不破哲三=「レーニンと資本論」語る(1)

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不破哲三「レーニンと資本論」語る

レーニンの理論についての探求

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🔵「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く(1)いま、なぜレーニンか

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聞き手山口富男さん

1998年9月15日付「しんぶん赤旗」

 日本共産党の不破哲三委員長が雑誌『経済』に連載中の「レーニンと『資本論』」は、レーニンの『資本論』研究を系統的にあとづけると同時に、新しい角度からレーニンの理論と実践に光をあてた研究として、いま注目されています。これまでの研究の特徴や新しい論点、連載のこんごの構想などについて、筆者の不破委員長にききました。聞き手は党文化・知識人委員会責任者の山口富男氏です。

科学的社会主義の流れの大きな峰 

山口 不破さんが雑誌『経済』で「レーニンと『資本論』」の連載を始めて、ちょうど一年になります。いま出ている十月号の「唯物論か経験批判論か(下)」で十三回目ですが、なぜこういう連載研究をはじめたのか、いまなぜレーニンなのか、というあたりから、お聞きしたいんですけれども。 

不破 ソ連が解体したとき、私たちは、社会主義の道を根本から踏みはずしてソ連をつぶした張本人はスターリンだと批判しましたが、一般には、スターリンと一緒にレーニンまで過去の人物にしてしまう空気が結構あるんですね。しかし、レーニンがやった仕事を、スターリンと一緒にするわけにはゆかないし、レーニンの理論的な実績は、ソ連がつぶれたからおしまいだといってすませてしまうわけにはゆかないものです。 実際、マルクス、エンゲルスがやった理論的な仕事、実践的な仕事を、レーニンほど徹底的に研究し、その現代的な意味を明らかにした人物はいません。だから、私たちが、政治の分野であれ、経済の分野、哲学の分野であれ、科学的社会主義の理論と実践を考える時には、いろいろな意味で、レーニンのやった研究の成果に負っているところが多いのです。

 しかも、レーニンのマルクス、エンゲルス研究は、ただの研究ではなく、一方では、マルクス、エンゲルスの死後、その内容をおおもとからくつがえすような間違った流れが横行しはじめたなかで、それらと論争しながら、何がマルクスの理論の核心なのかを明らかにしたものでした。また他方では、二十世紀という現代的な条件のなかで、さらにロシアという複雑な特殊性をもった革命運動のなかで、日々起こってくる問題とかみあいながら、その具体化をはかる。こういう形で、マルクス、エンゲルスの学説を擁護し、理論と実践の発展にとりくんできたのですから、もちろん、いろいろな弱点、歴史的な制約、誤った判断などの点はよく吟味しなければなりませんが、そこに遺産としてうけつぐべきたいへん大きな成果があることは間違いありません。あえていえば、レーニンによる研究の成果をぬきにして、マルクス、エンゲルスの理論の現代的な意味を語るわけにはゆかない、そういえるだけのものがあります。

 科学的社会主義の事業と理論の創始者たちと違うことはもちろんですが、この事業の歴史的な流れのなかで、大きな高い峰であることは間違いない、と思います。

 先日、中国を訪問したとき、今後の社会主義的な展望の問題も首脳会談で話題になり、私の方から、市場経済へのとりくみを考える場合、レーニンが十月革命後、一連の試行錯誤をへて到達した「新経済政策」(ネップ)というものが、一つの理論的な足場になりうるという話をしたのですが、こういうことも含め、まだ未発掘というか、研究すべき問題もずいぶんあるんですよ。 私が『経済』の昨年十月号から「レーニンと『資本論』」を書きはじめたのは、いちばんの直接的な動機としては、「エンゲルスと『資本論』」(『経済』九五年十月号~九六年十二月号、九七年に単行本・上下二巻)を書いたなかで、マルクス、エンゲルスの仕事とレーニンの仕事のあいだに接点が多いことに触発されたことなんです。しかし、もっと大きな意味でいうと、いまレーニンの全体を見なおすことは、二十一世紀を展望して科学的社会主義の理論と実践を発展させることを考える上でも重要な意味があると思ったからで、そういう気持ちで連載を書きつづけているところです。

レーニンをレーニン自身の歴史のなかで読む

 山口 連載を読んでいると、レーニンをどう読むかという点で、独特のものを感じるんですが……

 不破 こんど、連載の初めの方、六回分を第一巻にまとめ、十月ごろ出版するということで準備をすすめています。その「まえがき」に、自分なりにふりかえって書いたことなんですが、一口にいえば、レーニンをレーニン自身の歴史のなかにおいて読む、ということでしょうか。私は、いまレーニンを読むとき、この態度が非常に大切だと思っているんです。

 以前には、マルクス、エンゲルスを読む場合にも、レーニンの結論を基準にして読むというか、レーニンをマルクス、エンゲルスの理論に最も精通した絶対の解説者として扱う見方が強かった時期があったんですが、これは、明らかに正しい見方じゃないんですね。レーニン自身にとっても、マルクス、エンゲルスを研究すること自体が、一つの歴史であって、初めからすべてに精通していたなんてありえないことですね。ですから、マルクス、エンゲルスの理論についてのレーニンのその時どきの結論にしても、歴史的な制約があって当たり前なんです。マルクスの新しい著作を手にいれたら、むさぼるようにそれを読んで、それによって自分の理論的な見地を発展させる、また次のものを読むと、そこからまた新しい視野が開ける――こういう調子ですから、マルクス、エンゲルスの理論にたいするレーニンのとらえ方そのものが、歴史的な発展の過程をあらわしているんですね。

 それからまた、レーニンが現実の運動のなかでぶつかる問題そのものも、歴史的なんです。ロシア革命の局面ごとの問題にしても、世界の政治や経済のうえで起きてくる問題にしても、それはすべて当時の歴史的な状況の反映で、それと切り結びながら理論的な回答を得るために知恵をしぼるわけですから、この面からいっても、レーニンの理論の発展というのは、歴史的なものなんです。 ですから、レーニンだって、彼が苦労して出した回答が、すべて正しいということにはなりません。マルクス、エンゲルスの理論の研究そのものについても、勇み足もあれば読み落としもある、思い違いもある。当時の歴史的な情勢のもとでの特殊な命題だったものを一般化してしまって、自ら警戒していた一面化の誤りをおかしてしまったこともある。その意味では、レーニンもやはり「歴史の子」なんですよ。 われわれがレーニンをいま読むとき、そういうことをふくめ、レーニンを歴史のなかで見ることで、本当の意味でのすぐれた業績も分かるし、弱点、欠陥、誤りと指摘できる点についても、「彼はここのところをこう思い違えて、誤った見地に立ったんだな」とか、「時代が違ってきたから、レーニンの理論のこの点は、今日に引き継げないな」とか、歴史的な理解ができる。 レーニンは、科学的社会主義の流れの大きく高い峰ですが、われわれがその峰を歴史的な目で見てこそ、本当に価値あるものを発展的にうけつぐことができるし、新しい時代に前進するための立脚点とすることもできる――そういう思いは、実際にこの連載を書いて、いよいよ強くなりましたね。

レーニンを絶対化しない――日本共産党の年来の立場

 山口 レーニンも「歴史の子」だった、という指摘でしたが、これは、日本共産党の以前からの立場でしたね。

 不破 そうですね。レーニンのすぐれた面をうけつぎながら、その理論のすべてを絶対化しないというこの立場を具体的な論点で示したのは、私の記憶では、三十年あまり前、毛沢東時代の中国との論戦のなかでしたね。当時、日本の運動にたいする干渉の理論的な柱の一つに、「鉄砲から政権が生まれる」という中国革命の方針を日本にもあてはめて、すべての革命は武力革命だという議論のもちこみがくわだてられたことがあったのです。私たちは、これに反論して、「極左日和見主義者の中傷と挑発」(一九六七年四月)という論文を発表して、これを打ち破ったのですが、その大きな論点の一つに、科学的社会主義の理論と実践の歴史も全面的に解明して、科学的社会主義の事業が武力革命唯一論とは無縁であることを原理的な面からも明らかにする、という問題がありました。

 この歴史的な吟味のなかで、レーニンのある命題が、問題になったんです。それは、十月革命のあとの時期にレーニンがとなえたものですが、選挙の意味を論じて、だいたい資本主義社会では、革命をやる前に「あらかじめ人民の多数者を獲得する」ということは不可能だという立場をとなえたわけですね。われわれは、この問題を歴史的にもよく研究して、この命題は、レーニンが活動した「当時の歴史的な情勢、とくにヨーロッパの革命運動をめぐる情勢」の分析からひきだされた命題であって、科学的社会主義の原則的な命題のように扱って、今日の世界に機械的にもちこむことは誤りだという結論を、はっきりうちだしました。 また、一九七六年に、「プロレタリアートのディクタツーラ」、執権問題が議論になったとき、私は、「赤旗」に論文「科学的社会主義と執権問題――マルクス、エンゲルス研究」(「赤旗」七六年四月二十七日~五月八日付、『科学的社会主義と執権問題』〔新日本文庫〕所収)を連載しました。そのなかで、私は、マルクス、エンゲルスが「執権」(ディクタツーラ)という概念にあたえた本来の意味と、レーニンがあとからつけくわえた定義とのあいだに大きな違いがあることを明らかにし、レーニンが展開した執権論には、われわれの理論として一般化するわけにゆかない、ロシア革命流の特殊な論点がふくまれていることを、解明しました。 執権問題は、今度の連載の第十回でも取り上げましたし、選挙の問題ももっと先の方でやがて取り上げたいと思っていますが、こういう問題は、レーニンを歴史のなかで見ることによって、問題点がいっそうはっきりしてくる、と思います。

 私たちは、このように、レーニンを絶対化するという立場は一貫してしりぞけてきたんですが、歴史のなかで見る、ということは、この事業の創始者であるマルクス、エンゲルスの研究にあたっても必要なことですね。 七六年の第十三回臨時党大会で、私たちが「マルクス・レーニン主義」という用語をやめて、われわれの事業と理論を、今後、「科学的社会主義」という用語で表現することにしたのも、この精神を本当の意味で徹底するためでした。マルクスであれ、エンゲルスであれ、レーニンであれ、個々の言説を絶対化することはしない、どんなすぐれた人物であっても、歴史的な制約はまぬがれないのだが、その学説の大局を評価しても、個々の言葉を金科玉条とする態度はとらない、ということです。

 今度の研究は、そういう立場から、『資本論』を中心に、レーニンのマルクス・エンゲルス研究を、思い切って全体にわたって吟味してみたいと考えて、はじめたものです。さすがにレーニンのマルクス研究は膨大なもので、始めたら、予想外にというか、案の定というか(笑い)、前の「エンゲルスと『資本論』」以上に長くなりました。一年たった十月号で『唯物論と経験批判論』の検討がやっと終わったところですから(笑い)。道半ばというところですね。

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🔵「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(2)執権問題――革命論の発展と歴史の制約と

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聞き手山口富男さん

1998年9月16日付「しんぶん赤旗」

マルクス、エンゲルスの執権論の本質は

 山口 いま話にでた不破さんの論文「科学的社会主義と執権問題」(一九七六年)は、私たち学生時代に仲間同士で大いに読み合って、マルクス、エンゲルスを読みレーニンを吟味するさいの手がかりにしたものです。ロシア革命のなかでレーニンの展開した命題でも絶対視せず、この日本で科学的社会主義の学説と事業をどううけつぎ、研究し、また発展させてゆくのか、そういうことを深く教えられたように思うんですね。

 不破 執権論というのは、あの時、世界中で問題になっていたんですが、あまり深い研究をした国はなかったように思いました。 社会主義の国家権力の階級的な性格を「プロレタリアートのディクタツーラ」という言葉で呼んだのですが、日本では、この「ディクタツーラ」という言葉を以前は「独裁」と訳していたんですね。だから、これを目標にかかげる共産党は、「独裁政治」をめざす「独裁政党」だなど、さんざんいわれたものでした。 こう訳したのは、科学的社会主義の理論が日本にはじめて入ってきたころの先人たちの仕事でしたが、そのときは、そんなことまでは考えなかったんでしょうね。 実際、「ディクタツーラ」が「一党独裁」などと関係ないことは、マルクスが「プロレタリアート・ディクタツーラ」の最初の形態と評価したフランスのパリ・コミューン(一八七一年)をふりかえっただけでもすぐ分かることなんです。このコミューンは、パリ住民の普通選挙によってうまれた政権であり、事実上多くの党派の連合政権だったんですからね。 執権問題の論文を書いたときは、そういうことも研究して、マルクス、エンゲルスが「ディクタツーラ」(執権)という言葉を、どういう意味で使ったのか、この言葉が出てくる全文献を洗い出しながら、結論を出しました。そうすると、レーニンが、ロシア革命のなかで追加的に展開した執権論が、どうしても問題になるんですね。

 山口 ええ。

 不破 マルクス、エンゲルスの執権論は、当時の社会思想にてらして考えてみると、よくわかるんです。彼らがはじめて執権論を展開した十九世紀四〇年代の社会主義の思想と運動の状況からすると、労働者階級や人民勢力が国家権力をにぎって社会を変革してゆくというマルクス、エンゲルスの思想そのものが、まったく新しい思想でした。一方には、現在の国家体制のままで、政府や支配勢力をも説得して社会を改革してゆくという考えや運動がある、他方には、国家そのものがなんだから、人民の天下をつくるのにこんなものが使えるか(笑い)という無政府主義的な考えも、そろそろ生まれはじめている。そういうなかで、新しい社会をつくってゆくためには、労働者階級や人民が国家権力を自分でにぎり、それを社会的な変革のテコにしてゆく必要があるということを、マルクス、エンゲルスがはじめて説いたのです。 そのさい、マルクス、エンゲルスが「執権」という言葉を使ったのは、議会など国家権力の一部をにぎるのではなく、執行権力をふくむ国家の全体をにぎる必要があるということを強調する意味でした。これは、一八四八~四九年のドイツ革命の失敗の大きな教訓でもあったんですね。

 ですから、あのときには、四八~四九年の革命期にマルクス、エンゲルスが書いた論文などもずっと調べましたよ。マルクスが編集長だった「新ライン新聞」という民主主義派の新聞の論説が主でした。「新ライン新聞」は、マルクス、エンゲルスの活動の歴史ではよく知っていましたが、論説に全部目を通したというのは、初めてでしたよ。

 山口 「執権」の概念が、もともとどういう意義をもって、この学説に導入されたのか、――あの歴史的、理論的な研究には、ひきつけられましたね。レーニン独自のロシア的な定義

 不破 ところが、レーニンの執権論は、どうしてもそこからはみ出してくるんですね。「執権」とは、「どんな法律にも束縛されず、強力に直接依拠する権力」だ、という定義でしょう。私も、若いころは、すごく大胆なことをいうもんだな、と思って読んだことがあるんだけど(笑い)、これは、だれが考えても、革命派が議会の多数をにぎって権力をにぎるような場合には、あてはめようのない定義なんですよ。

 ロシア革命のように、ツァーリ(皇帝)が絶対的な権力をにぎっていて議会もないところで、人民を代表する権力をつくろうとしたら、人民が立ち上がって、ツァーリの権力を倒し、権力を自分の手でにぎるしかない、こういう場合には、革命権力の特徴づけとして、たしかにあてはまる定義です。

 しかし、マルクスもエンゲルスも、人民の決起という革命も展望したが、一定の条件がある場合には、それとは別個の革命の道筋――革命派が議会の多数をえて政権につくという道筋がありうることをちゃんと想定していたし、その場合には、どちらの勢力が「合法性」をにぎるか、どちらが「合法性」を破る「叛徒」になるかが、決定的に重要な意味をもつことも指摘していました。だから、「どんな法律にも束縛されない」といったことが、革命権力の一般的な特徴になりえないことは、明白なんです。

 とくに現在では、日本を含めて多くの国で、議会の多数をえて政権をめざすという道が、社会変革の当然の道筋となっています。だから、レーニンの「執権」論は、ロシア革命の道筋を反映した特殊な定義であって、科学的社会主義の執権論として普遍性をもつものではない、という結論――私の論文でひきだし、第十三回臨時党大会で確認した結論は、たいへん大事な意味をもっていました。

あらためてレーニンを歴史のなかで読む

 山口 『経済』の連載第十回の「ロシア革命と執権問題」では、もう一度、レーニンの読み直しをやったわけですね。

 不破 レーニンを歴史のなかで読むの執権論版をやったわけですが(笑い)、あらためて読み直してみて、あらためてなかなか面白い問題にぶつかりました。

 ロシア革命のなかでの執権問題というのは、もともとは一九〇五年の革命が始まってから、メンシェビキとの論争のなかで出てきた問題なんです。この革命は、「血の日曜日」といって、ガポンという坊さんが先頭にたっておこなわれた平和的な請願運動にツァーリの軍隊が残虐な血の弾圧をくわえたという事件をきっかけに始まったのですが、革命が実際に始まるまでは、革命でどんな政権をつくるかという議論は、ボリシェビキとメンシェビキの論争でもあまり問題になっていませんでした。

 ところが、革命が始まると、これが熱い問題になってきて、メンシェビキの方は、「こんどの革命は民主主義を要求するブルジョア革命だから、政権はブルジョアジーにまかせておけばよい」、「労働者階級も社会主義政党も、政府にはいっさい参加すべきでない」と主張する。それにたいして、レーニンは、人民の参加なしに徹底した民主主義的変革ができるはずがない、ツァーリを打倒したあとの臨時革命政府には、当然、人民とその代表が参加すべきだ、という立場をとりました。 そして、メンシェビキが、「では、君たちは、民主主義革命のなかでプロレタリアートの執権をうちたてるつもりなのか」と反問してくる。これにたいして、レーニンが打ち返したのが、「われわれがめざしているのは、プロレタリアートの執権ではない、民主主義革命のための人民の執権――労働者階級と農民の革命的民主主義的な執権なんだ」という回答だったんです。

 山口 なるほどね。

 不破 これは、マルクス、エンゲルスの執権論を、民主主義革命の情勢に創意的に適用したものといってよいでしょうね。科学的社会主義の革命論のみごとな発展で、その後、世界の革命運動にも大きな影響をあたえました。 この執権論は、民主主義革命での執権論として、一八四八年のドイツ革命のさいにマルクス、エンゲルスが展開した執権論に通じるものでしたが、どうもレーニンは、この新しい定式を最初にうちだした時――一九〇五年二月~三月ごろですが、その時にはまだ、ドイツ革命の時期のマルクス、エンゲルスの論文は読んでいなかったらしいんです。

 ドイツ社会民主党の幹部でメーリングという人が、一九〇二年に、マルクス、エンゲルスの若い時期の論文などを『遺稿集』にまとめて公刊したのですが、そのなかに、四八~四九年の革命の時期に「新ライン新聞」などに書いた論説も収録されていました。レーニンは、一九〇五年七月に書いた『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』という著作の補論で、はじめて「新ライン新聞」の執権論を取り上げ、その内容を徹底的に研究しています。そして、自分がだした結論が、マルクス、エンゲルスの立場と一致していることが分かり、いよいよ自信をもって、その革命論を展開するのです。 当時、レーニンが手にいれることのできたマルクス、エンゲルスの文献は本当に限られていましたが、いったん手にいれて読んだら、それを徹底的に研究して、そこから科学的、革命的な核心を取り出し、それをロシア革命という当面の問題に発展的に適用して運動の前進をはかる――レーニンの抜群の理論的な力量を、こういう研究の過程からもうかがうことができます。

 山口 その段階では、さきほどから問題にしてきたレーニン独特の執権論――「どんな法律にも束縛されない」とか「直接強力に依拠する」とかいう定義はまだ登場しないわけですね。

 不破 そうなんです。これは、革命が退潮期に入って、革命の疾風怒涛(どとう)の時期の運動をどう評価するかが、ブルジョア的な右派(カデット)との論争で問題になってきた時に、レーニンがもちだした定義でした。人民の革命的な決起――これは、ツァーリの法律の枠内では革命的な決起など起こりようもありませんから、この決起の正当性を擁護するという文脈で語られたことですから、当然のこととして、この議論そのものにロシア革命の特殊性が直接的に反映していました。 これは、当時は、ある論文(「カデットの勝利と労働者党の任務」一九〇六年)でのべられただけで、レーニンもかさねて論じることはなかったのですが、一九一七年の革命とその後の時期にレーニンがこの定義にくりかえし立ちかえり、結局、公認の執権論の柱として扱われるようになるんですね。しかし、この定義と、マルクス、エンゲルスの本来の執権論との関係については、レーニン自身、最後までふれることはありませんでした。

 このように、レーニンによるマルクス、エンゲルスの研究の仕方と、彼がその成果をロシア革命に結びつけて理論化してゆく様子を、もう一度歴史的にずっと探ってみたわけですが、こういう追跡をやってみて、二十年前、はじめてこの問題を研究したときに明らかにしたレーニンの執権論の問題点が、どういう歴史状況のなかで、どういう性質の逸脱として生まれたのかということを、いっそうリアルにつかみ出せたという気がしました。 山口 レーニンを絶対化しないし、歴史的、発展的に見るということは、以前から強調されていたことですが、こんどの研究には、委員長のこれまでの一連の研究のうえに立った新たな深まりがあります。執権問題も、レーニンがなぜこういう考えに到達したかを、当時のロシアの情勢やレーニンの理論展開の状況、その歴史的な制約など、詳しくあとづけられたと思います。そういう意味での読み物として、たいへん面白かったですよ。 不破 そこまで面白がって読んでくれる人がいるとは、実にありがたいですね。(笑い)

 (第三回は「しんぶん赤旗」九月十八日付です)

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🔵「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(3)なぞ解き――レーニンの書き込み

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聞き手山口富男さん

1998年9月19日付「しんぶん赤旗」

 山口 『経済』の連載の第一回(一九九七年十月号)は、「若きレーニンは『資本論』第一巻をどう読んだか」ですが、不破さんは、『レーニン遺稿集(ズボールニク)』の第四十巻にのっているレーニンの『資本論』全三部への書き込みを存分に活用していますね。 不破さんの「私のレーニン探訪日記」(『文化評論』八六年十一月号、『世界史のなかの社会主義』所収)という小論に、この『遺稿集』を八六年八月にモスクワで買ったというくだりがあって、「彼のマルクス学習ぶりを知るには、絶好の資料」とあります。買ったときの不破さんの喜びが全面にあふれるような書き出しでしたが、やっぱり研究というものは、問題意識をもって継続してやるものだな、と思いました。

 不破 以前に学生新聞で「レーニンはマルクスをどう読んだか」という連載を書いたことがあって(一九八三年)、若いころの『資本論』の勉強ぶりをいろいろ調べたんですが、材料があまりないんですね。『資本論』へのレーニンの熱中ぶりは、姉さんや弟さんの回想記に出てくるんですが、どんな読み方をしたかは、レーニンがのちに書いたものから想像するしかなかった。 そういうときに、モスクワで勉強ぶりを直接示す記録にぶつかったものですから、うれしかったんですよ。

 あのときのモスクワ訪問は、ゴルバチョフがソ連共産党の書記長だったころで、彼との会談が訪問の主目的でした。マスコミの記者もかなり同行しての訪問でしたが、着いてみると、ゴルバチョフ書記長がシベリア訪問中に風邪をひいて、モスクワになかなか帰ってこれないというんですよ。やむをえず待機の姿勢をとらざるをえないというわけで、その間にモスクワの街へ出たり、レニングラードまで足をのばしたりしたのですが、モスクワの街でたまたま訪ねた本屋の棚に、前の年に出版された『レーニン遺稿集』の最新の巻がまだ残っていたんです。中身はもちろん『レーニン全集』の現行版には収録されていないものばかり。ページをくって見ると、『資本論』への書き込みでしょう。感激して買って帰ったんです。

 山口 不破さんの研究方法はとても面白いですね。『資本論』へのレーニンの書き込みといっても、あれは、こんどの研究で展開されたような読み方が、そんなに簡単にできるものじゃないでしょう。そのままおいとけば、捨ておかれるということになる。その資料をこれだけ読みこんで、そのためにはロシア語も勉強されたと思うんですけど〔不破 いやいや、ロシア語はだめなんです(笑い)〕、それを歴史のなかによみがえらせた手法には、ちょっと驚きました。

 不破 買ってから十年近く眺めてましたから。(笑い)レーニンは最初から現実分析の指針として読んだ 不破 『遺稿集』では、『資本論』の書き込みは、『資本論』からレーニンの書き込みのある部分だけを抜き書きするという形で、編集してありました。そして、『資本論』からの抜き書きは、ドイツ語版の分も全部ロシア語に訳して掲載してあるんです。それを日本語版とつきあわせ、日本語版のどこに該当するかを、ページ数で当たりを付けたり、かろうじて分かる単語を断片的に拾ったりして、何とか見当をつけ、そこにレーニンの書き込みを記入するというやり方で、だいぶ苦労して、自家製の「レーニンの書き込み・日本語版」をつくったんですよ。 それを眺めても、マルクスの文章にただ傍線を引いただけのものですから、最初は、なんともこなしようがないな、と思っていたんです。

 しかし、傍線を引くということは、やっぱりそこにその時のレーニンの関心があった、ということなんですね。しかも、たとえば、『資本論』第一部の場合には、ロシア語版の書き込みとドイツ語版の書き込みとが二つとも残っているんですが、ロシア語版とドイツ語版では書き込みの内容が全然違うんです。ロシア語版の場合には、理論の筋道を追ってのごく大ざっぱな線引きですが、ドイツ語版では、明らかに特定の内容に関心をもって、そこを集中的に研究するという読み方がありありと見えてきました。

 山口 そこらへんから、糸口がひらけてきたんですね。 不破 そうなんです。それであらためて驚いたのは、レーニンが、『資本論』の第一巻を、徹底して、ロシア社会の現実分析の指針、理論的な武器として読んでいた、ということでした。

 普通、『資本論』をはじめて読むときには、そこにあるいろいろな概念の構成、「価値」と「使用価値」とか、「労働の二重性」とか、そういうところから始まって、全体の理論的な組み立てを理解するのに、たいへん骨を折るんですよね。私自身も、旧制高校の時代に『資本論』に最初に触れたときには、マルクスが膨大な事実を集大成して書きあげた部分――「労働日」のところでの労働立法をめぐる歴史的、実態的な部分とか、「機械と大工業」の工業の実情の告発の部分などにぶつかると、マルクスの苦労は分かるけどという調子で読み飛ばして、理論の組み立てをつかむのに懸命だったという記憶があります。 ところが、若きレーニンの読み方はちがうんです。理論の組み立てをつかむのに苦労した形跡はあまりない。そして、ドイツ語版への書き込みでは、傍線をつけた個所が、マニュファクチュア論と大工業論、しかも、イギリスの工業の実態を告発し、そこから技術的、経済的な詳細な分析をおこなった部分に、圧倒的に集中していました。明らかに、ロシアにおける資本主義の発展を工業の分野で追跡しようという強烈な問題意識をもって、その理論的な指針を『資本論』からあますところなく摂取し吸収しよう、こういう立場で『資本論』第一巻を読んでいる様子が生き生きと伝わってくるんです。

 山口 傍線の一つ一つが、レーニンの勉強ぶりの生き証人だというわけですね。

 不破 それで、これを手引きにし、これをレーニンがあとで書いたロシア工業論と照らしあわせたら、レーニンが『資本論』で読み取ったものをどう活用したかが分かるに違いないと思い、初期のものから、シベリア流刑中に仕上げた『ロシアにおける資本主義の発展』(一八九九年)の工業分析の部分までをあらためて読み直したんです。 こうして、連載の第一回、こんどまとめる本では第一巻の第一章になりますが、これをまとめ、「若きレーニンは『資本論』第一巻をどう読んだか」という表題をつけたんですよ。 この研究には、かなりなぞ解きの要素がありましてね。それでも、なぞ解きの積み重ねで、これまではなかなか気づかなかったレーニンの読み方が、ある程度分かってきたかな、と思います。

 山口 こんどの研究で、不破さんの研究方法が力を発揮したと思うのは、その点ですね。レーニンの残した『資本論』への書き込みは、たしかに傍線であったり、「注意」(NB)の記号であったりで、その一つ一つはそう情報量の豊かなものではない。そこからレーニンの意図をつかみ出すなどとても無理だと思いがちですが、それを『ロシアにおける資本主義の発展』などのレーニンの労作の分析と結びつけて、レーニンの理論的な展開の道筋を描き出したわけですね。なぞ解きがたんなるなぞ解きでなく、レーニンの著作の裏付けをもって証明されてゆくし、逆にいえば、そのことが、『ロシアにおける資本主義の発展』などの完成にいたるレーニン自身の方法論をより深くつかむことにもなっていますね。

 これは、ほかの問題でのレーニン研究にも通じることだと思います。

レーニンと価値論のその後

 不破 『資本論』を読みこなすレーニンの理論的な力には、たいへんなものがあります。書き込みをみると、『資本論』で難解だとされる価値論や第二部の再生産論なども、ほとんど苦労しないで理解してしまったようです。 ただ、レーニンが、価値論などを、そこでもう卒業ずみにしてしまったのか、というとそうではないんですね。だいぶあとのことになりますが、一九〇五~六年のロシア革命が敗北に終わって情勢が反動期を迎え、さらに一九一〇年代の初め新しい運動の高揚期に入ってゆく、だいたいそのころなんですが、レーニンが、マルクス主義の勉強にあらためてとりくむ時期があるんですよ。 経験批判論という哲学の戦線での唯物論攻撃が強まって、それへの反撃にとりくむとか、マルクス、エンゲルスの書簡集に出会って、マルクス主義の新しい側面に目をひらくとか、ある意味では、新たな理論的充電の時期といってもよいと思うんですが、その時期に、レーニンは、マルクス主義の世界観的な広さ、深さにあらためて目をひらくことになる。その時期に、レーニンは、経済学の問題でも、価値論への関心をぐっと深めて、新しい角度からの研究にとりくむ、こうして、いわばどんな研究も『資本論』への新しい探究と結びついてくるところが、興味深いところですね。

 とくに第一次世界大戦がはじまった最初の時期に、レーニンは、ヘーゲルの研究に打ち込みますが、その研究が、また『資本論』の方法論への関心をさらに促進します。ヘーゲル研究の記録をまとめた『哲学ノート』にも、マルクスが経済学にのぞんだ方法論の精髄をつかもうという努力が各所にあらわれていますが、とくにヘーゲル研究の成果を『資本論』との関係で示しているのは、論文「カール・マルクス」や小論「弁証法の問題によせて」などでしょう。そこでは、最大の焦点になっているのが価値論で、経済学の方法という角度からマルクスの価値論にせまるレーニンの理論的な意欲が、鮮やかに表現されていると思います。 このあたりのことは、連載では、来年の新年号あたりで検討することになりそうですが、同じ『資本論』を読んでも、時期によって、関心をもつ角度が変わってくる。レーニンの『資本論』研究はなかなか深い歴史をもっているんですよ。

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🔵「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(4)『資本論』とともにロシア社会をみる目が発展

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聞き手山口富男さん

1998年9月19日付「しんぶん赤旗」

第1部、第2部を読んだ段階で 

山口 レーニンは、『資本論』第一部をロシア資本主義の分析の武器にした、という話でしたが、それは、工業の分野のことでした。農業の分析と『資本論』の勉強のあいだにも、切っても切れない関係があることを、連載では詳しく追っていますね。

 不破 実は、その関係は、工業分野の分析以上に農業の分野に鋭く出てきます。私は、『資本論』を読みすすむごとに、理論が新しい脱皮をとげ、新たなさらに強固で広大な視野をえるという相乗関係が、農業の現状分析や農業革命への理論的なとりくみのなかに、もっとも鮮やかに浮き出ていると思うんです。ここには、レーニンの『資本論』研究で、もっとも興味深い点の一つがあるといっていいでしょうね。だから、連載でも、レーニンの農業論を何回も続けてとりあげることになりました(第六回、第八回、第九回、第十回)。

 実際、レーニンは、ロシア農業論で何回も理論的な脱皮をくりかえして、そのたびに質的に新しい発展段階にすすむのですが、それが、『資本論』研究のそれぞれの段階にみごとに対応しているんですね。これは、私にとっては、本当に新しい発見でした。

 レーニンが最初に農業問題について理論的な論文を書いたのは、「いわゆる市場問題について」(一八九三年)、その次の著作が『「人民の友」とはなにか?』(一八九四年)です。これらの著作は、長らくロシアで反体制派の主要な潮流となっていたナロードニキとの論争を中心の主題として書かれたもので、理論問題と同時に、ロシアの実社会の経済的な分析もふくんでいました。 これは、『資本論』研究の段階でいうと、どちらも、レーニンが『資本論』の第一部と第二部を読んだ時点で書いたものです。 そして、ロシア農業論でのレーニンの問題意識は、もっぱらロシアが農業の面でも資本主義の発展の道にふみだし、そのレールの上をすでにすすんでいるということの証明にありました。これは、ロシア社会の発展の方向をめぐるナロードニキとの論争――ロシアは資本主義の発展の道にすでに入っているとみるか(これがマルクス主義派の主張)、それともロシアでは資本主義の発展は経済的に不可能だとみるか(これはナロードニキ派の主張)――の中心的な主題の一つでした。 この論争で先達役をつとめたのは、プレハーノフで、彼は、一八八〇年代に発表した論文『われわれの意見の相違』のなかで、ロシアが、工業でも農業でもすでに資本主義の発展の道をすすんでいることを、具体的な資料と事実をあげて実証し、ナロードニキの主張をくつがえしていました。 はっきりいって、『資本論』の第一部と第二部を読んだ段階でのレーニンのロシア社会論は、経済分析の内容はプレハーノフの著作より精密でしたが、分析の角度は、プレハーノフのそれまでにやってきたものとほぼ同じ立場のものだったんです。つまり、ナロードニキの資本主義不可能論を論破するために、工業でも農業でも、ロシアはすでに資本主義の道に入りこんでいるではないか、という議論でした。

 ですから、いまその目で読み直してみてちょっと驚いたのですが、これらの論文や著作では、ロシア革命が、やがてその最大の革命的な力をあげて立ち向かうことになる農奴制的な大土地所有や地主制度、地主経営の問題が、レーニンの視野にほとんど入ってこないんです。そのころレーニンが仲間に書いた手紙には、ロシアの農民経済制度は「西ヨーロッパと異なっていない」、封建的なきずなにまだまといつかれてはいるが、ブルジョア経済制度としては「同じ」ものだという分析までありました。 山口 たしかに、そのあたりはこれまであまり注目されていなかった点ですね。レーニンがあとで発展させた立場を、なんとなく頭において、以前の論文もその目で読んでしまうからでしょうか。

 その最初の段階から、いつ、どう脱皮したかが問題ですね。

第3部を指針にロシア地主制度の分析に挑む

 不破 その脱皮をあらわしているのが、流刑中に完成した労作『ロシアにおける資本主義の発展』(一八九九年)でのロシア農業論だと思います。レーニンは、ここでは、農民の状態の分析のさいにも、農奴制的な抑圧が「農民層の分解」にどのような影響を与えているかが、正面から分析されていますし、農業における資本主義の発展を追跡するさいにも、農民経営から生まれ成長・発展する資本主義経営の問題だけでなく、地主経営がどのような形で資本主義的な成長・発展の道をたどるのかを、独立の一章をあてて分析する、という仕事をやりました。 ロシア社会の大問題である大土地所有と地主制度の問題、地主経営の問題が、レーニンの理論的視野に大きくとらえられてきたわけで、そこには、明らかにロシア農業論の新しい段階があらわれていました。

 そして、この時期は、『資本論』研究の段階でいえば、レーニンが『資本論』第三部を十分に研究し、マルクスの農業分析のそこでの到達点を自分のものにした段階にあたるんですよ。実際、「農民層の分解」の章その他で、「第六篇 地代論」の内容、とくに最後の「資本主義的地代の創生記」での資本主義に先行する地代の諸形態の分析が、縦横に活用されています。 第三部をこなしたことが、ロシア農村の実情をより深くつかんだことと結びついて、レーニンの視野をひろげ、その農業論をぐっと発展させたんですね。

 山口 そういう理論的な発展が、農業綱領の発展に反映してくる、そのあたりの解明も、たいへん面白く読みました(第八回 プレハーノフとの綱領論争)。「二つの道」の理論と『学説史』(第4部)

 不破 ところが、実際にロシア革命が始まってみると、地主の大土地所有に反対するロシアの農民の要求は、レーニンの予想を超える広範で深刻なものがあったんです。その情勢を知ったレーニンは、農業綱領の改定の仕事にすぐとりくんで、「大土地所有の没収」という問題を農業革命の中心に押し出します。情勢や大衆の要求から大胆かつ機敏に学びとる彼の力量を発揮したものでしたが、それが、農業論の新しい理論的な脱皮、発展とまた結びついたんです。

 それが、レーニンが一九〇八年にうちだした「農業における資本主義発展の二つの道」の理論でした。資本主義的な発展といっても、その担い手には、農民経営と地主経営の二つがあるということは、すでに『ロシアにおける資本主義の発展』のなかで明らかにした見方でしたが、そこをさらにロシア資本主義の前途の二つの道の問題として、大きく発展させたんですね。ロシア農業の資本主義的な発展は経済的に避けられないが、地主経営が中心になって進む場合には、封建的、農奴制的な遺物をいつまでも残し、人民にとって苦痛の多い道になる(プロイセン型の道)、地主的土地所有を革命的に一掃し、農民経営が中心になる道をすすんでこそ、人民の生活水準の向上や民主主義の発展と結びついた、自由で急速な資本主義の発展の道を開くことができる(アメリカ型の道)、という理論です。

 この理論的な展開にあたって、レーニンが指針にしたのが、『剰余価値学説史』でのマルクスの農業理論だったんですよ。この『学説史』というのは、マルクスがもともとは『資本論』第四部として予定していたもので、最初の草稿しか残されませんでしたが、それをドイツのカウツキーが編集して、全三巻のうちの第一巻と第二巻を一九〇五年に公刊したのです。レーニンは、革命の最中にそれを読んでまた徹底した研究をやったんですね。 もちろん、マルクス自身に、「プロイセン型とアメリカ型の二つの道」という定式化があるわけではないんです。リカードウの地代論がなぜ生まれたかという歴史的条件を論じた部分ですが、そこでマルクスが、同じ農業の資本主義的進化といっても、イギリスとドイツなど大陸諸国とのあいだには、進化の道の大きな違いがある、ということを論じたくだりがある。そこを読んで、おそらくレーニンの頭にひらめいたんでしょうね。そこから、「資本主義の発展の二つの道」という壮大な理論を展開したわけです。マルクスが、『学説史』でどんな展開をしていて、レーニンがそこから何をくみ取り、新しい見地をどう発展させたかは、第十一回「農業革命と『剰余価値学説史』」で、かなり追跡しましたから、詳しくはそこを見てほしいですね。

農民問題を舞台にした保守派との論争

 山口 レーニンは、ヨーロッパやアメリカの農業問題に関する著作も多いですね。

 不破 そこには、ロシア革命とはまったく違った問題があったんですよ。ヨーロッパでは、農業問題が、マルクス主義、科学的社会主義にたいする攻撃の重要な舞台の一つになっていたんですね。

 すでにエンゲルスが活動していたころから、ドイツやフランスの社会主義運動のなかに、農業問題を材料にした保守派が生まれていました。工業では、未来ある発展のためには社会主義が必然であるかもしれないが、農業は事情が違う、小農経営でりっぱにやってゆけるのだから社会主義はここでは必要ない、といった議論でした。エンゲルスが晩年に書いた論文「フランスとドイツにおける農民問題」(一八九四年)は、保守派のこの議論の誤りを明らかにするためのものでしたが、簡潔な論文ですから、ヨーロッパ農業の具体的な分析でそれを裏付ける仕事まではやっていません。

 農業問題での保守派は、レーニンの時代にもいよいよ活発になり、「マルクス批判派」あるいは修正主義派としてまとまってきて、その議論がロシアにももちこまれてきましたから、レーニンは、早くからそれとの理論的対決にとりくんできました。

 実はマルクスも、インタナショナルの運動のなか、ここに問題があることを感じていて、『資本論』を仕上げるときには、地代論の篇でそこまで論じることを考えていた形跡があるのです。レーニンのヨーロッパ農業論は、その意味では、マルクスのやりのこした仕事のあとをついだという意味も、持っていましたね。

 山口 こんどの研究では、農業問題でも、レーニンがやった論争とマルクスの遺産とのかかわりをずっとたどっていましたね。

 不破 この問題で、なるほどと思ったことがあったんですよ。レーニンが相手にしたドイツやロシアの修正主義派は、さきほども話したように、その議論の基調は農業では社会主義はいらないという点にあったんです。そもそも小農経営で結構やってゆけるとか、せいぜい協同組合で間に合うといった論立てでした。

 レーニンは、「農業問題とマルクス『批判家』」という連続論文を書いてそれを批判したわけですが、論文を書く前に、代表的な「批判家」たちの著作への詳しい「評注」とか、批判論文のプランとか、準備作業として書いたものがいろいろ残っています。それを読んでみると、「批判家」たちの社会主義論あるいは社会主義批判にたいする反撃が、反論の大きな柱になっていました。これは、論争のいきさつからいっても、いわば当然の筋道なんですね。 ところが、反批判の論文が書きあげられて発表するものを読むと、社会主義論にかかわる部分が、まったく消えています。これは、なぜだろうと思って、いろいろ考えたんですよ。

 そうして、いろいろな文献を研究してみると、手がかりになるか、と思うものがありました。同じころ、レーニンが、農業問題の講義の準備のためにつくった講義プランというものがあって、そのなかに、「西欧のマルクス主義者の綱領的声明」という一節があり、それにかかわるマルクス、エンゲルスの文献の一覧が書き出されていたんです。

 山口 パリでロシア人がひらいていた社会科学の学校が、レーニンに農業問題の講義を頼んだということでしたね。一九〇三年でしたか。なにか、学校当局は、レーニンを革命家とは知らず、著名な理論家ということで頼んでしまった、という話もあります。

 不破 そうでしたね。ところが、レーニンが書きだした文献――その一部については、レーニンの研究のあとを示す書き込みなども残っているんですが、その文献のなかで、農業問題、とくに社会主義的な改革との関係でマルクス、エンゲルスの見解をまとまった形で示しているのは、エンゲルスの「フランスとドイツの農民問題」ぐらいのもので、あとがほんとに、さまざまな時期の断片的なものばかりなんです。

 結局、この講義でも、実際の講義では、この題目は省かれました。そういう経緯も思い合わせて、レーニンは、この問題でマルクス、エンゲルスの到達点をしっかりつかむには材料がまだ不足していることに、気がついたのではないか、それが、講義からも、「批判家」たちへの反撃論文からも、社会主義論という題目を割愛した最大の理由ではないか、これはあくまで私の推測ですが、そう考えたんですよ。

 実際、その後のロシア革命の現実の経過を考えても、レーニンが、エンゲルスの「フランスとドイツの農民問題」を一つの指針にしながら、こういう道筋を通って農民を社会主義の方向に導いてゆけるという大方針を、ロシアの条件なりにつかむまでには、いろいろ紆余曲折(うよきょくせつ)がありました。その道を確信をもって明らかにしたのは、やはり「新経済政策」の段階でしょう。 それだけ複雑な問題だということを、レーニンはその後の活動のなかでも体験したわけです。そう考えると、二十世紀初頭のまだ早い段階で、農業における社会主義の問題についていろいろ研究しながら、材料不足のままで、あてずっぽうの議論をすることを避けたというのは、なかなか賢明だったと思います。

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🔵「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(5)再生産論の展開でのレーニンの貢献

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聞き手山口富男さん

1998年9月20日付「しんぶん赤旗」

若きレーニンの労作がマルクスを読む手引きになった

 山口 『資本論』の読み方の話で、少しさかのぼることになりますが、レーニン全集の冒頭の部分にある「いわゆる市場問題について」(一八九三年)ですよね。全集にとりかかってここで頭を悩ませ、あそこで止まってしまう人もいるようです。不破さんの研究では、レーニンの市場理論の果たした大きな役割が明らかにされた、と思うんですが。

 不破 私たちの学生のころは逆でした。時代背景もちがうのですが、戦前からの日本資本主義論争が新しい形で引きつがれて、いわゆる論壇をにぎわしていたころですが、その面からもマルクスの再生産論にうんと光があてられていた時代でした。ところが、『資本論』そのものでマルクスの再生産論を読もうとすると、編集者のエンゲルス自身が太鼓判を押しているように、あそこは『資本論』のなかでもいちばんわかりにくい、また文章の整理もされていない部分でしょう。

 その時に、戦前の訳書を復刊する形で、市場問題についてのレーニンの論文集が出たんですよ。「いわゆる市場問題について」は、前半の再生産論にかんする部分しか収録されていませんでしたが、これがたいへん分かりやすいんですね。これを手引きにしながら、マルクスを読んだものでした。

 私はいまでもすごいと思うんですが、レーニンがこの論文を書いたのは、一八九三年の秋、夫人のクルプスカヤの回想によると、彼女が属していたペテルブルグのマルクス主義サークルにボルガ地方からきた新人があらわれ、彼が書いたこの論文がサークルで回覧された、とのことです。実際には、このサークルで討論会や報告会があり、論文はそのあとで回覧されたようですが、ともかく、レーニンは、一八九三年秋には、マルクスの再生産論に精通したマルクス主義者として、ペテルブルグに登場しています。ところが、そのレーニンが、『資本論』第二部を読んだのは、一八九三年と推定されていますから、再生産論を短期間で研究し、その核心をつかみとったということは、それだけでも本当に驚異的なことですね。 山口 こんどの研究で、『資本論』の核心を的確につかんだということにくわえて、当時、論争がたたかわされていた筋道との関係で、レーニンの展開した論点がどんな意味をもっていたかを説明していることも、たいへん新鮮に読めました。 不破 これも歴史のなかで読むことの一つなんですが、ああいう論争の文章は、レーニンが活動していた当時、ロシアで何が論争されていたのかがわからないと、面白くないんですね。だから、その点を意識的に整理してきたんです。

 まず、主要な論争相手はナロードニキで、ロシアでは資本主義の発展は不可能だという彼らの主張をうちやぶることが、論文の最大の主題でしたから、その論争で再生産論がどういう役割と意味をもっていたかが、この整理の第一の柱。

 それから、ペテルブルグのマルクス主義サークルで、レーニンの前にナロードニキ批判の報告をしたのはクラシンという人物で、その人の理解の誤りをただすのも、レーニンの論文の大事な内容となったわけですから、クラシンのナロードニキ批判とはどんな論立てのものだったのか、レーニンはそのどこが誤りだとして、どういう批判をくわえたのか、これが整理の第二の柱でした。

再生産論で試行錯誤をかさねたマルクス

 山口 その論争のなかで、レーニンは再生産表式をさらに発展させていますね。

 こんどの研究で指摘されて、私、驚いたんですが、さきほども話があったように、『資本論』のなかでも、とくに第二部の再生産論は、いろいろないきさつがあってとりわけ難しいところです。不破さんは、再生産論を、マルクスが草稿を書いていった思考のあとをたどりなおし、マルクスがどういうことを考え、どこでつまずき、また苦闘しながら、合理的な核心をつかむにいたったかを、明らかにしていますね(連載第二回)。若いレーニンが、核心をなすその部分をみごとにつかみとった、そればかりか、マルクスが宿題として残した問題――生産力の高度な発展(資本の有機的構成の高度化)のもとでの拡大再生産の表式まで、みごとにつくりあげた、これは、本当に大変なことだった、と思います。

 不破 レーニンの読解力のすごさは、この点では、いくら強調してもしたりないぐらい、本当にすごいと思います。

 マルクスは、草稿を書くとき、考えを仕上げてから書くのではなくて、書きながら考えるということが多いんですね。だから、『剰余価値学説史』――いわゆる「六一~六三年草稿」の「学説史」にあたる部分を読んでいると、一つの議論を何ページも展開してきて、この計算は無限にすすめることができるが、いくらやっても問題の解決にはならない。問題は別の仕方で出されなければならないという意味の話で議論の方向転換をはかったりするくだりに、よくぶつかるんです。マルクスの試行錯誤の過程がそのまま出ているわけで、そのつもりで読むとなかなか面白いところなんですよ。

 『資本論』第二部の再生産論の場合には、草稿のそういう試行錯誤の部分がかなりなまで残っています。エンゲルスも編集するとき、そこに気がつかないで、マルクスが間違った道にはいりこんで、ゆきづまってやむをえず方向転換で脱出をはかったものを、完成稿としてそのまま組み込んでしまった部分がかなりある。ですから、マルクスが迷いこんだ部分まで、マルクスのまともな思考の道行きだとして後追いしようとすると、こちらが迷路にはいりこんでしまう。私は、第二部の再生産論を読むときには、そういう仕分けがたいへん大事だと思っています。

レーニンは再生産論のどこを発展させたか

 不破 そこで、さきほど山口さんがマルクスが残した宿題といわれた問題ですが、再生産論というのは、社会の生産の全体が、供給と需要の過不足なく順調に流れてゆくことが、そもそも可能であるのか、可能だとすれば、その条件はどういう点にあるのか、こういう問題を解明する理論です。それで生産の規模が拡大しない場合、これを単純再生産というのですが、この単純再生産の場合は、マルクスは、早い時期に解決して、表式も仕上げていました。それで単純再生産がいちばんの基本で、これが解決されていれば、拡大再生産の場合はたいして困難はないと考えたのでしょうか。拡大再生産についての草稿はなかなか書かないで、晩年、一八八〇年ごろ、結果的には死ぬ三年ほど前ということになりましたが、はじめて本格的な執筆にとりかかったのです。ところが、はじめてみると、なかなかすすまない、予想しなかった難関に何度もぶつかって、試行錯誤をかさねる。その過程が、実は、現在の第二部の拡大再生産のところには、全部、本文にふくまれているのです。そして、最後にようやくすべての難問を解決して、拡大再生産の表式にも到達して、それでほっとするんですね。

 それまでのマルクスの『資本論』第一部や第三部草稿で展開していた立場からいえば、生産力の高度な発展の場合、拡大再生産の表式がなりたつかどうか、ということは、当然、重要な論点の一つになることでした。しかし、マルクスは、そこまで書くにいたらないまま、死を迎えました。私は、それを残された宿題と位置づけてみたのですが、その宿題をレーニンが果たしたことになるんですね。

 それから、レーニンの功績では、ロシアの問題をとくには再生産論だけでは足りないのだといって、商品・資本主義経済が、非資本主義経済を吸収しながら発展する過程を表式化した「市場表式」をつくりあげましたね。これも、ほんとうに重大な貢献だと思います。

数字に強いレーニン

 山口 マルクスを悩ませた宿題を、レーニンがずばり解決した、というのは、何か理由がありますか。

 不破 これは、部分的な話になるかもしれませんがね。再生産論のレーニンの理論展開を見ていると、彼の理論的才能の大きさにくわえて、レーニンが数字に強かったことを感じますね。 レーニンは、数字や統計が好きで、『資本論』への書き込みをみても、マルクスが工業統計など、合計を出さないまま、項目別の数字だけを羅列したりしている個所に出会うと、たいてい自分で合計を計算して書きこんでいます。また、『資本論』に残っている数字のミス、計算や校正のミスは手書きで訂正しています。

 再生産表式でも、マルクスは第一年度から第二年度へ、さらに第三年度へとコツコツ計算に苦労しながら表式をつくりあげてゆくのですが、レーニンは、簡潔で要領のいい計算方式をあみだすんですね。この方式をもっていれば、資本の有機的構成の高度化など、新たな条件をくみこんでも、すぐそれに対応する拡大再生産の表式が算定できます。だからこそ、マルクスの到達した最前線をしっかりふまえ、さらにそこから前にすすむ仕事ができた、と思います。

 これにたいして、マルクスが計算が苦手だったのは、有名な話ですからね。彼は高等数学には強くて、微積分を研究した『数学手稿』の膨大なものを残していますが、計算は苦手で、この点で彼の草稿は間違いだらけでした。エンゲルスは『資本論』第二部、第三部を編集するさい、資本の回転論とか地代論とか、数表の多いところは、全部計算のやり直しをしていますからね。

統計が恋しくなった、統計を送ってほしい

 山口 レーニンはそんなに数字や統計が好きだったんですか。

 不破 レーニンの最初の亡命のときの話ですが、ロシアにいる母に、本を送ってくれるようたのんだ手紙があるんです。そのなかで、統計にかんするものは別の箱で送ってください、統計がすこし恋しくなりはじめたので、全部計算しなおしてみようと思っていますからといっている。気分転換に統計を読んだり、いろいろ計算のしなおしをしたりする、というんですから、この統計好きは相当なものですよ(笑い)。ほかにも、統計がほしいという依頼の手紙や統計を送ってくれてありがとうというお礼の手紙などが、ずいぶん残っています。 だから、レーニンの研究には、経済学以外にも統計を縦横に使ったものが、いろいろあるでしょう。ストライキの研究、選挙の政治分析、世界の民族問題、ロシアでの労働者出版物の歴史などなど。

 第一次世界大戦の始まったときには、膨大な農業統計を研究していたのが、暗号の乱数表かなにかと間違えられて、オーストリア当局に逮捕されたなど、統計好きから思わぬ災難にあったこともありますが(笑い)、レーニンの統計好きは、どんな問題でも、徹底した事実の分析を議論の根底におく研究ぶりと結びついて、レーニンの理論活動の大きな特徴になったんですよ。

◆雑誌『経済』連載の「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く(6)市場理論でのもやもやが解けた

聞き手山口富男さん1998年9月21日付「しんぶん赤旗」

どこに分かりにくさがあったか

 山口 市場理論に関連して、レーニンには、恐慌論の問題でちぐはぐがあるという話を読むことがあります。不破さんもこんどの研究で、レーニンの勇み足を指摘していますが(連載第三回)、これは、関係がある話でしょうか。

 不破 学界の議論にはあまり明るくないので、私自身の経験と理解の範囲で話しますと、レーニンの市場理論を読んで、いままでもやもやしてなかなか晴れない、いくら読んでも自分でふに落ちないところがあったのです。これはやはり、恐慌論をめぐってで、とくに、「生産と消費の矛盾」のとらえ方にありました。レーニンは「生産の無制限の拡大と制限された消費との矛盾」をくりかえし強調していますが、それがどのように働いて、再生産過程の正常な諸条件を破壊し、恐慌をうみだすのか、この問題をレーニンがどう理解しているのかが、なかなか読みとれなかったからです。

 今度、レーニンの『資本論』の読み方や当時の論争の論点を歴史的に追いながら、市場問題にかんするレーニンの一連の論文を読んでみて、私としては、「発見」した点が二つあり、もやもやのほとんどを私なりに解決することができました。

ナロードニキと資本主義観を争う

 不破 第一は、これらの論文や著作のなかで、「経済学的ロマン主義の特徴づけについて」という著作以外には、恐慌論に正面からとりくんだものはない、ということです。

 では、レーニンが再生産論や市場問題にとりくんだ問題意識はどこにあったのか、というと、それは、これまでずっとみてきたように、ナロードニキの資本主義不可能論との論戦でした。

 そして、相手のナロードニキの最大の理論的代表者は、『資本論』のロシア語版の翻訳者ダニエリソーン(論争での筆名はニコライ-オン)でした。このニコライ-オンは、当然のこととして、『資本論』の第二部にしても第三部にしても、レーニンよりもずっと先に読んでいて、何が書かれているかはよく知っているわけで、その立場から『資本論』の文章も適当に引用しながら、論争をしかけてくるのです。

 実は、「生産と消費との矛盾」についてのマルクスの文章を、この論争のなかで最初にもちだしたのも、ニコライ-オンだったようです。 これにたいして、「生産と消費との矛盾」についてのマルクスの諸命題が、資本主義不可能論とは何の関係もないことを明らかにしたのが、レーニンでした。なかでも、レーニンが力をこめて指摘したのは、この矛盾は、資本主義の不可能性ではなく、やがてはより高度な社会形態(社会主義)によってのりこえられるという、資本主義の過渡的・歴史的な性格を実証しているのだ、という点でした。

 レーニンは、ここで恐慌論を説いているのではない、ナロードニキを論戦の相手として、資本主義にたいする大局的な見方を明らかにしているのだ――こう割り切って読むと、これまでのもやもやがすっかり解けてくるんですね。 これは、私だけの思いこみではなく、レーニンの市場理論を、恐慌論の立場から読むという傾向は、いろいろな方面に結構あったことだと思います。そこを歴史のなかで読む例の立場で、ナロードニキの資本主義論との論戦が中心だという立場から読むと、すべてを矛盾なくとらえられる。こんど勉強をしなおして、ここに、私にとって意義ある「発見」の一つがあった、と思っているところです。(笑い)

レーニンの「勇み足」とは?

 山口 もう一つの「発見」が、不破さんがレーニンの「勇み足」だという問題ですね。

 不破 そうですね。さっき、レーニンが恐慌論を論じた、当時の唯一の著作として、「経済学的ロマン主義の特徴づけについて」というこの論文をあげたのですが、ここでの恐慌論に問題があったんですね。 この論文も、主題はナロードニキ批判におかれているんですが、ナロードニキの経済学を問題にし、その一人がフランスの経済学者シスモンディをもちあげた論文を書いたことから、シスモンディをナロードニキの経済学の原型とみたてて、その批判をやったんですね。ですから、そこでは、資本主義観を大きく論じるにとどまらず、経済学の一つ一つの項目について、マルクス的な見地とシスモンディ―ナロードニキ的な見地とを対比するという論法がとられ、その項目の一つに恐慌論があげられました。 そして、そのなかで、レーニンは、恐慌を、生産の社会的性格と取得の私的性格との矛盾によって説明するのがマルクス的立場であり、生産と消費との矛盾によって説明するのがシスモンディ―ナロードニキ的立場だと、説いたわけです。この主張の前の方は間違っていないのですが、あとの方は、明らかに『資本論』をレーニンが読み違えたものでした。『資本論』第三部のなかで、マルクスは、「すべての現実の恐慌の究極の根拠」は、「資本主義的生産の衝動と対比しての、……大衆の貧困と消費制限」にあるといって、「生産と消費との矛盾」によって恐慌を説明する見地を明らかにしていますからね。

 たしかに、マルクスもエンゲルスも、労働者や人民の消費の少なさだけで恐慌を説明する、いわゆる「過少消費」説はきびしく批判するんです。この「過少消費」説は、生産の無制限の拡大という肝心の問題――恐慌の最大の引き金になるバブルの要素をまったく無視した議論ですからね。 この論文を書いた時、レーニンがすでに『資本論』第三部を読んでいたことは間違いありませんが、信用論のなかにあるマルクスのこの命題は見落としたのかもしれません。

 しかし、間もなく、自分の読み違いに気がついたはずです。実際、レーニンは、その後のナロードニキ批判のなかで、この主張は持ち出しませんでしたし、『ロシアにおける資本主義の発展』やそれ以後の論文では、「すべての現実の恐慌の究極の根拠は……」というマルクスの命題を引用するようになりました。だから、私は、これはレーニンの一過性の勇み足だと、大胆に断定したんですよ。(笑い) これで、私としては、もやもやはすべて解消したつもりです。

ローザとレーニンの論争を再現する

 山口 それにつづくローザ批判も面白かったですね。ローザのマルクス批判の間違いと、レーニンがそれを批判したこと自体は、よく知られている話ですが、二人の議論にあそこまで深くつきあった研究は、読んだことがありませんでしたからね。

 不破 ローザ・ルクセンブルグという女性は、ドイツ社会民主党のなかでは、全体としては左派の立場をかなり徹底してつらぬき、一九一九年のドイツ革命のさなか、ドイツ共産党の結成に参加して、その直後、同志のカール・リープクネヒトとともに反革命のテロによって殺されるという運命をたどった革命家でした。しかし、理論面では我流の左派といったところがあって、マルクスの再生産論が資本主義の自動崩壊という自分の立場に合わないということから、マルクス批判をくわだて、そのために書いた著書『資本蓄積論』(一九一三年)のなかで、レーニン批判もあわせてやったのです。 私も、ローザのマルクス批判はあらすじしか読んでいなかったのですが、今度読んでみると、マルクスの再生産論も相当つっこんで読んでいるんですよ。ただ、マルクスを批判しようという気持ちが先にあって読むものですから、読み方が逆なんです。マルクスの拡大再生産論が、いろいろわき道に迷いこみながら、最後に正解に到達するという組み立てになっていることは、前に説明したでしょう。そう読むのが素直な読み方だと思うんですが、ローザはまず正解の方を読者に紹介し、それから前の迷ったところにさかのぼって、こんなに混迷した議論を展開しているから正解の方もだめなんだ、と論じる。こういう具合で、そのマルクスに対置する自分の再生産表式なるものも、なりたちえない条件を自分で設定して、それ、再生産はなりたたないではないかと勇みたつという、まったくの思い込み型でした。

 レーニンは、ローザ批判の論文を計画したものの、結局、書かないままで終わり、ローザの著書にたいする「評注」と論文の短いプランなどが、いま残されているんですね。ローザの中身を読みながら、レーニンの「評注」を読むと、要所要所で、簡潔だが、実に的を射た寸鉄、人を刺すといった論評の連続で、実に面白かった。その面白さを、連載に十分に表現できたかどうかが、気がかりなところですよ。

『レーニン遺稿集』にはまだまだ貴重な文献が

 山口 ローザにたいするレーニンの「評注」は、日本では大月書店から翻訳が刊行されていますが、あれも『遺稿集』からとったもので、レーニン全集には入っていないでしょう。こんど不破さんがとりあげた、レーニンによる社会主義の再生産表式も、同じ『遺稿集』に収録されていたとのことですが、あれには驚きました。

 不破 私もあれにぶつかった時には、驚いたんですよ。こんな文献が埋もれていたのかってね。それで、連載の一回分を使って(連載第五回「実現論争・後日談―社会主義の再生産表式」)紹介したんですが、レーニンが残したのは表だけで、一行の解説もなかったから、内容を読み解くのには、特別の苦労がありました。

 山口 『遺稿集』には、陽の目をみていない文献がまだまだあるんですね。『資本論』の書き込みやいまの「社会主義の再生産表式」をはじめ、不破さんによる貴重な文献の発掘と紹介には、目を見張っているところですよ。 不破 この研究の主題は、レーニンがマルクス、エンゲルスをどのように読み、どのように研究したかなんですが、その問題にしぼっても、『遺稿集』のページをめくっていると、ずいぶん、いろいろな資料や文献に出会うんですね。農業問題でマルクスやエンゲルスの論文・著作を読んだときの書き込みや抜粋とか、一九〇五~六年の革命のさなかに、一八四八~四九年のドイツやフランスの革命を論じたマルクス、エンゲルスの著作を読んでの書き込み、さらには、ゾルゲなどアメリカの活動家にあてたマルクス、エンゲルスの書簡集への書き込みなど、貴重な資料がかぎりなくありますね。

 山口 そういう書き込みの一部が連載で紹介されてきましたね。そのための特別の補論がついた時もありました。第十回(「ロシア革命と執権問題」)の「補論・マルクスのフランス革命史論へのレーニンの書き込み」も、興味津々でした。

 不破 ああいう文献に出会うと、レーニンが生きた革命のさなかに、どんな思いで、むさぼるようにマルクス、エンゲルスにぶつかったのか、そこから何をくみとろうとしたのか、を考えますよね。 レーニンの時代には、いまのように『マルクス・エンゲルス全集』があるわけではないから、草稿類はもちろん、マルクスの時代に公刊されていたものでも、実際には手に入らないものが多いわけですから、新しい文献が手に入ると、そこからくみつくせるだけのものをくみとろうとする。こうして、レーニンが、数少ない文献から科学的社会主義の真髄をつかむため、真剣勝負のような読み方をしているところに、胸をうたれます。

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🔵「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(7)哲学と政治をめぐって

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聞き手山口富男さん

1998年9月22日付「しんぶん赤旗」

マルクス、エンゲルスの理論は総体的なもの

 山口 連載では、『資本論』の問題だけでなく、一九〇五年の革命の問題、それにもかかわる執権の問題、史的唯物論をどうとらえるかの問題、カント主義や経験批判論との論争の問題など、政治や哲学にかんする問題が、かなり広くとりあげられてきましたね。

 不破 ええ。レーニンのマルクス主義論に、「全一的世界観」という言葉がありますよね。科学的社会主義の理論というのは、そう呼ばれるほど、もともとが総体的なもので、学説の全分野がたがいに深い関連のうちにある。だから、『資本論』や経済学だけをとりだして、レーニンの勉強ぶりを見ようとしても、そうはいかなくなるんですね。とくにレーニンの場合には、『資本論』を読んだ最初から、ロシア革命のためにという問題意識がつらぬかれていました。

 山口 『資本論』を指針にロシア社会、ロシア資本主義を研究すれば、それがすぐロシア革命の方針や綱領の問題に結びついてくる、ということですからね。 不破 ですから、こんどの研究では、はじめから、レーニンがマルクス、エンゲルスをどう読み、どう研究したのかを、全体としてとりあげることを、志したんです。 『資本論』は、この著作自体が、マルクス、エンゲルスの理論の中心として大きくそびえています。

 レーニンのマルクス研究の歴史をふりかえると、一八九〇年代から一九〇五年のロシア革命までの時期は、『資本論』研究の比重が圧倒的に大きいんですね。『資本論』全三部を読みこなし、また第四部にあたる『学説史』も研究して、その成果のうえに例の「二つの道」を提起する、そのあたりまでですね。

 そのあとは、レーニンの理論活動のなかで、『資本論』そのものが前面に出てくることは、あまり多くはないのですが、面白いのは、どんな研究をしているときでも、レーニンの頭にいつも『資本論』がある、という印象が強いことですよ。

ヘーゲルを読んでも、頭のなかには『資本論』が

 山口 どんな点でしょう。

 不破 たとえば、『哲学ノート』でのヘーゲル研究がありますね。ヘーゲルの『論理学』を、最初のページから、興味をひいたところを書きぬいたり、自分の意見や感想を書きつけたりしながら、読んでゆくわけです。お得意の「NB!」(注意)の符牒(ふちょう)とか、二重、三重の傍線とかが縦横に書きこまれて、レーニンの関心がそこに集中していることを表しますし、ある程度まとまった評注を書いたときには、枠でかこって強調する。こうしてできた膨大なノートですが、ヘーゲルが議論を展開する線にそって、哲学のカテゴリーをいろいろな角度から吟味している最中、「『資本論』参照」という言葉がいきなり飛び出してきたり、概念をめぐる哲学的な議論の実例として、突如として「価値」が登場したりするんです。読む私たちの側からすると、なんで突然『資本論』なのかと考えこんだりするのですが、レーニンの頭のなかには、いつも『資本論』がある。もともと『資本論』の弁証法を深くつかむということが、ヘーゲルを読む最大の目的の一つなんですから、そういう言葉が飛び出してくるのは、ごく自然なことなんですね。

 だから、私は、哲学や政治の問題でのマルクス、エンゲルス研究もすべて、今回の「レーニンと『資本論』」に織り込むことにしたんですよ。(笑い)

 実際、レーニンの理論活動では、『資本論』が直接的な形でそこに姿を出していなくても、現実には、大きく座っている、という場合がしばしばあります。

 前に話に出たレーニン晩年の「新経済政策」ですね。これも、理論的には、『資本論』での商品経済論とのかかわりをぬきにしては、論じられない話なんですよ。そういう意味では、今後とも、マルクスの理論を各分野にわたって広くとらえるなかで、「レーニンと『資本論』」という主題を追ってゆくつもりです。

『哲学ノート』でのレーニンの「反省」

 山口 その哲学の話ですが、連載の第十二回、第十三回(『経済』九月、十月号)は、「唯物論か経験批判論か」ということで、レーニンが書いた『唯物論と経験批判論』を直接の主題にしています。ここでも、ずいぶん新しい発見があったようですね。

 不破 「発見」といいますか、ここにも以前からかかえていたもやもやがありましてね(笑い)。その解決に私なりにとりくんで、一応の答えをだしてみた、というところでしょうか。 例の『哲学ノート』ですが、このなかで、レーニンが、これまでのカント主義や経験批判論との闘争をふりかえって、反省の弁をのべた一節があるんですよ。 まず「プレハーノフ」は「カント主義(および不可知論一般)を、弁証法的唯物論の見地からというよりもむしろ卑俗な唯物論の見地から批判」した、とあります。これは、明らかに、一八九〇年代の、唯物論をカント主義で置き換えようとした傾向(シュミットやベルンシュタイン)にたいするプレハーノフの議論をさしています。レーニンは、当時はプレハーノフの不可知論批判を全面的に支持したのですが、ヘーゲルを研究した目でふりかえると、そこには重大な限界があった、プレハーノフの議論は、弁証法をまだ理解していない段階の唯物論の見地からの批判であって、ヘーゲル、したがってまたマルクスの水準に立っての批判ではなかったということですから、たいへん痛烈な内容のものです。これは、直接的にはプレハーノフへの批判ですが、自分自身、そのプレハーノフを支持したのですから、レーニン自身にとってもやはり一種の反省の弁だった、といえます。 ところが問題は、さらにその次にあるんです。「マルクス主義者たちは、(二十世紀の初めに)カント主義者たちおよびヒューム主義者たちを、ヘーゲル流にというよりもむしろフォイエルバッハ流に(およびビュヒナー流に)批判した」。いったい、これは、何をさした文章かと考えたんです。ビュヒナーというのは、マルクス、エンゲルスが往復書簡などのなかでさんざんこきおろしている俗流唯物論の代表ですからね。レーニンは、その往復書簡を読んだばかりで、その印象の生々しいときにこの文章を書いているんです。

 その「ビュヒナー流」とまで特徴づけられた「マルクス主義者たち」とは何者か。最初の文章と違って、わざわざ「マルクス主義者たち」と書いているのですから、少なくともプレハーノフだけを指した文章ではない。しかし、「二十世紀の初め」に経験批判論(カント主義者たちおよびヒューム主義者たち)を批判した「マルクス主義者」といえば、プレハーノフ以外には、レーニンと彼の同志たち以外にいないんです。

 つまり、第二の反省の弁の方は、どう読んでも、経験批判論とレーニンの論争をふくんでの反省――ヘーゲルを研究してみたら、六年前の自分の経験批判論批判はまだ底が浅かったな、という自己反省と理解するしか、読みようがないのです。

 それなら、ヘーゲルを勉強して、レーニンは、『唯物論と経験批判論』では何を足りなかったと思ったのか、どこに自分の批判の浅さを読みとったのか、これが大問題で、そこからまた『哲学ノート』ととりくみました。

不可知論批判におけるエンゲルス、ヘーゲル、そしてレーニン

 不破 経験批判論、マッハ主義というのは、不可知論の一つですが、レーニンが『唯物論と経験批判論』で不可知論批判にとりくんださい、理論的な地盤としたのは、エンゲルスの二つの著作でした。『フォイエルバッハ論』(一八八六年)と『空想から科学へ』の英語版序文(一八九二年)です。彼は、この二つを全面的に活用して、不可知論の誤りを論じるわけで、この問題に関係するエンゲルスの文章を、この著作のなかでほとんど全文を引用しています。

 ところが、そのなかで、レーニンが「これから先は、あとで」といいながら、ついに引用しないままになった部分がある。エンゲルスが、不可知論者は、存在するすべてを現象の世界に移してしまっている、だから、不可知論を建前的にはとなえるものの、「自分は不可知論者ですよ」と一応の「留保」をしたあとは、実際上「頑固な唯物論」者として「語りかつ行動する」と、たいへんたちいった批判を展開した一節です。「『恥ずかしがり』の唯物論」という皮肉な呼び名も、ここからきているのですが、どうしてレーニンはここを利用しなかったのかな、レーニンの理論の展開になじまない面があるのかな、と以前からちょっと不思議に思っていたことでした。 ところが、レーニンが『哲学ノート』に書きとったヘーゲルのカント主義批判を、あらためて読みなおして、レーニンが目を開かされたのはどういう点かを追究してみると、それは何と、レーニンが省略したエンゲルスの不可知論批判そのままなんですね。 まあ、こんどのなぞ解きは、自分であえてなぞをたてて自分で勝手に解いたようなもので、「発見」なのか、私の一人合点なのか、まだ研究の余地はあるように思っています。 ともかく、私としては、いったん自分が出した結論でも、つっこんだ研究でより高い境地に出れば、大胆に脱皮と前進をはかってゆく、レーニンの理論的な心意気に触れたような思いをしているんですよ。

二人の論敵の役割―プレハーノフとカウツキー

 山口 レーニンの研究で感心するのは、自分が到達した段階に安住しないで、あくまで探究をつづけたことですね。『哲学ノート』での不破さんの追跡も、そう思って読みましたよ。

 不破 『哲学ノート』というのは、まだまだ読みとるべきものがありますね。レーニンの哲学的な著作では、代表的なものとされていますが、その割には、本格的に研究したものはまだないんじゃないですか。

 山口 連載では、レーニンとプレハーノフとの違いにもいろいろな角度から筆がおよんでいますね。 不破 唯物論の問題でのプレハーノフの弱点については、『唯物論と経験批判論』でも、唯物論の不徹底さという角度から、ある程度の批判はしていたんです。しかし、『哲学ノート』での批判は、もっと本質的なものですね。レーニンの哲学の研究が、それだけ、新しい段階に発展してきたということなんですよ。

 でも、プレハーノフという人物が、レーニンの理論活動ではたした役割は、大きいんです。最初の時期は、マルクス主義の研究の先達としてですが、私がとくに注目したいのは、ともかくマルクス主義についてこれだけの学識をもった論敵がいたことが、レーニンの理論活動を発展させる大きなバネになっている、という問題なんですよ。国際的にみると、ドイツのカウツキーも、よく似た役割をしていますね。

 山口 なるほど。そんな面もありますね。 不破 前にとりあげた執権問題にしても、ただ革命の権力問題として、ロシア革命の情勢に即した論戦がやられるだけではないんです。ブルジョア革命で労働者階級が権力をにぎることは、マルクス、エンゲルスの理論にてらしても許されないのだという議論を、プレハーノフが先頭にたって展開する。それにこたえて、レーニンは、民主主義革命における民主主義的な執権の理論と方針を発展させるわけですが、それを裏付けるマルクス、エンゲルスの研究も、猛烈にやるんですね。プレハーノフがいなかったら、レーニンも、マルクス、エンゲルス研究をそこまでやらなかったかもしれません。

 第一次世界大戦が起きたときもそうですね。プレハーノフやカウツキーが先頭にたって、戦争のときには、どちらが進歩の側にたち、どちらの側が反動の側にたっているかを判定し、進歩的な陣営を支持するのがマルクス、エンゲルスの原則的態度だったなどの議論を展開するわけですよ。それで、プレハーノフはロシア=フランス=イギリスの戦争陣営を支持し、カウツキーはドイツ=オーストリアの戦争陣営を支持する、全体としては支離滅裂なんですが、帝国主義戦争支持論を、こともあろうにマルクスを持ち出して合理化するという論法では、共通の立場でした。

 ですから、レーニンの方も、ただ戦争の帝国主義的な実態の暴露、このように植民地奪いあいの戦争じゃないか、という政治的な告発だけではすませられないわけです。マルクス、エンゲルスが生きた時代と、いまこの戦争が世界的規模でおこなわれている現代とは、時代的な条件がまったく違うんだという、世界認識の大局論を最初から展開します。資本主義の発展の「最後の時代」という帝国主義論の時代規定も、早い段階から、そういう文脈で導入されてくるんです。

 これは、連載では、来年になってから問題になる点ですがね。

 レーニンのマルクス、エンゲルス研究には、いろいろな意味で、プレハーノフおよびカウツキーとの論戦で鍛えられたという側面がかなりあったと、思います。

 山口 どちらも、ある時期までは、マルクス主義の理論家として、レーニンが敬意をはらっていた相手ですからね。

 不破 プレハーノフは、とくに哲学上の労作については、レーニンは最後まで尊重して、十月革命のあとでも、その出版や研究をすすめていました。解体前のソ連でも、『プレハーノフ哲学選集』が出版されていて、初期のものは、ナロードニキ批判の著作や綱領草案まで収録されていましたから、この研究でもだいぶ利用させてもらいました。

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🔵「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(8)全生涯にわたる理論活動の探究を

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聞き手山口富男さん

1998年9月23日付「しんぶん赤旗」

これから先の構想は

 山口 『経済』の連載はまだまだ続きそうですが、今後の構想はどうなりますか。

 不破 さきほども話したことですが、こんど、連載を単行本として出すので、その機会に全体の構想をあらためて考えてみました。まだ途中ですが、ここまで書いてくると、ある程度、先も見えてくるし、書いてきたものの区切りもなんとなくついてくるんですね。

 第一巻は、『資本論』第一部を読みはじめた第一回から、第二部、第三部を武器にロシア資本主義論をまとめあげる第六回まで、連載の六回分を一冊にまとめることにして、「市場理論とロシア資本主義」という表題をつけました。

 第二巻をまとめるのは、まだ先になりますが、「新批判派」との論争(第七回)から、党綱領問題(第八回)、農業論争(第九回)、ロシア革命のなかでの政権論、農業革命論での理論的発展(第十回、第十一回)を一区切りにして、表題は「一九〇五年革命前後」としようか、と思っています。

 その次は、運動史的には第一次ロシア革命と世界大戦の中間にあたる時期の理論活動なんですが、マルクス、エンゲルス研究としては、たいへん多産なんですよ。弁証法的唯物論の世界観の本格的な解明にはじめてとりくんだ経験批判論者たちとの論争がある(第十二回、第十三回)、クーゲルマンへの書簡集、ゾルゲなどアメリカでの活動家あての書簡集、そしてマルクス、エンゲルス往復書簡集など、ありとあらゆる問題を肉声で語りあう書簡集にはじめて触れて、マルクス、エンゲルスの理論の奥行きの広さにレーニンがはじめて触れたのも、この時期でした(第十四回、第十五回)。

 レーニンは、ここで、マルクス、エンゲルスの理論が、階級闘争の戦略戦術に適用されたとき、いかに威力を発揮するかにじかに触れて感激するんですが、この問題をはじめ、往復書簡集との出会いからレーニンがくみとったものは、本当に大きかったと考えています。このころ、レーニンは、「三つの源泉」とか「カール・マルクス」とか、マルクス主義そのものを論じた論文をいくつか書いていますが、そこには、この時期の一連の研究の深い実りがあるといえますね。だいたい、この辺までが次の一区切りになるかな、と思います。

 その次が、いよいよ第一次世界大戦からそのさなかに起こったロシア革命ですね。このあたりは、連載も来年のことですから、そこまでいってみないと、どんな論点で研究を展開することになるか、まだ何ともいえないんですが、『帝国主義論』のなりたちや帝国主義と戦争をめぐる一連の論争、『国家と革命』にまとめあげられた国家論研究の問題点、二月革命から十月革命にいたる激動のなかでの理論的な論点など、この機会に研究しなおしてみたい問題は、ずいぶん多くあるんですよ。

 最後が、十月革命後の理論活動ですね。社会主義への道の探究という面でも、革命直後にレーニンがたてたプログラムと、最後の時期に到達したプログラム・「新経済政策」とのあいだには、内容的に大きな転換があるんですね。この間にレーニンがやった模索の過程を、マルクス、エンゲルスの理論的な達成とてらしあわせながら吟味することも、どこまで探究できるかは未知数ですが、ぜひやりたいと思っています。

 また、これはレーニンの執権論批判にも関連してきますが、三十年前にレーニンの批判点としてあげた選挙での多数者獲得を否定する議論は、この時期に出てきた問題でした。国際的な革命論の問題点として、こういう問題も歴史的な検討をくわえたい点なんです。

 こういうことは、まだ先のことだから、ある程度勝手なことがいえるわけで、実際、どこまで探究できるかは、やってみてのお楽しみということになりますね。(笑い)

歴史のなかで読むことで新しい脈絡が見えてくる

 山口 そうしますと、レーニンの全生涯にかかわった研究になってきますね。

 不破 始めた以上、途中でやめるわけにはゆかなくなりましてね。(笑い)

 山口 これまで連載を読んできた感想としていいますと、不破さんがこんどの研究でつかんだ新しい論点とか、そこにふれての驚きとかが、素直に書かれ、その立場で問題提起をしている、そのところが、たいへん面白く読めましたね。 また、これは宿題にしておくとか、今後、もう一度立ちかえることもあろうとかの予告もあって、研究をともにしている気持ちになる。例の「勇み足」の話や、不可知論批判での「反省」の弁という分析など、レーニンの立論を批判的に吟味するという点でも、新しい、そして大胆な探究の成果が現れています。不破さんは、これは私にとっての「発見」だとよくいいますが、読み手の方も発見の連続に、とても楽しくなります。 不破 これは、たいへんありがたい感想ですね。書き手の心情をよくぞくんでいただいたな、という思いですよ。(笑い)

 山口 それから、研究の足跡とその方法とを、いっしょに見せてくれているので、私たちも自分で検証しやすい組み立てになっています。

 この連載は、レーニンの『資本論』研究をいろいろな角度から探究するという点でも、学ぶところが多いのですが、科学的社会主義の理論にたいする不破さん自身の研究方法とその成果を知るうえでも、絶好の機会になりました。

 不破 私も、レーニンとのつきあいは長いんですが、こんどのように、レーニンを歴史のなかにしっかりとおいて、いろいろな関連を見定めながら本格的に読むというのは、初めてなんですよ。これまでもいつも、歴史的な背景は頭において読むようにつとめていたつもりなんですが、実際には、大ざっぱなつかみ方なんですね。しかし、この連載を書くためには、レーニン自身の文献にしても、手紙をふくめ、その問題に関係のあるものをもれなく引きだして読まなければならないし、論争の相手方の主張や状況、時代的な背景も具体的につかまなければならない、そうやって調べてつきあわせてみると、これまで見えていなかった新しい脈絡が浮きあがってきて、はっとすることがずいぶんあるんですね。

 だから、私にとっての「発見」の連続というのは、誇張ではない、本当の実感なんですよ。こういう調子ですから、さっき話したこれからの構想も、あくまで現時点での見通しだということを、もう一度お断りしておきますよ。いざ書いてみたら、構想がすっかり変わってしまったということも、ありえないことではないんです。(笑い) 山口 わかりました。(笑い)

レーニンの資本主義観をめぐって

 山口 最後に総まとめということで聞きたいのですが、「レーニンと『資本論』」にとりくんできたなかから、私たちがいまぶつかっている現実の資本主義を見てゆくさいに、何かヒントになることがありますか。

 不破 まだ研究の途中で、レーニン時代の現代資本主義論である帝国主義論にも入っていないのですから、ちょっと早すぎる質問かもしれませんね。(笑い) そのことを前置きにしていいますと、レーニンは資本主義の徹底した批判者という面からだけ、とらえられがちなのですが、実は、資本主義の批判者であると同時に、歴史のなかで資本主義が果たす進歩的な役割を正面からとらえるという点でも、実に大きな仕事をした理論家なんですよ。

 山口 それは、面白い見方ですね。

 不破 まず、最初の時期のナロードニキとの論争が、彼らの資本主義不可能論にたいして、資本主義の発展の歴史的な必然性を明らかにした論争だったでしょう。これは、ただ歴史の発展がこうなるということではなくて、資本主義をあらゆる害悪の権化のようにえがきだすナロードニキの資本主義悪論にたいして、資本主義の発展の道に踏み出すことが、ロシアの社会的発展にとって進歩的な意義をもつという見地を、全面的に対置した論戦でもあったんです。資本主義の害悪をもっとも鋭くとらえながら、それがロシアの半封建的・農奴制的な現状にくらべれば、歴史的進歩であることを、明らかにする。それが一九〇五年革命後の時期になると、資本主義のどんな発展の道が、ロシアの人民と社会進歩にとって有益であるかという「二つの道」の理論に発展してゆくんですね。

 また、もっとあとで社会主義革命が問題になる時期にも、レーニンがとった立場は、資本主義の経済制度の全否定ではないんですね。国家独占資本主義という資本主義のもっとも高度な発展形態のなかに、新しい、より高度な社会制度である社会主義の経済制度の芽生えを発見し、それをテコにして新しい前進をはかることを主張します。これは、マルクスが『資本論』のなかで展開した銀行制度論をレーニン的に発展させたものでした。

 私たちは、マルクスやレーニンのこういう見地を、「資本主義の枠内での民主的改革」「大企業にたいする民主的規制」という今日の私たちの見地に通じるものとして評価してきましたが、レーニンの資本主義観のこういう側面は、もっと光をあてていい点だと思いますね。

「あとは野となれ山となれ」が資本主義の本音

 山口 資本主義批判の問題ですが、いま世界の現状をみて、近代経済学の立場の人たちからも、「マルクスの『資本論』は生きている」という声が、あげられていますね。ソ連などの崩壊で、社会主義の脅威からまぬがれたかと思ったが、日本や世界で現実に起きている問題――不況と大量失業、環境破壊、金融界の腐敗などなどを見ると、マルクスが分析した通りではないか、というんですね。

 不破 その話に正面からこたえようとすると、とてもこの企画のわくにはおさまらないでしょう(笑い)。だから、一言だけにしますが、マルクスの資本主義批判というとき、私がすぐ思い出すのは、『資本論』の第一部にある、「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!」という言葉なんです。これは、日本語の訳としては、「あとは野となれ山となれ」がぴったりでしょうね。

 フランス革命の引き金になったのは、人民を過酷にしぼりあげたルイ十五世の暴政でしたが、この言葉は、その愛人のポンパドゥール夫人の言葉なんです。財政破たんをひきおこすからといって宮廷の無駄遣いをたしなめられたときに、私が死んだあとにどうなろうと(財政破たん=洪水になろうと)、そんなことは私の知ったことではない、いまぜいたくができればそれでいいじゃないかといって、この忠告をしりぞけた、という話ですが、マルクスは、ここに資本主義の本音があると、『資本論』にこう書いたのです。「大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである」 いま、資本主義経済の矛盾として問題になっているすべてに、この本音があらわれている、そこを見ることが大事だと思いますね。いま日本で深刻な不況をひきおこしたおおもとのバブル経済は、「あとは野となれ山となれ」が荒れ狂った世界でした。日本列島全体で問題になっている開発による環境破壊も、「あとは野となれ山となれ」の深刻な傷跡ですよ。

 しかも、ヨーロッパやアメリカでは、長い歴史のなかで、国民的な運動を背景に資本主義のこの横暴をある程度おさえるルールがつくられ、前進してきているのに、日本では、多くの分野で「あとは野となれ山となれ」の資本主義的スローガンが、異常な形で横行している。自民党の政治そのものが、大銀行・大企業が「あとは野となれ山となれ」でやってきた横暴勝手をかばい、その後始末に国民の税金を平気でつぎこもうという政治ですからね。 まさに「マルクスは生きている」んですよ。「あとは野となれ山となれ」方式にたいするマルクス的な批判精神を、あらゆる分野で大いに発揮してゆくことが大事ですね。

 山口 きょうは、ここで終わりにしましょうか。また折をみて、この話を続けたいですね。

 不破 連載はまだだいぶ先がありますから(笑い)。次はまた機会をみてのことにしましょう。(おわり)

昨年九月、研究の特徴や新しい論点、連載の構想などについて不破さんに聞きましたが、ふたたび、第二巻を中心に、『経済』二月号までの研究内容や今後の展開などについて聞きました。聞き手は、党文化・知識人委員会責任者の山口富男氏です。

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🔵再び「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(1)レーニンの理論活動の時期的な特徴

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 山口 前回は、昨年九月でしたから、四カ月ぶりですね。この間に、『レーニンと「資本論」』の第一巻『市場理論とロシア資本主義』(第一回から第六回まで)が出版され、今年の二月には、第二巻『一九〇五年革命前後』(第七回から第十一回まで)が出版されると聞きました。雑誌『経済』の連載の方は、二月号に第十七回が出て、『哲学ノート』や論文「カール・マルクス」の研究のあたりにまで進んでいます。これは、本でいえば、第三巻『マルクス主義論』の終わりぐらいにあたるんでしょうか。

 この前のときは、第一巻を一つの中心にはしましたが、不破さんがこの研究にとりくんだ問題意識や研究方法の問題もうかがいましたし、こんどまとめられる第二巻にかかわる問題も、執権論などもその時の話題になりました。

 今回は、第二巻とそれ以後の連載の分について、連載の順を追って、お聞きしたいと思います。

 まず第二巻に収録されている部分ですが、ここでは、レーニンの研究や理論活動の幅がぐんと広がって、党の綱領をめぐる論争から、修正主義派との哲学論争や農業論争、それから一九〇五年のロシア第一革命のなかでの論争などが、つぎつぎと登場してきますね。世界観とか綱領問題とか、いまの私たちの運動にとっても、核心的な問題にとりくんだものだけに、身をのりだして読みました。

 不破 そうですね。こんど、第二巻を、いま話にでた形でまとめながら、あらためて感じたことがありました。レーニンの理論活動には、時期ごとに、かなりはっきりした特徴が出てくるんですね。

 第一巻で扱った時期というのは、若きレーニンがマルクス主義の勉強を始め、『資本論』を中心にその理論の全体を身につけて、ロシア資本主義の分析にとりくみ、これを仕上げてゆくというのが、理論活動の大きな流れでした。大著『ロシアにおける資本主義の発展』が、この時期の研究の総決算という位置をしめました。

 ところが、第二巻の時期になると、そのレーニンがいよいよ党の建設という大事業にとりくみ、自分のマルクス主義研究の成果を綱領問題に全面的に生かす。さらに、革命運動そのもののなかから提起されてくる理論問題に、大胆にぶつかってこれを解決する。そういう新しい時期なんです。論戦もあいかわらず盛んですが、こんどの相手は、マルクス主義反対派のナロードニキではなく、マルクス主義派だといいながらこれを攻撃する「新批判派」(のちの修正主義)に変わってきます。こうして、いわばそれまでの時期の『資本論』やロシア資本主義の研究で基本をしっかりと踏まえた成果が、革命運動へのとりくみの新しい状況と結びついて、レーニンの理論活動自身が新しい段階を迎えたということを、強く感じました。 一皮むけたというか、マルクス主義の理論を懸命に吸収した段階から、マルクス、エンゲルスの理論を身につけたレーニンが、革命運動の新しい問題にどんどんぶつかってゆき、それまでの研究の冴(さ)えがあらゆる面で発揮される――それが、第二巻全体の基調をなしていると思いました。

国際的な「新批判派」との論争

 山口 第二巻では、冒頭に、「新批判派」との論争が出てきます(第七章「『正統派』と『新批判派』」)。この論争には、プレハーノフ、カウツキー、ローザ・ルクセンブルク、そしてレーニンと、当時の代表的な理論家がみんな顔を出しているんですね。

 不破 レーニンがシベリア流刑を終えて、ロシアの革命運動の第一線に復帰しようとした時期と、ベルンシュタインを先頭にした「新批判派」の潮流が、ドイツを中心にマルクス批判の旗を高々とあげてきた時期が、ほぼ一致するんですね。「新批判派」というのは当時の呼び名で、やがて修正主義というもっと素性を明確にした言葉で呼ばれるようになりますが。

 この「新批判派」――ベルンシュタイン主義がロシアに波及してきて、「経済主義」という独特の日和見主義を生み出し、これが、科学的社会主義の立場にたった革命党をつくってゆくうえで、最大の妨害物になりました。 こういう状況で、レーニンは、ロシアの革命運動にのりだしてゆくわけです。

 山口 一八九八年から九九年にかけての国際的な哲学論争も、その論戦の一部をなすわけですね。

 不破 「カントに帰れ」を合言葉に、マルクスの唯物論をカントの不可知論でとりかえてしまおうという「新批判派」の攻撃から始まった論争ですからね。この攻撃の口火をきったのは、シュミットという若い青年理論家だったのですが、ドイツの党の幹部で、そのあとについて、哲学の分野でのマルクス批判を国際論争にもちこんだのは、やはりベルンシュタインでした。だから、哲学論争というものも、ベルンシュタインの修正主義との論争の重要な柱の一つだったんです。

 ところが、カウツキーなどは、ベルンシュタイン批判でまとまった著作を発表したりはするのですが、哲学論争にはまったく関心をもちませんでした。あらためて論争の経過を読みなおして、カウツキーの最後の理論的な転落ぶりも思いあわせながら、なるほどと思いました。レーニンは最初から世界観の問題を重視した 不破 「カントに帰れ」というのは、マルクス主義の世界観的な基礎にたいする攻撃でしょう。ところが、それに関心をもつ部分というのは、当時の世界の社会主義運動のなかで、きわめて限られていて、「正統派」と呼ばれた潮流のなかで、この問題に正面からとりくんだのは、ロシアのプレハーノフとレーニンだけなんですね。レーニンは、シベリア流刑中で、論争にはたいへん不自由な状態でしたから、結局その機会をえなかったんですが、哲学の猛勉強をして、論争にくわわる用意をしていましたし、いろいろな論文のなかで、哲学論争にたいする自分の立場をきわめて明確にうちだしました。

 ところが、「正統派」の中心といわれていたドイツの理論家たち――カウツキーなどは、最後まで無関心でした。 マルクス主義の世界観の問題にたいするこうした無関心さは、のちの、マッハ主義が国際的な横行のときにも現れました。カウツキーが、哲学問題での「中立」主義をとなえたりしてね。 こういうことも、世界大戦が起きたときのドイツ社会民主党の政治的、理論的な崩壊につながってゆくんです。

 山口 カウツキーだけでなく、ローザ・ルクセンブルクが、無関心派の一人だったんですね。プレハーノフが哲学問題をとりあげてベルンシュタインを批判したことにたいして、党にとって「最低のテーマ」という言葉まで使って攻撃しているのには、びっくりしました。

 不破 公開の文章での攻撃ではなく、夫のヨギヘス――やはりポーランドの革命家でした――にあてた手紙のなかに出てくる言葉なんです。ローザが、ベルンシュタイン批判を書いている最中の手紙ですが、私も『ヨギヘスへの手紙』(全四巻)を読んでその文章に出会ったとき、こんなことだったのか、と驚きました。

 『レーニンと「資本論」』第一巻では、ローザの『資本蓄積論』について、再生産論をとらえてのマルクス批判の誤りや、資本主義の自動崩壊論の誤りをとりあげましたが、理論の世界観的な基礎にかかわるところで、彼女は弱いんですね。

若きレーニンと史的唯物論

 山口 不破さんは世界観にかかわって、レーニンの史的唯物論についての理解が、国際的にみても抜群のものであったと指摘していますね。哲学論争をとりあげた章でも、若きレーニンのそれ以前の時代に立ちかえって、『「人民の友」とはなにか』(一八九四年)でのミハイロフスキー批判と、「ナロードニキ主義の経済学的内容とストルーヴェ氏の著書におけるその批判」(一八九五年)でのストルーヴェ批判の二つをとりあげているでしょう。この二つの著作で、レーニンが史的唯物論を論じている文章は、哲学の教科書的な本でもよく引用されるものですが、不破さんの説明で、この論戦の歴史的な背景が分かり、レーニンが史的唯物論の要(かなめ)を実に的確にとらえていたところに、あらためて感心してしまいました。

 不破 あの二つの論文は、時期的にいうと、第一巻の、それもはじめの方の部分で扱ってもよかったんですが、第一巻では、再生産論や市場理論、ロシア資本主義論などを中心にしたものですから、『資本論』の哲学的基礎や方法論にまで入りこむ余裕がなかったんです。それで、レーニンが哲学論争にとりくむのを論じたところで、振りかえる形でとりあげました。 さっきもいったように、レーニンは、哲学論争のとき、古今の哲学書を片端から読んで猛勉強するのですが、それでも、自分は哲学では「平マルクス主義者」だと謙遜して語っていました。たしかに哲学史的な知識は、プレハーノフなどのほうがはるかに豊富にもっていました。しかし、私は、マルクス主義の世界観的な基礎にたいする理解は、非常に深いものがあったし、ことの核心をつかんでいる点では、レーニンの理解水準は、若い時代から、プレハーノフを上回っていたように思います。 そういう意味からも、山口さんがあげた二つの著作は、たいへん大事な意味をもっている、と思いますね。

 ミハイロフスキーは、当時のロシアの反マルクス主義の主要な潮流・ナロードニキ主義の代表的な哲学者でした。そのミハイロフスキーが、マルクスの史的唯物論なんていうが、事実の集大成でその正しさを証明した労作――ダーウィンの『種の起源』に匹敵するような労作がどこにあるのか、どこにもないじゃないかという、マルクス主義哲学への正面攻撃をやってくるんです。それにたいして、プレハーノフとレーニンがそれぞれ反撃の著作を書くのですが、同じ攻撃にたいして、反撃の論点も方法もまるで違うんですね。 プレハーノフの反撃は、史的唯物論の正しさの哲学史的な解明が中心で、ミハイロフスキーの攻撃そのものにたいしては、人生は短い、マルクスにはその証明にとりくむだけの時間がなかったなどといい訳をするだけです。

 ところが、レーニンは、『資本論』こそダーウィンの『種の起源』に匹敵する労作だといって、ミハイロフスキーの攻撃を完膚なきまでに粉砕します。そのとき、レーニンは、史的唯物論とはどういう学説かということについて、レーニンなりの見方を展開し、それが『資本論』によってどのように証明されたかということを、理論的につめてゆくでしょう。レーニンは、いつもあれと同じ形で史的唯物論の説明をするというわけではないのですが、これは、本当に独自の、よく考えぬいた論の展開で、若きレーニンの哲学的な実力を十二分に示したものでした。 批判者にたいする反撃の的確さという点でも、プレハーノフとくらべて段ちがいの実力の発揮でしたね。

哲学的論戦を革命運動の文脈のなかで読むと

 山口 ストルーヴェ批判でも、有名な文章がありますね。唯物論者と客観主義者との違いを論じた……

 不破 この文章は、私もいままでに何度か解説を書いたことがあるんですが、こんど、論争の文脈をしらべなおして、私自身、一つの発見がありましたよ。

 山口 といいますと……

 不破 これは、一方ではナロードニキ派、他方では合法マルクス主義派にたいする革命的マルクス主義者の立場を、哲学的に論じた文章なんですね。

 ナロードニキというのは、哲学的には主観主義派なんです。歴史の客観的な法則性、とくにロシアが資本主義的な発展の道に入りこんでいるという現実を認めないで、「生きた個人」の主観的な意志と願望が諸事件を動かし、ロシア社会の今後の方向もきめてゆく、という立場です。一方、ストルーヴェなどの合法マルクス主義派のほうは、「克服されえない歴史的傾向」についてもっぱら語ります。つまり、そういうけれど、ロシアでの資本主義の勝利は、歴史の必然なんだ。人間がそれに抵抗しようとしても無駄なんだという立場から、ナロードニキ派に反論する。これでは、革命運動は、「克服されえない」歴史の進行のなかで、果たすべき役割も、いや存在の余地さえなくなってしまいます。

 これにたいして、レーニンは、歴史の流れは自動的な過程ではなく、だれが歴史の担い手になるかが問題だということを、明らかにするんです。具体的にいえば、ロシアにおける資本主義の発展についても、革命的な人民が歴史の先頭にたって民主主義革命をやりとげる場合と、ツァーリズムが生き残っているもとで、なしくずしの進化をとげる場合とでは、天地の違いがある、ということです。これを、哲学的なとらえ方として、解明したのが、例の文章なんですね。歴史を動かす「生きた個人」の役割 不破 私は、その少しあとで、歴史のなかで「生きた個人」はどういう役割をするか、を論じた部分も、たいへん面白いと思ってとりあげました。これも、いまの論争と関連があるんです。

 ストルーヴェ流の客観主義者の見方では、「生きた個人」など問題にならないし、「個人」の役割をとりあげるのが、ナロードニキ的主観主義だという話になります。一方、ナロードニキ派は、歴史は「生きた個人」が動かしているのだから、社会には客観的法則などありえない、ということになります。 これにたいして、レーニンは、「生きた個人」と社会の法則性とのあいだにどんな関係があるのか、という問題を正面からとりあげ、生きた個人の活動を通じて、歴史の法則性があらわれる、それをとらえるところに、史的唯物論のすばらしさがあるのだ、ということを、精密に説きあかしてゆきます。史的唯物論を、人間の役割をみないで、物質の動きだけを問題にするものだ、などと誤解しての議論がよくありますが、実は、「生きた個人」、生きた人間の役割を、もっとも生きいきととらえるのが、史的唯物論なんですね。この点で、レーニンの解明は、いまでもたいへん大事な意味をもっています。 当時、国際的にも、史的唯物論についての解説的な書物はずいぶん出ていますが、これだけの深い解明をしたものはなかった、と思います。プレハーノフの著作も、博識ではあるが、レーニンがやったような立体的な解明はないですね。エンゲルスは、『フォイエルバッハ論』で、人間の意志と歴史の法則性との関係について、みごとな解説をおこなっていますが、レーニンは、エンゲルスが解明したことをうのみにしてそのまま繰り返すのでなく、ロシアの革命運動の生きた情勢のなかで、ナロードニキと論争し、またのちにブルジョア的な転身をとげてゆく合法的マルクス主義派と論争しながら、それにさらに発展的な肉づけをあたえた。その点の深みというのが、すごくあるんですね。

 ここに、史的唯物論研究での一つの峰がある、といっていいんじゃないでしょうか。

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🔵再び「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(2)綱領論争に現れた『資本論』の読み方の違い

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聞き手:山口富男さん

1999年1月13日付「しんぶん赤旗」 

1.第2巻は「新批判派」との論争から2.綱領論争に現れた『資本論』の読み方の違い3.ロシアとヨーロッパの農業問題にとりくむ4.執権問題――マルクス研究の成果と制約5.マルクス主義をより広い視野でとらえる6.マルクス、エンゲルスの書簡集との出会い7.『往復書簡集』――レーニンの研究ぶり8.マルクスの弁証法にせまる

「生きて発展する学説」としてとらえる

 山口 不破さんは、レーニンが、マルクス、エンゲルスのいったことの単純なくり返しじゃなくて、研究しぬいて自分の言葉で語る、また論戦の相手に応じて、史的唯物論を多角的に豊かに追っているという指摘をしていますね。前に『古典学習のすすめ』(新日本出版社、一九九六年)のなかでも、史的唯物論の定式にも、いろいろあるんだと語っていました。古典にじかにぶつからないと、その面白さがつかめないものだなと、あらためて思いました。

 不破 同じ史的唯物論を、同じ時代の同じロシアで論じているんだが、レーニンがミハイロフスキーの攻撃を相手にして展開した議論と、ストルーヴェを相手にして展開したものとは、角度も表現も違うんです。史的唯物論の歴史のとらえ方とは何かという同じ問題を解明しても、論戦の相手と内容に応じて問題意識が違ってくると、まったく新しい迫り方をする。根本を深くつかんでいるから、それができるんですね。違った角度から解明しているものをいくつかあわせて読むと、経済的社会構成体、土台・上部構造の関係、社会と人間のかかわりなどのつかみ方も、より深い内容で浮かびあがってくるように思います。 論争が面白いのは、相手の論法に刺激されて、自分自身が理論的に発展するという面があるんですね。哲学にかぎらず、レーニンが、いろいろな論争のなかで、新しい問題にぶつかり、その解決のためにより深くマルクス、エンゲルスを読んで前進する、こういう様子をすごく感じますね。

 第二巻で扱っている時期は、論争の相手が、「新批判派」あるいは修正主義派でしょう。前の時期の論争相手・ナロードニキの場合にも、ニコライ・オンみたいに、ロシア語版『資本論』の翻訳者がいたりして、マルクスをどう理解すべきかという論争も部分的にはありました。しかし、今度の場合には、どんな問題で論争する場合にも、マルクスをどちらが本当に深く読んでいるかが、問題になる。だから、マルクスの読み方、その研究自体が、論争を通じていやおうなしに深められるんですよ。

 山口 「新批判派」との論争で、レーニンは、最初から、マルクス主義は不動のものじゃない、情勢に応じて発展させるのが当たり前だという立場を強調してますね。これも、こんどの研究でよく分かりました。

 不破 マルクス主義とは、不変の金科玉条に固執することではなく、時代と情勢、提起される問題に応じて、理論が発展するのは当然だという見地が、最初から当然のこととしてすえられている。そのうえで、「新批判派」との論争でも、どういう立場で発展させるのかということを、最初から問題にするんですね。「新批判派」にたいするまとまった批判としては、「非批判的批判」(一九〇〇年)という論文に、最初のころのものがあるのですが、そこで、両者の意見の相違は、それぞれが「マルクス主義をちがった方向へ改造し発展させようと望んでいる」ことにある、「正統派」は、「首尾一貫したマルクス主義者としてふみとどまり、変化しつつある諸条件といろいろな国の地方的特殊性とに応じてマルクス主義の基本的諸命題を発展させ、マルクスの弁証法的唯物論と経済学との理論をさらに発展させようと望んでいる」のにたいし、「新批判派」は、「マルクスの学説の多少とも本質的な若干の側面を拒否する」のだと、論じています。

 マルクス主義――科学的社会主義を「生きて発展する学説」としてとらえる、という立場は、最初から核心がきちんとつかまれていますね。

プレハーノフ草案の弱点はどこに

 山口 「新批判派」との論争につづくのが、プレハーノフとの綱領論争ですね。綱領が決まるのは、ロシア社会民主労働党の結党大会(一九〇三年)ですが、その大会に先立っておこなわれた綱領論争を、労働解放団以来の歴史のなかで位置づけ、その意味を解明していたのが、たいへん新鮮でした。

 不破 綱領についてのレーニンの論文をずっと読んでゆくと、出発点は、一八八七年の労働解放団の綱領草案(第二次草案)なんですよ。ですから、研究もそこから出発しないと、レーニンがとりくんだ真意がつかめないと思いました。この綱領草案は、プレハーノフがナロードニキの運動と手をきり、亡命地のスイスで、ロシア最初のマルクス主義組織・「労働解放団」をつくったときに書いたものなんですが、捜してもなかなかみつからないんです。結局、だいぶ前に買ってあったプレハーノフの『哲学論集』(英語版、全五巻)に収録されていたので、それをもとに紹介したんです。 実は、二十年ほど前に、「レーニンはマルクスをどう読んだか」(一九八三年)という連載を「学生新聞」に書いたことがあります。

 山口 私はそのとき編集部にいて、あの連載の校正をやりました。(笑い)

 不破 そうでしたか。そのとき、レーニンとプレハーノフの論争について、やっぱり『資本論』の読み方の違いだと書いたんですが、こんど、あらためて歴史を調べなおしてみて、同じことをいちだんと痛感しました。 プレハーノフは、ロシアの革命家のなかでいちばん最初に『資本論』を研究し、マルクス主義の旗をたてた人物で、『資本論』をはじめ、マルクス、エンゲルスの理論・学説にも非常に詳しい。レーニン自身も、プレハーノフの著作――『資本論』研究や哲学からロシア経済研究、社会主義論までの多くの著作を導きの糸にしながら、マルクス主義を勉強したわけです。ところが、その『資本論』を使って、ロシア資本主義を分析し、ロシアの革命運動の方針を出そうとすると、プレハーノフ的な読み方と、レーニン的な読み方の違いが画然と出てきてしまうんですよ。

 一方は、やはり評論家的な色合いが強い。他方、レーニンの方は、このロシア社会をどうして変革するかということを、最初から最後までつらぬいている。『資本論』の理論でロシア社会の動きを分析してそれで終わりではなくて、社会の現実にあった革命運動の正確な方針をうちだすために、『資本論』で体得した理論を、ロシア社会の分析とロシアの革命運動に本当に真剣に適用するわけです。 だいぶあとのことですが、レーニンの論争相手となったメンシェビキのある人物が、あんなに夜も昼も革命のことばかり考えている男に勝てるわけがないと嘆いたという話がありますが、『資本論』研究もその立場ですからね。 プレハーノフが書いた労働解放団の綱領草案というのは、マルクス主義の立場で書かれたロシアで最初の綱領で、ロシア社会の資本主義的な発展の方向をきちんと見定めながら、革命の方針としては、まずツァーリズムを打倒する民主主義革命をやりとげ、つぎの段階で社会主義革命をめざすという戦略方針をうちだしていました。だから、ロシアの資本主義化に反対し、資本主義の段階ぬきで社会主義をめざすというナロードニキの方針をうちやぶるうえで、画期的な力を発揮したんです。レーニンも、そのことは非常に高く評価し、党の綱領を新たにつくるとき、これを出発点におくのは当然だと考えました。 ただ、労働解放団の綱領草案は、論の展開の仕方が、教科書的なんですね。そもそも資本主義とはという資本主義の一般論からはじまり、つづいて社会主義の一般論が展開される。そのうえで、これを各国に適用するときには、それぞれの特殊性に応じた多様性の要素が大事だといって、ロシアの具体論に入り、ロシアには「家父長制経済」の残存物とその「政治的補完物」であるツァーリズム専制があるから、絶対主義に反対する民主主義革命が必要だという論法です。

 つまり、この草案は、マルクスの資本主義論、社会主義論のいわば教科書的な解説がまずあって、ロシア社会論、ロシア革命論は、それの具体化としてあとから出てくる、という組み立てになっていました。

中心は理論のとらえ方のちがいにあった

 不破 レーニンは、初期の時代ならともかく、ロシアでマルクス主義と革命運動がここまで発展してきた今日の新しい段階では、それでは足りない、『資本論』を指針にして、資本主義一般ではなく、ロシア社会そのもの、ロシア資本主義そのものを分析し、そこから革命の展望と課題をロシア人民に示す綱領が必要なんだ、こういう立場にたったんです。この立場で、どんな綱領が必要かということについて、ペテルブルグで最初に活動した時期にも、シベリア流刑の時期にも、独自の綱領草案や改訂の提案、それにかかわる論文などを書いてきました。しかし、プレハーノフには、その問題意識そのものが分からないんですね。

 山口 具体的には、どんな点が違ってきたんですか。

 不破 大会前の綱領論争で、レーニンは、プレハーノフ流の論法の問題点を、大きくいって、三つの角度から指摘しています。

 第一は、ロシア資本主義を告発する具体性が欠けてくることです。 プレハーノフの綱領草案は、「現代社会は……」という資本主義社会の一般論から始まって、ロシアという固有名詞が出てくるのは、第十節で「ロシアの」社会民主党の国際的地位を論じたところがはじめて、しかもロシア社会そのものの分析は、第十二節にわずかに三、四行あるだけという調子です。

 これにたいして、レーニンの草案は、最初の第一節からロシアの情勢論として書かれ、資本主義の分析や特徴づけも、ロシアではどうなっているかというロシア社会論として展開される。これは、ロシア社会の変革をめざす革命党の綱領として、文字通り決定的な違いでした。

 第二に、資本主義の分析や批判の個々の点で、博識なはずのプレハーノフが、厳密さを欠いた、たいへん大ざっぱな叙述で間に合わそうとすることが、実に多いんです。 たとえば、社会の支配者、搾取者を告発するとき、レーニンは、地主の存在を絶対に抜かしません。ところが、プレハーノフは、資本主義をごく大ざっぱにとらえて、生産手段は少数の資本家階級に属しているといった、地主ぬきの文章をすぐ書きます。すると、レーニンは、そこに「生産手段は地主や小生産者にも属している」と修正の書き込みをするんですね。

 実は、ドイツのラサール派が同じ間違いをしたことについて、マルクスは「ゴータ綱領批判」で、レーニンと同じ批判をしています。プレハーノフは、「ゴータ綱領批判」をよく読んでいるはずなのに、いざ自分が綱領を書くときになると、資本主義一般を告発する教科書的な立場からぬけられないんです。

 綱領というものは、簡潔だが、もっとも科学的な厳密さを要求されるものでしょう。そこをレーニンが一つひとつ訂正するのですが、それを見ると、レーニンが『資本論』の内容を実に正確に読みとっていることが、あらためて分かります。

 第三に、ツァーリズムの問題です。プレハーノフは、最初にツァーリズムの打倒という革命の綱領をうちだした人なんですが、ロシア社会にとってツァーリズムを打倒する必然性がどこにあるかということの解明が、たいへん弱いんです。資本主義と社会主義の一般論から、その一つの応用問題として、ロシア問題に入るという考え方にもかかわってくる問題だと思いますが。

 そこへゆくと、レーニンの場合には、この問題での科学的迫力がまるで違う(笑い)。ツァーリズムという封建的な城塞(じょうさい)の打倒にむかって、ロシアの人民、社会の民主主義勢力の全体をいかにして立ち上がらせるか、というのは、革命運動の基本問題ですからね。 こういうように、『資本論』の読み方の違いというものが、綱領草案の組み立てやその表現の節々にはっきり出てくるんですよ。 山口 連載でものべられていた「たたかう党の綱領(プログラム)」か、「教科書の教案(プログラム)」かという、そこの軸がよくわかる研究ですね。 それから、こんどの研究では、大会前の綱領論争について、(1)プレハーノフの草案、(2)それにたいするレーニンの批判、(3)レーニンの独自の草案の三つを一つの対比表にまとめてありましたね。あれは、たいへん研究しやすい表でした。

 不破 あの対照表は、私自身が必要だったんですよ。どの問題についても、プレハーノフの原案とレーニンの批判点、そしてその立場で書いたレーニンの案文――この三つを直接対比しながら読まないと、なにが問題になっているのかの筋道がなかなか浮き出てこないですからね。

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🔵再び「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(3)ロシアとヨーロッパの農業問題にとりくむ

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聞き手:山口富男さん

1999年1月14日付「しんぶん赤旗」 

1.第2巻は「新批判派」との論争から2.綱領論争に現れた『資本論』の読み方の違い3.ロシアとヨーロッパの農業問題にとりくむ4.執権問題――マルクス研究の成果と制約5.マルクス主義をより広い視野でとらえる6.マルクス、エンゲルスの書簡集との出会い7.『往復書簡集』――レーニンの研究ぶり8.マルクスの弁証法にせまる

「農奴解放」以後――ロシアの農業問題の複雑さ

 山口 ロシアの党の綱領の問題では、農業綱領をどうするかが、大問題だったんですね。ロシアは農民が多数をしめていた社会ですし、農業綱領がなぜ大事だったかは、わかっていたつもりでしたが、レーニンにしても、この問題を分析し解決することがいかに大変だったのか、このことは、こんどの研究であらためて勉強させられました。当時のロシアで、農民経営への抑圧が非常に複雑な形をとっていた、という問題があったんですね。

 不破 この問題は、第八章で、党綱領をきめるときの問題をとりあげ(「プレハーノフとの綱領論争」)、第十一章で、実際にロシア革命が起こってからの問題をとりあげた(「農業革命と『剰余価値学説史』」)のですが、農業綱領の中心は、一口でいえば、農奴制の残存物との闘争なんですね。ところが、これが実態はたいへん複雑なんですよ。

 私自身も、学生のころ、農業綱領についてのレーニンの論文などをはじめて読んだとき、「切取地」という言葉がしょっちゅう出てくるんだが、その中身がよくわからないで困った記憶があります。当時のロシアの農業事情をつかまないと、いくらレーニンの議論の文面を追っても、その意味が見えてこない。それで、今度は、農業をめぐる情勢がいったいどうなっていたのか、とくに「農奴解放」以後の農業情勢のそもそも論的な解明もふくめて、論点の整理に力を入れたつもりです。

 ロシアでは、十九世紀・六〇年代初め(一八六一年)に、「農奴解放」とか「農民改革」とかいわれる改革がおこなわれて、昔ながらの農奴制は一応なくなったんです。しかし、農民が地主・貴族に抑圧されるという状態は変わらなかった。その抑圧の形態を、農奴制の残存物と呼ぶんですが、それがまた実に複雑なんです。

 農奴制のもとでは、地主が農奴を動員して大規模に土地を耕作する地主経営がありますが、そのかたわらで、農奴である農民は一定の土地で自分の家族のために小規模な耕作をやっているわけですね。

 いわゆる「農奴解放」は、地主経営そのものには手をつけませんでしたから、地主・貴族が膨大な土地を独占して、そこで大規模な地主経営をいとなむという状況は、その後も変わりませんでした。そして、この大土地所有が、貴族・地主の支配力の最大の経済的な基盤になっていました。

 一方、農奴の方は、「解放」されて、自分の土地を所有する農民に一応は変わったわけですが、その時、ばく大な買取金を払わされたうえ、これまで農民が利用していた土地の重要部分が、いろいろな口実をつけて地主に取り上げられてしまったんです。これが「切取地」でした。地主にお願いしてここを使わせてもらわないと、農業も生活もできないんですね。だから、農奴制はなくなっても、地主の支配はなくならないで、地主のためのただ働きが当たり前のことになる。こういう農奴制の「残存物」が無数の形態で存在して、農民を苦しめていた。

 こういう状況ですから、農業での民主主義革命を展望したとき、綱領にどんな要求をかかげるのかというのは、なかなかむずかしい問題だったんです。

農民がどこまで要求するか、の判定が問題

 不破 農業改革の要求を大きく整理していうと、「農奴解放」のときに農民におしつけられた悪条件――「切取地」がその代表ですが――を徹底して取り除く、という問題がまずまっさきに問題になりますが、次に、そこにとどまらないで、地主・貴族の支配の根源をなす大土地所有の没収というところまで踏みだすかどうかが、問題になります。レーニンも、ここでずいぶん悩むんですよ。

 プレハーノフの最初の綱領は、きわめて簡単で、農奴制の残存物とたたかわなければいけない、というだけですましてしまったわけですね。

 レーニンは、もっと実情にあわせて具体化しようという努力をし、「切取地」の返還を中心にした農業綱領を仕上げるのですが、革命を現実に経験するまでは、地主の土地所有の没収という要求は出さないんです。それは、ロシアの農民自身が、農業革命のなかで、いったいどこまで要求するだろうかの判定が問題で、勝手な押しつけはできないからなんですね。ここにレーニンがたちむかった問題の複雑さがあったんだなと、私もこんど研究しながら分かったんですが。

 地主・貴族の支配の打倒というのは、当面する民主主義革命の中心任務なのですから、最初から「地主・貴族の土地を没収せよ」といえば、いちばん徹底した農業革命の要求になるように見えますが、そうはいかないんですよ。はたして、それが農民全体の民主的な要求になりうるのかどうか、という問題がある。それは、運動のなかでしかはかれないことなんです。

 だから、レーニンは、党大会のときには、「切取地の返還」を中心にした農業綱領をつくるのですが、そのときも、論をそこでとどめないで、情勢の発展いかんによっては、もっと先、「地主の土地の没収」にまですすむことがありうるという保留条件を、ちゃんとつけているんですね。その見通しをもちながら、農業綱領としては、確実な当面の要求の定式化でとどめている。プレハーノフはそういう見通しをもつこと自体に疑問を投げかけていますが、やはりそこはレーニンの偉いところですね。

 そして、一九〇五年にロシア革命が実際に始まり、全国で農民が立ち上がってくると、「切取地の返還」の要求などではとどまらないのです。そこを簡単に通り越して、「全地主の土地の没収」の要求がたちまち広がって、全農民的な要求になりました。レーニンの対応は、もともとそれに対応できる理論的な素地をもっていたわけですから、ただちにこれにこたえて、農業綱領の改訂という問題を提起するのです。

 山口 現代の運動にとっても、なかなか教訓的ですね。

綱領的展開の一段一段が『資本論』研究と結びつく

 不破 私が面白いと思うのは、その綱領的な展開の一段一段が『資本論』の研究とずっと結びついてくることです。 最初に、「切取地の返還」などの農業綱領を決めたときには、その根底に『ロシアにおける資本主義の発展』でのロシア農業の研究がありました。レーニンは、『資本論』第三部の「資本主義的地代の創生記」(第四七章)を活用して、この研究をやったのでした。

 次に、ロシア革命で農民がこの綱領をこえてさらに前進したとき、レーニンは、ロシアの農民運動の現実ときりむすぶ分析をおこない、それにもとづいて、農業綱領の改訂を提案するわけですが、その結論をだしたあと、マルクスの『剰余価値学説史』――これは、『資本論』の第四部にあたります――を読みます。それで、ああ、ここに自分が踏み出したものの根拠がある、ということを、あらためて確認するんですね。

 しかも、こんどは、その『学説史』でマルクスが展開したことを理論的な足場にして、ロシア革命における新しい農業綱領が、ロシア資本主義とロシア社会の発展にとってどんな意義をもっているかについての壮大な理論的究明をやってしまいます。これが、資本主義の発展におけるアメリカ型とプロイセン型という、有名な「二つの道」の理論になるのです。

 このあたりは、マルクス研究と革命理論の発展とのかかわりという点で、たいへん興味深い点がありますね。

「新批判派」との農業論争――資本主義万歳論への批判

 山口 もう一つ、あの時期の農業問題では、「新批判派」を相手にした国際的な分野での論争がありますね。

 不破 レーニンが、なぜあの時期に、あれだけヨーロッパの農業問題にうちこんだのかというのは、それ自体一つの研究問題なんですが、やはりヨーロッパの革命の展望、多数者革命の問題とのかかわりが大きいと思います。 実際、「新批判派」――修正主義の潮流は、『資本論』は農業にあてはまらない農業は「例外」だ、そこでは小農経営に未来があるという形で、農業問題を自分たちに有利な舞台にしようと懸命でした。これは、そこからマルクス理論をつきくずそうという思惑があると同時に、農業は、資本主義下の農民経営の現状で万々歳だ、社会主義革命などいらないということで、革命論的な攻め込み方をしています。農業は別だということは、農民は社会主義の味方にはならないということで、そうなったら、階級配置からいっても、社会主義勢力が多数になるのは不可能だということになります。ですから、ここを修正主義との闘争の中心舞台の一つと位置づけたレーニンは、非常に大事なところをついていたと思います。

 山口 連載の第九回でとりあげている「農業問題と『マルクス批判家』」については、レーニンは、一九〇二年から一九〇八年まで、長期にわたって書きつづけ書きつづけして完成しているんですね。レーニンが、どんなにこれを重視したか、よくわかりました。

 不破 流れからいうと、『エンゲルスと「資本論」』の最後のところで、エンゲルスの「フランスとドイツにおける農民問題」(一八九四年)をとりあげましたね。あれは、その時のフランスとドイツの党内に起きた右寄りの傾向を心配して書いたものでしたが、「新批判派」との論争はそれにつながるものでした。レーニンも、エンゲルスのこの論文を熱心に研究しています。

 山口 連載で、エンゲルス論文へのレーニンの書き込みを紹介していましたね。

レーニンは社会主義農業論で、筆をなぜ控えたか

 不破 前回も話しましたが、こんど私があらためて注目したのは、この論争のなかでの社会主義論そのものの問題なんです。「批判家」たちの農業での資本主義万歳論を批判しようとすれば、では、社会主義は農業にどんな発展の道を開くのか、という問題が、どうしても主題の一つになってきます。「批判家」たち自身も、ロシアのブルガコフにせよ、ドイツのヘルツにせよ、それぞれなりに社会主義論を展開していました。ところが、レーニンの「農業問題と『マルクス批判家』」には、それにあたる部分がないんですね。

 なぜかと思って、この論文のプランをみると、いくつか残っているプランのどれをとっても、最後の柱は「批判家」たちの社会主義論への批判になっています。レーニンはまた、ブルガコフやヘルツの著作について、かなり詳しい「摘要」をつくっていますが、それを見ても、彼らの社会主義論への批判が、レーニンの問題意識のなかで、かなり大きな比重をしめていたことがよく分かります。ところが、一九〇八年までこの論文の続編を書きつづけたのに、レーニンは、プランにあった社会主義論の部分を、ついに書かなかったんですね。

 この間、一九〇三年ですが、パリのあるロシア人学校で、農業問題の講義をする機会があるのですが、その時も、講義プランでは、マルクス、エンゲルスの主張を総括しながら社会主義的な展望を論じるということが、テーマの一つにたてられていました。ところが、実際の講義では、この部分は落とされてしまうんです。

 山口 ここは、今度の研究のなかでも面白い謎ときの一つだと思って、読みましたよ。

 不破 いまいったパリでの講義プランのなかに、マルクス、エンゲルスがヨーロッパの農業問題について書いた文献の目録があるんです。それが、当時、この問題でレーニンが読めたすべてだったんでしょうね。見ると実に限られたもので、まとまった論文はエンゲルスの「フランスとドイツにおける農民問題」だけ、あとは『共産党宣言』、「新ライン新聞」の論説、第一インタナショナルの決定などからの断片的な引用が主でした。

 これは私の推理なんですが、おそらくレーニンは、これらの文献をあらためて読み直してみて、社会主義における農業の展望を論じるには、あまりにも材料が不足だということを自覚し、ことが熟するまで待つことにしたのではないでしょうか。つまり、足場が十分でないときに、理論的な冒険はしない、自分でとことん納得がいかない時は、あそこまで準備をしても踏み出さない、という態度ではなかったか、と思っています。

 実際、この問題はきわめて複雑な問題で、十月革命のあとでも、レーニン自身、内戦の困難と結びついた苦しい模索をかさね、一九二一年の「新経済政策」ではじめて、ある程度自分で納得のゆく解決に達したという問題でしたからね。 このとき、レーニンがあえて抑制したのだとすると、いわばかなり先の見えた理論的抑制だったと思います。

未紹介の資料でいっぱいの『レーニン遺稿集」

 山口 農業問題でも、レーニンの研究と思考の過程をみる材料として、『レーニン遺稿集』から、いろいろな文献が紹介されています。あとの執権論のところでも、マルクス、エンゲルスの著作へのレーニンの書き込みが紹介されますね。『レーニン遺稿集』には、未紹介の資料がずいぶんあるんですね。

 不破 そうなんです。一九二四年に第一巻が発行されて、それからソ連解体前の一九八五年の第四〇巻が最後ですから、膨大な文献・資料が収録されています。その多くは、その後、刊行が始まった全集――第二版(第三版はその普及版)、第四版(日本語版はこの翻訳)、第五版――に順次収録されてゆくわけですが、『遺稿集』に掲載されているのに、全集にはついに収録されないままになったという部分が相当あるんです。レーニンが『ロシアにおける資本主義の発展』を書いたときにつくった、諸著作からの書き抜きなどは、それだけで『遺稿集』の分厚い一冊をなしていますが、これはまったく未紹介ですね。スターリン的な選別も、かなり影を落としたと思いますね。

 私は、ロシア語はまともに読めないまま、ページをめくって重要と思われるものとあたりをつけては人に読んでもらっているのですから、ロシア語とレーニンに強い人が、だれか全四十巻を吟味してくれるとありがたいんですが……

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🔵再び「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(4)執権問題――マルクス研究の成果と制約

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聞き手:山口富男さん1999年1月15日付「しんぶん赤旗」 

1.第2巻は「新批判派」との論争から2.綱領論争に現れた『資本論』の読み方の違い3.ロシアとヨーロッパの農業問題にとりくむ4.執権問題――マルクス研究の成果と制約5.マルクス主義をより広い視野でとらえる6.マルクス、エンゲルスの書簡集との出会い7.『往復書簡集』――レーニンの研究ぶり8.マルクスの弁証法にせまる

民主主義革命の執権論――革命が提起する問題に答えて

 山口 連載第十回の「ロシア革命と執権問題」については、昨年九月のときにもかなり詳しくお聞きしました。民主主義革命における「執権」論という新しい提起にしても、「執権」概念のレーニン独自の定義が生まれてきた経緯についても、その背景となる一九〇五~〇六年のロシアの情勢や、レーニンのマルクス研究の推移なども教えられ、その全体的な関連で読んでみると、新鮮な感じで全体の脈絡がつかまれてくる感じでした。私たちは、いつもは、レーニンを読んでも、なかなかそういう配置では読まないものですから。

 不破 私だって、いつもは、全体の配置に目くばりしてなんて読み方は、なかなかやらないですよ。(笑い) まず最初の問題ですが、革命がはじまって間もなく、レーニンが、民主主義革命が勝利したときに生まれる革命政権の性格について、「労働者階級と農民の革命的民主主義的執権」という規定を打ち出しますね。この問題で、プレハーノフを先頭にするメンシェビキと真っ向から対立するのですが、面白いと思うのは、そのボリシェビキもメンシェビキも、民主主義革命の綱領としては、同じ党綱領をもっているんですよ。

 山口 アッ、そうなんですね。

 不破 つまり、党大会で綱領を決めた時点では、政権問題がそこまで問題になっていなかったわけです。しかし、革命が始まって、この革命にたいしてどういう態度をとるか、革命政権(臨時革命政府)にどんな態度をとるかが問題になってみると、第二回党大会で採択した同じ綱領をもっているボリシェビキとメンシェビキなのに、考えていることは、全然違っていたわけです。

 メンシェビキの方は、この革命はブルジョア革命なんだから、ブルジョア自由主義派が政権をとればいい、労働者階級も社会民主党も政権に手をだすべきではないという立場。

 それにたいして、レーニンは、そんなバカな話はない、革命にたちあがった革命的人民が政権をにぎってこそ、徹底した民主主義革命が実現できる、ブルジョア自由主義派にまかせたら、徹底した改革ができないばかりか、革命そのものが流産させられるという立場です。 臨時革命政府に参加すべきかすべきでないかというこの論争のなかで、メンシェビキのほうで、君らは政権につくというが、じゃあ、プロレタリアート執権をやるつもりかと、おどかしめいた議論をもちだしてくるんですね。それにたいして、レーニンが、いや、同じ執権でも執権の性格が違うといってうちだしたのが、「労働者階級と農民の革命的民主主義的執権」という規定でした。

 ですから、この規定が生まれてくる経緯そのものに、なかなか注目される点があるんですね。臨時革命政府への態度という、革命運動のただなかで提起されてきた問題にたいして、科学的社会主義の革命的立場、科学的立場にたてば、これ以外にないという形で回答を出し、それを理論的に表現しようとして、この新しい規定、定式が生まれた。しかし、レーニンは、マルクス、エンゲルスをもちだして、この規定を理論化したわけではないんですね。むしろ、この論争では、プレハーノフなどこれに反対するメンシェビキの側が、マルクス、エンゲルスは時期尚早の政権参加をいましめたとか、いろいろなものをもちだしてきました。レーニンは、それに答える形で解明するのですが、プレハーノフなどがもちだしてくるマルクス、エンゲルスの文章には、レーニンがまだ読んでいないものがあったりするんです。

マルクスの1848年革命論から

 不破 次の段階で、レーニンは、「新ライン新聞」の論説で、一八四八~四九年のドイツ革命にたいするマルクスの情勢分析や戦術方針を研究します。この少し前に、ドイツのメーリングがマルクス、エンゲルスの初期の著作をまとめた論集を発行していましたから、これを読んだのですね。

 もちろん、マルクスは「革命的民主主義的執権」といった規定は使っていません。当時のドイツには、労働者階級の組織的な運動もなければ、プロレタリア党もなかったのですからね。しかし、マルクスは、その情勢のもとでも、あらゆる問題を人民的な立場で取り上げ、民主主義革命における諸階級の配置とか、革命政権は何を任務として、どんな階級がこれに参加すべきかとか、ブルジョア自由主義派に政権をまかせていいかどうか、といった問題について、革命のただなかで実に的確な回答をだしていました。これはまさに、労働者と農民の革命的民主主義的な同盟が革命政権の基礎になるという、レーニンの方針の全面的な裏付けになるものでした。レーニンは、一八四八年のマルクス研究を、『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』(一九〇五年)という著作の補論の部分でやっているんですが、それが、革命論、政権論についてのレーニンの確信を高め、そこから大きな理論的な力を与えられるんですね。 さきほどの、農業革命の問題と同じです。

革命論とマルクス研究と―躍動する弁証法的な関係

 山口 不破さんは、『レーニンと「資本論」』の第二巻のいちばん最後のところで、その問題をまとめていますね。

 ――レーニンがいろいろな問題を研究する場合、マルクスを理論的指針にするのはもちろんだが、マルクスの研究を出発点においてその結論をロシア問題にあてはめる、という態度はとらないで、当面する現実に正面からとりくみ、事実を徹底的に研究して、革命運動の発展の立場から必要な回答をひきだしている、

 ――そして、その結論や方向を、マルクス、エンゲルスの理論と実践の研究にてらして、理論的に点検・吟味をおこない、マルクスと合致していることが実証されると、そこで理論的な視野を一挙にひろげ、新たな境地に飛躍する、 だいたいこういう特徴づけでした。

 ここは、連載を読んできた読者としては、研究をともに積みかさねてきたなかで出されているまとめなので、何重にも線をひいて共感しながら読んだところです。

 不破 これは、少しあと、連載の第十四回のクーゲルマンの手紙のところに出てくる話ですけど、ロシア革命で運動がずっと高揚して、一九〇五年の十二月にモスクワで革命運動がゼネストから人民蜂起(ほうき)へと発展するんですが、結局、ツァーリの軍隊に反撃されて敗北する。その時、プレハーノフは、蜂起が起こる前までは威勢のよい、むしろけしかけ的な発言をしていたのに、敗北したあとは武器をとるべきではなかったといい出しました。レーニンは、それに反論して、敗北してもそこから教訓を学べ、それが次の前進の力になるんだといって、運動を激励します。

 これが、当時の重要な論争点の一つとなっていたのですが、レーニンは、そのときはまだ、パリ・コミューンの敗北についてマルクスがどう語っていたかは、知らなかったんです。そのあと、クーゲルマンへの手紙が、ドイツの党の雑誌に連載されたのを読んで、そこではじめて、マルクスが、モスクワ蜂起の敗北後に自分が語ったのと同じことを、クーゲルマンにあてて書いていることを知ったわけですね。だから、クーゲルマンへの手紙のロシア語訳の「序文」で、モスクワ蜂起をめぐるプレハーノフとの論争をあらためてふりかえるわけです。 このように、第二巻あるいはそれ以後の時期のレーニンは、一八九〇年代の若い時期とは違って、科学的社会主義の理論を体得した立場で、新しい問題にどんどんぶつかって答えをだしています。マルクス、エンゲルスの研究でそれをあとから裏付けるという場合も本当に多いんですね。そうなると、裏付けられたということだけに安住しないで、それをテコにまた前進する。革命運動での自分の理論的な立場とマルクス研究との弁証法的な関係が、実にいきいきと出ています。

 山口 躍動的なんですね。

「執権」の定義――レーニンはマルクスとの矛盾に気づかなかった

 山口 それから、「執権」論のもう一つの問題――「執権」とは、「直接強力に依拠する権力」だというレーニンの定義ですが、これは、そうしたマルクス研究とは、理論的には、いわば無関係に出てくるんですね。

 不破 『二つの戦術』のなかでも、それに近いことをいっている部分はあるのですが、これが「執権」の唯一の科学的定義だといって、「強力だけに依拠する権力」だという考えを、あれだけ明確な形で押し出したのは、一九〇六年の国会選挙の結果を論じたあの論文(「カデットの勝利と労働者党の任務」)がはじめてなんです。

 この執権論は、マルクス、エンゲルスとは関係ないし、客観的にいえば、強力革命以外に革命の勝利の道がなかったロシア革命の特徴を理論化したものでした。しかし、当のレーニン自身は、この定義がマルクス、エンゲルスと矛盾するとは全然思っていなかったでしょうね。

 山口 最初はそこまで踏みこんでいないのだけれども、革命が退潮の傾向に向かった一九〇六年に、「革命的旋風」の時期の人民の運動や組織にたいするカデット派(ブルジョア自由主義の政党)などにたいする反撃のなかで、この定義が出てきた――そのあたりも歴史研究として面白く読みました。

 不破 執権のこの定義は、最後まで、レーニンの国家論、革命論の重要な柱になりつづけるのですが、私は、そこに、レーニンのマルクス研究の歴史的な制約というか、大きな弱点の一つがあった、と思っています。 マルクス、エンゲルスが、議会の多数をえての革命ということを、革命のありうる道筋の一つとしてずっと研究し、多くの発言をしていることは、いまではよく知られています。そういう道筋をすすむ場合でも、できあがった革命権力は、民主主義的、あるいは社会主義的な執権になりますが、その場合には、議会での多数というところに、権力の合法的な根拠をもつわけで、「直接強力だけに依拠する権力」とか「強力以外のなにものにも制約されない権力」などという定義は、あてはめようがない。

 そのことだけを考えても、レーニンの定義が、マルクス、エンゲルスの執権論の枠にはおさまりえない、レーニン独自の「突出した」定義であることが、分かります。 ところが、レーニンは、議会の多数をえて政権につくことがありうるというマルクスの考え方について、ほとんどそれを知る機会がなかったんですね。マルクスの見地からはずれた定義――実際には、ロシア革命の特殊性の理論化だった定義をおこなっても、レーニン自身は、マルクスとのあいだに矛盾に気づかなかったのは、そこに大きな根拠があった、と思うんですよ。

 この問題は、レーニンの革命論、国家論のその後の発展にも大きくかかわってくる問題ですから、もっとあとで、『国家論ノート』や『国家と革命』の研究をやるところで、たちいった整理をしてみたいと思っています。

 山口 そういう面でも、レーニンが、マルクスをどこまで研究し吟味していたかを、歴史的につかむことが大事になってきますね。

 不破 レーニンが読むことのできた文献に歴史的な制約があったということは、その都度強調していることなんですが、レーニンのマルクス研究というのは、その限られた条件のなかでよくぞあれだけの内容を的確にひきだしえたということが、まず第一の眼目なんですね。より後代で活動している私たちとしては、マルクス、エンゲルスをもっと全面的に研究できる条件をもっているわけですから、レーニンのマルクス研究の成果を重視しながらも、レーニンのもつ歴史的制約は制約としてきちんと見定め、それをのりこえる研究をつくす、という立場をつらぬく必要がありますね。

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🔵再び「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(5)マルクス主義をより広い視野でとらえる

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聞き手:山口富男さん

1999年1月16日付「しんぶん赤旗」

マルクス主義をとらえる視野が画期的に広がった

 山口 これから連載の第十二回(『経済』一九九八年九月号)から第十七回(同九九年二月号)まで、次の第三巻に予定される部分に入りますが、ここには、ちょっとこれまでとは違った調子がありますね。

 不破 そうかもしれませんね。私自身、連載を書きつづけながら、この時期は、レーニンの理論活動にとってたいへん重要な意味をもつ、特別な時期だったんだな、ということを、あらためて非常に強く感じてきました。 一口でいうと、科学的社会主義、マルクス主義をとらえるレーニンの視野がぐんと広がって、壮大な規模でマルクス主義の全体像を問題にする、そういう流れが、この時期の理論活動の全体を大きくつらぬいていることですね。「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」(一九一三年)とか、「カール・マルクス」(一九一四年)とか、マルクス主義を総論的に扱った一連の諸論文が、この時期をしめくくるような形で執筆され、そのなかで、「全一的な世界観」という規定とか、人類の思想史のなかでの位置づけなどが、大胆に提起されてくる、こういうことも、偶然ではない、と思うんですよ。

 山口 たいへん大きな問題意識ですね。この時期のレーニンの理論活動が、何だったのかを、最初に話してくれませんか。

 不破 この時期は、一九〇五年~〇七年革命のあとの時期になるんですが、反動期がしばらく続き、やがて一九一二年ごろから新しい高揚期に入り、そのただなかで世界大戦を迎えることになります。 私は、これまでは、この時期の位置づけについて、反動的な思想攻勢の時期に『唯物論と経験批判論』で科学的な世界観をまもってたたかったといった、ごく一般的な見方ですませていたんですが、こんどあらためて研究しなおして、この時期がもつ意味の大きさにあらためて目を開かされた思いがしています。

 レーニンの「カール・マルクス」について、夫人のクルプスカヤが、「マルクス主義はこれまではこういう風には解説されなかった」と、『思い出』のなかで語っています。レーニンが、マルクス主義を、哲学的唯物論と弁証法から、経済学、社会主義論、そして階級闘争の戦術問題にまでわたる包括的な学説として解明した、そのことをさしての言葉なんですが、マルクス主義にたいするこうしたとらえ方は、それまで国際的な理論戦線にも存在しなかったものだったんですね。

 レーニンはいったい、科学的社会主義にたいするこういった大局的・包括的な見方を、どうして自分のものにしたのか。そこにこの時期のレーニンの理論活動の核心をなす問題がある、というのが、私の到達した問題意識なんですよ。

 山口 その問題意識で、マッハ主義(経験批判論)者との論争やマルクス、エンゲルスの書簡研究の足どりを追っていったわけですね。

 不破 そうですね。その二つが、やはり、レーニンの視野をひろげさせた最大のものだと思いましたから。 一つの柱は、『唯物論と経験批判論』から『哲学ノート』にいたる研究――マルクス主義の哲学的世界観の徹底した究明ですね。これは、十九世紀末の哲学論争の時期には、レーニンが猛勉強はしたものの、自分で論文を書くという本格的なとりくみにはいたらなかった分野だったんです。いわば宿題になっていた世界観の根本問題に、哲学的唯物論と弁証法の両面から腰をすえてとりくんだ、このことが、レーニンのマルクス主義論を、たいへん奥深いものにしたことは、間違いないですね。

 もう一つの柱が、私は、マルクス、エンゲルスの手紙との出会い、とりわけ『往復書簡集』との出会いだと思います。社会と自然のあらゆる問題にたいする縦横無尽な対応がそこにあった。レーニンは、往復書簡集については、特別の「摘要」をつくって、自分がとくに関心をもった手紙の要約――全体で数百通にもなりますが、それをノートに書きとめていますが、それを見ると、レーニンの関心もまた、マルクス、エンゲルスとともに、自然と社会のあらゆる問題におよんだことが、よく分かります。そして、そのなかでとくにレーニンが目を見張ったのは、それまで読んだ著作を通じてはほとんど見られなかった、階級闘争の戦術問題にたいする二人の発言でしょうね。

 私は、この二つが、マルクス主義をとらえるレーニンの視野と立場を飛躍させた太い柱だと思います。

レーニンのマルクス主義論を国際的な角度から見ると

 山口 レーニンのそうした理論的な発展は、国際的に見ると、どんな位置づけになったんでしょう。

 不破 はっきりいって、この時期は、ドイツの党というものの位置づけが、変わりはじめていた時期だといってよいでしょう。

 ベルンシュタインが修正主義の最初の旗揚げをした十九世紀の末から二十世紀のはじめにかけて、カウツキーといえば、マルクス主義の立場をまもる「正統派」の代表者として、ドイツの党内ではもちろん、国際的にもそう扱われていて、レーニンも理論的尊敬を惜しまなかったものですが、それから十年たつと、ドイツの党自身の状況もそれをめぐる国際的な状況もずいぶん変わってきました。

 レーニンがあれだけ重視したマッハ主義との闘争、マルクス主義の世界観をまもるうえできわめて重大な課題が提起されてきているのに、マッハ主義にどういう態度をとるかは「私事」であって、党の問題ではない(カウツキー)といって、むしろマッハ主義びいきの立場をとりさえしたのですからね。レーニンは、ある論文のなかで、この哲学論争は、ロシアだけの意義をもっていたわけではない、「新しい物理学が一連の新しい問題を提起した」のだから、ヨーロッパ諸国の全体にかかわる問題だったといっています。レーニン自身、ドイツ、フランス、イギリスなど各国の哲学者、自然科学者の議論をとりあげていますが、マッハ主義の最大の震源地だったドイツで、ドイツの党が理論家カウツキーをふくめて沈黙をまもったことは、致命的な弱点をさらけだしたものでした。 ロシアの党との関係でいっても、ボリシェビキとメンシェビキとの二つの潮流の闘争が展開されるのにたいして、ドイツの党からは、革命運動の基本にてらしてどちらが正しいかを判断するのではなく、カウツキーなどがプレハーノフと親しかったこともあって、万事、メンシェビキびいきの立場で介入してくるわけですね。私は、外国からの干渉に反対したレーニンの闘争の記録をまとめたことがありますが(「政党間の闘争と外部からの介入」一九八八年『「新しい思考」はレーニン的か』所収)、カウツキーをふくめて、ドイツの党の弱点もこのころにはかなり明らかになってきました。

 そういうときですから、この時期にレーニンが書いているものには、ロシアの党の立場でということでなく、世界の社会主義運動全体の立場にたってものをいうといった調子の積極性が、以前の時期よりもずっと目だってきているように感じられますね。

 山口 不破さんは、これまでも、『唯物論と経験批判論』についていろいろ取り上げてきていますが、今回の場合、国際的な視野のなかに当時の哲学論争を位置づけたというところが、面白いですね。私も、当時、マッハ主義(経験批判論)の震源地がドイツにあったこととか、カウツキーがかなりマッハ主義びいきになっていたことなどは、これまでそれほど意識せずにきましたが、不破さんのこんどの研究で気づかされました。

哲学と物理学の混迷をみごとに打開した

 山口 『唯物論と経験批判論』の内容についていうと、こんどの連載では、唯物論的な反映論とは何かを前面におしだして、その各論的な展開を整理して明らかにしていますね。また、「物質とはなにか」という問題で、レーニンが唯物論的な見地を発展させ、それをふまえて当時の「物理学の危機」にたちむかった内容も、掘り下げて分析しています。そのあちこちで、新しい問題意識を感じましたよ。

 不破 当時の哲学界は、自然科学の危機的な状態とも結びついて、たいへんな混迷の状態だったんですね。そのなかで、レーニンがやりとげたことは、いろいろな攻撃や逸脱を打ち破って、マルクス、エンゲルスの唯物論的見地をまもったというだけではない。一貫した唯物論の立場から、哲学界と物理学界の両分野にわたる混迷をみごとに交通整理し、人間の認識のすすむべき方向を明らかにしたものでした。レーニンは、そのために、理論物理学の分野にまで研究の目をひろげて、のちに物理学者の坂田昌一さんが感嘆したほどの科学的な正確さで、物理学はこの危機をどう打開すべきかという方針をしめしたんですね。

 自然科学では自分は「平マルクス主義者」だからなどといって、必要な問題を回避することはしない、その徹底ぶりには、私たちも感嘆せざるをえないですよ。

 そのさい、「物質」の定義で、物理学的な定義と哲学的な定義を区別するというレーニンの問題提起は、多くの自然科学者が混迷におちいったその中心部を直撃する威力があったんです。いまでも、この区別をあいまいにしたまま、自然科学と観念論を結びつけたりするなどの議論は、いろいろな分野にあります。これまでの考え方のわく内におさまらない新しい現象にぶつかると、物質の消滅とか無からの創造とかいいだしたりする傾向も、その一つです。しかし、「物質」とは、哲学的には、人間の意識から独立して存在しているものの総称だという立場にしっかり立てば、どんな現象と対面しても、物質的な世界の内部で起きている物質的な現象として整理してつかむことができます。レーニンの提起は、今日につながるたいへんな現代的意義をもっているんですよ。

不可知論批判――『哲学ノート』での発展

 山口 これは、昨年九月のときにも話題になったことですが、不可知論批判とのかかわりで、『唯物論と経験批判論』から『哲学ノート』へのレーニンの認識の発展という問題も、広く関心を呼んでいますね。

 不破 レーニンは、『哲学ノート』で、「二十世紀の初め」の「マルクス主義者たち」の不可知論批判について、重大な弱点があったことを指摘しているんですね。十九世紀の末の哲学論争でのプレハーノフの欠陥を批判したあとに書かれている文章ですから、やはり、これは、マッハ主義(経験批判論)との論争について書いた文章であって、レーニン自身を含めて、論争に参加したマルクス主義者の立場を自己批判した文章だと理解せざるをえないのですね。 この問題では、私の知るかぎり、あまりつっこんだ研究がなくて、『唯物論と経験批判論』(一九〇九年)と『哲学ノート』(関連部分、一九一四年)とを、レーニンが同じ哲学的な見地で書いたものとして、いわば同じ平面において読もうとする傾向もありました。しかし、この二つの著作のあいだには、五年ぐらいの時間的な差があり、この間のレーニンの哲学研究、とくに一九一四年のヘーゲル研究はたいへん密度の濃いものです。 やはり、レーニンを「レーニン自身の歴史」のなかで見る、レーニンの哲学的見地そのものがそこで一つの発展をとげた、という立場で読むことが大事だと思って、その発展がどこにあったのかを探究したんですよ。 山口 不可知論そのものが、自然科学の唯物論的な内容をうけいれるしくみを持っているという指摘に、ちょっと、うなりました。現代は科学が非常に発展している時期ですから、やはり弁証法と唯物論の立場にたつ私たちが、その成果を大いに吸収しながら、世界観を豊かにしてゆくことが大事になっていますね。そのさい、いろいろな哲学的立場にたつ自然科学者との知的な交流を考えても、不可知論批判のこの見地は、すごく現代的な意味をもつな、と感じました。不可知論者は案外身近なところに 不破 エンゲルスが、不可知論者は、自分は哲学的には不可知論の立場にたつ、つまり、客観世界の実在性については留保するということを最初に「形式的に」宣言したあとは、自然科学の世界で「頑固な唯物論者」として語りかつ行動する、といっていますね(『空想から科学への社会主義の発展』英語版への序文)。これが、「恥ずかしがりの唯物論」という言葉の材料にもなっているのですが、私は、その実例ともいうべき人物に、何回も出会っています。

 一人は、私の旧制一高時代の生物学の先生です。一年生が入ってくると、最初の授業のとき、これから教える生物の世界は、実は存在するかどうか分からない世界なんだということを、一時間たっぷり話すんですね。それで、二時間目からは、平然として普通の授業をやるわけです。この一時間目が、エンゲルスのいう「形式的な留保」の説明にあてられているんですね。 もう一人は、本の上での出会いなんですが、やはり高校時代に読んだ、有名な原子物理学者です。原子構造についての著書でしたが、第一章は、原子の世界を現実に存在する世界と考えてはいけない、という不可知論の解説、第二章以下が、原子物理学の普通の説明でした。

 どちらも、あとで言い訳となる留保条件さえ「形式的に」宣言しておけば、あとは事実上の唯物論者として自由自在に語り、かつ行動する。まさにエンゲルスの特徴づけそのままのふるまいでした。いったい、この人たちは、その講義を聞いている生徒たちや、その著作を読む読者たちの実在性をどう考えているのだろうか――いくら自由自在にふるまわれても、この疑問だけは残りましたがね。(笑い)

 山口 なるほど、「恥ずかしがりの唯物論者」は、エンゲルスの時代だけの話ではないんですね。

 不破 そこが分からないと、なぜエンゲルスやレーニンの時代に、不可知論の流れが、生物学や物理学の世界にあれだけはびこったのかが、理解できないでしょう。 この不可知論というのは、大局的な位置づけでみれば、エンゲルスがいうように、事実の力で観念論から唯物論に押しやられながら、この留保条件一つで最後にもちこたえているという格好なんですよ。それをエンゲルスは「恥ずかしがりの唯物論」と呼んだのですが、どうもそのニュアンスが、レーニンのマッハ主義批判には生きてこない。「恥ずかしがりの唯物論」という言葉自体が、ただの罵倒の言葉として扱われている感じなんですね。そのあたりが、ヘーゲルを読んでレーニンが悟ったところなんだと思います。

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🔵再び「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(6)マルクス、エンゲルスの書簡集との出会い

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聞き手:山口富男さん

1999年1月18日付「しんぶん赤旗」

マルクス、エンゲルスの書簡集は私の愛読書

 山口 連載の第十四回(『経済』九八年十一月号)と第十五回(同年十二月号)は、マルクス、エンゲルスの手紙へのレーニンの出会いが主題になっていますね。マルクスやエンゲルスの手紙そのものも詳しく紹介され、これについてのレーニンの「摘要」や書き込みを引きながら、レーニンの研究の経過をあとづけてゆくのですが、それを味わってほしいという不破さん自身の言葉がくりかえし出てきます。

 不破さんは、レーニンは、マルクス、エンゲルスの手紙にふれて感激しただろうというのですが、不破さん自身も、レーニンの感激に大いに共感しているんじゃないか、そう思わせるものがありますね。

 不破 実は元旦に放映された朝日ニュースターのインタビューで、人にすすめたい本を一冊という注文があったんです。その時、あまりだれにでもすすめられるという本じゃありませんがと言い訳しながら、マルクス、エンゲルスの手紙の話をしました。二人の手紙は、『全集』で第二十七巻から第三十九巻まで十三冊、膨大なものですが、本当に面白いんです。もともと発表するつもりで書いたものでないから、ある意味では、できあがった著作や論文よりはるかに興味津々ですね。 本当にありとあらゆる問題を、縦横無尽に語っている。別に主題や順序を決めて語りあっているわけではないんです。きょう、この本を読んだら、こんなことが書いてあったぞとか、こんなニュースが飛びこんできた。僕はこう考えるがどうだとか、ドイツの同志からこんなことを相談してきたから、こう返事をしたよとか、自分はいまこの問題を研究しているとか、二人のまわりで日常的におきてくるすべての問題を話題にしている。第三者との手紙になると、ちょっと調子は違いますが、そこにはまたそれなりの味わいがあります。

論争では勝ったり負けたりの二人

 不破 二人の関係でも、面白いことがいろいろありますよ。論争でやりあうこともある。私はこの話をするときには、マルクスが勝った論争とエンゲルスが勝った論争とを公平に紹介することにしているんですが(笑い)。 たとえば、マルクスが、土壌の性質がそこに住む人間の人種を決めるという怪しげな科学者の理論に熱中して、史的唯物論の自然科学的な基礎をそこに求めようかというほどに、打ち込んだことがありました。史的唯物論を完成したマルクスに、その基礎を変なところに求められたりしたのでは、後世の私たちも困っちゃうところです(笑い)。これをエンゲルスにたしなめられるのですが、すぐには自分の誤りを認めず、いい返すんですが、歯がたたないんです。追い詰められると、エンゲルスとのあいだではもうその本の話はもちだせなくなって、こっそり別の友人(クーゲルマン)にこんな本があるんだがと、持ちかけたりする……。これは、エンゲルスに軍配があがった論争です。

 そうかと思うと、アメリカの南北戦争のときは、逆なんです。エンゲルスは、マルクス一家からマンチェスターの陸軍省というあだ名をつけられたほどの軍事専門家ですから、軍事面からみた情勢分析に熱中するんです。そうすると、奴隷制度擁護派の南軍が優勢だという結論しか出てこない。それぐらい、最初の時期は、軍事的には北軍がだらしなかったわけで、そのことを手紙でマルクスに話すと、今度はマルクスからたしなめられました。マルクスは、軍事面で不利な要素や条件はあっても、奴隷制廃止という大義は北にあるし、最後には北軍が勝つという判断でした。そこで、エンゲルスに、君は軍事面にかたよってものを見るから、判断を誤るんだと忠告する。この論争は、マルクスの勝ちでした。 そんなことも含め、二人の考え方の発生・発展が、その間の試行錯誤もあって面白いんですね。

 二人とも科学的社会主義の理論をふまえて、ものをいっているわけですが、この理論というものは、どんな問題についてもあらかじめ答えが用意されているといった「体系」ではないんです。しかし、自然と社会のどんな問題にたいしても、科学的に対応できる理論だということが、この縦横無尽の対話のなかから、おのずからつかめてくる。そして二人が、さまざまな分野の、立場の違う学者や研究者の「価値ある成果」を吸収しながら、その理論を発展させていることも、具体的に分かってきます。

 山口 レーニンも、それに触れてうれしかったでしょうね。

 不破 読もうと思えば、どんな著作からでもマルクス、エンゲルスに触れられる私たちの場合とは違って、レーニンが『往復書簡集』を読んだのは、『資本論』を手にとってから、二十数年たってはじめてですからね。マルクス主義というものをとらえる視野が、一気に壮大に開けたという感動ではなかったか、という気がしています。

『クーゲルマンへの手紙』と『ゾルゲ書簡集』

 山口 レーニンは、『往復書簡集』にふれる前に、『クーゲルマンへの手紙』と『ゾルゲ書簡集』を読んでいますね(連載では第十四回)。いまは、『マルクス・エンゲルス全集』でそれは全部読めるのですが、『全集』では、手紙は二人の往復書簡と第三者への書簡とに分けて編集され、それぞれが年代順に整理されていますから、ある人にだした手紙をまとまって読もうとすると、かなり骨が折れます。『クーゲルマンへの手紙』だけは、文庫にもなっているので、ひとくくりで読めますが。

 レーニンが読んだときには、それぞれひとまとめの書簡集になっていたわけで、そうやって読むと、それなりの系統的なつながりが分かりますね。私などは、こういうとらえ方はしていませんでした。

 不破 私がマルクス、エンゲルスを読みだしたときには、『全集』がまだ出ていませんから、手紙というと、クーゲルマンあて、カウツキーあてなど個別の書簡集で読んだものでした。また、戦前版の『全集』(改造社版)では、ゾルゲ書簡だけでなく、手紙は、ベルンシュタインあてとか、ベッカーあて、ラサールあてなど、受取人別に収録されていたものなんです。

 全部を年代別にならべるいまの編集は、いろいろな手紙を総合してある一つの問題を研究するという場合には、たいへん具合がよいのですが、マルクス、エンゲルスと手紙の相手との間には、それなりの論理のつながりがありますから、受取人別に順序だてて読むという読み方も、独特の値打ちがあるんですね。

価値法則をめぐる認識論に踏み込む

 山口 まず、クーゲルマンの手紙からですが、一八六八年七月十一日付の手紙が、価値法則についてのマルクスの解説としてよく紹介されますね。不破さんは、そこにとどまらないで、価値法則にかかわる一つの問題として、いわば経済学の認識論をとりあげています。あまりにも有名な手紙なんですが、私はそこまでは読んでこなかったものですから、考えさせられました。

 不破 あの手紙とそれについてのレーニンの感想には、いろいろ面白いことがあるんですよ。だいたい、レーニンが、価値論に興味をもちだしたのは、表面に出てくる限りでは、あの手紙への感想が最初じゃないかな(笑い)。若いころ、『資本論』第一部を読んだときには、価値論の章も、ところどころに傍線は引いてはあったけれど、深い関心を寄せた形跡はあまりなかったからね。(笑い) このマルクスの手紙は、本当によく引用される手紙ですが、引用されるのは、価値法則の歴史的な意義づけにかんする部分――社会的労働を部門別に的確に配分することは、どんな社会でも社会の存立の必要条件となる問題だが、資本主義社会でそれが実現される形態が価値法則だという意義づけですね――、この部分だけなんです。 ところが、マルクスは、それにつづいて、その価値法則を、人間がどのように認識してきたか、リカードウがどこでその認識をまちがったか、俗流経済学の認識上の誤りはどこにあるか、その認識上の誤りと支配階級の階級的利害との関係はどうか、などなど、価値法則をめぐる認識論の問題を、かなり詳しくとりあげて、論じているんです。これは、興味深いところです。

 レーニンは、この部分について特別の解説を書いてはいませんが、私は、彼が大いに関心を刺激されたのではないか、と推測しているんですよ。このころから、認識論の角度から価値法則を研究するという問題意識が、レーニンの書くものにずっと現れてくるようになっていますから。 少し先の話ですが、ストルーヴェ批判の論文に価値法則と認識論の問題が出てきますし、それが『哲学ノート』での研究や「カール・マルクス」の経済学説の記述につながってゆくように思います。

 『資本論』にたいする哲学的・方法論的関心というか、『資本論』へのこういう迫り方は、やはり若きレーニンの時代には、みられなかったものでした。

 クーゲルマンという人は、ドイツの医師だったんですが、経済学にもかなりの知識と理解をもっていた友人でした。マルクスが、クーゲルマンを相手にかなり高度な価値法則論を展開したというのは、やはりそれだけの理由があるんですね。

『ゾルゲ書簡集』からくみとったもの

 山口 『ゾルゲ書簡集』をとりあげた最後に、不破さんは、レーニンがこれらの書簡研究から新しい養分を得た、その大きな成果の一つが、内外の日和見主義の諸潮流とのたたかいで、レーニンはそれ以後、問題をこれまでより以上に深い歴史的、国際的な視野でとらえるようになったと、強調していますね。

 不破 ゾルゲは、マルクス、エンゲルスの同志であるドイツ人共産主義者で、しかも一八五二年にアメリカに亡命し、以後アメリカで活動している人物でしたから、『ゾルゲ書簡集』には、一八七〇年以降のアメリカとドイツの労働運動にかんするマルクス、エンゲルスの意見が、系統的に展開されているんですよ。レーニンはそれまでにも、これらの国の労働運動にかんする、その時期その時期のマルクス、エンゲルスの意見を、いろいろな著作から断片的には知っていたでしょうが、こんなに系統的に読んだのは、『ゾルゲ書簡集』がおそらくはじめてだったと思います。

 レーニンが、「序文」のなかで、この書簡集から抜き書きして、ドイツにおける日和見主義との闘争史をまとめているところを見ても、この分野の系統的な知識をはじめて得た喜びが読みとれるようですね。

 山口 アメリカの運動への助言も、大切ですね。

 不破 『ゾルゲ書簡集』には、エンゲルスの著書の翻訳にあたった女性、ケリーウィシュネウェツキあての手紙などもありますが、階級的な労働運動もまだない、マルクス主義の理論的影響もほとんどない、というところで、自覚した社会主義者はどう行動すべきかが、アメリカへの助言の中心問題でした。エンゲルスは、原則をきちんと踏まえたうえで、その条件にふさわしいもっとも柔軟な方針――いわばソフト路線を提唱するのですが、この時期の、アメリカやイギリス(アメリカとよく似た条件にあった)の運動にたいするエンゲルスの助言には、いまでも、大いに学ぶべきものがありますね。(つづく)ゾルゲ(1828~1906)マルクスとエンゲルスの親友のドイツ人。後にアメリカに渡り、アメリカ労働運動の指導者として活動クーゲルマン(1828~1902)ドイツの医師。1862~74年のあいだマルクスと文通

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🔵再び「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(7)『往復書簡集』――レーニンの研究ぶり

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聞き手:山口富男さん

1999年1月19日付「しんぶん赤旗」 

我流で「往復書簡摘要」の日本語版をつくった

 山口 つづいて、マルクス、エンゲルスの『往復書簡集』ですが、この『往復書簡集』にたいするレーニンの研究ぶりは徹底していますね。レーニンがつくった「摘要」は、日本ではまだ翻訳・公刊されていませんが、不破さんは、これまでにもいろいろな機会に紹介してきています。『古典への旅』(新日本新書、一九八七年)であらましをとりあげ、『レーニン「カール・マルクス」を読む』(一九八八年)では、階級闘争の戦術の部分を中心に紹介、ついで「学生新聞」での連載「いま『資本論』をどう読むか」を『対話科学的社会主義のすすめ』(新日本新書、一九九五年)にまとめたときに、「役立つ」範囲でということで『資本論』にかかわる部分を補論として紹介しています。 しかし、こんどの研究ほどまとまって、レーニンが『往復書簡集』をどう読んだかを跡づけた研究は、不破さんのものとしても、初めてだと思います。

 不破 そういわれて見ると、レーニンの「摘要」とは、ずいぶん長くつきあってきたことになりますね。

 これにも実は歴史があるんですよ。最初は、ソ連で編集したレーニンの言説集のなかで、「マルクス・エンゲルス往復書簡集摘要」なるものからの引用文の一節に出会ったんですよ。いままで聞いたことのないものなので、ぜひ見たいと思っていたら、ある人がドイツ語版をもっていることが分かって、早速それを拝借したのです。 ドイツ語は手におえないとしばらくは棚に積んだままだったんですが、たまたま山で足を折りましてね。ギブスをはめて、数日は家に静かにしていなければならない時があったんですよ。その休みを利用して、マルクス・エンゲルスの手紙の現物を見ながら、ドイツ語版のレーニンの「摘要」の日本語訳を、字引と首っ引きでともかくつくりあげたのです。一九八五年、いまから十四年前ですね。

 山口 山で足を折った副産物とは知りませんでした(笑い)。けがの功名ですね。(笑い)

「摘要」でレーニンの往復書簡研究を紹介する

 不破 マルクス、エンゲルスの手紙は、私の愛読書の一つですが、それを愛読したレーニンの「摘要」もたいへん面白いもんですよ。残念ながら、その日本語訳は出ていないから、私の我流の日本語訳をもとに、これまでいろいろな形で紹介してきたのですが、今度は、レーニンのマルクス研究そのものを探究しようという連載ですから、読者のみなさんに、レーニンの手紙研究の面白さをできるだけ味わってもらいたいと思って、その内容の紹介には、ずいぶん力をいれました。

 まず『往復書簡集』そのものをとりあげた連載の第十五回(「マルクス、エンゲルスの書簡集を研究する 下」)で、かなり系統的な紹介をしました。つづいて、論文「カール・マルクス」を研究した第十七回(「『カール・マルクス』と『往復書簡集』」)でも、史的唯物論や階級闘争の戦術論にかんする手紙をまとめてとりあげました。この二回をあわせて見ていただければ、手紙そのものの面白さも、レーニンの研究の面白さも、かなり読みとってもらえるのでは、と期待しています。

 山口 この研究からレーニンが引きだしたものは、大きかったんでしょうね。

 不破 個々の論点についての発見も大いにありますが、それ以前の問題というか、社会と自然のあらゆる問題を縦横に論じるマルクス、エンゲルスの素顔にふれて、マルクス主義が「全一的な世界観」である所以(ゆえん)を体得できたことが、レーニンにとって最大の収穫だったんじゃないでしょうか。

 具体的な問題でいうと、レーニンが関心を集中した分野は、まず哲学の問題ですね。手紙のなかで、唯物論や弁証法にかかわるものは、ほとんどもれなく、「摘要」を書いています。とくに大事な手紙については、ノートの後ろのページに書き抜きをまとめているんですが、その書き抜きでいちばん多いのは、哲学にかんするもの、それに経済学関係の手紙が続くといった感じですね。

 次に、ノートの最後の部分に、二つのテーマにしぼって、そのテーマで大事だと思う手紙を、自分の心覚え的に指示したページがあるんです。テーマの一つは「アイルランド」問題、もう一つが「リベラルな労働者運動」です。前のテーマは、論文「民族自決権について」(一九一四年)や世界大戦中の民族・植民地問題など、レーニンの民族理論の飛躍につながるものです。後のテーマも、世界大戦のもとで第二インタナショナルの諸党の転落に直面してレーニンが展開した「労働貴族」論、これにつながってゆくわけで、これは、政治問題でレーニンが関心を集中した二つの焦点といえるでしょうね。 最後に、各国の労働者階級と党の闘争にたいする論評や助言です。レーニンはおそらく、その全体をむさぼるような思いで読んだんだろうと思います。この問題では、本当に無数の手紙が書きだされています。

 山口 論文「カール・マルクス」では、最後の「プロレタリアートの階級闘争の戦術」のところで、『往復書簡集』が活用されていますね。

 不破 階級闘争の戦術問題で、マルクスの学説を系統だった形で書くというのは、レーニンにとっても初めての仕事でしたが、ましてや国際的には、だれもくわだてたことのないことだったんですね。やはり、『往復書簡集』を読んだからこそ、レーニンも、そういう仕事に挑戦する気になったんだと思います。

 実際、「カール・マルクス」の「階級闘争の戦術」の節は、よく練り上げた構成で仕上がっていますが、そのほとんどの部分が、『往復書簡集』のなかの命題で組み立てられているんです。

 ただ、あの論文は百科辞典の一項目ですから、手紙そのものを引用する余裕がない。だから、レーニンは、『往復書簡集』のページ数を指示するだけですませているんです。私たちが読んでいる全集版や文庫版の「カール・マルクス」は、そのページ数に該当するのは、何年何月何日の手紙かということまでは、「注」で書いてくれているのですが、その「注」にしたがって、手紙を参照するのは、骨のかかる仕事です。だから、今度の連載では、レーニンが参照せよと指示した手紙の原文と、その部分についてのレーニンの「摘要」を、上下二段に組んで紹介したんです。これを使って、マルクス、エンゲルスの手紙からレーニンが何をくみ取っていったかの姿を、リアルに読んでもらえるとありがたいですね。

 上下二段での紹介という方式は、この部分だけでなく、ほとんどの項目でやってみました。読む方は、ちょっと骨折りだと思いますが、こういう気持ちでの工夫ですから、ぜひつきあってもらいたいところですね。

 でも、いちばん苦労をかけたのは、印刷所のみなさんではないかな。

 山口 レーニンの「摘要」も、二段組みになったり、いろいろな符丁が入ったりするうえ、ゴシックや傍線、それもいろいろな種類がありますからね。

 不破 ともかく、マルクス、エンゲルスの手紙を研究するレーニンの姿勢が分かってもらえれば、という気持ちなんですよ。レーニンの気持ちをいろいろ推測して 山口 不破さんの連載では、手紙や「摘要」を紹介しながら、注釈的に、レーニンがこの手紙をどんな気持ちで読んだのかといったことが、ちょこっと出てくるんですね。マルクスの不可知論批判の手紙についても(一八七〇年四月十四日付のマルクスの手紙)、ああ、この手紙に「ようやく出会った」んだなと、感情移入のくだりがあったりして。(笑い)

 不破 それは、『唯物論と経験批判論』を書いたときのレーニンの苦労が分かるからなんですよ。あのとき、レーニンが使ったのは、ほとんどがエンゲルスの文章でしょ。唯物論か観念論かの問題とか、不可知論の問題などで、マルクス自身が書いた文章というのは、本当に少ないんです。これは、マルクスは『資本論』に集中して、ほかの理論仕事は主にエンゲルスが引き受けるという「分業」の結果なんですが、そのことを理由に、マルクスはエンゲルスとは哲学的立場が違っていたなんて見当違いの議論をとなえる人が、いまでもいるほどです。 レーニンも、あの本を書いたとき、マルクスの文章の不足を痛感したんだと思いますよ。ですから、マルクスが書いた哲学的な文章を見つけると、当面の主題とあまり深い関係にあるとは読めない文章でも(笑い)、勇んで引用したりしていました。

 その経験がありましたから、『往復書簡集』で、マルクスその人が、不可知論批判を明言している文章に出会ったときには、やはりすごくうれしかった、と思うんですよ(笑い)。その気持ちを推測して――気持ちの推測では、学問的推理とはいえないかな(笑い)――、書いたのがあの文章なんですよ。

マルクス主義を総論的にとらえると

 山口 不破さんのいう、マルクス主義の総論的なとらえ方という点ですが、マルクス没後三十周年を記念するものとしてレーニンが書いた「カール・マルクスの学説の歴史的運命」と「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」(一九一三年)、それからロシアの百科辞典のために書いた「カール・マルクス」(一九一四年)とすすむわけですね。

 不破 マルクス没後二十五周年のときは、その記念論文としてレーニンが書いたのは、「マルクス主義と修正主義」(一九〇八年)でした。『唯物論と経験批判論』の準備中の労作で、修正主義との闘争の歴史的な意義とともに、理論と実践の各分野でのその闘争の眼目を広く論じていました。それとくらべてみても、三十周年記念の諸論文には、マルクス主義をとらえるレーニンの視野の大きさが、さらに現れているように思います。

 山口 とくに「三つの源泉」と「カール・マルクス」のプランを提供してもらったのは、読者にとってとてもありがたい接近です。

 不破 この二つのプランは、以前、服部文男さんが、論文で紹介されているんですね。レーニンの考えがどう発展していったかをたどるために、たいへん重要なものですから、連載でもとりあげました。「三つの源泉」にかかわるプランの方は、正確にいうと、没後三十周年を記念して、どんな主題で論文を書くかという全体の執筆プランなんです。レーニンが、そのうちの二つ――「歴史的運命」と「三つの源泉」を引き受けて書き、その他のテーマは別の同志が書くという計画だったようです。レーニンは、欲張ってたくさんのテーマを列挙しましたから、部分的にしか実現できなかったらしい。

 「カール・マルクス」のプランの方は、論文そのもののプランです。レーニンは、実際の執筆には、大戦ぼっ発後、スイスに亡命してから取りかかったのですが、このプランは、大戦前、オーストリアのロシア国境近くにいたとき、つまりかなり早い時期に書いたものですね。そのことを頭においてあれこれ研究してみると、この論文にとりくんだレーニンの考えの推移がある程度わかる。連載では、そんな面での私の推理にも、ある程度ふれてみました。

 山口 連載では、「三つの源泉」と「カール・マルクス」の中間の時期に書いた論文で、「またしても社会主義の粉砕」(一九一四年)というストルーヴェ批判をとりあげていますね。あまり注目されてこなかった論文だと思いますが。

 不破 このストルーヴェという人は、一八九〇年代には合法的マルクス主義者の代表格の理論家だった人物で、当時は、レーニンも、ある種の「統一戦線」を組んだりしたこともある相手なんです。シベリア時代にも、レーニンが論文を雑誌に発表するのを応援したりしています。その人物が、一九〇五年革命のあとの反動期に、反動派の理論家に変質して、反マルクス主義の急先鋒(せんぽう)になった。それへの批判なんですね。

 結構、長い論文ですが、相手のストルーヴェのマルクス主義攻撃が他愛のないものでしたから、レーニンの側でも、全体としては、それほど興味ある展開があるわけではありません。しかし、「三つの源泉」から「カール・マルクス」にいたる中間の時期にレーニンが書いた論文という目でみると、いろいろ新鮮な論点があるんですね。マルクス主義を人類の「価値ある遺産」の継承者としてとらえる見方とか、価値法則にたいする認識論的な接近とか。その流れをみたいと思って、とりあげたんです。

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🔵再び「レーニンと資本論」をめぐって不破哲三さんに聞く

(8)マルクスの弁証法にせまる

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山口富男さん

1999年1月20日付「しんぶん赤旗」

なぜヘーゲルを研究したか

 山口 いよいよ「カール・マルクス」ですが、不破さんは、連載では、そこに入る前に、『哲学ノート』をとりあげていますね。

 不破 レーニンが、さあ、「カール・マルクス」の執筆だというときに、ヘーゲルの研究にうちこむんですよ。世界戦争が始まって、オーストリアで逮捕されたレーニンがようやく亡命地のスイスにたどりついたときでしょう。戦争反対、「祖国擁護」派との闘争の方針の執筆や、党機関紙の発行の準備や、いろいろな小冊子の執筆の準備、戦争で絶たれた各地の活動家との連絡の回復や、国際的な革命勢力の結集など、たいへんな仕事があるなかで、ヘーゲル研究に集中したというのは、仕事のエネルギーの配分としても、たいへん面白いところなんですね。 ともかく直接の目的は、「カール・マルクス」の原稿の「弁証法」の節を書くためでした。レーニンは、『往復書簡集』を読んだときに、その精髄は弁証法だという言葉を残しているんですが、弁証法についてのまとまった説明を書こうという段になると、十分その用意がない、そこでヘーゲルを、ということになったんでしょうね。『往復書簡集』を読んで、マルクス、エンゲルスがことあるごとにヘーゲルに立ち返っていたことを知ったのも、一つの刺激になったかもしれません。

 しかし、「カール・マルクス」の「弁証法」の節というのは、ごくごく短いものなんですよ。そのために、あれだけ徹底した研究をする。これは一面では、レーニンの例の徹底ぶりの現れですが、もう一面、ヘーゲルの弁証法にとりくんでみると、その魅力に引きつけられて勉強がとまらなくなったんじゃないか、とも思いますね。少なくともある時期以後は、「カール・マルクス」執筆上の必要をこえた本格的な研究という性格をもってきています。

『哲学ノート』をかみこなして読む

 山口 しかし、『哲学ノート』というのは、私たちにはとても読みにくい「ノート」なんですね。どこからどこまでがヘーゲルの言葉で、どれがレーニンの言葉なのか、それを区分けして読むこと自体がなかなか大変で。

 不破さんは、そこも区分けしながらたどって、ここが唯物論的改作の第一歩だ、それをさらに前進させたらこうなるなど、レーニンの思考がヘーゲルを読みながら進んでゆく過程を、みごとにたどってみせてくれています。おかげで、レーニンの弁証法研究の筋道に、ある程度、なまなましく迫ることができた気がしました。

 不破 たしかになかなか歯ごたえの固い「ノート」ですよね(笑い)。私自身、読めたという気がしているのは、まだまだごく一部だけなんですけどね。 ただ『哲学ノート』というのは、むずかしいけれども、昔から大いに興味をもってきた本なんです。戦後、まだ新しい翻訳など出ていないときで、ぜひ読みたいと思って、戦前の訳本を古本屋で探したんですが、ないんですね。「神田のあの本屋にあった」なんて話を聞いて、さっそく飛んでいったら、もう売れてしまっていたり。

 そんな時、ある上級生から戦争中に父が警察に没収された左翼本が返されてきた、そのなかにあるから、売ってもいいという耳寄りの話が聞こえてきたんです。そこで譲ってもらって読んだのが、最初なんですよ。旧制高校の時代の話です。

 ただ、戦前の訳本は、意味の通じない悪訳・誤訳だらけでしてね。ドイツ語版をもっている人から借りて、写したこともあったんですが、肝心のドイツ語が苦手ですから、誤訳の訂正はごく一部しかできませんでした。ともかく、そんな苦労で始まって、ずいぶん長くつきあってきたものですよ。(笑い) この本は、唯物論哲学の教科書的な本には、かならずそこからのあれこれの命題の引用がある、それぐらい重視されているんですが、その割には、全体を読みとく努力は、あまりされてきてないんですね。だから、歯ごたえは固くても、かみこなす努力をする値打ちは十分にある。(笑い)

 山口 こんどの研究も、かみこなす努力の一過程ですね。

 不破 これまで読んできたなかで、レーニンの思想の脈絡として、いくつか自分なりにこの面はある程度読み解けたなと思うところを、いくつかとりあげたんです。

 さっきの話に出た、不可知論批判とマッハ主義の問題とか、弁証法の諸要素、諸側面をどうとらえるかの研究とか、『資本論』の認識方法の問題とかですね。 『資本論』の認識論と弁証法の問題については、『エンゲルスと「資本論」』のなかでも『哲学ノート』をとりあげましたから、あわせて読んでもらえばと思います。

 でも、こんどとりあげたのは、『哲学ノート』のごく一部で、研究すべき理論的な財産は、そこにまだまだ巨大な規模で残っていますね。

写真版からレーニンの思考発展の過程を探る

 山口 レーニンが、「弁証法の諸要素」をとりだしてゆくところは、引きつけられましたね。レーニンの研究の過程がまざまざとわかりました。

 不破 『哲学ノート』は全体が、研究の過程を書き留めたノートですから。実は、この過程だというところに、読み解くうえでの難しさもあれば、つきない興味の源泉もある。(笑い)

 山口 とくにレーニンが十六項目の要素をあげた部分、ノートの写真版を分析しながら、レーニンが一段一段考えをすすめてゆくところを、推理もふくめて追跡してゆきますね。圧巻でした。

 不破 三十年ほど前、ソ連の哲学者の論文で、あのページを映画的な手法で解説したものを、読んだことがあるんですよ。そんなことも思いだしながら、私なりの追跡をやってみたんです。 ちょっと、余談になりますが、レーニンは、ノートや紙を非常に大事にするんです。ローザの『資本蓄積論』批判のあらすじを書いた紙を見ると、その裏に「三つの源泉」などの執筆プランがあったりする。余白も無駄に残さないんですね。いま話に出た『哲学ノート』の「弁証法の諸要素」でも、新しい考えがわいてくると、次の新しいページに書かないで、同じページに余白を見つけては、次つぎと書きこんでゆく。読む者にとっては、これがたいへん具合がいいんですよ。彼の考えがどんな順序ですすんでいったのか、目に見える形で分かりますからね。 もっと先の部分の話ですが、『帝国主義論』の執筆プランがあって、その前半の二ページ分が、やはり写真版で全集に収録されています。これをみると、内容のプラン自体も、いろいろな時期に書き足し書き足しされていますが、おそらくそれを仕上げたあとのことでしょう。レーニンが、全体の章別の編成をあれこれと考えて、そのプランをいくつもいくつも立てるんです。全集版では、きちんと順序だてて掲載されていますから、そんなものだと思っていたんですが、写真版を見ると、それが全部、執筆プランの余白に縦横に書きこんである。実に紙を貴重に使っているんですよ。新しい発想を別の紙に書いてくれるよりも、こちらにはその方がありがたい(笑い)。レーニンの考えが変化したり発展したりする様子が、分かりますからね。1914年の時点でのマルクス研究の集大成として 山口 「カール・マルクス」のあとですが、その後の研究の進みぐあいはどうですか。 不破 その前に、「カール・マルクス」について、一つだけいっておきたいんですが。 この論文は、レーニンのマルクス研究の集大成として、科学的社会主義の学説の全体をつかむうえで、たいへん重要な意義をもちますが、これも、やっぱりレーニン自身の歴史のなかで見るということが大切なんです。つまり、一九一四年の時点におけるマルクス研究の集大成として読む、ということですね。たとえば、「社会主義」の節でも、共産主義社会の二つの段階――より高度な段階と社会主義の段階――という大事な問題が出てこないでしょう。実は、レーニンがこの問題を本気で勉強するのは、この二年あとのことで、この時点では、レーニンの頭にそういう理解がまったくないんですね。帝国主義論などもレーニン自身の歴史のなかで研究したい 不破 さて、今後の研究ですが、そこでも、レーニンの理論の発展に歴史がある、というこの問題を、いよいよ強く感じています。

 『経済』三月号からは、帝国主義と世界大戦の問題にはいります。この問題では、レーニンの『帝国主義論』が、今日にも通じる意味をもつ素晴らしい研究ですから、私たちも、レーニンは帝国主義の問題で十分な理論武装をへてあの世界大戦を迎えたように、とかく考えがちですが、実際はそうじゃなかったんですね。レーニンがスイスに亡命して最初に書いた戦争反対の宣言では、はじまった戦争を侵略的・反動的・帝国主義的な戦争としてきびしく告発することはしているものの、その批判の立場は、『帝国主義論』での到達点とははるかに遠いものだったんです。また、やがて最大の問題となる植民地解放の旗などもまだかかげられていませんでした。

 また、世界大戦のぼっ発自体が、レーニンにとっても、ある意味では不意打ちの要素があるんですね。あの戦争は、直接の動因となったのはサラエボで起きたオーストリアの皇太子夫妻の暗殺事件で、それから開戦まで約一カ月ありますが、レーニンがこの間に書いた論文や手紙を読むと、戦争の危機の問題は一言も出てきません。具体的には、一カ月後にオーストリアがセルビアに宣戦布告をしたとき、はじめてヨーロッパ戦争の危機に目をむける。その時準備した論文のプランが残っています。

 こんなことから、ここ数カ月の連載では、帝国主義と戦争、さらに植民地問題や国家独占資本主義などについて、レーニンが理論を確立し展開してゆく過程を追跡してゆきたいと思っています。そのなかでは、レーニンが「カール・マルクス」の執筆のさいに、ヒルファーディングの『金融資本論』を読んだことなども、結構、役割をはたすんですよ。

 そのあとは、一九一七年の革命、それにつづく社会主義への道をめぐる探究、また西ヨーロッパの革命への見方など、大きな問題がつづくのですが、ひきつづき「レーニン自身の歴史」のなかで読むという態度での追跡をつづけてゆくつもりです。

 山口 私たちも、不破さんの今後の展開を楽しみにしながら読みつづけたい、と思います。

 不破 まだまだ先がありそうですが、よろしくお付き合いください。(笑い)(おわり)

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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