鑑賞・万葉集の世界❶概略・リンク集・歌別
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🔵万葉集リンク集
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額田王
★★万葉集への招待計180m
🔷日めくり万葉集(1)
https://drive.google.com/file/d/1iq8OuOpZltAvfR2Gqqd-nkTASwCVhOxr/view?usp=drivesdk
🔷日めくり万葉集(2)
https://drive.google.com/file/d/1_HbpSbhWScgd2la13SmpGs01cDsSZYX6/view?usp=drivesdk
★★歴史秘話=万葉集 ~なぜ日本人は歌が好き?~
43m – FC2
★★100分de名著・万葉集
「万葉集」
現存する中では日本最古の和歌集「万葉集」。 2014 年度最初の「 100 分 de 名著」では、日本人の心の原点を探るために、この万葉集を取りあげます。
万葉集の中で最も多いのが57577の短歌です。中には5と7を長く繰り返す長歌もありますが、全てが57調です。和歌は宴などで声に出して披露されるものでした。そのため声の出しやすさから、自然に57調が定まったと考えられています。
万葉集は、様々な時代に詠まれた歌を、後になって集めて編集したものです。そのため時代によって、歌の作風が大きく変わります。そこで今回は、万葉集の歌を、時代ごとに4期に分類して解説することにしました。歌の変化を明らかにすることで、古代の日本が、どのように移り変わっていったかを知ることが出来るからです。
番組では、額田王、柿本人麻呂、大友家持など、万葉集の代表的な歌人にスポットをあてながら、古代の人々の “ 心の歴史 ” を読み解いていきます。
❶言霊の宿る歌
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最も古い、万葉集第1期に作られた歌の詠み手は天皇や皇族たちだ。野で女に語りかけ雄略天皇、朝鮮半島に向かう兵を鼓舞した額田王の歌などが有名だ。実はこうした歌が作られた背景には、言霊(ことだま)の存在がある。言霊とは、言葉に宿られた不思議な力のこと。古代の日本の人々は、言葉に対して特別な感情を抱いていたのだ。第1回では、万葉集の全体像をおさえると共に、古代の人々が歌にこめた思いを明らかにする。
❷宮廷歌人
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第2期では、第1期で詠み手となっていた皇族に代わって、柿本人麻呂などの宮廷歌人が活躍し始める。宮廷歌人とは、儀式などで歌を詠んだいわばプロの詠み手のことだ。彼らは天皇を神として賛美する歌を数多く残した。しかしなぜこの時代に、天皇が神としてたたえられたのだろうか?その背景には、国家の中央集権化という大きな時代の変化があった。第2回では、宮廷歌人たちの歌を通して、古代日本の歴史のうねりを描く。
❸個性の開花
http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kempou7408&prgid=60396959
第3期では、個性的な宮廷歌人が続々と登場する。この時代は、個人としての意識が強くなった時代だった。そのため、人間の内面や他人への共感に重きをおく作品が多くなった。代表的な歌人としては、田子の浦の富士を歌にした山部赤人、亡き妻への思いを読んだ大伴旅人、庶民の厳しい暮らしを描写した山上憶良などが有名だ。第3回では、万葉集第3期の作品から、人間の心や社会の現実を鋭く見つめた歌を味わう。
❹独りを見つめる大伴家持
http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kempou7408&prgid=60396965
第4期では、民衆が作った歌が急増する。その1つが東国の人々による方言を交えて詠まれた「東歌」だ。また九州防衛の任務を担った防人に徴用され、家族と別れを嘆いた「防人歌」も有名だ。こうした万葉集を、中心になってまとめたのは、大伴家持だった。繊細な感覚を持っていた家持は、憂いのこもった歌を数多く残している。第4回では、家持の歌に込めた心情を推理しながら、世の不条理と闘いながら懸命に生きる人々を描く。
(以下の2つの文献は、スマホの場合=画像クリック→最初のページのみ→エラー表示画面の上部の下向き矢印マークを強くクリック→全ページ表示)
🔵英雄たちの選択・万葉集を編集した大伴家持
🔵歴史鑑定・万葉集に隠された古代史
◆◆尾崎=万葉集選釈(万葉集の有名な 340 の歌解釈)
◆◆清川妙=万葉集恋うた
◆◆斎藤茂吉 = 万葉秀歌 ( 青空文庫 )
http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/5082_32224.html
◆◆ 0101 新日本新書・阪下=万葉集・東歌・防人歌 .pdf
★万葉集 7.34m
★大伴家持 4m
★大伴旅人 4m
★額田王 4m
★万葉集・波 ( 1 ) 10m
http://m.youtube.com/watch?v=HAjKOMNc1xw
★万葉集・波 ( 2 ) 10m
http://m.youtube.com/watch?v=ewohqMyuRqA
★万葉集講義
計 50m
( 1 ) http://m.youtube.com/watch?v=ww9cK8Qn1mg
( 2 ) http://m.youtube.com/watch?v=Q-LVXgGoGgA
(3)http://m.youtube.com/watch?v=1PEmz3QXkUg
◆◆万葉集の最初の歌(雄略天皇)と最後の歌(大伴家持)
★【朗読】 万葉集 防人の歌 9m
★【朗読】 万葉集 富士山の歌 15m
★ 100 分 de 名著 万葉集 No.1 のみ
計 25m
( 1 ) http://m.youtube.com/watch?v=JHP1cImHbSI
( 2 ) http://m.youtube.com/watch?v=lzo2dj07HbU
★万葉集・山部赤人講義 ( 全 12 回計 100m )
◆万葉集リンク集
★★歴史秘話 = 万葉集 ~なぜ日本人は歌が好き?~
43m – FC2
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◆◆尾崎=万葉集選釈(万葉集の有名な 340 の歌解釈)
◆◆清川妙=万葉集恋うた
◆◆斎藤茂吉 = 万葉秀歌 ( 青空文庫 )
http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/5082_32224.html
★万葉集 7.34m
★大伴家持 4m
★大伴旅人 4m
★額田王 4m
★万葉集・波 ( 1 ) 10m
http://m.youtube.com/watch?v=HAjKOMNc1xw
★万葉集・波 ( 2 ) 10m
http://m.youtube.com/watch?v=ewohqMyuRqA
★万葉集講義
計 50m
( 1 ) http://m.youtube.com/watch?v=ww9cK8Qn1mg
( 2 ) http://m.youtube.com/watch?v=Q-LVXgGoGgA
( 3 ) http://m.youtube.com/watch?v=1PEmz3QXkUg
★【朗読】 万葉集 防人の歌 9m
★【朗読】 万葉集 富士山の歌 15m
★ 100 分 de 名著 万葉集 No.1 のみ
計 25m
( 1 ) http://m.youtube.com/watch?v=JHP1cImHbSI
( 2 ) http://m.youtube.com/watch?v=lzo2dj07HbU
★万葉集・山部赤人講義 ( 全 12 回計 100m )
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🔷🔷新元号・令和と万葉集メモ
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🔷書評・品田=万葉ポピュリズムを斬る(赤旗20.12.06)
🔴❶新元号・令和の典拠としての万葉集
🔵(いちからわかる!)「令和」の出典、「万葉集」ってなあに? 2019年 4月 12日朝日新聞
■現存最古の歌集。皇族・貴族のほか無名の人の歌もあるよ
コブク郎 新しい元号の「令和」の出典になった「万葉集(まんようしゅう)」ってなあに?
A 日本現存最古の歌集だよ。奈良時代の8世紀初めから末までかけて編集され、全20巻には長歌や短歌など約4500首が収められているんだ。国書では初めて元号の出典となった。
コ 誰が作ったの?
A 最終的に、奈良時代の貴族で歌人の大伴家持(おおとものやかもち)が編集したと言われている。「令和」の出典となった観梅の宴を催した大宰府(だざいふ)の長官・大伴旅人(たびと)の息子だよ。
コ 平仮名で書かれているの?
A 歌の原文は、全部漢字なんだ。漢字の音や訓を使って日本語表記したもので、とくに万葉集で使われたので「万葉仮名」と呼ばれているんだ。
コ 詠まれたのはどんな時代だったの?
A 7世紀前半から759年までの約130年間に詠まれたと言われているよ。飢饉(ききん)や疫病、政変があったけれど、国の体制が固まって海外の文化を取り入れ、宮廷文化が定着していった時代なんだ。天皇や都をたたえる歌もあるよ。
コ 歌を詠んだのは?
A 額田王(ぬかたのおおきみ)、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、山上憶良(やまのうえのおくら)、山部赤人(やまべのあかひと)らだね。天皇・皇后や皇族・貴族のほか、九州の警護に行った無名の「防人(さきもり)」と呼ばれる人たちの歌もあるんだ。「防人に行くは誰(た)が背と問ふ人を見るがともしさ物思(ものも)ひもせず」は、夫を防人に送り出した妻が悲しみを詠んだもの。名前は残らなくても、歌と心情は伝わるね。
コ どんなものがうたわれているの?
A 風景や花鳥、とくに植物は160種以上詠まれている。花で一番多いのは秋の七草のひとつ、ハギなんだ。「高円(たかまど)の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに」は、今は亡き人をいたむ歌。ウメは2番目で、サクラもある。キクは当時もあったのに万葉集には登場しないんだよ。
(岡恵里)
🔴(寄稿)世界に開かれた万葉集の時代 「令和」、文化模索の世へのあこがれ 上野誠
朝日新聞デジタル 2019年 4月 4日
上野誠・奈良大教授
「令和」の典拠となった万葉集の写本(西本願寺本)の複製=奈良県明日香村の犬養万葉記念館提供
新しい年号が『万葉集』から採られた。それは、年号の歴史にとって、新しい第一歩を踏み出したことになる。というのは、中国の皇帝制度から生まれた年号が、日本文化のなかに根付いて、ついには和歌集の漢文序文から採用されることになったからだ。
時は、天平2(730)年正月13日のこと。九州・大宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で、花見の宴が催された。梅の花見の宴である。梅は、当時、外来植物で、珍しい植物であった。大宰府は、大陸との交流の玄関にあたる地であり、この地に赴任をした役人たちは、梅の花の白さに、魅了されたのである。旅人宅に集まった客人たちは、次々に歌をうたった。
その歌々を束ねる序文の書き出しには、こうあるのである。
「時に、初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぐ。梅は鏡前(きょうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」
これを原文で示せば、「于時、初春令月、気淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」となる。正月良き時に集えば、天気に恵まれ、風もやわらかで、梅の花は鏡の前にある白粉のように白く、その匂いといったら、まるで匂い袋のようだ、と宴の日を讃(たた)えている部分だ。
良き時に、良き友と宴を共にする。それが、人生の最良の時ではないか、とは、かの王羲之(おうぎし)(303?~61?)の蘭亭の序にみえる思想なのだが、大宰府に集まった役人たちは、自分たちを、あこがれの中国文人になぞらえて、漢詩ならぬ和歌を作って、披露しあう宴を催したのである。
*
天平の時代は、決して良い時代ではなかった。政変と飢饉(ききん)は、人びとの生活を苦しめたし、疫病も蔓延(まんえん)した時代である。ところが、世界の美術史にも特筆すべき、すばらしい仏像を造り、『万葉集』の歌々は、その後の日本の文学の源流となってゆく。
どんな時代にも、人びとは平和な時を求め、新しい芸術と文化を模索していたのである。「令和」という年号には、そういった平和への思いが込められている、と思う。と同時に、天平文化へのあこがれも内包されているのではなかろうか。万葉学徒のひとりとして、今、私はそんなことを考えている。
*
『万葉集』とは、いったいどんな歌集なのだろうか。
8世紀の中葉に出来た現存する最古の歌集で、その編纂(へんさん)者のひとりが大伴家持(おおとものやかもち)である。大伴家持の父が大伴旅人であり、大伴家持は、父と父の盟友ともいうべき山上憶良(やまのうえのおくら)にあこがれて、歌を作り続けたのである。
『万葉集』に収められている4500首あまりの歌々は、後の時代の範となって、和歌の歴史を作ってゆくことになる。つまり、『万葉集』こそ、和歌始まりの歌集なのである。外来の文字である漢字を使って、自分たちの言葉であるヤマト言葉を、いかに表すか。そこから日本文学の歴史は始まるのである。
『万葉集』の生まれた奈良時代ほど、日本が世界に開かれた時代はなかった。漢字・儒教・仏教・律令という中国文化を受け入れて、それをいかに自分たちのものにするのか。万葉びとは、悪戦苦闘した人びとでもあるのだ。
一方、万葉びとは、常に自分たちの足元を見つめる人びとでもあった。漢文で書けば意味は分かっても、そのニュアンスが伝わらない。和歌は理ではなく、情を伝えるもので、それは、自分たちの言葉で情を伝えるということなのである。
日本人は、歌で恋をすることを学び、人と人との絆を確かめた。『万葉集』は、その始まりの歌集ということができる。今、新しい時代が始まる――。
◇
うえの・まこと 奈良大教授 1960年、福岡県生まれ。2004年から奈良大教授(万葉文化論)。著書に『万葉文化論』『万葉集から古代を読みとく』など。オペラの脚本や小説も執筆。
令和(れいわ)は日本の元号の一つ。平成の次で大化以降 248番目の元号。平成は今上天皇の退位により 2019年(平成 31年) 4月 30日をもって終了し、皇太子徳仁親王が即位する 2019年 5月 1日から令和元年となる予定。日本の憲政史上では初の生前退位に伴う皇位継承による改元となる。初めて漢籍ではなく、日本の書物から選定された。
西暦 2019年(本年)は、 4月 30日までが平成 31年で 5月 1日から令和元年になる予定で、 2つの元号に跨る年となる。本項で公的に日本国内で令和が使用される時代(令和時代)についても記述する。
🔵岩波文庫の校注者による,「令和」Q&A集! か =筆者・もっとも正確でわかりやすい 2019.04.23https://www.iwanami.co.jp/smp/news/n29468.html
「令和」 Q& A集
「平成」の次の元号は「令和」と決まりました。ところで、「令和」の意味ってなに?出典とされる『万葉集』にはどう書いてあるの?どこで読めるの?
かなどなど、「令和」にまつわる疑問をまとめました。
岩波⽂庫『万葉集』の校注者(⼤⾕雅夫先⽣,⼭崎福之先⽣)監修の,読んで納得の Q&Aです。
Q:新しい元号の「令和」は、『万葉集』に由来するとか?
A:『万葉集』の巻五、「梅花の歌三十二首」に付けられた序に、
「時に、初春の令月(れいげつ)、気淑(うるは)しく風和(やは)らぐ」
とあるのが出典とされています。その意は、
「あたかも初春のよき月、気は麗らかにして風は穏やかだ」
ということになります。
(訓読と訳は、岩波文庫『万葉集(二)』より)
Q:「令和」ってどういう意味 ?
A:「令」は、「言いつける」「いましめる」「おきて」といった人を従わせる意と、「よい」「麗しい」「好ましい」といった相手を褒め讃える意と、対照的な二つの意味を持ちます。二文字の熟語の場合には、下に付くと「命令」「号令」「法令」「律令」などと従わせる意となり、上に付くと「令名」「令室」「令嬢」「令節」などと褒める意味になる傾向があります。一方、「和」は、「やわらぐ」「なごむ」「穏やか」、またそのありさまの意味です。「令和」という二字の熟語はないようですが、続けてみると、「麗しく穏やかである」「よいなごみの有様」といった意味に理解することができます。
Q:『万葉集』の「梅花の歌三十二首」ってなに?
A:天平二年(西暦 730年)正月十三日に、大宰府の長官(大宰帥(だざいのそち))の大伴旅人(おおとものたびと)が、自邸に人々を招き、庭園の梅花を鑑賞する宴を開きました。その参加者三十二人がひとり一首ずつ詠んだ歌三十二首で、すべてに「梅」の語が含まれています。
Q:序も和歌なの?
A:この三十二首の歌の前に置かれた「序」は、和歌ではなく漢文です。万葉集には和歌だけでなく漢文や漢詩も載せられています。ここは当時中国で美文の文体として知られた「四六騈儷体(しろくべんれいたい)」(四言、六言を基準とし対句を多用して記す文体)にならって書かれています。その原文を引くと、
「初春令月、気淑風和」
となります。
(岩波文庫『原文 万葉集(上)』より)
Q:誰が書いたの?
A:三十二首の歌はそれぞれに作者の官名などが記されていますが、序文には署名がありません。ですから序文の作者が誰かはたしかには分からず、この宴に参加していた山上憶良(やまのうえのおくら)の作と推定する説も江戸時代からありました。序文でこの「梅花歌」の詠まれたのが「帥老(そちろう)の宅」と書かれ、その「老」が尊称なので作者は旅人以外(おそらく憶良)であろうという理解によるものでした。しかし、近代になって「老」の使い方についての研究が進み、必ずしも尊称とは限らず、自称とも考えられることが明らかとなりました。また「わが園に梅の花散る」(822番歌)という旅人の歌の作者名が「主人」と尊称なしに(つまり自称として)記されることから、宴の主人の大伴旅人のもとで歌が集められ、記録されたことが想像されます。おそらく、序文も旅人の作と見るべきでしょう。
Q:大伴旅人ってどんな人?
A:大伴氏は古来大和朝廷内で軍事的役割を担ってきた一族で、旅人の父安麻呂(やすまろ)は壬申の乱( 672年)でも活躍しました。旅人は神亀五年( 728)頃に大宰帥となりましたが、台頭する藤原氏によって都から追われた人事であったとも言われています。異母妹の坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は万葉集に最も多くの歌を残す女性歌人です。また嫡子の家持(やかもち)は四百五十首以上の歌を残し『万葉集』の最後の歌(巻二十・ 4516番歌)を歌った人物で、全二十巻の編者とも言われています。大宰府の置かれた筑紫では筑前守の山上憶良らと交わり、この「梅花の歌三十二首」の詠まれたその年の秋に大納言となって帰京し、翌年( 731)亡くなりました。万葉集におよそ七十首の歌、漢文書簡などが採られているほか、当時の日本で作られた漢詩文を集めた『懐風藻(かいふうそう)』にも漢詩一首を残しています。
Q:漢籍を踏まえているって本当?
A:新日本古典文学大系『萬葉集(一)』のこの個所の語注に、
「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦」・文選十五」)とある」
と指摘されています。この指摘はすでに江戸時代初期の十七世紀末頃の学僧、契沖(けいちゅう)の著した『万葉代匠記(まんようだいしょうき)』(『契沖全集(一)』小社刊、 1973年、に収録)に見られます。また戦後の万葉集研究を牽引した学者の一人である澤瀉久孝の著した『万葉集注釈』(全二十巻、中央公論社、 1957-)にもその説は引き継がれています。なお契沖はこの序の書き起こし方が、中国東晋時代の書聖、王羲之(おうぎし)の著した「蘭亭序(らんていじょ)」に倣ったものではないかと推測しています。
Q:張衡(ちょうこう)の「帰田(きでん)の賦(ふ)」って?
A:後漢の張衡が書いた「賦」(韻文の形式)の一つで、官職を辞して故郷に帰る思いを述べたものです。「令」「和」の出てくる個所は、岩波文庫『文選(もんぜん) 詩篇(二)』では、「清和」という詩語の注にも引かれています。そこでの訓読は、
「仲春の令(よ)き月、時は和らぎ気は清し」。
張衡は、天文や暦数にも詳しく、渾天儀(天体観測器)や候風地動儀(地震計)を作成する一方、朝廷で太史令などとして仕えた後漢の前半を代表する学者・文人です。
*「帰田賦」の全文は、新釈漢文体系 86『文選(賦編)下』(明治書院)に掲載されています。岩波文庫『文選 詩篇(五)』には張衡の「四愁詩四首」を収録。
Q:「梅花三十二首」にはどんな歌があるの?
A:春さればまづ咲くやどの梅の花ひとり見つつや春日暮らさむ (山上憶良)
春になると最初に咲く庭の梅の花を、一人で見ながら春の日を過ごすものだろうか。(いや皆とともに梅花を楽しもう、という意味。)
わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも (主人の大伴旅人)
私の庭に梅の花が散る。(ひさかたの)天から雪が流れて来るのだろうか。
(当時の梅は白梅。白梅の落花を雪に見立てる表現は漢詩に多い。)
Q:どこで読めるの?
A: 岩波文庫『万葉集』全五冊(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注、全五冊、 2013−2015年)
☞およそ 4500首の歌すべて収録し、そのすべてに正確な訳と最新の研究成果を反映した注がついています。文選、懐風藻、万葉代匠記などの解説もあり。「梅花歌三十二首の序」は、第二冊に収録しています。
岩波文庫『原文 万葉集』上・下(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注、全五冊、 2015−2016年)
☞万葉仮名で書かれた原文を収録した文庫。「梅花歌三十二首の序」は、上冊に収録。
新日本古典文学大系『萬葉集』(佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注、全四冊、 1999-2003年)
☞岩波文庫の親本。信頼ある「新日本古典文学大系」の一冊で、現在はオンデマンド版で購入可能。「梅花歌三十二首の序」を収録した第一冊には、『文選』「帰田賦」との関連を指摘した補注もあり。
岩波現代文庫 折口信夫『口訳万葉集』(上・中・下、 2017年)
☞『万葉集』を、折口信夫が参考資料も使わずに訳していき、口伝えに弟子に書き取らせたもの。わずか二か月ほどで完成させました。「梅花歌三十二首の序」は、上冊に収録。
岩波現代文庫 大岡信『古典を読む 万葉集』( 2007年)
☞「片時も自分の座右から離すことのできないもの」として『万葉集』を愛読した大岡信さんが、詩人の感性でその魅力を語ります。美しい現代語による「梅花歌三十二首の序」全体の大意もあり。
岩波新書 リービ英雄『英語で読む万葉集』( 2004年)
☞作家・リービ英雄さんによる万葉集の英訳(抄訳)。「初春の令月、気淑しく風和らぐ …」部分の英訳も掲載しています。万葉集の国際的なひろがりを知るために最適の一冊。
岩波ジュニア新書 鈴木日出男『万葉集入門』( 2002年)
☞中学・高校生から大人まで人気のわかりやすいシリーズ〈ジュニア新書〉。代表的な歌を解釈しながら万葉集の世界へ誘います。「梅花歌三十二首の序」の解説も掲載。
(大谷雅夫・山崎福之監修/岩波文庫編集部まとめ)
🔵新元号・令和の典拠=万葉集三十二首序文 典
『万葉集』の「巻五 梅花の歌三十二首并せて序」を出典とする [ 11] 。原文および書き下し文、題詞は次の通り。
◆原文
初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。
◆書き下し文
初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
初春の令月にして、気淑よく風やわら和ぎ、梅は鏡前の 粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
( この後も日本の自然の美しさが続く )
より引用された [ 5] 。
( 梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序 )
◆題詞
梅花歌卅二首 [ 并序 ] / 天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封縠而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 <促 >膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以攄情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠 [ 12]
「令和」は確認される限りにおいて初めて日本の古典から選定された元号である [ 1] 。なお、平成改元時にも日本の古典を出典とする案はあったが最終案に残らなかったとされている [ 1] 。
◆◆梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序
万葉集入門から 日本最古の和歌集「万葉集」の解説サイトです。 分かりやすい口語訳の解説に歌枕や歌碑などの写真なども添えて、初心者の方はもちろん多くの万葉集愛好家の方に楽しんでいただきたく思います。(解説:黒路よしひろ)から以下
http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu5_815jyo.html
天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ひしきまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述※1(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。 ※1:「述」は原文では「手」遍+「慮」 —————————————–天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。 —————————————–この漢詩風の一文は、梅花の歌三十二首の前につけられた序で、書き手は不明ですがおそらくは山上憶良(やまのうへのおくら)の作かと思われます。その内容によると、天平二年正月十三日に大宰府の大伴旅人(おほとものたびと)の邸宅で梅の花を愛でる宴が催されたとあります。 このころ梅は大陸からもたらされたものとして非常に珍しい植物だったようですね。 当時、大宰府は外国との交流の窓口でもあったのでこのような国内に無い植物や新しい文化がいち早く持ち込まれる場所でもありました。 この序では、前半でそんな外来の梅を愛でる宴での梅の華やかな様子を記し、ついで梅を取り巻く周囲の景色を描写し、一座の人々の和やかな様を伝えています。 そして、中国にも多くの落梅の詩があるように、「この庭の梅を歌に詠もうではないか」と、序を結んでいます。 我々からすると昔の人である旅人たちが、中国の古詩を念頭にして「いにしへと現在と何の違いがあろう」と記しているのも面白いところですよね。 この後つづく三十二首の歌は、座の人々が四群に分かれて八首ずつ順に詠んだものであり、各々円座で回し詠みしたものとなっています。 後の世の連歌の原型とも取れる(連歌と違いここでは一人が一首を詠んでいますが)ような共同作業的雰囲気も感じられ、当時の筑紫歌壇の華やかさが最もよく感じられる一群の歌と言えるでしょう。
🔴令和は万葉集巻五、梅花の歌三十二首の序文=新元号を読み解く
2019年 4月 1日日本経済新聞
平成に代わる 5月からの新元号が 1日、「令和」に決まった。出典は日本最古の歌集「万葉集」から。「令」は元号に使われるのは初めて、「和」は 20回目となる。新時代を象徴することになる 2文字。どのような意味があり、願いが込められているのか、専門家に話を聞きながら読み解いた。
万葉集にある「初春の令月 …」。写真は旺文社の対訳古典シリーズ「万葉集」 ( 上 )
過去の元号の出典はこれまでに判明しているだけで 77。すべて中国の古典に由来する。出典を和書に求めたのは初めてとみられるが、これまでにも日本の古典から選ぶという考え方はあり、万葉集などの歌集はその有力候補だった。
「令和」の文字を引いたのは、万葉集巻五に収録された梅花の歌の「序」。この梅花の歌は 32首あり、大伴旅人を中心とするグループが詠んだとされる。漢字の音だけをあてて表記された「歌」と違い、「序」は表意文字としての漢字を使った漢文体であることも出典として適していた。
初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす
漢字に詳しい京都大の阿辻哲次名誉教授は「万葉集によると、『令月』とあるのは『素晴らしい月』という意味。まさに天皇の代替わりに伴う季節感と、平和を謳歌しているというイメージを受ける」と指摘。「令」には、「令嬢」「令息」といった言葉に使われるように「よい」という意味がある。
また「令」の漢字の構造は、ひざまずいている人に申しつけているという形で「命令」の意を含む。このため、令和を漢文調にすると「和たらしむ」とも読める。
阿辻名誉教授は「世の中を平和にさせる、という穏やかな印象にあふれている。世界が調和され、平和が永遠に達成されるというメッセージが込められているのでは」と話した。
東京大東洋文化研究所の大木康教授(中国文学)は「中国では『令月』に『吉日』と付けることが多い。令は吉と通じ、めでたい意味がある」。引用したのが春の梅の様子を歌ったものだったことについても「和やかな印象を受ける元号だ」と話した。
日本の古典が初めて元号の出典となったことには「画期的なことだ」と話す。ただ、歌に出てくる梅は中国を代表する花として知られており、「これまで中国の古典から引用してきたつながりや関係にも考慮したのではないか」とみている。
この「序」はどんな背景があるだろうか。倉本一宏・国際日本文化研究センター教授(日本古代史)によると、典拠となったのは万葉集に収録された 8世紀の歌人、大伴旅人を中心とする梅花の宴(うたげ)の「序」。正月に仲間を館(官舎)に招いての歌会で前置きとした文章の一部といい、「梅をめでながら旅人が宴を楽しんでいる心情を詠んだものだ」と解説する。
旅人は藤原氏との政争に敗れた長屋王と親しかったために太宰府に左遷されたといい、都をしのびつつ、もうすぐ帰れそうだとの希望を詠んだと解釈できるという。
倉本教授は「古代史家の間ではよく知られた史実で、微妙な政治情勢が下敷きになっている」。ただ、新時代の元号としては「戦争で荒廃した昭和時代のように、元号に込められた思い通りにはいかないことも少なくない。令和の文字のイメージそのものには、平和な時代になってほしいという思いが読み取れる」と語った。
◆大伴旅人と梅花の歌
何 蔚 泓 PDA17p
🔴❷本当に国書が典拠なのか=万葉集は漢字文・万葉集引用箇所は有名な中国文献(帰田賦)=詳細は前記の岩波書店の解説参照
🔵「令」「和」、次代への思い映す 序文、「中国の文章ふまえた」定説 新元号「令和」
2019年 4月 2日
元号の典拠として初めて使われた国書は「万葉集」だった。一般によく知られる日本最古の歌集だが、専門家はどうみるか――。
万葉集に関する著書が多い歌人の佐佐木幸綱さんは「万葉集は明治から昭和前期まで『国民歌集』で、日本人の心の原点として読まれた。戦後、そうした読み方が色あせ、現在は大学の卒論などでも人気はそれほどではない」と解説。そのうえで「山や川、海の描写の細密さ、多彩さなど、現代人が忘れ去った自然への興味と好奇心がうたわれている。この機会に万葉集の新しい魅力が発掘されるのでは」と期待する。
ただ、「令和」の二文字がとられた序文は中国の有名な文章をふまえて書かれたというのが、研究者の間では定説になっている。
小島毅・東大教授(中国思想史)によると、730(天平2)年正月に今の福岡県にあった大宰府長官を務める大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で宴会があった。そこで「落ちる梅」をテーマに詠まれた32の歌の序文にある「初春の令月」「風和(やわら)(ぐ)」が新元号の典拠だ。この序文が中国・東晋の政治家・書家である王羲之(おうぎし)の「蘭亭序(らんていじょ)」を下敷きにしているとし、心地よい風が吹き、穏やかでなごやかな気分になることを意味する「恵風和暢(けいふうわちょう)」という一節と重なるという。
さらに「梅は中国の国花の一つで中国原産ともされ、日本に伝わった。今回の元号選びは、ふたを開けてみれば、日本の伝統が中国文化によって作られたことを実証したといえる」とも指摘する。
また、村田右富実(みぎふみ)・関西大教授(日本上代文学)は「6世紀の中国南朝の梁(りょう)でつくられた全30巻の詩文集『文選(もんぜん)』にある後漢の張衡(ちょうこう)の『帰田賦(きでんのふ)』に典拠がある」とみる。「文選」は中国では文人の必読書となり、日本でも飛鳥、奈良時代以降、役人らに盛んに読まれた。「今回の元号は万葉集を典拠にしたのは間違いないが、その元になるものがあったという背景を踏まえ、万葉集に興味を持ってもらえれば」
日本文学研究者のロバート・キャンベルさんも「中国で伝統的に歌われる情景」として「帰田賦」説を唱えつつ、「国書か漢籍かということはどうでもよく、国を超えて共有される言葉の力、イメージを喚起する元号だ」と評価する。
漢字の成り立ちに詳しい加納喜光・茨城大名誉教授は、「令」には上から下へ指図する命令の令と、命令を聞く民がきちんと並ぶ様から「姿、形がよい」の二つがあると解説する。令和には「自然・環境がよく、気候が穏やかで、国民はなごやかである」という意味を読み解いた。
乾善彦・関西大学教授(国語国文学)は、常用漢字表の前書きで「筆写の楷書では、いろいろな書き方があるもの」の一つとして「令」も挙げられていることに着目。「発表の際に掲げられた『令』の字は最終画が左にはねているが、書き方が自由なので、自由な時代になるんじゃないでしょうか」と話す。
■<考論>時代の空気、くみ取った 元号の歴史に詳しい、所功・京都産業大名誉教授
初の国書由来の元号になるなら、来年、編纂(へんさん)1300年を迎える日本書紀かと思っていた。日本の和歌集で最古の万葉集を典拠としたのは、意外だったが、「英断」だと思う。日本の文化と言えば、やっぱり倭歌(やまとうた)とも称される和歌。和歌の会の漢文で書かれた「序文」からとったことは、より妥当だったと思う。
元号に「令」が使われるのは初めてだが、平成の「成」も昭和の「昭」も初めてだった。「令嬢」や「令夫人」というように良い美しい意味があり、いい文字だと思う。
(初の国書由来は安倍晋三首相の思いが反映されたとの指摘に)それはあんまり意識しすぎない方がいい。グローバル化が進む中で、日本人全体に単なるナショナリズムと異なるアイデンティティーを求める流れがある。自分たちのよって立つ根っこを持っていたいという思いは、ごく自然に今の若い人にもある。そういう時代の空気をくみ取ったと言っていい。
■<考論>歴史への理解、遠ざける 元号を避けて叙述する、保立道久・東京大名誉教授
私は元号を歴史用語として使うことは避けている。歴史の本質を注視する文化が必要だと考えているからだ。
日本史の事件名には元号が付くことが多いが、普通の人が数多くの元号を覚えるのは大変で、理解から遠ざかってしまう。例えば「承和(じょうわ)の変」(842年)、「貞観(じょうがん)津波」(869年)と言われても何のことかわからないのではないか。
承和の変は皇太子の座を追われた恒貞(つねさだ)親王が怨霊化し、後に火雷天神になったとも言われた事件で、私は「恒貞廃太子事件」と言っている。また、貞観津波は「9世紀日本海溝大津波」。東日本大震災と同じ形の津波で、約600年で繰り返すと地震学は早くから警告していた。これらは9世紀の話だが、現代も同じことだ。
元号法は、元号を政令で定めると規定しているだけ。行政が元号の使用を強制している実態はおかしい。元号法は、撤廃してほしいと考えている。
🔴中韓反応 万葉集出典に 中国紙「中国の痕跡消せぬ」 韓国紙「安倍政権の保守色を反映」
2019.4.1 17:53
新元号「令和」については中国国営新華社通信(英語版)が公表直後に速報するなど中国メディアは高い関心を示した。インターネットでも中国版ツイッター「微博(ウェイボ)」で「日本の新年号『令和』」がトレンドワードになった。
新元号の出典が漢籍ではなく初めて日本古典となったことについて、中国紙の環球時報(電子版)は「中国の痕跡は消せない」の見出しで、引用元の「万葉集」も中国詩歌の影響を受けていると指摘。ネットユーザーの間では新元号のもともとの出典は後漢の文学者、張衡の韻文「帰田賦」だとの主張も目立った。
中国外務省の耿爽(こうそう)報道官は1日の記者会見で、新元号について「日本の内政であり論評しない」と述べるにとどめた。
一方、韓国の左派系紙、ハンギョレ(電子版)は1日、新元号の出典について「安倍晋三政権の保守的色が日本の古典を出典とする年号誕生の背景にあるようだ」との分析を掲載した。
新元号決定を速報するインターネットの記事には、「『令和』になってからは、韓日関係が良くなることを祈ります」との書き込みがあり、多くの共感が示された。(北京、西見由章 ソウル、桜井紀雄)
🔴新元号「令和」海外メディアはこう深読みした 「国の誇りを強調」「支持基盤を意識」
JCAST4/1
2019年 4月 1日に発表された新元号「令和」の出典は、日本に現存する最古の歌集「万葉集」だ。これまでの元号は確認できる限りはすべて中国の古典が由来で、大きく方針を変えたことになる。
安倍晋三首相は同日正午過ぎから記者会見を開き、この点について
「我が国は歴史の大きな転換点を迎えているが、いかに時代が移ろおうとも、日本には決して色あせることのない価値があると思う」
などと説明した。ただ、海外メディアでは、必ずしもそれを額面通りに受け止めない向きもあるようだ。
AP通信「中国の古典を出典とする伝統からの決別」
AP通信は、「令和」が選ばれた理由として、
「厳しい寒さのあとに春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる」
といった願いを込めた、という安倍氏の発言を引用した上で、
「中国の古典を出典にする伝統からの決別は、安倍氏の極右政権から期待されていたことだ。政権は対中関係でタカ派になることも多い」
などと指摘。安倍氏とその熱心な支持者が、いわゆる「自虐史観」の問題を主張していることにも言及した。
ロイター通信は、
「専門家は、国の誇りを強調する安倍氏の保守的な政治的路線が反映されている、と指摘している」
として、安倍氏が万葉集について説明した一節を引用した。
「世界に誇るべきものであり、我が国の悠久の歴史、香り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄はしっかりと次の時代に引き継いでいくべきであると考えています」
保守系の朝鮮日報も …
韓国の保守系紙として知られる朝鮮日報は、菅義偉官房長官の会見直後の正午過ぎに配信した記事で、「政権の支持基盤である保守派を意識」して日本の古典が出典になったと報じ、安倍氏の会見を受けた記事でも、
「安倍政権の支持層である保守派は、日本の古典で元号が決定されなければならないと主張してきた」
と指摘した。
( J-CASTニュース編集部 工藤博司)
🔴令和の由来は初の「日本古典」 でもその一文、実は漢籍の影響が …?ロバート・キャンベルさんも言及
2019/4/ 1 18:19JCAST
2019年 4月 1日に発表された新元号「令和」は、初めて日本古典を由来とした元号であることが話題となっている。
過去のほとんどの元号が四書五経など中国の古典からの出典だった慣例を破り、万葉集の「梅花の歌三十二首」につけられた序文を出典とした。この経緯もあって斬新なイメージで受け止められているが、由来をさかのぼるとやはり漢籍に行きつくのではないか、という見解も出ている。
安倍首相は万葉集を出典としたと述べたが …( 2019年 4月 1日 J-CASTニュース編集部撮影)
岩波書店などが「帰田賦」との関連を指摘
「令和」の二文字は、「万葉集」中の「梅花の歌三十二首」の序文「初春の令月(れいげつ)、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かおら)す。」を出典としている。序文は歌人・大伴旅人が記したとされ、安倍首相は会見で
「梅の花のように、日本人が明日への希望とともに、それぞれの花を咲かせることができる。そうした日本でありたい」
という意味を込めたと述べた。
この新元号の発表の後、岩波文庫編集部のツイッターアカウントは、この序文もさらにさかのぼれば漢詩を由来としたものではないか、というツイートを投稿した。
このツイートに写真が添えられている「新日本古典文学大系」の注釈によれば、大伴旅人が記した序文の「初春の令月」は中国の後漢時代の文人張衡(ちょうこう、 78年~ 139年)の詩「帰田賦」の「仲春令月、時和気清(仲春の令月、時は和し気は清む)」を踏まえていると指摘されている。「帰田賦」は詩文集『文選(もんぜん)』に収録され、漢文学では必読の古典とされていた。
さらに国文学者のロバート・キャンベルさんも
「文選「仲春令月、時和気清」 ( 張衡「帰田賦」 ) へのオマージュを含めてナイスチョイス。」
とツイートした。
新元号の選定にあたり、安倍首相が日本の書物も参照としたいとの意向を示していたこともあって、日本古典から元号が採用されるのではないか、という見方は早くからあり、結果としてそれが現実に。日本はもちろん、中国メディアでも、この点に注目した報道がなされている。一方でこうした指摘から、漢文学と国文学のつながりの深さを改めて実感する声も見られる。
🔷🔷岩波文庫編集部のツイッター
新元号「令和」の出典、万葉集「初春の令月、気淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえていることが、新日本古典文学大系『萬葉集(一)』 iwanami.co.jp/book/b325128.h… の補注に指摘されています。
「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)」とある。」
🔴歸田賦(帰田賦)と萬葉集(万葉集)に見る「令和」 新元号
2019.04.01 植物・花・山野草
https://www.kyotocity.net/diary/2019/0401-reiwa/より
何かの発表直後にどこぞで指摘したことですが、いちおうこちらにも。
『萬葉集』(万葉集)の「梅花謌卅二首」并序より。
目録では「太宰師大伴卿宅宴梅花謌卅二首并序」。
「梅花歌三十二首」に序を合わせる、つまり、後に続く歌の序文です。
雑謌
梅花謌卅二首并序
天平二年正月十三日萃于帥老之宅申宴會也于時初春令氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香加以曙嶺移雲松掛羅而傾盖夕岫結霧鳥對縠而迷林庭舞新蝶空歸故鴈於是盖天坐地促膝飛觴忘言一室之裏開衿烟霞之外淡然自放快然自足若非翰苑何以攄情詩紀落梅之篇古今何異矣宜而賦園梅聊成短詠
『紀州本萬葉集巻第五』
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より
1941年(昭和 16年)の紀州本複写を底本として手打ちしたため、他本とは異なる箇所あり。
紀州本では「于時初春令氣淑風和」となっていますが、「于時初春令月氣淑風和」だと考えられます。
これはあくまでも序ですので、この後、大貳紀卿らの歌が続きます(が、今回の記事では控えておきましょう)。
この序について、江戸中期~後期の国学者、橘千蔭(加藤千蔭)の『萬葉集略解』による解説を紹介しておきます。
梅花歌三十二首幷序
目録に太宰師大伴卿宅宴梅花云云と有り。
天平二年正月十三日。萃二于帥老之宅一。申二宴會一也。于レ時初春令月。氣淑風和。梅披二鏡前之粉一。蘭薫二珮後之香一。加以曙嶺移レ雲。松掛レ羅而傾レ蓋。夕岫結レ霧。鳥レ對穀而迷レ林。庭舞二新蝶一。空歸二故雁一。
帥老は大伴卿を言ふ。此序は憶良の作れるならんと契沖言へり。さも有るべし。鏡前之粉は、宋武帝の女壽陽公主の額に梅花落ちたりしが、拂へども去らざりしより、梅化粧と言ふ時起これりと言へり。此に由りて言へるなり。珮後之香は屈原が事に由りて言へり。傾蓋は松を偃蓋など言ふ事、六朝以降の詩に多し。對穀は宋玉神女賦に、動二霧穀一以徐歩と有り。穀はこめおりのうすものなり。さて霧を穀に譬へ、穀を霧に譬へて言へり。契沖は對は封の誤かと言へり。
於レ是蓋レ天坐レ地。促レ膝飛レ觴。忘二【忘ヲ忌ニ誤ル】言一室之裏一。開二衿煙霞之外一。淡然自放。快然自足。若非二翰苑一何以攄情。請紀二落梅之篇一。古今何異矣。宜下賦二園梅一聊成中短詠上。
劉伶酒德頌に、幕レ天席レ地と言へるを取りて、蓋レ天坐レ地と言へり。促レ膝は梁陸陲詩に、促レ膝豈異人。註に促近レ膝坐也と言へり。飛觴は西京賦に羽觴行而無レ算。註に羽觴作二生爵形一と有り。忘言は莊氏に言者所二以在一レ意。得レ意而忘レ言と有るより出でて、ここは打解けて物語などする事を言ふ。さて蘭亭叙に、語二言一室之内一と有るに倣へり。此序は初めの書きざまよりして、すべて蘭亭叙を学びて書けり。開衿は胸襟を開くなどとも言ひて、心を開く事なり。
『日本古典全集 萬葉集略解第二』
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より
1926年(大正 15年)の日本古典全集刊行會版から引いています。
「請紀」は「詩紀」、「陸陲」は「陸 倕」だと考えられます。
太宰師として九州の大宰府にいた大伴旅人宅で催された(とされる)梅見の宴会。
ただし、この序は山上憶良が作ったのであろうと、江戸時代前期~中期の国学者である契沖が言っている、としており、筆者である橘千蔭も同意しています。
山上憶良は万葉の時代を代表する歌人の一人で、筑前守として筑紫へ下向しており、大宰府の周辺で多くの歌を詠みました。
また、宋武帝(南朝宋の武帝劉裕)と壽陽公主の名前を挙げて「鏡前之粉」について述べたり、「珮後之香」は楚の屈原に由来するとしたり、松を例える描写は六朝時代以降の漢詩に多く見られると解説したり、楚の宋玉による『神女賦』を引き合いに出しています。
その後も、それぞれ、この語句や言い回しは何々の漢籍や漢詩に似たようなものがありますね、と紹介し、この序は王羲之の『蘭亭叙』(蘭亭序)を学んで書いた、と結論付けています。
これらはあくまでも江戸時代頃の国学者による解釈ですが、この序には、なにかしら影響を受けたものがある、と考えられていたようですね。
この序を記した人物について、契沖は憶良としていますが、実際のところ、どなたであるか私には分かりません ……、終盤のくだりを見るかぎり、その人物は故意にこのような序を記したのでしょう。
『萬葉集略解』は「鏡前之粉」以降については触れていますが、それより前、「于時初春令月氣淑風和」の部分はどうでしょうか。
「于レ時初春令月。氣淑風和。」「時に初春の令月(めでたい月)、空気は優しくて風は和やか」
🔷🔷歸田賦
張衡
遊都邑以永久無明畧以佐時徒臨川以羡魚俟河淸乎未期感蔡子之慷慨感蔡子之慷慨從唐生以決疑諒天道之微昧追漁殳以同嬉超埃塵以遐逝與世事乎長辭◆於是仲春令月時和氣淸◆原隰鬱茂百草滋榮王睢鼓翼倉庚哀鳴交頸頡頏關關嚶嚶於焉逍遥聊以娛情爾乃龍吟方澤虎嘯山丘仰飛繊繳俯釣長流觸矢而斃貪餌呑鉤落雲間之逸禽懸淵沈之魦鰡于時曜靈俄景以繼望舒極盤遊之至樂雖日夕而忘劬感老氏之遺誡將廻駕乎蓬蘆彈五絃之玅指詠周孔之圖書揮翰墨以奮藻陳三皇之軌模苟縱心於域外安知榮辱之所如
『文選正文巻之三』
◆於是仲春令月時和氣淸◆の部分
「国立国会図書館デジタルコレクション」 より
明治 3年( 1870年)の宝文堂版を底本として手打ちしたため、他本とは異なる箇所あり。
本によっては「倉庚」は「鶬鶊」。ウグイス(鶯)の意味。
「於レ是仲春令月時和氣淸ム」「今は仲春の令月(めでたい月)、時は和やかで空気は澄む」
張衡は後漢時代の人。
優れた天文学者・数学者・地理学者・発明家・文学者として知られ、後漢朝で尚書の地位まで上りますが、汚濁した政治、王家の奢侈な暮らしぶりに耐えられなくなり、職を辞して「世俗を超越した生活」を企図します。
『歸田賦』(帰田賦)は「こういう暮らしをしよう」という張衡の気持ちをありのままに描いたものですが、厭世的な内容なのは彼が道家の思想(老荘思想)に強く影響を受けていたからです。
張衡による『歸田賦』や、『萬葉集略解』でも名前が挙がる『西京賦』は、南北朝時代の昭明太子(蕭統)が編纂したとされる詩文集『文選』に収められました。
日本の古人も目にしたかもしれませんね。
🔴Wiki=帰田賦
ウィキソースに歸田賦の原文があります。
『歸田賦』(帰田賦、帰田の賦、きでんのふ)は、賦様式の一首である。中国漢王朝(紀元前 202年 –紀元 220年)の官僚、発明家、数学者、天文学者であった張衡( 78年 –139年)によって書かれた。張衡の『歸田賦』は田園詩の中で後代に影響を与える作品である。この詩は自然を前面に出し、人間や人間の思想に重きを置かない共通主題を共有する様々な形式の詩に対する数世紀にわたる熱狂の口火を切る助けとなった。こういった詩は山水詩(英語版)といくらか似ている。しかし、田園詩の場合は、自然はそのより家庭的な表現に重きが置かれ、裏庭で見られるような花園や田舎で栽培されいてる自然の姿を称えている。『歸田賦』は自然対社会を含む中国古典詩の伝統的主題をも思い起こさせる。
「帰田」は「官職を辞し、郷里の田園に帰って農事に従うこと [ 1] 」を意味する。
背景
『歸田賦』は後漢順帝永和三年(紀元 138年)に作られた。張衡は首都洛陽の腐敗した政治から退き、河北河間の行政官の任を務めた後、 138年に喜んで引退を迎えた [ 2][ 3] 。張衡の詩は、彼の儒家教育よりも道教思想に著しく重きを置きながら、引退して過ごすことを望んでいた生活を反映している [ 4] 。柳無忌(英語版)は、張衡の詩は道教思想と儒教思想を組み合わせることによって「後の数世紀の玄学派詩歌と自然詩の先駆けとなった」と書いた [ 4] 。この賦において、張衡は道教の聖人である老子(およそ紀元前 6世紀)、孔子(紀元前 6世紀)、周公(およそ紀元前 11世紀)、および三皇についてもはっきりと言及している。
節選
🔴「令和」、万葉集に光 書店に注文殺到、はや増刷
朝日新聞デジタル 2019年 4月 2日 16時 30分
日本最古の歌集が脚光を浴びている。新しい元号「令和(れいわ)」が1日に発表されると、出典となった万葉集の関連本が売り切れる店も。一部の出版社は増刷を決めた。ゆかりの博物館にも問い合わせが相次ぐなど、関心が高まっている。
岩波書店は岩波文庫「万葉集(二)」の重版を決めた。新元号に引用された歌の序文がおさめられた巻だ。新元号の発表後、書店から注文が殺到したという。
KADOKAWAも、角川ソフィア文庫「新版万葉集 一 現代語訳付き」と、入門書の「万葉集ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」を8千部ずつ増刷する。古典の注釈書としては異例の増刷部数だという。伊集院元郁(もとふみ)・副編集長(35)は「新元号の典拠は中国の古典ではないかと思っていたので、万葉集と聞いて驚きました」。
同文庫は奥付の発行年に元号を使っており、今後の増刷分について「令和元年五月一日」で発行できるか検討している。4月半ばには書店に並べられるようにしたいという。
書店にも問い合わせが相次いだ。
「『梅花』の載っている本、ありますか」「改元を機に万葉集を学びたい」。ジュンク堂書店池袋本店には、発表直後から万葉集を求める電話や来店が続いた。典拠の歌が載った文庫2冊はすぐに売り切れ、注文を出した。今後は万葉集のフェアも開催予定だという。
芳林堂書店高田馬場店でも、数カ月に1度ほどしか売れないはずの万葉集の書棚に大きな隙間ができた。山本善之店長(36)は「これからブームが来そう」。1日のうちに早速発注した。平成絡みの本とともに棚に並べる予定だ。(細見卓司、沢木香織、河崎優子)
■ゆかりの地にも関心
万葉集ゆかりの自然景観や歌碑などが点在する奈良県明日香村。万葉学者で、文化功労者の故犬養孝さん(1907~98)の業績を顕彰する「犬養万葉記念館」には、新元号の発表直後から「万葉集のどこに書かれているのか」などとたずねる来館者や電話が相次いだ。岡本三千代館長(66)によると、4月1日は犬養さんの誕生日。「思わず遺影に『よかったですね』と声をかけてしまいました」
村内にある奈良県立万葉文化館の井上さやか・指導研究員は「編纂(へんさん)から約1300年たち、新元号という形で注目を集めたのは興味深い」と話す。
森川裕一村長(63)は「元号の最初とされる『大化』も明日香で始まった。日本の原点がこの地にあるという思いを新元号であらためて誇らしく思い、頑張らなくてはという責任も感じる」と話した。
一方、万葉集の代表的な歌人で、編者ともされる大伴家持(おおとものやかもち)が国守として赴任した富山県高岡市にある高岡市万葉歴史館。全20巻すべてがそろった写本では最古とされる鎌倉時代の「西本願寺本」の複製を所蔵し、新元号の発表直後から問い合わせが相次いだ。
歴史館は3日から、令和の典拠となった万葉集の解説などを行う特別コーナーを設ける予定。
■私はこう見る――世界に誇れる文化/安倍政権下ならでは/ひらがなでもよかった
<「万葉集」に詳しい漫画家・里中満智子さんの話> 万葉集を典拠にしたというのがすごくうれしい。1千年以上前に成立したのに、天皇や皇族のみならず庶民の歌もあり、女性の歌もある。日本が世界に誇ることができる文化資産だ。
「令」「和」が登場するのは、梅花の歌三十二首の序。大伴旅人が開いたうたげで、そうそうたる顔ぶれが集まって梅の花をめでながら歌を詠んだ際に、書いたもの。和歌が豊かな創作性を持ち、我が国独自の文化として花開いた時期であることがよくわかる。若い世代が過去の文化をふまえつつ新時代を生きていこうと思える元号だと思う。
<コラムニストの辛酸なめ子さんの話> 元号が上から授かるものから、みんなで参加、交流して楽しむ対象に変わった。前回は昭和天皇がお亡くなりになった後で、大騒ぎできる雰囲気もなかった。でもSNS時代の今回は、著名人も一般の人もAIも予想しまくった。
中国の古典ではなく万葉集に依拠した点も「日本を取り戻す」ことを大事にする安倍政権下ならでは。ただ、「春の訪れを告げる梅の花のように」という安倍首相の談話を聞いて、今までは冬の時代だったのですか、と聞き返したくなった。
<放送プロデューサーのデーブ・スペクターさんの話> 「令和」は悪くはないけど、響きはよくない。令は命令の令だし、「冷」の字を想像させ、冷たい雰囲気がまずある。しかも、「平和に従え」みたいに読める。上から目線が、安倍政権っぽい感じ。
中国の古典ではなく、万葉集から取ったのも何か意図があるのかと推測してしまう。漢字はどうしたって中国のもの。日本にこだわるのなら、ひらがなにしてもよかったのでは? 西暦の方が便利だけど、だからこそ元号は残してほしい。何もかも世界標準にして文化をなくすとつまらなくなるでしょう。
🔴万葉の宴、再び 福岡・太宰府
2019年 4月 3日
◆梅花の宴=大伴旅人邸は
当時の文献を参考にして作った衣装を着て、大伴旅人の歌などを読み上げる大宰府万葉会の会員ら=2019年4月2日午後0時14分、福岡県太宰府市
新元号「令和」のゆかりの地・福岡県太宰府市で2日、市民グループ「大宰府万葉会」メンバーら12人が当時の衣装に身を包んで「梅花の宴」を再現し、典拠となった梅の花の歌の序文などを朗唱する催しを開いた。松尾セイ子代表(80)は「万葉集は日本の宝。特に若い人にその魅力を伝えていきたい」と話した。(徳山徹、写真は長沢幹城)
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🔴❸新元号は令和と安倍首相自らが決定=「初の国書由来」・「美しい国と文化」・「国民一人ひとりが花ひらく新しい時代」を強調=手前勝手な解釈=政権浮揚のための「代替わり」キャンペーンの中心装置
【筆者=「初の国書由来」「美しい国と文化」は事実と異なる。ましてやSMAPの歌などを引用しての「国民一人ひとりが花ひらく新しい時代」なんて、どこに書いてあるのか?我田引水とはまさにこのことだ。このウソにだまされてはいけない。令和絶賛の解説の舌の根が乾かない19.05.03安倍首相は、日本会議の憲法集会にメッセージをよせ、2020年に憲法改正を行いたいと「令和元年という新たな時代のスタートラインに立って、国の未来像について真っ正面から議論を行うべき時に来ている」と述べた。令和という新時代は、改憲とセットとなった時代なのだ。「国民一人ひとりの花がしぼんでしまう」時代にしようと虎視眈々と狙っているのだ。ウソ八百首相にだまされるな。】
日本会議の憲法集会への安倍首相のメッセージ
🔷🔷安倍首相の新元号・令和の解説
万葉集は20巻から成り、約350年間にわたって詠まれた約4500首を集めている。額田王(ぬかたのおおきみ)、柿本人麻呂、山上憶良らが代表的な歌人だが、天皇から防人、無名の農民に至るまで幅広い歌人が含まれ、地方の歌も多くある。安倍首相は「幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、わが国の豊かな国民文化、長い伝統を象徴する国書」と説明した。
首相は「厳しい寒さの後に、春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたいとの願いを込め、令和に決定した」と語った。
「大化」から「平成」までは、確認されている限り中国の儒教の経典「四書五経」など漢籍を典拠としており、安倍政権の支持基盤である保守派の間には、国書に由来した元号を期待する声があった。政府は今回、国書を専門とする複数の学者にも考案を依頼していた。
■「令和」(れいわ)の典拠
<出典>
『万葉集』巻五、梅花(うめのはな)の歌三十二首(うたさんじゅうにしゅ)并(あわ)せて序(じょ)
<引用文>
初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香
<書き下し文>
初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風(かぜ)和(やわら)ぎ、梅(うめ)は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす
<現代語訳(中西進著『万葉集』から)>
時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている。
🔴安倍晋三首相は、談話で、「春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように一人ひとりが明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、決定した」と述べた[ 8] 首相は新元号に込めた願いを「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたいとの願いを込め、『令和』に決定した」と語った。
🔵安倍首相談話と会見質疑要旨 新元号「令和」
朝日新聞 2019年 4月 2日
安倍晋三首相が1日の記者会見で読み上げた首相談話(全文)と質疑の要旨は以下の通り。
【首相談話 新しい元号「令和」について】
本日、元号を改める政令を閣議決定いたしました。
新しい元号は「令和(れいわ)」であります。
これは、万葉集にある「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして 気淑(きよ)く風(かぜ)和(やわら)ぎ 梅(うめ)は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」との文言から引用したものであります。そして、この「令和」には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ、という意味が込められております。
万葉集は、千二百年余り前に編纂(へんさん)された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。
悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる。そうした日本でありたい、との願いを込め、「令和」に決定いたしました。文化を育み、自然の美しさを愛(め)でることができる平和の日々に、心からの感謝の念を抱きながら、希望に満ち溢(あふ)れた新しい時代を、国民の皆様と共に切り拓(ひら)いていく。新元号の決定にあたり、その決意を新たにしております。
五月一日に皇太子殿下が御即位され、その日以降、この新しい元号が用いられることとなりますが、国民各位の御理解と御協力を賜りますようお願いいたします。政府としても、ほぼ二百年ぶりとなる、歴史的な皇位の継承が恙(つつが)なく行われ、国民こぞって寿(ことほ)ぐことができるよう、その準備に万全を期してまいります。
元号は、皇室の長い伝統と、国家の安泰と国民の幸福への深い願いとともに、千四百年近くにわたる我が国の歴史を紡いできました。日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を支えるものともなっています。この新しい元号も、広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくことを心から願っております。
【質疑】
――平成の次の時代、どのような国造りをするか。
「我が国の悠久の歴史、薫り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄はしっかりと引き継ぐ。同時に変わるべきは変わっていかなければならない。政治改革、行政改革、規制改革、抵抗勢力という言葉もあったが平成の時代、様々な改革はしばしば大きな議論を起こした。他方、現在の若い世代は変わることを柔軟に、前向きにとらえていると思う。本日から本格的にスタートする働き方改革は、何年もかけてやっと実現するレベルの改革だ。次代を担う若者たちが頑張っていける一億総活躍社会をつくり上げることができれば、日本の未来は明るいと確信している」
――令和の決め手は何だったのか。
「我が国が誇る悠久の歴史、文化、伝統の上に、次の時代を担う世代のためにどういう日本を築き上げていくのか。新しい時代への願いを示す上で最もふさわしい元号は何かという点が一番の決め手だった」
「平成の時代のヒット曲に『世界に一つだけの花』という歌があったが、次の時代を担う若者たちが明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、希望に満ちあふれた日本を作り上げていきたい」
――皇太子さまの即位後、国民の代表である首相としてどのような関係を築くか。
「新しい令和の時代を国及び国民統合の象徴となられる殿下とともに歩みを進めて参りたい」
🔵元号案、首相指示で追加 「令和」3月下旬に提出 6原案、皇太子さまに事前説明
朝日新聞 2019年 4月 30日
新元号「令和」は、安倍晋三首相の指示で政府が3月に複数の学者にさらなる考案を求め、国文学者の中西進氏が同月下旬に追加で提出した案だったことがわかった。首相が同29日の皇太子さまとの面会で、「令和」を含む六つの原案を示していたことも判明した。 ▼2面=濃い政治色
複数の政府関係者が明らかにした。首相は2月末、「国民の理想としてふさわしいようなよい意味」「書きやすい」「読みやすい」といった留意事項に基づき、事務方が絞り込んだ十数案について初めて報告を受けたが、学者に追加で考案を依頼するよう指示した。
政府は3月14日付で国文、漢文、日本史、東洋史などの専門家に正式委嘱。その前後の3月初めから下旬にかけて、国書と漢籍の複数の学者に追加の考案を打診した。その求めに応じて提出された複数案の一つが、中西氏が3月下旬に出した「令和」だった。
首相はその後、28日の首相官邸幹部らによる協議で「英弘(えいこう)」「久化(きゅうか)」「広至(こうし)」「万和(ばんな)」「万保(ばんぽう)」「令和」を原案とする方針を決定。政府関係者によると、首相は翌29日、皇太子さまとの一対一の面会で六つの原案を説明したという。
新元号「令和」は、4月1日の有識者による元号に関する懇談会、衆参両院正副議長への意見聴取、全閣僚会議を経て決まったが、首相は政府がこうした国民代表に意見を聴く前に、新天皇となる皇太子さまに元号案を説明していたことになる。皇太子さまへの事前説明は、日本会議などの保守派が求めており、自らの支持基盤に対する政治的な配慮だった。
憲法4条は天皇の国政関与を禁じている。皇太子さまは即位を目前に控えた立場だが、政府は「意見を求めず状況報告するだけなら、憲法上の問題は生じない」(内閣法制局幹部)としている。
これに対し、高見勝利・上智大名誉教授(憲法学)は「皇太子への事前説明は、元号の制定を天皇から切り離した元号法の運用を誤るものだ」と指摘。そのうえで「憲法4条は政治の側が天皇の権威を利用することも禁じている。特定の政権支持層を意識した首相の行為は、皇太子に意見を求めたかどうかに関係なく『新天皇の政治利用』にあたり、違憲の疑いがある」と批判している。
🔴(時時刻刻)新元号、濃い政治色 首相「他も検討しよう」 万葉集、政策重ね好感
2019年 4月 30日 05時 00分
新しい元号「令和」の選定過程を検証すると、安倍晋三首相主導の強い政治色が浮かんできた。首相が指示して元号案を追加し、皇太子さまに事前説明をしていた。 ▼1面参照
元号を決めるまで1カ月余りに迫った2月末。元号案の絞り込みは政府の要領に基づき、菅義偉官房長官のもとで進めることになっていたが、菅氏は「最終的には首相が決めるんだから、首相も入れて議論しよう」と判断。首相をトップとする作業が政府内で極秘に本格化した。
平成が始まって間もなくから内々に提出を受けてきた元号案のうち、考案者が亡くなった案などを除くと70程度。そこから改元の実務を担う古谷一之官房副長官補らのもとで十数案まで絞り込んでいた。絞り込む前後の案すべてを初めて見た首相は「うーん」と冴(さ)えない表情を浮かべた。
「まだ時間はある。他にも検討してみよう」
事務レベルの事前準備の段階から、首相の意向を反映して国書を典拠とする案は幅広く用意されていたが、この首相指示を受けて、古谷氏らは複数の学者に改めて「新しい案を考えてもらえないか」と相談することになった。
2013年4月に副長官補に就いた古谷氏は、前任者からの引き継ぎで、首相が官房長官や第1次政権の時代から「元号の典拠は国書の方がいい」と求めていたと聞いた。就任したその年のうちに、万葉集研究の第一人者として知られる国文学者の中西進氏に新たに考案を依頼した。
すでに民主党政権下でも準備は進んでいたが、古谷氏はさらに国書の選択肢を広げようとしたのだ。18年夏、「国書の先生にもお願いしていますから」と報告を受けた首相は「それはいいね」と応じた。
2月に行われた協議の段階では、聖徳太子の十七条憲法の「和をもって貴しとなす」から採った「和貴(わき)」も候補だったが、葬儀社関連の名前に使われており見送られた。国書の中でも「日本書紀」などの六国(りっこく)史や「古事記」は、天皇の業績をたたえる文脈が多く、神話に根ざした内容が世論の批判を浴びかねないという難しさもあった。
首相の指示を受けた学者への追加依頼は3月初めから断続的に続いた。下旬には首相や菅氏、杉田和博官房副長官、古谷氏、今井尚哉首相秘書官が連日のように協議。18日の週になって追加考案を打診した中西氏から数案が届いたのは、25日ごろ。新元号の決定まで1週間だった。
首相は中西氏の数案の中にあった「令和」に目をとめた。「万葉集っていうのがいいよね」。最大の決め手は典拠だった。万葉集は天皇や皇族から、防人(さきもり)、農民まで幅広い層の歌を収めているとされてきた。首相は政権の看板政策「一億総活躍」のイメージを重ねて気に入り、28日の協議で「令和」を本命に6案を原案とする方針を決めた。
他の案が元号になる可能性も排除していなかったが、4月1日の元号に関する懇談会で9人中8人が「令和」を支持。政府高官は「これほど『令和』が良いと言われるとは思っていなかった」と安堵(あんど)した。
新元号の決定にあたって、どんなメッセージを発するべきか。首相は「令和」で一億総活躍を体現したがったが、首相官邸幹部は進言した。「首相の元号ではなく、次の時代の元号。政権の政策につなげて『安倍色』を出し過ぎれば、政治的なリスクになりますよ」
首相が4月1日に発表した談話に、一億総活躍の文言は盛り込まれなかった。しかし、記者会見で首相は「一億総活躍社会をつくり上げることができれば、日本の未来は明るい」と強調。テレビ番組をはしごし、自ら前面に立って新元号をアピールし続けた。
■事前説明、違憲の指摘も 保守派に配慮、交換条件
元号の発表を3日後に控えた3月29日。首相は東宮御所で皇太子さまと一対一で向き合った。皇太子さまが静養先から戻った当日の夜にもかかわらず面会したのは、前日固まった元号の原案を伝えるためだった。
首相は通常、天皇に国政報告を行う内奏は行っても、皇太子に個別に会うことはない。このためまずは天皇陛下に、そのあと皇太子さまのもとへ向かった。
「首相は新元号が自らのおくり名となる皇太子さまだけに元号案を説明した」。政府関係者の一人は、そう明かす。背景には保守派への配慮があった。
憲政史上初の天皇退位に伴う改元となった今回、政府は新元号を事前公表する方針を早々に固めた。新元号を天皇陛下の在位中に決めれば、新元号を記した改元の政令に署名・押印して公布するのも、いまの陛下になる。これに対し日本会議などの保守派は「新天皇による公布」を求め、強く反発した。
首相は昨年12月下旬、衛藤晟一首相補佐官ら保守系議員を首相公邸に秘(ひそ)かに招き、新元号の「1カ月前公表」を受け入れるよう説得。衛藤氏らが交換条件として首相に求めたのが「皇太子さまへの元号案の事前説明」だった。
1989年の前回の改元では、新元号を閣議決定する直前の段階で、即位したばかりの天皇陛下に「平成」が伝えられた。内閣が正式決定する前の伝達は、新天皇への格別の配慮だ。憲法学者の間には「国民主権の憲法の趣旨に反する」との批判があった。
今回、首相は発表日ではなく、3日前に「事前説明」という全く別の形で新天皇への配慮をしたことになる。その上で4月1日当日は閣議決定後に天皇陛下と皇太子さまに伝えた。記者会見の最後には「閣議決定を行った後に、今上陛下および皇太子殿下にお伝えいたしました」と強調した。
しかし、発表3日前に複数案を提示した首相の行為は、閣議決定直前に「平成」を伝達した前回よりも「新天皇が元号の選定過程に関与したのではないか」という違憲の疑いを強く招く結果をもたらした。
🔴「令和」考案は中西進氏 万葉集研究者 政府関係者認める
朝日新聞 2019年 4月 20日
政府は19日、新元号「令和」の選考過程で1日に開いた有識者懇談会、衆参両院正副議長への意見聴取、全閣僚会議の議事概要を公表した。「令和」以外の最終案やそれらの考案者は明らかにしなかった。だが、朝日新聞の取材に対し、複数の政府関係者が「令和」を考案したのは国文学者で、万葉集研究第一人者の中西進氏(89)だったことを認めた。 ▼4面=9人中8人支持、13面=インタビュー
中西氏は1970年に著書「万葉集の比較文学的研究」などで日本学士院賞を受賞。94年には宮中行事「歌会始」で天皇陛下に招かれて歌を詠む「召人(めしうど)」を務めた。2011年から富山市の「高志の国文学館」の館長。安倍政権下の13年に文化勲章を受章した。政府が新元号の典拠とした万葉集の研究で第一人者として知られているため、中西氏は元号発表直後から考案したと有力視されてきたが、取材では認めていない。
政府は今年3月14日付で国文、漢文、日本史、東洋史の学者に元号の考案を委嘱。1日の決定過程では、中西氏が考案した「令和」を含む6案を有識者9人による「元号に関する懇談会」などに提示した。
政府が公表した議事概要によると、懇談会の場では「令和」について、「我が国がもっている素晴らしい洗練された文化を象徴している」など賛同する意見が相次いだとされる。懇談会などの詳細な議事録は別途作成して、「令和」の次の元号が決まった後に国立公文書館に移管して公開する方針だ。
🔴(インタビュー 平成から令和へ)万葉集と元号 国文学者・中西進さん
2019年 4月 20日 05時 00分
元号としては初めて、中国古典ではなく「国書」から引用されて注目された新元号「令和」。政権の姿勢が反映されたとの批判もあるが、日本最古の歌集・万葉集と元号が21世紀に出合った意味は何なのだろう。万葉集研究の第一人者で、令和の考案者であると有力視されてきた国文学者・中西進さんが18日、取材に応じた。
――令和が新元号に決まりました。どんな感想を持ちましたか。
「僕などの意見を聞くまでもなく、世論調査で8割を超える人々が良いと答えています。僕自身もその人たちの中に入りますね」
――安倍晋三首相は令和について「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味だと述べました。
「令和の典拠である万葉集の『梅の花の歌の序』は、九州の大宰府に役人ら32人が集まって開かれた梅花(ばいか)の宴についての説明文です。誰か一人が歌を詠んでいるのではなく、32人が歌を通して集い、心を通じ合わせている姿。その和がいいと思います」
「国と国との間に和がある状態、それが平和です。だから令和には平和への祈りも込められているのだと、僕は考えます」
■ ■
――令という文字は今回、「令月」から採られました。
「辞書を引くと、令とは善のことだと書いてあります。つまり、令の原義は善です。そこから派生して、文脈ごとに様々な別の使い方が前に出てくる。人を敬う文脈では『令嬢、令息』にもなるし、よいことを他人にさせようとすれば『命令』にもなります」
「品格のあること、尊敬を受けること。そういう意味での『よいこと』が令です。そして、令に一番近い日本語は何かといえば、『うるわしい』という言葉です」
――安倍首相は「美しく」と談話で言っていましたが。
「これからは『うるわしく』と言うべきでしょうね。うるわしいと美しいは、イコールではありません。うるわしいは、整っている美しさのことです」
――令和という元号の考案者には、いまの時代に「整っている美しさ」が必要だと考える理由があったのでしょうか。
「あるでしょうね。いまが野放図な時代だからです。明確な目的もポリシーもない。私たちは目標を持つべきです。そして何を目標にするべきかと言えば、令です」
――令和が発表された後、自著を刊行する出版社に「『万葉集』は、令(うるわ)しく平和に生きる日本人の原点です」というメッセージを送りましたね。なぜ、「平和」という2文字を選んだのですか。
「僕は戦禍を嫌というほど体験しているのです。先の大戦で、中学生だった僕は、東京が空襲で焼け野原になったのを見ました。爆風で衣服を吹き飛ばされ、ろう人形のようになった裸の遺体がたくさん転がる中、軍需工場へ出勤したのです。機銃掃射も受けました。魂に影響を受けた経験です」
――なぜいま、平和という言葉を社会に送ったのでしょう。
「終戦から約70年、日本人は自国の軍国化を何とか防ぎ、おかげで平和が保たれてきました。しかしいま、難しい局面が立ち現れています。政治リーダーは苦労をする立場にあるのでしょう。でもそこには決して越えてはいけない線、聖なる一線があるのだと僕は訴えたかったのです。軍国化をしてはいけないという一線です」
――誰が令和の考案者かを知ろうとする取材陣に中西さんは「元号は個人ではなく、天が決めるものだ」と言っていますね。
「ええ、天が決めるものであって、個々人の名前とは切り離されるべきものだ、と思います」
――元号を考案するという作業は、相当の時間や負担のかかるものなのではありませんか。
「元号を考案することは、名誉な重荷でしょう。案を出すプレッシャーは大きく、考案者はいつもそのことが頭から離れないと思いますよ」
――令和をめぐっては、万葉集のほかにも典拠・出典があるという批判の声もあります。
「王羲之(おうぎし)の『蘭亭序(らんていじょ)』や、詩文集『文選(もんぜん)』の『帰田賦(きでんのふ)』のことですね。確かに形式などに共通性を見いだすことも可能ですが、文脈や意味がかなり異なるので、典拠にあたるとは思いません」
「そもそも僕は、出典が何かより、その言葉がどのような表現かの方が大事だと考えます。受容は変容であり、万葉集も単なるものまねではない独自性に到達しています。文化や文明は、変容を肯定的に認めることによって育まれるものです」
■ ■
――そもそも、元号とは何なのでしょう。
「僕の生家には、子どもが生まれると親が庭に木を植える習慣がありました。まず姉の木、次に僕の木 ……という具合です。子どもとともに木も育つ。生命が互いに伴いながら進んでいきます」
「元号も、天皇の誕生(即位)とともに生まれるものです。新たに誕生したものに名付けられるもの。一国のライフ・インデックス、『生命の索引』ではないかと考えます。元号は年数の数字の羅列を区分するものです。文化に属する存在、文化的な装置です」
――元号は元々は中国で生まれた制度です。考案する際も中国の古典が典拠にされてきました。しかし今回は、日本で書かれた「万葉集」が出典とされました。
「元号の制定にはいろいろな条件がありますが、それには少しおかしいところがあります。中国で聖典とされているものがそのまま日本でも聖典となりうるのか、他国にある既往の “ 産物 ” に縛られてもよいのか、という疑念です」
「日本は古代以来、近隣にある圧倒的な文明国であった中国の文化に抱っこしてもらい、中国に依存する形で歴史をつむいできました。しかしそれは、いつかピリオドを打たなければいけないことだったのだと思います」
――ただ、国書への転換を願った人々の中に近隣国を軽視する人がいたことは気になります。日本が独善や孤立に陥らないためには何が必要でしょうか。
「それこそ『和』でしょう。そして、和の対極にあるのが暴力的な他国への越境です。日本には、朝鮮半島などに武力で押し入ってしまった歴史があります。そういう近代のひどい歴史は、もう終わりにすべきです」
「漢字という共通性を持つ東アジアという大きな文化の中に、日本はいるのです。排他的であってはなりませんし、とはいえ、自分を失う形で溶け込んでもいけない。国際性を持ちつつ、独自の理想を掲げてほしいですね」
――万葉集には戦前、国家による戦争動員に利用された歴史もあります。たとえば大伴家持(おおとものやかもち)の「海行かば」は曲を付けられ、天皇のために死ぬことを美化する目的で使われました。
「二度とあってはならないことだったと思います。国家主義的・軍国主義的な便宜のために、権力者に古典が利用されてしまった例です」
「戦前には日本を『神の国』と特別視する風潮があり、戦争は『聖戦』と正当化されました。フェイクでしたが、そうした『日本的特性』を示したい勢力に万葉集は利用されたのです。古典を利用しようとする勢力はいまもあります」
■ ■
――万葉集が貴族や天皇だけでなく庶民の歌も収めていることには、どんな意味があるでしょう。
「万葉集には防人(さきもり)の歌がたくさんありますが、特徴的なのは、その多くに作者名が書かれていることです。戦争では兵士は消耗品とされ、万単位でカウントされる存在ですが、万葉集は防人の人々に固有名詞を与えているのです」
――万葉集は漢字で書かれています。文字を持たない日本が中国から漢字を採り入れた。それが万葉集誕生の基盤にありますね。
「外国にある優れたものを拒絶せずに採り入れることは、日本の特徴だと思います。注目すべきは、単に採り入れるだけではなく、自分たちが使いやすいように作り替えていったこと。日本は漢字を作り替えることを通して、独自のひらがなやカタカナによる無限の美の世界を創出しました」
「日本文化には、内部に光源を包み持った球体のイメージがあります。外部にあるものを取り込んで新しい輝きに作り替え、それによって内部から輝くのです。『日本文化か、それとも中国文化か』といった二項対立的なモノの見方とは異なる、文化の姿です」
――元号はこの先も存在感を維持できるでしょうか。
「利用を強制できるわけでない以上、元号という文化に参画する喜びがカギになるでしょう」
――今回の元号の決め方について、どう思いますか。
「今回、候補になった元号案を検討したのは、『懇談会』の識者9人と衆参両院の正副議長、閣僚でした。これでは、検討の機会が少なすぎると思います。多数が議論しなければいけない」
「議論をしても、たぶん令和が一番いいとは思いますよ。それでももう少し議論をしないと」(聞き手 編集委員・塩倉裕)
*
なかにしすすむ 1929年生まれ。国際日本文化研究センター名誉教授。万葉集に迫る独創的な研究は「中西万葉学」とも。「中西進著作集」など著書多数。
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🔵安倍首相アピール令和の出典「初の国書」というマヤカシ
日刊ゲンダイ 19/04/02 【
序文は「漢文」(万葉集)/(C)共同通信社
「歴史上初めて国書を典拠とする元号を決定しました」――。1日の談話発表会見で、こう胸を張った安倍首相。出典元である日本最古の歌集「万葉集」について「国の豊かな国民文化を象徴する国書」とほめちぎっていたが、そもそも、出典が「国書から」と言えるのかどうか疑問の声が上がっている。
「令和」は、万葉集の<梅花の歌三十二首>の序文にある<初春令月、気淑風和>(初春の令月にして、気淑く風和ぐ)の一節に由来する。「出典は国書」との安倍首相の主張に疑問が上がっている理由は、出典元の序文が漢籍に基づいているからだ。
「犬養万葉記念館」館長で万葉集に詳しい岡本三千代氏がこう言う。
「新元号の由来となった序文は、大伴旅人が詠んだとされています。武官として知識階級の地位にいたことから、漢文の素養がかなり深かったことが分かります」
実際、万葉集の解説書を紐解くと、<初春令月、気淑風和>について、「新日本古典文学大系『萬葉集(一)』」(岩波書店)は、後漢の文学者・張衡による「帰田賦」の一節<於是仲春令月 時和氣清>(仲春令月、時和し気清らかなり)を踏まえていると指摘している。
他に、「新編日本古典文学全集7『萬葉集 ② 』」(小学館)も、<初春――>が “ 書聖 ” 王羲之の「蘭亭序」にある<天朗氣清、惠風和暢>(天朗らかに気清く、恵風和暢なり)に依拠していると明記している。
要するに、大伴旅人の序文は漢籍を念頭に入れたもので、それに基づいた「令和」は漢籍からの “ 孫引き ” なのである。
安倍首相が「史上初めて国書を典拠としました!」とアピールしまくっているのは、漢籍由来を隠すための “ マヤカシ ” に過ぎない。
「安倍首相は中国嫌いなので、何としても元号は漢籍を出典とする伝統を壊したかったのでしょう。単に “ 嫌中 ” の保守派におもねるためだとしか考えられません。元号の発表さえも嫌中プロパガンダに利用するという、お粗末な政治ショーですよ」(政治評論家・本澤二郎氏)
安倍首相が国のトップでいる限り、国家の安寧はやってこない。
🔵「令和」、ぬぐえぬ違和感 中国思想史専門家が読み解く
朝日新聞 2019年 4月 10日
新しい元号となる「令和(れいわ)」は、1300年以上ある日本の元号の歴史の中で初めて「国書」が典拠とされた。出典から外れた中国古典の専門家はどう受け止めているのか。中国思想史が専門の小島毅・東京大教授は、いくつもの違和感を指摘する。
小島毅・東京大教授
❶読み「りょうわ」では/国書強調、伝統の成り立ちを軽視
政府は新元号の出典を『万葉集』巻五「梅花(うめのはな)の歌三十二首并(あわ)せて序」の「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、(後略)」と発表した。小島さんが最初に違和感を指摘するのが、新元号の読み方だ。「令」を漢音で読めば「れい」だが、比較的古い呉音(ごおん)なら「りょう」だ。小島さんは「当時の法制度は『律令(りつりょう)』。皇太子や皇后の出す文書は『令旨(りょうじ)』。大宰府で『万葉集』の観梅の宴を主催した大伴旅人(おおとものたびと)が想定したのは呉音だっただろうから、『りょうわ』でもよいのでは」という。アルファベット表記についても「Reiwaより実際の発音に近いLeiwaにしたらどうだろう」という意見だ。
小島さんは、漢字2字の組み合わせにも異を唱える。「初春令月、気淑風和」から意味をなす2字を選ぶなら「淑和」もしくは「和淑」だという。「令」は「よい、めでたい」という意味で「月」を修飾する。「和」は「(風が)穏やかになる」という意味。「令と和には直接の関係がなく、結びつけるのは無理がある」。『書経』の「百姓昭明、協和万邦(百姓〈ひゃくせい〉昭明にして、万邦〈ばんぽう〉を協和し、〈後略〉)」に基づく昭和も二つの句にまたがるが、国内を意味する「百姓」と外国を意味する「万邦」が対になっているので意味は通る。これに対して「令和は無理やりくっつけている感じがする」という。
小島さんは、観梅の宴で詠まれた歌の題材も気がかりだという。「梅花の歌」序文は「古今」の「詩」(中国の漢詩)に詠まれた「落梅之篇(のへん)」に触れる。「咲き誇る花ではなく落ちゆく花。縁起がいいと思う人は少ないのでは」。32首のうち旅人の歌は「吾(わ)が苑(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも」。「梅が散る様子を雪にたとえており、寒々しい時代になるとの解釈もありうる」と小島さん。
歴代元号には、為政者の理念やいい時代の到来への期待が込められてきた。元号を選ぶ際には、平安時代以来、学識がある家柄の者が漢籍から複数の候補を挙げる「勘申(かんじん)」を経て、公卿(くぎょう)(上級貴族)が候補を審議する「難陳(なんちん)」で様々な角度から議論した。小島さんは「難陳になれば『縁起がよくない』と批判を浴びたはず」とみる。
❷ 出典を「初の国書」という政府の発表はどう考えればいいのか。
新元号の発表直後、多くの専門家が「梅花の歌」序文のお手本として、中国の古典である王羲之(おうぎし)の「蘭亭序(らんていじょ)」や、詩文集『文選(もんぜん)』の張衡(ちょうこう)「帰田賦(きでんのふ)」からの影響を指摘した。『古事記』『日本書紀』『万葉集』が出典だと主張しても、中国古典にさかのぼる可能性が高い。小島さんはその理由を「日本独自の元号といっても制度自体、中国から学んだもの。日本の文学は中国古典に多くを学び、発展してきた」と解説する。
小島さんの目には、「初の国書」という日本独自の歴史や文化をわざわざ強調する政府の姿勢が、大陸伝来の文化を基盤とする日本の伝統の成り立ちを軽視しているかのように映るという。そもそも大伴旅人が観梅の宴を開いた大宰府は、唐や新羅の使節が訪れて交流した場所でもある。
元号は中国や日本に限らず、「東アジアの漢字文化圏全体が共有する伝統だ」と小島さんは強調する。19世紀以降の帝国主義と革命、近代化とナショナリズムの時代を経て、いま元号の制度が残るのは日本だけとなった。「日中戦争の最中も昔の中国文明や儒教、漢詩の伝統には深い敬意が払われていた。今回の政府の説明でも、中国古典の『文選』と国書『万葉集』のダブル典拠とすれば、東アジア友好のメッセージが伝わったはずなのに」(大内悟史)
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こじま・つよし 1962年生まれ。専門は中国思想史。著書に『天皇と儒教思想』『儒教が支えた明治維新』など。
🔴(Question)日本の元号の伝統、どう捉える? 辛徳勇氏
朝日新聞 2019年 4月 20日
■7世紀、「中国皇帝と対等」示した 北京大学歴史学部教授・辛徳勇氏
――中国の元号はいつごろ始まったのですか。
「一般的には前漢の武帝時代の『建元』(紀元前140年ごろ)と言われているが、実ははっきりしない。当時、この元号が使われた証拠がないのだ。私の研究では、初めて使われた元号は同じ武帝時代の『太初』(紀元前104年ごろ)。秦の始皇帝が定めた10月1日を正月とする暦を、太初以降、現在も使っているような農暦(旧暦)に変えるなど大改革があった。それ以前の元号は後からさかのぼって命名したようだ」
――日本では5月に改元します。
「中国では皇帝が代わっても年の途中での改元はめったになかった。『一年不二君』(同じ年に2人の君主がいてはならない)の考えから、次の正月に改元した。公文書の作成が不便になるといった技術的要因もあった」
――新元号は、初めて日本の国書から引用して「令和」と決まりました。
「『令和』はわかりやすく、書きやすいので良いと思う。中国の古典から引用すればもっと優雅な元号ができたとは思うが。万葉集から引用したことで様々な議論が出ているが、日本的な元号にしたいという感情は理解できる。平仮名やローマ字の元号でも構わない。ただ、中国との文化の違いや『日本化』をことさら強調するのであれば賛成できない。ナショナリズムを助長し、悪影響が出る」
――日中文化の融合とも言える元号という伝統をどうとらえればいいでしょう。
「そもそも日本が独自の元号(大化、645~650年)を使い始めた時点で『脱中国化』したと言える。元号は天命を受けたことを象徴する。中国の皇帝も日本の天皇もそれぞれ天命を受け、対等なのだと明確に示した。中国の元号を併用した朝鮮半島などとは異なる」
――とはいえ日本は中国文化を排除したわけではありません。
「日本は中国由来の文化を大いに受け入れ、独自に発展させた。中国で早くに漢字が成立したので、日本語の形成過程で漢字が借用された。逆に現代中国語は、明治以降に日本で考案された単語が大量に使われている。それらの言葉がなければ中国人は会話も文章を書くこともできない」
「これは中国だ、日本だとこだわるのでなく、東アジア共通の文化という大きな視点で考えた方がいいと思う」(聞き手・西村大輔)
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辛徳勇(シン・トーヨン) 1959年生まれ。陝西師範大学副教授や中国社会科学院歴史研究所副所長などを経て現職。歴史地理学、歴史文献学などが専門。著書に中国古代の元号についての「建元と改元」など。
🔴万葉集、「愛国」利用の歴史 「令和」の典拠、歓迎ムードに警鐘
2019年 4月 16日朝日新聞
戦時中、多くの書物に万葉集が引用された
品田悦一・東京大教授
新元号「令和」の典拠になった万葉集に、注目が集まっている。万葉学者の品田悦一(よしかず)・東京大教授は、万葉集が近代以降、「愛国」に利用された歴史を指摘し、「初の国書」を歓迎するムードに警鐘を鳴らす。
■「庶民の歌」に異議/昭和は軍国歌謡に/左翼も礼賛
万葉集は、奈良時代に編集された日本現存最古の歌集とされ、平安時代から歌人や国学者らの手でたびたび書き写され、訳され、評価されてきた。
品田さんは、「問い直したいのは、万葉集そのものの価値ではなく、利用のされ方です」。品田さんが20年来提起している説はこうだ。明治時代に近代国家をつくっていく時、欧米列強や中華文明への劣等感から、知識人は国家と一体となって「国民詩」を探した。そこで、庶民には無名に近かった万葉集が「わが国の古典」の王座に据えられ、国民意識の形成に利用されたのではないか――。
新元号発表後の安倍晋三首相の談話には「天皇や皇族、貴族だけでなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ」とある。ところが、品田さんは「貴族など一部上流層にとどまったというのが現在の研究では通説と言えます」。
万葉集には、東歌(あずまうた)など身分の低い人が詠んだとされる歌が多数あるが、彼ら自身の言葉で詠んだとは考えにくいという。詩の形式が五、七音節を単位とする貴族たちの歌と同じ形で整いすぎていることなどを根拠に挙げる。「当の本人は万葉歌集の存在自体、知る由もなかったはず」と、ことさら庶民を強調する政府の発表に、「この認識自体が明治国家の要請に沿って人為的に作り出された幻想だった」と異議を唱える。
品田さんはまた、「万葉集の4500首余りのほとんどは男女の交情や日常を歌っているのに、数十首の勇ましい歌が、昭和の戦争期には拡大解釈されたことを思い起こすべきです」と話す。よく知られる「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍大君(おほきみ)の辺(へ)にこそ死なめ顧(かへり)みはせじ」に曲をつけた軍国歌謡は大宣伝された。「忠君愛国と万葉集は切っても切れない関係にある」
軍国主義に利用されたのに、戦後もなぜ「万葉集は日本人の心のふるさと」とされたのか。品田さんは「敗戦後、左翼の側も『国民歌集』の復興を歓迎し、利用したため」と言う。国の強制に対し防人がどうあらがったかを、父母と別れる悲しみを詠んだ歌を引くことで示した。「『民衆にも席を用意した民主的歌集』などと礼賛しました」
「平和時も、万葉集を『天皇から庶民まで』の作が結集された全国民的歌集であるかのように想像すること自体が、国民国家のイデオロギーであることを、知ってほしい」
品田さんがこの学説を提起したのは、『万葉集の発明 国民国家と文化装置としての古典』(新曜社、2001年)。絶版となっていたが、新装版が4月末にも、緊急復刊される。
国文学研究資料館のロバート・キャンベル館長は、「『万葉集の発明』は古典研究の海図を書き換える上での重要な達成で、学会では、このように前提を洗い直す見方が定着してきた」とみる。他方で、「戦時中などの不幸な時代に再解釈されてきた『過程』は忘れてはならないが、1300年を経てもなお歌集が残り、これだけの人の心を浮き立たせているという『結果』は、評価に値する」と話す。(田渕紫織)
🔵高村薫の新元号キャンペーン批判=サンデー毎日 19/04/28
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🔴(星の林に ピーター・マクミランの詩歌翻遊)雪と梅、清らかな「見立て」
朝日新聞デジタル 2019年 5月 1日 05時 00分
わが園に梅の花散るひさかたの
天より雪の流れ来るかも
(『万葉集』822番 大伴旅人)
Plum-blossoms
scatter on my garden floor.
Are they snow-flakes
whirling down
from the sky?
「天(あめ)」をheavensではなくskyと訳した。幻想的で神々しい「天」を意味するheavensよりも、現実的な「空」であるskyから花が流れてくるとする方が、英語ではかえって幻想美を際立たせられるからだ。
◇
何年か前、万葉集の研究における第一人者にお会いする機会があった。その方は「万葉集はまだすべて英訳されていない。あなたがやりなさい」と言った。4500首だから、10年もあればできる、と。10年! 私はその途方もなさに笑ってしまった。しかし、その方の言葉は頭を離れなかった。
ゆっくりと、私の万葉集への関心は育っていった。昨年、万葉集についての講演を頼まれてから、翻訳への興味は、さらに燃え上がった。なんだか、この歌集を訳すように、すべてが自然とそう向かっているように感じられた。
だからこの春、新しい元号が万葉集からきていると知った時の驚きと感慨は、言葉にできなかった。私の仕事の多くは古典文学に関わるものだから、その言葉が歌集、それも偉大な文学作品を出典としていることに、わくわくした。翻訳の仕事を、大きく後押ししてもらったように感じた。
今回は「令和」の出典となった序文をもつ梅花の宴の歌のうち、宴の主催者である旅人(たびと)の歌を紹介したい。「見立て」は日本文化の重要な概念の一つで、あらゆるジャンルに影響をおよぼしている。見立てとはあるものを別のあるものに置き換えたり、一体化させたりして捉える発想である。この歌の梅の花と雪の場合は前者であり、漢詩にも好まれた雪と梅の比喩を、清らかに歌い上げている。この見立ては欧米にはないものなので、とても新鮮に映る。
この門出の日に、私は日本にいる人々の幸福が、旅人の思い描く空に流れた花びらと同じくらいたくさん、豊かであるように祈る。ついに覚悟を決めて、万葉集の翻訳に取り掛かってみるつもりである。(詩人、翻訳家)
◆◆万葉こども賞コンクール入賞 作文2015年3月24日朝日新聞
◇最優秀賞 松田わこさん
立山(たちやま)に降り置ける雪を常夏(とこなつ)に見れども飽かず神(かむ)からならし(大伴家持〈おおとものやかもち〉)
私は、この歌が大好きだ。なぜなら、家のベランダからいつでも見ることができる立山が歌われているからだ。立山は、富山の人々にとって本当に身近な存在だ。小学六年生で立山の山頂を目指す学校も多い。
私は、大伴家持が夏の立山を歌の題材に選んでくれたことを、とてもうれしく思う。でも、どうして家持が立山に夏も残る雪に、それほど心動かされたのかが、どうしても分からない。もしかしたら、家持はそれまでの人生で、高い山を見たことがなかったのだろうか。そして、暑い夏に、冷たい雪があるということに心底びっくりしたのだろうか。私達(たち)にとって、山といえば立山。では家持にとっての山はどのようなものだったのだろうか。
私は、どうしても、いにしえの時代に家持が見ていた山を、自分の目で見てみたくなった。私がその話をするとすぐに、夏休みの家族旅行の行き先が、奈良県に決まった。八月のある暑い日、私達四人は、きらきらと輝く白い雪が残る立山に見送られ、奈良に向かった。私達が降り立った駅は、かつて平城京があったところだ。駅から少し歩き、ゆっくり周りを見回した私は、とても驚いた。そこには山があった。優しい緑色をした、とても穏やかで、なだらかな山々が。立山がベートーベンの迫力ある交響曲だとしたら、目の前の山は、メンデルスゾーンのやわらかなピアノ曲のようだ。山と山は手をつないで笑っているように見えた。その時、今まで味わったことのない不思議な感覚が、私に訪れた。私の心が、山の向こう側に、生き物や自然の息づかいを感じたのだ。立山は私達の前に高くそびえ立ち、その向こう側の世界など想像したこともなかった。家持が、神の存在すら感じたことも納得できる。しかし奈良の山に向かって「おーい」と叫べば、山の向こう側から「よく来たねぇ」という声が返ってきそうだった。もしかしたら、私も、家持も、今まで見たこともないような「山」に初めて出会い、心地よい驚きを味わった仲間同士なのかもしれない。うれしすぎる発見だ。ベートーベンの山と、メンデルスゾーンの山。私と、家持。四人で出かけた旅は、いつの間にか五人での旅になっていた。(富山市立堀川中1年)
◆優秀賞 斎藤孝太郎さん(徳島文理小4年)
梅の花今咲ける如(ごと) 散り過ぎずわが家(へ)の園にありこせぬとも(小野老〈おののおゆ〉)
ぼくの家で、春を一番に感じることは、庭の梅の木に、花が一輪二輪と咲いた時だ。
「あっ梅の花が咲いとうよ」
その言葉を合図にして、家族が庭に出て梅の花を見る。梅の花のなんともあまい優しいにおいが、家の中まで入ってきて幸せな気分につつまれる。
山のふもとに家があるので、名もわからない鳥が飛んできては、庭の実をついばんでいく。梅の花が咲くころには、必ずうぐいす色をしたメジロが飛んでくると、「孝太郎君、春ですぜ」と知らせてくれる。こんな自然をいっぱい感じさせてくれる庭に感しゃだ。
ぼくの家の梅の木は、かなりの老木で緑色したこけが所々に生えている。変な虫がついたり、花が咲いても実にならなかったり、すごく弱っているようだ。ひいおじいちゃんが植えた梅の木だ。会ったことのないご先祖様にありがとうと伝えたい。梅の木は、毎年ほんのりと春を伝えてくれる。ひいおじいちゃんの優しさかな。大切に大切に守っていくよ。
もう少し、長生きしてくれ梅の木よ。ずっと美しい花を咲かせておくれ梅の木よ。かぐわしいかおりをいつまでも。万葉の古から、自然を愛(め)でる日本人の思いは、うけつがれている。少弐(しょうに)小野大夫(おののだいぶ)から、ぼく達(たち)に続くあかしなんだと思うんだ。
◆優秀賞 本多みずほさん(東京学芸大付属国際中等教育学校3年)
うらうらに照れる春日(はるひ)に雲雀(ひばり)あがり情(こころ)悲(かな)しも独りしおもへば(大伴家持〈おおとものやかもち〉)
忘れられない気持ち
この歌に出会った時、私は自分の経験した気持ちが作者である大伴家持の気持ちと重なり、その経験を思い出さずにはいられませんでした。
父の転勤で、今までに何度も引っ越しを経験してきた私にとって、春は別れの季節であり、これから住む環境やそこで関わっていく人たちとの出会いに不安を抱く季節でもありました。数年間経ってようやく住み慣れた街とも、通った学校とも、友達とも離れ、新しい環境に飛び込んでいくのは、二回目、三回目だからといって慣れられるものではありません。特に私の心を悩ませたのは、また知らない場所で新しい友達を一から作らなければならなくなるということでした。
友達を作ること自体は苦手ではなかったのですが、すでにある友達の輪に新しく入っていくとなるとわけが違いました。「みんなは自分をどう思うのだろう」「みんなのペースに合わせられなかったらどうしよう」そんな心配ばかりが募り、気持ちはどんどん落ち込んでいってしまうのです。新学年となり、希望に満ち溢(あふ)れているはずの春も、このことを考えるとどうしようもなく憂鬱(ゆううつ)に思えてなりませんでした。しかし、皮肉なことに春は温かな太陽の光で私たちを照らし続け、柔らかなピンク色の桜の花びらで辺りを彩ります。外はこんなにきれいで、日に日に暖かくなっていくこの季節を喜んでいるかのように小鳥の鳴き声も聞こえてくるのに、なぜ一人だけ悩んでいなければならないのだろう …… 。その気持ちは、まさに大伴家持の「情悲しも独りし思へば」でした。
家持や私が経験した、「春の輝かしい景色が、暗い気持ちとは裏腹に明るくきらめいている様子を見て、余計に心が悲しく沈んでゆく」という複雑な感情を、私は言葉では言い表せませんでした。しかし、家持はそれを短歌の中に見事に落とし込み、一三〇〇年の時を越えて私の心を動かしました。万葉集を読んでいても、これほどまでに共感し、引きつけられる歌は他にはありませんでした。
春になれば、私の家の周りでも、家持の見たうららかに照る日と、空に向かって上がってゆくひばりが見られるかもしれません。こうして万葉の時代の人と、見ている風景やそこで感じた気持ちを共有できたことは、とても特別な体験となりました。
◆万葉文化館賞 近藤千洋さん(徳島文理中1年)
もの思(も)ふと隠(こも)らひ居(お)りて今日(きょう)見れば春日(かすが)の山は色づきにけり(作者不明)
私の自分時間
いつの頃からだろう。時計時間とは違う私だけのリズムで時間が流れていることがあると感じ始めたのは。他のことに一切とらわれず、好きなことに熱中している時。
最近の私の楽しみは読書。それもお風呂での読書だ。冷え症で足が特に冷たい私は少し長めに湯船に浸(つ)かるといいと聞き、それならと本を持ち込むことにした。これがなかなか快適で、寝る前ふとんに横になってしていた読書より断然上だ。しかも「寝転んで読むと目が悪くなるからやめなさい。」と注意されなくてもすむ。時々、あまりの長風呂に「大丈夫。お風呂で寝てない。」と心配されることがあるが。その位(くらい)、時間を忘れて思う存分に読書に浸れるのだ。今日は何を読もうと考えながらお風呂に入る準備をする時から始まっている私の毎日の至福の時。時計が止まって、私だけの緩やかな時間が流れている。
今日のお風呂の友は万葉集。いつもは黙読のお風呂読書だが、万葉集は声に出して読む。小学生の頃からの癖だ。歌の言葉の音を耳で聞くと心地良く、次に情景をゆったりと想像する。七、八世紀の時代にタイムスリップして万葉びとの心に不思議と近づける気がするのだ。ただ、私の勝手な解釈は解説を読むとかなりずれていることも多いのだが。それもおもしろくて好きだ。
「もの思ふと隠らひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり」
この歌を読んだ瞬間、ビンゴと思った。私の心、私だけの時間感覚があることをぴったり歌い表している。繰り返し読んだ。何かに集中している時、その人にはその人だけの時間が流れている。気付くともうこんなに時計が進んでいたんだと驚くことがある。驚きながら、自分のために使った時間に幸せを感じる。この歌の作者も気付いていたんだ。二つの時間があることを。そして、作者は季節が変わるほどの長い時間、物思いにふけることができたなんて。少し羨(うらや)ましく思った。私も一生に一度はその位、読書に没頭してみたい。
思い返してみると私は小さな頃、母の声で聞く本が大好きだった。母の膝(ひざ)の上、食事中、ふとんの中。仕事をしていて忙しかったはずの母だが、私と一緒の時はいつも本を読んでくれていた。母の愛情に包まれている安心で豊かな時間。この優しい時の流れが、私が一番最初に感じた自分時間だったのだと思う。
◆朝日新聞社賞 長谷部依央さん(京都・同志社中3年)
この世にし楽しくあらば来(こ)む生(よ)には虫に鳥にもわれはなりなむ(大伴旅人〈おおとものたびと〉)
『今を精一杯(せいいっぱい)生きること』
この歌は、夜も更けて宴が一段落ついたところで、一同は、酒を酌み交わしながら人生について語り始めるという設定である。まず、宴の中の一人が、「次の人生では、自分は何に生まれ変わるだろうか。虫や鳥などの畜生道に変わっているかもしれない。そうすると、今飲んでいる酒を味わうことも、宴を楽しむこともできなくなってしまう」と言う。それを受けて、大伴旅人が、「確かに、死んだ後、自分が何に生まれ変わるのか誰にも分からない。しかし、もともと、未来とはそういう先の見えないものなのだ。私たちにはどうすることもできない。それならば、先のことを心配するよりも今を精一杯生きれば十分なのではないか」と言い、歌にしたものである。
ところで、中国の故事成語に「杞憂(きゆう)」という言葉がある。杞の国の人が、空が落ちてきて自分は死んでしまうのではないかと心配しながら日々を暮らしていた。起こるかどうかわからないことを心配するのは、とてもナンセンスなことで、今、生きている事実をないがしろにしていると言えるだろう。たとえば、友達と楽しく過ごしたり、好きな本や音楽を聞いて自分を磨くなどその時その時の時間を心から味わえれば、心配事など忘れてしまうのではないだろうかと思う。大伴旅人の歌の「今を精一杯生きれば十分」と同じだと解釈した。今の一つ一つがつながっていって「未来」となるのであって、「未来」が「今」と独立して別のものとして存在しないということだろう。
現代は、先の見えにくい時代だとよく言われる。グローバル化が進んでいく中で、今まで当然と思ってきた価値観や常識が通用しなくなった。同様に、個人の生き方も多様化し、こうしたら成功するといった決まったコースが存在しなくなり、自分で模索しながら人生を描き、作って行かなくてはいけない。こうした現代の状況が、大伴旅人の歌とぴったりとくる。先が見えないために、今の自分がしていることに自信が持てず不安になる。しかし、いたずらに不安に目を曇らせて日々を過ごすのは得策でない。目標や計画をたてることはとても大切だが、その通りにいかないことも多々あることだろう。むしろその通りにいかないのが自然なのかもしれない。時には、割り切って楽観的になれる余裕を持ち、しなやかな生き方がしたいと思った。
■ 講評 作文の部審査委員長 中西進さん(奈良県立万葉文化館名誉館長)
古典は、むかしのことばで書いているのだから、それ自体ではむずかしいが、昨今はたくさん、現代のことばに直したものや解説書が出ている。
これらをほんの少しでもいいから読んで、歌にこめられた心のメッセージを、十分味わってほしい。そうすると、もっともっとむかしの人との対話ができると思う。今回は歌の気持ちをうのみにして、体験を語るものが多かったように思えて、残念であった。
来年を楽しみにしている。
■ 講評 絵画の部審査委員長 高階秀爾さん(大原美術館長)
歌の心にしっかりと寄り添いながら、既成のイメージにとらわれない新鮮な発想で表情豊かな絵画世界を見せてくれるところに、万葉こども賞の大きな魅力がある。今回は特に、万葉人の心情への深い共感を大胆率直に表明した作品が強く印象に残った。これからも、自分の感性を大切に育てていってほしい。
◆◆(文化の扉)愛とロマンの万葉集 天皇の歌も防人歌も、編纂の謎
朝日新聞 18.02.04
宮廷の歌人は詠んだ、花や鳥、富士の秀峰(しゅうほう)、止まらない恋心まで。兵役で故郷を去った若者は、大切な父母や娘を思い出し、嘆き悲しむ。華やかな都も陰で死の潜む争いばかり。万葉の愛と魂、時を超えスマホ世代もきっと歌い継ぐ。
「(他の女と)寝るあんたの汚い手をへし折りたい」
激しい愛情表現が、1300年ほど前に生まれたと知れば驚きますか?
〈 …… うち折らむ醜(しこ)の醜手(しこて)をさし交(か)へて寝(ぬ)らむ君ゆゑ …… 〉
国内に残る歌集では最も古い「万葉集」は、飛鳥前期からの140年余りに詠まれた4516首を収め、奈良後期から平安初期に完成したとみられる。大半を占めるテーマが恋愛だ。親しい2人が詠み交わす「相聞(そうもん)」という分類があるほど。
大谷雅夫・京都大名誉教授(国文学)は「万葉歌人が影響を受けた中国の詩に恋は少ない」と独自性を見いだす。
現在と同じ五七五七七の短歌のほか、五七調で延々と続く長歌が特徴だ。中には短歌30首分に及ぶ長大作も。これらは出会いを求めるパーティー「歌垣(うたがき)」で男女が掛け合いで歌ったらしい。さしずめ奈良時代のJポップか。
「内緒にしてたのにみんなにばれちゃった」と高校生カップルみたいな歌もあれば、親友への冗談、貧しさへの悲しみ、今もある山河や草花、鳥に心動かされた歌も。人の気持ちは案外、昔も今も変わらない。
*
奈良時代は、日本語をどう表記するか固まっていなかった。中国から輸入した漢字を大和言葉で読み、古来の言葉を一音ずつ漢字に当てはめる万葉仮名を作り出した。調子に乗ったか十六を「しし」(4 × 4)と読んだり、山が二つ重なる「出」を「山上復有山」と書いたりする「戯書(ぎしょ)」も登場した。
成立から100年以上経つともう読めなくなり、平安の歌人たちが読み下しを始めた。江戸時代に庶民へ広まり、契沖(けいちゅう)や賀茂真淵(かものまぶち)といった国学者が研究を進めた。明治になると技巧に走る「古今和歌集」を嫌う正岡子規が評価し、斎藤茂吉や折口信夫(しのぶ)ら歌人が読み解いた。万葉学者の中西進さんは「事あるごとに思い出される地下水のような存在」と位置づける。
とはいえ、いまだに読み方や定訳のない歌は残っている。例えば、教科書でおなじみの志貴皇子(しきのみこ)〈石走(いわばし)る垂水(たるみ)の上のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも〉。冒頭の原文「石激」の正しい読みは「いわそそく」では、という説が近年示された。
1千年以上わからなかった歌の意味を見いだすのは、あなたかも。そんなロマンも魅力だ。
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なぜ編集されたのか。基本の「き」から明らかではない。
歌人や舞台は都が置かれた奈良を中心にしつつ、天皇から庶民まで、南東北から南九州までと幅広い。東国の農民たちが詠んだ東歌(あずまうた)や防人歌(さきもりうた)に加え、佐用姫(さよひめ)(肥前)や真間(まま)の手児奈(てこな)(下総)といったローカルな「伝説の美女」まで採取した。情報網や交通が未発達な古代にしては画期的だ。動乱と政変の時代、横死した大津皇子(おおつのみこ)や長屋王ら政治的な敗者をしのぶ歌も載る。
主な編纂(へんさん)者とされる大伴家持(おおとものやかもち)は718(養老2)年生まれとの説が有力だ。名門の貴公子ながら政権争いで藤原氏に及ばず、地方の国守を転々とした。
戦前、天皇への忠誠を示した家持の長歌〈 …… 海行(ゆ)かば水浸(みづ)く屍(かばね) …… 〉は曲が付き、戦意高揚に利用された。兵士が戦地に持ち込んだ本は「万葉集」が多かったという。遠き異国の地で命を散らせた若者たちが心を重ねたのは、どの歌だろうか。(井上秀樹)
◆国境超える日本の心 作曲家・千住明さん
日本語のオペラ「万葉集」を作曲しました。それまで作ってきたエンタメ音楽の要素を全てつぎ込みました。「明日香風編」の天智・天武天皇と額田王(ぬかたのおおきみ)の三角関係はベタベタなラブソングです。2009年に初演しました。謀反を疑われて若死にした大津皇子の悲劇を題材にした「二上山挽歌(ふたかみばんか)編」は、東日本大震災の直後に書き上げました。地震に負けない思いを込め、ベートーベンの「運命」のような曲になりました。
再演を重ね、昨年はハンガリーで2回演奏しました。日本人が持っている感覚を西洋音楽にすれば、世界の人も親しみを持ってくれることに気がつきましたね。
学生時代は理系だったので、「万葉集」にはほとんど触れていませんでした。五七五七七に封じ込めた人間関係や風景は、時代を超えてもわかります。友人の俳人、黛まどかさんに書いたことのないオペラの台本をお願いしたのは、私が和歌の素人だったからでしょう。曲はお互いに想像しなかった世界になり、いい「相聞」ができたと思います。
<読む> 『マンガで楽しむ古典 万葉集』(ナツメ社)は現代の若者目線で紹介する。藤井一二(かずつぐ)『大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯』(中公新書)は時代背景を記す。上野誠『万葉集から古代を読みとく』(ちくま新書)は映画「君の名は。」など多角的に迫る。
◆現代の万葉集=「平和万葉集巻四」刊行
(赤旗 16.12.05 )
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🔵万葉集とは
小学館百科全書 稲岡耕二
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❶成立
現存最古の歌集。『万葉集』 20 巻が現在みる形にまとめられたのはいつか不明。年代の明らかなもっとも新しい歌は 759 年(天平宝字 3 )正月の大伴家持(おおとものやかもち)の作だから、最終的な編纂(へんさん)はそれ以後となる。山田孝雄(よしお)は、東歌(あずまうた)のなかで武蔵(むさし)国を東海道に編入していることに注目し、同国の東山道から東海道に移された 771 年(宝亀 2 )以後と推定。また徳田浄(きよし)は、『万葉集』の卑敬称法を精査し、巻 1 から巻 16 までを 746 年(天平 18 )以後 753 年(天平勝宝 5 )まで、巻 17 以下を 759 年(天平宝字 3 ) 6 月以後 764 年正月までの成立とし、そのころ巻 16 以前の手入れがあり、さらに 20 巻全体に 777 年(宝亀 8 )正月から翌年にかけて手入れが行われたと推測した。同様に巻 16 までと巻 17 以降とに二分する考え方を別の視点から展開したのが伊藤博(はく)説で、現在もっとも有力視されている。
伊藤説によれば、巻 1 から巻 16 まで(これを第 1 部という)のうち、もっとも新しい歌は「天平(てんぴょう)十六年( 744 )七月二十日」の日付をもつ。これに対し第 2 部(巻 17 以降)は、少数の例外( 3890 歌 ~3921 歌)を除けば、 746 年(天平 18 ) 1 月から 759 年(天平宝字 3 ) 1 月までの作品がすべてである。第 1 部は「元正(げんしょう)万葉」と称すべき部分で、 745 年(天平 17 )以降の数年間に成立、第 2 部はこれに続いて 753 年(天平勝宝 5 ) 8 月以後 758 年(天平宝字 2 )初頭までに巻 17 、 18 、 19 の 3 巻が成り、そののち巻 20 が加えられた。 20 巻本を集成した立役者は大伴家持で、現存の形とほぼ等しいものができたのは 782 年(延暦 1 )から翌年にかけてであろう。巻 1 、巻 2 に関していえば、巻 1 の前半部が持統(じとう)天皇の発意によって文武(もんむ)朝の初年に編纂され、後半部の追補は 712 年(和銅 5 )から 721 年(養老 5 )までに行われ、同じころ持統万葉の企図を受け継いで巻 2 が編まれたと思われる。この巻 1 、巻 2 を母胎として 16 巻本、 20 巻本に成長して現在の形に至ったのだろうと伊藤はいう。なお問題も残されており、今後も論議が重ねられ、煮つめられてゆくと思われる。
❷ 名義
『万葉集』という書名の意義についても種々の説がある。現在有力な説を大別すると、( 1 )多くの歌を集めたものとする説、( 2 )万代・万世まで伝えたい集であるとする説、( 3 )前掲 2 説の折衷説、の三つになる。いずれも「万葉」という熟語の用例を和漢にわたって収集し、書名としていずれがふさわしいかを推測する方法による。漢籍に例が多いのは( 2 )であるが、日本の後代の歌集名には『金葉集』『新葉集』などもみえ、歌を意味する葉の例が拾えるから、『万葉集』がそれらの先例だった可能性も否定しきれない。それに万世の義も加えられて結局両義が含まれていたのではないかという折衷案も生ずるわけで、なお定説が得られない状態である。
❸ 時代・歌風・作者
『万葉集』の記載に従えば、もっとも古い歌は仁徳(にんとく)天皇の皇后磐媛(いわのひめ)の作であり、ついで雄略(ゆうりゃく)天皇の御製もみえるが、それらは伝誦(でんしょう)歌で、記載どおりに信ずることはできない。実質的に『万葉集』は舒明(じょめい)天皇の時代( 629~641 )から始まるとみてよいであろう。 7 世紀の前半にあたる。それから 759 年(天平宝字 3 )まで約 130 年間の長歌、短歌、旋頭歌(せどうか)、仏足石歌(ぶっそくせきか)など 4500 首余り、天皇から庶民まで 500 名近くの歌人の作品を収録しているのであって、その間には文学史的にみてかなり著しい変化も認められる。そこで歌風を概観する場合に普通これを 4 期に分けている。
【 1 期】
舒明朝から壬申(じんしん)の乱( 672 )まで。この 40 年余りはわが国の古代史のなかでもとくに激動の時期であった。 645 年(皇極 4 ) 6 月の蘇我(そが)氏誅滅(ちゅうめつ)のクーデター、同年 9 月の古人大兄(ふるひとのおおえ)の謀反(むほん)、 649 年(大化 5 )の蘇我倉山田石川麻呂(まろ)事件、 658 年(斉明天皇 4 )の有間(ありま)皇子の死など血なまぐさい政争が続いたし、その間に大化改新という大改革も行われ、古代国家の基礎が固められた。さらに 661 年(斉明 7 )の新羅(しらぎ)征討船団の西征、 663 年(天智天皇 2 )の白村江(はくすきのえ)における敗戦と 667 年の近江(おうみ)遷都など、内外ともに多事多難であった。
第一期の歌が初期万葉歌とよばれて注目されるのは、大化改新ほか数々の事件との関係や人生観・自然観の古代性にもよるが、文字記録との関係から、口誦(こうしょう)的・前記載的な特殊性が認められるためである。この期の歌の特徴を第二期以後と比較しつつ要約すると、集団性、意欲性、自然との融即性、歌謡や民謡とのつながりの深さ、呪術(じゅじゅつ)的性格などがあげられる。集団性、意欲性は芸術的価値を目的とするいわゆる文学意識とは別の限界芸術的性格で、初期万葉歌の多くが宮廷儀礼や民間習俗の場と結び付いていることと関連している。「大和(やまと)には 群山(むらやま)ありと とりよろふ 天(あめ)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は」という舒明天皇の国見歌や中皇命(なかつすめらみこと)の宇智野(うちの)の猟(かり)の歌、近江遷都のときの額田王(ぬかたのおおきみ)作歌など、長歌にはことに場の制約が強く認められる。歌謡や民謡との関係は『万葉集』全般に及ぶ性格ではあるが、初期万葉から第二期にかけてとくに濃密だということができる。この期の相聞(そうもん)歌のほとんどが求婚の問答歌であるのは、歌垣(うたがき)の掛け合いにそれらの源流が求められることを語っているし、 668 年(天智天皇 7 ) 5 月 5 日蒲生野(がもうの)遊猟時の額田王と大海人皇子(おおあまのおうじ)との「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖(そで)振る」「紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」という贈答が、掛け合いの伝統を承(う)ける宴席の即興歌で、いわゆる忍ぶ恋の叙情歌と異質であることも、雑歌(ぞうか)というその部立(ぶだて)や歌詞によって察せられよう。自然との融即性は呪的性格と同様に古代的な自然観や霊魂観を背景とする。自然に霊性を認め、それを畏怖(いふ)しつつそれに依存し、自然と親和融即する傾向をもつのは、わが国の風土と農業生活に根ざした必然的なあり方と考えられるが、そうした自然感情のもっとも強く表れているのが初期万葉歌である。
大化改新を経て天智(てんじ)朝になると新国家の体制が樹立され、官人制の拡充、都城への集住、新制度を動かすための舶来の教養など文学的新風を生み出す歴史的条件もほぼ整った。漢詩を〈読む〉こと、およびそれに模して和製の漢詩を〈書く〉ことを通して得た新しい文学の意識が、口誦の歌とは別のことばの世界を人々に印象づけたはずである。そうした海彼の文学の意識が徐々にやまと歌の発想や表現に浸透してゆくのであって、この期の歌が、主観語をあまり用いず、客観的・即事的な表現を主とする限界文芸的性格を残しながら、記紀歌謡より相対的に内面化し、対象の核心を簡浄なことばでとらえる固有の表現美を保持しているのも、口誦の歌謡から記載の叙情歌へまだ脱けきらないその位相を語ると思われる。
【 2 期】
壬申の乱以後、奈良遷都( 710 )まで。天武(てんむ)朝には強大な専制王権が確立された。皇親政治の実現や政治機構の整備充実とともに、文化的諸事業においても活気に満ちた時期であった。 675 年(天武天皇 4 ) 2 月の歌人貢上、 681 年(天武天皇 10 ) 2 月の律令(りつりょう)修定の詔(みことのり)、同 3 月の帝紀および上古(じょうこ)の諸事記定の詔、翌 682 年の『新字』 44 巻の作成など、一連の事業はこの期の文化の動態を端的に表している。
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の活動は天武・持統・文武の三朝に及ぶ。その歌人としての出発が律令国家の成立期であり、また口誦文学から記載文学への転換期であったことは、彼の歌の性格を根本的に規定しているといってよい。人麻呂は文字によって作歌した最初の歌人である。その作歌法が前代と異なることは〈枕詞(まくらことば)〉〈序詞〉〈対句〉などをみても明らかで、口誦的性格から記載文学の方法への変化が指摘される。長歌、短歌、旋頭歌それぞれの歌体の可能性が記載次元で探られたのもこの時期だった。記紀歌謡や初期万葉歌とは異なり、数十句さらには 100 句を超える長歌を人麻呂が残したのは、中国詩の影響による。殯宮(ひんきゅう)儀礼などとかかわらない私的な挽歌(ばんか)や、「石見(いはみ)の海 角の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも …… 」と石見の妻との別離の悲しみを切々と歌う長歌をみるのも海彼の文学の示唆を想像させる。反歌(はんか)が、長歌の内容の要約とか反復にとどまらず、長歌に詠まれている時間・空間の枠を超え、独立的傾向を強めたのも人麻呂からである。複数の反歌や短歌の間に連作的構成をみせるのは、儀礼の場を離れ、〈読む〉文学として享受されたことと関連するだろう。人麻呂はまた、自然であれ、人事であれ、対象と混然合一の境地にあるような歌を詠んでいる。これは第一期の特色とした自然との融即性と深くかかわると思われるが、そうした心情表現と開化の技法の微妙な調和も、彼以後にはみられなくなる。
人麻呂と同時代の歌人として、天武天皇、持統天皇、大津皇子(おおつのみこ)、大伯皇女(おおくのひめみこ)、志貴(しき)皇子、穂積(ほづみ)皇子、但馬(たじま)皇女、高市(たけち)皇子、長(なが)皇子、弓削(ゆげ)皇子などの皇族および藤原夫人(ぶにん)、石川郎女(いらつめ)、志斐嫗(しひのおみな)、高市黒人(くろひと)、長意吉麻呂(ながのおきまろ)、春日老(かすがのおゆ)があげられる。とくに謀反事件で非業の死を遂げた大津皇子とその姉大伯皇女の悲歌、但馬皇女の異母兄穂積皇子に対する激しい恋の歌、高市黒人の「物恋しい」旅の歌、意吉麻呂の即興歌などが注目されよう。
【 3 期】
奈良遷都から 733 年(天平 5 )まで。人麻呂退場後の和歌史にさまざまな個性の開花した時期である。唐の長安京に模した奈良の都において大陸文化の教養が重んぜられ、貴族や官人たちの間で漢籍の学習や漢詩文の述作も広く行われた。長屋王(ながやおう)を中心とする奈良詩壇に藤原房前(ふささき)、藤原宇合(うまかい)、安倍広庭(あべのひろにわ)、吉田宜(よしだのよろし)、背奈行文(せなのゆきふみ)など貴族や文人が蝟集(いしゅう)し、王の佐保(さほ)邸ではたびたび詩宴が催された。その詩には『文選(もんぜん)』や『玉台新詠』などの六朝(りくちょう)詩のみでなく初唐の王勃(おうぼつ)や駱賓王(らくひんおう)の詩と詩序の影響も指摘される。こうした中国文学の影響はやまと歌にも及び、第二期に比べ、発想や表現のうえに一段と明瞭(めいりょう)な形で表れるようになる。とりわけ注目されるのは、 728 年(神亀 5 )大宰帥(だざいのそち)となり九州に下向した大伴旅人(たびと)を中心に形成された筑紫(つくし)歌壇であった。山上憶良(やまのうえのおくら)、小野老(おののおゆ)、沙弥満誓(しゃみまんぜい)など多数の官人たちの共作によって初唐詩の詩序をもつ形式をやまと歌に適用した梅花(ばいか)歌群が詠まれ、さらに『遊仙窟(ゆうせんくつ)』や『文選』の「洛神賦(らくしんのふ)」に示唆を受け「松浦河(まつらがわ)」の歌序などがつくられたのも筑紫歌壇の特色ということができる。大伴旅人と山上憶良という、性格や人生観、文学観などが対蹠(たいせき)的な 2 人の筑紫における邂逅(かいこう)も文学史的に小さからぬ事件であった。浪漫(ろうまん)的空想的な旅人が嘆老・望郷の思いと「吾妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の樹見る毎に情咽(こころむ)せつつ涙し流る」など亡妻思慕の情を流れるような調べにのせて歌ったのに対し、現実的論理的な憶良が「五月蠅(さばへ)なす 騒く児等を うつてては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひわづらひ 哭(ね)のみし泣かゆ」のように老病貧死の苦を佶屈(きっくつ)な調べで歌っている。互いに相手を意識することで自己の特性をいっそう明確にしえたといえよう。
中央の歌壇で人麻呂の賛歌的伝統を継承したのは、笠金村(かさのかなむら)、車持千年(くるまもちのちとせ)、山部赤人(やまべのあかひと)らであった。なかでも赤人は人麻呂の形式に学びつつ、洗練された感性によって叙景的な自然表現に特色を示した。赤人には屈折に富んだ知巧的な歌もあり、後の『古今集』の歌風に連なる一面をのぞかせている。こうした宮廷歌人とは別に、東国の地方官となった高橋虫麻呂(むしまろ)は藤原宇合の庇護(ひご)のもとで伝説や旅を歌って異彩を放った。
【 4 期】
734 年(天平 6 )以後、淳仁(じゅんにん)天皇の 759 年(天平宝字 3 )まで。東大寺の造営や大仏開眼なども行われ華やかな時代であったが、天平文化は爛熟(らんじゅく)し、政治のうえでも困難な事態に直面して上層部の政権争いの深刻化していった時期である。そうしたなかにあって歌人たちは繊細優美な歌を多く詠んだ。この期の作者として注目されるのは、大伴家持にかかわりの深い人たちである。家持との恋の贈答に哀切な佳品を残した笠女郎(かさのいらつめ)、技巧的な歌で若い家持を拝跪(はいき)せしめた感のある紀女郎(きのいらつめ)、そして大伴氏の家刀自(いえとじ)として祭神歌、怨恨(えんこん)歌、聖武(しょうむ)天皇への献歌など多彩な作品を残した大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)など一群の女郎たちの歌は末期万葉の風雅を代表するもので、王朝女流作歌へつながる性格をもつ。男性では家持の越中守(えっちゅうのかみ)時代の歌友大伴池主(いけぬし)や、宮廷歌人の流れを受ける田辺福麻呂(さきまろ)などに作品が多い。そのほか 736 年(天平 8 ) 6 月難波(なにわ)を出帆した遣新羅使人たちの歌 145 首や、越前(えちぜん)国に流罪となった中臣宅守(なかとみのやかもり)とその赦免を待つ狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)との贈答歌 63 首、 755 年(天平勝宝 7 )の防人(さきもり)たちの歌など、宴席における遊戯的な歌の多いこの時期にあって率直な叙情が注目される。
大伴家持の作品は 733 年(天平 5 )から 759 年(天平宝字 3 )に及ぶ。あえかな三日月に美人の眉(まゆ)を連想した少年期の歌から、越中守時代の地方生活と人麻呂や憶良の作品に学んだ多くの作歌体験を経て内面的な豊かさを加え、中国文学の示唆も得て独自の歌境をみせるに至る。とくに 750 年(天平勝宝 2 ) 3 月の「春の苑紅(そのくれなゐ)にほふ桃の花下照る道に出で立つをと嬬(をとめ)」という春苑桃李(しゅんえんとうり)の歌と、 751 年 7 月少納言(しょうなごん)となって帰京後に春日の漠たる物思いを歌った 3 首など、高く評価される。また巻 16 以前に補訂を加えたのも家持の越中守時代以前かと推定され、『万葉集』の成立と伝来に果たした家持の役割の大きさをしのばせる。なお『万葉集』 4500 首余りの約 3 分の 1 に相当する 1800 首余りが作者未詳歌である。巻 14 の東歌(あずまうた)のほか、巻 7 、 10 、 11 、 12 、 13 などに多くみえるそれらの作品が滔々(とうとう)と流れる大河のごとく万葉の基層をなしていたことも忘れてはならないだろう。
❹ 本質と影響
『万葉集』は古代律令国家の形成期に編まれた歌集であり、文学史的にいえば口誦の歌謡から記載の叙情歌の生み出された原初期の作品の集成である。天皇・皇后と皇族・貴族はもちろん、階層的に低い一般民衆の歌まで含んでいるために、古代の人々のもっていた勃興(ぼっこう)的で意欲的なエネルギーに触れることができる。いいかえると繊弱な美の濾過(ろか)を経ないはつらつとした生命の息吹に接しうるわけで、その点に『万葉集』の本質が認められるだろう。『古今集』以後の歌と比較した場合に、しばしば素朴・稚拙(ちせつ)などの評語が与えられるのもむしろ当然といわねばならない。中世以降において和歌の歴史の行き詰まったときにつねに『万葉集』が顧みられ、万葉調の復興が唱導されたのも、このような『万葉集』のもつ清新なエネルギーを糧(かて)として、衰弱した歌の力を取り戻すことが求められたのだといえる。
❺ 伝来・研究
951 年(天暦 5 )に『万葉集』の歌に付けられた訓(くん)を古点とよび、このとき訓(よ)み残された歌にのちに付けられた平安時代の訓を次点という。平安時代の古写本中最古の桂宮(かつらのみや)家旧蔵の桂宮本万葉集には古点のおもかげが残され、その後の書写になる藍紙(らんし)本、元暦(げんりゃく)校本、金沢本、天治本、尼崎(あまがさき)本、類聚(るいじゅう)古集などは次点を伝える。次点本で『万葉集』 20 巻のそろった写本は現存しない。新点は、鎌倉時代中期に仙覚(せんがく)が諸写本を校合し訓と本文を改めた際、古点と次点の訓の付けられなかったすべての歌に施された訓であり、西本願寺本はそれを伝える最古の 20 巻そろった完本で、現在多くの注釈書の本文校訂の底本に利用されている。ほかに鎌倉時代末期から室町時代にかけて書写された紀州本があり、のちに神宮文庫本、細井本、温故堂本、大矢本、京都大学本、金沢文庫本などもみえ、江戸時代になると活字本や木版本も出回るようになった。それらの伝本のすべてに目を通すことは容易でないため、諸本の文字の異同を示して集成したものが 1924 年(大正 13 )から翌年にかけて出版された佐佐木信綱他編『校本万葉集』である。
注釈書のもっとも古いものは仙覚の『万葉集註釈』で、 1269 年(文永 6 )の完成。その後、由阿(ゆうあ)の『詞林采葉抄(しりんさいようしょう)』があり、近世には北村季吟(きぎん)の『万葉拾穂(しゅうすい)抄』( 1690 )、下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)の『万葉集管見』( 1661 ?)、契沖(けいちゅう)の『万葉代匠記(だいしょうき)』(初稿本 1688 、精撰本 1690 )、賀茂真淵(まぶち)の『万葉集考』と『冠辞(かんじ)考』、荷田春満(かだあずままろ)の『万葉集僻案(へきあん)抄』と春満の講義を弟信名(のぶな)が筆録した『万葉童蒙(どうもう)抄』、本居宣長(もとおりのりなが)『万葉集玉の小琴(おごと)』、荒木田久老(ひさおゆ)『万葉集槻落葉(つきのおちば)』、橘千蔭(たちばなちかげ)『万葉集略解(りゃくげ)』、岸本由豆流(ゆずる)『万葉集考証』、橘守部(もりべ)『万葉集墨縄(すみなわ)』と『万葉集檜嬬手(ひのつまで)』、富士谷御杖(みつえ)『万葉集燈(ともしび)』、香川景樹(かげき)『万葉集解(くんかい)』、鹿持雅澄(かもちまさずみ)『万葉集古義』などがまとめられた。明治以後になるとアララギ派の歌人による『万葉集』の唱導と批評の活発化に伴い研究もいっそう盛んになった。木村正辞(まさこと)『万葉集美夫君志(みふぐし)』、井上通泰(みちやす)『万葉集新考』のほか、橋本進吉・佐伯梅友(さえきうめとも)らによる国語学的研究、折口信夫(おりくちしのぶ)の民俗学的研究、岡崎義恵(よしえ)・高木市之助の文芸論的研究、北島葭江(よしえ)らによる風土地理研究まで多彩な研究が行われ、第二次世界大戦後の研究のための足場が築かれた。
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🔵万葉集歌別 =NHK 日めくり万葉集
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◆あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
額田王 (巻 1 ・ 20 )
紫草の生える 御料地の野をいらっしゃるあなた 野の番人に見られて
しまいますよ そんなに袖を振って私をお誘いになっては
◆新しき(あらたしき) 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
大伴家持 (巻 20 ・ 4516 )
新しい年の初めに 立春が重なった きょう降る雪のように
ますます重なれ 良いことよ
◆一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも
市原王 (巻 6 ・ 1042 )
一本松は どれほどの時を経てきたのだろうか
梢を吹く風の声が 清らかで澄み切っているのは 深く歳月を重ねて
きたからだろうか
◆田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ富士の高嶺に 雪は降りける
山部赤人 (巻 3 ・ 318 )
田子の浦を通り 眺めのよいところに出てみると 真っ白に 富士の高嶺に
雪が降りつもっている
◆来むと言ふも 来ぬ時あるを 来じと言ふを 来むとは待たじ
来じと言ふものを
大伴坂上郎女 (巻 4 ・ 527 )
あなたは 「来よう」と言っても 来ない時があるのですもの
「来ない」と言うのを それでもひょっとしたら「来られるかも」などと頼みに思って待つのは やめておきましょう「来ない」と言っているのですもの
◆神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国
言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり・・・
山上憶良 (巻 5 ・ 894 )
神代の 昔から 言い伝えるには 大和の国は 神が威厳をもって守る国
言霊が幸いをもたらす国と 語り継ぎ 言い継いできた
◆白玉は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我し知れらば
知らずともよし
元興寺の僧 (巻 6 ・ 1018 )
真珠は人に知られない 知らなくてもいい 知らなくても 自分さえ
価値を知っていれば 世の人は 知らなくてもいい
◆醤酢に 蒜搗き合てて 鯛願ふ 我にな見えそ 水葱の羹
長意吉麻呂 (巻 16 ・ 3829 )
醤 ( ひしお ) に酢を加え 野蒜 ( のびる ) を搗きまぜたタレを作って
鯛を食いたいと願っている この俺様の目の前から消えてくれ
まずい水草の吸い物なんかは
◆月夜には 門に出で立ち 夕占問ひ足占をそせし 行かまくを欲り
大伴家持 (巻 4 ・ 736 )
月の照るその晩には 門口に立って夕方の占いをしたり 足占いをしたんだ
あなたの所に行きたいと思って
◆恋ひ恋ひて 後も逢はむと 慰もる 心しなくは 生きてあらめやも
作者未詳 (巻 12 ・ 2904 )
恋焦がれて いつかまた逢えるだろうと 自分を慰める強い心をもたないと
とても生きていけそうにない
◆世間を 何に喩へむ 朝開き 漕ぎ去にし船の 跡なきごとし
沙弥満誓 (巻 3 ・ 351 )
世の中を何にたとえたらいいだろうか
それは 朝早く港を漕ぎ出て行った船の航跡が 何も残っていないようなものだ
◆我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後
天武天皇 (巻 2 ・ 103 )
おまえはうらやましがるだろうな
私の住む里には こんなに大雪が降ったぞ
そちらの大原の古びた里に雪が降るのは しばらく先になるだろうからね
◆大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち
国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ
うまし国そ あきづ島 大和の国は
舒明天皇 (巻 1 ・ 2 )
大和にはたくさんの山があるけれど なかでもとりわけ美しい
天の香具山の上に 登り立って国見をすると 広い平野にはかまどの煙が
あちこちから立ち上り 海原にはカモメが盛んに飛び立っている
ほんとうによい国だ この大和の国は
◆家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
有間皇子 (巻 2 ・ 142 )
家にいると 美しい器に盛るご飯を 旅の途中なので 思うにまかせず
椎の葉に盛ることだ
◆梅の花 降り覆ふ雪を 包み持ち 君に見せむと 取れば消につつ
作者未詳 (巻 10 ・ 1833 )
梅の花を降り隠すように覆った雪を包み持ち
あの人に見せようとするのですが 手に取るそばから消えてゆきます
◆思はぬを 思ふと言はば 真鳥住む 雲梯の社の 神し知らさむ
作者未詳 (巻 12 ・ 3100 )
思ってもいないのに 思っていると言ったら真鳥の住む 雲梯の杜(うなてのもり)の恐ろしい神がお知りになるでしょう
◆事もなく 生き来しものを 老いなみに かかる恋にも 我はあへるかも
大伴百代 (巻 4 ・ 559 )
なんということもなく平凡に生きてきたというのに 老いなみ迫る今になりはっと目が覚めるような恋に 私は出会ったことよ
◆草枕 旅行く君を 幸くあれと 斎瓮据ゑつ 我が床の辺に
大伴坂上郎女 (巻 17 ・ 3927 )
旅行くあなたが無事なようにと 神に祈るため 斎瓮(いわいへ)を据えました私の床のそばに
◆父母が 頭掻き撫で 幸くあれて言ひし言葉ぜ 忘れかねつる
丈部稲麻呂 (巻 20 ・ 4346 )
防人の別れの時に 父と母とが 私の頭を撫でまわし「幸(さ)くあれ くれぐれも無事でお帰り」と言った言葉(言葉ぜは方言)が忘れられない
◆足の音せず 行かむ駒もが 葛飾の真間の継ぎ橋 止まず通はむ
東歌・下総国歌 (巻 14 ・ 3387 )
足音を立てずに行く馬があればなあ あの葛飾の真間の継ぎ橋を
毎日通っていきたい
◆春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子
大伴家持 (巻 19 ・ 4139 )
春の園の 紅色に美しく咲いている桃の花の木の下まで照り輝く道に出て
たたずむ乙女よ
◆我が恋は まさかもかなし 草枕多胡の入野の 奥もかなしも
東歌・上野国歌 (巻 14 ・ 3403 )
私の恋は今もかなしい 草を枕の 多胡の入野の行く末もかなしい
◆我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子が 止まず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉だすき
畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉桙の 道行き人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて
袖そ振りつる (抜粋)
柿本人麻呂 (巻 2 ・ 207 )
私の恋の想いが千に一つでも和らぐかと 我が妻がよく出かけて見ていた
軽の市(かるのいち)にたたずみ 耳を澄ましても畝傍山(うねびやま)に
鳴く鳥の声も聞こえない 道行く人に妻に似た人もいない
もう何をどうしてよいかわからなくなって 思わず妻の名前を叫び
あてもなく袖を振り続けた
◆飯食めど うまくもあらず 寝ぬれども 安くもあらず あかねさす
君がこころし 忘れかねつも
佐為王の婢 (巻 16 ・ 3857 )
ご飯を食べるがおいしくもない 眠っていても落ち着かない
はつらつと輝くあなた その心が忘れられないの
◆我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし
大伯皇女 (巻 2 ・ 105 )
弟を大和へ送り返そうとして 夜がふけ 暁の露に
わたくしは立ち濡れてしまった
◆筑波嶺に 雪かも降らる いなをかも かなしき児ろが 布乾さるかも
東歌・常陸国歌 (巻 14 ・ 3351 )
筑波の嶺に雪が積もっているのかも いや そうではないかも
かわいいあの娘が真っ白な布を干しているのかも
◆薦枕 相まきし児も あらばこそ 夜の更くらくも 我が惜しみせめ
作者未詳 (巻 7 ・ 1414 )
薦(こも)で作った質素な枕を共にして寝たあの子がこの世にいたならば
夜の更けることを惜しみもしようが
◆磯城島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ
柿本人麻呂歌集より (巻 13 ・ 3254 )
磯城島(しきしま)の大和の国は 言霊が人を助ける国ですぞ 無事でいらしてくださいよ
◆笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば
柿本人麻呂 (巻 2 ・ 133 )
笹の葉は山一面にさわさわとざわめくが その音にも紛れないで
私は一途に妻を思う 別れてきたのだから
◆名ぐはし 狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音の
繁き浜辺を しきたへの 枕になして 荒床に ころ伏す君が
家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙の
道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは (抜粋)
柿本人麻呂 (巻 2 ・ 220 )
名前の美しい狭岑(さみね)の島の 荒磯(あらいそ)の上に
仮寝の小屋を作ってふと見ると 波の音のとどろく浜辺を枕にして
荒々しい石の床に横たわっている人の その家がわかれば行って
知らせもしよう 妻が様子を知ったら 来て尋ねもするだろうに
ここへの道さえ知らず 心も晴れず 帰りを待ち焦がれているだろう
いとしい妻は
◆行くさには 二人我が見し この崎を ひとり過ぐれば 心悲しも
大伴旅人 (巻 3 ・ 450 )
太宰府に赴任する行きしなに 妻と二人で見たこの岬を
帰りは一人で過ぎると 心悲しいことだ
◆春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも
大伴家持 (巻 19 ・ 4290 )
春の野に霞がたなびいて なんとなく悲しい
この夕暮れの光の中で うぐいすが鳴いているよ
◆射ゆ鹿を 認ぐ川辺の 和草の 身の若かへに さ寝し子らはも
作者未詳 (巻 16 ・ 3874 )
弓で射られた鹿のあとを追って行く 川辺の柔らかい草
私は思い出す その草のように私が身も心も若かった頃 抱いた乙女を
◆験なき 恋をもするか 夕されば 人の手まきて 寝らむ児故に
作者未詳 (巻 11 ・ 2599 )
甲斐もない恋をしたものさ
夕べになると ほかの男の手枕で寝るに違いない あの娘のために
◆人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
但馬皇女 (巻 2 ・ 116 )
人の噂がうるさく身に突き刺さって 生まれてからまだ渡ったことのない
朝の川を渡る
◆むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟師に あひにけるかも
志貴皇子 (巻 3 ・ 267 )
むささびは梢に登ろうとして 山の猟師に見つかってしまったよ
◆天ざかる 鄙に五年 住まひつつ 都のてぶり 忘らえにけり
山上憶良 (巻 5 ・ 880 )
遠い地方に五年も 住みつづけて 都の雅な振る舞いも
すっかり忘れてしまいました
◆紫は 灰さすものそ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる子や誰
作者未詳 (巻 12 ・ 3101 )
貴い紫の色を染めるには 椿の灰を入れるもの 椿の木の
ある海石榴市 ( つばきち ) のいくつもの道が交わる辻で
出会った娘さん あなたは誰
◆妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石川 清き瀬ごとに 水占延へてな
大伴家持 (巻 17 ・ 4028 )
妻に逢わずに 久しい時が過ぎた
饒石川(にぎしがわ)の清らかな瀬ごとに 水占いをしよう
◆いづくにか 我が宿りせむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば
高市黒人 (巻 3 ・ 275 )
どこでわたしは宿ろうか
高島の勝野の原でこの日が暮れてしまったら
◆天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は
明しといへど 我がためは 照りや給はぬ 人皆か 我のみや然る
わくらばに 人とはあるを 人並に 我もなれるを・・・
山上憶良 (巻 5 ・ 892 )
天地は広いと言うが 私には狭くなったのか 日や月は明るいと言うが
私のためには照ってくださらないのか 人は皆こうなのか 私だけにこうなのか運良く人に生まれつき 人並みに私も育ったのに
◆言繁き 里に住まずは 今朝鳴きし 雁にたぐひて 行かましものを
但馬皇女 (巻 8 ・ 1515 )
口やかましい里になんか住んでいないで 今朝鳴いた 雁と連れ立って
飛んで行ってしまえばよかったのに
◆磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば またかへり見む
有間皇子 (巻 2 ・ 141 )
いま 磐代の浜の松の枝を引き結ぶ
もし 願いが通じ命が無事ならば また ここに戻り松を見よう
◆青旗の 木幡の上を 通ふとは 目には見れども 直に逢はぬかも
倭大后 (巻 2 ・ 148 )
青々と旗のように茂る木幡の山の上を大君の魂が抜け出して行きつ戻りつすることは 目には見えるけれど 直にはお逢いできないことだ
◆古の 人に我あれや 楽浪の 古き都を 見れば悲しき
高市黒人 (巻 1 ・ 32 )
私はいにしえの人なのだろうか
いや そうではない
なのに 楽浪(ささなみ)の古い都を見ると悲しい
◆白玉の 我が子古日は 明星の 明くる朝は しきたへの 床の辺去らず 立てれども 居れども 共に戯れ 夕星の
夕になれば いざ寝よと 手を携はり 父母も うへはなさがり さきくさの 中にを寝むと 愛しく しが語らへば・・・
<中略>
我乞ひ祷めど しましくも 良けくはなしに やくやくに かたちつくほり 朝な朝な 言ふこと止み たまきはる 命絶えぬれ
立ち躍り 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持てる 我が子飛ばしつ 世間の道
山上憶良 (巻 5 ・ 904 )
白玉のようなわが子古日は 明けの明星が輝く朝になれば
床のあたりを離れず 立っても座っても ともに戯れ 宵の明星が輝く
夕べになれば 「さあ一緒に寝よう」と 手をとって 「お父さんもお母さんもそばを離れないでね ぼくは真ん中で寝るんだよ」と可愛く言う
<中略>
私はひたすら祈ったけれども 少しの間も良くはならずに
だんだんと姿はやつれ 朝ごとに ものも言わなくなり 命は絶えてしまった
私は跳びあがり 地団駄を踏み 地に伏し 天を仰ぎ 胸をたたいて嘆いた
ああ 私の手の中のいとしい子どもを死なせてしまった
これが世の無常というものか
◆ひさかたの 月夜を清み 梅の花 心開けて 我が思へる君
紀少鹿女郎 (巻 8 ・ 1661 )
空遠くまで輝く月夜が清らかなので 夜開く梅の花のように
心も晴れ晴れと 私がお慕いするあなたよ
◆足柄の 箱根飛び越え 行く鶴の ともしき見れば 大和し思ほゆ
作者未詳 (巻 7 ・ 1175 )
足柄の箱根の山を飛び越えて行く鶴の うらやましい姿を見ると
故郷の大和が思われることだ
◆我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも
大伴旅人 (巻 5 ・ 822 )
私の園に 梅の花が散る天から雪が 流れて来るのだろうか
◆葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ
志貴皇子 (巻 1 ・ 64 )
葦辺を泳いで行く鴨の背に霜が降って 寒い夕暮は 大和が思われる
◆あずの上に 駒を繋ぎて 危ほかど 人妻児ろを 息に我がする
作者未詳 (巻 14 ・ 3539 )
崩れた崖のその上に 大事な馬をつなぎとめるような そんな危うい恋だけど
人妻のその女を 息のように私は深く愛する 命をかけて
◆官にも 許したまへり 今夜のみ 飲まむ酒かも 散りこすなゆめ
作者未詳 (巻 8 ・ 1657 )
今日のような宴は 役所でもお許しになっている 今宵だけ
飲もうと思う酒なのかい
梅のあるうちは こうして集まれるよ だから梅の花よ
散ってくれるなよ ゆめゆめ
◆士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして
山上憶良 (巻 6 ・ 978 )
男たるもの 無駄に一生を送ってよいものか
永遠に語り継ぐべき名声をあげもしないで
◆直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ
依羅娘子 (巻 2 ・ 225 )
じかに逢おうとしても 逢えないでしょう
石川に雲よ 一面にかかっておくれ
それを形見と見ながら あなたを偲びましょう
◆田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ富士の高嶺に 雪は降りける
山部赤人 (巻 3 ・ 318 )
田子の浦を通り 眺めのよいところに出てみると 真っ白に富士の高嶺に
雪が降り積もっている
◆雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき児もがも
大伴家持 (巻 18 ・ 4134 )
雪の上に月の照り輝く美しい夜に 梅の白い花を折って贈ってやるような
かわいい娘がいたらいいなあ
◆住吉の 波豆麻の君が 馬乗衣 さひづらふ 漢女を据ゑて 縫へる衣ぞ
柿本人麻呂歌集より (巻 7 ・ 1273 )
住吉(すみのえ)の波豆麻(はずま)のあの方の乗馬服はね
大陸から渡来した女性を雇って縫わせた服なんですよ
◆うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む
大伯皇女 (巻 2 ・ 165 )
この世の人である私は 明日からは 二上山を弟として見るのでしょうか
◆天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を
天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける
語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
山部赤人 (巻 3 ・ 317 )
天と地が分かれた時から 神々しくて高く貴い 駿河の国にある富士の高嶺を
天空に振り仰いでみると 空を渡る太陽の姿も隠れ 照る月の光も見えない
白雲も進みかね 時を定めずいつも雪は降り積もっている
語り伝え言い継いでいこう この富士の高嶺は
◆あしひきの 山より出づる 月待つと 人には言ひて 妹待つ我を
作者未詳 (巻 12 ・ 3002 )
「山から出る月を待っているのだ」と 人には言っておいて
あの娘を待っている私だ
◆瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠しなさぬ
山上憶良 (巻 5 ・ 802 )
瓜を食べると あどけない子どもたちの顔が思い出される
栗を食べるとなおさら思われる
どういう縁でどこから私のもとに生まれてきたのか
目の前にやたらにちらついて安眠させてくれない
◆家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ
聖徳太子 (巻 3 ・ 415 )
家にいたならば 妻の手枕で休むだろうに 旅先で倒れているこの旅人は
ああ いたわしい
◆うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば
大伴家持 (巻 19 ・ 4292 )
うららかに照っている春の日に ひばりが青空に舞い上がり
心は悲しいことだ ひとり物思いをしていると
◆にほひよる 児らが同年児には 蜷の腸 か黒し髪を ま櫛もち
ここにかき垂れ ( 中略 )
さ丹つかふ 色なつかしき 紫の 大綾の衣 住吉の 遠里小野の
ま榛もち にほほす衣に 高麗錦 紐に縫ひ付け (中略)
稲寸娘子が 妻問ふと 我におこせし 彼方の 二綾裏沓
飛ぶ鳥の 明日香壮士が 長雨忌み 縫ひし黒沓 刺し履きて
庭にたたずめ 罷りな立ちと 禁め娘子が ほの聞きて
我におこせし 水縹の 絹の帯を 引き帯なす
韓帯に取らせ(中略)
古 ささきし我や はしきやし 今日やも児らに いさにとや
思はれてある 古の 賢しき人も 後の世の 鑑にせむと
老人を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり
作者未詳 (巻 16 ・ 3791 )
輝くばかりの皆さま方と同じ年頃には 私も黒くつややかな髪を
上等の櫛でといて このくらいまで垂らしたりしてね
— (中略) — 赤みがかった色に似合う紫の大柄模様がついた
住吉の遠里小野の榛(はんのき)の実で渋く染め上げた衣をまとい
ハイカラな高麗錦(こまにしき)を飾り紐に縫いつけたものさ
— (中略) — 稲寸娘子(いなきおとめ)が求婚の証しに私にくれた
彼方(おちかた)で作られた段だら縞の靴下を履き
明日香壮士(あすかおとこ)が長雨の湿気を避けて縫った黒の
皮靴をさあっと履いて 庭にたたずんでいたら 「行っちゃだめ」と
引き止める禁め娘子(いさめおとめ)が 稲寸娘子(いなきおとめ)の
贈り物のことを小耳にはさんで 水色の絹の帯を 引き帯のように
韓帯(からおび)に取りつけてくれたものさ
— (中略) —
その昔 こんなにも華やかにもてた私だというのに ああ みじめなものよ 今日はかわいいあなた方に
「さあ 本当かしら」と思われている 歳をとるとこんな風にされるから
昔の賢い人も 後の世の戒めにしようと 老い人を山に捨てに
行った車をまた持ち帰ったとさ 持ち帰ったとさ
◆君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも
狭野弟上娘子 (巻 15 ・ 3724 )
あなたが行く道の 長い道のりをたぐり寄せ 折りたたんで焼き滅ぼしてしまうそんな天の火が私は欲しい
◆家にありし 櫃にかぎ刺し 蔵めてし 恋の奴が つかみかかりて
穂積親王 (巻 16 ・ 3816 )
家にある 櫃(ひつ)にふたをし 鍵をかけてしまっておいたはずなのに
恋の奴(やっこ)めが抜け出して またぞろつかみかかってきて・・・
◆衾道を 引手の山に 妹を置きて 山道を行けば 生けりともなし
柿本人麻呂 (巻 2 ・ 212 )
衾道(ふすまじ)を 引手の山の中にいとしい人を葬って 山道を帰っていくともう俺には生きているという実感がない
◆石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
志貴皇子 しきのみこ
(巻 8 ・ 1418 )
岩を叩きしぶきを散らす(岩の上をほとばしり落ちる)滝のほとりの 蕨(ぜんまい)が芽を出し始める春になったんだ
◆塩津山 うち越え行けば 我が乗れる 馬そつまづく 家恋ふらしも
笠金村 (巻 3 ・ 365 )
塩津山を越えて行くと 私の乗っている馬がつまづく
家の者が私を恋しく思っているらしい
◆大君の 命恐み おし照る 難波の国に あらたまの 年経るまでに
白たへの 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに
思ひいませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の
置きて去にけむ 時にあらずして(抜粋)
大伴三中 (巻 3 ・ 443 )
天皇のご命令を謹んで承って 難波の国で 年が経つまで長い間
衣も洗い干す暇もなく 朝夕忙しくお仕えしていたあなたは
どのように思われて 惜しいこの世をあとに残して逝ってしまったのであろうか 死ぬべき時でもないのに
◆斑鳩の 因可の池の 宜しくも 君を言はねば 思ひそ我がする
作者未詳 (巻 12 ・ 3020 )
斑鳩(いかるが)の因可(よるか)の池の名前のように
「よろしい人 好ましい人だ」と誰もあなたのことを言わないので
気をもんで 私はいます
◆春柳 葛城山に 立つ雲の 立ちても居ても 妹をしそ思ふ
柿本人麻呂歌集より ( 11 ・ 2453 )
葛城山に立つ雲のように 立っても座っても あの子のことばかりを思っている
◆我が恋は 千引きの石を 七ばかり 首に掛けむも 神のまにまに
大伴家持 (巻 4 ・ 743 )
私の恋は 千人引きの大石を 七つも首にかけるほど 重く切なかろうとも
神のご意思のままに
◆春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 野をなつかしみ
一夜寝にける
山部赤人 (巻 8 ・ 1424 )
春の野に すみれを摘みに来た私は 野に魅せられて
思わず一夜を明かしてしまった
◆春日野に 煙立つ見ゆ 娘子らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも
作者未詳 (巻 10 ・ 1879 )
春日野に煙が立ち上るのが見えるよ 若い娘たちが集まって
春の野のうはぎを摘んで煮ているのだろうな
◆我が背子が 古き垣内の 桜花 いまだ含めり 一目見に来ね
大伴家持 (巻 18 ・ 4077 )
親しい友よ 君が住んでいた屋敷の桜の花は まだつぼみだ
一目見においで
◆真金吹く 丹生のま朱の 色に出て 言はなくのみそ 我が恋ふらくは
東歌 (巻 14 ・ 3560 )
鉄を精錬する 炎のように赤い 丹生(にふ)の赤土のように
顔色に出して言わないだけだ 私の恋する思いは
◆籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に
菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は
押しなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそ居れ 我こそば
告らめ 家をも名をも
雄略天皇 (巻 1 ・ 1 )
籠もよい籠を持ち 土を掘るヘラもよいヘラを持って この私の丘で若菜を摘んでいらっしゃる娘さん あなたの家をおっしゃい
名を名乗ってくださいな
大和の国は 押しなびかすように すっかり私が治めている
敷きなびかすように 隅々まで私が支配している 私こそは名乗ろう
家をも名をも
◆あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり
小野老 (巻 3 ・ 328 )
奈良の都は 咲く花がらんまんと色美しいように 今が真っ盛りです
◆沖辺行き 辺を行き今や 妹がため 我が漁れる 藻臥束鮒
高安王 (巻 4 ・ 625 )
沖へ行き 岸辺をたどり たった今あなたのために獲った
藻に潜むこぶしほどの鮒です
◆天の原 振り放け見れば 白真弓 張りて掛けたり 夜道は良けむ
間人大浦 (巻 3 ・ 289 )
大空を振り仰いで見ると 白木の弓に 弦を張ったような半月がかかっている
きっと夜道は良いだろう
◆潮さゐに 伊良虞の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を
柿本人麻呂 (巻 1 ・ 42 )
潮の騒ぐ折 伊良虞(いらご)の島辺を漕ぐ船に あの娘も乗っているだろうか波の荒い 島の周りなのに
◆庭に立つ 麻手刈り干し 布さらす 東女を 忘れたまふな
常陸娘子 (巻 4 ・ 521 )
庭に生える麻を刈り取って干して 布を陽にさらす東女を お忘れにならないで
◆み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも
山部赤人 (巻 6 ・ 924 )
み吉野の象山(きさやま) その谷あいの木々の梢で
こんなににぎやかにさえずる 鳥たちの声です
◆春されば しだり柳の とををにも 妹は心に 乗りにけるかも
柿本人麻呂歌集より (巻 10 ・ 1896 )
春がきて 芽吹くしだれ柳が たわたわと枝を垂らすように 愛しいあの娘が
私の心にずっしりと乗りかかってきて 心がいっぱいなんだ
◆春雨の しくしく降るに 高円の 山の桜は いかにかあるらむ
河辺東人 (巻 8 ・ 1440 )
春の雨がしきりに降り続いているが 高円山(たかまどやま)の桜は
どうなっているだろう
◆淑き人の 良しとよく見て 良しと言ひし 吉野よく見よ 良き人よく見
天武天皇 (巻 1 ・ 27 )
昔のよい人が よいところだとよく見て よいと言った この吉野をよく見なさい 今のよい人よ よく見なさい
◆神奈備の 磐瀬の社の 呼子鳥 いたくな鳴きそ 我が恋増さる
鏡王女 (巻 8 ・ 1419 )
神奈備(かんなび)の 磐瀬(いわせ)の杜(もり)で鳴いている
呼子鳥(よぶこどり)よ そんなにひどく鳴かないでおくれ
私の切ない恋心がますます募ってしまうから
◆香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原
中大兄皇子 (巻 1 ・ 14 )
香具山と耳梨山とが妻争いをしたとき 阿菩(あぼ)の大神が 立ちあがって
見に来たという 印南国原(いなみくにはら)だ ここは
◆憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむそ
山上憶良 (巻 3 ・ 337 )
憶良めは もうおいとまいたしましょう
家では子どもが泣いているでしょう それその子の母も
私を待っていることでしょうから
◆籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児
家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は 押しなべて
我こそ居れ しきなべて 我こそ居れ 我こそば 告らめ
家をも名をも
雄略天皇 (巻 1 ・ 1 )
籠もよい籠を持ち 土を掘るヘラもよいヘラを持って この私の丘で若菜を
摘んでいらっしゃる娘さん あなたの家をおっしゃい 名を名乗ってくださいな
大和の国は 押しなびかすように すっかり私が治めている
敷きなびかすように 隅々まで私が支配している 私こそは名乗ろう
家をも名をも
◆珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり
大伴家持 (巻 17 ・ 4029 )
珠洲(すず)の海に 朝早く船出して漕いでくると 長浜の浦では
月が照っていたことだ
◆山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく
高市皇子 (巻 2 ・ 158 )
山吹が美しく咲き匂い立つ山の清水を 汲みに行きたいけれど
その道が分からないのだ
◆信濃なる すがの荒野に ほととぎす 鳴く声聞けば 時過ぎにけり
東歌・信濃国歌 (巻 14 ・ 3352 )
信濃の国にある 須我の荒野に 鳴き始めたホトトギス
その声を聞くと もう時は過ぎ去ってしまったんだなあ
◆験なき 物を思はずは 一坏の 濁れる酒を 飲むべくあるらし
大伴旅人 (巻 3 ・ 338 )
甲斐のない物思いをするよりは いっそ一杯のにごり酒を
飲んだほうがいいようだ
◆春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山
持統天皇 (巻 1 ・ 28 )
春が過ぎて 夏が来たらしい
真っ白な衣が干してある 天の香具山には
◆大和には 鳴きてか来らむ 呼子鳥 象の中山 呼びそ越ゆなる
高市黒人 (巻 1 ・ 70 )
大和ではもう鳴いてから来たのだろうか
呼子鳥(よぶこどり)が 象(きさ)の中山を 愛しい子を呼ぶように
鳴きながら越えている
◆高円山に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を 何かと問へば
玉桙の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白たへの
衣ひづちて (中略) 語れば 心そ痛き 天皇の 神の皇子の
出でましの 手火の光そ そこば照りたる (抜粋)
笠金村歌集より (巻 2 ・ 230 )
高円山(たかまとやま)で 春に野を焼く野火かと見間違うほど
盛んに燃える火を 「あれは何だ」と尋ねると 道を来る人は
涙を小雨のように降らせるので 白たえの着物はぐっしょり濡れて
-(中略)-わけを話すと心が痛い あれは天子様のお子
尊い神のお子様のご葬列を照らす たいまつの火が
あんなにもたくさん照っているのです
◆薪伐る 鎌倉山の 木垂る木を 待つと汝が言はば
恋ひつつやあらむ
東歌・相模国歌 (巻 14 ・ 3433 )
薪を刈る かまが名につく 鎌倉山に枝葉を茂らす木じゃないが
「松(待ちます)」とお前が言うならば こんなにやきもきと恋してなどいるものか
○ 楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも
柿本人麻呂 (巻 1 ・ 31 )
楽浪(ささなみ)の志賀の入江は 流れることなく淀んでいても
昔の人に再び会うことができようか
○ うつせみの 常の言葉と 思へども 継ぎてし聞けば 心惑ひぬ
作者未詳 (巻 12 ・ 2961 )
世間に決まり文句だとは思うけど 聞かされ続けると 心はやはり迷うよ
○▼ 朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唱ふ舟人
大伴家持 (巻 19 ・ 4150 )
朝の寝床で聞くと はるかに聞こえる
射水川(いみずかわ)を 朝漕ぎながら歌っている舟人の声が
○ 梓弓 爪引く夜音の 遠音にも 君の御幸を 聞かくし良しも
海上女王 (巻 4 ・ 531 )
お供の者が魔除けに梓の弓を 爪ではじく夜の音
その遠い弦の音のようにでも 君のお出ましのことをお聞き申すのは
うれしいことでございます
○▼ 茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
額田王 (巻 1 ・ 20 )
ムラサキの生える 御料地の野をいらっしゃるあなた
野の番人に見られやしませんか
そんなに袖を振って私をお誘いになっては
○ 紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも
大海人皇子 (巻 1 ・ 21 )
紫草の花のように美しいあなたを 憎いと思ったら 人妻であるのに
どうして恋しく思いましょうか
○▼ あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり
小野老 (巻 3 ・ 328 )
奈良の都は 咲く花がらんまんと色美しいように 今が真っ盛りです
○▼ 銀も 金も玉も なにせむに 優れる宝 子に及かめやも
山上憶良 (巻 5 ・ 803 )
銀も金も玉も どうして優れた宝は 子どもに及ぼうか
我が子以上の宝はないのだ
○ うましもの いづくも飽かじを 坂門らが 角のふくれに
しぐひあひにけむ
児部女王 (巻 16 ・ 3821 )
上質なものは どんなところでも 飽きることのない良さがあるものなのに
なんだってまた 坂門(さかと)のあの子は
角の(家の)醜いふくれ男なんかに くっついてしまったんだろう
○ 我妹子が 心なぐさに 遣らむため 沖つ島なる 白玉もがも
大伴家持 (巻 18 ・ 4104 )
わが妻の気晴らしの種に送ってやろうと思うから
はるか沖合の島の真珠がぜひ欲しいものだ
○ 安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに
作者未詳(詠者:陸奥国の前の采女) (巻 16 ・ 3807 )
安積香山(あさかやま) その影まで見えてしまう山の井の浅いように
浅い心を わたくしは抱いてなどいるものですか
○ 大穴道 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らくし良しも
柿本人麻呂歌集より (巻 7 ・ 1247 )
大穴道(おおあなみち)の神と少御神(すくなみかみ)とがお作りになった
妹の山と背の山を見ることはうれしいなあ
○ 君に恋ひ いたもすべなみ 奈良山の 小松が下に 立ち嘆くかも
笠女郎 (巻 4 ・ 593 )
あなたに恋をして どうしていいかわからなくなったから 奈良山の小松の下にぼんやり立ってため息ばかりついています
○ いさなとり 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ
海は潮干て 山は枯れすれ
作者未詳 (巻 16 ・ 3852 )
鯨を捕るあの海は死ぬのですか 山は死ぬのですか
死ぬからこそ 海は潮が引くし 山は枯れるのさ
○ 采女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
志貴皇子 (巻 1 ・ 51 )
采女の袖を吹き返す明日香風は 都が遠いので むなしく吹いている
○ 悔しかも かく知らませば あをによし 国内ことごと 見せましものを
山上憶良 (巻 5 ・ 797 )
ああ悔しいことだ
こんなことになると知っていたら 国中のすべてを見せてやればよかったのに
○ 弥彦 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮服着て
角つきながら
作者未詳 (巻 16 ・ 3884 )
いやひこの神の山の麓に 今日あたりも きっと
神の鹿が腹ばいになっているだろうよ 毛皮の服を着て 角をつけたままで
○▼ 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山
持統天皇 (巻 1 ・ 28 )
春が過ぎて 夏が来たらしい
真っ白な衣が干してある 天の香具山には
○ 恋草を 力車に 七車 積みて恋ふらく 我が心から
広河女王 (巻 4 ・ 694 )
恋草を荷車七台に積んで引くような苦しみの恋をしているのは
そういえば自分の心から求めてしたことだった
○▼ 紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも
大海人皇子 (巻 1 ・ 21 )
紫草の花のように美しいあなたを 憎いと思ったら 人妻であるのに
どうして恋しく思いましょうか
○ 物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花
にほえ娘子 桜花 栄え娘子 汝をそも 我に寄すといふ 我をもそ
汝に寄すといふ 荒山も 人し寄すれば 寄そるとぞいふ
汝が心ゆめ
作者未詳 (巻 13 ・ 3305 )
何の物思いもしないで道を進んで行くのだが 青山をふり仰いで見ると
つつじの花が美しい そのように美しいおとめよ
桜の花が今を盛りと咲いている そのように溌剌としたおとめよ
おまえを 私とわけありのように言い寄せているそうだ
私を おまえといい仲のように言い寄せているそうだ 荒山でさえ
人が寄せると寄せられると言う
おまえは心に油断があってはいけないよ いいね
○ 古りにし 嫗にしてや かくばかり 恋に沈まむ 手童のごと
石川郎女 (巻 2 ・ 129 )
つかい古したお婆さんなのに まあどうしたことでしょう
これほど恋に没頭するなんて まるで幼子みたい
○ 千鳥鳴く 佐保の川門の 清き瀬を 馬打ち渡し いつか通はむ
大伴家持 (巻 4 ・ 715 )
千鳥の鳴く佐保川の渡し場の清い瀬を 馬を渡して
いつかあなたのもとへ通いたい
○ 伊香保ろの やさかのゐでに 立つ虹の 顕はろまでも
さ寝をさ寝てば
東歌・上野国歌 (巻 14 ・ 3414 )
伊香保の幾尺とも高さ知らずの井堰(いぜき)に現れる虹のようにはっきりと 様子が露わになるくらいまで ずっとお前と寝ていられたらなあ
○ 間遠くの 野にも逢はなむ 心なく 里のみ中に 逢へる背なかも
東歌 (巻 14 ・ 3463 )
どこか遠い野原とかで会いたかったな
察しが悪いんだから
よりによって里の真ん真ん中で出会った いとしいお方
○ 左夫流児が 斎きし殿に 鈴掛けぬ 駅馬下れり 里もとどろに
大伴家持 (巻 18 ・ 4110 )
左夫流児(さぶるこ)が 大切にしてかしづく御殿に
鈴もかけない早馬が都から下ってきた
里中とどろくばかりのすごい音で
○ 山の端に 月傾けば いざりする 海人の灯火 沖になづさふ
遣新羅使人 (巻 15 ・ 3623 )
山の端に月が傾くと 漁をしている海人の灯火が
沖にともって漂うようにちらちらしている
○ 彦星は 織女と 天地の 別れし時ゆ いなむしろ 川に向き立ち
思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 青波に 望みは絶えぬ
白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息づき居らむ かくのみや
恋ひつつあらむ さ丹塗りの 小舟もがも 玉巻きの ま櫂もがも
(抜粋)
山上憶良 (巻 8 ・ 1520 )
彦星(ひこぼし)は織姫星(たなばたつめ)と 天と地とが分かれた
遠い時代から 天の川に向かって立ち 恋する心のうちは苦しくて
嘆く胸のうちは落ち着きもせず
青い波で向こう岸が見えなくなってしまった
白雲が隔てた遙けさに涙は涸れてしまった
ああ こんなにばかり ため息ついていられようか こんなにばかり
恋い焦がれていられるものか 赤く美しく塗られた小舟が欲しい
玉を巻き付けた櫂がないものか
○ 今年行く 新島守が 麻衣 肩のまよひは 誰か取り見む
作者未詳 (巻 7 ・ 1265 )
今年送られていく 新しい防人(さきもり)の麻の衣の肩のほつれは
いったい誰が繕ってやるのだろうか
○▼ 我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れし
大伯皇女 (巻 2 ・ 105 )
我が弟を大和へと送り返すと 夜は深く沈み あかつきの露に
わたくしは立ちつくしたままぬれてしまった
○ いづくにか 舟泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎたみ行きし 棚なし小舟
高市黒人 (巻 1 ・ 58 )
今ごろ どこに舟泊まりをしているのであろうか
安礼(あれ)の崎を こぎめぐって行った
あの舟棚(ふなだな)もない小さな舟は
○ 恋にもそ 人は死にする 水無瀬川 下ゆ我痩す 月に日に異に
笠女郎 (巻 4 ・ 598 )
恋のために人は死にもするようです
水無瀬川(みなせがわ)の伏流水のように
人知れず<恋する人に見られることもなく>私はやせ衰えてゆきます
月日を追うごとに
○ 彦星し 妻迎へ舟 漕ぎ出らし 天の川原に 霧の立てるは
山上憶良 (巻 8 ・ 1527 )
彦星(ひこぼし)が妻を迎える船をこぎだしたようだ
天の河原に霧が立っているのは その水しぶきにちがいない
○ 伊勢の海人の 朝な夕なに 潜くといふ 鮑の貝の 片思ひにして
作者未詳 (巻 11 ・ 2798 )
伊勢の海人(あま)が 朝夕の副食物として潜って取るという
あわびの貝のように 片思いのままで
○ 妹として 二人作りし 我が山斎は 木高く繁く なりにけるかも
大伴旅人 (巻 3 ・ 452 )
妻と共に二人で造った我が家の庭園は 木立も高く
すっかり生い茂ってしまったことだ
○ 安積香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに
作者未詳(詠者:陸奥国の前の采女) (巻 16 ・ 3807 )
安積香山(あさかやま) その影まで見えてしまう山の井の浅いように
浅い心を わたくしは抱いてなどいるものですか
○ 烏とふ 大をそ鳥の まさでにも 来まさぬ君を ころくとそ鳴く
東歌 (巻 14 ・ 3521 )
カラスという大まぬけ鳥が 確かにもいらっしゃることのない君を
あの児が来た「ころく」と鳴くんだよ
○ 旅にして もの恋しきに 山下の 赤のそほ舟 沖に漕ぐ見ゆ
高市黒人 (巻 3 ・ 270 )
旅にあって なんとなく恋しい思いでいる折しも
山すそにいた朱塗りの船が沖に向かってこいで行くのが見える
○ ますらをや 片恋せむと 嘆けども 醜のますらを なほ恋ひにけり
舎人皇子 (巻 2 ・ 117 )
立派なますらおが 届かぬ片思いなんかするものではないと嘆いてみるけれど
みっともないこのますらおは それでも恋してしまっている
我ながら情けない
○ 天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
柿本人麻呂歌集より (巻 7 ・ 1068 )
天の海に雲の波が立って 月の船が星の林にこぎ隠れて行くのが見える
○▼ 多摩川に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだかなしき
東歌・武蔵国歌 (巻 14 ・ 3373 )
多摩川にさらさらさらす手織り布 流れで白さが増すように さらにさらに なぜにこの子がこんなにも可愛いのか
○ 西の市に ただひとり出でて 目並べず 買ひてし絹の 商じこりかも
作者未詳 (巻 7 ・ 1264 )
西の市にたった一人で出かけて 見比べもせずに
自分だけで見て買ってしまった絹の 買い損ないだよ
○ 我が背子が 犢鼻にする 円石の 吉野の山に 氷魚そ懸れる
阿倍子祖父 (巻 16 ・ 3839 )
うちの人がふんどしにする丸石のかたちよろしい吉野山に
小鮎の稚魚めがぶらさがっているわ
○ 答へぬに な呼びとよめそ 呼子鳥 佐保の山辺を 上り下りに
作者未詳 (巻 10 ・ 1828 )
お前に返事などするものなどないのだから
そうむやみに呼び声を響かせるな 呼子鳥(よぶこどり)よ
佐保の山辺を上に行ったり下に行ったりして
○ 昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや
戯奴さへに見よ
紀女郎 (巻 8 ・ 1461 )
昼は咲き 夜は誰かと恋して寝る合歓木(ねむ)の花ぞ
主人(あるじ)の我だけが独りで見るものではない
風流な若きしもべのそなたまでも見るがよい
○ 飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは
見えずかもあらむ
元明天皇 (巻 1 ・ 78 )
明日香の古京を後にして行ってしまったら あなたのあたりは
見えなくなりはしないだろうか
○ 天皇の 御代栄えむと 東なる 陸奥山に 金花咲く
大伴家持 (巻 18 ・ 4097 )
天皇の御代(みよ)が栄えるようにと 東国の果てのみちのく山に
黄金の花が咲いたよ
○ 士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして
山上憶良 (巻 6 ・ 978 )
男たるもの 無駄に一生を終ってよいものか
永遠に語りつぐべき名声をあげもしないで
○ 立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし
大伴家持 (巻 17 ・ 4001 )
立山(たてやま)に降り積もった雪を 一年じゅう見ても見飽きることがない その山の神性ゆえらしい
○ 上野の 安蘇のま麻群 かき抱き 寝れど飽かぬを あどか我がせむ
東歌・上野国歌 (巻 14 ・ 3404 )
上野(かみつけ)の安蘇(あそ)の麻束を 抱き抱えて寝るのに満足しない
私はどうしたらよいのか
○▼ 父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる
丈部稲麻呂 (巻 20 ・ 4346 )
別れの時に 父と母とが 私の頭を両手でなで回しながら
「幸くあれ くれぐれも無事で過ごせ」と言った言葉が 脳裏から離れない
○ 石麻呂に 我物申す 夏痩せに 良しといふものそ 鰻捕り喫せ
大伴家持 (巻 16 ・ 3853 )
石麻呂殿に 私が物を申そう 夏やせに効果てきめんということですぞ
うなぎを取って召し上がりなされ
○ 我妹子が 額に生ふる 双六の 牡の牛の 鞍の上の瘡
阿倍子祖父 (巻 16 ・ 3838 )
うちの女房の額に生えている すごろく盤の 大きな牡牛(おうし)の
鞍の上にあるかさぶた
○ 一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも
市原王 (巻 6 ・ 1042 )
一本松はどれほどの時を経てきたのだろうか
こずえを吹く風の声が 清らかで澄み切っているのは
深く歳月を重ねてきたからだろうか
○ 神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の
厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり (抜粋)
山上憶良 (巻 5 ・ 894 )
神代の昔から 言い伝えるには 大和の国は 神が威厳をもって守る国
言霊が幸いをもたらす国と 語り継ぎ言い継い n
○ 高円山に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を 何かと問へば
玉桙の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れば 白たへの
衣ひづちて (中略) 語れば 心そ痛き 天皇の 神の皇子の
出でましの 手火の光そ そこば照りたる (抜粋)
笠金村歌集より (巻 2 ・ 230 )
高円山(たかまとやま)で 春に野を焼く野火かと見間違うほど
盛んに燃える火を 「あれは何だ」と尋ねると 道を来る人は
涙を小雨のように降らせるので 白たえの着物はぐっしょり濡れて
-(中略)-わけを話すと心が痛い あれは天子様のお子 尊い神のお子様の
ご葬列を照らす たいまつの火が あんなにもたくさん照っているのです
○ 標結ひて 我が定めてし 住吉の 浜の小松は 後も我が松
余明軍 (巻 3 ・ 394 )
標(しめ)を結って私のものと定めておいた住吉の浜の小松は
後々も私の松だ
○ 射ゆ鹿を 認ぐ川辺の 和草の 身の若かへに さ寝し子らはも
作者未詳 (巻 16 ・ 3874 )
弓で射られた鹿のあとを追って行く 川辺の柔らかい草
私は思い出す その草のように私が身も心も若かった頃 抱いた乙女を
○ 伊香保ろの やさかのゐでに 立つ虹の 顕はろまでも
さ寝をさ寝てば
東歌・上野国歌 (巻 14 ・ 3414 )
伊香保の幾尺とも高さ知らずの井堰(いぜき)に現れる虹のようにはっきりと
様子が露わになるくらいまで ずっとお前と寝ていられたらなあ
○ もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花
大伴家持 (巻 19 ・ 4143 )
たくさんの娘子(おとめ)たちが 入り乱れて水をくむ
寺の井戸のほとりのかたくりの花よ
○▼ 信濃道は 今の墾り道 刈りばねに 足踏ましむな 沓はけ我が背
東歌・信濃国歌 (巻 14 ・ 3399 )
信濃道は切り開いたばかりの新しい道です
切り株に足を踏みつけなされるな
くつを履いていらっしゃい あなた
○ 香島ねの 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て 石もち
つつき破り 速川に 洗ひ濯ぎ 辛塩に こごと揉み
高坏に盛り 机に立てて 母にあへつや 目豆児の刀自
父にあへつや 身女児の刀自
作者未詳 (巻 16 ・ 3880 )
香島山(かしまやま)近くの机島(つくえじま)の海岸から
しただみを拾って持って来て 石で殻をつつき破り
流れの早い川で洗いすすぎ清めてから 辛い塩にごしごしもんで
足の高い器に盛りつけ それを机の上に立ててうやうやしく供え
かあさまに差し上げたかい かわいいおかみさん
とうさまに差し上げたかい 愛くるしいおかみさん
○ 夏の野の 繁みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものそ
大伴坂上郎女 (巻 8 ・ 1500 )
夏の野に生い茂る草のなかで ひそやかにあかく咲くひめゆりみたいに
思う人に知ってもらえない恋は どうにも苦しいものです
○ ほととぎす 間しまし置け 汝が鳴けば 我が思ふ心 いたもすべなし
中臣宅守 (巻 15 ・ 3785 )
ほととぎすよ 間をしばらく置いてくれ
お前が鳴くと 私の恋しく思う心が増さってどうしようもない
○ 世間は まこと二代は 行かざらし 過ぎにし妹に 逢はなく思へば
作者未詳 (巻 7 ・ 1410 )
この世の中は ほんとに二度はめぐっては来ないらしい
亡くなった妻に再び会えないことを思うと
○ 天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ
柿本人麻呂歌集より (巻 7 ・ 1068 )
天の海に雲の波が立って 月の船が星の林にこぎ隠れて行くのが見える
○ な思ひそと 君は言ふとも 逢はむ時 いつと知りてか
我が恋ひざらむ
依羅娘子 (巻 2 ・ 140 )
そんなに思い悩むなと あなたは言うけれど
再びお会いできる日をいつと知って 私は恋せずにいたらよいのでしょうか
それがあまりに不確かなので 恋せずにはいられないのです
○ 油火の 光に見ゆる 我が縵 さ百合の花の 笑まはしきかも
大伴家持 (巻 18 ・ 4086 )
油火の光にゆらゆら輝いて見える あなたにもらった私の花縵(はなかづら)
そのさゆりの花の なんともほほえましいことよ
○▼ わたつみの 豊旗雲に 入り日見し 今夜の月夜 清く照りこそ
中大兄皇子 (巻 1 ・ 15 )
海の神がたなびかす ゆったりと広がる旗雲(はたぐも)に
入り日を見た今夜の月は 清く照り輝いてほしい
○ あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに
大津皇子 (巻 2 ・ 107 )
山のしずくに いとしいお前が来るのを待って 立ちつくしたまま
俺はずいぶんとぬれた その山のしずくに
○ 嘆きせば 人知りぬべみ 山川の 激つ心を 塞かへてあるかも
作者未詳 (巻 7 ・ 1383 )
嘆いたら人に知られそうなので 山川の流れのような激しい恋心を
懸命にせき止めていることよ
○ 若草の 新手枕を 巻きそめて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに
作者未詳 (巻 11 ・ 2542 )
新妻の手枕をし始めてから 一夜だって夜離(よが)れをしようものか
憎くはないのに
○ 年のはに 鮎し走らば 辟田川 鵜八つ潜けて 川瀬尋ねむ
大伴家持 (巻 19 ・ 4158 )
毎年 鮎(あゆ)が走り泳ぐころになったら
辟田川(さきたがわ)に鵜を8羽潜らせて 川瀬をたどって行こう
○ 時の花 いやめづらしも かくしこそ 見し明らめめ 秋立つごとに
大伴家持 (巻 20 ・ 4485 )
時宜を得て咲く花は ひとしお心ひかれるものです
このようにして (これからも時の花を)ご覧になり 心を晴らすことでありましょう秋の訪れるその度ごとに
○ 春日山 おして照らせる この月は 妹が庭にも さやけかりけり
作者未詳 (巻 7 ・ 1074 )
春日山を一面に照らしているこの月は あの娘の家の庭にも明るく照っているよ
○ 銀も 金も玉も なにせむに 優れる宝 子に及かめやも
山上憶良 (巻 5 ・ 803 )
銀も金も玉も どうして優れた宝は子に及ぼうか 我が子以上の宝はないのだ
○ 蓮葉は かくこそあるもの 意吉麻呂が 家なるものは
うもの葉にあらし
長意吉麻呂 (巻 16 ・ 3826 )
蓮(はす)の葉とは かくも立派なものであるのか
はて だとすると 意吉麻呂(おきまろ)の家に生えているのは
どうやら芋の葉っぱだな
○ 高松の この峰も狭に 笠立てて 満ち盛りたる 秋の香の良さ
作者未詳 (巻 10 ・ 2233 )
高松山のこの峰も所狭しとかさ立てて あたり一面真っ盛り
秋の香りのよいことよ
○▼ あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を 一人かも寝む
作者未詳 (巻 11 ・ 2802 の或本歌)
あしひきの 山鳥の尾のように 長い長い夜を ただひとりで寝ることだろうか
○ この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ
大伴旅人 (巻 3 ・ 348 )
この世でさえ楽しかったら 来世(らいせ)では
虫にでも鳥にでもわたしはなってしまおう
○ 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主と 負ひ持ちて
仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の
辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て ますらをの
清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 親の子どもそ
大伴と 佐伯の氏は (抜粋)
大伴家持 (巻 18 ・ 4094 )
大伴の遠い祖先の神のその名前 大来目主(おおくめぬし)の名を背負い
お仕えしてきた役目である
「海を行くならば水浸しの屍(しかばね)となり 山を行くならば
草むす屍となり朽ち果てるとも 天皇のお側(そば)で死のう
後(あと)を振り向きなどしない」と言葉に出して誓い
大夫(ますらお)のけがれなき名を はるか過去から今の代に
盛んに伝えた祖先の末えいであるぞ
大伴と佐伯の氏は
○ 君待つと 我が恋ひ居れば 我がやどの 簾動かし 秋の風吹く
額田王 (巻 4 ・ 488 )
大君のお出ましを心待ちにして わたしが恋の思いに胸をときめかせていますとわが家の戸口のすだれを動かして 秋の風が吹いてくる
○ あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
額田王 (巻 1 ・ 20 )
紫草の野を行き 標(しめ)を結う野を行き野の番人は見ているではありませんか あなたが袖をお振りになるのを
○ 命あらば 逢ふこともあらむ 我が故に はだな思ひそ 命だに経ば
狭野弟上娘子 (巻 15 ・ 3745 )
命があったら 会うこともありましょう
わたしのことでそんなに思い悩まないでください
命さえ無事であったら
○ 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに
笠金村歌集より (巻 2 ・ 231 )
高円(たかまと)の野辺の秋萩(あきはぎ)は 何のかいも無く咲き
今や散るのであろうか 見るはずの人もないままに
○ 等夜の野に 兎ねらはり をさをさも 寝なへ児故に 母にころはえ
東歌 (巻 14 ・ 3529 )
等夜(とや)の野にウサギを狙うではないけれど <をさをさ>すなわち
ろくすっぽ寝もしないあの娘のために おっかさんにこっぴどくしかられた
○ なでしこが 花見るごとに 娘子らが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも
大伴家持 (巻 18 ・ 4114 )
庭に咲くなでしこの花を見るたびに
あの人の笑顔の生き生きとした美しさが思われてならない
○ 我が背子が 帰り来まさむ 時のため 命残さむ 忘れたまふな
狭野弟上娘子 (巻 15 ・ 3774 )
あなたが帰って来られる時のために この命を残しておきましょう
お忘れにならないで下さい
○ なにせむに 我を召すらめや 明けく 我が知ることを
歌人と 我を召すらめや 笛吹きと 我を召すらめや
琴弾きと 我を召すらめや (抜粋)
馬にこそ ふもだしかくもの 牛にこそ 鼻縄はくれ (中略)
おし照るや 難波の小江の 初垂を 辛く垂れ来て 陶人の
作れる瓶を 今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに
塩塗りたまひ はやすも はやすも (抜粋)
乞食者 (巻 16 ・ 3886 )
いったいどうしようとして私をお召しになるのか
とうに 私には知れたこと・・・はて 待てよ・・・
歌手として私をお召しになるのか 笛吹きとして私をお召しになるのか
琴弾きとして私をお召しになるのだろうか (抜粋)
馬ならば絆し(ほだし)をかけるものだ 牛ならば鼻縄をつけて引くものだ
なんとしたことか この蟹(かに)めを縄でぐるぐるお縛りなされて-中略-
明るい日ざしが降り注ぐ難波(なにわ)の入江で採れた塩のしずくの
初垂り(はつたり)を それはもう 辛く垂らしたのを絞ってきて
焼き物作りの陶工(すえひと)が こしらえる瓶(かめ)を 急な使いで
今日行き明日には取って持って来る慌ただしさで用意して
私の目にまでお塗りなされて 塩漬けのこの蟹を
うまいうまいとご賞味なさるよ うまいうまいと ご賞味なさる (抜粋)
○ やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激つ河内に
高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば (中略)
行き沿ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち
下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
(抜粋)
柿本人麻呂 (巻 1 ・ 38 )
我が大君が 神であられるままに神らしく振る舞われるとて
吉野川の水の流れの激しい谷あいに 高殿(たかどの)を高々とお造りになり
登り立って国見をなさると
-中略-宮殿に沿って流れる川の神も 天皇のお食事に奉仕しようと
上の瀬で鵜飼いを催し 下の瀬に小網(さであみ)を張り渡している
山や川の神までも心服してお仕えする神の御代(みよ)であることよ (抜粋)
○▼ 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝ねにけらしも
舒明天皇 (巻 8 ・ 1511 )
夕暮れになると いつも小倉山で鳴く鹿は 今夜は鳴かない
妻に会えてもう寝てしまったようだ
○▼ 父母が 殿の後の ももよ草 百代いでませ 我が来るまで
遠江国の防人 生壬部足国 (巻 20 ・ 4326 )
父母が住む屋敷の裏手に生える百代草(ももよぐさ)
その名にあやかり 百代ご長寿にていらしてください
私が戻るその日まで
○ 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の都の 仮廬し思ほゆ
額田王 (巻 1 ・ 7 )
秋の野の美しい草を刈って屋根にふき 旅宿りをした 宇治の都の
仮のいおりが思い出されます
○ 春さりて 野辺を巡れば おもしろみ 我を思へか さ野つ鳥
来鳴き翔らふ 秋さりて 山辺を行けば なつかしと 我を思へか
天雲も 行きたなびく 反り立ち 道を来れば うちひさす 宮女
さすだけの 舎人壮士も 忍ぶらひ 反らひ見つつ 誰が子そとや
思はれてある (抜粋)
作者未詳 (巻 16 ・ 3791 )
春になり 野辺をめぐると 愉快な姿だと私のことを思うのか
野の鳥がやって来て鳴いて飛び回る
秋が来て 山辺をゆくと すてきなひとと私を思うのか
空ゆく雲もゆるやかにたなびく
きびすを返して 都大路に来ると 御所に仕える気取った官女たちも
りりしい舎人(とねり)の男たちも こっそりと振り返り見ながら
あの美しい男はいったい誰の若君かと思われていたものさ
○▼ たらちねの 母を別れて まこと我 旅の仮廬に 安く寝むかも
日下部三中 (巻 20 ・ 4348 )
おっかさんの手元をお別れして 本当におれは
旅の仮小屋で不安なく眠れるのだろうか
○▼ 防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るがともしさ 物思ひもせず
昔年の防人の妻 (巻 20 ・ 4425 )
「今年防人(さきもり)に行くのは 誰のだんななのかしら」と
尋ねる人を見るとうらやましい なんの気苦労もしないで
○ 恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき 言尽くしてよ 長くと思はば
大伴坂上郎女 (巻 4 ・ 661 )
恋して恋して やっと会えたときくらいは
愛らしいことばをいっぱい言いつくしてください 私といつまでもとお思いでしたら
○ 鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて
娘子壮士の 行き集ひ かがふ歌に 人妻に 我も交はらむ
我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の 昔より
禁めぬ行事ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 事も咎むな
高橋虫麻呂 (巻 9 ・ 1759 )
ワシのすむ筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)のその津の辺りに
誘い合って若い男女が行き集まって遊ぶ歌(かがい)で
人妻に私も交わろう 私の妻に他人も言い寄るがよい
この山を治める神が 昔からおとがめなさらない行事なのだ
今日だけはめぐしも見るな とがめ立てもするな
○ 二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ
大伯皇女 (巻 2 ・ 106 )
二人で出かけても行き過ぎにくい寂しい秋の山道を 弟よ
今ごろどんな風に 君はただ独りで越えているのであろうか
○ 伊香山 野辺に咲きたる 萩見れば 君が家なる 尾花し思ほゆ
笠金村 (巻 8 ・ 1533 )
伊香山(いかごやま)の野辺に咲いているハギをみると
あなたのお屋敷のすすきが 懐かしく思われます
○ 稲搗けば かかる我が手を 今夜もか 殿の若子が 取りて嘆かむ
東歌 (巻 14 ・ 3459 )
始終稲をつくので あかぎれになったわたしの手を 今夜もお屋敷の若さまが
手に取って「かわいそうだ つらいだろう」と 嘆くだろうか
○ 香塗れる 塔にな寄りそ 川隈の 屎鮒食める いたき女奴
長意吉麻呂 (巻 16 ・ 3828 )
これこれ 香を塗りこめた高貴なその塔に近寄ってはならん
汚物のたまる川の曲がり角のくそ鮒(ふな)を食うておる
汚らわしい女奴(めやつこ)め
○ 足柄の 箱根の山に 粟蒔きて 実とはなれるを あはなくも怪し
東歌・相模国歌 (巻 14 ・ 3364 )
足柄(あしがら)の箱根の山にあわをまいて 無事に実ったというのに
会わないなんておかしいわ
○ 夜のほどろ 我が出でて来れば 我妹子が 思へりしくし 面影に見ゆ
大伴家持 (巻 4 ・ 754 )
夜の闇がわずかに溶けはじめたころ 私が出て戻ってくると
あなたの思いに沈んだ様子が 面影に浮かんで見えるのです
○ 秋山の 黄葉を繁み 惑ひぬる 妹を求めむ 山路知らずも
柿本人麻呂 (巻 2 ・ 208 )
秋の山の黄葉が茂っているために 道に迷い帰るに帰れないでいる妻
そのいとしい妻を探し求めたいのだが おれにはその山道がわからないのだ
○ 家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ
聖徳太子 (巻 3 ・ 415 )
家にいたら妻の手を枕とするだろうに
草を枕に旅路で臥せっておられるこの旅人は ああ いたわしい
○▼ 秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種の花
山上憶良 (巻 8 ・ 1537 )
秋の野原に咲いている花を 指を折って数えてみると ほら 7種の花がある
○ 経もなく 緯も定めず 娘子らが 織るもみち葉に 霜な降りそね
大津皇子 (巻 8 ・ 1512 )
経糸もなく横糸もこしらえないで 色とりどりに娘たちが織る
美しいもみじの葉に 霜よ降らないでおくれ
○▼ 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群
遣唐使の母 (巻 9 ・ 1791 )
旅人が宿りする野に霜が降ったら 私の子を羽で包んでやっておくれ
空飛ぶ鶴の群よ
○ 振り放けて 三日月見れば 一目見し 人の眉引き 思ほゆるかも
大伴家持 (巻 6 ・ 994 )
はるかに空を振り仰ぎ 浮かぶ三日月を見てみると ただ一度きり見た人の
引いたまゆ毛の様子が思われてなりません
○ 秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも
但馬皇女 (巻 2 ・ 114 )
秋の田の稲穂の向きが 一方に片寄るように
そんな風にあなたにばかり寄り添いたいのです
どんなに人のうわさがきつくても
○ 今朝の朝明 雁が音聞きつ 春日山 もみちにけらし 我が心痛し
穂積皇子 (巻 8 ・ 1513 )
今朝の明け方 雁(かり)の声を聞いた
春日山はもう紅葉したにちがいない
そう思うとわたしの心は痛む
○ かけまくも あやに畏し 天皇の 神の大御代に 田道間守
常世に渡り 八桙持ち 参ゐ出来し時 時じくの 香の菓実を畏くも
残したまへれ (抜粋)
大伴家持 (巻 18 ・ 4111 )
口にかけていうのもまことおそれ多いことだが 天皇の御先祖の神の時代に
田道間守(たじまもり)が常世(とこよ)の国に渡って行き
多くの苗木を持って参上した時に その「時じくのかくの木の実」を
かしこくも後の世にお残しになった (抜粋)
○ 今日なれば 鼻の鼻ひし 眉かゆみ 思ひしことは 君にしありけり
作者未詳 (巻 11 ・ 2809 )
今日になってみると しきりにくしゃみが出て まゆがかゆくて
もしやと思ったのは あなたの訪れの前兆だったのね
○ 秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋止まむ
磐姫皇后 (巻 2 ・ 88 )
秋の田の稲穂の上にぼうっとかかっている朝かすみがどこかに消え散るように
いつか私の恋心は霧散するのだろうか とても消えそうにない
○▼ 熟田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
額田王 (巻 1 ・ 8 )
熟田津(にきたつ)で 船出しようとして月の出を待っていると
月も出 幸い潮も満ちて来た さあ今こそこぎ出そう
○ みつみつし 久米の若子が い触れけむ 磯の草根の 枯れまく惜しも
河辺宮人 (巻 3 ・ 435 )
みつみつし 久米の若子が手を触れたという
磯の草の枯れるのが惜しいことだ
○ 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
大津皇子 (巻 3 ・ 416 )
磐余(いわれ)の池に鳴いているカモを 今日を限りと見て
私は雲に隠れ去って死んで行くのか
○ うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む
大伯皇女 (巻 2 ・ 165 )
現世(うつしよ)の人であるわたしは
明日からは二上山(ふたがみやま)を弟として見るのでしょうか
○ 鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 我が大黒に 白塗の
鈴取り付けて 朝狩に 五百つ鳥立て 夕狩に 千鳥踏み立て
追ふごとに 許すことなく 手放ちも をちもかやすき これをおきて
またはありがたし (抜粋)
大伴家持 (巻 17 ・ 4011 )
タカはたくさんいるけれども、矢形尾(やかたお)の我がタカ「大黒」に
白塗りの鈴を取り付けて 朝狩に五百羽の鳥を追い立て
夕狩に千羽の鳥を踏み立てて 追うたびに逃がすことなく
手から飛び放つのも 戻すのも自在で 大黒以外にこれほどのタカはおるまい (抜粋)
○ 言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹相寄らむと
柿本人麻呂歌集より (巻 11 ・ 2506 )
言霊のはたらく 多くの道の行き合うつじで 夕占(ゆうけ)をした
すると まさしく占に出た あの娘は私になびき寄るだろうと
○ 遠つ人 松浦佐用姫 夫恋に 領巾振りしより 負へる山の名
作者未詳 (巻 5 ・ 871 )
これは 遠い人を「待つ」という名の松浦佐用姫(まつらさよひめ)が
夫を恋い慕って領布(ひれ)を振った時から名づけられた山の名だ
○▼ あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る
大伴旅人 (巻 3 ・ 344 )
ああみっともない
賢ぶって酒を飲まない人をよく見ると 猿に似ているかなあ
○ ますらをの 靫取り負ひて 出でて行けば 別れを惜しみ 嘆きけむ妻
大伴家持 (巻 20 ・ 4332 )
雄々しい男が 靫(ゆき)を手に取り背負い 旅に出ていくというとき
さぞ別れを惜しんで嘆いたであろう その妻は
○ うらさぶる 心さまねし ひさかたの 天のしぐれの 流れあふ見れば
長田王 (巻 1 ・ 82 )
わびしい思いが胸をみたす
無限の空をこめて時雨の降りつぐのを見ると
○ 娘子らが 織る機の上を ま櫛もち 掻上げ栲島 波の間ゆ見ゆ
作者未詳 (巻 7 ・ 1233 )
おとめたちが布を織る織機の上の糸を
櫛(くし)を使ってかき上げ「たく」(束ねる)という
栲島(たくしま)が波の間から見える
○▼ 旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群
遣唐使の母 (巻 9 ・ 1791 )
旅人が宿りする野に霜が降ったら 私の子を羽で包んでやっておくれ
空飛ぶ鶴の群よ
○▼ 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ
柿本人麻呂 (巻1・ 48 )
東の野に陽炎の立つのが見えて 振り返って見ると月は西に傾いている
○ 秋萩の 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 声の遙けさ
湯原王 (巻 8 ・ 1550 )
ハギの花があたりをかき暗くして散る中で
妻を呼び立て鳴く鹿の声が響いてくる
その遙けさよ
○ 橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝に霜置けど いや常葉の木
聖武天皇 (巻 6 ・ 1009 )
橘(たちばな)は実も花もすばらしい それからその葉までも
枝に霜が降りても枯れ落ちない いよいよ常緑の美しい木である
○ 今更に 何をか思はむ うちなびき 心は君に 寄りにしものを
安倍女郎 (巻 4 ・ 505 )
いまさらに何を思うことなどありましょうか
うちなびいて わたしの心はあなたに寄り添ってしまったのですもの
○▼ 田子の浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に
雪は降りける
山部赤人 (巻 3 ・ 318 )
田子の浦を通り 眺めのよいところに出て望み見ると
真っ白に富士の高嶺に雪が降り積もっている
○▼ 我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後
天武天皇 (巻 2 ・ 103 )
おまえはうらやましかるだろうな
私の里にはもう雪がたんと降り積もってきている
そなたの住む大原の古びた里に雪が降るのはしばらく先になるのだろうからね
○▼ 価なき 宝といふとも 一坏の 濁れる酒に あにまさめやも
大伴旅人 (巻 3 ・ 345 )
値のつけようがないほど貴い宝といっても 1杯の濁り酒にどうして勝ろうか
○ 紅は うつろふものそ 橡の なれにし衣に なほ及かめやも
大伴家持 (巻 18 ・ 4109 )
鮮やかで目立つが紅花で染めたものは色がさめるものだぞ
どんぐり(の煮汁)染めの着なれた衣に やはり及ぶだろうか
かなわないものさ
○ 桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る
高市黒人 (巻 3 ・ 271 )
桜田の方へ鶴が鳴きながら飛び渡って行く
年魚市潟(あゆちがた)では潮が引いたらしい
鶴が鳴きながら飛び渡って行く
○ 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の
八十隈ごとに 万度 かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ
いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひしなえて 偲ふらむ
妹が門見む なびけこの山 (抜粋)
柿本人麻呂 (巻 2 ・ 131 )
渚に寄せる美しい海藻(も)が揺れてからみあうように寄り添って寝たあの人を露霜の置くように置きざりにして来たので この道のたくさんの曲がり角を
通るたびに 何度も何度も振り返って見るが
そのうちだんだんあの人の里は遠ざかってしまった
だんだん高く山も越えて来てしまった
いまごろ夏の日差しでしぼんでしまう草みたいにしょんぼりしてしまって
わたしをしのんでいるだろうな
ああ その愛しい人の門(かど)を見たいのだ なびいて低くなってしまえ
この山よ (抜粋)
○ 矢形尾の 真白の鷹を やどに据ゑ 掻き撫で見つつ 飼はくし良しも
大伴家持 (巻 19 ・ 4155 )
矢形尾の真白なタカを家に置いて なでて眺めながら飼うのはよいものだ
○ 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも
柿本人麻呂 (巻 3 ・ 235 )
天皇は神でいらっしゃるので
天雲の雷(いかづち)の上に庵(いおり)をしておられることだ
○ さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津の 檜橋より来む 狐に浴むさむ
長意吉麻呂 (巻 16 ・ 3824 )
さし鍋に湯を沸かしておけ みなの者
あの櫟津(いちひつ)の桧橋(ひばし)を「こん」と渡ってくるキツネに
ぶっかけてやろう
○▼ 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ
柿本人麻呂 (巻 1 ・ 48 )
東の野にかげろうの立つのが見えて 振り返って見ると月は西に傾いている
○▼ 百伝ふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
大津皇子 (巻 3 ・ 416 )
磐余(いわれ)の池に鳴いているカモを今日を限りと見て
私は雲に隠れ去って死んで行くのか
○▼ 新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや頻け吉事
大伴家持 (巻 20 ・ 4516 )
新しい年の初めの正月元旦 立春も重なった
今日降るめでたい雪のように ますます重なれ 良いことよ
○ かくのみに ありけるものを 萩の花 咲きてありやと 問ひし君はも
余明軍 (巻 3 ・ 455 )
このようにはかなくなられるお命でしたのに
「ハギの花は咲いているか」とお尋ねになった君は ああ
● 大和には 群山 ( むらやま ) あれど とりよろふ 天 ( あめ ) の香具山
登り立ち 国見をすれば 国原は 煙 ( けぶり ) 立ち立つ
海原は 鴎 ( かまめ ) 立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 ( あきつしま ) 大和の国は
🔵🔵作者別
🔴額田王の歌
● 熟田津 ( にきたづ ) に船 ( ふな ) 乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎてな
● 茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる
● 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾 ( あれ ) 恋ひめやも
● 君待つと吾 ( あ ) が恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く
● 冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ
咲かざりし 花も咲けれど 山を茂 ( し ) み 入りても聴かず
草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては
黄葉 ( もみ ) つをば 取りてそ偲 ( しぬ ) ふ 青きをば 置きてそ嘆く
そこし怜 ( たぬ ) し 秋山吾 ( あれ ) は
● 春過ぎて夏来るらし白布 ( しろたへ ) の衣乾したり天の香具山
● 楽浪の志賀の辛崎 ( からさき ) 幸 ( さき ) くあれど大宮人 ( ひと ) の船待ちかねつ
● 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の隠 ( なばり ) の山を今日か越ゆらむ
吾妹子 ( わぎもこ ) をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
● 大伴の高師の浜の松が根を枕 ( ま ) きて寝 ( ぬ ) る夜は家し偲はゆ
● 山上憶良
いざ子ども早日本辺 ( やまとへ ) に大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ
山上憶良
惑へる情 ( こころ ) を反 ( かへ ) さしむる歌一首、また序
或る人、父母敬はずして、侍養を忘れ、妻子を顧みざること脱履よりも軽し。自ら異俗先生 ( せむじやう ) と称る。意気青雲の上に揚がると雖も、身体は猶塵俗の中に在り。未だ修行得道の聖を験 ( し ) らず。蓋し是山沢に亡命する民なり。所以 ( かれ ) 三綱を指示 ( しめ ) して、更に五教を開く。遣るに歌を以て、其の惑ひを反さしむ。その歌に曰く、
父母を 見れば貴し 妻子 ( めこ ) 見れば めぐし愛 ( うつく ) し
遁ろえぬ 兄弟 ( はらから ) 親族 ( うがら ) 遁ろえぬ 老いみ幼 ( いとけ ) み
朋友 ( ともかき ) の 言問ひ交はす 世の中は かくぞことわり
もち鳥の かからはしもよ 早川の ゆくへ知らねば
穿沓 ( うけぐつ ) を 脱き棄 ( つ ) るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は
石木 ( いはき ) より 成りてし人か 汝 ( な ) が名告 ( の ) らさね
天 ( あめ ) へ行かば 汝がまにまに 地 ( つち ) ならば 大王 ( おほきみ ) います
この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み
蟾蜍 ( たにぐく ) の さ渡る極み 聞こし食 ( を ) す 国のまほらぞ
かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか
反し歌
久かたの天道 ( あまぢ ) は遠し黙々 ( なほなほ ) に家に帰りて業 ( なり ) を為まさに
● 山上憶良
子等を思 ( しぬ ) ふ歌一首、また序
釋迦如来金口 ( こんく ) 正に説きたまへらく、等しく衆生を思ふこと、羅ゴ羅の如しとのたまへり。又説きたまへらく、愛は子に過ぐること無しとのたまへり。至極の大聖すら、子を愛 ( うつく ) しむ心有り。況乎 ( まして ) 世間の蒼生 ( あをひとぐさ ) 、誰か子を愛まざる。
瓜食 ( は ) めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
いづくより 来りしものぞ 眼交 ( まなかひ ) に もとなかかりて安眠 ( やすい ) し寝 ( な ) さぬ
反し歌
銀 ( しろかね ) も金 ( くがね ) も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
柿本朝臣人麿
石見のや高角 ( たかつぬ ) 山の木 ( こ ) の間より我 ( あ ) が振る袖を妹見つらむか。
石見なる高角山の木の間よも吾 ( あ ) が袖振るを妹見けむかも
● 有間皇子
磐代の浜松が枝を引き結びま幸 ( さき ) くあらばまた還り見む。
家にあれば笥 ( け ) に盛る飯 ( いひ ) を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る。
● 柿本朝臣人麿=秋山の黄葉 ( もみち ) を茂み惑はせる妹を求めむ山道 ( やまぢ ) 知らずも
● 東 ( ひむかし ) の野に炎 ( かぎろひ ) の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ
● 柿本朝臣人麿
楽浪 ( ささなみ ) の志賀津の子らが罷 ( まか ) りにし川瀬の道を見れば寂 ( さぶ ) しも
● 柿本朝臣人麻呂
淡海 ( あふみ ) の海 ( み ) 夕波千鳥汝 ( な ) が鳴けば心もしぬに古 ( いにしへ ) 思ほゆ
● 山部宿禰赤人
不盡山 ( ふじのやま ) を望 ( み ) てよめる歌一首、また短歌
天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き
駿河なる 富士の高嶺 ( たかね ) を 天の原 振り放け見れば
渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず
白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける
語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不盡の高嶺は
反し歌
田子 ( たこ ) の浦ゆ打ち出 ( で ) て見れば真白くそ不盡の高嶺に雪は降りける
● 山上臣憶良 ( やまのへのおみおくら ) が宴より罷 ( まか ) るときの歌一首
憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其 ( そ ) も彼 ( そ ) の母も吾 ( あ ) を待つらむそ
● 太宰帥 ( おほみこともちのかみ ) 大伴の卿の酒を讃めたまふ歌十三首 ( とをまりみつ )
験 ( しるし ) なき物を思 ( も ) はずは一坏 ( ひとつき ) の濁れる酒を飲むべくあらし
酒の名を聖 ( ひじり ) と負ほせし古の大き聖の言の宣しさ
古の七の賢 ( さか ) しき人たちも欲 ( ほ ) りせし物は酒にしあらし
賢しみと物言はむよは酒飲みて酔哭 ( ゑひなき ) するし勝りたるらし
言はむすべ為むすべ知らに極りて貴き物は酒にしあらし
中々に人とあらずは酒壷 ( さかつぼ ) に成りてしかも酒に染みなむ
あな醜 ( みにく ) 賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
価 ( あたひ ) なき宝といふとも一坏の濁れる酒に豈 ( あに ) 勝らめや
夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るに豈及 ( し ) かめやも
世間 ( よのなか ) の遊びの道に洽 ( あまね ) きは酔哭するにありぬべからし
今代 ( このよ ) にし楽 ( たぬ ) しくあらば来生 ( こむよ ) には虫に鳥にも吾 ( あれ ) は成りなむ
生まるれば遂にも死ぬるものにあれば今生 ( このよ ) なる間は楽しくを有らな
黙然 ( もだ ) 居りて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ及かずけり
● 貧窮問答の歌一首、また短歌
風雑 ( まじ ) り 雨降る夜 ( よ ) の 雨雑り 雪降る夜は
すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ
糟湯酒 ( かすゆさけ ) うち啜 ( すす ) ろひて 咳 ( しはぶ ) かひ 鼻びしびしに
しかとあらぬ 髭掻き撫でて 吾 ( あれ ) をおきて 人はあらじと
誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 ( あさふすま ) 引き被 ( かがふ ) り
布肩衣 ( ぬのかたきぬ ) ありのことごと 着襲 ( そ ) へども 寒き夜すらを
我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒からむ
妻子 ( めこ ) どもは 乞ひて泣くらむ この時は いかにしつつか 汝 ( な ) が世は渡る
天地は 広しといへど 吾 ( あ ) が為は 狭 ( さ ) くやなりぬる
日月は 明 ( あか ) しといへど 吾 ( あ ) が為は 照りやたまはぬ
人皆か 吾 ( あ ) のみやしかる わくらばに 人とはあるを
人並に 吾 ( あれ ) も作るを 綿も無き 布肩衣の
海松 ( みる ) のごと 乱 ( わわ ) け垂 ( さが ) れる かかふのみ 肩に打ち掛け
伏廬 ( ふせいほ ) の 曲廬 ( まげいほ ) の内に 直土 ( ひたつち ) に 藁解き敷きて
父母は 枕の方に 妻子どもは 足 ( あと ) の方に
囲み居て 憂へ吟 ( さまよ ) ひ 竈には 火気 ( けぶり ) 吹き立てず
甑 ( こしき ) には 蜘蛛の巣かきて 飯 ( いひ ) 炊 ( かし ) く ことも忘れて
ぬえ鳥の のどよび居るに いとのきて 短き物を
端切ると 云へるが如く 笞杖 ( しもと ) 執る 里長 ( さとをさ ) が声は
寝屋処 ( ねやど ) まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間 ( よのなか ) の道
世間を憂しと恥 ( やさ ) しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
富人の家の子どもの着る身なみ腐 ( くた ) し捨つらむ絹綿らはも
荒布 ( あらたへ ) の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべを無み
山上憶良頓首謹みて上る。
難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ
天平五年三月の一日 良宅対面、献ルハ三日ナリ。山上憶良 謹みて上る。
大唐大使 ( もろこしにつかはすつかひのかみ ) の卿の記室。
● 老身重病年を経て辛苦 ( くる ) しみ、また児等を思ふ歌五首 長一首、短四首
玉きはる 現 ( うち ) の限りは 平らけく 安くもあらむを
事もなく 喪なくもあらむを 世間 ( よのなか ) の 憂けく辛けく
いとのきて 痛き瘡 ( きず ) には 辛塩を 灌ぐちふごとく
ますますも 重き馬荷に 表荷 ( うはに ) 打つと いふことのごと
老いにてある 吾 ( あ ) が身の上に 病をら 加へてしあれば
昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし
年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ
ことことは 死ななと思 ( も ) へど 五月蝿 ( さばへ ) なす 騒く子どもを
棄 ( うつ ) てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ
かにかくに 思ひ煩ひ 音のみし泣かゆ
反し歌
慰むる心は無しに雲隠れ鳴きゆく鳥の音のみし泣かゆ
すべもなく苦しくあれば出で走り去 ( い ) ななと思 ( も ) へど子等に障 ( さや ) りぬ
水沫 ( みなわ ) なす脆き命も栲縄 ( たくなは ) の千尋にもがと願ひ暮らしつ
しづたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも 去ル神亀二年ニ作メリ。但類ヲ以テノ故ニ更ニ茲ニ載ス
天平五年六月の丙申 ( ひのえさる ) の朔 ( つきたち ) 三日 ( みかのひ ) 戊戌 ( つちのえいぬ ) 作めり。
● 男子 ( をのこ ) 名は古日 ( ふるひ ) を恋ふる歌三首 長一首、短二首
世の人の 貴み願ふ 七種 ( くさ ) の 宝も吾 ( あれ ) は
何せむに 願ひ欲 ( ほり ) せむ 我が中の 生れ出でたる
白玉の 我が子古日は 明星 ( あかぼし ) の 明くる朝 ( あした ) は
敷細 ( しきたへ ) の 床の辺去らず 立てれども 居れども共に
掻き撫でて 言問ひ戯 ( たは ) れ 夕星 ( ゆふづつ ) の 夕べになれば
いざ寝よと 手を携はり 父母も うへはな離 ( さか ) り
三枝 ( さきくさ ) の 中にを寝むと 愛 ( うるは ) しく しが語らへば
いつしかも 人と成り出でて 悪しけくも 吉けくも見むと
大船の 思ひ頼むに 思はぬに 横様 ( よこしま ) 風の
にはかにも 覆ひ来たれば 為むすべの たどきを知らに
白妙の たすきを掛け 真澄鏡 手に取り持ちて
天つ神 仰 ( あふ ) ぎ祈 ( こ ) ひ祷 ( の ) み 国つ神 伏して額づき
かからずも かかりもよしゑ 天地の 神のまにまと
かからずも かかりもよしゑ 天地の 神のまにまと
立ちあざり 我が祈ひ祷めど しましくも 吉けくはなしに
漸々 ( やうやう ) に かたちつくほり 朝な朝 ( さ ) な 言ふことやみ
玉きはる 命絶えぬれ 立ち躍り 足すり叫び
伏し仰ぎ 胸打ち嘆き 手に持たる 吾 ( あ ) が子飛ばしつ 世間の道
反し歌
若ければ道行き知らじ賄 ( まひ ) はせむ下方 ( したへ ) の使負ひて通らせ
布施置きて吾 ( あれ ) は祈ひ祷む欺かず直 ( ただ ) に率 ( ゐ ) 行きて天道知らしめ
● 山上臣憶良が沈痾 ( やみこやれ ) る時の歌一首
士 ( をとこ ) やも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして
右ノ一首ハ、山上憶良臣ガ沈痾ル時、藤原朝臣八束、
河邊朝臣東人ヲシテ、疾メル状ヲ問ハシム。是ニ憶良
臣、報フル語已ニ畢リ、須ク有リテ涕ヲ拭ヒ、悲シミ
嘆キテ此ノ歌ヲ口吟 ( ウタ ) ヒキ。
● 山上臣憶良が秋野の花を詠める歌二首
1537 秋の野に咲きたる花を指 ( および ) 折りかき数ふれば七種 ( くさ ) の花 其一
1538 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花 其二
● 山部赤人
若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺 ( あしへ ) をさして鶴 ( たづ ) 鳴き渡る。
み吉野の象山 ( きさやま ) の際 ( ま ) の木末 ( こぬれ ) にはここだも騒く鳥の声かも。
ぬば玉の夜の更けぬれば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く。
須磨の海人の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ。
春の野にすみれ摘みにと来し吾 ( あれ ) ぞ野をなつかしみ一夜寝にける。
我が背子に見せむと思 ( も ) ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば。
● 志貴皇子
石激 ( いはばし ) る垂水の上のさ蕨の萌え出 ( づ ) る春になりにけるかも
● あしひきの山霍公鳥汝が鳴けば家なる妹し常に思ほゆ
● 崗本天皇
夕されば小倉の山に鳴く鹿の今夜は鳴かずい寝 ( ね ) にけらしも
● 天皇 ( すめらみこと ) のみよみませる御製歌二首
秋の田の穂田を雁が音暗けくに夜のほどろにも鳴き渡るかも
今朝の朝明雁が音寒く聞きしなべ野辺の浅茅ぞ色づきにける
● 読み人知らず
春は萌え 夏は緑に 紅の まだらに見ゆる 秋の山かも
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