米騒動=大正デモクラシーを準備

米騒動=大正デモクラシーを準備

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【このページの目次】

◆米騒動リンク集

◆その時歴史が動いた=米騒動の解説

◆米騒動と労働者(犬丸・中村『日本労働運動史』)

◆朝日新聞あのとき それから=米騒動

◆大原社研=米騒動資料

◆米騒動・米騒動の3段階(小学館百科全書)

Wiki=米騒動

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🔵米騒動リンク集

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米騒動発祥の地
米騒動発祥の地
神戸の鈴木商店焼き打ち
岡山米騒動
筑豊でも

★★NHKその時歴史が動いた=米騒動・大正デモクラシーを準備

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=60362624&cate=01

42m

★米騒動(1918年) 戦争に投機に工業化 – YouTube3m

http://m.youtube.com/watch?v=c9qJ4GHDT94

🔵米騒動の映画=「大コメ騒動」

(天声人語)生活戦線異状あり

朝日新聞デジタル2021年1月9日 5時00分

 きのう全国で封切られた映画「大(だい)コメ騒動」には不思議な調べの歌が節目節目に登場する。〈ア、ノンキだね〉〈あきらめなされよ あきらめなされ〉。どれも明治大正期に流行した添田唖蝉坊(あぜんぼう)の歌である▼いまの神奈川県大磯町生まれ。自由民権運動の高まったころ、政治や社会を風刺し、庶民のうさを晴らす歌で人気を博した。〈俺はいつでも金がない 同じお前も金がない〉〈お前この世へ何しに来たか 税や利息を払ふため〉▼政治家や富裕層も笑いとばした。〈学者、議員も、政治も金だ 金だチップだ賞与も金だ〉〈議員議会で欠伸(あくび)する 軍人金持(かねもち)と握手する〉。「ホットイテ節」「ヘナチョコ節」「増税節」。そんな題の曲を次々と世に出した▼「国民皆兵や殖産興業といった国の政策に疲れはてた庶民の素朴な思いをすくい上げた人でした」。大磯の郷土史に詳しい細井守さん(63)はそう評する。長く貧民街に住み、晩年は好んで各地を放浪したという▼映画は、大正の世を騒がせた米騒動を、富山県の女性たちの視点で描く。漁村の名もなき主婦が立ち上がり、社会を動かしたという史実。当時の弱者に寄り添いながら、時代を鮮やかに切り取った唖蝉坊の歌詞。どちらもいまの世相と深く響き合う▼たとえば昭和5年に作られたこの一曲には、批判精神がひときわさえる。〈アメリカニズムが根を張って 物価は高くなるばかり 人間は安くなるばかり ヨワッタネ 生活戦線異状あり〉。これって令和の曲だっけ?

🔵映画COM大コメ騒動特集

https://eiga.com/movie/92075/special/

[物語]ふざけんなよ!! 暴騰する米を買えない女たちがブチギレ!

まずはストーリーをご紹介。舞台は今から約100年前の1918年(大正7年)、第一次世界大戦が佳境を迎え、スペインかぜも流行の兆しをみせていたころです。

富山県のとある漁村では、女たちは家事や育児に追われながら、家計を助けるため過酷な重労働に勤しんでいた。彼女らの目下の悩みは、毎日上がっていく米の価格。夫や子どもたちに米を食べさせたくても、高くなりすぎてとても買えない日々が続いていた。

そこで松浦いと(井上真央)ら女性たちは徒党を組み、米屋に「米をこれまでと同じ値段で売って」と嘆願に。しかし門前払いを食らい、あろうことか集団のリーダー格であるおばば(室井滋)が逮捕されてしまう。それでも米の暴騰は続き、追い打ちをかけるようにある事故も発生。女性たちの怒りのゲージは米の価格を凌駕する速度でMAXに達し、とんでもない事態に発展していく――。

主人公いとをはじめ、女性たちに不条理や苦境が降りかかる様子は、見ているこっちもムカついてくるほど。登場人物を通じて観客の胸にも不満は溜まっていき、やがて両者の心境はピタリと一致するのです。「もう我慢できん!」と。

ラスト10分の展開は特に要注目。女性たちの怒りが弾けに弾け、あまりに痛快なシークエンスが映し出されます。それを見れば、日々のストレスが、まるで火山が大噴火を起こすように一気に放出されることでしょう。

[テーマ]なぜ今、米騒動を描くのか? 女性が、民衆が世界を変えた革命

お察しのとおり、本作は社会科の教科書にも登場する米騒動が題材です。1918年の米騒動を現代で映画化する意義とは、一体なんなのでしょうか?

まず、1918年と2020年は共通点が多いです。前者はスペインかぜ、後者は新型コロナウイルスと、世界的な感染症の流行という世相。次に、労働者たちの経済的ダメージが深刻である(前者は米価格の暴騰、後者は経済活動の自粛により生活が困窮)一方、資産家は変わらず利益を享受し続けていること。ふたつの時代はまるで合わせ鏡のように重なり、あるメッセージを投げかけます。

現在の私たちは、経済的・精神的に暗澹たる毎日を過ごしています。ところが100年前の女性たちは、今の私たちと似たような状況ながらも、勇気を奮い立たせて苦境を打破した――それは言うなれば民衆による革命なのです。

[監督は本木克英]笑って興奮してスッキリする「超高速!参勤交代」の系譜

メガホンをとったのは、「超高速!参勤交代」シリーズの本木克英監督。日本アカデミー賞の優秀監督賞に2度も輝いた名匠が繰り出す物語を見れば、自分の心の中に溜まっていた黒い感情が解放され、気持ちが浄化され、とびっきりの勇気がもらえるのです。

それは、以下の作品たちとよく似た感情でもあります。江戸幕府から無理難題をふっかけられた弱小藩が、通常の半分の日数で参勤交代する様子をコミカルに描いた「超高速!参勤交代」。江戸中期、重税にあえぐ町人たちが起死回生の秘策で困窮を解決する「殿、利息でござる!」。限られた予算内で仇討ちを果たそうとする金欠&ワープア赤穂浪士たちの苦労を描いた「決算!忠臣蔵」。

昔の人たちは現代の私たちと似たような悩みを抱えていて、それを驚くべき画期的な方法で解決していた……。上記の作品と同じように、本作は興味深くて、笑って興奮できて、鑑賞後はスッキリとした気分に浸れるのです。

赤旗21.1.6

(赤旗日曜版22)

🔵たび=米騒動の舞台(赤旗日曜版20.11.29)

◆◆金澤敏子・米騒動100年=おかか口火100万人蜂起

赤旗18.09.18

◆◆井本三夫=米騒動100周年

赤旗17.11.15

◆◆8106大谷=劇画民衆史・米騒動(1).pdf

◆◆8106大谷=劇画民衆史・米騒動(2).pdf

◆◆5902井上清・渡辺編=米騒動の研究全国・富山・愛知・岐阜・京都.pdf

◆◆6812労働運動史研究会=米騒動50.pdf

◆◆7007福岡歴教協=米騒動と八幡製鉄所争議-西田健太郎.pdf

◆◆7008福岡歴教協=米騒動と大正13年の三池争議.pdf

◆米蔵の会 富山県魚津市の米騒動研究

http://web.komesoudou.main.jp/

◆米騒動研究ブログ

http://riceriot.hatenablog.com/

◆井本三夫氏による『女一揆の誕生─置き米と港町』(勝山敏一著)書評の紹介 米騒動研究ブログ

◆米騒動発祥の地訪問

http://toyama-asbb.com/archives/9312

◆米騒動(魚津、富山)にまつわる歴史実話、シベリア出兵、大戦景気、越中女一揆、とは

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1793168/1802629/84333777

◆米騒動発祥の地

http://hamadayori.com/hass-col/history/Komesodo.htm

◆長崎の米騒動資料PDF

クリックして10.pdfにアクセス

◆増島宏=岡山県下の米騒動PDF

◆増島宏=岡山県下の米騒動・農民運動との関連

◆増島・長谷川=米騒動の第一段階(1)PDF

◆増島・長谷川=米騒動の第一段階(2)PDF

◆杉原=愛知県下の米騒動

◆井竿=下関のシベリア出兵と宇部の米騒動

◆北九州市の歴史・米騒動

http://kitaqare.d.dooo.jp/hist213.htm

◆山本作兵衛氏と炭坑記録画=ヤマの米騒動

http://www.y-sakubei.com/paintings/02.html

◆国会図書館=大正七年日記・米騒動

http://www.ndl.go.jp/modern/img_l/056/056-001l.html

◆文書一覧 | 米騒動 | 檪原家文書 大阪の大店の日記

http://library.kwansei.ac.jp/e-lib/ichiharake/08komesoudou/list.html

◆鈴木商店のあゆみ=米騒動、鈴木商店本店焼き打ち

http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/history/cat2/cat1/

◆◆(天声人語)米騒動百年

 きっかけは漁村の女性たちの井戸端会議だった。100年前の7月、富山湾から全国へ広まった「米騒動」であるその年の夏、富山県魚津町(現・魚津市)の漁村は不漁と米価高騰にあえいでいた。男たちは出稼ぎで不在。女たちは重い米俵を担いで船へ運ぶ仕事などで日銭を稼いだが、高すぎて米が買えない。「米の積み出しをやめてと頼むまいけ」。翌日、米穀商に廉売を申し入れたこの動きは富山から44道府県へ広がる。各地で群衆が暴徒化し、略奪や放火も起きた。2万5千人が検挙されたが収まらず、最後は軍が出動する。寺内正毅(まさたけ)首相はその年の秋、退陣に追い込まれた「米騒動に加わった女性たちの子や孫が、一族の恥であるかのように口を閉ざすこともありました」と魚津歴史民俗博物館の麻柄一志(まがらひとし)館長(63)は話す。無学な女性たちが重大な結末を招いたとの見方が地元に広がったためらしい「米の一粒も奪わず、検挙者もいなかった。それなのに女房連が暴れ、米蔵を打ち壊したかのように語り継がれてしまった」。近年、地元では再評価の機運が高まる。起きたのは役場や富商に対する哀願であって、暴動ではなかった。その史実を広めようと舞台や企画展、記録映画の制作など地道な取り組みが続く先日、魚津市の漁港を訪ねた。1918年の夏、主婦ら四十数人が集結した浜を歩く。「もう我慢できん」。ここで公憤の声を上げた女性たちも、大正デモクラシーを飾る主役だったのではないだろうか。

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🔵その時歴史が動いた=米騒動

上記のNHK番組の紹介

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格差への怒り 政府を倒す 

~大正デモクラシーを生んだ米騒動~

大正7年、富山の女性たちが起こした米価高騰に対する抗議が、ついには政府を倒す一大騒動となった。米騒動である。なぜ一地方の母たちが起こした騒動が世を動かすまでにいたったのか?

大正初期、日本は第一次世界大戦の好景気下、成金が現れ一大投機ブームが起こる。特に米相場に投機は集中、米価は日々値を上げていく。しかし、多くの庶民は値上がりした米を買えず貧窮するばかりだった。

そんな中、富山の母たちが抗議行動を起こす。騒動は、地元記者の必死の訴えにより各地に広がり、社会に不満を抱く都市の労働者やサラリーマンの怒りに飛び火。全国的な規模に拡大していった。

時の首相・寺内正毅 (まさたけ) は、新聞発禁、軍隊出動など、力による制圧で対応。しかし、反政府の旗頭に結集した大衆の力を前に、総辞職に追い込まれる。そして大衆の力は、普通選挙法など大正デモクラシーの時代を切り開いていく。番組では、米騒動に参加した女性の証言テープや騒動を目撃した女性の証言などを紹介しながら、小さな抗議行動が政府を倒すまでにいたった過程をたどり、大衆誕生の瞬間を描く。 

番組の内容について 

富山でのトーク収録場所について

オープニングで松平キャスターがトークしている場所

富山市水橋町の白岩川河口付近にある「艀場 (はしけば) 」跡

(JR北陸線・水橋駅から北へ (海側へ) 徒歩2キロ) 

ゲスト・内橋克人さんとのトークの場所

富山市民俗民芸村 民芸合掌館

(住所) 富山市安養坊1118-1

(富山駅から老人センター・新桜谷行バス10分、安養坊下車徒歩5分。開館日・時間などは直接お問い合わせください)

米騒動がはじまった場所について

富山での米騒動がどこで最初に始まったかについては、研究者の間でも諸説あります。

井本三夫氏や紙谷信雄氏の見解によれば、下記の流れになります。

水橋で7月上旬に起きた請願行動

(番組上、最初のVTRで女性たちが「米をよそへやらんといてくだはれ」と請願するシーン) 

7月18日 (もしくは23日) の魚津での騒動

8月6日の滑川での2000人規模の騒動

<それぞれの特徴>

は、米価高騰に対する最初の抗議行動

はより後だが、警察がくる典型的な騒動

は規模が大きく暴動に近い

どれを最初とするかは、何を基準にするかで見解がわかれています。

番組では、騒動の大きさを基準にせず、初めて請願行動が起きた水橋 (東水橋) に注目し、「米騒動のきっかけ」と表現しました。

VTR中に登場した富山のおかか (女性) について

水上ノブさん (水橋のおかかのまとめ役) 

具体的な情報については、田村昌夫『いまよみがえる米騒動』を参考にしました。

杉村ハツさん

1964年に郷土史家・松井滋次郎さんが聞き取りを行いました。証言テープはご遺族の許可を頂き、紹介しました。

「高岡新報」記者・井上江花について

<関係図書>

・『井上江花著作集』1~5 井上江花 新興出版社 1985年 (井上江花が新聞に書いた文章を集めた本) 

・『ある新聞人の生涯 評伝井上江花』河田稔著 新興出版社 1985年 (井上江花の評伝) 

その他、「高岡新報」社説

(「高岡新報」は、高岡市立図書館 (本館) では、過去の記事がパソコンで閲覧可能。富山中央図書館では、マイクロフィルムで閲覧できます。)

「全国で100万人以上が参加した騒動」という数の根拠について

諸説あり、70万から1千万などばらつきがあります。しかし、米騒動の研究者・井上清氏が各都道府県への調査をもとに130万人としたこと、また最新研究のひとつである紙谷信雄氏『米騒動の理論的研究』にも「百万余人くらい」とあり、番組では「100万人以上」としました。

(紙谷信雄氏『米騒動の理論的研究』p252)

米価高騰の理由について

世界的な食糧不足による物価高騰、好景気によるインフレなどの要因もありますが、当時の異常な高騰は、好景気で利益をえた人々の投機による要因が大きかったことが指摘されています。

「全国122カ所に、のべ10万人の軍隊が派遣された」という表現の根拠について

『米騒動の理論的研究』 (紙谷信雄著) にある松尾たかよし氏の研究「米騒動鎮圧の出兵規模」を参照しました。

米騒動の全国的な広がりの数字「全国768カ所で100万人」の根拠について

狭義の米騒動は街頭の抗議行動であり、その合計数を全国で綿密に調査を行った『米騒動と民主主義の発展』を典拠にしました。

番組で「最終的に」とこの数字を説明している時期については、騒動が大正7年12月中旬で収束する頃を示しています。

第一次大戦開戦後、日本の工業製品輸出額の増加 (「4年で3倍」) について

「1914年:6億7100万1918年:21億5900万」

『帝国主義と民本主義』 (武田晴人著) より

「富山も好景気に沸き、70人の人夫を使って風呂桶を運び上げ、入浴を楽しむ成金も現れた」というエピソードについて

『高岡新報』大正7年7月9日記事より

第一次大戦開戦後の米価高騰について (「開戦後3年で倍」) の根拠について

「大正4年7月に13円20銭大正6年11月に25円50銭」

『富山県統計書』の富山物価統計より

名古屋の騒動で逮捕された人々の記録について

法政大学大原社会問題研究所所蔵の細川資料にある愛知県の米騒動調査より

全国での騒動の広がり (25の都府県、303箇所に拡大) の根拠について

『米騒動と民主主義の発展』によりました。

寺内内閣が軍隊の出動を決定した政府の指令の暗号電報について

「軍隊を出動することに決定」 (大正17年8月13日) 

法政大学大原社会問題研究所所蔵の細川資料にある広島県の米騒動調査によりました。

ゲスト・内橋克人さんが発言された「ワーキングプア」について

ワーキングプアとは、働いているのに生活保護水準以下の暮らししかできない状況の人たちをいう言葉です。

現在日本では、「ワーキングプア」と呼ばれる働く貧困層が拡大しています。生活保護水準以下で暮らす家庭は、日本の全世帯のおよそ10分の1。400万世帯とも、それ以上ともいわれています。

寺内内閣での米騒動の原因を追及する議論の出典ついて

「新聞による社会主義的煽動」 (当時の閣僚の日記『田健治郎日記』より/国立国会図書館蔵)

言論統制で所々消された新聞について

映像で紹介した紙面は、朝日新聞の大正7815日朝刊

山口県宇部村炭坑での暴動 (大正17年8月18日) について

死者14名 (暴動後3日目に亡くなった人を含む) 、重軽傷16名 (『米騒動と民主主義の発展』より)

米騒動を論じた新聞の社説について

「今までの日本国民は、国家の対外的運動に際しては、自己そのものを没却してきた。しかるに今度は、自分をどうしてくれると叫んで立ったのである」

(朝日新聞 大正7年8月22日社説より一部抜粋)

島根県浜田町の騒動の記録について

「取り締まり巡査は提灯を掲げ、先頭に立ち暴民とともに行動して圧制せず」

島根県庁文書より (法政大学大原社会問題研究所所蔵の細川資料/参考文献:米騒動の研究第一巻 (井上清編) )

『高岡新報』記者・井上江花の言葉

「我々は真に野花の一茎にだも如かざる微細な人間であるけれども、野花は野花だけに生涯の美があります」

(「ある新聞人の生涯 評伝井上江花」河田稔著p22より)

参考文献 

「図説 米騒動と民主主義の発展」歴史教育者協議会編 民衆社 2004年

「米騒動の理論的研究」紙谷信雄著 柿丸舎 2004年

「米騒動の研究」第1巻~第5巻 井上清、渡部徹編 有斐閣 昭和34年

「いま、よみがえる米騒動」田村昌夫 北日本新聞社

「北前の記憶」井本三夫編 桂書房

「85周年北日本新聞社史」北日本新聞社史編纂委員会

「値段史年表」週刊朝日編

「原敬と山県有朋」川田稔 中公新書

「寺内正毅関係文書 上・下」 山本四郎編 京都女子大学

「集英社版 日本の歴史 帝国主義と民本主義」 武田晴人 集英社

「近代日本の軌跡4 大正デモクラシー」 金原左門 吉川弘文館

「日本の近代4 「国際化」の中の帝国日本」 有馬学 中央公論新社

「大正デモクラシーの社会的形成」 金原左門 青木書店

「所謂米騒動事件の研究 (復刻版) 」 吉河光貞 農民運動研究会

「大正デモクラシー」 松尾尊~ 岩波現代文庫ほか

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🔵米騒動と労働者

(犬丸・中村『日本労働運動史㊤明治・大正』)

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🔵大正7年の米騒動=漁村からデモクラシーのうねり

朝日新聞=あのとき・それから(1918年)

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1988年の「米騒動発祥の地」標柱の除幕式の様子。中央の男性は騒動の目撃者、板沢金治郎さん=中田尚さん提供

米騒動で米が運び出された旧十二銀行の米倉庫=富山県魚津市

米騒動を伝える1918年8月5日朝日新聞

富山県内で起きた米騒動の記録

 子どもらにひもじい思いをさせまいと、1918(大正7)年夏、富山県の漁民の妻らが立ち上がった。のちに米騒動と呼ばれる事件の実態を広く知らせるフォーラムが、今年3月、地元魚津市の公民館であった。7年前に始まり、今回で24回目。漁師の生活やフェミニズムの研究者、記者らが講演した。

 主催のNPO法人「米蔵の会」理事の大成勝代さん(69)は「地元では、世間を騒がせた出来事とタブー視されていたが、生きるために必死だった庶民の姿がやっと理解されてきた」と語る。

 魚津の米騒動は7月23日午前8時ごろ、蒸気船の伊吹丸(いぶきまる)に米を積み込むのを見た漁民の妻約60人が荷の担ぎ人や俵につかまり、積み出しをやめさせようとしたのが発端だ。

 前年にロシア革命が起き、日本がシベリア出兵を決めたことで、投機的な米の買い占めや売り惜しみが起きた。魚津では、米1升の小売価格が半年で24銭5厘から33銭へと、1・3倍に上がった。女性たちは、米の積み出しが価格の高騰を招いていると考えたのだった。

 この日の騒動は2度あり、警官が来たり担ぎ人たちと押し問答したりしたが、結局、女性たちの代表と運送店の番頭が話し合い、積み出しは取りやめになった。同じ時期、県内の東水橋町や西水橋町(いずれも現富山市)などでも、主婦らが米穀商に押しかけたり船積みの中止を求めたりした。これを地元紙が伝え、8月上旬には富山県内のあちこちに飛び火した。

 朝日新聞などの全国紙も「女房一揆」と報じ、岡山や広島、京都、大阪など全国に広がるにつれ、暴徒化していった。地方史研究家紙谷信雄さん(80)によると、全国で約500カ所、70万~100万人が参加したという。軍隊が出動し、死傷者も生じた。

 紙谷さんは「生活の危機を乗り越えるための漁民の妻や労働者、商人らの広範な生存権の要求が、救済や社会福祉を求める民衆運動となった」とみる。

 思想家吉野作造は、米騒動の原因が、民衆の要求に耳を傾けていない政府の姿勢にあることを指摘。「選挙権の拡張……まで至らなければ……根本的に解決できない」と言い切った。吉野が生まれた宮城県大崎市の市民グループ「吉野作造を学ぶ会」の会長横山寛勝(ひろよし)さん(78)は「民衆の利益や幸福、考えを尊重する『民本主義』の典型的な考え方だ」と話す。

 藩閥を基盤にした寺内正毅(まさたけ)内閣は緊急輸入米や白米の安売りで騒動の沈静化を図ったが、世論の激しい非難のなか退陣。代わって衆議院で最大政党の立憲政友会総裁の原敬(はらたかし)を首相とする政党内閣が誕生した。原内閣は結核予防や小作対策など、民衆の要求を受け入れる姿勢を示した。

 米騒動は「大正デモクラシー」の頂点だった。

 一方、民本主義だけでなく、同時期に、社会主義運動や、ナショナリズムに基づく右派の社会改革運動も起こった。

 米騒動から7年後の25年、25歳以上の男子に選挙権を与える普通選挙法が成立するが、治安維持法もあわせての制定だった。国体の変革と私有財産制の否定を目的とした結社の取り締まりが始まる。

 日本女子大学の成田龍一教授(62)は「民衆に『国民』として選挙権を与え、従わない者は治安維持法で排除する仕組みができあがった」という。民衆が政治に参加するデモクラシーと戦争へと向かう統制が準備され、戦時動員の時代に進む。

 「ファシズムはデモクラシー『にもかかわらず』ではなく、『ゆえに』登場したとも言える」と成田さんはいう。

 デモクラシーは常に試されている。(平出義明)

明治時代に救済策作る 「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」会長・中田尚(ひさし)さん(69歳)

 私立高教諭から共産党市議に転身した1972年に魚津の米騒動の目撃者、板沢金治郎さんに会いました。旧制中学1年だった板沢さんは、祖父の水産加工会社を手伝っていて、主婦たちの訴えを聞いたのです。生きる権利を求めた人たちの姿を知って欲しいと、目撃証言を書いてもらいました。

 米騒動70周年の88年には地元の歴史を調べる「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」をつくり、米騒動発祥の地を示す顕彰標柱を建てました。米が運び出された旧十二銀行の米倉庫の保存運動もしました。

 30年以上、米騒動を研究してきて、意外なことを知りました。魚津では明治時代から米の高騰で民衆が魚津町役場や米屋に押しかける騒動が起きていて、地域の有力者らが寄付をするなどの救済策がおこなわれていたのです。

 魚津町は1889(明治22)年と翌年、今の条例にあたる貧民救助規定と貧民救助方法を設けました。全国でも珍しい施策で、税金を納められない人に食料や米を給付する生活保護法の先駆けです。農作物が不作のときは、適用を求めて窮状を訴えていました。

 その行動が1918年にもあり、「米騒動」となったのでした。そのことを昨年、魚津市立図書館長らとともに論文に書きました。米騒動に新しい視点を提供できたと考えています。

1904年 日露戦争勃発

  05年 日露講和条約に反対する民衆の暴動が起きた日比谷焼き打ち事件

  12年 藩閥中心の官僚政治に反対して政党政治の確立を目指す第1次護憲運動。これによって第3次桂太郎内閣が総辞職

  16年 吉野作造が民本主義の論文を発表

  18年 シベリア出兵、米騒動

  24年 第2次護憲運動開始。貴族院中心の清浦奎吾内閣が成立すると、憲政会・政友会・革新倶楽部の3派が護憲運動を展開、総選挙で大勝

  25年 普通選挙法、治安維持法が成立

  31年 満州事変     

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🔵大原社研の米騒動資料1918

大原社研=若杉

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 研究所の戦前期資料を収めている書庫の奥に黒い表紙に製本された120冊の簿冊があります。米騒動史料、俗に細川資料とも言われているものです。北は北海道から南は鹿児島県まで、全国にわたる米騒動を記録するほかに比類ないコレクションといえます。今では利用頻度はそう多くはありませんが、研究者の利用やテレビ番組や展示などに時々提供しています。 最近では2006年9月に放送されたNHKの番組「その時歴史が動いた米騒動」に提供しました。広島での民衆の蜂起に際し、武力で弾圧するために官憲が用いた暗号電文がアップで舐めるように画面に映されました。当時の官憲の暴力的体質に改めて驚かされます。担当ディレクターとカメラマンは何度もいろんな角度からこの電報を撮影されていました。

 また、過日はこの一大民衆運動の発祥の地富山県魚津市の共産党市会議員の方が閲覧にみえました。魚津では米騒動を顕彰する記念館を設立する運動もおきており、そのための調査ということでした。

 この資料の収集は、当時研究所員だった細川嘉六がヨーロッパ留学中に片山潜の示唆を受けて提案し、大正15年から昭和8年にかけて細川を責任者として研究所の事業として行われました。実際の収集は調査室の越智道順、萩原久與等があたり、また、浅野晃、布施辰治ら所外の多くの人の協力がありました。収集した新聞記事や裁判記録の筆耕は315事件の被告家族の内職としても行われたということです。経済的困難を抱える家族を支援するという意味もあったのでしょう。

 こうして収集された資料は戦後細川嘉六の手許に保管され、その後京都大学へ移されました。京都大学人文科学研究所では井上清を中心としてこの資料を整理し、その成果は大著『米騒動の研究』に結実しました。資料はその後細川の遺志により1963年に研究所に返還されます。

 米騒動史料に関連して、研究所の創立に至る経緯に関わることにふれておきます。それは、大原孫三郎が社会問題の研究所の創立に思い至る契機の一つにこの米騒動があったであろうことです。米騒動は先に記したように1918年7月に富山の一漁村に端を発し、瞬く間に北陸諸県そして全国へと広がります。孫三郎が大阪天王寺に愛染園を設立するのが1917年、翌18年1月の新築に際し救済事業研究室を設けています。その開所式で孫三郎は、この研究室を近い将来独立した研究機関に発展させる、との意向を表明しています。貧困問題など社会問題の解決には応急的な救済事業では不十分であり、より根本の研究を組織的に行う必要があることに思い至っていた孫三郎のその思いは、早くもが翌年の社会問題研究所の設立に結実する。日本をゆるがし、内閣を倒すまでに大きな社会運動となった米騒動が孫三郎の決意を促したであろうことは想像に難くないことです。

<参考文献>

『米騒動の研究』(井上清、渡部徹編、有斐閣、1959-62

『大原社会問題研究所五十年史』(法政大学大原社会問題研究所編刊、1970

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🔵米騒動とは、その歴史

(小学館百科=江口圭一)

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1889年(明治22)は凶作で、90年に入ると米価が暴騰し、118日富山市で貧民が救助を要求して騒動を起こしたのを最初として、4月から8月にかけ、鳥取市、新潟県下、下関市、高岡市などで貧民の暴動が相次いだ。最大のものは佐渡相川の暴動(628~75日)で、鉱夫ら約2000人が蜂起(ほうき)し、軍隊が出動した。その後、福井、愛媛、宮城などの各県下にも騒動が起こった。

この年の米騒動は日本史上最大規模の民衆暴動であった。1917年(大正6)から18年にかけて米価が高騰したが、これは第一次世界大戦中のインフレの一環であるとともに、資本主義の急速な発展により都市人口が急増し、米の需要が増大したにもかかわらず、寄生地主制下の米の生産が停滞して供給不足に陥ったことが根本的原因であり、さらに地主、米商人が投機を計って売惜しみ、買占めをしたこと、寺内正毅(まさたけ)内閣が、地主、商人の利益のため外米輸入関税撤廃の措置をとらなかったこと、シベリア出兵の決定によりいっそう買占めが行われたこと、などの事情が加わった結果であった。19187月以降米価は異常に暴騰し、民衆の生活難と生活不安が深まり、ついに空前の大暴動が引き起こされた。騒動はおよそ4期に区分される。

1

1918723日午前8時半ごろ、富山県下新川(しもにいかわ)郡魚津(うおづ)町で、米価が騰貴するのは米を他地方に移出するからであるとし、漁民の妻女ら46人が移出を阻止しようと海岸に集合したところを、警察に解散させられた。82日にかけ県下で類似の事件が2回起こったが、県外には知られなかった。

2

同年83日夜、同県中新川(なかにいかわ)郡西水橋(にしみずはし)町で、出稼ぎ漁民の妻女ら約300人が資産家、米屋へ押しかけ、米の移出禁止、廉売を嘆願し、警察に解散させられた。4日夜、同郡東水橋町で数百名の女性が町長、有力者、米屋に向かい、救済を請い、米の移出禁止を要求し、騒ぎは翌日に及んだ。5日夜、隣接の滑川(なめりかわ)町でも約300人の女性が資産家、米屋に救助を訴えたが、6日には男女混成の群衆が資産家宅へ押し寄せ、打ちこわしに及んだ。同様の動きは県下各所に広がったが、5日ないし6日付けの全国各紙に3日の西水橋町の事件が「越中(えっちゅう)女房一揆(いっき)」として報じられ、8日岡山県真庭(まにわ)郡落合町(現真庭市)での事件を最初として、騒動は富山県外に波及し、岡山県各地のほか、和歌山県、香川県、愛媛県などで騒動が続発した。

3

同年810日夜、名古屋、京都の両都市で大騒動が発生し、事態は新しい局面に入った。名古屋市では鶴舞(つるま)公園に15000~3万の群衆が集まり、演説が行われたのち、米屋町目ざして群衆が押し出し、警官隊と衝突した(上図参照)。騒動は11日、12日にいっそう激化し、ついに軍隊が出動して鎮圧した。京都市では10日夜、被差別部落民数百人が米屋に次々と押しかけ、米の安売りを認めさせたのを皮切りとして、11日夜には全市で安売り強要、打ちこわしが行われ、軍隊が出動、鎮圧にあたった。11日以降大阪市、神戸市でいっそう大規模な暴動が発生し、焼き打ち、略奪、乱闘が繰り広げられた(下の写真は神戸の鈴木商店本店焼き討ち)。騒動は近畿、東海、中国、四国の各地に拡大し、13日には東京市で大騒動が起こり、関東各地、九州にも波及、13~14日ごろに絶頂に達した。

4

騒動は19188月中旬以降、都市部から農村部におもな舞台を移し、17日以降は山口県宇部炭鉱をはじめ、同県下および北九州の諸炭鉱に激烈な炭鉱暴動が相次いだ(下図の絵は筑豊炭鉱での米騒動=谷口作兵衛)。そのほとんどに軍隊が出動して鎮圧にあたり、宇部では13人が射殺された。騒動は912日熊本県万田(まんだ)炭鉱の暴動を最後としていちおう終結した。

 1918年の米騒動は約50日間に及び、青森、岩手、秋田、栃木、沖縄の5県を除く1338県の38153177村、計368か所に大小の暴動、示威が発生した。参加人員は数百万人に達するものとみられる。政府は120地点に10万人以上に達する軍隊を出動させ、警察力と相まって騒動を鎮圧した。騒動はほとんどが夜間に自然発生した非組織的なもので、各個に鎮圧され、25000人以上が検挙され、8200人以上が検事処分に付された。しかし米騒動の衝撃を受けて寺内内閣は退陣を余儀なくされ、原敬(はらたかし)を首相とする政党内閣が出現した。また米騒動は日比谷焼打事件(1905)以来の一連の民衆暴動の最後のものとなり、民衆の権利意識の高まりのもとに、労働運動、農民運動、女性運動、学生運動、普選運動などの目的意識的、組織的な民衆運動が一斉に開花することとなった。

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🔵Wiki=1918年米騒動

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1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)は、1918年(大正7年)に日本で発生した、米の価格急騰に伴う暴動事件。

米騒動の発生

富山県中新川郡東水橋では、1918年(大正7年)「7月上旬」から、「二十五六人」の「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」行動が始まっている[1]。井上清・渡部徹『米騒動の研究』(全5巻)から45年後の2004年に、その間40年以上の間に積み上げられた新た事実・資料・見地を織り込んで、B5版で六百二十三頁にわたる大著として刊行された『図説 米騒動と民主主義の発展』では、「1918年夏の米騒動について残っている証言・資料に現われている、もっとも早い時点での行動は、東水橋町(現富山市内)の女性陸仲仕たち20数人によって、7月上旬から始められた、移出米商高松への積出停止の要求の行動です。」とまとめられている[2]。東水橋町(現・富山市水橋)の郷土資料館前には、米騒動記念の碑が建立されている[3]

722日の昼には、富山市中長江町ほかで富豪浅田家の施米にもれた細民二百名(「杖にすがったむさ苦しい婆さん達もあれば子供の手を曳いた女房連も」)が市役所に押し掛けた(723日『北陸政報』)。記事には、「昨今の米高が如何に細民をして生活難に陥らしめているが窺われる」と記している。 同日夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港には、北海道への米の輸送を行う為「伊吹丸」が寄航していたという。この時は巡回中の警官の説諭によって解散させられたが、住民らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた。荷積みを行っていたのは十二銀行(北陸銀行の前身)で、その倉庫前には「魚津市の自然と文化財を守る市民の会」により記念碑が建立されている。 724日及び25日の『北陸タイムズ』では、それぞれ「二十日未明同海岸に於いて女房共四十六人集合し役場へ押し寄せんとせしをいち早く魚津警察署に於いて探知し」、「二十日未明海岸に集合せしを警察署がいち早く探知し解散せしめ」と魚津の動きが20日未明(恐らく十九日夜間)から起きていたと報じている[4] また、89日の『高岡新報』は、「魚津町にては、米積み込みの為客月一八日汽船伊吹丸寄港にに際し細民婦女の一揆が起こり狼煙を上げたる」と、魚津でも718日以来一揆が起きていることを記している[5]。尚、当時、肉体労働の為には一日米一升を食べたといい、その為に米価高騰が人々の生活を困窮させることにつながった。

その頃、東水橋、富山市、魚津町以外にも、東岩瀬町(28日)、滑川町、泊町(31日)等富山県内での救助要請や、米の廉売を要望する人数は更に増加し、各地で動きが起きていた[6]。翌月83日には当時の中新川郡西水橋町(現・富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。

86日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時140銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。

永らく(おそらく、2000年頃までは)、米騒動の始まりは、「七月二二日夜、富山県下新川郡魚津町の漁民の妻等が、井戸端で、米が高くなるのは同地方の米を県外へ移出するため」であるから、米の積出しを中止してもらおうと相談し、「二三日午前八時すぎ、警察の調べでは四六名が海岸に集まった。これが全国をおおうた米騒動の発端であった」[7]という説が定説になってきた。 しかしながら、上述したように、井本三夫編『北前の記憶——北洋・移民・米騒動との関係』(桂書房、1998年)、歴史教育者協議会編・井本三夫監修『図説米騒動と民主主義の発展』民衆社(2004年)、井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動』(桂書房、2010年)等、米騒動に直接参加した女陸仲仕や漁師、軍人など米騒動の目撃者や随伴者への聞き取りを文字化し、新たな視点による分析が加えられた学術書が次々と刊行された。その為、米騒動がいつどこでどのように始まったのか、については、少なくとも「富山湾沿岸地帯」からであり、「漁村から始まったのではない」、その主体は「海運・荷役労働者の家族、「都市漁民」の前期プロレタリアである、等と従来の定説を大幅に改めることになっている[8]

更に、米騒動と労働者のストライキとの関係についても、「労働者階級の闘争は、一九一八(大正七)年七月の末に所謂「騒動」が勃発する以前から、工場におけるストライキという闘争形態を主たる闘争形態として展開しています。」ストライキの参加人員を見ても、「一六(大正五)年には八四一三名の参加人員が、実に一七(大正六)年には五万七三〇九名、米騒動の起きた一八年には六万六四五七名というように、官庁統計からいってもこの一七年がひとつの転機になっている」など、米騒動が始まった結果ストライキが頻発するようになったように言われていたのは間違いであることが、早くから指摘されていた[9]。又、富山県で米騒動が始まるより23ヶ月早い「18年の45月になると、もう食糧暴動と言えるものも起こっている」とし、「兵庫県赤穂郡相生町にある播磨造船所」で「食料品価格の高騰のなかで、待遇の悪さに怒った労働者数百人が、ラッパを合図に事務所・食堂・炊事場を襲撃して、器物・建物を破壊し炊事夫に暴行を加えた」という新たな事実が掘り起こされてもいる[10]

背景

米価の暴騰

堂島米会所における当時の米相場

1914年(大正3年)の第一次世界大戦開始の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年(大正7年)の中頃から急激に上昇し始めた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年(大正7年)の1月に115円だった米価は、6月には20円を超え、翌月717日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18 – 25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、87日には白米小売相場は150銭に暴騰した。

この背景には資本主義の急速な発展が指摘されている。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していった。このように、農業界からの人材流出と米の消費量の増加が続いた事に加え、大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なり[11]、米価暴騰の原因となった。

国の対応

神戸、相生町の鈴木商店(旧ミカドホテル)

米価格が高騰することにより、地主や商人は米を米穀投機へ回すようになり、次第に売り惜しみや買い占めが発生し始めた。事態を重く見た仲小路廉農商務大臣は、1917年(大正6年)91日に「暴利取締令」を出し、米・鉄・石炭・綿・紙・染料・薬品の買い占めや売り惜しみを禁止したが、効果はなかった。常軌を逸した商魂を表す口語の動詞「ぼる」「ぼられる」「ぼったくる」(暴る、暴られる、暴ったくる)は、この「暴利取締令」の「暴利」に由来する[12]

1918年(大正7年)4月には「外米管理令」が公布され、三井物産や鈴木商店など指定七社による外国米の大量輸入が実施されたが、米価引下げには至らなかった。

社会不安

米価の暴騰は一般市民の生活を苦しめ、新聞が連日、米の価格高騰を知らせ煽った事もあり、社会不安を増大させた。寺内正毅内閣総理大臣は1918年(大正7年)5月の地方長官会議にて国民生活難に関して言及したが、その年の予算編成において、救済事業奨励費はわずか35,000円のみであり、寺内の憂慮を反映した予算編成になっているとは言えなかった。

この為、警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針が取られ、巡査を増員するという措置が取られた[13]

労働者の団結権すらなかったこの時代、厳しい抑圧と、苦しい生活に喘ぐ一般庶民の怒りの矛先は、次第に高所得者、特に米問屋や商人に向けられるようになっていった。

シベリア出兵

米価が徐々に上昇していく中、寺内内閣は1918年(大正7年)82日、対外政策としてシベリア出兵を宣言した。この宣言は流通業者や商人などが戦争特需における物資高騰を狙い、売り惜しみをさらに加速させていくという状況を発生させた。事実、神戸米会所における相場では、72日に1343厘だった相場が、81日には405厘、89日には608厘と急騰している[14]。また、時を前後して富山県での騒動が発生していることなどから、シベリア出兵と米騒動の直接的な因果関係を指摘するものもある[15]

騒動の広がり

第一次世界大戦による好景気がまだ続いていた1918年(大正7年)に伊勢の福寅一派の相場師の買いあおりにより米穀取引所における期米相場は遂に50円(1石あたり)に迫り、小売価格も130銭から50銭を超すに至り世の中は物情騒然となった[16]

米価の暴騰はとどまりを見せず、1918年(大正7年)81日には135円を超え、同5日には40円を超え、9日には50円を超えた。810日には京都市と名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。812日には鈴木商店が大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)とのねつ造記事を書かれた事により焼き打ちにあった。米騒動は移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約20,000人の群集が集結した。同じく京都では柳原町(現在の京都市下京区の崇仁地区)において騒動が始まり、米問屋を打ちこわすなどして130銭での販売を強要した。

こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、817日頃からは都市部から町や農村へ、そして820日までにほぼ全国へ波及した。騒動は次第に米問屋から炭坑へと場所を移し、912日の三池炭坑の騒動終了まで、50日間を数えた。

炭坑への飛び火

817日以降には、米騒動は山口県や北九州の炭坑騒動へ飛び火する。山口県沖の山炭坑、福岡県峰地炭坑などにおいて、炭坑夫の賃上げ要求が暴動に転化した。沖の山炭坑の騒動は付近住民を加えた数千人規模の騒動に発展し、米問屋、屋敷の打ちこわしや遊郭への放火などが起こった。出動した軍隊に対してもダイナマイトで対抗するなど、死者13名を数える惨事となった。

騒動の発生地域・参加人員と軍隊出動、検挙者の処遇

「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間に渡る一連の騒動は最終的に、1337県の計369か所にのぼり、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は323県にわたり、10万人以上が投入された[17]。呉市では、海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙する中、銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出たことが報告されている。検挙された人員は25,000人を超え、8253名が検事処分を受けた。また7786名が起訴[18]され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。

被差別部落との関わり

米騒動での刑事処分者は8185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。部落の多い京都府、大阪府、兵庫県、奈良県では3割から4割が被差別部落民であり、女性の検挙者35人のうち34人が部落民であった[19]。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったからである。京都市の米騒動も、市内最大の部落である柳原(現・崇仁地区)から始まっており、同地区では50人以上の部落民が逮捕されている[20]。処分は死刑をも含む重いものであった。死刑判決を受けた和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の2人の男性、すなわち中西岩四郎(当時19歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時45歳)も被差別部落民であった。

1920年(大正9年)、事態を重く見た原敬内閣は部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。

軍人の参加、警官による暴動への加担

呉市では、水兵が騒動に参加して検挙された。また、一部の地域では制止すべき警官が暴動を黙認した。

政府対応

政府は813日に1000万円の国費を米価対策資金として支出する事を発表し、各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが、騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から828日にはこの指令を撤回し、安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり、米価格の下落には至らず、1918年(大正7年)末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。

全国中等学校優勝野球大会の中止

この騒動は、全国中等学校優勝野球大会(現:全国高等学校野球選手権大会)にも影響を及ぼした。811日に神戸市で始まった騒動により、当時の会場だった鳴尾球場に程近い鈴木商店で焼き打ち事件が発生。周辺の治安も大幅に悪化し、814日からの開催予定だった第4回全国中等学校優勝野球大会は一旦延期された。その後も治安改善の見通しが立たなかったため、816日に大会の中止が決定された。

騒動の起こった都市

『米騒動の研究』井上清、渡部徹編より、発生した都市を日付順に並べた。

811

大阪市、神戸市

813

東京市、福島市、豊橋市、岐阜市、大津市、富山市、高岡市、金沢市、福井市、和歌山市、堺市、尼崎市、姫路市、岡山市、尾道市、呉市、広島市、鳥取市、高松市、丸亀市、高知市

814

浜松市、岡崎市、奈良市、福山市

815

仙台市、若松市、横浜市、横須賀市、甲府市、津市、松山市、門司市

816

下関市、小倉市

817

新潟市、長岡市、長野市

820

佐世保市、熊本市、松江市、大垣市

言論弾圧

米騒動の報道に際し、各種新聞は民衆の行動を好意的に報じると共に、根本的な原因は民衆の要求を無視し続けた政府にあるとした。一方政府は事件が広がったのは新聞が誇大に報道したためであるとし、87日に『高岡新報』を発禁処分にしたのを始め、814日には米騒動に関する一切の報道を禁じる記事差止命令を報道各社へ通達した。

東京春秋会(新聞社複数社で結成された連合)はこのような政府の処分に対し取り消しを要求し、水野錬太郎内務大臣は「内務省発表の公報情報のみ掲載を認める」と柔化させた。しかし、政府発表情報があまりに事実と反していた事から、春秋会はさらに抗議を続け、報道禁止令を撤廃させる事に成功している。

一連の寺内内閣の言論弾圧に対し、新聞社は激しく抗議し、言論報道の自由に関する運動に発展していった。

平民宰相の誕生

米騒動の影響を受け、世論は寺内内閣の退陣を求めた。寺内は831日に山縣有朋に辞意を告げ、921日に正式に辞表を提出した。山県は西園寺公望に組閣を命じたが、西園寺はこれを固辞し、原敬を推薦した。そして927日に原に組閣が命じられ、日本で初の本格的な政党内閣である原内閣が誕生した。爵位を持たない衆議院議員を首相とする初の内閣となったということで、民衆からは「平民宰相」と呼ばれ、歓迎された。

米騒動に触れた作品

映画

『関東やくざ者』(東映、1965年)

『日本侠花伝』(東宝、1973年)

『四畳半襖の裏張り』(日活、1973年)

『青春の門』(東宝、1975年)

脚注

^ 井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動』pp2-3(桂書房、2010年)

^ 歴史教育者協議会編・井本三夫監修『図説 米騒動と民主主義の発展』p.98(民衆社、2004年)

^ 井本三夫『水橋町(富山県)の米騒動』pp.251-253(桂書房、2010年)

^ 724日、同25日『北陸タイムズ』

^ 89日『高岡新報』

^ 歴史教育者協議会編・井本三夫監修『図説 米騒動と民主主義の発展』pp.112-114(民衆社、2004年)

^ 井上清・渡部徹『米騒動の研究』第1巻、p.72(有斐閣、1959年)

^ 梅田欽治「紹介 『図説 米騒動と民主主義の発展』」『歴史評論』670号、p.105-106,2006年、等。

^ 梅田欽治「米騒動論」永原慶二・山口啓二監修『現代歴史学の課題 下』pp.53-54 、(青木書店、1971年)

^ 歴史教育者協議会編・井本三夫監修『図説米騒動と民主主義の発展』pp.76-77(民衆社、2004)

^ 1914年(大正3年)に約200万石あった輸入額が、1915年(大正4年)に45万石、1916年(大正5年)には31万石に減じている(米穀統計より)。

^ 広辞苑による。

^ 洛南タイムス連載シリーズ『南山城の光芒」』

^ 読売新聞神戸支局編『神戸開港百年』

^ 『大正時代』(永沢道雄、2005年、光人社)など

^ 兵庫穀肥物語 神戸穀物商品取引所十周年記念(昭和37108日神戸穀物商品取引所発行)

^ 『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』今井清一の調査より。書籍によって本値には若干のばらつきがある。例えば小学館の『日本大百科全書』では1338県の計368か所としている。

^ うち700余名が騒乱罪によるもので起訴されている。

^ 三谷秀治『火の鎖 和島為太郎伝』p.82(草土文化、1985年)

^ 三谷秀治『火の鎖 和島為太郎伝』p.74-75(草土文化、1985年)

参考文献

『米騒動の研究』井上清、渡部徹(1962年、ASIN B000JAL1R2

『日本労働運動史年表 第一巻<明治大正編>』青木虹二(1968年、新生社)

『米騒動五十年』労働運動史研究会編(1968年、労働旬報社)

『資料大正社会運動史 上』田中惣五郎(1970年、三一書房)

『所謂米騒動事件の研究』社会問題資料研究会(1974年、東洋文化社)

『筑豊の女抗夫たち』新藤東洋男(1974年、部落問題研究所)

『劇画民衆史 米騒動』作画大谷薫 解説井上清(1981年、而立書房)

『筑豊米騒動記』林えいだい(1986年、亜紀書房)

『北前の記憶 北洋・移民・米騒動との関係』 井本三夫(1998年、桂書房)

『聞き書き社会史 北九州の米騒動』林えいだい(2001年、ISBN 4-7512-0816-0

『大正デモクラシーと米騒動』仲村哲郎(2002年、ISBN 978-4-89757-646-6

『図説 米騒動と民主主義の発展』歴史教育者協議会編 井本三夫監修(2004年、ISBN 4-8383-0913-9

『米がつくった明治国家』山内景樹(2004年、ISBN 978-4-900277-57-1

『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』今井清一(2006年、ISBN 978-4-12-204717-4

『水橋町(富山県)の米騒動』井本三夫(2010年、ISBN 978-4-903351-89-6

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日露戦争に反対した人びと=平民新聞、トルストイ、夢ニ、啄木、与謝野晶子、内村鑑三

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【日露戦争に反対した人びと目次】

◆平民社と平民新聞、幸徳秋水

◆トルストイの日露戦争論

◆竹久夢ニ

◆石川啄木

◆与謝野晶子

◆内村鑑三

◆魯迅

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🔵日露戦争・反戦運動リンク集

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幸徳秋水
堺利彦

★★社会主義=幸徳秋水と堺利彦(日本人は何を考えてきたか)90m 

http://v.youku.com/v_show/id_XMzU1NzQyMDUy.html?x

★★なお、日露戦争、朝鮮植民地化に反対した朝鮮人民のたたかいについては当ブログ=「安重根はテロリストか=植民地支配との戦い」参照のこと。

★★当ブログ=「日露戦争、司馬遼太郎と『坂の上の雲』」も参照のこと

(以下の4つのPDFは、スマホの場合=画像クリック最初のページの上部の下向き矢印マークを強くクリック全ページ表示)

◆藤井松一=日清戦争・日露戦争

◆山田朗=日露戦争の真実

◆山田朗=世界史のなかの日露戦争

◆山田朗=日露戦争はどういう戦争であったか

◆古屋哲夫=日露戦争

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/15_nitirosenso/hashigaki.html

◆◆6708労旬新書・絲屋=日本の反戦運動・戦前編.pdf

◆◆7210新日本新書・絲屋=日本社会主義の黎明.pdf

◆土井敏邦Webコラム:黒岩比佐子著『パンとペン』(堺利彦)が問いかける生き方

http://doi-toshikuni.net/j/column/20110625.html

◆◆山田朗=「明治150年史観」・明治から戦前までの侵略戦争の歴史

◆◆山田朗・日露戦争=軍事同盟頼みの膨張政策

赤旗18.09.19

🔵幸徳秋水生誕150年(赤旗20.08.30)

★幸徳秋水 「兵士を送る」

「兵士を送る」

行矣(ゆけ)従軍の兵士

吾人(われわれ)今や諸君の行(こう)を

止(とど)むるに由なし

諸君 今や人を殺さんが為に行く

否(しから)ざれば即ち

人に殺されんが為に行く

吾人は知る

是れ実に諸君の願ふ所にあらざることを

嗚呼従軍の兵士

諸君の田圃(でんぽ)は荒れん

諸君の業務は廃せられん

諸君の老親は独り門に倚(よ)り

諸君の妻児は虚しく飢に泣く

而(しこう)して諸君の生還は元より

期す可からざる也

而して諸君は行かざる可らず

行矣(ゆけ)

行(ゆい)て 諸君の職分とする所を尽せ

一個の機械となって動け

然れども露国の兵士も

又人の子也 人の夫也

人の父也

諸君の同胞なる人類也

之を思ふて慎んで彼等に対して

残暴の行あること勿れ

嗚呼吾人今や諸君の行を止むるに由なし、

吾人の為し得る所は、

唯諸君の子孫をして再び此惨事に会する無らしめんが為に

今の悪制度廃止に尽力せんのみ

諸君が朔北の野に奮進するが如く

吾人も亦悪制度廃止の戦場に向って奮進せん

諸君若し死せば、諸君の子孫と共に為さん

諸君生還せば諸君と與に為さん

(平民新聞第十四号)

【与謝野晶子】

🔷🔷(文化の扉)与謝野晶子、時代先取り 国の感染症対策を批判/WLB・子どもへの目線

朝日新聞2020831

 「情熱の歌人」として知られる与謝野晶子(よさのあきこ)がコロナ禍で注目を集めている。100年前にスペイン風邪が流行した際は一家で感染。政府の対策の甘さを鋭く突いた評論は、現代の人々の共感もよんだ。あらためて晶子の実像を追いかけた。

 「政府はなぜいち早くこの危険を防止する為(ため)に、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」

 世界規模で流行したスペイン風邪の第1波が本格化した1918(大正7)年11月、晶子は横浜貿易新報に評論「感冒の床(とこ)から」を寄稿し、後手に回った政府の対応を批判した。このころの晶子には10人の子どもがおり、次々と感染していた。病床の幼子を見守りながら書いた晶子の評論は、多くの読者に説得力をもって受け止められた。

 晶子は多くの評論も手がけ、社会問題にも切り込んでいた。もともとトルストイの評論やニーチェの哲学書などを読み、ヨーロッパ旅行の際には彫刻家のロダンも訪ねた。歌人の馬場あき子さんは「晶子は国内外の最先端の知見を吸収し、広い視野を持っていました」と話す。

     *

 晶子は1878(明治11)年、大阪府堺市の和菓子商の三女として生まれた。女学校を出ると、家業を手伝いながら、『源氏物語』や『大鏡』を読みふけった。東京の帝国大学に進んだ兄をうらやましく思っていた。

 21歳のとき、与謝野寛(ひろし)(鉄幹〈てっかん〉、1873~1935)が創刊した文芸誌「明星(みょうじょう)」に初めて短歌が載り、当時妻子のあった寛と出会う。翌年上京し、寛のもとに身を寄せた。馬場さんは「恋に賭け、歌人としてスタートを切るための行動でもあった」とみる。63歳で亡くなるまでに4万首近い短歌を残し、24の詩歌集、15冊の評論集を刊行した。

 自身が高等教育を受けられなかったため、女子教育にも熱心だった。さらに、21年に芸術や文学による人間教育を目指した文化学院(東京都)の設立に加わり、中学部で日本で最初の男女共学を実現させた。

     *

 家計は晶子が主に支えた。著者に『与謝野晶子』などがある歌人の松村由利子さんによれば、晶子には独自の労働観があり、女性の経済的自立に加え、男性の家庭回帰も説いた。「男女が同じように、育児や家事などの家庭での仕事と、生活費を得るための仕事の両方に携わる、ワーク・ライフ・バランス(WLB)のような形が理想と考えていたんです」

 日本初の女性による文芸誌「青鞜(せいとう)」を創刊した平塚らいてう(1886~1971)が「子どもは社会、国家のもの」と唱えたのに対し、晶子は「子どもは子ども自身のもの」と主張したのも印象的だ。さかい利晶(りしょう)の杜(もり)・与謝野晶子記念館(堺市)の学芸員、森下明穂さんは「手紙に残されていた落書きからも、のびのび子育てしていたことがうかがえます。子どもを一個の独立する人間としてとらえていました」と話す。

 「外遊中の夫を追って欧州に渡ったのに、再会すると、今度は預けた子どもたちが心配になり、先に帰国してしまう面もありました」と森下さん。晶子は子どもたちに自作のおとぎ話を聞かせ、百編以上の童話ものこしている。(佐々波幸子)

 人間としての力強さ 音楽家・吉岡しげ美さん

 女性の詩に曲をつけて歌う、最初のアルバムが出た直後に出産しました。赤子の前では理念や観念が吹き飛び、鬱々(うつうつ)としていた時に晶子の詩や短歌に出会いました。恋を謳(うた)い、女の自立を讃(たた)え、戦(いくさ)に凜(りん)として抗議する。子どもへの愛を詠む一方、ミーハーな詩もつくる。生命力、色彩感あふれる作品から「いろいろな側面があってひとりの人間」と救われ、勇気をもらいました。

 それ以来、晶子の詩や短歌を歌い続けてきました。米国やパリ、ソウル、北京などで「山の動く日」や「君死にたまふこと勿(なか)れ」を歌うと、客席で涙を流す人がいる。現地の言葉で朗読してもらい、日本語で歌うのですが、詩歌に人間としての力強さがあるから国を超えても伝わるのです。9月の公演でも晶子の新曲を披露する予定で、今なお背中を押してくれています。

 <知る> さかい利晶の杜・与謝野晶子記念館では晶子の生家や書斎が再現され、著書や言葉、ゆかりの品から生涯をたどることができる。サイトにはスペイン風邪をテーマにした評論の抜粋や学芸員の動画もアップしている。松村由利子さんは月刊誌「短歌研究」に「ジャーナリスト与謝野晶子」を連載中。

みだれ髪

★与謝野晶子君死にたまふことなかれ 

★★その時歴史が動いた=山は動いた、与謝野晶子女性解放のたたかい

(詳細は、後段の与謝野晶子の反戦歌参照)

🔴君死にたまうことなかれ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

ああおとうとよ、君を泣く 

君死にたまふことなかれ

末に生まれし君なれば   

親のなさけは まさりしも

親は刃やいばをにぎらせて  

人を殺せと をしへ教えしや

人を殺して死ねよとて  

二十四までを そだてしや

堺の街の 

あきびとの  

旧家をほこる 

あるじにて親の名を継ぐ君なれば  

君死にたまふことなかれ

旅順の城はほろぶとも  

ほろびずとても何事ぞ

君は知らじな、あきびとの  

家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ、 

すめらみこと皇尊は、戦ひにおほみづからは出でまさね 

かたみに人の血を流し獣の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、

大みこころの深ければ もとよりいかで思

おぼされむ

ああおとうとよ、戦ひに 

君死にたまふことなかれ

すぎにし秋を父ぎみに  

おくれたまへる母ぎみは、

なげきの中に いたましく 

わが子を召され、家を守もり、

安しときける大御代も  

母のしら髪がは まさりぬる。

暖簾のれんのかげに伏して泣く 

あえかにわかき新妻を

君わするるや、思へるや 

十月とつきも添はで 

わかれたる少女をとめ

ごころを思ひみよ 

この世ひとりの君ならで

ああまた誰をたのむべき  

君死にたまふことなかれ。

🔷🔷大塚楠緒子おおつかなおこ・くすおこ(1875-1910)

ら東京麹町生まれ。本名久壽雄。東京女子師範付属女学校を首席で卒業し小屋保治と結婚。才色兼備の夫人との聞こえが高かった。16歳の時、佐佐木信綱のもとへ入門して以来終生歌作を続けた。のち新体詩・小説・翻訳・戯曲等、幅広く執筆。1895年発表の軍歌『泣くな我子』は作曲されて流行し1905年、「太陽」発表の厭戦詩『お百度詣』は与謝野晶子の『君死に給ふことなかれ』と並んで有名。 

【お百度詣】

ひとあし踏みて夫(つま)思ひ、

ふたあし國を思へども、

三足ふたたび夫おもふ、

女心に咎(とが)ありや。

朝日に匂ふ日の本(ひのもと)の、

國は世界に唯一つ。

妻と呼ばれて契りてし、

人も此世に唯ひとり。

かくて御國(みくに)と我夫と

いづれ重しととはれなば

たゞ答へずに泣かんのみ

お百度まうであゝ咎ありや

◆◆今野寿美=生誕140 与謝野晶子=まことの心歌ってこそ

赤旗18.04.20

◆◆新しく発見された与謝野晶子の歌=戦争の悲し

うたう=赤旗14.08.12

秋風やいくさ初はじまり港なる

たゞの船さへ見て悲しけれ

戦いくさある太平洋の西南をおもひて

われは寒き夜を泣く

◆◆与謝野晶子の生涯

赤旗18.03.24きょうの潮流

 桜の季節が巡ってきました。月の光に浮かび上がる花の妖艶さを、歌人・与謝野晶子はこう詠みました。〈清水(きよみず)へ祇園(ぎおん)をよぎる桜月夜こよひ逢(あ)ふ人みなうつくしき〉▼今年は晶子生誕140年にあたります。師・与謝野鉄幹へのほとばしる恋の熱情を高らかに歌い上げた第一歌集『みだれ髪』は1901年、20世紀の幕開けに刊行され、文学の新時代を切り開きました。晶子22歳▼〈春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ〉。移ろう世の中に、この力みなぎる乳房こそが確かなものだと歌う自己肯定は、個々の人間をかけがえのない存在として尊重する姿勢につながっています▼日露戦争に召集された弟に送った反戦詩「君死にたまふことなかれ」では、国家のために人を殺し殺されるために、親は手塩にかけて子を育てたわけではないと断じます。この詩への批判に対して、〈まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候(そうろう)べき〉と反論しました▼家計を支えながら、鉄幹との間に5男6女を産み育てた晶子は、完全な個人を目指し、女性の自立を訴えるとともに、家庭責任をないがしろにする男性を批判しました。『青鞜(せいとう)』創刊号に寄せた詩「そぞろごと」は、〈山の動く日来(きた)る〉で始まり、〈すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる〉〈われは女ぞ。一人称にてのみ物書かばや〉と宣言します▼〈歌はどうして作る。じっと観(み)、じっと愛し、じっと抱きしめて作る。何を。真実を〉―晶子の言葉は、今の社会を鋭く照らしています。

🔴【大逆事件】

★★埋もれた声大逆事件から100 59m

https://m.youtube.com/watch?v=VMJUbPBiSPI

102年後に大逆事件を問う110m=伊藤真ほか

◆◆森まゆみ=暗い時代の人々

竹久夢二

竹久夢二(上) 社会主義から出発した大正の歌麿

http://www.akishobo.com/akichi/mori/v7

08 竹久夢二(下) アメリカで恐慌を、ベルリンでナチスの台頭を見た。

http://www.akishobo.com/akichi/mori/v8

★★内村鑑三=非戦論

内村鑑三

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/antiwar/uchimurakanzo.html

★旧高校日本史=日清戦争

http://v.youku.com/v_show/id_XNDk2NjI1MzY0.html?x

★高校日本史=日清戦争全文起こし

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume030.html

★★旧高校日本史=日露戦争

http://v.youku.com/v_show/id_XMzkxNjY4MDIw.html?x

★新高校日本史=日露戦争の全文起こし

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume032.html

★★明治以降戦前の農村=戦争を支えた農村(ジャパン・プロジェクト)58m

PCの場合全画面表示で見ると過剰広告減)

または

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v112927474NQNsw3SK

◆◆NHKジャパンシリーズ

【日露戦争については以下のジャパンシリーズが役に立つ】

Pandraに無料登録してログインすること)

★★プロジェクトJAPAN 第0次世界大戦 ~日露戦争・渦巻いた列強の思惑~

または

★プロジェクトJAPAN プロローグ 戦争と平和の150年 第1部 

または

★プロジェクトJAPAN プロローグ 戦争と平和の150年 第2部 

または

JAPANデビュー 第1回 ~アジアの一等国

または

JAPANデビュー 第2回 ~天皇と憲法~ 

または

または

JAPANデビュー 第3回 ~通商国家の挫折~ 

または

JAPANデビュー 第4回 ~軍事同盟 国家の戦略~

または

★★英雄たちの選択=日露戦争・運命の一日56m

★★映画=二百三高地 190m=反戦的色彩も強い。

http://v.youku.com/v_show/id_XMzAzNTU3Mzg4.html?x

http://v.youku.com/v_show/id_XMzAzNTU2ODUy.html?x&from=y7.2-1-97.3.1-2.15-1-1-0

http://v.youku.com/v_show/id_XMzAzNTU4NTAw.html?x&from=y7.2-1-97.3.1-2.15-1-1-0

または=最初60mのみ

http://m.56.com/view/id-MzA2NjAxMjc.html

★その時歴史が動いた=203高地の新事実と日露戦争42m 

https://m.youtube.com/watch?v=vQDecmNmKwM

★その時歴史が動いた=ポーツマス講和会議の真相 (後編・日本全権)43m

https://m.youtube.com/watch?v=5lSYXQ5cC34

★ロシアから見た日露戦争(6)ニコニコ

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm3750060

[Flash]日露戦争

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm964449?cp_in=wt_tg

★その時歴史が動いた=日露開戦 男たちの決断~明治日本 存亡をかけた戦略~ 43m- FC2

http://video.fc2.com/content/20140404KRENmSTd/

★★その時歴史が動いた=運命の一瞬 東郷ターン / ロシア・日本戦争 43m

★その時歴史が動いた =「日露戦争100 日本海海戦」 ~参謀 秋山真之・知られざる苦闘~42m – FC2

https://m.youtube.com/watch?v=0JC3ESrVg-Y

または

http://video.fc2.com/content/20150313hA6Hfakf

★100年目の真実 日本海海戦46m – FC2

★その時歴史が動いた=日露戦争100 逆転の極秘電報15446m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDE1NDI4MzE2.html?x

★その時歴史が動いた=列国の野望 シベリアを走る

【日露戦争と朝鮮人民=プロジェクトJAPAN】

★★プロジェクトJAPAN 日本と朝鮮半島 第1回 ~韓国併合への道~

★★NHKスペシャル プロジェクトJAPAN シリーズ日本と朝鮮半島 第2回 ~三・一独立運動と親日派 

JAPAN日本と朝鮮半島 第3回 戦場に動員された人々~皇民化政策の時代

NHKスペシャル プロジェクトJAPAN シリーズ日本と朝鮮半島 第4回 ~解放と分断 在日コリアンの戦後

NHKスペシャル プロジェクトJAPAN シリーズ日本と朝鮮半島 第5回 ~日韓関係はこうして築かれた~ 

◆古屋哲夫=陸奥宗光と日清戦争

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/13_mutsu/01.html

◆古屋哲夫=批判と反省 日本帝國主義の成立をめぐって

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/02_teikokusyugi.html

◆古屋哲夫=日露戦争

http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/15_nitirosenso/hashigaki.html

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🔵平民社・平民新聞・幸徳秋水

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★当ブログ=「明治の労働運動と社会主義」

◆初期社会主義研究会HP データベース週刊『平民新聞』

❌http://www15.ocn.ne.jp/~shokiken/database-heiminsinbun.htm

【その目次】

木下尚江「余は如何にして社会主義者となりし乎」

無署名「人類と生存競争」

平民社同人「宣言」(週刊『平民新聞』第1号、19031115日)

週刊平民新聞・発刊の序(週刊『平民新聞』19031115日)

週刊平民新聞・終刊の辞(週刊『平民新聞』1905129日)

堺利彦「予は如何にして社会主義者となりし乎」

堺利彦「進化論講話(丘浅治郎著)」

幸徳伝次郎「予は如何にして社会主義者となりし乎」

幸徳秋水・堺利彦「同志の面影―矢野文雄君」

幸徳秋水・堺利彦「同志の面影―片山潜君」

◆平民新聞=露国社会党に与うる書PDF

クリックしてsyukenzaimin.pdfにアクセス

【掲載史料は、「平民新聞」明治三十七年(1904)三月第十八 号冒頭に掲げた、当時のロシア社会民主党宛て公開書簡「与 露国社会党書」と、若干の経緯である。この直前二月十日、 日本国は対露宣戦布告し日露戦争が勃発していた。幸徳秋水、堺枯川らの『平民新聞』は日露戦争は帝国と帝国との戦争であるとし、国民の反戦意思を明確なものにしようと 連帯を呼びかけた。公開書簡の反響は全欧州に湧き、この 後同年八月おらんだのアムステルダムで開催された万国社 会党大会では、日露の代表が並んで副議長席につき、堅い 握手は満場に鳴りやまぬ感動の拍手喝采を得た】

🔴露国社会党に与ふる書 (『平民新聞』社説・1904.3)

「嗚呼(あゝ)露国に於ける我等の同志よ、兄弟姉妹よ、我等諸君と天涯地角、 未だ手を一堂の上に取て快談するの機を得ざりしと雖(いへど)も、而(しか) 我等の諸君を知り諸君を想うことや久し。

一千八百八十四年、諸君が虚無党以外、テロリスト以外、別に社会民主党の 旗幟(きし)を擁して、職工農民の間に正義人道の大主義を宣伝して以来、茲( )に二十年、其間(そのかん)暴虐なる政府の迫害、深刻なる偵吏の羅織(らし )、古今実に其(その)比を見ず、或は西比利(シベリヤ)の鉱山に無間(むげん) の苦を受け、或は絞台の鬼と為()り、或は路傍の土となる者、幾千幾万なる ことを知らず、而も諸君の運動は之が為めに微毫(びがう)の頓挫(とんざ)を見 ることなく、諸君の勇気は一難を経る毎に百倍し、遂に客臘(かくろう=前年 十二月)露国全土の各団体を打て一丸となし、其勢力実に天に冲するに至れり。

諸君よ、今や日露両国の政府は各其(かくその)帝国的欲望を達せんが為めに、 (みだり)に兵火の端を開けり。然れども社会主義者の眼中には人種の別なく 地域の別なく、国籍の別なし、諸君と我等とは同志也、兄弟也、姉妹也、断じ て闘うべきの理有るなし、諸君の敵は日本人に非ず、実に今の所謂愛国主義也、 軍国主義也、然り愛国主義と軍国主義とは、諸君と我等と共通の敵也。

然れども我等は一言せざる可らず、諸君と我等は虚無党に非ず、テロリストに非ず、社会民主党也、社会主義者が戦闘の手段は、飽まで武力を排せざる可 らず、平和の手段ならざる可らず、道理の戦ひならざる可らず、我等は憲法な く国会なき露国に於て、言論の戦闘、平和の革命の極めて困難なることを知る、 而して平和を以て主義とする諸君が、其事を成す急なるが為めに、時に干戈( んか)を取て起ち、一挙に政府を転覆するの策に出でんとする者にあらん乎、 我等は切に其志を諒とす。而も是れ平和を求めて却つて平和を撹乱する者に非 ずや。」 (「平民新聞」明治三十七年<1904>三月の第十八号冒頭 大要)

幸徳が《平民新聞》(1904313)に書いた《与露国社会党書》は欧米各国の社会党に大きな反響を呼び,各国社会党の機関紙は競ってこれを転載した。またロシア社会民主党もその機関紙《イスクラ》に回答文を載せ,「今我等の最も重大に感ずるは,日本の同志が我等に送りたる書中に於て現したる一致聯合の精神に在り,我等は満腹の同情を彼等に呈す」と賛意を示した。

「歴史上重大文書と謂はざるべからす。(中略)力に対す るには力を以てし、暴に抗するには暴を以てせざるを得ず、されど我等がこの 言を為すは決して虚無党又はテロリストとしてにはあらず、我等は先に露国社会民主党を建設してより以来、テロリズムを以て不適当なる運動方法となし、 (かつ)て之と闘うを止めたることなし、然れども悲むべし、此国の上流階級 は曽て道理の力に服従したる事なく、又将来然(しか)すべしと信ずべき些少の 理由だも発見すること能わず。然れども此問題は今此場合に於て、さしたる重要の事にあらず。今我等の最 も重大に感ずるは、日本の同志が我等に送りたる書中に於て現したる一致聯合 の精神に在り。我等は満幅の同情を彼等に呈す。

「万国社会党万歳!」 (ロシア社会民主党機関誌『イスクラ』返信 =平民新聞翻訳大要)

この返信に接し、「吾人は之を読んで深く露国社会党の意気を敬愛す、然() れど吾人がさきに、暴力を用ふる事に就て彼等に忠告したるに対し、彼等が猶 (なほ)終に暴力の止むを得ざる場合あるを言ふを見て、深く露国の国情を憎み、 深く彼等の境遇の非なるを悲まざるを得ず。」 (『平民新聞』の所感 大要)

19048月、オランダ、アムステルダムで開かれた第2インターナショナル第6回大会大会に参加した国際社会主義者たち。当時、日本代表として出席した片山潜は当時、露日戦争で交戦中だったロシア代表 プレハーノフと反戦で同意する握手を交わした。これに先立ち幸徳秋水は<ロシア社会党に送る文>で、ロシアの社会主義者たちに戦争反対を訴えた。 

◆森下徹=幸徳秋水の平和思想ー「平民新聞」期中心にPDF

クリックしてrekisikenkyu38_139-162.pdfにアクセス

◆梅田 俊英=日本における日ロ非戦論 PDF7p

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/574-575/574-04.pdf

◆玉岡=『共産党宣言』邦訳史PDF

クリックしてtamaoka.pdfにアクセス

◆山本 武利=週刊『平民新聞』の読者層の系譜PDF

クリックしてronso0610500540.pdfにアクセス

◆太田 雅夫 =社会主義協会の運動平民社との関連を中心として (日本と西洋)

◆藤原 =近代日本における平和主義と愛国心幸徳秋水と福沢諭吉PDF

クリックしてgenhou15-03.pdfにアクセス

◆尹=明治30年代に見られるイエ ス像

一木下 尚江と幸徳秋水の 場合 PDF

◆辻野 =指導者失格の幸徳秋水PDF

◆石坂 浩一 =朝鮮認識における幸徳秋水 (日本史特集号)

◆飯田 =大原慧 幸徳秋水の思想と大逆事件

書評PDF

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19770801-0077.pdf?file_id=78545

◆森涼子=幸徳秋水 : 根底からものを問う思想家の歩みPDF

◆辻野 =幸徳秋水の天皇観

◆出原 政雄=幸徳秋水の政治思想 : 中江兆民との関連を中心にPDF39p

◆小松 隆二=糸屋寿雄著 幸徳秋水研究PDF

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19680201-0145.pdf?file_id=79902

◆飯田 =田中惣五郎著 幸徳秋水 : 一革命家の思想と生涯 ; 山極圭司著 木下尚江 : 一先覚者の闘いと悩み 書評PDF

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19560401-0043.pdf?file_id=81190

◆飯田 =塩田庄兵衛編 幸徳秋水の日記と書簡=書評及び紹介

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19550701-0057.pdf?file_id=81065

◆上條 宏之=日本における初期社会主義とトルストイ キリスト教社会主義者木下尚江・野上豊治の検討を通して・その1

クリックしてHumanities_H33-06.pdfにアクセス

その2

クリックしてHumanities-H34_07.pdfにアクセス

深澤論文

クリックしてHumanities_C31-06.pdfにアクセス

◆◆ トルストイの日露戦争論(「平民新聞」)

近代デジタルライブラリー

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871597

戦争が最高潮に達した8月、

39号は、全紙をあげてトルストイの「日露戦争論」全12章を掲載した。これはトルストイがロンドン・タイムズ1904627)に寄稿した非戦論「悔い改めよ」を秋水、枯川が共訳したもの。「平民新聞」(190487)に「トルストイ翁の日露戦争論」として全文訳載され,日本国内でも大きな反響を呼んだ。

「平民新聞」は次号の社説に,トルストイの個人主義的非戦論に対する社会主義的立場における非戦論との相違を説き,戦争の原因は「人々真個の宗教を喪失せるが」ではなく,「列国経済的競争の激甚なるに在り」とした。

◆トルストイの日露戦争論(一部のみ)

(うみねこ堂一丁目提供)

http://uminekodo.sblo.jp/article/48291260.html

Leo Tolstoy

トルストイ 『胸に手を当てて考えよう』訳:北御門二郎氏 地の塩書房

トルストイの書簡安部磯雄(『平民新聞』代表)との書簡

レオ・トルストイから安部磯雄への手紙

1904年10月23日から11月5日の間にヤースナヤポリャーナにて書かれたもの

親愛なる安部磯雄 様

お手紙ならびに 英文論説掲載の新聞 拝受拝読致しました。厚く御礼申し上げます。

欺かれ 愚鈍化された双方の国民の間に行われている戦争 という恐るべき犯罪に反対している、聡明で道徳的で宗教的な人々が 

日本にも多数いるであろうことを、私はこれまでにも信じて疑いませんでしたが、今、その確証を得て 実に喜びに堪えません。

日本の地に、自分が親しく交流出来る友人や同志がいることを知り得たことは、私にとって大きな喜びです。

ところで、全ての敬愛する友に対して そうありたいと思うように、貴方に対しても率直でありたいと思いますので、歯に衣着せずに申し上げますが、私は社会主義には賛同できませんし、非常に賢明で精力的な貴国民の中でも最も精神的に発達した人々が、ヨーロッパから非常に根拠薄弱で、妄想と誤謬に満ちた社会主義の理論を本家のヨーロッパでは既に廃れかけている理論を取り入れたことを 残念に思っております。

社会主義の目的は、人間の中の最も低劣な性質を満足させることに、つまり 物質的幸福にあり、しかもその提唱する手段では、それは決して達成されないのです。

人間の幸福は、精神的なもの、つまり道徳的なものであって、その中に物質的幸福も含まれているのです。

そして、この より高い目標は、諸国民あるいは人類を構成する あらゆる結合体の宗教的な、つまりは道徳的な完成のみによって到達できるのです。

私が宗教と言うのは、全人類に普遍的な神の掟に対する理性的信仰のことであって、

その掟は、万人を愛し、万人に対して 己れの欲する所を施せという戒律の中に、はっきり示されております。

私は そうした方法が、社会主義その他のはかない理論より以上に非現実的なものに見えることは知っていますが、これこそ唯一の真実な方法なのです。

我々が誤った、決してその目的を達成することのない理論の実現に躍起となればなるほど、それは現代に最もふさわしい人類および各個人の幸福の水準に到達するための

唯一の真実な方法の適用を 妨げるのです。

貴方の社会主義的信条に対して、忌憚なき意見をのべたこと、それに まずい英語で書いたことをお許し下さるよう、そしてまた私があなたの真の友であることを信じて下さるよう

お願いしつつ 擱筆(かくひつ=文章を書き終える)致します。

レオ・トルストイ

今後ともお便り戴ければ 幸甚に存じます。

トルストイ『胸に手を当てて考えよう』 訳:北御門二郎氏

1904年4月30日

「どうか戦争を企てたあなた方、

戦争を必要とし、戦争を弁護するあなた方が、日本人の弾丸や地雷のそばへ行ってください。我々は、行きません。

なぜなら、我々にはそんなこと必要ではないばかりか、一体なぜ そんなことが誰かに必要なのか 分かりませんから」

というのが 当然である。

でもやっぱり彼らはそうは言わないで、

戦争に出かけていくし、彼らが肉体を滅ぼすものを恐れて、肉体も霊も滅ぼすものを恐れない限り出かけざるをえないのである。

昨日私は、知り合いの農夫から二通の手紙を引き続き受け取った。

「今日、私は召集令状を受け取りましたこれで いよいよ遠い極東地方で、日本軍の弾丸の下をくぐらねばなりません。

..4人の子供をかかえた妻はどうしたらいいでしょう?私は招集を拒否することはできませんでした。でも前もって言っておきますが、私のために日本人のただ一つの家族も

戦死者を出すことはないでしょう。

ああほんとうに、今まで一緒に生きてきたもの、生き甲斐であったものを何もかも棄てて行くのは 何と恐ろしく、切なく苦しいことでしょう」

「現在 地表のほとんど3分の1に広がる、隠れた悲しみを計る尺度は、どこにあるのでしょう?そして我々は 遠からず

復讐と恐怖の神の生贄に供されることでしょう。私はどうしても精神の均衡を確立することができません。

ああ私はどんなに、自分が唯一の主なる神に仕えることを妨げる、

こうした二重性を持つ自分を憎んでいることでしょう。」

この人はまだ、真に恐るべきは 肉体を滅ぼすものではなくて、肉体も霊も滅ぼすものであることを充分悟らず、そのために、軍務を拒否することが出来ないけれども、

()訳者 北御門二郎氏 徴兵を拒否

それでも家族を棄てて出発するにあたり、

自分は日本人の家族のただ一つからも戦死者を出すようなことはしないと約束している。

彼は最も重要な神の掟、全ての宗教の掟である「己れの欲するとこをろ人に施せ」を信じている。

そして現在、その掟を大なり小なり意識的に認めているそうした人々は、単にキリスト教世界のみならず、仏教の世界、マホメット教の世界、儒教の世界、バラモン教の世界にも何千人ではなく何百万人といるのである。

真の英雄は、他人を殺そうとしながら自分は殺されなかったばかりに、現在英雄扱いされている人々ではない。

真の英雄は、人殺したちの列に加わることを断乎拒否し、キリストの戒めに背くよりは 殉教の苦難をえらんで、現在、監獄にいたり

ヤクーツク州に流されたりしている人たちなのである。

そう、現在における大きな戦いは、今、日本人とロシア人の間で行われている戦いでもなく、これから起こるかもしれない△人種と△人種との戦いでもなく、地雷や爆弾や銃弾で行われる戦いでもなく、まさに今、目覚めつつある人類同胞の意識と、人類を取り囲み、圧迫を加える闇と 苦悩との戦いなのである。

ある人々は宗教などという代物は全然不必要だと決めてしまい、宗教なしに生きながら、いかなる宗教もいっさい不必要だと説いているし、またある人々は、現在説かれているような歪められた形のキリスト教を墨守して、

相変わらず宗教なしで暮らし、人々の生活の指針となり得ない、虚しい外面的形式のみを説いているのである。

しかし一方では、現代の要求に答える宗教がちゃんと存在しており、全ての人々に知られていて、隠れた形で人々の心の中に住んでいる。

◆石川啄木のトルストイ論(当ブログから)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/48165_36757.html(青空文庫)

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/8676770.html(当ブログ)

★トルストイの戦争と平和思想については当ブログ=トルストイの戦争と平和論参照

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2916219.html

◆上條 宏之=日本における初期社会主義とトルストイ キリスト教社会主義者木下尚江・野上豊治の検討を通して・その1

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その2

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深澤論文

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◆トルストイの生涯と名言

トルストイの名言・格言

◆中村 唯史 =トルストイ『戦争と平和』における「崇高」の問題PDF32p

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◆宮坂 和男 =トルストイの生命論PDF17p

◆岩崎 紀美子=内なるトルストイ : 与謝野晶子の初期評論を支えたものPDF28p

クリックしてNGno3602_28.pdfにアクセス

◆原 卓也=トルストイの宗教思想PDF10p

◆松沢 弘陽=札幌農学校・トルストイ・日露戦争–1学生の日記と回想(資料)PDF21p

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◆左近 =賀川豊彦における平和思想の形成過程 : トルストイの影響をめぐってPDF15p

🔴◆◆平民社と平民新聞

小学館(百科)

明治時代の社会主義結社。黒岩涙香(るいこう)の新聞「万朝報(よろずちょうほう)」が開戦前、非戦の旗を下ろしたことに憤慨し退社した堺利彦(さかいとしひこ)、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)が、日露戦争での非戦の主張を貫くため1903年(明治361027日に設立。東京有楽町の社屋には多くの社会主義者が出入りし、1115日には週刊『平民新聞』を発刊。同紙は05129日に廃刊を余儀なくされたものの、加藤時次郎の主宰する直行(ちょっこう)団の機関紙『直言(ちょくげん)』を譲り受け、平和主義と社会主義とを主張し続けた。また同社は社会主義協会と提携し、社会主義演説会、講演会の開催や地方遊説のほか、平民社同人編『社会主義入門』、木下尚江(なおえ)『火の柱』など15冊の平民文庫も送り出した。しかし、政府の弾圧に加え、財政難、内部の不統一のため05109日解散した。

 こののち社会主義陣営はキリスト教社会主義者による『新紀元』派と、唯物論的社会主義者による『光』派に分かれたが、1907115日に両派の石川三四郎、西川光二郎(みつじろう)、幸徳秋水、堺利彦、竹内兼七(かねしち)が提携しふたたび平民社がおこされ、日刊『平民新聞』が発刊された。しかし社内で議会政策派と直接行動派の分裂がみられたうえ、政府の弾圧はいっそう厳しくなり、07414日に廃刊、平民社も解散した。通算2年余、再興後はわずか3か月の活動であったが、社会主義の統一的な実践団体として、日本の社会主義史上に大きな足跡を残している。

[成田龍一] 

◆◆平民新聞の反戦活動

日露開戦に反対した幸徳秋水(こうとくしゅうすい)、堺利彦(さかいとしひこ)が、反戦の立場を貫くために1903年(明治361115日創刊した(週刊)。「自由、平等、博愛は人生世に在る所以(ゆえん)の三大要義也 (なり)」と宣言した。平民主義、社会主義、平和主義を唱えた。

創刊の「宣言」

「一、自由、平等、博愛は人生世に在る所以の三大要義也。

一、吾人は人類の自由を完からしめんが為めに平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の差別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。

一、吾人は人類をして平等の福利を享けしめんが為めに社会主義を主張す、故に社会をして生産、分配、交通の機関を共有せしめ、其の経営処理一に社会全体の為めにせんことを要す。

一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱道す、故に人種の区別、政体の異同を問はず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。

一、吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす、故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の与論を喚起し、多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を非認す」。

「戦争は遂に来れり。平和の撹乱は来れり。罪悪の横行は来れり。日本の政府は日く、其責露国政府に在りと。露国の政府は日く、其責日本政府に在りと。是に由て之を観る。両国政府も亦戦争の忌むべき平和の重んずべきを知る者の如し。少なくとも平和撹乱の責任を免れんことを欲する者の如す。其心や多とすべし、而も平和撹乱の責は両国の政府、若くは其一国の政府遂に之に任ぜざるべからず。然り其責政府に在り、吾人平民は之に与からざる也。然れども平和撹乱より生ずる災禍に至りては、吾人平民は其全部を負担せしめらる可し。彼等平和を撹乱せるの人は毫も其罰を受くることなくして、其責は常に吾人平民は其全部を肩上に嫁せらるる也。是於乎吾人平民は飽くまで戦争を非認せざる可らず。速に平和の恢復を祈らざる可らず。之が為めには、言論に文章に、有ゆる平和適法の手段運動に出でざる可らず。故に吾人は戦争既に来るの今日以後と雖も、吾人の口有り、吾人の筆有り紙有る限りは、戦争反対を絶叫すべし。而して露国に於ける吾同胞平民も必ずや亦同一の態度方法に出ると信ず。否英米独仏の平民、殊に吾人の同志は益々競ふて吾人の事業を援助すべきを信ず る也」

 平民新聞は普通の新聞の2つ折りの大きさに、創刊号は12ページ、ふだんは8ページ、1部3銭5厘(この年の春、海軍造船廠の見習い職工として入った寒村の日給が25銭)で、創刊号は5.000部がたちまち売り切れて3,000部を増刷したといわれている。毎号の社説は幸徳が書き、堺は編集長で紙面の製作と経営にあたったが、筆禍問題が起こったときのことを考えて、発行、編集の責任者に堺が署名し、幸徳は印刷人として署名したという話に、堺利彦の心意気と覚悟がうかがわれる。幸徳には老母があり自身も病弱ということから入獄させるのが忍びない、という判断をした。ちなみに、田中正造の直訴文を起草したのがこの幸徳であった。

 この平民新聞ではさまざまな政治政策をとりあげて論評するだけでなく、ドイツ社会民主党やイタリア社会党等、各国の社会主義政党の動きもよく伝え、また幸徳や堺の翻訳物も連載した。ことに幸徳秋水の格調高い漢文調の名文は強い感銘を与え、またその下に載った同じ筆者の皮肉で辛らつな寸評も呼び物であった。

 創刊翌年の3月に筆禍事件で下獄した堺の『獄中生活』も好評を博している。寒村の語によれば、「平民新聞の記事は長短錯落し、硬軟調和して変化に富み、隅から隅まで活気と興趣にあふれていた」。

石川三四郎、西川光二郎(みつじろう)らが在社、木下尚江(なおえ)らも応援した。平民新聞は第10号に「吾人(ごじん)は飽くまで戦争を非 認す」の論説をかかげた。開戦の前月であった。以来、その主張と態度に変りはなかった。

20号の社説「嗚呼(ああ)増税」では、「今の国際的戦争が、単に少数階級を利するも、一般国民の平和を撹乱(かくらん)し、幸福を 損傷し、進歩を阻礙(そがい)するの、極めて悲惨の事実たるは吾人(ごじん)の屡(しばし)ば苦言せる所也、(中略)政治家、投機師、軍人、貴族の政治を 変じて、国民の政治となし、『戦争の為(た)め』の政治を変じて、平和の為めの政治となし、……」と論じた。このため堺が2か月の軽禁錮に処せられた。その控訴公判に尚江は弁護人として熱弁をふるった。政府は平民新聞をしばしば発禁処分としたものの、内外に「文明の国」を喧伝(けんでん)していた手前、こうした活動にある程度目をつぶらざるをえなかった。

幸徳秋水は、戦争の本質を鋭く突き、社会主義の旗を高く掲げて平和を唱え、出征兵士への反戦工作など活発な活動を展開している。

戦争が最高潮に達した8月、第39号は、全紙をあげてトルストイの「日露戦争論」全12章を掲載した。これはトルストイがロンドン・タイムズ1904627)に寄稿した非戦論「悔い改めよ」を秋水、枯川が共訳したもの。「平民新聞」(190487)に「トルストイ翁の日露戦争論」として全文訳載され,日本国内でも大きな反響を呼んだ。

「平民新聞」は次号の社説に,トルストイの個人主義的非戦論に対する社会主義的立場における非戦論との相違を説き,戦争の原因は「人々真個の宗教を喪失せるが」ではなく,「列国経済的競争の激甚なるに在り」とした。

1周年記念号に「共産党宣言」を訳載して発禁を受けるなど、罰金、発売頒布禁止が続き、最後には印刷所国光(こっこう)社の印刷機械も没収されたため、05129日の第64号を、マルクス・エンゲルスの『新ライン新聞』の終刊にちなんで赤刷りとし、廃刊した。1905年の「血の日曜日」の事件を報じたのは偶然にも、「平民新聞」の終刊号(一月二十九日、第64号)であった。 開戦後も大胆に戦争批判を続けたこの週間新聞も、しだいに強まってくる抑圧をもちこたえられなくなっていた。 1904116日第52号が社説「小学校教師に告ぐ」で発売禁止となり、 幸徳秋水が禁錮五ヵ月、西川光二郎が同七ヵ月、罰金それぞれ五十円の刑に処せられたうえ、 印刷機械も没収された。 こうした発禁や罰金、あるいは没収機械の弁償などの経費が重くなってくると、ついに財政的にもちこたえられなくなり、 自発的廃刊が決定されたのである。 12ヵ月にわたり、延べ二十万部を発行し、社会主義への関心を広めるうえで大きな役割をはたしたこの新聞も、 運動の大衆的基礎をつくるまでにはゆかなかった。

その後、後継紙が相次いだが、07115日、石川、西川、竹内兼七(かねしち)、幸徳、堺らによって、日刊の『平民新聞』が創刊された。しかし、内部の思想的対立、ならびに発売頒布停止処分による経営難に加えて、第63号の「青年に訴ふ」が朝憲紊乱(びんらん)罪で編集人、印刷人、筆者が起訴された。同年129日『平民新聞』は、第64号を全面赤刷りにした。さらに414日第75号をふたたび全紙赤刷りにして廃刊した。

「平民新聞」ではないが、木下尚江は、明治37年1月1日から「毎日新聞」に小説『火の柱』を連載した。日露開戦直前の日本、すなわちリアルタイムの日本を舞台に設定 し、平民社(小説では同胞社)を罠(わな)にはめようとする軍部や、戦争で悪知恵を働かせる商人を断罪するといったあらすじだ。

 また、大河小説『大菩薩峠』で知られる中里介山。彼は代用教員時代、「万朝報」に新体詩を投稿し、日露開戦では平民新聞に共鳴、反戦詩を発表している。

 反戦詩として最も有名なのは、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」だ。これは旅順攻略を使命とした第三軍(司令官・乃木希典(まれすけ))に従軍し ていた弟の無事を願って作られた詩で、大町桂月との間で論争を巻き起こした(与謝野晶子の項目参照)

 徳冨蘆花も落とすわけにはいかない。「勝利の悲哀」と題する講演を明治39年12月、第一高等学校で行い「日本国民、悔(くい)改めよ」と絶叫した。そ れは愛する夫や子どもを戦場で奪われた女たちの心の叫びを代弁するものであった。

🔴◆幸徳秋水

1871-1911 (小学館百科)

明治時代の社会主義者。明治4922日高知県に生まれる。本名伝次郎(でんじろう)。酒造兼薬種業の家に育ち、聡明(そうめい)で神童といわれた。11歳ごろから自由民権運動に強い関心を抱き、1887年(明治20)上京して林有造(ゆうぞう)の書生となる。同年末保安条例発布で東京を追放され帰郷。8811月大阪で中江兆民(ちょうみん)の学僕となり、その思想的、人格的感化を受ける。兆民も幸徳の才能を見抜き、「秋水」の号を贈る。914月ふたたび上京し、国民英学会を卒業する。『自由新聞』『広島新聞』『中央新聞』を経て、982月『萬朝報(よろずちょうほう)』に入社。同年11月社会主義研究会に入り、9910月結成の普通選挙期成同盟会では片山潜(せん)らとともに幹事となる。

1900年(明治338月立憲政友会の創立に際し、兆民の依頼で激烈な「自由党を祭る文」を『萬朝報』に発表し、014月『廿世紀(にじっせいき)之怪物帝国主義』を著し「軍人的、空威張(からいばり)的飴細工(あめざいく)的帝国主義」の実態を鋭く指摘する。同年5月安部磯雄(あべいそお)、木下尚江(きのしたなおえ)らと社会民主党を結成するが即日禁止される。7月内村鑑三(かんぞう)らと萬朝報社内に理想団を結成。12月足尾鉱毒問題で奔走する田中正造(しょうぞう)の依頼で直訴文を起草する。037月社会主義の目ざす方向とその実現方法を論じた『社会主義神髄』を刊行し、10月、日露開戦論に転じた萬朝報を堺利彦(さかいとしひこ)、内村とともに退社、11月堺らと平民社を結成して週刊『平民新聞』を発刊する。043月「与露国社会党書」を発表、日露両国労働者階級の連帯を訴える。11月堺とともに『共産党宣言』を訳載する。052月新聞紙条例違反で禁錮5か月の刑を受け入獄、獄中でクロポトキンの無政府主義思想に強い影響を受ける。

 出獄後保養を兼ねて渡米、ロシア社会革命党員フリッチ夫人の感化を受け、19066月岩佐作太郎(さくたろう)らと社会革命党を結成する。帰国後、日本社会党の歓迎会で「世界革命運動の潮流」を演説。さらに072月、日刊『平民新聞』に「余が思想の変化」を発表して労働者のゼネストによる直接行動論を展開、同月の日本社会党第2回大会で田添鉄二(たぞえてつじ)の議会政策論と激しく対立する。9月堺、山川均(ひとし)らと金曜会を結成。病気保養のため帰郷、クロポトキンの『麺麭(パン)の略取』翻訳に従事する。赤旗事件の報に接して088月上京、管野(かんの)すがと恋愛、同棲(どうせい)し、095月『自由思想』を発刊するが、発禁となり運動も停滞する。106月いわゆる大逆(たいぎゃく)事件に連座して検挙され、天皇暗殺計画の主謀者として明治441月死刑を宣告され、24日処刑された。

[荻野富士夫] 

◆大逆事件

小学館百科

明治天皇の暗殺を計画したという理由で多数の社会主義者、無政府主義者が検挙、処刑された弾圧事件。幸徳(こうとく)事件ともいう。

 日露戦争反対を機に高揚した社会主義運動に対し、政府は機関誌紙の発禁や集会の禁圧、結社禁止などの抑圧を加え、1908年(明治416月の赤旗事件で堺利彦(さかいとしひこ)、大杉栄(さかえ)らの中心的人物を獄に送った。これ以後、実質的な運動はほとんど展開できない状勢になり、095月に幸徳秋水、管野(かんの)すがらの創刊した『自由思想』も発禁の連続で廃刊を余儀なくされ、合法的な運動は不可能になる。迫害に窮迫した彼らは急速に、直接行動・ゼネストによる革命の実現に突破口をみいだそうとし、とくに弾圧への復讐(ふくしゅう)の念に燃えた管野は、宮下太吉(みやしたたきち)、新村忠雄(にいむらただお)、古河力作(こがりきさく)とともに、天皇の血を流すことにより日本国民の迷夢を覚まそうと爆裂弾による暗殺計画を練った。宮下は長野県明科(あかしな)の製材所で爆裂弾を製造し、0911月爆発の実験も試み、101月には東京・千駄ヶ谷(せんだがや)の平民社で投擲(とうてき)の具体的手順を相談するが、幸徳は計画に冷淡で著述に専念しようとした。

 取締当局はスパイを潜入させたりなどしてこの計画を感知し、1910525日の長野県における宮下検挙を手始めに、61日には神奈川県湯河原(ゆがわら)で幸徳を逮捕。政府はこの長野県明科爆裂弾事件を手掛りに一挙に社会主義運動の撲滅をねらって、幸徳が各地を旅行した際の革命放談などをもとに、大石誠之助(おおいしせいのすけ)らの紀州派、松尾卯一太(まつおういちた)らの熊本派、武田九平(たけだきゆうへい)らの大阪派、さらに森近運平(もりちかうんぺい)、奥宮健之(おくのみやけんし)、内山愚童(うちやまぐどう)ら26名を起訴するほか、押収した住所録などから全国の社会主義者数百名を検挙して取り調べた。第二次桂(かつら)太郎内閣下の平田東助(とうすけ)内相、有松英義(ひでよし)警保局長、平沼騏一郎(きいちろう)司法省行刑局長兼大審院検事、松室致(まつむろいたす)検事総長らの指揮により全国的な捜査、取調べと裁判が進められ、元老山県有朋(やまがたありとも)をはじめ政府部内や枢密顧問官らの強い圧力を受けて、事件全体が終始政治的に取り扱われた。

 刑法第73条の大逆罪に問われたため、裁判は大審院における一審即終審で行われた。111日予審意見書が大審院に提出されたのち、同9日公判に付すことを決定、厳重な警戒下、1210日から裁判長鶴丈一郎(つるじよういちろう)のもとで公開禁止の公判が開始された。弁護人は鵜沢聡明(うざわそうめい)、花井卓蔵(たくぞう)、今村力三郎(りきさぶろう)、平出修(ひらいでしゅう)らであった。公判はほとんど連日開かれ、1225日検事の論告があり、平沼は総論で「被告人ハ無政府主義者ニシテ、其信念ヲ遂行スルノ為大逆罪ヲ謀ル、動機ハ信念ナリ」と述べ、最後に松室が全員に死刑を求刑、27日から花井を先頭に弁護人の弁論があり、1人の証人を審問することもなく結審した。早くも1911118日に判決言渡しがあり、全員有罪で有期刑2名以外は24名が死刑とされた。翌19日天皇の恩命として死刑被告中の坂本清馬(せいま)、高木顕明(けんめい)ら12名を無期懲役に特赦減刑、一方では異例の早さで24日には幸徳、大石、森近、宮下ら11名を、翌25日に管野の死刑を執行した。無期・有期刑の14名は秋田、諫早(いさはや)(長崎県)、千葉の各監獄に送られ、うち5名は獄中で縊死(いし)・病死した。幸徳が獄中で遺著『基督(キリスト)抹殺論』を叙述したほか、詳細な「陳弁書」で裁判批判を展開するほか、管野の「死出の道草」をはじめ、手記や遺書が書き残されている。

 管野がその手記に「今回の事件は無政府主義者の陰謀といふよりも、むしろ検事の手によって作られた陰謀といふ方が適当である」と記しているように、幸徳、管野、宮下、新村、古河の5人で協議され、しかも幸徳を除いた4人で実行策が練られただけの幼稚な天皇暗殺計画をフレーム・アップし、事件と直接無関係な社会主義者多数を巻き込んだこの事件は、桂内閣が社会主義運動の根絶をねらって仕組んだ史上空前の大弾圧であった。全国を吹き荒れた大弾圧の暴風により、社会主義運動は「冬の時代」と形容されるほど逼塞(ひっそく)させられる。職業を奪われ、学校を追われ、生活を破壊されたりするなどして多くの転向者も出したが、わずかに生き残った社会主義者は、堺利彦らの売文(ばいぶん)社に閉じこもったり、大杉や荒畑寒村(かんそん)のように文学の場に身を寄せて『近代思想』を発刊したり、片山潜(せん)や石川三四郎のように亡命したりなどして「冬の時代」の寒風に耐えた。

 この事件は政府の巧みなキャンペーンで一般社会に社会主義の恐ろしさを植え付けると同時に、文学者にも大きな衝撃を与えた。徳冨蘆花(とくとみろか)は一高で「謀叛(むほん)論」を講演して幸徳らを殉教者と訴え、石川啄木(たくぼく)は事件の本質を鋭く見抜いて社会主義の研究を進め、森鴎外(おうがい)や永井荷風は事件を風刺する作品を書いている。欧米の社会主義者も日本政府に多数の抗議電報などを送るなど、抗議運動を展開した。

 1961年(昭和36)、唯一人の生存者坂本清馬と、森近運平の妹栄子が東京高裁に再審の請求をしたが、65年却下となった。

[荻野富士夫] 

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🔵竹久夢二

=「平民新聞」などの政治漫画を描いた反戦画家

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TakehisaYumeji-Photo_Yumeji’s_Late_Years竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)

1884年、岡山県生まれ。17歳の頃に上京し、早稲田実業学校に入学。在学中から独学で絵を勉強し、雑誌や新聞に風刺画やコマ絵、スケッチなどを投稿する。

22歳の頃、作品「筒井筒」が中学世界に1等入選し、「竹久夢二」の筆名でデビュー。以後、平民社の同人となり、平民社発行の新聞などで風刺画なども多数発表。また、「夢二式美人画」と言われる儚げで美しい美人画の様式を確立し、一躍売れっ子作家となる。本の装丁やデザイン、作詞なども数多く手がけている。1931から1933年までアメリカ、ヨーロッパ諸国に外遊し、展覧会を開催。帰国後、結核を患い1934年に惜しまれながら逝去した。

09519日朝日新聞 

 東京・本郷から言問通りをちょっと下っていくと、赤いれんが造りの竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)美術館がある。木々の若葉が萌(も)え、ツツジの花が咲いていた。

 夢二といえば、大正ロマン、愁いを含む美人画、「宵待草」の歌で知られる。そう、夢二作詞の、あの哀切な歌である。

まてどくらせどこぬひとを

宵待草のやるせなさ

こよひは月もでぬさうな。

 美術館の学芸員谷口朋子(たにぐち・ともこ)(40)は13年前にここに来たとき、「夢二ってあんまり好きじゃない。甘く情緒的」と思った。

 夢二が生きたのは明治から大正、昭和にかけての49年間である。日清・日露戦争、大逆(たいぎゃく)事件、大正デモクラシー、関東大震災、そして満州事変まで日本は激しく動く世情の中にいた。

    ◇

 そんな時代を夢二は、たまきさん、彦乃(ひこの)さん、お葉(よう)さん、何人もの女性を愛し、美人画を描いて過ごしたんですね。

 「ええ、純粋だったからか、あるいは自分をさらけだす人だったのか。でも、夢二は反戦画家でもあったんですよ」

 美術館所蔵の明治の新聞「直言」の合本をめくる。1905(明治38)年6月の紙面のコマ絵、いまでいう政治漫画は、白衣の骸骨(がいこつ)と泣いている丸髷(まるまげ)の女が寄り添う姿である。「日露戦争の勝利の悲哀を描いている。夢二が描いた最初の政治風刺画だろうといわれています」

 当時、ナショナリズムを高揚させた日露戦争に対し、反戦論、非戦論が台頭していた。内村鑑三(うちむら・かんぞう)はキリスト者として、幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)、堺利彦(さかい・としひこ)ら社会主義者は「平民社」をつくって「週刊平民新聞」を発刊、世に訴えた。廃刊の憂き目にあうと、「直言」「光」「日刊平民新聞」などが後を継ぐ。

 「夢二はこれらにコマ絵を寄稿しているんです。けっこう、どぎつい絵ですよ」

 この絵、先頭は凱旋(がいせん)の楽隊、でも続くのは負傷兵、悲しむ女、後尾は得意顔の村長ですよ。ほう、これも戦争の悲哀ですね。こちらは資本家と労働者、これは成り金と女の図柄です。これは墓前で悲しむ女。はあ、夢二はこんな絵を描いたんですか。反戦と美人画。夢二はどんな人だったんでしょう。

 夢二は1884(明治17)年、岡山で生まれた。母と姉にだけ打ち明けて家出して上京、早稲田実業学校に入る。平民社に出入りする荒畑寒村(あらはた・かんそん)、岡栄次郎(おかえい・じろう)とともに下宿して社会主義に傾斜する。

 彼らの薦めで寄稿したコマ絵は、女性や子どもへの同情に満ちていた。反戦と美人画、いずれも遠い母や姉への思慕からはぐくんだものかもしれない。

 1911(明治44)年1月24日、号外売りが街を走る。夢二宅に出入りする女子学生神近市子(かみちか・いちこ)は、その号外を夢二に届けた。そこには、幸徳秋水ら大逆事件の死刑囚処刑のニュースが書かれていた。

 夢二はフーンとうなり、秋水らとは旧知であることを明かし、「みんなでお通夜をしようよ。線香とろうそくを買ってきておくれ」と神近に告げた。神近は、5年後、アナーキスト大杉栄(おおすぎ・さかえ)を愛情のもつれから刺す日蔭茶屋事件を起こし、戦後は社会党衆院議員になる。

 大逆事件は、天皇の暗殺を企てたかどで12人が死刑、12人が無期懲役になり、天下を震撼(しんかん)させた。だが、ほんとにそんな計画があったのか、社会主義者らを一網打尽にする権力の陰謀ではなかったのか。

    ◇

 「私は、夢二のデザインの仕事にもひかれるんです。雑誌の表紙や広告、絵はがきや千代紙。夢二はこういう日常のもので人気があったんですよ」と谷口。三越や千疋(せんびき)屋のポスター、カチューシャの唄(うた)やゴンドラの唄の楽譜の絵。大逆事件から一転、大正ロマンの世に。

 「夢二の人生からは時代が見えてくるんです」

 あのころ貧しい人の側に立ち、懸命にたたかった人々がいた。いま再び貧困、格差社会。100年の歴史に思いをはせて「大逆事件残照」を記したい。

◆竹久夢二の 社会主義新聞の「コマ絵」 

1905年頃

大原社研=若杉コメント

 竹久夢二(1884-1934)と大原社会問題研究所、片や叙情的な美人画で名を馳せた画人、一方は社会科学の研究所。どこに接点があるのでしょう。

 実は私もつい最近知ったことですが、、夢二がまだ無名のころに社会主義者と交流があったのです。それまであのナヨナヨとしたやたらに眼の大きな美人画には率直にいってあまり好感を持っていませんでしたが、そのことを知ってからは少し見方を変えてみようと思いました。

 夢二は17歳のころ九州から家出同然で上京し早稲田実業学校に入学します。早稲田で教鞭をとっていた安部磯雄のキリスト教社会主義に影響を受け、日露戦争への機運が高まる中で非戦論に共感を覚えるようになります。やがて、社会主義者たちとの交流が生まれ、もともと持っていた絵の才能を活かし当時の社会主義運動の新聞「平民新聞」「光」「直言」に風刺の効いたコマ絵を描くようになるのです。その絵は単色で荒削りながら率直に社会を見つめ批判性に満ちています。描かれる女性は後の美人画にみられる叙情性をすでに持ち合わせながらも独特の意志力を感じさせます。絵にそえた短文でもピリカラな才をみせます。

 「平民新聞」を発行した平民社に出入りし、社員だった荒畑寒村と雑司ケ谷の鬼子母神の近くで一時共同自炊生活をするのもこの頃のことです。実際は寒村が夢二の下宿にころがりこんだようですが。寒村らとの下宿生活からあのような絵と文が生まれたのでしょうか。

 こうした夢二の一面を私が知ったのは、2001年に町田市立国際版画美術館で開催された「夢二展」に協力した時のことです。学芸員のKさんがたびたび研究所に来所し、明治時代の初期社会主義運動の機関紙に掲載された夢二のコマ絵を詳細に調査されました。

 その結果、展示会場の初期夢二のコーナーでは「平民新聞」「光」「直言」などがドーンと見開きで展示されました。コマ絵自体はその名のように小さく、紙面の一隅に描かれていますが、なにせ展示では新聞全紙を丸ごと見開きで見せなければなりません。スペース効率はいかにもよくない、でも逆にそれが展示会場に一種独特な空気感をかもし出しているように感じたものです。「平民新聞」にしろ「光」にせよいずれも復刻縮刷版が刊行されています。しかしやはり多少赤茶けていても現物の持っている力は大きいと思いました。

 図録には製本された新聞ゆえ展示されなかったコマ絵も含めすべて掲載されました。この図録は、内容の豊かさ、膨大なページ数からこれまでの図録というイメージをはるかに超え、展示とあわせ夢二の全体像をとらえうる、まさに圧巻です。まことにスケールの大きな企画であったといえましょう。

 やがて夢二は画家としてたつことを決意し、社会主義系の新聞コマ絵から、一般商業誌のコマ絵や表紙絵を精力的に手がけるようになります。売れるようになったのですね。初期のコマ絵にあったような批判性はしだいに薄れ、あの独特の悲哀を帯びた色調・画調へと変化し、洗練されていく様が展示会でもよく表現されていました。

 夢二をよく知る人には著名になる前にこうした社会主義者たちと交流のあったことは知られていたことかもしれません。ここまで丁寧に調査され、展示にとりくまれた町田市立版画美術館の学芸員のおかげで私はその一面をはじめて知ることができました。あらためて担当された学芸員の底力を実感しました

 この展示があってからか、その後、世田谷文学館(2004年)や千葉市美術館(2007年)の催す夢二の展示会に「平民新聞」などの提供が続いています。

 研究所は竹久夢二関係の資料として、映画監督・映像作家であった故藤林伸治(ふじばやし・のぶはる)氏の旧蔵資料も所蔵しています。1997年に関係者より寄贈されたものです。藤林が取材の過程で収集した図書、新聞切り抜き、録音テープなどがあります。とりわけ晩年1932-33年にドイツに滞在した夢二に関する多様な資料が含まれています。藤林は夢二がユダヤ人救出の地下活動に協力したという情報も追っていたということです。このドイツへの旅行を、無名時に社会主義に共感したころの夢二自身への回帰ではないかとする研究者もいるようです。帰国後晩年にドイツのバウハウスに構想を得て榛名山の麓で産業美術学校の建設を試みます。結局映像化はされませんでしたが、藤林がどんな眼で夢二を追っていたかを思い巡らすのも興味深いものです。(20075月記)

<参考文献>

『夢二 1884-1934 アヴァンギャルドとしての叙情』(町田市立国際版画美術館、2001

「藤林伸治資料インデックス」http:oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/arc/fujibayasi.html

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🔵石川啄木=日露戦争論・大逆事件論

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★当ブログ=鑑賞・近藤典彦=石川啄木の韓国併合批判の歌

以下の歌などの解説は近藤論文参照のこと

誰そ我にピストルにても打てよかし伊藤の如く死にて見せなむ                

地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く

明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも

売ることをさしとめられし本の著者に道にて会へる秋の朝かな 

今おもへばげに彼もまた秋水の一味なりしと思ふふしもあり

常日頃好みて言ひし革命の語をつゝしみて秋に入れりけり

この世よりのがれむと思ふ企てに遊蕩の名を与へられしかな

わが抱く思想はすべて金なきに因する如し秋の風吹く

秋の風われら明治の青年の危機をかなしむ顔なでゝ吹く

時代閉塞の現状をいかにせむ秋に入りてことにかく思ふかな

★石川啄木を巡る戦争と社会主義 鳥飼行博研究室

http://www.geocities.jp/torikai007/bio/takuboku.html

石川啄木は、開戦直後「岩手日報」に「戦雲余録」という随筆を寄せ、この戦争は義戦だとしたが、やがてトルストイの非戦論を読んで心が揺れたと、ノートに したためている。(啄木「日露戦争論(トルストイ)」参照) その後、啄木は「大逆(たいぎゃく)事件」(明治天皇暗殺を計画したとの理由から、秋水ら社会主義者 が処刑された弾圧事件)に衝撃を受け、鋭い反応を示した。

日露戦争の当時は、ロシアを敵視していた歌人石川啄木は、ロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論を読み,戦争の原因となる欲望の醜さ、経済的要因、戦争プロパガンダを的確に読み取るようになった。

啄木勉強ノートによれば、石川啄木は1902年(明治35年)1031日、十七歳で上京し、英語翻訳で生活費を得ようとした。1111日、啄木の姉トラの夫から生活費の送金を受けた。そして、古書店で英語詩集などを買い求めた。しかし、職を得ることはできず、1903年2月26日帰郷。 

啄木日記

 1902年(明治35年)1112 

快晴、故山の友への手紙かき初む。

 一日英語研究に費す、読みしはラムのセークスピーヤにてロメオエンドジュリエットなり。 トルストイを読む

1902年(明治35年)1113 

快晴、 午前英語。午時より番町なる大橋図書館に行き宏大なる白壁の閲覧室にて、トルストイの我懺悔読み連用求覧券求めて四時かへる。

 猪川箕人兄の文杜陵より来る、人間の健康を説き文学宗教を論じ、更に欝然たる友情を展く。げにさなりき、初夏の丑みつ時の寂寥を破りて兄と中津川畔のベンチに道徳を論じニイチエを説きし日もありきよ、その夜の月今も尚輝れり、あゝ吾のみ百四十里の南にさすらひて、政友とはなるゝこの悲愁!!! まこと今は天の賜ひし貴重なる時也、さなり、思ひのまゝに勉めんかな。友よさらば安かれ。

 日露戦争の開戦時、日本が旅順を攻撃したことを渋民村で知った石川啄木は、戦果を喜んでだ。岩手日報「戦雲余録」(1904年年3月3日-19日)では、世界には永遠の理想があり、一時の文明や平和には安んずることができないから、文明平和の廃道を救うには、ただ革命と戦争の2つがあるのみだと言い切った。

「今の世には社会主義者などと云ふ、非戦論客があって、戦争が罪業だなどと真面目な顔をして説いて居る者がある」と書き、幸徳秋水らを与謝野晶子同様、批判した。

 石川啄木は「露国は我百年の怨敵であるから、日本人にとって彼程憎い国はない」と書いたが、「露西亜ほど哀れな国も無い」ともした。

日露戦争は、満州に対する日本の権利を確保する戦いであると同時に、東洋や世界の平和のために必要であったと考え、ロシアを光明の中に復活させたいと熱望する自由と平和の義戦であると考えていた。

日露戦争は、19059月のポーツマス講和によって集結した。日露戦争終結の翌年、1906年4月21日、沼宮内町で徴兵検査を受けた。筋骨薄弱のために、最上位の甲種に次ぐ、丙種合格となった。しかし、平時であるために、多くの徴兵合格者同様、徴集免除となっている。

徴兵検査日の啄木日記:「検査が午後一時頃になって、身長は五尺二寸二分、筋骨薄弱で丙種合格、徴集免除、予て期したる事ながら、これで漸やく安心した。自分を初め、徴集免除になったものが元気よく、合格者は却って頗る鎖沈して居た。新気運の動いているのは、此辺にも現れて居る。四里の夜路を徒歩で帰った」

石川啄木は、父一禎の宝徳寺住職の再任問題と、啄木自身の渋民尋常高等小学校代用教員辞令を受けていた。

⇒(素顔の啄木像―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く <思想>』引用終わり)

1904年(明治37)年627Times掲載のトルストイの非戦の日露への訴えは、幸徳秋水・堺利彦らの『平民新聞』87日の第39号に「日露戦争論」として紹介された。

石川啄木『日露戦争論(トルストイ)

 「レオ・トルストイ翁のこの驚嘆すべき論文は、千九百四年(明治三十七年)六月二十七日を以てロンドンタイムス紙上に発表されたものである。その日は即ち日本皇帝が旅順港襲撃の功労に対する勅語を東郷連合艦隊司令長官に賜わった翌日、満州に於ける日本陸軍が分水嶺の占領に成功した日であった。

 「—–戦争観を概説し、『要するにトルストイ翁は、戦争の原因を以て個人の堕落に帰す、故に悔改めよと教えて之を救わんと欲す。吾人社会主義者は、戦争の原因を以て経済的競争に帰す、故に経済的競争を廃して之を防遏せんと欲す。』とし、以て両者の相和すべからざる相違を宣明せざるを得なかった。—-実際当時の日本論客の意見は、平民新聞記者の笑ったごとく、何れも皆『非戦論はロシアには適切だが、日本にはよろしくない。』という事に帰着したのである。」

 「当時語学の力の浅い十九歳の予の頭脳には、無論ただ論旨の大体が朧気に映じたに過ぎなかった。そうして到る処に星のごとく輝いている直截、峻烈、大胆の言葉に対して、その解し得たる限りに於て、時々ただ眼を円くして驚いたに過ぎなかった。『流石に偉い。しかし行なわれない。』これ当時の予のこの論文に与えた批評であった。そうしてそれっきり忘れてしまった。予もまた無雑作に戦争を是認し、かつ好む『日本人』の一人であったのである。

 その後、予がここに初めてこの論文を思い出し、そうして之をわざわざ写し取るような心を起すまでには、八年の歳月が色々の起伏を以て流れて行った。八年! 今や日本の海軍は更に日米戦争の為に準備せられている。そうしてかの偉大なロシア人はもうこの世の人でない。 しかし予は今なお決してトルストイ宗の信者ではないのである。予はただ翁のこの論に対して、今もなお『偉い。しかし行なわれない。』という外はない。ただしそれは、八年前とは全く違った意味に於てである。この論文を書いた時、翁は七十七歳であった。」

(『日露戦争論(トルストイ)』青空文庫) 

1904年日露戦争勃発。『岩手日報』に「戦雲余禄』連載。翌年詩集『あこがれ』刊行。堀合節子と結婚。文芸誌『小天地』刊行。

1906年渋民尋常高等小学校の代用教員。小説『雲は天才である』執筆。小説『葬列』を『明星』に掲載。長女・京子誕生。

1907年函館市弥生尋常小学校代用教員。函館日日新聞社の遊軍記者。函館大火で失職。札幌の北門新報、小樽日報社に転職。

1908年釧路新聞社勤務。4月単身上京。11月『東京毎日新聞』に「鳥影」連載開始。翌年『スバル』創刊号発行。3月東京朝日新聞社の校正に採用。6月、妻・子・母を迎える。

1910年幸徳秋水等の「陰謀事件」を読み、『所謂今度の事』執筆。

 石川啄木は,北海道の四つの新聞社を転々として10ヶ月を過ごし,1908年(明治414月、東京に戻った。『一握の砂』の刊行は、191012月である。

 (⇒小樽啄木忌の集い 講演「小樽のかたみ」のおもしろさ:新谷 保人,北海道雑学百科:北海道生まれの文学・石川啄木,および〈亀井秀雄の発言〉文学館の見え方(啄木の現実)引用)

.石川啄木は,資本主義の発展の中で,学生,知識人が無気力感、虚無主義(ニヒリズム)に苛まれている状況を,「時代閉塞の現状」で吐露した。

190814日「啄木メモ」には,「要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一齣である。」とある。6月赤旗事件。

1909年4月12日の啄木日記には「予は与謝野氏をば兄とも父とも、無論、思っていない。あの人はただ予を世話してくれた人だ。予は今与謝野氏に対して別に敬意をもっていない。同じく文学をやりながらも何となく別の道を歩いているように思っている。予は与謝野氏とさらに近づく望みをもたぬと共に、敢えてこれと別れる必要を感じない。」とある。

石川啄木「時代閉塞の現状 (強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)」  

新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格(かんかく)があるだろうか。淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。

かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積してきたその自身の力を独りで持余(もてあま)しているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌(ないこう)的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞」の結果なのである。

 見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。

 時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口(ほうしょくぐち)の心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享(う)ける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次(ぜんじ)その数を増しつつある。今やどんな僻村(へきそん)へ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。

 我々青年を囲繞(いぎょう)する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普(あまね)く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥の日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉とか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦との急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦(わがくに)において、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁する場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。

 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。

「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰(いわ)く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」

 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。

「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰になっている。曰(いわ)く、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」

 かの早くから我々の間に竄入(ざんにゅう)している哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。

けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた間に、べつに青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知るごとく、日清戦争の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であった。すでに自然主義運動の先蹤(せんしょう)として一部の間に認められているごとく、樗牛(ちょぎゅう)の個人主義がすなわちその第一声であった。(そうしてその際においても、我々はまだかの既成強権に対して第二者たる意識を持ちえなかった。樗牛は後年彼の友人が自然主義と国家的観念との間に妥協を試みたごとく、その日蓮論の中に彼の主義対既成強権の圧制結婚を企てている)

 樗牛の個人主義の破滅の原因は、かの思想それ自身の中にあったことはいうまでもない。すなわち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的(日露戦争以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であったごとく)であった。そうしてその思想が魔語のごとく(彼がニイチェを評した言葉を借りていえば)当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めたのである。

 この失敗は何を我々に語っているか。いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に自力をもって我々が我々の天地を新に建設するということはまったく不可能だということである。かくて我々は期せずして第二の経験――宗教的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興がおのずからその跳梁に堪えられなくなったのだと批評された。しかしそれは正鵠を得ていない。なぜなればそこにはただ方法と目的の場所との差違があるのみである。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。そうしてこの第二の経験もみごとに失敗した。我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬の情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐(きゅうこう)の天に飛翔することを許さなかったのである。

 第三の経験はいうまでもなく純粋自然主義との結合時代である。この時代には、前の時代において我々の敵であった科学はかえって我々の味方であった。そうしてこの経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与えている。それはほかではない。「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」

 かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒(しゅんきょ)して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

 さらに、すでに我々が我々の理想を発見した時において、それをいかにしていかなるところに求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」をそのままにしてか、しないでか。あるいはまた自力によってか、他力によってか、それはもういうまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。したがって過去における失敗をふたたびするはずはないのである。

 文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚(さま)してくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享(う)くるからである。時代に没頭していては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。

7.日本では,1910年に社会主義者による天皇暗殺未遂事件,いわゆる「大逆事件」が起こった。国体を脅かす危険思想は取り締まり・弾圧の対象とされた。その筆頭が社会主義者,社会主義思想だった。しかし,石川啄木は,「所謂今度の事」で,思想統制に反発し,社会主義者に同調した。

石川啄木『所謂今度の事』

やがて彼等はまた語り出した。それは「今度の事」についてであった。今度の事の何たるかはもとより私の知らぬ所、また知ろうとする気も初めは無かった。すると、ふと手にしている夕刊のある一処に停まったまま、私の眼は動かなくなった。「今度の事はしかし警察で早く探知したからよかったさ。焼討とか赤旗位ならまだいいが、あんな事を実行されちゃそれこそ物騒極まるからねえ。」そう言う言葉が私の耳に入って来た。「僕は変な事を聞いたよ。首無事件や五人殺しで警察が去年からさんざん味噌を付けてるもんだから、今度の事はそれ程でも無いのをわざとあんなに新聞で吹聴させたんだって噂もあるぜ。」そう言う言葉も聞えた。「しかし僕等は安心して可なりだね。今度のような事がいくら出て来たって、殺される当人が僕等でないだけは確かだよ。」そう言って笑う声も聞えた。私は身体中を耳にした。今度の事と言うのは、実に、近頃幸徳等一味の無政府主義者が企てた爆烈弾事件の事だったのである。

 三人の紳士が、日本開闢以来の新事実たる意味深き事件を、ただ単に「今度の事」と言った。これもまた等しく言語活用の妙で無ければならぬ。「何と巧い言い方だろう!」私は快く冷々するコップを握ったまま、一人幽かに微笑んで見た。

 間もなく私もそこを出た。そうして両側の街灯の美しく輝き始めた街に静かな歩を運びながら、私はまた第二の興味に襲われた。それは我々日本人のある性情、二千六百年の長き歴史に養われて来たある特殊の性情についてであった。この性情は蓋し我々が今日までに考えたよりも、なお一層深く、かつ広いものである。かの偏えにこの性情に固執している保守的思想家自身の値踏みしているよりも、もっともっと深くかつ広いものである。そして、千九百余年前のユダヤ人が耶蘇キリストの名をあからさまに言うを避けてただ「ナザレ人」と言った様に、ちょうどそれと同じ様に、かの三人の紳士をして、無政府主義という言葉を口にするを躊躇してただ「今度の事」と言わしめた、それもまた恐らくはこの日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかった。 

蓋し無政府主義という語の我々日本人の耳に最も直接に響いた機会は、今日までの所、前後二回しかない。無政府主義という思想、無政府党という結社のある事、及びその党員が時々凶暴なる行為をあえてする事は、書籍により、新聞によって早くから我々も知っていた。中には特にその思想、運動の経過を研究して、邦文の著述をなした人すらある。しかしそれは洋を隔てた遥か遠くの欧米の事であった。我々と人種を同じくし、時代を同じくする人の間にその主義を信じ、その党を結んでいる者のある事を知った機会はついに二回しかない。

 その一つは往年の赤旗事件である。帝都の中央に白昼不穏の文字を染めた紅色の旗を翻して、警吏の為に捕われた者の中には、数名の若き婦人もあった。その婦人等日本人の理想に従えば、穏しく、しとやかに、よろづに控え目であるべきはずの婦人等は、厳かなる法廷に立つに及んで、何の臆する所なく面を揚げて、「我は無政府主義者なり。」と言った。それを伝え聞いた国民の多数は、目を丸くして驚いた。

 少数の識者があって、多少芝居の筋を理解して、翌る日の新聞に劇評を書いた。「社会主義者諸君、諸君が今にしてそんな軽率な挙動をするのは、決して諸君のためではあるまい。そんな事をするのは、ようやく出来かかった国民の同情を諸君自ら破るものではないか。」と。今日になってみれば、そのいわゆる識者の理解なるものも、決して徹底したものであったとは思えない。「我は無政府主義者なり。」と言う者を「社会主義者諸君。」と呼んだ事が、取りも直さずそれを証明しているではないか。

そうして第二は言うまでもなく今度の事である。

 今度の事とは言うものの、実は我々はその事件の内容を何れだけも知っているのではない。秋水幸徳伝次郎という一著述家を首領とする無政府主義者の一団が、信州の山中に於いて密かに爆烈弾を製造している事が発覚して、その一団及び彼等と機密を通じていた紀州新宮の同主義者がその筋の手に、検挙された。彼等が検挙されて、そしてその事を何人も知らぬ間に、検事局は早くも各新聞社に対して記事差止の命令を発した。—-新聞も、ただ叙上の事実と、及び彼等被検挙者の平生について多少の報道をなす外にしかたがなかった。そしてかく言う私のこの事件に関する知識も、ついに今日までに都下の各新聞の伝えた所以上に何物をももっていない。

 もしも単に日本の警察の成績という点のみを論ずるならば、今度の事件のごときは蓋し空前の成功と言ってもよかろうと思う。ただに迅速に、かつ遺漏なく犯罪者を逮捕したというばかりでなく、事を未然に防いだという意味において特にそうである。過去数年の間、当局は彼等いわゆる不穏の徒のために、ただに少なからざる機密費を使ったばかりでなく、専任の巡査数十名を、ただ彼等を監視させるために養って置いた。かくのごとき心労と犠牲とを払っていて、それで万一今度の様な事を未然に防ぐことが出来なかったなら、それこそ日本の警察がその存在の理由を問われてもしかたのない処であった。幸いに彼等の心労と犠牲とは今日の功を収めた。

 それに対しては、私も心から当局に感謝するものである。蓋し私は、極端なる行動というものは真に真理を愛する者、確実なる理解をもった者の執るべき方法で無いと信じているからである。正しい判断を失った、過激な、極端な行動は、例えば導火力の最も高い手擲弾のごときものである。未だ敵に向って投げざるに、早く已に自己の手中にあって爆発する。私は、たとえその動機が善であるにしろ、悪であるにしろ、観劇的興味を外にしては、我々の社会の安寧を乱さんとする何者に対しても、それを許すべき何等の理由をもっていない。もしも今後再び今度の様な計画をする者があるとするならば、私はあらかじめ当局に対して、今度以上の熱心をもってそれを警戒することを希望して置かねばならぬ。

 しかしながら、警察の成功は警察の成功である。そして決してそれ以上ではない。日本の政府がその隷属する所の警察機関のあらゆる可能力を利用して、過去数年の間、彼等を監視し、拘束し、ただにその主義の宣伝ないし実行を防遏したのみでなく、時にはその生活の方法にまで冷酷なる制限と迫害とを加えたに拘わらず、彼等の一人といえどもその主義を捨てた者はなかった。主義を捨てなかったばかりでなく、かえってその覚悟を堅めて、ついに今度の様な凶暴なる計画を企て、それを半ばまで遂行するに至った。今度の事件は、一面警察の成功であると共に、また一面、警察ないし法律という様なものの力は、いかに人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを語っているではないか。政府並に世の識者のまず第一に考えねばならぬ問題は、蓋しここにあるであろう。

ヨーロッパにおける無政府主義の発達及びその運動に多少の注意を払う者の、まず最初に気の付く事が二つある。一つは無政府主義と言わるる者の今日までなした行為は凡て過激、極端、凶暴であるに拘わらず、その理論においては、祖述者の何人たると、集産的たると、個人的たると、共産的たるとを問わず、ほとんど何等の危険な要素を含んでいない事である。—-も一つは、それら無政府主義者の言論、行為の温和、過激の度が、不思議にも地理的分布の関係を保っている事である。これは無政府主義者の中に、クロポトキンやレクラスの様な有名な地理学者があるからという洒落ではない。

 前者については、私は何もここに言うべき必要を感じない。必要を感じないばかりでなく、今の様な物騒な世の中で、万一無政府主義者の所説を紹介しただけで私自身また無政府主義者であるかのごとき誤解をうける様な事があっては、迷惑至極な話である。そしてまた、結局私は彼等の主張を誤りなく伝える程に無政府主義の内容を研究した学者でもないのである。が、もしも世に無政府主義という名を聞いただけで眉をひそめる様な人があって、その人が他日かの無政府主義者等の所説を調べてみるとするならば、きっと入口を間違えて別の家に入って来たような驚きを経験するだろうと私は思う。彼等のある者にあっては、無政府主義というのはつまり、凡ての人間が私慾を絶滅して完全なる個人にまで発達した状態に対する、熱烈なる憧憬に過ぎない。またある者にあっては、相互扶助の感情の円満なる発現を遂げる状態を呼んで無政府の状態と言ってるに過ぎない。私慾を絶滅した完全なる個人と言い、相互扶助の感情と言うがごときは、いかに固陋なる保守道徳家にとっても左まで耳遠い言葉であるはずがない。もしこれらの点のみを彼等の所説から引離して見るならば、世にも憎むべき凶暴なる人間と見られている、無政府主義者と、一般教育家及び倫理学者との間に、どれほどの相違もないのである。人類の未来に関する我々の理想は蓋し一である洋の東西、時の古今を問わず、畢竟一である。ただ一般教育家および倫理学者は、現在の生活状態のままでその理想の幾分を各人の犠牲的精神の上に現わそうとする。個人主義者は他人の如何に拘わらずまず自己一人の生涯にその理想を体現しようとする。社会主義者にあっては、人間の現在の生活がすこぶるその理想と遠きを見て、因を社会組織の欠陥に帰し、主としてその改革を計ろうとする。而してかの無政府主義者に至っては、実に、社会組織の改革と人間各自の進歩とを一挙にして成し遂げようとする者である。以上は余り不謹慎な比較ではあるが、しかしもしこのような相違があるとするならば、無政府主義者とは畢竟「最も性急なる理想家」の謂でなければならぬ。既に性急である、故に彼等に、その理論の堂々として而して何等危険なる要素を含んでいないに拘わらず、未だ調理されざる肉を喰らうがごとき粗暴の態と、小児をして成人の業に就かしめ、その能わざるを見て怒ってこれを蹴るがごとき無謀の挙あるは敢えて怪しむに足るのである。

 五 —-地理的分布言う意味は、無政府主義とヨーロッパに於ける各国民との関係という事である。

 凡そ思想というものは、その思想所有者の性格、経験、教育、生理的特質及び境遇の総計である。而して個人の性格の奥底には、その個人の属する民族ないし国民の性格の横たわっているのは無論である。—–ある民族ないし国民とある個人の思想との交渉は、第一、その民族的、国民的性格に於てし、第二、その国民的境遇(政治的、社会的状態)に於てする。そして今ここ無政府主義に於ては、第一は主としてその理論的方面に、第二はその実行的方面に関係した。

 第一の関係は、我々がスチルネル、プルウドン、クロポトキン三者の無政府主義の相違を考える時に、直ぐ気の付く所である。蓋しスチルネルの所説の哲学的個人主義的なるプルウドンの理論のすこぶる鋭敏な直観的傾向を有して、而して時に感情にはしらんとする、及びクロポトキンの主張の特に道義的な色彩を有する、それらは皆、彼等の各々の属する国民ドイツ人、フランス人、ロシア人という広漠たる背景を考うることなしには、我々の正しく理解する能わざる所である。

 そして第二の関係その国の政治的、社会的状態と無政府主義の関係は、第一の関係よりもなお一層明白である。  (青空文庫 石川啄木『所謂今度の事』引用終わり)

◆所謂今度の事「大逆事件」では,幸徳秋水伝次郎を首領とする無政府主義者Anarchistの一団が、天皇暗殺を企て,密かに爆弾を製造していたが、その一団と通じていた無政府主義者も検挙された。その事を何人も知らぬ間に、検事局は新聞記事差止の命令を発した。つまり,警察ないし法律の力は、人間の思想的行為にむかって無能なものであるかを証明した。このように,石川啄木は,言論の自由とそれを抑圧する政府の弊害を痛烈に批判した。

.日本では,資本主義の発達とともに,労働者の不満も高まっていた。これが,赤旗事件のような,公然たる社会主義的示威活動を引き起こした。芥川龍之介などの日本の代表的な文化人は,社会主義者に同調していた。しかし,社会主義は,国体に反する危険思想であり,弾圧された。この時代閉塞の状況に,不安を感じていた芥川龍之介は,自ら命を絶った。

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🔵与謝野晶子の「あゝ弟よ」

鳥飼行博

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写真():『みだれ髪』を残した歌人与謝野晶子;(18781942)明治11年、堺の和菓子屋駿河屋の三女として誕生し、明治・大正・昭和を生きた。11人の子どもたちの母。「人間性の解放と女性の自由の獲得をめざして、その豊かな才能を詩歌に結実した情熱のひと」と評価する。19151-2月,雑誌『太陽』で「あなたがたは選挙権ある男子の母であり、娘であり、妻であり、姉妹である位地から、選挙人の相談相手、顧問、忠告者、監視者となって、優良な新候補者を選挙人に推薦すると共に、情実に迷いやすい選挙人の良心を擁護することが出来る。合理的の選挙を日本の政界に実現せしめる熱心さを示されることをひたすら熱望する。」と述べた。当時,夫与謝野鉄幹が衆議院選に立候補した。(寛、衆議院議員選挙立候補引用)愛の旅人によれば,二人の間には,葛藤もあったようだ。19399 『新新訳源氏物語』完成。19405 脳溢血で倒れ、以後右半身不随の病床生活。

.日本は,日露戦争に際して,朝鮮半島,中国東北地方に派兵した。この出征兵士のなかにいた歌人與謝野晶子の実弟・鳳籌三郎(ほう ちゅうざぶろう)は,大阪の歩兵第八聯隊に入隊,第三軍第四師団の一員として旅順攻略に参加した。晶子は弟を思って「君死にたもうことなかれ」を詠った。

与謝野晶子が、日露戦争に出征した晶子の弟・鳳籌三郎

ちゅうざぶろう

を思って詠んだ「君死にたまふことなかれ」は有名である。一般的には、戦争に反対する平和の歌であると紹介される。しかし、反戦の歌か、それとも弟の無事を案じた個人の歌なのか議論がある。

君死にたまうことなかれ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ

末に生まれし君なれば   親のなさけは まさりしも

親は刃やいばをにぎらせて  人を殺せと をしへ教えしや

人を殺して死ねよとて  二十四までを そだてしや

堺の街の あきびとの  旧家をほこる あるじにて親の名を継ぐ君なれば  君死にたまふことなかれ

旅順の城はほろぶとも  ほろびずとても何事ぞ

君は知らじな、あきびとの  家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ、 すめらみこと

皇尊は、戦ひにおほみづからは出でまさね 

かたみに人の血を流し獣の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、

大みこころの深ければ もとよりいかで思

おぼされむ

ああおとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ

すぎにし秋を父ぎみに  おくれたまへる母ぎみは、

なげきの中に いたましく わが子を召され、家を守もり、

安しときける大御代も  母のしら髪

がは まさりぬる。

暖簾のれんのかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を

君わするるや、思へるや 十月

とつきも添はで わかれたる少女をとめ

ごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで

ああまた誰をたのむべき  君死にたまふことなかれ。

「小さな資料室」資料62 謝野晶子「君死にたまふことなかれ」によれば,与謝野晶子の父・宗七(善六)は、1847年(弘化4年)924日生まれ、大阪堺市の和菓子商駿河屋の二代目、日露戦争前年の1903年9月14日死亡。与謝野(旧姓鳳)晶子の実弟・籌三郎(ちゅうざぶろう)は、1903年8月、24歳(数え年,今の23歳)で、堺せいと結婚した。 

しかし,鳳は,1905年(明治37年)の日露戦争に大阪の歩兵第八連隊に召集された。鳳籌三郎(24歳)は、第三軍の乃木希典

のぎ まれすけ

司令官の下の第四師団第八連隊に所属,旅順攻略戦に参加した。

与謝野晶子の弟・鳳籌三郎

ちゅうざぶろう

は字が書ける「特技」で、戦闘には参加せず、将官の書記役を務めた。「何と、字の知らん兵隊が如何に多いのやろう」が籌三郎の感想だったという。

籌三郎は1900年ごろ晶子に先んじて浪華(なにわ)青年文学会堺支部に入会し、文学少女晶子のよき理解者であった。父の死、弟の堺の和菓子屋襲名、留守の母と義妹への愛情が,歌の背景にあった。晶子が「二十四までをそだてしや」と歌った時、籌三郎は数えで25歳,満24歳。籌三郎は,無事に帰国し、1944年2月25日、63歳でなくなった。 「小さな資料室」資料62 謝野晶子「君死にたまふことなかれ」引用)

◆与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」が発表されると,文芸評論家の大町桂月は,1904年『太陽』十月号で,「君死にたまふこと勿れ」を危険思想と論じた。「戦争を非とするもの、夙に社会主義を唱ふるものゝ連中ありしが、今又之を韻文に言ひあらはしたるものあり。晶子の『君死にたまふこと勿れ』の一篇、是也。草莽の一女子、『義勇公に奉ずべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議す。大胆なるわざ也。家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉也。」

与謝野晶子は,『明星』十一月号で,死ねよと簡単に言う事、忠君愛国の文字、教育御勅語を引用して論ずる流行の方か,かえって危険であると反論した。王朝の御世にも,人に死ねとか,畏おほく勿体きことを書き散らす文章は見当たらない。歌詠みなら、「まことの心を歌うべき」で,そうでない歌には値打ちがない、そうでない人には「何の見どころもない」と言い切った。

ひらきぶみ 与謝野晶子:「明星」新詩社 1904(明治37)年11月号 

  私が弟への手紙のはしに書きつけやり候歌、なになれば悪ろく候にや。あれは歌に候。この国に生れ候私は、私らは、この国を愛(め)で候こと誰にか劣り候べき。物堅き家の両親は私に何をか教へ候ひし。堺の街にて亡き父ほど天子様を思ひ、御上(おかみ)の御用に自分を忘れし商家のあるじはなかりしに候。弟が宅(うち)へは手紙ださぬ心づよさにも、亡き父のおもかげ思はれ候。まして九つより『栄華』や『源氏』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもます/\王朝の御代なつかしく、下様(しもざま)の下司(げす)ばり候ことのみ綴(つづ)り候今時(いまどき)の読物をあさましと思ひ候ほどなれば、『平民新聞』とやらの人たちの御議論などひと言ききて身ぶるひ致し候。さればとて少女と申す者誰も戦争(いくさ)ぎらひに候。御国のために止むを得ぬ事と承りて、さらばこのいくさ勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り、はた今の久しきわびずまひに、春以来君にめりやすのしやつ一枚買ひまゐらせたきも我慢して頂きをり候ほどのなかより、私らが及ぶだけのことをこのいくさにどれほど致しをり候か、人様に申すべきに候はねど、村の者ぞ知りをり候べき。提灯行列のためのみには君ことわり給ひつれど、その他のことはこの和泉(いずみ)の家の恤兵(じゆつぺい)の百金にも当り候はずや。馬車きらびやかに御者馬丁に先き追はせて、赤十字社への路に、うちの末が致してもよきほどの手わざ、聞えはおどろしき繃帯巻(ほうたいまき)を、立派な令夫人がなされ候やうのおん真似(まね)は、あなかしこ私などの知らぬこと願はぬことながら、私の、私どものこの国びととしての務(つとめ)は、精一杯致しをり候つもり、先日××様仰せられ候、筆とりてひとかどのこと論ずる仲間ほど世の中の義捐(ぎえん)などいふ事に冷(ひやや)かなりと候ひし嘲りは、私ひそかにわれらに係はりなきやうの心地致しても聞きをり候ひき。 君知ろしめす如し、弟は召されて勇ましく彼地へ参り候、万一の時の後の事などもけなげに申して行き候。この頃新聞に見え候勇士々々が勇士に候はば、私のいとしき弟も疑なき勇士にて候べし。さりながら亡き父は、末の男の子に、なさけ知らぬけものの如き人に成れ、人を殺せ、死ぬるやうなる所へ行くを好めとは教へず候ひき。学校に入り歌俳句も作り候を許され候わが弟は、あのやうにしげ/\妻のこと母のこと身ごもり候児(こ)のこと、君と私との事ども案じこし候。かやうに人間の心もち候弟に、女の私、今の戦争唱歌にあり候やうのこと歌はれ候べきや。

 私が「君死にたまふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ/\と申し候こと、またなにごとにも忠君愛国などの文字や、畏(おそれ)おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残りをり候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿体(もつたい)なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候。いくさのこと多く書きたる源平時代の御本にも、さやうのことはあるまじく、いかがや。 

 歌は歌に候。歌よみならひ候からには、私どうぞ後の人に笑はれぬ、まことの心を歌ひおきたく候。まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。長き/\年月の後まで動かぬかはらぬまことのなさけ、まことの道理に私あこがれ候心もち居るかと思ひ候。この心を歌にて述べ候ことは、桂月様お許し下されたく候。桂月様は弟御(おとうとご)様おありなさらぬかも存ぜず候へど、弟御様はなくとも、新橋渋谷などの汽車の出で候ところに、軍隊の立ち候日、一時間お立ちなされ候はば、見送の親兄弟や友達親類が、行く子の手を握り候て、口々に「無事で帰れ、気を附けよ」と申し、大ごゑに「万歳」とも申し候こと、御眼と御耳とに必ずとまり給ふべく候。渋谷のステーシヨンにては、巡査も神主様も村長様も宅の光までもかく申し候。かく申し候は悪ろく候や。私思ひ候に、「無事で帰れ、気を附けよ、万歳」と申し候は、やがて私のつたなき歌の「君死にたまふこと勿れ」と申すことにて候はずや。彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候。

◆兵士を出征させ,戦争に協力する市民はみな日本が勝利し,兵士が凱旋,帰郷すること,すなわち武運長久を祈った。これは,戦争遂行,祖国の勝利の枠組みの中で,家族の無事を優先する庶民的願望である。敵のロシア人や戦場となった中国人への配慮,戦争目的,国際情勢は二の次であった。戦争の大儀,大日本帝国の国益よりも,武運長久を優先した。

立派な新体詩を作る桂月様は博士、夫に教えて頂き新体詩まがいを試みる私は幼稚園の生徒と卑下しつつ、汽車で大阪についた。あす天気が良ければ、長男の光に堺の浜みせてやれと母は言って寝てしまった,と旅行作家の先輩にあった顛末をつた。

大町桂月は,1905年『太陽』一月号「詩歌の真髄」で,ふたたび「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と再度,晶子の歌を非難した。しかし,晶子の夫,国粋主義の与謝野鉄幹のとりなしで,論戦は終息した。明治の元勲が政治と軍事を握っていた明治時代,列国に範をとった富国強兵を進めていたから,神がかりな皇室中心主義は,明治の元勲たちにも人気はなかった。

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🔵内村鑑三と日露戦争

Wiki内村鑑三から

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★★内村鑑三=非戦論

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/antiwar/uchimurakanzo.html

日清戦争は支持していた内村だったが、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになる。624日に東京帝国大学の戸水寛人ら7人の教授が開戦を唱える建議書を提出し、それが公表されると、610日には『戦争廃止論』を萬朝報に発表した。萬朝報も当初は非戦論が社論であったが、1903年(明治36年)108日、世論の主戦論への傾きを受けて同紙も主戦論に転じると、内村は幸徳秋水、堺枯川と共に萬朝報を離れることとなった。

萬朝報退社後も、『聖書之研究』を通じて、非戦論を掲げていたが、1904年(明治37年)2月には日露開戦の破目にいたった。戦争中は、日本メソジスト教会の本多庸一や日本組合教会の小崎弘道らキリスト教の多数派として主戦論に傾いて積極的に戦争に協力したが、非戦論は内村や柏木義円などのきわめて少数であったので、内村はキリスト者の間でも孤立した。

1904年(明治37年)のクリスマスを迎えた内村は、クリスマスは平和主義者の日であって「主戦論者はこの日を守る資格を有せず」と述べた。のちの文学者の中里介山青年は内村の言葉に拍手喝采を送り、半年後に『新希望』(『聖書之研究』の改題)に「予が懺悔」という文を寄せている。

キリスト教信者である内村鑑三の非戦論は、「戦争政策への反対」と「戦争自体に直面したときの無抵抗」という二重表現を通じて、あらゆる暴力と破壊に抗議し、不義の戦争時において兵役を受容するという行動原理を正当化した。

内村は、その立場から日露戦争に反対する言論を展開した。内村に「徴兵拒否をしたい」と相談に来た青年に対しては、同様の立場から「家族のためにも兵役には行った方がいい」と発言した。例えば、斉藤宗次郎は、内村に影響されて非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をしたが、後に内村の説得により翻意している。

内村の非戦論は「キリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって戦場に行く」ことを信者に対して求める無教会主義者の教理に基づく。「一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者は臆病である」と述べて、内村は弟子に兵役を避けないよう呼びかけた。

内村は「悪が善の行為によってのみ克服されるから、戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される」と論じ、「神は天においてあなたを待っている、あなたの死は無駄ではなかった」という言葉を戦死者の弟子に捧げた。また、若きキリスト教兵役者に「身体の復活」と「キリストの再臨」(前者は個人の救い、後者は社会の救い)の信仰に固く立つよう勧めた。

19041111月に精神障害を患っていた母親が死去する。すると、弟の達三郎が、母親を死に至らしめたのは内村であると責め始め、母親の葬儀では内村に妨害と侮辱を加えた。この争いは、『東京パック』の北沢楽天の風刺画で取り上げられ、兄弟間の骨肉の争いは世間に知られることになった。このことがきっかけになり、肉親よりはキリスト者の交流を求めるようになり、角筈聖書研究会が再開され、聖書之研究の読者組織である教友会の結成を呼びかけるようになった。東京の角筈に最初の教友会が設立され、新潟の柏崎、大鹿、三条、長野県では上田、小諸、東穂高、千葉県では鳴浜、栃木県では下野(宇都宮)、岩手県では花巻に結成された。

1906年(明治39年)の夏には、新潟県柏崎で夏期懇談会を開き、1907年(明治40年)に夏には千葉県鳴浜で同じ懇談会を開催して、全国から教友が参加した。

この頃より、内村は社会主義者に距離を置くようになった。1907年2月には『基督教と社会主義』を小型の「角筈パムフレット」として刊行し、社会主義者とキリスト者の差を明確にした。1908年には社会主義者の福田英子の聖書研究会への出席を拒絶している。

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🔵魯迅と日露戦争

鳥飼行博

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.歌人石川啄木が感銘を受けたロシア文学者トルストイによる日露戦争非戦論には,日本の仙台で医学を学んでいた中国の官費留学生・魯迅も注目していた。魯迅も,文学による社会批評を重視し,社会改革を志した。中国に帰国してしばらくすると,社会主義思想に同調するようになった。これらは,石川啄木との共通点である。 

 魯迅の日本観:日本留学を通しての日本認識 孫長虹によれば,「藤野先生」を書き7年間の日本留学経験をもつ魯迅が有名である。1881年,中国浙江省紹興城に生まれた魯迅は,19024月に20歳で両江総督劉坤一によって、官費による日本留学生となった。19098月まで7年間以上,日本に滞在した。

1894 年の日清戦争に敗れた中国は、明治維新に成功した日本をモデルとし、1896 年最初の日本への中国人留学生を 13 名派遣したが,魯迅留学の年には600名,1906 年には12,000名の中国人留学生がいた。しかし,弁髪は「チャンチャン坊主」といって差別された。

1933年初夏、上海の魯迅と内山完造

1917年、内山完造は上海に渡り、内山書店を開業。書店は,左翼作家書籍のな販売店で、進歩的文化人が集まるサロン的存在だった。魯迅(18811936)の本名は周樹人。字は予才。号を魯迅、中国の代表的な文学者。浙江省紹興の人。1902年、日本へ留学、1904年仙台医学専門学校に入学 後、国民性改造のため文学を志向し東京にもどる。1909年帰国し教員となる。1918年、狂人日記、孔乙己、阿Q世伝を発表。教育者として北京大学など教壇に立った魯迅は又、北洋軍閥の文化弾圧と衝突した学生運動三・一八事件により北京を脱出。中山大学等で教壇に立った。民族主義文学に徹し反封建主義、反帝国主義の文学が基調。(★魯迅詩集★近代中国詩家絶句選(4)引用)

1927105日、魯迅は内山書店を訪れた。これを契機に、内山完造と親交を深め,魯迅は内山に四度もかくまってもらった。郭沫若、陶行知など左翼文化人も国民党政府の追及を逃れるため、内山書店に身を寄せた。1932年から、内山書店は魯迅の著作の発行代理店になった。1936年に魯迅が逝去すると、内山完造は「魯迅文学賞」を創設、《魯迅全集》編集顧問にも選ばれた。1935年、内山完造の弟の内山嘉吉が東京で内山書店を開店。入り口の扁額は、郭沫若が書いた。(チャイナネット20073月「内山書店と魯迅」引用) 

清国留学生魯迅が19025月から19049月まで在籍していた弘文学院の留学生の半数以上は、首都の北京警務学堂から派遣された「北京官費生」である。19049月から19063月まで,日露戦争の時期,魯迅は,仙台で医学を学んだ。留学先の仙台医学専門学校(現東北大学医学部)解剖学講座講師藤野厳九郎先生から日本人の仕事や学問に対する熱心さと勤勉さを感じ取り、後に日中戦争の険悪な状況の中においても、魯迅は「日本の全部を排斥しても、真面目という薬だけは買わねばならぬ」と言った。

魯迅の日本留学中、日清戦争後の日本の中国に対する蔑視を魯迅は肌で感じたと同時に、日本の一般の人々とのかかわりを通して日本人の素朴さも感じとったと思われる。魯迅は休みに、水戸で、1665年,水戸徳川家2代藩主光圀に招かれ古今儀礼を伝授した朱舜水の遺跡「楠公碑陰記」を訪れた。泊まった旅館で、中国からの留学生だと知り、手厚い待遇をうけた。また、ある日東京から仙台に戻る列車の中で、老婦人に席をゆずったことをきっかけに、魯迅は老婦人と雑談し、さらにせんべいとお茶の差し入れをもらった。このように、日本人との日常生活における素朴な触れ合いに関する残された記録は、忘れられない経験であり、魯迅の日本観の一部を形づくった。 

魯迅「藤野先生」には,日露戦争に関するトルストイの論文に関する以下の記述がある。

藤野先生の担任の学課は、解剖実習と局部解剖学とであつた。

 ある日、同級の学生会の幹事が、私の下宿へ来て、私のノートを見せてくれと言つた。取り出してやると、パラパラとめくつて見ただけで、持ち帰りはしなかつた。彼らが帰るとすぐ、郵便配達が分厚い手紙を届けてきた。開いてみると、最初の文句は── 「汝悔い改めよ」

 これは新約聖書の文句であろう。だが、最近、、トルストイによって引用されたものだ。当時はちようど日露戦争のころであつた。ト翁は、ロシアと日本の皇帝にあてて書簡を寄せ、冒頭にこの一句を使つた。日本の新聞は彼の不遜をなじり、愛国青年はいきり立つた。しかし、実際は知らぬ間に彼の影響は早くから受けていたのである。この文句の次には、前学年の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートに印をつけてくれたので、私にはあらかじめわかつていた、だから、こんないい成績が取れたのだ、という意味のことが書いてあつた。そして終りは、匿名だつた。

写真集「満山遼水」(1912年11月2日印刷)写真「露探の斬首」:「1905320日、満州開原城外」「開原は瀋陽の北、約90キロの町。写真は出所不明と説明つきで、太田進「資料一束―《大衆文芸》第1巻、《洪水》第3巻、《藤野先生》から」(中国文学研究誌「野草」第31号、1983年6月)が紹介。写真集「満山遼水」(1912年11月2日印刷)におさめらた。(王保林「『幻灯事件』に密接な関係をもつ一枚の写真紹介」、「魯迅研究動態」1989年9月号)。同じような写真は、仙台市内で何回か開かれている日露戦争報道写真展で魯迅の目に触れた可能性がある。写真週刊誌「ファーカス」通巻762号にも同じ写真が掲載(199611月6日)。東北大学医学部細菌学教室から日露戦争幻灯スライド15枚と幻灯器が発見されたが,その中に処刑のスライドはなかった。日清戦争では,清国兵士を過酷に扱った日本軍だが,日露戦争ではロシア人負傷者・捕虜を人道的に処遇した。日露戦争が,西欧対東洋,キリスト教徒対異教徒,白人対アジア人の戦争ではないという弁明のためである。対照的に,中国人や韓国人は,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とされれば,処刑される危険があった。仙台に留学中の魯迅も,ロシア側スパイ(露探)中国人処刑もある日露戦争スライドを教室で見た。 

東北大学に魯迅が留学中「幻灯事件」がおきた。魯迅『吶喊』によれば,細菌学の教授が授業時間に、日露戦争のスライドを見せ,日本軍兵士が,ロシア軍スパイ容疑者(露探)とみなした中国人の処刑(銃殺あるいは斬首)をする場面があった。中国人が取り囲んで傍観していたのに衝撃を受けた魯迅は,中国人の治療には,医学よりも、精神の再構築が不可欠だと文学を志すようになった。

魯迅魯迅「阿Q正伝」の末尾には、革命党員の嫌疑をかけられ捕まった阿Qが、斬首されると思いきや、銃殺されたことが書かれている。これは、魯迅が留学中に見た中国人スパイ容疑者の処刑とその中国人見物人の様子を映す心象風景である。

魯迅「藤野先生」続き

 中国は弱国である。したがつて中国人は当然、低能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力ではない。彼らがこう疑つたのは、無理なかつたかもしれない。だが私は、つづいて中国人の銃殺[『吶喊・自序』では斬首]を参観する運命にめぐりあつた。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになつていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦つて勝つている場面ばかりであつた。ところが、ひよつこり、中国人がそのなかにまじつて現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺[『吶喊・自序』では斬首]される場面であつた。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。

「萬歳!」彼らは、みな手を拍つて歓声をあげた。

 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがつたものだつたが、私にとつては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰つてからも、犯人の銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまつて、酒に酔つたように喝采する──ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変つたのだ。

第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうであつたが、ついに何も言い出さなかつた。

 だが、なぜか知らぬが、私は今でもよく彼のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもつとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦()まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少いかもしれぬが。

   (魯迅「藤野先生」引用終わり) 

⇒魯迅の日本留学と戦争 

1906年仙台医学専門学校を中退して仙台を去るときに魯迅は、社会改革を目指す批評の道を志そうとしていた。魯迅は,石川啄木も感銘を受けたトルストイの非戦論を呼んでいた。帰国した魯迅は,中国の代表的文化人になり,辛亥革命後の翌年の1912年、孫文の主導する中華民国臨時政府の教育部員となった。1927年の蒋介石による共産主義者弾圧,上海白色クデター以後は,中国国民党政府を批判するような論調から,発禁処分の対象にもなった。魯迅は,古い因習・制度・権威を打破し,新しい社会を形成したいとする欲求があり,それが,社会主義的な文学に結びついた。魯迅と石川啄木は,その思想の根源において類似した部分が多い。

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司馬遼太郎の世界と「坂の上の雲」、日露戦争と明治の研究

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【このページの目次】

◆司馬遼太郎と「坂の上の雲」、日露戦争、明治という時代

リンク集と解説

◆司馬遼太郎と「坂の上の雲」=小学館(百科)

◆日露戦争=小学館(百科)

◆成瀬=日露戦争とショービズム

◆司馬遼太郎の作品ランキング

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🔵司馬遼太郎、日露戦争と「坂の上の雲」リンク集

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◆当ブログ=坂本龍馬がゆく(司馬遼太郎が描いた坂本龍馬の映像あり)

◆当ブログ=幕末長州のヒーロー=「花燃ゆ」の吉田松陰と高杉晋作(司馬遼太郎が描いた吉田松陰と高杉晋作あり)

◆当ブログ=古屋哲夫・日露戦争の研究

★★知ってるつもり・司馬遼太郎48m

★★司馬遼太郎の遺産 歴史からの視線43m

https://m.youtube.com/watch?v=NMTdkdh5TcA

★★NHK戦後史証言プロジェクト知の巨人たち 第4回 司馬遼太郎計 90m

http://www.dailymotion.com/video/x227xov_20140726戦後史証言プロジェクト4司馬遼太郎前編_lifestyle

http://www.dailymotion.com/video/x22861o_20140726戦後史証言プロジェクト4司馬遼太郎後編_lifestyle

★★NHK戦後史証言プロジェクト知の巨人たち 第4回 司馬遼太郎の詳細証言

http://cgi2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/shogen/list.cgi?das_id=D0012200027_00000#main

★作家元 文藝春秋 編集者

半藤 一利さん

「司馬遼太郎とノモンハン事件」

★元産経新聞記者 窪内 隆起さん

「トゥルーとファクト 司馬が執筆に秘めた思い」

★京都大学名誉教授 上田 正昭さん

「座談の名手・司馬遼太郎 朝鮮半島への眼差し」

★坂の上の雲ミュージアム 館長

国立民族学博物館 名誉教授

松原 正毅さん

「「坂の上の雲」メッセージとモンゴルへの憧れ」

★あの人に会いたい「歴史小説家 司馬遼太郎」10m

https://m.youtube.com/watch?v=i1x_zWBFGm4

★★100分で名著・司馬遼太郎100m

時代小説

幕末小説

明治小説

全体

https://m.youtube.com/watch?list=PLfgKTuFPpH0VVh12_29NAyLsrMuMWkBE6¶ms=OAFIAVgB&v=GAcfB4j6Vjk&mode=NORMAL

https://m.youtube.com/watch?list=PLfgKTuFPpH0VVh12_29NAyLsrMuMWkBE6¶ms=OAFIAVgC&v=ir2jgmfPnCI&mode=NORMAL

https://m.youtube.com/watch?list=PLfgKTuFPpH0VVh12_29NAyLsrMuMWkBE6¶ms=OAFIAVgD&v=uNDbfCIGu_M&mode=NORMAL

https://m.youtube.com/watch?list=PLfgKTuFPpH0VVh12_29NAyLsrMuMWkBE6¶ms=OAFIAVgE&v=JvS-_wHs-eA&mode=NORMAL

★★NHKシンポ・司馬遼太郎「坂の上の雲」60m

★★フジテレビ・「坂の上の雲」と司馬史観=中村政則・関川夏央など討論75m

★★NHKスペシャル 司馬遼太郎思索紀行 この国のかたち 

1 島国ニッポンの叡智50m

https://m.youtube.com/watch?v=McYcCynY9QA

2 武士700年の遺産50m

https://m.youtube.com/watch?v=_Eg8LgiA65M

A作家・司馬遼太郎が語る。『太陽の国の物語』(4)BCDは下部から

http://m.youtube.com/watch?v=rHqisyVBjIE

YouTube検索=街道をゆくシリーズ

Youku検索=司馬遼太郎と城を歩くシリーズ

◆◆朝日beランキング=私の好きな司馬遼太郎作品 新たな息吹で魅力ある人物に

朝日新聞15.08.31

 発行点数は計600冊以上、発行部数は軽く2億部を超えています。今なお新たなファンを増やし続け、その読者層の幅広さから「国民的作家」ともときに形容される司馬遼太郎さん。来年2016年は没後20年になります。2016年を控え、読者にたくさんの作品群からお気に入りを聞いてみました。

 幕末に活躍した坂本龍馬はいま、歴史上の人物としては圧倒的な人気を誇る。そのきっかけは司馬さんが1962年、30代で新聞連載を始めた小説「竜馬がゆく」だった。作家が豊かな想像力で構築し、息吹を与えた龍馬像だ。

 高校時代に「竜馬がゆく」を読んだ千葉県の男性(49)は「龍馬関連の文献を読んで、司馬さんの筆致や良い意味での脚色で、『龍馬像』が作られ、自分がその影響を受けたことを実感した。それから20年以上経って再読し、『それでも好き』と思った」と書く。

 熱狂的なファンが多い小説である。「息子の名前はりょうまです! 竜馬だと画数がイマイチだったので、司馬遼太郎さんの遼をいただき、遼馬にしました!」(山梨、47歳女性)のように。

 ただ司馬さん自身は、ヒーロー像が独り歩きするのは好まず、高知県の龍馬生誕150年の講演会で「『竜馬、竜馬』という青年が増えたところで、坂本竜馬が喜ぶはずもないのです」と、いさめる発言をしたこともあった。

 龍馬はもともと歴史上の「超有名人」だったとは言い難い。司馬作品には「花神」(9位)の大村益次郎や、「峠」(13位)の河井継之助のように、歴史の主流からは離れた人物を主人公として造形したものが少なくない。

 「日本騎兵の父」と言われた陸軍大将秋山好古、日露戦争の日本海海戦勝利に貢献した海軍の秋山真之もそうだ。2位の「坂の上の雲」は、秋山兄弟を主人公にして明治の精神を描出したが、2人は戦後、誰もが知る有名人だったわけではなかった。だからこそ読者には新鮮だった。

 「明治時代の元気な人の姿が沸々と思い描けるような作品。秋山兄弟の生き様や時代考証が素晴らしい」(富山、73歳男性)、「2人の天才軍人を通して当時の日本の置かれた状況、世界の中での位置、国難をいかに乗り切ったかを息をのむ思いで読み通した」(大阪、74歳男性)。

 明治の戦争を扱ったこの作品は、維新の志士や戦国の武将の物語と違い、日本の近代の起点ともいえる話だけに、今読んでもある種の「生々しさ」が感じられる。

◆余談の集大成「街道をゆく」

 北前船の回船問屋として活躍した豪商、高田屋嘉兵衛を描いた「菜の花の沖」(15位)では物語の後半、主人公が一時消えてしまい、嘉兵衛を拿捕(だほ)したロシアとはいかなる国かが延々と描かれる。そんな「余談」「脇道」の多さも司馬作品の魅力のひとつだ。

 現在「週刊朝日」で「司馬遼太郎の言葉」を連載中の村井重俊編集委員(57)は、「『街道をゆく』は言わば余談の集大成で、それがひとつのジャンルになったといえる」という。「自分の作品で最後まで読み継がれるとしたら、小説より『街道をゆく』だろうと言うほど、思い入れが深かった。紀行だが、後年の『台湾紀行』や青森を書いた『北のまほろば』などは、小説のようにも読める」

 モンゴルやポルトガル、アイルランドなど海外編も含め、25年間連載され、文庫本は全43巻。「歴史小説は読んだことがない」という東京の男性(53)は、「今でも旅行に行く前、司馬さんがその地域を書いていれば、必ず読んででかけます。その土地の歴史を掘り下げているので、とてもよい旅行ガイドになります」という。

 戦後70年。「昭和を舞台にした作品を書き残して欲しかった」という声も。村井編集委員によると、司馬さんは、ソ連と国境をめぐって起きたノモンハン事件(1939年)以降の時代を書こうと、当時の軍人たちに取材したことがあるという。「でも彼らのリアリティーの欠如を再認識して、とても小説にはならないと話していた」(中島鉄郎)

 <調査の方法> 朝日新聞デジタルのウェブサイトで7月下旬から8月上旬、会員登録されている方にアンケートを実施。編集部がつくった選択肢から、五つまで挙げてもらった。回答者は1337人(男性65%、女性35%)。読んだことがない3割弱の人には「読んでみたい作品」を選んでもらった。(1)(2)は全8巻、(5)は全10巻でいずれも文春文庫(新装版)、(3)は全43巻で朝日文庫(同)、(4)は全4巻で新潮文庫で出版されている。

🔴【司馬遼太郎「坂の上の雲」】

★★NHK=坂の上の雲90m

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★★NHK=坂の上の雲No.1-No.7(No.3欠け)各90m(動画小さいが見れる=PCのみ)

★★日露戦争・203高地から日本海海戦(坂の上の雲No.10.11.1290m×3

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http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=54184019

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=54184054

★旧高校日本史=日清戦争

http://v.youku.com/v_show/id_XNDk2NjI1MzY0.html?x

★★旧高校日本史=日露戦争

http://v.youku.com/v_show/id_XMzkxNjY4MDIw.html?x

◆◆山田朗=「明治150年史観」・明治から戦前までの侵略戦争の歴史

◆◆山田朗・日露戦争=軍事同盟頼みの膨張政策

赤旗18.09.19

★★夏目漱石没100年=漱石が見つめた近代・日本の植民地支配90m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v114738788FW75MbNd

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🔴◆◆日露戦争と八甲田雪中行軍

日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦したため、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、それに向けて準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。対ロシア戦は2年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなった。雪中行軍には青森から歩兵第5連隊210名が、弘前から歩兵第31連隊37名と民間の新聞記者1名が参加した。うち青森歩兵第5連隊が遭難した。

★★松也の歴史ミステリー=日露戦争直前の八甲田山死の行軍の真相53m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v124072401zFtwbK9j

★八甲田山雪中行軍遭難事件50m

★八甲田山雪中行軍遭難事件11m

★八甲田山遭難事件の画像が恐ろしすぎる 世界が震えた!30m

★★映画=八甲田山(主演・高倉健)180m

http://v.youku.com/v_show/id_XMjE4NDA3NzY=.html?x&from=y7.2-1-96.3.10-1.15-1-1-9-0

http://v.youku.com/v_show/id_XMjE4Mzg3NTI=.html?x&from=y7.2-1-96.3.1-1.15-1-1-0-0

または

https://m.youtube.com/watch?v=qsLoZfzjEAA

https://m.youtube.com/watch?v=11q_FQjbOFg

◆◆映画=八甲田山

19776月公開

新田次郎の原作『八甲田山死の彷徨』をもとに、大部隊で自然を克服しようとする部隊と小数精鋭部隊で自然にさからわず、折り合いをつけようとする部隊の様子を冬の八甲田山を舞台に描く。脚本は「続人間革命」の橋本忍、監督は「日本沈没」の森谷司郎、撮影は「阿寒に果つ」の木村大作がそれぞれ担当。

◆ストーリー

「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と友田旅団長から声をかけられた二人の大尉、青森第五連隊の神田と弘前第三十一連隊の徳島は全身を硬直させた。日露戦争開戦を目前にした明治三十四年末。第四旅団指令部での会議で、露軍と戦うためには、雪、寒さについて寒地訓練が必要であると決り、冬の八甲田山がその場所に選ばれた。二人の大尉は責任の重さに慄然とした。雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという大筋で決った。年が明けて一月二十日。徳島隊は、わずか二十七名の編成部隊で弘前を出発。行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され隊員はみな雪になれている者が選ばれた。出発の日、徳島は神田に手紙を書いた。それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助を……というものであった。一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐に拒否され二百十名という大部隊で青森を出発。神田の用意した案内人を山田がことわり、いつのまにか随行のはずの山田に隊の実権は移っていた。神田の部隊は、低気圧に襲われ、磁石が用をなさなくなり、白い闇の中に方向を失い、次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。一方徳島の部隊は、女案内人を先頭に風のリズムに合わせ、八甲田山に向って快調に進んでいた。体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊。耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。

狂暴な自然を征服しようとする二百十名、自然と折り合いをつけながら進む二十七名。しかし八甲田山はそのどちらも拒否するかのように思われた。神田隊は次第にその人数が減りだし、辛うじて命を保った者は五十名でしかなかった。しかし、この残った者に対しても雪はとどめなく襲った。神田は、薄れゆく意識の中で徳島に逢いたいと思った。二十七日、徳島隊はついに八甲田に入った。天と地が咆え狂う凄まじさの中で、神田大尉の従卒の遺体を発見。神田隊の遭難は疑う余地はなかった。徳島は、吹雪きの中で永遠の眠りにつく神田と再会。その唇から一筋の血。それは、気力をふりしぼって舌を噛んで果てたものと思われた。全身凍りつくような徳島隊の者もやっとのことで神田隊の救助隊に救われた。第五連隊の生存者は山田少佐以下十二名。のちに山田少佐は拳銃自殺。徳島隊は全員生還。しかし、二年後の日露戦争で、全員が戦死。

Wiki=八甲田雪中行軍遭難事件

http://wpedia.goo.ne.jp/smp/wiki/%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E9%9B%AA%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E8%BB%8D%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

◆八甲田山雪中行軍遭難資料館

http://www.moyahills.jp/koubataboen/sp/index.html

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🔴【日露戦争】

◆◆NHKジャパンシリーズ

【日露戦争については以下のジャパンシリーズが役に立つ】

Pandraに無料登録してログインすること)

★★プロジェクトJAPAN 第0次世界大戦 ~日露戦争・渦巻いた列強の思惑~

または

★プロジェクトJAPAN プロローグ 戦争と平和の150年 第1部 

または

★プロジェクトJAPAN プロローグ 戦争と平和の150年 第2部 

または

JAPANデビュー 第1回 ~アジアの一等国

または

JAPANデビュー 第2回 ~天皇と憲法~ 

または

または

JAPANデビュー 第3回 ~通商国家の挫折~ 

または

JAPANデビュー 第4回 ~軍事同盟 国家の戦略~

または

★★明治以降戦前の農村=戦争を支えた農村(ジャパン・プロジェクト)58m

PCの場合全画面表示で見ると過剰広告減)

★★映画=二百三高地 190m=反戦的色彩も強い。下の「明治天皇と日露戦争」と対照的。

http://v.youku.com/v_show/id_XMzAzNTU3Mzg4.html?x

http://v.youku.com/v_show/id_XMzAzNTU2ODUy.html?x&from=y7.2-1-97.3.1-2.15-1-1-0

http://v.youku.com/v_show/id_XMzAzNTU4NTAw.html?x&from=y7.2-1-97.3.1-2.15-1-1-0

★映画=明治天皇と日露戦争

http://video.fc2.com/content/20140819DtX7JwcD/

★★英雄たちの選択=日露戦争・運命の一日56m

★その時歴史が動いた=203高地の新事実と日露戦争42m 

http://video.fc2.com/content/20150313ZNyTV9ED

★その時歴史が動いた=ポーツマス講和会議の真相 (後編・日本全権)43m

http://video.fc2.com/content/20150313THDtBhEu

★ロシアから見た日露戦争(6)ニコニコ

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm3750060

[Flash]日露戦争

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm964449?cp_in=wt_tg

★日露開戦 男たちの決断~明治日本 存亡をかけた戦略~ 43m- FC2

http://video.fc2.com/content/20140404KRENmSTd/

★その時歴史が動いた=ポーツマス講和会議の真相 (後編・日本全権)43m

http://video.fc2.com/content/20150313THDtBhEu

★★その時歴史が動いた=運命の一瞬 東郷ターン / ロシア・日本戦争 43m

★100年目の真実 日本海海戦46m – FC2

★その時歴史が動いた=日露戦争100 逆転の極秘電報15446m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDE1NDI4MzE2.html?x

★その時歴史が動いた=列国の野望 シベリアを走る

🔴【明治の研究】

◆◆吉野誠・「明治150年」を考える=朝鮮を天皇の「属国」視

赤旗18.07.10

◆◆NHKBS世界から見たニッポン★★NHKBS世界から見たニッポン(1)明治国家=日清戦争まで100m

★★NHKBS世界から見たニッポン(2)アジアの希望から失望へ100m

★★NHKBS世界から見たニッポン(3)大正国家=列強の一員化中国への野望100m

★★NHKBS世界から見たニッポン(4)大正時代=アジアの民族解放運動と日本(最後の朝鮮欠)70m

★★アジア留学生が見た日本明治日本への希望と失望(中国の孫文ベトナムのフォンボイ=チャウなど。希望が幻滅に)58m

◆◆NHKスペシャル=明治

20054月~5月放送=全5×105m

以下のコメントはNHK提供

序章=明治の日本

 明治時代、混迷の中で日本は新しい国づくりに乗りだした。そして、驚くべき速さで改革を実行し、西洋資本主義社会への参入をはたした。

 明治の人びとは何を思い、どのようにしてこの国をつくったのか。

 近年、次々と発掘や再評価が進む膨大な資料を元に、明治の日本が持っていたさまざまな可能性を探る。また、錦絵や写真などの映像資料をアニメーション・グラフィックスの手法によって3D化・動画化し、当時の日本の風景を蘇らせる。

 四民平等の理想を掲げて始まった教育改革、近代文明を導入するための財源を求めた税制の創設、広く国民の声に耳を傾けるという宣言に応じた建白書の数々、そして、長い鎖国の眠りから覚めて国際社会の荒波に乗り出した日本と外国人たちとの出会い──。

 明治の日本はなぜ成功したのか。また、何を課題として積み残したのか。

 今、曲がり角に立つ現代の日本に、新たな国づくりの示唆を得るため、明治の人びとの声に耳を傾け、その歩みを見つめなおす。

明治ゆとりか、学力か

明治時代に流行した「出世双六」

 学力低下やゆとり教育の見直しなど、さまざまな教育問題に揺れる現代の日本。近代教育の原点である明治の教育改革を見つめなおし、現代へのヒントを得る。

 今日のような近代教育の制度が始まったのは明治時代のこと。人びとは、教育によって国を立てるという理想に燃え、官も民も力をあわせて、教育の普及と学校の建設に力を入れた。番組では、貴重な資料をもとに明治初期の授業や試験のようすを再現し、熱心に勉学に励んだこどもたちの姿を描き出す。また、当時流行した出世双六をCG加工し、勉強次第で立身出世が可能になった能力主義社会への憧れを浮き彫りにする。

 ところが、学歴を重視する世の中の到来は、教育の現場に、いつしか、試験に受かることだけを目的とする風潮を生み、競争激化などの弊害をもたらすようになった。明治の作家、永井荷風は受験に失敗して父親に罵られ、二葉亭四迷は詰め込みと暗記に偏った勉強に追われた。

 新進の文部官僚として初等教育の責任者となった澤柳(さわやなぎ)政太郎は、そうした風潮に歯止めをかけ、こどもたちひとりひとりに目を向けようと、思い切った教育改革に乗り出す。

 授業時間の短縮や、試験の廃止などを断行した澤柳だったが、その改革は、学力低下という新たな問題の前に後退を余儀なくされた。

 こどもたちに必要な教育とは何か。個性と学力のどちらを重視すればよいのか。

 澤柳政太郎の行動を軸に、今と変わらぬ難題に直面した明治の教育改革のようすを描き、教育問題の根源を探る。

明治模倣と独創 ~外国人が見た日本~

写真提供 横浜開港資料館

 短期間で急速な近代化を果たした明治の秘密とは何か?

 明治期に日本を訪れた多くの外国人たちの記録から、その秘密を解きあかす。

 日本の開国は、「東洋の神秘の国」がそのベールを脱ぎ素顔をさらけ出した時でもあった。以来、多くの外国人が日本を訪れ、さまざまな記録を残した。

 日本人の技術力に早くから気づいていたアメリカの提督ペリー。時間に追われない職人の仕事ぶりを記録したフランス人ブスケ。そして、日本の民衆が見せる素朴で温かな人柄に魅せられたイギリスの女性旅行家バード。

 これらの記録には、異文化の目でこそ捉えることができた日本人の特質が描き出されている。

 なかでも、注目に値するのは、日本に土木技術を教えたイギリス人ヘンリー・ダイアーである。ダイアーは、日本人は優れた独創性を持っていると評価し、「東洋の小国がわずか30年で近代化を果たした原動力は何か」を解きあかす書物を著した。ダイアーが教頭を務めた工部大学校は、建築家の辰野金吾やアドレナリンを発見する高峰譲吉など多くの人材を輩出する。

 ダイアーの愛弟子だった田邉(たなべ)朔郎は、師の教えを活かし、西洋の技術を日本の実情にあうように応用することで、近代化のための大工事をなしとげた。帰国後も田邉と交流を続けたダイアーは晩年、日本がその独自性を失いつつあることを心配する記述を残す。

 日本の近代化を見つめた外国人たちの記録から、「ものづくり日本」の原点にある智恵と工夫の実態を探り、日本人の独創性とは何か、日本人が近代化と共に失ってしまった美点とは何かを描く。

明治税制改革、官と民の攻防

逓信総合博物館所蔵

 明治のはじめ、新政府は、深刻な財政破綻に瀕していた。不便で不公平な年貢制度から得られる通常歳入は歳出の十分の一ほどにすぎず、不足分は借金と臨時紙幣発行によって賄っていた。財政の建て直しを図るため、政府は抜本的な税制の見直しに着手する。

 西洋諸国の税制の研究と日本の事情を考え合わせて導入されたのが、地券のシステムだった。民衆の不満と抵抗を和らげるため、農民に対しては、差し当たっては税額を明かさぬまま土地の所有権を認め、税額算出の基礎となる収穫量は自己申告という建前で、全国的な測量と土地所有者=納税者の確定がおこなわれていく。

 いよいよ税額を決定する作業がおこなわれる段になって、税収の確保と民衆の反発のはざまに立たされることになったのが、松方正義を中心とする実務派の官僚たちだった。

 もともとは民を慈しむことを信条としていた松方だが、「維新は非常の時」という覚悟にたって、改革を断行する。

 官と民のせめぎ合いのなかで、虚々実々のかけひきがおこなわれ、地租(土地税)や所得税などの新しい税制が導入されていった明治時代──。

 日本の近代化をなしとげるための財源は、いかにして確保されたのか。その過程で積み残された、民主的な税の理念とはどのようなものか。そして、これから後の改革の糧として汲み取らなければならない教訓とは何か。

 松方正義をはじめとする官僚たちと民衆との税をめぐる攻防を追い、制度の改革はどう行われるべきかを問い直す。

明治国のありかたをどう決めるか=民意

 「万機公論に決すべし」という宣言で幕を開けた明治時代。「これからは誰もが政治に意見を述べられる」という趣旨に基づいて設けられた建白書の制度は、津々浦々に空前の反響を呼んだ。

 民草の一人一人が記したおびただしい数の建白書のうち、現存するものの数はおよそ3000通。教育普及の提案から産業振興の方策まで、その内容は多岐に渡り、実際に政策としてとりあげられたものも数多い。明治のはじめは、政治というものが、こんにち想像するよりも国民の身近に存在していた時代だったのだ。

 建白書のなかには、やがて、議会や憲法を提案するものが現れるようになる。百数十年前、すでに、日本人は、民主主義を反映した国のありかたを自らの手で提起していたのである。

 新しい国家の建設に際して提出されたさまざまなアイデアは、どのようなものだったのか。福沢諭吉をはじめとする人びとは、この国のありかたをどう考えていたのか。

 建白書をもとに明治の人びとが抱いた民主主義の夢と理想を描き、現代へのヒントを探る。

◆藤井松一=日清戦争・日露戦争

◆山田朗=日露戦争の真実

◆山田朗=世界史のなかの日露戦争

◆山田朗=日露戦争はどういう戦争であったか

◆日露戦争が教科書にどう書かれているか

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/rekisi4.html

◆明治時代詳細年表

http://meiji.sakanouenokumo.jp/

◆日露戦争の新聞記事=国民新聞の原文

http://meiji.sakanouenokumo.jp/press/archives/cat348/

◆明治神宮外苑聖徳記念絵画館「壁画集」=明治時代の行事の絵画

http://meiji.sakanouenokumo.jp/seitoku/

◆正岡子規

http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/05/post.html

◆読書感想=司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む1-50

http://blog.zaq.ne.jp/mura339/category/52/

◆◆朝鮮をめぐる情勢=NHKプロジェクトJAPAN

Pandraに無料登録してログインすること)

【日露戦争と朝鮮人民=プロジェクトJAPAN】

プロジェクトJAPAN 日本と朝鮮半島

1回 ~韓国併合への道~

または

NHKプロジェクトJAPAN シリーズ日本と朝鮮半島 第2回 ~三・一独立運動と親日派 

または

JAPAN日本と朝鮮半島 第3回 戦場に動員された人々~皇民化政策の時代

または

NHKスペシャル プロジェクトJAPAN シリーズ日本と朝鮮半島 第4回 ~解放と分断 在日コリアンの戦後

または

NHKスペシャル プロジェクトJAPAN シリーズ日本と朝鮮半島 第5回 ~日韓関係はこうして築かれた~ 

または

★当ブログ=鑑賞・近藤典彦=石川啄木の韓国併合批判の歌

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/8676770.html

以下の歌などの解説は近藤論文参照のこと

誰そ我にピストルにても打てよかし伊藤の如く死にて見せなむ                

地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く

明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも

売ることをさしとめられし本の著者に道にて会へる秋の朝かな 

今おもへばげに彼もまた秋水の一味なりしと思ふふしもあり

常日頃好みて言ひし革命の語をつゝしみて秋に入れりけり

この世よりのがれむと思ふ企てに遊蕩の名を与へられしかな

わが抱く思想はすべて金なきに因する如し秋の風吹く

秋の風われら明治の青年の危機をかなしむ顔なでゝ吹く

時代閉塞の現状をいかにせむ秋に入りてことにかく思ふかな

★石川啄木を巡る戦争と社会主義 鳥飼行博研究室

http://www.geocities.jp/torikai007/bio/takuboku.html

【夏目漱石と明治】

◆◆小森陽一=夏目漱石生誕150年・「個人の自由」破壊を批判

(赤旗17.08.25

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🔵司馬遼太郎

小学館百科全書

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1923-1996 

小説家。大阪市生まれ。本名福田定一。大阪外国語学校(現大阪大学外国語学部)蒙古(もうこ)語科卒業。1943年(昭和18)学徒出陣で満州(現中国東北地方)に出兵し、陸軍戦車学校を経て戦車隊に配属された。復員して産経新聞社(大阪)に入社し、文化部長、出版局次長を歴任して退社。この間、懸賞応募の『ペルシャの幻術師』が講談倶楽部(くらぶ)賞を受賞(1956)。翌年、寺内大吉(1921-2008)らと『近代説話』を創刊する。60年に伊賀の忍者を描いた『梟(ふくろう)の城』(1959~60)で直木賞を受賞したのを機に執筆活動に専念。1966年(昭和41)、坂本龍馬(りょうま)を描いた『竜馬がゆく』(1963~66)と、織田信長と斉藤道三を主人公にした『国盗(くにと)り物語』(1965~66)は、その新鮮な史眼が評価され、菊池寛(かん)賞を受賞した。続いて『殉死』(1967)が毎日芸術賞を受け、その後も秋山真之(さねゆき)を主人公に日露戦争を描いた『坂の上の雲』(1969~72)が話題となり、吉田松陰と高杉晋作(しんさく)を主人公にした『世に棲(す)む日日』(1969~70)などの作家活動で吉川英治文学賞を受賞(1972)。「高い視点からその人物を鳥瞰(ちょうかん)した」(『私の小説作法』)歴史小説は、特定の史観にとらわれず、「司馬史観」ともよばれ、新鮮な解釈で自在にかつ闊達に人物を描き、国民的人気作家となった。

 歴史に関する随筆、紀行も多数あり、『歴史と小説』(1969)では幕末の志士たちの思想と行動が語られ、1971年から週刊誌に連載して絶筆となった『街道をゆく』では国内のみならず、中国からヨーロッパにまで出かけた。対談集に『国家・宗教・日本人』(1996)、『日本人への遺言』(1997)など。1981年芸術院会員。83年に「歴史小説の革新」で朝日賞。1991年(平成3)日本中国文化交流協会代表理事に就任、同年文化功労者、93年文化勲章受章。2001年東大阪市に司馬遼太郎記念館開館。2000年に『司馬遼太郎全集』全68巻刊行。

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🔵筆者コメント=「坂の上の雲」

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(1)フィクションの部分

司馬は本作を執筆するにあたり、晩年に「フィクションを禁じて書くことにした」と述べている(「坂の上の雲 秘話」、朝日文庫版『司馬遼太郎全講演 5』所収)が、やはり歴史家ではないのでフィクションがかなり存在する。

Wikiによれば例えば、一つのヤマ場である旅順攻囲戦における描写では以下のような事実と異なるフィクションがある。

海軍が旅順艦隊殲滅に失敗し、その為陸軍に地上からの旅順攻略を要請して、陸軍はしぶしぶ攻略を決定したとなっているが、実際は未だ海軍が「海軍だけで旅順艦隊を殲滅できる」と豪語し、陸軍の介入を断っていた314(第二回旅順港閉塞作戦の前)に陸軍は旅順攻略を決定し2個師団からなる攻城軍を編成することを決めている。海軍は実際は開戦時より「旅順は海軍だけで無力化できる」と豪語し、陸軍の介入を拒絶していたのだが、小説ではその点は全く触れられていない。

海軍は総攻撃前から観測射撃のために203高地を攻略するよう陸軍に要請している様に描かれているが、実際は第一次総攻撃前にその様な要請や発言を海軍がしたという記録は無い。作中でも述べられている「203高地問題」が出てくるのは、第二次総攻撃後である。

▼28サンチ榴弾砲を旅順に移送する件について、史実では第三軍司令部の大本営あて返電には「ソノ到着ヲ待チ能ワザルモ、今後ノタメニ送ラレタシ」とあるにもかかわらず、作中では「送るに及ばず」と拒否したことになっている。

旅順に児玉が来訪して指揮を執る際に28センチ榴弾砲の移動と203高地攻略へ投入することを指示したとなっているが、実際に移動を命じたのは28センチ榴弾砲ではなく、予備の12センチ榴弾砲と9センチ臼砲の10数門で、これらも203高地を攻撃する為では無く、別目標を叩くためである。そもそも28センチ榴弾砲の射程距離なら移動せずとも現地点から203高地を狙えるし、実際児玉到着前より28センチ榴弾砲は全砲203高地攻撃に使用されていた。また当時の土木技術では土台のセメントが乾く乾かない以前に、何十門もの28センチ榴弾砲を3日間で移動させる事自体が無理である。

味方の同志討ちの危険を度外視した連続砲撃を要請した事実は無く(実際はこの時点で攻城砲兵司令部の判断で実施していた)第三軍司令部の参謀達を罵倒したり険悪な関係になった事実もない。当時独立砲兵大隊長で、意見具申に司令部を訪れていた上島善重によると児玉と伊地知はいたって良好な雰囲気だったと述べている。また重砲の配置転換などの指示自体も児玉自身の発案では無く、第三軍司令部に考えさせ、児玉が了承したものである。

児玉源太郎は当初より203高地攻略案を支持していたかのように描かれているが、実際の児玉は終始第三軍と同じ要塞東北方面主攻を支持していて、203高地攻略に賛成したという記録は無い。逆に反対の立場であり、乃木が独断で203高地攻略に方針を転換したことに対して反対すらしている。

▼203高地攻略後は残敵掃討に過ぎないかのように描かれているが、実際はロシア軍は203高地陥落後も1カ月近くに渡り抵抗を続けており、第三軍も主目標を再び東北方面に換えて総攻撃を行い11日午前に主目標だった望台を占領。これを受けてロシア軍は降伏している、などが史実と異なっている

(2)日露戦争の科学的性格がとらえられていない、「坂の上」に上りつつあった明治末期の時代の美化

本作は司馬の著作の中でも特に議論を呼んだことで有名。前半は、青年たちが自己と明治国家を同一視し、自ら国家の一分野を担う気概を持って各々の学問や専門的事象に取り組む明治期特有の人間像を描いている。秋山好古における騎兵、秋山真之における海軍戦術の研究、正岡子規における短詩型文学と近代日本語による散文の改革運動など、それぞれが近代日本の勃興期の状況下で、代表的な事例として丁寧に描かれている。

そして後半は、日露戦争の描写が中心となり、あたかも「小説日露戦争」となっている。本来の主人公である秋山兄弟の他に児玉源太郎、東郷平八郎、乃木希典などの将官やロシア提督、各戦闘で中心的な役割を果たした師団と日本海海戦についての記述に終わっている。とくに203高地のたたかいとバルチック艦隊を倒す日本海海戦に相当な分量がさかれている。正岡、秋山兄弟さえもかすんでしまうほどの戦況描写だ。

要するに、司馬は「世界でも弱小の国日本」が「一流国家」=「坂の上の雲」をめざして、官僚・軍人・資本家だけでなく、国民全体が一致して頑張った時代、日露戦争はその典型=国民的な戦争であった、と述べたいのだ。しかもロシアの極東進出にたいする防衛戦争であったと受け取れる叙述もある。司馬は、この躍動的な時代は、その後の日本の中国侵略の拡大、軍国主義の時代とは異なる時代であったという(司馬は、その後の戦争の時代は、厳しく批判している)

しかし日露戦争は、朝鮮半島・中国東北部の一部(日清戦争の勝利で一時的に奪取)を奪い取り植民地にするためのロシアとの帝国主義戦争であった。また日露戦争の勝利=朝鮮半島と満州の一部の奪取が、やがて満州事変、日中戦争、太平洋戦争と15年戦争に連動していったのだ。「坂の上の雲」には、朝鮮半島の情勢、朝鮮人民の苦しみやたたかいなどまったくふれられていない。また日露戦争の戦費をまかなうための重税に苦しむ国民、非戦平和を求めための国民などもふれられていない。203高地のたたかい、日本海海戦、など日本が軍事的に勝利をおさめた箇所のみに叙述はしぼられている。だから自虐史観の批判者、藤岡信勝は、この作品をきっかけとして自由主義史観を標榜するようになったと告白している。

「坂の上の雲」は、歴史書・伝記の「読書アンケート」で一貫してトップクラスであった。人気作品である。その意味では、読ませる工夫がされている。司馬遼太郎の小説の面白さが、後半の日露戦争の叙述にあらわれている。読み手によりイデオロギーの恣意的な解釈が利き、発刊当時から議論や評価も幅広く起こした作品といえる。戦争賛美の作品と解釈される危惧の可能性から、司馬本人は本作の映像化・ドラマ化等の二次使用には一切許諾しないという立場を取っていた。しかしNHKは、権利相続者のみどり夫人の許諾を得て放送番組を作製した。先に述べた「坂の上の雲」の弱点、司馬遼太郎も感じていた弱点、を考慮に入れて作製したが、やはり司馬史観そのものは貫かれた。

◆◆(耕論)安倍談話の歴史観=成田龍一さん、李元徳さん、久保亨さん

 安倍晋三首相がこの8月、戦後70年を機に出した「安倍談話」に流れる歴史観について、改めて考えてみる。それは歴史を、矛盾なく説明できるものなのか。

◆司馬史観、一側面だけ利用 

成田龍一さん(日本女子大学教授)

 安倍談話の歴史観は、司馬遼太郎の歴史観と一見、近いものがあります。8月14日は韓国にいて、韓国の日本研究者たちと談話の発表を見ていたのですが、みんな「ああ、司馬だ!」と言いました。

 西洋諸国の植民地支配の中で、日本が近代化を進め、独立を守り抜いたという出発点や、日露戦争が近代化の達成点だということ。やがて日本が第1次世界大戦後につくられた新しい国際秩序に対する挑戦者になり、失敗したという見方もよく似ています。

 司馬史観の特徴は、国民国家という枠組みや価値観を肯定していることです。「竜馬がゆく」「坂の上の雲」などでは、日本が国民国家化をなしとげたプロセスを1960~70年代初めの経済的繁栄の追求と重ねて描くことで、戦後日本の指針を示そうとした。

 ただ、そこには弱点もありました。司馬は、日本の近代化と国民国家化は成功だったが、その先で間違えたという二段階で考える。だが、近代化の過程で欧米とそっくりな国にしたために、日本は軍事的にも領土的にも拡大路線をとらざるをえなかった。司馬が成功と見なしたことが、実は失敗に直結していた。安倍談話も同じく二段階で捉えているから、司馬史観の弱点を引き継いでいるといえます。

 もう一つの弱点は、植民地の問題に視線が及んでいないことです。「坂の上の雲」には台湾や朝鮮の植民地化がほとんど出てこない。安倍談話も「植民地支配からの訣別(けつべつ)」は強調しても、誰が植民地化したのかには触れない。日本が加害者だという視点が希薄な点でも共通しています。

 ただ、忘れるべきでないのは、司馬の考えが時代によって変化していたことです。60年代には、国民国家にもとづく経済的繁栄こそが日本の進むべき道だと考えていた。それが80年代には、「菜の花の沖」で、高田屋嘉兵衛という商人が日本を超えてロシアと接触する姿を描いた。「韃靼(だったん)疾風録」では、長崎・平戸の武士が単身で明に渡り、多くの民族の中で、日本人としてのアイデンティティーが薄れていく様を描いた。

 つまり、司馬は単純に国民国家を肯定していただけの人ではなく、グローバル化の波の中で、国民国家の枠組みを超えていくことも考えていました。しかし、安倍談話はそうしたものは一切、採り入れていない。「坂の上の雲」の司馬しか見ず、司馬史観の一つの側面だけを安易に利用しているように見えます。

 東日本大震災の後、経済的繁栄とは違う新たな目標を誰もが求めた。60年代の司馬的な理念はそこで終わったはずですが、安倍談話は国民国家を立て直し、経済的繁栄を取り戻すという、司馬自身も80年代に捨てた夢を追っている。そこが決定的な問題だと思います。

 (聞き手・尾沢智史)

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 なりたりゅういち 51年生まれ。専攻は近現代日本史。著書に「近現代日本史と歴史学」「戦後思想家としての司馬遼太郎」「司馬遼太郎の幕末・明治」など。

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◆日露戦争「悲劇の始まり」 

李元徳さん(韓国・国民大学教授)

 安倍談話には「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」とあります。これは韓国の立場から見て、最も違和感を覚える部分です。

 日露戦争は朝鮮半島と満州の支配をめぐって争われ、日本がロシアを破った。日本は1905年に第2次日韓協約で韓国の外交権を握り、保護国にします。そして10年には韓国を併合し、植民地にしてしまう。日露戦争は、朝鮮半島からみれば勇気づけられたどころか、悲劇の始まりだったわけです。

 「独島(トクト)」(日本名・竹島)もそうです。日本は1905年2月、「竹島」を島根県に編入します。日本海でのロシアとの海戦を前に、独島が軍事的に価値があると判断したためで、韓国では日本による主権侵奪の最初の犠牲と受け止められている。日露戦争と独島、植民地化の問題はつながっているというのがいわば常識で、それに反しているから違和感が強いのです。

 韓国の歴史学者でも、当時の状況について、自己反省的な歴史認識を持っている人も多い。日本は近代国家づくりに成功したが、当時の朝鮮半島では近代的な文明を採り入れて改革すべきだという勢力と、守旧派による権力闘争が続いていました。それが外部勢力による侵略を招いたという側面は否定できない、という考え方です。ただ、だからといって、植民地化がやむを得なかったというわけではありません。

 95年の村山談話は「植民地支配と侵略」によって、「多大の損害と苦痛」を与えたことを認め、「痛切な反省」と「心からのお詫(わ)び」を表明しました。2010年の併合100年に合わせて出された菅談話では、それがさらに明確に示されています。

 ところが、安倍談話では1931年の満州事変から、進むべき針路を誤ったとなっています。村山談話以降の日本政府の歴史認識を否定し、後戻りしたかのようです。一方で安倍談話は「歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎない」としている。相矛盾する考え方で、どちらが安倍首相の本当の歴史認識なのか。

 朴槿恵(パククネ)大統領は「揺るぎない」という部分に注目して一定の評価をしましたが、それは日韓関係をこれ以上、悪くしないための戦略的な判断だったと思います。実際にはより、不信感は強くなったのではないでしょうか。

 私は安倍首相が韓国嫌いだとは思っていないし、韓国の重要性も理解していると思いますが、今回の談話には韓国に対する怒りも感じる。慰安婦問題などで極端に悪化した日韓関係の現状の反映かもしれません。「ポスト安倍」になれば、村山談話の歴史認識に戻れるのか。それが、大きな関心事です。

 (聞き手・東岡徹)

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 イウォンドク 62年生まれ。2005年から韓国・国民大学日本学研究所長。韓国現代日本学会長、韓国外交省政策諮問委員も務める。

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◆「内向き」脱し、広い視野を 久保亨さん(信州大学教授)

 日露戦争でアジアの小国がヨーロッパの大国に勝ったことは、インドやベトナムの民族運動指導者に確かに強い印象を与えました。しかし、日露戦争をその面だけから描くのは、あまりに日本中心の歴史観だといえます。

 例えば、勝敗の決め手の一つとなった1905年の奉天会戦は、日ロ合わせて60万人近い兵力がぶつかりました。戦場は中国の遼寧省。そこに住んでいた中国人たちは避難民になってしまった。

 戦争中に発生した避難民は計100万人以上とされ、当時の清朝政府の地方官は、誤射などの巻き添え被害で数百人以上が死亡したと記録しています。戦争で迷惑をかけたこのような歴史事実は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも触れられてはいません。

 安倍談話はまた、日本が「戦争への道を進んでいった」きっかけとして29年の世界恐慌を挙げました。その後の満州事変、国際連盟の脱退を経て、日本は全面戦争に向かったという見方です。

 しかし、これも正確ではありません。軍事力にものをいわせ、日本が中国で利権を手に入れようとした動きは、もっと早くに起きているからです。それらが結局、「戦争への道」を踏み固めていったと私は考えています。

 典型例は第1次大戦中の15年に、中国につきつけた「対華21カ条要求」です。

 最大の要求のひとつはドイツが山東半島で進めていた鉄道、鉱山開発などの権益継承でした。大戦に参戦した日本は敵国ドイツの青島(チンタオ)基地を5万人の兵力で攻略し、後釜になろうとした。要求は認められ、日本軍は青島に230ヘクタールの工場用地を造成しました。

 安倍談話の歴史観を一面的と言いました。ただ、中国の20世紀の歴史を全体的、客観的に捉えることは、実はいまもなお難しい。革命によって政権が3回変わった結果、自分たちが打倒した前政権の悪いところ、遅れた点を新政権が強調したためです。

 日本が侵略した国民党時代の欠陥を共産党政権は批判し続けました。侵略した日本は悪かったけれど、当時の中国もひどい状態だったという歴史観が日本で根強いのは、その影響かもしれません。侵略を合理化する歴史観からまだ脱しきれていないのです。

 実際には国民党時代も、「21カ条要求」を受けた中華民国北京政府の時代も、近代国家形成への努力がありました。そうした中国となぜ対等な協力関係を築けず、日本は侵略や戦争を起こしたか。

 それらを客観的に振り返るためには、日本中心の内向き歴史観を克服して、アジアの隣人とも共有できる、広い視野を備えた歴史観を持つことが不可欠です。首相だけではなく日本社会全体の、「戦後70年」後の課題でしょう。

 (聞き手・永持裕紀)

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 くぼとおる 53年生まれ。専門は中国近現代史で、主に20世紀前半の社会経済史を研究。2013年から歴史研究者の全国学会「歴史学研究会」委員長。

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🔵日露戦争

小学館(百科)

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1904年(明治372月より翌19059月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州(中国東北)の支配をめぐって戦った戦争。日本は12万の戦死、廃疾者を出し戦費15億円を費やした。

[藤村道生] 

(1)国際的背景

三国干渉後、列強の中国分割が進行するなかで、アメリカは中国の門戸開放と領土保全および機会均等を宣言した。これに対しロシアは、シベリア鉄道を軸に東方政策を推進、東清(とうしん)鉄道敷設、旅順(りょじゅん)・大連(だいれん)租借を通じて南満州を支配するとともに、朝鮮にも進出して軍事教官や財政顧問を置き、南岸の馬山(まさん)浦まで租借を策した。日本は山県(やまがた)ロバノフ協定、西ローゼン協定で朝鮮における優越権の維持を図ったが、ロシアは義和団(ぎわだん)鎮圧の名目で出兵した兵力を撤兵せず事実上全満州を占領するに至った。イギリスは、ロシアの南下を阻止して中国市場を防衛するために日英同盟を提案。小村寿太郎(じゅたろう)外相は、満韓交換で日露関係調整を唱える伊藤博文(ひろぶみ)らの日露協商論を抑えて、19021月日英同盟を結び露仏同盟に対抗した。こうして満州と朝鮮を挟んで二帝国主義ブロックが対峙(たいじ)する形勢が生じた。

(2)開戦の動因

ロシアは露清(ろしん)協定による第二次撤兵の期限の190348日になっても、撤兵を実行せず、逆に増兵し、鴨緑江(おうりょくこう)南岸に進出して森林伐採を始めた。日本は、朝鮮の安全を脅かすものとして態度を硬化させた。おりしも日清戦後の10年計画による対露軍備拡張案が完成したので、軍も、開戦が必要ならば現在をおいてないと強調した。国民は軍拡による相次ぐ増税にあえいでいたが、不満は国民同盟会などによって強硬外交論に誘導され、『萬朝報(よろずちょうほう)』に拠(よ)る内村鑑三(かんぞう)や幸徳秋水(こうとくしゅうすい)の非戦論は孤立していった。

 桂(かつら)太郎内閣は19036月、元老を交えて御前会議を開き対露交渉案をまとめ、開戦世論と米英の支持を背景に、8月ロシアに対し奉天(ほうてん)の開放とロシア軍の満州撤兵を要求、交渉を開始した。日露両国はそれぞれ、相手国が朝鮮と満州を自国の勢力圏と認めること、相手国がこれに干渉しないことを約束させ、さらに相手国の勢力圏における支配を制限しようとした。日本は日英同盟の存在がロシアに譲歩させると期待したが、ロシア皇帝の側近は日本の満州に関する要求を強硬に拒否する一方、日本が韓国領土を軍事的に使用する権利をも否認した。交渉が難航するなかで日本では、陸・海・外三省の中堅幹部が互いに連絡して早期開戦を策動し、また東京帝大教授戸水寛人(とみずひろんど)ら七博士は強硬論を唱え、全国を遊説して開戦世論を盛り上げた。『萬朝報』も開戦論支持に転じたため内村らは退社、幸徳や堺利彦(さかいとしひこ)は『平民新聞』を創刊して非戦論の孤塁を守った。当初戦争に消極的だった実業界も、戦争切迫の情報で市況が沈滞したため、10月には開戦説に移った。政府は12月末の閣議で開戦準備促進を決め、旅順艦隊出動の報を受けた190424日の御前会議は対露国交断絶と軍事行動開始を決定し、10日日露両国はそれぞれ宣戦を布告した。

(3)戦争の経過

国力が乏しく長期戦に耐えることのできない日本の戦略は、ヨーロッパの増援を受けないうちに満州のロシア軍を撃滅し、戦況が優勢のうちに英米に依頼して講和することであった。戦費と軍需品も英米に依存していたから、援助を引き出し外債募集に成功するためにも早期に戦果をあげる必要があった。短期決戦と奇襲、英米との協調を軸に対露作戦計画が立案され、宣戦布告に先だつ仁川(じんせん)沖海戦と陸軍の韓国上陸、連合艦隊(司令長官東郷平八郎(とうごうへいはちろう))の旅順港夜襲が強行され、金子堅太郎が講和の斡旋(あっせん)依頼に、また日銀総裁高橋是清(これきよ)が外債募集のためにそれぞれ米、英に派遣された。

 第一軍(司令官黒木為(ためもと))は韓国を制圧、その圧力下に2月日韓議定書を結び、ついで8月に第一次日韓協約を締結して事実上の保護国とした。海軍は、黄海(こうかい)の制海権を確保し陸軍を遼東(りょうとう)半島に輸送するため旅順港の封鎖を図り、その一環として広瀬武夫らの決死隊が同港閉塞(へいそく)作戦を強行した。第二軍(司令官奥保鞏(おくやすかた))は5月遼東半島に上陸、南山激戦ののち第一軍、第四軍(司令官野津道貫(のづみちつら))とともに遼陽(りょうよう)決戦を目ざした。旅順要塞(ようさい)攻囲のため第三軍(司令官乃木希典(のぎまれすけ))を編成、以上各軍の統一指揮にあたる満州軍総司令部(総司令官大山巌(いわお))を置き、児玉源太郎(こだまげんたろう)を総参謀長とした。8月、ロシアの旅順艦隊はウラジオストクを目ざして脱走を図ったが、連合艦隊主力はこれを敗走させ(黄海海戦)、第二艦隊(長官上村彦之丞(かみむらひこのじょう))は陽動作戦中のウラジオ艦隊を撃破した(蔚山(うるさん)沖海戦)。第三軍は旅順に対し総攻撃したが兵力の3分の1を失って挫折(ざせつ)。北進軍(第一、二、四軍)ものちに海軍の広瀬中佐とともに軍神として喧伝(けんでん)された橘周太(たちばなしゅうた)中佐以下24000の死傷者を出し、遼陽は占領したが戦略目標のロシア野戦軍の殲滅(せんめつ)に失敗し、日本の望んだ早期終戦の可能性は去った。

 ロシアは当初、革命運動に備えて有力な兵団を首都周辺に配置していたが、敗戦は革命的機運を助長するとみて、現役兵の増援とバルチック艦隊の遠征を決定した。10月、ロシア軍の反撃で沙河(さか)会戦が発生、日本軍は苦戦のすえ撃退した。バルチック艦隊の出発で緊急課題となった旅順攻略のため、大本営は予備戦力の全部を投入、児玉総参謀長が直接指揮して二〇三高地(爾霊(にれい)山)を奪取、大きな犠牲を払って翌19051月開城に成功した(これまでの半年の戦争で約6万人の戦死者が出ている)。3月、奉天会戦で日本は辛勝したが、ロシア軍の包囲殲滅に失敗し、戦力の限界から講和は急務となった。5月、東郷艦隊は遠征のバルチック艦隊を撃滅し、海軍力を失ったロシアも講和を決意した。

(4)反戦運動

日本は戦費の半分以上を米英資本で賄い、ロシアもフランス資本で戦った。砲弾も同様で、日露戦争は財政と生産力からは英仏の代理戦争であり、それだけ両国の民衆は犠牲を強いられた。幸徳、堺らは19043月、「与露国社会党書」を『平民新聞』に発表して「愛国主義」と軍国主義に反対、日露人民は兄弟であると主張した。また片山潜(せん)は第二インターナショナルのアムステルダム大会に出席、ロシア社会民主党のプレハーノフと交歓した。与謝野晶子(よさのあきこ)は「君死に給ふこと勿(なか)れ」と題する反戦詩を発表、表面の戦争熱と裏腹に戦死者の増加、生活の窮乏は民衆のうちに厭戦(えんせん)気分を広げていった。ロシアでは19051月の血の日曜日事件により革命運動が激化、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンが反乱、革命は全土に拡大した。革命の火を消すために講和は絶対的要請となった。

(5)講和

日本の依頼を受けたアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、6月両国に講和を勧告。8月ポーツマスで講和会議が開かれた。日本の小村寿太郎(じゅたろう)全権は戦費賠償金を要求したが、ウィッテ全権は再戦すればロシア必勝の形勢にある満州戦線の実状を背景に拒否した。結局日本は、朝鮮における優越権、遼東半島租借権、東清鉄道南満支線、南樺太(からふと)、沿海州漁業権を得ることとなった。それは日本政府が絶対的必要条件としたものをすべて満足させ、さらに南樺太という相対的必要条件の一部さえ満たしていた。しかし償金がなく戦後の生活も困難であるとみた国民の一部は、ポーツマス条約調印日の95日、講和反対の国民大会を開き、日比谷焼打(ひびややきうち)事件に戦争中の不満を吐き出した。

(6)戦争の影響

戦勝で韓国の保護権を獲得した日本は、第二次日英同盟、桂タフト協定で韓国支配の承認を受け、逐次韓国の主権を奪い1910年に併合した。満州でも1906年南満州鉄道株式会社を創立、翌年の日露協約で南満州を勢力範囲に収めた。しかし、アメリカの鉄道資本家ハリマンの提案した満鉄の日米共同管理を拒否したことにより、日本は、門戸開放政策をとるアメリカのアジア政策と衝突することとなった。日本の戦勝はアジア民族運動勃興(ぼっこう)の契機となったが、朝鮮併合は日本への期待を失わせた。一方アジアへの進出を阻まれたロシアがバルカン政策を強化した結果、英仏露協商により対独包囲陣が成立した。こうして第一次世界大戦の戦略配置ができあがったのである。

🔴◆◆日露戦争110年、あおるメディアと「銃後」の形成

日本女子大学教授成田龍一さんに聞く

2014.04.02 赤旗

 日清戦争から10年後の1904年、日本は、朝鮮半島と中国東北部の支配権をめぐってロシアと戦争をします。日露戦争から110年の今年、この戦争から何をくみ取るべきか、成田龍一日本女子大学教授に聞きました。

 (若林明) 二つの問題を考える必要があると思います。一つはメディアの役割です。戦争をおこなううえでメディアが大きな力を発揮したのが日露戦争でした。「軍神」の登場 日清戦争と違い、ジャーナリズムの中には少数ながら非戦論がありました。非戦論が登場した意味は大きい。しかし、開戦に向けて非戦論をメディア自身が押しつぶしていきました。

 「萬朝報」の内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らは非戦論を展開します。しかし、「萬朝報」自身が主張を変えます。きっかけのひとつは、今とは比べものにならない知的権威を持っていた東京帝国大学などの政治学者7人が政府に開戦をすすめる意見書を出したことです。それを「東京朝日新聞」が大きく報じました。「萬朝報」は、その後、開戦論に転じます。

 当時の有名出版社が出していた雑誌『太陽』は、日清戦争に続いて日露戦争でも増刊号を出し、戦争をあおりました。その論調が新聞にも影響していきます。幸徳や堺は「平民社」をつくり、引き続き非戦論を展開しますが、ほかのほとんどのメディアは開戦を唱えました。

 戦闘が始まると、ショービニズムという、ある特定のイメージや感情をあおる動きが広がっていきます。メディアが熱狂的な機運をつくり出していったのです。

 そのひとつの例として、日露戦争では初めて「軍神」が登場しました。有名なのは広瀬中佐です。彼が「軍神」となった戦闘は軍事的には失敗でした。しかし、新聞はそのことを伝えず、戦争の一部分をセンセーショナルに、また、部分をつなぎあわせ兵士や国民を鼓舞する「物語」にしていきました。総力戦の始まり もう一つの問題は、日清戦争から日露戦争にかけて、国が、戦争を支える人々の集合体としての地域、すなわち前線に対する「銃後」をつくっていったことです。

 戦闘に勝つと地域で祝勝会をやる。商店街の入り口に戦勝門をつくる-。各地で、地域が軍事的な色彩で固められていき、人々は銃後という意識を持っていきました。また、軍事施設を中心に軍都がつくられました。愛国婦人会も銃後を支える組織としてつくられます。そういう意味で日露戦争は総力戦の始まりといえます。

 愛国婦人会の設立のきっかけは、日露戦争開戦に先立つ1900年の北清事変(義和団事件の「鎮圧」のために中国に出兵した)でした。愛国婦人会は上流婦人の集まりでしたが、アジア・太平洋戦争中43年には、すべての女性に銃後意識を持たせるための大日本婦人会に統合されます。日露戦争はのちの戦争につながっているのです。文学に残る痕跡 日露戦争が必然的に起きたと考えるのではなく、さまざまな可能性を考えることは必要です。そのことが、歴史の知となります。例えば、夏目漱石の作品を丁寧に読むと、漱石が戦争に適応していく社会状況にたえず違和感を持っていたことがわかります。

 当時の文学者は、社会からはじきだされた意識を持ち、そのゆえに社会の価値にどっぷりつからずに、社会の仕組みを敏感に察知し、批判的に見ることができました。文学作品は、戦争に向かう社会を批判する痕跡をたくさん残しています。それを読み解くことも、日露戦争を考えるうえで重要なことでしょう。

 なりた・りゅういち 1951年生まれ。日本女子大学教授。日本近現代史、都市社会史。『シリーズ日本近現代史(4) 大正デモクラシー』『歴史学のナラティヴ 民衆史研究とその周辺』ほか多数。

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平安朝廷とたたかった平将門・藤原純友

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🔵平将門・藤原純友リンク集

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★★歴史鑑定=平将門・藤原純友の乱

★★その時歴史が動いた=もう一つの日本を創った男 ~平将門 東国独立政権の謎

https://m.youtube.com/watch?v=QHBB0Uo75bE

(43m)

(1)https://m.youtube.com/watch?v=b0lGmPRiEm0

(2)(3)(4)は下部または検索から。

★★英雄たちの選択・平将門の生涯

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kempou7408&prgid=60397031

★★BS歴史館日本最強の怨霊 平将門なぜそんなに祟るのか 20131022 | パンドラTV58m

または

https://m.youtube.com/watch?v=Al080IQ21Gk

★★まんが日本史=平将門の乱23m

iPhoneiPadの場合は、Puffinソフトにアドレスをコピーするとすぐ見れます)

http://www.tudou.com/listplay/FL_oFu0BDzY/TQnbwZVyxAE.html

★都市伝説 平将門に助けられた男6m

https://m.youtube.com/watch?v=6ACliRJ5trc

★幻解!超常ファイル 東京ミステリー!平将門の首

◆幸田露伴=平将門(青空文庫)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/3199_15048.html

★★大河ドラマ「風と雲と虹と」

総集編180m

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kobeshi261&prgid=55176380

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kobeshi261&prgid=55176414

同じ時期に反乱を起こした平将門(加藤剛)と藤原純友(緒形拳)を描いたもの。最近の大河ドラマと比較にならないほど面白い。Dailymotionで「風と雲と虹と」検索でほとんど見れる。YouTubeは部分的。非常に面白い。

🔴◆◆平将門・藤原純友の乱=承平・天慶の乱

じょうへいてんぎょうのらん

(小学館百科全書)

10世紀に東国と西国でほぼ時を同じくして起こった反乱。主謀者の名をとり、将門(まさかど)・純友(すみとも)の乱とも称す。[森田 悌]

◆平将門の乱

平将門の乱は939年(天慶2)を境に2段階に分かれ、前段階では東国開発領主間の私闘という性格が強かったが、第二段階になると朝廷に対する公然たる反逆となった。東国に土着した鎮守府将軍良将(よしまさ)の子である平将門は、少年時代上京して藤原忠平(ただひら)に仕えたのち帰郷して父の後を継ぎ、下総国(しもうさのくに)猿島(さしま)郡岩井(茨城県坂東(ばんどう)市)を本拠とした。その勢力範囲とする下総北西部一帯では伯父(おじ)国香(くにか)をはじめとする一族のものも勢力の発展を図っており、相互の関係は円満でなく、931年(承平1)に将門は叔父の良兼(よしかね)と女性問題や遺領のことで争い、ついで良兼に連なる前常陸大掾(さきのひたちだいじょう)源護(まもる)と戦いその子供らを攻め殺し、護を助けた伯父の国香も攻め殺した。当時在京していた国香の子貞盛(さだもり)は父の死により急いで帰郷し、良兼らと力をあわせ将門に対峙(たいじ)したが、大敗した。しかし朝廷の喚問を受けた将門の不在中に、良兼は勢力を回復し、帰郷した将門を破り、その妻子を捕らえた。これに対し将門は常陸国(茨城県)へ出かけた良兼を急襲して破り、ふたたび東国に威を振るうようになった。ここまでが第一段階で、当時勢力拡大にしのぎを削っていた私営田領主の争いの域を出ず、中央政府のほうもあまり関心を示さず、ただ治安を乱すということで、追捕(ついぶ)の官符を出す程度で済ませていた。

 ところが9392月、武蔵権守(むさしごんのかみ)興世(おきよ)王と介(すけ)源経基(つねもと)が足立郡司(あだちぐんじ)武蔵武芝(たけしば)と争い、それを調停するために将門が武蔵国府に赴き和解に持ち込んだのであるが、手違いで経基の営所を武芝の軍が囲み、驚いた経基は将門が興世王らと謀り自分を殺そうとしていると思い込み、急ぎ上京して興世王と将門を謀反として訴えた。続いて将門は常陸国で国司に反抗し追われて逃げてきた藤原玄明(はるあき)を庇護(ひご)し、これが原因して常陸介藤原維幾(これちか)との間に戦端が開かれ、将門は国府を焼き払い維幾を捕らえ国印(こくいん)と鎰(やく)(鍵)を奪ったので、中央政府からみて明らかに反乱となってしまった。このような状況下で反乱を勧める興世王の教唆にのり将門は関八州の制圧に乗り出し、その掠領(りゃくりょう)に成功し、「新皇(しんのう)」と称し小律令(りつりょう)国家の成立を目ざした。朝廷では征東大将軍藤原忠文(ただふみ)を派遣したが、その東国到着以前に東国の豪族下野(しもつけ)(栃木県)押領使(おうりょうし)藤原秀郷(ひでさと)と平貞盛の連合軍が、将門が農時のため軍を解散したところを襲い、将門を誅殺(ちゅうさつ)した。[森田 悌]

◆藤原純友の乱

藤原純友は権中納言(ごんちゅうなごん)藤原長良(ながら)の曽孫(そうそん)で、伊予掾(いよのじょう)として赴任し、そのまま任地に土着し、日振島(ひぶりしま)(愛媛県宇和島市の西方)を根拠に威を振るい、海賊を働いていた。ただし936年(承平63月、南海諸国海賊平定の議が持ち上がったときには純友に海賊追討の宣旨が出されているから、この段階の純友は海賊行為をなす一方で政府に協力もするという、微妙な位置にあったらしい。しかるに939年に入ると純友は公然たる反乱に踏み切り、純友の行動を政府に報告しようとした備前介(びぜんのすけ)藤原子高を襲撃し、子高を捕らえその子を殺した。政府は最初、純友懐柔策に出たが失敗した。純友は讃岐(さぬき)国府(香川県坂出(さかいで)市府中町)を襲い、放火、略奪を行った。これに対し政府は小野好古(よしふる)を長官とする追捕使を派遣したが、完全に撃破することができず、941年には大宰府(だざいふ)を焼き払われるなどしたので、参議藤原忠文を征西大将軍に任命して鎮圧にあたらせた。この年522日、激戦のすえに純友軍を破り、小舟に乗って伊予に逃げ帰った純友を射殺することができた。

 当時人々は将門と純友が通謀して反乱を起こしたと考え恐慌に陥ったが、その事実はなく、将門の公然たる反乱を知った純友が、政府の混乱に乗じ事を起こしたということは考えられるものの確実ではない。この二つの反乱事件は地方政治の紊乱(びんらん)を露呈し、中央政府に衝撃を与えたが、意外に簡単に鎮圧することができたので、中央貴族に安易感を与えた側面があった。鎮圧軍の組織のあり方から10世紀軍制のあり方を知ることができ、将門軍に組織された従類(じゅうるい)、伴類(ばんるい)の分析を通じ、当時の兵士の社会構成史的あり方を追究することができる。[森田 悌]

『石母田正著『古代末期政治史序説』(1956・未来社) ▽上横手雅敬著『日本中世政治史研究』(1970・塙書房) ▽赤城宗徳著『平将門』(1970・角川書店) ▽北山茂夫著『平将門』(1975・朝日新聞社) ▽福田豊彦著『平将門の乱』(岩波新書)』

🔴◆◆平将門の乱

(小学館百科全書) 

下総(しもうさ)北部の豊田(とよだ)・猿島(さしま)(茨城県結城(ゆうき)・猿島郡地方)を地盤としていた豪族。若いころに上洛して藤原忠平(ただひら)に仕えた。国司、貴族の農民への苛酷な搾取に憤り農民を味方に9391 1月、常陸国府(茨城県石岡市)に出兵してこれを焼き払い、将門の行動は国家に対する反乱となる。将門は関東各地の国府を制圧して受領(ずりょう)を追放、新皇と称して弟や同盟者を国司に任じ、関東独立の姿勢を示す。しかし9402月、下野(しもつけ)の豪族藤原秀郷(ひでさと)と国香の子貞盛らの軍勢により、猿島の北山(嶋広山ともいう。茨城県坂東(ばんどう)市)で討たれた。

平将門の関東支配はわずか数か月にすぎなかったが、中央派遣の受領を放逐したその行動はとくに東国の民衆の共感をよび、将門を英雄として仰ぐ気風は時代とともに強まる。10世紀末には将門の死後霊験譚(れいげんたん)が形成される。東京の神田神社、坂東市岩井の国王(こくおう)神社(将門の二女如蔵尼の創建と伝える)をはじめ、将門を祀る社寺は関東に多い。

西国では、朝廷の海賊追討使という元役人が伊予の宇和島の海賊になった藤原純友が平将門とまったく同じとき939年朝廷にたいして反乱を起こした。将門の反乱の情報を得たと思われる。純友は、海賊や民衆とともに讃岐や太宰府を襲撃するなど西国全体に反乱を広げた。9415月には鎮圧された。この2つの反乱を承平・天慶の乱=じょうへいてんぎょうのらんという。2つの反乱は朝廷に鎮圧されたが、貴族支配を内部から崩し武士階級を台頭させ、古代から中世に社会を移行させる役割を果たした。

🔴◆◆平将門の乱

(ティータイムは歴史話から)

天慶3年(940年)2月、下総国石井(いわい・・・現 茨城県岩井市)において、平将門は藤原秀郷・平貞盛・藤原為憲の連合軍との戦いの最中、どこからともなく飛んできた矢にあたりあえなく戦死しました。前年坂東諸国を制圧し、新皇を称した将門の乱はわずか2ヵ月であっけなく幕を閉じたのです。

朝廷に刃向い皇位を僭称する悪人の末路はかくのごとし・・・将門は戦前の歴史観上、日本史上最大の悪人として恰好のサンプルでした。

平将門像(愛媛県歴史博物館) 

◆系譜

将門は平氏の祖・平高望の孫にあたります。

桓武天皇の曾孫にあたる高望王が臣籍降下で平の姓を賜り、上総介として赴任したことは ここ にも書きました。平高望は任期をすぎても帰京せず、開拓農場主として上総国に土着し土地の有力者となったのです。

彼の長男国香(くにか)は常陸大掾、鎮守府将軍。二男の良兼は下総介。良持(将門の父)も鎮守府将軍に任命されていました。

高望王の子孫は代を重ねるにしたがって上総国から下総国、常陸国に広がり、やがては平清盛はもちろんのこと、後に坂東八平氏と言われるようになる長尾氏、千葉氏、上総氏、秩父氏、三浦氏、梶原氏、土肥氏、大庭氏達を生み出しました。もちろん平安末期源頼朝に協力した北条時政、畠山重忠等も平氏であり、このことは平安中期にこの一族が坂東でいかに繁栄したかを物語るものです。

この時代より約150年後、源頼義は奥州制覇をめざして前九年の役を引き起こしましたが、なぜ奥州なのかといえば坂東はすでに平氏一門等に押さえられていて土地のスペース(?)がほとんどなかったのも一因です。

平国香の長男貞盛が伊勢守に任ぜられて伊勢国に移り住むと、今度は坂東にかわって伊勢が平氏の本拠地となりました。

ご案内のとおり伊勢平氏は清盛が登場し政権を掌握すると同時に貴族化し、全国の武士達にそっぽをむかれてしまいます。坂東の平氏達は平氏の末流とはいえそのころにはもはや平氏一門の待遇は受けなかったため、源頼朝に味方し平氏打倒の兵を挙げることになるのです。 

一方初期のころ将門と争うようになる源氏は源頼朝等を出した清和天皇の子孫(清和源氏)ではなく別の系統になります。源氏は清和源氏が有名ですが、皇族の臣籍降下で源氏の姓が与えられたのは豊臣秀吉のころまで行われていたので源氏の流派は実に多かったのです。

平氏は桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏の4流だけですが、源氏は21の流派がありました。嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、亀山源氏、後二条源氏、後醍醐源氏、正親町源氏がそれです。

この中で嵯峨源氏は一文字の名前で知られています。姓も一文字ですから合わせて二文字です。

歌人として高名な源融(みなもとのとおる 812~895年)や源頼光の四天王として知られる渡辺綱はこの流れです。

平将門と深くかかわる源護(みなもとのまもる)は確実なところはわかりませんが、名前が一文字なので嵯峨源氏と推定されています。彼は常陸の大掾(たいじょう)として赴任しました。

源護の長女は平良兼(国香の弟)、次女は平良正(同)、三女は平貞盛(国香の長男。将門の従兄弟)にそれぞれ嫁いでいます。つまり、まことにややこしいことながら源護は平氏と姻戚になることで勢力の拡大を図ったのです。

◆当時の官位

他のところで何回か書いていますが、国司の官位(かんい・・・朝廷内の役職)は数段階に別れていました。

このコンテンツにも守、介、掾という名称があちこちに出てきますので一応参考まで。

等級 官位 読み方 内容

かみ 今で言う県知事。その国の最高官

すけ 副県知事。ただし上野、常陸、上総にあっては最高官

じょう 副々県知事。国によっては大掾、小掾もあった

ですから武蔵守といえば武蔵の国(今の埼玉・東京)の最高官です。これに対して上野、常陸、上総の三国は親王任国といって、守は親王が任命されるのが慣例でした。

親王は当然皇族ですから京都から離れることはできません。このためこれら三国では介が事実上の最高官だったのです。なお任期は5年間で、時には再任されることもあったようです。

◆権力争い

平安中期の朝廷で絶対的権力を握ったのは藤原氏ですが藤原氏が危険視し、これを除くことに躍起になった人が少なくとも三人います。一人は菅原道真であり、あとの二人は伴善男(とものよしお)と源高明(みなもとのたかあきら)です。

菅原道真についてはここでは書きませんが、伴善男(809~868)が失脚したのが応天門の変です。

応天門とは現在でいえば国会議事堂正門のようなもので、866年3月ここから不審火が発生。またたく間に左右の門を含めて全焼した事件です。

2ヵ月後、右大臣藤原良相と大納言伴善男はこれを左大臣源信(みなもとのまこと・・・嵯峨源氏)による放火と断定。しかし同年8月、犯人は伴善男父子であるとの密告者が現れ、その結果伴善男をはじめとする5人が連座し流罪となったのです。源信は疑惑は晴れたものの、疑われたショックで家に閉じこもったまま2年後に亡くなります。

この事件の真犯人はいまだに不明です。

これは伴善男がライバル源信を蹴落とそうとした事件とも、あるいは伴善男の失脚をねらった太政大臣藤原良房の陰謀ともいわれています。仮に藤原良房の陰謀でなかったとしても、彼はこの事件を巧みに利用した結果藤原良房の有力な政敵である伴善男と源信がいなくなったのは事実なのです。

安和の変は969年、源高明(914~982)が娘婿である為平親王を擁立して冷泉天皇の皇位を奪おうとした事件です。源高明は醍醐天皇の子で臣籍降下で源の姓を賜り26歳で参議、52歳で右大臣、続いて左大臣にまで昇進しましたがこの事件で失脚。この人も菅原道真同様大宰府に左遷されました。

しかし安和の変は菅原道真のケース同様に藤原氏による陰謀・でっち上げ事件に間違いなく、強力なライバルを蹴落とした藤原氏はその後朝廷内での絶対的権力を掌握することになるのです。

この頃の坂東は『群盗山に満つ』状態で武蔵国、上総国、下総国などは郡ごとに検非違使(警察署のようなもの)を設置しなければならないほど治安が悪化していました。

しかしそんなことはなんのその。当時の朝廷ではこんな事件(権力闘争)が相次いで起きていました。

藤原氏には国政を担当している自覚など一切なく、ひたすら一族の繁栄だけを目的に朝廷を(つまり日本の国政を)牛耳ることになるのです。 

◆将門記

将門の乱について書かれたものが将門記(しょうもんき)です。

将門の死後四ヵ月ほどで書かれたらしくほとんど同時記録のようなものであり、信頼性は高いとされています。作者は不明ですが下総・常陸国の地理に詳しく、また仏教的な文章が多いため現地付近の僧侶ではないかと言われています。

また将門について称賛しているところがある反面、反逆者としても書かれており、作者の立場が将門側なのか朝廷側なのかよくわからいところもあります。

坂東諸国

◆出生~青年期

将門の生年はよくわかっていませんが、母は下総の豪族、犬養春枝(いぬかいはるえだ)の娘で、下総国石井(現在の茨城県岩井市)付近で生まれたと言われています。父は良持(良将と書いた記録もあります)。

将門は通称として小次郎を名乗っているところから、二男と推定されています。長男はおそらく早世したのでしょう。

将門は少年のころ、一時京に上っていました。目的は何かしらの官位(朝廷内での役職)を得ることです。

この時代の地方武士の中には京の公家の私臣となって雑務をする人が多かったようで、将門もどのようなツテで仕えたのかはわかりませんが右大臣藤原忠平(時平の弟)の家人となっています。ひょっとしたら将門の父良持が開拓した荘園は藤原忠平に寄進されていて、その縁で仕えたのかもしれません。

仕事は藤原忠平の家屋敷や京の町の警備などだったでしょう。武士ですから学問はないし、それくらいしかやることがないのです。

まじめに勤務して主君に気に入られれて、しかも運がよければなにかしらの官位がもらえたのです。もちろん一種の任官運動ですからクソまじめに勤務するだけではなく、それなりの貢物・・早い話が贈賄活動をしていたことでしょう。

将門の家は坂東一の氏族の家ですし、父良持は鎮守府将軍として陸奥に赴任していました。相当裕福な家だったことでしょうからそれなりの贈賄はしていたことでしょう。

それでも貰える官位は、なにしろ当時は武士などごく低い身分でしたから決して高いものではなかったと思われます。

この時代から約150年後、後三年の役を鎮めた源義家(八幡太郎)は当時の武士としては破格の正四位下与えられ、昇殿をもゆるされましたが、これはあくまで例外なのです。

武士にすれば低いとはいえ官位があれば豪族仲間の間でも大きい顔ができますし、仮に国司や豪族間でトラブルが起きた場合、京との公家とつながりがあると何かと有利だったのです。この点政財界とつながりがあるといろいろ有利とされる現代と同じようなものです。社会の構造や人のあさましさは昔も今も変わりません。

将門は武骨な田舎武者にすぎません。

故郷にいれば大勢の郎党や下人にかしずかれていた身です。戦は得意でも貴族の教養など持ちあわせず、宮仕えは戸惑うことばかりだったことでしょう。

何年間京都にいたのか。

結局将門はなんの官位ももらえませんでした。官位をもらえなかった恨みから将門は反逆したと主張する人もいるようですが、これは考えすぎというものでしょう。将門は戦のこと以外、特に官位などにはそれほど執着する男ではなかったような気がします。

やがて不幸なことに陸奥国に単身赴任していた父が急死し、将門は急遽家を継ぐため京都から戻ることになります。そしてそれは他の平氏一門との戦いのはじまりでもありました。

◆同族との争い

将門記は935年2月、常陸国野本付近で将門と源氏の武力衝突があったことを伝えます。

この戦いで将門は源護の長男扶(たすく)、二男隆(たかし)、三男繁(しげる)の三兄弟だけでなく、源氏に加担した伯父・平国香までも討ち取るという戦果をあげました。

将門がなぜ源氏と戦うことになったのか原因は不明ですが、普通に考えればこの付近の土地は源護や将門の領地が複雑に入り組んでいたため、それまで小競り合いだったのがこの時は本格的な戦闘に発展したのかもしれません。

将門記には女禍とも書いてあります。

将門の妻は平良兼(将門の叔父)の娘のようですが、将門がこの娘を略奪同然に奪ったので将門は一族から孤立していたという説もあります。平良兼は源護の娘を妻にしていますので彼にとっても源護は親戚にあたるのですが、それならばこの時なぜ平良兼が加担しなかったのかナゾです。

また平真樹という人が源護と紛争を起していて、将門は真樹に頼まれてこの紛争を調停しようとしていたとも言われています。将門はけっこう人に頼られる人物でもあったようで、将門の乱は将門のこの侠気に富んだ性格が大きな原因になっているように思えます。

平国香の加担もまた謎です。

この人にとって源護は息子の舅。親戚とはいえ将門は甥ですから将門との縁の方が濃いと思うのですが・・・。

ところが前記したように源護の三人の娘は平貞盛・良兼・良正に嫁いだのではなく、国香・良兼・良正の兄弟に嫁いだと書かれた資料もあります。これが真実なら国香の加担は納得できます。いずれにせよ将門と源護の争いは他の平氏一門を巻き込んでの争いに発展して行くのです。

 将門は源氏三兄弟の不意打ちをくらったようです。

このため一時は劣勢だった将門ですが次第に体制を立て直し、ついには攻撃に転じ一気に大串にある源氏館に、続いて石田にある平国香の館に攻め込みました。

この戦いで野本から石田にかけて点在する村々(ほとんどが源護や平国香の領地)はすべて焼き払われ、人は男女幼老を問わず殺されたといいます。

最初に少なからぬ郎党を失ったため、怒り心頭に達した将門が徹底的に戦ったのでしょう。そうでなければ将門の攻撃の激しさが説明できません。しかしこうした場合の攻撃は激しければ激しいほど、強烈ならば強烈なほどよいのです。そうでなければ弱い主人、頼りにならない主人として郎党から離反されてしまうのです。当時はそういう時代であり、坂東はそういう風土だったのです。

将門記にはこのように記されています。

悲しいことに男女は焼けて薪となり、珍しい財宝は他人に奪われてしまった。三界火宅の財宝は元々五人の持ち主があるというが、持ち主が変わって定まらないとはこういうことを言うのか。

その日の火が燃え上がる音は雷鳴のように響き渡り、その煙の色は雲と争うように空を覆った。山王神社は煙の中で焼け落ち、国府の役人や一般庶民はこれを見て嘆き、遠い者も近い者もこれを聞いて嘆息した。

矢に当って死んだ者は思いもかけず親子の別離となり、盾を捨てて逃げた者は予期せぬ夫婦の生き別れとなった。

*三界火宅・・・苦しみ多いこの世の意味

 薪(まき)とは若い人には知らない人がいるかも知れませんが短く切って乾燥させた木で、火をおこすのに使い燃えれば黒焦げの炭や灰になります。

それにしても生々しい表現です。このすさまじいばかりの逆転劇は、将門の軍事力が源護や平国香の想像以上だったことを意味します。戦いは将門の大勝利でしたがこの結果、源氏三兄弟はともかく一門の統領である平国香を討ち取ったことにより、将門は平氏一門から孤立し、一族すべてを敵に回すことになるのです。

 前記のとおり将門の叔父平良正もまた源護の娘を妻にしています。良正は源氏の不幸に同情するあまり、車輪のごとく国中を奔走し、味方を募って将門に戦いを挑んできました。

両者は935年10月、常陸の川曲で戦いましたが良正は死者60人、怪我人は数知れずというダメージを受けて敗退。良正は敵の名声を上げ、他国で恥をさらすことになりました。(茶色の文字は将門記の記述)

 ここで将門の従兄弟、平貞盛(たいらのさだもり)が登場します。平国香の長男で、平清盛の祖先にあたります。

貞盛はやはり官位目当てに将門とほぼ同時期に京へ行っていましたが、将門よりは宮仕えの才能があったのか、要領がよかったのか。左馬充の官位を貰っていました。

左馬充(さまのじょう)とは御所の馬や馬具、諸国の牧場の馬を管理する役職で、卑賤な職ではありましたが何の役職にもつけなかった将門とはかなりの違いがありました。

父の死を知って故郷に帰った貞盛は何を思ったか将門と和解すると言い出したのです。おそらく坂東で戦いに明け暮れれば自分の朝廷内での出世にひびくと思ったのでしょう。しかし何といっても将門は貞盛にとって父の仇。将門は和解するとの貞盛の言葉を信じず、結局貞盛も叔父の平良兼や良正と共に将門と戦うことになるのです。

平国香亡き後平氏の長者となった平良兼はいつまでも事態を捨ててはおけず良正、貞盛と共に翌年6月、将門追討に立ち上がることになります。兵数約1000人。これに対する将門勢はわずかに200人。

将門の兵力は決して少ない数字ではありません。

常に数千、数万の兵が動員されたのはずっと後、戦国時代になったからのこと。当時の豪族の動員兵力は数十からせいぜい数百だったのです。そんな時代に平良兼が1000人もの兵を集められたということは、これはそのまま良兼の実力を意味します。

しかし戦いは必ずしも兵力の大小では決まらないものです。

良兼は兵を引き連れて北上し一旦は下野国に入ります。示威運動です。兵数に開きがありすぎて尋常に戦ってはとても勝てないため、良兼軍を待ち伏せした将門は奇襲攻撃で敵の前軍を混乱させ、それに乗じて一気に突撃するとたちまち良兼軍はばらばらとなり、良兼・良正兄弟は近くの豪族の館に逃げ込みます。

ところが将門はその館を一旦は包囲しますが、しばらくすると囲みの一部を開けてわざと良兼等を逃がしてやり、その後将門は下野国府に赴いて騒動を起こしたことを侘び、国府の役人に一部始終を報告して帰っています。

なぜ将門が良兼・良正を逃がしたのかはわかりません。彼の甘さかもしれませんし、時折みせる人の良さなのかもしれません。

この年の10月将門は源護に訴えられたため、朝廷に呼び出されて上京しています。しかし結果として将門の罪は軽微であるとされ、かえって将門の武名は都に知れわたることになるのです。翌937年4月朱雀天皇の元服による恩赦があり、罪は不問となり5月には帰郷しています。

帰郷した将門には再び良兼・良正との戦いが待っていました。

この時将門は一時的ながら戦いに敗れています。

運悪く将門は脚気を病んでおり、さらには祖父高望王の木像を掲げて突撃してくる良兼・良正にはさすがの将門も弓が弾けず敗退しています。これは相当卑劣な手段でしたが、良兼・良正にとっては普通の手段では将門には勝てないと考えた窮余の策だったのでしょう。

しかしそれでも将門を倒すことはできず、9月になると脚気が治った将門が常陸国真壁郡にある良兼の領地を焼くと良兼は筑波山中に逃げ込んだため引分になっています。

将門が帰郷した5月から9月にかけて大小、多くの戦いがありました。

この当時の兵は農民兵。

農民にとっては農繁期の戦いは農作業はできず、戦死者も出るし迷惑この上もなかったことでしょう。

もっともこの状況は織田信長が兵農分離を始め、豊臣秀吉が刀狩をして農民の武装解除を行うまで変わらなかったのです。

将門の下人で丈部子春丸(はせつかべ こはるまる)という男がいました。

丈部という姓は大和民族のそれではありません。越後方面にいた大和朝廷に背く人・・・まつろわぬ人の姓です。

まつろわぬ人で朝廷に降伏し帰順した人は俘囚(ふしゅう)と呼ばれていました。当時の坂東はまだまだ未開の地が多く、開拓のため多くの人手を必要とし、その労働者として坂東や他の地方に送り込まれた俘囚も多いのです。

当然ながら俘囚達は好きこのんで坂東に移住したのではありません。坂東での労働は過酷だったでしょうし、その不満から時には大規模な反乱に発展することもありました。

子春丸が実際に丈部氏の一族なのか、それとも単に名乗っていただけなのか今になってはわかりませんが、少なくとも将門の配下に丈部姓を名乗る人がいたということは、将門の軍には俘囚達がかなりいた証拠と思えます。

さて子春丸はおそらく下人ではなく、郎党に取り立てるとでも言われたのでしょう。良兼の誘いに乗って将門を裏切り、将門の館内の様子や家屋の配置を良兼に教えてしまうのです。ある日の未明、良兼は80人の精兵で将門の館を襲撃しようと進んでいくと、途中でこれを将門の兵に見られてしまいます。その兵の急報で良兼の襲撃を知った将門はわずか10人の兵(その時、彼の館内にはそれしかいなかったのです)を部署し、良兼を待ち受けます。

不意打ちをかけようとした良兼は逆に不意を突かれ、数十人の死傷者を出して逃げ帰ります。またしても将門の勝ちでした。

その後ほどなく良兼は失意のうちに病死し、貞盛は将門の追求を逃れるために翌938年2月、東山道から京都へ向けて出発しました。

これを知った将門は百余騎の騎馬兵を率いて追撃。信濃の国分寺で追いつき、千曲川で合戦となりましたが一戦して貞盛は敗れ逃走してしまいます。しかし追撃したもののどうしても貞盛を捕捉することはできず、将門は地団太踏んで悔しがったといいます。

貞盛は取り逃がしたものの数回の合戦に勝利してきた将門は坂東一の武者と称えられるようになり、同族との戦いはこれで一応終わり、以後彼の行動は強力な軍事力をバックに同族との戦いの枠を越えて行くのです。

◆武芝騒動

武蔵国(現東京都、埼玉県)安立郡の郡司(ぐんじ)に武蔵武芝(むさしのたけしば)という男がいました。郡司とは、朝廷から派遣された守が県知事のような存在だったのに対して市長のような立場です。

この役職には朝廷から派遣された役人ではなく、習慣的に現地の有力な豪族が任命されていました。武蔵武芝は極めて優秀な郡司として国司側からも民衆からも信任が厚かったようです。また彼は武蔵という姓があらわすように武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の子孫と考えられています。

938年2月、騒動は武蔵国権守として興世王(おきよおう)、介として源経基(みなもとのつねもと)が赴任して来た時起こりました。守は百済貞連(くだらさだつら)でしたが着任が遅れていて、この時はまだ到着していなかったのです。

*権守(ごんのかみ)・・・守の代理。介の上位役職

 余談ながら武蔵国は朝鮮からの帰化人が開拓した国です。

かつて大和朝廷と親密な関係があった百済国・高句麗国が滅びると多くの人が日本に帰化しました。彼等は大陸の最新の文化・文明を日本にもたらし、ある者は大和朝廷内の要人となり、またある人は開拓のために地方へ移住したのです。

 『続日本紀』元正天皇霊亀2年(716)には、『駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国の高麗人1799人をもって武蔵の国に移し、はじめて高麗郡を置く』とあります。

高麗神社(こまじんじゃ・・埼玉県日高市)

現在でも埼玉県南部には高麗川という川がありますし、飯能市(はんのうし)という市もあります。飯能とは韓(ハン)の地(ナラ)という意味のようです。

『こま』という地名は古代朝鮮と関係があるようで、東京の駒込(こまごめ)や狛江(こまえ)も朝鮮からの帰化人が残した地名です。

この神社は、唐・新羅連合軍に敗れ滅亡した高句麗国の王族若光(じゃっこう)を祀る神社です。若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発につくし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没したのです。

ついでに言うと地名ではなく姓名になりますが、『こぐれ』という姓は高句麗(こうくり)から、羽田、秦、湊のように『はた』という姓名は始皇帝を出した秦(しん)の住民が日本に移住して国名を名乗ったともいわれています。秦は『はた』とも読むのです。

◆国司と郡司の利害関係

当時善政を布くために赴任した国司は皆無と言ってよいでしょう。

下級貴族達は国司になりたいのです。そのためにはいろんな手づる・賄賂をはじめ、あらゆる手段を用いて藤原氏の機嫌をとってやっと国司に任命されるのです。臣籍降下して平氏や源氏となった皇族、たとえば高望王も同じです。

臣籍降下したとはいえ、モトをただせば高望王達は藤原氏の主筋。

なぜ卑屈なまでに運動をして国司になりたいか。

当時の京都では藤原氏一族(もちろん本家の藤原氏)が権力を握っていて、藤原氏一族でなければ絶対といっていいほど出世の見込みはなかったのです。もちろん皇族であっても母親が藤原氏以外の家の出身であっては同じことでした。

彼らはたとえ天皇の血筋であっても京都にいてはうだつが上がらず、下級貴族として一生を終えるしかないのです。ところが国司に任命されて現地に赴任すれば、一定の税を徴収しそれを朝廷に送ることが仕事になります。

国司の仕事とは簡単に言えばそれだけで、それさえきちんとやっていればあとは農民を徴収して私用に使おうと、地元の有力者達から饗応を受けるのも、賄賂を受けるのもやり放題なのです。

賄賂は、例えば訴訟の時や年貢取り立てに手心を加えてもらうようなことであり、私用に使うとは、主な用事は未開拓地の開墾です。そして任期がすぎれば京都には帰らずそこに住み着く。その新しく開拓した土地を荘園として名目上は都の有力貴族(藤原氏など)に寄進しますが、事実上は自分の土地になるのです。

ここに当時の律令政治の矛盾が表れています。

国内の土地は三種類に分かれます。国有地と荘園と未開拓地で、国司にとって税を徴収する土地は国有地だけで、荘園は都の貴族の持ちもので税徴収の対象外、非課税領域なのです。

新任の国司にとって国有地が多いほど税徴収の成績は上がります。しかし彼等にとっては未開拓地が多いほど嬉しいのです。なぜならその未開拓地を開拓して荘園とすれば任期終了後は自分が支配することができるからです。

こんなわけで国司になるということは賄賂は入るし、未開拓地が多ければ将来大農場主になれる可能性を秘めているし、喉から手が出るほどなりたいのも無理のないことでした。

地元民からみれば国司は朝廷の威をかさにきて威張りちらすだけではなく、税を搾り取るわ、私用に使われるわ、賄賂を要求するわでハラワタの煮え繰り返るような存在で、当然ながら国司と地元民とはイザコザが絶えなかったのです。

武蔵国に到着するなり興世王と源経基は、武蔵武芝に対して領内を検分すると通知しました。

検分とは聞こえが良いですが、早い話が検分する土地の有力者から受け取る莫大な貢物が目当てであり、守の百済貞連がいては自分の取り分が少なくなるため、百済貞連の到着を待たずに行おうとしたのです。あさましいものですが、それくらいのことをしなければ赴任した意味がないと考えたのでしょう。

武蔵武芝は二人の要求を、守の到着前の領内検分は慣例に反する、として拒絶しました。すると怒った興世王と源経基は兵を引き連れて武芝の領内を荒らしまわり、略奪をほしいままにしてしまいます。

暴悪で非があるとはいえ、興世王と源経基に逆らうことは朝廷に逆らうことになります。衝突を恐れた武芝は一族を引き連れて付近の山に避難してしまいます。

これを知った興世王と源経基は狭服山という山に陣取り、武芝と対峙するようになります。

狭服山の所在地は不明です。埼玉県狭山市ともいわれていますが、その後興世王はここを下山して武蔵の国府に出向いていますから国府(東京都府中市)からはそれほど離れてはいないとも思います。狭山市と府中市は直線距離にして約40Km。ちょっと離れすぎているように思えます。

その興世王と源経基は自分達に対する非難の声が高まるにつれてコトの重大さに不安を感ずるようになり、さりとて武芝に詫びを入れるのはメンツにかかわるし、どうにも動きがとれなくなって来ていました。

ここで将門が両者の間に調停に入るのです。

すでに坂東一の武者と言われるようになった将門のとりなしは興世王と源経基にとっては渡りに船でしたし、武芝には天の助けだったことでしょう。

なぜ将門が自分の領地を離れて他国の紛争解決に乗り出したのかわかりませんが、武勇だけでなく、こんなことすれば男が上がるとでも思ったのかもしれません。

大国魂神社(東京都府中市宮町)です。武蔵野国の国府はこの近くにあったようです。

国府政庁で関係者が集まりました。和解です。

しかし源経基は和解が信じられず、のこのこ国府に出向いては殺されるのではないかと不安がって依然として狭服山から下山しなかったのです。

国府では思わぬハプニングが起こります。

和解も済み、興世王と武蔵武芝は将門と共に酒宴を開いていましたが、源経基は自分を酒宴に迎えにきた武芝の兵を自分を攻撃にきたと思い込み、一目散に逃げ出してしまったのです。(一説では武芝の兵が実際に源経基を攻撃したともいいます)

京都に着いた源経基は朝廷に将門は謀反をたくらんでいると報告しましたが、朝廷もそれをそのまま鵜呑みにするほどいい加減ではありません。源経基は事実関係を調べた朝廷からかえって叱責をうけるというありさまでした。

しかし人間、何が幸いするかわからないものです。その後将門が常陸、下野、上野の国府を襲い、新皇を称するようになると、源経基は先見の明があるとして今度は朝廷から誉められてしまうのです。ま、結局朝廷はええ加減なんですがね。

将門が北関東の国府を襲ったとき・・・それはこの翌年のことですが、武蔵武芝の動きについては何の記録もありません。ほどなく亡くなったのか、それとも将門には助けてもらった義理はあっても国家に反逆することはできなかったのかわかりません。武蔵武芝はこの騒動以降永久に歴史に埋もれてしまう。

🔴◆◆藤原純友の乱

藤原純友

ふじわらのすみとも

(?―941

(小学館百科全書)

平安中期の瀬戸内海海賊の組織者。大宰少弐(だざいのしょうに)藤原良範(よしのり)の子。また伊予前司(いよのぜんじ)高橋友久の子とも伝える。伊予掾(じょう)936年(承平6)、伊予日振島(ひぶりじま)(愛媛県宇和島市)に拠()る海賊、1000余艘(そう)2500余人の首領であったが、国守紀淑人(きのよしひと)のもとに投降した。『本朝世紀』によると、純友はこの年に追捕(ついぶ)海賊の宣旨(せんじ)を被っており、海賊の動きはしばらく鎮静化するので、その組織力の大きかったことがわかる。しかし939年(天慶212月、備前介(びぜんのすけ)藤原子高(さねたか)らの一行を摂津で襲ってふたたび反乱。東国の平将門(まさかど)の反乱と同時であったため、東西の兵乱として貴族たちを震撼(しんかん)させた。

 朝廷は純友に従(じゅ)五位下の位階を授けて懐柔、西海の反乱は一時鎮まるが、9405月に征東軍が帰洛(きらく)すると純友士卒の追捕を令し、西海の追討が本格化する。純友は讃岐(さぬき)の国府を攻めて国軍を走らせ、備前、備後(びんご)の兵船を焼いたが、朝廷は長官小野好古(よしふる)・次官源経基(つねもと)らの追捕使を任じてこれにあたらせた。海賊軍は紀伊、安芸(あき)、周防(すおう)などを襲うがしだいに追い詰められ、9415月に大宰府を襲撃するが追討軍に敗れて四散する。伊予に逃れた純友は629日、子息とともに警固使橘遠保(たちばなのとおやす)に討たれた。遠保に捕らえられて獄中で死んだとも伝える。純友与党の追捕もこの年内に完了するが、その経過をみると、純友は九州、四国、中国地方の瀬戸内一帯の海賊を組織していたことがわかる。[福田豊彦]

『福田豊彦著『平将門の乱』(岩波新書)』

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