歌物語❶の(2)労働歌・革命歌・うたごえ・ロシア民謡

歌物語(2)労働歌・革命歌・うたごえ・ロシア民謡


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【このページの目次】

以下は(1)に掲載

◆労働歌・革命歌リンク集

◆鑑賞=労働歌・革命歌

◆うたごえ運動の歴史と解説

以下は(2)に掲載

◆関鑑子の生涯(「知性」青地執筆)

◆ロシア民謡の歴史と解説

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🔵「関 鑑子」伝 (青地 晨)

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関鑑子 略歴

1899=明治32 09/08父「関 如来(岩二郎・美術評論家/漢学者)、母トヨの長女として東京で誕生。

1921=大正10 谷中小学校・府立第二高女(竹早高校)を経て、東京音楽学校(芸大)本科声楽科を卒業。

更に、東京音楽学校研究科を終了。卒業と同時に、声楽家(ソプラノ歌手)として楽壇で活躍。

1926=大正15 プロレタリア演劇の俳優であり、指導者であった小野宮吉(1936年没)と結婚。

1927=昭和02 長女「小野光子(声楽家)」誕生。

1929=昭和04 プロレタリア音楽家同盟に参加。初代委員長となる。

1946=昭和21 現代音楽協会、民主主義文化連盟に参加。民主的音楽運動を推進する。

1948=昭和23 02/10中央合唱団を創立。

1951=昭和26 音楽センター主宰者となり、日本のうたごえ運動を全国的に展開し、その指導にあたる。

1955=昭和30 12/20ソ連・中国・ポーランド・ドイツを訪問。国際レーニン平和賞を受賞。

1964=昭和39 日本のうたごえ合唱団を率いてソ連の各地で公演。

1966=昭和41 国際チャイコフスキー・コンクール声楽審査員として参加。

1970=昭和45 国際チャイコフスキー・コンクール声楽審査員として参加。

1971=昭和46 著書「歌ごえに魅せられて(発行:音楽センター)」を刊行。

1973=昭和48 05/01メーデー当日、50万人の「世界をつなげ花の輪に」の大合唱指揮直後、壇上で倒れ、意識不明のまま死去。享年73歳。全生涯にわたって「大衆こそ音楽創造の主人公である」「うたごえは平和の力」「うたは闘いとともに」を貫き、うたごえ運動の星であった。

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1) 関 鑑子 讃

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19564月(知性増刊「日本のうたごえ」)

はじめて関鑑子さんにおめにかかったとき、わたしはおどろいた。予想とはまるで人柄がちがっていたからだ。スターリン平和賞の受賞者、うたごえ運動の最高の指導首としての関さんに、わたしが女史型を想像したとしても、これは仕方がないことだ。日本のエライ女性たちは、シッカリ型かヤリ手型か、いずれにせよスキのないヒモノのようなタイプが少くない。ところが待っていたわたしの前へあらわれた関さんは、まるでみずみずしい水蜜桃のような人柄であった。讐かな人間性と童女のようなふくよかさをあわせもつ人だったのである。

関さんは明治三十二年の生れだ。だから童女という形容は明らかにふさわしくない。だが顔や姿の年輪をこえて、豊かな人間性と若若しさが、光の輸のように関さんをとりまいているのであった。あるいは光のかげろうとよんだ方がよいかもしれない。それはおそ春のかげろうのように彼女をめぐってゆらゆらと揺れて~たのだから。

それから数日のあいだ、わたしはこの伝記を書くために関さんの許へかよった。だがわたしはいまでも、関さんという人が本当にはつかめない。それはわたしが既成の人間の鋳型にあてはめて、関さんを割りきろうとしたからだろう。また関さんはきわめてオリジナルな人で、日本の人間類型としては大変めずらしい人である。彼女のひとつの特徴は既成の概念や公式で問題を割りきるうとしないことだ。だから彼女自身も、既成の物差しで割りきることはむずかしい。

そのオリジナリティの豊かさは、明治の自由な知識人の家庭で育った二人の同年輩の女性--宮本百合子と富本一枝を連想させる。この二人のすぐれた女性ば、いずれも建築家や画家の家に育ち、知的で芸術的な雰囲気と、いわゆるブルジョア・リベラリズムの栄養分をタップリと吸い取って自我を生長させた。そして熱烈なトルストイアンの立場から、やがて進歩的な思想の側へ、きわめて自然に移行したヒューマニストである。

 むろん関さん、宮本さん、富本さんの三人のパアソナリティは同じではない。だがこの三人はなによりもヒューマニストである。まだ肥料のよくきいた土に根をおろし、ふとい幹を豊かな樹液か絶えまなくめぐり、濃縁の厚い葉を層々とかさなりあわせている--という印象にもかわりはないのである。ことに三人の女性のなかで、こうした即象をもっとも強くうけるのが関さんである、彼女は大木ではあるが、野中の一本杉ではない。熱帯のジャングルのなかにひときわ高く生いしげっている一本のゴムの樹-わたしは関さんにこのような印象をもったのであった。

だが、野中の一本杉とちがって、ジャングルのゴムの樹は単純ではない。生一本なお嬢さん育ちと酬いなく人民に奉仕する生活、きわめてオリジナルな思考と一本のふとい思想的背骨、育ちからきた洗練された趣味と合唱の集団生活にとけこんだ簡素な私生活-こうしたアンバランスが関鑑子という一個の女性のなかに併存する。たがいに矛層しあう諸要素が総合され、あるいは統一されたのが、関さんという人聞像なのだ。

だが、こうしたことが観光道路を自動車でドライヴするような快適さとスピードで達成されたとみるのば、大変な間違いである。それは彼女の肉をけずり、骨をそぎとる精進によって、はじめて達成されたと私は思う。またこの苦しい、だが希望にみちた自己変革のたたかいば、関さんか生きているかぎり、涯しなくつづくであろう。だが彼女は深刻そうに眉をよせないで、あのおっとりとした微笑でさり気なくたたかいつづけてゆくにちがいないのだ。二十人で出発したうたごえ運動が、いまは数十万の人びとをまきこみ、世界にとどろくうたごえとなったのは、こうしたことと無関係ではあるまい。

うたごえ運動の発展を関鑑子という一個人の達成とみるのは誤っている。それはさまざまの外的な条件によってささえられ、はげまされていることはいうまでもない。だがもしも彼女がいなかったならば、それは一部の人びとのうたごえとはなっても、日本の、そして世界にひびくうたごえとはならなかったにちがいないのだ。

人間はかわるものであり、またかわりうるものである。これはわたしが関さんから受けとった最大の教訓であった。それはなによりも、人間の発展性と人間の尊厳さを立証するものなのだ。関さんのあの光りかがやく豊かさも若々しさも、決してこのことと無関係ではない。そしてこれをなしとげたものは、なによりも関さんの童女のような素直な心だと私は思うのである。

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2) 美しいプリマドンナ

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19564月(知性増刊「日本のうたごえ」)

関鑑子は明治三十二年、七人きょうだいの長女として東京でうまれた。家は代々郡山藩の江戸詰家老で、鑑子の子供の頃には旧藩主のオヒイさまがよく家へ遊びにきた。オヒイさまは百人一首のお姫様のように十二単衣をきているものと思いこんでいたので、「今日はオネマキでいらしった」といって鑑子は母にわらわれた。

 鑑子の父は維新後、大学予備門(東京大学の前身)で英学をまなび、如来山人と号して読売新聞の美術記者をしていた。わが国の美術評論家の草わけで、岡倉天心、横山大観、川端龍子などと親交かあり、また文壇人とも交友がふかかった。漢籍からの武士的な教養と英学からのヨーロッパ風な自由思想が仲よく彼の頭に同居していたようである。これは漱石、鴎外などにもみうけられる明治の知識人に共通した特色である。したがって家のシツケもきびしく、鑑子は子供の頃から独りを慎む、ウソを絶対につかぬことなどを礼儀作法とともに教えこまれた。

父は新聞社で相当の高給をもらっていたが理財の才はまるでなかった。タバコをふかして歩く精巧な自動人形を買ってきて、財布の底をハタくような振舞かしばしぱだった。したがって母の前では頭があがらない。鑑子の母は家の切廻わしが巧みで、タンスの物は質に入れても子供たちにはタップリと食べ物をあたえた。しょっちゅう母が米ビツを空にしないように気を配っていたことを鑑子ばいまでもおぼえている。女子は独立した職業をもち、男子に隷属してはならないというのが母の持論で、白本で初めて看護婦の免状をとったほど進んだ考えの人であった。

そういうわけで、関家は中流の暮しではあったが、父の芸術家気質と酒好きのせいで、蓄財はなかった。だが子供の教育には両親とも費用を惜しまなかったらしい。鑑子ば小学校にはいる前から音楽の個人教授をうけた。母は長唄の名取で、父も声がよかったせいか、彼女は天性宝玉ののように美しい声をもっていた。音楽学校の入学試験のとき少しぱかり間違ったが、声が美しいのと立派な歌いっぷりなので、試験官は間違いに気がつかなかったという。

鑑子は小学校も女学校も一番で出たが、音楽学校もやはり一番で卒業した。天分や子供の頃からの訓練のせいもあったろうが、第一には他人に数倍する精進の賜物である。その頃鑑子の家は本郷の高台にあったが、近所には大学生の下宿屋が多い。鑑子は学狡から帰ると夜ふけまでピアノや声楽の練習をした。あまり練習がはげしいので、近所の下宿屋から大学生が引っ越してしまう。そこで下宿屋の主人が音楽学校へ苦惰を持ちこみ、お巡りも立合って夜は十二時で練習を打ちきることに相談がまとまった。ところが朝と名がつけぱ何時からでもかまわないというので、彼女は四時におきて歌をうたった。音楽学校を卒業したとき、第一番に御祝いにかけつけたのは、近所の交番のお巡りさんだったという。深夜も早朝も巡回のたびに鑑子め猛練習に接しているのだから、はじめは気違いあつかいにしたとしても、四年のうちにすっかり頭をさげたのであるう。

下宿人が逃げだすくらいだから、鑑子の家でもさぞかしウルさかったにちがいない。だが音楽の練習については、両親も弟たちも、ひとことも苦情をいわなかった。やりだしたことは、どんなことでも貫かねばならないというのか鑑子の父の持論であった。父は卒業の三ヵ月前に高島屋で一番上等の着物と帯を買ってくれた。

鑑子は音楽学校では、ヘッツオールド夫人の門下生となった。夫人はマスネーの音楽学校を出て才ペラ歌手として舞台立った人だが、すぐれた音楽教師でもあった。彼女の門下から、立松房子、柳兼子、原信子、武岡鶴代などの有数な歌手が生まれているのをみてもわかるだろう。夫人は特別に鑑子の才能と精進を愛した。そのために弟子のあいだでトラブルがおこることもあったが、鑑子は音楽家の対決は舞合の上だと覚悟をきめていた。私生活でくだらぬ角づきあいするよりも、舞台という土俵で聴衆を前に勝負を決すればよい。そのために精進、ただ精進あるのみであった、きびしい努力のみが天分を花さかせる唯一の道なのである。

鑑子は音楽学校の演奏会で「椿姫」のアリアをうたった。それが初舞台である。評判は素晴らしく、新聞はソプラノの新星の登場を写真入りで報じた。在学生としては初めてのことであった。つぎの年にはべートーヴェンの「フィデリオ」、卒業演奏にはウェーバーの「オベロン」をうたった。卒業の正月頃から鑑子の家には演奏会の申込みか殺到して、三ヵヵ月後のスケジュールまできまってしまう盛況だった。こうして鑑子は楽壇のプリマドンナとして大正十年、上野音楽学校を華々しい栄光につつまれて卒業したのである。

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3) 社会問題へのアプローチ

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19564月(知性増刊「日本のうたごえ」)

鑑子が府立第二高女(今の竹早高校)へかよっているとき、校外教授で二葉幼稚園を見学したことがある。二葉は新宿旭町の貧民街にある幼稚園で、園児たちは汚ないボロをきて、サツマ芋をうすめたものを牛乳がわりに飲んでいた。鑑子はおどろいた。自分のうちは子供の天国で、ことに赤ん坊は下にもおかぬほど大事にされる。彼女は初めて貧乏という社会悪の存在を知った。このときの衝撃はやわらかい彼女の心に終生忘れられない黒い影をおとした。

父が無類の読書家だったので、彼女は子供の頃から手当り次第に父の本をむさぼり続んだ。彼女の愛読書のなかにはツルゲーネフ、ロセッティ、ハイネなど古典から、ジイド、フランス、シンクレアなどの新しい西欧作家の作品があった。日本の小説は身辺雑記的で社会性がないので彼女の興味をひかなかった。まったく体系のない濫読だが、それが今日の彼女の教養を豊かにし、人生を見る目を多彩にしていることはいなめない。

ことに彼女が心をうたれたものは、トルストイの『復活』であった。早くも十二才で『復活』を読んだ鑑子は、カチューシャと結婚した革命家シモンソンに一番心をひかれた。『革命家とは一生懸命世の中につくして、ついにむくいられないものである』というシモンソンの言葉に心うたれたのである。『日本にも革命家という者がいるだろうか。もしいたらわたしもそんな人と結婚したい』と十二才の少女は心をはずませた。彼女が後に小野宮吉と結婚したのは、このときの気持が二十八才まで変らずつづいていたことを語るものだ。

音楽学校を卒業して、三年間、彼女は文字通り楽壇の寵児であった。ぎっしり組まれた日程にしたがって、北海道から九州まで演奏旅行にあわただしかった。ワン・ステージ三百円という日本一の出演料が彼女の人気を語っている。その頃の彼女の写真をみると、まるで童話の姫君のように美しい。失礼な言い方もしれないが、美貌のプリマドンナということも彼女の人気を一層高めた要素かもしれない。

こうした華やかな楽壇生活の余暇に鑑子は東大のセッツルメントで音楽を教えた。ちょうど震災の頃で、時代は大正デモクラシーの開花期であった。デモクラシーの波が日本を洗い、米騒動やロシア革命の余波で、日本の労働運動は二度目の高揚期をむかえていた。そうしたものにうながされて、末広厳太郎、穂積重遠などの東大の教授が本所の貧民街にセッツルメントを建て、労働者の教育と向上に熱心に従事していた。鑑子は東大の学生に頼まれて、そこの幼稚園で一週二回唱歌を教しえた。二葉幼稚園を見学したときの感動がふたたび彼女をとらえたのである。

セッツルメントの幼稚園には貧弱な才ルガンしかなかった。彼女は園児のためにせめてピアノを備えたいと思い、友達や出身校の女生徒に頼んで寄附をあつめた。薬袋ほどの小袋を沢山こしらえて、そのなかに五銭、十銭の浄財の喜捨を仰ぐのである。こうして四、五百円の金を集めて古ピアノを一台寄附した。この頃のセッツルメントヘきた東大の学生のなかには、この間なくなった服部之総などもいた。東大生にはめずらしいボサッとした面白い男だったので、彼女の記憶に残った。

 あるとき一緒にお茶を飲んだ学生が、「関さん、あなたがセッツルメントで数えるのは慈善のつもりかもしれないが、慈善というものはくだらないものだ。悪い物、汚ない物はそっとしておいて、その上に金や銀の砂をまくのが慈善です。なぜ社会に貧乏が存在するか、それを考えて、貧乏の原因をとり除くのが本当の道だ」と話した。負けずぎらいの鑑子はムッとしたが、この学生の言った言葉はいつまでも心の片すみにつきささっていた。

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4) 結婚の幸福

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19564月(知性増刊「日本のうたごえ」)

鑑子は大正十五年、数え年二十八のとき小野宮吉と結婚した。小野の父は福沢諭吉の門下生で三井銀行の重鎮だったが、息子の宮吉は新らしい演劇運動の担い手の一人だった。彼は中学の頃から熱烈なトルストイアンで、ヒューマニズムの立場から次第に新らしい演劇運動へ近づいた。学生時代に演劇の才能をみとめられて小山内薫の築地小劇場にはいり、干田是也とともに築地を脱退して前衛座を結成した。前衛座の旗上げ興行の『解放させられたドンキ・ホーテ』で小野は主役を演じて好評だった。舞台装置は村山知義、演出は佐野碵、俳優は千田や佐々木孝丸など後に日本の左翼演劇を背負って立った一流の顔ぶれであった。民衆に奉仕したいという彼女の希いは、こうして小野によって実を結んだのである。

鑑子は少女の頃からずい分恋愛や結婚のプロポーズをうけた。その頃の鑑子はまるで小公女のように清潔な美しさだった。プロポーズした一人に三上於菟吉がいる。彼は当時早稲田の学生で、宇野浩二などと同人雑誌をやりながら、家から書画骨董を持ちだして盛んに飲み歩いていた。豆しぽりの帯をしめていたので十六才の鑑子は「イヤらしい」といって断わった。楽壇の明星になってからは、いよいよ男にさわがれたが、結局肺が悪い上に片方の腎臓を摘出した一番条件の悪い小野と結婚したのであった。

これは後の話だが、あるとき鑑子は千田と結婚した岸輝子と新橋の喫茶店でお茶を飲んだことがある。そのとき彼女は「わたしは千田さんも好きだったけれど、主人にはやはり小野がよいと思ったのよ」と話した。岸は、「わたしもそうなのよ。それで東屋三郎と結婚したんだけど、とうとう別れて千田と一緒になっちゃった」と笑った。鑑子が小野をえらんだのは、彼が高潔で誠実な人柄だったからであろう。

五年間の婚約の後、鑑子は結婚生活にはいった。小野との生活は十年あまりだったが、そのうち彼は二年半が獄中で、二年は病院に入院していた。結局五年あまりを一緒に暮らしたに適ぎないが、それもお互いに仕事があるので緒婚生活を愉しむ余裕はほとんどなかった。だが彼女自身の言葉からも、また当時を知っている人たちの話をきいても、宮吉と鑑子の結婚は世にもめずらしい至福の生活だったようである。

鑑子は結婚するときに考えた。人間で一番親しいものは親子兄弟と夫婦である。親子兄弟は天からあたえられたもので、自分が選んだものではない。だが夫は星の数ほどある男の中かから自分の意志で選んだ唯一人の人だ。自分は自分の選択に一生責任をもち、協力して幸福な人世と社会をきずくために決して別れることはすまいと覚悟した。

筆者は彼女からこのときの気持をきいて感動した。言葉に感動したのではない。彼女のそれからの半生が、文字どおりこの言葉を実現しているからだ。その実行動の重味が、彼女の言葉を美しく裏打ちしているのである。

小野との結婚前後から彼女は勤労者の音楽の演秦と創造のために働いた。第一回の『無産者の夕べ』で彼女は小野が作詞した歌をうたった。早稲田の学生の音楽会では、鳴りひびくアンコールにこたえて、『くるめくわだち』をうたい、ただそれだけの理由で警視庁へ引っぱられた。彼女がこのような道へつきすすんだのは、小野の思想的影響もあるだろうが、トルストイ的人道主義の当然の発展といってよいだろう。彼女にかぎらず、この年代の日本のヒューマニストたちは、ほとんど同じような経路をあゆんで人民の側に立つようになった。わたしは彼女は何者であるよりも、まず第一にヒューマニストだと信じている。

幸か不幸か鑑子は音楽学校を卒業して間もなく左のノドにハレモノができた。東大病院で診てもらうと、唾液分泌腺の異常で結石ができる病気だった。子供の頃から余り丈夫ではなかったが、猛烈な声楽の勉強がたたったらしい。夏休みに日光に避暑したとき、彼女は華厳の滝を前にして声量をきたえた。そうした日夜の猛訓練と、多忙な演奏活動が影響したのだろう。このノドの異常が彼女を楽壇生活から遠ざけるとともに、小野との結婚や早稲田の音楽会事件が彼女に赤のレッテルをはりつけた。楽壇はなかなかやかましいところである。彼等は「赤いプリマドンナ」にきびしい閉めだしをくわせたのである。

その頃から彼女は民族音楽に強い関心をもっていた。そこで彼女はナップの大会に健康な民謡をどりあげることを提議した。だが当時のプロレタリア運動は、民族的なものを一様に反動としてしりぞける傾向があった。それは当時の運動の段階が国際性を重視するあまり、民族性を過小評価したからであろう。彼女の発言は、大会で無複されてしまったのだが、そのとき議長をつとめていたのが夫の宮吉だった。彼女は家に帰ってから一週間ほども宮吉と口をきかなかった。これが夫婦の最初で最後の大喧嘩だったというから、仲むつまじさも想像できるというものだ。

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5) うたごえの誕生

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19564月(知性増刊「日本のうたごえ」)

小野宮吉か亡くなったのは、戦争がおこった昭和十二年だった。鑑子の母はノドの手術をしたときに、そして父は小野の死後二年目に他界した。彼女は一人娘の光子(てるこ)のほかは、最愛の三人に死別したのである。ことに彼女をまったく無私の愛情でつつんだ二人の男性に死なれたことは、非常な打撃であった。彼女は死というものの絶対さ、厳粛さを知った。いままで愛しあい、語りあい、暖かい血が流れていた最愛の生命が、一瞬のうちに机や椅子とかわりない冷めたい物質に一変するのである。この死の冷酷な打撃から立ちあがるためには、彼女は長い歳月を必要とした。だが死が絶対で厳粛なものならば、生もまた絶対で厳粛である。厳粛な生を大切に生きよう。彼女はここから立ちあがった。

彼女は夫が死ぬと、すぐ間借り生活へかわった。夫のための療養は四百円、そして彼女と娘との生活費は七十円という至れりつくつりの看護であったが、夫の亡い今日、一軒家に住むことも惜しかった。そして蒲田の社会施設を借りうけ、附近の勤労者のために音楽を教えはじめた。蒲田には大工場が多い。彼女の音楽教室には歌のすきな労働者が沢山つめかけた。このなかには戦後彼女か常盤炭坑へ歌をおしえに行ったとき、常盤一帯にうたごえ運動をひろげてくれた労働者もいた。だが戦争は音楽の名に値いする一切の音楽を日本の民衆かちうばいとった。むろん勤労者のための音楽など許されるはずはなかった。彼女のまいたささやかな種子は、戦争の巨大な足にふみにじられたのである。

戦後、鑑子は若者たちの打ちくだかれた姿に胸をうたれた。東京の街は一面の焼野原であった。その廃墟の街々を復員した若者たちがカーキ色の軍服や国民服をまとってさまよっている。鑑子は着る物を、食べる物を若者たちに差出したいと思った。だが未亡人の彼女に何があろうか。彼女にあるものは音楽けだ。自分は音楽以外に何ひとつあたえる物がないとわかったとき、彼女は打ちひしがれた人びとに音楽をあげようと決心した。こうして戦災にやかれて避難した上北沢の六畳の一室で、歌の集りがはじまったのである。

五、六人ではじまったうたごえは、たちまちのうちに数十人にびろがった。六畳の室では坐ることもできない。若い娘さんの頭の上へ床の間に積みあげた寝真の山が崩れかかることもある。畳がきれるぐらいはよいが、ネダが落ちては大家さんに相すまない。そのうちどうにも六畳の部屋にははいりきれないので、今の音楽センターの場所にバラックを建てて引き移った。昭和二十三年の夏の頃である。そしてここがまたもや手狭まになったので、全国の歌を愛する人びとから資金を仰いで、現在の音楽センターができあがった。

自宅でうたの集りをはじめる頃、鑑子は文連や民青で音楽の指導をたのまれた。文連関係で彼女は方々の工場や経営のサークルで歌を教えた。また民青の文化部でも合唱の指導をおこなった。だが文連関係では、ともすれば音楽の中途半端の専門家をつくりかちだ。それは平地に二階家を建てるようなもので、それよりも平地を高台にするのが本当である。また文工隊の場合には、政治工作のため専門家をこしらえることになりかねない。

 こうして彼女はサークル中心のうたごえを働く者の職場全体へ解放するために、また音楽をせまい意味の政治のワクから解き放つために、自主的な中央合唱団をこしらえた。うたごえ運動は国民の、そして音楽以外のどのような団体にも属すべきではない、これが彼女の三十年の音楽運動からうまれた貴重な結論だったのである。

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6) 背筋つらぬ<寂しさ

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19564月(知性増刊「日本のうたごえ」)

うたごえ運動の発展やその批判については、この雑誌で沢山の人が書くはずだ。わたしは関さんを中心にうたごえ運動の内側についてだけ語りたいと思う。

関さんの部屋は音楽セン・ターの構内にある。センターは四つの教室と裏務所と合唱団の若者たちの寮からなりたっている。日本をおおううたごえの中心とも思えない粗末なバラックだ。ホッペタの赤い娘さん、熱っぽい眼をした若者たちが何十人も、ときには何百人もひしめいていて、建物全体がゴムマリのようにはずんでいる。こうした建物の一角に、関さんのささやかな部屋があるのだ。

十畳あまりの板ばりの居間、これは狭くるしい寝室へつづいている。寝室がせますぎるせいか、白いペンキを塗った鉄製の寝台が斜めにおいてある。この寝台は小野家のお祖母さんが使ったというから八十年前の代物だ。居間の机の前にはハチャトウリアンに贈られた署名入りの写真がある。そのわきにルノアールの二つの少女の像がかかっている。豊かでみずみずしい色彩のルノアールは関さんが一番好きな画家である。そして二人の少女はあどけないまなざしで、いっも机にかけた関さんを見まもっている。

机の前は狭い庭、その向うには隣家のヒサシが突きだして陽をさえぎっている。この陽当たりのわるい庭の石コロだらけの焼あとを掘りおこして、関さんは夜店の鉢うえのバラをうえた。鳩山首相が愛好する大輪のアメリカ渡来のバラではないが、春になるとこの雑種のバラは枝もたわわに花をつける。この丈夫なバラは、なにか関さんとうたごえ運動を象徴しているような気がわたしはする。

この居間と寝室が関さんの個人生活のすべてである。ドアーひとつで教室へつづいているのだから、私生活といってもまったくのガラス張りだ。関さんはまるで往来に寝起きしているようなものである。たえず合唱団の若者たちがここを訪れてくるからだ。御嬢さんの小野光子さんも合唱団の寮の一室に住んでいる。母と子の生活よりも、関さんは若者たちの集団生活のなかに一人娘をおくことをえらんだのだ。

関さんのように個性のつよいオリジナルな人が、育った風土と環境を異にする人びとと一緒に暮らすのは、なみ大抵のことではあるまい。よほどつよい愛情と意志の力がなければ、半年もつづかず別の場所に生活の拠点をみつけたにちがいない。この人は若々しく童女めいてはいるか、シンのほうにはおそろしく強いものをもっているのだ。そして関さんと若者たちの互いにあたえあい、変革しあう集団の生活が、中央合唱団のうたごえを日本のうたごえにした原動力なのである。

大変むかしの話だが、関さんは河原崎長十郎と静江夫人の結婚披露宴に出席したことがある。関さんは祝辞を述べるために立ちあがったが、言葉がでずにそのままワッと泣きだしてしまった。別にこの結婚に反対だったわ.けでもなんでもない。それまで静江は大河内信威の夫人だったが、大河内が小野宮吉と同じ豊多摩刑務所につながれているとき、大河内と別れて河原崎と緒婚したのであった。関さんはそのいきさつを知っていたので、河原崎や静江の気持はよくわかっていた。だから反対ではないのだが、いざ祝辞を述べる段になると思わず大声で泣き出したのである。その気持はまことに複雑であるが、ひと言でいえば『人生の悲しみ』とでもいうのだろうか。人間には背筋をつらぬく寂しさがある。関さんはこの背筋をつらぬく生きるものの寂しさをよく識っている人だ。わたしはこれをうたごえ運動と直接むすびつけることはわざとしないが、このような関さんを好きだし、また心から信頼する気持かわいてくる。

関さんは昨年(1955)国際スターリン平和賞をもらった。「スターリン平和賞をもらったのは、とても嬉しいのですが、十年早かったと思います」と関さんはいう。これは謙遜の言葉でもなんでもない。関さんほど、うたごえ運動はこれからだと真から考えている人はあるまい。「うたごえ運動にはまだまだ沢山の弱さや、これから高めなければならない問題があります。だがそうした批判に言葉の上で答えるより、本当によいものをつくりあげて、それをわたしたちの答えにしたいと思います。日本の国民が平和を愛するかぎり、わたしたちのうたごえは絶えないでしょう。平和のないところに、うたごえはないのですから

日本のうたごえは質的なたかまりと、量的なひろがりと、新しい国民の音楽を創造する課題をせおっている。これまで関さんはいくつかの峠をこえてきたが。彼女とうたごえ運動の前には、まだいくつかの急な坂がよこたわっている。関さんはあのゆったりした徴笑をうかべて、ゆっくりと、だが確実に山坂をのぼってゆくだろう。それは真に新しいもの、真に偉大なものへの創造の道である。

作成(2009/03/18) 

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🔵ロシア民謡とは、その歴史

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民謡といえば古くから歌われてき民衆の歌というニュアンスで受け取っている人が多いだろうが、今回われわれが歌う曲のほとんどは作詞者や作曲者もはっきりしているし、そんなに古いものではない。「ロシア民謡」って何だ? 大体ロシアという国は学校でもあまり歴史を習っていないし教えていないし、よく知らない。そこで井上頼豊、北川剛、一柳富美子などの本からかき集めたものや、ネットで見たものなどを取り入れて原稿の材料をメモ。勝手に自分がそうならみんなもそうではないかと決めつけて書きました。

◆ロシア民謡の歴史

 ロシア人は集まると素晴らしい合唱を楽しむ。音楽の中に和音という要素を持たない日本文化の中に育った我々としては羨ましくさえある。そこには歴史があり、歌はロシア音楽の中心でチャイコフスキーの交響曲やラフマニノフのピアノ曲でもロシア人はそこに歌を感じるという。

 ロシアでは歌は特別な意味を持つようだ。一柳氏によるとロシアで合唱が発達した特殊事情があるという。

ロシア語はイタリア語と並んで母音の多い言語。音譜を乗せやすく歌が生まれやすい。美しいロシア語はそれだけで歌のように聞こえるし。実際、ロシアでは今もなお、詩の朗読会を「コンサート」と呼んでいる。(本当はロシア語でやりたいですね。 こだわるけれど…… (石林) 

ロシア正教が典礼で楽器の使用を禁じていること。西ヨーロッパでは教会にオルガンは不可欠だがロシアの教会では未だに聖歌はすべて無伴奏で歌われる。したがってバッハのオルガン音楽ようなジャンルはロシアには存在する余地が全くなく、逆に人の声すなわち歌を主体とした芸術が高度に発達した。16世紀には聖歌は単旋律だった。やがてポーランドの影響を受けてからは徐々に西欧化の道をたどり、和声的な多声楽の様式が現れた。それだけ合唱の比重は重いともいえる。ロシア民謡は暗く、重い。しかしその短調の調べが日本人には親しみが湧く。

ルーツは10世紀に活躍したキエフ国家時代の吟遊詩人。グースリ(チター属)という台型の弦楽器を膝に乗せておもに皇帝の英雄振りを賛美する叙事詩を歌った。

 14世紀にモスクワロシアの時代国家は繁栄するが重税のしわ寄せが貧しい農民にのしかかり、歌は次第に皇帝批判へ。 そのため皇帝はグースリを見つけたら焼却する条例を出したという。 ロシア革命まで葛藤が続く、恋や自然を歌ったものもあるが貧しさを嘆くものが多い。

ロシアで多声の合唱が広まったのは16世紀。 皇帝の圧制と窮乏を逃れてドン河の流域に住み着いたコサックの人々、(コサック……もとはトルコ語の「自由人」)、いわゆるドン・コサックはそこに独唱と合唱を組み合わせた独自の多声音楽を生み出た。民族的多声歌という。 独唱で始まり、合唱と独唱を組み合わせたもので17世紀にはヨーロッパにはなかった。

彼らは農民暴動の指導者として全国各地を歩いて農民を指導した。それとともに、彼らの多声歌も全土に広めていった。彼らは儀式の中では生活の面を歌う部分を復活させ、生活の歌のジャンルを発展させた。それが四声の多声歌の広まりの中で国民楽派に大きな利益となった。

アンナ女帝が西欧化政策で西ヨーロッパの音楽を積極的に輸入し、本格的なイタリアオペラを招聘してからは、貴族の没落が激しい西欧に代わって、18世紀ロシア宮廷はイタリアオペラの有力な庇護者になった。イタリアに音楽留学するものも出るが時代の主役はあくまで歌。

 1825年12月、フランス革命の影響を受けて、デカブリストの乱が起こる。デカブリストとはナポレオン戦争で疲弊し、重税に喘ぐ国民の中で、ナポレオンを追ってフランスに入った若手貴族達がフランス文化と接触。その影響を受け皇帝アレクサンドル急死の空位の混乱を期にロシアで革命を起こそうとしたインテリ層などによる闘争だ。

 敗れてシベリアに流刑された囚人、これに関わった人々の悲痛な生き様はその後プーシキン等の詩人とデカブリストとの親交などによって悲しみや怒りが歌となり、「バイカル湖のほとり」「仕事の歌」などの多くはロシアの人々に様々な形で歌い継がれた。

 こうした暗さの反面、19世紀には貴族達の夜会、宴会の中で貴族のお抱え楽士が来客をもてなす為に作詞作曲して即興で歌って客の喝采を得ることがはじまり、ピアノがロシアで生産され始めたこともあってこれが流行。民謡とは異なるジャンルが生まれた。ゆっくりしたテンポで叙情的な旋律を歌う「ロシア・ロマンス」といわれる歌だ。ワルラーモフの「赤いサラファン」もその一つ。このロシア・ロマンスはその後チャイコフスキーなどの作曲家に大きな影響を与えた。

◆ソビエト連邦時代

これらのほか、日本で歌われる「ロシア民謡」の大部分は第二次大戦前後に生まれた、いわばポピュラーソング。「モスクワ郊外の夕べ」「モスクワの夜は更けて」などのような戦時色のないものも一部あるが、「灯(ともしび)」「泉のほとり」「ポリュシカポーレ」「カチューシャ」「バルカンの星の下に」 など内戦や第二次大戦などを通じて戦時歌、軍歌が多い。これが戦時歌、軍歌? 「非常時」に恋を歌うなんて、日本ならさしずめ非国民の歌!

そしてこれが民謡?

 待てよ? 日本でもベトナム戦争反対などの運動で多くの反戦歌が歌われ、これらはフォークソングと呼ばれた。要するに民謡だが、これは別のジャンルで決してこれを日本の民謡とはいわない。ロシア民謡はまさに日本でいう民謡とフォークソングを併せたものなのだと独りごつ。こうした歌の一方で、第二次大戦前後に生まれたロシア民謡は………

一柳氏のまとめではロシア民謡は………

キリスト教伝来以前の古いもの 婚礼や収穫の歌

キエフ・ルーシやノブゴロド時代の英雄叙事詩

156世紀以降の農民層が生み出した歌

革命前の様々な下層階級の人々が歌った歌

「馭者の歌」「舟曳きの歌」「囚人の歌」「兵士の歌」など社会の底辺の人々が民謡を育んだ。

「トロイカ」「ボルガの舟歌」「母なるヴォルガをくだりて」「ステンカ・ラージン」「バイカル湖のほとり」」「黒いカラス」 ロシアで特殊な地位を占めていたジプシーの「黒い瞳」「二つのギター」なども。

西欧の和声法を取り入れた都市の俗謡

インテリや貴族の間に流行 カーシンの「黒い瞳の」、ヴァルラーモフの「赤いサラファン」など。

革命後の大衆歌曲

様々なものがあり、1825年のデカブリストの乱の頃に生まれたものや、に分類される「仕事の歌」などもある。

日本で歌われる「ロシア民謡」の大部分はでむしろポピュラーソング。

「モスクワ郊外の夕べ」「モスクワの夜は更けて」などのような戦時色のないものは少なく、「灯(ともしび)」「泉のほとり」「ポリュシカポーレ」「カチューシャ」「バルカンの星の下に」 など内戦や第二次大戦などを通じて戦時歌、軍歌が多い。

形式からも分類すると延べ歌、踊りを伴う速いテンポの「速歌」「踊り歌」「群舞歌」など

◆ロシア民謡 曲目解説

黒い瞳(め)

 ロシアのジプシーの間に古くから伝わる情熱に溢れた民謡で、世界的に有名。ロシアでは18世紀のトルコ戦争のころから東洋的で官能的なジプシー音楽が盛り場を中心に流行りだし、その影響はのち長く創作歌謡や芸術音楽にまで及んだ。今日のロシアでも民衆がギターやアコーディアンで好んで歌う歌にはこの種のものが多い。メランコリックで牧歌的な色合いを持つこの曲は日本でも昭和初期から愛唱されている。

灯(ともしび)

 第二次大戦中から戦後広く愛唱された。日本には戦後ソ連から帰還した日本兵によって紹介されダークダックスが歌って広まり「うたごえ」の人気NO.1に。戦線におもむく兵士と故郷に残る恋人がそれぞれ胸に抱く美しい愛情こそ祖国にささげる黄金のともしびである・・・・というイサコフスキーの詩によって広く歌われるようになったが曲は古い民謡の旋律だ。

 ソ連の小国ダゲスタン自治共和国の詩人P・ガムザートフが広島の原水爆禁止世界大会に参加した感動をうたった詩にY・フレンケリが曲を付けた大衆歌曲(日本で言えば歌謡曲、流行歌か)として作られた。広島の千羽鶴を見て詠ったともいう。

 戦場で傷つき逝った兵士達は異国の地に眠りながら、白い鶴となって訪れる。切ない声で深い悲しみを秘めて、人の世を忍び嘆き悲しみの歌をうたいつつ。夕暮れの空のあの列の空いたところ それは私の為か。私もやがてあの中に……

カチューシャ(M.ブランテル作曲)

 カチューシャはエカチェリーナまたはカチェリーナという女性の愛称。第二次大戦中に作曲された大衆歌。春は巡ってきても戦場に赴いたまま帰らぬ恋人をしのんで故郷に淋しく待っている娘の姿を歌う。

 M(マトライ)・ブランテルはオペレッタや大衆歌の作曲家

 (第二次大戦初期にフィンランドとの紛争があり、その戦中歌だという解説とドイツとの戦争時のものという解説があった)

赤いサラファン(緋色のサラファン)

 サラファンとはロシアの農夫の着る袖無しの長いドレスつまり婚礼の晴れ着。赤いというロシア語クラースヌイには美しいという意味もある。 これを編んでいる母親に娘が「まだ私はお嫁に行かないから、それ早いわよ」というと母親が「いつまでも若くはないんだよ。これを縫っていると自分の若かった娘の頃を思い出すわ」という母娘の会話。 アレクサンドル・ワルラーモフ(1810-48)の1834年作曲の芸術歌曲

カリンカ(コサックの民謡)

 黒海近辺に広く分布するコサックダンスを伴う祝婚歌でロシア民謡には舞踊と共に歌われるものが数多くありこの曲もその中の代表的なものの一つ。エネルギッシュに速度を増していく「速歌」と呼ばれる躍動的な合唱部分と、ゆっくりした幅の広い独唱部分が交互に現れて、面白い対比をなしている。抑揚をたっぷり付けて、速めたり遅くしたり様々な変形がある

 カリンカはスイカズラ科の灌木カリーナの愛称、またはその赤い実のことで花嫁の象徴。マリンカもエゾイチゴのマリーナの愛称(素晴らしいものという意味も)

◆コサックとロシア民謡

 生活にもだえ苦しむ農民の一部は迷亡をくわだて、国境を越えて南ロシアのステップ地帯に移り、15世紀からそこに住んでいたコサック(カザークといい、少数の逃亡農民や奴僕の群れ)の仲間入りをする。そして、その仲間の数が次第に増えるにしたがってドン河・ヤイク河・チェレク河などの流域に大きな集団を形成して定着するようになるが、中でも最も組織的で強力だったのが、ドン河流域に住みついたコサックの集団だったといわれる。このドン・コサックが現在まで継承されているロシア民謡の歌唱様式の創始者たちなのである。

 この様式とは、ひとつにはコサックの生んだ民族的多声歌である。この民族的多声歌は教会を中心に生まれた多声歌が詩の形式で書かれているのに対して、会話の形式で民族的な性格をもっている。歌唱もザピェフ(歌いはじめの独唱、俗にいう音頭とり)ではじまって合唱(重唱を経ることもある)になる様式で、この歌唱様式はロシア民謡のひとつのスタイルとして現在までも残されている。

 コサックの主な仕事は漁業、牧畜、狩猟だったが、時には海を渡ってトルコ、ペルシャ、クリミヤの海岸の富豪の邸宅を荒らしまわったり、ヴォルガ河ではロシア商人の船(ルビー船)を襲ったりした。

 彼らはその当時としては珍しく民主主義的原則を守り、クルークと呼ばれる総会を本陣(サプラーニャ)や、「舟ひき人夫の巣窟」などでひらき、首領(アタマン)や一等大尉(イェサゥルセいい、おそらくぐらいの意味〉を選挙し、遠征の道順について、またそれによる獲物の分配を決定していた。この会議の模様や、遠征での出来事についてうたった歌が、伝承詩としてたくさん残されている。

 彼らは自己防備や、富豪からの掠奪のための軍事力を強化しようと、ますます大集団化の道をたどり、実質的には独立国家としての形をとってきたが、時にはモスクワ大公の宗主権を認め、モスクワ政府はコサックを国境地帯の警備に利用したため、戦争に参加することさえあったた。中でも、コサックをシベリヤ征服のために派兵したことは、ロシア史の中の重要な出来事であった。

 なお、当時ウクライナはポーランド領になっており、ポーランド人の地主からの圧迫をのがれてドニエプル河下流の早瀬(ポローギ)の中の島にコサックの集団ができ、だんだん勢力を増してザポロージェ・コサックと呼ばれた。ここからは、ドン・コサックが生んだものよりは、もっと精力的で、はげしいリズムをもった歌や踊りが生まれた。

◆エルマク

 B・ドヴラヴォ・リスキーとA・サイモノフが編集した『農民戦争と暴動に関するロシア民謡』の中に述べられている初期のアタマン「エルマク」を中心にしたコサックの生活や歌の概略にふれてみたい。

 エルマクに関する一連の歌の中にでてくる最も重要なテーマのひとつは「自由なる人びと(コサツクのこと)」と「皇帝」との紛争である。「エルマクには絞首刑が言い渡され、また彼の若者たち(手下)には堅固な独房に入ることが書き渡された」とか「皇帝がコサックに対して4万の大軍を派遣したので、アタマンはコサックたちにウソーリエのストロガンに移動するよう提案した」という一節があり、またほかの歌では「コサックたちは冬ごもりするために、アストラハンに集まった後、勝手気ままな行動を許してもらうためにいやなモスクワヘむかおうとした………」ことがうたわれている。

 また、モスクワ政府との衝突の原因が「カスピ海沿岸荒らし」であったり「ルビーの船(ロシア商人の豪華船)への攻撃」てあったりであったことがあげられている。

 エルマクについての表現も、自立性・勇敢さ・勇猛さが強調され、皇帝のところへ出かけて行くエルマクは「外套を鍬にひっかけ、はだしの足に山羊皮の長靴をはき、テンの皮の帽子を小協にはさんで………」という、後に出てくるステパン・ラージンを初めとする一連のアタマンの外貌を典型的に描いている。

イヴァン雷帝の前に立たされたエルマクは、「広野をさまよい歩かなかったか?」「ルビー船をこわしたのではないか?」という雷帝の質問に対して、「自分の軍隊がそのような行為をやった」ことを認め、「困難に打ち勝ってカザン市を占領し、そこにあたかも皇帝のごとく7年間も君臨した」ことを平然と認めた一件が史実として残されている。

 コサックたちは、この会談の見事さを褒め称え、いろいろな歌を残した。その中には、皇帝の使者であるイヴァン・カラムイシェフや、アストラハンの市長(18-19世紀の記録では県総督と呼ばれている)との出会いを写実的に描いた歌もある。

 モスクワ政府をさんざん手こずらせたこのエルマクも、カマ河からウラル山脈にかけての広大な土地を所有していたノヴゴロド貴族の後裔であるストロガノフ家の傭兵隊の隊長として、1581年からシベリヤ汗国の征服のために出陣し、イヴァン雷帝が死んだ年と同じ1584年にイルトゥシュ河で敵の夜襲をうけて戦死する。彼の悲惨な最後をうたい、勇気ある行動をたたえた歌の中に、日本に古くから紹介されている、「エルマクの死」がある。

◆土井正興編=ヨーロッパ中世の民衆蜂起

イタリア・チオンピ、イギリス・ワットタイラー、ドイツ農民戦争、ロシア・プガチョフの乱など。

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◆ステパン・ラージン

 1613年、イヴァン雷帝の死からボリス・ゴドノフ(ムソルグスキーの歌劇)の悪政を経て、ロマノフ王朝が成立する。

 相次ぐ戦争で農民の生活は極度に困窮し、1662年にはモスクワ民兼の大叛乱が起こった。この直接の原因は、戦争の費用に困った政府が、その対策として大量の銅貨を鋳造し、これをいままでの、銀貨と等価橋で流通させようとしたため、食料品をはじめとする物価が暴騰して民衆の生活をおびやかしたためである。

 この叛乱は近衛隊によって弾圧されたが、有名なステパン・ラージンの叛乱の大きな原因にもなったのである。

 17世紀に入ってコサックの数は急増したが、その中でゴルイチバと称する、コサックの集団には入れない下層民の増加はめざましく、ラージンの行動に参加したほとんどが、このゴルイチバであったといわれている。以下、ラージンの動きを年代順に追ってみることにしよう。

▼1667年春: ゴルイチバを部下としたコサックのアタマン、ラージンはドン河からヴォルガ河にでて、その河を下ってカスピ海に進出後、ヤイツキー・ゴロドグを占領。

▼1668年春: 数千のコサックをつれてカスピ海を渡り、翌年にかけてペルシャ沿岸の富豪の富を荒らしまわる。

▼1669年秋: たくさんの獲物などをもってヴォルガ河口に上陸、ドン河の故郷に帰って本陣をつくる。ゴルイチバをはじめとする多数のコサックが名声にひかれて集まり、部下となる。

▼1670年春: 本陣を出て、ヴォルガ河の下流地方にあらわれ、アストラハンを占領。ラージンの指導や、その影響をうけた叛乱はヴォルガ流域一帯にひろがり、各地の農民や都市の下層民が役人、貴族、士族、大商人や修道院に対する叛乱を起こし、一部の兵士とともにラージンの軍隊に加わる。

 ラージンは「全ロシアの政府と役人と、農奴制の重圧から農民を解放する」と宣言し、ヴォルガ河を北上してサラトフ、サマラを占領し、シビルスクを包囲。そのときのツアー、アレクセイの派遺した有力な政舟軍(西欧式な訓練をうげた軍隊)の攻撃をうけて、ドンの本陣に後退する。

▼1671年春: ラージンに反感をもっていたドン・コサックの他のアタマンに捕えられ政府に引き渡される。その年の6月、モスクワにて絞首飛執行。

 こうしてラージンの叛乱は鎮圧されたが、彼の行動は農民や都市の下層民に勇気と可能性を自覚させ、第二のラージンよ出でよの声は全ロシアにこだまし、多くの歌を残した。

 こうした歌が採譜されたのは十八世紀の後半である。これに関するパリチコフやリストバドフの出版物は、民衆が一世紀以上もの間、歌を大切に保存していたことを示している。

現在、歌われている「ステンカ・ラージン」の歌詞は、ヴォルガ地方の詩人D・サドフニコフ(18431883)が死んだ年に発表した「ヴォルガの使者」という詩集の十二番目にある「島のかげから獲物めざして」だが、今では大変ポピュラーな歌になっているので、その原歌詞紹介しておきます。

島のかげから 獲物めざして

河波のひろがりの ただ中に

漕ぎいでた色あざやかな

ステンカ・ラージンの小舟 

舳にはステンカ・ラージンが

姫と抱きあって すわっている

新しい婚礼の式をあげて

彼は陽気に酔いしれている 

だが姫は目をとざし

生きた心地もなく

泣きだしそうに黙って

酒に酔いしれた アタマンの声を聞く 

そのうしろにきこえる ささやき

「われらを あの女にすりかえたな

たった一夜 彼女と結ばれたら

朝には自分まで女みたいになった」 

このささやきとあざけりの声を

恐ろしいアタマンは聞きつけた

そして彼は力強い手をのばして

ペルシャ姫の体をつかんだ 

アタマンの眼は 怒りで血ばしり

黒い眉をみひらいて

雷鳴のような 声をとどろかす 

「何も惜しまない

この荒荒しい首もやろう」

威厳にみちた声が

岸辺にひびぎわたった

「ヴォルガ ヴォルガ 生みの母よ

ヴォルガ ロシアの河よ

お前えは見たか

ドン・コサックの贈物を

自由になった人びとの問に

いさかいを起こさぬために

ヴォルガ ヴォルガ 生みの母よ

さあ 美女女を受けとってくれ」

10 力強く手をさしのべて

彼は美しい姫を抱きあげた

そして流れゆく波間に

彼女を投げいれた

11 「どうした兄弟たちよなぜ黙っている

さあフィリカよ 踊ってくれ

波の彼方に眼をむけて

彼女の冥福を祈ろう」

12 島の彼方から河の中州の

河波のひろがりの ただ中に

漕ぎいでたのは 色あざやかな

ステンカ・ラージンの小舟

資料=『民族と風土のうたごえ~ロシア民謡の歴史』(音楽之友社)著者「北川 剛」

ロシア・ロマンス

◆ステンカ・ラージンとともにロシアの農民叛乱では、プガチョフの叛乱が有名。以下に詳しい解説

http://pugachyov.gooside.com/pu/pu.html

◆反戦歌「仕事の歌(ドゥビヌーシカ)」

 村の地主に対する農民の一揆は、小規模で自然発生的なものが多かったが、それが隣の村へ、そしてまた次の村へと波及してくると、だんだん規模が大きくなり、地主たちの恐怖や悩みも深刻なものになってくる。また1881年、テロリストによってアレクサソドルニ世が暗殺されたり、マルクス主義が民衆の中に普及し、1901年に社会革命党が結成された頃には、革命闘争としての性格をはっきり持つようになってきた。そうした中でいろいろな革命歌が生まれたし、かつての囚人の歌が盛んに愛唱された。中には歌詞が改作されて革命的要素をもってきた民謡もある。日本でもよく知られている「仕事の歌」など、その代表灼なものといえよう。

 この「仕事の歌」は1865五年の「目覚時計」誌に掲載されたボグダーノフの詩「ドウビーヌシカ」が民謡化されたもので、ドゥビーヌシカとは船の荷揚げや、綱を引くろくろ(轆轤)の軸木に使われた樫の丸太ん棒のことである。この歌は70年代に入ってからオリヒンによって改作され、1905年頃から革命歌として歌われた頃には、ますます革命的内容をもつようになった。本来の歌詞の大意を紹介しておきます。

1私は故郷で喜びや悲しみをうたったたくさんの歌をきいたが、その中の一つが私の心にやきついて離れない。それは労働者のアルチェリ(組合)の歌であった。

祖父から父へ、父から子らへと、その歌は遺産として引き継がれてゆく。そして働く力が尽きようとしたとき、私たちは忠実なドゥビーヌシカに助けを求めるのだ。

私はドゥビーヌシカで荷揚げのたる木を持ぢあげながら、この歌をきいた。ところが突然、その丸太ん棒が折れて、二人の若者が押しつぶされてしまった。

材木を積んだ船を曳くとき、鉄をきたえるとき、シベリヤの鉱山で働くとき、苦しみ悲しみを胸に私たちはこの歌をうたうのだ。

ヴォルガの砂の上を船を曳ぎながら歩くとき、私たちの足は傷つき背中に血がにじむ。船をひく綱で胸は固くしめつけられてしまうのだが、そんなとき私たちはドゥビーヌシカの歌をうたうのだ。  まだこのほかにいろいろな歌詞がある。それらは革命闘争の時期やその様相にしたがって改作され、新しく作りだされたものと思われる。帝制末期には、この歌をうたうことを禁止されたが、全ロシア人はそれに抗して、かえって広く盛んにうたうようになった。

 この「仕事の歌」を世界的に有名にしたのは、ロシアの生んだ偉大なバス歌手フョードル・シャリアピン(18731938)である。どの演奏会でも好んで歌ったが、ある日ニコライニ世に呼ぱれて詰問された。するとシャリアピンはうやうやしく、「この歌はドゥビーヌシカ、つまり棒きれで民衆を馬鹿にし、あざげった歌でございます。陛下。」と答えて難をのがれ、その後も歌い続けたという話が残っている。シャリアピンは歌劇「イワン・スサーニン」のスサーニン、「ボリス・ゴドゥノフ」のボリス、「ファウスト」のメフィストフェレス、「セヴィラの理髪師」のドン・バジリオなどでは世界一と評されたし、ロシア民謡を世界各国に紹介した功績は偉大である。

 革命の翌年に人民芸術家の称号があたえられ、その功績がたたえられたが、1922年に祖国を離れ、フランスを本拠として活躍した。その後ソヴェト政府からの度重なる懇請にやっと帰国を決意するが、間もなく(1938年4月10)パリで亡くなった。

 ロンドンの宮殿での演奏会のとき、亡命して現在アメリカにいるドン・コサック合唱団の指揮者セルゲイ・ジャーロフの小さな肩を抱いて、「金ピカの宮殿にはこりごりしたよ。村の居酒屋で一杯やりたいね。この頃ロシアのこころがやたらとうずいてきてね」といった言葉は有名である。

資料=『民族と風土のうたごえ~ロシア民謡の歴史』(音楽之友社)著者「北川 剛」

資料=「続ロシア愛唱歌集~トロイカから私を呼んでまで」2004(東洋書店)著者「山之内重美」

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(5)仏教の起源

(6)インカ文明

【エルミタージュ】

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🔴【世界の風景画】

★世界の名画 風景画 50m

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🔴【巨匠たちの青の時代 】

★巨匠たちの青の時代 スタンリー・キューブリック 俺の眼を見つけた!

★巨匠たちの青の時代 パブロ・ピカソ (かな)しみから見えた青の光

★巨匠たちの青の時代 マイルス・デイビス 帝王への扉を開けたサウンド

★巨匠たちの青の時代 ココ・シャネル 閉ざされた時代に自由の翼を

🔴【洞窟動物壁画】

アルタミラ洞窟

◆◆世界最古の洞窟動物壁画

赤旗18.11.08

◆◆(文化の扉)謎多き芸術、洞窟壁画 定説覆す、豊かな色彩・立体感

2016918日朝日新聞

謎多き芸術、洞窟壁画<グラフィック・野口哲平>

写真・図版

 約4万~1万4500年前の後期旧石器時代、人類の祖先は欧州の洞窟で芸術創造の才能を花開かせた。ランプの薄明かりのもと、絵の具や石器を使い、壁面に動物や人を描いた。

 初めて後期旧石器時代の洞窟壁画が発見されたのは、スペイン北部のアルタミラ洞窟。1879年のことだ。天井にバイソンの群像が多彩で描かれていた。当初は旧石器時代のものだと信じてもらえず、20世紀に入ってようやく認められた。1940年にはフランス南西部でラスコー洞窟壁画が見つかった。4メートルの巨大なウシ、躍動感あふれるウマの列など600頭の動物が描かれていた。

 豊かな色彩や技法を生かした壁画芸術は、徐々に進化したと考えられていた。だが、94年、フランスのショーベ洞窟の発見で、その説は覆された。約3万6千年前で当時最古とみられた壁画には、絶滅したマンモスやライオンなど13種類の動物が、色の濃淡で立体感までも表現されていたからだ。

     *

 洞窟壁画を描いたのは、クロマニョン人とされる。現代人と同じ脳の神経構造を持ち、イマジネーションを自由に操作し共有できたと考えられている。

 描かれた動物は極めて写実的に見える。鳴門教育大学の小川勝教授(芸術学)は、その理由について、暗闇のなかでランプをともし、岩面の不規則な形を動物に見立てて、それをかたどったからだと説明する。

 東京芸術大学で非常勤講師(先史学)を務める五十嵐ジャンヌさんによると、彩色画の99%は赤と黒で描かれており、わずかに茶と黄、まれに白と紫もあるという。絵の具は鉱石や粘土を砕いて粉状にしたものに水や獣脂などを混ぜて作っていた。黒い顔料にはマンガン、木炭、赤の顔料には赤鉄鉱が使われた。

 ラスコーで使用された赤鉄鉱は洞窟から東に20キロ、マンガンは北西に40キロの場所で採取された。五十嵐さんは「グループで知識や情報を共有した証拠、あるいは彼らのネットワークによってもたらされた可能性もある」と推測する。

     *

 洞窟で壁画を描いた理由は何か。内部で炉跡などの生活の痕跡は見つかっていない。また、狩猟の成功や繁殖を願う呪術説があるが、氷河期に最も食したトナカイの絵の数は少なく、根拠は薄いとされる。

 動物や記号が男女を表すとした男女両性神話説、呪術師の幻覚を表現したシャーマン説などもある。だが、いずれも決定的な証拠はない。

 立体感のある動物が約3万6千年前に描かれたように、芸術は突然に創造されたのだろうか。小川教授は「最初から完成度の高い美術作品が現れても不思議はない。芸術は爆発的に発生するもの」との見方を示す。

 洞窟壁画は、落石や崩落で入り口が塞がれるなどの幸運もあって後世に残された。欧州北部が氷に覆われていた氷河期とはいえ9割がフランスとスペインに偏り、ドイツでは発見されていないなど、まだまだ解明されていない謎は多い。(上林格)

◆イメージ、暗闇で獲得 アーティスト・日比野克彦さん

 日頃絵を描いていて、一番最初に絵を描いた人は誰なんだろう、とふと考える。世の中にあるものは、最初にそれを行った人がいる。なぜ、人は絵を描くのか。洞窟壁画に興味をもった理由です。

 20年ほど前、仏のペッシュメルル洞窟に行きました。一般開放後に、洞窟の中の電気を全部消してもらい、1時間ほど壁画の前に1人でいました。この絵を描いた人の気持ちを探りたかったからです。

 洞窟の奥は光が全くとどかない完全な暗闇です。闇夜では、目が慣れてきて、少しずつ周りの状況がわかりますが洞窟はそれがありません。目を開けているのかどうかさえ不確かになります。

 そんなとき、見えない頭の中の印象(イメージ)が浮かんでくるのだと思いました。暗闇があるからこそ私たちはイメージを獲得し、そのイメージがあるからこそ、絵を描く理由が生まれたのだと思います。人類の祖先は、見えていないのに見えてきたイメージを確かなものにするために絵を描いたわけです。

 時間・空間という物理的なものに縛られない、感覚を他者と共有するものとして芸術が誕生した。それが洞窟のイメージの獲得から始まったのだと思います。

◆◆洞窟壁画ネアンデルタール人6万5000年以上前

朝日新聞18.02.23

(壁画のスケッチ。牛のような動物が描かれた時期ははっきりしないという=サイエンス誌提供)

(ラパシエガ洞窟の壁画。写真中央に、赤いはしごのような図形がある=独マックスプランク進化人類学研究所のディルク・ホフマン氏ら提供)

 スペインのラパシエガ洞窟の壁画が約6万5千年以上前に描かれた世界最古のものであることが、国際研究チームの調査でわかった。現生人類は当時欧州におらず、絶滅した旧人類ネアンデルタール人が描いたという。22日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。

◆ネアンデルタール人が画伯? スペイン、世界最古の洞窟壁画

(ネアンデルタール人が描いたとみられる壁画。写真中央左に、約6万5千年以上前に描かれたはしごのような図形がある=ペドロ・サウラ氏提供)

 スペイン北部の世界遺産のラパシエガ洞窟の壁画が世界最古の洞窟壁画であることが国際研究チームの調査でわかった。現生人類は当時欧州におらず、絶滅した旧人類ネアンデルタール人が描いたものとみられる。22日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。1面参照

 線組み合わせた図形、象徴表現か

 研究チームはラパシエガ洞窟など3カ所で動物や手形などの線描の部分に含まれる天然の放射性物質を高精度な年代測定法で調べた。三つとも6万4800年以上前に描かれたものだとわかった。

 現生人類がアフリカから欧州にやってきたのは4万~4万5千年前とされる。1万数千年前のアルタミラ洞窟(スペイン)や約2万年前のラスコーの洞窟(フランス)など、これまでの洞窟壁画はすべて現生人類が描いたと考えられてきた。

 4万年前に描かれたスペイン北部のエルカスティーヨ洞窟の壁画がこれまで最古とされてきたが、さらに2万年さかのぼる古い洞窟壁画と確認されたことで、研究チームは「すでにいたネアンデルタール人が描いた洞窟壁画だ」としている。

 ラパシエガ洞窟の壁画には線を組み合わせたはしごのような図形もあった。抽象的な考えを具体的な形で表す「象徴表現」の可能性がある。人類の進化に詳しい佐野勝宏・早稲田大准教授は「象徴表現は現生人類のみが生まれつき持つ固有の認知能力という考えが多数派だった。今回の年代が正しければ、ネアンデルタール人にもこの能力があったことになる」と指摘している。

 (小堀龍之)

🔴【エジプト美術】

★★謎の岩絵=エジプト文明の起源48m

★★古代エジプトの至宝の旅45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v130029594f5GaJpNb

★★空から見た古代エジプト45m

★★古代エジプトの貿易活動・ハトシェプスト女王の大型帆船再現.88m

🔷ツタンカーメンの秘宝(1)黄金のファラオhttps://drive.google.com/file/d/1-RuGppLJldfZvo9Pp-cf_pSdySEabEzJ/view?usp=drivesdk

🔷ツタンカーメンの秘宝(2)王の愛と死

https://drive.google.com/file/d/1WUML4RP4l6_RugTNNFQuG1tVpLnGWtr2/view?usp=drivesdk

🔷ツタンカーメンの秘宝(3)カーター

https://drive.google.com/file/d/1WUML4RP4l6_RugTNNFQuG1tVpLnGWtr2/view?usp=drivesdk

★★ツタンカーメン王の墓の再現120m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1302251599zaxBjcf

★★ツタンカーメンの墓の謎52m

★★ツタンカーメンの母・王妃ネフェルティティの胸像の謎53m

★★地球ドラマチック ツタンカーメンの謎 201531450m

https://m.youtube.com/watch?v=1-050czRHx8

★★海のエジプト発掘=クレオパトラのアレキサンドリア再現72m

★★クレオパトラと妹アルシノエの生涯=妹の墓の発見90m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v130135257dxdAFd9q

★★コズミック・クレオパトラの天文図=古代エジプトの天文学55m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v130394011KmeRHY7Z

★★エジプト異端の王・ブラックファラオ

◆(科学の扉)ピラミッド、謎の空間 崩落防ぐ工夫?王のミイラ眠る?

朝日新聞17.12.10

 名古屋大を中心とする国際研究チームが世界最大のピラミッド内部に未知の巨大空間を見つけた。宇宙放射線で建物を透視する技術の成果だ。何のための空間なのか。世界七不思議の一つとされるピラミッドに新たな謎が加わった。

 名古屋大や高エネルギー加速器研究機構(KEK)がエジプト・カイロ大などと共同で調べているのは、カイロ近郊のギザにあるクフ王のピラミッドだ。底面の一辺が230メートルの正四角すいで、建設時の高さは146・5メートル。最大のピラミッドだ。

 透視にはミュー粒子という宇宙放射線が使われた。X線やガンマ線などよりはるかに透過力が強いが、密度の高い物質を通ると一部が止まって消えてしまう。ミュー粒子の減り具合をみることで、通り道に空間があるかどうかなどがわかる。

 ミュー粒子をとらえるのに、名古屋大の森島邦博特任助教らは写真フィルムと同じ原理の原子核乾板を使用した。また、KEKの高崎史彦名誉教授らは、ミュー粒子が当たると光るプラスチックシンチレーターという装置を使った。

 異なる方法で別々に調べ、これまで知られていた「大回廊」と呼ばれる空間の上に、長さ30メートル以上の巨大な未知の空間があるという同じ結果を得た。位置はピラミッドの底面から60~70メートル上方で、中心部になる。

 新空間発見の論文が11月の英科学誌ネイチャーに掲載されると、ピラミッドへの関心が高い欧米の研究者から多くの反響が寄せられた。森島さんは「特集番組を放送したフランスのテレビ局では番組史上最高の視聴率だったそうです」と驚く。

◆先王が試行錯誤

 この空間は何のためにあるのだろう。

 駒沢大の大城道則教授(エジプト学)は、上部の重さを減らして崩れにくくするためだとみる。「王の遺体を守ることと並んで重要なことは永遠性。そのために木や土ではなく石でつくられる。カイロ近郊は過去に大地震に見舞われたがピラミッドは壊れていない」

 クフ王のピラミッドは紀元前26世紀の第4王朝時代につくられた。ピラミッド型といえば正四角すいが思い浮かぶが、最初のピラミッドとされるネチェリケト王のものを始め、第3王朝時代(紀元前27世紀ごろ)は「階段型」が主だった。

 クフの父で先王のスネフェルは四角すい型に至るモデルケースとなるようなピラミッドを複数つくった。外装壁が崩れている「崩れ型」はクフのピラミッドに近い50度以上の傾斜角の四角すい型だったとみられる。「屈折型」の下部の傾斜は崩れ型と同じような急角度(約54度)だが、途中から傾斜がゆるくなる。下部のままの角度では高さは130メートル以上になるため、崩れることを恐れて角度を変えたと考えられている。「赤ピラミッド」は四角すい型だが、傾斜角は屈折型の上部と同じぐらいのゆるやかさだ。崩れにくさを優先したとみられる。

 ピラミッドの建設は王の生前に始まり、完成前に死んだ場合は後継の王が引き継ぐ。大城さんは「クフは父のスネフェルが試行錯誤しているのを見ていただろう。崩れたピラミッドを目の当たりにし、崩れないように様々な工夫をした。その一つが新たに見つかった空間なのではないか」と推測する。

◆さらに透視調査

 クフ王のピラミッドでは「王の間」や「女王の間」、「地下の間」と呼ばれる部屋が見つかっている。だが、こうした部屋に王のミイラや宝物などの副葬品は残っておらず、盗掘で持ち去られたというのが通説だ。だが、実は王の間はおとりで、新空間にこそミイラがあると期待する見方もある。

 これに対し、専門家は慎重な姿勢を見せる。

 米ハーバード大のピーター・マヌエリアン教授は「大ピラミッドの知識を深めるエキサイティングな新発見だ。人々が隠れた部屋や財宝、失われたクフ王のミイラについて知りたがっているのはわかるが、推測するのは時期尚早だ」と話す。

 仏ソルボンヌ大のピエール・タレ教授は「それが何であるかを正確に知る唯一の方法はさらに調査を進め、物理的に探索することだろう」という。

 名古屋大やKEKなどの研究チームは、クフ王のピラミッドを様々な方向から透視し、新空間の立体的な形を詳しく調べる研究を続けている。

 今後は、クフ王のピラミッドの隣にある2番目に大きいカフラー王のピラミッドや赤ピラミッドも調べる予定だ。カフラー王のピラミッドはどのような部屋があるかなど、内部の様子がほとんどわかっていない。クフ王のピラミッドと比較することで新発見につながると期待されている。(鍛治信太郎)

🔴【中国古代文明】

★★秦始皇 千古一帝 讀中國歷史150m

https://m.youtube.com/watch?v=NWvDx3LG8mg

★解明!中国兵馬俑の謎45m

https://m.youtube.com/watch?v=dNDhQidzuIk

NHKスペシャル 2015117 【アジア巨大遺跡 3 中国 始皇帝陵と兵馬俑】55m

https://m.youtube.com/watch?v=rJgWq5EVllY

【失われた文明】(50m)

(1)失われた文明 中国 力の王朝 

https://m.youtube.com/watch?v=M1ydRdBBnjk

または

http://video.fc2.com/content/20140401rwnH0aZB

(2)失われた文明 チベット 時の終焉 

https://m.youtube.com/watch?v=XUuojzBN2kU

または

http://video.fc2.com/content/20140401EUTzQs7S

(3)失われた文明 エジプト 不滅の生命 

http://video.fc2.com/content/20140328NwqaAK2v

(4)失われた文明 メソポタミア エデンの回帰 

https://m.youtube.com/watch?v=VGAgEWw4hQo

または

http://video.fc2.com/content/20140329efN9UdCd

(5)失われた文明 エーゲ アトランティスの遺産 – FC2

http://video.fc2.com/content/20140330JzHMBNJN

(6)失われた文明 ギリシャ 黄金の時代 

https://m.youtube.com/watch?v=iTVOtQ6Z7Ro

または

http://video.fc2.com/content/20140330qaVf7CX1

(7)失われた文明 ローマ 究極の帝国 – FC2

http://video.fc2.com/content/20140401E9tVhG0q

★★失われた文明 アフリカ 奪われた栄光50m

https://m.youtube.com/watch?v=sDjLYm6q5Lo

★失われた文明 インカ アンディスの興亡

https://m.youtube.com/watch?v=a-_1RmC065c

🔴アンデス古代文明

ナスカの地上絵の謎・クスコ・マチュピチュ90m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v117415950gPpDmdAz

マヤ文明をたどる=密林のなかのピラミッド90m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v117722627HysJfjC9

インカ帝国マチュピチュの謎21

★★大沢たかおが行くインカ230m

(前編)

(後編)

🔴ギリシャ・ローマ文化

★ローマ帝国 1 「よみがえる幻の巨大都市」52m

https://m.youtube.com/watch?v=IUQ3l1EHOkA

★ローマ帝国 2 「一万人が残した落書き52m

https://m.youtube.com/watch?v=1uxF-V7h4y4

ポンペイ

★地球ドラマチック 古代ローマ 驚きの技術 巨大帝国発展の秘密 201591252m

https://m.youtube.com/watch?v=2id2RPEVe5E

★ポンペイ 骨が語る真実43m

https://m.youtube.com/watch?v=JrmCIa8nipY

🔵英雄たちの選択・ペトラ=ローマ帝国下の砂漠都市88m

🔵地球ドラマティック・砂漠の都市ペトラ遺跡45m

◆◆NHKスペシャル「文明への道

(アレクサンドロス大王による東征によって東西文明の融合=ヘレニズム文明が誕生。彼が各地に遺した都市国家や仏像や大乗仏教の誕生にその典型が見られる。さらにローマと中国を結ぶシルクロードを通じての通商のなかで東西文明の交流が。クビライ帝国にもその足跡が。この2003年のNHKスペシャルは、秀作である。必見)

⭕️1集 アレクサンドロス大王 ペルシャ帝国への挑戦

50m

または

http://nicoviewer.net/sp/sm18719091

http://nicoviewer.net/sp/sm18719256

約2300年前、ギリシャ軍を率いた二十歳のアレクサンドロスは強敵ペルシャを倒し、ギリシャからエジプト、中東、インドにおよぶ空前の世界帝国を築き上げました。彼は征服する一方で敵の長所を取り入れ、異なる文明との融合を計りました。第1集はユーラシア大陸を舞台に、大遠征を通して文明の交流とシルクロードの礎となる交易を図り、多民族の共存共栄をめざした新たなアレクサンドロス像描く

⭕️2集アレクサンドロスの遺産 最果てのギリシャ都市

50m

または

http://nicoviewer.net/sp/sm18727712

http://nicoviewer.net/sp/sm18728171

アレクサンドロスは東方遠征の途上、軍事拠点となる都市を次々に建設しました。その数は70を越え、交易の要として栄えたと言われます。近年、アフガニスタン北部で発見されたアイ・ハヌム遺跡も、まさにギリシャ様式の都市でした。アジア文明と融合した「神の像」があったことも判明しています。第2集はアイ・ハヌム遺跡を訪ね、研究成果を基にCGで幻の都市を復元し、中央アジアに花開いた東西文明融合の姿に迫ります。

⭕️❸第3集 ガンダーラ・仏教飛翔(ひしょう)の地

https://m.youtube.com/watch?v=wUD-_V455oc

50m

または

http://nicoviewer.net/sp/sm18738332

http://nicoviewer.net/sp/sm18738468

仏教はなぜ全世界に広まったのか。その謎を解く鍵はガンダーラにあります。仏陀の死後500年、厳しい修行で悟りを開くという仏教は、この地でギリシャ文明や遊牧民の文化などと融合し、誰でも極楽浄土へ行けるという大乗仏教へと姿を変えたのです。その後、仏教は交易ルートを通して各地へ広がり、日本にも伝わりました。第3集はインドで生まれた仏教がガンダーラで大変革を遂げ、世界宗教へと発展していく道をたどります。

⭕️4集 地中海帝国ローマ 東方への夢?

50m

または

http://nicoviewer.net/sp/sm18745601

http://nicoviewer.net/sp/sm18746044

地中海を束ね、平和と豊かさを享受していたローマ帝国。1964年、ローマ市郊外で発見された少女のミイラに、その繁栄の秘密を解き明かす証拠があります。その少女が身に付けていた装飾品は、当時のローマ帝国では産出されない金やサファイア、絹など贅沢(ぜいたく)な品ばかりで、はるか東方から海を渡ってきたのです。第4集はローマ帝国初代皇帝が東方への夢をかなえた新たな交易の道、海のシルクロードをたどります。

⭕️5集 シルクロードの謎 隊商の民 ソグド

50m

または

http://nicoviewer.net/sp/sm18753861

http://nicoviewer.net/sp/sm18754139

シルクロード交易を約700年にわたって支配した謎の民族がいました。1000年ほど前に姿を消した隊商の民・ソグドです。彼らは広大な領土も強力な軍隊も持たず、ユーラシア全域にネットワークを張り巡らせました。その足跡はベルギーのノートルダム寺院でも見つかっています。第5集は絹を商材として操り、シルクロードに君臨し経済帝国を築き上げたソグドの交易戦略と豊かな文化に迫ります。

6集 バグダッド 大いなる知恵の都

50m

または

http://nicoviewer.net/sp/sm18762800

http://nicoviewer.net/sp/sm18778004

約1100年前、バグダッドは世界最大の都市で「平和の都」と呼ばれて栄えていました。中心に周囲7キロの円形の城がそびえる街には、イスラムの教えのもとに多民族が共存。最先端の科学や医学、高度な貨幣経済が発達し、世界に名高い文学「千夜一夜物語」の舞台でもありました。その繁栄はどのように成し遂げられたのか。第6集は大いなる知恵が集ったイスラム帝国の都・バグダッドが繁栄を極めた秘密を探ります。

7集 エルサレム 和平・若き皇帝の決断

50m

https://m.youtube.com/watch?v=nKVIxWdYWEE

または

http://nicoviewer.net/sp/sm18778036

http://nicoviewer.net/sp/sm18778069

今も和平への出口が見えない聖地エルサレム。この聖地にかつて平和が訪れた時代がありました。十字軍の戦いのさなか、一人の若者が武力に頼らず、エルサレムに10年間の平和をもたらしました。ローマ教皇に破門されながらも、イスラム王朝と平和条約を結んだ、神聖ローマ帝国の皇帝・フリードリッヒ2世です。第7集は激しい憎しみが渦巻く時代、若き皇帝はどのように和平を実現したのか、その険しい道のりをたどります。

❽第8集 クビライの夢 ユーラシア帝国の完成

https://m.youtube.com/watch?v=4d5bqCPTYc4

50m

https://m.youtube.com/watch?v=JgLVwNh2Yys

または

http://nicoviewer.net/sp/sm18778082

http://nicoviewer.net/sp/sm18778138

強大な軍事力で史上最大の版図を築いたモンゴル。古来、権力者たちが追い求めてきた夢・ユーラシアの統一を、クビライのモンゴル帝国は、いかにして実現したのか。新たに発見されたモンゴル時代の世界地図をもとに、その世界観と統治システムを探る。

★迷宮美術館セレクション ~古代ローマ帝国の遺産~ 

★ローマ帝国の秘宝が語る 三つの謎失われた古代都市ポンペイの秘密 

★日曜美術館 ~ぜいたく?素朴?ポンペイの暮らし方~ 

★日美 天空と大地への祈り インカ・マヤ・アステカの至宝25m – FC2

http://video.fc2.com/content/20131118xTHb1m3Q

🔴【ルネッサンス】

★栄光のルネッサンス(8回計70m)

(1)http://m.youtube.com/watch?v=TGRrdgc2r1Y

(2)http://m.youtube.com/watch?v=ShuQ8-HFC5g

(3)http://m.youtube.com/watch?v=NdXVUJuLQ_E

(4)http://m.youtube.com/watch?v=JJ_bkHjrviI

(5)http://m.youtube.com/watch?v=f37OL14gy2g

(6)http://m.youtube.com/watch?v=3K_3eDP7uXE

(7)http://m.youtube.com/watch?v=-wFpvPMJaDw

(8)http://m.youtube.com/watch?v=CbDmn9XCR2k

★フィレンツェからの招待状世界遺産スペシャル73m

◆◆ルネサンス美術

るねさんすびじゅつ

(小学館百科全書)

美術史におけるルネサンスは、1516世紀のヨーロッパ美術、ことにイタリアで発展した美術の様式および時代区分の概念である。[上平 貢]

◆美術史におけるルネサンス

19世紀以降、ルネサンスRenaissanceは一般に文芸復興と訳され、広くヨーロッパの文化現象を把握する概念として登場した。そして古代のギリシア・ローマの芸術・文化を理想として、文学、美術、思想など、あらゆる領域で新しい文化を創造しようとした14世紀から16世紀に至る全ヨーロッパ的な運動をさした。しかし、美術史の通説では、1420年、建築家ブルネレスキが古代研究の成果を最初に実現したフィレンツェ大聖堂円蓋(えんがい)の工事が起工されたころから、152030年ごろに古典的美術がマニエリスムに移行した年代までのイタリア美術に限定して狭く用いる。その場合とくに、1500年を境に1400年代を前期ルネサンス、1500年代を盛期ルネサンスと称する。

 ルネサンスというフランス語は、「再生、復活」を意味するイタリア語のリナシタrinscitaに由来する。古く14世紀の詩人ペトラルカやボッカチオらが、失われていた古代の芸術を彼らの新時代によみがえらせる意味にこのことばを用いて以来、イタリアの人文主義的史観として受け継がれていった。15世紀の美術家ギベルティやアルベルティ、フィラレーテらの著作にそれがみられる。とくに16世紀の美術家ジョルジョ・バザーリは、その『美術家列伝』(初版1550)で数回リナシタの語を使って、古代美術のよい様式がいったん野蛮な民族の侵入や中世キリスト教による偶像破壊運動のために衰退し、さらに粗野なマニエラ・テデスカmaniera tedesca(ドイツ風様式)や生硬なマニエラ・グレカm. greca(ビザンティン風様式)が支配していたが、13世紀後半からイタリアのトスカナ地方で画家のチマブーエやジョット、彫刻家のニコラ・ピサーノやアルノルフォ・ディ・カンビオらが出現して、ようやく古代の優れた芸術精神が復活されたと述べた。しかも、この古代の再生が古典の研究と自然の模倣に立脚した自然主義の推進によることも明確に指摘していた。

 かつて19世紀のミシュレやブルクハルトがルネサンスを「人間と世界の発見」の時代と説いて以来、ルネサンスは単なる古代の再生というだけでなく、中世と決別したむしろ新しい人間像や世界観の到来を告げる輝かしい文化史上の概念として拡大された。しかし、今日ではかえって、ルネサンスは中世との関係をめぐってヨーロッパ文化全体を巻き込んだ活発な論議の対象となり、またカロリング朝や12世紀の文化にもルネサンスがとなえられ、複雑かつ多義的な概念となっている。しかし、バザーリにみたように、ルネサンスは本来イタリアの美術風土に成立し、しかもこの時期のイタリアの美術家たちの史的認識と芸術意志が生み出した、美術現象を契機として形成された概念といわねばならない。[上平 貢]

◆ルネサンス美術の曙

もともと古典古代の文化的基盤にたつイタリアでは、古代の再生は15世紀に突然に自覚されたわけではない。すでに新しい美術の萌芽(ほうが)は、当時の人々が対立的にとらえていた中世のゴシック美術のなかに早くから現れた。北方の中世美術の影響はイタリア中部のトスカナにも及んだが、この地方の美術は13世紀ごろからしだいに独自な様相を示し始めた。ドミニコ会やフランチェスコ会の新しい宗教観の興隆に促されて、教会建築の造営をはじめ、各地で説教壇、板絵祭壇画、壁画の制作などが活況を呈した。

 彫刻のニコラ・ピサーノは、古代作品の研究から、明晰(めいせき)な構図や人体の量塊的把握を通じて古典的な壮大さや調和を回復した。ジョバンニ・ピサーノは、父ニコラの作風に写実的な人物描写や動的な空間表現を加えて、自然主義への道を一歩進めた。アルノルフォ・ディ・カンビオは建築にも活躍したが、簡明な形態と温雅な心情を宿す赤裸々な造形性を主張した。絵画では、チマブーエが当時のビザンティン風の宗教画に現実的イメージを注入し、人間像にほとばしる生命感情を充実させた。ローマの画家ピエトロ・カバリーニはフレスコ画法を再興し、古代の伝統をよみがえらせた。14世紀にフィレンツェ画派の基礎を確立したジョットは、豊かな自然感情によって、人物の表情や姿態にリアルな存在感を与え、背後の空間に奥行と明暗を描出するとともに、画面に合理的な均衡と秩序を構成し、知性と感情の融和を達成した。彼によって、古典的な造形原理と、人間および自然の真実に迫る新時代の芸術精神との統一が予言されたといえる。シエナにも美術の新しい胎動がおこった。多くの聖母子像を描いたドゥッチョは、優雅な感受性と甘美な色彩を特色とし、物語的図解力を発揮した。それを受けたシモーネ・マルティーニは、線のリズムに人間感情の起伏と異国的な情趣を漂わせた壮麗な世俗的画風を樹立した。またピエトロとアンブロジオのロレンツェッティ兄弟は、宗教画のみならず愛郷的な市民意識に根ざした寓意(ぐうい)的主題にも、人間のなまな熱情や視線を注ぎ、日常の生活や情景への関心を高める一方、空間描写を三次元的に進展させた。

 14世紀前半期までのこうしたトスカナ諸都市の美術動向は、15世紀の前期ルネサンスに先行する美術活動として、とくにプロト・ルネサンスとよばれる。しかし、黒死病(ペスト)の来襲を転機として14世紀後半のヨーロッパ社会は極端な厭世(えんせい)と救済の思想に覆われ、イタリア美術もそのころの世俗的な写実主義と禁欲的な超越主義の対立と相克を反映した。一見ルネサンスの方向は停滞あるいは逆行したように思われるが、かえって身近な現実に対する入念な写実的態度や装飾的傾向を強め、やがて1400年前後に約70年にわたってヨーロッパ各都市の宮廷を中心に展開した、夢幻的かつ繊細甘美な後期ゴシック国際様式の風潮に合流していった。[上平 貢]

◆前期ルネサンスの美術

ジョットが再生を予告した新時代の芸術が明確にその骨格をみせ始めたのは、まず15世紀のフィレンツェであった。この都市は、政治的・経済的な繁栄を背景に人文主義の思潮をはぐくみ、人間の人格と個性を尊重した。美術家たちは組合をつくり工房を拠点にして、こぞって古代作品の研究や写実的な自然の探究を進めていく。市民たちの美術に対する高い関心と公私にわたる旺盛(おうせい)な注文に応じて、建築、彫刻、絵画などあらゆる造形分野が互いに呼応しながら活性化していった。

 ブルネレスキは、ローマで古代建築を調査して各種の架構技術を解明するとともに、古典的構成美の本質を体得した。その成果をフィレンツェの教会建築群に適用して、現実的な有限の都市空間に均斉のとれた明晰な各部分の比例や統一を達成し、ルネサンス建築の調和的理想像を提起した。彼に続いたミケロッツォ・ディ・バルトロメオやアルベルティらは、宮殿や教会の建築設計に古代様式に基づく構想を熱心に追求した。15世紀後半には、フィレンツェで成立した新様式はイタリア各地に波及し大きな反響をよんだ。さらにブラマンテやピエトロ・ダ・ロンバルドらを通して、15世紀末から16世紀にかけてミラノ、ベネチア、ローマへと輪を広げ、それぞれの環境と趣味に応じて独自の展開をみせた。

 彫刻は建築とともに古代の作例との関連が深く、作風と技法の両面から当代の彫刻家は多大の示唆を受けた。15世紀初頭のナンニ・ディ・バンコ、ギベルティ、ブルネレスキ、シエナのヤコポ・デッラ・クエルチアらが早くも研究に着手し、競って人物の彫塑的表現の諸問題に取り組んだ。とくにドナテッロは、古代研究と並んで人体の写実的追求を重ねて、古典精神と自然主義との融合を図り、ゴシックの名残(なごり)を脱却して彫刻に新しい変革をもたらした。このころ、彫刻はしだいに建築に対する従属的地位を解かれ、彫塑芸術本来の量塊的な立体性と自由な空間性、そして独立した記念碑性を確立しつつあった。宗教的主題のほかに肖像や騎馬像、異教的主題も数多く登場し、木、大理石、ブロンズ、テラコッタなど多様な素材を駆使して、多彩な造形表現が繰り広げられた。ドナテッロに続いてロッビアとその一門、ミーノ・ダ・フィエーゾレ、セッティニャノ、ロッセリーノなどが活躍した。15世紀後半には進歩的なポライウオーロ兄弟、ベロッキオ、ベルトルドらが解剖学的探究や運動表現、心理描写によって写実主義をいっそう促進させた。

 絵画におけるルネサンスの開花は、国際ゴシック様式の克服とジョットの芸術精神の再興を意味した。その画期的な革新者は1420年代のマサッチョであった。ブルネレスキから透視図法を、ドナテッロから厳格な写実主義を学んだ彼は、光と空気の充満した造形空間に量感豊かな実在的な人物や風景を描出した。現実の生命感にあふれた可触的な人体、合理的な明暗法と遠近法による広壮な統一的構図は、新時代の人間の尊厳と自然空間の芸術性を実証した。その後、15世紀の前半から中葉にかけてマサッチョの偉大な足跡を追う多くの画家が輩出した。それは、宗教画に自然主義を導入して清純な至福の世界を描いたフラ・アンジェリコ、透視図法の幾何学的研究に熱中して夢幻的な画境を築いたウッチェロ、聖母にも世俗的な人間感情を移入したフラ・フィリッポ・リッピ、光と色彩の合理的な関係に着目したベネチアーノ、徹底した写実に鋭敏な情感を注いだカスターニョ、壮麗な風俗絵巻を描いたゴッツォリ、精妙な人体と風景を描いたバルドビネッティらがそれである。この世紀後半には、自然観察を人体解剖などの科学研究にまで進めていったポライウオーロ兄弟やベロッキオ、肖像と風俗の描写に客観的な写実主義を貫いたギルランダイヨがいる。そして激しい情念の画家ボッティチェッリは、ルネサンス芸術の形式と理念を掲げながら画風に後期ゴシックの神秘な詩的情趣を宿し、古代と中世の不思議な和解を試みた。

 フィレンツェ以外の地域の絵画では、中部イタリアにペルジーノ、ピントリッキョ、とくに遠近法と人体比例を研究し洗練された色彩を用いて格調の高い画風を形成したピエロ・デッラ・フランチェスカがいる。北イタリアでは、遠近法を駆使した堅牢(けんろう)な人物描写によって独自の芸術的個性を主張するマンテーニャをはじめ、コスメ・トゥーラ、コッサが注目される。このほかベッリーニ一門、アントネッロ・ダ・メッシーナ、クリベッリらもユニークな活動をした。[上平 貢]

◆盛期ルネサンスの美術

前期ルネサンスの美術家たちは、熱心な古代作品の研究、緻密(ちみつ)な描写対象の観察、人体の解剖学的探究、光と明暗の光学的追求、さらに空間に対する幾何学的法則性の解明、つまり遠近法の課題など、これらに合理的かつ科学的な態度で臨んだ。こうした自然の模倣、すなわち人間と自然に関する客観的な写実主義の増大は、同時に古代芸術の再生を意味し、さらに古典的な理想主義への到達を目標としていた。しかし、高次な古典的芸術への道はレオナルド・ダ・ビンチによってようやく開かれた。彼は絵画、彫刻、建築の造形芸術はもとより、多方面にわたる科学的研究にも秀で、ルネサンス美術家のもっとも典型的な「万能の天才」であった。そして、芸術創造の内奥はつねに科学的思考と分かちがたく結ばれていた。レオナルドは、偶然的なものを排除して普遍的なものを目ざし、客観的な描写対象に主観的な深い精神内容を統一させて理想的な古典様式を完成した。彼の芸術は16世紀初頭のイタリアで人々の注目を集め、後進の共鳴者を出すようになった。また、当時ローマで盛んに発掘された古代彫刻にも鼓吹されて、古典様式は広まっていく。ミケランジェロもこのころ、ほとばしる熱情とたくましい造形力を駆使して、力感あふれる永遠的な人間像を絵画や彫刻に表現した。彼はむしろ写実を抑えた主観的な理想形式に傾いた。若いラファエッロは全生涯を盛期ルネサンスに没入させたといってもよく、前二者の芸術から多大の成果を吸収して自らの画風に同化させる一方、進んで古代研究に従事して得た知見も総合して、理想的な人間美の形式を樹立した。ほかに画家ではフィレンツェのフラ・バルトロメオやサルト、シエナのソドマ、エミリアのコレッジョとドッソ・ドッシ、そしてとくにベネチアのジョルジョーネと初期のティツィアーノやピオンボの出現が注目される。[上平 貢]

◆ルネサンス美術の余映

盛期ルネサンスは意外に短期間である。すでにルネサンス美術の中心地は、フィレンツェからローマへ、あるいはベネチアへ移りつつあった。1520年代に成立したマニエリスム、さらにバロック様式へと時代が下るにつれこの傾向はいっそう強まっていく。それとともに、盛期ルネサンスの古典様式の調和・均衡・安定を旨とする規範的な理想美は、かえって反発の対象となった。しかし、近世以後のヨーロッパ美術の発展には、古典主義への回帰が幾度かみられ、その輝きが消え去ることはない。

 イタリアのルネサンス美術と同時代に並行して展開したフランドル、ドイツ、フランスなど他のヨーロッパ地域の美術について、この両者を中世後期ないし近世初期の分極現象とする見方もあるが、後者に本来の「古代の再生」としてのルネサンス概念を適用することは困難である。[上平 貢]

『摩寿意善郎編『大系世界の美術1315 ルネサンス美術I~』(1976・学習研究社) ▽M・ドヴォルシャック著、中村茂夫訳『イタリア・ルネサンス美術史』上下(1966・岩崎美術社) ▽LH・ハイデンライヒ著、前川誠郎訳『人類の美術 第二期5 イタリア・ルネッサンス14001460』(1975・新潮社) ▽鈴木博之編『世界の建築6 ルネサンス/マニエリスム』(1982・学習研究社) ▽ヴァザーリ著、平川祐弘・小谷年司訳『ルネサンス画人伝』(1982・白水社)』

◆◆フィレンツェ派

ふぃれんつぇは

scuola Fiorentina

(小学館百科全書)

13世紀後期から16世紀中ごろまでのイタリアのフィレンツェの絵画に用いられる名称。もともと、歴史的事実を整理・分類する「派」という用語にはあいまいさが伴う場合が多く、このフィレンツェ派という語も、単純な様式的同質性や、師から弟子へ、さらにその弟子へと受け渡される切れ目のない連続性を意味するのではない。しかし、若きミケランジェロがマサッチョの作品のみならず、ジョットの作品をも研究した証拠を自らの素描にとどめているように、フィレンツェに特有な芸術的伝統の継承ということが生ずる。そして、いっそう漠然としてはいるが、より本質的な部分での共通性を上記の期間内のフィレンツェの画家たちに認めうると考えられもするところに、この語を用いる理由がある。

 フィレンツェ絵画の輝かしい時代は、その新鮮な現実感覚によって伝統的な中世絵画と決別する14世紀前半のジョットをもって始まる。このジョットの進めた方向に同様な決然たる態度でさらにたくましい一歩を踏み出したのは、ルネサンス絵画の創始者たる、ほぼ1世紀後のマサッチョであった。おりしも建築家ブルネレスキは幾何学的遠近図法を発見し、これはマサッチョの壁画やドナテッロの浮彫りにただちに採用されることになる。幾何学的遠近図法にみられる合理的、知的傾向はフィレンツェの美術家の多くに認められる。15世紀前期の彫刻家ギベルティは自著『イ・コムメンタリイ』のなかで、美術家に必要とされる学問を列挙し、そのなかに解剖学をあげているが、156世紀に人体解剖を試みたと伝えられる美術家たち、すなわちアントニオ・ポライウォーロ、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ロッソ・フィオレンティーノらがいずれもフィレンツェの美術家であるのは偶然ではあるまい。16世紀の画家・建築家バザーリは著書『美術家列伝』のなかで、フィレンツェ美術、わけても絵画を優秀ならしむる要因として、美術家たちが互いに切磋琢磨(せっさたくま)するよう促すところの、凡庸なものに満足しないこの都市の自由な批判精神をあげている。事実、美術家個々人が他人の模倣に甘んぜず、豊かな探求心をもって自己のスタイルを求めてゆくところにこそ、フィレンツェをして2世紀以上にもわたってヨーロッパのなかのもっとも活力ある美術の中心とした原因がある。

 かくて、15世紀前半には、マサッチョのほかに、ウッチェロ、フラ・アンジェリコ、ドメニコ・ベネチアーノ、カスターニョ、フィリッポ・リッピらが、世紀の後半になるとポライウォーロ、バルドビネッティ、ボッティチェッリ、フィリッピーノ・リッピ、ギルランダイヨらが活躍する。レオナルドも活動期はボッティチェッリとあまり変わらない。16世紀にはミケランジェロ、フラ・バルトロメオ、アンドレア・デル・サルトらが現れ、ついで、ロッソ・フィオレンティーノ、ポントルモ、ブロンツィーノといったマニエリスムの画家がフィレンツェ絵画の最後に登場する。[西山重徳]

【ジョルジョーネ】

GIORGIONE.mov 5m

【ティツィアーノ】

Tiziano Vecellio 6m

【ティツィアーノとヴェネチア派展】

(赤旗17.03.07

🔴【前期ルネッサンス】

【アンジェリコ】

★音楽とともにFRA ANGELICO- Bach 7m

FRA ANGELICO 3m

【ジョットー】

San Francesco Giotto 7m

http://m.youtube.com/watch?v=40NKdaCwNuA

Assisi – S. Francesco 6m

【ベルニーニ】

★迷宮美術館 美の都ローマ誕生! ~天才ベルニーニの奇跡~ 

【ボッチジェリ】

★★世界の名画=フィレンツェの名画、ボッチジェリ中心に45m

★極上美の饗宴 シリーズ美女 (2) 不可思議なプロポーションの謎

★音楽とともにBotticelli con Vivaldi 5m

🔴【カラヴァッジョ】

★★極上美の饗宴=追跡!幻のカラヴァッジョ名画 深い闇と激しい光の秘密 57m

★★カラヴァッジョ=無頼漢で奇才の画家110m

★★世界の名画=カラバッジョ46m

★★カラヴァッジョの光と闇43m

★カラヴァッジョの光と影8m

★★ヴァチカン美術館=ミケランジェロ・ラファエルなど90m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v112523018WnMEF8b8

🔴【レオナルド・ダ・ヴィンチ】

★★NHKザ・プロファイラー「レオナルド・ダ・ヴィンチ 未完成の天才」

http://v.youku.com/v_show/id_XNDM1MzQ0NzE2.html?x

★★ダヴィンチの名画=少女チェチリアとの物語58m

🔵ダビンチ・万能の男の夢45m

★★ダヴィンチ=CGによる「最後の晩餐」再現31m

★日美 レオナルド・ダ・ヴィンチ~驚異の技を解剖する – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20131111FWDvmcPg

★★ダビンチのモナリザの謎=4人のモデル85m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v130225468jDz76Nzy

★日美 レオナルド・ダ・ヴィンチの原点 「受胎告知」 – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20131004vbM95mGH

◆◆レオナルド・ダ・ビンチ

れおなるどだびんち

Leonardo da Vinci

14521519

(小学館百科全書)

イタリア・ルネサンス期の画家、彫刻家、また科学者、技術者、哲学者。したがってルネサンスにおける典型的な「万能の人」(ウォーモ・ウニベルサーレ)と目されている。[裾分一弘]

◆生涯

フィレンツェの近郊ビンチ村に、公証人ピエロと農家の娘カテリーナとの庶子として生まれる(415日)。幼少時についてはバザーリほかにより才能の多彩が記されている以外、あまり知られておらず、1415歳のころフィレンツェに出て、画家、彫刻家であるアンドレア・デル・ベロッキオの工房に徒弟として入り、美術家としての道を歩み始める。1482年、30歳のとき、ミラノの支配者ルドビコ・スフォルツァ(通称イル・モロ)Ludovico Sforza, Il Moro14521508)のもとに自薦状を提出してミラノに移る。自薦状には、あらゆる種類の土木工事、築城、兵器の設計ならびに製造に関し、自らの多方面の才能を数えたてたあとに、平和な時勢にあっては、絵画ならびに石造彫刻、鋳造彫刻の技にたけていることを付け加えている。4748歳のころ、フランスのルイ12世軍ミラノ侵攻(149910月)を機に20年近く滞在したミラノを去り、マントバで公妃イサベラ・デステIsabella d’Este14741539)の肖像を素描し(15002月)、ベネチアに立ち寄り(同年3月)、フィレンツェに戻る。1502年の夏から約8か月間、チェーザレ・ボルジャの軍事土木技師としてロマーニャ地方に従軍。ボルジャの失脚でフィレンツェに戻るが、150654歳のとき、ミラノ駐在のフランス総督シャルル・ダンボワーズCharles d’Amboise14731511)の招きで再度ミラノに赴き、ルイ12世の宮廷画家兼技術家として6年余仕えた。さらに1513年、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチGiuliano di Lorenzo de’ Medici14791516)の招きでローマに移るが、1516年にはフランソア1世の招きでフランスへ行き、1517年にはアンボアーズ王城の近郊クルー城館に移り、比較的平穏な余生を送り、さまざまな研究を続けていたが、151952日、同地で忠実な弟子フランチェスコ・メルツィFrancesco Melzi14911570)にみとられて67歳の生涯を閉じた。[裾分一弘]

◆美術作品

レオナルドの絵画作品で今日に残るものは数少ない。ベロッキオの工房にあった第一次フィレンツェ時代には、師および同門との協同作『キリストの洗礼』(フィレンツェ、ウフィツィ美術館)、『ジネブラ・デ・ベンチの肖像』(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)、2点の『受胎告知』(ウフィツィとルーブル美術館)、ともに未完の『三博士の礼拝』(ウフィツィ)と『聖ヒエロニムス』(バチカン美術館)がある。第一次のミラノ時代にはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂食堂の『最後の晩餐(ばんさん)』のほか、サン・フランチェスコ教会無原罪懐胎礼拝堂のための祭壇画『岩窟(がんくつ)の聖母』(現、ルーブル)、素描のみが現存する彫刻『スフォルツァ騎馬像』を制作している。第二次フィレンツェ滞在中には、ミケランジェロと競作になるはずであったパラッツォ・ベッキオ内の大壁画『アンギアリの戦い』(素描や模写のみ現存)を手がけ、その後はミラノ、フィレンツェ、ローマなどを遍歴の時期に『モナ・リザ』(ルーブル)を描き、弟子プレディスGiovanni A. de Predis14551508)の『岩窟の聖母』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)を指導、晩年近くには『聖アンナと聖母子』『洗礼者聖ヨハネ』(ともにルーブル)を手がけている。

 このほか、素描の段階に終わった彫刻『トリブルツィオ将軍騎馬像』その他を加えても、レオナルドの芸術上の遺作は非常に少ないが、美術史上に記した足跡はきわめて大きい。すなわち、絵画史のうえでは遠近法ならびに解剖学というクワットロチェント(15世紀)の精密な自然描写をさらに推し進めて、画面の統一構成ならびにスフマート(輪郭消失描法)による立体表現、明暗法を案出して、グラツィエ(優美)の表現を意図し、ルネサンス古典様式の典型とされる。彫刻では、残された多くの素描から判断すると、像は静止像でなく、人馬の躍動する姿を追求し、そのための構成上の手段が種々考えられたように見受けられるが、巨大なブロンズ作としては力学的に制作が困難で、前記2点とも完成していない。

 また建築上の仕事としては、これまた彼の設計になる建造物は実現されていないが、集中式の教会建築に特殊な興味を抱き、細部の力学的な構造を示す習作を数多く残している。さらに一種の都市工学に関する構想をもち、それによると、都市を二重構造にし、下の道路は生活物資の運搬に、上の道路は人の自由な歩行のために、また道路の幅に応じて建造物の高さを規制し、海か川に面した都市の設計を理想としていたことがわかる。

 以上でほぼ推測されるように、今日に残されたレオナルドの芸術上の作品は意外に少なく、他方それらの完成品のもととなった素描・エスキスの類は膨大な量に上り、彼が寡作の人であったことを証明している。大別すると、素描・エスキス約500枚、手稿5000ページが、今日、イギリス、フランス、イタリア、スペインなどに分散して収蔵されている。素描は前記美術的な遺作のもととなった準備的な習作の類であり、エスキスは200枚に及ぶ解剖図のほか、機械工学、水力学、築城、飛翔(ひしょう)などに関する考案・くふうに満ちている。彼はつねづね手製の小冊子を持ち歩き、おりに触れての断想や観察を記入し、図と文節を交えて書きとどめている。左利きであったレオナルドは、それらの手稿に記入する際、文字を全部裏返しにして右から左に向けて綴(つづ)った。鏡に写すことによって初めて正常な書体になるので鏡字とよばれたが、これは研究の秘密が露見することを恐れたくふうではなく、もともと彼が左利きであったことによる。

 この手稿類のなかから、絵画の理論と実技に関する部分を取り出して、弟子がレオナルドの『絵画論』1巻を編集したことは有名で、その原本は今日バチカンの教皇図書館に収蔵されている。

 なお、レオナルドの同時代人による伝記に、パオロ・ジョビオPaolo Giovio14831552)、アノーニモ・マリアベッキアーノAnonimo Magliabechianoらによる断片的なもの、およびジョルジョ・バザーリによる2種の伝記(初版および2版)がある。[裾分一弘]

◆科学・技術史からみたレオナルド

レオナルドは、その生涯に膨大な数の手稿を残した。それらの手稿には、絵画、彫刻、建築ばかりでなく、天文、気象、物理、数学、地理、地質、水力、解剖、生理、植物、動物、土木工事、河川の運河化、物をあげたり移動したりする装置、灌漑(かんがい)用排水装置、兵器、自動人形、飛行のための装置など多彩な分野のものが含まれている。

 彼のそもそものスタートは絵画・彫刻であるが、その絵画・彫刻への関心を深めれば深めるほど、デッサンなどに精密さが要求され、おのずと観察力は鋭くなり、それが何事も徹底的に探究しなければ、事物に対する認識を深めることはできないとまで考えるに至ったのであろう。たとえば、人物を描くには人体に関する知識の必要性を感じ、その知識を修得するために解剖を必要とした。レオナルドは手稿のなかで次のように述べている。「正確かつ完全な知識を得んがため、私は10あまりの人体を解剖し、さまざまな肢体すべてを解き、そして毛細血管から出る目に見えない血のほかは、いささかの出血をもおこすことなくそれらの血管の周りにある肉を、ごく微細な切れ端に至るまですっかり取り除いてしまったのである。おまけに1個の死体だけではそんな長い時間に十分できなかったので、次から次へと数多くの死体によって継続する必要があった。こうしてやっと完全な認識に達したのであった」。

 このような姿勢で自然を観察し、自然を認識していったのである。絵の手法を修練する過程でも、遠近法の原理を取り入れようとすれば、それに伴って数学の知識も必要になる。徹底して探究していくことによって、いろいろな分野に論及せざるをえなくなっていくのである。

 鳥の飛び方についての研究では、重さと密度の関係、風圧が翼に及ぼす力の影響について実験し、力学運動について論じている。そして鳥とまったく同じ原理の器械をつくり、動力源に人間を使えば、人間が空を飛ぶことができるのではないかと考えるのである。空を飛ぶという夢を実現しようと、パラシュートやヘリコプターのようなものまで考案している。

 レオナルドは、鋭い観察によって自然界に対する認識を深めたが、同時に機械技術にも大きな関心をもっており、自然界は力学的・機械的運動をしているのではないかと考えたのである。そして、そのようななかから生まれた彼の哲学は「知恵は経験の娘である」ということばに代表されるものである。「二度三度それを試験して、その試験が同一の結果を生ずるか否かを観察せよ」「ただ想像だけによって自然と人間との間の通訳者たらんと欲した芸術家達を信じるな」といい、「実験から開始して、それによって理論を検証すること」が、一般法則をたてるためには重要であると主張する。すなわち、自然界の法則性を明らかにしていくとは、自然を観察し、認識を深め、それを客観的な理論に発展させていくことであるとし、その理論を絶えず実践と統一的にとらえることの重要性を強調しているのである。

 レオナルドは、手稿に書かれていることのすべてにわたって実験をしたり、実際にものをつくりあげたわけではないが、コペルニクスやガリレイが登場する以前に前述のような点を主張した。まさに近代科学を準備した「万能の人」というのも当然の評価であろう。[雀部 晶]

作品解説 ▽J・ワッサーマン解説、三神弘彦訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1968・美術出版社) ▽下村寅太郎・田中英道解説『世界美術全集5 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1977・集英社) ▽LH・ハイデンライヒ著、生田圓訳『アート・イン・コンテクスト3 レオナルド/最後の晩餐』(1979・みすず書房) ▽K・キール、C・ペドレッティ編、清水純一・萬年甫訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図』(1982・岩波書店) ▽LC・アラーノ解説、三神弘彦訳『レオナルド素描集成』(1984・みすず書房) ▽C・ペドレッティ解説、裾分一弘他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの素描 自然の研究』(1985・岩波書店) ▽C・ペドレッティ解説、裾分一弘他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ素描集12』(19851990・岩波書店) ▽C・ペドレッティ解説、斎藤泰弘訳『レオナルド・ダ・ヴィンチおよびレオナルド派素描集――ウフィツィ美術館素描版画室蔵』(1986・岩波書店) ▽C・ペドレッティ監修、P・トラティ・クーヒル解説、西山重徳訳『レオナルド・ダ・ヴィンチおよびレオナルド派素描集――在米コレクション』(1997・岩波書店)』

伝記・手記・研究書 ▽下村寅太郎著『思想学説全書8 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1974・勁草書房) ▽G・ヴァザーリ著、裾分一弘訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝』(1974・岩崎美術社) ▽K・クラーク著、加茂儀一訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1974/第2版、大河内賢治・丸山修吉訳・1981・法政大学出版局) ▽ヴァレリー著、菅野昭正・佐藤正彰他訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』(1975/増補版・1978・筑摩書房) ▽西村暢夫他訳『レオナルド・ダ・ビンチの童話』(1975・小学館) ▽裾分一弘・在里寛司著『レオナルドと絵画』(1977・岩崎美術社) ▽岩井寛・森本岩太郎著『レオナルドと解剖』(1977・岩崎美術社) ▽上平貢著『レオナルドと彫刻』(1977・岩崎美術社) ▽M・ブリヨン他著、佐々木英也他訳『世界伝記双書5 レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1983・小学館) ▽裾分一弘著『レオナルド・ダ・ヴィンチ――手稿による自伝』(1983・中央公論美術出版) ▽加茂儀一著『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝――自然探究と創造の生涯』(1984・小学館) ▽加藤朝鳥訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論』改訂版(1996・北宋社) ▽久保尋二著『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1999・平凡社) ▽シャーウィン・B・ヌーランド著、菱川英一訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』(2003・岩波書店) ▽C・ペドレッティ著、日高健一郎訳『建築家レオナルド』新装版・全2巻(2006・学芸図書) ▽杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』全2冊(岩波文庫) ▽田中英道著『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』(講談社学術文庫)』

🔴【ミケランジェロ】

★★日曜美術館・ミケランジェロ45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1129811096Q7TE2tB

★★プロファイラー・ミケランジェロ57m

https://m.youtube.com/watch?v=7g5SwEDTv0A

★★美の巨人・ミケランジェロの彫刻30m

★★中井貴一のルネサンス紀行=ミケランジェロ110m

★音楽とともにLa meravigliosa Cappella Sistinaシスティーナ礼拝堂絵画12m

★ミケランジェロの遺産(860m)山本圭

(4)(5)(6)PCのみ。

(1)http://m.youtube.com/watch?v=urNZXvZhfeM

(2)http://m.youtube.com/watch?v=RX-7nwBMa98

(3)http://m.youtube.com/watch?v=DrkXZiAiSHc

(4)http://m.youtube.com/watch?v=tydzSdKz_nc

(5)http://m.youtube.com/watch?v=HMBWJJJeHCI

(6)http://m.youtube.com/watch?v=EtRKHUuC11k

(7)http://m.youtube.com/watch?v=xkO-J3meb78

(8)http://m.youtube.com/watch?v=UYcrUjCcyg0

★音楽とともにMichelangelo – Genesis, Noah & The Last Judgement 4m

http://m.youtube.com/watch?v=qg02a0RhMFM

★音楽とともにMichelangelo – Prophets4.5m

http://m.youtube.com/watch?v=mahMXi9x5n0

◆◆ミケランジェロ

みけらんじぇろ

Michelangelo Buonarroti

14751564

(小学館百科全書)

イタリアの彫刻家、画家、建築家、詩人。レオナルド・ダ・ビンチに遅れること23年、ラファエッロより8年早く、中部イタリアのカプレーゼに生まれ(36日)、イタリア・ルネサンス晩期に長らく活躍のすえ、89歳でローマに没(218日)。フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂内に墓がある。芸術上の遺作は、彫刻作品約40点、絵画では4面の大壁画のほか、若干のタブロー、建築では教会や記念建造物などの設計や装飾を残し、また、これらの絵画、彫刻、建築に関するおびただしい習作、素描、エスキスのたぐい約800点が、世界各地に分散して伝えられている。また、詩作は若いころからおよそ300編があり、そのほか、親族や友人・知己にあてた500通を超える書簡が今日に伝わる。[裾分一弘]

◆彫刻

初め、フィレンツェの画家ギルランダイヨに師事するが、14歳のときからメディチ家の保護を得て、彫刻家ベルトルド・ディ・ジョバンニの門に入り、かたわらメディチ家収集の古代彫刻を研究、以来彫刻に専念して、彫刻家としての自覚を生涯もち続けることになる。徒弟時代の作品には、『階段の聖母』『ケンタウロマキア』(ともにフィレンツェ、カサ・ブオナロッティ)があり、フィレンツェの彫刻家ドナテッロや古代彫刻からの影響が顕著である。1496年、21歳でローマに出て、『ディオニソス』(フィレンツェ、バルジェッロ国立美術館)、続いて『ピエタ』(サン・ピエトロ大聖堂)を制作。この『ピエタ』は、聖母の胸にかけられた襷(たすき)にミケランジェロの署名を残す唯一の作品である。

 1501年フィレンツェに帰り、市当局の委嘱を受けて『ダビデ』像の制作にかかり、3年半ほどの歳月をかけて完成。この像の設置場所に関し種々の意見があったが、制作者の希望がいれられてパラッツォ・ベッキオ前に置かれ、自治都市フィレンツェの象徴とみなされた(現在原作は同市アカデミア美術館に収蔵)。像は古い失敗作の大理石塊を素材としており、したがって死せる大理石から生けるダビデを制作したことにより、文字どおりのデビュー作となった。トンドとよばれる2個の円形浮彫り『ピッティの聖母子』(バルジッェロ国立美術館)、『タッデイの聖母子』(ロンドン、ロイヤル・アカデミー)もほぼ同時期の制作である。

 ミケランジェロがユリウス2世廟(びょう)の制作を教皇から依頼されたのは、150530歳のときである。当初のプランでは、墓廟は7.6メートル×11.3メートルの長方形台座の上に立ち、それに等身大以上の彫像40体が置かれて、サン・ピエトロの堂内に安置されるはずの雄大な構想であった。『瀕死(ひんし)の奴隷』『反抗する奴隷』(ともにルーブル美術館)、『勝利』(パラッツォ・ベッキオ)、および今日フィレンツェのアカデミア美術館収蔵の『若い奴隷』『髭(ひげ)の奴隷』『アトラスの奴隷』『目ざめる奴隷』などは、このモニュメントを飾るために制作されたものである。ユリウス2世廟は、教皇なきあとその規模がしだいに縮小されて、今日その名で残る構想は第五次契約によるミケランジェロ67歳の制作で、ローマのサン・ピエトロ・イン・ビンコリ聖堂内にある。墓廟下段の3点(中央の『モーセ』、左の『ラケル』、右の『レア』)が彼の手になる彫像である。

 1513年、ユリウス2世の逝去に伴い、メディチ家から出たレオ10世が即位し、2045歳のとき、メディチ家の菩提寺(ぼだいじ)サン・ロレンツォの新聖器室にメディチ家の墓廟の制作を依頼されることになる。以来ミケランジェロはユリウス2世の遺族であるローマのロベレ家と、フィレンツェのメディチ家の板挟みのなかで両市の間を行き来し、馬車馬のように彫像の制作に励む。『ミケランジェロ伝』の作者コンディビは、この時期のミケランジェロの状況を「墓廟の悲劇」とよんでいる。メディチ廟は、新聖器室の祭壇に向かって左にロレンツォ(ウルビーノ公)、右にジュリアーノ(ヌムール公)の彫像および石棺が置かれ、各石棺の上にそれぞれ2体の寓意(ぐうい)像がのる。すなわちロレンツォの石棺には『曙(あけぼの)』と『夕』、ジュリアーノには『昼』と『夜』の、いずれも体長約2メートルの彫像である。また祭壇の向かいには『聖母子』が置かれている。

 ミケランジェロは若いころからピエタ像の制作に執念を抱き、前記サン・ピエトロの『ピエタ』のほかに、フィレンツェ大聖堂の『ピエタ』、ミラノのカステロ・スフォルツェスコの『ロンダニーニのピエタ』を残している。フィレンツェの『ピエタ』は75歳のころの制作であるが、中途放棄され、のち弟子の手によって今日の状態に仕上げられたため、左端のマグダラのマリアは比例を失っている。後方中央のニコデモの顔は、ミケランジェロの自像であるという。『ロンダニーニのピエタ』は、ミケランジェロが死の6日前まで鑿(のみ)を振るっていたことが伝えられる未完の彫像で、磨かれているイエスの両脚と左腰、離れた位置に残されている右腕は当初の案による制作であろう。このピエタの像形は異例のもので、死せるイエスが生けるマリアを背負って立つポーズであり、巨匠晩年の信仰、芸術、哲学の結晶した境地を示すと思われる。[裾分一弘]

◆絵画

ミケランジェロは1504年、『ダビデ』像を完成した年、フィレンツェのパラッツォ・ベッキオに『カッシーナの戦い』の大壁画を描く依頼を市から受けた。これは先輩レオナルドの『アンギアリの戦い』とともに、同じ会議室を飾る競作となるはずであったが、諸般の事情で双方とも進捗(しんちょく)しないまま中断し、今日では若干の素描と模写を残すのみである。

 ミケランジェロがシスティナ礼拝堂内にフレスコの大壁画を描くことになったのは、やはり教皇ユリウス2世の委嘱による。フレスコの技法に習熟せず、かつあおむいて天井に描くという難事業で、彼は肉親への手紙で「彫刻家ミケランジェロが壁画を描く」苦衷を訴えている。天井画の天地創造に始まる9場面(幅13メートル強、奥行40メートル強)は、33歳の1508年から約3年、また同じ堂内正面の『最後の審判』(約14.5メートル×13メートル)は約30年後、パウルス3世の依嘱により36年から41年まで5年半の歳月をかけて描かれたものである。巨人のような「怒れるキリスト」が中央に君臨する最終審判図では、諸聖者のほか、救われる魂、罰せられる魂、あわせて400名近くが描かれる。左の天国へ昇る魂と右の地獄へ落ちる魂との、大きく回転する群像の動的構図と動的表現は、ルネサンスの古典様式が解体し、激情的なバロック様式への推移をみせている。

 その他の壁画には、バチカンのパオリーナ礼拝堂の『パウロの改宗』(1545?)と『ペテロの磔刑(たっけい)』(1550)がある。また、150406年ごろのテンペラによる円形画『聖家族』(ウフィツィ美術館)は、綿密な構図上の配慮と入念な描法により、とくに注目すべき作品である。[裾分一弘]

◆建築

ミケランジェロが建築の仕事に携わるのは、151641歳のとき、レオ10世からフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂のファサード装飾を命じられたのが最初である。その後、サン・ロレンツォ内ラウレンティアーナ図書室の内装、階段の設計(152426ころ)に携わり、35年には教皇庁の建築、彫刻、絵画総監に任ぜられている。47年、サン・ピエトロ大聖堂の造営主任となって、大円蓋(えんがい)の木製模型を制作し、そのほかローマでは、カンピドリオ広場、ポルタ・ピア、ファルネーゼ宮の設計にも関与している。[裾分一弘]

『裾分一弘編著『ミケランジェロの素描』(1973・岩崎美術社) ▽F・ハート著、久保尋二訳『ミケランジェロ』全3冊(197375・美術出版社) ▽富永惣一解説『世界彫刻美術全集9 ミケランジェロ』(1975・小学館) ▽吉川逸治・田中英道解説『世界美術全集6 ミケランジェロ』(1975・集英社) ▽JS・アッカーマン著、中森義宗訳『ミケランジェロの建築』(1976・彰国社) ▽コンディヴィ著、高田博厚訳『ミケランジェロ伝――付ミケランジェロの詩と手紙』(1978・岩崎美術社) ▽ロマン・ロラン著、高田博厚訳『ミケランジェロの生涯』(岩波文庫) ▽トルナイ著、田中英道訳『ミケランジェロ――彫刻家・画家・建築家』(1978・岩波書店) ▽コロンビエ他著、若桑毅・若桑みどり訳『世界伝記双書6 ミケランジェロ』(1983・小学館) ▽青木昭著『図説ミケランジェロ』(1997・河出書房新社) ▽田中英道著『ミケランジェロの世界像』(1999・東北大学出版会) ▽田中英道著『ミケランジェロ』(講談社学術文庫) ▽ロス・キング著、田辺希久子訳『システィナ礼拝堂とミケランジェロ』(2004・東京書籍)』

8801羽仁五郎=ミケランジェロ.pdf

🔴【ラファエロ】

★世界の名画 ラファエロ 50m

http://v.youku.com/v_show/id_XMzY4Mzc2NzM2.html?x

★音楽とともにRaphael’s Fresco of the School of Athensアテネの学堂19m

★音楽とともにRaphael (Raphael Sanzio)5m

http://m.youtube.com/watch?v=B986UbpvQ2U

◆◆ラファエッロ・ラファエロ

らふぁえっろ

Raffaello Sanzio (Santi)

14831520

(小学館百科全書)

イタリアの画家、建築家。英語でラファエルRaphael。レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロとともに盛期ルネサンスの三大巨匠の一人であり、ルネサンス古典様式のもっとも純粋で優美な体現者、イタリア的明晰(めいせき)と調和の結晶、西欧アカデミズム=古典主義絵画の祖とみなされる。画家としてのラファエッロは、驚くべき早熟な天才として、ウンブリアの地方画家からバチカンの教皇庁宮廷画家にまたたくまに登り詰め、最高の社会的栄誉と世俗的成功をほしいままにし、幸福で洗練されたエリート芸術家として、早くから伝説的存在となった。[森田義之]

◆生涯と絵画作品

修業期

ラファエッロは1483328日にウルビーノで画家・宮廷詩人のジョバンニ・サンティ(1494没)の子として生まれた。少年期の修業については不明だが、画家としての修業を父のもとで始め、ついで同郷の画家ティモテオ・ビーティに学んだらしい。99年前後(16歳ころ)にペルージアの人気画家ペルジーノの工房に入門し、その柔和で明快甘美な前古典的様式を急速に吸収。ペルージアのカンビオ(両替組合本部)の壁画装飾(1500)では師の助手として参加したものと推測される。最初の大作である同市サン・フランチェスコ聖堂のための『聖母の戴冠(たいかん)』(バチカン絵画館)や『マリアの結婚』(ミラノ、ブレラ美術館)では、ペルジーノの様式への完璧(かんぺき)な同化がみられるが、同時に、彼独自の音楽的な線のリズムや軽快な優雅さの感覚が認められる。こうした天性の絵画的資質は、この時期の『三美神』(シャンティイ、コンデ美術館)、『騎士の夢』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)、『聖ゲオルギウス』(パリ、ルーブル美術館)などの小品にもいっそう夢幻的なトーンを帯びて表れている。[森田義之]

フィレンツェ時代

1504年の秋ごろ、ラファエッロはあこがれの芸術中心地フィレンツェに移り、08年までの4年間(この間たびたびペルージアに仕事のため戻っているが)、レオナルド、フラ・バルトロメオ、ミケランジェロなどのフィレンツェ派の芸術を旺盛(おうせい)に研究して、従来の内気な地方的様式を一新した。とくに、『聖アンナ』画稿を発表して話題をよび、『モナ・リザ』を制作中であったと推測されるレオナルドから深い影響を受け、その有機的なピラミッド型群像構成や霊妙な明暗表現を吸収して、静謐(せいひつ)典雅で豊麗な生命感にあふれる古典様式を確立する。この時期の代表作には、『大公の聖母』(フィレンツェ、ピッティ美術館)、『鶸(ひわ)の聖母』(フィレンツェ、ウフィツィ美術館)、『牧場の聖母』(ウィーン美術史博物館)、『美しき女庭師』(ルーブル)などの一連の優雅な聖母子画や聖家族図、肖像画『ドーニ夫妻』(ピッティ)、またミケランジェロの影響を示す劇的な『キリストの埋葬』(ローマ、ボルゲーゼ美術館)があげられる。[森田義之]

ローマ時代

1508年の末に、同郷のブラマンテの推薦で教皇ユリウス2世に招かれてローマに移ったラファエッロは、2046日に37歳の若さで世を去るまでの12年間、バチカン宮廷画家としてユリウス2世とレオ10世の2代の教皇に仕え、時代の寵児(ちょうじ)として画業の頂点を極めた。

 バチカン宮では、システィナ礼拝堂の天井画を制作中のミケランジェロから深い影響を受けて、第三様式ともいえる堂々たる大様式(グランド・マナー)で、「署名の間」(150811)をはじめ、「エリドーロの間」(151114)、「ボルゴの火災(インチェンディオ)の間」(151417)などの諸室を次々に壁画で装飾する。またシスティナ礼拝堂を飾るためのタペストリーの原寸大下絵(カルトン)「使徒行伝」(ロンドン、ビクトリア・アルバート美術館)やロッジア(開廊)の壁画装飾にも携わった。「署名の間」の諸壁画、とくにルネサンス人文主義の象徴的絵画というべき『アテネの学堂』は、壮大な建築空間と多数の人物群像の完璧な統一と調和を実現して古典様式の規範とされるが、「エリドーロの間」以後の装飾活動においては、しだいに助手や弟子(ジュリオ・ロマーノ、GF・ペンニ、ペリン・デル・バーガら)の参加が多くなり、作風も劇的で錯綜(さくそう)したマニエリスムの傾向を強める。ロッジアの装飾では、古代の室内装飾を再生させたグロテスク装飾(唐草文(からくさもん)と古代的な人物・動物モチーフを組み合わせた幻想的な装飾様式)を生み出し、「ラファエレスコ」文様ともよばれて大きな流行をみた。

 そのほかローマでは、バチカン宮のための仕事と並行して、多くの貴族や聖職者などのパトロンのために休むことのない旺盛な制作活動を展開する。なかでもシエナ出身の大銀行家アゴスティーノ・キージのためには、ファルネジーナ邸の壁画装飾(『ガラティアの勝利』〈1511〉、および大部分が弟子の手になる「プシュケのロッジア」の天井装飾〈1517〉)のほか、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ聖堂の壁画装飾(『シビュラたち』1514)、サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂のキージ家礼拝堂の設計と円天井のモザイク装飾などを手がけている。

 祭壇画や宗教画の分野でも引き続き多くの傑作を生み出した。『フォリーニョの聖母』(151112、バチカン絵画館)、『サン・シストの聖母』(151314、ドレスデン絵画館)、『聖チェチーリア』(1514、ボローニャ国立絵画館)、『小椅子(いす)の聖母』(ピッティ)などである。とりわけ弟子のジュリオ・ロマーノによって完成された未完の絶作『キリストの変容』(151720、バチカン絵画館)は、前バロック的ともいえる新しい局面――激しい劇的葛藤(かっとう)と明暗対比、深い内面的宗教性――を示している。

 肖像画家としての活動も重要で、『ユリウス2世』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)や『レオ10世と二人の枢機卿(すうききょう)』(151819、ウフィツィ)をはじめ、『宮廷人の書』の著者である人文主義者『バルダッサール・カスティリオーネの肖像』(1515ころ、ルーブル)、『ベールの女(ラ・ベラータ)』(1516、ピッティ)や伝説の恋人『ラ・フォルナリーナ』(151819、ローマ国立美術館)などが知られる。[森田義之]

◆建築家としての活動

建築家としては、1514年に没したブラマンテの後を継いで、レオ10世よりサン・ピエトロ大聖堂の建築主任に任命され、その造営事業を指導した。また翌年には古代遺物監督官に任ぜられて、古代モニュメントの調査と遺跡地図の作製(未完)にあたった。彼の設計として知られる建築作品には、前記のキージ家礼拝堂のほか、ビドーニカファレッリ邸、ローマ郊外のビラ・マダマなどがある。その作風はフランチェスコ・ラウラーナやブラマンテを継承した優雅で厳格な古典主義といえるが、今日ではその作品の多くが大幅な改修を受けているために、正確な評価はむずかしい。[森田義之]

◆ラファエッロ神話と後世への影響

ラファエッロは存命中から芸術家として最高の栄誉に包まれ(年少のときには希有(けう)な神童画家として、ローマ時代には教皇庁付きの芸術家として)、莫大(ばくだい)な財産を築き(ブラマンテ設計のカプリーニ邸ほか多くの不動産を所有)、多くの賛美者やパトロン、弟子たちに囲まれ、短命だが華やかで幸福な「王侯貴族のごとき」(バザーリ)生活を送った。美しい容姿に恵まれ、性格は明朗快活で温雅、宮廷人としての洗練された物腰を備え、偏屈な奇人ミケランジェロとは対照的に、あらゆる人々から愛されたといわれ、欠けるもののない完全な芸術家として早くから神話化された。

 ラファエッロの芸術は、明晰と調和、静謐と典雅といった古典様式の要件を完璧に備えると同時に、感性豊かな自然主義と理知的抽象化、繊細優美な詩情と荘重で劇的なモニュメンタリティなどの多様な要素をみごとに融合して、絵画芸術の完全さの典型(「神のごときラファエッロ」)とまでみなされる。その作品は、各国の王侯貴族や収集家にこぞって求められ、またマルカントニオ・ライモンディの銅版画や数多くの模写を通じてヨーロッパ中に広まり、マニエリスムからバロック、新古典主義までの近世の西欧絵画において、権威ある美的規範、アカデミズムの源泉として圧倒的な影響力を及ぼし続けた。[森田義之]

『摩寿意善郎編訳『リッツォーリ版世界美術全集 5 ラファエルロ』(1975・集英社) ▽若桑みどり著『新潮美術文庫 3 ラファエルロ』(1975・新潮社) ▽JH・ベック著、若桑みどり訳『ラファエルロ』(1976・美術出版社) ▽嘉門安雄著『ラファエルロ』(1978・集英社) ▽D・レディグ・デ・カンポス著、佐々木英也訳『ラファエルロの壁画――ヴァティカン宮』(1984・岩波書店) ▽AP・トファニ、P・デ・ヴェッキ著、森田義之訳『ウフィツィ美術館素描版画室蔵 ラファエルロ素描集』(1984・岩波書店) ▽高階秀爾著『ラファエルロ』(1985・中央公論社) ▽生田圓著『世界の素描 ラファエロ』(1979・講談社)』

🔴【バロック】

★日美 バロックって何だ? – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/201310032gb14zkg

★極上美の饗宴 「イタリア 驚異の3D天井画 ~ポッツォのバロック~」

http://v.youku.com/v_show/id_XMzg0ODQ3NjEy.html?x

🔴【ゴヤ】

★★スペインの画家・ゴヤ=宮廷画家から戦争の悲惨さ描いた画家120m

Francisco Goya 5m

★日美 永遠のマハ~ゴヤが見つめた女たち – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130829v6HwuMYr

★音楽とともにゴヤ(Prints__闘牛) & ビゼー 「カルメン」5m

🔴【ベラスケス】

★日曜美術館 ベラスケス~60m肖像画の告白~ http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=fx_keaton&prgid=38523602&categid=31804216&page=4&ref=ch&lot=cthum2_1_2

★日美 ベラスケス~肖像画の告白 – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130902fmQYWZag

◆愛情こめて庶民も描いた宮廷画家ベラスケス

赤旗18.04.03

🔴【レンブラント】

★★世界の名画=レンブラント46m

★音楽とともにDutch Art (Rembrant) 6m

★音楽とともにレンブラント & モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」4m

🔴【デューラー

★日美 デューラー 聖と俗 姜尚中が問う美の力 – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/2013101640Nup0Rp

🔴【ブリューゲル】

★世界の名画 ブリューゲル50m

★日曜美術館 夢のブリューゲル傑作10 – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130423L5JCzrwn

★極上美の饗宴 リアルな幻建築 ブリューゲルバベルの塔58m

◆ブリューゲル展・画家一族150年の系譜

赤旗18.03.07

◆◆「生身のブリューゲル」に胸熱く 森洋子・明治大学名誉教授が寄稿

18.11.13

(「雪中の狩人」(1565年、ウィーン美術史美術館蔵)(C)KHM-Museumsverband)

(「干草の収穫」(1565年ごろ、プラハ・ロブコヴィッツ宮殿蔵)(C)The Lobkowicz Collections)

 いまウィーンの美術史美術館は、ピーテル・ブリューゲル(父)の没後450年を記念した奇跡の大展覧会を開催している(来年1月13日まで)。同館所蔵の12点に加え、海外からの15点で全油彩画の約7割の公開となり、さらに素描と版画を合わせ約90点を展示。「あなたの生涯に一度だけ」というPRも納得がゆく。

 まず来館者の眼(め)を奪うのは、特例として額縁から外された大作「十字架を担うキリスト」。最大12ミリという薄い板、上下ぎりぎりまで薄塗りで描かれた画面、5枚の板の継ぎ目がほとんど識別できない裏面など、「生身のブリューゲル」に接し、胸が熱くなる。

 素描と板絵の相関性を重視した展示方法も啓蒙(けいもう)的だ。下絵素描「野兎(のうさぎ)狩りのある風景」の蛇行する川やその沿岸の都市景観はプラハ・ロブコヴィッツ宮殿の「干草(ほしくさ)の収穫」の背景を準備したことを来館者に気づかせる。約30年前に東京と京都に巡回した懐かしい作品。この絵を含む「季節画」4点を展望すると、画家は季節感を農作業だけでなく、空、川、大地、植物の微妙な色彩の変化で表現している。暴風や洪水などの気象の描写も迫力がある。

 本展のハイライトは修復直後のプラド美術館(スペイン)の「死の勝利」とマイエル・ヴァン・デン・ベルフ美術館(ベルギー)の「悪女フリート」の対峙(たいじ)だ。これまでの薄暗く、重苦しい現世の地獄の光景が鮮やかな色彩の復活となり、会場で評判となる。前者では骸骨軍団による生者への襲撃、後者では斬新なハイブリッドの魔物群に、先人ヒエロニムス・ボスへの新たな挑戦が明白となる。

 スイスのヴィンタートゥールのコレクションから来た「雪中の東方三博士の礼拝」は、国外持ち出し禁止令が今回解除された話題作。降りしきる粉雪で聖母子の姿が見つけにくい。注文者を驚かせる主題の展開はブリューゲルの得意の手法である。

🔴【ルーベンス】

★ルーベンス・幻の絵画~世界最古のオークションハウスの裏側を追え – FC2動画43m

http://video.fc2.com/content/20130629YJnMB6gq

◆ルーベンス=バロックの誕生

赤旗18.11.143

◆◆ルーベンス展――バロックの誕生 色彩と形態が奏でる交響曲

朝日新聞18.11.12

(「キリスト哀悼」(C)LIECHTENSTEIN. The Princely Collections, Vaduz-Vienna)

(「マルスとレア・シルウィア」(C)LIECHTENSTEIN. The Princely Collections, Vaduz-Vienna)

 「王の画家にして画家の王」と称され、紳士の優雅さと文人の教養を備えた外交官にして大工房を経営する企業家とも認識されるなど、17世紀バロック絵画を牽引したペーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)には、惜しみない数々の賛辞が捧げられてきた。日本では「フランダースの犬」で知る人も多いだろう。

 キリストの実在感は、本展の「キリスト哀悼」(12年ごろ、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション)にも見て取れる。蝋(ろう)のごとく青白いキリストの屍(しかばね)を囲んで、蒼白(そうはく)の聖母が我が子の瞳を閉じさせ、聖人たちが悲嘆に暮れる。ずっしりと横たわるこのキリストの身体ほど、「肉」を感じさせる描写はないが、発光して輝くそれは、下肢に敷かれた小麦によって復活への希望が暗示されている。

 ルーベンスはアントワープに定住して大工房を営む前、1600年5月から1608年10月までの8年余、23歳から31歳までイタリアに滞在した。太陽が天頂に達するがごとく、人生の最も充実した歳月であった。

 マントヴァ公の宮廷画家になるばかりか、バロック都市へと変貌(へんぼう)するローマにおいても屈指のパトロンや顧客を得た彼は、古典古代の彫刻はむろん、ミケランジェロをはじめとするイタリア・ルネサンスの巨匠の作品を研究して自家薬籠(やくろう)中の物とし、北方に拠点を移すや、堰(せき)を切ったように大芸術家としての造形を生み出してゆく。

 古典文学に着想を得た「マルスとレア・シルウィア」(16~17年、同)では、軍神マルスが兜(かぶと)を脱ぎ捨て、竈(かまど)の女神をまつるウェスタ神殿に純潔を捧げたレア・シルウィアに、愛神キューピッドの力を得て走り寄る。堂々たる神殿に燃え盛る炎は2人の心を暗示し、真珠のような肌に金髪まばゆい彼女の眼差(まなざ)しはすでに心を奪われている。

 ルーベンスとイタリア美術との関係を詳(つまび)らかにした貴重な本展では、色彩と形態が奏でる壮大なルーベンス交響曲が響き渡る。王道たる大様式で展開するその物語画は、まさしくヨーロッパ美術の大河が流れ込んで次世代への奔流となる源に他ならない。17世紀美術理論家ベッローリの名言「絵筆の熱狂」の通り、圧巻の大芸術である。(小池寿子・美術史家)

鑑賞=世界の美術・名画❷フェルメールや印象派以降現代まで(画家と名画の動画の数々)

鑑賞=世界の美術・名画フェルメールや印象派以降現代まで(画家と名画の動画の数々)

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🔴【フェルメール】

★★フェルメ ール全作品の紹介18m

★★世界の名画=フェルメール47m

★★新日曜美術館=フェルメール(真珠の耳飾りの少女 など)60m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v111074124TYzERck8

★★極上美の饗宴 シリーズ美女 (1) フェルメール真珠の耳飾りの少女 58m

http://v.youku.com/v_show/id_XMzM0NTU3Mjk2.html?x

★極上美の饗宴 メトロポリタン美術館「フェルメール 見つめる謎」58m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDUwNTA2Njg0.html?x

★日美 フェルメール つきぬ魔法の秘密 「牛乳を注ぐ女」 – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130831enQZYq6t

★音楽とともにJohannes Vermeer 6m

★音楽とともにフェルメール & チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲6m

🔴【クールベ】

★世界の名画 クールベ 50m

★美の巨人たち クールベ「画家のアトリエ」25m – FC2

http://video.fc2.com/content/20131007tQ4bSKpK

★音楽とともにクールベ & シューマン9m

◆◆クールベ

くーるべ

Gustave Courbet

18191877

(小学館百科全書)

フランス写実主義の画家。610日スイス国境に近いフランシュ・コンテ地方の小村オルナンの富裕な農家に生まれる。ブザンソンの素描学校に学び、1839年パリに出る。アカデミー・シュイス、他方でルーブル美術館のスペイン、オランダの絵画に学び、とくに47年のオランダ旅行でフランス・ハルスやレンブラントの影響を受けた。44年、自画像『犬を連れた男』(パリ、プチ・パレ美術館)をサロンに初出品。初期には風景、寓意(ぐうい)画、あるいはロマン派風の主題を現実風俗に移した主題を描くが、しだいにオランダ絵画と当時の社会主義思潮の高まりの影響下に、写実主義者としての彼の主題・技法が確立してゆく。50年のサロン出品の『石割り人夫』(第二次世界大戦中失われる)、『オルナンの埋葬』(オルセー美術館)などである。55年のパリ万国博の際、そのために構想された大作『画家のアトリエ』(オルセー)が『オルナンの埋葬』などとともに出品拒否されたことから、彼の理想と絵画を表明するため、モンテーニュ街に自らバラックを建て40点の作品を展示、そのカタログに「写実主義宣言」を書いた。翌年のサロンの『セーヌのほとりの娘たち』(パリ、プチ・パレ)もスキャンダルとなる。こうした同時代風俗の描写、風景、狩猟のさまざまな情景のほか、50年代なかばからは繰り返し滞在した英仏海峡沿岸の海景、あるいは花や果実の静物、60年代後半には官能的な裸婦などさまざまな現実的主題が、それにふさわしい的確な技法で描かれる。67年アルマ橋で行われた個展は、その成果を人々に認識させた。しかし、71年パリ・コミューンの際バンドーム広場の円柱引き倒し事件に連座し、スイスへの亡命を余儀なくされ、771231日ラ・トゥール・ド・ペイルスに客死した。ロマン主義、アカデミズムに対する闘いであった彼の写実主義は、ある部分で印象主義の先駆となったし、ドイツ、ベルギー、ロシアなどに広範な影響力をもった。[中山公男]

『阿部良雄編著『25人の画家5 クールベ』(1981・講談社) ▽B・ニコルソン著、阿部良雄訳『クールベ 画家のアトリエ』(1978・みすず書房)』

🔴【ドラクロワ】

自画像

★★新古典主義ダビッド・アングルからロマン主義ジェリコー・ドラクロワ=印象派前史46m

🔷ドラクロワ=絵画における3つの革命

https://drive.google.com/file/d/14t1Zbw_dG5h1WgSIR5_reG-C4BJ-sR0Z/view?usp=drivesdk

★音楽とともにEugene Delacroix and Chopin 6m

Favorite Artists: Eugene Delacroix 6m

◆◆ドラクロワ

Eugne Delacroix

17981863

フランスの画家。426日、パリ近郊のシャラントン・サン・モーリスに生まれる。戸籍上の父シャルルはフランス革命後に外務大臣を歴任するなど政府の要職にあった人物だが、本当の父親は政治家タレーランだとする説が有力視されている。幼くして父を失ったのちパリに移り、リセ・アンペリアルで古典的な教育を受けた。1815年、母方の叔父で画家のアンリ・リーズネールの勧めで美術学校の教師ゲランのアトリエに入り、翌年美術学校に入学する。しかし師のアカデミックな考えには共感を覚えず、ルーブル美術館で模写したルーベンスやベネチア派から多くを学ぶとともに、年長の友人ジェリコーらが絵画にもたらしたロマン主義の新たな息吹に鋭く感応した。22年、サロンへのデビューを飾った『ダンテの小舟』は悪評を買う一方、アドルフ・ティエールの熱狂的な賞賛を得て国家買上げとなり、彼の名は一躍有名になった。24年のサロンにはギリシア独立戦争という同時代の事件に取材した『キオス島の虐殺』を出品。一方、同年のサロンに『ルイ13世の誓い』を出して新古典主義者たちから歓呼をもって迎えられたアングルに対し、ドラクロワは、自らの意志とはかかわりなく、革新的なロマン主義絵画の領袖(りょうしゅう)とみなされるようになった。以来、古典主義的伝統の擁護者で素描家のアングル対ロマン主義の反逆者で色彩画家ドラクロワという対立図式が一般化する。翌25年、数か月間イギリスに滞在、イギリス美術の知識をさらに深め、とりわけコンスタブルやボニントンの輝かしい光の表現と自在な描法から影響を受けた。またシェークスピア劇の上演を観て感激し、その主題は以後さまざまな形で彼の作品に現れることになる。27年のサロンにはバイロンの詩劇が構想の出発点ともなった『サルダナパロス王の死』を、31年のサロンには前年の7月革命をたたえる記念碑『民衆を導く自由の女神』をそれぞれ出品して、自己の個性をはっきりと打ち出した。

 1832年、偶然の機縁からモルネー伯爵の外交使節団に随行してモロッコを旅行。強い光の下での鮮やかな色彩効果に、色彩画家としての自己の天分をいっそう強く自覚するとともに、人々の生活ぶりに古代ギリシア・ローマ人にも匹敵する威厳をみいだし、いまに息づく古代の姿に感銘を受けた。このモロッコの思い出から、『アルジェの女たち』(1834)や『モロッコのユダヤ人の婚礼』(1841)などが生まれるが、そこでは初期のロマン主義的熱狂は、静謐(せいひつ)でバランスのとれた構図に道を譲っている。しかし補色の効果による豊麗な色彩の表現は、官能を伴う東方の夢幻世界をつくりだしている。これらと並行して、内務大臣になったアドルフ・チエールの計らいもあって、政府から建築物装飾の依頼を受け、偉大な伝統の担い手との自覚をもって大画面の制作に積極的に乗り出すことになる。ブルボン宮の王の間(183338)および図書室(183847)、リュクサンブール宮図書室(184046)の装飾がそれであり、色彩画家としての力量を発揮しつつ、全体的な統一感を達成する。晩年にもルーブル宮アポロンの間の天井画(185051)やパリ市庁舎の平和の間の装飾(1852541871焼失)、サン・シュルピス教会聖天使礼拝堂の壁画(185361)に取り組み、古典や宗教の主題に対する深い理解を示した。55年のパリ万国博覧会ではアングルと並んで特別に一室が提供され、この巨匠の画業を回顧し、その偉大さを再確認する機会ともなった。しかし念願のアカデミー入りは37年来しばしば落選の憂き目をみ、57年にようやく会員になった。

 ドラクロワは、歴史や神話、宗教や文学などの主題をよくし、ルネサンス的伝統の最後に位置する大画家であるとともに、その色彩や補色関係の研究、筆跡の残るスケッチ状のタッチの効果的使用は、印象主義や新印象主義、さらにはフォービスムにまでその影を落としている。1822年から書き続けられた『日記』はそれ自体文学の書であり、芸術論もまた19世紀文化に貢献するものがあった。63813日、パリ、フュルスタンベール街のアトリエで没。[大森達次]

『中井愛訳『ドラクロワの日記』(1970・二見書房) ▽高階秀爾他訳『ボードレール全集(美術批評・ウージェーヌ・ドラクロワの作品と生涯)』(1964・人文書院) ▽M・セリュラス著、高畠正明訳『ドラクロワ』(1973・美術出版社) ▽R・ユイグ著、阿部良雄解説『世界美術全集14 ドラクロワ』(1977・小学館)』

🔴【印象派一般】

★★世界の名画=印象派の画家たち47m

★★世界の名画=印象派の画家たち34m

◆◆印象主義、印象派とは

いんしょうしゅぎ

impressionnismeフランス語

(小学館百科全書)

19世紀後半にフランスを中心に行われた美術上の運動および様式をいう。これを推進した画家たちは印象派と総称される。19世紀なかば、フランスの文芸や思想の分野では実証主義の風潮が強く、これを受けて美術界でも1850年ごろ以降クールベの写実主義が頭角をもたげつつあった。可視的なものをあるがままに描写しようとする態度で、色彩は暗く、あるいは渋い。自然をすなおに見つめ、歴史的・文学的な主題を否定する点で、マネも初期の印象派たちもクールベの主張を受け継いだ。だが、彼らはしだいに色彩の明るい輝きに魅せられ、自然のなかの光と空気の変幻きわまりない戯れに、もっとも強く創作意欲を刺激されることになった。明るい絵画へ、光の効果の分析へ、空気の存在感の描写へ、という方向である。換言すれば、マネと印象派は実証的な客観主義に出発しながら、自己の個性や感性を解放する主観主義へと向かったことになる。各画家の画風の進展深化とともに、印象主義はフランス美術史上空前の黄金時代を生み出し、写実を基礎とする西洋美術の最終段階を形成し、同時に20世紀美術の諸傾向にもさまざまな作用を及ぼすこととなった。[池上忠治]

◆前史

1860年ごろのパリで、モネ、ルノアール、シスレー、ドガ、ピサロ、セザンヌらが相次いで知己となり、いずれもクールベの写実とドラクロワの色彩を学び、他方では美術学校や官展を支配する伝統的なアカデミズムに強い不満と疑問を感じていた。たまたま1863年春の落選者展でマネの『草上の昼食』がスキャンダルを巻き起こすと、彼らはこの作品に重要な造形的啓示を読み取り、おのずからマネを中心とするカフェ・ゲルボアのグループ(またはバチニョル街の集い)が形成され、芸術革新についての熱心な論議が闘わされるようになった。アストリュクやゾラ、デュレといった作家、批評家が加わることもあった。さらにはヨンキントやブーダンの外光主義、戸外制作の作用やモネとピサロがロンドンで見た近代イギリス風景画の影響も加わり、グループ展開催の気運も高まるが、70年夏のプロイセン・フランス戦争で彼らは一時的に四散してしまうことになる。これが印象派成立の前段階である。[池上忠治]

◆理論と運動

印象主義の基本的な考え方はすでに1869年、モネとルノアールがブージバル近くのラ・グルヌイエールで描いた何点かの作品にみられる。光を色彩に置き換えること、可能な限り原色を多用して画面の明るさを確保すること、物の影や水面の反映、水の揺らめきなどに注目しつつ固有色にとらわれない描写に努めること、などである。こうした考え方と技法が2人からシスレーやピサロに伝えられ、ピサロからセザンヌにも教えられてゆく。187273年のことである。こうして「色調分割」という理論が生まれる。画面に用いる色彩をプリズムが光を分割する7色に限定し、混色を避けてこれらの純粋色を小さな斑点(はんてん)として塗り、わけても補色関係にある色彩を並置してさえざえとした効果をねらう。隣り合う色彩どうしはパレットにおいてではなく見る者の網膜の上で溶け合うので、画面では明るさや鮮やかさが確保される。これが色彩分割の考え方であり、絵を見る者の視覚の働きに即して「視覚混合」といわれることもある。もう一つの理論は絵の具の「盛り上げ」である。従来の常識では、完成された油絵の表面は油を流したように、とろりと平滑でなければならないとされていたが、それでは光のきらめきや大気の揺れ動きの微妙さを表現しにくい。印象派が風景画を多作するだけにいっそうこの点は重要である。そこで彼らはあえて筆触や絵の具の凹凸をそのまま画面に残す方向をとった。これによって画肌(えはだ)は複雑にざらついて視神経を刺激する力を増し、凹凸の細部におのずから光る部分と暗い部分が生じて新鮮な臨場感をも高める結果となる。ただし、ここで留意しておく必要があるのは、印象派がまず確固たる理論体系を樹立してからこれを作品に適用したのではないこと、むしろ個々人の作風の展開と、思索の深化が自然と前記のような理論に行き着く運びとなったことである。創意あふれる彼らの作品の拠()ってたつもっとも重要な基盤は理論ではなく、あくまでも自然の注意深い観察から引き出されるサンサシオンsensation(感覚の働き)なのである。

 しかし印象派の理論や技法が革新的であればあるほど、その作品は世人の理解を得にくいことになる。彼らはサロンに応募するがかならずしも入選せず、審査員の多くは旧態依然たる新古典主義的なアカデミズムを信奉していた。そこで、モネ、ルノアール、ピサロ、ドガらは自分たちのグループ展を構想し、様式上の共通性をもつシスレー、セザンヌ、ギヨーマンのみならず、反サロン的な態度に共鳴するラファエリJean-Franois Raffaeli18501924)、デ・ニッティスGiuseppe De Nittis184684)らをも加えて「画家、彫刻家、版画家の無名協会」を組織した。グループ展は1874年、76年、77年、79年、80年、81年、82年、そして86年と計8回パリで開催され、会員数は50人を超えた。たび重なる勧誘にもかかわらず参加を断った画家に、マネとティソJames Tissot18361902)がいた。運動をもっとも熱心に推進したのはピサロ、ドガ、ルノアールの3人で、これに様式上の中心的存在をなすモネ、セザンヌ、シスレーを加えた6人が主要なメンバーであった。「印象派」という呼称は、モネが第1回展に出品した『印象―日の出』に由来し、第3回展では彼らがこれをグループ名として採用したが、ドガは「非妥協的独立派」という名のほうを好んでいた。印象派には田園ないしは都会を描く風景画家が多く、これに対してドガは人物を中心として近代的な都会風俗を描いた。ルノアールは風景と人物、風俗をほぼ等分に描き、またセザンヌとルノアールは水浴図をも多作した。グループの様式上の等質性と作風の円熟がもっともよくみられたのは、ルノアールが『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を、セザンヌが『ショケ像』を出品した第3回展においてであった。[池上忠治]

◆発展的解消へ

1880年ごろ印象派の人々は40歳前後になる。集団的活動よりは自己の芸術を深める方向へ進む時期である。もともと印象派展はサロンと同時期に開催され、会員はサロンに応募しないという約束だったが、セザンヌ、シスレー、ルノアール、モネらがこのころ相次いでサロンに応募し、ドガの非妥協的な精神をいたく刺激した。そのため第5回展にはモネやルノアール、セザンヌが不参加、逆に第7回展ではドガやカサット、ラファエリが不参加というグループ結束の不統一がみられた。生活の不安と社会的な評価の有無が絡むだけに、こうした内部分裂はきわめて深刻な問題であり、また個性的表現の追求が最大の関心事であるため、元来グループとしての活動にはおのずから限界がある。他方では、ゴーギャン、スーラ、シニャック、ルドンら新会員の参加という側面もある。彼らはけっして純然たる印象派ではないが、これに影響されたり反発したりしながら画境を開拓していた。また、印象派展はよくも悪くも団体展なので、これにかかわる制約もなくはなかった。そこで1884年には「無審査、無賞」を旗印とするアンデパンダン展がより進んだ作品発表の場として誕生し、さらに印象主義の理論的側面をより厳密化したものとして、188586年にスーラの新印象主義が成立するに至った。だが、これら両者はいずれも印象派の大運動なしには生まれえなかったはずのもので、その意味でも印象派の活動は近代西洋美術における画期的なできごとだった。さらに付け加えるならば、ゴンクールやプルーストの小説、ドビュッシーの音楽、ロダンの彫刻、マラルメの詩などにも印象主義的な特質を認めることができる。またドイツや北欧、イギリスやアメリカなどにも印象派の影響は遅かれ早かれ広まってゆく。近代フランスの印象主義はイタリア・ルネサンスに匹敵するほどの重要性をもつといっても、過言ではなかろう。

 なお、印象主義的な作風は過去にまったく類例がないわけではなく、ポンペイなどに残る古代ローマ絵画のある段階を印象主義的様式とよぶこともある。[池上忠治]

◆新印象主義no-impressionnisme

印象主義の影響は1880年代以降すこしずつ欧米に広まってゆくが、同じころフランスではジョルジュ・スーラが新印象主義を唱えた。これは印象派が直観的、経験的に樹立した考え方や技法をより理論的に推し進めたもので、シュブルール、ヘルムホルツ、シャルル・アンリらの行った光学研究、色彩研究に多くを負っている。新印象主義は色調分割を徹底的に行うので分割主義divisionnismeともよばれ、また絵の具を小さな丸い斑点として塗るので点描主義pointillismeといわれることもあった。だが点描といういい方は、色調分割の意味を含まない点で新印象主義をさすには適当でない。スーラの死後はシニャックが終生この新印象主義の立場を堅持した。ほかにはクロスHenri Cross18561910)や、デュボワ・ピエAlbert Dubois-Pillet184690)らがあり、ピサロ、ゴッホ、ゴーギャン、初期のマチスらも一時的にこの影響を受けた。スーラとシニャックの作品発表の場は主として印象派展とアンデパンダン展だった。印象主義を擁護した批評家としてデュレ、デュランチ、ゾラ、マラルメらがあったのに対して、新印象主義の論客としてはフェリクス・フェネオンが重要である。[池上忠治]

◆後期印象主義post-impressionism

イギリスの批評家ロジャー・フライが191011年にロンドンで催した「マネと後期印象派」展に由来する呼称。印象派や新印象派とは異なる大画家で後世に多大な影響を及ぼした人々という程度の漠然としたことばで、おもにセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホの3人をさすが、セザンヌは印象派の主要メンバーの1人だし、残る2人も印象主義の洗礼をひとたび受け、そしてこれを消化してより個性的な芸術を開拓している。もとより3人がなんらかの運動を行ったこともない。したがって、これは語義のあいまいなことばだが、便利なこともあるので主として英語圏で用いられている。近年ではジョン・リウォルドが新印象主義やルドン、ナビ派などまで含めて、おもにアンデパンダン展系統の画家たちを一括する呼称としてこれを用いている。[池上忠治]

◆日本における印象主義

1880年代以降、印象主義の影響は様式としても近代的芸術運動としても世界各地に広まってゆく。日本でも当時は油絵の具による洋画を摂取しようとする段階にあり、たまたまパリで画業を学んだ黒田清輝(せいき)と久米桂一郎(くめけいいちろう)の帰国(1893)により、この影響がもたらされる。ただし2人はいずれもパリ美術学校に学び、ラファエル・コランその他のアカデミックな指導を受けていて、印象派の画家や作品と直接に対面してはいなかった。2人は温和で折衷的な、やや印象派化されたフランス・アカデミズムの様式を日本に持ち込んだわけだが、それでも画面の明るさや感覚の自由さ、主題選択の大胆さなどによって世の人々を驚かせ、従来の「脂派(やには)」に対して「紫派」と形容され、また旧派に対して新派ともよばれた。なお、近代版画の分野では小林清親(きよちか)の画業が印象派的な感覚の新鮮さによって注目に値する。1900年(明治33)ごろには林忠正が若干の印象派作品を日本に送ってもいる。やがて黒田が東京美術学校洋画科の初代教授となり、白馬会をも主催するにつれて、彼の折衷的作風が日本洋画壇の主流をなすに至るが、ほどなく清新さを失い、形式主義に陥るという悪い面をも露呈することとなる。だが全体としては、これが明治期の急速な近代化の宿命だったともいえよう。[池上忠治]

John Rewald History of Impressionism 1946, Museum of Modern Art, New York) ▽『ファブリ版 印象派の画家たち』全12巻(197576・小学館) ▽ピエール・クールティヨン解説、山梨俊夫訳『世界の巨匠シリーズ別巻 印象派』(1979・美術出版社)』

🔴【セザンヌ】

★★世界の名画=セザンヌ46m

★★世界の名画 セザンヌ 50m

★音楽とともにセザンヌ & シューベルト_4つの即興曲

🔴【モネ】

★★世界の名画 モネ 50m

★日美 モネ光を追いつづけた男~科学者・西澤潤一が読み解く – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130823g2dGzuvK

★モネの庭へ~華道家・假屋崎省吾 – FC2動画90m

http://video.fc2.com/content/20130706NCdWhXBh

★音楽とともにモネ & モーツァルト「ピアノソナタ第11番」7m

★音楽とともにクロード・モネ & コルサコフ_シェヘラザード10m

◆◆「モネそれからの100年」展

赤旗18.08.21

🔴【マネ】

★★世界の名画 マネ 50m

★★大都会を描いたマネ(巨匠たちの肖像)90m

★日美 マネは見た~都市生活者の秘密 – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20131019AUtfHH1K

🔴【ゴッホ】

★★世界の名画 ゴッホ 50m

http://v.youku.com/v_show/id_XMzY5MzExNDIw.html?x

★★映画・炎の人=ゴッホ120m

★★ゴッホの生涯=弟テオとの手紙から、炎の絆90m

★★NHK ザ・プロファイラー「ゴッホ情熱と冷静のはざまで59m

★★ゴッホの青春=印象派・浮世絵・レンブラントやルーベンスなどオランダの画家の影響(松下奈緒訪ねる).110m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v130923114MFjstM2B

★ビンセントバン・ゴッホ/ゴッホの手紙 朗読:山崎努 – niconico

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm13981097

★★ゴッホと日本の浮世絵45m

★★日曜美術館・ゴッホの魅力を語る45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v131524979MCx8MA5F

★★日曜美術館 ゴッホ誕生 ~模写が語る天才の秘密~ 45m

★日曜美術館 ゴッホ– FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130510BHunrNdG

★音楽とともにゴッホ & ヴィヴァルディ_四季_ 10m

◆ゴッホと浮世絵

赤旗17.12.04

◆森下=ゴッホとゴーギャンの共同生活

(赤旗16.11.15

🔴【ゴーギャン】

★楽園の絵がやってきた~ゴーギャンの伝えるメッセージ – FC2動画43m

http://video.fc2.com/content/20130426vNUZTtu9

★日曜美術館 ゴーギャン ~二つの世界を生きた画家~ – 45m

★日曜美術館 ゴーギャンなかにし礼 – FC2動画

http://video.fc2.com/content/201305032Nahfd5J

★音楽とともにゴーギャン & ヴィヴァルディ_四季_10m

🔴【ルノワール】

★★世界の名画 ルノワール 50m

http://v.youku.com/v_show/id_XMzY5MzIyMTA4.html?x

★★BSプレミアム・ルノワール90m

https://m.youtube.com/watch?v=p-t7EMjl98E

★音楽とともにPierre-Auguste Renoir 9m

★音楽とともにルノワール_人物画 & ヴィヴァルディ_四季_ 10m

★音楽とともにPierre-Auguste Renoir 6m

★音楽とともにルノアール & シューマン9m

◆ルノワール展

(赤旗16.06.10

🔴【ドガ】 

★日曜美術館 ドガ光と影のエトワール– 44mFC2動画

http://video.fc2.com/content/20130422k3LKr4Gp

★音楽とともにドガ & チャイコフスキー : 白鳥の湖 6m

★音楽とともにエドガー・ドガ & ヴィヴァルディ_四季_8m

🔴【シスレー】

★音楽とともにシスレー & ラヴェル9m

🔴【モディリアーニ】 

★★極上美の饗宴 瞳のない美女の謎 モディリアーニ58m

★日美 モディリアーニ~仮面に秘めた人生 – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20131004F9MPZ0mz

★音楽とともにモジリアーニ & ビゼー アルルの女 15m

🔴【ロートレック】

★音楽とともにロートレック & モーツァルト「ジュピター」8m

🔴【ミレー】

★★日美 ミレー 働く姿への祈り~山梨・ミレー館誕生 – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20131111eBsfryty

★日曜美術館 ~夢のミレー傑作10選~ 60m

★音楽とともにフランソワ・ミレー & ベートーヴェン_ 悲愴4m

◆日本人が愛しでやまないミレー(アエラ)

🔴【ロダン】

カレーの人びと

★★日曜美術館・ロダンの魅力を語る45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v131478830JEk9AXnK

★★日曜美術館 ロダン~新たな生命の探求者~ 45m

★★BSプレミアム・ロダンの生涯と作品(弟子カミュとの関係など)90m

🔴【レーピン】

Ilya Repin The Complete Works 30m

Iliá Repin 6m

🔴【ターナー】

★★極上美の饗宴 「渦巻く大気をつかめ ターナー 究極の風景画」58m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDEyOTg2MjQ4.html?x

★★美の巨人・イギリスの風景画家ターナー=難破船など30m

★美の巨人たち ウィリアム・ターナー「戦艦テメレール」25m- FC2

http://video.fc2.com/content/201309092MLs1Du1

◆ターナー=自然の表情を巧みに

赤旗18.06.15

🔴【ピカソ】

★★ピカソとゲルニカ(当ブログ)

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2847572.html

100人の20世紀 『ピカソ』 – niconico

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm6057953

★日曜美術館 ピカソを捨てた花の女FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130503KxgdPA2P

★巨匠たちの青の時代 ピカソ 58m- FC2

http://video.fc2.com/content/20131026dUmfQeme/

★ピカソ(音楽とともに)5m

★迷宮美術館~出張!ピカソ展

◆当ブログ=ケーテ・コルヴィッツの絵画の世界

🔴【クリムト】

★★極上美の饗宴 世界で最も贅沢な美女の謎~クリムト 黄金の肖像画~58m

★日曜美術館 クリムト ~黄金にきらめくエロス~ 45m

★音楽とともにクリムト & ベートーヴェン「エリーゼのために」3m

🔴【ルソー】

★★アンリー・ルソー=幻想的な絵画描く奇跡の素人90m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v113352449RrXXa3Z7

★★日曜美術館・アンリー・ルソーの絵画44m

★★48 美の巨人たち 「アンリ・ルソー『ジュニエ爺さんの馬車』」24m

https://m.youtube.com/watch?v=cuR3rKVlC4Y

★音楽とともにアンリ・ルソー & ホルスト「惑星より木星」8m

🔴【マティス】

★美の巨人たち マティス「ブルー・ヌード」– FC2動画

http://video.fc2.com/content/20130426tckq9VN3

★日曜美術館 ルオーとマティスFC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130502AmdpnKze

🔴【ムンク】

★★極上美の饗宴 ムンク 自然を貫く叫びの謎

58m

★日曜美術館 ムンク– FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130503dFZ7h3u9

🔴【ミロ】

◆平和を愛したミロ

🔴【レジェ】

FERNAND LEGER 10m

http://m.youtube.com/watch?v=_GBZ_QNwfdQ

🔴【ダリ】

★★日曜美術館・ダリ=謎の画家の正体45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v113574342xZh4aTs2

★★ダリの世界30m

★★ダリの生涯55m

★私が噂のダリである 天才サルバドール・ダリの秘密 – FC2動画110m

http://video.fc2.com/content/20130521bNABBCxb

★日美 サルバドール・ダリ~愛妻との半世紀 – FC2動画57m

http://video.fc2.com/content/20130820B6qVnrvS

◆◆森下=ダリ展・奇才の生涯

◆ダリ展を鑑賞して

(赤旗16.11.28

🔴【シャガール】

★美の巨人たち シャガール ステンドグラス パンドラTV

🔴【その他】

★迷宮美術館 ~出張!メキシコ20世紀絵画展~ 43m

★日曜美術館 ヴォーリズの愛される洋館 FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/2013051069ucemH5

★日曜美術館 いのち輝く家族の肖像 ~モーリス・ドニ~ – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130817HmAtpcQX

★日美 戦争と芸術 クレー 失われた絵 – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20131108h6aYeBPX

★日美 パリ 芸術の都の誕生 – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/201311080NfqHBbb

★日美 世紀の陶芸家 ハンス・コパー – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130924fQLsSLkW

★日美 ハンマースホイ~誰もいない部屋こそ美しい – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/201309247VLSY2uw

★日美 黒い線の行方~ベルナール・ビュフェ – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130902bBYZsa9p

★日美 ポスター誕生~パリジャンの心を盗め! – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130831A9JucgGf

★日美 夢のルドン 傑作10選~魂への祈り – FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130826vw0UXnBL

★音楽とともにオディロン・ルドン & ハイドン6m

★★アルプス描いたセガンティーニ45m

★音楽とともにセガンティーニ5m

★★ETV50美の贈り物 ~美術番組ベストセレクション~ – 75m

または

http://video.fc2.com/content/20130524KA0hT1Je

★日曜美術館 タマラ・ド・レンピッカ

FC2動画44m

http://video.fc2.com/content/20130513PK0QdDuT

★音楽とともにピサロ & ショパン:英雄ボロネーズ6m

★音楽とともにカミーユ・ピサロ & ベートーヴェン 「春」7m

★音楽とともにタデマ & シャブリエ6m

★日曜美術館 レンピッカ ~時代を挑発した女~ 

★美の巨人たち=ロンドン『ウェストミンスター宮殿と寺院=ハリー・ポッターの世界25m

http://video.9tsu.com/video/%E7%BE%8E%E3%81%AE%E5%B7%A8%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%90%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E3%80%8E%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E5%AE%AE%E6%AE%BF%E3%81%A8%E5%AF%BA%E9%99%A2%E3%80%8F%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%80%91%2010%E6%9C%8815%E6%97%A5

★★亀山郁夫・スターリンによって弾圧されたロシア・アバンギャルドの遺産を訪ねる106m

🔴【ミュシャが描いたスラブ叙事詩】

★★チェコのミュシャ=パリの華麗なポスター画家から民衆・民族を描く

(下のAPPから見て下さい)

★★ドキュメント アルフォンス・ミュシャ故郷への旅50m

http://v.youku.com/v_show/id_XMjcxODE0OTEwNA==.html?sharefrom=iphone&sharekey=ac1cd026b71698168978cf7e487379f72 @优酷

◆◆ミュシャ=華やかなパリのポスターから「スラヴ叙事詩」へ=民族の歴史巨大キャンパスに

(赤旗17.05.12

◆◆Wiki=ミュシャの生涯

青年時代、ミュシャはパリに移住し、ポスター画家として一斉を風靡した(詳細はWiki)。

アメリカの富豪チャールズ・クレーン(英語版)から金銭的な援助を受けることに成功し、財政的な心配のなくなったミュシャは1910年、故国であるチェコに帰国し、20点の絵画から成る連作『スラヴ叙事詩』を制作する。この一連の作品はスラヴ語派の諸言語を話す人々が古代は統一民族であったという近代の空想「汎スラヴ主義」を基にしたもので、この空想上の民族「スラヴ民族」の想像上の歴史を描いたものである。スメタナの組曲『わが祖国』を聴いたことで、構想を抱いたといわれ、完成までおよそ20年を要している。

また、この時期にはチェコ人の愛国心を喚起する多くの作品群やプラハ市庁舎のホール装飾等を手がけている。1918年にハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立すると、新国家のために紙幣や切手、国章などのデザインを行った。財政難の新しい共和国のためにデザインは無報酬で請け負ったという。

19393月、ナチスドイツによってチェコスロヴァキア共和国は解体された。プラハに入城したドイツ軍によりミュシャは逮捕された。「ミュシャの絵画は、国民の愛国心を刺激するものである」という理由からだった。ナチスはミュシャを厳しく尋問し、またそれは78歳の老体には耐えられないものであった。その後ミュシャは釈放されたが、4ヶ月後に体調を崩し、祖国の解放を知らないまま生涯を閉じた。遺体はヴィシェフラット民族墓地に埋葬された(現在はヤンとラファエルのクベリーク親子と同じ墓石に埋葬されている)。

(かつてミュシャはこんなポスター画を描いていた)

(赤旗17.05.12

(「スラヴ式典礼の導入」)

(「原故郷のスラヴ民族」)

(同)

(ヴィートコフ山の戦いの後)

(ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師)

 国立新美術館の広大な展示室がこれほど生かされたことがあったか。アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)の展覧会で全20点の壮大な「スラヴ叙事詩」を目にして、そう感じた。

 アール・ヌーボーの寵児(ちょうじ)として日本でも人気のミュシャは、世紀末の女優サラ・ベルナールのポスターや華やかな装飾パネルで知られるが、後半生に心血を注いで制作した歴史画連作「スラヴ叙事詩」はさほど有名ではない。だが、その圧倒的な迫力はミュシャの代表作と言わしめるに充分(じゅうぶん)。魅惑的なポスター作家と重厚な歴史画家、ミュシャは二つの顔を持つのか。

 本展で分かったのは、歴史画家としての重要性だ。ミュシャはアカデミックな歴史画の訓練を積み、生活のために挿絵、ポスター、装飾画にその技術、手法を巧みに応用した。美化しつつも写実性を保った女性像に、四季や諸芸術などの寓意(ぐうい)を被(かぶ)せるのはその一例。加えて、類い希(まれ)なデザイン感覚を発揮したのが、成功を得た要因である。

 しかし、チェコ出身のミュシャが故郷に帰って描いたのは、スラヴ民族の苦難と栄光の歴史であった。中でも、最初期の3場面はミュシャ芸術の頂点を成す。歴史画の手法はもとより、ポスター制作で培った斬新な構成感覚、象徴主義への親炙(しんしゃ)など、すべてが渾然一体(こんぜんいったい)とした最高度の達成という意味で。

 理想化と甘美な装飾性、写実性と劇的な物語性に執着したミュシャは、印象派から抽象絵画へ向かうモダン・アートから逸脱して見える。時代遅れなのか。いやそうではない。19世紀の歴史画から20世紀の大衆的な芸術やイメージにつながる、別の道を歩んだ人なのである。

 つまり、歴史画の写実性を写真が、劇的な物語性を映画が継承した大きな流れの中に、ミュシャはいる。さらに、日本の文芸誌「明星」や少女漫画を思い起こせば、その影響が広範囲にわたることは明らか。ミュシャの提起する問題は実は深い。

 同じ美術館では草間彌生展(22日まで)も同時に見られたが、まさしく前衛アート展とミュシャ展の併存こそが、イメージへの欲望が解放された現代を象徴しているように思われた。

 (三浦篤・東京大教授)

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鑑賞=日本の美術・名画❷明治以降現代まで=明治以降の画家、花森・柳瀬・まつやま・無言館・四國五郎・いわさきちひろなど民主美術

=日本の美術・名画明治以降現代まで=明治以降の画家、花森・柳瀬・まつやま・いわさきちひろなど民主美術

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【このページの目次】

◆明治・大正・昭和戦前(洋画・日本画)

◆戦後

◆花森安治と「暮らしの手帖」の表紙

◆戦争と絵画=無言館・戦没画学生など

◆プロレタリア美術運動・民主的美術運動解説

◆柳瀬正夢・まつやまふみお・新海覚ほか

◆いわさきちひろの世界=その生涯と作品

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🔵明治時代以降現代まで

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🔵岡倉天心

★★その時歴史が動いた・岡倉天心43m

岡倉天心

★★英雄たちの選択=明治維新後の廃仏棄釈のなかで日本美術を守った岡倉天心57m

http://video.9tsu.com/video/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E3%82%92%E3%81%BE%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E5%B2%A1%E5%80%89%E5%A4%A9%E5%BF%83

◆岡倉天心物語(福井県立美術館)

http://info.pref.fukui.jp/bunka/bijutukan/heartofheaven/news.html

★音楽とともに黒田清輝 & ラヴェル ピアノ協奏曲8m

🔴【岸田劉生】

★日美 天才画家 岸田劉生~二つの傑作と苦悩 -58m FC2

http://video.fc2.com/content/20130820bnU3eWeS

🔴【横山大観】

★★日曜美術館・横山大観54m

★★ぶらぶら美術館・横山大観の絵画の歴史58m

🔴【青木繁】

★★日美 青木繁~文人たちの愛した画家 – 45mFC2

青木繁 自画像

http://video.fc2.com/content/20130912rr5uXNv5

🔴【黒田清輝】

黒田清輝

★音楽とともに高橋 由一 & ドビュッシー 月の光5m

★音楽とともに藤島武二 & ラヴェル ピアノ協奏曲3m

★音楽とともに佐伯祐三 & ショパン「幻想即興曲」5m

★日美 よみがえる大正の鬼才~洋画家・河野通勢 – FC2

http://video.fc2.com/content/20131108k4VYZaND

🔵竹久夢二

★音楽とともに竹久夢二 & ショパン 前奏曲『雨だれ』5m

◆◆森まゆみ=暗い時代の人々

TakehisaYumeji-Photo_Yumeji’s_Late_Years竹久夢二(たけひさ・ゆめじ):1884年、岡山県生まれ。17歳の頃に上京し、早稲田実業学校に入学。在学中から独学で絵を勉強し、雑誌や新聞に風刺画やコマ絵、スケッチなどを投稿する。22歳の頃、作品「筒井筒」が中学世界に1等入選し、「竹久夢二」の筆名でデビュー。以後、平民社の同人となり、平民社発行の新聞などで風刺画なども多数発表。また、「夢二式美人画」と言われる儚げで美しい美人画の様式を確立し、一躍売れっ子作家となる。本の装丁やデザイン、作詞なども数多く手がけている。1931から1933年までアメリカ、ヨーロッパ諸国に外遊し、展覧会を開催。帰国後、結核を患い1934年に惜しまれながら逝去した。

❶竹久夢二(上) 社会主義からるるふ出発した大正の歌麿

http://www.akishobo.com/akichi/mori/v7

08 竹久夢二(下) アメリカで恐慌を、ベルリンでナチスの台頭を見た。

http://www.akishobo.com/akichi/mori/v8

★日美 大正美人版画を極める 橋口五葉 – FC2

http://video.fc2.com/content/20131115NBYq4BvT

★日美 昭和・美的生活の革命 中原淳一の世界 – FC2

http://video.fc2.com/content/20131104U0JqxN1U

🔴【東山魁夷かい】

★極上 美の饗宴 東山魁夷

(1)再生のドイツ 60m- FC2

http://video.fc2.com/content/20130504mEY4Tzey

(2) 挑戦の京都 – 60m FC2

http://video.fc2.com/content/20130504xX76EFbW

🔵新美の巨人・東山魁夷=緑響く30m

★極上 美の饗宴 東山魁夷(3)祈りの山河 – 60mFC2

http://video.fc2.com/content/20130504HuzeFcAF

🔴【平山郁夫】

★★昭和偉人伝・平山郁夫=シルクロード・平和の探求52m

★極上美の饗宴 シリーズ 平山郁夫の挑戦(1)「執念のシルクロード」60m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDI1NTgzNjgw.html?x

★極上美の饗宴 シリーズ 平山郁夫の挑戦

(2)「はるかなる仏の道」

★新日曜美術館アンコール 情熱と美のシルクロード ~日本画家・平山郁夫~ – 

★平山郁夫 絵画集 仏教伝来5m

★美の巨人たち 平山郁夫『流水間断無』PCのみ15m

https://m.youtube.com/watch?v=q3VzW4oT7TE

★極上美の饗宴 「見返りネコの革命~竹内栖鳳班猫~」

★美の巨人たち 竹内栖鳳「班猫」25m – FC2

http://video.fc2.com/content/201310072Ny0q4F0

★極上美の饗宴 和の美人を極める~女流画家 上村松園~

★極上美の饗宴 世界が驚嘆したニッポン (1) 謎の巨大香炉 鋳金家鈴木長吉

★極上美の饗宴 世界が驚嘆したニッポン (2) 七宝 幻の赤を追う

★極上美の饗宴 世界が驚嘆したニッポン (3) 漆のダ ヴィンチ 柴田是真

★日美 北大路魯山人~まだ大丈夫だ、ほめられないから 45m- FC2

http://video.fc2.com/content/201309144Z3z7XhW

★日美 写実の果て 孤高の画家・高島野十郎 -45m FC2

http://video.fc2.com/content/20131006PMJxmbMx

★日曜美術館 芸術家岡本太郎 – FC2動画45m

http://video.fc2.com/content/20130507ZtTkQzQ6

★報道発 ドキュメンタリ宣言~生誕百年・岡本太郎秘話~ 24m

🔵棟方志功

★★昭和偉人伝・棟方志功=「わだばゴッホになる」

55m

★★我はゴッホになる! 愛を彫った男·棟方志功とその妻110m

★★極上美の饗宴 棟方志功の東北 自然に負けない美58m

🔵日曜美術館・棟方志功と柳宋悦42m

★★BSプレミアム・棟方志功 の生涯と作品86m

棟方志功展=赤旗19.06.26

🔵棟方志功

むなかたしこう

19031975

(小学館百科全書)

版画家。明治3695日青森市生まれ。小学校卒業後、家業の鍛冶(かじ)職を手伝い、さらに裁判所の給仕となる。画家を志し、鷹山宇一(たかやまういち)らと洋画グループをつくり、1924年(大正13)上京する。昭和初めから木版画を手がけ、平塚運一(うんいち)の教えを受ける。日本創作版画協会展、春陽会展、国画会展に版画を出品のほか、帝展に油絵を出品。1932年(昭和7)日本版画協会会員となる。柳宗悦(むねよし)、河井寛次郎ら民芸派の知遇を得、しだいに仏教的主題が多くなる。1937年国画会同人となり、翌年新文展で版画による初の特選となった。第二次世界大戦後は、1955年(昭和30)サン・パウロ・ビエンナーレ展で受賞し、翌1956年ベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受け、世界的な評価を確立。その間に日本板画院を創立して主宰。国内とアメリカの各地で数多くの展覧会を開き、1964年度朝日文化賞のほか、1970年には毎日芸術大賞と文化勲章を受けた。縄文的血脈の現代的開花とも評されるその作風は、独特の宗教的表現主義である。日本画の大作も多い。昭和50913日東京で没。木版画の代表作は『大和(やまと)し美(うるわ)し』『二菩薩釈迦(ぼさつしゃか)十大弟子』『湧然(ゆうぜん)する女者達々(にょしゃたちたち)』『柳緑花紅頌(りゅうりょくかこうしょう)』ほか。なお、1963年倉敷市の大原美術館内に棟方板画館、1974年鎌倉市に棟方板画美術館(2010年閉館)、197511月には郷里の青森市に棟方志功記念館が開設された。[小倉忠夫]

『『棟方志功全集』全12巻(19771979・講談社) ▽富永惣一解説『現代日本の美術12 棟方志功』(1975・集英社) ▽海上雅臣著『棟方志功』(保育社・カラーブックス)』

◆福光美術館 http://nanto-museum.com/

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🔵花森安治と「暮らしの手帖」の表紙

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★★日曜美術館・暮らしにかけた情熱 花森安治30年間の表紙画45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v115687491dANncr5F

★★美の壷・花森安治=暮らしのなかの美意識の追求28m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v115687666ANd9gYEa

(雑誌『暮しの手帖』は、文章からカット、デザインまですべて自らで行ったカリスマ編集者の花森安治の存在抜きには語り得ない。だが一方、彼を雑誌に巻き込んだ大橋鎭子(しずこ)も重要な存在だった)

◆『暮しの手帖』の創刊

 若い頃の花森は大政翼賛会で国策広告に関わり、「欲しがりません勝つまでは」のフレーズを選出する側で働いていたという。自分の起業の夢を伝えた鎭子に向かって花森は「ひとりひとりが、自分の暮らしを大切にしなかった」から日本は戦争をしたのだと語る。その後2人は「戦争をしないような世の中」にするため「暮らし」を大切にするという理想を共有し、戦争で失われた衣食住をひとつずつ向上させていくために『暮しの手帖』と出版社立ち上げを約束する。

◆「戦争中の暮しの記録」

「暮しの手帖」の「戦争中の暮しの記録」は、終戦から二十年余り経って、再び戦争を繰り返さないためにあえて戦争中の記録を残そうという趣旨で昭和43年(1968年)8月号でおこなわれました。すべて公募で集められました。戦争中に何を食べて、何を着て、どんな風に生き、どんな思いで戦ってきたかを募って、最終的には1736通の応募から選びました。

しかも驚くべきはこれを別冊や臨時増刊などではなく、人気雑誌だった「暮しの手帖」でやったことです。当時の同誌は80万部を超える部数を誇る人気雑誌で、定期購読者も多かったことから、あえてこのような形をとりました。これを提案したのは社長の大橋鎭子でしたが、花森安治も即断しトントン拍子でこの企画は実現されました。同誌ではひとつのテーマだけを掲載したことはなくかなりの賭けでしたが、悲惨な戦争を二度と起こさないためにもこの企画を断行しました。しかも「戦争中の暮しの記録」が掲載された96号はかなりの反響があって、瞬く間に売り切れる書店も続出。

◆『暮しの手帖』の「商品テスト」

1954年、ソックスから始まったテストは、高度経済成長に伴い冷蔵庫やクーラーまで対象にした「商品テスト」は絶対ヒモつきであってはならない、と雑誌に広告を載せないことが原則でした。結果は商品名をあげて公表するため、テストは徹底しています。トースターのテストで焼いた食パンは4万3088枚。ミシンのテストでは、各機種1万メートル、布を縫うのに足かけ3年かけています。1960(昭和35)年の第56号に登場したのが「ベビーカーをテストする」。市販のベビーカー7車種を購入し、子どもに近い重りを乗せ、100キロメートルもの距離を押して歩いています。誌面には10キロメートルで、後輪右のゴム輪が外れ、85キロメートルでシートが裂けてきた……と商品名をあげて、どう壊れるかの様子が克明に記録されています。

花森安治編集長いわく、「〈商品テスト〉は、消費者のためにあるのではない」「生産者に、いいものだけを作ってもらうための、もっとも有効な方法なのである」(「商品テスト入門」)とのべています。

 高度経済成長期で、家財道具が増えていく一方、粗悪品も多かった時代。テストはメーカーに商品の絶え間ない改良を求め、弱い立場の消費者が泣くことのない社会を目指すものでした。テストは53年間も続き、2007年に終わりました。暮しの手帖社は「新製品の出る頻度が速すぎて、十分なテストができなくなった」と説明しています。

◆◆(みちのものがたり)花森安治の「雑誌道」 東京都 マルチ・おしゃれ、希代の人物

2017520日朝日新聞

 靴下や毛布、ストーブなど所帯じみた品々が並び、男の人の怒鳴り声が絶えず流れている。美しい手描きの絵や、変わった字体のスローガンもたくさんの、少し不思議な美術展。イラストや写真は、今見てもおしゃれなものばかり。会場にあふれる老若男女が、展示物に見入っている。

(花森安治(右下)が編集した初号から第2世紀53号まで153冊の「暮しの手帖」。花森は表紙のデザインも手がけた)

(「暮しの手帖」第4世紀88号)

(花森愛用のランプ)

(花森愛用のクレパス)

 東京・世田谷の砧(きぬた)公園内にある世田谷美術館で「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」展が開かれたのはこの春のこと。2カ月間の会期中、当初見込みの倍にあたる約4万人が訪れた。

 日本を代表する希代の編集者として、雑誌「暮しの手帖」を100万部の「国民雑誌」に育て上げた花森安治(1911~78)。創刊号から表紙画を描き、原稿を執筆し、中づりポスターのコピーやデザインも手がけた。

 美術展だけではない。ここ数年、関連する書籍の出版が相次いでいる。昨年は、花森がモデルの人物が登場するNHKの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」も放映された。

 亡くなってすでに39年。なぜいま、花森安治なのか。

 「花森」展を企画した世田谷美術館の学芸員、矢野進さん(53)は、「花森ブーム」を作り出したキーパーソンと言えるかもしれない。矢野さんが今回の展示を企画したのはドラマ化より前。そもそも、矢野さんが花森展を開催するのは今回で3回目だ。

     *

 きっかけは、偶然ムック本で伝記を読んだことだった。「こんなにマルチですごい人がいるんだ」と興奮した。

 ときは2000年代前半。小泉政権のもとで新自由主義の風が吹きあれ、非正規雇用が増加、自己責任論が声高に叫ばれるなど、世の中がギスギスし始めたころ。その反動か、地に足を着けた暮らしへの志向も強まり、健康で持続可能なスタイル「ロハス」や「MOTTAINAI」、リメイクが流行、「ku:nel(クウネル)」などの生活家庭雑誌も次々創刊された。

 矢野さんは思った。

 「この人こそ、今紹介するべきなのでは」

 06年に世田谷文学館で「花森安治と『暮しの手帖』展」を開いた。約180平方メートルの、大きくはない展覧会だったが、約1万人が来場した。特に若い人がびっくりするほど多かった。「やっぱり、時代だったんでしょうね」

 それから11年。花森と、彼が精魂を込めた雑誌を追慕する風潮がやむ様子はない。

 今回の花森展で、ひときわ人だかりが目立つ一角があった。「暮しの手帖」の名物企画「商品テスト」の展示コーナーだった。

◆「商品テスト」のみならず

 トースターの回では4万枚の食パンを焼いて積み上げ、ベビーカーなら走行距離が100キロになるまで押し、防火を考えるために家1棟を燃やしたこともあった。「暮しの手帖」の商品テストは、語り継がれる逸話の宝庫だ。

 「冷蔵庫ひとつとっても、例えばメーカーによるテストではモーターを使って開け閉めするが、うちは実際に手で何度も開け閉めした」。そうふり返るのは、元編集部員の北村正之さん(75)だ。「世の中、背の高い人も低い人もいる。開け閉めの角度も違う。一事が万事、家庭で使うのと同じようにテストした」

 北村さんの印象に一番残るのは、電子レンジの回だ。「当時、メーカーは『何でも作れる夢の調理器具』とうたって売り出していた。ならばと、我々も天ぷらやホットケーキが作れるか試した」。結論は「せいぜい、温め直すのにしか役立たない。そんな物に10万円前後を出すのは馬鹿げている」。タイトルは「電子レンジ この奇妙にして愚劣なる商品」となった。

 役所と論争になったテストもあった。1968年の「もしも石油ストーブから火が出たら」では、「石油ストーブから出た火はバケツの水で消せる」と主張する編集部が、「火にはまず毛布を」と呼びかける東京消防庁と対立した。公開実験で決着を付けることになり、他誌や新聞も「水かけ論争」「異色の公開テスト」と書き立てた。

 「ガンバレドクシヤココニアリ」「お役人はのらりくらりだから、しっかりとね」。読者からは激励の電報や手紙が届いた。実験の結果、軍配は編集部に上がった。

 一方、メーカーからのクレームは意外に少なかったと北村さんは言う。「テスト後はメーカーにデータを見せたし、何より広告を一切入れなかったことが大きかった」

 読者を一番に考え、広告は取らず、とことん事実を検証する。今回はそれを勝手に、花森安治の「雑誌道(どう)」と名付けた。この道を後に続こうとする者は少なからずいる。

     *

 「テストする女性誌」をうたう月刊「LDK」(晋遊舎)は、家電や文房具などを毎号使い比べ、結果を掲載している。テストは編集部員や読者が行い、広告や、宣伝と気づかせない「やらせ記事」がないのが売りだ。

 「10年ほど前、通販番組を見ていて腹が立ったんです。こんなにウソばかりついてモノを売っていいのかって」。テスト誌を始めた西尾崇彦社長(40)が振り返る。木村大介編集長(39)は「通常の雑誌は広告主ありきで、消費者主導ではなかった。でも、広告さえなければ消費者のために遠慮無くものを言える」と語る。この出版不況下、5月末発売の最新号の発行部数は20万部を超える見込みだ。

 木村編集長は恐縮しながら、花森の影響を受けていると明かす。「昔の『暮しの手帖』を読んで育った。(花森が)『LDK』のテストを見て、どう思うか知りたい」

 反原発を掲げ、政治的発言を続ける異色の通販雑誌「通販生活」(カタログハウス)は、第三者機関などがテストした商品を扱い、1誌あたりの商品数を約80に絞り込む。

 創業者の斎藤駿(すすむ)さんは著書『なぜ通販で買うのですか』で花森について、「書斎からではなく日常生活から思想をつくっていくタイプの知識人」とし、社として同じ道を歩みたいと書く。商品ページ責任者の矢島奈津子さん(41)が参考にしてきたというのも「ゴリゴリのテスト誌だった頃の『暮しの手帖』」。

 現在通販の会員は約120万人。矢島さんは「費用や時間はかかるが、ウソのないテストをすることで読者の共感を得てきた」と胸を張る。

 当の「暮しの手帖」は、53年間続いた商品テストを2007年にやめた。製品が頻繁にモデルチェンジし、十分なテストができないこと、そもそも現在の社屋ではテストできる設備がないことが理由だ。しかし、花森が敷いた道は、ほかにもある。

 読者からの書簡などで構成された68年夏の特集を書籍化した『戦争中の暮しの記録』。戦争を繰り返すまいと、「ペンの力で『あたりまえの暮らし』を守る」と誓った花森の神髄ともいえる一冊だ。同誌は今、「戦中・戦後の暮しの記録」の出版を企画し、再び原稿を募集している。

 創刊70周年を控え、澤田康彦編集長(59)は言う。

 「一人一人の暮らしが一番大事という思いは変わらない。きな臭いことが起きている今こそ、最後の戦争世代の言葉を伝達していきたい」

 (文・岩本美帆 写真・金川雄策)

◆今回の道

 花森安治が大橋鎮子(しずこ)(1920~2013)と一緒に、現在の東京都中央区銀座8丁目に「衣裳(いしょう)研究所」をつくったのは1946年。2年後、「美しい暮しの手帖」を創刊した。54年に現誌名へ変更、前年には港区東麻布3丁目に「暮しの手帖研究室」を開設。「商品テスト」の多くはここで行われた。同誌は100号ごとに第1世紀、第2世紀と区分する。

 花森は「商品テスト」だけでなく、多くの名企画を残した。「ある日本人の暮し」は、懸命に生きる市井の人々の生活に迫ったルポルタージュ。65年第1世紀81号の「路地裏の保育所」では、公立保育所と非認可保育所の格差を描き、現代に続く問題を提起している。

 戦時中は大政翼賛会宣伝部で国威発揚のための宣伝に携わっていた花森。悔恨の念からか、自身について多くは語らなかったものの、70年の第2世紀8号「見よぼくら一せん五厘(いっせんごりん)の旗」にあるように、徹底して庶民の側に立ち、反戦の姿勢を貫いた(写真は、現在の暮しの手帖社顧問室に飾られた花森愛用の万年カレンダーと時計)。

◆ぶらり

 「暮しの手帖研究室」があった麻布の街には、当時を知る店も少しだが残っている。麻布十番商店街の金物屋「川口商店」は、工作好きの花森が通った店。店主の川口祝弘(ときひろ)さん(75)は研究室に呼ばれ、「十字ドライバーの選び方」などを解説したことも。編集部員が録音していたという。

 麻布から10キロ弱。台東区浅草1丁目の手打ちそば「十和田」にも、花森は顔をよく出した。お気に入りのメニューは天ざる。おかみの冨永照子さん(80)=写真=はその働き者ぶりを気に入られ、1973年の第2世紀24号「浅草のおかみさん」の特集に取り上げられた。「花森さんは本当に優しい人。いつも麻布から三輪自転車に乗ってやってきたよ」

◆読む

 酒井寛『花森安治の仕事』(暮しの手帖社)は、1987~88年の朝日新聞家庭面の連載に大幅加筆しまとめたもので、花森の仕事ぶりを追う。花森の生誕100年を記念し2011年に復刊した。

 津野海太郎『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』(新潮文庫)は、花森の生い立ちからひもとき、人物像や思想に迫る。

 「暮しの手帖」の最新刊は第4世紀88号=写真。25日発売。

◆見る

 「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」展は全国を巡回している。21日までは愛知県の「碧南市藤井達吉現代美術館」(電話0566・48・6602)。その後は6月16日~7月30日、富山県の「高岡市美術館」(電話0766・20・1177)、9月2日~10月15日、盛岡市の「岩手県立美術館」(電話019・658・1711)と続く(写真は、いずれも展示物の花森愛用の品)。

◆読者へのおみやげ

 「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」展の図録(全332ページ)を4人に。住所・氏名・年齢・「20日」を明記し、〒119・0378 晴海郵便局留め、朝日新聞be「みち」係へ。25日の消印まで有効です。

◆◆「暮しの手帖」再び戦争記録集 庶民の日常や苦しみ、投稿募集

朝日新聞17.08.09

 戦時下の庶民がどう暮らし、何を食べ、何に苦しんだか。およそ半世紀前、「暮(くら)しの手帖(てちょう)」編集部が全国から寄せられた投書を編んだ単行本『戦争中の暮しの記録』が売れている。ロングセラーに加え、同社は新たな『記録』を出そうと今年、あの時代の投稿を再び募り始めた。

 東京・新宿の紀伊国屋書店。雑誌売り場では、「暮しの手帖」の最新刊と『戦争中の暮しの記録』を並べて売る。歴史コーナーに置いていたが、販売急増を受け昨年末に売り場を拡充。暮しの手帖社によると、従来は年1千部ペースだったが、この1年で4万部を増刷、累計20万部に達した。

 『記録』にあるのは、名も無き庶民の姿だ。亡き夫の棺おけを生魚の空き箱で作ったこと。「(配給が)月に鰯(いわし)が五尾や、二日に茄子(なす)一個では、働けない」という嘆き。空腹のあまり、弟と手洗いに隠れてお手玉の中の大豆をなめるように食べた苦い思い出――。

 昨年、NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」にこの本が登場。戦時下の日常を描いてヒットしたアニメ映画「この世界の片隅に」で参考資料とされたことも話題になり、若い世代の購入が増えたという。

 同書は「暮しの手帖」の創刊から30年間編集長を務めた花森安治(1911~78)の発案だった。「商品テスト」企画などで知られた名物編集長だが、戦中の国威発揚の宣伝に関わったことへの後悔があった。戦後20年が過ぎた頃、若手社員に戦争体験が伝わっていないことに気づき、68年8月の号をまるごと「戦争中の暮しの記録」の特集でまとめた。集まった1736の投稿を全編集部員で読み、139編を採用した。

 当時の編集部員、河津一哉さん(86)は「素人のたどたどしい文章。でも心を打たれた」。特集の号は90万部がたちまち売り切れた。「好景気で浮かれる自分たちへの疑問があったのかも」と振り返る。翌年8月15日、単行本化された。

◆きな臭い時代、「最後の機会」

 「暮しの手帖」は来年、創刊70周年。一貫して訴えてきた「戦争反対」は同社の出版理念だ。澤田康彦編集長(59)は「僕らは戦争を知らない。だからこそ、当時を知る人の話を伝えていくのが責務だ」と話す。

 現在、投稿を募っている『戦中・戦後の暮しの記録』の出版は、節目の年だからというだけではない。

 「いま、時代の空気がとてもきな臭い。当時の生活のエピソードを積み重ねることで、戦争がどんなものかを伝えたい。体験者は高齢化し、最後の機会。慌ててやっている感覚です」

 今回は戦後混乱期の50年ごろまでを対象とする。澤田さんは、祖母や母から戦後の方がつらかったと聞いた。「終戦で価値観が逆転し、具体的に何が起きていたかを残す必要がある」

 募集開始4カ月で300通を超えた。高齢の読者から「70年経ち、ようやく話せる気持ちになった」との電話があったという。

 16歳の時に東京で終戦を迎えた横浜市の橋本とき代さん(88)は「若い人に戦争は絶対ダメと言いたい」と編集部に手紙を書いた。

 体験の投稿もする予定だが、手が不自由で長文には不安があり、聞き書きを頼むつもりだ。自分のおできにウジがわいたこと、生理用品が手に入らず浴衣を重ねて縫い、洗って何度も使ったこと。口にしにくい話でも、「戦争はここまで困る」ということを伝えたい。母が病で早世し、家事は「暮しの手帖」に教わった。信頼する雑誌だからつらい経験も託せるという。

◆花森、込めた反戦の思い

 戦後30年の1975年8月15日、花森が出演したラジオ番組の音声テープがある。編集部に残る音源をデジタル化する過程で見つかった。雑誌に込めた反戦の思いを語っている。

 「仮に為政者なり指導者なりが(戦争を)しようとしても、暮らしは何よりも優先するんだということを日本中の、世界中の人間が思っていて、逆行するやつをぎろっとにらみつけるような、そういうことになったらやりにくいし、やれないのではないか」

 応募要項は、「暮しの手帖」本誌か、HP(www.kurashi-no-techo.co.jp/70th)で。締め切りは9月末日。

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🔵戦争と絵画=窪島誠一郎など

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🔵SBC無言館・戦没画学生の絵画守る

🔵日曜美術館・無言館=戦没画学生の絵画

https://drive.google.com/file/d/1x7RpEl3hJb2C9OdCs2fgBoYvlEC3EW9Z/view?usp=drivesdk

🔵樹木=無言館訪ねる

https://m.youku.com/video/id_XMzc5ODkxNTUzMg==.html?spm=a2h2a.8293802.0.0&source=http%3A%2F%2Fi.youku.com%2Fu%2FUNDg2NTYzNDE0NA%3D%3D%3Fspm%3Da2h0j.10182321.Subscribe.A

🔷🔷( ひと)窪島誠一郎さん 戦没した画学生たちの画集を出した 朝日新聞2019年3月22日

 ニューギニアに散った男が描いた、家族だんらん。サイパンで命を落とした男が描いた、思い出の風景。そんな、戦争で死した画学生たちの遺作画集「いのちの繪(え)」を今年、出版した。

 長野県上田市にある、戦没画学生の作品を集めた美術館「無言館」。その館主だ。開館から21年、遺族に託された絵は約200点、年4万人が訪れる。

 時の流れとともに絵は劣化している。「記録して後世に伝える責任」を感じての画集である。厳選した100点に、それぞれを解説する物語文を添えた。

 日米開戦の3週間前、東京に生まれた。21歳で開いたスナックが高度成長の波に乗って繁盛、画廊も営んだ。1994年、出征経験のある画家、野見山暁治(ぎょうじ)さんと出会う。戦没画学生の絵の行方が心配だと言われ、作品を求めて全国行脚を始めた。

 妻、妹、故郷。集めた絵には、画学生たちが愛したものが描かれていた。そこには、画家になる夢に向かう青春があった。夢を戦争で絶たれた無念を思うと、言葉を失った。「ボーっと生きてきた自分が、うしろめたかった」

 敗戦から74年。遺族の多くが亡くなったが、今も情報は寄せられ、絵を運んできてくれる人がいる。「白木の箱を抱きしめた悲しみを消してはなりません。みなさんも語り部になって下さいませんか」

 (文・写真 中島隆)

     *

 くぼしませいいちろう(77歳)

★★窪島誠一郎さん、無言館を語る21m

★ドキュメンタリー映画『二十歳の無言館』予告編4m

★無言館5m

https://m.youtube.com/watch?v=Ltr_QDjSYYo

★無言館と父の絵5m

★戦没画学生の絵画展12m

★戦地からの絵葉書展5m

「無言館」を残したい 79歳館主、私財投じても「あと6年」 長野・上田、戦没画学生の作品展示

2020124日朝日新聞

立命館大学国際平和ミュージアム内にある無言館の分館。ミュージアム名誉館長の安斎育郎さんは無言館の財団理事も務める=京都市北区

 戦争で亡くなった美術学生の絵画などを集めた美術館「無言館」(長野県上田市)が、作品や遺品を次世代にどう引き継いでいくかの模索をしている。遺族の多くは世を去り、作家で館主の窪島誠一郎さんは79歳になった。根強いファンがいるとはいえ、来館者数は年々減り、今年は新型コロナウイルスの影響で激減。資金面での苦境が続く。そんな中、作品をデータベース化する構想も始まった。

 10月下旬、色づいた里山の中に立つ無言館に着くと、平日にもかかわらず120人あまりが訪れていた。だが、窪島さんは「冬は一人も来ない日もある。維持費などを考えると、一年中開館するべきかどうか迷っている」と打ち明けた。

 無言館に展示されている画学生らの絵は、画家の卵たちの未熟な作品とも言える。しかし、遺族が語った学生の生い立ちや、戦地から恋人や家族に宛てた手紙などとともに見ると、日本が国を挙げて戦争へと突き進んでいた時代に、夢中で絵を描いていた若者たちの姿が浮かび上がる。

 「無言館にはファンが多い。それは窪島さんと分かちがたく結びついているから」。そう話すのは無言館の財団の理事で、分館を持つ立命館大学国際平和ミュージアム(京都市北区)の名誉館長、安斎育郎さん(80)だ。

 窪島さんは、戦後の混乱の中で養父母に育てられた。作家の故・水上勉が実の父親だと知ったのは、35歳のときだ。水上との再会で養父母をないがしろにしてしまったとの思いや、高度経済成長の波に乗りスナック経営で金もうけ一筋に生きたうしろめたさ。「画学生の遺族を回り、感謝されることで、そんな悔恨が一つずつ消えるように感じてきた」。窪島さんは、全国の講演先や著作でも、そう赤裸々に語ってきた。

 自らの「戦後処理」という私的な感情と結びついた美術館。その物語が多くの人を引きつける。

     *

 しかし、戦後75年が経ち、戦中や戦後の混乱期の記憶は薄れつつある。入館者数は、ピーク時には年間約12万人を記録したが、昨年は約2万8千人。今年は新型コロナの感染拡大もあり、11月末までで昨年の約半分だ。絵の修復や施設の維持管理にも費用がかさむ。

 開館時に220人以上が存命だった学生の遺族は、いまや6人。窪島さんもこの数年、病気を患い、無言館の行く末は重い課題となってのしかかる。

 無言館は一般財団法人になっており、収益を支えるのは主に寄付と1人1千円の入館料だ。昨年には、窪島さんが私的に収集した絵画などのコレクションを長野県に約2億円で売却することで当面の資金を確保した。ただ、運営は苦しく、「入館者数が回復しなければ、あと6年ほどで運転資金が底をつく」と窪島さんは明かす。

 公的な資金援助の話もあったが、あえて受けてこなかった。「国に命を奪われた画学生の美術館を、国のお金で運営するわけにはいかない。市井の人がお金を出してくれることに意味があると思ってきたんです」

 しかし、安斎さんは「無言館の社会的な存在意義は大きい。戦争の記憶を残す責務を第一に考えるべきだ」との考えだ。

     *

 将来が見通せないなか、次の世代が少しずつ動き始めている。昨年8月、東京・神田の出版社「皓星(こうせい)社」社長の晴山生菜さん(33)が、絵や遺品のデータベース化を持ちかけた。

 昨春、初めて無言館を訪れた晴山さんは「ぼろぼろになった絵を見て、作品や遺品を写真でデータベース化し、どこからでも見られるようにしたらどうかと考えた」と話す。窪島さんの長男でIT系の会社を経営する剣璽(けんじ)さん(46)も、作品や作者に関する基本情報をデータベースとして整理しようと、システムの構築に着手し始めた。

 窪島さんがこだわるのは、作者の学生に関する正確な情報を残すことだ。どのような状況で絵が描かれ、学生たちはどのように死んでいったのか。それは戦争の記憶が薄れゆくとき、無言館が「戦争で美しく散った学生たちの美談」になることへの警戒心からでもある。(宮地ゆう)

 ◆キーワード

 <無言館> 1997年5月、長野県上田市に開館。画廊を経営していた館主の窪島誠一郎さんが、画家の野見山暁治さんから「多くの有望な美術学生が戦争で亡くなった」と聞き、2人で遺族を回って作品を集めた。現在も作品や遺品が持ち込まれており、2008年には近くに第2展示館を開館。現在、約130人の作品や遺品約600点を展示・保管している。

◆◆絵を描く未来、奪った戦争 学生の遺作語る、異論封じた時代

18.01.08朝日新聞(改憲の足音:1)

 戦後日本の針路だった憲法9条の改正が、現実味を帯びて語られ始めた。私たちはどこへ向かおうとしているのか。「絵を描き続けたい」。そんな思いを胸に抱きながら、命を落とした画学生の絵を通じて考えたい。

 (編集委員・豊秀一)

(中村萬平さんが妻をモデルにした作品「霜子」=無言館提供)

(萬平さん(前列中央)が出征する前に家族で撮った写真。後列右から4人目が妻の霜子さん。おなかの中には暁介さんがいた=暁介さん提供)

 長野県上田市郊外の丘の上に、戦没画学生たちの遺作を集めた美術館「無言館」がある。中へ入るとすぐ左手に、裸婦の油彩画が目に入る。右ひざを立て、裸の胸を抱えている。

 「霜子(しもこ)」

 絵を描いたのは中村萬平(まんぺい)さん。東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業後、学校でモデルをしていた霜子さんと結婚した。1942年2月に陸軍に入り、43年8月に内モンゴルの野戦病院で病死した。26歳だった。この絵は出征前の萬平さんが妻を描いた作品だ。

(中村暁介さん)

 「死を覚悟し、戦争に行く前に父が描いたのは、母という身近で最も大切な存在でした」。一人息子の中村暁介(ぎょうすけ)さん(75)=浜松市=は言う。

 暁介さんは両親を知らない。父が陸軍へ行った直後に、母は暁介さんを産んで体調が悪化。1カ月もしないうちに亡くなった。萬平さんが妻の死を悼んだ手紙が残る。

 《三月三日の朝四時との事でしたが、私もその朝、小便におきて、いつにない大きな月が私のこころをひきつけました。しばらくながめていましたが、あれが霜子だったのですね。霜子は私の事を太陽にたとえて歌をつくったり、尊敬もしてくれました。それで自分が月になって私に別れに来ました》

 母に続いて父を亡くし、45年末に祖父も病死。祖母が駄菓子屋などを営みながら、暁介さんを育てた。「あんなに立派で優秀な子はいなかった」が口癖。モデルの母と父との結婚に反対だった祖母は、母のことは語らなかった。

    *

 戦後も30年がたとうとしていたころ。押し入れの古い包みから油絵が出てきた。遺作「霜子」だ。その数年前に亡くなった祖母がしまっていた。「最初はだれを描いているかわからなかったが、後に母だと知った」と暁介さんは振り返る。

 無言館が開設されたのは97年5月。それから20年、「霜子」は、訪れた100万を超える人たちを見つめてきた。

 「彼らが絵を描いた時代があり、戦争が表現者である彼らの尊厳を奪った。このことを私たちは忘れてはなりません」。館主の窪島誠一郎さん(76)は、社会の空気の変化にそんな思いを強くしている。

(窪島誠一郎さん)

 3年かけて画学生らの遺族を訪ね、遺作や遺品を集め、無言館を建設したのは50代の頃。協力に応じてくれた遺族の多くがその後、この世を去った。遺族を集めて毎年6月に行ってきた「無言忌」も、昨年の20回目で一区切りとした。

 窪島さんは自身を「敗戦の対価としての戦後の高度成長を食べて生きた『ノホホン組』」という。この国は戦争の犠牲のうえに日本国憲法を手にし、憲法9条を掲げ、まがりなりにも平和国家の道を歩んできた。その先行きが危うい。

 「310万人の戦没者を出したあの戦争と、だれ一人無関係ではない。多くの犠牲とひきかえに戦後耕してきた歴史を失ってよいのか、その意味を考えてほしい」と窪島さんは訴える。

    *

(野見山暁治さん)

 無言館設立のきっかけは、東京芸術大名誉教授で画家の野見山暁治(ぎょうじ)さん(97)との出会いだった。野見山さんは70年代、遺族を訪ね歩き、「祈りの画集 戦没画学生の記録」(日本放送出版協会)を出版。「自分の何倍もの才能ある仲間が、たくさん戦死してしまった」。その言葉が窪島さんの心を揺さぶった。

 「あの狂気の時代をかいくぐった人間として、ああいう時代が待ち伏せている、いつかあれにやられるという不安が抜けないできた」。野見山さんは、そう語る。旧満州に派遣され、肺の病気で生死をさまよって内地に送還され、福岡の療養所で敗戦を迎えた。先輩だった萬平さんを慕い、「よく後にくっついて飲んでいた」という。

 「下手だと感じていた画学生の絵も最近、良く見えるようになった。死ぬまでの執行猶予を与えられ、ひたむきに生き、絵を描いた時代が伝わってくる。大きな流れにのみ込まれ、異論が封じ込まれ、社会が一気に変わってしまう。それは過去の話ではない」

 開館以来、無言忌に参加してきた暁介さん。昨年、発言を求められてこう語った。「希望してきた方向と時代がずれてきた。一人ひとりの戦没画学生の気持ちはわからない。しかし、若者には絵を見て、感じて欲しい。彼らがどんな思いで絵を描いたか」

 ◇安倍晋三首相は昨年5月、憲法9条への自衛隊明記などを掲げ、五輪が開催される2020年の改正憲法施行のメッセージを出した。自民党は今、今年中の国会による憲法改正案の発議と、その先の国民投票をめざす。改正案を認めるかは、主権者である私たち一人ひとりの判断だ。戦争による犠牲と9条、自衛隊の役割、改憲派の真の狙い……。議論が本格化する前に、足元を見つめたい。

🔷🔷闇に刻む光=アジアの木版画運動の歴史 赤旗日曜版19.03.03

🔷🔷戦前の生活綴り方運動と想画運動 赤旗19.02.04

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🔵柳瀬正夢・まつやまふみお=戦前のプロレタリア美術運動

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◆柳瀬正夢とグロッス

ゲオルゲ・グロッスと柳瀬正夢の出会いがもたらしたもの

◆ゲオルゲ・グロッス : 無産階級の画家 柳瀬正夢 編著 (鉄塔書院, 1929)

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1137436

◆漫画学校 

松山文雄 (大雅堂, 1950) 

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1169599

◆柳瀬正夢の人と作品

(民青新聞99.2.22

0012前衛・山口=柳瀬生誕100.pdf

◆柳瀬正夢

やなせまさむ

19001945

(小学館百科全書)

画家、詩人。松山生まれ。本名は正六(まさむ)。小学校を終え、1914年(大正3)に上京、日本美術院研究所で学ぶ。『種蒔(ま)く人』『文芸戦線』に参加し、プロレタリア芸術運動の展開とともに活躍した。活動は幅広く、彫刻を発表したり、23年に村山知義(ともよし)らと前衛的芸術集団「マヴォの会」を結成、前衛的な意匠や詩を書いたり、『無産者新聞』(1925~29)で鋭い政治風刺漫画の筆を振るったりした。32年(昭和7)検挙され、入獄。東京空襲で死去。[鳥居明久]

『『柳瀬正夢画集』(1930・叢文閣) ▽『柳瀬正夢デッサン集』(1977・岩崎美術社)』

🔵まつやまふみお

◆まつやまふみおの風刺力

赤旗18.06.15

◆◆1931年の反戦漫画復刻=まつやまふみお

赤旗18.11.09

◆まつやまふみお=「ハンセンヱホン 誰のために」

赤旗18.08.26. きょうの潮流

 巨大なクモが国民をからめ捕る「国家総動員演習」。警官が労働者の目と口をふさぎ、手足にしがみつく「××(戦争)に反対する運動・組織の弾圧・破壊」。政府の本質を銃剣と一体になった男の姿に表した「××(銃剣)をもって」1931年に発禁覚悟で出版された「絵本」が復刻されました。「ハンセンヱホン 誰のために」。戦前からプロレタリア美術運動に参加し、戦後も本紙に政治漫画を描き続けた、まつやまふみおが20代で著した「反戦絵本」です発刊の10日後には日本軍が「満州事変」を起こし、中国への本格的な侵略戦争が始まります。切迫する動きのなかで、まつやまは労働者や農民にひろく読んでもらおうと、風刺画に告発文や資料を付けて警鐘を鳴らしました復刻本と新たにつくった注釈本は「まつやまふみお研究会」が製作しました。まつやまの地元紙、信濃毎日新聞には息子の晋作さんが、戦前に反戦を訴えた人がいたことを若い人に知ってほしかったと語っていますきのう自民党の総裁選に出馬表明した安倍首相。日本は大きな歴史の転換点、新たな国造りの先頭に立つ決意だと口にしました。そこには国を破滅に導いた過去の反省から学ぶ姿勢はまったくありませんまつやまの視線は虐げられた国民に向けられ、権力の正体を暴き痛烈に批判しました。絵本のあとがきには「職場の中からの要求が、我々の仕事と常にむすびついていなくてはならぬ」と。国民の負託にこたえる政治の実現を絵に込めて。

◆全文=国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1439803

(表紙の数字は国会図書館)

◆松山文雄「ハンセンエホン誰のために」

赤旗18.10.30

◆風刺漫画の歴史・まつやまふみお

20141026日赤旗=きょうの潮流

 群をなして飛ぶ黒々とした爆撃機。その爆音の下でうずくまり、耳をふさぐ小さな女の子―。風刺画の達人と呼ばれた漫画家、まつやま・ふみお(松山文雄)が1968年に描いた「わたしはひばりがききたい」です当時、日本の空からベトナムに出撃した米軍機を告発しました。戦前、プロレタリア美術運動に参加したまつやまは、何度も投獄されながら反戦を主張した反骨の人でした。戦後は35年間にわたり、本紙に政治漫画を連載しています権力者や社会悪を批判する漫画家の道を歩んだことについて、まつやまは「はげしい時代の歴史の熱気が生んだもの」と振り返っています。たしかに日本の風刺画は、近代国家へと突き進んだ激動のころから盛んになりました1862年にイギリス人によって風刺漫画雑誌が創刊。明治に入ると『団団珍聞(まるまるちんぶん)』や宮武外骨(みやたけがいこつ)の『滑稽新聞』が人気を博し、その後、新聞にも風刺漫画はひろがっていきます漫画史研究家の湯本豪一(こういち)さんは自著で、漫画は物事の本質を表現したものだと語っています。「ゆえに、たった1枚の漫画が、貴重な証言者として時代を雄弁に物語るのである」と今回の赤旗まつりでは、そのまつやまと、同じく本紙に政治漫画を描きつづけた宮下森の遺作をアート展で特別展示します。冒頭に紹介した、まつやまの「ひばり」や「落日」と題した石版画も販売されます。権力の醜さを、怒りとともに笑い、抑圧された人間の解放や平和をうたいあげた数々の作品がよみがえります。

◆◆プロレタリア美術家・鈴木賢二

赤旗18.03.03

◆戦中・戦後、社会と向き合い@栃木・鈴木賢二

朝日新聞18.03.03

 版画や漫画などで生涯、美術を通じた社会運動に身を投じた鈴木賢二(1906~87)。その足跡を約350点の作品と資料でたどるのが栃木県立美術館(宇都宮市)の「没後30年 鈴木賢二展 昭和の人と時代を描く」(21日まで、月曜休み)だ。

 現在の栃木市の裕福な家に生まれた鈴木は、東京美術学校(現・東京芸術大)入学後にプロレタリア美術運動に没頭。雑誌に挿絵や漫画を寄せ、日本プロレタリア美術家同盟書記長に就くなど活発に動いた。戦後は仲間と版画運動を展開。反戦や労働問題、農村などを主題に、60年前後には力感あふれる独自の表現を獲得した。農村の女性を描いた「女」「貌(かお)」のキュービスム的な造形は圧巻だ。町育ちの鈴木が抱いた農村や土への憧れも感じさせる。

 一方、展示は「戦時下の鈴木」も見せる。30年代に弾圧から逃れるため帰郷。地元名士の彫像を手がけ、紀元2600年を記念した高さ約37メートルの八紘之基柱(あめつちのもとはしら)(宮崎市)の制作に参加した。時流に乗った活動は矛盾しても見えるが「社会とのつながりや、日々を懸命に生きる人のための活動を模索し、結果的に国策に沿うことになった」と木村理恵子・同館学芸員はみる。戦後の凝った作りの豆本や同人誌からは、鈴木の趣味人的な顔も垣間見える。

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🔵四国五郎=反戦・平和を詩と絵で訴える

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🔵米大学が四國五郎を紹介(赤旗20.11/27)

🔷🔷抑留中も描き続けた反戦 四国五郎さんの画文集出版 朝日新聞2018128

広島の被爆を描き続けた四国五郎

被爆死した弟・直登さんを描いた絵(左)。その下には「やけ土にのび出たあおい芽よ どんどんのばせ ものいわぬ黒い土よ かえらない人々よ 弟よ 地上の人々のこころに 私のこころに 喰(く)い込め ふかく喰い込め!」と書かれている=「わが青春の記録」から

ヒロシマ平和カレンダーを制作した四国五郎さん

シベリア抑留中、パンを分配する場面。四国さんは「パンから目をはなせば いつ横の者の手がそのパンのすみを カキとるかも知れないのである」と書いている=「わが青春の記録」から

シベリア抑留中の生活を克明に記録した「豆日記」

 原爆投下直後の広島を舞台にした絵本「おこりじぞう」の挿絵などで知られ、反戦・平和運動を進めた画家・詩人の四国五郎さん(1924~2014)の画文集「わが青春の記録」が出版された。出征、シベリアでの抑留、弟の被爆死――。波乱の半生を四国さん自ら刻んだ魂の記録だ。

 四国さんは20歳で徴兵され、旧満州(中国東北部)で関東軍の兵士となった。旧ソ連軍と戦い、地雷を持って戦車の下に飛び込む要員として自爆の順番まで決まっていたが、直前に終戦。その後はシベリアで3年以上、抑留生活を強いられた。極寒、強制労働、栄養失調といった過酷な環境の中でも、クレジットカード大の小さな手帳を作り、トイレの中などで小さな文字や絵を書き付けた。その「豆日記」を軍靴の奥に忍ばせて収容所から命がけで持ち出した。当時、収容所の情報を持ち出すことは旧ソ連からスパイ行為とみなされ、厳罰の対象だった。

 1948年11月に帰国すると、「豆日記」を頼りに、記憶が遠のくのを恐れるように、生い立ちから戦争で体験したことを大急ぎで絵や文章にしていった。画文集は約1千ページ。50年に完成した。

 70年近い時を経て、大手広告代理店を勤め上げた長男の光(ひかる)さん(61)=大阪府=が出版を決意した。「シベリア抑留の研究者から、貴重な資料なので公開すべきだとアドバイスをいただいた。父の死後、遺族が囲い込んでいてはいけないのではないかという気持ちも強まった」

 画文集に掲載された絵の1枚では、飢餓状態に追いやられた抑留者たちが、パンを配る人の手元を鋭く見つめる様子を描く。帰郷した広島で被爆死した弟の直登さんを悼む詩も載せた。豆日記や直登さんの日記、四国さんが原爆詩人・峠三吉と作った「辻詩(つじし)」なども収録する。

 特に注目されるのが、シベリア抑留中に四国さんが重要な役割を果たした「民主運動」の記録だ。敗戦後、旧ソ連の捕虜になってからも理不尽な日本軍の上下関係が残り、抑圧された下級兵らが民主的な体制への転換を求めた運動で、当事者による記録は少ない。

 「世の中には本当に悪いやつがおる。それは戦争を起こすやつだ。戦争は災害じゃない。必ず人間が起こすものだ。つまらん事で怒るんじゃなくて、そういう戦争を起こすやつに対して、本気で怒れ」

 光さんが子どもの頃、四国さんから何度も聞かされた言葉だ。「父にとって戦争とはこの世の地獄のような体験であり、平和とは多くの犠牲を払ってようやく獲得したものだった。戦争への燃えたぎるような怒りや平和への強い決意を画文集から読み取ってほしい」と光さんは話す。

 三人社(京都市左京区)刊。全2巻で本体4万8千円(分売不可)。問い合わせは三人社(075・762・0368)。(大村治郎)

赤旗19.06.24

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🔵新海(しんかい)覚雄(かくお) の絵画

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砂川闘争

http://www.city.fuchu.tokyo.jp/smph/art/jyosetu/ichiran/Josetsutentokushushinkai.html

府中市平和都市宣言30周年記念事業展示会=たたかうヒューマニズム―平和と労働への賛歌の呼びかけから

2016716日から911日まで)

東京・多摩地域で社会運動と結びついて熱く展開された美術の歴史を発掘する企画として、新海(しんかい)覚雄(かくお)1904-68)の画業を紹介します。

 彫刻家・新海(しんかい)竹太郎(たけたろう)の長男として東京・本郷に生まれ、川端画学校で油彩画を学んだ新海覚雄は、太平洋画会、二科会、一水会などで活躍、同時代の風俗や労働者の姿を描き、社会への眼差しを育みました。終戦を迎え美術界の民主化を掲げる日本美術会に参加、戦争に抵抗したドイツの美術家ケーテ・コルヴィッツに影響を受け、ヒューマニズムの立場で現実に生きる人々を描き、戦後のリアリズム美術運動を主導しました。

 1950年代、社会問題に取材し、人々のたたかいを伝えた新海らの表現を、ルポルタージュ絵画と呼びます。1955年、砂川町(現在の立川市北部)で起きた米軍基地拡張に反対する住民運動を記録した仕事は、ダイナミックな群像表現の起点となりました。盛り上がる世論を背景に基地返還へ至った砂川闘争は、農民、労働者、学生とともに、多くの美術家も支援に参加した文化運動でもあったのです。

 新海は、日本労働組合総評議会(総評)傘下の国鉄労働組合など、全国的に高揚する労働運動を、絵筆をとって励まし、当時の国民文化運動を代表する画家となります。1950年代後半からは、宣伝ポスターと並行して、原水爆を告発するリトグラフにも取り組み、モンタージュ技法をとり入れるなどモダニズムの受容に努めました。日本では数少ない群像の大作に挑戦しましたが、志も道半ばで倒れ、府中の多磨霊園に永眠しました。

 戦後社会派を代表する画家として、東京・多摩の平和・労働運動に足跡を残した新海覚雄の知られざる軌跡を、油彩・水彩・素描・版画・ポスターなど約70点でたどります。

《構内デモ》1955年、国鉄労働組合蔵

《砂川闘争行動隊長 青木市五郎》1955-56年、立川市歴史民俗資料館蔵

《戦争と失業のない日本を!》1960

《ノーモア・ヒロシマ》1961年、法政大学大原社会問題研究所蔵

《真の独立を闘いとろう》1964/68年、板橋区立美術館寄託

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🔵いわさきちひろ=絵本で子どもを描く

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ベトナムの母子
ベトナムの母子

★★「対談 上野千鶴子×松本由理子 ~いわさきちひろ 50代の挑戦~」75mk

https://m.youtube.com/watch?v=mCo5Cy-PrLo

★いわさきちひろ画伯 / 子供の絵 & music by流花「Seeds of Happiness4m

★いわさきちひろ絵本原作3m

★いわさきちひろ絵本3m

🔵いわさきちひろ14m

🔵いわさきちひろ12m

🔷日曜美術館・いわさきちひろ

https://drive.google.com/file/d/15JISq5UCEhqamu_1jqj4VY7moWXgVYll/view?usp=drivesdk

🔹🔹ドキュメント=いわさきちひろ27歳の旅立ちhttps://drive.google.com/file/d/14Q3IvEJ2eRQMzbYZxgKjiGD5c-1ouyhK/view?usp=drivesdk

◆ちひろ美術館

いわさきちひろについて

◆いわさきちひろ作品普及会

http://www.chihiro-fukyu.co.jp/top.html

◆いわさきちひろのメッセージ

0410治安維持法と現代・平山知子=いわさきちひろ没30.pdf

060909H対談-ちひろと純情きらり㊤㊥㊦.pdf

◆いわさきちひろとベトナムの5姉弟

◆◆ちひろが描いた戦争と平和(講演会)

赤旗18.08.06

◆◆松本猛=いわさきちひろ生誕100年、「窓ガラスに絵をかく少女」

赤旗18.09.28

◆◆子どもの瞳に、平和への思い 戦争体験、絵の根幹に いわさきちひろ、生誕100年

朝日新聞18.08.21

(「戦火のなかの少女」(1972年))

(「小鳥とあかちゃん」(1971年))

 愛らしい子どもの絵を描いた絵本画家いわさきちひろ(1918~74)が今年、生誕100年を迎えた。戦争体験から絵に込められた平和への思いは、今も多くの人の心に響き、各地で画業を紹介する展覧会が相次いで開かれている。

 東京駅直結の東京ステーションギャラリーで7月から始まった回顧展では、約200点の作品が展示され、すでに約3万3500人が来場している。このお盆には特ににぎわいをみせ、長年のファンだった高齢の人や家族連れらが訪れているという。

 絵の特徴は、眉毛がなく、つぶらな黒い瞳をした子ども。ちひろ美術館・東京の企画展に11月3日から登場する写真家の長島有里枝さんは「子どもを見て可愛いと思う、大切に思うということが平和につながると本当に信じていたのだと思う」。

 ちひろの長男で美術評論家の松本猛さんは「何の罪もない子どもを犠牲にしてはいけないという強い思いがあった。愛され続けているのは、今もそう信じる人たちがいるからこそだろう」と話した。

 ちひろは生前、こう語っている。「青春時代のあの若々しい希望を何もかもうち砕いてしまう戦争体験があったことが、私の生き方を大きく方向づけているんだと思います。平和で、豊かで、美しく、可愛いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます」

 女学校に入った12歳で満州事変が起こり、終戦直前の大空襲では家を焼け出され、命からがら逃げ惑う体験をした。

 戦後、平和運動に注力。活動の中で洋画家丸木俊(とし)(1912~2000)にも出会った。丸木は被爆の惨状を伝える絵本『ひろしまのピカ』で知られる。

 ちひろは出産後、30代後半から挿絵や絵本に本格的に取り組み、肝がんで55歳で亡くなるまで約9500点以上の作品を残した。子どもや花、チョウなどのモチーフを好み、『窓ぎわのトットちゃん』(黒柳徹子著)の挿絵も手がけた。紙に絵の具をにじませる独特の手法で、草薙奈津子・平塚市美術館長(神奈川県)は「誰にでも取っつきやすい美しさがある」と評する。

 戦争そのものを主題にした絵本も3冊残した。生涯の最後に完成させた絵本『戦火のなかの子どもたち』(73年、岩崎書店)は、戦時下のベトナムの子どもたちと自身の戦争体験を描き、累計部数は22万8千部。鉛筆の線はラフで、モノトーンに近い色使いに抑え、紙がはがれるほどすりつけた消しゴムの跡もある。横を見る子どもの顔には普段は描かなかった白目があり、耐え忍び生きる子どもの心情が迫ってくる。

 被爆者の手記を基にした『わたしがちいさかったときに』(67年、童心社)も累計29万7千部に達した。

 終戦から73年、東アジア情勢は緊迫し、憲法改正も政治日程に登場しつつある。松本さんは「ちひろは戦後の平和運動や民主化運動の機運が高まる中で画家として歩み始め、憲法に込められた平和主義の精神が、生き方の根幹を貫いた。絵はその精神を今もなお伝えている」と話す。(森本未紀)

◆各地で展覧会

 東京都千代田区の東京ステーションギャラリーの回顧展「生誕100年 いわさきちひろ、絵描きです。」は9月9日まで。9月3日を除く月曜休館。京都、福岡にも巡回予定。

 東京都練馬区と長野県松川村にある「ちひろ美術館」では、ちひろの作品と現代作家がコラボレーションする「Life展」を年間企画として開催中。

◆◆いわさきちひろ生誕100年展示=ちひろの成長の跡

赤旗日曜版18.07.29

◆◆いわさきちひろ生誕100

赤旗17.12.06

◆◆いわさきちひろ生誕100

赤旗日曜版17.12.24

◆◆いわさきちひろ生誕100年「着るをたのしむ」展

赤旗18.06.22

◆◆(書評)『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』松本猛〈著〉

20171217日朝日新聞

『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』

賢治の言葉で共産主義に共鳴

 1946年1月、長野県の松本で日本共産党の演説会が行われた。民主主義について語る弁士の演説を、フレアスカートを着てつば広の帽子をかぶった若い女性が熱心に聴いていた。彼女はその後に開かれた座談会にも、女性として唯一参加した。のちに共産党に入り、絵本作家になるいわさきちひろであった。

 本書は、ちひろと共産党の代議士となる松本善明の間に生まれた息子、猛が描き出したちひろの評伝である。ちひろが共産党に入ったのは、疎開先の安曇野で触れた宮沢賢治の著作が影響していた。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という賢治の言葉が、共産主義への共鳴につながったというのだ。

 敗戦後、上京した日に泊めてもらった丸木俊との出会いも興味深い。俊もまた夫の位里と共産党に入り、西武池袋線の椎名町に近い「池袋モンパルナス」で絵を描いていた。ちひろが絵本作家として成長していった背景には、俊の一貫した支援があった。ちひろは善明と結婚してから西武新宿線の上井草に終(つい)の住処(すみか)となる家を構えるが、ほぼ同じ頃に俊も池袋線の石神井公園の近くに移住する。

 ところが、ちひろと俊では作風がまるで異なっていた。「原爆の図」を位里とともに描く俊に対して、ちひろは広島を訪れても子どもたちのことが浮かび、原爆資料館に入ることすらできない。だが、戦争を題材にしなかったわけではない。ベトナム戦争に巻き込まれる子どもや母親を多く描いているからだ。

 俊は、1964年に部分的核実験禁止条約の評価をめぐって共産党と立場を異にしたことから、党を除名される。一方、ちひろは善明が選挙に出るさい、党が生活を守ると約束し、ずっと党にとどまった。まるで姉妹のようだといわれた二人の間にいったい何があったのか。著者が触れなかった空白の大きさが、かえって強く印象に残った。

 評・原武史(放送大学教授・政治思想史)

 『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』 松本猛〈著〉 講談社 1944円

 まつもと・たけし 51年生まれ。美術・絵本評論家、作家、横浜美術大客員教授。ちひろ美術館などの館長。

◆書評・『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』 松本猛〈著〉赤旗17.12.24

◆◆いわさきちひろ生誕100

赤旗18.11.14きょうの潮流

 「私、絵と結婚するの」。荒廃のなかで新しい国づくりに多くの人びとが動き始めた東京。そこに、つば広の帽子をかぶった一人の女性が上京しました人間として、絵描きとして自立したい。心の内に燃えるような思いを秘めた、27歳のいわさきちひろです。夫が自殺した最初の結婚、満蒙開拓団の生活や空襲で家を焼かれた戦争体験。忌まわしい過去から決別し、日本共産党員として自分の信じる道を歩もうと彼女の激動の日々と、それを取り巻く若者たちの群像劇を前進座が公演しています。ちひろ生誕100年を記念して。節目の今年は東京・練馬や安曇野にある美術館をはじめ、多彩な催しが各地で開かれてきました子どもが幸せでいることに何よりも喜びを感じ、子どもが不幸になることを許さなかった、ちひろ。生前こんな言葉を残しています。「平和で、豊かで、美しく、可愛(かわい)いものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます」子は社会を映し出す鏡。いまも子どもの貧困や虐待が社会問題となるなか、彼女の絵は没後44年の時間がたっても色あせず、みるものの心をあたたかく包みます。大切なものを守るという覚悟とともに平和の願いをひろめる毎年のカレンダーやヒバクシャ国際署名にも使われている、愛らしい絵。描き続けた子どもの姿はいのちの象徴でした。たとえ絵が歴史になろうとも、絵筆に込めたちひろのゆるぎない思いは、これからも生きていきます。

◆◆松本毅=いわさきちひろ・自然との交感力

赤旗17.12.20

◆◆ちひろ生誕100Life

赤旗17.12.05

◆◆ちひろ美術館40

赤旗17.08連載

【ちひろの子どもの絵】

◆◆きょうの潮流=いわさきちひろ

 世代を超えて愛され続ける画家・いわさきちひろ。2018年に生誕100年を迎えるにあたり、その人生と画業の歩みを紹介する「ちひろの歩み」展が開催中です。(ちひろ美術館・東京で、来年1月31日まで)代表的な作品がずらりと展示され、その生涯を豊富な資料でたどることができます。訪れた人からは「かわいい絵に癒やされ、小さな命を大切にしなければという気持ちになった」などの感想が。今月17日には入館無料の感謝デーが開催されます青春時代を戦争の中で過ごしたちひろ。戦後、命がけで戦争に反対した日本共産党に出会い、入党します。自らの生き方に誇りを持ち「共産党員だからこそ、やさしく美しい絵が描ける」と語っていたそうですベトナム戦争への怒りを込めた絵本『戦火のなかの子どもたち』は、母親や子どもの厳しいまなざしが印象的です。翌年、ちひろはこの世を去ります。その2年後の1976年に、平和と核兵器廃絶の願いを込め、原水爆禁止日本協議会の呼びかけで「ちひろカレンダー」が誕生しました「世界中の子どもみんなに平和と幸せを」と願い続けたちひろ。その絵は「こんなにかわいい子どもたちに悲しい思いをさせないよう、力を合わせましょう」と語りかけているようです憲法改悪の動きが強まり、子どもをめぐる事件も後を絶ちません。今ちひろが生きていたら、どんな絵を描いたことでしょう。作品に託されたメッセージに心を傾け、未来に伝え続けていきたいものです。

◆前進座「ちひろー私、絵と結婚するのー」のちひろ役=有田さん

赤旗18.011.05

◆◆きょうの潮流=いわさきちひろ

16.12.15赤旗

 近所の書店が子ども向けの絵本フェアを始めました。クリスマス前のこの時期、買っていく人も多い。手に取った絵本の向こうに、どんな笑顔が浮かんでいるのでしょうか色とりどり多彩に並ぶ子どもの本。日本でこの分野が活発になったのは、新たな文化や芸術が花開いた大正期だといいます。童画というジャンルが確立し、『赤い鳥』や『コドモノクニ』といった児童雑誌が次々に発刊されました岡本帰一や武井武雄、初山滋。当時の童画家たちの絵を見て育ち、「夢のようないい気持ち」で憧れた少女が、いわさきちひろでした。いま東京のちひろ美術館で、その系譜をたどる展示会が開かれています『赤い鳥』が創刊され、第1次世界大戦の終結をみた1918年のきょう、ちひろは産声をあげました。裕福な家庭に育ち、小さい頃から絵を描くことが大好きだった彼女の人生は、青春期に体験した第2次大戦を境に大きく変わります戦後まもなく、命がけで戦争に反対した日本共産党に入党。のちに衆院議員になる松本善明さんと知り合い、結婚。妻として、母として、党員としての日々を生きながら、あの優しくて淡い透明な子どもの絵を描き続けました「平和で、豊かで、美しく、かわいいものがほんとうに好きで、そういうものをこわしていこうとする力に限りない憤りを感じます」。ちひろが55歳で世を去ってから今年で40年。喜びや幸せを願ってきた絵はいまもなお、たくさんの愛を人びとの胸に語りかけています。

◆◆いわさきちひろ

19181974

(小学館百科全書)

童画家、絵本作家。福井県南条(なんじょう)郡武生(たけふ)町(現越前市)に生まれる。本名松本知弘。東京府立第六高女在学中、岡田三郎助(さぶろうすけ)、その後、中谷泰(なかたにたい)、丸木俊(とし)に師事。確かなデッサン力に裏づけされた滲(にじ)みと余白を生かした淡い色調の子供の絵は、国際的にも評価され、十数か国で絵本が出版されている。1968年(昭和43)、絵を中心に展開する絵本の先駆けとなった『あめのひのおるすばん』を制作。1972年『ことりのくるひ』でボローニャ国際絵本展・グラフィック賞受賞。没後の1977年、いわさきちひろ絵本美術館(現ち

ひろ美術館。東京都練馬区下石神井(しもしゃくじい)4-7-2)が設立された。[松本 猛]

◆◆いわさきちひろの生涯(Wikiから引用)

◆終戦まで

1918年、雪の降る師走の朝にちひろは三姉妹の長女として福井県南条(なんじょう)郡武生(たけふ)町(現越前市)に生まれた。岩崎家は当時としては非常に恵まれた家庭であり、ラジオや蓄音機、オルガンなどのモダンな品々があった。父・正勝はカメラも所有しており、当時の写真が数多く残っている。こども向けの本も多くあったが、それらはちひろの気に入るものではなかった。ある時隣の家で絵雑誌「コドモノクニ」を見かけ、当時人気のあった岡本帰一、武井武雄、初山滋らの絵に強く心を惹かれた。ちひろは幼少から絵を描くのが得意で、小学校の学芸会ではたびたび席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどだった。

ちひろの入学した東京府立第六高等女学校(現在の東京都立三田高等学校)は、生徒の個性を重んじ、試験もなく、成績表も希望者に配布されるのみだったという。ここでもちひろは絵がうまいと評判だった。その一方で運動神経にも優れ、スキーに水泳、登山などをこなした。距離を選択することのできる適応遠足では最長のコースを歩くのが常だった。

女学校二年(14歳)の三学期、母・文江はちひろの絵の才能をみとめ、岡田三郎助の門をたたいた。ちひろはそこでデッサンや油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たした。ちひろは女学校を卒業したのち、岡田の教えていた美術学校に進むことを望んだが、両親の反対にあって第六高女補習科に進んだ。18歳になるとコロンビア洋裁学院に入学し、その一方で小田周洋に師事して藤原行成流の書を習い始めた。ここでもちひろはその才能を発揮し、小田の代理として教えることもあったという。

1939年(20歳)4月、三人姉妹の長女だったちひろは両親の薦めを断り切れずに婿養子を迎えることになった。相手の青年はちひろに好意をもっていたものの、ちひろのほうではどうしても好きになれず形だけの結婚であった。6月にはいやいやながら夫の勤務地である満州・大連に渡ったが、翌年、夫の自殺により帰国することになった。ちひろは二度と結婚するまいと心に決める。帰国したちひろは中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めた。再度習い始めた書の師、小田周洋は絵ではむりでも書であれば自立できると励まされて書家をめざした。

1944年(25歳)には女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡るが、戦況悪化のため同年帰国した。翌年には525日の空襲で東京中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えた。ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感する。終戦の翌日から約一か月間の間にここで書かれた日記『草穂』が現在も残っている。「国破れて山河有り」(杜甫)と記されたスケッチから始まるこの日記には、こうした戦争に対する苦悩に加え、数々のスケッチや自画像、武者小路実篤の小説『幸福者』からの抜粋や、「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られている。

◆善明との出会いと画家活動

1946年(27歳)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、戦前、戦中期から一貫して戦争反対を貫いてきた日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党した。5月には党宣伝部の芸術学校(後の日本美術会付属日本民主主義美術研究所、通称「民美」)で学ぶため、両親に相談することなく上京した。

東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊に師事してデッサンを学んだ。この頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、紙芝居『お母さんの話』(1949年)をきっかけに画家として自立する決心をした。

画家としての多忙な日々を送っていたちひろだが、1949年(30歳)の夏、党支部会議で演説する青年松本善明と出会う。2人は党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、ある時ちひろが言った何気ない言葉から、結婚する決心をした。翌1950121日、レーニンの命日を選び、2人きりのつましい結婚式を挙げた。ちひろは31歳、善明は23歳であった。

結婚にあたって2人が交わした誓約書が残っている。そこには、日本共産党員としての熱い情熱と、お互いの立場、特に画家として生きようとするちひろの立場を尊重しようとする姿勢とが記されている。

1950年、善明はちひろと相談の上で弁護士を目指し、ちひろは絵を描いて生活を支えた。19514月、ちひろは長男・松本猛を出産するが狭い借間で赤ん坊を抱えて画家の仕事を続けることは困難であった。6月、2人はやむを得ず信州松川村に開拓農民として移住していたちひろの両親のもとに猛を預けることにした。ちひろは猛に会いたさに片道10時間近くかけて信州に通った。猛を預けてからも、当然ながら猛に与えるはずの乳は毎日張る。初めのうちは自ら絞って捨てていたが、実際に赤ん坊に与えなければ出なくなってしまうのではないか、猛に会って授乳する時に充分出なくなってしまうのではないか、と懸念したちひろは、当時近所に住んでいた子どもが生まれたばかりの夫婦に頼み、授乳させてもらったという。ちなみに、その乳飲み子は後にタレントとなる三宅裕司だった。

善明は、1951年に司法試験に合格し、19524月に司法修習生となる。ちょうどそのころ、練馬区下石神井の妹・世史子一家の隣に家を建て、ようやく親子そろった生活を送ることができるようになった。善明は19544月に弁護士の仕事を始めて自由法曹団に入り、弁護士として近江絹糸争議、メーデー事件、松川事件等にかかわり、ちひろは夫を背後から支えた。

善明によれば、まだ司法修習生だった1954年、自宅に泥棒が入って私信を盗まれたり、執拗な尾行を受けたり、お手伝いとして住み込みで働いていた若い女性が外出中に誘拐され、ちひろの家族のことを事細かに聞かれたが隙を見て逃げ出したと語る出来事などがあった。一連の出来事は陰湿なスパイ事件であったが、ちひろは沈着冷静に対処していたと回顧している[3][4]

1963年、善明は日本共産党から衆議院議員(東京4区)に立候補し落選したものの、1967年に初当選。ちひろは画家、1児の母、老親の世話、大所帯の主婦としての活動と並行して国会議員の妻として忙しい日を送ることになる。

◆童画家活動

1940年代から50年代にかけてのちひろは油彩画も多く手がけており、仕事は広告ポスターや雑誌、教科書のカットや表紙絵などが主だった。1952年ごろに始まるヒゲタ醤油の広告の絵は、ほとんど制約をつけずちひろに自由に筆をふるわせてくれる貴重な仕事で、1954年には朝日広告準グランプリを受賞。ヒゲタの挿絵はちひろが童画家として著名になってからもおよそ20年間つづいた。1956年、福音館書店の月刊絵本シリーズこどものとも12号で小林純一の詩に挿絵をつけて『ひとりでできるよ』を制作。これが初めての絵本となった。こどものともでは同じく小林の文で『みんなでしようよ』も。

この頃ちひろの絵には少女趣味だ、かわいらしすぎる、もっとリアルな民衆の子どもの姿を描くべきなどの批判があり、ちひろ自身もそのことに悩んでいた。1963年(44歳)、雑誌「子どものしあわせ」の表紙絵を担当することになったことがその後の作品に大きく影響を与える。「子どもを題材にしていればどのように描いてもいい」という依頼に、ちひろはこれまでの迷いを捨て、自分の感性に素直に描いていく決意をした。1962年の作品『子ども』を最後に油彩画をやめ、以降はもっぱら水彩画に専念することにした。1964年、日本共産党の内紛でちひろ夫婦と交流の深かった丸木夫妻が党を除名されたころを境に、丸木俊の影響から抜け出し、独自の画風を追い始める。「子どものしあわせ」はちひろにとって実験の場でもあり、そこで培った技法は絵本などの作品にも多く取り入れられている。当初は2色もしくは3色刷りだったが、1969年にカラー印刷になると、ちひろの代表作となるものがこの雑誌で多く描かれるようになった。この仕事は1974年に55歳で亡くなるまで続けられ、ちひろのライフワークともいえるものであった。

ちひろはハンス・クリスチャン・アンデルセンに深い思い入れをもっており、画家として自立するきっかけとなった紙芝居『お母さんの話』をはじめ、当初から多くの作品を手がけていた。1963年(44歳)6月に世界婦人会議の日本代表団として渡ったソビエト連邦では異国の風景を数多くスケッチし、アンデルセンへの思いを新たにした。さらに1966年(47歳)、アンデルセンの生まれ育ったオーデンセを訪れたいとの思いを募らせていたちひろは、「美術家のヨーロッパ気まま旅行」に母・文江とともに参加し、その念願を果たした。この時ちひろはアンデルセンの生家を訪れ、ヨーロッパ各地で大量のスケッチを残した。二度の海外旅行で得た経験は同年に出版された『絵のない絵本』に生かされた。

1966年、赤羽末吉の誘いでまだ開発の進んでいなかった黒姫高原に土地を購入し山荘を建てて、毎年訪れてはここのアトリエで絵本の制作を行うようになる[7]

当時の日本では、絵本というものは文が主体であり、絵はあくまで従、文章あってのものにすぎないと考えられていた。至光社の武市八十雄は欧米の絵本作家からそうした苦言を受け、ちひろに声をかけた。二人はこうして新しい絵本、「絵で展開する絵本」の制作に取り組んだ。そして1968年『あめのひのおるすばん』が出版されると、それ以降ほぼ毎年のように新しい絵本を制作した。中でも1972年の『ことりのくるひ』はボローニャ国際児童図書展でグラフィック賞を受賞した。

また当時、挿絵画家の絵は美術作品としてほとんど認められず、絵本の原画も美術館での展示などは考えられない時代であった。挿絵画家の著作権は顧みられず、作品は出版社が「買い切り」という形で自由にすることが一般であったが、ちひろは教科書執筆画家連盟、日本児童出版美術家連盟にかかわり自分の絵だけでなく、絵本画家の著作権を守るための活動を積極的に展開した。

ちひろは「子どもの幸せと平和」を願い、原爆やベトナム戦争の中で傷つき死んでいった子どもたちに心を寄せていた。1967年『わたしがちいさかったときに』は稲庭桂子の勧めで、作文集『原爆の子』(岩波書店版 長田新編)と詩集『原子雲の下より』(青木書店版)から抜粋した文にちひろが絵を描いて出版されたもの。1972年、童画ぐるーぷ車の展覧会に「こども」と題した3枚のタブローを出品。これがきっかけとなって制作された、ベトナム戦争の中での子どもたちを描いた1973年の『戦火のなかの子どもたち』がちひろ最後の絵本となった。 1973年秋、肝臓癌が見つかる。197488日、原発性肝臓癌のため死去。

◆没後

ちひろの没後も、ちひろの挿絵は様々な場面で用いられた。そのひとつに1981年の窓ぎわのトットちゃん(黒柳徹子著、講談社)がある。

夫の善明と一人息子の猛はちひろの足跡を残すために、19779月、下石神井の自宅跡地にちひろの個人美術館としていわさきちひろ絵本美術館を開館。1980年には、岩崎書店より『いわさきちひろ作品集』全7巻が出版された。上笙一郎によれば、個人美術館開設と個人全集刊行は「日本の童画家として初めてのこと」であった。 やがて、ちひろ美術館はちひろの作品の収集展示という個人美術館の枠を超え、「絵本の美術の一ジャンルとして正当に評価し、絵本原画の散逸を防いで、後世に残していくこと」に目的をひろげて活動を展開。絵本原画を残す活動に共鳴する作家らの協力もあって、作品の収集が進み下石神井のちひろ美術館は手狭になっていった。19974月、長野県北安曇郡松川村に広い公園を併設した安曇野ちひろ美術館が開館する。

◆高畑監督のちひろへのまなざし

赤旗17.08.09

◆いわさきちひろちひろとベトナム戦争

(ちひろ美術館解説より)

1967年、反戦運動が広がるなか、ちひろは被爆した子どもたちの詩と作文に絵をつけた、絵本『わたしがちいさかったときに』を描きました。ちひろにとって、初めて戦争をテーマにしたこの絵本には、戦争を知らない若い世代に、戦争の悲惨さを知ってほしいという思いがこめられています。

1970年、ベトナムの子どもを支援する会が呼びかけた反戦野外展には、「ベトナムのこども 私たちの日本のこども 世界中のこどもみんなに平和と しあわせを」という言葉を添えた作品を出展します。

ちひろがベトナム戦争をテーマに描いた絵本は2冊あります。1冊目の絵本『母さんはおるす』は、ベトナム戦争中、もっとも激しく「北爆」が行われた1972年に発表されました。同じ年、ちひろはグループ展に、「子ども」と題した3枚の絵を出展します。多くの出展作家が、新作ではなく、絵本や挿絵の原画を並べるなか、ちひろの作品はそれまでのものとは、雰囲気の異なる新作でした。「私には、どんなにどろだらけの子どもでも、ボロをまとっている子どもでも、夢をもった、美しい子どもに、見えてしまう」と語り、常にいのちの輝きを感じさせる子どもを描いたちひろが、虚無の表情を浮かべる子どもを描いたのです。3人の「子ども」には、戦争への怒りや悲しみがあふれています。

「子ども」をきっかけに、翌1973年、2作目の『戦火のなかの子どもたち』が誕生します。入院で制作が中断されることがあっても、「私のできる唯一のやり方だから」と、はやる気持ちで取り組み続けた末の完成でした。

『戦火のなかの子どもたち』を書き上げて1年後の1974年、ちひろは他界します。ベトナムに平和が訪れたのは、ちひろの死の8ヵ月後、19754月のことでした。

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🔵プロレタリア美術運動・民主的美術館

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6709日本プロレタリア美術史.pdf 

◆ソビエトの美術

(小学館百科全書)

1917年のロシア革命は、美術界にとっても大きな事件であった。当初はパリにいたM・シャガールなどが帰国して、生まれ故郷ビテブスクの美術学校校長となって意欲的な美術教育を始めた。またW・カンディンスキー、マレービチ、P・フィローノフ、V・タトリン、A・ロドチェンコ、R・ファリク、V・レーベジェフなどが数々の新しい実験に取り組み、今日「ロシア・アバンギャルド美術」とよばれる革新的な美的世界を創造した。建築の分野ではK・メーリニコフ(18901974)、ベスニン兄弟、I・レオニードフらが活躍し、社会主義的ユートピアの創造という情熱に支えられた破天荒なビジョンを呈示したが、そのほとんどが実現をみずに終わった。

 しかし、ネップが終了する1920年代終わりから革命後の自由な雰囲気は急速に失われ、シャガールをはじめ一部の人々は西欧へ亡命し、また、ある者は自らのアトリエに閉じこもった。とくに1932年に「ソビエト美術家同盟」が結成され、いわゆる社会主義リアリズムの旗印のもとに権力によるあからさまな干渉が行われると、アバンギャルド美術はほとんどすべての領域で後退を強いられ、かわってスターリン様式とよばれるモニュメンタルな美術の台頭が促された。スターリンによる圧制下にあった1930年代末から50年代初めに至る約15年間、ソビエト美術は長い冬の時代にあった。だが、56年のスターリン批判をきっかけに美術界にも新風が巻き起こり、後に「ソッツ・アート」の名で知られ、「非公式絵画」もしくは「非妥協派」とよばれる作家たちによる絵画が誕生するに至った。この運動の担い手として知られるのは、I・カバコフ、コマールとメラミードの兄弟、M・シェミャーキンらだが、社会主義の理念を徹底してパロディ化した絵画やインスタレーションは、ときに宇宙的なイメージを具現したものから、ときにポップ・アート風の軽みに社会風刺を重ね合わせた幅広いスタイルを特色としており、ペレストロイカ以後の今日、ロシアにおけるポストモダン芸術の先駆けとの高い評価を得ている。また、彫刻の分野では、『生命の樹』で知られるE・ネイズベスヌイの世界的な活躍が知られる。[木村 浩・亀山郁夫]

AI・ゾートフ著、石黒寛・浜田靖子訳『ロシア美術史』(1976・美術出版社) ▽『ロシア工芸とイコン――16世紀から20世紀初頭』(1975・サントリー美術館) ▽亀山郁夫著『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書)』

◆ロシア・アバンギャルド

(小学館百科全書)

Русский авангард Russkiy avangard

1910年代前後にロシアで誕生し、おもに30年代初めまで展開された前衛芸術運動。美術のジャンルでは、フランスのキュビスムの影響のもとに行われた「ダイヤのジャック」展(1910)を嚆矢(こうし)として、ロシアの民衆文化や東洋の美術への回帰を唱えるM・ラリオノフ、N・ゴンチャロワらのプリミティビズム運動に受け継がれ、さらに1910年代には、「ロバの尻尾(しっぽ)」展(1912)や「青年連盟」の運動において、キュビスムと未来主義の手法を一体化するクボフトゥリズム(立体未来主義)の方法が模索された。だが、今日ロシア・アバンギャルドの中心人物とみなされているK・マレービチ、V・タトリンらは、従来の美術の制度的枠組みをいっさい否定する純粋抽象の道をつき歩み、15年の「最後の未来派絵画展-010」(ゼロを目ざす10人の意)展において、K・マレービチはシュプレマティズム(絶対主義)とよばれる抽象絵画を、V・タトリンは「コーナー・反レリーフ」とよばれる無対象の三次元オブジェを発表した。ロシア革命(1917)後、この運動に加わった芸術家は大きく二つに分かれ、純粋抽象の孤塁を守り続ける一派と、ボリシェビキ新政府と手を組み、自らの抽象主義的な志向性とアジ・プロ(扇動・宣伝)的なメッセージ性をドッキングさせ、また、芸術そのものを生産システムの一部に組み入れる構成主義の運動に二極化した。前者に属していたのが、K・マレービチ、P・フィローノフ、W・カンディンスキー、M・シャガールらであり、その一部は西側に亡命した。また構成主義の担い手としては、「第三インターナショナル記念塔」で知られるタトリンほか、A・ロドチェンコ、L・ポポーワ、V・ステパーノワらがいた。アバンギャルド美術はまた、舞台美術、写真、デザインにも多くの優れた芸術家を輩出した。一方、建築のジャンルは20年代末から活況を呈し、ベスニン兄弟、K・メーリニコフ、I・レオニードフら傑出した才能を生んだ。歴史的にロシア・アバンギャルドは、32年の党決定「文学・芸術団体の改組について」によって全面的後退を強いられ、大テロルの嵐が巻き起こる30年代後半にほとんどすべてのジャンルで命脈を絶たれた。[亀山郁夫]

『亀山郁夫著『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書)』

◆コルウィッツ

(小学館百科全書)

こるうぃっつ

Kthe Kollwitz

18671945

ドイツの女流画家、彫刻家。旧姓シュミット。ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)生まれ。1885年ベルリンの画家カール・シュタウファー・ベルンに学ぶ。クリンガー、ムンクに私淑し、ロシアおよび北欧の近代文学に親しんだ。91年ベルリンの労働者街に働く医師カール・コルウィッツと結婚、貧困と病苦に悩む労働者の生活に密着した表現を行い、プロレタリア美術の先駆をなした。戦争体験に基づく人間の苦悩を表した彫刻作品と、連作版画『織工』『戦争』『農民戦争』がある。ドレスデン近郊モーリッツブルクで没。[野村太郎]

◆当ブログ=ドイツ農民戦争やシュレージェン織布工の蜂起、戦争を描いたケーテ・コルヴィッツ

◆グロッス

George Grosz

18931959

(小学館百科全書)

ドイツ生まれのアメリカの画家。ベルリンに生まれ、ドレスデンとベルリンの美術学校に学んだ。早くから風刺雑誌に作品を発表し、鋭い現実批判の目で第一次世界大戦中および戦後の社会状況をデッサン、版画、写真モンタージュなどの手法を駆使して告発する。1917年ベルリン・ダダに参加して思想的にはマルキシズムに歩み寄り、25年新即物主義に接近してリアリズムの傾向を強める。32年アート・ステューデンツ・リーグに招かれてアメリカに渡り、37年市民権を取得、晩年までニューヨークで活躍し、ベルリンで死去した。55年自伝『小さなイエスと大きなノー』を発表。[野村太郎]

6909グロッス=社会風刺漫画.pdf 

◆プロレタリア美術

(小学館百科全書)

美術も芸術の一部門としてプロレタリア階級に奉仕すべきものであるとの立場から、政治的イデオロギーを宣伝するために制作された美術。プロレタリアの思想と感情を反映し、労働者・農民などの生活を描き、その闘争精神・希望・欲求・努力などを表現するとともに、支配者の圧制・虚偽・腐敗などを暴露的に描き出す。絵画、彫刻、漫画、ポスター、挿絵など、その表現様式は一貫してイデオロギー的、テーマ本位、写実的、アジ・プロ(扇動・宣伝)的である。

 ソビエト連邦時代においては、主としてロシア革命直後の一時期に主張された。大衆運動と深く結び付いていたため、示威運動でのプラカードやちらし、あるいは祭典での建物装飾などをおもな発表舞台とした。しかし、その大部分は大衆啓蒙(けいもう)の名の下に、リアリズム美術の安易な俗化として現れ、今日ではほとんど評価されていない。もっとも、その一部にはロシア・アバンギャルド芸術と称せられ高く評価されているものも含まれているが、現在ではプロレタリア美術と区別されている。

 ソ連ではプロレタリア美術の衰退後に、いわゆる社会主義リアリズム理論が主導権を握っていた。[木村 浩]

日本のプロレタリア美術

第一次世界大戦前後から1920年代末期にかけて、意識的、組織的なプロレタリア美術が多くの国に発生、それらはおおむね各国の共産党機関誌を中心に展開された。

 日本では先駆的現象として、1903年(明治36)創刊の『平民新聞』とその継続運動への、平福百穂(ひらふくひゃくすい)、小川芋銭(うせん)、竹久夢二、小杉未醒(みせい)(放庵(ほうあん))らの芸術家の参加がまずあげられる。第1回メーデーが開かれた1920年(大正9)には、未来派芸術協会と社会主義同盟が結成されるが、同年10月開催の、橋浦泰雄(やすお)、望月桂(けい)らの黒燿(こくよう)会第1回展が最初のプロレタリア美術運動であった。翌212月創刊の『種蒔(たねま)く人』以降、文学その他のプロレタリア文化運動の展開のなかで、その一翼を担おうとする意識を高めた。24年、アクション、未来派、マボ、DSDなどのアバンギャルド派による三科会が結成されるが、翌年春の第1回展と秋の第2回展を通じて、これら新傾向急進美術運動の総決算的解体をきたし、その分裂からプロレタリア集団主義を標榜(ひょうぼう)する「造型」が結成され(1925)、一方、日本プロレタリア文芸連盟が結成された。

 昭和に入ると、1927年(昭和2)ロシア革命10周年記念「新ロシヤ美術展覧会」を契機として、プロレタリア美術運動は急速な高まりをみせる。同年「造型」は拡大再組織されて造型美術家協会となり、翌28年、全日本無産者芸術連盟(ナップ)創立、そして無産者美術団体協議会が成立して、同年11月には上野・東京府美術館で同会主催の第1回プロレタリア美術大展覧会が開かれた(第5回展まで毎年開催)。291月にはナップ所属日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)が結成されるが、35年のヤップ解散によって、組織的なプロレタリア美術運動に終止符が打たれた。

 この第二次世界大戦前の日本のプロレタリア美術の展開は、いわば、ナップ系の社会批判的形態(柳瀬正夢(やなせまさむ)、木部正行、須山(すやま)計一、松山文雄、鈴木賢二ら)と、造型美術家協会系の芸術批判的形態(矢部友衛(ともえ)、岡本唐貴(とうき)、山本嘉吉(かきち)、岩松淳ら)とが「プロレタリア・リアリズム」を命題として結集した運動形態といえる。そして、その二面性をもった性格のまま「社会主義リアリズム」に組み込まれ、第二次大戦後の民主主義美術運動へ継承されていった。[永井信一]

◆矢部友衛

ヤベ トモエ

(小学館百科全書)

大正・昭和期の洋画家,前衛美術・プロレタリア美術運動家

生年明治25(1892)39

没年昭和56(1981)718

出生地新潟県岩船郡村上町(現・村上市)

学歴〔年〕東京美術学校日本画科〔大正7年〕卒

経歴卒業後、米、仏、独に留学し、大正11年に帰国。同年古賀春江らとグループ「アクション」、13年三科会、15年造型美術家協会を結成し、プロレタリア美術運動の推進に努力した。日露芸術協会代表として訪ソし、昭和2年朝日新聞社主催の新ロシア美術大展覧会を成功させた。3年日本プロレタリア美術家同盟の創立に参加し、中央委員、委員長などを歴任。またプロレタリア美術学校長などもつとめる。同盟の解散後は、14年に渡米し、ニューヨークで個展を開催。15年帰国し、交詢社で個展を開いた。戦後は岡本唐貴らと現実会を創立し、また日本美術会の創立に参加した。23年共産党に入党した。51年国立近代美術館に作品が収められた。画集に「画集矢部友衛」がある。

◆松山文雄

まつやまふみお

(小学館百科全書)

19021982

洋画家、漫画家、童画家、美術評論家。長野県生まれ。小学校卒業で上京、大正末期に押し寄せていた前衛美術の影響からプロレタリア美術運動に参加、社会主義的な油絵と社会風刺的な漫画を描いた。そのかたわら絵雑誌『コドモノクニ』などに童画を描き、1932年(昭和7)にはリアリズム童画を標榜(ひょうぼう)する新ニッポン童画会を結成。また、童画・漫画の批評にも優れていた。童画家前島ともはその夫人。作品集に『画集まつやまふみおの世界』(1975)、自伝に『赤白黒』(1969)、評論に『新しい漫画・童画・版画の描き方』(1949)、『柳瀬正夢』(1956)などがある。[上笙一郎]

『松山文雄・岡本唐貴著『日本プロレタリア美術史』(1967・造型社)』

◆岡本唐貴

オカモト トウキ

(小学館百科全書)

大正・昭和期の洋画家,社会運動家

生年明治36(1903)123

没年昭和61(1986)328

出生地岡山県倉敷市

本名岡本 登喜男

学歴〔年〕東京美術学校(東京芸術大学)彫刻科選科〔大正12年〕中退

経歴初め二科会に出品する。大正12年前衛グループ「アクション」の結成に参加。昭和4年日本プロレタリア美術家同盟創立委員となり、プロレタリア美術運動に参加。戦後は矢部友衛らと現実会を組織、また三鷹事件、松川事件の無罪運動を支援する。著書に「プロレタリア美術とは何か」(5)「日本プロレタリア美術史」(42)など。

◆日本美術会

⚫︎歴史(年表)

http://www.nihonbijyutukai.com/home/rekishi.html

⚫︎

(1) 日本美術会は第二次世界大戦後、新しい歴史を切り拓くことを誓って新憲法 と同時期に誕生しました。 

会は、日本美術の自由で民主的な発展とその新しい価値の創造を目的として 運動する美術家・理論家の集まりです。

(2) 会は、現代日本の文化に見られる高度な資本主義が生むさまざまな歪みや美術界に根強く残っている古い体質に妥協せず、表現の自由を守り、真に人間的な美術を生み出すために努力します。

(3) 会は、日本の優れた美術伝統を継承発展させながら、広く海外の美術にも目を向け、美術の新生面を切り拓くようつとめます。

(4) 会は、広汎な人々の生活・意識と創造力に結びつき、現代日本の課題に応える美術の創造をめざします。

(5) 会は、平和な世界を願い、戦争と侵略をやめさせ、核兵器の廃絶をめざし、地球環境を破壊から守るため積極的にとりくみます。

(6) 会は、文化・美術界をはじめ、課題・要求を共にする広汎な人々や組織との交流・連帯をはかります。

(7) 会は、常に国際的視野に立って、諸外国との自主的な美術交流をはかります。

(8) 会は、以上のことを実現するために、さまざまな思想・信条、表現方法を持つ美術家・理論家がここに集まり、それぞれが独自性を保ちつつ、互いに批評しあい、扶けあうようつとめます。

(2011年 7月18日 第42回総会で改定)

◆アンデパンダン展と日本美術会

【英】:SALON DES ARTISTES INDEPENDANTS

1884年の春、スーラ、シニャック、ルドン、ギヨーマンなどを含むフランスの反アカデミズムの画家やサロン落選画家たちが独立芸術家集団を組織、同年夏に改組し独立芸術家協会(Societes des Artistes Independants)を結成し、年末に第1回展を開催。その目的は、所定の会費を払えば誰でも出品できる鑑査機構なしの展覧会を組織することにあった。アンリ・ルソー、ゴッホ、ロートレック、セザンヌ、マティス等もしばしば出品するなど、印象派より若い世代の画家の多くがこの展覧会と関連し、20世紀の初めまで重要な美術動向の舞台となった。我が国においても、第2次大戦前に童心芸術社と二科展主催のものがあったが、1946年に日本美術会が設立され、民主的立場に立った日本アンデパンダン展を開催。これとは別に1949年、読売新聞社主催で同名の展覧会が開始され、しばらくは並例して進んだが読売アンデパンダンと改め、63年ダダ化が進むなかで中止に至る。

◆内田巌

(小学館百科全書)

うちだいわお

19001953

洋画家。東京生まれ。文芸評論家内田魯庵(ろあん)の長男。東京美術学校西洋画科で藤島武二に学び、1926年(大正15)卒業。帝展と光風会に出品。3032年(昭和57)渡仏し、アカデミー・ランソンに学んだ。36年光風会会員を辞し、新制作派協会の創立に参加する。第二次世界大戦後、46年(昭和21)日本美術会結成に加わって主要会員となるほか、日本共産党に入党。社会主義リアリズムの代表作に『赤旗』『平和』などがある。[小倉忠夫]

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鑑賞=日本の美術・名画❶江戸時代までの動画と解説の数々

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【このページの目次】

◆日本古代

◆飛鳥時代・白鳳時代(寺社と仏像)

◆奈良時代

◆平安時代(寺社・庭園)

◆鎌倉時代(運慶など)

◆室町・戦国時代(雪舟など)

◆江戸時代(琳派・浮世絵・北斎・若沖など奇想の画家たち・円空)

以下はに掲載

◆明治・大正・昭和戦前(洋画・日本画)

◆戦後

◆花森安治と「暮らしの手帖」の表紙

◆戦争と絵画=無言館・戦没画学生など

◆プロレタリア美術運動・民主的美術運動解説

◆柳瀬正夢・まつやまふみお・新海覚ほか

◆いわさきちひろの世界=その生涯と作品

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IEYoukuを見る方法=以下参照。http://yuyu.miau2.net/ie-youku/

★★五木寛之の古寺巡礼=京都・奈良の仏像と古寺を訪ねる旅(ダイジェスト版)110m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1299421289Aswd9pq

「寺」そこには、現代の日本人が忘れかけた大切なものとの出会いが待っています。 

作家・五木寛之が、日本列島の北から南まで百の寺々を巡りながら、日本人の原風景を見つめ直した「百寺巡礼」。十数年の時を経て去年秋からレギュラー番組として復活しています。

46日放送の2時間スペシャルは、京都、奈良の魅力ある寺と五木さんが感嘆した魅力ある仏像に焦点をあて紹介します。 足利義満が建立した金色の楼閣で名高い通称「金閣寺」。そして侘びさびの一言で片付けられない、足利義正が全ての力を注いだ東山文化の象徴「銀閣寺」。1300年前の白鳳美術の世界が蘇っている三重塔が建立されている「薬師寺」。ほかに「三千院」「神護寺」「南禅寺」「室生寺」。五木さんが感嘆した魅力ある仏像として、1400年の歴史を刻む日本最古の仏像である飛鳥大仏(飛鳥寺)。うっすらと開いた目で多くの文人や歌人を魅了してきた伎芸天(秋篠寺)。与謝野晶子も、美男におわす、と絶賛の鎌倉大仏(高徳院)。世界三大微笑像の一つである弥勒菩薩像(中宮寺)。奈良の大仏(東大寺)などを紹介します。

★★五木寛之の百寺巡礼=東大寺・円覚寺

★★歴史秘話・国宝展から=釈迦立像・頼朝像・名刀など43m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v130557458pK2nnKz2

🔴【奈良時代以前】

◆◆(天声人語)縄文人は岡本太郎か

朝日新聞18.08.31

 「芸術は爆発だ」という名言で知られる故岡本太郎は20代をパリで過ごした。帰国後、「わび・さび」を基調とする日本の伝統美に幻滅する。自国文化への絶望から彼を救い出したのは縄文土器だった1951年秋、東京・上野の展示会で縄文の土器や土偶と出会い、手持ちのカメラで熱心に写した。のちに記す。「快感が血管の中をかけめぐり、モリモリ力があふれ、吹きおこるのを覚えた」(『日本の伝統』)いま東京国立博物館で開催中の特別展「縄文――1万年の美の鼓動」(9月2日まで)で、彼を魅了した逸品を見ることができる。人とも獣ともつかぬ顔の形をした細工品。星座か解剖図のようなデザインの鉢。なるほど、どれも奔放で力強いこれら縄文芸術は世界的に見ても異彩を放つ。「火焔(かえん)のような装飾、直線と曲線の織りなす紋様。同じ新石器時代の中国やインド、欧州の品には見られない造形美です」と企画した品川欣也(よしや)・同館考古室長(42)は話すユニークさは暮らしぶりに由来する。王や特権階級はおらず、土器を作る専門の職人もいない。「縄文時代に作家や芸術家は一人もいません。地域ごと村ごと集落ごとに異なる作風が、代々引き継がれました」1万年前の人々の営みを想像してみる。日々、木の実を拾い、狩りや漁に出る。そして精妙な土器や装身具を作る。老若男女が芸術をたしなんだのだろうか。家族みんなが岡本太郎ばりにアートを爆発させるさまを夢想すると、何やら楽しくなる。

NHK伊勢神宮~日本の始まりへの旅~

NHKスペシャル「二つの遷宮 伊勢と出雲のミステリー」 

★★日曜美術館・正倉院展=シルクロードから伝わったガラス杯・楽器など

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v129989573yQMYMtM7

🔵正倉院の奇跡ー天皇の宝物111m

🔴【飛鳥時代・白鳳時代】

薬師寺
薬師三尊
法隆寺
法隆寺金堂壁画
法隆寺金堂壁画

🔷法隆寺の国宝(後編)

https://drive.google.com/file/d/17Js3cBkUS2qxFKRh7CIt5uUYgOYZCSMI/view?usp=drivesdk

★★白鳳時代・仏教美術の青春時代43m

★★薬師寺=薬師三尊(本尊・月光菩薩・日光菩薩)白鳳美術の美120m

PCの場合全画面表示で見ると過剰広告減)

★★その時歴史が動いた=蘇我馬子・飛鳥寺建立・日本最初の仏教寺院・古代の文明開化43m

★★日韓の国宝が海を越えた~半跏思惟(はんかしゆい)像はるかな旅~20160615NHK50m

または

http://www.myvi.ru/watch/15222528061_FXtwAiAixEGsEHH47dBN7g2

【赤旗16.06.27

★日韓国宝展 ソウル 半跏思惟像 韓国語4m

◆◆日韓の国宝が対面 半跏思惟像、東京国立博物館で

2016628日朝日新聞

【国宝・半跏思惟像=中宮寺門跡蔵】

 イスに座って片足を踏み下げ、もう一方の足を組んで思索のようなポーズをとることから、その名がある「半跏思惟像(はんかしゆいぞう)」。日韓を代表するこの像の名品2体が相対する特別展「ほほえみの御

仏」が東京・上野の東京国立博物館本館で7月10日まで開かれている。

【韓国国宝78号・半跏思惟像】

 展示されているのは奈良県にある中宮寺門跡所蔵の「国宝・半跏思惟像」と、韓国国立中央博物館所蔵の「韓国国宝78号・半跏思惟像」。中宮寺門跡の像は像高約126センチ。7世紀後半の作品で、クスノキの部材を複数組み合わせて作られている。一方、韓国国宝78号の像は像高約83センチ。鋳造としては大

型の部類に属し、こちらは6世紀後半の製作と考えられている。

 いわゆる半跏思惟像は約2千年前のインドのガンダーラにすでに作例があり、かの地では観音菩薩(ぼさつ)を表現することが多かったようだ。

 一方、「韓国や日本では、この種の像は弥勒菩薩を表しているケースが多い」と東京国立博物館アソシエイトフェローの西木政統さんは話す。

 釈迦入滅後のはるかな未来、すべての命あるものを救済してくれるという弥勒信仰は高句麗・新羅・百済

が並立した6~7世紀の三国時代に盛んで、朝鮮半島では30体以上の半跏思惟像が旧新羅及び旧百済地域などで確認されている。

 本展は古代の日韓文化交流の証しを両国で展示し、鑑賞してもらおうとの意図で企画された。韓国ではソウルの国立中央博物館で、同じ内容の特別展が一足早く今月中旬まで開催された。

 東京国立博物館特別展室長の丸山士郎さんによると、現在、如意輪観音としてまつられている中宮寺の半跏思惟像も元々は弥勒菩薩として作られた可能性が高いという。78号像の製作地については高句麗説な

などもあってはっきりしないが、中宮寺の像が朝鮮半島由来の信仰と造仏技術の影響下で製作されたことはほぼ確実とみられる。

 共通の文化基盤のもとに生まれた二つの像をこの機会にじっくり観察してみてはどうだろう。(編集委員・宮代栄一)

🔴【奈良時代】

★日美 宝物が勇気と誇りをくれた~第60回正倉院展25m – FC2

http://video.fc2.com/content/20131112LaT9tFym

★美の壺 ~仏像入門~ 

★東儀秀樹  千里の旅路 仏像の美6m

★千里の旅路  東儀秀樹6m

★日曜美術館 天平のこころ輝いて第62回正倉院展45m – FC2

http://video.fc2.com/content/20130423WpPbpWmy

★日美 華麗なる天平の女たち~正倉院の秘宝 44m- FC2

http://video.fc2.com/content/20131103AHDgbAmU

★日曜美術館 広目天のまなざし ~會津八一と戦没学生が見た奈良の仏~ 60m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v113025079T9jTNh9q

または

★心の都へスペシャル 美しき古都 千年の旅人 ~奈良・千年の技編~ 

★世界文化遺産・奈良の寺めぐり15m

https://m.youtube.com/watch?v=2bYBt0lJAmA

★奈良国立博物館 なら仏像館14m

https://m.youtube.com/watch?v=lOjqeSVh_PM

★天平の仏たち~奈良 唐招提寺7m

★ビーバップ!ハイヒール「関西在住! 会いに行きたくなる仏像物語」40m- FC2有料

http://video.fc2.com/content/20130609PXgCe5kZ/

【法隆寺金堂壁画=上は復元壁画】

★★ NHK法隆寺の国宝 前篇 聖徳太子の夢110m

🔷法隆寺の国宝(後編)

https://drive.google.com/file/d/17Js3cBkUS2qxFKRh7CIt5uUYgOYZCSMI/view?usp=drivesdk

★★法隆寺金堂・飛鳥の仏たち10m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v130554701fQ3ZcWmN

★★NHKスペシャル法隆寺再建の謎

★阿修羅– Construction and Painting10m

★国宝 阿修羅像 – 4m

★法隆寺 釈迦三尊12m

https://m.youtube.com/watch?v=IXH9WzXc7pE

★法隆寺 百済観音 8m

★法隆寺 五重の塔(発見 免震構造)6m

https://m.youtube.com/watch?v=CVHdzL82Ezk

★東寺の仏像15m

★奈良 東大寺所蔵 誕生釈迦仏4m

https://m.youtube.com/watch?v=9Vvd-66zhwM

★東大寺二月堂 お水とり47m

http://m.youtube.com/watch?v=bJQg8P71t9I

★薬師寺 薬師三尊10m

http://m.youtube.com/watch?v=yWlNu4ObAmc

★新薬師寺 薬師十二神将12m

http://m.youtube.com/watch?v=rCIr4h9PYZ0

★極上美の饗宴 シリーズ日本美築いた仏(2)奈良 新薬師寺「十二神将立像」

★奈良 中宮寺 菩薩半跏像8m

http://m.youtube.com/watch?v=834J1qC6O7E

★日美 遣唐使 美の遺産 44m- FC2

http://video.fc2.com/content/201311033WwfdYz3

★美の壺 ~富士山~ 25m

★★五木寛之の百寺巡礼・一向一揆の瑞泉寺・鎌倉の大仏50m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v129253461SrJqBytQ

🔴【平安時代・京都の美】

★京都の四季70m

★★ハイビジョン特集 [京都 庭の物語 ~千年の古都が育んだ空間美~90m

NHK奇跡の庭 京都·苔寺60m

★★桂離宮の美90m

★★桂離宮 ~知られざる月の館~ 

★ハイビジョン特集「京都 天下無双の別荘群」90m

★ハイビジョン特集 京都 茶の湯大百科110m

★すべて見せます 錦秋の京都御苑58m

★ハイビジョン特集 京都 丸竹夷(えびす)にない小路 110m

【日本庭園の世界】

(13×24m)

【平安時代】

NHK BSアーカイブス「源氏物語 一千年の旅~2500枚の源氏絵の謎~」120m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDE4OTA2NDg0.html?x

★★NHK源氏物語 黄金絵巻の謎 -58m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v130135258eHJTq7PJ

または

★★国宝 信貴山縁起絵巻

★★NHK特集 伴大納言絵巻 110m

★日曜美術館 ~夢と現(うつつ)をつなぐ色 絵巻春日権現験記絵 

★極上美の饗宴 ボストンの日本美術超傑作「平安仏画 驚異のきらめきの秘密」60m

★ほプレミアムアーカイブス 空海 至宝と人生「第1仏像革命

★プレミアムアーカイブス 空海 至宝と人生「第2名筆の誕生l

NHK スペシャル空海が夢みた宇宙 ~高野山1200年の至宝

★★日曜美術館・選 特別アンコール「私と鳥獣戯画 手塚治虫」2016.11.12

または

★★NHKアニメのルーツ 鳥獣人物戯画の不思議ワールド110m

http://v.youku.com/v_show/id_XMzM5MzE4Mjgw.html?x

★★ハイビジョンスペシャル「アニメのルーツ・鳥獣人物戯画の不思議ワールド」 高畑勲 2003 NHK のコピー 編集済(一部削除)

★★国宝 鳥獣人物戯画

★★鳥獣人物戯画の謎解き

https://m.youtube.com/watch?v=v22Jss4W65U

🔴【鎌倉時代】

★★運慶とは何者か=その作品から仏像800年の謎に迫る120m

最強の仏師集団を率いた男

◆◆22体、800年の時を超え 興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」

朝日新聞17.09.19

 日本の仏教美術の伝統のなかで、仏師の運慶(生年不詳~1223年)が手がけた仏像はひときわ光彩を放っている。800年の時を超え、現代の人々をも魅了する運慶の代表作を各地から一堂に集めた特別展「運慶」が26日、東京・上野の東京国立博物館で幕を開ける。運慶がかかわったとされる仏像など22体が、一挙に展示されるのは初めて。

◆激動の時代、独自のスタイル築く 過去最大の展示

 運慶が生きた平安時代から鎌倉時代にかけては激動の時代だった。

 京を中心に権勢を誇った貴族が影を潜め、代わって各地で武家が台頭してゆく。20代の運慶が臨んだ最初の作品として知られる大日如来坐像(だいにちにょらいざぞう)(奈良・円成寺蔵)の完成から数年後の1180年、源頼朝が伊豆で挙兵し源平の争いが始まった。その年、奈良の東大寺や興福寺の伽藍(がらん)は、ほとんどが焼け落ち、戦火は各地に広がった。やがて東国鎌倉に幕府を置いた武家の時代がやってくる。

 新しい世の風は、運慶の作風にも影響を与えただろう。奈良を拠点に活動していたとみられる運慶は、平家滅亡の翌年1186年、武将北条氏の願いを受け、毘沙門天立像(静岡・願成就院蔵)を造っている。武士のように勇ましい顔立ちをし、腰をひねり、腕を上げ、いまにも動き出しそうな躍動感があふれている。力強く、リアリティーのある姿は、貴族の時代の仏像からは感じられない運慶独自のスタイルだ。

 運慶が仏像に求めた写実性は、八大童子立像(和歌山・金剛峯寺蔵)にもよく表れている。目には水晶でできた玉眼(ぎょくがん)を巧みに使い、現実感を際立たせている。

 運慶は職人たちを率い、源平の争いで荒廃した奈良の寺院の復興事業にも取り組んだ。古代インドの学僧兄弟を表す無著・世親菩薩(ぼさつ)立像(奈良・興福寺蔵)は、晩年に腕を振るった運慶芸術の集大成だ。深い精神性をたたえる高さ2メートルの像は、肖像彫刻の最高傑作とされる。

 貴族や武家をはじめあらゆる人びとが運命に翻弄(ほんろう)され、現世の苦しみの代わりに極楽往生を祈った時代。生きているかのような仏像に託されたのは「仏は確かにいる」という実在感だったのだろう。運慶はその卓越した能力によって人びとの願いに応えた。

 現在、運慶作あるいはその可能性の高い仏像は各地に計31体が残るとされている。運慶ゆかりの興福寺の中心堂宇である中金堂が2018年に約300年ぶりに再建されるのを記念して開かれる本展にはそのうち22体が集結し、これまでで最大の運慶展となる。

 運慶の父、康慶、息子の湛慶、康弁らも優れた仏像を残した仏師であり、彼らの作品も含めた合計80点あまりの貴重な文化財によって3世代が生み出した祈りの造形をたどってゆく。(大宮司弥生)

★★日曜美術館・天才仏師 運慶=展示会から.54m

★★ぶらぶら美術館・運慶=天才仏師特別展50m

★★仏の心をきざむ=現代の運慶・松本明慶

http://www.veoh.com/m/watch.php?

★★歴史秘話=仏師 運慶http://v.youku.com/v_show/id_XMjkzODk2MjY1Ng==.html?sharefrom=iphone&sharekey=3a90f3266d3cf059f86fd484819da9a87 @优酷

または

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★★運慶の生涯と作品45m

★日曜美術館 ~夢の運慶 傑作10選~ 59m

◆◆運慶

うんけい

(?―1223

(小学館百科全書)

鎌倉初期の仏師で、日本彫刻史上にもっとも有名な作家。父は定朝(じょうちょう)5代目と称する慶派の康慶(こうけい)。当時は京都に根拠を置く院派、円派が貴族階層の信任を受けて勢力があり、興福寺に所属し、奈良を中心とする慶派は振るわなかったが、運慶の代には関東武士の間に活躍の場を求め、その情勢を逆転させるに至った。壮年期には奈良の興福寺の造仏により、仏師としての僧綱位(そうごうい)も法橋(ほっきょう)から法眼(ほうげん)、法印(ほういん)へと上り、晩年には主として鎌倉幕府関係の仕事を手がけるなど、運慶の制作は造仏の盛んだった当時でも例のないほどで、実力もさることながら、人気のほどが察せられる。約60年にわたる仏師としての生涯における作品は、文献上では多いが、確実な遺品として現存するのは奈良円成寺大日如来(だいにちにょらい)像(1176)、静岡願成就院阿弥陀(あみだ)如来・不動・毘沙門天(びしゃもんてん)像(1186)、神奈川浄楽寺阿弥陀三尊・不動・毘沙門天像(1189)、高野山(こうやさん)不動堂の八大童子像(1197)、奈良興福寺北円堂弥勒(みろく)・無著(むじゃく)・世親(せしん)像(1212ころ)、快慶と合作の東大寺金剛力士像(1203)にすぎない。没年は貞応(じょうおう)21211日と伝える。

 運慶の作風は、康慶に始まる写実主義を推し進め、平安末期の形式化した貴族趣味的な像に対し、男性的な風貌(ふうぼう)、堂々たる体躯(たいく)、深く複雑な衣文(えもん)線、自由な動きをもつ姿態などに特色があり、かつ天平(てんぴょう)以来の彫刻の古典をその作品に総合している。これが当時の武士階級に喜ばれ、幕府をはじめ諸豪族の注文も多かった。彼の子の湛慶(たんけい)、康勝、康弁、および康慶の弟子快慶などが、彼のあとも引き続いて活躍し、鎌倉時代前半の彫刻界は運慶中心の慶派の時代でもあった。彼の作風は関東の彫刻にも大きな足跡を残し、いわゆる鎌倉地方様式も、この運慶様を基としている。[佐藤昭夫]

『水野敬三郎著『運慶と鎌倉彫刻』(1972・小学館) ▽林文雄著『運慶』(1980・新日本出版社)』

🔴【室町時代・戦国時代】

【雪舟】

★★雪舟の水墨画45m

★★「雪舟」東京シネマ195620m

★総社市で生まれた画聖 雪舟5m

★アワード 雪舟の 足跡を訪ねて – 53mFC2

http://video.fc2.com/content/20130128fxVBEmbf/content/content/20130128PQGFtRUh

BShi 雪舟·山水画の名品 30m

http://v.youku.com/v_show/id_XNTEzNDY5NDY0.html?x

せっしゅう

14201506

(小学館百科全書)

室町時代の禅僧、画僧。僧位は知客(しか)。中国から渡来した水墨画の技法を自己のものとし、山水画を大成した画人として、日本美術史上の巨匠の一人。諱(いみな)は等楊(とうよう)。備中(びっちゅう)国(岡山県)赤浜(総社(そうじゃ)市)に生まれ、幼少にして上洛(じょうらく)、相国寺(しょうこくじ)に入り、春林周籐(しゅんりんしゅうとう)についたといわれる。ここで禅僧としての修行を積むかたわら、画を周文に学んだと考えられるが、40歳以前の画歴にはなお不明の点が多い。ほぼ同時代に水墨画の遺作をもつ拙宗等揚をその前身とする説があるが、いまだ確定をみていない。「雪舟」の号は、愛蔵していた元(げん)の名僧楚石梵(そせきぼんき)の墨跡「雪舟」の二大字にちなみ、1462年(寛正3)ごろに友僧龍崗真圭(りゅうこうしんけい)が雪舟二字説をつくっていることから、これ以降この号を用いたとみられる。その後とびとびながらもその事績をたどることができるが、64年にはすでに京を離れて山口に住んでいたらしく、周防(すおう)国(山口県)の守護大名大内教弘(おおうちのりひろ)の庇護(ひご)を受けて、雲谷庵(うんこくあん)とよぶ画室を営んでいる。雪舟が山口に下った理由は、おそらく、日ごろあこがれていた中国宋(そう)・元の水墨画を自分の目で見たいがために、当時明(みん)との往来が盛んであった大内氏の領下に身を置き、中国へ渡る機会をうかがったためと考えられる。

 1467年(応仁148歳の春、ついに遣明船「寺丸」に便乗して入明、寧波(ニンポー)を経て北京(ペキン)に上った。この間かの地の名家の真跡を学び、自然と風物を観察、北京では皇帝の命により礼部院の壁画に筆をとり、広く賞賛を得た。また禅僧としても高い評価を与えられ、四明天童山の第一座に推された。この称号に雪舟は生涯誇りを抱いていたようで、晩年までその落款(らっかん)に「四明天童第一座」と加えている。滞明は3年に及び、69年(文明1)に寧波経由で帰国した。当時の中国画壇、とくに自らも述べているように長有声(ちょうゆうせい)、李在(りざい)、高彦敬(こうがんけい)などから影響を受けたようで、彼らに就いて設色と破墨の法を学んだといい、入明体験はその後の雪舟に大きな成果をもたらすことになった。『四季山水図』(東京国立博物館)は、款記に「日本禅人等楊」とあるところから在明中の制作と考えられ、そうした彼の学習の跡をうかがううえで貴重な作である。

 1476年には大分にあったようで、ここで天開図画楼(てんかいとがろう)という画房を開き、以後、美濃(みの)(岐阜県)、出羽(でわ)(山形県)など各地を漂泊、『鎮田瀑(ちんだばく)図』(大分県)や『山寺図』(山形県)などの真景図を描いた(これらの作品は模本が残されている)。8667歳のとき、畢生(ひっせい)の名作『四季山水図(山水長巻)』(国宝、山口県・防府毛利(ほうふもうり)報公会)を制作し、さらに95年(明応4)には、76歳で弟子宗淵(そうえん)に画法伝授の印(しるし)として与えた『破墨山水図』(国宝、東京国立博物館)を描き、翌96年にも大作『慧可断臂(えかだんぴ)図』(愛知県・斎年寺)に筆をふるっていることから、晩年に至るまで旺盛(おうせい)な制作意欲を失わなかったことがわかる。また『天橋立(あまのはしだて)図』(国宝、京都国立博物館)は描かれた図様から1501年(文亀1)以降の景観を写したと考証される。この年雪舟は実に82歳で、おそらく当地を訪れたと考えられ、驚嘆すべき強靭(きょうじん)な意志と壮健な肉体とをもった画家であった。

 その作風は、如拙(じょせつ)、周文の系統を引きながら、これに馬遠(ばえん)、夏珪(かけい)、李唐(りとう)、梁楷(りょうかい)、牧谿(もっけい)、玉澗(ぎょくかん)ら宋・元画家たちの画風を取り入れ、さらに自己の入明体験をもとに樹立されたもので、禿筆(とくひつ)を使ったきびきびした描線と、奥行のある強固に構築された構図法に真骨頂をみることができる。その端的な作例がいくつかの水墨山水画で、それは従来の禅僧の余技的な域を遠く乗り越えて、強い自己表出性をもった、厳しい芸術作品にまで高められている。日本の山水水墨画史上雪舟の果たした功績は、まことに偉大であったというべきだろう。

 代表作として、前記の作品以外には、『秋冬山水図』(国宝、東京国立博物館)、『四季山水図』(東京・ブリヂストン美術館)、図中に牧松周省(ぼくしょうしゅうせい)、および了庵桂悟(りょうあんけいご)賛のある『山水図』(国宝、京都大原家)、『山水図巻』(山口県立美術館)などがあり、庭園にも雪舟作庭と伝えるものがある。

 なお雪舟の肖像画は、71歳のときの自画像(寿像)があったとされるが、残念ながら伝存せず、雲谷等益(うんこくとうえき)筆の模本(山口県常栄寺)や大阪・藤田美術館所蔵の模本などで、その風貌(ふうぼう)や人となりをしのぶことができる。[榊原 悟]

『熊谷宣夫著『雪舟等楊』(1958・東京大学出版会) ▽蓮実重康著『雪舟等楊論 その人間像と作品』(1961・筑摩書房) ▽松下隆章著『日本の美術100 雪舟』(1974・至文堂) ▽中村溪男著『日本美術絵画全集4 雪舟』(1980・集英社)』

★ハイビジョン特集「銀閣よみがえる~その500年の謎~90m

★ハイビジョン特集「蘇る桃山文化 熊本城本丸御殿復元」110m

http://v.youku.com/v_show/id_XNTAxMDA0MDU2.html?x

◆◆個性派の絵師魅惑の世界=雪村・光琳・友松など

(赤旗日曜版17.05.07

★★日曜美術館・海方友松かいほうゆうしょうの絵画+絵巻物

◆◆(評・美術)「海北友松」展 壮大な空間制す画風、体感

201759日朝日新聞

海北友松筆「雲龍図」(8幅のうち4幅、1599年、京都・建仁寺蔵、重要文化財)

 海北友松(かいほうゆうしょう)(1533~1615)は桃山時代を代表する画家のひとりであるが、具体的な画事が知られるのは60歳以降であり、それ以前は謎である。本展はその謎にまず迫ろうとする。

 企画者は、友松が狩野派に学んだという伝承を尊重し、落款のない屏風(びょうぶ)絵の中から狩野派的要素と友松的なそれをあわせもつ作品を抽出し、それを友松初期作として展示した。会場はそれらの作品から始まる。その作品のいくつかに、水晶の結晶のような描写があり、私は長谷川等伯の描写に近いものを感じ、興味深くみた。

 ついで、新出の文献史料をまじえ友松の前半生の交友関係を探る。

 その後、60代以降の作品を紹介するのだが、何といっても数え67歳で描いた建仁寺大方丈の襖(ふすま)絵は圧巻だ。現在は掛け軸になっているが、「雲龍図」「花鳥図」などは襖の枠をはみ出した巨大な空間を感じさせる。日本人でこれだけ壮大な空間を制圧できる画家は、狩野永徳以外では、この人ぐらいではなかろうか。

 友松の雄大な画風を体感すると、他室に並べられた押絵貼(おしえばり)屏風や掛け軸の作品は、狭い枠に画題が無理やり押し込められたような窮屈感が目立ってきた。これまで友松画をみても、そんなことは感じたことがない。

 企画者もそう感じたのか、龍を描いた屏風を並べた部屋は格別照明を落とし、暗闇の中から龍が浮かび上がってくるように見せている。屏風の枠を感じさせない工夫とみた。

 とはいえ、「呂洞賓(りょどうひん)図」などには枠外の広がりを感じさせる構図上の工夫がなされている。

 さらに、彩色表現のすぐれた才能を示す金地着色の屏風群も見逃せない。わずかな色しか使わないのに豊かな色彩の世界を感じさせる「網干図屏風」「浜松図屏風」などは魅力的なやまと絵だ。

 桃山時代の壮大なスケール感を画面にたたきつけた友松の魅力を十分に堪能できる、またとない機会である。(安村敏信・美術史家)

 ▽21日まで、京都市東山区の京都国立博物館。月曜休館。

🔴【江戸時代】

★★家康がつくった二条城浸入=生ける美術館の紹介、棟梁・中井清正90m

http://video.9tsu.com/video/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E%E6%BD%9C%E5%85%A5%EF%BC%9D%E7%94%9F%E3%81%91%E3%82%8B%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8

★★NHK夢の美術館・江戸時代の名画100

狩野派・文人画など135m

浮世絵・若沖などの奇想の画家・応挙など170m

◆◆『夷酋列像』(いしゅうれつぞう)

=松前藩の家老、蠣崎(かきざき)がアイヌ人たちが松前藩とたたかったクナシリ・メナシの戦いの後に描いたアイヌの有力者(アイヌ民族の蜂起を松前藩側に立って仲裁。松前まで連行された)の肖像画。その経過に以下の動画がある

★★夷酋列像(いしゅうれつぞう)その奥深さ NHK 北海道スペシャル 北海道博物館 開館記念特別展=50m 

または

(スマホの場合Dailymotionアプリをダウンロードタイトルを検索にコピーペースト) 

★夷酋列像(予告篇) 20067m

(株)札幌映像プロダクション ライブラリー 

https://m.youtube.com/watch?v=DrDuRbIkJes

★夷酋列像 ダイジェスト3m

★松前藩屋敷9m

◆国立民族科学博物館の『夷酋列像』

クリックして20151203ishu.pdfにアクセス

★★日曜美術館 ~夢の光琳 傑作10選~ パンドラ

★日美 琳派の美 花に託した憧れ~宗達 光琳 抱一 45m- FC2

http://video.fc2.com/content/2013093050XyfYXc

★極上美の饗宴 シリーズ琳派・華麗な

 

(1) 究極の躍動美58m

★極上美の饗宴 シリーズ琳派・華麗なる

(2) 黒い水流の謎58m

【琳派】(赤旗15.11.03

【俵屋宗達=風神雷神図屏風】

★★歴史秘話ヒストリア 尾形光琳45m

🔵風神雷神図屏風描いた俵屋宗達86m

または

BSアーカイブス「新発見 大坂図屏風の謎~オーストリアの古城に眠る秀吉の夢100m

★ハイビジョン特集 西本願寺 ~桃山の美と王朝の雅

★ハイビジョン特集 よみがえる信仰の殿堂~西本願寺御影堂大修復完成~

★★歴史秘話 美の戦国合戦 ~長谷川等伯vs狩野永徳 絵師たちの夢と野望~パンドラ58m

★日美 夢の等伯 傑作10 45m- FC2

http://video.fc2.com/content/201310069NpM5P3t

★★与謝野蕪村の作品と生涯110m

★日美 与謝蕪村 響き合う 絵と詩 -45m FC2

http://video.fc2.com/content/20131022MHyPfvSK

★浮世絵と印象派 25m- niconico

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm2899179

(文化の扉)浮世絵、庶民の楽しみ 好奇心満たす「情報メディア」

2016828日朝日新聞

浮世絵、庶民の楽しみ<グラフィック・竹田明日香>

 浮世、つまり俗世間を描いて、江戸の庶民に親しまれた浮世絵。役者や遊女、名所風景などさまざまな図柄を、木版による大量生産で提供した。明確な輪郭と鮮やかな色彩は、日本美術の代表として欧米でも高く評価されてきた。

 身近な人や芸能人、訪れた場所の写真をスマートフォンに保存し、見返して楽しむ人は多いだろう。江戸時代の人には、こうした写真の代わりが浮世絵だったと言えそうだ。歌舞伎役者の似顔絵や憧れの名所風景など、「好きなイメージを手元に置きたいという願望は今も昔も変わらない」と国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の大久保純一教授は指摘する。

 浮世絵の始まりは17世紀後半、絵師の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が、江戸の遊郭や歌舞伎小屋を題材にした風俗画を売り出したことだった。

 遊郭と歌舞伎小屋は江戸の「二大悪所(あくしょ)」と呼ばれ、幕府の御用絵師だった狩野派が描くことのない世界だった。これが当時、江戸の経済を支えていた町人ら庶民の好奇心をそそった。

 師宣は工房を構えて、肉筆(手描き)や版画による浮世絵を量産し、他の絵師集団も追随した。木版の技術は、墨一色の墨摺絵(すみずりえ)から筆で彩色する丹絵(たんえ)や紅絵(べにえ)、多色刷りの錦絵へと進化。版元、絵師、彫師(ほりし)、摺師(すりし)による分業制も確立した。

 浮世絵は娯楽のための商品だった。出版社にあたる版元が、庶民の好みに応じて売れ筋を模索して企画。その結果、芸能から旅情報、事件報道、政治風刺、ポルノグラフィーにあたる春画までさまざまなジャンルにわたり、現代のテレビや雑誌、インターネットのような情報メディアの役割を果たしていたと考えられる。

 18世紀末ごろには1枚20文ほどで売られていたと、大久保教授はみる。現在の数百円にあたるという。数でいえば、肉筆を除く浮世絵版画は最大で50万種類ほども作られた、と大和文華館(奈良市)の浅野秀剛(しゅうごう)館長は推測する。

 明治に入ると、万博などを通じて欧米人が芸術品として注目するようになり、美術界の「ジャポニスム(日本ブーム)」の一端を担った。明解な線と色、大胆な構図は、印象派のモネやドガらに影響を与えた。ゴッホは歌川広重「亀戸梅屋敷」の模写を残している。

 浮世絵師の代表格は誰なのか。カリスマ性では東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)だろう。18世紀末に突如現れ、1年弱の間に、人物をデフォルメした特異な役者絵を多数残して消えた。

 浅野館長によれば、美人画については欧米では鳥居清長、日本では喜多川歌麿が、様式的な頂点にあると言われてきた。彼らを先導したのが、多色刷りの「錦絵」創出に貢献した鈴木春信だった。

 大衆的人気で長年、トップに君臨してきたのが、風景画の旗手で「冨嶽(ふがく)三十六景」の作者の葛飾北斎だった。「東海道五十三次」の歌川広重の人気も根強い。

 近年、注目度が急上昇しているのが歌川国芳だ。ダイナミックな構図による武者絵や風刺画で、予備知識がなくても面白さがわかる。血みどろ絵の月岡芳年(よしとし)も、研究者を含む若い世代に好まれているという。(安部美香子)

◆当時の生活、読み取れる 浮世絵コレクター・中右瑛(なかうえい)さん

 浮世絵との出会いは30代半ば。油絵の画家として活動しながら父の不動産会社を手伝っていたころ、京都の画廊で広重の「東海道五十三次」の「三島 朝霧」を見た。朝もやに包まれた風景に、木版でしか表現できない詩情を感じ、5万円と聞いて買った。五十三次なら全部集めたくなるのが人情。20年ほどで集め、北斎、歌麿へと広げた。

 コレクションが知られるようになり、百貨店で展覧会を開いた。それから学者やコレクター、画商らでつくる国際浮世絵学会の常任理事を務めるようになった。

 浮世絵の魅力は、人間の生活を写すこと。広重も単なる風景画ではなく、季節の風物や、商人や客引き、農夫といった人間も描いている。

 図像から当時の生活が読み取れる。幕末には金魚のブームがあったとか、女の化粧のはやりとか。北斎の肉筆など、絵の技術はすごい。画家として、もう具象画はよう描かんと思った。

 その後、好みが変わって「お化け」を集めている。伝説のイメージを画家がどう具現化するかが面白い。お化けといえば国芳。3枚続きのダイナミックな構図がいい。最近の猫ブーム、妖怪ブームでますます人気ですね。

🔵【葛飾北斎】

葛飾北斎

かつしかほくさい

17601849

(小学館百科全書)

江戸中期から後期にかけての浮世絵師。江戸・本所割下水(わりげすい)に川村某の子として生まれる。幼年時の事柄についてはあまり明らかではないが、幼名を時太郎といい、後年鉄蔵と改めた。45歳のころに一時、幕府御用鏡師中島伊勢(いせ)の養子となったといわれるが、その間の事情は伝わっていない。1415歳のころ木板版下彫りを学び、また貸本屋の徒弟となったともいわれ、絵は6歳ごろから好んで描いていたと自ら後年に述懐している。しかし、本格的に浮世絵の世界に入ったのは、1778年(安永7)とされ、当時役者絵の大家として知られていた勝川春章(かつかわしゅんしょう)の門に入ってからである。

 画界にデビューしたのは早くもその翌年で、春章の別号旭朗井(きょくろうせい)から朗の字をもらって勝川春朗と号し、細判(ほそばん)役者絵『瀬川菊之丞(きくのじょう)の正宗娘おれん』ほか2図をほぼ同時に発表している。この後、約15年間を勝川派の絵師として錦絵(にしきえ)や黄表紙、洒落本(しゃれぼん)などの挿絵を描いて過ごしたが、1794年(寛政6)中には勝川派を離れ、琳派(りんぱ)の俵屋宗理(たわらやそうり)を襲名して狂歌絵本や摺物(すりもの)などを数多く描いて活躍した。またこのころには戯作(げさく)も行い、時太郎可候(かこう)の名で数種の黄表紙を発表している。しかし、1798年には宗理号を家元に戻し、北斎を号して独立独歩の作画活動を開始することとなる。

 まず1804年(文化1)ごろから1813年ごろにかけては読本(よみほん)挿絵の分野に多くの名作を残している。そのなかでもとくに、曲亭馬琴(きょくていばきん)とのコンビによって出版された『新編水滸(すいこ)画伝』や『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』、また柳亭種彦(りゅうていたねひこ)とによる『近世怪談霜夜星(しもよのほし)』などは、この時期の読本を代表するものとして著名である。1814年ごろより、連年数種の作品を発表してきた読本挿絵は急激に減少し、かわって絵の教習本ともいえる絵手本(えてほん)に傾注し始める。この方面でもっとも知られるのは、同年より没後も刊行され続けた『北斎漫画』である。全巻を通して約3000余図が載せられており、まさに絵の百科事典ともいえる性格をもっていて、日本はむろん、古くからヨーロッパにも「ホクサイスケッチ」とよばれ、多大な影響を及ぼしている。ほかにもこの方面では『略画早指南(りゃくがはやおしえ)』『三体画譜(さんていがふ)』『一筆画譜』など、特殊な描法を紹介した絵手本も発表されており、1848年(嘉永1)には『絵本彩色通(えほんさいしきつう)』で油彩画やガラス絵、銅版画などの制作方法を開陳している。このように絵手本は北斎晩年期に一貫して出版され続けたが、その間、文政(ぶんせい)18181830)初年ごろから天保(てんぽう)18301844)初年ごろにかけては、風景画の代表作『冨嶽(ふがく)三十六景』(全46枚)、『諸国滝廻(たきめぐ)り』(全8枚)、『諸国名橋奇覧』(全11枚)などのシリーズが集中的に出版されている。その後、1834年(天保5)ごろを境として、しだいに肉筆画に傾注するが、1843年ごろから日課として描いた『日新除魔(にっしんじょま)』と題されているおびただしい数の獅子(しし)の図には、老年期の画風とは思えぬみずみずしい作品が多数含まれていることに注目される。しかし、不屈の人北斎も病を得て嘉永(かえい)2418日、浅草聖天町遍照院内に没した。

 なお、北斎については多くの奇行が伝えられ、生涯のうち転居すること93回、また画号を改めること二十数度で、そのおもだった号だけでも画狂人(がきょうじん)、戴斗(たいと)、為一(いいつ)、画狂老人(がきょうろうじん)、卍(まんじ)など多くが知られている。しかし、約70年にも及んだ作画生活は終生刻苦勉学に貫かれていて、その情熱は当時の絵師としてはまれにみるところであった。[永田生慈]

『岡畏三郎編『浮世絵大系8 北斎』(1975・集英社) ▽辻惟雄著『日本の美術31 北斎』(1982・小学館) ▽松木寛著『名宝日本の美術23 北斎・広重』(1983・小学館)』

◆◆冨嶽三十六景

ふがくさんじゅうろっけい

幕末の浮世絵師、葛飾北斎(かつしかほくさい)によって描かれた富士山を題材とする浮世絵風景版画シリーズ。版元は江戸馬喰町(ばくろちょう)の大店(おおだな)、西村屋与八(よはち)(西村永寿堂)で、出版当初は全36枚で完結の予定であったらしいが、俗に裏富士とよばれる10図が追加出版されて全46枚で完結した。出版時期については明瞭(めいりょう)ではないが、1822年(文政5)ないし1823年ごろから1831年(天保2)をさほど下らない時期までにわたっていると考えられており、また各図の署名からも1834年以前に完結したとみるのが妥当であろう。また、作品中には江戸府内から眺望した富士、または地方や場所の推定できないものもあり、作品の出版順もさだかではない。たとえば「上総(かずさ)ノ海路(うなじ)」はすでに1799年(寛政11)に刊行された狂歌絵本『東遊(あずまあそび)』中に、画面を逆にすればほとんど同構図の挿絵が載せられており、「深川万年橋下」は1804年(文化1)ごろに発表された洋風風景画に類似する構図の作品をみいだすことができて、このシリーズはこのような点から北斎風景版画の集大成ともいえる性格をもっている。なお、これらの作品はフランス印象派にも影響を与え、とくに「山下白雨(さんかはくう)」「凱風快晴(がいふうかいせい)」「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」の3図は三役(さんやく)とよばれて、本シリーズのなかでもとりわけ芸術性の高い作品として評価されている。

 なお北斎は、三十六景の好評にこたえた富士連作の第二弾『富嶽百景』(薄墨摺(うすずみずり)半紙本全3冊)を引き続き刊行している。[永田生慈]

『小林忠解説『浮世絵大系13 富嶽三十六景』(1975・集英社)』

★★NHK天才画家の肖像 「葛飾北斎」110m

★★ブロファイラー・天才画家・葛飾北斎の生涯58m

http://video.9tsu.com/video/%E5%A4%A9%E6%89%8D%E7%94%BB%E5%AE%B6%EF%BC%9D%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E

★★歴史捜査・葛飾北斎の驚異の想像力・シーボルトとの関係53m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v131720725kMfPZe3S

★★歴史秘話・葛飾北斎の生涯=神奈川沖裏など3つの大波45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v127340141xtATf9WG

★★北斎ジャポニズム=西欧に影響を与えた北斎53m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v131478537E48ph3Ht

★★北斎ミステリー=欧州に影響与えた北斎・北斎の娘、応為の名作110m

★★ザ・今夜はヒストリー~葛飾北斎~ 46m

Pandraに無料登録極楽チャンネルを購読登録)

★知ってるつもり=葛飾北斎45m

https://m.youtube.com/watch?v=jZ3Dxeq6SXs

★歴史バラエティ「葛飾北斎」40m

https://m.youtube.com/watch?v=lKbOpqhAL3A

または

★世界不思議発見46m

https://m.youtube.com/watch?v=25jdB7HHzN0

★北斎 幻の海 ~パリで発見!伝説の傑作千絵の海完全復刻~ 48m

★音楽とともに北斎漫画 & フランツ スッペ 軽騎兵7m

★音楽とともに葛飾北斎 富嶽三十六景 & サーンス9m

★音楽とともにKatsushika Hokusai-japonese artist Edo’s period 6m

★音楽とともにHokusaï 6m

★北斎 幻の海 ~パリで発見!伝説の傑作千絵の海完全復刻~ パンドラ

★日曜美術館 ~夢の北斎 傑作10選~ 44mFC2

http://video.fc2.com/content/20131030zsq4NXAr

🔷🔷新・北斎展=画業の全貌に迫る 赤旗19.02.22

◆葛飾北斎「神奈川沖浪裏」=西洋作家らの意欲を刺激

赤旗17.11.24

◆◆(文化の扉)ジャポニスムの魅惑 「素朴で謎めいた国」ゴッホら刺激

朝日新聞17.12.17

 日本のアニメやマンガは海外で人気だ。だが昔を振り返ると、19世紀半ば~20世紀前半に浮世絵などの日本文化が西洋で大流行。現地では、新たな芸術まで生まれた。フランス語で「ジャポニスム」と呼ばれる現象はなぜ起きたのか。

 日本が19世紀半ばに開国すると、外交官や愛好者らによって、日本の情報とともに、浮世絵や陶磁器などの美術工芸品が次々に西洋に渡っていった。

 当時の西洋の人々にとって日本のイメージは、まだ「近代化されていない夢の国」(国立西洋美術館の馬渕明子館長)というもの。鮮やかな色使いや斬新な意匠、繊細な細工などの魅力と、異国への憧れと関心が人々を捉えたのか。日本側もパリやウィーンの万国博覧会に参加。中流家庭でも、室内を日本の品々で飾ることが流行した。

 一方で芸術家らは、こうした美術工芸品の表現のうちに新たな示唆を見いだし、自分の作品に積極的に取り入れていった。

 ジャポニスムはアメリカやイギリス、北欧などでも広がったが、その発信の中心地となったのはフランスだった。

 1870年に帝政が崩れ、共和政に。民衆が文化の担い手という意識が強まっていた。美術批評家らは浮世絵を「民衆のための芸術」と捉え、特に葛飾北斎については、画力の高さだけでなく、庶民の立場からその日常生活を描いた存在として称賛。「民衆を導く自由の女神」を描いたドラクロワなどに、比肩するとも評された。

 また前衛的な画家たちは、ルネサンス以来の遠近法にもとづく空間や定型化した人物表現などの従来のアカデミックな絵画技法に、疑問を抱いていた。

 モネやマネ、ドガら印象派の作品には、北斎の浮世絵に使われる表現がいくつも見つかる。

 例えば、画面の中心に向かって奥行きのある空間を描くという約束事から脱し、浮世絵のように木の枝ごしに風景を描いたりして、個人的な視覚体験を表現しようとした。自然の中の小さな草花や虫に注目したり、人間の生き生きとした自然な動作を表現したりしたのも、従来の西洋絵画にはなかった。

 人々が共に助け合い宗教的な生活を送る理想郷――。ゴッホは浮世絵に学ぶだけでなく、日本を光と色彩に満ちた土地と考え、南仏でゴーギャンと共同生活を始めた。大阪大学の圀府寺(こうでら)司教授は、「情報が限られていた時代。想像を膨らませ、願望を投影したのだろう」。

 パリ・モードでも大きな変化が起きた。身体を締め付けるコルセットからの解放を目指していたデザイナーが、きもののデザインや裁断法に注目。筒型のドレスを作り出した。京都服飾文化研究財団の深井晃子名誉キュレーターは「きものは西洋ファッションの現代化への触媒になったといえる」という。

 ジャポニスムは文学や舞台などにもみられたが、1920年代ごろに終わったとされる。それは日本が、軍備を拡張し領土拡大を目指していた時期。素朴で謎めいた国というイメージが変わったのだろう。

 それから1世紀。来年パリで、日本政府が主導し、フランス側と連携した日本文化の紹介イベントが展開される。「ジャポニスム2018」と題し、ホームページでは「現代日本が創造するジャポニスムは、新たな驚きとともに世界をふたたび魅了することでしょう」とある。

 だが19世紀のジャポニスムは、日本側が意図して起こした現象ではなかった。馬渕館長は、「西洋の人々自身が変化しようとしていたタイミングだったことが大きかった」とみる。

 (丸山ひかり)

◆「誤読」が生む芸術 現代美術家・森村泰昌さん

 日本と西洋文化、両方に複雑な思いを抱き、その関係を考えてきました。僕が西洋美術史上の人物になるのは、「周辺」にいる自分が何とかそこに位置を見いだすための攪乱(かくらん)行為のようなもの。現代美術も、西洋美術から生まれたものですから。

 僕はデビュー作でゴッホに扮しました。彼は日本に芸術の理想郷のビジョンを重ね、お坊さんとして自画像まで描いた。「ゴッホさん買いかぶりすぎ!」と言いたいですけどね。異文化と出会った時に起きる「誤読」から、新たな芸術が生まれた。僕も、「フェルメールの作品は女性を描いていても全て自画像だ」との直感から作品を作りました。彼の作品に自画像はないと言われていますが。

 文化と文化の出会いの可能性を感じる一方で、当時の日本を考えれば、「海外に評価されると急にそれを自慢し始める」という構図は今も続いていると思う。ジャポニスムについて考えることは、日本について考えることでもありますね。

 (注:写真は一昨年、ゴッホに扮した際に撮影)

 <見る> 東京で関連する展覧会が開催中。東京都美術館の「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(1)、三菱一号館美術館の「パリ・グラフィック展」(2)は1月8日まで。国立西洋美術館の「北斎とジャポニスム」展(3)は同28日まで。各館で年末年始の休みがある。

 <読む> ジャポニスム学会編『ジャポニスム入門』(思文閣出版)は地域やジャンル別の広がりがわかりやすい。馬渕明子さんの『舞台の上のジャポニスム』(NHKブックス)と、深井晃子さんの『きものとジャポニスム』(平凡社)はより深く知りたい人に。

◆◆葛飾 応為

(かつしか おうい、生没年不詳。葛飾北斎の娘)

以下Wikiより引用

江戸時代後期の浮世絵師。葛飾北斎の三女。応為は号(画号)で、名は栄(えい)と言い、お栄(おえい、阿栄、應栄とも)、栄女(えいじょ)とも記された。

北斎には二人の息子と、三人の娘(一説に四人)がいた。三女だった応為は、3代目堤等琳の門人・南沢等明に嫁したが、父譲りの画才と性格から等明の描いた絵の拙い所を指して笑ったため、離縁されてしまう。出戻った応為は、晩年の北斎と起居を共にし、作画を続け、北斎の制作助手も務めたとされている[2]。応為は不美人で顎が出ていたため、北斎は「アゴ」と娘を呼んでいたという。なお、北斎の門人・露木為一による『北斎仮宅写生図』に、北斎と応為の肖像が描かれている(「北斎仮宅之図」 紙本墨画 国立国会図書館所蔵)。

(北斎晩年、応為との合作)

初作は文化7年(1810年)を下らない時期と推定される『狂歌国尽』の挿絵と見られる。同じく北斎の娘と言われる画人・葛飾辰女は、手や髪の描き方が酷似し、応為の若い時の画号で、同一人物とする説が有力である。

特に美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をしたともいわれる。また、春画・枕絵の作者としても活動し、葛飾北斎作の春画においても、彩色を担当したとされる。北斎は「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられている。同時代人で北斎に私淑していた渓斎英泉も、自著『旡名翁随筆』(天保4年(1833年)刊)の「葛飾為一系図」で、「女子栄女、画を善す、父に従いて今専ら絵師となす、名手なり」と評している。

晩年は仏門に帰依し、安政2 – 3年(1855 – 1856年)頃、加賀前田家に扶持されて金沢にて没したともされる。また、北斎没後8年目に当たる安政4年(1857年)に家を出て以来消息不明になったとも伝えられ、家出した際の年齢は67であったという。一方で虚心は、『浮世絵師便覧』で慶応年間まで生きている可能性を示唆しており、これらを整合させると、生まれた年は寛政13年(1801年)前後で、慶応年間に没したことになる。

【写楽】

★★諸説あり・写楽は誰なのか

(下記APPクリック)

★★写楽の正体に迫る=池田満寿夫の推理=無名の役者・中村此蔵。他の説も60m

★★ハイビジョン特集 天才画家の肖像 「謎の浮世絵師 東洲斎写楽」50m

http://v.youku.com/v_show/id_XMzU0NjIxNTk2.html?x

★★浮世绘的秘密写楽50m

【歌麿】

★歌麿の美人画5m

★音楽とともに歌麿 & チャイコフスキー9m

★歴史秘話=発見された歌麿の「深川の雪」45m

http://video.fc2.com/content/20140307RY5cYgZt

★日美 喜多川歌麿 美人画に燃やした情熱 – 45mFC2

http://video.fc2.com/content/20131117qbFRqs3W

【広重】

★美の巨人たち 歌川広重「深川洲崎十万坪」26m- FC2

http://video.fc2.com/content/20130914a0BpC549

★音楽とともに東海道五十三次 歌川広重 浮世絵6m

★★日曜美術館・東海道五十三次

★★映画=日曜美術館・広重が描く日本の名所ほか

🔵江戸時代の奇想の画家たち

🔷🔷「奇想の系譜展」 赤旗19.03.22

◆◆(文化の扉)曾我蕭白・伊藤若冲・歌川国芳=奇想の画家、江戸の「前衛」、漂うユーモアと不安

15.10.25朝日新聞

 エキセントリックで幻想的――。異端として忘れられた江戸の画家たちを、45年前、ある美術史家が「奇想」というキーワードでよみがえらせた。画家たちは今、一躍脚光を浴びる。

 辻惟雄(のぶお)さん(83)。東大院生だった1958年、修士論文のテーマに決めた岩佐又兵衛(またべえ)の「山中常盤(ときわ)物語絵巻」を初めて生で見た。「あまりの血腥(ちなまぐさ)さに、弁当のシャケの切り身が喉(のど)を通らぬほどのショックを受けた」(『奇想の発見』から)

 東京国立文化財研究所に勤めていた64年、プライスという米国の富豪が伊藤若冲(じゃくちゅう)を買い回っていると聞き、売約済みを古美術商から借り受け驚いた。「日本画離れした密度の濃い彩色。江戸時代にこうした画家がいたのか」(同)

 同じ頃、古美術商が曾我蕭白(しょうはく)の「群仙図屏風(ぐんせんずびょうぶ)」の写真を職場に持ち込んだ。本来ならめでたいはずの仙人の図柄だが、どぎつい色彩、怪物のような姿形は不気味きわまりなかった。

 68年、編集者に頼まれ、この3人に狩野山雪(さんせつ)、歌川国芳(くによし)を加えて「江戸のアヴァンギャルド」と題した連載を「美術手帖」に発表。2年後、さらに長沢芦雪(ろせつ)を加え、『奇想の系譜』として出版した。

 6人の作風は室町以来の絵画史の規範から外れていたため、異端、卑俗などとされ、美術史上は傍流として扱われていた。

 辻さんは「奇矯(エキセントリック)で幻想的(ファンタスティック)」「因習の殻を打ち破る、自由で斬新な」流れと位置づけ、主流の中の前衛ととらえるべきだと主張。大胆な表現の背景に「彼らを受け入れる、言うなれば悪趣味を持ったパトロンがいたはずだ」とみる。

 美術史家の山下裕二・明治学院大教授は若冲・蕭白・芦雪について、18世紀の京都画壇の成熟ぶりを指摘する。「円山応挙が完璧な絵画の様式を作り上げたので、あえてそれを壊す動きが生まれた。それを受容できる、素養のある富裕な町衆もいた」

 西洋にも同じ流れがあるというのは宮下規久朗・神戸大教授(美術史)。「ルネサンス期に規範が確立されてから、巧拙ではなく画家の個性が重視されるように。16世紀のアルチンボルドらマニエリスムの画家の奇妙さが喜ばれた」

 奇想の画家たちの展覧会は毎年のように開かれ、中でも若冲の人気は突出する。2000年、京都での没後200年展で火がつき、06年には米国のプライス夫妻のコレクションが来日。今や日本美術の「顔」的存在だ。

 現代人に受ける理由を山下教授は「コンピューターのディスプレーに映える」ことという。「ちみつで色がきれい、アップに堪えるからネットで広まった。『わび』『さび』の美意識ではなく、一目見てわかる美しさがある」

 辻さんは明暗の二面性を指摘する。「この世を笑い飛ばすユーモアの精神がある一方、この世に生きる不安も込められている」

 現代にも「奇想」の後継者はいるのか。辻さんが挙げるのは漫画『進撃の巨人』だ。「人間っぽく描かれた巨人の気味悪さと、絶望的な戦いに挑む少年少女。人間存在に対する不安が伝わってくる」

 (安部美香子)

 <読む> 基本となるシリーズは辻惟雄『奇想の系譜 又兵衛―国芳』(ちくま学芸文庫)、『奇想の図譜 からくり・若冲・かざり』(同)。発想の源に触れるには自伝『奇想の発見』(新潮社)。

 <見る> 見られる展覧会は、静岡県熱海市のMOA美術館で岩佐又兵衛「堀江物語絵巻」の一部(11月17日まで)▽東京都文京区の永青文庫「春画展」で岩佐派(11月1日まで)、歌川国芳(12月23日まで)の作品▽名古屋・松坂屋美術館で「歌川国芳展」(11月23日まで)。

 常設では、京都市上京区の相国寺承天閣美術館で伊藤若冲の障壁画▽和歌山県串本町の無量寺・串本応挙芦雪館で長沢芦雪の襖(ふすま)絵、掛け軸など(襖絵は雨天時は複製のみ公開)。

【伊藤若沖】

★★京都歴史探訪・京都が生んだライバル・伊藤若沖と円山応挙の生涯と作品110m

★★NHKスペシャル【若冲 天才絵師の謎に迫る】

★★伊藤若沖ミラクルワールド

https://drive.google.com/file/d/1iUBqQ-Cf03zVnpAHp_9c7JRGsr8EynEj/view?usp=drivesdk

★★極上美の饗宴・伊藤若沖57m

★★リアルをこえる若沖極彩色55m

★★日曜美術館・若沖1045m

★美の巨人 伊藤若冲 パンドラTV

★★日曜美術館 ~夢の若冲!傑作10選~ 60m

★極上美の饗宴 シリーズ アメリカ 秘蔵の江戸名画 1 伊藤若冲 リアルを超える極彩色

57m

http://v.youku.com/v_show/id_XMzExMDYxNzgw.html?x

★★伊藤若沖の動植紗絵=いのちのミステリー.90m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1372097537ZSM72mG

🔵新美の巨人・伊藤若沖・円山・長沢ゆるい日本美術25m

★★伊藤若沖=神の手をもつ絵師(途中から).80m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v137210369p3DWd4bm

★音楽とともに伊藤若冲 & アンリ・ヴュータン6m

★音楽とともに伊藤若冲/ito jakuchu Return to JPN 5m

★伊藤若冲特集 ワシントン ナショナル ギャラリー現地取材 25m

http://m.youtube.com/watch?v=9XnSBoPT1C0

★伊藤若沖クローズアップ現代解説

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3389_1.html

生誕300年をむかえ、いま大ブームの江戸時代の天才絵師・若冲。発見された幻の絵や非公開の秘蔵作などの貴重映像とともに、最新の科学で「絵に隠された謎」に迫る。

「私の絵は千年後に理解される」という謎の言葉を残した江戸時代の天才絵師・伊藤若冲。生命の世界を極彩色と精密な筆致で描き「神の手を持つ男」と呼ばれた。顔料の数も限られ照明もない江戸時代に、圧倒的に鮮やかな絵を描けたのはなぜか?神秘のベールに包まれてきた天才の技に最新鋭の科学で迫る。明らかになった絵に隠された魔術のようなテクニックとは。完全非公開の秘蔵作など貴重な映像と共に天才絵師の謎に迫る。

(赤旗16.05.02

生誕300年をむかえ、いま大ブームの江戸時代の天才絵師・若冲。発見された幻の絵や非公開の秘蔵作などの貴重映像とともに、最新の科学で「絵に隠された謎」に迫る。

「私の絵は千年後に理解される」という謎の言葉を残した江戸時代の天才絵師・伊藤若冲。生命の世界を極彩色と精密な筆致で描き「神の手を持つ男」と呼ばれた。顔料の数も限られ照明もない江戸時代に、圧倒的に鮮やかな絵を描けたのはなぜか?神秘のベールに包まれてきた天才の技に最新鋭の科学で迫る。明らかになった絵に隠された魔術のようなテクニックとは。完全非公開の秘蔵作など貴重な映像と共に天才絵師の謎に迫る。

◆暗い若冲像で問題提起 作家・澤田瞳子(とうこ)さん

 若冲は『奇想の系譜』を読む以前から、画集や京都国立博物館などで見ていました。

 小説にしたいと思いつつ、切り口がわからなかった。ある時、若冲の隠居所に尼姿の妹と男の子がいたと知って、男の子って誰だろうと考え始めました。若冲の贋作(がんさく)を見て、「こんな手間ひまの掛かる効率の悪い偽物をなぜ作ったのか」と考えたのもきっかけになりました。

 『若冲』(文芸春秋)で描いた暗く悔恨に満ちた若冲像は私の直感です。生の喜びの画家と形容されることに疑問があり、問題提起してみたかった。私の好きな「石灯籠図屏風(いしどうろうずびょうぶ)」は、非常にさみしい夕暮れの風景。人間をほとんど描かず、虫食いやしぼんだ花を描く人でした。

 他の「奇想の画家」にも興味があります。蕭白の世界は奇妙でグロテスクですが、生き生きとして楽しそう。仲の良さそうな人物を描ける蕭白は、実生活が充実した人だったと思う。又兵衛は生き方がドラマチックで、精いっぱいのリアルさを絵に込めた。

 若冲は発表するためというより、ただ描きたいから描いたのではないか。純然たる創作意欲とは何かと、作家として最近考えます。

◆(名作誕生―つながる日本美術)「雪梅雄鶏図」

2018426日朝日新聞

「雪梅雄鶏図(せつばいゆうけいず)」 伊藤若冲 江戸時代、京都・両足院蔵

 若冲が繰り返し描いたモチーフのひとつが鶏である。餌を探すポーズの鶏は自分の過去の作品を踏襲しているが、背景の梅の枝を大胆に切り詰め、サザンカの花を効果的に添えるなど、配置や組み合わせに細心の注意を払いながら画面を構成している。こうした自己模倣で研鑽(けんさん)を重ね、後年多くの名作を世に送り出した。

◆旭日に鳳凰、若冲パワー全開 酉年に寄せて 美術史家・東京大名誉教授、辻惟雄

 今年は酉(とり)年。古来、鳥は絵画に描かれてきたが、今まず思い浮かぶのは江戸期の京都の絵師・伊藤若冲(1716~1800)だろう。若冲研究の第一人者で2016年度の朝日賞に決まった美術史家の辻惟雄(のぶお)・東京大名誉教授(84)に、若冲の「旭日鳳凰(きょくじつほうおう)図」について寄稿してもらった。

 去年は若冲の展覧会が東京で大当たりした。トリの年に当たる今年も、鶏の画家として引っ張りだこになろう。ここで紹介する作品は鶏でなく、明治時代に西本願寺第21代門主の大谷光尊から皇室に献上された「旭日鳳凰図」(現・宮内庁三の丸尚蔵館蔵)である。宝暦5(1755)年に描かれたことが、画面右上の落款(らっかん)からわかる。若冲40歳、家業を弟にゆずって、いよいよ代表作「動植綵絵(さいえ)」30幅の制作にとりかかる、その直前の作である。

 物事を企てるに際し計画的だった若冲は、畢生(ひっせい)の仕事と定めた「動植綵絵」制作に先立って、絹地や顔料の準備を怠らなかったと思われる。すでに画家として認められ、浄土真宗の名士までをファンとしていた彼にとり、資金調達の手段とは、絵を描くことであった。家業引退の直前から直後にかけ、彼が描いた花鳥画は、現在知られるだけでも相当な数に上り、その多くが彩色画である。朝日に鳳凰を組み合わせるおめでたい「吉祥」の主題を取り上げた「旭日鳳凰図」は、そのうちの最力作であり、絹地の巾も「動植綵絵」より一回り大きい。

 画面向かって右上に、雲を分けて旭日が昇る。手前には、波打ち騒ぐ岩上に雌雄の鳳凰が止まる。雄の鳳凰は、羽を広げ、青と白で縁つけされた赤のハート形を先につけた尾羽を踊るように振る。右下には赤と白に縁どられた雌の尾羽のハート形がこれと向き合っている。雄の顔は時を告げる鶏のように誇らしい。岩や砂浜に勢いよく寄せる波は、なにか不思議な生き物のように見える。触手のような波頭が、互いにまとわりつくように描かれているからだろう。

 鎖国の当時、中国絵画の新しい傾向は、長崎を経由して日本にもたらされた。当時の輸入品の中には、この図の原型となった、同じ画題の作品もある。だが、それら清の職業画家の絵と比べて、若冲のこの図の個性は際立っている。その筆力の力強さと充実は、実物をみればいっそう印象づけられるだろう。大事業を前にして、自らの力量を試す絶好な機会が「旭日鳳凰図」だった。

 それから約10年後、「動植綵絵」の一図に、鳳凰が取り上げられた。「老松(ろうしょう)白鳳図」がそれである。この図では、旭日は画面右上隅に4半分をのぞかせ、鳳凰は雄のみが、大きな松の枝に止まる。鳳凰の姿形は10年前のそれとほぼ同じだが、白いドレスに着がえて貴婦人のようにあでやかでなまめかしい。尾羽の先のハート形はさらに乱舞の度合いを増し、雌についていた緑のハート形もそこに交じっている。一羽のホトトギスが、松の葉陰から羨望(せんぼう)の目で貴婦人を覗(のぞ)く。

 10年の歳月が「老松白鳳図」に与えた円熟味は、「旭日鳳凰図」にまだない。だがそれに代わる力強さと高揚感が後者にあるではないか。そんな比較はさておき、こうした若冲の不思議な世界が、多くの人たちを魅了し、ブームから伝説、さらには神話の領域にまで彼を押し上げてしまった。その現状を、ただ驚きの目で見守るばかりである。(寄稿)

◆若沖自在=華麗に、奇抜に 

(赤旗日曜版16.12.25

◆旭日に鳳凰、若冲パワー全開 酉年に寄せて

美術史家・東京大名誉教授、辻惟雄

 今年は酉(とり)年。古来、鳥は絵画に描かれてきたが、今まず思い浮かぶのは江戸期の京都の絵師・伊藤若冲(1716~1800)だろう。若冲研究の第一人者で2016年度の朝日賞に決まった美術史家の辻惟雄(のぶお)・東京大名誉教授(84)に、若冲の「旭日鳳凰(きょくじつほうおう)図」について寄稿してもらった。

 去年は若冲の展覧会が東京で大当たりした。トリの年に当たる今年も、鶏の画家として引っ張りだこになろう。ここで紹介する作品は鶏でなく、明治時代に西本願寺第21代門主の大谷光尊から皇室に献上された「旭日鳳凰図」(現・宮内庁三の丸尚蔵館蔵)である。宝暦5(1755)年に描かれたことが、画面右上の落款(らっかん)からわかる。若冲40歳、家業を弟にゆずって、いよいよ代表作「動植綵絵(さいえ)」30幅の制作にとりかかる、その直前の作である。

 物事を企てるに際し計画的だった若冲は、畢生(ひっせい)の仕事と定めた「動植綵絵」制作に先立って、絹地や顔料の準備を怠らなかったと思われる。すでに画家として認められ、浄土真宗の名士までをファンとしていた彼にとり、資金調達の手段とは、絵を描くことであった。家業引退の直前から直後にかけ、彼が描いた花鳥画は、現在知られるだけでも相当な数に上り、その多くが彩色画である。朝日に鳳凰を組み合わせるおめでたい「吉祥」の主題を取り上げた「旭日鳳凰図」は、そのうちの最力作であり、絹地の巾も「動植綵絵」より一回り大きい。

 画面向かって右上に、雲を分けて旭日が昇る。手前には、波打ち騒ぐ岩上に雌雄の鳳凰が止まる。雄の鳳凰は、羽を広げ、青と白で縁つけされた赤のハート形を先につけた尾羽を踊るように振る。右下には赤と白に縁どられた雌の尾羽のハート形がこれと向き合っている。雄の顔は時を告げる鶏のように誇らしい。岩や砂浜に勢いよく寄せる波は、なにか不思議な生き物のように見える。触手のような波頭が、互いにまとわりつくように描かれているからだろう。

 鎖国の当時、中国絵画の新しい傾向は、長崎を経由して日本にもたらされた。当時の輸入品の中には、この図の原型となった、同じ画題の作品もある。だが、それら清の職業画家の絵と比べて、若冲のこの図の個性は際立っている。その筆力の力強さと充実は、実物をみればいっそう印象づけられるだろう。大事業を前にして、自らの力量を試す絶好な機会が「旭日鳳凰図」だった。

 それから約10年後、「動植綵絵」の一図に、鳳凰が取り上げられた。「老松(ろうしょう)白鳳図」がそれである。この図では、旭日は画面右上隅に4半分をのぞかせ、鳳凰は雄のみが、大きな松の枝に止まる。鳳凰の姿形は10年前のそれとほぼ同じだが、白いドレスに着がえて貴婦人のようにあでやかでなまめかしい。尾羽の先のハート形はさらに乱舞の度合いを増し、雌についていた緑のハート形もそこに交じっている。一羽のホトトギスが、松の葉陰から羨望(せんぼう)の目で貴婦人を覗(のぞ)く。

 10年の歳月が「老松白鳳図」に与えた円熟味は、「旭日鳳凰図」にまだない。だがそれに代わる力強さと高揚感が後者にあるではないか。そんな比較はさておき、こうした若冲の不思議な世界が、多くの人たちを魅了し、ブームから伝説、さらには神話の領域にまで彼を押し上げてしまった。その現状を、ただ驚きの目で見守るばかりである。 (寄稿)

 つじ・のぶお 名古屋市生まれ。東京大卒。多摩美術大学長やMIHO MUSEUM館長を歴任。著書に「奇想の系譜」「日本美術の歴史」など。

【曾我簫白】

★★日曜美術館・曾我簫白~あくなき破壊への挑戦 – 45m

または

http://video.fc2.com/content/20130917Tcc4NYEs

★★極上美の饗宴 ボストンの日本美術超傑作「世界初公開!蕭白 巨大龍図の秘密」60m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDAzOTgzOTQw.html?x

【歌川国芳】

★★日曜美術館・江戸で大人気の歌川国芳45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v111439382kfwsXGq9

★★日曜美術館・夢の歌川国芳1045m

★★ぶらぶら美術館・歌川国芳と歌川国貞45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1116571618EAzgebT

★歌川国芳名作選-9m niconico

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm8598622?cp_in=wt_tg

★歌川国芳23m

★歌川国芳10m

★極上美の饗宴 シリーズ アメリカ 秘蔵の江戸名画 3 忘れられた傑作たち

★★極上美の饗宴 月光写す銀の粋 酒井抱一

【若沖・簫白・国芳に続く新たな人気=鈴木其一】

★★日美 踊る朝顔 江戸の絵師 鈴木其一(きいつ)の挑戦 

または

http://video.fc2.com/content/20131126sdmJrvzL

【円空】

★★円空の生涯と木彫り仏88m

★日美 仏像革命 円空の祈り44m – FC2

http://video.fc2.com/content/20131102nvVw4dHc

★円空 飛騨巡礼45m

http://m.youtube.com/watch?v=xZfRdWifbB8

★浮世絵で見る幕末・維新の動乱~黒船来航から箱館戦争まで~ – niconico 22m

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm12209149

★極上美の饗宴「幕末明治 最後の浮世絵師~芳年と清親の東京下町~」59m

【速水御舟】

★★日曜美術館・速水御舟45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1135888959D27yyjj

または

https://m.youtube.com/watch?v=E2-4k4F6Prk

★★極上美の饗宴 日本画を突き抜けた炎 ~速水御舟炎舞

★★林先生の痛快!生きざま大辞典=速水御舟 2014122 41m

https://m.youtube.com/watch?v=1P5lSk6fEzY

https://m.youtube.com/watch?v=1P5lSk6fEzY

★★日曜美術館・速水御舟45m

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安倍首相のメディア工作❶NHK乗っ取り計画など

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【このページの目次】

◆安倍政権のNHK、メディア工作リンク集

◆放送法をねじ曲げテレビ統制に活用=筆者コメント・松田浩・池上彰・桂敬一・青木理

◆安倍政権のメディア対策情報

◆安倍政権のメディア工作のやり方

◆安倍首相のNHK乗っ取り計画

筆者コメント=NHKの報道がだんだん体制よりに

籾井NHK会長誕生の経過

籾井NHK会長の発言

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🔵NHK、メデイア工作リンク集

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◆当ブログ=安倍首相のメディア工作とNHK乗っ取り計画

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/55439545.html(最新情報)

◆当ブログ=権力のメディア活用分析(メデイアの影響・志位=巨大メデイア)

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2907460.html

◆安倍晋三の暴挙、そして乗っ取られたNHK ( 武田邦彦ブログ音声より )7m

https://m.youtube.com/watch?v=qW_CwuYCZvI

◆NHK(1)NHKの現状(独り言)

http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-124.html

◆NHK(2)法制度と政府の介入(独り言)

http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-125.html

満身の怒りをもってNHK新会長を告発したい。記者会見をよく聞いていただきたい。

すでに「靖国派」ともいうべき籾井会長、百田・長谷川経営委員の辞任を求める署名は6万人をこえた。

★★20140801 報道するラジオ「あれから半年~NHK問題から考える公共放送」41m

★ニュース報道・記者会見・共産党の山下氏の批判=http://video.fc2.com/content/20140128AwAavVd2

◆放送法50年=NHKの説明(HP)「放送法は、NHKがその使命を他者、特に政府からの干渉を受けることなく自主的に達成できるよう、基本事項を定めています」「『公共放送』という仕事は、政府の仕事を代行しているわけではありません。『国営放送』でも、『半官半民』でもありません」

15.03.15赤旗)

──────────────────────

🔵安倍政権のメディア対策情報

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◆◆放送法をねじ曲げてテレビ統制に活用ーテレビ朝日系「報道ステーション」が少し心配

【筆者コメント】 

政府のメディア統制、とくにテレビ統制の手段として放送をねじ曲げて「放送法通りの公正な報道を」という言い方で、これまで安倍政権の政治の告発、暴露を行ってきた番組に圧力をかけて、安倍政権よりの報道を増大させる企てが目立ってきた。安倍政権は、これまでテレビ朝日系の「報道ステーション」、TBS系の「ニュース23」「サンデーモーニング」のそもそも総研、そして「報道特集」、NHKの「クローズアップ現代」やETVなどを目の敵にしてきた。そこへ「クローズアップ現代」に「やらせ」問題が起き、「報道ステーション」に古賀発言問題が起きた。自民党は、両放送局を呼び出し圧力をかけた。菅官房長官や自民党が、圧力をかける手段として利用しているのが、放送法第4条だ。安倍首相が一斉地方選のとき「ニュース23」に出演したとき街頭インタビューをアベノミクスに批判的な意見ばかりを紹介したことに腹を立てたことに菅官房長官が後押ししたときからこの手法が始まった。

─────────────────────────────────

放送法

(目的)

第1条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

(放送番組編成の自由)

第3条 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

《改正》平22065

(国内放送等の放送番組の編集等)

第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

─────────────────────────────────

放送法第4条の「四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」を引用して「番組が一方的な見解でかたよっている。違う見解も紹介すべきだ」というのである。

こうした政府・自民党の圧力をもろに受けて放送局が方向転換しつつある典型は、「報道ステーション」である。この1年間、古舘キャスター、恵村順一郎解説者で他局の追随を許さぬ政府批判の報道を展開してきた番組が、放送局の意向で大きく変化を遂げつつある。月~木曜日には日替わりの解説者となり、金曜日はゲスト解説者となった。日替わり解説者は、立野純二、ショーン・マクアードル川上、中島岳志、木村草太の4人。まあまあ聞けるのは、立野氏と中島氏ぐらい。憲法学者の木村氏は、すべてを憲法条文につなげるために狭さを感じる。古舘も努力はしているが、「多くの角度から解説する」という局の意向は、全体として貫徹されている。戦争法案の解説でも、森本敏氏や小川和久氏、岡本行夫氏などの政府よりの学者が堂々と登場するようになった。ショーン・マクアードル川上は、戦争法案賛成の解説もしている。反動的な思想家、「養老孟司氏に聞く」企画が8月から始まった。一方でTBSの「ニュース23」では、時間は短いものの、戦後70年・「千の証言」や戦争法案にしぼって、かつて古舘・恵村コンビ時代の「報道ステーション」と同じようなキャンペーンを岸井解説者主導で行っている。対照的だ。古賀事件以降「報道ステーション」で起きている事態は由々しき事態と思われる。いずれ古舘の交替もありうる。こうして、官邸と自民党の思惑通り「放送法第4条に沿った改革」として視聴者に毎日流されている。これが筆者の杞憂であれば良いのだが、毎日流されている「報道ステーション」を見ているといよいよ心配になる。プロデューサーの交替と古賀事件がこうした事態をもたらした。古賀氏は表裏のない方だろうが、古賀事件は、古舘「報道ステーション」対策を考えていた官邸・自民党とテレビ朝日幹部に完全に利用されたのである。

(報道ステーション」は大丈夫なのか? 4月24日の岡本行夫氏出演めぐる意味=篠田博之 | 月刊『創』編集長。http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20150427-00045210/参照)

放送法の定める中立公平や不偏不党はあくまで、異なる意見のある問題には異なる視点から報じることを求めているものであって、政府や与党を批判してはいけないという意味は一切含まれていない。また、放送法では「異なる視点」をどのように担保していくかについても、各放送局の裁量に委ねられている。なぜならば、放送法はその第3条において、何人に対しても放送への介入を禁じているからだ。

 つまり放送法は同法が定める中立公正原則や不偏不党原則などを口実に放送局に介入することは、政府であろうが自民党であろうが、認めていないのだ。

 ところが、現実には当の放送局は放送法によって政府からの自立が保障されているいるにもかかわらず、なぜか政府や政権与党からの圧力に対して極端に弱腰である。その背後にあるのは、日本独特の放送免許制度だ。政府は、免許の付与を通じて自分たちの生殺与奪を握る権限を有している存在となっているのだ。

さらに民放の場合、大なり小なりスポンサーである大企業の意向も考慮に入れなければならない点であろう。放送法第4条は、政府一辺倒の番組の批判に使えるが、逆に政府批判の番組の政府よりへの変質にも使われる。私たちとしては、放送法がなぜつくられたのか、その歴史にさかのぼりながら活用していかねばならない。

◆松田浩=自民党の放送干渉は違憲、放送法の精神

15.06.17赤旗)

◆放送90年、政府の放送干渉を許すな

15.05.17赤旗日曜版)

◆◆池上彰の新聞ななめ読み=テレ朝・NHK聴取 自民こそ放送法違反では

2015424日朝日新聞

テレビ朝日とNHKに対する自民党の事情聴取を論じた新聞各紙の社説。いずれも批判的なトーンだった

 これが欧米の民主主義国で起きたら、どんな騒動になることやら。放送局の放送内容に関して、政権与党が事情聴取のために放送局の幹部を呼び出す。言論の自由・表現の自由に対する権力のあからさまな介入であるとして、政権基盤を揺るがしかねない事件になるはずです。

 テレビ朝日の「報道ステーション」とNHK「クローズアップ現代」で事実ではないことが放送されたとして、自民党が、両局の幹部を呼んで事情聴取しました。

 これについて、新聞各紙は記事で報道すると共に、社説で取り上げました。

 〈放送は自主・自律が原則であり、放送局を萎縮させるような政治介入は控えなければならない〉(毎日4月17日付朝刊)

 〈番組に確かに問題はあった。だからといって、権力が安易に「介入」と受け取られる行為に踏み込むことは許されない〉(朝日4月17日付朝刊)

 〈放送免許の許認可権は、総務省が持っている。意見聴取は、政権側による「圧力」や「介入」との疑念を持たれかねない〉(読売4月18日付朝刊)

 いつもは論調に大きな違いのある新聞各紙が、この問題に関しては、自民党に批判的な立場で歩調を揃(そろ)えています。それだけ重大な問題であるとの認識では共通しているのでしょう。

 朝日新聞は、さらに4日後に再び社説で取り上げました。

 〈番組内容に問題があったことは、両放送局とも認め、視聴者におわびしている。だからといって、その問題を理由に政権党が個別の番組に踏み込むのは、行き過ぎた政治介入というほかない〉(朝日4月21日付朝刊)

 ただ、毎日の社説を読むと、「放送局を萎縮させるような政治介入は控えなければならない」と書いています。では、萎縮させないような政治介入ならいいのか、と突っ込みを入れたくなる文章です。

 そもそも政治介入はいけないはず。だったら、「政治介入は控えなければならない」と書くべきだったのではないでしょうか。いや、「控えなければならない」とは、妙に微温的です。「政治介入は許されない」と、なぜ書けなかったのでしょうか。まさか萎縮なんか、していませんよね?

 読売は、「疑念を持たれかねない」という批判。「持たれかねない」という文章には、「本当はそうではないけれど」という文意が垣間見えます。これも微温的ですが、それでも読売の場合は、この文章の前に「政権与党がテレビ局幹部を呼び出すのは、行き過ぎではないのか」と、キッパリ批判しています。

 朝日新聞は、2度目の社説で、「行き過ぎた政治介入」と断じています。態度が明確です。

 では、なぜ自民党の行動は問題なのか。自民党が呼び出した理由は、放送法に違反した疑いがあるから。放送法の第4条第3項に「報道は事実をまげないですること」とあるからです。

 しかし、実は放送法は、権力の介入を防ぐための法律なのです。

 放送法の目的は第1条に書かれ、第2項は次のようになっています。「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」

 つまり、「表現の自由」を確保するためのもの。放送局が自らを律することで、権力の介入を防ぐ仕組みなのです。

 この点に関しては、さらに第3条に明確化されています。「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」

 戦前の日本放送協会が権力の宣伝機関になっていたことへの反省を踏まえ、放送局が権力から独立したものになるような仕掛けにしたのです。これが放送法です。

 自民党には、「法律に定める権限」がありませんから、放送局に対して干渉することはできないのです。その意味では、自民党の事情聴取こそが放送法違反になりかねない行為だったのです。

◆◆松田浩=自民の放送局聴取 憲法の精神に背く暴挙だ

2015516

 自民党がテレビ朝日とNHKの幹部を呼びつけ、個別番組の内容について異例の事情聴取を行った。「報道は事実をまげないですること」と定めた放送法4条に違反した疑いがあるからだという。

 しかし、自民党のこの法解釈は、そもそも間違っている。政治権力が言論に介入した戦前の教訓を踏まえ、「放送の自由」を守るために制定したのが放送法である。むしろ自民党の事情聴取こそが、放送法の精神に反し、憲法21条の「表現の自由」規定に背くものなのだ。誤った解釈をまかり通らせていては日本の民主主義に大きな禍根を残すことにもなりかねない。何が間違いであるかを明確に指摘しておきたい。

 1948年、芦田内閣が当初用意した放送法案の4条には現行の「報道は事実をまげないですること」と同じ趣旨の規制条項がいくつも盛り込まれていたが、連合国軍総司令部(GHQ)法務局が反発。「憲法21条と全く相いれず、放送を権力の宣伝機関としてしまう恐れがある」として全面削除を求めた。政府も受け入れ、関連条項を4条から全面削除した。放送法制定史に残る「GHQ法務局の放送法案修正勧告」である。

 その後、放送法制定の最終段階で、3条(放送番組編集の自由)を大前提に、「政治的に公平であること」「できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」などの項目も加え、いわば精神規定として盛り込んだのが4条(当時の44条)なのだ。言論法学者の間で、これを放送事業者が順守すべき「倫理規定」とみる解釈が通説になっているのは、そう見なさないことには憲法21条との整合性がとれないからでもある。

 政権党による事情聴取が大きな政治的圧力となり、威嚇効果を発揮するのは、政府が放送局に対し、生殺与奪の権限に等しい放送行政権(免許権)を一手に握っているためだ。自民党情報通信戦略調査会の川崎二郎会長は「停波処分」の選択肢をちらつかせながら欧州の放送規制機構を例にBPOの法制化の必要性を語ったという。だが、そもそも欧州の大勢が機構設置を指向している最大の理由は、放送行政を政府から独立させ、政府が放送に介入する余地を封じるためである。政府がより強力に放送規制に関与する口実にこれを使おうというのなら、国民を欺く言説といわざるをえない。

 国民の「知る権利」に責任を負うべきNHKや民放、新聞などのメディアは一丸となって、憲法の精神に背く政権党の暴挙に立ち向かうべきだ。広範な国民世論を呼び起こし、こうした政治介入を許さない制度や仕組みを確立することこそが、いま緊急に求められている。(まつだひろし 放送史研究者)

◆◆安倍政権の圧力―問われるメディア=桂敬一・青木理

201548()赤旗

 安倍首相と政権のいっそうの右傾化と暴走はメディアへの干渉・圧力を大きな特徴としています。NHKの翼賛放送局化をはじめとしてテレビへの攻勢も目立っています。この事態にメディアと国民はどう立ち向かっていけばいいのでしょうか。研究者とジャーナリストに聞きました。

◆◆桂敬一=萎縮を克服し 国民とともに

写真

(写真)かつら・けいいち 1935年生まれ。日本新聞協会研究所長、東京大学新聞研究所教授、立正大学教授などを歴任(ジャーナリズム研究)。

 一昨年の秘密保護法、昨年の集団的自衛権行使容認といった「安倍政治」の暴走は、これまでの戦後史にはなかった現象、露骨な右傾化の動きで、今やそれが行き着く先の危機、戦後民主主義の崩壊が危ぶまれます。

◆取り込みが特徴

 この右派路線は、新聞・テレビなどメディアの取り込みを大きな特徴としており、マスコミ対策の要には、元NTT広報部報道担当課長の世耕弘成官房副長官がいます。

 NHKの取り込みでは、安倍人脈の財界人が動いて経営委員会に委員を送り込み、そこの推挙で、あの籾井勝人氏を会長に据えました。籾井会長は就任会見で「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」と述べ、その後のNHKの報道の安倍ベッタリは、目に余るものがあります。

 民放も含めた放送全体への干渉もひどい。昨年の総選挙に臨んで自民党は、副幹事長・報道局長名で「公平中立と公正」を求める異例の要望書を在京テレビ局に送りつけました。

 メディアの側にも、みずから介入を招く弱点があったのではないかと考えます。

 2009年の総選挙の際、朝日新聞は「政権選択の選挙」を唱え、他紙の「政策選択の選挙」と比べ、民主党政権の実現支持が明白でした。だが、それが実現すると朝日は、与党になったらおとなになれと、鳩山首相のアジア政策をくさしました。

 元来朝日は船橋洋一氏を筆頭に、アーミテージなどの「ジャパン・ハンドラー(日本を操る者)」人脈との関係が強く、自民党流の対米重視です。

 これでは足元を見透かされてしまう上に、読売・産経が自民一辺倒で、メディア全体としては「慰安婦問題」「歴史認識」「原発」「護憲」、どの点でも安倍政治との対決が不徹底になりやすい。とくに日米安保のゆがみが集中的に現れている沖縄問題、対米経済従属を深めるTPP(環太平洋連携協定)との対決ができません。

◆言論の自由危機

 メディアが「言論の自由」を標榜(ひょうぼう)し、国家権力の横暴を阻むときは今です。ところが安倍首相が自分の「言論の自由」を口にし、メディアを恫喝(どうかつ)する異変が生じています。

 昨秋、TBSに出演した首相は、この局の番組が「アベノミクスの恩恵を感じない」とする町の声を拾って報じたのを「(局が声を)選んでいる」と公然と非難、国会で後日問題にされると、「私にも言論の自由がある」と反発しました。

 「言論の自由」とは、国民へのその保障を憲法が政府・国家に義務づけているもので、最高権力者=首相なら、どこでもなんでも言える、というような自由ではありません。

 とくに免許事業である放送の生殺与奪権を握る首相が、テレビで制作者を脅すようなことを言うとは、言語道断です。

 「言論の自由」の上に成り立つジャーナリズムの実践に携わるメディアは、単なるビジネスではなく、社会的公共財としての役割発揮が国民から期待されています。

 しかし、その自由の実践が安倍流「メディア取り込み」のなかで萎縮しがちで、とくに昨年の「朝日バッシング」以降、メディアの現場のあちこちで自粛が蔓延(まんえん)、大事な自由が使い切れていないのが気になります。

 アメリカと一緒に世界中どこででも戦争ができる体制の構築を急ぎ、今国会で安全保障関連法制定を強行しようとする安倍政権に対し、一点共闘の境界を越えた市民が3月22日、一斉に「NO!」を突きつける大集会を成功させました。

 平和憲法破壊のたくらみを阻止する、こうした「国民の正当な怒り」に依拠するならば、メディアはなにも恐れる必要はありません。萎縮を克服して、「国民とともに起(た)つ」ことこそ、今求められているものです。 

◆◆青木理=伝えるべきは 果敢に伝える

写真

(写真)あおき・おさむ 1966年生まれ。共同通信記者としてソウル特派員など務める。2006年退社。11年からテレビ朝日「モーニングバード」などでコメンテーター。

(写真・山城屋龍一)

 僕が出演するのは情報番組が多く、政治ニュースをそれほど扱っていませんが、報道番組を中心に政権の影や圧力が強まっているのは間違いありません。

 例えば、ある番組に与党幹部が出演した際、司会者が少し強い調子で批判し、直後に身内の政治部記者から番組にクレームがきた。取材しにくくなることなどを恐れたんでしょう。また、一部のプロデューサーには「政権批判ばかりでなく、いいところも言及してください」などと言ってくる者もいる。直接の圧力ではありませんが、一種の萎縮、自粛でしょう。

 以前はこのようなことは無かった。安倍政権になってから顕著です。

◆自省すべき点も

 背景にあるのは、メディアに強圧的な政権の態度です。

 昨年、TBS「ニュース23」に首相が出演した際、街頭インタビューが政権批判ばかりだとキレる騒動がありました。バカげた話です。首相を出演させてヨイショの声を伝える方が異常でしょう。むしろ批判を積極的に紹介し、首相も丁寧に応じてこそ意味がある。民主主義社会におけるメディアと権力者の役割です。

 しかも、直後に自民党は在京キー局に「公正中立」な報道を求める文書を送りつけた。こうした強圧的な態度にメディアも戦々恐々としている。

 メディア側にも自省すべき点があります。特に大手メディアは記者クラブ制度などの悪弊をあらためず、「権力監視」といいながら、自らも特権階級に身を置いている。そこを市民に見透かされ、メディア批判はかつてないほど広がっています。政権と対峙(たいじ)することを放棄し、萎縮や自粛傾向を強めれば、メディア不信はさらに広がり、政権のやりたい放題となってしまう。

 巷の(ちまた)書店には嫌韓・嫌中本が並んでいます。情報番組でも中国のコピー商品などの話題を大きく取りあげたり、韓国の事故や事件を盛んに取りあげたりし、「日本はスゴい」といった内容が増えている。視聴率が取れるんだそうです。

 ネット右翼と呼ばれる連中が多数派とも、日本の世論を左右しているとも思いません。ただ、自国を優越視し、隣国を下に見る風潮が強まっている。また、ネット右翼のような連中は、意に沿わない報道に露骨な攻撃を仕掛けてくる。電話だったりメールだったり、ツイッターなどでも盛んに批判を繰り広げる。

 僕も経験がありますが、そうした抗議への対応は面倒だから、刺激するような話題は避けようそう考える番組制作者がいるのも事実です。

 もちろん、制約のなかで頑張っている制作者もいます。一方、現実には今のテレビや新聞の過半は政権応援団と化している。メディアの役割を理解しない政権下、かつてないほど悪い状況が生まれています。

◆声援励まし必要

 テレビもジャーナリズムの重要な一翼を担っている以上、どんなに政権が強圧的でも、伝えるべきは果敢に伝えないといけない。辛うじてファイティングポーズをとっている番組には、声援や励ましの声を届けることも必要でしょう。

 戦後70年、今ほど異常な状況はありません。特定秘密保護法が強行成立し、集団的自衛権の行使容認が閣議決定され、安保法制の整備を含め、これまでの歯止めは次々と取り払われてしまいつつある。憲法「改正」も企ま(たくら)れている。

 メディアとジャーナリズムの矜持(きょうじ)にかけて、踏ん張らねばならない。私たちは歴史の岐路に立っています。 

◆◆テレビ朝日の報道ステーションに自民党から圧力文書、やっぱり圧力を受けていた

日刊ゲンダイ15.04.11

 官邸からの圧力があった――「報道ステーション」のコメンテーターだった古賀茂明氏に番組降板の真相をバクロされたテレビ朝日は、いまだに混乱が続いている。「報道ステーション」の打ち切り説も流れている。

 圧力をかけたと名指しされた菅義偉官房長官は「まったくの事実無根」と否定しているが、すでに昨年末、安倍自民党が「報道ステーション」に圧力文書を送りつけていたことが分かった。この文書にテレビ朝日は震え上がったという。本紙はそのペーパーを独自入手した。

 文書が送りつけられたのは、2014年11月26日。11月21日に衆院を解散した直後だった。自民党の福井照報道局長の名前で、「報道ステーション」の担当プロデューサーに送られている。

 文書は、〈11月24日付「報道ステーション」放送に次のとおり要請いたします〉というタイトルがつけられ、〈アベノミクスの効果が、大企業や富裕層のみに及び、それ以外の国民には及んでいないかのごとく……〉と番組を批判し、さらに〈放送法4条4号の規定に照らし……十分な意を尽くしているとは言えません〉と、放送法まで持ち出して牽制している。

 テレビ朝日は相当ビビったらしく、安倍自民党に恭順の意を示すためか、その後、担当プロデューサーには異動を命じている。異例の人事だった。

「自民党は11月20日、在京キー局各社に対し、中立な選挙報道を求める、いわゆる圧力文書を送っています。その直後、番組に対してまで文書が送られてきたことで、テレ朝は真っ青になったはずです。自民党からの文書の趣旨は、テレ朝の中堅幹部のなかで周知徹底されました」(テレ朝関係者)

 しかし、権力がメディアを脅し、報道機関が屈しているとしたら恐ろしいことだ。

「放送法を持ち出し、中立に報道しろと要請するのはこちらは目を光らせているぞという威嚇に等しい。どうかしているのは、テレ朝以外の報道各社です。これは他人事ではないですよ。なぜ、問題にしないのか。いま傍観していたら、圧力はどんどん強まる一方です」(政治評論家・山口朝雄氏)

 自民党とテレ朝は、それぞれ文書を送り、受け取ったことを認めた。この国のメディアは、正念場に立たされている。

◆「報ステ」も圧力文書触れず テレ朝が安倍政権に弱腰な理由

2015412

安倍と仲良しの早河会長(左)

 自民党が昨年11月、衆院選解散後にテレビ朝日「報道ステーション」のプロデューサーに放送内容を批判する文書を出していた問題。テレ朝広報部は本紙に文書受領の事実を認める一方、「特定の個人・団体からの意見に左右されることはありません」(広報部)と回答した。

 そうであれば、降板した元経産官僚の古賀茂明氏(59)が番組で「I am not ABE」と掲げた後の局内の周章狼狽ぶりは何だったのか。なぜ担当プロデューサーは番組を降ろされたのか。そもそも報道機関であれば、文書を受け取った段階で自民党に抗議し、その経緯を放送するのがスジ。自民党の対応は論外だが、テレ朝の腰抜け姿勢にもガッカリしてしまう。

「圧力を掛ける自民党守旧派は許せない」――。1993年の民放連の会合で、当時の椿貞良・テレ朝報道局長は、報道姿勢に難クセを付ける自民党を痛烈に批判。後で国会に証人喚問される事態(椿事件)を招いたが、こんな「気骨稜稜」とした雰囲気は今は昔だ。

 菅官房長官は10日の会見で批判文書について「圧力を加えたものではない」と言ってのけたが、官邸詰のテレ朝記者から「じゃあ何が目的だったのか」と突っ込んだ質問はなかった。きのうの「報ステ」でも、この話題には一言も触れなかった。

◆安倍政権はテレ朝をなめきっている

 一体なぜ、テレ朝は安倍政権にこれほど弱腰なのか。理由のひとつに考えられるのは、放送事業以外のビジネスに軸足を移しつつあることだ。

「70年代から、森ビルと二人三脚で六本木の再開発に取り組んできたテレ朝は、03年に本社機能を六本木ヒルズに移転した後も、周辺の不動産開発を進めてきた。13年には本社近くに多目的施設の『ゴーちゃん。スクエア』を造り、昨年2月には稲城市内の土地(約1万6000平方メートル)を約33億円で取得。映像ライブラリーを中心とした商業施設の開発工事を始めています。再開発事業は行政の理解が欠かせず、ヘタに時の政権に盾突けば計画はニッチもサッチもいかない。フジの日枝久会長がお台場にカジノを誘致したくて安倍首相とせっせとグリーン会談を重ねるのと同じ構図です」(放送ジャーナリスト)

 テレ朝の早河洋会長と安倍首相が近しい関係にあることも、スリ寄る原因のひとつだろう。

「元テレ朝政治記者の末延吉正氏は山口出身で、安倍首相とは幼少のころからの付き合いです。その末延氏を通じ、早河会長は安倍首相と仲良くなったらしい。現場はそんな2人の関係を知っていて、『親分に逆らっても仕方ない』と思っているのです」(放送作家)

 元テレ朝記者で、「放送レポート」編集長の岩崎貞明氏がこう言う。

「過去にも番組に対する政権の注文はありましたが、電話や口頭など証拠に残らないような形でした。しかし、今は違います。これは政権がテレビをなめきっている証左で、それに対して何も言わないメディアも問題です。とりわけ政権側は(会長と安倍首相が親しい)テレ朝は言いやすい、と考えているのかもしれません」やテレ朝はいっそのこと、放送免許を返上して不動産ビジネスに専念したらどうか。

◆◆ロイター=安倍政権下で強まるメディアの自粛ムード、「批判後退」に懸念も

ロイター15/2/25

[東京 24日 ロイター]日本のメディアが、安倍晋三政権の反応に配慮して報道の自粛姿勢を強めているのではないかとの懸念が、ジャーナリストや専門家の間に広がっている。安倍政権が特定のニュース報道についてあからさまな干渉を行っているとの指摘はないものの、メディア側は政権の不興を買って取材機会を失う事態を恐れているのだろう、と彼らはみる。

「ここ数年、メディアは権力の座にある人々を不愉快にさせるという重要な役割を果たしていた。しかし、安倍政権のもとでは、メディアは後退しつつある」と、テンプル大学日本校でアジア問題を研究するジェフリー・キングストン教授は指摘。「いまはメディアに自粛を促すような、ぞっとする雰囲気がある」と懸念を示す。

安倍首相は2012年に首相の座に返り咲いたが、第一次安倍内閣時代はメディアとの関係が良くなかった。スキャンダルや自身の健康問題などにより、2007年に辞任に追い込まれた。今の政権では、安倍首相は同じ過ちを避けたいのだろう、と専門家は指摘する。

首相は日本放送協会(NHK)の会長に籾井勝人氏を指名したが、その人事はNHKの独立性に疑問を投げかける結果となった。2014年1月の会長就任記者会見で、籾井氏は「政府が『右』と言っているのに我々が『左』と言うわけにはいかない」と発言したためだ。

年末の総選挙を控えた昨年12月には、与党自民党が在京テレビ各局に「選挙時期に一層の公平中立な報道」を求める文書を送った。これを多くのジャーナリストは、「批判を控えなければ、政府関係者への取材が難しくなる」というシグナルだと受け取った。

全国紙よりも独立色が強いとみられている東京新聞の外報部次長を務める久留信一氏は、「政府への批判がこれほど控えられているのは初めてではないだろうか」と指摘する。同氏によれば、過去にメディアが報道を自粛したのは、皇室に関連する報道や2011年の東日本大震災直後に派手な番組を控えるケースなどだった。

<権力にすり寄るメディア>

専門家は、かつては政権に批判的だったメディアも、今では政権に対してより友好的なトーンに転じている、とみる。NHKの元プロデューサーで、現在は武蔵大学社会学部の永田浩三教授は「政府に対する批判は大幅に減少したのではないか」と話す。

そうしたメディアの変化を示唆する一例が、テレビ朝日の「報道ステーション」の人事をめぐる観測だ。関係筋によると、安倍政権を批判してはいけないという内部の圧力に屈しなかったあるプロデューサーが、4月から新たなポストに異動することになったという。

同番組では、歯に衣着せぬ物言いで知られるゲストコメンテーターにも降板の話があるようだ。「報道ステーション」で先月、過激派組織「イスラム国」による邦人人質事件をめぐる政府の対応を非難して論議を呼んだ元経済産業省官僚の古賀茂明氏はロイターの取材に対して、4月からの出演要請はないと告げられたことを明らかにした。

これについて、テレビ朝日は「人事や出演者について決まっていることはない」とのコメントをロイターに寄せた。

菅義偉官房長官は24日、記者団に対して、政府は報道の自由を全面的に尊重している、との認識を示した。邦人人質事件をめぐる政府の対応がテレビで批判されていることに言及、それはまったく事実と異なるとしたうえで、長官は「そういうことを見ても、日本ではまさに自由がしっかり保障されているのではないか」と答えた。

しかし、ジャーナリストや専門家は、邦人人質事件以来、国内メディアによる報道自粛の動きは強まっているとみる。今月9日に発表された「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」には、表現の自由を支持するジャーナリストや学者らを中心に3000人近くが署名している。

声明に参加した古賀氏は、「政権が何もしないのに、報道機関が勝手にすり寄った記事を書いたり、批判を自粛するような段階に来ている。国民に正しい情報が流れず、正しい判断ができなくなっている」と、強い懸念をあらわにした。

【公私混同15.03.28赤旗日曜版】

◆◆NHK国策放送化の危険(15.03.15赤旗日曜版)

戸崎賢二(元NHKディレクター)

◆◆NHK・籾井会長の発言「放送法に反する」上村達男・早大教授に聞く

 NHKの経営委員会で委員長代行を務めてきた上村(うえむら)達男・早稲田大教授(会社法・資本市場法)が3年の任期を終え、2月末で退任した。経営委は会長を任免し、監督する立場にある。籾井勝人会長の言動や資質を在職中から批判してきた上村氏に、問題点と課題を聞いた。

 ――籾井会長の発言が繰り返し問題視されています。

 放送法はNHKの独立や政治的中立を定めています。しかし、就任会見時の「政府が右と言うことに対して左とは言えない」とか、従軍慰安婦問題について「正式に政府のスタンスがまだ見えない」といった最近の籾井会長の発言は、政府の姿勢におもねるもので、放送法に反します。

 会長は「それは個人的見解だ」と言って、まだ訂正もしていませんが、放送法に反する意見が個人的見解というのは、会長の資格要件に反していると思います。

 ――籾井会長を満場一致で選んだのは、上村代行を含む12人の経営委員です。

 確かに経営委に責任があります。ただ、籾井氏の経歴を見ると、一流商社で副社長まで務め、海外経験も豊富な人物。数人の候補者がおり、籾井氏には異論が出なかった。20~30分の面接では、信条の問題まではわからない。「放送法を守ります」と繰り返していましたし。

 ――市民団体などには「経営委は籾井会長を罷免(ひめん)すべきだ」という声もあります。

 経営委の過半数が賛成すれば会長を罷免できます。籾井会長を立派な会長だと思っている委員はほぼいないのではないか。ただ、就任会見直後ならともかく、今は罷免までしなくても事態を切り抜けられると考えている委員の方が多いとみています。

 私はずっと罷免すべきだと思っていた。ただ、罷免の動議をかけて、否決されると、籾井会長は「信任された」と思うでしょう。それでは逆効果になると考えました。

 ――経営委員が政権の意向を忖度(そんたく)していることはありませんか。経営委員を首相が任命する仕組みが問題では?

 忖度している委員がいるかどうかは臆測になるので控えますが、そうした懸念があるために、任命に国会の同意が必要になっている。政権が代わるごとに体制や運営方針が変わるのは良くない。この点に懸念が生ずる運用が定着するようだったら、国会の3分の2とか4分の3以上の賛成を要するといった制度改革も必要になると思います。

 ――NHK会長が担う権限をどのように考えますか。

 NHKは非常に公共性が高いにもかかわらず、所管官庁が介入しない珍しい存在です。電力会社でも金融機関でも陰に陽に官庁から口を出される。しかし、総務省は報道機関であるNHKには干渉できない仕組みになっている。

 経営委は経営の重要事項の決議機関ですが、専門性に乏しい12人の集まり。関連団体や派遣社員を含めれば2万人にもなる大組織を率いる会長がチェックされない存在になりやすい。籾井会長には、びっくりするぐらい権力があることになっているんです。

 ――監査委員会の機能強化を意見して退任しました。

 監査委員会や事務局が調査権限を発揮して、会長や理事が何をしているのか、経営委に伝えなければならない。

 ――テレビ放送をインターネットで流すことが今後本格化し、受信料制度の見直しも議論されそうです。NHKの公共性について、さらに国民の理解が必要なのでは?

 NHKは本来、社会にとって重要な公共空間(コモンズ)なのです。欧州の主要国では、受信料はテレビを見る対価という感覚を超え、公共財を市民社会が支えるという考え方がみられます。

 籾井会長が起こした最も大きな問題の一つは、NHKの予算案に、国会で与党だけが賛成するという状況を生み出したことです。視聴者には野党支持者もいるのだから、原則的に全会一致で承認されることに意味があった。NHKは時の政治状況に左右されてはならないのです。(聞き手・中島耕太郎)

◆◆押しすぎ政権、引けすぎテレビ

朝日新聞特別編集委員・山中季広

201531日朝日新聞(日曜に想う)

 先週、東京でコント集団ザ・ニュースペーパーの公演を見た。国会で飛ばしたヤジの言い訳をする安倍晋三首相の口まねに客席が沸いた。

 「イスラム国」、農協など辛口の新ネタを満喫しながら、政治コメディーの文化は国ごとに違うものだと考えた。

 米国で政治ネタはお笑いの華である。大統領の演説のトチリはもちろん野党重鎮の靴下の穴にまでつっこみを入れる。フィリピンでは物まね芸人が、恋人に去られた大統領を盛んにちゃかす。対照的なのが中国で、政治番組には風刺の「ふ」の字もない。

 日本はどうか。テレビ界で働く友人知人の誰もが「このごろは政治をお笑いネタにしにくい」と嘆く。いつからテレビ空間は窮屈になったのだろう。

 TBS「報道特集」の金平茂紀キャスター(61)は「昨年の総選挙あたりから各局に変化が出てきた」と見る。転機のひとつは11月の衆院解散当夜、首相が出演した生番組だった。「アベノミクスの恩恵が実感できない」と語る女性の街頭VTRが映ると、スタジオにいた首相の声がとがった。「事実6割の企業が賃上げしているんですから。これ全然反映されていませんが。おかしいじゃないですか」

 金平氏によると、在京キー局に自民党から選挙報道の公正中立を求める文書が届いたのはその2日後だった。党幹部が民放5社の取材キャップらを呼び、要請文を手渡した。街頭インタビューやゲスト出演者の選定にも細かく注文がついた。

 「過去の選挙で、総務省から『当選速報は慎重に』と要請されたことはある。今回は違う。政権与党が報道側をじかに縛ろうとした。これほど露骨な干渉は聞いたことがありません」

     *

 在京ラジオ局の幹部(58)は、歴代の首相は番組のネタにしやすいタイプと、しにくいタイプに大別できると話す。カブを両手に掲げて「株よ上がれ」と言える故・小渕恵三氏は抜群の素材。中曽根康弘氏や小泉純一郎氏もシャレの通じる首相だったそうだ。

 今回の取材中、話はきまってNHKに及んだ。お笑いコンビの爆笑問題が「政治家ネタをぜんぶNHKにボツにされた」と暴露。籾井勝人会長が「ある個人に対してギャグで打撃を与えているつもりかもしれないが、私は品性がないと思う」と述べて、事態の深刻さがいっそう知れわたった。

     *

 放送史を開くと、NHKの自己規制はいまに始まったことではない。

 有名なのは、人気タレント三木鶏郎氏がNHKに抗議して雲隠れした1954年春の騒動だ。ラジオ番組「ユーモア劇場」のコントをNHKが放送直前にボツにした。三木氏は「政治ダネを全部カットされた」と悔しがった。

 ときのNHK会長の釈明がつたない。「私はユーモア劇場で人の揚げ足取りはしない方針。三木君たち番組作者には政治的感覚が十分でないと注意した」。みごと火に油を注いだ。

 今回、私は文化放送を訪ね、昨年末にオンエアされた「三木鶏郎生誕100年記念番組」を聴かせてもらった。

 「気象通報の時間です。日本全土を覆った汚職台風は猛威を……」。61年前のNHKがボツにしたのは、政界を震わせた造船疑獄のコントだった。

 当時、吉田茂首相率いる自由党は「ユーモア劇場は野党的すぎる」とNHKを批判。騒ぎの3カ月後、NHKは番組を打ち切る。疑獄に対する世論の批判を浴びて吉田内閣が倒れたのは、番組終了のわずか半年後だった。

 現代に戻ろう。いまほど放送界につっこみを入れたがる政権与党が近年あっただろうか。一強多弱時代の一断面かとは思うが、これが米国やフィリピンなら政権を揺さぶる大失態である。

 看板政策を批判する映像を見せられて、放送中にカメラの前で怒りの声を発したら、それはもう大統領の負け。放映後に与党がテレビ各局を呼びつけ報道や編成に注文をつけるなど国によっては論外も論外、即アウトである。

◆◆<記者の目>NHK・籾井会長の1年

望月麻紀(東京学芸部)毎日新聞15.02.04

衆院予算委で自らの経営方針について「常に職員に『事実に基づき、公平公正、不偏不党』と申し上げている」と答弁する籾井勝人会長=1月30日、藤井太郎撮影

◆現場に広がる「そんたく」

 NHKの籾井勝人会長(71)が先月25日、就任1年を迎えた。就任会見で特定秘密保護法について「政府が必要だという説明だから、様子を見るしかない」など公共放送トップの資質を問われる発言を連発したが、その後、取り消し、「私の考え方は変わっていないが、個人的な見解を放送に反映させることはない」と述べた。国会答弁や記者会見では、放送の公平公正、不偏不党を誓い、「放送法の順守」をまじないのように繰り返して乗り切り、3年の任期全うに意欲を見せている。

 だが、NHK内では、政権におもねる籾井会長の言動をそんたくする風潮が強まっていると聞く。それでも心ある放送人たちが、格差や貧困、原発など社会問題を浮き彫りにする番組を作り続けていることに勇気づけられるが、その役割を果たし続けることができるのか危機感も覚える。

 衆議院解散直前の昨年11月20日、自民党の萩生田光一・筆頭副幹事長らはNHKを含む在京のテレビ6局に「公平中立、かつ公正」な選挙報道を求める要請文を渡した。要請文には、出演者の発言回数及び時間から街頭インタビューや資料映像の使い方まで詳細な指示が書かれている。

 NHKは、要請文を受け取ったことも明らかにしようとしない。籾井会長は、自らも街頭インタビューについて「アンケートでも何でもない」「誤解を与える」と発言しており、要請文の内容も正しいと考えているようだ。「公平さ」とは批判を招かないことと同義ではないこと、「公正さ」とは放送局側が自ら判断して多角的な意見を紹介することであるというメディアの一翼を担うものとして当然のことを理解していない。

◆トップ意識欠如、予算承認で露呈

 実際、公共放送のトップとしての意識の欠如は、与党議員でさえもあきれさせる。籾井会長は昨秋、与党幹部の前で「NHK予算は与党が賛成してくれればいい」と発言、逆にたしなめられた。

 そのわずか半年前の国会で、NHKの2014年度予算案は与党とみんなの党(当時)による賛成多数で承認された。全会一致にならなかったのは、職員の不祥事が相次いだ直後の06年度予算案以来8年ぶりだった。NHK経営委員の上村達男早稲田大教授は「NHK予算は、正反対の意見の人々も立場を超えて賛成する。そこに、広く国民的立場に立つNHKのあり方が反映されてきた」と指摘。会長の個人的見解が批判を受けて全会一致が崩れたことに「反省を」と苦言を呈していた。にもかかわらず、与党幹部への発言が出たのだ。

 一方で籾井会長は、組織の掌握に熱心に取り組んできた。管理職の異動を不定期化させ、執行部の理事の任期を現行の2年から1年に短縮したいと経営委員会に提案した。またムチだけでなく、アメも用意した。14年末の職員賞与を加算。その額は、一般職員の場合は2万~3万円だが、管理職に至っては20万~50万円の大盤振る舞いだった。

◆「政治的な内容」自主規制の風潮

 その結果、籾井会長が直接的に番組内容に介入しなくても、放送の現場が自律的に政治的な内容、とりわけ与党の方針に異を唱える内容を自主規制する、いわゆる「そんたく」する風土が強まっているという。複数の職員がそう証言する。

 たとえば、昨年の衆院選の選挙期間中には、俳優の宝田明氏が番組で戦争体験を語り、「戦争は人間の大罪」と断じた上で、投票の重要性を説こうとしたところ、男性アナウンサーがインタビューを終わらせようとした。

 問題が表面化するのはごく一部に過ぎない。番組を統括する立場にある職員は「人事異動の不定期化の実例を目の当たりにして、自分や上司に汚点が付かないよう、番組作りを自主規制している風潮がある」。別の職員は「そんたくの横行に無自覚な人が多い」と危機感を募らせる。

 1月31日、経営委員会が視聴者の意見を聞く会を水戸市で開いた。「見た番組の分だけ支払う制度に変更できないのか」など、放送サービスは受信料支払いへの対価との認識を持つ人が多かった。「財政面で政治や商業主義からの自主性を維持する」という公共放送を支える受信料制度の理念が浸透しているとはいえない。

 籾井会長とNHK職員はこの現実を直視すべきではないのか。政治家や上司の顔色をうかがうのではなく、視聴者に必要な情報、視聴者の期待に応える番組を放送する。その姿勢なくしては、受信料収入から3000億円超をあてる放送センターの建て替え計画も、インターネットでの番組視聴を有料化する受信料制度の見直しも理解されないだろう。

NHK籾井会長また問題発言

05.02.22赤旗日曜版)

◆◆松田浩=NHK籾井会長1年と放送90年・戦後70

(松田浩氏は最近、岩波新書『NHK』を執筆したばかり)

◆世論の力で百田辞任(15.02.11赤旗)

◆◆1120日、安倍政権が選挙報道へ圧力

◆ブログ田部祥太=報道の自由、表現の自由侵す

NEWS23』(TBS系)の街頭インタビューに「厳しい意見を意図的に選んでいる」と陰謀論まがいの主張をまくしたて、各方面から批判を浴びた安倍首相。だが、本人はそういった声に一切耳を貸すつもりはないようだ。それどころか、直後から、自分たちを批判しないようにテレビ各局に圧力をかけはじめた。

〈選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い〉

NEWS23』出演から2日後の1120日、在京テレビキー局の編成局長、報道局長宛てにこんな題名の文書が送られてきた。差出人は「自由民主党 筆頭副幹事長 萩生田光一/報道局長 福井 照」。文書はこう始まる。

〈さて、ご承知の通り、衆議院は明21日に解散され、総選挙が122日、14日投開票の予定で挙行される見通しとなっています。

 つきましては公平中立、公正を旨とする報道各社の皆様にこちらからあらためて申し上げるのも不遜とは存じますが、これからの期間におきましては、さらに一層の公平中立、公正な報道にご留意いただきたくお願い申し上げます。〉

 一見、低姿勢で〈公平中立〉などときれいごとを並べているが、わざわざこの時期に通達をしてくるということ自体、明らかに自民党に批判的な報道をするな、という脅しである。実際、この後にはこんな記述が続く。

〈過去においては、具体名は差し控えますが、あるテレビ局が政権交代実現を画策して偏向報道を行い、それを事実と認めて誇り、大きな社会問題となった事例もあったところです。〉

 ようするに、テレビ朝日の椿発言のことを持ち出して、「ゆめゆめ、政権交代の手助けをしようなんて考えるなよ」と釘をさしたわけだ。

 そして、以下のように、具体的な要求項目を並べたてる。

・出演者の発言回数及び時間等については公平を期していただきたいこと

 ・ゲスト出演者の選定についても公平中立、公正を期していただきたいこと

 ・テーマについて特定の立場から特定政党出演者への意見の集中がないよう、公平中立、公正を期していただきたいこと

 ・街角インタビュー、資料映像等で一方的な意見に偏る、あるいは特定の政治的立場が強調されることのないよう、公平中立、公正を期していただきたいこと

 おそらく、この最後の街頭インタビューのくだりが、この文書の最大の目的だろう。陰謀論に凝り固まった安倍首相が『NEWS23』に怒りを爆発させ、「街頭インタビューをつぶせ!」と指令を下したのは想像に難くない。

 政権を選ぶ選挙で現政権の政策批判さえ許さないというのは、自民党と安倍政権がいかに「報道の自由」「表現の自由」を軽視しているか、の証明だが、しかし、これが連中の本質なのだ。とにかく、安倍首相は第一次政権の反省から、メディアコントロールを徹底的に意識し、敵対メディアへの圧力と恫喝を繰り返してきた。

NHK、フジテレビ、日本テレビは完全に支配下にある。あとは、テレビ朝日とTBS。今回の文書は事実上、この2局に向けられたものといっていいでしょう」(民放政治部記者)

 そして、今のメディアの状況を考えると、テレビ各局はこの通達に完全に屈服するしかなさそうだ。

「選挙で自民党が勝つのは確実。テレビの監督権をもつ総務相には高市早苗の続投が有力ですからね。選挙期間中にヘタな動きをしたら、後々どんな嫌がらせをされるかわからない。各局とも上層部はそんな恐怖でいっぱいでしょう。後は現場がどこまでふんばれるか、ですね」(前出・民放政治部記者)

 言論の自由さえも奪おうとする安倍政権をなんとしても止めたいところだが、状況は絶望的である。

◆選挙報道に露骨な注文安倍自民党がテレビ局に圧力文書

日刊ゲンダイ

「公平中立な放送を心がけよ」――。自民党がこんな要望書をテレビ局に送りつけたことが大問題になっている。

 文書は「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」というタイトルで、20日付で在京のテレビキー局に送付された。差出人は筆頭副幹事長の萩生田光一と報道局長の福井照の連名。その中身がむちゃくちゃなのだ。

 投票日の12月14日までの報道に〈公平中立、公正な報道姿勢にご留意いただきたくお願い申し上げます〉と注文をつけた上に、〈過去においては、具体名は差し控えますが、あるテレビ局が政権交代実現を画策して偏向報道を行い、(略)大きな社会問題となった事例も現実にあったところです〉とクギを刺している。文中には「公平中立」「公平」が13回も繰り返されている。要するに自民党に不利な放送をするなという恫喝だ。

1 さらに4項目の要望を列記。露骨なのは〈街角インタビュー、資料映像等で一方的な意見に偏る、あるいは特定の政治的立場が強調されることのないよう、公平中立、公正を期していただきたい〉という要求。この一文は、恐らく安倍首相から直々に注文があったのだろう。

 11月18日、TBSに出演した安倍首相は、街頭インタビューで一般国民が「景気がよくなったと思わない」「全然アベノミクスは感じてない」と答えると、「(テレビ局の)皆さん、(人を)選んでおられる」「おかしいじゃないですか!」とキレまくり、国民から批判を浴びたばかりだ。安倍周辺は有権者の率直なコメントに神経質になっているという。

 テレビ関係者が言う。

「要求を丸のみしたら、安倍首相の経済政策に批判的な人は排除するしかなくなる。街頭インタビューでは、景気停滞に苦しむ地方の不満や、右傾化路線を批判する声も放送できなくなります」

 まさに言論の封殺だ。政治評論家の森田実氏が言う。

「自民党がこんな要望書を出したのは初めてでしょう。萩生田氏は党副幹事長のほかに総裁特別補佐を務める政権の中心メンバー。その幹部が自民党には『自由』も『民主主義』も存在しないことを宣言した。実に恥ずべき行為です。国民から言論の自由を奪うのは明らかに憲法違反。彼は今度の選挙で立候補する資格はありません。おそらく萩生田氏が安倍首相にゴマをするために行ったのでしょうが、もし首相も了承しているなら、日本は世界から相手にされなくなります」

 26日、自民党幹事長室に要望書の真意を問いただしたところ、「質問を文書にして送れ」と要求した上、質問状を送ったら、「取材にはお答えできません」との回答だった。このペテン政党に、国民は正義の鉄槌を加えなきゃダメだ。

ある民放幹部は「ここまで細かい指示を受けた記憶はない」と漏らしたそうだけれど、ここまで細かい指示を受けてしまうくらい「公正中立」ではないと思われていることを少しは恥じたほうがいい。それだけ信用されてないということだから。

この文書が効いたのか、テレビ朝日系の討論番組「朝まで生テレビ!」で、 パネリストとして出演予定だった評論家の荻上チキさんが「質問が一つの党に偏り公平性を担保できなくなる恐れがある」などとしてテレ朝側から出演を取り消され、また、タレントの小島慶子さんの出演も取りやめになっており、パネリストは各党議員のみとなったようだ。

くだんの文書では「ゲスト出演者は公平中立、公正な選定」をするようにとしか書いていない。にも関わらず、ゲスト評論家そのものの出演を取りやめるのは、誰を出しても中立ではないとクレームされることを恐れたか、もっと穿った見方をすれば、最初から偏った人選をしていたところ、いきなり中立な人選をと、いわれて慌てて他の評論家の出演オファーをしようとしたものの都合がつかず、評論家の出演そのものを見送ることになったと考えることだってできる。

◆自民党が在京TV局に要請、メディア関係者から批判

14/12/02赤旗

 自民党が在京各テレビ局に、選挙報道の内容について細かく要請する文書を出していたことがわかり、メディアやその関係者から懸念や批判の声が上がっています。

 文書は総裁特別補佐の萩生田光一筆頭副幹事長と福井照同党報道局長の連名で20日に出されました。表題は「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」。具体的には「テーマについて特定の立場から特定政党出演者への意見の集中がないよう」「街頭インタビュー、資料映像等で一方的な意見に偏る、あるいは特定の政治的立場が強調されることのないよう」求めています。

 これを報じた28日付のメディアは、「番組の構成について細かに要請するのは異例」「識者からは報道の萎縮を懸念する声も上がっている」などと疑問を出しています。

 民間放送労働者を組織する民放労連(赤塚オホロ委員長)は28日、「政権政党による報道介入に強く抗議する」との談話を発表しました。

 談話は「政権政党が、報道番組の具体的な表現手法にまで立ち入って事細かに要請することは前代未聞であり、許しがたい蛮行」「露骨な報道への介入」だと厳しく批判。各放送局に対して「不当な干渉は毅然(きぜん)としてはねのけ、権力監視という社会的使命に基づいた公正な報道を貫く」よう求めています。

 安倍首相は解散を表明した18日の民放テレビに出演した際、アベノミクスへの賛否両論の街頭インタビューが放送されたのに対し、「おかしい。(局が声を)選んでおられる」とキャスターに食ってかかりました。この様子はメディアからも「ブチ切れ」(日刊ゲンダイ)と指摘されました。自民党の要請はこの2日後に出されています。

◆(朝日社説)衆院選 TVへ要望 政権党が言うことか

20141129日朝日新聞

 衆院選の報道について、自民党がテレビ局に、〈公平中立〉〈公正〉を求める「お願い」の文書を送った。

 総務相から免許を受けているテレビ局にとって、具体的な番組の作り方にまで注文をつけた政権党からの「お願い」は、圧力になりかねない。報道を萎縮させる危険もある。見過ごすことはできない。

 自民党の萩生田光一・筆頭副幹事長と福井照・報道局長の名前で出された文書は、20日付で在京の民放キー局5社に送られた。NHKは来ているかどうか明らかにしていない。

 文書は、過去に偏った報道があったとしたうえで、出演者の発言回数と時間▽ゲストの選定▽テーマについて特定政党への意見の集中がないように▽街頭インタビューや資料映像の使い方の4点を挙げ、公平中立、公正を期すよう求める。

 選挙の際、報道機関に公正さが求められるのは当然だ。なかでもテレビ局は、ふだんから政治的に公平な番組を作らねばならないと放送法で定められている。日本民間放送連盟の放送基準、各局のルールにも記されている。政権党が改めて「お願い」をする必要はない。

 文書には〈具体名は差し控えますが、あるテレビ局が政権交代実現を画策して偏向報道を行い、それを事実として認めて誇り、大きな社会問題となった事例も現実にあった〉ともある。

 1993年のテレビ朝日の出来事を思い浮かべた放送人が多いだろう。衆院選後の民放連の会合で、報道局長が「反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようという考え方を局内で話した」という趣旨のことを言った問題だ。

 仲間内の場とはいえ、不適切な発言だった。局長は国会で証人喚問され、テレビ朝日が5年に1度更新する放送局免許にも一時、条件がついた。

 ただし、放送内容はテレビ朝日が社外有識者を含めて検証し、「不公平または不公正な報道は行われていない」との報告をまとめ、当時の郵政省も「放送法違反はない」と認めた。文書がこの件を指しているとすれば、〈偏向報道〉は誤りだ。

 放送に携わる者の姿勢が放送局免許にまで影響した例を、多くの人に思い起こさせた威圧効果は大きい。

 選挙になるとテレビ局には与野党から様々な要望が寄せられるという。テレビ局は受け取った要望書などを、公平に公表してほしい。有権者にとっては、そうした政党の振る舞いも参考になる。

NHKの総選挙報道の偏向ぶり(14.12.08赤旗)

◆安倍政権が大新聞にも「報道指導文書」

(「フライデー」14.12.19

◆集団的自衛権テレビはどう伝えた 「放送を語る会」が調査

NHKは「際立って政府広報的」 

ジャーナリズム精神の発揮こそ

2014910

 安倍政権による集団的自衛権の行使容認について、テレビはどう伝えたのでしょうか。市民や放送関係者でつくる「放送を語る会」は、テレビ報道番組のモニター調査の結果を公表しました。期間は安保法制懇報告を受けた安倍首相の記者会見(5月15日)から、閣議決定後の7月6日までの約50日間です。

 調査に当たっての基本視点は「ジャーナリズムによる政府の監視」が果たせているか。過去の侵略戦争の反省から「武力行使を正当化するような政治や、社会の空気に対し、テレビジャーナリズムが抵抗し、批判することが極めて重要」という原点からです。全体の傾向として「ジャーナリズム本来の目的に沿って報道しようとする番組」と「政府広報に近い番組」の二極対立が「かつてなく鮮明になった」のが特徴の一つ、と分析しました。

政権同様の認識

 「際立って政府広報的」と批判されたのがNHKでした。

 「ニュースウオッチ9」の5、6月の報道は自民・公明両党の与党協議の動向に終始。集団的自衛権行使に世論は賛否拮抗(きっこう)しているにもかかわらず、番組として行使容認の在り方を検証していません。首相会見、政府高官のスタジオインタビューなど、政府与党の紹介が「およそ7割」。キャスターは「日本への脅威を抑止するという性格が強まる」(7月1日)と、政権同様の認識を示します。一方、批判的な識者の登場はありませんでした。

 対照的に「報道ステーション」(朝日系)は与党政治家や安保法制懇のメンバーの主張を伝える一方、海外で活動する日本のNGOや海部俊樹元首相ら、批判的な識者・論者も数多く登場させました。歴史的事実の中で考えようという姿勢は「デイリーニュースの中では抜きん出ていた」と評価しました。

 同様に「NEWS23」(TBS系)についても「解説者の岸井成格氏が閣議決定へ向けた与党協議に早くから批判的であり、番組も貴重な証言や国民の批判を比較的丁寧に伝えようとしていた」と評価しました。一方で「岸井氏に頼り、局としての調査報道にあまり重きを置かないスタンスのよう」といった指摘もあります。

批判的視点網羅

 「ジャーナリズムの精神に基づく優れた報道を貫いていた」と高く評価されたのが「報道特集」(TBS系)でした。(1)集団的自衛権容認に対し、取材した事実を対置して検証(2)海外の視点を含む、憲法の原点からの批判が展開された(3)懸念し、反対する市民の声を重視した―が主な特徴です。その結果「反対と明言してはいないが、批判的に捉える重要な視点をほとんど網羅」できたといいます。

 「サンデーモーニング」(TBS系)は、出演者のコメントで集団的自衛権問題での批判的視点を提供しました。

 「新報道2001」(フジ系)が集団的自衛権を扱ったのは2回。批判的な出演者はおらず「これほど翼賛的な番組も珍しい」との分析でした。

 「クローズアップ現代」(NHK)は閣議決定まで、一度もテーマとして取り上げませんでした。「国家の在り方を変えるほどの重大な問題で『不作為』の態度は問題」としています。

対象番組

 【NHK】「ニュース7」「ニュースウオッチ9」「クローズアップ現代」【日本系】「NEWS ZERO」「ウエークアップ!ぷらす」【朝日系】「報道ステーション」「報道ステーションSUNDAY」【TBS系】「NEWS23」「報道特集」「サンデーモーニング」【フジ系】「新報道2001」

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◆◆安倍政権のメディア戦略

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◆◆週刊ポスト=安倍官邸と大メディア「会食リスト」「オフレコ発言」全記録

(「週刊ポスト」15.05.08-15

◆◆幹部とは会食 現場には恫喝、政権べったりの社を選別=突出する「読売」、フジテレビ 

20141230

 安倍晋三首相が政権に復帰して2年。マスメディア幹部との会食が目立っています。総選挙では政権党による「報道介入」に批判が起きました。安倍政権のメディア戦略は―。

 総選挙投票2日後の16日、「自公圧勝」報道の嵐のなか、首相が全国紙やテレビ局の解説委員・編集委員らと会食したことが話題になりました。

 この会食にとどまらず、この2年間、首相とメディア幹部との会食が重ねられてきました。そのなかで鮮明になっているのが、首相によるメディアの選別です。2年間でみると、突出しているのが、「読売」の渡辺恒雄会長の8回、フジテレビの日枝久会長の7回。それにつづくのが、「産経」の清原武彦会長の4回、日本テレビの大久保好男社長の4回などです。

 安倍政権の改憲路線や歴史逆行の動き、消費税増税や環太平洋連携協定(TPP)交渉推進など、政権べったりの姿勢が目立つメディアとの癒着ぶりが顕著です。なかでも、「読売」は渡辺会長のほか、論説主幹とも判明しているだけで7回会食。フジの日枝会長は夏のゴルフ仲間として定着しています。「朝日」、「毎日」、「日経」、共同、時事、「中日」などの経営幹部との会食も欠かしていません。

 こうした状況に、ある全国メディア幹部は「会食する順番、回数など、メディア全体が安倍政権に選別されている状況が一番問題だ。現役記者も、官邸からにらまれないように汲々(きゅうきゅう)としている」と懸念します。

 一方で、今回の総選挙公示前にTBSの報道番組に出演した安倍首相が、アベノミクスに対する街の声を紹介した番組中の取材映像に対し「これ、おかしい」「(テレビ局の)みなさん(声を)選んでおられる」と強い口調で非難しました。この2日後に、自民党が在京テレビキー局各社に要請文書を出し、「街頭インタビュー、資料映像等で一方的な意見に偏る、あるいは特定の政治的立場が強調されることのないよう」求めました。

 これに対し民放労連は「政権政党による報道介入に強く抗議する」との委員長談話を発表するなど、異例の事態に発展しました。

 メディア幹部と会食を重ね、癒着を深める一方で、現場には恫喝(どうかつ)まがいの行動に出る―安倍政権のメディア戦略にきびしい監視が必要となっています。

◆問われる権力の監視役

 安倍晋三首相とメディア幹部との会食で目につくのは、政局の節目節目に首相が近しい記者との会食を行っていることです。

 総選挙から2日後の16日夜、「読売」、「朝日」、「毎日」、「日経」、NHK、日本テレビ、時事通信の解説委員・編集委員らが、東京・西新橋のすし店で会食したことを本紙がニュースとして報道しました。大きな反響があり、「マスメディアの堕落だ」「あまりにひどい」との反応が寄せられました。

 このメンバーは、首相との定期的な会食を重ねています。秘密保護法強行の直後(13年12月16日)、集団的自衛権の検討表明の日(14年5月15日)にも会食しています。靖国神社参拝や消費税増税強行の直後には、報道各社の政治部長らが首相と懇談・会食をしています。

 こうした会食が社論や解説記事に影響することはないのか。首相の側は政局の節目に自分の考えをメディアに伝えようとしているのは明白です。国のあり方が大きく問われ、世論も多数が反対している問題が重要局面を迎えているときに、メディアの編集幹部が権力中枢と会食することが許されるのか、きびしく姿勢が問われます。

 これらの会食は、高級料理店で2時間から3時間も食事をともにするもので、通常の取材とは明らかに一線を画すものです。しかも、会食に出席した解説委員・論説委員などは、自社の社長らと首相の会食にも同席するケースがあり、いわば経営幹部と権力中枢の接近を媒介しているともいえます。

 権力の監視を本来の役割とし、そのためにも緊張関係を保つべきメディアのあり方からの重大な逸脱です。

◆◆安倍首相のメデイア工作=報道各社権力監視どこへ

───靖国・消費税・集団的自衛権 その夜に

首相、メディア関係者と会食

14530日赤旗 

 メディア戦略を重視する安倍晋三首相が、靖国神社参拝や消費税増税実施、集団的自衛権容認への検討指示など、重要な政治行動の節目ごとに、マスメディア幹部と会食している実態がわかりました。これらの問題で、首相がメディア対策に躍起になっていることを示すもの。同時に、権力を監視する役割をもつメディアとしてのあり方が問われています。

(写真)()しまだ鮨=東京都港区、(左下)和食こうしんほう=東京都港区、(右下)日本料理「雲海」の店が3階にあるANAインターコンチネンタルホテル東京=東京都港区

 昨年12月26日、首相になって初の靖国神社参拝で世界中から批判を浴びた安倍首相。その日夜に会食したのが報道各社の政治部長らでした。首相の参拝には、米政府さえ「失望した」と非難したように、日本による侵略戦争を美化・肯定する歴史逆流だとの批判が国内外から寄せられました。

 消費税8%への増税を強行した4月1日夜には、報道各社の記者と懇談、翌日には再び政治部長らと会食。

 さらに、首相が執念を燃やす集団的自衛権行使の容認にむけて検討を指示した15日夜には、各社の解説委員、論説委員ら幹部記者と食事しています。このうち1人は、16日未明放映されたNHK「時論公論」で、集団的自衛権問題について解説しています。

 国のあり方が大きく問われ、世論も多数が反対している問題が発生しているなかで、権力中枢と安易に接触する姿勢がきびしく問われます。

 メディア・トップとの会食も相変わらずで、なかでもフジテレビ・日枝久会長は3回、「読売」渡辺恒雄会長や白石興二社長、「産経」清原武彦会長とは2回など、安倍政権の改憲・増税路線を後押ししているメディアを特別扱いしている実態も浮かび上がります。また、4月からメディア幹部との接触が急増していることも目立ちます。

◆英国では政権揺るがす大問題に

 門奈直樹立教大名誉教授の話 イギリスでは、BBC(英国放送協会)の会長だったダイク氏と当時のブレア首相との癒着が大問題となり、会長公募制採用のきっかけになりました。「メディア王」といわれたマードック氏が経営していたニューズ・オブ・ザ・ワールドは携帯電話盗聴などの事件を引き起こして廃刊になりましたが、その後編集者と政治家との癒着まで暴露され、政権を揺るがす重大問題へと発展しました。

 ガーディアンはメディアと政治家の癒着を暴露する調査報道で有名ですが、そういう報道を通じて、英国では国民がメディアを監視する時代です。

 日本ではどうか。安倍首相とメディアとの会食やゴルフなどの癒着に加え、タモリのお昼の番組「笑っていいとも!」に出演するなど、首相のメディア利用はあまりにも露骨です。欧米では、政治家のためにメディア対策をやっている人たちを「第5階級」と呼んでいます。安倍首相のメディア戦略にも、そうした指南役の存在がうかがえますが、その戦略の片棒をかつぐメディアのあり方がきびしく問われます。

 安倍政権の暴走政治を支える柱となっているのが、メディア囲い込み戦略です。安倍メディア戦略の特徴を、多角的に検証しました。

◆懐柔 幹部と会食深まる癒着

 安倍晋三首相は、政治的に重要な判断や会見の前後には、マスメディアとの会食やゴルフなどを繰り返してきました。(別表参照)

 テレビ局出身のジャーナリストで評論家の塙(はなわ)恭久氏は、安倍首相が1社だけでなく、一度に複数の社の幹部や記者と飲み食いするケースが多いことを指摘しつつ、次のように語ります。

 「複数の社が出席した会食で首相が何らかの情報をリークすれば、互いに他社は書くのではという意識が生まれる。そうすると特オチ(重要な報道を自社だけが逃すこと)を恐れるあまり、言われたまま報じてしまう。そういうメディアや記者の心理をうまく突いているんだと思います」

 そんな安倍氏の戦術に利用されているメディアの側の責任はどうなのか。「首相と飯を食ったり、ゴルフをした翌日に安倍さんへの応援報道が出たら、誰がメディアを信用しますか。メディアの自殺行為ですよ」と塙氏は語ります。

 「政治とメディア、経済とメディアのあいだには緊張関係があってしかるべきです。緊張関係を保つためには、お互いに自由に批判して切磋琢磨(せっさたくま)する関係が必要ですが、いまは会食などで手なずけられています」と話すのは、「日経」の元記者で新聞ジャーナリストの阿部裕氏です。

 「社内でも、どれだけ自由な発言や議論ができるかによって、政財界への監視や報道の質は変わってきます。ところが、利潤追求のなかで、印刷や製作などの現業部門は切り離されて別会社となり、労働組合も弱体化し、記者も自由にものが言えなくなっています。そのうえ、幹部が首相との会食などで政権と癒着するのですから、なおさら報道の質は落ちるわけです」

◆介入 NHK狙い広報機関化

 安倍首相のメディア戦略は、NHK人事への介入という形で表れました。昨年12月20日、NHK経営委員会(浜田健一郎委員長、12人)が、NHK会長に籾井(もみい)勝人氏(三井物産元副社長)を任命しました。

 会長を選ぶNHK経営委員会は、首相が国会の同意を得て任命します。首相は当時の松本正之NHK会長の2014年1月の任期切れを意識してか、昨年11月に自らに近い百田尚樹(作家)、長谷川三千子(埼玉大名誉教授)両氏を含む5人を経営委員に任命していました。

 両氏は12年の自民党総裁選での「安倍総裁を誕生させる会」の発起人。ともに日本国憲法を否定・攻撃する先頭に立っています。百田氏は南京大虐殺否定や東京裁判批判という特異な歴史観を表明。長谷川氏は、朝日新聞社に乗り込んで社長らを脅して自殺した右翼テロリストを賛美した人物です。

 1月25日、「慰安婦」問題など数々の暴言が飛び出した籾井会長の就任会見。出席していた記者は「いったい何が起きているのか、空気が止まったような感じ」だったといいます。

 安倍政権の肝いりで就任したNHK会長や経営委員による、その後も相次ぐ暴言問題。政権側は「個人の発言」として擁護しています。

 籾井会長就任から4カ月。消費税増税、集団的自衛権問題などでのNHK報道について「まるで政府広報機関のようだ」という声があちこちで聞かれます。同時に「籾井会長や民主主義じゅうりんの経営委員をやめさせよう」の市民団体の署名や抗議はおさまることがありません。署名数は28日時点で、4万8千を超えています。

◆露出 テレビ出演「人柄」演出

 安倍首相は消費税増税を前にした3月21日、フジテレビ系のバラエティー番組「笑っていいとも!」に出演し、好感度アップを図りました。続いて4月8日もやはりフジ系のBSフジに生出演、「集団的自衛権容認」を宣伝しました。首相は1月にもBSフジに登場、昨年末の靖国神社参拝を合理化しました。

 安倍首相のテレビ出演は、選挙前や重要課題で政権への批判が高まったときに増える傾向があります。昨年の都議選・参院選前には日本テレビの情報バラエティー「スッキリ!」で「アベノミクス」を宣伝。秘密保護法への批判が高まった昨年12月にはTBSの情報バラエティー「ひるおび!」ほかで言い訳をしました。番組では首相への批判的見解は語られず、首相の「気さくさや人間性」をアピールする場として使われました。

 この間、首相みずからメディア幹部に電話することも多い、との指摘も。このこともあって、いま報道現場では「政権の意に反する報道をしにくい」空気が広がっているといいます。

 日本民間放送労働組合連合会(民放労連)の岩崎貞明書記次長は「テレビだけでなく、マンガの表現や雑誌の特集についても、政府や閣僚が注文を付けるケースが目立つ」と話します。「実態としては現場が、政府と違う意見や立場を表明することに慎重になってしまう。自主規制に結びつきやすい雰囲気ができています」

 民放労連は5月25日に発表した、解釈改憲による集団的自衛権行使を批判する見解の中で、メディアの役割として「(物が言いにくい)空気を打ち破って自由な言論を守り抜く社会的使命が課せられている」と表明しました。

◆圧力 気にくわぬ報道たたく

(写真)内閣広報室の干渉があった月刊女性誌く『VERY』3月号「改憲の前に知憲!」

 「慎重かつ適切な報道を強く要望する」

 防衛省は2月、日本新聞協会に沖縄県の地元紙琉球新報への指導を求める文書を送りました。

 業界団体に加盟社の統制を求めるかのような強い文言。発端は、「陸自、石垣に2候補地」(2月23日付)という同紙の報道です。

 さらに菅義偉官房長官が「そんな時に事実とまったく違う報道がなされ、選挙(石垣市長選)に影響を及ぼしかねない」(2月28日の会見)とのべ、琉球新報と新聞協会に抗議した防衛省を援護しました。

 メディアの問題に詳しい上智大学新聞学科の田島泰彦教授は「安倍政権のメディア戦略のムチの部分だ。権力を監視するのがメディアの役割だ。権力の側は批判に耐え、情報を積極的に開示して説明責任を果たすべきだ。報道が気にくわないからと個別メディアをたたくのは理不尽だ」と批判します。

 30歳代の子育て世代向け女性誌『VERY(ヴェリィ)』3月号では、発行する前に干渉が行われました。

 同3月号では、30歳代のパパやママらが秘密保護法や自民党の改憲草案を語り合う座談会記事を特集しました。

 しかし、3月号が店頭に並ぶ1カ月近く前の1月初旬、同誌編集部に内閣広報室の男性職員が電話で「秘密保護法を取り上げるなら、うちにも取材を」と、取材の要請をしていたのです。

 『VERY』への電話をめぐっては、内閣広報室が書店の従業員に、事前に電話をかけさせて情報収集させたことやインターネットの情報を日常的に監視していたことも判明しました。

 田島教授は「気にくわない報道をたたく一方で、個別に働きかけて、政権の言い分を伝えてくれるメディアの取り込みを組織的におこなっているのではないか」と指摘します。

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◆◆安倍政権のNHK乗っ取り戦略

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【筆者コメント】 

◆◆NHKの報道がだんだん体制よりになってきた

NHKには、アーカイブ戦争証言、クローズアップ現代、ETVNHKスペシャルなど良い番組もあるが、だんだん体制よりの報道が目に付くようになってきた。

とくに政局の報道が体制よりになりつつある。これでは、国営放送、政府広報放送と変わらない。視聴率の高いNewsWatch9、またニュース解説などで顕著になってきた。初頭で失敗した籾井会長が指揮棒を振るう前に、各プロデューサーが会長に追従している感じ。つまり、これまでは、「こういう見解もあればこういう見解もある」という報道の仕方が貫かれていた。それが以下のように変わりつつある。(1)政府自民党サイドの一方的な見解の展開、(2)例えば集団的自衛権についての報道の場合だと2つの見解を紹介しながら政府自民党に分量を多くさくという展開、(3)また秘密保護法のように報道しないという展開、など巧妙な組み立てで世論誘導をしている。このNHKの報道姿勢は、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」(4)とした放送法から外れている。この点は注意を払って聞いてないと仕掛けが分からない。とくにNewsWatch9の大越キャスターが体制よりの誘導を意識的に行っている。10時前から始まる「ニュースステージョン」の古舘キャスターと恵村解説員たちの報道ぶりとは、対照的なひどい報道ぶりである。これを「すくらむ」ブログが実証してくれた。

NHKnewsWatch9のセレブ目線=消費税報道=「消費税増税いい感じ」「消費税が増税されたけれど、国民には余り影響はない」とアベノミクスを支援する報道を意識的に流した。驚くべきことに「消費税増税で生活が大変になった」という指摘は一切なかった。こんな恐ろしい世論を誘導する放送が展開されているのだ。 

http://s.ameblo.jp/kokkoippan/entry-11839428102.html

NHKnewsWatch9安倍首相の集団的自衛権記者会見報道

http://s.ameblo.jp/kokkoippan/entry-11851772435.html

安倍首相記者会見=集団的自衛権の報道

 国家安全保障担当として安倍首相を補佐している礒崎陽輔首相補佐官に聞く

 大越健介氏 なぜいま集団的自衛権の行使容認が必要なのでしょうか?

 礒崎首相補佐官 やはり国際情勢の大きな変化がある。とくにアメリカが世界の警察官と言っていた時代から、いまアメリカは軍事費の削減に入りました。最大の同盟国のアメリカと引き続き安全保障体制を維持していくためには日本の応分の負担がいる。

 大越健介氏 アメリカが世界の警察官として幅を利かせる時代ではなくなったということですね。安保条約というのは片務性が非常に高い。アメリカの方ばかりに負担がいっている。日本も応分のと言うことは、つまり日本もアメリカに対して集団的自衛権を行使することで、アメリカの力の陰りを補足していくということでしょうか?

 礒崎首相補佐官 そういうことです。アメリカと日本ができるだけ共同していけるように、お互いの法制を整備しようということです。

 大越健介氏 これから検討に入る集団的自衛権の行使容認は、地理的な要因で縛るものではないですね?

 礒崎首相補佐官 そうです。

 大越健介氏 地理的なものは関係がない?

 礒崎首相補佐官 そうです。地理的な概念で考えるのは適切でない。

 大越健介氏 具体的に考えたいのですが、たとえば北朝鮮がアメリカに対して大陸弾道弾ミサイルを発射した。これを迎撃するという可能性はありますか?

 礒崎首相補佐官 技術的なところが議論になっているが考え方としては最大の同盟国であるアメリカが力を失う事態に対しては、日本は協力しなければならない。したがって、迎撃する能力があれば迎撃することは考えなければいけない。

以上「news Watch9」を見て分かる通り、大越キャスターは、集団的自衛権容認賛成という自分の意見を積極的にのべながら、政府のさらなる答弁を引っ張りだす仕事をしているのだ。

この流れは続く。626日には、山口公明党代表、27日に高村自民党副総裁を連続的に出演させた。山口氏に対しても、大越キャスターは「機は熟しつつある」「山口代表に期待する」とヨイショ発言。高村氏に対しても「(集団的自衛権について)それが平和を創設、つくっていくためのものなんだという、その説明がいきわたってないんじゃないか」と政府・自民党に要望。71日の安倍首相の「閣議決定」の報道でも、大越キャスターは「抑止へと道が開かれた」と相づちヨイショ、うなづきヨイショ。長崎市で開かれた反対の市民集会を短く「付けたし」扱いで報道しただけ。民放番組では「報道ステーション」や「ニュース23」では、夜10時以降も官邸前にとどまり抗議する大勢の若者を中継した。産経の影響が強いフジテレビ、読売の影響が強い日本テレビでも、反対派の動きをそれなりに報道していた。放送法第4条にしたがえば、当然の報道であろう。まして、この集団的自衛権容認問題は、国民過半数の人びとが反対している問題である。当然、反対する側の立場からの報道があってしかるべきであろう。NHKの報道を「報道ステーション」とまでいかなくても、せめて放送法第4条まで戻させる世論を大きくする運動をいまこそ強めたい。

戸崎さんがnews Watch9を調査分析している。5/157/1までの集団的自衛権の放送時間の総量は約167分、うち与党協議(60%)と首相や政府関係の動きは合計約114分、約70%も占める。

(戸崎賢二の「テレビ時評」14.07.31赤旗)

NHK世論調査の「どちらともいえない」は明らかに世論操作】

それからNHKで気になっているのは、NHKの世論調査の質問項目。他の新聞社や民放の世論調査と違うのは、NHKの質問項目には、必ず「わからない」以外に「どちらともいえない」という答えが用意されていること。例えば「集団的自衛権の行使を認めることに」という質問に対して「賛成」「反対」「どちらともいえない」「わからない」の4つの回答が用意されている。「どちらかというと賛成なのだが自信がない」「どちらかというと反対なのだが自信がない」という意見が全て「どちらともいえない」に合流してくる。「よくわからない」という層も合流してくる。だからNHKの世論調査には「わからない」が極めて少ない。答えの項目に「わからない」がない場合もある。その結果「どちらともいえない」が比較優位となる。日本人は、明確に「賛成」「反対」をはっきりいうことに抵抗感が多い人が多い。またちゃんと学習・認識をして「賛成」「反対」の意思表示をしていない場合も多い。これらの受け皿が「どちらともいえない」に合流してくるのだ。これでは世論の動向がつかめなくなる。

この答えの項目の「どちらともいえない」はどう考えてもNHKの世論操作の可能性が高い。答えに極端な意見が出るのを避けようとしている狙いは明白。「賛成」「反対」「わからない」の3つの回答で推し量るのが世論調査だ。国民の中の認識不足を知った上で大枠整理をせざるをえない。認識不足の場合は、「わからない」に回答してもらうしかない。NHKは戦後世論調査を長年にわたってやってきたわけで、プロがいるはずだ。こんな世論調査の常識を十分知っているはずだ。にもかかわらず「どちらともいえない」を必ず入れてくるのは、政府・自民党の見解に「賛成」が少しは減るかもしれないが、「反対」という意見が過半数をこえて政治を動かす事態を避けようというねらいがあることは、見え見えである。NHKの世論調査の「どちらともいえない」がいつ頃から入ってきたのか調べて見ようと思う。誰か知っている方がいたら、教えてほしい。いずれにしてもNHKの「どちらともいえない」は即刻にやめるべきだ。

「どちらともいえない」の世論調査の政治利用の典型が原発再稼働の世論調査報道であらわれた(14.07.16報道)。その報道ぶりを映像で確かめてほしい。

「再稼働賛成」21%「再稼働反対」41%「どちらともいえない」33%という結果を「賛否両論に分かれる」と報道した。「反対が賛成を大きく上回った」と報道するのが普通。それが「再稼働に世論割れる」と報道(図のタイトルをよく見てほしい)。まるで「白を黒という」報道ぶり。「反対が大きく上回る」と報道するのがイヤなのだ。ここにも反対を少しでも減らしたいがために「どちらとも言えない」という第3の選択肢が見事に利用されている。NHKの体制より報道の典型が出た。

【国民のためにいい映像をもっと】

ところで、筆者は歴史が好きでNHKの歴史番組を良く見てきたが、NHKの歴史番組が最近だんだん気になってきた。アーカイブ戦争証言、ETVBSNHKスペシャルの歴史番組は、「日本と朝鮮半島2000年」「プロジェクトジャパン」「日本人は何を考えてきたのか」「原発の歴史」「原爆の歴史」「戦争番組」など良く掘り下げられてきた。しかし、連載の「歴史秘話ヒストリア」「BS歴史館」(終了した)「英雄たちの選択」「プロファイラー」「大河ドラマ」(今回の黒田官兵衛は、いままでと違い、歴史に比較的忠実であり、ドラマとしてもよくできている。相変わらず費用がなくダイナミックさに欠けているが)などには、面白さを前面にたてることによって、本当にこれが歴史の真実なのかを疑わせるものが多くなってきた。最近報道された「英雄たちの選択」で見て見よう。新選組の池田屋襲撃を取り上げていた。近藤や沖田など4人が長州藩の幹部たちが会合をしているという情報をつかんだ。4人が直ちに襲撃をする、新選組の別部隊or会津藩の支援を要請してから襲撃、逮捕する、という2つの選択があった。どちらが適切な選択か、をめぐり4人が二手に分かれて論争するというもの。心理学の中野氏の心理学用語を使った発言のバカさかげんには本当に呆れてしまう。現実の歴史は、の選択、4人が襲撃、苦戦するが、新選組の別部隊がかけつけてきたこと(部分的に)で、襲撃、逮捕が成功し、会津藩からも賞賛され、新選組の評価が高まった。政治学の立場から宮崎氏が、心理学の立場から中野氏が、それに歴史学の立場から2人が加わって討論をする。実にくだらない。退廃的でもある。歴史学をバカにしてはならない。歴史の事件を扱うとき、歴史の大局的な流れを押さえながら、人間が起こした事件の原因と結果を科学的に解明していくことが欠かせない。それでこそ歴史の面白さを描くことにつながっていく。NHKのかつての連載歴史番組では、「歴史への招待」「その時歴史が動いた」では、その点がつらぬかれていた。金をかけてドラマ仕立てでわかりやすさ、臨場感があった。それが「歴史秘話ヒストリア」では、「興味本位」を、「BS歴史館」では、歴史学者以外の小説家やタレントなどを登場させて素人感想をのべさせる、その極みが「英雄たちの選択」であろう。大河ドラマが実際の歴史と大きく異なる展開にさせるなども愚の骨頂であろう。歴史好きの国民は多い。NHKの歴史番組を見る国民は、歴史を興味本位でなく、歴史現象を映像をフルに使いながら科学的に解明してくれることを望んでいるのではないか。と思ったらNHKETVで福岡県の古賀市の船原古墳から出土した新羅製の金銅馬具の歴史的解明を1時間行っていた(当ブログ「日本と朝鮮半島2000年」参照)。実によくできている。

なにか、ボヤキに近い文章になったが、NHKは、国営放送になるのでなく、国民から莫大な受信料をとって運営している公共放送だ。膨大な映像をもっている。民放とは比較にならない。この映像財産を国民本位のものに転換させていくことが本当に重要だと思う。NHKオンデマンドにも腹が立つ。月900円払って加入しているが、NHKが放送した映像のほんのわずかしか見せてくれない。著作権の関係があって複雑だからだそうだ。また1年間もたったら、消えていく。民放と違って受信料をとっているのだから、本来タダにすべきだ。埼玉か横浜へ行けばタダで見られるそうだ。そんなヒマはない。貴重な膨大な映像財産を日本でただ一つもっているNHKさん。良い映像をつくってほしい。アーカイブ=戦争証言は、NHKらしい、NHKでなければ出来ない素晴らしい映像集だ。http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/

普段ケチっている映像提供をふんだんに行っている。このような貴重な映像をもっと国民のために提供してほしい。お願いだ。

◆◆クローズアップ現代での自民党、官邸からのNHKへの圧力。「週刊新潮」と「フライデー」にみるNHK籾井会長の対応

★【NHK土下座】国谷裕子キャスターが菅官房長官を激怒させた問題シーン【フライデー】11m

https://m.youtube.com/watch?v=6vQS6FXx5wI

★国谷キャスターは涙した 安倍官邸がNHK土下座させた一部始終9m

★安倍官邸がNHKを土下座させた23m

https://m.youtube.com/watch?v=eUri1Phm3A8

【「フライデー」とクローズアップ現代】

二つの週刊誌記事をめぐって、NHKの対応が分かれました。籾井(もみい)会長の「記憶力に問題あり」などと報じた「週刊新潮」に対してNHKは22日、「事実と異なり、会長の名誉を傷つけ、NHKの信用を損なう」として、東京地裁に提訴しました。

もう1件は、「クローズアップ現代」(3日放送)にふれた、写真週刊誌「フライデー」です。番組は菅(すが)官房長官が出演して、集団的自衛権について説明。キャスターから突っ込まれたと安倍官邸側が激怒し、菅氏に籾井会長がわびたといいます。官房長官もNHKも「事実ではない」と否定。しかし、両者とも週刊誌には「抗議しない」と。抗議すると、番組の制作過程の公開が求められます。政権とNHK会長のかかわりがより露骨になる恐れもあります。こちらは早々に幕引きをねらっているのでしょうか。確かに国谷キャスターは、憲法9条に対置させて集団的自衛権の行使容認の問題を菅氏に質問しました。夜の7時や9時のニュースでは、見られなかった視点です。安倍・籾井路線に甘んじない動きはNHK経営委員会の中にも見えます。

「政府が右と言っているのを左とは言えない」と発言した籾井会長。公共放送のトップとしての姿勢を問う論議が、定例の会合で繰り返されています。視聴者による会長辞職を求める署名は6万人に迫りました。18日には、元NHKのアナウンサーやプロデューサーら172人が「籾井会長の辞任勧告か罷免を求める声明」を発表。内と外で「籾井会長ノー」の声が強まっています。

◆NHK退職者172氏声明=籾井会長の辞任・罷免迫る

キャスター・アナウンサー・プロデューサー

2014719日赤旗 

(写真)小中陽太郎氏

(写真)酒井廣氏

(写真)山根基世氏

 NHKでニュースキャスター、アナウンサー、プロデューサーなどを務めた退職者有志172人は18日、NHK経営委員会に「籾井(もみい)勝人会長の辞任勧告か罷免を求める」声明を提出しました。

 声明は次の3点をあげて、経営委員会が籾井氏に辞任を勧告するよう求め、「会長が応じない場合は罷免を」と訴えています。

 (1)就任記者会見での「政府が右というのを左とは言えない」などの発言は、NHKの基本的性格の理解を欠く。政府支持の姿勢を公的に発言した人物がNHKのトップに座り続けているという異常な事態は一刻も早く解消すべきだ。

 (2)日本軍「慰安婦」に関して「戦争している国にはどこにもあった」と発言した。これは歴史の偽造であり、日本の戦争責任を考えるうえで到底受け入れがたい。

 (3)国内外で現場は取材に困難を生じており、受信料の凍結や留保が広がっている。NHKが政府から独立した報道機関となることを改めて求める。

 声明には、元ディレクターの小中(こなか)陽太郎、元ニュースキャスターの勝部領樹(りょうじゅ)、元アナウンサーの酒井廣、下重(しもじゅう)暁子、山根基世(もとよ)の各氏らが名を連ねています。

◆申し入れ書  

2014年7月  日

NHK経営委員会 御中

経営委員各位

    NHK籾井会長に辞任を勧告するか、または罷免されるよう求めます

                          NHK全国退職者有志

 経営委員各位には、日頃、NHKの使命達成のために尽力されていることに敬意を表します。

 私たちは、かつてNHKで働いた退職者です。1月の籾井勝人会長就任以来続いている事態を憂慮し、その解決のために、今こそ経営委員会が英断をもって会長に辞任を勧告すること、その勧告に会長が応じない場合は、放送法第55条により罷免の決断をされることを強く求めるものです。

 その理由は次の通りです。

第一、籾井氏が会長にとどまることは、政府・政治権力から独立した放送機関であるべきNHKにとって、重大な脅威となっています。

 「政治権力からの自主・自立」という在り方は、NHKの存在理由そのものであり、NHKが視聴者、国民の信頼を得るために守るべき最重要の放送倫理です。しかし、繰り返し批判されているように、籾井会長は就任記者会見で、国際放送では「政府が右というのを左とは言えない」、「民主主義に対するイメージで放送していけば、政府と逆になることはあり得ないのではないか」秘密保護法については「政府が必要だとの説明だからようすを見るしかない」などと述べました。

 また、日本軍「慰安婦」の補償問題に関し、韓国を非難し、「日韓条約で解決済み。なぜ蒸し返すのか」とも発言しました。これは日本政府の主張であり、籾井発言はこの政府の主張をNHKの主張とする、というに等しいものでした。

 重大なのは、こうした姿勢が就任会見の一時的なものではなく、その後も変更されていないことです。NHKの基本性格の理解を欠き、政府支持の姿勢で公的に発言した人物が、NHKのトップに座り続けているという異常な事態は一刻も早く解消すべきです。

 2013年11月、経営委員会は、次期会長の資格要件を定めました。その中に、「政治的に中立であること」「NHKの公共放送としての使命を十分に理解している」という項目があります。籾井会長の姿勢はこの要件にあきらかに違反しているのではないでしょうか。

第二、就任会見で示された見識、感性からみて、籾井会長がNHKのトップの任に堪える人物とはとうてい考えられません。

 会長は日本軍「慰安婦」に関して、日本だけが非難されるのはおかしい、という趣旨で「戦争している国にはどこにもあった」と述べました。しかし、これは、近年の研究や裁判で明らかになった日本軍「慰安婦」の歴史的事実に反します。

 政府の公式見解である河野談話も、長期、かつ広範な地域に、日本軍が直接、間接に関与して慰安所を設置し、「慰安婦」の移送、管理を行ったと言明しました。こうした大がかりな制度を、戦争当事国がすべて行っていた、とする籾井発言は、驚くべき歴史の偽造です。

 また河野談話は、「「慰安婦」の募集が、強圧によって本人の意思に反して行われた事例が数多くあり、慰安所での生活も強制的な状況の下での痛ましいものであった」と述べました。籾井発言には、こうした悲惨な環境に置かれた女性たちへの人間的な想像力が感じられず、先の戦争で日本がアジア諸国に与えた深刻な被害についての反省も表明されませんでした。

 NHKは、アジア太平洋地域の放送機関の連合組織ABU(アジア太平洋放送連合)の有力なメンバーです。加盟各国は、多くは日本の侵略戦争で深刻な被害を受けた国々です。籾井氏の発言は、アジア諸国にとって、また、日本の戦争責任を考える多くの市民にとって、到底受け入れがたいものです。

第三、いまNHKで働く人たちが、会長の存在によって特別の困難に直面しています。

 会長発言を理由に、国内外で取材に困難が生じているという現場の声が聞こえます。受信料支払い凍結や留保も広がっています。こうした厳しい批判が集中する中で仕事をしなければならない現場の人たちの状況には、胸が痛みます。

 ご承知のように、今年4月22日の経営委員会で、退任する理事のひとりは、あいさつの中で、次のように述べました。

 「職場には少しずつ不安感、不信感あるいはひそひそ話といった負の雰囲気が漂い始めています。現場は公共放送を担うことへの誇りと責任感を何とか維持しようと懸命の努力を続けていますが、限界に近づきつつあります。一刻も早い事態の収拾が必要です」

 さらにこの理事は、「これまで経営委員会は、執行部に事態収拾を求めてきたが、経営委員会こそが責任を持って事態の収拾に当ってほしい」と訴えました。職場の声を代弁するこのような痛切な声にぜひ応えていただきたいのです。

 現会長が辞任しないかぎり、NHKに対する批判は、今後も止むことがないでしょう。会長が職に留まっていることへの抗議は、署名運動や、受信料支払い凍結、という形で広がり、私たち退職者の中にも、やむにやまれぬ気持から支払い凍結に踏み切る人びとが出始めました。署名も本年6月に5万筆を超えました。

 私たちは、単に後輩が困っている、とか、かつて働いたNHKが心配だから、というレベルでこの申し入れをしているのではありません。NHKが政府から独立した自立的な放送機関として、日本の民主主義の発達に資する存在であることをあらためて求め、現在の危機を回避することを要求するのが趣旨です。

 経営委員会は、放送法成立以後64年の歴史と、NHKの今後を見据えて、現在の時期がNHKの歴史上の汚点とならないよう、大局的、歴史的見地から英断を下されるよう求めます。

 その上で、会長選任には、言論、ジャーナリズム、メディア研究、労働・農業団体、市民団体など各界の意見や提案を幅広く聴き、経営委員会独自の活動で、会長にふさわしい人物を選任される方向へ大きく一歩を踏み出されることを心から願うものです。

呼びかけ人 172名

◆◆NHKの籾井勝人新会長の25日の記者会での主なやり取り

 私の任務はボルトやナットを締め直すこと。放送法を順守しながらいろいろな課題に取り組んでいく。

 ――尖閣諸島などの領土問題について、国内番組で日本の立場を伝えたほうがいいという考えか。

 日本の明確な領土ですから、これを国民にきちっと理解してもらう必要がある。今までの放送で十分かどうかは検証したい。

 ――国際放送では日本の立場を政府見解そのままに伝えるつもりか。

 国際放送は国内とは違う。領土問題については、明確に日本の立場を主張するのは当然のこと。政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない。

 ――靖国神社の参拝と合祀(ごうし)についての考えは。

 総理が信念で行かれたということで、それはそれでよろしい。いいの悪いのという立場にない。

 ――NHKの報道姿勢としてはどうか。

 ただ、淡々と総理は靖国に参拝しましたでピリオドだろう。

 ――正月の番組で印象に残ったものは。

 どの局も一緒。NHKをできるだけ見た。他社の番組も見た。それほど、これがよかったというのは用意していない。

 ――慰安婦を巡る問題については。

 戦時中だからいいとか悪いとかいうつもりは毛頭無いが、この問題はどこの国にもあったこと。

 ――戦争していた国すべてにいたということか。

 韓国だけにあったと思っているのか。戦争地域にはどこでもあったと思っている。ドイツやフランスにはなかったと言えるのか。ヨーロッパはどこでもあった。なぜオランダには今も飾り窓があるのか。

 慰安婦そのものは、今のモラルでは悪い。だが、従軍慰安婦はそのときの現実としてあったこと。会長の職はさておき、韓国は日本だけが強制連行をしたみたいなことを言うからややこしい。お金をよこせ、補償しろと言っているわけだが、日韓条約ですべて解決していることをなぜ蒸し返すのか。おか しい。

 ――会長の職はさておきというが、公式の会見だ。

 では全部取り消します。

 ――取り消せない。

 会長としては答えられないが、それだとノーコメントばかりになるから「さておき」と言って答えた。

 ――秘密法については。

 世間が心配していることが政府の目的であれば大変だが、そういうことはないだろう。秘密法は政府が必要と説明しているので、様子を見るしかない。

 ――強い反発があった問題だが。

 色々な意見があっていい。政府の中にはメディアは反対ばっかりで、賛成があってもいいという意見もある。

 ――番組に対して、自身の考えを反映させたいという思いがあるか。

 ない。私がどういう考えであろうがなかろうが、放送法に基づいて判断していく。

 ――政権の意向を代弁したいと考えるか。

 ない。放送法と何度も言っているのは、それがあるから距離を保てるということ。私の発言は、政府からふきこまれたわけでも何でもない。

【筆者コメント】 

◆◆NHK籾井会長発言に思う

NHKの憲法ともいうべき「公平中立、不偏不党」の基調を犯す大発言だ。新聞は、自由な活動が可能な私企業だが、NHKに限らず放送局は大きく違う。電波という媒体を通して受け手とつながっているからだ。電波は有限なので好き勝手に使われては困るため、国が管理し、放送局は国から電波を割り当てられる許認可事業となっている。したがって放送法という法律のもとで運営されている。この放送法をまったく無視した発言だ。「政府が右ということを左とはいえない」とも語った。これは公共放送も含め、政権を監視すべき報道の生命線のはずだ。

しかも「オランダの飾り窓」「従軍慰安婦は世界のどこでもあった」などその知的水準の低さにはあきれ果てる。これまでのNHK会長にはなかった不見識ぶりだ。菅官房長官は「本人が取り消したからよい」といったが安倍は国会で「誤りはない」と強弁した。

秘密保護法や靖国参拝などいよいよ安倍が「アベノミクス」という衣で隠していた鎧を前面に出しはじめた。NHKの秘密保護法案をまったく報道しないという異常さですでに開始された。安倍は国民の思想統制を意図してNHK(「ボルト、ナットでしめなおす」)と学校教育の統制をスタートさせた。 

 菅長官は2006年9月、第1次安倍内閣発足に伴い総務相に就任。NHKに受信料の2割値下げを求めるなど改革を迫った。

 07年には安倍首相に近い富士フイルムホールディングスの古森重隆社長(当時)が経営委員長に内定した。安倍・菅両氏のラインで固めたとされる政権内では松本正之・前会長時代のNHKに対し、原発などの報道をめぐり不満がくすぶっていた。昨年10月、会長の任免権を持つ経営委員人事で布石を打った。歴史認識などで安倍首相に近い作家の百田尚樹氏ら5人の人事案を国会に提示、同意を得た。

「憲法改正に取り組み軍隊創設への筋道をつくっていかねばなりません」(Voice1304)など経営委員の右翼小説家、百田尚樹の発言も目に余る。百田氏は都歴史観や国家観が近いという元航空幕僚長の田母神俊雄候補の応援演説に立った。「田母神候補以外の3候補はどいつもこいつも人間のクズだ」、「米軍による原爆投下や東京大空襲の虐殺をごまかすために東京裁判がやられた」、「戦争では恐らく一部軍人で残虐行為がありました。でもそれは日本人だけじゃない。こういうことを義務教育の子どもたちに教える理由はどこにもない。子どもたちにはまず日本は素晴らしい国家であること、これを教えたい」と訴えた。

同じく経営委員の長谷川三千子埼玉大教授は「安倍政権の戦後レジームからの脱却、日本そのものを取り戻すための再挑戦を応援したい」(「日本の息吹」)とのべ、朝日新聞社を銃撃し自殺した右翼、野村秋介に追悼文をよせている(毎日140205)。いやはや驚くべきアナクロ、戦前の右翼とまったく同じ追悼文だ。「『すめらみこと いやさか』と彼が三回唱えたとき、彼がそこに呼び出したのは、日本の神々の遠い子孫であられると同時に、自らも現御神(あきつみかみ)であられる天皇陛下であつた。そしてそのとき、たとへその一瞬のことではあれ、わが国の今上陛下は(「人間宣言」が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと)ふたたび現御神となられたのである。野村秋介氏の死を追悼することの意味はそこにある。と私は思ふ。そして、それ以外のところにはない、と思つてゐる」。女性の生き方についても「性別役割分担はほ乳動物の一員である人間にとってきわめて自然」「女性の一番大切な仕事は子どもを生み育てることだ」「男女雇用機会均等法の思想は個人の生き方への干渉」(産経140106)とのべている。

要するに安倍一族がNHKを乗っ取り国営放送局、安倍放送局へ変質させようとしているのだ。NHKは受信料で運営されている国民の財産だ。その映像財産は驚くべき分量だ。もっともっと公開すべきだ。NHKオンデマンドなんて数%にしかすぎない。しかもNHKの映像は国民に大きな影響を与える。安倍一族のNHKの乗っ取りを絶対に許してはならない。

◆◆籾井会長誕生の経過

(14.3.30朝日新聞より)

ー松本正之会長(当時)に引導を渡してNHKの「偏向」をただす――。政権発足以来、安倍晋三首相ら政権幹部がこだわってきたのはこの一点だ。

 NHKの報道内容への政権の不満は根強く、首相周辺は「原発問題やオスプレイの沖縄配備で批判的な内容を報道した」と指摘。首相に近い財界人は「政権を批判したい現場に松本氏が乗せられていた」と語る。

 政権は昨年11月、会長の任免権を持つ経営委員会に、首相に近い作家の百田尚樹氏や埼玉大名誉教授の長谷川三千子氏らを送り込んだ。松本氏をNHK会長に送り出したJR東海の葛西敬之会長も交代論を唱えた。外堀を埋められた松本氏は12月5日の会見で「私は任期以降やるということにはならない」と表明。首相は周囲に「目的のひとつは達成できた」と満足そうに語った。

 だが、後任がなかなか決まらない。首相は「経済人がいい」と漏らしたが、政府関係者は「人選は非常に大変だった」。そんな中、菅義偉官房長官は財界に人脈のある麻生太郎副総理(73)に「経営感覚のあるいい人をご存じないですか」と相談。麻生氏は「籾井っていうのもいるなあ」と、同じ九州出身で旧知の籾井勝人氏の名前を挙げた。

 それまで、元経営委員長の古森重隆・富士フイルムホールディングス会長やコマツの坂根正弘相談役、オリックスの宮内義彦会長らの名前が取りざたされた。だが、首相に近い財界人は「政権は松本氏を降ろすことばかりで、籾井氏以外に候補らしい候補はいなかった」と明かす。

 ネックは報酬だった。NHK会長の年収は約3千万円。「大企業トップの年収から大幅に落ちる」(首相周辺)うえ、国会で野党の批判も浴びる。

 麻生氏が探りを入れると、籾井氏は「待遇は気にしません」。三井物産の米国法人社長を務め海外事情に明るく、NHKの国際放送で領土問題をめぐる発信を強めたい政権に好都合だった。過去に経営委員候補として検討した経緯もあり、飛びついた。12月13日の経営委で、「反松本」で政権と足並みをそろえる石原進・JR九州会長が籾井氏を推薦し、決まった。

 「松本氏以上にがんばります」。籾井氏は関係省庁などへの就任あいさつで胸を張った。安倍内閣の閣僚らの靖国神社参拝を評価する発言もあったというー

<NHK経営委員会> NHKの経営に関わる最高意思決定機関。NHKの年間予算や事業計画、番組編集の基本計画などを議決し、会長の任免権を持つ。メンバーは委員長を含めて12人で、国会の同意を得て首相が任命する。常勤の委員もいる。放送法により、委員が個別の番組の編集に干渉することは禁じられている。

 <放送法> テレビ・ラジオ放送の事業者や番組などについて定めた法律。第1条で、「不偏不党」「自律」「表現の自由」「健全な民主主義の発達に資すること」という基本原則をうたい、第4条で、番組の編集にあたって「政治的に公平であること」「意見が対立している問題は多様な角度から論点を明らかにすること」などを求めている。「番組編集の自由」(編集権の独立)についても第3条で定めている。

放送法4=放送事業者は、国内放送及び内外放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。

1.公安及び善良な風俗を害しないこと。

2.政治的に公平であること。

3.報道は事実をまげないですること。

4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

放送法31=経営委員は「公共の福祉に関し公正な判断をする」者の中から総理大臣が任命すると定め、経営委員の服務準則は「委員は、NHKの名誉や信用を損なうような行為をしてはならない」と定めている。

【百田尚樹・長谷川三千子の発言】

★ラジオ永遠の0解説=作家の百田尚樹さん

http://m.youtube.com/watch?v=VPw6UMWuRJQ

★永遠の0 -6m

http://m.youtube.com/watch?v=N2TE7GOwFTE

★永遠の0~宮部久蔵の「辞世の詩(うた)」/唄 島津亜矢5m

H25/11/23(土)百田尚樹氏講演会。44m

http://m.youtube.com/watch?v=2eYYvKByxNw

H25/11/23(土)作家・百田尚樹氏VS衆議院議員・西村眞悟。

http://m.youtube.com/watch?v=mjLhkNre5tE

★百田氏、吠える! そこまで言って委員会(14 3 9

http://m.youtube.com/watch?v=08OGwrBA418

★長谷川三千子女史の発言とその波紋 そこまで言って委員会(14 2 2313m

http://m.youtube.com/watch?v=I7F6Ql-Fps4

★長谷川三千子コラム産経新聞が炎上!子供家族結婚?女性社会進出、専業主婦、少子化問題?

★【頑張れ日本!京都】長谷川三千子講「日本型民主主義を確立しようⅠ」(120m)

(1)http://m.youtube.com/watch?v=sLxsqzUZjy8 (2)(3)(4)は下部から。

★長谷川=九条論者も日本本来の伝統的な「国体」(の精神)を目指している

http://m.youtube.com/watch?v=vi5VgOKONDs

★創生「日本」7月総会 講師:埼玉大学名誉教授 長谷川三千子氏60m

🔴🔴No.2

憲法

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🔵安倍政権のマスメディア統制の動向=キャスター交替など

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筆者コメント=古舘伊知郎「報ステ」降板問題

ついに古舘氏の報道STからの降板が決まった。記者会見(下記の朝日新聞報道参照)の説明では、「本人からの申し出」「テレ朝からの慰留」=「円満降板」という形をとっている。しかし、よくよく古舘発言をみると、「ものすごく不自由な12年間だった。綱渡り状態でやってきました」「権力を監視し、警鐘を鳴らすのが報道番組。まったく中立公正はありえないと思っている」「ニュースキャスターが意見を言ってはいけないということはないと思っていますし、偏っていると言われれば、偏っているんです、私。基本的には偏らない放送はできないという思いでずっとやってきました」「(後任について)ぼくのようにあまり問題発言をしない人がいいんじゃないでしょうか」—–など官邸や自民党、テレ朝、一部の世論などの圧力のなかで、それに屈せず奮闘してきたことを熱っぽく語っている。

反原発の立場にたった古舘氏の発言への官邸・自民党、テレ朝の圧力にたいして「圧力がかかって番組を打ち切られても本望」と放送の最後に本人がのべざるを得なかった問題。田中原子力規制委員会委員長の発言の誤報問題、そして古賀茂明氏が番組中に「コメンテーターを官邸、テレ朝などの圧力で降板させられた」と発言した問題。こうして自民党がテレ朝幹部を呼び事情聴取をした直後、コメンテーターが日替わりとなったり、金曜には岡本・森本など官邸よりの保守的な評論家をよばざるをえない「番組トーン」の変更を余儀なくされた問題が起きた。これこそ、古舘氏とスタッフがつくりだしてきた報道STの「命」にかかわる問題である。報道STを続けることへ古舘氏の意欲が薄れてきたことは十分推察される。2年間にわたって朝日新聞記者の恵村順一郎氏と組んで他局の追随を許さぬ政府批判の報道を展開してきた報道STこそ古舘氏の本領であったと思う。古舘氏は本当にいきいきとしていた。古舘氏の降板にほくそ笑んでいるのは、メディア対策をすすめてきた菅官房長官や萩生田、世耕たちだろう。そして次の手は、TBS系の「ニュース23」の岸井キャスターの来年3月の降板であろう。安倍政権による放送法などを活用しなからテレビ局に圧力をかけてメディア界からの「まともな番組」の「パージ」は、いっそう強まりつつある。しかし、BPO報告に見られるように「権力を監視し、警鐘を鳴らすのが報道番組(古舘氏の発言)」というスタンスは、テレ朝にもTBSにも根強く存在していることも事実であろう。古舘氏の後継番組や「ニュース23」にも、その流れは、きっと形を変えても受け継がれると思われる。マスメディアをめぐり、激しいつばぜり合いが16年度に展開されることは間違いない。

◆◆古舘伊知郎「報ステ」降板の全真相東京官邸大ハシャギの内幕

(日刊ゲンダイ15.12.26

◆◆古舘氏「報ステ」降板へ 来年3月「新しいジャンルに」

20151224日朝日新聞

「報道ステーション」での古舘伊知郎キャスター=テレビ朝日提供

 テレビ朝日系のニュース番組「報道ステーション」の古舘伊知郎キャスター(61)が、契約終了に伴い来年3月で降板することになった。テレビ朝日が24日、発表した。番組は継続するが、後任は決まっていないという。

 番組は、「ニュースステーション」の後継として2004年4月に始まり、古舘さんは当初から12年にわたってメインキャスターを務めた。同局によると、本人から「新しいジャンルにも挑戦したい」などと申し入れがあったという。23日までの放送回数は2960回、平均視聴率は13・2%だった。

◆表現に制約「不自由な12年だった」 古舘さん一問一答

 来年3月で「報道ステーション」のキャスターを降板することを明らかにした古舘伊知郎さん。24日あった会見での主なやりとりは以下の通り。

     ◇

 ――辞めることを決めた経緯は?

 報道ステーションは2004年4月5日にスタートしましたけど、その3年くらい前から私の事務所の会長と現在テレビ朝日会長の早河(洋)さんが会って、ニュースステーションの後をやってくれないか、という交渉があったやに聞いています。

 でもずっと固辞しておりました。テレビは娯楽の箱だと思っているので、私はスポーツ実況やバラエティー、(一人舞台の)トーキングブルース等々、娯楽もので生きていきたいとずっと言っていたんですけど、早河さんはうまくて、「自由にあなたの絵を描いて」と。

 自由にと言われた割にはものすごい不自由な12年でした。言ってはいけないことと、良いことと、大変な綱渡り状態で一生懸命頑張って参りました。

 2年くらい前、また別な挑戦をさせていただきたいなということで、早河さんに(辞めさせてほしいと)お願いしました。でも契約があと2年残っているということで、「もうちょっと頑張ってよ」と。それから2年間頑張って、今年の夏くらいに、「12年を一つの区切りとして辞めさせていただきたい」と。「来年もやってよ」と慰留してくれたのはほんとに感謝ですけども、了解していただきました。

 ――「不自由な12年」というと?

 バラエティーやスポーツ実況の放送コードと報道のコードは違います。バラエティーではラーメン屋といえるけど、報道はラーメン店と言わなきゃいけない。

 テレビを見る方も、バラエティーを見るモードと報道を見てくださるスタンスとは全然違う。そういう意味で、色んな不自由はありました。田原(総一朗)さんから「塀の上を歩いても、中に落ちてはいけない」と教わりました。

 今後もテレビで仕事をやらせていただく場合は不自由がとれるわけではない。けれど、ちょっとは緩くなる。唯一やりたいのは、しゃべり倒したいということ。12年間うっぷんがたまっているので。

 ――番組コメンテーターだった古賀茂明さんの発言が影響して辞めるのでは?

 それは全くありません。古賀さんに関してひとこと言わせていただければ、経産省の官僚でいらしただけあって聡明(そうめい)で、私の知らないことを色々と楽屋トークで教えていただいて、その面では感謝しています。ただ、番組の中で見解の相違が出たことは大変残念だったと思っている。それだけです。ですから、そのことが今回の決意に至ったということは全くありません。

 12年間色んなことがありましたから。謝ったり訂正したり、ごめんなさいってやったり色々ありましたから。生意気言うと、免疫ができてる。一つ一つの事象で辞めるということではないです。

 ――今後もテレビには出続けますか。

 現在61歳ですけども、身体が続く限り、現役でいたいという強い気持ちが勝手ながらございます。ただ、人様が最終的に需要と供給の中で判断されることですので、需要があればやりたいな、というのが正直なところです。

 (テレビ朝日の)発表文の中には、新しいジャンルにチャレンジしたいみたいなことが書かれていましたが、別に新しいジャンルってないんです。僕はフリーになってから、へたくそだけどドラマに出たこともあるし、報道もやらせてもらったので、テレビ関連でやってないジャンルはもうないんです。

 あんまりビジョンはありませんけど、例えば2020年の東京オリンピックの開会式で実況中継させていただきたいなとか、年だから無理だと思いますけど、アストロノーツ(宇宙飛行士)になって国際宇宙ステーションから宇宙実況してみたいなとか、深夜にデレデレしゃべるバラエティーをやりたいなとか、夢想・妄想はあるけれども、オファーがあるかどうか。

 ――番組の後任についてどう考えますか。

 僕の12年間を考えると、どうでしょう。思いっきり堅いジャーナリストの方にきちっとやっていただくという線もあるでしょうし、僕と同じようなアナウンサー系の方にやっていただくのもあるでしょうし、わかりません。ただ、報道ステーションという名前が残る以上、ちゃんとやってくれるとかたく信じているので、一視聴者として見ていきたい。まあ、僕みたいにあまり問題発言しないほうがいいんじゃないですかね。今日もずっとネットをみていて、一番印象に残ったのは「古舘降板だってさ、やったぜ」というのがあった。そういう人には「良かったですね、でも育ててくれてありがとう」と言いたい。ほんとに誹謗(ひぼう)中傷、批判、非難、つらいときがいっぱいありました。毎日、メールとか電話とか、11年9カ月ずっと欠かさず目を通してきたので、ほんとに読んでてへこみますけど、へこんだ分だけ免疫も強くさせていただきました。ほめてくださった方には感謝ですけど、めいっぱい口汚くののしっていただいた方によって育てられたというのが正直あります。なにくそと思いますし。

 ――12年間で印象に残ったできごとは何ですか。

 一つあげなさいと言われれば、東日本大震災です。あの日は、忘れ得ぬ記憶です。夜7時から夜中1時くらいまでやりました。冒頭の映像は、気仙沼の大火災をまずお伝えして、大変な状況を生でお伝えしました。それから毎日、毎日、東日本震災、福島第一の原発事故を伝え続けた。

 ――報道番組のキャスターの役割をどう考えますか。TBS系の「ニュース23」の岸井成格氏の安保法制報道での発言は偏っていたとの批判もあります。

 ニュースキャスターの定義は様々あるかもしれません。しかし私の中では、権力に対して警鐘を鳴らす、監視するということを担っている。しかし一方で商業放送です、民間放送です、電波事業です。だから、とことん偏って、新聞のように突っ走ることもできない。その綱引きが、こっち行ったらこっち戻るというような、僕はそのゆらぎを10年くらいやってきた。基本的にニュースキャスターというのは反権力であり、反暴力であり、言論の自由を守る、表現の自由を守るという側面もあるので、あまりに偏ってはいけないとはいえ、まったき純粋な中立公正などありえない。

 僕が素人のくせに、ジャーナリスト上がりでもないのにいろんな意見言うことに対して、見ている方に怒られた。で、ちょっと言わなくなると、「お前、キャスターなんだから言え。プロの意見ばかり聞きたいんじゃなく、素人であるお前の意見を聞きたいんだ」とも。僕はそれに両方こたえないといけないと思っているので、おさえたり、出たり、出たり引っ込めたり、とやってました。だから、ニュースキャスターが意見を言ってはいけないということはないと思っていますし、あるいはまた、偏っていると言われれば、偏っているんです、私。人間で偏っていない人はいない。客観を装っても、主観内客観に過ぎないわけですから。

 放送法の問題はもちろんあると思いますけど、あれは法的規範なのか、倫理規範なのかという議論があるところで、私は私なりに色々考えますけど、基本的には偏らない放送はできないという思いでずっとやってきました。

 岸井さんのことは私わかりませんけど、ズバッとおっしゃられて、いいなと。

 ――番組をめぐって、自民党から事情聴取があった。政権与党からの圧力についてどう考えますか。

 反権力と言ったけど、反権力100%でやろうとは思っていないです。反権力という側面も絶対ある。だけども一方では、権力を監視しながら、権力の出すものをソースとして客観的に伝えなければいけないことが当然ありますから。そこは、案配、さじ加減、湯加減なんだと思ってやってきました。人から偏り過ぎていると言われることは、謙虚に受け止めています。

 ――再び報道で働く可能性はありますか。

 ありえると思います。娯楽のほうで思いきりしゃべり倒したい、という子供じみた欲求にさいなまれていますので、今はありませんけど、虫がうずくかもしれません。12年やっちゃうと、報道は報道で一種の麻薬中毒じゃないかなと思いますね。禁断症状出たら、やっちゃうかな。

◆◆検証・テレビと安倍政権(赤旗連載)

公権力介入こそ放送法違反

(赤旗15.12.21

NHKの「公共」国民的議論が必要

(赤旗15.12.23

ETV従軍慰安婦番組放送前日に圧力

(赤旗15.12.24

市民と放送労働者

(赤旗15.12.26

◆◆首相官邸のメディア攻略術

(週刊東洋経済15.12.12

◆◆朝日新聞=「首相動静15.12.4」の夜の記事に思う

【筆者コメント】 

—–️7時6分、東京・京橋の日本料理店「京都つゆしゃぶCHIRIRI」。朝日新聞の曽我豪編集委員、毎日新聞の山田孝男特別編集委員、読売新聞の小田尚論説主幹、日本経済新聞の石川一郎専務、NHKの島田敏男解説副委員長、日本テレビの粕谷賢之メディア戦略局長、時事通信の田崎史郎特別解説委員と食事。9時47分、東京・富ケ谷の自宅。

毎度おなじみの「首相動静」記事の「マスコミ各社との会食」である。フジと産経は、いつも別口。田崎史郎が連絡役の役割を果たしている。このメンバーのように、紙面や映像にでるメンバーだけでなく、会長・社長その他メディア幹部との会食もある。TBSだけが会食を避けている。

これまでのメディアとの会食の一覧表は、安倍首相のメディア工作とNHK乗っ取り計画

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2766489.html このにも最近のものを掲載。

こんなにメディア対策=世論対策を周到に行っている政権は、戦後史のなかで安倍政権を除いてない。小泉政権も力を入れたが、安倍政権には及びもつかない。

こんな会食に出席するメディアの幹部たちの厚顔ぶりには、いささか呆れ果てる。「取材だから」という理屈は成り立たない。取材であれば、高額な料理と酒代金を自分で負担したらどうか。会食をすれば、強制されなくても必ず安倍政権批判の書きかた、描きかたに手心が加わる。これは自然の成り行きだ。メディアの退廃ぶりは、ひどい。政府の批判役としての役割の全面放棄は、戦後70年の中でも今が一番ひどい。

◆◆(著者に会いたい)『NHKはなぜ、反知性主義に乗っ取られたのか』 上村達男さん

20151129日朝日新聞

上村達男さん

揺らぐ「公正らしさ」への信頼 上村達男さん(67歳)

 NHK経営委員長代行として籾井勝人会長の言動や資質を批判してきた。今年2月に任期を終え、退任。これまでの体験をもとに感じた疑問や問題点を記した。

 NHKの会長は、経営委員会内の「指名部会」が候補を一人に絞ってから、同委員会に諮り、ほぼそのまま決まる。上村(うえむら)さん自身、籾井氏のことはあまりよく知らなかったが承認した。「経歴に問題はなく反対する理由がなかった。でも、今は結果責任があると感じている」。籾井会長が就任会見で「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」などと言うのを見て、「これは大変だ」と驚愕(きょうがく)したのだ。

 会長の言動が制作現場にどのような影響を与えているのか、はっきりしたことはわからない。「でも今の状況では、何を報じても公正ではないように見えてしまう。少なくとも『公正らしさ』は揺らいでいる」

 公正な情報への信頼が揺らげば、議論の基盤が失われ、みんなが事実に基づかずに、ただ一方的に言葉を投げ合うような言論状況が起きかねない。「健全な民主主義の発展」に支障が生じるのではないか、と懸念する。

 本書では、会長らを監督する立場の経営委員が「情報過疎」にならないよう、調査権限がある監査委員会の体制を強化することも提言。報道の独立性を守るために何が必要か、議論を戦わせることが必要だと考えている。「私の案がおかしいなら批判してほしい。何ごともなかったように今の状況を放っておくことが一番、よくない。独立性を維持できる研究者(早稲田大学教授)という立場にいるのだから、言うべきことを言う責任があると思っています」

 (東洋経済新報社・1620円)

 (文・守真弓 写真・堀英治)

【赤旗15.11.29

◆◆岸井キャスター攻撃 広告主=小川栄太郎の正体=安倍首相と深い仲

(赤旗日曜版15.12.13

◆◆「ニュース23」と岸井キャスター報道番組批判の意見広告や放送法「政治的公平」=識者の見解は

20151130日毎日新聞

 報道番組のキャスターが安全保障関連法成立直前に廃案を訴えたことを批判する意見広告が、読売新聞と産経新聞に掲載された。番組編集にあたって「政治的公平性」などを求めている放送法の規定を根拠にしたものだ。一方で、放送法は「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること」を原則に掲げている。放送法の読み方について、有識者から意見を聞いた。【青島顕、日下部聡、須藤唯哉】

◆4条 国家権力介入防ぐため 西土彰一郎・成城大教授(憲法)

 放送法の定める「政治的公平」を4条だけで解釈するのは誤りだ。1条は放送の自律、表現の自由の確保などを定め、憲法も表現の自由を保障している。法体系全体を見れば、放送局が政府から独立した存在と位置づけられるのは明らかだ。政府の主張を番組内で公平に扱うことを義務づけた規定ではなく、放送局が自律的組織であるための倫理を明確化したのが4条だ。

 政府もかつては基本的にそう解釈していた。ところが、1993年にテレビ朝日の椿貞良報道局長(当時)が「反自民の連立政権を成立させよう」などと日本民間放送連盟の会合で発言し、自民党から問題視されたことを契機に政府は解釈を変え、行政指導をするようになった。

 私はもともと、放送法の定める▽政治的公平▽事実の報道▽多角的論点の提示−−などは国家権力の介入を防ぐための格調の高い条文と考えていた。しかし、逆に介入の口実になる余地があるのなら、むしろ表現の自由を保障した憲法21条に違反すると主張すべきかもしれない。憲法学界ではそうした声が高まりつつある。

◆キャスターの個人差 当然だ 服部孝章・立教大名誉教授(メディア法)

 「政治的公平性」は目安と見るべきだ。一つの番組内でバランスを取るのは不可能。政治家を招いた討論番組でさえ、一方の立場の党派が出演依頼に応じないということも起きている。

 対立する問題について、双方を丁寧に紹介しろという主張は理解できなくもない。しかし、それを突き詰めれば「余計なことを言うな」ということになりかねない。岸井氏は政府・自民党の動きを報道した上で、意見をかぶせている。一方的に自分の意見を述べているわけではない。それがだめだと言うのなら、報道番組が無色透明なつまらないものになってしまう。

 「バランス」といっても客観的な基準を設けるのも難しく、キャスターの個人差が出るのは当然。公平を求め過ぎれば、キャスターの選び方を巡って萎縮や過剰反応が起きる恐れもある。米国では希少な電波を独占的に使う放送事業者に、政治的中立、公正な放送を課す原則があったが、廃止された。メディアの数が増えたことに加え、争点のある話題の放送を控える局が増えたことが廃止の理由に挙げられている。

◆厳密な「公平性」は時代に逆行 音好宏・上智大教授(メディア論)

 米国ではかつて「公共的に重要な争点の放送には適正な時間を充てること、一方の見解だけが放送された時は対立する見解に対して放送の適正な機会を与えること」とする公正原則を放送事業者に求めていた。電波は希少で、放送は社会的影響力も強いから、いろいろな考えを提供できるようにすべきだという考えにのっとったものだった。しかし、米国内でケーブルテレビが普及し、多チャンネル化が進む中で、公正原則は撤廃された。

 一つの番組内でバランスを取らせるより、縛りを緩くすることで多様な意見が出るようにする方が有用だという考え方だ。日本はなお、地上波の影響力が比較的強いが、それでもインターネットも含めて多メディア化してきていると言える。総務相の国会答弁にあるように、これまでも特定の番組内で対立する意見の提示に厳密なバランスを求めてこなかったし、今時、公正原則のような考え方を持ち出すのは時代に逆行する主張だろう。政治的公平性の厳密さを大事にするのは、選挙報道などに限るべきだ。

◆キャスター「安保法案反対」問題視

 意見広告は14日に産経新聞、15日に読売新聞に掲載された。広告を出したのは「放送法遵守(じゅんしゅ)を求める視聴者の会」という団体だ。

 安保関連法案の参院審議が大詰めを迎えていた9月16日、TBSテレビの報道番組「NEWS23」で、アンカーを務める岸井成格(しげただ)氏(毎日新聞特別編集委員)が「メディアとしても廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだと私は思います」と発言した。

 意見広告はこの発言について、放送法4条が放送事業者に対し「政治的に公平であること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と規定していることを根拠にして、「重大な違反行為」と主張した。

 さらに、この規定について2007年の参院総務委員会で当時の増田寛也総務相が「一つの番組ではなく当該放送事業者の番組全体を見て判断することが必要」と答弁したことにも触れ、「総務大臣見解が不適切だ」と批判した。

 意見広告は「一般視聴者は、ある一局の報道番組全体を見ることはできない。一つの報道番組内で公平性や多様な意見の紹介に配慮しようと努めるのは、放送事業者の当然の責務だ」と主張している。

 この会の代表呼びかけ人である作曲家のすぎやまこういち氏は26日に記者会見し、報道番組について「片方の意見のみに偏った報道姿勢が非常に目立つ」と批判した。同日付で岸井氏、TBS、総務相に公開質問状を送ったことも明らかにした。

 TBS広報部は意見広告について「従来、番組にはさまざまな意見が、さまざまな形で寄せられており、意見広告もその中の一つと考えている」とコメントした。

◆政府も従来「全番組で判断」

 放送行政を14年間担当した金沢薫・元総務事務次官は放送法4条について、著書「放送法逐条解説」の2012年改訂版で「放送事業者の自覚と自律において自主的に規制されるべきもの」と書いた。

 違反した場合に放送局の運用停止などをする要件として、(1)違反が明らか(2)放送が公益を害し、将来に向け阻止する必要がある(3)同様の事態を繰り返し、再発防止の措置が十分でない−−の三つを挙げ、「適用は、第一義的には自主規制によるものであることを念頭に置き、厳格に行う必要がある」としている。

 4条の「政治的公平」規定については「1条の不偏不党の保障を具体化したものだ。放送は特別な社会的影響力があるので、積極的に、政治的に公平な放送を意図して放送することが公共の福祉に資することになる、との考えからだ。一つの番組における政治的な公平ではなく(その局の)番組全体として判断されるべきもの」と解説している。

 これについて、高市早苗総務相は27日、閣議後の記者会見で「一つの番組というより、放送事業者の番組全体を見て(政治的な偏りがないかを)判断するという、これまでの(政府の)見解がある」と述べた。その上で「今後検討すべき課題だとなってくれば『分かりやすい判断』ということも考えてもいいのではないか。ただ、個別の番組で細かく判断する基準作りは難しい」と語った。

◆放送法 関係条文

第1条(目的)

 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

第3条(放送番組編集の自由)

 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

第4条(国内放送等の放送番組の編集等)

 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

◆◆岸井・膳場総退陣ならTBS二度死ぬ

【日刊ゲンダイ15.12.5

◆◆「放送法遵守」を前面に「ニュース23」と岸井キャスターを攻撃=読売・産経の全面広告

【日刊ゲンダイ15.12.02

【日刊ゲンダイ15.11.26

【全面広告】

◆文章は以下のPDF

クリックして5fed6f_915f771e9f744b42b2cb4f8b344b5d87.pdfにアクセス

◆広告を出した「放送法遵守を求める視聴者の会」

http://housouhou.wix.com/tvwatch

動画=https://m.youtube.com/channel/UCgLea32mOM4zI9V4qEEwcbw

◆彼らが主張する安保法制報道の「偏向理由」

NEWS23(TBS) 

反対93%(4109秒)

賛成7%(325秒)

ニュースウォッチ9(NHK)

反対68%(980秒)

賛成32%(463秒)

ワールドビジネスサテライト(テレビ東京)

反対46%(121秒)

賛成54%(140秒)

◆「放送法遵守を求める 視聴者の会」の賛同者名

すぎやまこういち氏

渡部昇一氏

鍵山秀三郎氏

渡辺利夫氏

ケント・ギルバート氏

上念司氏

小川榮太郎氏 

【筆者コメント】 

◆◆安倍政権などの「放送法」をねじ曲げたテレビ統制=「報道ステーション」や「ニュース23」が少し心配になってきた

政府のメディア統制、とくにテレビ統制の手段として、放送法をねじ曲げて「放送法通りの公正な報道を」という言い方で、これまで安倍政権の政治の告発、暴露を行ってきた良心的な番組に圧力をかけて、安倍政権よりの報道量を増大させる企てが目立ってきた。安倍の放送局幹部の接待、呼びつけて圧力をかける活動がくりかえされ、それが政府・自民党とスポンサーにからきし弱い放送局幹部に微妙な影響を与えつつある。朝昼夕方の主婦向けのワイドショーのニュース解説には、安倍の会食メンバーで安倍政権と自民党を公然とヨイショする田崎史郎や宮家邦彦、橋本五郎、青山繁晴などの評論家たちが繰り返し登場する異常さが続いている。関西はもっとひどい。これらはテレビ局の「配慮」だ。大谷昭宏さんや青木理さんなど良心的な評論家の声は本当に少数派だ。安倍政権は、これまでテレビ朝日系の「報道ステーション」「モーニングバード」、TBS系の「ニュース23」「サンデーモーニング」「報道特集」、NHKの「クローズアップ現代」やETVなどを目の敵にしてきた。そこへ「クローズアップ現代」に「やらせ」問題が起き、「報道ステーション」に川内原発報道誤認問題、さらに大きな古賀発言問題が起きた。自民党は、両放送局を呼び出し圧力をかけた。菅官房長官や安倍のマスメディア対策ブレーンや自民党が、圧力をかける手段として利用しているのが、放送法第4条だ。安倍首相が一斉地方選で「ニュース23」に出演したとき街頭インタビューをアベノミクスに批判的な意見ばかりを紹介したことに腹を立てたことに菅官房長官が後押ししたときからこの手法が始まった。

◆放送法抜粋

(目的)

第1条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

(放送番組編成の自由)

第3条 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

《改正》平22065

(国内放送等の放送番組の編集等)

第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。

一 公安及び善良な風俗を害しないこと。

二 政治的に公平であること。

三 報道は事実をまげないですること。

四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

安倍政権は、放送法第4条の「四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」を引用して「番組が一方的な見解でかたよっている。違う見解も紹介すべきだ」という攻撃をかけているのである。

こうした政府・自民党の圧力をもろに受けて放送局が方向転換しつつある典型は、「報道ステーション」ではないか。この1年間、古舘キャスターと朝日新聞記者の恵村順一郎氏が組んで他局の追随を許さぬ政府批判の報道を展開してきた番組が、テレビ朝日の意向で微妙に変化を遂げつつある。月~木曜日には日替わりの解説者に変わり、金曜日はゲスト解説者となった。日替わり解説者は、立野純二、ショーン・マクアードル川上、中島岳志、木村草太の4人。まあまあ聞けるのは、立野氏と中島氏ぐらい。進歩的な憲法学者の木村氏は、すべてを憲法条文につなげるために少し狭さを感じる。古舘も努力はしているが、「多くの角度から解説する」という局の意向は、全体として貫徹されている。戦争法案の解説でも、森本敏氏や小川和久氏、岡本行夫氏などの政府よりの学者が堂々と登場するようになった。明らかに局の以降を反映したテレビ統制の典型で由々しき事態である。これが「放送法第4条に沿った改革」として視聴者に毎日流されている。(「報道ステーション」は大丈夫なのか? 4月24日の岡本行夫氏出演めぐる意味=篠田博之 | 月刊『創』編集長=http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20150427-00045210/

そして今回の「ニュース23」と岸井キャスターへの攻撃である。明らかに安倍政権のマスメディア対策の一環として攻撃をかけてきている。おそらく菅官房長官や萩生田や磯崎や世耕などのマスメディア対策たちが考え出したものであろう。岸井キャスターに的をしぼっているのは、TBSに圧力をかけ、岸井キャスターの降板を狙っているのは明らかだ。

放送法の定める中立公平や不偏不党はあくまで、異なる意見のある問題には異なる視点から報じることを求めているものであって、政府や与党を批判してはいけないという意味は一切含まれていない。また、放送法では「異なる視点」をどのように担保していくかについても、各放送局の裁量に委ねられている。なぜならば、放送法はその第3条において、何人に対しても放送への介入を禁じているからだ。

 つまり放送法は同法が定める中立公正原則や不偏不党原則などを口実に放送局に介入することは、政府であろうが自民党であろうが、認めていないのだ。

 ところが、現実には当の放送局は放送法によって政府からの自立が保障されているいるにもかかわらず、なぜか政府や政権与党からの圧力に対して極端に弱腰である。その背後にあるのは、日本独特の放送免許制度だ。政府は、免許の付与を通じて自分たちの生殺与奪を握る権限を有している存在となっているのだ。

さらに民放の場合、大なり小なりスポンサーである大企業の意向も考慮に入れなければならない点であろう。放送法第4条は、政府一辺倒の番組の批判に使えるが、逆に政府批判の番組の政府よりへの変質にも使われる。私たちとしては、放送法がなぜつくられたのか、その歴史にさかのぼりながら活用していかねばならない。

以下の松田氏の意見も参考にしてほしい。

◆◆松田浩=自民の放送局聴取 憲法の精神に背く暴挙だ

2015516日赤旗

 自民党がテレビ朝日とNHKの幹部を呼びつけ、個別番組の内容について異例の事情聴取を行った。「報道は事実をまげないですること」と定めた放送法4条に違反した疑いがあるからだという。

 しかし、自民党のこの法解釈は、そもそも間違っている。政治権力が言論に介入した戦前の教訓を踏まえ、「放送の自由」を守るために制定したのが放送法である。むしろ自民党の事情聴取こそが、放送法の精神に反し、憲法21条の「表現の自由」規定に背くものなのだ。誤った解釈をまかり通らせていては日本の民主主義に大きな禍根を残すことにもなりかねない。何が間違いであるかを明確に指摘しておきたい。

 1948年、芦田内閣が当初用意した放送法案の4条には現行の「報道は事実をまげないですること」と同じ趣旨の規制条項がいくつも盛り込まれていたが、連合国軍総司令部(GHQ)法務局が反発。「憲法21条と全く相いれず、放送を権力の宣伝機関としてしまう恐れがある」として全面削除を求めた。政府も受け入れ、関連条項を4条から全面削除した。放送法制定史に残る「GHQ法務局の放送法案修正勧告」である。

 その後、放送法制定の最終段階で、3条(放送番組編集の自由)を大前提に、「政治的に公平であること」「できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」などの項目も加え、いわば精神規定として盛り込んだのが4条(当時の44条)なのだ。言論法学者の間で、これを放送事業者が順守すべき「倫理規定」とみる解釈が通説になっているのは、そう見なさないことには憲法21条との整合性がとれないからでもある。

 政権党による事情聴取が大きな政治的圧力となり、威嚇効果を発揮するのは、政府が放送局に対し、生殺与奪の権限に等しい放送行政権(免許権)を一手に握っているためだ。自民党情報通信戦略調査会の川崎二郎会長は「停波処分」の選択肢をちらつかせながら欧州の放送規制機構を例にBPOの法制化の必要性を語ったという。だが、そもそも欧州の大勢が機構設置を指向している最大の理由は、放送行政を政府から独立させ、政府が放送に介入する余地を封じるためである。政府がより強力に放送規制に関与する口実にこれを使おうというのなら、国民を欺く言説といわざるをえない。

 国民の「知る権利」に責任を負うべきNHKや民放、新聞などのメディアは一丸となって、憲法の精神に背く政権党の暴挙に立ち向かうべきだ。広範な国民世論を呼び起こし、こうした政治介入を許さない制度や仕組みを確立することこそが、いま緊急に求められている。

(まつだひろし 放送史研究者)

◆◆「NEWS23」と岸井氏攻撃の意見広告=安倍政権のメディア抑圧が背景に(赤旗15.11.30

◆◆きょうの潮流=「NEWS23」とキャスターの岸井成格(しげただ)氏への攻撃

20151129()赤旗

 「私達は、違法な報道を見逃しません」と題した意見広告が、二つの大手新聞に掲載されました。中身はTBSテレビ「NEWS23」とキャスターの岸井成格(しげただ)氏を攻撃することに終始しています番組で岸井氏が「メディアは安保法案の廃案に向けて声を上げ続けるべきだ」と発言したのは、放送法4条「政治的公平」に違反すると言うのです。もっともらしく条文も示しますが、都合よく放送法の字づらだけをかすめ取っています放送法は、放送が時の政権から独立した表現の場であると位置づけ、政治的に公平な番組を作ることを放送局の自主的な規範と定めています。民主主義に寄与すると掲げているのも重要な点です広告主は視聴者の会なる団体。呼びかけ人として7人が名を連ねています。いずれも安倍首相の応援団を自負する面々です。あの手この手でメディア支配をねらう政権。今回の広告は視聴者を装い個別番組と一放送人を標的にしています。異常ですこの間、個別番組をめぐる厳重注意や事情聴取など政権や自民党のテレビ局に対する介入が続き、市民や放送研究者らから批判が広がっています。放送倫理・番組向上機構(BPO)は「政権党による圧力」と厳しい意見を出しました「NEWS23」は25日、日本政府が国連の「表現の自由」に関する調査を突然、断った問題を報じました。攻撃に「屈することはない」とTBS社員。この声が番組を通して視聴者にとどくことが、政権の介入をはねかえす力になります。

◆◆安倍政権の籾井NHK支配

(「週刊朝日」15.11.27

◆◆BPO意見書=政府・自民党の放送介入を批判

(赤旗日曜版15.12.06

◆◆BPOの「意見」=政権のメディア圧力 厳しく批判、放送界に高まる「言論の自由守れ」の声

20151113()赤旗

 放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が6日に公表した「意見」は、安倍政権の相次ぐメディアへの圧力を「厳しく非難されるべき」だと指摘し反響を呼びました。いま、各界から「言論の自由を守れ」の声が広がっています。 (佐藤研二)

 「放送行政に影響を与える政権与党が圧力をかけることは非常に不適切。表現の内容を理由に規制することになると憲法違反の問題が生じます」。BPO検証委の川端和治委員長は、6日の記者会見でこう述べました。

◆「クロ現」契機に

 川端委員長の発言は、やらせ演出が指摘されていたNHK「クローズアップ現代」の出家詐欺報道(昨年5月放送)に対して「放送倫理違反があった」とする意見を発表した席でした。意見では、NHKに深い自己検証を求める一方、高市早苗総務相が行った「厳重注意」や、自民党情報通信戦略調査会によるNHK幹部の事情聴取は、「放送の自由とこれを支える自律に対する政権与党の圧力そのもの」だと断じました。

 これに対して、安倍首相は10日の衆院予算委員会で「BPOは法的な機関ではないから、総務省が対応する」と反論。放送局の呼び出しも「NHK予算を承認する国会議員が事実を曲げているかどうか議論するのは当然」と言い放ちました。

◆民放連会長も

 同日、大阪市内で開かれた日本民間放送連盟(民放連)の全国大会で、あいさつに立った井上弘会長(TBS会長)は、6月に自民党「文化芸術懇話会」の出席議員らが「マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番」などと脅した問題に触れ、「報道機関の取材・報道の自由を威圧しようとする言動」だと批判しました。

 井上会長はBPOの役割について、政権与党側からあがる「国の関与が必要」「身内でお手盛り」などの声にもき然と反論しました。

 「BPOの目的を考えれば、『公権力から独立し、放送界が自主的に設置した第三者機関』という現在の形しかありえません」

 市民団体の「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」共同代表の湯山哲守さんは、BPOの意見を「政権からの圧力を厳しく弾劾した勇気あるもの」と評価し、こうのべます。「この問題を機に『クローズアップ現代』を現在の時間枠から外すとの報道もありますが、政権に物申す番組を弱体化させようとするなら、まさに『火事場泥棒』と言うべきでしょう」

 放送倫理・番組向上機構(BPO) NHKと民放連による第三者機関。放送の自律を目指し、言論・表現の自由の確保、視聴者の基本的人権を擁護するため2003年に設置されました。放送界の自主的な取り組みは、1965年の放送番組向上委員会に始まります。07年、「あるある大事典II」のねつ造問題を機に、BPOの中に放送倫理検証委員会が設けられました。第三者性を保つため、委員は放送事業者の役職員以外で構成しています。

◆松田 浩氏=政権のねらいは放送の「取り締まり」

 NHK「クローズアップ現代」をめぐる放送倫理・番組向上機構(BPO)の報告書で際立ったのは、放送の自律機関としての同機構の高い見識と存在価値の確かさだった。

 特筆されるのは、高市総務相のNHKへの「厳重注意」文書に対し、「政治介入」として警告を発したことである。権力に弱い日本の放送メディアの歴史のなかで、画期的な快挙といっていい。

規定のすり替え

 それに引き換え、見逃せないのは権力むき出しの政権側の対応である。安倍首相は「放送法第4条は単なる倫理規定ではなく、法規であり、法規違反に担当官庁が法にのっとって対応するのは当然」とBPOを批判した。

 安倍首相の論の最大の問題点は、放送法の核心が政権の介入から放送の自由と自律を保障することにあることに目をつぶり、放送事業者の倫理規定として設けられた「放送番組編集準則」(第4条)を実効規定にすり替えることで、「放送の自律を守る放送法」を「政府が放送を取り締まる放送法」に百八十度転換させようとしている点にある。

 筆者はさきに、放送法制定過程で同法第4条を実効規定として運用することが憲法違反に当たるという当時のGHQ法務局の警告を受け、政府が「実効規定」構想を取り下げ、あらためて「倫理規定」として第44条(当時)を盛り込んだ経緯を示し、同条項を実効規定として扱うことの誤りを指摘した。(本紙6月17日学問文化欄)

政府自身の見解

 この際、政府自身が1968年1月に「臨時放送法制調査会」の要請に応じて提出した回答文書のなかで、「法が事業者に期待すべき放送番組編集上の準則(第4条=筆者)は、一つの目標であって、精神的規定の域を出ないものと考える。要は、事業者の自律にまつほかはない」と統一見解を明らかにしている事実も指摘しておこう。

 安倍政権はこれらの事実の数々に、はたしてどう整合性ある反論をもって答えることができるのだろうか。

 (メディア研究者、元立命館大学教授)

 放送法第4条 放送番組の編集にあたっての基準として次の4項を定めています。(1)公安及び善良な風俗を害しないこと(2)政治的に公平であること(3)報道は事実をまげないですること(4)意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること

◆◆「放送法根拠に政治介入」批判 BPO川端委員長インタビュー NHK番組問題

 放送倫理・番組向上機構(BPO)放送倫理検証委員会の川端和治(よしはる)委員長は12日、朝日新聞のインタビューに応じ、「放送法を根拠にした放送への政治介入は認められない」と改めて主張した。NHK「クローズアップ現代」の放送倫理違反を指摘した委員会の意見書で、政府や自民党を批判したことに対し、安倍晋三首相や高市早苗総務相らから反論が相次いでいた。

◆法は事業者の「倫理規範」

 安倍首相や高市総務相は放送法の規定は行政処分の根拠になる「法規範」だとして、BPOの意見書を批判した。一方、BPOは、放送法は放送事業者が自らを律する「倫理規範」だとして対立している。

 川端委員長は「放送法が倫理規範であるということは、ほとんどの法律学者が認めている」と説明。一方で、「元々(放送免許の許認可権を持つ)総務省、旧郵政省が行政指導をしてきたのは放送法に法規範性があるという考え方からだから、立場の違いがあることは十分承知していた」とした。

 「倫理規範」と解釈する理由について、法が成立した経緯をあげる。「戦前の日本の言論統制に対する反省から、政治権力が直接規制を加えることがあれば、表現の自由を保障する日本の憲法のもとでは問題があるという意識は皆持っていた」。1950年に放送法が国会に上程された際の趣旨説明をあげ、「『放送番組に対する検閲、監督等は一切行わない』と述べていた」と説明する。

 BPOは2009年、総務省がBPOの結論を待たずにTBSの番組に厳重注意したことに対し、委員長談話で「懸念」を表明した。その後6年間は行政指導が「パタッと止まった」という。今回の行政指導に「談話を境に出なくなったのに、また出たので非常に懸念を持った。BPOに任せて見守ろうという立場に戻ってほしい」と話す。

 自民党の事情聴取について安倍首相が「(NHKの)予算を国会で承認する国会議員が事実を議論するのは当然」と反論したことには、「私がコメントする問題ではない」としつつも、「番組の内容によって予算変えるんですかね」と皮肉った。さらに、政府・自民党が介入する場合の問題点を「放送の現場の意欲をそぎ、萎縮させてしまう」と改めて主張した。

 自民党にBPOも呼ばれたらどうするのか。「実際に起きた時にならないと決められない。ただ我々は、政党にいちいち説明をして回るような機関ではない」

 BPOは、法律家、ルポライター、漫画家など専門性を持った委員が集まる。川端委員長は弁護士で企業コンプライアンスなどに詳しく、07年の放送倫理検証委員会発足以来委員長を務めてきた。「委員に共通するのは、日本の表現の自由を守ろうという思い。政治権力からの事実上の圧力で放送局が萎縮して、国民が本当に知りたい情報が伝わらなくならないように、と考えている」と語った。

◆解釈、政府や自民と対立

 BPOが政府・自民党を批判したことについて、上智大の音好宏教授(メディア論)は「放送の自主自律を守るBPOとしては当然のこと」と話す。

 BPOと政府・自民党は放送法をどう位置づけるかで意見が対立しているが、「放送法の4条にある『報道は事実をまげないですること』などの放送番組基準は倫理規範だというのが定説」と説明する。もし放送の内容を制約する定めだとすると、表現の自由を保障する憲法21条に違反することになるからだ。

 一方で国も、放送法を根拠に行政処分ができるとの立場をとりつつ、番組内容への介入には慎重だった。1972年、当時の広瀬正雄郵政相は参院逓信委員会で番組への行政指導について「効果の少ないものであり、いろいろ弊害を伴う」と答弁している。

 政治の介入が強まるきっかけとなったのが、93年の「椿(つばき)問題」。テレビ朝日の報道局長が非自民政権が生まれる報道をするよう指示したとされ、放送免許の不交付が検討された。以後、厳重注意など放送局への行政処分が増えていった。

 NHKと民放は2003年、政治介入を避けるため放送倫理上の問題に自主的に取り組むBPOを設立。07年には放送局への「調査権」などを付与した放送倫理検証委員会を新設し、機能を強化した。

 ただ、青山学院大の大石泰彦教授(メディア倫理)は「表現の自由の主体であるテレビ局が、BPOという用心棒の陰に隠れてしまってはいないか。表現の自由を守る役割までBPOに外注されては困る」と指摘する。

 (星賀亨弘、佐藤美鈴)

◆キーワード

 <放送法> テレビ・ラジオ放送の事業者や番組などについて定めた法律で、1950年にできた。第1条で「不偏不党」「自律」「表現の自由」「健全な民主主義の発達に資する」という基本原則をうたう。第4条では「放送事業者は、国内放送及び内外放送の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない」として、「公安及び善良な風俗を害しないこと」「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」の4点を定めている。

◆◆BPO、NHK過剰演出「重大な倫理違反」 自民の聴取「圧力」と批判

2015117日朝日新聞

 昨年5月にNHK「クローズアップ現代」で放送された「出家詐欺」報道の過剰演出問題で、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は6日、意見書を発表した。番組について「重大な放送倫理違反があった」と指摘する一方、この問題で高市早苗総務相がNHKを厳重注意したことや、自民党がNHK幹部を呼んで説明をさせたことを厳しく批判した。同委員会が国や与党に異議を表明するのは初めて。

 同委員会が注目したのは、出家詐欺のブローカーの活動拠点を多重債務者が訪れ、出家について相談するという場面。初対面のようなやりとりをするが実は2人は旧知で、場所も多重債務者が管理するビルの空き部屋だった。依頼した上での撮影なのに、離れたビルから、室内に仕込んだマイクを使い「隠し撮り」のように行った。裏付けもしない安易な取材態度やスタッフ間の対話の欠如などが背景にあったとした。

 NHKの検証については「取材・制作過程についての放送倫理の観点からの検証が不十分であるとの印象をぬぐえなかった」と批判。「やらせ」を認定しなかったNHKの放送ガイドラインについて、「視聴者の一般的な感覚とは距離がある」と指摘した。

 NHKは「重大な放送倫理違反があったという意見を真摯(しんし)に受け止める」とのコメントを発表した。

 また、意見書では、高市総務相の厳重注意について「報道は事実をまげない」など放送法の規定を根拠にしていると指摘。その上で「これらの条項は、放送事業者が自らを律するための『倫理規範』。政府が放送法の規定に依拠して個別番組の内容に介入することは許されない」と断じた。

 さらに、NHKが自主的に再発防止策を検討していたにもかかわらず総務相が厳重注意したことを、「放送法が保障する『自律』を侵害する行為」とした。

 自民党情報通信戦略調査会がNHKの幹部を呼び番組について説明させたことも、「放送の自由とこれを支える自律に対する政権党による圧力そのものであるから、厳しく非難されるべきである」と批判した。

 高市総務相は6日夜、報道陣の取材に「行政指導は法的拘束力があるわけでもなく、あくまでも、要請という形で受けた側の自主性にゆだねるもの。行政指導について、いきすぎたとも拙速だとも思っていない」と反論した。

 BPOでは放送人権委員会でも、同番組の審理を続けている。

◆検証委が指摘した主な問題点

・重大な放送倫理違反があった

・事前取材も裏付け取材もなしに、情報提供者の証言に全面的に依存

・報道番組で許容される演出の範囲を著しく逸脱

・「隠し撮り」風の取材は事実を歪曲(わいきょく)

・NHK放送ガイドラインの「やらせ」の概念は視聴者の一般的な感覚とは距離がある

・政府が放送法の規定に依拠し個別番組の内容に介入することは許されない

・放送の自由と自律に対する政権党による圧力は、厳しく非難されるべきだ

◆キーワード

 <「クローズアップ現代」の過剰演出問題> NHKが2014年5月14日の同番組で、多重債務者が出家して戸籍名を変え、債務記録の照会を困難にする「出家詐欺」を特集。週刊文春が今年3月、「やらせがあった」と報道した。NHKの調査委員会は4月、報告書で「やらせ」はなかったとする一方、「過剰な演出」や「視聴者に誤解を与える編集」があったと公表した。

 番組では詐欺をあっせんするブローカーとされる男性と多重債務者とされる男性が相談する部屋を隠し撮りしたように放送したが、実際は記者も部屋に同席していた。NHKは記者ら15人を処分。5月からBPO放送倫理検証委員会が審議していた。

◆「番組介入許されない」 BPO、政権に強い姿勢

自民の反発は必至

 NHK「クローズアップ現代」の過剰演出問題に対する意見書で、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は、高市早苗総務相がNHKに文書による厳重注意をしたことなどについて「政府が個別番組の内容に介入することは許されない」などと厳しく批判した。政権や与党によるメディアへの威圧ともとれる言動が続くなか、強い姿勢を見せた形だ。

 「行政からの指導、それも総務大臣という、放送行政で許可権限を持っている人がそういうことをする。非常に問題がある」――6日の会見で、弁護士でBPO放送倫理検証委員長の川端和治氏は語気を強めた。

 報道を巡る権力側の「威圧」ともとれる言動が続いている。昨年11月には自民党筆頭副幹事長らが在京テレビ局に選挙報道の「公平中立」を要請。今年3月には衆院予算委員会で安倍晋三首相が自らの発言について「圧力と考える人は世の中にいない」と語った。

 4月には自民党の情報通信戦略調査会がNHKとテレビ朝日の幹部から事情聴取。終了後、同調査会の川崎二郎会長は「BPOはきちんと動いて欲しい」「(政府には)テレビ局に対する停波(放送停止)の権限まである」と発言した。

 6月にあった自民党議員の勉強会「文化芸術懇話会」でも参加した議員による「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番」などの発言が問題視された。

 高市総務相や同調査会のNHKへの対応について、川端委員長は「放送法には政権与党が放送内容に干渉できないと定められているのに圧力をかける、かけたかのように見える」と指摘。表現の自由などを定めた憲法21条に言及し「番組内容によって規制するのであれば抵触する。現在、政府のメディア規制が問題にされるなか、行政指導と事情聴取は問題にせざるを得ない」と語った。

 野党の会合でも放送局幹部を呼び出して事情聴取をするケースはある。それとどう違うのかという記者からの質問に、川端委員長は「政権与党であるからこそ(放送局側が)一定の強制力があるように感じるのではないか」と述べた。

 民放連に加盟する、ある放送局の社長は「放送局は国に対して自主、自律という一線を持って運営を続けてきた。川端委員長の発言は正しい」と話した。

 安倍政権と自民党は、報道による政権批判を放置すると支持率の低下につながるおそれがあるとして、批判の芽を早めに摘んでおきたいという考えが強い。BPOへの反発は必至だ。

 NHKと民放がつくる第三者機関のBPOを解体し、政権がもっと関与できる組織に作りかえるというシナリオを描く党幹部もいる。政治権力と放送の自由に関する問題は、党情報通信戦略調査会がどう動くかが当面の焦点となる。(佐藤美鈴、松沢奈々子)

◆実態と違う放送内容「落胆」

 BPOの放送倫理検証委員会が問題視したのは、NHKの実際の取材状況と放送した内容が著しくかけ離れていたことだ。「出家詐欺ブローカー」とされた男性の職業、詐欺の「拠点」とされた事務所はいずれも実態とは異なり、相談にやってきた多重債務者と担当記者は旧知の仲だった。升味佐江子委員長代行は会見で「一視聴者として番組を見て、調査で現実を見ると、あまりに落胆する」と語った。

 意見書では、スタッフらが違和感を感じながらも意見として発言しなかったことも指摘。記者職と制作職が採用時から分かれているうえ、人事交流もほとんどなく、対話が欠如していると分析。ニュースが正確であることや、事実をねじ曲げてはならないというNHKのガイドラインにも「ことごとく反していると言わざるを得ない」と断じた。

 一方で、「クローズアップ現代」の長年の功績もたたえ、「今回の問題によって活力がそがれることなく、社会の真実に迫る意欲的な番組が今後も生み出されることを強く期待する」と締めくくっている。

◆<考論>政府に重い指摘

 慶応大の大石裕教授(ジャーナリズム論)の話 放送法の規定は放送局側に課された努力規定で、政治の介入を認めたものではない。免許事業のゆえにテレビ局は政治の圧力を受けやすく、政治の側も長年、一定の影響を与えられると考えてきた。しかし、政治の介入は中長期的にはメディアの弱体化を招き、社会の損失につながる。弱点を克服するために放送事業者によってBPOが設立され、総務省もこれまではBPOの自律性を尊重し、放送内容については介入を避けてきた。しかし、総務相がNHKに厳重注意し、総務省とBPOの信頼関係が問われる事態となった。政府や与党はBPOができた経緯を再認識し、今回の指摘を重く受け止めるべきだ。

◆キーワード

 <放送倫理・番組向上機構(BPO)> 放送に関わる問題を放送界で自主的に解決するため、NHKと民放が設立した第三者機関。放送における言論・表現の自由を確保しながら、視聴者からの苦情や意見を受けて番組内容を審査し放送局に注文を伝える。番組の向上や虚偽の疑いのある放送に関して議論する放送倫理検証委員会、苦情申し立てを受けて審理をする放送人権委員会、青少年に対する放送や番組のあり方を審議する青少年委員会で構成される。

 放送倫理検証委員会には川端委員長のほか、委員長代行に映画監督の是枝裕和氏ら、委員に精神科医の香山リカ氏、ジャーナリストの斎藤貴男氏らがいる。

◆◆戦争法・TPPのNHK報道(15.10.18赤旗)

◆◆NHK全国退職者有志による声明

2015930

NHK役員および幹部職員の皆様へ

  日ごろ、国民のための放送を目指し、ご清栄のことと存じます。 私たちは、籾井現会長の就任後の言動に危機感を深め「NHK全国退職者有志」として、NHK経営委員会に「会長の罷免」を要望してまいりました。

 その賛同者は、現在2000名を超えております。その後の経過を見ておりましても、籾井氏には、言論人としての矜持もなく、NHKのトップに立つ資質を疑わせる事態の頻発に終始されておりますことは、真に残念というほかありません。

 わたしたち「NHK全国退職者有志」は、日本社会にとって、公共放送としてのNHKが必要だと思っています。

 日本の社会は、今、戦後70年のレジームを書き換えようとする政治勢力に翻弄され、大きな転機に立たされているとの認識はおありでしょうか。その認識に立てば、国会での安保法制の審議状況を国民にわかりやすく、与野党対立の論点を明確に示して、国民が判断できる情報を提供することが最大の課題ではなかったのでしょうか。憲法を軽視してやまない現政権に追随するNHKの姿勢を「アベチャンネル」「国営放送」と糾弾する声にどう応えますか。

 あなたは、825日(火)の夕方、全国から集まった1000人を超える市民たちが、NHK放送センターを取り巻き、NHKの放送姿勢を糾弾する声を上げ続けた事実をどのようにご覧になりましたか。

 いま、NHKを取り巻く状況は大きく変わりつつあります。NHKニュースと報道番組への国民的不信の拡がりです。優れた数々の番組を放送されていることは、承知の上で申し上げますが、籾井会長就任以降、とくに、政治番組、ニュース報道に関して、政権寄りで批判精神が欠落してきていることは、多くの識者が指摘するところです。

 特にこの度の安保法制の報道に関して、国会でどのような議論が行われてきたのか、国民が判断できる情報を伝えることが出来たとは思えません。また、1週間にもわたって、国会を取りまき、安保法制反対を訴え続けた市民たちの動き、特にSEALDsを中心とした若者たちの立ち上がりの事実をどのように伝えましたか。規模においては、60年安保改定時の大衆行動に匹敵し、しかし質的には、組織的動員ではない全く異質の市民集団であるという認識をお持ちでしょうか。

 さらに、NHK社会部が行った「公法学会への『安保法案』についてのアンケート」結果の扱いに関して、このアンケートに協力された学者からクレームがついていますが、どのような対応をなさるのですか。私たちは何としても、公共放送NHKは、民主主義社会を支える言論機関として、政治権力に追随するのではなく、国民の声の高まりに耳を傾け、「国民の知る権利」に応える姿勢を明確にされることを期待します。

 市民運動の矛先は、「会長否認」から「放送批判」「受信料支払いの留保」「NHK役職員批判」へと変わってきているという認識をあなた方はお持ちでしょうか。会長の言動が、職場を委縮させ、職場の創造性を圧殺していることはありませんか。特にこの度の、「安保法制国会」の放送に関して、放送の現場が「会長命を忖度して」ジャーナリストとしての誇りをかなぐり捨ててしまったのではないか、ということを恐れます。それは、言論機関としての倫理的頽廃ではありませんか。

 現場からは、「国会周辺の抗議デモや、SEALDsなど若者たちの動きを取材して、現場管理職がOKを出しても、放送総局長など上層部からのクレームで放送中止や、延期があちこちで起こっている」という声が聞こえてきます。

 職場に創造的な活力を取り戻し、自由な言論活動が保証されることを切望いたします。

 最終的に、NHKを改革して、国民の信頼を取り戻すことができるのは、あなた方現職の皆さんのほかにありません。私たちは、NHKの中に、若い有為な人材が居られることを信じています。公共放送としてのNHKが、日本の民主主義発展のために、「政治権力」とではなく、「市民」と手を携えて、展望を開き、躍進することを願ってやみません。

 連絡先:359-1145 埼玉県所沢市山口1028-19 門目方

 「NHK全国退職者有志」呼びかけ世話人

  伊東周平  今井潤  門目省吾  

  小滝一志  田村安正

◆◆首相、出演TV局に偏り=NHK・読売・フジ 「各局順番」を第2次政権で変更

2015915日朝日新聞Media Times

読売テレビの番組に出演した安倍首相=9月6日放送「そこまで言って委員会NP」のテレビ画面から

 安保法制の国会審議が大詰めを迎える中、安倍晋三首相が今月初旬、テレビ出演のため大阪へ日帰り出張した。今年になってから出演した番組を調べると、出演する局に偏りも見られる。首相は何を基準に出演を決めているのか。

 今月4日。午前の閣議を終えた安倍首相は飛行機で大阪へ。読売テレビに入ると「そこまで言って委員会NP」の収録と情報番組の生放送に臨んだ。「そこまで」の収録では、司会者から「国会開会中で、実はまずいんじゃないですか」と振られ、首相は「(安全保障関連法案は)国民にしっかり説明せよと言われているので」と笑顔で返した。

 ただ、国会開会中の平日に首相が在阪局のバラエティー番組に出演することは異例だ。参院特別委員会では野党側理事が「国会軽視で看過できない」と反発。官邸側は世耕弘成官房副長官が「国会の出席がないことを確認した上で、テレビ局に出演を返事した」と理事会で説明した。

 首相のテレビ出演は第2次安倍政権発足後からルール変更された。それまで各局順番に出演することが内閣記者会と首相側の取り決めだった。首相側によるメディア選別を防ぐ目的だったが、「慣例にとらわれず単独インタビューに応じたい」と首相側。内閣記者会はメディアの選別や会見の制限をしないよう求めた上で、ルール変更を認めた。

 首相周辺は「要望があれば選別することなく対応するのが基本姿勢」とする。ただ、首相退陣後にも何度か出演していた「そこまで」には政権返り咲き後も4回にわたりスタジオ出演した。首相も番組内で、「尾羽打ち枯らしていた私に『もう一回頑張れ』と励ましてくれた。どんなに勇気づけられたか」との思いを明かしている。

 (冨名腰隆)

◆NHKなど3局集中 テレ朝・TBSはゼロ

 昨年末の衆院選後、2015年の安倍首相のテレビ出演を首相動静欄から抽出した=表。日本テレビ系(読売テレビ含む)、フジテレビ系(関西テレビ含む)、NHKで出演がある。テレビ朝日系やTBS系、テレビ東京系への出演はなかった。

 出演がないテレビ朝日、TBSは「制作の過程はお答えできません」、テレビ東京は「オファーしたことはあります」と答えた。

 読売テレビへの出演について、在阪局関係者は「立場が近く、視聴率も高い番組で、自身の考えを訴えたかったのでは」とみる。6日の「そこまで」の視聴率は関西地区で16・1%(ビデオリサーチ調べ)で、前4週を上回った。読売テレビ総合広報部は「出演の経緯は明らかにしていない」とするが、局関係者は「制作側との間にパイプがあることは事実」と明かす。

 NHKは「編集判断に関わることについてはコメントしません」。日本テレビ、フジテレビは局側から出演を依頼したという。

◆識者はどうみるか。

 政治とメディアの関係に詳しい立教大の逢坂巌・兼任講師は誰もがスマートフォンをもつ時代になり、テレビでの失態が繰り返しネット上で増幅され、首相がテレビ出演のリスクを警戒しているとみる。「第1次政権で安倍首相はマスコミとネットに激しくたたかれ、メディア政治の怖さを体感した。今の政権ではそのリベンジとして、冷徹にメディアを選別しているのではないか」と話す。

 ジャーナリストの田原総一朗さんは「かつての首相は番組で突っ込まれるとわかっていても、国民と向き合う使命感から局を選ばずに出演した」と指摘する。「出る側も出す側も真剣勝負だった。安倍首相は嫌なことを言う番組は避け、言いたいことだけ言い、真剣勝負になっていない」

 (松本紗知、歌野清一郎)

◆安倍首相が2015年に出演した主な番組

   放送日 テレビ局と番組名

 1月14日 関西テレビ「スーパーニュースアンカー」

   25日 NHK「日曜討論」

 2月16日 日本テレビ「成功の遺伝史~日本が世界に誇る30人」(収録は2月7日)

 4月20日 BSフジ「プライムニュース」

 7月20日 フジテレビ「みんなのニュース」

   21日 BS日テレ「深層NEWS」

 8月14日 NHK「ニュースウォッチ9」

 9月 4日 読売テレビ「情報ライブミヤネ屋」

    6日 読売テレビ「そこまで言って委員会NP」(収録は9月4日)

 (朝日新聞・首相動静から抽出)

◆◆テレビ時評・暴走 読売テレビ・ミヤネ屋の総理「おもてなし」の異常

201598()赤旗

在阪テレビ局 報道記者 桜宮 淳一

 9月4日金曜日。国会会期中の安倍総理がわざわざ大阪へやってきました。目的はテレビ出演でした。総理はまず日曜日放送の「そこまで言って委員会NP」(東京など一部地域では放送なし)の収録に臨んだあと、生番組で全国ネットの「ミヤネ屋」に出演しました(いずれも読売テレビ制作)。そもそも安保法案の参議院の審議が大詰めを迎えているこの時期に、テレビ、しかも大阪まで行ってという、総理の行動に対する批判は自民党内からも出ていますので、わたしはテレビ局に対しての批判を試みたいと思います。

ゲストが暴言

 まず、「ミヤネ屋」。予想通り、スタジオに友好的な空気をかもし出して、安保法案について厳しく質(ただ)すようなことはありませんでした。コメンテーターの日本テレビ解説委員が「法案が通らないと困る」と主張していたのには、ビックリさせられました。進行のミヤネ氏が「久しぶりに総理の笑顔を見ました」と言ったように、安倍さんは安心して持論を展開、終始リラックスしておりました。

 次に、6日放送の「そこまで言って委員会NP」。安倍総理の扱いに触れる前にまず、この番組ではゲストによる、見逃してはならない重大な問題発言があったことを指摘したいと思います。一つはあるゲストが総理に対し「拉致問題が進展しないなら自衛隊を動かしてはどうか」という暴言。もう一つは別のゲストが辺野古の基地問題に関して「沖縄に米軍基地があるから中国は沖縄に手が出せないのだ」という発言。収録番組なのに発言をスルーする制作者の感覚は信じられません。

 で、この番組は安保を考えるというよりも「夫人は布袋さん(音楽家)のファンである」「辻元議員にはイライラさせられている」など、バラエティー番組らしい質問を用意してイエス・ノーで答えてもらうという、いわばトークショーのような趣向。「週刊誌の吐血報道は本当か」という問いには、総理が手のひらに向けてゴホッと咳(せき)をし、司会者に見せて笑いをとった場面が象徴的でした。総理の「おちゃめさ」をアピールする場として。よって、当番組に対して「総理にしゃべらせるだけの一方的な内容」だの、「ジャーナリズムの批判精神がない」といった批判は意味をなさないように思います。そういう次元ではない。制作者はそんな声は左翼偏向的として一顧だにしません。

歴史的番組

 今回の「そこまで言って委員会NP」とは、ひとくちに言えば「安倍総理をもてなそう」という趣旨の番組でした。国会にいると「アベ辞めろ!」とか「憲法守れ!」という国民の声がいやでも耳に入ってきます。そこへ大阪のテレビ局からお誘いが入った。「総理も大変でしょう。どうです、大阪へ来て命の洗濯でも」なんて。結果、総理は今回の番組出演でかなり元気になったはずです。

 憲法がないがしろにされようとしているこの時期に、その最高責任者である政治家を、ここまではっきり応援したテレビ番組は初めてでしょう。その意味で歴史的な番組でありました。これはもう、メディアという立場を超えた、露骨な政治的行為といわざるを得ないと思います。権力の暴走を止めるのがメディア本来の役割ですが、メディアが暴走したとき、それを止めるのは国民しかいません。(さくらのみや・じゅんいち)

83012万人デモのNHK報道(赤旗15.09.03

◆戦争法案のNHK報道

【戦争法案のNHKなどの報道】

15.08.30赤旗日曜版)

◆◆醍醐聡=NHKの政治報道に物申す

15.07.28赤旗)

15.07.17-18の赤旗】

◆◆「報道、広告主を通じて規制を」 政権批判をめぐり、自民勉強会で意見

2015626日朝日新聞

 安倍政権と考え方が近い文化人を通し、発信力の強化を目指そうと、安倍晋三首相に近い若手議員が立ち上げた勉強会「文化芸術懇話会」(代表=木原稔・党青年局長)の初会合が25日、自民党本部であった。出席議員からは、広告を出す企業やテレビ番組のスポンサーに働きかけて、メディア規制をすべきだとの声が上がった。

 出席者によると、議員からは「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。経団連に働きかけて欲しい」「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」など、政権に批判的な報道を規制すべきだという意見が出た。

 初会合には37人が参加した。官邸からは加藤勝信官房副長官が出席し、講師役に首相と親しい作家の百田尚樹氏が招かれた。

◆百田「沖縄のニつの新聞はつぶさないといけない」(「沖縄タイムス」15.06.26

作家の百田尚樹氏は25日、市街地に囲まれ世界一危険とされる米軍普天間飛行場の成り立ちを「もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった。基地の周りに行けば商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした」と述べ、基地の近隣住民がカネ目当てで移り住んできたとの認識を示した。安倍晋三首相に近い自民党の若手国会議員ら約40人が、党本部で開いた憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」で発言した。

 実際には現在の普天間飛行場内に戦前、役場や小学校のほか、五つの集落が存在していた。沖縄戦で住民は土地を強制的に接収され、人口増加に伴い、基地の周辺に住まざるを得なくなった経緯がある。

 勉強会は冒頭以外、非公開。関係者によると、百田氏は「基地の地主さんは年収何千万円なんですよ、みんな」と発言。「ですからその基地の地主さんが、六本木ヒルズとかに住んでいる。大金持ちなんですよ」などと持論を展開したという。

 普天間飛行場の周辺住民約2千人が、米軍機の騒音で精神的苦痛を受けたと訴え、那覇地裁沖縄支部が約7億5400万円の支払いを命じた判決に触れ、「うるさいのは分かるが、そこを選んで住んだのは誰だと言いたい」と、自己責任だとの見解を示したという。

 「基地の地主は大金持ち。基地が出て行くとお金がなくなるから困る。沖縄は本当に被害者なのか」とも述べたという。

 議員から沖縄の地元紙が政府に批判的だとの意見が出たのに対し、百田氏は「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない。あってはいけないことだが、沖縄のどこかの島が中国に取られれば目を覚ますはずだ」と主張した。

 出席議員からは、安保法案を批判する報道に関し「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働きかけてほしい」との声が上がったほか、「沖縄は戦後、予算漬けだ。地元紙の牙城でゆがんだ世論をどう正すか」などの批判もあった。

 勉強会は自民党の木原稔青年局長が代表で、首相側近の加藤勝信官房副長官や、萩生田光一・党総裁特別補佐も参加した

つぶれてほしいのは「朝日」「毎日」「東京」

=百田氏 今度はツィッターで

2015628()赤旗

 沖縄の2紙(琉球新報と沖縄タイムス)を「つぶさないといけない」などという暴言を自民党議員らの会合で語った作家で元NHK経営委員の百田尚樹氏が、27日にもインターネットの短文投稿サイト・ツイッター上で言論抑圧の暴言を繰り返しました。

 問題のツイート(投稿)は、「炎上ついでに言っておくか。私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です」というもの。沖縄紙に対する暴言への批判には「冗談」「ジョーク」だと言い訳していましたが、今回は「本当につぶれてほしい」と断言するなど、弁解の余地はありません。

 全国紙などの主要紙のうち、戦争法案や沖縄米軍新基地建設を推進する安倍政権の立場に近い論調の新聞をつぶしたいメディアから除外した百田氏に対し、ツイッター利用者からは「百田さんにとって信頼できるのは産経、読売?」という皮肉まじりの問いかけとともに、作家がときの政権に守られながら暴言を放つなら、「『どんな意見を容認するかは権力次第』となる」と警告する声も上がっています。

◆自民党言論弾圧発言㊤㊦(15.07.01-02赤旗)

◆◆安倍首相のメディア統制は筋金入り(日刊ゲンダイ15.08.24

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◆◆塚本三夫=戦争法案とジャーナリズム

2015722()赤旗2015焦点・論点

中央大名誉教授(マスコミ論) 塚本 三夫さん

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◆空文化する戦後再出発の誓い 平和に寄与がメディアの責務か 

 安倍政権が国会を大幅に延長して、成立強行をねらう戦争法案(安保法案)をめぐって、ジャーナリズム・メディアのあり方が鋭く問われています。中央大学名誉教授でマスコミ論が専門の塚本三夫さん(75)にマスメディア・ジャーナリズムの現状について聞きました。 (聞き手・原田浩一朗)

 自民党の若手・中堅国会議員の勉強会「文化芸術懇話会」(6月25日)で言論弾圧を主張する発言が相次ぎました。

◆見えにくい弾圧

 世論の厳しい批判にあわてた安倍首相は、1週間後の7月3日になってようやく自民党総裁としての責任を認め、陳謝しました。

 日本の新聞・通信社、主なテレビ局が加盟する日本新聞協会も、編集委員会声明を発表して抗議しましたが、報道機関としての命にかかわる重大問題であり、各社が徹底的に抗議するべきです。

 重大だと思うのは、問題の発言をした国会議員らが、広告料やスポンサーをテコにしてメディアに圧力をかけることを当然視し、得意げに語っていることです。日常的に、さまざまな経路でメディアに有形無形の圧力をかけているのは想像に難くありません。

 戦前の天皇制権力からの言論弾圧は、ある意味わかりやすかったのにくらべて、現代の言論弾圧は見えにくいのが特徴です。ジャーナリズムは奮起して、監視し暴露してほしいと思います。

◆切り抜かれた「キバ」

 アジア・太平洋戦争の敗戦直後に、日本のメディアは、こぞって再出発を誓いました。朝日新聞の宣言「国民と共に立たん」(1945年11月7日)が有名です。すべての新聞社が、戦争中、天皇制政府・軍部に積極的に協力して、国民を侵略戦争に駆り立てる役割を果たしたことを反省し、いわば許しを請うて再出発をはかったのです。

 ドイツでは、ナチスに協力した新聞がすべて廃刊になり、ゼロから出発したのと対照的でした。

 ところが、この再出発にあたっての国民にたいする公約がいつのまにか空文化しているように思います。

 メディアは、資本主義的な私企業として運営されているため、「企業の論理」と「ジャーナリズムの論理」の厳しい対立関係をはらんでいます。

 共同通信の社長も務めた原寿雄(はらとしお)さんは「『パンをとるか、ペンをとるか』を迫られた時、ペンをとる人間でなければ、ジャーナリストになるべきでない」とよくいっていました。

 残念ながら、1960年ころからの「高度経済成長」のなかで、メディアの「情報産業化」が進みました。「商品論理」が優越し、ジャーナリズム性が失われていきました。伝えるものの意味やメッセージ性が失われ、伝えられるものとしての「商品」が棚に並んだような「等列化」が進んだのです。

 そのなかで、「権力を監視する」という、ジャーナリズムにとって命というべき「キバ」を抜かれてしまった。

(写真)沖縄の新聞2社の代表が出席した「言論の弾圧を許すな! 怒りの緊急集会」。報告するのは宮城栄作沖縄タイムス東京支社報道部長=6月30日、参院議員会館

◆批判性こそが命

 情報・事実の伝達のスピードを競う「情報の論理」で勝負すれば、紙のメディアはインターネットとは勝負になりません。

 ジャーナリズムは、伝達のスピードではなく、事実のどこに問題があるのかをじっくり掘り下げることが大事です。「情報の論理」ではなく、「報道の論理」「ジャーナリズムの論理」で勝負するということです。

 ジャーナリズムとは単なる個人的表現活動でもなければ、単なる「情報伝達活動」でもありません。ジャーナリズムは「社会的表現活動」です。

 「表現」は、事柄の主体的な選択・批評、その意味を再定義する活動ですから、批判的なモメント(契機)を本来的に含みます。批判性がなかったらジャーナリズムとはいえない。

 とりわけ、権力の発する情報にたいして、たえず疑問を持つべきです。権力が使う「キーワード」を無批判に使うべきではありません。

 たとえば90年8月から始まった湾岸危機のとき、「国際社会」という言葉が日本のメディアで突然使われ始めました。

 「国連」「国連加盟国」といった概念は以前からありました。これに対して「国際社会」とは、実際には「アメリカを中心とした多国籍軍を構成した諸国」のことを指す概念でありながら、あたかも世界全体を代表しているかのように装う「マジックワード」でした。

 議論のテーブルをどう設定するかもとても重要です。権力は常に、「権力にとって都合のいいテーブル」を設定しようとします。

 最近も、昨年7月に安倍政権が集団自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更を閣議決定して以降、メディアの多くは政権が設定したテーブルの上に乗っかってしまい、安倍政権が提出した安保法案=戦争法案について、「あいまいだ」とか、「武力行使の要件はどうのこうの」といった細かいことを問題にするだけでした。

 「そもそもこの法案は憲法違反だ」「議論のテーブルそのものがおかしい」という根本的な批判をほとんどしなかったのです。

 6月4日に衆院憲法審査会で3人の憲法学者全員が「この法案は憲法違反だ」と断じて以降、やっと根本的批判を始めたところではないでしょうか。

◆読者に依拠して

 ジャーナリズムは、「どこに依拠するのか」を問うべきだと思います。権力なのかスポンサーなのか。

 違うでしょう。読者・市民から信頼され、支持される―。メディアにとってこれほど安泰なことはありません。自民党が「つぶしたい」と思う琉球新報と沖縄タイムスが沖縄県民の圧倒的な支持を得ているのは教訓的です。

 そして、今回のように、どこかの社が権力から攻撃されたら、ジャーナリズムは全力を挙げて、いっせいにたたかわなくてはなりません。

 ジャーナリズムとは、実体ではなく社会的な活動であり社会的機能を示す概念だと考えています。だからこそ、「個別の会社の論理」ではなく、「普遍の論理」、たとえば「真理」であるとか「平和」といったもの―に寄与するものでなくてはならないのだと思います。

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◆◆テレビ報道の〝強み〟を封じた安倍自民、「抗議文」「要望書」で音声も消えた

水島宏明

20151013日朝日新聞論座

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◆安倍政権のテレビへの「コワモテ」は200607年の第1次政権から突出していた。

 「やつらは本当にやばい」

 「一線を越えて手を突っ込んでくる」

 07年頃、ある民放キー局の経営者から直接聞いた言葉だ。「やつら」とは当時の安倍晋三首相と菅義偉総務相の2人。「一線」とはメディアと政治の間に引かれた線だ。メディアは国民の「知る権利」を背景にした権力監視が〝役割〟。一方、政治はメディアから監視・批判されるのが〝役割〟。歴代の権力者もこの線引きを尊重し、領分をわきまえてきた。ところが2人はこの線をやすやすと越え、威圧的に介入しようとする。

 前述の経営者は「不祥事は起こすな」「起こせば政治家につけ入られる」とも語った。07年、関西テレビの『発掘!あるある大事典Ⅱ』での捏造事件をきっかけに菅総務相は放送法改正案を国会に上程。虚偽放送などの際に再発防止計画を策定させるなど、政府が放送局に対し「新たな行政処分」を科す権限強化案だった。マスコミ業界などから反対の声が上がり、放送局側は自ら設立した第三者機関BPO(放送倫理・番組向上機構)の組織改編(新たに放送倫理検証委員会を設置)を決めるなどで法改正は免れた。しかし安倍・菅ラインが不祥事に乗じて「監督強化」を狙う強烈な印象は関係者の記憶に強く刻まれた。

 この時期、菅総務相はNHKの短波ラジオ国際放送に対して「北朝鮮による日本人拉致問題に特に留意すること」と放送法に基づき命令した。法で認められた権限とはいえ、具体的な放送内容を指示する命令は前代未聞だった。

 1212月、安倍政権は復活した。第1次政権で総務相として放送局に睨にらみを利かせた菅義偉氏は官房長官として「メディアへの牽制」を行う司令塔になった。組織全体を統制するために「トップの首をすげ替える」手法で日銀、内閣法制局などのトップに従来の組織内の先例や規範等にこだわらない人物を配し、NHKでも籾井勝人氏を会長に就任させた。籾井氏は会長就任以来、失言などが注目されたが、他方、菅氏らがこだわる「国際放送の充実」をたびたび強調し、〝従軍慰安婦〟が「性奴隷」と英訳されて国際放送で放送された事件以降、局内のチェック強化を強めている。

◆第2次安倍政権以降に巧妙化する「アメとムチ」

 第2次政権以降で際立つのが、安倍首相の単独取材・単独出演を材料に「アメ」と「ムチ」を使いわける手法だ。134月に首相は「情報番組」に相次ぎ出演した。TBSの情報番組『情報7daysニュースキャスター』がまず単独インタビュー。第1次政権退陣後の苦節の時期に書いたノートや夫人との私生活などが中心で、政策への報道的な質問は少なかった。ニュース番組よりも時間が長く、「素顔」に関心が向きがちな「情報番組」を利用する出演戦略だ。首相は日本テレビの朝の情報番組『スッキリ.』にも生出演。スタジオは「一国の首相が来てくれた」という高揚感に包まれた。首相は翌月に迫る長嶋茂雄・松井秀喜両氏の国民栄誉賞授与式での記念品が黄金のバットだと明かし、最後に両手を前に突き出す番組の決めポーズまで披露した。

 国民栄誉賞の授与式は、プロ野球巨人戦の前の東京ドームで行われた。その直後の野球試合の始球式は投手・松井秀喜、打者・長嶋茂雄、主審・安倍晋三という顔ぶれで行われた。国民栄誉賞の授与という政府行事が特定のマスコミ、読売新聞・日本テレビと関係が深い施設で独占的に実施された。生中継も日テレだけが行った。一部メディアに与えられる「アメ」。これに対して他のメディアから異論も上がらず、メディアの従順化の地ならしが進んだ。

 だが安倍政権の政治家たちの本質は「ムチ」=メディアに対する恫喝(どうかつ)だ。報道姿勢が意に沿わないと「偏向」というレッテルを貼り、ペナルティーを科してくる。

 13626日夜のTBSNEWS23』は通常国会の閉幕を伝えた。首相の参議院予算委欠席で野党側が出した問責決議案が可決。重要法案とされた生活保護法改正案、生活困窮者自立支援法案、電気事業法改正案などが廃案になったことを焦点化して衆参の「ねじれ」を象徴する出来事だと報じた。田村憲久厚労相の「非常に残念」という肉声を使い、発送電分離のシステムを作る電気事業法改正案の可決に期待を寄せていた自然エネルギー財団の大林ミカ氏に「問責決議案の前に、法案の採決をしようとする動きもあったわけですから、結局与党がそうしなかったというのは、もともとシステム改革法案を通す気がなかったのかも。非常に残念」とコメントさせた。

 翌日、自民党はTBSに対し、与党側の言い分を説明せず「著しく公正を欠いた」と抗議文を送る。参院選公示日の74日には党幹部への取材・出演拒否を発表。翌日、TBS報道局長が釈明に赴いたことで「事実上の謝罪があった」と取材・出演拒否を解除したが、第2次政権以降の自民党とテレビ局の力関係を決定づけた。後述する14年総選挙における自民党による主要テレビ局への「中立・公正を求める要望書」は、この〝成功体験〟で自信を深めた安倍自民党が「事前に釘刺し」したものだ。「要望書」は守らなかった場合はどうするとは書かれず、想像させることで威嚇効果があった。刀は実際に抜かない方が相手を萎縮させる効果がある。

◆「不自然さ」が増えたNHKのニュース

 第2次、第3次安倍政権はテレビ各局がなんらかの形で政権に対する「気遣い」を見せ、局によって「割り切った報道」に徹した時期だ。顕著だったのがNHKだ。第2次政権以降、その幹部らさえ首をひねったのが、看板ニュース番組『ニュースウオッチ9』で「安倍首相が話す場面」が異常に長くなったことだった。国会審議や記者会見、ぶら下がりなど、場面は違っても毎晩、首相が話す映像と肉声が放送される。首相だからという理由では理解不能なほど多く、長い。各局のニュースを比較して観察する研究者の立場でみても突出した印象だった。

 不自然な報道も増えた。参院選の公示2日前の1372日、『ニュースウオッチ9』は「日米の非公式首脳会談」の映像を独自入手したとして、英国で行われていたG8サミットで安倍首相とオバマ大統領が立ち話をする映像を放映した。サミット開催で同時に普通は実施される日米公式00首脳会談が米国側に嫌われたのか実現せず、野党に批判されていた安倍首相。「オバマ大統領の信頼」を示す格好のニュースになった。メディアが立ち入れないサミット会場内で撮影された映像のリークであることは一目瞭然であった。

 1451日の『ニュースウオッチ9』で消費税が5%から8%に上がった1カ月後の景気状況のリポートが放映された。増税でデパートなどの売り上げが減少したが、「想定内」で「一時的」だと強調する。百貨店や飲食店などで「セレブ志向」「高級路線」を試みたところ売り上げが伸びたという実例が紹介され、消費増税の影響は限定的で、高級路線で売り上げは伸びる、という報道だった。増税によって一番の打撃を受けると言われた「低所得層」をあえて除外した不自然なニュースだった。

 一方、安倍政権にとって本丸の政策、特定秘密保護法、憲法改正、原発再稼働、集団的自衛権、安保法案をめぐる問題では、NHKのニュースでは主に用語の説明や政権の意図の解説に終始し、法案や政策の中身を懸念する主張を入れる場合にも識者の声を登場させず、政党関係者の声に限って使うという「政治部報道」に徹している。自らの調査・取材で問題点を指摘せず、各政党の主張を並べる「割り切った報道」だった。

 これでは視聴者には複雑な問題がわかりにくい。NHKのニュース番組を見ても視聴者には問題の本質や論点がよくわからない状態が続いている。特定秘密保護法や安保法案など、政権が想定する状態が複雑になればなるほど「情報監視審査会」「独立公文書管理監」「グレーゾーン事態」「武力攻撃事態」「存立危機事態」などの耳慣れない用語が登場し、その解説で報道の大半が終わってしまう。

 安倍政権は幹部が一部メディアの経営者らと頻繁に会食を繰り返し、様々な報道をチェックし、官邸詰めの記者らを通じてクレームや注文を伝えるなど、メディア対策は綿密だ。

◆後藤健二さん殺害のニュースで「政治部的な報道」

 まるで安倍政権と一体化したような報道では?と感じたのは1521日のNHK『ニュース7』だった。その早朝に飛び込んだフリージャーナリスト後藤健二さん殺害の報。テロ組織「IS」の人質だった彼の殺害がネット上で確認され、関係者の悲しみの声など放送した後で「政治部の岩田明子記者」が生出演した。彼女は「政府は後藤さんの解放に全力を挙げてきた」と政権の努力を伝え、首相とヨルダンのアブドラ国王との首脳同士の信頼関係が背景にあってヨルダン人パイロットを絡めた解放交渉ができたと解説した。国家安全保障会議(日本版NSC)を設置したことで各国の情報機関からも詳細な情報が得られたと政権内部の自己評価を紹介、安倍政権の危機対応体制が機能したことを強調した。戦争で傷つく子どもの姿を伝えてきた後藤さんの最期を「日本人の安全対策やテロ対策に万全を」「政府としては国際社会と連携してテロとの戦いに取り組む」など、政治の言葉でからめとる報道姿勢には強い違和感を抱いた。

 「政治部の岩田明子記者」は首相の訪米や戦後70年談話などの「節目」でNHKがここぞとばかり登場させる。政権の「意図」や「狙い」、安倍首相の「思い」を解説する役割が多く、首相の代弁役に徹する立ち位置のように思われる。

 141118日、衆院解散と総選挙実施を決めた夜、安倍首相はTBSNEWS23』に生出演した。途中で挿入された街頭インタビューのVTRはアベノミクスの効果を感じるかを問うもので、感じないという声がやや多かったが、「これ、全然声が反映されていません。おかしいじゃありませんか」と首相は声を荒らげた。

 2日後の1120日。自民党はNHKと民放キー局に対して、選挙報道の公正中立を求める「要望書」を提出した。4項目と細かい点にまで公正中立を求めていたことが特徴的だった。

 4項目とは(1)出演者の発言回数や時間(2)ゲスト出演者の選定(3)テーマ選び(4)街頭インタビュー、資料映像の使い方だ。

◆自民党による「要望書」の効果? テレビに起きた「異変」

 要望書で報道は影響を受けたのか。

 筆者は14年の総選挙の投票前のNHKおよび民放キー局の報道番組・情報番組すべてを録画し検証した。12年の総選挙では報道番組・情報番組について放送データや視聴記録が残っているものを利用して比較した。

 解散前、解散後で公示前、公示後で投票日前の選挙期間中という3期間の放送で12年と14年を比べてみると、いくつかの「異変」があることが判明した。

◆異変その1 消えた「街頭インタビュー」

 テレビにとって「街頭インタビュー」は人々の感じ方や考え方、流行等を伝える大事なツールだ。情報番組では、「あなたの弁当にまつわるエピソードは?」「いざ勝負の時、あなたのゲン担ぎは?」などの声を集めた面白企画があるほど「街頭インタビュー」はテレビの武器でもある。ところが14年の総選挙では自民党の「要望書」が出された後、街頭インタビュー(被災地の声など、無差別に一般市民の声を収録したもの)は、一部のテレビ局や一部の番組を除き、多くの番組で姿を消した。典型例が日本テレビだ。日テレは12年の総選挙では情報番組『スッキリ.』と報道番組『NEWS ZERO』で街頭インタビューを使っていたが、14年は系列の読売テレビが制作する『情報ライブ ミヤネ屋』を除いて自局制作の番組で街頭インタビューを一切使っていない。

◆異変その2 「資料映像」の使用も消極的に

 テレビの人間以外にはわかりにくいが、「資料映像」とは特定の日付で撮影された過去映像を「一般的な表現」として用いる際の呼び方だ。たとえば自衛隊の訓練の様子を撮影した映像を、防衛予算などのニュースで使用する場合が該当する。また過去の映像全般を指す場合もある。

 14年の選挙報道においては一般的な「農業」についてのテーマで農作業風景、「防衛」のテーマで海上自衛隊の艦艇など一般的な資料映像の使用は数えるほどだった。政治とカネで辞任した元閣僚(小渕優子元経産相)の過去映像(辞任会見で頭を下げる場面)を本人が候補で出馬する「選挙区情勢」で使った例が群馬5区の報道であった程度。だが、石原伸晃環境相(当時)の「最後は金目でしょ」発言や松島みどり法相(当時)の「うちわ」問題、宮沢洋一経産相(当時)の「政治活動費でSMバー」問題、江渡聡徳防衛相(当時)の疑惑が指摘された収支報告をめぐる過去映像はほとんど登場しなかった。自民党にとって不利と思われる過去映像の使用が意識的に控えられた印象がある。

 また過去映像では12年の解散総選挙の引き金を引いた与党・野田佳彦vs.野党・安倍晋三の党首討論も使用が注目された。消費税を上げる前に国会議員の定数是正を自民党・安倍総裁が約束するのと引き換えに解散総選挙実施を野田首相が表明した場面だが、自民党政権の下でその後も定数是正が実現していない〝約束違反〟を示す重要な「資料映像」でもある。「要望書」が出る前はテレビ朝日の情報番組が一度使用した例があったものの「要望書」の後はキー局で使った局はない。日テレ系では読売テレビが制作する『ウェークアップ!ぷらす』が一度使ったが日テレそのものは使っていない。

 麻生太郎副首相が選挙期間中にした「高齢者よりも子どもを産まない人の方が問題だ」「この2年間で利益を出していない企業は経営者に能力がないから」との発言もニュースになったが、さかのぼって過去の問題発言の「資料映像」を使う番組もなかった。

総選挙で「政策」の報道はどうだったか。

 「報道番組」では12年総選挙では日テレ『NEWS every.』が「原発ゼロで暮らしは?」と各党の主張を並べ、テレ朝『報道ステーションSUNDAY』が「『続原発』『脱原発』『卒原発』その先の日本は?」の特集で経団連などの主張も紹介。フジ『新報道2001』が「〝脱〟〝卒〟〝フェードアウト〟乱立『脱原発』の本気度」を放送。どの局も「原発」「復興」「TPP」の政策を扱っていた。

◆異変その3 情報番組で消えた「政策報道」

 ところが14年にはNHKのニュース番組の他は「政策」ごとにシリーズで放送したのは民放ではテレ朝『報道ステ』『Jチャン』、TBSNEWS23』『Nスタ』だけだった。

 「情報番組」も12年の総選挙では(「乱!総選挙2012」など)統一キャッチフレーズでシリーズ放送した番組はTBS『みのもんたの朝ズバッ!』『ひるおび!』、テレ朝『モーニングバード!』『ワイド!スクランブル』、日テレ(読売テレビ制作)『情報ライブ ミヤネ屋』など多かった。群を抜いていたのがフジ『とくダネ!』で選挙期間中ほぼ毎日、政策についてのシリーズ「総選挙SPニッポンの選択」を放送。TPP、原発、地方再生、消費税、子育て支援などのテーマで、賛成、反対に分かれて主張を展開した。「ジャーナリズム性が高い」と評価され、ギャラクシー賞月間賞にも選ばれている。

 それが14年総選挙では「政策」シリーズばかりか選挙に関連した特集そのものがあらゆる「情報番組」から消えた。

◆異変その4 消えた「政治家同士の討論」

 12年は「情報番組」で生放送での政治家の討論コーナーが多かったが、14年にはすべての「情報番組」で前述のように選挙特集そのものがなくなった。

 「報道番組」でも12年の公示前にはニュース番組で「与党・民主党の幹部vs.野党・自民党の幹部」という組み合わせで小さな政党を除いた討論コーナーが数多くあった。しかし14年は「全政党による党首討論」スタイルばかりになった。多政党乱立で一言ずつ言いっ放しで終わり、充実した議論ができない。コーナーの数も著しく減り、各番組で1回ずつやる程度で終わった。

 分析すると、街頭インタビューが激減し、情報番組では選挙特集自体が消えるなど、12年総選挙と比べ14年総選挙での衰退ぶりは明らかだ。ただ、それが「要望書」による影響かどうかは証明が困難だ。「選挙に関する視聴者の関心が低く、視聴率を取れないので扱わなかった」(司会者の田原総一朗氏)という声がある一方、「街頭インタビューは使わないようにとの指示が上層部からあった」(キー局報道局記者)との声もある。

 街頭インタビューは「国民の感じ方」を伝えるためにふだんから使用されるテレビの重要なツールである。「資料映像」の使用も過去の出来事を視覚的に想起させる強みを持つ手法だ。「生放送での討論」も「テレビの強み」だが、14年にはそろって姿を消した。各局が総選挙の報道で「テレビらしさ」を放棄した格好だ。

◆「不祥事につけ入る」構図でBPO改革案も

 第1次安倍政権でテレビ局の不祥事に乗じて介入強化を目論んだ姿勢は第2次、第3次政権でさらに露骨になった。15327日にテレビ朝日『報道ステーション』でのコメンテーター・古賀茂明氏による「菅官房長官を始め、官邸からすごいバッシングを受けてきた」という爆弾発言がきっかけになり、テレビ朝日が標的になった。菅官房長官は後の記者会見で「まったくの事実無根」としながらも「放送法という法律があるので、まずテレビ局がどう対応されるのかを見守りたい」と発言。総務相時代の対応を振り返れば「放送法」を強調する意味は明白だった。菅氏同様に総務相の経験がある佐藤勉国会対策委員長はテレ朝幹部を個別に呼んで説明させた。テレビ朝日は再発防止策をまとめて発表した。

 417日、自民党の情報通信戦略調査会(会長・川崎二郎元厚労相)はテレビ朝日の幹部を呼びつけて「聴取」を行った。この「聴取」にはNHKの幹部も呼びつけられた。この時期、NHKは看板報道番組の『クローズアップ現代』(追跡〝出家詐欺〟~狙われる宗教法人~)の「やらせ疑惑」を週刊誌で追及され、外部委員も交えた調査委員会の調査報告をまとめていた。

 この流れを受けて、自民党の有力な総務族議員からは「BPOの組織を改編して規制を強化」「政府がBPOに関与」などの議論が出されている。BPONHKと日本民間放送連盟が共同出資で運営する組織で、法律が定める組織ではない。これまで第三者委員会方式で個別の事案を審議。勧告・意見などを出して各放送局が自主的に再発防止に努める助言を行ってきた。

 ところが自民党の一部議員の「改革案」では、これを法律で担保された組織に格上げし政府によるBPO委員の任命や官僚(またはその出身者)の就任などの案も出ている。

 BPOは放送局による放送倫理違反や人権侵害などを議論する現在唯一の組織だが、その審議においては放送局側の「自主的な協力」で「番組の提供」や「制作者の聞き取り」が行われている。BPOは強制力を持たず、局には法律上その意見に従う義務もない。是非を判断する委員たちは弁護士、大学の研究者らが中心で放送や報道の実務を経験していない人も多い。それゆえ現場から見れば現実離れした意見が出ることもあり、丁寧に判断してほしいと思う場面も少なくない。

 与党議員の「改革案」の背景には、BPOがいくら介入してもテレビの不祥事はなくならないという国民の不満がある。

 他方、政府がBPOを直接統制する仕組みにすると政権の恣意的な運用になりかねない。6月に起きた自民党勉強会での「報道圧力」発言は、報道機関の自主性を尊重せず権力的な介入を志向する議員が相当数いることを明らかにした。報道機関を「懲らしめるには広告収入をなくすのが一番。経団連に頼んでスポンサーを降ろさせてしまえばいい」などの発言は政治とメディアの「一線」への無理解を示している。この「報道圧力」発言にニュースキャスターらも反発し、新聞協会、民放連なども危機感を表明した。だが、この「政治の本音」は今後も底流に残るだろう。

 筆者は「BPO改革」と「報道圧力」が連動するのを恐れる。これまで放送に関してはBPOが防波堤になり、権力が放送に直接「手を突っ込む」のをくい止めてきた。たが、国民にその存在意義が理解されているとは言いがたい。

 BPOと放送業界には、不祥事の再発防止でもっと効果的で厳しさを伴う仕組みに変える努力が求められる。また政府から独立した第三者機関が審査する現システムの意義を、もっとアピールしてほしい。

◆「音」消しなど「テレビらしさの放棄」が進んでいる

 戦後70年を迎えたこの夏、テレビで何度か「音」が消された。沖縄戦での戦没者を弔う「慰霊の日」の追悼式典では安倍首相に対して出席者から投げかけられた罵声も、NHKやいくつかの民放のニュースで音声を聞かせない編集が行われた。安保法案の国会審議で安倍首相が複数回飛ばしたヤジも、音声を消し、ヤジ行為そのものを伝えないなど「不自然さ」が目につく。ヤジは映像なら状況や発話者の品性まで伝わるが、もし音を消したら悪質さの度合い等は伝わらない。

 安保法案が採決された衆院特別委の質疑もNHKは中継しなかった。NHKは「各党、各会派が揃って委員会の質疑に応じるのが決まったのは当日の委員会直前の理事会であり、質疑を中継する準備が間に合わなかった。採決の模様は定時ニュースを拡大させて伝えたほか、当日のニュース番組でも詳しく伝えている」と説明。「ニュースと異なり、NHKの国会中継は、各会派が揃った上で、平等に、きちんとした発言の機会が与えられることが大前提」とする。だが災害も大事件も我先に中継するNHKが、ケーブルやカメラ等が常設された国会で中継の準備が間に合わないとは信じがたい。

 安保法案では憲法学者が相次ぎ「違憲」表明した衆院特別委での参考人招致や「法的安定性は関係ない」と発言した礒崎陽輔首相補佐官の参院特別委での参考人招致も国会中継されなかった。

NHKが放送せず、視聴者は「放送」で〝生中継〟を見ることができなかった。代わりに注目されたのはフジテレビのネット上の映像ニュースサイト「ホウドウキョク」だ。衆院特別委の採決や礒崎補佐官の招致をほぼ全編〝生中継〟し、いつも以上のPV数を稼いだ。

 「放送」や「NHK」に期待する視聴者は減り、ネットに逃げていく。政治的な問題には最大の強みである「生放送00」をせず、「音」を聞かせず、「過去映像」「街頭インタビュー」も避けるテレビ。「強み」を自ら放棄する現状は自殺行為といえる。

◆現状を「追認する」テレビ報道

 テレビニュースでは、局によっては与党の意図を代弁し、与党が描く結果を先取りするような伝え方は枚挙にいとまがない。137月の参議院選挙の投票日当日の朝のNHKニュースは「ねじれが解消されるかどうかが焦点になっている参議院選挙」というリード文をつけた。「ねじれは解消すべきもの」という世論誘導と受け取られかねないため、こうした「リード文」を避ける報道機関があるなかでのリード文だった。「与党の思惑」に呼応するかのような報道姿勢が他局でも目につく。

 157月、安保法案が衆院本会議を通過した際に「これで安保法案の成立は確実とみられる」「確実になった」などと一報のニュースで報じたテレビ局もあった。参議院での廃案や60日以内に参院で成立しない場合に衆院で3分の2以上の多数で再可決すれば成立する「衆院の優越」を踏まえての報道で、確かに「解説」としては問題ない。しかし「本記ニュース」に入れるのが適切かどうかは微妙だ。「もう決まったこと」「何をしても変わらない」というメッセージを広く伝えることにもなりかねないからだ。

 「戦後70年談話」が発表された814日、NHK『ニュース7』では「政治部の岩田明子記者」が再び登場した。彼女は首相が安保法制成立を約束した訪米にも同行して「首相の思い」を伝えたが、安倍首相の重要案件の会見などで「政権の考え」「首相の思い」を代弁し、この夜もその代弁役に徹しているように感じられた。その2時間後の『ニュースウオッチ9』には安倍首相自身が生出演、談話について自ら解説した。この日のNHKニュースは「首相の思い」を伝える時間が長く、一方で批判的な視点は欠落したような報道になった。

 20159月現在、国会周辺では安保法案が違憲だとして反対する集会やデモが連日開かれている。若者、主婦、弁護士、大学教員らがそれぞれ何百人単位で意見表明を行い、法案の行方を見守っている。様々な団体が一堂に会する場である学者が「報道はどこにいる?」と疑問を投げかけたことがネットで話題になった。報道が見えない、報道はいないのか、という問いかけだった。

 安倍政権で「報道」が消えつつある。特にテレビ報道は強みを発揮できず機能不全だ。政治との「一線」はどうあるべきで、「テレビの強み」「らしさ」は何なのか。もう手遅れかもしれないが、一度立ち止まって考えてみてほしい。

     ◇

本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism10月号から収録しています。同号の特集は「日本社会はどこに向かうのか?」です。

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◆◆安倍首相とメディア幹部との会食ますます

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安倍首相とメディア幹部との会食問題については、当ブログ=安倍首相のメディア工作とNHK乗っ取り計画も参照のこと

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2766489.html

【衆院選のときは、安倍首相直接出演】

◆成瀬 伊佐夫=『財界展望』(2015年4月)「安倍首相とメシを食うモラル無きマスコミ人たち」の紹介

 この記事の中に、安倍首相と会食したメディア関係者の一覧表(2013年1月から2015年2月)がある。

 この一覧表を見る限り、リベラル派のイメージがある東京新聞や朝日新聞の関係者までが、安倍首相と会食していることが分かった。「読売新聞の渡辺恒雄氏」が安倍首相と頻繁に会食している話は周知となっているが、『財界展望』の記事によると、主要な新聞の多くが、首相と特別な関係にあるようだ。

 渡辺氏ら「常連」とは別の会食者のうち、個人的に気になる社と人物をピックアップしてみた。

朝日新聞:木村伊量社長       

共同通信:石川聡社長

日経新聞:喜多恒雄社長       

テレビ朝日:早河洋社長

毎日新聞:朝比奈豊社長       

時事通信:西沢豊社長

東京新聞:長谷川幸洋論説副主幹   

共同通信:福山正喜社長

中国・九州の地方紙代表者ら     

内閣記者会加盟各社キャップ

女性記者複数人

NHKインターナショナル:諸星衛特別主幹

NHK島田敏男解説委員

◇首相の意に添った報道

  権力を監視するジャーナリストが首相と会食する友達になれば、ジャーナリズムは成立しない。こんな常識的なことが分かっていないのは、入社時の社内教育以前に、大学のジャーナリズムの授業で、ジャーナリズムの原理を教えていないことが原因ではなないだろうか?

 取材目的で会食するのであれば、ある程度は容認されるが、会食したメディアの報道を検証する限り、自民党政権と正面から対峙するスタンスは見られない。 つまり会食することにより、首相の意に添った報道になっているのが問題なのだ。特に構造改革=新自由主義の「援護」は見過ごせない。

 新自由主義による矛盾の蓄積と、軍事大国化の下で、報道しなければならないテーマは山積みになっているが、ほとんどのメディアがその役割を放棄している。

 例外的に優れた報道が行われたとしても、それは記者個人の努力の結晶であって、メディア企業としてのスタンスの現れではない。

◆『週刊ポスト』(2015年6月19日号)「『マスコミ特権』は世界の恥だ」と題する特集組む

特集では、「安倍首相と大新聞・テレビ幹部&記者『夜の会食』完全リスト」なるものを掲載しました。

 第2次安倍政権の2013年1月から2015年6月1日までの首相とメディアの「夜の会食」を,一覧表(表にあらわれているものだけ)にしたものです。これを数えてみると,その回数は61回にのぼります。一覧表に出ている「参加者」を会社ごとに分類すると,延べ人・回数はつぎのとおりとなります。

「読売」18 「産経」9 「毎日」7 「朝日」6 「日経」4「時事」10 「共同」4

「フジテレビ」5 「日テレ」5 「NHK」4 「テレ朝」4

「中日(東京)」2 「中国」1 「西日本」1 「静岡」1

◆内閣発足以来最低でも60

 東京・大手町の読売新聞東京本社ビル高層フロアにある役員専用食堂大広間。さる518日の夕方6時半すぎ、卓上に料理がズラリと並んだ。

 卓を囲むのはメディア各社の大幹部だ。ホスト役の読売新聞グループ本社会長の渡辺恒雄氏を清原武彦・産経新聞社会長、芹川洋一・日本経済新聞社論説委員長、今井環・NHKエンタープライズ社長らが囲む。メディア各社の固定メンバーが定期的に集まって懇談する場だという。

 その日のゲストは安倍晋三・首相だった。たっぷり2時間以上、料理に舌鼓をうちながら、政局の話題で盛り上がったという。

 大メディア幹部が一堂に会する奥の院に多忙を極める総理大臣が駆けつける──政権とメディアの馴れ合いを象徴する場面である。

 第2次安倍内閣の発足以来、メディア幹部が安倍首相と会食する頻度は異常といっていい。やはりマスコミ操縦に長けていた小泉純一郎・元首相のケースと比べてみよう。就任2年目の2002年の1年間では、117日に東京・銀座にあったイタリア料理店「エノテーカピンキオーリ」で当時の氏家齊一郎・民放連会長(故人)ら放送局幹部との会食など、わずかに5回を数えるだけだった。

 それに比べて安倍首相は就任2年目の2013年の1年間だけで、何と31回も大メディア幹部らと会食している。2014年は年間22回、今年も64日時点で6回を数える。第2次安倍内閣では合わせて約60回に上る。

 これはあくまで新聞各紙が首相動静で報じている限りの数字だ。非公表でメディア幹部と会食することも少なくない。

◆戦争法案審議入り1カ月 首相会食 銀座・赤坂へ

2015626()赤旗

財界・マスコミ・橋下大阪市長計15回

 「自衛隊員のリスクは当然増える」と平然といい、「戦争する国づくり」に暴走する安倍晋三首相。その一方で、「戦争法案」審議入り以降、東京・銀座の日本料理店や赤坂の居酒屋などで、財界人やマスコミ関係者らとひんぱんに会い、15回にのぼる飲み食いを重ねています。

(写真)安倍首相がマスコミ幹部と会食した「黒澤」=東京・永田町

 戦争法案が審議入りした5月26日、安倍首相は、東京・代官山のイタリア料理店で、ANAホールディングスの伊東信一郎会長らと会食しました。

 日本共産党の志位和夫委員長が、衆院特別委員会で、首相をきびしく追及した27日、28日には、マスコミ幹部や、側近らと日本料理店やステーキ店で会食するなど豪遊を繰り返しています。(表参照)

 マスコミ関係者とは、125万件にのぼる年金情報流出が明らかになった6月1日にも赤坂の中国料理店で、内閣記者会加盟報道各社のキャップと会食しています。

 ドイツでのG7出席をはさんで、財界人らとの会食を精力的に再開。11日には、精神科医らでつくる首相の後援会「晋精会」と丸の内のホテルでの会合に出たあと、紀尾井町の料亭で歴代経団連会長らと会食しています。

 「戦争法案反対」の国会包囲行動と、若者の「渋谷デモ」がおこなわれた14日には、維新の党の協力をとりつけたいのか、同党最高顧問の橋下徹・大阪市長と虎ノ門のホテルで3時間にわたって会食しました。15日夜には、内幸町のホテルで経済同友会幹部と会食しています。

 ふたたび3万人が国会を包囲した24日には、マスコミ各社の論説委員らと銀座の日本料理店で会食。25日には、六本木の豚料理店へ。

 この間、年金情報流出だけでなく、鹿児島県・口永良部島噴火や小笠原地震など、「国民の安全と安心」をめぐって重大事態が相次いでいるにもかかわらず、首相は、ほぼ2日に1回の飲み食い。どっちを向いた政治をしているかは、明らかです。

◆◆メディア幹部との会食、ここが問題

政権のメディア戦略 幹部とは会食 現場には恫喝/政権べったりの社を選別=突出する「読売」、フジテレビ

20141230日赤旗

安倍晋三首相が政権に復帰して2年。マスメディア幹部との会食が目立っています。総選挙では政権党による「報道介入」に批判が起きました。安倍政権のメディア戦略は―。

 総選挙投票2日後の16日、「自公圧勝」報道の嵐のなか、首相が全国紙やテレビ局の解説委員・編集委員らと会食したことが話題になりました。

 この会食にとどまらず、この2年間、首相とメディア幹部との会食が重ねられてきました。そのなかで鮮明になっているのが、首相によるメディアの選別です。2年間でみると、突出しているのが、「読売」の渡辺恒雄会長の8回、フジテレビの日枝久会長の7回。それにつづくのが、「産経」の清原武彦会長の4回、日本テレビの大久保好男社長の4回などです。

 安倍政権の改憲路線や歴史逆行の動き、消費税増税や環太平洋連携協定(TPP)交渉推進など、政権べったりの姿勢が目立つメディアとの癒着ぶりが顕著です。なかでも、「読売」は渡辺会長のほか、論説主幹とも判明しているだけで7回会食。フジの日枝会長は夏のゴルフ仲間として定着しています。「朝日」、「毎日」、「日経」、共同、時事、「中日」などの経営幹部との会食も欠かしていません。

 こうした状況に、ある全国メディア幹部は「会食する順番、回数など、メディア全体が安倍政権に選別されている状況が一番問題だ。現役記者も、官邸からにらまれないように汲々(きゅうきゅう)としている」と懸念します。

 一方で、今回の総選挙公示前にTBSの報道番組に出演した安倍首相が、アベノミクスに対する街の声を紹介した番組中の取材映像に対し「これ、おかしい」「(テレビ局の)みなさん(声を)選んでおられる」と強い口調で非難しました。この2日後に、自民党が在京テレビキー局各社に要請文書を出し、「街頭インタビュー、資料映像等で一方的な意見に偏る、あるいは特定の政治的立場が強調されることのないよう」求めました。

 これに対し民放労連は「政権政党による報道介入に強く抗議する」との委員長談話を発表するなど、異例の事態に発展しました。

 メディア幹部と会食を重ね、癒着を深める一方で、現場には恫喝(どうかつ)まがいの行動に出る―安倍政権のメディア戦略にきびしい監視が必要となっています。

◆問われる権力の監視役

 安倍晋三首相とメディア幹部との会食で目につくのは、政局の節目節目に首相が近しい記者との会食を行っていることです。

 総選挙から2日後の16日夜、「読売」、「朝日」、「毎日」、「日経」、NHK、日本テレビ、時事通信の解説委員・編集委員らが、東京・西新橋のすし店で会食したことを本紙がニュースとして報道しました。大きな反響があり、「マスメディアの堕落だ」「あまりにひどい」との反応が寄せられました。

 このメンバーは、首相との定期的な会食を重ねています。秘密保護法強行の直後(13年12月16日)、集団的自衛権の検討表明の日(14年5月15日)にも会食しています。靖国神社参拝や消費税増税強行の直後には、報道各社の政治部長らが首相と懇談・会食をしています。

 こうした会食が社論や解説記事に影響することはないのか。首相の側は政局の節目に自分の考えをメディアに伝えようとしているのは明白です。国のあり方が大きく問われ、世論も多数が反対している問題が重要局面を迎えているときに、メディアの編集幹部が権力中枢と会食することが許されるのか、きびしく姿勢が問われます。

 これらの会食は、高級料理店で2時間から3時間も食事をともにするもので、通常の取材とは明らかに一線を画すものです。しかも、会食に出席した解説委員・論説委員などは、自社の社長らと首相の会食にも同席するケースがあり、いわば経営幹部と権力中枢の接近を媒介しているともいえます。

 権力の監視を本来の役割とし、そのためにも緊張関係を保つべきメディアのあり方からの重大な逸脱です。

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鑑賞・万葉集の世界❷歌人別

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🔵万葉集の歌=歌人別

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🔴【山部赤人(やまべのあかひと)】

山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)。万葉集の中でその年号がわかっているのは、神亀元年(724)から天平八年(736)の間に紀伊、吉野、難波宮、印南野、そして再度吉野への行幸のときの歌です。それ以外には、下総、駿河、摂津、播磨などでの歌があります。万葉集には五十首載っています。その中でも、富士山の歌が有名ですね。

山部赤人

◆◆山部赤人

やまべのあかひと

小学館百科全書

生没年未詳。奈良時代の歌人。制作年代の明らかな作品は、724年(神亀1)から736年(天平8)までに限られている。山部氏は、顕宗(けんそう)・仁賢(にんけん)両天皇の受難時代に奉仕した功により、伊豫来目部小楯(いよのくめべのおだて)が山部連(やまべのむらじ)の姓(かばね)を賜ったのに始まる。山林の管理などを職とした地方豪族で、683年(天武天皇12)に改姓して宿禰(すくね)となった。赤人は『万葉集』に長歌13首、短歌37首を残す。笠金村(かさのかなむら)、車持千年(くるまもちのちとせ)とともに聖武(しょうむ)朝の宮廷歌人として活躍したが、長歌は柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)のように長大な作はなく、最大でも二十数句の小長歌にすぎず、一首中のくぎれも少なくない。温雅な感情を景に託して平明に歌うことを得意とした赤人の性格は、長歌より短歌に適していたらしい。もちろん富士山を詠んだ長歌のような佳作もあるし、明日香(あすか)古京をたたえた「朝雲に 鶴(つる)は乱れ 夕霧に かはづは騒く」のような美しい対句もみられるが、主観語を用いず自然を客観的に歌った「ぬばたまの夜のふけゆけば久木(ひさぎ)生ふる清き河原に千鳥しば鳴く」など、行幸従駕(じゆうが)の長歌の反歌に秀作が多い。赤人を叙景歌人とよぶのは、そのような作品によるのであるが、これとは別に観念的な発想のおもしろみを主とする「あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも」のような作もあり、『古今集』以後の知巧的作風の先駆の性格をもつ。大伴家持(やかもち)が「山柿(さんし)之門」(『万葉集』巻17)とたたえたのは、人麻呂と赤人をさすのであろうといわれ、また『古今集』序に人麻呂と並称されているのも広く知られるところで、後代への影響の大きさを思わせる。

[稲岡耕二] 

0317: 天地の別れし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる…….(長歌)

0318: 田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

0322: 皇神祖の神の命の敷きませる国のことごと…….(長歌)

0323: ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年の知らなく

0324: 三諸の神名備山に五百枝さし…….(長歌)

0325: 明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに

0357: 縄の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島漕ぎ廻る舟は釣りしすらしも

0358: 武庫の浦を漕ぎ廻る小舟粟島をそがひに見つつ羨しき小舟

0359: 阿倍の島鵜の住む磯に寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ

0360: 潮干なば玉藻刈りつめ家の妹が浜づと乞はば何を示さむ

0361: 秋風の寒き朝明を佐農の岡越ゆらむ君に衣貸さましを

0362: みさご居る磯廻に生ふるなのりその名は告らしてよ親は知るとも

0363: みさご居る荒磯に生ふるなのりそのよし名は告らせ親は知るとも

0372: 春日を春日の山の高座の御笠の山に朝さらず雲居たなびき貌鳥の…….(長歌)

0373: 高座の御笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも

0378: いにしへの古き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり

0384: 我がやどに韓藍蒔き生ほし枯れぬれど懲りずてまたも蒔かむとぞ思ふ

0431: いにしへにありけむ人の倭文幡の帯解き交へて…….(長歌)

0432: 我れも見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ

0433: 葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ

0917: やすみしし我ご大君の常宮と仕へ奉れる雑賀野ゆ…….(長歌)

0918: 沖つ島荒礒の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも

0919: 若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る

0923: やすみしし我ご大君の高知らす吉野の宮は…….(長歌)

0924: み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも

0925: ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く

0926: やすみしし我ご大君はみ吉野の秋津の小野の野の…….(長歌)

0927: あしひきの山にも野にも御狩人さつ矢手挾み騒きてあり見ゆ

0933: 天地の遠きがごとく日月の長きがごとくおしてる…….(長歌)

0934: 朝なぎに楫の音聞こゆ御食つ国野島の海人の舟にしあるらし

0938: やすみしし我が大君の神ながら高知らせる印南野の…….(長歌)

0939: 沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒ける

0940: 印南野の浅茅押しなべさ寝る夜の日長くしあれば家し偲はゆ

0941: 明石潟潮干の道を明日よりは下笑ましけむ家近づけば

0942: あぢさはふ妹が目離れて敷栲の枕もまかず桜皮…….(長歌)

0943: 玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はずあらむ

0944: 島隠り我が漕ぎ来れば羨しかも大和へ上るま熊野の船

0945: 風吹けば波か立たむとさもらひに都太の細江に浦隠り居り

0946: 御食向ふ淡路の島に直向ふ敏馬の浦の沖辺には…….(長歌)

0947: 須磨の海女の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ

1001: 大夫は御狩に立たし娘子らは赤裳裾引く清き浜びを

1005: やすみしし我が大君の見したまふ吉野の宮は…….(長歌)

1006: 神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ

1424: 春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける

1425: あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも

1426: 我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば

1427: 明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ

1431: 百済野の萩の古枝に春待つと居りし鴬鳴きにけむかも

1471: 恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり

3915: あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声

🔴【柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)】

万葉集の代表的歌人の一人として有名です。出生などはわかっていません。万葉集の第2巻には、石見(いわみ)国で死に臨んだときの歌があります。この歌の直後に「寧樂宮 和銅四年‥‥」の題詞があるので、人麻呂が亡くなったのは、それ以前ではないかと考えられます(ただし、はっきりとはしていません)

万葉集には、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の作とされている歌と、柿本人麻呂歌集に載っていたとされる歌があります。ここでは、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の作とされている歌をリストしておきます。4巻までに載っているものがほとんどですね。

年代のわかっている歌には、次のようなものがあります。

* 持統3年(689): 日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと:草壁皇子(くさかべのみこ))の殯宮(あらきのみや)の挽歌(ばんか)

* 持統10年(696): 高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の城上(きのへ)殯宮(あらきのみや)の挽歌(ばんか)

* 文武4年(700): 明日香皇女(あすかのひめみこ)の殯宮(あらきのみや)の挽歌(ばんか)

◆◆柿本人麻呂

かきのもとのひとまろ

小学館百科全書

神野志隆光

生没年未詳。『万葉集』の代表的歌人。人麿とも書く。姓は朝臣(あそみ)。奈良朝(710~)以前に活動した。「人麻呂歌集」歌に「庚辰(こうしん)年」(天武(てんむ)天皇9年=680)作の歌(巻102033歌)があるので、天武朝(673~686)にすでに活動していたことが知られる。また、700年(文武天皇4)作の明日香皇女挽歌(あすかのひめみこばんか)(巻2196~198歌)が、作歌年時のわかる作品として最後のものになる。天武・持統(じとう)朝を中心に、文武(もんむ)朝にかけて活動したのであるが、主要な作品は持統朝(686~697)に集中している。

官人としての人麻呂

人麻呂の活動は天武朝に始まるが、官人としての地位、足跡の詳細はわからない。石見相聞歌(いわみそうもんか)(巻2131~139歌)によって石見国(島根県)に赴任したことがあったと認められたり、瀬戸内海旅の歌(巻3249~256歌、303~304歌)などに官人生活の一端をうかがったりすることができる程度である。なお、石見国での臨死歌とする「鴨山(かもやま)の岩根しまける我をかも知らにと妹(いも)が待ちつつあるらむ」(巻2223歌)があることから、晩年に石見に赴任し、石見で死んだとする説が有力だが、石見相聞歌は持統朝前半の作とみるべき特徴を、表現上(枕詞(まくらことば)・対句)も様式上(反歌)も備えている。臨死歌は、人麻呂の伝説化のなかで石見に結び付けられたものと思われ、石見での死は信じがたい。

人麻呂歌集と歌人人麻呂

歌人としての人麻呂の活動は、「人麻呂歌集」歌(『万葉集』中に364首)と、題詞に人麻呂作と明記するもの、いわゆる人麻呂作歌(延べ84首)とを通じてみることができる。「人麻呂歌集」は現存しないが、『万葉集』に取り込まれた形で知ることができ、天武朝から持統朝初めにかけて筆録されたとみられる。人麻呂作歌は、年時分明のものでは689年(持統天皇3)から700年(文武天皇4)にわたる。「人麻呂歌集」を人麻呂作歌に先行するものとして、両者をあわせて歌人としての人麻呂の全体像をみることができるのである。

 歌人人麻呂の展開をみるうえで「人麻呂歌集」は重要であるが、注目されるのは、「人麻呂歌集」のなかで、歌の表記に変化があり、それが歌の発展と不可分だということである。つまり、助詞・助動詞を少なくしか表記しないもの(略体歌)と、より多く表記するもの(非略体歌)と、2類あるが、略体歌から非略体歌へと書き継がれたと認められ、その表記の展開とともに歌が叙情詩としての成熟を遂げていったとみることができるのである。より古い略体歌にはとくに民謡的な歌が多い。「打つ田に稗(ひえ)はしあまたありといへど択(えら)えし我(われ)そ夜一人ぬる」(巻112476歌)など。非略体ではそうした歌から脱却して、人麻呂独自の歌詞と叙情の境地とを開く。「塩けたつ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹(いも)がかたみとそ来(こ)し」(巻91797歌)など。

人麻呂作歌

人麻呂作歌は、このような「人麻呂歌集」のなかで人麻呂の遂げた展開を受け、これをさらに推進する方向でなされていく。人麻呂作歌のなかでもっとも早い作は、689年作とみられる近江荒都(おうみこうと)歌(巻129~31歌)であるが、その2首の反歌「ささなみの志賀(しが)の唐崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人(おほみやひと)の舟待ちかねつ」「ささなみの志賀(しが)の大わだ淀(よど)むとも昔の人にまたもあはめやも」は、非略体歌の「塩けたつ」の歌のような歌い方のうえになされたことは明らかであろう。そうした歌い方を成熟させ、しっかりと自分のものにして方法化していくことで、前記のような歌は生み出されたのである。それは人麻呂の独自な歌調の定着でもあった。近江荒都歌の2首の反歌や、石見相聞歌中の反歌の1首「笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば」(巻2133歌)の、沈痛重厚で、心の昂(たか)まり・激情を渦巻くように投げかける調べはたぐいがない。人麻呂調というべきものである。

 人麻呂作歌は、長歌を中心とする。84首のうち、長歌が18首、残りの短歌も36首まで反歌としてなされたものである。その多彩な内容は人麻呂を宮廷歌人ととらえる説もあるように、晴れの場での人麻呂の活動を想像させる。持統朝の宮廷が要求した、中国の詩に対抗できるような独自の文化としての歌ということにこたえてつくりだされていったのがこれらの長歌であったが、石見国から妻と別れて上京するときの歌という石見相聞歌に代表される相聞を主題とする長歌、草壁皇子(くさかべのおうじ)挽歌(巻2167~169歌)、高市皇子(たけちのおうじ)挽歌(巻2199~202歌)のような皇子たちの殯宮(ひんきゅう)に際してその死を悼み悲しむ荘重な響きをもつ挽歌など、新しい歌の境地がそこで開かれた。

 たとえば、「やすみしし我が大君の 聞こしをす天の下に 国はしもさはにあれども 山川の清き河内(かふち)と 御心を吉野の国の 花散らふ秋津の野辺に 宮柱太しきませば ももしきの大宮人は 舟並(な)めて朝川渡り 舟競ひ夕川渡る この川の絶ゆる事なく この山のいや高知らす みなそそく滝のみやこは 見れど飽かぬかも」(巻136歌)は、吉野行幸のときの作だが、枕詞・対句を駆使して重々しく華麗で、しかも緊張を失うことがない。比類ない歌いぶりであり、その歌調のみなぎりは、時代の精神を体現して生まれたといえよう。

人麻呂の達成

様式のうえでも複数反歌、複数長歌の構成などが初めて生み出され、表現のうえでも、多数の新しい枕詞が創出されるなど、人麻呂の果たしたものはきわめて大きい。人麻呂を通じて和歌史が転換するといっても過言ではない。大きく日本の文学史のうえでいえば、口誦(こうしょう)から記載への転換という点で人麻呂の位置をみるべきである。口から口へ受け継がれた文学から、書く文学という根本的に新しい質の文学への転換を歌において体現するのが人麻呂である。文学史にとってもっとも大きな、緊張に富んだ転換期であり、それを体現する歌人として人麻呂の文学的魅力は大きい。

 なお、人麻呂の後代へ与えた影響は圧倒的に大きく、『万葉集』の時代にすでに模範として仰がれていた。奈良朝の代表的歌人である笠金村(かさのかなむら)や山部赤人(やまべのあかひと)は明らかに人麻呂の影響のもとに作歌し、大伴家持(おおとものやかもち)は「山柿(さんし)の門」とよんで彼を賛仰した。のちに歌聖といわれ、さらには歌神として祀(まつ)られるに至った。

柿本朝臣人麻呂歌集

かきのもとのあそみひとまろのかしゅう

略して「人麻呂歌集」ともいう。歌集としては現存しないが、『万葉集』中には、「人麻呂歌集」から採録した歌が364首ある(数え方には異説がある)。すなわち、巻31、巻756、巻944、巻1068、巻11161、巻1227、巻133、巻144首を収載する。『万葉集』が歌集歌を古歌として尊重する態度はその編纂(へんさん)の仕方に明らかに認められる。歌集歌の表記も本来の形を温存したものとみられるが、その特異な書式が注目される。助辞を少なくしか表記しない略体表記の歌と、より多く表記する非略体表記の歌との2類が存するが、略体非略体と、人麻呂によって書き継がれたととらえられ、表記史的にみて天武(てんむ)朝~持統(じとう)朝初期の段階のものと位置づけうる。なお、歌集の原体裁として、略体歌部・非略体歌部の2部に分かれ、略体歌は「寄物(きぶつ)陳思」の場合「寄物」による分類、非略体歌は季節分類がなされていたと考えられる。『万葉集』中で題詞に人麻呂作と明示する歌に先行するものとして、この歌集の歌を含めて人麻呂の作歌活動を展望することができる。

0029: 玉たすき畝傍の山の橿原の…….(長歌)

0030: 楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ

0031: 楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも

0036: やすみしし我が大君のきこしめす…….(長歌)

0037: 見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む

0038: やすみしし我が大君神ながら神さびせすと…….(長歌)

0039: 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に舟出せすかも

0040: 嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか

0041: 釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ

0042: 潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島廻を

0045: やすみしし我が大君高照らす日の皇子…….(長歌)

0046: 安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに

0047: ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し

0048: 東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

0049: 日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ

0131: 石見の海角の浦廻を浦なしと…….(長歌)

0132: 石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか

0133: 笹の葉はみ山もさやにさやげども我れは妹思ふ別れ来ぬれば

0134: 石見なる高角山の木の間ゆも我が袖振るを妹見けむかも

0135: つのさはふ石見の海の言さへく…….(長歌)

0136: 青駒が足掻きを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける

0137: 秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む

0138: 石見の海津の浦をなみ浦なしと…….(長歌)

0139: 石見の海打歌の山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか

0140: な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我が恋ひずあらむ

0167: 天地の初めの時ひさかたの…….(長歌)

0168: ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも

0169: あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも

0170: 嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず

0194: 飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に生ふる…….(長歌)

0195: 敷栲の袖交へし君玉垂の越智野過ぎ行くまたも逢はめやも

0196: 飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に…….(長歌)

0197: 明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし

0198: 明日香川明日だに見むと思へやも我が大君の御名忘れせぬ

0199: かけまくもゆゆしきかも言はまくも…….(長歌)

0200: ひさかたの天知らしぬる君故に日月も知らず恋ひわたるかも

0201: 埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ

0202: 哭沢の神社に三輪据ゑ祈れども我が大君は高日知らしぬ

0207: 天飛ぶや軽の道は我妹子が里にしあれば…….(長歌)

0208: 秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも

0209: 黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ

0210: うつせみと思ひし時に取り持ちて…….(長歌)

0211: 去年見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年離る

0212: 衾道を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし

0213: うつそみと思ひし時にたづさはり…….(長歌)

0214: 去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る

0215: 衾道を引手の山に妹を置きて山道思ふに生けるともなし

0216: 家に来て我が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕

0217: 秋山のしたへる妹なよ竹のとをよる子らは…….(長歌)

0218: 楽浪の志賀津の子らが罷り道の川瀬の道を見れば寂しも

0219: そら数ふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき

0220: 玉藻よし讃岐の国は国からか…….(長歌)

0221: 妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや

0222: 沖つ波来寄る荒礒を敷栲の枕とまきて寝せる君かも

0223: 鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ

0227: 天離る鄙の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし

0235: 大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも

0239: やすみしし我が大君高照らす…….(長歌)

0240: ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり

0241: 大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも

0249: 御津の崎波を畏み隠江の舟公宣奴嶋尓

0250: 玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ

0251: 淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す

0252: 荒栲の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行く我れを

0253: 稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ

0254: 燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず

0255: 天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ

0256: 笥飯の海の庭よくあらし刈薦の乱れて出づ見ゆ海人の釣船

0261: やすみしし我が大君高照らす日の御子…….(長歌)

0262: 矢釣山木立も見えず降りまがふ雪に騒ける朝楽しも

0264: もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも

0266: 近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

0303: 名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は

0304: 大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ

0423: つのさはふ磐余の道を朝さらず…….(長歌)

0426: 草枕旅の宿りに誰が嬬か国忘れたる家待たまくに

0428: こもりくの初瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ

0429: 山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく

0430: 八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ

0496: み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも

0497: いにしへにありけむ人も我がごとか妹に恋ひつつ寐ねかてずけむ

0498: 今のみのわざにはあらずいにしへの人ぞまさりて音にさへ泣きし

0499: 百重にも来及かぬかもと思へかも君が使の見れど飽かずあらむ

0501: 娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我れは

0502: 夏野行く牡鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや

0503: 玉衣のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来にて思ひかねつも

1710: 我妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を刈りて収めむ倉無の浜

1711: 百伝ふ八十の島廻を漕ぎ来れど粟の小島は見れど飽かぬかも

1715: 楽浪の比良山風の海吹けば釣りする海人の袖返る見ゆ

1761: 三諸の神奈備山にたち向ふ御垣の山に…….(長歌)

1762: 明日の宵逢はざらめやもあしひきの山彦響め呼びたて鳴くも

2634: 里遠み恋わびにけりまそ鏡面影去らず夢に見えこそ

3606: 玉藻刈る処女を過ぎて夏草の野島が崎に廬りす我れは

3608: 天離る鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ

3609: 武庫の海の庭よくあらし漁りする海人の釣舟波の上ゆ見ゆ

3610: 安胡の浦に舟乗りすらむ娘子らが赤裳の裾に潮満つらむか

3611: 大船に真楫しじ貫き海原を漕ぎ出て渡る月人壮士

🔴【有間皇子(ありまのみこ)】

孝徳天皇(こうとくてんのう)の息子さんです。に蘇我赤兄(そがのあかえ)に謀(はか)られて天皇への反乱をしようとしたとして、蘇我赤兄(そがのあかえ)に捕らえられ、藤白坂(ふじしろさか)で絞首刑とされました。このとき、わずか19歳のときでした。万葉集には、有間皇子が紀の湯に連行される途中に作った歌2首があります。

有間皇子の墓

◆◆有間皇子

ありまのおうじ

小学館百科全書

640-658 

孝徳(こうとく)天皇の皇子。母は左大臣阿倍内麻呂(あべのうちまろ)の女(むすめ)小足媛(おたらしひめ)。皇子は性悟(さと)く、偽って狂ったまねをしたという。少年ながら政争に巻き込まれるのを避けたらしい。だが657年(斉明天皇3)療病のため紀伊牟婁(むろ)温泉に行き、そのよさを斉明(さいめい)天皇に推薦して、翌年冬天皇の温泉行幸中、蘇我赤兄(そがのあかえ)に唆(そそのか)されて謀反を企て、赤兄に捕らえられて、送還の途中、紀伊藤白坂(和歌山県海南市藤白)で絞殺された。中大兄(なかのおおえ)皇子の罠(わな)にはまったといえる。『万葉集』に載る歌2首は護送の途中詠んだもので絶唱である。

 磐代(いはしろ)の浜松が枝を引き結び真幸(まさき)くあらば亦(また)かへり見む(巻2141

 家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕(くさまくら)旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る(巻2142

[横田健一] 

0141: 磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む

0142: 家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

🔷🔷悲劇の皇子:有間皇子(ありまのみこ)

有間皇子の悲劇、それは大化の改新(たいかのかいしん)から始まります。

第34代舒明(じょめい)天皇の後、皇后が皇位につきました。皇極(こうぎょく)天皇[女帝]で、都は飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)です。大化の改新はその4年後になります。

皇極4年(645)6月12日、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)[葛城皇子(かつらぎのみこ)、後の天智(てんじ)天皇]、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによって飛鳥板葺宮の大極殿(だいこくでん)での三韓進調(さんかんしんちょう)[当時、朝鮮半島にあった高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)三国の使者が入朝して調(みつき)<君主に奉る財物>を奉る]の儀式の場、それも皇極天皇の御前で、時の権力者であった蘇我入鹿(そがのいるか)が首を切られ、わずか一日で蘇我氏は滅亡します。世にいう乙巳(いつし)の変です。

皇極天皇の衝撃は大きく、その2日後の14日には弟の軽皇子(かるのみこ)に皇位を譲りました。
孝徳(こうとく)天皇です。改新を推進した中大兄皇子は政治的配慮によって皇太子に、皇后には中大兄皇子の妹の間人皇女(はしひとのひめみこ)がなりました。鎌足は内臣(うちつおみ)<大臣にあたる官職>です。

それが「鎮魂歌集的性格を持つ」万葉の時代の始まりとなりました。

孝徳天皇が難波長柄豊碕(なにわながらとよさき)の宮に都をうつして8年後の白雉(はくち)4年(653)中大兄皇子は、都を飛鳥にかえすことを勧めましたが、孝徳天皇は聞き入れず、それならばと天皇を残して、皇后を始め多くの人々を引き連れて飛鳥へ帰ってしまいました。孤立した孝徳天皇は煩悶(はんもん)<悩み苦しむ>のあまり1年後に妃の小足媛(おたらしひめ)とその間に生まれた有間皇子を残して崩御(ほうぎょ)されます。

そのあと皇極天皇が重祚(ちょうそ)<退位した天皇が再び位につくこと>して斉明(さいめい)天皇となるのです。
中大兄皇子は依然として皇太子にとどまっていました。時に有間皇子6歳、幼いとはいえ天皇の皇子でありました。当然、皇太子中大兄皇子と並ぶ皇位継承の有力者としてライバル関係が生じ、世の注目を集めることとなりました。それが何を意味するかは自明の事、悲劇の幕開けです。

中大兄皇子は蘇我入鹿を討った後、大化元年(645)9月には兄である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を謀反を企(くわだ)てたとして死罪に処していますし、同5年(649)には妃の一人である遠智娘(おちのいらつめ)【造媛(つくりひめ)】の父、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)をも讒言(ざんげん)<事実を曲げ、いつわって人を悪く言うこと>によって自殺に追いやっています。有間皇子に累が及ぶのは時間の問題でありました。

「日本書紀」斉明3年(657)9月の条には「有間皇子性黠(ひととなりさと)くして陽狂(うはりくるひ)すと云々」、利口な性格で病であるように装ったといいます。常に身を危険にさらされ、こうした保身までしなければならなかったことも辛いけれど、いつまでも病人のまねをし続けることはもっと辛いことであったに違いありません。皇子は牟婁の温湯(むろのゆ)<和歌山県白浜湯崎温泉>に出かけて療養してきたように見せかけ、かの地のありさまを誉めて「あのあたりの風光に接しただけでおのずから病気が癒(いや)されました。天皇も是非お出かけになられてはいかがですか」と奏上したところ、孫の建王(たけるのみこ)をわずか8歳で亡くして哀しみに沈んでいた天皇は大いに喜び、翌4年10月皇太子以下を引き連れて牟婁の温湯に行幸しました。事件はその留守中に起こりました。

11月3日蘇我馬子(そがのうまこ)の孫にあたる留守官の蘇我赤兄(そがのあかえ)<乙巳の変で討伐された蘇我入鹿も蘇我馬子の孫であり、赤兄とは従兄弟の関係にある>が有間皇子邸を訪れ、天皇の三つの失政をあげて謀反をそそのかしたのです。

「大きな倉庫(くら)を建てて、人民の財物を集積することがその一」
「延々と水路を掘って、公の食料を消費することがその二」
「舟に石を乗せて運び、それを丘のように積み上げることがその三です」

皇子は赤兄の言を信じ、心を許したのでしょうか、5日には赤兄の家に行き、謀議をめぐらしました。その時、有間皇子の脇息<脇に置いてもたれかかるための道具>が折れたのを不吉の前兆として、挙兵することを断念しました。その夜半、生駒の市経(いちぶ)<一分、奈良県高取町の市尾とする説もある>にある皇子の邸を赤兄の兵が取り囲み、皇子は捕らえられ、共謀者4人とともに牟婁の温湯に護送されてしまいました。「謀反の心あり」として赤兄から報告があり、既に討伐の命が出されていたのでしょう。

9日、護送の途次(とじ)、磐代(いわしろ)<岩代、和歌山県日高郡みなべ町>の浜で詠んだのが、万葉集中白眉<最も優れているもの>といわれる短歌二首であります。

磐代(いはしろ)の 浜松が枝(え)を 引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還(かへ)り見む(万・巻2-141)
(岩代の浜松の枝を今、引き結んで幸を祈るのだが、もし命があった時には再び帰ってこれを見よう)

家(いへ)にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎(しひ)の葉に盛る(万・巻2-142)
(家にいると器に盛って神に供えるご飯を、こうして心にまかせぬ旅にいるので椎の葉に盛ってお供えすることだ)

一見、騎旅(きりょ)の歌のようであるのに、どうして万葉集の「挽歌(ばんか)<人の死を悲しみ悼む歌>」の部の、それもその冒頭に載せてあるのでしょうか。題詞に「有間皇子 自ら傷(いた)みて松が枝を結ぶ歌二首」とある「自傷」とはいったい何を悲しんでいるというのでしょうか。それがこの「日本書紀」の斉明天皇3年9月から同4年11月のわずか一年余りの出来事と深い関わりがあるのです。

松の枝を引き結ぶのは、草の根や衣の紐(ひも)などと同様、それらに自らの魂を封じ込めて、旅の安全を祈る古代人の風習であり、作者有間皇子が反逆の罪で捕らえられ、護送されてゆく途中の作でありますから、淡々とした中にも、異常な運命に耐えつつ、道の神に対して一縷(いちる)の望みを託そうとする心情があわれでなりません。こうしてみると一首目の「飯」も手向(たむ)けの神饌(しんせん)<神に供える供物>であり、旅の途中であるから椎の葉に盛って食べなければならないというような単純な悲しみではないのです。

11月9日の夕べ、牟婁の温湯に到着した有間皇子を待っていたのは中大兄皇子の厳しい尋問でありました。「なぜ謀反を企てたのか」との問いに有間皇子はただ一言

「天と赤兄と知らむ 吾(われ)全(もは)ら知らず」(天と赤兄に聞いてくれ 私は何も知らない)
とだけ答えました。

11月11日には再び都へ送還され、途中自ら結んだ松の枝は目にしたものの、藤白の坂<和歌山県海南市藤白>で絞首させられ、あたら19歳の若い命を、あたかも赤い椿の花を手折(たお)るように散らしたのでありました。また、中大兄皇子の命を受けた丹比小沢連国襲(たじひのおざわのむらじくにそ)に襲われ、従者の塩屋連[制]魚(しおやのむらじこのしろ)と舎人(とねり)の新田部連米麻呂(にいたべのむらじこめまろ)は斬られ、守君大岩(もりきみおおいわ)と坂合部連薬(さかいべのむらじくすり)は流罪となりました。

藤白の み坂を越ゆと 白妙(しろたへ)の わが衣手(ころもで)は 濡(ぬ)れにけるかも(万・巻9)

この歌は、皇子が藤白坂で処刑されて43年後の大宝元年(701)、持統上皇・文武(もんむ)天皇<持統上皇の孫>の牟婁の温湯行幸に従った大宮人(おほみやひと)<宮中に仕える人>の歌です。時代は変わって、皇子への同情と追慕(ついぼ)が公然と表出できるようになり、19歳という若さで悲運に仆(たお)れたのを惜しんでのあまり、こうした歌が多く歌われました。坂に「み」と付けたのは、華やかな歴史の舞台から突き落とされ、非業(ひごう)の死を遂げた皇子の霊が、熊野への入口という重要な位置を占める藤白坂の道の神としての存在となり、この種の歌を手向(たむ)けて通らねばならなかったことを意味しています。 

 ※「魚」へんに「制」と書きます。

🔴【大津皇子(おおつのみこ)】

天武天皇の皇子(みこ)で、大伯皇女(おおくのひめみこ)の弟さん。お母さんは大田皇女(おおたのひめみこ)です。壬申の乱で活躍しました。万葉集には石川娘女(いしかはのいらつめ)に贈った歌など四首があります。朱鳥(あけみとり)元年(686)に、天武天皇が亡くなった後、謀反を計画したという疑いで捕らえられ、翌日には自害させられました。自害する直前に詠んだ歌、百伝ふ磐余の池に鳴く鴨をが有名です。このとき大津皇子は、まだ24歳だったのです。また、自害する直前の気持ちを詠んだ漢詩が懐風藻(かいふうそう)に載っています

ニ上山の石碑

0107: あしひきの山のしづくに妹待つと我れ立ち濡れぬ山のしづくに

0109: 大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて我がふたり寝し

0416: 百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

1512: 経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね

🔴【額田王(ぬかたのおおきみ)】

万葉集の代表的歌人の一人。最初は大海人皇子(おおあまのみこ:天武天皇)に嫁ぎ、のちに天智天皇に仕えた。

◆◆額田王

ぬかたのおおきみ

小学館百科全書

生没年未詳。『万葉集』初期の代表的女流歌人。作品は長歌三、短歌九首。『日本書紀』(天武(てんむ)紀下)に「天皇初メ鏡王ノ女(むすめ)額田姫王ヲ娶(め)シテ、十市皇女(とをちのひめみこ)ヲ生ム」とある。父の鏡王は伝未詳だが、姫王(皇女=内親王に対して2~5世の女王を示す)とあるので皇族である。若いころ大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)に召されて生んだ十市皇女の年齢などから推して、舒明(じょめい)朝(629~641)なかばごろの生まれか。持統(じとう)朝(686~697)の作があるので、60歳ぐらいまで生存し、長期の作歌活動を続けたが、主要作品は斉明(さいめい)・天智(てんじ)両朝の14年間に集中する。初め斉明天皇に仕え、主として天皇の意を代弁して呪歌(じゅか)(祝意あるいは願望などを込めて祈る歌)を詠じたらしく、雄渾(ゆうこん)で格調高い作がある(例歌参照)。斉明の崩御で一時宮廷を離れていたらしいが、天智天皇の近江(おうみ)遷都のころ、ふたたび召されたようで後宮に列した。おそらく歌人としてであろう。天智時代は、開明的気風のもとに大陸的みやびの世界を和歌に導入し、優美、繊細な新風で宮廷サロンの花形的存在となった。春秋の美の優劣を判定する歌「冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ……秋山われは」は有名であり、衆を代表して歌う立場などとともに、次代の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)を呼び起こす先駆をなす点で評価が高い。その経歴および作品から、天智、天武両天皇との間に、王をめぐって深刻な三角関係があったとする見方が一部にあるが、おそらく誤りであろう。

[橋本達雄] 

 熟田津(にきたづ)に船乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな

秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ

0008: 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

0009: 莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿が本

0016: 冬ごもり春さり来れば鳴かざりし鳥も來鳴きぬ…….(長歌)

0017: 味酒三輪の山あおによし奈良の山の山の際に…….(長歌)

0020: あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

0112: いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が念へるごと

0113: み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく

0151: かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを

0155: やすみしし我ご大君の畏きや御陵仕ふる山科の…….(長歌)

0488: 君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く

1606: 君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く

0488, 1606の二つは全く同じ歌です。

🔴【持統天皇(じとうてんのう)】

◆◆持統天皇

じとうてんのう

小学館百科全書

645-702 

白鳳(はくほう)時代の天皇。第41代に数えられる(称制686~689、在位690~697)。野讃良(うののさらら)皇女といい、諡(おくりな)は高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)または大倭根子天之広野日女(やまとねこあまのひろのひめ)という。父は天智(てんじ)天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の女(むすめ)遠智娘(おちのいらつめ)。父の弟大海人(おおあま)皇子の妃となる。大海人は天智天皇の皇太子の地位についたが、天智の晩年に意思の疎通を欠き、671年(天智天皇10)朝廷を去って吉野山に入り、持統もこれに従った。天智の没後、持統の異母弟の大友皇子が天智の後を継いだが、大海人は672年壬申(じんしん)の乱を起こし、大友(弘文(こうぶん)天皇)を倒して皇位につき、天武(てんむ)天皇となり、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に都を定め持統を皇后とした。持統は天武の政治を補佐し、686年の天武の死後は皇太子草壁(くさかべ)皇子を助け、689年(持統天皇3)に草壁が没したのち、飛鳥浄御原令(りょう)を施行、ついで690年正式に即位し、諸制度を整備して、律令国家の確立に努め、藤原京を建設して694年に遷都した。697年に皇位を孫の文武(もんむ)天皇に譲るが、太上(だいじょう)天皇として文武の政治を助け、大宝律令の成った701年(大宝1)の翌年に没し、天武の檜隈大内(ひのくまのおおうち)陵(奈良県明日香(あすか)村に治定)に合葬された。『万葉集』に歌6首がある。

[直木孝次郎] 

0028: 春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香具山

0159: やすみしし我が大君の夕されば見したまふらし…….(長歌)

0160: 燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずやも智男雲

0161: 北山にたなびく雲の青雲の星離り行き月を離れて

0162: 明日香の清御原の宮に天の下知らしめしし…….(長歌)

0236: いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり

🔴【大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)】

🔴【笠女郎(かさのいらつめ)】

万葉集には、大伴家持(おおとものやかもち)に贈った29首の歌があるのですが、出生などは分かっていません。第4巻には、笠女郎の歌が24首も載っています。なお、笠女郎(かさのいらつめ)から大伴家持(おおとものやかもち)に贈った歌は29首ですけど、大伴家持(おおとものやかもち)から笠女郎(かさのいらつめ)に贈った歌は、たったの2首です。

◆◆笠女郎

かさのいらつめ

小学館百科全書

生没年未詳。『万葉集』末期の歌人。笠金村(かなむら)の娘、笠御室(みむろ)の娘などの諸説があるが、閲歴も未詳。『万葉集』に29首の短歌が所収、女流歌人としては大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)に次ぐ歌数である。その作すべてが大伴家持(やかもち)との恋の贈答歌であり、恋の始まりから終わりまでの恋情の諸相が詠まれている。たとえば「わが宿の夕影草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも」の、「夕影草」のような景物表現の独自性や、「皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝(い)ねかてぬかも」「相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼(がき)の後(しりへ)に額(ぬか)つくごとし」の「鐘」「餓鬼」など、他者のほとんど詠まない事物を詠み込んで、恋の苦衷を斬新(ざんしん)な形として表現している点に特色がある。

0395: 託馬野に生ふる紫草衣に染めいまだ着ずして色に出でにけり

0396: 陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを

0397: 奥山の岩本菅を根深めて結びし心忘れかねつも

0587: 我が形見見つつ偲はせあらたまの年の緒長く我れも偲はむ

0588: 白鳥の飛羽山松の待ちつつぞ我が恋ひわたるこの月ごろを

0589: 衣手を打廻の里にある我れを知らにぞ人は待てど来ずける

0590: あらたまの年の経ぬれば今しはとゆめよ我が背子我が名告らすな

0591: 我が思ひを人に知るれか玉櫛笥開きあけつと夢にし見ゆる

0592: 闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに

0593: 君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも

0594: 我がやどの夕蔭草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも

0595: 我が命の全けむ限り忘れめやいや日に異には思ひ増すとも

0596: 八百日行く浜の真砂も我が恋にあにまさらじか沖つ島守

0597: うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも

0598: 恋にもぞ人は死にする水無瀬川下ゆ我れ痩す月に日に異に

0599: 朝霧のおほに相見し人故に命死ぬべく恋ひわたるかも

0600: 伊勢の海の礒もとどろに寄する波畏き人に恋ひわたるかも

0601: 心ゆも我は思はずき山川も隔たらなくにかく恋ひむとは

0602: 夕されば物思ひまさる見し人の言とふ姿面影にして

0603: 思ふにし死にするものにあらませば千たびぞ我れは死にかへら

🔴【山上憶良(やまのうえのおくら)】

山上憶良(やまのうえのおくら)は斉明天皇6年(660)生まれと言われています。これは、天平5年(733)に書いたとされる第五巻に載っている「沈痾自哀(ちんあじあい)の文」の中に、「この時に年は七十有四にして」というところから逆算したものです。

築紫の山上憶良の石碑

万葉集には、40を過ぎてからの歌が載っています。山上憶良の歌は、子どものことを想った歌が特徴だと思われます。また、病気や貧乏など、人生の苦しい面や、その時代の問題を扱っているのが特色でしょう。

意外に多いのが、七夕を詠んだ歌です。長屋王邸で詠んだ歌や、大伴旅人邸で詠んだ七夕の歌があります。

神亀三年(726)頃に、九州に赴任しましたが、そのときの大宰帥(だざいのそち)は、大伴旅人(おおとものたびと)だったのです。 

◆◆山上憶良

やまのうえのおくら

小学館百科全書

660-?] 

奈良時代の官人、歌人。没年は733年(天平5)あるいはその数年後以内。歌集『類聚歌林(るいじゅうかりん)』の編者。出自は不明。百済(くだら)の渡来人とする説もあるが確かでない。701年(大宝1)遣唐使少録。ときに無位無姓(続日本紀(しょくにほんぎ))。これ以前の閲歴は不明だが、下級官人であり持統(じとう)天皇の紀伊(和歌山県)や吉野(奈良県)への行幸にも従行したか(万葉集)。唐からの帰国は707年(慶雲4)か。714年(和銅7)正六位上から従(じゅ)五位下に進み、716年(霊亀2)伯耆守(ほうきのかみ)、721年(養老5)皇太子(後の聖武(しょうむ)天皇)の侍講者(続日本紀)。726年(神亀3)ころ筑前(ちくぜん)守、731年(天平3)ころ帰京(万葉集)。優れた学識により遣唐使・侍講者に抜擢(ばってき)されたが、弱小氏族ゆえに従五位下・地方国守どまりとなった。『万葉集』に残る作品は和歌75首(長歌11首、短歌63首、旋頭歌(せどうか)1首)、漢詩文12編(散文10編、詩2編)。作品数には異説もある。作品の大部分は728年以後6年間のもの。これは大宰府(だざいふ)文壇とくに大伴旅人(おおとものたびと)を知り詩心を刺激されたことによるという面が強いが、風雅を指向する彼らと異なり憶良の関心は別のところにあった。解脱(げだつ)でなく塵俗(じんぞく)へと説く「令反惑情歌(まとへるこころをかへさしむるうた)」(巻5)、現実苦のなかであえぐのが人間だと確認する「世の中を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」(巻5 貧窮問答歌・反歌)、子への愛執こそ人間の証(あかし)と主張する「思子等歌(こらをおもふうた)」(巻5)、そのほか「哀世間難住歌(よのなかのとどみかたきことをかなしぶるうた)」(巻5)、「沈痾自哀文(ぢんあじあいぶん)」(巻5)など、仏教でいう四大苦(生老病死)を背負って生きていかなければならない、自身を含めた人間・人生を執拗(しつよう)に追究し、人間存在の悲しさ・いとおしさを訥々(とつとつ)とした口調で歌い上げる。花鳥風月や恋愛とは無縁で、当時の貴族和歌の世界とは異質の問題意識、真率な姿勢、大陸文化への深い造詣(ぞうけい)と深い人間洞察に基づく思想的に厚みのある作品が憶良を孤高の存在にしている。それゆえにまた真価の発掘は近代を待たなければならなかった。

[遠藤 宏] 

0034: 白波の浜松が枝の手向けぐさ幾代までにか年の経ぬらむ

0063: いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ

0145: 鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ

0337: 憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ

0794: 大君の遠の朝廷としらぬひ筑紫の国に…….(長歌)

0795: 家に行きていかにか我がせむ枕付く妻屋寂しく思ほゆべしも

0796: はしきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべなさ

0797: 悔しかもかく知らませばあをによし国内ことごと見せましものを

0798: 妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに

0799: 大野山霧立ちわたる我が嘆くおきその風に霧立ちわたる

0800: 父母を見れば貴し妻子見ればめぐし愛し…….(長歌)

0801: ひさかたの天道は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに

0802: 瓜食めば子ども思ほゆ栗食めば…….(長歌)

0803: 銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも

0804: 世間のすべなきものは年月は流るるごとし…….(長歌)

0805: 常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも

0813: かけまくはあやに畏し足日女神の命…….(長歌)

0814: 天地のともに久しく言ひ継げとこの奇し御魂敷かしけらしも

0818: 春さればまづ咲くやどの梅の花独り見つつや春日暮らさむ

0868: 松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ

0869: 足姫神の命の魚釣らすとみ立たしせりし石を誰れ見き

0870: 百日しも行かぬ松浦道今日行きて明日は来なむを何か障れる

0874: 海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫

0875: 行く船を振り留みかねいかばかり恋しくありけむ松浦佐用姫

0876: 天飛ぶや鳥にもがもや都まで送りまをして飛び帰るもの

0877: ひともねのうらぶれ居るに龍田山御馬近づかば忘らしなむか

0878: 言ひつつも後こそ知らめとのしくも寂しけめやも君いまさずして

0879: 万世にいましたまひて天の下奏したまはね朝廷去らずて

0880: 天離る鄙に五年住まひつつ都のてぶり忘らえにけり

0881: かくのみや息づき居らむあらたまの来経行く年の限り知らずて

0882: 我が主の御霊賜ひて春さらば奈良の都に召上げたまはね

0886: うちひさす宮へ上るとたらちしや母が手離れ…….(長歌)

0887: たらちしの母が目見ずておほほしくいづち向きてか我が別るらむ

0888: 常知らぬ道の長手をくれくれといかにか行かむ糧はなしに

0889: 家にありて母がとり見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも

0890: 出でて行きし日を数へつつ今日今日と我を待たすらむ父母らはも

0891: 一世にはふたたび見えぬ父母を置きてや長く我が別れなむ

0892: 風雑り雨降る夜の雨雑り雪降る夜は…….(長歌)

0893: 世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

0894: 神代より言ひ伝て来らくそらみつ…….(長歌)

0895: 大伴の御津の松原かき掃きて我れ立ち待たむ早帰りませ

0896: 難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ

0897: たまきはるうちの限りは平らけく…….(長歌)

0898: 慰むる心はなしに雲隠り鳴き行く鳥の音のみし泣かゆ

0899: すべもなく苦しくあれば出で走り去ななと思へどこらに障りぬ

0900: 富人の家の子どもの着る身なみ腐し捨つらむ絹綿らはも

0901: 荒栲の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべをなみ

0902: 水沫なすもろき命も栲縄の千尋にもがと願ひ暮らしつ

0903: しつたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも

0904: 世間の貴び願ふ七種の宝も我れは…….(長歌)

0905: 若ければ道行き知らじ賄はせむ黄泉の使負ひて通らせ

0906: 布施置きて我れは祈ひ祷むあざむかず直に率行きて天道知らしめ

0978: 士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして

1518: 天の川相向き立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き設けな

1519: 久方の天の川瀬に舟浮けて今夜か君が我がり来まさむ

1520: 彦星は織女と天地の別れし時ゆ…….(長歌)

1521: 風雲は二つの岸に通へども我が遠妻の言ぞ通はぬ

1522: たぶてにも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき

1523: 秋風の吹きにし日よりいつしかと我が待ち恋ひし君ぞ来ませる

1524: 天の川いと川波は立たねどもさもらひかたし近きこの瀬を

1525: 袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば

1526: 玉かぎるほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは

1527: 彦星の妻迎へ舟漕ぎ出らし天の川原に霧の立てるは

1528: 霞立つ天の川原に君待つとい行き帰るに裳の裾濡れぬ

1529: 天の川浮津の波音騒くなり我が待つ君し舟出すらしも

1537: 秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花

1538: 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花

1716: 白波の浜松の木の手向けくさ幾代までにか年は経ぬらむ

3860: 大君の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る

3861: 荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず

3862: 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすかの山と見つつ偲はむ

3863: 荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼は寂しくもあるか

3864: 官こそさしても遣らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る

3865: 荒雄らは妻子の業をば思はずろ年の八年を待てど来まさず

3866: 沖つ鳥鴨とふ船の帰り来ば也良の崎守早く告げこそ

3867: 沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎廻みて漕ぎ来と聞こえ来ぬかも

3868: 沖行くや赤ら小舟につと遣らばけだし人見て開き見むかも

🔷🔷山上憶良:その生涯と貧窮問答歌

以下「万葉集を読む」から引用

https://manyo.hix05.com/okura/okura.hinkyu.html

山上憶良は、人麻呂、赤人を中心に花開いた万葉の世界にあって、他の誰にも見られない独特の歌を歌い続けた。憶良は人麻呂のように儀礼的な歌を歌わず、赤人のように叙景的な歌をも歌わなかった。また、万葉人がそれぞれに心をこめた相聞の歌も歌わなかった。彼が歌ったのは、世の中の貧しい人たちの溜息であり、子を思う気持であり、老残の身の苦しさであった

山上憶良の歌は、ほとんどすべてが、五十代半ば以降の老年になって書かれたものである。それも、六十六歳以後の、筑前国守時代に集中している。若い頃の作品もあるいはあったのかもしれないが、万葉集には残されていない。

山上憶良の名が歴史上に登場するのは、続日本紀大宝元年(701)年の条である。その年、文武天皇は久しぶりに遣唐使の派遣を決定した。憶良はその随員の末席に連なり、「無位山於億良」とその名を記されている。時に憶良四十一歳のことである。遣唐使は翌年日本をたち、慶雲元年(704)日本に復命した。

無名の憶良が何故遣唐使の一行に加えられたか、詳細はわからないが、恐らくは漢語などの学識を買われたのであろう。

在唐時代の億良の歌が万葉集巻一に載せられている。

ー山上憶良大唐にある時、本郷(くに)を億ひて作る歌

  去来(いざ)子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(63) 

「大伴の御津の浜松」とは難波津の風景を歌った言葉である。遣唐使の一行はここから船を出して瀬戸内海を西に行き、玄界灘から中国大陸を目指したのであった。この望郷の歌を歌ったとき、山上憶良はすでに四十四歳になっていた。

帰国後、山上憶良は朝廷の下級官人としての地位を得たようである。そして霊亀二年(716)伯耆国守に任命された。憶良は立身出世を人一倍願っていたとされるので、晩年になって得たこの地位に満足しただろう。いづれにせよ、名もなきものの立場に立って、人間の苦しみを歌う彼の歌風は、この地方官時代の経験に根ざしている。

養老五年(721)前後に、憶良は都に呼び戻されて、東宮(後の聖武天皇)に近侍することとなった。彼は前途に更に明るい栄達の光を見たに違いない。だが、神亀二年(725)聖武天皇即位とともに職を解かれ、同三年(726)には、筑前国守に任命された。左遷ではなかっただろうが、朝廷での栄達を望む憶良にとっては、がっかりするものであったようだ。

筑前国守時代は、憶良の創作意欲がもっとも高まった時期であり、多くの優れた作品を残している。彼の代表作は大部分がこの時代のものなのである。大伴旅人が大宰府の師(長官)として赴任してきたのをきっかけに、憶良と旅人との間の交友が深まり、互いの創作意欲を刺激しあったのだと思われる。

山上憶良の代表作はいくつかあげられるが、ここではもっとも憶良らしい歌として、「貧窮問答の歌」を取り上げよう。万葉集巻五に載せられている。

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ー貧窮問答の歌一首、また短歌

(甲)風雑(まじ)り 雨降る夜(よ)の 雨雑り 雪降る夜は

  すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ

  糟湯酒(かすゆさけ) うち啜(すす)ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに

  しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾(あれ)をおきて 人はあらじと

  誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさふすま) 引き被(かがふ)り

  布肩衣(ぬのかたきぬ) ありのことごと 着襲(そ)へども 寒き夜すらを

  我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ

  妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ 

  この時は いかにしつつか 汝が世は渡る

(乙)天地は 広しといへど 吾(あ)が為は 狭(さ)くやなりぬる

  日月は 明(あか)しといへど 吾(あ)が為は 照りやたまはぬ

  人皆か 吾(あ)のみやしかる わくらばに 人とはあるを

  人並に 吾(あれ)も作るを 綿も無き 布肩衣の

  海松(みる)のごと 乱(わわ)け垂(さが)れる かかふのみ 肩に打ち掛け

  伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて

  父母は 枕の方に 妻子どもは 足(あと)の方に

  囲み居て 憂へ吟(さまよ)ひ 竈には 火気(けぶり)吹き立てず

  甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて

  ぬえ鳥の のどよび居るに いとのきて 短き物を

  端切ると 云へるが如く 笞杖(しもと)執る 里長(さとをさ)が声は

  寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ 

  かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道(892)

短歌

  世間を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(893)

  富人の家の子どもの着る身なみ腐(くた)し捨つらむ絹綿らはも(900)

  荒布(あらたへ)の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべを無み

山上憶良頓首謹みて上る。(901)

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長歌は、貧者が別の貧者に語りかけるという構成をとっている。まず、(甲)の歌において、貧者が己の身の貧しさを歌い、その問いかけに応える形で、もっと貧しい貧者が、己の悲惨さを(乙)に歌う。もとより、この貧者たちは、億良その人とは無縁の、名もなき庶民たちであった。彼らの困窮を見かねた憶良がフィクションとして作り上げた人物像なのであろう。

まず、(甲)の歌では、「風雑り 雨降る夜の 雨雑り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ」と、リアルな表現の中に、貧者の生活ぶりが歌われる。この貧者はそれでも、「吾をおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば」と、いっぱしの自尊心は持っている。それでも、寒さには勝てないので、「布肩衣 ありのことごと」を引きかぶってひたすらこらえている。そして、世の中には、こんな自分よりもっと貧しい人がいるのかと、別の貧者を思いやるのである。

(乙)の歌では、別の貧者のもっと悲惨な暮らしぶりが歌われる。この貧者は、「天地は 広しといへど 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 吾が為は 照りやたまはぬ」と、世の中が自分にとってはいかにつらく厳しいかについて歌い始める。そして、「人皆か 吾のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 吾も作るを」と、不平等に満ちた世の中の不条理について嘆く。その暮らしは、「直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ 竈には 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて」というほど、言語を絶した貧しさである。こんな貧しい自分たちにも、税を取り立てる役人どもが、容赦なく襲い掛かってくる。彼らは、「いとのきて 短き物を 端切ると 云へるが如く」粗末な家に踏み込んできて、「笞杖執る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばふ」のである。

この歌は、人民の塗炭の苦しみと、それに襲い掛かる役人の非情を描いた杜甫の詩「石壕吏」を思い出させる。杜甫の詩では、老人までをも兵役に取ろうとする役人が、翁を逃がした老女をさらっていくさまが描かれていたが、ここでは、役人が鞭を振り上げながら、貧しい者から何もかもを取り立てようとするさまが描かれている。

短歌三首も、それぞれに窮迫した感じがよく現れている。

この歌の制作年代については、諸説あるが、恐らくは筑前国守時代の終わりか、辞任後のことだろうと思われる。いづれにせよ七十歳を超えての作である。これを憶良は高官に向かって提出した。

憶良は人生の最晩年に、地方長官として人民の生活にじかに接し、その困窮振りに心を動かされたのであろう。そこに、我々現代の読者は山上憶良という人のヒューマンな人柄を感じ取る。ほかの万葉歌人には決してみられないところである。しかも、地方長官の立場にありながら、人民の生活の悲惨さを詠んだ歌を朝廷の高官に提出することによって、その惨状を訴えようともしている。

もはや先のない人生ではあったろうが、燃え尽きるようにしてこのような行動に及んだ山上憶良とは、日本の歴史の中でも、希に見るスケールの人物だったといえよう。

🔵山上憶良は新元号・令和の典拠となった万葉集の大伴旅人邸での梅花をめでる宴に出席。新元号の歌の作者は不明だが、山上憶良・大伴旅人・または別人の誰かだといわれている(詳細は以下の岩波書店の解説参照)

🔴岩波文庫の校注者による,「令和」Q&A集!

令和という新元号に決定し、201941日(月曜日)に多くの人たちが衝撃を受けているが、その「令和」の出典、いわゆる元ネタが大きな注目を集めているので解説したい。

(中略) 

「初春の令月にして気淑く風和らぎ梅は鏡前の粉を披き蘭は珮後の香を薫らす」 

(中略) 

この和歌を書いたのは大伴旅人とも山上憶良ともいわれているが、他の人ともいわれており、歴史上作者不明となっている。しかしながら、この歌が発想された場は判明しており、天平2(730)正月13日に大宰府の長官ともいえる大宰帥の大伴旅人の家に集まり、梅を楽しんだ際に生まれたとされている。

(以下略) 

🔵岩波⽂庫『万葉集』の校注者(⼤⾕雅夫先⽣,⼭崎福之先⽣)監修の,読んで納得のQ&Aです。

Q:新しい元号の「令和」は、『万葉集』に由来するとか?

A:『万葉集』の巻五、「梅花の歌三十二首」に付けられた序に、

「時に、初春の令月(れいげつ)、気淑(うるは)しく風和(やは)らぐ」

とあるのが出典とされています。その意は、

「あたかも初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ」

ということになります。

(訓読と訳は、岩波文庫『万葉集(二)』より)

Q:「令和」ってどういう意味?

A:「令」は、「言いつける」「いましめる」「おきて」といった人を従わせる意と、「よい」「麗しい」「好ましい」といった相手を褒め讃える意と、対照的な二つの意味を持ちます。二文字の熟語の場合には、下に付くと「命令」「号令」「法令」「律令」などと従わせる意となり、上に付くと「令名」「令室」「令嬢」「令節」などと褒める意味になる傾向があります。一方、「和」は、「やわらぐ」「なごむ」「穏やか」、またそのありさまの意味です。「令和」という二字の熟語はないようですが、続けてみると、「麗しく穏やかである」「よいなごみの有様」といった意味に理解することができます。

Q:『万葉集』の「梅花の歌三十二首」ってなに? 

A:天平二年(西暦730年)正月十三日に、大宰府の長官(大宰帥(だざいのそち))の大伴旅人(おおとものたびと)が、自邸に人々を招き、庭園の梅花を鑑賞する宴を開きました。その参加者三十二人がひとり一首ずつ詠んだ歌三十二首で、すべてに「梅」の語が含まれています。

Q:序も和歌なの?

A:この三十二首の歌の前に置かれた「序」は、和歌ではなく漢文です。万葉集には和歌だけでなく漢文や漢詩も載せられています。ここは当時中国で美文の文体として知られた「四六騈儷体(しろくべんれいたい)」(四言、六言を基準とし対句を多用して記す文体)にならって書かれています。その原文を引くと、

「初春令月、気淑風和」

となります。

(岩波文庫『原文万葉集(上)』より)

Q:誰が書いたの?

A:三十二首の歌はそれぞれに作者の官名などが記されていますが、序文には署名がありません。ですから序文の作者が誰かはたしかには分からず、この宴に参加していた山上憶良(やまのうえのおくら)の作と推定する説も江戸時代からありました。序文でこの「梅花歌」の詠まれたのが「帥老(そちろう)の宅」と書かれ、その「老」が尊称なので作者は旅人以外(おそらく憶良)であろうという理解によるものでした。しかし、近代になって「老」の使い方についての研究が進み、必ずしも尊称とは限らず、自称とも考えられることが明らかとなりました。また「わが園に梅の花散る」(822番歌)という旅人の歌の作者名が「主人」と尊称なしに(つまり自称として)記されることから、宴の主人の大伴旅人のもとで歌が集められ、記録されたことが想像されます。おそらく、序文も旅人の作と見るべきでしょう。

Q:大伴旅人ってどんな人?

A:大伴氏は古来大和朝廷内で軍事的役割を担ってきた一族で、旅人の父安麻呂(やすまろ)は壬申の乱(672年)でも活躍しました。旅人は神亀五年(728)頃に大宰帥となりましたが、台頭する藤原氏によって都から追われた人事であったとも言われています。異母妹の坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は万葉集に最も多くの歌を残す女性歌人です。また嫡子の家持(やかもち)は四百五十首以上の歌を残し『万葉集』の最後の歌(巻二十・4516番歌)を歌った人物で、全二十巻の編者とも言われています。大宰府の置かれた筑紫では筑前守の山上憶良らと交わり、この「梅花の歌三十二首」の詠まれたその年の秋に大納言となって帰京し、翌年(731)亡くなりました。万葉集におよそ七十首の歌、漢文書簡などが採られているほか、当時の日本で作られた漢詩文を集めた『懐風藻(かいふうそう)』にも漢詩一首を残しています。

Q:漢籍を踏まえているって本当?

A:新日本古典文学大系『萬葉集(一)』のこの個所の語注に、

「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦」・文選十五」)とある」

と指摘されています。この指摘はすでに江戸時代初期の十七世紀末頃の学僧、契沖(けいちゅう)の著した『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』(『契沖全集(一)』小社刊、1973年、に収録)に見られます。また戦後の万葉集研究を牽引した学者の一人である澤瀉久孝の著した『万葉集注釈』(全二十巻、中央公論社、1957-)にもその説は引き継がれています。なお契沖はこの序の書き起こし方が、中国東晋時代の書聖、王羲之(おうぎし)の著した「蘭亭序(らんていじょ)」に倣ったものではないかと推測しています。

Q:張衡(ちょうこう)の「帰田(きでん)の賦(ふ)」って?

A:後漢の張衡が書いた「賦」(韻文の形式)の一つで、官職を辞して故郷に帰る思いを述べたものです。「令」「和」の出てくる個所は、岩波文庫『文選(もんぜん)詩篇(二)』では、「清和」という詩語の注にも引かれています。そこでの訓読は、

「仲春の令(よ)き月、時は和らぎ気は清し」。

張衡は、天文や暦数にも詳しく、渾天儀(天体観測器)や候風地動儀(地震計)を作成する一方、朝廷で太史令などとして仕えた後漢の前半を代表する学者・文人です。

 *「帰田賦」の全文は、新釈漢文体系86『文選(賦編)下』(明治書院)に掲載されています。岩波文庫『文選詩篇(五)』には張衡の「四愁詩四首」を収録。

Q:「梅花三十二首」にはどんな歌があるの?

A:春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ (山上憶良)

春になると最初に咲く庭の梅の花を、一人で見ながら春の日を過ごすものだろうか。(いや皆とともに梅花を楽しもう、という意味。)

わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも (主人の大伴旅人)

  私の庭に梅の花が散る。(ひさかたの)天から雪が流れて来るのだろうか。

(当時の梅は白梅。白梅の落花を雪に見立てる表現は漢詩に多い。)

🔴【大伴家持(おおとものやかもち)】

小学館百科全書

717718-785 

『万葉集』末期の代表歌人、官人。旅人(たびと)の子。少年時の727年(神亀4)ごろ父に伴われ大宰府(だざいふ)で生活し、730年(天平2)帰京。737年ごろ内舎人(うどねり)。745年(天平17)従(じゅ)五位下。翌3月宮内少輔(くないのしょうふ)。7月越中守(えっちゅうのかみ)として赴任した。751年(天平勝宝3)少納言(しょうなごん)となって帰京。754年兵部(ひょうぶ)少輔。さらに兵部大輔、右中弁を歴任したが、758年(天平宝字2)因幡守(いなばのかみ)に左降された。以後、信部大輔(しんぶたいふ)、薩摩守(さつまのかみ)、大宰少弐(しょうに)などを歴任。長い地方生活を経て770年(宝亀16月民部少輔、9月左中弁兼中務(ちゅうむ)大輔、10月、21年ぶりで正五位下に昇叙した。諸官を歴任して781年(天応14月右京大夫(うきょうのたいふ)兼春宮(とうぐう)大夫となり、785年(延暦44月中納言従三位(じゅさんみ)兼春宮大夫陸奥按察使(みちのくのあんさつし)鎮守府将軍とみえ、同年8月没。没時はおそらく任地多賀城(宮城県多賀城市)にいたと思われる。年68または69歳。名門大伴家の家名を挽回(ばんかい)しようとして政争に巻き込まれることが多く、官人としては晩年近くまで不遇で、死後も謀反事件に連座して806年(大同1)まで官の籍を除名されていた。

 作品は『万葉集』中もっとも多く、長歌46、短歌425(合作1首を含む)、旋頭歌(せどうか)1首、合計472首に上る。ほかに漢詩1首、詩序形式の書簡文などがある。作歌活動は、732年ごろから因幡守として赴任した翌年の759年までの28年間にわたるが、3期に区分される。第1期は746年越中守となるまでの習作時代で、恋愛歌、自然詠が中心をなす。のちに妻となった坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)をはじめ、笠女郎(かさのいらつめ)、紀女郎(きのいらつめ)らとの多彩な女性関係と、早くも後年の優美、繊細な自然把握がみられる。第2期は越中守時代の5年間で、期間は短いが、望郷の念を底に秘めつつ、異境の風物に接し、下僚大伴池主(いけぬし)との親密な交遊を通し、さらには国守としての自覚にたって、精神的にもっとも充実した多作の時代である。第3期は帰京後から因幡守となるまでで、作品数は少なく宴歌が多いが、万葉の叙情の深まった極致ともいうべき独自の歌境を樹立した。『万葉集』の編纂(へんさん)に大きく関与し、第3期の兵部少輔時代の防人歌(さきもりうた)の収集も彼の功績である。長い万葉和歌史を自覚的に受け止めて学ぶとともにこれを進め、比類のない優美・繊細な歌境を開拓するが、この美意識および自然観照の態度などは、平安時代和歌の先駆をなす点が少なくない。

ふり放(さ)けて三日月見れば一目見し人の眉引(まよびき)思ほゆるかも(第1期)

うらうらに照れる春日に雲雀(ひばり)あがりこころ悲しも独りし思へば(第3期)

玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり

(巻173987・大伴家持)

二上山に鳴くホトトギスの、声の恋しい季節がやってきた。

渋谿(しぶたに)の 二上山に 鷲(わし) 子産(こむ)といふ 指羽(さしは)にも 君がみために 鷲そ子産といふ

(巻163882・越中国歌)

渋谿の二上山で、鷲が子を生むという。さしはに使ってもらって、 あなたのお役に立とうと、鷲が子を生むという。

石瀬野いはせのに 秋萩あきはぎしのぎ  馬並うまなめて 初鳥狩はつとかりだにせずや別れむ

(巻194249・大伴家持)

石瀬野に秋萩を踏みしだきながら馬を並べてする、

今年初めての鷹狩りさえせずに別れることでしょうか。

朝床(あさとこ)に 聞けば遥(はる)けし 射水河(いみづかは)朝漕(あさこ)ぎしつつ 唱(うた)ふ舟人(ふなびと)(巻194150・大伴家持)

朝の寝床で聞いていると、遥かに射水川を、朝早く舟を漕ぎながら、舟人がうたっているよ。

天離あまざかる 鄙ひなに名かかす 越こし の中 国内くぬちことごと 山はしも 繁しじにあれども 川はしも  多さはには行けど 皇神すめかみの うしはきいます  新川にひかはの その立山に 常夏 とこなつに 雪降り敷きて……(巻1740000・大伴家持)

地方の国で名高い、越中の国じゅうに、山はかずかずあるけれども、川はたくさん流れているけれども、土地の神様が支配していらっしゃいます、新川郡のあの立山に常に雪があり……

馬並()めて いざ打ち行かな 渋谿(しぶたに)   清き磯廻(いそま)に 寄する波見に(巻173954・大伴家持)

渋谿の 崎の荒磯に 寄する波 いやしくしくに 古(いにしへ)思ほゆ

(巻193986・大伴家持)

1首目・馬を並べてさあ出かけようじゃないか。渋谿(現雨晴海岸)の清らかな磯に打ち寄せているその波を見るために。

2首目・渋谿の崎(現雨晴海岸)の荒磯に、寄せる波のように、なおもしきりに、昔が思われる。

もののふの 八十娘子やそをとめらが 汲くみまがふ  寺井てらゐの上の 堅香子かたかごの花

(巻194143・大伴家持)

おおぜいのおとめたちが、入り乱れて水を汲む、寺井のほとりの、かたくりの花よ。

磯の上の つままを見れば 根を延はへて 年深としふかからし  神さびにけり(巻194159・大伴家持)

磯の上に立つつままを見ると、根を岩にしっかりおろしていて、何年も年を経ているらしい。なんと神々しいことか。

雄神川をかみがは 紅くれなゐにほふ 少女をとめらし葦付あしつき取ると 瀬に立たすらし(巻174021・大伴家持)

雄神川の川面に紅の色が映えて匂うように美しい。

娘たちが葦付を取ろうと瀬に立っているらしい。

あゆの風 いたく吹くらし 奈呉(なご)の海人(あま)  釣する小舟(をぶね) 漕()ぎ隠る見ゆ(巻174017・大伴家持)

東風が激しく吹いているらしい。奈呉の海人の釣りする小舟が、波の間に漕いでいるのが見え隠れしている。

英遠(あを)の浦に 寄する白波 いや増しに 立ちしき寄せ来  東風(あゆ)をいたみかも(巻184093・大伴家持)

阿尾の浦に寄せる白波が、だんだん増してしきりに押し寄せてくる。東風が激しいからであろうか。

明日の日の 布勢の浦廻(うらみ)の 藤波ふぢなみに  けだし来鳴かず 散らしてむかも(巻184043・大伴家持)

明日という日は、布勢の浦辺の藤の花に、もしやほととぎすは来て鳴かず、むなしく散らしてしまうのではないか。

しなざかる 越に五年(いつとせ) 住み住みて 立ち別れまく 惜しき夕かも(巻194250・大伴家持)

遠く離れた越の国(越中)に五年間住み続けて、今こうして別れなければならないことの、なんと惜しい宵であることか。

0403: 朝に日に見まく欲りするその玉をいかにせばかも手ゆ離れずあらむ

0408: なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ

0414: あしひきの岩根こごしみ菅の根を引かばかたみと標のみぞ結ふ

0462: 今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜を寝む

0463: 長き夜をひとりや寝むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに

0464: 秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも

0465: うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも

0466: 我がやどに花ぞ咲きたるそを見れど…….(長歌)

0467: 時はしもいつもあらむを心痛くい行く我妹かみどり子を置きて

0468: 出でて行く道知らませばあらかじめ妹を留めむ関も置かましを

0469: 妹が見しやどに花咲き時は経ぬ我が泣く涙いまだ干なくに

0470: かくのみにありけるものを妹も我れも千年のごとく頼みたりけり

0471: 家離りいます我妹を留めかね山隠しつれ心どもなし

0472: 世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍びかねつも

0743: 我が恋は千引の石を七ばかり首に懸けむも神のまにまに

0744: 夕さらば屋戸開け設けて我れ待たむ夢に相見に来むといふ人を

0745: 朝夕に見む時さへや我妹子が見れど見ぬごとなほ恋しけむ

0765: 一重山へなれるものを月夜よみ門に出で立ち妹か待つらむ

0766: 道遠み来じとは知れるものからにしかぞ待つらむ君が目を欲り

0767: 都路を遠みか妹がこのころはうけひて寝れど夢に見え来ぬ

0768: 今知らす久迩の都に妹に逢はず久しくなりぬ行きて早見な

0769: ひさかたの雨の降る日をただ独り山辺に居ればいぶせかりけり

0770: 人目多み逢はなくのみぞ心さへ妹を忘れて我が思はなくに

0771: 偽りも似つきてぞするうつしくもまこと我妹子我れに恋ひめや

0772: 夢にだに見えむと我れはほどけども相し思はねばうべ見えずあらむ

0773: 言とはぬ木すらあじさゐ諸弟らが練りのむらとにあざむかえけり

0774: 百千たび恋ふと言ふとも諸弟らが練りのことばは我れは頼まじ

0775: 鶉鳴く古りにし里ゆ思へども何ぞも妹に逢ふよしもなき

0788: うら若み花咲きかたき梅を植ゑて人の言繁み思ひぞ我がする

0790: 春風の音にし出なばありさりて今ならずとも君がまにまに

1037: 今造る久迩の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし

1446: 春の野にあさる雉の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ

1462: 我が君に戯奴は恋ふらし賜りたる茅花を食めどいや痩せに痩す

1477: 卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥佐保の山辺に来鳴き響もす

1489: 我が宿の花橘は散り過ぎて玉に貫くべく実になりにけり

1510: なでしこは咲きて散りぬと人は言へど我が標めし野の花にあらめやも

1567: 雲隠り鳴くなる雁の行きて居む秋田の穂立繁くし思ほゆ

1591: 黄葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか

1598: さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露

1640: 我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも

1572: 我が宿の尾花が上の白露を消たずて玉に貫くものにもが

1632: あしひきの山辺に居りて秋風の日に異に吹けば妹をしぞ思ふ

3969: 大君の任けのまにまにしなざかる…….(長歌)

3965: 春の花今は盛りににほふらむ折りてかざさむ手力もがも

3966: 鴬の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折りかざさむ

3970: あしひきの山桜花一目だに君とし見てば我れ恋ひめやも

3971: 山吹の茂み飛び潜く鴬の声を聞くらむ君は羨しも

3982: 春花のうつろふまでに相見ねば月日数みつつ妹待つらむぞ

4091: 卯の花のともにし鳴けば霍公鳥いやめづらしも名告り鳴くなへ

4113: 大君の遠の朝廷と任きたまふ官のまに…….(長歌)

4115: さ百合花ゆりも逢はむと下延ふる心しなくは今日も経めやも

4122: 天皇の敷きます国の天の下四方の道には…….(長歌)

4123: この見ゆる雲ほびこりてとの曇り雨も降らぬか心足らひに

4136: あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ

4148: 杉の野にさ躍る雉いちしろく音にしも泣かむ隠り妻かも

4151: 今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり

4185: うつせみは恋を繁みと春まけて思ひ繁けば…….(長歌)

4191: 鵜川立ち取らさむ鮎のしがはたは我れにかき向け思ひし思はば

4193: 霍公鳥鳴く羽触れにも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花

4217: 卯の花を腐す長雨の始水に寄る木屑なす寄らむ子もがも

4223: あをによし奈良人見むと我が背子が標けむ黄葉地に落ちめやも

4225: あしひきの山の黄葉にしづくあひて散らむ山道を君が越えまく

4226: この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む

4253: 立ちて居て待てど待ちかね出でて来し君にここに逢ひかざしつる萩

4292: うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば

4303: 我が背子が宿の山吹咲きてあらばやまず通はむいや年の端に

4304: 山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年にもがも

4305: 木の暗の茂き峰の上を霍公鳥鳴きて越ゆなり今し来らしも

🔴【大伴旅人】

おおとものたびと

小学館百科全書

665-731 

『万葉集』中期の代表歌人、官人。父は安麻呂(やすまろ)、母は巨勢郎女(こせのいらつめ)か(石川内命婦(ないみょうぶ)とする一説もある)。同じく万葉歌人の大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は妹で、家持(やかもち)は嫡子である。710年(和銅3)左将軍正五位上となり、718年(養老2)中納言(ちゅうなごん)、720年征隼人持節(せいはやとじせつ)大将軍に任ぜられ、隼人を鎮圧した。727年(神亀4)ごろ大宰帥(だざいのそち)として九州に下り、730年(天平212月大納言(だいなごん)となって帰京。翌年従(じゅ)二位となり、その年7月に没した。年67歳。長歌1、短歌76首(異説もある)、ほかに若干の書簡や散文があり、『懐風藻』に詩1首をとどめる。歌は、長歌1首とその反歌1首のほかは、すべて大宰府へ下ってからの作で、晩年に集中する。下向直後の愛妻の死去、筑前守(ちくぜんのかみ)在任中の山上憶良(やまのうえのおくら)との交遊、藤原氏の政治的圧迫に対する憂愁、老齢の地方生活による寂寥(せきりょう)などが作歌へ駆り立てた背景にあろう。みずみずしい哀切の情をすなおに吐露した亡妻挽歌(ばんか)、偽らざる人間の嘆きを託した望郷歌、一読洒脱(しゃだつ)ななかに人生の憂悶(ゆうもん)を歌った酒をたたえる歌などのほか、神仙思想や老荘思想に基づく虚構的作品もある。一級の知識人で、名門大伴氏の長らしく、のびやかで気品ある詠風が特色である。

[橋本達雄] 

 世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり 

太宰帥大伴の卿の酒を讃めたまふ歌十三首(338)

(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあらし(339)

酒の名を聖(ひじり)と負ほせし古の大き聖の言の宣しさ(340)

古の七の賢(さか)しき人たちも欲()りせし物は酒にしあらし(341)

賢しみと物言はむよは酒飲みて酔哭(ゑひなき)するし勝りたるらし(342)

言はむすべ為むすべ知らに極りて貴き物は酒にしあらし(343)

中々に人とあらずは酒壷(さかつぼ)に成りてしかも酒に染みなむ(344)

あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む(345)

(あたひ)なき宝といふとも一坏の濁れる酒に豈(あに)勝らめや(346)

夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るに豈及()かめやも(347)

世間(よのなか)の遊びの道に洽(あまね)きは酔哭するにありぬべからし(348)

今代(このよ)にし楽しくあらば来生(こむよ)には虫に鳥にも吾は成りなむ(349)

生まるれば遂にも死ぬるものにあれば今生なる間は楽しくを有らな(350)

黙然(もだ)居りて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ及かずけり(351)

天平二年庚午冬十二月太宰帥大伴の卿の京に向きて上道する時によみたまへる歌五首

我妹子が見し鞆之浦の天木香樹(むろのき)は常世にあれど見し人ぞなき(446)

鞆之浦の磯の杜松(むろのき)見むごとに相見し妹は忘らえめやも(447)

磯の上()に根延()ふ室の木見し人をいかなりと問はば語り告げむか(448)

ー右ノ三首ハ、鞆浦ヲ過ル日ニ作メル歌。

妹と来し敏馬の崎を帰るさに独りし見れば涙ぐましも(449)

行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも(450)

ー右ノ二首ハ、敏馬埼ヲ過ル日ニ作メル歌。

故郷の家に還入(かへ)りて即ちよみたまへる歌三首

人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり(451)

妹として二人作りし吾()が山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも(452)

我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽()せつつ涙し流る(453)

0315: み吉野の吉野の宮は山からし貴くあらし…….(長歌)

0316: 昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも

0331: 我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ

0332: 我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため

0333: 浅茅原つばらつばらにもの思へば古りにし里し思ほゆるかも

0334: 忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため

0335: 我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵にありこそ

0338: 験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし

0339: 酒の名を聖と負ほせしいにしへの大き聖の言の宣しさ

0340: いにしへの七の賢しき人たちも欲りせしものは酒にしあるらし

0341: 賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし

0342: 言はむすべ為むすべ知らず極まりて貴きものは酒にしあるらし

0343: なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ

0344: あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む

0345: 価なき宝といふとも一杯の濁れる酒にあにまさめやも

0346: 夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るにあにしかめやも

0347: 世間の遊びの道に楽しきは酔ひ泣きするにあるべくあるらし

0348: この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我れはなりなむ

0349: 生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな

0350: 黙居りて賢しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほしかずけり

0438: 愛しき人のまきてし敷栲の我が手枕をまく人あらめや

0439: 帰るべく時はなりけり都にて誰が手本をか我が枕かむ

0440: 都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし

0446: 我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき

0447: 鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも

0448: 礒の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか

0449: 妹と来し敏馬の崎を帰るさにひとりし見れば涙ぐましも

0450: 行くさにはふたり我が見しこの崎をひとり過ぐれば心悲しも

0451: 人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり

0452: 妹としてふたり作りし我が山斎は木高く茂くなりにけるかも

0453: 我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る

0555: 君がため醸みし待酒安の野にひとりや飲まむ友なしにして

0574: ここにありて筑紫やいづち白雲のたなびく山の方にしあるらし

0577: 我が衣人にな着せそ網引する難波壮士の手には触るとも

0793: 世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

0806: 龍の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来むため

0807: うつつには逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ

0810: いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ

0811: 言とはぬ木にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし

0822: 我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

0847: 我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまた変若めやも

0848: 雲に飛ぶ薬食むよは都見ばいやしき我が身また変若ぬべし

0849: 残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも

0850: 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも

0851: 我がやどに盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも

0852: 梅の花夢に語らくみやびたる花と我れ思ふ酒に浮かべこそ

0853: あさりする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人の子と

0854: 玉島のこの川上に家はあれど君をやさしみあらはさずありき

0855: 松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ

0856: 松浦なる玉島川に鮎釣ると立たせる子らが家道知らずも

0857: 遠つ人松浦の川に若鮎釣る妹が手本を我れこそ卷かめ

0858: 若鮎釣る松浦の川の川なみの並にし思はば我れ恋ひめやも

0859: 春されば我家の里の川門には鮎子さ走る君待ちがてに

0860: 松浦川七瀬の淀は淀むとも我れは淀まず君をし待たむ

0861: 松浦川川の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ

0862: 人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我れは恋ひつつ居らむ

0863: 松浦川玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨しさ

0871: 遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名

0956: やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ

0957: いざ子ども香椎の潟に白栲の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ

0960: 隼人の瀬戸の巌も鮎走る吉野の瀧になほしかずけり

0961: 湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く

0967: 大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも

0968: ますらをと思へる我れや水茎の水城の上に涙拭はむ

0969: しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ

0970: 指進の栗栖の小野の萩の花散らむ時にし行きて手向けむ

1473: 橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多き

1541: 我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿

1542: 我が岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも

1639: 沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも

1640: 我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも

🔴【武市黒人】

14.11.14赤旗より)

🔴【防人の歌】

防人(さきもり)は、筑紫(ちくし)・壱岐(いき)・対馬(つしま)などの北九州の防衛にあたった兵士たちのことです。崎守(さきもり)の意味(ただし、色々な説があるそうです)だと考えられています。

664年に中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が防人と烽(ほう:烽火(のろし))の制度をおいてからのことです。これは、前年(663)の朝鮮半島での白村江(はくすきのえ)の戦いに負けたために、防衛のために考えられたようです。

防人(さきもり)の選定、任期、辛い旅

防人には東国の人たちが選ばれました。なぜ東国の人たちが選ばれたかは良く分かっていませんが、一説には東国の力を弱めるためとも言われています。任期は、3年で毎年2月に兵員の三分の一が交替とのことですが、実際にはそう簡単には国に帰してはもらえなかったようです。

東国から行くときは部領使(ぶりょうし)という役割の人が連れて行きます。もちろん徒歩(ラッキーなときは船)で北九州まで行くわけですが、当時の人たちにとって辛い旅だったことは間違いありません。また、帰りは、なんと、自費なのです。ですから、帰りたくても帰ることができない人がいました。また、無理して帰路についても、故郷の家を見ること無く、途中で行き倒れとなる人たちもいたのです。

防人(さきもり)の歌

万葉集の中で、防人の歌が最も整理されているのが、二十巻です。大伴家持(おおとものやかもち)が、防人関係の仕事をする兵部省(ひょうぶしょう)のお役人だったとき天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7 (755)に、東国の国々から防人の歌を集めさせたものです。集まった歌は166首でしたが、家持が選んで84首を万葉集に残しました。このときは、すでに防人の制度が始まってから、100年近くが経過しています。それ以前の歌はどうしたのでしょうか。

歌のほとんどは、家族と離れ離れになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちを読んだものなのです。

🔵防人の歌にみる庶民の嘆き(赤旗21.2.24)

◆小学館百科全書解説=防人歌=さきもりうた

防人のつくった歌の意だが、防人の家族のつくった歌も含めていう。『万葉集』に東国の防人の歌87首、父の歌1首、妻の歌10首、合計98首(長歌1首、短歌97首)が残る。このなかには、755年(天平勝宝72月に筑紫(つくし)(福岡県)に赴く防人を難波(なにわ)(大阪府)まで引率してきた防人部領使(さきもりのことりづかい)から、当時防人検閲の任にあった大伴家持(おおとものやかもち)が集録した歌が84首ある。これらは東国10国の国別にまとめられ作者名が記されている(防人の出身郡・地位が記されている国もある)。ほかに、同じときに磐余諸君(いわれのもろきみ)が大伴家持に贈った「昔年防人歌」8首や大原今城(いまき)が宴席で披露した「昔年相替防人歌」1首などもあるが、前記の84首以外はすべて作歌年次・作者名ともに不明。防人の歌の大部分は、生存の原点としての家郷から切り離された苦悩、原点への回帰の願望、家族への思い、また家郷から引き裂かれる将来への不安・恐怖などが生々しく歌われている。「我(わ)ろ旅は旅と思(おめ)ほど家(いひ)にして子持(め)ち痩(や)すらむ我が妻愛(みかな)しも」(巻20)はその好例の一つ。防人の家族の歌も「防人に行くは誰(た)が夫(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思ひもせず」(巻20)のように、夫を送り出さざるをえない妻の深く重い苦しみが詠出されている。総じて防人歌には、貴族の旅の歌とは同列に論じられない、生存の危機に立ち至った者の叫びが歌われていて、奈良時代の庶民の歌としても、また東国方言を提供する言語資料としても東歌(あずまうた)とともに貴重な存在である。

0329: やすみしし我が大君の敷きませる国の中には都し思ほゆ(大伴四綱)

0330: 藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君(大伴四綱)

1265: 今年行く新防人が麻衣肩のまよひは誰れか取り見む(古歌集より)

1266: 大船を荒海に漕ぎ出でや船たけ我が見し子らがまみはしるしも(古歌集より)

3344: この月は君来まさむと大船の思ひ頼みていつしかと…….(長歌)(防人妻)

3345: 葦辺行く雁の翼を見るごとに君が帯ばしし投矢し思ほゆ(防人妻)

3427: 筑紫なるにほふ子ゆゑに陸奥の可刀利娘子の結ひし紐解く(不明)

3480: 大君の命畏み愛し妹が手枕離れ夜立ち来のかも(不明)

3516: 対馬の嶺は下雲あらなふ可牟の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも(不明)

3567: 置きて行かば妹はま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも(不明)

3568: 後れ居て恋ひば苦しも朝猟の君が弓にもならましものを(不明)

3569: 防人に立ちし朝開の金戸出にたばなれ惜しみ泣きし子らはも(不明)

3570: 葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕し汝をば偲はむ(不明)

3571: 己妻を人の里に置きおほほしく見つつぞ来ぬるこの道の間(不明)

4321: 畏きや命被り明日ゆりや草がむた寝む妹なしにして(物部秋持)

4322: 我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず(若倭部身麻呂)

4323: 時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ(丈部真麻呂)

4324: 遠江志留波の礒と尓閇の浦と合ひてしあらば言も通はむ(丈部川相)

4325: 父母も花にもがもや草枕旅は行くとも捧ごて行かむ(丈部黒當)

4326: 父母が殿の後方のももよ草百代いでませ我が来るまで(生玉部足國)

4327: 我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ(物部古麻呂)

4328: 大君の命畏み磯に触り海原渡る父母を置きて(丈部人麻呂)

4329: 八十国は難波に集ひ船かざり我がせむ日ろを見も人もがも(丹比部國足)

4330: 難波津に装ひ装ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに(丸子多麻呂)

4331: 大君の遠の朝廷としらぬひ筑紫の国は敵守る…….(長歌)(大伴家持)

4332: 大夫の靫取り負ひて出でて行けば別れを惜しみ嘆きけむ妻(大伴家持)

4333: 鶏が鳴く東壮士の妻別れ悲しくありけむ年の緒長み(大伴家持)

4334: 海原を遠く渡りて年経とも子らが結べる紐解くなゆめ(大伴家持)

4335: 今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね(大伴家持)

4336: 防人の堀江漕ぎ出る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ(大伴家持)

4337: 水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき(有度部牛麻呂)

4338: 畳薦牟良自が礒の離磯の母を離れて行くが悲しさ(生部道麻呂)

4339: 国廻るあとりかまけり行き廻り帰り来までに斎ひて待たね(刑部虫麻呂)

4340: 父母え斎ひて待たね筑紫なる水漬く白玉取りて来までに(川原虫麻呂)

4341: 橘の美袁利の里に父を置きて道の長道は行きかてのかも(丈部足麻呂)

4342: 真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず(坂田部

4342: 真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず(坂田部首麻呂)

4343: 我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも(玉作部廣目)

4344: 忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも(商長首麻呂)

4345: 我妹子と二人我が見しうち寄する駿河の嶺らは恋しくめあるか(春日部麻呂)

4346: 父母が頭掻き撫で幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる(丈部稲麻呂)

4347: 家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも(日下部三中父)

4348: たらちねの母を別れてまこと我れ旅の仮廬に安く寝むかも(日下部三中)

4370: 霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我れは来にしを(大舎人部千文)

4371: 橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも(占部廣方)

4372: 足柄のみ坂給はり返り見ず我れは越え行く…….(長歌)(倭文部可良麻呂)

4373: 今日よりは返り見なくて大君の醜の御楯と出で立つ我れは(今奉部与曽布)

4374: 天地の神を祈りて猟矢貫き筑紫の島を指して行く我れは(大田部荒耳)

4375: 松の木の並みたる見れば家人の我れを見送ると立たりしもころ(物部真嶋)

4376: 旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ(川上老)

4377: 母刀自も玉にもがもや戴きてみづらの中に合へ巻かまくも(津守小黒栖)

4378: 月日やは過ぐは行けども母父が玉の姿は忘れせなふも(中臣部足國)

4379: 白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度袖振る(大舎人部祢麻呂)

4380: 難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく(大田部三成)

4381: 国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし(神麻續部嶋麻呂)

4382: ふたほがみ悪しけ人なりあたゆまひ我がする時に防人にさす(大伴部廣成)

4384: 暁のかはたれ時に島蔭を漕ぎ去し船のたづき知らずも(他田日奉得大理)

4385: 行こ先に波なとゑらひ後方には子をと妻をと置きてとも来ぬ(私部石嶋)

4386: 我が門の五本柳いつもいつも母が恋すす業りましつしも(矢作部真長)

4387: 千葉の野の児手柏のほほまれどあやに愛しみ置きて誰が来ぬ(大田部足人)

4388: 旅とへど真旅になりぬ家の妹が着せし衣に垢付きにかり(占部虫麻呂)

4389: 潮舟の舳越そ白波にはしくも負ふせたまほか思はへなくに(丈部大麻呂)

4390: 群玉の枢にくぎさし堅めとし妹が心は動くなめかも(刑部志可麻呂)

4391: 国々の社の神に幣奉り贖乞ひすなむ妹が愛しさ(忍海部五百麻呂)

4392: 天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ(大伴部麻与佐)

4393: 大君の命にされば父母を斎瓮と置きて参ゐ出来にしを(雀部廣嶋)

4394: 大君の命畏み弓の共さ寝かわたらむ長けこの夜を(大伴部子羊)

4398: 大君の命畏み妻別れ悲しくはあれど大夫の…….(長歌)(大伴家持)

4399: 海原に霞たなびき鶴が音の悲しき宵は国辺し思ほゆ(大伴家持)

4400: 家思ふと寐を寝ず居れば鶴が鳴く葦辺も見えず春の霞に(大伴家持)

4401: 唐衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来のや母なしにして(他田舎人大嶋)

4402: ちはやぶる神の御坂に幣奉り斎ふ命は母父がため(神人部子忍男)

4403: 大君の命畏み青雲のとのびく山を越よて来ぬかむ(小長谷部笠麻呂)

4404: 難波道を行きて来までと我妹子が付けし紐が緒絶えにけるかも(上毛野牛甘)

4405: 我が妹子が偲ひにせよと付けし紐糸になるとも我は解かじとよ(朝倉益人)

4406: 我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまくも(大伴部節麻呂)

4407: ひな曇り碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも(他田部子磐前)

4408: 大君の任けのまにまに島守に我が立ち来れば…….(長歌)(大伴家持)

4409: 家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね(大伴家持)

4410: み空行く雲も使と人は言へど家づと遣らむたづき知らずも(大伴家持)

4411: 家づとに貝ぞ拾へる浜波はいやしくしくに高く寄すれど(大伴家持)

4412: 島蔭に我が船泊てて告げ遣らむ使を無みや恋ひつつ行かむ(大伴家持)

4413: 枕太刀腰に取り佩きま愛しき背ろが罷き来む月の知らなく(桧前舎人石前妻:大伴部真足女)

4414: 大君の命畏み愛しけ真子が手離り島伝ひ行く(大伴部小歳)

4415: 白玉を手に取り持して見るのすも家なる妹をまた見てももや(物部歳徳)

4416: 草枕旅行く背なが丸寝せば家なる我れは紐解かず寝む(妻椋椅部刀自賣)

4417: 赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ(椋椅部荒虫妻:宇遅部黒女)

4418: わが門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな土に落ちもかも(物部廣足)

4419: 家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも(物部真根)

4420: 草枕旅の丸寝の紐絶えば我が手と付けろこれの針持し(椋椅部弟女)

4421: 我が行きの息づくしかば足柄の峰延ほ雲を見とと偲はね(服部於由)

4422: 我が背なを筑紫へ遣りて愛しみ帯は解かななあやにかも寝も(妻服部呰女)

4423: 足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも(藤原部等母麻呂)

4424: 色深く背なが衣は染めましをみ坂給らばまさやかに見む(妻物部刀自賣)

4425: 防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず(不明)

4426: 天地の神に幣置き斎ひつついませ我が背な我れをし思はば(不明)

4427: 家の妹ろ我を偲ふらし真結ひに結ひし紐の解くらく思へば(不明)

4428: 我が背なを筑紫は遣りて愛しみえひは解かななあやにかも寝む(不明)

4429: 馬屋なる縄立つ駒の後るがへ妹が言ひしを置きて悲しも(不明)

4430: 荒し男のいをさ手挟み向ひ立ちかなるましづみ出でてと我が来る(不明)

4431: 小竹が葉のさやく霜夜に七重かる衣に増せる子ろが肌はも(不明)

4432: 障へなへぬ命にあれば愛し妹が手枕離れあやに悲しも(不明)

4433: 朝な朝な上がるひばりになりてしか都に行きて早帰り来む(安倍沙美麻呂)

4434: ひばり上がる春へとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく(大伴家持)

4435: ふふめりし花の初めに来し我れや散りなむ後に都へ行かむ(大伴家持)

4436: 闇の夜の行く先知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らはも(不明)

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🔵万葉集リンク集

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額田王

★★万葉集への招待計180m

🔷日めくり万葉集(1)

https://drive.google.com/file/d/1iq8OuOpZltAvfR2Gqqd-nkTASwCVhOxr/view?usp=drivesdk

🔷日めくり万葉集(2)

https://drive.google.com/file/d/1_HbpSbhWScgd2la13SmpGs01cDsSZYX6/view?usp=drivesdk

 ★★歴史秘話=万葉集 ~なぜ日本人は歌が好き?~

43m – FC2

★★100分de名著・万葉集

「万葉集」

現存する中では日本最古の和歌集「万葉集」。2014年度最初の「100 de名著」では、日本人の心の原点を探るために、この万葉集を取りあげます。

万葉集の中で最も多いのが57577の短歌です。中には5と7を長く繰り返す長歌もありますが、全てが57調です。和歌は宴などで声に出して披露されるものでした。そのため声の出しやすさから、自然に57調が定まったと考えられています。

万葉集は、様々な時代に詠まれた歌を、後になって集めて編集したものです。そのため時代によって、歌の作風が大きく変わります。そこで今回は、万葉集の歌を、時代ごとに4期に分類して解説することにしました。歌の変化を明らかにすることで、古代の日本が、どのように移り変わっていったかを知ることが出来るからです。

番組では、額田王、柿本人麻呂、大友家持など、万葉集の代表的な歌人にスポットをあてながら、古代の人々の心の歴史を読み解いていきます。

❶言霊の宿る歌

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最も古い、万葉集第1期に作られた歌の詠み手は天皇や皇族たちだ。野で女に語りかけ雄略天皇、朝鮮半島に向かう兵を鼓舞した額田王の歌などが有名だ。実はこうした歌が作られた背景には、言霊(ことだま)の存在がある。言霊とは、言葉に宿られた不思議な力のこと。古代の日本の人々は、言葉に対して特別な感情を抱いていたのだ。第1回では、万葉集の全体像をおさえると共に、古代の人々が歌にこめた思いを明らかにする。

❷宮廷歌人

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第2期では、第1期で詠み手となっていた皇族に代わって、柿本人麻呂などの宮廷歌人が活躍し始める。宮廷歌人とは、儀式などで歌を詠んだいわばプロの詠み手のことだ。彼らは天皇を神として賛美する歌を数多く残した。しかしなぜこの時代に、天皇が神としてたたえられたのだろうか?その背景には、国家の中央集権化という大きな時代の変化があった。第2回では、宮廷歌人たちの歌を通して、古代日本の歴史のうねりを描く。

❸個性の開花

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第3期では、個性的な宮廷歌人が続々と登場する。この時代は、個人としての意識が強くなった時代だった。そのため、人間の内面や他人への共感に重きをおく作品が多くなった。代表的な歌人としては、田子の浦の富士を歌にした山部赤人、亡き妻への思いを読んだ大伴旅人、庶民の厳しい暮らしを描写した山上憶良などが有名だ。第3回では、万葉集第3期の作品から、人間の心や社会の現実を鋭く見つめた歌を味わう。

❹独りを見つめる大伴家持

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第4期では、民衆が作った歌が急増する。その1つが東国の人々による方言を交えて詠まれた「東歌」だ。また九州防衛の任務を担った防人に徴用され、家族と別れを嘆いた「防人歌」も有名だ。こうした万葉集を、中心になってまとめたのは、大伴家持だった。繊細な感覚を持っていた家持は、憂いのこもった歌を数多く残している。第4回では、家持の歌に込めた心情を推理しながら、世の不条理と闘いながら懸命に生きる人々を描く。

(以下の2つの文献は、スマホの場合=画像クリック→最初のページのみ→エラー表示画面の上部の下向き矢印マークを強くクリック→全ページ表示)

🔵英雄たちの選択・万葉集を編集した大伴家持

🔵歴史鑑定・万葉集に隠された古代史

◆◆尾崎=万葉集選釈(万葉集の有名な340の歌解釈)

◆◆清川妙=万葉集恋うた

◆◆斎藤茂吉=万葉秀歌(青空文庫)

http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/5082_32224.html

◆◆0101新日本新書・阪下=万葉集・東歌・防人歌.pdf

★万葉集 7.34m

★大伴家持4m

★大伴旅人4m

★額田王4m

★万葉集・波(1)10m

http://m.youtube.com/watch?v=HAjKOMNc1xw

★万葉集・波(2)10m

http://m.youtube.com/watch?v=ewohqMyuRqA

★万葉集講義

50m

(1)http://m.youtube.com/watch?v=ww9cK8Qn1mg

(2)http://m.youtube.com/watch?v=Q-LVXgGoGgA

(3)http://m.youtube.com/watch?v=1PEmz3QXkUg

◆◆万葉集の最初の歌(雄略天皇)と最後の歌(大伴家持)

★【朗読】 万葉集 防人の歌9m

★【朗読】 万葉集 富士山の歌15m

100de名著 万葉集No.1のみ

25m

(1)http://m.youtube.com/watch?v=JHP1cImHbSI

(2)http://m.youtube.com/watch?v=lzo2dj07HbU

★万葉集・山部赤人講義(12回計100m)

◆万葉集リンク集

★★歴史秘話=万葉集 ~なぜ日本人は歌が好き?~

43m – FC2

(以下の2つの文献は、スマホの場合=画像クリック上部の下向き矢印マークを強くクリック全ページ表示)

◆◆尾崎=万葉集選釈(万葉集の有名な340の歌解釈)

◆◆清川妙=万葉集恋うた

◆◆斎藤茂吉=万葉秀歌(青空文庫)

http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/5082_32224.html

★万葉集 7.34m

★大伴家持4m

★大伴旅人4m

★額田王4m

★万葉集・波(1)10m

http://m.youtube.com/watch?v=HAjKOMNc1xw

★万葉集・波(2)10m

http://m.youtube.com/watch?v=ewohqMyuRqA

★万葉集講義

50m

(1)http://m.youtube.com/watch?v=ww9cK8Qn1mg

(2)http://m.youtube.com/watch?v=Q-LVXgGoGgA

(3)http://m.youtube.com/watch?v=1PEmz3QXkUg

★【朗読】 万葉集 防人の歌9m

★【朗読】 万葉集 富士山の歌15m

100de名著 万葉集No.1のみ

25m

(1)http://m.youtube.com/watch?v=JHP1cImHbSI

(2)http://m.youtube.com/watch?v=lzo2dj07HbU

★万葉集・山部赤人講義(12回計100m)

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🔷🔷新元号・令和と万葉集メモ

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🔷書評・品田=万葉ポピュリズムを斬る(赤旗20.12.06)


🔴❶新元号・令和の典拠としての万葉集

🔵(いちからわかる!)「令和」の出典、「万葉集」ってなあに?2019412日朝日新聞

 現存最古の歌集。皇族・貴族のほか無名の人の歌もあるよ

 コブク郎 新しい元号の「令和」の出典になった「万葉集(まんようしゅう)」ってなあに?

 A 日本現存最古の歌集だよ。奈良時代の8世紀初めから末までかけて編集され、全20巻には長歌や短歌など約4500首が収められているんだ。国書では初めて元号の出典となった。

 コ 誰が作ったの?

 A 最終的に、奈良時代の貴族で歌人の大伴家持(おおとものやかもち)が編集したと言われている。「令和」の出典となった観梅の宴を催した大宰府(だざいふ)の長官・大伴旅人(たびと)の息子だよ。

 コ 平仮名で書かれているの?

 A 歌の原文は、全部漢字なんだ。漢字の音や訓を使って日本語表記したもので、とくに万葉集で使われたので「万葉仮名」と呼ばれているんだ。

 コ 詠まれたのはどんな時代だったの?

 A 7世紀前半から759年までの約130年間に詠まれたと言われているよ。飢饉(ききん)や疫病、政変があったけれど、国の体制が固まって海外の文化を取り入れ、宮廷文化が定着していった時代なんだ。天皇や都をたたえる歌もあるよ。

 コ 歌を詠んだのは?

 A 額田王(ぬかたのおおきみ)、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、山上憶良(やまのうえのおくら)、山部赤人(やまべのあかひと)らだね。天皇・皇后や皇族・貴族のほか、九州の警護に行った無名の「防人(さきもり)」と呼ばれる人たちの歌もあるんだ。「防人に行くは誰(た)が背と問ふ人を見るがともしさ物思(ものも)ひもせず」は、夫を防人に送り出した妻が悲しみを詠んだもの。名前は残らなくても、歌と心情は伝わるね。

 コ どんなものがうたわれているの?

 A 風景や花鳥、とくに植物は160種以上詠まれている。花で一番多いのは秋の七草のひとつ、ハギなんだ。「高円(たかまど)の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに」は、今は亡き人をいたむ歌。ウメは2番目で、サクラもある。キクは当時もあったのに万葉集には登場しないんだよ。

 (岡恵里)

🔴(寄稿)世界に開かれた万葉集の時代 「令和」、文化模索の世へのあこがれ 上野誠

朝日新聞デジタル201944

上野誠・奈良大教授

「令和」の典拠となった万葉集の写本(西本願寺本)の複製=奈良県明日香村の犬養万葉記念館提供

 新しい年号が『万葉集』から採られた。それは、年号の歴史にとって、新しい第一歩を踏み出したことになる。というのは、中国の皇帝制度から生まれた年号が、日本文化のなかに根付いて、ついには和歌集の漢文序文から採用されることになったからだ。

 時は、天平2(730)年正月13日のこと。九州・大宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で、花見の宴が催された。梅の花見の宴である。梅は、当時、外来植物で、珍しい植物であった。大宰府は、大陸との交流の玄関にあたる地であり、この地に赴任をした役人たちは、梅の花の白さに、魅了されたのである。旅人宅に集まった客人たちは、次々に歌をうたった。

 その歌々を束ねる序文の書き出しには、こうあるのである。

 「時に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぐ。梅は鏡前(きょうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」

 これを原文で示せば、「于時、初春令月、気淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」となる。正月良き時に集えば、天気に恵まれ、風もやわらかで、梅の花は鏡の前にある白粉のように白く、その匂いといったら、まるで匂い袋のようだ、と宴の日を讃(たた)えている部分だ。

 良き時に、良き友と宴を共にする。それが、人生の最良の時ではないか、とは、かの王羲之(おうぎし)(303?~61?)の蘭亭の序にみえる思想なのだが、大宰府に集まった役人たちは、自分たちを、あこがれの中国文人になぞらえて、漢詩ならぬ和歌を作って、披露しあう宴を催したのである。

     *

 天平の時代は、決して良い時代ではなかった。政変と飢饉(ききん)は、人びとの生活を苦しめたし、疫病も蔓延(まんえん)した時代である。ところが、世界の美術史にも特筆すべき、すばらしい仏像を造り、『万葉集』の歌々は、その後の日本の文学の源流となってゆく。

 どんな時代にも、人びとは平和な時を求め、新しい芸術と文化を模索していたのである。「令和」という年号には、そういった平和への思いが込められている、と思う。と同時に、天平文化へのあこがれも内包されているのではなかろうか。万葉学徒のひとりとして、今、私はそんなことを考えている。

     *

 『万葉集』とは、いったいどんな歌集なのだろうか。

 8世紀の中葉に出来た現存する最古の歌集で、その編纂(へんさん)者のひとりが大伴家持(おおとものやかもち)である。大伴家持の父が大伴旅人であり、大伴家持は、父と父の盟友ともいうべき山上憶良(やまのうえのおくら)にあこがれて、歌を作り続けたのである。

 『万葉集』に収められている4500首あまりの歌々は、後の時代の範となって、和歌の歴史を作ってゆくことになる。つまり、『万葉集』こそ、和歌始まりの歌集なのである。外来の文字である漢字を使って、自分たちの言葉であるヤマト言葉を、いかに表すか。そこから日本文学の歴史は始まるのである。

 『万葉集』の生まれた奈良時代ほど、日本が世界に開かれた時代はなかった。漢字・儒教・仏教・律令という中国文化を受け入れて、それをいかに自分たちのものにするのか。万葉びとは、悪戦苦闘した人びとでもあるのだ。

 一方、万葉びとは、常に自分たちの足元を見つめる人びとでもあった。漢文で書けば意味は分かっても、そのニュアンスが伝わらない。和歌は理ではなく、情を伝えるもので、それは、自分たちの言葉で情を伝えるということなのである。

 日本人は、歌で恋をすることを学び、人と人との絆を確かめた。『万葉集』は、その始まりの歌集ということができる。今、新しい時代が始まる――。

     ◇

 うえの・まこと 奈良大教授 1960年、福岡県生まれ。2004年から奈良大教授(万葉文化論)。著書に『万葉文化論』『万葉集から古代を読みとく』など。オペラの脚本や小説も執筆。

令和(れいわ)は日本の元号の一つ。平成の次で大化以降248番目の元号。平成は今上天皇の退位により2019年(平成31年)430日をもって終了し、皇太子徳仁親王が即位する201951日から令和元年となる予定。日本の憲政史上では初の生前退位に伴う皇位継承による改元となる。初めて漢籍ではなく、日本の書物から選定された。

西暦2019年(本年)は、430日までが平成31年で51日から令和元年になる予定で、2つの元号に跨る年となる。本項で公的に日本国内で令和が使用される時代(令和時代)についても記述する。 

🔵岩波文庫の校注者による,「令和」Q&A集! か =筆者・もっとも正確でわかりやすい 2019.04.23https://www.iwanami.co.jp/smp/news/n29468.html

「令和」QA

「平成」の次の元号は「令和」と決まりました。ところで、「令和」の意味ってなに?出典とされる『万葉集』にはどう書いてあるの?どこで読めるの?

かなどなど、「令和」にまつわる疑問をまとめました。

岩波⽂庫『万葉集』の校注者(⼤⾕雅夫先⽣,⼭崎福之先⽣)監修の,読んで納得のQ&Aです。

Q:新しい元号の「令和」は、『万葉集』に由来するとか?

A:『万葉集』の巻五、「梅花の歌三十二首」に付けられた序に、

「時に、初春の令月(れいげつ)、気淑(うるは)しく風和(やは)らぐ」

とあるのが出典とされています。その意は、

「あたかも初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ」

ということになります。

(訓読と訳は、岩波文庫『万葉集(二)』より)

Q:「令和」ってどういう意味?

A:「令」は、「言いつける」「いましめる」「おきて」といった人を従わせる意と、「よい」「麗しい」「好ましい」といった相手を褒め讃える意と、対照的な二つの意味を持ちます。二文字の熟語の場合には、下に付くと「命令」「号令」「法令」「律令」などと従わせる意となり、上に付くと「令名」「令室」「令嬢」「令節」などと褒める意味になる傾向があります。一方、「和」は、「やわらぐ」「なごむ」「穏やか」、またそのありさまの意味です。「令和」という二字の熟語はないようですが、続けてみると、「麗しく穏やかである」「よいなごみの有様」といった意味に理解することができます。

Q:『万葉集』の「梅花の歌三十二首」ってなに? 

A:天平二年(西暦730年)正月十三日に、大宰府の長官(大宰帥(だざいのそち))の大伴旅人(おおとものたびと)が、自邸に人々を招き、庭園の梅花を鑑賞する宴を開きました。その参加者三十二人がひとり一首ずつ詠んだ歌三十二首で、すべてに「梅」の語が含まれています。

Q:序も和歌なの?

A:この三十二首の歌の前に置かれた「序」は、和歌ではなく漢文です。万葉集には和歌だけでなく漢文や漢詩も載せられています。ここは当時中国で美文の文体として知られた「四六騈儷体(しろくべんれいたい)」(四言、六言を基準とし対句を多用して記す文体)にならって書かれています。その原文を引くと、

「初春令月、気淑風和」

となります。

(岩波文庫『原文万葉集(上)』より)

Q:誰が書いたの?

A:三十二首の歌はそれぞれに作者の官名などが記されていますが、序文には署名がありません。ですから序文の作者が誰かはたしかには分からず、この宴に参加していた山上憶良(やまのうえのおくら)の作と推定する説も江戸時代からありました。序文でこの「梅花歌」の詠まれたのが「帥老(そちろう)の宅」と書かれ、その「老」が尊称なので作者は旅人以外(おそらく憶良)であろうという理解によるものでした。しかし、近代になって「老」の使い方についての研究が進み、必ずしも尊称とは限らず、自称とも考えられることが明らかとなりました。また「わが園に梅の花散る」(822番歌)という旅人の歌の作者名が「主人」と尊称なしに(つまり自称として)記されることから、宴の主人の大伴旅人のもとで歌が集められ、記録されたことが想像されます。おそらく、序文も旅人の作と見るべきでしょう。

Q:大伴旅人ってどんな人?

A:大伴氏は古来大和朝廷内で軍事的役割を担ってきた一族で、旅人の父安麻呂(やすまろ)は壬申の乱(672年)でも活躍しました。旅人は神亀五年(728)頃に大宰帥となりましたが、台頭する藤原氏によって都から追われた人事であったとも言われています。異母妹の坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は万葉集に最も多くの歌を残す女性歌人です。また嫡子の家持(やかもち)は四百五十首以上の歌を残し『万葉集』の最後の歌(巻二十・4516番歌)を歌った人物で、全二十巻の編者とも言われています。大宰府の置かれた筑紫では筑前守の山上憶良らと交わり、この「梅花の歌三十二首」の詠まれたその年の秋に大納言となって帰京し、翌年(731)亡くなりました。万葉集におよそ七十首の歌、漢文書簡などが採られているほか、当時の日本で作られた漢詩文を集めた『懐風藻(かいふうそう)』にも漢詩一首を残しています。

Q:漢籍を踏まえているって本当?

A:新日本古典文学大系『萬葉集(一)』のこの個所の語注に、

「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦」・文選十五」)とある」

と指摘されています。この指摘はすでに江戸時代初期の十七世紀末頃の学僧、契沖(けいちゅう)の著した『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』(『契沖全集(一)』小社刊、1973年、に収録)に見られます。また戦後の万葉集研究を牽引した学者の一人である澤瀉久孝の著した『万葉集注釈』(全二十巻、中央公論社、1957-)にもその説は引き継がれています。なお契沖はこの序の書き起こし方が、中国東晋時代の書聖、王羲之(おうぎし)の著した「蘭亭序(らんていじょ)」に倣ったものではないかと推測しています。

Q:張衡(ちょうこう)の「帰田(きでん)の賦(ふ)」って?

A:後漢の張衡が書いた「賦」(韻文の形式)の一つで、官職を辞して故郷に帰る思いを述べたものです。「令」「和」の出てくる個所は、岩波文庫『文選(もんぜん)詩篇(二)』では、「清和」という詩語の注にも引かれています。そこでの訓読は、

「仲春の令(よ)き月、時は和らぎ気は清し」。

張衡は、天文や暦数にも詳しく、渾天儀(天体観測器)や候風地動儀(地震計)を作成する一方、朝廷で太史令などとして仕えた後漢の前半を代表する学者・文人です。

 *「帰田賦」の全文は、新釈漢文体系86『文選(賦編)下』(明治書院)に掲載されています。岩波文庫『文選詩篇(五)』には張衡の「四愁詩四首」を収録。

Q:「梅花三十二首」にはどんな歌があるの?

A:春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ (山上憶良)

春になると最初に咲く庭の梅の花を、一人で見ながら春の日を過ごすものだろうか。(いや皆とともに梅花を楽しもう、という意味。)

わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも (主人の大伴旅人)

  私の庭に梅の花が散る。(ひさかたの)天から雪が流れて来るのだろうか。

(当時の梅は白梅。白梅の落花を雪に見立てる表現は漢詩に多い。)

Q:どこで読めるの?

A岩波文庫『万葉集』全五冊(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注、全五冊、2013−2015年)

☞およそ4500首の歌すべて収録し、そのすべてに正確な訳と最新の研究成果を反映した注がついています。文選、懐風藻、万葉代匠記などの解説もあり。「梅花歌三十二首の序」は、第二冊に収録しています。

岩波文庫『原文 万葉集』上・下(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注、全五冊、2015−2016年)

☞万葉仮名で書かれた原文を収録した文庫。「梅花歌三十二首の序」は、上冊に収録。

新日本古典文学大系『萬葉集』(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注、全四冊、1999-2003年)

☞岩波文庫の親本。信頼ある「新日本古典文学大系」の一冊で、現在はオンデマンド版で購入可能。「梅花歌三十二首の序」を収録した第一冊には、『文選』「帰田賦」との関連を指摘した補注もあり。

岩波現代文庫 折口信夫『口訳万葉集』(上・中・下、2017年)

☞『万葉集』を、折口信夫が参考資料も使わずに訳していき、口伝えに弟子に書き取らせたもの。わずか二か月ほどで完成させました。「梅花歌三十二首の序」は、上冊に収録。

岩波現代文庫 大岡信『古典を読む 万葉集』(2007年)

☞「片時も自分の座右から離すことのできないもの」として『万葉集』を愛読した大岡信さんが、詩人の感性でその魅力を語ります。美しい現代語による「梅花歌三十二首の序」全体の大意もあり。

岩波新書 リービ英雄『英語で読む万葉集』(2004年)

☞作家・リービ英雄さんによる万葉集の英訳(抄訳)。「初春の令月、気淑しく風和らぐ」部分の英訳も掲載しています。万葉集の国際的なひろがりを知るために最適の一冊。

岩波ジュニア新書 鈴木日出男『万葉集入門』(2002年)

☞中学・高校生から大人まで人気のわかりやすいシリーズ〈ジュニア新書〉。代表的な歌を解釈しながら万葉集の世界へ誘います。「梅花歌三十二首の序」の解説も掲載。

(大谷雅夫・山崎福之監修/岩波文庫編集部まとめ)

🔵新元号・令和の典拠=万葉集三十二首序文

『万葉集』の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」を出典とする[11]。原文および書き下し文、題詞は次の通り。

◆原文

初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。

◆書き下し文

初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

初春の令月にして、気淑よく風やわら和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

(この後も日本の自然の美しさが続く)

より引用された[5]

(梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序)

◆題詞

梅花歌卅二首[并序]天平二年正月十三日萃于帥老之宅申宴會也于時初春令月氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香加以曙嶺移雲松掛羅而傾盖夕岫結霧鳥封縠而迷林庭舞新蝶空歸故鴈於是盖天坐地<>膝飛觴忘言一室之裏開衿煙霞之外淡然自放快然自足若非翰苑何以攄情詩紀落梅之篇古今夫何異矣宜賦園梅聊成短詠[12]

「令和」は確認される限りにおいて初めて日本の古典から選定された元号である[1]。なお、平成改元時にも日本の古典を出典とする案はあったが最終案に残らなかったとされている[1]

◆◆梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序

万葉集入門から
日本最古の和歌集「万葉集」の解説サイトです。
分かりやすい口語訳の解説に歌枕や歌碑などの写真なども添えて、初心者の方はもちろん多くの万葉集愛好家の方に楽しんでいただきたく思います。(解説:黒路よしひろ)から以下

http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu5_815jyo.html


天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ひしきまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述※1(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。

※1:「述」は原文では「手」遍+「慮」

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天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。
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この漢詩風の一文は、梅花の歌三十二首の前につけられた序で、書き手は不明ですがおそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)の作かと思われます。その内容によると、天平二年正月十三日に大宰府の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で梅の花を愛でる宴が催されたとあります。
このころ梅は大陸からもたらされたものとして非常に珍しい植物だったようですね。
当時、大宰府は外国との交流の窓口でもあったのでこのような国内に無い植物や新しい文化がいち早く持ち込まれる場所でもありました。

この序では、前半でそんな外来の梅を愛でる宴での梅の華やかな様子を記し、ついで梅を取り巻く周囲の景色を描写し、一座の人々の和やかな様を伝えています。
そして、中国にも多くの落梅の詩があるように、「この庭の梅を歌に詠もうではないか」と、序を結んでいます。
我々からすると昔の人である旅人たちが、中国の古詩を念頭にして「いにしへと現在と何の違いがあろう」と記しているのも面白いところですよね。

この後つづく三十二首の歌は、座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっています。
後の世の連歌の原型とも取れる(連歌と違いここでは一人が一首を詠んでいますが)ような共同作業的雰囲気も感じられ、当時の筑紫歌壇の華やかさが最もよく感じられる一群の歌と言えるでしょう。

🔴令和は万葉集巻五、梅花の歌三十二首の序文=新元号を読み解く

201941日日本経済新聞

平成に代わる5月からの新元号が1日、「令和」に決まった。出典は日本最古の歌集「万葉集」から。「令」は元号に使われるのは初めて、「和」は20回目となる。新時代を象徴することになる2文字。どのような意味があり、願いが込められているのか、専門家に話を聞きながら読み解いた。

万葉集にある「初春の令月」。写真は旺文社の対訳古典シリーズ「万葉集」()

過去の元号の出典はこれまでに判明しているだけで77。すべて中国の古典に由来する。出典を和書に求めたのは初めてとみられるが、これまでにも日本の古典から選ぶという考え方はあり、万葉集などの歌集はその有力候補だった。

「令和」の文字を引いたのは、万葉集巻五に収録された梅花の歌の「序」。この梅花の歌は32首あり、大伴旅人を中心とするグループが詠んだとされる。漢字の音だけをあてて表記された「歌」と違い、「序」は表意文字としての漢字を使った漢文体であることも出典として適していた。

 初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす

漢字に詳しい京都大の阿辻哲次名誉教授は「万葉集によると、『令月』とあるのは『素晴らしい月』という意味。まさに天皇の代替わりに伴う季節感と、平和を謳歌しているというイメージを受ける」と指摘。「令」には、「令嬢」「令息」といった言葉に使われるように「よい」という意味がある。

また「令」の漢字の構造は、ひざまずいている人に申しつけているという形で「命令」の意を含む。このため、令和を漢文調にすると「和たらしむ」とも読める。

阿辻名誉教授は「世の中を平和にさせる、という穏やかな印象にあふれている。世界が調和され、平和が永遠に達成されるというメッセージが込められているのでは」と話した。

東京大東洋文化研究所の大木康教授(中国文学)は「中国では『令月』に『吉日』と付けることが多い。令は吉と通じ、めでたい意味がある」。引用したのが春の梅の様子を歌ったものだったことについても「和やかな印象を受ける元号だ」と話した。

日本の古典が初めて元号の出典となったことには「画期的なことだ」と話す。ただ、歌に出てくる梅は中国を代表する花として知られており、「これまで中国の古典から引用してきたつながりや関係にも考慮したのではないか」とみている。

この「序」はどんな背景があるだろうか。倉本一宏・国際日本文化研究センター教授(日本古代史)によると、典拠となったのは万葉集に収録された8世紀の歌人、大伴旅人を中心とする梅花の宴(うたげ)の「序」。正月に仲間を館(官舎)に招いての歌会で前置きとした文章の一部といい、「梅をめでながら旅人が宴を楽しんでいる心情を詠んだものだ」と解説する。

旅人は藤原氏との政争に敗れた長屋王と親しかったために太宰府に左遷されたといい、都をしのびつつ、もうすぐ帰れそうだとの希望を詠んだと解釈できるという。

倉本教授は「古代史家の間ではよく知られた史実で、微妙な政治情勢が下敷きになっている」。ただ、新時代の元号としては「戦争で荒廃した昭和時代のように、元号に込められた思い通りにはいかないことも少なくない。令和の文字のイメージそのものには、平和な時代になってほしいという思いが読み取れる」と語った。

◆大伴旅人と梅花の歌

      PDA17p


🔴❷本当に国書が典拠なのか=万葉集は漢字文・万葉集引用箇所は有名な中国文献(帰田賦)=詳細は前記の岩波書店の解説参照

🔵「令」「和」、次代への思い映す 序文、「中国の文章ふまえた」定説 新元号「令和」

201942

 元号の典拠として初めて使われた国書は「万葉集」だった。一般によく知られる日本最古の歌集だが、専門家はどうみるか――。

 万葉集に関する著書が多い歌人の佐佐木幸綱さんは「万葉集は明治から昭和前期まで『国民歌集』で、日本人の心の原点として読まれた。戦後、そうした読み方が色あせ、現在は大学の卒論などでも人気はそれほどではない」と解説。そのうえで「山や川、海の描写の細密さ、多彩さなど、現代人が忘れ去った自然への興味と好奇心がうたわれている。この機会に万葉集の新しい魅力が発掘されるのでは」と期待する。

 ただ、「令和」の二文字がとられた序文は中国の有名な文章をふまえて書かれたというのが、研究者の間では定説になっている。

 小島毅・東大教授(中国思想史)によると、730(天平2)年正月に今の福岡県にあった大宰府長官を務める大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で宴会があった。そこで「落ちる梅」をテーマに詠まれた32の歌の序文にある「初春の令月」「風和(やわら)(ぐ)」が新元号の典拠だ。この序文が中国・東晋の政治家・書家である王羲之(おうぎし)の「蘭亭序(らんていじょ)」を下敷きにしているとし、心地よい風が吹き、穏やかでなごやかな気分になることを意味する「恵風和暢(けいふうわちょう)」という一節と重なるという。

 さらに「梅は中国の国花の一つで中国原産ともされ、日本に伝わった。今回の元号選びは、ふたを開けてみれば、日本の伝統が中国文化によって作られたことを実証したといえる」とも指摘する。

 また、村田右富実(みぎふみ)・関西大教授(日本上代文学)は「6世紀の中国南朝の梁(りょう)でつくられた全30巻の詩文集『文選(もんぜん)』にある後漢の張衡(ちょうこう)の『帰田賦(きでんのふ)』に典拠がある」とみる。「文選」は中国では文人の必読書となり、日本でも飛鳥、奈良時代以降、役人らに盛んに読まれた。「今回の元号は万葉集を典拠にしたのは間違いないが、その元になるものがあったという背景を踏まえ、万葉集に興味を持ってもらえれば」

 日本文学研究者のロバート・キャンベルさんも「中国で伝統的に歌われる情景」として「帰田賦」説を唱えつつ、「国書か漢籍かということはどうでもよく、国を超えて共有される言葉の力、イメージを喚起する元号だ」と評価する。

 漢字の成り立ちに詳しい加納喜光・茨城大名誉教授は、「令」には上から下へ指図する命令の令と、命令を聞く民がきちんと並ぶ様から「姿、形がよい」の二つがあると解説する。令和には「自然・環境がよく、気候が穏やかで、国民はなごやかである」という意味を読み解いた。

 乾善彦・関西大学教授(国語国文学)は、常用漢字表の前書きで「筆写の楷書では、いろいろな書き方があるもの」の一つとして「令」も挙げられていることに着目。「発表の際に掲げられた『令』の字は最終画が左にはねているが、書き方が自由なので、自由な時代になるんじゃないでしょうか」と話す。

 <考論>時代の空気、くみ取った 元号の歴史に詳しい、所功・京都産業大名誉教授

 初の国書由来の元号になるなら、来年、編纂(へんさん)1300年を迎える日本書紀かと思っていた。日本の和歌集で最古の万葉集を典拠としたのは、意外だったが、「英断」だと思う。日本の文化と言えば、やっぱり倭歌(やまとうた)とも称される和歌。和歌の会の漢文で書かれた「序文」からとったことは、より妥当だったと思う。

 元号に「令」が使われるのは初めてだが、平成の「成」も昭和の「昭」も初めてだった。「令嬢」や「令夫人」というように良い美しい意味があり、いい文字だと思う。

 (初の国書由来は安倍晋三首相の思いが反映されたとの指摘に)それはあんまり意識しすぎない方がいい。グローバル化が進む中で、日本人全体に単なるナショナリズムと異なるアイデンティティーを求める流れがある。自分たちのよって立つ根っこを持っていたいという思いは、ごく自然に今の若い人にもある。そういう時代の空気をくみ取ったと言っていい。

 <考論>歴史への理解、遠ざける 元号を避けて叙述する、保立道久・東京大名誉教授

 私は元号を歴史用語として使うことは避けている。歴史の本質を注視する文化が必要だと考えているからだ。

 日本史の事件名には元号が付くことが多いが、普通の人が数多くの元号を覚えるのは大変で、理解から遠ざかってしまう。例えば「承和(じょうわ)の変」(842年)、「貞観(じょうがん)津波」(869年)と言われても何のことかわからないのではないか。

 承和の変は皇太子の座を追われた恒貞(つねさだ)親王が怨霊化し、後に火雷天神になったとも言われた事件で、私は「恒貞廃太子事件」と言っている。また、貞観津波は「9世紀日本海溝大津波」。東日本大震災と同じ形の津波で、約600年で繰り返すと地震学は早くから警告していた。これらは9世紀の話だが、現代も同じことだ。

 元号法は、元号を政令で定めると規定しているだけ。行政が元号の使用を強制している実態はおかしい。元号法は、撤廃してほしいと考えている。

🔴中韓反応 万葉集出典に 中国紙「中国の痕跡消せぬ」 韓国紙「安倍政権の保守色を反映」

2019.4.1 17:53

 新元号「令和」については中国国営新華社通信(英語版)が公表直後に速報するなど中国メディアは高い関心を示した。インターネットでも中国版ツイッター「微博(ウェイボ)」で「日本の新年号『令和』」がトレンドワードになった。

 新元号の出典が漢籍ではなく初めて日本古典となったことについて、中国紙の環球時報(電子版)は「中国の痕跡は消せない」の見出しで、引用元の「万葉集」も中国詩歌の影響を受けていると指摘。ネットユーザーの間では新元号のもともとの出典は後漢の文学者、張衡の韻文「帰田賦」だとの主張も目立った。

 中国外務省の耿爽(こうそう)報道官は1日の記者会見で、新元号について「日本の内政であり論評しない」と述べるにとどめた。

 一方、韓国の左派系紙、ハンギョレ(電子版)は1日、新元号の出典について「安倍晋三政権の保守的色が日本の古典を出典とする年号誕生の背景にあるようだ」との分析を掲載した。

 新元号決定を速報するインターネットの記事には、「『令和』になってからは、韓日関係が良くなることを祈ります」との書き込みがあり、多くの共感が示された。(北京、西見由章 ソウル、桜井紀雄)

🔴新元号「令和」海外メディアはこう深読みした「国の誇りを強調」「支持基盤を意識」

JCAST4/1

201941日に発表された新元号「令和」の出典は、日本に現存する最古の歌集「万葉集」だ。これまでの元号は確認できる限りはすべて中国の古典が由来で、大きく方針を変えたことになる。

安倍晋三首相は同日正午過ぎから記者会見を開き、この点について

「我が国は歴史の大きな転換点を迎えているが、いかに時代が移ろおうとも、日本には決して色あせることのない価値があると思う」

などと説明した。ただ、海外メディアでは、必ずしもそれを額面通りに受け止めない向きもあるようだ。

AP通信「中国の古典を出典とする伝統からの決別」

AP通信は、「令和」が選ばれた理由として、

「厳しい寒さのあとに春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる」

といった願いを込めた、という安倍氏の発言を引用した上で、

「中国の古典を出典にする伝統からの決別は、安倍氏の極右政権から期待されていたことだ。政権は対中関係でタカ派になることも多い」

などと指摘。安倍氏とその熱心な支持者が、いわゆる「自虐史観」の問題を主張していることにも言及した。

ロイター通信は、

「専門家は、国の誇りを強調する安倍氏の保守的な政治的路線が反映されている、と指摘している」

として、安倍氏が万葉集について説明した一節を引用した。

「世界に誇るべきものであり、我が国の悠久の歴史、香り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄はしっかりと次の時代に引き継いでいくべきであると考えています」

保守系の朝鮮日報も

韓国の保守系紙として知られる朝鮮日報は、菅義偉官房長官の会見直後の正午過ぎに配信した記事で、「政権の支持基盤である保守派を意識」して日本の古典が出典になったと報じ、安倍氏の会見を受けた記事でも、

「安倍政権の支持層である保守派は、日本の古典で元号が決定されなければならないと主張してきた」

と指摘した。

J-CASTニュース編集部 工藤博司)

🔴令和の由来は初の「日本古典」 でもその一文、実は漢籍の影響が?ロバート・キャンベルさんも言及

2019/4/ 1 18:19JCAST

   201941日に発表された新元号「令和」は、初めて日本古典を由来とした元号であることが話題となっている。

   過去のほとんどの元号が四書五経など中国の古典からの出典だった慣例を破り、万葉集の「梅花の歌三十二首」につけられた序文を出典とした。この経緯もあって斬新なイメージで受け止められているが、由来をさかのぼるとやはり漢籍に行きつくのではないか、という見解も出ている。

安倍首相は万葉集を出典としたと述べたが201941J-CASTニュース編集部撮影)

岩波書店などが「帰田賦」との関連を指摘

   「令和」の二文字は、「万葉集」中の「梅花の歌三十二首」の序文「初春の令月(れいげつ)、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かおら)す。」を出典としている。序文は歌人・大伴旅人が記したとされ、安倍首相は会見で

「梅の花のように、日本人が明日への希望とともに、それぞれの花を咲かせることができる。そうした日本でありたい」

という意味を込めたと述べた。

   この新元号の発表の後、岩波文庫編集部のツイッターアカウントは、この序文もさらにさかのぼれば漢詩を由来としたものではないか、というツイートを投稿した。

   このツイートに写真が添えられている「新日本古典文学大系」の注釈によれば、大伴旅人が記した序文の「初春の令月」は中国の後漢時代の文人張衡(ちょうこう、78年~139年)の詩「帰田賦」の「仲春令月、時和気清(仲春の令月、時は和し気は清む)」を踏まえていると指摘されている。「帰田賦」は詩文集『文選(もんぜん)』に収録され、漢文学では必読の古典とされていた。

   さらに国文学者のロバート・キャンベルさんも

「文選「仲春令月、時和気清」(張衡「帰田賦」)へのオマージュを含めてナイスチョイス。」

とツイートした。

   新元号の選定にあたり、安倍首相が日本の書物も参照としたいとの意向を示していたこともあって、日本古典から元号が採用されるのではないか、という見方は早くからあり、結果としてそれが現実に。日本はもちろん、中国メディアでも、この点に注目した報道がなされている。一方でこうした指摘から、漢文学と国文学のつながりの深さを改めて実感する声も見られる。

🔷🔷岩波文庫編集部のツイッター

新元号「令和」の出典、万葉集「初春の令月、気淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえていることが、新日本古典文学大系『萬葉集(一)』iwanami.co.jp/book/b325128.h… の補注に指摘されています。

「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)」とある。」

🔴歸田賦(帰田賦)と萬葉集(万葉集)に見る「令和」新元号

2019.04.01 植物・花・山野草

https://www.kyotocity.net/diary/2019/0401-reiwa/より

何かの発表直後にどこぞで指摘したことですが、いちおうこちらにも。

『萬葉集』(万葉集)の「梅花謌卅二首」并序より。

目録では「太宰師大伴卿宅宴梅花謌卅二首并序」。

「梅花歌三十二首」に序を合わせる、つまり、後に続く歌の序文です。

雑謌

梅花謌卅二首并序

天平二年正月十三日萃于帥老之宅申宴會也于時初春令氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香加以曙嶺移雲松掛羅而傾盖夕岫結霧鳥對縠而迷林庭舞新蝶空歸故鴈於是盖天坐地促膝飛觴忘言一室之裏開衿烟霞之外淡然自放快然自足若非翰苑何以攄情詩紀落梅之篇古今何異矣宜而賦園梅聊成短詠

『紀州本萬葉集巻第五』

「国立国会図書館デジタルコレクション」より

1941年(昭和16年)の紀州本複写を底本として手打ちしたため、他本とは異なる箇所あり。

紀州本では「于時初春令氣淑風和」となっていますが、「于時初春令月氣淑風和」だと考えられます。

これはあくまでも序ですので、この後、大貳紀卿らの歌が続きます(が、今回の記事では控えておきましょう)。

この序について、江戸中期~後期の国学者、橘千蔭(加藤千蔭)の『萬葉集略解』による解説を紹介しておきます。

梅花歌三十二首幷序

目録に太宰師大伴卿宅宴梅花云云と有り。

天平二年正月十三日。萃二于帥老之宅一。申二宴會一也。于レ時初春令月。氣淑風和。梅披二鏡前之粉一。蘭薫二珮後之香一。加以曙嶺移レ雲。松掛レ羅而傾レ蓋。夕岫結レ霧。鳥レ對穀而迷レ林。庭舞二新蝶一。空歸二故雁一。

帥老は大伴卿を言ふ。此序は憶良の作れるならんと契沖言へり。さも有るべし。鏡前之粉は、宋武帝の女壽陽公主の額に梅花落ちたりしが、拂へども去らざりしより、梅化粧と言ふ時起これりと言へり。此に由りて言へるなり。珮後之香は屈原が事に由りて言へり。傾蓋は松を偃蓋など言ふ事、六朝以降の詩に多し。對穀は宋玉神女賦に、動二霧穀一以徐歩と有り。穀はこめおりのうすものなり。さて霧を穀に譬へ、穀を霧に譬へて言へり。契沖は對は封の誤かと言へり。

於レ是蓋レ天坐レ地。促レ膝飛レ觴。忘二【忘ヲ忌ニ誤ル】言一室之裏一。開二衿煙霞之外一。淡然自放。快然自足。若非二翰苑一何以攄情。請紀二落梅之篇一。古今何異矣。宜下賦二園梅一聊成中短詠上。

劉伶酒德頌に、幕レ天席レ地と言へるを取りて、蓋レ天坐レ地と言へり。促レ膝は梁陸陲詩に、促レ膝豈異人。註に促近レ膝坐也と言へり。飛觴は西京賦に羽觴行而無レ算。註に羽觴作二生爵形一と有り。忘言は莊氏に言者所二以在一レ意。得レ意而忘レ言と有るより出でて、ここは打解けて物語などする事を言ふ。さて蘭亭叙に、語二言一室之内一と有るに倣へり。此序は初めの書きざまよりして、すべて蘭亭叙を学びて書けり。開衿は胸襟を開くなどとも言ひて、心を開く事なり。

『日本古典全集萬葉集略解第二』

「国立国会図書館デジタルコレクション」より

1926年(大正15年)の日本古典全集刊行會版から引いています。

「請紀」は「詩紀」、「陸陲」は「陸倕」だと考えられます。

太宰師として九州の大宰府にいた大伴旅人宅で催された(とされる)梅見の宴会。

ただし、この序は山上憶良が作ったのであろうと、江戸時代前期~中期の国学者である契沖が言っている、としており、筆者である橘千蔭も同意しています。

山上憶良は万葉の時代を代表する歌人の一人で、筑前守として筑紫へ下向しており、大宰府の周辺で多くの歌を詠みました。

また、宋武帝(南朝宋の武帝劉裕)と壽陽公主の名前を挙げて「鏡前之粉」について述べたり、「珮後之香」は楚の屈原に由来するとしたり、松を例える描写は六朝時代以降の漢詩に多く見られると解説したり、楚の宋玉による『神女賦』を引き合いに出しています。

その後も、それぞれ、この語句や言い回しは何々の漢籍や漢詩に似たようなものがありますね、と紹介し、この序は王羲之の『蘭亭叙』(蘭亭序)を学んで書いた、と結論付けています。

これらはあくまでも江戸時代頃の国学者による解釈ですが、この序には、なにかしら影響を受けたものがある、と考えられていたようですね。

この序を記した人物について、契沖は憶良としていますが、実際のところ、どなたであるか私には分かりません……、終盤のくだりを見るかぎり、その人物は故意にこのような序を記したのでしょう。

『萬葉集略解』は「鏡前之粉」以降については触れていますが、それより前、「于時初春令月氣淑風和」の部分はどうでしょうか。

「于レ時初春令月。氣淑風和。」「時に初春の令月(めでたい月)、空気は優しくて風は和やか」

🔷🔷歸田賦

張衡

遊都邑以永久無明畧以佐時徒臨川以羡魚俟河淸乎未期感蔡子之慷慨感蔡子之慷慨從唐生以決疑諒天道之微昧追漁殳以同嬉超埃塵以遐逝與世事乎長辭◆於是仲春令月時和氣淸◆原隰鬱茂百草滋榮王睢鼓翼倉庚哀鳴交頸頡頏關關嚶嚶於焉逍遥聊以娛情爾乃龍吟方澤虎嘯山丘仰飛繊繳俯釣長流觸矢而斃貪餌呑鉤落雲間之逸禽懸淵沈之魦鰡于時曜靈俄景以繼望舒極盤遊之至樂雖日夕而忘劬感老氏之遺誡將廻駕乎蓬蘆彈五絃之玅指詠周孔之圖書揮翰墨以奮藻陳三皇之軌模苟縱心於域外安知榮辱之所如

『文選正文巻之三』

◆於是仲春令月時和氣淸◆の部分

「国立国会図書館デジタルコレクション」より

明治3年(1870年)の宝文堂版を底本として手打ちしたため、他本とは異なる箇所あり。

本によっては「倉庚」は「鶬鶊」。ウグイス(鶯)の意味。

「於レ是仲春令月時和氣淸ム」「今は仲春の令月(めでたい月)、時は和やかで空気は澄む」

張衡は後漢時代の人。

優れた天文学者・数学者・地理学者・発明家・文学者として知られ、後漢朝で尚書の地位まで上りますが、汚濁した政治、王家の奢侈な暮らしぶりに耐えられなくなり、職を辞して「世俗を超越した生活」を企図します。

『歸田賦』(帰田賦)は「こういう暮らしをしよう」という張衡の気持ちをありのままに描いたものですが、厭世的な内容なのは彼が道家の思想(老荘思想)に強く影響を受けていたからです。

張衡による『歸田賦』や、『萬葉集略解』でも名前が挙がる『西京賦』は、南北朝時代の昭明太子(蕭統)が編纂したとされる詩文集『文選』に収められました。

日本の古人も目にしたかもしれませんね。

🔴Wiki=帰田賦

ウィキソースに歸田賦の原文があります。

『歸田賦』(帰田賦、帰田の賦、きでんのふ)は、賦様式の一首である。中国漢王朝(紀元前202紀元220年)の官僚、発明家、数学者、天文学者であった張衡(78–139年)によって書かれた。張衡の『歸田賦』は田園詩の中で後代に影響を与える作品である。この詩は自然を前面に出し、人間や人間の思想に重きを置かない共通主題を共有する様々な形式の詩に対する数世紀にわたる熱狂の口火を切る助けとなった。こういった詩は山水詩(英語版)といくらか似ている。しかし、田園詩の場合は、自然はそのより家庭的な表現に重きが置かれ、裏庭で見られるような花園や田舎で栽培されいてる自然の姿を称えている。『歸田賦』は自然対社会を含む中国古典詩の伝統的主題をも思い起こさせる。

「帰田」は「官職を辞し、郷里の田園に帰って農事に従うこと[1]」を意味する。

背景

『歸田賦』は後漢順帝永和三年(紀元138年)に作られた。張衡は首都洛陽の腐敗した政治から退き、河北河間の行政官の任を務めた後、138年に喜んで引退を迎えた[2][3]。張衡の詩は、彼の儒家教育よりも道教思想に著しく重きを置きながら、引退して過ごすことを望んでいた生活を反映している[4]。柳無忌(英語版)は、張衡の詩は道教思想と儒教思想を組み合わせることによって「後の数世紀の玄学派詩歌と自然詩の先駆けとなった」と書いた[4]。この賦において、張衡は道教の聖人である老子(およそ紀元前6世紀)、孔子(紀元前6世紀)、周公(およそ紀元前11世紀)、および三皇についてもはっきりと言及している。

節選

🔴「令和」、万葉集に光 書店に注文殺到、はや増刷

朝日新聞デジタル2019421630

 日本最古の歌集が脚光を浴びている。新しい元号「令和(れいわ)」が1日に発表されると、出典となった万葉集の関連本が売り切れる店も。一部の出版社は増刷を決めた。ゆかりの博物館にも問い合わせが相次ぐなど、関心が高まっている。

 岩波書店は岩波文庫「万葉集(二)」の重版を決めた。新元号に引用された歌の序文がおさめられた巻だ。新元号の発表後、書店から注文が殺到したという。

 KADOKAWAも、角川ソフィア文庫「新版万葉集 一 現代語訳付き」と、入門書の「万葉集ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」を8千部ずつ増刷する。古典の注釈書としては異例の増刷部数だという。伊集院元郁(もとふみ)・副編集長(35)は「新元号の典拠は中国の古典ではないかと思っていたので、万葉集と聞いて驚きました」。

 同文庫は奥付の発行年に元号を使っており、今後の増刷分について「令和元年五月一日」で発行できるか検討している。4月半ばには書店に並べられるようにしたいという。

 書店にも問い合わせが相次いだ。

 「『梅花』の載っている本、ありますか」「改元を機に万葉集を学びたい」。ジュンク堂書店池袋本店には、発表直後から万葉集を求める電話や来店が続いた。典拠の歌が載った文庫2冊はすぐに売り切れ、注文を出した。今後は万葉集のフェアも開催予定だという。

 芳林堂書店高田馬場店でも、数カ月に1度ほどしか売れないはずの万葉集の書棚に大きな隙間ができた。山本善之店長(36)は「これからブームが来そう」。1日のうちに早速発注した。平成絡みの本とともに棚に並べる予定だ。(細見卓司、沢木香織、河崎優子)

 ゆかりの地にも関心

 万葉集ゆかりの自然景観や歌碑などが点在する奈良県明日香村。万葉学者で、文化功労者の故犬養孝さん(1907~98)の業績を顕彰する「犬養万葉記念館」には、新元号の発表直後から「万葉集のどこに書かれているのか」などとたずねる来館者や電話が相次いだ。岡本三千代館長(66)によると、4月1日は犬養さんの誕生日。「思わず遺影に『よかったですね』と声をかけてしまいました」

 村内にある奈良県立万葉文化館の井上さやか・指導研究員は「編纂(へんさん)から約1300年たち、新元号という形で注目を集めたのは興味深い」と話す。

 森川裕一村長(63)は「元号の最初とされる『大化』も明日香で始まった。日本の原点がこの地にあるという思いを新元号であらためて誇らしく思い、頑張らなくてはという責任も感じる」と話した。

 一方、万葉集の代表的な歌人で、編者ともされる大伴家持(おおとものやかもち)が国守として赴任した富山県高岡市にある高岡市万葉歴史館。全20巻すべてがそろった写本では最古とされる鎌倉時代の「西本願寺本」の複製を所蔵し、新元号の発表直後から問い合わせが相次いだ。

 歴史館は3日から、令和の典拠となった万葉集の解説などを行う特別コーナーを設ける予定。

 私はこう見る――世界に誇れる文化/安倍政権下ならでは/ひらがなでもよかった

 <「万葉集」に詳しい漫画家・里中満智子さんの話> 万葉集を典拠にしたというのがすごくうれしい。1千年以上前に成立したのに、天皇や皇族のみならず庶民の歌もあり、女性の歌もある。日本が世界に誇ることができる文化資産だ。

 「令」「和」が登場するのは、梅花の歌三十二首の序。大伴旅人が開いたうたげで、そうそうたる顔ぶれが集まって梅の花をめでながら歌を詠んだ際に、書いたもの。和歌が豊かな創作性を持ち、我が国独自の文化として花開いた時期であることがよくわかる。若い世代が過去の文化をふまえつつ新時代を生きていこうと思える元号だと思う。

 <コラムニストの辛酸なめ子さんの話> 元号が上から授かるものから、みんなで参加、交流して楽しむ対象に変わった。前回は昭和天皇がお亡くなりになった後で、大騒ぎできる雰囲気もなかった。でもSNS時代の今回は、著名人も一般の人もAIも予想しまくった。

 中国の古典ではなく万葉集に依拠した点も「日本を取り戻す」ことを大事にする安倍政権下ならでは。ただ、「春の訪れを告げる梅の花のように」という安倍首相の談話を聞いて、今までは冬の時代だったのですか、と聞き返したくなった。

 <放送プロデューサーのデーブ・スペクターさんの話> 「令和」は悪くはないけど、響きはよくない。令は命令の令だし、「冷」の字を想像させ、冷たい雰囲気がまずある。しかも、「平和に従え」みたいに読める。上から目線が、安倍政権っぽい感じ。

 中国の古典ではなく、万葉集から取ったのも何か意図があるのかと推測してしまう。漢字はどうしたって中国のもの。日本にこだわるのなら、ひらがなにしてもよかったのでは? 西暦の方が便利だけど、だからこそ元号は残してほしい。何もかも世界標準にして文化をなくすとつまらなくなるでしょう。

🔴万葉の宴、再び 福岡・太宰府

201943

◆梅花の宴=大伴旅人邸は

当時の文献を参考にして作った衣装を着て、大伴旅人の歌などを読み上げる大宰府万葉会の会員ら=2019年4月2日午後0時14分、福岡県太宰府市

 新元号「令和」のゆかりの地・福岡県太宰府市で2日、市民グループ「大宰府万葉会」メンバーら12人が当時の衣装に身を包んで「梅花の宴」を再現し、典拠となった梅の花の歌の序文などを朗唱する催しを開いた。松尾セイ子代表(80)は「万葉集は日本の宝。特に若い人にその魅力を伝えていきたい」と話した。(徳山徹、写真は長沢幹城)

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🔴❸新元号は令和と安倍首相自らが決定=「初の国書由来」・「美しい国と文化」・「国民一人ひとりが花ひらく新しい時代」を強調=手前勝手な解釈=政権浮揚のための「代替わり」キャンペーンの中心装置

【筆者=「初の国書由来」「美しい国と文化」は事実と異なる。ましてやSMAPの歌などを引用しての「国民一人ひとりが花ひらく新しい時代」なんて、どこに書いてあるのか?我田引水とはまさにこのことだ。このウソにだまされてはいけない。令和絶賛の解説の舌の根が乾かない19.05.03安倍首相は、日本会議の憲法集会にメッセージをよせ、2020年に憲法改正を行いたいと「令和元年という新たな時代のスタートラインに立って、国の未来像について真っ正面から議論を行うべき時に来ている」と述べた。令和という新時代は、改憲とセットとなった時代なのだ。「国民一人ひとりの花がしぼんでしまう」時代にしようと虎視眈々と狙っているのだ。ウソ八百首相にだまされるな。】

日本会議の憲法集会への安倍首相のメッセージ

🔷🔷安倍首相の新元号・令和の解説

 万葉集は20巻から成り、約350年間にわたって詠まれた約4500首を集めている。額田王(ぬかたのおおきみ)、柿本人麻呂、山上憶良らが代表的な歌人だが、天皇から防人、無名の農民に至るまで幅広い歌人が含まれ、地方の歌も多くある。安倍首相は「幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、わが国の豊かな国民文化、長い伝統を象徴する国書」と説明した。

 首相は「厳しい寒さの後に、春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたいとの願いを込め、令和に決定した」と語った。

 「大化」から「平成」までは、確認されている限り中国の儒教の経典「四書五経」など漢籍を典拠としており、安倍政権の支持基盤である保守派の間には、国書に由来した元号を期待する声があった。政府は今回、国書を専門とする複数の学者にも考案を依頼していた。

 「令和」(れいわ)の典拠

<出典>

 『万葉集』巻五、梅花(うめのはな)の歌三十二首(うたさんじゅうにしゅ)并(あわ)せて序(じょ)

<引用文>

 初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香

<書き下し文>

 初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風(かぜ)和(やわら)ぎ、梅(うめ)は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす

<現代語訳(中西進著『万葉集』から)>

 時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている。

🔴安倍晋三首相は、談話で、「春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように一人ひとりが明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、決定した」と述べた[8]
首相は新元号に込めた願いを「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたいとの願いを込め、『令和』に決定した」と語った。

🔵安倍首相談話と会見質疑要旨 新元号「令和」

朝日新聞201942

 安倍晋三首相が1日の記者会見で読み上げた首相談話(全文)と質疑の要旨は以下の通り。

 【首相談話 新しい元号「令和」について】

 本日、元号を改める政令を閣議決定いたしました。

 新しい元号は「令和(れいわ)」であります。

 これは、万葉集にある「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして 気淑(きよ)く風(かぜ)和(やわら)ぎ 梅(うめ)は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」との文言から引用したものであります。そして、この「令和」には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められております。

 万葉集は、千二百年余り前に編纂(へんさん)された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。

 悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込め、「令和」に決定いたしました。文化を育み、自然の美しさを愛(め)でることができる平和の日々に、心からの感謝の念を抱きながら、希望に満ち溢(あふ)れた新しい時代を、国民の皆様と共に切り拓(ひら)いていく。新元号の決定にあたり、その決意を新たにしております。

 五月一日に皇太子殿下が御即位され、その日以降、この新しい元号が用いられることとなりますが、国民各位の御理解と御協力を賜りますようお願いいたします。政府としても、ほぼ二百年ぶりとなる、歴史的な皇位の継承が恙(つつが)なく行われ、国民こぞって寿(ことほ)ぐことができるよう、その準備に万全を期してまいります。

 元号は、皇室の長い伝統と、国家の安泰と国民の幸福への深い願いとともに、千四百年近くにわたる我が国の歴史を紡いできました。日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を支えるものともなっています。この新しい元号も、広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくことを心から願っております。

 【質疑】

 ――平成の次の時代、どのような国造りをするか。

 「我が国の悠久の歴史、薫り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄はしっかりと引き継ぐ。同時に変わるべきは変わっていかなければならない。政治改革、行政改革、規制改革、抵抗勢力という言葉もあったが平成の時代、様々な改革はしばしば大きな議論を起こした。他方、現在の若い世代は変わることを柔軟に、前向きにとらえていると思う。本日から本格的にスタートする働き方改革は、何年もかけてやっと実現するレベルの改革だ。次代を担う若者たちが頑張っていける一億総活躍社会をつくり上げることができれば、日本の未来は明るいと確信している」

 ――令和の決め手は何だったのか。

 「我が国が誇る悠久の歴史、文化、伝統の上に、次の時代を担う世代のためにどういう日本を築き上げていくのか。新しい時代への願いを示す上で最もふさわしい元号は何かという点が一番の決め手だった」

 「平成の時代のヒット曲に『世界に一つだけの花』という歌があったが、次の時代を担う若者たちが明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、希望に満ちあふれた日本を作り上げていきたい」

 ――皇太子さまの即位後、国民の代表である首相としてどのような関係を築くか。

 「新しい令和の時代を国及び国民統合の象徴となられる殿下とともに歩みを進めて参りたい」

🔵元号案、首相指示で追加 「令和」3月下旬に提出 6原案、皇太子さまに事前説明

朝日新聞2019430

 新元号「令和」は、安倍晋三首相の指示で政府が3月に複数の学者にさらなる考案を求め、国文学者の中西進氏が同月下旬に追加で提出した案だったことがわかった。首相が同29日の皇太子さまとの面会で、「令和」を含む六つの原案を示していたことも判明した。2面=濃い政治色

 複数の政府関係者が明らかにした。首相は2月末、「国民の理想としてふさわしいようなよい意味」「書きやすい」「読みやすい」といった留意事項に基づき、事務方が絞り込んだ十数案について初めて報告を受けたが、学者に追加で考案を依頼するよう指示した。

 政府は3月14日付で国文、漢文、日本史、東洋史などの専門家に正式委嘱。その前後の3月初めから下旬にかけて、国書と漢籍の複数の学者に追加の考案を打診した。その求めに応じて提出された複数案の一つが、中西氏が3月下旬に出した「令和」だった。

 首相はその後、28日の首相官邸幹部らによる協議で「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか)」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽう)」「令和」を原案とする方針を決定。政府関係者によると、首相は翌29日、皇太子さまとの一対一の面会で六つの原案を説明したという。

 新元号「令和」は、4月1日の有識者による元号に関する懇談会、衆参両院正副議長への意見聴取、全閣僚会議を経て決まったが、首相は政府がこうした国民代表に意見を聴く前に、新天皇となる皇太子さまに元号案を説明していたことになる。皇太子さまへの事前説明は、日本会議などの保守派が求めており、自らの支持基盤に対する政治的な配慮だった。

 憲法4条は天皇の国政関与を禁じている。皇太子さまは即位を目前に控えた立場だが、政府は「意見を求めず状況報告するだけなら、憲法上の問題は生じない」(内閣法制局幹部)としている。

 これに対し、高見勝利・上智大名誉教授(憲法学)は「皇太子への事前説明は、元号の制定を天皇から切り離した元号法の運用を誤るものだ」と指摘。そのうえで「憲法4条は政治の側が天皇の権威を利用することも禁じている。特定の政権支持層を意識した首相の行為は、皇太子に意見を求めたかどうかに関係なく『新天皇の政治利用』にあたり、違憲の疑いがある」と批判している。

🔴(時時刻刻)新元号、濃い政治色 首相「他も検討しよう」 万葉集、政策重ね好感

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 新しい元号「令和」の選定過程を検証すると、安倍晋三首相主導の強い政治色が浮かんできた。首相が指示して元号案を追加し、皇太子さまに事前説明をしていた。1面参照

 元号を決めるまで1カ月余りに迫った2月末。元号案の絞り込みは政府の要領に基づき、菅義偉官房長官のもとで進めることになっていたが、菅氏は「最終的には首相が決めるんだから、首相も入れて議論しよう」と判断。首相をトップとする作業が政府内で極秘に本格化した。

 平成が始まって間もなくから内々に提出を受けてきた元号案のうち、考案者が亡くなった案などを除くと70程度。そこから改元の実務を担う古谷一之官房副長官補らのもとで十数案まで絞り込んでいた。絞り込む前後の案すべてを初めて見た首相は「うーん」と冴(さ)えない表情を浮かべた。

 「まだ時間はある。他にも検討してみよう」

 事務レベルの事前準備の段階から、首相の意向を反映して国書を典拠とする案は幅広く用意されていたが、この首相指示を受けて、古谷氏らは複数の学者に改めて「新しい案を考えてもらえないか」と相談することになった。

 2013年4月に副長官補に就いた古谷氏は、前任者からの引き継ぎで、首相が官房長官や第1次政権の時代から「元号の典拠は国書の方がいい」と求めていたと聞いた。就任したその年のうちに、万葉集研究の第一人者として知られる国文学者の中西進氏に新たに考案を依頼した。

 すでに民主党政権下でも準備は進んでいたが、古谷氏はさらに国書の選択肢を広げようとしたのだ。18年夏、「国書の先生にもお願いしていますから」と報告を受けた首相は「それはいいね」と応じた。

 2月に行われた協議の段階では、聖徳太子の十七条憲法の「和をもって貴しとなす」から採った「和貴(わき)」も候補だったが、葬儀社関連の名前に使われており見送られた。国書の中でも「日本書紀」などの六国(りっこく)史や「古事記」は、天皇の業績をたたえる文脈が多く、神話に根ざした内容が世論の批判を浴びかねないという難しさもあった。

 首相の指示を受けた学者への追加依頼は3月初めから断続的に続いた。下旬には首相や菅氏、杉田和博官房副長官、古谷氏、今井尚哉首相秘書官が連日のように協議。18日の週になって追加考案を打診した中西氏から数案が届いたのは、25日ごろ。新元号の決定まで1週間だった。

 首相は中西氏の数案の中にあった「令和」に目をとめた。「万葉集っていうのがいいよね」。最大の決め手は典拠だった。万葉集は天皇や皇族から、防人(さきもり)、農民まで幅広い層の歌を収めているとされてきた。首相は政権の看板政策「一億総活躍」のイメージを重ねて気に入り、28日の協議で「令和」を本命に6案を原案とする方針を決めた。

 他の案が元号になる可能性も排除していなかったが、4月1日の元号に関する懇談会で9人中8人が「令和」を支持。政府高官は「これほど『令和』が良いと言われるとは思っていなかった」と安堵(あんど)した。

 新元号の決定にあたって、どんなメッセージを発するべきか。首相は「令和」で一億総活躍を体現したがったが、首相官邸幹部は進言した。「首相の元号ではなく、次の時代の元号。政権の政策につなげて『安倍色』を出し過ぎれば、政治的なリスクになりますよ」

 首相が4月1日に発表した談話に、一億総活躍の文言は盛り込まれなかった。しかし、記者会見で首相は「一億総活躍社会をつくり上げることができれば、日本の未来は明るい」と強調。テレビ番組をはしごし、自ら前面に立って新元号をアピールし続けた。

 事前説明、違憲の指摘も 保守派に配慮、交換条件

 元号の発表を3日後に控えた3月29日。首相は東宮御所で皇太子さまと一対一で向き合った。皇太子さまが静養先から戻った当日の夜にもかかわらず面会したのは、前日固まった元号の原案を伝えるためだった。

 首相は通常、天皇に国政報告を行う内奏は行っても、皇太子に個別に会うことはない。このためまずは天皇陛下に、そのあと皇太子さまのもとへ向かった。

 「首相は新元号が自らのおくり名となる皇太子さまだけに元号案を説明した」。政府関係者の一人は、そう明かす。背景には保守派への配慮があった。

 憲政史上初の天皇退位に伴う改元となった今回、政府は新元号を事前公表する方針を早々に固めた。新元号を天皇陛下の在位中に決めれば、新元号を記した改元の政令に署名・押印して公布するのも、いまの陛下になる。これに対し日本会議などの保守派は「新天皇による公布」を求め、強く反発した。

 首相は昨年12月下旬、衛藤晟一首相補佐官ら保守系議員を首相公邸に秘(ひそ)かに招き、新元号の「1カ月前公表」を受け入れるよう説得。衛藤氏らが交換条件として首相に求めたのが「皇太子さまへの元号案の事前説明」だった。

 1989年の前回の改元では、新元号を閣議決定する直前の段階で、即位したばかりの天皇陛下に「平成」が伝えられた。内閣が正式決定する前の伝達は、新天皇への格別の配慮だ。憲法学者の間には「国民主権の憲法の趣旨に反する」との批判があった。

 今回、首相は発表日ではなく、3日前に「事前説明」という全く別の形で新天皇への配慮をしたことになる。その上で4月1日当日は閣議決定後に天皇陛下と皇太子さまに伝えた。記者会見の最後には「閣議決定を行った後に、今上陛下および皇太子殿下にお伝えいたしました」と強調した。

 しかし、発表3日前に複数案を提示した首相の行為は、閣議決定直前に「平成」を伝達した前回よりも「新天皇が元号の選定過程に関与したのではないか」という違憲の疑いを強く招く結果をもたらした。

🔴「令和」考案は中西進氏 万葉集研究者 政府関係者認める

朝日新聞2019420

 政府は19日、新元号「令和」の選考過程で1日に開いた有識者懇談会、衆参両院正副議長への意見聴取、全閣僚会議の議事概要を公表した。「令和」以外の最終案やそれらの考案者は明らかにしなかった。だが、朝日新聞の取材に対し、複数の政府関係者が「令和」を考案したのは国文学者で、万葉集研究第一人者の中西進氏(89)だったことを認めた。4面=9人中8人支持、13面=インタビュー

 中西氏は1970年に著書「万葉集の比較文学的研究」などで日本学士院賞を受賞。94年には宮中行事「歌会始」で天皇陛下に招かれて歌を詠む「召人(めしうど)」を務めた。2011年から富山市の「高志の国文学館」の館長。安倍政権下の13年に文化勲章を受章した。政府が新元号の典拠とした万葉集の研究で第一人者として知られているため、中西氏は元号発表直後から考案したと有力視されてきたが、取材では認めていない。

 政府は今年3月14日付で国文、漢文、日本史、東洋史の学者に元号の考案を委嘱。1日の決定過程では、中西氏が考案した「令和」を含む6案を有識者9人による「元号に関する懇談会」などに提示した。

 政府が公表した議事概要によると、懇談会の場では「令和」について、「我が国がもっている素晴らしい洗練された文化を象徴している」など賛同する意見が相次いだとされる。懇談会などの詳細な議事録は別途作成して、「令和」の次の元号が決まった後に国立公文書館に移管して公開する方針だ。

🔴(インタビュー 平成から令和へ)万葉集と元号 国文学者・中西進さん

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 元号としては初めて、中国古典ではなく「国書」から引用されて注目された新元号「令和」。政権の姿勢が反映されたとの批判もあるが、日本最古の歌集・万葉集と元号が21世紀に出合った意味は何なのだろう。万葉集研究の第一人者で、令和の考案者であると有力視されてきた国文学者・中西進さんが18日、取材に応じた。

 ――令和が新元号に決まりました。どんな感想を持ちましたか。

 「僕などの意見を聞くまでもなく、世論調査で8割を超える人々が良いと答えています。僕自身もその人たちの中に入りますね」

 ――安倍晋三首相は令和について「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味だと述べました。

 「令和の典拠である万葉集の『梅の花の歌の序』は、九州の大宰府に役人ら32人が集まって開かれた梅花(ばいか)の宴についての説明文です。誰か一人が歌を詠んでいるのではなく、32人が歌を通して集い、心を通じ合わせている姿。その和がいいと思います」

 「国と国との間に和がある状態、それが平和です。だから令和には平和への祈りも込められているのだと、僕は考えます」

         

 ――令という文字は今回、「令月」から採られました。

 「辞書を引くと、令とは善のことだと書いてあります。つまり、令の原義は善です。そこから派生して、文脈ごとに様々な別の使い方が前に出てくる。人を敬う文脈では『令嬢、令息』にもなるし、よいことを他人にさせようとすれば『命令』にもなります」

 「品格のあること、尊敬を受けること。そういう意味での『よいこと』が令です。そして、令に一番近い日本語は何かといえば、『うるわしい』という言葉です」

 ――安倍首相は「美しく」と談話で言っていましたが。

 「これからは『うるわしく』と言うべきでしょうね。うるわしいと美しいは、イコールではありません。うるわしいは、整っている美しさのことです」

 ――令和という元号の考案者には、いまの時代に「整っている美しさ」が必要だと考える理由があったのでしょうか。

 「あるでしょうね。いまが野放図な時代だからです。明確な目的もポリシーもない。私たちは目標を持つべきです。そして何を目標にするべきかと言えば、令です」

 ――令和が発表された後、自著を刊行する出版社に「『万葉集』は、令(うるわ)しく平和に生きる日本人の原点です」というメッセージを送りましたね。なぜ、「平和」という2文字を選んだのですか。

 「僕は戦禍を嫌というほど体験しているのです。先の大戦で、中学生だった僕は、東京が空襲で焼け野原になったのを見ました。爆風で衣服を吹き飛ばされ、ろう人形のようになった裸の遺体がたくさん転がる中、軍需工場へ出勤したのです。機銃掃射も受けました。魂に影響を受けた経験です」

 ――なぜいま、平和という言葉を社会に送ったのでしょう。

 「終戦から約70年、日本人は自国の軍国化を何とか防ぎ、おかげで平和が保たれてきました。しかしいま、難しい局面が立ち現れています。政治リーダーは苦労をする立場にあるのでしょう。でもそこには決して越えてはいけない線、聖なる一線があるのだと僕は訴えたかったのです。軍国化をしてはいけないという一線です」

 ――誰が令和の考案者かを知ろうとする取材陣に中西さんは「元号は個人ではなく、天が決めるものだ」と言っていますね。

 「ええ、天が決めるものであって、個々人の名前とは切り離されるべきものだ、と思います」

 ――元号を考案するという作業は、相当の時間や負担のかかるものなのではありませんか。

 「元号を考案することは、名誉な重荷でしょう。案を出すプレッシャーは大きく、考案者はいつもそのことが頭から離れないと思いますよ」

 ――令和をめぐっては、万葉集のほかにも典拠・出典があるという批判の声もあります。

 「王羲之(おうぎし)の『蘭亭序(らんていじょ)』や、詩文集『文選(もんぜん)』の『帰田賦(きでんのふ)』のことですね。確かに形式などに共通性を見いだすことも可能ですが、文脈や意味がかなり異なるので、典拠にあたるとは思いません」

 「そもそも僕は、出典が何かより、その言葉がどのような表現かの方が大事だと考えます。受容は変容であり、万葉集も単なるものまねではない独自性に到達しています。文化や文明は、変容を肯定的に認めることによって育まれるものです」

         

 ――そもそも、元号とは何なのでしょう。

 「僕の生家には、子どもが生まれると親が庭に木を植える習慣がありました。まず姉の木、次に僕の木……という具合です。子どもとともに木も育つ。生命が互いに伴いながら進んでいきます」

 「元号も、天皇の誕生(即位)とともに生まれるものです。新たに誕生したものに名付けられるもの。一国のライフ・インデックス、『生命の索引』ではないかと考えます。元号は年数の数字の羅列を区分するものです。文化に属する存在、文化的な装置です」

 ――元号は元々は中国で生まれた制度です。考案する際も中国の古典が典拠にされてきました。しかし今回は、日本で書かれた「万葉集」が出典とされました。

 「元号の制定にはいろいろな条件がありますが、それには少しおかしいところがあります。中国で聖典とされているものがそのまま日本でも聖典となりうるのか、他国にある既往の産物に縛られてもよいのか、という疑念です」

 「日本は古代以来、近隣にある圧倒的な文明国であった中国の文化に抱っこしてもらい、中国に依存する形で歴史をつむいできました。しかしそれは、いつかピリオドを打たなければいけないことだったのだと思います」

 ――ただ、国書への転換を願った人々の中に近隣国を軽視する人がいたことは気になります。日本が独善や孤立に陥らないためには何が必要でしょうか。

 「それこそ『和』でしょう。そして、和の対極にあるのが暴力的な他国への越境です。日本には、朝鮮半島などに武力で押し入ってしまった歴史があります。そういう近代のひどい歴史は、もう終わりにすべきです」

 「漢字という共通性を持つ東アジアという大きな文化の中に、日本はいるのです。排他的であってはなりませんし、とはいえ、自分を失う形で溶け込んでもいけない。国際性を持ちつつ、独自の理想を掲げてほしいですね」

 ――万葉集には戦前、国家による戦争動員に利用された歴史もあります。たとえば大伴家持(おおとものやかもち)の「海行かば」は曲を付けられ、天皇のために死ぬことを美化する目的で使われました。

 「二度とあってはならないことだったと思います。国家主義的・軍国主義的な便宜のために、権力者に古典が利用されてしまった例です」

 「戦前には日本を『神の国』と特別視する風潮があり、戦争は『聖戦』と正当化されました。フェイクでしたが、そうした『日本的特性』を示したい勢力に万葉集は利用されたのです。古典を利用しようとする勢力はいまもあります」

         

 ――万葉集が貴族や天皇だけでなく庶民の歌も収めていることには、どんな意味があるでしょう。

 「万葉集には防人(さきもり)の歌がたくさんありますが、特徴的なのは、その多くに作者名が書かれていることです。戦争では兵士は消耗品とされ、万単位でカウントされる存在ですが、万葉集は防人の人々に固有名詞を与えているのです」

 ――万葉集は漢字で書かれています。文字を持たない日本が中国から漢字を採り入れた。それが万葉集誕生の基盤にありますね。

 「外国にある優れたものを拒絶せずに採り入れることは、日本の特徴だと思います。注目すべきは、単に採り入れるだけではなく、自分たちが使いやすいように作り替えていったこと。日本は漢字を作り替えることを通して、独自のひらがなやカタカナによる無限の美の世界を創出しました」

 「日本文化には、内部に光源を包み持った球体のイメージがあります。外部にあるものを取り込んで新しい輝きに作り替え、それによって内部から輝くのです。『日本文化か、それとも中国文化か』といった二項対立的なモノの見方とは異なる、文化の姿です」

 ――元号はこの先も存在感を維持できるでしょうか。

 「利用を強制できるわけでない以上、元号という文化に参画する喜びがカギになるでしょう」

 ――今回の元号の決め方について、どう思いますか。

 「今回、候補になった元号案を検討したのは、『懇談会』の識者9人と衆参両院の正副議長、閣僚でした。これでは、検討の機会が少なすぎると思います。多数が議論しなければいけない」

 「議論をしても、たぶん令和が一番いいとは思いますよ。それでももう少し議論をしないと」(聞き手 編集委員・塩倉裕)

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 なかにしすすむ 1929年生まれ。国際日本文化研究センター名誉教授。万葉集に迫る独創的な研究は「中西万葉学」とも。「中西進著作集」など著書多数。

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🔵安倍首相アピール令和の出典「初の国書」というマヤカシ

日刊ゲンダイ19/04/02 

序文は「漢文」(万葉集)/(C)共同通信社

「歴史上初めて国書を典拠とする元号を決定しました」――。1日の談話発表会見で、こう胸を張った安倍首相。出典元である日本最古の歌集「万葉集」について「国の豊かな国民文化を象徴する国書」とほめちぎっていたが、そもそも、出典が「国書から」と言えるのかどうか疑問の声が上がっている。

「令和」は、万葉集の<梅花の歌三十二首>の序文にある<初春令月、気淑風和>(初春の令月にして、気淑く風和ぐ)の一節に由来する。「出典は国書」との安倍首相の主張に疑問が上がっている理由は、出典元の序文が漢籍に基づいているからだ。

「犬養万葉記念館」館長で万葉集に詳しい岡本三千代氏がこう言う。

「新元号の由来となった序文は、大伴旅人が詠んだとされています。武官として知識階級の地位にいたことから、漢文の素養がかなり深かったことが分かります」

 実際、万葉集の解説書を紐解くと、<初春令月、気淑風和>について、「新日本古典文学大系『萬葉集(一)』」(岩波書店)は、後漢の文学者・張衡による「帰田賦」の一節<於是仲春令月 時和氣清>(仲春令月、時和し気清らかなり)を踏まえていると指摘している。

 他に、「新編日本古典文学全集7『萬葉集』」(小学館)も、<初春――>が書聖王羲之の「蘭亭序」にある<天朗氣清、惠風和暢>(天朗らかに気清く、恵風和暢なり)に依拠していると明記している。

 要するに、大伴旅人の序文は漢籍を念頭に入れたもので、それに基づいた「令和」は漢籍からの孫引きなのである。

 安倍首相が「史上初めて国書を典拠としました!」とアピールしまくっているのは、漢籍由来を隠すためのマヤカシに過ぎない。

「安倍首相は中国嫌いなので、何としても元号は漢籍を出典とする伝統を壊したかったのでしょう。単に嫌中の保守派におもねるためだとしか考えられません。元号の発表さえも嫌中プロパガンダに利用するという、お粗末な政治ショーですよ」(政治評論家・本澤二郎氏)

 安倍首相が国のトップでいる限り、国家の安寧はやってこない。

🔵「令和」、ぬぐえぬ違和感 中国思想史専門家が読み解く

朝日新聞2019410

 新しい元号となる「令和(れいわ)」は、1300年以上ある日本の元号の歴史の中で初めて「国書」が典拠とされた。出典から外れた中国古典の専門家はどう受け止めているのか。中国思想史が専門の小島毅・東京大教授は、いくつもの違和感を指摘する。

小島毅・東京大教授

❶読み「りょうわ」では/国書強調、伝統の成り立ちを軽視

 政府は新元号の出典を『万葉集』巻五「梅花(うめのはな)の歌三十二首并(あわ)せて序」の「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、(後略)」と発表した。小島さんが最初に違和感を指摘するのが、新元号の読み方だ。「令」を漢音で読めば「れい」だが、比較的古い呉音(ごおん)なら「りょう」だ。小島さんは「当時の法制度は『律令(りつりょう)』。皇太子や皇后の出す文書は『令旨(りょうじ)』。大宰府で『万葉集』の観梅の宴を主催した大伴旅人(おおとものたびと)が想定したのは呉音だっただろうから、『りょうわ』でもよいのでは」という。アルファベット表記についても「Reiwaより実際の発音に近いLeiwaにしたらどうだろう」という意見だ。

 小島さんは、漢字2字の組み合わせにも異を唱える。「初春令月、気淑風和」から意味をなす2字を選ぶなら「淑和」もしくは「和淑」だという。「令」は「よい、めでたい」という意味で「月」を修飾する。「和」は「(風が)穏やかになる」という意味。「令と和には直接の関係がなく、結びつけるのは無理がある」。『書経』の「百姓昭明、協和万邦(百姓〈ひゃくせい〉昭明にして、万邦〈ばんぽう〉を協和し、〈後略〉)」に基づく昭和も二つの句にまたがるが、国内を意味する「百姓」と外国を意味する「万邦」が対になっているので意味は通る。これに対して「令和は無理やりくっつけている感じがする」という。

 小島さんは、観梅の宴で詠まれた歌の題材も気がかりだという。「梅花の歌」序文は「古今」の「詩」(中国の漢詩)に詠まれた「落梅之篇(のへん)」に触れる。「咲き誇る花ではなく落ちゆく花。縁起がいいと思う人は少ないのでは」。32首のうち旅人の歌は「吾(わ)が苑(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも」。「梅が散る様子を雪にたとえており、寒々しい時代になるとの解釈もありうる」と小島さん。

 歴代元号には、為政者の理念やいい時代の到来への期待が込められてきた。元号を選ぶ際には、平安時代以来、学識がある家柄の者が漢籍から複数の候補を挙げる「勘申(かんじん)」を経て、公卿(くぎょう)(上級貴族)が候補を審議する「難陳(なんちん)」で様々な角度から議論した。小島さんは「難陳になれば『縁起がよくない』と批判を浴びたはず」とみる。

出典を「初の国書」という政府の発表はどう考えればいいのか。

 新元号の発表直後、多くの専門家が「梅花の歌」序文のお手本として、中国の古典である王羲之(おうぎし)の「蘭亭序(らんていじょ)」や、詩文集『文選(もんぜん)』の張衡(ちょうこう)「帰田賦(きでんのふ)」からの影響を指摘した。『古事記』『日本書紀』『万葉集』が出典だと主張しても、中国古典にさかのぼる可能性が高い。小島さんはその理由を「日本独自の元号といっても制度自体、中国から学んだもの。日本の文学は中国古典に多くを学び、発展してきた」と解説する。

 小島さんの目には、「初の国書」という日本独自の歴史や文化をわざわざ強調する政府の姿勢が、大陸伝来の文化を基盤とする日本の伝統の成り立ちを軽視しているかのように映るという。そもそも大伴旅人が観梅の宴を開いた大宰府は、唐や新羅の使節が訪れて交流した場所でもある。

 元号は中国や日本に限らず、「東アジアの漢字文化圏全体が共有する伝統だ」と小島さんは強調する。19世紀以降の帝国主義と革命、近代化とナショナリズムの時代を経て、いま元号の制度が残るのは日本だけとなった。「日中戦争の最中も昔の中国文明や儒教、漢詩の伝統には深い敬意が払われていた。今回の政府の説明でも、中国古典の『文選』と国書『万葉集』のダブル典拠とすれば、東アジア友好のメッセージが伝わったはずなのに」(大内悟史)

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 こじま・つよし 1962年生まれ。専門は中国思想史。著書に『天皇と儒教思想』『儒教が支えた明治維新』など。

🔴(Question)日本の元号の伝統、どう捉える? 辛徳勇氏

朝日新聞2019420

 7世紀、「中国皇帝と対等」示した 北京大学歴史学部教授・辛徳勇氏

 ――中国の元号はいつごろ始まったのですか。

 「一般的には前漢の武帝時代の『建元』(紀元前140年ごろ)と言われているが、実ははっきりしない。当時、この元号が使われた証拠がないのだ。私の研究では、初めて使われた元号は同じ武帝時代の『太初』(紀元前104年ごろ)。秦の始皇帝が定めた10月1日を正月とする暦を、太初以降、現在も使っているような農暦(旧暦)に変えるなど大改革があった。それ以前の元号は後からさかのぼって命名したようだ」

 ――日本では5月に改元します。

 「中国では皇帝が代わっても年の途中での改元はめったになかった。『一年不二君』(同じ年に2人の君主がいてはならない)の考えから、次の正月に改元した。公文書の作成が不便になるといった技術的要因もあった」

 ――新元号は、初めて日本の国書から引用して「令和」と決まりました。

 「『令和』はわかりやすく、書きやすいので良いと思う。中国の古典から引用すればもっと優雅な元号ができたとは思うが。万葉集から引用したことで様々な議論が出ているが、日本的な元号にしたいという感情は理解できる。平仮名やローマ字の元号でも構わない。ただ、中国との文化の違いや『日本化』をことさら強調するのであれば賛成できない。ナショナリズムを助長し、悪影響が出る」

 ――日中文化の融合とも言える元号という伝統をどうとらえればいいでしょう。

 「そもそも日本が独自の元号(大化、645~650年)を使い始めた時点で『脱中国化』したと言える。元号は天命を受けたことを象徴する。中国の皇帝も日本の天皇もそれぞれ天命を受け、対等なのだと明確に示した。中国の元号を併用した朝鮮半島などとは異なる」

 ――とはいえ日本は中国文化を排除したわけではありません。

 「日本は中国由来の文化を大いに受け入れ、独自に発展させた。中国で早くに漢字が成立したので、日本語の形成過程で漢字が借用された。逆に現代中国語は、明治以降に日本で考案された単語が大量に使われている。それらの言葉がなければ中国人は会話も文章を書くこともできない」

 「これは中国だ、日本だとこだわるのでなく、東アジア共通の文化という大きな視点で考えた方がいいと思う」(聞き手・西村大輔)

     *

 辛徳勇(シン・トーヨン) 1959年生まれ。陝西師範大学副教授や中国社会科学院歴史研究所副所長などを経て現職。歴史地理学、歴史文献学などが専門。著書に中国古代の元号についての「建元と改元」など。

🔴万葉集、「愛国」利用の歴史 「令和」の典拠、歓迎ムードに警鐘

2019416日朝日新聞

戦時中、多くの書物に万葉集が引用された

品田悦一・東京大教授

 新元号「令和」の典拠になった万葉集に、注目が集まっている。万葉学者の品田悦一(よしかず)・東京大教授は、万葉集が近代以降、「愛国」に利用された歴史を指摘し、「初の国書」を歓迎するムードに警鐘を鳴らす。

 「庶民の歌」に異議/昭和は軍国歌謡に/左翼も礼賛

 万葉集は、奈良時代に編集された日本現存最古の歌集とされ、平安時代から歌人や国学者らの手でたびたび書き写され、訳され、評価されてきた。

 品田さんは、「問い直したいのは、万葉集そのものの価値ではなく、利用のされ方です」。品田さんが20年来提起している説はこうだ。明治時代に近代国家をつくっていく時、欧米列強や中華文明への劣等感から、知識人は国家と一体となって「国民詩」を探した。そこで、庶民には無名に近かった万葉集が「わが国の古典」の王座に据えられ、国民意識の形成に利用されたのではないか――。

 新元号発表後の安倍晋三首相の談話には「天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ」とある。ところが、品田さんは「貴族など一部上流層にとどまったというのが現在の研究では通説と言えます」。

 万葉集には、東歌(あずまうた)など身分の低い人が詠んだとされる歌が多数あるが、彼ら自身の言葉で詠んだとは考えにくいという。詩の形式が五、七音節を単位とする貴族たちの歌と同じ形で整いすぎていることなどを根拠に挙げる。「当の本人は万葉歌集の存在自体、知る由もなかったはず」と、ことさら庶民を強調する政府の発表に、「この認識自体が明治国家の要請に沿って人為的に作り出された幻想だった」と異議を唱える。

 品田さんはまた、「万葉集の4500首余りのほとんどは男女の交情や日常を歌っているのに、数十首の勇ましい歌が、昭和の戦争期には拡大解釈されたことを思い起こすべきです」と話す。よく知られる「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍大君(おほきみ)の辺(へ)にこそ死なめ顧(かへり)みはせじ」に曲をつけた軍国歌謡は大宣伝された。「忠君愛国と万葉集は切っても切れない関係にある」

 軍国主義に利用されたのに、戦後もなぜ「万葉集は日本人の心のふるさと」とされたのか。品田さんは「敗戦後、左翼の側も『国民歌集』の復興を歓迎し、利用したため」と言う。国の強制に対し防人がどうあらがったかを、父母と別れる悲しみを詠んだ歌を引くことで示した。「『民衆にも席を用意した民主的歌集』などと礼賛しました」

 「平和時も、万葉集を『天皇から庶民まで』の作が結集された全国民的歌集であるかのように想像すること自体が、国民国家のイデオロギーであることを、知ってほしい」

 品田さんがこの学説を提起したのは、『万葉集の発明 国民国家と文化装置としての古典』(新曜社、2001年)。絶版となっていたが、新装版が4月末にも、緊急復刊される。

 国文学研究資料館のロバート・キャンベル館長は、「『万葉集の発明』は古典研究の海図を書き換える上での重要な達成で、学会では、このように前提を洗い直す見方が定着してきた」とみる。他方で、「戦時中などの不幸な時代に再解釈されてきた『過程』は忘れてはならないが、1300年を経てもなお歌集が残り、これだけの人の心を浮き立たせているという『結果』は、評価に値する」と話す。(田渕紫織)

🔵高村薫の新元号キャンペーン批判=サンデー毎日19/04/28

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🔴(星の林に ピーター・マクミランの詩歌翻遊)雪と梅、清らかな「見立て」

朝日新聞デジタル2019510500

 わが園に梅の花散るひさかたの

 天より雪の流れ来るかも

 (『万葉集』822番 大伴旅人)

 Plum-blossoms 

 scatter on my garden floor.

 Are they snow-flakes

 whirling down 

 from the sky?

 「天(あめ)」をheavensではなくskyと訳した。幻想的で神々しい「天」を意味するheavensよりも、現実的な「空」であるskyから花が流れてくるとする方が、英語ではかえって幻想美を際立たせられるからだ。

     ◇

 何年か前、万葉集の研究における第一人者にお会いする機会があった。その方は「万葉集はまだすべて英訳されていない。あなたがやりなさい」と言った。4500首だから、10年もあればできる、と。10年! 私はその途方もなさに笑ってしまった。しかし、その方の言葉は頭を離れなかった。

 ゆっくりと、私の万葉集への関心は育っていった。昨年、万葉集についての講演を頼まれてから、翻訳への興味は、さらに燃え上がった。なんだか、この歌集を訳すように、すべてが自然とそう向かっているように感じられた。

 だからこの春、新しい元号が万葉集からきていると知った時の驚きと感慨は、言葉にできなかった。私の仕事の多くは古典文学に関わるものだから、その言葉が歌集、それも偉大な文学作品を出典としていることに、わくわくした。翻訳の仕事を、大きく後押ししてもらったように感じた。

 今回は「令和」の出典となった序文をもつ梅花の宴の歌のうち、宴の主催者である旅人(たびと)の歌を紹介したい。「見立て」は日本文化の重要な概念の一つで、あらゆるジャンルに影響をおよぼしている。見立てとはあるものを別のあるものに置き換えたり、一体化させたりして捉える発想である。この歌の梅の花と雪の場合は前者であり、漢詩にも好まれた雪と梅の比喩を、清らかに歌い上げている。この見立ては欧米にはないものなので、とても新鮮に映る。

 この門出の日に、私は日本にいる人々の幸福が、旅人の思い描く空に流れた花びらと同じくらいたくさん、豊かであるように祈る。ついに覚悟を決めて、万葉集の翻訳に取り掛かってみるつもりである。(詩人、翻訳家)

◆◆万葉こども賞コンクール入賞 作文2015年3月24日朝日新聞

◇最優秀賞 松田わこさん

立山(たちやま)に降り置ける雪を常夏(とこなつ)に見れども飽かず神(かむ)からならし(大伴家持〈おおとものやかもち〉)

 私は、この歌が大好きだ。なぜなら、家のベランダからいつでも見ることができる立山が歌われているからだ。立山は、富山の人々にとって本当に身近な存在だ。小学六年生で立山の山頂を目指す学校も多い。

 私は、大伴家持が夏の立山を歌の題材に選んでくれたことを、とてもうれしく思う。でも、どうして家持が立山に夏も残る雪に、それほど心動かされたのかが、どうしても分からない。もしかしたら、家持はそれまでの人生で、高い山を見たことがなかったのだろうか。そして、暑い夏に、冷たい雪があるということに心底びっくりしたのだろうか。私達(たち)にとって、山といえば立山。では家持にとっての山はどのようなものだったのだろうか。

 私は、どうしても、いにしえの時代に家持が見ていた山を、自分の目で見てみたくなった。私がその話をするとすぐに、夏休みの家族旅行の行き先が、奈良県に決まった。八月のある暑い日、私達四人は、きらきらと輝く白い雪が残る立山に見送られ、奈良に向かった。私達が降り立った駅は、かつて平城京があったところだ。駅から少し歩き、ゆっくり周りを見回した私は、とても驚いた。そこには山があった。優しい緑色をした、とても穏やかで、なだらかな山々が。立山がベートーベンの迫力ある交響曲だとしたら、目の前の山は、メンデルスゾーンのやわらかなピアノ曲のようだ。山と山は手をつないで笑っているように見えた。その時、今まで味わったことのない不思議な感覚が、私に訪れた。私の心が、山の向こう側に、生き物や自然の息づかいを感じたのだ。立山は私達の前に高くそびえ立ち、その向こう側の世界など想像したこともなかった。家持が、神の存在すら感じたことも納得できる。しかし奈良の山に向かって「おーい」と叫べば、山の向こう側から「よく来たねぇ」という声が返ってきそうだった。もしかしたら、私も、家持も、今まで見たこともないような「山」に初めて出会い、心地よい驚きを味わった仲間同士なのかもしれない。うれしすぎる発見だ。ベートーベンの山と、メンデルスゾーンの山。私と、家持。四人で出かけた旅は、いつの間にか五人での旅になっていた。(富山市立堀川中1年)

◆優秀賞 斎藤孝太郎さん(徳島文理小4年)

梅の花今咲ける如(ごと) 散り過ぎずわが家(へ)の園にありこせぬとも(小野老〈おののおゆ〉)

 ぼくの家で、春を一番に感じることは、庭の梅の木に、花が一輪二輪と咲いた時だ。

 「あっ梅の花が咲いとうよ」

 その言葉を合図にして、家族が庭に出て梅の花を見る。梅の花のなんともあまい優しいにおいが、家の中まで入ってきて幸せな気分につつまれる。

 山のふもとに家があるので、名もわからない鳥が飛んできては、庭の実をついばんでいく。梅の花が咲くころには、必ずうぐいす色をしたメジロが飛んでくると、「孝太郎君、春ですぜ」と知らせてくれる。こんな自然をいっぱい感じさせてくれる庭に感しゃだ。

 ぼくの家の梅の木は、かなりの老木で緑色したこけが所々に生えている。変な虫がついたり、花が咲いても実にならなかったり、すごく弱っているようだ。ひいおじいちゃんが植えた梅の木だ。会ったことのないご先祖様にありがとうと伝えたい。梅の木は、毎年ほんのりと春を伝えてくれる。ひいおじいちゃんの優しさかな。大切に大切に守っていくよ。

 もう少し、長生きしてくれ梅の木よ。ずっと美しい花を咲かせておくれ梅の木よ。かぐわしいかおりをいつまでも。万葉の古から、自然を愛(め)でる日本人の思いは、うけつがれている。少弐(しょうに)小野大夫(おののだいぶ)から、ぼく達(たち)に続くあかしなんだと思うんだ。

◆優秀賞 本多みずほさん(東京学芸大付属国際中等教育学校3年)

うらうらに照れる春日(はるひ)に雲雀(ひばり)あがり情(こころ)悲(かな)しも独りしおもへば(大伴家持〈おおとものやかもち〉)

 忘れられない気持ち

 この歌に出会った時、私は自分の経験した気持ちが作者である大伴家持の気持ちと重なり、その経験を思い出さずにはいられませんでした。

 父の転勤で、今までに何度も引っ越しを経験してきた私にとって、春は別れの季節であり、これから住む環境やそこで関わっていく人たちとの出会いに不安を抱く季節でもありました。数年間経ってようやく住み慣れた街とも、通った学校とも、友達とも離れ、新しい環境に飛び込んでいくのは、二回目、三回目だからといって慣れられるものではありません。特に私の心を悩ませたのは、また知らない場所で新しい友達を一から作らなければならなくなるということでした。

 友達を作ること自体は苦手ではなかったのですが、すでにある友達の輪に新しく入っていくとなるとわけが違いました。「みんなは自分をどう思うのだろう」「みんなのペースに合わせられなかったらどうしよう」そんな心配ばかりが募り、気持ちはどんどん落ち込んでいってしまうのです。新学年となり、希望に満ち溢(あふ)れているはずの春も、このことを考えるとどうしようもなく憂鬱(ゆううつ)に思えてなりませんでした。しかし、皮肉なことに春は温かな太陽の光で私たちを照らし続け、柔らかなピンク色の桜の花びらで辺りを彩ります。外はこんなにきれいで、日に日に暖かくなっていくこの季節を喜んでいるかのように小鳥の鳴き声も聞こえてくるのに、なぜ一人だけ悩んでいなければならないのだろう……。その気持ちは、まさに大伴家持の「情悲しも独りし思へば」でした。

 家持や私が経験した、「春の輝かしい景色が、暗い気持ちとは裏腹に明るくきらめいている様子を見て、余計に心が悲しく沈んでゆく」という複雑な感情を、私は言葉では言い表せませんでした。しかし、家持はそれを短歌の中に見事に落とし込み、一三〇〇年の時を越えて私の心を動かしました。万葉集を読んでいても、これほどまでに共感し、引きつけられる歌は他にはありませんでした。

 春になれば、私の家の周りでも、家持の見たうららかに照る日と、空に向かって上がってゆくひばりが見られるかもしれません。こうして万葉の時代の人と、見ている風景やそこで感じた気持ちを共有できたことは、とても特別な体験となりました。

◆万葉文化館賞 近藤千洋さん(徳島文理中1年)

もの思(も)ふと隠(こも)らひ居(お)りて今日(きょう)見れば春日(かすが)の山は色づきにけり(作者不明)

 私の自分時間

 いつの頃からだろう。時計時間とは違う私だけのリズムで時間が流れていることがあると感じ始めたのは。他のことに一切とらわれず、好きなことに熱中している時。

 最近の私の楽しみは読書。それもお風呂での読書だ。冷え症で足が特に冷たい私は少し長めに湯船に浸(つ)かるといいと聞き、それならと本を持ち込むことにした。これがなかなか快適で、寝る前ふとんに横になってしていた読書より断然上だ。しかも「寝転んで読むと目が悪くなるからやめなさい。」と注意されなくてもすむ。時々、あまりの長風呂に「大丈夫。お風呂で寝てない。」と心配されることがあるが。その位(くらい)、時間を忘れて思う存分に読書に浸れるのだ。今日は何を読もうと考えながらお風呂に入る準備をする時から始まっている私の毎日の至福の時。時計が止まって、私だけの緩やかな時間が流れている。

 今日のお風呂の友は万葉集。いつもは黙読のお風呂読書だが、万葉集は声に出して読む。小学生の頃からの癖だ。歌の言葉の音を耳で聞くと心地良く、次に情景をゆったりと想像する。七、八世紀の時代にタイムスリップして万葉びとの心に不思議と近づける気がするのだ。ただ、私の勝手な解釈は解説を読むとかなりずれていることも多いのだが。それもおもしろくて好きだ。

「もの思ふと隠らひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり」

 この歌を読んだ瞬間、ビンゴと思った。私の心、私だけの時間感覚があることをぴったり歌い表している。繰り返し読んだ。何かに集中している時、その人にはその人だけの時間が流れている。気付くともうこんなに時計が進んでいたんだと驚くことがある。驚きながら、自分のために使った時間に幸せを感じる。この歌の作者も気付いていたんだ。二つの時間があることを。そして、作者は季節が変わるほどの長い時間、物思いにふけることができたなんて。少し羨(うらや)ましく思った。私も一生に一度はその位、読書に没頭してみたい。

 思い返してみると私は小さな頃、母の声で聞く本が大好きだった。母の膝(ひざ)の上、食事中、ふとんの中。仕事をしていて忙しかったはずの母だが、私と一緒の時はいつも本を読んでくれていた。母の愛情に包まれている安心で豊かな時間。この優しい時の流れが、私が一番最初に感じた自分時間だったのだと思う。

◆朝日新聞社賞 長谷部依央さん(京都・同志社中3年)

この世にし楽しくあらば来(こ)む生(よ)には虫に鳥にもわれはなりなむ(大伴旅人〈おおとものたびと〉)

 『今を精一杯(せいいっぱい)生きること』

 この歌は、夜も更けて宴が一段落ついたところで、一同は、酒を酌み交わしながら人生について語り始めるという設定である。まず、宴の中の一人が、「次の人生では、自分は何に生まれ変わるだろうか。虫や鳥などの畜生道に変わっているかもしれない。そうすると、今飲んでいる酒を味わうことも、宴を楽しむこともできなくなってしまう」と言う。それを受けて、大伴旅人が、「確かに、死んだ後、自分が何に生まれ変わるのか誰にも分からない。しかし、もともと、未来とはそういう先の見えないものなのだ。私たちにはどうすることもできない。それならば、先のことを心配するよりも今を精一杯生きれば十分なのではないか」と言い、歌にしたものである。

 ところで、中国の故事成語に「杞憂(きゆう)」という言葉がある。杞の国の人が、空が落ちてきて自分は死んでしまうのではないかと心配しながら日々を暮らしていた。起こるかどうかわからないことを心配するのは、とてもナンセンスなことで、今、生きている事実をないがしろにしていると言えるだろう。たとえば、友達と楽しく過ごしたり、好きな本や音楽を聞いて自分を磨くなどその時その時の時間を心から味わえれば、心配事など忘れてしまうのではないだろうかと思う。大伴旅人の歌の「今を精一杯生きれば十分」と同じだと解釈した。今の一つ一つがつながっていって「未来」となるのであって、「未来」が「今」と独立して別のものとして存在しないということだろう。

 現代は、先の見えにくい時代だとよく言われる。グローバル化が進んでいく中で、今まで当然と思ってきた価値観や常識が通用しなくなった。同様に、個人の生き方も多様化し、こうしたら成功するといった決まったコースが存在しなくなり、自分で模索しながら人生を描き、作って行かなくてはいけない。こうした現代の状況が、大伴旅人の歌とぴったりとくる。先が見えないために、今の自分がしていることに自信が持てず不安になる。しかし、いたずらに不安に目を曇らせて日々を過ごすのは得策でない。目標や計画をたてることはとても大切だが、その通りにいかないことも多々あることだろう。むしろその通りにいかないのが自然なのかもしれない。時には、割り切って楽観的になれる余裕を持ち、しなやかな生き方がしたいと思った。

講評 作文の部審査委員長 中西進さん(奈良県立万葉文化館名誉館長)

 古典は、むかしのことばで書いているのだから、それ自体ではむずかしいが、昨今はたくさん、現代のことばに直したものや解説書が出ている。

 これらをほんの少しでもいいから読んで、歌にこめられた心のメッセージを、十分味わってほしい。そうすると、もっともっとむかしの人との対話ができると思う。今回は歌の気持ちをうのみにして、体験を語るものが多かったように思えて、残念であった。

 来年を楽しみにしている。

講評 絵画の部審査委員長 高階秀爾さん(大原美術館長)

 歌の心にしっかりと寄り添いながら、既成のイメージにとらわれない新鮮な発想で表情豊かな絵画世界を見せてくれるところに、万葉こども賞の大きな魅力がある。今回は特に、万葉人の心情への深い共感を大胆率直に表明した作品が強く印象に残った。これからも、自分の感性を大切に育てていってほしい。

◆◆(文化の扉)愛とロマンの万葉集 天皇の歌も防人歌も、編纂の謎

朝日新聞18.02.04

 宮廷の歌人は詠んだ、花や鳥、富士の秀峰(しゅうほう)、止まらない恋心まで。兵役で故郷を去った若者は、大切な父母や娘を思い出し、嘆き悲しむ。華やかな都も陰で死の潜む争いばかり。万葉の愛と魂、時を超えスマホ世代もきっと歌い継ぐ。

 「(他の女と)寝るあんたの汚い手をへし折りたい」

 激しい愛情表現が、1300年ほど前に生まれたと知れば驚きますか?

 〈……うち折らむ醜(しこ)の醜手(しこて)をさし交(か)へて寝(ぬ)らむ君ゆゑ……

 国内に残る歌集では最も古い「万葉集」は、飛鳥前期からの140年余りに詠まれた4516首を収め、奈良後期から平安初期に完成したとみられる。大半を占めるテーマが恋愛だ。親しい2人が詠み交わす「相聞(そうもん)」という分類があるほど。

 大谷雅夫・京都大名誉教授(国文学)は「万葉歌人が影響を受けた中国の詩に恋は少ない」と独自性を見いだす。

 現在と同じ五七五七七の短歌のほか、五七調で延々と続く長歌が特徴だ。中には短歌30首分に及ぶ長大作も。これらは出会いを求めるパーティー「歌垣(うたがき)」で男女が掛け合いで歌ったらしい。さしずめ奈良時代のJポップか。

 「内緒にしてたのにみんなにばれちゃった」と高校生カップルみたいな歌もあれば、親友への冗談、貧しさへの悲しみ、今もある山河や草花、鳥に心動かされた歌も。人の気持ちは案外、昔も今も変わらない。

    *

 奈良時代は、日本語をどう表記するか固まっていなかった。中国から輸入した漢字を大和言葉で読み、古来の言葉を一音ずつ漢字に当てはめる万葉仮名を作り出した。調子に乗ったか十六を「しし」(4×4)と読んだり、山が二つ重なる「出」を「山上復有山」と書いたりする「戯書(ぎしょ)」も登場した。

 成立から100年以上経つともう読めなくなり、平安の歌人たちが読み下しを始めた。江戸時代に庶民へ広まり、契沖(けいちゅう)や賀茂真淵(かものまぶち)といった国学者が研究を進めた。明治になると技巧に走る「古今和歌集」を嫌う正岡子規が評価し、斎藤茂吉や折口信夫(しのぶ)ら歌人が読み解いた。万葉学者の中西進さんは「事あるごとに思い出される地下水のような存在」と位置づける。

 とはいえ、いまだに読み方や定訳のない歌は残っている。例えば、教科書でおなじみの志貴皇子(しきのみこ)〈石走(いわばし)る垂水(たるみ)の上のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも〉。冒頭の原文「石激」の正しい読みは「いわそそく」では、という説が近年示された。

 1千年以上わからなかった歌の意味を見いだすのは、あなたかも。そんなロマンも魅力だ。

    *

 なぜ編集されたのか。基本の「き」から明らかではない。

 歌人や舞台は都が置かれた奈良を中心にしつつ、天皇から庶民まで、南東北から南九州までと幅広い。東国の農民たちが詠んだ東歌(あずまうた)や防人歌(さきもりうた)に加え、佐用姫(さよひめ)(肥前)や真間(まま)の手児奈(てこな)(下総)といったローカルな「伝説の美女」まで採取した。情報網や交通が未発達な古代にしては画期的だ。動乱と政変の時代、横死した大津皇子(おおつのみこ)や長屋王ら政治的な敗者をしのぶ歌も載る。

 主な編纂(へんさん)者とされる大伴家持(おおとものやかもち)は718(養老2)年生まれとの説が有力だ。名門の貴公子ながら政権争いで藤原氏に及ばず、地方の国守を転々とした。

 戦前、天皇への忠誠を示した家持の長歌〈……海行(ゆ)かば水浸(みづ)く屍(かばね)……〉は曲が付き、戦意高揚に利用された。兵士が戦地に持ち込んだ本は「万葉集」が多かったという。遠き異国の地で命を散らせた若者たちが心を重ねたのは、どの歌だろうか。(井上秀樹)

◆国境超える日本の心 作曲家・千住明さん

 日本語のオペラ「万葉集」を作曲しました。それまで作ってきたエンタメ音楽の要素を全てつぎ込みました。「明日香風編」の天智・天武天皇と額田王(ぬかたのおおきみ)の三角関係はベタベタなラブソングです。2009年に初演しました。謀反を疑われて若死にした大津皇子の悲劇を題材にした「二上山挽歌(ふたかみばんか)編」は、東日本大震災の直後に書き上げました。地震に負けない思いを込め、ベートーベンの「運命」のような曲になりました。

 再演を重ね、昨年はハンガリーで2回演奏しました。日本人が持っている感覚を西洋音楽にすれば、世界の人も親しみを持ってくれることに気がつきましたね。

 学生時代は理系だったので、「万葉集」にはほとんど触れていませんでした。五七五七七に封じ込めた人間関係や風景は、時代を超えてもわかります。友人の俳人、黛まどかさんに書いたことのないオペラの台本をお願いしたのは、私が和歌の素人だったからでしょう。曲はお互いに想像しなかった世界になり、いい「相聞」ができたと思います。

 <読む> 『マンガで楽しむ古典 万葉集』(ナツメ社)は現代の若者目線で紹介する。藤井一二(かずつぐ)『大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯』(中公新書)は時代背景を記す。上野誠『万葉集から古代を読みとく』(ちくま新書)は映画「君の名は。」など多角的に迫る。

◆現代の万葉集=「平和万葉集巻四」刊行

(赤旗16.12.05

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🔵万葉集とは 

小学館百科全書 稲岡耕二

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❶成立

現存最古の歌集。『万葉集』20巻が現在みる形にまとめられたのはいつか不明。年代の明らかなもっとも新しい歌は759年(天平宝字3)正月の大伴家持(おおとものやかもち)の作だから、最終的な編纂(へんさん)はそれ以後となる。山田孝雄(よしお)は、東歌(あずまうた)のなかで武蔵(むさし)国を東海道に編入していることに注目し、同国の東山道から東海道に移された771年(宝亀2)以後と推定。また徳田浄(きよし)は、『万葉集』の卑敬称法を精査し、巻1から巻16までを746年(天平18)以後753年(天平勝宝5)まで、巻17以下を759年(天平宝字36月以後764年正月までの成立とし、そのころ巻16以前の手入れがあり、さらに20巻全体に777年(宝亀8)正月から翌年にかけて手入れが行われたと推測した。同様に巻16までと巻17以降とに二分する考え方を別の視点から展開したのが伊藤博(はく)説で、現在もっとも有力視されている。

 伊藤説によれば、巻1から巻16まで(これを第1部という)のうち、もっとも新しい歌は「天平(てんぴょう)十六年(744)七月二十日」の日付をもつ。これに対し第2部(巻17以降)は、少数の例外(3890~3921歌)を除けば、746年(天平181月から759年(天平宝字31月までの作品がすべてである。第1部は「元正(げんしょう)万葉」と称すべき部分で、745年(天平17)以降の数年間に成立、第2部はこれに続いて753年(天平勝宝58月以後758年(天平宝字2)初頭までに巻1718193巻が成り、そののち巻20が加えられた。20巻本を集成した立役者は大伴家持で、現存の形とほぼ等しいものができたのは782年(延暦1)から翌年にかけてであろう。巻1、巻2に関していえば、巻1の前半部が持統(じとう)天皇の発意によって文武(もんむ)朝の初年に編纂され、後半部の追補は712年(和銅5)から721年(養老5)までに行われ、同じころ持統万葉の企図を受け継いで巻2が編まれたと思われる。この巻1、巻2を母胎として16巻本、20巻本に成長して現在の形に至ったのだろうと伊藤はいう。なお問題も残されており、今後も論議が重ねられ、煮つめられてゆくと思われる。

名義

『万葉集』という書名の意義についても種々の説がある。現在有力な説を大別すると、(1)多くの歌を集めたものとする説、(2)万代・万世まで伝えたい集であるとする説、(3)前掲2説の折衷説、の三つになる。いずれも「万葉」という熟語の用例を和漢にわたって収集し、書名としていずれがふさわしいかを推測する方法による。漢籍に例が多いのは(2)であるが、日本の後代の歌集名には『金葉集』『新葉集』などもみえ、歌を意味する葉の例が拾えるから、『万葉集』がそれらの先例だった可能性も否定しきれない。それに万世の義も加えられて結局両義が含まれていたのではないかという折衷案も生ずるわけで、なお定説が得られない状態である。

時代・歌風・作者

『万葉集』の記載に従えば、もっとも古い歌は仁徳(にんとく)天皇の皇后磐媛(いわのひめ)の作であり、ついで雄略(ゆうりゃく)天皇の御製もみえるが、それらは伝誦(でんしょう)歌で、記載どおりに信ずることはできない。実質的に『万葉集』は舒明(じょめい)天皇の時代(629~641)から始まるとみてよいであろう。7世紀の前半にあたる。それから759年(天平宝字3)まで約130年間の長歌、短歌、旋頭歌(せどうか)、仏足石歌(ぶっそくせきか)など4500首余り、天皇から庶民まで500名近くの歌人の作品を収録しているのであって、その間には文学史的にみてかなり著しい変化も認められる。そこで歌風を概観する場合に普通これを4期に分けている。

1期】

舒明朝から壬申(じんしん)の乱(672)まで。この40年余りはわが国の古代史のなかでもとくに激動の時期であった。645年(皇極46月の蘇我(そが)氏誅滅(ちゅうめつ)のクーデター、同年9月の古人大兄(ふるひとのおおえ)の謀反(むほん)、649年(大化5)の蘇我倉山田石川麻呂(まろ)事件、658年(斉明天皇4)の有間(ありま)皇子の死など血なまぐさい政争が続いたし、その間に大化改新という大改革も行われ、古代国家の基礎が固められた。さらに661年(斉明7)の新羅(しらぎ)征討船団の西征、663年(天智天皇2)の白村江(はくすきのえ)における敗戦と667年の近江(おうみ)遷都など、内外ともに多事多難であった。

 第一期の歌が初期万葉歌とよばれて注目されるのは、大化改新ほか数々の事件との関係や人生観・自然観の古代性にもよるが、文字記録との関係から、口誦(こうしょう)的・前記載的な特殊性が認められるためである。この期の歌の特徴を第二期以後と比較しつつ要約すると、集団性、意欲性、自然との融即性、歌謡や民謡とのつながりの深さ、呪術(じゅじゅつ)的性格などがあげられる。集団性、意欲性は芸術的価値を目的とするいわゆる文学意識とは別の限界芸術的性格で、初期万葉歌の多くが宮廷儀礼や民間習俗の場と結び付いていることと関連している。「大和(やまと)には 群山(むらやま)ありと とりよろふ 天(あめ)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は」という舒明天皇の国見歌や中皇命(なかつすめらみこと)の宇智野(うちの)の猟(かり)の歌、近江遷都のときの額田王(ぬかたのおおきみ)作歌など、長歌にはことに場の制約が強く認められる。歌謡や民謡との関係は『万葉集』全般に及ぶ性格ではあるが、初期万葉から第二期にかけてとくに濃密だということができる。この期の相聞(そうもん)歌のほとんどが求婚の問答歌であるのは、歌垣(うたがき)の掛け合いにそれらの源流が求められることを語っているし、668年(天智天皇755日蒲生野(がもうの)遊猟時の額田王と大海人皇子(おおあまのおうじ)との「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖(そで)振る」「紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」という贈答が、掛け合いの伝統を承(う)ける宴席の即興歌で、いわゆる忍ぶ恋の叙情歌と異質であることも、雑歌(ぞうか)というその部立(ぶだて)や歌詞によって察せられよう。自然との融即性は呪的性格と同様に古代的な自然観や霊魂観を背景とする。自然に霊性を認め、それを畏怖(いふ)しつつそれに依存し、自然と親和融即する傾向をもつのは、わが国の風土と農業生活に根ざした必然的なあり方と考えられるが、そうした自然感情のもっとも強く表れているのが初期万葉歌である。

 大化改新を経て天智(てんじ)朝になると新国家の体制が樹立され、官人制の拡充、都城への集住、新制度を動かすための舶来の教養など文学的新風を生み出す歴史的条件もほぼ整った。漢詩を〈読む〉こと、およびそれに模して和製の漢詩を〈書く〉ことを通して得た新しい文学の意識が、口誦の歌とは別のことばの世界を人々に印象づけたはずである。そうした海彼の文学の意識が徐々にやまと歌の発想や表現に浸透してゆくのであって、この期の歌が、主観語をあまり用いず、客観的・即事的な表現を主とする限界文芸的性格を残しながら、記紀歌謡より相対的に内面化し、対象の核心を簡浄なことばでとらえる固有の表現美を保持しているのも、口誦の歌謡から記載の叙情歌へまだ脱けきらないその位相を語ると思われる。

2期】

壬申の乱以後、奈良遷都(710)まで。天武(てんむ)朝には強大な専制王権が確立された。皇親政治の実現や政治機構の整備充実とともに、文化的諸事業においても活気に満ちた時期であった。675年(天武天皇42月の歌人貢上、681年(天武天皇102月の律令(りつりょう)修定の詔(みことのり)、同3月の帝紀および上古(じょうこ)の諸事記定の詔、翌682年の『新字』44巻の作成など、一連の事業はこの期の文化の動態を端的に表している。

 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の活動は天武・持統・文武の三朝に及ぶ。その歌人としての出発が律令国家の成立期であり、また口誦文学から記載文学への転換期であったことは、彼の歌の性格を根本的に規定しているといってよい。人麻呂は文字によって作歌した最初の歌人である。その作歌法が前代と異なることは〈枕詞(まくらことば)〉〈序詞〉〈対句〉などをみても明らかで、口誦的性格から記載文学の方法への変化が指摘される。長歌、短歌、旋頭歌それぞれの歌体の可能性が記載次元で探られたのもこの時期だった。記紀歌謡や初期万葉歌とは異なり、数十句さらには100句を超える長歌を人麻呂が残したのは、中国詩の影響による。殯宮(ひんきゅう)儀礼などとかかわらない私的な挽歌(ばんか)や、「石見(いはみ)の海 角の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも……」と石見の妻との別離の悲しみを切々と歌う長歌をみるのも海彼の文学の示唆を想像させる。反歌(はんか)が、長歌の内容の要約とか反復にとどまらず、長歌に詠まれている時間・空間の枠を超え、独立的傾向を強めたのも人麻呂からである。複数の反歌や短歌の間に連作的構成をみせるのは、儀礼の場を離れ、〈読む〉文学として享受されたことと関連するだろう。人麻呂はまた、自然であれ、人事であれ、対象と混然合一の境地にあるような歌を詠んでいる。これは第一期の特色とした自然との融即性と深くかかわると思われるが、そうした心情表現と開化の技法の微妙な調和も、彼以後にはみられなくなる。

 人麻呂と同時代の歌人として、天武天皇、持統天皇、大津皇子(おおつのみこ)、大伯皇女(おおくのひめみこ)、志貴(しき)皇子、穂積(ほづみ)皇子、但馬(たじま)皇女、高市(たけち)皇子、長(なが)皇子、弓削(ゆげ)皇子などの皇族および藤原夫人(ぶにん)、石川郎女(いらつめ)、志斐嫗(しひのおみな)、高市黒人(くろひと)、長意吉麻呂(ながのおきまろ)、春日老(かすがのおゆ)があげられる。とくに謀反事件で非業の死を遂げた大津皇子とその姉大伯皇女の悲歌、但馬皇女の異母兄穂積皇子に対する激しい恋の歌、高市黒人の「物恋しい」旅の歌、意吉麻呂の即興歌などが注目されよう。

3期】

奈良遷都から733年(天平5)まで。人麻呂退場後の和歌史にさまざまな個性の開花した時期である。唐の長安京に模した奈良の都において大陸文化の教養が重んぜられ、貴族や官人たちの間で漢籍の学習や漢詩文の述作も広く行われた。長屋王(ながやおう)を中心とする奈良詩壇に藤原房前(ふささき)、藤原宇合(うまかい)、安倍広庭(あべのひろにわ)、吉田宜(よしだのよろし)、背奈行文(せなのゆきふみ)など貴族や文人が蝟集(いしゅう)し、王の佐保(さほ)邸ではたびたび詩宴が催された。その詩には『文選(もんぜん)』や『玉台新詠』などの六朝(りくちょう)詩のみでなく初唐の王勃(おうぼつ)や駱賓王(らくひんおう)の詩と詩序の影響も指摘される。こうした中国文学の影響はやまと歌にも及び、第二期に比べ、発想や表現のうえに一段と明瞭(めいりょう)な形で表れるようになる。とりわけ注目されるのは、728年(神亀5)大宰帥(だざいのそち)となり九州に下向した大伴旅人(たびと)を中心に形成された筑紫(つくし)歌壇であった。山上憶良(やまのうえのおくら)、小野老(おののおゆ)、沙弥満誓(しゃみまんぜい)など多数の官人たちの共作によって初唐詩の詩序をもつ形式をやまと歌に適用した梅花(ばいか)歌群が詠まれ、さらに『遊仙窟(ゆうせんくつ)』や『文選』の「洛神賦(らくしんのふ)」に示唆を受け「松浦河(まつらがわ)」の歌序などがつくられたのも筑紫歌壇の特色ということができる。大伴旅人と山上憶良という、性格や人生観、文学観などが対蹠(たいせき)的な2人の筑紫における邂逅(かいこう)も文学史的に小さからぬ事件であった。浪漫(ろうまん)的空想的な旅人が嘆老・望郷の思いと「吾妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の樹見る毎に情咽(こころむ)せつつ涙し流る」など亡妻思慕の情を流れるような調べにのせて歌ったのに対し、現実的論理的な憶良が「五月蠅(さばへ)なす 騒く児等を うつてては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひわづらひ 哭(ね)のみし泣かゆ」のように老病貧死の苦を佶屈(きっくつ)な調べで歌っている。互いに相手を意識することで自己の特性をいっそう明確にしえたといえよう。

 中央の歌壇で人麻呂の賛歌的伝統を継承したのは、笠金村(かさのかなむら)、車持千年(くるまもちのちとせ)、山部赤人(やまべのあかひと)らであった。なかでも赤人は人麻呂の形式に学びつつ、洗練された感性によって叙景的な自然表現に特色を示した。赤人には屈折に富んだ知巧的な歌もあり、後の『古今集』の歌風に連なる一面をのぞかせている。こうした宮廷歌人とは別に、東国の地方官となった高橋虫麻呂(むしまろ)は藤原宇合の庇護(ひご)のもとで伝説や旅を歌って異彩を放った。

4期】

734年(天平6)以後、淳仁(じゅんにん)天皇の759年(天平宝字3)まで。東大寺の造営や大仏開眼なども行われ華やかな時代であったが、天平文化は爛熟(らんじゅく)し、政治のうえでも困難な事態に直面して上層部の政権争いの深刻化していった時期である。そうしたなかにあって歌人たちは繊細優美な歌を多く詠んだ。この期の作者として注目されるのは、大伴家持にかかわりの深い人たちである。家持との恋の贈答に哀切な佳品を残した笠女郎(かさのいらつめ)、技巧的な歌で若い家持を拝跪(はいき)せしめた感のある紀女郎(きのいらつめ)、そして大伴氏の家刀自(いえとじ)として祭神歌、怨恨(えんこん)歌、聖武(しょうむ)天皇への献歌など多彩な作品を残した大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)など一群の女郎たちの歌は末期万葉の風雅を代表するもので、王朝女流作歌へつながる性格をもつ。男性では家持の越中守(えっちゅうのかみ)時代の歌友大伴池主(いけぬし)や、宮廷歌人の流れを受ける田辺福麻呂(さきまろ)などに作品が多い。そのほか736年(天平86月難波(なにわ)を出帆した遣新羅使人たちの歌145首や、越前(えちぜん)国に流罪となった中臣宅守(なかとみのやかもり)とその赦免を待つ狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)との贈答歌63首、755年(天平勝宝7)の防人(さきもり)たちの歌など、宴席における遊戯的な歌の多いこの時期にあって率直な叙情が注目される。

 大伴家持の作品は733年(天平5)から759年(天平宝字3)に及ぶ。あえかな三日月に美人の眉(まゆ)を連想した少年期の歌から、越中守時代の地方生活と人麻呂や憶良の作品に学んだ多くの作歌体験を経て内面的な豊かさを加え、中国文学の示唆も得て独自の歌境をみせるに至る。とくに750年(天平勝宝23月の「春の苑紅(そのくれなゐ)にほふ桃の花下照る道に出で立つをと嬬(をとめ)」という春苑桃李(しゅんえんとうり)の歌と、7517月少納言(しょうなごん)となって帰京後に春日の漠たる物思いを歌った3首など、高く評価される。また巻16以前に補訂を加えたのも家持の越中守時代以前かと推定され、『万葉集』の成立と伝来に果たした家持の役割の大きさをしのばせる。なお『万葉集』4500首余りの約3分の1に相当する1800首余りが作者未詳歌である。巻14の東歌(あずまうた)のほか、巻710111213などに多くみえるそれらの作品が滔々(とうとう)と流れる大河のごとく万葉の基層をなしていたことも忘れてはならないだろう。

本質と影響

『万葉集』は古代律令国家の形成期に編まれた歌集であり、文学史的にいえば口誦の歌謡から記載の叙情歌の生み出された原初期の作品の集成である。天皇・皇后と皇族・貴族はもちろん、階層的に低い一般民衆の歌まで含んでいるために、古代の人々のもっていた勃興(ぼっこう)的で意欲的なエネルギーに触れることができる。いいかえると繊弱な美の濾過(ろか)を経ないはつらつとした生命の息吹に接しうるわけで、その点に『万葉集』の本質が認められるだろう。『古今集』以後の歌と比較した場合に、しばしば素朴・稚拙(ちせつ)などの評語が与えられるのもむしろ当然といわねばならない。中世以降において和歌の歴史の行き詰まったときにつねに『万葉集』が顧みられ、万葉調の復興が唱導されたのも、このような『万葉集』のもつ清新なエネルギーを糧(かて)として、衰弱した歌の力を取り戻すことが求められたのだといえる。

伝来・研究

951年(天暦5)に『万葉集』の歌に付けられた訓(くん)を古点とよび、このとき訓(よ)み残された歌にのちに付けられた平安時代の訓を次点という。平安時代の古写本中最古の桂宮(かつらのみや)家旧蔵の桂宮本万葉集には古点のおもかげが残され、その後の書写になる藍紙(らんし)本、元暦(げんりゃく)校本、金沢本、天治本、尼崎(あまがさき)本、類聚(るいじゅう)古集などは次点を伝える。次点本で『万葉集』20巻のそろった写本は現存しない。新点は、鎌倉時代中期に仙覚(せんがく)が諸写本を校合し訓と本文を改めた際、古点と次点の訓の付けられなかったすべての歌に施された訓であり、西本願寺本はそれを伝える最古の20巻そろった完本で、現在多くの注釈書の本文校訂の底本に利用されている。ほかに鎌倉時代末期から室町時代にかけて書写された紀州本があり、のちに神宮文庫本、細井本、温故堂本、大矢本、京都大学本、金沢文庫本などもみえ、江戸時代になると活字本や木版本も出回るようになった。それらの伝本のすべてに目を通すことは容易でないため、諸本の文字の異同を示して集成したものが1924年(大正13)から翌年にかけて出版された佐佐木信綱他編『校本万葉集』である。

 注釈書のもっとも古いものは仙覚の『万葉集註釈』で、1269年(文永6)の完成。その後、由阿(ゆうあ)の『詞林采葉抄(しりんさいようしょう)』があり、近世には北村季吟(きぎん)の『万葉拾穂(しゅうすい)抄』(1690)、下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)の『万葉集管見』(1661?)、契沖(けいちゅう)の『万葉代匠記(だいしょうき)』(初稿本1688、精撰本1690)、賀茂真淵(まぶち)の『万葉集考』と『冠辞(かんじ)考』、荷田春満(かだあずままろ)の『万葉集僻案(へきあん)抄』と春満の講義を弟信名(のぶな)が筆録した『万葉童蒙(どうもう)抄』、本居宣長(もとおりのりなが)『万葉集玉の小琴(おごと)』、荒木田久老(ひさおゆ)『万葉集槻落葉(つきのおちば)』、橘千蔭(たちばなちかげ)『万葉集略解(りゃくげ)』、岸本由豆流(ゆずる)『万葉集考証』、橘守部(もりべ)『万葉集墨縄(すみなわ)』と『万葉集檜嬬手(ひのつまで)』、富士谷御杖(みつえ)『万葉集燈(ともしび)』、香川景樹(かげき)『万葉集解(くんかい)』、鹿持雅澄(かもちまさずみ)『万葉集古義』などがまとめられた。明治以後になるとアララギ派の歌人による『万葉集』の唱導と批評の活発化に伴い研究もいっそう盛んになった。木村正辞(まさこと)『万葉集美夫君志(みふぐし)』、井上通泰(みちやす)『万葉集新考』のほか、橋本進吉・佐伯梅友(さえきうめとも)らによる国語学的研究、折口信夫(おりくちしのぶ)の民俗学的研究、岡崎義恵(よしえ)・高木市之助の文芸論的研究、北島葭江(よしえ)らによる風土地理研究まで多彩な研究が行われ、第二次世界大戦後の研究のための足場が築かれた。

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🔵万葉集歌別=NHK日めくり万葉集 

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◆あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

額田王 (巻120

紫草の生える 御料地の野をいらっしゃるあなた 野の番人に見られて

しまいますよ  そんなに袖を振って私をお誘いになっては

◆新しき(あらたしき) 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事

大伴家持 (巻204516

新しい年の初めに 立春が重なった  きょう降る雪のように

ますます重なれ 良いことよ

◆一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも

市原王 (巻61042

一本松は どれほどの時を経てきたのだろうか

梢を吹く風の声が 清らかで澄み切っているのは 深く歳月を重ねて

きたからだろうか

◆田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ富士の高嶺に 雪は降りける

山部赤人 (巻3318

田子の浦を通り 眺めのよいところに出てみると 真っ白に 富士の高嶺に

雪が降りつもっている

◆来むと言ふも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ

来じと言ふものを

大伴坂上郎女 (巻4527

あなたは 「来よう」と言っても 来ない時があるのですもの

「来ない」と言うのを それでもひょっとしたら「来られるかも」などと頼みに思って待つのは やめておきましょう「来ない」と言っているのですもの

◆神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国

言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり・・・

山上憶良 (巻5894

神代の 昔から 言い伝えるには 大和の国は 神が威厳をもって守る国

言霊が幸いをもたらす国と 語り継ぎ 言い継いできた

◆白玉は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我し知れらば

知らずともよし

元興寺の僧 (巻61018

真珠は人に知られない 知らなくてもいい 知らなくても 自分さえ

価値を知っていれば 世の人は 知らなくてもいい

◆醤酢に 蒜搗き合てて 鯛願ふ 我にな見えそ 水葱の羹

長意吉麻呂 (巻163829

(ひしお)に酢を加え 野蒜(のびる)を搗きまぜたタレを作って

鯛を食いたいと願っている この俺様の目の前から消えてくれ

まずい水草の吸い物なんかは

◆月夜には 門に出で立ち 夕占問ひ足占をそせし 行かまくを欲り

大伴家持 (巻4736

月の照るその晩には 門口に立って夕方の占いをしたり 足占いをしたんだ

あなたの所に行きたいと思って

◆恋ひ恋ひて 後も逢はむと 慰もる 心しなくは 生きてあらめやも

作者未詳 (巻122904

恋焦がれて いつかまた逢えるだろうと 自分を慰める強い心をもたないと

とても生きていけそうにない

◆世間を 何に喩へむ 朝開き 漕ぎ去にし船の 跡なきごとし

沙弥満誓 (巻3351

世の中を何にたとえたらいいだろうか

それは 朝早く港を漕ぎ出て行った船の航跡が 何も残っていないようなものだ

◆我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後

天武天皇 (巻2103

おまえはうらやましがるだろうな

私の住む里には こんなに大雪が降ったぞ

そちらの大原の古びた里に雪が降るのは しばらく先になるだろうからね

◆大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち

国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ

うまし国そ あきづ島 大和の国は

舒明天皇 (巻12

大和にはたくさんの山があるけれど なかでもとりわけ美しい

天の香具山の上に 登り立って国見をすると 広い平野にはかまどの煙が

あちこちから立ち上り 海原にはカモメが盛んに飛び立っている

ほんとうによい国だ この大和の国は

◆家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

有間皇子 (巻2142

家にいると 美しい器に盛るご飯を 旅の途中なので 思うにまかせず 

椎の葉に盛ることだ

◆梅の花 降り覆ふ雪を 包み持ち 君に見せむと 取れば消につつ

作者未詳 (巻101833

梅の花を降り隠すように覆った雪を包み持ち 

あの人に見せようとするのですが 手に取るそばから消えてゆきます

◆思はぬを 思ふと言はば 真鳥住む 雲梯の社の 神し知らさむ

作者未詳 (巻123100

思ってもいないのに 思っていると言ったら真鳥の住む 雲梯の杜(うなてのもり)の恐ろしい神がお知りになるでしょう

◆事もなく 生き来しものを 老いなみに かかる恋にも 我はあへるかも

大伴百代 (巻4559

なんということもなく平凡に生きてきたというのに 老いなみ迫る今になりはっと目が覚めるような恋に 私は出会ったことよ

◆草枕 旅行く君を 幸くあれと 斎瓮据ゑつ 我が床の辺に

大伴坂上郎女 (巻173927

旅行くあなたが無事なようにと 神に祈るため 斎瓮(いわいへ)を据えました私の床のそばに

◆父母が 頭掻き撫で 幸くあれて言ひし言葉ぜ 忘れかねつる

丈部稲麻呂 (巻204346

防人の別れの時に 父と母とが 私の頭を撫でまわし「幸(さ)くあれ くれぐれも無事でお帰り」と言った言葉(言葉ぜは方言)が忘れられない

◆足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の真間の継ぎ橋 止まず通はむ

東歌・下総国歌 (巻143387

足音を立てずに行く馬があればなあ あの葛飾の真間の継ぎ橋を

毎日通っていきたい

◆春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子

大伴家持 (巻194139

春の園の 紅色に美しく咲いている桃の花の木の下まで照り輝く道に出て 

たたずむ乙女よ

◆我が恋は まさかもかなし 草枕多胡の入野の 奥もかなしも

東歌・上野国歌 (巻143403

私の恋は今もかなしい 草を枕の 多胡の入野の行く末もかなしい

◆我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子が 止まず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉だすき 

畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉桙の 道行き人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 

袖そ振りつる (抜粋)

柿本人麻呂 (巻2207

私の恋の想いが千に一つでも和らぐかと 我が妻がよく出かけて見ていた

軽の市(かるのいち)にたたずみ 耳を澄ましても畝傍山(うねびやま)に

鳴く鳥の声も聞こえない 道行く人に妻に似た人もいない 

もう何をどうしてよいかわからなくなって 思わず妻の名前を叫び 

あてもなく袖を振り続けた

◆飯食めど うまくもあらず 寝ぬれども 安くもあらず あかねさす

君がこころし 忘れかねつも

佐為王の婢 (巻163857

ご飯を食べるがおいしくもない 眠っていても落ち着かない 

はつらつと輝くあなた その心が忘れられないの

◆我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし

大伯皇女 (巻2105

弟を大和へ送り返そうとして 夜がふけ 暁の露に 

わたくしは立ち濡れてしまった

◆筑波嶺に 雪かも降らる いなをかも かなしき児ろが 布乾さるかも

東歌・常陸国歌 (巻143351

筑波の嶺に雪が積もっているのかも いや そうではないかも 

かわいいあの娘が真っ白な布を干しているのかも

◆薦枕 相まきし児も あらばこそ 夜の更くらくも 我が惜しみせめ

作者未詳 (巻71414

薦(こも)で作った質素な枕を共にして寝たあの子がこの世にいたならば

夜の更けることを惜しみもしようが

◆磯城島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ

柿本人麻呂歌集より (巻133254

磯城島(しきしま)の大和の国は 言霊が人を助ける国ですぞ 無事でいらしてくださいよ

◆笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば

柿本人麻呂 (巻2133

笹の葉は山一面にさわさわとざわめくが その音にも紛れないで 

私は一途に妻を思う  別れてきたのだから

◆名ぐはし 狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音の 

繁き浜辺を しきたへの 枕になして 荒床に ころ伏す君が 

家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙の 

道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは (抜粋)

柿本人麻呂 (巻2220

名前の美しい狭岑(さみね)の島の 荒磯(あらいそ)の上に

仮寝の小屋を作ってふと見ると 波の音のとどろく浜辺を枕にして 

荒々しい石の床に横たわっている人の その家がわかれば行って

知らせもしよう  妻が様子を知ったら 来て尋ねもするだろうに 

ここへの道さえ知らず 心も晴れず 帰りを待ち焦がれているだろう 

いとしい妻は

◆行くさには 二人我が見し この崎を ひとり過ぐれば 心悲しも

大伴旅人 (巻3450

太宰府に赴任する行きしなに 妻と二人で見たこの岬を 

帰りは一人で過ぎると 心悲しいことだ

◆春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも

大伴家持 (巻194290

春の野に霞がたなびいて なんとなく悲しい

この夕暮れの光の中で うぐいすが鳴いているよ

◆射ゆ鹿を 認ぐ川辺の 和草の 身の若かへに さ寝し子らはも

作者未詳 (巻163874

弓で射られた鹿のあとを追って行く 川辺の柔らかい草

私は思い出す その草のように私が身も心も若かった頃 抱いた乙女を

◆験なき 恋をもするか 夕されば 人の手まきて 寝らむ児故に

作者未詳 (巻112599

甲斐もない恋をしたものさ

夕べになると ほかの男の手枕で寝るに違いない あの娘のために

◆人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る

但馬皇女 (巻2116

人の噂がうるさく身に突き刺さって 生まれてからまだ渡ったことのない

朝の川を渡る

◆むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟師に あひにけるかも

志貴皇子 (巻3267

むささびは梢に登ろうとして 山の猟師に見つかってしまったよ

◆天ざかる 鄙に五年 住まひつつ 都のてぶり 忘らえにけり

山上憶良 (巻5880

遠い地方に五年も 住みつづけて 都の雅な振る舞いも

すっかり忘れてしまいました

◆紫は 灰さすものそ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる子や誰

作者未詳 (巻123101

貴い紫の色を染めるには 椿の灰を入れるもの 椿の木の

ある海石榴市(つばきち)のいくつもの道が交わる辻で 

出会った娘さん あなたは誰

◆妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石川 清き瀬ごとに 水占延へてな

大伴家持 (巻174028

妻に逢わずに 久しい時が過ぎた

饒石川(にぎしがわ)の清らかな瀬ごとに 水占いをしよう

◆いづくにか 我が宿りせむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば

高市黒人 (巻3275

どこでわたしは宿ろうか

高島の勝野の原でこの日が暮れてしまったら

◆天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 

明しといへど 我がためは 照りや給はぬ 人皆か 我のみや然る 

わくらばに 人とはあるを 人並に 我もなれるを・・・

山上憶良 (巻5892

天地は広いと言うが 私には狭くなったのか 日や月は明るいと言うが 

私のためには照ってくださらないのか 人は皆こうなのか 私だけにこうなのか運良く人に生まれつき 人並みに私も育ったのに

◆言繁き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを

但馬皇女 (巻81515

口やかましい里になんか住んでいないで 今朝鳴いた 雁と連れ立って 

飛んで行ってしまえばよかったのに

◆磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへり見む

有間皇子 (巻2141

いま 磐代の浜の松の枝を引き結ぶ

もし 願いが通じ命が無事ならば また ここに戻り松を見よう

◆青旗の 木幡の上を 通ふとは 目には見れども 直に逢はぬかも

倭大后 (巻2148

青々と旗のように茂る木幡の山の上を大君の魂が抜け出して行きつ戻りつすることは 目には見えるけれど 直にはお逢いできないことだ

◆古の 人に我あれや 楽浪の 古き都を 見れば悲しき

高市黒人 (巻132

私はいにしえの人なのだろうか

いや そうではない

なのに 楽浪(ささなみ)の古い都を見ると悲しい

◆白玉の 我が子古日は 明星の 明くる朝は しきたへの 床の辺去らず 立てれども 居れども 共に戯れ 夕星の 

夕になれば いざ寝よと 手を携はり 父母も うへはなさがり さきくさの 中にを寝むと 愛しく しが語らへば・・・

<中略>

我乞ひ祷めど しましくも 良けくはなしに やくやくに かたちつくほり 朝な朝な 言ふこと止み たまきはる 命絶えぬれ 

立ち躍り 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持てる 我が子飛ばしつ 世間の道

山上憶良 (巻5904

白玉のようなわが子古日は 明けの明星が輝く朝になれば 

床のあたりを離れず  立っても座っても ともに戯れ 宵の明星が輝く

夕べになれば  「さあ一緒に寝よう」と 手をとって 「お父さんもお母さんもそばを離れないでね  ぼくは真ん中で寝るんだよ」と可愛く言う

<中略>

私はひたすら祈ったけれども 少しの間も良くはならずに 

だんだんと姿はやつれ  朝ごとに ものも言わなくなり 命は絶えてしまった

私は跳びあがり 地団駄を踏み 地に伏し 天を仰ぎ 胸をたたいて嘆いた

ああ 私の手の中のいとしい子どもを死なせてしまった

これが世の無常というものか

◆ひさかたの 月夜を清み 梅の花 心開けて 我が思へる君

紀少鹿女郎 (巻81661

空遠くまで輝く月夜が清らかなので 夜開く梅の花のように

心も晴れ晴れと 私がお慕いするあなたよ

◆足柄の 箱根飛び越え 行く鶴の ともしき見れば 大和し思ほゆ

作者未詳 (巻71175

足柄の箱根の山を飛び越えて行く鶴の うらやましい姿を見ると 

故郷の大和が思われることだ

◆我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも

大伴旅人 (巻5822

私の園に 梅の花が散る天から雪が 流れて来るのだろうか

◆葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ

志貴皇子 (巻164

葦辺を泳いで行く鴨の背に霜が降って 寒い夕暮は 大和が思われる

◆あずの上に 駒を繋ぎて 危ほかど 人妻児ろを 息に我がする

作者未詳 (巻143539

崩れた崖のその上に 大事な馬をつなぎとめるような そんな危うい恋だけど

人妻のその女を 息のように私は深く愛する 命をかけて

◆官にも 許したまへり 今夜のみ 飲まむ酒かも 散りこすなゆめ

作者未詳 (巻81657

今日のような宴は 役所でもお許しになっている 今宵だけ 

飲もうと思う酒なのかい

梅のあるうちは こうして集まれるよ だから梅の花よ 

散ってくれるなよ ゆめゆめ

◆士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして

山上憶良 (巻6978

男たるもの 無駄に一生を送ってよいものか

永遠に語り継ぐべき名声をあげもしないで

◆直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ

依羅娘子 (巻2225

じかに逢おうとしても 逢えないでしょう

石川に雲よ 一面にかかっておくれ

それを形見と見ながら あなたを偲びましょう

◆田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ富士の高嶺に 雪は降りける

山部赤人 (巻3318

田子の浦を通り 眺めのよいところに出てみると 真っ白に富士の高嶺に

雪が降り積もっている

◆雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき児もがも

大伴家持 (巻184134

雪の上に月の照り輝く美しい夜に 梅の白い花を折って贈ってやるような

かわいい娘がいたらいいなあ

◆住吉の 波豆麻の君が 馬乗衣 さひづらふ 漢女を据ゑて 縫へる衣ぞ

柿本人麻呂歌集より (巻71273

住吉(すみのえ)の波豆麻(はずま)のあの方の乗馬服はね 

大陸から渡来した女性を雇って縫わせた服なんですよ

◆うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む

大伯皇女 (巻2165

この世の人である私は 明日からは 二上山を弟として見るのでしょうか

◆天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 

天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 

語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ  富士の高嶺は

山部赤人 (巻3317

天と地が分かれた時から 神々しくて高く貴い 駿河の国にある富士の高嶺を

天空に振り仰いでみると 空を渡る太陽の姿も隠れ 照る月の光も見えない

白雲も進みかね 時を定めずいつも雪は降り積もっている

語り伝え言い継いでいこう この富士の高嶺は

◆あしひきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 妹待つ我を

作者未詳 (巻123002

「山から出る月を待っているのだ」と 人には言っておいて

あの娘を待っている私だ

◆瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠しなさぬ

山上憶良 (巻5802

瓜を食べると あどけない子どもたちの顔が思い出される

栗を食べるとなおさら思われる

どういう縁でどこから私のもとに生まれてきたのか 

目の前にやたらにちらついて安眠させてくれない

◆家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ

聖徳太子 (巻3415

家にいたならば 妻の手枕で休むだろうに 旅先で倒れているこの旅人は

ああ いたわしい

◆うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば

大伴家持 (巻194292

うららかに照っている春の日に ひばりが青空に舞い上がり 

心は悲しいことだ ひとり物思いをしていると

◆にほひよる 児らが同年児には 蜷の腸 か黒し髪を ま櫛もち 

ここにかき垂れ(中略)

さ丹つかふ 色なつかしき 紫の 大綾の衣 住吉の 遠里小野の

ま榛もち にほほす衣に 高麗錦 紐に縫ひ付け (中略)

稲寸娘子が 妻問ふと 我におこせし 彼方の 二綾裏沓 

飛ぶ鳥の 明日香壮士が 長雨忌み 縫ひし黒沓 刺し履きて 

庭にたたずめ 罷りな立ちと 禁め娘子が ほの聞きて 

我におこせし 水縹の 絹の帯を 引き帯なす 

韓帯に取らせ(中略)

古 ささきし我や はしきやし 今日やも児らに いさにとや 

思はれてある 古の 賢しき人も 後の世の 鑑にせむと 

老人を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり

作者未詳 (巻163791

輝くばかりの皆さま方と同じ年頃には 私も黒くつややかな髪を

上等の櫛でといて このくらいまで垂らしたりしてね

(中略)赤みがかった色に似合う紫の大柄模様がついた

住吉の遠里小野の榛(はんのき)の実で渋く染め上げた衣をまとい

ハイカラな高麗錦(こまにしき)を飾り紐に縫いつけたものさ

(中略)稲寸娘子(いなきおとめ)が求婚の証しに私にくれた 

彼方(おちかた)で作られた段だら縞の靴下を履き 

明日香壮士(あすかおとこ)が長雨の湿気を避けて縫った黒の

皮靴をさあっと履いて 庭にたたずんでいたら 「行っちゃだめ」と

引き止める禁め娘子(いさめおとめ)が 稲寸娘子(いなきおとめ)の

贈り物のことを小耳にはさんで 水色の絹の帯を 引き帯のように

韓帯(からおび)に取りつけてくれたものさ

(中略)

その昔 こんなにも華やかにもてた私だというのに ああ みじめなものよ 今日はかわいいあなた方に

「さあ 本当かしら」と思われている 歳をとるとこんな風にされるから 

昔の賢い人も 後の世の戒めにしようと 老い人を山に捨てに

行った車をまた持ち帰ったとさ 持ち帰ったとさ

◆君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも

狭野弟上娘子 (巻153724

あなたが行く道の 長い道のりをたぐり寄せ 折りたたんで焼き滅ぼしてしまうそんな天の火が私は欲しい

◆家にありし 櫃にかぎ刺し 蔵めてし 恋の奴が つかみかかりて

穂積親王 (巻163816

家にある 櫃(ひつ)にふたをし 鍵をかけてしまっておいたはずなのに

恋の奴(やっこ)めが抜け出して またぞろつかみかかってきて・・・

◆衾道を 引手の山に 妹を置きて 山道を行けば 生けりともなし

柿本人麻呂 (巻2212

衾道(ふすまじ)を 引手の山の中にいとしい人を葬って 山道を帰っていくともう俺には生きているという実感がない

◆石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも

志貴皇子 しきのみこ 

(巻81418

岩を叩きしぶきを散らす(岩の上をほとばしり落ちる)滝のほとりの 蕨(ぜんまい)が芽を出し始める春になったんだ

◆塩津山 うち越え行けば 我が乗れる 馬そつまづく 家恋ふらしも

笠金村 (巻3365

塩津山を越えて行くと 私の乗っている馬がつまづく

家の者が私を恋しく思っているらしい

◆大君の 命恐み おし照る 難波の国に あらたまの 年経るまでに 

白たへの 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに 

思ひいませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 

置きて去にけむ 時にあらずして(抜粋)

大伴三中 (巻3443

天皇のご命令を謹んで承って 難波の国で 年が経つまで長い間 

衣も洗い干す暇もなく 朝夕忙しくお仕えしていたあなたは 

どのように思われて 惜しいこの世をあとに残して逝ってしまったのであろうか 死ぬべき時でもないのに

◆斑鳩の 因可の池の 宜しくも 君を言はねば 思ひそ我がする

作者未詳 (巻123020

斑鳩(いかるが)の因可(よるか)の池の名前のように 

「よろしい人 好ましい人だ」と誰もあなたのことを言わないので 

気をもんで 私はいます

◆春柳 葛城山に 立つ雲の 立ちても居ても 妹をしそ思ふ

柿本人麻呂歌集より 112453

葛城山に立つ雲のように 立っても座っても あの子のことばかりを思っている

◆我が恋は 千引きの石を 七ばかり 首に掛けむも 神のまにまに

大伴家持 (巻4743

私の恋は 千人引きの大石を 七つも首にかけるほど 重く切なかろうとも 

神のご意思のままに

◆春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 野をなつかしみ

一夜寝にける

山部赤人 (巻81424

春の野に すみれを摘みに来た私は 野に魅せられて 

思わず一夜を明かしてしまった

◆春日野に 煙立つ見ゆ 娘子らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも

作者未詳 (巻101879

春日野に煙が立ち上るのが見えるよ  若い娘たちが集まって 

春の野のうはぎを摘んで煮ているのだろうな

◆我が背子が 古き垣内の 桜花 いまだ含めり 一目見に来ね

大伴家持 (巻184077

親しい友よ 君が住んでいた屋敷の桜の花は まだつぼみだ

一目見においで

◆真金吹く 丹生のま朱の 色に出て 言はなくのみそ 我が恋ふらくは

東歌 (巻143560

鉄を精錬する 炎のように赤い 丹生(にふ)の赤土のように 

顔色に出して言わないだけだ 私の恋する思いは

◆籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 

菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は

押しなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそ居れ 我こそば

告らめ 家をも名をも

雄略天皇 (巻11

籠もよい籠を持ち 土を掘るヘラもよいヘラを持って この私の丘で若菜を摘んでいらっしゃる娘さん あなたの家をおっしゃい 

名を名乗ってくださいな

大和の国は 押しなびかすように すっかり私が治めている 

敷きなびかすように 隅々まで私が支配している 私こそは名乗ろう 

家をも名をも

◆あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

小野老 (巻3328

奈良の都は 咲く花がらんまんと色美しいように 今が真っ盛りです

◆沖辺行き 辺を行き今や 妹がため 我が漁れる 藻臥束鮒

高安王 (巻4625

沖へ行き 岸辺をたどり たった今あなたのために獲った 

藻に潜むこぶしほどの鮒です

◆天の原 振り放け見れば 白真弓 張りて掛けたり 夜道は良けむ

間人大浦 (巻3289

大空を振り仰いで見ると 白木の弓に 弦を張ったような半月がかかっている

きっと夜道は良いだろう

◆潮さゐに 伊良虞の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を

柿本人麻呂 (巻142

潮の騒ぐ折 伊良虞(いらご)の島辺を漕ぐ船に あの娘も乗っているだろうか波の荒い 島の周りなのに

◆庭に立つ 麻手刈り干し 布さらす 東女を 忘れたまふな

常陸娘子 (巻4521

庭に生える麻を刈り取って干して 布を陽にさらす東女を お忘れにならないで

◆み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも

山部赤人 (巻6924

み吉野の象山(きさやま) その谷あいの木々の梢で

こんなににぎやかにさえずる 鳥たちの声です

◆春されば しだり柳の とををにも 妹は心に 乗りにけるかも

柿本人麻呂歌集より (巻101896

春がきて 芽吹くしだれ柳が たわたわと枝を垂らすように 愛しいあの娘が

私の心にずっしりと乗りかかってきて 心がいっぱいなんだ

◆春雨の しくしく降るに 高円の 山の桜は いかにかあるらむ

河辺東人 (巻81440

春の雨がしきりに降り続いているが 高円山(たかまどやま)の桜は 

どうなっているだろう

◆淑き人の 良しとよく見て 良しと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見

天武天皇 (巻127

昔のよい人が よいところだとよく見て よいと言った この吉野をよく見なさい 今のよい人よ よく見なさい

◆神奈備の 磐瀬の社の 呼子鳥 いたくな鳴きそ 我が恋増さる

鏡王女 (巻81419

神奈備(かんなび)の 磐瀬(いわせ)の杜(もり)で鳴いている

呼子鳥(よぶこどり)よ そんなにひどく鳴かないでおくれ 

私の切ない恋心がますます募ってしまうから

◆香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原

中大兄皇子 (巻114

香具山と耳梨山とが妻争いをしたとき 阿菩(あぼ)の大神が 立ちあがって

見に来たという 印南国原(いなみくにはら)だ ここは

◆憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむそ

山上憶良 (巻3337

憶良めは もうおいとまいたしましょう

家では子どもが泣いているでしょう それその子の母も 

私を待っていることでしょうから

◆籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児

家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は 押しなべて 

我こそ居れ しきなべて 我こそ居れ 我こそば 告らめ 

家をも名をも

雄略天皇 (巻11

籠もよい籠を持ち 土を掘るヘラもよいヘラを持って この私の丘で若菜を

摘んでいらっしゃる娘さん あなたの家をおっしゃい 名を名乗ってくださいな

大和の国は 押しなびかすように すっかり私が治めている 

敷きなびかすように 隅々まで私が支配している 私こそは名乗ろう 

家をも名をも

◆珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり

大伴家持 (巻174029

珠洲(すず)の海に 朝早く船出して漕いでくると 長浜の浦では 

月が照っていたことだ

◆山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく

高市皇子 (巻2158

山吹が美しく咲き匂い立つ山の清水を 汲みに行きたいけれど

その道が分からないのだ

◆信濃なる すがの荒野に ほととぎす 鳴く声聞けば 時過ぎにけり

東歌・信濃国歌 (巻143352

信濃の国にある 須我の荒野に 鳴き始めたホトトギス

その声を聞くと もう時は過ぎ去ってしまったんだなあ

◆験なき 物を思はずは 一坏の 濁れる酒を 飲むべくあるらし

大伴旅人 (巻3338

甲斐のない物思いをするよりは いっそ一杯のにごり酒を

飲んだほうがいいようだ

◆春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山

持統天皇 (巻128

春が過ぎて 夏が来たらしい

真っ白な衣が干してある 天の香具山には

◆大和には 鳴きてか来らむ 呼子鳥 象の中山 呼びそ越ゆなる

高市黒人 (巻170

大和ではもう鳴いてから来たのだろうか

呼子鳥(よぶこどり)が 象(きさ)の中山を 愛しい子を呼ぶように

鳴きながら越えている

◆高円山に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を 何かと問へば

玉桙の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白たへの 

衣ひづちて (中略) 語れば 心そ痛き 天皇の 神の皇子の 

出でましの 手火の光そ そこば照りたる (抜粋)

笠金村歌集より (巻2230

高円山(たかまとやま)で 春に野を焼く野火かと見間違うほど

盛んに燃える火を 「あれは何だ」と尋ねると 道を来る人は 

涙を小雨のように降らせるので 白たえの着物はぐっしょり濡れて

-(中略)-わけを話すと心が痛い あれは天子様のお子 

尊い神のお子様のご葬列を照らす たいまつの火が 

あんなにもたくさん照っているのです

◆薪伐る 鎌倉山の 木垂る木を 待つと汝が言はば

恋ひつつやあらむ

東歌・相模国歌 (巻143433

薪を刈る かまが名につく 鎌倉山に枝葉を茂らす木じゃないが

「松(待ちます)」とお前が言うならば こんなにやきもきと恋してなどいるものか

楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも

柿本人麻呂 (巻131

楽浪(ささなみ)の志賀の入江は 流れることなく淀んでいても

昔の人に再び会うことができようか

うつせみの 常の言葉と 思へども 継ぎてし聞けば 心惑ひぬ

作者未詳 (巻122961

世間に決まり文句だとは思うけど 聞かされ続けると 心はやはり迷うよ

○▼朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱ふ舟人

大伴家持 (巻194150

朝の寝床で聞くと はるかに聞こえる

射水川(いみずかわ)を 朝漕ぎながら歌っている舟人の声が

梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 君の御幸を 聞かくし良しも

海上女王 (巻4531

お供の者が魔除けに梓の弓を 爪ではじく夜の音

その遠い弦の音のようにでも 君のお出ましのことをお聞き申すのは 

うれしいことでございます

○▼茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

額田王 (巻120

ムラサキの生える 御料地の野をいらっしゃるあなた 

野の番人に見られやしませんか

そんなに袖を振って私をお誘いになっては

紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも

大海人皇子 (巻121

紫草の花のように美しいあなたを 憎いと思ったら 人妻であるのに 

どうして恋しく思いましょうか

○▼あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

小野老 (巻3328

奈良の都は 咲く花がらんまんと色美しいように 今が真っ盛りです

○▼銀も 金も玉も なにせむに 優れる宝 子に及かめやも

山上憶良 (巻5803

銀も金も玉も どうして優れた宝は 子どもに及ぼうか 

我が子以上の宝はないのだ

うましもの いづくも飽かじを 坂門らが 角のふくれに 

しぐひあひにけむ

児部女王 (巻163821

上質なものは どんなところでも 飽きることのない良さがあるものなのに 

なんだってまた 坂門(さかと)のあの子は 

角の(家の)醜いふくれ男なんかに くっついてしまったんだろう

我妹子が 心なぐさに 遣らむため 沖つ島なる 白玉もがも

大伴家持 (巻184104

わが妻の気晴らしの種に送ってやろうと思うから 

はるか沖合の島の真珠がぜひ欲しいものだ

安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

作者未詳(詠者:陸奥国の前の采女) (巻163807

安積香山(あさかやま) その影まで見えてしまう山の井の浅いように 

浅い心を わたくしは抱いてなどいるものですか

大穴道 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らくし良しも

柿本人麻呂歌集より (巻71247

大穴道(おおあなみち)の神と少御神(すくなみかみ)とがお作りになった 

妹の山と背の山を見ることはうれしいなあ

君に恋ひ いたもすべなみ 奈良山の 小松が下に 立ち嘆くかも

笠女郎 (巻4593

あなたに恋をして どうしていいかわからなくなったから 奈良山の小松の下にぼんやり立ってため息ばかりついています

いさなとり 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ

海は潮干て 山は枯れすれ

作者未詳 (巻163852

鯨を捕るあの海は死ぬのですか 山は死ぬのですか

死ぬからこそ 海は潮が引くし 山は枯れるのさ

采女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く

志貴皇子 (巻151

采女の袖を吹き返す明日香風は 都が遠いので むなしく吹いている

悔しかも かく知らませば あをによし 国内ことごと 見せましものを

山上憶良 (巻5797

ああ悔しいことだ

こんなことになると知っていたら 国中のすべてを見せてやればよかったのに

弥彦 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮服着て

角つきながら

作者未詳 (巻163884

いやひこの神の山の麓に 今日あたりも きっと 

神の鹿が腹ばいになっているだろうよ 毛皮の服を着て 角をつけたままで

○▼春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山

持統天皇 (巻128

春が過ぎて 夏が来たらしい

真っ白な衣が干してある 天の香具山には

恋草を 力車に 七車 積みて恋ふらく 我が心から

広河女王 (巻4694

恋草を荷車七台に積んで引くような苦しみの恋をしているのは

そういえば自分の心から求めてしたことだった

○▼紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも

大海人皇子 (巻121

紫草の花のように美しいあなたを 憎いと思ったら 人妻であるのに 

どうして恋しく思いましょうか

物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 

にほえ娘子 桜花 栄え娘子 汝をそも 我に寄すといふ 我をもそ

汝に寄すといふ 荒山も 人し寄すれば 寄そるとぞいふ 

汝が心ゆめ

作者未詳 (巻133305

何の物思いもしないで道を進んで行くのだが 青山をふり仰いで見ると 

つつじの花が美しい そのように美しいおとめよ

桜の花が今を盛りと咲いている そのように溌剌としたおとめよ

おまえを 私とわけありのように言い寄せているそうだ 

私を おまえといい仲のように言い寄せているそうだ 荒山でさえ 

人が寄せると寄せられると言う

おまえは心に油断があってはいけないよ いいね

古りにし 嫗にしてや かくばかり 恋に沈まむ 手童のごと

石川郎女 (巻2129

つかい古したお婆さんなのに まあどうしたことでしょう 

これほど恋に没頭するなんて まるで幼子みたい

千鳥鳴く 佐保の川門の 清き瀬を 馬打ち渡し いつか通はむ

大伴家持 (巻4715

千鳥の鳴く佐保川の渡し場の清い瀬を 馬を渡して 

いつかあなたのもとへ通いたい

伊香保ろの やさかのゐでに 立つ虹の 顕はろまでも 

さ寝をさ寝てば

東歌・上野国歌 (巻143414

伊香保の幾尺とも高さ知らずの井堰(いぜき)に現れる虹のようにはっきりと 様子が露わになるくらいまで ずっとお前と寝ていられたらなあ

間遠くの 野にも逢はなむ 心なく 里のみ中に 逢へる背なかも

東歌 (巻143463

どこか遠い野原とかで会いたかったな

察しが悪いんだから

よりによって里の真ん真ん中で出会った いとしいお方

左夫流児が 斎きし殿に 鈴掛けぬ 駅馬下れり 里もとどろに

大伴家持 (巻184110

左夫流児(さぶるこ)が 大切にしてかしづく御殿に 

鈴もかけない早馬が都から下ってきた

里中とどろくばかりのすごい音で

山の端に 月傾けば いざりする 海人の灯火 沖になづさふ

遣新羅使人 (巻153623

山の端に月が傾くと 漁をしている海人の灯火が 

沖にともって漂うようにちらちらしている

彦星は 織女と 天地の 別れし時ゆ いなむしろ 川に向き立ち

思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 青波に 望みは絶えぬ 

白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息づき居らむ かくのみや 

恋ひつつあらむ さ丹塗りの 小舟もがも 玉巻きの ま櫂もがも 

(抜粋)

山上憶良 (巻81520

彦星(ひこぼし)は織姫星(たなばたつめ)と 天と地とが分かれた

遠い時代から 天の川に向かって立ち 恋する心のうちは苦しくて 

嘆く胸のうちは落ち着きもせず 

青い波で向こう岸が見えなくなってしまった

白雲が隔てた遙けさに涙は涸れてしまった

ああ こんなにばかり ため息ついていられようか こんなにばかり 

恋い焦がれていられるものか 赤く美しく塗られた小舟が欲しい 

玉を巻き付けた櫂がないものか

今年行く 新島守が 麻衣 肩のまよひは 誰か取り見む

作者未詳 (巻71265

今年送られていく 新しい防人(さきもり)の麻の衣の肩のほつれは 

いったい誰が繕ってやるのだろうか

○▼我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし

大伯皇女 (巻2105

我が弟を大和へと送り返すと 夜は深く沈み あかつきの露に 

わたくしは立ちつくしたままぬれてしまった

いづくにか 舟泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎたみ行きし 棚なし小舟

高市黒人 (巻158

今ごろ どこに舟泊まりをしているのであろうか

安礼(あれ)の崎を こぎめぐって行った 

あの舟棚(ふなだな)もない小さな舟は

恋にもそ 人は死にする 水無瀬川 下ゆ我痩す 月に日に異に

笠女郎 (巻4598

恋のために人は死にもするようです

水無瀬川(みなせがわ)の伏流水のように 

人知れず<恋する人に見られることもなく>私はやせ衰えてゆきます

月日を追うごとに

彦星し 妻迎へ舟 漕ぎ出らし 天の川原に 霧の立てるは

山上憶良 (巻81527

彦星(ひこぼし)が妻を迎える船をこぎだしたようだ

天の河原に霧が立っているのは その水しぶきにちがいない

伊勢の海人の 朝な夕なに 潜くといふ 鮑の貝の 片思ひにして

作者未詳 (巻112798

伊勢の海人(あま)が 朝夕の副食物として潜って取るという 

あわびの貝のように 片思いのままで

妹として 二人作りし 我が山斎は 木高く繁く なりにけるかも

大伴旅人 (巻3452

妻と共に二人で造った我が家の庭園は 木立も高く 

すっかり生い茂ってしまったことだ

安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

作者未詳(詠者:陸奥国の前の采女) (巻163807

安積香山(あさかやま) その影まで見えてしまう山の井の浅いように 

浅い心を わたくしは抱いてなどいるものですか

烏とふ 大をそ鳥の まさでにも 来まさぬ君を ころくとそ鳴く

東歌 (巻143521

カラスという大まぬけ鳥が 確かにもいらっしゃることのない君を 

あの児が来た「ころく」と鳴くんだよ

旅にして もの恋しきに 山下の 赤のそほ舟 沖に漕ぐ見ゆ

高市黒人 (巻3270

旅にあって なんとなく恋しい思いでいる折しも 

山すそにいた朱塗りの船が沖に向かってこいで行くのが見える

ますらをや 片恋せむと 嘆けども 醜のますらを なほ恋ひにけり

舎人皇子 (巻2117

立派なますらおが 届かぬ片思いなんかするものではないと嘆いてみるけれど

みっともないこのますらおは それでも恋してしまっている

我ながら情けない

天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ

柿本人麻呂歌集より (巻71068

天の海に雲の波が立って 月の船が星の林にこぎ隠れて行くのが見える

○▼多摩川に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだかなしき

東歌・武蔵国歌 (巻143373

多摩川にさらさらさらす手織り布 流れで白さが増すように さらにさらに なぜにこの子がこんなにも可愛いのか

西の市に ただひとり出でて 目並べず 買ひてし絹の 商じこりかも

作者未詳 (巻71264

西の市にたった一人で出かけて 見比べもせずに

自分だけで見て買ってしまった絹の 買い損ないだよ

我が背子が 犢鼻にする 円石の 吉野の山に 氷魚そ懸れる

阿倍子祖父 (巻163839

うちの人がふんどしにする丸石のかたちよろしい吉野山に 

小鮎の稚魚めがぶらさがっているわ

答へぬに な呼びとよめそ 呼子鳥 佐保の山辺を 上り下りに

作者未詳 (巻101828

お前に返事などするものなどないのだから 

そうむやみに呼び声を響かせるな 呼子鳥(よぶこどり)よ 

佐保の山辺を上に行ったり下に行ったりして

昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 

戯奴さへに見よ

紀女郎 (巻81461

昼は咲き 夜は誰かと恋して寝る合歓木(ねむ)の花ぞ

主人(あるじ)の我だけが独りで見るものではない

風流な若きしもべのそなたまでも見るがよい

飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 

見えずかもあらむ

元明天皇 (巻178

明日香の古京を後にして行ってしまったら あなたのあたりは 

見えなくなりはしないだろうか

天皇の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 金花咲く

大伴家持 (巻184097

天皇の御代(みよ)が栄えるようにと 東国の果てのみちのく山に 

黄金の花が咲いたよ

士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして

山上憶良 (巻6978

男たるもの 無駄に一生を終ってよいものか

永遠に語りつぐべき名声をあげもしないで

立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし

大伴家持 (巻174001

立山(たてやま)に降り積もった雪を 一年じゅう見ても見飽きることがない その山の神性ゆえらしい

上野の 安蘇のま麻群 かき抱き 寝れど飽かぬを あどか我がせむ

東歌・上野国歌 (巻143404

上野(かみつけ)の安蘇(あそ)の麻束を 抱き抱えて寝るのに満足しない

私はどうしたらよいのか

○▼父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる

丈部稲麻呂 (巻204346

別れの時に 父と母とが 私の頭を両手でなで回しながら 

「幸くあれ くれぐれも無事で過ごせ」と言った言葉が 脳裏から離れない

石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふものそ 鰻捕り喫せ

大伴家持 (巻163853

石麻呂殿に 私が物を申そう 夏やせに効果てきめんということですぞ

うなぎを取って召し上がりなされ

我妹子が 額に生ふる 双六の 牡の牛の 鞍の上の瘡

阿倍子祖父 (巻163838

うちの女房の額に生えている すごろく盤の 大きな牡牛(おうし)の

鞍の上にあるかさぶた

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも

市原王 (巻61042

一本松はどれほどの時を経てきたのだろうか

こずえを吹く風の声が 清らかで澄み切っているのは

深く歳月を重ねてきたからだろうか

神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 

厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり (抜粋)

山上憶良 (巻5894

神代の昔から 言い伝えるには 大和の国は 神が威厳をもって守る国 

言霊が幸いをもたらす国と 語り継ぎ言い継いn

高円山に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を 何かと問へば

玉桙の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白たへの 

衣ひづちて (中略) 語れば 心そ痛き 天皇の 神の皇子の

出でましの 手火の光そ そこば照りたる (抜粋)

笠金村歌集より (巻2230

高円山(たかまとやま)で 春に野を焼く野火かと見間違うほど 

盛んに燃える火を 「あれは何だ」と尋ねると 道を来る人は 

涙を小雨のように降らせるので 白たえの着物はぐっしょり濡れて

-(中略)-わけを話すと心が痛い あれは天子様のお子 尊い神のお子様の

ご葬列を照らす たいまつの火が あんなにもたくさん照っているのです

標結ひて 我が定めてし 住吉の 浜の小松は 後も我が松

余明軍 (巻3394

標(しめ)を結って私のものと定めておいた住吉の浜の小松は 

後々も私の松だ

射ゆ鹿を 認ぐ川辺の 和草の 身の若かへに さ寝し子らはも

作者未詳 (巻163874

弓で射られた鹿のあとを追って行く 川辺の柔らかい草

私は思い出す その草のように私が身も心も若かった頃 抱いた乙女を

伊香保ろの やさかのゐでに 立つ虹の 顕はろまでも

さ寝をさ寝てば

東歌・上野国歌 (巻143414

伊香保の幾尺とも高さ知らずの井堰(いぜき)に現れる虹のようにはっきりと

様子が露わになるくらいまで ずっとお前と寝ていられたらなあ

もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花

大伴家持 (巻194143

たくさんの娘子(おとめ)たちが 入り乱れて水をくむ

寺の井戸のほとりのかたくりの花よ

○▼信濃道は 今の墾り道 刈りばねに 足踏ましむな 沓はけ我が背

東歌・信濃国歌 (巻143399

信濃道は切り開いたばかりの新しい道です

切り株に足を踏みつけなされるな

くつを履いていらっしゃい あなた

香島ねの 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち 

つつき破り 速川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に こごと揉み 

高坏に盛り 机に立てて 母にあへつや 目豆児の刀自 

父にあへつや 身女児の刀自

作者未詳 (巻163880

香島山(かしまやま)近くの机島(つくえじま)の海岸から 

しただみを拾って持って来て 石で殻をつつき破り 

流れの早い川で洗いすすぎ清めてから 辛い塩にごしごしもんで 

足の高い器に盛りつけ それを机の上に立ててうやうやしく供え

かあさまに差し上げたかい かわいいおかみさん 

とうさまに差し上げたかい  愛くるしいおかみさん

夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものそ

大伴坂上郎女 (巻81500

夏の野に生い茂る草のなかで ひそやかにあかく咲くひめゆりみたいに

思う人に知ってもらえない恋は どうにも苦しいものです

ほととぎす 間しまし置け 汝が鳴けば 我が思ふ心 いたもすべなし

中臣宅守 (巻153785

ほととぎすよ 間をしばらく置いてくれ

お前が鳴くと 私の恋しく思う心が増さってどうしようもない

世間は まこと二代は 行かざらし 過ぎにし妹に 逢はなく思へば

作者未詳 (巻71410

この世の中は ほんとに二度はめぐっては来ないらしい

亡くなった妻に再び会えないことを思うと

天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ

柿本人麻呂歌集より (巻71068

天の海に雲の波が立って 月の船が星の林にこぎ隠れて行くのが見える

な思ひそと 君は言ふとも 逢はむ時 いつと知りてか

我が恋ひざらむ

依羅娘子 (巻2140

そんなに思い悩むなと あなたは言うけれど 

再びお会いできる日をいつと知って 私は恋せずにいたらよいのでしょうか

それがあまりに不確かなので 恋せずにはいられないのです

油火の 光に見ゆる 我が縵 さ百合の花の 笑まはしきかも

大伴家持 (巻184086

油火の光にゆらゆら輝いて見える あなたにもらった私の花縵(はなかづら)

そのさゆりの花の なんともほほえましいことよ

○▼わたつみの 豊旗雲に 入り日見し 今夜の月夜 清く照りこそ

中大兄皇子 (巻115

海の神がたなびかす ゆったりと広がる旗雲(はたぐも)に

入り日を見た今夜の月は 清く照り輝いてほしい

あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに

大津皇子 (巻2107

山のしずくに いとしいお前が来るのを待って 立ちつくしたまま 

俺はずいぶんとぬれた その山のしずくに

嘆きせば 人知りぬべみ 山川の 激つ心を 塞かへてあるかも

作者未詳 (巻71383

嘆いたら人に知られそうなので 山川の流れのような激しい恋心を 

懸命にせき止めていることよ

若草の 新手枕を 巻きそめて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに

作者未詳 (巻112542

新妻の手枕をし始めてから 一夜だって夜離(よが)れをしようものか

憎くはないのに

年のはに 鮎し走らば 辟田川 鵜八つ潜けて 川瀬尋ねむ

大伴家持 (巻194158

毎年 鮎(あゆ)が走り泳ぐころになったら 

辟田川(さきたがわ)に鵜を8羽潜らせて 川瀬をたどって行こう

時の花 いやめづらしも かくしこそ 見し明らめめ 秋立つごとに

大伴家持 (巻204485

時宜を得て咲く花は ひとしお心ひかれるものです

このようにして (これからも時の花を)ご覧になり 心を晴らすことでありましょう秋の訪れるその度ごとに

春日山 おして照らせる この月は 妹が庭にも さやけかりけり

作者未詳 (巻71074

春日山を一面に照らしているこの月は あの娘の家の庭にも明るく照っているよ

銀も 金も玉も なにせむに 優れる宝 子に及かめやも

山上憶良 (巻5803

銀も金も玉も どうして優れた宝は子に及ぼうか 我が子以上の宝はないのだ

蓮葉は かくこそあるもの 意吉麻呂が 家なるものは 

うもの葉にあらし

長意吉麻呂 (巻163826

蓮(はす)の葉とは かくも立派なものであるのか

はて だとすると 意吉麻呂(おきまろ)の家に生えているのは

どうやら芋の葉っぱだな

高松の この峰も狭に 笠立てて 満ち盛りたる 秋の香の良さ

作者未詳 (巻102233

高松山のこの峰も所狭しとかさ立てて あたり一面真っ盛り

秋の香りのよいことよ

○▼あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を 一人かも寝む

作者未詳 (巻112802の或本歌)

あしひきの 山鳥の尾のように 長い長い夜を ただひとりで寝ることだろうか

この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ

大伴旅人 (巻3348

この世でさえ楽しかったら 来世(らいせ)では 

虫にでも鳥にでもわたしはなってしまおう

大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主と 負ひ持ちて 

仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の

辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て ますらをの 

清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 親の子どもそ 

大伴と 佐伯の氏は (抜粋)

大伴家持 (巻184094

大伴の遠い祖先の神のその名前 大来目主(おおくめぬし)の名を背負い

お仕えしてきた役目である

「海を行くならば水浸しの屍(しかばね)となり 山を行くならば

草むす屍となり朽ち果てるとも 天皇のお側(そば)で死のう 

後(あと)を振り向きなどしない」と言葉に出して誓い 

大夫(ますらお)のけがれなき名を はるか過去から今の代に 

盛んに伝えた祖先の末えいであるぞ

大伴と佐伯の氏は

君待つと 我が恋ひ居れば 我がやどの 簾動かし 秋の風吹く

額田王 (巻4488

大君のお出ましを心待ちにして わたしが恋の思いに胸をときめかせていますとわが家の戸口のすだれを動かして 秋の風が吹いてくる

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

額田王 (巻120

紫草の野を行き 標(しめ)を結う野を行き野の番人は見ているではありませんか あなたが袖をお振りになるのを

命あらば 逢ふこともあらむ 我が故に はだな思ひそ 命だに経ば

狭野弟上娘子 (巻153745

命があったら 会うこともありましょう

わたしのことでそんなに思い悩まないでください

命さえ無事であったら

高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに

笠金村歌集より (巻2231

高円(たかまと)の野辺の秋萩(あきはぎ)は 何のかいも無く咲き

今や散るのであろうか 見るはずの人もないままに

等夜の野に 兎ねらはり をさをさも 寝なへ児故に 母にころはえ

東歌 (巻143529

等夜(とや)の野にウサギを狙うではないけれど <をさをさ>すなわち 

ろくすっぽ寝もしないあの娘のために おっかさんにこっぴどくしかられた

なでしこが 花見るごとに 娘子らが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも

大伴家持 (巻184114

庭に咲くなでしこの花を見るたびに 

あの人の笑顔の生き生きとした美しさが思われてならない

我が背子が 帰り来まさむ 時のため 命残さむ 忘れたまふな

狭野弟上娘子 (巻153774

あなたが帰って来られる時のために この命を残しておきましょう

お忘れにならないで下さい

なにせむに 我を召すらめや 明けく 我が知ることを 

歌人と 我を召すらめや 笛吹きと 我を召すらめや 

琴弾きと 我を召すらめや (抜粋)

馬にこそ ふもだしかくもの 牛にこそ 鼻縄はくれ (中略) 

おし照るや 難波の小江の 初垂を 辛く垂れ来て 陶人の 

作れる瓶を 今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに 

塩塗りたまひ はやすも はやすも (抜粋)

乞食者 (巻163886

いったいどうしようとして私をお召しになるのか

とうに 私には知れたこと・・・はて 待てよ・・・

歌手として私をお召しになるのか 笛吹きとして私をお召しになるのか 

琴弾きとして私をお召しになるのだろうか (抜粋)

馬ならば絆し(ほだし)をかけるものだ  牛ならば鼻縄をつけて引くものだ

なんとしたことか この蟹(かに)めを縄でぐるぐるお縛りなされて-中略-

明るい日ざしが降り注ぐ難波(なにわ)の入江で採れた塩のしずくの

初垂り(はつたり)を  それはもう 辛く垂らしたのを絞ってきて 

焼き物作りの陶工(すえひと)が  こしらえる瓶(かめ)を 急な使いで 

今日行き明日には取って持って来る慌ただしさで用意して 

私の目にまでお塗りなされて 塩漬けのこの蟹を 

うまいうまいとご賞味なさるよ  うまいうまいと ご賞味なさる (抜粋)

やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激つ河内に

高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば (中略) 

行き沿ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち

下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも 

(抜粋)

柿本人麻呂 (巻138

我が大君が 神であられるままに神らしく振る舞われるとて 

吉野川の水の流れの激しい谷あいに 高殿(たかどの)を高々とお造りになり 

登り立って国見をなさると

-中略-宮殿に沿って流れる川の神も 天皇のお食事に奉仕しようと 

上の瀬で鵜飼いを催し 下の瀬に小網(さであみ)を張り渡している

山や川の神までも心服してお仕えする神の御代(みよ)であることよ (抜粋)

○▼夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝ねにけらしも

舒明天皇 (巻81511

夕暮れになると いつも小倉山で鳴く鹿は 今夜は鳴かない

妻に会えてもう寝てしまったようだ

○▼父母が 殿の後の ももよ草 百代いでませ 我が来るまで

遠江国の防人 生壬部足国 (巻204326

父母が住む屋敷の裏手に生える百代草(ももよぐさ)

その名にあやかり 百代ご長寿にていらしてください

私が戻るその日まで

秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の都の 仮廬し思ほゆ

額田王 (巻17

秋の野の美しい草を刈って屋根にふき 旅宿りをした 宇治の都の

仮のいおりが思い出されます

春さりて 野辺を巡れば おもしろみ 我を思へか さ野つ鳥 

来鳴き翔らふ 秋さりて 山辺を行けば なつかしと 我を思へか

天雲も 行きたなびく 反り立ち 道を来れば うちひさす 宮女

さすだけの 舎人壮士も 忍ぶらひ 反らひ見つつ 誰が子そとや

思はれてある (抜粋)

作者未詳 (巻163791

春になり 野辺をめぐると 愉快な姿だと私のことを思うのか 

野の鳥がやって来て鳴いて飛び回る

秋が来て 山辺をゆくと すてきなひとと私を思うのか 

空ゆく雲もゆるやかにたなびく

きびすを返して 都大路に来ると 御所に仕える気取った官女たちも 

りりしい舎人(とねり)の男たちも こっそりと振り返り見ながら 

あの美しい男はいったい誰の若君かと思われていたものさ

○▼たらちねの 母を別れて まこと我 旅の仮廬に 安く寝むかも

日下部三中 (巻204348

おっかさんの手元をお別れして 本当におれは

旅の仮小屋で不安なく眠れるのだろうか

○▼防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るがともしさ 物思ひもせず

昔年の防人の妻 (巻204425

「今年防人(さきもり)に行くのは 誰のだんななのかしら」と

尋ねる人を見るとうらやましい なんの気苦労もしないで

恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき 言尽くしてよ 長くと思はば

大伴坂上郎女 (巻4661

恋して恋して やっと会えたときくらいは 

愛らしいことばをいっぱい言いつくしてください  私といつまでもとお思いでしたら

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて

娘子壮士の 行き集ひ かがふ歌に 人妻に 我も交はらむ

我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より 

禁めぬ行事ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな

高橋虫麻呂 (巻91759

ワシのすむ筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)のその津の辺りに

誘い合って若い男女が行き集まって遊ぶ歌(かがい)で

人妻に私も交わろう 私の妻に他人も言い寄るがよい

この山を治める神が 昔からおとがめなさらない行事なのだ 

今日だけはめぐしも見るな とがめ立てもするな

二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

大伯皇女 (巻2106

二人で出かけても行き過ぎにくい寂しい秋の山道を 弟よ 

今ごろどんな風に 君はただ独りで越えているのであろうか

伊香山 野辺に咲きたる 萩見れば 君が家なる 尾花し思ほゆ

笠金村 (巻81533

伊香山(いかごやま)の野辺に咲いているハギをみると

あなたのお屋敷のすすきが 懐かしく思われます

稲搗けば かかる我が手を 今夜もか 殿の若子が 取りて嘆かむ

東歌 (巻143459

始終稲をつくので あかぎれになったわたしの手を 今夜もお屋敷の若さまが

手に取って「かわいそうだ つらいだろう」と 嘆くだろうか

香塗れる 塔にな寄りそ 川隈の 屎鮒食める いたき女奴

長意吉麻呂 (巻163828

これこれ 香を塗りこめた高貴なその塔に近寄ってはならん

汚物のたまる川の曲がり角のくそ鮒(ふな)を食うておる

汚らわしい女奴(めやつこ)め

足柄の 箱根の山に 粟蒔きて 実とはなれるを あはなくも怪し

東歌・相模国歌 (巻143364

足柄(あしがら)の箱根の山にあわをまいて 無事に実ったというのに

会わないなんておかしいわ

夜のほどろ 我が出でて来れば 我妹子が 思へりしくし 面影に見ゆ

大伴家持 (巻4754

夜の闇がわずかに溶けはじめたころ 私が出て戻ってくると 

あなたの思いに沈んだ様子が 面影に浮かんで見えるのです

秋山の 黄葉を繁み 惑ひぬる 妹を求めむ 山路知らずも

柿本人麻呂 (巻2208

秋の山の黄葉が茂っているために 道に迷い帰るに帰れないでいる妻

そのいとしい妻を探し求めたいのだが おれにはその山道がわからないのだ

家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ

聖徳太子 (巻3415

家にいたら妻の手を枕とするだろうに

草を枕に旅路で臥せっておられるこの旅人は ああ いたわしい

○▼秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種の花

山上憶良 (巻81537

秋の野原に咲いている花を 指を折って数えてみると ほら 7種の花がある

経もなく 緯も定めず 娘子らが 織るもみち葉に 霜な降りそね

大津皇子 (巻81512

経糸もなく横糸もこしらえないで 色とりどりに娘たちが織る

美しいもみじの葉に 霜よ降らないでおくれ

○▼旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群

遣唐使の母 (巻91791

旅人が宿りする野に霜が降ったら 私の子を羽で包んでやっておくれ

空飛ぶ鶴の群よ

振り放けて 三日月見れば 一目見し 人の眉引き 思ほゆるかも

大伴家持 (巻6994

はるかに空を振り仰ぎ 浮かぶ三日月を見てみると ただ一度きり見た人の

引いたまゆ毛の様子が思われてなりません

秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも

但馬皇女 (巻2114

秋の田の稲穂の向きが 一方に片寄るように 

そんな風にあなたにばかり寄り添いたいのです

どんなに人のうわさがきつくても

今朝の朝明 雁が音聞きつ 春日山 もみちにけらし 我が心痛し

穂積皇子 (巻81513

今朝の明け方 雁(かり)の声を聞いた

春日山はもう紅葉したにちがいない

そう思うとわたしの心は痛む

かけまくも あやに畏し 天皇の 神の大御代に 田道間守 

常世に渡り 八桙持ち 参ゐ出来し時 時じくの 香の菓実を畏くも

残したまへれ (抜粋)

大伴家持 (巻184111

口にかけていうのもまことおそれ多いことだが 天皇の御先祖の神の時代に

田道間守(たじまもり)が常世(とこよ)の国に渡って行き

多くの苗木を持って参上した時に その「時じくのかくの木の実」を 

かしこくも後の世にお残しになった (抜粋)

今日なれば 鼻の鼻ひし 眉かゆみ 思ひしことは 君にしありけり

作者未詳 (巻112809

今日になってみると しきりにくしゃみが出て まゆがかゆくて

もしやと思ったのは あなたの訪れの前兆だったのね

秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋止まむ

磐姫皇后 (巻288

秋の田の稲穂の上にぼうっとかかっている朝かすみがどこかに消え散るように

いつか私の恋心は霧散するのだろうか とても消えそうにない

○▼熟田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

額田王 (巻18

熟田津(にきたつ)で 船出しようとして月の出を待っていると

月も出 幸い潮も満ちて来た さあ今こそこぎ出そう

みつみつし 久米の若子が い触れけむ 磯の草根の 枯れまく惜しも

河辺宮人 (巻3435

みつみつし 久米の若子が手を触れたという

磯の草の枯れるのが惜しいことだ

百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

大津皇子 (巻3416

磐余(いわれ)の池に鳴いているカモを 今日を限りと見て

私は雲に隠れ去って死んで行くのか

うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む

大伯皇女 (巻2165

現世(うつしよ)の人であるわたしは

明日からは二上山(ふたがみやま)を弟として見るのでしょうか

鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 我が大黒に 白塗の 

鈴取り付けて 朝狩に 五百つ鳥立て 夕狩に 千鳥踏み立て

追ふごとに 許すことなく 手放ちも をちもかやすき これをおきて

またはありがたし (抜粋)

大伴家持 (巻174011

タカはたくさんいるけれども、矢形尾(やかたお)の我がタカ「大黒」に

白塗りの鈴を取り付けて 朝狩に五百羽の鳥を追い立て

夕狩に千羽の鳥を踏み立てて 追うたびに逃がすことなく

手から飛び放つのも 戻すのも自在で 大黒以外にこれほどのタカはおるまい (抜粋)

言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹相寄らむと

柿本人麻呂歌集より (巻112506

言霊のはたらく 多くの道の行き合うつじで 夕占(ゆうけ)をした

すると まさしく占に出た あの娘は私になびき寄るだろうと

遠つ人 松浦佐用姫 夫恋に 領巾振りしより 負へる山の名

作者未詳 (巻5871

これは 遠い人を「待つ」という名の松浦佐用姫(まつらさよひめ)が

夫を恋い慕って領布(ひれ)を振った時から名づけられた山の名だ

○▼あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る

大伴旅人 (巻3344

ああみっともない

賢ぶって酒を飲まない人をよく見ると 猿に似ているかなあ

ますらをの 靫取り負ひて 出でて行けば 別れを惜しみ 嘆きけむ妻

大伴家持 (巻204332

雄々しい男が 靫(ゆき)を手に取り背負い 旅に出ていくというとき

さぞ別れを惜しんで嘆いたであろう その妻は

うらさぶる 心さまねし ひさかたの 天のしぐれの 流れあふ見れば

長田王 (巻182

わびしい思いが胸をみたす

無限の空をこめて時雨の降りつぐのを見ると

娘子らが 織る機の上を ま櫛もち 掻上げ栲島 波の間ゆ見ゆ

作者未詳 (巻71233

おとめたちが布を織る織機の上の糸を 

櫛(くし)を使ってかき上げ「たく」(束ねる)という

栲島(たくしま)が波の間から見える

○▼旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群

遣唐使の母 (巻91791

旅人が宿りする野に霜が降ったら 私の子を羽で包んでやっておくれ

空飛ぶ鶴の群よ

○▼東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ

柿本人麻呂 (巻1・48

東の野に陽炎の立つのが見えて 振り返って見ると月は西に傾いている

秋萩の 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 声の遙けさ

湯原王 (巻81550

ハギの花があたりをかき暗くして散る中で

妻を呼び立て鳴く鹿の声が響いてくる

その遙けさよ

橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜置けど いや常葉の木

聖武天皇 (巻61009

橘(たちばな)は実も花もすばらしい それからその葉までも

枝に霜が降りても枯れ落ちない いよいよ常緑の美しい木である

今更に 何をか思はむ うちなびき 心は君に 寄りにしものを

安倍女郎 (巻4505

いまさらに何を思うことなどありましょうか

うちなびいて わたしの心はあなたに寄り添ってしまったのですもの

○▼田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に

雪は降りける

山部赤人 (巻3318

田子の浦を通り 眺めのよいところに出て望み見ると

真っ白に富士の高嶺に雪が降り積もっている

○▼我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後

天武天皇 (巻2103

おまえはうらやましかるだろうな

私の里にはもう雪がたんと降り積もってきている

そなたの住む大原の古びた里に雪が降るのはしばらく先になるのだろうからね

○▼価なき 宝といふとも 一坏の 濁れる酒に あにまさめやも

大伴旅人 (巻3345

値のつけようがないほど貴い宝といっても 1杯の濁り酒にどうして勝ろうか

紅は うつろふものそ 橡の なれにし衣に なほ及かめやも

大伴家持 (巻184109

鮮やかで目立つが紅花で染めたものは色がさめるものだぞ

どんぐり(の煮汁)染めの着なれた衣に やはり及ぶだろうか

かなわないものさ

桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る

高市黒人 (巻3271

桜田の方へ鶴が鳴きながら飛び渡って行く

年魚市潟(あゆちがた)では潮が引いたらしい

鶴が鳴きながら飛び渡って行く

玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の

八十隈ごとに 万度 かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ

いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひしなえて 偲ふらむ

妹が門見む なびけこの山 (抜粋)

柿本人麻呂 (巻2131

渚に寄せる美しい海藻(も)が揺れてからみあうように寄り添って寝たあの人を露霜の置くように置きざりにして来たので この道のたくさんの曲がり角を

通るたびに 何度も何度も振り返って見るが

そのうちだんだんあの人の里は遠ざかってしまった

だんだん高く山も越えて来てしまった

いまごろ夏の日差しでしぼんでしまう草みたいにしょんぼりしてしまって

わたしをしのんでいるだろうな

ああ その愛しい人の門(かど)を見たいのだ なびいて低くなってしまえ

この山よ (抜粋)

矢形尾の 真白の鷹を やどに据ゑ 掻き撫で見つつ 飼はくし良しも

大伴家持 (巻194155

矢形尾の真白なタカを家に置いて なでて眺めながら飼うのはよいものだ

大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも

柿本人麻呂 (巻3235

天皇は神でいらっしゃるので 

天雲の雷(いかづち)の上に庵(いおり)をしておられることだ

さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津の 檜橋より来む 狐に浴むさむ

長意吉麻呂 (巻163824

さし鍋に湯を沸かしておけ みなの者

あの櫟津(いちひつ)の桧橋(ひばし)を「こん」と渡ってくるキツネに

ぶっかけてやろう

○▼東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ

柿本人麻呂 (巻148

東の野にかげろうの立つのが見えて 振り返って見ると月は西に傾いている

○▼百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

大津皇子 (巻3416

磐余(いわれ)の池に鳴いているカモを今日を限りと見て

私は雲に隠れ去って死んで行くのか

○▼新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや頻け吉事

大伴家持 (巻204516

新しい年の初めの正月元旦 立春も重なった

今日降るめでたい雪のように ますます重なれ 良いことよ

かくのみに ありけるものを 萩の花 咲きてありやと 問ひし君はも

余明軍 (巻3455

このようにはかなくなられるお命でしたのに

「ハギの花は咲いているか」とお尋ねになった君は ああ

大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山

登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立ち立つ

海原は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は

🔵🔵作者別

🔴額田王の歌 

熟田津(にきたづ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎてな

茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる

紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾(あれ)恋ひめやも

君待つと吾()が恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く

冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ

咲かざりし 花も咲けれど 山を茂()み 入りても聴かず

 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては

 黄葉(もみ)つをば 取りてそ偲(しぬ)ふ 青きをば 置きてそ嘆く

 そこし怜(たぬ)し 秋山吾(あれ)

春過ぎて夏来るらし白布(しろたへ)の衣乾したり天の香具山

楽浪の志賀の辛崎(からさき)(さき)くあれど大宮人(ひと)の船待ちかねつ

我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の隠(なばり)の山を今日か越ゆらむ

 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも

大伴の高師の浜の松が根を枕()きて寝()る夜は家し偲はゆ

山上憶良

いざ子ども早日本辺(やまとへ)に大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ

山上憶良

惑へる情(こころ)を反(かへ)さしむる歌一首、また序

或る人、父母敬はずして、侍養を忘れ、妻子を顧みざること脱履よりも軽し。自ら異俗先生(せむじやう)と称る。意気青雲の上に揚がると雖も、身体は猶塵俗の中に在り。未だ修行得道の聖を験()らず。蓋し是山沢に亡命する民なり。所以(かれ)三綱を指示(しめ)して、更に五教を開く。遣るに歌を以て、其の惑ひを反さしむ。その歌に曰く、

 父母を 見れば貴し 妻子(めこ)見れば めぐし愛(うつく)

 遁ろえぬ 兄弟(はらから)親族(うがら) 遁ろえぬ 老いみ幼(いとけ)

 朋友(ともかき)の 言問ひ交はす 世の中は かくぞことわり

 もち鳥の かからはしもよ 早川の ゆくへ知らねば

 穿沓(うけぐつ)を 脱き棄()るごとく  踏み脱きて 行くちふ人は

 石木(いはき)より 成りてし人か 汝()が名告()らさね

 天(あめ)へ行かば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大王(おほきみ)います

 この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み

 蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極み 聞こし食()す 国のまほらぞ

 かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか

反し歌

 久かたの天道(あまぢ)は遠し黙々(なほなほ)に家に帰りて業(なり)を為まさに

山上憶良

子等を思(しぬ)ふ歌一首、また序

釋迦如来金口(こんく)正に説きたまへらく、等しく衆生を思ふこと、羅ゴ羅の如しとのたまへり。又説きたまへらく、愛は子に過ぐること無しとのたまへり。至極の大聖すら、子を愛(うつく)しむ心有り。況乎(まして)世間の蒼生(あをひとぐさ)、誰か子を愛まざる。

 瓜食()めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ

 いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて安眠(やすい)し寝()さぬ

反し歌

 銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも

柿本朝臣人麿

石見のや高角(たかつぬ)山の木()の間より我()が振る袖を妹見つらむか。

石見なる高角山の木の間よも吾()が袖振るを妹見けむかも

有間皇子

磐代の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む。

家にあれば笥()に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る。

柿本朝臣人麿=秋山の黄葉(もみち)を茂み惑はせる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも

(ひむかし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ

柿本朝臣人麿

楽浪(ささなみ)の志賀津の子らが罷(まか)りにし川瀬の道を見れば寂(さぶ)しも

柿本朝臣人麻呂

淡海(あふみ)の海()夕波千鳥汝()が鳴けば心もしぬに古(いにしへ)思ほゆ

山部宿禰赤人

不盡山(ふじのやま)を望()てよめる歌一首、また短歌

 天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き

 駿河なる 富士の高嶺(たかね)を 天の原 振り放け見れば

 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず

 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける

 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は

反し歌

 田子(たこ)の浦ゆ打ち出()て見れば真白くそ不盡の高嶺に雪は降りける

山上臣憶良(やまのへのおみおくら)が宴より罷(まか)るときの歌一首

 憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其()も彼()の母も吾()を待つらむそ

太宰帥(おほみこともちのかみ)大伴の卿の酒を讃めたまふ歌十三首(とをまりみつ) 

 験(しるし)なき物を思()はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあらし

 酒の名を聖(ひじり)と負ほせし古の大き聖の言の宣しさ

 古の七の賢(さか)しき人たちも欲()りせし物は酒にしあらし

 賢しみと物言はむよは酒飲みて酔哭(ゑひなき)するし勝りたるらし

言はむすべ為むすべ知らに極りて貴き物は酒にしあらし

 中々に人とあらずは酒壷(さかつぼ)に成りてしかも酒に染みなむ

 あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む

 価(あたひ)なき宝といふとも一坏の濁れる酒に豈(あに)勝らめや

 夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るに豈及()かめやも

 世間(よのなか)の遊びの道に洽(あまね)きは酔哭するにありぬべからし 

 今代(このよ)にし楽(たぬ)しくあらば来生(こむよ)には虫に鳥にも吾(あれ)は成りなむ

 生まるれば遂にも死ぬるものにあれば今生(このよ)なる間は楽しくを有らな

 黙然(もだ)居りて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ及かずけり

貧窮問答の歌一首、また短歌

 風雑(まじ)り 雨降る夜()の 雨雑り 雪降る夜は

 すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ

 糟湯酒(かすゆさけ) うち啜(すす)ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに

 しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾(あれ)をおきて 人はあらじと

 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさふすま) 引き被(かがふ)

 布肩衣(ぬのかたきぬ) ありのことごと 着襲()へども 寒き夜すらを

 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ

 妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝()が世は渡る

 天地は 広しといへど 吾()が為は 狭()くやなりぬる

 日月は 明(あか)しといへど 吾()が為は 照りやたまはぬ

 人皆か 吾()のみやしかる わくらばに 人とはあるを

 人並に 吾(あれ)も作るを 綿も無き 布肩衣の

 海松(みる)のごと 乱(わわ)け垂(さが)れる かかふのみ 肩に打ち掛け

 伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて

 父母は 枕の方に 妻子どもは 足(あと)の方に

 囲み居て 憂へ吟(さまよ)ひ 竈には 火気(けぶり)吹き立てず

 甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)(かし)く ことも忘れて

 ぬえ鳥の のどよび居るに いとのきて 短き物を

 端切ると 云へるが如く 笞杖(しもと)執る 里長(さとをさ)が声は

 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道

 世間を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 富人の家の子どもの着る身なみ腐(くた)し捨つらむ絹綿らはも

 荒布(あらたへ)の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべを無み

     山上憶良頓首謹みて上る。

 難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ

     天平五年三月の一日 良宅対面、献ルハ三日ナリ。山上憶良 謹みて上る。

     大唐大使(もろこしにつかはすつかひのかみ)の卿の記室。

老身重病年を経て辛苦(くる)しみ、また児等を思ふ歌五首 長一首、短四首

 玉きはる 現(うち)の限りは 平らけく 安くもあらむを

 事もなく 喪なくもあらむを 世間(よのなか)の 憂けく辛けく

 いとのきて 痛き瘡(きず)には 辛塩を 灌ぐちふごとく

 ますますも 重き馬荷に 表荷(うはに)打つと いふことのごと

 老いにてある 吾()が身の上に 病をら 加へてしあれば

 昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし

 年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ

 ことことは 死ななと思()へど 五月蝿(さばへ)なす 騒く子どもを

 棄(うつ)てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ

 かにかくに 思ひ煩ひ 音のみし泣かゆ

反し歌

 慰むる心は無しに雲隠れ鳴きゆく鳥の音のみし泣かゆ

 すべもなく苦しくあれば出で走り去()ななと思()へど子等に障(さや)りぬ

 水沫(みなわ)なす脆き命も栲縄(たくなは)の千尋にもがと願ひ暮らしつ

 しづたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも 去ル神亀二年ニ作メリ。但類ヲ以テノ故ニ更ニ茲ニ載ス

 天平五年六月の丙申(ひのえさる)の朔(つきたち)三日(みかのひ)戊戌(つちのえいぬ)作めり。

男子(をのこ)名は古日(ふるひ)を恋ふる歌三首 長一首、短二首

 世の人の 貴み願ふ 七種(くさ)の 宝も吾(あれ)

 何せむに 願ひ欲(ほり)せむ 我が中の 生れ出でたる

 白玉の 我が子古日は 明星(あかぼし)の 明くる朝(あした)

 敷細(しきたへ)の 床の辺去らず 立てれども 居れども共に

 掻き撫でて 言問ひ戯(たは)れ 夕星(ゆふづつ)の 夕べになれば

 いざ寝よと 手を携はり 父母も うへはな離(さか)

 三枝(さきくさ)の 中にを寝むと 愛(うるは)しく しが語らへば

 いつしかも 人と成り出でて 悪しけくも 吉けくも見むと

 大船の 思ひ頼むに 思はぬに 横様(よこしま)風の

 にはかにも 覆ひ来たれば 為むすべの たどきを知らに

 白妙の たすきを掛け 真澄鏡 手に取り持ちて

 天つ神 仰(あふ)ぎ祈()ひ祷()み 国つ神 伏して額づき

 かからずも かかりもよしゑ 天地の 神のまにまと

かからずも かかりもよしゑ 天地の 神のまにまと

 立ちあざり 我が祈ひ祷めど しましくも 吉けくはなしに

 漸々(やうやう)に かたちつくほり 朝な朝()な 言ふことやみ

 玉きはる 命絶えぬれ 立ち躍り 足すり叫び

 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持たる 吾()が子飛ばしつ 世間の道

反し歌

 若ければ道行き知らじ賄(まひ)はせむ下方(したへ)の使負ひて通らせ

 布施置きて吾(あれ)は祈ひ祷む欺かず直(ただ)に率()行きて天道知らしめ

山上臣憶良が沈痾(やみこやれ)る時の歌一首

 士(をとこ)やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして

 右ノ一首ハ、山上憶良臣ガ沈痾ル時、藤原朝臣八束、

 河邊朝臣東人ヲシテ、疾メル状ヲ問ハシム。是ニ憶良

 臣、報フル語已ニ畢リ、須ク有リテ涕ヲ拭ヒ、悲シミ

 嘆キテ此ノ歌ヲ口吟(ウタ)ヒキ。

山上臣憶良が秋野の花を詠める歌二首

1537 秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種(くさ)の花 其一

1538 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花 其二

山部赤人

若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る。

み吉野の象山(きさやま)の際()の木末(こぬれ)にはここだも騒く鳥の声かも。

ぬば玉の夜の更けぬれば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く。

須磨の海人の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ。

春の野にすみれ摘みにと来し吾(あれ)ぞ野をなつかしみ一夜寝にける。

我が背子に見せむと思()ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば。

志貴皇子

石激(いはばし)る垂水の上のさ蕨の萌え出()る春になりにけるかも

あしひきの山霍公鳥汝が鳴けば家なる妹し常に思ほゆ

崗本天皇

夕されば小倉の山に鳴く鹿の今夜は鳴かずい寝()にけらしも

天皇(すめらみこと)のみよみませる御製歌二首

 秋の田の穂田を雁が音暗けくに夜のほどろにも鳴き渡るかも

 今朝の朝明雁が音寒く聞きしなべ野辺の浅茅ぞ色づきにける

読み人知らず

春は萌え 夏は緑に 紅の まだらに見ゆる 秋の山かも

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マイナンバー制度とは

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【このページの目次】

◆マイナンバー制リンク集

◆マイナンバー制のねらい

◆日本共産党のマイナンバー政策

◆全商連=マイナンバーQ&A

◆マイナンバー利権

◆朝日新聞連載全8回=教えてマイナンバー

◆マイナンバーねらい資料

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🔵マイナンバー制リンク集

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★★共産党・山下=情報流出 四つの危険 マイナンバー中止迫る26m

★★共産党・池内=利用機関の点検必要「マイナンバー中止」要求30m

★★そもそも総研=マイナンバーってメリットがあるのだろうか?(15.1221m

★★そもそも総研=マイナンバー制度は海外でうまくいってるの?(15.1016m

★マイナンバー全国一斉提訴1512013m

★マイナンバー約8割が「不安」JNN3m

★マイナンバーに困惑する中小企業10m

★デモクラTV「月刊エコノミスト」マイナンバー制度は問題山積16m

★マイナンバー改正法成立 利用範囲を拡大 徴兵制にリンク?7m

★大丈夫?マイナンバー制度_韓国では20151024

★青木理 「マイナンバー法案、近々成立へ」 2013.04.29

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🔵マイナンバー制の動向

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🔵「持たなきゃ生きていけない」 マイナンバーカード普及に躍起の菅政権 「強制化」に警戒も

東京新聞20.11.26

 

菅義偉首相が目玉政策に位置付けるデジタル化推進の一環として、マイナンバーカードの普及促進に力を入れている。2022年度末までの全国民の取得を目標に掲げ、来年3月には健康保険証としての利用を開始し、運転免許証との一体化も計画。利便性の向上を図るが、国民には個人情報の漏えいなどを不安視する声も根強く、任意のはずの取得が事実上の強制になるのではないかとの懸念もある。(井上峻輔)

◆「安全安心利便性」をアピール

 「マイナンバーカードは安全安心で利便性の高い『デジタル社会のパスポート』だと認識いただきたい」

 平井卓也デジタル改革担当相は17日の参院内閣委員会で国民に呼び掛けた。

 マイナンバーカードは、裏面に個人を認証できるICチップを搭載し、オンラインで本人確認が可能。政府は「あらゆる手続きが役所に行かなくてもできる社会」の実現に不可欠としており、首相は来秋にも設置予定のデジタル庁に普及推進を担わせる方針だ。

 カードは16年に交付を開始したが、コンビニでの住民票取得といった使用場面に限られることなどから普及が進まず、今年4月1日時点の交付率は16%と伸び悩んでいた。政府は7月、普及策として、カードを持つ人を対象に食事や買い物に使える最大5000円分の「マイナポイント」を還元する申し込みの受け付けを開始。申請数は急増し、交付済みを含めた今月17日現在の申請率は25.3%となった。

◆保険証や免許証と一体に

 政府は、健康保険証に加え、26年までに運転免許証と一体化させる方針。今月下旬から、未取得者にスマートフォンから申請できるQRコード付きの交付申請書を送って申請を促す。

 平井氏は取得を義務付ける法制化について「強引ではうまくいかない」と否定しつつも「もっと有効に使えることが増えたら、自然と持たなければ生きていけない世界になる」と普及に躍起。自民党は17日にまとめたデジタル政策に関する提言に、カードとの一体化による保険証の将来的な廃止を盛り込んだ。

◆任意のはずが

 こうした政府・与党の動きに、市民団体「共通番号いらないネット」事務局の宮崎俊郎さん(59)は「任意のはずのマイナンバーカードが強制になってしまう」と警戒。「これだけの人数しか取得していないのは、カードで生活が豊かになるという実感よりも、落としたり不正利用されたりする不安の方が勝っているから。そういう気持ちを持っている人が多いことの表れだ」と指摘する。

◆◆マイナンバー連携「利便性」の名で危険を隠すな

2017728日赤旗主張

 日本に住む全員に12桁の番号を割り振り、税や社会保障などの情報を政府が管理するマイナンバー制度が今月から新たな段階に入っています。マイナンバーを通じ個人情報を自治体や国の機関との間でやりとりできる「情報提供ネットワークシステム(NWS)」の実用に向けた試行運用が始まったのです。安倍晋三政権は約3カ月後に本格的に運用する計画ですが、早くも会計検査院から同システムの不備が指摘されるなど矛盾が浮き彫りになっています。問題点や危険性をまともに説明せず、「国民の利便性が高まる」とマイナンバーを推進する姿勢は無責任です。

◆国民置き去りで前のめり

 マイナンバー制度は2015年10月、住民への番号通知の郵送で開始されました。16年1月からは、税や社会保障手続きの一部で行政や金融機関から書類への番号記入を求められたり、プラスチック製の「個人番号カード」が希望者に交付されたりしています。

 個人番号カードは、マイナンバーと氏名、生年月日、顔写真、個人情報の集積が可能なICチップが一体となっています。盗難・紛失すればプライバシー侵害の被害は大きく、むやみに持ち歩くことへの不安が強いだけでなく、使い道も身分証明くらいしかないため住民への交付は人口比9%程度とほとんど普及していません。

 そんな実態なのに、安倍政権は18日からマイナンバーを使う「情報提供NWS」の試運転を始めました。47都道府県、約1700市区町村、日本年金機構、税務署、医療保険者など5000を超す公的機関をつなぐ巨大な情報連携システムの構築をめざすものです。当初は今年1月に開始する予定でしたが15年に日本年金機構から125万件の個人情報が流出する大問題が起こり、実施が延期されていました。情報漏れ対策が万全なのか、不安はぬぐえません。

 政府は本格運用になれば、児童手当や介護保険料の減免などの手続きでマイナンバーを記載すれば、これまで必要だった住民票などの書類がいらなくなり「手間が省ける」「便利になる」と宣伝します。しかし、他人にむやみに知らせてはならないマイナンバーを管理するリスクや手間を考えれば、住民に便利かどうかは、不透明です。

 しかも会計検査院が26日公表した「情報提供NWS」準備状況の抽出調査結果(対象170機関)で、不備が発見された100以上の機関で情報連携が来年7月以降にずれ込むことが分かりました。また厚生労働省のあるシステムでは改修のため約34億円もの追加支出をしていました。システムづくりを先行させて、税金を浪費する無理な制度設計になっているのではないのか。国民的議論を置き去りにしたやり方は極めて問題です。チェックと見直しこそ必要です。

◆問題だらけの制度やめよ

 従業員のマイナンバーを記載した住民税関係の事業所あての通知書を誤って送った自治体が100以上にのぼることが判明し、マイナンバーの扱いのずさんさに批判が上がっています。マイナンバー関連の個人情報や顔写真データが警察捜査に利用された例があることが先の通常国会の審議で明らかになるなど国民監視へ道を開くおそれも強まっています。マイナンバーの運用は中止し、制度の廃止に向けた検討が求められます。

◆◆マイナンバー運用なし崩し拡大はあまりに危険

2017118日赤旗主張

 日本に住民票を持つ全員に12桁の番号を割り振り、国が税や社会保障の情報を管理するマイナンバー制度で、住民にたいするマイナンバー(個人番号)カードの交付が始まってから今月で1年になります。安倍晋三政権はカードの利便性の宣伝に力を入れ普及を促しますが、希望者数はほとんど頭打ちです。この仕組みが、住民にとって不必要で、不安が強いものであることを浮き彫りにしています。それなのに、政府はマイナンバーを使える対象を広げることばかりに熱を上げています。国民を置き去りにした前のめり姿勢は、きわめて問題です。

◆普及促進へ税金を次々と

 マイナンバー制度は2015年10月に施行され、住民に番号を通知する紙製のカードが約5900万世帯に向けて発送されました。16年1月から本格運用が始まり、税の手続きの際などに使えるようにしたほか、取得を希望する人には個人番号、顔写真、氏名、住所、生年月日などが記載されたプラスチック製のマイナンバーカードが発行されるようになりました。

 しかし、さまざまな事情で住民登録した住所に不在だったなどの理由で、番号が通知されていない世帯が100万件以上残されたままです。マイナンバーの発行業務でも全国的に管理・運営するシステムのトラブルがたびたび発生し、実務を担う地方自治体の窓口では混乱したところも少なくありません。多額の税金を投じたシステムが動きだした途端、不調に陥ったこと自体、マイナンバーの仕組みへの疑念を深めるものです。

 カードの希望者も政府の思惑通りに広がりません。16年度末までに3000万枚の発行を見込みましたが、カードを取得した人は3分の1にも届かず、国内人口の8%程度と低迷しています。マイナンバーカードは身分証明の他にほとんど使い道はありません。それどころか、他人に見せてはならない個人番号と顔写真などが一つになったカードを持ち歩くことの方が、個人情報を保護する点からすれば、かえって危険です。カード申請が頭打ちなのは、国民が制度の利便性を感じず、むしろ不安が大きいことの反映といえます。

 しかし、安倍政権は推進へテコ入ればかりに熱心です。17年度予算案では、総務省がカード500万枚の追加発行など「利活用推進」へ約230億円も計上しました。厚生労働省も、マイナンバーを医療分野で利用することをにらんだシステム構築などで240億円余を盛り込みました。不安にこたえずに、理解や納得もないまま、次々と税金をつぎ込み、なし崩し的にカードの利用分野を広げることは、国民の願いに逆らうものです。

◆国民への押し付けやめよ

 一昨年125万件の個人情報が漏れて大問題になった日本年金機構でも、1月からマイナンバーが使われるようになったことに国民は危惧を抱いています。住民税の徴収事務をめぐり地方自治体が事業所に従業員のマイナンバーを知らせるやり方にも自治体・住民の双方から情報漏えいのリスクを指摘する声が上がっています。

 マイナンバーは、徴税強化と社会保障費抑制の手段にしたい国・財界の都合で導入されたものです。国民に弊害ばかりもたらすマイナンバーは中止し、廃止へ向け見直すことが必要です。

◆◆マイナンバー1年=国民には不要で危険な制度だ

20161024日赤旗主張

 日本に住民票を持つ人全員に12桁の番号を割り振り、税や社会保障の情報を国が管理するマイナンバー制度が施行されて10月で1年です。昨年の今ごろ全世帯への番号通知の郵送などをめぐり世間をにぎわせましたが、多くの人はマイナンバーを日常的に使う機会はほとんどなく、必要性を感じていません。むしろ情報の漏えいなどへの懸念は強く「個人番号カード」の普及も広がりません。そのため安倍晋三政権は国民がマイナンバーを使わざるをえない仕組みを広げることに躍起となっています。プライバシーを危うくする制度の推進は国民の願いに反します。

◆170万世帯まだ届かず

 赤ちゃんからお年寄り、在日外国人も含め国内に住民登録する人全てを対象にするマイナンバー制度は、昨年10月に番号を通知する郵送作業が始まりました。しかし対象となる5900万世帯余のうち約170万世帯は、いまだに通知を受け取れていません。何らかの理由で住民登録している住所を不在にしている事情によるものです。170万世帯といえば四国4県の世帯数に匹敵します。動きだして1年を経てもこれだけの規模の人が自分の番号を知らされず置き去りになっていること自体、制度の深刻な矛盾を示しています。

 今年1月から、希望者に対してマイナンバーなどを記したプラスチック製の「個人番号カード」の交付が市区町村で始まりましたが、こちらもトラブルの連続です。カード発行を全国的に管理するシステムがたびたび停止し、発行に重大な支障が生じました。カードを受け取りにきた人に発行できない事態が続出し自治体窓口に混乱を引き起こしました。政府は、トラブルは解消しているといいますが、多くの税金を投じたシステムが開始早々不調に陥ったことは、個人情報を扱う制度の安全性と信頼性を根本から疑わせるものです。

 そもそも「個人番号カード」は身分証明の他に今のところ使い道はありません。むしろマイナンバー、顔写真、生年月日、ICチップが一体となったカードを持ち歩くことの方が紛失や盗難のリスクを高めます。国民も利便性や必要性を感じないため、カードの申請も1千万件余りで頭打ちになり、政府の目標の3分の1程度です。

 安倍政権はカード普及のために、コンビニで住民票が取れるとか、保育所入所の手続きに使えるとか、売り込みに懸命となっています。カードがないと必要な証明が取得できなくなるかのような宣伝までしています。買い物のポイントや図書館の貸し出し、健康保険証などとの連携も検討しています。利用対象を広げれば広げるほど個人情報は危険にさらされます。普及にばかり力を入れる政府のやり方は、あまりにも無責任です。

◆徹底検証で見直し、中止へ

 これから年末調整などで勤務先からマイナンバーの提示を求められる場合も増えるため、新たなトラブルの発生も心配されます。

 マイナンバー制度は徴税強化と社会保障給付抑制を目的に、国が国民の情報を厳格に掌握することを狙った仕組みです。国民を監視する手段にされかねないことへの不安の声も強まっています。

 国民にとって不必要で危険な仕組みを続けることは問題です。運用状況を徹底検証し、制度見直し、中止へ踏み出すことが必要です。

◆◆マイナンバー制1年=現状と今後

(赤旗16.10.21

◆◆マイナンバー運用=不安と不信がますます強まる

2016829日赤旗主張

 赤ちゃんからお年寄り、在日外国人まで日本に住民登録している人全員に12桁の番号を割り振り、その個人情報を国が管理するマイナンバー(共通番号)制度について、安倍晋三政権が利用範囲の拡大へむけた検討を加速しています。マイナンバーは今年1月に本格運用が始まったものの、番号を記載したカードを希望者に発行するシステムの障害や不具合が相次ぐなど矛盾と混迷が続いています。住民の大切な個人情報を扱う仕組み自体が、お寒い状況だというのに、利用拡大に熱中する安倍政権の姿勢は、あまりにも国民不在です。

◆泥縄式に税金投入を拡大

 マイナンバー制度は昨年10月から、すべての住民に対して個人番号を通知する郵送が始まり、今年1月から税や社会保障の行政手続き、勤務先への告知など一部で利用が行われています。しかし、圧倒的多数の国民にとって日常的に使う機会はほとんどありません。転居の際の役所の手続きの手間が簡単になるなどという安倍政権の宣伝を、国民は実感できません。

 希望する人には、個人番号と顔写真、生年月日、ICチップなどの情報が記された「個人番号カード」が発行されますが、カード発行を全国的に管理するシステムが作動しなくなるなどトラブルが続発し、カードを受け渡す市町村の窓口で混乱を引き起こしました。

 安倍内閣は24日閣議決定した今年度の第2次補正予算案で、障害をおこしたカード発行システムの改修・補強、カードの利用促進などのために150億円以上を計上しました。すでに数千億円が投じられたシステムが本格運用した途端に不調になったことは、構造的な欠陥すら疑われる問題です。その原因の十分な解明も検証もない段階で、追加の税金を投じるのは、あまりに「泥縄式」ではないのか。これでは、システムの不具合が起きるたびに、際限なく税金を投入する事態になりかねません。

 「個人番号カード」はいまのところ身分証明以外に使い道がありません。さまざまな個人情報が詰め込まれるカードを持ち歩く方が紛失、盗難などのリスクを高めます。そんな危ういカードを「くらしが便利になる」ことばかり強調し、大規模な普及に力を入れる政府のやり方は、住民のプライバシーを保護する姿勢とかけ離れています。

 カード希望者数も約1000万人(6月末)で政府が今年度に見込んだ普及数の半分にも届きません。このことは多くの国民がこの仕組みを必要としていないことを示しています。カードを使わせるために、買い物ポイントとの連携、図書館の貸し出し、健康保険証などにまで際限なく利用対象を広げることを狙い、安倍政権が検討会などで具体化をはかっていることは重大です。プライバシー保護を置き去りに、前のめりの普及促進はすべきではありません。

◆徹底的な検証こそ必要

 マイナンバー制度は、国民の税と社会保障の情報を国が掌握し、徴税強化や社会保障給付の抑制の手段に使うことが導入の狙いです。国民の行動や思想を監視する手段にされかねないことへの不安と警戒の声も上がっています。

 問題だらけで危険なマイナンバーの仕組みを徹底検証し、制度の凍結・中止、廃止を含めた見直しをすることこそ、いま必要です。

◆◆マイナンバー提出強制事業所が就業規則で、法律では拒否できる

201655日赤旗

 法律では拒否できるはずのマイナンバー(共通番号)提出を、就業規則で提出を強制する職場が続出しています。弁護士らから、法律から外れた運用の危険や民間に任せっぱなしにする政府の無責任を指摘する声があがっています。(矢野昌弘)

図:マイナンバー 法逸脱の提出強制

 ある事業所で職員に配られた「確認書」。マイナンバーを出したくない職員が、提出拒否の意思表示をするための書類です。

 この書類には「提供拒否によって私が被る不利益を理解する」と書かれています。さらには「不利益について損害賠償等の法的措置は行いません」と、職員に誓約させるものとなっています。

 別の事業所では、就業規則でマイナンバーを「提出しなければなりません」と明記。「提出を拒んだ者は、採用を取り消すことがあります」となっています。

 こんな手法を勧める指南本やインターネットなどのひな型文書が事業所でそのまま使われている例が多発しています。

 「職場にマイナンバーを出すか、出さないかは個人で判断すべきことで、強要があってはなりません」と語るのは、労働組合役員のAさん。こうした提出が強要された事例の相談を受けています。

 Aさんは「事業所がマイナンバーに過剰反応しています。いま意思表示しなければ、今後ますます拒否できない社会になっていく怖さを感じます。労働者を脅すようなことは許されません」と憤ります。

◆法逸脱は危険

 マイナンバー法は、従業員らのマイナンバー収集と管理などを、事業者の努力義務にしています。

 しかし、個人にマイナンバー提出を義務づけてはいません。そのため従業員が提出を拒み、番号なしの書類を税務署などに提出しても問題はありません。

 ところが、提出することが就業規則に盛り込まれると、業務命令となります。提出を拒むと、処分の対象になりかねません。

 この問題に詳しい田原裕之弁護士は「マイナンバーは個人情報であり、よりデリケートな運用がなされるべきもの。それなのに、法律を飛び越えた運用が行われているのは危険だ」と指摘します。

 厚生労働省のリーフレットは「不利益な取り扱いや解雇等は、労働関係法令に違反又は民事上無効となる可能性」としています。しかし、内閣官房のホームページは「必ず就業規則に規定しなければいけないものではありませんが、(中略)各事業者においてご判断をいただければ」と、事業者の判断任せにしているのが実態です。

 川口創弁護士は「マイナンバー制度は企業による番号の収集を前提にしている以上、国は配慮する義務があり、民間任せは許されない。就業規則での強制はダメだと政府に明示させる必要がある」と訴えます。

◆◆マイナンバー提出しなくてよい

赤旗16.04.23

◆◆欠陥マイナンバー、強引な推進は矛盾深めるだけ

2016322()赤旗主張

 今年1月から本格運用が始まったマイナンバー(共通番号)制度をめぐり、トラブルが相次ぎ、仕組みの矛盾が浮き彫りになっています。マイナンバーの通知書を受け取れない世帯が依然として数百万規模で残されているだけでなく、政府が普及に力を入れる「個人番号カード」の発行でシステム障害が繰り返されていることが新たな問題として浮上しています。問題を放置したまま、制度を推し進めるのは、あまりに乱暴です。

◆システム障害が続発し

 マイナンバーは、日本に住民登録している人全員に12桁の番号を割り振り、税や社会保障などの個人情報を国が管理する仕組みです。昨年10月から、対象となる約5600万世帯に番号を通知する簡易書留を郵送しましたが、さまざまな事情で転居届をしていない人たちなどの手元に届かず、200万通以上が返送されています。自分の番号をいまだに知ることができない人たちがこれだけ残されたままになっていること自体、制度が抱える矛盾を示しています。

 番号通知すら終わるめどがないのに、安倍晋三政権は1月から、希望者が任意で申請する「個人番号カード」の交付作業を開始しました。「個人番号カード」はいまのところ身分証明くらいにしか使い道がありません。むしろ、他人にむやみに知らせてはならない番号と顔写真・氏名が一体で記載されているカードを持ち歩くことの方が、紛失や盗難のリスクを高めるものです。そんな問題にはほとんど触れず、もっぱら「メリットいっぱい」などと宣伝し普及促進にばかり力を入れる安倍政権のやり方は、国民の個人情報の保護に責任をもつ姿勢ではありません。

 重大なのは、政府が普及を促している「個人番号カード」の交付システムでトラブルが繰り返され、希望者への交付手続きが大混乱に陥っていることです。「個人番号カード」の交付は、市区町村の窓口が行いますが、それを統括している「地方公共団体情報システム機構」(東京)のカード管理システムが断続的に障害をおこし、カードが発行できない事態が続発しています。遠くからカードを受け取りに来た高齢の人に帰ってもらったり、後で郵送する手続きをとったりと、住民や自治体職員に大変な手間と不便を強いています。

 機構は詳しい原因を明らかにしていませんが、2カ月以上も正常に機能しないというのは、構造的欠陥も疑われます。個人情報の管理にかかわるシステムを、不具合のまま動かし続けるのは危険です。せめて原因が解明されるまで、システムを止め、交付作業をストップすべきではないのか。ずるずる続けるのは許されません。

◆凍結・中止こそ急がれる

 これまでに「個人番号カード」交付を希望したのは約900万人ですが、それさえ交付完了の見通しは立っていません。計画自体に無理があることは明らかです。

 安倍政権はいまだに「個人番号カード」普及を宣伝したり、「カード」の民間利用拡大の検討会を発足させたり、と異常な前のめりです。いまやるべきことは、噴出している問題点の徹底的な検証と制度の見直しです。個人情報を危険にさらし、国民への国家管理と監視強化につながるマイナンバー制度は凍結・中止し、廃止に向けた議論を行うことが必要です。

◆◆混迷 マイナンバー、不安は置き去り 推進をやめよ

2016210()赤旗主張

 日本に住民票をもつ人すべてに12桁の番号をつけ、国が個人情報を管理するマイナンバーが1月に本格的に始まってから1カ月が過ぎました。番号が通知されていない人が依然として多数残されるなど問題は山積したままなのに、安倍晋三政権は、つくることが個人の任意である「個人番号カード」の宣伝・普及にばかり力を入れています。多くの国民の不安や疑問などを置き去りにして、カードの普及や利用拡大をすすめることは、国民のプライバシーを危険にさらすものでしかありません。

◆番号カード交付でも混乱

 マイナンバーは、赤ちゃんからお年寄り、在日外国人まで住民登録している約1億2000万人に番号を割り振り、税や社会保障の手続きなどで使わせようという仕組みです。昨年10月から番号通知の郵送作業が開始され、1月から一部の社会保障の申請、金融機関の窓口などで番号の提示を求められることにもなりました。

 しかし全国で約300万人が番号の通知書を受け取れておらず、実務を担う市区町村はその対処に忙殺されています。マイナンバーを示さなくても各種手続きは可能ですが、多くの住民は制度を熟知していないため窓口の説明などで混乱するケースも少なくありません。マイナンバー関連詐欺が相次ぐのも、制度が周知されていない実態に付け込まれたものです。実施ありきでマイナンバーを推進する政府の姿勢が問われます。

 希望する人にだけ発行される「個人番号カード」交付でもトラブル続きです。1月中旬から市区町村の窓口で同カードの引き渡しが始まりましたが、カード交付を全国的に管理する「地方公共団体情報システム機構」のシステムがたびたび不具合を起こし、多くの市町村で個人番号カード交付が一時できなくなる事態も起きました。

 政府も機構も不具合の詳細な理由を明かしていません。システムが万全でないのに無理に実施を急いだ弊害も指摘されています。個人情報の管理システムの不調の原因について十分説明せずカード交付を推進するのは大問題です。

 個人番号カードは現在、身分証明以外に使い道がありません。顔写真、氏名、住所とマイナンバーが一体で記載されているカードをむやみに持ち歩くことの方がよほど危険です。カードの紛失・盗難などでマイナンバーが他人に知られ悪用されれば、被害の回復は困難です。

 政府は、個人番号カードに組み込まれたICチップ機能を民間でも利用できるようにするとしてキャッシュカードやクレジットカードの機能まで付けようとしています。危険性はまともに知らせず、「こんなに便利」と幻想を広げてカード普及をあおり、利用拡大をすすめる安倍政権のやり方は極めて重大です。

◆国民監視への懸念広がる

 住民に番号をつけ民間分野でも広く使われているアメリカや韓国で、大量の個人情報漏れや「なりすまし」犯罪が続発している事実を直視すべきです。さまざまな情報が個人番号カードに集積されることには、国による個人情報の掌握強化・国民監視につながるとの批判の声も上がっています。国民にメリットどころか、プライバシー侵害などデメリットしかないマイナンバーは中止・凍結し、廃止へむけた検討が必要です。

◆◆マイナンバー始動=不安と懸念は深まるばかりだ

2016113()赤旗主張

 日本国内に住民登録している人全員に12桁の番号を割り振り、国が一元管理するマイナンバー制度の運用が、今月から始まりました。市区町村の窓口での社会保障や税の手続きの一部などで番号提示が求められます。本人に番号を知らせる「通知カード」を届ける作業は完了のめどすらありません。自分の番号を知ることが制度運用の大前提だというのに、それすらできない人が膨大に残されていること自体、制度の矛盾です。こんな状態で国民のプライバシーに直結する制度の見切り発車は、あまりに危険です。

◆未通知も解消しておらず

 自治体の窓口では4日から、児童手当申請や国民健康保険の加入手続きなどで、書類に個人番号の記入を求めることを始めました。しかし、それを知らずに手続きにくる人が各地で相次いでいます。周知されてない仕組みに住民は戸惑い、自治体職員は窓口での説明や対応に追われる事態です。

 そもそも全住民を対象にした制度を掲げながら、いまだに全国で約550万世帯に「通知カード」が届いていないことが大問題です。

 自分の番号を手にできないのは、さまざまな事情で住民登録した住所を離れている人たちです。施設に入っている高齢者、家庭内暴力から逃れている人、長期にわたる出張で帰れない人。東日本大震災による避難者も数多く含まれています。これらの人たちが「通知カード」を受け取ることが困難なことは、政府も当初から分かっていたはずです。それにもかかわらず一方的に「通知カード」を送り付けたことは、暮らしの実態を見ない、乱暴なやり方です。

 未通知問題を解決するめどもないのに、今週から、希望者に個人番号と顔写真などが記載された「個人番号カード」を交付する作業が自治体窓口で本格化します。

 この手続きが混雑と混乱に拍車をかける恐れがあります。申請者が本人かを確認する複数の書類チェックなどが必要で手間がかかります。届け出た写真の本人確認のため画像ソフトを使った「顔認証システム」も導入するとしています。同システムは顔写真がデータに蓄積され、他目的でも利用される危険もあるため、「プライバシーの侵害」との懸念も出ています。

 個人番号カードは、いまのところ身分証明以外にほとんど使い道はありません。多くの個人情報が集積されている個人番号カードを持ち歩く方がよほど危険です。紛失・盗難にあえば、詐欺や「なりすまし」などに悪用されかねません。メリットがないばかりか、持つ方がリスクを高めるカードの普及と活用の拡大ばかりに力を入れる政府の姿勢は、個人情報をリスクにさらすものでしかありません。

◆必要なのは中止・凍結

 昨年、日本年金機構から膨大な個人情報が漏れ大問題になりました。政府が個人情報を一元管理することにたいする国民の不信と不安はなんら払拭(ふっしょく)されていません。個人情報はいったん流出すれば、被害の回復はきわめて困難です。

 マイナンバーは、徴税強化や社会保障費抑制を狙った政府の動機から出発したもので、国民には不利益ばかりです。矛盾と問題点が次々と浮き彫りになるなか、本格運用を加速するのでなく、マイナンバー制度は中止・凍結し、廃止への検討を行うことが必要です。

◆◆個人番号カード交付開始=被害拡大は必至 国民監視の危険、企業カードと一体化狙う

2016111()赤旗

(写真)個人番号カードを受け取る女性(左)=8日、東京都板橋区役所

 1月から運用が始まった「マイナンバー(共通番号)制度」で、希望者に対して「個人番号カード」の交付が始まりました。安倍内閣は、多くの国民に所持させるために、買い物などのたびにポイントがたまるカードなどと一体化する検討を始めるなど、個人カードの普及に躍起となっています。

 個人カード取得は任意で、顔写真と氏名、住所、性別、生年月日と個人番号が記されています。しかし、個人カードがなくても、配布された「通知カード」で行政手続きもできるため困ることはありません。身分証明書としても使えますが、他人に番号を知られないようにしなければなりません。

◆顔写真悪用

 しかも、カード交付の際、「顔認証」を使って本人確認を行うことになっており、人権侵害を引き起こすことが指摘されています。また、集められた顔写真が、警察などに利用される危険性も抱えています。

 政府はカードを3000万枚発行できる予算を計上していますが、6日時点で申請は約320万枚。約1億3千万人の国民のうち約2・5%にとどまっています。

 そのため政府は、民間サービスでの活用をはかる考えです。高市早苗総務相は4日、「各企業のポイントカードやクレジットカードなどと連携できるマイキープラットホームを構築したい」と述べ、各種カードと一本化する考えを表明しました。

◆情報が集約

 しかし、1枚のカードに個人情報が集約されるほど、ひとたび情報が漏えいすれば、甚大な被害を引き起こすことは必至です。しかも、紙製のポイントカードもあるなかでカード情報をどうやって集約するのか、各種カード情報の読み取り機械の普及や不正利用対策など課題は山積しています。

 政府が普及に躍起となるのは、一人でも多くの国民が番号カードを持てば国民の個人情報を簡単に把握でき、税や社会保険料などの負担強化や給付抑制に使えるからです。マイナンバーが国民のためではなく、政府が国民を管理するための制度であることが浮き彫りとなっています。

◆◆危険いっぱいマイナンバー(15.10.11赤旗日曜版)

◆◆日弁連などのマイナンバー制についての見解

◆水永 誠二(みずなが・せいじ。日弁連情報問題対策委員会 副委員長)弁護士に聞く

国民一人一人に番号を割り振る「マイナンバー制度」を定めた社会保障・税の共通番号法は524日、参院本会議で可決、成立した。20161月から制度の運用がスタートする予定だ。

マイナンバー制度は、国民一人一人の所得や納税実績、社会保障に関する個人情報を1つの番号で管理しようというもの。それぞれの国民の所得状況や年金、医療などの受給実態を正しく把握して、効率的な社会保障給付を実現することが目的とされている。

この制度が始まると、納税や社会保障に関する情報が一元的に管理できるようになる。行政に役立つだけでなく、国民にとっても、たとえば、年金や介護保険の納付状況がインターネットで確認できたり、確定申告の手続きがいまよりも簡単にできるようになる、といったメリットが考えられる。

一方で、所得や健康状態といった重要な個人情報が流出したり、他人に悪用されたりする危険性が指摘されている。マイナンバー制度の運用にあたって、政府はどのような点に気をつけるべきだろうか。また、国民が注意すべき点はなんだろうか。日弁連情報問題対策委員会の副委員長をつとめる水永誠二弁護士に聞いた。

◆マイナンバー制度には、さまざまな「リスク」がある

「この制度が掲げる目的を実現するための核心は、マイナンバーを納税者番号として使って『正確な所得把握』をし、それに応じて社会保障を『効率的』に給付するというところにあるはずです。しかし、その『正確な所得把握』ができないことは、今や政府自身が認めています」

このように水永弁護士は、マイナンバー制度の実効性について、疑問を投げかける。逆に、マイナンバー制度の導入にはさまざまなリスクがあると指摘する。

「たとえば、個人情報にマイナンバーがつけられるようになれば、それらの情報が番号で確実に名寄せされて、プライバシーが『丸裸』にされてしまう危険があります。

また、悪意の第三者に成りすまされ、その際の情報が自分のものとして登録・名寄せされ、知らないうちにブラックリストに載せられてしまうような危険もあります。これはすでに、アメリカや韓国などで深刻な社会問題となっています。

さらに、マイポータルにある個人情報をのぞき見されたり、不正操作されたりする危険が飛躍的に高まることも考えられます」

◆マイナンバー制度に伴う「リスク」を回避するための方法は?

このようなリスクをできるだけ回避するためには、どうしたらいいのだろうか。水永弁護士は次のように指摘する。

「このような危険性を防止するには、『利便性』の追求に偏ることなく、マイナンバーを広範的な分野で使う『共通番号』にしないことが必要です」

では、一般の国民がとれる対策はあるのだろうか。

「マイナンバーが記載されたカードを身分証明書として使うことは止めたほうがいいでしょう。国民としては、勤務先などマイナンバーの活用が法律で決められたところ以外では、カードを極力使わないようにするのが望ましいといえます」

水永弁護士はこのようにアドバイスしている。情報の一元化は利便性や効率性というメリットをもたらすと同時に、万が一セキュリティが破られた場合に、多大な損害が生じるリスクがある。そのようなリスクに備えるために、我々としては、マイナンバーがどのような場面で使われようとしているのか、注意を払っておく必要があるといえるだろう。

(弁護士ドットコムニュース)

◆水永弁護士たちがマイナンバー制違憲訴訟

漏えいの恐れ プライバシー権侵害=5地裁 弁護士ら一斉提訴

2015122()赤旗

(写真)会見する(左から)瀬川宏貴弁護士、水永誠二弁護士ら=1日、東京都千代田区

 来年1月に本格稼働するマイナンバー制度は、個人情報漏えいの危険性が高く、憲法が保障するプライバシー権を侵害するとして、弁護士や住民ら計156人が1日、国を相手にマイナンバーの利用停止や削除などを求める「マイナンバー違憲訴訟」を、全国5地裁でいっせいに起こしました。

 提訴したのは、仙台、新潟、東京、金沢、大阪の各地裁です。弁護団によると、マイナンバーの差し止めを求める民事訴訟は全国で初めて。今後、横浜や名古屋、福岡でも提訴を予定しているといいます。

 自営業者や医師、税理士、性同一性障害者など30人が原告となった東京訴訟では同日午後、記者会見をおこないました。

 原告の女性(58)=東京都杉並区=は「病歴や職歴など、マイナンバーに蓄積され、当局がヒモつけしてみることができる恐ろしい社会がまっている。今、止めなければ」と語りました。

 代理人の水永誠二弁護士は「マイナンバーは、1億3000万人弱の個人データを扱う巨大インフラだ。いったん動き出せば、見直しは事実上、不可能。弊害が社会問題になる前に差し止めて、見直すべきだ」とのべました。

◆日弁連のマイナンバー制わかりやすい解説

◆◆マイナンバー事業主不安

(赤旗15.11.26

◆◆マイナンバー どうするどうなるQ&A

20151011()赤旗

 今月から施行された「マイナンバー(共通番号)制度」。全国民に付けられる番号の「通知カード」が市区町村から郵送されますが、カードが届く前に知っておきたいポイントを見てみると―。

Q 通知カードがきたら?

A 大事に保管して。個人番号カードは任意

 「番号通知カード」は、市区町村から世帯主あてに人数分が簡易書留で届きます。カードには番号と氏名、住所、生年月日、性別が印字されています。番号を他人に知られないように大切に保管することが重要です。

 役所や会社などから番号の提供を求められたときなどに提示します。そのさい、本人確認のため運転免許証などが必要です。

 通知カードと一緒に「個人番号カード」の交付申請書も同封されていますが、申請は義務ではなく任意です。

 個人番号カードは、番号などに顔写真の付いたもので、通知カードと同じように番号の提供を求められたときに使い、身分証明書にもなります。

 ただし、通知カードがあれば行政手続きなども何の問題もなくできるため、必要がなければ申請しなくて構いません。

Q 番号の使われ方は?

A 社会保障抑制などに活用。なし崩しに拡大

 来年1月から、医療保険や介護保険、雇用保険など社会保障、確定申告などの税分野、被災者生活再建支援金などの災害対策―の手続きで使います。

 施行前に、新たに預貯金口座や特定健診などにも利用を拡大することが決まりました。利用拡大は施行後に検討するとしていたのになし崩しの拡大であり、きわめて問題です。

 年金については、個人情報の流出問題を受けて、安全対策をとるためにマイナンバーとの連携などが最長17年まで延期せざるをえなくなりました。

 事業所は給与などの書類に番号を記載する必要があるため、従業員に番号の提供を求めることになります。ただし、従業員から提供が得られず、番号が書かれていなくても、書類は受理されることになっています。

Q 国民にメリットは?

A ほとんどメリットなく危険性大きく

 共通番号の導入で個人にメリットはほとんどありません。所得証明書の添付がいらないなど手続きの一部が省略できる程度です。

 逆に、個人情報を国が集めて行政一般に利用するプライバシー侵害、情報漏えい、「なりすまし」被害などデメリットは重大です。

 一方、国にとっては税務署など行政機関がそれぞれ持っている個人情報を共通番号でつなげて管理することができるようになり、税・社会保険料の徴収強化や社会保障給付の抑制などに使えます。

 政府は、幅広い個人情報を集めるため、利用対象の拡大をねらっています。

 個人番号カードも健康保険証との一体化などさまざまな機能を持たせて、保有者を増やす計画です。しかし、個人情報が集まれば集まるほど、国による管理が強まり、漏えい時の被害も甚大で不正取得の標的になる危険も高まります。利用拡大を許さないことが重要です。

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🔵日本共産党のマイナンバー制政策

14年総選挙分野別政策から)

───社会保障の給付削減をねらい、国民のプライバシーを危機におとしいれる共通番号(マイナンバー)の実施に反対します

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 安倍・自公政権が提出し、民主・維新などの賛成で法律が可決された社会保障共通番号(マイナンバー)制度は、国民一人ひとりに背番号をつけ、各自の納税、保険料納付、医療機関での受診・治療、介護・保育サービスの利用などの情報をデータベース化して、国が一元管理するというものです。政府は201510月から、識別番号(マイナンバー)と氏名・住所・生年月日・性別を一体に記載したカードを全国民に送り、16年には、顔写真やICチップの入った「個人番号カード」を導入することを計画しています。

 もともと、国民の税・社会保障情報を一元管理する「共通番号」導入を求めてきたのは、財界でした。日本経団連は2000年代から、各人が納めた税・保険料の額と、社会保障として給付された額を比較できるようにし、この人は負担にくらべて給付が厚すぎるなどと決めつけて、医療、介護、福祉などの給付を削減していくことを提言してきました。社会保障を、自分で納めた税・保険料に相当する対価を受けとるだけの仕組みに変質させる大改悪にほかなりません。社会保障を「自己責任」の制度に後退させ、「負担に見あった給付」の名で徹底した給付抑制を実行し、国の財政負担、大企業の税・保険料負担を削減していくことが、政府・財界の最大のねらいです。

 年金の分野では、保険料の納付額と、受けとる年金額が比較・対照され、過大な給付を受けているという攻撃のもと、さらなる年金削減が打ち出されることになります。

 この間、年金の保険料収納の現場では、徴収業務の民間委託や差し押さえの強化などがすでに問題になっています。「共通番号」の導入にともない、国の税金・社会保険料の徴収業務が統合がされ、機械的な徴収や無慈悲な滞納制裁がさらに横行することも懸念されます。

 日本共産党は、社会保障を民間の保険商品と同様の仕組みに変質させ、国民に負担増・給付削減を押しつけるための「共通番号」導入に反対します。社会保障を自己責任にかえる策動を許さず、国民の権利としての社会保障をまもります。

 政府が国民一人ひとりに生涯変わらない番号をつけ、多分野の個人情報をコンピューターに入力して行政一般に利用すること自体、重大な問題を持つものです。

 本来、個人に関する情報は、本人以外にむやみに知られることのないようにすべきものであり、プライバシーをまもる権利は憲法によって保障された人権の一つです。

 今般、法律が可決されたマイナンバーは、既存の「住基ネット」などとは比較にならない大量の個人情報を蓄積し、税・医療・年金・福祉・介護・労働保険・災害補償などあらゆる分野で活用されるものです。役場への申請はもちろん、病院の窓口や介護サービスの申し込みに使われるなど、公務・民間にかかわらず多様な主体が、そこにアクセスをしていきます。これが導入されれば、個人情報が芋づる式に引き出され、プライバシーを侵害される危険性が高まることは明らかです。

 また、データ管理を国から委託される企業に、国費をつうじて巨大な利権をもたらすことも問題視されています。

 日本弁護士連合会は、「『社会保障番号』制度に関する提言」(200710月)で、「米国の社会保障番号(SSN)がプライバシーに重大な脅威を与えていることは広く知られている」「あらゆる個人情報がSSNをマスターキーとして検索・名寄せ・データマッチング(プロファイリング)され、個人のプライバシーが『丸裸』にされる深刻な被害が広範に発生している」「SSNの身分証明性を悪用されて、『なりすまし』をされたりする被害も広がっている」と指摘し、日本への「社会保障番号」導入に反対を表明しています。

 実際、アメリカでは、「社会保障番号」の流出・不正使用による被害が全米で年間20万件を超えると報告されています。同様の制度がある韓国でも、06年、700万人の番号が流出して情報が売買され、大問題となりました。イギリスでは、労働党政権下の06年に導入を決めた「国民IDカード法」が、人権侵害や膨大な費用の浪費の恐れがあるとして、政権交代後の11年に廃止されました。

 日本共産党は、個人の人権を脅かす策動を許さず、国民のプライバシー権をまもるため、マイナンバー法の実施中止・撤廃を求めて全力をつくします。

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🔵全商連=マイナンバーQ&A

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マイナンバーってどんな制度?

. 個人に番号を付け国が管理する

 赤ちゃんからお年寄りまで、住民登録をしているすべての人に12桁の番号を付け、個人情報を国が一元的に収集・利用しようとするものです。指定されたマイナンバーは原則として生涯変わりません。

 105日(第1月曜日)現在の住民票所在地に、市町村から家族単位でかつ簡易書留で、マイナンバーが記載された「通知カード」が送られてきます。マイナンバーの利用は201611日からです。

 通知カードと一緒に「個人番号カード」の申請書が送られてきます。申請書に写真を貼って申し込むと11日以降に「個人番号カード」が交付されます。

 個人番号カードはICチップがついたカードが予定されており、表面に氏名、住所、生年月日、性別と顔写真、裏面にマイナンバーが記載されます(図1)。

 政府は「個人番号カード」の取得を推進していますが、強制ではありません。

 法人(公益、NPO、協同組合、所得税などの届出を行う人格なき社団含む)にも番号が通知されます。法人登記をしている事業所は登記している所在地へ、法人登記以外の事業所は国税に関する法律に規定する届出書に記載されている13桁の法人番号が所在地に通知されます。法人番号はインターネットを通じての公表が予定されています。

マイナンバーは何に使われる?

. 徴収強化や社会保障の削減狙う

 政府はマイナンバーの利用範囲を当面、社会保障や税金、災害対策の3分野としています。政府が考えている利用例は図2のとおりです。

 社会保障分野では年金、医療、児童手当、生活保護などの手続き、税金分野では確定申告や税務署に提出する書類で同じようにマイナンバーの記載が求められます。しかし、マイナンバーを提示しなくても罰則はありません。

 政府は制度の目的について「国民の利便性を向上させる」、「行政の効率化を図る」としています。しかし、最大の目的は「公正な給付と負担の確保」の名の下に国が国民の監視・管理を強め、所得だけではなく資産を調査し、税金や社会保険料を確実に徴収するとともに「過剰・不正」な社会保障の給付を受けていないかをチェックすることです。

 まだ制度が始まっていないというのに、安倍政権は3月にマイナンバー法の「改定」案を国会に提出し、預金口座にもマイナンバーの利用を広げることを狙っています。

 辰巳孝太郎参院議員(共産)が「高齢者を中心に預貯金などの金融資産を把握し、医療や介護の負担を引き上げることが狙いではないか」と追及すると、麻生太郎財務相は「社会保障制度を維持するため、負担能力に応じた負担を求めることが必要」と、マイナンバーの真の狙いを否定しませんでした(522日参院本会議)。

 さらに預金口座にマイナンバーを付番して管理し、税務調査時に利用して残高照会をかけるなど税金の徴収強化を狙っています。

マイナンバーで行政が効率化する?

. 国の示した試算に根拠はない

 政府は番号制のネットワーク構築(初期費用)に3000億円、稼働費用を年300億円と見込んでいます。

 しかし、法案審議の中では費用対効果の試算は示されず、2013年のマイナンバー法成立時の付帯決議で費用対効果を示すことが求められていました。20146月になって甘利内閣府特命担当相はようやく年間2400億円の増収が見込まれると公表しました。

 しかし、今国会ではこの試算に根拠のないことが明らかになりました。池内さおり衆院議員(共産)が国が試算した費用対効果は「非現実的な仮定に基づく絵空事」と追及。向井治紀内閣官房審議官は「同制度の導入で実務が効率化し、税務職員1980人を徴収に回せるので、1人当たりの徴収実績額1.23億円掛けて試算したもの」と説明しましたが、「あくまで仮定だ」と述べ、試算に根拠がないことが明らかになりました(515日衆院内閣委員会)。

利用範囲は制限される?

. 警察や税務署は使い放題

 政府は将来的には戸籍や旅券、自動車登録、パスポート取得など民間分野で広く利用できるようにしようとしています。また、2017年以降、個人番号カードをできるだけ早く健康保険証として使えるようにと考えています(529日産業競争力会議)。

 見過ごせないのはマイナンバーを含め個人情報の提供を制限する一方で、大きな抜け穴をつくっていることです。「刑事事件の捜査、租税に関する法律の規定に基づく犯則事件の調査または会計検査院の検査」(マイナンバー法1912)に該当するときは(1)個人番号の利用範囲の限定(9条)(2)特定個人情報提供の制限(19条)(3)特定個人情報の収集・保管の制限(20条)などの規制は対象外に。警察や税務署はなんの規制もなく特定個人情報のやりとりやマイナンバーの検索、ファイル作成などができるようになっています。

個人情報は保護される?

. 年金情報が流出。危険性明らか

 政府はマイナンバー制度は本人確認の厳格化や法律で利用範囲を限定しているので、安心・安全が確保されていると強調していました。

 ところが、日本年金機構が1日、年金の個人情報を管理しているシステムが不正アクセスを受け、125万人の公的年金の個人情報が流出し、安心・安全と宣伝していたマイナンバー制度の前提が崩れていることが明らかになりました。マイナンバーが一度流出すれば大変な被害をもたらします。

 今回の事件は年金の個人情報を狙ったサイバー攻撃といわれていますが、マイナンバーが狙われて標的にされれば番号が流出する可能性は否定できません。

 米国でも社会保障番号(SSN)を盗用し、クレジットカードを偽造・不正使用する事件が多発するなど社会問題になっています。

事業者への影響は?

. 無償で運用する義務を負う

 従業員を雇うなど個人のマイナンバーを扱う事業主はすべて「個人番号関係事務実施者」として、マイナンバー運用の義務を無償で負うことになります。

 (1)事業所では、まずマイナンバーの提供を受け、厳格な本人確認を行います。これはアルバイトを含め、すべての従業員に対して行うことになります。(2)さらに税務署や市町村などに提出する書類にマイナンバーを記載して提出します。(3)マイナンバーが目的外使用や外部流失しないよう日常的に管理します。

 本人確認については「個人番号カード」を提示してもらえれば済みますが、「個人番号カード」を取得していない場合は「通知カード」や個人番号が記載された住民票の写し(番号確認)と運転免許証、パスポート(身元確認)などで本人確認をする必要があります。

 これは短期雇用のアルバイトを含むすべての従業員に対して行うことになります。また、従業員に扶養家族がいる場合は、事業主は扶養家族のナンバーも管理しなければなりません。

事業主の負担が増える?

. 実務も経費も増大する

 事業主が従業員やその扶養家族のナンバーを管理するためには事業所内の書類の管理を徹底し、パソコンやサーバーへのウイルス感染や不正侵入の対策、アクセス記録保存などセキュリティー強化、マイナンバーに対応したソフトへの切り替えなどが必要になります。

 また、社会保険事務などの受託者(社会保険労務士など)は、顧客先の個人のマイナンバーが流失した場合の損害賠償の請求に対応する保険への加入も必要になってきます。

 マイナンバーに対応するための費用は対応するパソコンソフトの導入などで従業員数「5人以下」「620人」では40万円台、「2150人」66万円、「51100人」99万円と推計されています(帝国データバンク調査)。厳しい経営を強いられる小規模事業者にとっては大変な負担増になります。

事業者が個人番号を流失させたら?

. 重い罰則がかせられる

 制度は重い罰則があります(表)。例えば「正当な理由なく、業務で取り扱う個人の秘密が記録された特定個人情報ファイルを提供」した者は「4年以下の懲役または200万円以下の罰金」です。従業員が「故意」で流失させた場合、事業主も罰する「両罰規定」もあります。

 仮に従業員のマイナンバーが流失した場合など、事業所が真っ先に疑われます。従業員に対しても自己のカード管理が適正かどうか神経を使わなければなりません。

実施して大丈夫?

. 延期、廃止を求めよう

 世論調査ではマイナンバー制度への懸念が広がっていることが明らかになっています。今年1月の内閣府調査では「特に懸念ない」と答えたのはわずか11.5%で、「プライバシー侵害の恐れがある」と答えたのは32.6%、「個人情報不正使用による被害に遭う恐れがある」が32.3%、「国により個人情報が一元管理され、監視、監督される恐れがある」が18.2%となっています。

 また、対応の遅れも指摘されています。企業や官公庁の担当者へのアンケート調査によれば、システム対応が「完了している」のは企業で4%、官公庁で3%にとどまり、9割超が対応を完了させておらず、「まだ何も行っていない」企業は31%、官公庁は24%を占めています(「毎日」59日付)。

 全商連はマイナンバーを扱う中小業者に対して厳格な管理体制を強要し、情報が漏れた場合の罰則を強化するなど小規模の事業者にとってマイナンバーを管理することは大きな負担となり、経営にとっても大打撃となることを指摘。中小業者の営業を破壊するマイナンバー制度は実施を延期し、廃止することを求める署名用紙を作製し、運動を呼び掛けています。

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🔵マイナンバー利権

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◆◆マイナンバー事業 9社で772億円独占=国民のプライバシー食い物

2015113()赤旗

 プライバシーへの国民の不安が高まっているマイナンバー(共通番号)。その関連事業を、政府の検討会議で委員を幹部が務めていた企業が独占的に受注している問題で、新たに判明した発注額862億円の約9割にあたる772億円を会議メンバー9社(法人含む)で独占していることが2日、日本共産党の池内さおり衆院議員と本紙の調べでわかりました。まさにプライバシーを食い物にする利権・癒着の構図です。(矢野昌弘)

天下り6社32人

 マイナンバー導入のために内閣官房は2011年、技術面について検討する「情報連携基盤技術ワーキンググループ」を設けました。委員21人のうち、大手電機企業の幹部ら民間企業関係者が13人加わっています。

 政府機関発注のマイナンバー関連事業は、新たに判明した43事業を加え、計70件合計で862億円超が明らかになりました。

 このうち772億円超を「ワーキンググループ」に委員を出した9社が受注していました。発注額の89%を分け合っていることになります。

 受注したのは、多い順に富士通が216億円、日立製作所が188億円、NTTデータが138億円などとなっています。(表参照)

 発注方法にも不可解な点が浮かびます。少なくとも18件の事業が入札を伴わない随意契約でした。

 NTTコミュニケーションズ、日立製作所、NEC、富士通、NTTデータの5社連合が受注した「情報提供ネットワークシステム等の設計・開発等業務」が入札不調の末に随意契約で受注した金額は123億1200万円。契約額は予定価格の99・98%と、談合が疑われるケースです。

 11年度以降に行政機関の幹部32人が受注した企業6社に天下りしていました(表参照)。マイナンバーが官民の癒着の温床になっていることが浮かび上がります。

◆◆マイナンバー事業受注の4社 自民に2.4億円献金=09~13年 政官財の癒着浮き彫り

2015118()赤旗

 個人情報流出の不安が現実のものとなっているマイナンバー制度で、中核システム「情報提供ネットワークシステム」を企業共同体を組んで国から無競争で受注した大手企業5社のうち4社が、自民党の政治資金団体「国民政治協会」に5年間で2億4千万円を超える献金をしていたことが分かりました。

 企業共同体に参加したのは、日立製作所、富士通、NEC、NTTデータ、NTTコミュニケーションズ。2009~13年の5年間分の政治資金収支報告書によると、NTTコミュニケーションズを除く4社で計2億4050万円の献金を国民政治協会にしています。(表参照)

 同システムは一般競争入札にかけられたものの、参加したのは5社の企業共同体だけで、123億1200万円で受注しました。日本共産党の池内さおり衆院議員の調べでは、契約額は予定価格の99・98%。予定価格が事前にもれていた可能性が指摘されています。

 5社はいずれもマイナンバー導入のために内閣官房が11年に技術面について検討する「情報連携基盤技術ワーキンググループ」に幹部を委員として派遣していました。

 しかも、献金をした4社には、内閣府、総務省などの行政機関の幹部が多数天下りしており、巨大利権に群がる政官財の癒着ぶりを物語っています。

◆◆1兆円のマイナンバー利権

◆◆保険証とリンクするとさらに利権が

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🔵連載・教えて!マイナンバー全8

(朝日新聞15.05

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◆教えて!マイナンバー全員に12桁番号、何のため?

2015513日朝日新聞

「マイナンバー」のこれから

 この秋、一人ひとりの手元に「マイナンバー(社会保障・税番号)」という番号を知らせるカードが届きます。これで何ができるようになるのでしょうか。政府は利点ばかりを強調しますが、課題はないのか。8回にわけて読み解きます。

◆年金や納税情報管理、効率化

 マイナンバーとは、赤ちゃんからお年寄りまで、住民登録をしている全員に新たに割り振られる12桁の番号だ。引っ越したり、結婚して名字が変わったりしても番号は変わらない。情報が漏れて悪用されるおそれがある場合に限り、変更できる。

 導入することで行政手続きが効率的になり、利用者はいくつもの役所を回る手間が省けるようになる。

 一人ひとりの情報はいま、住所や世帯については市区町村、年金は「日本年金機構」などと、様々な行政機関が管理している。例えば、引っ越して生活保護などの手当を受ける場合、住んでいた市区町村で所得証明書などを受け取り、引っ越し先の役所に自ら届ける必要がある。

 2017年以降は、それぞれの役所で管理されていた個人の情報が、12桁のマイナンバーで結びつけられ、役所同士で情報を共有できるようになる。生活保護の申請も、引っ越し先の役所にマイナンバーを伝えれば、住んでいた市区町村から職員が情報を確認し、手続きを進めてもらえる。子育て中の人が児童手当を継続して受けるための手続きでも、添付書類が減り、手間が省ける。

 役所にとっては、年金の不正受給や脱税といった不正行為を防ぎやすくなるというメリットがある。

 現在は、納税者が給料を受け取ったり株でもうけたりした場合、税務署は企業や金融機関から受け取った書類と納税者の申告を突き合わせて、税金を課している。マイナンバーを使えば、作業をより効率的に進めることができる。

 いま国会で審議されているマイナンバー法の改正案が成立すれば、18年から本人の同意があれば預貯金口座を番号と結びつけることができ、情報がより集めやすくなる。

 マイナンバーの根っこにある目的は、こうした税や社会保障分野での活用だ。少子高齢化で、税を納める若い人や働き盛りの人の負担が重くなる一方、年金など社会保障支出は膨らんでいく。税の未納や、社会保障の不正な受給が広がると、制度の根幹が揺らいでしまう。効率よく税金を集め、社会保障が必要な人に的確にお金が行き渡るようにするのが、導入のねらいだ。

◆個人情報保護に課題

 納税者に番号をふる制度は、自民党や政府が1970年代から本格的に検討してきたが、国が個人を管理する「総背番号制」だとして反対論も根強く、実現してこなかった。

 転機となったのは09年の政権交代。民主党政権は導入の議論を加速させ、13年に安倍政権のもとでマイナンバー法が成立した。

 ただ、情報が漏れて重大なプライバシー侵害や悪用が起きる危険性もはらむ。将来的にはカルテや戸籍もマイナンバーに結びつける案も出ているが、自分の病歴や血縁関係の情報まで盗まれるおそれがある。

 法律では、マイナンバーそのものは社会保障と税、災害対策の分野で定められた行政手続きにしか使えないことになっている。野村総研の梅屋真一郎氏は「利用範囲をどこまで広げるかは、今後、国民が自ら提案する姿勢で議論していくべきだ」と話す。

 (青山直篤)

◆10月に各世帯へ通知、年明けから利用開始

 最初の動きは今年10月だ。自分の番号が記された「通知カード」が簡易書留で各世帯に届く。しばらくすると、勤め先の企業から番号を届け出るよう求められる。企業には従業員の源泉徴収票などに番号の記載が義務づけられるからだ。

 16年1月以降、希望者は「個人番号カード」を受け取ることができる。顔写真付きのこのカードにはマイナンバーや氏名、住所、性別、生年月日が載っており、これらの情報を記録したICチップもついている。身分証明書として使うことができ、20歳以上の人は10年間、20歳未満の人は5年間の有効期限がある。

 カードによる本人確認は本来のマイナンバーの機能ではなく、いわば「おまけ」。ただ、本人確認の機能は企業も使えるため、インターネットバンキングや電子商取引などでの利用が想定されている。

 17年からは、インターネット上に自分専用のページ「マイナポータル」が開設できる。ICカードリーダーでICチップの情報を読み取り、行政機関が自分の情報をいつ取り寄せたかが確認できるようになる。さらに、確定申告や国民年金保険料の納付などの手続きもより簡単に済ませられるようになる。

◆超党派で促進議連

 自民、民主、公明、維新など超党派の議員約60人が12日、「マイナンバー利活用促進議連」(会長=平井卓也・自民党IT戦略特命委員長)を立ち上げた。マイナンバーは来年1月にスタートするが、議連は知名度が低いとみて、広報戦略を展開する。

◆教えて!マイナンバー暮らし、どう便利になるの?

2015514日朝日新聞

マイナンバーでできることの例

 12桁のマイナンバー(社会保障・税番号)で、何ができるようになるのか。

 役所に行く手間が本格的に省けるようになるのは2年後からだ。2017年7月をめどに国と地方自治体の情報システムが結ばれ、役所ごとに散らばる個人の情報をマイナンバーですぐに照会できるようになる。

 例えば、年金を申請する場合、いまは市区町村で住民票や所得証明書を手に入れてから年金事務所で手続きする必要がある。これが、「個人番号カード」を年金事務所で示せば、申請ができるようになる。

 今国会ではマイナンバー法の改正案を審議している。成立すれば、健康保険組合や自治体が持つ個人の「メタボ健診」や予防接種の記録も、マイナンバーで結びつけ、転職先の組合や引っ越し先の自治体に円滑に引き継ぐことができる。

 17年1月からは、一人ひとりの専用サイト「マイナポータル」を開設し、ネット上で簡単に手続きできるようにする検討も進む。

 納税額を決める確定申告の場合、金融機関から生命保険料の控除証明書や住宅ローン残高証明書を受け取る必要がある。政府はマイナポータルを使って、金融機関との書類のやりとりや税務署への確定申告をオンラインで簡単にできるようにすることをめざす。

 マイナンバーそのものの利用には厳しい制約がかかっている一方、個人番号カードで本人確認をする機能は自治体や民間企業が幅広く利用できる。例えば千葉市は、国民健康保険の保険証と個人番号カードの統合を検討している。自治体は条例で定めれば、ICチップの空き領域を使って図書館カードなどの機能を付け加えることも可能だ。

 自民党のIT戦略特命委員会は、個人番号カードに運転免許証やクレジットカードなどの機能もつけ、東京五輪の20年までに広く普及させる、との計画を立てた。平井卓也委員長は「経済成長のプラットホームとして整えたい」と話す。

 NECは個人番号カードで転居時の住所変更を済ませるシステムを売り出せないか検討している。現金自動出入機(ATM)にカードを入れ、ICチップで本人確認をした上で、住所情報を電気やガス会社などに送れるようにする計画だ。

 ただ、こうしたサービスが広がるには時間がかかる。希望者は16年1月からカードを受け取ることができるが、「使い勝手がよくない」と関心を持たれなければ、普及のきっかけを失いかねない。(青山直篤)

◆教えて!マイナンバー悪用される恐れはないの?

2015515日朝日新聞

マイナンバーは安全?

 高校生が初めてクレジットカードをつくろうとしたら、カード会社の審査が通らなかった。調べると、見覚えのない自分名義の借金が積み重なって1億円以上もあった。米国で昔から頻発している「なりすまし」による被害の典型例だ。

 犯罪に悪用されたのが、マイナンバーにも似た米国の社会保障番号。戸籍や住民票がない米国では、9ケタの社会保障番号が有力な本人確認手段になる。銀行口座の開設やクレジットカード作成、住宅ローン申し込みなど民間でも幅広く使われるため、番号とともに住所や氏名が知れると悪用される恐れがある。

 日本政府はこうした海外事例も参考に、安全策を打ったと説明する。マイナンバー担当の向井治紀・内閣審議官も、8日の衆議院内閣委員会で胸を張った。

 「番号が漏れても、ただちに被害が出ないような制度設計になっています」

 具体的には、身分証代わりに使う個人番号カードに写真とICチップを入れ、窓口やオンライン手続きで他人がなりすましにくくした。利用範囲を税と社会保障などの行政手続きに絞り、情報を照会できるのも行政機関に限った。情報漏洩(ろうえい)に重い罰則をもうけ、自分の情報がいつ誰に使われたかをネットでチェックできるシステムもつくる。

 セキュリティー大手トレンドマイクロの染谷征良(そめやまさよし)さんは「導入当初のリスクは確かに低いが、民間利用が広がれば広がるほどリスクが増える」と注意を促す。マイナンバーは将来の民間活用が念頭にあるからだ。

 たとえば、番号と名前や住所を組み合わせただけの名簿だと利用価値は限られるが、金融機関の富裕層向けサービス利用者や、病気を抱えた人の「番号リスト」などと組み合わせていくと、悪用される可能性はどんどん広がっていく。

 国会で審議中のマイナンバー法改正案は、メタボ検診や予防接種の情報共有にも番号を使い、金融機関の口座にも番号を結びつけられるよう道をひらく。IT企業でつくる団体「新経済連盟」は、さらにマイナンバーを活用すべきだとする提言書を政府に出した。

 プライバシー保護に詳しい白鴎大法学部の石村耕治教授は、マイナンバーを扱う中小企業や個人事業主が無数にいる点を挙げて「何が禁じられるかなど細かいルールは誰も知らない。番号は必ずダダ漏れ状態になる」と警告。民間活用は控えるべきだと訴える。

(藤田知也)

◆教えて!マイナンバー個人番号カード、普及するの?

2015516日朝日新聞

住民基本台帳カードと個人番号カードの主な違い

 来年1月からはじまるマイナンバー(社会保障・税番号)は、市区町村の窓口で「個人番号カード」を無料でもらえる。表面には、顔写真、住所、氏名、生年月日、性別。裏面に12桁のマイナンバーが記される。

 ただ、カードを持つのは義務ではなく、申し込まなければ、発行されない。

 カードをなくしたら、国が設置する「コールセンター」に届け出て市区町村で手続きすれば再発行される。悪用の心配があれば新しい番号に変えることも可能だ。亡くなった人の番号は二度と使われない。

 義務でないとはいえ、総務省は今年度、カード発行などのために480億円超の予算を計上し、「できるだけ取得して欲しい」(住民制度課)と意気込む。自民党は、2018年度までに人口の約3分の2にあたる8700万枚を普及させるよう提言した。

 政府・与党がここまで力を入れるのは、03年から始まった「住民基本台帳カード」(住基カード)を普及させられなかった「苦い経験」があるからだ。

 住基カードは、住民票を取れたり図書館カードとして使えたりするものがあるが、自治体によって機能はばらばら。結果、14年3月末時点の発行枚数は約666万枚。日本の人口の約5%にとどまる。身分証明書以外の使い道が十分に広がらなかったことが原因だ。

 個人番号カードには、住基カードより使い道が広がる可能性をもたせた。住基カードを持っている場合は、これとの交換で個人番号カードが発行される。

 個人番号カードに埋め込まれたICチップには本人を証明する「電子証明書」が入る。この機能を生かし、政府は17年1月から提供する個人用ポータルサイトで、カードを読み取り機などに挿してログインする仕組みを検討中だ。

 ICチップは、あとからでも新しい機能を書き込める。当面、書き込めるのは自治体などの行政機関に限られるが、将来的には民間企業にも開放し、社員証などの代わりに使えるようにする構想がある。

 ただ、これらの実現には、省庁や企業の間でさまざまな調整が必要で、難航も予想される。ある自治体担当者は「使い道が増えない限り、広く普及することは考えにくい」と冷静だ。

 1月の内閣府の調査では、マイナンバーを「内容まで知っている」と答えたのは28・3%。理解が深まっていないことも、普及のハードルになりそうだ(真海喬生)

◆教えて!マイナンバー年金や医療の手続き、楽になるの?

2015520日朝日新聞

マイナンバーでいらなくなる社会保障の手続き例

 マイナンバー(社会保障・税番号)は、社会保障ではどう活用されるのか。国と地方自治体、健康保険組合などが情報システムで結ばれる。そのメリットを利用者が実感できるのは、医療や年金などさまざまな手続きのときだ。

 例えば医療費の自己負担額が上限を超えた場合に払い戻しを受けられる「高額療養費制度」。申請時、所得証明書を取り寄せる必要がなくなる。加入する健康保険にマイナンバーを伝えれば手続きは完了だ。

 年金でも、受給開始時に年金事務所に所得証明書などを提出せずにすむ。引っ越しや結婚で住所や名字が変わったり、死亡したりした時も、手続きで届け出がいらなくなる。基礎年金番号とマイナンバーが結びつけられ、日本年金機構が住民票の変更情報を自動的に取得できるようになるからだ。住民票の内容が自動で反映され、入力ミスも起きにくくなると期待される。

 政府側が狙うのは、高齢化でふくれあがる社会保障費の正確な給付や公平性の強化だ。社会保障に関する個人情報を一本化することで、生活保護の不適正受給などを防ごうとしている。

 さらに政府関係者は、将来的に預貯金口座とマイナンバーの結びつけに期待を寄せる。負担能力に応じて医療・福祉サービスの利用料を増減させる仕組みの拡大に活用できるからだ。

 介護保険制度では今年8月から、所得が低くても一定の預貯金などがある人は、特別養護老人ホームなどの介護施設で生活する食費や部屋代の負担軽減対象から外れる。所得が低くても単身者で1千万円、夫婦で2千万円を超す預貯金や有価証券があれば軽減対象外とする内容だ。ただし今は預貯金の額などは原則自己申告に頼っている。

 「預貯金口座と(マイナンバーの)ひも付けが将来義務化されたら確実に照会ができる」と厚労省幹部は話す。いま国会で審議中のマイナンバー法改正案では、2018年からは預貯金口座の利用者が金融機関からマイナンバーの告知を求められるようになる。ただし現在の案では告知の義務はない。預貯金口座との連動は抵抗感も強く、将来の義務化に向けた見直し論議のハードルは高そうだ。

 一方、自民党は個人の番号カードに健康保険証の機能を持たせることを提言している。ただ日本医師会は病歴などが漏れる恐れがあるとして、「患者のプライバシー保護や安心の観点から単純に容認できない」と反対している。(蔭西晴子)

◆教えて!マイナンバー制度、当初は何のためだった?

2015521日朝日新聞

番号制度の狙いは変わっていった

 政府は、国民一人ひとりに番号を割り振る制度を長年にわたり検討してきたが、掲げる目的は時代によって変わってきている。

 1970年代から、政府は「納税者番号制度」を本格的に検討してきた。マイナンバー制度の原点といえる。個人の所得を正確につかみ、税金をしっかり集めるねらいだったが、番号で管理されることへの反発が強く、導入は見送られた。

 転機は2009年の政権交代だった。野党だった民主党は、税を取るだけでなく、社会保障のお金が必要な人にきちんと配るためにも番号制度が必要だと主張。衆院選で勝利した。

 民主党政権は、低所得の人にお金を渡す「給付付き税額控除」の導入をめざし、マイナンバー制度の準備を加速させた。給付の対象者を決めるには、生活が苦しい人の所得を正確につかむ必要があるからだ。12年、民主、自民、公明3党は消費税率の引き上げに合意。マイナンバー制度を活用し、給付付き税額控除の導入も検討するとした。

 だが、12年末に自公連立による安倍政権ができると、給付付き税額控除の議論が進まなくなった。公明党の強い意向で、食料品などの税率を抑える「軽減税率」の検討に軸足を移したからだ。それでも、安倍政権はマイナンバーの導入方針は変えず、13年にマイナンバー法が成立した。

 こうした経緯もあり、制度を導入する目的はぼやけてしまった。政府は今後、導入を進めながら、税や社会保障などの分野での具体的な使い道を決めていくことにしている。

 今国会で審議されているマイナンバー法改正案が成立すれば、18年から本人の同意があれば預貯金の口座の情報が番号と結びつけられるようになる。ただ、政府は21年からは、口座と番号を結びつけるのを義務化することも視野に入れる。

 将来、所得は少なくても預貯金や不動産などの資産が豊かな人を対象に、より多く税を取ったり、社会保障の水準を下げたりする制度ができるかもしれない。法改正を経て、マイナンバーの使い道が広がっていく可能性があることは、頭に入れておく必要がある。

 森信茂樹・中央大大学院教授は「マイナンバーはもともと徴税側の論理から来ていた議論。徹底して『どうしたら納税者のためになるのか』という視点から、知恵を出していかなければならない」と話す。政府の思惑だけで使い道が決められないように、不都合な情報も含めて広く公開し、議論を重ねていく仕組みづくりも欠かせない。(青山直篤)

◆教えて!マイナンバー従業員の番号管理、準備進んでいるの?

2015522日朝日新聞

企業は従業員や家族のマイナンバーを集めて管理する

 国民一人ひとりに12桁の番号を割り振るマイナンバー制度では、企業も従業員の番号を把握し、管理することが求められる。だが、対応は遅れ気味だ。

 今年10月から、個人のもとに自分の番号が書かれた通知カードが届き始めると、企業は従業員と養っている家族の番号を集める必要がある。企業が役所に提出する給与の源泉徴収票や健康保険の書類などに、従業員らの番号を記載しなければならないからだ。社員だけでなく、契約社員やパート、アルバイトも対象だ。

 企業は番号を集めるとき、従業員本人の正しい番号かをきちんと確認するよう求められる。来年1月から自治体窓口でもらえる顔写真付きの個人番号カードを持っている場合、それだけで確認は済む。ただ、カードを持つかどうかは本人の自由。カードを持たない従業員の場合、通知カードとともに免許証やパスポートで本人確認をする必要がある。会社は、10月から届く通知カードはなくさずに保管しておくよう社員に呼びかけるとみられる。

 企業は大小を問わず、番号を厳格に管理することが求められる。管理する責任者を決めるほか、情報が漏れないような対策を取ることなどが義務づけられる。従業員の情報を外部に漏らすと、最高で4年以下の懲役や200万円以下の罰金刑を科される場合がある。

 セキュリティー大手のトレンドマイクロの調査では、マイナンバーへの対応を実施中か、すでに終えたという企業は3月時点で15・3%だった。ある大手電機メーカーの場合、部署ごとに対応を検討する会議を立ち上げたばかり。「従業員への周知はこれから」(広報)という。

 マイナンバーに対応した人事・給与システムを作る大手IT企業の担当者は「企業にとってはメリットよりも義務感の方が大きい。政府の周知も4月からようやく本格化してきたところで、秋ごろからあわてて対応する企業も出てくるのでは」と話す。

 作業が面倒なだけに、こうしたシステムを売るIT企業には「特需」と映る。官民合わせたシステム販売の市場規模は3兆円とも言われる。富士通は2016年3月期、マイナンバー関連で300億円弱の売り上げを見込む。塚野英博常務は「長期的なビジネスになる」と期待する。(高木真也)

◆教えて!マイナンバー税金の徴収、効率が良くなるの?

2015523日朝日新聞

マイナンバーで収入が把握しやすくなる

 給与や株の配当、家賃収入など、だれかの財布にお金が入ると、それを支払った会社や金融機関は税務署に書類を出すことになっている。こうした「法定調書」は約60種類あり、マイナンバーが始まればすべてに12けたの番号がつけられる。国税庁の担当者は「税金の取りっぱぐれを減らせる」と話す。

 税務署に届いた膨大な法定調書は、名前や住所で納税者ごとに分類し、所得税や相続税の申告書と突き合わせて漏れがないかチェックしている。だが、この分類に手間がかかる。結婚で姓が変わる人や、引っ越しで住所が変わる人がいるからだ。同一人かどうか判別するため、住民票を取り寄せたり転居先に出向いて表札を確認したりもする。「チェックしきれない申告漏れもあった」と担当者は言う。

 マイナンバーの利点は、こうした作業の効率化だ。会社や金融機関は、社員や顧客に番号の提供を求め、調書に記す。税務署は番号を従来のシステムとリンクさせることで、その人の全調書をリストアップできる。ペンネームで原稿を書く会社員、講演に駆け回る大学教授……。黙っていた副収入に突然、税務署から「物言い」が付くかもしれない。「効率化で浮いた人員は、海外に資産を移して税を逃れる富裕層らの調査に振り向けたい」。国税庁幹部は力を込める。

 さらに、国会で審議中のマイナンバー法改正案が成立すれば、2018年から銀行口座にも預金者が同意すれば適用されるようになる。悪質な所得隠しや生活保護の不正受給などを調べる際、預金の状況を把握しやすくするためだ。国税関係者は「10年後、20年後に普及していれば、マイナンバーは『武器』になる」と話す。

 国は21年をめどに、銀行への番号登録の義務化も検討する。ただ、ハードルは高い。公平な課税のためとは言え、国が個人の財布の中身をのぞく道具にもなり、「隠し口座」を持っていない人でも抵抗感がある。日本弁護士連合会は「情報が漏れればプライバシー侵害の危険性が極めて高い」と反対する。銀行の事務負担も大きくなる。

 一方で、マイナンバーによる納税者側のメリットは見えにくい。住宅ローン控除を受ける際の住民票の写しが不要になるなど、いくつかの手続きが簡略化されそうだが、国税庁の担当者は「さらに利便性が向上するように検討したい」。リスクを上回る意義を、わかりやすく説明していく必要がありそうだ。(水沢健一)

◆◆「マイナンバー」制、国民置き去りの推進は乱暴

201532()赤旗主張

 安倍晋三政権が「マイナンバー(社会保障・税番号)」制度を今年10月から本格実施するための準備をすすめています。マイナンバー制度は、赤ちゃんからお年寄りまで住民登録をしている全員に生涯変わらない番号を割り振り、社会保障や税の情報を国が一括管理するものです。政府は「行政手続きが便利になる」などといいますが、多くの国民は制度を知らないうえ、膨大な個人情報を国が一手に握ることへの懸念、情報漏れの不安も広がっています。国民のプライバシーを危うくする仕組みづくりを強引に推進することは乱暴です。

◆知らない人は多数のまま

 マイナンバー制度は2013年5月、消費税増税・社会保障「一体改悪」の一環として自民、公明、民主、維新などが賛成多数で成立させた法律にもとづくものです。一人ひとりの社会保障の利用状況と保険料・税の納付状況を国が一体で把握する仕組みを整え、社会保障費の抑制・削減を「効率的」にすすめることが狙いです。

 計画では、今年10月から住民票をもつ全員にマイナンバー(12桁の数字)を知らせる「通知カード」を、市区町村を通じて郵送します。来年1月からは年金確認などの手続きでマイナンバーを使用することを要求し、希望者には顔写真やICチップが入った「個人番号カード」を交付するとしています。

 政府は、自治体や企業に準備を急がせていますが、ほとんどの国民は計画を詳しく知りません。内閣府の2月公表の世論調査ではマイナンバー制度の「内容まで知っていた」人は回答者の28・3%にすぎません。実施まであと半年余なのに認知度が広がらないのは、制度が国民の切実な要求ではないことを浮き彫りにしています。

 国民はむしろ不安を抱いています。内閣府調査では、プライバシー侵害の恐れが32・6%、個人情報不正利用被害の心配が32・3%、国による監視の恐れが18・2%と、いずれも「特に不安がない」の11・5%を上回りました。政府がいくら「情報保護のさまざまな措置をとっている」と説明しても懸念と不安は消せません。マイナンバーそのものがプライバシーを危険にさらす仕組みだからです。

 これまでは年金、医療、介護、雇用の情報や納税・給与の情報はそれぞれの制度ごとに管理されていましたが、今度はマイナンバーで一つに結ばれます。政府は医療の診察情報などへの使用拡大も狙っており、マイナンバーが大量の個人情報の「かたまり」になるのは明白です。マイナンバーが流出し、さまざまな個人情報が「芋づる式」に引き出される―。こんな危険が現実となります。すでに「社会保障番号」を導入しているアメリカでは個人情報の大量流出・不正使用が大問題になっています。国民の権利を危険に陥れる制度は、実施を強行するのでなく中止を決断し、廃止へ踏み出すべきです。

◆このままでは大混乱

 安倍政権は今国会にマイナンバー利用拡大へ改定法案を提出する予定ですが、実施されてもいない段階で、利用対象を広げるやり方は異常な前のめり姿勢です。

 国の説明不足や作業遅れのため自治体の準備がすすまないなど新たな問題も浮上しています。危険で不安な仕組みを強引にすすめることは大混乱を引き起こし、将来に重大な禍根を残すだけです。

◆◆マイナンバー制の問題点(「サンデー毎日」)

【「サンデー毎日」15.02.22

【「サンデー毎日」15.01.25

◆◆「マイナンバー」、来年から始まるの?

2015228日朝日新聞

マイナンバーでこう変わる(イメージ)

 ◇政府が国民に割りふる番号。年金や税金の情報つなぐ

 コブク郎 来年から「マイナンバー」が始まるの?

 A 政府が国民一人ひとりに割りふる12ケタの番号のことだ。正式には、社会保障・税番号(共通番号)という。今年10月から、自分の番号が書かれた紙が、自宅に簡易書留で届くよ。

 コ 何の番号なの?

 A 自治体や税務署、年金事務所など、さまざまな行政関係の窓口が別々にもっている同じ人についての情報を、一つに結びつけるんだ。この番号があれば、その人が年金などの保険料や税金をどれだけ納めているか、年金をどれだけ受け取っているかといったことが、わかるようになる。

 コ なぜ必要なの?

 A 一人ひとりの収入や社会保障の状況をつかむことで、本当に助けが必要な人に手をさしのべられるようにするのが政府の目的だ。税金逃れをチェックしやすくするねらいもある。

 コ カードもあるの?

 A 来年から、暮らしている市町村に申請すれば、顔写真つきICカードが無料でもらえる予定だ。義務ではないが、政府は「本人確認の身分証明書になるので、なるべく申請を」としている。2017年からはカードを使い、家のパソコンからネットで自分の情報が確認できるようになる。

 コ ほかに何ができる?

 A ネット上の個人ページからは、日本年金機構や国税庁のサイトにも同時ログインして、税金の電子申告などができるようになる見通しだ。年金や児童手当を受けとる手続きなどで、添付書類を求められる手間が減るメリットもあるよ。

 コ でも、個人情報の流出や悪用が心配だなあ。

 A 政府は情報を1カ所に集めず、分散させたまま暗号でつなぐシステムにする予定だが、不安は残る。政府の1月の世論調査では、約3割がマイナンバーの存在を知らなかった。もっと広く知ってもらう必要があるね。(吉川啓一郎)

◆◆マイナンバー、間に合うか 行政の個人情報管理、17年本格稼働

2015217日朝日新聞

マイナンバーの今後の流れ

 政府は16日、国民に番号を割り振って社会保障や税などの情報をつなぐ「共通番号(マイナンバー)」制度で、ネット上で自分の情報を見られ、国税庁や日本年金機構のサイトにもつながる「個人ページ」のイメージを示した。ただ、2年後の本格稼働に向け、システム開発の遅れなど新たな課題も出てきている。

 マイナンバーは、日本に住民票がある全員に12桁の番号を割り振り、社会保障や税など行政にかかわる個人情報を一つの番号でつなぐ制度だ。来年から、ハローワークや税務署などそれぞれの機関がマイナンバーによる情報管理を順次始め、本格稼働の2017年から、情報を互いに照会できるようにするというスケジュールだ。

 そのためのシステム開発が遅れている。地方自治体のシステムをつなぐ「中間サーバー」が、今年1月の予定を過ぎても完成していないのが理由だ。

 17年7月の本格稼働を控え、国は自治体に、今年末までにシステム改修を終えるよう求めている。来年7月から全国的な運用テストに入る必要があるからだ。

 ところが、総務省がNECと開発中の「中間サーバー」の設計が遅れている。各自治体が持つデータを集中的に管理するサーバーだが、入力する年金関連の情報などが想定より多く、追加改修が必要になった。このため中間サーバーの「仕様書」づくりが遅れ、自治体のシステム改修も遅れる状況になっている。

 総務省は、17年7月の本格稼働の日程には「影響しない」としているが、別の総務省関係者は「現場の業務内容を整理せずに設計を手がけ、あとから問題が次々と浮かんで混乱している」と明かす。自治体側からも「やれと言われたら無理にでも間に合わせるが、期間を縮めるとシステムの品質に影響する」(政令指定都市のシステム担当者)との心配が出ている。

 自治体向けコンサルタント会社「ITbook」(東京)の伊藤元規社長は「IT業者の不足もあり、(期限の)年内に改修できる自治体は半数に満たないのでは」と指摘する。

 (藤田知也)

予防接種など医療分野も 法改正案、今国会に提出へ

 政府は16日のIT総合戦略本部の分科会で、マイナンバー法改正案の概要を明らかにした。予防接種など医療分野でもマイナンバーを活用する方針が盛り込まれている。過去に受けた予防接種や特定健康診査(メタボ健診)履歴を、転職や転居しても次の健康保険組合や自治体に引き継げるようにする。

 改正案は今国会に提出される。マイナンバーを銀行口座の情報とも結びつけることなども盛り込まれる予定だ。

 マイナンバー制度は今年10月から、番号を知らせる簡易書留が自宅に届き始め、動き出す。本格稼働すれば、国民にとっては年金や手当をもらう際などに必要な添付書類が減り、手続きの手間が減らせるようになる。行政は事務が減るほか、所得状況をチェックして、税逃れや生活保護の不正受給などが見つけやすくなるとの狙いもある。

 ICチップ入りカードとパスワードで接続するネット上の「個人ページ」で、自分の情報を一覧することもできる。国税庁の電子納税サイト「e―Tax」や日本年金機構のサイトにも自動ログインできるようにする。民間企業と連携して、引っ越し時に各社の住所変更を一度にできたり、クレジットカードで電子納税できたりする仕組みも検討する。(吉川啓一郎)

🔴憲法とたたかいのブログトップ

保育制度改悪・待機児童解決の道❷

保育制度改悪・待機児童解決の道❷


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【このページの目次】

◆保育所待機児問題リンク集No.2

◆待機児問題の動向

◆保育所・待機児問題への日本共産党の緊急提言(16.10

◆上林陽治=保育所の非正規保育士問題

◆待機児問題の動向

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🔵待機児問題・待機児童解決の道リンク集No.2

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★保育園落ちたから1年待機児童続く報道ST17-02-25(5m)

★★NHK クローズアップ現代+ 「子どもの命が危ない ~保育園が非常事態~」25m 20160412

★★特報・首都圏17.03=深刻な待機児童問題と自治体28m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1186223889wqZXcxD

★★ガイアの夜明け=保育園落ちた・働くママを救う 201653 50m

★★噂の現場待機児童ママ密着19m20160403

★待機児童数を少なく見せる?20160314

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🔵保育問題の動向

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◆◆保育士不足、25%の施設 うち2割で児童受け入れ制限 1615保育施設回答

201769日朝日新聞

 保育施設の4分の1は保育士らが足りず、うち2割弱は職員不足を理由に児童の受け入れを制限していることが、独立行政法人福祉医療機構の調査でわかった。政府は処遇改善策などで人員確保を目指しているが、「待機児童ゼロ」への課題が改めて浮き彫りになった形だ。

 調査は昨年9~10月、同機構の融資先の全国5726施設を対象にインターネットで実施。1615施設(28・2%)から有効回答を得た。25%の404施設が昨年9月1日時点で「不足あり」と回答。そのうち18・3%の74施設は児童の受け入れを制限していた。また、職員不足対策として21・3%の86施設では、時間外労働を増やしていた。

 2015年度に職員が辞めた1399施設に理由を聞くと、保育業界内での転職が29・8%、結婚が29・7%を占めた。「周辺に新設保育所や認定子ども園が急増し、競合している」との声があり、保育所間で人材の取り合いになっている状況もうかがえたという。

 職員の処遇改善については、16年度に92%の1485施設で昇給した。近年で昇給した施設では、平均で月額7746・1円増えた。同機構は「保育士確保は今後さらに難しくなる。中長期的に働き続ける体制整備が必要だ」とする。

 (西村圭史)

◆◆政府が「子育て新プラン」公表=待機児童ゼロ3年先送り

(赤旗17.06.04

◆◆待機児童新定義、3割見送り 取り組みに温度差 4月時点、朝日新聞調査

201763日朝日新聞

「保護者が育休中」が多かった自治体

 認可保育施設に入れない待機児童について厚生労働省は定義の統一を図るが、今年4月時点でもなお自治体の判断にばらつきが出た。朝日新聞が全国の84市区町(回答は80市区町)に行った調査では、3割が厚労省の定めた待機児童の新定義=キーワード=の適用を見送った。自治体による取り組みの温度差も浮き彫りになっている。

◆来年度から全自治体適用

 新定義では、「保護者が育児休業中」の場合で復職の意思を確認できれば、待機児童に含めることで統一した。全面適用は2018年度からだが、可能なら前倒しも促している。

 朝日新聞は20政令指定市や東京23区、昨年4月に100人以上の待機児童がいたほかの41自治体の計84市区町に調査した。2日までに回答があった80市区町のうち、新定義の適用を見送ったのは26市区(32・5%)で、新たに適用したのは17市区(21・3%)。残り37市区町は、すでに適用していた。

 新定義を適用した東京都目黒区は4月時点の待機児童が617人で、昨年4月の299人から倍増した。だが、半数近い290人は新定義によって待機児童に算入されたものだ。

 仙台市も新定義を適用し、待機児童が昨年より19人増えて232人に。市の担当者は「昨年までの数え方なら減っているが、予想を超えるニーズがあり、実態に合った施設整備を継続していきたい」と話す。

 一方、待機児童がゼロだったさいたま市は適用を見送り、保護者が育休中の子ども391人を待機児童に含めなかった。担当者は「復職意思を個別に確認することが困難だったため」と説明する。川崎市(待機児童ゼロ)の331人、横浜市(同2人)の413人も保護者が育休中の子どもで、「隠れ待機児童」だ。

 また、いったん「育休中」の新定義にあてはめながら、ほかの理由で待機児童から差し引く運用もあった。今年度から新定義を適用した京都市では、保護者が育休中で復職の意思があると判断した子どもが48人いたが、全員を「特定の施設のみを希望」していたとして待機児童に含めなかった。担当者は「たまたま全員が『特定施設のみを希望』にも該当した」とし、同市は4年連続の「待機児童ゼロ」になった。

 同様に静岡市も15人を待機児童から除いた。

 1歳の長男が認可保育施設に入れず、「保留」と書かれた通知を受け取った横浜市の女性看護師(28)は「待機児童を少なく公表するのは単なるごまかし。実態を伝え、本気で待機児童と向き合ってほしい」と憤る。(中井なつみ)

◆キーワード

 <待機児童の新定義> 認可保育施設に入れなかったのに待機児童に該当しない「隠れ待機児童」が多かったことを受け、厚生労働省が3月に定めた。自治体によって判断が分かれていた「保護者が育休中」の子どもは、保護者に復職の意思があれば待機児童に含める。「特定の施設のみを希望」「自治体が補助する認可外施設を利用」「保護者が求職活動を休止」の3ケースについては、原則として含めない。

◆◆「待機児童ゼロ」3年先送り 今年度末の達成できず 今年4月、なお1.4万人超

2017531日朝日新聞

 認可保育施設に入れない待機児童=キーワード=を解消する時期について、安倍政権は3年遅らせて2020年度末とすることで最終調整に入った。現在は17年度末までに「ゼロ」にする目標を掲げているが、今年4月時点でも待機児童は多く、達成は絶望的だ。安倍晋三首相が31日にも表明したうえで、政府が6月にまとめる「骨太の方針」に盛り込む。

 待機児童数は高止まりしている。朝日新聞は20政令指定市と東京23区に加え、昨年4月時点で待機児童が100人以上だったほかの41自治体の計84市区町を対象に調査。今年4月時点の待機児童は、回答した79市区町で計1万4481人いた。解消の見通しについては、神戸市など11自治体が17年度(18年4月を含む)としたものの、26自治体が18年度、11自治体が19年度とし、東京都世田谷区や福岡県春日市が20年度とした。

 待機児童解消の見通しが立たないなか、政権は「待機児童ゼロ」の目標期限を先送りする方針。13年に発表し、17年度末までの「ゼロ」を盛り込んだ待機児童解消加速化プランに代わる新たな計画も打ち出す。

 新たな計画では、25~44歳の女性の就業率が16年の72・7%から20年代半ばには80%に伸びると仮定。保育施設への入所希望者が増えても対応できるように保育の受け皿を整備していく。施設のほか、保育士らが自分の家などで子どもの世話をする「保育ママ」などの活用を推進していく。

 今年4月時点で待機児童が最も多かったのは、昨年まで4年続けて全国一の世田谷区で861人(前年比337人減)。849人の岡山市(同120人増)が続く。一方、待機児童がゼロだったのは、さいたま、川崎、相模原、名古屋、京都、北九州、熊本の各市と東京都千代田区、豊島区の9市区だった。

 待機児童の定義のうち、「保護者が育児休業中」の場合は自治体によって判断が分かれる。例えば川崎市の待機児童はゼロだが、保護者が育休中の331人を待機児童に含めていない。

 厚生労働省は3月に定義を見直し、「保護者が育休中」の場合も復職の意思があれば待機児童に含めることで統一した。今回の調査では約3割の26自治体が定義を見直さなかったが、18年度からはすべての自治体が適用することになる。そのため、待機児童数はさらに膨らむ可能性がある。

 (西村圭史、足立朋子)

◆キーワード

 <待機児童> 認可保育施設に申し込んで、入れなかった子どものこと。毎年4月時点で自治体ごとに集計する。昨年は計2万3553人で、2年連続で増えた。施設に入れなかったのに「特定の施設のみを希望」などとして待機児童に含まれない「隠れ待機児童」もおり、昨年は6万7354人だった。

◆◆待機児童の数え方、実態に近づいたの?

「隠れ待機児童」の内訳

◆親が育休中でも、復職する気があれば来年度から含める

 アウルさん 待機(たいき)児童の数え方が変わったそうね。

 A 待機児童は、認可保育施設(しせつ)に申しこんだのに入れなかった子どもたちのことだ。ただ、厚生労働省はそのうち「特定の施設のみを希望」「自治体が補助する認可外施設を利用」「保護者が育児休業中」「保護者が求職活動を休止」という四つの場合は、待機児童数から外すのを認めていた。保護者から「実態とかけ離(はな)れている」との批判が相次ぎ、3月に待機児童の定義を見直したんだ。

 ア どう見直したの?

 A 「保護者が育休中」は自治体の判断が分かれる。約6割の自治体が待機児童から外し、去年4月時点で7229人いた。新しい定義では、「育休中」でも「復職する意思がある場合」は待機児童に含(ふく)めることにしたんだ。

 ア 実態に近づいたね。

 A 全面的に適用するのは2018年度からなので、今年は見送った自治体も多いよ。たとえば、今年4月時点の待機児童を「ゼロ」と発表したさいたま市は、育休中の391人を待機児童には含めなかった。

 ア ほかの三つの場合はどうするの?

 A いずれも、原則として待機児童に含めないことになった。だけど、希望通りに認可保育施設に入れないのに待機児童にカウントされない「隠(かく)れ待機児童」の課題が残るよね。とくに「特定の施設のみを希望」で待機児童から外れた子どもは去年4月時点で約3万6千人もいて、隠れ待機児童の半数を占めたんだ。

 ア なぜ外れるの?

 A 自宅から20~30分で通える保育施設に空きがあるのに入園しないと、「特定の施設のみを希望」と判断する自治体が多い。でも勤務先と反対方向だったり、きょうだいが別々の保育施設だったりすると保護者の負担が大きい。より実情をくみ取るよう見直しを続けてほしいよね。(中井なつみ)

◆◆保育需要、自治体予測に甘さ 待機児童・朝日新聞調査

 認可保育施設に入れない待機児童を解消する目標期限が先送りされる。施設は増え続けているのに、なぜ「ゼロ」にならないのか。朝日新聞が自治体に行った調査では、保育ニーズ予測の甘さが浮かび上がった。

 調査には79自治体が回答。そのうち待機児童がいた70自治体にその理由を選択肢から三つまで選んでもらったところ、「保育ニーズが想定を上回った」が54自治体と最も多かった。

 待機児童数が近畿圏で最も多かった兵庫県明石市は、昨年1月に待機児童緊急対策室を新設。この1年間で新たな保育施設を800人分整備するなど、対策に力を入れてきた。

 今年4月の保育施設入園を申し込むのは500人と試算。内訳は、共働き世帯の増加で200人、人口増の影響で50人、保育の受け皿が増えることによる需要増で250人とした。昨年4月時点で隠れ待機児童も含め400人以上の待機児童を抱えていたが、定員を1千人分増やせば「ゼロ」にできるともくろんだ。

 それでも今年4月の待機児童は547人と、前年の2倍近くに。計画より200人分の施設整備が間に合わなかったうえ、保育ニーズの予測を見誤った。

 住宅地として人気がある同市のJR大久保駅周辺などは重点的に施設を増やしたが、むしろそんな地域で待機児童が増加。担当者は「保育園が増えるなら子どもを預けて働けると、新たに希望した親も多かったのでは。そうした需要の予測が甘かった」と分析する。

 東京都足立区は、区内を13ブロック49地域に細かく分け、それぞれの地域での申し込み状況や待機児童数を追跡する方法でニーズを予測する。他の自治体も参考にする独自の取り組みだが、今年4月時点の待機児童は前年より68人増えた。

 担当者は「0~2歳の『保育需要率』の予想を大きく外してしまった」と明かす。保育需要率とは、小学校入学前の子がいる保護者のうち、入園を申し込む保護者の割合。0~2歳の需要率の伸びを前年と同じ1・5ポイント増と見込んだが、2倍近い2・9ポイント増だった。

 足立区のアパレル会社員の女性(34)は、今春から0歳の息子を認可保育所に預けて復職した。保育士の夫の給与は低く、「1人で家計は支えられない。働かなければいけない事情が昔より強くなっていることを理解して、その場限りでない需要調査をしてほしい」と訴える。

 保育士不足も要因

 「保育士不足」を理由に挙げたのは20自治体。13自治体では、保育士不足から計948人分を受け入れられなかった。

 茨城県つくば市は今年4月、新たに四つの認可保育所と三つの小規模保育所を開園した。すると、既存の10園が「保育士が確保できなかった」とし、昨年度から1~2歳児計60人分の受け入れ枠を減らした。

 大阪市の昨年4月の調査では、回答があった195保育施設のうち32園が保育士不足を理由に受け入れ枠を計画より減らしたという。「待遇面の競争など他自治体との取り合いも厳しくなっている」と担当者。

 東京都中野区の女性保育士(31)は自ら待機児童を抱え、復職できなかった。通園できる範囲の認可保育所を第10希望まで書いて申し込んだが、全て落選。「うちの子が1人入れたら私が3人をみられたのに」

 保育士の子どもの入園を優先する自治体もある。千葉市では2015年度から優先制度を始め、今年4月には約70人の保育士が活用。それでも保育士不足から約330人分の受け入れ枠を減らしたという。

 (佐藤啓介、田渕紫織、見市紀世子)

◆◆保育施設で不正、相次ぐ 急増で質に懸念自治体のチェックは

朝日新聞17.05.31

 保育施設で不正が相次いで発覚している。待機児童対策で施設が急増するなか、懸念される質の問題。自治体の関わり方が問われている。

◆兵庫・姫路で園児定員超過 市の監査、ごまかす園

 兵庫県姫路市の住宅地にある私立の「わんずまざー保育園」。県が4月1日付で認定こども園=キーワード=の認定を取り消し、園児は別の幼稚園や保育園に移った。

 4月29日、近くの公民館で市の保護者説明会が開かれた。「園児の健康状態を調査してほしい」。保護者からそんな声が上がったという。

 定員は46人なのに約70人を受け入れ、給食のおかずが大きめのスプーン1杯程度の園児も――。市が2月に抜き打ちで特別監査し、明らかになった実態だ。保育士の数を水増しして市に報告し、給付金を不正に請求。無届けでベビーシッター事業もしていた。

 市は特別監査の前に定期監査を実施。園はその日、定員超過の園児を休ませていたという。元保育士は「園長に『監査で突っ込まれる』と言われ、保護者に配る『園だより』から定員外の子どもの名前を消したものをパソコンで作らされた」と証言する。

 開園は2003年。認可外保育施設だったが、15年3月に県が「地方裁量型」の認定こども園として認めた。待機児童が69人(同年4月)いた姫路市は、「認定があれば、(保育施設の)確保方策に含める」と認定を後押しする意見書を県に出していた。

 保育士の数は申請時から水増しされ、勤務していない保育士の名が職員名簿に記されていたが、県の審査では見抜けなかった。井戸敏三知事は園が地方裁量型だった点を挙げ、「保育所や幼稚園(から移行した認定こども園)だと補助金の手続きなどを通じて実情がわかる。認可外は全く情報がない」と述べた。

 県こども政策課の生安衛(いくやすまもる)課長は「量と質をどう両立するのか、大きな課題を突きつけられた」と話す。

 定期監査の課題も浮かび上がった。厚労省は、地方裁量型の施設には原則として年1回立ち入り調査するよう求めているが、市はこども園になって2年後の今年初めて定期監査を実施した。「人手不足」が理由だ。4月から課の職員を1人増やして15人にしたが、担当する施設は介護施設なども含めて2千超だ。

 認定こども園を管轄する内閣府の担当者は「状況を把握し、指導監査のあり方を検討していきたい」と話した。(高橋孝二、島脇健史)

◆「親・保育士の声、吸い上げて」

 厚労省によると、認可保育所や認定こども園などの保育の受け入れ枠は、15年までの3年間に31万人分増えた。一方、不正や子どもへの不適切な対応も次々に発覚している。

 横浜市では2月、社会福祉法人「ももの会」が運営する認可保育所で「土曜日に給食を出している」と市に虚偽報告していたことが市の立ち入り検査で発覚。ほかに運営する認可保育所3カ所の虚偽報告も判明し、市は4月に特別指導監査に入った。きっかけは保護者からの相談で、市の定期監査では問題を見抜けなかった。

 保育問題に詳しい日本総研の池本美香主任研究員は「施設の数が急増し、行政の監査も手薄。日常的に足を運ぶ親や保育士が気づいた点を園や自治体に伝えて改善につなげる仕組みも必要だ」と話す。(仲村和代、太田泉生)

◆1~2歳の突然死、保育施設で多く 「安全置き去りの可能性」

 保育施設での1~2歳の突然死の発生率が、家庭も含めた国内全体と比べて高いことが多摩北部医療センター(東京都東村山市)の小保内俊雅・小児科部長の調査でわかった。厚生労働省の2009~14年の事故報告集計などを元に解析した。

 調査によると、保育施設での死亡事故は年間12~19件あり、6年間で計93件。9割が2歳以下で、0歳児が半数(46件)、1~2歳児が4割(39件)だった。

 保育園児10万人あたりの発生率は0歳児の場合、5.5~7.7で、国内全体の3~5割程度に毎年とどまっていた。だが、1~2歳児は0.60~1.37で、14年を除いて1.1倍~2.5倍だった。

 3歳以上も含めた保育園児全体の発生率も上昇傾向で、09年は0.54だったが、13年は0.79、14年は0.69。小保内部長は「数を増やすことが優先され、安全が置き去りになっている可能性がある。情報を集約して専門家が解析する組織を作る必要がある」と指摘する。結果は近く、日本小児科学会雑誌に掲載される。

◆キーワード

 <認定こども園> 幼稚園と保育所の機能を併せ持つ施設で、親が働いているかどうかに関わらず0歳~就学前の子が利用できる。16年度は全国に4001園。14年度の1360園から急増した。幼稚園と保育園の両方の機能を持つ「幼保連携型」▽幼稚園が保育機能を備えた「幼稚園型」▽認可保育所が、保育が必要な子以外も受け入れる「保育園型」▽認可のない教育・保育施設が認定こども園になる「地方裁量型」がある。

◆◆誰も知らないブラック保育園

(週刊朝日17.6.2

◆◆保育施設、事故死13人 報告数、1.5倍の587件 昨年

2017513日朝日新聞

保育施設で亡くなった子どもの人数

 2016年中に報告があった保育施設での事故で、13人の子どもが亡くなっていたと内閣府が12日に発表した。前年より1人減ったが、小さな命が失われる事態は後を絶たない。重大なけがを含めた保育事故は587件で、前年から1・5倍に増えた。

 睡眠中の死亡がもっとも多く、13人のうち10人を占めた。うち4人がうつぶせ寝の状態だった。年齢別では半数以上の7人が0歳児で、4人が1歳児、2人が6歳児だった。死因は4人が病死で、残る9人は不明という。

 施設別では認可外施設が7人で最多だった。認可施設では定員20人以上の認可保育所が5人、定員5人以下の家庭的保育事業が1人。認定こども園と定員19人以下の小規模保育所での死亡事故はなかった。

 事故数は、前年より188件多い587件。内閣府は15年度から全治30日以上のけがをした事故も、報告を義務付けた影響とみている。15年も前年から倍増していた。

 15年度から報告が義務化された小学生が利用する学童保育で死亡事故はなかったが、288件の事故(前年比60件増)があった。

 一方、認可外施設からの事故報告は義務ではなく任意だ。内閣府の担当者は「すべての事故を把握できていない可能性がある」としている。

(西村圭史)

◆◆小規模保育所の受け入れ対象年齢を拡大する国家戦略特区法改正案=共産党田村貴昭氏、対象拡大・子ども詰め込みを批判

201754日赤旗

 日本共産党の田村貴昭議員は4月21日の衆院地方創生特別委員会で、小規模保育所の受け入れ対象年齢を拡大する国家戦略特区法改正案について、保育の質に対する国の責任を投げ捨てるものだと批判しました。

 同法案は、都市部などの待機児童解消策として、現行0~2歳児までの受け入れ対象を事業主の判断で5歳児まで広げられるようにするものです。

 田村氏は、対象が拡大される3~5歳児は保育士の配置基準が0~2歳児より大幅に少なく、もともと受け入れ人数が少ない小規模保育所では、子どもの数が増えても保育士は1人しか増やせないと指摘。これまで規制緩和を求めてきた東京都は、緩和に合わせて保育所の施設面積を拡大するのかとただしました。

 厚生労働省の吉本明子大臣官房審議官は「(都から)なんらかを改めるといったことはうかがっていない」と答弁しました。

 田村氏は、政府が小規模保育事業の設備運営基準を条例化する際、面積を順守義務のない「参酌基準」としたことが問題の大本にあると指摘。厚労相に最低基準を向上させる努力義務を課した設備運営基準にも違反し保育の質を後退させるものだと述べ、公立保育所の増設による待機児童解消を求めました。

◆◆阪南市の7つの幼稚園・保育所を統廃合して1つの「認定子ども園」に集約など保育所など公共施設の統廃合の動き進む

(赤旗17.04.18

◆◆待機児童、4万7738人 2年連続で増加 昨年10月時点

201745日朝日新聞

 認可保育施設に入れない待機児童は昨年10月時点で、全国で4万7738人にのぼった。前年同時期より2423人多く、2年連続の増加。昨年4月(2万3553人)からは倍増した。10月調査は年度途中の申し込み分が追加されるため、多くなる傾向がある。

 厚生労働省が公表した。都道府県別では東京の1万2232人が最多で、全体の26%を占めた。沖縄4101人、千葉3384人、大阪3126人、兵庫2671人が続き、都市部に集中する傾向が続いている。

 厚労省は待機児童数を4月と10月に調べている。春は卒園による空きが出たり、保育施設の新設が多かったりして供給が増える。一方、秋は年度途中の受け皿の整備が少ない中で新たに生まれた子どもや保護者の育児休暇明けなどの需要が加わり、待機児童が春より増える傾向がある。10月の調査は、自治体によって申込件数の集計にばらつきがあるため、厚労省は参考値として扱っている。

 安倍政権は2017年度末までに「待機児童ゼロ」にする目標を掲げているが、実現は困難になっている。そのため、待機児童解消の新しいプランを6月に打ち出す計画だ。(西村圭史)

◆◆待機児童の新しい定義=「隠れ待機児」解消せず

(赤旗17.03.31

◆◆待機児童新定義、育休中にも拡大 復職意思が条件 来年4月から

2017331日朝日新聞

「隠れ待機児童」は新しい定義でこう変わる

 認可保育施設に入れない待機児童の新しい定義が30日に決まった。これまで「隠れ待機児童」とされたうち、保護者が育児休業中の場合は復職の意思があればすべて待機児童に含める。それ以外は原則として対象外とする。新定義で上積みされるのは、隠れ待機児童の一部にとどまる。

 30日に開かれた厚生労働省の有識者検討会で、2018年4月から新しい定義を全面適用することが了承された。対応可能な自治体は17年4月から適用する。

 定義を見直すのは、認可施設に入れないのに待機児童に含まれないケースが続出し、実情に合わないと批判を受けたため。昨年4月時点の待機児童は2万3553人で、隠れ待機児童は6万7354人だった。

 育休中の場合(図の〈1〉)の扱いは自治体によって判断が分かれているが、新定義では復職の意思があればすべて待機児童に含めるよう統一。一方、自治体が補助する認可外施設に入った場合(〈4〉)は待機児童に含めない。特定の施設を希望した場合(〈2〉)や求職活動をやめた場合(〈3〉)も含めないが、保護者の状況を詳しく確認して待機児童とする場合もある。

 厚労省は具体的な判断基準を例示する方針。例えば〈2〉で待機児童に含めないのは、保護者の通勤経路などから利用できる施設を個別に紹介しても利用しないケースに限る。〈3〉ではハローワークを利用せずインターネットで仕事を探すケースも含める。(伊藤舞虹)

◆◆認証保育所など地方単独事業、待機児童と数えず

(赤旗17.03.25

◆◆企業主導保育所、都市部で伸びず 待機児童ゼロ地域に3割

2017324日朝日新聞

 政府が待機児童対策の目玉として創設した企業主導型保育所でミスマッチが生じている。昨年4月時点で待機児童が50人以上いた自治体で整備されるのは、企業主導型保育所の定員の4割弱にとどまる。認可保育施設と同様、都市部では用地の確保に難航しているようだ。

 企業主導型保育所は企業が主に従業員向けに整備する保育所で、政府が昨年4月に創設。今月16日時点で815施設(定員1万9018人分)の設置が決まり、急速に普及している。

 ただ、昨年4月時点の待機児童が50人以上の79市区町村では、定員ベースで39・8%(317施設7569人分)の設置と伸び悩む。一方、待機児童がゼロだった167市区町村に33・5%(289施設6363人分)が新設される。

 特に待機児童が8466人と全国の3分の1を占めた東京都内では70施設(同1594人)にとどまる。保育事業者は「都内は物件の賃借料が高い。ランニングコストへの支援が必要だ」と話す。

 企業主導型保育所の配置基準は認可保育所より緩く、職員の半数に保育士の資格があればよい。内閣府が2月20日時点で設置の決まった620施設の配置を調べたところ、職員全員が保育士だった施設が55・9%と最多で、4分の3が23・0%、基準ギリギリとなる半数が21・1%だった。従業員でなくても利用できる施設は74・8%あった。(伊藤舞虹)

◆◆東京都・174月希望の入園不可35%=都内保育園2.8万人超

(赤旗17.03.23

◆◆公立保育所減少=私立6公立4

(赤旗17.03.13

◆◆「待機児解消」口実に保育規制緩和

(赤旗17.03.20

◆◆保育の質低める規制緩和、国が責任を持つ保育に=共産党池内氏

2017312()

 日本共産党の池内さおり議員は10日、衆院内閣委員会で、保育の質を低める規制緩和と多発する認可外施設の死亡事故を示し、待機児童問題の打開に向け「すべての子どもに国が責任を持つ保育への転換を」と求めました。

 池内氏は、安倍政権が進める▽無資格者への代替を認める保育士配置基準の緩和と認可外施設の企業主導型保育の導入(16年度~)▽原則3歳未満児の小規模保育事業の対象を就学前まで拡大(10日、国家戦略特区法改定案閣議決定)などに触れ、いずれも保育士の専門性をおとしめる規制緩和で、「保育の質をないがしろにする法改定は絶対に許されない」と述べました。

 池内氏は、安心して預けられる認可保育園の増設を求める保護者の願いに反し、死亡事故が繰り返し起きていると指摘。死亡事故の発生率が高い認可外施設の実態について、加藤勝信担当相の認識をただしました。

 加藤氏は、「地方自治体独自基準および企業主導型以外(の認可外施設)では公的助成はない。最低限の指導監督基準にとどまっていることも死亡事故多発の背景にある」として、公的助成の重要性を認めました。池内氏は、担当閣僚が認可外施設の問題点を認める一方で、政府が企業主導型保育を推進していると批判し、「保育を金もうけの対象にしてはならない」と主張しました。

◆◆厚労省が保育の待機児童定義見直し先送り

(赤旗17.03.05

◆◆待機児童ゼロ「可能」3割 17年度末目標、84自治体調査

201735日朝日新聞

2017年度末までの待機児童解消は

 安倍政権が目指す2017年度末までの「待機児童ゼロ」について、朝日新聞社が全国の84自治体に達成可能かどうか尋ねたところ、「達成できる」と回答したのは31%の26自治体にとどまった。安倍晋三首相は2月17日の衆院予算委員会で初めて達成が「厳しい」と述べる一方、目標は取り下げなかったが、認可保育園などの受け皿整備を実際に担う自治体には絶望的な見方が出ている。

 調査は1~2月、東京23区と20政令指定市、これ以外に昨年4月1日時点の待機児童が100人以上いた41自治体の計84市区町にアンケート形式で実施。全自治体から回答を得た。

 17年度末までの待機児童ゼロについて四択で尋ねたところ、「達成できる」は横浜市や大阪市など26自治体。一方、14自治体が「達成できない見込みになり、計画見直しを検討中」、6自治体が「すでに達成年度を延期した」と答えた。29自治体は「達成できない可能性がある」とした。

 残る9自治体は回答できないなどとした。このうち3自治体は「現実的なスケジュールを考えた」などとして当初から17年度末を目標としていなかったことを明らかにし、実際にゼロにならないとした。

 この三つを加えると、62%に上る計52自治体が達成を危ぶむ認識を示したことになる。

 この3自治体を除く49自治体に、その理由を選択肢から最大で三つ選んでもらったところ、「保育需要が想定を上回った」が33自治体で最も多かった。「保育士不足」と「用地、物件の不足」がともに14自治体で続き、この二つが依然として整備加速の壁になっている実態もうかがえた。

 また、今年4月開設予定の認可保育園や小規模保育所などで計画中止や開園遅れ、定員減になった施設がないか尋ねたところ、34自治体で計143件(6339人分)あった。理由は「建設工事の遅れ」「用地確保に時間を要した」が多く、「周辺住民との調整が難航した」も9自治体で16件(766人分)あった。

◆キーワード

 <待機児童> 昨年4月時点で2万3553人で、2年連続で増加。認可保育園などに申し込んで入れなかった人のうち、(1)自治体が通えると判断した施設に入らなかった(2)自治体が補助する認可外施設に入った(3)求職活動を休止した――などを除いた数で、保護者が育児休業中のケースを含めるかどうかは自治体に委ねられている。こうしてカウントされなかった「隠れ待機児童」は同月時点で約6万7千人いた。自治体によって数え方にばらつきがあるため、厚生労働省が定義の見直し作業を進めている。

◆◆保育需要、自治体想定超す 国も「見込み甘かった」 働く女性増加

 2017年度末の「待機児童ゼロ」達成について、自治体の間で絶望的な見方が出ていることが朝日新聞社の全国84自治体へのアンケートで浮き彫りになった。安倍政権が看板政策の一つに掲げてきたが、保育需要の見通しの甘さを指摘する声も出ている。

 安倍政権が17年度末のゼロ達成を表明したのは13年4月。アベノミクス「3本の矢」で成長戦略に「女性活躍の推進」を盛り込み、保育の受け皿を新たに40万人分整備するとした。自治体がそれぞれ行う保育園の利用希望調査を元に15~19年度の5年間でゼロにする計画だったが、2年前倒しすることになった。

 整備は進み、15年秋に目標を「50万人」に引き上げた。ただ、働く女性が増え、需要増加に追いつかない。

 兵庫県西宮市は昨年4月の待機児童数が前年の2・4倍の183人になった。神戸や大阪への通勤圏で、新築マンションに共働きの子育て世代が入ってきたことなどが要因と考えられ、担当者は「3、4年前にここまでの変化は予想できなかった」。昨年5月、保育定員を3年で2割増やし、19年度の待機児童ゼロを目指す新計画を発表した。

 政府目標を最初から断念していた自治体もある。昨年まで4年連続で待機児童数全国一の東京都世田谷区は、15年度からの整備計画を作った当初から達成は困難と判断。20年4月までに受け皿を確保してゼロにするとした。この計画さえも、予想を超す需要の増加を受けて変更する予定だ。

 厚生労働省幹部は当初の整備目標の「40万人分」について、「『出産後に働きたいかどうか』という保護者のニーズ調査からはじきだした。だがその後、団塊の世代が65歳になって労働市場ががらっと変わった。女性が労働力として欠かせなくなり、働く女性がどんと増えた」とし、「見込みが甘かった」と反省する。

 自治体も潜在需要を甘くみてきた。その反省から現行計画は潜在需要も反映させるニーズ調査を元に作るはずだったが、調査結果が想定以上だと少なめに修正する自治体もあり、内閣府もこれを容認した。

 17年度末にゼロにできると見込んだ自治体でも、希望者全員が認可園に入れるわけではない。東京都杉並区は今年4月入園に4457人が申し込み、このうち3割の約1350人が認可園に入れなそうだ。それでも「今年4月当初」でゼロにできる可能性があるという。認可外園に入った子どもなどを待機児童としてカウントしないためだ。

 一定の質を満たしているとして区が利用料を補助するベビーホテルを、月160時間以上利用する子どもも数えない。

 (足立朋子、伊藤舞虹、長富由希子)

◆◆(読者の声)待機児童の議論、国民みんなで

201731日朝日新聞

 看護師 吉野絵理(東京都 35)

 我が家も2歳の次女が保育園に落ちました。

 現在は育休中で、直前まで勤務日数を減らして仕事をしていました。勤務日数が少ないと、入園選考で優先順位は下がります。仕事と家庭を両立するためだったのに、それが響いて入園できなかったのです。

 追加募集の結果待ちですが、このままなら育休期間を過ぎてしまい、退職しかありません。やりきれません。働く意欲も経験も努力も、子どもが保育園に入れなければ生かせません。

 次女が小学生になった時、約7年間のブランクのある子持ちを雇う職場はあるでしょうか。

 安倍晋三首相は、2017年度末までの待機児童ゼロ達成は難しいと表明しました。しかし今、保育園が決まらなければ、退職しかない人も多いのです。

 出産前から保育園を探し、ゼロ歳から預け、認可保育園に入れなければ高い認証保育園も使ってフルタイム勤務。そこまでしないと働けないのでしょうか。

 待機児童問題は、女性の働き方と直結します。国民みんなで議論し、保活で悩む親を一人でも減らしてもらいたいと思います。

◆◆保育園落ちた前年超え=東京区部は3割も 安倍政権の目標と程遠く

2017224日赤旗

 今年4月に認可保育所に入所する人の選考結果がいま各地で出されています。多くの自治体で、保育所に入れない子どもの数が前年を上回る事態です。安倍政権が掲げた待機児童「ゼロ」目標とは程遠い実態が広がっています。

(写真)入所「不承諾」の通知をうけ、相談に訪れた親たち=1月30日、岡山市役所

 東京23区と全国の政令指定都市における認可保育所の入所申し込みの1次選考結果の一部が明らかになりました(表参照)。本紙が各地の日本共産党議員団や自治体に問い合わせたもの。自治体によって集計方法に違いがありますが、待機児童数をはかる目安となります。

 東京23区では21日までに全自治体が保護者へ郵送で通知しています。政令指定都市では京都市と北九州市をのぞく自治体がすでに通知しています。

 都内では、港区、文京区、墨田区、江東区、品川区、大田区、目黒区、中野区、荒川区、練馬区などが前年を超え、全体で3割が入れていません。

 政令市も深刻です。川崎市は、保育所に入れない「不承諾」数が3551人(前年比544人増)で過去最多に。さいたま市、岡山市も過去最多です。神戸市も1707人(前年比340人増)となっています。

◆枠増やしても申込者が激増

 多くの自治体が受け入れ枠を増やすなか、申込者がそれを超える勢いで増えています。

 川崎市は昨年から約500人分の入所枠を増やしたものの、申込数が1000人以上増えました。申込総数は1万200人と10年前の2倍です。

 さいたま市も前年比で約2000人分枠を増やしたものの、不承諾者数が前年を超えました。

◆◆「保育所増やして」悲痛な叫び受け止める政治を

2017219日赤旗主張

 認可保育所(園)への子どもの入所可否を知らせる自治体からの通知が保護者に届く中、今年も「不承諾」となった親が続出し、「どうすればいいのか」との悲鳴や怒りが相次いでいます。昨年、「保育園落ちた」とつづったブログなどを契機に待機児童問題が大議論になり安倍晋三政権も一定の「対策」を打ち出さざるをえませんでした。そして1年―。いまだに入所できない子どもが後を絶たないことは、安倍政権のやり方では深刻な現状を打開できないことを示しています。「子どもを保育園に預けて働きたい」。当たり前の声が実現する政治への転換は急務です。

◆「詰め込み」で打開は困難

 「全落ち。泣ける」「4月からの職失うのか」「いつまでこんな事が」。1次選考で、認可園への子どもの入所を認められなかった親たちの悲痛な声が各地で上がっています。4月からの職場復帰のため、少しでも入所点数を上げようと必死の「保活」に神経をすり減らしてきた父母たちにとって、「不承諾」通知は過酷すぎる現実です。

 父母たちは悲しみと怒りをツイッターなどで発信するとともに「保育園入れて」「増やして」と自治体に対する不服審査請求や、政府や国会に保育所増設などを求める行動を計画しています。やむにやまれぬ切迫した取り組みです。

 昨年2月、「保育園落ちたの私だ」などとアピールした父母や保育関係者の声と行動がうねりとなって政治を動かし、安倍政権があわてて「緊急対策」を講じなければならない状況をつくりました。

 しかし、その「対策」は、親たちが切実に願う認可園の大増設に踏み出すのでなく、もっぱら既存の施設への詰め込みが中心でした。子ども1人あたりの面積や保育士配置の基準緩和などを自治体に求めたことには、保育の安全を揺るがすものだと、父母や保育士から批判が上がっています。

 こんな場当たり的なやり方で打開できないことは、今年の入所選考で、多くの子どもが入所できない事態からも明らかです。安倍首相も「17年度中の待機児ゼロ」は実現困難になったと認め、この目標を事実上放棄しました。「規制緩和」を中心にした「詰め込み」による待機児対策は、行き詰まっています。1次選考で「不承諾」になった子どもたちへの緊急対策に知恵と力を尽くすとともに、認可園を大増設する政策に転じることが焦眉の課題になっています。

 昨年4月に認可園に入れなかった子どもは約2万4千人で2年連続の増加です。認可園入所を希望しながら入れずに認可外に入れたり、親が育児休業を延長して家で面倒をみたりした「隠れ待機児」は6万7千人以上にのぼります。子どもを預け働きたいと願う親は、さらに広範に存在しています。

 国や自治体は、保育ニーズの広がりを見越して正確に把握し、その規模に見合った増設計画を立て具体化することが必要です。

◆保育士の処遇改善を急ぎ

 認可園増設にとって不可欠な保育士を確保する上で、安倍政権による保育士の処遇改善策は不十分です。野党4党が求める保育士給与月5万円引き上げを実現することが求められます。

 「保活」に苦しめられる社会はあまりに異常です。国・自治体に保育を保障する責任を果たさせていくことが、重要となっています。

◆◆「保育園落ちた」1年たってもネット炎上

(赤旗17.02.18

◆◆「待機児童ゼロ」いつ? 17年度達成、首相「厳しい」 都市部で不足続く

2017218日朝日新聞

保育施設の定員は増えている

 安倍政権が掲げる2017年度末までの「待機児童ゼロ」が見通せなくなっている。安倍晋三首相は17日、目標達成について「厳しい」という認識を初めて示した。保育施設の整備は各地で進むが、女性の社会進出も進み、都市部で増える需要に追いつかない。

 17日の衆院予算委員会で、首相は民進党の山尾志桜里氏の質問に「間違いなく達成できる状況ではない」とも答弁した。その理由については「働く女性が見積もり以上になった。労働市場の状況が予想以上に改善された」と説明した。

 総務省の労働力調査によると、25~44歳の働く既婚女性は16年の年間平均で633万人。第2次安倍政権発足前の12年から19万人増えた。この期間の認可保育施設の申込者数は約31万3千人増え、16年度には約255万9千人になった。

 待機児童ゼロの目標は、政権が13年に発表した待機児童解消加速化プランに盛り込まれた。全国の市区町村が試算した保育ニーズを積み上げ、年限を「17年度末まで」と設定。5年間で保育の受け皿を40万人分増やすとした。

 施設整備は順調に進む。15年11月には受け皿の目標値を「50万人」に拡大。認可保育施設の定員は16年4月までの3年間で約34万6千人分増え、全体の申込者数を上回るようになった。それでも同年4月時点の待機児童は2万3553人で、2年連続で増えた。都市部に需要が集中し、ミスマッチが起きたためだ。

 この日の衆院予算委で、山尾氏は「女性が職場に出て行けば待機児童も増えていくことは分かっていた」と見通しの甘さを批判。首相は17年度末までの目標自体は「取り下げない」とした。だが、さらなる施設整備に必要な財源はめどが立たない。保育士は17年度末までに9万人不足すると見込まれているうえ、都市部では用地の確保も難しい。

 日本総研の池本美香主任研究員は「幼稚園に通う子どもを夕方以降は学童保育で受け入れて共働き家庭が利用できるようにするなど、既存施設も柔軟に活用する必要がある」と指摘する。(伊藤舞虹)

◆◆「保育園落ちた」不服審査請求で認可園増やす

(赤旗日曜版17.02.19

◆◆「君が代・日の丸」保育所・幼稚園への強制やめよ

2017225日赤旗主張

 安倍晋三政権が保育所や幼稚園でも「国旗」「国歌」に「親しむ」ようにすることを盛り込んだ指針案をまとめたことに驚きが広がっています。保育所については、厚生労働省が今月公表した「保育所保育指針」改定案に3歳以上の幼児について「行事において国旗に親しむ」「国歌、唱歌、わらべうたに親しんだり」と記載しました。幼稚園については、文部科学省が「幼稚園教育要領」改定案で、現行にある「国旗」に加えて「国歌」にも「親しむ」としました。

◆歌詞理解できない幼児に

 もともと「君が代・日の丸」は戦前、日本の侵略戦争のシンボルとして使われたもので、拒否感をいだく国民は少なくありません。「君が代」の歌詞は天皇の世の中が未来永劫(えいごう)続きますようにというもので主権在民という国のあり方に真っ向から反する内容です。

 1999年の国旗国歌法制定の際に国民世論は二分し、政府は「義務付けは行わない」「無理強いして斉唱させれば内心の自由に関わる」と繰り返し答弁しました。ところが自民党政権はその後、こうした約束をふみにじり小中高校での強制をエスカレートさせました。安倍政権は一昨年大学への押し付けをはじめ、今回ついに幼児にまで広げようというのです。

 歌詞の意味もわからない子に「わらべうた」のように「君が代」を歌わせる―。幼児には「国」とは何かも理解できません。幼い子どもたちに国家権力が「君が代・日の丸」への愛着をすり込むのは、憲法19条「思想良心の自由」に反し、幼児の心を都合よく操作することになりかねません。幼児期にそうしたことを繰り返せば、主体的な子どもを育てるという点でも大きな問題です。

 小中高校への長年にわたる「君が代・日の丸」の強制は、教育に欠かせない自由や自主性を奪ってきました。

 東京都では起立・斉唱の職務命令に従わなかったために処分された教職員がのべ500人近くにのぼります。子どもにたいしても「君が代」を大きな声で歌うよう強要することなどが起きています。

 一方、東京都の教職員の処分をめぐる一連の裁判では、起立・斉唱をしないことは各人の「歴史観・世界観」の問題だとして、重い処分を科すことに一定の歯止めをかけています。最高裁の裁判官からは「不起立と懲戒処分が繰り返される事態」を「一日も早く解消し、これまでにまして自由で闊達(かったつ)な教育が実施されていくことが望まれる」との意見が出ています。

 強制を保育所などに広げることは許されません。

◆安倍政権の危険な暴走

 政府の審議会は、保育指針、幼稚園要領の改定に関するいずれの答申でも国歌に言及しませんでした。それが一転改定案に国歌が入ったのは政治家からの圧力でもあったのか―。「愛国心」をふりかざし、従順に国に従う国民を育成しようという安倍政権の危険な暴走は認められません。教育勅語を幼児に暗唱させる大阪の「森友学園」と首相側との関係が問題となっていますが、「君が代・日の丸」押し付けは、偏狭な「愛国主義」を助長する点でも重大です。

 保育園、幼稚園への「国旗・国歌」押し付けに強く反対するとともに、全学校での強制をなくすことを訴えます。

◆◆君が代・日の丸を保育所や幼稚園でも=「自然なこと」菅長官、教育要領案などに明記で

2017216日朝日新聞

 幼稚園の教育要領改訂案や保育所の保育指針改定案に、国旗や国歌に親しむと明記されたことについて、菅義偉官房長官は15日の記者会見で「従来、小中高校において、国歌や国旗の意義を理解させ尊重する態度を育てるよう指導している。小学校教育への円滑な接続を図る点からごく自然なことだ」と評価した。

 菅氏は「幼児が文化や伝統に親しむことで、これらを尊重する態度の基礎を育て、社会とのつながりや国際理解の意識の芽生えを養っていくことを目指す」とも述べた。教育要領改訂案は、唱歌やわらべうたとともに国歌に親しむと例示。保育指針改定案には3歳以上の幼児に対して「保育所内外の行事において国旗に親しむ」と明記された。2018年度から実施される予定だ。

【赤旗17.02.16

◆◆小規模保育所、5歳まで拡大ねらう

(赤旗17.02.14

◆◆保育園、1次は落ちても 希望園の地域広げて 100人待ちでも諦めず

2017211日朝日新聞

認可保育園の1次選考に落ち、2次選考の相談に来た親子。相談会場前には順番待ちの列が出来た=東京都杉並区役所

 4月に認可保育園への入園を希望する人に、自治体から1次選考結果の通知が届く時期になりました。保育ニーズの高まりから、入園先を探す「保活」は相変わらず厳しく、落ちる人も少なくないと見られます。落ちたらどうすればいいのでしょうか。専門家などに聞きました。

 東京都杉並区役所に先月末、子連れの親たちが不安そうな表情で続々とやってきた。1次選考に落ちた人たちで、1次で定員が埋まらなかった保育園の募集を再びする「2次選考」について担当課に話を聞くためだ。

 生後4カ月の長男を抱いてきた会社員の藤井美穂子さん(39)は収入が夫よりも多いといい、「道楽で働いているわけじゃない。子どものために復帰しないといけないんです」。1歳の長女と相談の順番待ちをしていた会社員の女性(28)は、共働きをする前提で35年ローンで家を買ったばかり。「私が働けなければ、家を売って引っ越すしかない」と話した。

 保護者らでつくる「保育園を考える親の会」代表の普光院亜紀さんによると、多くの自治体で1月末~3月に2次選考があり、1次で落ちた人には「希望する園の地域を広げてみてほしい」とアドバイスする。

 自宅近くの園が1次選考で全て落ちたなら、自宅から1~2駅離れた地域や、通勤途中の地域、最寄り駅から離れた地域の園も視野に入れるといいという。

 認可外の保育園に預ける手もある。待機児童が多い保活激戦区は、認可外園にも希望者が殺到するが、普光院さんは「100人待ちでもあきらめないで」と話す。認可園に受かったり、複数の認可外園に申し込みをしたりしていた人が抜け、入れることがある。

 認可に落ちた場合の入所希望を認可外園に伝えていた人も、1次選考に落ちたら「入園したい」と改めて連絡するといいという。認可園は自治体が一定の基準で入園の「可否」を決めるが、認可外園は園の自由。熱意が入園につながる可能性もあるという。

 ただ、認可外園は、職員の有資格者の割合などが国の基準を満たしていない。良い園もあるが、平均すると死亡事故の発生率も高い。厚生労働省の「よい保育施設の選び方十か条」(http://www1.mhlw.go.jp/topics/hoiku/tp1212-1_18.html別ウインドウで開きます)などを参考に、安心して預けられるか見学をすることが大切だ。

◆育休2歳まで、法案提出

 また、育児休業は原則1歳までだが、認可園に落ちるなどすれば1歳半まで延ばせる。今国会には2歳まで延ばせる法案も提出されている。

 厚労省によると、今国会で法案が成立し、今年10月に施行された場合、(1)子どもが2016年4月1日以降に生まれた(2)その子どもが1歳6カ月になる日の前日まで育休を取っている(3)認可園に落ちたなど、雇用継続のために育休を延ばす必要がある――の三つの条件を満たせば、2歳まで育休を延ばせる見込みだ。

 これまで育休を取っていた人が2歳まで延長する場合、この半年の延長期間中も育休前の平均賃金の50%が雇用保険から支給される。この期間をこれまで育休を取っていない配偶者が取れば、配偶者の平均賃金の67%が支給される。

 (長富由希子)

◆◆「保育園落ちた」悲鳴また 今春の通知次々、SNSでうねる声

朝日新聞17.02.09

(認可保育所への入所結果を受けて、東京都武蔵野市内では5日、市民グループが交流会を開き、小さな子を抱いた父母ら約60人が参加した。「無認可も含めて行くところが一つも決まっていない」と思いを吐露する人たちもいた=武蔵野市)

 4月からの認可保育所への入所の可否を知らせる通知が、自治体から親たちのもとに届き始めている。昨年は「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名ブログが、政治を動かすほどの話題になったが、今年もSNSには入所できなかった人たちの切実な声が続々。思いをつなげ、解決に向けて動こうとしている人もいる。

 「待機順位は後ろから数えたほうがはやいです。夫婦フルタイム、0歳4月入所でこれって何さ?」「子供を産んだ罰ゲーム?」「息子に申し訳ない気持ちで泣けてくる。何が足りないんだろう」

 SNSには1月末ごろから、こんな声が書き込まれた。首都圏などの待機児童の多い地域では、一番希望者の多い1歳児クラスへの入園ではなく、育休を早めに切り上げて0歳児クラスに申し込む人も多いが、それでも入りづらい状況だ。

 都内の保護者の有志は1月末、フェイスブックに「#保育園に入りたい」と題したページをつくり、思いを投稿するように呼びかける。ページづくりにかかわった東京都武蔵野市・吉祥寺に住む天野妙さん(41)は、8歳、4歳、0歳の3人の子がいる。三女は来年度から希望の保育所に入れることになったが、気持ちは複雑だ。「出産前から保育園に入れないのではと不安でいっぱいで過ごすのは、とてもつらいものです」

 投稿を集めるのは、「声を束にする」のが狙い。「まずは保育園に入れない状況を可視化する。そして、気持ちを言葉にして共有することで、ショックを和らげる。その上で、みんなで、どうしたらいいのか考えていきたい」

 「日本死ね!!!」のブログの拡散は、抗議行動などの大きなうねりにつながった。天野さんは「問題を顕在化した意味は本当に大きかった。次の段階として、肯定的な言葉で、みんなの声を一つにして、課題解決に向かっていきたい」。

 天野さんたちのグループが中心になり、3月7日に東京・永田町で「日本の中心で『#保育園に入りたい』と叫ぼう」をテーマにイベントを企画している。(市川美亜子、仲村和代)

◆「待機児童ゼロ」遠く

 厚生労働省によると、昨年4月1日時点の待機児童数は2万3553人で、2年連続で増えた。自治体が補助する認可外保育施設に入ったなどの理由で待機児童には含まれていない「隠れ待機児童」も含めると、9万人規模になる。認可保育施設の新設などで定員は増えているが、入所希望者が上回る勢いで増え、「待機児童ゼロ」の見通しは立っていない。

 自治体も対策を打ち出している。東京都の小池百合子知事は2017年度の予算案に、待機児童対策として16年度当初予算の1.4倍の1381億円を計上。保育士の給与アップなどの支援策を盛り込んだ。ほかの自治体でも、保育士を目指す人のための奨学金や、保育士への家賃補助などの独自の支援策を実施している。

◆◆保育園落ちたから1年=保育士の処遇改善程遠く、安倍「待機児童対策」進まず

201725日赤旗

(写真)待機児童解消を求めて国会前に集まった待機児童の保護者ら=2016年3月5日

 「保育園落ちたの私だ」と国会前で保護者らが待機児童問題の解決を訴えてから、1年が経過しようとしています。安倍首相は「待機児童ゼロを必ず実現する決意だ」(16年3月11日、参院本会議で吉良よし子議員への答弁)といってきましたが、対策はどこまで進んだのでしょうか。

◆整備は不十分

 17年度予算案では、「待機児童解消加速化プラン」に基づく受け皿拡大として4・6万人分が計上されました。市町村の整備計画を積み上げたものだとしていますが、大問題になっている隠れ待機児童(6万7千人、16年4月現在)への対応策はありません。

 総務省行政評価局が昨年末、整備目標を達成しても待機児削減となっていない自治体は調査の66市町村中7割を超えると指摘し、「より正確な需要把握に基づく計画の作成」を勧告しています。

 厚労省は、9月から待機児童の定義見直しを議論していますが、4月1日の待機児童数の確認には間に合いません。

 各自治体で扱いが異なる、育休中▽特定の保育園のみ希望▽求職活動を休止―のケースについて検討していますが、認可保育所に入れない子どもはすべて待機児として数える2000年以前の定義に戻す考えはありません。数を少なく見せるために待機児から除外できるケースを増やしてきた国の責任が問われています。

 認可保育所の整備が不十分な一方で国が進めてきたのが、規制緩和による詰め込みです。

 昨年3月の緊急対策では、定員19人までの小規模保育で21人までの受け入れを認めました。認可保育所より基準が低い「企業主導型保育」を創設し、認可保育所並みの補助金をつけて、2年間で5万人分を計画。17年度予算案では513億円増の1313億円を計上しています。

 待機児対策として育休を2年まで延長できる雇用保険法改定案を提出していますが、「保育所整備がまず先だ」との声が上がっています。

◆実効性に疑問

 17年度からは、育休後の入所枠を予約できる制度を始めます。しかし、受け皿が抜本的に不足するなか確実に入所できる保障はなく、実効性に疑問の声が出ています。

 待機児対策にとって欠かせない保育士の処遇改善は、17年度予算案で月約6000円にとどまり、全産業平均から10万円も低い賃金改善には程遠いものです。

 経験7年以上の保育士(施設長、主任保育士除く)には月4万円上乗せしますが、4万円増が確実なのは施設で1人だけ。該当する他の保育士の分は施設の裁量で他の保育士にも配分でき、確実な処遇改善とはいえません。「安心して働き続けるために、すべての職員に月5万円の引き上げが必要だ」(全国民間保育園経営研究懇話会)との声が上がっています。(鎌塚由美)

◆◆認可外保育、自治体が抜き打ち調査 死亡事故防止、導入広がる

2017117日朝日新聞

抜き打ち調査のために採用された職員=都庁で

 認可外保育園=キーワード=での死亡事故を防ごうと、抜き打ちで園の保育状況を調査する自治体が出始めている。今も厚生労働省の指針に基づく立ち入り調査があるが、原則、事前通告制なので悪質な園の実態を見抜けないケースがあることが背景にある。先行して実施するさいたま市では、効果が出ている。

◆都、担当職員採用へ

 東京都庁第一本庁舎23階にある保育支援課。先月、その一角で女性2人が書類をめくり、都内の認可外園の概要を読み込んでいた。都が3月から始める抜き打ち調査のために採用した非常勤職員だ。2人は園長を含めて保育経験が約40年あり、現場に精通する。都は計20人を抜き打ち要員として雇う方針だ。

 厚労省の指針では、都道府県などは認可外園に原則年1回、事前通告をした上で立ち入り調査をする必要がある。認可外園は届け出で開設できるため、これがほぼ唯一、行政が現場をチェックする機会だ。だが、都の調査した園(認証保育所をのぞく)は2014年度で13%。都内には認可外園が約1680園あり、人手不足で手が回らないためだ。

 抜き打ち調査は、この対策として導入する。厚労省が求める調査項目のうち、子どもの安全に関するものに絞り、作業量を減らす。事前通告しない方法で少なくとも年1回は、都内の全認可外園を調べたい考えだ。限られた人手で死亡事故を防ぐのに、効果が高いと判断した。

 死亡事故が起こりやすい昼寝中などに訪れ、子どもの人数にあった保育士がいるかや、乳幼児突然死症候群(SIDS)のリスクとされるうつぶせ寝の子どもがいないかを調査。安全性を高めるアドバイスをする。悪質な園は指導し、改善されなければ児童福祉法に基づき園名の公表や事業停止命令などを検討する。

 埼玉県川口市は15年10月、その前月に市内の認可外園で3カ月の男児が死亡した事故を受け、抜き打ち調査を始めた。全国で初めて12年度に導入したとされるさいたま市も、昼寝中の女の子(当時1)の死亡事故がきっかけだった。効果はすでに出始めた。文書指導が必要だった認可外園は12年度の41%から15年度は15%に減った。担当者は「『いつ調査がくるかわからない』という意識を園が持つことが、安全な保育につながる」と話す。今年度からは認可園への抜き打ち調査も始めた。

◆国も予算盛り込む

 厚労省も後押しする。新年度予算案に昼寝中や食事中、水遊び中に自治体が園を巡回指導する費用など計約30億円を入れた。対象や抜き打ちかどうかは自治体が決める。

 宇都宮市はこれを使い、新年度から市内全ての認可・認可外園に年1回以上、抜き打ち指導することを検討中だ。市では14年に事前連絡後の調査で「問題ない」とした認可外園で、その2カ月後に9カ月の女児が熱中症で死亡する事件がおきた。

 保護者らでつくる「保育園を考える親の会」の普光院亜紀代表は抜き打ち調査に取り組む自治体が出始めていることを評価した上で、「厚労省指針が事前通告を求めているのは、園側に関係書類などをきちんと用意させてその内容を精査するため。指針に基づく調査と、抜き打ち調査の両方をすることが子どものためにベストだ」と指摘する。

◆「質向上へ支援を」

 一方、認可外園での事故を減らすには、財政的な支援も欠かせないとの指摘もある。自治体独自の基準を満たす東京都の認証保育所などは補助金を受けられるが、全く補助がない園も多い。

 ある認可外園の元園長によると、補助がない園は親からもらう保育料しか収入がなく、運営が厳しいケースが多い。保育士を増やしたくても、補助がある園より給料が安くなりがちでなかなか集まらないといい、「十分に雇ったり、職員を研修に行かせたりする経営上の余裕がない。一定の基準を満たし、保育の質向上に取り組もうとしている園には補助するといった支援も必要だ」と話す。(長富由希子)

◆キーワード

 <認可外保育園> 職員の有資格者割合や子ども1人当たりの面積といった自治体の認可基準を満たさない園。死亡事故の発生率が高く、2015年には約216万人が通う認可園では2人が死亡した一方、約27万5千人が通う認可外園では10人が亡くなった。

◆◆育休延長でも「待機児童」 復職意思あれば計上 厚労省方針

2017117日朝日新聞

待機児童数と隠れ待機児童数の推移/隠れ待機児童の内訳

 厚生労働省は16日、認可保育所に入れずやむを得ず育児休業を延長した保護者の子どもについて、新たに待機児童として扱う考えを有識者検討会に示した。現状では自治体に判断を委ねていて、「隠れ待機児童」となることも多い。他の隠れ待機のケースも検討した上で、年度内に新しいルールをつくる。

 厚労省の調査では保護者が育休中の場合、全国の市区町村の約6割が「保育の必要性がない」などとして待機児童に含めていない。昨年4月時点で全国に7229人いて、保護者からは「実態を反映していない」との批判が出ている。

 新たに待機児童に数える際には、保育所が見つかれば復職する意思があることを条件とする方向だ。保育所に入れなかった場合に育休を延長できる制度を使うため、預ける意思がないのに入所を申し込む保護者を除く仕組みを検討する。

 隠れ待機児童は計約6万7千人いて、ほかに特定の保育所への入所だけを希望した場合や、保護者が求職活動をやめた場合などがある。こうしたケースをどう扱うかはさらに検討する。

 厚労省はまた、新年度から保護者の相談に応じるため自治体が配置する「保育コンシェルジュ」の増加を目指す。市区町村の1割の174自治体にしか配置されておらず、出張相談した場合に自治体に出す補助金などを新設する方針だ。

 (伊藤舞虹)

◆◆学童保育の待機児童、最多1.7万人

2017117日朝日新聞

 共働き家庭などの小学生が放課後を過ごす学童保育(放課後児童クラブ)の待機児童は昨年5月時点で1万7203人で、過去最多を更新した。厚生労働省が16日、発表した。おおむね10歳未満だった対象者を2015年から小学6年生までに広げた影響が続いた。

 学年別では4年生が5096人で最も多く、3年生が4361人、1年生が3072人。申し込みが定員を超えると低学年が優先される傾向があり、4、5年生で計929人増えた。

【学童保育の待機児童数が多い都道府県】

東京 3417

埼玉 1846

千葉 1380

静岡 1088

愛知  811

兵庫  735

沖縄  661

神奈川 653

山口  505

茨城  478

 (単位は人。2016年5月1日現在)

◆◆中堅の保育士に役職つくり昇給 月額4万円増 厚労省方針

2016127日朝日新聞

保育士の職種別給与

 厚生労働省は、私立の認可保育所で働く保育士向けに、来年4月から新たな役職を設ける方針を固めた。勤続7年以上になる中堅保育士が対象で、毎月の給与に4万円を上乗せする。人材不足が深刻な保育士の離職を防ぐ狙いがある。公立保育所や認可外保育所には適用されない。

 私立の認可保育所の給与は公定価格に基づき勤続年数に応じて毎年5~16%加算されるが、勤続11年で頭打ちになる。一般的な保育所には園長と主任保育士がそれぞれ1人ずついるが、それ以外の保育士については役職に応じた増給ができにくい仕組みだ。そのため他の職種との賃金格差が生じる一因となっている。

 そこで、月給に4万円を上乗せできるポストとして、主任保育士に次ぐ役職の「副主任」と、保育に必要な高い専門性を身につけたリーダー職を創設。7年以上の勤務経験があり、厚労省が指定する研修を修了した保育士を対象とする。副主任やリーダーを配置できる人数は、保育所の規模に応じて決める。研修では、障害児保育や食育、保健衛生といった専門6分野や、組織マネジメントについて学ぶ。

 職務経験3年以上の若手職員についても、専門分野の研修を修了した場合に月5千円程度を上乗せする。調理員らの待遇も改善させる方針。財源は計約1千億円程度とみられ、来年度予算案に盛り込むため年末までに財務省と調整する。(伊藤舞虹)

(筆者コメント=なんじゃこれは。今日の待機児問題は、こんなことで解決できるわけがない。公立学校の管理システムをそのまま保育所に入れるもので、これまでどちらかといえば全員の討議で民主的に決めていた保育所運営が、経営者の意向に左右される改革だ。保育士の賃金引き上げとも全く関係ない。保育士の賃上げにまわすべきだ。比率の高い公立や無認可を外したのは、入れやすい私立に入れてから、その効果を見定めてから導入を検討するつもりなのかよく分からない)

◆◆企業経営の保育所の人件費低い

(赤旗17.01.14

◆◆東京新聞=子どものあした=保育士の役割

(東京新聞16.12.18-20

子どもの貧困が広がるなかで、保育所の役割はきわめて大きくなっている。東京新聞が「保育士の役割」についての3回連載。

 保育士、介護士の処遇が低い背景には、「昔は家庭で女性が担っていた。誰でもできるもの」というジェンダーバイアスがあるのだと思う。

【<子どものあした 保育士の役割> (上)小さな命を守る重み 東京12/18

【<子どものあした 保育士の役割> (中)見えにくい専門性を認めて 東京12/19

【<子どものあした 保育士の役割> (下)貧困、虐待の最前線にも 東京12/20

◆◆<子どものあした 保育士の役割> (上)小さな命を守る重み 東京12/18

 待機児童対策のため保育所を増やそうとしても、保育士が足りない。「子育て経験者なら誰でも代わりが務まるのではないか」という声が上がる一方で、保育の質を保つためには保育士の存在が欠かせないとの指摘もある。子どもを守り、育てる保育士の仕事の意義をあらためて考える。

 午後七時。「終わったあ」。福岡市内の認可保育所で働く保育士の柳川紀久江さん(31)は、最後の子どもがお迎えの保護者と園舎を出て行くのを見送ると、心の中でほっと息をつく。「朝、預かった子どもをそのままの状態でお返しすることが保育士の最大の使命。子どもたちが園にいる間はずっと気持ちを張り詰めていますから」  受け持つのは、ゼロ歳児クラス。昼寝の時間は体調の急変や突然死のリスクが高く、最も気を使う。頻繁に呼吸を確認し、布団のずれを直しつつ、体にも触れて異常がないかをチェックして書類に記入する。交代で取る昼休みも「何かあれば飛んでいかなきゃ」と気が休まらない。

 幼稚園との大きな違いは、保育所がゼロ、一、二歳の小さな子どもたちが育つ場であることだ。体調の急変や感染症も多い低年齢児の保育には、知識に裏付けされた経験が求められる。  東京都板橋区の認可保育所「わかたけ保育園」では、ゼロ歳児は五分おきにうつぶせ寝になっていないかなどをチェックする。せきが出ている子は少し頭を高くしてあげたりする配慮も。主任保育士の山本厚子さん(52)は「単に五分ごとの作業としてするのであれば、誰でもできるかもしれない。ふだんから子どもを観察し、表情や顔色、体感などの変化に気付くのは、保育士の専門職としての役割なんです」と話す。

 三歳未満の子どもは生まれた月による成長の個人差も大きく、お昼寝だけでなく、一人ひとりに合った保育内容と発達の細かな記録が求められる。

 柳川さんの園でも、月ごとや週ごとの目標に加え、毎日の保育目標を立て、その日の生活や遊び、食事などの様子を個別に記録していく。記録は、次の年の担任保育士に引き継ぐ重要な情報だ。

 だが、そんな保育士の役割が、社会に伝わっていないのではないか-。数年前まで都内の認可保育所で働いた柳川さんは、政府が「待機児童ゼロ」の目標を掲げ、保育施設の増設が加速する一方で、現場にいる自分たちが置き去りにされているような気持ちを味わってきた。「仕事の意味を見つめ直したい」といったん現場を離れた。  今春から、保育士を目指して大学で学んだ福岡で再び、子どもたちと向き合う。「命を長時間預かっていることの重みが、保育士資格の重み」と柳川さん。しかし、責任に見合わない低賃金や子育てと両立しにくい長時間労働などから現場を離れた「潜在保育士」は多い。「資格を持っている人は多いのになぜ働かないのか。そこに目を向けてほしい」と訴える。

◆◆<子どものあした 保育士の役割>(中)見えにくい専門性を認めて 東京12/19

 東京都大田区の認可保育所「多摩川保育園」の庭にあるサクラが今春も美しく咲いた。「お花の下でなにか食べたい!」。子どもたちの声を受けて、保育士の田中里佳さん(31)は数日後、給食のチキンライスをおにぎりにしてもらい、サクラの下でみんなで食べた。「もっとサクラの花びらとか葉っぱで遊びたい」。さらに声が上がった。

 ある女の子が「サクラのお茶を飲んでみたい」と提案。サクラの塩漬けを作ることに。花は散ってしまったが、クラスをサクラで飾り付けて、塩漬けを入れたお茶を飲む会を開くことが決まった。子どもたちは衣装も作り、田中さんが和菓子の紹介をして、お茶に合わせた和菓子も用意することになった。

 お茶会の日、田中さんは「みんなで時間をかけて一生懸命やったからこの会ができたね」と語りかけた。引っ込みがちだった子が調べたことをみんなの前で発表して自信を付けたり、クラスに落ち着きが出てきたりするうれしい変化があった。「プロセスを大切にするので地味で見えにくいが、自ら探求していく力を身に付けるという子どもの育ちに、手を貸すことができたのではないか」

 同園は、三、四、五歳児を一つのグループにする異年齢保育を実施。保育室はいくつかのコーナーに仕切られ、子どもたちがその日遊びたいところで遊びたいおもちゃを使って遊ぶ。全員に一斉に同じことをさせることはない。「自分で選び、夢中になれる環境が、子どもたちの主体性を育む」と主任保育士の佐伯絵美さん(37)。その時々の子どもたちの興味、関心を注視しながら、保育室に置くおもちゃや本、素材などを変えていくのが重要な仕事だ。

 その子が今どんなことに興味を持って楽しんでいるのか、この遊びを通してどんな力が育っているのか。子どもを観察する目を深めることに役立っているのが、子どものつぶやきや会話、表情、行動などを写真と文章で記録する「ドキュメンテーション」といわれる書類だ。「これがなければ、けがなく一日が終わればいい、というだけになってしまうかも。大事な瞬間を記録していくことで、子どもをみる視点が深まっていく」と佐伯さんは言う。

 保育士や幼稚園教諭としての勤務経験もある日本女子体育大の天野珠路(たまじ)准教授(保育学)は、「子どもの根源的な欲求を大事にして、遊びに昇華したり表現活動につなげていく環境をつくるのが保育。学校に入ったらできない乳幼児期だからこその教育が大切だ」と指摘。「それを担う保育士や幼稚園教諭など『子どもの専門職』の重要性を社会がもっと認識すべきだ」と話す。

◆◆<子どものあした 保育士の役割> (下)貧困、虐待の最前線にも 東京12/20

 「保育園にすぐ連れてきてほしい。育ててあげられるのに」。埼玉県内の認可保育所で保育補助の仕事をする三十代の女性が、保育士資格を取ろうと思ったきっかけは、子どもの虐待の話題が出た時、園の保育士がこうつぶやいたのを聞いたことだった。

 イライラして部屋の中にいられない子は、親が離婚するかでもめていた。ただのわがままではなく、家で自分が抱えたストレスを発散していた。どんな家庭環境にあっても、園にいる間は安心して楽しい時間を過ごさせたいという保育士たちに出会い、その仕事の重みを感じた。でも保育士の手が足りない。「資格を持った保育士を増やさないと。私にも何かできるんじゃないか」。保育士資格試験を受けたいと思っている。

 東京都板橋区の保育園で保育補助をする矢寺渚(なぎさ)さん(26)も、保育士を目指して勉強中だ。補助に入っていた矢寺さんが友達をたたいた子どもを注意しようとした時、保育士が「この子はお母さんがしばらく入院中。今は不安で感情的になっちゃうから」と助言してくれた。「いつもとは違う対応が必要だった」。子どもが置かれた状況を把握しながら向き合う姿に専門職の意義を感じている。

 非正規雇用の広がりや一人親家庭の増加、子どもの貧困、虐待などが社会問題となる中、保育園はそうした子どもたちを支える最前線にもなっている。  三年前まで川崎市の認可保育所で働いていた鈴木弓さん(32)は、「子育てが大変そうだなという家庭の場合、とにかく園とつながっていてほしい」と考えてきた。「毎日来てくれれば給食は食べさせられるし、体調などの変化にも気づくことができる」

 休日保育を利用していた男の子が「お風呂に入っていない」と気付いた時には、園で特別にシャワーを浴びさせたりもした。「そういう判断ができるのが保育士だと思います」

 成長発達に遅れがあったり、障害があったりする子が、保育園で育つ良さも実感してきた。「お母さんが孤立しないし、保育士に相談もしてもらえる」

 仕事に充実感を感じていた鈴木さんだが職場を辞めたのは、多忙な勤務と自分の子どもを育てることを両立できない、と感じたからだ。クラス便りなど、持ち帰る仕事が多く、家でも休まらなかった。

 仕事を辞めると、希望していた妊娠もかない、今は二歳の長男を育てる。「子育てを経験する保育士が保育をする良さもある」と思うが、早朝や遅い時間帯の勤務もしていた以前の状況を考えると難しい、と感じる。「就学前の子育ての重要性や、保育士の重責を知っているからこそ、現場には戻れないと思う人が多いのでは」 (この連載は、小林由比、増井のぞみが担当しました)

◆◆「保活」消耗戦 0歳より生まれる前、早まる開始時期 ポイント必要、育休切り上げ認可外に:朝日新聞デジタル

朝日新聞16.11.27

 来春の保育園の入園申し込みが秋から各自治体で始まり、入園先を探す「保活」が本格化している。「保育園落ちた日本死ね!!!」との匿名ブログをきっかけに認可園に入れない「待機児童問題」がクローズアップされてから、初の保活シーズン。政府は2017年度末までの「待機児童ゼロ」を掲げるが、都市部では過酷さが増している。

◆「こんなに厳しいなんて。3月生まれを妊娠した自分が悪いのか……

 保活を始めた大阪市天王寺区の病院職員橋本真菜さん(29)は、がくぜんとした。来年3月に出産予定で、早めに復職したいと思っている。夫と共働きなので優先されると楽観していたが、つわりが落ち着いた9月末に区役所に電話で状況を尋ねたら「認可保育園は無理。認可外に預けて待つしかない」と断言された。

 認可園は保育士配置などの国基準を満たし、保育料も認可外園より安い場合が多く人気が集中する。自治体が募集する4月入園が一番入りやすいが、同区では生後6カ月以上が対象で来年4月は無理。空いていれば年度途中で入れるものの、待機児童が多い同区では期待薄だ。橋本さんはほかの区の園も探し始めたが、入れないまま再来年4月になると1歳児クラスへの入園となる。0歳児の持ち上がりで枠が絞られ、最も入りづらい。

 1歳より0歳、0歳より生まれる前と、保活の開始が今、早まっている。

        

 東京都目黒区の会社員女性(32)は4月に産んだ息子の育休を1歳まで取りたかったが、切り上げて10月に復職し、いったん認可外園に預けた。「ポイント制」が女性をせき立てた。入園申請者から保育がより必要な人を選別するため、自治体がそれぞれ独自に親の働き方などを点数化した選考基準のことだ。それが、子育て世代の暮らしにひずみももたらしている。

 目黒区の女性は夫婦ともフルタイムで働く。20点ずつ計40点の基本ポイントがつくが、多くの共働き夫婦と差がつかず、ほかの加点を争う。きょうだいがいるといったプラス要素がなく、来春入園を目指して、認可外園に預けて働けばもらえる2点を取りにいった。

 ただ、この手法も今や常識で、女性は「取らないと自分だけ取り残され、選考のスタートラインにもつけない」。夜泣きし、たびたび熱を出す息子の世話と仕事でふらふらの毎日という。

 保活激戦地では認可外園すら狭き門になってきた。来春入園を目指す東京都練馬区の小学校教諭の女性(32)は妊娠中だった昨年秋、予約金2万円を払って認可外園「いちご保育園」の席を確保した。女性もフルタイムの共働きの基本ポイントしかなく、計15の認可園を見学して「入れる保証がない」と悟った。来春に必ず職場復帰しなければならず、先手を打った。

 ただ、同園の佐藤智子園長は「17年春の入園を確約する予約枠は5人分用意したが、15年末には全て埋まった」。今年度途中に空き次第入れたい約20人、来春から入れたい約60人がキャンセル待ちをする。

 認可園だけでなく、認可外園探しも迫られる親たち。小学校教諭の女性は「育休中は子どもとゆっくりしたいのに子連れで園の見学にいったり、情報収集したりして時間を奪われる。認可外園も見つからず、精神的に参ったママ友もいる」と話す。

        

 今春の保活で落ち、「第2ラウンド」に臨む東京都日野市の女性(33)は、今春よりさらに厳しい状況に追い込まれている。

 長男が1歳になる昨年9月、認可園に入れず、育休を法律で定められた最長の1歳半まで延長。今春も認可外園を含めてだめで、派遣社員としての復職のめどが立たなくなった。契約社員の夫は転職直後で給料は手取り月20万円ほど。女性の方が多かったため、月9万円の家賃が払えなくなった。

 穴埋めするため、今年8月に埼玉県内の実家に長男と戻り、パートを探すことに。両親は高齢で子どもを長時間預けられず、スーパーで早朝4時間だけ働く。派遣の仕事に戻りたいが、今の働き方では両親がフルタイムで働く家庭よりポイントが低く、来春も保育園に預けられそうにない。

 「ぜいたくしたいわけじゃなく、普通に生活して子どもを育てたいだけ。なのに誰も助けてくれない」

◆待機児童2万3553人/保育士も用地も不足

 過酷な保活の原因となる待機児童問題は、20年以上前から解決されずにきた。

 子どもの数が減っているのに、保育園に入れない子どもがいなくならない背景には社会の変化がある。女性の社会進出や景気低迷による収入減で共働き世帯が増え続け、保育ニーズが高まった。一方、高齢化で年金や医療、介護費が膨らむ中、政策の優先順位は低く受け皿整備は鈍かった。

     *

 <「ゼロ」達成遠く> そんな中、安倍政権は17年度末の「待機児童ゼロ」達成を掲げた。昨年秋には「1億総活躍社会」実現へ、17年度末までの整備目標を10万人分上積みして50万人分とした。

 ここ数年急ピッチで整備が進むが、それでも利用希望者の増加に追いつかない。今年4月の待機児童数は、2年連続増の2万3553人。自治体が補助する認可外園に入れたなどの理由でカウントされない「隠れ待機児童」を含めると、9万人を超す。

 2月には「日本死ね!!!」の匿名ブログが流れた。「一億総活躍社会じゃねーのかよ。昨日見事に保育園落ちたわ。私活躍出来ねーじゃねーか」との表現に、保活に苦しむ親たちが共感。怒りの声が上がり、政府は急きょ追加対策をまとめた。

 しかし、待機児童解消にはいま、「保育士確保」と「保育園の用地確保」という二つの壁が立ちはだかる。賃金の低さから保育士のなり手が足りず、開園ラッシュで保育園に適した土地も少なくなっている。

 東京都荒川区では昨年度まで前保育課長が仕事の合間を縫い、空き地がないか自転車で探し回った。めぼしい土地は登記簿で所有者を割り出し、手紙で区への売却を打診。だが、まとまった土地はマンション建設を計画する民間業者も高値を付けて狙う。結局、飲食店跡地1カ所を確保できただけだった。

     *

 <賃料補助20年も> 明るい材料がある自治体もある。

 4月の待機児童が1198人で全国最多の東京都世田谷区は、土地・建物所有者に事業者が支払う賃料の3分の2を20年間補助する制度を14年度に導入。職員が関係団体を訪ね、「助成でアパート経営より安定した賃料が見込める場合がある」と訴え、開園・開園準備計48件につなげた。東京都が9月に打ち出した緊急対策も、追い風になりそうだと期待する。

 それでも17年度末の待機児童ゼロは難しいとみる。担当者は「若い世代がどんどん入ってきて就学前の子どもが毎年約1千人ずつ増えている。保育園をいくらつくっても需要の伸びに追いつかない」と話す。(仲村和代、長富由希子、伊藤舞虹)

◆◆保育料が高すぎる

(赤旗日曜版16.11.20

◆◆夜間保育、手薄な現場 国の基準満たさず、170カ所で行政指導

2016118日朝日新聞

「ちびっこBOY」が入る雑居ビル。24時間の保育サービスを提供していた=平塚市宮の前

 神奈川県平塚市の認可外保育所で乳児を死なせたとして、元保育士の男が傷害致死容疑で逮捕された事件は、夜間保育の現場で人手が足りていない現状を浮き彫りにした。行政はスタッフの複数配置を求めてきたが、男は事件当日、1人で約20人の乳幼児の面倒を見ていたという。保育士を確保するための公的な支援は乏しい。

 10月下旬、午前2時。保育施設が入る横浜市内のビルから、5歳の娘を連れて女性(44)が出てきた。シングルマザーで毎日、午後5時に娘を預けて飲食店で働く。「実家が遠くて頼れず、夜に預かってくれる保育施設がなければ働けない。本当にありがたく思っています」と話した。

 厚生労働省によると、宿泊を伴う保育をするなど「ベビーホテル」と呼ばれる認可外保育所のうち1134カ所を2014年度に調べたところ、約半数が職員の健康管理などで国の基準を満たしていなかった。「保育者が常に2人以上いる」「保育士や看護師を1人以上は配置する」とも国は定めているが、170カ所で守られておらず、行政指導の対象になったという。

 昨年暮れ、生後4カ月の出縄望翔(いでなわりんと)ちゃんが頭の骨を折って死亡した平塚市の「ちびっこBOY」。神奈川県警は、10月21日に逮捕した角田(つのだ)悠輔容疑者(34)が何らかの暴行を加えたとみているが、角田容疑者は「やっていない」と容疑を否認しているという。

 ちびっこBOYは繁華街にあり、24時間の保育サービスを提供し、夜中に働く親たちが子どもを預けていた。県は08年以降、保育士が1人で子どもの面倒を見ていたとして、スタッフを複数配置するよう児童福祉法に基づいて3回もこの施設に勧告していた。

 経営者の妻で、自身も夜間勤務に入っていた女性(53)は「夜間に働いてくれる保育士はなかなかいなかった」と打ち明けた。別の施設関係者は「夜間保育のニーズがあるので、やめられない。きつい勤務もこなす角田容疑者は、貴重な存在だった」と明かす。

 ちびっこBOYのような認可外の保育所は行政から運営費の補助がほぼない。一方、厚労省によると、認可保育所では90人の定員の場合、年間約1千万円の夜間保育加算があるという。だが、約60の認可保育所でつくる「全国夜間保育園連盟」の会長で、福岡市の施設理事長の天久薫さんは「それでも、保育士を集めるのは大変だ」と話す。働く時間帯が敬遠され、昼間以上に保育士の確保が困難だという。

 経営上の理由から、認可外保育所では職員の数に対して子どもの数を増やす傾向があると言われている。04~15年に保育施設で起きた死亡事故のうち、認可外が約7割を占めるというデータもある。「育休や時短勤務の制度が普及し、子育て中は仕事を制限して昼間に働くべきだという考え方が相変わらず根強い」と山縣文治・関西大教授(子ども家庭福祉学)は指摘する。「今のままでは仕事に誇りをもって夜間に働いている人も辞めたり、仕事を制限したりしなければならない。公的な支援を充実させて、保育環境や労働環境を整えていくことが重要だ」(木下こゆる、照屋健)

◆◆認可外保育、見えぬわが子の最期 遺族ら、原因解明の仕組み要望

2016116日朝日新聞

 保育施設での子どもの死亡事故。何が起きたのかを知りたい――。認可外の施設が情報を隠しがちになるのは、補償制度が不十分なことが一因として、遺族が制度の改善を求めている。当初は原因不明の病死、乳幼児突然死症候群(SIDS)と判断されても、その後に施設の過失や虐待が判明したケースもある。

 遺族らでつくる「赤ちゃんの急死を考える会」(事務局・東京都、会員約800人)が10月、約2万6千人の署名を添え、要望書を内閣府に出した。

 認可保育所や幼稚園、小中高校の多くが加入する独立行政法人日本スポーツ振興センターの災害共済は、子どもの死亡は過失の有無にかかわらず見舞金を出す。しかし、認可外は加入対象外で、過失があれば賠償する民間保険に入っている所が多い。考える会は、事故時に保険会社が施設の過失を認めようとしない傾向があるなどとして、認可外も同共済の対象にし、加入を義務化するよう求めている。

 また、認可保育所などに対しては2015年度から重大事故の報告が義務化されたが、認可外は対象外。考える会は「漏れなく報告される仕組みが必要不可欠だ」と6月に政府に申し入れている。

◆窒息死、裁判で分かる例も

 大阪市旭区の棚橋恵美さん(28)は2009年11月、生後4カ月の長男、幸誠(こうせい)ちゃんを認可外保育園で亡くした。ベッドで鼻血を出した状態で見つかった。司法解剖の結果、死因は「不詳」。当時いた2人の職員は「5分後に見ると冷たくなっていた」などと言うだけだった。

 「真相を知りたい」。夫の勇太さん(28)と裁判を起こし、「うつぶせ寝の状態で放置されて窒息死した」と主張した。一審は「顔を横に向けていた」とする職員の話などを踏まえ、死因をSIDSと認定。訴えは棄却された。

 だが、控訴審で園の元保育士が「日常的にまともに保育できる状況でなかった」と証言。昨年11月の判決では「窒息」と認定され、勝訴が確定した。

 判決は、無資格の職員2人が17人の子どもを世話し、当時は消灯中で幸誠ちゃんの様子を十分に確認できたとはいえないと認定した。「元保育士の証言がなければ真相は分からなかった」と恵美さんは話す。

 02年2月に香川県香川町(現高松市)の認可外保育園で亡くなった藤嶋飛士己(ひとき)ちゃんは当時1歳1カ月。地元の医師による解剖で当初の死因は「SIDSの疑い」とされた。

 だが、飛士己ちゃんの顔などにあざがあったのを両親の研治さん(49)、由佳さんは不審に思った。園長を問い詰めると、足で踏んだり、たたいたりしたことを告白した。

 解剖した医師は、当時はうつぶせで死亡したという程度の情報しかなかったとし、「ひとまず可能性としてSIDSの疑いとした」などと説明。保存していた脳を改めて調べ、頭部打撲などによる外因性脳浮腫を死因とした。

 県警は園長を逮捕、園長は03年1月に殺人などの罪で懲役10年の実刑判決を受けた。由佳さんは「私たちが動かなければ、殺人がなかったことになっていた」。

 どんな状況で亡くなったのか、ずっと分からないままの遺族もいる。生後11カ月の長男、拓斗ちゃんを6年前に亡くした神奈川県在住の飯山智さん(46)、宏美さん(38)夫妻だ。

 当時暮らしていた川崎市内の認可外保育園に預け始めて6日目。昼寝中に顔が青ざめているところを発見され、死亡した。

 司法解剖の結果は「SIDS」。当初は「うつぶせに寝かせた」と言った園側は途中で「うつぶせ」という言葉を使わなくなり、その後は説明を拒否した。解剖医は「特に異常がないのでSIDSとした」と言った。

 寝具や寝かしつけたときの状況などもほとんどわからない。「診断をそのまま受け入れられない」と智さん。情報が足りず裁判も起こせない。「命がすごく軽く扱われていると感じる」と宏美さんは言った。

 (編集委員・大久保真紀)

◆死亡事故、7割が認可外 2004~15年

 厚生労働省などによると、全国の認可保育所は約2万3500カ所で、認可外は約8千カ所。認可保育所に入れなかった人や、夜間に子どもを預けたい親たちの受け皿になっている。

 一方、2004~15年の保育施設などでの死亡事故は174件(177人死亡)で、うち約7割を認可外施設が占める。大阪電気通信大学の平沼博将・准教授(発達心理学)は、同省発表の施設の利用人数をもとに子ども1人あたりの死亡事故の発生率を計算し、認可保育所に比べて認可外施設が約27倍高いという結果を8月に公表した。

 認可外施設は職員数や施設の広さ、保育士の配置などについて各自治体が条例で定めた基準を満たす必要がない。平沼准教授は「保育の環境が悪かったり、保育士資格のある職員が少なかったりするほか、自治体の指導監督も不十分なことが原因」とみる。

◆◆「保活」(保育所申し込み)に苦しむ社会は異常だ

20161031日赤旗主張

 来年4月から子どもを認可保育所に入れる申し込みの手続きが、自治体の窓口で始まっています。安心できる保育所に入れることができるかどうか。親たちは不安と焦りを抱えながら「保活」に必死です。「子どもを預け働きたい」という当たり前の願いをかなえることが、これほど狭き門にされていることは、あまりに異常です。今春、「保育園落ちた!」とつづられたブログが国会で大問題になったというのに、安倍晋三政権は認可保育所の大幅増設に後ろ向きの姿勢のままです。「保活」に苦しまなくていい国にするため、政治の役割が重要です。

◆神経をすり減らす親たち

 「近くの認可保育所に入れるのはかなり厳しいと役所でいわれてしまった」「子どもを預けられないと仕事に戻れないのに」―。来年4月からの認可保育所入所のための申請書類の配布が市区町村の窓口で開始される中、親たちから不安と懸念とともに、現状の打開を求める切実な声が相次いでいます。認可保育所に入れなかった場合に備え、自治体の独自の基準で運営する認可外施設などにも申し込んでも、すでに100人程度が「待機中」という施設も少なくなく、親の焦りは募るばかりです。

 厚生労働省のまとめでは今年4月に、認可保育所を希望しながら入れなかった子どもは全国で2万3553人と2年連続で増加となり、やむをえず認可外施設に預けた子どもなどを含めると約9万人が待機児という深刻な状況です。このため認可保育所に子どもを入れるために、親が奔走する「保活」はますます激化しています。

 「おなかが大きいときの施設見学は大変だった」「授乳が必要な子を連れ何度も役所にいかなければならなかった」「入れないと職を失ってしまう不安があった」。厚労省が今春実施した「保活」実態調査(約5500人回答)は、親たちが保育所探しで神経をすり減らしている現実を浮き彫りにしています。4月入所が申し込めるよう出産月を調整したり、育児休業を早めに切り上げたり、待機児の少ない自治体に転居したり―。「保活」を苦労・負担と感じる人は回答者の8割以上です。「『保活』などという言葉が必要のないよう保育施設や質を充実させて」との意見はあまりに当然の願いです。

 安倍政権が掲げる「待機児ゼロ」は、「規制緩和」によって子どもを施設に詰め込むことや、施設基準を緩めた認可外施設の増設などが柱です。保育所増設のために不可欠な保育士の処遇改善もきわめて不十分です。保育の質を低下させる「対策」では、安全で安心できる保育施設の拡充はできません。

◆国と自治体は責任果たせ

 保育所増設・保育士処遇改善を求める親や保育士の自治体への要請が各地で行われ、11月3日には東京で大集会も開かれます。「保活」に苦労しないと保育所に入れない国で、安心して出産して子育てができるはずはありません。

 児童福祉法は、自治体に対して保育の実施義務を定めています。保育を国民に保障することは国と自治体の責任です。政府と市区町村はただちに待機児問題が打開できるよう、公立保育所を中心に認可保育所整備に真剣に取り組むべきです。そのために国有地無償提供などの支援を含め知恵と工夫を尽くすことが急務です。

◆◆認可保育所入所の割合72.8%

(赤旗16.10.30

◆◆認可外保育園、どう選ぶ 園の情報、自治体から収集

20161029日朝日新聞

認可保育園と認可外園の違い/保育園選びのお役立ちサイト

 来春に子どもを保育園に入れるための「保活」が本格化しています。待機児童が多く認可保育園に入れそうになかったり、夜に仕事をしていたりして認可外の保育園を検討する人もいるでしょう。質の良い園もありますが、神奈川県平塚市の園で乳児が死亡した事件が報じられるなどしており、不安に思っている人もいると思います。選ぶ際のポイントをまとめました。

 認可外園は、東京都の「認証保育所」といった自治体独自の基準を満たして補助を受ける園と、国や自治体の補助がない園の二つに大別される。補助がない園では、資金不足などから質が低いところも少なくないとされる。

 内閣府によると、2015年には、約216万人が通う認可園で2人、約27万5千人が通う認可外園で10人の子どもが死亡。認可外園の10人のうち、9人が補助がない園で亡くなっていた。

 厚生労働省の担当者は、公的補助のない認可外園を選ぶ場合も「自治体に園の情報を聞くと参考になる場合がある」と話す。原則、すべての認可外園に自治体に設置を届け出る義務があるためだ。認可園の基準より緩いものの、保育士の割合などの基準がある。自治体は原則年に1度、認可外園に立ち入り調査し、こうした基準を満たしているかどうかをチェックしている。どの園が基準を満たしているかや、各園が調査でどんな点を指摘されたかを自治体が公表していることがある。

 また、行政の目が届かない未届けの園でも死亡事故が起きている。「○○保育園」などと名乗れるため園名では判断できないが、届け出の有無も分かる場合がある。

 厚労省は、これらの情報をホームページや窓口で公表するよう自治体に通知している。東京都などはホームページで公表するが、自治体によっては非公表の可能性もある。

◆「仰向け寝」確認を

 うつぶせ寝をしていた0~1歳児が睡眠中に死亡する事故が多い。保育所の死亡事故に詳しい寺町東子弁護士は「0~1歳児の仰向け寝を徹底させているか。寝ている時に部屋を無人にしていないか。この二つが死亡事故を防ぐために大切」と話す。

 そして「自治体の調査で、乳幼児突然死症候群(SIDS)の対策の不備や職員不足を指摘された園は注意が必要」と指摘。うつぶせ寝の危険性を理解しているかを園長などに聞くことも勧める。

 また、保育料が安すぎる園には注意が必要だ。公的補助がない認可外園は原則、親が払う保育料で運営している。安い園は、人件費を削るなど保育の質が落ちている可能性がある。ただ、寺町さんは「親がどんなに努力しても、園側が悪意を持って実態を隠そうとすれば見抜けない。だからこそ、行政の指導監督を強化すべきだ」と話す。入園後に不安を感じたら、自治体に相談する手もある。

 (長富由希子)

◆◆学童待機児童は15839

(赤旗16.10.24

◆◆学童保育小6まで使いたいのに、対象拡大、見送った自治体も

2016521日朝日新聞

小6まで利用できる学童保育=川崎市高津区

 共働き家庭などの小学生が放課後に過ごす放課後児童クラブ(学童保育)。昨年4月に対象が原則「小3まで」から「小6まで」に広がりましたが、拡大を見送った自治体もあり、親から不満が出ています。

 「ただいま」。川崎市高津区の学童保育「オカリナ」には午後3時半ごろ、授業を終えた小学4~6年生が続々やってくる。低学年と一緒に将棋を指したりおやつを食べたり。6年の池田夏実さん(11)は「ここがなければ家に引きこもる日が多かったと思う。楽しい」と話す。

◆「別の受け皿ある」

 学童保育は、親が仕事などで放課後に家にいない小学生が、支援員の見守りの中で遊ぶなどして過ごすものだ。児童福祉法で自治体に受け皿整備に努めるよう求めており、児童約40人に支援員2人以上などの基準を省令で定めている。同法改正で小4以降も対象とされた。早稲田大の増山(ましやま)均教授(教育福祉学)は「高学年は大人と離れて自由に遊ぶ時間も大切で、全員に学童保育が必要なわけではない。だが、子どもの発達や家庭、地域の状況は様々で、希望者は受け入れるべきだ」と指摘する。

 ただ自治体の対応にはばらつきがある。東京23区では文京、墨田、江東、目黒、世田谷、中野、北、練馬の8区が原則小3までのままだ。

 世田谷は親の就労にかかわらず、登録した児童が放課後に学校の教室などで遊べる「全児童向け事業」などの受け皿があるためと説明する。ただ、同区の事業は学童保育と違って子どもの出欠を親に連絡せず、様子を伝える連絡帳やおやつもない。

 小5の娘が一時使っていた区内の萬谷美和子さん(56)は「1人ずつを丁寧に見てくれる学童保育とは違い、出入り自由な遊び場に近い。1人の時に事故や事件に巻き込まれる心配は今もある。6年まで学童に行かせたかった」と話す。

◆増える待機児童

 墨田区は、高学年が学童を離れて自立する大切さと、待機児童を理由に挙げた。文京区も「待機児童が出ているため」という。練馬区は一部で高学年向けモデル事業を、北区は基準が緩い独自事業を実施。江戸川区は小1~6まで独自の預かり事業をしているとする。東京都以外でも、大阪府守口市や兵庫県西宮市などが原則小3までのままだ。

 一方、小6まで広げて待機児童が深刻になっている自治体もある。さいたま市は4年生を中心に希望が増え、昨年5月の待機児童は698人で前年同月の1・8倍になった。

◆「質保ちつつ量を」

 厚労省によると、昨年5月の全国の利用児童数は102万人を超えた。1年間で9万人近く増えたが、待機児童数は1・7倍の1万6941人に。希望者の増加に受け皿整備が追いつかず、子どもが小学生になると預け先がなくなり、親が仕事を続けにくくなる「小1の壁」も深刻だ。政府は19年度末までに30万人分の受け皿を増やし、待機児童ゼロにする目標を掲げる。18日にまとめた「ニッポン1億総活躍プラン」では達成の1年前倒しを目指すとした。ただ実施するのは自治体なので、整備が加速するかは不透明だ。

 学童保育に詳しい淑徳大の柏女霊峰教授(子ども家庭福祉)は、「学童保育のニーズは今後さらに増える。質を保ちつつ量を増やすことが大切だが、国の財政支援は貧弱で、税金をきちんとあてる仕組みをつくることが必要だ」と話す。(長富由希子

◆◆待機児童対策の「育休延長」論=安上がり優先、公的責任投げ捨て

(赤旗16.10.10

◆◆「隠れ待機児童」って何?

2016103日朝日新聞

待機児童と隠れ待機児童の人数の推移

やむなく自治体補助の認可(にんか)外に通う子など。今春6.7万人

 コブク郎 今年も保育施設に入れない待機(たいき)児童がたくさんいたようだね。

 A 4月時点で2万3553人。昨年の同時期より386人増えた。今回は初めて「隠(かく)れ待機児童」も同時に公表され、6万7354人だった。昨年より8293人多かったんだ。

 コ 「隠れ」って何?

 A 待機児童は認可保育施設に入れなかった子どもで、厚生労働省が定めた定義がある。その定義から外れれば、認可施設を希望して入れなくても待機児童に含まれない。こうしたケースが隠れ待機児童だ。

 コ 例えば?

 A 認可外でも自治体が補助する施設に入った子どもは一例だ。それで満足する保護者もいる一方、やむなく比較的料金が高い認可外施設で我慢し、「待機」だと感じる保護者もいる。「実態がわからない」という保護者らの批判を受けて、厚労省が昨年分から隠れ待機児童の数も公表することにしたんだよ。

 コ ずいぶん隠れていたんだね。

 A 勤務先と逆方向にある施設を自治体に指定されて「通えない」と断念したら、「特定の施設を希望した」として「隠れ」になるケースもある。預け先がなくて保護者が仕方なく育児休業を延長しても自治体によっては「隠れ」なんだ。

 コ そんなあいまいな定義でいいの?

 A 厚労省は有識者らによる検討会を9月15日に立ち上げ、年度内に新しい定義をまとめる方針だ。ただ、全国一律にできるかというと、難しい事情もある。例えば「通える施設」を「自宅から30分以内」と定義づけると、車社会の地域と電車や徒歩中心の都市部では移動手段によって距離が変わる。働く場所と同じ方向なら、少々遠くても通えるケースもある。厚労省は定義を変えても、ある程度、自治体の裁量を認める考えだよ。

 (伊藤舞虹)

◆◆「隠れ待機児童」解消へ定義検討

2016916日朝日新聞

待機児童に含まれないケース

 認可保育施設に入れない待機児童の定義を見直すため、有識者と自治体関係者9人で構成する厚生労働省の検討会が15日に立ち上がった。統計に表れない「隠れ待機児童」も含めるよう対象を広げる狙い。年度内に新基準を設け、来年4月時点の集計から適用する。

 この日の検討会では、メンバーの福岡県粕屋町の担当者が「待機児童に含まれなくても利用者にとっては『待機』。住民には窓口で隠れ待機児童数も含めた実態を伝えている」と説明。いまの定義が実情に合っていないと主張した。

 待機児童には、通える施設があるのに特定の施設を希望した▽自治体が補助する認可外施設などに入った▽求職活動をやめた――の3ケースは含まれない。育児休業を延長した場合は自治体ごとに判断が異なる。

 厚労省はこうした事例を「隠れ待機児童」とし、4月時点で6万7354人いることを公表した。待機児童の数は2万3553人で、3倍近くに上る。

 自治体の判断には、ばらつきが出ている。

 自宅から一定の距離に空き施設がある場合、自動的に待機児童から除外する自治体がある一方、その空き施設に通えるか保護者に確認し、「通えるけど利用しない」とした場合のみ除外する自治体も。インターネットで仕事を探している人を「求職中」とみなすかどうかも自治体の裁量だ。

 岡山市は第3希望まで入れない子ども全員を待機児童に含めた。待機児童の増加数が全国最多の595人だったが、大森雅夫市長は「政策目標とすべき具体的な数字が浮かび上がった」と強調。来春までに認可保育所の新設などで800人分以上の定員増を行う。

◆実態と溝、保護者不満

 横浜市に住む自営業の女性(40)は長女(3)を認可施設に入れられず、一時保育を利用する。空きがない時は出張先で託児所を探すこともあると言い、「そうした苦労が統計に表れないのはおかしい」と憤る。

 横浜市の待機児童は7人だったが、「隠れ待機児童」は全国最多の3110人に上る。待機児童数を参考に横浜市内に引っ越したが、認可施設を利用できなかった人もいる。

 検討会の議論では、「隠れ待機児童」をどこまで待機児童に含めるかが焦点となる。厚労省は待機児童の対象を広げることによって、施設の整備が加速する効果にも期待を寄せる。

(伊藤舞虹、足立朋子)

2016914日赤旗

 厚労省はこのほど、認可保育所の「待機児童」が2万3553人となる一方、待機児童にカウントされていない隠れ待機児童が6万7354人にのぼることを公表しました。国は待機児ゼロを掲げますが、隠れ待機児まであらわになる中、解消策の抜本的見直しが迫られています。

 隠れ待機児童は、認証保育所などの地方単独事業に入った児童や、親が▽育児休業中▽特定の保育園等のみ希望▽求職活動を休止―のケースの児童で、いずれも国が自治体の判断で待機児から除外してもよいとしているものです。

◆「特例」含めると

 待機児が1198人で全国1位とされる東京都世田谷区は、親が「自宅で求職中」「育休の延長」のケースは待機児に数えています。一方、待機児7人の横浜市は、「4月1日に育休を取得」(420人)、「自宅で求職中」(366人)は除外。隠れ待機児を含めると横浜市が全国1位となります。

 岡山市はこれまで、「自宅から20~30分未満で登園が可能な園がある」場合は「特定の園を希望」しているとして除外してきましたが、今年からは「第3希望まで利用調整したにもかかわらず、入園できなかった」場合は待機児と数えるよう変更。その結果、前年比595人増の729人となりました。

 待機児解消を図るうえで正確な実態把握は不可欠ですが、これでは適切な対策は望めません。

 さらに、幼稚園の預かり保育など「特例保育」は全国で9951人にのぼりますが、隠れ待機児にもカウントされていません。これも含めれば、実際の待機児数は10万858人に達します。国は待機児の定義を見直す検討会を開くとしていますが、潜在的なニーズを含めた正確な数の把握は急務です。

◆待機外しに躍起

 国は、2000年以降、認可保育所増設に背を向ける一方、02年には、東京都の認証保育所入所を待機児から除外し、15年からは、公的な補助金が入る施設へ入所していれば待機児から除外するなど待機児外しに明け暮れてきました。しかし、待機児ゼロどころか、隠れ待機児を公表せざるを得なくなるほど増え続けていることは、安倍政権の待機児解消策の破綻を示しています。

 安倍政権は「待機児童解消加速化プラン」で受け皿を増やしてきたとアピールしていますが、待機児は2年連続で増加しており、保育基準を緩和し詰め込みで対応するやり方では解消しないことは明らかです。5歳まで安心して通える認可保育所の増設を柱に据えるなど、国・自治体の責任でニーズに応える抜本増設こそ求められています。

(鎌塚由美)

◆◆「うつぶせ寝」禁止徹底を=保育事故防止 遺族ら提言

2016913日赤旗

(写真)「もう遺族を増やさないで」と防止策の徹底を訴える遺族と弁護士=12日、都内

 保育施設で子どもを亡くした遺族らでつくる「赤ちゃんの急死を考える会」は12日、相次ぐ死亡事故を防止するための緊急提言を国へ提出しました。重大事故の原因となる「うつぶせ寝」の禁止を徹底し、子どもが睡眠中の部屋を保育者不在にしないよう求めました。

 同会によると、2015年9月からの1年間で8件の死亡事故が保育施設で起きており全員が0~1歳児です。うち6人は睡眠中に心肺停止で発見され、搬送先の病院で死亡が確認されています。

 同日都内で会見した同会の小山義夫副会長は、うつぶせ寝で、子どもが寝ている部屋に保育者がいないなど「共通した状況で事故は起きている」と指摘。要望した「2点を守るだけで死亡事故は減らせると確信している」と話しました。

 寺町東子弁護士は、国が定める保育士の配置基準を満たしている施設でも多くの死亡事故が起きているとして、基準の見直しを強調。保育所への抜き打ちの立ち入り調査の義務化も必要だと訴えました。

 保育事故をめぐっては今年3月、国は事故防止のガイドラインを発表。しかし「周知されていない」「人員不足で徹底できない」といった声が、保育現場などからあがっています。

◆◆待機児2年連続増=痛切な声に応え抜本対策急げ

201698日赤旗主張

 今年4月に認可保育所などを希望したのに入れなかった子どもの人数が2万3553人にのぼり、2年連続で増加したことが分かりました。少なくとも6万7354人が、認可園以外に預けるなどの「隠れ待機児」であることも公表されました。合計約9万人にのぼる深刻な事態です。今春、「保育園落ちた!」と怒りをつづったブログを契機に待機児問題が政治の場で大議論になったというのに、安倍晋三政権の掲げる対策に抜本的な打開方向は見えません。安心して子どもを預け働きたいという当たり前の願いを実現するため、政治の転換が重要になっています。

◆「保活」で駆け回っても

 厚生労働省が2日発表した今春の待機児童数の連続増加は、親が子どもの預け先を探し駆け回る「保活」に必死になっても、認可保育所や認定こども園に入るのは極めて困難な実態を示しています。

 厚労省は今回初めて自治体ごとの「隠れ待機児」数を公表しました。「隠れ」とは、子どもが認可保育所に入れなかったため、育児休暇を延長したり、自治体が独自基準で設けた保育施設に預けたりしたケースなどです。希望する保育所に入れなかった点では待機児と同じ状況なのに、厚労省は十数年にわたり、待機児集計から除外してきたため、待機児を実態より少なく見せていると国民から批判が上がっていたものです。

 今回の発表では、横浜市は待機児7人でしたが「隠れ待機児」は3110人と全国最多でした。川崎市も待機児6人でしたが、「隠れ」は2547人で全国2番目の多さでした。政府・自治体の保育条件の整備や待機児対策の内容やスピードなどが、切実な要求に見合っていないことは明らかです。今回集計された「隠れ待機児」のほかにも、保育所に子どもを預けたい人たちの潜在的なニーズが広範に存在することも指摘されています。政府は、これらの事実を正面から受け止め、抜本的な打開策を講じることが不可欠です。

 急がれるのは、保育士数や施設の基準を国が定め、保育料も相対的に低い認可保育所の大幅な増設です。日本共産党は、30万人分の認可保育所を緊急に増設することを提案しています。国や自治体が率先して公立保育所をつくることや国有地の無償提供など、知恵と力を尽くして認可保育所の増設を大原則にして待機児の解消にあたることがなにより必要です。

 安倍政権は、認可保育所の拡充には背を向け、有資格の保育士が少なくてもすむ企業主導型保育などの推進に力を入れています。保育基準を緩和し、子どもたちを施設に詰め込む方針も加速しています。保育の質を低下させ、子どもの健全な発達と成長を脅かすことは、親の願いに反します。子どもの命を危険にさらす「規制緩和」などは許されません。

◆公的責任を果たしてこそ

 保育への公的責任を後退させる「子ども子育て新制度」がスタートして2年続けて待機児が増加したことは、制度が抱える矛盾と欠陥を浮き彫りにしています。安倍政権が掲げた17年度中の「待機児ゼロ」の行き詰まりは明らかです。

 認可保育所の緊急増設、大幅な処遇改善を通じた保育士不足の解消に向け、国や自治体が保育にたいする公的責任を果たしていける政治にすることが急務です。

◆◆厚労省、「入園予約」で待機児解消言うが新たな矛盾拡大の恐れ、定員大幅増こそ抜本的解決策

201695日赤旗

 厚労省は2日、待機児童解消に向け、1歳からの保育所入所の「予約」を可能とする「入園予約制」を来年度から導入すると発表しました。待機児童が多い自治体では、年度途中での入所が難しいことから育児休業を切り上げる母親も多く、0歳児の待機児童増加に拍車がかかっている状況があります。

 このため厚労省は、満1歳の子どもの4月入所を予約できる仕組みを導入し、0歳児の入所を抑えることで保育士確保にもつなげる考えです。また、子どもが1歳になり、育休明けから4月入所までの間、一時預かりなどのサービスを利用する場合について利用料を補助するとしています。概算要求で予約制などに451億円を要求しています。

 厚労省は、「予約制」は「不本意な育休中断をなくすため」などと説明しますが、そもそも入所枠の数が絶対的に足りないなか、予約枠に入れる保障はありません。

 同省は、「予約をしたために定員を空けておくことはしない。認められている120%までの定員超過のなかで対応してもらう」としています。少ない予約枠に応募が集中することが予想され、予約枠のための新たな保活が迫られかねません。

 待機児童が深刻な地域では、「一時預かり」も利用できない可能性も高く、補助があっても利用できる保証もありません。

 また、育休が取得できる親と、そうでない親との間に不公平感が生まれることや、育休を取る場合にだけ利用料補助を行うのも支援に差別を持ち込むことになるとの指摘もあがっています。

 待機児童解消のためには認可保育所を抜本的に増設するなど定員の大幅増を真正面にすえない限り、「予約制」を導入しても深刻な矛盾を広げるものとなりかねません。

◆◆厚労省「隠れ児童」6万7000人超に=待機児童2年連続増

201693日赤旗

 厚生労働省は2日、認可保育所などに申し込んでも入れない「待機児童」が、4月1日時点で前年同期より386人多い2万3553人となったと発表しました。2年連続の増加です。

 一方、育休延長などで待機児童には数えられない「隠れ待機児童」が6万7354人にのぼり、前年比8293人も増えたと公表。実際に保育所に入れない児童は9万人を超え、安倍政権が掲げる2017年度末の「待機児童ゼロ」は破綻に直面しています。

 同省によると、16年度の申込者数は前年度比8万6684人増の255万9465人。15年度からの「子育て新制度」によって保育の受け入れ枠は、認定こども園や小規模保育などにも拡大され、9万4585人分増。一方、認可保育所の受け入れ枠の増加数は対前年比で1万3929人分減っています。

 待機児童は都市部に集中し、東京都8466人、沖縄県2536人、千葉県1460人の順。首都圏・近畿圏の7都府県と政令・中核市で全体の74・3%(1万7501人)。市区町村別では東京都世田谷区の1198人、岡山市729人、那覇市559人、千葉県市川市514人となっています。

 認可保育施設の総定員は約263万人、自治体独自の認可外施設などを含めると272万人となりましたが、ニーズに追いついていないのが実態です。

 現在、認可施設に入れなくても、地方単独事業を利用▽育休中▽特定保育所を希望▽求職活動を休止中の場合は待機児童から除外することができます。「隠れ待機児童」数のトップは横浜市の3110人です。(関連記事)

◆政権の待機児童策破たん=保護者ニーズに応えず

 厚労省が2日発表した保育所待機児童数(4月1日現在)によって、認可保育所を希望しながら入所できない子どもの数は9万人を超え、2年連続増加という深刻な事態となりました。安倍政権の「待機児童解消」プランの行き詰まりを示しています。

 国は「待機児童解消加速化プラン」で受け皿を増やしているとしきりに宣伝していますが、これまでの認可外施設を加えた水増しをしているのが実態で、安心して預けられる認可施設を求める保護者のニーズに応えたものとなっていません。実際、認可外施設を含めた受け皿は272万人となっていますが、都市部での深刻な不足があり、256万人にのぼる利用申込者の需要を満たすには程遠いのが現状です。

 認可保育所の保育拡大分は、認定こども園への移行もあり、前年比1万3929人分減となっています。

 待機児童の7割を占める1~2歳児の保育利用率が4割を超えるなど、急速に需要が高まるなか0~5歳児まで安心して通える認可保育所を中心に据えた抜本対策こそ必要です。

 しかし、安倍政権は、詰め込みと規制緩和路線を相変わらず続けています。国の最低基準を上乗せしている自治体に一人でも多く受け入れるよう要請。小規模保育施設の定員増、定員超過となっている保育所への補助金減額の猶予期間も引き延ばすなど、詰め込みを奨励しています。新たな認可外保育施設である「企業主導型保育」を導入し、約5万人分増やす構えです。

 待機児童解消のために急がれる保育士の処遇改善策も、補正予算では見送り、来年度予算に先送りしていますが、わずか月6000円の増額で、全産業平均より約10万円低い賃金の引き上げには程遠い中身です。

 数のごまかしから決別し、保護者の求める安心・安全の認可保育所の増設こそ進めるべきです。(鎌塚由美)

グラフ:保育所などの定員と待機児童数の推移

◆◆待機児童2.3万人、増加続く 「隠れ」6.7万人 対策追いつかず

201692日朝日新聞

認可保育施設の定員と申込者数、待機児童数の推移

 自治体が認可する保育施設に入れない子ども(待機児童)が4月1日時点で2万3553人いた。昨年の同時期より386人多く、2年連続の増加。今回初めて同時に発表された「隠れ待機児童」は6万7354人で、昨年同時期より8千人ほど増えている。厚生労働省が2日、公

表した。

 安倍政権は2017年度末までの「待機児童ゼロ」を掲げ、保育施設の整備を進めている。ただ、都市部で需要が集中し、対策が追いついていない。

 認可保育施設の定員は計263万4510人分で、昨年より10万2818人分増えた。一方、4月からの利用を申し込んだ人は255万9465人で、昨年より8万6684人多い。申し込みを上回る受け皿があるのに待機児童が増えた理由について、厚労省保育課は「申し込みが集中した都市部でニーズが施設整備を上回った」と説明する。

 待機児童の86・8%は0~2歳児が占める。施設が新設されても3~5歳児クラスは空きがある一方、3歳未満児のクラスはあふれているという背景もある。

 全国1741市区町村のうち386市区町村に待機児童がいる。最多は東京都世田谷区で、昨年から16人増えて1198人。岡山市が729人、那覇市が559人と続いた。東京都内だけで全体の3分の1以上の8466人に上った。

 「隠れ待機児童」は、(1)自治体が補助する認可外施設に入った(2)保育所に入れず育児休業を延長した(3)自治体が通えると判断した認可保育施設に入らなかった(4)求職活動をやめた――といったケースに当てはまる子どもで、待機児童の対象には含まれない。最多は横浜市の3110人だった。

 ただ、育休延長のケースなどを待機児童に含めるかどうかの判断は自治体に委ねられている。厚労省は年度内に待機児童の定義を見直し、全国統一の基準を設ける方針だ。(伊藤舞虹)

◆<解説>遠のく「待機児童ゼロ」

 安倍政権は2017年度末までの「待機児童ゼロ」目標に向けて保育施設の整備を加速させているが、待機児童数は減らない。「隠れ待機児童」も含めると9万人以上のニーズに応えられていない計算で、目標の達成は遠のいている。

 待機児童問題は都市部に集中し、とりわけ東京都が深刻だ。総務省の人口推計によると、全国の0~4歳の子どもは14年までの5年間で9万5千人減ったが、東京都では3万人増えた。都市部は地価の高騰もあって土地の確保が難しいうえ、保育士も不足。保育の受け皿づくりが思うように進まないジレンマがある。

 そこで政府は定員の枠を増やすため、保育士の配置基準を国の基準より手厚くしている自治体には国並みに緩めることを要請。さらに今年度から企業が主に従業員向けに設ける「企業主導型保育所」の整備も促している。自治体の認可外だが整備費や運営費の一部を補助し、17年度末までに5万人分の受け皿をめざす。

 一方、こうした受け皿の拡大には保育の質が低下する懸念もある。量を確保することは急務だが、どの施設でも保護者が安心して子どもを預けられるよう質の担保も求められる。(伊藤舞虹)

◆◆厳しい待機児童ゼロ 2年連続増加2.3万人

201693日朝日新聞

東京都荒川区の保育園。2歳の長女を預けている会社員の女性(40)は「以前より入園が厳しくなっている印象がある」

 認可保育施設に入れない待機児童の数が減らない。厚生労働省が2日に公表した4月1日時点の数は2万3553人で、2年連続の増加。「隠れ待機児童」も含めると9万人規模になる。2015年度中に認可保育施設の定員は10万人分以上増えたが、安倍政権が掲げる17年度末までの「待機児童ゼロ」の達成は厳しい。

◆施設整備、追いつかぬ東京

 待機児童は都市部に集中している。とりわけ全体の3分の1以上を占める東京都内は、保育施設をつくってもつくってもニーズに追いつかない状況だ。

 東京都荒川区は施設整備に力を入れており、就学前の子どもの2人に1人が認可保育施設や認証保育所を利用する。それでも待機児童数は昨年より116人増え、164人になった。

 荒川区は昨年秋、共働きの子育て世代をターゲットにした情報サイトで「子育てしやすい街」の1位に選ばれた。マンションの建設ラッシュも続き、区の窓口には「保育園に入れると聞いて引っ越してきた」という保護者が続々と訪問。就学前児童の人口は5年間で496人増加して1万684人になり、とくに最近1年では211人も増えた。

 全国的に人口は減り始めているが、東京都内への人口流入は続いている。総務省の人口推計によると、全国の0~4歳の子どもが2014年までの5年間で9万5千人減った一方、東京都は3万人増えている。

 待機児童数が全国最多の1198人になった東京都世田谷区。私有地に定員100人規模の保育施設を整備するには、必要な約1千平方メートルの土地の賃料に年間1500万円かかる。同区は20年間で必要となる3億円のうち2億円を独自に補助する制度もつくったが、予算には限界もあり、思うように整備が進まない。

 学校や公園などの公有地を活用し、10年度以降で35の保育施設を整備してきたが、「公有地はすでに使い果たした」と区の担当者。待機児童に含まれないものの、認可施設を利用できなかった「隠れ待機児童」も1191人にのぼった。

 厚労省は今回、「隠れ待機児童」も6万7354人いたと公表。認可施設に入れずに育児休業を延長したり、「保護者が特定の保育所を希望している」と自治体が判断したりしたケースも含まれるが、数え方は自治体ごとに異なる。そこで厚労省は、年度内に待機児童の定義を見直す方針だ。

 17年度末までの5年間で保育の受け皿を50万人分増やすという政府の計画は順調に進み、自治体が整備を加速したこともあって53万人分を見込む。塩崎恭久厚労相は2日の閣議後の記者会見で「待機児童ゼロ」の目標も堅持する意向を示した。ただ、「待機児童」の定義を見直せば数が大きく膨らむのは確実。目標とする1年半後の「ゼロ」は見通せない。(伊藤舞虹)

◆企業型を推進/保育の質に懸念

 企業から保育所運営の委託を受ける「キッズコーポレーション」(宇都宮市)には4月以降、企業からの相談が殺到している。政府が保育の受け皿の「切り札」として、今年度から企業が主に従業員向けにつくる「企業主導型保育所」の整備を促しているためだ。

 企業内に設置すれば用地探しは不要で、保育士の配置基準も認可保育所より緩い。自治体の認可は不要だが、認可並みに助成。政府は17年度末までに最大5万人分の整備目標を掲げる。

 キッズコーポレーションへの相談は130社を超え、すでに約20社分の設置を申請。都市部を中心に整備が進みそうで、担当者は「自由度が高く、人気になっている」と話す。

 用地探しには自治体も工夫を凝らす。東京都品川区は来年4月、大井競馬場の駐車場に認可保育所を新設する。区が土地の提供を呼びかけたところ、駐車場を所有する「東京都競馬」が貸し出しに応じたという。東京都目黒区では廃校になった中学校の跡地や小学校の校舎内、区役所の駐車場も建設予定地にしている。

 一方、受け皿づくりを急ぐあまり、「保育の質」がなおざりになることへの懸念も出ている。保護者らで作る「保育園を考える親の会」は、とりわけ企業主導型保育所で保育士の配置基準を緩めたことを問題視。「利益を求める事業者ほど人手を割かない傾向にあり、事故のリスクが高まる」とし、認可施設並みに指導するよう内閣府などに求めている。

 保育施設を増やしても待機児童が減らない現状について、保育制度に詳しいジャーナリストの猪熊弘子さんは「子どもの預け先があれば働きたい人がどれほどいるかを把握し切れていないことの表れだ」と指摘。そのうえで「待機児童」の定義に注文をつける。

 例えば、きょうだいが同じ保育所に通えないために仕事を辞めて育児に専念せざるを得なかった場合、その子どもは待機児童にも「隠れ待機児童」にも含まれない。猪熊さんは「保護者の希望を広く認め、整備計画を見直すべきだ。それを抜きに待機児童の解消はできない」と主張する。(長富由希子、畑山敦子)

◆学童保育、待機最多

 共働き家庭などの小学生が放課後を過ごす学童保育(放課後児童クラブ)の待機児童が、5月1日時点で少なくとも1万5839人にのぼり、調査を始めた2009年以降で最多となった。全国学童保育連絡協議会が2日、公表した。

 協議会が全国1741市区町村にアンケートし、回答率は100%。待機児童数を把握できていない自治体も227あり、実態はさらに多いとみられる。利用児童数は107万6571人。

◆◆東京都と政令市の「待機児童」数増大、自治体公表数 実態反映せず

(赤旗本紙調査) 

2016815日赤旗

 東京都や政令指定都市の「待機児童」数(4月時点)を本紙が調べたところ、東京都では増加した一方、政令市は微減にとどまったことが分かりました。待機児童が大都市で深刻な状態が続いていることを示しています。待機児童に数えられない隠れ待機児童を含めるとさらに膨れ上がるのは必至です。

 東京都が7月に公表した待機児童は8466人。前年同月より652人増えました。20の政令指定都市では240人減の1841人となっています。

 子ども子育て新制度(2015年~)で、従来は認可外施設だった小規模保育施設などが認可施設となるなど施設数は増えていますが、入所を希望する子ども数に追いついていないのが実態です。

 しかも、各自治体が公表する「待機児童」には、東京都の認証保育所など自治体独自の基準で運営される施設に入所する児童は含まれておらず、育休の延長や求職中を含めるかどうかも、自治体によって判断がばらばらです。

 東京都では、独自の認証保育所には1万215人(前年比338人増)が入所していますが、「待機児童」数からは除外されています。

 横浜市は、待機児童を「7」と公表していますが、独自の横浜保育室への入所や育休の延長、「主に自宅で求職中」などは除外。実際には、認可保育所に申し込みながら入所できていないのは3117人(前年比583人増)となります。

 認可保育所等への入所希望数から入所数を引いた数の政令指定都市の合計では、認可保育所等に入れない子どもの数は、少なくとも2万1155人にのぼり、公表の9倍になります。

 認可保育所等に入れない数を明らかにしている東京23区では、1万8084人が実際に認可保育所に入所できておらず、公表(4500人)の約4倍です。

 厚労省は、昨年4月の「隠れ待機児童」が、公表した待機児童数の3・6倍の8万3375人だと明らかにしていますが、今年はさらに増える可能性もあります。

◆安倍政権の対策は規制緩和=基準引き下げで詰め込み推進

 待機児童を解消するにはまず、正確な待機児童数を把握することが大原則です。ところが、今年度の待機児童数の集計(9月上旬公表予定)にあたり、国は待機児「定義」も変更せず、自治体からの報告も従来通りです。

 しかも、安倍政権の待機児童対策は、規制緩和と詰め込みで対応するもので、子どもの成長や安全を二の次にしています。

 3月の「緊急対策」では、国の最低基準に上乗せしている自治体に対し、引き下げを要請。定員超過となる場合の補助金減額の猶予期間も引き延ばし、詰め込みを推進してきました。

 「1億総活躍プラン」では、10万人分の受け皿拡大を盛り込みましたが、そのうち5万人分は、認可外施設である「企業主導型保育」です。保育基準は、定員が20人を超えても保育士は半分でよいなど大きく緩和されています。

 待機児童解消に不可欠の保育士の処遇改善は、来年度予算まで先送り。その中身もわずか2%(月約6000円)引き上げるだけです。ベテラン保育士には月4万円引き上げるとしていますが、全産業平均から約10万円も低い実態を改善するには遠く及びません。

 一方で、保育士不足を口実に4月から朝夕の保育士配置を2人から1人にするなど認可保育所の人員の配置基準の規制緩和を進めています。

 規制緩和をやめて、国と自治体の責任で認可保育所の抜本増設と待遇改善による保育士確保を進めるべきです。(鎌塚由美)

◆◆3人以上の子どもの世帯ほど保育料上がる問題=北海道放送ギャラクシー賞(赤旗16.07.25

◆◆低賃金、悩む保育士 資格者が敬遠、潜在80万人

(政策を問う 2016参院選:5)

201671日朝日新聞

手作りのお面で子どもたちと遊ぶ保育士の菊地奈津美さん(中央)=東京都内

 東京都内の認可保育所。保育士の女性(33)は1、2歳の子ども6人に給食を食べさせながら、しきりに時間を気にしていた。全員にアレルギーがあり、重いショック症状を引き起こす子もいる。顔色に変化はないか――。数分おきにチェックしなければならない。

 症状別の対処方法を頭にたたき込むため、厚生労働省や保健所の資料を読んだり、先輩の保育士や看護師にわからないことを聞いたりした。「一つ間違えば死んでしまう」。緊張と隣り合わせの日々だ。

 この当時の手取りは月15万円。その後、保育所を変え、保育士として3年目になった今は月17万円になった。ただ、勤続10年になる先輩でも月20万円。今年3月、園長から「政府からお金が入ったので給料を上げる」と言われたが、増えたのは月数十円だった。

 認可保育所の保育士の賃金は政府が決める公定価格に左右される。全国平均は額面で年370万円。勤続年数に応じて5~16%が加算されるが、勤続11年で頭打ちになる。能力を高めても賃金に反映されにくい。

 それでも、質を高めようと努力する保育士もいる。

 都内の認証保育所に勤める保育士歴9年目の菊地奈津美さん(30)は、子どもの心理や発達に関する専門知識を身につけるため、勤務外の時間をやりくりして月3、4回、研修に参加している。

 子どもにかける言葉には、子どもの発達に応じた工夫が必要だ。新人の頃は「片付けしないとおやつあげないよ」などと言って聞かせていた。だが、研修で出会ったベテラン保育士に「何かと引き換えにやらせても自発的な行動が身につかない」と指摘された。それからは子どもの自主性を伸ばすように接している。

 担当する1歳児のクラスで、着替えの時間になっても積み木遊びをやめない男児がいた。菊地さんが「次はお着替え駅にしゅっぱーつ! がたんごとん、がたんごとん……」と呼びかけると、男児はぱっと顔を輝かせ、積み木でつくった電車と一緒に着替えのスペースに向かっていった。

 保育士の仕事は「子どもと遊んでいるだけ」という誤解を受けることもある。菊地さんは「子どもたちは遊びを通じて育ち、人生の土台をつくる。それを支える保育士の専門性をきちんと評価してほしい。今のままでは、家計を担うには苦しい」と話している。

◆基準の緩和、意見対立

 2015年の賃金構造基本統計調査によると、保育士の平均賃金は額面で月21万9千円。全産業平均と比べ11万4千円低かった。児童福祉法施行令が改正されて1999年に名称が「保育士」に統一されるまでは「保母」と呼ばれ、家事労働の延長とみられてきたことも低賃金の背景にある。

 待遇の悪さから、資格をとっても保育士を敬遠するケースは多い。厚生労働省の調べでは、14年度末に短大など養成施設を卒業した4万2千人のうち、2万人は保育所以外に就職した。辞めて転職する人や資格を持ちながら保育所で働かない潜在保育士は約80万人とされる。

 安倍政権は賃金を12年以降で計7%分引き上げた。保育の受け皿は13、14年度の2年間で21万9千人分増やしたが、女性の就業率も高まりニーズに追いつかない。昨年4月の認可保育施設の申込者数は、政権交代前の12年4月と比べて22万6千人増加。厚労省は17年度末までに9万人の保育士が足りなくなると見込む。

 匿名ブログをきっかけに世論の不満は高まり、与野党はそろって参院選の公約に保育士の待遇改善を掲げる。対立軸は見えづらいが、保育士の配置基準では明確な差がある。

 安倍政権は3月に打ち出した緊急対策で、国の基準より手厚く保育士を配置している自治体に対し、基準を緩和するよう求めた。一人でも多くの子どもを入れる狙いだが、保育士1人の負担は増える。社民党は「安全面で問題がある」とし、民進、共産両党も基準緩和を批判している。

 (伊藤舞虹)

◆待機児童問題をめぐる各党の公約

 <自民> 保育士の人材確保対策・処遇改善を行い、保育の質を確保。2017年度までの保育の受け皿の整備目標を50万人分に上積み

 <民進> 保育士らの賃金を月5万円引き上げる。待機児童数の数え方を全国一律にし、実態を明らかにして保育所などの整備量を設定

 <公明> 賃金引き上げやキャリアアップ支援などの処遇改善、短時間勤務や育児休業取得など保育士が働きやすい環境整備を通じ、保育人材を確保

 <共産> 保育士らの賃金を月5万円引き上げ、さらに5年間で合計月10万円分の賃上げを図る。保育士配置の適正化などで労働条件を改善する

 <おおさか維新> 保育士賃金の官民格差の是正と、正規・非正規職員間の同一労働同一賃金。私立保育所と無認可保育施設の保育士の処遇を大幅改善

 <社民> 保育士らの賃金を月5万円引き上げ。やむを得ず自治体に保育士配置基準の緩和を求める場合は地域と期間を限定し、認可保育所増設とセットで実施

 <生活> 保育士育成を充実させ、公的支援と民間活用に厚みをつけ、待機児童ゼロを目指す

 <日本のこころ> 保育士への支援拡大

 <改革> 幼稚園・保育所の増設、費用の無償化の検討を通じ、保育士らの働く環境の整備や賃上げを実施。財源は雇用保険の積立金6兆円などを活用

◆◆「保育園落ちた」遠い政治 予算、高齢者向けに偏重

(参院選 アベノミクスを問う:3)

2016617日朝日新聞

待機児童の解消を求めて国会に集まった母親たち=3月9日、東京都千代田区

 「保育園落ちた! 選挙攻略法」。こんなイベントが5月下旬に東京都内で開かれた。集まったのは子ども連れの親たち約120人。フェイスブックなどのSNSを通じて呼びかけた同志社大院生の對馬果莉(つしまかり)さん(30)は「子育て世代が声をあげないと政治は動かない。選挙で思いを届けませんか」と訴えた。

 参院選を控え、保育所に入れない待機児童の解消を訴える親たちの怒りの矛先が政治家に向かう。

 「政治家に『子育て世代に応えないと落選する』という恐怖をどれだけ与えられるかが重要」「自分の選挙区の候補者にメールでもファクスでもいいから要望を届けて」……。こんな議論が交わされた。

 前回の2013年参院選では、有権者の4割を占めた60歳以上の投票率は62・4%で、3割いた20~30代の投票率は39・2%。当選した政治家が「有権者の声を聞く」と言い、高齢者向けの政策に重点を置く。こうした政治は、「シルバー民主主義」と呼ばれる。

 実際に政府の予算配分は高齢者向けが圧倒的に多い。国立社会保障・人口問題研究所によると、年金や介護などの政府支出は13年度で54兆6247億円で、保育所整備や児童手当、育児休業給付といった子育て向けは6兆568億円。日本は人口に占める高齢者の割合が大きいとはいえ9倍の開きがある。欧州各国と比べても偏重ぶりは際立つ。

 安倍晋三首相が昨年9月に発表した「アベノミクス第2ステージ」では、そこに焦点を当てた。「希望出生率1・8」を掲げ、「将来の夢や希望に大胆に投資していく」と胸を張った。

 昨年4月の保育の受け皿は約263万人分。それまでの2年間で約22万人分が増えた。安倍首相は「政権交代前の2倍のペースで拡大した」と誇ったが、昨年4月時点の待機児童は5年ぶりに増え、2万3167人だった。

 昨年末に編成した15年度補正予算では、小規模保育所の整備費補助や保育士の業務負担軽減策などに1245億円を計上。一方、低年金の高齢者らに3万円を配る臨時給付金には3624億円をかけた。保育事業を手がけるNPO法人フローレンスの駒崎弘樹代表理事(36)は、今月13日に都内で開かれたシンポジウムで憤りをあらわにした。

 「子どもにお金を使わない国で少子化対策なんか進まない。気合で、竹やりでB29を落とせと言っているのと同じですよ」

◆進む待機児童対策に懸念も 「数だけ確保、質置き去り」

 17年度末までの「待機児童ゼロ」を掲げる安倍政権は、保育の受け皿を増やす切り札として基準の緩和を進めている。4月には企業主導型保育事業を始め、自治体の認可がなくても企業が主に社員向けの保育所を設置できるようにした。

 婚活支援を手がけるパートナーエージェント(東京都)は来月、東京都三鷹市に保育所を開設する。昨年春から複数の自治体に相談していたが、保育所の経営実績や職員の経験年数といった独自の認可条件があり、整備できずにいた。企業主導型ではそうした条件が不要で、担当者は「社内の保育ニーズに合わせ、スピード感を持って整備できる」と喜ぶ。保育の質も重視しており、保育士の処遇改善や研修に力を注ぐ。

 ただ、企業主導型の仕組み自体は保育士の配置基準が緩和され、職員の半数以上の保育士がいれば補助対象となる。政府が3月に出した緊急対策では、保育士配置や部屋の面積基準について国の基準より手厚く設定している自治体に国基準まで緩めるよう求めた。

 基準緩和には懸念の声も出る。保育事故の遺族らでつくる「赤ちゃんの急死を考える会」は16日、企業主導型に反対する考えを内閣府などに表明。会員の藤井真希さん(36)は「数だけ確保しようという間違った方向に進んでいる。質の高い保育は置き去り、後回しにされている」と訴えた。

 保育の受け皿を増やすだけでなく、「子育ては母親任せ」という社会の風潮を変えることも重要だ。厚生労働省によると、14年度に民間企業の男性が育休を取得した割合は2・3%で、女性の86・6%と比べて大きな開きがある。

 東京都渋谷区の女性会社員(31)は4月から長男(1)を認可外保育所に預けられるようになり、復職した。だが、仕事を終えても分刻みで育児と家事をこなさなければならない。夫(47)の協力はわずかで、両親は遠方で頼れない。

 「この生活では2人目を考える気持ちにはならない。国が男性に育休取得を義務づけるなど、社会全体で子育てをする機運をつくるべきだ」

 (伊藤舞虹)

◆◆待機児童数、高止まり 80自治体に1.4万人 朝日新聞社調査

2016611日朝日新聞

全国の主要自治体での待機児童数の増減

 認可保育所などに入れない今年4月時点の待機児童=キーワード=数について、朝日新聞社が全国の主要自治体を調べたところ、回答した80自治体で計1万3991人いた。34自治体(42・5%)で前年より増加。政府が求めた保育士配置や面積基準の緩和を予定するとしたところはなく、この対策は空振りしそうだ。目標とする2017年度末までの「待機児童ゼロ」達成の厳しさが、改めて浮き彫りになった。2面=保育の質低下、自治体懸念

◆保育基準緩和「応じる」ゼロ

 調査は20政令指定都市と東京23区、これ以外に昨年4月1日時点で待機児童が100人以上いた39市町の計82市区町を対象に実施。10日までに80自治体(97・5%)から回答を得た。

 待機児童の合計は前年より654人(4・5%)減ったものの、依然として高水準だ。東京23区は526人(10・9%)増の5358人で、都市部での増加が目立つ。保育施設に入れずに親が育休を延長した場合などを自治体が待機児童として数えなかった「隠れ待機児童」は、朝日新聞の集計で計4万3105人いた。

 待機児童が最も多かったのは東京都世田谷区で、前年より16人増の1198人。東京都千代田や名古屋、京都など7市区がゼロ。「隠れ待機児童」の最多は3110人の横浜市(待機児童7人)で、次が2548人の川崎市(同6人)だった。

 政府は3月、1人の保育士がみる子どもの人数や子ども1人あたりの保育スペースについて、国の基準より手厚い独自基準を設ける自治体に国基準まで緩めるよう求めた。これに対し、回答した中で独自基準がある55自治体のうち、48自治体が「緩和予定はない」、6自治体が「検討中」、1自治体が未回答で、現時点で緩和に応じる自治体はゼロ。「保育の質」の低下を懸念する意見が多かった。

 政府は保育士不足解消策として、給与を2%(月平均約6千円)上げるとした。これには46自治体(57・5%)が「不十分」と回答した。

 (伊藤舞虹、足立朋子)

◆キーワード

 <待機児童> 厚生労働省によると、昨年4月1日時点で全国に2万3167人いて、5年ぶりに前年より増えた。厚労省の定義では(1)自治体が通えると判断した施設に入らなかった(2)自治体が補助する認可外施設に入った(3)求職活動を休止した――などの場合は含まれず、認可施設に入れず育児休業を延長した場合を含めるかどうかは自治体の判断に委ねられる。こうしてカウントされなかった「隠れ待機児童」は同日時点で約6万人いた。

◆◆保育の質低下、自治体懸念 規制緩和に慎重 待機児童問題

2016611日朝日新聞

待機児童が多かった自治体

 待機児童問題が東京23区など都市部を中心に依然として深刻な実態が、朝日新聞の主要82自治体への調査で浮かび上がった。「保育園落ちた」との匿名ブログをきっかけに政治問題化し、政府は3月に急きょまとめた対策で規制緩和策を打ち出したが、現場との意識のずれもあらわになった。

◆職員、減る余裕 保護者、事故に不安

 規制緩和が可能かどうか――。東京都中野区は4月、区内の私立認可保育所の28園に緊急アンケートをした。同区の保育士の配置基準は1歳児が5人に1人。政府の要請を受け入れれば国基準(6人に1人)まで緩めることになる。結果は回答した18園のうち16園が「出来ない」だった。

 その一つの認可保育所「とちの木保育園」は、1歳児4人に保育士1人とさらに手厚くする。保育士の女性(50)は以前、国基準に近い園で働いた。昼食は子どもの口にスプーンで食べ物を入れるだけで精いっぱい。「おいしいね」と声をかける余裕もなかった。「もっとしてあげたいのにとの気持ちが積み重なり、そこを辞めました」

 中野区の4月時点の待機児童は前年より85人増えて257人になったが、アンケート結果などを参考に当面は緩和しない方針だ。

 今回の調査では、国を上回る独自の基準を持つ55自治体で、緩和予定があるとしたところはなかった。「検討中」は6自治体あったが、このうち仙台市は保育園団体から緩和しないよう要望を受けており、「慎重に検討したい」(山田聡環境整備課長)とする。

 東京都世田谷区も検討中とした。0歳児1人当たり面積基準が5平方メートルで、国基準(はいはいする0歳児は3・3平方メートル)より広い。シミュレーションでは、国基準なら0歳児339人が新たに入れると出た。ただ、実施すれば来春に1歳児クラスに持ち上がり、子どもが1歳になってから職場復帰しようとした家庭の枠が減る。田中耕太保育課長は「実際の緩和は難しい」と話す。

 「保活」で苦労し、今も入所を待つ保護者にも緩和に否定的な声がある。

 8カ月の息子がいる東京都中央区の会社員女性(35)は今春、認可保育所など計約20園に落ちた。仕方なく育休を延長し、9月から月約12万円する認可外施設に預けて復職するが、緩和は望まないという。「国の基準を守った認可保育所でも死亡事故が起きている。いくら困っているといっても、緩和された園にわが子を入れたくない」

◆月6000円賃上げ、「不十分」大半

 待機児童解消には保育士の給料アップも重要だ。平均賃金は全産業より月11万円安い月22万円。資格があるのに低賃金を理由に働かない人も多く、保育士不足で子どもの受け入れを制限する施設が相次いでいる。

 政府は来年度から月平均約6千円引き上げ、技能や経験のある人は全産業の女性労働者との賃金差(約4万円)をなくすとする。だが、回答した80自治体でこれを「十分」と答えたのは3自治体。46自治体が「不十分」とし、必要な月額(6択)は22自治体が最高額の「5万円以上」とした。

 独自に給料を加算する自治体も出ている。保育士不足の影響で、昨年4月の待機児童数が全国ワースト2位の625人だった千葉県船橋市。私立の認可施設に勤める保育士に月約2万5千円上乗せしてきたが、今年4月から約3万2千円へ大幅に引き上げた。臨時職員の時給も310円増額。関係者の間で「船橋手当」と話題を呼び、今年4月の待機児童は203人と大幅に減った。

 ただ、周辺にしわ寄せがいった。近接する千葉市は今年、市立保育所で62人確保する予定で101人に合格を出したが、結局55人しか残らなかった。昨年ゼロだった待機児童は11人に。独自に加算する自治体に流れたとみており、担当者は「市単独での取り組みには限界がある」とこぼす。

 一方、人件費を上乗せしたとしても保育士に行き渡らないとの指摘もある。

 東京都足立区も独自に人件費などを上乗せするが、保育士や保育所職員の給与を調べた結果、一部の法人では役員らに多額の報酬が支払われ、保育士の給与は低いままだった。担当者は「増額するだけでなく、保育士の職位や仕事内容に応じた給付体系を設定するなど、現場に行き渡る制度が必要だ」と話す。

 (長富由希子、畑山敦子、藤田さつき)

◆<考論>予算、子どもへ配分増額必要 保育園を考える親の会・普光院亜紀代表

 待機児童を減らすには保育士の賃金を抜本的に改善し、質を保った認可保育所を増やす必要がある。ところが、日本は子どもへの予算配分が欧州各国より少ない。女性活躍や出生率上昇を目標にするならもっと配分すべきだ。今後の少子化を見込んで施設整備に消極的な自治体もあるが、将来高齢者施設に転用するなど工夫はできる。

 今回の緊急対策のように、日本には質を落として安上がりに待機児童を減らそうとの考え方も根強い。幼児期の教育・保育が保障されると、所得・学歴の向上、犯罪率の低下といった社会への利益還元が大きいことが様々な研究で明らかにされ、先進国は保育の質を高める努力をしている。こうした理解を深めることも重要だ。

◆<考論>0歳児育てられる働き方に 甲南大(社会保障論)・前田正子教授

 都市部では保育所に使える土地や建物が少なく、待機児童の解消には社会全体で働き方を見直すべきだ。その一つが育休取得の徹底だ。認可保育施設を使う0歳児は昨年4月時点で12万人を超え、国内の0歳児の12・5%に上る。待機児童の多い地域では1歳からの入所が難しく、保育所に入れるため意に反して育休を切り上げる保護者も多い。0歳児の保育に必要な保育士の数は1歳児の2倍で、コストもかかる。長期間休むと経済的に苦しくなる人には政府が手当を出し、0歳児を親が安心して育てられる環境が必要だ。

 長時間労働も見直すべきだ。入所選考を有利にするために時短勤務を取らない保護者もいるが、預かる保育士も疲弊させてしまう。

◆◆保育事故と保育の規制緩和

(赤旗16.06.06-08

◆◆(声)保育園の非正規職員にも配慮を

201669日朝日新聞

 保育補助員 柳川文子(東京都 39)

 政府は、慢性的な人材不足とされる保育士について、賃金を引き上げるなど改善を図るといっています。しかし、改めなければいけないのは、賃金の問題だけでしょうか。

 実際のところ、多くの公立保育園でその運営を支えているのは、正規保育士だけではなく、有資格者の非正規保育士、無資格者も含む保育補助員の存在です。最近では、東京都内の公立保育園の非正規職員比率が4割強を占めている、という調査もあったようです。

 非正規職員といえど、けがなく遊べるよう見守るほか、おむつの交換、トイレの介助、汚物処理、食事介助・片付けから、事務作業など、多岐にわたります。非正規職員の中には家計補助ではなく、自身の生計を立てている方もいます。

 しかし、実際には正規職員との間に賃金を始めとした待遇格差があります。正規保育士の賃金引き上げに伴い、非正規職員の賃金も引き上げられるのでしょうか。多くの非正規職員はかわいい子どもたちのために、待遇格差にも我慢を重ね、日々の保育を支えています。こうした現状もあることを広く知っていただきたいと思います。

◆◆安倍政権「1億総活躍社会」=国基準大幅底上げを、賃上げ低すぎる

(赤旗16.06.04

◆◆「保活」負担、少子化の一因? 「なければもう1人」4割 民間調査

201661日朝日新聞

 子育て世代の男女の4割は保育施設を探す「保活」がなければ、もう1人子どもがほしいと感じていることが、出産に関する民間団体の意識調査でわかった。都市部を中心に保育施設不足は深刻で待機児童問題が起きており、負担の大きい保育施設探しが少子化の一因になっているようだ。

 調査は一般財団法人「1more Baby応援団」(理事長=森雅子元少子化相)が4月、結婚14年以下の20~39歳の女性と20~49歳の男性を対象に実施。全都道府県の計2958人がインターネットを通じて答えた。

 「保活がなければもう1人子どもを持ちたい」と答えた人は41・7%。子どもが1人の人が58・7%と際だって多く、子どもがいない人は43・1%、2人以上が26・3%だった。同応援団は「『保活』が出産への大きな壁になっている」とみている。(伊藤舞虹)

◆◆保育所の自治体基準、規制を緩めるの?

201657日朝日新聞

認可保育所の国の最低基準/日本は狭い?認可保育所の面積基準

◆待機児童の受け皿を増やすため。質低下への批判もある

 コブク郎 この春も保育所に入れなかった子どもが多いみたいだね。

 A 待機児童問題だよ。問題の解消に向け、政府は保育施設の受け入れ枠を増やすことを柱とする緊急対策をまとめた。自治体によっては保育士が受け持つ子どもを国の最低基準より少なくしている。手厚い保育のためだけど、政府は国の基準に沿って規制を緩(ゆる)め、もっと多くの子どもを入れるよう自治体に求めた。

 コ 国の最低基準って?

 A 厚生労働省が省令で示した子ども1人に必要な保育士の数や面積のこと。1948年から設けられ、当初は米国のワシントン州の基準を参考に、質を高くする案もあった。だが、敗戦後の厳しい社会情勢を踏まえ、大幅に緩い基準になった。今は2歳児なら6人で保育士1人、面積は子ども1人当たり1・98平方メートルと定められている。

 コ それって厳しいの?

 A 厚労省の依頼を受け、全国社会福祉協議会が2009年にまとめた報告書によると、面積の基準は先進国の中でかなり狭かった。同協議会は日本の保育状況も調査したうえで、もっと広い面積が必要だと提案した。

 コ それなのに政府は規制を緩くするんだ。

 A 規制の緩和は過去にもあった。待機児童が多い一部の自治体には、国の基準より狭い面積での保育も認めるなどしてきた。今回の緊急対策は保育施設に入れない子どもを早く入れることを目指すものだ。でも、親からは「子どもの安全と発達が脅かされる」という批判も起きている。

 コ でも、子どもが入れないのは困るよね。どうすればいいの?

 A 施設を増やして保育の質も保つには多くの保育士が必要だ。安倍晋三首相はその賃金を来年度から月平均6千円ほど上げると発表した。なり手が増えるといいけど、財源の手当てはこれからだ。(長富由希子)

◆◆保育事故死、再発防ぐ 政府、指針作りや検証態勢整備 保育士の配置・忙しさも課題

朝日新聞16.05.05

 保育施設での重大な事故が後を絶たないなか、政府が対策に乗り出した。事故防止のガイドライン(指針)を初めてまとめ、事故を検証する態勢も整えた。ただ、政府は待機児童の解消策として、施設で受け入れる子どもの数を増やす方針を決定。保育士の負担増につながる方針に、現場からは不安の声も出ている。

 昨年中に保育施設で子どもが亡くなったと報告されたのは14人。全治30日以上の重大なけがも含めると、総数は399件に上った。死亡事故のうち10人は睡眠中で、このうち6人がうつぶせ状態だった。

 こうした事故を防ぐため、政府は事故の教訓を生かした対策を進める。

 3月末に自治体に通知した事故防止の指針では、事故が起こりやすい場面ごとに注意点をまとめた。睡眠中は医学的に必要な場合を除き、仰向けで寝かせると強調。安全確保のため、子どもの年齢別チェックリストの活用も促した。

 重大な事故が起きた場合には、自治体に検証を義務づけた。その検証結果を分析する有識者会議を4月に設置。大学教授や保育事業者、保育事故の遺族ら14人がメンバーで、同じような背景の事故を繰り返さないよう提言をしてもらう。

 政府は一方で、保育の現場への負担増も求めている。3月にまとめた待機児童解消の緊急対策に基づき、保育士の配置や子ども1人当たりの面積を国の基準より独自に手厚くしている自治体に対し、国の基準の範囲で規制を緩めることを要請。一人でも多く子どもを受け入れる狙いだが、保育士1人が受け持つ子どもが増えることになる。

 4月25日にあった有識者会議の初会合では「事故を減らす取り組みをしているのに、基準を低くすれば事故のリスクは高まる」との懸念が示された。東京都内の認可保育所の保育士(49)は「国の最低基準は本当に最低の基準。子どもが1人増えるだけでも現場には大変で、目配りしにくくなる」と危機感を強める。

 東京都渋谷区の認可保育所でアルバイトの経験がある保育士(37)は、現場の忙しさの問題を指摘する。保育方針や安全管理については、子どもたちが昼寝する時間に正規の職員が話し合っていた。その間はアルバイトが子どもの様子を見ていたが、会議後も正規の職員たちは事務作業などで忙しく、「(保育方針や安全管理などの)内容を共有する機会はなかった」という。

◆同じ思いをする人、もう二度と 3カ月の長男失った女性

 埼玉県川口市の女性(29)は昨年9月、保育事故で生後3カ月の長男、陽向(ひなた)ちゃんを亡くした。

 その日は就職に向けた面接があり、2時間ほど預かってもらおうと近くの認可外保育所を初めて利用した。わずか1時間後、陽向ちゃんの呼吸が止まった。

 市の検証によると、陽向ちゃんはベッドで泣き続け、時折自分で寝返りを打ってうつぶせになるので、保育士が何度か仰向けに寝かせ直した。だが、食器の片付けやほかの子どもの世話で目を離し、気づいたときには顔を真下に向け、息をしていなかったという。

 この事故を受け、市は職員の配置などを改善するよう文書で指導した。しかし、事故の2カ月後に実施した抜き打ち調査では必要な職員の数を満たさず、睡眠中の子どもの呼吸チェックの記録もないことが判明。再び文書で指導した。

 保育所に預ける直前まで笑顔を返してくれていた陽向ちゃんを思い出し、女性は今も自分を責めている。

 「どうしてこんな施設に預けてしまったのか。二度と同じような思いをする人がないよう、保育士が余裕を持って子どもをみられるようにするなど、事故を防ぐ手立てを考えてほしい」

 (伊藤舞虹)

◆◆「保育士足りぬ時間帯ある」指摘132件 認可園、都・11市が監査 12~14年度

201652日朝日新聞

 認可保育所が自治体の定期監査で、保育士の数が基準を満たしていない時間帯があると指摘される事例が、東京都と全国11の100万都市で2012~14年度に計132件あったことがわかった。安全面などで国の基準に基づいた認可保育所でも、深刻な保育士不足や保育の長時間化で、シフトのやりくりが難しくなっている。

 認可保育所は運営基準を満たしているかどうか、児童福祉法に基づき、自治体の監査を定期的に受けている。朝日新聞がそれぞれの自治体に監査結果を尋ねた。

 指摘があったのは、東京都と仙台、さいたま、横浜、川崎、名古屋、京都、大阪、福岡の8市。札幌、神戸、広島の3市はなかった。毎年、全施設を訪問して監査する自治体もあれば、数年に1度の自治体もあり、自治体間の単純比較はできないが、東京(47件)、川崎(29件)、福岡(24件)、横浜(11件)が多かった。

 東京都は12年度の11件、13年度の10件が、14年度は26件に増えた。朝や夕方に不足する事例が多かったという。都の担当者は「保育所が増え、保育士の確保が難しくなっているからではないか」と話す。

 福岡市では、13年度から口頭で指導していたケースも文書で指摘するように監査方法を変え、指摘が12年度の1件から13年度は9件、14年度は14件になった。担当者は「保育時間が長くなり、シフトのやりくりが難しいケースがあるようだ」と話す。

 保育施設の監査や評価の問題に詳しい池本美香・日本総研主任研究員は「親の側には、認可保育所なら質がチェックされているから安心だという信頼感があるが、事前に実施を通告する監査で、これだけの数の指摘があることは驚き。保育士不足の影響が広がっている」とみる。(仲村和代)

◆◆増える認可保育所、追いつかぬ質 「自治体のチェック甘くなっている」

201652日朝日新聞

 待機児童問題を解消するために次々と保育施設が開設されるなかで、安全面などで国の基準に基づいた認可保育所=キーワード=で問題が起きている。

 「毎日、無事に帰ってくるかどうか気が気でなかった。子どもも不安定になり、自分も精神的に追い詰められた」。東京23区にある認可保育所に子どもを通わせていた保護者は、昨年春のことを振り返る。

 この保育所は2015年春、都が独自に認定する認証保育所から、より基準が厳しい認可保育所になった。ところが、直後から保育士が次々に辞め、保護者からは「掃除が行き届かず、ぜんそくが悪化した」などの意見が寄せられるようになったという。

 地元の区はこの年の4月以降、職員を連日派遣して指導。転園を希望する人は優遇する異例の措置をとった。担当者は「こんなこと初めて。事故だけは起こしてはいけないと、ギリギリの対応をしてきた」。5月から今年4月入園の1次募集までは、新規募集も停止した。

 原因は、認可保育所になることが決まった後の14年末、運営会社の株式が譲渡され、経営者が変わったことだった。突然、園の名前から保育内容まで変わるなどしたため、保育士に動揺が広がったという。

 自治体が認可保育所を増やすことに追われ、質のチェックが甘くなっているという指摘もある。

 ある自治体の担当者は「保育士の配置や面積などの基準をクリアしてさえいれば、認可せざるをえず、一度認可すると、取り消しは難しい。基準を厳しくしてしまうと参入のハードルがあがり、量を増やせなくなる」。認可に関わったことがある専門家も「不安を感じつつ審査を通していることもある」と明かした。

 京都市の認可保育所では14年6月、保育士資格のない職員が5歳児3人を園庭に投げだし、うち1人が頭の骨を折るけがをした。市の特別監査報告書によると、この園では労務管理などが不適切で、保育士の離職率が高かったという。

 問題は東京都や100万都市に限らない。

 茨城県取手市の認可保育所では、保育士が0歳児に無理やりご飯を食べさせるなど不適切な行為をしていたことが昨年1月、発覚。この園は12年に民営化されたばかりだった。(仲村和代)

◆キーワード

 <認可保育所> 施設の広さや保育士の数など国が決めた基準に基づいて都道府県や政令指定市などが審査し、認可した保育所。独自に保育士の数などを基準に上乗せしている自治体もある。運営に問題があると判断したときは、事業の停止や認可取り消しをできる。

◆◆保育士6000円・介護士1万円月給引き上げのまやかし

(日刊ゲンダイ16.04.29

◆◆保育士6000円・介護1万円増 来年度月給引き上げ、首相表明

2016427日朝日新聞

女性保育士の年齢別平均賃金と労働者数

 安倍晋三首相は26日の1億総活躍社会に関する国民会議で、保育士と介護職員の賃金を来年度から引き上げる方針を表明した。平均月額で保育士は約6千円、介護職員は約1万円の上げ幅を想定。経験のある保育士にはさらに上乗せし、最大で数万円程度の賃上げとする考えだ。

◆財源2000億円規模、課題

 首相は会議で「保育士として技能、経験を積んだ職員について、競合他産業との賃金差がなくなるよう処遇改善を行う」と強調。5月にまとめる「ニッポン1億総活躍プラン」に盛り込む考えを明らかにした。

 安倍政権は「待機児童ゼロ」や「介護離職ゼロ」を目標に掲げ、保育や介護の受け皿を増やす方針を決定。しかし、保育士は2017年度末までに約9万人、介護職員は20年代初頭に約25万人不足すると見込まれ、人材の確保が急務だ。

 政府の昨年の調査では、賞与を含む女性保育士の平均賃金は月26万8千円で、全産業の女性労働者の平均より4万円以上低い。来年度は保育士の賃金が月約6千円分上がるように500億円弱を充当。さらに同程度の財源を確保して経験のある保育士に重点配分し、他産業並みに引き上げる。

 こうした方針に対し、全国私立保育園連盟の近藤遒(つよし)会長は「賃金を他業種並みにしてもらえたら保育士の励みになる」と評価。ただ、保護者対応や事故防止の取り組みなど負担が増していることも指摘し、「保育士を手厚く配置できるよう国の基準を見直さなければ、本当の待遇改善にはつながらない」と訴える。

 厚生労働省が13年に実施した意識調査(複数回答)では、資格があるのに保育士として働くことを望まない人の47・5%が「賃金が希望と合わない」と回答。「責任の重さ・事故への不安」「休暇が少ない・取りにくい」も4割を占めた。

 介護職員向けには約1千億円を確保。保育士分と合わせて総額2千億円規模の財源は、いずれも勤め先の施設を通じて賃上げに回す。この財源を来年度予算でどう捻出するのかは、今後の検討課題となる。

 東京都内で訪問介護事業を営む男性は「今働いている人は助かるが、1万円で新しい人が業界に来るほど甘くない」と冷ややかだ。職員を募集しても応募はゼロ続きで、求人広告をやめたという。介護施設団体の関係者は「重い責任や夜勤といった厳しい労働環境の改善がなければ新しい人は入って来ない」と語った。

 (池尻和生、伊藤舞虹、蔭西晴子)

◆◆文科省 幼稚園にも待機児詰め込み、緊急対策で自治体に通知

2016425日赤旗

 文部科学省は22日、政府の待機児童緊急対策を受け、幼稚園でも規制緩和による詰め込みを求める通知を出しました。今回の通知は、待機児童が50人以上いる227自治体が対象です。

 保育資格者が半分でも可能な小規模保育(0~2歳児)について、保育所と同じく最大19人の受け入れ枠を22人に緩和。0歳児や土曜日の受け入れも義務付けを外します。

 長時間の預かり保育(11時間)で、0~2歳児を受け入れる場合は、認定こども園に移行する要件を「5年以内」から「一定期間内」に緩和。保育者の半数は、わずかな研修でなれる「子育て支援員」でよいとしました。

 0~2歳児の受け入れを行う場合は、保育室の面積は幼稚園の面積から除外しないとし、面積基準を引き下げます。待機児の受け入れで幼稚園にしわ寄せを強いることになります。

 3歳児の受け入れでは、長時間預かりを推進するため補助金を増額。園児1人につき一律100円の加算金を、2時間以上で200円上乗せするなどとしています。

 受け入れ数が定員超過の場合の補助金減額措置について、都道府県などに「柔軟な取り扱い」を要請するなど、保育所と同様に、子どもの詰め込みを推進しています。

◆◆保育事故死、昨年14人 報告義務化 けが含む件数、倍増

2016419日朝日新聞

保育施設で亡くなった子どもの数

 2015年に報告があった保育施設での事故で、乳幼児14人が亡くなっていたことがわかった。前年より3人少ないが、依然として多くの幼い命が失われている。重大なけがを含め、報告された事故の総数は399件に上った。内閣府が18日に公表した。

 亡くなった14人のうち10人は認可外の施設で、このうち1人は自治体が独自に補助する施設だった。認可施設は4人で、定員20人以上の認可保育所が2人、定員6~19人の小規模保育所が1人、幼保連携型認定こども園も1人だった。

 年齢別では0歳児が7人で半数を占め、1歳児5人、2歳児と3歳児が1人ずつ。睡眠中の事故が10人で、このうち6人がうつぶせの状態で、いずれも認可外保育施設だった。ほかに1人が食事中で、残る3人はその他の状況だった。

 昨年4月に始まった子育て支援の新しい制度で、小規模保育所や定員5人以下の家庭的保育なども認可対象となった。認定こども園や幼稚園も含め、全治30日以上のけがをした事故は新たに報告が義務づけられた。こうした影響もあり、15年の事故の総数は前年の177件から倍増した。けがの385件のうち、骨折が302件を占めた。意識不明も6件あった。

 また、小学生が利用する学童保育も新たに報告が義務化。228件で、死亡事故はなかった。

 政府は3月にまとめた待機児童解消の緊急対策で、保育士の配置を独自に手厚くしている自治体に基準を緩めるよう要請。保護者らからは、保育の質の低下によって事故が増える懸念が出ている。(伊藤舞虹)

◆◆保育所の面積・人員基準131自治体で引き下げの危険性

(赤旗16.04.18

◆◆詰め込み5年間も、新規保育所事業者まかせ

(赤旗16.04.15

◆◆公務職場の非正規保育士53%、正規雇用に 「政治の喫緊課題」田村智子氏

2016415()赤旗

 日本共産党の田村智子議員は13日の参院決算委員会で、保育士など公務職場で増加している非正規雇用の問題を追及、保育士不足の解決に向けた処遇改善が「政治の喫緊の課題だ」として正規雇用の拡充や定数削減中止を求めました。

 田村氏は、市区町村の保育士について、非正規職員が2012年に全体の53%に増えた実態を指摘。13年間も正規職員を採用せず15年度末時点で34歳以下の保育士がゼロとなった東京都江戸川区や、同様のやり方で公立保育所の全廃を狙う中野区の例を示し、「人材育成が大きくゆがむ」と批判。大阪市では非正規のみの募集で保育士が確保できず、15年度までの3年間で公立保育所の定員を394人も減らしたと述べ、「正規職員を採用しないやり方が、もっとも切実な住民要求に応える業務を後退させている」と追及しました。

 高市早苗総務相は「(雇用形態や処遇は)自治体が責任を持って適切に判断すべきだ」と無責任な答弁に終始しました。田村氏は「これでは保育士の処遇改善にも逆行する」と批判しました。

 田村氏は非正規職員の不安定な働き方の実態を示し、公務労働者の経験などに見合った正規雇用化や、短時間勤務者の任期なし雇用の制度化を要求。消極的な答弁の総務相に対し「正規化を進めるという安倍政権の宣伝はまったくの看板倒れだ」と批判しました。

◆◆保育環境の改善急げ相次ぐ死亡事故 山下副委員長が政府に要求、厚労省、内閣府担当者から聴取

2016414()赤旗

(写真)説明をうける山下芳生副委員長(左から3人目)と島津幸広衆院議員(同4人目)ら=13日、参院議員会館

 東京都と大阪市の認可外保育所で相次いで乳児の死亡事故が起きたことを受け、日本共産党の山下芳生副委員長と島津幸広衆院議員は13日、厚生労働省と内閣府の担当者から報告を受け、「待機児童対策で規制緩和をやめて、抜本的に人員配置基準を引き上げるなど保育環境の改善に踏み込むべきだ」と求めました。

 死亡事故は、3月(東京都)と4月(大阪市)に発生。両施設とも認可外施設で、午睡中の事故で、うつぶせ寝で寝かされていました。厚労省によれば、大阪市の施設では、事故発生時、乳児11人に保育従事者が2人で認可外施設基準は満たしていたものの、市の立ち入り調査で、保育者が1人しかいない▽有資格者が不在―と基準を満たしていない時間帯があったことが判明。東京都の事故は、企業が共同で設置した事業所内保育所でした。

 山下氏は、「保育現場ではうつぶせ寝が危険だと認識されているのに、なぜ重大な死亡事故が繰り返されるのか。所管官庁としてメスを入れるべきだ」と追及。厚労省は、うつぶせ寝については3月末に「事故防止のガイドライン」を出したと説明しました。

 山下氏は「ガイドラインの周知徹底といっているだけではダメだ」と批判。「保育施設の基準を引き上げ、保育体制を整えるのが政府の仕事だ」と指摘。基準を緩和する緊急対策を見直すよう求めました。新たに導入する企業主導型保育についても、今回の事故を教訓に、基準を引き下げる方針を改めるべきだと強調しました。報告の聴取には、池内さおり衆院議員秘書、田村智子参院議員秘書も同席しました。

◆◆政府待機児対策を採点=詰め込み 保護者ら批判、保育士の待遇改善要望

201648日赤旗

 安倍内閣が発表した待機児童緊急対策について保護者らが採点を行い、6日発表しました。政府が進める規制緩和と詰め込みは「子どもの安全と発達を脅かし、保育士の負担増になる」と批判し、恒久的な財源確保を求めています。

 採点をおこなったのは「保育園を考える親の会」(約400人、東京都豊島区)の有志31人です。

 採点は18項目で、保育所への入所者を増やす「量への影響」と、子どもの保育環境としての「質への影響」から採点。マイナス2からプラス2までの5段階評価です。(表参照)

 国を上回る人員や面積基準を導入している自治体に、基準を下げて受け入れを増やすよう求める政府対策は、もっとも厳しい評価に。量への影響は点数が付けられない「不可」、質への影響は「マイナス2」で、「逆効果」とのべています。

 「緊急的な一時預かり事業等の活用」については、質への影響は「マイナス2」に。都市部ではすでに満員の施設もあり、効果を疑問視しています。

 一方、政府案に入れてほしい施策として、「インパクトのある保育士の待遇改善」「民有地活用」が最高得点に。政府対策に、保育所増に欠かせない保育士の待遇改善について、賃金引上げなどをまったく盛りこんでいないことを批判しています。

 同会の普光院亜紀代表は「親たちの思いは、保育園を増やすのはもちろんですが、同時に安心した保育所でなければ子どもは預けらません。量とともに質を確保するための恒久財源は不可欠です」と話しています。

 採点表は同会のサイトから閲覧できます。

◆保育園を考える親の会

http://www.eqg.org/oyanokai/

◆採点表

http://www.eqg.org/oyanokai/opinion_160406kinkyu_comment.html

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🔵保育所・待機児問題への日本共産党の緊急提言の発表

201646()赤旗

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 日本共産党の小池晃副委員長・政策委員長が5日の記者会見で行った、保育所の待機児童問題に対する緊急提言に関する発表は次の通りです。

◆根本解決に背を向ける安倍政権の緊急対策

 保育問題が、国政の重大課題になっています。希望しても認可保育所に入れない子どもが続出しながら、安倍首相が冷たい姿勢をとったことに対して、「保育園に落ちたの私だ」という運動が日本中に広がりました。

 問題の所在がどこにあるかというと、ひとつは、「認可保育所が決定的に足りない」ということ、もうひとつは「保育士の労働条件が劣悪なため、保育士が不足している」ということです。

 ところが安倍政権の対策はこの根本解決に背を向けて、いっそうの規制緩和と詰め込み、保育内容の切り下げを行おうというもので、公的責任を放棄するものです。

 日本共産党はこれまでも認可保育所の増設をはじめ、国と自治体が保育への公的責任を果たすことを強く求めてきましたが、改めて今日の事態を解決するために緊急の提言を行うものです。その基本的な立場は、「認可保育所の増設」と「保育士の賃上げなど労働条件改善」という問題の根本的な対策を緊急に行うという提起です。

◆30万人分(3000カ所)の認可保育所を緊急に増設する=待機児童問題は、認可保育所の増設で解決することを原則として確立する

 1点目は、認可保育所を緊急に増設することを大原則にして、30万人分、約3000カ所の認可保育所を緊急に増設することです。

 当面の緊急対策も、認可保育所が建設されるまでの一時的な措置であり、保育士の配置など「保育の質」を確保するということを明確にしなければなりません。

 安倍政権の緊急対策は、「質の低下は仕方がない」というものです。しかし、子どもの発達・成長の権利を保障すること、保護者が安心して預けられるというのはギリギリの要求であり、当然の願いです。この願いに向き合うことなしに問題は解決しません。

 日本共産党は、緊急の目標として、30万人分、約3000カ所の認可保育所を数年程度を目途に建設することを求めます。1970年代には10年間で8000カ所の認可保育所をつくった経験もあり、その気になればやれる課題です。

 実際の保育ニーズを国や自治体が把握していないので、「これで十分」というわけではありません。あくまで緊急の課題として、少なくとも数年のうちに整備しようという提案です。

🔻国や自治体が先頭にたって公立保育所をつくる

 保育所が減っている大きな原因は、国が保育の負担金を「一般財源化」の名でなくしてしまったことにあります。公立保育所が10年間で約2500カ所も減少しています。これだけ問題が深刻になっているときに、国や自治体が先頭に立たなくてどうするのか。自治体が公立保育所建設を進められるように、国の責任を果たすことを求めます。

🔻土地確保のための国庫助成制度をつくる

 都市部では土地の確保が大きな課題となっています。国有地の無償提供、土地確保のための国庫助成制度の緊急創設を求めます。

🔻公立保育所に対する新たな国の財政支援制度をつくる

 公立保育所に対する国の新たな財政支援制度を創設し、保育所の建設や分園の設置・改修への補助、運営費の国庫負担分の復活などを行います。民間の認可保育所の建設等に対しても、助成の拡大、利子補給などの支援措置を行います。

🔻地域の保育ニーズを正確につかんで対策を進める

 地域の保育ニーズと待機児の実態を、国や自治体が正確につかんで、責任をもって対策を進めることを求めていきます。

◆賃上げと保育士配置基準の引き上げ=二つの方向で待遇改善のために国の基準を引き上げる

 もう一つの柱が、保育士の賃上げと配置基準の引き上げです。

 保育士の低賃金は、国の基準が低すぎることによってもたらされています。認可保育所の運営費、いわゆる「公定価格」を算出する際の人件費が低すぎることが、全産業平均より月約10万円も賃金が低い事態をつくりだし、保育士不足の最大の原因となっています。国の基準を直ちに見直すべきです。

 保育士の配置基準が実情に見合わないために、賃金を国の基準よりさらに下げて保育士やパートを配置しているために、いっそうの低賃金をつくりだしています。これを放置してきた国の責任は重大です。

🔻保育士の賃金を引き上げる

 保育士の賃金引き上げについては、野党共同で、緊急に5万円引き上げる法案を提出していますが、この成立をはかっていきます。その後も、全産業平均との格差をなくすために毎年1万円ずつ引き上げて、5年で10万円の引き上げを実現していきます。

🔻保育士の配置数の適正化など国の運営費を引き上げ、労働条件を改善する

 いまの算定基準では保育士の完全週休2日制が確保されておらず、最初から時間外労働をする建前でつくられています。有給休暇もきちんと確保されていません。少なくとも運営費を2~3割増やす必要があると考えます。

🔻保育士の専門性にふさわしい処遇にする

 国の基準では、経験年数による賃金の上昇は11年たったら「頭打ち」という仕組みになっています。経験が大事な仕事であるにもかかわらず、早期退職を前提とする賃金の設定になっています。これを直ちに是正します。

 さらに保育士の研修や仕事の準備、事務の時間確保ができる運営費に改善していくことが必要です。

🔻非正規の使い捨てをやめ、正規化をすすめる

 公立保育所でも非正規職員が増えて、担任まで非正規が担うという例まであります。東京都では45%が非正規職員という調査もあります。保育士の労働条件の改善、保育の質の確保のためにも、非正規職員の正規化をすすめるとともに、均等待遇をはかっていくことが大事です。

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🔵朝日論座=保育所の非正規保育士問題

正規化・雇用劣化が同時進行する保育現場=地方自治体は保育所の運営から撤退し続けてきた

上林陽治

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◆ベテランの臨時保育士

 彼女は、兵庫県のある市の公営保育所に勤務するベテランの臨時保育士である。1999年に採用され、期間6カ月の任期を繰り返し、今年で17年目になる。1日の勤務時間は7時間30分で正規公務員の保育士より15分短い。年収は300万円ほど。

 小さい頃から保育士になることを夢見ていた(注1)彼女は、短大卒業で資格を取得し、宗教法人が経営する私立保育園に正規の保育士として入職した。だが、そこの労働現場はあまりにも過酷だった。残業代もなく、運動会などの行事で勤務しても、けっして取ることのできない代休が与えられるだけ。園のオーナーである理事長は当宗教法人の住職で、その奥さんが園長だった。法事の時は、小坊主よろしく使われた。

注1 2016年春に小学校を卒業した子どもたちに将来就きたい職業を聞いたアンケート調査では、女の子の1位は保育士だった。東京新聞2016630日付朝刊。

 20歳から3年いたその園を「ギブアップ」し、再び、保育士として復帰する心の体力が回復するまでに5年を要した。年齢は28歳、公務員の保育士採用試験の年齢制限のため、受験することさえ許されなかった。

 彼女が初めて保育士になった時から四半世紀が過ぎた2016年の春、「保育園落ちた、日本死ね」というブログの内容に共感が広がった。待機児童問題が深刻さを極めているからだ。認可保育所が足りないのである。そして足りなくなってしまった理由は、保育士が不足しているからである。さらに保育士が足りない理由は、保育士の「非正規化」「雇用劣化」と無縁ではない。

 25年前の彼女がギブアップせざるを得なかった現実は、いまも繰り返されている。

 「若い子の中には、民間の保育所に勤める子も多いけど、やっぱり辞める。それで公営保育所の臨時やパートの保育士になる子も多い。この子たちと話をすると、臨時やパートでいい、むしろいまのままの方がいいという。正規の保育士になって、これ以上の仕事を引き受けたくないようだ」。私のインタビューは、彼女の既視感に満ちた言葉で締めくくられた。

◆公営保育所保育士の非正規化

 公営保育所(注2)の保育士は、非正規化が進展した典型職種である。

注2 2003年の地方自治法改正により、地方自治体の公立保育所にも指定管理者制度が適用された。同制度の適用により、株式会社、社会福祉法人、NPOなどの様々な団体が公立保育所の管理運営に携われることになった。また指定管理者に雇用される保育士は公務員ではなく民間労働者である。したがって指定管理者が管理運営する保育園は、いわば公設民営保育園である。これに対比して、地方自治体が設置し、正規保育士と非正規保育士を直接地方自治体が雇用して運営する保育園は、(公設)公営保育園と呼ぶこととする。

 地方自治体に勤務する非正規公務員の全国調査は、総務省が、2005年、2008年、2012年、2016年に実施し、本年分を除き、結果を公表している(「臨時・非常勤職員に関する調査結果」)。一方、正規公務員に関しては、毎年、「地方公務員定員管理調査」が実施されている。両調査とも基準日は41日である。

 表1「市区町村立公営保育所の保育士数」は、2つの調査から市区町村の保育所保育士の数値を抽出し、正規・非正規で比較したものである。

 正規・非正規割合を追ってみると、2005年時点では正規保育士100080人に対して非正規保育士は76753人で、割合は正規:非正規=56.643.4だった。

 2008年は、2005年比で正規保育士が7,350人削減される一方、非正規保育士は11055人増え、両者の割合は、51.448.6となり、ほぼ拮抗する。

 そして2012年には、2008年比で正規保育士が6,702人削減され、非正規保育士は13618人増え、この結果、正規・非正規割合は45.954.1となり、非正規が正規を上回る状態となった。2005年から2012年までの7年間で、公営保育所の保育士は約1.1万人増えたが、その内実は、正規は約1.4万人減り、非正規が約2.5万人に増えたというものである。もはや市区町村の公営保育所では非正規が主たる保育士なのである。

⭕️表1 市区町村立公営保育所の保育士数表

◆基幹化する非正規保育士

 非正規保育士に依存する状況は、地方自治体ごとに異なるものの、都市か地方かに関わりなく発生している一般的な傾向といえる。

 表2は、2012年の総務省の2つの調査を個別自治体ごとに付け合わせ、非正規保育士を100人以上雇用している市区を、非正規保育士割合が高い順番に並べ、このうち上位20団体を抽出したものである。

 最も非正規保育士依存率の高い兵庫県西脇市は、116人の保育士全員が非正規であった(特別職非常勤職員55人、一般職非常勤職員18人、臨時職員43人)。正規公務員の保育士はいない。

 上位3団体は、兵庫県の地方自治体が並ぶ(三田市 非正規保育士依存率91.3%、篠山市同88.1%)ものの、上位20団体は、北海道から長崎県まで広範囲に存在する。

 つまり、公営保育所の保育士の非正規化と依存度合いの高まりは、待機児童が発生し、保育所不足・保育士不足が叫ばれている都会に限ったことではなく、少子高齢化の先端を走り、待機児童問題が顕著には発生していない地方都市においてこそ進展していた。

 非正規保育士は、正規保育士が削減される中にあって、その代替として活用されてきた。代替ということは、臨時職員や非常勤職員と呼ばれ、本来は臨時的業務や補助的業務に従事するはずの非正規公務員が、正規保育士が担ってきた恒常的で本格的な仕事をそのまま引き受けるということである。だから日本のそこかしこで、クラス担任を受け持ち主任格にあるベテランの「臨時」保育士や、人が足りないために常勤として勤務する常勤的非常勤保育士が現れている。

 公営保育所において非正規保育士は、量の上でも質の上でも、基幹職員なのである。

⭕️表2 非正規保育士が100人以上の市区で、非正規保育士依存率が高い上位20団体

◆保育士の非正規化の進展~骨太の方針と三位一体改革~

 保育士の非正規化はいつ頃から始まったのだろうか。

 そのきっかけは、経済財政諮問会議を舞台にした小泉・竹中構造改革路線にありそうだ。

 2001年の「今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針」(2001 626日閣議決定)、いわゆる骨太の方針2001では、保育所待機児童をゼロにするため、「保育所の公設民営化やPFI の導入、保育ママ、幼稚園における預かり保育等多様な保育サービスの拡充などの規制改革を行うこと」が打ち出される。ところが、この待機児童ゼロ作戦は、後に述べるように、保育所数の増加を伴うものではなく、保育所定員や保育所設置基準の緩和を推進しようとするもので、あわせて公設民営化の促進により保育所経費を圧縮するという隠れた意図を持ち合わすものだった。

 2002年の財務省「予算執行調査」では、公営の認可保育所の運営費が、国が定める基準の2.5倍、株式会社に運営を委託する認可保育所は1.3倍であるとした上で、「保育所運営費の大部分は人件費であり実際の配置保育士数が国基準よりも多いことがあるが、最大の要因は、特に公営保育所の保育士一人当たりの人件費が高いことにある」と指摘し、人件費の抑制、公設民営・株式会社の参入促進を求めた。

 「骨太の方針2001」を受け、厚生労働省は、2002年春、非常勤の保育士は、保育士総数の2割以内でなければならないとする規制を撤廃し、常勤保育士が原則として各クラスに1人以上配置されていればよいとしていたのである。保育士の非正規化の端緒である。さらに、2003年の地方自治法改正により指定管理者制度が導入され、保育所の公設民営に道が開かれ、地方自治体は保育事業からの撤退を始める。

 そして、2004年度から始まった三位一体改革は、公営保育所の保育士の非正規化を促進することになる。それまでは、保育所運営に係る経費は、公立・私立を問わず、保育所運営費という国庫負担金が支出されてきたのだが、2004年度からの「三位一体改革」により、公立保育所運営費の市町村に対する国庫負担金が廃止され、一般財源化したのである。

 国庫負担金は特定財源なので、補助目的以外の業務の経費に使うことはできない。保育所運営費という名目の国庫負担金であれば、保育所にしか使うことは許されない。使途が決まっているのである。これに対し住民税や地方交付税などの一般財源になれば、地方自治体は使途に縛られず自由に使える。ゆえに保育所運営に使わなくてもいいことになる。

 財政逼迫に喘いでいた多くの地方自治体は、保育所運営費が一般財源となり、地方交付税として交付されるように制度変更したことをきっかけに、保育所運営費、特に保育所の人件費を削減し(注3)、本来、保育所の経営に使うべき財源を、別の予算項目で支出していった。

注3 日本保育協会が2007年に実施したアンケート調査では、回答した市の59.4%が人件費部分を圧縮したと回答している。

 このあおりを受けたのが、従来の正規保育士と同じ仕事の内容を提供する、年収が200万円前後の「ワーキングプア」層の臨時保育士や常勤的非常勤保育士たちであった。置き換えにより、人件費部分を削減したのである。

 表3をご覧いただきたい。A欄は厚生労働省「社会福祉施設等調査」における公営保育所の専任保育士・常勤保育士の推移である。同調査では、2001年までは常時勤務する保育士を「専任保育士」という名称で把握し、2002年以降は、「常勤」として把握するようになった。この「専任」「常勤」には、非常勤職員でも「常勤的に業務に従事していれば、身分的には非常勤職員であっても専任」(平成5年『社会福祉施設等調査報告』の「用語の解説」より)として把握するとしている。

 すなわちA欄には、常勤の正規保育士と常勤の臨時保育士ならびに常勤的非常勤保育士が含まれている。そして、A欄を見ると、公営保育所の専任保育士・常勤保育士のピークは、2003年の130399人で、その後2014年まで約16千人減少している。民営化による削減効果といえよう。

 次にB欄である。これは総務省「地方公共団体定員管理調査」によって把握できる地方公務員の正規の保育所保育士の人数である。正規保育士の人員のピークは、1995年で106386人である。その後、1997年と2002年を除いて減り続け、2014年には84201人にまで減少した。とりわけここ10年間の減少は著しく、2005年からの10年間で1995年比の約2割にあたる18039人の正規公務員の保育士が職場を去ったのである。

 さて、「地方公共団体定員管理調査」が把握すべき対象は、原則として正規公務員のみである。一方、「社会福祉施設等調査報告」では、正規か非正規かに関わらず、常勤的に勤務している者を専任者・常勤者として把握する。そうすると、前者(A欄)の数値から後者(B欄)の数値を差し引くと、非正規で常勤の臨時保育士や常勤的非常勤保育士の人数が導きだされることになる。これを示したのが表のC欄の常勤的非常勤保育士数である。

 常勤的非常勤保育士は、1993年に初めて数字として現れたが、1999年には1万人、その2年後の、非常勤保育士配置の規制が緩和された2002年には2万人を突破しており、2003年には5,337人の増加、そして三位一体改革による一般財源化後の2006年には3万人を超え、2011年には最大規模の33,311人となった。

 2014年段階では、公営保育所に勤務している常勤職員のうち、正規公務員は84201人、常勤的非常勤保育士は3209人なので、常勤職員と常勤的非常勤保育士の比率は約3対1となる。つまり公営保育所の常勤保育士の4人に1人は、常勤的に業務に従事している非正規の保育士なのである。

 そして、さらに表を詳細にみると、恐ろしい事態が進行していることがわかる。2012年以降は、置き換えられていった常勤的非常勤保育士さえ減少している。その数約3,000人。2011年比の1割にあたる。保育所経営から撤退し、雇用主責任を果たさない地方自治体によって、雇い止めされているのである。

⭕️表3 常勤的非常勤保育士への代替の推移

◆保育事業から撤退する地方自治体、民営化する保育所

 保育事業から地方自治体は撤退し、その運営は民間団体に委ねられてきている。その状況を厚生労働省「社会福祉施設等調査」により確認してみよう。

 保育所の全体数は、直近25年間で、それほど増減はない。1991年が22668園、2000年が22199園で、少子化の影響で地方を中心に徐々に減り続けてきた。2001年から反転して増加し、2014年には24509園となっている。だが、ボトムの2000年比でも2310園増えただけで、増加率は15年間で1割程度に過ぎない。つまり、これだけの待機児童が発生しながら、また待機児童ゼロを政策課題として重視しながら、保育所は増えなかったのである。

 ただし経営形態には、大きな変化があった。公営保育所数は一貫して減り続けているのである。公営保育所は1991年に13331園だったものが、2014年には9,312園と7割弱までに減少している。一方、民営保育所はその数を増やし、1991年には9,337園だったものが、2007年には11,598園となって公営保育所数を上回り、2014年には15,197園となって全認可保育所の62%を占めるまでに至った。

 つまり地方自治体は、一貫して、保育所の運営から撤退し続けてきたのである。

⭕️図1 経営形態別保育所数の推移

 一方、公営・民営をあわせた保育士数は1991年以来増加し続けている。1991年には専任保育士(常勤保育士と同義)が183819人だったものが、2000年には242787人、2010年には293885人となり、2014年には323494人へと、24年間で約14万人増加(約76%増)した。ただし、保育士数の増加に寄与したのは民間の保育所が主で、同期間に83119人から209084人へと、約12万人、2.5倍も増加させている。

 一方、公営保育所の専任保育士(常勤的非常勤含む)は、先に見た通り、1991年に10700人だったものが2003年には13399人へと約3万人増加させたのを境に減少し始め、2014年には114410人まで減っている。

⭕️2 経営形態別常勤(専任)保育士数の推移

 2001年以降の保育行政は、待機児童対策といっても、認可保育所を増やすことなく、むしろ既存施設の受け入れ人数を拡大する形で進められてきた。その結果、定員拡大分に対応する保育士を確保する必要性に迫られたが、公営保育所では正規保育士を非正規保育士に置き換えることにより人件費を削減し、あわせて保育園そのものの経営を民営化することで、同施設で働く保育士の賃金を国が定める公定価格の範囲内に抑制してきたのである。民間の保育園に勤務する保育士の賃金・労働条件が劣悪なのはここに原因がある。正規職として働いていたとしても、その給与水準は、著しく低い。

 対人サービス分野の職種別の平均月給(税引き前)を厚生労働省の「賃金構造基統計調査(2015年)」から抽出すると、以下のようになる。

全産業平均   33万3300円

看護師     32万9200円

ケアマネジャー 26万1600円

調理師     24万8100円

警備員     22万9500円

ホームヘルパー 22万5100円

福祉施設介護員 22万3500円

保育士     21万9200円

 保育士は、全産業平均より12万円低く、福祉施設介護員、ホームヘルパーも11万円も低い。これらの職種は、税金や保険料が投入される分野であり、あまりにも低水準の処遇であることから人材不足に陥っている。このような状態を続けていたら、保育をはじめとする福祉関連産業は持続できなくなる。

◆「非正規化」「雇用劣化」と保育現場

 日本海側のある県の、海沿いの町にある公営保育所。この町の保育士の人員構成は、正規保育士56人に対し、臨時保育士が68人で、非正規保育士が正規保育士を数の上で上回る(2012年総務省調査より)。臨時保育士の給与は、一時金とあわせ年収200万円ほど。何年勤めても昇給はないが、クラス担任をもっていれば担任手当が支給される。

 この町の子育て支援策は手厚く、今年から第2子の保育料が無料となり、3人の子どもがいて、3人同時に保育園を利用する場合は、全員分の保育料が無料となる。

 このような子育て支援策の影響により保育所の利用者は拡大してきているのだが、保育園側の受け入れ体制を整備しないまま進めているため、保育現場に様々な負担を強いている。

 この町は、2年続けて、正規公務員の保育士の採用試験を実施したが、安定した雇用の公務員の保育士であるにもかかわらず、直近では、5人採用予定のところ3人しか集まらなかった。現役の臨時保育士やパート保育士も含めて、採用試験に応募しなかったのである。

 理由ははっきりしていた。小さな町であることから自然に伝わる正規公務員の保育士の忙しさ、業務量の多さ、責任の重さのためである。利用者が格段に増加しているにもかかわらず保育士不足は解消せず、現役の保育士は、皆、過酷な労働に追い込まれていき、これが原因となって公務員の正規保育士の応募さえも不足してきている。

 この町の隣の市でも同様のことが起こっていた。いまや園長や正規の保育士にとって、保育士集めが日常業務になっている。パートの保育士ではなく、常勤的に勤務しクラス担任も引き受けてくれる保育資格を有する臨時保育士は、いまや取り合いなのである。そして、当の臨時保育士は、正規公務員の保育士になろうとは考えていない。

 政府は、豊かさをもたらさない実体のない経済を活性化することに邁進し、労働力不足を補うために女性を労働市場に引っ張りだし、夫婦共稼ぎを強いたにもかかわらず、保育園の質の確保は後回しにしている。保育士の非正規化と雇用劣化が同時に進行し、保育士不足となり、保育という公共サービスの量も不足する。

 保育現場の実態は、雇用崩壊の段階に至っている。上に記したある県の地方自治体の保育所で起こっている出来事は、「地方創生」の美名のもとに人口の奪い合いに駆り立てられた地方自治体が、「保育」をバーゲンセールしている結果なのだ。

 「おそらく地方創生の話は、自治体と自治体の間の人口の奪い合い、さらには資源の奪い合いということになろうかと思います。とすれば当然ながら、その中には競争に敗れ、さらに疲弊して人口減少を招く自治体が発生するに違いありません」(注4)。

注4 辻山幸宣「議会はどのような役割を演じるべきか」同編『地域と民意と議会』公人社、2016年、2頁。

 人口獲得競争というチキンレースの中に「保育」を巻き込み、安売りし、保育士をして立ち行かなかなくほどに追い込んでしまうその責任を、このような事態を招いた責任を、政府は果たしてとってくれるだろうか。

[参考文献]

川村雅則、小尾晴美ほか『日本の保育労働者』ひとなる書房、2015

萩原久美子「子どもの最善の利益の名のもとにー保育制度改革は敗北の歴史か、対抗軸の不在かー」『現代と保育』(92)、2015

池本美香「保育士不足を考える」『JRIレビュー』1928)、2015

◆◆学童保育も1.7万人が利用できず、学童保育の施設拡充を

201644()赤旗

 日本共産党の高橋千鶴子議員は1日の衆院厚生労働委員会で、国が子ども・子育て新制度で位置づけた放課後児童クラブ(学童保育)について、利用できない児童が昨年1万7千人で前年比1・7倍だと示し、施設拡充と職員の待遇改善を求めました。

 厚労省調査によると、非正規雇用が広がりクラブの常勤職員は3割を切っています。高橋氏は、全国平均の月基本給が全産業より13万円も低い17万7千円という建交労学童保育部会の調査をあげ、「国が実態調査し、処遇改善を急ぐべきだ」と迫りました。塩崎恭久厚労相は「処遇の問題はさまざまな課題がある」と認め、実態調査を行うと述べました。

 高橋氏は、低賃金の背景に、公の施設を民間事業者などに管理させ、コスト削減を図る指定管理者制度があると追及。総務省は、政令指定都市ではクラブの7割に導入されている実態を示しました。

 高橋氏は、指定管理料が毎年減らされ、4年間で常勤職員が5人減、賃金が1人当たり約100万円減になった自治体の実態を示し、「人件費が経費の大部分である仕事に、この制度はなじまない」と指摘しました。

◆◆政府の待機児童緊急対策=詰め込み拍車 実態に合わぬ目標 保育士処遇先送り

201644()

 待機児童問題への国民的怒りを受けて厚生労働省が打ち出した緊急対策―。国会質問を通じて問題点が浮かび上がっています。(鎌塚由美)

 緊急対策の柱は、(1)人員配置など国の最低基準を上回る自治体は、受け入れ人数を増やす(2)19人以下の小規模保育の上限を22人に拡大する―などが柱。子どもたちと保育士に負担を強いるものです。

◆法の趣旨に逆行

 保育所面積基準は1948年以来、人員配置は69年以来、改善されていません。自治体の基準は、あまりに低い基準の改善を求める父母らの声に押され、国の基準に上乗せされたものです。

 児童福祉法に基づく厚労省の「児童福祉施設の整備および運営に関する基準」では、▽最低基準を常に向上させなければならない▽最低基準を理由として低下させてはならないと定めています。

 日本共産党の池内さおり議員が、今回の緊急対策は「法の趣旨にも明確に反する」、「緊急だから劣悪でいいということにならない」(1日の衆院内閣委)と追及しました。加藤勝信少子化担当相は「市町村で判断いただくもの」としか答えられませんでした。

◆根拠ない皮算用

 これまで塩崎恭久厚労相は、全国1655カ所の小規模保育で「(1カ所)3人増やして、約5000人の(待機児童)解消」などと皮算用を述べていました。3人も増員できる施設がいくらあるのか聞かれると答弁できず、「単純計算するわけにはいかない」(3月30日)と述べ、5000人解消に根拠がないことが明らかになりました。

 保育問題が焦点になるなかで、待機児童ゼロどころか、隠れ待機児童が6万人もいることが判明(同28日)しました。

 日本共産党の高橋千鶴子議員は「待機児童を絞って公表するのは意味がない。必要なニーズをつかみ、それに応えていくべきだ」(同30日、衆院厚労委)と迫りました。塩崎氏は「最も多い定義として市町村が上げてきたのが50万人(の整備計画)」としか答えられず、責任ある整備目標になっていませんでした。

◆現場に落胆の声

 日本共産党は、待機児童解消に不可欠な保育士の処遇改善策が政府の緊急対策にないのが大問題だと追及しました。政府は、5月に出すという「一億総活躍プラン」で示すとしていますが、「恒久財源をどうするかで呻吟(しんぎん、苦しみうめく意味)している」(塩崎厚労相)と先送りする態度に終始しています。

 対応が遅く具体策に乏しい安倍政権に対し、「処遇改善もない。次は、『保育士は死ね』ということかと落胆の声があがっています」(同31日の参院内閣委の参考人、全国保育団体連絡会の実方伸子事務局長)と批判の声があがり、保育現場の失望を招いています。

◆◆(読者の声)待機児童、根本的な解決策を

201642日朝日新聞

 元保育園長 土田黎子(神奈川県 74)

 ついに政府も、保育所問題に本腰を入れなければと思ったようだ。だが、その対策に疑問と怒りを感じた。保育士を増員しないまま、規制緩和で一人でも多くの子どもを入れ、待機児童の解消を図ろうだなんて……。根本的な解決にならないし、子どもにしわ寄せがいくことは目に見えている。

 私は保育士として14年、保育園長として7年余り、厚生労働省の決めた保育士の人員基準で仕事をしてきた。その基準でさえ、子ども一人一人の成長と発達を支えることがいかに難しいかを実感した。

 保育士は、子どもが起きている時間の大部分を父母に代わって対応する重要な仕事だ。子どもが成長するためには大人の目と手と心が必要で、乳児期、幼児期を大切にされて過ごしてこそ、人としてしっかり立っていける。だから、園長の時はどうしたらより多く大人の手をかけられるかに腐心した。

 真面目に取りくむ保育士ほど体も心もすり減って、辞めていくのが現状だろう。子育ては国の将来を左右する問題だ。緊急避難的な対策にとどまらず、保育士の増員や待遇改善はもとより、父母の労働時間短縮や男性の意識改革などにも、真剣に取り組んでほしい。

◆◆待機児産んだあなたの責任=自民党 相次ぐ暴言

201641()赤旗

 自民党の山田宏参院比例代表予定候補(元衆院議員)が、31日に開かれた自民党東京都連の支部長・常任総務合同会議で、保育園の待機児解消を求める母親たちに対して産んだあなたの責任はどうなのかと言いたいという趣旨の暴言を吐いたことが明らかになりました。

 出席者によると、会議では下村博文・党選対副委員長が選挙情勢を報告し、参院予定候補らがあいさつしました。

 山田氏はあいさつで野党を批判し、待機児解消を求める声にふれ行政の責任がどうのこうのという前に、産んだあなたの責任はどうなのかと言いたいという趣旨の発言をしたといいます。

 本紙は山田氏に質問状を送付し、発言が事実なのか回答を求めました。山田氏はファクス経由で文書回答し、「『日本死ね』という匿名で誰が書いたかわからないブログに関して、子供を育てるのは、第一義的には親の責任であり、子育ては国次第、自分の子供を育てることに対して社会が責任をとれ、というのは考え方が間違っているのではないか、ということを申し上げた」と説明しました。

 回答書の内容を知った自民党関係者は「ひどい回答文ですね。政治家の質がこれほど悪いとは。国民からしっぺ返しを受けるのではないか心配だ」と語りました。

◆◆政府の待機児対策「取り繕い」では打開できない

2016331()赤旗主張

 保育所に入所を希望しながら入れなかった待機児童問題が深刻化するなか安倍晋三政権が「緊急対策」を決めました。待機児解消にまじめな態度を示さなかった安倍政権にたいする国民の怒りが急速に広がったことを受け、急きょ取りまとめたものです。しかし、既存の保育施設の定員拡大による「詰め込み」を中心にした対策ばかりで、保育士の処遇改善も見送られたため、父母や保育士から失望と新たな怒りの声が上がっています。国は、安心で安全な保育を願う国民の声に応え、実効性ある措置を直ちにとるとともに、抜本対策に踏み出すべきです。

◆「弾力化」に不安相次ぐ

 安倍政権の緊急対策の一つの柱は、「規制の弾力化」による「臨時的な受け入れ強化の推進」です。具体的には、自治体にたいし施設の保育士配置数や施設面積を緩和させて、子どもの受け入れ枠を広げることなどを求めています。

 これは安全で良好な保育環境を保障する上で深刻な影響を引き起こしかねないやり方です。認可保育所の子ども受け入れ基準は、国が「1歳児6人に保育士1人」などと決めていますが、自治体によっては保育の質を保障するため「1歳児5人に保育士1人」と独自基準を定めているところもあります。施設面積も国の基準より広く設定している自治体もあります。

 国の基準では十分子どもに目が届かず保育事故が起きたことなどの教訓を踏まえ、自治体が実態にそくして決めている基準です。本来なら国が基準を引き上げ、保育士の増員などをはかるべきなのに、基準を下げ、子どもを押し込めというのはあまりに乱暴です。

 保育士からは「いまでも手いっぱい。これ以上の対応は厳しい」との声が続出し、自治体担当者からは「危険だ」と不安視する意見が出されています。定員19人以下の小規模保育施設の定員枠を22人に増やすことも、安全確保面で懸念されています。「とにかく詰め込む」というやり方は、安全な保育を求める父母の願いに反します。

 関係者が怒りを募らせているのは、緊急対策に、保育士の賃金引き上げなど処遇改善策が盛り込まれなかったことです。安倍首相は5月に決める「1億総活躍プラン」で打ち出すとしていますが、対応が遅すぎます。待機児が解消できない大きな要因は、保育士の確保ができずに保育所増設がすすんでいないためです。やりがいを持って仕事についた保育士が人手不足や低賃金などで疲れ果て職場を辞めざるをえなくなる―。この悪循環を断ち切ることは、緊急課題であり、そこに国は責任をもつべきです。

 日本共産党など野党は共同で、国の財源で保育士給与を月5万円引き上げるための処遇改善法案を国会に提出しました。保育士が安心して働ける職場づくりへ今こそ政治が役割を果たす時です。

◆深刻な実態直視してこそ

 国は2万人超としてきた昨年4月の待機児数は、育児休業延長者などを含めれば8万人超にのぼると発表しました。子どもの預け先が見つからない親が職を失うなどの事態打開は一刻の猶予もできません。国は抜本対策の検討を急ぐと同時に、緊急対策についても自治体任せにせず、公共施設を活用した臨時保育所整備への必要な支援など、安全に配慮したきめ細かい対応をとることが必要です。

◆◆保育士ら処遇改善訴え 国に署名提出 「給与5万円増額を」

2016331日朝日新聞

 匿名ブログを機に待機児童対策の充実を求める声が高まるなか、保育士たちも処遇改善を求めて動き始めている。待機児童問題の背景には、労働環境の問題や給与の低さによる深刻な人手不足が指摘されているが、国の緊急対策は賃金改善そのものには踏み込まず、規制緩和が柱になっていた。「現場がますます疲弊する」という危機感が、保育士たちを動かしている。

 「保育士の給与を1人あたり月額5万円増額してください」。ネット上の呼びかけに賛同した署名約2万8千人分が30日、衆院議員会館で厚生労働省と内閣府の担当者に手渡された。署名を呼びかけたのは元保育園長の男性。「体をはって小さな命を守っている保育士に、仕事に見合った給与を与えてほしい」と訴えた。

 男性が勤めていた園では給与は月の手取り15万円ほどで、「せめてあと5万円あれば、生活も成り立ち、離職した人も現場に戻るのでは」と考えた。賛同者から「サービス残業までして手取りの年収が200万円未満」「娘が保育士。給料は10万円くらいで、辛(つら)そう」といった声も寄せられた。

 29日には、衆院議員会館で処遇改善を求める集会があり、約150人が参加。国の緊急対策は、国の基準より手厚い保育士配置をしている自治体に国基準まで緩和するよう求めるなどして受け入れ枠を増やすことが柱で、保育士の負担増が懸念されるという。名古屋市の女性保育士は「保育士が現場を去る姿はもう見たくない。労働時間めいっぱい働いている保育士の処遇改善を求めたい」と訴えた。

 神奈川県の20代の女性は保育士として働いていたが激務で体調を崩し、1年半で退職したという。国の緊急対策について、「これまでも現場はギリギリだったのに、体力的にも精神的にも持たなくなる。ますます離職が増え、待機児童問題の解決も遠くなる」と話した。

 処遇改善については、野党が共同で、賃金を1人あたり月5万円引き上げるための議員立法を衆院に提出。安倍晋三首相も処遇改善に取り組む方針を示している。(仲村和代、伊藤舞虹)

◆◆厚労省=隠れ待機児 実は6万人、世論・論戦に押され公表

2016330()赤旗

 厚生労働省は28日、育児休業などを理由に、「待機児童」から外した隠れ待機児童が、昨年4月時点で6万208人いることを明らかにしました。

 認可保育所に入れない待機児童は2万3167人と発表されていますが、実際は3・6倍の8万3375人もいることになります。塩崎恭久厚労相は18日、隠れ待機児は4・9万人と発表していましたが、さらに膨れあがりました。待機児を小さく見せかけて認可保育所の整備を怠り、今日の深刻な事態を招いた安倍政権の責任が厳しく問われます。

 同省が待機児から外しているのは、「自治体独自の施設に入所」「特定の保育所を希望」「4月1日時点で求職活動を休止」「育児休業中」「認可保育所への移行補助金を受ける施設に入所」―のケース。(表参照)

 認可保育所に入れずやむなく他の施設に入ったり、育児休業を延長すると待機児から外されるため、「実態を反映していない」と批判が噴出。日本共産党の田村智子参院議員は14日の予算委員会で「やるべきは数字の操作ではない。認可保育所に入りたい人の数を明らかにして、認可保育所の整備を行うべきだ」と求めていました。世論と国会論戦に押され公表せざるをえなくなったものです。

 同省はこれまで、待機児の定義を次々と改悪。2007年に東京都の認証保育所など自治体の独自施設を外し、15年度からは子育て新制度を機に、育休延長や求職活動休止を除外していました。

◆◆保育所倍率、12区で上昇 東京の認可施設、枠拡大追いつかず 朝日新聞社調査

2016330日朝日新聞

 今年4月の認可保育施設への入所倍率は、東京23区の12区で前年より上がり、希望の施設に入りにくくなったことがわかった。うち4区は2倍を超え、申込者の半数以下の受け入れ枠しかなかった。前年より枠を増やしたが、申込者の増加に追いついていない状況だ。朝日新聞が3月下旬、各自治体に聞いた。

 待機児童は都市部に集中しており、昨年4月時点の全国2万3167人のうち、東京都が7814人で34%を占める。

 倍率は申込数を受け入れ枠で割って算出した。前年より上がった12区で最も倍率が高かったのは杉並区で2・21倍。前年より下がったものの依然高い目黒区と並んだ。続いて世田谷区で2・15倍、渋谷区で2・03倍、台東区で1・98倍だった。倍率が最も上がったのは文京区で、1・62倍が1・91倍になった。残りの11区は倍率が前年より下がった。

 申込者も受け入れ枠も、千代田区以外の22区で増えていた。申込者が増加した背景として、自治体の担当者は、都市部への人口流入で子どもの数が増えたことなどを挙げる。昨春に子ども・子育て支援新制度が始まって保育所入所への親の期待感が高まり、保育の潜在ニーズが掘り起こされたことも影響したという。

 また、20政令指定市にも同じ質問をした(札幌市、横浜市は「集計中で非公開」)。今年の倍率が高かったのは川崎市(1・48倍)、さいたま市(1・46倍)だった。回答は対象年齢などにばらつきがあり、自治体間の比較はできないが、個別に前年と今年の倍率を比較できたのは9市。うち、千葉市など5市で上がった。

◆◆待機児童ゼロ、見通せず 自治体、知恵絞る 5年限定巨大施設・マンションに協力要請

東京・永田町の衆議院議員会館では29日夕、保育士の待遇改善を求める緊急集会があり、現役保育士や保護者ら約150人が集った

 受け皿を増やしても、それを上回る勢いで認可保育施設へのニーズが増えている。各地の自治体は待機児童対策に知恵を絞るが、半数で昨年より入所しにくくなった東京23区をはじめ、「ゼロ」への道筋はなかなか見えない。「保育園落ちた」親たちは今後に大きな不安を残したまま、新生活をスタートさせる。

 今年4月の0~2歳の入所申込数が受け入れ枠の1・81倍で、入所倍率が前年より0・44ポイント下がった東京都品川区。倍率の低減に大きな役割を果たしたのが、JRの車両基地そばの区有地に4月に開所する公設民営の巨大保育所だ。

 定員は1~5歳の300人。5年間の時限施設との位置づけで、施設建設や管理、解体にかかる費用を総額6・2億円と見積もる。さらに国家戦略特区として認められた公園内での整備も進め、2017、18年度に1園ずつ開設する。

 だが、都市部でそうした策を使える自治体は多くない。入所倍率が1・91で前年から0・29ポイント悪化した文京区の担当者は「区内には保育園を作れるような大きな公園がなく、土地の確保は大きな課題だ」と話す。

 厳しい環境のなか、自治体は試行錯誤を続ける。

 大阪市は15年度から、地価が特に高い地域の建物で新規の保育所を開く事業者に、賃料補助を始めた。契約期間や施設の大きさによって金額は異なるが、例えば定員が60~70人で契約期間が20年の場合、補助額は最大1200万円。0~2歳の受け入れ枠は前年度より1400人分増えたが、申込者数も増えたため、少なくとも約1800人分、枠が足りなかったという。

 マンションの建設が相次ぎ、入所倍率が1・48と政令指定市のなかでは高かった川崎市。200戸以上のマンションを建てる事業者に認可保育施設の自主的な整備を求めているが、今年度、入居を始めた19のマンションのうち、応じたのは1カ所だけだった。

 「新しいマンションが建つと、入所を希望する子どもが一気に増える。事業者も協力してほしい」と市担当者。新年度は秋をめどに要綱を作り、50戸以上のマンションの建主に自主的な整備を求め、難しい場合も寄付金を求める。

 東京都目黒区は2・21倍と高水準が続く。土地不足を補うために考えたのが区立小学校の活用だ。図工室や家庭科室を空き教室に移動させて集約し、空いた場所に定員70人の認可保育所を17年4月に新設する。

◆異議・署名、動く親

 子を保育所に入れられなかった保護者たちは、各地で申し入れや異議申し立てをしている。

 品川区では25日、2人が異議を申し立てた。会社員の女性(29)は生後5カ月の息子を預けようと申し込んだ認可保育所も、都が独自の基準で設けた認証保育所も入れなかった。「10月までは育休を延長できるが、それまでに見つからなければ退職せざるを得ない」

 練馬区や文京区では、待機児童解消のための対策を求める署名活動が始まっている。目黒区でも、保護者や市民有志らが「もっと認可保育所をつくって」と、ビラを配って訴える。

 同区の保育士の女性(39)は、生後半年の三男を認可保育所に入れられず、認証保育所になんとか入れた。だが、次男(4)の保育所とは離れており、4月からバスを乗り継いで1時間以上かけて2人を送迎しなければならない。「同じ保育所に入れられたら、もっと長い時間働けるのに」と言う。

◆整備不十分のツケ

 保育園を考える親の会の普光院亜紀代表の話 受け入れ枠を増やしても申込者が増え、待機児童問題は解消されていない。国や自治体が長年、保育所の整備にお金をかけてこなかったツケが回ってきたものだ。財源を確保して認可保育所の増設や、保育士の処遇改善を早急に進めるしかない。

◆東京23区の入所倍率

     2015年 2016年

杉並区※  1.96  2.21

目黒区   2.33  2.21

世田谷区  2.25  2.15

渋谷区※  1.82  2.03

台東区※  1.91  1.98

江東区※  1.87  1.94

文京区※  1.62  1.91

港区※   1.83  1.84

品川区   2.25  1.81

中央区※  1.71  1.77

中野区   1.84  1.69

江戸川区※ 1.62  1.63

豊島区   2.09  1.59

北区※   1.44  1.57

足立区   1.60  1.55

大田区   1.59  1.54

練馬区※  1.46  1.50

千代田区  1.59  1.49

墨田区※  1.32  1.49

荒川区※  1.29  1.42

新宿区   1.56  1.39

板橋区   1.61  1.35

葛飾区   1.42  1.28

 〈入所倍率は、申込数(0~2歳児)を受け入れ枠で割ったもの。16年の倍率が高い順。※は昨年から倍率が上がった自治体〉

 <調査方法> 3月下旬、各自治体に今年4月の入所に向けた認可保育施設(認可保育所、認定こども園、小規模保育などの地域型保育)の1次選考時点の0~2歳児の申込数と4月時点の受け入れ枠、前年の同様の申込数と受け入れ枠を聞いた。自治体の回答には集計時期などに多少のばらつきがあった。

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🔵朝日論座=「保育園落ちたの私だ」問題を考える

仲村和代 (なかむら・かずよ)

朝日新聞社会部記者

20160324

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🔵「保育園落ちたの私だ」問題=あまりにも身近で切実な問題がこうも理解されないのか。怒りの底には歯がゆさがあった

投稿の翌日、ブログを読んだ

 「保育園落ちた日本死ね!!!

 過激な言葉で怒りをぶちまけた匿名のブログが、ここまで大きな反響を呼ぶことを、誰が予想していただろう。

 ブログを機に始まった保育制度の充実を求めるネット署名は、1週間もたたないうちに約27千人分が集まった。国会では連日、待機児童問題が取り上げられている。安倍首相は、保育士の待遇改善の具体策を今春に示す方針を明らかにした。

 ブログが「はてな匿名ダイヤリー」に投稿されたのは、215日だ。

 《何なんだよ日本。一億総活躍社会じゃねーのかよ。昨日見事に保育園落ちたわ。どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ? 何が少子化だよクソ。子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。》

 私がブログを読んだのは、投稿の翌日。同年代の女性のフェイスブックに、共感する書き込みがあったからだ。私自身は、「日本死ね」という激しい表現があまり好きになれず、静観していたが、その後もたびたびシェアされているのを目にした。

ネットでは怒りが渦巻いた

「保育園落ちたの私だ」などと書かれた紙を掲げて立つ人たち=35日、東京都千代田区の国会議事堂前「保育園落ちたの私だ」などと書かれた紙を掲げて立つ人たち=35日、東京都千代田区の国会議事堂前

 229日。民主党の山尾志桜里議員が国会でこのブログを取り上げた。それに対し、安倍首相は「匿名である以上、実際本当に起こっているか、確認しようがない」と答弁。議場は「誰が書いたんだよ」「中身のある議論をしろ」とヤジで騒然となり、あげくの果てに、「うざーい」という声も飛んだ。

 この対応に、ネットでは怒りが渦巻いた。

 「 #保育園落ちたの私だ 」。ブログに自らを重ね合わせる人たちが、ハッシュタグと共に次々と自分の窮状を書き込み始めた。

 《往復34時間かかるような所には空いてても預けに行けない。今逃すと正社員枠無くなってしまう》《2人の子を同時申込したら、上の子だけ入園許可で下は待機児童に。でも『上の子を入園させた以上、2ヶ月以内に仕事を見つけないと退園』だと。やっと見つけた一時保育は時給より高い保育料。何の罰ゲーム?

 《病気を抱えて治療してるはずが根本的な療養ができないので一進一退どころか進まない。痛くて苦しくても療養という名目では保育園へはだめ。医療費もかかり働けるわけではないのでお金をかけて認可外へ預ける余裕はない》

 《みんなでママさんパパさんの悲痛な声を世間にもっと知らせたらいい。本当に応援したい》

 保育園に入れなかったという、狭い意味での「当事者」だけではない。様々な「私」が、待機児童問題を「わがごと」としてとらえ、声をあげていた。

 これは、大きな動きになる。そう直感し、遅ればせながら取材をすることにした。

ブログを書いた当事者に連絡を取った

3月5日の国会前。コールやスピーチはなく、集まって雑談するだけのゆるやかな抗議行動だった3月5日の国会前。コールやスピーチはなく、集まって雑談するだけのゆるやかな抗議行動だった

 ブログを書いた当事者は、「このブログの中の人です」と名乗り、ツイッターを始めていた。連絡を取ってみると、間もなく返信があった。

 メールによると、投稿者は都内在住の30代前半の女性。夫とまもなく1歳になる息子と暮らす。事務職の正社員で、両親は遠方に住んでいるため頼れない。保育園が見つからなければ、仕事を辞めなければならないという。

 ブログを書いた時の心境を、こう説明した。

 《あの時は働かなくてはいけないのに保育園に落ちてしまいその怒りの感情の思うがまま独り言のつもりで書きました。愚痴を書き込んだような物です。当初反響とかは全く考えていなくちょっと話題になった時に、まぁこの時期だからみんなもそう思うよね位にしか思っていませんでした》

 直接、もしくは電話で話を聞けないかという依頼は、断られた。

 《実際に表に出て発言する人はすごいと思います。実際に行動して政治を変えていっていますし。私自身言っても無駄だと諦めてた部類の人間なので。私自身は表で活動する気はありませんね。最初あの文章が皆様の目に止まっただけですし、そんな何か出来る大層な人間でもないので。あと今更実際に表に出るのは恐いですね。当然入りがあの口調の文章ですから心ない言葉や批判を言ってくる方も多いですし。元々何か思想がある訳でもないですし。》

 メールのやりとりだけでは、「彼女」が本当に当事者かどうかを確認することはできなかった。ただ、彼女が書いた言葉に多くの人が自らの境遇を重ね、共感した人たちが数多くいたことは間違いない事実だ。

 《文章が匿名かどうかよりも中身の待機児童問題自体について具体的にどうしていくかを議論して欲しかったですね》と「彼女」は書いた。

ネットから「リアル」へ

 動きは「リアル」の場にも広がった。

 35日、午後。国会前に、「保育園落ちた」人たちが集った。赤ちゃん連れ、子育てを終えた人、これから子育てをする人。「保育園落ちたの私だ」という紙を手にしている他はまとまった行動はなく、コールもスピーチもない。ただ集まって雑談をしている。

 品川区の会社員の男性(36)は、妻(29)5カ月の息子と共にやってきた。「ネットでヤジのニュースを見て、腹が立って。区に不服申し立てをする前に、『自分はここにいる』と示したかった。これで何かが変わると期待してるわけではないけど」。これまで、デモはどちらかといえば冷ややかな目で見ていたが、「自分の問題だから黙ってはいられなかった」という。

 この日の行動のきっかけを作ったのは、大田区の会社員、倉橋あかねさん(52)。すでに子ども2人は成人しているが、ブログを読み、「20年前の私だ」と思ったという。

 1人で行くつもりで「国会前に行きます」とツイッターでつぶやいたところ、賛同者が広がった。政権批判をしたかったわけではない。もう何十年もの間、放置されてきた待機児童問題を、きちんと議論してほしいという思いだった。「こんなに集まってくると思わなかった。ちゃんとここにいるっていわないと、無視されるよと伝えたい」。

 個人が発信し、つながって、それが大きなうねりとなってリアルの場に反映されていく。ネットがあるからこそ、ここまでの速さで動いていったのだと思う。政治に希望を持てず、「声をあげても無駄」とあきらめている人も少なくないかもしれない。だが、確実に世論は動き始めている。

都市部での「保活」と不思議な「常識」

 なぜ、ここまで大きな動きになったのか。理由はとても簡単。本当に困っている人が、たくさんいるからだ。

 「待機児童」の定義が実態を反映していないという指摘もあるが、政府が発表している数字で見ると、2001年、当時の小泉政権が「待機児童ゼロ作戦」を打ち出した後も、毎年2万人前後の子どもが入れない状況が続いている。保育園に入るためにあれこれ対策を取る「保活」という言葉はもはや定着した感がある。(ちなみに、朝日新聞に登場するのは、2010年だ)

都市部での「保活」には、不思議な「常識」が山ほどある。

 まず、いつ生むか。育児休業は1年取ることができるが、年度途中で保育園に入ることはほぼ不可能。さらに、1歳児クラスは0歳児からの持ち上がりの子が多くて新たに入園できる枠が少ないため、早めに育児休業を切り上げ、0歳児で入所させるのが一般的だ。

 入所できるのは生後2カ月になってからだから、23月生まれの場合、4月入所を狙うとしたら、1歳児としてしか入所申し込みができない。だから「早生まれは不利」。私の知人には、「保育園に入るため、2月の予定日だった子の帝王切開の日取りを早めてもらった」なんて人までいる。

 そして、どこに住むか。第1子の誕生を前に、保育園に入りやすい自治体に引っ越す例は珍しくない。とはいえ、転入者が増えた自治体はその分入りにくくなるため、年によっても事情は変わる。

 それから、どうやってポイントを稼ぐか。

 認可保育園は、それぞれの園に申し込むのではなく、自治体がその家庭の状況を元に「指数」を算出し、優先順位を決める。例えば、「正社員なら点」「ひとり親なら点」「兄弟がいれば点」といった具合だ。

 認可外保育所に入所させているとそれだけ必要性が高いとみなされて加点されるが、地域によっては「夫婦ともに正社員+認可外に入れている」ことが、認可保育園に入れる「最低条件」になっているところすらある。

 「自治体の窓口に通って職員と仲良くなり、ポイントをあげる方法を聞く」とか、「申込書に自らの窮状を長々と書き込む」といった方法も「効果的」とされている。ネットには、「ポイントを稼ぐために偽装離婚した」なんて例まで書き込まれている。

⭕️命を授かるタイミングはコントロールできない

 待機児童問題について、ネットでは「実態ははじめからわかっているのに対策もせずに生むなんて甘い」という厳しい声もある。でも、「常識」的に考えれば、そんなことを考えなければいけない方がおかしい。命を授かるタイミングは、そんなに思い通りにコントロールできるものではない。

 住む場所だって、通勤時間や費用の問題もあり、望み通りに選択できるとは限らない。児童福祉法は、「市町村は、保護者の労働又は疾病その他の事由により、その監護すべき乳児、幼児その他の児童について保育を必要とする場合において」「必要な保育を確保するための措置を講じなければならない」と定める。保育園を必要とする子どもに保育を提供するのは、自治体の義務なのだ。

⭕️当事者には「目に見えていた」

 待機児童問題については、自治体の担当者から「読み違えた」という話も聞く。

 保育園を作っても作っても、従来の待機児童カウントされていなかった、「申し込むことすらあきらめていた人」が新たに申し込み、待機児童が「沸いてくる」。そんなことが繰り返されてきた。

 自治体の側からすると、いずれは保育園が余る時代が来ることを考えると、あまり増やしたくないという事情もあった(実際、都市部以外では保育園が余っている地域もある)

 政策に関わる人たちは、「見えていなかったのだから仕方ない」というかもしれない。でも、当事者やその周辺にいる人たちからすれば「そうなるのは目に見えている」。

 自治体がどんなに名目上の待機児童を減らそうと躍起になっても、それが実態とはかけ離れていることを実感しているからだ。

⭕️見えないふりをしても解決しない

 今回も、当初は国会で「匿名だから」と片付けられそうになった。でも、どんなに見えないふりをしても、困っている人たちがいなくなるわけではない。自分たちにとってあまりにも身近で、切実な問題が、こうも理解されていないのか。吹き出した怒りの根底には、その歯がゆさがあったように思う。

 これだけの人材(おもに女性)が、保育園に入れないという理由で復職を延期したり、離職したりといった状況は、企業にとってもマイナスのはずだ。ところが不思議と、声をあげるのは「お母さん」と一握りの男性たちで、経済界の中心にいる人たちからは、待機児童対策の充実を求める声は聞こえてこない。待機児童対策がまだまだ「女性の問題」にとどまっていることの現れだろう。

 日本の保育制度は、「お母さんが働いている、かわいそうな子」のために作られた時代から、根本的な構造が変わっていない。国会でのヤジも、待機児童対策に力を入れるといいつつ、そういう意識を引きずっているからなのではないか。

 問題は、「保育園が足りない」ことだけではない。待機児童対策として、数を増やすことに力が注がれた結果、深刻な保育士不足や、質の低下といった問題が顕在化し始めており、保育の質にまで目を向けた議論が必要だ。その点について、次回以降、考えていきたい。

🔵「保育園落ちたの私だ」問題=保育士不足こそが待機児童を生み出す大きな要因。根本的な解決のための議論をしよう

⭕️「ハコ」はあっても保育士が足りない

国会議事堂前での抗議行動で「保育園落ちたの私だ」と書かれた紙を持つ人たち。男児の上には「落とされたのオレだ!」の文字も=3月4日、東京都千代田区 国会議事堂前での抗議行動で「保育園落ちたの私だ」と書かれた紙を持つ人たち。男児の上には「落とされたのオレだ!」の文字も=3月4日、東京都千代田区 

 待機児童と聞いてイメージするのは、「保育所が足りない」ことだろう。土地が見つからない、騒音への苦情から保育所を作れないといった問題は、これまでも報道されてきた。

 だが、いま、待機児童を生み出す大きな要因となっているのが、保育士不足の問題だ。保育所の「ハコ」はあっても、保育士が足りないために子どもを受け入れられない事態が、各地で起き始めている。

 待機児童数(昨年4月時点)が東京都世田谷区に継いで全国で2番目に多い千葉県船橋市。実は、待機児童1067人のうち、288人が「保育士不足によって生じた待機児童」だ。市によると、27ある公立保育所で、昨年度まで228人いた臨時任用の職員が、173人しか集まらなかったという。新しい保育園がどんどんでき、人材が流出したとみられている。

 市は、臨時任用の保育士の時給を1220円から1510円に上げる緊急対策をとった。来年度は正規職員の募集を例年の30人程度から倍以上に増やす予定だが、保育士を確保できるかのめどはまだ立っていないという。

 沖縄県では昨年10月時点で、那覇市など12市町村の38施設で、保育士が65人足りず、211人が待機児童になっていたことが、県の調査でわかった。県の担当者は「毎年、千人ほどが新たに保育士になるが、給与の低さや多忙さを理由に離職する人が多い。蛇口をひねっても抜けていく感じだ」と話す。

 首都圏や東海地方を中心に、保育所など224施設を運営する業界最大手のJPホールディングス(名古屋市)も、保育士の採用が追いつかず、園児数は本来収容可能な人数の85%にとどまっているという。

⭕️保育士の待遇

 保育士不足は、「質」にも影響する。首都圏のある民間の認可保育園長は「保育士を派遣する複数の会社に高い紹介料を払っても、人が来ないのが現状。以前だったら採用しなかったような資質の人でも、資格があれば雇っている」と明かした。

 自治体や企業は、家賃補助や就学資金援助など、保育士獲得のための様々な対策を打ち出し、自治体間の「獲得合戦」も激しさを増している。

なぜ、こんなに足りないのか。

 保育所の数そのものが増えているのも一因だが、それだけではない。指摘されているのが、保育士の待遇の問題だ。

 厚労省によると、民間保育所の保育士の給与の平均月額は219千円で、全職種の平均月額より約11万円低い。資格はあっても働いていない「潜在保育士」が、約80万人いると見込む。

 都内の女性(27)はその「潜在保育士」の1人だ。2年前、流産をきっかけに、働いていた認可保育所を辞めた。

 働いていた都内の認可保育所は、英語や体操のプログラムがあり、地元で人気だったという。だが、労働環境は厳しかった。早番として午前7時半に出勤し、閉園する午後8時半まで保育をすることもしばしば。それでも、時間内に事務作業が終わらず、仕事を持ち帰った。妊娠中に体調が悪くても、「仕事を替わってほしい」とは頼めず、無理が続いた。年度途中で辞めていく保育士も多かったという。

 退職後に子どもを授かり、今は1歳の息子の子育てに専念している。元々は、息子が1歳になったら復職を考えていた。だが、息子は持病があることもあり、預け先が見つからない。以前の多忙さを思い出すと、「子育ての両立は難しいのでは」とちゅうちょしている。

 「子どもと向きあう仕事はやりがいがあった。せめて、仕事に見合った給与が支給されないと、人手不足は解消されないのでは」

⭕️ダブルワークと非正規

 給与が低いため、ダブルワークをしたことがあるという人もいた。

 神奈川県内の40代の保育士の女性は、保育士として20年以上の経験があるが、手取りは19万円ほど。シングルマザーで、生活費をまかなうため、職場には内緒で土曜日の朝6時から11時間、工場でアルバイトをしたこともある。「体がきつくて、保育時間中も集中できなくてこわかった。今も本当はやりたいけど、体がもたない」。専門学校時代の同級生の大半は、子育てを機に仕事を辞め、いまも保育士として続けているのは2人だけだという。

 地方では、別の問題もある。求人はあっても、ほとんどが非正規なのだ。

 新潟県内の公立保育所で働く非正規雇用の保育士の女性(27)は、首都圏の大学を卒業して東京都内の幼稚園でしばらく働いた後、地元の公立保育所に臨時職員として採用された。当時、月給は手取り10万円に届かないことも。その後、試験を受けて年契約になり、担任も任されるようになった。日中の仕事はほとんど正規職員と変わらないが、フルタイムで働いて手取りは12万円台。実家暮らしだが、車にかかる費用などで生活はギリギリだ。

 地元では、正規採用の求人はほとんどない。同僚は、結婚して夫の給与で生活が保障されている女性ばかり。最近も同年代の保育士が辞めた。

 「子どもの命を預かっているのに。せめて同じ正規職員と水準の給与を保証してほしい。結婚もしたいけど、貯金すらできない」。お金を貯めるために、1年だけ離職し、時給の高い別の仕事をしようかと悩んでいるという。

 「元々女性の職場だから、安く見られているのではと思う。仕事は好きなのに、気持ちもお金も追いつかない」

 こうした例は、決して珍しくない。「手取り10万円台」「サービス残業と持ち帰り仕事は当たり前」「子どもの遊び道具や備品は自前」「睡眠時間34時間」といった話を、様々な保育士から聞いた。男性保育士の「寿退社」もよく話題にのぼる。結婚を機に、家族を養うために男性が離職してしまうのだ。

⭕️横たわる構造的な問題

 保育現場が旧態依然としていて、業務改善への取り組みが進まないことや、「自分を犠牲にしてでも、子どものために働くのが当たり前」という意識が根強く、働く側の権利を主張しづらい環境があることを指摘する人もいる。もちろん、長く働ける環境を整えるために努力し、先進的な取り組みをしている保育園も数多くある。

 とはいえ、やはり保育士不足の背景には、構造的な問題がある。

 都内の公立保育園で長年保育士を務めた経験のある塩谷香・東京成徳大学教授は、「保育士の業務量は以前と比べて格段に増えた。だが、保育士の給与は変わらず、疲弊して離職者が増え、人手不足が加速する悪循環になっている」と指摘する。

 1990年代後半から、保育所に求められる役割が増え、育児不安のフォローなど地域の子育て支援や、外国人家庭など多様な子どもや保護者への対応も任せられるようになって、業務が複雑化した。保護者の働く状況も変化し、子どもを保育所に預ける時間も長くなった。

 塩谷教授はこう話す。

 「一番しわ寄せを受けているのは、預けられている子どもたち。日本の保育制度は、母親が働いている一握りの『保育に欠ける子』のために作られた時代から変わっていない。『子守なら誰でもいい』という発想ではなく、子どもの育ちを支えるためにはどうするべきかの議論が必要。保育士の給与を上げるだけではなく、専門性を高めるための人材育成にも投資をするべきだ」

 認可保育所の場合、運営費はほぼ、国や自治体からの補助金でまかなわれている。預かっている子どもの数や年齢によって、必要とされる保育士の数が決まっており、人件費も国が決めた「公定価格」を元に算出されている。運営側が保育士の給与をあげたくても、現場の保育士の数を増やしたくても、限界があるのだ。

 国も、対策は始めている。昨年4月にスタートした子育ての新支援制度では、平均5%の給与改善を掲げた。だが、財源のめどがたたず、今年度は平均3%の改善にとどまった。残り2%分を上げるには、約400億円が必要だという。

 このほか、試験をした自治体に限って3年間働ける「地域限定保育士」などの制度も始まった。来年度からは、保育士試験を年2回に増やすほか、小学校の教諭資格を持つ人や経験者で代替できるようにする案も出ている。

⭕️根本的な解決のための議論が必要だ

 だが、現場の環境が変わらない限り、人材が集まるとは思えない。基準をゆるめれば、保育士不足の解消どころか、保育の質の低下につながりかねない。日本の保育にかける予算は、先進諸国の中でも低い水準だ。財源を確保し、根本的な解決のための議論をする必要がある。

 10年ほど前、勤務していた長崎市の市立保育所民営化の問題について取材したことがある。当時の小泉首相が打ち出した規制緩和の流れを受けたものだった。市議会に出された資料には、市立保育園の保育士の給与が掲載され、「民営化すれば人件費が1億円削減でき、延長保育などいままでやっていなかったサービスもできる」と説明があった。

 議員からは、こんな発言が飛び出した。「失礼な言い方だが、保育士の給与が一般公務員と同じ水準というのは、高すぎるのでは」

 小学校の先生の給与なら、そんな発言をする人はいないのではないだろうか。乳幼児の命を預かる大切な仕事なのに、なぜ評価が低いのか。そこには、「女性の仕事」に対する偏見があるように感じた。

 その状況は、いまも変わっていない。保育士からは、給与の低さ以上に「子どもと遊んでいるだけだと思われている」と、仕事を正当に評価されていないことへの不満を耳にする。実際には、遊ばせているように見えながら子どもをのばしていくためには、高い専門性が必要とされる。

 1月、軽井沢で15人の命が奪われるスキーバスの事故が起きた。規制緩和の影響や、需要が大幅に増えたことで人手不足に陥っていることなど、バス業界の構造的な問題が指摘された。この時、保育士からは「構造が似ている。同じように、深刻な事故が起きてしまうのでは」という声があがっていた。

 事故が起きてからでは遅い。その被害者になるのは、子どもたちなのだ。

「保育園落ちたの私だ」=共働き家庭のために数を増やすのでなく、すべての子どものより良い発達を支えるために

⭕️「子供が保育園から無事返ってくるか」が心配

国会議事堂前での抗議行動で「保育園落ちたの私だ」と書かれた紙を持つ人たち(画面は一部加工しています)国会議事堂前での抗議行動で「保育園落ちたの私だ」と書かれた紙を持つ人たち(画面は一部加工しています)

 認可保育所なら、まあ大丈夫。そんな風に思っている親も多いのではないだろうか。

 白状すれば、私も1年ほど前までその程度の認識だった。だが、取材を進めていると、認可保育所であっても、安心して預けられる環境とはいえないところも少なからずあると感じるようになった。

 「毎日、保育園から無事に帰ってくるかどうか、気が気でなかった。子どもも不安定になり、自分も精神的に追いつめられた」

 都内のある認可保育所に子どもを預けていた保護者は振り返る。

 この保育所は2015年春、認証保育所(都が独自の基準で補助金を支給する認可外保育所)から認可保育所になったばかりだった。ところが、年度当初から、保育士が次々に退職。保護者からは「掃除が行き届かず、ぜんそくが悪化した」「泣いても放置されている」「けがをしても報告がない」といった苦情が寄せられた。

 自治体は、園長経験のある職員を毎日派遣。担当者は「こんなことは初めて。事故だけは起こしてはいけないと、ギリギリの対応をしてきた」という。

 昨年5月以降は園児の新規募集を停止し、転園希望者にはポイントを加点する優遇措置をとった。待機児童を抱える自治体としては極めて異例のことだが、都心部ではどこも保育園はいっぱいで、簡単に移れるわけではない。仕事を辞めるわけにもいかず、不安を抱きながらやむを得ず通わせ続けていた保護者もいた。

⭕️運営会社をめぐる様々な問題

ツイッターの画像から(画面は一部加工しています)ツイッターの画像から(画面は一部加工しています)

 混乱の背景には、運営会社の問題があった。

 認可保育所になることが決まった後の14年末、運営会社の株式が譲渡され、経営者が変わった。それまで結んでいた別の会社とのフランチャイズ契約が打ち切られ、突然名前が変更されるなど、保育方針が急に変わった。

 自治体の説明によると、大量退職の原因は「事業者本部と職員間のコミュニケーション不足」。保育士の1人は「子どものために残りたかったが、限界だった」と話した。系列の別の認証保育園でも、同じように保育士が大量退職し、休園した。

 この会社の担当者は「できるだけ混乱させないよう努めてきたつもりだが、もう少しいい対応ができたのではと反省している」と話した。問題のあった認可保育園では、昨年10月以降は正規職員の退職はなく、4月入園の2時募集から募集を再開し、4月以降は定員を減らして運営を続けるという。

 京都市では146月、保育資格のない職員が5歳児3人を園庭に投げ出し、うち1人が頭蓋骨を骨折する大けがをした。

 市の調査報告書によると、当時、担当保育士が外勤になり、保育士資格を持つ職員は現場にいなかった。けがをした後、ぐったりとしていたのにも関わらず病院の受診までに3時間経っていたことや、保護者には当初、「転んだ」と説明されていたことも指摘された。この園では、労務管理などが不適切で保育士の離職率が高く、この時も1人欠員があったという。

 茨城県取手市では151月、ある認可保育所で、保育士が0歳児に無理やりご飯を食べさせるなど不適切な行為をしていたことが発覚。この園は、12年に民営化されたばかりだった。会計処理のずさんさなども指摘され、運営する社会福祉法人が辞退すると届け出たため、来年度からは別の法人に委譲されることになった。

 仙台市では147月、園児を水筒で殴って全治1週間のけがをさせたとして、保育士が逮捕された。子どもが吐いたことに腹を立てたという。宮崎市では152月ごろ、保育士が園児にはさみを向けて「陰部を切る」と注意するなどしていたことわかり、市が「虐待行為にあたる」として、保育所側に文書で改善を指導した。

⭕️小さな子どもは訴えることすらできない

 こうしたことが小学校で起きていたらどうだろう。「小学校で先生が一斉に大量退職し、授業ができない」「先生が子どもを放り投げてけがをさせた」といったことが明るみに出たら、もっと大きな問題になっているのではないだろうか。保育園でも、「1件もあってはならない事案」だ。まして、小さな子どもは何かあっても、訴えることすらできないのだ。

 保育関係者からは、保育所の急増と保育士不足による「質の低下」が、こうした事例の背景にあるのでは、とたびたび指摘される。

 ある保育所運営会社の代表は、「最近、数を増やすことが優先され、認可の審査が甘くなっているのではないか。かなりずさんな業者も参入している」と話した。

 審査する側からも、懸念の声があがる。

 ある自治体の担当者は「保育士の配置や面積など、認可の基準をクリアしてさえいれば、『不安があるから認可しない』とはできない。また、一度認可してしまうと、取り消すことは難しい。一方で、基準を厳しくしてしまうと参入のハードルがあがり、量を増やせなくなる」。審査に関わったことがある保育の専門家も、「書類上、基準をクリアしていれば、認可せざるを得ない。話を聞いていて、不安を感じることはあり、『この点は改善してほしい』と意見を付記することもある」と明かした。

⭕️保育の質の判断は難しい

 2015年に始まった「子ども・子育て支援新制度」について話し合う政府の「子ども子育て会議」で会長を務めた無藤隆・白梅学園大学教授はこう話す。

 「保育の質がどうなっているかの判断は難しく、平均で議論をしても意味がない。大幅に数が増えた結果、通知表でいえば『5』のところも増えたが、『1』や『2』も出てきているかもしれない。ただ、全体からいえば、質の低い園はそれほど多くはない。今はまず、数を確保しなければならない時期。最低基準をクリアした業者には参入してもらい、研修などを通じてレベルアップを図るべきだ。自治体による情報公開の仕組みや、チェック機能はまだ十分とはいえない。強化して底上げを図るべきだ」

 323日、待機児童解消を求める院内集会が開かれた。その場に、娘を保育園での事故で亡くしたさいたま市の阿部一美さん(37)の姿があった。

 阿部さんは20096月、長女を授かった。認可保育所に入れず、育児休業を延長。それでも入れなかったため、さいたま市が独自に認定する「ナーサリールーム」という認可外保育施設に預けていた。お昼寝中にうつぶせ寝の状態で亡くなっているのが発見されたのは20112月、17カ月の時だった。5日前、「4月から認可保育所に入れる」という通知を受け取ったばかりだった。

 阿部さんは集会で、国会議員らを前に、涙をこらえながら訴えた。

 「いま、息子は認可保育所にお世話になっていますが、同じ保育園なのにこんなにも違うのか、こんなに差があっていいのかと、悔しく思っています。事故の背景には、労働環境が不十分で、保育士さんたちに負担がかかっていたこともある。保育園は入れたら終わりじゃなく、小学校入学までの長い時間、毎日生活するところ。規制緩和をして数を増やすのではなく、質の問題をきちんと考えてほしい」

 阿部さんは、その後に生まれた長男の保育所探しでも、苦労した経験がある。それでも、「数を増やせばいいという問題ではない」と話す。事故の背景には、人的に余裕がなく、子どもたちの昼寝の間に事務作業をこなさなければならないという事情があったのではと考えているからだ。「労働環境が整っていないと、目の前の子を見るより、その日その日をこなすことで精いっぱいになってしまう。事故が起きてからでは遅い」と語る。

 量か、質か。悩ましい問題、といいたいところだが、その問題設定自体がおかしい、と私は思う。どちらも大切に決まっている。

⭕️国は「解決策」を打ち出すが……

 「保育園落ちた日本死ね!!!」という匿名ブログを発端に、待機児童問題の解決を求める声が高まり、連日、国が打ち出した解決策が報道されている。小規模保育所の受け入れ拡大、一時サービスでの臨時対応などだが、いずれの案も、質の問題への懸念はぬぐいきれない。ただでさえ、多くの自治体では定員を弾力化し、詰め込むような形で「数」を増やしている。

 待機児童問題は、長年、対策が放置された結果で、現政権だけの責任とはいえないとは思う。責任問題はさておき、どう考えても、現状では予算が足りていない。新制度では、11兆円が必要と見込まれたが、2015年度予算ではうち4千億円の財源が確保できなかった。たとえ11兆円を実現できたとしても、先進国の中では低い水準だ。

 米国や英国での長年の調査研究から、質のよい乳幼児期サービスは、経済的にも社会的にも有効であることが指摘されている。保育への投資は、「費用対効果が高い」のだ。「共働き家庭のために数を増やす」のではなく、すべての子どものよりよい発達を支えるために投資する、という視点であれば、幅広い世代に納得感も生まれるのではないだろうか。

 私も、15カ月になる息子を保育園に預けている。当初は自分以外の人に預けることが不安で仕方なかった。今は安心して預けることができ、お迎えに行くのが楽しみだ。

 まだ言葉が話せない息子は、楽しかったことを伝えたいようで、その日遊んだおもちゃの場所を次々にめぐって見せてくれる。先生たちは「今日はこんなことがありましたよ」「こんなこともできるようになりましたよ」と声をかけてくれる。子どもの成長を我がごとのように喜び、見守ってくれる先生たちの存在は、本当に心強い。保育園は、子育て不安や母親の孤立といった問題の解決にもつながる。

⭕️「豊かな保育」とは何か

 保育園に見学に行くと、ネイティブの先生による英語や体操といったプログラムをアピールされることも多い。保護者の側が「英語はやってないんですか」と聞くことも多いという。

 だが、保育の専門家の間では、詰め込み型の早期教育はあまり意味がないといわれている。乳幼児期の間、子どもは遊びを通して学んでいく。一斉に何かを教えられるより、興味を持った時に伸ばしてあげることが大切なのだという。保育士が「ただ子どもと遊んでいるように見え」ても、子どもの能力を引き出すための見えない仕掛けが、そこにはあるのだ。

 いまの親世代は、子どもの頃から塾や習い事が当たり前にあった。みんなが机に座り、一斉に先生から何かを「教えてもらう」ことが、学びのイメージになっていないだろうか。

 本来の学びとは、もっと幅広く、日々の経験の中で積んでいくものなのだと思う。保育にまで習い事のようなプログラムを求めてしまうのは、日本における「学び」の概念の貧しさを表しているのかもしれない。

 「豊かな保育」とは何か。私たち親の側も、学ぶべきことがある。それが、保育士の仕事の評価を上げることにもつながる。保育士が誇りを持って働ける環境をともにつくっていくことが、「保育の質」を支えていくことになるのではないかと感じている。

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