ、日本への感謝をこめて長男はフーシー(富士)君、長女はアインダオ(桜)ちゃんと名付けた。2人は元気に成長している。(ホーチミン=鈴木暁子)

◆和光大学・タカサキ=枯れ葉剤とダイオキシン問題PDF18p

★★フランケンシュタインの誘惑・フィーザーのナパーム弾の発明=東京大空襲・ベトナム戦争・シリア

★★ベトナム戦争=枯れ葉剤の傷跡85m(枯れ葉剤を浴びた米兵から生まれた障害をもつ女性がベトナムに訪問し枯れ葉剤被害を受けた子供たちと面会する)

https://m.youtube.com/watch?v=qGX2FxvnjAY

★★琉球朝日放送=枯れ葉剤を浴びた島とベトナム戦争

★★琉球放送テレメンタリー=沖縄での枯れ葉剤缶汚染(民放連受賞)30m

★★琉球放送ドキュメント・枯れ葉剤を浴び続けた島№264m

★★ザ・スクープ=検証 沖縄の枯れ葉剤疑惑60m

★枯れ葉剤を浴びた島~「悪魔の島」と呼ばれた沖縄

10m

★私は沖縄で枯れ葉剤をまいた計25m

https://m.youtube.com/watch?v=scVWN14VjYQ

https://m.youtube.com/watch?v=-5zBg4NAJe4

★★トーク:中村梧郎 =枯葉剤・ダイオキシン・原発~生命の危機 60m

◆◆ベトナム戦争が与えたアメリカ経済・世界経済への影響=アメリカの経済的地位の低下、ドルショックによる変動相場制への移行

16.04.20. 朝日新聞解説

ベトナム戦争の戦費の拡大により、米国の財政は悪化し、1971年にはその経済政策の変更を余儀なくされた。金とドルの兌換(だかん)が停止されたことで、ドルを基軸通貨とするブレトンウッズ体制が崩壊し、諸国は変動相場制に移行していった。

 世界の歴史を見渡してみると、戦争を転機として国家や社会が大きく変化してゆく場面にしばしば出合います。今から70年以上前の第2次世界大戦は、米国を世界のリーダーに押し上げた戦争でした。

◆米「世界の銀行」

 戦争終結から3年後にあたる1948年の統計では、米国だけで世界中の金の7割を独占し、鉱工業生産は世界の6割以上に達していました。米国は「世界の工場」であると同時に「世界の銀行」としても君臨していたのです。

 その米国を中心に第2次世界大戦後の国際金融秩序であるブレトンウッズ体制がつくられました。44年にニューハンプシャー州のブレトンウッズで開かれた国際会議で合意されたため、この名前がついています。

 アメリカのドルと金との交換を、金1オンス(約31グラム)=35ドルと固定した上で、ドルと世界各国の通貨とを固定相場でリンクしました。例えば日本の円は1ドル=360円にレートが固定されました。敗戦によって見向きもされなくなった日本の円を、金に等しい価値を持つドルによって支えられる体制ができたと理解すべきでしょう。日本経済復興の背景には、関税と貿易に関する一般協定(GATT)で自由貿易が保証されたことと共に、このブレトンウッズ体制があったのでした。

 しかし、米国は65年にベトナム民主共和国(北ベトナム)に対する爆撃(北爆)を開始してベトナム戦争に全面介入し、最大時で50万人の兵士を派兵するようになります。

 仮に兵士1人あたりの食糧や武器弾薬の供給、そして手当などもろもろの必要経費を1日1万円とした場合、50万人の兵士に対しては毎日50億円もの金額が必要になります。世界の経済を牽引(けんいん)する米国にとってさえも、このような負担はとてつもない重荷になったことでしょう。

◆金保有率が低下

 48年から72年の間に、世界各国政府・機関における米国の金保有比率はどんどん下がってゆき、48年の約3分の1にまで低下してしまいました。

 米国のニクソン大統領は金とドルとの交換停止を宣言せざるを得ず(ドルショック)、世界経済が混乱し、そして米国のドルによって各国通貨を固定相場で支えることができなくなりました。これ以後世界は、現在の私たちになじみ深い変動相場制へと移行してゆくのです。

 第2次世界大戦によって圧倒的な経済力を保有するようになった米国は、ベトナム戦争でつまずきました。しかし米国は、その後も91年の湾岸戦争、2001年のアフガニスタン攻撃、03年のイラク戦争と、何度も戦争を続けました。これらが米国経済にどれほどの悪影響を与えているかについては、もう説明するまでもないでしょう。

◆◆Wiki=枯葉剤

Wikipedia

ベトナム戦争時のランチハンド作戦による枯葉剤散布の様子

枯葉剤(かれはざい)は、除草剤の一種である。ちなみに、ベトナム戦争で散布された枯葉剤はダイオキシン類の一種2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) を高い濃度で含んだものである。

◆ベトナム戦争における枯葉剤

(詳細はWiki=ランチハンド作戦を参照)

ベトナム戦争中に米軍と南ベトナム軍によって撒かれた枯葉剤は軍の委託によりダイヤモンドシャムロック、ダウ、ハーキュリーズ、モンサント社などにより製造された。用いられた枯葉剤には数種類あり、それぞれの容器に付けられる縞の色から虹枯葉剤(英語版)と呼ばれ、オレンジ剤 (Agent Orange)、ホワイト剤、ブルー剤などがあった。

ベトナムで使用された枯葉剤のうち主要なものは、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) 2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸 (2,4,5-T) の混合剤であり、ジベンゾパラダイオキシン類が含まれ、副産物として一般の2,4,5-T剤よりさらに多い2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) を生成する。このTCDDは非常に毒性が強く、動物実験で催奇形性が確認されている。ベトナム戦争帰還兵の枯葉剤暴露とその子供の二分脊椎症の増加についてはこのTCDDとの関連が示唆された。なお、2,4,5-Tはアメリカ合衆国や日本では散布使用が許可されていない。ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と類似のものであり(受容体参照)、動物実験で催奇性が確認されている。ヒトに対する影響は不明であるとする否定意見があるが、これは人間に対しては動物のように実験を行うことが出来ないために不明となっているためである。

枯葉剤の散布は、名目上はマラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するためとされたが、実際はベトコンの隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれる。枯葉剤は1961年から1975年にかけてゲリラの根拠地であったサイゴン周辺やタイニン省やバクリエウ省のホンダン県(ベトナム語版、英語版)などに大量に散布された。アメリカ復員軍人局の資料によれば確認できるだけで83600キロリットルの枯葉剤が散布された。コロンビア大学のジーン・ステルマンの調査では、散布地域と当時の集落分布をあわせて調査した結果、400万人のベトナム人が枯葉剤に曝露したとしている。

19696月末、サイゴンの日刊紙「ティン・サン」は枯葉剤散布地域での出産異常の増加に関する連載を開始した[1]が、当局によりすぐさま発禁処分となった。同年1129日、全米科学振興協会 (AAAS) の年次総会にて、ハーバード大学のマシュー・メセルソン、バウマンらの散布地域における出産異常の激増に関する報告がなされた。同報告では、1959年から1968年の異常児出産4002例を調べ、散布強化された1966年以降、先天性口蓋裂が激増していること、奇形出産率がサイゴンで1000人中26人、集中散布地域のタイニンで1000人中64人にのぼった事が報告された。また散布地域の母乳のダイオキシン濃度で最高1450pptを検出、平均で484pptと、非散布地域・国に比べて非常に高い汚染状況にある事が報告された。19726月、ストックホルムでの国連環境会議で枯葉剤散布は主要議題となり、アメリカの批判派の科学者らから、ベトナムでの奇形児出産の増加を含む膨大な報告がなされた。

沖縄の枯葉剤保管疑惑

ベトナム戦争中枯葉剤が沖縄に持ち込まれていたことが、沖縄で服務中に枯葉剤に被曝したとして健康被害の補償を求める米国退役軍人省の公文書や、保管されたマイクロフィルムで明るみに出た。米軍は1971年毒ガス類を撤去するための移送作戦「オペレーション・レッドハット」を行い、沖縄の枯葉剤もハワイ沖ジョンストン島へ移送されたとされる。沖縄で従軍した元兵士の疾患について枯葉剤による後遺症であると認められたものの、一方アメリカ政府は沖縄における枯葉剤の存在を否定している。

◆アメリカでの枯葉剤健康被害

1984年、アメリカのベトナム帰還兵らが枯葉剤製造会社に対して集団訴訟を起こした。訴訟に加わった帰還兵らは4万人を超えた。しかし、裁判が審理入りする直前になり、突如原告代表者が会社側との和解を発表、製造会社側は枯葉剤の被害を認めぬまま原告に補償金18000万ドルを支払うことで同意した。裁判で帰還兵らの枯葉剤健康被害が公にされる事がないまま、帰還兵らの証言はお蔵入りとなったのである。この突然の和解を不服とした帰還兵や遺族らが1989年に再び集団訴訟をおこしているが、却下された。

1991年、アメリカの枯葉剤曝露帰還兵に対して救済法が成立し、15の疾病に枯葉剤との関連が認められた。ベトナム帰還兵の子供世代への健康被害調査も行われ、帰還兵の二分脊椎症の子供および女性帰還兵に限りその他の先天障害をもつ子供へも補償が認められた。しかしこれによって認められた枯葉剤の次世代への健康被害は限られたものであり、現在も多くの帰還兵の子供の疾病や先天障害は枯葉剤との関連が不明であるとされている。

🔴【ベトナム民族解放前史=ファンボイチャウ(Phan Boi Chau)、日本とベトナムとの友好】

左は皇太子、右がファンボイ=チャウ

ホーチミンたちのベトナム民族解放のたたかいの前史にファンボイチャウがいる。ベトナム維新会には、ホーチミンの兄や姉が加入していた。

18671940]ベトナム民族運動の指導者。漢字名、潘佩珠。1904年にベトナム維新会を結成し、1905年来日。独立運動の指導者となるベトナム青年を留学させるドンズー運動(東遊運動)を起こす。1912年に中国でベトナム光復会を結成し、武力による独立革命を目指したが、1925年にフランス官憲に捕らえられた。著「ベトナム亡国史」ほか。

◆ベトナム・トンキンでの東遊運動PDF

クリックしてAA12162559-27-159-171.pdfにアクセス

◆ファンボイチャウのたたかいの詳細は、以下の「世界史の目」を参照のこと。

http://www.kobemantoman.jp/sub/248.html

◆ファンボイチャウとその時代http://nvkanagawa.blog.fc2.com/blog-category-9.html

★★アジア留学生が見た日本明治日本への希望と失望58m(中国の孫文ベトナムのフォンボイ=チャウなど)

★★ベトナム独立の父=フォンボイ=チャウ6m

★★ベトナム独立の夢を日本に賭けた男NHKBS45m

https://m.youtube.com/watch?v=urdW3plzlh4

https://m.youtube.com/watch?v=d_E_V6WqP8g

https://m.youtube.com/watch?v=5E76q1xnJzs

★★感動ドキュメント・ベトナム残留日本兵の家族の旅=天皇陛下と会ったスアンさんなど120m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v136896007E87ZWKb3

★浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウ12m

https://m.youtube.com/watch?v=BhfJBrEZdlY

★ファンボイチャウ記念館5m

◆◆ベトナム「東遊運動」の証し、今も 両陛下、現地の記念館訪問へ

朝日新聞17.02.28

 28日からベトナムを初訪問する天皇、皇后両陛下。3月4日に中部フエ市で、フランスからの独立を指導したファン・ボイ・チャウの記念館に足を運ぶ。チャウは日本に学ぼうと多くの青年を日本に留学させた「東遊(ドンズー)運動」を展開し、日越交流の礎を築いた人物。関係者は「両陛下の訪問で功績が広まり、交流が深まれば」と期待する。

(ファン・ボイ・チャウの記念館)

(ボイ・チャウ記念館にある肖像画の前に立つ、孫のキャットさん=ベトナム中部フエ)

(浅羽佐喜太郎=袋井市教育委員会提供。出典は図説「浅羽町史」)

(浅羽佐喜太郎に感謝を示す「報恩の記念碑」完成時のファン・ボイ・チャウ(下段右から2人目)=1918年、静岡県袋井市の常林寺、袋井市教育委員会提供。出典は図説「浅羽町史」)

◆小学校提供し交流 静岡・袋井

 チャウは、日本が明治維新を成功させ、欧米列強に肩を並べようとした姿に刺激を受け、1905年に武器援助を求めて日本を訪れた。有力者の大隈重信や犬養毅らを頼ったが、日本政府はフランスとの関係悪化を懸念。「まずは人材育成を」と諭され、ベトナムの青年を日本に留学させる「東遊運動」を始めた。約200人が日本に派遣され、民間機関などで日本語や軍事戦略を学んだ。

 だが、07年に日仏協約が締結されると、仏政府は日本側にベトナム青年たちの送還を要求し、東遊運動は行き詰まった。危機に立たされたチャウを支援したのが、静岡県袋井市出身の医師浅羽佐喜太郎(あさばさきたろう)だった。袋井市の有志でつくる「浅羽ベトナム会」によると、佐喜太郎はチャウの活動に共感し、面識はなかったものの資金を提供。青年たちが帰国するまでの集団生活の場も提供した。

 チャウの研究を続ける歴史家のチュオン・タウ氏(81)は「東遊運動はベトナムがフィリピンやタイなどと外交を始めるきっかけにもなり、国を支える人材育成の意味でも大きな意義があった」と評価する。

 しかし、佐喜太郎の支援は日本政府の意向に反したことであり、2人の交流は「埋もれた歴史」となっていた。注目を集めるきっかけは2001年、ベトナム人留学生が卒論でチャウを調べるために袋井市を訪れたことだった。これを機に、市は募金活動を展開。14年には、ベトナムの山岳地帯に小学校を完成させた。子どもたちの交流は今も続く。

 「両陛下のご訪問は、祖父と浅羽氏の東遊運動がいまも続いていることの証し」。チャウの孫にあたるファン・ティウ・キャットさん(72)は両陛下の来訪を歓迎する。自身が生まれる前に祖父は亡くなったが、家族と別れて革命の道を進み、幽閉された後も多くの詩や書物を書き残したと母親から聞いた。「いまやベトナム人は東遊も西遊もする時代。祖父の思いは、100年後も残っているはず」

 佐喜太郎の墓がある袋井市の常林寺には、1918年、日本を再訪したチャウが建てた「報恩の記念碑」がある。佐喜太郎の遠縁にあたる浅羽一芳さんは「両陛下の訪越が、歴史を振り返る契機になってほしい」と期待する。

 (鈴木暁子=ハノイ、島康彦)

★★日本・ベトナム ナゾ解き交流史 国交樹立40周年記念50m

★★ベトナム基礎情報 文化 観光 世界遺産紹介30m

★★TBSベトナムの発展50m

🔴【カンボジア・ポルポト政権】

★ポルポトの悪夢58m

https://m.youtube.com/watch?v=-uc3lDoAWiw

★電波ニュース・映画「カンボジアからの証言」(1979年製作)

★ポルポト政権の実態15m

https://m.youtube.com/watch?v=jM-STQ-DkTQ

★★カンボジアの悲劇/池上彰の現代史講義 890m

http://www.at-douga.com/?p=10082

🔴【ベトナム戦争論文・資料】

◆「ベトナム黒書」(旬報社デジタライブラリー)

◆「歴史の告発書」(旬報社デジタライブラリー)

◆「資料ベトナム解放史1(旬報社デジタライブラリー)

◆「資料ベトナム解放史2(旬報社デジタライブラリー)

◆「資料ベトナム解放史3(旬報社デジタライブラリー)

◆小沼新=ヴェトナムにおける統一戦線の発展 (第三世界その政治的諸問題)PDF26p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1969/39/1969_39_65/_pdf

◆小沼=ホ・チ・ミンその思想と行動 (第三世界政治家研究)PDF22p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kokusaiseiji1957/1977/57/1977_57_61/_pdf

◆谷川永彦=ベトナム民族独立運動1930-41PDF

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◆逸見 重雄=ホー・チ・ミン評伝PDF11p

◆逸見 重雄=パリにおけるホー・チ・ミン : ベトナム民族解放運動の起点PDF32p

◆立命館・関谷=ベ平連運動とはPDF8p

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◆◆古田元夫=ベトナム戦争の世界史的意義

15.04.24赤旗)

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🔵ベトナム人民の闘争と連帯した日本の労働者・市民=相模原戦車闘争・10.21国際反戦行動など

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🔴ベトナムに送られる戦車を1か月間も止めた72年相模原戦車闘争

★★NHK相模原戦車輸送阻止闘争3m

🔵ベトナム戦争中、相模原で市民が戦車を止めた 賛否両方50人の声集めた映画「戦車闘争」が完成

神奈川県内で運搬される米軍戦車(戦車闘争の映画をつくる会提供)

 ベトナム戦争中の1972年、在日米軍基地「相模総合補給廠(しょう)」(相模原市中央区)で修理された戦車の輸送を、市民が阻止した。この反戦運動「戦車闘争」を証言や当時の映像で紹介したドキュメンタリー映画が完成した。参加した市民や輸送した運送会社の関係者など50人以上から賛否両方の声を集めた労作で、12月に公開される。製作した映画プロデューサー小池和洋さん(46)=同市=は「おかしいと思うことに声を上げる大切さを訴えたい」と話す。(井上靖史)

◆人垣が戦車を足止め反対運動は100日間に及んだ

 戦車闘争は、日本国内に基地を置く米国が参戦したベトナム戦争の終盤に起きた。当時、故障した米軍戦車や兵員輸送車は相模総合補給廠で修理し、横浜市神奈川区の港から船で搬出されていた。

 72年8月には、港近くの村雨(むらさめ)橋で、当時の飛鳥田一雄(あすかたいちお)・横浜市長が橋の重量制限を理由に輸送に反対した。市民の人垣が補給廠から港に向かう戦車を足止めし、戦車は引き返した。補給廠の正門近くでもテント村が設けられ、デモ行進などを展開。反対運動は約100日間に及んだ。

◆参加者や地元の店主さまざまな声を伝える

 映画の中で、参加した男性は「公道に戦車が足止めにされ、多くの一般市民が目にした。戦争が分かりやすく伝わった」と関心を呼んだ理由を推察する。活動に賛同していた作家の吉岡忍さんも登場し「米国という民主主義の国にならってきたのに、だまされたと感じていた。なぜ貧しい農業国を最先端の武器を使って攻めなきゃいけないのかと思った」と振り返った。

 一方、地元飲食店主は「デモ参加者は(座り込みなどで)風呂に入っていなかった。臭いし店に来てほしくなかった」と話すなど、当時、闘争を巡り起きていたさまざまな現実を伝えている。

◆「名もなき人々の闘争、現代にも示唆」

 小池さんは約2年前から製作に励んできた。半世紀近く前の出来事に着目した理由を「数の力で、首をひねるような法案が通過したり重大な疑惑が無視されたりしている。あきらめのような空気も広がるけど、名もなき人々が怒りの声を上げて始まった闘争が、現代の私たちに示唆を与えるのでは」と語る。

 ナレーションはシンガー・ソングライターの泉谷しげるさんが務めている。12月から東京都中野区の映画館「ポレポレ東中野」を皮切りに順次公開。問い合わせはマーメイドフィルム=電03(3239)9401=へ。

◆◆戦車を止めた運動についての解説=ベ平連

【中学生】歴史新聞を作るという授業で(ベトナム戦争の反戦運動)を調べてます。このメッセージは父のパソコンを勝手に使っているので、匿名希望です。返信は談話室を使ってほしいです。もし、談話室に載せられなければ、無視してください。

 本題ですが、当時、横浜の方で工場の前で戦車を一ヶ月間止めたという話を聞きました。橋の前に座り込んで止めたそうです。その正確な場所や橋の名前など、分かりませんか? そのほかにも、署名活動のことなんかも知りたいんですが、できる範囲で結構です。突然こんなメッセージを書いてすいません。よろしくお願いします。

【ベ平連解説】 お問い合わせの、この出来事は、1972年、神奈川県の相模原市及び横浜市でのことでした。

 一言で言えば、崩壊寸前の南ベトナム政府軍を支えようとしたアメリカは、日本の相模原市にあった米軍相模補給廠基地から、米軍の戦車その他の戦闘車両を運び出し、これを南ベトナムに送ろうとしたのでした。これに対し、日本の野党、労組、反戦市民運動などが反対し、輸送を阻止しようとしました。「橋の前に座り込んで止めた」というのは、その中の一つにすぎませんが、かなり有名になったのは、横浜市の飛鳥田一雄市長(後に日本社会党の委員長にもなった)が、道路交通法の規定を適用し、横浜市内の村雨橋を輸送車が通過することを重量制限違反だとして拒否し、市の職員や自動車などを橋に派遣して、実際に通行を阻止したからでした(7285日)。自治体が、このようにはっきりと米軍の行動に反対の措置をとったことが、大きな注目を集めたのでした。しかし、日本政府は、米軍に全面的に協力し、閣議は車両制限令を改訂してまで、戦車の輸送を可能にさせましたし、戦車の前に座り込んだ多くの市民や労組員、横浜市の職員などが警察によって逮捕されました。機動隊の暴行によって、重傷者を含む多数の負傷者も出ました。戦車の前に身を投げ出して逮捕された「ベ平連」の青年4人は起訴され、その裁判は、ベトナム戦争がアメリカ・南ベトナム政府の完全な敗北によって終了した後まで続き、4人とも、有罪の判決がおりています。

 こうした日本の反戦運動による戦車の輸送阻止は、「一ヶ月間」ではなく、100日間に及んだのです。国の解放と統一を望んで闘っていたベトナムの人民は、この日本の運動に大いに勇気づけられたといっており、2年前には、ベトナムの代表団が、相模原市を訪れ、当時の日本の反戦運動の人々と交流もしました。

 この運動についての参考文献もたくさんありますが、一番おすすめするのは、『戦車は止まった 市民の力――1972年相模原の100日』という絵本(文=にしお けんじ 絵=やまだ ひろみ A4版横  43ページ 出版社=アゴラさがみはら出版、定価=1,000円、200285日出版)です。絵本だといって、馬鹿にしないでください。この相模原での戦車を止めた運動が、よくまとめられており、知らない人でも、この運動の大体のことがわかるようになっている本です。この本についての詳しい紹介は、このサイトの「ニュース」欄2002年のNo.233を見てください。

 このサイトの「ベ平連年表」1972年~73年の欄から、この運動に関係する項目だけを選び出しても、次のようにたくさんあります。かなり項目は多いようですが、実際の動きは、もっともっとたくさんありました。

 「そのほかにも、署名活動のことなんかも知りたいんですが……」とのことですが、この質問は、漠然としすぎていて、何を答えていいかわかりません。もっと具体的に質問してください。ベトナム戦争に反対する10年以上にわたる運動には、無数の大規模、小規模の署名運動がさまざまな形で行なわれ、とても一言で言えるようなものではありません。(ベ平連・吉川記)

◆◆村雨橋座り込み・相模原戦車闘争

朝日新聞横浜版18.08.18

◆◆「アメリカも危機感もつ」「ベトナム人民も日本の戦車闘争に励まされた」と相模原集会

 本「ベ平連ニュース」欄 No.229 でお知らせした相模原市での「8.3戦車闘争から30年 ベトナム代表団歓迎・交流の集い 」は、歴史的な村雨橋闘争から満30年にあたる83日午後、相模原教育会館で開催され、250名の参加者を得て盛会裡に終了した。

【下の写真はハノイの集会】

 集会には、ベトナムからこのために来日した3人の代表、ホーチミン市戦争証跡博物館のグエン・コック・フン館長、ホーチミン市ベトナム日本友好協会のグエン・コン・タイン書記長、そしてハノイ市文学芸術協会のバン・ヴィエット会長を迎えた。集会では元ベ平連代表、小田実さんの記念講演があり、そのあと、ベトナムの3代表からもこもごも発言があった。

 小田さんは、ベトナム反戦運動が、決して30年前の過去の歴史上の出来事というものではなく、まさに、この2002年の現在に大きな意味を持つ運動であることを強調した。テロ対策を口実とした恣意的なアフガニスタン攻撃、そして迫ってきているイラク攻撃などのアメリカの政策に、日本政府が無条件に協力しているとき、日米安保条約によっていまだに存続している相模補給廠は、30年前以上の役割をこれから果たすことになる危険性は非常に大きい、この問題を若い世代に正確に伝えることが非常に大事だと話した。

 ベトナムの3人の代表は、それぞれ、相模原での闘争がいかにベトナム人民の解放闘争を支援したかを、当時の体験から実感を込めて話した(フン館長は、南ベトナムかいらい政権に捕らえられて、当時「虎の檻」と言われた監獄にいれられており、また、タインさんは、サイゴン郊外のクチ・トンネル 根拠地にこもってゲリラ戦を戦っていた。タインさんの経験は、この「ニュース」欄 No.223 に掲載されている『週刊金曜日』に載った吉川勇一『ベトナムで聞かされた三〇年前のデモの効果 』で紹介されている。) 当時の闘争に参加した人びとは、あの30年前の闘争で、最後には機動隊の暴力によって抑え込まれ、戦車がベトナムに送り出されてしまったことに、ある種の挫折感、無力感を感じたし、また、どれほど戦争阻止に役立ったのかも自信がなかったが、この集会での話を聞いて、大きな役割を果たしたことを実感でき、とても嬉しかったと話していた。

 ベトナム代表団からは、1972年、ベトナムのロング・アン県で、農民の主婦が米軍の戦車の前に立ちはだかってそれを止めた事実を描いた絵の大きな額が、相模原の市民に記念品として寄贈された。

 この集会の模様は、84日の『神奈川新聞』で大きく報道された。同時に同紙は、「かながわ発 今、有事を問う」というシリーズの特集記事の掲載を開始したが、4日掲載の第1回は、1面のトップで、この戦車輸送阻止闘争の問題とベトナム代表の訪問の記事ををカラー写真入りで大きく掲載した(右の図)。

 3日夕刻には、町田市のホテルで、ベトナム代表歓迎のパーティが開かれ、ベトナム人民の解放歌が、日越双方の出席者からそれぞれの言葉の歌詞で合唱されるなど、この集まりも大いにもりあがった。

 なお、同日付の同じ『神奈川新聞』は、「『戦車闘争』米に危機感」と題して、「ピースデポ」(梅林宏道代表)がアメリカの国立公文書館で発見した「M48戦車輸送」と題する「極秘」扱いの文書(1972年8月15日付け)の内容を報道している(左の図)。これによると、同秘密文書には「現在の戦車輸送における閉塞状況が、沖縄を含む日本における兵站作戦の将来になげかけている意味について非常に案じている」とあり、相模原からの搬出が不可能となった場合の代替案も検討して挙げているが、それは「安全保障義務を米政府が果たす能力に貢献するものではない]とのべて、非常に憂慮していたことが示されている。

🔷米軍戦車を止めた安保改定60年 赤旗2020.06.23-24

🔴ベトナム人民と連帯、平和を守る統一行動=10.21国際反戦デー

(一部はWikiから引用)

19661021 総評が秋期闘争の第3次統一行動として、「ベトナム反戦統一スト」=ベトナム反戦を中心とするストライキを実施して以来、10.21国際反戦デーとして以降20年間にわたり取り組まれた。この日は1943年に最初の学徒出陣壮行会が開かれた日でもある。6610.21ストは、48単産(産業別単一労働組合)約211万人がスト参加。91単産308万人が職場大会に参加。総評の内外への呼びかけに国内から350人近い各界知識人の支持声明が発表され、世界労働組合連盟をはじめ世界各国の労働組合からも連帯のメッセージがよせられ、以後この日は1021国際反戦デーとなった。全世界の反戦運動団体にもベトナム戦争反対を呼びかけた。ジャン・ポール・サルトルが「世界の労働組合で初めてのベトナム反戦スト」と総評を讃えた。

19671021日=アメリカのワシントンD.C.10万人を超えるベトナム戦争反対デモ(「ペンタゴン大行進」)がおこなわれ(en:National Mobilization Committee to End the War in Vietnamも参照)、日本や西ヨーロッパでも同様な示威活動が展開されている。

19681021 18単産、76万人がストライキ、集会に456万人。46都道府県560ヵ所で集会とデモ。総評や民主勢力による統一行動を利用して、左翼暴力集団による「新宿騒乱」が起きた。

19691021日=日本社会党・日本共産党の条件つき一日共闘で全国600か所86万人が統一行動。中央集会には8万人。68年につづき左翼暴力集団による「新宿騒乱」を引き起こした。多くの市民から反発をかった。

19701021日=社共一日共闘、全国785ヵ所372千人が集会。社・共・総評など11団体の統一実行委員会主催中央集会に10万人。「公害追放」のスローガン初登場。全国全共闘・全国反戦共催集会13千人。べ平連7千人。

19711021日=全国600か所150万人が集会。統一実行委員会主催の「中央大集会」に12万人。中核派系6300人、反中核派系6800人、革マル派3200人、ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)など市民団体4700人が別々に集会。

19721021日=47都道府県536ヵ所22万人。実行委主催の中央集会に10万人。新左翼各派は計1万人。

19731021日=18団体主催全国統一行動横田大集会5万人。三沢基地包囲など全国39都道府県214会場で集会・デモ。

19741021日=核持ち込み糾弾・ジェラルド・R・フォード来日反対の全国統一行動。中央集会に7万人、458ヵ所230万人が集会。

19751021日=第10回国際反戦デー。中央集会5万人。公明党参加とりやめ。全国523ヵ所、140万人。

19761021日=全国349ヵ所73万人、中央集会に65千人。

19791020日=明治公園での中央集会に2万人。全国397ヵ所80万人。

19801020日=日米安保条約廃棄をかかげ、25都道府県で社・共統一集会。全実委と中実委2団体主催の中央集会に10万人参加。社公合意(共産党排除など)・総評の新平和4原則をめぐり社共が対立。一日共闘も分裂寸前で維持される。

19811020日=中央集会分裂。総評などの中央集会4万人(一部の妨害で中止)。10.21中実委主催中央集会、28千人、23道県で統一集会。

19821021日=中央集会分裂、社会党系は28千人、共産党系は3万人。全国475ヵ所で集会、うち25道県で社・共統一集会。

19831021日=社・総評など5千人、反核と反角を掲げて中央集会。中実委主催の中央集会に25千人。22県で統一集会。

19841021日=総評など横須賀中央行動に2万人、中実委など東京で3万人が集会。15県で社・共共闘。

19851021日=中央では中央実行委など6団体主催2万人。36道府県で共産党系独自集会、10県で社共統一集会。

◆◆元米兵、50年ぶり横須賀訪問 ベトナム戦争反対訴え、脱走 「改めて平和訴えたい」

20171030日朝日新聞

平和運動団体メンバーらと意見交換するクレイグ・アンダーソンさん(中央)=神奈川県横須賀市

 50年前にベトナム戦争反対を訴えて米空母から脱走した元米兵クレイグ・アンダーソンさん(70)が脱走以来初めて来日した。当時の下船地・神奈川県横須賀市を29日、半世紀ぶりに再訪し、地元の平和運動団体メンバーらと交流した。

 20歳の米海軍航空兵だったアンダーソンさんは米国のベトナムに対する軍事介入に心を痛め、1967年10月23日、米軍横須賀基地に入港中の空母イントレピッドから3人の米兵とともに脱走。ベトナム戦争に反対する団体「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の支援で出国し、スウェーデンに4人で亡命。反戦を訴え、「イントレピッドの4人」と呼ばれた。

 その後、米国に戻り、軍法会議で懲戒除隊判決を受けた。節目の年に日本を再訪したいと、関係者に連絡。10月22日に半世紀ぶりの来日が実現した。

 この日は、当時から反戦米兵の支援を続ける人たちと基地周辺を見て回り「罪のないベトナム人を殺したくないと思い、船を下りた。偶然、支援者に出会い、亡命できた。ベトナム戦争は終わったが、朝鮮半島で戦争の危機が高まっている。改めて平和を訴えたい」と語った。(編集委員・北野隆一)

ベ平連のベトナム反戦米兵支援については以下参照

◆立命館・関谷=ベ平連運動とはPDF8p

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◆◆ベトナム反戦の学生運動、現地で展示

朝日新聞17.08.21

拡大する 日本の学生運動についての展示を説明するベトナム人女性=ベトナム・ホーチミン、鈴木暁子撮影 日本の学生運動についての展示を説明するベトナム人女性=ベトナム・ホーチミン、鈴木暁子撮影

 日本の1960~70年代にベトナム反戦などを訴えた学生運動についての展示が20日、ベトナム・ホーチミンの戦争証跡博物館で始まった。反戦デモに集まった市民の写真や、学生らがかぶったヘルメット、ポスターなどを展示している。

 67年10月8日、佐藤栄作首相(当時)の南ベトナム訪問を阻止しようと集まった学生らが警官隊と衝突し、京都大の山崎博昭さん(当時18)が死亡してから50年の節目にと、当時学生運動に関わった人たちが企画し、実現した。大阪府大東市から博物館を訪ねた山崎さんの兄、建夫さん(71)は昨今の政治状況について「『共謀罪』法の成立など、戦争に向かって進んでいくような危うさを感じる。政治はどうでもいい、何をしても変わらないと考える人には、ちゃうねんで、と伝えていかないといけない」と話した。展示は10月20日まで。(ホーチミン=鈴木暁子)

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🔵ベトナム戦争の歴史

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🔵ベトナム戦争の段階

(1)前史=インドシナ戦争

ベトナムは、ホーチミンなどの指導のもとで45.9.2独立した。日本支配の直前まで植民地支配をしていたフランスは、ただちにベトナムに介入した。

フランス攻勢、ベトナム防御期46.12-47.12

両者対峙期48.1-50.9

ベトナム反攻期50.9-54.7。フランスは最高で55万人兵士動員。死傷者は17万。18万億ドルーうち米30%した。ディエンビエンフー(54.5.7)の戦いでベトナムが勝利した。ジュネーブ協定(54.7.21)を結び戦争は終わった。北ベトナム地域は、独立したが、南ベトナムは、共同管理となり、フランスに変わりアメリカが介入した。

(2)ベトナム戦争の歴史

54-67末米主導期

アイゼンハワー53.1-61.3の警察戦争=ベトナム政府の警察力米は経済援助59.6北ベトナム労働党支援決議→60ベトナム民族解放戦線結成ケネディ61.1-63.11の特殊戦争=1.5万軍事顧問団派遣・村爆撃と戦略村・ゴジンジェム交代63.11。その3週間後ケネディも暗殺される。ジョンソン大統領期63.11-69.11前期の局地戦争=索敵撃滅戦法と64.8トンキン湾事件→65.2北爆開始

68-73解放勢力たいじ期

68.1テト攻勢。ジョンソン後期68+ニクソン69.1-74.8ベトナム化戦争

73-75解放勢力主導権

73.1和平協定。サイゴン政権との戦い。75.3.10-4.30ホーチミン作戦。サイゴン解放。ベトナム戦争で米軍は第二次大戦に使用した爆弾の2倍使用して敗北した。

🔵ベトナム戦争の歴史詳細

小学館(百科)

アメリカとサイゴン政権を一方とし、北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線を他方として、十余年にわたり、第二次世界大戦後最大の規模で戦われ、戦後秩序の変容を促した大きな戦争。

(1)戦争の始期と終期

それだけ大きな戦いであるのに、この戦争はいつから始まったのか、いつ終わったのか、なんとよぶのか、などに関してさまざまの意見がある。始期には次の4説がある。〔1〕ジュネーブ協定(1954)調印直後説アメリカのベトナム介入はジュネーブ協定に違反して行われたとして、同協定の締結直後をもってアメリカの侵略戦争が開始されたとするもので、もっぱら北ベトナムによって主張された。〔21959年説ゴ・ジン・ジエム政権の警察政治に対するベトミン系の復員軍人、一般知識人らによる南ベトナム内の抵抗は1957年から個人的テロの形で行われるが、59年になると、それが組織化され、集団規模のゲリラ闘争として展開される。当初、北ベトナム政府は南ベトナム内の反乱活動に対して傍観的だったが、19595月の第15回労働党中央委員会において、これを支持することを決定し、それ以降、南の旧ベトミン派への援助物資の送り出し、ホー・チ・ミン・ルートの建設に着手した。南の反乱形態が個人的テロから集団的ゲリラに拡大されるのは北の支援があったからであろう。これはベトナム戦争を北ベトナム政府のイニシアティブによる民族解放闘争、革命戦争として、59年をもって戦争の始期とみなす説である。〔31960年説南ベトナム解放民族戦線はこの年設立され、それ以降、解放戦線の抵抗は公然と展開される。〔41961年説アメリカの軍事行動が戦争といえるような形態をとるのはケネディ政権の「特殊戦争」からで、したがって一般にこれを戦争の始期とするものが多い。アメリカ政府は6111日を起算日としてベトナム派遣軍人や、その遺家族に対する諸手当の支給を算出しているようである。

 戦争が終結した時期についても、〔1〕和平協定が調印された1973127日(発効は128日)、〔2〕アメリカがその軍隊の南ベトナムからの撤退を終わり、ニクソン大統領が戦争終結の宣言を出す73329日、〔3〕ホー・チ・ミン作戦によってサイゴンが解放される75430日、の三つの見方がある。したがって戦争継続期間は、ジュネーブ協定からサイゴン解放までとすれば約21年となる。

 戦争の呼称についてはベトナム戦争、第二次ベトナム戦争(フランスとのインドシナ戦争を第一次ベトナム戦争とみた場合)、第二次インドシナ戦争などがあるが、ベトナム戦争が一般的な呼称となっている。ベトナムはベトナム戦争をアメリカの帝国主義戦争、新植民地主義戦争に対するベトナム民族の「反米救国戦争」「抗米救国戦争」とよんでいる。

(2) 戦争の規模

アメリカはベトナム戦争を戦うために延べ260万の兵力を派遣し、南ベトナム駐留の米軍は最高時には549500人に達した。アメリカ以外の参戦国軍の兵力は最高時には6万人を超え、サイゴン政府軍も最高時には118万人を上回った。これに対し北ベトナムと南ベトナム解放民族戦線の兵力は最高時には31万人に上った(ほかに南の政治勢力は157万人)。

 戦争の犠牲者はアメリカ陣営が戦死者225000(推定。アメリカ軍の戦死者は57939)、負傷者752000(推定)、北ベトナム・解放戦線側が戦死者976700(推定)、負傷者130万(推定)だった。

 ベトナム戦争は戦争の全般的な規模でこそ第一次、第二次両大戦に劣るとはいえ、動員兵力、死傷者数、航空機の損失、使用弾薬量、戦費では第一次大戦のそれを上回り、使用弾薬量、投下爆弾量では第二次大戦のそれをはるかに超えた。史上最大の破壊戦争であった。

(3)戦争の経過

戦争は大きく3期に分けることができる。

◆第一期

1967年末まで、アメリカが兵力を増派して、さまざまの作戦を展開、また北爆を強化、サイゴン政権を育成するなど、だいたいにおいて戦争の指導権を握る段階である。アイゼンハワー政権(1953.1~61.1)の警察戦争、ケネディ政権(1961.1~63.11)の特殊戦争、ジョンソン政権(1963.11~69.1)前期の局地戦争が行われる時期に相当する。

 警察戦争とは、アメリカの役割を軍事援助、経済援助の枠内に抑え、もっぱらサイゴン政権の警察行動によって解放勢力の活動を抑え込もうとしたもの。特殊戦争とは特殊部隊による戦争の形態をいう。特殊部隊とは現代版の忍者部隊で、ゲリラ戦、秘密戦(情報収集、宣伝、破壊活動)専門の部隊をいう。民族解放戦争はゲリラ戦によって戦われるとの判断から、ケネディ大統領がアメリカ国内でこうした部隊を養成し、南ベトナムに派遣したのが始まりである。アメリカの特殊部隊はサイゴン政府軍の特殊部隊を育成し、それとともに「ベトコン」(南ベトナム解放民族戦線)を相手にゲリラ戦、秘密戦を行った。また農民と農村の再編に手をつけた。それが戦略村計画をはじめとする一連の農村平定計画であった。戦略村計画は村落を解放勢力の影響範囲から切り離そうとするもので、村落を戦略地点に再配置し、水路、壕(ごう)、鉄条網、竹矢来で囲んだ。それによって、解放勢力が村落を補給・情報・休養基地として利用するのを防止し、解放勢力を孤立化させようとした。局地戦争とは、アメリカの地上部隊が南ベトナム内で通常兵器によって解放勢力と戦うことをいう。兵器、戦場を制限し、そうした制限内で行われる通常戦争である(核兵器は使用しない、戦場は南ベトナム内に限定する)。この局地戦争をアメリカは索敵撃滅戦法と北爆をもって戦った。索敵撃滅戦法とは、解放勢力の中核部隊(正規軍)を探し出し、追い詰めて捕捉(ほそく)撃滅しようというもの。中核部隊さえつぶせば、地方軍や民兵は自然に消滅するという考え方に基づいてとられた戦法である。北爆は戦場を北ベトナムに拡大するもので、地上部隊の戦場こそ南ベトナム内に限定されていたものの、空軍に関しては早くも限定論が無視され、戦争のエスカレーションがなし崩しに進行することになる。そこでジョンソン大統領は戦争権限を得て、これを戦おうとした。それが19648月のトンキン湾事件である。トンキン湾事件とは、アメリカの駆逐艦が北ベトナムの魚雷艇に攻撃されたとして、これに反撃するとともにアメリカが空軍をもって北ベトナムの海軍基地、石油貯蔵所を爆撃した事件である。しかし、のちにこれはアメリカ側によって意識的につくりあげられたなかば架空の事件だったことが明らかになった。ともかく、この事件を契機にジョンソンは議会の決議で戦争権限を獲得した。それ以降、ジョンソン大統領は戦争遂行の権限が大統領に全面的に与えられたとの立場をとり、652月から北爆を大々的に開始し、南の地上兵力も急ピッチで増強し、本格的な「アメリカの戦争」とした。

◆戦争の第二期

19681月、テト攻勢によって北ベトナム・解放勢力が戦争の指導権を奪還、激しい戦闘の間にアメリカ軍の撤退が始まり、和平が模索される段階である。ジョンソン政権後期の局地戦争、ニクソン政権(1969.1~74.8)のベトナム化戦争が行われる時期に相当する。テト攻勢とは、ベトナムのテト(旧正月)を期して解放戦線側が総反攻に出て(攻撃開始は130日未明)、一時はサイゴンのアメリカ大使館を占拠し、またケサン基地のアメリカ軍を一掃するなどアメリカ側を震撼(しんかん)させた軍事作戦である。アメリカ・サイゴン軍とも大きく後退したが、やがて失地をほぼ回復した。解放戦線側の犠牲も大きかったが、これによって軍事勝利の困難なことをアメリカ側に知らせ、北爆停止の契機となった。

 ベトナム化戦争とは、アメリカの地上軍は引き揚げ、そのあとの地上戦闘の責任をサイゴン政府軍が担当しうるように、アメリカがサイゴン政権に兵器、装備、資材を提供し、その軍隊を訓練し、またドル援助を与えて経済力を強化することをいう。アメリカのかね(ドル)、もの(兵器)と、サイゴン政権のひと(肉体)を結び付け、アメリカにとって安上がりの戦争を行おうというのである。

◆第三期

19731月、和平協定が調印され、アメリカ軍が撤退したあと、北ベトナム・解放戦線とサイゴン政権との間に激しい戦闘が行われ、ついにホー・チ・ミン作戦によってサイゴン政権が崩壊する時期である。ホー・チ・ミン作戦とは、北ベトナム軍と解放戦線軍が1975310日から430日にかけて展開した最後の総攻撃で、これによってサイゴン政権は瓦解(がかい)し、アメリカ軍は全員サイゴンから脱出し、ベトナム戦争に終止符が打たれた。

(4) 戦争の性格

この戦争には三つの側面ないし三つの性格があった。一つはアメリカの新植民地主義戦争である。これはサイゴン政権を通してベトナムを間接支配しようとしたものである。もう一つはベトナム民族による民族解放闘争で、戦いは南を解放し、北の社会主義を守り、南北を再統一することを大きな目標として戦われた。ベトナムは民族革命と社会主義革命を通して、この戦いを戦った。第三は冷戦の一環としての戦いである。冷戦はイデオロギーとナショナル・インタレスト(国益)をめぐっての対決である。かくてアメリカは中国共産主義封じ込め戦略を掲げてベトナムに遠征し、ベトナム側は人民戦争戦略をもって対抗した。アメリカ陣営には韓国、フィリピン、タイ、オーストラリア、ニュージーランドが兵力を派遣(参戦国)したほか、西側諸国も協力し、ベトナム陣営には社会主義諸国が加わった。この間、民主勢力によるベトナム人民支援の運動が各国で幅広く展開され、国際的な政治戦争の観があった。

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🔵ベトナム反戦運動

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小学館(百科)

丸山静雄

ベトナム戦争が激化するとともに、これに反対して世界各国に繰り広げられた反戦・平和の広範な市民運動。

 アメリカのベトナム介入は、共産主義を不道徳、邪悪なものとして、その脅威からアメリカ的民主主義やアメリカ的生活様式を守らなければならないと決意したときに始まった。しかし、そうした行動は、アメリカの憲法、国連憲章、国際法、国際条約に違反し、アメリカの歴史的・伝統的精神にもとるのではないかという疑問が生じ、それはアメリカの兵力派遣が加速され、戦闘が激化するに伴って高まった。

 疑問はさまざまの形をとって現れた。学者や知識人らはいち早くアメリカのベトナム介入の合法性について調査し、分析する委員会を組織した。1965年春、プリンストン大学教授リチャード・A・フォーク博士を委員長として設置された「アメリカのベトナム政策に関する法律家委員会」などである。委員会はアメリカのベトナム介入はいくつかの基本点で国際法に違反しているとの結論を出し、それを公表した。議会では政府のベトナム政策に関する公聴会が開かれ、またテレビ、ラジオ、その他の場でもさまざまの公開討議がなされた。これらはベトナム問題に関する「ティーチ・イン」として一時、一種の流行語になった観さえあった。北爆が強化され、枯れ葉作戦やソンミ事件の実態が明るみに出るにつれてベトナム戦争に対する疑惑はベトナム戦争反対の動きとなって広がり、政府の政策に反対する集会やデモがしばしば挙行された。その最大のものは19691015日を「ベトナム反戦デー」Vietnam Moratorium Dayとしてワシントンを中心にアメリカ各地で行われた大規模なベトナム反戦統一行動であったろう。これは11月、12月と続けられ、716月にも行われた。またベトナム戦線からの脱走兵をかくまい、国境を超えて保護しようとする動きもあった。国防総省はベトナム戦争の全容について調査・研究を行い、これを47巻に上る膨大な「米国防総省秘密報告書」(一般にペンタゴン・ペーパーとよばれる)としてまとめあげたが、その概容が『ニューヨーク・タイムズ』によってすっぱ抜かれた(同紙は1971613日から掲載開始)。これはアメリカのベトナム政策の虚像をはぎ取ることになり、反戦運動に強力な弾みを与えた。

 こうした反戦運動を支えた論理ないし信念は三つあったようである。一つは法の拘束から離れた対外政策を遂行するよりも国際法規を遵守した政策を行うことのほうが国家の利益になるという考え方、もう一つはアメリカの政策が間違っており、国際法に違反しているとしたら、そのことを指摘するのが市民としての義務であり、たとえ政府であっても無法な行動をとるときは、それに反対するのが国を愛することだという信念、第三は速やかに戦争終結の方途をみいださなければならないが、政府の政策が自ら修正されるようなことは期待できない、残された道は国民世論の喚起以外にないという判断であった。ペンタゴン・ペーパーをあえて暴露した『ニューヨーク・タイムズ』にしても、報道の自由、つまり国民の知る権利は「国益」に優先するという考え方にたったようである。

 ベトナム反戦運動はアメリカのみでなく、ほとんど世界各国で展開され、日本でも幅広く実施された。それらは国際的な連帯によって強められた。日本で運動のイニシアティブをとったのはベ平連(ベトナムに平和を!市民連合。19654月結成。741月解散)で、北爆反対のデモ行進、反戦の公開討論会、『ニューヨーク・タイムズ』への反戦広告の掲載、反戦米兵の脱出援助、反戦国際会議の開催などを行った。この運動は政党団体から独立した自発的市民のグループによって推進されたところに大きな特色があった。革新政党、労働組合なども持続的な統一行動を行った。

 反戦運動は平和運動である。戦争は政府により、国権の発動として行われるものであり(日本国憲法の前文、第9条)、したがって平和運動は民主化や言論の自由を求める闘争と連動し、どこでも市民運動の形をとったものが力をもつ。日本の反戦市民運動は日米安保条約への反対、高度経済成長に伴う急激な工業化・都市化・公害の増大に対する批判などによって促進された。

 ベトナム戦争の内包する矛盾が反戦運動をかき立て、反戦運動がまた戦争への疑問をいよいよ強め、かくて市民の反戦デモンストレーションはアメリカ政府をして北爆停止和平交渉開始アメリカ軍の撤退戦争終結を決意させるにあずかって力あった。反戦運動は強い圧力となってアメリカ政府の政策転換に大きな影響を与えたようである。しかし、それがアメリカの信奉する力の論理を突き崩すことになったため、アメリカ人の民族的自負を傷つける結果となり、アメリカは長く自信の喪失、モラルの荒廃に悩まなければならなかった。

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🔵ホーチミンの生涯

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Ho Chi Minh, Chairman of the Central Committee of the Vietnam Workers Party (center), with children.

小学館(百科)

Ho Chi Minh

1890-1969

ベトナム民主共和国初代大統領、ベトナム労働党中央委員会主席。ベトナム民族解放の最高指導者で、国民から「ホーおじさん」と敬愛された。伝統的に愛国運動の盛んな中部ベトナム、ゲアン省の貧しい儒者の第3子として生まれる。幼名グエン・シン・クン、のちグエン・タト・タイン。

 13歳のとき「自由・平等・博愛」の語を通じてフランスへの知識欲に目覚める。1905~1910年ユエのコクホク大学で学ぶ。1911年バーと名のりフランス船のコックとなり、欧米、アフリカ各地で被抑圧人民の惨状に接し、植民地解放の使命感を固めた。1917~1923年のフランス滞在中にグエン・アイ・コックの名で社会主義運動に参加。1919年のベルサイユ会議にベトナム人民の自決などを求める8項目要求を提出し、一躍その名を高めた。新設コミンテルンを率いるレーニンの「民族・植民地問題に関するテーゼ」に深い感銘を受け、1920年フランス共産党創設に参加、一愛国主義者から共産主義者に脱皮した。翌1921年フランス植民地人民連盟を組織し、機関紙『ル・パリア』(賤民(せんみん))の刊行にあたった。1923年ソ連入り、1924年コミンテルン第5回大会でプロレタリア革命と植民地革命の同盟関係を強調して注目を浴びた。同年コミンテルンから中国に派遣され、まず広東(カントン)でベトナム青年革命同志会を結成、ついで1930年に九竜(きゅうりゅう)でベトナム共産党(その後インドシナ共産党と改称)を創立。1931年香港(ホンコン)でイギリス官憲に捕らわれ、1933年釈放されソ連に赴きレーニン大学で学ぶ。1938年延安で毛沢東(もうたくとう)ら中国共産党指導部、八路軍幹部とともに活動。1940年フランスの対独降伏と日本軍のインドシナ侵攻をみて1941年帰国、共産党を中核とするベトナム独立同盟(ベトミン)を結成。1942年闘争への支援を求めて訪中したが国民党に逮捕され、1943年まで下獄。ホー・チ・ミンと名のり始めたのはこの時期からである。1944年ボー・グエン・ザップを長とするベトナム解放武装宣伝隊を組織。19458月日本軍降伏の翌日ベトナム民主共和国臨時政府を樹立。92日同大統領として独立を宣言、植民地におけるマルクス・レーニン主義の最初の勝利と位置づけた。

 1946年末、植民地復活を目ざすフランスとの交渉を断念し、全人民の徹底抗戦を指導した。1954年ディエン・ビエン・フー攻略でフランスの抗戦意欲を粉砕し、ジュネーブ会議でラオス、カンボジアを含むインドシナ全域の独立を獲得した。フランスにかわってアメリカがジュネーブ協定を無視して南ベトナム経営に着手したため、北部防衛、南部解放、祖国再統一に向けての闘争継続を訴え続けた。1965年のアメリカ軍の北爆開始とアメリカ地上軍の大量投入にも屈せず民族解放の大義の最終的勝利を確信し、1966年「独立と自由ほど尊いものはない」とのアピールを発して全党全軍全人民の革命精神を鼓舞した。同時に救国抗米闘争を支持する中ソ両国の不和を悲しみ、プロレタリア国際主義に基づく連帯を主張し続けた。半世紀に及ぶ献身的闘争の渦中で病を得たホー・チ・ミンは196993日、79歳の生涯を閉じた。質素な軍服をまとったホーの遺体の足元には愛用のゴムのサンダルが供えられたという。レ・ズアン、ファン・バン・ドンらホーの忠実な後継者は「悲しみを革命的エネルギーへ」と訴え、19754月ついにサイゴンを制圧、翌1976年南北統一のベトナム社会主義共和国の実現に成功した。

[黒柳米司] 

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🔵ベトナム戦争終結とその後のベトナム

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🔷🔷鈴木勝比古=ベトナムと50年 赤旗連載・19.01-02

◆◆ベトナム解放の春から40年

ホーチミン市で式典発展へ 心一つに

201551()赤旗

写真

(写真)南部解放・国土統一40周年のパレード=4月30日、ホーチミン市(井上歩撮影)

 【ホーチミン市=井上歩】ベトナムの南部解放と祖国統一(ベトナム戦争終結)40周年を記念する式典が30日、ホーチミン市で開かれました。

 当時の解放軍兵士の軍服などに身を包んだ人民軍の兵士や民兵、労働者や女性らが、40年前に戦車が突入し解放戦線旗が振られた独立宮殿(旧大統領宮殿)へ向けて市中心部をパレードしました。

 記念演説したグエン・タン・ズン首相は「75年春の大勝利で、私たちは歴史的使命を果たし、独立、統一の新しい時代が幕を開けた」「(現代の)発展の任務は重い。心を一つに困難を乗り越え、もっと堂々とした、美しい国を築くというホー・チ・ミン主席の夢をかならず実現しよう」と述べました。

 式典には、サイゴン解放作戦に参加した元軍人など約6000人が参加。グエン・フー・チョン共産党書記長ら指導者がそろって出席しました。

◆◆愛国心を鼓舞、「戦勝40年」式典 ベトナム

201551日朝日新聞

「戦勝40年」式典 

 南部ホーチミン中心部の統一会堂(旧南ベトナム大統領府)前で30日、戦争終結から40年を記念する式典とパレードがあった。

 グエン・タン・ズン首相は「偉大なる勝利を勝ち取った精神は永遠なり」と演説。団結して発展と領土の防衛に取り組むよう訴えた。その後のパレードは海兵ら軍人が中心。南シナ海で領有権問題をかかえる現状を反映し、愛国心の鼓舞を意図した演出だった。

 ズン氏は戦後の経済発展を自賛する一方、汚職や貧富の差、倫理観の欠如などの問題を指摘。国際社会への参画を意識し、「民主主義や自由を強く推進し、人権や市民権を確立していく」とも述べた。

◆ベトナム戦争、終戦40年祝う

ベトナム戦争が終わって40年を迎えた30日、南部ホーチミン(旧サイゴン)中心部の統一会堂(旧南ベトナム大統領府)前で、戦勝記念のパレードが行われた。式典でグエン・タン・ズン首相は「偉大なる勝利の日を喜び、誇りにしよう」と国民に呼びかけた=30日午前、ホーチミン、佐々木学撮影

◆◆ベトナム戦争勝利40

530()赤旗きょうの潮流

 「アリとゾウとの戦い」といわれたベトナム戦争が終わってきょうで40年。ベトナム人民が超大国のアメリカの侵略を打ち破ったときのうれしさは忘れられません第2次大戦後最大規模の戦争で、300万人が犠牲になり、米軍の死者も6万人近くに。戦争反対、ベトナム人民支援運動がもりあがり、筆者のいた大学でも学生が古本バザーを企画し、3万数千円を集めて送ったものです1975年にサイゴン(現ホーチミン市)が解放された1カ月後には、「どうしてベトナム人民は勝ったか」をテーマに講演会を開催。300人もの学生が参加しました。講師の歴史家・鈴木正四氏は、ベトナム労働党の正確な指導、英雄的なたたかいとともに、「創意性」をあげました北から南へ延びた1000キロに及ぶ輸送道路網、ホーチミン・ルートは名前だけ知られていました。この道路を使って中部高原のジャングルに病院をつくり、活躍した外科医師、レ・カオ・ダイの従軍記(岩波書店)は、その創意性にあふれています消毒薬アルコールを確保するために、少数民族から酒のつくり方を習う。自転車のペダルを踏んだ明かりで手術する。使用済みの注射器を使ってガラスをつくる。重症患者の輸血用血液がなければ、病院スタッフが提供する…▼「どんな困難があろうとも健全な方針に支えられている限り、そしてスタッフの自発性をひきだせれば克服できる」。こうした確信が無数にあって初めて、歴史的な勝利が可能になったのでしょう。

◆◆ベトナム戦争勝利40年(15.05.30赤旗)

◆◆石川文洋=監獄島を訪ねて(15.05.19赤旗)

◆◆(新世代の米越 ベトナム戦争終結40年:上)対立越えて、つなぐ若い力

 1975年にベトナム戦争が終わってから、30日で40年になる。激戦の舞台となったベトナムは経済が発展し、近年は米国との距離を急速に縮めている。悲しみと憎しみの記憶を乗り越え、二つの国をつなぐ人たちがいる。

◆難民の少年、米海軍幹部に

 南シナ海を望むベトナム中部ダナン。4月6日、米海軍の軍艦2隻が入港した。国交回復20年を記念しての親善寄港だ。

 「シンチャオ(こんにちは)」。真っ白な制服の米軍幹部が滑らかなベトナム語を口にした。2隻が所属する部隊の副司令官、H・B・レ大佐(45)。ベトナム戦争のさなか、米国が支援する南ベトナムの海軍兵の子として生まれた。

 1975年4月30日、北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)を陥落させた。その直前、父は南ベトナム関係者約400人と5歳だったレさんらを漁船に乗せ、海へ逃げた。2日間漂流した後、米艦船に保護された。

 レさんら家族は難民として米国に渡った。レさんは米国籍を取得し、海軍士官学校を卒業して軍人となる。冷戦下、敵対する共産圏の祖国は遠い存在に思えた。

 状況を変えたのは中国の台頭だ。米国は92年にフィリピンから軍を撤退。力の空白をつくように中国は95年、南シナ海でフィリピンから南沙(スプラトリー)諸島ミスチーフ礁の支配を奪う。ベトナムは74年に西沙(パラセル)諸島、88年に南沙諸島の一部を中国に奪われており、危機感を募らせた。06年には米国と軍事教育訓練で交流を開始。09年には米駆逐艦のベトナム訪問が決まり、指揮を任されたレさんは34年ぶりに母国を訪問。今月再び、祖国の土を踏んだ。

 「ここは僕と家族にとって特別な場所。交流を重ね、信頼を築きたい」

 アジア重視政策「リバランス(再均衡)」を進める米国にとって、対中国でベトナムとの共闘は有益だ。13年12月にケリー国務長官がベトナムを訪れ、1800万ドル(約21億円)の支援と高速巡視船5隻の供与を伝えた。昨年10月には40年近く続いた武器禁輸の一部も解除した。

 だが、米国の懸念はぬぐえていない。共産党が一党支配を続け、政策決定や司法は透明性に欠ける。政府に批判的な発言でブロガーらが逮捕されている。米国のラッセル国務次官補は米下院の公聴会で「人権をもっと尊重すべきだ」と注文をつけた。

◆前向きな協力期待 ビン元国家副主席

 1968~73年にパリでの和平会議で、北側の代表の一人として出席したグエン・ティ・ビン元国家副主席(87)が朝日新聞の取材に応じた。当時、民族衣装アオザイ姿でフランス語を操り、注目を集めた。

 中部トゥイホアにある静養先のホテルで、ビン氏は「40年の節目に立ち会えて幸せ」と表情を緩めた。だが、今の汚職や貧困の問題に話題が及ぶと、「まだ人々は本当の自由や幸せを手にしていない。さらなる取り組みが必要」と言葉に厳しさをにじませた。

 ビン氏は、10代でフランスの植民地支配に抵抗する運動に参加。ベトナム戦争では親米の南政府の打倒をめざす南ベトナム解放民族戦線に加わった。南北統一後は教育相、国家副主席を歴任。現在は枯れ葉剤被害者の会の名誉会長だ。

 米国には「負わされた傷は重い」と批判的な思いも残る。だが「将来を見つめなければ」と前向きな協力に期待している。「日本もベトナムの防衛と発展を支えてほしい」と呼びかけた。

◆祖国で起業、マック誘致

 クラクションが響き、無数のバイクが行き交う商都ホーチミン。その一角に昨年2月、ベトナムで初めてマクドナルドができた。

 「想像を超える売り上げだ。10年で100店舗を目指す」。オーナーのヘンリー・グエンさん(41)は軽やかな英語で言った。マクドナルドのベトナム進出は120カ国・地域目。旧敵国の巨大資本への警戒感から誘致が遅れた。だが、米国育ちのヘンリーさんにとっては「豊かさの象徴」。10年以上かけて開店にこぎ着けた。

 ヘンリーさんは04年にベトナムで投資会社を立ち上げ、成功して事業を拡大。08年にはグエン・タン・ズン首相の長女と結婚し、政界とのパイプも築いた実業家だ。「米越の不幸な歴史は終わった。二つの祖国を結びつけるのは僕の宿命だ」。そう切り出し、自らの半生を語り始めた。

 75年4月25日夕、サイゴン。南ベトナム政府側の技師だった父に米国関係者から電話が入った。「30分で荷物をまとめろ」。数日中に南が降伏し、安全が保証できないとの連絡だった。ヘンリーさんは当時1歳10カ月。同夜、両親に連れられ、3人の兄弟と米軍輸送機に乗ったという。

 一家はワシントン近郊の知人宅の一室に身を寄せた。父は雑貨店や給油所で働き、子供たちを学校に通わせた。

 一方、ベトナムは78年のカンボジア侵攻で国際社会で孤立、計画経済で人々の生活は困窮した。数十万人がボートで国を脱出した。95年の国交回復まで、故郷の親戚との連絡でさえ、困難を極めた。祖国は両親を惨めな生活に追いやった国だった。

 ハーバード大の学生時代の95年、旅行雑誌のアルバイトで祖国を訪れ、記事を書く機会を得た。湖や街路樹の美しさや言葉の響きに「故郷だ」と感じだ。将来、ベトナムで起業すると心に決めた。

 ベトナムは86年のドイモイ(刷新)政策で市場経済化を進めていた。ヘンリーさんら「越僑」は敵ではなく、商機と外貨を呼び込む存在に変わりつつあった。

 祖国への進出を果たした今、ヘンリーさんは言う。「ベトナムは平和になった。成長のチャンスにあふれている」

◆市場経済で生活激変

 首都ハノイでは近年、外資系企業の広告が目立つ。昨夏に進出した米コーヒーチェーン大手のスターバックスの店で、銀行員グエン・アイン・トゥアンさん(39)はスマートフォンを手に「戦後の変化に驚いている」と話した。

 76年に北部ハイズン省で生まれた。幼少期は配給制の時代。「食事は1杯のご飯と芋と菜っ葉。靴がなくて裸足で学校に通った」

 ドイモイで市場経済が定着し始めた90年代から生活が激変した。90年に98ドル(約1万2千円)だった1人あたりのGDP(国内総生産)は今年の推計で2200ドルを超える。トゥアンさんはオランダの大学で修士号を得た。6歳の長女には今年から英会話を習わせるつもりだ。

 ベトナムは人口約9千万で平均年齢は29・2歳と若い。縫製品が中心の輸出の相手は米国がトップで、米主導のTPP(環太平洋経済連携協定)参加も表明。マイクロソフトやインテルなど米企業も進出する。「地下鉄も高速鉄道もこれから。戦後に飛躍的な復興を遂げた日本や韓国のようになれたらいい」(ホーチミン=佐々木学、ワシントン=奥寺淳)

◆キーワード

 <ベトナム戦争> 1954年に南北に分断したベトナムの民族統一と独立をめぐり始まった。冷戦を背景に、社会主義建設を掲げる北ベトナムを旧ソ連や中国などが支援し、南ベトナムを支える米など資本主義陣営との代理戦争の側面もあった。

 米軍は60年代に介入を強めた後、73年のパリ和平協定を経て撤退。75年4月30日、南の首都サイゴンの陥落で戦争は終結した。ベトナム紙によると、犠牲者は北ベトナム軍側が計約110万人、南ベトナム軍が約22万人、米軍約5万8千人。民間人を含めると計300万人を超える。

◆◆(新世代の米越 ベトナム戦争終結40年:下)枯れ葉剤、問い続ける元米兵

◆ジャングルで散布目撃、いま現地から発信 被害の子らへ支援つなぐ

 ベトナム戦争中、米軍基地が置かれ、枯れ葉剤散布の拠点となったベトナム中部ダナン。海岸近くの小さな家に、米海兵隊の退役兵が1人、暮らしている。

 チュック・パラッツォさん(62)。1970年、密林の偵察部隊の一員としてダナンに派遣された。ジャングルを歩き、米軍機が上空から霧状の液体を散布しているのを何度も見た。

 木も葉もぐっしょりとぬれていた。かき分けて進むと、肌に液体がまとわりついた。散布から20時間たった森では、一面が枯れていた。おかしい。上官に尋ねた。「猛毒の枯れ葉剤だ」と告げられた。

 1年後に米国に戻ると、連夜、悪夢を見た。叫び、震え、汗をかいて目覚める。戦地にいるときから「この戦争に正義はない」と感じていた。海兵隊を除隊し、ニューヨークの大学に通って情報技術を学び、反戦運動に加わった。

 帰国した仲間たちは次々と体調を崩し、何人かはがんや心臓疾患で死亡した。枯れ葉剤の影響だった。自身の身体は無事だったが、枯れ葉剤の影響は2世、3世にも表れる。85年に娘が、2年前に孫が生まれる前は心配でならなかった。

 80年代、1万6千人の米帰還兵が枯れ葉剤被害を訴え、米国の薬品会社を相手に訴訟を起こした。会社は責任を否認したが、和解金として計1億8千万ドル(約216億円)の支払いに応じ、米兵には補償金が分配されている。だが、ベトナムの被害者の訴えは「症例との疫学的証明がない」という理由で退けられ、米政府からの補償もない。

 「彼らはどうしているのだろう」。2001年、心的外傷後ストレス障害(PTSD)で自らを遠ざけていたベトナムを訪れた。ハノイの空港の入国審査の係官は軍の制服を着ていた。恐怖がよみがえり、汗が噴き出した。だが、係官は笑顔で「ようこそベトナムへ」と英語で言った。市民の視線は優しかった。

 枯れ葉剤の被害に取り組むNGOを訪ねた。枯れた森林の多くは回復していたが、近くで採れた野菜や魚を食べる人々はダイオキシンをため込み、子や孫への影響が続いていた。山間部は貧しく、教育も治療も行き届いていなかった。

 「私は枯れ葉剤の目撃者。伝え続ける義務がある」

 06年、経営するソフトウェア会社の事務所を商都ホーチミンに開き、翌年、ダナンへ移転した。働きながら、被害を受けた子供たちが暮らす病院や施設を訪ね、海外からの支援につなげるため、ブログで発信を始めた。年に1度は米国から15~20人の退役兵をベトナムに呼び、病院や関連施設を案内して回る。参加者から1人千ドル(約12万円)ずつ集め、寄付している。

 10年3月、米軍が68年に504人の村民を虐殺したと伝えられる中南部ソンミ(現ティンケ)を訪ねた。家族を皆殺しにされたという女性に出会った。緊張して向き合うと「私たちは悲劇を決して忘れません。でも、あなたたちのことはとっくに許しています。あなたたちも、自分自身を許してください」。救われた、と感じた。

 米国はベトナム戦争後もイラク、アフガニスタンなどで軍事行動を続け、市民や子供も犠牲になっている。「ベトナムの教訓は何だったのか」。現場から米社会に問い続けている。

 「私はまだ、ベトナムで戦っているんです」

◆NYから友好の旋律 異文化体験・英語熱、進む交流

 首都ハノイのオペラハウス。築104年、仏占領時代からの激動を見届けてきたホールで、もの悲しく、厳かな調べが響いた。4月3日、ベトナム国立交響楽団の第79回定期演奏会。冒頭に奏でられたのは、米国人のサミュエル・バーバー作曲「弦楽のためのアダージョ」だった。

 ベトナム戦争をテーマにしたオリバー・ストーン監督の米映画「プラトーン」で使われた。映画は過酷を極めた戦場、正義を見失った若き米兵らの絶望を描く。農村を焼き払う場面、善良だった仲間の兵士が見殺しにされる場面で、その旋律は流れる。聴衆のベトナム人たちは目を閉じ、祈るようにこうべを垂れた。

 指揮したのは、ニューヨークから来たデビッド・アラン・ミラーさん(54)。楽団の音楽監督・本名(ほんな)徹次氏から招待され、ゲスト指揮者として選曲も担った。「今年は特別な年。平和と友好の思いを込め、この曲を選んだ」

 61年生まれのミラーさんに戦争の記憶は薄い。だが、敗戦を喫し、米社会で強く戦争の矛盾が問われていた時代に育った。「我々は過ちを犯した。この国の力になりたい」。平和と友好の思いを込めた。

 ベトナム政府によると、昨年ベトナムを訪れた米国人は44万人。中国、韓国、日本の次に多く、10年前の27万人から大きく伸びた。ベトナム戦争を知るリタイア世代が訪れたり、戦争を知らない世代が「異文化体験」で来たりする。

 一方、ベトナムの学生に今、人気の外国語は圧倒的に英語だ。旧宗主国のフランス語を話す人は高齢者らごく一部で、むしろ日本語の人気が高まっている。ホーチミンでは米フルブライト大現地校の設立準備も進む。在ベトナム米大使館は「今後、若い世代の交流がぐっと進む」と期待する。(ダナン=佐々木学)

 ◆キーワード

 <枯れ葉剤> 米軍はベトナム戦争中の1961~71年、密林に潜む敵を掃討するため、計7200万リットルと推定される数種類の枯れ葉剤を散布した。そのひとつ「エージェント・オレンジ」は有毒のダイオキシンを含み、多くのベトナム人や米兵ががんなどの病気に侵された。子や孫に結合双生児や水頭症、知的障害などを抱えた多数の先天性障害児が生まれ、遺伝子に作用するダイオキシンの影響が疑われている。

 米政府は薬剤散布と障害との疫学的な因果関係の証明がないとして一切、ベトナム人への補償に応じていない。2012年からダナンで土壌の除染を始めたが、中・南部に広がる高汚染地の一部にすぎない。

◆◆枯れ葉剤、苦しみ今も ベトナム戦争終結40年

 ベトナム戦争が終結して40年。南部ホーチミン(旧サイゴン)では「戦勝」を祝う式典が4月30日にあったが、米軍が散布した枯れ葉剤の被害は世代を越え、今も多くの人々を苦しめている。その実情を伝えるため、活動を続ける日本人とベトナム人たちがいる。

◆ドクさん支える写真家「被害、伝え続ける」

 人口約795万人、南部の商都ホーチミンに、産科で有名なツーズー病院がある。枯れ葉剤の影響で身体や脳に障害を負った子供たちが、病院内の施設「平和村」で暮らしている。

 「久しぶりです」。4月1日、グエン・ドクさん(34)は車いすで旧知の報道写真家・中村梧郎さん(74)=さいたま市=を出迎え、日本語であいさつした。ドクさんは両親が枯れ葉剤を浴び、結合双生児として生まれた。1988年にこの病院で分離手術を受け、今は職員として働く。

 「奥さんとお子さんは元気?」。中村さんが聞くと、ドクさんは「はい。もう秋から小学生です」と言って、少しはにかんだ。

 手術後、足を1本ずつ分け合った兄ベトさんは2007年に他界した。ドクさんは06年に結婚、09年に双子の父になった。妻が懐妊したときは「僕とベトと同じ?」と心配した。枯れ葉剤は3世への影響も報告されている。「どんな子でも愛する」。そう妻と決意。双子に障害はなかった。

 日本への思いは特別だ。分離前にベトさんが危篤になったときは特別機で東京に運ばれ、最先端の治療を受けた。今も平和村への寄付は日本からが最も多い。感謝を込めて長男にフーシー(富士山)、長女にアインダオ(桜)と名付けた。

 中村さんは70年に戦地取材に来て以来、毎年のようにベトナムを訪れている。76年、最南端のカマウ岬に行くと、枯れ果てたマングローブ林で裸の少年が遊んでいた。これだけ森を死滅させる枯れ葉剤とは何なのか。ここで育った子たちはどうなるのか。「徹底的に記録しよう」と決めた。

 ワシントンの空軍の資料室で作戦の全容を調べ、米兵や韓国兵の被害者にも取材した。米軍は61~71年、密林の敵を掃討するため、計7200万リットル(推定)の枯れ葉剤を散布していた。

 カマウ岬の少年の写真は「貴重な資料」としてホーチミンの戦争証跡博物館に展示されている。少年は08年、体調を崩して39歳で亡くなった。4月から、長野県の茅野市美術館で被害を伝える写真展(5月17日まで)を開いている。

 「枯れ葉剤の被害は今後も続く。それを伝えたい」

◆実情つづり、米大統領へ手紙

 この病院の女性職員、チャン・ティ・ホアンさん(28)は生まれつき左手と両足がない。両親が農園で働き、枯れ葉剤の被害を受けた。

 大学で情報処理を学び、病院では経営企画の一翼を担う。今年から一人暮らしをはじめた。義足をつければバイクにも乗れる。「そろそろ結婚を」とも思う。でも「子供に障害が出たら」とためらってしまう。

 40年たち、枯れた森はかなり回復した。だが、汚染地域で取れた魚や農作物を食べる村人らは、枯れ葉剤に含まれる猛毒のダイオキシンをとり込み、本人や子孫にがんや身体・知的障害が発症し続けている。被害者は300万人と言われる。

 米政府は91年から米兵に補償金を支払っている。だが、父系の2世は脊椎(せきつい)の障害のみが対象で、障害を持ちながら補償を受けられない2世や3世がいる。ベトナムに対しては「疫学的な証明がない」と補償に応じていない。ホアンさんは08年、市民団体の企画で米国を訪れ、実情を訴えた。

 オバマ大統領は就任前、娘2人にあてて手紙を書いていた。「すべての子に、学び、夢を持ち、成長する機会を与えたい」とあった。それを読み、ホアンさんは09年、オバマ氏に手紙を書いた。米国にも補償を受けられない子がいること。ベトナムには補償がなく、貧しくて学ぶことも、夢も機会も持てない子が大勢いること。「この忘れられた問題について、少しだけ考える時間を割いてほしい」と訴えた。

 まだ、オバマ氏からの返事はない。(ホーチミン=佐々木学)

 ◆キーワード

 <ベトナム戦争> 1954年に南北に分断したベトナムの民族の統一と独立をめぐる戦争。東西冷戦を背景に、北ベトナムを支援する旧ソ連や中国などの共産主義陣営と南ベトナムを支える米などの資本主義陣営との代理戦争の側面もあった。米軍は60年代から軍事介入を本格化。75年4月30日、北ベトナム軍によって南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)が陥落し、戦争は終結した。

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🔵大島博光=ベトナム詩集

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◆ベトナム詩集 Translated poems of Vietnam

29記事

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-86.html

◆◆ベトナム詩集

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-573.html

◆戦いの日びの花ばな

チェ・ラン・ビィエン

ベトナム詩集 Translated poems of Vietnam

愛するひとよ どうかぼくを笑わないでくれ

どうしてぼくは 山を越え谷をわたりながらもきみといっしょに暮らしていた頃の花ばなをいつも心のおくで 思い出すのだろう?

ぼくたち二人の あの窓べに

ひとむれのばらの花が 咲いていたっけ

そうして くる日も くる日も

ばらの匂いがあたりにたちこめていた

愛するひとよ 笑わないでくれ おねがいだ

ぼくの堅い戦意に かわりはない

もしも血が必要なら ぼくはたちどころに言う

「ここにぼくの血がある」と

なんと驚くべき国だ ぼくたちの国は!

爆撃の下でも 花は咲きつづけている

ぼくが出撃してゆく 道ばたでも

ばらの花が ぼくに呼びかける

庭のすみに 爆撃の穴がぽっかり

しかし片方のすみには相変らずばらの花・・・

その赤い花の色はいっそう赤さをましている

なんとやつらの千キロ爆弾もむだなことか

花がぼくのこころをつかまえる

花がぼくに道を教えてくれる

そのあざやかな色が 眼の前で燃えている

花へむかって ぼくの心は前進するのだ

たくさんの人たちのまごころの赤さが

きみのばら色の顔をいっそうばら色にする

そうだ それはきみ きみ自身なのだ

路上で ぼくの足どりを勇気づけてくれるのは

ニャットでは 夕ぐれのそよ風さえ匂っている

花がぼくの心に身をかがめて ささやいた

「いつも咲いてる花は わたしよ

愛するあまり わたしは戦いの花になったのです

わたしは あのわたしたちの部屋を出て

ざんごうまであなたのあとをついてきたのです

砲弾のとびちる火の粉をもみ消したり

爆撃の深い穴を埋めるために

愛に燃えてわたしは咲きこぼれているのです」

(「ベトナム詩集」飯塚書店 1969.8

◆花も木の実も武器となる国

                    大島博光

おお 不思議な国 ベトナム/こどもたちが 英雄になる国/雀蜂さえたたかうすべを知っている国/花も 木の実も 武器となる国  トー・フー「わが子エミリイよ」より

 この「花も 木の実も 武器となる国」ベトナムで、どうして詩が「うたう武器」とならずにいられよう。どうして詩人たちが、詩を「うたう武器」としてみがかずにいられよう。

 ベトナム人民は、二千年ものあいだ、世代から世代へと、飢えた、すきっ腹をかかえて、頑強な侵略者どもとたたかわねばならなかった。その長い苦しい闘いの姿は、フイ・カンの「タイフォン寺の坐像」のなかに、象徴的に浮きぼりにされている。

 この異常な事実から、つぎのことが生まれた。すなわち、詩もまたこの現実のなかから生まれでるということである。この戦場で生まれた子供──詩は、生まれたときから、たたかいの雄叫び、ときの声をあげることしか知らない。そうしてわき起った歌──民族のうたは、自信と祖国への愛、人類への愛とにみちあふれていた。・・・ゆりかごのそばでうたっている若い母親、稲塚のかげで、あるいは、米つき場で愛をささやいている恋びとたち、月のひかりの下で、うたをうたっている船頭と女船頭たち・・・みんなが、かれらのすばらしい詩を時代をとおして伝えてきた。時代が流れ、時代がすべてを変えても、そこにはベトナム人民の心情が──人間像がうたわれていた。これらの人民の歌ごえを、硬玉の純粋さをもった歌を、何ものもほろぼしさることはできなかった・・・。

 「ベトナム革命の詩人」とよばれるトー・フーは、いちはやく、このような民族的で人民的な詩の伝統と、新しい革命的な精神とを、その詩のなかにうつくしく統一することができた。「おふくろ」のような詩にうたわれている風景と感情は、なんとわたしたち日本の農村と農民とに、そのままぴったりとあてはまることだろう。

 べトナム人民の詩は、フランス植民地主義、ついでアメリカ帝国主義とのはげしいたたかいのなかで、いっそうゆたかになり、いっそうするどいものになってゆく。抗戦のなかで、詩は自分を新しくし、新しい内容をもち、はばひろい主題をうたうようになる。生や死や愛する人の面影やひとつのばらにも、新しい意味が与えられている。ひき裂かれた恋びとたちの詩が、なんとうつくしい祖国への愛とたたかいへの決意とともにうたわれていることだろう。たくさんの英雄たちへのとむらいの歌、ほめうた──とりわけトー・フーのグエン・バンチョイヘの讃歌は、敵を圧倒せずにはおかぬ高い調子で、ひときわ高く鳴りひびいている。アメリカ帝国主義のベトナム侵略に抗議して焼身自殺したアメリカ人モリソンにささげられた二つの詩──トー・フーとチェ・ラン・ビィエンの詩は、その深い人間愛、人間良心の讃歌で、その国際連帯の、スケールの大きな詩のひびきで、読むひとの胸をうたずにはいないであろう。

 これらすべては、──ベトナム人民の叫びと声の深い人間的なうつくしさは、真実と正義がベトナム人民の側にあることを何よりもあかしだてている。ベトナムの詩人たちはアメリカ帝国主義の暴虐にうちかつたたかいと愛の歌をうたいつづけるだろう。

 なお邦訳に際して、日本ベトナム友好協会の加茂徳治先生の御協力をいただき感謝しています。

(「ベトナム詩集」飯塚書店 1969.8

◆おれの言葉をよくおぼえておけ 

     トー・フー

新しい歴史をつくりだすような瞬間がある

永遠に人の心に生きつづける死者たちがいる

どんな歌ごえよりも美しい叫びがある

「真実」から生まれてきたような人たちがいる

おお 同志グエン・バン・チョイよ

きみのいのちは息絶えたが きみの魂は

いつまでも 人民の胸に生きつづけるだろう

きみの生も死も 雄々しく 偉大だった

同志よ きみは永遠にくちびるをとざしたが

きみの叫びは いまも鳴りひびいている

「おれの言葉をよくおぼえておけ!」と

そしてきみの眼の光りは党紙に輝やいている

きのうという日は永遠に忘れられないだろう

あの秋の日の朝 チ・ホアの刑場のなかを

きみは 両側を二人の獄卒にはさまれて

教誨師をうしろにしたがえて 進んでいく

きみの傷ついた両足は 痛みによろめく

しかし きみは昂然と頭を上げてすすむ

きみがまとった白衣は 純潔の色そのもの

きみのひよわなからだが 死にもひるまない

死刑執行人の一隊と 新聞記者の一団とが

陰欝なニ列横隊をつくっていた──着け剣で

きみは静かに歩をはこぶ 澄んだ眼ざしで

まるで 裁くのは きみであるかのように

きみの踏む足うらに 草の葉はみずみずしい

いのちはいつも このみどりの色をしているのだ

そこに 解放をもとめる きみの大地がある

そこに 生をもとめる きみの肉と血がある

きみは強く叫ぶ「おれがどんな罪を犯したというのか」

きみは 処刑柱に網でしばりつけられる

狙いをつける十挺の銃 きみには黒い目かくし

きみは声を限りに叫ぶ「罪を犯したのはヤンキーどもだ!」

きみは さっと 目かくしをかなぐり捨てる

きみは 卑怯者どもをじっとにらみすえる

死をも きみは面と向って見とどけようとする

何ものも消すことのできない燃える火のような眼で

やつらはふるえあがって つなをきつくしめ直す

きみのくちびるは憎しみに燃えて かわく

共産主義者らしく堂どうとたたかおう

けだかい心が銃弾など恐れてなるものか

命令がくだされた「第一列 おりしけー」

きみは叫んだ「おれの言葉をよく覚えておけ!

アメリカ帝国主義を打倒せよ!

グエン・カンを打倒せよ!

ホー・チ・ミン 万才!

ホー・チ・ミン 万才!

ホー・チ・ミン 万才!

この最後の瞬間にきみはわれらの「ホーおじ」の名を三回よんだ

一斉射撃で アメリカ製の十発の銃弾がとぶ

きみは倒れ も一ど立ちあがろうとする

きみはも一ど叫ぶ「ベトナム万才!」

血は心臓からあふれ出て大地を赤く染め そこにきみは横たわる うめき声ひとつあげず きみは眼をとじた

きみは死んだ 静かに眠る仏像のように

教誨僧がきみのそばに投げてよこした

あのブリキの十字架などなんになろう

同志チョイよ きみは死んだが見たまえ

血は血をよぶのだ さっそく きみのために

カラカスの義勇兵たちは 首都のまんなかで

アメリカの将校を人質にとらえたのだ

きみは死んでしまった きみにはもう見えないが

火は火をよんで 南ベトナムじゅうが火の海だ

きみのこころのような火で──おお たぐいまれな火よ

きみが息をひきとるとき 流星が光りかがやいた……

おれの言葉をよくおぼえておけ!

おお 同志 グエン・バン・チョイよ

そうだ きみの遺言をおれたちはおぼえておこう

敵をまえにして 恐れおののかず

おれたちは栄光のなかに生き 栄光のなかに死ぬのだ

祖国のためにおれたちみずからをささげるのだ

電気労働者 グエン・バン・チョイのように

(「ベトナム詩集」飯塚書店 p21-26

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日本国家の起源=邪馬台国・大和政権誕生、魏志倭人伝

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🔵日本国家の起源リンク集

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★★英雄たちの選択SP=日本の古代史17.01.03放送120m

───弥生時代と稲作・銅鐸・大王と前方後円墳・邪馬台国・方墳と蘇我氏など。「英雄たちの選択」にいつも登場する中野という女性心理学者のくだらない発言もあるが、専門の真面目な歴史学者たちの解説はなかなか面白い。残念なことに邪馬台国は九州=平原遺跡・岡山=楯築遺跡・近畿=纒向遺跡と3説を並べただけ。当然連動する大和政権の成り立ち言及がない。大乱=近畿圏と吉備の大豪族間の対立・戦争

邪馬台国・卑弥呼連合国=纒向遺跡、唐古鍵遺跡あたりに存在

❸大乱=対立・戦争を経て近畿・吉備の大豪族を従属させた天皇家主導の大豪族連合としての大和政権誕生=纒向遺跡に存在→やがて出雲・九州を支配下に置く。武器と農業生産に欠かせない朝鮮半島南の伽耶(かや)からの鉄輸入ルートを独占できたことが大きい。という経過は、考古学的証拠で立証できるのではないか。当ブログの経過説明参照。

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=60362634&cate=01

【この動画に登場する記事の解説】

◆青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡=鳥取県の弥生遺跡の宝庫=人骨・容器・鉄器

⚫︎鳥取県解説=http://www.pref.tottori.lg.jp/45558.htm

⚫︎展示館解説=http://www.tbz.or.jp/kamijichi/?view=4095

⚫︎Wiki解説

◆稲部(いなべ)遺跡=彦根・大型建物・鍛治工房・大和政権とのかかわり

⚫︎朝日新聞解説=https://www.google.co.jp/amp/www.asahi.com/amp/articles/ASJBG4F32JBGPTJB00Q.html

⚫︎解説=http://s.webry.info/sp/uminohakata.at.webry.info/201610/article_6.html

⚫︎動画・発掘説明会(計20m

https://m.youtube.com/watch?v=eoEdYYZonn0

https://m.youtube.com/watch?v=ndzkbtuoGo0

★★歴史秘話・沖の島=神宿る島、古代朝鮮半島と鉄の道43m

(大和朝廷は、朝鮮半島の伽耶かやなどの鉄に依拠していた。その交流がわかる沖ノ島の遺跡)

★★英雄たちの選択・巨大古墳をつくった倭の五王、武・雄略の朝鮮半島国際戦略58m

◆伊都・平原(ひらばる)遺跡

⚫︎Wiki解説

◆纒向(まきむく)遺跡・箸墓(はしはか)古墳(桜井)=Wiki解説

◆唐古鍵(からこかぎ)遺跡(桜井)

⚫︎http://inoues.net/ruins/karakokagi.html

⚫︎ミュージアムhttp://www.karako-kagi-arch-museum.jp

◆楯築遺跡(たてつき・倉敷)

⚫︎Wiki解説

◆蘇我氏=Wiki(小学館百科全書・コトババンク)解説。蘇我氏は、開明的・国際的。

◆方墳(ほうふん)=Wiki解説。蘇我稲目の都塚古墳・蘇我馬子の石舞台古墳

★★日本列島人の起源に迫る~私達は何処から来たのか~90m

http://v.youku.com/v_show/id_XMjk3Mzc0NjY4.html?x

【中国内限定のYoukuTudouの動画が見れないときの対策 http://yuyu.miau2.net/watch-youku-tudou-video/

★★高校講座日本史

★旧高校講座(1) 旧石器から縄文へ~環境の変遷と日本列島~ 30m

http://v.youku.com/v_show/id_XMzUwNzA5ODQ4.html?x

★新高校講座(1)旧石器から縄文へ20m

◆全文起こし

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume001.html

★旧高校講座(2)縄文から弥生へ~稲作の広がりと金属器~ 30m

★新高校講座(2)弥生文化と小国家の形成20m

http://m.pandora.tv/?

c=view&ch_userid=piey01&prgid=52102244&ref=msearch

◆全文起こし

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume002.html

★旧高校講座(3)倭国とヤマト王権30m

http://v.youku.com/v_show/id_XMzkxNTEwOTQ4.html?x

★新高校講座(3)大和王権と古墳文化

全文起こし

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume003.html

★旧高校講座(4)東アジア世界の動乱と古代日本=飛鳥時代30m

http://v.youku.com/v_show/id_XMzkxNTE0MDAw.html?x

★新高校講座(4)東アジアの動乱と国家建設20m

全文起こし

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume004.html

🔵歴史探偵・飛鳥の八角古墳49m

🔵全国古墳案内ベスト6 49m

🔵ETV古代大和政権の誕生=前方後円墳=箸墓古墳

53m https://vimeo.com/543935482

🔵歴史鑑定・巨大古墳なぜつくられたのか

★★古代史講義(10)

(1)日本人はどこからきたのかhttp://m.youtube.com/watch?list=PL2E9BC1B659FA72AC&v=QO26jIEU12E

(2)縄文人の生活http://m.youtube.com/watch?v=dIQfvWRhI_o

(3)弥生時代=農業革命http://m.youtube.com/watch?list=PL2E9BC1B659FA72AC&v=Xb0zFcuTx4I

(4)中華思想と朝貢http://m.youtube.com/watch?v=2kLXs7ydcKY&list=PL2E9BC1B659FA72AC

(5)古墳の謎http://m.youtube.com/watch?v=7dxw5hVQYCs&list=PL2E9BC1B659FA72AC

(6)古墳と大陸文化http://m.youtube.com/watch?v=P8uayyw68C4&list=PL2E9BC1B659FA72AC

(7)苗字と氏性制度http://m.youtube.com/watch?list=PL2E9BC1B659FA72AC&v=tKFmMdE7fVA

(8)聖徳太子http://m.youtube.com/watch?list=PL2E9BC1B659FA72AC&v=GlHPhzdyW8s

(9)大化の改新と律令国家http://m.youtube.com/watch?list=PL2E9BC1B659FA72AC&v=-nxXaWoOce0

(10)白村江のたたかいhttp://m.youtube.com/watch?list=PL2E9BC1B659FA72AC&v=vjgn5HvpJXs

★★WAO高校生講座・岡山大・松木武彦「鮮やかに蘇る縄文弥生古墳時代」1/8(8回計60m) 2-8は下部から。

★中央大学・知の回廊 『縄文文化の実像を探る』30mk

★日本誕生 33m

★★NHKアジア巨大遺跡縄文時代の巨大遺跡=青森三内丸山遺跡58m

http://www.myvi.ru/watch/08210027111_FEBB_0TAikObIUUGkIFymQ2

★青森三内丸山遺跡~縄文時代の史跡探訪

15m

★こうしてクニが生まれた 卑弥呼さかのぼり日本史25m

http://video.fc2.com/content/20140111c56zaUuF

★★奴国の金印4m

🔴◆◆異説あり 国宝「金印」は本物? 偽造説で論争再燃/つまみの改変説も(文化の扉 歴史編)

20171022日朝日新聞

 志賀島(しかのしま)(福岡市)から見つかった国宝「金印」。はるか2千年ほど前、弥生時代の日本と中国の国際交流を裏付ける物証として有名だ。ところがこの金印、後世のニセモノでは、との声が後を絶たず、今も真贋(しんがん)論争が続行中なのだ。

 まばゆく光る金印は印面2センチ余り四方で、手のひらにすっぽり収まる小ささ。ヘビを模した鈕(ちゅう)(つまみ)を持ち、「漢委奴国王」の5文字が刻まれる。

 江戸時代に志賀島で水田の溝の修理中に出土したとされ、福岡藩の碩学(せきがく)、亀井南冥(なんめい)が中国の古印だと断じて以来、これこそ『後漢書』が、建武中元2(紀元57)年にやって来た「倭奴国」の使いに皇帝が与えたと記録する金印だ、との見方が定着。中国出土の「広陵王璽(こうりょうおうじ)」印との類似が説かれ、国宝金印と同じヘビのつまみの「てん王之印(てんおうのいん)」が中国で見つかるに及んで、当時倭(わ)と呼ばれた日本の、福岡平野あたりにあったとされる奴国の王が入手した実物に違いない、との見解が定説となった。

 世界の中心を自負した古代中国は、周辺諸勢力に主従関係を結ぶ証しとして印章を与えた。ラクダやヘビなど動物をかたどったつまみの形は、各勢力や民族が住む風土を表すともいう。金印のヘビも温暖湿潤な日本列島にふさわしいというわけだ。

 ところがこの金印、謎が多い。通説の「漢の委(倭)の奴国」との読み方さえ、「奴国」でなく「委奴国」と続けるべきで別のクニだとの異論がある。

 弱点は出土状況がはっきりしないこと。発見の顛末(てんまつ)を語る口上書には1784年に志賀島の水田の溝から出て来たとあるが今も場所は特定できず、墳墓説や遺棄説、漂着説、隠匿説など諸説が登場。口上書の信頼性にも疑念がくすぶる。当時できたばかりの二つの藩校の争いや複雑な人間関係も絡んだ末の捏造(ねつぞう)品では、といった見方も出て、小説や舞台のネタにもなった。そんなわけで発見以来、真贋論争が消えては浮かぶ。

 2006年、古代文学研究者の三浦佑之さんが当時の金印を取り巻く歴史背景を絡めて後世の偽造説を唱え、論争が再燃。それを金工技術の立場から補強する工芸文化研究所の鈴木勉さんは「加工痕の研究なくして製作地はわからない。技術的に観察すれば後世のものだ」とし、江戸時代の国内で製作された可能性を指摘する。古印の時間的な形態変化は多くの資料で考古学的に組み立てられているが、そもそもその資料自体に現代の工具を使ったニセモノがあり編年は意味をなさない、と断じた。

 もちろん、真印派も黙ってはいない。明治大の石川日出志教授は印に彫られた文字の変化を丹念に調べ上げ、「文字の形から後漢初期に限定できる。金属組成も鈕の時間的変化も矛盾はない」。偽造に不可欠なデータには、江戸期に知り得なかったものも多いと主張する。

 王朝名から民族、部族、官職と並ぶ表現も、古代印制のルールにのっとったもので不自然ではない、との見方もある。

 ここ数年、議論が戦わされてきたが、平行線が続く。この膠着(こうちゃく)状態の風向きを変えそうなのが、意外な視点からの参戦だ。

 福岡市埋蔵文化財課の大塚紀宜さんが唱える改変説。大塚さんによれば、金印の鈕はヘビにしてはなにか不自然で、もともとラクダだったというのだ。後漢帝国が北方の民向けにラクダ印を用意したが、倭が南方にあることに気づいて急きょヘビの鈕に作り替えた――。それは後漢代のラクダ印の形式にも合致し、「わざわざ改作してまで与えたのは、東アジアでの倭国に対する正しい見方がこの時期に確立したことを示すのでは」。

 もしそうなら、金印はやはり古代中国で作られたことになり、真印説を援護することになるのだが……

 両説の対決は、来年早々にも福岡市で予定されているシンポジウムで再び見られそう。平成の真贋論争、はたして終結は近いのか。なにやら風雲急を告げそうな気配だ。

 (編集委員・中村俊介)

◆中国古印、つまみ色々

 中国古印の鈕は馬やラクダ、亀、ヘビなどバラエティー豊か。文言は管理され、素材でもランク分けされていた。

 国宝金印と同一工房との見方がある「広陵王璽」は亀の鈕で、国宝金印とほぼ同時期の製作とも。前漢の武帝が中国雲南の首長に与えた「てん王之印」の鈕は金印同様、身をくねらせるヘビだが、よりリアルだ。

 邪馬台国の卑弥呼も魏から「親魏倭王」の金印をもらったというが、見つかっていない。

 <訪ねる> 金印の実物は福岡市博物館(同市早良区)で常設展示中(10月30日~11月13日は京都国立博物館に貸し出し)。国際交流の歴史を総合的に知りたければ、九州国立博物館(福岡県太宰府市)の文化交流展示室などにも足を運びたい。

★伊都国平原遺跡6m

★伊都国ロマン3m

🔴◆◆日本と朝鮮半島つなぐ沖ノ島

★沖ノ島世界遺産に7m

★『海の正倉院』絶海の孤島・沖ノ島26m

★神宿る島 沖ノ島1/2(日本語版)8m

★神宿る島 沖ノ島2/2(日本語版)8m

★★歴史秘話・沖の島=神宿る島、古代朝鮮半島と鉄の道43m

(大和朝廷は、朝鮮半島の伽耶かやなどの鉄に依拠していた。その交流がわかる沖ノ島の遺跡)

★沖ノ島歴史ミステリー(みのもんた)=音声なし30m

◆壱岐・原ノ辻遺跡

(赤旗日曜版17.01.15

★吉野ヶ里遺跡8m

◆吉野ヶ里歴史公園=遺跡データ

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=44

🔴【邪馬台国関係】

★★歴史鑑定・邪馬台国はどこにあったか(松木武彦解説)53m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v131233971QshFBqkJ

★★知恵泉・邪馬台国ミステリー90m

邪馬台国はどこに存在したのか

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1212387516ZWeXPb9

平原・出雲・吉備・纒向・東海=纒向に連合政権がおかれた?

★ニュース=纒向まきむく遺跡から卑弥呼の邸宅跡発見か?(14m)

(1)http://m.youtube.com/watch?v=r9GTislc_Pg

(2)http://m.youtube.com/watch?v=n4EkysSbxXI

★纒向遺跡 現地説明会(3) 24m

(1)http://m.youtube.com/watch?v=aVaSefMOo2M

(2)http://m.youtube.com/watch?v=jYMnzavbYLQ

(3)http://m.youtube.com/watch?v=bYFu4Z-9HYo

★★邪馬台国纒向遺跡の発掘49mパンドラTV

★発掘・邪馬台国

★邪馬台国を掘る

◆◆桃の種、邪馬台国と同時代? 奈良・纒向遺跡で出土 年代測定で判明

2018515日朝日新聞

纒向遺跡で見つかった桃の種

 所在地論争が続いてきた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種が、放射性炭素(C14)年代測定で西暦135~230年のものとみられることが明らかになった。種は遺跡中枢部とみられる大型建物跡近くで出土し、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定された。女王卑弥呼(ひみこ)の君臨した時代と重なる可能性が高い。近畿説、九州説を主張する考古学者からは歓迎と反発の声が交錯した。

 桜井市纒向学研究センターが14日公表した最新の研究紀要で報告された。

 種は2010年、3世紀前半では国内最大規模とされる大型建物跡(南北19・2メートル、東西12・4メートル)の南約5メートルの穴から約2800個出土。2カ所の研究機関がそれぞれ複数の資料で測定した。古代中国で桃は不老不死や魔よけの呪力があるとされ、祭祀(さいし)をつかさどるとされる卑弥呼との関係からも注目される。

 福永伸哉・大阪大大学院教授は「資料の点数が多く、二つの研究機関で同様の結果が出たので信頼度は高い」と歓迎する。

 一方、九州説の有力候補、吉野ケ里遺跡(佐賀県)の発掘に長年携わってきた七田忠昭・佐賀城本丸歴史館長は「纒向遺跡からは鉄製の素環頭大刀や大きな鏡など、中国との外交を物語る出土遺物がほとんどない。年代だけでは邪馬台国の決め手にはならない」と反論する。(渡義人)

★★邪馬台国の女王卑弥呼~動乱の中国に使者を出す~その時歴史が動いた

http://v.youku.com/v_show/id_XMjQ3OTYxNjEy.html?x又は

(1)https://m.youtube.com/watch?v=p_528mtYT50. (2)(4)は下部

★★邪馬台国近畿説VS九州説~その時歴史が動いた

http://v.youku.com/v_show/id_XNTQ0NjQwMTUy.html?x

★★双方向企画 歴史的選択「邪馬台国~近畿説VS九州説」

★★BS歴史館「古代史最大のミステリー 邪馬台国の魔力に迫る」

または

★諸説あり・邪馬台国はどこにあったのか(1)50m

★諸説あり・邪馬台国(2)卑弥呼とは50m

★★邪馬台国(歴史秘話ヒストリア)

http://video.fc2.com/content/201210096nfExDmE/

★★英雄たちの選択=邪馬台国と三国志の関係者58m

https://m.youtube.com/watch?v=A_e3auNVboY

★★英雄たちの選択=邪馬台国の卑弥呼58m

https://m.youtube.com/watch?v=U1teHP-z6HI

https://m.youtube.com/watch?v=rvjDFYTQAAA

★★邪馬台国の謎は解けた!日本誕生 空白の150 50mパンドラTV

◆松本清張の邪馬台国論「古代史疑」(要約)

http://hofurekikou.web.fc2.com/hapyou/h3-seityo-yamataikoku.html

◆日本史エピソードの(1)古代国家、(2)古代律令国家は、古代国家の年表とデータ豊富。

http://chushingura.biz/p_nihonsi/episodo/epi_ndx_box/episodo_ndx.htm

◆邪馬台国大研究=資料豊富

http://inoues.net/index.html

★★「古事記」誕生~日本最古の史書の謎~その時歴史が動いた

★ナゾ解き古事記 ~神と人との1300年~

50m 

(1)http://video.fc2.com/content.php?kobj_up_id=20120716QCzLBneu&__iphone_play_style=new

(2)http://video.fc2.com/content/20120716KFC3cFAq

🔴【吉備国・出雲国関係】

以下の吉備歴文会の講演は面白い。なかには吉備王朝こそ邪馬台国と主張する見解もある。

★★古墳時代前夜弥生最大の王墓 楯築弥生墳丘墓  松木武彦 国立歴史民族博物館教授21m

★★松木武彦=吉備王朝と大和王権90m

★★松木武彦=吉備の歴史と古墳65m

★吉備歴文会 春成秀爾氏 講演 「箸墓、楯築、卑弥呼の考古学」47m

★吉備歴文会 和気誠二氏講演「古墳からのメッセージ」110m

★吉備こそ邪馬台国であったとする四つの理由ー吉備歴文会 近重博義90m

★古代出雲の謎と吉備=近重博義 31m

★★松也の歴史ミステリー・桃太郎伝説=鬼は渡来人の温羅(うら)、桃太郎は吉備津彦命(大和から派遣)=吉備豪族の大和朝廷への従属物語

❌http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v136115511zFysx2Ze

🔵吉備豪族の大和政権への従属=崇神天皇の時代にはじまり、5Cの雄略天皇の時代に完全従属した。造山・作山の巨大な前方後円墳はそれを示すもの。また岡山の桃太郎伝説もそれを示すもの。

吉備津彦神社に伝わる『吉備津彦神社縁起』によると、ある日のこと、朝鮮半島から大陸の王子といわれる身長二メートルを超える大男とその大勢の仲間が吉備の中山にたどり着いた。この大男は温羅と呼ばれ、顔に髭を生やし、言葉が通じず、よく怒るので、人々は恐れいつの間にか鬼と呼ばれるようになった。

ある時、大和の国の王に貢物を運ぶ人が通りかかり、温羅とその仲間が貢物の行き先を聞いたところ、怖い鬼に襲われたと思い、一目散に逃げ帰った。そこで、大和朝廷と温羅の戦いが始まるのです。吉備津彦は桃太郎伝説の「犬」のモデルとされる犬飼武、「雉」とされる留玉姫、「猿」とされる楽々森彦などの家来をつれて、吉備の中山に陣を張りました。吉備津彦と温羅の激しい戦の内容は同じです。

ついに温羅はもうこれまでと観念し、吉備津彦にひざまずき「どうか命だけは助けてください。あなたの家来になって吉備の国を良い国にしてみせます。私が作った宝物の鉄器の道具なども差し上げます」とお願いしました。吉備津彦は温羅の願いを聞き入れ、家来にして吉備の国を治めました。

その後、大阪や出雲の国の反乱を鎮圧。その功績によって、吉備の国に宮殿を造り、吉備大明神として吉備中山御陵にお祀りされるようになりました。一方温羅は、吉備津彦によく尽くし、武力に秀で、志も立派だったので、吉備の中山にある小丸山に艮御崎神社として祀られています。この縁起では鬼を殺していないことが、吉備津宮縁起と違っているところが大きな特徴です。温羅は本当に民を苦しめる鬼神だったのか。温羅は造船技術や製鉄技術を百済から伝え、吉備王国を繁栄に導き、民衆から「吉備冠者」と呼ばれて親しまれた人物で、吉備津彦命は国内統一を図る大和朝廷から派遣された侵略者だという見方もあります。十三年続いた温羅の唸り声は、実は温羅を慕う吉備の民衆の怨念だったとか・・・。下の写真は「鬼ヶ島」

★★国宝・出雲の銅鐸の謎ー荒神谷など近畿とのつながり24m

★出雲 縁結びの旅へ!神話の里の物語42m 

★歴史秘話ヒストリア 出雲 縁結びの旅へ45m

http://www.myvi.ru/watch/04220027111_CpSAChmAU0muXtdWC8pv6Q2

★出雲の神話に隠された史実50m

★★歴史秘話ヒストリア=古墳のミステリー=前方後円墳は不老長寿のツボ、埴輪50m

https://m.youtube.com/watch?v=RxC3qEAzE2A

または

🔵大和政権の九州豪族制圧

大和政権にとって九州地方は特別に重要な地方でした。というのは、大和政権にとって朝鮮半島からの鉄輸入ルートの確保は「生命線」ともいうべきものでした。九州北部の豪族たちは鉄はじめ文明度は高くこの九州北部が輸入の妨げにならないように筑紫の豪族たちと友好関係を維持することに注意を払ってきました。しかし2〜3世紀には九州東部地方=大分・宮崎・鹿児島には反大和政権の動きが活発になり、景行天皇の「熊襲・隼人征伐」が行われた。その様子は「古事記」のヤマトタケルの熊襲征伐に詳しい。この征伐の後宮崎の西都原古墳には前方後円墳が数多くつくられた。5世紀の雄略天皇の時代には九州地方は、完全に大和政権の従属下に置かれた。

🔴【大和政権関係】

🔷🔷世界遺産、でも非公開? 進まぬ解明、「天皇家の墓」ゆえ  編集委員・中村俊介

朝日新聞201985

 ・「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」の巨大古墳は、古代史上の謎を秘めたブラックボックス

 ・世界遺産登録は、厚く閉ざされてきた「古墳群」の未来を変えるのか

 ・異なる管理体制が並立する異例の遺産。求められる国、自治体、地域社会の連携

◆被葬者いまも未確定

 日本に新たな世界遺産が誕生した。

 7月6日、アゼルバイジャンであったユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会で、「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)の世界文化遺産への登録が決まった。49基の様々な古墳で構成された、国内23番目(自然遺産を含む)の遺産。そのうちの過半数を占める29基が、天皇や皇后など天皇家の墓とされる「陵墓(りょうぼ)」や「陵墓参考地」などであることが特徴だ。

 古墳時代に日本列島に君臨した大王(天皇)たちは、自らの権力を墓の造営に注ぎ込んだ。「古墳群」は規模が極大に達した5世紀の、国家形成期の社会構造を目に見える形で伝えるモニュメントであり、古代史上の数々の謎を秘めたブラックボックスでもある。

 国内最大の前方後円墳、大山(だいせん)古墳(伝仁徳〈にんとく〉天皇陵、墳丘長486メートル)、第2位の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(伝応神〈おうじん〉天皇陵、425メートル)、第3位の百舌鳥陵山(みささぎやま)古墳(伝履中〈りちゅう〉天皇陵、365メートル)。構成資産には全国トップクラスの巨大古墳がずらり。大山古墳の造営には1日2千人を動員して15年以上かかるとの試算もある。その破格の規模は、豊かな富と人民掌握の象徴であった。

 巨大古墳群が堺、羽曳野(はびきの)、藤井寺(ふじいでら)の3市にまたがる大阪平野の河内(かわち)地方周辺に集中するのは、なぜなのか。

 古墳の発生は3世紀の奈良盆地南東部とされ、大きな古墳が次々に造られてきた。ところが、4世紀末になると巨大古墳群は大阪平野へと移る。その理由をめぐっては諸説あるが、センセーショナルな説が王朝交代論。河内の新興勢力が奈良盆地を拠点とする王統から覇権を奪ったとする。だが、同じ政権内での主導権争いに過ぎないなど異論もあり、いまも議論は続く。

 巨大古墳群に葬られた被葬者についても、学術的にはまだ確定していない。「古墳群」の多くも宮内庁が管理する陵墓で、そこには研究者さえ自由な立ち入りが認められないことも研究の進展を阻んでいる理由だ。

 現在の陵墓の大半は幕末から明治時代にかけ、「日本書紀」や「延喜式(えんぎしき)」など古代の文献史料などに基づいて被葬者が定められてきた。近年、考古学的な研究が進むにつれて築造年代との齟齬(そご)が指摘されるようになった。たとえば、宮内庁が「仁徳天皇陵」とする大山古墳が、子どもであるはずの履中天皇の墓とされる百舌鳥陵山古墳より新しいといった矛盾が表面化。学界では宮内庁見解の多くが間違っているとの見方が大勢を占める。

 中国の歴史書「宋書(そうじょ)」は、5世紀に讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)の「倭(わ)の五王」が、中国に使節を送ってきたと伝える。五王のうちのいずれかが「古墳群」に葬られている可能性は高い。古代東アジアの国際関係を解き明かす鍵なのだが、その特定作業にも陵墓という厚い壁が立ちはだかっている。

◆宮内庁も歩み寄り?

 とはいえ、学界と宮内庁に歩み寄りの兆しはみえてきた。宮内庁は、歴史や考古学関係の学術団体の代表に定期的な陵墓への立ち入りを認めたほか、大山古墳では昨年、地元堺市と共同調査も実施。信頼関係の醸成は少しずつ進んでいるようだ。

 世界遺産登録が閉塞(へいそく)状態の打開につながるのでは、と期待する声は多い。宮内庁は原則非公開という以前からの姿勢を変えていないが、同じ巨大な規模を誇るギザ(エジプト)のピラミッドなど登録後も調査が行われ、新たな知見が得られるケースは少なくない。

 一方、学界では、世界遺産の構成資産名として「仁徳天皇陵古墳」「応神天皇陵古墳」など、特定個人名を冠した名称で表記することへの懸念が広がっている。学術的に被葬者は未確定なのに、すでに決まったかのような理解が広がり、議論そのものが忘れられていくのではないか、というのだ。「大山古墳」などの学術的な遺跡名を併記するなど丁寧な説明が必要だろう。

◆国単独の管理でなく

 また「古墳群」には、文化庁が管理する「史跡」と宮内庁が管理する「陵墓」という二つの管理システムが、ひとつの世界遺産のなかに並立する。効率的に保存・管理していくには、両者の対話はもちろん、国と地元自治体、さらには地域社会との協力関係が不可欠だ。「遺産をさらに『文化財』を超えて位置づけるため、宮内庁が一歩踏み出してくれるか」(世界遺産に詳しい岡田保良・国士舘大教授)と関係者の注目は集まる。

 都会のただ中に立地する「古墳群」は、常に周囲の脅威にさらされている。ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)も5月の登録勧告の際、鉄道の高架事業や公園整備などの影響に考慮するよう求めた。

 古墳自体も永遠ではない。土でできた墳丘は崩壊し、生い茂る樹木が台風などで倒れれば影響は大きい。周辺環境も含めれば宮内庁単独での適切な維持管理は厳しい、との見方もある。古墳は全国に約16万基。百舌鳥・古市古墳群でも、保存状態や築造時期がずれるなどの理由で、世界遺産の構成資産から外れた古墳は多い。「それらに、どう保護の網をかけていくか」(白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長)は今後の重要課題である。

 歴史遺産との共生は世界的な潮流だ。国連のSDGs(持続可能な開発目標)が重視され、地域コミュニティーの参画を重視する世界遺産も例外ではない。「誇りを持てる町づくりをしたい。市民でできることは市民で。行政をリードしてやろう、そんな気持ちです」。古市古墳群でボランティアガイドを続ける男性は熱く語った。

 「古墳群」は国、自治体、地域社会が三位一体となって文化遺産保護の在り方を問う、壮大な実験でもある。

🔷🔷百舌鳥・古市古墳群、巨大古墳はなぜつくられたのか 赤旗19.07.23

🔷🔷百舌鳥・古市古墳群二つの名前持つ古墳があるのはなぜ?

2019719日朝日新聞

 考古学での名前と、陵墓(りょうぼ)としての名前。主の特定は難しい

 コブク郎 ユネスコの世界遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」には、たくさんの古墳があるね。

 A 国内最大の「大山(だいせん)古墳」などの陵墓(りょうぼ)を始めとして大小様々な古墳49基で構成されている。陵墓とは歴代(れきだい)天皇や皇后など天皇家のお墓のことで、宮内庁が管理している。「静安(せいあん)と尊厳(そんげん)」を保つために一般の立ち入りは禁じられている。

 コ 新聞には「大山古墳」とともに「伝仁徳天皇陵(でんにんとくてんのうりょう)」とも書いてあるけど。

 A 陵墓に誰が眠っているのかは、幕末から明治時代に「日本書紀」や「延喜式(えんぎしき)」といった古い記録などをもとに決められた。ユネスコにも「仁徳天皇陵古墳」といった名前で推薦された。ところが、考古学の研究が進んで、墳丘(ふんきゅう)の形や埴輪(はにわ)などをもとに、いつ造られたのかをかなり絞り込めるようになったんだ。

 コ 知らなかった。

 A 宮内庁がお墓に葬(ほうむ)られたとする人と、古墳のできた時期との間で時間的なずれが出てきた。陵墓の多くで「実際に葬られた人は違うのでは」という見方が学界で強くなっている。

 コ それは困るね。

 A そこで、一部の研究者たちは、古墳の名前は学術的に未確定の人物名ではなく、地名などからつけた考古学での名前にするべきだと主張しているんだ。一方で、従来の陵墓の名も広く親しまれているから、両方の名前が併記(へいき)されるようになった。「伝」には、宮内庁が○○天皇のお墓と定めている、というニュアンスも込められているんだ。

 コ 葬られた人をはっきりさせられないの?

 A 世界遺産登録後も、研究者が自由に入って調査することは認められないだろう。仮に発掘調査ができたとしても、お墓の主をはっきりと記録した墓誌(ぼし)などがない限り、特定は難しい。登録をきっかけに開かれた学術調査が行われ、真相解明につながればいいね。(編集委員・中村俊介)

🔷🔷(社説)古墳と世界遺産 学術調査が欠かせない

朝日新聞2019711

 大阪府の堺、羽曳野(はびきの)、藤井寺3市に広がる「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」が世界文化遺産に登録されることになった。

 宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理する国内最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」をはじめ、4世紀後半から5世紀後半に築造された49基からなる。喜びに沸く地元では、気球を飛ばして古墳を上空から見るプランが飛び出すなど、観光客の呼び込みへ盛り上がりを見せている。

 ただ、登録は遺産として保存し、後世に継承することが目的だ。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は審議で、古墳群が市街地にありながら保存管理され、住民運動によって開発から保護された例もある点を評価した。このことを忘れずに、地域の貴重な財産として保全と活用の調和に努めてほしい。

 懸念はほかにもある。十分な学術的裏付けを欠いたまま、被葬者の名前が独り歩きしかねない古墳が少なくないことだ。

 全体の6割にあたる29基は天皇や皇后、皇族を埋葬したとされる陵墓である。それらを皇室用財産として管理する宮内庁は「静安と尊厳の保持」を理由に原則非公開とし、本格的な調査を認めていない。そのため、葬られた人物像をめぐって諸説がある古墳が目に付く。

 宮内庁が仁徳天皇陵とする大山古墳についても、推定される築造時期との矛盾などさまざまな異論が考古学者らから示されてきた。ところが世界遺産への登録では「仁徳天皇陵古墳」として推薦され、そのローマ字表記で登録されることになった。考古学界には「誤った理解」の広がりを懸念する声がある。

 ユネスコの委員会は、古墳群を「古代東アジアの墳墓築造のひとつの顕著な類型を示すもの」と位置づけた。東アジア史という広い視野に立ち、被葬者像をめぐって学説が定まっていない現状を含め、最新の知見を内外に発信する必要がある。

 大山古墳では、宮内庁が昨年、堺市とともに濠(ほり)に面した堤の一部で発掘調査を実施し、列状に並んだ円筒埴輪(えんとうはにわ)や石敷きを確認した。ただ、この調査は堤の保全工事に向けた状況の確認が目的で、全容に迫るための本格調査にはほど遠い。古墳の保全に配慮しつつ調査を積み重ね、成果を公表していく。そんな開かれた姿勢が求められる。

 歴史的・学術的に価値が高いとされた古墳について、国は史跡に指定し、文化財保護法に基づき体系的に管理・保全しながら調査の結果を公開してきた。大山古墳などの陵墓も特別扱いせず、まず史跡に指定すべきではないか。考古学者らのそうした意見にも耳を傾けたい。

🔷🔷「仁徳陵」世界遺産に登録 ユネスコ、国内23件目

201977日朝日新聞

 アゼルバイジャンで開かれているユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は6日、宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理する「大山(だいせん)古墳」など「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」(大阪府)を世界文化遺産に登録することを決めた。国内の文化遺産は19件目で、自然遺産とあわせて23件となる。

 登録されたのは、国内最大の前方後円墳の「大山古墳」(伝仁徳天皇陵・墳丘長486メートル)や2番目の規模の「誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳」(伝応神天皇陵・同425メートル)など、4世紀後半~5世紀後半に築造された49基。堺市の百舌鳥エリアと羽曳野(はびきの)・藤井寺両市の古市エリアのそれぞれ4キロ四方に密集する。形や大きさも多様な古墳は、中央集権的な古代国家へと移行していく過程で、個人の権力の大きさや身分差が目に見える形で示されるようになっていった歴史を物語る物証として顕著な特徴があると認められた。

 世界遺産委員会では、各国から古墳が市街地でも保護され、いたすけ古墳(堺市)のように住民運動によって開発圧力から守られたものもあることなどを評価する声が相次いだ。49基中29基が歴代天皇や皇后、皇族の墓として宮内庁が管理する陵墓(りょうぼ)などだ。非公開で本格的な発掘調査が認められておらず、考古学者や歴史学者からは「被葬者が学術的に確定していない」として「仁徳天皇陵古墳」などの名称での登録に反対する声が出ていた。(上田真由美)

◆<視点>国や地域一体で保存管理を

 アゼルバイジャンから吉報が届いた。まずは新しい世界遺産の誕生を喜びたい。だが、登録はゴールではない。その巨大さや特殊性のため、保存や活用に課題が山積することを改めて自覚し、登録は「古墳群」を後世に手渡すためのスタートであることを確認したい。

 構成資産49基の古墳は、国内最大の前方後円墳から小さな円墳や方墳まで様々で、日本列島での国家形成期の実像を映し出す。エジプト・ギザのピラミッドや中国の始皇帝陵など墓が権力の証しとなった世界的現象と、前方後円墳の不思議な形にみられる顕著な地域性の共存。「古墳群」は、そんな人類文化の多様性を物語るモニュメントだ。

 一方、保存や管理には課題もある。推薦に向けた構成資産リストの絞り込みの過程で、保存状態などを理由にこぼれ落ちた古墳も少なくない。歴史を担う重要な断片であることに変わりはなく、いかに一体的な保存管理を進めるのかが問われている。

 構成資産の過半数を占める天皇家の「陵墓」については、登録後も宮内庁が管理することに変わりはなく、立ち入り制限は続くとみられる。だが、宮内庁だけによる維持管理は、限界に来ているとの見方も出ている。周辺住民の関心も高まりつつあり、ユネスコも地域コミュニティーの積極的な参加を促す。住民の愛着心を育み、どう全国的な保護意識につなげていくのか。国と自治体、地域社会が一体となった保存整備の施策が欠かせない。(編集委員・中村俊介)

★伊勢神宮http://video.fc2.com/content/20130606hragTSdd

★伊勢神宮 日本の始まりへの旅=歴史秘話

(1)http://video.fc2.com/content/20130804E3fMbNmk

(2)http://video.fc2.com/content/20130804TMK5sHdh

★★世界不思議発見・空白の150年の探索=纒向遺跡から55m

https://m.youtube.com/watch?v=0TRITblqA5s

9809吉田晶=倭王権の時代

★日本統一国家のはじまり大和朝廷15m

http://m.youtube.com/watch?v=Xs0ORHk8QQc

★★歴史秘話・沖の島=神宿る島、古代朝鮮半島と鉄の道43m(沖ノ島は大和政権で鉄の道として大きな役割を果たした)

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v129894884ntJKmXWt

★★英雄たちの選択・巨大古墳をつくった倭の五王の朝鮮半島国際戦略58m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v131365363SDNNzSTB

★★BS歴史館・大王ワカタケル(雄略天皇)の真実59m

★雄略天皇=ワカタケル(計20m

https://m.youtube.com/watch?v=QcgUuR9LRTw

https://m.youtube.com/watch?v=pv7pCwvuyy0

https://m.youtube.com/watch?v=zoKumYX8zPs

★稲荷山古墳

http://m.youtube.com/watch?v=M6Idv_z_qfE

★太古のロマンを求めて! – FC2さきたま古墳22m

http://video.fc2.com/content/20141008hNGA9s1K

★古市古墳群(3回計32m)

(1)http://m.youtube.com/watch?v=D5rD6SWWvpI

(2)http://m.youtube.com/watch?v=AF9qourMiX0

(3)http://m.youtube.com/watch?v=j6iEfwyUBrw

◆◆異説あり 陵墓に眠るのは誰? 宮内庁と学者の見立てに相違

朝日新聞17.11.26

 大阪府の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群が世界文化遺産の国内候補になったことで、「仁徳天皇陵」や「応神天皇陵」などの陵墓が注目されている。だが、宮内庁が被葬者としている天皇や皇族には、学術的には疑問も少なくない。

 陵墓とは、歴代の天皇・皇后の墓である「陵」と、皇族が葬られた「墓」の総称だ。宮内庁のホームページによると、同庁は現在、188の陵と555の墓、46の陵墓参考地(陵墓の候補地)など、計899件を管理している。

 堺市の百舌鳥古墳群と、大阪府羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群は、古墳が最も巨大化した5世紀を中心に築かれた、計88基の古墳からなる。このうち、宮内庁が陵墓として管理しているのは46基。全長486メートルと日本最大の大山(だいせん)古墳(仁徳陵古墳)、同425メートルで第2位の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神陵古墳)をはじめ、全長200メートル以上の前方後円墳10基は、すべて宮内庁管理の陵墓古墳だ。

 宮内庁は一般の人の陵墓古墳への立ち入りを禁止している。百舌鳥・古市古墳群が世界遺産候補となった際にも「引き続き皇室の祖先のお墓として、地域と協力をしながら適切な管理を行っていく」としており、登録が実現しても一般公開などは難しそうだ。

     *

 大阪府と地元3市でつくる「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」は、宮内庁が天皇陵に指定する古墳を「仁徳天皇陵古墳」「応神天皇陵古墳」などと呼んでおり、考古学者や歴史学者から批判の声があがっている。天皇陵の指定は幕末から明治にかけて、8世紀の「古事記」「日本書紀」(記紀)や10世紀の「延喜式」の記述を元に進められており、現在の学術的な年代観とは矛盾するものも多いためだ。

 例えば、履中(りちゅう)天皇陵に指定された堺市のミサンザイ古墳は、埴輪(はにわ)の分析による年代では5世紀前半の築造とされる。一方、履中の父・仁徳天皇の陵とされる大山古墳は5世紀半ばの築造。「日本書紀」には父の6年後に亡くなったと記された履中の墓の方が古い。

 5世紀後半の雄略(ゆうりゃく)天皇については、宮内庁指定の陵は円墳と方墳を組み合わせたものだが、考古学者らの間では、宮内庁が仲哀(ちゅうあい)天皇陵とする全長約242メートルの前方後円墳、岡ミサンザイ古墳を雄略陵とみる説がある。

 6世紀前半に没した継体(けいたい)天皇の陵とされる大阪府茨木市の太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳も、埴輪の年代は5世紀半ば。約1・5キロ東にある高槻市の今城塚(いましろづか)古墳が真の継体陵であることが研究者の定説になっている。

 陵墓古墳について研究している今尾文昭・関西大非常勤講師は「『○○天皇陵古墳』という呼称では、被葬者が特定されているかのような誤解を海外の人にも与えてしまう」と指摘し、「大山古墳(現、仁徳天皇陵)」と、学術的な古墳名と宮内庁による陵墓名を併記することを提案している。

     *

 陵墓古墳の被葬者を巡っては考古学者の間でも諸説がある。

 白石太一郎・大阪府立近(ちか)つ飛鳥(あすか)博物館長は、誉田御廟山古墳は平安時代以前から応神天皇陵として管理されていたとして、「応神、仁徳の両天皇については、宮内庁の指定どおり、誉田御廟山古墳と大山古墳に葬られた可能性が高い」とみる。しかし同時に「考古学者が大王(天皇の旧称)の墓と推定する巨大古墳を、記紀に記された歴代天皇に矛盾なく当てはめるのは不可能」とも指摘する。

 一方、岸本直文・大阪市立大教授は、土器や馬具の研究から古墳の年代を検討し、誉田御廟山古墳は430年代、大山古墳は450年ごろの完成と推測。古事記から推定される歴代天皇の没年や、中国の歴史書に「倭(わ)(日本の旧称)の五王」からの使者が来たと記された年代を踏まえて、「誉田御廟山古墳は、倭の五王のうち『珍』とされる反正(はんぜい)天皇、大山古墳は同じく『済』とされる允恭(いんぎょう)天皇の墓だった」との説を提示する。

 世界遺産への登録には、その文化遺産の価値が作られた当初から変わらないという「真正性」が求められる。専門家にも諸説がある被葬者名が入った呼称は、登録の是非を検討する海外の専門家にどのように評価されるだろうか。(編集委員・今井邦彦)

◆記紀からたどる、困難か

 前方後円墳は3世紀中ごろ、日本列島各地の首長らによる政治連合のシンボルとして成立したと考えられる。そのトップである「大王」の墓は全長200メートルを超える前方後円墳で、その築造場所は奈良盆地東部から同北部、大阪平野へと移動した。こうした大王墓の移動は、おおまかには「古事記」や「日本書紀」にみられる崇神天皇以降の歴代天皇の墓域の移動と一致する。

 しかし記紀の編纂(へんさん)が進められた7世紀後半から8世紀初めには、「大王」に代わる「天皇」の称号が採用された。その正統性を強調するために歴代天皇の系図を再編し、陵もあらためて決め直したという説もある。記紀の記述から、実在した大王らの墓にはたどり着けないかもしれない。

 <読む> 『古代史研究の最前線 天皇陵』(洋泉社)は、考古学、歴史学の専門家が多様な視点で被葬者の問題や陵墓の管理体制の変遷を論じる。『世界遺産と天皇陵古墳を問う』(思文閣出版)は百舌鳥・古市古墳群の呼称問題などを通じて、陵墓の保存体制や公開のあり方を考える。

 <訪ねる> 大山古墳の南にある堺市博物館(堺市堺区)は、百舌鳥古墳群に関する展示が充実。大型スクリーンによる映像も楽しめる。大阪府立近つ飛鳥博物館(同府河南町)は古墳時代全般について紹介。築造時の大山古墳を再現した巨大な模型も展示されている。

★★NHK 謎の国宝七支刀~空白の古代を科学するYouku

http://v.youku.com/v_show/id_XMzAxNjY4NDEy.html?x

🔴【大和政権と伽耶など朝鮮半島との関係】

★★神秘の古代王国伽耶10m(製鉄王国であそったことがよく分かる。大和政権の鉄輸入ルート)

◆当ブログ=日本と朝鮮半島2000

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/4007310.htmlとくに

★★日本と朝鮮半島 2任那日本府の謎 

http://video.fc2.com/content/20131004yx9FWe1F

★★歴史秘話・沖の島=神宿る島、古代朝鮮半島と鉄の道43m(沖ノ島は大和政権で鉄の道として大きな役割を果たした)

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v129894884ntJKmXWt

9803伽耶(かや)はなぜほろんだか

Wiki=伽耶かや(伽耶詳しい)

◆コトババンク=任那みまな

★★韓国歴史ドラマ=鉄の王キムスロ

(伽耶の製鉄王国のドラマ全32回=伽耶の製鉄生産が一杯登場する。)

fc2で「鉄の王」で検索のこと(字幕なし)

あらすじ

http://navicon.jp/osusume/tid95912/

◆謎の4世紀=伽耶と大和政権

http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_03.html

◆謎の製鉄王国=伽耶

http://www.searchnavi.com/~hp/rekishi/youyaku/21-1.htm

★知られざる大英博物館 3集「日本 巨大古墳の謎」Youku

http://v.youku.com/v_show/id_XNDI5NTEyNjky.html?x

★継体天皇 ヤマトを救う=その時歴史が動いた

http://v.youku.com/v_show/id_XMjE5MTYwNTAw.html?xまたはhttps://m.youtube.com/watch?v=HFwqK32pr_o(2)(3)(4)は下部から

★★継体天皇・ヤマト ・古代日本の転換点・その時歴史が動いた43m

https://m.youtube.com/watch?v=8HObtGypUY4

★継体天皇6m

https://m.youtube.com/watch?v=E9Mgu7eCBm0

★アニメ「筑紫の磐井」山岸豊吉製作員会製作29m

◆◆埴輪の起源、自ら正式報告 半世紀前に定説唱えた考古学者

朝日新聞17.05.27

 古墳に立て並べられた埴輪(はにわ)の起源は何なのか。鍵となる遺跡の一つである宮山墳墓群(岡山県総社市)出土の特殊な土器の研究報告が、1963年の発掘調査から54年ぶりに刊行された。

 まとめたのは国立歴史民俗博物館の春成秀爾(はるなりひでじ)名誉教授。岡山県立博物館の『研究報告』37号に収録されている。この土器は「宮山型特殊器台」と呼ばれる弥生時代後期終わりごろに葬儀で使ったもので、これが発展して円筒埴輪になったというのが、近藤義郎さん(岡山大名誉教授、故人)と春成さんが50年前に発表した、現在の日本考古学の定説だ。

 宮山型の後続型式にあたる特殊器台は、最古の前方後円墳とされる箸墓古墳(奈良県桜井市)でも出土しており、古代吉備と大和の関係をうかがわせる資料として注目されてきた。

 だが宮山遺跡の出土品については86年刊の『岡山県史』で概要が紹介されたものの、正式報告は未刊行のまま。そこで春成さんは自ら岡山県博所蔵の特殊器台の全点調査を行った。

 その結果、棺(ひつぎ)として使われていたものを含む8点は、文様や製作技法などから2~3人の工人が作ったと推測。それらを踏まえ、吉備の特殊器台の中でも後期に位置づけられる「宮山系」は、その分布が総社市付近に限られることを明らかにした。「その宮山系がなぜ大和盆地で用いられることになるのか。備中勢力の一部が大和に移動したのかどうかの解明が今後の課題」と春成さんは話す。

 今回の論考のための調査は2009年から8年間に及んだ。「ぼくも74歳。図面をとるのが本当に大変だったけれど、考古学者はやはり自分の目で遺物を直接見ないといけない。それが一番の基本だと思っています」

 大所高所からものを言うだけでなく、地に足をつけ、いつまでも現役。その姿勢は若手研究者にも影響を与えそうだ。(編集委員・宮代栄一)

◆古代人が愛した鶏

(赤旗17.01.01

◆日本鶏=生きた文化財

(赤旗17.01.10

★★日韓の国宝が海を越えた~半跏思惟(はんかしゆい)像はるかな旅~20160615NHK

または

http://www.myvi.ru/watch/15222528061_FXtwAiAixEGsEHH47dBN7g2

★日韓国宝展 ソウル 半跏思惟像 韓国語4m

★奈良 中宮寺 菩薩半跏像7m

https://m.youtube.com/watch?v=834J1qC6O7E

【赤旗16.06.27

◆◆日韓の国宝が対面 半跏思惟像、東京国立博物館で

2016628日朝日新聞

【国宝・半跏思惟像=中宮寺門跡蔵】

 イスに座って片足を踏み下げ、もう一方の足を組んで思索のようなポーズをとることから、その名がある「半跏思惟像(はんかしゆいぞう)」。日韓を代表するこの像の名品2体が相対する特別展「ほほえみの御仏」が東京・上野の東京国立博物館本館で7月10日まで開かれている。

【韓国国宝78号・半跏思惟像】

 展示されているのは奈良県にある中宮寺門跡所蔵の「国宝・半跏思惟像」と、韓国国立中央博物館所蔵の「韓国国宝78号・半跏思惟像」。中宮寺門跡の像は像高約126センチ。7世紀後半の作品で、クスノキの部材を複数組み合わせて作られている。一方、韓国国宝78号の像は像高約83センチ。鋳造としては大型の部類に属し、こちらは6世紀後半の製作と考えられている。

 いわゆる半跏思惟像は約2千年前のインドのガンダーラにすでに作例があり、かの地では観音菩薩(ぼさつ)を表現することが多かったようだ。

 一方、「韓国や日本では、この種の像は弥勒菩薩を表しているケースが多い」と東京国立博物館アソシエイトフェローの西木政統さんは話す。

 釈迦入滅後のはるかな未来、すべての命あるものを救済してくれるという弥勒信仰は高句麗・新羅・百済が並立した6~7世紀の三国時代に盛んで、朝鮮半島では30体以上の半跏思惟像が旧新羅及び旧百済地域などで確認されている。

 本展は古代の日韓文化交流の証しを両国で展示し、鑑賞してもらおうとの意図で企画された。韓国ではソウルの国立中央博物館で、同じ内容の特別展が一足早く今月中旬まで開催された。

 東京国立博物館特別展室長の丸山士郎さんによると、現在、如意輪観音としてまつられている中宮寺の半跏思惟像も元々は弥勒菩薩として作られた可能性が高いという。78号像の製作地については高句麗説などもあってはっきりしないが、中宮寺の像が朝鮮半島由来の信仰と造仏技術の影響下で製作されたことはほぼ確実とみられる。

 共通の文化基盤のもとに生まれた二つの像をこの機会にじっくり観察してみてはどうだろう。(編集委員・宮代栄一)

★★発見!謎の金銅製馬具~古代日本と朝鮮半島の交流史~

58m 

★★キトラ古墳=埋葬された人は誰か60m

★★コズミック・キトラ世界最古の天文図の謎=天文学と考古学から探る.55m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v129210370Q7QMH4F7

◆飛鳥の古代遺跡ガイド

(赤旗18.04.05

🔴【蘇我氏・聖徳太子】

★★その時歴史が動いた・蘇我氏は開明的であった

http://v.youku.com/v_show/id_XMjIzODQxNjcy.html?x

★★歴史秘話・大化改新の真相=蘇我入鹿・蝦夷の墓発見か45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v136470532rPBKAaBA

★その時歴史が動いた乱世の英雄編ミステリー大化改新~蘇我入鹿暗殺の実像~

http://www.dailymotion.com/video/x2ielwu

★★BS歴史館・仏教伝来=古代の文明開化58m

★★その時歴史が動いた=蘇我馬子・飛鳥寺建立・日本最初の仏教寺院・古代の文明開化

★★歴史鑑定・聖徳太子はどんな人物で何をした人か

★★歴史秘話・聖徳太子

http://v.youku.com/v_show/id_XMjkxMjg5MTgw.html?x

★★歴史秘話・聖徳太子の国際戦略

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v128703534KekCJS8q

★★ドラマ聖徳太子=蘇我馬子など朝鮮半島との関係、仏教伝来など詳しい。

★ドラマ・聖徳太子(前編)97m

★ドラマ・聖徳太子(後編)100m

★★松也の歴史ミステリー・飛鳥の巨大石造群=斉明天皇の道教思想、渡来人による一瞬の都づくり53m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v130709657JBxHKwQK

★★歴史秘話=日本にもあった謎の巨石文明=皇極天皇=斉明天皇時代の飛鳥時代の巨石と水の遺跡fc2有料42m

http://video.fc2.com/content/20141017qpsKrYSk

◆◆松本清張と明日香村の酒船石 古代の謎、取材重ね大胆に推理

朝日新聞17.02.10

 「巨(おお)きな石が平地にすわっていた。上の平らな面には、楕円(だえん)形と半円形の浅い穴が二つ、ならんでいた。これがまず目立った」

 社会派推理小説で知られる作家の松本清張は、古代史にも強い関心を寄せていた。1973年6月から1年半、朝日新聞に連載した小説「火の路(みち)」(連載時の表題は「火の回路」)は、古代史学者の主人公・高須通子が、奈良県明日香村の丘の上にある石造物「酒船石(さかふねいし)」を訪れる場面で始まる。

【益田岩船】

 作品の中で清張は、飛鳥時代に渡来したペルシャ人が伝えたゾロアスター教(拝火〈はいか〉教)を斉明(さいめい)天皇が信仰し、明日香村周辺に残る石造物はその遺構とする大胆な仮説を、通子の論文の形で披露。酒船石は祭祀(さいし)に使う麻薬性の酒「ハオマ酒」の調合装置と論じた。

 北九州市立松本清張記念館によると、清張は執筆前にイランを訪れて遺跡を取材し、執筆中も古代史学者と手紙のやりとりをした。当初は酒船石を神聖な火をたく「拝火壇」と推測していたが、専門家から花崗岩(かこうがん)は火に弱いと指摘され、考えを変えた。

 奈良県立橿原考古学研究所所長の菅谷文則(すがやふみのり)(74)は74年、小説に登場する奈良県各地の史跡に清張を案内した。「当麻寺(たいまでら)の四天王の顔つきがイラン人にそっくりだと教えたら、うれしそうに見ておられました」

 京都橘大名誉教授の猪熊兼勝(いのくまかねかつ)(79)も、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)に勤めていたころ、清張から飛鳥の遺跡について、よく質問された。「私は当時、酒船石を庭園で水を流して見せた施設と考えていたので、清張さんと論争もしました」

 その後の発掘調査で、酒船石のある丘には、斉明天皇が信仰した中国伝来の道教の施設「両槻宮(ふたつきのみや)」があったとの見方が強まってきた。猪熊は酒船石を、斉明が重要な決定をする際に使った水占いの装置と考えるようになった。

 「今思うと、酒船石を両槻宮に属する祭祀遺構と考えた清張さんの推理は、かなり鋭かった」

 最近、平城宮跡出土の木簡にペルシャ人とみられる名前がみつかった。いつか、飛鳥でもゾロアスター教徒の残した痕跡が発見されるかもしれない。=敬称略

 (編集委員・今井邦彦)

 <松本清張(まつもとせいちょう)> 1909年、現在の北九州市出身。歴史小説や推理小説を多数発表。92年死去。

◆あんない

 酒船石へは近鉄橿原神宮前駅からバスで「万葉文化館西口」下車。階段を上がった丘陵上にある。清張がゾロアスター教の拝火壇と考えた「益田岩船(ますだいわふね)」は、近鉄岡寺駅から西に徒歩約15分。現在は石をくりぬいた石室の未完成品とする説が有力だ。

◆酒船石

さかふねいし

(小学館百科全書)

奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村岡にある2組の花崗岩(かこうがん)製の導水石。本居宣長(もとおりのりなが)らは醸造施設と解釈し、酒船石と名づけた。飛鳥寺(あすかでら)南東丘陵上の岡の酒船石は、長さ5.3メートル、最大幅2.3メートル、厚さ1メートル、円形窪(くぼ)を直線溝で樹系図状に結ぶ。この南東斜面より16個の車石とよぶ付属の導水石が出土している。また、現地にはないが、ここから数百メートル西の飛鳥川東岸出水(でみず)からも西洋ナシ形の石と溝を組み合わせた酒船石が出土した。出土位置からみると、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)推定地にかかわる一連の饗宴(きょうえん)用の導水施設である。[猪熊兼勝]

★★ドラマ=大仏開眼180m

http://v.youku.com/v_show/id_XMTk5MjI4NDky.html?from=s7.8-1.2&x

http://v.youku.com/v_show/id_XMjA2MDY5OTI0.html?from=s7.8-1.2&x

★★ドラマ=大化改新

⭕️https://m.youku.com/alipay_video/id_XNDU3NjUzNDA=.html?spm=a2h0c.8166622.PhoneSokuUgc_1.dtitle

⭕️http://v.youku.com/v_show/id_XNDU3NjU0MTY=.html?x&from=y7.2-1-97.3.1-1.15-1-1-0-0

⭕️http://v.youku.com/v_show/id_XNDU3NjU1MDQ=.html?x&from=y7.2-1-97.3.1-1.15-1-1-0-0

⭕️http://v.youku.com/v_show/id_XNDU3NjU1ODQ=.html?x&from=y7.2-1-97.3.4-1.15-1-1-3-0

◆西田進=国内の歴史と文化(歴史を訪ねる)

=写真などが豊富な歴史訪問の旅

http://www.nishida-s.com/main/categ4/list4/list4.htm

北九州遺跡巡り—-日本古代史の舞台を訪ねるロマンの旅=北九州は、畿内とともに日本古代史の重要な舞台であり、ロマンの世界である。            

http://www.nishida-s.com/main/categ4/kitakyushu/kitakyushu.htm

出雲国と石見国(1)美保神社、佐太神社、八雲山、須我神社、熊野大社、八重垣神社、出雲国分寺跡、出雲大社、古代出雲歴史博物館=かねてより古事記、日本書紀、風土記の世界を訪ねたいと思っていたところ、今年は古事記編纂1300年に当るという。出雲国には、スサノオ神話、国譲り神話、国引き神話、黄泉の国など、子供のころから親しんだ神話が多い。旅の前半は出雲国で、出雲大社をはじめ多くの神話の舞台を訪ねる。

http://www.nishida-s.com/main/categ4/31izumo-iwami-1/index.htm

出雲・吉備路遺跡巡り —- 日本古代史のもう1つの舞台=出雲・吉備は、畿内・北部九州とともに日本古代史の舞台である。近年夥しい数の銅鐸、銅矛、銅剣が出土した島根県の荒神谷遺跡・荒神谷遺跡はぜひ見学したい遺跡である。

http://www.nishida-s.com/main/categ4/14izumo/14izumo.htm

山の辺の道纏向遺跡、崇神天皇陵、景行天皇陵、石上神宮、大神神社=幾度か計画しながら実現しなかった大和の「山の辺の道」探訪は、思いがけず、桜井市で開催される講演会と遺跡見学に参加する形で実現した。最近、卑弥呼の墓ではないかと考えられている箸墓古墳、多くの天皇陵や古墳を訪ねることができた。

http://www.nishida-s.com/main/categ4/23yamanobenomichi/index.htm

葛城と河内の古墳群百舌鳥古墳群、古市古墳群、仁徳天皇陵、履中天皇陵、応神天皇陵、允恭天皇陵、近つ飛鳥博物館=世界文化遺産への登録を目指す運動が進められている百舌鳥・古市古墳群には、仁徳天皇陵などの巨大前方後円墳が含まれている。

http://www.nishida-s.com/main/categ4/29kk-kofun/index.htm

大和路(1)—-平城宮跡・奈良公園・西ノ京を訪ねる

http://www.nishida-s.com/main/categ4/yamatoji-1/yamatoji-1.htm

大和路(2)—-聖徳太子ゆかりの地、斑鳩を訪ねる 

聖徳太子ゆかりの斑鳩の里には、日本で最初の世界文化遺産に登録された法隆寺、中宮寺などがある。近くの藤ノ木古墳は、5世紀の未盗掘古墳で、金銅製の品々が発見された新聞記事は記憶に新しい。

http://www.nishida-s.com/main/categ4/yamatoji-2/yamatoji-2.htm

大和路(3)—-万葉のふるさと、藤原・飛鳥を訪ねる =日本の歴史は592年の推古天皇の即位辺りで考古学から歴史学の時代に変わる。710年に元明天皇が平城宮に遷都するまで、飛鳥・藤原が日本の首都であった。この時代は、万葉集が最も花開いた時期でもある。

http://www.nishida-s.com/main/categ4/yamatoji-3/yamatoji-3.htm

🔴◆◆弥生時代=列島に変革、年代・担い手に新説

朝日新聞16.01.24(文化の扉)

 大陸からやってきた渡来人が縄文人を追いやり、水田を開き、「クニ」が生まれ、貧富の差や身分が生じた――。そんな弥生時代のイメージが最近の研究によって、大きく変わりつつある。

 弥生時代はいつ始まったのか。従来の定説は紀元前5世紀ごろ。ところが13年前、紀元前10~同9世紀と大幅にさかのぼる新説が発表された。国立歴史民俗博物館(歴博)の研究チームが土器の炭化物から年代を測る方法で分析した。

 当時、多くの考古学者から「全否定」に近い反発があったが、その後、「紀元前10世紀まではいかないが、ある程度さかのぼるとみる中間派の研究者が増えた」と明治大の石川日出志教授。現在はこの中間派と歴博派が相対する。

 弥生時代や古墳時代の土器編年に詳しい福岡市文化財部の久住猛雄さんは「木材の年代を年輪で調べる年輪年代法の結果などを考えあわせると、弥生の開始は古くみても紀元前8世紀前後とした方がつじつまが合う」と話す。さらに、歴博が示した年代は後期末などにずれがあるとし、「参考値にとどめ、遺跡から出土した土器や金属器を大陸のものも含めて比較・検討することで交差的に年代を決めていくべきだ」と主張する。

     *

 ところで、弥生文化を担ったのは一体誰だったのだろう。大陸からきた多数の渡来人が、先住の縄文人を追いやり、稲作を中心とする文化を列島に広めたというのが、かつての定説だった。

 だが、見つかった人骨の研究などからこの説は見直されている。

 福岡県の新町遺跡では弥生早期の墓から「顔が短く彫りが深い」縄文人の特徴を持つ骨が出土。山口県の土井ケ浜遺跡や福岡市の金隈(かねのくま)遺跡では、縄文系と渡来系の人々が同じ墓地に葬られていた。

 「新町遺跡では縄文系と朝鮮半島系の二つの文化要素が確認できる。縄文人が稲作を受け入れ、移住者と共に弥生文化を形成したと考えた方がいい」と石川教授。

 一方、「一緒に文化を担ったという割に縄文系の人々の骨が少なすぎる。あくまで渡来人とその子孫が担い手」(中橋孝博・九州大名誉教授)との意見も。結論が出るにはもう少しかかりそうだ。

     *

 もう一つ、最近注目されているのが、一見均質に見える弥生時代の文化が、実は地域によってかなりの差があったという考え方だ。

 国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎さんは、青銅器の祭りを行い、社会的格差を示す墓などを持つ文化の複合体を「弥生文化」と定義し、それが及ぶのは、北は利根川までと説く。「東北北部では、弥生時代でも(縄文文化以来の)土偶の祭りを行い、稲作をやめて狩猟採集に戻っている。弥生とは別の文化と考えるべきだ」

 このような弥生時代の文化の多様性について、東京大の設楽博己教授は「朝鮮半島からの影響や縄文文化の伝統の強弱に地域差があったために生じた」と推測する。「ただし、いずれも本来は稲作が生業。互いに密接に関わりながら発達した。列島全体をまきこんだ大きな変革という意味では一つの文化とみていいのではないか」と話す。(編集委員・宮代栄一)

 <訪ねる> 日本で最も古い弥生時代早期の集落の姿が見られるのが、福岡市博多区の板付遺跡。大阪府和泉市・泉大津市の池上曽根遺跡は大型建物を復元した史跡公園となっている。近くの府立弥生文化博物館も必見だ。青森県田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡では日本列島最北に位置する水田稲作の痕跡をじかに見ることができる。

 <読む> 藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』(講談社現代新書)は各地に多様な文化が栄えた弥生時代の実情に迫る。設楽博己『縄文社会と弥生社会』(敬文舎)は新たな縄文時代像・弥生時代像を提示。石川日出志『農耕社会の成立』(岩波新書)は縄文~弥生の変化がゆるやかなものであったことを資料から説く。

◆発掘、過去と出会う楽しさ 俳優・苅谷俊介さん

 ぼくが考古学に興味を持ったのは33歳の時。(所属していた石原プロの社長だった)石原裕次郎さんの屋敷の建設現場で遺跡が見つかったのがきっかけでした。以来、生涯学習のつもりで、自分でも発掘に携わりながら、こつこつと勉強を続けてきました。

 ぼくは、弥生文化というのは何度かに分かれて、日本列島にもたらされたと思っています。その傍証が「徐福伝説」です。

 徐福というのは、中国を統一した秦の始皇帝の命を受けて、不老不死の薬を求め、数千人の人々と共に東へ出航した伝説の人物なのですが、日本列島には30~40カ所の地にこの徐福が来たという言い伝えが残っています。ぼくが調べた限りでは、このうち27カ所の近くに弥生時代の水田の跡があります。

 ここから推測すれば、複数の集団がそれぞれの水稲技術をもって何度かにわたって渡来したことが、徐福伝説に重なっているのではないかと考えます。

 考古学の魅力は「発掘現場イコール、過去と現代が出会う唯一の場所である」ということではないでしょうか。そんな楽しさを、これからも多くの人に伝えていきたいと思います。

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【筆者コメント】 🔵日本国家の起源 

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◆◆なお古代史の人物、事件の詳細については、コトバンクの小学館百科全書で検索のこと

弥生時代1世紀頃に九州にクニ=小国家の誕生

後漢のBC108漢書地理誌に「夫れ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国。使駅漢に通じる者三十国ばかり」とある。小国家クニの支配者たちは、他の小国家との違いを出して支配圏を拡大するために中国国家との交易や印の授受を利用した。中国が周辺国家に対して行っていた冊封さくほう体制とは違う。やがてクニ=小国家は、初期国家となり、大和国家古代専制国家=律令国家へと発展していく。この頃朝鮮半島には、中国が楽浪郡をおいて半島への影響力を行使していたが、朝鮮半島でも小国家が誕生していた。当時の日本の小国家は倭わと呼ばれていたが、早くも朝鮮半島との交易を開始していた。

沖ノ島おきのしま(のちの4-10Cに大和朝廷が航海の安全祈る祭祀を行うようになってから発展。「海の正倉院」8万点遺物。最近韓国の全羅北道の海岸遺跡・竹幕洞遺跡と近似=新羅の祭祀)や対馬は朝鮮半島との交易ルートをいち早くきり開いた。

壱岐国いきの国も続いた(倭人伝では「一大支国」「一支国」。原はるの辻遺跡=三重の環壕・船着き場=玄海灘自由に・葬祭場・朝鮮の土器・中国鏡・青銅腕輪・中国陶磁器=同成社・原の辻遺跡より=東京ドーム24個広さ=東アジアの交易場。また加良香美からかみ遺跡も)

比較的大きい小国家は奴国なこく。後漢書東夷伝AD57光武帝印じゅを与え誕生とある=「倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印じゅを以てす」。魏志倭人伝には、長官シマコ・副長官ヒナモリ2万人余とある。須ぐ遺跡(奴国)。金印(漢委奴国王印)が志賀半島から江戸時代に発見された。

伊都国(糸島郡)は、東夷伝=「107王の帥升すいしょう他国とあわせて後漢に生口160人献上」とある。長官副長官帯方郡使常駐=やまたい国連合or北九州クニ連合の外交役となったクニ。前原市に井原いわらやり溝遺跡=平原ひらばる遺跡?や三雲みくも遺跡(前原市まえばる伊都国遺跡がある。また魏志倭人伝に出てくる末ろ国も実在した=唐津の松浦=桜馬場遺跡発見。

魏志倭人伝に出てくる投馬国とうまこく(宮崎西都市or出雲)やくぬ国(くな国=熊本宮崎or近畿の熊野説or東海=森。やま台国29カ国と対抗ヒミココ男王248)がどこにあったのか不明。これらのクニの遺跡からは、銅剣・銅か・矛ほこやかめ棺(九州・弥生時代)が発見されている。

❷邪馬台国は、桜井市の纒向遺跡に存在し、のちの大和政権の一翼、源流となった

邪馬台国は「魏史倭人伝」で記録されている国、それまでのクニ=小国家と違い、連合国家ともいうべきもの。3C前半の紀行記録では「南水行10-20日」ととんでもない南海に到達することになる。距離と方位が間違っている。邪馬台国近畿説=南でなく東=実際に末ろ以後方位は90度。九州説=距離がおかしい報告のため誇張=水行10日は1日のこと。不弥国までは実際存在地証明。

邪馬台国到着までのクニと比べて最大の7万戸と宗教的権威で統括。それまでの倭国の乱を鎮圧。238年景初3年魏に朝貢した。銅鏡100枚を魏が与え、魏の権威を後ろ盾に豪族にばらまいて支配圏拡大に役立てた。250卑弥呼死去。い与をたてるが、南のくな国と戦争して敗北した。卑弥呼はシャーマンの権威=巫女みこの役割も果たした。

邪馬台国がどこにあったのか、これまで近畿説と九州説に分かれて論争してきた。

近畿説は以下の通り。

邪馬台国は、その後の大和政権の源流または一翼となった。内藤湖南先駆け。2C後半には、銅矛圏=北九州・四国東と銅たく圏=近畿・東海・北陸に分かれて対立関係にあった。間に吉備と出雲が存在した。倭国大乱のときは各地とくに西日本に環壕集落(=堀をめぐらした集落)や高地性集落(=高地・軍事施設)がつくられた。瀬戸内と四国中心。讃岐も。吉備も近畿の従属下におかれた=箸墓はしはか古墳に吉備のみの特殊器台出土した。そして鉄の丹後おさえて鉄生産能力のあった出雲を制圧した。こうして最も力をもっていた北九州を制圧。南九州も=まず南九州を制圧してから北上したか?その逆か。

「邪馬台国は九州南のくな国と戦争敗北した」=これをどう理解すればよいか?ほぼ200年前後に大乱おさめて近畿政権確立した。邪馬台国かくな国か不明。その後大和政権がつくられた。大和政権の権力の基盤は、加耶や百済からの鉄の輸入ルートを握っていたこと、そして渡来人を活用したこと。七支刀。鉄はBC5C中国で生産開始、BC3C朝鮮独自に発達農具と武器の生産に大きな役割。大和政権がこれを握ったことが大きい。

邪馬台国近畿説の証拠は、以下の4点。

前方後円墳=大和政権承認継承3C近畿最も大きくしかも多い。近畿離れると小さい。

北部九州の土器は、近畿なし。しかし近畿の土器が北部九州にひろがる。東海や北陸などにも近畿土器発見。

三角縁神獣鏡は、近畿最も多い。

大規模な纒向まきむく遺跡が3C半ば。ここから連合国家の痕跡=大宮殿跡、各地の土器など発見。これが近畿説の最大の証拠。近くにも唐古鍵からこかぎ遺跡ある。纒向遺跡から2㎞の土地。唐古鍵の終末期と纒向建設が重なる。そこにも弥生時代の代表的水田遺跡・土器や銅鐸など青銅製造、小都市であった。

纒向まきむく遺跡で大規模な宮殿跡発見

この纒向遺跡は、桜井市の巻向駅近く。卑弥呼が生きていた3C前半の遺跡。東西2㎞南北1.5㎞=東京ドーム60個分。隣の唐古鍵遺跡=環濠遺跡から纒向遺跡へ発展した。纒向遺跡には、最古の大きな箸墓はしはか古墳がある。また勝山古墳・石塚古墳・ホケノ古墳などあわせて6つの前方後円墳がある。中心は箸墓はしはか古墳=高さ30m距離280m日本最初の巨大前方後円墳。大和王権継承=国立歴史民俗博物館の分析。卑弥呼の死後250年頃、大和朝廷確立したと推定される。

その中心地域が纒向。三輪山ふもとの広大な地域。この地域の出土品には全国各地製作の土器=関東・北陸・東海50%・近畿・吉備・四国・北九州はなし=全国的な政治経済の中心地=日本最初の都市。吉備の特殊器台も出土した=吉備も従属した。紅花かま大量に出土=染め物=朝鮮渡来。周辺出土土器の放射性炭素年代測定法で40-260年と推定=卑弥呼250頃死亡したこととの関係。木製の人面仮面も出土=宗教的要素。鍬と鋤。高杯たかつき。船のミニチュア。柵=5m×2.6km溝=大和川につながる運河=吉野ヶ里の敵防御でない=戦争用ではない。大規模な宮殿跡近年発見。3C中ごろまでの年代では国内最大規模の大型建物遺構。柱の穴規則正しく並ぶ発見=高さ10m南北19.2m東西12.4mの宮殿と想定=入り母屋もやづくり(これまでの弥生は切り妻づくり)。細長い100m×150mの土地。穴の地層3C半ば建物3C前半。物見櫓やぐら・神社など4棟の建物群あわせてきれいに東西に並ぶ(後の7Cの飛鳥宮殿以降は南北に並ぶ=中国式)。東西は太陽崇拝か三輪山崇拝か?=二つの古墳に向いている。後の宮殿は中央柱なし=唯一似ているのは神座が隅にある出雲大社=部屋の真ん中に柱がある点も似ている。中国の道教で使う桃の種も大量に出土=卑弥呼鬼道姿見せず男弟に伝える姿想定される。肥後和男説=箸墓古墳は卑弥呼=モモソヒメ日本書紀の墓。男弟は崇神天皇か。金印や墓名など決定打がない。纒向遺跡の近くの黒塚くろづか古墳=銅鏡多数出土。土器破片に楼館の絵がある。

◆邪馬台国九州説の弱点

 九州説の先駆けは、白鳥庫吉くらきちなど。九州説の特徴は以下。

1.九州鉄製武器出土きわめて多い。九州は朝鮮に近く生産力・武力ともに近畿より高い。銅ほこ文化圏。また奴国・伊都国などの所在明確。宮崎あたりのくな国が近畿に進出したか?東征説あり。

2.西日本の埋葬方法が近畿にひろがる。

3.吉野ケ里遺跡=環濠・物見櫓など。

【吉野ヶ里遺跡】

これだけだと邪馬台国=近畿説よりも説得力に欠ける。唯一の考古学的証拠は、吉野ケ里遺跡である。確かに、楼かん・溝・宮殿の跡が存在し、周辺集落の拠点。鉄の鏃やじりや剣も発見され、武力統一の痕跡がある頭の骨に穴。中央に墳丘墓=副葬品。その周辺に小さなかめかん多数。しかし、吉野ヶ里遺跡は、時期が邪馬台国の3Cよりも後の4C、また規模が小さいことは、近畿説の纒向遺跡と比べると証拠が弱い。しかし、朝鮮半島に近い九州、しかも鉄兵器の存在は九州が圧倒的で近畿は少ないことは、邪馬台国九州説の最も強いところ。しかし、それも邪馬台国・大和政権が朝鮮半島の鉄生産・鉄ペい輸出の特別ルート(吉備の製鉄遺跡=岡山久米や出雲の荒神谷遺跡こうじんだになどの鉄ぺい加工の中間地点ふくむ)を握っていたと考えれば、鉄生産の弱点はカバーできるのではないか。

❹大和政権の誕生と発展

古代大和政権(邪馬台国ふくむ)発展段階は以下の通り

3Cの邪馬台国、その後の大乱を制圧した4Cの初期大和政権=崇神天皇開始した三輪王朝→369.391朝鮮半島に早くもかかわる。

5Cに三輪王朝と異なる河内王朝時代=応神天皇と雄略天皇時代。大和政権が列島に勢力範囲を大きくひろげた。

6Cに系統異なる継体・欽明時代→7C律令国家体制の確立。

初期大和政権の特徴は、1つは、前方後円墳。3C以降巨大5Cまで。6Cはなし。方墳・円墳などと異なる大和政権独自の墳墓方式となった。大和政権に服属した豪族は、競って前方後円墳をつくった。埴輪・副葬品・ばい塚・葺ふき石がおかれた。

2つは、三角縁ぶち神獣鏡。へりが三角・神と獣の図柄・表が鏡。500枚近畿中心大和朝廷が政治的関係結ぶために配布した。三輪山周辺が初期大和政権の根拠地点であった。大神神社おおみわ=三輪山の神遺跡。櫻井市。祭祀遺跡=三輪王朝祭祀か?

こうして初期大和国家の支配層=天皇たちの墓が三輪山周辺につくられた。佐紀盾列さきたたなみ古墳群・日葉酢媛ひばすひめ陵(陵墓一部公開09。その一角)・渋谷向山古墳しぶたにむかいやま=景行陵・崇神天皇陵?(西殿塚古墳・行灯山古墳=崇神)など。古墳が存在する山の辺の道(オオヤマト古墳群?=天理市から桜井市の山麓。石上神宮いそのかみ出発点35㎞箸墓はしはか古墳。

石上いそのかみ神宮の七支刀しちしとうは、大和政権の活動を示す。金象眼。中国でなく百済で生産して倭に献上?東晋から譲られた刀を百済がつくる。倭との連合=軍事同盟意図。369年?泰始四年=468という説もあり表面・あらゆる兵たいらげる刀。裏面・百済王世子が倭王のためにつくらせた。漢字は当時の百済に伝わったばかり=漢字知らない職人・下手な象眼技術=中国より下手。王権力の象徴として活用した?=「空白の4C」の唯一の痕跡。

高句麗の広開土王こうかいどおうの碑文も大和政権の活動の痕跡。高句麗・新羅VS百済・加羅・倭の戦い。碑文=「倭辛卯年391米渡海、破百残新羅、以為臣民」=新羅・百残は高句麗の属民であり朝貢していた。倭が391年に海を渡り新羅・百残を破り臣民とした。

◆伽耶かやなどの鉄の輸入ルートをおさえた天皇家

ここで一番重要なのは、大和政権は、その存立基盤である朝鮮半島からの鉄輸入ルートを握っていたことである。大和政権は、連合政権であったが、その中枢にいたのが天皇家であった。日本は、6世紀までは、鉄の自前生産ができなかった。そのため、中国での鉄生産を独自に吸収し発展させた朝鮮半島の国々の鉄生産に依拠した。

とくに伽耶かや(=加羅から、ともいう。一番大きい国が金官伽耶国きんかんかや)の鉄生産は、日本にとって決定的な役割を果たした。日本書紀では伽耶を任那、任那日本府とよび、「植民地」扱いをしていたが、独立国であり、日本と密接な交易を行っていた。日本は、伽耶から鉄の原材料、鉄へいを輸入し、これを加工して鎧よろい、兜かぶと、鏃やじりなどの武器を生産したり、米など農業生産に欠かせない農耕具を生産していたのである。天皇一族は、武力闘争と生産力にともに欠かせない鉄の原材料の輸入ルートを握っていたのである。天皇一族は、連合政権を構成する豪族たちにも一部を分配して権威を高めていたと考えられる。自らの政権基盤が連合政権という脆弱性をもっていたにもかかわらず、早くから朝鮮半島に出兵したり、さまざまな形で関わっているのは、この鉄生産がまさに政権の存立基盤となっていたからである。したがって製鉄王国=伽耶との友好関係を維持し、伽耶諸国が周辺国から脅かされる事態となれば、必ず出兵など関わってきた状態が3世紀から6世紀まで、300年間も続いていたのである。5世紀には、出雲、丹後、吉備などで鉄生産が始まり、それら各地を大和政権が制圧し、やがて近畿一円に鉄生産が広がり、自前の鉄生産が可能となった。

(リンク集の伽耶諸国や「日本と朝鮮半島2000年」を参照のこと)

【以下は別冊宝島・ヤマト王権から】

大和政権の全国制覇=崇神天皇と神話ヤマトタケル

日本書紀による初期天皇の一覧は以下の通り。1神武天皇(実在なし。神武東征物・橿原神宮祀る)2すいぜい天皇・3安寧天皇・4い徳天皇・5孝昭天皇・6孝安天皇・7孝霊天皇・8孝元天皇・9開化天皇(崇神の父)。

◆大和政権=三輪王朝創始者の崇神天皇

そして10代目に崇神天皇すじん天皇が登場する。『古事記』『日本書紀』がともに「ハツクニシラススメラミコト」(神武天皇も同じ名称)=「最初に統治した天皇」とあるように、4Cに実在した天皇で三輪王朝の創始者。大和政権の確立にあたって画期的な役割を果たしたと推定される。御間城入彦みまきいりひこという名前も。記紀の所伝では三輪山(みわやま)の神を祭祀(さいし)し、また四道(記は三道)将軍を派遣したこと、あるいは武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱を鎮定したり、男女の調(みつぎ)(貢物)を定めたりしたことなどが記されている。この天皇の代を確実な大王家の初めとする説や、あるいは、崇神天皇に始まる三輪山を中心にした政治勢力を三輪王朝とよんで、河内(かわち)を基盤にした応神(おうじん)天皇に始まる王朝(河内王朝)と区別する説も強い。崇神天皇の代は、三輪山を中心とする政治勢力が、初期大和政権の注目すべき画期をつくったことは間違いない。神武天皇神話の一部は、実在した崇神天皇陵の統治を神話化した側面がある。崇神天皇の墓は山辺の道(やまのべのみち)の上にあると伝え、奈良県天理市アンドの巨大な前方後円墳(行燈山古墳あんどんやま)だといわれている。

そして11垂仁天皇すいにん(崇神3子。まき向)・12景行天皇けいこう(垂仁3子。熊襲と蝦夷征伐。各地征服。日本武尊の父。まき向。山辺道に葬)と続く。日本武尊(ヤマトタケルノミコト。景行の子。東西の征服物語。実在不明雄略天皇に似せてつくられたか?「大和は、国のまほろば、たたなづく、青垣、山ごもれる、大和しうるはし」死去のときの歌)・13成務天皇せいむ(実在不明)・14仲哀天皇ちゅうあい(4C日本武尊の2子。実在不明)・神功皇后じんぐう(仲哀4Cの妻・応神5Cの母=時代合わない。熊襲征伐?新羅征伐?実在不明)・武内宿禰たけしうちのすくね(新羅征伐?5C実在不明)。

津田左右吉そうきちは、「古事記」や「日本書紀」などの文献から日本神話を研究し、実在との対比を行った。大和政権の神々は、高天原系神話たかまがはらである。天孫降臨てんそんこうりん・高千穂・さるたひこのみこと・いざなぎいざなみのみこと・黄泉よみの国・天照大神あまてらすおおみかみ・あめのうずめのみこと・すさのをのみこと・木花開耶姫このはなさくや姫・八また大蛇やまたのおろち・日本武尊やまとたけるのみことなどが登場する。熱田神宮(日本武尊)・伊勢神宮(崇神天皇建設)も登場する。天皇家は、神話的世界と結合して、三種の神器じんぎ・天あめのむらくもの剣・やたのかがみ・やさかにのまがたまを天皇家のアイデンティティと位置づけた。

大和政権による出雲の征服=「出雲の国譲り」

出雲国の興亡と結びつけて出雲系神話がつくられた。出雲国造いずものくにのみやっこが統治していた出雲国いずものくには、大和政権以外では強大な国家であった。丹後・鳥取・島根地方を勢力範囲とした。荒神谷遺跡=鉄剣や加茂岩倉遺跡=銅たく一カ所に最大、などが存在する。北九州と近畿とも異なる独自の国を形成していたが、5-6C頃大和政権へ従属した。出雲平野は豊かな稲生産。収穫祝う酒づくり古くから。たたら製鉄という独自の鉄生産技術をもっていた(6C前半大和政権のもとで初めて鉄を自前で生産できるようになった=出雲・丹後など。それまでは朝鮮半島から輸入した鉄ペいを加工していた)。また大和政権の前方後円墳と異なる四隅古墳。古事記のすさのおのみことのやまたのおろち退治=斐伊川=暴れ川洪水多くやまたのおろち伝説もそこから。また上流では最近まで砂鉄とれた。大和政権への従属過程で、日本書紀の「国譲り神話」(あまてらすへの大国主命の国譲り・子供は反乱)が生まれた。国譲りの代わりに大きな出雲大社の本殿やしろが大和政権の許可を得て建設された。建設当時は45mの高さをもっていた。他にも大国主命讃える斐川神社=相撲で出雲と近畿の対決いまだにつづくなど神社多数。出雲大社から天皇家にめのうからつくる勾玉まがたまを贈呈する慣習いまだにつづく。

1474日納采の儀を行われた高円宮家典子さんと出雲大社宮司千家国麿さん。5C以来続いている皇室と出雲大社の関係が典子さんと千家国麿さんの結婚までつながっていることにはいささか驚かされた。しかも会見での千家さんの従属ぶりにも驚かされた。

千家家は出雲大社の祭祀を受け継ぐ「出雲国造(こくそう)」を代々務める。古事記や日本書紀にある「国譲り」の神話は、皇室の始祖である天照大神(あまてらすおおみかみ)の子が出雲大社に奉られる大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)から出雲の国を譲り受ける物語。国を譲る代わりに建造されたのが出雲大社で、大国主大神に仕えた天照大神の次男、天穂日命(あめのほひのかみ)が千家家が務める出雲国造の祖神とされる。歳月が流れ、天皇は125代、出雲国造は国麿さんの父、尊祐(たかまさ)さん(71)で84代を数える。

天皇、皇后両陛下は平成15年10月、出雲大社を参拝。皇后は「国譲り祀(まつ)られましし大神の 奇(く)しき御業(みわざ)を偲(しの)びて止まず」との歌を詠み、皇室と出雲大社との縁に思いをよせた。60年ぶりの大遷宮が行われている出雲大社。神体の大国主大神が本殿に戻された翌日の昨年5月11日、天皇が送った幣物(へいもつ)を本殿に奉納する「本殿遷座奉幣祭(ほんでんせんざほうべいさい)」が営まれ、三笠宮家の彬子さんとともに、典子さんも参列された。こうした経過から婚姻にまでつながった。

やまたのおろち=すさのをのみこと征伐も出雲神話を高天原系神話が吸収したもの。この出雲の国譲り神話は、その後もひろく民衆のなかに広がる=出雲信仰。出雲風土記(自然と民の状況描く)や出雲大社(八百万やおよろずの神々の会合=神無月かんなづきと神在月かみありづきで縁結び)も親しまれた

吉備国、九州諸国、東海・北陸・関東諸国の大和政権への服属

吉備氏うじが支配していた吉備国は、特殊器台もつ文化。岡山と広島東部。2c中頃吉備豪族=楯築たてつき古墳=吉備歴文会の動画解説(松木参照のこと)。初期大和政権豪族、出雲豪族などと並ぶ。雄略天皇時代5C末頃に大和政権に従属した。出雲豪族も同じ頃大和政権に従属。「桃太郎伝説(鬼は吉備氏)」や「出雲国譲り伝説」などが残る。月の輪古墳(5C。近藤義郎と和島誠一発掘調査)。なによりも強大な造山古墳つくりやま。島根・岡山=350mの前方後円墳。5Cはじめの吉備の王の墓=近畿と規模同じ。近畿の大王と形技術同じ。近畿と対等的友好関係にあったと考えられる。近畿のように濠があったかどうか現在不明。大和朝廷支配以前4番目に大きい。周濠発見それを入れると規模400m。大和の大王に匹敵する政治権力の存在裏付け。①仁徳陵=堺・486m、②応神陵=羽曳野・425m、③履中陵=堺・360mいずれも周濠備える。これらに並ぶ。作山古墳つくりやまも大きい=5C半ば。5C末以降大古墳なし=大和政権に完全に服属したから。日本書紀に吉備の反乱記事が掲載されている。吉備氏うじの反乱=

雄略天皇時の吉備氏の反乱の制圧を示す3事件。吉備真備まきびは服属後の官僚。

【造山古墳】

熊襲はクナ国か。熊本球摩郡・宮崎・鹿児島など南九州の未服属集団。神話では、ヤマトタケルか討伐した。

宮崎県には、西都春さいとばる(原)古墳群をもつ強大な豪族が存在していた。服属後は隼人はやとと呼ばれた。彼らは日向系神話(山幸彦による海幸彦の従属)をもつ。これは隼人の大和への服属を示すもの。西都春(原)古墳群さいとばるは、4C-6C329基のうち前方後円墳は32=大和政権に服属したなかでつくられた。西都市さいの西都原81号墳=まきむく型古墳3C前後につくられた古いもの。「南九州が近畿に進出して大和政権をつくった」という江上波夫の騎馬民族論、その変型の森浩一の九州進出論をどう考えたらよいか。高天ヶ原神話は宮崎生まれだし、根拠がないわけではないが、やはりヤマトタケルの九州制圧神話、そして西都春(原)古墳群の32基の前方後円墳が大和政権の南九州制圧直後につくられた点を重視すべきであろう。

大和政権の全国支配を確固とした河内王朝=「倭の五王」とくに雄略天皇の時代

4Cは「空白の4C」といわれるように、中国の文献に日本が出てこない。わずかに好太王碑文や百済からの七支刀など、朝鮮半島情勢と考古学から推測するしかない。この「空白の4C」と5Cに大和政権は、まさに全国制覇を成し遂げた。

倭の五王とは、5世紀、奈良ではなく河内地域で政権をつくった讃・珍・斉・興・武の時代。15応神天皇(筑紫生まれ。讃であろう。河内王朝スタート。おくりな・説話が応神前後異なる。直木説=仲哀天皇と応神天皇の間に断絶がある。3C-4Cアマテラス→4C-5Cタカムスビ=河内政権が成立した。7C-8C再び大和へ移転した)。誉田山古墳こんだやま(羽曳野)は、応神陵?143立法m容量日本一)。古市古墳群ふるいち(羽曳野・藤井寺市。90古墳がある)16仁徳天皇は、讃??応神の子であり、大山古墳だいせん(=大仙古墳。堺。仁徳陵?1000人が15年かかる最大古墳)をつくった。百舌鳥もず古墳群(堺。92古墳。古市古墳群と東西でつながる。海側)。17履中天皇りちゅう(讃?)。18反正天皇はんぜい(斉。仁徳の子。在位5年)。19允恭天皇いんぎょう(珍。仁徳の子。在位42年)。20安康天皇(興。允恭の子)。

【河内王朝(=応神天皇最初)とそれまでの大和中心の三輪王朝と間の違いについて「継続」説と「新王朝」説と意見が分かれている。以下15.02.08赤旗】

【雄略天皇は、武王上表文、稲荷山、江田船山の鉄剣に名を残す。また雄略式鎧ともいうべき鎧を全国各地に残している】

21代天皇は、五王の最後の雄略天皇。この時代に大和政権は強大な権力をもち、全国制覇を成し遂げた画期的な時代であった。456-479在位23年長い。允恭の子。武。わかたけるのみこと呼ばれた。兄たちを殺して大王となった。471稲荷山・江田船山古墳出土太刀銘に雄略天皇の名前がでてくる。また「武王の頃、478宋に上表文をおくった。「昔祖でいより、みずから甲ちゅうをつらぬき、山川をばっ渉して、寧処ねいしょにいとまあらず。東毛人五十五国を征し、西衆夷六十六国を服し、海北九十五国を渡り平ぐ」。就任直後に葛城氏滅ぼす。東は埼玉あたりにも進出。吉備・出雲制圧。九州も制圧。高句麗・新羅と対決した。江田船山古墳出土太刀銘には、「ムリテが典曹人=文章作成人としてワカタケル大王おおぎみに仕える」とある。稲荷山古墳出土鉄剣(辛亥471築造)には、「杖刀人首=オワケが中央に出てワカタケル大王に仕えた記念」と銘記されている。

雄略天皇時代、大和政権は、全国に支配圏広げた。しかし地方豪族の協力を得ながら。地方豪族は、一定の「自由」はあった。これらをさして石母田正は、ギリシャのホメロスが描いた時代=「英雄時代」とのべた。確かに古事記の神話の世界で描かれた「スサノオノミコト」や「日本武尊」は、雄略天皇の「英雄」としての活躍ぶりをなぞったものと想定される。大和政権にとって、それほど画期的な時代であった。真偽のほどは分からないが以下の万葉集にも雄略天皇が歌を詠んでいる。娘たちに声をかけている何気無い歌のように見えるが、統治を大きくひろげ自信に満ちた武王の上表文とうり二つではないか。

籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児

家告らせ 名告らさね そらみつ 

大和の国は 押しなべて 

我こそ居れ しきなべて 我こそ居れ 我こそば 告らめ 家をも名をも

雄略天皇 (巻11

籠もよい籠を持ち 土を掘るヘラもよいヘラを持って この私の丘で若菜を

摘んでいらっしゃる娘さん あなたの家をおっしゃい 名を名乗ってくださいな

大和の国は 押しなびかすように すっかり私が治めている 

敷きなびかすように 隅々まで私が支配している 私こそは名乗ろう 

家をも名をも

なお稲荷台1号古墳(=市原出土。5C半ば)には「王賜」銘文あり。倭の五王の誰か。埼玉古墳群さきたま(5C後半-7C。武蔵国造一族。行田の9つの古墳)の豪族たちさえ大和政権に服属した。もっとも6Cには、武蔵国造の反乱(534国造地位めぐる乱。毛野国豪族と大和政権)が起きているが。当時の大和政権の支配は蝦夷えぞ(古代えみし・えびす=アイヌではない。平安以降はアイヌ=沖縄と同じく縄文人系統?まではのびていない。東国とうごく(あずまのくに)、毛野国けぬのくに(当時の東国の一つ。豪族毛野氏支配。群馬・栃木。上野国こうづけ・下野国しもつけ。群馬の古墳は千葉に次いで多い。高崎の観音山古墳かんのんやま。太田市の天神山古墳てんじんやま=東日本最大の前方後円墳・全長210m。馬具類多いこと特徴。大和政権の馬の産地?東国のどこまで支配が及んでいたか不明。

【稲荷山古墳の太刀(上)と江田船山古墳の太刀(下)】

大和政権=連合国家の支配のしくみ

大和政権は、もっとも経済力、軍事力をもっていた天皇一族が主導権をもちながら、服属した豪族との連合国家であった。天皇一族と豪族との間には、たえず矛盾、抗争が生まれていた。雄略時代は、天皇一族の権力への集中が強かった時代である。

葛城かつらぎ氏(初期豪族)は雄略即位後滅亡させられた。葛城のそつひこ(実在大和の将軍。4C末朝鮮出兵。好太王碑?)・葛城円のつぶら(雄略に没)。その他大和政権主導の連合国家に入った豪族は、紀氏きうじ・大伴氏うじ(連。5C-軍事・室屋金村)・平群氏へぐり(臣。葛城没落後5C雄略期。大伴氏により没落)・息長氏おきなが(近江)・物部氏(連。軍事6Cあらかいおこし守屋)・石上氏いそのかみ(物部系統)・巨勢氏こせ(6C朝鮮詳しく軍事豪族)・蘇我氏うじ(6C稲目→7C馬子蝦夷入鹿)などがいた。中臣氏なかとみ(祭祀)・佐伯氏さえき(宮廷警護)・土師氏はじ(墓の伴造)などの小豪族もいた。藤原氏うじ(中臣氏系統)・斎部氏いんべ(祭祀。阿波・讃岐・筑紫。中臣氏により没落)・ト部氏うらべうじ(祭祀)・阿部氏あべうじ(北陸・東国)・阿曇氏あずみうじ(奴国・志賀がルーツなどはのちの豪族たち。(豪族の各氏うじの歴史などは、コトババンクの小学館百科全書から検索のこと=詳しい)

【以下2画像は別冊宝島・ヤマト王権から】

 大和政権は、天皇一族の支配、中央集権を強化するために、氏うじや姓かばねをつくり氏姓制度しせいが施行された。そして政権を支える「官僚」としての、大臣おおおみ・連むらじ・大連おおむらじ・造みやっこ・首おびと・臣おみ・公きみ・伴とも(伴造とものみやっこ6C)などを置いた。さらに品部雑戸しなべざっこ・民部かきべ・部曲かきべ(豪族下)・雑色ぞうしきなど身分的なものも置いた。地方官僚としては、国造くにのみやっこ(6C地方官・地方豪族)・県あがた・県主あがたぬしを大和六県に置いた。

重要なものとしては、屯倉みやけ(6C大王所有)や田荘たどころ(豪族所有)を置き、民衆から税を徴収した。そのなかで、部べ=部民(6C)・名代なしろ・子代こしろ(大王下)・うね女め・玉造部たまつくりべ・蔵人所くろうどどころなどの経済活動を支える人々をつくった。

大和政権を担ったのは、こうした人々であり、民衆は、呻吟していたのである。

6世紀の継体天皇、欽明天皇時代を経て律令時代へ

継体天皇は、6世紀初頭に越前(福井県)あるいは近江(おうみ)国(滋賀県)から大和(奈良県)の磐余宮(いわれのみや)に入って新しい王統(王朝)を築いた天皇。『日本書紀』によれば、武烈(ぶれつ)(小泊瀬(おはつせ))天皇に継嗣(あとつぎ)がなかったので、大伴金村大連(おおとものかなむらのおおむらじ)が中心となって越前の三国(みくに)(福井県坂井(さかい)市。『古事記』では近淡海国(ちかつおうみのくに))から迎え入れたとある。この天皇の出自については、遠く越前から入ってきたこと、大和に入るまで20年を経ていること、応神5世孫とされているがその間の系譜が明示されていないことから、地方の一豪族で、武烈亡きあとの大和王権の混乱に乗じて皇位を簒奪(さんだつ)した新王朝の始祖とする見解もあるが、継体を受け入れた大和王権自体はなんら機構的にも政策的にも質的転換をみせていないことから、継体を大和王権内部に位置した王族と考える見解も強い。

🔵英雄たちの選択・継体天皇=地方からスカウト・鉄生産・国際的視野58m

【以下2画像は別冊宝島・ヤマト王権から】

継体天皇は、大和政権と密接な関係にあったかや国が新羅の圧迫を受けて最終的に新羅に吸収されたが、百済との連携、かや救済のために6万も出兵し朝鮮半島に積極的に介入した。新羅と連携していた筑紫の大豪族(国造)=磐井(岩井)氏と戦争状態となり、1年半かけて抑圧した。相対的に自立性をもった筑紫勢力(北部九州勢力)との朝鮮半島との外交権掌握をめぐる対立であり、筑紫勢力は大和政権を離れて独自の「政権」形成への道を模索していた。磐井の乱後、初めて九州に大和王権の直接支配としての性格をもつ屯倉が設定され、筑紫勢力は、中央王権の一地方(国造)として秩序づけられることになる。

【継体天皇は岩井平定728後屯倉の直轄支配を通じて地方豪族を統制支配、また百済と連携して新羅と対決伽耶からの鉄ルート確保】

継体天皇のあと継承したのは、欽明天皇。朝鮮半島情勢がますます緊迫化する。新羅に脅威を感じた日本と百済とは同盟を強化、百済の聖明(せいめい)王からの「仏教公伝」、五経博士の来朝などは、こうした同盟関係を背景としている。一方、国内的には、蘇我(そが)氏が台頭してくる時期で、蘇我稲目(いなめ)は大臣(おおおみ)として国政に参加、女(むすめ)の堅塩媛(きたしひめ)、小姉君(おあねぎみ)を欽明天皇の妃として納(い)れ、外戚(がいせき)の地位を築き、開明的な政策を推進した。

欽明天皇の皇女、推古天皇は、厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)を摂政(せっしょう)として、治政は36年間に及んだ。しかし大臣は蘇我馬子、その死後は蘇我毛人(えみし)(蝦夷)が牛耳った。蘇我一族は、天皇統治に介入したが、国内政策や朝鮮半島との外交政策では、開明的な側面をもっていた。大化改新後、大和政権が中央集権を強める律令時代に入っていく。

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🔵魏志倭人伝(口語訳) 

安本美典「最新邪馬台国への道」より

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「魏志倭人伝」の原文は、句読点もなく、章や節などもわけられていない。 

つぎにかかげる現代語訳では、全体の構文つかみやすくするため、三章五十節にわけ、見だしもつけた。 このように章や節にわけてみると「魏志倭人伝」はつぎの三つの章にわけられるような、かなり整然とした構成をしていることがわかる。 

第一章 倭の国々 

第二章 倭の風俗 

第三章 政治と外交 

「三国志」の編集の陳寿は、諸種の資料を、そのまま書きうつしたのではなく、一度整理したうえで記したしたとみられる。

🔴第一章 倭の国々

1.倭人について 

倭人は、(朝鮮の)帯方()(魏の朝鮮支配の拠点、黄海北道沙里院付近か、京城付近)の東南の大海のなかにある。山(の多い)島によって国邑(国や村)をなしている。もとは百余国であった。漢のとき(中国に)朝見するものがあった。いま、使者と通訳の通うところは、三十か国である。

2.狗邪韓国 

(帯方)郡から倭にいたるには、海岸にしたがって水行し、韓国(南鮮の三韓)をへて、あるときは南()し、あるときは東()し、倭からみて北岸の狗邪韓国(弁韓・辰韓など十二か国の一つで、加羅すなわち金海付近)にいたる。

3.対馬国 

(帯方郡から)七千余里にして、はじめて一海をわたり、千余里で対馬国にいたる。その大官を卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。いるところは絶島(離れ鳥)で、方(域)は、四百余里ばかりである。土地は、山けわしく、深林多く、道路は、禽と鹿のこみちのようである。千余戸がある。良田がない。海(産)物をたべて自活している。船にのり、南北に(出て)市糴(米をかうこと)をしている。

4.一支国 

また南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(大海、対馬海峡)という。一大国(一支国の誤り。壱岐国)にいたる。官(吏)をまた卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。方(域)は、三百里ばかりである。竹木の叢林が多い。三千(戸)ばかりの家があ る。やや田地がある。田をたがやしても、なお食に不足である。(この国も)又南北に(出て)市糴している。 

5.末盧国 

また、一海をわたる。千余里で、末盧国(肥前の国、松浦郷)にいたる。四千余戸がある。山が海にせまり、沿岸にそって居()している。草木が茂りさかえ、行くに前の人をみない(前の人がみえないほどである)(住民は)よく魚や鰒(あわび)を捕える。水の深浅をとわず、みな沈没してこれをとる。

6.伊都国 

東南に陸行すること五百里で、伊都国(筑前の国怡土郡)にいたる。 官を爾支(にき)といい、副()を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)という。千余戸がある。 世々王がある。みな女王国に属している。(そこは帯方)郡使が往来す るときつねにとどまるところである。

7.奴国 

東南()して、奴国(筑前の国、那の津、博多付近)にいたる。 百里である。官を兇馬觚(しまこ)という。副()を卑奴母離(夷守)という。 二万余戸がある。

8.不弥国 

東行して不弥国(筑前の国、糟屋郡の宇瀰、いまの宇美町付近) にいたる。百里である。官を多模(玉または魂)といい、副官を卑奴母離(夷守)という。千余戸がある。

9.投馬国 

()して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。官を弥弥()という。副()を弥弥那利(耳成・耳垂か)という。五万余戸ばかりである。

10.邪馬台国 

()して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。官に伊支馬(いきま)がある。次()を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。七万戸ばかりである。 

11.女王国より以北 

女三(王の誤り)国より以北は、その戸数・道里は略載するを得べきも、その余の旁(わきの国々)は、遠絶していて、つまびらかにしようとしてもできないことである。

12.女王国の境界 戻る

つぎに斯馬国(しまこく)がある。 

つぎに已百支国(いわきこく)がある。

つぎに伊邪国(いやこく)がある。

つぎに都支国(ときこく)がある。

つぎに弥奴国(みなこく)がある。

つぎに好古都国(をかだこく)がある。

つぎに不呼国(ふここく)がある。

つぎに姐奴国(さなこく)がある。

つぎに対蘇国(とすこく)がある。

つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。

つぎに呼邑国(おぎこく)がある。

つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。

つぎに鬼国(きこく)がある。

つぎに為吾国(いごこく)がある。

つぎに鬼奴国(きなこく)がある。

つぎに邪馬国(やまこく)がある。

つぎに躬臣国(くじこく)がある。

つぎに巴利国(はりこく)がある。

つぎに支惟国(きくこく)がある。

つぎに烏奴国(あなこく)がある。

つぎに奴国(なこく)がある。

これは、女王の境界のつきるところである。

(国名の読みの根拠につい ては、安本美典著『卑弥呼は日本語を話したか』[PHP研究所刊]参照) 

13.狗奴国 

その南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。 その官に狗古智卑狗(菊池彦か)がある。女王に属していない。 

14.一万二干余里の道程 

(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。

🔴第二章 倭の風俗

15.黥(いれずみ) 

男子は、大(人も、身分の高い人も、またはおとなも)(人も、身分の低い人も、またはこどもも)なく、みな面に黥をし、身に文をして(からだの表面に絵もようを描いて)いる。 

古よりこのかた、その使は中国にいたると、みな大夫(一般に大臣)と自称している。

(中国古代の王朝)の后()少康(夏六代の王)の子は、会稽(いまの浙江省から江蘇省にかけて会稽郡があった)(の地)に封ぜられたとき、(人々は)髪をきり身に文をし、もって蚊竜の害を避けた。

いま、倭の水人(海人)は、沈没をよくして魚や蛤をとらえ、身に文をして、また大魚・水禽をふせぐまじないにしている。のちには、(いれずみを)やや飾りとしている。

諸国の(者の)身を文にする(仕方)は、あるいは左にし、あるいは右にし、あるいは大きく、あるいは小さく、尊卑(の階級によって)差がある。

16.会稽東冶の東 

その(倭国との)道里を計(ってみ)ると、まさに会稽()の東冶(県、福建省福州付近)の東にあたる。 

17.風俗・髪形・衣服 

その風俗は、淫(みだら)でない。

男子は、みなみずら(の髪)(冠もなく)()している。木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)をもって頭にかけ(はちまきをし)、その衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがない。

婦人は、髪をたらしたり、まげてたばねたりしている。作った衣は、単被(ひとえ)のようである。その中央をうがち(まん中に穴をあけて)頭を つらぬいてこれを衣る(いわゆる貫頭衣) 

18.栽培植物と繊維 

禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から 繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸 をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。

19.存在しない動物 

その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)が(すま)ない。

20.兵器 

兵(器)には、矛・楯・木弓をもちいる。木弓は下がみじかく、上が長くなっている。竹の箭は、あるいは、鉄の鏃、あるいは骨の鏃(のもの)である。

21.耳・朱崖との類似 

(産物や風俗の)有無するところ、(の状況)は、耳(たんじ:郡の名。いまの広東省県の西北)・朱崖(しゅがい:郡の名。いまの広東省瓊山県の東南。 この二つの郡は、ともにいまの海南島にある)とおなじである。

22.居所・飲食・化粧 

倭の地は温暖で、冬も夏も・生(野)菜を食する。みな徒跣(はだし)である。 屋室があり、父母兄弟で、寝所を別にしている。

朱丹(赤い顔料)をその身体にぬることは、(ちょうど)中国(人)が粉(おしろい)を用いるがごとくである。

飲食には、竹や木製のたかつきをもちい、手でたべる。

23.葬儀 

その(地の)()には、棺があって槨(そとばこ)がない。土を封(も)って冢(つか)をつくる。死ぬと、まず喪(なきがら)を停めること十余日、(その)当時は、肉をたべない。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒につく。すでに葬れば、家をあげて(家じゅう)水中にいたり、澡浴(みそぎ)をする。それは(中国における)練沐(ねりぎぬをきての水ごり)のようにする。

24.持衰 

渡海して中国にゆききするときには、つねに一人(の人に)は、頭()を梳(くしけず)らず、しらみを(とり)去らず、衣服は垢(あか)によごれ(たままにし)、肉をたべず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにさせる。

これを名づけて持衰(衰は、粗末な喪服)としている。 もし旅がうまく行けば、人々は生口(どれい)・財物を与え、もし(途中で)疾病があり、暴害(暴風雨などによる被害)にあえば、すなわち持衰を殺そうとする。その持衰が謹しまなかったからだというのである。

25.鉱産物 

(倭国は)真珠・青玉を()出する。 その山には、丹(あかつち)がある。 

26.植物 

その木には、

(おそらくは、たぶのき)

・杼(こなら、または、とち)

・豫樟(くすのき)(ぼけ、あるいは、くさぼけ)

・櫪(くぬぎ)

・投(東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りと し、「杉」とする。苅住昇氏は、「かや」とする。あるいは「松」の誤 りか)

・橿(かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする)

・烏号(やまぐわ。苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする)

・楓香(かえで)

がある。

その竹には、

・篠(しの。めだけ、ささの類)

・やだけ

・桃支(がずらだけ。苅住昇氏は、「しゅろか」とする)

がある。

・薑(しょうが)

・橘(たちばな。または、こみかん)

・椒(さんしょ )

・みょうが

があるが、賞味することをしらない。

27.存在する動物 

猴(おおざる)・黒雉(きじ)がいる。

28.ト占 

その()俗に、挙事行来(事を行ない、行き来すること、することはなんでもあまさずすべて)云為(ものを言うこと・行うこと)するところがあれば、すなわち骨をやいてトする。そして吉凶をうらなう。まずトうところを告げる。

そのうらないのとき方は(中国の)令亀の法(亀甲に、よいうらないの結果をだすよう命令したうえで行なう亀トの方法)のごとくである。熱のために生ずるさけめをみて()兆をうらなうのである。

29.会同・坐起 

その会同(集会)・坐起(立ち居ふるまい)には、父子や男女による()別がない。

人の性()は、酒をたしなむ。(この下に、斐松之の注が記されている。すなわち、「『魏略』にいう。その俗は、正歳四時を知らない。ただ春耕秋収を記して年紀としているだけである。」)

大人の敬をするところ(敬意の表し方)をみると、ただ手をうって(拍手をして)跪拝(ひざまずいて礼拝すること)にあてる。

30.寿命 

その(地の)(たち)は寿考(考は老)で、あるいは百年、あるいは八・九十年ぐらいである。 

31.婚姻形態

その(地の)()俗、国の大人はみな四・五婦、下戸(庶民)もあるいは二三(人の)(をもつの)である。婦人は、淫でない。妬忌(やきもち)もしない。 

32.犯罪と法 

盗窃(ぬすみ)せず、諍訟(うったえごと)はすくない。その法を犯すや、軽いものはその妻子を没し(て奴碑とし)、重いものはその門戸(家、家柄)を滅ぼし、親族に(まで罪を)およぼす。

33.尊卑の別 

尊卑には、おのおの差序(等級)がある。それぞれ上の人に臣服するにたる(臣服するに十分な上下関係の秩序がある)

34.租税と市 

租賦(租税とかみつぎもの)をおさめる。(それらをおさめるための)邸閣(倉庫)がある。国々に市がある(中華書局版『三国志』の句点にしたがえば、「邸閣の国があり、国に市がある」となる)(たがいの)有無を交易し、大倭(身分の高い倭人)にこれを監()させる。 

35.一大率 

女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。

(一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている。国中において、(その権勢は、中国の)刺史(郡国の政績、状況を報告する官吏。州の長官をさすばあいもある)のごとき(もの)である。

()王の使が京都(魏の都、洛陽)・帯方郡・諸韓国におもむき帰還したとき、(帯方)郡の使が倭国に(いたり)およんだときは、みな津(船つき場)に臨んで 伝送の文書とくだされ物とを照合点検し、女王(のもと)にいたらせるときに、差錯(不足やくいちがい)がないようにする。

36.下戸と大人 

下戸が、大人(身分の高い人)と道路にあい逢えば、逡巡(ためら)いながら ()に入る。辞をつたえ、ことを説くには、あるいは蹲(うずくま)りあるい は跪(ひざまず)き、両手は地に拠せる(平伏する)。これを(大人に対しての) 恭敬(うやまう態度)となしている。うけこたえの声には、「噫(おお)」とい う。(それは中国の)然諾(よし。同意、賛成の意)のごときものにく らべられる。

🔴第三章 政治と外交

37.女王卑弥呼 倭国大乱 

その国は、もとまた男子をもって王としていた。7~80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。すなわち、ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼(女王:ひめみこの音を写したとみられる)という。

鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。

男弟があって、佐(たす)けて国を治めている。(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。婢千人をもって、自()にはべらしている。ただ男子がひとりあって、(卑弥呼に)飲食を給し、辞をつたえ、居拠に出入りしている。

宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け、つねに人がいて、兵()をもち、守衛している。

38.女王国東方の国 

女王国の東()に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭 種である。

39.侏儒国 

また侏儒(こびと)の国が、その南に()在する。人の長は三・四 尺。女王()を去ること四千余里である。

40.裸国・黒歯国

また、裸国(はだかの人の国)・黒歯国(お歯黒の人の国)があり、 またその東南に在る。船行一年でいたることが可()であろう。

41.周旋五干余里

倭の地()を参問する(人々に問い合わせてみる)に、海中洲島 のうえに絶在している。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋するこ (めぐりまわれば)五千余里ばかりである。

42.景初二()年の朝献

景初(魏の明帝の年号)2年(238年であるが、じっさいは景初 3年、239年の誤りとみられる。『日本書紀』が引用している『魏志』 および『梁書』『翰苑』は3年とする)6月、倭の女王は、大夫の 難升米(なしめ)等をつかわした。

(帯方)郡にいたり、(中国の)天子(のとこ )にいたって朝献することをもとめた。太守(ここでは帯方郡の長 )の劉夏は、役人をつかわし、送って、京都(洛陽)にいたらしめ た。

43.魏の皇帝の詔書 

その年の十二月、詔書して、倭の女王に報えていう。 「親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼に制詔(みことのり)する。帯方()の太守劉夏は、使をつかわし、汝の大夫難升米(なしめ)・次使都市牛利(としごり)をおくり、汝が献ずるところ の男生口(どれい)四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて到らしめた。 

汝の在るところははるかに遠くても、すなわち、使をつかわして貢献した。これは汝の忠孝である。我れははなはだ汝を哀れむ(いつくしむ)。いま、汝を親魏倭王となし、金印紫綬(むらさきのくみひも)を仮(あず)ける。装封して(袋に入れて封印して)帯方太守に付して仮授させる。汝、それ種人(種族の人々)を綏憮(なつけること)し、つとめて(天子に)孝順をなせ。 

汝の来使難升米・(都市)牛利は、遠きを渉り、道路(たびじ)(おいて)勤労(よくつとめること)した。いま、難升米をもって、率善中郎将(宮城護衛の武官の長)となし、牛利を率善校尉(軍事や皇帝の護衛をつかさどる官)となす。銀印青綬(あおいくみひも)を仮け、(魏の天子が)引見し、労賜し(ねんごろにいたわり、記念品をたまわり)、還らせる。 

いま、絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹・絳地の粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張・絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹・紺青(紺青色の織物)五十匹でもって、汝が献ずるところの貢直(みつぎものの値)に答える。また、とくに汝に紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物)三匹・細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物)五張・白絹(もようのない白い絹織物)五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)おのおの五十斤をたまう。みな装封して難升米・牛利に付()(ことづけ)してある。 

還りいたったならば、録受し(目録にあわせながら受けとり)ことごとく(それを)汝の国中の人にしめし、(わが)国家が、汝をあわれんでいるのを知らせるべきである。 ゆえに、(われは)鄭重に好い物をたまわる(与える)のである。」

44.正始元年の郡使来倭

正始(魏の斉王芳の年号)元年(240)(帯方郡の)太守の弓遵は、建中校尉(武官の名称)の梯儁(ていしゅん)などをつかわし、詔書・印綬を奉じて、倭国にいたらしめた。倭王に拝仮(王に任じ、金印をあずける)し、あわせて詔をもたらして、金・帛(しろぎぬ)・錦・(毛織物)・刀・鏡・采物(色どりの美しいもの)をたまわった。倭王は、使によって上表し、詔恩に答え謝した。

45.正始四年の上献

その四年(正始四、243)、倭王は、また使の大夫の伊声耆(いしぎ)・掖邪狗(ややこ)など八人をつかわし、生口・倭錦・絳青(こうせいけん:あかとあおのまじった絹織物)・緜衣(綿いれ)・帛布(しろぎぬ)・丹・木(もくふ:ゆづか、弓柄で、弓の中央の手にとるところ)・短弓と矢を上献した。掖邪狗などは、壱く(いっせいに)、率善中郎将の印授を拝した(ちょうだいした)

46.正始六年難升米に黄憧 

その六年(正始六、245)、詔して倭の難升米に黄幢(黄色いはた。 高官の象徴)をたまわり、(帯方)郡に付して(ことづけして)仮授せしめた。

47.卑弥呼と卑弥弓呼との不和 

その八年(正始八、247)(帯方郡の)太守王(おうき)が、(魏国の) ()に到着した(そして、以下のことを報告した)

倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(男王の音を、誤り写したか)とは、まえまえから不和であった。

()では、載斯(さし)・烏越(あお)などを(帯方)郡にいたり、たがいに攻撃する状()を説明した。

(郡は)塞の曹掾史(国境守備の属官)の張政らをつかわした。(以前からのいきさつに)よって、(使者たちは)詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、(また)(召集の文書、めしぶみ、転じて諭告する文書、ふれぶみ)をつくって、(攻めあうことのないよう)告諭した。

48.卑弥呼の死 

卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。径(さしわたし)は百余歩・徇葬者(じゅんそう)の奴婢は百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。

49.女王、壱() 

(倭人たちは)また卑弥呼の宗女(一族の娘、世つぎの娘)の壱与(台与。『梁書』『北史』には、台与[臺與]とある)なるもの、年十三をたてて王とした。国中はついに定まった。()政らは、檄をもって壱与を告諭した。

50.壱()与の朝献 戻る

壱与(台与)、倭の大夫の率善中郎将掖邪狗(ややこ)ら二十人をつかわし、()政らの()還をおくらせた。(倭の使は)よって(そのついでに)、台(ここでは魏都洛陽の中央官庁)にいたり、男女生口三十人を献上し、白珠五千()、孔青大句()(まがたま)二枚、異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹を()貢した。 

原文(紹輿本)

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日本人の起源(旧石器・縄文・弥生時代)=沖縄の2つの旧石器時代遺跡・DNAからみた起源・海部陽介の探索・日本人はるかな旅全5回・野尻湖のマンモス・登呂遺跡

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【このページの目次】

◆日本人の起源リンク集

◆沖縄・石垣島の旧石器時代遺跡

◆沖縄サキタリ洞遺跡

◆DNAから見えた日本人の起源(縄文人と弥生人)リンクと解説

◆海部陽介=日本人の起源探索

◆筆者=NHK日本人はるかな旅(5)の解説

◆野尻湖のナウマン象の発掘(昭和史再訪)

◆登呂遺跡の発掘(昭和史再訪)


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🔵日本人の起源リンク集

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◆当ブログ=宇宙・地球・生命・哺乳類の起源(自然の歴史)


◆当ブログ=人類の起源をたどる(日本列島にたどりつくまでの歴史)


◆当ブログ=日本国家・大和政権の起源、魏志倭人伝


(弥生時代以降のリンクは、このブログ参照)

★★日本列島誕生CG・絶景と和食を生んだ4大事件・日本は山国となった

100m

http://www.dailymotion.com/video/x5ukaoe

http://www.dailymotion.com/video/x5vbs21

★日本列島誕生25m

★日本列島の誕生(3×10m)

(1)http://m.youtube.com/watch?v=cNuIl8Vio6Q

(2)http://m.youtube.com/watch?v=NYWNM5qIv40

(3)http://m.youtube.com/watch?v=hVsWfQGb7Hs

★★「美しき国土 その生い立ち30m

★★「日本誕生」日映科学映画製作所製作

列島誕生から縄文時代まで33m

★★高校講座日本史

★旧高校講座01 旧石器から縄文へ~環境の変遷と日本列島~

http://v.youku.com/v_show/id_XMzUwNzA5ODQ4.html?x

★旧高校講座02「縄文から弥生へ~稲作の広がりと金属器~

http://v.youku.com/v_show/id_XMzUwNzI1NjI0.html?x

★新高校講座01「旧石器から縄文へ」

◆動画と全文

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter001.html

★新高校講座02「弥生文化と小国家の形成」

◆その動画と全文

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/chapter002.html

★旧高校講座(2)縄文から弥生へ~稲作の広がりと金属器~ 30m

★新高校講座(2)弥生文化と小国家の形成20m

◆全文起こし

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume002.html

🔵英雄たちの選択・古代人の心=縄文弥生古墳90mhttps://drive.google.com/file/d/14hL_rPnvSRQkq6RlJpEivUMZVdtPc9Zv/view?usp=drivesdk

🔵アナザーストーリー・旧石器ねつ造事件58m

★★050325 NHKハイビジョン特集 「マンモスの謎に迫る 古代獣はなぜ絶滅したか」90m

【中国内限定のYoukuやTudouの動画が見れないときの対策 http://yuyu.miau2.net/watch-youku-tudou-video/】

🔷🔷岩宿遺跡への旅 赤旗日曜版19.03.24

★★旧石器時代岩宿遺跡=群馬県広報番組ぐんま一番「時代を掘った遺跡~岩宿~」(H26.2.7放送)30m

岩宿遺跡の旧石器

https://m.youtube.com/watch?v=s3iP-X8KF8Q

★岩宿博物館

http://www.city.midori.gunma.jp/www/contents/1000000000589/index.html

★相澤忠洋記念館

http://www15.plala.or.jp/Aizawa-Tadahiro/index.html

★★埴原=日本人の起源( 縄文人が元祖 )13m

★★わかる歴史【古代日本】日本人はどこから来た?12m

★★わかる歴史【縄文時代】縄文人の生活13m

★★わかる歴史【弥生時代】農業革命15m

🔷🔷旧石器時代人、変わる記述 骨の年代修正・疑義あいつぐ

朝日新聞17.02.17

 戦前に兵庫県明石市で発見され、初期の人類の骨ではないかと注目を集めた「明石原人」。先ごろ開催された学会で出土地の土壌に関する研究成果が発表され、「旧石器時代のものとは考えにくい」との見解が改めて示された。かつて教科書などでおなじみだった旧石器時代人の出土地は今や大幅な書き換えを迫られている。

◆「明石原人」は弥生人?

 昨年、新潟市で開かれた日本人類学会。岡山理科大の富岡直人教授(環境考古学)の発表「土壌pHと骨格の保存性」が注目を集めた。とりあげられたのが「明石原人」だ。

 「明石原人」の出土地の土壌のpH(酸性かアルカリ性かを示す指数。7が中性)については、1950年代に渡辺直経・東大名誉教授、80年代に松浦秀治・お茶の水女子大教授(自然人類学)による研究があり、多くの土の層がpH6以下の酸性土壌で、人骨が溶けやすく残りにくいことがすでに指摘されていた。

 富岡さんは今回の研究で、各地の遺跡における、多様なpHのもとでの動物骨や貝の残り具合を比較。pH5程度の酸性土でも動物骨が残る場合があることを発見した。「とはいえ、明石原人の出土地のpHに即して考えれば、あれほど保存が良い骨は弥生時代以降の所産である可能性が極めて高いと思う」

 「明石原人」は、考古学者の直良(なおら)信夫氏によって31年に発見された。ただし「原人」という名がついてはいるものの、本当にホモ・サピエンス(新人)の前の段階の人類かどうかは不明。一時は日本の化石人骨の代表と目され、石膏(せっこう)の骨格模型も作られたが、45年の東京大空襲で現物が焼失。長らく位置づけが定まらない謎の化石人骨とされてきた。

 しかし、80年代に国立科学博物館名誉研究員の馬場悠男さん(人類学)らが骨の模型を他の時代の人骨と比較。形から旧石器時代人の可能性は低いと結論づける。85年には国立歴史民俗博物館名誉教授の春成秀爾(ひでじ)さん(考古学)が出土地周辺を発掘。加工が認められる木材を発見したが、人骨は見つからなかった。

 そして今回の発表。「結論は極めて妥当なもの」と馬場さんは語る。

 一方、春成さんは「明石原人を巡って新しい研究が試みられるのはいいこと。ただ、直良さんがあの骨が出た時の状況を論文の形で残してくれなかったのが痛い。実物もなく、どの土の層から出たのかさえはっきりしない現状では、研究を進めるにも限界がある」と話す。

◆本州は「浜北人」だけ

 「明石原人」に限らず、かつて「○○原人」などと呼ばれた人骨の中には現在では否定されているものが少なくない。

 例えば三ケ日人(みっかびじん)(浜松市)は人骨の年代測定をやり直した結果、縄文時代のものとわかった。葛生(くずう)人(栃木県佐野市)も中世以降の人骨だった。これらの誤りは、当初の技術では人骨の年代測定が難しかったことなどが原因だ。

 現在、本州で旧石器時代の人骨と認められているのは、放射性炭素年代測定法の較正(こうせい)年代(測定値を実際の年代に換算した年代)で約2万2千年前及び約1万7千年前とされる浜北人(浜松市)だけ。だが、そんななか、大量の旧石器時代人骨が見つかる場所がある。沖縄県だ。

 約3万6千年前の山下町第一洞穴をはじめ、4体の全身骨格が出土した港川遺跡など約10遺跡で出土。近年では、南城市のサキタリ洞で約3万年前の幼児の骨が、石垣市の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴で約2万4千年前の成人人骨が見つかった。

 「サキタリ洞では焼けた約3万5千年前のリュウキュウジカの骨も出ている。同じ時代の人骨は見つかっていないものの、人が暮らし始めたのは3万年前より前の時代までさかのぼるのではないか」と沖縄県立博物館・美術館の藤田祐樹(まさき)学芸員。

 沖縄県で旧石器人骨の出土が相次ぐのは、サンゴ礁などが隆起した石灰質のアルカリ土壌のために人骨が残りやすいことが大きいが、「石灰質の土壌自体は日本中にある」と藤田さんは話す。「沖縄で多く見つかったのは、地元の研究者で熱心に探してきた人たちがいたから。本州でもそういう人が増えれば、旧石器人骨がもっと見つかるはずです」

 浜北人が出土した浜松市の根堅(ねがた)遺跡では昨年暮れ、遺跡調査団と市による発掘が半世紀ぶりに行われた。人骨は見つからなかったが、「シカの歯などが見つかり、浜北人の出土地が再確認できた」と、調査団に参加したお茶の水女子大の松浦さん。本州で旧石器時代人が続々と見つかる日は意外と近いかもしれない。

 (編集委員・宮代栄一)

 (扉)ご先祖は、2万年前の港川人? DNA解析、日本人につながる可能性

2021/7/23 朝日新聞

 沖縄県で約2万年前の全身骨格が見つかった港川(みなとがわ)人=キーワード=は、現代の日本人につながる祖先だったかも知れない。そんな可能性がDNA解析からわかった。日本人のルーツは、土着の縄文人と大陸からの渡来人による「混血説」が定説だが、さらに古くまでさかのぼる可能性が出てきた。

 日本人の起源は、約1万5千年前から約3千年前にかけて北海道から沖縄まで広く分布していた縄文人と、その後に大陸からやってきた渡来人が混血した弥生人にさかのぼることが、DNA解析などから裏付けられてきた。

 一方、縄文人より古くからいた港川人との関係ははっきりしていなかった。というのも、出土した人骨や遺跡だけでは、港川人が別の土地へ移ったり、途絶えたりした可能性もあり、直接の祖先とは限らないからだ。港川人の顔の骨格が縄文人とあまり似ていないこともあり、論争になってきた。

 総合研究大学院大や東邦大などの研究チームは、解析が比較的やりやすい細胞の小器官ミトコンドリアのDNAを用いる手法を採用。保存状態がよく全身骨格が残る港川人1号の右大腿(だいたい)骨からDNAを抽出し、初めて分析に成功した。

     *

 ミトコンドリアDNAは母から子に受け継がれる特徴があり、その際に起きる突然変異によって親子でもわずかな違いがまれに生じる。DNAに残るこの痕跡を比較すれば、その個体や集団の系統をさかのぼれる。

 分析の結果、港川人1号は、現代の日本人や縄文人弥生人に共通して多く見られるタイプの遺伝子の祖先型の特徴を持つことがわかった。港川人の子孫の系統が途切れることなく、現代に続いている可能性を示唆するものだ。

 一方、分析した現代の日本人約2千人の中に、港川人1号と同じ遺伝子の特徴を受け継ぐ直系の子孫はいなかった。

 チームの五條堀淳・総研大講師(自然人類学)は「日本列島のヒトの集団は、旧石器時代から現代に至るまで、遺伝的につながっていそうだ」と話す。研究が進めば、現代日本人の中から港川人の直系の子孫が見つかる可能性もあるという。

     *

 港川人1号は身長153センチで、成人男性としては小柄だった。頭骨の分析から、こめかみの筋肉が発達し、下あごの骨も頑丈だったことがわかっている。歯も丈夫で、特に奥歯を支える歯根が太くて長かった。近くの別の洞窟からは、2万3千年前の巻き貝で作った世界最古の釣り針や、カニの爪、ウナギの骨などが見つかっている。

 国立科学博物館の馬場悠男・名誉研究員(人類形態学)は「ネズミや魚は骨がついたまま、木の根などの硬いものもバリバリとそのまま食べた。料理は火であぶる程度だっただろう」とみる。

 頭骨からわかるのは、ごつい頭の形やみけんの出っ張りなど深い彫りを持つ特徴が、約20万年前にアフリカで生まれたホモ・サピエンス(新人)の古い姿を残している点だ。豪州の先住民や、インドネシアで発見され、頭骨に原始的な特徴を持つワジャク人ともよく似ているという。

 馬場さんは「約4万年前にアフリカから東アジアに来た新人が沖縄に渡って孤立し、古い特徴を残しながら環境に適応して港川人になったのでは」と推測する。

 五條堀さんらの研究チームは、ミトコンドリアより情報量が多い細胞の核DNAの解析を港川人1号で始める計画だ。うまくいけば、日本人のルーツと港川人の関係をより明確に知ることができるという。(石倉徹也)

 ◆キーワード

 <港川人> 1970年、沖縄県八重瀬町のフィッシャーと呼ばれる岩の割れ目から、約2万年前の旧石器時代の男女4人の全身骨格が見つかった。発掘場所の地名から港川人と呼ばれる。小柄で華奢な上半身に対し、頑丈な骨格の足腰やあごを持っていた。平地が少なく起伏の激しい島内を集団で放浪しながら、採集狩猟生活をしていたとみられる。旧石器時代の全身骨格が日本で見つかるのは極めて珍しい。

 発見者の那覇市の実業家、故・大山盛保さんは、人骨発見の3年前に現地でイノシシの骨を見つけた。それ以来、「追ってきた人間の骨もあるはず」と発掘を続けていたという。

🔷🔷縄文時代の遺跡・三内丸山遺跡のガイド 赤旗日曜版19.06.23

🔷🔷国立歴史民俗博物館のガイド 赤旗日曜版19.05.18

★★古代ミステリー・縄文土偶は何のためにつくられたのか(北海道).50m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v130394319W464MFFE

🔷🔷縄文展=国宝6点、造形に宿る力「縄文――1万年の美の鼓動」

朝日新聞18.06.23

(国宝 土偶 中空土偶 北海道函館市 著保内野遺跡出土 同市蔵(同市縄文文化交流センター保管) 小川忠博氏撮影)

(国宝 火焔型土器 新潟県十日町市 笹山遺跡出土 同市蔵(同市博物館保管) 小川忠博氏撮影)

(国宝 土偶 縄文の女神 山形県舟形町 西ノ前遺跡出土 同県蔵(同県立博物館保管))

(国宝 土偶 合掌土偶 青森県八戸市 風張1遺跡出土 同市蔵(同市埋蔵文化財センター是川縄文館保管))

(国宝 土偶 仮面の女神 長野県茅野市 中ッ原遺跡出土 同市蔵(同市尖石縄文考古館保管) 展示期間7月31日~9月2日)

(国宝 土偶 縄文のビーナス 長野県茅野市 棚畑遺跡出土 同市蔵(同市尖石縄文考古館保管) 展示期間7月31日~9月2日)

(重要文化財 手形・足形付土製品 青森県六ケ所村 大石平遺跡出土 同県立郷土館蔵)

(重要文化財 人形装飾付有孔鍔付土器 山梨県南アルプス市 鋳物師屋遺跡出土 同市教育委員会蔵)

 1万数千年前に始まり、その後、約1万年にわたって日本列島全域で栄えた縄文文化の中で、多数の土器、土偶が生み出された。とりわけ美しい優品約200件が一堂に会する特別展「縄文――1万年の美の鼓動」が、東京・上野の東京国立博物館で7月3日に開幕する。

◆モダンな姿・豊かな心性、堪能

 本展の最大の見どころは、縄文文化の精髄ともいえる遺物が集結することだろう。

 中でも、6点の縄文時代の国宝が、一度に見られるのは今回が初めて。北海道函館市著保内野(ちょぼないの)遺跡出土の「中空土偶」(愛称カックウ)、山形県舟形町西ノ前遺跡出土の「土偶 縄文の女神」、青森県八戸市風張1遺跡出土の「合掌土偶」、新潟県十日町市笹山遺跡出土の「火焔(かえん)型土器」の4点に、会期途中の7月31日から長野県茅野市中(なか)ッ原(ぱら)遺跡出土の「土偶 仮面の女神」、同市棚畑遺跡出土の「土偶 縄文のビーナス」が加わる。

 日本最大級の高さ41・5センチで全身に模様のある「中空土偶」、モダンアートを思わせる「縄文の女神」、三角の頭が目をひく「仮面の女神」など、それぞれに特色がある国宝の造形美を堪能することができる。

 縄文人の心性に触れる資料も多い。青森県六ケ所村大石平遺跡出土の「手形・足形付土製品」(重要文化財)は、子どもの手や足を粘土に押しつけて成形したもので、縄文人の親子の交流を示す品と考えられている。

 一方、3本指の人物が描かれた山梨県南アルプス市鋳物師屋(いもじや)遺跡出土の「人形装飾付有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器」(重要文化財)は、縄文人の世界観・宇宙観を反映している可能性が高いとされる。

 このほか、造形がユニークで日本で最も有名な土偶とも言える青森県つがる市木造(きづくり)亀ケ岡出土の「遮光器(しゃこうき)土偶」(重要文化財)や、縄文人の工芸技術の高さを示す青森市三内丸山遺跡出土の「木製編籠 縄文ポシェット」(重要文化財)など、有名どころもずらり。

 かわいくてキッチュ、かつ美しい――。「JOMON」は最近、若い世代からの関心も集めている。縄文人たちが起こした壮大な美のうねりを、会場で、ぜひ感じてもらいたい。

 (編集委員・宮代栄一)

来月3日から東京国立博物館平成館で

◆◆(天声人語)縄文人は岡本太郎か

朝日新聞18.08.31

 「芸術は爆発だ」という名言で知られる故岡本太郎は20代をパリで過ごした。帰国後、「わび・さび」を基調とする日本の伝統美に幻滅する。自国文化への絶望から彼を救い出したのは縄文土器だった1951年秋、東京・上野の展示会で縄文の土器や土偶と出会い、手持ちのカメラで熱心に写した。のちに記す。「快感が血管の中をかけめぐり、モリモリ力があふれ、吹きおこるのを覚えた」(『日本の伝統』)いま東京国立博物館で開催中の特別展「縄文――1万年の美の鼓動」(9月2日まで)で、彼を魅了した逸品を見ることができる。人とも獣ともつかぬ顔の形をした細工品。星座か解剖図のようなデザインの鉢。なるほど、どれも奔放で力強いこれら縄文芸術は世界的に見ても異彩を放つ。「火焔(かえん)のような装飾、直線と曲線の織りなす紋様。同じ新石器時代の中国やインド、欧州の品には見られない造形美です」と企画した品川欣也(よしや)・同館考古室長(42)は話すユニークさは暮らしぶりに由来する。王や特権階級はおらず、土器を作る専門の職人もいない。「縄文時代に作家や芸術家は一人もいません。地域ごと村ごと集落ごとに異なる作風が、代々引き継がれました」1万年前の人々の営みを想像してみる。日々、木の実を拾い、狩りや漁に出る。そして精妙な土器や装身具を作る。老若男女が芸術をたしなんだのだろうか。家族みんなが岡本太郎ばりにアートを爆発させるさまを夢想すると、何やら楽しくなる。

◆◆いま縄文が熱い=縄文時代・縄文文化の本の紹介 

赤旗18.8.19

🔷🔷(書評)『縄文の思想』 瀬川拓郎〈著〉

201817日朝日新聞

『縄文の思想』

神話と考古学を手がかりに分析

 縄文人は何を考えていたのだろう。たとえば夜空に浮かぶ星を何だと思っていたのか、死ぬとどうなると思っていたのか。どんなふうに恋をして、何を目標に生きていたのか。

 かなうなら、彼らが見ていた世界を彼らと同じように見てみたい。本書はそんな不可能とも思えるテーマに挑む知的冒険の書だ。

 著者は、昭和30年代ごろまで瀬戸内海や西九州で多くみられた家船(えぶね)漁民と、アイヌや南島といった周縁の人々の間に残る神話や伝説に、同じモチーフが多く見られることに注目する。関係がないようにみえる彼らに、なぜ共通する神話があるのか。それらは遠く縄文の時代から受け継がれてきたものではないのか。

 そして海の神が山の女神のもとを往還する神話を縄文起源のものと推理し、さまざまな分野の先行研究を動員し立証していくのだ。文字などの証拠が残っていないだけに、考古学には遺跡や遺物を自分の説に沿って解釈してしまう危険がつきまとうが、著者の分析は多層的で説得力を感じた。

 本書によれば、縄文人は、高山を祖霊の世界との境界と考え、人々は死ぬと海岸沿いにある洞窟から山に登ると考えていたという。また魚や獣は神からの贈りものであるとし、手厚い儀礼やお土産の返礼でそれにこたえていたことや、分配と平等を重視する平和的共同体をつくる一方で、外部に対しては無法で暴力的な性格を持っていたこと、平等重視といっても、才能や野心ある若者を排除する、いわば出る杭は打たれるタイプの平等だったことなども指摘する。

 こうした縄文の精神は、弥生時代以降も周縁の人々に受け継がれ、呪術や芸能などを通じて日本社会に影響を及ぼし続けたという。 出る杭は打たれるなんて、そんなことまでわかることに驚いた。遠い存在だった縄文人が身近に感じられ、彼らの頭の中を知りたいという思いがますます強くなった。

 評・宮田珠己(エッセイスト)

 『縄文の思想』 瀬川拓郎〈著〉 講談社現代新書 907円

 せがわ・たくろう 58年生まれ。考古学者、アイヌ研究者。旭川市博物館館長。著書に『アイヌの歴史』など。

🔷🔷日本列島人の起源㊤㊦ 赤旗19.05.20

🔷🔷縄文人の起源、2~4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019513日日経

国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が大陸の集団からわかれた時期が今から約2万~4万年前とみられることがわかったと発表した。日本人の祖先がどこから来たのかといった謎に迫る貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌で発表する。

国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された縄文人女性の人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団からわかれた時期が約38000年前から18000年前であることがわかった。

縄文人は日本列島に約16000年前から3000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことがこれまで知られていた。

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、今回の縄文人のゲノムから説明できる可能性があるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか研究の進展が期待される。

今後、研究チームはさらにデータの解析を進める。配列を公開して海外の研究機関との共同研究も検討していく。

🔷🔷(異議あり)「縄文時代」はつくられた幻想に過ぎない 考古学と社会の関わりを研究する山田康弘さん

2016830日朝日新聞

 あなたは「縄文時代」にどんなイメージを持っていますか? 「狩猟採集で生活し、自然と共生していた」「貧富や身分の差がなかった」「日本文化の原点」……。でも、それは「つくられた幻想」だと、先史学が専門の山田康弘さんは主張する。いつ、なんのために「つくられた」のか。「縄文」の真の姿とはどんなものなのか。

◆「貧しい」「自然と共生・平等」世相映してイメージ180度変化

 ――縄文時代は「つくられた」と主張していますね。

 「『縄文式文化』『弥生式文化』という言い方は戦前からありました。ただ、石器時代の中に狩猟採集の文化と、米を栽培していた文化があったということで、時代のくくりは、弥生の一部を除いて石器時代でした」

 「戦後になって、アメリカの教育使節団の勧告などで、これまでの神話にもとづく歴史教科書ではダメだ、新しい歴史観で教科書をつくれということになった。当時最も科学的な歴史観と考えられていた『発展段階説』に合わせて、狩猟採集段階の縄文式文化から農耕段階の弥生式文化へ発展したと書かれるようになりました。『縄文』『弥生』の枠組みは、新しい日本の歴史をつくるために、ある意味では政治的な理由で導入され、決められたんです」

 ――敗戦がきっかけで「つくられた」わけですか。

 「ただ、まだ『縄文時代』『弥生時代』ではなかった。変化が起きたのは1950年代後半です」

 「1947年に代表的な弥生遺跡である静岡県の登呂遺跡の発掘調査が始まり、広い水田や集落の跡が発見されました。弥生式文化の範囲も、西日本だけでなく関東や東北まで広がっていたことがわかってきます。その段階で『弥生時代』という言葉が出てくるんです。縄文時代から弥生時代を経て古墳時代へという道筋で、日本の歴史が語られるようになります」

 ――なぜ「文化」から「時代」になったのでしょう。

 「50年代は、戦後の日本が講和条約を結び、国連に入るなど、国際社会の中で地歩を占めていった時期です。それと並行して、日本とは何か、日本人とは何かが強く意識されるようになった。その中で、石器時代、青銅器時代、鉄器時代といった世界史共通の区分とは別に、日本独自の時代区分が求められたのだと思います」

 「『弥生時代』は、登呂遺跡のように稲が実り、広々としたのどかな農村という、非常にポジティブなイメージとともに広まりました。戦後まもない頃の日本人は、弥生に日本の原風景、ユートピアを見たんです。その一方で、裏表の関係にある縄文は、貧しい、遅れた時代ということにされてしまった」

 ――縄文はネガティブに見られていたわけですね。

 「当時の日本人にとって、縄文時代は『戦前』のようなものだったと思います。『克服されなくてはいけない時代』だったんです」

 「しかし70年代になると、縄文のイメージは大きく変わります。縄文は貧しいどころか、豊かな時代だったという見方が出てくるんです」

 ――なぜ見方が百八十度変わったのですか。

 「国土の開発が盛んになり、大規模な発掘調査が数多く行われました。縄文の遺跡からも籠や漆を塗った椀(わん)などが続々と見つかり、縄文人が高い技術を持っていたことが明らかになった。一方で、弥生時代の遺跡からは武器がたくさん出てきて、争いの多い時代だったこともわかってきます。『縄文は遅れていた』『弥生は平和』というイメージが崩れてきたんです」

 「もう一つの要因は、70年代の世相です。高度成長も終わって、一息つく時期になる。公害などが社会問題化して、現代社会への懐疑も高まっていました。その中で、旧国鉄の旅行キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』がブームになります。社会がアメリカ化されてきた反動で、日本の原点とは何かを探すようになった」

 ――それがなぜ縄文とつながったのでしょうか。

 「『縄文ポピュリズム』の影響もあったと思います。その代表が芸術家の岡本太郎で、50年代に縄文土器を美として『発見』し、日本文化の基底にあるものとして縄文を新しく提示してみせた。岡本たちの『縄文ポピュリズム』が、70年代のオカルトブームや『ディスカバー・ジャパン』的な空気と結びついて、縄文ブームが起きます。呪術を行う一方で、工芸など高い文化を持ち、みんなが平等で、自然と共生していたユートピアとして、縄文が描かれるようになった」

 ――弥生に代わり、縄文が理想の社会にされたと。

 「ところが90年代になると、『縄文階層社会論』が盛んになります。青森県の三内丸山遺跡などが発掘され、これほど大型の遺跡がある以上、単なる平等社会ではなかったはずだという見方が出てきた。平等社会というイメージに疑問符が投げかけられたんです。バブル崩壊後、格差や社会の階層化が問題になった時期で、縄文時代ですら階層があったという話に安易に乗る人も出てきてしまった」

 「縄文のイメージは、考古学的な発見とそれぞれの時代の空気があいまってつくられてきたものです。見たい歴史を見た、いわば日本人の共同幻想だったんです」

     *

 ――実際の縄文の姿とはかなり違っているのですか。

 「研究の最前線では、狩猟採集の時代という縄文の枠組み自体が揺らいでいます。豆の栽培など農耕に近いことをやっていたこともわかり、生業だけで縄文と弥生を分けるのは難しくなっている」

 「縄文といっても地域によって大きく違います。中国・四国地方などの縄文文化は、三内丸山遺跡のような大規模な集落もなければ、人々が長期間定住していたわけでもない。同じ時期に様々な地域文化が併存している。縄文文化は『日本国の歴史』という視点からの総称にすぎません」

 ――とはいえ、「縄文時代」が存在したことに変わりはないのでは。

 「縄文時代や弥生時代という大きな枠組みを設定すること自体はいいんですが、時期や地域によってかなり違いがあることを前提にすべきです。しかし『縄文より弥生のほうが優れている』とする進歩史観や、『縄文こそロハスなユートピア』という考え方がいまだに根強くあるために、その多様性の価値を認めようとしない人が多い」

 ――「縄文幻想」から脱するには、何が必要ですか。

 「どんな時代も、過度に美化しないことです。縄文人は自然と共生していたと言われますが、集落をつくるために森を焼き払ってもいる。人口が全体で20万人と非常に少なかったので、多少自然を破壊しても再生されていたにすぎないとも考えられます」

 「縄文に限らず、ある時代の一側面だけを切り取って、優劣をつけるのは、様々な意味で危険です。『縄文は遅れていた』『縄文はすばらしかった』と簡単に言ってしまうのではなく、多様な面をもっと知ってほしいですね」

     ◇

 やまだやすひろ 49歳 1967年生まれ。先史学者。国立歴史民俗博物館教授。専門は縄文時代を中心とした先史墓制論・社会論。著書に「つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る」「生と死の考古学 縄文時代の死生観」「老人と子供の考古学」など。

◆教科書の記述は

 縄文時代観の変遷は、高校の日本史教科書にも表れている。

 1984年の「詳説日本史(新版)」(山川出版社)では、「縄文時代は、狩猟・漁撈(ぎょろう)・採集の段階にとどまり、生産力は低かった」「人々は不安定できびしい生活をおくっていたと考えられる」となっている。

 一方、2016年の「詳説日本史B」(同)では、「クリ林の管理・増殖、ヤマイモなどの保護・増殖、さらにマメ類・エゴマ・ヒョウタンなどの栽培もおこなわれたらしい」「食料の獲得法が多様化したことによって、人びとの生活は安定し、定住的な生活が始まった」となっており、縄文時代への見方がはっきりと変化している。

 縄文社会が平等だったかという点についても、84年版では「人々は集団で力をあわせてはたらき、収穫物はみんなで公平にわけあった」とされているのに対し、16年版では「人びとは集団で力をあわせて働き、彼らの生活を守った」となっており、「公平にわけあった」という記述はなくなっている。

◆取材を終えて

 歴史の見方は時代によって変わるというのは、頭ではわかっていた。とはいえ、縄文時代の評価が、時代の空気にこれだけ左右されてきたというのは、かなり驚きだった。

 人は「見たい歴史」を見てしまうと山田さんは言う。縄文だけでなく、私たちは江戸時代や明治時代にも「見たい歴史」を見ているのかもしれない。「○○時代はこうだった」という思い込みの危うさを痛感させられた。

 (尾沢智史)

🔴◆◆縄文人のDNA、大陸と大きな違い 最も近いのはアイヌ人

朝日新聞201692

 縄文時代に日本列島で狩猟採集生活をしていた縄文人の遺伝的特徴は、東アジアや東南アジアの人たちとは大きく離れていることがDNA解析でわかった。総合研究大学院大学や国立科学博物館などのチームが、人類学の専門誌ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクスに1日発表した。

 福島県北部の三貫地貝塚で出土した約3千年前の縄文人2人の歯から細胞核のゲノム(全遺伝情報)解読を試みた。約30億個ある塩基のうち、約1億1500万個の解読に成功した。縄文人の核DNAの解読は初めて。

 世界各地の現代人のDNAと比較したところ、中国南部の先住民や中国・北京の中国人、ベトナム人などは互いに近い関係にあるのに対し、縄文人はこれらの集団から大きく離れていた。

 現生人類ホモ・サピエンスは4万~5万年前にアジア地域に到来し、その後、各系統に分かれたとされる。今回のDNA解読で、少なくとも1万5千年前よりも古い時期に縄文人につながる系統ができ、東アジアや東南アジアの集団は、別の系統から生まれたと考えられるという。

 日本人では、遺伝的にはアイヌ人が最も縄文人と近い関係にあり、沖縄の琉球人、東京周辺の人と続いた。

 現在の日本人は、縄文人と、弥生時代以降に大陸から渡ってきた渡来人が混血して形成されたと、されていた。チームの国立科学博物館の神沢秀明研究員は「日本人が、縄文人と弥生系渡来人の混血という説が、DNA解読でも裏付けられた」としている。(神田明美)

🔴◆◆骨格面からみると沖縄人とアイヌ人との共通点は少ないという説もある 赤旗19.01.12-14=人骨に向き合う

🔴◆◆縄文人は東南アジアから来たのか 初の全ゲノム解読、配列が類似 金沢大など

2018712日朝日新聞

想定される日本人の祖先の移動ルート/人骨のゲノム配列が類似

 約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。

 研究成果は11日、横浜市で開催中の国際分子生物進化学会で報告されたほか、6日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。

 覚張さんらの研究グループは、コペンハーゲン大学を中心とした国際研究チームと共同で調査。愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚で出土した縄文時代晩期の成人女性の人骨1体について全ゲノム解析を行った。この結果を東南アジア各国の遺跡で出土した人骨25体や現代人のデータと比較すると、東南アジアの先史時代の人々は六つのグループに分類できることが判明。そのうちの約8千年前のラオスと、約4千年前のマレーシアの遺跡でみつかった人骨のグループのゲノム配列の一部が、伊川津貝塚の人骨と類似していた。

 覚張さんは「東南アジアの一部にいた人々と、日本列島の中央に位置する伊川津貝塚の縄文人が、遺伝的に深いつながりのあることが科学的に実証された」と話す。(渡義人)

🔴◆◆リアル縄文人、DNAから 目は茶色、縮れた髪 国立科学博物館など復元

2018312日朝日新聞

(復元された女性像)

(縄文人女性の頭骨)

 国立科学博物館などの研究グループは12日、約3800年前の縄文人の骨から抽出したDNA情報をもとに、顔を再現した復元像を公表した。骨格の特徴だけでなく、遺伝情報を参考に古代人の顔を復元したのは国内初という。13日から東京・上野の同館で始まる特別展「人体―神秘への挑戦―」(朝日新聞社など主催)で一般公開する。

 研究グループは、北海道・礼文島の船泊遺跡で頭骨などが発掘された女性の臼歯からDNAを抽出。顔に関する遺伝子の特徴から外見を推定した。女性は、肌は色が濃く、シミがあり、目は茶色、髪の毛は細く縮れていたなどと判明したという。また、血液型はA型で、身長は140センチ程度だったという。

 国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長は「これまで想像の世界であったものが、裏打ちのあるデータを元にかなりの確度で復元ができるようになった」と話している。(土肥修一)

★★諸説あり・縄文人はどこから来たのか=北方説・南方説

(筆者=北方一部あったが、圧倒的に南方というのが定説ではないか)

🔴◆◆書評・『土偶界へようこそ 縄文の美の宇宙』譽田亜紀子〈著〉

201786日朝日新聞

造形美、かきたてる想像力

 縄文のビーナスって知ってますか? 国宝土偶の第一号である。知らないという人、こっちにいらっしゃい。いや、実は私も有名な遮光器土偶ぐらいしか知らなかった。この本の受け売りでお教えすると、土偶というのは縄文時代、およそ1万5千年前から2400年前まで続いたとされる時代に作られた、人の形をした土の焼き物のこと。何のために作られたかはよく分かっていない。でも、なんらかの仕方で祈りに関わっていたことはまちがいない。そして、その多くが女性である。

【縄文のビーナスと遮光器土偶】

 さて、そんなことは知ってらあという人、そして縄文のビーナスも知ってるよという人、そういう人にこそ言いたい。あなた、縄文のビーナスのお尻、まじまじと見たことありますか? 土偶を見るとき、たいてい正面に注目するだろう。しかしこの本は、正面だけでなく、右横、左横、背中、そしてときには上からやアップを掲載している。一ページを使って、どーんと縄文のビーナスの後ろ姿がある。それが、もう、実にいいケ……形態をしているのである。

 縄文の女神と呼ばれる土偶もあるが、これなど横から見てみないとその造形のすごさは伝わらない。どっしりした下半身から、前に突き出された上半身がすっと上に伸びている。まるで稲光のような、エッジの効いた形に心底ほれぼれする。

 本書にはそんな写真が満載である。だが、いま紹介した国宝級の造形のすばらしさは、この本が伝える土偶の魅力の半分にすぎない。著者は、絶対国宝にならない級の土偶たちに愛情を注ぐ。例えば「なで肩の土偶」と題された土偶がある。鼻がにゅっと突き出て、ちょっと左下の方を見ている。肩からにょきっとハの字形に腕が出て、おっぱいがぽこっぽこっと出っ張って、なんともぞんざいな作りである。だが、そのぞんざいさが、無言の何かを伝えてくる。力のある役者が舞台に立つとその空間が引き締まる、そんな雰囲気さえある。他にも、なんだかもっさりしてたり、ぽやあとしていたり、ぎょろっとしてたり、野放図だったり、でへへだったり。見飽きない。

 真上を見ている土偶がある。口をぽっと開け、あどけない表情で。なぜ、何を、見上げているのだろう。著者は、胸の前で持ったときに土偶が話しかけてくるようにではないか、と想像する。この想像力が、学術書にはない魅力になっている。誕生、死、病気、食料、災害、こうした私たちにはどうしようもない力と向き合い、祈り、その願いを土偶にこめた。そんな、縄文という時間がそこに露出している。私の中で、ふるふると共振するものがある。

 評・野矢茂樹(東京大学教授・哲学)

 『土偶界へようこそ 縄文の美の宇宙』 譽田亜紀子〈著〉 山川出版社 1728円

 こんだ・あきこ 75年、岐阜県生まれ。京都女子大卒。フリーライター。東京新聞と中日新聞にコラム「かわいい古代」連載中。『ときめく縄文図鑑』『土偶のリアル』『知られざる縄文ライフ』

🔴◆◆列島の南北結ぶ縄文土器 東北の亀ケ岡文化、沖縄で確認 赤い塗り、南の島も魅了か

2017731日朝日新聞

 海に囲まれた沖縄は独自の歴史を歩んだ。縄文時代も例外でなく、はるか東北地方などとは別世界だったはず。そんなイメージに再考を迫る物証が沖縄県北谷(ちゃたん)町で確認された。縄文晩期の東北を代表する亀ケ岡文化の土器だ。どうやら縄文時代、日本列島の両端はつながっていた――。

 南西諸島の歴史は独特だ。本格的な農耕社会の登場は本土に比べてずっと後だし、戦国の世の本土を尻目に琉球王国は海上交易で利をなした。先史時代も同じで、文化的な違いから貝塚時代の名でも呼ばれてきた。

 そんな沖縄で今年初め、2500年ほど前の東北の土器が確認された。米軍返還地内にある平安山原(はんざんばる)B遺跡の出土品に、大洞A1式という、縄文晩期後半を中心に青森や岩手、北海道南部などで花開いた亀ケ岡文化の土器片があったのだ。台付きの浅鉢らしい。

 表面には「工」の字に似た模様がうねうねと走り、赤い顔料もうっすらと残る。「縄文晩期から弥生前半の交流を示唆する」と町教委はみている。

 亀ケ岡文化といえば、鮮やかな漆器や、宇宙人のような「遮光器土偶」で有名。その土器は西日本にも伝播(でんぱ)し九州島嶼(とうしょ)部までたどれていたが、これで本州北端の文化が海を隔てた列島最南端の島々まで一気に南下したわけだ。

 沖縄考古学会の島袋春美さんによると、この時期、沖縄ではジュゴンの骨で作った蝶(ちょう)形骨製品という不思議な造形が完成する一方で、本土との往来も活発になるそうだ。「沖縄独自の精神文化を守ろうとする側面と、外からの文化を受け入れようとする側面がせめぎ合う激動期だったのでは。土器はそんな流れに乗って流入したのでしょう」。すでにこの時期、沖縄ではアイデンティティーの模索が始まっていたらしい。

 それにしてもなぜ、温暖な南島に雪国の土器が流入したのか。運ばれたのはモノだけか、北国の人々も一緒だったのか。どんな背景や動機があったのだろう。

 5月、それを解明する成果が北谷町で公表された。弘前大がこの土器の土を分析したところ、約7300年前の鹿児島南方の海での噴火による、アカホヤ火山灰と呼ばれる噴出物が混じっており、それが厚く降り積もった九州や四国、瀬戸内あたりの土が利用されたことがわかったのだ。つまり、この土器は西日本のどこかで作られ、運ばれてきたことになる。

 弘前大の関根達人教授は文様の観察も加えて、東北のデザインをモデルに北陸や中部高地の人が西日本に来て製作し、沖縄で消費された、と思い描く。

 「縄文の人と物の動きのメカニズムが明確にわかった。北陸や中部高地の人は婚姻などで西日本に移動したのだろうか。赤く塗った土器はそれ自体に価値があり、きれいな土器をほしいという同じ価値観が日本列島の南北で共有されていたようだ」

 小林青樹・奈良大教授によれば、この時期、東北地方では、沖縄周辺の海で採れるイモガイを模したとみられる土製品が分布するという。「東北の人々が貝を求めたのかも。でなければ、一部の地域だけにイモガイ形土製品が存在した説明がつかない。彼らは南の海の果てに貴重なものがあることを知っていたのだろうか」

 設楽博己・東京大教授も「彼らはなんらかの情報収集で西に来ていたのかもしれない」という。

 沖縄にもたらされたのは土器だけだったのか。もし亀ケ岡文化の漆製品やシンボルの遮光器土偶が見つかったら……。島袋さんは「この時期の沖縄は、土偶も石棒もない代わりに蝶形骨製品がある独自の文化と言われてきた。それを考え直さなくてはならなくなりますね」。

 南島で見つかった、ちっぽけな土器片。しかしそれは、海を介して北と南を結ぶ先史時代の壮大な流通網を浮かび上がらせている。(編集委員・中村俊介)

🔴◆◆犬の歴史=犬と人間 目と目で通じあう、特別な絆

朝日新聞17.02,12

 このところ猫に押され気味ですが、「最古の家畜」であり、長く関係を深めてきたパートナーと言えるのはやはり犬。犬と人間はどんな道のりを歩み、特別な関係を築いてきたのでしょうか。探ってみました。

 犬と私たちはいつ、出会ったのか。最も古い犬の骨は、ロシアで発見された約3万3千年前のものだ。旧人の居住跡で見つかった。一方、人間に家畜化されたのは2万~1万5千年前と考えられている。イスラエルのアイン・マラハ遺跡では、高齢の女性が子犬に手を添える形で共に葬られた約1万2千年前の墓が見つかっている。

 日本最古の犬の骨は約9500年前のもの。神奈川県の夏島貝塚で見つかった。縄文時代には番犬や狩猟犬として飼われていたようだ。だが、弥生時代に入ると様子が変わってくる。愛知県の朝日遺跡では犬の骨が散乱した形で見つかり、解体痕もあった。

 麻布大で動物行動遺伝学を研究した外池亜紀子さんは「縄文人は犬を埋葬していた形跡もあり、大切に飼っていたようだ。だが弥生時代に入ると、食用にした形跡が増えてくる」と指摘する。

     *

 日本人のそばには昔から犬の姿があった。ヤマザキ学園大の新島典子准教授(動物人間関係学)によると、早くも「日本書紀」には天武天皇が犬や牛など5種類の動物を食べることを禁じた記録が出てくるという。鎌倉時代になると「犬追物(いぬおうもの)」がはやり、矢で射るための的(まと)として殺傷された。「犬合わせ」と称する闘犬も始まった。

 江戸時代に入ると、徳川綱吉が「生類憐(あわ)れみの令」を出す。犬だけが対象ではないが、綱吉は「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれることに。法政大の根崎光男教授(歴史学)は「犬は安産の神様だったり不動明王の使いだったりするなど、日本人の文化に根付いていた」と話す。

 明治時代には各府県単位で「畜犬規則」が定められ、犬が個人の所有物となった。『犬たちの明治維新』などの著者、仁科邦男さんは「飼い主と犬の個の関係が成立し、この関係が現代にまでつながっている」とみる。

 現代の日本では全世帯の14%が犬を飼っている。推計飼育数は987万匹にのぼる(2016年、ペットフード協会調べ)。

     *

 麻布大の菊水健史教授(動物行動学)は、犬のすごさは「人と絆を結べること」にあるという。ドイツのマックス・プランク研究所の研究で、犬は人が指をさしたり、視線を向けたりしたカップにエサがあることを理解できることがわかっている。チンパンジーですら持たない、犬特有の能力だ。

 また、犬は飼い主と目線をあわせる。すると双方で愛情や信頼に関わるホルモン「オキシトシン」の濃度が上昇するという研究が、麻布大から報告されている。オオカミは飼いならされていても、飼い主と目をあわせることはない。菊水教授は「犬は人と生活することでオオカミから進化したと考えられていて、あうんの呼吸で、人の意図を理解する能力を持っている。人がこれほど特別な関係を築けた動物は、地球上にはほかにいない」と指摘する。

 スウェーデン王立工科大の研究チームが犬とオオカミのDNAを調べたところ、柴犬(しばいぬ)と秋田犬が最もオオカミに近いDNAを持っていた。背景はまだよくわかっていないが、日本犬の研究から、犬の起源が見えてくるかもしれない。(太田匡彦)

 <知る> 縄文時代と弥生時代では犬の姿形も異なる。縄文犬は額から鼻にかけて平らなキツネ顔で、弥生犬は額と鼻の間にくぼみがあるタヌキ顔。大きさは両者とも今の柴犬と同じくらいだった。弥生犬は大陸から持ち込まれ、次第に縄文犬と混血したと見られている。

 <読む> 明治時代、小説家が飼い犬のことを書き始めた。二葉亭四迷の『平凡』や夏目漱石の『硝子戸(がらすど)の中』、徳冨蘆花の『みみずのたはこと』などが例。「犬との個の関係ができ、犬を飼うことの喜びが『発見』されたのだろう」(仁科邦男さん)

🔷🔷1.5万年前のイヌが人間の狩りに協力 赤旗19.01.28

◆日本人が愛した鶏

(赤旗17.01.01)

歴史秘話・謎の古代遺物=銅鐸その他

◆◆(書評)『文明に抗した弥生の人びと』寺前直人〈著〉

2017820日朝日新聞

『文明に抗した弥生の人びと』

◆富がもたらす負の面見抜いた

 弥生時代というと、どんなイメージだろうか。

 縄文の次。大陸から渡来した人々が高度な文明を持ち込み、日本列島に稲作が広まった。土偶や火焔(かえん)型土器がすたれ、銅鐸(どうたく)などの金属器が登場した。

 以上が、私の持つ弥生時代に関する知識のほぼすべてである。

 けれど同時に、実際はそんな単純な話ではなかっただろうことは想像もつく。だいいち日本列島全体が一様な社会だったはずがないし(たとえば北海道には弥生時代はない)、いつの時代であれ世の中一筋縄ではいかないのだから、当時もいろいろあったろう。

 本書は、明治期に弥生式土器が発見されてから、研究者たちが弥生時代をどうとらえてきたか、まずその変遷を追い、西から来た文明が縄文社会を先進的に塗り替えていく一面でしか語られていないことに異議を唱える。

「わあい、大陸から便利なものがきた。いいね、採用!」

って、弥生人もそんなバカじゃない。

 稲作の普及にともなって、人を殺すための道具や、ムラを守る施設が増えるが、近畿地方などではそれと並行して、縄文後期に東北地方から伝わった土偶や石棒を介した儀礼を通じ人間関係を緩和していた形跡があるそうだ。過剰な富がもたらす負の面を見抜いていたのである。

 儀礼だけではない。弥生中期に鉄や青銅が伝わったときは、武器にすれば殺傷能力が高く権威の象徴にもなるそれらを、あえて実用的でない形へと変容させ、武器としてはダサい石器を使い続けたりした。

 そして極めつきが銅鐸だ。あの不必要にデカい「鈴」。なぜわざわざあんなものを大量に作ったのか、本書はその成り立ちを丁寧に分析し、弥生人の知恵に迫っていく。

 出土品にある小さな痕跡から当時の人々の心の中まで読み解く手腕は、考古学の底力をみるようだ。

 評・宮田珠己(エッセイスト)

 『文明に抗した弥生の人びと』 寺前直人〈著〉 吉川弘文館 1944円

 てらまえ・なおと 73年生まれ。駒沢大学准教授。単著『武器と弥生社会』、共著『Jr.日本の歴史1 国のなりたち』。

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🔵沖縄の旧石器時代遺跡

=石垣市の白保竿根田原(しらほさおねたばる)遺跡、沖縄南城市のサキタリ洞遺跡など

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近年、沖縄で23万年前の旧石器時代の遺跡が発見された。石垣島の遺跡では、全身の人骨が発掘された。さらにさまざまの貴重な遺産が次から次へと発掘されつつある。

Wiki=白保竿根田原遺跡

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E4%BF%9D%E7%AB%BF%E6%A0%B9%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%B4%9E%E7%A9%B4%E9%81%BA%E8%B7%A1

Wiki=サキタリ洞遺跡

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AD%E3%82%BF%E3%83%AA%E6%B4%9E%E9%81%BA%E8%B7%A1

◆沖縄県立博物館・サキタリ洞遺跡の概要PDF22p

クリックしてsakitarido-reportI.pdfにアクセス

◆沖縄県立博物館・サキタリ洞人の発見

http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/column/column097/index.html

Wiki=港川人

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AF%E5%B7%9D%E4%BA%BA

◆◆沖縄の旧石器時代2つの遺跡=サキタリ遺跡・白保竿根田原遺跡

赤旗18.04.16

🔴◆◆旧石器時代の人、顔は南方系? 沖縄で発見の人骨から復元

2018421日朝日新聞

発掘された頭骨から復元された白保人の男性像=東京都台東区の国立科学博物館、杉本崇撮影

 沖縄県石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡(石垣市)で見つかった旧石器時代人骨(約2万7千年前)の生前の顔がデジタル復元され、南方系の人々の顔つきに近いことがわかった。県立埋蔵文化財センターが20日、発表した。「復元された国内最古の顔」といい、日本人の祖先がどんな姿で、どこからやってきたか、を解き明かす手がかりとなる。

 同センターや国立科学博物館、複数の専門家でつくる研究グループは、頭骨が残る4体をX線CT撮影し、そのデジタルデータをもとに頭部を復元。このうち、30代から40歳前後の男性とみられる4号人骨について3次元プリンターで骨格をつくり、肉付け作業をした。その結果、彫りの深い顔立ちが現れ、中国南部や東南アジアの古人骨や、のちの縄文時代人と似ることが確認できた。河野礼子・慶応大准教授(自然人類学)は「デジタルデータで手に取って見えるような形にでき、学問的にも重要な手がかりとなる」と話す。

 顔の模型は20日、国立科学博物館(東京)の企画展で展示が始まった。6月17日まで。(編集委員・中村俊介)

【よみがえる国内最古の顔=赤旗18.04.21

🔴◆◆日本人の起源、解明に期待 旧石器人骨、十数体を発掘

201671日朝日新聞

白保竿根田原洞穴遺跡の発掘現場。はけで指した先に露出した人骨がある=沖縄県石垣市

 沖縄県石垣市の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で、十数体の旧石器時代人骨が確認された。30日に調査内容を明らかにした同県立埋蔵文化財センターなどによると、旧石器時代の人骨として国内最大の発掘規模。謎の多い人類の拡散ルートや日本人の起源の理解を深める大きな手がかりになりそうだ。

 30日に開かれた研究者向けの説明会。旧石器時代の人骨が計1千点以上発掘され、十数体分に及ぶことが明らかになった。国内にある旧石器時代の人骨遺跡としては圧倒的な数。これほどまとまった出土は世界的にも珍しいという。人類学者の土肥直美さんは「ポイントは、大量の人骨が発掘されたこと。系統的な年代測定やDNA解析が期待できる」と話す。

 年代の面でも収穫があった。国内で骨から直接年代を測定した中で最も古い約2万6千年前の人骨があった。那覇市の遺跡で、より古い約3万6千年前とされる人骨も出土しているが、一緒に出土した炭化物の測定による推定値という域を出ていなかった。これまでに、白保の遺跡で出土した約2万年前の2体分のDNA解析に成功しており、遺伝子型では東南アジアなど南方の遺伝子型と共通することもわかっている。状態のよい頭骨4体分も見つかっており、国立科学博物館が顔面の復元を目指している。

 DNA解析を担当する同博物館の篠田謙一・人類研究部長らは、ほかの約10体分の解析も試みている。「どの地域と共通する遺伝子型かよりわかり、起源を探ることができる」。東京大総合研究博物館の米田穣教授は「島で人類がどう生存戦略を立てていたのか。彼らの生活の場もあったはずだ」と指摘する。(神田明美、編集委員・中村俊介)

🔴◆◆国内最古の全身人骨 沖縄・石垣、2万7000年前

2017520日朝日新聞

ほぼ全身の骨格がわかる4号人骨。身長は165・2センチで、比較的高齢の男性と推定されている=沖縄県立埋蔵文化財センター提供

 沖縄県石垣市の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で見つかった複数の旧石器時代の人骨のうち、1体が国内最古となる約2万7千年前の全身骨格であることがわかった。同県立埋蔵文化財センターが19日、発表した。出土人骨は19体にのぼり、世界屈指の規模。4体は頭骨が残り、日本人の起源や旧石器時代の葬送思想を解き明かす画期的な成果だという。

 同遺跡は、新石垣空港の敷地内で発見され、同センターや考古学、人類学などの専門家が共同で調査を進めてきた。約2万年前を中心とした人骨千点余りが安定した地層内から出土し、旧石器人は少なくとも19体とみられる。保存状態はよいという。

 このうち4体は人類の系統を知るうえで重要な頭骨の復元が期待され、「4号人骨」は体つきまでわかる全身の骨がそろっていた。国内唯一の全身骨格例だった港川人(沖縄県八重瀬町、約2万2千年前)以来の発見で、日本最古の人類の姿を知ることができるといい、今後詳しく分析を進める。

 国内で旧石器時代の人骨は10例余り。ほとんどが土壌的に保存にすぐれた沖縄に集中する。

 (編集委員・中村俊介)

🔴◆◆旧石器時代、日本人の顔に迫る 石垣島 最古の全身骨格、分析進む

朝日新聞17.10.19

(港川人の顔の想像図=国立科学博物館提供)

(白保人の頭骨の模型=河野礼子さん提供)

(白保人の全身骨格=沖縄県立埋蔵文化財センター提供)

 国内最古、2万7千年前の全身骨格が、沖縄県・石垣島の遺跡から見つかった。人骨千点余りから、これまでに19体分が確認され、頭骨も4体分含まれていた。特に期待されているのが、人の特徴がもっとも現れる顔の立体的な復元だ。旧石器時代、沖縄・八重山諸島にいた人はどんな顔つきだったのか。作業が進められている。

 5月に発表された、石垣島・白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡の旧石器時代の人骨数は、少なくとも19体分とされたが、今後の研究でさらに人数が増える可能性もある。ここでは2008年に、初めて人骨が見つかり、昨夏まで発掘が続けられてきた。

 大腿(だいたい)骨や歯、肋骨(ろっこつ)など、見つかった骨片を元に、病気やけがの痕跡、食生活などについて、専門家が現在分析を進めている。

 研究を率いる土肥直美・元琉球大准教授は特に顔の復元に期待する。「今回の発見で、違う場所に住んでいた人の顔つきを比べられるようになる」と話す。日本列島で見つかった旧石器時代の頭骨はこれまで、沖縄本島の港川フィッシャー遺跡のみだからだ。

 慶応大の河野礼子・准教授は現在、頭骨の復元を進めている。破片をつなげてCT撮影し、立体的な形をデータ化。左右どちらかが欠けている部分は片方の骨を反転させて補った。このデータをもとに、3次元プリンターで造形した。

 河野さんによると、「港川人」の頭骨は三つとも似ており、現代の東南アジアやオーストラリア先住民に見られる特徴があったという。国立科学博物館が10年に発表した港川人の顔の想像図には、その特徴が反映されている。一方、今回の「白保人」の頭骨には違った特徴があり、それぞれの顔つきも異なる可能性があるという。

 国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長らが白保人の骨の一部のDNAを解析したところ「これまで解析できたDNAでは、東南アジアや中国南部に特徴的な遺伝子型を持っていたことがわかった」と話す。

 こうした解析も参考にしながら、肉や皮膚を模した材料を使って、立体的な顔の復元を目指す。河野さんは「皮膚の色や髪形、目つきなど、骨から分からない部分をどうするかによっても、顔つきは変わるため、慎重に進める必要がある」と話している。

◆草舟・竹舟渡航実験 台湾から八重山諸島、どうやって?

 旧石器時代に、石垣島へどのように人が渡ってきたのかも、大きな謎だ。

 科博の篠田さんらによる白保人のDNA解析の結果、南方から北上した人たちが到達したと考えられている。日本列島周辺の海面は、現在より50~60メートル低かったとされるが、石垣島や与那国島など八重山諸島は当時も島だった。そのころは大陸と陸続きだった台湾と、最も台湾に近い沖縄県の与那国島でも最短距離は約110キロ。間には黒潮が流れている。

 科博の海部陽介・人類史研究グループ長は白保人について「舟で台湾付近から渡ってきたとしか考えられない」と言う。その説を実証するため、3万年以上前に現地で調達できた草などの材料と、当時の道具を使って古代の舟を再現し、海を渡る実験を続けている。

 昨年は、再現した草舟で与那国島から東に約75キロ離れた西表島への航海を試したが、潮に流されて途中で断念した。現在は、2年後に台湾から与那国島への航海を計画している。その前段階として6月、竹で作ったいかだで台湾沖をテスト航行したほか、10月には復元した縄文時代前期の丸木舟で、舞鶴市と沖合10キロの島の往復を試した。海部さんは「どういう舟で渡った可能性が一番あり得るのか、材料や道具も検証しながら実験を繰り返したい」と話している。(神田明美)

琉球へ渡った祖先は「開拓者」 3万年前の航海、東大など分析 「漂流説」を強く否定

朝日新聞2020127 

 約3万年前に琉球列島に住み着いた祖先たちは、黒潮に流されて偶然漂着したのではなく、意図して島へ航海した「開拓者」だった可能性が高い。そんな論文を東京大などのグループが、科学誌サイエンティフィック・リポーツに発表した。海洋調査用の漂流ブイの経路などを分析した結果、「漂流説」が強く否定されたという。

 琉球の島々には3万年前ごろの旧石器時代の遺跡が点在し、人が台湾やフィリピン方面から海を渡ってきたと考えられている。人が移住するためには、10万年以上前からほぼ流路が変わっていない世界最速級の海流、黒潮を横切らなければならない。

 グループは、海に流して位置や水温などを計測する漂流ブイに着目。米海洋大気局などに集まる世界各地のデータから、1989年から2017年に台湾東岸やルソン島北部から流された138個の経路などを調べた。

 大多数は黒潮を横切れず、台湾の北方海上や中国大陸の方へ向かった。黒潮を横断した6個はいずれも台風や強い季節風の影響を受けていた。人が無事に航海するのは難しい気象条件と考えられた。新しい島で人口を維持するには少なくとも男女計10人程度が必要という。漂流する舟に男女がうまく乗り合わせて島に到達する確率は極めて低いと結論づけた。

 海部陽介・東京大総合研究博物館教授(前国立科学博物館人類史研究グループ長)は「漂流説がほとんどあり得ないことを、初めて説得力を持って示せた。海を渡った祖先は、意図的な移住に挑戦した開拓者というイメージが適切だろう」としている。(米山正寛)

◆◆見えてきた石垣島の旧石器人㊤㊦

(赤旗17.07.23-31

◆◆石垣島遺跡㊤旧石器人 どんな顔?㊦ルーツは南方

(赤旗17.03.06.1317.03.13)

◆◆沖縄での旧石器時代・サキタリ遺跡

沖縄旧石器時代 =近年、港川人に続いて旧石器時代の人骨、石器などが発掘されている。

【沖縄旧石器時代遺跡報道する赤旗14.3.233.30

🔴◆◆サキタリ遺跡=世界最古の釣り針発見

沖縄に世界最古の釣り針 2万3千年前

2016920日朝日新聞

出土した世界最古の釣り針(左)と未完成の釣り針(右)

 沖縄県南城(なんじょう)市のサキタリ洞(どう)遺跡で、世界最古となる2万3千年前の釣り針が見つかった。県立博物館・美術館(那覇市)が19日、発表した。素材は貝。国内初の旧石器時代の漁労具で、人類が少なくともそのころから海や川の幸を利用する技術を持っていたことをうかがわせる発見だ。

 釣り針は幅1・4センチ。地表から1メートルほどの層で見つかった。この層の木炭を放射性炭素年代測定をもとに調べた結果、2万3千年前のものと判明した。ニシキウズ科の貝の底部を割り、石などで磨いて加工したらしい。ひもを結び、魚をとったと考えられるという。

 また、貝類の遺骸が1万3千年前から3万5千年前まで途切れることなく堆積(たいせき)していた。焼けた跡があり、食用にした可能性がある。

 旧石器時代の沖縄地域は食料となる動植物が限られ、人々は長期間存続できなかったとする仮説があるが、同館の藤田祐樹主任は「継続的に居住していたことが裏付けられた」と話す。

 国立科学博物館や東京大総合研究博物館などが分析に協力した。調査成果は米科学アカデミー紀要(電子版)に掲載されている。(上原佳久、編集委員・中村俊介)

◆◆沖縄サキタリ洞発掘㊤旧石器海人グルメな素顔

(赤旗16.11.21

◆◆沖縄サキタリ洞発掘㊦知恵と技術で南の島ライフ

(赤旗16.11.28

◆◆沖縄サキタリ洞遺跡=「海と共存する人」各地に

(赤旗16.12.05

◆◆ジャワ原人貝で道具、沖縄サキタリ人も関係するか?

(赤旗15.12.07

🔴◆◆書評・『日本人はどこから来たのか?』 海部陽介〈著〉

2016911日朝日新聞

『日本人はどこから来たのか?』

 夢託され、祖先の旅を追体験

 この夏、ちょっと残念な知らせが届いた。3万年前の航海の再現実験が失敗したのだ。多彩な研究者や探検家から成るチームを率いたのは、海部陽介・国立科学博物館人類史研究グループ長。当時大陸と地続きだった台湾から沖縄に渡った祖先の旅を草舟で追体験しようとしたが、黒潮に阻まれたようだ。

 酔狂で行った実験ではないことは本書を読めばわかる。日本は世界でも珍しく遺跡資料が豊富な国。著者はグローバルに捉えられることのなかった資料を世界の遺跡調査や石器の比較研究、DNA解析と重ね合わせ、新たな人類移動説を唱えた。

 概要はこうだ。約10万年前にアフリカを出た現生人類は4万8千年前にヒマラヤで南北に分かれて拡散し、1万年後に東アジアで再会した。日本へのルートは三つ。サハリンを南下する「北海道ルート」、朝鮮半島から対馬を経由する「対馬ルート」、そして「沖縄ルート」だ。

 これは意図的な移住だった。3万8千年前以降、遺跡が突如出現したことがその証拠だ。沖縄の島々で発見された旧石器時代の人骨には豪州のアボリジニーに共通する特徴をもつものもあり、彼らがヒマラヤの南から南半球に下った集団の子孫であることを示唆していた。

 ではどうやって海を渡ったか。今回はその実証研究第一弾だった。著者は黒潮変動史や移住者数シミュレーションなど新たなアプローチも加えて次の渡航に備えているという。また失敗するかもしれないが、それも前進の糧。懲りない面々なのだ。

 世界は二度と戻れぬ覚悟で大海に漕(こ)ぎ出た勇士によって切り拓(ひら)かれた。彼らは孤独ではなかったろう。著者の計画にネット経由で続々と寄付が集まるのを見ると、当時も冒険者に夢を託し、物心両面から支えた人がいたと容易に想像できる。彼らの知と技の粋を集めた当代一の乗り物には草舟を超えるブレークスルーがあったと思うがどうだろう。夢のまた夢と思われた火星が今、目の前にあるように。

 最相葉月(ノンフィクションライター)

 文芸春秋・1404円=5刷5万1千部 今年2月刊行。7月の航海が話題になり部数を押し上げた。「行動する人類学者にロマンをかき立てられた人が多かったのでは」と担当者。

🔴◆◆(ひと)海部陽介さん 人類が沖縄にたどりついた3万年前の航海を再現する

2016226日朝日新聞

海部陽介さん

 日本の旧石器時代の人骨は大半が沖縄の島々で見つかっている。約3万年前、大陸と地続きだった台湾から海を渡ってきたらしい。どんな航海だったのか。草舟で追体験するプロジェクトを始めた。

 アフリカで約20万年前に誕生した今の人類は、三つのルートで日本にたどりついたとされる。沖縄ルートはその一つだ。国立科学博物館の人類学者として遺跡に通ううち、様々な疑問がわいてきた。

 「流れの速い黒潮の海。どうやってこぎ出したのだろう」

 最も近い与那国島で、流れを考えると航路は約200キロになる。男女の集団でないと子孫は残せない。「舟で渡った」の一言では片付けられない冒険だったはずだ。

 父は国立天文台長を務めた宣男(のりお)さん(72)。幼いころから自然科学を身近に感じ、人類の進化に興味を持ってきた。

 この航海の再現は、これまでにだれも試みたことがない。提案に幅広い分野の研究者や探検家、カヤック大工ら30人近くが集まった。沿岸で実験を重ね、乾燥した草を束ねた舟を選んだ。まずはこの夏、与那国島から西表島までの75キロを25時間かけて渡る計画だ。

 資金はネットで一般から募る。「謎解き体験は研究者だけのものではない。試行錯誤や失敗も含めて情報共有したい」。出資者には、出張講演、標本庫ツアーなど、様々な特典を用意している。

(文・神田明美 写真・関田航)

かいふようすけ(47歳)

🔷🔷(終わりと始まり)日本人はどこから 祖先の道たどる、海図なき実験 池澤夏樹 朝日新聞1987

 用事があって札幌から東京へ出たがあまりに暑い。涼を求めて、軽井沢夏期大学というのに参加する。今年が七十一回目という由緒ある市民講座で、三日間で六つの講義がある。

 ことしの統一テーマは「日本列島人の起源」であるという。日本という国ができる前の話だから、日本人ではなく日本列島人の方が科学的に正確なのだ。

 国立科学博物館の海部陽介さんが話された「日本人はどこから来たのか? 航海者だった祖先たち」という講義が無類におもしろかった。

 我々の祖先はどこから来たのか。今の学説では三万何千年か前の話とされている。朝鮮半島から対馬経由で・台湾から南西諸島へ・サハリンから北海道へ、と主要なルートは三つ考えられる。

 海部さんはアフリカにおけるホモ・サピエンスの起源から話を始めた。やがて彼らはユーラシアに渡り、西へ東へと広がって、最終的には南米の先端まで行き着き、島々にも進出して、南極を除くすべての大陸に住むことになった。

 移動の途上には骨や遺跡が残される。研究者たちはこれを解析して経路を辿(たど)る。おおよその話はぼくも知っているつもりだったが、研究は日進月歩、次々に新しい発見や解釈が加わって上書きされる。

 海部さんはそれらを統合した最新の知見を語ってくれる。どうもこの人は遺跡の現場と研究室に安住できないらしい。最近の実験考古学は古代と同じ方法で石器を作って使ってみたりする。黒曜石の刃物で鹿の骨から肉をこそぎとるのを千回やってみて刃に残る跡を顕微鏡で見るとか。

    *

 海から日本列島に来たのはまちがいない。では手段と具体的な経路は? 仮説は立てられるけれど、実現性はどこまであったのか。海部さんは台湾から与那国島へ古代航法で渡るという実験を提唱した。ここから来たと証明するのではなく、それが不可能でなかったことを示す。

 海を越えるには舟が要る。舟の素材は何だったか。一度目は草を試した。草の舟は南米のチチカカ湖などで今も使われている。同じようなものを造ったのだが、これは失敗。二度目は台湾に多く生える竹を使ってみる。これも航海に耐える材料ではなかった。

 三度目の試みとして丸木舟を造った。木を伐(き)って舟にしたてるのには石器しか使わない。

 これに五人の漕(こ)ぎ手を乗せて台湾を出たのがこの七月七日。GPSはおろか時計さえ持たない。このコースの難関は南から北へ流れる黒潮をいかにして横断するかというところで、北へ運ばれることを計算して台湾の南部から舟を出した。

 実験の理念は大事だが、現実はまた別の問題を持ち込む。天候や海況が完璧という時を待てればいいのだが、スタッフには仕事も生活もある。好条件を待つうちに期限が迫り、ほぼ最終日になって舟を出した。

 伴走船はあるが、それは最終的な安全確保のためであって、舟の五人にはいかなる情報も提供しない。舟は位置と方位がわからないと進めない。星を当てにしていたのに、曇天で織姫も彦星(ひこぼし)も見えなかった。波が高くなれば転覆を避けるための余計な操船が要る。それやこれやで漕ぎ手の疲労がたまる。

 二日目の日没を迎えて漕ぎ手のリーダーはその夜は漕がずに休むと決めた。実際、困憊(こんぱい)してそれ以上は無理だった。海流がだいたい北へ向かっているのはわかっていたから、これに運を任せることにしたのだ。

 この賭けが当たった。夜明けと共に与那国島が、実際には島の上にかかるとおぼしい雲が、見えた。あとは一路平穏、三十時間からせいぜい四十時間と想定していた航海は四十五時間を掛けて成功した。

 ぼくはその感激の日からわずか二十四日後にプロジェクト代表の口から航海の詳細を聞くことができた。興奮したのは当然と言いたい。

    *

 偶然の漂着は移住ではない。少なくとも男女五人ずつが海を越えてはじめて、行った先の地でコミュニティーが持続するという計算があるらしい。今回は男四人に女が一人。

 韓国から対馬は見え、対馬から九州も見える。サハリンから北海道も見える。しかし台湾から与那国はほとんど見えないし、その先、宮古島から沖縄本島はまったく見えない。しかし彼らの遺骨はそこにあった。

 三万年以上前、なぜ彼らは海を渡ったのだろう?

 哺乳類のうちホモ・サピエンスだけが世界中のあらゆる環境へ進出した。生活力が強くて個体数が増えたからというのは一般論でしかない。台湾にいた人たちを促した具体的な動機は何だったか。

 確定した答えはないかもしれないが、段階的に答えに近づくことはできる。今回は大きな一歩だった。次の一歩は何か?

🔷🔷3万年前の航海再現=丸木舟、与那国島に到着、台湾出航45時間後、黒潮横切る

2019710日赤旗

(写真)与那国島に到着した丸木舟チーム=9日正午ごろ(国立科学博物館提供)

 国立科学博物館「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」は9日、日本列島人の祖先が大陸から来た航海の再現をめざして台湾を出航した丸木舟チームが、出航から約45時間後の同日午前11時48分に沖縄県・与那国島のナーマ浜に到着したと発表しました。

 丸木舟チームは7日午後2時38分(日本時間)に台湾東海岸を出航。直線距離206キロメートルの与那国島まで、最大で幅100キロメートル、秒速1~2メートルの世界最大規模の海流(黒潮)を横切り到達しました。

 実験航海は、当時の技術(石斧=せきふ)で製作した丸木舟に食料や飲料水を積み、地図やコンパス、時計はもたず、男性4人と女性1人が交代なしで、困難な航海を成し遂げました。実験航海の資金は、市民や企業から募った寄付を活用しました。

◆解説

遺跡に残らない“失われた人類史” 冒険で復元 人類学新たな一歩

 大陸にいた旧石器時代人は、丸木舟をつくって黒潮を乗り越え琉球列島に渡ることが本当にできたのか、どんな困難がありどうやって克服したのか―。今回の実験航海は、冒険の再現によって科学的な仮説の成立性を検証するという、人類学の新しい挑戦です。

 20万~30万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、4~5万年前ごろにはアジア各地に広がりました。日本列島へは3万8000年前(旧石器時代)ごろから渡来し急拡大したと考えられています。

 大陸から日本列島への移入ルートは三つ。(1)朝鮮半島から対馬を経て九州に至る「対馬ルート」(2)当時は大陸とつながっていた台湾から、琉球列島の島づたいに北上する「沖縄ルート」(3)サハリンを通って陸続きだった北海道に南下する「北海道ルート」―です。

 「3万年前の航海プロジェクト」は、難易度の高い沖縄ルートの航海の再現に挑みました。台湾から与那国島への航海の最大の難関は黒潮。また島影は、台湾の山からは見えても、海に浮かぶ舟からは近くに寄らないと見えません。太陽や星、風が手がかりです。

 この難関を乗り越えた祖先の航海を再現するプロジェクトは、海部陽介代表が6年前に構想。人類学のほか、考古学や海洋民族学、地球科学など多角的な検討で航海モデルを仮定し、探検家や職人たちの協力も得て試行錯誤で進めてきました。

 当時の舟は遺跡に残っていないため、縄文時代にあった丸木舟を超えない技術で黒潮を乗り越えられるかを検証しました。2016年から、草の舟や竹の舟でテスト航海を行った結果、速度と耐久性に難点があると判明。浮力と耐久性に優れ速度が出る丸木舟を採用し、転覆しやすい欠点を補う対策を施し最後の挑戦に臨みました。

 ようやく成功した再現実験。地図もコンパスも天気予報もない3万年前の人類の偉業に改めて思いをはせるとともに、遺跡に残らない失われた人類史を復元する、人類学の新たな一歩となりました。(中村秀生)

◆沖縄3万年前の航海再現

(赤旗16.07.13

🔴◆◆古代の舟で黒潮へ、祖先の冒険たどる 朝日地球会議2017

朝日新聞17.10.26

海部陽介講演・日本人はどこから来たのか? 「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」

 3万年前、私たちの祖先はどうやって海を渡り、日本へ来たのか――。その謎に、実際に古代の舟で航海して迫ろうとする実験プロジェクトの代表を務める国立科学博物館の海部陽介さんが、思いを語った。

 「過去を見つめることは、今どうすべきかという問いへのヒントになる」と海部さんは切り出した。

 プロジェクトの舞台は、約3万8千年前から始まる後期旧石器時代。日本にはこの時代の遺跡が1万以上ある。突然、人口が増えたとみられることから、海を越えていろんな方向から列島に人が入ったとされる時期だ。

 中でも琉球列島への旅は、当時は大陸の一部だった台湾から与那国島まで約100キロの間に、黒潮という強大な海流が行く手を阻んでいる。しかも、「祖先たちは地図も持たず、海の先に何があるかも知らなかった」。私たちの祖先が、そんなところを越えてきたとは、にわかには信じがたい。

 しかし、琉球列島には当時の遺跡が残っている。2万3千年前の世界最古の釣り針も見つかった。「先進的な発明が行われ、人の営みがあったことが分かる。人類が海を越える技術を身につけ、渡ってきたことは明らかだ」

 では、一体どうやって海を越えてきたのか。それを知るため、海部さんたちが選んだのは「昔と同じ舟をつくって航海する」というチャレンジだった。

 クラウドファンディングで約2600万円を集め、2016年夏、干した草でつくった舟で与那国島から西表島をめざした。しかし、海流に流されて失敗した。「いつもより流れが速いのが陸からでは分からず、本当に難しい」と痛感させられた。

 それでも「知りたい」との思いは変わらず、19年に台湾から与那国島をめざすことを計画している。当時の黒潮の流れをさらに研究しつつ、新たなクラウドファンディングも計画中だ。

 海部さんは「祖先たちの謎に迫ることで、彼らの本当の姿が見えてくる。それを通じて、人間っていったい何なのかを探りたい」と締めくくった。

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🔵日本人の起源DNAからの分析

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近年、日本人の起源についてDNAによる研究、分析が大きく進んだ。以下の篠田氏や海部氏の研究成果を紹介する。

🔷🔷日本列島人の起源は(ヤポネシア・ゲノム・プロジェクト)㊤㊦ 赤旗19.05

【以下の5動画=DNAから探る日本人の起源=篠田謙一さんたちの研究】

★★NHKニュース=中国・韓国にはない縄文人のDNA 日本人のルーツDNA解析10m

https://m.youtube.com/watch?v=V1KLC6M4hRc

★★サイエンスZERO「日本人のルーツ発見!~DNA解析が解き明かす縄文人」30m 20160403

または

http://www.myvi.ru/watch/03233028041_bOUa_reb2EKN5jjkehvFZg2

★★教科書が変わる!?DNAから日本人のルーツをさぐる旅70m 20151227

または

http://www.myvi.ru/watch/27193027121_1aKR4IdoZUWYMiuJ3JsmfQ2

★★DNAからみた日本人の起源(縄文人と弥生人)

58m

★★未来を創る科学者達 (6)遺伝子に隠された日本人の起源 ~篠田謙一~30m

🔴◆◆縄文人のDNA、大陸と大きな違い 最も近いのはアイヌ人

201692日朝日新聞

 縄文時代に日本列島で狩猟採集生活をしていた縄文人の遺伝的特徴は、東アジアや東南アジアの人たちとは大きく離れていることがDNA解析でわかった。総合研究大学院大学や国立科学博物館などのチームが、人類学の専門誌ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネティクスに1日発表した。

 福島県北部の三貫地貝塚で出土した約3千年前の縄文人2人の歯から細胞核のゲノム(全遺伝情報)解読を試みた。約30億個ある塩基のうち、約1億1500万個の解読に成功した。縄文人の核DNAの解読は初めて。

 世界各地の現代人のDNAと比較したところ、中国南部の先住民や中国・北京の中国人、ベトナム人などは互いに近い関係にあるのに対し、縄文人はこれらの集団から大きく離れていた。

 現生人類ホモ・サピエンスは4万~5万年前にアジア地域に到来し、その後、各系統に分かれたとされる。今回のDNA解読で、少なくとも1万5千年前よりも古い時期に縄文人につながる系統ができ、東アジアや東南アジアの集団は、別の系統から生まれたと考えられるという。

 日本人では、遺伝的にはアイヌ人が最も縄文人と近い関係にあり、沖縄の琉球人、東京周辺の人と続いた。

 現在の日本人は、縄文人と、弥生時代以降に大陸から渡ってきた渡来人が混血して形成されたと、されていた。チームの国立科学博物館の神沢秀明研究員は「日本人が、縄文人と弥生系渡来人の混血という説が、DNA解読でも裏付けられた」としている。(神田明美)

★★日本列島人の起源に迫る~私達は何処から来たのか~

90m

Youku=http://v.youku.com/v_show/id_XMjk3Mzc0NjY4.html?x

(漢字が並ぶがAPPをプッシュして見ること)

Wifiのみ【中国内限定のYoukuTudouの動画が見れないときの対策 http://yuyu.miau2.net/watch-youku-tudou-video/

アフリカ20万年前誕生→6万年前出発→4万年前日本列島到達=旧石器でわかる。縄文人一律でない・国立科学博物館の馬場氏が解説。

 北方シベリア人=細石刃さいせきじん=北海道白滝の黒曜石からつくるシベリア2.4万年前誕生。マンモスの狩り=木の間にはさんでナイフ槍鏃北海道各地細石刃発見=シベリアと陸続きサハリン経由マンモス追って北海道へ。篠田=北海道の縄文人4種類=うち3つは今日のシベリアと共通。東北は北海道とほぼ共通。関東人はたった10%しかいない。

 朝鮮半島=浜北以外人骨なし。鹿児島の噴火の後朝鮮半島渡来=半島では剥片はくへん尖頭器多数発見4万年前。韓国の煙台島よんで島での人骨15発見=潜水仕事・海の民。07韓国の安土あんど島で5体発見=海の民。九州は剥片はくへん尖頭器約2.7万年前。対馬海峡いまよりずっと狭い。

 南方=港川人1.8万年・150cm顔平べたい従来の縄文人と思われていた=ベトナム最近発見されたハンチョウ人とよく似ている=アフリカからきて東南アジアに住み着いたスンダランド地方=現在の豪アポリジニと共通。沖縄の縄文人=2500年前の武芸洞人は港川人から発達=九州以北とは異なる。この3方向からミトコンドリア分析から細胞のDNAとは違うDNA=篠田分析=現代日本人20種類、縄文12種類=アジア各地に散らばっている。

 この縄文人たちの後に、中国や朝鮮半島から弥生人の渡来。面長平らな顔・がんか深い・歯大きい。稲作急激にひろがる。そして人口急増する。ミトコンドリア分析D4渡来人圧倒。現代日本人は渡来系40%。縄文人約10%、混血も。渡来系が圧倒した。

◆◆海部陽介=日本人の起源

(赤旗16.06.06

🔴◆◆(売れてる本)『日本人はどこから来たのか?』 海部陽介〈著〉

2016911日朝日新聞

『日本人はどこから来たのか?』

夢託され、祖先の旅を追体験

 この夏、ちょっと残念な知らせが届いた。3万年前の航海の再現実験が失敗したのだ。多彩な研究者や探検家から成るチームを率いたのは、海部陽介・国立科学博物館人類史研究グループ長。当時大陸と地続きだった台湾から沖縄に渡った祖先の旅を草舟で追体験しようとしたが、黒潮に阻まれたようだ。

 酔狂で行った実験ではないことは本書を読めばわかる。日本は世界でも珍しく遺跡資料が豊富な国。著者はグローバルに捉えられることのなかった資料を世界の遺跡調査や石器の比較研究、DNA解析と重ね合わせ、新たな人類移動説を唱えた。

 概要はこうだ。約10万年前にアフリカを出た現生人類は4万8千年前にヒマラヤで南北に分かれて拡散し、1万年後に東アジアで再会した。日本へのルートは三つ。サハリンを南下する「北海道ルート」、朝鮮半島から対馬を経由する「対馬ルート」、そして「沖縄ルート」だ。

 これは意図的な移住だった。3万8千年前以降、遺跡が突如出現したことがその証拠だ。沖縄の島々で発見された旧石器時代の人骨には豪州のアボリジニーに共通する特徴をもつものもあり、彼らがヒマラヤの南から南半球に下った集団の子孫であることを示唆していた。

 ではどうやって海を渡ったか。今回はその実証研究第一弾だった。著者は黒潮変動史や移住者数シミュレーションなど新たなアプローチも加えて次の渡航に備えているという。また失敗するかもしれないが、それも前進の糧。懲りない面々なのだ。

 世界は二度と戻れぬ覚悟で大海に漕(こ)ぎ出た勇士によって切り拓(ひら)かれた。彼らは孤独ではなかったろう。著者の計画にネット経由で続々と寄付が集まるのを見ると、当時も冒険者に夢を託し、物心両面から支えた人がいたと容易に想像できる。彼らの知と技の粋を集めた当代一の乗り物には草舟を超えるブレークスルーがあったと思うがどうだろう。夢のまた夢と思われた火星が今、目の前にあるように。

 最相葉月(ノンフィクションライター)

 文芸春秋・1404円=5刷5万1千部 今年2月刊行。7月の航海が話題になり部数を押し上げた。「行動する人類学者にロマンをかき立てられた人が多かったのでは」と担当者。

★★【書評】海部陽介著『日本人はどこから来たのか?』40m

https://m.youtube.com/watch?v=F5mfB77EKOk

★★NHK ラジオ深夜便2016-09-22祖先は海を渡って来た~日本人のルーツをたどる/海部 陽介 かいふ ようすけ )~国立科学博物館 人類史 研究グループ 48m

https://m.youtube.com/watch?v=vxwyBlBCHzM

★★人類学者・海部陽介×荻上チキ「日本人は一体どこから来たのか」48m. 2016.08.25

https://m.youtube.com/watch?v=lOfbrYNoY-s

🔴◆◆(書評)『核DNA解析でたどる日本人の源流

』 斎藤成也〈著〉=縄文系、弥生系とは別の集団も

20171210日朝日新聞

『核DNA解析でたどる日本人の源流』  

 ここ数年で革命的に進歩した遺伝子研究の成果をもとに日本人の起源に迫る。

 読んでみたら思わぬことが書いてあって驚いた。

 日本人はどこから来たのか。これまでの定説は、次のようなものだった。

 旧石器時代、最初に日本列島に移住してきた人々の子孫が縄文人になり、その後北東アジアから別の集団(弥生系)が渡来、先住民である縄文人と混血をくりかえし、これが現在日本列島に居住する多数派の「ヤマト人」になった。一方、列島北部と南部にいた縄文人の子孫は、この渡来人とはあまり混血せず、それぞれ「アイヌ人」と「オキナワ人」の祖先となっていった。

 今では広く信じられているこの説は、現在の日本人集団の主な構成要素を縄文系と弥生系のふたつから説明したことから、二重構造モデルと呼ばれている。

 しかし解析の結果、このモデルでは説明しきれない新たな事実が浮かび上がってきた。

 一番の驚きは、縄文人と渡来系弥生人以外に、もうひとつ別の集団が日本列島に移住してきた可能性が見えてきたことだ。

 本書によれば、縄文時代後期の約4400年前から3000年前にかけて、起源ははっきりしないが、「海の民」と思われる集団が日本列島に移住していたことが推測されるという。彼らは、第一波渡来人(縄文系)と混血しながら人口を増やしていった。その後約3000年前から1700年前になると第三波の集団(弥生系)が到来、第一波の東北にいた子孫は北海道へ移り、その穴を埋めるように第二波の子孫が東北に居住し、さらには沖縄へも移住していった。

 面白い! これまでの考古学の知見とは異なるが、これらの成果を考古学に取り込んでいけば新しい歴史像が浮かびあがってきそうだ。たとえば国ゆずり神話における土着の神は、縄文系ではなく、この第二集団の神だったかもしれない。目が離せなくなってきた。

 評・宮田珠己(エッセイスト)

 『核DNA解析でたどる日本人の源流』 斎藤成也〈著〉 河出書房新社 1512円     

 さいとう・なるや 57年生まれ。国立遺伝学研究所教授。著書に『日本列島人の歴史』『歴誌主義宣言』など。

★★科学チャンネル=遥かなる縄文の記憶~科学の目で見た縄文~30m

WAO高校生講座・岡山大・松木武彦「鮮やかに蘇る縄文弥生古墳時代」1/8(8回計60m) 2-8は下部から。

★中央大学・知の回廊 『縄文文化の実像を探る』30mk

★★三内丸山遺跡(199455m

★★NHKアジア巨大遺跡縄文時代の巨大遺跡=青森三内丸山遺跡58m

http://www.myvi.ru/watch/08210027111_FEBB_0TAikObIUUGkIFymQ2

★青森三内丸山遺跡~縄文時代の史跡探訪

15m

🔴◆◆(科学の扉)古代人のDNAを探る 歯から遺伝情報、現代人と比較可能に

20171217日朝日新聞

古代人のゲノムの秘密<グラフィック・田中和>

 何千年も前の地層から掘り出された古代人の骨から、遺伝情報を記録したデオキシリボ核酸(DNA)を直接取り出せるようになってきた。現代を生きる私たちと、どう違うのか。古代のDNAを探る研究が進んでいる。

 私たち現代人は、祖先のDNAを受け継いでいる。そこで細胞中のDNAを調べれば、遺伝学的な関係から、アフリカに生まれた人類が、各地の民族や集団に枝分かれしていく様子を推し量ることができる。

 だが近年、古代人の骨の中に残っているDNAを取りだし、古代人と現代人を直接比べられるようになってきた。しかも遺伝情報の断片ではなく、生命の設計図といわれる「ゲノム(全遺伝情報)」にまで迫る研究が進む。

 国立遺伝学研究所や国立科学博物館、東京大学などの研究チームは昨年、約3千年前の「縄文人」のゲノムの一部の解読に初めて成功したと発表した。

 調べたのは、福島県新地町にある三貫地(さんがんじ)貝塚から1950年代に発掘され、東大総合研究博物館に保管されていた頭蓋骨(ずがいこつ)の歯だ。

 研究チームは現代人のDNAの混入を防ぐため、許可された人しか入れないクリーンルームで作業。歯科用ドリルで歯を削り、DNAシーケンサーという装置で、内側にあった微量の細胞からDNAを読み取った。

 東大の諏訪元(げん)教授(人類学)は「標本の管理者としては、なるべく標本を傷つけたくはない。簡単には調査を許可できないが、DNAの解析で私たちが何者なのか、初めてわかることがある」と話す。

 こうして縄文人を現在の日本人の集団と比べると、北海道の「アイヌ人」に最も近く、次いで沖縄の「琉球人」、本州の「本土日本人」の順で近いことがわかった。

 また、東アジア人の共通祖先がアフリカから東アジアに移り住んだ後、これまで考えられたより古い時期に、独自の集団に分かれて縄文人が生まれた可能性があることもわかってきた。

 国立科学博物館の神澤秀明研究員は「発掘された人骨の骨格や歯を調べる人類学の研究だけではとらえきれなかったことも、DNA解析でわかってきた」と話す。

◆核に膨大データ

 縄文人のDNA解析にかかわった国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長は「DNAシーケンサーなどのテクノロジーが発展し、どの部分の骨を解析に使うかなどのノウハウも蓄積されたことで、ここ5年くらいで古代人の研究ががらっと変わってきた」と話す。

 今回の研究のポイントは、細胞内にひとつしかない「核」に含まれる「核DNA(ゲノム)」(30億塩基対)を調べられたことだ。

 これまでは古代人のDNAを調べる場合、細胞内でエネルギーをつくっている小器官「ミトコンドリア」に含まれるDNAを調べていた。だが、ミトコンドリアDNAは1万6500塩基対と小さく、得られる情報が限られていた。

 データの量が格段に多い核DNAを調べたことで、読み取ったのが一部とはいえ、これまでの数千倍の遺伝情報を読み取ることができた。さらに、その後、現代人と同じくらいの精度で縄文人のゲノムを詳しく読みとることもできている。また、頭蓋骨の耳周辺の骨にDNAが状態良く保存されている可能性がわかり、研究が進む。

 読み取ったゲノムのデータは膨大になるため、篠田さんは「人類学だけでなく、データ解析や、コンピューターに詳しい人材も研究チームに必要になっている」と話す。

 日本人はいつ、どこから日本列島にやってきたのか。それを知るには、より多くの縄文人のデータを集めたり、縄文時代より昔のDNA分析を進めたりする必要がある。研究チームは、沖縄県石垣市の白保の洞窟で見つかった2万年前の旧石器時代の人骨からも核DNAの分析を試みている。

◆保存状態が左右

 古代DNAの分析は、どこまでさかのぼれるだろう。

 東大の諏訪さんによると、DNAが取り出せるかどうかは、骨が埋まっていた場所や保存状態に大きく左右される。温度が低い場所や太陽光や空気、水にさらされずに劣化が進まない場所が望ましい。

 また、古いDNAは土壌中の細菌などの影響を受ける。福島の例では、見つかったDNAの塩基配列のほとんどが細菌やほかの動物由来のもので、縄文人のDNAは約1%しかなかったという。

 それでも、とても古いDNAについての論文が発表されることがある。米国の研究者が1994年、白亜紀の約8千万年前の化石から「恐竜のDNA」を見つけたと米科学誌サイエンスで発表した。その1年前に映画が公開されたSF小説「ジュラシック・パーク」が現実のものになるかと話題になった。

 ところが、別の研究者が解析したところ、混入したとみられるヒトのDNAだったことがわかった。恐竜のDNAは長年の間に分解されてしまい、今のところ見つかっていない。

 現時点でヒトでは約43万年前に欧州で見つかった旧人類、哺乳類では約70万年前の古代の馬が核DNAを解析した最古の例と考えられているという。

 (小堀龍之)

 <DNAの寿命> 豪州などの研究者が2012年、絶滅した巨大鳥モアのDNAを調べ、放射性物質のような「半減期」があると英科学誌で発表した。モアのDNAの半減期は521年で、長くとも680万年で壊れると推定した。

 <歯石も研究> 歯の汚れが固まった歯石もネアンデルタール人などの歯から見つかっている。歯石に口内細菌や、羊やキノコなど食べもののDNAが含まれていたことが判明し、古代の食生活を探る研究も近年進んでいる。

🔴◆◆「縄文時代」論の変遷

考古学と社会の関わりを研究する山田康弘さん

2016830日朝日新聞

山田康弘さん=迫和義撮影

 あなたは「縄文時代」にどんなイメージを持っていますか? 「狩猟採集で生活し、自然と共生していた」「貧富や身分の差がなかった」「日本文化の原点」……。でも、それは「つくられた幻想」だと、先史学が専門の山田康弘さんは主張する。いつ、なんのために「つくられた」のか。「縄文」の真の姿とはどんなものなのか。

◆「貧しい」「自然と共生・平等」世相映してイメージ180度変化

 ――縄文時代は「つくられた」と主張していますね。

 「『縄文式文化』『弥生式文化』という言い方は戦前からありました。ただ、石器時代の中に狩猟採集の文化と、米を栽培していた文化があったということで、時代のくくりは、弥生の一部を除いて石器時代でした」

 「戦後になって、アメリカの教育使節団の勧告などで、これまでの神話にもとづく歴史教科書ではダメだ、新しい歴史観で教科書をつくれということになった。当時最も科学的な歴史観と考えられていた『発展段階説』に合わせて、狩猟採集段階の縄文式文化から農耕段階の弥生式文化へ発展したと書かれるようになりました。『縄文』『弥生』の枠組みは、新しい日本の歴史をつくるために、ある意味では政治的な理由で導入され、決められたんです」

 ――敗戦がきっかけで「つくられた」わけですか。

 「ただ、まだ『縄文時代』『弥生時代』ではなかった。変化が起きたのは1950年代後半です」

 「1947年に代表的な弥生遺跡である静岡県の登呂遺跡の発掘調査が始まり、広い水田や集落の跡が発見されました。弥生式文化の範囲も、西日本だけでなく関東や東北まで広がっていたことがわかってきます。その段階で『弥生時代』という言葉が出てくるんです。縄文時代から弥生時代を経て古墳時代へという道筋で、日本の歴史が語られるようになります」

     *

 ――なぜ「文化」から「時代」になったのでしょう。

 「50年代は、戦後の日本が講和条約を結び、国連に入るなど、国際社会の中で地歩を占めていった時期です。それと並行して、日本とは何か、日本人とは何かが強く意識されるようになった。その中で、石器時代、青銅器時代、鉄器時代といった世界史共通の区分とは別に、日本独自の時代区分が求められたのだと思います」

 「『弥生時代』は、登呂遺跡のように稲が実り、広々としたのどかな農村という、非常にポジティブなイメージとともに広まりました。戦後まもない頃の日本人は、弥生に日本の原風景、ユートピアを見たんです。その一方で、裏表の関係にある縄文は、貧しい、遅れた時代ということにされてしまった」

 ――縄文はネガティブに見られていたわけですね。

 「当時の日本人にとって、縄文時代は『戦前』のようなものだったと思います。『克服されなくてはいけない時代』だったんです」

 「しかし70年代になると、縄文のイメージは大きく変わります。縄文は貧しいどころか、豊かな時代だったという見方が出てくるんです」

 ――なぜ見方が百八十度変わったのですか。

 「国土の開発が盛んになり、大規模な発掘調査が数多く行われました。縄文の遺跡からも籠や漆を塗った椀(わん)などが続々と見つかり、縄文人が高い技術を持っていたことが明らかになった。一方で、弥生時代の遺跡からは武器がたくさん出てきて、争いの多い時代だったこともわかってきます。『縄文は遅れていた』『弥生は平和』というイメージが崩れてきたんです」

 「もう一つの要因は、70年代の世相です。高度成長も終わって、一息つく時期になる。公害などが社会問題化して、現代社会への懐疑も高まっていました。その中で、旧国鉄の旅行キャンペーン『ディスカバー・ジャパン』がブームになります。社会がアメリカ化されてきた反動で、日本の原点とは何かを探すようになった」

 ――それがなぜ縄文とつながったのでしょうか。

 「『縄文ポピュリズム』の影響もあったと思います。その代表が芸術家の岡本太郎で、50年代に縄文土器を美として『発見』し、日本文化の基底にあるものとして縄文を新しく提示してみせた。岡本たちの『縄文ポピュリズム』が、70年代のオカルトブームや『ディスカバー・ジャパン』的な空気と結びついて、縄文ブームが起きます。呪術を行う一方で、工芸など高い文化を持ち、みんなが平等で、自然と共生していたユートピアとして、縄文が描かれるようになった」

 ――弥生に代わり、縄文が理想の社会にされたと。

 「ところが90年代になると、『縄文階層社会論』が盛んになります。青森県の三内丸山遺跡などが発掘され、これほど大型の遺跡がある以上、単なる平等社会ではなかったはずだという見方が出てきた。平等社会というイメージに疑問符が投げかけられたんです。バブル崩壊後、格差や社会の階層化が問題になった時期で、縄文時代ですら階層があったという話に安易に乗る人も出てきてしまった」

 「縄文のイメージは、考古学的な発見とそれぞれの時代の空気があいまってつくられてきたものです。見たい歴史を見た、いわば日本人の共同幻想だったんです」

     *

 ――実際の縄文の姿とはかなり違っているのですか。

 「研究の最前線では、狩猟採集の時代という縄文の枠組み自体が揺らいでいます。豆の栽培など農耕に近いことをやっていたこともわかり、生業だけで縄文と弥生を分けるのは難しくなっている」

 「縄文といっても地域によって大きく違います。中国・四国地方などの縄文文化は、三内丸山遺跡のような大規模な集落もなければ、人々が長期間定住していたわけでもない。同じ時期に様々な地域文化が併存している。縄文文化は『日本国の歴史』という視点からの総称にすぎません」

 ――とはいえ、「縄文時代」が存在したことに変わりはないのでは。

 「縄文時代や弥生時代という大きな枠組みを設定すること自体はいいんですが、時期や地域によってかなり違いがあることを前提にすべきです。しかし『縄文より弥生のほうが優れている』とする進歩史観や、『縄文こそロハスなユートピア』という考え方がいまだに根強くあるために、その多様性の価値を認めようとしない人が多い」

 ――「縄文幻想」から脱するには、何が必要ですか。

 「どんな時代も、過度に美化しないことです。縄文人は自然と共生していたと言われますが、集落をつくるために森を焼き払ってもいる。人口が全体で20万人と非常に少なかったので、多少自然を破壊しても再生されていたにすぎないとも考えられます」

 「縄文に限らず、ある時代の一側面だけを切り取って、優劣をつけるのは、様々な意味で危険です。『縄文は遅れていた』『縄文はすばらしかった』と簡単に言ってしまうのではなく、多様な面をもっと知ってほしいですね」

     ◇

 やまだやすひろ 49歳 1967年生まれ。先史学者。国立歴史民俗博物館教授。専門は縄文時代を中心とした先史墓制論・社会論。著書に「つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る」「生と死の考古学 縄文時代の死生観」「老人と子供の考古学」など。

◆教科書の記述は

 縄文時代観の変遷は、高校の日本史教科書にも表れている。

 1984年の「詳説日本史(新版)」(山川出版社)では、「縄文時代は、狩猟・漁撈(ぎょろう)・採集の段階にとどまり、生産力は低かった」「人々は不安定できびしい生活をおくっていたと考えられる」となっている。

 一方、2016年の「詳説日本史B」(同)では、「クリ林の管理・増殖、ヤマイモなどの保護・増殖、さらにマメ類・エゴマ・ヒョウタンなどの栽培もおこなわれたらしい」「食料の獲得法が多様化したことによって、人びとの生活は安定し、定住的な生活が始まった」となっており、縄文時代への見方がはっきりと変化している。

 縄文社会が平等だったかという点についても、84年版では「人々は集団で力をあわせてはたらき、収穫物はみんなで公平にわけあった」とされているのに対し、16年版では「人びとは集団で力をあわせて働き、彼らの生活を守った」となっており、「公平にわけあった」という記述はなくなっている。

◆取材を終えて

 歴史の見方は時代によって変わるというのは、頭ではわかっていた。とはいえ、縄文時代の評価が、時代の空気にこれだけ左右されてきたというのは、かなり驚きだった。

 人は「見たい歴史」を見てしまうと山田さんは言う。縄文だけでなく、私たちは江戸時代や明治時代にも「見たい歴史」を見ているのかもしれない。「○○時代はこうだった」という思い込みの危うさを痛感させられた。

 (尾沢智史)

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【筆者コメント】 

🔵NHK日本人はるかな旅(全5回)

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★★日本人はるかな旅 1 =「マンモスハンターシベリアからの旅立ち」

日本の旧石器時代にアフリカから東アジアに到達したのは5万年前。そして日本列島に到達4万年前。縄文人の歯のDNAバイカル湖畔のブリヤート人多数と同じ。顔もそっくり。アフリカ出発酷寒のシベリア最初。短い夏には草原や多様な動物生存。ブリヤートのマリタ遺跡の人骨・マンモス骨・防寒服きた人形。サハリンのオボンスキー遺跡=細石刃発見→2-3万年前氷河期のなかの最寒冷期迎えて動物を追って移動。2-3万年前に日本へ=マンモス追っかけたハンター。子供のマンモスの遺体を水辺に追い込んで狩=水辺に骨多い。トナカイの毛皮を服。鋭い槍。細石刃さいせきじん=動物の骨に堅い石埋め込む=かみそりと同じ入れ替え可能。ブリヤート最寒冷期10度も低下動物移動アラスカ・中国方面・日本列島へ。サハリンでも北海道でも細石刃やマンモス発見。

津軽海峡凍ったとき南下した。2万年前関東平野へも。ナウマン象の狩り。2万年前急激な温暖化7度も上昇。大陸から切り離された列島。1.5万年前ブナ・ナラ針葉樹など森林化=大型動物激減、鹿やいのししやねずみ。2cmくらいの石のやじりなどで小動物。食料難どんぐりタンニンあり新宿百人町遺跡で土器=タンニンを煮ることで除く=1.2万年前=アムール川で生まれたものを継承。シベリアの厚い土器=貯蔵用とくらべて日本の土器は5mmと薄いもの=煮かき用に変化。こうして縄文文化は1.2万年前から。

★★日本人はるかな旅 2 =「巨大噴火に消えた黒潮の民」

または

http://v.youku.com/v_show/id_XMzc3MjMxNTQ0.html?x

南九州の鹿児島の上野原うえのはら遺跡9500年前大規模な縄文遺跡。縦穴住宅。50家族。通常縄文は東日本中心。土器は縄でなく貝殻を使って模様。屋久島に縄文遺跡多数=土器と船の化石=漁労だけでなく植物摂取する定住生活。丸のみ石斧まるのみせきふ=木を切ったり船をつくった?=九州全域や沖縄でも。沖縄の9体港川遺跡=1.6万年前=港川人=背が低い150cm・栄養悪い=骨にハリス線=飢餓=食料もとめて移動=中国人と違ってインドネシアのジャワ島のワジャク人=デュボア発見に頭骨とそっくり==ワジャク人繁栄島でなくジャワ島もふくめ陸続きのスンダランドという島海水上昇して島に。その後いまの島々に=フィリピン・太平洋の島へ。この人々が日本へ来た=馬場説。そして彼らはともに黒潮に乗って南海地方から木造の船にのって。フィリピンの丸のみ石斧は沖縄と共通=1000キロ離れている。たどり着いた沖縄に港川人=縄文人の祖先ともいえる=馬場説。その後1.2万年前黒潮の流れが南九州につくように変化=黒潮=フィリピン沖から5000kmで九州に。上野原遺跡=丸のみ石斧・磨せい石斧・50cm壷型土器=通常弥生時代の稲で使う=穀物栽培ヒエなど雑穀のプラントオパール発見=黒潮文化圏・海の民みたいなもの存在=3000年間つづく。6300年前=鬼かい・硫黄島の大噴火で南九州の縄文人生活崩壊=上野原火山灰の下に。黒潮の四万戸川の近く高知大正町の縄文遺跡=磨せい石斧・貝殻土器。黒潮の流れる和歌山でも磨せい石斧。

★★日本人はるかな旅 3 =「海が育てた森の王国」

または

http://v.youku.com/v_show/id_XMzc2MjA4MTUy.html?x

太平洋側の黒潮と黒潮の分流対馬海流 による列島の温暖化照葉樹中心。森林のなかで定住生活。石斧による木の伐採=住居20年間使用。多様な土器製作。三内丸山遺跡=5500年前から4000年前の1500年間存在最盛期500人=石器・土器・土偶。網かご。漆の器。ひすい=糸魚川。黒曜石=十勝or佐渡。港があって交易。その背景に栗を栽培して栗を食生活の基本=野生の栗はDNAバラバラ。三内はDNA同じ。海がそばにあり海の幸も。盛土=土器などの捨て場。墓に盛土。4000年前3-4度も寒冷化=栗の衰退=栗にあまりに依存しすぎた。ブナなどの森の各地に分散。

★★日本人はるかな旅 4 =「イネ、知られざる1万年の旅」 

または

http://v.youku.com/v_show/id_XMzc2Mzk0NzE2.html?x

 1.2万年前湖南省長江中流=野生のイネから→6000年前=浙江省・河姆渡かぼと遺跡=長江下流=稲作中心・漁労も半農半漁=熱帯ジャポニカ=温暖化進行するなかで6000年前。今でも浙江省漁師台風で流されると日本まで漂流。島根・岡山などで6000年前の縄文時代に土中にプラントオパール発見=雲南よりも早い。佐賀の遺跡も熱帯ジャポニカ=暑い気候好む・もち米と同じ蒸して食べる・焼き畑で肥料なし・ひえやあわなどと一緒に畑で。対馬の潜水する漁労民・半農半漁=中国大陸の漁労民から伝わるコメも同じか。対馬の赤いイネ=古代イネ=熱帯ジャポニカDNA=今より3-4度温度高かった。ラオス奥地でも当初熱帯ジャポニカ=焼畑農業。5500年前に長江下流で水田へ変化=米粒大きくなる。

この熱帯ジャポニカから水田利用の温帯ジャポニカへ変化。中国朝鮮北九州紀元0には青森まで日本列島=担い手は弥生人。韓国南部=縄文土器発見=朝鮮との交易そこから九州へ水田稲作伝わる=菜畑遺跡なばたけ=唐津の最古BC5C最初。板付遺跡も。弥生時代の始まり。熱帯ジャポニカと二つのイネが混合されながら北上=水田イネが寒さに強くなっていく。熱帯ジャポニカよりもずっとおいしい。主として朝鮮半島から渡来した人々によって津軽平野まで300年=青森・田舎館村遺跡で2000年前の水田遺跡発見=熱帯ジャポニカもまじっていた=品種改良・休耕田も。当時世界でもっとも北。いまや北海道中部まで。

国立歴史民俗博物館見解

放射性炭素調査による研究では、従来考えられていた弥生時代(稲などの農耕生産と鉄器使用)は、500年前倒しされ最大でBC10Cから開始されたという。稲作伝播はBC10C九州→BC800四国→BC600近畿→BC500北陸→BC450東北東→BC300東北西→BC200関東=畑作中心で遅れる。この稲作や灌漑農業はBC15C山東半島遼東半島朝鮮半島へ縄文追放BC8-10C九州。稲作と鉄器が弥生といわれていたが鉄器はBC5C中国開始なので弥生スタート後数100年は石器時代。

中橋孝博「日本人の起源」講談社メチェ

稲作ルート=長江下流=BC20Cかぼと遺跡華北遼東半島・朝鮮九州=BC5C菜畑遺跡が有力。古人骨調査も同じ。

篠田謙DNA「日本人になった祖先たち」

NHKブックスでは、渡来弥生人と在来系縄文人の混血。渡来弥生人=東北アジア=山東や遼寧・朝鮮人DNA40%。在来系縄文人=南方系流入=沖縄人25%北方系流入アイヌ。沖縄人とアイヌのDNAY染色体は同じ。弥生人は別のDNAY染色体。アメリカ先住民は中国からアメリカ大陸へ日本にも一部残留。

★★日本人はるかな旅 5集= 「そして日本人が生まれた」

または

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板付遺跡いたづけ(福岡市)BC5C日本最初の水田遺跡=50世帯。炭化米も。敵が存在する環濠集落。福岡空港近くでも水田と人骨発見=中橋調査=弥生人骨=縄文人よりも面長。かめかん・銅剣・銅矛。弥生式土器。弥生人骨=縦2cm長い面長・鼻高くへんぺいな顔・朝鮮民族。縄文人とは違う人種。弥生時代の人々の7割渡来人=人口どんどん増える=やがて小国へ。韓国モッポのヌクトの弥生遺跡=弥生中期土器発見。抜歯人骨=日本人の弥生人が住む九州と交流。菜畑遺跡なばたけ(佐賀)でも。BC5C日本最初の水田遺跡。炭化米あり。

  土井ケ浜遺跡(山口)BC200前。弥生人遺跡20遺体すべて中国朝鮮半島へ頭をむけて埋葬=大陸出身か?中国の山東省400体の遺体・また北京・西安でも。松下調査・土井ケ浜ミュージアム館長=土井ケ浜人骨の頭・血液型と同じ・中橋の血液HLA分析でも中国山東中心と朝鮮半島戦乱の春秋戦国時代から農民その他「楽土求む=新天地」渡る=渡来人たちであろう。朝鮮半島からも=何回も。徳永勝士東大HLA白血球のタンパク質調査B52-DR2型=今日の中国北・朝鮮・日本人共通する渡来人。顔も違い水田稲作と石器による強力な武器弓矢もつ=中国の戦国時代で慣れている=稲作で人口急速に増大=列島北へ稲作経済力と強力な武器=堅い鏃やじり・香川の鋭いサヌカイト・やじりに使う入手。

こうして縄文人たちをさらに北へ北へとどんどん追放。神戸の縄文人の骨に鏃やじりが何本も刺さった人骨濃尾平野まで一端止まる=渡来入り込めず200年間止まる=水田のできない深い森と縄文人密集。

BC5Cやがて関東へ小田原・弥生人との混血やお互いの協力共存していた・両者の文化混合・縄文人が文化取り入れ弥生人も融和交流へ。縄文人が西日本へ行って水田技術摂取した人たちもいた=東北などの土器が西日本に存在。神奈川・小田原の中里遺跡=200人以上の水田遺跡=多数は縄文人。岩手県アバグチ岩穴=子供の人骨=弥生と縄文の混血。松村国立博物館=歯の分析=西日本は弥生系、東日本は縄文系、混血とみられる地域も。まきむく遺跡の土器=東も西もさまざまなもの=日本の原型であろう。

【以下のような学説も存在する(日刊ゲンダイ15.06.19)】片山一道「骨が語る日本人の歴史」(ちくま新書)

🔴◆◆縄文人、骨を測れば胴長短足 研究チーム「北方説支持」

20151130日朝日新聞

 縄文時代の人は「胴長短足」だったとする研究論文を国立科学博物館などのチームがまとめた。縄文人の起源は寒冷な地域の北方説と温暖な地域の南方説に分かれ、これまでは南方説が有力で、手足は長かったと推定されていた。縄文遺跡から見つかった人骨の計測で、北方説を支持する結果が出たという。

 一般的に、温暖な地域では胴体に比べて手足が長く、寒冷な地域では短くなると考えられている。研究チームは、北海道から九州までの20の縄文遺跡から出土した人骨63体と、寒冷な北東アジアから朝鮮半島経由で九州周辺にやってきた渡来弥生人の人骨27体を計測。胴体の長さや腰の幅に対する手足の長さを比べたところ、縄文人と渡来弥生人の間に統計的な差はなく、どちらも胴長短足型だったという。国立科博の海部陽介・人類史研究グループ長は「意外な結果が出た」と話している。(吉田晋)

◆◆DNAから見えた日本人の起源

(赤旗15.11.16

(赤旗15.11.23

(赤旗15.11.30

🔴◆◆相沢 忠洋(あいざわ ただひろ)と岩宿遺跡=旧石器時代

1926621 – 1989522日)は、日本の考古学者。納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年(昭和24年)に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)(岩宿遺跡)の関東ローム層から打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。

【岩宿遺跡に立つ相沢 忠洋像】

1949年(昭和24年)以前、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられており直良信夫などによる旧石器の発見が報告されることはあったが、激しい批判にさらされていた。

そうした時代背景の中で、1946年(昭和21年)、相沢は、岩宿の切り通し関東ローム層露頭断面から、石器(細石器)に酷似した石片を発見した。ただし旧石器と断定するまでには至らず、確実な旧石器を採取するため、相沢は岩宿での発掘を独自に続けていった。

1949年(昭和24年)夏、相沢は岩宿の関東ローム層中から明らかに人工品と認められる槍先形石器(黒曜石製の尖頭器)を発見した。相沢は岩宿の切り通しの崖面から採取した石器や石片を携行して考古学者を訪ねては赤土からた石器が出土する事実を説明して回ったが、まともに取り合う学者はいなかった。この説明のために相沢は桐生から東京までの長距離を自転車で行き来した。 同年初秋、この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉原荘介(当時)に連絡し、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃などの石器を見せた。赤土の中から出土するという重大性に気づいて、同年911日~13日、岩宿の現地で、杉原、芹沢、岡本勇、相沢ら6人で小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われた。そして、11日、降りしきる雨の中をも厭わず掘り続け、杉原の手により、卵形の旧石器が発掘された。後に刃部磨製石斧と名付けられる。920日、東京に帰った杉原はこの発掘の結果を主要新聞に発表した。

その後、同年102日から10日あまりにわたって、杉原を隊長とする明治大学を中心とした発掘調査隊が岩宿遺跡の本格的な発掘を実施し、その結果、旧石器の存在が確認され、縄文時代に先行し土器や石鏃を伴わない石器文化の存在が確実な事実となり、旧石器時代の存在が証明されることとなった。また、日本列島の人類史の始まりを一挙に万をもって数えられる更新世に遡らせた。

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🔵ナウマン象をおっかけていた旧石器時代の野尻湖人

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🔴◆◆昭和史再訪=野尻湖ナウマン象発掘開始

1962326日朝日新聞夕刊

牙から尾まで約6メートルのナウマンゾウの復元像と歯の化石(左奥)=長野県信濃町の野尻湖ナウマンゾウ博物館

「湯たんぽかな?」

長野県北部の信濃町で旅館を営む故加藤松之助さんは1948(昭和23)年10月早朝、旅館近くの野尻湖畔を散歩していて、半分ほど砂に埋もれた不思議な物体を見つけた。家に戻り、スコップを持ってきて掘り出してみた。

ずっしり重く、ブリキの湯たんぽのようにギザギザの溝が並んでいる。京都大学の教授が鑑定してみると、ナウマンゾウの上あごの第三大臼歯(長さ約30センチ、重さ約5キロ)とわかった。野尻湖のナウマンゾウ化石第1号だ。

これを機に、野尻湖底発掘への関心が強まる。どの年代の地層かをめぐって、しばらく「空論」が交わされていたが、古生物学者の故井尻正二さんが「理屈ばかり言っていないで、まず掘ってみては」と提案。62326日、発電所の取水で水位が下がり湖岸が後退するのを待って、1次発掘が始まった。

ナウマンゾウの化石は国内約230カ所で発見されている。だが野尻湖の特徴は、人類との関わりが分かる点だという。5.4万~3.8万年前の地層から、30頭以上の化石とともに旧石器時代の石器や国内最古の骨器が出土。野尻湖ナウマンゾウ博物館の近藤洋一学芸員は「『野尻湖人』がナウマンゾウやヤベオオツノジカを狩猟・解体して生活していた可能性を示す重要な遺跡だ」と言う。

81年には、動物の皮を剥いだりするのに使う骨製スクレイパー(削器)が、約4.6万年前の地層から出た。掘り当てた日本大学松戸歯学部教授の鈴木久仁博さんは当時、高校の生物の教員。縁辺に細かく打ち欠いたような跡があり、「ただの骨片にしては形がきれいだと思った」。発掘現場にスピーカーで「世界最古の骨器の可能性があります」と報告が流れ、参加者たちは沸き立った。

参加者延べ2万人、遺物8万点

1962年に始まった野尻湖の発掘は2010年で18次を重ねる。狩猟した動物を解体した「キル・サイト」があったと考えられる。1973年には、ナウマンゾウの牙とヤベオオツノジカの角が寄り添うように並んだ化石が発見された。「月と星」に見たてた祭祀(さいし)の場だった可能性もある。

全国から集まった発掘参加者は、湖畔周辺の陸上発掘も含めると、延べ24540人、化石・遺物は82920点と比類のないスケールだ。最盛期の7587年ごろは数千人が参加。スコップや竹ベラを握った人たちで潮干狩りのようだった。75年には全国で「野尻湖友の会」が結成され、今も23の会がある。発掘調査団が発行する野尻湖新聞は、18次で通算249号となった。

1962326日朝日新聞夕刊紙面より 

野尻湖発掘の最大の特徴は市民による「大衆発掘方式」だ。見えない「野尻湖人」の痕跡を追い続けるロマンが、今も人びとを魅了する。調査にかかる資材や運営費を参加費やカンパなどで賄う「手弁当の精神」を貫く。参加者は測量や排水、会計、設営などを分担し、成果を載せた野尻湖新聞も発行。地質や哺乳類といった11の専門グループに分かれ、研究にも加わる。

しかし、大衆発掘方式は「素人が遺跡を破壊しているのでは」と批判も受けた。80年ごろには、旧文部省から参加者の専門家リストを提出するよう求められた。が、調査団事務局長だった酒井潤一・同博物館長らは「心配なら現場に来て実績を見ていただきたい」と断った。

従来は、出土品は中央の大学や博物館に集められてしまうことが多かったが、「出土品は地元で保存を」と博物館構想が生まれ、84年、湖畔に今の野尻湖ナウマンゾウ博物館を開設した。

野尻湖の発掘は62年以降、数年おきに途切れることなく続き、事前調査の61年から数えて今年で50年。来年3月には19次が行われる。

「参加者に『お客』はいない。自分たちが主催者だからこそ続いてきた」と1619次の調査団長を務める赤羽貞幸信州大学副学長。

祖父、母、孫と3代続けて参加してきた地元・信濃中学1年の竹内裕哉(ゆうすけ)君は「いつか野尻湖人の人骨を見つけたい」と話した。

(山根由起子)

1次発掘でナウマンゾウの大腿骨の化石を発見した元高校教員・吉越正勝さん

◆「見つけたぞー」叫んだ

1962年の1次発掘の時は、新潟県の中学を卒業した春休みでした。地学クラブの先生と友達4人で参加しました。ナウマンゾウの化石が出るか、皆と100円を賭けました。私たち生徒は「日本にゾウなんかいたはずない」と出ない方に賭けたんですよ。

発掘最終日。割り当てられたグリッド(4メートル四方のます目)を掘ったが、何も出土せず、「グリッド以外の所も掘らせてほしい」と許可をもらいました。大人は諦めて旅館に戻りましたが、私たち5人は、湖底が現れている所を手当たり次第に掘りました。

スコップでスーッと砂をすいていたら、ガツッと何かに触れる感じがしました。長さ1メートルぐらいの茶色いものが見えた。木の枝? でも断面にポツポツとヘチマのような繊維があって、骨だと確信。掘り出して両手で持って「見つけたぞー!」と叫びました。茶色だったのに、たちまち酸化して黒くなったのです。

専門家が「これは、ナウマンゾウの大腿(だいたい)骨に間違いない」。自分の手で掘り出したうれしさは忘れられません。

発掘の面白さを広めたいと、私は高校の地学の教員になりました。野尻湖発掘のスライドを見せ、教え子たちを誘って何度か連れて行きましたよ。発掘が50年も続いてきたのは、自分たちの参加費で賄う「手弁当の精神」が貫かれているからでしょうね。

🔴◆◆野尻湖ナウマンゾウ博物館改装、地域の協働・学びの場=長野・信濃町

201852日赤旗

(写真)第22次野尻湖発掘調査で作業する参加者ら=3月29日、長野県信濃町

 ナウマンゾウの化石で有名な長野県信濃町の野尻湖。湖底から約4万年前のナウマンゾウなどの化石が見つかっており、ヒトが狩りをして解体した場所(キルサイト)だったかもしれないと50年以上前から発掘が続けられています。湖近くにある野尻湖ナウマンゾウ博物館は、市民とともにすすめられてきた発掘の成果を広く知らせようと34年前に開館し、3月20日にリニューアルオープンしました。

 発掘調査には専門研究者や高校・大学生、子どもからアマチュアなど世代を超えて全国各地から参加します。発掘調査が始まって56年になり、これまで約2万2千人が参加してきました。

 「地質学や古生物学、考古学などの分野に分かれ、何か見つかるといろいろな見解がでます」と野尻湖ナウマンゾウ博物館館長の近藤洋一さん(62)は話します。「骨の化石一つとっても総合的な視点から過去を復元していく過程がおもしろい。参加する小・中学生も生の資料と科学を味わうことができ、研究の組み立て方を体験できるのが、野尻湖発掘のいいところです」

 近藤さんは大学1年の時から発掘調査に関わり大学院を修了すると同時に学芸員に。博物館とともに歴史を積み重ねてきました。

 近藤さんは「大規模なリニューアルは初めて」と話します。改装するにあたり町の行政だけでなく地域の人たちのアイデアを生かし「協働」での運営を検討してきたといいます。

 玄関ではナウマンゾウのモニュメントがお出迎え。1階には誰でも気軽に立ち寄れるフリースペースがあり、自然体験など野尻湖周辺地域の情報を収集できます。1階から2階にかけては発掘の成果を余すところなく展示・紹介しています。

 「博物館は地域の宝を分かりやすく伝える場所であり子どもたちの学びの場にもなります。地域づくり人づくりにもつながります。地域に愛された博物館にしていきたい」と熱く語る近藤さん。「多くの人に野尻湖発掘の面白さを伝えたい。ぜひおいでください」(原千拓)

 ナウマンゾウ およそ40万年前から2万年前まで日本に生息していたゾウ。小型のゾウでオスは肩高2・3メートルから2・8メートル、体重4・5トンから5トン、メスは肩高1・9メートル程度。日本で初めて発見されたナウマンゾウの化石を研究した東京帝国大学教授のエドムント・ナウマン(1854~1927年ドイツの地質学者)博士にちなんで名づけられました。日本と中国の一部で化石が発見されており、その中で野尻湖は最も多くの化石が見つかる所の一つです。

🔴◆◆野尻湖22回目の発掘=見つけたナウマン象の臼歯

赤旗18.03.31

🔴◆野尻湖底遺跡(小学館百科全書)

のじりこていいせき

長野県上水内(かみみのち)郡信濃(しなの)町立(たて)ヶ鼻(はな)にある旧石器時代後期の遺跡。1962年(昭和37)以来、野尻湖発掘調査団による計画的な大衆発掘が行われ、成果を収めた。日本の旧石器時代遺跡は普通、石器のみを出土し動植物化石を欠くが、ここでは水面下に包含層があるため、陸上では風化して残りにくい骨器、木器の遺物や動物化石、木材、種子、花粉などが残存。ナウマンゾウ、オオツノシカなどの大形獣を素材とした掻器(そうき)、ナイフ、尖頭器(せんとうき)をはじめとして、大形獣を追い込んで殺傷し解体処理をした場所(キル・サイト)もあった。二つに割られたナウマンゾウの頭骨、ばらばらになった骨格のそばには木槍(きやり)とおぼしきものさえあり、台石と思われる大形礫(れき)を発見した。この湖底調査は、周辺の遺跡との関連性をたどり、住居と猟場との関係を追究する方向に進んでいる。考古学と自然科学とを総合した団体研究は、いままでの発掘にはみられない大きな特徴である。[麻生 優]

『野尻湖発掘調査団著『野尻湖の発掘』(1975・共立出版) ▽信濃毎日新聞社編・刊『野尻湖人を追って――第九次野尻湖発掘の全容』(1984)』

Wiki=野尻湖

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%B0%BB%E6%B9%96

★野尻湖発掘の記録32m

★野尻湖人を求めて35m

★野尻湖ナウマンゾウ博物館|信濃町1m

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🔵昭和史再訪=登呂遺跡発掘

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2011820日朝日新聞夕刊

復元された高床倉庫(手前)と住居が立つ登呂遺跡。戦後、最初の調査時は2キロ離れた静岡駅から遺跡周辺が見えたというが、現在は遺跡周辺に住宅が立ち、駅から望むことはできない=静岡市駿河区登呂5丁目

弥生時代の集落跡として名高い登呂遺跡(静岡市)は、JR静岡駅の南東2キロにある。2千年もの間、土中にあった板や柱の断片から高床倉庫や竪穴住居など9棟が再現され、隣の田んぼでは古代米が栽培されている。8月、夏休みの自由研究に訪れる子どもたちでにぎわっていた。

戦争が激しさを増す1943(昭和18)年、戦闘機のプロペラをつくる軍需工場の建設中に発見された。古代の水田跡の存在は分かっていたが、詳しい調査は戦争終結を待たなければならなかった。

47713日、戦後初となる発掘調査が始まった。主体となった「静岡市登呂遺跡調査会」には考古学だけでなく農業史、地質、建築、動植物学など様々な分野の専門家が参加。明治大学の石川日出志教授(考古学)は「遺跡をめぐるこれほど大掛かりな学際的組織はその後もまれだ。歴史をひもとくことの重要さが共有されていた」と語る。学会の「日本考古学協会」はこの調査がきっかけで誕生した。

調査は夏休みに行われ、東京の大学生や地元の旧制中学校、女学校の生徒らも加わった。静岡精華高女(現静岡大成高校)の生徒だった横澤甲子さんは校内の郷土研究部の部長として参加。「暗い時代が一転、明るく楽しい青春時代に変わった」と振り返る。戦時中にははけなかったスカートで出かけ、初めて男子生徒と言葉を交わした。

万葉集の研究で知られる国文学者で歌人の佐佐木信綱(故人)は現場を見学した際、汗をかきながら発掘する大学生ら30人をねぎらおうと、自作の歌を朗詠した。

「富士の嶺(ね)に/初雪ふれば/稲かりて/暦なき民の/ゆたかに住みけむ」

この歌は合唱曲となり、ラジオから流れた。佐佐木信綱記念館の学芸員磯上知里さんは「信綱と同じ感動が人々をとらえたのだろう」と言う。

発掘の成果は新聞などで次々と報道された。「多くの国民が、神話に基づく戦時中の歴史観から解放され、科学によって明かされる『新しい歴史』に関心を向けた。日本では現在も遺跡への関心が高い。その出発点になった」と石川教授は語る。

吉野ケ里発見後、記述消えた教科書も

登呂遺跡を有名にしたのは、日本で初めて弥生時代の水田跡が確認されたことだった。隣接する住居跡とともに弥生時代の農村モデルと考えられ、1952年に国の特別史跡に指定された。

学校で使われる歴史教科書でも弥生時代の典型的な遺跡として扱われた。しかし、吉野ケ里遺跡で大規模な環濠(かんごう)集落跡が発見されてからは吉野ケ里遺跡を中心に扱う教科書が増え、登呂遺跡が消えた教科書もあった。

東京書籍の渡辺能理夫・社会編集部長は「弥生時代の集落のイメージが、のどかな農村から戦いに備えた環濠集落へと変化したことが大きい」と解説する。もっとも同社の来年度の中学教科書では、弥生時代の米づくりの代表例として本文に登呂遺跡の記述が復活する。

1944128日朝日新聞朝刊

50年まで4年間にわたった調査で浮かんだ登呂の人々の暮らしは、住居が12軒、二つの倉庫を持ち、見わたす限りの田んぼを共同で耕作、村はのどかで平和、と牧歌的なものだった。

86年に調査が始まった弥生時代の吉野ケ里遺跡(佐賀県)では、敵襲に備えたとみられる濠(ほり)が発見された。福岡県にある同時代のスダレ遺跡では石剣の先が刺さった背骨もみつかった。弥生時代のイメージは、「戦いの時代」という見方へ次第に書き換えられていった。

登呂遺跡では992003年に再調査が行われた。大きな濠や墓はみつからず、北陸や山陰地方にみられる桶(おけ)の形をした木製容器が出た。静岡県埋蔵文化財センターの中川律子さん(木製品)は「広範囲な交流の拠点だったのではないか」と推測する。

昨年、弥生人の暮らしが体験できる博物館がリニューアルされた。集落と田んぼを一体にした復元が進む。

静岡市文化財課の菊田宗さんは「訪れる人が、電気製品に埋まった現代人の生活と、自らの力で生きた弥生人の生活とを比べ、いまをみつめる機会にしてほしい」と話す。それが、いにしえを伝えるだけではない遺跡の役割だと考えている。

(平出義明)

大学時に登呂遺跡調査に参加、明治大学名誉教授・大塚初重さん

◆食糧難忘れときめいた

終戦を上海の海軍第二気象隊で迎え、46(昭和21)年に復員。昼は特許標準局(現特許庁)で働き、夜、明治大学に通った。大学教員から登呂遺跡で発掘が始まることを知らされた。

戦前戦中の歴史教育は、神話に基づく皇国史観に染まっていた。自らの手で本当の歴史を明らかに出来るかも知れないと調査参加を決め、勤め先には医師に頼んで書いてもらった仮病の診断書を提出した。

調査に携わった学生の78割は復員兵で、米が食べられない食糧難の時代に、「古代農村の復元」というスローガンも夢をかきたてた。30センチほど土を掘ると、2千年前の水田のあぜ道を補強していた木の杭が出てきた。荒廃した日本はどうなるのだろうかと考えていたとき、先祖が田んぼをつくり、あぜに杭を打ち込んだ苦労を想像すると、その頑張りに励まされた。

現場には、皇太子だった現在の天皇陛下や、後の駐日米国大使のライシャワー博士らが見学にきた。

日本中が生活の厳しさをいっとき忘れ、古代にときめいた。それが登呂の一番の意義だと思っている。

ぼくの考古学研究の道とともに、測量機材を使って科学的、組織的に調査する戦後の考古学もこの遺跡からスタートした。ただ、すべてが判明したわけではない。わからないことはいっぱいある。全体像を明らかにするのはこれからだ。

★登呂遺跡8m

★登呂遺跡~大人の放送委員会(ネットラジオ)8m

★地方遺産vol1 登呂遺跡 ~静岡市 5m

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🔴◆暗黙の雇用ルール、法的には?

(働く人の法律相談)

2016229日朝日新聞

◆「労使慣行」として裁判で保護も

 「私の会社の就業規則では、定年は65歳ですが必要な場合は70歳まで延長できることになっており、実際はみんな70歳まで働いています。でも最近、67歳以降は定年延長しないと言われた人がいて、問題になっています」という相談です。

 働き手の労働条件は、使用者と結ぶ労働契約によって決まります。契約書に書いていなくても、会社が作る就業規則や、労働組合と結ぶ労働協約に定められた内容も、労働契約の一部として労働条件になります。

 相談例では、就業規則から、定年を70歳まで延長するかは会社の判断、とも思えそうです。他方で実際には、これまで70歳まで延長にならない人はいなかったようです。

 労使の間で長期間、繰り返されてきたルールを「労使慣行」と言い、守られるべきルールと労使が意識することで労働契約の内容となる場合があります。

 では、どういう場合に労使慣行として認められるのでしょう。裁判例には、同種の行為・事実が一定の範囲で長期間、反復・継続して行われている▽労使双方が、従うことに明示的に反対してこなかった▽その行為・事実を行うことが労使双方の規範意識に支えられている、といえる場合、労使慣行として成立するとしたものがあります。

 相談例に似たケースで、65歳以降の定年延長を認められなかった大学教員が、定年を70歳とする労使慣行が成立していたとして争った裁判があります。裁判所は、教員の所属学部では定年延長を拒まれた例が20年以上なかったこと、延長が認められているのが現状との文書を大学側が出していたこと、学部長代行が教授会で「定年延長は労働契約の内容」という趣旨の発言をしていたことなどから、労使慣行と認めました。

 相談例の会社でも、もし70歳定年が労使慣行として成立していたなら、定年延長しないという通知は解雇と同じになります。客観的・合理的な理由があり、社会通念上も相当であると認められなければ、無効になるでしょう。(弁護士・木下徹郎)

◇ポイントは

「反復・継続」「労使に規範意識」と認めた裁判例も

契約書に書いていない内容も、労働条件になりうる

🔴◆募集要項と待遇が違っている

(働く人の法律相談)14.03.10

気づいたら、証拠が残る形ですぐ抗議を

 「採用募集の要項には正社員、基本給23万円とあったのに、内定後、入社後1年間は時給900円の有期アルバイトと言われました。苦労して取った内定なので、とりあえず働いていますが納得できません」。昨年4月に社会人になった20代女性の相談です。

 募集要項の内容と違う待遇で働かされる――。実は、珍しい相談ではありません。甘い誘惑(良い労働条件)で学生を誘い、内定通知後に悪い労働条件を求める企業があるからです。

 企業が人を雇う時は、賃金や労働時間などの条件を労働者に書面で示して、労働契約を結ぶ必要があります。気を付けて欲しいのは、示された書面にサインすると、募集要項の時と違っても、その内容で企業と労働者が合意したことになってしまうことです。

 相談者の女性のケースは、労働契約書がつくられていませんでした。その場合、募集要項と異なる労働条件で労働契約が結ばれたのかが争いになります。

 女性は募集要項の条件を主張して、企業に未払い賃金などを請求することはできます。一方で、裁判所が、女性がこれまで会社に表立って文句を言わず働いた点を重視すると、企業が口頭で伝えた労働条件が、有効な契約内容とされる恐れもあります。ですから、労働条件の違いに気づいたら、速やかに企業に抗議をしましょう。その時には、メールやファクスなど証拠が残る形にしておくことが重要です。

 新卒学生の場合、企業との労働契約が成立するのは、一般的に、内定が出た時です。もし、労働条件の書面が渡されなかったらきちんと確認しましょう。せっかくもらった内定だと、企業に言いづらいと思います。でも、入社後に争いになり、後悔するよりずっといいはず。書面が示されたら、募集要項の労働条件と違いがないかも確認するといいでしょう。後でトラブルになった時のために、募集要項と労働契約書はきちんと保存しておいて下さい。(弁護士・嶋崎量)

     ◇

ポイントは

労働契約時に、募集時の条件と違わないか確認を

企業は雇う人に労働条件を書面で示す必要がある

🔴◆就活生「労働条件教えてくれない」

(働く人の法律相談)

2015824日朝日新聞

 就職活動中の大学生から「ある会社から内定通知をもらったのですが、賃金、賞与、労働時間などの基本的な労働条件を教えてくれません。電話で質問したら、『入社したらわかりますよ』と言われました」という相談がありました。

 その学生に、「会社説明会で、労働条件の質問をしなかったのですか?」と聞くと、「就活生は、そういう質問をしないよう指導されている。誰もそんな質問はしませんよ」とのことでした。

 労働基準法15条1項は、「使用者は、労働契約を結ぶ際、労働者に対して、賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない」と定めています。特に、賃金や労働時間、労働契約の期間、働く場所、仕事内容や退職に関する事項は書面で交付しなければなりません。違反すれば、30万円以下の罰金が科されることがあります。

 会社が労働条件を明示しなければならないのは、労働契約の締結時です。新卒者の場合、通常、会社が内定通知を出した時点で労働契約が成立するので、会社はその時までに労働条件を明らかにしなければならないのです。

 内定後に会社に質問をしても、入社日まで労働条件を教えないというのは、とても明かせないようなひどいものなのかもしれません。労働基準監督署に相談する方法もあります。そもそも、そのような会社に入社すべきなのかどうか、もう一度、考えてみた方がいいかもしれません。

 また、会社説明会で労働条件について質問しないのは、望ましいことでありません。労働基準法2条1項は「労働条件は、労働者と使用者が対等の立場において決定すべきものである」としています。質問すらできない関係は、対等とはいえないでしょう。聞きたいことは質問して、きちんと答えてもらった上で、その会社で就職するかを検討するのが本来の姿だと思います。質問したら落とすような会社に将来性があるとは思えません。

 (弁護士・指宿昭一)

◇ポイントは

賃金や労働時間などは書面で交付する義務がある

会社説明会で労働条件を確認して入社の判断を

🔴◆就活の結果は通過者にだけ?

(働く人の法律相談) 金子直樹

2015928日朝日新聞

 「就職活動をしていますが、相手先の企業から『選考結果は通過者だけに伝える』と言われました。他の企業の活動もあるので、選考に通っていなくても結果は知りたいのですが、企業が結果を伝えないのは違法ではないのでしょうか?」

 企業が選考の合格者だけに結果を伝え、それ以外の人には何も通知をしない――。これは「サイレントお祈り」と呼ばれています。不採用の通知をする場合には「今後のご活躍をお祈りします」などと付記されているのに、そうしたお知らせすらないため、この呼び名がついたようです。

 こうした対応が違法かどうかですが、まず、企業には採用の自由があります。採否の結論の時期を明示しないことで採用への期待が生じたり、他の就職活動に支障が出たりといったこともあるかもしれませんが、企業が不採用の通知をしなければならない法的な義務はありません。

 求職者が、不採用の理由を知りたいと思うこともあるかもしれません。しかし、これも法的な義務とは言えないでしょう。採用に際してどのような要素を考慮するかなどは企業の自由で、採用理由を明らかにしたり公開したりしない自由も含むのだと示した東京高裁の1975年12月22日の判決があります。

 とはいえ就職活動に支障がでるのは避けたいところだと思います。企業には要求しにくいかもしれませんが、まずは採否の結果の通知を求めたり、選考期限を明示するよう求めたりしてはどうでしょうか。

 なお、企業はどんな時でも不採用の理由を明かさなくていいわけではありません。派遣労働者が、派遣先の企業に直接雇われる前提で一定期間働く「紹介予定派遣」の場合では、派遣先が派遣労働者の採用を拒否したら、派遣元にその理由を通知しなければならないとされています。

 採否の結果を通知することは若者らの雇用に重要な意味を持ちます。社会的責任として、企業もきちんと通知すべきでしょう。(弁護士・金子直樹)

◇ポイントは

採用の自由には理由を明らかにしない自由も含む

紹介予定派遣の場合は不採用の理由を知らせる義務

🔴◆面接で「うつ病か?」と聞かれたら

(働く人の法律相談)2013.01.21 

 各地で企業説明会が始まり、大学生の就職活動が本格化してきましたね。この時期、「採用面接でうつ病の有無を聞かれたら、答えなくてはいけませんか。言わずに、後でバレたらどうなりますか」といった相談を受けます。

 会社は、どんな人を雇うか自由に決められます。応募者がきちんと働けるかどうか、健康状態を調べ、採用時に考慮することは直ちに違法とは言えません。

 うつ病などの精神疾患で治療中ということも、その判断要素になり得ます。治療経過など客観的事実を聞く程度なら許されることもあるでしょう。ただ、既に治ったのであれば、働く能力に影響しないので、調べるべきではありません。

 そもそも求める人材かどうかは、病気の有無より、面接を重視すべきです。

 また、企業が不必要な調査をすれば、プライバシー権を侵害したとして、不法行為に基づく損害賠償責任を負うことにもなります。

 ある判例では、B型肝炎ウイルスの感染を無断で調べた金融公庫に対し「特段の事情がない限り、採用にあたり、感染の有無を調査してはならない」とし、損害賠償を命じました。警視庁が無断で警察官のHIV検査をしたことも、裁判で違法とされました。

 では採用後、うつ病の治療中であることが知られたらどうでしょうか。重大な経歴詐称は解雇の理由になり得ますが、うつ病であっても支障なく仕事ができれば、問題はありません。

 仕事ができず、職場の秩序を乱すほど重症であれば、解雇もやむを得ないとされることもあります。ただその場合も、治る可能性を考え、事前に休職させるなどの対応が必要です。(弁護士・佐久間大輔)

🔴◆不当解雇、金銭解決できる?

(働く人の法律相談)

金子直樹

20141027日朝日新聞

 「私のことが気に入らないからと遠隔地に配転を命じられ、拒否したら解雇されてしまいました。もうこの会社にいたくありませんが、会社の対応は許せません。どうにかできないでしょうか」

 こんな相談が寄せられました。パワハラやセクハラ、不当解雇などのトラブルをめぐる相談は増加しており、実際「もうこんな会社にいられない」という方も多いのではないでしょうか。

 法的には、業務上の必要性がなかったり、不当な目的に基づいたりした配転は無効となります。したがって、無効な配転に対する拒否を理由とする解雇も無効となり、復職を求めることは可能です。

 解雇が無効であっても、会社が金銭を支払うことで雇用契約を終了するという制度が政府で議論されています。この件に関して、解雇された場合、裁判では復職を求めることしかできず、金銭解決をするためには別途手続きが必要だが、新たな制度でそれが可能になる、といった誤解が多いようです。

 しかし、現状でも会社にお金を支払わせて辞めるという金銭的な解決は可能です。現在議論されている制度がどうなるかはわかりませんが、制度によっては会社の意向だけで労働者が復職する道を閉ざすことになりかねません。

 相談者のように会社に戻りたくなければ、復職を求める形を取りつつ、解決までの賃金(バックペイ)と、退職を前提とした解決金を求めていく方法があります。この方の場合は、裁判所の労働審判手続きの結果、和解日までの賃金に6カ月分の賃金を加えた解決金を会社側に払ってもらうことで解決できました。

 そのほか、労働組合や弁護士を通じての交渉や、労働局のあっせん手続き、裁判所での仮処分手続きや通常の民事訴訟などでも、金銭的な解決が可能です。

 もうこんな会社にいたくないと思っても、「絶対に泣き寝入りはしない」という強い姿勢が大切です。

 (弁護士・金子直樹)

 ◇ポイントは

 労働トラブルの金銭的な解決は現状でもできる

 あらゆる手続きで「泣き寝入りしない」ことが大切

🔴◆解雇予告手当に時効は?

Q 解雇予告手当を請求したら「もう時効だよ」といわれました。やはり時効はあるのですか?

A 労働基準法には賃金や災害補償の請求権について、時効の定めがあります。具体的には「2年」です。残業代の請求がさかのぼって2年分しか認められないのもこの規定によるものです。しかし、厚生労働省は解雇予告手当を賃金とはみていません。ですから時効の規定は適用されないこととなっています。通達でも「一般には解雇予告手当については時効の問題は生じない」と指摘しています。過去に「くびだ」といわれてすぐ辞めちゃった人。今からでも遅くはありませんよ。「連合通信・特信版」

🔴◆内定を取り消されたら?

(働く人の法律相談)新村響子

2015126日朝日新聞

 「ある会社から内定をもらっていたのですが、突然『経営が悪化したから』との理由で取り消されてしまいました」。今春に大学を卒業する男子学生からの相談です。

 新卒の学生に限らず、中途採用の転職者からも同じような相談が多く寄せられています。内定の取り消しは判例上、厳しく制限されています。労働契約は、雇われて働くことと、それに対して賃金を支払うことについて双方が合意すれば成立します。内定の場合も、労働者が企業の求人に応募することが契約の「申し込み」にあたり、企業が内定通知書を出してこの申し込みを承諾した時点で、労働契約が成立します。

 内定取り消しは、この契約を一方的に解約する「解雇」にあたります。判例は内定を取り消せるのは、内定当時知ることができないか、知ることが期待できない事実が後から判明し、それを理由に内定を取り消すことが「客観的に合理的と認められ社会通念上相当として是認できる」場合だけだと言っています。内定者が卒業できなかった場合や学歴、経歴の重要な部分に詐称があった場合などが考えられます。

 相談のような経営悪化が理由の内定取り消しは、短期間で採用が出来なくなるほど経営が悪化することは通常考えられず、経営者は将来を予測しながら経営をする責任がありますから、合理性が認められないことが多いでしょう。内定取り消しが無効の場合、労働者は会社に対して労働契約上の地位があると主張して、予定通り入社させるよう求めることができます。

 経団連が2016年4月入社の採用から、「正式内定」の解禁は大学4年生の10月1日とする「採用選考に関する指針」を発表したため、内定通知書が出される前に「内々定」が出されるケースが増えることも予想されます。裁判例は内々定では労働契約の成立を認めていませんが、その取り消しについて損害賠償を認めたケースがありますので参考にしてください。(弁護士・新村響子)

◇ポイントは 

経営悪化が理由だと取り消しが無効になることも

無効の場合は予定通りの入社を求めることができる

🔴◆経歴を理由に内定取り消し

(働く人の法律相談) 弁護士・金子直樹

15.09.14朝日新聞

 「就職が内定した企業に過去のアルバイトや活動歴が知られてしまい、せっかくの内定が取り消されてしまう事例がニュースになっています。過去の経験を理由に内定を取り消すことは許されるのでしょうか」

 先日、いわゆる水商売でのアルバイト経験があったことを理由に一度は内定が取り消されながら、その後、一転して採用された件が大きく報道されました。また政治的なデモに参加していたことを理由に採用を断られたのでは、といった議論もインターネットを中心に盛り上がりました。

 いわゆる「内定」だと、まだ労働契約は結んでいないように聞こえますが、立派に労働契約は成立しています。企業は勝手に解約することはできません。もし企業側が内定を取り消したいなら「客観的に合理的と認められ、社会通念上相当」であると認められることが必要になります。

 では、どのような場合に内定取り消しが許されるのでしょうか。例えば採用される際に提出した経歴書などに虚偽や事実と異なる事項が記載されている場合、裁判例では、虚偽に記入した内容が重大なもので、労働者としての適格性がないことを示す場合に、内定取り消しが適法となると判断されています。

 最初にあげた例はどうでしょうか。履歴書には職歴欄がありますが、バイトのことも全て書かないといけないということにはならず、デモの参加もあえて書く必要はないでしょう。そして、仮にいわゆる水商売でのバイト経験があったとしても、通常の業務に支障をもたらすような影響が生じるとは考え難いです。

 従って面接時に殊更に虚偽の事実を話したとか、反社会勢力とのつながりがあるというような事情でもない限り、バイト経験やデモへの参加のみを理由とする内定取り消しには合理性などが欠けており、無効だと思います。若いときの経験は人生を豊かにしてくれます。内定取り消しを恐れることなく、色々なことにチャレンジして欲しいと思います。

◇ポイントは

履歴書に全てのバイト歴や活動歴を書く必要はない

経歴の虚偽記載が重大な場合などは内定取り消しも

🔴◆「内定出すから」と就活禁じられた

(働く人の法律相談) 指宿昭一

2015817日朝日新聞

 就職活動中の大学生から「『内定を出すので、他社への就活は禁止します。すでに面接などを受けている会社には辞退の連絡を』と言われた」という相談がありました。企業が就活中の内定予定者などに就活をやめるよう求めることが「終われハラスメント(終わハラ)」として問題になっています。

 採用内定が出れば、通常、企業と内定者の間に労働契約が成立します。今回の場合、来年4月1日から働くという「始期」が決まっている労働契約になります。

 内定を出す前は契約が成立していませんから、企業が「他社への就活禁止」などと命令する権限はありません。また、内定が出て労働契約が成立した後でも、憲法で職業選択の自由が保障されていますから、内定者は他社への就活は自由に行えます。

 他社から内定を受けてそちらに行きたければ、元の内定先に労働契約の解約を申し入れれば、民法627条の規定により、申し入れから2週間が経てば労働契約は終了します。

 では、今回相談した大学生が内定をもらった後、黙って就活を続けていたことが分かってしまった場合、会社は内定を取り消せるのでしょうか。

 企業には、内定通知書や誓約書などに記された内定取り消し事由が発生した時には、内定という労働契約を解約できる権利があると考えられています。

 ただ、仮に「他社への就活禁止」と内定通知書に書かれていたとしても、このような禁止規定は職業選択の自由を侵害し、公序良俗に反して無効になる可能性が高くなります。会社が「就活禁止命令に違反したから内定を取り消した」と主張しても、その命令自体が無効ということです。

 複数の会社を対象に就職活動を行うことは職業選択の自由の行使であり、企業がそれを妨害することは許されません。そういう行為を行うような企業に就職していいのかもよく考えてみるべきだと思います。

 (弁護士・指宿昭一)

◇ポイントは

他社への就活を制限されても、従う必要はない

就活を理由とした内定取り消しは無効になる可能性

🔴◆有給休暇申請で「クビ」と言われた 

(朝日=働く人の法律相談)14.04.07

 「有給休暇を申請したら、『うちにそんな制度はない』と言われた」「『有休を申請するような社員は社風に合わないからクビだ』と言われた」。そんな相談が寄せられています。

 年次有給休暇(年休)の取得は、労働基準法で定められた労働者の権利です。6カ月間継続勤務し、全労働日の8割以上出勤すると年休が10日与えられます。いつ取るかも、理由も労働者の自由です。

 労基法は、年休を取得した労働者に対して「賃金減額などの不利益な取り扱いをしない」という努力義務も企業に課しています。年休を取った社員に皆勤手当を支給にしなかったケースを、「努力義務には反するが、無効とまではいえない」とした判例があります。ただしこの判例も、大幅に減給するなど年休取得を抑制するような不利益取り扱いは「公の秩序に反して無効」と言っています。

 年休を申請したことを理由にした解雇はもちろん、違法です。

 経営者には従業員を解雇する「解雇権」がありますが、「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を乱用したものとして、無効」というルールがあります。年休を申請して解雇された男性のケースでは、労働審判で争いました。解雇が無効であることが認められ、職場に復帰しました。

 労働審判や裁判で、解雇が無効だと確認する場合、労働契約上の「地位の確認」と解雇後の賃金の請求を行います。判決で解雇権の乱用が認められ、地位が確認されれば、労働契約は続いていることになりますから、会社には賃金を支払う義務が発生します。

 過重なノルマを課したり、長時間労働をさせたり、違法に労働者を酷使する「ブラック企業」の被害対策弁護団に寄せられる相談でも、違法といえる解雇が少なくありません。対抗手段はあります。「どうせ職場には戻れない」と諦めるのではなく、労働組合や弁護士にご相談ください。

 (弁護士・指宿昭一)

◇ポイントは

年休申請を理由とした解雇は無効

賃金減額など不利益な取り扱いも禁止

🔴◆しつこい退職勧奨、断れる?

(働く人の法律相談)

2016328日朝日新聞

◆不当な業務命令、応じる義務ない

 「会社の上司に希望退職制度に応募するよう退職勧奨を受けました。断ると、人材会社を指定されて一緒に転職先か出向先を探すように言われました。従わないといけないのでしょうか」という相談です。

 退職勧奨は、企業が労働者に退職を勧め、労働者と企業が結んだ労働契約を合意の上で終えることです。業績が悪化したときなどに、企業が希望退職を募る例が見受けられます。企業側が一方的に労働者を辞めさせる解雇とはちがいます。

 労働者は退職勧奨に応じる義務はありません。会社の希望退職制度に申し込むかは労働者の自由です。辞めたくないと拒否しているにもかかわらず、企業が「うちの会社にはもう君にやってもらう仕事はない」など、何度もしつこく退職勧奨することは問題があると言えます。人事評価の引き下げや給料の減額をちらつかせて辞めるように仕向けると、違法な退職強要になる可能性があります。勤務先から長期にわたって辞めるよう勧奨された教諭が裁判を起こしたことがあります。しつこい退職勧奨を違法とした判決が出ました。

 そもそも「出向先や転職先を探すのがあなたの仕事だ」と命じることは不当な業務命令と言えます。労働者には従う義務はありません。労働契約法(2条と6条)では、労働契約を結ぶことで、働き手は企業に労務を提供する義務が生まれます。一方、企業には働き手に業務(仕事)を与える義務が生じます。企業が労働者に対して仕事や転職先を自分で見つけるよう命令することは、労働契約を逸脱すると言えます。

 会社から退職勧奨を受けることがあったら、一人で抱え込まないでください。「大事な問題だから家族とも相談させてほしい」などと言い、回答まで時間の猶予を確保することが重要です。その間に、日本労働弁護団や各地の弁護士会と連絡を取り、労働事件を専門に扱う弁護士に相談することをお勧めします。

 (弁護士・棗一郎)

◇ポイントは

しつこい退職勧奨を違法とした裁判例も

「出向先を探せ」は業務命令を逸脱

🔴◆退職勧奨でも離職票に「自己都合」

嶋崎量

(働く人の法律相談)

20140818

 退職勧奨を受け、会社を辞めた女性からの相談です。「退職後に会社から郵送されてきた離職票の離職理由の欄に、『労働者の個人的な事情による離職』とされていました。会社都合の退職と何が違うのでしょうか?」

 離職票とは、労働者が失業給付を受給するためにハローワークに提出する書類です。離職理由が「会社都合」か、「自己都合」かでは大きな違いがあります。

 会社都合の場合、7日間の待機期間後、すぐに失業給付を受けられます。一方で自己都合の場合は、待機期間に加え3カ月間、給付を受けられません。

 会社都合で離職したときの失業給付は、退職時の年齢や雇用保険の加入期間に応じて、90日から360日まで受けられます。退職時の年齢が30歳で加入期間が8年の人なら、180日です。ただし自己都合の場合、年齢に関係なく90日に短くなります。

 離職票には、事業主が記入した離職理由に対する異議の記載欄があります。ハローワークに提出する際には、退職勧奨による退職であることを担当者に伝えましょう。離職理由を変更してもらえる可能性があります。

 離職理由を争った裁判もあります。業務態度が悪かった従業員の退職を「自己都合」にした企業に対し、裁判所は「懲戒解雇する代わりに退職を促した結果であり、会社都合の退職」と認定。企業が自己都合退職として離職票を作成したことを不法行為とし、失業給付の差額159万円などの支払いを命じました。

 自分から辞めた場合でも、会社都合と同じように扱われるケースもあります。求人広告に書かれていた労働条件が実際には大きく違っていたり、賃金不払いがあったりした場合です。配偶者の転勤を理由に離職した場合などは、3カ月待たずに受給できます。

 やむなく退職に追い込まれてしまったのに自己都合とされた場合には、諦めずにハローワークや弁護士に相談してください。(弁護士・嶋崎量)

 ◇ポイントは

 離職理由に疑問あればハローワークに相談を

 賃金不払いがあれば、すぐに受給が可能

🔴◆同業他社への転職はダメ?

(働く人の法律相談) 新村響子

201522日朝日新聞

 「退職にあたって同業他社に転職しないという誓約書にサインするよう求められています。もしサインして、競合会社に就職すると損害賠償などを請求されてしまうのでしょうか」。生命保険会社で働く40代女性からの相談です。

 競合会社に就職しない義務のことを「競業避止義務」と呼びます。最近、退職時にこのような誓約書にサインを求めたり、就業規則に退職後の競業避止義務を入れたりする企業が多くなっています。独自の技術や営業ノウハウ、顧客情報といった企業秘密を守るためです。

 しかし、労働者は憲法上、職業選択の自由が保障されており、退職後にどの会社に就職するかは原則自由です。もし、義務に合意していた場合はどうでしょう。裁判例では、(1)会社の正当な利益の保護が目的であること(2)従業員の在職中の地位や業務内容、(3)制限される業務や期間、地域(4)機密手当といった代償措置の有無、などを総合的に考えて判断しています。

 生命保険会社の元執行役員が競合他社へ転職したところ、退職時に合意していた競業避止条項により退職金を支給されなかった事件があります。

 裁判所は、営業で得た人脈や交渉術などは労働者が能力と努力によって得たもので、守るべき会社の正当な利益にはあたらないと判断。元執行役員という高い地位でしたが、「機密性のある情報に触れる立場とは言えず、競業を禁止する業務の範囲や期間、地域が広すぎる」などとして、合意した競業避止義務を無効と判断しました。

 ただ、競業避止義務が有効になることもあるため、誓約書などに安易にサインしないことが大切です。会社から「競業避止義務に違反した」として損害賠償を請求されたり、退職金の返還を求められたりするトラブルに巻き込まれないように気をつけてください。もし、サインする場合には、競業避止の範囲や期間を限定的なものにするように交渉してみましょう。

 (弁護士・新村響子)

 ◇ポイントは

競業避止義務の有効性は諸事情を考慮し判断される

競業避止義務に安易に合意するとトラブルのもと

🔴◆退職届を受け取ってもらえない

(働く人の法律相談)

橋本佳代子

20140707

 「長時間労働に耐えられず、会社に退職届を出そうとしたのですが、上司が受け取ってくれません。このまま働き続けないといけないのでしょうか」。30代の正社員からの相談です。

 最近、このような悩みをよく聞きます。期間の定めのない労働契約を結んでいる労働者は、2週間前に申し入れをすれば自由に退職できると民法は定めています。会社の承認を得る必要はありません。

 退職するときは1カ月前までに届けを出して会社の許可を得なければならないと定めた就業規則について、予告期間を2週間より長く定めた部分と、会社の許可を必要とする部分は無効と判断された裁判例があります。

 もちろん会社が認めれば、すぐにでも辞められますが、原則は退職を申し出てから2週間は働かないといけないので、円満に退職できるのが一番です。もし会社がかたくなに退職届の受け取りを拒むような場合は、内容証明郵便で退職を申し入れることが考えられます。この場合、実際に会社を辞められるのは、内容証明が会社に届いた翌日から2週間後です。

 年次有給休暇(年休)が残っていたら、退職までの2週間を年休にあてることもできます。通常ならば、年休を申請しても「業務に支障がある」などと言われ、会社から別の日に変えるよう求められることがありますが、この場合は変更があり得ないので、堂々と取得できます。

 一方、期間の定めのある労働契約を結んでいる労働者は、「やむを得ない事由」がなければ期間の途中で退職できないとされています。ただ、実際は認められるケースも少なくありません。病気やケガで長期間働けなくなってしまった場合や、長時間労働を強いられている、職場でハラスメントを受けているといったケースがあります。

 長時間働いた証拠としては、タイムカードのコピーやメールの送信時刻の記録などをとっておくことをおすすめします。

 (弁護士・橋本佳代子)

 ◇ポイントは

 会社が強硬なときは、退職届を内容証明郵便で

 有期契約の労働者は「やむを得ない理由」がいる

🔴◆バイトを辞めさせてもらえない 

 (働く人の法律相談)嶋崎量

201529日朝日新聞

 塾講師のアルバイトをしている女子大学生からの相談です。「大学の試験や卒論のため、アルバイトを辞めたいのに、辞めさせてもらえません。上司から『責任を取れ』『辞めるなら代わりの人間を用意しろ』などと言われて、怖くて辞められずにいます。どうしたらよいでしょうか」

 学生らしい生活を脅かすほど働かされる「ブラックバイト」にかかわる相談は最近、増えています。今回は退職を妨害されているというご相談ですが、まず大切なのは、アルバイトであれ正社員であれ、労働者は自由に会社を辞める権利があるということです。憲法は職業選択の自由を保障しており、労働基準法は強制労働を禁じています。労働者には自由に退職する権利が保障されているのです。

 ご相談のケースでも、自由に退職できます。あとで受け取っていないと言われないように、証拠が残る形で、会社に「退職届」を提出して下さい。

 ポイントは「退職願」ではなく、「退職届」と書くことです。「退職願」では、会社との合意で退職する退職形態(合意解約)になり、会社が退職を妨害している場合には適しません。会社が拒否していて、労働者が一方的に退職しようとしている場合(辞職)は、表題を「退職届」とし、本文は「○○年△月××日をもって退職いたします」などと書きましょう。

 退職日の設定は、実際に退職する日の少なくとも2週間前には退職届を出し予告する必要があります。

 アルバイトの契約期間が定まっている場合は注意が必要です。契約期間の途中で辞職しようとする場合、辞職に「やむを得ない事由」が必要だからです。ただ、ご相談のように、学生の本分である学業の都合であれば、やむを得ない事由と認められます。

 アルバイト先による退職妨害の問題は、辞めてしまえばいいだけと簡単に考えがちですが、まじめな学生ほど悩んでいるのが現実。1人で悩まず、早めに専門家へ相談することをお勧めします。(嶋崎量)

 ◇ポイントは

 「退職願」ではなく「退職届」を出す

 契約期間内でも学業が理由なら辞職可能

🔴◆不当な解雇に一矢報いたい=労働審判の活用

(働く人の法律相談)140512

 未払いとなっていた残業代の支払いを求めたところ、ろくに仕事もできないくせにお前なんかクビだと、解雇を告げられてしまった、という男性から相談がありました。

 明らかに不当な解雇で、解雇は無効といえます。ただこうした不当な解雇の場合、復職を目指すのは実際のところなかなか難しいうえ、次の仕事を探しながらの裁判は大変です。この男性は、もう会社に勤め続ける気はないといいます。しかし「会社に一矢報いたい」と相談に来ました。

 職場復帰にこだわらない場合には、裁判よりも早く、一定程度の金銭的な解決をする労働審判という方法があります。

 裁判は約1年かかる場合が多いのに対し、労働審判手続きであればおよそ3~4カ月で解決できることがほとんどです。裁判官である審判官と、労働組合経験者や企業の人事経験者など労使の専門家でつくる労働審判委員会が当事者や関係者から事情を聴き、話し合いによる解決(調停)や判断による解決(審判)を目指します。

 今回のケースでは、労働審判を申し立ててから1カ月後に1回目の労働審判が開かれました。この日は委員会のメンバーが、男性や会社側に対し、解雇の経緯やこれまでの男性の働きぶり、仕事の内容や労働時間などを質問しました。

 その3週間後、2回目の労働審判が開かれました。委員会から解雇は無効との方向性が示され、会社が給料10カ月分の解決金とタイムカードの計算どおりの残業代を支払うという提案がなされました。その場で、双方が同意。1カ月後にお金が支払われました。

 この場合は解決まで3カ月半でした。裁判に比べて得られる解決金が少ない場合もありますが、負担の少なさやスピードが労働審判の利点です。

 また残業代請求をしたいけれど、タイムカードなどの証拠がなく、日記やメモしかないという場合でも、労働審判なら柔軟な解決ができる場合があります。(弁護士・金子直樹)

 ◇ポイントは

金銭解決希望するなら、労働審判にメリットも

日記やメモしかなくても、残業代請求できる

🔴◆試用期間後、本採用を拒否された

(働く人の法律相談) 橋本佳代子

2015615日朝日新聞

 「この4月に新卒で就職しました。当初は3カ月間の雇用契約で、その間に能力や適性に問題がなければ本採用されることになっています。これまで本採用をされなかった人はいないと聞いていましたが、先日社長に呼び出され、本採用はしないと言われました。入社したての頃に小さなミスはしましたが、それ以降はしていません。長く勤めるつもりだったのに、どうすればいいでしょうか」。20代男性からの相談です。

 会社が労働者を新たに採用する際、初めの数カ月について期間の定めのある労働契約を結び、その間に問題がなければ期間の定めのない労働契約に移行するケースが見られます。

 この場合、形の上では初めの数カ月間が有期の労働契約でも、期間を設けた趣旨や目的が労働者の適性を評価、判断するためであれば、その期間が満了すれば雇用契約が当然に終了する明確な合意が当事者間に成立しているなどの特段の事情がない限り、その期間は期間の定めのない労働契約のうちの試用期間である、とした判例があります。相談者のケースも試用期間だったと見ていいでしょう。

 試用期間とは、労働者の適性や勤務態度、能力を会社が見て、本採用をするかどうかを判断するためのものです。試用期間であっても労働契約は成立していますし、労働者は長くその会社で働けると期待しています。本採用拒否は普通の解雇よりも認められやすいのですが、会社が自由に決めることはできません。

 本採用拒否が許されるのは、十分な指導をしても能力不足が顕著で、改善の見込みがない場合など合理的な理由があり、社会通念上も相当と認められる場合に限られます。

 入社したばかりですから、小さなミスをすることもあるでしょう。ただ、相談者はそれ以降は失敗を繰り返さなかったということですから、会社は期間が満了したというだけで雇用契約を終えることはできないと考えられます。専門家に相談することをお勧めします。(弁護士・橋本佳代子)

◇ポイントは

会社は試用期間が終わっても簡単に解雇できない

試用期間中は形式的に有期の契約を結ばされる例も

🔴◆試用期間中の解雇、許されるの?

(働く人の法律相談)2013.04.08 

 4月になり、学校を卒業したり転職したりして会社に入り、「試用期間」として働いている人も多いのではないでしょうか。

 最初の給料日。連日の残業にもかかわらず、残業代が支払われていないことがわかりました。おかしいと思って会社に尋ねたところ、「君はこの会社にあっていない。期待した成果も出していない。試用期間はお試し期間だから辞めてもらう」。こんなことは許されるのでしょうか。

 試用期間でも労働契約は成立しています。当然、労働基準法や労働契約法が適用され、会社は残業代を支払う義務があります。

 残業代について質問したくらいで、解雇することはできません。試用期間とは、実際に働いてもらって、会社にふさわしい人かを判断するためのものです。だからといって、試用期間中に解雇したり本採用を拒否したりできるのは、合理的な理由があり、常識的にみても妥当だと判断できる場合に限られます。

 それでは、試用期間中に、会社が期待したほどの能力や資質がないと判断した場合、解雇されるのはやむを得ないのでしょうか。

 証券会社で試用期間中の営業社員が解雇された例を挙げます。この社員は月給65万円の約束で中途入社したのですが、入社後3カ月で稼いだ手数料の平均が月40万円弱でした。試用期間は6カ月でしたが、会社は「給料分も稼げないのは資質に欠ける」として、3カ月目で解雇したのです。

 この社員が解雇は無効だとして会社を訴えたところ、裁判所は「3カ月間の手数料収入だけを判断材料にして、この社員の能力を見極めることはできない。試用期間の6カ月がすぎた時点で、適性を最終的に判断するべきだ」として、社員の訴えを認めました。

 試用期間として働く人は、この期間が終わった後に本採用されるという期待を持っています。会社が想定していた成果が直ちに出せなかったとしても、会社は改善や教育の機会を与えるべきです。 (弁護士・梅田和尊)

  ◇ポイントは

試用期間中も労働法が適用される

試用期間中の解雇は合理的な理由が必要

🔴◆試用期間中のミスで解雇される?

(朝日=働く人の法律相談)14.04.14

 新しい仕事を始める人も多い4月。慣れない仕事では失敗はつきものです。「ミスや知識不足を理由に、試用期間後に本採用をしてもらえなかった」といった相談もあります。

 試用期間とは、入社後の一定期間、経営者が労働者の働きぶりをみて本採用するかどうかを判断する期間です。「留保解約権」といって、試用期間中の労働者の勤務状態によっては、能力や適格性がないと判断され、試用期間中の解雇、もしくは本採用拒否という形で解約権が行使されることもあります。

 つまり本採用の後よりも、経営者に労働契約の解除(解雇)が認められやすい期間ではあります。業務の習得に熱意がなく、上司の指示に従わない、協調性に乏しい、という理由で解雇された労働者の裁判では、解雇を有効と認める判決が出ました。

 しかし、不合理な理由による本採用拒否は認められません。残業代を請求した、就業規則を見たいと言った、セクハラをやめるように言った、などで「社風に合わない」と解雇を告げられたケースもありますが、これらは合理的な理由には当てはまりません。

 新入社員の場合、ある程度のミスがあったり、仕事に不十分な点があったりすることはやむをえません。新入社員に責められるべき点が若干ある場合も、「会社には教育的見地から合理的範囲内でその矯正・教育に尽くすべき義務がある」として解雇を無効とした裁判例があります。

 試用期間の途中での解雇は、本採用までに能力や適性が向上する可能性もあるので、試用期間満了時の本採用拒否に比べ有効な解雇といえるかどうかが厳しく考えられています。裁判で本採用拒否が無効とされた場合、通常の解雇の場合と同じく、労働契約上の「地位の確認」と解雇後の賃金の請求を行えます。

 見習い期間だから仕方がないと泣き寝入りせず、労働組合や弁護士にご相談ください。

 (弁護士・指宿昭一)

 ◇ポイントは

 本採用後より解雇は若干認められやすい

 不合理な理由による本採用拒否は無効

🔴◆能力上がってないと解雇できる?

(朝日=働く人の法律相談)13.06.17

リストラ目的の改善計画は違法の場合も

 非常に高い業務の改善目標をつくらされ、できないという理由で、会社に辞めるよう迫られました。どうしたらいいでしょうか。40代男性からの相談でした。

 働く人に無理な目標や抽象的な改善項目を立てさせ、成績不良を理由に解雇する。あるいは、降格・減給や閑職への配転などを示唆し、自主的に辞めるよう誘導する。

 これは業績改善計画を悪用した新型リストラで、2008年のリーマン・ショック以降、増えたものです。英語の「パフォーマンス・インプルーブメント・プラン」の頭文字を取り、PIPと呼ばれます。

 PIPは本来、働く人の能力を高め、業績の向上につなげることが目的です。本人の同意の上で、目標や改善項目を立て、行動計画をつくり、人事部などが達成度を検証します。改善がみられない人を解雇する制度ではありません。ところが、日本では、会社が辞めさせたい人を退職に追い込むためにPIPを使う例が数多くあります。

 会社の行為が違法かどうかは、(1)PIPが、求められた本人に本当に必要か(2)リストラなどの不当な動機に基づいていないか(3)PIP後の人事処遇が本人の大きな不利益となっていないか、の三つの基準で判断するとよいでしょう。

 ただ、会社側が働く人の能力を高めることは不当ではなく、PIP自体を拒むことは難しいでしょう。目標の決め方やその後の評価も、実際には会社側にかなりの裁量が認められます。リストラの手段としてPIPを使ったのかも、判断が難しい場合があります。

 最近、PIP後に能力不足を理由に解雇された米金融情報通信社の日本人男性記者の訴訟で、東京地裁が注目すべき判決を出しました。PIP自体は、違法とはしていませんが、PIPに基づいた評価は、解雇の理由として「客観的合理性があるとはいえない」と判断し、解雇無効を言い渡しました。東京高裁も4月、東京地裁の判断を維持する判決を出しています。(弁護士・棗〈なつめ〉一郎)

     ◇

ポイントは

会社が求めた改善計画を拒否するのは難しい

違法かどうかは、計画後の不利益扱いで判断

🔴◆労災休職中の解雇は許される?

(働く人の法律相談)2013.01.28 

 「仕事中の事故で休職しているときに、解雇を通告されました。会社は『打切(うちきり)補償』を支払うと言っていますが、仕事は続けたいです」という相談を受けたことがあります。

 労働災害は、企業の活動で生じるものですから、安易な解雇は許されません。労働基準法では、労働者が業務上のけがや病気で休んでいる期間と、その後30日間は解雇できない、とされています。

 この相談にある「打切補償」とは、労働者が療養を始めて3年経っても治らない場合に、会社が平均賃金の1200日(3年3カ月余)分を支払うものです。これで会社は解雇できるようになりますが、治療費を会社が負担している場合に限られると考えられます。

 東京都内の私立大学職員は、頭痛や疲労感の症状が出る頸肩腕(けいけんわん)症候群で労災休業していたところ、大学から打切補償が支払われ、解雇されました。これを不服として訴えたところ、治療費は労災保険が払っていたことから、裁判では解雇が無効とされました。

 ただ、労災保険から治療費が出ていても、解雇できるケースがあります。労災保険では、治療費のほかに、休職中であれば休業補償が受けられます。症状が重くて1年半経っても回復が見込めなければ、傷病補償年金に切り替わります。この年金を受け、かつ休み始めてから3年経っていれば、復職できないとみなされ、会社は解雇できるようになります。

 会社は、長い間休んでいる人を解雇したがるかもしれません。しかし、労災での療養中は職場復帰の可能性がある限り会社は解雇できないと、遠慮なく主張すべきです。(弁護士・佐久間大輔) 

🔴◆「今日でクビ!」ってあり?

Q テレビドラマで「あんたはクビ!」なんてシーンがあるけど、そんな簡単にクビを切れるの?

A 解雇は使用者の自由ではありません。まず、労働災害の休業中とその後30日、産前産後の休業中とその後30日間は解雇できません。組合に入ったのはけしからんと解雇するのも違法です。加えて、一昨年の労基法改正で、合理性がなく社会通念上も相当性がない解雇は「無効」になるとの規定が設けられました。理不尽な解雇はできません。労基法には、1カ月前の解雇予告か1カ月分の賃金支払いを定めています。1カ月分の賃金も払わず「今日でクビ」というのは、完全な労基法違反です。「連合通信・特信版」

🔴◆会社の車で3回事故、解雇有効か

(働く人の法律相談)13.11.1

事故の大きさや事後対応など総合的に判断

 勤め先の運送会社のトラックで、2年弱のうちに3度事故を起こしてしまい、解雇を通告されました。自分が悪いとあきらめるしかないのでしょうか。30代の男性からの相談です。

 仕事は完璧にこなしたいですが、ミスはつきもの。時に会社に迷惑がかかることもあるでしょう。法律では、「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を乱用したものとして、無効」です。解雇権の乱用はだめですよというルールです。

 このルールは、数々の裁判例が積み重ねられる中で、1970年代の最高裁判決で確立されて以降、解雇の有効・無効の判断の道しるべとなってきました。

 解雇が相当かどうかは、一つひとつの事実から判断されます。事故の大きさや本人の事故後の対応なども考える必要があります。相談のケースでは、男性がプロの運転手であることなどから、裁判では解雇は有効となってしまいました。

 ただ、有名な判例を紹介すると、約2週間の間に寝坊を2回して、担当していた朝のラジオニュースを放送できなかったアナウンサーの解雇が、解雇権の乱用とされました。このアナウンサーを起こす予定の職員も寝坊したのに解雇されなかったことや、それまで勤務成績も悪くなかったこと、ミスを謝罪していることなどが考慮されたのです。大きな失敗だけをとりあげ、即座に「解雇やむなし」とは、必ずしもできないことを示しています。

 働くことは労働者の生活の糧。これが不当に奪われないようにするのが、このルールです。「使用者は、能力や行為、企業運営上の妥当な理由がなければ、労働者を解雇できない」と定める条約もあり、国際的な基準と言えます。

 政府の国家戦略特区の議論でも、特区内の解雇ルールを特別に定め、裁判所の判断も拘束されるようにすることが一時議論になりました。そのようなことを認めていいのか、よく考えるべきです。(弁護士・木下徹郎)

     ◇

ポイントは

客観的に合理的な理由を欠くなら、解雇は無効

使用者がむやみに解雇ができないのは国際基準

🔴◆育休後、元の職場に戻れる?

新村響子

20140804

(働く人の法律相談)

 「育児休業からの復帰2週間前、営業の仕事から工場勤務に異動の辞令。就業規則では『やむを得ず職場が換わる際は、復職1カ月前までに通知』とあります。会社に不満を言いましたが『就業規則はあくまで原則』とのこと。受け入れるしかありませんか」

 営業事務職の30代女性からの相談です。育児休業からの復職時、配置転換されたり仕事内容を変更をされたりするトラブルが増えています。厚生労働省の指針では、育児休業後は原則としてもとの職場に復帰できるよう配慮することを定めていますが、強制力はありません。育児休業後の職務変更が、直ちに違法になるわけではないのです。

 でも、男女雇用機会均等法や育児・介護休業法は、育児休業の取得を理由に、会社が労働者に不利益な取り扱いをすることを禁じています。業務上必要がないのに、復帰時に以前と異なる職務に就けることは不利益な取り扱いにあたり、無効になる可能性があります。

 会社が業務上の必要があると主張する場合でも、職務の変更によって賃金が大きく下がったり、明らかに能力に不相応な部署に異動させられたりした時は、違法な不利益取り扱いにあたることもあります。

 育児休業後に復帰した女性が、担当職務を外されて降格となり、賃金が年間120万円減額されたことを不当として争った裁判があります。東京高裁は、将来の幹部候補としての待遇からの降格は女性にとって不利益な取り扱いで、労働者の同意なく賃金を減額することは許されないと判示しました。

 就業規則で「原則それまでの部署に復帰」「1カ月前までに通知」といった手続きが定められていることもあります。この場合、これが労働契約の中身ですから会社は違反できません。相談のケースでは、異動について業務上の必要があるかどうかも疑問ですし、直前の通知は労働契約違反です。会社にはもともとの営業事務職への復帰を求めましょう。(弁護士・新村響子)

 ◇ポイントは

 育児休業の取得が理由の、不利益な取り扱いは無効

 業務上必要でも待遇が大きく下がれば違法な場合も

🔴◆休職後、元の仕事できねば解雇?

(朝日=働く人の法律相談)14.03.03

別の仕事への配置転換を求めて

 「脳内出血で倒れて休職したが、右手にまひの後遺症が残った。会社に復職を求めたところ、『元の仕事に戻れないなら復職は認められない。休職期間が終われば退職して下さい』と言われた」。鉄道会社で検査業務を担当していた40代男性から、このような相談がありました。

 多くの企業には休職制度があります。病気やけがが治らず、復職できないまま休職期間が終わると、自動的に退職や解雇になってしまうとの規定をよく目にします。そのため、復職できるかどうかをめぐってトラブルが多発しています。

 多くの裁判では、すぐに休職前と100%同じ労働ができなくても、2、3カ月で完全に元の状態に戻れる見込みがあれば、復職を認めるべきだとの判決が出ています。強制的に退職させることはできません。では、以前の仕事に復職できず、できる見込みもない場合は、治癒はありえないものとして退職しなければならないのでしょうか。

 この問題に関して画期的だったのが、最高裁の1998年の判決です。この中で、職種などが限定されていない労働者については、前と同じ仕事ができなくなった場合でも、ほかの仕事に配置換えすることが可能かどうか検討しなければならないとの基準が示されました。

 その後、この考え方に基づいた判決が次々と出ます。たとえば、視力に障害が残り、サービス管理の仕事を続けられなくなった男性が、復職を認められず退職扱いになった事案。男性は、雇用契約で職種や職務内容が限定されていませんでした。東京地裁は、事務職への配置転換を検討せずに復職できないとした会社の判断は誤りとしました。

 以上のことから、冒頭の例も、職種限定のない雇用契約で、ほかに担当できる業務がある場合には、会社に配置転換による復職を求めるべきです。ただし、職種が限定されていたり、配置転換の可能な仕事がなかったりする場合は、その限りではありません。(弁護士・新村響子)

     ◇

ポイントは

前と同じようにすぐに仕事ができなくても復職可能

仕事内容が限定されている人は退職有効の場合あり

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🔵【「合理化」・人事問題】

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🔴◆うつで休職、復帰は元の職場? 

(朝日=働く人の法律相談)14.04.21

 サービス業の仕事をしています。上司に怒鳴られ続けたことがきっかけで、うつ病になり、休職していました。病状も改善してきたので職場に復帰しなければと思っているのですが、会社から問題の上司がいる元の職場に戻るよう求められています。戻らなければいけないでしょうか。

 職場でのストレスから、心の病に苦しみ、休職する労働者が増えています。

 労働契約法は、労働者が生命、身体の安全を確保して働けるように、使用者は「必要な配慮」をしなければならない、と定めています。職場での過度なストレスによって労働者が心に不調をきたさないように、会社は配慮しなければなりません。休職した労働者が職場復帰する時にも当然、配慮が求められます。

 2006年、うつ病にかかった電機メーカーの関連社員が職場復帰後、自殺したことをめぐる訴訟の名古屋地裁判決が出ています。判決は、会社の配慮義務違反は認めなかったものの、「職場復帰するうえで会社は心身の状態に配慮した対応をすべき義務があった」との認識を示しました。

 職場復帰に際し、会社はどんな配慮をすべきか。参考になるのが、厚生労働省が09年に改訂した「職場復帰支援の手引き」です。

 手引きは、元の職場への復帰を原則としていますが、他の職場への異動を積極的に考慮すべきケースがあるとも指摘します。また、会社が職場復帰に向けた計画をつくるうえでは、社員が希望する復帰先や職場の同僚との人間関係、メンタルヘルスへの理解度など、さまざまな情報を集めて検討すべきだとしています。

 冒頭のケースで言えば、元の職場に戻すのが適切なのか、戻すとしても問題の上司のもとで働いてもらうのが適切なのかなど、会社はきちんと考慮すべきです。働き手の側は、元の職場に戻れないと考える理由や、希望の復職先を事前に人事部門に伝えておいた方がいいでしょう。会社が配慮できるきっかけを作っておくことが大切だからです。

 (弁護士・木下徹郎)

 <イラスト・今井ヨージ>

 ◇ポイントは

復帰職場の人間関係など、十分な検討求める

元の職場に戻れない理由、人事に事前説明を

🔴◆定年引き下げ、急に言われても

梅田和尊

(働く人の法律相談)

20140825日朝日新聞

 「63歳の会社員です。会社の就業規則で定年は70歳と決められていますが、先日、社長が朝礼で『若い社員が活躍できる会社をつくるため、来月、就業規則を変えて定年を65歳にする』と言いました。同業の会社だと、定年が70歳の会社はほとんどありません。変更を受け入れざるを得ないのでしょうか」

 労働契約法は、労働者の同意を得ないまま、就業規則を労働者に不利益になるように変更することは認められない、としています。

 こうした原則の一方で、例外も認めています。労働者が受ける不利益の程度や労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の中身、労働組合との交渉経緯など、さまざまな事情を総合的に判断し、合理的だと認められれば、就業規則の変更は有効としているのです。

 では、どういった場合なら、変更が有効と認められるのでしょうか。最近、こんな裁判がありました。ある私立大学が教授の同意を得ないまま就業規則を変更し、教授の定年の年齢を70歳から67歳に引き下げました。これに対し、教授が「就業規則の変更は無効だ」として訴えたのです。

 大阪地裁は今年2月、原告勝訴の判決を言い渡しました。判決はまず、定年年齢の引き下げは、退職金など賃金の引き下げにもつながるため、「高度の必要性」が要求されると指摘しました。そのうえで、この大学の場合、定年年齢を下げなければならない緊急性はなく、猶予期間を設けて段階的に引き下げるといった経過措置や、退職金の割り増しなどの代償措置もないとして、「変更に合理性はなく、無効」と結論づけました。

 冒頭の相談について言えば、就業規則を変更して定年年齢を5歳引き下げるには、「高度の必要性」や代償措置が不可欠です。単に「若い社員が活躍できる会社をつくるため」という理由や、同業者で定年が70歳のところがないといった事情だけでは、就業規則の変更は認められません。

 (弁護士・梅田和尊)

◇ポイントは

 変更理由が合理的なら認められるケースも

 段階的な引き下げや退職金の割り増しなどが必要

🔴◆職場が寒すぎて体調不良

(働く人の法律相談)

 橋本佳代子

2015119日朝日新聞

 「職場が寒すぎて体調不良が続いています。上司に相談しても対処してくれません。なんとかならないでしょうか」。事務職の30代女性からの相談です。

 寒さが厳しい季節ですが、節電のためにエアコンの温度を低めに設定している会社も多いでしょう。寒さに弱い人はひざ掛けなどを使っていると思いますが、個人の防寒対策には限界があることでしょう。

 国は事務所衛生基準規則で、屋内で事務作業をする職場の室温を、適切に管理することを事業者に求めています。具体的には、室温が10度以下の場合は暖房などで温度調節を行うことを義務づけています。エアコンなどを設置している場合は、室温を17度以上28度以下にする努力義務を課しています。

 また、労働契約法5条は、労働者が生命、身体などの安全を確保しつつ働けるように必要な配慮をする義務を使用者に課しています。使用者が職場の寒さを放置し、労働者が体調を崩しているような場合には、使用者がこの義務を果たしているとは言えません。

 オフィスの大部分は適温でも、席の配置などによって一部の労働者だけが極端に寒さを感じる場合はどうでしょうか。出入り口に近い席の人は、ドアから入ってくる外気で寒さに悩む場合があります。夏にエアコンの空気が直接あたる席に座り、同じ悩みを抱える人もいます。

 たとえ一部でも寒さに震える社員を放置していたのでは、使用者が安全配慮義務を果たしたことにはなりません。前述した事務所衛生基準規則でも、エアコンの空気が特定の労働者に当たり続けないようにすることが求められています。困っている人は、近くの席の同僚と相談しながら使用者に寒さ対策を求めるといいでしょう。

 震えながら仕事をするようでは、いいアイデアも浮かびません。心地よい室温の職場で労働者が効率よく仕事を進める方が、使用者にとってもメリットが大きいはずです。

 (弁護士・橋本佳代子)

 ◇ポイントは

 職場の室温は17度~28度にする努力義務がある

 職場の一部だけ寒い時も使用者に対策を求めよう

🔴◆同僚の居眠り、会社から事情聴取

佐久間大輔

(働く人の法律相談)

20140616

 「深夜のサッカー観戦で寝不足の先輩が、毎日、職場のトイレで居眠りしていたのが上司にばれました。『あいつが何をしていたのか、知ってることを答えないとお前たちも処分だ』と言われています。先輩の不利になることを無理に話したくないのですが、答える義務はあるでしょうか」。先週に続いて新入社員からの相談です。

 従業員が就業規則に違反するような行為をしていた場合、会社は事実を見聞きしていた他の労働者に対し、調査への協力を命令することができます。ただし、その労働者は、会社の調査にすべて従う義務はありません。

 参考になる最高裁判決があります。勤務時間中に原水爆禁止運動への署名を呼びかけた従業員の処分に関し、同僚が会社の聞き取り調査に応じる義務があるかが争われた事例です。判決は、「調査に協力することが労務を提供する上で必要かつ合理的な場合」には、労働者が協力する義務があるとの判断を示しました。

 今回の相談で言えば、先輩の居眠りで自分の仕事に影響がなく、居眠りについても単に見聞きしていたのにすぎなければ、「必要かつ合理的」とまでは言えません。これに対し、チームでやっていた作業が遅れるなどの影響があれば、調査への協力は「必要」と言えます。

 もう一つ重要なのは調査内容の合理性です。会社が調査協力を命じられるのは、あくまでも、先輩の居眠りにより、職務に具体的な支障があったか、という点に限られます。先輩の日ごろの仕事ぶりや人格、私生活にわたる質問については、仮に聞かれても、答える義務はありません。

 会社が事実関係を調査するため、職場の仲間に任意の協力を求めることは自由です。しかし、職務に支障があったといった事情もなしに、処分をちらつかせて協力を無理強いするようなことは問題です。場合によっては労働組合などへの相談をおすすめします。

 (弁護士・佐久間大輔)

 ◇ポイントは

仕事上「必要かつ合理的」な調査か

職務外の質問なら答える義務はなし

🔴◆「追い出し部屋」は違法? 

(働く人の法律相談)2013.03.11 

 「追い出し部屋」。会社から戦力外とされた社員を受け入れる部署は最近、こう呼ばれています。退職させたい社員をここへ異動させ、まったく仕事を与えなかったり、本人の意に沿わない仕事をさせたりして、会社に残る気持ちをなくさせ、自主的に退職させようとするものです。

 以前は「リストラ部屋」などと呼ばれましたが、昨年以来再び目立っており、今年1月には、厚生労働省も調査に乗り出しました。

 社員に退職を勧めることは、やり方によっては「退職強要」として違法になります。長い期間にわたり、ことさら何回も退職を繰り返し勧めるのは、いたずらに社員を不安にさせ、不当に退職を強いることになりかねないとして、厚労省も注意を促しています。退職を勧める場合でも、社員の感情、家庭の状況にも配慮すべきだとしています。

 昨年8月、大手通信教育会社の社員が起こした裁判で「追い出し部屋」への配転などを違法とする判決が出ています。この社員は1981年に入社。2005年から子会社で障害者の雇用推進などを担当していたところ、09年4月に「本社人財部付」に配属されました。主な仕事は、自分を受け入れてくれる部署を探す「社内就職活動」。名刺も持たされず、電話にも出ないよう指示されました。

 この「人財部付」という扱いについて、裁判所は「実質的な退職勧奨の場となっていた疑いが強く、違法な制度」と認め、「追い出し部屋」の手法を厳しく断じています。

 働くことは、社員にとって自己実現の一つです。経営環境が厳しくても、会社と社員の双方が満足できる道を模索すべきです。(弁護士・圷由美子)

🔴◆後輩もいるLINEグループで叱責 

(働く人の法律相談) 佐々木亮

20151214日朝日新聞

◆多数の目に触れ、大きな精神的損害も

 「職場の上司からLINEのグループで『おまえは仕事ができない』などと説教をされました。LINEのグループには同じ部署の後輩も入っていて、とてもつらいです」。最近、若い人たちから、こんな相談が増えています。

 LINEなどSNSを使って労働者に連絡をする企業は増加しています。特にLINEはメールよりも手軽に文章を送ることができるからか、広く利用されているようです。こうしたSNSの利用は便利である半面、相談例のような落とし穴もあります。

 会社では、上司が部下を指導することは日常的なことです。その際、適切な指導であれば、部下を発奮させ、仕事の技術や能力の向上を促すことがあります。しかし、その言い方や指摘した場面などによっては、部下の名誉を傷つけ、精神的な損害を与えてしまうことがあります。これがパワーハラスメントとして問題となることも少なくありません。したがって、指導をする上司が気をつけるべき点は、その言葉遣いや表現、言い方、態度、また他の労働者が見ている場所か否かなど、多方面に及びます。

 SNSの場合は文字による指導になりますので、対面での場合よりもきつく感じられがちです。さらに、SNSでは登録者全員が同じ文面を読むことができます。これはたとえれば、登録している社員を全員並べてその目の前で指導しているのと同じことになります。送信している側は、一人だけを考えていたとしても、実際には全員の目に触れることを考えないといけません。

 相談例は、「仕事ができない」と労働者に告げたものですが、こうしたことを後輩も含まれる面前で言われては、言われた労働者は立つ瀬がありません。実際に精神的に辛さを感じており、非常に悪影響が出ていると言っていいでしょう。

 LINEなどのSNSは便利ですが、使い方を誤ると労働者を不必要に傷つけることになります。使い方は、注意が必要です。(弁護士・佐々木亮)

◇ポイントは

指導の言い方や場所によっては、パワハラの可能性

SNSは、登録者が全員並んでいることを意識して

🔴 ネットに仕事のグチ、許される? 

(働く人の法律相談) 2013.02.18 

 労働者が仕事のグチをこぼしたくなるのは人情というもの。フェイスブックやツイッター、ブログなど、インターネット上のソーシャルメディアを使う人が増えていますが、ネット上に仕事のグチや会社の悪口を書き込むことは、どこまで許されるのでしょう。

 最近の裁判では、ソーシャルメディアへの投稿内容が証拠として提出されることが多くなりました。それが何を立証しようとしているのかは様々ですが、よくあるのが「グチ」を書いているのを持ち出して「この労働者には意欲がなかった」「上司や同僚の悪口を誰でも見られるネット上に書き込むとは言語道断」というような主張です。

 ソーシャルメディアを利用するときに、勤務先の営業上の秘密や機密事項を誰でも見られる形で投稿することは避けることは当然として、つい「グチ」をつぶやいてしまったような場合は、それだけで不利益を受けなければならないのでしょうか。

 たとえば、「今日はだるい。やる気がしない」とつぶやいたとしても、裁判では、これだけで労働者の労働意欲が否定されることはないでしょう。しかし、程度の問題はあります。あまりにも頻繁に同じようなことをつぶやけば、「やる気がない」とみなされる可能性が高まってしまいます。また、会社に損害を与えてしまったことをつぶやいて「ま、いっか」「ざまーみろ」などと書き込むと、争いになった場合、致命的になることもあります。

 ついグチをつぶやいてしまったとしても、その日の最後に「そうはいっても、よく働いた日だった」とつぶやいておけば、いいかもしれませんね。(弁護士・佐々木亮)

🔴◆介護、配置転換で配慮もらえる?

(働く人の法律相談) 新村響子

20151116日朝日新聞

◆生活上の不利益が過大なら命令無効も

 「自宅で母親の介護をすることになりました。仕事との両立が不安なのですが、配置転換の際に配慮してもらえるのでしょうか」。保険会社で働く40代営業職男性からの相談です。

 勤務地や職種が限定されていない社員の場合、一般的には会社に広い人事権があり、配置転換命令には従わなければなりません。ですが、配置転換の業務上の必要性に比べて、労働者が受ける生活上の不利益が著しく大きいと、命令が権利乱用として無効になる場合があります。

 裁判例では、兵庫県内の工場の一部署の廃止を理由に、茨城県内の工場への配置転換命令を受けた労働者が、家族の看護・介護を理由に命令の無効を主張したことがあります。

 裁判所は、精神病を患う妻の看護、要介護2の認定を受けた実母の介護を、夫(労働者)なしで行うことは困難な状態と認めました。転勤で妻や実母の症状が悪化する可能性があるとして、転勤によって受ける不利益が通常甘受すべき程度を著しく超えるとして、命令を無効としました。

 このように、重い介護負担のある労働者への配置転換命令を無効と判断する裁判例は増えてきています。

 労働契約法は「仕事と生活の調和にも配慮すべきである」としており、育児介護休業法でも、就業場所の変更を伴う配置転換をする際、子の養育や家族の介護の状況に配慮するよう使用者に義務づけています。

 ご相談のケースでも、男性自身が母親の介護に具体的に関わっていることを会社にきちんと説明し、配慮を求めるとよいでしょう。

 また、法律では介護休業や介護休暇、時間外労働・深夜労働の制限、時短勤務などの制度が設けられていますので、うまく利用しましょう。

 厚生労働省の労働政策審議会では、介護休業や介護休暇を使いやすくするよう議論されています。介護のため退職する「介護離職」をなくし、仕事と両立できる法制度の改善と職場での環境づくりが望まれます。

 (弁護士・新村響子)

◇ポイントは

法律では使用者に「家族の介護状況への配慮義務」

一般的には会社に広い人事権がある

🔴◆たばこ臭理由に異動要求できる?

(朝日=働く人の法律相談)13.07.08

会社には受動喫煙の防止義務があるが

 隣の席はたばこ大好きの男性社員。建物内は禁煙ですが、スーツにまで染みこんだ煙のにおいで気分が悪く、仕事に集中できません。喫煙の社員を異動させてほしいと要求できるでしょうか、との相談です。

 健康増進法25条などの趣旨を踏まえて、受動喫煙の防止が、会社が果たすべき安全配慮義務にあたるという裁判例があります。今回は、喫煙コーナーは屋外のようですので分煙対策は講じられているといえます。

 しかし、たばこの煙が服に付いていたり、息に含まれていたりすることもあり、これによる受動喫煙は否定できません。気分が悪くなり、仕事に集中できないという訴えも、特殊とまではいえないでしょう。

 こんなとき、喫煙者本人と直接話し合うことはおすすめできません。会社のしかるべき上司や窓口に相談する方がよいでしょう。

 会社側は、安全配慮義務を果たすため、労使で職場環境の問題を話し合う衛生委員会を活用し、喫煙者が職場に戻った際に残ったたばこの煙で健康被害が起きないようにする措置を検討するとよいでしょう。たとえば、喫煙するときには屋外用の上着を着用する▽なるべく風上で喫煙する▽喫煙後はうがいをする、などが考えられます。

 こうした対策をしても、なお煙のにおいがひどいということであれば、会社側はどちらかの異動を検討することになります。

 会社が喫煙者を異動させるのであればよいですが、被害を訴えた自分が異動になることも考えられます。「被害者なのに」と思うかもしれませんが、業務上必要であれば、本人の同意なしでも異動命令を発令できる場合があるのです。

 まず、会社には受動喫煙防止対策をとるように求め、それでも異動させるというのであれば、その理由を十分に説明してもらいましょう。会社には喫煙者を異動させる義務まではありません。意思疎通を円滑にして、認識に齟齬(そご)が生じないようにすることが大切です。(弁護士・佐久間大輔)

     ◇

ポイントは

喫煙者本人ではなく、会社の上司や窓口に相談を

被害を訴えた自分が異動になることもありうる

🔴◆資格取得失敗で降格、ってあり?

(働く人の法律相談)13.10.21

人事権の範囲を超えていて、無効

 難しい情報処理の国家試験を受けるよう会社から言われました。睡眠時間を削り、勉強したのですが、合格できず、結果を会社に伝えると、降格されてしまいました。納得できません。IT企業に勤める30代の男性社員から相談です。

 詳しく聞くと、資格の勉強に必要な教材や受験費用はすべて社員の自腹。200時間はかかる勉強時間は、業務時間外でと指示されたとのこと。受験番号まで会社に報告しなければならなかったと言います。

 これは、一部の企業で最近みられる「資格ハラスメント」(シカハラ)と呼ばれる問題です。社員の育成や自己啓発を建前にしつつ、合格率の極めて低い資格試験と人事評価制度を結びつけて、過度に社員を追い立てるものです。退職強要の手段にしているケースもあり、許されません。

 もちろん、会社側が、社員の資格取得を奨励することは自由です。資格を取った社員に手当を出し、昇格の判断要素の一つにしている会社もあるでしょう。

 また、会社側は業務時間であれば、教育訓練を命じる権利もあります。ただ、その場合でも、訓練内容と業務が関係してなければならず、どんな訓練方法でも認められるわけではありません。労働契約は、労働者の労務提供に対し、使用者が賃金を払うものです。賃金を払わない業務時間外に、会社が業務命令で試験勉強を命ずることはできません。働く人と会社側双方が合意し、労働契約で資格取得を具体的に明示して結んだ場合は別ですが。

 資格取得に失敗した場合に、会社側が降格などの不利益処分を科すことも、通常、人事権の範囲を超えており、無効です。

 それでも資格取得を命じられたら、いったん回答を留保し、組合や弁護士に相談して下さい。会社側に業務命令かどうか説明を求めてもよいでしょう。命令なら賃金と取得費用を請求し、命令でなければ、業務内容と負担の程度を考えて勉強を始めるかどうかを、自らの意思で判断して下さい。(弁護士・指宿昭一)

     ◇

ポイントは

業務時間外の資格勉強を、会社は命じられない

資格取得が会社の業務命令かどうか、よく確認を

🔴◆病気隠し仕事で悪化、責任は?

(朝日=働く人の法律相談)13.01.20

会社側に健康悪化の危惧あれば過失

 脳に病気がありますが、会社には言わずに仕事をしてきました。すると新店舗開設のプロジェクトチームに参加を命じられ、仕事が一気に増えました。休みもなかなかとれず、入院するほど病気が悪化してしまいました。会社の責任を問えるでしょうか。女性からの相談です。

 まず会社には、労働者が生命や身体の安全を確保しながら働けるよう、必要な配慮をしなければならないという安全配慮義務(労働契約法5条)があります。これは健康な労働者が病気になるのを防ぐということだけでなく、病気の労働者がさらに悪化するのを防ぐという意味もあります。

 相談では新店舗のチームに参加したとのこと。長時間労働になり、精神的なストレスも大きかったのではないかと思います。長時間労働が続いて疲労や心理的負担が過度に積み重なったことで、脳の病気が入院するほど悪化したのであれば、会社は安全配慮義務に違反したといえます。

 会社の損害賠償責任が認められるためには、会社側に過失があることが要件です。前提として、健康を損ないうるという「予見可能性」がなければなりません。これは特定の病気の発症が予想されるということまでは必要なく、過重労働をすれば健康が悪化する恐れがあるという抽象的な危惧があれば認められると考えられます。

 相談のケースでは、会社側は女性が病気であるという事情を知らないということですね。脳に疾患のある労働者の労災の事案では「心身の健康を損なうほど過重な業務であると十分認識できたはずだから、業務を軽減すべきだった」として、会社側が事前に疾患について知らなくても責任を認めた裁判例があります。

 会社側が病気の事情を知らなかったとしても、労働者の健康が悪化するおそれのある長時間労働をさせていたという認識ができたのであれば、病気の悪化について予見可能性があるということになり、損害賠償責任が生じるといえます。(弁護士・佐久間大輔)

     ◇

ポイントは

会社側が疾患について知らなくても、責任を問える

会社の安全配慮義務は病気の悪化を防ぐ意味もある

🔴◆過労死の責任を問いたい 

(働く人の法律相談)

金子直樹

20141020日朝日新聞

 「夫がひどい長時間残業の結果、心臓発作で倒れ、帰らぬ人となってしまいました。これから私や子供たちはどう生活をしていったらいいのでしょう。会社に責任を取らせることはできないのでしょうか」

 悲しいことに、過労死や過労による自殺が現実に起きています。

 今年の通常国会で成立した過労死等防止対策推進法は、国に対して、過労死や過労自殺を防止するための施策や啓発活動を義務づけました。非常に意義のあるものですが、長時間残業を規制するなどの直接的な効果はありません。

 不幸にも過労死や過労自殺が起きてしまったら、遺族は労働基準監督署へ労災を申請することが考えられます。脳や心臓の疾患で亡くなった方が長時間労働を強いられていた場合、発症直前の6カ月間平均で80時間超▽発症直前の1カ月間で100時間超、の残業をしていた場合、ほぼ認定が受けられます。

 そこまで働いていなくても、上司からのパワーハラスメントなど、他の要因が考慮されて認められるケースもあります。

 過労が原因でうつ病になり自殺してしまった場合には、発症直前の1カ月に160時間以上▽同じく3週間に120時間以上の残業をしていた、などの場合、特に強い心理的負担があったものとされます。

 認定を受けるにはタイムカードや日報のコピー、本人の日記や「帰るコール」のメールなど、様々な証拠を労基署に出しましょう。毎日の出勤や帰宅時間のメモ書きも、証拠として有効です。労災として認められれば、遺族は遺族補償年金や遺族特別支給金、葬祭給付などを受けられます。

 会社や事業主などの使用者は、労働者の安全に配慮する義務があります。長時間労働を回避したり、健康に配慮する措置を取らなかったりした場合、労災保険の給付以外にも、慰謝料や、得られたはずの給与などの損害賠償が請求できます。ぜひ労基署や弁護士に相談してください。

 (弁護士・金子直樹)

 ◇ポイントは

 日記やメールなど、証拠は多いほうがよい

 労災保険に加え、会社に賠償請求できる場合も

🔴◆お歳暮のノルマ、買い取るべき?

(働く人の法律相談)橋本佳代子

201515日朝日新聞

 「スーパーでレジ打ちのパートをしています。1個数千円のお歳暮セットを5個以上売るノルマがあります。親戚や友人に頼んで3個買ってもらいましたが、売れなかった2個は自分で買い取れと、上司に言われました。時給も安いのに納得できません」。20代女性からの相談です。

 営業職などで販売ノルマが課されている人は多いでしょう。パートを含めた全従業員にノルマがある小売店もあります。過大なノルマに負担を感じている人も少なくないようです。

 では、ご相談のようにノルマが達成できなかった分の商品を、会社が社員に強制的に買い取らせることは可能なのでしょうか。

 労働基準法24条は、賃金の全額を労働者に直接支払うことを、会社に義務づけています。給与所得税の源泉徴収分や社会保険料など法令に定めがあるものは、前もって賃金から差し引くことが可能です。会社と労働組合などが協定を結べばそれ以外のものを差し引くこともできますが、社内預金や組合費など、労働者側が負担することが明白なものに限ります。その趣旨から考えて、ノルマ未達成分を賃金から天引きすることは労基法24条違反です。

 強制的に買い取らされる場合も、賃金が全額支払われないという点では天引きされる場合と実質的に変わりません。やはり、労基法24条に違反することになります。

 明確に買い取りを強制されなくても、上司から毎日のように「ノルマを達成しろ」と叱られ、自ら買わざるを得ない状況になっている人もいるでしょう。

 そういった人は、多額の自腹を切る前に労働組合や弁護士に相談してみてはいかがでしょうか。

 たとえノルマが達成できなくても、もともとの設定が過大だった場合、未達成を理由とした配置転換や解雇は無効になる可能性が高くなります。上司の叱責(しっせき)が通常の業務指導の範囲を超えるほどひどければパワーハラスメントにあたるとして改善を求めることもできます。(弁護士・橋本佳代子)

 ◇ポイントは

ノルマ未達成分を賃金から天引きするのは違法

ノルマ未達成が理由の解雇は無効になる場合も

🔴◆ボランティア中の事故、労災は?

(働く人の法律相談)

 佐久間大輔

2014128日朝日新聞

 「会社が募集した近隣地域の草むしりのボランティア活動に参加したところ、帰宅途中に交通事故に遭い、けがをしてしまいました。ほとんどの同僚が参加していた毎年恒例の行事なのですが、労災の申請は可能でしょうか」す

 前回に続き、労災についての相談です。

 会社の行事に参加している最中の災害については、主催者、目的、内容、運営方法などを考慮し、総合的に判断することとされています。行事を運営すること自体が職務である場合には「業務」と認められますが、参加するだけの場合は、命令や参加の強制がなければ業務と認められないことが多数です。

 しかし、一定の事情があれば労災申請ができる可能性もあります。

 例えば、上司から事実上の参加命令があった▽会社が企画・運営した▽会社が費用を全額負担した▽賃金が支払われた▽参加しないと欠勤扱いになった――などの場合です。会社主催のレクリエーションやボランティア活動に参加した場合の労災認定については、業務であるかどうか、強制されているかどうかがポイントになります。

 従業員会が主催したバドミントン大会に参加していた新入社員が、同僚の運転する車に同乗して事故に遭い、けがをしたケースで、裁判所は、会社が運営した行事でないことや、参加が強制されていなかったとして、労災の適用を否定した例があります。

 会社がボランティア活動をするのは、地域貢献の意味合いもあるかもしれませんが、企業としての営業活動としても、必要だと判断しているからです。

 したがって、ボランティア自体が営業とは直接関係なくても、会社が参加者を出勤したと同様に扱うことや、参加の指示・要請をするなどの行為があれば、企業としては業務と認める必要があると思います。

 ケース・バイ・ケースではありますが、これらの要素を考慮した上で、労災申請を検討するとよいでしょう。(弁護士・佐久間大輔)

 ◇ポイントは

 強制などがあれば社外活動が業務とされることも

 ボランティア活動も広い意味で企業の営業活動

🔴◆業務の資格取得で病気に、労災?

(働く人の法律相談)13.10.28

過度な負担なら、認められることも

 前回に続き、資格取得をめぐる相談です。相談者は、情報通信会社の40代の正社員男性。会社から命令された資格の受験勉強で疲れがたまり、自宅で倒れたそうです。「心不全で後遺症が残ったが、労災ではないか」と尋ねられました。

 今回のケースは、会社側も、資格取得は業務命令で、就業時間中に勉強してもいいと認めていました。ただ、実際には人員不足で平日日中にはほとんど勉強時間が取れず、夜間や休日に、自宅で勉強せざるをえなかったと言います。

 資格取得をめぐる争いでは、過去に労災が認められた例があります。ある建築会社が、「技術士」という文部科学省所管の資格取得者を増やそうと、従業員を指名して受験させました。そのうちの50代男性が、試験終了直後に脳内出血で倒れ、左半身にまひが残る障害を負った事案でした。

 労働基準監督署が労災を認めず、訴訟になりました。裁判所は、脳内出血を起こす前の2カ月間の残業時間は、受験勉強の時間を加えると平均100時間を上回ると認定。病気の発症は「技術士試験を含めた業務が原因となった」と判断しています。

 ただ、この判例をもって、業務命令の資格勉強が原因で病気になった場合に、常に労災認定されるとまでは言えません。資格の合格率が15%前後で「相応の受験勉強が必須」だった事情などを考慮した判断だったからです。

 冒頭の相談者の場合はまず、業務命令を受けて受験勉強を始めた時から心不全を起こすまでの間の勉強時間を可能な限り把握して、普通の残業時間と合わせてみましょう。発病直前の残業時間が月100時間を超えるなど、「受験勉強は過度の負担だった」と主張できれば、労災と認定される可能性があります。

 会社側には、労働者の安全と健康を確保する義務があります。あなたが今、受験勉強に追われ、過労気味ならば、通常の労働時間を減らす対応を会社側に求めた方がよさそうです。(弁護士・指宿昭一)

     ◇

ポイントは

命じられた資格取得に相応の勉強が必須と言えるか

労働者の安全と健康を確保する義務が会社にある

🔴◆希望退職断ったら、出向になった

(働く人の法律相談)13.12.09

リストラ目的なら、法で厳しく条件を制限

 大手メーカーに勤務する技術者です。会社の人事部から希望退職を勧められました。これに応じなかったところ、子会社への出向を命じられ、これまでの仕事と関係ない輸送業務をしています。こうした出向命令は有効なのでしょうか。

 2008年のリーマン・ショック以降、こうした手法のリストラが増えています。希望退職の募集や退職勧奨の形を取りながら、拒んだ場合は出向などの配置換えを示し、退職との二者択一を迫るのが特徴です。

 まず、会社が出向命令を出す前提として、労働契約や就業規則などに出向命令権の根拠が書かれている必要があります。それも「出向を命じうる」といったあいまいな内容ではなく、出向先での労働条件や出向の期間、地位、賃金、手当などについての規定がなければいけません。規定がない場合、命令は無効とみなされることがあります。

 労働契約法では、会社が出向命令を出した場合でも「命令の必要性」や「対象となる社員の選び方」などに照らし、会社が権限を乱用したと認められれば命令は無効になる、としています。

 これに関連して、11月12日に注目すべき判決が出ました。大手事務用機器メーカーの社員2人が物流子会社の倉庫への出向命令が無効だと訴えた裁判で、東京地裁が「出向先で働く義務はない」として、原告勝訴の判決を言い渡しました。

 判決は、コスト削減を目的とした出向命令の必要性は認める一方、社員の選び方の合理性やプロセスの透明性がなかったと指摘しました。さらに、デスクワーク中心の仕事から肉体労働の職場への出向は、キャリアや年齢に配慮した異動ではなく、身体的・精神的に負担が大きい命令だったなどとして「人事権の乱用で無効」と判断したのです。

 人員削減を目的とした出向命令は、働き手が大きな不利益を被るおそれがあります。それだけに、通常の人事異動に伴う命令よりも、会社が権利を乱用していないか、より厳格に判断されるのです。(弁護士・棗一郎)

     ◇

ポイントは

出向条件が労働契約などに明記されているか確認を

社員の選び方が不透明な場合、無効になるケースも

🔴◆配転命令の有効性

Q 東京から大阪への転勤の打診がありました。重度のアトピーの子どもがいるので断りたいのですが、大丈夫でしょうか?

A 以前の裁判では、よほどの家庭事情がない限り配転命令は有効とされる傾向にありました。でも、2002年の育児休業法改正で、家庭的責任を抱える労働者への配慮義務が新設(26条)され、変化の兆しがでてきました。東京地裁は、労働者の抱える事情に対して使用者が真摯に対応せず、もう配転は決まったことだという態度に終始するような場合は「同条の趣旨に反し、配転命令が無効になることがある」と判断しました。使用者の配慮義務は軽くないということです。「連合通信・特信版」

🔴◆強制貯金は有効?

Q 月6万円の給料から4万円を貯金として差し引かれています。こんなことは許されるのですか?

A もちろん許されません。明らかな労働基準法違反です。労基法の第18条は強制貯金を全面禁止しています。戦前に、この強制貯金が労働者の不当な足止め策となったため、戦後の労基法で禁止したのです。ただし、労働者側からの任意の委託」がある場合に限り、認められています。現代の日本で、こんな事例があるのは驚きですが、一部の中国人研修生から実際に訴えのあったケースです。研修生は労働者ではないとの解釈のもとに、労基法違反の労働条件が強制され、権利侵害を受けやすい実状にあります。「連合通信・特信版」

🔴◆休憩室設置は会社の義務

Q ちょっと気分が悪くなったときでも、横になれるスペースが会社内にあるといいんだけど。これってぜいたくな望みですか?

A ちっともぜいたくなことではありません。働く者の正当な要求です。労働安全衛生法に関連して定められている規則には、労働者が横になって休める休養室・休養所の設置規定があります。工場と事務所のいずれであっても、常時50人以上の労働者がいるか、または50人以下であっても女性が30人以上いる場合は、設置が義務付けられています。女性が30人いるのに休養室がない場合は、労働基準監督署による是正勧告の対象になりますから、未設置は許されません。「連合通信・特信版」

🔴◆就業規則の作成義務

Q 就業規則は、あってもなくてもいいんですか?

A 常に10人以上の労働者を使用する使用者は、就業規則をつくって監督署に届け出る義務があります。始終業時刻、休憩時間、休日、休暇、賃金の決定・計算・支払い方法、退職に関する事項などは必ず記載しなければなりません。「あなたの会社の就業規則にはどう書いてありますか」と聞くと、「みたことありません」と答える労働者が結構います。労働者の見やすいところに掲示する(配付してもいい)ことが定められており、労働者が知らないという事態が放置されてはならないのです。労基法に違反していないか、規則の内容をチェックしておく必要もあります。「連合通信・特信版」

🔴◆労基法の治外法権?

Q 就業規則に「わが社は労働基準法の治外法権」とあります。労基法が適用されないのでしょうか?

A 労働者を雇っている以上、使用者が労働基準法の適用を免れることはできません。従って、就業規則でいくら「治外法権」といってみても、労基法は適用されるのです。ベンチャー企業の中には労働法に無理解な経営者がいます。働く側がしっかりしておく必要があります。常識で考えてもわかりそうなものです。運送会社の就業規則で「わが社は道路交通法の治外法権」と定めたものがあるでしょうか。就業規則は労働基準法に違反しない範囲でのみ効力があります。労基法違反の規則は無効となります。「連合通信・特信版」

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🔵【パワハラ・セクハラ・女性差別】

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🔴◆パワハラ被害の証拠、どう残す?

(朝日=働く人の法律相談)14.01.27

会話を録音して。加害者の承諾いらない

 ひどいパワーハラスメント(パワハラ)を受けたが、証拠がないので慰謝料を請求できなかった。そんな人も多いのではないでしょうか。

 パワハラ被害にあった人は、会社や上司に慰謝料を求めることができます。病気になった場合は労災を申請することも可能です。ただ、いずれの場合も被害を裏付ける証拠が必要です。

 ところが、パワハラは、他の従業員がいないときに行われることが少なくありません。また、目撃者がいたとしても、いざ慰謝料を求めて会社と争うときに、その従業員が証人になってくれるとは限りません。

 人の記憶には限界がありますし、目撃した従業員がまだ会社に在職している場合、なかなか会社に弓引くことができないからです。 したがって、被害の賠償を求めるならば、できる限り自ら証拠を残す努力をした方がいいでしょう。

 殴る蹴るなど身体的な暴力を受けて傷口が赤く腫れたり、あざが残ったりした場合は、まずその患部を写真に撮りましょう。その上で、病院などで診断書をもらいます。そして、被害にあった日時、場所、加害者の名前、周囲の状況などを、忘れないうちにメモしておきましょう。

 理不尽に叱られたり侮辱されたりした場合は、物理的な証拠は残りません。そのときの一番いい証拠の残し方は、ICレコーダーでの録音です。音声記録をつきつければ、加害者側は「そんなことは言ってない」などと否定することが難しくなります。

 もちろん、会話を録音する際に加害者側の承諾は不要です。自らの被害を証拠に残すという正当な行為ですので、臆する必要はありません。

 録音が難しければ、できるだけ詳細なメモを残しましょう。仕事で使っている手帳に、仕事の記録とパワハラ被害を時系列で書いておけば、後日、被害内容を思い出しやすくなります。

 被害を証明できずに「泣き寝入り」することがないよう、注意しましょう。(弁護士・佐々木亮)

     ◇

ポイントは

被害の慰謝料を求めるには、証拠が必要

加害者の名前、日時、場所をメモしよう

🔴◆業務指導、どこからパワハラ?

(働く人の法律相談)13.08.26

人格を否定するような叱り方はダメ

 「上司から怒鳴られました。パワーハラスメント(パワハラ)ではないでしょうか」。そんな相談が、最近多く寄せられます。これに対して会社側からよく聞く反論が、「業務について必要な指導・注意をしただけだ」というものです。

 上司ならば、ミスをした部下を叱る必要があります。営業成績を上げるために部下にげきを飛ばすこともあるでしょう。そんな時、どこまでが適正な業務指導の範囲で、何をするとパワハラになるのでしょうか。判断はケースバイケースで一概には言えませんが、いくつかポイントがあります。

 まず、叱る際の言葉の内容に気をつけるべきです。相手の人格を否定するような叱り方はパワハラです。たとえ上司が「鍛えてやろう」という善意で指導していたとしても、度が過ぎて相手に大きな苦痛を与えていればアウトです。

 具体的な裁判例を挙げると、「お前は覚えが悪い」「バカかお前は」と部下を繰り返しののしっていたケースや、「マネジャーをいつ降りてもらっても構わない」「あなたがいると会社がつぶれてしまう」などと部下をなじっていたケースが、パワハラと認められています。

 部下がミスをした場合でも、安易に「バカ」「給料泥棒」などと侮辱するのは控えるべきです。

 また、指導の場所もポイントです。同僚みんなの前で叱る場合は、相手に与える苦痛の度合いが大きいとみなされ、パワハラになる可能性が高まります。

 例えば、ほかの社員の前で営業中の不正行為の有無について部下を問いただし、裁判でパワハラと認められた例があります。相手にとって不名誉なことを問いただすのならば、誰もいない別室に呼び出すなどの配慮が、管理職に求められているのです。

 パワハラかどうかは、部下の受け止め方によっても変わります。それぞれの部下の性格を念頭に置いて適切な指導法を探るのが、上司の務めでしょう。(弁護士・新村響子)

     ◇

ポイントは

善意で行った指導も、度が過ぎればパワハラになる

部下を叱る時は、別室に呼び出すなどの配慮も必要

🔴◆目標届かず罰ゲームパワハラ?

(朝日=働く人の法律相談)13.10.07

断るのが難しい状況ならあてはまる

 出版社で働く男性からこんな相談がありました。

 社員が全員参加した飲み会で、上司が「売り上げ目標に届かなかったやつは、罰ゲームでビール一気飲み!」と言いだし、目標以下だった私は何人かといっしょに一気飲み。次の日、パワハラではと抗議すると、上司は「嫌なら断ればよかっただろ」。断らなかった自分が悪いのでしょうか。

 ここ数年相談が増え続ける職場のパワハラ。厚生労働省は、職場のパワハラを「職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える、または職場環境を悪化させる行為」と定めています。

 その具体的な方法は、殴る蹴るなどの暴力、「死ね」などと人格を否定する発言、仕事外し、嫌がらせ目的の降格や配転など、さまざまです。では、相談のように、本人が拒否できるものであれば、パワハラとはいえないのでしょうか。

 最近、注目すべき判決がでました。化粧品販売会社の社員が販売目標に達しなかった罰ゲームとして、出席義務のある研修会で突然、ウサギの耳の形をしたカチューシャと、易者のコスチュームを着させられ、研修終了後の掃除まで同じ姿だったという事案です。

 たとえ盛り上げ策という目的が正当であり、着るかどうかは任意だったとしても、その社員がその場で拒否することは非常に困難です。その姿の写ったスライドが別の研修会で勝手に上映されたこともあり、もはや社会通念上正当な職務行為とはいえないなどとして、裁判所は不法行為の成立を認め、慰謝料の支払いを命じました。

 冒頭の相談も同じだと考えられます。任意とはいえ、罰ゲームでビールの一気飲みを求められたら、周りに多くの社員がいる中で、拒否することは非常に困難といえます。また、一気飲みは身体にも危険であり、罰ゲームとして行う手段の相当性もないと考えられます。したがって、パワハラといえるでしょう。(弁護士・梅田和尊)

     ◇

ポイントは

盛り上げ策という目的が正当でもパワハラの可能性

一気飲みは、罰ゲームの手段としての相当性なし

🔴◆同期の男性だけ昇格、差別では?

(働く人の法律相談)2013.03.04 

 同じ採用枠で入社した男性同期は全員が昇格・昇進したのに、女性だけ蚊帳の外。それでも、会社が「人物本位で決めており、男女差別はしていない」と言い張れば、差別とは認められないのでしょうか。

 1985年に制定された男女雇用機会均等法は、募集・採用だけでなく、配置・昇進や教育訓練など、すべての面で性差別を禁じています。形式的には性別が理由ではなくても、実質的に一方の性が差別的な扱いを受けていれば、差別と認められることもあります。

 代表例が、芝信用金庫(東京都)の女性職員13人が「昇格や昇進で男女差別がある」として、男性同期たちと同じ課長職であることの確認や差額賃金の支払いなどを求めた裁判です。信金は「差別はなく、昇格は経営権に属する問題」と主張しましたが、東京高裁は2000年に一審に続いて差別を認め、大半の原告を課長職と認めて差額賃金などの支払いを信金に命じました。02年に最高裁で同じ趣旨で和解しました。

 ただ、均等法が禁じているのは、同じ雇用管理区分での性差別だけ。実質的に「総合職は男性、一般職は女性」と分けたり、女性だけの職種の雇用形態を派遣や契約など非正規社員に切りかえたりすれば、同じ職種に比べる対象の男性がいないため、均等法をすり抜けやすくなるのです。

 最近は男性でも非正規の職種が増え、女性への不当な処遇を性差別と立証することが、ますます難しくなっている面もあります。こうした課題を超え、さらに男女差別をなくすためには、雇用管理区分や雇用形態の違いによる不合理な差別自体を包括的に禁じる法律も検討すべきでしょう。

(弁護士・板倉由実)

🔴◆採用で「女性枠」は逆差別では? 

(働く人の法律相談)2013.02.25 

 男性ばかりの会社に勤めています。もっと女性を活用しようと、会社はこれから、新卒採用の3割、管理職の2割は女性にすると宣言しました。でも、女性だからと優先的に採用や登用するのは、男性への逆差別ではないでしょうか――。

 この相談への答えは、「逆差別にはなりません」となります。確かに男女雇用機会均等法は、職場で性別による差別的な扱いを禁じています。でも、男女間にある格差を積極的に解消しようとする目的であれば、女性だけを対象とした取り組みや優遇措置(ポジティブ・アクション)は例外的に違法にならないと定めているからです。

 背景には、これまでの採用や登用が、男女で決して平等とは言えない日本の現状があります。

 働く女性の数は増えていますが、半分以上は身分が不安定な非正規雇用です。賃金の格差は大きく、男性正社員を100とすると女性正社員は70、女性パートは40ほどです。

 コース別の採用をしている企業でも、いわゆる総合職の採用に占める女性の割合は1割ほど。逆に、一般職は9割が女性です。一般職から総合職への転換制度も9割の企業にありますが、最近3年間に毎年、利用実績があった企業は1割未満しかありません。

 管理職に占める女性の割合も1割未満と依然、低いままです。国もこうした格差の解消に向けて、新卒採用や管理職の女性の割合に数値目標を掲げる企業を表彰するなど、ポジティブ・アクションに取り組む企業を支援しています。

 女性の社会参画をさらに進めるには、トップの意識改革と格差解消への積極的な取り組みが不可欠なのです。(弁護士・板倉由実)

🔴◆忘年会のセクハラ、会社に責任?

 (働く人の法律相談)佐々木亮

20141215日朝日新聞

 年の瀬といえば忘年会。あなたの職場でも予定されているのでは。「お酒が入ると女性社員の手を握ったり、ひざに座らせたりしようとする上司がいて困ります」という悩みを女性たちから聞くことがあります。この場合、セクシュアルハラスメントとして会社に責任を問えるのでしょうか?

 男女雇用機会均等法は事業主に対し、職場での性的言動で労働者が不利益を受けたり、職場環境が害されたりしないよう、適切な取り組みをすることを義務づけています。ただ、忘年会といった飲み会は、通常は職場の外の居酒屋などで行われます。

 結論から言えば、職場外で行われたとしても、会社に責任を問える可能性は十分にあります。

 その飲み会が、会社の公的な行事であればもちろんです。そうでなくても、恒例化していたり、ほとんどの従業員が参加したりする場合も、半ば公的行事といえます。

 例えば、部長や課長などその部署で強い権限を持つ人が発案し、事実上、全員が参加しなければならない、というような場合です。二次会、三次会などでも、その実態によっては、会社に使用者責任を問えることがあります。

 過去の裁判では、会社の忘年会で、男性従業員が女性従業員に対して、背後から抱き付き、抱き付いた姿勢での写真撮影の強要などを行ったことがセクハラとされ、会社にも賠償命令が出た事例があります。

 また、職場の飲食会の三次会後、帰宅途中のタクシーのなかで、男性会社役員が女性従業員に無理やりキスなどのセクハラ行為をした事件も、裁判所は役員本人の不法行為を認定。さらに役員が女性を三次会に誘ったことや、飲食会が業務と密接な関係があると認め、使用者に対して損害賠償が命じられました。

 酔っていることがセクハラの言い訳になると思うのは大間違いです。被害に遭った場合は我慢せずに、すぐに労働組合や弁護士に相談することをお勧めします。(弁護士・佐々木亮)

 ◇ポイントは

 二、三次会や帰宅のタクシー内でもセクハラに

 業務との関連や参加を上司に指示されたかが鍵

🔴◆拒否なければセクハラ許される?

(働く人の法律相談) 金子直樹

2015413日朝日新聞

 「それセクハラです!」同僚や部下からそのように言われたことはありませんか? 一方で戸惑う声も。「相手が嫌がらなければ、性的な会話をしても許されますか」という質問をされることがよくあります。

 セクハラとは、必要もないのに体に触れたり、性的な関係を求めたりといった行動だけでなく、性的な冗談やからかいなど言葉の嫌がらせも含みます。これらは業務とまったく関係のない行為ですから、相手が拒否しなくても、してはならないのです。

 今年2月、言葉のセクハラについて、最高裁が画期的な判決を出しました。セクハラ発言を理由とする懲戒処分(出勤停止・降格)について有効と判断したのです。認定した発言は、部下の女性に、自分や不倫相手の性生活のことを話したり、女性客についての性的な感想を述べたり、部下の女性の年齢や結婚していないことをからかったりするものなどでした。

 これらの発言がセクハラに当たることは当然だと思いますが、懲戒処分の有効性に関しては裁判所で判断が分かれました。高裁は、部下の女性が明白な拒否をせず、許されていると上司が誤信したことや、会社から事前に警告や注意などがなかったことで、会社の処分は無効としていました。

 それに対して最高裁は、被害者は職場の人間関係の悪化を心配して、抗議や抵抗、相談をちゅうちょすることがある、と被害者の気持ちに配慮しました。そして、セクハラ行為が1年以上続いたものの第三者がいない状況だったため、「被害者からの訴えがあるまで会社側で事実を認識して警告などをする機会がなかった」としました。セクハラ発言に対して企業が厳しい姿勢で臨むことを、司法が後押しするものです。

 契約社員など雇用が不安定な非正規労働者の場合は特に、契約が打ち切られる不安から、セクハラをされても声を上げることは難しいのが現状です。「本人がイヤと言っていないから」は決して許されません。

(弁護士・金子直樹)

◇ポイントは

業務に無関係な身体接触や性的発言はすべきでない

被害者は人間関係の悪化を心配して声を上げにくい

🔴◆セクハラが原因のうつ、労災に? 

(働く人の法律相談)

橋本佳代子

20140714

 「1年ほど前から、職場で上司から繰り返し性的な発言を受けています。会社に相談しても何もしてくれません。夜よく眠れないので病院に行ったら、うつ病と診断されました。労災になるでしょうか?」

 20代の正社員女性からの相談です。厚生労働省に寄せられるセクシュアル・ハラスメント(性的嫌がらせ)に関する相談は、全国で年1万件近くに及びます。

 2011年12月に出された新しい労災認定基準で、セクハラの記載が大きく見直されました。以前は、セクハラによる心理的負荷は一律に「中」程度とされていました。現在は、行為の中身や会社の対応によって「極度・強・中・弱」の4段階に分かれています。

 労災と認められるには、うつ病などの精神障害を発症する前の、おおむね6カ月間に起きた業務上の出来事について、心理的負荷の強さが「強」と認められることが必要です。強姦(ごうかん)や強制的なわいせつ行為は「極度」にあたります。「強」の例としては、次の四つが挙げられています。

 (1)体を触る行為が継続して行われた

 (2)体を触る行為は継続していないが、会社に相談しても適切な対応がなく改善されなかったか、職場の人間関係が悪化した

 (3)人格否定を含む性的な発言が継続してなされた

 (4)性的な発言が継続され、かつ会社がセクハラ把握後も適切な対応を取らずに改善されなかった

 冒頭の女性の場合、性的発言が繰り返され、相談を受けた会社も対策をとっていませんから、心理的負荷は「強」になる可能性が高いでしょう。

 セクハラを理由とする労災の認定件数は09年度の4件から、13年度は28件に急増しています。ただし、労災と認定されるには客観的な証拠が重要です。加害者の発言を録音したり、すぐに被害状況をメモしたりしてください。眠れない、ゆううつな気分が続くなど不調を感じたら、早めに病院で診てもらうことをお勧めします。

 (弁護士・橋本佳代子)

 ◇ポイントは

 会社の対応が不十分で改善されなかった場合も対象

 録音や被害状況の詳しいメモなど、証拠を残す

🔴◆男同士ならセクハラにならない?

(働く人の法律相談)14.02.10

同性間でも嫌がる行為はダメ

 「会社の飲み会で『盛り上がるから裸で踊れ』『男のくせに恥ずかしがるな』と先輩の男性社員に命じられました。無理やりキャバクラに連れて行かれることもしばしばです。とても苦痛なのに、男同士だとセクシュアル・ハラスメントにならないのでしょうか」。20代男性からの相談です。

 セクハラは異性間のトラブルと考えがちです。実際、労働局の雇用均等室に届く相談も「加害者は男性、被害者は女性」というものが多数を占めます。

 しかし、同性間なら、職場での性的な発言やふるまいが許されるわけではありません。裁判例でも、男性の上司らが部下に対し、女性経験がないことなどをしつこくからかったことを不法行為と認め、損害賠償を命じた事例があります。

 男女雇用機会均等法は、職場での性的な言動で労働者が不利益を受けたり、職場環境が害されたりしないよう、事業主に適切な取り組みをとることを義務づけています。交際相手の有無や婚姻歴があるかないかといった個人の事情に過度に干渉したり、受け手に性的な恥ずかしさを感じさせたりする言動は、異性間だけでなく、同性間でも、当然、セクハラになります。

 今回、均等法の指針が見直され、「職場でのセクハラは同性に対するものも含む」ことが改めて明示されることになりました。また、「男のくせに」「女なんだから」といった性別役割分担意識に基づく言動をなくしていくことがセクハラ防止に重要だとする指摘も盛り込まれます。セクハラの原因や背景には、こうした意識に基づく言動があるとの考えからです。

 改正指針は7月に施行され、行政指導の対象や違法とされる範囲が広がる可能性もあります。企業には就業規則や社内報での周知・啓発だけでなく、セクハラ相談に対しても適切な取り組みが求められます。性的な言動に対する感受性は人それぞれです。同性間であれ、もし嫌な思いをしたならば、会社や上司に、はっきり伝えてみましょう。(弁護士・板倉由実)

     ◇

ポイントは

しつこい性的からかいに損害賠償命じた裁判例も

7月改正施行の男女雇用機会均等法の指針で明示へ

🔴◆妊娠で解雇、取り消してほしい

(働く人の法律相談) 橋本佳代子

20151130日朝日新聞

◆他の理由だと証明されなければ無効

 「社長に妊娠を告げたところ、1カ月ほど経って突然解雇されました。解雇の理由は能力不足で協調性がないというものでしたが、心当たりはありません。解雇を取り消してもらいたいのですが、どうしたらいいのかわかりません」。貿易会社で正社員の事務職として働く女性からの相談です。

 産休中とその後30日間であれば、やむをえない事情で事業継続ができなくなった場合を除き、労働基準法により事業主は解雇することはできません。

 まだ産休には入っていない労働者が会社と解雇の有効性について争う場合をみてみましょう。男女雇用機会均等法9条4項は妊娠中と出産後1年を経過しない労働者の解雇について、事業主側が妊娠・出産などを理由とする解雇でないことを証明できなければ無効であるとしています。

 労働者側に証明の責任はありません。妊娠中の女性が解雇される事件では、能力不足や協調性がないなど妊娠以外のことが解雇理由にされることがほとんどです。手元に在職時の能力を示す資料がないなど心配があるかもしれません。まずは専門家に相談してみてはどうでしょう。

 また、事業主は妊娠中の労働者から求めがあれば、軽易な業務に移す必要があります。この「軽易な業務」の種類に決まりはなく、原則として本人が請求した業務に代えなければなりません。さらに、妊娠中・産後1年を経過しない女性労働者を重いものを取り扱う業務や、妊娠・出産などに有害な業務に就かせることも禁止されています。

 請求があれば、1日8時間や週40時間を超える時間外労働、休日労働、午後10時~午前5時の深夜労働も禁止されます。

 妊娠・出産について、女性労働者にはいろんな権利が認められていますが、会社に求めづらいと感じるかもしれません。しかし、どのような権利が認められているのかを知っておけば、会社の理不尽な方針を受け入れずにすむかもしれません。(弁護士・橋本佳代子)

◇ポイントは

産休中とその後30日はどんな理由でも解雇禁止

妊娠中と産後1年以内の解雇も原則禁止

🔴◆妊娠告げたら契約更新なしに 

(働く人の法律相談) 橋本佳代子

201568日朝日新聞

 「6カ月の労働契約を更新して3年以上働いてきました。秋に出産する予定です。先日、上司から、次回の契約更新はしないと告げられました。妊娠を告げる前は長く働いて欲しいと言われていたのに、ショックです。つわりがひどくて仕事が遅れ気味だったためかなと思います。働き続けたいのですが、無理でしょうか」。30代女性からの相談です。

 妊娠や出産を理由に解雇などの不利益な扱いをすることは、男女雇用機会均等法9条3項で禁止されています。厚生労働省令は、不利益な扱いが禁止される事由の一つに、つわりなど妊娠または出産に起因する症状で仕事の能率が下がったことを挙げています。指針によれば、雇い止めも不利益な扱いの一例とされています。

 また、厚労省の告示は、有期労働契約を3回以上更新するか、雇い入れの日から1年を超えて継続勤務している人が雇い止め予告を受けた場合、契約を更新しない理由について証明書を請求すれば、使用者は交付しなければならないとしています。使用者が何を理由に雇い止めとしたかをはっきりさせるため、まずはこの証明書を請求しましょう。

 妊娠や出産を理由とする雇い止めでも、マタニティーハラスメントと指摘されないために、「協調性がない」「能力不足だ」といった、もっともらしい理由を記載する使用者が少なくありません。

 その場合も泣き寝入りすることはありません。厚労省は今年1月、妊娠や出産などを契機として、使用者が労働者に不利益な取り扱いをした場合は原則として違法という通達を出しました。妊娠や出産を終えて1年以内に不利益な扱いがなされた場合は原則、違法と判断されます。

 妊娠を告げる前は長く働いて欲しいと言われていたことからすると、相談者のケースは違法になる可能性が高いでしょう。労働局雇用均等室や弁護士に相談してはいかがでしょうか。

 (弁護士・橋本佳代子)

◇ポイントは

雇い止めされた理由を文書で使用者に請求できる

「協調性なし」「能力不足」の決まり文句にひるまない

🔴◆男性だけ昇進 これで能力主義?

(朝日=働く人の法律相談)14.02.17

男女差別は違法 雇用慣行の改善急務

 「会社は能力がある女性は昇進させると言いながら、実際に昇進するのは男性ばかり。給与水準も大きな格差があります。差別ではないのでしょうか」

 勤続20年の女性正社員からの相談です。同期・同学歴の男性が次々と昇進する一方で、女性の昇進はほとんどないそうです。

 「男であること」「女であること」を理由に労働条件を差別するのは違法です。労働基準法は性別による賃金差別を禁じており、男女雇用機会均等法も募集や採用、昇進、退職に至るまで、すべての雇用段階での性差別を禁じています。

 企業の対応が均等法の趣旨に反するとして、実際に損害賠償を命じた裁判例もあります。大手石油会社の女性正社員が男女間の昇進格差の違法性を訴えた裁判では、会社が男女間格差を放置して女性を低い職位のままにしていたことを認め、約2千万円の賠償を命じました。相談者の事例でも、処遇格差に合理的な理由がなければ違法な性差別にあたり、賠償が認められる可能性があります。

 ただ、法律の実効性は十分ではありません。男女間の処遇に格差があっても、裁判所は簡単には「差別」とは認めないためです。

 象徴例が昨年7月の広島高裁判決です。電力会社に約30年勤める女性が性別で昇進差別されたとして、差別がない場合との差額賃金などを求めたものです。

 裁判所は、昇格実態に男女格差があることを認める一方、女性は管理職に就くのを嫌がる傾向がある自主退職も多い――などと格差の主因を女性側に求め、違法な「性差別」でないとしました。

 女性管理職を増やせない理由を尋ねた国の調査でも、「勤続年数や知識、経験不足に問題がある」と答える企業が少なくありません。でも、本当にそうでしょうか。ダボス会議を主催する世界経済フォーラムの「男女格差報告」では、13年の日本の順位は136カ国中105位。女性の能力や意欲をいかせるよう、雇用慣行を改善するべきです。(弁護士・板倉由実)

     ◇

ポイントは

差別禁止は、募集から退職まで雇用の全段階に及ぶ

会社が差別を放置すれば、損害賠償を命じる事例も

🔴◆子育てで残業できず降格、あり? 

20141117日朝日新聞

(働く人の法律相談)棗一郎

 「子育てしながら働いているため午後5時の定時に退社したいのですが、上司から『残業できないなら降格する』と言われました。普通に残業している他の社員より成果を出している自信はあるのですが、降格は違法ではないのでしょうか」という相談です。

 育児・介護休業法では、3歳に満たない子を養育する労働者(父母を問わず)が、子育てのため残業しないで帰宅したいと請求した場合、事業主は所定労働時間を超えて残業させてはならないと定めています。また、小学校に入る前の子どもがいる労働者が、子育てのため早く帰宅したいと請求した場合、1カ月に24時間(1年で150時間)を超えて残業させてはならないと定めています。

 そして、このように子育てのために残業しないで早く帰った労働者に対して、そのことを理由に、解雇やその他の不利益な取り扱いをしてはならないと定めています。質問の「残業できないなら降格」というのは育児・介護休業法が禁止している不利益取り扱いに当たるので、違法です。

 こうした子育てや出産に関する悩みは多いと思いますが、10月に最高裁でマタニティー・ハラスメント(妊娠や出産した女性に対する職場での嫌がらせや不当な待遇のこと)に関する画期的な判決が出ました。

 病院で働く女性が、妊娠中の負担の軽い業務への転換をきっかけに地位を降格され、育児休業から復帰しても元の地位に戻されなかったという事案です。最高裁は、妊娠中の軽減業務への転換を契機に降格させたのは原則として男女雇用機会均等法が禁止する不利益取り扱いに当たり、女性本人が自由な意思で降格を承諾したとか、降格させなければ業務上の支障があるという特段の事情がない限り許されないとしました。

 父親や母親が子育てをしたり、働く女性が妊娠・出産をしたりして残業できないという理由で、使用者が労働者に降格や配転、減給などの不利益な取り扱いをすることは違法で許されないのです。(弁護士・棗〈なつめ〉一郎)

 ◇ポイントは

 子どもが3歳未満なら無理に残業させるのは違法

 妊娠や出産を理由にした降格や配転、減給も違法

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労働者と労働組合の権利Q&A(1)=労働時間

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Q&Aの出所先一覧

(1)労基法Q&A──こんなときどうだっけ?

「連合通信・特信版」

http://www.rengo-news-agency.com/労基法q-a/

(2)朝日新聞=働く人の法律相談 2013-14

◆弁護士ドットコム・残業Q&A=残業代・みなし残業・サービス残業・残業時間

https://www.bengo4.com/c_5/c_1637/

◆弁護士ドットコム・労働時間Q&A=休憩時間・36協定・変形労働時間制・出張・勤怠・裁量労働制、フレックスタイム制・割増賃金・タイムカード・

https://www.bengo4.com/c_5/c_1224/

◆弁護士ドットコム・休日と休暇Q&A=有給休暇・休職・休日出勤・産休と育児休暇・代休・自宅待機命令

https://www.bengo4.com/c_5/c_1624/

【残業・残業代】

【休憩・休日】

【変形労働時間・裁量労働】

【有給休暇・その他の休暇】

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🔵【残業・残業代

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🔴◆好条件の月給、残業代込みだった=固定残業代制度の問題

 (働く人の法律相談)梅田和尊

2015223日朝日新聞

 「求人広告の『月給24万円』という好待遇にひかれて入社しました。ところが初めての給料日、明細書に基本給16万円、固定残業代8万円とあり、驚きました。会社に確認すると、月給には残業代も含まれているとの説明でした。残業代は当然、月給とは別だと思うのですが」。食品会社に就職した20代女性の相談です。

 実際に働いた残業時間と関係なく、一定時間分の残業代を支払うとする「固定残業代」を巡り、求人広告と入社後の労働条件が違うとの相談が最近、多く寄せられます。厚生労働省も昨年4月、求人票に固定残業代の不適切な記載が多数あるとして、適切な記入を徹底する通達を出しました。

 求人広告や求人票は、「おおむねこのような条件で働きませんか」という労働者へのお誘いです。その内容は直ちに労働契約の内容とはなりません。もっとも、求人票に記された労働条件は、労働契約を結ぶ際に異なる合意をするなど、特段の事情がない限り労働契約の内容となるとした裁判例が多数あります。一方で、求人広告などで誤解を与える説明をした場合、使用者に慰謝料の支払いを命じた裁判例もあります。

 相談のケースも、求人広告では単に「月給24万円」と記載し、その中に残業代が含まれるかどうか、採用面接や入社時には一切説明せずに働かせていました。この場合は基本給24万円で合意が成立しているとして、残業代を別途請求したり、慰謝料を請求したりすることが考えられます。

 トラブルに遭わないためには、まず入社時に労働条件をきちんと確認することです。使用者は、入社時に賃金などの労働条件を書面で明示する義務がありますが、最近は残業代の支払いを不当に免れようと、「営業手当」「精励手当」など、一見して固定残業代と分からない巧妙なケースもあります。賃金総額だけにとらわれず、少しでも疑問があれば会社に説明を求めることが重要です。

 (弁護士・梅田和尊)

◇ポイントは

一見して「固定残業代」とわからない巧妙な例も

賃金総額だけにとらわれず、条件を入社時に確認

🔴◆月100時間分の定額残業代、あり?

(働く人の法律相談)梅田和尊

15.08.04朝日新聞

 飲食店で働く40代男性からの相談です。「休日出勤を含めて月に80時間ほどの残業があり、疲れきっています。店長に相談すると、『お前には100時間分の残業代を毎月定額で支払っている。もっと働け』と言われてしまいました」

 男性の給与明細を見ると、「基本給24万5千円、営業手当18万円」とありました。営業手当の内訳はすべて、平日の時間外や深夜と休日に働いた場合にもらえる「割増賃金」(残業代)でした。たしかに月におよそ100時間分の残業代を、毎月定額で受け取っている計算になります。

 前提として、残業代をあらかじめ決めておいた固定額で支払うことは違法ではありません。ただし、(1)残業代とそれ以外の賃金とが明確に区別されている(2)実際の労働時間から計算した残業代が固定額を上回る場合は差額を支払う、といった条件があります。男性の場合、以上の条件は満たしているようです。

 しかし、そもそも「100時間の残業」って、長すぎないでしょうか。続けば、過労死する危険があるレベルです。労働基準法が残業代を通常の賃金より割高に設定しているのは、長時間労働を抑制するためのはずです。過度な残業を前提とした賃金規定では働きすぎは防げません。

 最近、注目すべき判決が出ました。男性と同様のケースで、残業代の定額払いが否定された例です。判決はその大きな理由として、「100時間という長時間の残業を常に行わせることは、労基法の趣旨に反する。そのような条件で働き手が合意したとみなすのは困難」と指摘しています。このような働かせ方に警鐘を鳴らしたものと言えるでしょう。

 職探し中の人は、ぜひこの「残業代定額払い」に気をつけて下さい。求人票に書いてある「月給」は高くても、実は基本給は最低賃金ギリギリで残りはすべて定額の残業代、なんて例もあります。不合理と思ったら、すぐに専門家に相談しましょう。

 (弁護士・梅田和尊)

◇ポイントは

何時間分の残業代が定額払いなのか確認を

定額分を超えて働いたら追加の残業代が請求できる

🔴10時間労働なのに残業代なし?

(働く人の法律相談)2013.04.15 

 やっと就職が決まったメーカーから受け取った雇用契約書をみてみたら、「給与20万円・1日10時間労働で残業代なし・厚生年金や健康保険の加入なし」。この会社、大丈夫?――。そんな不安にかられたら、どうしたらいいのでしょう。

 まず労働条件については、残業代を払わない所定労働時間は、一部の仕事をのぞいて1日8時間・週40時間以内と労働基準法が定めています。労働時間が1日10時間という部分は無効で、8時間までしか有効にはなりません。厚生年金や健康保険も、労働者を常時1人でも雇う法人は加入が義務づけられていますから、加入しないのも違法になります。

 この例のように、労働法をはじめとする法律を意図的に守らなかったり、労働者を過酷な環境で働かせたりする企業は、俗に「ブラック企業」と呼ばれています。こんな企業に入っても、健康を害し、人生が台無しになるだけです。

 求人の際の情報や会社の説明に注意し、雇用契約書の中身もよく確認して、納得した上で署名、入社するようにしましょう。

 不幸にも、入社してからブラック企業であることに気づくこともあると思います。たとえば、有給休暇を取らせない▽仕事に失敗したら罰金500円を給料から引く▽定時にタイムカードを打たせた後に残業をさせる――。これらのことは、すべて労働基準法に違反します。

 また、連日の残業が当たり前で休日が事実上とれない▽上司のパワーハラスメントが日常茶飯事、といった場合も、労働契約法上の安全配慮義務に違反することになるでしょう。

 なかには「『こんな会社にいられない』と退職しようとしても辞めさせてくれない」「『退職したら損害賠償を請求するぞ』と脅してくる」といった相談まであります。「この会社ってブラック企業?」と感じたら、ただちに労働基準監督署や弁護士、仕事を紹介したハローワークなどの関係機関に相談しましょう。 (弁護士・梅田和尊)

◇ポイントは

 入社時は、給与や社会保険など労働条件を確認

 「休みが取れない」「サービス残業」は特に注意

🔴◆長時間残業、手当は定額だけ?

(働く人の法律相談)2013.04.22

 すさまじい長時間の残業をさせておきながら、残業代は固定で3万円――。最近、いわゆるブラック企業でこうしたケースがよく見られます。労働者はどう対処したらいいでしょうか。

 まず前提として、1日8時間、週40時間を超えて働かせたとき、使用者は残業代として通常の賃金に25%以上を上乗せして支払わなければなりません。これは労働基準法が定めている義務であり、仮に雇用契約書に「残業代は支払わない」と書いてあっても、労働者は残業代を請求できます。

 では、残業代が3万円で固定されている場合を考えましょう。固定額とすること自体は適法です。しかし、実際の残業時間と照らし合わせて計算した、本来もらえるはずの残業代が3万円を超えるのであれば、不足分を請求できます。「固定額を超える残業代は支払わない」などの規定があっても無効です。

 さらに、残業代を固定額の形ですら示さず、雇用契約書や就業規則に「基本給に残業代を含む」と書いている企業もあります。

 基本給に残業代を含ませることは適法ですが、残業代がいくらなのか、はっきりとわかる形で示さなければなりません。たとえば、「基本給30万円(残業代3万円を含む)」という規定ならいいのですが、「基本給30万円(残業代を含む)」ではだめです。残業代がいくらなのかわからず、きちんと支払われたかどうかチェックできないからです。

 基本給に含まれる残業代がはっきりとわかり、実際の残業時間からするともっともらうべき場合は、労働者は不足分を請求することができます。雇用契約書などに「基本給以外に残業代は支払わない」などの定めがあっても、その規定は無効です。

 こうした請求をするために、労働者は残業時間をきちんと把握している必要があります。タイムカードがない場合には、出退勤の時間を手帳に控えたり、仕事を終えて会社を出るときに自分にメールするなど、記録を残しておきましょう。(弁護士・指宿昭一)

 ◇ポイントは

 週40時間超働いた分には、25%以上の割増賃金

 「基本給△万円(残業代含む)」の規定も違法

🔴◆1日8時間と週40時間の関係

Q 1日8時間労働、週3日勤務の職場です。ある日に10時間働きましたが、会社は「週40時間の枠内だから残業代は払わない」といいます。これは合法?

A 完全に労働基準法に違反しています。10時間働いた日は、2時間分の残業代を請求できます。労働基準法は週40時間制を定めたうえで、それを一週間の各日に割り振る場合の上限時間を「8時間」と規定しています。つまり、週40時間を超えれば残業代、1日8時間を超えても残業代、ということになります。あなたのケースだと、残業した週は26時間労働で40時間未満です。でも1日8時間を超えた労働があれば残業代請求は当然です。「連合通信・特信版」

🔴◆課長は残業代もらえない?

嶋崎量

20140811

(働く人の法律相談)

 営業課長をしている男性から相談です。「勤め先では、課長職は一律に残業代が払われない仕組みです。出退勤の時間も会社に管理され、部下の仕事の穴埋めのため月100時間を超える残業があります。残業代が支払われないのは、仕方が無いのでしょうか?」

 男性の場合、いわゆる「名ばかり管理職」の可能性があります。その場合、残業代が支払われないのは違法なので、未払い分を請求できます。

 労働基準法は使用者に対し、労働者を働かすことができる時間の上限を、1日8時間・週40時間と定めています。これを超える時間外労働に対しては、割増賃金の支払いを義務づけています。長時間労働を抑制し、労働者の命と健康を守るためです。

 ただし、例外的に残業代が支払われない人がいます。「管理監督者」です。では「課長」など肩書がついている人は、残業代をもらえないのでしょうか?

 銀行の支店長代理が、残業代が出ないことを不服とした裁判があります。裁判所は管理監督者について「経営方針の決定に参画するなど経営者と一体的な立場にあり、自己の勤務時間について自由裁量権を有する者」と定義しました。

 原告は通常の就業時間に拘束されて出退勤の自由がなく、部下の人事考課や、銀行の機密情報に関与していないなどのことから、「管理監督者にはあたらない」と認め、残業代の支払いを銀行に命じました。

 長時間労働を防ぐため、管理監督者は限定的に解釈されています。課長職の労働者が「経営者と一体的な立場」にあると言えるケースは少ないでしょう。

 仮に管理監督者にあたる場合も、使用者は労働時間を管理しなければなりません。夜10時から朝5時までの深夜労働に対する割増賃金(2割5分以上)は支給する義務があります。

 疑問を感じたら、何時から何時まで働いているか、毎日の記録をつけることをお勧めします。支払いを求めるときに効果的です。

 (弁護士・嶋崎量)

 ◇ポイントは

 管理監督者でも労働時間の管理は必要

 管理監督者でも深夜手当はもらえる

🔴◆シフト組む店長、残業代はなし?

(働く人の法律相談)13.11.18

現実的に労働時間の裁量なければ請求を

 私はチェーンレストランの店長です。シフトを自分で組んでいますが、人件費を浮かせと社長の要求が厳しく、残業代の出ない私が、アルバイトを雇う代わりに長時間働き続けています。本当に残業代はもらえないのでしょうか。

 こういう悩みが寄せられたことがあります。労働基準法41条では、監督もしくは管理の地位にある者(管理監督者)には労働時間や休憩、休日に関する規定は適用しないと定められています。1日8時間・週40時間勤務といった制限や、週1日は休みという労働基準法の決まりが適用されず、割増賃金などを支払わなくてよいということです。

 相談の場合、社長は、管理監督者なら労働時間規制の適用除外ということを言いたいのでしょうが、それに当たらない可能性もあります。管理監督者というのは狭い概念ですから。

 これまで積み重なってきた判例では、(1)労働時間規制の枠を超えて活動をすることが求められてもやむをえないような重要な職務と責任を有するか。つまり経営者と一体的な立場か。(2)時間規制になじまない勤務形態か。つまり労働時間に関する自由な裁量があるか(3)ふさわしい給与をもらっているか――。これらの観点から、肩書きにとらわれず勤務実態に即して判断されてきました。管理監督者であると認められた例は多くありません。

 仮に自らシフトを組むことができて、ある程度労働時間に裁量がある立場にあったとしても、人件費などのノルマを課せられていた場合など、裁量の余地は極めて少ないと言えます。こういうケースでは、相談者には残業代はぜひ請求すべきだとアドバイスします。

 残業代を払わなければならないとなれば、人件費を節約したい社長もお店の体制と労働時間も考え直さざるを得ないでしょう。法が割増賃金を払わせるのは、使用者が労働者を酷使することの歯止めとするためですから。残業代には、労働者の休む時間を確保するという役割があるのです。(弁護士・木下徹郎)

     ◇

ポイントは

残業代を出さなくてよい「管理監督者」は狭い概念

残業代支払いは、休む権利を守るためでもある

★名ばかり管理職(28m)

http://video.fc2.com/content/20140218hgTGAJSV

★すき家名ばかり管理職問題

http://www.news-pj.net/npj/2008/sukiya-20080806.html

🔴◆急な残業命令に従う義務ある?

(働く人の法律相談)

140609

 「『今夜中に資料をまとめてくれ』など急な残業を命じられることがしばしばです。急ぐ必要がある仕事ばかりとは限らず、用事があって都合が悪い日もあります。会社員は上司の命令に従わないといけないでしょうか」。新入社員から、こんな相談がありました。

 労働時間は1日8時間まで、週40時間まで、というのが労働基準法の原則です。長時間労働の負荷から働き手を解放し、健康や、仕事と家庭生活との両立を保障するためです。もし、会社がこのルールを超えて従業員を働かせる場合には特別な手続きが必要です。

 代表例が労基法36条に基づく「36(さぶろく)協定」です。残業を命じる理由をあらかじめ「具体的」に協定で示し、就業規則や労働協約で定めることで、初めて、会社は1日8時間を超えて従業員を働かせることができます。

 この理由は「業務上の必要があるとき」といったあいまいなものはだめです。範囲が無限定だと、いつも残業させられる恐れがあるためです。最高裁は、例えば「棚卸し」「工事・修理」といった理由が書かれた就業規則なら合理的だと判示しています。

 ただし、36協定や就業規則に基づく残業命令でも、「権利乱用」で無効になる場合もあります。例えば目の疲れを理由に残業を拒んだ労働者と会社側が争った裁判で、東京高裁は「やむを得ない理由があるときに、労働者は残業命令に従う義務はない」との判断を示しました。

 相談者の場合、残業命令に緊急性があるかが疑われます。労働者は1日8時間を超えて働く義務はないというのが労基法上の原則です。もし緊急でないなら、「権利乱用」の疑いが濃厚です。残業を拒んでも、会社が懲戒処分することは、法的に認められません。

 とはいえ、帰宅を強行すればトラブルのもとです。上司には残業を命じる理由を説明してもらい、やむを得ない事情は丁寧に報告しましょう。

 (弁護士・佐久間大輔)

 ◇ポイントは

 1日の労働時間は原則「8時間」まで

 緊急性がなければ会社の「権利乱用」に

🔴36協定と残業拒否

Q 法律では月45時間まで残業が認められているのだから、それ以下の残業拒否はできないと言われました。本当ですか?

A 間違いです。そもそも1日8時間・週 40時間を超えて働かせるには、事前に36協定という労使協定を締結する必要があります。36協定で「○○時間まで残業させられる」と定めた場合も、それは労働者にとって強制ではありません。使用者がその時間まで残業させても労基法違反にならないというだけの話です。また、法律が月45時間まで残業を認めているというのも正確ではありません。これはあくまで上限規制の目安。法律の原則は、あくまで法定労働時間(1日8時間・週40時間)です。「連合通信・特信版」

🔴◆サービス残業中の事故、労災は?

 (働く人の法律相談)

佐久間大輔

2014121日朝日新聞

 「期限が迫っていたので『サービス残業』をしていたら、疲労からか機械に巻き込まれて、けがをしてしまいました。タイムカードで労働時間を記録していなかった時間だったのですが、労災は認めてもらえるのでしょうか」

 工場で働く従業員からの相談です。相談のケースでは、就業規則上の就業時間は午前9時~午後5時。会社はタイムカードで出退勤管理をしていましたが、時間外に、相談者は打刻をせずに作業をしていました。

 まず、サービス残業は労働基準法違反です。会社側は従業員の労働時間を適正に把握し、業務量が過大であれば、配置を見直したり、仕事の調整をしたりして、解消しなければなりません。

 では従業員が自主的にサービス残業をしている時間は、どうすれば就業時間と認定されるのでしょうか。

 最高裁では「労働者の行為が使用者の指揮命令下に置かれたものかで客観的に定まるもので、就業規則などで決まるものではない」と判断されています。

 上司から明確に指示された残業は、「使用者の指揮命令下」と判断されます。また、「暗黙の指示」があれば、同様に評価されます。

 日本の企業では、日常業務でも上司の明確な指示がないまま時間外労働をしていることが横行しています。業務量が多くて時間外労働をせざるを得ず、上司も認識していることが少なくありません。こうした場合、暗黙の指示により、時間外労働をしたことになります。従業員が事前に残業を申請していないからといって、時間外労働の指示がなかったとは言えません。

 相談のケースでは、相談者がこなさないといけない仕事が、早朝や夜などの時間外に働かなければいけなかったというのであれば、明確な指示がなくても、上司は業務量や期限を把握しているはずですから、暗黙の指示があったと考えられます。

 会社や弁護士などに相談して、労災申請を検討するとよいと思います。(弁護士・佐久間大輔)

 ◇ポイントは

 指示なく行った残業でも就業時間と認められる例も

 会社には業務量が過大であれば仕事を調整する義務

🔴◆病気なのに、毎日残業している

(朝日=働く人の法律相談)01.06.22

「暗黙の指示」でも会社の責任問える

 心臓の病気で、主治医から残業禁止と言われています。会社に伝えていますが、仕事量が多いため実際は毎日、残業です。上司は見て見ぬふりです。どうしたらよいでしょうか。男性からの相談です。

 まず、相談者がいわば自主的に残業をしている状況になっています。こうした場合も上司や会社の責任を問えるでしょうか。

 業務量が多いため残業せざるをえないケースはありえます。上司の明確な指示がなくても、業務量は上司も知っているわけですから「暗黙の指示」があったとして、上司や会社の責任を認めた裁判例があります。

 次に会社には、労働者が生命や身体の安全を確保しながら働けるよう、必要な配慮をしなければならないという安全配慮義務(労働契約法5条)があります。

 この安全配慮義務の具体的な内容については、病気や身体障害などの事情を会社側が知っていて就労させたのであれば、その事情に応じた義務が課されると考えられています。

 たとえば心臓の機能障害がある労働者が、仕事の心理的な負荷が重かったために精神障害になった事案。会社は心臓の機能障害を知って雇用しているので、混雑する時間帯の長時間通勤や長時間の立ち仕事、時間外労働をできる限り避けるなどの安全配慮義務を負うとした裁判例があります。

 ですからこの場合も、会社側は男性の病気という事情を知っていますから、時間外労働を避ける安全配慮義務を負っているのです。

 上司は会社の代理監督者として、この義務を果たすべき立場ですが、残業を黙認しています。上司自身も、部署全体の仕事量がとても多いせいで、病気の社員にまで残業をさせざるをえなかったのであれば、そもそも適切な人員配置を欠いた会社の労務管理の責任が重いといえます。

 まずは会社の人事部などに申し出て、相談してみましょう。うまくいかなければ、会社の労働組合や弁護士に相談をすることも考える必要があります。(弁護士・佐久間大輔)

     ◇

ポイントは

会社には、病気の事情に応じた安全配慮義務がある

そもそも適切な人員配置ができてない可能性もある

🔴◆手当を残業代のかわりにできる?

(朝日=働く人の法律相談)14.02.24

残業代を払わない便法の場合がある

 「勤め先の就業規則には、成績、職別、職能、特殊、臨時などの各種手当を『すべて時間外手当にかわるものとして支給する』と書かれ、どんなに残業が増えても手当以外は何ももらえない。おかしいのでは」

 ホテルのフロントで働く30代男性からの相談です。同様の相談は最近増えており、残業代の支払いをごまかす手法として企業に広がっているようです。

 前提として、残業代をあらかじめ決めておいた固定額で支払うこと自体はできます。ただしその場合、実際の残業時間で計算した残業代が、その固定額を下回ることは当然許されません。さらに、裁判例からすると、基本給と残業代を明確に区別して分かるようにもしなければなりません。

 では、冒頭の例のように、どんな手当でも「残業代にする」と就業規則や雇用契約書に書いて「明確に区別」し、手当を残業代のかわりにすることはできるのでしょうか。

 裁判所は、二つの点から厳しい判断をしています。

 一つ目は、その手当が本当に時間外労働の対価という性質をもっているかどうかです。例えば、営業のインセンティブとしての営業手当や、前の年の成果に応じて人事考課によって決められる手当は、労働時間に応じて支払われる残業代とは性質が異なるため、残業代と認めなかった判決があります。

 二つ目は、基本給と、残業代とされている各種手当の金額のバランスです。ある裁判では、残業代として払われた手当の時間単価が、基本給の倍以上となっていたケースについて、残業代と認められませんでした。仕事の内容が同じなのにそこまで差がひらくことはありえず、会社の給与体系は残業代を支払わないための便法だとしました。

 本来は残業代とは別に支払われるべき各種手当を残業代にされているということは、残業代をもらい損ねているということです。会社の就業規則がそうなっていたら、弁護士などに相談し、会社に改めさせましょう。(弁護士・新村響子)

ポイントは

実際の残業時間で計算した残業代未満は当然不可

基本給より著しく時間単価の高い手当は不自然

🔴◆休日手当のない「休日」出勤

Q 「春分の日」に休まず働いたのですが、休日手当がでません。おかしくないですか?

A 労働基準法は、最低週1回の休日付与を事業者に義務付けています。ですから週1日の休日が与えられていれば国民の祝日に働かせることは労基法違反ではありません。法定休日ではないので割増手当も支給されないことになります。しかし、「国民の祝日に関する法律」は、国民こぞって祝い、記念するために休むとの趣旨です。厚生労働省も休ませることが望ましいとしています。法を上回るルール設定は自由です。労働組合などが交渉して祝日を「休日」にし、出勤者には「手当」を支払うこととしたいもの。「連合通信・特信版」

🔴◆残業代と三六協定

Q 月45時間以上の残業には残業代がつきません。こんなのあり?

A はっきり言ってそれは違法です。月45時間というのはおそらく労使で結んだ「三六協定」の限度時間のことでしょう。三六協定は、限度時間まで労働者を残業させても使用者は罰せられないというだけのこと。現実に45時間を超えて働かせている場合は、残業代未払いで違法です。三六協定では限度時間を定めなければなりませんが、それを残業代の足切りに使ってはいけないのです。厚生労働省は通達で残業代足切りはダメといっています。三六協定を守らず、労基法三七条にも違反するという意味で二重に悪質です。「連合通信・特信版」

🔴◆残業代と有給休暇

Q 残業時間が8時間になったら年休を取れと言われました。こんなのあり?

A そんなのなしです。1日2時間の残業を4日やって8時間なら、使用者は8時間分の残業代を払わなければなりません。年休で処理するのは労働基準法37条(残業代の支払い)に違反します。代休にするのも違法。労基法は残業代と休日との相殺を認めていません。合法だと誤解している経営者もおり、注意が必要です。ただ、一定時間以上の残業をした場合に、残業代を支払わせたうえで疲労回復のための休日(有給、ただし労働者の有給休暇とは別枠)を与えることは可能。その場合は労働協約などに定めておきましょう。「連合通信・特信版」

🔴◆拘束時間と残業手当

Q 九時-五時の職場ですが、残業手当が付くのは六時から。一時間分は不払い残業じゃないですか?

A ポイントはお昼休みなどの休憩時間です。もしも一時間の休憩があるとすれば、「実働時間」は七時間になります。残業手当がつくのは一日八時間の法定労働時間を超えた場合ですから、あなたのケースでは五時-六時の一時間分は残業とはみなされません。これは、日本の労働基準法が「拘束時間」ではなく「実働時間」を基準にしているためです。拘束時間を基準にしているヨーロッパなどよりも、労働者に不利な仕組みといえます。もっとも、労働協約で五時以降は残業手当の対象と定めることはできます。「連合通信・特信版」

🔴◆土曜出勤と割増

Q 土日休みの週休二日制ですが、土曜に出勤してもまったく割増手当がつきません。こんなのアリ?

A あり得ます。労基法で休日割増の三五%以上を義務付けているのは、週一日の「法定休日」だけ。土曜日は三五%支払いの対象とはならないのです。労働組合があれば、労働協約で「土曜休日も三五%の対象」としておくことが望ましいでしょう。問題は、残業として二五%以上の時間外割増の対象になるかどうかです。月-金曜日の五日間で「週四十時間」の枠を使い切っていれば、土曜日の労働は二五%の割増が必要です。しかし、土曜に働いても週四十時間以内なら二五%の割増はつきません。「連合通信・特信版」

🔴◆過重労働、社長個人の責任は?

(朝日=働く人の法律相談)14.03.31

改善せずに放置していたら問える

 「私の会社は、残業することが前提の給与体系。つらくなり東京の本社にいる社長に労働時間を減らすようメールで訴えましたがなしのつぶて。私はうつ病で休職せざるを得なくなりましたが、納得できません。会社だけでなく社長にも責任を問えないでしょうか」

 全国展開する飲食チェーンの男性店員の悩みです。会社は法律上、労働者の健康を損なわないように配慮しなければいけない、いわゆる「安全配慮義務」を負っています。危険な作業やメンタルヘルスへの配慮も、これに含まれます。

 労働者が日常的に長時間労働をしている場合、過労で健康を害さないよう、会社は仕事量を調整するなどして、労働時間が適正範囲に収まるようにしなければなりません。会社が労働者の過重労働を知りながら放置したことで、労働者が病気で働けなくなったような場合には、安全配慮義務を怠ったとして会社は責任を負うことになります。

 では、社長個人の責任はどうでしょうか。

 社長は会社(法人)とは別人格で、会社が責任を負う場合でも、直ちに責任を負うことにはなりません。しかし社長には、会社が安全配慮義務に違反しないような体制をつくる義務があると言えます。相談者のように、全国展開するような規模の大きな会社の社長でも、その義務は変わらないと言えるでしょう。

 居酒屋の従業員が長時間労働で過労死したとして、会社だけでなく、対策を取らなかった社長の責任を認めた判決が昨年9月、最高裁で確定しています。この居酒屋チェーンでは、月80時間の残業をこなさなければ賃金が減る制度を採用しており、社内で長時間労働が恒常化していたのに、社長ら取締役は是正しなかった、と認定されたのです。

 長時間労働を前提とした給与体系をつくり、それに従い働き手が過重な労働を余儀なくされているなら、対策を取らない社長らには責任が問えます。健康を損ねるほどの残業が前提の給与体系は、明らかな問題です。(弁護士・梅田和尊)

     ◇

ポイントは

社長には社員の健康を守る制度をつくる責任がある

体調を崩すほどの残業が前提の給与体系は違法

🔴◆休日も頻繁に細かな問い合わせ

(働く人の法律相談) 梅田和尊

2015727日朝日新聞

 食品販売会社に勤める20代男性からの相談です。「私の上司は携帯電話の通信アプリ『LINE(ライン)』で業務の指示を出してきます。私が日曜日に家にいても、『木曜の会議の場所はどこだっけ?』といった、細かな問い合わせが何回も届きます。もともと同席する予定の上司自身が調べればわかることだと思い、返信せずに月曜に出勤すると、叱られました。これでは、せっかくの休日なのに羽を伸ばせません」

 上司は休日出勤していて、気軽に問い合わせたのでしょう。しかし、予定を確認して返信するだけで10分ほどかかります。それが何度も重なれば、しんどいものです。すぐ返信する必要はあるのでしょうか。

 労働基準法は、最低週1日は休日を取らせることを定めています。これが法定休日です。法定休日に働かせる場合、会社は労働組合など労働者の代表と協定を結び、どんな場合に休日労働が必要かを前もって決めねばなりません。そのことを就業規則に書く必要もあります。それが前提です。

 その上で、実際の指示に対しては業務上の必要性で判断しましょう。相談例の「会議の場所はどこ?」のように、上司が自分で調べればすぐ解決できる内容なら、業務上の必要性があるとは言えないでしょう。あまりにも頻繁に連絡が来るようなら、同僚や労働組合、弁護士などに相談してはいかがでしょうか。

 業務上必要な指示であれば、自宅で1時間ほどの短い仕事時間であったとしても、働いた分の賃金を要求できます。残業代と同じく、休日労働には通常の賃金よりも高い「割り増し手当」がつきます。しかし、前述のような細かい問い合わせに対応したとしても、業務指示にもとづく労務提供とみなされない可能性があります。そうなれば、賃金はもらえません。

 労基法が休日労働を規制するのは、働く人の健康を守るためです。休日に指示せずに済むよう、日々の仕事をいかに切り回すかが上司の腕の見せどころです。

 (弁護士・梅田和尊)

◇ポイントは

会社が法定休日に働かせるには、労使協定が必要

短時間の自宅作業でも、割増賃金を請求できる

🔴◆休日出勤時に残業したら

Q 日曜日に休日出勤をして夜12時まで働きました。この場合の割増手当はどうなるのでしょうか?

A まず、休日出勤した以上はその労働時間に対し最低35%の割増率がつく、というのが基本です。問題は、8時間以上働いた場合に、25%の残業代が加算されるかどうか。つまり60%の割増率になるかどうかですが、残念ながら60%にはなりません。35%の割増率が適用されます。休日労働には通常の残業代は発生しないのです。しかし、あなたの場合は夜10時以降の深夜にも働いています。夜10時以降は深夜割増率が加算されますから、この2時間分は35%プラス25%で60%の割増率が適用になります。「連合通信・特信版」

🔴◆外勤の営業に残業代は出ない?

(朝日=働く人の法律相談)14.03.24

会社が勤務状況を把握できれば支払い

 「不動産の営業職です。会社の指示どおり、毎日社外の取引先を回ります。1日約10時間働いていますが、残業代が出ません。上司にたずねても、外勤の仕事は『みなし労働』にあたるため、残業代はないと言われました。本当ですか」

 業種に関わらず、営業職の方からこのような相談をよく受けます。相談のケースでは、社員は事前に会社に申告すれば、取引先から直接帰宅することも認められていますが、その日の業務内容を詳細に記した営業日報を翌日に出すことになっています。

 労働基準法は、労働者が職場の外で働いた場合で、会社側が労働時間の算定が困難なときは、実際の労働時間に関わらず、決まった額の賃金しか支払わない「みなし労働時間制」が適用できることを定めています。労働者が一定時間を働いたものとみなす制度です。それでは、どういった場合に労働時間の算定が困難と言えるのでしょうか。

 今年1月、海外旅行の派遣添乗員について、みなし労働時間制の適用を認めず、派遣会社が添乗員に残業代を支払うとする判決が最高裁で出されました。

 あらかじめ定められた旅程の管理業務を行うことを、会社側から具体的に指示されていた▽途中で旅程に変更が生じた場合は指示を受けることになっていた▽旅行終了後、日報で仕事の詳細な報告をすることになっていた――。これらの条件から、会社側は勤務状況を具体的に把握することができたと判断。業務の性質なども総合判断して、会社側の「労働時間の把握は難しい」とする主張を退けました。

 相談のケースでは、社員は会社の指示で動き、詳細な営業日報の提出も義務づけられています。裁量は少なく、会社も勤務状況を把握することが可能と言えるでしょう。みなし労働時間制は適用されず、会社は実労働時間に応じた残業代を支払わなければいけません。人件費を抑えるために、安易に制度を導入する会社もあり、注意が必要です。(弁護士・梅田和尊)

     ◇

ポイントは

社員に労働時間の裁量ないなら、残業代請求は可

人件費圧縮のための安易な「みなし労働」に注意

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🔵【休憩・休日】

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🔴45分間の休憩は適法?

Q 転職した新しい職場では昼の休憩時間が45分しかありません。なんでこんな半端な時間なのか、よくわかりません。

A 昼休みは12時から1時間、という職場に慣れていた人からすると、不思議ですよね。でも、新しい職場の労働時間が8時間未満だとすると、この45分間というのは違法ではありません。労働基準法は労働時間が6時間を超える場合に、少なくとも45分の休憩を与えなければならない、と定めています。8時間を超える場合には少なくとも1時間となっています。もちろん労基法は最低基準ですから、終業時刻を変えないで休憩時間を1時間にするのは可能です。「連合通信・特信版」 

🔴◆車内での待機は休憩時間なの?

(働く人の法律相談)

201621日朝日新聞

労働から解放の保障なく、会社の指揮下

 「運送会社で働くトラックドライバーです。労働時間が長く休憩が全く取れないため、先日、取れるようにして欲しいと会社に求めました。すると『トラックの入庫待ちで停車している時間が休憩時間だ。雑誌など読んで休憩しているだろ』と言われました。確かに日によっては1時間以上待機していることもありますが、これは休憩時間と言えるのでしょうか」

 こんな相談です。労働基準法上、「休憩」とは、労働者が権利として労働から離れることを保障されている時間をいいます。つまり使用者の指揮命令から完全に解放され、自由に利用できることが原則です。

 客が来ればすぐ対応しなければならない喫茶店の店員の手待ち時間や、突発的な非常事態に直ちに対応を義務づけられている警備員の仮眠時間などは、労働からの解放が保障されているとは言えません。休憩時間とは認められないと判断されることが多いでしょう。

 相談のトラックドライバーの事例では類似の裁判例があります。あるドライバーが待機時間中に休憩室を使うことも、トレーラーの車内から出ることも禁じられ、車内でエンジンを切って待機するよう義務づけられていました。労働から離れることを保障されず、会社の指揮命令下だったと評価できるとして、裁判所は休憩時間には当たらないと判断しました。

 これら以外にも、昼休みに来客・電話対応を義務づけられていたり、社内研修への参加が強制であったりするような場合、休憩時間を付与したとは認められないと考えられます。

 休憩は、精神的にも肉体的にも労働からの疲れを取るためのものです。使用者の指揮命令から解放されて実のある休憩となっているかどうか、チェックしましょう。また、休憩とされている時間が、法律上の「休憩」とは見ることができず、使用者の指揮命令の下で働いていた場合にはその分の時間外賃金の請求をすることもできます。悩んだら専門家に相談しましょう。(弁護士・梅田和尊)

 ◇ポイントは

自由に利用できない時間は休憩時間とは言えない

法律上の「休憩」でないと時間外賃金も請求できる

🔴◆喫茶店で企画考えたら「さぼり」?

(朝日=働く人の法律相談)13.07.01

職場の秩序を乱すほどなら懲戒処分も

 仕事中、企画を考えるために会社近くの喫茶店へ出かけたところ、上司から「さぼり行為だ」と指摘されました。懲戒処分もありうるというのですが、どうしたらいいでしょうか。食品会社の男性社員からの相談です。

 労働者には、労働契約上、就業時間中は誠実に仕事をする「職務専念義務」があります。喫茶店に出かけることは、この義務に違反する可能性があります。

 懲戒になるかは、職務専念義務に違反しただけでなく、喫茶店へ出かける行為がほかの社員の仕事のじゃまになり、職場の秩序を乱すほどひどいとまで言えるかどうかがポイントです。例えば、毎日のように長時間、喫茶店に入り浸り、そのせいでほかの社員の仕事が進まなくなるなど、職場全体に影響が出ているといった場合、懲戒となる可能性があるでしょう。

 ただし懲戒処分は、収入が減ったり、職を失ったりすることもある処分です。労働契約法15条では「客観的に合理的な理由がなく、社会通念上相当と認められない場合」は、処分は無効になると定められています。会社は処分に先立ち、本人にしっかり事情聴取をして事実を確かめ、処分の内容や根拠を十分に検討する必要があります。

 ですから、喫茶店でどんな企画を考えていたかなどを詳しく説明することは有効です。また、社内に自動販売機がないなど、水分補給が難しい状況であれば、喫茶店でのどの渇きを癒やすことは、生理的に必要な行為ですので、なぜ喫茶店に行ったのかを説明した方がよいでしょう。

 社員が実際に企画を考えており、喫茶店に行ったことを反省していれば、懲戒処分とまでいかないこともあります。ただしその後も喫茶店へ入り浸る行為を続けていれば、次には懲戒処分の対象になることもありますから注意が必要です。

 仕事の進め方について悩みがあれば、この機会に、上司とじっくり話し合う機会を持ってみてはどうでしょうか。(弁護士・佐久間大輔)

     ◇

ポイントは

会社は処分の前に、本人から事情を聴く必要がある

「さぼり」ではないとしっかり説明することが大切

🔴◆社長の一存で朝型勤務にできる?

(働く人の法律相談) 嶋崎量

201576日朝日新聞

 子育て中の30代の女性会社員から相談です。「社長の一存で、今年の夏から始業時間が2時間早くなり、朝7時になりました。でも、子どもの保育園は自宅から遠く、通勤にも1時間半かかります。保育園の送り迎えにも、子どもの生活にも影響が大きく、困っています」

 家族で夕食を囲む時間を増やしたり、夜遅くまでの残業を減らしたりといった狙いから、「朝型勤務」が広がっています。政府は今夏、国家公務員の始業時間を早めた(ゆう活)ほか、民間企業でもサマータイムなどを導入する企業が出始めています。一見、いい話のようですが、この「朝型勤務」は社長の一存で導入できるのでしょうか。

 始業時間は労働者の生活に大きく影響するため、会社と労働者の合意(約束)である労働契約で定められていたり、会社の就業規則に明記されていたりするはずです。労働契約で合意された始業時間は、社長の一存で好き勝手に変えることはできません。変更する場合は、原則として労働者個人の同意を得ることが必要です。

 ただ、合理的といえる範囲内なら、労働組合など従業員の過半数の代表の意見を聴くなどの手続きをとることで、労働者の同意がなくても就業規則を変えて、始業時間を変更できる余地はあります。とはいえ、今回のケースのように一律に始業時間を2時間も早めることは、労働者の不利益が大きく、就業規則の変更も簡単には認められないでしょう。

 サマータイムなどの「朝型勤務」は、労働時間を減らしたり、気温の高い日中に職場で使う電力が減ったりする利点があると言われます。一方、今回の相談のように、労働者の子育てなど家庭生活や、健康(睡眠)に与える影響の大きさも指摘されています。

 導入を検討している社長さんは、法律の手続きを守ることはもちろんですが、じっくりと労働者の声を聴いたうえで判断して頂きたいものです。(弁護士・嶋崎量)

◇ポイントは

始業時間は労働契約や就業規則の一部

働き手への影響、経営者は慎重に判断を

🔴◆全員参加」の花見、断れる?

(働く人の法律相談)「 金子直樹

201546日朝日新聞

 春は新人の歓迎会や花見など、職場の人たちと飲む機会が多い季節です。「うちの会社では、毎年恒例のお花見があります。上司は『全員参加だ』と言いますが、断れますか?」という相談も寄せられています。

 そもそも飲み会は「労働時間」、つまり仕事なのでしょうか? 普通に考えると違う気がしますが、法律上、当てはまる場合もあります。

 仕事にあたるかどうかは、働き手が会社の指揮命令の下にあるか否かによって判断されます。具体的には、(1)参加が義務付けられているか(2)業務時間内か(3)時間が決められているか(4)費用を誰が負担するか、などが判断要素となります。

 今回の相談者の場合ですが、権限を持つ上司が「全員参加だ」と命じていて、勤務時間内に行われ、会社側が費用を負担している場合などは、仕事となる可能性があります。そうなれば断ることは難しくなります。給料がカットされる可能性もあります。逆に参加した社員にはその間の賃金や残業代の支払いをしなければ、会社側が労働基準法違反となります。

 給料の話ではありませんが、飲み会が、労働災害が認められる「仕事」として位置づけられる場合も。長時間労働で脳・心臓疾患を発症した人について、接待でお酒を飲んでいた時間も労働時間に含めて労災認定したケースがあります。

 反対に「仕事」に当てはまらない飲み会であれば、参加は自由。休業日や就業時間外の飲み会を断った社員を「協調性がない」と人事評価を下げるのは論外です。そのようなことがあれば、労働組合や弁護士に相談してください。

 夜の花見に備えて、上司の命令で若手社員が日中から場所取りをすることもありますね。その場合、会社はその分の給料をカットしてはなりません。

 経営者や上司が、業務上必要でない飲み会への参加を強制したり、飲酒を強要したりするとパワハラになります。気をつけて、楽しいお酒を飲みましょう。

 (弁護士・金子直樹)

◇ポイントは

指揮命令下にあるか、費用は会社負担かなどで判断

「仕事」の場合は、会社は賃金・残業代払う義務も

🔴◆お昼休みの電話番

Q お昼休みに電話番をさせられました。昼休み後に休憩時間を取れますか?

A 取れます。使用者は6時間を超える労働には最低45分、8時間を超える場合は1時間の休憩時間を労働者に「与えなければならない」のです。休憩時間とは、権利として労働から離れることを保障された時間。あなたのように、電話番をした場合は労働から離れたことにはなりません。例え、1本も電話がかかってこなかったとしても、それに待機している状態ですから、立派な労働時間になります。1時間の電話番には、別途、1時間の休憩時間が必要です。それが使用者の義務であり、働く者の権利だということです。「連合通信・特信版」

◆代休と振替休日

Q 日曜出勤の代休を取って休んだのに、35%分の休日割増手当がついていました。なにかの間違いじゃないでしょうか?

A いいえ、間違いではありません。当然、支払われるべき手当です。休日の日曜日に働き、他の日に休む場合を考えてみましょう。「振替」で休むなら、振り替えられた日が休日になります。しかし、「代休」で休む場合、その休みはあくまで日曜日の休日労働の代償措置です。休日労働を行った事実は消えません。休日労働に対する35%以上の割増手当支払いの義務が発生しているのです。代休で休んだ時には割増手当をチャラにしないよう、注意が必要です。「連合通信・特信版」

🔴◆会社員の兼業、絶対にダメ?

20141006日朝日新聞

木下徹郎

(働く人の法律相談)

 「日中は保険代理店の正社員として働いています。就業時間後を利用して、別の仕事をアルバイトでやりたいのですが、社長に相談すると、『うちは兼業禁止だから、ダメだ』と言われてしまいました。社長の言うとおりなのでしょうか」

 就業規則で兼業・兼職を禁止している会社は多くあります。企業は、事業遂行のために、従業員に一定の統制を加えることがあります。これは企業秩序と呼ばれ、従業員は、労働をする義務のほかに企業秩序を守る義務も負っています。兼業・兼職禁止も企業秩序の維持の一つのルールです。

 しかし、兼業・兼職禁止規定があっても、兼業ができないのかというと、そうではありません。企業は、事業遂行の目的を離れて、従業員を一般的に支配するものではないからです。

 就業時間外の時間をどのように利用するかは、本来、従業員の自由であり、この自由時間に対する過度な制約は認められません。兼業・兼職禁止は、企業秩序を維持するために必要な範囲内でのみ許されます。

 トラック運転手が4度、兼業の許可申請をしたのに対し、会社がすべて不許可とした事案で、裁判所は、兼業の労働日数が多く、兼業の終業時刻が本業の始業時刻の直前であった2件については不許可に合理性があると判断しました。一方、日曜日だけの兼業となる申請については不許可の理由がないとしました。

 他方、同業他社の取締役に就任した社員が解雇された事案では、他社の経営に直接関与していなくても、本業の企業秩序を乱すおそれが大きいとして、解雇が有効とされました。

 いずれも、勤務以外の時間は自由であることを前提に、兼業による本業への支障の有無や企業の機密漏洩(ろうえい)のおそれなどの点から、兼業禁止規定を解釈・検討したものです。

 相談の事例も、勤務している保険代理店での仕事に支障が出ない程度の時間や内容のバイトであれば、社長は兼業禁止規定を盾に妨げることはできないでしょう。(弁護士・木下徹郎)

 ◇ポイントは

 機密漏らすおそれがある場合はNG

 基本的に勤務時間外の時間は個人の自由

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🔵【変形労働時間】

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🔴◆「変形労働時間制」で残業代ゼロ?

(朝日=働く人の法律相談)13.08.05

「変形」の期間・条件 事前の届け出が必要

 残業したのに、「うちは変形労働時間制だから残業代は払わない」と言われた――。残業代に関して、とてもよくある相談内容です。変形労働時間制とはどのようなもので、会社の説明は正しいのでしょうか。

 労働基準法は、原則1日8時間(休憩を除く)、週40時間を超えて働かせてはいけないと定めています。長時間労働から労働者を守るための大原則であり、この法定労働時間を超えて働かせるとき、雇い主は延長時間数などを労使協定に定めて、割り増し残業代を支払わなければなりません。

 とはいえ、忙しいときと暇なときが偏っている仕事もあります。土日祝日だけ長時間営業する飲食店▽決算期前が圧倒的に忙しい経理の仕事――などが分かりやすい例です。そこで、法律が例外的な制度の一つとして認めているのが「変形労働時間制」です。

 具体的には、1週間、1カ月、1年といった一定の期間で考えたときに、労働時間が平均1日8時間、週40時間を超えていなければ、特定の日や週に1日8時間、週40時間を超えて働いても、法定労働時間に収まっているとみなす制度です。つまり、残業代を支払う必要がありません。

 ただ、会社が「変形労働時間制だ」と宣言すれば、思いのままに不規則に働かせられるわけではありません。あくまでも例外的な制度なので、事前に労使協定などに、働き手を守るための一定の条件が定められている必要があります。

 たとえば、いつから、どのぐらいを変形期間とするか▽変形期間中の労働日、休日や労働時間は▽労使協定の有効期間は、などを決めている必要があります。また、労使協定や就業規則は労働基準監督署に届け出ていなければなりません。残業代が多くなりそうだから過去にさかのぼって変形労働時間制にする、というわけにはいかないのです。

 自分の働き方が変形労働時間制と言われたら、こうした約束が労使協定や就業規則に書かれているか、確認してみましょう。(弁護士・板倉由実)

     ◇

ポイントは

繁閑が偏っている仕事向けの例外的な制度

あとから、過去にさかのぼって適用するのはダメ

🔴◆事務職にみなし労働制?

Q 営業課は全員「みなし労働制」になりました。内勤の私もみなし制の適用になるのですか?

A なりません。営業職などに適用される「事業場外のみなし労働時間制」は、管理者による労働時間の算定が「困難」である場合に限られます。しかも労働基準法が対象にしているのは、そういう業務についた「労働者」です。営業部や営業課という単位で全員に適用することはできません。あくまでも個々の労働者の業務で判断することになっています。みなし制は、どんなに残業をしてもあらかじめ定められた額の手当しか支払われない制度。不払い残業を生む恐れがあるので、注意が必要です。「連合通信・特信版」

🔴◆フレックスタイム、残業代出ない?

(働く人の法律相談) 新村響子

2015525日朝日新聞

 「フレックスタイム制が適用されることになり、会社から『残業代は今後、一切払わない』と説明を受けました。いくら働いても残業代はもらえないのでしょうか」。システムエンジニアとして働く20代男性からの相談です。

 勤務時間は就業規則などで通常、「午前9時から午後5時まで」などと固定されていますが、フレックスは、労働者が始業と終業時刻を自由に決められます。1カ月以内の一定期間(清算期間)に働く総労働時間を事前に決め、労働者はその中で自由に働く時間を決められるのです。

 では、残業代はどうでしょうか。結論から言うと、フレックスでも、法定労働時間を超えて働けば、残業代は必ず発生します。

 一般的な働き方の場合、会社の所定労働時間を超えれば残業代が発生し、法定労働時間(1日8時間、週40時間)を上回ると、通常の25%以上の割増賃金の支払いが必要になります。

 一方、フレックスは、働いた時間が法定を上回っているかどうかは、1日や週単位ではなく、清算期間ごとに判断することになっています。清算期間に働いた労働時間の合計が、法定(週平均40時間)を上回った場合、企業は残業代として、通常の賃金に25%以上を上乗せし、労働者に払う義務があります。

 実際に働いた時間が法定労働時間内に収まっていた場合も、事前に決めた総労働時間を超えていれば、原則として、割り増しのつかない通常賃金分の残業代を請求できます。

 フレックスは、適切に運用されれば、自由度の高い働き方ができ、ワーク・ライフ・バランスが取りやすい制度です。政府はより柔軟な働き方を目指し、今通常国会に清算期間の上限を1カ月から3カ月に広げる法案を提出しています。

 しかし、清算期間が長くなれば、仕事が特定の時期に集中した場合、労働時間が偏ってしまう恐れがあります。健康が損なわれることがないように、法案の慎重な審議が必要です。(弁護士・新村響子)

◇ポイントは

実労働時間が法定を上回ると割増賃金がつく

1日で法定時間を超えただけでは割増賃金はない

🔴◆裁量労働制を会社が導入

(働く人の法律相談) 棗一郎

2015427日朝日新聞

 食品の新商品開発に携わっている人からの相談です。「会社が裁量労働制を導入しようとしていますが、私の仕事は上司の指示に従って食材を検査することです。制度にあてはまる仕事なのでしょうか」

 労働基準法の定める裁量労働制には、「専門業務型」があります。仕事の性質上、やり方や時間配分を労働者の裁量にゆだねた方がいい19業務に限って認められています。例えばシステムエンジニアやデザイナーなどがあり、「新商品、新技術の研究開発業務」も含まれています。

 ただ、研究開発業務といっても、職場の全員が制度の対象になるわけではありません。会社側が業務のやり方や時間配分について具体的な指示をしないことが条件で、補助的な業務はあてはまらないのです。労働組合や労働者の代表と、適用する業務の範囲などを定めた労使協定を結んで、労働基準監督署に届け出ることも必要です。

 質問のケースでは、上司の指示に従って検査しているので、時間配分などを自分で決めることは難しく、対象にならない可能性が高いでしょう。会社側が導入しようとしても、法律上の要件にあてはまるのか十分にチェックしてください。疑問があれば労組や会社の窓口に相談すべきです。

 裁量労働制は、実際の労働時間ではなくあらかじめ定められた「みなし時間」だけ働いたことになります。1日8時間と決めると、実際にそれ以上働いても残業代はありません。深夜や休日の手当は出ますが、長時間労働を抑制する歯止めが効きにくくなります。

 労働者が本当に時間配分を決められるなら労働時間も減りそうですが、実際は業務が過大でみなし時間より長く働いている人も多いのです。残業が月平均80時間以上になり、労災の過労死認定基準を超える危険性もあります。すでに導入されている職場では、みなし時間が実情に合っているのかどうか確認して、改善を求めていくべきです。

 (弁護士・棗〈なつめ〉一郎)

 ◇ポイントは

専門業務型の裁量労働制は19業務に限られる

業務のやり方や時間配分は労働者が決める

🔴◆裁量労働制で仕事量減らせる?

20141110日朝日新聞

(働く人の法律相談)棗一郎

 「ゲームソフトウエアの開発会社で働いていますが、仕事が多く、勤務は連日12時間以上。9時間働いているとみなす制度を導入していると聞いたので、それ以上働かなくても済むように上司に仕事を減らすように掛けあいましたが、『仕事を終わらせられないのが悪い』と言われました。解決策はないのでしょうか」という相談です。

 その制度は、あらかじめ決めた時間に応じて賃金を払う「裁量労働制」で、ゲームソフトの創作も対象になります。まずはあなたが担当している業務が、制度の対象として厚生労働省が指定する業務に本当に該当するかどうかチェックしてください。他人の指示に基づき裁量権のないプログラミングをしたり、すでに創作されたソフトウエアに基づき製品をつくったりしている場合には、制度は適用されません。

 また、この制度は業務遂行の手段や労働時間の配分などを決めるのに実際に裁量権のある労働者にしか適用されません。「今日は頑張って12時間働いたが、明日は6時間にしておこう」という働き方が自由に決められるということです。あなたのように、みなし時間が9時間とされているのに、実際には毎日12時間以上働かなければ業務が終わらないような場合には、労働時間配分の決定権を持っているとはいえず、裁量労働制は適用されません。

 裁量労働制は広く利用されていますが、実際には労働時間の配分の決定権限がなく、過大な業務を与えられて、みなし時間ではとても終わらないような過酷な長時間労働を強いられている人が多いのが実態です。過労死の温床になっているケースもあるのです。

 専門職の裁量労働制は労使協定を結ぶ手続きが必要で、対象労働者の意見を聞く機会が確保されることが求められています。実情に見合わない、わずかなみなし時間になっている場合は、労働組合や使用者に改善を求め、それでも改善が難しいなら裁量労働制の適用をなくすべきです。(弁護士・棗〈なつめ〉一郎)

 ◇ポイントは

 担当業務が制度の対象に該当するかチェック

 実情に見合わないみなし時間の場合は改善を求める

🔴◆週40時間制の特例措置

Q うちの診療所は週40時間を超えても残業代がでません。おかしくない?

A 週40時間を超えた労働には時間外割増手当をつけなければなりません。ただ、「週40時間制」には例外がありますから注意が必要です。現在、保健衛生と商業、映画・演劇、接客娯楽の事業のうち、労働者が常時10人未満の事業所は「週44時間」でいいことになっています。あなたの診療所は「保健衛生」です。もし10人未満なら、週44時間までは残業代がつきません。週44時間を超えた分が残業代の対象となります。労働組合があれば、「週40時間を超えた分を残業代対象」と要求し、協約化することは可能です。「連合通信・特信版」

🔴◆裁量労働制、給料は減らないの?

(働く人の法律相談) 棗一郎

2015420日朝日新聞

 春から新しい職場に移った人も多いと思います。今回は本社の企画部への異動で、企画業務型の裁量労働制が適用されることになった人からです。「会社から給料は減らないと言われていますが、運用ルールがよくわからず不安です」

 裁量労働制は労働基準法で定められた制度で、専門型と企画型があります。企画型は本社などで、企画の立案や調査、分析を行う人を対象とした働き方です。経営状態について調べて計画をつくることなどが仕事内容です。

 使用者は業務のやり方について具体的な指示をせず、労働者の裁量に委ねます。決められた時間や順番などに従って働く場合は、適用できません。本社の企画部に配属されたからといって、全員が該当するわけではないのです。本人の同意も必要です。労使委員会で所定の事項を決議し、労働基準監督署に届けることも求められています。

 対象者は実際の労働時間と関係なく、労使委員会の決議で定めた時間だけ働いたものとみなされます。1日のみなし労働時間を8時間と決めたら、実際には12時間働いても時間外労働の割増賃金はもらえません。1日10時間とすれば、法定労働時間を超える2時間の割増賃金はもらえます。

 あなたの部署のみなし労働時間を確かめてみてください。8時間以下なら残業代がもらえないことになります。会社からは「給料は減らない」と言われているようですから、残業代がもらえなくなっても「裁量労働手当」などが支給されることが一般的です。手当の額がこれまでの残業代と比べて少なくならないかもチェックしてください。

 問題は、みなし時間で仕事が終わらず毎日のように超過して働く職場が多いことです。裁量がなく、会社の指示で働く人もいます。このような場合は本来なら裁量労働制を適用できず、違法な可能性もあります。労働者は実際に働いた分だけ割増賃金をもらえるはずですが、会社側が認めず争いとなることもあります。

 (弁護士・棗〈なつめ〉一郎)

◇ポイントは

業務のやり方は会社は指示せず労働者に委ねる

企画部でも全員が対象ではなく本人の同意も必要

🔴◆裁量労働と法定休日

Q 裁量労働制だけど、週一回の休日はとれるの?

A とれます。裁量労働制は、管理監督者のような労働時間規制の適用除外とは異なります。実際に働いた時間にかかわりなく、あらかじめ定めた時間を「働いたとみなす」制度です。協定が一日八時間なら、十時間働いても残業手当がでないというだけのこと。休憩時間や、深夜業、休日、年次有給休暇の規定は適用されますから、週一回の法定休日をとるのは当然の権利です。管理監督者には労働時間規制が適用されません。面白いのは、労基法上、深夜業は労働時間規制とは別物になっている点です。部長や課長にも二五%の深夜割増規定は適用されます。「連合通信・特信版」

🔴◆会社員の兼業、絶対にダメ?

(働く人の法律相談) 木下徹郎

20141006日朝日新聞

 「日中は保険代理店の正社員として働いています。就業時間後を利用して、別の仕事をアルバイトでやりたいのですが、社長に相談すると、『うちは兼業禁止だから、ダメだ』と言われてしまいました。社長の言うとおりなのでしょうか」

 就業規則で兼業・兼職を禁止している会社は多くあります。企業は、事業遂行のために、従業員に一定の統制を加えることがあります。これは企業秩序と呼ばれ、従業員は、労働をする義務のほかに企業秩序を守る義務も負っています。兼業・兼職禁止も企業秩序の維持の一つのルールです。

 しかし、兼業・兼職禁止規定があっても、兼業ができないのかというと、そうではありません。企業は、事業遂行の目的を離れて、従業員を一般的に支配するものではないからです。

 就業時間外の時間をどのように利用するかは、本来、従業員の自由であり、この自由時間に対する過度な制約は認められません。兼業・兼職禁止は、企業秩序を維持するために必要な範囲内でのみ許されます。

 トラック運転手が4度、兼業の許可申請をしたのに対し、会社がすべて不許可とした事案で、裁判所は、兼業の労働日数が多く、兼業の終業時刻が本業の始業時刻の直前であった2件については不許可に合理性があると判断しました。一方、日曜日だけの兼業となる申請については不許可の理由がないとしました。

 他方、同業他社の取締役に就任した社員が解雇された事案では、他社の経営に直接関与していなくても、本業の企業秩序を乱すおそれが大きいとして、解雇が有効とされました。

 いずれも、勤務以外の時間は自由であることを前提に、兼業による本業への支障の有無や企業の機密漏洩(ろうえい)のおそれなどの点から、兼業禁止規定を解釈・検討したものです。

 相談の事例も、勤務している保険代理店での仕事に支障が出ない程度の時間や内容のバイトであれば、社長は兼業禁止規定を盾に妨げることはできないでしょう。(弁護士・木下徹郎)

 ◇ポイントは

 機密漏らすおそれがある場合はNG

 基本的に勤務時間外の時間は個人の自由

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🔵【有給休暇・その他の休暇】

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🔴◆入社10年、有給ゼロ 仕方ない?

(働く人の法律相談)

2016125日朝日新聞

「年5日、冠婚葬祭のみ」合意は無効

 「ある会社の採用面接で社長から、『うちの会社の年次有給休暇(年休)は5日だけ。年休を取れるのは冠婚葬祭のみだ』と説明され、同意して、入社しました。入社10年になりますが1日も年休を取っていません。ただ、最近になって年休は労働者の権利だと友人から聞き、疑問を持ちました。同意してしまった以上、年休は取れなくても仕方ないのでしょうか」

 小さな出版会社で働く20代の男性正社員からの相談です。

 労働基準法は、労働者が6カ月間以上、継続して働き、かつ、その間の全労働日の8割以上出勤していれば、年休は当然に10日間発生する、と定めています。その後も1年ごと、労働日の8割以上を出勤すれば取れる年休の日数が増えていき、入社から6年半で20日取れるようになります。

 労働基準法は強行法規といって、法律に反する合意をしても無効となります。年休がないとか、法律で決まっている日数を下回る日数で合意しても、無効となります。また、年休の用途は自由で、一定の事由に制限することもできません。また、年休の時効は2年とされており、1年間は繰り越すことができます。

 最近の裁判で、年休を6日、原則として冠婚葬祭のみ取得を認め、それ以外は欠勤扱いとする通達を出して、労働者の年休取得を妨害したという事案がありました。裁判所は、労働基準法で認められた年休取得を萎縮させるものだと指摘。労働契約上の債務不履行に当たり、長い間年休をほとんど取得できなかったことなどを考慮して、会社に50万円の賠償を命じました。

 今回の相談事例もすでに入社して10年になり、それほど欠勤が多くないと、今年と昨年を合わせて40日の年休が法律上発生しています。年休が5日という合意や用途を冠婚葬祭に限るという合意も無効です。年休は労働者がリフレッシュしたり、生活をより豊かなものにしたりするための権利です。堂々と年休を会社に申請しましょう。

 (弁護士・梅田和尊)

◇ポイントは

出勤日数などの条件を満たせば、年休は取れる

年休の使い道は自由。制限することはできない

🔴◆年休とったら査定が悪くなる?

(朝日=働く人の法律相談)13.05.27

取得を理由に賃金減らせば違法

 年次有給休暇(年休)を取りたいけど、上司の目が気になって……。取っていない年休が何十日もあるんですが……。そんな話をしばしば耳にします。

 連合総研が昨年12月に発表した調査によると、正社員で年休を「全て」または「おおよそ」取れたのは約2割です。一方、「全く」あるいは「あまり」取れなかったのは5割を超えています。制度の活用が極めて不十分だと言えそうです。

 年休は、休日の他に毎年一定日数の休暇を有給で保障する制度です。労働基準法では、6か月間続けて勤務し、全労働日の8割以上を出勤した者に10日以上の年休が与えられます。いつ取るかは自由で、理由を言う必要もありません。

 しかし、取りづらい雰囲気があるというだけでなく、年休を欠勤扱いにして昇給の決定や賞与の算定に考慮したり、精皆勤手当が支給されなかったりするケースも時折見られます。

 労基法は、年休をとったことを理由にして賃金を減らしたり不利益な取り扱いをしたりしてはならないと規定しています。不利益な取り扱いが多く見られたことから、1987年の法改正で規定されたものです。

 判例では、前年の出勤率が80%以下の者を賃上げ対象から外すという規定がある会社で、年休取得日を欠勤として出勤率を算出したことを違法としています。また、同じように年休で出勤率が下がった社員の賞与を減額した別の会社の行為も違法とされました。

 いずれも、年休取得を抑制したり、年休権保障の趣旨を実質的に失わせたりしているという判断です。

 一方、毎月予定通り出勤した者に支給される皆勤手当を、年休取得者に支払わなかったケースは有効とされました。手当が月給に比べて大きくないことなどから、年休取得の抑止力も大きくないということです。

 不利益な取り扱いの禁止は、努力義務を定めたものとされています。裁判は、そうした取り扱いの目的や労働者が失う経済的利益の程度などを総合的に判断します。(弁護士・木下徹郎)

     ◇

ポイントは

年休を取る権利は労働基準法で保障されている

違法かどうかは、目的や不利益の大小などで判断

🔴◆年休の継続勤務要件

Q 週2日勤務のアルバイトは毎日働いていないから、6カ月経っても年休取得に必要な「6カ月間の継続勤務」にならないと言われました。本当?

A それは違います。年次有給休暇取得の権利があるかどうか、その要件の一つが「6カ月間の継続勤務」です。採用から6カ月間勤務ししかも8割出勤したときに初めて年休取得の権利が発生します。この場合の「6カ月」の意味ですが、正社員のような週5日勤務で6カ月ということではありません。週2日勤務の条件なら、その条件で6カ月間勤務すればいいのです。ただし最低付与日数は3日(正社員は10日)です。「連合通信・特信版」

🔴◆年休の最低付与日数

Q 新入社員ですが、初年度の年休が20日もあると聞いてびっくり。こんなにもらっていいのかなあ。

A 大丈夫です。完全消化に努めてください。労働基準法では6カ月継続して勤務した労働者に10日間の年次有給休暇を与えなければならない、と定めています。以降は1年後に11日、2年後に12日、3年後に14日、4年後に16日、5年後に18日、6年後に20日。7年目からはずっと20日です。この定めは最低基準ですから、労使で話し合って法水準を上回る日数を取り決めるのは自由です。労使が合意すれば初年度30日も可能です。常に労働条件の向上をめざすのが労働組合の任務です。「連合通信・特信版」

🔴◆夏期休暇と年休

Q お盆前後に5日間の夏期休暇があります。でも休んだら年休の残日数を減らされてしまいました。おかしいんじゃない?

A それは違法です。通常、夏期休暇は年休とは別に設けられているものです。労働基準法に定めはありませんから、夏期休暇を与えなくても違法とはなりませんが、与えた日数を年休の残日数から差し引くことは許されません。年休をいつ取るかは、労働者本人の申し出によることになっています。使用目的も自由です。お盆前後に働きたいという人に対し、その時期に年休取得を強制することはできません。ですから、夏期休暇を設けるなら、年休とは別ものにする必要があります。「連合通信・特信版」

🔴◆年休の請求権は2年間

Q うちの会社では、年休の翌年度繰り越しを認めてくれません。就業規則にそう書いてあるというのですが、これってあり?

A 例え就業規則に「繰り越しは認めない」と定めても、それは無効です。従う必要はありません。なぜ繰り越しが認められるかというと、労働基準法の115条に規定があるからです。同条には、賃金その他の請求権は2年たったら時効になって消滅しますよと書かれています。つまり、2年間は請求権があるわけです。労働基準法と就業規則との関係では、労基法の方が優先します。労基法に反する就業規則の規定は無効となり、労基法の規定が適用されるのです。「連合通信・特信版」

🔴◆有給1カ月まとめて取りたい

 (働く人の法律相談)木下徹郎

2015831日朝日新聞

 「業務で英語を使うことが増えてきたため、米国へ1カ月の短期留学に行くことにしました。そのため年次有給休暇(有給)を取りたいと伝えたら、会社から『人手が足りなくなるから、2週間ずつ分けて』と言われました。留学期間を短くしないとだめでしょうか」という相談です。

 労働基準法では雇い入れの日から6カ月以上続けて働き、全労働日の8割以上出勤した人には、有給が認められています。仕事から離れ、心身のリフレッシュを図れるようにするためです。フルタイムで6年半働き続ければ、最低で20日の有給がもらえます。有給の日数は、会社の判断や会社と労働者の話し合いで引き上げることもできます。

 労基法39条5項で労働者には「時季指定権」が認められており、いつ、どれくらい有給を使うかは自由です。使い道も自由で、理由を会社に説明する必要はありません。短期留学だって認められます。

 ただ、「事業の正常な運営を妨げる場合」のみ、会社は有給の時期を変えさせることができます。

 最高裁は、長期の有給を申し出た社員に対して会社が時期の変更を言い渡した事案について、「職務には専門的知識が必要で、長期にわたって代替を確保することは困難」「社員は会社と十分な調整をしなかった」などとして会社が時季変更権を使ったことは適法だとしたことがあります。しかし、一方で、労働者が有給を取れるよう配慮をしていない場合には違法になると指摘しています。

 連続して長期の有給を取れるかは、部署の業務の立て込み具合や、ほかの社員に代わってもらえる業務内容か、代替要員を確保できる人員配置になっているかが影響します。時間にゆとりを持って上司に相談し、休暇中の仕事のカバーを同僚に頼んでおくことなどが重要です。

 とはいえ、有給の取得は労働者の権利ですので、会社は労働者が有給を取ることを考えた人員配置を行うよう配慮が求められます。(弁護士・木下徹郎)

◇ポイントは

有給をとる時期は自由に決められるのが原則

カバーする人がいなければ認められないことも

🔴◆有給、退職前に使い切りたい

(働く人の法律相談) 木下徹郎

201597日朝日新聞

 「4月の頭に、今年の7月末で退職することを会社に伝えました。年次有給休暇(有給)が25日残っているので、使い切りたいと思い、上司に7月の1カ月を有給消化にあてたいと相談しました。しかし、『仕事が忙しいから無理』と認めてくれませんでした」という相談です。

 労働者には有給を取る権利が保障されています。有給の消化を促進するため、労使協定に基づいて「計画年休制度」を導入する会社もあります。それでも取得率はおよそ50%にとどまっています。よく聞かれる理由に「業務量が多すぎて取る暇がない」「職場の同僚や上司などに遠慮して取りづらい」というものがあります。

 年度内に有給を使いきれなかったとしても、翌年度まで繰り越すことができます。相談者の場合も、前年度から繰り越されたものと合わせて25日間です。業務の立て込み具合や人員体制などによっては、上司の言い分は認められるようにも見えます。

 しかし、会社が有給の取得時期を変更するためには、労働者が別の時期に取ることができなければなりません。相談者は退職してしまうので、別の時期に取ることができません。

 上司に申し入れたのは退職の2カ月以上も前でした。会社は業務を引き継ぐ後任者の配置を行う期間があったはずです。この場合、忙しいという理由で有給を取らせないようにはできません。

 また、会社のなかには、有給を買い上げようとするところも見受けられます。消化しきれなかった有給に応じて、会社が労働者に金銭を支払うことは認められます。しかし、有給の事前の買い上げは認められません。「仕事から離れてリフレッシュする」という労働者に有給を保障した意味を失わせることになってしまうからです。

 相談者の会社が一方的に有給日数に応じた賃金相当額を支払って、7月末まで相談者を働かせることも認められないでしょう。(弁護士・木下徹郎)

◇ポイントは

未消化の有給に応じた金銭の支払いは認められる

有給の事前の買い上げは認められない

🔴◆職場の野球、活躍でボーナス?年休で練習 

(働く人の法律相談) 佐久間大輔

2015518日朝日新聞

 「地域の野球大会に職場で出場することになり、社長は『絶対に優勝だ』と盛り上がっています。試合や応援で貢献した社員の賞与を上げると言いだし、練習のために年休をとるよう指示してきました。どうしたらいいでしょうか」。こんな相談がありました。

 労働者は本来の職務以外の用事を行う義務はありません。野球大会への参加は、労働契約上の「労働」にあたらないと考えられます。「労働」にあたらない以上、人事考課や賞与の査定の対象にすることもできません。

 もし査定の対象にするなら、野球大会への参加が事実上強制されることになり、労働者の生活や健康に大きく影響します。参加したかどうかが評価対象になるのであれば、運動が苦手で参加したくない人が不利になります。育児や介護で参加できない人もいるかもしれません。

 また、無理やり年休を取らせようとすることについてはどうでしょうか。

 年休をどの時季に取得するかは労働者が決めることができ、使用者は労働者が請求する時季に年休を与えなければなりません。しかも、年休をどう利用するのかは労働者の自由です。

 会社側は、労働者が請求した時季に年休を与えると事業が正常に運営できないという場合に限り、時季の変更ができます。ただし、単に繁忙期であるとか人員不足というだけではできません。代替要員の確保などの努力をしないまま、会社側が時季の変更をしたことを違法とした判決があります。

 ですから、ご相談のケースでも、野球や応援の練習のために年休を会社側が指定することや、労働者に年休取得を強制することは、違法となります。

 あくまで会社が練習や応援への参加を強制するのであれば、年休ではなく正式な「業務」と認めて、「労働」として賃金を支払うべきです。盛り上がっている職場では言いづらいかもしれませんが、おかしいと声をあげてみてください。

 (弁護士・佐久間大輔)

◇ポイントは

年休の時季や利用目的は労働者の自由

野球の練習で年休を取らせるのは違法

🔴◆看護休暇

Q うちの子は病気がちなので、なかなか自分のために有給休暇を使えません。何かいい方法はありませんか?

A 子どもの看護休暇(1年につき5日)を利用する方法があります。育児・介護休業法の改正によるもので、制度導入が企業に義務付けられています。もちろん、有給休暇とは別物です。両親が働いている場合は、父親と母親がそれぞれ5日ずつ取れば、子どものために年間10日を使えることになります。ただ、「有給」が義務付けられていない問題点も。使いやすくするには賃金保障が課題です。「連合通信・特信版」

🔴◆有給休暇の取得目的

Q 遊びなどプライベートな理由では有給休暇を認めてくれません。なんとかなりませんか?

A 会社側のやり方は明らかに違法です。有給休暇は働く者の休養やゆとりある生活のため、「労働者への付与」を使用者に義務づけたもの。どんな目的で利用してもいいし、許可を得る必要もありません。労働者が申請すれば、使用者は与えなければならないのです。 最高裁も「休暇をどのように利用するかは、使用者の干渉を許さない労働者の自由である」と言い切っています。現状では、あなたの使用者は「6カ月以下の懲役又は30万円以下の罰金」に相当します。「連合通信・特信版」

🔴◆生理休暇の日数

Q うちの会社では生理休暇で月に1日しか休めません。2日間は無理?

A 個人差のある生理休暇の日数を定めるのは違法です。通達には「就業規則その他によりその日数を限定することは許されない」と明記されています。ただし、有給の休みは1日だけと定めて、その後は無給とすることは違法とはされていません。会社に来て働くのが辛い労働者が2日間の休みを請求した場合、有給か無給かにかかわらず、使用者は2日間の休みを与えなければならないのです。請求しないと権利は発生しません。周りに気がねしないでも済むよう、請求しやすい職場にすることが大事になります。「連合通信・特信版」

🔴◆男が育休、中小企業でもとれる?

(朝日=働く人の法律相談)13.07.29

就業規則になくても、法律に基づき可能

 もうすぐ赤ちゃんが生まれる中小企業の男性会社員。育児休業を上司に願い出たら「男性がとれるわけないだろう」と一蹴されました。会社の就業規則には規定がありません。どうしたらいいのでしょうか。

 積極的に育児をしたいと希望する男性が増えている一方で、上司世代にはまだまだ「子育ては女性がするもの」と考えている人が多いようです。でも、諦めないでください。育休の権利を定めている育児・介護休業法(育介法)は、男女問わず適用されます。もちろん、中小企業の労働者も同じ。就業規則に定められていなくても、法律に基づいて取ることができます。

 育休は、夫婦のどちらか一方がとる場合には原則1歳まで。保育所に入れないなどの要件を満たす場合には1歳6カ月まで延長されます。法改正により、2010年からは夫婦がともに育休を取得する場合は、原則1歳2カ月までの間に、それぞれが1年間取れるようになりました。

 産後8週以内に男性が一度とった場合には、1歳2カ月までの間に再取得が可能です。さらに、配偶者が専業主婦という男性の場合にも育休が認められるようになりました。

 冒頭のケースのように、上司が拒否することは許されません。休みを取ったことによって解雇や降格などの不利益な取り扱いをするのも法律で禁じています。

 ただし、違反しても罰則はありません。労働局の雇用均等室に相談窓口があり、場合によっては事業主に対し聞き取り調査が行われ、指導がなされます。このとき、事業主が拒否や虚偽報告をすれば、20万円以下の罰金が科されます。企業名の公表もありえます。

 最近では大企業を中心に「育児休暇」といった独自の有給休暇制度を設けているところも増えています。男性の「育休」取得率は企業イメージの向上につながります。ただ、なかには育休を夏休みに置き換えて取らせる、という話も聞きます。それでは事実上、休みが増えず意味がありません。(弁護士・佐々木亮)

     ◇

ポイントは

夫婦がともにとる場合は、1歳2カ月までに1年間

配偶者が専業主婦の場合でも、夫は取れる

🔴◆育休明けに何度も出張、断れる?

(働く人の法律相談) 佐久間大輔

20151026日朝日新聞

 30代の会社員男性からの相談です。「産後の肥立ちが悪い妻を助けるため、育児休暇を1年間取って復帰しました。まだ子育てしなければいけない環境なのに、2~3日の出張を繰り返し命じられて困っています。上司には、家を留守にできないと申し入れたのですが、『個人の事情は聞き入れない』と言われるだけです。しかも、勤続8年目になるのに、育休から復帰したばかりであることを理由に年次有給休暇をとらせてもらえません。このようなことが許されるのでしょうか」

 まず、育児中の出張命令についてです。相談者の男性が行かなければならない業務上の必要性がなければ、命令に従わなくてよいこともあります。たとえば、他の社員が行くことが可能であり、たび重なる出張命令が男性への嫌がらせを目的としたものだったら、その命令は権利の乱用として無効になります。

 厚生労働省は、パワーハラスメントの一類型として、「過大な要求(業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制、仕事の妨害)」を挙げています。子育ての責任を負う男性にとって、多数回にわたる宿泊が必要な出張はパワハラに当たる可能性があります。したがって、対策としては、会社に就業環境の整備を求めることが考えられます。

 逆に、「過小な要求(業務上の合理性なく、能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや仕事を与えないこと)」もパワハラです。上司が育児中の男性に対し、簡単な仕事を少ししか与えないのであれば、この場合も就業環境の整備を求められます。

 年次有給休暇(年休、有休)ですが、労働基準法は年休の日数を決めるベースとなる勤続年数について「育児休業した期間は出勤したものとみなす」と定めています。育休取得の有無にかかわらず、復帰後も勤続年数に応じた日数の年休がとれます。会社が年休を許さないならば、労働基準監督署に申告しましょう。

 (弁護士・佐久間大輔)

◇ポイントは

業務上の必要性がなければ従わなくてよいことも

育休取得後も勤続年数に応じた年休がとれる

🔴◆育休で定昇なし、仕方ない? 

(働く人の法律相談) 嶋崎量

2015713日朝日新聞

 「産後の妻をいたわり、子どもとの時間を確保しようと、育児休業を3カ月とりました。すると、会社の就業規則に『3カ月以上の育休を取ったら職能給を上げない』との定めがあり、年1回の定期昇給がありませんでした。仕方がないのでしょうか」。30代男性からの相談です。

 育児・介護休業法は、男性にも女性にも育休を取る権利を認めています。そして労働者が育休をとったことを理由に、使用者が不利益な取り扱いをすることを禁じています。このことも男女で違いはありません。

 3カ月の育休を取った男性が、それを理由に定昇させない就業規則は無効と訴えた裁判で、大阪高裁は昨年、この就業規則は育休取得の権利を妨げるとして無効とし、昇給した場合との差額の支払いを勤め先に命じる判決を出しました。今回のケースも、定昇をさせない就業規則は無効になる可能性が高そうです。

 「パタニティ(父性)・ハラスメント」という言葉をご存じですか。「パタハラ」とは、育休取得など男性が育児に関する権利を行使することへの、妨害などのハラスメントを指す言葉として用いられています。

 法律上は男性にも育休を取る権利はありますが、実際に取る男性は残念ながらまだ多くありません。2013年の連合の調査では、子どもがいる20代の男性社員で育休を「取得したことがある」人は13・9%。一方で、「取得したかった」人は58・3%でした。

 若い男性社員は、育休取得に前向きな人が多いにもかかわらず、実行が追いついていないことがうかがわれます。思いきって育休を取った男性が、職場で「パタハラ」の不利益を受けては、他の男性が育休を取ろうという気持ちも抑えられてしまいます。

 女性が活躍できる社会にするには、パートナーの男性が育児に関わることが不可欠です。男性が育児をしたいという気持ちを奪わないよう、皆さんの職場でも不当な「パタハラ」が起きていないか、注意してみて下さい。(弁護士・嶋崎量)

◇ポイントは

育休取得による不利益な扱い、男性でもダメ

男性社員の育児を妨げる「パタハラ」に注意を

🔴◆休業と休暇

Q どちらも「休み」のことだけど、休業と休暇ってどう違うの?

A 休業は、使用者か労働者の都合によって労働する義務を免除すること。育児休業や産前産後休業は労働者の都合によるものということになるね。「部品を仕入れるお金がなかった」など会社に責任のある休業の場合、会社は平均賃金の60%以上を休ませる労働者に払わなければなりません。休暇は労働者の休養を目的にして、労働の義務が一時的に免除される期間のことです。労基法には年次有給休暇、生理休暇が定められています。結婚休暇、年末年始休暇、リフレッシュ休暇などは労使の当事者で決める休暇です。「連合通信・特信版」

🔴◆忙しくて取れない年休

Q 仕事が忙しくって年休取れないんだよね。なんとかならないの?

A 労基法は使用者に対して「与えなければならない」と定めています。与える責任は使用者にあるのですから、人員増や業務見直し、意識改革など使用者は労働者が年休を取りやすい環境づくりに努める義務があります。「権利があるのに取らない方が悪い」では済まされません。労基法は年休を取った労働者の一時金を減らすなど使用者による不利益な取り扱いも禁じています。年休取得を「協調性がない」と評価し、結果的に一時金が下がる場合も問題ありです。労組は年休取得を評価対象から除外させなければなりません。「連合通信・特信版」

🔴◆派遣労働者と時季変更権

Q 派遣スタッフですが有給休暇を取ろうとしたら「派遣先が今は忙しいから別の日にしてくれ」と言われました。これってあり?

A 確かに労働基準法は使用者の「時季変更権」を定めていて、事業の正常な運営を妨げる場合は、労働者の有休を別の日に変更させることができます。ただし、この場合の使用者は雇用関係のある派遣元の会社。有給休暇付与の責任は派遣元の会社にあるのです。派遣会社自身の事業運営が妨げられるというなら話は別ですが、「派遣先の会社が今忙しいから」というのは、時季変更権の理由にはなりません。派遣先がスタッフに時季変更権を行使するのはもちろん違法です。「連合通信・特信版」

🔴◆許可なし残業、手当もらえる?

(朝日働く人の法律相談)13.05.13

禁止でも、仕事量が過剰なら請求できる

 会社によっては、残業をするときに上司への届け出や許可を必須としていることがあります。「残業許可制」といわれているものです。

 いわゆるブラック企業などで、残業しないと終わらない大量の仕事をさせておきながら、残業を許可せず、サービス残業に追いこむケースが多発しています。労働者が残業代を請求しても支払おうとしません。こんなことは許されるのでしょうか?

 まず、「残業」といえるためには、会社からの残業命令が必要です。それは口頭での命令のような、はっきりとわかる形でも、残業をすることが暗黙のうちに含まれている仕事の指示のような形でも、どちらでもかまいません。職場で無許可・無届けの残業が常態化しているのであれば、実質的に会社が残業を命令しているといえ、残業代の請求はできます。

 一方で、労働者が残業している事実や、残業せざるをえない職場の実態を会社が把握しているといえないときは、請求できません。会社が残業を命令したとはいえないからです。残業許可がでないので、こっそりと喫茶店で残業したときは、基本的には残業代を請求するのは無理でしょう。

 では、会社が残業を禁止している場合はどうでしょうか。原則として、会社の残業禁止命令に反して残業をしたときは、会社の残業命令があったとはいえないので、残業代の請求はできません。

 しかしこの場合も、残業をしなければ処理しきれない業務を会社が指示している場合は、請求できることがあります。仕事を終わらせるのに必要な時間や期限、同僚に引き継ぐことができるかどうか、などを検討し、残業が必要といえる場合には、残業禁止命令そのものが不合理なので、請求できると考えられます。

 サービス残業をうけいれると、さらに業務が増やされ、労働時間がどんどん長くなります。残業をしたときは、残業代をきちんと請求しましょう。(弁護士・指宿昭一)

     ◇

ポイントは

 残業命令は、必ずしも明示的なものでなくてよい

 喫茶店などでこっそり残業した場合は請求は無理

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