労働組合・労働者の権利ABC、労働組合誕生の歴史・労働運動史エピソード・産業革命期の初期労働者

◆◆労働組合・労働者の権利ABC、労働組合誕生の歴史・労働運動史エピソード・産業革命期の初期労働者

🔴憲法とたたかいのブログトップ 

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【このページの目次】

◆労働組合とは、労働者の権利とは、労働者の団結の映画リンク集

◆マンガ・労働組合誕生の歴史

◆連載・労働講座きほんのき

◆厚労省=労働組合基礎調査あらまし(2017年)

◆労働組合はどのように誕生したのか(筆者論文)

◆労働組合運動史エピソード

◆産業革命と初期労働者のたたかい

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🔵労働組合とは・労働者の権利とは・労働組合誕生の歴史リンク集の歴史

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🔴【わかりやすい労働組合とは何かの動画】

★★全労連:労働組合は未来へのドア24m

★★全労連=労働組合は未来へのドア6m

★★全労連=2016年労働組合入門わくわく講座 

16年度】

労働者の働き方・働かせ方10m

労働者の権利10m

労働組合の組織と運営13m

❹(1)賃金・労働時間16m

❹(2)雇用問題・ジェンダー問題15m

❹(3)社会保障・労働安全問題10m

ナショナルセンター・全労連13m

補講=国際活動10m

15年度】

はじめに=歓迎のあいさつ9m

こんな職場なんとかしたい、労働組合とは17m

労働者・労働組合の権利10m

労働組合の組織と運営18m

❹(1)賃金など要求18m

❹(2)雇用・ジェンダー9m

ナショナルセンター・全労連12m

補講=国際活動17m

◆幻燈文化社その他の労働組合入門動画

★★労働組合の任務と活動15m

★★労働協約と労働者

★★労働組合ABC13m

★★労働組合あればこそ13m

★★What’s ユニオン17m

★★今日からあなたも組合員9m

★★労働組合の生い立ちと私たちの権利17m

★★ろうきんの歴史(TV今日は何の日)11m

◆当ブログ=ストをうったプロ野球選手会103日の闘い(選手会のストの動画は、労働組合とは何かを教えられる)

◆当ブログ=自交総連グリーンキャブ労働組合の組織・学習活動(力強い労働組合の一例)

◆当ブログ=労働運動の再生をめざして=再生の教訓、労働総研などの調査から(いきいきとした労働組合をつくるために)

★★連合=What’s UNION? 〜労働組合からあなたへのメッセージ〜

⚫︎116m

組合の力があれば〜4人からのメッセージ〜

⚫︎216m

🔴【働くものの権利】

★★20140213明日から役立つワークルール~初めての労働法~「残業代、もらってる?」24m

★★明日から役立つワ―クル―ル~初めての労働法~「退職を迫られたとき」24m

★★NHKオトナへのトビラTV 「働くルール」 労働基準法 知らないと損をする!

https://m.youtube.com/watch?v=T7bMAHGyJKg

★★東京都労働局=若者必見の労働法解説動画

★★知らないと損する労働法Ⅰ全編】18m

★★知らないと損する労働法Ⅱ【無理なシフトを頼まれたらシフトの強制・解雇編5m

★★知らないと損する労働法Ⅱ【授業準備はタダ働きコマ給・給料未払編5m

★★知らないと損する労働法Ⅱ【キャンペーンのノルマが自爆営業・給料天引編】6m

★★「どうする? あなたの身近な労使トラブル」(労働委員会とはの動画)

2m

20m

20m

18m

18m労働委員会のあらまし

★★労働法を職場に活かす-講師 笹山尚人弁護士60m 作成者:吉岡力

◆書評・「働く」知識を学ぶ

(赤旗17.09.10

◆当ブログ=ワークルール(労働法)を学ぶ

◆全労連・権利手帳PDF9p

http://www.zenroren.gr.jp/jp/data/2015/techo2015.pdf

★★GHQがつくった映画=労働者の権利労働協約労働基準法(経済文化局。貴重な労働者教育用の映画。戦争直後の炭鉱・金属工場の職場や労働者の状態も分かる。計50m

◆厚労省=マンガ労働法Q&A PDF29p

クリックして151120roudouhou.pdfにアクセス

◆川村=学校で労働法・労働組合学ぶ(高校編)

クリックして151120koukouhen.pdfにアクセス

🔴【労働者・労働組合描いた映画】

★★当ブログ=映画・「ドレイ工場」

(労働組合結成まで、結成後の労働者の姿をいきいきと描く)

🔵ドレイ工場(前編)

https://drive.google.com/file/d/1Csrcyym_AlBoNDsMv70FKAmmRr8-AoWO/view?usp=drivesdk

🔵ドレイ工場(後編)

https://drive.google.com/file/d/17Qf9rBvtKQcKn0lneq1zHXHQZA1wd5gf/view?usp=drivesdk

★★ケン・ローチ監督・映画『ブレッド&ローズ』

SEIU に加盟したメキシコ移民女性労働者)

★★映画『ノーマ・レイ』(Norma Rae)(アメリカの繊維女性労働者が労働組合結成に立ち上がる姿描く)

★★映画=マンチェスター・ピータールーの虐殺(チャーチスト運動の先駆け)

https://drive.google.com/file/d/1Sr-wPFBFBI9BICH6cApcF3CaH2ElrD88/view?usp=drivesdk

★★ゾラ原作・ジェルミナール産業革命期の初期炭鉱労働者のたたかい❶70m

★★ゾラ原作・ジェルミナール産業革命期の初期炭鉱労働者のたたかい70m

【赤旗17.07.02

★★映画=わが谷は緑なりき(フォード監督。イギリスの炭鉱労働者描く)

http://nicoviewer.net/sp/sm18269626

❷❸は下部から

🔵マンガ・労働組合の生い立ち(75.08)

https://drive.google.com/file/d/1CY6gIDqbzzez3sshWoU30zD5LCe_TNR_/view?usp=drivesdk

【土地を奪われた農民たち】

【綿紡績工場の周辺に住み働く】

【低賃金・長時間労働・失業とケガ・病気】

【ただ怒りをぶつけるだけの機械うちこわし】

【団結はパブで始まった=仲間助ける共済活動】

【ストライキが労働組合発展のゆりかごに】

【労組とストの嵐に対抗して資本家は団結禁止法、たたかいによって撤廃させる】

【団結権だけでなく時短など勤労権獲得のたたかい】

【参政権獲得のたたかい=チャーチスト運動も=最初の政治闘争】

◆労働組合があるのとないのでは、こんなに違う=賃金・一時金・退職金など

★★全労連第24回非正規交流集会=労働組合ってすばらしいトーク37m

https://m.youtube.com/watch?v=wwfbITkhaSQ

https://m.youtube.com/watch?v=Sgz569vlmZ4

https://m.youtube.com/watch?v=Muwjz3a1HR8

★全国福祉保育労働組合

⚫︎あってよかった労働組合3m

⚫︎いま伝えたい 福祉は権利3m

⚫︎処遇改善を4m

⚫︎私のメッセージ(1)3m

⚫︎私のメッセージ(2)4m

⚫︎共同シンポ=福祉は権利30m

★★首都圏青年ユニオン

いまの若者はどんな世界で働いているか:15m

「ブラック」の濃度を薄めるために労働組合がある13m

一人ひとりが「自分の言葉」で伝えよう19m

★★「人間らしく働きたい!労働組合の役割」(音声のみ)講師・槙野理啓(関西勤労協)120m=広島労働学校プレ企画

◆◆クミアイって=神奈川県医労連の中村さん

赤旗18.05.15

★★小山=労働講座「労働組合とは何か〜職場や社会における役割」80m

★★熊沢誠=「労働組合運動とは何か」講演=企業別組合脱皮

(2)(15)は下部から。計80m

(1)https://m.youtube.com/watch?v=vxtPRZWLL4g

🔴【わかりやすい資本主義のしくみ】

🔷マンガ=マルクス&エンゲルス

🔷映画=マルクス、エンゲルス

https://drive.google.com/file/d/1g9QrfSAFtQNSmpidlEPqJRPVUkqmLw-j/view?usp=drivesdk

◆石川康宏=社会って資本主義で終わりじゃないの?

http://walumono.typepad.jp/1/2008/02/post-200d.html

◆石川康宏=企業のもうけは、どこからくるの?

http://walumono.typepad.jp/1/2008/02/post-145d.html

◆石川康宏=社会はかわるし、かえられる」ってホント?

http://walumono.typepad.jp/1/2008/02/post-d9fc.html

◆石川康宏=日本社会にひろがる貧困と格差の克服を

http://walumono.typepad.jp/1/2007/04/post_cba0.html

◆石川康宏=青年が「人間らしく」働ける社会でこそ

http://walumono.typepad.jp/1/2006/09/post_88c8_1.html

◆筆者=賃金から考える資本主義(民青新聞)

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3601668.html

◆劇画マルクス

◆理論劇画・マルクス『資本論』

★★池上彰の世界を変えた本 カール・マルクス「資本論」46m

★★映画=マンガ・マルクス「資本論」(イーストプレスまんがから全16話)

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v124473371tNhP2Q8s

★★NHK1週間で『資本論』

4×25m 的場解説

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v124473062p9s4w6gn

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🔵赤旗連載・労働講座きほんのき

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🔵赤旗連載・労働講座きほんのき

(1)賃上げとは

賃上げとは?安定した基本給の増額

2017.03.15 

 労働組合と経営者が賃上げなど労働条件について全国でいっせいに交渉する「春闘」がたたかわれています。安倍首相まで賃上げを言い出していますが、そもそも賃金とは何か、賃上げとは何でしょうか。

 賃金は、基本給(基本賃金)と手当、一時金(期末手当)などからなっています。住宅手当など福利厚生費でも、就業規則などに明記されていれば賃金とみなされます。労働者の信条や女性であることを理由にした賃金差別は労働基準法で禁止されています。

 賃金の水準は、最低賃金を下回ってはいけないというルールがあるだけですが、生計費を賄うものでなければなりません。「労働力の再生産」すなわち労働者が働き続けられなくなるからです。

 ところが、現在の最賃ではフルタイムで働いても年収200万円にもなりません。全労連などは、速やかに時給1000円に引き上げ、1500円を目指すよう求めています。

 大企業などでは基本給や一時金が、会社の査定(評価)や会社の業績に応じて変動するようになっています。生計費である賃金の本質をゆがめて、使用者の恣意(しい)的な判断で決められるようにするものです。「ベア」と「定昇」 春闘では、「ベア〇〇円」など「ベースアップ(ベア)」という言葉を見聞きします。

 ベアは、年齢や勤続年数などで上がる「定期昇給(定昇)」とは違って、職場の労働者全体の基本給の水準を引き上げることです。

 基本給が25歳で17万円、40歳で25万円の場合、3000円のベアでは、25歳は17万3000円、40歳は25万3000円にそれぞれ上がることになります。

 基本給は、残業代の割増賃金や一時金、退職金などを計算する際の基礎となります。本人の同意なしに一方的な引き下げは許されないことから、労働者は将来を見通した収入を確保できます。全労連も連合も基本給の引き上げを求めています。

 これに対し経営側は、「年収ベースの賃金引き上げ」といって基本給の引き上げに抵抗しています。「年収ベース」とは、一時金や、月によって変動する残業手当なども含めたもので安定した収入にはつながりません。

 一時金は、「期末手当」といわれるように「賃金の後払い」が本質です。不当な査定や差別を許さないたたかいが重要です。増える内部留保 経団連の「年収ベースの賃金引き上げ」方針は、2014年以来今年で4年目です。しかし、消費の拡大に結びついていません。

 1997年にピークに達した賃金水準が下落したままで回復しておらず、社会保障の負担増なども重なって「将来不安」を抱いているからです。

 社会保険料など負担軽減とあわせて、基本賃金や最低賃金の大幅引き上げが必要です。全労連・国民春闘共闘は、月2万円以上、時給150円以上を要求に掲げています。

 財界、大企業は「総額人件費」の増加につながるといって基本給の引き上げには後ろ向きです。しかし大企業は、昨年だけで13兆円も内部留保を積み増しました。総額は313兆円に達しています。

 ため込みをやめて労働者の賃金を引き上げ、中小企業の取引単価の改善などに充てれば、全ての労働者の大幅賃上げは十分可能です。内部留保をこれ以上増やさないで経営に活用するだけでも、月5・9万円の賃上げが可能です。(労働運動総合研究所が試算) 賃上げには、労働者の生活の改善や日本経済の回復、地域経済の立てなおしなど国民的な大義があります。労働者のたたかいで賃上げを勝ち取ることが求められています。

(2)有期雇用への転換

無期雇用への転換=有期雇用5年で権利

2017.03.23

 有期雇用で5年働いた労働者に無期雇用(正社員)への転換を企業に求める権利が来年4月から発生します。これを前に、いまのうちに有期雇用の労働者を解雇しようとする企業の動きが広がっています。職場で制度への理解を広げ、雇用を守る取り組みの強化が重要になっています。

 この制度は、労働契約法が2012年に改定されて盛り込まれました。同じ企業で短期契約を更新して働き、雇用期間が通算して5年を超えた労働者にたいして、無期雇用への転換を企業に求める権利を与えるというものです(大学研究員などは特例で10年)。「無期転換申し込み権」あるいは「無期転換権」と呼ばれています。

 法律は13年4月1日に施行されたので、これを起点に権利が発生する5年を迎えるのが来年4月1日です。短期契約を反復更新して働いてきた多くの非正規雇用労働者にとって、正規雇用に転換できる待望の時期です。申し込みで成立 転換を申し込むとどうなるのでしょうか。

 例えば1年ごとに契約を更新して働いてきた労働者が、通算5年になって権利を行使して期間の定めのない契約を企業に申し込んだとします。この時点で企業が申し込みを自動的に「承諾したものとみなす」(第18条1項)ことになります。

 申し込みとはいえ事実上の通告といえる効力をもちます。企業は拒否できず、いまの有期契約が満了する日の翌日から無期雇用の契約が成立したことになります。

 申し込みをした時点で無期雇用の契約が成立するのが重要です。申し込まれた企業側が無期雇用にするのを嫌がって、いま結んでいる有期雇用契約の満了を機に雇い止めしようとしても、すでに無期契約が成立しており、雇い止めは認められないということです。厚生労働省の通達(2012年8月10日付)は、これは解雇であり「権利濫用に該当するものとして無効となる」としています。

 また通達では、転換申し込み権が発生する前に有期雇用契約を更新するさいに、申し込み権を行使しないことを更新の条件とするなどのケースについても、法の趣旨を「没却するもの」であり「無効と解される」としています。有期雇用契約が満了する前に契約を打ち切ろうとするのはそもそも「契約期間中の解雇」(第17条1項)であり、認められないとしています。

 また企業側が「試験」と称する関門を設定して、無期転換する労働者を選別するケースがみられます。これは有期雇用で5年働いた労働者の権利を侵害する脱法的な手法であり、許されません。重大な問題点も 一方、転換権の付与には、重大な問題点があります。

 まず転換権を行使して無期雇用契約になったとしても、賃金その他の労働条件は、有期雇用当時のままでいいということになっています。最低賃金スレスレの時給で年収200万円以下の「ワーキングプア」(働く貧困)といわれる賃金を、無期雇用契約になっても改善する必要はないという扱いです。

 さらに転換申し込み権が発生する5年の通算期間の計算が問題です。有期契約を通算する期間のあいだに契約が途切れている一定以上の無契約の期間があればリセットされるという規定があります(第18条2項)。一定以上という期間は6カ月以上です。

 つまり通算する期間内に6カ月の空白期間があればそこでリセットされて、通算5年という条件が満たされないことになります。これを「クーリング」といいます。こういうやり方で労働者に転換申し込み権を与えないようにする企業の対応がいま横行しています。

 これは不安定雇用を解消し、安心して働き続ける社会の実現という法改定の趣旨に反する行為です。この企業の行為にたいして労働者、労働組合のたたかい、世論のきびしい批判が重要です。

(3)労働契約

労働契約=労使対等で決定すべき

2017.04.08

 4月から会社に就職したり、子どもを保育所に入れてパートで働く人もたくさんいると思います。これは法的にいえば、労働者が使用者に労働力を提供して賃金を得ることであり、その契約を「労働契約」といいます。

 1日何時間、1週何日働くか、休日はいつで、給与がいくらかなど、労働力を提供する条件が労働条件です。

 しかし、労働条件は使用者が一方的に決められるものではありません。労働契約法では「労働契約は、労働者および使用者が対等の立場における合意に基づいて締結し、または変更すべきものとする」(3条)と明示しています。

 ただし、「対等な立場」といっても、労働者と使用者は実際に対等とはいえません。労働者は使用者に雇用されなければ働くことができないため、使用者から一方的に不利な労働条件を押し付けられかねないからです。

 そのため憲法では、労働条件の最低基準を定め(27条)、弱い立場の労働者を守るとともに、労働者に団結権、団体交渉権、争議権を与え(28条)、労働者が労働組合をつくって使用者と実質的に対等の立場になれるよう保障しています。

 労働者がこうした権利を手にしたのは、民法の大原則である「契約の自由」に委ねた結果、劣悪な労働条件が押し付けられた歴史と人間らしい働き方を求める労働者のたたかいがあったからです。「条件明示義務」 労働基準法(労基法)では、労働契約を結ぶにあたって、使用者に労働条件明示義務を課し、賃金、労働時間その他の労働条件を明示するよう求めています(15条)。これに違反すると、30万円以下の罰金です。

 労働条件のうち契約期間、契約更新、就業場所・業務、労働時間、賃金、退職に関する事項は書面で明示するよう定めています。パート労働者には昇給や退職手当、賞与の有無も文書で明示しなければなりません(パート労働法6条)。使用者が労働条件を明示した文書をくれないときは、「労働条件通知書をください」と求めましょう。

 明示された労働条件と違っていた場合、労働者は労働契約を即座に解除できます(労基法15条)。ハローワークの求人票や募集広告と違っていた場合はどうか。採用前の面接や入社時の話し合いで合意して変更したような特段の事情がなければ、求人時の労働条件が確定したものになると考えられます。差別的扱い禁止 労働契約にあたっては労働者の権利が侵害されないようルールが定められています。

 「不良品1個につき賠償金100円を天引き」といった違約金・賠償予定は禁止(労基法16条)。天引きも、税・社会保険料などを除いて賃金の全額払い違反です。(同24条) 使用者が労働者の国籍や信条、社会的身分を理由に労働条件について差別的な扱いをすることも禁止されています(同3条)。東京電力では、労働者を政治的信条で昇給・昇格差別していましたが、判決で不法行為だと断罪されています。

 パートの労働条件は正社員と職務の内容などを考慮して不合理なものであってはいけません。(パート法8条) 正社員と同じ労働をしているパート労働者が是正を求めた丸子警報器事件では、正社員の賃金の8割以下だと公序良俗違反とする判決が出され、確定しています。

 働き始めて困ったことや疑問などがあれば労働組合や労働基準監督署など行政の窓口に相談しましょう。

(4)三六協定

「三六協定」=長時間残業招く抜け穴

2017.04.12

 会社が労働者に残業(時間外労働)してもらうためには、労使が結ぶ「三六(さぶろく)協定」が必要だというのをご存じですか。「三六協定」とは何でしょうか。

 日本では、残業が当たり前のようになっていますが、これは会社が自由勝手に労働者に命じることができるわけではありません。

 本来、労働者を週40時間、1日8時間を超えて労働させてはならないことになっています。労働基準法32条では、「これを超えて労働させてはならない」と明記されています。違反すれば、6カ月以下の懲役または30万円以下の罰金に処せられます(同119条)。

 しかし現実は、「過労死」するような長時間残業が横行しています。それは合法的に残業が可能になる仕組みがあるからです。

 会社が、過半数の労働者で組織している労働組合(ないところは過半数を代表する者)と書面で協定を結び、労働基準監督署に届け出れば、労働時間の延長、休日労働をさせることができます。これを定めているのが36条で、これにもとづく労使協定なので「三六協定」といいます。8時間が建前に こうした手続きをすれば、会社は労働時間を延長して労働者を働かせても処罰の対象になりません。こういう仕組みで「8時間労働」という本来の原則が建前だけになり、残業をプラスした長時間労働が当たり前になっています。

 「三六協定」で許される残業時間については、厚生労働省が「週15時間」「月45時間」「年360時間」などの「限度基準」を定めています。これは企業が守るべき目安ですが、法的拘束力はありません。

 しかも臨時的な「特別な事情」が生じたときのためといって「特別条項」付きの三六協定を結べば、1年のうちの半分(6回)の期間について、「限度基準」を超えて残業させてもいいとしています。

 この「特別条項」には時間制限がなく、青天井で残業させることが可能です。これを活用して経団連の榊原定征会長の出身企業である東レが月100時間など、多くの大企業が月80時間超の協定を結んでいます。過労死するまで この「三六協定」をめぐって政府の「働き方改革実現会議」が3月28日、時間外労働の上限について実行計画をまとめました。

 原則として残業は「月45時間、年360時間」までとしています(週の基準がありません)。

 ところが特例があって、「臨時的な特別な事情」があれば「年720時間(月平均60時間)」まで認めます。これには休日労働の分が含まれておらず、休日労働を含めると最大年960時間(毎月80時間)まで残業させることができます。

 さらに年720時間内で「一時的に事務量が増加」する場合(いわゆる繁忙期)には「1カ月で最大100時間未満」「2~6カ月平均で80時間以内」の残業を認めます。これは、厚生労働省が定めている過労死の労災認定基準(過労死ライン。休日労働を含む)と同じ水準です。

 「原則」で残業をきびしく制限するようにみせて、実際は「特例」で抜け穴だらけとなっており、「過労死するまで残業せよ」という異常な内容です。

(5)管理職

管理職=「経営者と一体的」が要件

2017.04.15 

 社会問題となっている過労死にかかわって、「管理職には残業代がつかない」などと言われることがあります。管理職とは一般労働者とどう違うのか、労働基準法の適用はどうなるのでしょうか。

 労働基準法では、労働者とは、職業の種類を問わず、会社に使用され、賃金を支払われる者だとしています(9条)。「管理職」であっても、労務を提供して賃金の支払いを受けていることに変わりありませんから、労働者にあたります。

 しかし、労基法では「監督もしくは管理の地位にある者」(管理監督者)は、労働時間、休憩および休日の規定を適用しないと定めています(41条)。

 「管理監督者」とは、労働条件の決定や労務管理について「経営者と一体的な立場」(厚労省パンフ)にある者で、部長や店長などといった肩書にとらわれることなく、「実態によって判断する」(同)とされています。

 具体的には、次の3点です。

 ︎⚫︎労働条件や労務管理について経営者と一体的な立場にあり、労働時間の規制を超えて活動せざるをえない重要な職務や責任と権限を有している ︎⚫︎労働時間について厳格な規制を受けず、自由裁量権を有している ︎⚫︎賃金について、その地位にふさわしい待遇がされている名ばかり管理職 管理監督者に該当しないにもかかわらず管理職とされ、長時間労働をさせられたり、残業代を支払われないケースが多発し、「名ばかり管理職」として問題になったケースがたびたびありました。

 日本マクドナルド事件の判決(2008年1月)では、店長に対して時間外労働に対する割増賃金の請求を認めました。

 アルバイトの採用や時給決定などをしているものの、正社員の採用権限もなく、人事考課の最終決定にも関与せず、経営者と一体的立場にあったとはいえないとしました。

 労働時間も、店舗営業責任者が確保できない場合は店長自らが担うなど実質的な裁量権限がなく、給与も管理監督者として十分なものとはいえないと判断したものです。

 これを受けて厚労省は同9月、チェーン展開する小売・飲食業に対して通達を出し、管理監督者と認められない要素を示しました。

 管理監督者の職務や責任・権限としては、採用、解雇、人事考課、労働時間の管理について実質的な責任と権限があることです。

 店長であっても、営業中に店舗に常駐しなければならないなど実際には労働時間に関する裁量がほとんどない場合なども該当しません。賃金については、実際の労働時間数を勘案した場合に十分でない場合や、一般労働者の賃金と同程度以下である場合などは該当しないとしました。

 その後も、「SHOPP99」などで「名ばかり店長」を告発するたたかいが広がり、見直しに追い込まれています。

 また、金融機関の管理監督者についても、通達が出されています(1977年2月)。課長も残業代を 管理監督者で適用が除外されるのは、労働時間、休憩、休日に関する規定だけであり、深夜労働の割増賃金や年次有給休暇を請求する権利があるとされています。7割以上の企業で深夜の割増賃金または定額の手当を支給しています。(財団法人労務行政研究所調査・2012年11月2日) また、管理職も労働者であり、組合を結成することや組合に加入することも可能です。

 日本共産党の緊急提案「長時間労働を解消し、過労死を根絶するために」では、「〓課長にも残業代を〓-残業代が免除される管理監督者の規定を厳格に運用する」と打ち出しています。

しんぶん赤旗

(6)メーデー

メーデー=原点は8時間労働要求

2017.04.28 

 5月1日は労働者の祭典、国際的デモンストレーション(示威行動)の日である「メーデー」です。時間短縮求める メーデーの起源は、1886年(明治19年)の米国にありました。当時、1日10時間を超える長時間労働に苦しめられていた労働者が「1日8時間労働」を要求して5月1日にストライキに立ち上がったことが始まりです。ストは、シカゴを中心に全米で約35万人の労働者が参加。「8時間は仕事に、8時間は休日に、8時間は自分の好きに」と唱和して行われ、18万5000人が8時間労働を勝ちとりました。

 しかし、資本家側は8時間労働の約束をほごにし、労働者に弾圧を加えてきました。そこで米国の労働組合は、1890年5月1日に再びストを行うことを決定。各国にも、同じ日に立ち上がることを呼びかけました。

 これに労働者の国際組織(第2インタナショナル)がこたえ、毎年5月1日を国際的デモンストレーションの日とすることを決議しました。これが第1回国際メーデーです。日本の第1回は 日本で最初にメーデーが行われたのは、1920年(大正9年)の5月2日でした。東京・上野公園で開かれました。団結権もストライキ権もなかった時代です。デモの途中で革命歌を歌っても検挙される弾圧下にもかかわらず、約1万人の人が参加。上野公園から神田錦町まで行進しました。治安警察法の撤廃、失業の防止、最低賃金法の制定、8時間労働制、シベリア即時撤兵などを求めました。

 ところが1936年(昭和11年)、日本陸軍の青年将校がクーデターを企てた「二・二六事件」が起き、戒厳令が公布され、メーデーは禁止されました。日本は翌年から日中戦争へと突入。終戦を迎えるまで、メーデーが行われることはありませんでした。

 戦後、メーデーが復活したのは1946年です。中央メーデーに50万人が参加したといわれています。人びとは「働けるだけ食わせろ」「民主人民戦線樹立」などを政府に要求しました。

 以来、毎年5月1日はその時どきの政治・経済的要求などを掲げ、労働者の団結と連帯を示す統一行動としてたたかわれています。今年のメーデー 今年の第88回メーデーは、メーデーの起源である長時間労働の根絶が問われます。

 政府の「働き方改革実行計画」に労働時間の上限規制が盛り込まれました。しかし、過労死ラインの残業を容認し、長時間労働にお墨付きを与える内容です。「8時間労働」を掲げたメーデーの原点に立って、実効性ある上限規制を求める声を広げるときです。

 今年はまた、トランプ政権の戦争政策を安倍政権が支持し、戦争法と一体である「共謀罪」法案の成立が狙われるなど、平和と民主主義の危機がかつてなく高まるなかで行われることも特徴です。暗黒の政治体制をつくり、戦争に突入した戦前のような時代に逆戻りさせてはなりません。

 一方で、核兵器禁止条約締結の歴史的動きが生まれているもとで開かれるメーデーです。核兵器の全面禁止、平和と暮らし、民主主義を守る政治への転換を求めてたたかうメーデーとなります。第88回中央メーデー/5月1日、東京・代々木公園で 全労連などでつくる実行委員会が開く第88回中央メーデーは、「働くものの団結で生活と権利を守り、平和と民主主義、中立の日本をめざそう」を基本スローガンに、東京都渋谷区の代々木公園で開かれます。

 午前9時開場で、10時から文化行事。11時からの式典では、小田川義和・全労連議長が主催者あいさつ、市民団体、政党代表らによる連帯・激励あいさつ、労組代表の決意表明が行われます。午後0時20分からデモ行進を開始、並行して文化行事が行われます。

(7)変形労働時間制

変形労働時間制=勤務延長も残業代不要

2017.05.19

 巨額の残業代支払いに追い込まれた宅急便のヤマト運輸。原因となったのが「変形労働時間制」の悪用です。

 労働基準法で労働時間は週40時間、1日8時間を超えてはならないと定められています。しかし、業務の繁閑などに応じて所定労働時間を短くしたり長くしたりできるのが、変形労働時間制です。(同32条の2~5) 「労働時間の短縮」(1988年旧労働省通達)を目的に導入されたもので1カ月単位、1年単位、1週間単位の3タイプがあります。この期間内で労働時間が平均して週40時間に収まれば、8時間を超えて働く日や40時間を超えて働く週を設定することが許され、残業代は出ません。ヤマト運輸が導入していたのは1カ月単位の変形労働時間制です。使用者メリット 使用者にとっては労働時間を自由に設定でき、残業代を払う必要もないなど大きなメリットです。労働者にとっては、忙しい時期の労働時間が長くなったり、今まで払われていた残業代も出なくなります。労働者の生活や健康に支障が出る場合もあり、導入する場合はしっかりチェックすることが必要です。

 出退勤時間を自分の都合にあわせて決められる「フレックスタイム」を含めて変形労働時間制を導入している企業は約半数。1000人以上の企業では6割を超えます。

 変形制の導入は厳しい要件があり、変形勤務の内容を事前に特定する必要があります。変形労働の最初の日(起算日)を定め、8時間を超える日、40時間を超える週を特定します。全部の勤務日の始・終業時刻も特定し、就業規則に明記する必要があります。

 1年単位の場合は長期になるため、1日10時間・1週52時間を限度とするなど規制があります。勝手な変更ダメ 特定されたあとに、企業が勝手に変更することはできません。判例でも就業規則に単に「業務上必要がある場合は変更する」との規定は無効とされます。

 ヤマト運輸の場合、頻繁な勤務変更で前日にならないと自分の勤務がわからないとか、平均して週40時間の限度をはるかに超える200時間以上の労働時間が割り当てられていました。これは明白な違法行為です。

 ヤマト運輸の元労働者が訴えていた労働審判で、会社側が変形労働時間制をあてはめて70万円台の未払い額を提示しましたが、労働者側が変形労働時間制は要件を満たしていないと主張し、実際の残業代は300万円を超えるという訴えが認められました。

 このように変形労働時間制と称しても、要件を満たしていない場合は、残業代の支払い対象になります。

 この制度を導入するには、労使協定(労使委員会などの決議)が必要で、労働基準監督署への届け出が必要です。しかし、1カ月単位の場合だけは、労使協定または就業規則でもいいとしています。

 変形労働時間制は1カ月単位が基本形であり、それが就業規則だけで導入できるというのは問題です。

 職場で1カ月単位の導入が多い日本医労連は、就業規則で導入を認める規定を削除し、1年単位や1週間単位と同じように労使協定を要件とするよう求めています。

(8)最賃

最低賃金=生計費遠く、地域格差大

2017.06.01 

 経営者が労働者を雇うさい、これ以下の賃金で雇ってはならないという最低額が最低賃金法にもとづいて定められています。

 毎年秋、都道府県ごとに時給を決める地域別最低賃金制をとっています。現在の時給額は平均823円で、最高が東京都の932円、最低が宮崎県と沖縄県の714円です。これに違反すると50万円以下の罰金です。

 この最低賃金について根本的な欠陥が明らかになっています。

 まず、まともに働いても人たるに値する生活を保障する水準になっていないことです。

 現在の平均時給823円は、1日8時間、月22日のフルタイムで働いても月約14万4800円、年収で約174万円にしかなりません。懸命に働いているのに貧困から抜け出せない、年収200万円以下のワーキングプアが1000万人を超えて増えている原因がここにあります。

 最賃が低水準にとどまっているのは、労働者の生計費などとともに、「事業の賃金支払い能力」を最賃を決める考慮要素にしていることです。(最低賃金法9条2項)大手企業は利益 最低賃金は、まともに働けば人間らしい最低限の生活を保障する金額でなければなりません。どの国でも、経営者の支払い能力に関係なく労働者の生計費だけを考慮要素にしています。日本でも生計費だけにしぼって最賃を決定する仕組みに改めるべきです。

 財界は、最賃を上げると中小企業が苦しくなると主張します。しかし、どの国でも支援策と一体で引き上げを行っています。

 しかも、最低賃金に張りついた低い時給で大量のパート、アルバイトを雇って利益をあげているのはセブン&アイ、イオンなどサービス業をはじめ大手企業です。現行制度は、大企業のための賃上げ抑制の役割を果たしているのが実態です。全国格差は218円 現行の最賃決定方式は、地域間格差が広がり破たんしています。

 現在、最高の東京都と最低の沖縄県などとの時給格差は218円です。月22日働いて3万8368円もの差があります。最低賃金がいまの時給方式になった2001年は、最高が東京都の708円、最低が青森県などの604円で、その差は104円でした。

 最高額に対する最低額の比率は、2001年は85・3%でしたが、いまは76・4%。地方の最低時給が東京の7割台では、若者が都市に流出し過疎化が深刻になるだけです。

 これは中央最低賃金審議会が最低賃金額を検討するさい、47都道府県をABCDの4ランクに分けて、ランクごとに引き上げの「目安」額を決める方式をとっているためです。昨年の「目安」額は、はっきりした根拠がないまま東京などのAランクが25円、最低のDランクが21円に差別されました。この方式を続ければ限りなく地域間格差が広がります。

 この4ランク方式を見直して、直ちにどこでも時給1000円を実現し、1500円をめざすこと。世界で当たり前になっている生計費をベースにした全国一律最低賃金制を実現すべきです。全労連は、その世論形成のために「雇用アクションプラン」をつくり、運動を強めています。

 最低賃金をめぐっては、1975年に当時の労働4団体が全国一律最低賃金制を柱とする統一要求をまとめ、これを受けて日本共産党を含む4野党が共同法案を提出しました。実現はできなかったものの、大きな運動が展開されました。

 たたかいに押されて民主党政権下の2010年に「20年までに全国平均1000円をめざす」という方針が出され、安倍政権も「1000円をめざす」といわざるをえなくなっています。

(9)過半数代表

過半数代表者=民主的な選出が課題

2017.06.27 

 企業が労働者に残業をさせるときなど、法律の規制を緩める措置を認める場合に「労使協定」が必要です。そのさいの労働者代表は、企業が勝手に指名することはできません。「労働者の過半数を代表する者」(過半数代表者)を選挙などで正当に選出しなければ協定は無効になります。

 労働基準法など労働関係の法律では、残業や休日労働、変形労働時間制、裁量労働制などについて労使協定を結ばなければならないと定めています。これは労働者の意見を反映させる面と、企業が労働基準を下回る措置をとっても免罪されるという両面があります。

 過半数代表者は、労働者の過半数で組織されている労働組合がある場合は、その労働組合が自動的になります。そういう組織があるのに、企業が勝手に別の代表を選ぶことは許されません。

 過半数で組織されている労働組合がない場合は、企業が責任をもって過半数代表者を選出しなければなりません。

 いま労働組合の組織率は17・3%です。労働者1000人以上の規模の大企業は44%ですが、100~999人規模では12・2%、99人以下の規模では0・9%に下がってしまいます。パートの参加も 労働組合の組織率が低い現状では、多くの企業で独自に労働者代表を選出しなければなりません。その方法が定められています。管理監督者の地位にあるものでないこと、協定を結ぶという選出目的を明らかにして投票、挙手などの民主的な手続きをとって選ぶことです(労働基準法施行規則第6条の2)。

 そのさい厚生労働省は、パートやアルバイトなどを含めたすべての労働者が手続きに参加できるようにすることを求めています(厚生労働省「事業主の皆さまへ」)。

 選出方法がこれに反している場合は、協定が無効になります。東京都内の企業で、「友の会」という親睦団体の代表を労働者代表にして「三六(さぶろく)協定」を結んでおり、その有効性が裁判で争われた事例があります。判決は、「友の会」は役員を含む全従業員で構成する会員相互の親睦が目的であり、労働組合ではなく、したがって「友の会」代表は労働者の過半数を代表する者とはいえず、「三六協定」は無効だとしています(トーコロ事件、東京高裁1997年11月17日、最高裁第二小法廷2001年6月22日)。適正選出指導を 過半数労働組合がない企業は、どういう方法で過半数代表者を選出しているのでしょうか。5月12日の労働政策審議会労働条件分科会に厚生労働省が資料を出しています。

 それによると「会社が指名した」というのがトップで28・2%です。「社員会・親睦会などの代表者が自動的に過半数代表者になった」というのが11・2%もあります。この2例は明確な違法であり、合わせて39・4%、ほぼ4割です。

 このほか「信任」というのが23・5%を占めています。会社を信じて任せるというあいまいな分類で、限りなく違法に近いグレーゾーンです。前2例にこれを加えると6割超になります。

 正当な選出と思われるのは、「職場ごとの代表者が集まって話し合いにより選出」9・6%、「全従業員が集まって話し合い選出」8・5%、「選挙」8・3%です。

 このように現状は、違法だらけです。労働者の過半数代表者が、規則通りに適切に選出されていないのは大問題です。民主的な手続きで適正に選出されるよう行政機関による厳格な指導が求められています。(随時掲載)過半数代表者の選出方法(%)〓選挙 〓信任 

⚫︎全従業員が集まって話し合いにより選出した 

⚫︎職場ごとの代表者など一定の従業員が集まって話し合いにより選出した 

⚫︎社員会・親睦会などの代表者が自動的に過半数代表者になった 

⚫︎会社側が指名した 

⚫︎その他・無回答 

(第134回労働政策審議会労働条件分科会資料)

(10)裁量労働制

裁量労働制=長時間労働まん延にも

2017.07.06

 政府は、「労働者の自由な働き方を広げるため」といって、「裁量労働制」の対象を拡大しようとしています。国会に「残業代ゼロ」制度とセットで労働基準法改悪案が提出されています。

 裁量労働制とは、仕事の進め方を労働者の裁量に委ねる必要がある業務が対象で、使用者が出退勤時間などで具体的な指示をしない制度です。残業代が出ない 労働時間は、実際に働いた時間ではなく、労使が協定した時間を働いた時間とみなします。労使協定で「8時間」と決めれば、実際は10時間働いても8時間とみなし、2時間分の残業代は出ません。〓効率よく働けば早い帰宅も可能〓と政府や財界はいいますが、仕事量や目標達成のため長時間労働を強いられているのが実態です。

 裁量労働制は、専門業務型(1988年導入)、企画業務型(2000年導入)の二つのタイプがあります。

 専門業務型は、新商品の研究開発、情報システムの分析・設計など19業務。企画業務型は企業の中枢部門で企画、立案、調査、分析の業務が対象です。企画業務型は、抽象的で悪用される恐れがあるため、企業内に労使委員会をつくり、5分の4の賛成決議が必要など要件があります。

 裁量労働制で働く労働者の割合は、専門業務型1・2%、企画業務型0・3%だといいます(厚生労働省調査、13年)。これは推計であり正確な実態は把握されていません。日本共産党の小池晃参議院議員事務所の調査で、企画業務型の導入届け出件数(東京労働局管内)は、2006年の493件から15年に741件に1・5倍に増加しています。脱法行為が横行 問題は、違法・脱法的な導入が目につくことです。たとえば日々の出退勤管理をみると、「一律の出退勤時刻がある」が専門業務型で42・3%、企画業務型で50・9%(前出厚生労働省調査)。ほぼ半数がタイムカードなどで労働時間の申告が義務付けられ、遅刻すると上司から注意されるなど厳しい管理下で働いており、「裁量」などありません。

 しかも対象外の業務に導入されているのが実態です。損保ジャパン日本興亜では、支店や支社の一般営業職に導入。職員1万9千人のうち6374人が対象とされ、昨年4~8月の残業時間は、みなし労働時間月20時間の2倍でした。(2017年3月23日、参議院厚生労働委員会での小池議員質問) 裁量労働制でも、深夜労働(午後10時~午前5時)と休日出勤をした場合は割増賃金を支払わなければなりません。しかし、電機大手のソニーでは支払われていないとして、労働者が16年、仙台労働基準監督署に申告し、労基署がソニーに是正指導を行っています。

 長時間労働による過労自殺も。大手機械メーカーのコマツで専門業務型が適用されていた34歳の男性社員が1日10~19時間の長時間労働でうつ病を発症し、1999年12月に自殺しています。(2002年に労災認定)危険な対象拡大 労働基準法改悪案では、企画業務型の対象業務に、これまで裁量性がないとしてきた「課題解決型提案営業」などを追加することを盛り込んでいます。損保ジャパン日本興亜のような脱法的やり方を合法化するものです。営業職に「みなし労働時間」が広く適用され、残業代が出ない長時間労働がまん延する恐れがあります。

11)年次有給休暇

年次有給休暇取得、守られるべき権利

2017.08.22

 夏休みをとって家族でゆっくり過ごしたいと思っても、有給休暇(年休)が取れない、取りづらいというのが日本の労働者の悩みです。どうしてでしょうか。

 日本では、6カ月継続勤務(出勤率8割)すると10日の有給休暇が取得できます。このあと勤続1年ごとに取得日数が増え、6年後に20日になって、それが上限です。パートでも、週1日勤務で6カ月後に1日の有給休暇が取れます。

 長期バカンスで知られるフランスは、10日勤務すると有給休暇が30日です。そのうち2週間は連続で与えなければならないと法律で定めています。しかも取得率100%です。日本とは大違いですが、フランスが特別なのではありません。

 ILO(国際労働機関)の有給休暇条約は、1年勤務した労働者に3週間の権利があり、そのうち2週間は連続にすると定めています(1970年採択、日本は未批准)。これが国際水準です。

 これに比べて日本は日数で見劣りするうえに、取得率が5割以下です。民間企業の有給休暇は、2015年の付与日数が18・1日で、実際に取得したのは8・8日。取得率48・7%という低さです。(厚生労働省「就労条件総合調査」)人員不足が障害 なぜ日本の労働者は有給休暇が取れないのか。労働政策研究・研修機構の意識調査によると、労働者の65・5%が取得に「ためらいを感じる」といい、その理由として「みんなに迷惑がかかる」というのが71・6%です。リストラで人員が減らされ、大量の仕事を少ない人数で長時間労働でこなしているため、休むと同僚にしわ寄せがいく実態を示しています。

 インターネットプロバイダーの「ビッグローブ」が7月にまとめた調査では、取得できない理由で一番多い回答(複数回答)が「職場に休める空気がない」(33・6%)です。

 「職場に休める空気がない」というのは、つまり企業側が「有給休暇を与えなければならない」(労働基準法39条)という義務を果たさず、与える努力を何もしていないことを示しています。時効で消滅する 日本の有給休暇は、1年間繰り越すことができます。しかしそれで消化できなければ消滅する制度です。企業が何もせず知らん顔をしていれば時効で消えていくわけです。企業責任は問われません。これでは与える努力をしないのは当然です。

 有給休暇が時効消滅する制度をもつ国が日本以外にあるのか、厚生労働省に問い合わせたところ、答えは「見当たらない」です。労働者の大事な権利が時効で消滅する制度は、明らかに異常です。有給休暇を消化せずに繰り越した場合は労働基準監督署への報告を企業に義務付けるなど何らかの規制措置を検討するべきです。違法な欠勤扱い さらに有給休暇の取得率が低い要因として、精勤・皆勤手当や賞与の算定で欠勤扱いする企業が少なくない問題があります。

 いま精皆勤手当制度がある企業は29・3%、ほぼ3割です。支給額は月平均1万500円(2015年、厚生労働省調査)。有給休暇が欠勤扱いされてこれが支給されなくなったら労働者にとって損失です。

 労働基準法には、有給休暇取得による賃金減額などの不利益扱いを禁止する規定があり(第136条)、それを周知する通達も出ています。しかし努力規定にとどまり、効力が弱いのが現実です。

 さらに裁判では最高裁が、精勤手当の金額の大小で判断して、労働者の訴えを退ける判決を出しています(沼津交通事件、1993年6月25日)。

 有給休暇の欠勤扱いはどんなケースでも違法だという明確な態度を政府が示して、根絶に当たるべきです。

(12)学生アルバイト/労働者として保護される

2017.11.04

 コンビニや飲食店などで学生のアルバイトが増えています。無法な会社の「ブラックバイト」の餌食にされ、学業に支障が出る被害も少なくありません。政府が厳しく監督することが重要ですが、働く側も必要な知識を身につけて対処することが大事です。

 アルバイトをしているのは大学生で7割以上にのぼり、半数が週3日以上働いているといわれます。労働力不足が問題になるなかで、企業の重要な戦力として正社員並みの責任を持たされている例も珍しくありません。

 パート(タイマー)は主婦などに、アルバイトは学生について用いられることが多いですが、法律上の区別はなく、正規労働者と区別して短時間労働者として扱われています。

 まず知っておきたいのは、バイトも労働者であることに変わりはなく、労働者を守る法律が適用になることです。学生は学業が本業だから労働者とはいえず、労働条件が悪くても文句がいえない、と思うのは間違いです。残業代や有休もある 働いて「賃金を支払われる者」はすべて労働者(労働基準法第9条)であり、労働基準法や最低賃金法などの労働法規は普通の労働者と同じように適用されます。高校生、専門学校生でも同じです。

 これを知っていれば「バイトは残業手当がない」「時給が最低賃金以下でもいい」「有給休暇はない」と勤め先からいわれてもだまされることはありません。

 8時間を超えて残業すれば25%の割増賃金、深夜(夜10時から翌朝5時)は25%、休日出勤は35%の割増賃金を払うことが法律で決まっています。

 勤務時間の前後に開店準備や後片付けをしたのに、その分の時給がないのも違法です。

 日本共産党の辰巳孝太郎参院議員は3月、コンビニ業界最大手のセブンイレブンが、実労働時間を15分単位で切り捨てて賃金をカットしていると告発。「賃金泥棒だ。実態を把握し指導すべきだ」と追及。厚労省の指導を受けて同社は、加盟店オーナーに賃金カットを行わないよう求める文書を出しました。

 時給は、都道府県ごとに定められている最低賃金が適用されます。有給休暇は、週1日のバイトでも6カ月後に1日付与されます。

 「おまえは今日でクビだ」と一方的に解雇されても、泣き寝入りする必要はありません。

 解雇は、使用者が自由に行えるものではなく、社会の常識に照らして納得できる合理的理由がなければ違法です。やむを得ない場合でも30日前に予告するか、30日分以上の予告手当(賃金)を支払わなければなりません。(労基法20条)契約書で条件確認 バイト代や勤務時間など大事なことが口約束だと、後で「約束が違う」とトラブルになる危険があります。仕事の内容や賃金額、支払い方法、勤務時間(シフト勤務や残業のあるなしなど)、契約期間など、基本的な事項について文書で契約を結ぶことが大事です。

 雇い主は労働条件を明示する義務があり、契約期間や賃金、勤務時間など重要事項は書面にして労働者に渡さなければなりません(労基法15条)。契約書を出してもらえない場合は要注意です。

 学業と両立できないようなシフトを一方的に押し付けるようなことは許されません。シフトを変更するには事前に合意が必要です。(労働契約法) 「辞めるなら代わりのアルバイトを連れてこい」といわれて辞めさせてもらえないことも違法です。労働者は原則としていつでも退職を申し出ることができます。

 商品の売れ残りを買わされるケースもありますが、法律上何の義務もありません。食器や商品を壊したら弁償させるケースもありますが、少なくとも本来の値段以上を支払う必要はありません。

 おかしいと思ったら諦めず、労働基準監督署や行政の相談窓口、全労連など労働組合に相談しましょう。

(13)解雇の金銭解決

解雇の金銭解決=必要なのは規制ルール

2017.12.20

 安倍政権が「解雇の金銭解決制度」をつくる検討を進めています。裁判で解雇が不当となっても、会社が金を払えば解雇できる仕組みをつくるものです。厚生労働省の労働政策審議会で、議論を始めようとしています。

 ILО(国際労働機関)は解雇に関して、「使用者の発意による雇用の終了に関する条約」(158号条約)で、「企業運営上の妥当な理由」か「労働者の能力もしくは行為に関する妥当な理由」がなければならないとし、「妥当な理由」について使用者に挙証責任があるとしています。(1982年採択、日本は未批准) 日本では、労働契約法16条で「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」としています。リストラが横行 しかし、電機産業では「希望退職」募集や「追い出し部屋」による嫌がらせなどで事実上解雇する大量リストラが横行しています。日本IBMでは、労働者をいきなり呼び出して解雇を通告し、そのまま会社から追い出す「ロックアウト解雇」を強行しています。

 最高裁の調査によると労働審判の取扱件数は、解雇・雇い止めが45・4%で、トップです。労働者の訴えのほとんどは、引き続き会社で働きたいという立場から、解雇は不当だとして地位確認を求めるものです。

 裁判で、解雇は不当で無効だという判決がでたら、労働者を職場復帰させて働いてもらう。これを当然のルールにするべきです。

 解雇規制が弱く、企業の横暴が続発しているときに、金銭解雇制度をつくったら、金を出して労働者を解雇する企業がますます増加し、「解雇自由社会」になりかねません。

 金を払えば自由に解雇できる制度は、財界の要求で何度も浮上してきました。今回は、安倍政権が2015年版「日本再興戦略」で「解雇無効時における金銭救済制度」「予見可能性の高い紛争解決システム」を打ち出したのが発端です。

 厚労省は今回、労働契約を解消する代わりに一定の金銭支払いを求める権利を労働者に付与する案を示しています。不当解雇の判決が出たケースについて労働者の求めに応じて使用者が金銭を支払うことで労働契約を終了することができる、つまり事実上の解雇ができることになります。導入に道理なし しかし、解雇が違法・無効にもかかわらず、なぜ金銭を支払えば解雇が認められるのか道理がありません。厚労省は解決金の水準を法律で定めることも提案しており、労働者にリストラの受け入れを迫る手段として使われる危険があります。

 厚労省は導入理由に「多様な選択肢」をあげますが、金銭解決は労働審判などのなかですでに行われており、新たな仕組みを設ける必要はありません。

 むしろ、解決金の基準ができれば、労働者が納得できない解決が押し付けられたり、リストラの手段として使われるなど現行制度に悪影響を及ぼします。

 いったん導入を許せば、いずれ使用者側にも申立権が拡大されることは必至です。

 いま日本で必要なのは、金で解雇できる制度ではなく、解雇規制法をつくり、解雇を厳しく規制することです。最高裁の判例などで確立されている「整理解雇の4要件」(別項)を法定化し、これを満たさない解雇は無効と定めることです。

 労働者が争っている間は雇用を継続し、解雇無効の判決が出たときは、職場に復帰し、差別を受けることなく就労する権利を保障することが重要です。

 希望退職・転籍についても退職強要を禁止し、本人同意・取消権、労働組合の関与などのルールを確立します。パワーハラスメント(いじめや嫌がらせ)を禁止し、人権侵害をきびしく取り締まることが重要です。

整理解雇の4要件=労働者には何の責任もなく、経営不振などもっぱら企業側の理由で労働者を解雇(これを整理解雇という)するときに、満たすことが求められる要件。

⚫︎さし迫った解雇の必要性がある

⚫︎解雇回避の努力が尽くされている

⚫︎解雇者の選定基準、人選が公平、合理的︎

⚫︎労働者、労働組合への説明義務をはたす。

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🔵労働組合基礎調査のあらまし(2017年・平成29年)

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◆厚労省=調査の概要

http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/roushi/kiso/17/index.html

◆調査の概要とは全労連見解の報道

◆全労連のコメント

【談話】2017年「労働組合基礎調査」の結果について

 厚生労働省は本日、2017年の「労働組合基礎調査」の結果を公表した。労働組合員数は9981千人と前年より41千人(0.4%)増加した。組合員数は2011年に1千万人を割り込み、その後減少を続けていたが、一昨年の0.1ポイント、昨年の0.6ポイント増加に続き3年連続の増加となった。組合員数増加の主な要因は、女性とパートタイム労働者の組合員数の増加(女性が76千人、パートタイムが77千人の前年比増)である。パートタイム組合員は1208千人となり、労働組合員全体に占める割合も12.2%(前年比0.8ポイント上昇)となった。それでも推定組織率は女性が12.5%、パートが7.9%であり、全体の推定組織率17.1%に比べると組織化が進んでいない。

 雇用者数が約100万人増えたため推定組織率は17.1%と前年より0.2ポイント低下した。総務省「労働力調査」(201710月速報値)によれば、就業者数は6581万人(前年同月比61万人増加、58ヶ月連続増)となっている。そのうち、正規雇用は3485万人(前年同月比68万人増)、非正規雇用が2041万人(前年同月比5万人増)となった。全産業すべての地域で労働組合の結成を促進していくことが求められている。とりわけ非正規雇用労働者の組織化は重要である。20184月から有期雇用労働者の無期転換がはじまり、すでに各地で雇止めなどの労働相談が相次いでいる。201810月からは派遣労働者の申し込みみなし制度もはじまる。非正規労働者の組織化をさらに強めていることが必要である。

 産業別の組合員数では、製造業が2608千人と最も多く、次いで卸売・小売業が1413千人、運輸業、郵便業が859千人などとなっている。前年に比べ増加幅が大きかったのは、宿泊業・飲食サービス業29千人増、卸売業・小売業27千人増、生活関連サービス業・娯楽業20千人増などである。一方で減少幅が大きかったのは、情報通信業25千人減、製造業14千人減、公務12千人減などとなっている。宿泊業・飲食サービス業や卸売業・小売業などのいわゆるサービス産業に就業する労働者の増加が大きく、製造業や公務に就労する労働者の減少が続いていることからも労働者の非正規労働者化が進んでいることがうかがえる。サービス産業で働く外国人労働者も近年目立つようになってきており外国人労働者の組織化も求められる課題である。

 主要団体別の組合員数では、地方組織単独加盟の組合員を含めて、全労連は前年比5千人減の771千人となった。ただし、年金者組合なども含めて全労連が独自に掌握している組合員数は、20176月末の現勢調査で104万人である。「労働組合基礎調査」での前年比の減少数は1万人を下回り、各地方・地域、単産・単組の奮闘で減少傾向に歯止めがかかったとも言える。他方で連合は同49千人増の692万人、全労協は同5千人減の110千人であった。

 各地で組織拡大4カ年計画の具体化が進み、調整会議の開催も37都道府県で行われ「全員参加の組織拡大(総がかり行動)」の推進が図られている。また、この秋からの無期転換にむけた運動も積極的に進められ組織拡大につながっている。共済加入も契機としながら拡大運動の新たな手応えがひろがっている。職場からの闘いを強化すると共に、とくに非正規雇用労働者や若者、女性などの組織化を推進して、「150万全労連」をめざす飛躍を実現する決意である。

◆◆正社員中心の労働組合からの脱皮を(平成経済)第2部・昭和モデルの崩壊:3 非正社員、守らぬ労組

朝日新聞18.02.11

 「働く人の味方」だった労働組合が、平成に入って大きく変わった。長期不況でリストラの嵐が吹き荒れるなか、余裕を失った「正社員クラブ」は、自らの職や賃金を守るため非正社員の拡大を黙認した。働く人の間に分断ができ、その溝を埋める役割を労組は果たせていない。(大日向寛文)

◆改正法骨抜き「問題ない」

 労組ならば非正社員でも味方になってくれる――。そんな期待は裏切られた。

 東日本の自動車部品メーカー工場で期間従業員として働く40代男性は昨年秋、社内の労組を初めて訪ねた。改正労働契約法の「5年ルール」の趣旨を骨抜きにする会社の規則を変えてもらうためだ。

 この会社では、継続して働ける期間の上限を2年11カ月としている。その後は6カ月の「空白期間」がないと仕事に戻れないため、いつまでたっても通算勤務期間が無期雇用の権利を得られる5年を超えない。正社員登用制度もあるがハードルは高い。直近の試験は日程すら事前に教えてもらえず、受験した3人の同僚はみな落ちた。

 「半年の空白期間があるので、無期転換の権利を得られない。組合としてどう考えているのか」。そう質問したが、対応した労組幹部は「制度に問題はない」という立場を変えない。「まずは組合員になりたい」と申し出ると、「組合員になりたい期間従業員は他にはいないはず」と、応じてくれなかった。

 けんもほろろの労組を前に、この男性は制度変更をあきらめざるを得なかった。事を荒立てて会社ににらまれれば、いまの契約すら更新を拒まれ、雇い止めになりかねないからだ。「立場が弱い非正社員は『出る杭』にはなれない」。男性は悔しそうに語った。

 実際、雇い止めされる非正社員も少なくない。

 凸版印刷の男性契約社員(56)は昨年1月、雇い止めを通告された。雇用期間は18年3月末まで。無期転換の権利を手にできる1日前に打ち切られることになった。上司から「法律でここまでしか雇えない」と説明されたという。

 子どもは私立大学に通う。自宅の住宅ローンも残ったままだ。夜も眠れないほど悩むが、社内の労組には相談しなかった。

 「うちの労組に契約社員は相談できない」。以前、組合員の同僚に言われたことが記憶にあるからだ。毎年春闘の時期になると、職場は賃上げの話で盛り上がるが、自分の給料は働き始めた7年前から1円も上がっていない。「下手に労組に相談したら、会社に筒抜けになる」とすら思う。

 いまは社外の労組に入り、会社に雇い止めの撤回を求めている。

◆組織率の低下、止まらず

 労働組合の中央組織、連合が誕生したのは、平成が始まった1989年だ。

 労働者のなかで労組に加入している人の割合(組織率)は49年にピークの55・8%にのぼったが、89年には25・9%に落ち込み、運動を立て直すことにした。

 だが、連合発足後も組織率の低下に歯止めをかけられず、17年は17・1%と過去最低を更新した。不況や規制緩和で平成の間に急増した非正社員を、組合員にしてこなかったことが影響している。09年に34年ぶりに上昇に転じたが、リーマン・ショック後の大量雇い止めで分母の労働者数が減ったのが大きかった。

 「正社員の雇用や賃金を守るための防波堤」という労組の意識を変えようと、連合の4代目会長、笹森清氏は、中坊公平・元日本弁護士連合会会長ら7人の外部有識者の力を借りることにした。「大企業で働く正社員の利益のみを代弁している」「変化に十分に対応できていないことは明らか」。03年にまとまった報告書は、厳しく連合を批判し、改革を求めた。

 それから10年余。有識者の一人だった神野直彦・東大名誉教授は「報告書の指摘はほとんど実行されず、いまも課題がそのまま残っている」と話す。

 連合の非正社員の組合員は、全体の15%の106万人。その4分の3を、繊維や流通などの労組でつくる産業別労組「UAゼンセン」が占める。こうした業界は非正社員が多く、正社員だけでは労働者の過半数を代表する労組がつくれない企業が少なくない。自動車総連の組合員に占める非正社員の割合は3%、電機連合はわずか0・4%だ。

 トヨタ自動車やホンダなど大手自動車メーカー全8社が「5年ルール」を避ける仕組みにしていることが昨年11月、朝日新聞の報道で判明した。

 報道直後、連合は「残念」とコメントしたが、傘下の自動車総連に改善は求めなかった。自動車総連も、自動車大手に期間従業員の正社員への登用制度があることなどから、「問題ない」との考えだ。

 しかし、非公表のホンダを除く大手7社の16年度の正社員登用は、期間従業員全体の8%にとどまる。取材に自動車総連首脳は言った。「法律に書いてあるとおりにやって何が悪い」

◆存在意義、問われる連合

 平成に入って労働運動の土台もぐらついた。89年にベルリンの壁が崩壊、社会主義が一気に色あせた。

 そこにバブル崩壊後の長期停滞がのしかかる。わずかな賃上げしか獲得できない春闘は、労組の求心力を失わせていった。

 02年の春闘では、空前の利益をあげたトヨタ自動車がベースアップ要求にゼロ回答。大企業が一斉に追随し、トヨタ出身の奥田碩・経団連会長は「春闘は死語」と言い切った。

 連合6代目会長の古賀伸明氏は「次の時代に何をすべきか考え続けたが、平成では答えが見いだせなかった」と振り返る。

 戦後、日本の労働運動は企業別に組織した労組を中心に展開してきた。欧米で主流の企業をまたぐ労組に比べ、「企業の成長が第一」という目標を労使で共有しやすい。労使協調は生産性向上に貢献し、企業別労組は、終身雇用、年功序列と並ぶ日本型経営の「三種の神器」とされた。

 だが、右肩上がりの経済成長が終わると、弊害が目立つようになる。労使協調につかった労組はリストラの嵐に抵抗できず、非正社員や中小企業の社員に手をさしのべなかった。

 ある連合の元幹部は、連合を国際連合に例える。もともと連合は、政権奪取のために路線が違う労組が「数合わせ」で合流した側面が強い。対立を防ぐため有力産別に「拒否権」を持たせた。有力産別代表らによる三役会は、一人でも反対すれば決定できない慣例を続けてきた。

 今月5日夕、東京のJR有楽町駅前で、連合の神津里季生会長は訴えた。「大企業と中小企業で格差が開いた。これでは意味がない」

 連合は今春闘で、賃金格差の縮小に重点を置く。抜本的な解決には、大企業に利益が集中する経済構造の変革が欠かせない。それでも大手労組の動きは鈍い。「自分たちの組合員のボーナスを減らしてでも、下請けの利益を増やせとは言えない」(大手自動車労組幹部)からだ。

 こうした現状に、日本総合研究所の寺島実郎会長は警鐘を鳴らす。「自分の給料がいくら上がるかだけに関心を持った運動が、若い情熱を持った人を引きつけるわけがない。連合は存在意義を問われている」

◆キーワード

 <労働契約法の「5年ルール」> 2013年4月に施行された改正労働契約法に盛り込まれた。契約が繰り返し更新されて同じ会社での勤務期間が通算5年を超えた場合、無期雇用契約への転換を申し込める。申し込みがあったら会社は拒めない。ただ、再雇用まで6カ月以上の空白期間があると、それ以前の契約期間はリセットされ、合算されない。

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【筆者作成】 

🔵労働組合誕生の歴史

(「学習の友」連載=労資関係と暮らし改善の道)  

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 第12回では、なにが私たち労働者の暮らしと労働条件の悪化の原因なのか、そして労資の利害が根本的に対立していることについて明らかにしました。今回は、労働者が、これまで貧困など自分たちの苦しみをどのように解決しようとしてきたのかを中心に、団結とたたかいの役割についてのべたいと思います。

◆生まれたとたんにたたかいはじめた労働者階級

 労働者は、資本主義の発展とともに、とりわけ機械制大工業が確立した産業革命によって大量に生みだされた階級です。労働者がどのようにたたかったのか、原点ともいうべき世界最初の資本主義国であり世界最初の労働者が生みだされた一八世紀後半から一九世紀のイギリスを例に紹介しましょう。

 労働者の多くは農民出身でした。土地をとりあげられ暴力的に農村を追放された農民が、裸一貫で都市に家族ぐるみで大移動して、労働力以外なにものも売るべきものをもたない労働者として綿工業などの工場で働くようになったのです。そのほとんどが工場の周辺の粗末な住宅に住みつきました。

 きのうまではまったく見知らぬ何百人もの労働者が同じ工場の屋根のもとに集められ、機械作業を共同しておこなうようになりました。知らず知らずのうちにおたがいが顔見知りになります。同じ農民出身であること、共同で作業をしていること、なによりも同じひどい境遇のもとにおかれていることから、労働者どうしに「同じ仲間だ」という連帯感が生まれたのは自然のなりゆきでした。

 朝早くから深夜にいたるまで一四~一五時間もつづく長時間労働、とても生活をまかなえない低賃金、劣悪な住宅、首切り自由など働くルールゼロ社会、失業したりケガや病気になったら、たちまち一家が路頭に迷う、不安そのものの社会保障ゼロ社会、こんな悲惨な境遇に労働者が不満を抱くようになるまで、そう時間はかかりませんでした。

 労働者は、我慢してばかりいたのではありません。個々バラバラのたたかい、自然発生的なたたかいがまずはじまりました。最初は、個人的な盗みをしたり、職制に暴力をふるったりします。さらに、「機械うちこわし」といって工場の機械をこわしたり、製品を川に投げ捨てたりする集団的な暴動で、まさに怒りを資本家にぶつけた行動でした。しかし、これらの行為は、ただちに犯罪として警察に逮捕され処罰されてしまいます。犠牲ばかりが多く、得るものより失うものの方が大きい無益な抵抗であることを、労働者はみずからの経験を通じて学びとっていきました。

◆パブやストライキが労働組合誕生のゆりかごに

 いまも同じですが、当時の労働者も仕事帰りに居酒屋(パブ)◆1に立ち寄って、黒ビールで疲れをいやしていました。ビールをくみかわすうちに、仕事や暮らしや家族のことなどの話題へ発展していきます。こうした腹をわった話し合いが、労働者どうしの連帯感を急速に高める役割をはたしました。パブでは、失業やケガをしてこまっている仲間を救うために、ハンチング(帽子)をまわして「なあ、みんな、ビールをもう一杯飲んだと思ってカンパしてくれ」というカンパ活動もよくおこなわれました。失業や病気・ケガは次から次へとおきてくるので、やがて給料の一部を出し合ってそれを貯め、仲間が困ったときに助け合う共済活動のようなものをはじめるようになりました。この貯めたお金をあずかって支給することをまかされたのがパブのマスターでした。のちの労働組合の書記長のルーツともなります。労働者の最初の団結がパブで生まれたのです。その団結は、同じ職場でなく、最初から企業の枠をこえた同じ職種の仲間どうしでつくられたことが特徴です。

 しかし、こうした共済活動だけでは、悲惨な境遇をとても改善することはできません。また、何人かで相談して資本家に「お願い」という形で要請しても、資本家に無視されるのがオチでした。

 労働者の団結を飛躍させるきっかけになったのは、ストライキ◆2という闘争手段の発見です。 

 ストは、突然賃金を切り下げられたり、仲間が機械にはさまれ殺されたとき、「冗談じゃない。バカらしくてやっちゃーおれない」と作業をストップする形で自然発生的におきました。工場長は「早く仕事につけ」と労働者をどなりつけ、資本家も大あわてします。うろたえる相手をみて、ストが、かつての暴動や「機械うちこわし」と違って、なにもこわすことなく、それでいて資本家に大きな打撃をあたえ、要求を実現する上できわめて有効な闘争手段となることに労働者は気がつきました。

 やがてパブは、ストを相談する場所になります。労働者の多くが、要求やストなどの戦術について合意・納得していなければストは成功しません。ですから話し合って合意を固めるスト委員会のような組織やその指導者(のちの労働組合の委員長のルーツとなりました)が、どうしても必要になります。パブでビールを飲みながらの話し合いですから、ときにはケンケンゴウゴウ、騒然とした状況になります。そこをスト委員長が徹底した討論で一致点を見つけ出し、ストが敢行されていきました。

 当初は、要求が実現すればスト委員会は解散していました。けれども一時的なスト委員会によるストや一時的な要求実現だけでは、必ずその後の資本家のまきかえしで負けてしまいます。試行錯誤がつづくなかで、やがて資本家とたたかって日常的に労働者の生活と権利をまもるための恒常的な団結の組織として、一八世紀の後半期に労働組合が世界ではじめて誕生したのです。パブでの共済組合や議会への請願団から労働組合が誕生する場合もありました。このようにパブでの共済活動やストは、労働組合を誕生させるゆりかごのような役割をはたしたのです。

◆政府・資本家団体を相手とするたたかいへ

 ストや労働組合の社会的なひろがりは、資本家にたいへんな脅威を与えました。ですから資本家も結集して産業別の資本家団体をつくり共同で対抗するようになりました。資本家は共同の力で、警察を動かしてストを弾圧し、◆3さらに政府を動かして団結禁止法を制定し(一七九九年)、労働組合をつくることもストも、すべて犯罪としてとりしまりました。

 弾圧下の非合法のもとでも、労働者・労働組合はたたかいをやめることはありませんでした。パブの入り口に小さな穴をあけ、そこから警官の立ち入りを監視して組織をまもったりしました。非合法のもとで「機械うちこわし」などが再び行われる場合もありましたが、労働者・労働組合は、政府や議会に団結禁止法の撤廃を要求するなどねばりづよい行動をつみかさね、ついに団結禁止法を撤廃させ、団結権をはじめてかちとることに成功しました(一八二四年)。

 しかし、団結禁止法を撤廃させた後も、まだまだたいへんでした。ストをすると犯罪として刑事罰◆4でとりしまられたり、資本家からストの損害賠償を訴えられたり(民事罰◆4)するなど、さまざまの弾圧がつづいたからです。しかし、これらに屈せず、とうとう一八七五年には刑事免責を、一九〇六年には民事免責をかちとります。

 実に100年にもおよぶたたかいを通じて、労働者の生活と権利をまもる上で欠かせない、労働基本権(団結権・団体交渉権・団体行動権)を、名実ともに手にすることができたのです。

 団結権だけではありません。参政権のなかった労働者は、普通選挙権の実現をもとめて一八三六年から一八四八年にかけてチャーチスト運動◆5という一大政治闘争もおこないました。政府の弾圧によって運動は衰退していきますが、やがて一九世紀後半から二〇世紀初頭に段階的に普通選挙権が実現していくことになります。

 まだ、あります。団結禁止法撤廃以降、労働者・労働組合は、一四~一五時間にもおよぶ長時間労働を法律で規制することで、健康をまもるとともに文化的活動、社会的活動を保障させる、たたかいをはじめます。長時間労働を規制するには、個別企業や産業別の闘争だけでは不十分で、法律による規制が決定的な役割をはたすからです。法律による規制は、最初は児童や女性に、やがて成人男子労働者へとひろげられていきます。一八三三年には工場法が制定され工場監督官(今の日本の労働基準監督署の監督官にあたる)も生まれます。一八四七年には、労働組合などの「一〇時間運動」の成果としてついに一〇時間の標準労働日◆6を獲得します。これは児童と女性に適用されたものですが、成人男子へと波及し一九六七年に男子にも適用されていきます。これらのたたかいは、二〇世紀前半の八時間労働制につながる基礎を築くことになります。このイギリスの労働者・労働組合の標準労働日獲得のたたかいは、その後の体系的な労働者保護法◆7を軸にした働くルールを保障する勤労権獲得のさきがけとなりました。つまり、賃金や労働条件の最低限を法律で定め、それ以下で労働者を働かせる使用者は罰せられることで、人間らしく働く労働者の権利を保障するルールが、史上はじめてつくりだしたのです。

 さらに二〇世紀にはいると、労働者の暮らしの改善にとってきわめて重要な社会保障制度実現のたたかいへと労働組合の闘争領域がひろげられます。

◆団結とたたかいこそ貧困打開の唯一の道

 以上紹介したイギリスの労働者・労働組合のたたかいは、多くの資本主義諸国の労働者・労働組合のたたかいとも共通するものでした。戦前、絶対主義天皇制の過酷な支配のもとにあり、権利を奪われていた日本の場合も同じです。労働組合やストのひろがりにたいして、一九〇〇年に治安警察法◆8が制定され、労働組合をつくったり入ったりストをおこなうことが禁止されました。しかし、労働者・労働組合は、治安警察法一七条撤廃のたたかいをねばりづよくすすめ、一九二六年に削除させました。また普通選挙権獲得◆9や労働者保護法制定のたたかい◆10にもとりくみました。それらのたたかいは、戦後の日本国憲法で明記された団結権、勤労権、生存権などの実現につながります。その実現には、イギリスの労働者たちをはじめとする世界の労働者のたたかいの成果が大きく反映したのです。

 資本主義のもとで、労働者は資本家の搾取のもとにおかれ、おたがいに競争させられ、状態の悪化を余儀なくされます。しかし、労働者は、その現実に決して甘んじていたわけではありません。一人ひとりが資本家に対抗してもとうてい勝ち目はありませんが、多数であるという数の力を結集して団結し、そして学んでこそ、はじめて資本家に対抗する力関係をつくることが可能となります。労働者は試行錯誤しながら、また、学びながら、この事実を自覚し、やがて労働組合という団結のとりでをつくりあげ、それをより所にして今日にいたるまで生活と権利をまもってきました。

 しかし資本家も、必ずこれに対抗して労働組合を弾圧し、分裂・弱体化させる方策をとってきます。さらに政府を動かし、弾圧法や低賃金政策などさまざまな法律・制度を制定・活用して搾取の強化をはかろうとします◆11

 これに対抗するためには、労働者が資本家や政府の攻撃を上まわる団結をつくりだす他に道はありません。イギリスの労働者たちは驚くほど早くから、職場・地域で個々の資本家や資本家団体とたたかうだけでなく、強大な政府を相手にたたかってきました。労働者の状態を改善するためには、法律・制度がたいへん大きな役割を果たすことに気づいていたからです。昔も今も同じです。団結を拡大して国政・地方政治への影響力を強め、労働者・国民の生活をまもる法律・制度をつくり改善していくたたかいを、私たちも重視していく必要があります。

 労働者は、汗まみれとなり時には血を流して、団結とたたかいによってみずからの生活と権利をまもりつづけてきました。「自己責任」だからと自力で解決する道、あきらめてがまんする道、会社を大きくして資本家の恩恵に頼ろうとする道、など別の道もなかったわけではありません。しかし、これらの道を選択しませんでした。たとえこうした道を選択しても労働者の状態を根本的に改善することは不可能だからです。なぜならば、前回のべたように、労資の利害は根本的に対立しており、団結とたたかいによって資本家と政府に譲歩をせまる以外に資本主義が必ずもたらす労働者の貧困を打開する道はないからです。このように団結とたたかいこそ人間らしい労働と暮らしを実現する唯一の道なのです。

 

日本の居酒屋と違ってもっとひろく、新聞や雑誌、玉突き場もおかれ、ときにはバザーなども開かれ社交場のような役割ももっていました。

賃金や労働条件の改善を要求し、それが受け入れられなければ一定期間働かないというという労働者の闘争手段。当時の綿工場では、よく蒸気機関を停めて機械作業を中止においこむ形でストがおこなわれました。

以上のようなイギリスの労働者の労働組合結成や資本家の弾圧の経過は、映画「ドレイ工場」と同じだと思いませんか? 今日の日本の職場でも同じ労働運動発展の法則が働いているのです。

刑事罰とは刑法などでストを犯罪として取り締まること、刑事免責とはストが犯罪とならないこと。民事罰とは民法などでスト損害を要求できること、民事免責とはストで損害を要求されないこと。日本の労働組合法ではストについて刑事免責・民事免責を明記しています。

男子普通選挙権などを要求する人民憲章の実現をめざす運動。議会への請願運動やストとの結合など多様な形態をとった労働者階級独自の世界最初の政治闘争。

法律による1日の労働時間の規制

労働者に有利な労働条件を享受する権利を保障する法。日本では労働基準法、労働安全衛生法、最賃法など。

日本の労働組合結成はイギリスから約100年後。その弾圧のために1900年に治安警察法を制定し、その17条で労組結成の運動やストへの参加の煽動を禁止しました。

自由民権運動や明治期の労働組合のなかで早くも普通選挙権のスローガンが掲げられ、大正時代に普通選挙運動が高揚し、1925年に男子のみの普通選挙法が治安維持法とひきかえに成立。

10 労働時間制限など工場法をもとめるたたかいは明治期の労働組合からとりくまれ、1911年に工場法が成立1916年施行。この工場法は、12歳以下の児童労働の禁止、16歳以下の児童と女子に12時間以上の労働と深夜労働を制限、しかも15人以上の工場に限定するなどきわめて低い水準の保護法でした。

11 今日の日本の労働法制改悪や社会保障改悪は、イギリスの労働者たちをはじめ世界と日本の労働者がかちとってきた勤労権や生存権などのたたかいの成果を産業革命の時期の一九世紀段階にもう一度戻すような攻撃です。

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🔵労働組合運動史のエピソード

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◆労働組合はパブからはじまった(浜林正夫)

◆ストライキのはじまり(浜林正夫)

◆日本のストライキのはじまり(谷川巖)

◆日本の労働組合のはじまり(浜林正夫・犬丸義一ほか)

◆赤旗のはじまり

◆メーデーのはじまり(小林勇)

◆フランスの反ファッショデモ=統一戦線のはじまり(小林勇)

◆労働用語の由来

🔴◆◆労働組合はパブからはじまった

(浜林正夫) 

 イギリスの労働組合がパブから生まれたということは、よく知られているが、その理由については余り知られていない。パブというのは、いまでもイギリスにはいたるところにある酒場だが、パブリックハウス(公共の家)の略称で、もともと宿屋や食堂を兼ねた町や村の集会場であった。18世紀ごろ、職人や労働者が友愛協会という一種の共済組合をつくるようになると、そのときにもパブにその事務所がおかれ、そこで定例の会合が開かれ、共済の掛け金もパブにおかれた箱に入れられたので、友愛協会は、別名「ボックス・クラブ」とも呼ばれていた。会議のあとは、ビールパーティが多かったので、パブの方でもよろこんで事務所を提供し、パブの主人が基金を管理するなど友愛協会の事務を引き受けていたのである。そこで人手を必要としている雇い主の方もパブへいって職人や労働者をさがすようになる。パブの主人は職をさがしている職人や労働者のリストをもっており、雇い主の間で就職のあっせんをし、ときには賃金の支払いもパブでおこなわれていた。パブは一種の職業紹介所でもあったのである。

 やがて大工はどこのパブ、仕立て屋はどこのパブ、というように、業種によって集まるパブが決まってくるようになる。そしてそこで賃金や労働時間についての交渉がはじまる。職人や労働者は、パブを拠点として組織をつくるようになり、たとえばロンドンの洋服仕立て職人は、18世紀のはじめに5つのパブにクラブをつくり、これが連合して職能別組合をつくっていたが、18世紀の後半になると加盟クラブ数は42に増え、代表者会議と執行委員会を組織し、基金ももつようになっていた。このように組織化がすすんでくると、雇い主の側は、パブを嫌い、パブ以外のところで人をさがすようになる。しかし、パブを通さないで人を雇うと、これは「もぐり」だということになり、この雇い主にたいしては、一切求人に応じないというボイコット戦術がとられたばかりでなく、しばしば「もぐり」の職人や労働者にたいして暴行が加えられることもあった。このため、雇い主の側もパブを拠点とした職人や労働者の組織を「必要悪」として認めざるをえなくなり、同時に政府や自治体にたいして団結禁止法の制定を要求しつづけてたのである。パブの主人は、職人や労働者の団結を助け、その味方になることもあったが、ときにはツケで飲ませて賃金の大部分をまきあげてしまうこともあり、労働者たちは「パブにしばりつけられている」という状態におちいったともいう。

 このように、イギリスの初期の労働組合は、パブを拠点として、企業の外にできたのである。日本のような企業内組合では、まず会社に就職してから組合に入る。会社がつぶれれば組合もつぶれる。しかし、イギリスの場合は、まず労働組合に入る。組合が就職をあっせんするのだから、組合に入らなければ職につくことはできない。会社がつぶれても組合はつぶれないから、失業したら組合へもどって別の働き口をあっせんしてもらうことになる。これがクローズド・ショップ制(労働組合員以外は雇用しないという制度)なのであって、イギリスの労働組合の誕生期をふりかえってみると、この制度ができあがってきた事情がよく理解できるであろう。

🔴◆◆ストライキのはじまり 

(浜林正夫) 

 ストライキを日本語に訳すと「同盟罷業(ひぎょう)」ということになるが、いまの若い人たちは「同盟罷業」といわれても、なんのことかわからないだろう。ストライキは、野球のストライキと同じ単語で、これをストライキと発音するのは、明治時代の英語の読み方である。ではなぜストライキが「同盟罷業」という意味になったのだろうか。字引を引いてみると、船の帆をおろすという意味もある。ストライキの語源は、この「帆をおろす」ということだったといわれている。世界でもっとも権威があるとされているオックスフォード英語辞典によると、1768年にイギリスのある港町で水夫たちが賃上げを要求し、船主がこれをみとめなかったために、船の帆をおろしてしまって出港を拒否したというのが、ストライキという単語が「同盟罷業」という意味で用いられるようになったはじまりだという。最近の研究では、1768年が最初の用例ではなく、もう少し前からストライキという言葉が「同盟罷業」の意味で用いられていたとされているけれども、18世紀のイギリスでストライキをあらわす言葉としてしばしば使われていたのは、「ターン・アウト(出ていく)」という言葉である。

 この頃のストライキはどのようにおこなわれたのだろうか。古い例では、1677年にイギリス西南部のある町で起こった織布工のストライキの記録がある。それによると、アトキンズという織布工が賃上げを要求し、職場放棄をして街頭に出て「おれにつづけ」と方々の職場へよびかけをし、しだいに仲間を増やして、フィドラー(バイオリンの一種)ひきを先頭に町をねり歩いたという。まだ工場制度ができる前のことだから、労働者が一カ所に集まって仕事をしていたわけではなく、方々の家で親方のもとで2人とか3人とかで仕事をしていたのである。アトキンズのよびかけに応じて、労働者たちが職場からとびだして行列に加わっていったので「出ていく」という言葉がストライキの意味になったのである。おもしろいのは、出ていった労働者が楽隊つきで街頭をねり歩いたということである。これはこのストライキのときだけではなく、18世紀の末ごろまではストライキにつきものの光景であったらしい。これは村祭りの風習を受け継いだものである。その目的は、もちろん一つには、他の労働者へ参加をよびかけることにあったのだが、もう一つにには町中の人々にむかって自分たちの要求の正当性を訴えるということでもあった。さきにあげた1768年の水夫のストライキのときでも、水夫たちはまず町中を行進し、町の中央の広場で自分たちの要求書を読み上げ、それから港へ行って船にのりこんで帆をおろしたという。労働者がまだ分散して働いていた時代だから、雇い主も1人ではなく多数であった。したがってこういう形で労働者側は統一要求を雇い主全体につきつけ、いわば町ぐるみで闘争を組織したのであった。賃金も企業ごとに決められたのでなく、町単位で職種別に決められていた。だから労働組合も企業の内部にではなく、企業の外に、町単位で職種別につくられていったのである。

🔴◆◆日本で最初のストライキ 

(谷川巌) 

 日本最初のストライキは、山梨県の甲府の製糸女子労働者によって行われました。1876年に中澤喜八か経営する生糸製作所です。同じ甲府の雨宮製糸のストは有名です。1885(明治18)年、山梨県甲府の製糸女子労働者(当時女工、工女といった)によって行われましたが、翌86年には、甲府雨宮製糸の女子労働者たち百余名が6月14日、近くの寺にたてこもってストライキに立ち上がりました。それは、県下の製糸業者が同業組合をつくり、「工女取り締まり規約」を定めて、実働14時間をさらに40分のばし、これまで「上等」で1日32.3銭であった賃金を22.3銭に切り下げようとしたのにたいして、がまんができなくなったためでした。

山梨日日新聞

 「すこし遅刻しても同盟のきびしい規制でようしゃなく賃金を引き下げられ、長糞、長小便は申すにおよばず、水いっぱいさえ飲むすきのないのに、工女たちは腹をたて、雇い主が同盟規約という酷な規制をもうけ、わたしらを苦しめるなら、わたしらも同盟しなければ不利益になり、優勝劣敗今日において、かかることに躊躇すべからず。先んずれば人を制し、おくるれば人に制せらる。おもうに、どこの工女にも苦情あらんが、苦情の先鞭はここの紡績工場よりはじめん、といいしものあるやいなや、お竹、お松、お虎のめんめん、ひびきの声に応ずるごとく」といっせいに職場をひきあげて、近くの寺にたてこもったと『山梨県労働運動史』はのべています。

 会社はびっくりして、「首謀者」と話し合った結果、6月16日には、出勤時間を1時間ゆるめる、その他優遇策を考える、ということで争議は解決しました。この雨宮製糸のストライキは、同じようなひどい規制で苦しめられていた他の製糸工場へとひろがっていきました。(谷川巌『日本労働運動史』より) 

🔴◆◆日本で最初の労働組合 

(犬丸義一) 

 日本の資本主義の発達とともに労働者階級が形成され、労働者階級の闘争もはじまりました。当初は自然発生的な闘争でした。明治の初年から生野鉱山、佐渡銀山、高島炭鉱などで自然発生的な暴動が起こっています。また1886(明治19)年には、山梨県甲府の雨宮製糸の女子労働者によるストライキが起こっています。この前年にもストライキが甲府の製糸工場で起こっています。これらが日本で最初のストライキです。まだ労働組合はなく、自然発生的なたたかいでした。1894~95年の日清戦争は、産業革命の契機になり、労働者階級が成立し、労働者のストライキ闘争が各地に起こりました。当時の労働情勢はおよそ次のようでした。1894(明治27)年には、10人以上の従業員を使用する民営工場の数は、5985でしたが、1897年には、7327工場に増えます。労働者数も40万人をこえ、その65%、26万人は女子労働者でした。こうして日本における資本と労働の対立が一定の物質的基礎をもって展開される条件が成立しつつあったのでした。1897(明治30)年には、これまで一桁から二件台だった労働争議件数が一挙に116件にはねあがりました。資本の搾取と支配にたいする労働者のたたかいは、個人的抵抗の段階から集団的暴動をへて、ストライキを武器とする団結、労働組合結成へとすすんできたのです。

 争議の頻発を契機に労働者の組織が次々につくられました。4月に城常太郎らによる職工義友会がつくられました。その演説会では、「労働組合をつくることは労働者の利益を促進する最良の手段である」「労働者は自分自身と家族のためにも、いまこそ勇気を出して立ち上がるときだ。そしてその義務があるのだ」とよびかけられました。 

7月には、アメリカで労働組合運動を学んだ高野房太郎、片山潜が労働組合期成会を結成し、全国を遊説して労働組合の結成をよびかけました。12月には、機関誌「労働世界」が発刊されました。期成会の設立趣意書はこううたっています。「労働者を労働組合に組織することによって労働者に自主独立の気風をよびおこし、労働者の権利と地位をまもるとともに、みずからの経済的地位を友愛的にまもるために共済活動をすすめる」(口語訳)。しかし、期成会は、その名称が示すように、労働者に労働組合をつくるようによびかけ、準備をするための団体であり、それ自体まだ労働組合ではありませんでした。1897年の12月には、金属機械工を中心に鉄工組合が1184名で結成されました。これが日本最初の労働組合でした。いまからちょうど100年前で、今年は日本の労働組合の歴史も100年を迎える記念すべき年なのです。この翌年の2月25~27日には、日本鉄道で労働者のストライキ闘争がたたかわれ、この闘争のなかで日本鉄道矯正会(日本鉄道会社の機関士、火夫の組合=98年4月)がつくりだされました。労働者の基本的大衆組織である労働組合を結成するに至った点で、従来の自然発生的段階と異なった新しい組織的闘争の段階を迎えたことを示しています。またこの翌年には活版工組合(99年)がつくられました。この結成には、労働組合期成会の働きかけがありました。約2000余名が参加しました。この当時の労働組合は、共済活動を主とするものであり、賃上げなどの労働条件の向上のためにストを最後の武器として労働協約を結ぶことを任務とする組織て゜はありませんでした。また労働組合運動と平行して社会主義運動も起こり、社会主義協会などがつくられました。労働組合運動の前進に驚いた資本家階級と政府は、1900(明治33)年、治安警察法を制定し、弾圧をはかります。その17条は、実際は労働者の団結権、ストライキを弾圧する法案で、これに違反すると犯罪者として逮捕されるので、発足したばかりの労働組合運動には大打撃で「労働組合死刑法」とよばれ、やがて労働組合運動は消滅したのでした。 (『学習の友』97年10月号より)

以下『物語日本労働運動史』(犬丸義一・中村新太郎、新日本出版社)から鉄工組合の状況を紹介しましょう。

 「まず最初に鉄工組合が1897(明治30)年12月1日、東京神田のキリスト教青年会館で発会式をあげ、鉄工(金属工)1180人をはじめ、労働組合期成会会員、来賓あわせて1300人が集まりました。来賓には、大審院長、農商務省工務局長、逓信省技師、砲兵工廠技師などが顔をみせ、最後に鉄工組合万歳を三唱、君が代をうたって式をとじました。まもなく官営東京砲兵工廠の鉄工六百数十人がどっと参加してきました。このように鉄工組合の結成にあたった組合加入者は、第1に砲兵工廠など官営企業に属する労働者が中心でした。当時の砲兵工廠は、企業のなかではめずらしい大量生産体制をとった工場であり、鉄工組合結成の活動家は、このような産業的諸条件のなかから生み出されたものでした。また、彼らは、第二に、ほとんどが旋盤工・仕上げ工という新しい技術にもとづく新型職種の労働者でした。第三に、彼らは、下級職長以下の若手熟練工でした。彼らは、職業別に団結して、たがいに情報を通じ合って、労働諸条件の共同向上をはかり、当時の『富国の道』である新しい工業化の条件に積極的に呼応し、自分たちの地位を高めるために鉄工組合に結集したのでした。彼らの主張は、職業的労働組合主義でした。鉄工組合の規約は全文130条にちかい長いもので、本部の事務分掌は救済””会計””庶務にわかれ、救済に重点がおかれていました。いわゆる共済団体の性格をもっていました。また規約第101条は、組合員が雇い主と紛議を生じたときは、その紛議にたいして仲裁の労をとることを規定しています。このような点が当時の組合の特徴で、賃金、労働時間をはじめ、いっさいの労働条件の維持と改善のために労働者の基本的三権を行使する今日の労働組合とはだいぶ違っていました」。

  つぎに日鉄矯正会の労働者のたたかいです。「現在のJR東北本線(上野-青森)は、そのころ最大の鉄道会社だった日本鉄道会社(資本金1000万円)が経営している民営鉄道でした。路線延長1285キロ、従業員は1万人をこえていましたが、労働者の待遇はひどいものでした。

  1898(明治31)年2月、日本鉄道の各駅に、どこからともなく一通の秘密印刷物がまいこんできました。このビラは、機関方、火夫のたえがたい生活を日清戦争中、鉄道従業員は準軍人とよばれ、まるで馬車馬のように運転しているではないかと訴えていました。さらに待遇を改善すること、機関方、火夫一同臨時昇給のこと””機関方を機関手に、心得を機関心得に、火夫を乗組機関生に、掃除夫を機関生と、名称を改めること。そしてこの要求を、二銭の郵券(切手)を奮発して、東西南北より、社長、副社長、課長に嘆願することなどを訴えていました。この結果会社には各駅から請願書がぞくそ゛くと送りつけられ、会社は密偵により、首謀者10人を解雇。これにたいして福島駅をはじめ東北各駅から400余名がストライキに入り、24日夜から一列車も走らずという状況になりました。日本で最初の大規模なストライキは、世論の支持と機関方のかたい団結によって2月27日までつづけられ、労働者側の大勝利に終わりました。4月5日、約1000人の日鉄機関車乗務員たちは、日本鉄道矯正会という労働組合を結成しました。これこそ闘争の中でつくられた戦闘的労働組合であり、片山潜は日本鉄道矯正会を交戦的労働組合の標本とよびました」。

  この日鉄労働者の闘いの具体的な状況は、『学習の友』97年10月号から開始された「物語・日本の労働組合」の第1回「日鉄同盟罷工と石田六次郎」(三上秀光)をぜひお読み下さい。

🔴◆◆たたかいのシンボル、赤旗の由来は? 

2008723()「しんぶん赤旗」 

 〈問い〉 労働者のたたかいのシンボル、赤旗の由来は? フランス革命と関係はありますか?(東京・一読者)

 〈答え〉 赤旗は「古来、奴隷・労働者が支配者に反抗する場合、用いられた」(冨山房『国民百科大辞典』)といわれ、エンゲルスの『ドイツ農民戦争』にも「〔1525年〕農民は蜂起し、沼で囲まれた陣営に集結して、赤旗をうちたて部隊をつくった」という記述がみられます(全集7巻387ページ)。

 18世紀末のフランス革命では当初、赤旗は異なる意味をもちました。(平凡社『世界大百科事典』は「赤は革命の象徴であるといわれるが、起源を探ってみると、元来の赤旗は反対の性質のものであった」と記述)。

 1789年バスティーユ襲撃ののち、国民議会はパリ市内の暴動に備えて、戒厳令の際には家の窓に赤旗を掲げ、治安が回復したら赤旗をしまうという軍法を定めました。しかし91年7月、国民議会の命令で軍隊が市民を虐殺、怒った民衆は翌92年、「戒厳令の旗、即ち有産階級の弾圧の流血的象徴である赤旗を奪った。彼らはそれを反乱の信号、またはむしろ新権力の標章となす」(ジャン・ジョレス著『仏蘭西(ふらんす)大革命史』平凡社)のです。ジョレスは、赤旗はけっして復讐(ふくしゅう)の旗ではなく「自己の権利を意識する新しい権力の輝かしい旗であった」とも書いています。

 しかし、権力をにぎったジャコバン派は赤旗を自分たちの旗にはせず、三色旗を掲げました。その後、1831年のリヨンの絹織物労働者の蜂起では「絶望と困窮」を示す黒旗が掲げられました。

 それが大きく変わるのは1848年の二月革命でした。バリケードに最初は赤旗と三色旗が並んで掲げられますが、ルイ・フィリップ王政にたいする批判が高まるにつれ、三色旗は少なくなり、多くの死者がでた6月蜂起では赤旗が高々と掲げられました。マルクスは「6月反乱者の血にひたされてはじめて、三色旗はヨーロッパ革命の旗―すなわち赤旗となった!」(『フランスにおける階級闘争』全集7巻32ページ)と書きました。 

 1871年、樹立された史上初の労働者階級の政府パリ・コミューンは、赤旗を標識にしました。マルクスは「旧世界は、パリ市庁の屋上にひるがえる労働共和国の象徴、赤旗をみて、怒りの発作に身をふるわせた」と書きました(『フランスにおける内乱』全集17巻320ページ)

 こうしたフランスでの経過をへて赤旗は、世界の労働者、人民のたたかいのシンボルになっていったのです。(喜)

 〈参考〉浜林正夫『パブと労働組合』新日本出版社所収のコラム「赤旗の由来」〉〔2008・7・23(水)〕 

🔴◆◆メーデーのはじまり 

(小林勇)  

 1889年パリで開かれた第二インターナショナル創立大会のいちばん重要な決議は,5月1日を国際労働運動のデモンストレーションの日とさだめたことであった。この決議は,1890年5月1日を期して8時間労働制のためのゼネストをおこなうよう訴えたアメリカ労働総同盟(AFL)の提案を支持したものであった。この決議にもとづいて,ヨーロッパとアメリカでメーデーがたたかわれた。その後の大会でもこの決定かくりかえされ,5月1日はついに世界の労働者のきまった行事、世界的なたたかいの日となった。

 アメリカ労働総同盟が最初にメーデーを提案したのは,決して偶熱ではない。当時、ヨーロッパでもアメリカでも資本主義が急速に発達し、階級闘争もますます鋭くなっていた。とりわけアメリカで階級闘争は激烈をきわめ、激しいストライキかあいついだ。シカゴは闘争の拠点となっていた。要求の中心は8時間労働の実現であった。そのころすでにアメリカでは多くの労働組合が10時間労働を獲得、さらに8時間に短縮しようとたたかっていた。1886年、シカゴでは緊張は3月から4月にかけて日ごとに高まった。もし5月1日までに8時間労働制が認められなけれは、当日を期してゼネストが敢行されることになっていたのである。

 その日、シカゴは快晴たった。土曜日で,ふだんなら仕事のある日なのたが,工場や倉庫は閉じたままで、ひっそりとしていた。ただ大通りだけがデモ行進に参加する労働者の群れで、活気があった。警官隊との衝突や流血の惨事などどこにも見られなかった。こうして5月1は事もなくすぎ、州の軍隊も警察も平常の勤務にもとった。事件が起きたのは翌々日の日曜日のことであった。夕方、ヘイマーケット広場で集会が開かれていた。その日、同じシカゴで農機具工場のストライキを警察が攻撃、6人の労働者を殺したことに抗議するためであった。集会が解散する直前、待機していた警察隊が突如おそいかかった。大混乱のさなか、恐ろしい爆発が起き、7人の警官と4人の労働者が死んだ。後年、これがでっちあげであることか明らかになったが、この爆弾事件を理由に数百人もの労働者が逮捕され、その後の裁判で主謀者として指導者7人に死刑、1人に15年の禁固刑が申し渡された。こうしたきびしい弾圧は、8時間労働の要求が当時の資本家にとって,いかに重大な脅威であったかを物語るものである。

  労働者の怒りと抗議は全米に燃えひろがり、AFLは、1888年の大会で、90年5月1日を全国ストの日ときめ、第二インターナショナルもこの決定を支持したのである。注目されるのは,第二インターナショナルの討議のさい、改良主義的指導者が5月1日のかわりに5月の第1日曜日を行動の日とすることを主張したことである。狙いはメーデーを闘いの日でなく休養の日に変質させることにあった。イギリス労働組合会議(TUC)などは、実際にもその通りにした。AFLの場合は,自らメーデーを提唱しておきなから,その後の労資協調路線の末、メーデーを5月第1月曜の「レーバーデー」に変えてしまった。しかし今日,英米なと世界各地で、5月1日は労働者の国際的なデモンストレーションの日として圧倒的多数の労働者・労働組合によってまもられている。

🔴◆◆フランスでの反ファッショのデモ=統一戦線のはじまり 

(小林勇) 

  1960年安保闘争のときには、いわゆるフランス・デモをさかんにやったものである。両手をひろげて隣りの人と手を結び、道路一杯に広がって行進するのである。たが本場(?)フランスのデモで両手をひろげるのは、道路の両側面で、行進を守るように進んでいる人たちだけ、あとは道路をぎっしり埋めつくしたデモ隊がゆっくりと、力強く前進していくのである。それにしても1934年2月12日のパリのデモは、これまでとは一風変わっていた。その日の昼すぎ、それぞれ別個に隊列をくんだ二つのデモ隊が,ヴァンセンヌ散歩場を幅一杯に,ゆっくりと向かいあって進んだ。一つは反共の労働総同盟(CGT)、もう一つは労働総同盟から排除された統一労働総同盟(CGTU)であった。あと30mでぶつかるという地点で、二つのデモ隊がしばらく停止した。すれ違って進むか、引きかえして背を向けるか、それしかないように見えたが、もはやそれは不可能であった。数日前から力強く吹いていた統一の風が突風化した。二つの隊列はそのまま進み,歓呼の声をあげてまじりあい、一つの隊列にとげあった。

  この日フランス全国の300都市て500万の労働者が24時間の全国ストを展開した。これはフランス労働運動史上初めてといっていいほどに成功したゼネストであった。パリでは100万をこえる労働者がストに参加し、デモを展開した。パリのデモも最大の大衆的示威運動となったのである。1933年にヒトラーが政権をにぎることに成功したことから、各国のファシスト勢力も大いに奮いたった。翌34年2月、フランスの反動勢力もいよいよ実力を行使する時が来たと考えた。かれらは当時、フランスの政界をゆるがした一大汚職事件を利用した。それは日本のリクルート事件にも匹敵するものであった。ファシストの諸団体は反政府デモをくりかえし,さらに暴動をひきおこして下院の奪取までくわだてた。この混乱で内閣は総辞職し、そのあとをついだ内閣もわずか一日で辞職、結局,半ファシスト的なズーメルク政権が出現した。

  2月12日のゼネストはこうした状況のなかでたたかわれた。フランスの労働者階級はセネストの成功をかちとることにより、ファシズムを敗退させた。この反ファシズム闘争で決定的な勝利の要因は、労働者階級のたたかいであった。しかしこのたたかいが有効てあるためには、労働者階級の統一が必要であった。2月の闘争はまず行動の統一を実現した。そればかりか、1936年の組織の統一を可能にしたのである。もともと分裂(1921年)は、反共の幹部によるものであった。だがそれ以後CGTは、労資協調の傾向を強め、しだいに力を失なってきた。それでもかれらは、たび重なる統一の呼びかけをかたくなに拒否してきたのだが、ついに2月12日のデモで、統一派も総同盟派もがっちり腕をくみ、ついに組織の統一にまで前進した。そればかりか統一行動の発展は、中間層の人びともひきつけ、人民戦線の強力な基盤をつくりあげたのである。この点で2月12日のデモは、フランス労働運動史のーエピソードというには、その意義は余りにも大きいかもしれない。

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🔵労働用語の由来

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◆「ストライキ」という言葉の起源

 労働者が団結して労働力の提供を拒否し作業を中止する争議行為のことをいいます。このStrikeは、「帆(ほ)を降ろす」という船乗り言葉からきています。帆船での航海中、イギリスの船乗りたちを文字どおり死ぬほど苦しめる船主や船長がいました。「もう少し人間らしく生きてるように扱ってもらいたい」という嘆願も無視されたとき、彼らは船主にたいして抗議をして、言い分を聞いてもらおうということで、帆を降ろして船を立ち往生させたのです。

◆「サボタージュ」という言葉の起源

 Sabotage=「怠業」=外形的には、仕事を継続しながら、意識的に資本家の指揮命令に部分的に服しない争議行為のことをさします。フランス語のSabot(木靴)からきています。フランスの初期の労働者、とくに工場で働いていた貧しい労働者たちは、木靴をはいて仕事をしていました。余りにも工場主や親方が苛酷な仕事を押しつけてきたとき、彼らは木靴で機械をけとばして、機械の一部をこわして抵抗しました。そして機械を直すつかの間の休みを楽しんだことからこの言葉が生まれました。なお現在欧米ではサボタージュは言葉通り機械などの破壊行為として使われています。

◆労働組合の旗の赤色の起源

 第2インターが決定した1890年に世界的に第1回メーデーが開催されたとき、赤旗を先頭にたててデモが行われました。それ以来労働組合や社会主義政党が赤旗を掲げるようになりました。もっと起源をたどれば、フランス革命時代、ジャコバン党が権力を握った1792年に「宮廷の反乱にたいする民衆の戒厳令」と書いた赤旗をたてて、反革命をおさえつけてからは、赤旗は、「民衆の旗」としてシンボル化され、1848年の2月革命のときにも、1871年のパリ・コミューンのときにも赤旗が掲げられました。UI(ユニオン・アイデンティティ=労組の「シンボル革新」)で労組の旗を青色に変えたりするのも、メーデーを5月1日以外にするのと同じ歴史的な伝統を放棄するものです。

◆「左翼」という言葉の起源

 ー般に「左翼」は進歩・革新勢力、「右翼」は、保守・反動勢力を意味します。この言葉は、フランス革命期の国民大会で、議長席から見て右側の議席にジロンド派(穏健派)、左側の議席にジャコバン派(急進派)が占めたことに由来します。労働組合は「左翼」の一翼を担っていますが、労働運動の「右翼的潮流」は、「右翼」を補完します。

◆サラリーマン、ボーナス、給料という言葉の起源

 賃金は「サラリー」「給料」「月給」「俸給」などとよばれています。もとはラテン語で「塩を買うための支給金」のことです。Salarisalは、塩という意味です。古代ローマの兵士たちは、労働に必要な塩を買う代金を支給されていました。後には塩を買うことは名目だけになって、「兵隊の給料」の意味になり、その後「給料」とよばれるようになったものです。そして「サラリー」をえて生活している人のことを「サラリーマン」とよぶようになったものです。「ボーナス」(bonus)も古代ローマの「兵士の特別手当」から出たものです。日本語の「給料」は、「料」は、「糧」という意味、「給」は「たまわる」という意味、つまり「家来に与える米、品物」をさします。語源は唐時代にさかのぼりますが、明治のはじめに官吏に「年俸ヲ月賦デ給ス」ようになってから生まれた言葉です。

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🔵産業革命期の初期労働者のたたかい

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【産業革命期の初期労働者のたたかい目次】

◆リンク動画

◆産業革命とは=小学館(百科)

◆日本の産業革命=小学館(百科)

◆産業革命と労働者階級の誕生

◆イギリスのラッダイド運動

◆労働組合はパブからはじまった

◆ストライキのはじまり

◆労働組合とストライキ誕生まとめ

◆イギリスの労働組合の結成とストライキ

◆団結禁止法、スト合法化のたたかい

◆フランスのリヨンの労働者の蜂起

◆ドイツのシュレージェン労働者の蜂起

◆イギリスのチャーチスト運動

◆日本の労働組合のはじまり

◆日本のストライキのはじまり

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🔵産業革命とは=リンクと解説

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★★高校・産業革命と働く人々(高校世界史27 

http://v.youku.com/v_show/id_XMzg4NjkzNDY0.html?x

★★世界史・119 産業革命(教科書241)世界史20話プロジェクト第1347m

★★120 産業革命の影響(教科書244)世界史20話プロジェクト第1325m

★★BBC産業革命とは 

BBCの紡績機の技術革新の動画による説明が役に立つ。ハーグリーブスのジェニー紡績機(細いヨコ糸)。アークライトの水力紡績機(太いタテ糸)。両者を結合したクロンプトンのミュール紡績機(ミュールとは馬とロバの合いの子)によってほぼ完成した。ワットの蒸気機関の発明により、一挙に自動紡績機化された。織機の方もケイのとびひの発明の後、カートライトが蒸気機関による力織機など技術革新が進んだ。

インドからイギリスへ

産業革命前夜のイギリス

ケイのとびひからミュール紡績機

工場の実態

力織機と新しい動力

オーエン

★★世界遺産=産業革命とその後120m

★★ゾラ原作・ジェルミナール産業革命期の初期炭鉱労働者のたたかい70m

★★ゾラ原作・ジェルミナール産業革命期の初期炭鉱労働者のたたかい70m

★★映画=わが谷は緑なりき(フォード監督。イギリスの炭鉱労働者描く)

http://nicoviewer.net/sp/sm18269626

❷❸は下部から

★チャーチズム1939Newport Rising 3m- FC2

http://video.fc2.com/content/201312165DZhQMN2

◆道和=フランス7月王政期(1830-1847)の労働者新聞労働者の批判的社会意識形成に関する試論

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🔵産業革命とはなにか

小学館(百科)

角山 榮

(1)定義

 過去において、人類の文明史を画期した大きな事件は二つあった。一つは、人類が紀元前8000年ごろにメソポタミア地方で農業を始めた「農業革命」、もう一つは18世紀イギリスで開始された「産業革命」である。現在、産業革命がつくりだした物質文明は、過去における二つの大変革に匹敵するような大きな変革に直面している。アルビン・トフラーAlvin Toffler1928- )はこれを人類史における「第三の波」とよんでいるが、人によっては「第二の産業革命」とよぶこともある。

 18世紀イギリスに起こった産業革命は、農業文明社会から工業文明社会への移行を意味するから、普通これを「工業化」とよんでいる。工業化はその後ヨーロッパ諸国、アメリカ、日本、ロシアなどに拡大し、さらに20世紀後半には、中国、韓国、東南アジア、中近東、ラテンアメリカ、アフリカ諸国に広がりつつある。工業化を簡単に定義することは困難であるが、物質的財貨の生産に無生物的資源を広範に利用する組織的経済過程であるといってよい。すなわち農業社会では、そのエネルギーを人間や動物の筋力か、風力、水力といった自然の力に頼っていた。また生活に必要な炊事や暖房、生産のための熱エネルギーは、主として薪炭に依存していた。これに対して工業化は、こうしたエネルギーの生物的資源への依存から、石炭やガス、石油といった一度消費してしまえば再生不可能な化石燃料への依存に移ることで、その際、新しいエネルギー体系への移行とその経済過程への適用を支えたものは、科学技術の進歩であった。

 こうしてイギリス産業革命は、かつて経済学者のアーノルド・トインビー(1852-83)が主張したような激変的でドラスティックな現象としてではなく、少なくとも16世紀中ごろから工業化が始まったとする見解が今日では支配的である。

 各国の工業化初期段階において、生産的投資が短期間に急速に上昇する現象がみられる。この現象に注目したのがアメリカの経済史家ロストウで、彼はこれをテイク・オフ(離陸)と名づけ、「生産的投資率が国民所得の5%ないしそれ以下から10%以上に上昇すること」という数量的規定を与え、低開発国の工業化に一つの歴史的規準を提供した。彼によれば、テイク・オフ期は各国ともだいたい20年間である。イギリスは1783~1802年、ドイツは1850~73年、日本は1878~1900年(明治11~33)と押さえたが、この期間については異論がないわけではない。

 ところで産業革命は、生産における技術革新と急速な経済成長をもたらしたのみならず、従来の農業社会の構造を根底から崩壊に導いた。生産と消費が一体であった農業社会にかわって、いまや生産職場と家庭は分離し、人々の生活は、労働を売って得られる賃金収入に依存せざるをえなくなった。現代の都市サラリーマン型生活が生まれたのもこのときである。農村共同体の崩壊に伴って、教育、福利厚生、娯楽などの社会的諸機能が共同体から分離、独立するなど、社会組織の大変革が起こった。

 こうした産業革命を最初に経験したのはイギリスであるから、次に主としてイギリス産業革命について述べる。なお、日本の産業革命については「日本産業革命」の項を参照されたい。

(2)起源

イギリスでは早くから封建制度が解体し、農村には独立にして自由な農民層が多く現れていた。また農民を母体とした農村毛織物工業が発達し、農民層分解の進展とともに前貸問屋制やマニュファクチュア(工場制手工業)の形態をとった初期資本主義的生産関係が、他のヨーロッパ諸国よりも順調に現れてきたこと、しかも17世紀中ごろの絶対権力を一掃した市民革命、海外市場・植民地の獲得、海外商業競争に対する有効な重商主義的諸政策と相まって、マルクスのいう本源的蓄積が著しく進んでいた。

エネルギー危機

人類最初の産業革命の引き金となったのは、16世紀中ごろ以降ヨーロッパを襲った森林資源の枯渇・欠乏、薪炭不足に伴う深刻なエネルギー危機であった。ヨーロッパのなかでも、エネルギー危機がもっとも深刻な状態で現れてきたのはイギリスである。これに対してイギリスがとった危機克服の対策は、代替エネルギーとして石炭を家庭用、工業用燃料として組織的に利用することであった。その結果、行き詰まっていたイギリス工業生産は石炭燃料の利用によって活気を取り戻し、1540~1640年の間「初期産業革命」とよばれるような急激な経済成長がみられた。こうしてイギリスの石炭生産量は1540年ごろの年20万トンから、1650年ごろ約150万トン、1700年ごろ約300万トンへと飛躍的な増加をみた。ちなみに17世紀後半のイギリス一国の石炭生産量は、全世界のほぼ85%を占めていたのである。

 石炭に対する需要と生産が増大するにつれ、技術的に解決を迫られた課題がさしあたり三つあった。炭坑の排水問題、石炭の生産地から消費地への輸送問題、鉄鉱石溶解における石炭利用の技術開発がそれである。これらの課題が社会的、技術的に解決されていくなかで産業革命への条件が整備されていく。すなわち炭坑の排水処理の技術的課題は、セーベリーThomas Savery1650-1715)が考案した「坑夫の友」(1698)とよばれるポンプ、ついでニューコメンの「気圧機関」(1712)など初期の蒸気機関の発明を促し、ついにワットの複動式蒸気機関=動力機の発明(1781)に導いた。

 他方、石炭輸送に絡んで登場してきたのが動力エネルギー危機であった。16世紀以降ヨーロッパは増大する動力エネルギー需要を、主として畜力とくに馬力の供給に依存したが、家畜の増加は飼料の増産の必要を高めた。とくに石炭輸送など陸上輸送が急速な成長を遂げたイギリスでは、穀物と飼料の増産を可能にした新しい土地利用形態、たとえば根菜類、クローバーなど飼料作物を導入したノーフォーク式四種輪作法のような技術革新が現れた。それにもかかわらず、家畜と人間が食糧と土地をめぐって競合するという事態が生まれた。家畜の増加が人間の生存を脅かし始めたのである。18世紀イギリスは、まさにそうした畜力増加の社会的限界が危機的状況となって現れた時代であった。人間の食糧と生存のために、いかに畜力を節約するかという問題と同時に、畜力にかわるいっそう効率的な動力をいかにつくりだすかという問題が、18世紀イギリスの最大の社会問題となった。

 畜力の節約のために、車輪の改良、道路の改修、運河の建設といった社会的間接資本への投資が促進されはしたが、動力エネルギー危機は最終的には畜力にかわる新しい動力の出現を不可避のものとした。それを解決したのがワットの動力機である。それは水力、風力、畜力、人力など農業社会の基本的動力を凌駕(りょうが)して動力革命をもたらし、産業革命がまさに「第二の波」の名に値する画期的な技術的基礎を確立したのである。

生活革命

産業革命は綿工業から起こってくる。どうして産業革命がヨーロッパの伝統的産業である毛織物工業からではなく、ヨーロッパにまったくなじみのなかった綿工業から起こってくるのか。その歴史的背景として、17世紀後半におけるイギリスのアジアとの接触、それがもたらした生活革命に注目する必要がある。

 当時のアジアは豊かで、優れた文化が栄えていた。茶、陶磁器、絹、綿布などはヨーロッパ人のあこがれの的となったが、なかでもイギリス東インド会社がもたらした美しく染色したインド・キャラコは、イギリスをはじめヨーロッパ人の間に新奇なファッションとして人気を集め、一種の衣料革命を引き起こした。綿布はドレスのほか、ベッドのシーツ、カーテンにも利用できるため、綿製品に対する需要が庶民の間に急速に広がった。その需要にこたえて、インド綿布に太刀打ちできる綿製品の製造が、18世紀初めのイギリスの国民的課題となった。原料の綿花は西インド諸島においてアフリカ奴隷を労働力とするプランテーションで栽培されたが、綿工業それ自身は、イギリス本国と西アフリカと西インド諸島を結ぶ三角貿易で栄えていたリバプールへ原綿が輸入された事情もあって、リバプールの後背地マンチェスター周辺で始まった。綿工業を推進したのは、旧来の支配階級であった地主や伝統的織物業者ではなく、主として商人およびヨーマンとよばれる農民であり、その多くは宗教的には非国教徒で、国家の援助もなく、自助の精神で企業家になった人たちであった。

(3)経過 

綿工業が主導

こうして産業革命は綿工業から始まった。綿工業における機械の発明は、ジョン・ケイの飛杼(とびひ)の発明(1733)から始まり、紡績部門ではハーグリーブスのジェニー紡績機(1764~67)、アークライトの水力紡績機(1769)、クロンプトンのミュール(1779)、ロバーツの自動ミュール、織布部門ではカートライトの力織機(1785~87)の発明によって、蒸気力を動力とする機械制工場生産が確立した。その中心はマンチェスターおよびグラスゴー周辺であった。綿工業の発展は、鉄工業、石炭業、機械工業といった関連諸産業の発展を促し、石炭と鉄の時代を現出した。

 鉄工業における技術革新で注目すべきは、銑鉄生産過程におけるアブラハム・ダービー1世によるコークス炉製鉄法(1709ころ)と、鍛鉄生産過程におけるヘンリー・コートのパドル法(1783)である。とくにパドル法の発明によって鉄生産は飛躍的に増大した。その中心は南ウェールズ、バーミンガム周辺の中部地方およびスコットランドである。また機械工業においては、従来の時計工業、水車・馬車製造業における伝統的技術を受け継ぎながら、ヘンリー・モーズリーおよびその3人の弟子リチャード・ロバーツ、ジェームズ・ナスミス、ヨゼフ・ホイットワースらによって、精度が高く自動化された旋盤や工作機械がつくられるようになり、1830年以降には機械による機械の大量生産体制が確立した。

鉄道の出現

産業革命の技術的、生産力的成果の総仕上げは鉄道の出現である。鉄道の初期の歴史は石炭輸送をもって始まったが、スティーブンソンの発明した蒸気機関車は、その速度と能率において画期的な成功を収め、鉄道時代を迎えるに至った。まず1825年には石炭を炭坑から水路まで運ぶストックトンダーリントン鉄道が開通し、ついで30年にはマンチェスターリバプール鉄道が開通して商業的成功を収めた。その成功に刺激されて鉄道網は急速にイギリス全土に拡大し、産業資本循環の大動脈を形づくるとともに、国内市場が一挙に広がった。

 イギリスに始まった鉄道建設は、すぐそれに続いて西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国において急速に進められるとともに、19世紀中ごろ以降になるとインド、ラテンアメリカ諸国など後進地域へも鉄道が広がり、鉄道はまさに産業文明のシンボルとなった。こうして世界の鉄道総延長は、1847年には25100キロメートルであったのが、57年には82800キロメートル、67年には155700キロメートルへと飛躍的な発展を遂げた。

 鉄道建設のためには、莫大(ばくだい)な資金、建設資材、技師、労働者を必要とするが、これらすべてを自給できたのはイギリスだけで、大陸諸国、アメリカ合衆国、未開発諸国においては、初期の鉄道建設にあたって、資金、レール、機関車、建設技師など、なんらかの形でイギリスに依存したのである。しかし先進資本主義国においては、鉄道建設ブームは、ロストウのいうテイク・オフのための主導部門を形成し、鉄道主導型の産業革命を引き起こすことで自立的国民経済の形成に著しい役割を果たした。一方、後進的農業諸国における鉄道の導入は、かならずしもテイク・オフへの契機にならなかったばかりか、かえってイギリス資本への従属を強める結果をもたらした。

(4)政治の変化と世界経済の支配 

自由主義経済体制へ

産業革命は単に経済構造の革命的変化をもたらしただけではなく、同時に政治的社会構造をも大きく変えた。政治的変化として注目すべきは、産業ブルジョアジーの勃興(ぼっこう)の結果、従来の貴族・地主支配の政治体制に動揺が始まったことである。すなわち、新興産業ブルジョアジーは1832年の選挙法改正をかちとることによって被選挙権を与えられ、一方労働者階級も一般男子普通選挙権を要求してチャーティスト運動(1838~48)に結集した。こうした政治闘争は、資本主義体制が内部にはらんだ資本家と賃労働者との矛盾対立と絡み合って、イギリス社会を大きく揺さぶった。

 また自由主義を標榜(ひょうぼう)する産業ブルジョアジーは、旧来の重商主義的諸規制や統制が彼らの自由な経済活動を妨げるとの立場から、それらの撤廃のための強力なキャンペーンを展開した。その推進力となったイデオロギーは、アダム・スミスからマルサス、リカードへと発展した古典派経済学の自由放任主義である。こうして19世紀前半、地主的、重商主義的諸規制は逐次廃止されていった。そのおもなものは、エリザベス「徒弟法」の廃止(1813~14)、東インド会社の貿易特権の廃止(1833)、救貧法の改正(1834)、穀物法の廃止(1846)、航海条例の廃止(1849)などである。他方、自由貿易の実現は輸入関税引下げの形をとって進められた。それは1824~25年のハスキソンの改革によって徐々に進められ、40年代のピールの改革では、原料に対する最高関税限度を5%、半加工製品は12%、加工製品は20%を限度としたが、45年に原綿の輸入関税は廃止された。ついで50年代のグラッドストーンの関税引下げを経て、60年には保護関税ないし差別関税はほぼ全面的に撤廃された。こうしてイギリスは自由貿易国となったが、イギリスの自由化に対応して60年代には、英仏通商条約(1860)をはじめヨーロッパ諸国も自由化政策を採用し、自由主義経済体制が国際的にも完成をみるに至った。

▼ 世界資本主義の形成

19世紀を通じて工業化はイギリスからフランス、ドイツ、アメリカ、さらにロシア、日本へと拡大したが、工業化を民間の自生的な努力で達成したのはイギリスだけで、後発諸国の工業化は、イギリスの機械制製品の洪水的流入を防ぎ、国内資本の保護育成を図るため保護関税政策の採用など、国家の積極的な工業化政策に負うところが大きい。一方、工業化に成功しなかった農業諸国は、自由主義経済のもと、先進工業諸国に食糧や原料を供給し、工業国からは工業製品を輸入するという、世界的な分業構造のなかに強制的に包摂された。こうして世界経済は、イギリスを軸とする先進工業諸国と、これに従属的な植民地的、半植民地的農業諸国とに分かれ、これらが支配=被収奪の有機的な関係で結ばれた世界資本主義として再編成された。ここに現代における「第三世界」「南北問題」の原型が形成されたのである。

(5)都市の生活環境 

人口増加と工業都市の成立

普通、産業革命が始まったとされる1760年ごろのイングランドとウェールズの推定人口は660万、その後1800年には916万、1851年には1800万へと著しい人口増加をみた。従来停滞的であった人口がどうして急激な上昇に転化したのか。18世紀の人口増加の理由として、徒弟制が弛緩(しかん)して青年の自立が早まり早婚になった結果、出生数が増えたとする意見もあれば、ペストの減少や生活環境の改善で死亡率が低下したとする意見もあってはっきりしない。

 しかし増加した人口の大部分は都市へ流れ、工業都市の群生をもたらした。1750年ごろには、ロンドンの70万を例外として、人口10万を超える都市は一つもなかったが、1830年にはマンチェスター、リバプール、バーミンガムなど、人口10万を超える都市が七つも出現、いずれも工業都市であった。近代工業都市の特徴は、中世都市が宗教と芸術の香りに満ちた美しい都市であったのに対し、石炭の煙で汚れ、不衛生で、悪臭たちこめる、労働者がひしめき合う不潔な都市であった。

劣悪な生活環境

生活の場が農村にあった時代は、生産したものは自らそれを消費することができた。しかし産業革命は、従来農村共同体のなかで一体であった生産と消費の分離をもたらした。労働者は家庭を離れて工場へ働きに出かけねばならない。ところがいまや生産の場となった工場内では、労働者は騒音と不衛生な環境のなかで、時計の示す時刻と監督者の厳格な規律と服従のもと、11415時間に及ぶ長時間労働を強いられた。一方、労働者にとって消費や憩いの場である住宅といえば、たいていは工場の周りに建てられたにわかづくりの粗末なバラック長屋であった。それは普通広さ6畳ほどの部屋が二つ、しかも一つのベッドに34人が交代で寝起きし、便所は十数世帯の共同で、浴場の設備はなかった。

 飲料水は、生活の場が農村にあったときは自由に得られたが、工業都市ではいまや水道会社から代金を払って買わねばならない商品であった。したがって貧しい労働者には、水もたやすく手に入らなかった。たとえばマンチェスターでは、1809年に給水会社が創設され給水を始めたが、ブルジョアの住む地域には16シリングで豊富に給水したのに対し、町の大部分は雨水をためた貯水槽から給水されていたにすぎない。またロンドンのクラーケンウェルのスラム街では、1863年になっても1日にわずか20分しか給水されない1本の水道栓に、十数世帯が頼っていた状態であった。このように「水はビールのように貴重なもの」であったから、労働者の家庭では飲料や料理に使うのが精いっぱいで、それを洗濯や入浴に使う余裕はほとんどなかった。こうした生活環境はきわめて不衛生なもので、しばしば伝染病の温床となった。とくに不潔な衣類がチフスの原因とされ、公衆衛生の立場から公衆洗濯場や公衆浴場を設けることが地方自治体に課せられるようになるのは、1848年の「公衆衛生法」以後のことである。

食事、伝染病、高い死亡率

この時代の労働者はいったいどんな食事をとっていたか。多くの労働者にとって、パンとジャガイモが食事のほとんどすべてであり、それにバター、チーズ、ベーコン、紅茶がすこしつく程度で、新鮮な肉はまだぜいたく品であった。パンは初めは自家製であったが、主婦が働きに出るようになると、パン屋のパンに依存するようになった。パンが褐色のパンからしだいに白いパンに移ったのはこのころである。白いパンをつくるのに漂白剤としてみょうばんを使うことが多く、ときには白亜、石粉、石膏(せっこう)、驚くべきことには人骨をさえ混合した。こうしたいんちき食品はこの時代の紅茶やコーヒーにもみられた。にせものの紅茶には出がらしの茶葉を再製、着色したものや、ときにはサンザシの葉を紅茶に仕立てあげたものさえあった。

 また19世紀前半、都市労働者の手に入った魚といえば、塩漬けのニシンしかなかったが、186070年代になると、冷凍装備のトロール船によって捕獲された新鮮な魚が、安い値段で庶民の台所に届くようになった。こうして新鮮な魚とくにタラがイギリスに入ってくるようになって登場したのがフィッシュ・アンド・チップスで、それが労働者の食べ物として定着したのは1864~74年のころである。

 ところで労働者は、職場における長時間労働と劣悪な生活条件のなかで、肉体の磨滅と生命の短縮を強いられた。1830年代末、マンチェスター、リバプールなど工業都市における労働者階級の平均寿命は、15~19歳という信じられないほどの低さであった。他方、農村に住む地主階級の平均寿命は50~52歳で、都市労働者階級とは大きな開きがあった。労働者階級の高い死亡率の原因は、主として赤痢、チフス、結核、コレラ、しょうこう熱など非衛生的環境に由来する伝染病のほか、とくに乳幼児の高い死亡率が平均寿命を引き下げたからである。

社会改良の動き

工場内における劣悪な労働条件および貧困な生活環境から、多くの社会問題が発生した。社会問題に対する対応には二つの動きがあった。一つは、資本に対する労働側の抵抗としての労働運動の展開であり、いま一つは、博愛主義者による社会改良の動きである。

 労働運動はまず1811~12年、16年に起こったラダイト運動、すなわち機械打ち壊し運動から始まった。24年に「団結禁止法」が撤廃されてからは、ストライキが各地で頻発し、労働組合結成が全国的に広がった。こうして労働者は組織の力によって高い賃金を獲得しようと努めたほか、労働組合や相互扶助方式を利用して、現存社会を改良し新しい社会を打ち立てようとした。そのなかで注目すべき動きとしては、ロバート・オーエンの指導で結成された「全国労働組合大連合」(1834)、協同組合(1844)、チャーティスト運動などがある。

 一方、工場内の非人道的労働条件の改善は、博愛主義者の動きとも絡んで、「工場法」の制定を促した。1802年の最初の工場法で、教区徒弟に対して12時間以上の労働および深夜業を禁止したのに続き、19年、33年、44年の工場法でしだいに青少年の労働時間が短縮された。47年には、原則として1日の労働時間を10時間とする十時間労働法が議会を通過した。また、博愛主義者チャドウィックEdwin Chadwick1800-90)らの努力によって、40年代から非衛生的な都市の生活環境の改善が進んだ。なお、この時代の労働者の生活水準の低下を主張する「悲観派」に対して、むしろ生活水準は上昇したとする「楽観派」の主張が古くから対立し、俗に「生活水準論争」とよばれる論争がいまなお続いているが、50年代末以降は実質賃金が上昇に転じたことは明らかであり、産業革命の生産力的成果と世界経済支配のうえにイギリスはビクトリア朝の黄金時代を迎えるのである。

(6)産業革命と労働者階級の形成、労働運動の誕生

封建社会が解体して資本主義社会が成立し始めるに伴って、農民や手工業者が土地や仕事場などの生産手段から切り離されてプロレタリア(無産者)に転落し、賃金労働者となった。この変動に投げ込まれた人々の不満は、多くの騒擾(そうじょう)や暴動を引き起こした。産業革命によって機械制工場生産が行われることに反対する職人的労働者を中心とする機械うちこわし運動(ラダイト運動)が、イギリスで19世紀初めに広がったが、やがて歴史の発展に取り残されて消滅した。一方、賃金労働者は相互扶助のための共済組合や協同組合をつくるとともに、労働組合に団結して、賃金、労働時間その他の労働条件の改善を目ざす組織的運動を始めた。これに対してイギリスの議会は、1799年と1800年に団結禁止法を制定して弾圧を加えた。しかし、この法律は労働者の抵抗と資本主義の状況変化によって意味を失い、1824年と25年に撤廃されるに至った。

 18世紀末から19世紀なかばにかけてイギリスを先頭に西ヨーロッパ諸国に産業革命が進行し、資本主義が確立するに伴って労働運動が本格的に発展し始めた。大陸では、1831年、34年のフランス・リヨンの絹織物工の蜂起(ほうき)、44年のドイツ・シュレージエン織工一揆(いっき)などがその先駆けとなった。労働者階級独自の政治闘争も始まり、イギリスでは1830年代後半以降、労働者の政治的権利確立の「人民憲章」の制定を求めるチャーティスト運動が展開され、大陸では1848年の二月革命、三月革命のなかで、労働者階級は資本家階級とは別に独自に封建勢力と闘い始めた。

チャーチスト運動

科学的社会主義の成立

産業革命の進行に伴って資本主義の弊害が表面化したことに対して、人道主義の情熱に燃える知識人のなかから社会主義の主張が現れた。イギリスのロバート・オーエン、フランスのシャルル・フーリエ、サン・シモンらがその代表である。しかし彼らは、労働者階級が未成熟であった歴史的条件に制約されて、資本主義から社会主義への変革の必然性を根拠づけることができなかったので「空想的社会主義者」とよばれている。画期的な意味をもったのは、1847年に革命運動の小さな国際組織として結成された共産主義者同盟の綱領として、マルクスとエンゲルスが48年に『共産党宣言』を発表したことであった。これによって労働者階級が変革の担い手となって、資本主義から社会主義への移行が行われる必然性が理論的に根拠づけられ、科学的社会主義(=マルクス主義)が成立して、労働運動に大きな影響力をもつことになった。

第1インターナショナル結成

🔴◆◆日本の産業革命

小学館(百科)

石井寛治

(1)発展のアンバランス

日本の産業革命は、産業部門ごとの発展が不均等であり、部門の間のつながりも不十分であった。農業部門では大規模農場へ発展するものがまったくなく、商品貨幣経済に巻き込まれて競争に敗れ土地を失った農民たちは、高い現物小作料を払って地主から土地を借り、小規模生産を続けた。小作農家の生活は苦しかったため、娘たちの多くは繊維工場へ出かけて安い賃金で働かなければならなかった。小作農からさらに転落した者は、近くの都市などで仕事にありつけない限り、炭鉱や金属鉱山へ流れ込んで地底での重労働に従事した。産業革命が終了したころの資本主義的生産の状態は、繊維工業と鉱山業に500人以上の大規模作業場が数多くみられ、賃金労働者(職工・鉱夫)も両分野に集中していた。これらの分野の労働は比較的単純なため、低賃金労働者が豊富な後進国日本は国際競争で有利な位置にあった。これに対して、重工業(=金属・機械工業)のように多額の設備投資と熟練度の高い労働者が必要な分野は、なかなか発展できなかった。急成長を遂げた綿糸紡績業は、必要とする紡績機械をもっぱらイギリスから輸入しており、日本の機械工業はせいぜい修理を担当する程度であった。もっとも、製糸業の繰糸器械はほとんどが国産であり、織物業の機械化に際しては豊田佐吉(とよださきち)らの発明した安価な国産力織機が普及するなど、繊維工業と機械工業の間のつながりは、しだいに強まっていったことも見落としてはならない。以下、おもな部門の発展のようすをみてゆこう。

(2)繊維工業

日本産業革命を代表する工業部門は綿糸紡績業であった。渋沢栄一らが設立した大阪紡績が、最新式の輸入機械と安い輸入綿花を使い、女工を昼夜二交替で働かせて高利益をあげたのに刺激されて、1880年代後半に大阪、東京、名古屋などの大都市商人が出資する大規模紡績が続々と設立された。国産の機械制綿糸は、輸入インド綿糸を数年のうちに国内市場から駆逐しただけでなく、中国・朝鮮へと輸出され、1913年(大正2)には中国市場においてインド糸輸入量を超えるまでになる。しかし、昼夜二交替制労働は女工の体重を減少させ結核患者を多発させたため、1911年制定の工場法(1916施行)において、女工の夜業禁止が定められた(ただし同法施行から15年間の適用猶予付き)。

 養蚕農家がつくった繭を原料として生糸を製造する製糸業は、最大の輸出産業として多額の外貨を稼いだ。富岡(とみおか)製糸場のフランス式鉄製繰糸機などをモデルに軽便かつ安価な木製繰糸機がつくられ、1870年代後半から長野・山梨・岐阜などの農村にたくさんの器械製糸場が設立された。製糸家は輸出港横浜の生糸売込問屋や地方銀行から借金して原料繭を仕入れ、出稼ぎ女工を長時間働かせて生糸を生産した。女工の賃金は、工場内の全女工の賃金総額を固定したまま彼女らの繰糸成績によって分配されるという等級賃金制であったため、女工は長時間にわたって緊張した仕事を続けねばならず、しかも能率上昇の成果は全体として製糸家のものとなった。製糸業の中心地長野県諏訪(すわ)では、製糸家が同盟して女工の登録制度をつくり工場間の移動を禁止したので、彼女らは厳しい労働条件を耐えなければならなかった。

(3)鉱山業

石炭と銅は当時の重要な輸出品であった。1890年代から諸鉱山の主要坑道に巻揚機械が導入されたが、切羽(きりは)での採掘と主要坑道までの運搬は手労働であり、地底での労働はたいへん厳しかった。筑豊(ちくほう)の炭鉱では夫婦が仕事の単位となり、夫が狭い切羽で掘り出した石炭を妻が竹籠(かご)に入れて炭車まで引きずってゆく姿がみられた(女子坑内労働禁止は1933年)。こうした危険な重労働に従事する労働者を集め、彼らの生活を会社にかわって管理したのが、納屋頭(なやがしら)とか飯場頭(はんばがしら)とよばれる人々である。金属鉱山では鉱毒水や亜硫酸ガスによる鉱害がかならずといってよいほど発生し、周辺住民との間にトラブルを生んだ。鉱夫の酷使に支えられ、周辺住民へ鉱害を及ぼしながら、鉱山経営は大きな利益をもたらしたため、三井、三菱(みつびし)、住友、古河(ふるかわ)などの大財閥の最大の蓄積基盤となった。

(4)重工業

職工3000人以上の大工場は、官営の陸海軍工廠(こうしょう)と八幡(やはた)製鉄所が、紡績工場群を押さえて上位を独占していた。これら巨大軍工廠を中心として、日露戦争直後には兵器・軍艦の国産化が達成された。鉄鋼業の発展においても官営八幡製鉄所の設立(1901)は決定的な画期をなし、同製鉄所はレール製造などを行うとともに軍艦建造用の鋼材を供給した。一方、民間重工業もそれなりの発展を開始していた。1896年に欧米定期航路を開設した日本郵船など海運諸会社と結び付いて、三菱、川崎などの造船所がとくに発展し、また、1906年の鉄道国有化の直後には蒸気機関車の国産化も達成された。さらに、住友鋳鋼場、神戸製鋼所、川崎造船所鋳鋼工場、日本鋼管などの主要民間製鋼メーカーも日露戦争前後に発足した。そして、1897年には、東京砲兵工廠、新橋鉄道局、日本鉄道大宮(おおみや)工場などの鉄工(鉄を加工する旋盤工・仕上工・鍛工など)を横断的に組織した鉄工組合が、日本最初の労働組合として結成される。産業革命を通じて生み出された階級対立が早くも重要な社会問題となったわけであるが、政府は治安警察法(1900)を制定して幼弱な労働組合を抹殺した。

(5)貿易赤字と外資依存

以上のような日本産業革命は、外国からの資本輸入に頼ることなくほとんど自力で進められた。鉄道、鉱山、銀行などへの外資導入は政府によって排除され、日清(にっしん)戦争後に規制が緩められたが、流入した外資は限られていた。そして、日露戦争の戦費調達のための巨額の外債発行が契機となって公債の形での外資依存が一挙に強まったが、1894年から恒常化していた貿易赤字はなかなか解消せず、第一次世界大戦直前の日本は破産寸前の状態に陥っていたのである。

🔵1811-16年のラダイト運動

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Luddite movement 

1811年から16年ごろにかけて、イギリスで起こった労働者による機械打ち壊し運動。18113月、ノッティンガムの編み物工たちによって工業用機械の破壊が始められ、のちヨークシャーの羊毛工業労働者、ランカシャーの綿工業労働者などに波及した。指導者として架空の人物であるとされているネッド・ラッドNed Ludd(ネッド王、ネッド将軍ともいう)の名があげられたところから、この名でよばれている。

ノッティンガムのネッド・ラダムまたはネッド・ラッドなる者が靴下製作機を破壊したのが最初という。彼の行為はランカシャーでも模倣され、やがて機械破壊者はラッダイトとして知られるようになる。

『ラッダイトたちの指導者』

1812

機械の破壊と工場建築物の破壊に対する最初の法律は、イギリスで1769年に制定された。それはこのような行為を犯罪とし、死刑が科されていた。

18112月、イギリス政府は機械破壊を死罪にする法案を改めて提出した。上院での第二議会では、出席した詩人バイロンは熱弁をふるってこの法案に反対し、労働者を弁護した。草案は18123月に法律となったが、1769年の法律同様、機械破壊を止めることはできなかった。一、二度は死刑執行はあったが、襲撃者を発見することがきわめて困難だったためである。ラッダイト指導者の首に二千ポンドに上る懸賞金がかけられ、はじめて密告者により検挙が行われた。1813113日、ヨークの裁判所で指導者ジョージ・メラーをふくむ三名への死刑宣告があったが、『年報Annual Resister』(1813年)には、彼らは裁判の最後まで沈着な態度を示し、メラーとその同志は陰謀家のようには見えない、他の境遇のもとでは彼らは立派な人間であったろう、と記されている。その三日後、十五人の労働者が処刑される。

一度は鎮圧されたように見えたラッダイト運動は、1816年に再燃する。ノッティンガムで靴下職人が三十個の機械を破損し、イギリスの東部地方では農民が干草の堆積に放火した。彼らは脱穀機を打ち壊し、「パンか、血か」と書かれた旗をもって示威運動を行った。バーミンガム、プレストン、ニューカッスルでは失業者が示威運動を、ダンディーとグラスゴーでは軍隊と血なまぐさい衝突を起こした。運動が一つの絶頂に達した18161216日、バイロンはこの運動のために賦し、ラッダイトの人々をアメリカ独立戦争の人々に比している。

海の彼岸の自由な若者は その自由を、安価に、血潮で購った。

われわれ若人も、自由に生きるか、さもなくば死を賭して戦おう。

そして国王ラッドのほかはすべての国王を打ち倒そう!

ラッダイト運動は、最初は衝動にまかせた望みのない破壊に終始するが、1818年のランカシャーではより高い賃金のためだけでなく工場法と婦人少年労働の規制のために戦い、1819年のマンチェスターでは普通選挙権と社会政策を求める政治行為となり、たんなる「産業革命に対する反革命」では終わらなかった。ラッダイト運動は農民一揆から労働運動への過渡期を担い、自由を追求する詩人に霊感を与えた。

種をまけ、しかし地主のためではなしに!

富を築け、しかし馬鹿者のためではなしに!

衣服を織れ、悪漢に着せるためではなしに!

武器を鍛えよ、おまえたち自身を保護するために! 

とシェリーが歌ったのは、ラッダイト運動がついえた4年後のことである。

ラッダイド運動は、単なる反近代的運動ではなく、機械の破壊などの威嚇行為を行うことによって、賃金をはじめとする労働条件の改善を求めた運動であり、労働組合運動が発展する以前の段階における労働者による集団交渉の一形態であった。124月のローフォード工場への襲撃事件などが有名であるが、このころから政府によって、中心的参加者の処刑、軍隊の動員などの抑圧策がとられたため、運動は16年ころ沈静化した。

🔵労働組合はパブからはじまった

(浜林正夫)

 イギリスの労働組合がパブから生まれたということは、よく知られているが、その理由については余り知られていない。パブというのは、いまでもイギリスにはいたるところにある酒場だが、パブリックハウス(公共の家)の略称で、もともと宿屋や食堂を兼ねた町や村の集会場であった。18世紀ごろ、職人や労働者が友愛協会という一種の共済組合をつくるようになると、そのときにもパブにその事務所がおかれ、そこで定例の会合が開かれ、共済の掛け金もパブにおかれた箱に入れられたので、友愛協会は、別名「ボックス・クラブ」とも呼ばれていた。会議のあとは、ビールパーティが多かったので、パブの方でもよろこんで事務所を提供し、パブの主人が基金を管理するなど友愛協会の事務を引き受けていたのである。そこで人手を必要としている雇い主の方もパブへいって職人や労働者をさがすようになる。パブの主人は職をさがしている職人や労働者のリストをもっており、雇い主の間で就職のあっせんをし、ときには賃金の支払いもパブでおこなわれていた。パブは一種の職業紹介所でもあったのである。

 やがて大工はどこのパブ、仕立て屋はどこのパブ、というように、業種によって集まるパブが決まってくるようになる。そしてそこで賃金や労働時間についての交渉がはじまる。職人や労働者は、パブを拠点として組織をつくるようになり、たとえばロンドンの洋服仕立て職人は、18世紀のはじめに5つのパブにクラブをつくり、これが連合して職能別組合をつくっていたが、18世紀の後半になると加盟クラブ数は42に増え、代表者会議と執行委員会を組織し、基金ももつようになっていた。このように組織化がすすんでくると、雇い主の側は、パブを嫌い、パブ以外のところで人をさがすようになる。しかし、パブを通さないで人を雇うと、これは「もぐり」だということになり、この雇い主にたいしては、一切求人に応じないというボイコット戦術がとられたばかりでなく、しばしば「もぐり」の職人や労働者にたいして暴行が加えられることもあった。このため、雇い主の側もパブを拠点とした職人や労働者の組織を「必要悪」として認めざるをえなくなり、同時に政府や自治体にたいして団結禁止法の制定を要求しつづけてたのである。パブの主人は、職人や労働者の団結を助け、その味方になることもあったが、ときにはツケで飲ませて賃金の大部分をまきあげてしまうこともあり、労働者たちは「パブにしばりつけられている」という状態におちいったともいう。

 このように、イギリスの初期の労働組合は、パブを拠点として、企業の外にできたのである。日本のような企業内組合では、まず会社に就職してから組合に入る。会社がつぶれれば組合もつぶれる。しかし、イギリスの場合は、まず労働組合に入る。組合が就職をあっせんするのだから、組合に入らなければ職につくことはできない。会社がつぶれても組合はつぶれないから、失業したら組合へもどって別の働き口をあっせんしてもらうことになる。これがクローズド・ショップ制(労働組合員以外は雇用しないという制度)なのであって、イギリスの労働組合の誕生期をふりかえってみると、この制度ができあがってきた事情がよく理解できるであろう。

◆◆ストライキのはじまり

 (浜林正夫)

 ストライキを日本語に訳すと「同盟罷業(ひぎょう)」ということになるが、いまの若い人たちは「同盟罷業」といわれても、なんのことかわからないだろう。ストライキは、野球のストライキと同じ単語で、これをストライキと発音するのは、明治時代の英語の読み方である。ではなぜストライキが「同盟罷業」という意味になったのだろうか。字引を引いてみると、船帆をおろすという意味もある。ストライキの語源は、この「帆をおろす」ということだったといわれている。世界でもっとも権威があるとされているオックスフォード英語辞典によると、1768年にイギリスのある港町で水夫たちが賃上げを要求し、船主がこれをみとめなかったために、船の帆をおろしてしまって出港を拒否したというのが、ストライキという単語が「同盟罷業」という意味で用いられるようになったはじまりだという。最近の研究では、1768年が最初の用例ではなく、もう少し前からストライキという言葉が「同盟罷業」の意味で用いられていたとされているけれども、18世紀のイギリスでストライキをあらわす言葉としてしばしば使われていたのは、「ターン・アウト(出ていく)」という言葉である。

 この頃のストライキはどのようにおこなわれたのだろうか。古い例では、1677年にイギリス西南部のある町で起こった織布工のストライキの記録がある。それによると、アトキンズという織布工が賃上げを要求し、職場放棄をして街頭に出て「おれにつづけ」と方々の職場へよびかけをし、しだいに仲間を増やして、フィドラー(バイオリンの一種)ひきを先頭に町をねり歩いたという。まだ工場制度ができる前のことだから、労働者が一カ所に集まって仕事をしていたわけではなく、方々の家で親方のもとで2人とか3人とかで仕事をしていたのである。アトキンズのよびかけに応じて、労働者たちが職場からとびだして行列に加わっていったので「出ていく」という言葉がストライキの意味になったのである。おもしろいのは、出ていった労働者が楽隊つきで街頭をねり歩いたということである。これはこのストライキのときだけではなく、18世紀の末ごろまではストライキにつきものの光景であったらしい。これは村祭りの風習を受け継いだものである。その目的は、もちろん一つには、他の労働者へ参加をよびかけることにあったのだが、もう一つにには町中の人々にむかって自分たちの要求の正当性を訴えるということでもあった。さきにあげた1768年の水夫のストライキのときでも、水夫たちはまず町中を行進し、町の中央の広場で自分たちの要求書を読み上げ、それから港へ行って船にのりこんで帆をおろしたという。労働者がまだ分散して働いていた時代だから、雇い主も1人ではなく多数であった。したがってこういう形で労働者側は統一要求を雇い主全体につきつけ、いわば町ぐるみで闘争を組織したのであった。賃金も企業ごとに決められたのでなく、町単位で職種別に決められていた。だから労働組合も企業の内部にではなく、企業の外に、町単位で職種別につくられていったのである。

◆◆まとめ=イギリスでの労働組合結成とストライキの経過

生まれたとたんにたたかいはじめた労働者階級

 労働者は、資本主義の発展とともに、とりわけ機械制大工業が確立した産業革命によって大量に生みだされた階級です。労働者がどのようにたたかったのか、原点ともいうべき世界最初の資本主義国であり世界最初の労働者が生みだされた一八世紀後半から一九世紀のイギリスを例に紹介しましょう。

 労働者の多くは農民出身でした。土地をとりあげられ暴力的に農村を追放された農民が、裸一貫で都市に家族ぐるみで大移動して、労働力以外なにものも売るべきものをもたない労働者として綿工業などの工場で働くようになったのです。そのほとんどが工場の周辺の粗末な住宅に住みつきました。

 きのうまではまったく見知らぬ何百人もの労働者が同じ工場の屋根のもとに集められ、機械作業を共同しておこなうようになりました。知らず知らずのうちにおたがいが顔見知りになります。同じ農民出身であること、共同で作業をしていること、なによりも同じひどい境遇のもとにおかれていることから、労働者どうしに「同じ仲間だ」という連帯感が生まれたのは自然のなりゆきでした。

 朝早くから深夜にいたるまで一四~一五時間もつづく長時間労働、とても生活をまかなえない低賃金、劣悪な住宅、首切り自由など働くルールゼロ社会、失業したりケガや病気になったら、たちまち一家が路頭に迷う、不安そのものの社会保障ゼロ社会、こんな悲惨な境遇に労働者が不満を抱くようになるまで、そう時間はかかりませんでした。

 労働者は、我慢してばかりいたのではありません。個々バラバラのたたかい、自然発生的なたたかいがまずはじまりました。最初は、個人的な盗みをしたり、職制に暴力をふるったりします。さらに、「機械うちこわし」といって工場の機械をこわしたり、製品を川に投げ捨てたりする集団的な暴動で、まさに怒りを資本家にぶつけた行動でした。しかし、これらの行為は、ただちに犯罪として警察に逮捕され処罰されてしまいます。犠牲ばかりが多く、得るものより失うものの方が大きい無益な抵抗であることを、労働者はみずからの経験を通じて学びとっていきました。

パブやストライキが労働組合誕生のゆりかごに

 いまも同じですが、当時の労働者も仕事帰りに居酒屋(パブ)に立ち寄って、黒ビールで疲れをいやしていました。ビールをくみかわすうちに、仕事や暮らしや家族のことなどの話題へ発展していきます。こうした腹をわった話し合いが、労働者どうしの連帯感を急速に高める役割をはたしました。パブでは、失業やケガをしてこまっている仲間を救うために、ハンチング(帽子)をまわして「なあ、みんな、ビールをもう一杯飲んだと思ってカンパしてくれ」というカンパ活動もよくおこなわれました。失業や病気・ケガは次から次へとおきてくるので、やがて給料の一部を出し合ってそれを貯め、仲間が困ったときに助け合う共済活動のようなものをはじめるようになりました。この貯めたお金をあずかって支給することをまかされたのがパブのマスターでした。のちの労働組合の書記長のルーツともなります。労働者の最初の団結がパブで生まれたのです。その団結は、同じ職場でなく、最初から企業の枠をこえた同じ職種の仲間どうしでつくられたことが特徴です。

 しかし、こうした共済活動だけでは、悲惨な境遇をとても改善することはできません。また、何人かで相談して資本家に「お願い」という形で要請しても、資本家に無視されるのがオチでした。

 労働者の団結を飛躍させるきっかけになったのは、ストライキという闘争手段の発見です。

 ストは、突然賃金を切り下げられたり、仲間が機械にはさまれ殺されたとき、「冗談じゃない。バカらしくてやっちゃーおれない」と作業をストップする形で自然発生的におきました。工場長は「早く仕事につけ」と労働者をどなりつけ、資本家も大あわてします。うろたえる相手をみて、ストが、かつての暴動や「機械うちこわし」と違って、なにもこわすことなく、それでいて資本家に大きな打撃をあたえ、要求を実現する上できわめて有効な闘争手段となることに労働者は気がつきました。

 やがてパブは、ストを相談する場所になります。労働者の多くが、要求やストなどの戦術について合意・納得していなければストは成功しません。ですから話し合って合意を固めるスト委員会のような組織やその指導者(のちの労働組合の委員長のルーツとなりました)が、どうしても必要になります。パブでビールを飲みながらの話し合いですから、ときにはケンケンゴウゴウ、騒然とした状況になります。そこをスト委員長が徹底した討論で一致点を見つけ出し、ストが敢行されていきました。

 当初は、要求が実現すればスト委員会は解散していました。けれども一時的なスト委員会によるストや一時的な要求実現だけでは、必ずその後の資本家のまきかえしで負けてしまいます。試行錯誤がつづくなかで、やがて資本家とたたかって日常的に労働者の生活と権利をまもるための恒常的な団結の組織として、一八世紀の後半期に労働組合が世界ではじめて誕生したのです。パブでの共済組合や議会への請願団から労働組合が誕生する場合もありました。このようにパブでの共済活動やストは、労働組合を誕生させるゆりかごのような役割をはたしたのです。

イギリスの団結禁止法、ストライキ合法化のたたかい

 ストや労働組合の社会的なひろがりは、資本家にたいへんな脅威を与えました。ですから資本家も結集して産業別の資本家団体をつくり共同で対抗するようになりました。資本家は共同の力で、警察を動かしてストを弾圧し、さらに政府を動かして団結禁止法を制定し(一七九九年)、労働組合をつくることもストも、すべて犯罪としてとりしまりました。

 弾圧下の非合法のもとでも、労働者・労働組合はたたかいをやめることはありませんでした。パブの入り口に小さな穴をあけ、そこから警官の立ち入りを監視して組織をまもったりしました。非合法のもとで「機械うちこわし」などが再び行われる場合もありましたが、労働者・労働組合は、政府や議会に団結禁止法の撤廃を要求するなどねばりづよい行動をつみかさね、ついに団結禁止法を撤廃させ、団結権をはじめてかちとることに成功しました(一八二四年)。

 しかし、団結禁止法を撤廃させた後も、まだまだたいへんでした。ストをすると犯罪として刑事罰でとりしまられたり、資本家からストの損害賠償を訴えられたり(民事罰)するなど、さまざまの弾圧がつづいたからです。しかし、これらに屈せず、とうとう一八七五年には刑事免責を、一九〇六年には民事免責をかちとります。

 実に一〇〇年にもおよぶたたかいを通じて、労働者の生活と権利をまもる上で欠かせない、労働基本権(団結権・団体交渉権・団体行動権)を、名実ともに手にすることができたのです。

 団結権だけではありません。参政権のなかった労働者は、普通選挙権の実現をもとめて一八三六年から一八四八年にかけてチャーチスト運動という一大政治闘争もおこないました。政府の弾圧によって運動は衰退していきますが、やがて一九世紀後半から二〇世紀初頭に段階的に普通選挙権が実現していくことになります。

 まだ、あります。団結禁止法撤廃以降、労働者・労働組合は、一四~一五時間にもおよぶ長時間労働を法律で規制することで、健康をまもるとともに文化的活動、社会的活動を保障させる、たたかいをはじめます。長時間労働を規制するには、個別企業や産業別の闘争だけでは不十分で、法律による規制が決定的な役割をはたすからです。法律による規制は、最初は児童や女性に、やがて成人男子労働者へとひろげられていきます。一八三三年には工場法が制定され工場監督官(今の日本の労働基準監督署の監督官にあたる)も生まれます。一八四七年には、労働組合などの「一〇時間運動」の成果としてついに一〇時間の標準労働日を獲得します。これは児童と女性に適用されたものですが、成人男子へと波及し一九六七年に男子にも適用されていきます。これらのたたかいは、二〇世紀前半の八時間労働制につながる基礎を築くことになります。このイギリスの労働者・労働組合の標準労働日獲得のたたかいは、その後の体系的な労働者保護法を軸にした働くルールを保障する勤労権獲得のさきがけとなりました。つまり、賃金や労働条件の最低限を法律で定め、それ以下で労働者を働かせる使用者は罰せられることで、人間らしく働く労働者の権利を保障するルールが、史上はじめてつくりだしたのです。

 さらに二〇世紀にはいると、労働者の暮らしの改善にとってきわめて重要な社会保障制度実現のたたかいへと労働組合の闘争領域がひろげられます。

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19世紀イギリス労働者のたたかい年表】

1799  団結禁止法(これ以前には地域・産業に限定した禁止法があった)

1824 団結禁止法撤廃

1833 工場法(児童労働保護。工場監督官)

18361848 チャーチスト運動

1844 工場法改正(女子労働保護)

1847 工場法改正(10時間法)

1867 第2次選挙法改正

1871 「労働組合法」

1875 「共謀罪及び財産保護法」(争議の刑事免責)

1884 第3次選挙法改正

1906 「労働争議法」(民事免責)

1913 「労働組合法」(政治活動認める)

1918 第4次選挙法改正(20歳以上の男子と30歳以上の女子)

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まとめ=団結とたたかいこそ貧困打開の唯一の道

 以上紹介したイギリスの労働者・労働組合のたたかいは、多くの資本主義諸国の労働者・労働組合のたたかいとも共通するものでした。戦前、絶対主義天皇制の過酷な支配のもとにあり、権利を奪われていた日本の場合も同じです。労働組合やストのひろがりにたいして、一九〇〇年に治安警察法が制定され、労働組合をつくったり入ったりストをおこなうことが禁止されました。しかし、労働者・労働組合は、治安警察法一七条撤廃のたたかいをねばりづよくすすめ、一九二六年に削除させました。また普通選挙権獲得や労働者保護法制定のたたかいにもとりくみました。それらのたたかいは、戦後の日本国憲法で明記された団結権、勤労権、生存権などの実現につながります。その実現には、イギリスの労働者たちをはじめとする世界の労働者のたたかいの成果が大きく反映したのです。

 資本主義のもとで、労働者は資本家の搾取のもとにおかれ、おたがいに競争させられ、状態の悪化を余儀なくされます。しかし、労働者は、その現実に決して甘んじていたわけではありません。一人ひとりが資本家に対抗してもとうてい勝ち目はありませんが、多数であるという数の力を結集して団結し、そして学んでこそ、はじめて資本家に対抗する力関係をつくることが可能となります。労働者は試行錯誤しながら、また、学びながら、この事実を自覚し、やがて労働組合という団結のとりでをつくりあげ、それをより所にして今日にいたるまで生活と権利をまもってきました。

 しかし資本家も、必ずこれに対抗して労働組合を弾圧し、分裂・弱体化させる方策をとってきます。さらに政府を動かし、弾圧法や低賃金政策などさまざまな法律・制度を制定・活用して搾取の強化をはかろうとします。

 これに対抗するためには、労働者が資本家や政府の攻撃を上まわる団結をつくりだす他に道はありません。イギリスの労働者たちは驚くほど早くから、職場・地域で個々の資本家や資本家団体とたたかうだけでなく、強大な政府を相手にたたかってきました。労働者の状態を改善するためには、法律・制度がたいへん大きな役割を果たすことに気づいていたからです。昔も今も同じです。団結を拡大して国政・地方政治への影響力を強め、労働者・国民の生活をまもる法律・制度をつくり改善していくたたかいを、私たちも重視していく必要があります。

 労働者は、汗まみれとなり時には血を流して、団結とたたかいによってみずからの生活と権利をまもりつづけてきました。「自己責任」だからと自力で解決する道、あきらめてがまんする道、会社を大きくして資本家の恩恵に頼ろうとする道、など別の道もなかったわけではありません。しかし、これらの道を選択しませんでした。たとえこうした道を選択しても労働者の状態を根本的に改善することは不可能だからです。なぜならば、前回のべたように、労資の利害は根本的に対立しており、団結とたたかいによって資本家と政府に譲歩をせまる以外に資本主義が必ずもたらす労働者の貧困を打開する道はないからです。このように団結とたたかいこそ人間らしい労働と暮らしを実現する唯一の道なのです。

🔴◆◆1830年のフランスリヨン労働者の蜂起

オンライン辞書

背景

19纪の20年代、英仏両国の空想社会主義者は彼らの理想を駆け回って、そして労働者階級もう将来自分の実際に戦った。フランスリヨン労働者のこのような闘争の最前列に立つ。といえばリヨンこれは、人々を思い出すフランスシルクの城。から16世紀それから、出産のシルクベストセラーヨーロッパを受けて、特に各国大貴族の好き。でリヨン城の中心を見ることができて、きれいな街、林立する店舗や服装こだわりの歩行者。しかし工業区、状況はまったく異なっている。ここの街は狭くて、一面のゴミ、街路樹に覆われている低い古い工房。工場で働いたもでは顔色が靑白く、骸骨のように痩せた紡績工、その多くは女性と児童。彼らは1日やって1516時間を稼ぐお金を生き、1ポンドパンを買うしかない、無理に維持生活;下工後も疲れた体を引きずって郊外のしきりに。あそこの家、壊れかけたが、難しくて風雨を避ける。また多くの労働者がこんな家もないので、路上生活者や機械の下で寝て。このような生活は労働者たちを追いつめ、彼らから抵抗。彼らは最も切実な要求は給料の増加。183110月、労働者代表に提出した賃金標準原案といっしょに討論するので、資本家。

しかし資本家たち根本労働者の要求を受けようとしない。会議のある日、彼らは思案をめぐらして駆け引き、労働者代表は自信を持って、一歩も引かず。双方の論争している時、外から伝わって来た震耳の雄叫びと歌声。もともと6000名紡績工止まった仕事、順番に省政府ドアの前でデモ。彼らの軍歌を高らかに歌っている、さっそうと会議ホールの外に来ました。資本家たちは急いで口を閉じてよく聞いてみると、聴いても労働者たちは「マルセイユ歌う曲』。彼らはたちまち慌てた、揉む、さえ話せなかった。いくつかの大商人が集まっ私語対策を検討して、先に決めて撤兵するの計、そして考え。この日深夜、賃金標準協議がついにを通じてました。勝利のメッセージが、全体のリヨン労働者はすぐに浸る区の一面の楽しい雰囲気の中。労働者たちは闘争の初歩の勝利に歓呼。

しかし資本家たちは甘んじて負け。彼らに人を派遣して内閣総理のことに反対する賃金標準協議。政府すぐにメーカーの要求を拒否した合意し、武力で弾圧労働者。将軍羅蓋公開では「思い切って労働者、じゃ、彼らの腹に花が咲く。」メーカーが羅カバーの後押しもあって、すぐ信義に破棄協議しました。3週間後、給料は相変わらず。この強硬な態度を予感させる労働者たちは苦戦を始め、彼らはすぐに行動。

蜂起の概況

1121日朝、労働者たちはスト。1本の2000人のデモ隊が労働者区から出発し、都心へ。彼らは4人の列を固める足並み、歌って行進する。

歌詞を:

進む、進む、

敵に向かう銃口、

向かって砲煙弾雨、

勝利に赴く!

この時、リヨン労働者への門区もう大軍が守る。兵士たちはみな、マテガイ、実弾入りの銃を持って満面に立って、殺気城の入り口。明らかに彼らはもう命令を受けて、都市の参加者が発砲に衝。

デモ隊が城城門前まで歩いて、軍が立ちはだかり、1本の本の真っ黒な銃口を向けた労働者たちの胸に。

労働者たちは負けない、どっと怒りに叫び「放我々の過去!」反動将校も大声で答え「帰り!すべて私に帰る!」双方睨み付ける、雰囲気は非常に?。すると、若い労働者チームに脱出して城門が駆けつけ、口を叫ぶ;「兄弟たち、衝過去!」

「どん!どん!どん!」軍が発砲した。何の銃弾に差し込んできた彼の胸に浸透したのは、血の上着、血まみれで倒れてしまった。労働者たちは非常に怒り。彼らに叫んで敵に向かう、銃がない、棒を振りかざし、腰刀;ある人を取り上げたで、ある人抡起こぶし……しばらくすると、彼らは城門外の空き地で築いたバリケード奪って武器で敵に射撃、政府軍に混乱した手足。

銃声が伝わった労働者区、ここの人々に沸いた。彼らへなだれこむ兵器を敷き、その中の銃や弾薬や刀剣を手にし、また一斉に駆けつけ城城門前。

労働者の力を強化した。彼らに政府軍の猛攻に押し入っ発動し、ついに、城に突入。

都会のすべての主要な街角はほとんどすべてが政府守備軍。労働者たちの道と灯柱かんなてトラックを転覆させて、また運来板や機のキャビネット、築いた1至る所バリケード。こうして、彼らと政府勢は激しい市街戦。弾丸が、彼らを機械に鉛質部品を外して、溶融して小さくすり替え。勇敢な少年児童も戦う:送弾、差し入れ、偵察敵情を取ったり、直接銃。女性たちはご飯を作って、介護負傷者。労働者たちは戦うほど勇敢になる、攻略本もある街、1基のまた1基の家屋は、四方八方から市庁舎推進。

午後、市庁舎週囲が蜂起者バリケード。一箇所に堅固なバリケード上昇した一面を掲げ、靡く書いて2行の目立つ大字:「労働者は生活できない、寧ろ戦闘で死ぬ!」

夜、労働者たちとその他の業界の労働者派遣連夜連絡、蜂起チーム拡大。リヨン城夜通し銃声が絶えず、火天を突く。各反動軍は太刀打ちできず、次から次へと市庁舎兵営退却。

翌朝、羅カバーするチームを立て直し反撃、しかし将兵もう総崩れとなる、彼のもとに殘り1小隊騎兵が作戦。凶悪狡猾な羅カバーは首を横にため息をついて、手の施しようがない。彼は焦りと不安に徘徊、打算で脱出策。どうしても兵士たちを次々に壊れて彼に報告メッセージ兵器庫:破壊され、兵営失陥する、200余りの将兵は捕虜となり、运粮隊に待ち伏せ……羅ふたまた急でまた恐らく、せっかく持ち越すの深夜、彼はこっそり城を連れて逃げた敗殘兵地帯。

23日朝、チーム全体の蜂起を占領したリヨン城。武装蜂起司令部に派遣歩哨やパトロール隊、社会秩序が早く回復しました。蜂起した労働者の労働者委員会は、廃止が発表税金、実行する賃金標準協議。委員会はまた、発表報告書を発表した市民が、自身の政治的主張、要求民主的選挙を実行し、自分の代表选に政府。それは、当時の労働者は徹底的に破壊資産階級政府の思想。知事や役人たちは命令で、管理市政。労働者のリーダーも招待警察局長も彼らの討論会に参加して。彼らは政府官僚が全く警戒心。

資産階級政府を利用したリヨン労働者の油断王様の引き下げ、応援して来たの大軍。121日、6万人政府軍に包まれたリヨン城。三日目、受け身の局面の一揆鎮圧された(血チーム1834年リヨン労働者が再び蜂起し、にも失败した)。

評価

マルクス評価リヨン労働者の蜂起の意味には、「リヨンの労働者たちは自分の追求の政治の目的だけで、自分がただ共和国の戦士。しかし事実上彼らは社会主義の戦士。

意味

【フランス革命1830年パリの蜂起】

フランスリヨン労働者の蜂起19世紀3040年代ヨーロッパ有名な三大労働運動の一つで、フランス歴史上初めての労働者の武装蜂起。この蜂起失敗の原因は先進的な政党と正確な革命の理論の指導が、彼らの蜂起は重要な意味を持って。彼らは独立の提出を当階級の要求をするのを必死の武装闘争マークプロレタリア階級から独立した政治力が歴史に登場。

🔴◆◆1844年のドイツのシュレージェンの織工の蜂起

シュレージェンの織布資本家たちは、農民を自工場の下請けとして使い、廉価な賃金と劣悪な労働環境においた。農民は1214時間働き、12歳から労働開始、劣悪な環境(綿糸の埃で気管支疾患にかかるもの多数)におかれた。しかも、地主が高い税金や無償の労働奉仕を課したので、さらに農民は困窮した。また農民の共同作業場であり、燃料その他の取得のできた森が地主その他の権力によって農民から奪われた。こうして「おらの仕事を奪うな」というスローガンで、機械打ち壊しの一揆が起きたのである。機械打ちこわしなどが行われた。ドイツの労働者の初期段階の闘い。その多くは敗北し、困窮した農民は都市難民となりスラムに住んで工場労働者その他の低賃金労働についた。働き手のいなくなった田舎の土地は放牧地になり、農民がまた放逐された。

以下の「織布工の歌」とマルクスの言葉とハイネの詩を見てほしい。初期労働者の叫びが見事に表現されている。以下の絵は、シュレージェンの織布工のたたかいを描いた、ドイツのコルヴィッツの作品である=当ブログのコルヴィッツの絵画参照。

たたかいは、「織布工の歌」から始まった。賃下げに反対するある織布工が工場主の門前で、「オーストリアには城がある」の替え歌を次のように歌った。

ここの裁きにくらべれば、

お裁き一つするでなく

さっさと人の首はねる

秘密裁判まだましだ。

なぶり殺しにじりじりと、

拷問台にかけられて、

つく溜息も数しれず、

さぞや辛かろ、苦しかろ

ツヴァンツィガーは、首切り人

家に仕える獄卒が、

いずれ劣らぬ非道ぶり、

人の生き身の皮を剥ぐ

うぬらは、地獄の悪霊か、

貧乏人を食い荒らす

報いにゃ、呪いをかけてやる

いかなる願いも、聞かばこそ、

いかな嘆きも、知らぬ顔

いやならいつでも出て失せろ

野たれ死にでもしろという

世の人、知るや、ここに住む

貧乏人のうき辛苦、

今日のパンにも事を欠く、

憐れと見ずに過ごさりょか

憐れと見るは、人食いの

うぬらが知らぬ優やさごころ、

うぬらが望みは誰も知る

貧乏人の身と肌着

この歌のために、この織布工は、家の中に引きずりこまれ、鞭で滅多打ちにされ、地区の警察に引き渡された。この事件が直接の契機となり、一斉蜂起が起きた。

184464日午後2時頃、プロイセン王国シュレージェン州のオイレンゲビルゲ山雄の隣りあった二つの村、人口合せて18,000人のぺ一タースヴァルグオとランゲンピーラオで、木綿織工が多数、それに麻織工が加わり工場主たちにむかって実力行使をもって立ちあがった。64日、まずべ一タースヴァルダオの数百人の労働者たちが、自分たちがもっとも憎むツヴァンツガー兄弟商会に殺到し、賃上げを、そしていわぱ寸志を要求した.。嘲笑と悪罵をもってそれを拒否されたかれらは建物に侵入し、ありとあらゆるものを、家具調度・什器・装飾品・建具・飾り金具・階段・壁・窓枠などを破壊し、帳簿・手形・書類をひき裂いた。工場の紡績機も打ち壊された。投石によってガラスの壊された窓から投げ出されたストックされていた布地類は、裂かれちぎられ、踏みにじられ,あるいは周囲の人々に分配された。翌5日、手斧・干草用熊手・棍棒・石塊などで武装した労働者たちは、ランゲンビーラオその他から合流した者を含めてすでに3000人を超えていた。織布工だけでなくレンガ工、指物工なども加わっていた。やがて隣村へ移動し、ディーリヒ兄弟商会を攻撃の対象としたが、シュヴァイトニツから治安出動した歩兵2個中隊と対峙した。解散命令にも従わず威嚇発砲にもひるまぬ蜂起者たちは、2度の一斉射撃によって11人の死者と20 数名の重傷者を出したが,このことにかえって激昂して反撃に出て出動部隊を退却させた。翌6日、砲兵と騎兵の応援をうけた部隊によって、蜂起は鎮圧された。100人を超える職工たちが逮捕拘禁され、早々と831目にはプレスラオのプロイセン王国高等裁判所において、80人を超える労働者に総計203 年の懲役刑・90年の要塞禁固刑・350回の鞭打刑の判決が下された。

たたかいは連動した。紡績業が発展し「ドイツのマンチェスター」といわれていたバルメンでもシュレージェンと同じ蜂起が起きた。バルメンは、エンゲルスが育った都市である。

シュレージェンの労働者のたたかいは、マルクスの「資本論」やディケンズの小説にも掲載された。さらにドイツではハイネが「古いドイツよおまえの経幟子を織ってやる」と詩を書き、1892年にハウプトマンが戯曲で発表。日本では1933年に築地小劇場で上演された。

マルクスは、このシュレージェンの労働者のたたかいについて以下のようにのべている。「まず『織工の歌』を思いうかべるがいい。この大胆な闘争の合言葉のなかには、かまどや仕班場や居地区のことは一度も述べられず、プロレタリアートはいきなり私有財産制社会にたいするかれらの敵対を、あからさまに鋭くカづよく絶叫している。シュレージェンの暴動は、フランスやイギリスの労働者の蜂起の終った地点から、すなわちプロレタリアートの本質についての自覚から始まっているのである。行動そのものがそういった卓越した性格を帯びている。たんに労働者の競争相手である機械が破壊されたぱかりではなく、所有権の証書である取引帳簿までもが破棄された。そして他のあらゆる運動が、まず工場主という目にみえる敵に立ちむかったのに、この運動は、同時に銀行家というかくれた敵にも立ちむかっている。結局のところ、どんなイギリスの労働者の蜂起も、どれひとつとしてこれと同じような勇敢さ、熟慮、辛棒づよさをもって行なわれたことはなかった」と述べている。

◆ハウプトマンの「織工」のあらまし=http://d.hatena.ne.jp/odd_hatch/touch/20120202/1328137743)

◆ハイネ=「シュレージエンの繊工」

18447

くらい眼まなこに涙もみせず

機はたにすわって歯をくいしぱる

ドイツよおまえの経幟子きょうかたびらを織ってやる

三重みえの呪のろいを織り込んで

織ってやる織ってやる

ひとつの呪いは神にやる

寒さと飢えにおののいてすがったのに

たのめど待てど無慈悲にも 

さんざんからかいなぶりものにしやがった織ってやる織ってやる

ひとつの呪いは金持どもの王にやる

おれたちの不幸に目もくれず

残りの銭までしぽり取り

犬ころのように射ち殺しやがる

織ってやる織ってやる

ひとつの呪いは偽りの祖国にやる

はびこるものは汚屠と冒漬ぼうとくぱかり

花という花はすぐ崩れ

腐敗のなかに蛆うじがうごめく

織ってやる織ってやる

筬おさはとび機台はただいはうなる

夜も日も休まず繊りに織る 

古いドイツよおまえの経幟子を織ってやる

三重みえの呪いを織り込んで

織ってやる繊ってやる

🔷チャーティスト運動の先駆=1819.06.16の「ピータールーの大虐殺」事件描いた映画「ピータールー」 赤旗日曜版19.08.04

🔴◆◆チャーティスト運動

岡本充弘

小学館(百科)

Chartist Movement 

イギリスで1830年代後半から50年代にかけて、労働者階級を中心になされた成年男子の普通選挙権を要求する運動。人民憲章(ピープルズ・チャーターPeople’s Charter)を掲げたことからこの名がある。代表的指導者にオコナー、ラベットをはじめ、オブライエンJames Bronterre O’Brien1805-64)、ハーニーGeorge Julian Harney1817-97)、ジョーンズErnest Charles Jones1819-69)などがいる。中心的組織は18407月に結成された全国憲章協会で、また『ノーザン・スター』(1837~52)がその機関紙的役割を果たした。

(1)背景

1832年の第一次選挙法改正が不十分であったことへの不満、さらには34年の新救貧法への反対、十時間法運動、反新聞印紙税運動などがこの運動の契機となったが、とくに385月の人民憲章の刊行を前後として6項目の議会改革の要求を中心に運動の全国的結集がなされた。またこの運動のもう一つの背景となったのは、当時の労働者の生活状況の悪化であったともいわれ、ほぼこの時期の景気の後退に対応して運動にも三度にわたる高揚期が存在している。

(2)運動の高揚期

最初の高揚期である1839年には、24日からコンベンションといわれる全国大会が開かれ、128万人の署名を集めた国民請願を議会に提出したが、これは下院で23546で拒否され、失敗に終わった。しかしこの年は5月下旬に全国各地で同時集会という示威行動がなされ、またゼネラル・ストライキの計画とそれをめぐる議論、さらには11月ニューポートで蜂起(ほうき)がなされるなど運動の急進化が進んだ。

第二の高揚期である42年には412日からコンベンションがふたたび開催され、5月に約332万人の署名を集めた国民請願がなされたが、これも下院で28749で拒否された。一方この年の8月には、プラグ・プロットとよばれる広範なストライキが工業地帯で賃金削減反対およびチャーターの獲得を目的としてなされたが、このストライキとチャーティストそのものとの関係についてはなお不明な点も多い。

40年代の後半に入ると、運動は一時的にオコナーの立案した土地計画(運動の支持者に土地を貸与し、共同村に入植させる計画)に向かったが、景気の悪化とヨーロッパの革命運動の影響を受けて、運動は48年に三度目の高揚期を迎えた。しかし44日から開かれたコンベンションによって提出された第三次国民請願は、570万を超えたとするチャーティスト側の主張にもかかわらず、議会の調査によってその実数は200万に満たないものとして無視され、またチャーティストの側が総力を結集した410日のケニントン・コモンの大示威行動も当局の周到な準備により失敗に終わり、運動はしだいに衰退した。

(3)運動の衰退

またこのころから、オコナーにかわってハーニー、ジョーンズらの左派的(社会主義的)な指導者が台頭、18514月には彼らが中心となり新綱領が採択され、525月にはジョーンズによって『ピープルズ・ペーパー』(~1858)が刊行され、運動の再編が試みられたが、結局運動の衰退を食い止めることはできなかった、とされている。

◆人民憲章

People’s Charter 

1838年、イギリスのチャーティスト運動の要求を具体化した文書。成人男子普通選挙権、無記名投票、平等選挙区、議会の毎年改選、議員の財産資格撤廃、議員への給与支給の6項目からなる。18375月から議会の急進派議員とロンドン労働者協会のメンバーによって起草の準備が進められ、183858日刊行された。草案そのものの直接の作成者については、プレースとする説とラベットとする説との2説ある。内容自体はそれまでの急進的運動の主張を大きく超えるものではなかったが、チャーティスト運動の全国的統一の契機になった。

◆◆日本で最初のストライキ

 (谷川巌)

 日本最初のストライキは、山梨県の甲府の製糸女子労働者によって行われました。1876年に中澤喜八か経営する生糸製作所です。同じ甲府の雨宮製糸のストは有名です。1885(明治18)年、山梨県甲府の製糸女子労働者(当時女工、工女といった)によって行われましたが、翌86年には、甲府雨宮製糸の女子労働者たち百余名が6月14日、近くの寺にたてこもってストライキに立ち上がりました。それは、県下の製糸業者が同業組合をつくり、「工女取り締まり規約」を定めて、実働14時間をさらに40分のばし、これまで「上等」で1日32.3銭であった賃金を22.3銭に切り下げようとしたのにたいして、がまんができなくなったためでした。

 「すこし遅刻しても同盟のきびしい規制でようしゃなく賃金を引き下げられ、長糞、長小便は申すにおよばず、水いっぱいさえ飲むすきのないのに、工女たちは腹をたて、雇い主が同盟規約という酷な規制をもうけ、わたしらを苦しめるなら、わたしらも同盟しなければ不利益になり、優勝劣敗今日において、かかることに躊躇すべからず。先んずれば人を制し、おくるれば人に制せらる。おもうに、どこの工女にも苦情あらんが、苦情の先鞭はここの紡績工場よりはじめん、といいしものあるやいなや、お竹、お松、お虎のめんめん、ひびきの声に応ずるごとく」といっせいに職場をひきあげて、近くの寺にたてこもったと『山梨県労働運動史』はのべています。

 会社はびっくりして、「首謀者」と話し合った結果、6月16日には、出勤時間を1時間ゆるめる、その他優遇策を考える、ということで争議は解決しました。この雨宮製糸のストライキは、同じようなひどい規制で苦しめられていた他の製糸工場へとひろがっていきました。(谷川巌『日本労働運動史』より)

◆◆日本で最初の労働組合◆◆

(犬丸義一)

  日本の資本主義の発達とともに労働者階級が形成され、労働者階級の闘争もはじまりました。当初は自然発生的な闘争でした。明治の初年から生野鉱山、佐渡銀山、高島炭鉱などで自然発生的な暴動が起こっています。また1886(明治19)年には、山梨県甲府の雨宮製糸の女子労働者によるストライキが起こっています。この前年にもストライキが甲府の製糸工場で起こっています。これらが日本で最初のストライキです。まだ労働組合はなく、自然発生的なたたかいでした。1894~95年の日清戦争は、産業革命の契機になり、労働者階級が成立し、労働者のストライキ闘争が各地に起こりました。当時の労働情勢はおよそ次のようでした。1894(明治27)年には、10人以上の従業員を使用する民営工場の数は、5985でしたが、1897年には、7327工場に増えます。労働者数も40万人をこえ、その65%、26万人は女子労働者でした。こうして日本における資本と労働の対立が一定の物質的基礎をもって展開される条件が成立しつつあったのでした。1897(明治30)年には、これまで一桁から二件台だった労働争議件数が一挙に116件にはねあがりました。資本の搾取と支配にたいする労働者のたたかいは、個人的抵抗の段階から集団的暴動をへて、ストライキを武器とする団結、労働組合結成へとすすんできたのです。

  争議の頻発を契機に労働者の組織が次々につくられました。4月に城常太郎らによる職工義友会がつくられました。その演説会では、「労働組合をつくることは労働者の利益を促進する最良の手段である」「労働者は自分自身と家族のためにも、いまこそ勇気を出して立ち上がるときだ。そしてその義務があるのだ」とよびかけられました。

7月には、アメリカで労働組合運動を学んだ高野房太郎、片山潜が労働組合期成会を結成し、全国を遊説して労働組合の結成をよびかけました。12月には、機関誌「労働世界」が発刊されました。期成会の設立趣意書はこううたっています。「労働者を労働組合に組織することによって労働者に自主独立の気風をよびおこし、労働者の権利と地位をまもるとともに、みずからの経済的地位を友愛的にまもるために共済活動をすすめる」(口語訳)。しかし、期成会は、その名称が示すように、労働者に労働組合をつくるようによびかけ、準備をするための団体であり、それ自体まだ労働組合ではありませんでした。1897年の12月には、金属機械工を中心に鉄工組合が1184名で結成されました。これが日本最初の労働組合でした。いまからちょうど100年前で、今年は日本の労働組合の歴史も100年を迎える記念すべき年なのです。この翌年の2月25~27日には、日本鉄道で労働者のストライキ闘争がたたかわれ、この闘争のなかで日本鉄道矯正会(日本鉄道会社の機関士、火夫の組合=98年4月)がつくりだされました。労働者の基本的大衆組織である労働組合を結成するに至った点で、従来の自然発生的段階と異なった新しい組織的闘争の段階を迎えたことを示しています。またこの翌年には活版工組合(99年)がつくられました。この結成には、労働組合期成会の働きかけがありました。約2000余名が参加しました。この当時の労働組合は、共済活動を主とするものであり、賃上げなどの労働条件の向上のためにストを最後の武器として労働協約を結ぶことを任務とする組織て゜はありませんでした。また労働組合運動と平行して社会主義運動も起こり、社会主義協会などがつくられました。労働組合運動の前進に驚いた資本家階級と政府は、1900(明治33)年、治安警察法を制定し、弾圧をはかります。その17条は、実際は労働者の団結権、ストライキを弾圧する法案で、これに違反すると犯罪者として逮捕されるので、発足したばかりの労働組合運動には大打撃で「労働組合死刑法」とよばれ、やがて労働組合運動は消滅したのでした。 (『学習の友』97年10月号より)

以下『物語日本労働運動史』(犬丸義一・中村新太郎、新日本出版社)から鉄工組合の状況を紹介しましょう。

「まず最初に鉄工組合が1897(明治30)年12月1日、東京神田のキリスト教青年会館で発会式をあげ、鉄工(金属工)1180人をはじめ、労働組合期成会会員、来賓あわせて1300人が集まりました。来賓には、大審院長、農商務省工務局長、逓信省技師、砲兵工廠技師などが顔をみせ、最後に鉄工組合万歳を三唱、君が代をうたって式をとじました。まもなく官営東京砲兵工廠の鉄工六百数十人がどっと参加してきました。このように鉄工組合の結成にあたった組合加入者は、第1に砲兵工廠など官営企業に属する労働者が中心でした。当時の砲兵工廠は、企業のなかではめずらしい大量生産体制をとった工場であり、鉄工組合結成の活動家は、このような産業的諸条件のなかから生み出されたものでした。また、彼らは、第二に、ほとんどが旋盤工・仕上げ工という新しい技術にもとづく新型職種の労働者でした。第三に、彼らは、下級職長以下の若手熟練工でした。彼らは、職業別に団結して、たがいに情報を通じ合って、労働諸条件の共同向上をはかり、当時の『富国の道』である新しい工業化の条件に積極的に呼応し、自分たちの地位を高めるために鉄工組合に結集したのでした。彼らの主張は、職業的労働組合主義でした。鉄工組合の規約は全文130条にちかい長いもので、本部の事務分掌は救済””会計””庶務にわかれ、救済に重点がおかれていました。いわゆる共済団体の性格をもっていました。また規約第101条は、組合員が雇い主と紛議を生じたときは、その紛議にたいして仲裁の労をとることを規定しています。このような点が当時の組合の特徴で、賃金、労働時間をはじめ、いっさいの労働条件の維持と改善のために労働者の基本的三権を行使する今日の労働組合とはだいぶ違っていました」。

  つぎに日鉄矯正会の労働者のたたかいです。「現在のJR東北本線(上野-青森)は、そのころ最大の鉄道会社だった日本鉄道会社(資本金1000万円)が経営している民営鉄道でした。路線延長1285キロ、従業員は1万人をこえていましたが、労働者の待遇はひどいものでした。

  1898(明治31)年2月、日本鉄道の各駅に、どこからともなく一通の秘密印刷物がまいこんできました。このビラは、機関方、火夫のたえがたい生活を日清戦争中、鉄道従業員は準軍人とよばれ、まるで馬車馬のように運転しているではないかと訴えていました。さらに待遇を改善すること、機関方、火夫一同臨時昇給のこと””機関方を機関手に、心得を機関心得に、火夫を乗組機関生に、掃除夫を機関生と、名称を改めること。そしてこの要求を、二銭の郵券(切手)を奮発して、東西南北より、社長、副社長、課長に嘆願することなどを訴えていました。この結果会社には各駅から請願書がぞくそ゛くと送りつけられ、会社は密偵により、首謀者10人を解雇。これにたいして福島駅をはじめ東北各駅から400余名がストライキに入り、24日夜から一列車も走らずという状況になりました。日本で最初の大規模なストライキは、世論の支持と機関方のかたい団結によって2月27日までつづけられ、労働者側の大勝利に終わりました。4月5日、約1000人の日鉄機関車乗務員たちは、日本鉄道矯正会という労働組合を結成しました。これこそ闘争の中でつくられた戦闘的労働組合であり、片山潜は日本鉄道矯正会を交戦的労働組合の標本とよびました」。

  この日鉄労働者の闘いの具体的な状況は、『学習の友』97年10月号から開始された「物語・日本の労働組合」の第1回「日鉄同盟罷工と石田六次郎」(三上秀光)をぜひお読み下さい。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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