日露戦争に反対した人びと=平民新聞、トルストイ、夢ニ、啄木、与謝野晶子、内村鑑三
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【日露戦争に反対した人びと目次】
◆平民社と平民新聞、幸徳秋水
◆トルストイの日露戦争論
◆竹久夢ニ
◆石川啄木
◆与謝野晶子
◆内村鑑三
◆魯迅
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🔵日露戦争・反戦運動リンク集
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★★社会主義=幸徳秋水と堺利彦(日本人は何を考えてきたか)90m
http://v.youku.com/v_show/id_XMzU1NzQyMDUy.html?x
★★なお、日露戦争、朝鮮植民地化に反対した朝鮮人民のたたかいについては当ブログ=「安重根はテロリストか=植民地支配との戦い」参照のこと。
★★当ブログ=「日露戦争、司馬遼太郎と『坂の上の雲』」も参照のこと
(以下の4つのPDFは、スマホの場合=画像クリック→最初のページの上部の下向き矢印マークを強くクリック→全ページ表示)
◆藤井松一=日清戦争・日露戦争
◆山田朗=日露戦争の真実
◆山田朗=世界史のなかの日露戦争
◆山田朗=日露戦争はどういう戦争であったか
◆古屋哲夫=日露戦争
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/15_nitirosenso/hashigaki.html
◆◆6708労旬新書・絲屋=日本の反戦運動・戦前編.pdf
◆◆7210新日本新書・絲屋=日本社会主義の黎明.pdf
◆土井敏邦Webコラム:黒岩比佐子著『パンとペン』(堺利彦)が問いかける生き方
http://doi-toshikuni.net/j/column/20110625.html
◆◆山田朗=「明治150年史観」・明治から戦前までの侵略戦争の歴史
◆◆山田朗・日露戦争=軍事同盟頼みの膨張政策
赤旗18.09.19
🔵幸徳秋水生誕150年(赤旗20.08.30)
★幸徳秋水 「兵士を送る」
「兵士を送る」
行矣(ゆけ)従軍の兵士
吾人(われわれ)今や諸君の行(こう)を
止(とど)むるに由なし
諸君 今や人を殺さんが為に行く
否(しから)ざれば即ち
人に殺されんが為に行く
吾人は知る
是れ実に諸君の願ふ所にあらざることを
嗚呼従軍の兵士
諸君の田圃(でんぽ)は荒れん
諸君の業務は廃せられん
諸君の老親は独り門に倚(よ)り
諸君の妻児は虚しく飢に泣く
而(しこう)して諸君の生還は元より
期す可からざる也
而して諸君は行かざる可らず
行矣(ゆけ)
行(ゆい)て 諸君の職分とする所を尽せ
一個の機械となって動け
然れども露国の兵士も
又人の子也 人の夫也
人の父也
諸君の同胞なる人類也
之を思ふて慎んで彼等に対して
残暴の行あること勿れ
嗚呼吾人今や諸君の行を止むるに由なし、
吾人の為し得る所は、
唯諸君の子孫をして再び此惨事に会する無らしめんが為に
今の悪制度廃止に尽力せんのみ
諸君が朔北の野に奮進するが如く
吾人も亦悪制度廃止の戦場に向って奮進せん
諸君若し死せば、諸君の子孫と共に為さん
諸君生還せば諸君と與に為さん
(平民新聞第十四号)
【与謝野晶子】
🔷🔷(文化の扉)与謝野晶子、時代先取り 国の感染症対策を批判/WLB・子どもへの目線
朝日新聞2020年8月31日
「情熱の歌人」として知られる与謝野晶子(よさのあきこ)がコロナ禍で注目を集めている。100年前にスペイン風邪が流行した際は一家で感染。政府の対策の甘さを鋭く突いた評論は、現代の人々の共感もよんだ。あらためて晶子の実像を追いかけた。
「政府はなぜいち早くこの危険を防止する為(ため)に、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」
世界規模で流行したスペイン風邪の第1波が本格化した1918(大正7)年11月、晶子は横浜貿易新報に評論「感冒の床(とこ)から」を寄稿し、後手に回った政府の対応を批判した。このころの晶子には10人の子どもがおり、次々と感染していた。病床の幼子を見守りながら書いた晶子の評論は、多くの読者に説得力をもって受け止められた。
晶子は多くの評論も手がけ、社会問題にも切り込んでいた。もともとトルストイの評論やニーチェの哲学書などを読み、ヨーロッパ旅行の際には彫刻家のロダンも訪ねた。歌人の馬場あき子さんは「晶子は国内外の最先端の知見を吸収し、広い視野を持っていました」と話す。
*
晶子は1878(明治11)年、大阪府堺市の和菓子商の三女として生まれた。女学校を出ると、家業を手伝いながら、『源氏物語』や『大鏡』を読みふけった。東京の帝国大学に進んだ兄をうらやましく思っていた。
21歳のとき、与謝野寛(ひろし)(鉄幹〈てっかん〉、1873~1935)が創刊した文芸誌「明星(みょうじょう)」に初めて短歌が載り、当時妻子のあった寛と出会う。翌年上京し、寛のもとに身を寄せた。馬場さんは「恋に賭け、歌人としてスタートを切るための行動でもあった」とみる。63歳で亡くなるまでに4万首近い短歌を残し、24の詩歌集、15冊の評論集を刊行した。
自身が高等教育を受けられなかったため、女子教育にも熱心だった。さらに、21年に芸術や文学による人間教育を目指した文化学院(東京都)の設立に加わり、中学部で日本で最初の男女共学を実現させた。
*
家計は晶子が主に支えた。著者に『与謝野晶子』などがある歌人の松村由利子さんによれば、晶子には独自の労働観があり、女性の経済的自立に加え、男性の家庭回帰も説いた。「男女が同じように、育児や家事などの家庭での仕事と、生活費を得るための仕事の両方に携わる、ワーク・ライフ・バランス(WLB)のような形が理想と考えていたんです」
日本初の女性による文芸誌「青鞜(せいとう)」を創刊した平塚らいてう(1886~1971)が「子どもは社会、国家のもの」と唱えたのに対し、晶子は「子どもは子ども自身のもの」と主張したのも印象的だ。さかい利晶(りしょう)の杜(もり)・与謝野晶子記念館(堺市)の学芸員、森下明穂さんは「手紙に残されていた落書きからも、のびのび子育てしていたことがうかがえます。子どもを一個の独立する人間としてとらえていました」と話す。
「外遊中の夫を追って欧州に渡ったのに、再会すると、今度は預けた子どもたちが心配になり、先に帰国してしまう面もありました」と森下さん。晶子は子どもたちに自作のおとぎ話を聞かせ、百編以上の童話ものこしている。(佐々波幸子)
■人間としての力強さ 音楽家・吉岡しげ美さん
女性の詩に曲をつけて歌う、最初のアルバムが出た直後に出産しました。赤子の前では理念や観念が吹き飛び、鬱々(うつうつ)としていた時に晶子の詩や短歌に出会いました。恋を謳(うた)い、女の自立を讃(たた)え、戦(いくさ)に凜(りん)として抗議する。子どもへの愛を詠む一方、ミーハーな詩もつくる。生命力、色彩感あふれる作品から「いろいろな側面があってひとりの人間」と救われ、勇気をもらいました。
それ以来、晶子の詩や短歌を歌い続けてきました。米国やパリ、ソウル、北京などで「山の動く日」や「君死にたまふこと勿(なか)れ」を歌うと、客席で涙を流す人がいる。現地の言葉で朗読してもらい、日本語で歌うのですが、詩歌に人間としての力強さがあるから国を超えても伝わるのです。9月の公演でも晶子の新曲を披露する予定で、今なお背中を押してくれています。
<知る> さかい利晶の杜・与謝野晶子記念館では晶子の生家や書斎が再現され、著書や言葉、ゆかりの品から生涯をたどることができる。サイトにはスペイン風邪をテーマにした評論の抜粋や学芸員の動画もアップしている。松村由利子さんは月刊誌「短歌研究」に「ジャーナリスト与謝野晶子」を連載中。
★与謝野晶子 – 君死にたまふことなかれ
★★その時歴史が動いた=山は動いた、与謝野晶子女性解放のたたかい
(詳細は、後段の与謝野晶子の反戦歌参照)
🔴君死にたまうことなかれ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)
ああおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけは まさりしも
親は刃やいばをにぎらせて
人を殺せと をしへ教えしや
人を殺して死ねよとて
二十四までを そだてしや
堺の街の
あきびとの
旧家をほこる
あるじにて親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり
君死にたまふことなかれ、
すめらみこと皇尊は、戦ひにおほみづからは出でまさね
かたみに人の血を流し獣の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、
大みこころの深ければ もとよりいかで思
おぼされむ
ああおとうとよ、戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に いたましく
わが子を召され、家を守もり、
安しときける大御代も
母のしら髪がは まさりぬる。
暖簾のれんのかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月とつきも添はで
わかれたる少女をとめ
ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ。
🔷🔷大塚楠緒子…おおつかなおこ・くすおこ(1875-1910)
ら東京麹町生まれ。本名久壽雄。東京女子師範付属女学校を首席で卒業し小屋保治と結婚。才色兼備の夫人との聞こえが高かった。16歳の時、佐佐木信綱のもとへ入門して以来終生歌作を続けた。のち新体詩・小説・翻訳・戯曲等、幅広く執筆。1895年発表の軍歌『泣くな我子』は作曲されて流行し1905年、「太陽」発表の厭戦詩『お百度詣』は与謝野晶子の『君死に給ふことなかれ』と並んで有名。
【お百度詣】
ひとあし踏みて夫(つま)思ひ、
ふたあし國を思へども、
三足ふたたび夫おもふ、
女心に咎(とが)ありや。
朝日に匂ふ日の本(ひのもと)の、
國は世界に唯一つ。
妻と呼ばれて契りてし、
人も此世に唯ひとり。
かくて御國(みくに)と我夫と
いづれ重しととはれなば
たゞ答へずに泣かんのみ
お百度まうであゝ咎ありや
◆◆今野寿美=生誕140年 与謝野晶子=まことの心歌ってこそ
赤旗18.04.20
◆◆新しく発見された与謝野晶子の歌=“戦争の悲し
さ“うたう=赤旗14.08.12
秋風やいくさ初はじまり港なる
たゞの船さへ見て悲しけれ
戦いくさある太平洋の西南をおもひて
われは寒き夜を泣く
◆◆与謝野晶子の生涯
赤旗18.03.24きょうの潮流
桜の季節が巡ってきました。月の光に浮かび上がる花の妖艶さを、歌人・与謝野晶子はこう詠みました。〈清水(きよみず)へ祇園(ぎおん)をよぎる桜月夜こよひ逢(あ)ふ人みなうつくしき〉▼今年は晶子生誕140年にあたります。師・与謝野鉄幹へのほとばしる恋の熱情を高らかに歌い上げた第一歌集『みだれ髪』は1901年、20世紀の幕開けに刊行され、文学の新時代を切り開きました。晶子22歳▼〈春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ〉。移ろう世の中に、この力みなぎる乳房こそが確かなものだと歌う自己肯定は、個々の人間をかけがえのない存在として尊重する姿勢につながっています▼日露戦争に召集された弟に送った反戦詩「君死にたまふことなかれ」では、国家のために人を殺し殺されるために、親は手塩にかけて子を育てたわけではないと断じます。この詩への批判に対して、〈まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候(そうろう)べき〉と反論しました▼家計を支えながら、鉄幹との間に5男6女を産み育てた晶子は、完全な個人を目指し、女性の自立を訴えるとともに、家庭責任をないがしろにする男性を批判しました。『青鞜(せいとう)』創刊号に寄せた詩「そぞろごと」は、〈山の動く日来(きた)る〉で始まり、〈すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる〉〈われは女ぞ。一人称にてのみ物書かばや〉と宣言します▼〈歌はどうして作る。じっと観(み)、じっと愛し、じっと抱きしめて作る。何を。真実を〉―晶子の言葉は、今の社会を鋭く照らしています。
🔴【大逆事件】
★★埋もれた声–大逆事件から100年 59m
https://m.youtube.com/watch?v=VMJUbPBiSPI
★102年後に大逆事件を問う110m=伊藤真ほか
◆◆森まゆみ=暗い時代の人々
❶竹久夢二(上) 社会主義から出発した大正の歌麿
http://www.akishobo.com/akichi/mori/v7
❷08 竹久夢二(下) アメリカで恐慌を、ベルリンでナチスの台頭を見た。
http://www.akishobo.com/akichi/mori/v8
★★内村鑑三=非戦論
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/antiwar/uchimurakanzo.html
★旧高校日本史=日清戦争
http://v.youku.com/v_show/id_XNDk2NjI1MzY0.html?x
★高校日本史=日清戦争全文起こし
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume030.html
★★旧高校日本史=日露戦争
http://v.youku.com/v_show/id_XMzkxNjY4MDIw.html?x
★新高校日本史=日露戦争の全文起こし
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume032.html
★★明治以降戦前の農村=戦争を支えた農村(ジャパン・プロジェクト)58m
(PCの場合全画面表示で見ると過剰広告減)
または
http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v112927474NQNsw3SK
◆◆NHKジャパンシリーズ
【日露戦争については以下のジャパンシリーズが役に立つ】
(Pandraに無料登録してログインすること)
★★プロジェクトJAPAN 第0次世界大戦 ~日露戦争・渦巻いた列強の思惑~
または
★プロジェクトJAPAN プロローグ 戦争と平和の150年 第1部
または
★プロジェクトJAPAN プロローグ 戦争と平和の150年 第2部
または
❶JAPANデビュー 第1回 ~アジアの“一等国”~
または
❷JAPANデビュー 第2回 ~天皇と憲法~
または
または
❸JAPANデビュー 第3回 ~通商国家の挫折~
または
❹JAPANデビュー 第4回 ~軍事同盟 国家の戦略~
または
★★英雄たちの選択=日露戦争・運命の一日56m
★★映画=二百三高地 計190m=反戦的色彩も強い。
❶http://v.youku.com/v_show/id_XMzAzNTU3Mzg4.html?x
❷http://v.youku.com/v_show/id_XMzAzNTU2ODUy.html?x&from=y7.2-1-97.3.1-2.15-1-1-0
❸http://v.youku.com/v_show/id_XMzAzNTU4NTAw.html?x&from=y7.2-1-97.3.1-2.15-1-1-0
または=最初60mのみ
http://m.56.com/view/id-MzA2NjAxMjc.html
★その時歴史が動いた=203高地の新事実と日露戦争42m
https://m.youtube.com/watch?v=vQDecmNmKwM
★その時歴史が動いた=ポーツマス講和会議の真相 (後編・日本全権)43m
https://m.youtube.com/watch?v=5lSYXQ5cC34
★ロシアから見た日露戦争(全6回)ニコニコ
http://sp.nicovideo.jp/watch/sm3750060
★[Flash]日露戦争
http://sp.nicovideo.jp/watch/sm964449?cp_in=wt_tg
★その時歴史が動いた=日露開戦 男たちの決断~明治日本 存亡をかけた戦略~ 43m- FC2
http://video.fc2.com/content/20140404KRENmSTd/
★★その時歴史が動いた=運命の一瞬 東郷ターン / ロシア・日本戦争 43m
★その時歴史が動いた =「日露戦争100年 日本海海戦」 ~参謀 秋山真之・知られざる苦闘~42m – FC2
https://m.youtube.com/watch?v=0JC3ESrVg-Y
または
http://video.fc2.com/content/20150313hA6Hfakf
★100年目の真実 日本海海戦46m – FC2
★その時歴史が動いた=日露戦争100年 逆転の極秘電報154号46m
http://v.youku.com/v_show/id_XNDE1NDI4MzE2.html?x
★その時歴史が動いた=列国の野望 シベリアを走る
【日露戦争と朝鮮人民=プロジェクトJAPAN】
★★プロジェクトJAPAN 日本と朝鮮半島 第1回 ~韓国併合への道~
★★NHKスペシャル プロジェクトJAPAN シリーズ日本と朝鮮半島 第2回 ~三・一独立運動と“親日派”~
★JAPAN日本と朝鮮半島 第3回 戦場に動員された人々~皇民化政策の時代
★NHKスペシャル プロジェクトJAPAN シリーズ日本と朝鮮半島 第4回 ~“解放と分断 在日コリアンの戦後”~
★NHKスペシャル プロジェクトJAPAN シリーズ日本と朝鮮半島 第5回 ~日韓関係はこうして築かれた~
◆古屋哲夫=陸奥宗光と日清戦争
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/13_mutsu/01.html
◆古屋哲夫=批判と反省 日本帝國主義の成立をめぐって
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/02_teikokusyugi.html
◆古屋哲夫=日露戦争
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/15_nitirosenso/hashigaki.html
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🔵平民社・平民新聞・幸徳秋水
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★当ブログ=「明治の労働運動と社会主義」
◆初期社会主義研究会HP データベース週刊『平民新聞』
❌http://www15.ocn.ne.jp/~shokiken/database-heiminsinbun.htm
【その目次】
▼木下尚江「余は如何にして社会主義者となりし乎」
▼無署名「人類と生存競争」
▼平民社同人「宣言」(週刊『平民新聞』第1号、1903年11月15日)
▼週刊平民新聞・発刊の序(週刊『平民新聞』1903年11月15日)
▼週刊平民新聞・終刊の辞(週刊『平民新聞』1905年1月29日)
▼堺利彦「予は如何にして社会主義者となりし乎」
▼堺利彦「進化論講話(丘浅治郎著)」
▼幸徳伝次郎「予は如何にして社会主義者となりし乎」
▼幸徳秋水・堺利彦「同志の面影―矢野文雄君」
▼幸徳秋水・堺利彦「同志の面影―片山潜君」
◆平民新聞=露国社会党に与うる書PDF
クリックしてsyukenzaimin.pdfにアクセス
【掲載史料は、「平民新聞」明治三十七年(1904)三月第十八 号冒頭に掲げた、当時のロシア社会民主党宛て公開書簡「与 露国社会党書」と、若干の経緯である。この直前二月十日、 日本国は対露宣戦布告し日露戦争が勃発していた。幸徳秋水、堺枯川らの『平民新聞』は日露戦争は帝国と帝国との戦争であるとし、国民の反戦意思を明確なものにしようと 連帯を呼びかけた。公開書簡の反響は全欧州に湧き、この 後同年八月おらんだのアムステルダムで開催された万国社 会党大会では、日露の代表が並んで副議長席につき、堅い 握手は満場に鳴りやまぬ感動の拍手喝采を得た】
🔴露国社会党に与ふる書 (『平民新聞』社説・1904.3)
「嗚呼(あゝ)露国に於ける我等の同志よ、兄弟姉妹よ、我等諸君と天涯地角、 未だ手を一堂の上に取て快談するの機を得ざりしと雖(いへど)も、而(しか)も 我等の諸君を知り諸君を想うことや久し。
一千八百八十四年、諸君が虚無党以外、テロリスト以外、別に社会民主党の 旗幟(きし)を擁して、職工農民の間に正義人道の大主義を宣伝して以来、茲(こ ゝ)に二十年、其間(そのかん)暴虐なる政府の迫害、深刻なる偵吏の羅織(らし き)、古今実に其(その)比を見ず、或は西比利(シベリヤ)の鉱山に無間(むげん) の苦を受け、或は絞台の鬼と為(な)り、或は路傍の土となる者、幾千幾万なる ことを知らず、而も諸君の運動は之が為めに微毫(びがう)の頓挫(とんざ)を見 ることなく、諸君の勇気は一難を経る毎に百倍し、遂に客臘(かくろう=前年 十二月)露国全土の各団体を打て一丸となし、其勢力実に天に冲するに至れり。
諸君よ、今や日露両国の政府は各其(かくその)帝国的欲望を達せんが為めに、 漫(みだり)に兵火の端を開けり。然れども社会主義者の眼中には人種の別なく 地域の別なく、国籍の別なし、諸君と我等とは同志也、兄弟也、姉妹也、断じ て闘うべきの理有るなし、諸君の敵は日本人に非ず、実に今の所謂愛国主義也、 軍国主義也、然り愛国主義と軍国主義とは、諸君と我等と共通の敵也。
然れども我等は一言せざる可らず、諸君と我等は虚無党に非ず、テロリストに非ず、社会民主党也、社会主義者が戦闘の手段は、飽まで武力を排せざる可 らず、平和の手段ならざる可らず、道理の戦ひならざる可らず、我等は憲法な く国会なき露国に於て、言論の戦闘、平和の革命の極めて困難なることを知る、 而して平和を以て主義とする諸君が、其事を成す急なるが為めに、時に干戈(か んか)を取て起ち、一挙に政府を転覆するの策に出でんとする者にあらん乎、 我等は切に其志を諒とす。而も是れ平和を求めて却つて平和を撹乱する者に非 ずや。」 (「平民新聞」明治三十七年<1904>三月の第十八号冒頭 大要)
幸徳が《平民新聞》(1904年3月13日)に書いた《与露国社会党書》は欧米各国の社会党に大きな反響を呼び,各国社会党の機関紙は競ってこれを転載した。またロシア社会民主党もその機関紙《イスクラ》に回答文を載せ,「今我等の最も重大に感ずるは,日本の同志が我等に送りたる書中に於て現したる一致聯合の精神に在り,我等は満腹の同情を彼等に呈す」と賛意を示した。
「歴史上重大文書と謂はざるべからす。(中略)力に対す るには力を以てし、暴に抗するには暴を以てせざるを得ず、されど我等がこの 言を為すは決して虚無党又はテロリストとしてにはあらず、我等は先に露国社会民主党を建設してより以来、テロリズムを以て不適当なる運動方法となし、 曽(かつ)て之と闘うを止めたることなし、然れども悲むべし、此国の上流階級 は曽て道理の力に服従したる事なく、又将来然(しか)すべしと信ずべき些少の 理由だも発見すること能わず。然れども此問題は今此場合に於て、さしたる重要の事にあらず。今我等の最 も重大に感ずるは、日本の同志が我等に送りたる書中に於て現したる一致聯合 の精神に在り。我等は満幅の同情を彼等に呈す。
「万国社会党万歳!」 (ロシア社会民主党機関誌『イスクラ』返信 =平民新聞翻訳大要)
この返信に接し、「吾人は之を読んで深く露国社会党の意気を敬愛す、然(さ) れど吾人がさきに、暴力を用ふる事に就て彼等に忠告したるに対し、彼等が猶 (なほ)終に暴力の止むを得ざる場合あるを言ふを見て、深く露国の国情を憎み、 深く彼等の境遇の非なるを悲まざるを得ず。」 (『平民新聞』の所感 大要)
1904年8月、オランダ、アムステルダムで開かれた第2インターナショナル第6回大会大会に参加した国際社会主義者たち。当時、日本代表として出席した片山潜は当時、露日戦争で交戦中だったロシア代表 プレハーノフと反戦で同意する握手を交わした。これに先立ち幸徳秋水は<ロシア社会党に送る文>で、ロシアの社会主義者たちに戦争反対を訴えた。
◆森下徹=幸徳秋水の平和思想ー「平民新聞」期中心にPDF
クリックしてrekisikenkyu38_139-162.pdfにアクセス
◆梅田 俊英=日本における日ロ非戦論 PDF7p
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/574-575/574-04.pdf
◆玉岡=『共産党宣言』邦訳史PDF
クリックしてtamaoka.pdfにアクセス
◆山本 武利=週刊『平民新聞』の読者層の系譜PDF
クリックしてronso0610500540.pdfにアクセス
◆太田 雅夫 =社会主義協会の運動—平民社との関連を中心として (日本と西洋)
◆藤原 修=近代日本における平和主義と愛国心—幸徳秋水と福沢諭吉PDF
クリックしてgenhou15-03.pdfにアクセス
◆尹=明治30年代に見られるイエ ス像
一木下 尚江と幸徳秋水の 場合 一PDF
◆辻野 功=指導者失格の幸徳秋水PDF
◆石坂 浩一 =朝鮮認識における幸徳秋水 (日本史特集号)
◆飯田 鼎=大原慧 幸徳秋水の思想と大逆事件
書評PDF
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19770801-0077.pdf?file_id=78545
◆森涼子=幸徳秋水 : 根底からものを問う思想家の歩みPDF
◆辻野 功=幸徳秋水の天皇観
◆出原 政雄=幸徳秋水の政治思想 : 中江兆民との関連を中心にPDF39p
◆小松 隆二=糸屋寿雄著 幸徳秋水研究PDF
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19680201-0145.pdf?file_id=79902
◆飯田 鼎=田中惣五郎著 幸徳秋水 : 一革命家の思想と生涯 ; 山極圭司著 木下尚江 : 一先覚者の闘いと悩み 書評PDF
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19560401-0043.pdf?file_id=81190
◆飯田 鼎=塩田庄兵衛編 幸徳秋水の日記と書簡=書評及び紹介
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19550701-0057.pdf?file_id=81065
◆上條 宏之=日本における初期社会主義とトルストイ キリスト教社会主義者木下尚江・野上豊治の検討を通して・その1
クリックしてHumanities_H33-06.pdfにアクセス
その2
クリックしてHumanities-H34_07.pdfにアクセス
深澤論文
クリックしてHumanities_C31-06.pdfにアクセス
◆◆ トルストイの日露戦争論(「平民新聞」)
近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871597
戦争が最高潮に達した8月、
第39号は、全紙をあげてトルストイの「日露戦争論」全12章を掲載した。これはトルストイがロンドン・タイムズ1904年6月27日)に寄稿した非戦論「悔い改めよ」を秋水、枯川が共訳したもの。「平民新聞」(1904年8月7日)に「トルストイ翁の日露戦争論」として全文訳載され,日本国内でも大きな反響を呼んだ。
「平民新聞」は次号の社説に,トルストイの個人主義的非戦論に対する社会主義的立場における非戦論との相違を説き,戦争の原因は「人々真個の宗教を喪失せるが」ではなく,「列国経済的競争の激甚なるに在り」とした。
◆トルストイの日露戦争論(一部のみ)
(うみねこ堂一丁目提供)
http://uminekodo.sblo.jp/article/48291260.html
Leo Tolstoy
トルストイ 『胸に手を当てて考えよう』訳:北御門二郎氏 地の塩書房
トルストイの書簡—安部磯雄(『平民新聞』代表)との書簡
レオ・トルストイから安部磯雄への手紙
1904年10月23日から11月5日の間にヤースナヤポリャーナにて書かれたもの
親愛なる安部磯雄 様
お手紙ならびに 英文論説掲載の新聞 拝受拝読致しました。厚く御礼申し上げます。
欺かれ 愚鈍化された双方の国民の間に行われている戦争 という恐るべき犯罪に反対している、聡明で道徳的で宗教的な人々が
日本にも多数いるであろうことを、私はこれまでにも信じて疑いませんでしたが、今、その確証を得て 実に喜びに堪えません。
日本の地に、自分が親しく交流出来る友人や同志がいることを知り得たことは、私にとって大きな喜びです。
ところで、全ての敬愛する友に対して そうありたいと思うように、貴方に対しても率直でありたいと思いますので、歯に衣着せずに申し上げますが、私は社会主義には賛同できませんし、非常に賢明で精力的な貴国民の中でも最も精神的に発達した人々が、ヨーロッパから非常に根拠薄弱で、妄想と誤謬に満ちた社会主義の理論を—本家のヨーロッパでは既に廃れかけている理論を取り入れたことを 残念に思っております。
社会主義の目的は、人間の中の最も低劣な性質を満足させることに、つまり 物質的幸福にあり、しかもその提唱する手段では、それは決して達成されないのです。
人間の幸福は、精神的なもの、つまり道徳的なものであって、その中に物質的幸福も含まれているのです。
そして、この より高い目標は、諸国民あるいは人類を構成する あらゆる結合体の宗教的な、つまりは道徳的な完成のみによって到達できるのです。
私が宗教と言うのは、全人類に普遍的な神の掟に対する理性的信仰のことであって、
その掟は、万人を愛し、万人に対して 己れの欲する所を施せという戒律の中に、はっきり示されております。
私は そうした方法が、社会主義その他のはかない理論より以上に非現実的なものに見えることは知っていますが、これこそ唯一の真実な方法なのです。
我々が誤った、決してその目的を達成することのない理論の実現に躍起となればなるほど、—それは現代に最もふさわしい人類および各個人の幸福の水準に到達するための—
唯一の真実な方法の適用を 妨げるのです。
貴方の社会主義的信条に対して、忌憚なき意見をのべたこと、それに まずい英語で書いたことをお許し下さるよう、そしてまた私があなたの真の友であることを信じて下さるよう
お願いしつつ 擱筆(かくひつ=文章を書き終える)致します。
レオ・トルストイ
今後ともお便り戴ければ 幸甚に存じます。
トルストイ『胸に手を当てて考えよう』 訳:北御門二郎氏
1904年4月30日
「どうか戦争を企てたあなた方、
戦争を必要とし、戦争を弁護するあなた方が、日本人の弾丸や地雷のそばへ行ってください。我々は、行きません。
なぜなら、我々にはそんなこと必要ではないばかりか、一体なぜ そんなことが誰かに必要なのか 分かりませんから」
というのが 当然である。
でもやっぱり彼らはそうは言わないで、
戦争に出かけていくし、彼らが肉体を滅ぼすものを恐れて、肉体も霊も滅ぼすものを恐れない限り—出かけざるをえないのである。
昨日私は、知り合いの農夫から二通の手紙を引き続き受け取った。
「今日、私は召集令状を受け取りました… これで いよいよ遠い極東地方で、日本軍の弾丸の下をくぐらねばなりません。
..4人の子供をかかえた妻はどうしたらいいでしょう?私は招集を拒否することはできませんでした。でも前もって言っておきますが、私のために日本人のただ一つの家族も
戦死者を出すことはないでしょう。
ああほんとうに、今まで一緒に生きてきたもの、生き甲斐であったものを何もかも棄てて行くのは 何と恐ろしく、切なく苦しいことでしょう」
「現在 地表のほとんど3分の1に広がる、隠れた悲しみを計る尺度は、どこにあるのでしょう?そして我々は 遠からず
復讐と恐怖の神の生贄に供されることでしょう。私はどうしても精神の均衡を確立することができません。
ああ私はどんなに、自分が唯一の主なる神に仕えることを妨げる、
こうした二重性を持つ自分を憎んでいることでしょう。」
この人はまだ、真に恐るべきは 肉体を滅ぼすものではなくて、肉体も霊も滅ぼすものであることを充分悟らず、そのために、軍務を拒否することが出来ないけれども、
(注)訳者 北御門二郎氏 徴兵を拒否
それでも家族を棄てて出発するにあたり、
自分は日本人の家族のただ一つからも戦死者を出すようなことはしないと約束している。
彼は最も重要な神の掟、全ての宗教の掟である「己れの欲するとこをろ人に施せ」を信じている。
そして現在、その掟を大なり小なり意識的に認めているそうした人々は、単にキリスト教世界のみならず、仏教の世界、マホメット教の世界、儒教の世界、バラモン教の世界にも何千人ではなく何百万人といるのである。
真の英雄は、他人を殺そうとしながら自分は殺されなかったばかりに、現在英雄扱いされている人々ではない。
真の英雄は、人殺したちの列に加わることを断乎拒否し、キリストの戒めに背くよりは 殉教の苦難をえらんで、現在、監獄にいたり
ヤクーツク州に流されたりしている人たちなのである。
—そう、現在における大きな戦いは、今、日本人とロシア人の間で行われている戦いでもなく、これから起こるかもしれない○△人種と△○人種との戦いでもなく、地雷や爆弾や銃弾で行われる戦いでもなく、まさに今、目覚めつつある人類同胞の意識と、人類を取り囲み、圧迫を加える闇と 苦悩との戦いなのである。
ある人々は宗教などという代物は全然不必要だと決めてしまい、宗教なしに生きながら、いかなる宗教もいっさい不必要だと説いているし、またある人々は、現在説かれているような歪められた形のキリスト教を墨守して、
相変わらず宗教なしで暮らし、人々の生活の指針となり得ない、虚しい外面的形式のみを説いているのである。
しかし一方では、現代の要求に答える宗教がちゃんと存在しており、全ての人々に知られていて、隠れた形で… 人々の心の中に住んでいる。
◆石川啄木のトルストイ論(当ブログから)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/48165_36757.html(青空文庫)
http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/8676770.html(当ブログ)
★トルストイの戦争と平和思想については当ブログ=トルストイの戦争と平和論参照
http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2916219.html
◆上條 宏之=日本における初期社会主義とトルストイ キリスト教社会主義者木下尚江・野上豊治の検討を通して・その1
クリックしてHumanities_H33-06.pdfにアクセス
その2
クリックしてHumanities-H34_07.pdfにアクセス
深澤論文
クリックしてHumanities_C31-06.pdfにアクセス
◆トルストイの生涯と名言
トルストイの名言・格言
◆中村 唯史 =トルストイ『戦争と平和』における「崇高」の問題PDF32p
クリックしてlsar-8-01130143.pdfにアクセス
◆宮坂 和男 =トルストイの生命論PDF17p
◆岩崎 紀美子=内なるトルストイ : 与謝野晶子の初期評論を支えたものPDF28p
クリックしてNGno3602_28.pdfにアクセス
◆原 卓也=トルストイの宗教思想PDF10p
◆松沢 弘陽=札幌農学校・トルストイ・日露戦争–1学生の日記と回想(資料)PDF21p
クリックして39%285-6%292_p659-678.pdfにアクセス
◆左近 毅=賀川豊彦における平和思想の形成過程 : トルストイの影響をめぐってPDF15p
🔴◆◆平民社と平民新聞
小学館(百科)
明治時代の社会主義結社。黒岩涙香(るいこう)の新聞「万朝報(よろずちょうほう)」が開戦前、非戦の旗を下ろしたことに憤慨し退社した堺利彦(さかいとしひこ)、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)が、日露戦争での非戦の主張を貫くため1903年(明治36)10月27日に設立。東京有楽町の社屋には多くの社会主義者が出入りし、11月15日には週刊『平民新聞』を発刊。同紙は05年1月29日に廃刊を余儀なくされたものの、加藤時次郎の主宰する直行(ちょっこう)団の機関紙『直言(ちょくげん)』を譲り受け、平和主義と社会主義とを主張し続けた。また同社は社会主義協会と提携し、社会主義演説会、講演会の開催や地方遊説のほか、平民社同人編『社会主義入門』、木下尚江(なおえ)『火の柱』など15冊の平民文庫も送り出した。しかし、政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため05年10月9日解散した。
こののち社会主義陣営はキリスト教社会主義者による『新紀元』派と、唯物論的社会主義者による『光』派に分かれたが、1907年1月15日に両派の石川三四郎、西川光二郎(みつじろう)、幸徳秋水、堺利彦、竹内兼七(かねしち)が提携しふたたび平民社がおこされ、日刊『平民新聞』が発刊された。しかし社内で議会政策派と直接行動派の分裂がみられたうえ、政府の弾圧はいっそう厳しくなり、07年4月14日に廃刊、平民社も解散した。通算2年余、再興後はわずか3か月の活動であったが、社会主義の統一的な実践団体として、日本の社会主義史上に大きな足跡を残している。
[成田龍一]
◆◆平民新聞の反戦活動
日露開戦に反対した幸徳秋水(こうとくしゅうすい)、堺利彦(さかいとしひこ)が、反戦の立場を貫くために1903年(明治36)11月15日創刊した(週刊)。「自由、平等、博愛は人生世に在る所以(ゆえん)の三大要義也 (なり)」と宣言した。平民主義、社会主義、平和主義を唱えた。
創刊の「宣言」
「一、自由、平等、博愛は人生世に在る所以の三大要義也。
一、吾人は人類の自由を完からしめんが為めに平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の差別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。
一、吾人は人類をして平等の福利を享けしめんが為めに社会主義を主張す、故に社会をして生産、分配、交通の機関を共有せしめ、其の経営処理一に社会全体の為めにせんことを要す。
一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱道す、故に人種の区別、政体の異同を問はず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。
一、吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす、故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の与論を喚起し、多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を非認す」。
「戦争は遂に来れり。平和の撹乱は来れり。罪悪の横行は来れり。日本の政府は日く、其責露国政府に在りと。露国の政府は日く、其責日本政府に在りと。是に由て之を観る。両国政府も亦戦争の忌むべき平和の重んずべきを知る者の如し。少なくとも平和撹乱の責任を免れんことを欲する者の如す。其心や多とすべし、而も平和撹乱の責は両国の政府、若くは其一国の政府遂に之に任ぜざるべからず。然り其責政府に在り、吾人平民は之に与からざる也。然れども平和撹乱より生ずる災禍に至りては、吾人平民は其全部を負担せしめらる可し。彼等平和を撹乱せるの人は毫も其罰を受くることなくして、其責は常に吾人平民は其全部を肩上に嫁せらるる也。是於乎吾人平民は飽くまで戦争を非認せざる可らず。速に平和の恢復を祈らざる可らず。之が為めには、言論に文章に、有ゆる平和適法の手段運動に出でざる可らず。故に吾人は戦争既に来るの今日以後と雖も、吾人の口有り、吾人の筆有り紙有る限りは、戦争反対を絶叫すべし。而して露国に於ける吾同胞平民も必ずや亦同一の態度方法に出ると信ず。否英米独仏の平民、殊に吾人の同志は益々競ふて吾人の事業を援助すべきを信ず る也」
平民新聞は普通の新聞の2つ折りの大きさに、創刊号は12ページ、ふだんは8ページ、1部3銭5厘(この年の春、海軍造船廠の見習い職工として入った寒村の日給が25銭)で、創刊号は5.000部がたちまち売り切れて3,000部を増刷したといわれている。毎号の社説は幸徳が書き、堺は編集長で紙面の製作と経営にあたったが、筆禍問題が起こったときのことを考えて、発行、編集の責任者に堺が署名し、幸徳は印刷人として署名したという話に、堺利彦の心意気と覚悟がうかがわれる。幸徳には老母があり自身も病弱ということから入獄させるのが忍びない、という判断をした。ちなみに、田中正造の直訴文を起草したのがこの幸徳であった。
この平民新聞ではさまざまな政治政策をとりあげて論評するだけでなく、ドイツ社会民主党やイタリア社会党等、各国の社会主義政党の動きもよく伝え、また幸徳や堺の翻訳物も連載した。ことに幸徳秋水の格調高い漢文調の名文は強い感銘を与え、またその下に載った同じ筆者の皮肉で辛らつな寸評も呼び物であった。
創刊翌年の3月に筆禍事件で下獄した堺の『獄中生活』も好評を博している。寒村の語によれば、「平民新聞の記事は長短錯落し、硬軟調和して変化に富み、隅から隅まで活気と興趣にあふれていた」。
石川三四郎、西川光二郎(みつじろう)らが在社、木下尚江(なおえ)らも応援した。平民新聞は第10号に「吾人(ごじん)は飽くまで戦争を非 認す」の論説をかかげた。開戦の前月であった。以来、その主張と態度に変りはなかった。
第20号の社説「嗚呼(ああ)増税」では、「今の国際的戦争が、単に少数階級を利するも、一般国民の平和を撹乱(かくらん)し、幸福を 損傷し、進歩を阻礙(そがい)するの、極めて悲惨の事実たるは吾人(ごじん)の屡(しばし)ば苦言せる所也、(中略)政治家、投機師、軍人、貴族の政治を 変じて、国民の政治となし、『戦争の為(た)め』の政治を変じて、平和の為めの政治となし、……」と論じた。このため堺が2か月の軽禁錮に処せられた。その控訴公判に尚江は弁護人として熱弁をふるった。政府は平民新聞をしばしば発禁処分としたものの、内外に「文明の国」を喧伝(けんでん)していた手前、こうした活動にある程度目をつぶらざるをえなかった。
幸徳秋水は、戦争の本質を鋭く突き、社会主義の旗を高く掲げて平和を唱え、出征兵士への反戦工作など活発な活動を展開している。
戦争が最高潮に達した8月、第39号は、全紙をあげてトルストイの「日露戦争論」全12章を掲載した。これはトルストイがロンドン・タイムズ1904年6月27日)に寄稿した非戦論「悔い改めよ」を秋水、枯川が共訳したもの。「平民新聞」(1904年8月7日)に「トルストイ翁の日露戦争論」として全文訳載され,日本国内でも大きな反響を呼んだ。
「平民新聞」は次号の社説に,トルストイの個人主義的非戦論に対する社会主義的立場における非戦論との相違を説き,戦争の原因は「人々真個の宗教を喪失せるが」ではなく,「列国経済的競争の激甚なるに在り」とした。
1周年記念号に「共産党宣言」を訳載して発禁を受けるなど、罰金、発売頒布禁止が続き、最後には印刷所国光(こっこう)社の印刷機械も没収されたため、05年1月29日の第64号を、マルクス・エンゲルスの『新ライン新聞』の終刊にちなんで赤刷りとし、廃刊した。1905年の「血の日曜日」の事件を報じたのは偶然にも、「平民新聞」の終刊号(一月二十九日、第64号)であった。 開戦後も大胆に戦争批判を続けたこの週間新聞も、しだいに強まってくる抑圧をもちこたえられなくなっていた。 1904年11月6日第52号が社説「小学校教師に告ぐ」で発売禁止となり、 幸徳秋水が禁錮五ヵ月、西川光二郎が同七ヵ月、罰金それぞれ五十円の刑に処せられたうえ、 印刷機械も没収された。 こうした発禁や罰金、あるいは没収機械の弁償などの経費が重くなってくると、ついに財政的にもちこたえられなくなり、 自発的廃刊が決定されたのである。 1年2ヵ月にわたり、延べ二十万部を発行し、社会主義への関心を広めるうえで大きな役割をはたしたこの新聞も、 運動の大衆的基礎をつくるまでにはゆかなかった。
その後、後継紙が相次いだが、07年1月15日、石川、西川、竹内兼七(かねしち)、幸徳、堺らによって、日刊の『平民新聞』が創刊された。しかし、内部の思想的対立、ならびに発売頒布停止処分による経営難に加えて、第63号の「青年に訴ふ」が朝憲紊乱(びんらん)罪で編集人、印刷人、筆者が起訴された。同年1月29日『平民新聞』は、第64号を全面赤刷りにした。さらに4月14日第75号をふたたび全紙赤刷りにして廃刊した。
「平民新聞」ではないが、木下尚江は、明治37年1月1日から「毎日新聞」に小説『火の柱』を連載した。日露開戦直前の日本、すなわちリアルタイムの日本を舞台に設定 し、平民社(小説では同胞社)を罠(わな)にはめようとする軍部や、戦争で悪知恵を働かせる商人を断罪するといったあらすじだ。
また、大河小説『大菩薩峠』で知られる中里介山。彼は代用教員時代、「万朝報」に新体詩を投稿し、日露開戦では平民新聞に共鳴、反戦詩を発表している。
反戦詩として最も有名なのは、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」だ。これは旅順攻略を使命とした第三軍(司令官・乃木希典(まれすけ))に従軍し ていた弟の無事を願って作られた詩で、大町桂月との間で論争を巻き起こした(与謝野晶子の項目参照)。
徳冨蘆花も落とすわけにはいかない。「勝利の悲哀」と題する講演を明治39年12月、第一高等学校で行い「日本国民、悔(くい)改めよ」と絶叫した。そ れは愛する夫や子どもを戦場で奪われた女たちの心の叫びを代弁するものであった。
🔴◆幸徳秋水
[1871-1911] (小学館百科)
明治時代の社会主義者。明治4年9月22日高知県に生まれる。本名伝次郎(でんじろう)。酒造兼薬種業の家に育ち、聡明(そうめい)で神童といわれた。11歳ごろから自由民権運動に強い関心を抱き、1887年(明治20)上京して林有造(ゆうぞう)の書生となる。同年末保安条例発布で東京を追放され帰郷。88年11月大阪で中江兆民(ちょうみん)の学僕となり、その思想的、人格的感化を受ける。兆民も幸徳の才能を見抜き、「秋水」の号を贈る。91年4月ふたたび上京し、国民英学会を卒業する。『自由新聞』『広島新聞』『中央新聞』を経て、98年2月『萬朝報(よろずちょうほう)』に入社。同年11月社会主義研究会に入り、99年10月結成の普通選挙期成同盟会では片山潜(せん)らとともに幹事となる。
1900年(明治33)8月立憲政友会の創立に際し、兆民の依頼で激烈な「自由党を祭る文」を『萬朝報』に発表し、01年4月『廿世紀(にじっせいき)之怪物帝国主義』を著し「軍人的、空威張(からいばり)的飴細工(あめざいく)的帝国主義」の実態を鋭く指摘する。同年5月安部磯雄(あべいそお)、木下尚江(きのしたなおえ)らと社会民主党を結成するが即日禁止される。7月内村鑑三(かんぞう)らと萬朝報社内に理想団を結成。12月足尾鉱毒問題で奔走する田中正造(しょうぞう)の依頼で直訴文を起草する。03年7月社会主義の目ざす方向とその実現方法を論じた『社会主義神髄』を刊行し、10月、日露開戦論に転じた萬朝報を堺利彦(さかいとしひこ)、内村とともに退社、11月堺らと平民社を結成して週刊『平民新聞』を発刊する。04年3月「与露国社会党書」を発表、日露両国労働者階級の連帯を訴える。11月堺とともに『共産党宣言』を訳載する。05年2月新聞紙条例違反で禁錮5か月の刑を受け入獄、獄中でクロポトキンの無政府主義思想に強い影響を受ける。
出獄後保養を兼ねて渡米、ロシア社会革命党員フリッチ夫人の感化を受け、1906年6月岩佐作太郎(さくたろう)らと社会革命党を結成する。帰国後、日本社会党の歓迎会で「世界革命運動の潮流」を演説。さらに07年2月、日刊『平民新聞』に「余が思想の変化」を発表して労働者のゼネストによる直接行動論を展開、同月の日本社会党第2回大会で田添鉄二(たぞえてつじ)の議会政策論と激しく対立する。9月堺、山川均(ひとし)らと金曜会を結成。病気保養のため帰郷、クロポトキンの『麺麭(パン)の略取』翻訳に従事する。赤旗事件の報に接して08年8月上京、管野(かんの)すがと恋愛、同棲(どうせい)し、09年5月『自由思想』を発刊するが、発禁となり運動も停滞する。10年6月いわゆる大逆(たいぎゃく)事件に連座して検挙され、天皇暗殺計画の主謀者として明治44年1月死刑を宣告され、24日処刑された。
[荻野富士夫]
◆大逆事件
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明治天皇の暗殺を計画したという理由で多数の社会主義者、無政府主義者が検挙、処刑された弾圧事件。幸徳(こうとく)事件ともいう。
日露戦争反対を機に高揚した社会主義運動に対し、政府は機関誌紙の発禁や集会の禁圧、結社禁止などの抑圧を加え、1908年(明治41)6月の赤旗事件で堺利彦(さかいとしひこ)、大杉栄(さかえ)らの中心的人物を獄に送った。これ以後、実質的な運動はほとんど展開できない状勢になり、09年5月に幸徳秋水、管野(かんの)すがらの創刊した『自由思想』も発禁の連続で廃刊を余儀なくされ、合法的な運動は不可能になる。迫害に窮迫した彼らは急速に、直接行動・ゼネストによる革命の実現に突破口をみいだそうとし、とくに弾圧への復讐(ふくしゅう)の念に燃えた管野は、宮下太吉(みやしたたきち)、新村忠雄(にいむらただお)、古河力作(こがりきさく)とともに、天皇の血を流すことにより日本国民の迷夢を覚まそうと爆裂弾による暗殺計画を練った。宮下は長野県明科(あかしな)の製材所で爆裂弾を製造し、09年11月爆発の実験も試み、10年1月には東京・千駄ヶ谷(せんだがや)の平民社で投擲(とうてき)の具体的手順を相談するが、幸徳は計画に冷淡で著述に専念しようとした。
取締当局はスパイを潜入させたりなどしてこの計画を感知し、1910年5月25日の長野県における宮下検挙を手始めに、6月1日には神奈川県湯河原(ゆがわら)で幸徳を逮捕。政府はこの長野県明科爆裂弾事件を手掛りに一挙に社会主義運動の撲滅をねらって、幸徳が各地を旅行した際の革命放談などをもとに、大石誠之助(おおいしせいのすけ)らの紀州派、松尾卯一太(まつおういちた)らの熊本派、武田九平(たけだきゆうへい)らの大阪派、さらに森近運平(もりちかうんぺい)、奥宮健之(おくのみやけんし)、内山愚童(うちやまぐどう)ら26名を起訴するほか、押収した住所録などから全国の社会主義者数百名を検挙して取り調べた。第二次桂(かつら)太郎内閣下の平田東助(とうすけ)内相、有松英義(ひでよし)警保局長、平沼騏一郎(きいちろう)司法省行刑局長兼大審院検事、松室致(まつむろいたす)検事総長らの指揮により全国的な捜査、取調べと裁判が進められ、元老山県有朋(やまがたありとも)をはじめ政府部内や枢密顧問官らの強い圧力を受けて、事件全体が終始政治的に取り扱われた。
刑法第73条の大逆罪に問われたため、裁判は大審院における一審即終審で行われた。11月1日予審意見書が大審院に提出されたのち、同9日公判に付すことを決定、厳重な警戒下、12月10日から裁判長鶴丈一郎(つるじよういちろう)のもとで公開禁止の公判が開始された。弁護人は鵜沢聡明(うざわそうめい)、花井卓蔵(たくぞう)、今村力三郎(りきさぶろう)、平出修(ひらいでしゅう)らであった。公判はほとんど連日開かれ、12月25日検事の論告があり、平沼は総論で「被告人ハ無政府主義者ニシテ、其信念ヲ遂行スルノ為大逆罪ヲ謀ル、動機ハ信念ナリ」と述べ、最後に松室が全員に死刑を求刑、27日から花井を先頭に弁護人の弁論があり、1人の証人を審問することもなく結審した。早くも1911年1月18日に判決言渡しがあり、全員有罪で有期刑2名以外は24名が死刑とされた。翌19日天皇の恩命として死刑被告中の坂本清馬(せいま)、高木顕明(けんめい)ら12名を無期懲役に特赦減刑、一方では異例の早さで24日には幸徳、大石、森近、宮下ら11名を、翌25日に管野の死刑を執行した。無期・有期刑の14名は秋田、諫早(いさはや)(長崎県)、千葉の各監獄に送られ、うち5名は獄中で縊死(いし)・病死した。幸徳が獄中で遺著『基督(キリスト)抹殺論』を叙述したほか、詳細な「陳弁書」で裁判批判を展開するほか、管野の「死出の道草」をはじめ、手記や遺書が書き残されている。
管野がその手記に「今回の事件は無政府主義者の陰謀といふよりも、むしろ検事の手によって作られた陰謀といふ方が適当である」と記しているように、幸徳、管野、宮下、新村、古河の5人で協議され、しかも幸徳を除いた4人で実行策が練られただけの幼稚な天皇暗殺計画をフレーム・アップし、事件と直接無関係な社会主義者多数を巻き込んだこの事件は、桂内閣が社会主義運動の根絶をねらって仕組んだ史上空前の大弾圧であった。全国を吹き荒れた大弾圧の暴風により、社会主義運動は「冬の時代」と形容されるほど逼塞(ひっそく)させられる。職業を奪われ、学校を追われ、生活を破壊されたりするなどして多くの転向者も出したが、わずかに生き残った社会主義者は、堺利彦らの売文(ばいぶん)社に閉じこもったり、大杉や荒畑寒村(かんそん)のように文学の場に身を寄せて『近代思想』を発刊したり、片山潜(せん)や石川三四郎のように亡命したりなどして「冬の時代」の寒風に耐えた。
この事件は政府の巧みなキャンペーンで一般社会に社会主義の恐ろしさを植え付けると同時に、文学者にも大きな衝撃を与えた。徳冨蘆花(とくとみろか)は一高で「謀叛(むほん)論」を講演して幸徳らを殉教者と訴え、石川啄木(たくぼく)は事件の本質を鋭く見抜いて社会主義の研究を進め、森鴎外(おうがい)や永井荷風は事件を風刺する作品を書いている。欧米の社会主義者も日本政府に多数の抗議電報などを送るなど、抗議運動を展開した。
1961年(昭和36)、唯一人の生存者坂本清馬と、森近運平の妹栄子が東京高裁に再審の請求をしたが、65年却下となった。
[荻野富士夫]
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🔵竹久夢二
=「平民新聞」などの政治漫画を描いた反戦画家
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TakehisaYumeji-Photo_Yumeji’s_Late_Years竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)
:1884年、岡山県生まれ。17歳の頃に上京し、早稲田実業学校に入学。在学中から独学で絵を勉強し、雑誌や新聞に風刺画やコマ絵、スケッチなどを投稿する。
22歳の頃、作品「筒井筒」が中学世界に1等入選し、「竹久夢二」の筆名でデビュー。以後、平民社の同人となり、平民社発行の新聞などで風刺画なども多数発表。また、「夢二式美人画」と言われる儚げで美しい美人画の様式を確立し、一躍売れっ子作家となる。本の装丁やデザイン、作詞なども数多く手がけている。1931から1933年までアメリカ、ヨーロッパ諸国に外遊し、展覧会を開催。帰国後、結核を患い1934年に惜しまれながら逝去した。
09年5月19日朝日新聞
東京・本郷から言問通りをちょっと下っていくと、赤いれんが造りの竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)美術館がある。木々の若葉が萌(も)え、ツツジの花が咲いていた。
夢二といえば、大正ロマン、愁いを含む美人画、「宵待草」の歌で知られる。そう、夢二作詞の、あの哀切な歌である。
まてどくらせどこぬひとを
宵待草のやるせなさ
こよひは月もでぬさうな。
美術館の学芸員谷口朋子(たにぐち・ともこ)(40)は13年前にここに来たとき、「夢二ってあんまり好きじゃない。甘く情緒的」と思った。
夢二が生きたのは明治から大正、昭和にかけての49年間である。日清・日露戦争、大逆(たいぎゃく)事件、大正デモクラシー、関東大震災、そして満州事変まで日本は激しく動く世情の中にいた。
◇
そんな時代を夢二は、たまきさん、彦乃(ひこの)さん、お葉(よう)さん、何人もの女性を愛し、美人画を描いて過ごしたんですね。
「ええ、純粋だったからか、あるいは自分をさらけだす人だったのか。でも、夢二は反戦画家でもあったんですよ」
美術館所蔵の明治の新聞「直言」の合本をめくる。1905(明治38)年6月の紙面のコマ絵、いまでいう政治漫画は、白衣の骸骨(がいこつ)と泣いている丸髷(まるまげ)の女が寄り添う姿である。「日露戦争の勝利の悲哀を描いている。夢二が描いた最初の政治風刺画だろうといわれています」
当時、ナショナリズムを高揚させた日露戦争に対し、反戦論、非戦論が台頭していた。内村鑑三(うちむら・かんぞう)はキリスト者として、幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)、堺利彦(さかい・としひこ)ら社会主義者は「平民社」をつくって「週刊平民新聞」を発刊、世に訴えた。廃刊の憂き目にあうと、「直言」「光」「日刊平民新聞」などが後を継ぐ。
「夢二はこれらにコマ絵を寄稿しているんです。けっこう、どぎつい絵ですよ」
この絵、先頭は凱旋(がいせん)の楽隊、でも続くのは負傷兵、悲しむ女、後尾は得意顔の村長ですよ。ほう、これも戦争の悲哀ですね。こちらは資本家と労働者、これは成り金と女の図柄です。これは墓前で悲しむ女。はあ、夢二はこんな絵を描いたんですか。反戦と美人画。夢二はどんな人だったんでしょう。
夢二は1884(明治17)年、岡山で生まれた。母と姉にだけ打ち明けて家出して上京、早稲田実業学校に入る。平民社に出入りする荒畑寒村(あらはた・かんそん)、岡栄次郎(おかえい・じろう)とともに下宿して社会主義に傾斜する。
彼らの薦めで寄稿したコマ絵は、女性や子どもへの同情に満ちていた。反戦と美人画、いずれも遠い母や姉への思慕からはぐくんだものかもしれない。
1911(明治44)年1月24日、号外売りが街を走る。夢二宅に出入りする女子学生神近市子(かみちか・いちこ)は、その号外を夢二に届けた。そこには、幸徳秋水ら大逆事件の死刑囚処刑のニュースが書かれていた。
夢二はフーンとうなり、秋水らとは旧知であることを明かし、「みんなでお通夜をしようよ。線香とろうそくを買ってきておくれ」と神近に告げた。神近は、5年後、アナーキスト大杉栄(おおすぎ・さかえ)を愛情のもつれから刺す日蔭茶屋事件を起こし、戦後は社会党衆院議員になる。
大逆事件は、天皇の暗殺を企てたかどで12人が死刑、12人が無期懲役になり、天下を震撼(しんかん)させた。だが、ほんとにそんな計画があったのか、社会主義者らを一網打尽にする権力の陰謀ではなかったのか。
◇
「私は、夢二のデザインの仕事にもひかれるんです。雑誌の表紙や広告、絵はがきや千代紙。夢二はこういう日常のもので人気があったんですよ」と谷口。三越や千疋(せんびき)屋のポスター、カチューシャの唄(うた)やゴンドラの唄の楽譜の絵。大逆事件から一転、大正ロマンの世に。
「夢二の人生からは時代が見えてくるんです」
あのころ貧しい人の側に立ち、懸命にたたかった人々がいた。いま再び貧困、格差社会。100年の歴史に思いをはせて「大逆事件残照」を記したい。
◆竹久夢二の 社会主義新聞の「コマ絵」
1905年頃
大原社研=若杉コメント
竹久夢二(1884-1934)と大原社会問題研究所、片や叙情的な美人画で名を馳せた画人、一方は社会科学の研究所。どこに接点があるのでしょう。
実は私もつい最近知ったことですが、、夢二がまだ無名のころに社会主義者と交流があったのです。それまであのナヨナヨとしたやたらに眼の大きな美人画には率直にいってあまり好感を持っていませんでしたが、そのことを知ってからは少し見方を変えてみようと思いました。
夢二は17歳のころ九州から家出同然で上京し早稲田実業学校に入学します。早稲田で教鞭をとっていた安部磯雄のキリスト教社会主義に影響を受け、日露戦争への機運が高まる中で非戦論に共感を覚えるようになります。やがて、社会主義者たちとの交流が生まれ、もともと持っていた絵の才能を活かし当時の社会主義運動の新聞「平民新聞」「光」「直言」に風刺の効いたコマ絵を描くようになるのです。その絵は単色で荒削りながら率直に社会を見つめ批判性に満ちています。描かれる女性は後の美人画にみられる叙情性をすでに持ち合わせながらも独特の意志力を感じさせます。絵にそえた短文でもピリカラな才をみせます。
「平民新聞」を発行した平民社に出入りし、社員だった荒畑寒村と雑司ケ谷の鬼子母神の近くで一時共同自炊生活をするのもこの頃のことです。実際は寒村が夢二の下宿にころがりこんだようですが。寒村らとの下宿生活からあのような絵と文が生まれたのでしょうか。
こうした夢二の一面を私が知ったのは、2001年に町田市立国際版画美術館で開催された「夢二展」に協力した時のことです。学芸員のKさんがたびたび研究所に来所し、明治時代の初期社会主義運動の機関紙に掲載された夢二のコマ絵を詳細に調査されました。
その結果、展示会場の初期夢二のコーナーでは「平民新聞」「光」「直言」などがドーンと見開きで展示されました。コマ絵自体はその名のように小さく、紙面の一隅に描かれていますが、なにせ展示では新聞全紙を丸ごと見開きで見せなければなりません。スペース効率はいかにもよくない、でも逆にそれが展示会場に一種独特な空気感をかもし出しているように感じたものです。「平民新聞」にしろ「光」にせよいずれも復刻縮刷版が刊行されています。しかしやはり多少赤茶けていても現物の持っている力は大きいと思いました。
図録には製本された新聞ゆえ展示されなかったコマ絵も含めすべて掲載されました。この図録は、内容の豊かさ、膨大なページ数からこれまでの図録というイメージをはるかに超え、展示とあわせ夢二の全体像をとらえうる、まさに圧巻です。まことにスケールの大きな企画であったといえましょう。
やがて夢二は画家としてたつことを決意し、社会主義系の新聞コマ絵から、一般商業誌のコマ絵や表紙絵を精力的に手がけるようになります。売れるようになったのですね。初期のコマ絵にあったような批判性はしだいに薄れ、あの独特の悲哀を帯びた色調・画調へと変化し、洗練されていく様が展示会でもよく表現されていました。
夢二をよく知る人には著名になる前にこうした社会主義者たちと交流のあったことは知られていたことかもしれません。ここまで丁寧に調査され、展示にとりくまれた町田市立版画美術館の学芸員のおかげで私はその一面をはじめて知ることができました。あらためて担当された学芸員の底力を実感しました
この展示があってからか、その後、世田谷文学館(2004年)や千葉市美術館(2007年)の催す夢二の展示会に「平民新聞」などの提供が続いています。
研究所は竹久夢二関係の資料として、映画監督・映像作家であった故藤林伸治(ふじばやし・のぶはる)氏の旧蔵資料も所蔵しています。1997年に関係者より寄贈されたものです。藤林が取材の過程で収集した図書、新聞切り抜き、録音テープなどがあります。とりわけ晩年1932-33年にドイツに滞在した夢二に関する多様な資料が含まれています。藤林は夢二がユダヤ人救出の地下活動に協力したという情報も追っていたということです。このドイツへの旅行を、無名時に社会主義に共感したころの夢二自身への回帰ではないかとする研究者もいるようです。帰国後晩年にドイツのバウハウスに構想を得て榛名山の麓で産業美術学校の建設を試みます。結局映像化はされませんでしたが、藤林がどんな眼で夢二を追っていたかを思い巡らすのも興味深いものです。(2007年5月記)
<参考文献>
『夢二 1884-1934 アヴァンギャルドとしての叙情』(町田市立国際版画美術館、2001)
「藤林伸治資料インデックス」http:oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/arc/fujibayasi.html
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🔵石川啄木=日露戦争論・大逆事件論
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★当ブログ=鑑賞・近藤典彦=石川啄木の韓国併合批判の歌
以下の歌などの解説は近藤論文参照のこと
誰そ我にピストルにても打てよかし伊藤の如く死にて見せなむ
地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く
明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも
売ることをさしとめられし本の著者に道にて会へる秋の朝かな
今おもへばげに彼もまた秋水の一味なりしと思ふふしもあり
常日頃好みて言ひし革命の語をつゝしみて秋に入れりけり
この世よりのがれむと思ふ企てに遊蕩の名を与へられしかな
わが抱く思想はすべて金なきに因する如し秋の風吹く
秋の風われら明治の青年の危機をかなしむ顔なでゝ吹く
時代閉塞の現状をいかにせむ秋に入りてことにかく思ふかな
★石川啄木を巡る戦争と社会主義 鳥飼行博研究室
http://www.geocities.jp/torikai007/bio/takuboku.html
石川啄木は、開戦直後「岩手日報」に「戦雲余録」という随筆を寄せ、この戦争は義戦だとしたが、やがてトルストイの非戦論を読んで心が揺れたと、ノートに したためている。(啄木「日露戦争論(トルストイ)」参照) その後、啄木は「大逆(たいぎゃく)事件」(明治天皇暗殺を計画したとの理由から、秋水ら社会主義者 が処刑された弾圧事件)に衝撃を受け、鋭い反応を示した。
日露戦争の当時は、ロシアを敵視していた歌人石川啄木は、ロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論を読み,戦争の原因となる欲望の醜さ、経済的要因、戦争プロパガンダを的確に読み取るようになった。
啄木勉強ノートによれば、石川啄木は1902年(明治35年)10月31日、十七歳で上京し、英語翻訳で生活費を得ようとした。11月11日、啄木の姉トラの夫から生活費の送金を受けた。そして、古書店で英語詩集などを買い求めた。しかし、職を得ることはできず、1903年2月26日帰郷。
啄木日記
1902年(明治35年)11月12日
快晴、故山の友への手紙かき初む。
一日英語研究に費す、読みしはラムのセークスピーヤにてロメオエンドジュリエットなり。 トルストイを読む
1902年(明治35年)11月13日
快晴、 午前英語。午時より番町なる大橋図書館に行き宏大なる白壁の閲覧室にて、トルストイの我懺悔読み連用求覧券求めて四時かへる。
猪川箕人兄の文杜陵より来る、人間の健康を説き文学宗教を論じ、更に欝然たる友情を展く。げにさなりき、初夏の丑みつ時の寂寥を破りて兄と中津川畔のベンチに道徳を論じニイチエを説きし日もありきよ、その夜の月今も尚輝れり、あゝ吾のみ百四十里の南にさすらひて、政友とはなるゝこの悲愁!!! まこと今は天の賜ひし貴重なる時也、さなり、思ひのまゝに勉めんかな。友よさらば安かれ。
日露戦争の開戦時、日本が旅順を攻撃したことを渋民村で知った石川啄木は、戦果を喜んでだ。岩手日報「戦雲余録」(1904年年3月3日-19日)では、世界には永遠の理想があり、一時の文明や平和には安んずることができないから、文明平和の廃道を救うには、ただ革命と戦争の2つがあるのみだと言い切った。
「今の世には社会主義者などと云ふ、非戦論客があって、戦争が罪業だなどと真面目な顔をして説いて居る者がある…」と書き、幸徳秋水らを与謝野晶子同様、批判した。
石川啄木は「露国は我百年の怨敵であるから、日本人にとって彼程憎い国はない」と書いたが、「露西亜ほど哀れな国も無い」ともした。
日露戦争は、満州に対する日本の権利を確保する戦いであると同時に、東洋や世界の平和のために必要であったと考え、ロシアを光明の中に復活させたいと熱望する自由と平和の義戦であると考えていた。
日露戦争は、1905年9月のポーツマス講和によって集結した。日露戦争終結の翌年、1906年4月21日、沼宮内町で徴兵検査を受けた。筋骨薄弱のために、最上位の甲種に次ぐ、丙種合格となった。しかし、平時であるために、多くの徴兵合格者同様、徴集免除となっている。
徴兵検査日の啄木日記:「検査が午後一時頃になって、身長は五尺二寸二分、筋骨薄弱で丙種合格、徴集免除、予て期したる事ながら、これで漸やく安心した。自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却って頗る鎖沈して居た。新気運の動いているのは、此辺にも現れて居る。四里の夜路を徒歩で帰った」
石川啄木は、父一禎の宝徳寺住職の再任問題と、啄木自身の渋民尋常高等小学校代用教員辞令を受けていた。
⇒(素顔の啄木像―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く <思想>』引用終わり)
1904年(明治37)年6月27日Times掲載のトルストイの非戦の日露への訴えは、幸徳秋水・堺利彦らの『平民新聞』8月7日の第39号に「日露戦争論」として紹介された。
石川啄木『日露戦争論(トルストイ)』
「レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドンタイムス紙上に発表されたものである。その日は即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功労に対する勅語を東郷連合艦隊司令長官に賜わった翌日、満州に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であった。
「—–戦争観を概説し、『要するにトルストイ翁は、戦争の原因を以て個人の堕落に帰す、故に悔改めよと教えて之を救わんと欲す。吾人社会主義者は、戦争の原因を以て経済的競争に帰す、故に経済的競争を廃して之を防遏せんと欲す。』とし、以て両者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかった。—-実際当時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑ったごとく、何れも皆『非戦論はロシアには適切だが、日本にはよろしくない。』という事に帰着したのである。」
「当時語学の力の浅い十九歳の予の頭脳には、無論ただ論旨の大体が朧気に映じたに過ぎなかった。そうして到る処に星のごとく輝いている直截、峻烈、大胆の言葉に対して、その解し得たる限りに於て、時々ただ眼を円くして驚いたに過ぎなかった。『流石に偉い。しかし行なわれない。』これ当時の予のこの論文に与えた批評であった。そうしてそれっきり忘れてしまった。予もまた無雑作に戦争を是認し、かつ好む『日本人』の一人であったのである。
その後、予がここに初めてこの論文を思い出し、そうして之をわざわざ写し取るような心を起すまでには、八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行った。八年! 今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せられている。そうしてかの偉大なロシア人はもうこの世の人でない。 しかし予は今なお決してトルストイ宗の信者ではないのである。予はただ翁のこの論に対して、今もなお『偉い。しかし行なわれない。』という外はない。ただしそれは、八年前とは全く違った意味に於てである。この論文を書いた時、翁は七十七歳であった。」
(『日露戦争論(トルストイ)』青空文庫)
1904年日露戦争勃発。『岩手日報』に「戦雲余禄』連載。翌年詩集『あこがれ』刊行。堀合節子と結婚。文芸誌『小天地』刊行。
1906年渋民尋常高等小学校の代用教員。小説『雲は天才である』執筆。小説『葬列』を『明星』に掲載。長女・京子誕生。
1907年函館市弥生尋常小学校代用教員。函館日日新聞社の遊軍記者。函館大火で失職。札幌の北門新報、小樽日報社に転職。
1908年釧路新聞社勤務。4月単身上京。11月『東京毎日新聞』に「鳥影」連載開始。翌年『スバル』創刊号発行。3月東京朝日新聞社の校正に採用。6月、妻・子・母を迎える。
1910年幸徳秋水等の「陰謀事件」を読み、『所謂今度の事』執筆。
石川啄木は,北海道の四つの新聞社を転々として10ヶ月を過ごし,1908年(明治41)4月、東京に戻った。『一握の砂』の刊行は、1910年12月である。
(⇒小樽啄木忌の集い 講演「小樽のかたみ」のおもしろさ:新谷 保人,北海道雑学百科:北海道生まれの文学・石川啄木,および〈亀井秀雄の発言〉文学館の見え方(○啄木の現実)引用)
6.石川啄木は,資本主義の発展の中で,学生,知識人が無気力感、虚無主義(ニヒリズム)に苛まれている状況を,「時代閉塞の現状」で吐露した。
1908年1月4日「啄木メモ」には,「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一齣である。」とある。6月赤旗事件。
1909年4月12日の啄木日記には「—予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。—予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。—」とある。
石川啄木「時代閉塞の現状 (強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」
新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格(かんかく)があるだろうか。淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。
かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余(もてあま)しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌(ないこう)的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。
見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。
時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口(ほうしょくぐち)の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享(う)ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次(ぜんじ)その数を増しつつある。今やどんな僻村(へきそん)へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。
我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦(わがくに)において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁する場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。
かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。
「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰(いわ)く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」
かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。
「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰(いわ)く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」
かの早くから我々の間に竄入(ざんにゅう)している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。
けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた間に、べつに青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知るごとく、日清戦争の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であった。すでに自然主義運動の先蹤(せんしょう)として一部の間に認められているごとく、樗牛(ちょぎゅう)の個人主義がすなわちその第一声であった。(そうしてその際においても、我々はまだかの既成強権に対して第二者たる意識を持ちえなかった。樗牛は後年彼の友人が自然主義と国家的観念との間に妥協を試みたごとく、その日蓮論の中に彼の主義対既成強権の圧制結婚を企てている)
樗牛の個人主義の破滅の原因は、かの思想それ自身の中にあったことはいうまでもない。すなわち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的(日露戦争以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であったごとく)であった。そうしてその思想が魔語のごとく(彼がニイチェを評した言葉を借りていえば)当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めたのである。
この失敗は何を我々に語っているか。いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に自力をもって我々が我々の天地を新に建設するということはまったく不可能だということである。かくて我々は期せずして第二の経験――宗教的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興がおのずからその跳梁に堪えられなくなったのだと批評された。しかしそれは正鵠を得ていない。なぜなればそこにはただ方法と目的の場所との差違があるのみである。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。そうしてこの第二の経験もみごとに失敗した。我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬の情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐(きゅうこう)の天に飛翔することを許さなかったのである。
第三の経験はいうまでもなく純粋自然主義との結合時代である。この時代には、前の時代において我々の敵であった科学はかえって我々の味方であった。そうしてこの経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与えている。それはほかではない。「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」
かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒(しゅんきょ)して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。
さらに、すでに我々が我々の理想を発見した時において、それをいかにしていかなるところに求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」をそのままにしてか、しないでか。あるいはまた自力によってか、他力によってか、それはもういうまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。したがって過去における失敗をふたたびするはずはないのである。
文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚(さま)してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。
7.日本では,1910年に社会主義者による天皇暗殺未遂事件,いわゆる「大逆事件」が起こった。国体を脅かす危険思想は取り締まり・弾圧の対象とされた。その筆頭が社会主義者,社会主義思想だった。しかし,石川啄木は,「所謂今度の事」で,思想統制に反発し,社会主義者に同調した。
石川啄木『所謂今度の事』
やがて彼等はまた語り出した。それは「今度の事」についてであった。今度の事の何たるかはもとより私の知らぬ所、また知ろうとする気も初めは無かった。すると、ふと手にしている夕刊のある一処に停まったまま、私の眼は動かなくなった。「今度の事はしかし警察で早く探知したからよかったさ。焼討とか赤旗位ならまだいいが、あんな事を実行されちゃそれこそ物騒極まるからねえ。」そう言う言葉が私の耳に入って来た。「僕は変な事を聞いたよ。首無事件や五人殺しで警察が去年からさんざん味噌を付けてるもんだから、今度の事はそれ程でも無いのをわざとあんなに新聞で吹聴させたんだって噂もあるぜ。」そう言う言葉も聞えた。「しかし僕等は安心して可なりだね。今度のような事がいくら出て来たって、殺される当人が僕等でないだけは確かだよ。」そう言って笑う声も聞えた。私は身体中を耳にした。今度の事と言うのは、実に、近頃幸徳等一味の無政府主義者が企てた爆烈弾事件の事だったのである。
—三人の紳士が、日本開闢以来の新事実たる意味深き事件を、ただ単に「今度の事」と言った。これもまた等しく言語活用の妙で無ければならぬ。「何と巧い言い方だろう!」私は快く冷々するコップを握ったまま、一人幽かに微笑んで見た。
間もなく私もそこを出た。そうして両側の街灯の美しく輝き始めた街に静かな歩を運びながら、私はまた第二の興味に襲われた。それは我々日本人のある性情、二千六百年の長き歴史に養われて来たある特殊の性情についてであった。—この性情は蓋し我々が今日までに考えたよりも、なお一層深く、かつ広いものである。かの偏えにこの性情に固執している保守的思想家自身の値踏みしているよりも、もっともっと深くかつ広いものである。—そして、千九百余年前のユダヤ人が耶蘇キリストの名をあからさまに言うを避けてただ「ナザレ人」と言った様に、ちょうどそれと同じ様に、かの三人の紳士をして、無政府主義という言葉を口にするを躊躇してただ「今度の事」と言わしめた、それもまた恐らくはこの日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかった。
二 蓋し無政府主義という語の我々日本人の耳に最も直接に響いた機会は、今日までの所、前後二回しかない。無政府主義という思想、無政府党という結社のある事、及びその党員が時々凶暴なる行為をあえてする事は、書籍により、新聞によって早くから我々も知っていた。中には特にその思想、運動の経過を研究して、邦文の著述をなした人すらある。しかしそれは洋を隔てた遥か遠くの欧米の事であった。我々と人種を同じくし、時代を同じくする人の間にその主義を信じ、その党を結んでいる者のある事を知った機会はついに二回しかない。
その一つは往年の赤旗事件である。帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して、警吏の為に捕われた者の中には、数名の若き婦人もあった。その婦人等—日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、よろづに控え目であるべきはずの婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。
—少数の識者があって、多少芝居の筋を理解して、翌る日の新聞に劇評を書いた。「社会主義者諸君、諸君が今にしてそんな軽率な挙動をするのは、決して諸君のためではあるまい。そんな事をするのは、ようやく出来かかった国民の同情を諸君自ら破るものではないか。」と。—今日になってみれば、そのいわゆる識者の理解なるものも、決して徹底したものであったとは思えない。「我は無政府主義者なり。」と言う者を「社会主義者諸君。」と呼んだ事が、取りも直さずそれを証明しているではないか。
三 そうして第二は言うまでもなく今度の事である。
今度の事とは言うものの、実は我々はその事件の内容を何れだけも知っているのではない。秋水幸徳伝次郎という一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於いて密かに爆烈弾を製造している事が発覚して、その一団及び彼等と機密を通じていた紀州新宮の同主義者がその筋の手に、検挙された。彼等が検挙されて、そしてその事を何人も知らぬ間に、検事局は早くも各新聞社に対して記事差止の命令を発した。—-新聞も、ただ叙上の事実と、及び彼等被検挙者の平生について多少の報道をなす外にしかたがなかった。—そしてかく言う私のこの事件に関する知識も、ついに今日までに都下の各新聞の伝えた所以上に何物をももっていない。
もしも単に日本の警察の成績という点のみを論ずるならば、今度の事件のごときは蓋し空前の成功と言ってもよかろうと思う。ただに迅速に、かつ遺漏なく犯罪者を逮捕したというばかりでなく、事を未然に防いだという意味において特にそうである。過去数年の間、当局は彼等いわゆる不穏の徒のために、ただに少なからざる機密費を使ったばかりでなく、専任の巡査数十名を、ただ彼等を監視させるために養って置いた。かくのごとき心労と犠牲とを払っていて、それで万一今度の様な事を未然に防ぐことが出来なかったなら、それこそ日本の警察がその存在の理由を問われてもしかたのない処であった。幸いに彼等の心労と犠牲とは今日の功を収めた。
それに対しては、私も心から当局に感謝するものである。蓋し私は、—極端なる行動というものは真に真理を愛する者、確実なる理解をもった者の執るべき方法で無いと信じているからである。正しい判断を失った、過激な、極端な行動は、例えば導火力の最も高い手擲弾のごときものである。未だ敵に向って投げざるに、早く已に自己の手中にあって爆発する。—私は、たとえその動機が善であるにしろ、悪であるにしろ、観劇的興味を外にしては、我々の社会の安寧を乱さんとする何者に対しても、それを許すべき何等の理由をもっていない。もしも今後再び今度の様な計画をする者があるとするならば、私はあらかじめ当局に対して、今度以上の熱心をもってそれを警戒することを希望して置かねばならぬ。
しかしながら、警察の成功は警察の成功である。そして決してそれ以上ではない。日本の政府がその隷属する所の警察機関のあらゆる可能力を利用して、過去数年の間、彼等を監視し、拘束し、ただにその主義の宣伝ないし実行を防遏したのみでなく、時にはその生活の方法にまで冷酷なる制限と迫害とを加えたに拘わらず、彼等の一人といえどもその主義を捨てた者はなかった。主義を捨てなかったばかりでなく、かえってその覚悟を堅めて、ついに今度の様な凶暴なる計画を企て、それを半ばまで遂行するに至った。今度の事件は、一面警察の成功であると共に、また一面、警察ないし法律という様なものの力は、いかに人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを語っているではないか。政府並に世の識者のまず第一に考えねばならぬ問題は、蓋しここにあるであろう。
四 ヨーロッパにおける無政府主義の発達及びその運動に多少の注意を払う者の、まず最初に気の付く事が二つある。一つは無政府主義と言わるる者の今日までなした行為は凡て過激、極端、凶暴であるに拘わらず、その理論においては、祖述者の何人たると、集産的たると、個人的たると、共産的たるとを問わず、ほとんど何等の危険な要素を含んでいない事である。—-も一つは、それら無政府主義者の言論、行為の温和、過激の度が、不思議にも地理的分布の関係を保っている事である。—これは無政府主義者の中に、クロポトキンやレクラスの様な有名な地理学者があるからという洒落ではない。
前者については、私は何もここに言うべき必要を感じない。必要を感じないばかりでなく、今の様な物騒な世の中で、万一無政府主義者の所説を紹介しただけで私自身また無政府主義者であるかのごとき誤解をうける様な事があっては、迷惑至極な話である。そしてまた、結局私は彼等の主張を誤りなく伝える程に無政府主義の内容を研究した学者でもないのである。—が、もしも世に無政府主義という名を聞いただけで眉をひそめる様な人があって、その人が他日かの無政府主義者等の所説を調べてみるとするならば、きっと入口を間違えて別の家に入って来たような驚きを経験するだろうと私は思う。彼等のある者にあっては、無政府主義というのはつまり、凡ての人間が私慾を絶滅して完全なる個人にまで発達した状態に対する、熱烈なる憧憬に過ぎない。またある者にあっては、相互扶助の感情の円満なる発現を遂げる状態を呼んで無政府の状態と言ってるに過ぎない。私慾を絶滅した完全なる個人と言い、相互扶助の感情と言うがごときは、いかに固陋なる保守道徳家にとっても左まで耳遠い言葉であるはずがない。もしこれらの点のみを彼等の所説から引離して見るならば、世にも憎むべき凶暴なる人間と見られている、無政府主義者と、一般教育家及び倫理学者との間に、どれほどの相違もないのである。人類の未来に関する我々の理想は蓋し一である—洋の東西、時の古今を問わず、畢竟一である。ただ一般教育家および倫理学者は、現在の生活状態のままでその理想の幾分を各人の犠牲的精神の上に現わそうとする。個人主義者は他人の如何に拘わらずまず自己一人の生涯にその理想を体現しようとする。社会主義者にあっては、人間の現在の生活がすこぶるその理想と遠きを見て、因を社会組織の欠陥に帰し、主としてその改革を計ろうとする。而してかの無政府主義者に至っては、実に、社会組織の改革と人間各自の進歩とを一挙にして成し遂げようとする者である。—以上は余り不謹慎な比較ではあるが、しかしもしこのような相違があるとするならば、無政府主義者とは畢竟「最も性急なる理想家」の謂でなければならぬ。既に性急である、故に彼等に、その理論の堂々として而して何等危険なる要素を含んでいないに拘わらず、未だ調理されざる肉を喰らうがごとき粗暴の態と、小児をして成人の業に就かしめ、その能わざるを見て怒ってこれを蹴るがごとき無謀の挙あるは敢えて怪しむに足るのである。
五 —-地理的分布—言う意味は、無政府主義とヨーロッパに於ける各国民との関係という事である。
凡そ思想というものは、その思想所有者の性格、経験、教育、生理的特質及び境遇の総計である。而して個人の性格の奥底には、その個人の属する民族ないし国民の性格の横たわっているのは無論である。—–ある民族ないし国民とある個人の思想との交渉は、第一、その民族的、国民的性格に於てし、第二、その国民的境遇(政治的、社会的状態)に於てする。そして今ここ無政府主義に於ては、第一は主としてその理論的方面に、第二はその実行的方面に関係した。
第一の関係は、我々がスチルネル、プルウドン、クロポトキン三者の無政府主義の相違を考える時に、直ぐ気の付く所である。蓋しスチルネルの所説の哲学的個人主義的なるプルウドンの理論のすこぶる鋭敏な直観的傾向を有して、而して時に感情にはしらんとする、及びクロポトキンの主張の特に道義的な色彩を有する、それらは皆、彼等の各々の属する国民—ドイツ人、フランス人、ロシア人—という広漠たる背景を考うることなしには、我々の正しく理解する能わざる所である。
そして第二の関係—その国の政治的、社会的状態と無政府主義の関係は、第一の関係よりもなお一層明白である。 (→(青空文庫 石川啄木『所謂今度の事』引用終わり)
◆所謂今度の事「大逆事件」では,幸徳秋水伝次郎を首領とする無政府主義者Anarchistの一団が、天皇暗殺を企て,密かに爆弾を製造していたが、その一団と通じていた無政府主義者も検挙された。その事を何人も知らぬ間に、検事局は新聞記事差止の命令を発した。つまり,警察ないし法律の力は、人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを証明した。このように,石川啄木は,言論の自由とそれを抑圧する政府の弊害を痛烈に批判した。
8.日本では,資本主義の発達とともに,労働者の不満も高まっていた。これが,赤旗事件のような,公然たる社会主義的示威活動を引き起こした。芥川龍之介などの日本の代表的な文化人は,社会主義者に同調していた。しかし,社会主義は,国体に反する危険思想であり,弾圧された。この時代閉塞の状況に,不安を感じていた芥川龍之介は,自ら命を絶った。
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🔵与謝野晶子の「あゝ弟よ」
鳥飼行博
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写真(右):『みだれ髪』を残した歌人与謝野晶子;(1878~1942)明治11年、堺の和菓子屋駿河屋の三女として誕生し、明治・大正・昭和を生きた。11人の子どもたちの母。「人間性の解放と女性の自由の獲得をめざして、その豊かな才能を詩歌に結実した情熱のひと」と評価する。1915年1-2月,雑誌『太陽』で「あなたがたは選挙権ある男子の母であり、娘であり、妻であり、姉妹である位地から、選挙人の相談相手、顧問、忠告者、監視者となって、優良な新候補者を選挙人に推薦すると共に、情実に迷いやすい選挙人の良心を擁護することが出来る。—合理的の選挙を日本の政界に実現せしめる熱心さを示されることをひたすら熱望する。」と述べた。当時,夫与謝野鉄幹が衆議院選に立候補した。(寛、衆議院議員選挙立候補引用)愛の旅人によれば,二人の間には,葛藤もあったようだ。1939年9月 『新新訳源氏物語』完成。1940年5月 脳溢血で倒れ、以後右半身不随の病床生活。
4.日本は,日露戦争に際して,朝鮮半島,中国東北地方に派兵した。この出征兵士のなかにいた歌人與謝野晶子の実弟・鳳籌三郎(ほう ちゅうざぶろう)は,大阪の歩兵第八聯隊に入隊,第三軍第四師団の一員として旅順攻略に参加した。晶子は弟を思って「君死にたもうことなかれ」を詠った。
与謝野晶子が、日露戦争に出征した晶子の弟・鳳籌三郎
ちゅうざぶろう
を思って詠んだ「君死にたまふことなかれ」は有名である。一般的には、戦争に反対する平和の歌であると紹介される。しかし、反戦の歌か、それとも弟の無事を案じた個人の歌なのか議論がある。
君死にたまうことなかれ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)
ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば 親のなさけは まさりしも
親は刃やいばをにぎらせて 人を殺せと をしへ教えしや
人を殺して死ねよとて 二十四までを そだてしや
堺の街の あきびとの 旧家をほこる あるじにて親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの 家のおきてに無かりけり
君死にたまふことなかれ、 すめらみこと
皇尊は、戦ひにおほみづからは出でまさね
かたみに人の血を流し獣の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、
大みこころの深ければ もとよりいかで思
おぼされむ
ああおとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に いたましく わが子を召され、家を守もり、
安しときける大御代も 母のしら髪
がは まさりぬる。
暖簾のれんのかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや 十月
とつきも添はで わかれたる少女をとめ
ごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき 君死にたまふことなかれ。
「小さな資料室」資料62 謝野晶子「君死にたまふことなかれ」によれば,与謝野晶子の父・宗七(善六)は、1847年(弘化4年)9月24日生まれ、大阪堺市の和菓子商駿河屋の二代目、日露戦争前年の1903年9月14日死亡。与謝野(旧姓鳳)晶子の実弟・籌三郎(ちゅうざぶろう)は、1903年8月、24歳(数え年,今の23歳)で、堺せいと結婚した。
しかし,鳳は,1905年(明治37年)の日露戦争に大阪の歩兵第八連隊に召集された。鳳籌三郎(24歳)は、第三軍の乃木希典
のぎ まれすけ
司令官の下の第四師団第八連隊に所属,旅順攻略戦に参加した。
与謝野晶子の弟・鳳籌三郎
ちゅうざぶろう
は字が書ける「特技」で、戦闘には参加せず、将官の書記役を務めた。「何と、字の知らん兵隊が如何に多いのやろう」が籌三郎の感想だったという。
籌三郎は1900年ごろ晶子に先んじて浪華(なにわ)青年文学会堺支部に入会し、文学少女晶子のよき理解者であった。父の死、弟の堺の和菓子屋襲名、留守の母と義妹への愛情が,歌の背景にあった。晶子が「二十四までをそだてしや」と歌った時、籌三郎は数えで25歳,満24歳。籌三郎は,無事に帰国し、1944年2月25日、63歳でなくなった。 (→「小さな資料室」資料62 謝野晶子「君死にたまふことなかれ」引用)
◆与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が発表されると,文芸評論家の大町桂月は,1904年『太陽』十月号で,「君死にたまふこと勿れ」を危険思想と論じた。「戦争を非とするもの、夙に社会主義を唱ふるものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり。晶子の『君死にたまふこと勿れ』の一篇、是也。草莽の一女子、『義勇公に奉ずべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也。家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉也。」
与謝野晶子は,『明星』十一月号で,死ねよと簡単に言う事、忠君愛国の文字、教育御勅語を引用して論ずる流行の方か,かえって危険であると反論した。王朝の御世にも,人に死ねとか,畏おほく勿体きことを書き散らす文章は見当たらない。歌詠みなら、「まことの心を歌うべき」で,そうでない歌には値打ちがない、そうでない人には「何の見どころもない」と言い切った。
ひらきぶみ 与謝野晶子:「明星」新詩社 1904(明治37)年11月号
私が弟への手紙のはしに書きつけやり候歌、なになれば悪ろく候にや。あれは歌に候。この国に生れ候私は、私らは、この国を愛(め)で候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。堺の街にて亡き父ほど天子様を思ひ、御上(おかみ)の御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。弟が宅(うち)へは手紙ださぬ心づよさにも、亡き父のおもかげ思はれ候。まして九つより『栄華』や『源氏』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもます/\王朝の御代なつかしく、下様(しもざま)の下司(げす)ばり候ことのみ綴(つづ)り候今時(いまどき)の読物をあさましと思ひ候ほどなれば、『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候。御国のために止むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひに、春以来君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。提灯行列のためのみには君ことわり給ひつれど、その他のことはこの和泉(いずみ)の家の恤兵(じゆつぺい)の百金にも当り候はずや。馬車きらびやかに御者馬丁に先き追はせて、赤十字社への路に、うちの末が致してもよきほどの手わざ、聞えはおどろしき繃帯巻(ほうたいまき)を、立派な令夫人がなされ候やうのおん真似(まね)は、あなかしこ私などの知らぬこと願はぬことながら、私の、私どものこの国びととしての務(つとめ)は、精一杯致しをり候つもり、先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐(ぎえん)などいふ事に冷(ひやや)かなりと候ひし嘲りは、私ひそかにわれらに係はりなきやうの心地致しても聞きをり候ひき。 君知ろしめす如し、弟は召されて勇ましく彼地へ参り候、万一の時の後の事などもけなげに申して行き候。この頃新聞に見え候勇士々々が勇士に候はば、私のいとしき弟も疑なき勇士にて候べし。さりながら亡き父は、末の男の子に、なさけ知らぬけものの如き人に成れ、人を殺せ、死ぬるやうなる所へ行くを好めとは教へず候ひき。学校に入り歌俳句も作り候を許され候わが弟は、あのやうにしげ/\妻のこと母のこと身ごもり候児(こ)のこと、君と私との事ども案じこし候。かやうに人間の心もち候弟に、女の私、今の戦争唱歌にあり候やうのこと歌はれ候べきや。
私が「君死にたまふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ/\と申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏(おそれ)おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残りをり候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿体(もつたい)なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのこと多く書きたる源平時代の御本にも、さやうのことはあるまじく、いかがや。
歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。長き/\年月の後まで動かぬかはらぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思ひ候。この心を歌にて述べ候ことは、桂月様お許し下されたく候。桂月様は弟御(おとうとご)様おありなさらぬかも存ぜず候へど、弟御様はなくとも、新橋渋谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に「無事で帰れ、気を附けよ」と申し、大ごゑに「万歳」とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給ふべく候。渋谷のステーシヨンにては、巡査も神主様も村長様も宅の光までもかく申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思ひ候に、「無事で帰れ、気を附けよ、万歳」と申し候は、やがて私のつたなき歌の「君死にたまふこと勿れ」と申すことにて候はずや。彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。
◆兵士を出征させ,戦争に協力する市民はみな日本が勝利し,兵士が凱旋,帰郷すること,すなわち武運長久を祈った。これは,戦争遂行,祖国の勝利の枠組みの中で,家族の無事を優先する庶民的願望である。敵のロシア人や戦場となった中国人への配慮,戦争目的,国際情勢は二の次であった。戦争の大儀,大日本帝国の国益よりも,武運長久を優先した。
立派な新体詩を作る桂月様は博士、夫に教えて頂き新体詩まがいを試みる私は幼稚園の生徒と卑下しつつ、汽車で大阪についた。あす天気が良ければ、長男の光に堺の浜みせてやれと母は言って寝てしまった,と旅行作家の先輩にあった顛末をつた。
●大町桂月は,1905年『太陽』一月号「詩歌の真髄」で,ふたたび「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と再度,晶子の歌を非難した。しかし,晶子の夫,国粋主義の与謝野鉄幹のとりなしで,論戦は終息した。明治の元勲が政治と軍事を握っていた明治時代,列国に範をとった富国強兵を進めていたから,神がかりな皇室中心主義は,明治の元勲たちにも人気はなかった。
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🔵内村鑑三と日露戦争
Wiki内村鑑三から
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★★内村鑑三=非戦論
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/antiwar/uchimurakanzo.html
日清戦争は支持していた内村だったが、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになる。6月24日に東京帝国大学の戸水寛人ら7人の教授が開戦を唱える建議書を提出し、それが公表されると、6月10日には『戦争廃止論』を萬朝報に発表した。萬朝報も当初は非戦論が社論であったが、1903年(明治36年)10月8日、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じると、内村は幸徳秋水、堺枯川と共に萬朝報を離れることとなった。
萬朝報退社後も、『聖書之研究』を通じて、非戦論を掲げていたが、1904年(明治37年)2月には日露開戦の破目にいたった。戦争中は、日本メソジスト教会の本多庸一や日本組合教会の小崎弘道らキリスト教の多数派として主戦論に傾いて積極的に戦争に協力したが、非戦論は内村や柏木義円などのきわめて少数であったので、内村はキリスト者の間でも孤立した。
1904年(明治37年)のクリスマスを迎えた内村は、クリスマスは平和主義者の日であって「主戦論者はこの日を守る資格を有せず」と述べた。のちの文学者の中里介山青年は内村の言葉に拍手喝采を送り、半年後に『新希望』(『聖書之研究』の改題)に「予が懺悔」という文を寄せている。
キリスト教信者である内村鑑三の非戦論は、「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現を通じて、あらゆる暴力と破壊に抗議し、不義の戦争時において兵役を受容するという行動原理を正当化した。
内村は、その立場から日露戦争に反対する言論を展開した。内村に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、同様の立場から「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言した。例えば、斉藤宗次郎は、内村に影響されて非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をしたが、後に内村の説得により翻意している。
内村の非戦論は「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める無教会主義者の教理に基づく。「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、内村は弟子に兵役を避けないよう呼びかけた。
内村は「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じ、「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げた。また、若きキリスト教兵役者に「身体の復活」と「キリストの再臨」(前者は個人の救い、後者は社会の救い)の信仰に固く立つよう勧めた。
1904年11月11月に精神障害を患っていた母親が死去する。すると、弟の達三郎が、母親を死に至らしめたのは内村であると責め始め、母親の葬儀では内村に妨害と侮辱を加えた。この争いは、『東京パック』の北沢楽天の風刺画で取り上げられ、兄弟間の骨肉の争いは世間に知られることになった。このことがきっかけになり、肉親よりはキリスト者の交流を求めるようになり、角筈聖書研究会が再開され、聖書之研究の読者組織である教友会の結成を呼びかけるようになった。東京の角筈に最初の教友会が設立され、新潟の柏崎、大鹿、三条、長野県では上田、小諸、東穂高、千葉県では鳴浜、栃木県では下野(宇都宮)、岩手県では花巻に結成された。
1906年(明治39年)の夏には、新潟県柏崎で夏期懇談会を開き、1907年(明治40年)に夏には千葉県鳴浜で同じ懇談会を開催して、全国から教友が参加した。
この頃より、内村は社会主義者に距離を置くようになった。1907年2月には『基督教と社会主義』を小型の「角筈パムフレット」として刊行し、社会主義者とキリスト者の差を明確にした。1908年には社会主義者の福田英子の聖書研究会への出席を拒絶している。
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🔵魯迅と日露戦争
鳥飼行博
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3.歌人石川啄木が感銘を受けたロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論には,日本の仙台で医学を学んでいた中国の官費留学生・魯迅も注目していた。魯迅も,文学による社会批評を重視し,社会改革を志した。中国に帰国してしばらくすると,社会主義思想に同調するようになった。これらは,石川啄木との共通点である。
魯迅の日本観:日本留学を通しての日本認識 孫長虹によれば,「藤野先生」を書き7年間の日本留学経験をもつ魯迅が有名である。1881年,中国浙江省紹興城に生まれた魯迅は,1902年4月に20歳で両江総督劉坤一によって、官費による日本留学生となった。1909年8月まで7年間以上,日本に滞在した。
1894 年の日清戦争に敗れた中国は、明治維新に成功した日本をモデルとし、1896 年最初の日本への中国人留学生を 13 名派遣したが,魯迅留学の年には600名,1906 年には1万2,000名の中国人留学生がいた。しかし,弁髪は「チャンチャン坊主」といって差別された。
1933年初夏、上海の魯迅と内山完造
1917年、内山完造は上海に渡り、内山書店を開業。書店は,左翼作家書籍のな販売店で、進歩的文化人が集まるサロン的存在だった。魯迅(1881~1936)の本名は周樹人。字は予才。号を魯迅、中国の代表的な文学者。浙江省紹興の人。1902年、日本へ留学、1904年仙台医学専門学校に入学 後、国民性改造のため文学を志向し東京にもどる。1909年帰国し教員となる。1918年、狂人日記、孔乙己、阿Q世伝を発表。教育者として北京大学など教壇に立った魯迅は又、北洋軍閥の文化弾圧と衝突した学生運動三・一八事件により北京を脱出。中山大学等で教壇に立った。民族主義文学に徹し反封建主義、反帝国主義の文学が基調。(★魯迅詩集★近代中国詩家絶句選(4)引用)
1927年10月5日、魯迅は内山書店を訪れた。これを契機に、内山完造と親交を深め,魯迅は内山に四度もかくまってもらった。郭沫若、陶行知など左翼文化人も国民党政府の追及を逃れるため、内山書店に身を寄せた。1932年から、内山書店は魯迅の著作の発行代理店になった。1936年に魯迅が逝去すると、内山完造は「魯迅文学賞」を創設、《魯迅全集》編集顧問にも選ばれた。1935年、内山完造の弟の内山嘉吉が東京で内山書店を開店。入り口の扁額は、郭沫若が書いた。(チャイナネット2007年3月「内山書店と魯迅」引用)
清国留学生魯迅が1902年5月から1904年9月まで在籍していた弘文学院の留学生の半数以上は、首都の北京警務学堂から派遣された「北京官費生」である。1904年9月から1906年3月まで,日露戦争の時期,魯迅は,仙台で医学を学んだ。留学先の仙台医学専門学校(現東北大学医学部)解剖学講座講師藤野厳九郎先生から日本人の仕事や学問に対する熱心さと勤勉さを感じ取り、後に日中戦争の険悪な状況の中においても、魯迅は「日本の全部を排斥しても、真面目という薬だけは買わねばならぬ」と言った。
魯迅の日本留学中、日清戦争後の日本の中国に対する蔑視を魯迅は肌で感じたと同時に、日本の一般の人々とのかかわりを通して日本人の素朴さも感じとったと思われる。魯迅は休みに、水戸で、1665年,水戸徳川家2代藩主光圀に招かれ古今儀礼を伝授した朱舜水の遺跡「楠公碑陰記」を訪れた。泊まった旅館で、中国からの留学生だと知り、手厚い待遇をうけた。また、ある日東京から仙台に戻る列車の中で、老婦人に席をゆずったことをきっかけに、魯迅は老婦人と雑談し、さらにせんべいとお茶の差し入れをもらった。このように、日本人との日常生活における素朴な触れ合いに関する残された記録は、忘れられない経験であり、魯迅の日本観の一部を形づくった。
魯迅「藤野先生」には,日露戦争に関するトルストイの論文に関する以下の記述がある。
藤野先生の担任の学課は、解剖実習と局部解剖学とであつた。—
ある日、同級の学生会の幹事が、私の下宿へ来て、私のノートを見せてくれと言つた。取り出してやると、パラパラとめくつて見ただけで、持ち帰りはしなかつた。彼らが帰るとすぐ、郵便配達が分厚い手紙を届けてきた。開いてみると、最初の文句は── 「汝悔い改めよ」
これは新約聖書の文句であろう。だが、最近、、トルストイによって引用されたものだ。当時はちようど日露戦争のころであつた。ト翁は、ロシアと日本の皇帝にあてて書簡を寄せ、冒頭にこの一句を使つた。日本の新聞は彼の不遜をなじり、愛国青年はいきり立つた。しかし、実際は知らぬ間に彼の影響は早くから受けていたのである。この文句の次には、前学年の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートに印をつけてくれたので、私にはあらかじめわかつていた、だから、こんないい成績が取れたのだ、という意味のことが書いてあつた。そして終りは、匿名だつた。
写真集「満山遼水」(1912年11月2日印刷)写真「露探の斬首」:「1905年3月20日、満州開原城外」「開原は瀋陽の北、約90キロの町。写真は出所不明と説明つきで、太田進「資料一束―《大衆文芸》第1巻、《洪水》第3巻、《藤野先生》から」(中国文学研究誌「野草」第31号、1983年6月)が紹介。写真集「満山遼水」(1912年11月2日印刷)におさめらた。(王保林「『幻灯事件』に密接な関係をもつ一枚の写真紹介」、「魯迅研究動態」1989年9月号)。同じような写真は、仙台市内で何回か開かれている日露戦争報道写真展で魯迅の目に触れた可能性がある。写真週刊誌「ファーカス」通巻762号にも同じ写真が掲載(1996年11月6日)。東北大学医学部細菌学教室から日露戦争幻灯スライド15枚と幻灯器が発見されたが,その中に処刑のスライドはなかった。日清戦争では,清国兵士を過酷に扱った日本軍だが,日露戦争ではロシア人負傷者・捕虜を人道的に処遇した。日露戦争が,西欧対東洋,キリスト教徒対異教徒,白人対アジア人の戦争ではないという弁明のためである。対照的に,中国人や韓国人は,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とされれば,処刑される危険があった。仙台に留学中の魯迅も,ロシア側スパイ(露探)中国人処刑もある日露戦争スライドを教室で見た。
東北大学に魯迅が留学中「幻灯事件」がおきた。魯迅『吶喊』によれば,細菌学の教授が授業時間に、日露戦争のスライドを見せ,日本軍兵士が,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とみなした中国人の処刑(銃殺あるいは斬首)をする場面があった。中国人が取り囲んで傍観していたのに衝撃を受けた魯迅は,中国人の治療には,医学よりも、精神の再構築が不可欠だと文学を志すようになった。
魯迅魯迅「阿Q正伝」の末尾には、革命党員の嫌疑をかけられ捕まった阿Qが、斬首されると思いきや、銃殺されたことが書かれている。これは、魯迅が留学中に見た中国人スパイ容疑者の処刑とその中国人見物人の様子を映す心象風景である。
魯迅「藤野先生」続き
中国は弱国である。したがつて中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑つたのは、無理なかつたかもしれない。だが私は、つづいて中国人の銃殺[『吶喊・自序』では斬首]を参観する運命にめぐりあつた。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになつていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦つて勝つている場面ばかりであつた。ところが、ひよつこり、中国人がそのなかにまじつて現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺[『吶喊・自序』では斬首]される場面であつた。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。
「萬歳!」彼らは、みな手を拍つて歓声をあげた。
この歓声は、いつも一枚映すたびにあがつたものだつたが、私にとつては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰つてからも、犯人の銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまつて、酒に酔つたように喝采する──ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変つたのだ。
第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうであつたが、ついに何も言い出さなかつた。—
だが、なぜか知らぬが、私は今でもよく彼のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもつとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦(う)まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少いかもしれぬが。
(魯迅「藤野先生」引用終わり)
⇒魯迅の日本留学と戦争
1906年仙台医学専門学校を中退して仙台を去るときに魯迅は、社会改革を目指す批評の道を志そうとしていた。魯迅は,石川啄木も感銘を受けたトルストイの非戦論を呼んでいた。帰国した魯迅は,中国の代表的文化人になり,辛亥革命後の翌年の1912年、孫文の主導する中華民国臨時政府の教育部員となった。1927年の蒋介石による共産主義者弾圧,上海白色クデター以後は,中国国民党政府を批判するような論調から,発禁処分の対象にもなった。魯迅は,古い因習・制度・権威を打破し,新しい社会を形成したいとする欲求があり,それが,社会主義的な文学に結びついた。魯迅と石川啄木は,その思想の根源において類似した部分が多い。
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