江戸時代の先駆的な人びと❶杉田玄白・高野長英・渡辺華山・緒方洪庵・華岡青洲

江戸時代の先駆的な人びと杉田玄白・高野長英・渡辺華山・緒方洪庵・華岡青洲

憲法とたたかいのblogトップ

憲法とたたかいのブログトップ 

【このページの目次】 

◆杉田玄白・高野長英・渡辺華山・緒方洪庵などリンク集 

◆洋学、とくに蘭学による真理の探究の歴史 すす

◆杉田玄白と蘭学事始・解体新書(漫画・蘭学事始抜粋・小学館百科全書) 

◆高野長英の生涯(紙芝居・小学館百科全書) 

◆渡辺華山の生涯(紙芝居・小学館百科全書) 

◆緒方洪庵の生涯と適塾(紙芝居・漫画・小学館百科全書) 

◆華岡青洲(漫画・小学館百科全書)

──────────────────────────

🔵江戸時代末期、真理を探究して夜明けを準備した人たち=杉田玄白・高野長英・渡辺華山・緒方洪庵などリンク集 

──────────────────────────

🔵当ブログ=江戸時代の先駆的な人びと❷大塩平八郎・安藤昌益・三浦梅園・伊能忠敬その他

🔴【蘭学】 

★『ちば見聞録』#001 城下町と蘭学の地~佐倉~(前編)【チバテレビ】21m 

★『ちば見聞録』#002 城下町と蘭学の地~佐倉~(後編)【チバテレビ】21m 

WEB漫画・歴史漫画に緒方洪庵・杉田玄白・華岡青洲 

http://www.e-manga.info

◆戸田=蘭学者たちの遺して くれたものPDF4p 

◆飯田 鼎=幕末・維新の時期における知識人, その思想と行動 : 福沢諭吉の書簡集を通じてみる PDF27p 

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-20020401-0001.pdf?file_id=87524

◆音谷 章洋=蘭学塾にみる「和魂洋才」の教育観 PDF 20p 

http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/111E0000012-24-2.pdf#search=%22%22

🔴杉田玄白・前野良沢

杉田玄白
前野良沢
解体新書
腑分けから始まった

★★ドラマ・風雲児たち・蘭学革命編・解体新書誕生=杉田玄白・前野良沢の生涯 (三谷幸喜シナリオ) 90mhttp://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kempou7408&prgid=57363518


★★英雄たちの選択・杉田玄白「解体新書」誕生への挑戦58m

★★歴史鑑定・解体新書の誕生=杉田玄白と前野良沢54m

◆◆「蘭学事始」の現代語訳・原文

PDF49p 

クリックしてrangaku.pdfにアクセス

🔴まんが=私説・杉田玄白「蘭学事始」 http://endlosewelt.web.fc2.com/historia/rgkhtop.html

筆者=よく出来たマンガ、以下抜き書き

★「 杉田玄白の解体新書」『ちょっと学べる!天理図書館の文学ナビ』7m 

★杉田玄白(解体新書の逆襲)8m 

★【伊集院光】杉田玄白は偉い21m 

https://m.youtube.com/watch?v=EhDF6tLatB4

◆松崎=杉田玄白をめぐる人々PDF2920p 

http://ci.nii.ac.jp/els/110007410345.pdf?id=ART0009262891&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1454332464&cp= 

http://ci.nii.ac.jp/els/110007410447.pdf?id=ART0009263096&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1454420700&cp= 

◆松崎 欣=杉田玄白の「〓斎日録」について PDF43p 

◆浅原 義雄=蘭学事始 PDF 16p 

◆宮永 孝=日本洋学史 : 蘭学事始 PDF63p 

◆笠井=杉田玄白『蘭学事始』における学問論PDF6p 

◆近代デジタル・ライブラリー=杉田玄白の生涯 : 日本科学の先駆者 

中貞夫 , 木下大雍 (小学館, 1942) 

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719466

◆近代デジタル・ライブラリー=菊池寛 蘭学事始 : 他四篇 図書 (春陽堂, 1921) 

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/962379

◆近代デジタル・ライブラリー=杉田玄白著・蘭学事始 

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/826051

◆石出=江戸幕府による腑分の禁制PDF4p 

クリックして84-5-221.pdfにアクセス

◆石出=江戸の腑分と小塚原の仕置場PDF7p 

クリックして84-1-7.pdfにアクセス

◆小川 鼎三=解體新書と蘭学の発展PDF10p 

https://www.jstage.jst.go.jp/article/igakutoshokan1954/24/1-2/24_1-2_4/_pdf

◆森良文=蘭学成立の事情について : 『西洋記聞』から『蘭学事始』まで PDF14p 

クリックして81003455.pdfにアクセス

★月刊寺島実郎の世界 2015127日 17世紀オランダ論 杉田玄白 蘭学事始21m 

https://m.youtube.com/watch?v=2rHi4rTulXk

🔴高野長英・渡辺崋山

高野長英
渡辺崋山
渡辺崋山の絵

🔵日曜美術館・渡辺崋山

https://drive.google.com/file/d/1_K8H5EeKB4-unmLn-NB79Wb3P9bUF3sC/view?usp=drivesdk

★英雄たちの選択・知りすぎた男たちの挑戦 蛮社の獄 渡辺崋山と高野長英の決断3mお試し 

https://www.nhk-ondemand.jp/share/smp/#/share/smp/goods.html?G2015066802SC000

★幕末の蘭学者の足跡 高野長英記念館4m 

★ペリー来航 前夜の弾圧 蛮社の獄2m 

◆高野長英記念館 

http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/

◆近代デジタル・ライブラリー=高野長英と渡辺崋山 斎藤斐章 (建設社, 1936) 

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1037094

◆近代デジタル・ライブラリー=高野長英言行録 杉原三省 (内外出版協会, 1908) 

◆高野長英の生涯・言行録・年譜 

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781621

★★その時歴史が動いたシーボルト 開国秘話 海を越えた愛 日本を守る43m 

https://m.youtube.com/watch?v=7E4MjijpsH0

◆松也の歴史ミステリー鎖国は抜け道だらけ長崎琉球対馬松前シーボルト

◆田原市博物館(渡辺華山) 

http://www.taharamuseum.gr.jp/index.html

(渡辺華山) 

http://www.taharamuseum.gr.jp/kazan/index.html

◆大月 明=化政・天保期の思想史的一考察 : 渡辺崋山の場合 PDF32p 

http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DBd0040903.pdf#search=%22%22 

http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/kiyo/DBd0051003.pdf#search=%22%22 

★★日美 ドナルド・キーン 私と渡辺崋山45m 

http://video.fc2.com/ja/content/20130921daeUEtXV/

🔴緒方洪庵

大阪北浜の適塾

★★その時 歴史が動いた~天然痘との闘い 緒方洪庵・医は仁術なり~43m 

または 

★★歴史秘話・天然痘とコレラとたたかった緒方洪庵と飢饉とたたかった二宮尊徳
http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=yhfs8o6q&prgid=60543577&cate=06

🔵英雄たちの選択・衛生国家への挑戦~3人の先覚者たち=緒方・長与・後藤

https://drive.google.com/file/d/1vKD_bzhVXwLVxgSKAr_CDU7LthU_BrLc/view?usp=drivesdk

新型コロナウイルスに揺れる日本。日本人は世界規模の感染症とどう闘ってきたのか?1回は、日本人の衛生意識の向上に尽力した3人の先覚者に着目する。

左から長与・緒方・後藤

(1)幕末、天然痘の治療に革命を起こした緒方洪庵。ジェンナーの種痘→種痘所広げる

(2)その洪庵に学び、明治はじめの時代、コレラ撲滅の陣頭指揮をとった内務省初代衛生局長・長与専斎。適塾→岩倉使節団→衛生行政(衛生=生命をまもる)。清国のコレラ日本へ。コレラ対策→港での検疫→隔離。日清戦争兵士帰還での広がり。

(3)日清戦争後、大陸帰還兵の大規模な検疫を成功させ、世界に日本の衛生力の高さを示した後藤新平。

適塾の卒業生

★郷土に輝く人々 緒方洪庵5m 

★緒方洪庵の適塾4m 

★花神・適塾の今風景3m 

🔷(文化の扉 歴史編)緒方洪庵と感染症医療 コレラ指針いち早く発信/天然痘ワクチン普及

202083日朝日新聞

 テレビドラマ「JIN―仁―」や司馬遼太郎の小説『花神』にも登場する幕末の蘭方医(らんぽうい)で、教育者の緒方洪庵(おがたこうあん)(1810~63)。新型コロナウイルス感染が広がっている今、感染症医療に力を尽くした功績が見直されている。

 19世紀の江戸時代末から明治時代初めの日本でもウイルスなどの病原体に起因する感染症が猛威を振るっていた。その代表格はコレラ(虎狼痢〈ころり〉)だった。

 コレラが日本で初めて流行したのは文政5(1822)年。鎖国が終わり、外国人との交流が増えたことを背景に、安政5(1858)年、文久2(1862)年と断続的に流行し、数十万人が命を落としたとされる。

 この猛威に立ち向かった医師が緒方洪庵である。備中(びっちゅう)国(現岡山県)の足守(あしもり)藩の武士の家に生まれた。大坂で蘭方医の中天游(なかてんゆう)の思々斎塾(ししさいじゅく)に入門し、西洋医学の勉強を始めた。江戸や長崎に遊学し、1838年に大坂で医業を開業。同時に蘭学塾「適々斎塾(てきてきさいじゅく)(適塾〈てきじゅく〉)」も開いた。

 教え子は姓名録(門人帳)に記されただけでも636人。一説には数千人に及ぶとされる。将軍の奥医師兼西洋医学所頭取として江戸へ招かれるが、喀血(かっけつ)し、数え54歳で亡くなった。

    *

 「洪庵は医学と教育という二つの分野で大きな業績を残した」。こう語るのは、洪庵のつくった適塾が源流とされる大阪大学の松永和浩・適塾記念センター准教授(大阪学)だ。感染症対策の業績の一つが、1858年のコレラ流行時に治療指針を示すものとして緊急出版された『虎狼痢治準(ちじゅん)』。3人の西洋医師の書いた医学書を参考にしてわずか5~6日でまとめたもので、医師らに百冊を無料で配った。「感染症には正しい知識の素早い発信が重要であることを、洪庵はよく理解していた」

 疱瘡(ほうそう)(天然痘〈てんねんとう〉)の予防にも尽力し、1849年、西洋で確立した天然痘のワクチンを広めるため、大坂に種痘所(除痘館〈じょとうかん〉)を創設。その出張拠点ともいえる分苗所は西日本を中心に5カ月で60カ所以上に達した。幕府に働きかけて実現した種痘医の免許制度は、明治になって実現する医師免許制度の原型となったとされる。

 松永さんは「洪庵は患者の治療にあたりながら、不眠不休で『虎狼痢治準』を執筆し、種痘事業では利益を度外視してその普及に努めた。いずれも自分の持てる力を社会のために最大限役立てようとした結果で、私たちはその姿勢に学ぶべきではないか」と話す。

    *

 日本陸軍の原型をつくった大村益次郎や慶応義塾を創設した福沢諭吉、日本赤十字社初代総裁となった佐野常民(つねたみ)、東京医学校校長や内務省衛生局長を務めた長与専斎(ながよせんさい)……。適塾からは多彩な人材が巣立ったが、それはなぜだろうか。

 これまでの研究によれば、適塾では塾生が学力に応じて複数の等級に分けられ、上級者の指導でテキストを輪読することが授業の中心だった。成績に応じて上級に進み、席次も決まるため塾生同士の競争は激しかった。ただし、洪庵が直接指導するのは時折開かれる特別講義ぐらいだったらしい。

 洪庵は温厚篤実だったと言われるが、時に「破門だ」などと怒鳴ることも。それをなだめ、塾生を教え諭すのは妻の八重の役割だった。洪庵の書斎の灯火が深夜になっても消えないのを見た塾生たちが自らを戒め、勉学に励んだとの逸話も残る。こうした適塾の教育法を評価する専門家も少なくない。

 しかし、『江戸時代の医師修業』の著書がある海原亮(うみはらりょう)・住友史料館主席研究員(日本近世史)は「現在伝えられている適塾の教育は、大半が福沢諭吉の『福翁自伝』を典拠としている。そこに福沢ならではのバイアス(洪庵への畏敬〈いけい〉の念など)がかかっていることを忘れてはならない」と話す。

 海原さんは適塾の授業で使われた語学書は当時ではメジャーな教科書で、カリキュラムや授業内容も他の藩校や蘭学塾と大きく違った点はないとみる。「適塾の評価が高いのは塾生の活躍に加え、司馬遼太郎の小説などで描かれた適塾像・洪庵像の影響が大きいのでは。洪庵が優れた医学者・教育者だったのは間違いないが、もっと史料の分析が必要だ」と指摘する。(編集委員・宮代栄一)

 JIN作者「懐の深い人」

 洪庵はマンガにも登場する。手塚治虫は曽祖父の手塚良仙が適塾の塾生だったこともあり、「陽(ひ)だまりの樹(き)」で描いた。

 「JIN―仁―」の作者でもある村上もとかさんは「グランドジャンプ」に連載中の「侠医(きょうい)冬馬」にも登場させている。「幕府から取り立てられたことを『有難迷惑(ありがためいわく)』とこぼす一方で、貧しく月謝の払えない福沢諭吉に特別の配慮で再入門を許した。懐の深い人だった」と語る。「医術でわからぬことがあった時には、ライバル的な存在だった華岡流・合水堂(がっすいどう)の医師・華岡南洋のもとへ出向いて質問したといわれています。流派にこだわらず、恬淡(てんたん)と真理を探究する姿に(マンガの主人公の)冬馬も強く惹(ひ)かれたのではないでしょうか」

 <読む> 緒方洪庵については梅溪昇(うめたにのぼる)『緒方洪庵』(吉川弘文館)や大阪大学適塾記念センター編『新版 緒方洪庵と適塾』(大阪大学出版会)などが詳しい。江戸時代の医塾などについては海原亮『江戸時代の医師修業:学問・学統・遊学』(歴史文化ライブラリー)。

🔵手塚治虫=『陽(ひ)だまりの樹』(手塚治虫の先祖描く)

私の三代前の先祖は手塚良仙といい、大阪の適塾にあって三五九番目の門人として、緒方洪庵に学んだ医者である。

三代前の先祖が、府中藩松平播磨守の侍医だった、ということは、以前からうすうす知ってはいた。ある日突然、日本医史学会の深瀬泰旦という方から、私の論文だが読んでほしい、貴男のご先祖のことを書いた、というわけで「歩兵屯所医師取締役、手塚良斎と手塚良仙」なる小冊子が送られてきた。

それによると、安政二年、良仙は江戸小石川三百坂の家を出て大坂へ向かい、十一月二十五日、適塾の門を叩いたのだった。
その八か月前、適塾には、福澤諭吉が三二八番目の門人として入門しているから、手塚良仙と諭吉とは、いわば”同期の桜”ということになる。
もしや、と思って私は「福翁自伝」をひもといてみた。すると、果たして適塾時代の記述の中に、あった。手塚良仙のエピソードがあった。

手塚良仙は、適塾当時、良庵と名乗っていた。良庵は学問も熱心だったが、なによりも無類の道楽者だったようであった。女遊びにかけては、かなりだらしない男だったらしく、毎夜のような廓通いには諭吉も呆れ果てて、良仙に忠告をして、真面目に勉学をするようにしむけた。しかし女を断った良仙は、諭吉にとっては、どうもおもしろくない。そこで諭吉や同僚はわざと女文字の手紙をでっちあげて、さりげなく良仙に読ませ、良仙がけげんに思って廓へ出向こうとするのをとっつかまえて、寄ってたかって坊主にしようとした。良仙は平謝りに謝って一同に酒肴を振る舞うことで、やっと許してもらった、というエピソードなのである。

無類の女好き、という点では、恐縮だが私の父にそっくりだし、おっちょこちょいでだまされやすい、ということでは私の性格そのままである。読むほどに、やっぱり手塚家の血は、争えないものだと妙に感心した。
(後略)

(日本興業銀行発行 「新開業事情」1986年9月 より抜粋)

◆宮本 又次=緒方洪庵と適塾と大阪の町人社会 PDF26p 

🔵緒方洪庵紙芝居

司馬遼太郎原作 〔緒方洪庵生誕200年記念〕http://o-demae.net/library/literary01.html

 世の為に尽した人の一生ほど、美しいものはありません。

 これから、特に美しい生涯を送った人についてお話します。

 それは『緒方洪庵』という人の事です。

 この人は、江戸時代末期に生れました。

 お医者さまでした。

 この人は名を求めず、利益を求めず、溢れるほどの実力がありながらも、他人の為に生き続けました。

 そういう生涯は、遥かな山河のように美しく思えるのです。

🔵紙芝居:「洪庵のたいまつ」 その1

 〔緒方洪庵〕は、今の岡山県〔足守〕という所で生れました。

 父は〔藩〕の仕事をする武士でした。

(洪庵)「父上、私は医者になりたいと思います!」

 十二歳の時、突然〔洪庵〕は、父親に言いました。

 しかし、父は嫌な顔をしました。

(父)「武士の子は、どこまでも武士であるべきだ!!」

 父は〔洪庵〕を立派な武士にしたかったのです。

 ・・では、なぜ〔洪庵〕は、それほどまで〔医者〕に成りたかったのでしょうか?

 それは・・、

 〔洪庵〕が子供の時、岡山の地で、《コレラ》という病気が凄まじい勢いで流行しました。

 人が嘘のように、ころころ死んだのです。

 〔洪庵〕を可愛がってくれた隣の家族も、たった四つ日間の間に、みんな死んでしまいました。

 又、当時の《漢方医術》では、これを防ぐ事も治療する事も出来ませんでした。

(洪庵)「私は医者になって、是非人を救いたい。そして出来るなら、漢方ではなく、オランダの医術《蘭方》を学びたい!」

 〔洪庵〕は人の死を見ながら、こう決心したのでした。 つづく

🔵しかし、〔洪庵〕の父の許しは遂に出ませんでした。

 そこで、〔洪庵〕は16歳の時、ついに置手紙をして家出したのでした。

 そして『大阪』へ向かいました。

 なぜ、大阪だったかといいますと、その当時、この地で〔蘭方医〕が、塾を開いていたからなのでした。

 〔洪庵〕は、この塾に入門して、オランダ医学の〔初歩〕を学びました。

 又、幸いなことに、父親も大阪へ転勤となって移って来た為、やがて〔洪庵〕の医学修行も許してくれるようになったのでした。

 大阪の塾で、すべてを学び取った〔洪庵〕は、さらに《師》を求めて江戸に行きました。

 そして、江戸では『あんま』をしながら学びました。

 『あんま』をして、わずかなお金を貰ったり、他家の玄関番をしたりしました。

それは、今でいうアルバイトでした。

 こうして〔洪庵〕は、江戸の塾で四年間学び、遂に〔オランダ語〕の難しい本まで読めるようになったのです。

 その後、〔洪庵〕は『長崎』へ向かいます。 つづく

🔵長崎・・。

 当時、日本は鎖国をしていました。

《鎖国》というのは、外国とは付き合わない、貿易しないという事です。

 しかし、長崎の港、一ヶ所だけを、中国とオランダの国に限り、開いていました。

 長崎の町には、少しながら、オランダ人が住んでいました。

もう少し、《鎖国》についてお話します。

 鎖国というのは、例えば、日本人全部が、真っ暗な箱にいると考えて下さい。

 長崎は、箱の中の日本としては、針で突いたような小さな穴で、その穴から、微かに《世界の光》が、差し込んでくる所だったのです。

 〔洪庵〕は、この長崎の町で、二年間勉強し、暗い箱の日本から、広く世界の文明を知ろうとしたのです。 つづく 

🔵紙芝居:「洪庵のたいまつ」 その4

 29歳の時、〔緒方洪庵〕は大阪へ戻ります。

 そして、ここで『医院』を開いて、診療に努める一方、オランダ語を教える《塾》も開きました。

 ほぼ同時に、結婚もしました。

 妻は〔八重(やえ)〕といい、優しく物静かな女性でした。

 〔八重〕は、終生〔洪庵〕を助け、塾の生徒たちから、母親のように慕われました。

 〔洪庵〕は、自分の塾の名を、自分の号である〔適々斎〕から取って、《適塾(てきじゅく)》と名付けました。

 《適塾》は人気が出て、全国からたくさんの若者たちが集まって来ました。

 《適塾》は、素晴らしい学校でした。

 門も運動場もない、普通の二階建ての〔民家〕でしたが、どの若者も、勉強がしたくて、遠くからはるばるやって来るのです。

 江戸時代は、身分差別の社会ですが、この学校はいっさい平等で、侍の子も、町医者の子も、農民の子も、入学試験無しで学べました。

 塾へは、多くの学生達が入学して来ましたが、先生は〔洪庵〕一人です。

 〔洪庵〕は、病人たちの診療をしながら教えなければならないので、体が二つあっても足りませんでした。

 それでも塾の教育は、うまくいきました。

 それは、塾生のうちで、よくできる者が、できない者を教えたからでした。 つづく

🔵その5

・・・余談ながら、(わぁ~司馬遼調)僕は大学生の頃、三回ほどこの〔洪庵〕さんの作られた『適塾』に見学に行っている。

 今は中に入れるのかどうかは知らないが、昔(今から25年ほど前)は、見学できた。(僕の家からは自転車でも行けた)

 ほんとにこの狭い民家の中で、たくさんの学生達が、不眠不休で勉強していたのかと思うと、感動しまくりだった。(柱に刀傷もあったなぁ。ストレス溜まってたんやろなぁ・・)

 僕は、村田蔵六(のちの大村益次郎)が、試験が終る度に、この『適塾』二階の物干し場に出て、豆腐をアテに酒を飲み、試験後の疲れを癒していたと小説『花神』で読み、実際、(オンボロになっていた)物干し場に出てみて、感動したのを覚えている。

 この『適塾』、のちの『大阪大学 医学部』の卒業生で、この大学の教授になられた枚方市のホスピス医〔南吉一〕師と、のち御一緒に「紙芝居」を作る事になろうとは、その時、まだ知らなかった・・。(これも司馬遼調のパクリです)

(紙芝居の続き・・)

 〔洪庵〕は、自分が長崎や江戸で学んだ事を、より深く、熱心に教えました。

 〔洪庵〕は、常に学生たちに向かってこう言いました。

「君たちの中で、将来、医者に成る者も多くいるでしょう。

 しかし、医者という者は、とびきりの親切者以外は、成ってはいけない。

 病人を見れば、『可哀想でたまらない』という性分の者以外は、《医者》に成る資格は無いのです。

 医者がこの世で生活しているのは、人の為であって、自分の為ではありません。

 決して、有名に成ろうと思わないように。

 又、お金儲けを考えないように。

 ただただ、自分を捨てて人を救う事だけを考えなさい。

 又、オランダ語を勉強したからといって、医者にだけ成る必要はありません。自分の学んだ《学問》から、人を生かし、自分を生かす道を見つけなさい。」と・・。 つづく(次回、最終回)

🔵その6

・・このような《教育方針》でありましたので、適塾からは、さまざまな分野の『達人』たちが生れました。

 幕末の戦争で、敵味方の区別なく傷を負った兵士を治療した『日本赤十字』の創始者や、又、今や壱万円冊の顔となった慶応義塾大学の創立者〔福沢諭吉〕など、多くの偉人たちを輩出しました。

 やがて、そのような〔洪庵〕の評判を聞きつけた《江戸幕府》は、「是非、江戸に来て、『将軍』様専門の医者(奥医師)になってくれ」と言ってきます。

 それは、医者としては目もくらむような名誉な事でした。

 しかし、〔洪庵〕は断りました。

「決して、有名になろうと思うな。」という、自分の戒めに反する事だったからです。

 しかし幕府は許さず、・・・ついに〔洪庵〕は「もはや断りきれない。討ち死にの覚悟で参ろう。」と、いやいや大阪を出発しました。

 江戸に行った〔洪庵〕は、その次の年、そこであっけなく亡くなってしまいます。

 もともと病弱であったのですが、江戸での華やかな生活は、〔洪庵〕には合わず、心の長閑さが失われてしまったのが原因でした。

 江戸城での、〔しきたり〕ばかりの生活に気を使いすぎ、それが彼の健康を蝕み、命を落とさせたのでした。

 振り返ってみると、〔洪庵〕は、自分の恩師達から引き継いだ、《たいまつの火》を、より一層大きくした人だったのでしょう。

 彼の偉大さは、自分の《火》を、弟子たち一人ひとりに移し続けた事でした。

 弟子たちの《たいまつの火》は、後にそれぞれの分野で、明々と輝きました。

 やがて、その火の群れは、日本の《近代》を照らす大きな明かりとなっていったのです。

 後生の私達は、〔洪庵〕に感謝しなければならないでしょう。

 緒方洪庵、享年54歳。

 おしまい

★[朗読]司馬遼太郎 – 洪庵のたいまつ 

(前編) https://m.youtube.com/watch?v=ePjlDn-VH0Y 

(中編) https://m.youtube.com/watch?v=4oD936REQ7I 

(後編)なし 

🔴華岡青州

華岡青洲
映画=華岡青洲の妻(1967)

🔵知恵泉・華岡青洲=世界で初めて全身麻酔45m

https://drive.google.com/file/d/1BP7DMFA9WG-Wf2pJLGl1BHNATnat2uc1/view?usp=drivesdk

★★歴史列伝・世界初の全身麻酔手術を行った華岡青洲 

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v116363581AN4DTM4j

★★世界初全身麻酔薬を完成させた日本人医師華岡青洲の壮絶で感動のドラマ計23m 

https://m.youtube.com/watch?v=oCWkjVSaoNs 

https://m.youtube.com/watch?v=D5LdmOVD3T4 

★★華岡青洲の妻(昭和42年)映画プレビュー23m 

https://m.youtube.com/watch?v=7TlcN5Dk8UU

★★華岡青洲の妻(演劇)計50m 

https://m.youtube.com/watch?v=HBmaiT0ppwI 

https://m.youtube.com/watch?v=X2ij2wLoK9g 

https://m.youtube.com/watch?v=uzPPlOc-yek 

https://m.youtube.com/watch?v=MV3g4iJZOBg 

【豊後・中津でのルイス・アルメイダの西洋医学の伝播】

(前野良沢学ぶ)

★★風之荘「円相」29西洋医学28m

🔴9706岩波新書・佐藤昌介=高野長英.pdf  

🔴7201高橋しん一=洋学思想史論(1).pdf  

 🔴7201高橋しん一=洋学思想史論(2).pdf  

🔴7206かもしか文庫・加藤文三=学問の花ひらいて-蘭学事始のなぞ.pdf

🔴9706岩崎=日本近世思想史序説㊦②洋学=杉田・司馬・渡辺・高野.pdf  

────────────────────────────

🔵洋学、とくに蘭学による真理の探究の歴史 

────────────────────────────

16世紀中ごろ、キリスト教の布教とともにポルトガル人、スペイン人によって始まったが、これは南蛮学、蛮学などとよばれた。やがて江戸幕府が鎖国政策をとったことにより、西洋の学術・文化は、日本への渡来を許された唯一の西洋の国オランダが長崎出島(でじま)に建てたオランダ商館を通じて、オランダ語を介して移入されることになり、これは蘭学(らんがく)とよばれた。鎖国政策が緩み、開国政策がとられた幕末期になると、オランダ人以外の諸外国人も渡来するようになり、イギリス・フランスなどの学術・文化が、それぞれの国の言語とともに渡来した。洋学ということばはこの時期以降に一般化した。洋学は自然科学・社会科学・人文科学の広い分野で西洋の知識・学問を移入するのに力を発揮したが、ことに英学が蘭学にかわって主要な地位を占めた。[大鳥蘭三郎] 

◆蘭学のはじまり 

江戸時代にオランダを通じ、またはオランダ語を介して日本に伝わった西洋の学問・技術の総称。鎖国政策の下の江戸時代に、日本渡航を許可されていた唯一の西洋国家であるオランダは、日本との貿易を営むための商館を、17世紀の初めに長崎出島(でじま)に建て(初めは平戸(ひらど))、厳しい制限を受けてはいたが盛んに西洋の文物を日本に伝えた。 

 蘭学を内容的にみれば、医学、天文学、兵学などの自然科学系統に属するものが主であったが、これは鎖国以前の南蛮(ポルトガル、スペイン)を経由して日本に伝えられた西洋学術の名残(なごり)とも考えられる。西洋学術の伝承にあたった人々はオランダ側ではオランダ商館医師が主役で、そのほかに商館長・書記なども関係し、日本側ではオランダ通詞(つうじ)が役職上からも当然中心であり、そのほかは特別な許可を得た有志の者であった。長崎を中心に行われた蘭学は、オランダ商館長一行が、最初は年に1回、1790年(寛政2)からは4年に1回行う江戸参府が刺激となって、江戸その他の地でしだいに広く行われるようになった。[大鳥蘭三郎] 

◆揺籃期の蘭学 

初期のころの蘭学はいわゆる見よう見まねの程度のものにすぎなかったが、明らかに西洋学術書の影響がみられる。たとえば、医学における楢林鎮山(ならばやしちんざん)の『紅夷(こうい)外科宗伝』、天文における北島見信(きたじまけんしん)の『紅毛天地二図贅説(ぜいせつ)』などはいずれもその成果であるといえる。8代将軍徳川吉宗(よしむね)の西欧科学の奨励、殖産興業の政策は、1740年(元文5)ついに青木昆陽(こんよう)、野呂元丈(のろげんじょう)2人に命じてオランダ語を学ばせるに至った。これが大きな契機となって、杉田玄白(げんぱく)がいう本格的な蘭学がおこり、杉田玄白、前野良沢(りょうたく)、中川淳庵(じゅんあん)、桂川甫周(かつらがわほしゅう)らによるクルムスの人体解剖書の翻訳事業が1771年(明和8)に始まり、74年(安永3)に日本で最初の西洋医学書の翻訳である『解体新書』(4巻)が出版された。この書の出現は日本の医学にとってまさに画期的なことであった。そしてこれが蘭学そのものに対しても大きな推進力となった。 

 杉田玄白・桂川甫周に蘭学を学んだ宇田川玄随(げんずい)、前野良沢・杉田玄白に蘭学の教えを受けた大槻玄沢(おおつきげんたく)はともに大いに蘭学に励み、ついに杉田家・桂川家と並んで江戸の蘭学四大家と称せられるに至った。宇田川玄随は日本最初の西洋内科書『西説内科選要』を訳述し、大槻玄沢は『蘭学階梯(かいてい)』を著し、蘭学者としての地位を固めた。これとほぼ同時期に、長崎の通詞たちによるオランダ語研究も本格的に行われるようになり、西善三郎、本木仁太夫(もときにだゆう)(良永(よしなが))、志筑(しづき)忠雄、馬場佐十郎らの優れた蘭学者が輩出した。[大鳥蘭三郎] 

◆民間学者の活躍 

江戸に主流を発した蘭学は、その後、宇田川・大槻の門下から出た人々によってしだいに京都・大坂をはじめとする諸地方へと広がっていった。ここで目につくのは、これら蘭学を率先して研究した人々は、桂川甫周を除いて、他はいずれもいわば民間の学者あるいは陪臣の医者であったことである。これは蘭学のもつ一つの大きな特徴であるが、幕府当局もようやく蘭学に対する認識を改め、1811年(文化8)天文方に新たに蕃書和解(わげ)御用の一局を設け、外国文書の翻訳に備えた。馬場佐十郎・大槻玄沢の2人が訳員に任ぜられ、オランダ書籍の翻訳にあたった。2人はとりあえずショメルの百科全書の蘭訳本の重訳に着手した(翻訳事業は翻訳者がかわりながら1846年(弘化3)まで続き、『厚生新編』と題された)。またこのころに、当時のオランダ商館長ドゥーフが長崎のオランダ通詞数人とともにハルマの蘭仏対訳辞書の和訳を試み、その第一稿が成り、蘭日辞書(『道訳法爾馬(ドゥーフ・ハルマ)』、別名『長崎ハルマ』)ができあがった。これによって蘭学は新しい段階を迎えたが、オランダ以外の諸外国との折衝が複雑化するにつれて、英語、ロシア語、その他の外国語の研究が行われるようになり、蘭学のもつ意味がそれまでのものとはすこしずつ変わってきた。そして洋学ということばが生まれ、使われるようになった。この時期、西洋医学書の翻訳・出版と並んで、志筑忠雄の『暦象新書』、帆足万里(ほあしばんり)の『窮理通(きゅうりつう)』、青地林宗(あおちりんそう)の『気海観瀾(きかいかんらん)』、川本幸民の『気海観瀾広義』、宇田川榕菴(ようあん)の『舎密開宗(せいみかいそう)』『植学啓原』など、天文学、地理学、物理学、化学、植物学などの西洋学術の新知識が蘭学者によって伝えられた。[大鳥蘭三郎] 

◆シーボルトの影響力 

日本に渡来した多くのオランダ商館医師のなかには、西洋の学問・技術を日本に伝えるという面で積極的に活動した人も少なくない。ケンペル(1690来日)、ツンベルク(1775来日)らはその例であるが、1823年(文政6)に来日したシーボルトほど大きな足跡を日本に残した人はなかった。シーボルトは在日中に多くの日本人門下生を養成したばかりでなく、『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などを著し、積極的に日本をヨーロッパに紹介したことでも、とくに記憶されるべき人である。なお、1828年シーボルトの帰国に際して起こった事件(シーボルト事件)は、その後、思想的に蘭学者を束縛するきっかけとなった。また平賀源内・高野長英ら進歩的な蘭学者による幕府批判が弾圧された「蛮社の獄」(1839)も、その後の洋学者に大きな影響を及ぼした。蘭学の時代の後期に、大坂に開かれた緒方洪庵(こうあん)の適々斎塾(適塾)は優れた蘭学者を多く輩出し、明治時代の各界に多数の人材を送り込んだことは特筆されるべき業績といえる。[大鳥蘭三郎] 

◆蘭学から英学へ 

蘭学を介して行われてきた諸外国との折衝は、やがて直接的にそれぞれの国と交渉せざるをえなくなり、蘭学は一転して国防のための研究として行われるようになり、多分に軍事科学化した。一方、鎖国―開国、攘夷(じょうい)通商と相反する主張が激しく戦わされるようになると、蘭学は本質的には開国の側にたったが、実際には幕府当局および諸藩の軍備充実のために大いに利用された。開国の国是が定まると、多くの外国人が渡来するとともに、オランダ語以外の外国語も伝えられ、ことに英語が非常な勢いで広まっていった。しかしそれでもオランダとオランダ語は大きな影響力を維持し続けていたといえる。 

 1855年(安政2)オランダから蒸気船を贈られたのを機として長崎に海軍伝習所が設けられ、オランダから招かれた海軍将兵がそこの教官となって、海軍に関する諸学を教授した。また同所に57年に招かれたオランダ海軍軍医のポンペが公に西洋医学を教授した。さらにその年、江戸に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)が開かれ、箕作阮甫(みつくりげんぽ)・川本幸民らの蘭学者が教授方に任命され、蘭学の教授と研究にあたった。その翌年には江戸に種痘所(しゅとうしょ)(後の西洋医学所)が開設され、教授・解剖・種痘の3科に分けて、西洋医学の研究が行われた。中央におけるこのような蘭学をめぐる諸施設が置かれるに伴い、薩摩(さつま)(鹿児島)、肥前(ひぜん)(佐賀・長崎)、長門(ながと)(山口)、越前(えちぜん)(福井)の各藩にも同様のものが開かれ、盛んに西洋文化の移入が試みられた。 

 このように蘭学は、開国後もなおしばらくの間は、来日した諸外国の間で中心的な地位を保っていたが、しだいにその地位を他に譲り、主として英学が盛んになるのと反比例して影響力を弱めていった。しかし江戸時代から明治初期に欧米諸国の文化を日本に移入し、吸収するうえで蘭学が果たした役割は大きく、日本文化に与えた影響は著しかった。[大鳥蘭三郎] 

『板沢武男著『日蘭文化交渉史の研究』(1959・吉川弘文館) ▽沼田次郎著『洋学伝来の歴史』(1960・至文堂) ▽佐藤昌介著『洋学史の研究』(1980・中央公論社)』 

────────────────────────────

🔵杉田玄白の生涯、蘭学事始・解体新書 

───────────────────────────

◆◆まんが=私説・杉田玄白「蘭学事始」 

(杉田玄白の生涯も含めよく出来ている) 

http://endlosewelt.web.fc2.com/historia/rgkhtop.html

◆◆WEB漫画=杉田玄白(上記まんがとは別のまんが) 

◆◆杉田玄白 

(福井の歴史) 

http://rekishi.dogaclip.com/2015/07/post-bbeb.html

◆蘭学との関わり 

杉田玄白(すぎたげんぱく)は、小浜藩の医者の子として江戸で生まれ、18歳から幕府医官の西玄哲(にしげんてつ)のもとで蘭方外科を学びました。 

また、平賀源内(ひらがげんない)らと同時代の人でもあり、蘭学に興味を持ちました。 

オランダ商館長の通訳であった西善三郎(にしぜんざぶろう)に会い、オランダ語の難しさを知り学問を一時あきらめたこともありました。 

しかし、西洋の解剖学の本『ターヘル・アナトミア』との出会いが、玄白を再びオランダ語へと向かわせたのでした。 

◆翻訳を思い立った理由 

小浜藩医をしていた父の後を継いで侍医(じい)になった玄白(げんぱく)は、『ターヘル・アナトミア』という西洋の解剖学の本(オランダ語版)を手に入れました。 

オランダ語はさっぱり分かりませんが、日本や中国の五臓六腑(ごぞうろっぷ)の図とは異なるその付図(ふず)を、本物の人体と比べたいという思いが募(つの)りました。 

39歳の時に江戸で死体の解剖に立ち会う機会を得て、付図の正確さに驚きこの本を翻訳して世に役立てようと決心したのです。 

◆翻訳のエピソード 

玄白(げんぱく)は、小浜藩医の中川淳庵(なかがわじゅんあん)や前野良沢(まえのりょうたく)らと共に『ターヘル・アナトミア』の翻訳を行いました。 

満足な辞書もない時代で、「眉(まゆ)というものは眼の上方にあるものなり」という一文すら、丸一日かかっても分からない有様(ありさま)でした。 

それでも1ヶ月に7回ほど集まって勉強し、動物の解剖を行ったり、通訳の者に聞いたりしながら、11回もの書き直しと足かけ3年の歳月をかけて完成しました。 

「軟骨(なんこつ)」や「神経」といった言葉は、この時に彼らがつくったものです。 

◆『蘭学事始』の出版 

『蘭学事始(らんがくことはじめ)』は玄白(げんぱく)83歳の時、翻訳業の苦労の軌跡(きせき)を回想して記し、大槻玄沢(おおつきげんたく)に送った手記です。 

玄白は蘭学の開拓者として、自分の死によって蘭学草創(そうそう)の事を知るものがいなくなることを惜しみ、当時の事を書き残したのです。 

江戸時代は写本のみで伝わりましたが、幕末の頃にこの写本を読んだ福沢諭吉(ふくざわゆきち)が泣いて感動し、学問の継承・保存の為にこの本を世に出版。一般に読まれるようになりました。 

◆玄白ゆかりの地 

小浜市には、玄白(げんぱく)が小浜藩出身だったことにちなんで名前がつけられた「杉田玄白(すぎたげんぱく)記念 公立小浜病院」があります。 

病院正面には玄白の銅像があり、生前の玄白を忠実に再現して建てられました。 

ほかにも小浜市には、小浜で亡くなった玄白の兄と義母の墓がある空印寺(くういんじ)や、玄白の父が納めたと伝わる弁天像がある羽賀(はが)寺など、ゆかりの地があります。 

──────────────────────────

🔵「蘭学事始」の抜粋 

(現代語訳・原文「蘭学事始」から) 

──────────────────────────

クリックしてrangaku.pdfにアクセス

◆現代の蘭学ブーム 

昨今、世間に蘭学ということがひろく行われ、真面目な人は熱心に学び、無知でいい加減な人たちはただむやみに恐れ入ったり半可通で吹聴しています。ところでその蘭学の起 源をみると、昔、私が仲間たち 二三人がこの仕事にいわば偶然に志を抱いて開始したもの で、それからはやくも五十年近く経ちました。ここまで盛んになろうとは到底思わなかっ たのに、こうなったのは不思議です。 

漢学は大昔、遣唐使たちを異国の中国へ遣わし、或は英邁の僧侶が渡来して、直接相手 の国の人について学び、帰朝後に貴賤上下へ教導のために行ったので、少しずつ盛んにな ったのは理解できます。 

蘭学では、こんな風に人を相手の国に派遣した例はありません。それなのにこれほど盛 んになったのは何故か考えると、医療の場合は教えが大衆への実務を優先する故、それだ け会得しやすかったのでしょう。また、事が新奇なだけに従来と違う妙術もあると世人も 考え、さらにはずるがしこい一派がこの名前で、利を図るために流布した面もありそうで す。 

◆鎖国の歴史の概略を 

昔からの歴史をいろいろ考えと、天正慶長の頃(1573-1591, 1596-1614)、西洋の人がだんだんと日本の西部に船をつけたのは、表向きは交易が名目ですが、蔭には別の欲望もあったようです。故に、その災いが発生してわが国では初めての大事件として、厳禁してしまったわけで、この点はよく知られています。この邪教の問題は、ここでは問題外として 議論はしません。但し、その頃の船に乗って来た医者から伝来した外科の流儀は世に残りました。いわゆる南蛮流です。 

その前後より、オランダ船も入港を許可され、肥前平戸へ来ていました。外国船がすべ て禁止となった時も、オランダには宗教的野心がないとして、引続き渡来を許されました。 そこから三十三年目、長崎出島の南蛮人を追放して、その跡へオランダ人を移し、その後 は年々長崎の港にオランダ船は入れることになりました。 

それが寛永十八年(1641)で、その船でやって来た医師に、またかの国の外科治療法を 伝えた者も多く、オランダ流外科と称しています。といっても、横文字の書籍を読んで習 い覚えたのではなく、ただその手術を見習い、その薬方を聞き、書き留めただけです。そ の上、わが国では入手できない薬品も多く、代りの薬で患者を治療しています。 

(訳註:蔭には別の欲望:キリスト教布教のことを指す。玄白は明示を避けているようだ。 南蛮:ポルトガルとスペインのこと。) 

◆オランダ語と通詞たち 

徳川の当初、西洋関係についてはいろいろありましたが、すべて厳しく禁止されまし た。渡来が許可されたオランダ関係も、彼らが使う横書きの文字の読み書きは禁止され、 通詞の人たちも片仮名で書き留めるだけで、口から口へ記憶して通訳の用を足し、それが 長年のやり方でした。それで、横書きの文字を読み習おうという人は誰一人いませんでし た。ところが、どんなことも時期がくれば、自ら開けるというものです。 

八代将軍吉宗公の時、長崎のオランダ通詞西善三郎、吉雄幸左衛門、今一人何某(名は忘 れた)の三人が申し合せて議論し、以下の結論を出しました。 

「これまで通詞の家で一切の御用を取扱ってきているが、オランダ文字を知らず、ただ暗 記の言葉だけで通訳し、複雑な数多い用事をなんとか果たして勤めているのは、あまりに 頼りない。せめて自分たちだけでも横文字を習い、かの国の書物も読む免許を受けたい。 そうすれば、以後は万事につけて事情が明白になり、用事を果たしやすいはずだ。今のやり方ではあの国の人に偽り欺かれても、これを糾明する方法もない。」 

そう考えて、三人で言葉を合わせて申し立て、どうぞ免許を許可して欲しいと、公に願い出ました。これが至極尤もな願いとして聞き届けられ、早速許可されました。オランダ船の渡来から百年余で、横文字を学ぶことの初めです。 

◆ターヘル・アナトミア登場 

明和八年辛卯(1771)の春と記憶していますが、中川淳庵が例の宿泊所へ行き、オランダ人がターヘル・アナトミアとカスバリュス・アナトミアという身体内景図説の書二本を取 り出して、希望者に譲ろうというのを持ち帰って、私に見せました。もちろん一字も読め ませんでしたが、臓腑、骨節などの描写が見事でこれまで見聞したのとはまったく異り、きっと実際に解剖して描いたものと感じ、是非欲しいと思いました。そもそもわが家はオ ランダ流の外科を唱える身でもあり、せめて書棚に備えて置きたいのです。しかし、当時 の我が家は貧しく、これを購入する力がなかったので、藩の太夫である岡新左衛門という 人の許に持って行って、こんなわけで是非この蘭書が欲しい、入手したいのだが手元不如意で残念と話すと、新左衛門がこれを聞いて、それは入手しておいて役に立つものか、役 に立つものならお殿様に費用を出して貰うよう取計うといいます。私は、必ずこんな風に 役立つという目当はないけれども、将来きっと役立つに相違ないと考えるので見てほしい と答えました。傍に倉小左衛門(後に青野と改む)という男が居て、それはなんとか調べてみよう、杉田氏はこれをムダにする人ではないと助言してくれました。これにより、容 易に願いが叶い、望みとおり入手できました。私が蘭書を手に入れた最初でした。 

さて、それまで平賀源内などと語り合って、いろいろ見聞して、オランダの測定法や 物理学などは驚き入ることが多く、もしこうした図書の内容を理解して解釈できるなら、きっと格別の利益が得られるはず、しかしこれまでそこを志す人がないのは残念で、何と かこれを切り開く道はないだろうか、江戸では到底ダメでも、長崎の通訳に頼んで判読して貰いたいものだ、一冊でも翻訳という仕事が完成すれば、大変な国益とも成るはずだ、だけどなあ・・・と力の及ばない点を毎度嘆息していました。しかし、この慨嘆は決 してむなしく終わらなかったのです。 

◆腑分けをみる 

その頃、この解剖書を入手したので、先づその図を実物に照して見たいと考えるようになりました。 

まさに、それを学ぶ時がきたというべきか、何とも不思議なめぐり合わせです。三月三日の夜、時の町奉行 曲淵甲斐守殿の家士 得能万兵衛という男から手紙がきて、明日お抱え 医師の何某という者が、千住骨ケ原で解剖を行うから、希望ならこちらへ来して欲しいと 知らせてきました。同僚の小杉玄適氏は、以前京都で山脇東洋先生の門で学び、山脇先生 の企画した解剖に参加しており、先生について実際に視てみると、昔の人の話は全部うそで信じるわけにはいかないと前から述べていました。昔は 9 臓と称し、その後は56腑と分けているが、それがそもそも杜撰さの証拠だそうです。 

東洋先生は、すでに蔵志という著書も出版していました。私はこの書も見ており、機会が あれば自分でも解剖を是非みたいと思っていました。たまたまオランダの解剖書も手に入 ったことでもあり、照合して何とかその実否を確認したいと考え、この誘いを喜んで格別 の幸運だと早速でかけるつもりでうきうきしました。ところでこんな幸運は独り占めすべ きではないと、仲間たちで関心の深そうな人々に知らせるつもりで、先づ同僚中川淳庵を 初め誰彼と知らせた中で、例の良沢にも知らせました。 

良沢は私より年齢が十歳ほど上で自分より老輩です。知り合いでしたが、通常は交流も稀 で直接交渉は乏しかったのですが、医学の問題に熱心なことは互いに知っており、腑分けから漏らすわけにはいきません。早速知らせたいのに時間がさしせまり、しかもオランダ 人が滞留中で、夜になってしまいました。急に知らせる便もなく、どうしようかと考えて、 臨時の思い付きで、明朝これこれがあり、お望みなら早朝に浅草三谷町出口の茶屋まで御 越し下さい、私もそこでお待ちしますと書いて、とりあえず手紙を書き、知った人と相談 して本石町の木戸際に居た辻駕の者を雇って、置いてこいと命じました。 

翌朝支度を整えて約束の場所へ行くと良沢も来ており、他の仲間も皆集まって出迎えました。そこで良沢が蘭書を一冊懐中からとり出し、開き示しながら、これはターヘル・ アナトミアというオランダの解剖書で、先年長崎へ行った時に手に入れて、家にしまって おいたと言います。見ると、私がつい最近手に入れた蘭書とまさに同書同版です。これこそ奇遇だと、互いに手を打って感嘆し合いました。 しかも良沢は、長崎遊学の際に、その地で習ったといって、本を開いて、これはロングといって肺のこと、こちらはハルトといって心臓のこと、マーグというのは胃で、ミルトと いうのは脾臓だと指して教えてくれました。どれも漢説の図とはまったく違い、誰もがとにかく直接見ないうちはと、心中で疑いをもっていました。 

(略) 

◆腑分けを見ての帰路 

帰路は、良沢、淳庵と私と、三人同行です。途中で語り合いながら、さてさて今日の実 験にはまったく驚いた、これまで気付かなかったのは恥づかしい、いやしくも医師として 主君に仕える身で、その医術の基本である人間の形態の本当の姿を知らず、今まで毎日こ の仕事を勤めて来たのは面目ない次第だ、どうか今日のこの実験に基づき、大体でも身体 の真理を知って医療を行えば、この仕事で身を立てる申訳もたつだろうと、共々嘆息しま した。 

良沢も、まったくその通りで自分も同感だと述べた。 

その時、私はこう述べました。何とかしてこのターヘル・アナトミアの一部を新たに翻訳 すれば、身体内外のことがわかり、今後の治療に役立つだろう、何とかして通訳等の手を かりず、読んでいきたいとの発言でした。これに対して良沢が言うには、自分は年来蘭書 を読みたいという宿願を抱いていたが、同じ考えの良友がなく、常々その点をを嘆きなが ら日を送ってきた、参加者の方々が是非読みたいという強く望まれるなら、自分は先年長 崎へもゆき、蘭語も少々は知っているから、それを核として、一緒に何とか読もうではな いかといいます。それを聞くと淳庵と私は、それは何とも嬉しい、皆で力を合わせて、是非頑張って読んで行こうと答えました。 

良沢はこれを聞くと本当に大喜びしました。それなら善はいそげという諺もあるから、早 速明日私宅へいらして欲しい、何とか工夫しようと深く約束して、その日は参加者それぞ れの宿所へと帰りました。 

◆決断 

さてこの書を読みはじめるに際して、どうやって文章にしていこうかと話し合いまし た。はじめから身体の内部のことはとてもわかりにくいだろう、本の冒頭部分に、身体の 前面と後面の全体図があって、これは体表面です。これなら、名前はみなわかっているから、この図と説明の符号を照らし合せて考えるのなら、取付きやすいはずで、本の最初の 図でもあり、みんなで先づここからスタートして翻訳を開始しようと定めました。解体新 書形体名目篇というのがこれです。 

その頃はデ(de)とか、へット(het)とか、またアルス(als)、ウエルケ(welke) の助詞の類さえ、何が何やら気持の上で明確には解釈できず、たとえ少しだけ覚えている 単語があっても、前後が一向にわからないことだらけでした。例えば、眉(ウエィンブラーウ)というのは目の上に生えた毛だという一句もぼんやりしかわからず、長い春の一日 かけても明確にならず、日暮れまで考へ詰め、互いににらみ合って、僅か一二寸ばかりの 文章、一行も解釈できなかったりしました。 

或る日、鼻のところで、フルへッヘンドしているものとあるのをみて、この単語がわかりません。これは何を意味するのだと考え合ったものの、どうもなりません。その頃ウヲ ールデンブック(辞書)はなく、良沢が長崎で入手したオランダ語の簡略なパンフレット がありそれを探すと、フルへッヘンドの説明に、木の枝を断ちると跡がフルへッヘンドと なり、また庭を掃除すると塵土が集まってフルへッヘンドするなどと書いてありました。 どんな意味だろうかと、また例の如くこじつけ考え合うものの判断がつきません。この時、 私の意見で、本の枝を断った跡が治癒するとうずたかくなる、また掃除して塵土が集まる とこれもうずたかくなる、鼻は顔の真ん中で堆起しているから、フルへッヘンドは堆( ヅタカシ)ということだろう、この単語は「堆」と訳してはどうだろうというと、参加者は この提案を聞いて、それは素晴らしい、堆(ウヅタカシ)と訳せばあてはまると決定しました。その時の嬉しさといったら、何に譬えようか、連城の玉を得たというか、とんでもない宝物を手に入れた気持でした。 

◆十轡(くつわ)十文字=解らない用語のマーク 

こんな風に推理しては訳語を定めていきました。次第に解釈できる単語の数も増し、良沢がすでに知っていた訳語集を増補しました。その中にも、シンネン(精神)などいう単語が出でくるなど、何とも解釈できないのもありました。こういうのは後でわかるまでと りあえず符号を付けて置こうと、丸の中に十文字を書いておき、この符号のつく「わからないこと」を、轡(くつわ)十文字と名づけた。毎回いろいろに申し合せ、いくら考えても 解らないことがあって、その苦しさの余りに、それもまた轡十文字、これもまた轡十文字 となりました。そういいながら、仕事を進めるのはもちろん人で、成功不成功は天運との 喩で辛苦しました。 

一ケ月に六七回の割合で、こんな風に頭をつかい、根をつめて仕事を進めました。定例の 日には誰もサボらず、わけもなくして参加者と相集まり会議して読み合って、わからないことも繰り返すとわかると言うとおりで、一年も過ぎた頃には訳語もかなり増加し、読む につれてかの国の事態も自然と了解でき、そうなると難しい言葉の少ないところは、一日 に十行も、あるいはもっと多くも、格別の労苦なく解釈できるようになりました。一方で、毎年はじめに江戸にくる通訳の人たちに尋ねて確認したこともありました。その間にも、 さらに解剖を観察したこともあり、動物を解剖して図と照らし合わせたことも何回もあり ました。 

◆翻訳が順調に進む楽しさ 

この会の業務を怠らずに勤めていると、次第に同じ興味を抱く人たちの参加者が増えてきましたが、各自考えがいろいろで一様ではありません。 

私は偶然この解剖書を手に入れ、直ちに実際の解剖で確認し、東西千古の差があると知って驚いて心服し、書物の内容をなんとか早く解明して、治療の実用に役立て、世の医家の仕事に一日も早く一部でも役立たせいという気持ちで、他に望みはありません。それで、 一日の会合で解釈できた分はその夜翻訳して草稿にし、その際に訳述の仕方を種々考え直しました。こうして四年の間に、草稿は十一度書き換え板下に渡せるまでになり、遂に解 体新書翻訳の事業が完成しました。 

そもそも江戸でこの学を創業して、腑分と言い古した用語を新たに「解体」と訳し直し、また仲間の誰がいうともなく蘭学という新名を提唱し、日本全国に自然と広まって通称と なりました。現在の隆盛のきっかけです。今から考えると、これまで二百年間、外科法は 伝わったものの、直接オランダの医書を訳すことはなく、この時の私たちの初めての仕事が、不思議にも医道の根本である解剖書で、それが新訳の起点となったのは、偶然ながら 実に天意です。 

昔をふりかえると、新書が完成する前に、こんな風に努力勉励を二、三年続けて、そ の状況がわかるに随い、さとうきびを囁むが如く、次第にその甘味に喰いつき、これで千古の誤も解け、その基本がたしかに理解できるのが楽しく、集会の日は前日から夜の明けるのを待ちかね、子供がお祭に出かけるような気持でした。 

そもそも当時の江戸には華やかさに浮かれる風俗もあり、他の人も私たちの話を聞き伝えて、雷同して仲間入りするものもいました。その時の人々を思うと、最後までいた人も 途中で脱落した人も、今は皆あの世にいっています。嶺春泰、烏山松円などは本当によく 出席してくれましたが、今はもう世を去っています。 

(略) 

◆翻訳における玄白の態度基本を教えたい 

私は元来おおざっぱな人間で学問も乏しく、オランダ学説を翻訳しても、読者がそれをどんどん理解し解釈するのを助ける力はありません。しかし、人に頼んだのでは自分の意 図も通じないので、やむをえず無知も顧みずに自分で書き綴りました。だからこそ、細か い面では知識や認識が不足して見苦しい面もあり、精密で微妙な意味もありそうと思いな がら解釈できず、いい加減とは知りながら、強いて解釈しないで放置し、意味のわかった ところだけを書きました。 

たとえば京に上る場合、東海道と東山道の二道あることを知って、西へ西へと行けば、 終には京に上り着きます。そんな基本の道筋を教えるのが重要と思い、大体の基本を書いたわけです。その手初めとして、世の医師の為に翻訳を開始したのです。元来学問不足の 自分だから翻訳の仕方は知らず、ましてオランダ書の翻訳となれば、例のない仕事で、読 み初めたばかりで、細密な判読できません。しかし何度もくりかえすように、医師たるも の先づ第一に臓器の構造やその形や働きを知らないでは済まず、是非その意味を知らせて、 診療の助けにしてほしいというのが狙いです。 

意図がそうだから、訳をいそいで早くその大筋を人の耳にも留まり理解し易くして、従 来の医書に比較して異なる点を速かにさとらせるのを第一としました。それ故、従来の漢字で表現する旧名を用いて訳したいと思いました。ところが、漢字の名とオランダ語の名 とは一致しないものも多く、方針が決まらずに当惑しました。あれこれ考え合せ、自分に も初めてで、とにかくわかりやすいことを狙おうと決し、時に翻訳、時に対訳、時に直訳、時に義訳と、さまざまに工夫しました。義訳とは意味から単語をつくること、直訳とはオ ランダ語をそのままカナ表記することをいいます。とにかく、ああ書いたりこう書いたり して、昼夜自分で書き直し、前にもいったように草稿は十一度書き換え、四年かけてよう やく完成しました。 

その時点では、オランダの風俗の細かい面、微妙な点などは今ほど明らかではありませ んでした。ですから、いろいろと判明した現時点から見ると、誤解が多いかもしれません。 しかし、物事を最初に唱える時は、後からそしりを受けるのを恐れては何も出来ません。くりかえしますが、基本にもとづいて合点できた点を訳出したのです。経典の梵語からの漢訳も、四十二章経から始まってようやく現在の一切経に達しました。このやり方が、私の当初よりの希望であり、願いです。 

良沢という人がいなかったら、この道は到底開けなかったでしょう。しかし、一方で私 のように基本に忠実だがおおまかな人間がいなければ、この道がこれほど速かには開かれなかったでしょう。この組み合わせも、天の助です。 

(略) 

◆各種の地ならし:各方面への献本 

「解体約図」が先に完成し、ついで本篇の「解体新書」も出版されましたが、紅毛談さえ 絶版になった前例があり、西洋のことはかりそめにも唱えてはならぬと言われると困りま す。オランダは別格として貰えるかも不明瞭で、差支えないと判定されると断定もできま せん。秘密出版扱いされて、禁令を犯したとして罪を受ける可能性も否定できず、この問 題は重大な恐怖でした。 

横文字をそのまま出したのではなく、読めば内容は明確で、医道解明のためだから差支えないと自分で判断して、初めての翻訳を公にすると唱おうと、覚悟を極めて決断しました。といっても、何しろ翻訳出版としては最初で、何とか神の庇護を受けたく、一部を公儀 へ献本しました。幸い仲間の桂川甫周君の父上の桂川甫三君が旧友で、彼の判断をきいた ところ、彼が取扱って推挙して御奥から将軍に献上してくれました。それで特に問題も生じずに済んだのは、幸いでした。 次に私の従弟の吉村辰碩が京都に住んでおり、彼の推挙で関白九条家と近衛准后内前公と広橋家へも一部づつ献上しました。これによって、三家より目出度き古歌を自ら書いた ものを頂戴し、また東坊城家よりは七言絶句の詩を賦して頂戴しました。また時の大小御 老中方へも同じく一部づつ進呈しました。こちらも何の障害もなく経過しました。こうして安堵して、オランダ翻訳書がいよいよ公けになりました。 

(略) 

◆最後に 

一滴の油を広い池にたらすと、それが散って池全体に及びます。前野良沢、中川淳庵、 私の三人が申し合わせ、かりそめに思いついた仕事が、五十年近い歳月を経て、日本中に 広まり、毎年訳説の本も出ています。「一犬虚を吠ゆれば万犬実を伝う」という言葉は、一 人が嘘をいうと廻りがそれを真実として伝えるというデタラメですが、蘭学はその逆で「一 犬実を吠ゆれば万犬虚を吠ゆる」で、はじめに真実から出発したからその後も真実の道は 失われません。もちろん、翻訳書の中には良いものも悪いものもあるでしょうが、それは 一応問題の外におきましょう。これだけ長生きすると、今日のような隆盛を見聞して、喜 んだり驚いりたりです。現在この領域の仕事をする人で、これまでのことを種々に聞き伝 え語り伝えを誤る人も多そうなので、あとさきながら覚えて居た事柄をこんな風に書きま した。 

かえすがえすも、実に嬉しいことです。この道が開ければ百年後千年後の医家は真理を 得て、人々の救済に役立つに違いないと踊りだしたい気持ちです。私は幸い長命で、自分 の知る蘭学を開いた初めから、今の隆盛まで実見できて、身に備わった幸いです。ゆっく り考えれば、何よりも世の中が太平だからです。世に篤好厚志の人があっても、戦乱で騒 がしい社会では学業を創建し、隆盛に導く余裕はとうてい望めません。 

◆◆杉田玄白 

すぎたげんぱく 

17331817 

小学館百科全書 

江戸中期の蘭方医(らんぽうい)、蘭学者。名は翼(よく)、字(あざな)は子鳳、斎(いさい)のち九幸(きゅうこう)と号し、玄白は通称。学塾を天真楼といい、晩年の別邸を小詩仙堂(しょうしせんどう)という。若狭(わかさ)国(福井県)の小浜(おばま)藩酒井侯の藩医杉田甫仙(ほせん)の子として江戸の藩邸中屋敷に生まれ、難産であったため、そのとき母を失う。宮瀬竜門(りゅうもん)17201771)に漢学を、幕府医官西玄哲(16811760)に蘭方外科を学び、藩医となる。同藩の医師小杉玄適を通じ、山脇東洋(やまわきとうよう)の古医方の唱導に刺激を受け、また江戸参府のオランダ商館長、オランダ通詞(つうじ)吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)(幸左衛門)らに会い、蘭方外科につき質問し、やがてオランダ医書『ターヘル・アナトミア』を入手した。1771年(明和8)春、前野良沢(りょうたく)、中川淳庵(じゅんあん)らと江戸の小塚原(こづかっぱら)の刑場で死刑囚の死体の解剖を実見した。その結果『ターヘル・アナトミア』、正しくはドイツの解剖学者クルムスJohann Adam Kulmusが著し、オランダのディクテンGerardus Dicten1696ころ―1770)のオランダ語訳した『Ontleedkundige Tafelen』(『解剖図譜』)の精緻(せいち)なるを知り、同志とともに翻訳を決意して着手する。4か年の努力を経て、1774年(安永3)『解体新書』5巻(図1巻・図説4巻)を完成し、刊行の推進力となった。この挙は江戸における本格的蘭方医書の翻訳事業の嚆矢(こうし)であって、日本の医学史上に及ぼした影響すこぶる大きく、その後の蘭学発達に果たした功績は大きい。彼ら同志の翻訳の苦心のありさまは晩年の追想『蘭学事始(ことはじめ)』に詳しい。主家への勤務をはじめ、多数の患者を診療し、患家を往診する余暇に、学塾天真楼を経営し、大槻玄沢(おおつきげんたく)、杉田伯元、宇田川玄真(17701835)ら多数の門人の育成に努めた。また蘭書の収集に意を注いで、それを門人の利用に供するなど蘭学の発達に貢献した。前記の訳著のほかに奥州一関(いちのせき)藩の医師建部清菴(たけべせいあん)との往復書簡集『和蘭(おらんだ)医事問答』をはじめ、『解体約図』『狂医之言』『形影夜話(けいえいやわ)』『養生七不可(ようじょうしちふか)』などにおいて医学知識を啓蒙(けいもう)し、『乱心二十四条』『後見草(あとみぐさ)』『玉味噌(たまみそ)』『野叟独語(やそうどくご)』『犬解嘲(けんかいちょう)』『耄耋(ぼうてつ)独語』など多くの著述を通じて、政治・社会問題を論述し、その所信を表明した。 

 彼の日記『斎日録』をみると、「病論会」なる研究会を定期的に会員の回り持ち会場で開催して、医学研鑽(けんさん)に努めたようすをうかがうことができる。若いころに阪昌周(さかしょうしゅう)(?―1784)に連歌(れんが)を習って、自ら詩歌をつくり、宋紫石(そうしせき)、石川大浪(たいろう)17651818)ら江戸の洋風画家たちとも交わって画技も高かったことは、その大幅で極彩色の「百鶴(ひゃっかく)の図」をはじめとして、戯画などを通じてうかがい知ることができる。 

 蘭方医学の本質を求めて、心の問答を展開した相手建部清菴の第5子を養子に迎え、伯元と改称せしめ家塾を継がせた。実子立卿(りゅうけい)には西洋流眼科をもって別家独立させ、その子孫には成卿(せいけい)・玄端(げんたん)ら有能な蘭学者・蘭方医が輩出、活躍している。石川大浪が描いた肖像は老境の玄白像をよく伝えている。文化(ぶんか)14417日、江戸で病没、85歳。墓は東京都港区虎ノ門、天徳寺の塔頭(たっちゅう)、栄閑院(通称猿寺)にあり、東京都史跡に指定されている。[片桐一男] 

『片桐一男著『杉田玄白』(1971/新装版・1986・吉川弘文館)』 

◆蘭学事始 

らんがくことはじめ 

杉田玄白の回想録。上下二巻。1815年(文化124月、当時83歳の杉田玄白が、日蘭交渉の発端から筆をおこし、蘭学創始をめぐる思い出と蘭学発達の跡をまとめたもの。なかでも、同志前野良沢(りょうたく)、中川淳庵(じゅんあん)らとともにオランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳から、『解体新書』出版にかけての苦心談は有名である。玄白は自筆草稿を大槻(おおつき)玄沢に示し、訂正を依頼した。玄沢は玄白より伝聞したところと自らの見聞をも加え、玄白に聞きただしながら整備、完成して、「蘭已(すで)に東せしとやいふべき起源」を記してあるところから『蘭東事始』と題して玄白に進呈したというが、覚えやすいということから「蘭学事始」の題名にかえたともいう。江戸時代には『蘭東事始』『和蘭事始』の書名で写本のまま伝わった。67年(慶応3)のころ神田孝平がみつけた古写本をもとに、杉田廉卿(れんけい)とも協議して、福沢諭吉が、69年(明治2)、木版本として刊行するに際し、『和蘭事始』を『蘭学事始』の書名に改めた。以来『蘭学事始』の名が一般に知られるようになり、岩波文庫に収められるようになっていっそう普及した。[片桐一男] 

『緒方富雄校訂『蘭学事始』(岩波文庫)』 

◆解体新書 

かいたいしんしょ 

小学館百科全書 

解剖学書。日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書。本文4冊、別に序文と図譜を掲げた1冊からなる。1774年(安永3)刊。日本で初めてのこの翻訳事業の中心になったのは前野良沢(りょうたく)と杉田玄白(げんぱく)で、中川淳庵(じゅんあん)・桂川甫周(かつらがわほしゅう)ら多くの人々が協力した。1771年(明和8)から4年間にわたる苦心・努力のさまは、杉田玄白の回想録『蘭学事始(らんがくことはじめ)』のなかに詳細かつ新鮮に記されている。 

 一般に『ターヘル・アナトミア』とよばれている原書は、正しくは、ドイツのクルムスJohann Adam Kulmus1722年に著した『解剖図譜』Anatomische Tabellenを、ライデンのディクテンGerardus Dictenがオランダ語訳した『Ontleedkundige Tafelen』(1741)で、杉田玄白らが依拠したのはその第2版であった。これは小型本で、その内容は簡単な本文とやや詳しい注記からなり、27枚の図譜を付した初学者向きの医書である。『解体新書』は全文漢文で記述され、原書の本文だけを訳出し、注記は訳していない。図譜は小田野直武(なおたけ)が描き、原書は銅版であるが、本書は木版である。付図の数は原書よりやや多くなっているが、それは他の西洋医学書からも引用したことによる。図譜を掲載する冊子には、ほかに吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)の序文と杉田玄白の自序、および凡例が載っている。[大鳥蘭三郎] 

『三枝博音編『復刻 日本科学古典全書 第8巻』(1978・朝日新聞社) ▽酒井シズ訳『解体新書』(1978・講談社)』 

◆前野良沢 

まえのりょうたく 

17231803 

日本洋(蘭(らん))学の開祖。中津藩医。名は達、諱(いみな)は熹(よみす)(余美寿)、字(あざな)は子悦・子章、通称を良沢、号は楽山。なお別号蘭化は、藩侯が良沢のオランダ語研究の熱心さを庇護(ひご)し戯れに和蘭の化け物と称したことによるもの。1723年(享保8)筑前(ちくぜん)藩士谷口新介の子として江戸牛込矢来(うしごめやらい)に生まれた。幼時、父を亡くし母に去られ孤児となり、山城(やましろ)国(京都府)淀(よど)藩医官で伯父の宮田全沢(『医学知律』の著者)に育てられた。宮田は「他人が捨てて顧みないようなことに愛情をもち、世に残すよう心がけよ」と説き聞かせた。良沢はやがて中津藩医前野東元の養子となり、吉益東洞(よしますとうどう)流医学を修めた。一方宮田の訓育方針に従い、当時すでに廃れかかっていた一節切(ひとよぎり)の竹管器に習熟し、さらに猿若狂言(中村座の家狂言)の稽古(けいこ)にも通っていた。オランダ語の学習も当時では珍奇に属することであったが、同藩の坂江鴎(さかこうおう)に蘭書の残編を見せられたがわからず、同じ人間のすることがわからぬことはないと志をたてたのが始まりという。1769年(明和6)『和蘭文字略考』の著をもつ青木昆陽の手ほどきを受け、翌1770年長崎へ赴きオランダ通詞吉雄幸左衛門(よしおこうざえもん)(耕牛)・楢林栄左衛門(ならばやしえいざえもん)17731837)・小川悦之進らについて学び、『マーリン字書』や解剖書『ターヘル・アナトミア』などを購求し江戸に帰った。江戸参府のカピタンや商館医を宿舎長崎屋に訪ねもした。177134日江戸千住小塚原(こづかっぱら)での死刑囚の腑分(ふわ)けを杉田玄白(げんぱく)・中川淳庵(じゅんあん)らと参観、ヨーロッパ人の解剖書の図の正確さを認め翻訳を決意、翌日から築地(つきじ)鉄砲州の中津藩邸内の良沢役宅で開始。知識・年齢に先行する良沢が盟主に推され、自作の『蘭訳筌(せん)』を同志に示しながら推進、1774年(安永38月『解体新書』全5冊を公刊した。しかし良沢は自分の名を出すことを拒否。訳後、同志と離れオランダ語学研究とオランダ書翻訳に専念した。語学書『蘭語随筆』『字学小成』『和蘭訳文略』『和蘭訳筌』などのほか、天文書『翻訳運動法』『測曜()図説』、カムチャツカについて『東砂葛記』、ロシアの歴史『魯西亜(ロシア)本紀』『魯西亜大統略記』、『和蘭築城法』、良沢の識見を随所にみせるヨーロッパの諸事項の評書『管蠡秘言(かんれいひげん)』など、諸学啓蒙(けいもう)訳書を著した。また、高山彦九郎や最上徳内(もがみとくない)と交流し、大槻玄沢(おおつきげんたく)、江馬蘭斎(えまらんさい)17471838)、小石元俊らの指導にもあたった。享和(きょうわ)31017日没。墓は東京都中野区の慶安寺。1893年(明治26)正四位を贈られた。[末中哲夫] 

『岩崎克己著『前野蘭化』(1938・私家版/全3巻・平凡社・東洋文庫)』 

───────────────────────────

🔵高野長英の生涯 

───────────────────────────

🔷🔷紙芝居=高野長英の生涯 

西条市

(高野長英記念館) 

1 江戸時代は、外国との往来が、禁止されていました。長崎の出島が、世界に開かれたたった一つの窓口でした。この出島に、1823年、シーボルトがやってきました。 

シーボルトの噂を聞いた人々が、日本の各地から、長崎にやってきました。 

この物語の主人公、高野長英も、シーボルトから医学と蘭学を学んだ一人でした。 

2. やがて、江戸にもどった長英は、医者になり、蘭学の塾も開きました。 

そして、渡辺崋山と出会い、「尚歯会」に参加しました。尚歯会には、武士や医者の他に、お坊さんや町人まで、身分の違う多くの人々が集まっていました。 

3. さて、オランダから幕府にとどいた情報によると、イギリスの船が、近々、日本にやってくるそうだ。漂流民を日本に送る理由だが、通商を求めてくるとの噂もあった。幕府は、外国船打払い令を盾に、この船を追い払うことに決めた。 

世界の様子を勉強していた尚歯会の人々は、これを聞いてびっくりしました。 

4. 「漂流した者たちを、親切に、送り届けるというのに、大砲を打ち込むとは、何ということだ。そんなことをしたら、どんな災難が日本にふりかかるか分かったものではない。そうだ、世界の様子を知らせる本を書こう。幕府の取り決めが間違いであることを知ってもらおう。」と長英は考え、夢物語を書きました。 

5. ところが、目付け、鳥居耀蔵は、無人島に渡ろうとしたという罪をでっちあげ、渡辺崋山や高野長英を訴えました。 

もともと、鳥居耀蔵は、西洋を研究する蘭学者をきらっていた。この機会に、「蘭学を広める者どもを手痛い目にあわせ、ねだやしにしてやろう。」と考えたのでした。 

6. こうして、夢物語を書いた長英は、「幕府の政治を批判し人々を惑わした」という罪に問われ、今でいう無期懲役にあたる永牢を言い渡されました。 

長英は、牢屋から無実を訴え続けますが、許されませんでした。 

7. そして6年が過ぎたある夜のこと。牢屋が火事になり、長英は牢から解き放されました。3日の間に戻れば、罪が軽くなる定めでしたが、長英は、ついに戻らなかったのです。 

8. 故郷では、母が長英の身を案じていました。このとき、母は前沢の茂木家に身を寄せ、水沢の高野家には孫に当たる能恵がひとり残されていました。 

9. 江戸から逃亡した長英は、密かに故郷を訪ねました。6年ぶりの親子の再会ですが、落ち着いて話をする暇はありません。長英は、母の幸せを祈りつつ、早々に旅立たなければなりませんでした。 

10. 母との再会を果たした長英は、門人や学者の仲間に助けられ、幕府の追及を逃れて旅を続けました。 

11. 危険な旅を続けながらも、長英は、病気に苦しむ人をいつも忘れませんでした。病人の治療や薬をつくったりもしました。 

12. 四国に逃れていたある日、長英は名高い金比羅神社に参拝しました。 

ここで、長英は、「アジアの第一人者になる」と誓います。そして、幕府の目を逃れ、広島、大坂、名古屋と旅を続けました。 

13. 江戸に戻る決心をした長英は、顔を薬で焼き、人相を変えます。 

14. 顔を変え、名前も沢三伯と改めた長英は、大胆にも、江戸で病院を開き、蘭学の勉強を続けます。 

15. しかし、ここにも蘭学を弾圧する幕府の手は伸びてきました。1030日、遂に、長英の家に、奉行所の捕りかたが踏込みました。長英は思わず、短刀に手をのばし、後ろから襲い掛かる捕り方に切りつけました。しかし、抵抗むなしく、長英は、のどをついて覚悟の自殺をします。長英46才の最後でした。 

16. 長英の友人、江川英龍は、夜明けの富士山を描き、「里は、まだ、夜深し、富士の朝ぼらけ」との言葉を書き添えました。 

しかし、日本の人々は、いつまでも目を塞がれてはいませんでした。高野長英や渡辺崋山などの尊い努力によって、日本の夜明けは、もうそこまで近づいていたのです。(完) 

◆◆高野長英 

たかのちょうえい 

18041850 

小学館百科全書

江戸後期の蘭学(らんがく)者、思想家。名は譲、号は瑞皐(ずいこう)、通称卿斎(けいさい)。文化(ぶんか)元年奥州水沢(岩手県奥州(おうしゅう)市)に生まれる。仙台侯の一門伊達将監(だてしょうげん)の家臣後藤介実慶(そうすけさねのぶ)の三男(母は侍医高野玄斎の妹美代)。9歳のとき父実慶が死亡し、母方の伯父高野玄斎(177117751827)の養嗣子(ようしし)となる。玄斎は杉田玄白の門人。17歳で兄堪斎(たんさい)(?―1823)に同行して江戸に遊学、杉田伯元(はくげん)(玄白の養子)の門に入る。やがて杉田塾を辞し、吉田長叔(ちょうしゅく)17791824)の内弟子となり、オランダ医学を修めた。19歳の1822年(文政5)通称を長英と改め、日光、筑波(つくば)山地方において採薬に従事するとともに蘭文法の研究を始める。1825年長崎に赴き、シーボルトの鳴滝(なるたき)塾に入る。23歳で蘭語論文をシーボルトに提出し、ドクトルの称号を受けた。平戸(ひらど)藩主松浦(まつら)侯の援助で『シケイキュツデ』(化学書)20巻の翻訳に着手し、またシーボルトの依頼により和文蘭訳の業にも従った。養父の訃報(ふほう)に接するも病気を理由に帰郷を拒む。 

 1828年シーボルト事件が起こるや長崎から逃亡。以後広島、尾道(おのみち)、大坂を経て京都で開業した。同地より親戚(しんせき)にあて、高野家相続権を放棄し、また他家に禄仕(ろくし)しないことを誓う。これは西洋生理学研究を続けたいがためであった。1830年(天保1)江戸に戻り、麹町(こうじまち)貝坂で開業、かたわら生理学研究を進める。1832年『西説医原枢要』内編5巻を脱稿。渡辺崋山(かざん)の住む半蔵門外田原藩邸に近かった関係で崋山の依頼による蘭書の訳述を行い、崋山や江川英龍(ひでたつ)らと尚歯(しょうし)会に参加して交際を深めた。1837年上州、常総地方に出張し、洋学を講じ診療を行う。1838年『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を草し、幕府の異国船撃攘(げきじょう)策を批判する。この冬、妻ゆき(経歴未詳)と結婚。翌1839年尚歯会グループに加えられた弾圧事件、蛮社(ばんしゃ)の獄で崋山が『慎機(しんき)論』および『西洋事情書』による幕政批判の罪で召喚されるや、いったん姿を隠すも、北町奉行(ぶぎょう)所に自首する。獄中『わすれがたみ』を著し無実を訴えるが、『戊戌夢物語』による幕政批判の罪で永牢(えいろう)の判決を受ける。1841年牢名主(ろうなぬし)となり、『蛮社遭厄(そうやく)小記』を草し郷党に送る。翌1842年赦免出獄を画策するも効なく、1844年(弘化140歳にて非人栄蔵に放火させ、小伝馬(こでんま)町の牢舎から脱獄、鈴木春山の庇護(ひご)の下に江戸市中に潜伏。その間、春山の兵学書翻訳を助ける。この年、長男の融(とおる)が生まれた。1847年『知彼一助』を宇和島藩主伊達宗城(むねなり)に献上、『三兵答古知幾(タクチーキ)』を訳了。1848年(嘉永1)伊達宗城に招かれ宇和島(愛媛県宇和島市)に行く。伊藤瑞渓(ずいけい)の名で蘭書を教授し、『家(ほうか)必読』などの兵書を翻訳する。同年宇和島を去り、広島を経由し、のち江戸に再潜入。高橋柳助、沢三伯の名で医業を営むも、嘉永(かえい)310月捕吏に襲われ自刃。47歳。 

 彼の思想は、シーボルト門下の第一人者として、蘭語学、蘭医学を通し西洋近代学術の方法と知識を身につけていた点にある。そのため伝統的封建教学である朱子学に対決し、林述斎(じゅつさい)の次男鳥居耀蔵(とりいようぞう)ら守旧派による弾圧を招いた。しかし、やがて長英らの洋学は文明開化期の知的革命に受け継がれ、近代化に大きく作用した。この点は藤田茂吉(ふじたもきち)18521892)『文明東漸史』(1884)の指摘にも明らかであり、高く評価されなければならない。[藤原 暹] 

『佐藤昌介校注『高野長英』(『日本思想大系55』所収・1971・岩波書店) ▽『高野長英全集』全6巻(19781982・第一書房) ▽佐藤昌介著『高野長英』(岩波新書)』 

◆夢物語 

ゆめものがたり 

小学館百科全書 

江戸後期の蘭学(らんがく)者高野長英(ちょうえい)1838年(天保戊戌91021日に、渡辺崋山(かざん)の『慎機論(しんきろん)』と同様、イギリス船モリソン号来日に対する幕府の撃攘(げきじょう)策に反対して執筆した警世の書である。正しくは『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』という。構成は、冬の夜ふけゆくままに、長英がひとり書を読む間に、夢となく幻となく恍惚(こうこつ)の世界に入る。そこは、ある人の家に数十人の学者が集まり、時事問題を論じている場である。やがて甲と乙とがモリソン号について問答をし始める。甲の問いに乙が答える内容は、モリソン号に代表される(ただし船名を人名と誤っている)イギリスの国勢の情報で、とくにアジア、中国への交易進出問題である。鎖国下にある日本に対して漂流民送還を口実に開国を迫っている現状を述べ、これを撃退せんとする打払令に反対した。この書は執筆後まもなく転写され、かなりの反響をよんだらしく、『夢物語評』『夢々物語』等が出た。39年蘭学者の弾圧事件である蛮社の獄が起こると、長英は本書による幕政批判の罪で永牢(えいろう)の判決を受けた。[藤原 暹] 

『佐藤昌介校注『戊戌夢物語』(『日本思想大系 55 高野長英他』所収・1971・岩波書店)』 

◆シーボルト 

没年:1866.10.18(1866.10.18) 

生年:1796.2.17

江戸後期に来日したドイツ人の医師,生物学者。バイエルンのビュルツブルクの医師の家に生まれる。ビュルツブルク大学で医学,植物学,動物学,地理学などを学び,1820年学位を得る。1822,オランダ領東インド会社付の医官となり,1823年にジャワに赴任,まもなく日本に任官することになり,文政6(1823)8月に長崎出島に入った。はじめ商館の内部で,やがては市内の吉雄幸載の私塾などでも,診療と講義を行っていたが,翌年長崎奉行から許されて,郊外の鳴滝に学舎を造った。学生の宿舎や診療室,さらには薬草園まで備えたこの鳴滝塾に,1回出張したシーボルトは,実地の診療や医学上の臨床講義のみならず,様々な分野の学問の講義を行い,小関三英,高野長英,伊東玄朴,美馬順三,二宮敬作らの蘭学の逸材を育てた。 文政9年オランダ商館長の江戸参府に随行して1カ月余り江戸に滞在。その間,高橋景保,大槻玄沢,宇田川榕庵ら,江戸の蘭学者とも親しくなった。そこにいわゆる「シーボルト事件」の種子が芽生える。長崎へ帰ったシーボルトと高橋や間宮林蔵らとの交際のなかで,間宮が疑惑を持ったのをきっかけに,11年に任期が満ちて帰国するシーボルトの乗った船が嵐によって戻された際に,荷物が調べられて,国禁違反が発覚。高橋がシーボルトの『フォン・クルーゼンシュテルン世界周航記』とオランダ領のアジア地図などと引き換えに,伊能忠敬の『日本沿海測量図』のコピーなどをシーボルトに渡していたこと,そのほかにも葵の紋服などをシーボルトが持ち出そうとしていたことが明らかになって,高橋は裁判の途中に獄中で死亡,シーボルトも国外追放となり,1212月に日本を去った。 ヨーロッパに戻ったシーボルトは,日本関係の書物を次々に発表して,日本学の権威としてヨーロッパで重要視されるようになった。またオランダ国王を動かして幕府に開国を勧める親書を起草し,この親書は弘化1(1844)年に幕府に伝えられたが,幕府はこれを拒否,さらに,日本が開国した際にヨーロッパ諸国と結ぶべき条約の私案を起草してオランダ政府に伝え,この条約案は嘉永5(1852)年にクルティウスに託されて幕府の手に届いている。開国後,クルティウスはシーボルトに対する追放の解除を幕府に要請,安政5(1858)年日蘭修好条約の締結とともに実現,6年シーボルトは念願の再来日を果たした。しかし文久2(1862)年に維新の成立をみぬまま日本を去り,ミュンヘンで亡くなった。再来日に際して帯同していた長男のアレクサンダーは,そのまま日本に留まり,イギリス公使館通訳,明治3(1870)年以降は政府のお雇いとして,外交政策などの相談役となり,次男のハインリヒも同2年に来日,外交官として長年日本に滞在した。さらに長崎時代に日本の女性楠本其扇(お滝)との間に生まれた楠本イネは,のちに産科医として知られるようになった。 シーボルトの学問的業績は,医師として臨床面で日本の人々に大きな福音を残し,さらに多くの蘭医を育てたことは,高く評価されなければならないが,それにもまして重要なのは,ヨーロッパに彼によって紹介された日本の風物である。最も重要なのは,通称『日本』もしくは『日本誌』すなわち『日本とその周辺諸地域(蝦夷,南千島,樺太,朝鮮,琉球)についての記述集成』としてライデンで1832年から54年までかかって刊行されたもので,日本についての浩翰で巨大な総合的研究書である。このほか『日本動物誌』(183350),『日本植物誌』(183570)は学問的に貴重な業績である。 

◆シーボルトと高野長英 

22歳の時に長崎のシーボルトを訪ねて鳴滝塾で学び続ける。鳴滝塾におけるシーボルトの教育方針は、弟子たちに日本研究をさせて発表させるというものであった。シーボルトが持ち帰った弟子たちのオランダ語論文43点のうち11点は長英の論文であった。 

長英の論文は、「活花の技法について」、「日本婦人の礼儀および婦人の化粧ならびに結婚風習について」、「小野蘭山『飲膳摘要』(日本人の食べ物の百科全集)」、「日本に於ける茶樹の栽培と茶の製法」(2)、「日本古代史断片」、「都における寺と神社の記述」、「琉球に関する記述(新井白石『南島志』抄訳)などで、日本の歴史、地理、風俗、産業などシーボルトの日本研究の基礎資料となるものであった。 

 長英は「鯨油および捕鯨について」という博士論文を書きシーボルトよりドクトルの称号を受ける。 

 シーボルトはドイツ人であったが、オランダ人になりすまして日本に滞在した。日本地図を持ち出そうとして幕府の禁に触れ、スパイ容疑で国外追放となる。いわゆる「シーボルト事件」である。 

 弟子たちはシーボルトのスパイ行為を助けたとしてこの事件に連座する。 

 たまたま旅行中で難を逃れた長英は、長崎を離れ江戸に行く。 

<参考文献>呉秀三『シーボルト先生其生涯及功業』(東洋文庫),板沢武雄『シーボルト』 

(村上陽一郎) 

◆蛮社の獄 

ばんしゃのごく 

江戸後期、蘭学(らんがく)者に対する弾圧事件。蛮社とは蛮学社中の略。三河(愛知県)田原(たはら)藩の家老渡辺崋山(かざん)は、藩政改革の推進を図って、高野長英(ちょうえい)、小関三英(こせきさんえい)ら蘭学者と尚歯(しょうし)会の集まりを通じて西洋知識の吸収に努めていた。また、幕臣・諸藩士などの識者のなかには、崋山の識見を慕って集まる者も少なくなかった。大学頭(かみ)林述斎(じゅっさい)の子で目付の鳥居耀蔵(とりいようぞう)は、儒教思想による守旧的立場から、崋山ら蘭学者を憎悪していた。1837年(天保86月、対日通商の望みをもって、日本人漂流民の送還のため江戸湾に入ったアメリカ船モリソン号が、浦賀で異国船打払令によって撃退されるという事件が起きた。すると、崋山は『慎機論(しんきろん)』を、長英は『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』(『夢物語』)を著して、世界情勢に目を覆い人道に反する幕府の処置を批判した。39年、老中水野忠邦(ただくに)は守旧派の鳥居と開明派の伊豆韮山(にらやま)の代官江川英龍(ひでたつ)に江戸湾の備場(そなえば)巡見を命じた。江戸に帰った江川から意見を求められた崋山は、江戸湾防備の意見書や『西洋事情書』などを江川に送った。鳥居は、江川が崋山と親しいことを知り、崋山が無人島(小笠原(おがさわら)島)渡航計画に関係し、長英らと蘭学を講じ、幕政批判を行ったなどと、罪状を捏造(ねつぞう)して、同年5月崋山、長英ら一味を逮捕した。取調べの結果、無人島渡航計画などの容疑は晴れたが、幕政批判の罪は重く、同年12月、崋山には国元田原における蟄居(ちっきょ)、長英には永牢(えいろう)の判決が下された。これより先、小関三英は自分も罪の逃れがたきを思い自刃し、崋山、長英の両名もやがて自殺に追い込まれた。蛮学社中の観を呈した尚歯会そのものは、主宰者の紀州藩士遠藤勝助(しょうすけ)が逮捕されておらず、弾圧の直接対象にはなっていなかった。しかし、この事件は、蘭学・蘭学者が弾圧を受け、そこに幕府内における守旧派と開明派との対立が顕著にみられた事件であったといえよう。[片桐一男] 

『佐藤昌介著『洋学史研究序説』(1964・岩波書店)』 

◆鳥居耀蔵 

とりいようぞう 

(?―1874 

江戸時代、天保(てんぽう)の改革期の幕臣。名は忠耀(ただてる)。幕府儒官林衡(たいら)(述斎)の次男。2500石取の旗本鳥居一学の養子となる。幕府目付(めつけ)役となったのち、1841年(天保12)御勝手(おかって)取締掛を兼任、同年12月矢部駿河守定謙(するがのかみさだのり)のあと江戸南町奉行(みなみまちぶぎょう)に就任、甲斐(かい)守となる。水野忠邦(ただくに)の側近で、渋川六蔵(ろくぞう)、後藤三右衛門(さんえもん)とともに「水野の三羽烏(さんばがらす)」と称された。江戸庶民には「妖怪(ようかい)」(耀甲斐(ようかい))と恐れられるほどの強権政治を行ったが、目付として大塩平八郎の乱(1837)の事後処理にあたった経験がそうさせたともいわれる。39年江川英龍(ひでたつ)との対立、渡辺崋山(かざん)らを告発し処罰に追い込んだ「蛮社(ばんしゃ)の獄」や43年高島秋帆(しゅうはん)の下獄など開明派を弾圧し、内外の危機への回避策を幕府専権で守旧派の立場から推し進めようとした。上知(あげち)令では最後に反対派に回り水野と対立、失脚した水野の老中への再登場で罷免される。45年(弘化2)水野再辞任、その処罰の翌日、讃岐(さぬき)国(香川県)丸亀(まるがめ)藩主預けとなり、同年10月に禁固の処罰が下された。明治維新で放免。[浅見 隆] 

『佐藤昌介著『洋学史研究序説』(1964・岩波書店) ▽北島正元著『水野忠邦』(1969・吉川弘文館)』 

───────────────────────────

🔵渡辺華山の生涯 

───────────────────────────


◆◆渡辺崋山の生涯(田原市博物館) 

◆華山の生い立ち 

渡辺崋山は、寛政5年(1793)9月16日、江戸麹町田原藩邸で、父定通29歳、母栄22才の長男として生まれました。当時、父は、留守居添役仮取次で15人扶持の給料をもらっていました。崋山は幼名を源之助より虎之助にかえ、8才で若君のお伽役となり、後に藩主より登の名を賜わりました。財政難の田原藩は家臣の減給を行っており、11名の家族で貧しい渡辺家は幼い弟妹たちを奉公に出さなければなりませんでした。このため崋山も貧しさを救うため、絵を描く内職をしながら学問に励みました。 

◆藩士としての華山 

写真/立志之像 天保3年(1832)崋山は家老に就任しました。そして、紀州藩破船流木掠取事件、幕命の新田干拓計画、助郷免除などの難かしい事件を解決しました。また、田原藩は救民のための義倉「報民倉」を建設し、天保7、8年の大飢饉では、一人の餓死流亡者も出しませんでした。このため、翌9年幕府は全国で唯一田原藩を表彰しました。これらは、崋山の指導による功績でした。この頃、黒船が近海に接近するため、崋山は外国船の旗印を描いて沿海の村々の庄屋に配り、海岸の防備や見張りに当たらせました。 

◆学者としての華山 

写真/報民倉 12才の崋山は、日本橋の暴辱から志を立て、徂徠学派の儒学者である鷹見星皐に学びます。後に佐藤一斎、松崎慊堂に学び、幕府の昌平黌にも学籍を置きました。また、当時の学者文人らと交友し、詩文、和歌、俳諧にも通じました。37才の時三宅氏の家譜編集を藩主より命ぜられ、続いて江戸では藩邸学問所の総世話役となり、儒者伊藤鳳山を招いて藩校成章館の興隆を計りました。晩年には貧しい中で集めた書籍などを、後輩のため藩へ献上しました。 

◆画家としての華山 

写真/渡辺崋山像  崋山は、白川芝山、金子金陵、谷文晁らに絵を学びました。初め、崋山の絵は家計を助けるものでした。しかし、天性の才能と努力によって26才頃には画家として有名になりました。崋山の絵には、鋭い線と品格があり、また、写生を主としていますが、外形だけでなく、内部の性格をあらわします。西洋画の立体、質、遠近などの面による構成を、線を主体とした東洋画に取り入れた功績は非常に大きく、その作品には、国宝「鷹見泉石像」をはじめ、多くの重要文化財、重要美術品が残っています。 

◆外国事情の研究家 

写真/池ノ原公園の渡辺崋山像 

 崋山は32才頃から外国事情に関心をもち、蘭学や兵学の研究を始めました。三宅友信に蘭学をすすめ、高野長英、小関三英、鈴木春山らを雇い翻訳をさせ、また鷹見泉石、幡崎鼎、江川坦庵ら洋学者とも交わり、来航したオランダ甲比丹から世界の状勢を知り、当時外国事情に精通する第一人者となりました。西洋諸国が強大な力をもって東洋に侵入するのに対し、幕府の外国船打払令や鎖国が危険なことを主張し、開国、交易をするよう強調しました。また、崋山の遺志は、藩士村上定平、萱生郁蔵らによって、明治維新まで受け継がれ、田原藩は軍備の近代化が最も進んだ藩となりました。 

◆蛮社の獄 

写真/自筆獄廷素描 

 蘭学の進出は儒学の信奉者が多い幕府役人にとって目の敵であり、目付鳥居耀蔵もその一人で、江戸湾測量で江川坦庵に敗れて以来、蘭学者の弾圧を狙っていました。幕府は、鳥居の密偵によって崋山らの無人島渡航計画の噂を知り、天保10年5月、崋山、高野長英ら10数名を捕らえました。渡航の罪は晴れたものの、崋山は机底から見つけられた「慎機論」、長英は「戊戌夢物語」が幕政批判という重罪となり、崋山は、在所田原へ蟄居、長英は永牢となりました。 

◆華山の最期 

 蟄居中の崋山一家の生活を助けるため、門人福田半香らは崋山の絵を売る義会を始めました。崋山は作画に専念し、「于公高門図」「千山万水図」「月下鳴機図」「虫魚帖」「黄粱一炊図」など次々と名作を描きました。しかし、その活動により、天保12(1841)夏の頃から「罪人身を慎まず」と悪評が起こり、藩主に災いの及ぶ事をおそれた崋山は死を決意しました。「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男立へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して切腹し、49年の多彩な生涯を終えました。 

写真/自筆遺書(渡辺立宛) 

◆◆渡辺崋山 

わたなべかざん 

17931841 

小学館百科全書 

江戸末期の蘭学(らんがく)者、画家。諱(いみな)は定静(さだやす)、通称は登。字(あざな)は伯登または子安。華山のち崋山と号し、寓絵堂(ぐうかいどう)、全楽堂の堂号を用いた。三河国(愛知県)田原(たはら)藩士定通(さだみち)の長子として、江戸の藩邸内で生まれる。初め藩儒鷹見星皐(たかみせいこう)に儒学を学んだが、のち佐藤一斎(いっさい)に師事し、ついで松崎慊堂(こうどう)に学んだ。幼少から貧困に苦しみ、生計のために画を修業した。1824年(文政7)父の死によりその家督を継ぐ。32年(天保3)年寄役末席(家老)となり、藩務にあたり、殖産興業に努めるとともに、海防掛も担当した。このころ崋山は高野長英(ちょうえい)、小関三英(こせきさんえい)らの蘭学者と交わり、尚歯(しょうし)会を組織して西洋事情を研究し、古河(こが)藩家老鷹見泉石(たかみせんせき)をはじめ広く交際をもって、開明的政策を行った。37年、日本漂流民を伴い対日通商を目的として浦賀に来航したアメリカ船モリソン号が、異国船打払令によって撃退される事件(モリソン号事件)が起こり、これに対し、崋山は39年『慎機論(しんきろん)』を著し、長英らとともに、いたずらに世界情勢に目を覆い、人道に背く幕府の鎖国政策を批判した。このため同年5月蛮社の獄によって捕らえられ、12月、国元の田原に蟄居(ちっきょ)を命じられた。41年、崋山の窮迫を助けるため、弟子たちが江戸において開いた画会が、蟄居中不謹慎(ふきんしん)と誤り伝えられるに及び、崋山は藩主に累の及ぶのを恐れて自殺した。著作には、ほかに『鴃舌或問(げきぜつわくもん)』などがある。[片桐一男] 

 崋山は幼少より絵に親しみ、初め平山文鏡に手ほどきを受けたが、生計のためもあって本格的に画家を志し、16歳のとき白川芝山(しざん)につく。のち金子金陵(きんりょう)、ついで谷文晁(たにぶんちょう)に入門。初め沈南蘋(しんなんぴん)風の花鳥画を描いたが、26歳の作品『一掃百態(いっそうひゃくたい)図』では闊達(かったつ)な筆で庶民の日常のさまざまな姿態を生き生きと描き分け、独自の作風をみせている。一方、洋学への興味が西洋画への傾斜となり、29歳ごろより伝統的手法による衣服表現に加えて西洋画の遠近法や陰影をよく消化した立体感ある顔貌(がんぼう)表現で独自の肖像画を完成した。『鷹見(たかみ)泉石像』(国宝、東京国立博物館)、『市河米庵(いちかわべいあん)像』などのほか、その下絵にも傑作を残している。また写生帳『客坐掌記(かくざしょうき)』は、動きのある対象を的確に描写する筆致が生彩を放ち、本絵に欠落しがちな自由さと柔軟さにあふれている。ほかに『四州真景図巻(ししゅうしんけいずかん)』『千山万水(せんざんばんすい)図』『校書(こうしょ)図』『于公高門(うこうこうもん)図』『黄粱一炊(こうりょういっすい)図』などがあるが、崋山の画はいずれも武士としての生き方との相克のなかで、ときに自由に、ときに意志的にその描線の性格を変えつつ展開している。弟子に椿椿山(つばきちんざん)、岡本秋暉(しゅうき)がいる。[星野 鈴] 

『森銑三著『渡辺崋山』(1961・東京創元社) ▽吉澤忠著『渡辺崋山』(1956・東京大学出版会) ▽鈴木清節編『崋山全集』(191015・崋山会) 『渡辺崋山』(1977・集英社) ▽蔵原惟人解説『渡辺崋山 一掃百態』(1969・岩崎美術社)』 

◆慎機論 

しんきろん 

江戸後期の画家で思想家の渡辺崋山(かざん)1838年(天保91015日に高野長英(ちょうえい)らと参加した蘭学(らんがく)グループ尚歯会(しょうしかい)の席上で、近く漂流民を護送して再来日する「イギリス船モリソン号」(イギリス船というのは、オランダ商館が幕府に提出した風説書に基づく誤報で、事実としてはアメリカ商社の社船であった)に幕府はふたたび撃攘(げきじょう)策で対応するという噂(うわさ)を知り、これに反対して執筆した一文である。長英の『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』(『夢物語』)と類同するが、打払令そのものに反対した長英とは異なり、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する、現実的政治家崋山の批判を中心にしている。モリソン号に象徴される(『夢物語』と同様に、ここでも船名を人名と誤っている)イギリスの国情を詳述し、「今国家の拠()る所海にあり」と「海船火技」の科学技術に注目した。ここから鎖国日本の現実を批判し、封建的太平の体制下にはびこる賄賂(わいろ)政治などを慨嘆した。「慎機」とは、かかる世界史の時勢にきざしたモリソン号来航に、為政者の慎重な対応を期すことであった。崋山は執筆を中断し秘して余人に見せなかったが、尚歯会への弾圧事件とされる蛮社の獄で、幕吏によって崋山宅から発見された。[藤原 暹] 

『佐藤昌介校注「慎機論」(『日本思想大系55 渡辺崋山他』所収・1971・岩波書店)』 

──────────────────────

🔵緒方洪庵の生涯と適塾 

───────────────────────

適塾

◆◆紙芝居=緒方洪庵のたいまつ 

【緒方洪庵おがたこうあん】 

出典・紙芝居屋出前亭から 

http://o-demae.net/library/literary01.html#up

司馬遼太郎原作 〔緒方洪庵生誕200年記念〕 

 唐突ですが、お釈迦様のニックネーム(別名・あだな)を知ってますか? 

 『大医王』なのですって。意味は〔偉大な医者の王様〕。そういえば、お釈迦様の教えに『応病与薬(おうびょうよやく)』というものがありました。その意味は「その人(病人=悩める人)に応じた、お薬(お話)を出して心と体を治す」ということらしいです。 

 確かに、お釈迦さまは、当時の超エリート王族のお一人だったので、医学知識は豊富だったでしょうが、それだけではなく、その人の心の苦しみの原因を見抜いて、治療されるのがお得意であったと思われます。今で言う『心理カウンセラー』であったのかもしれません。 

 さて、この日本にも、お釈迦さまのような《慈悲》のお心を持つ『大医王』がおられました。 

 しかも江戸時代後期に!その方は『宗教家』ではなく、本当のお医者さまでした。しかも、紛れもなく『お釈迦様』のようなお心を持たれた方。 

 「それは『JIN仁』かって?」あれは漫画のお話〔笑い〕。その方のお話を、今から紙芝居を使ってお話させて頂きましょう。そのお方の名は《緒方洪庵(おがたこうあん)》といいました。 

 世の為に尽した人の一生ほど、美しいものはありません。これから、特に美しい生涯を送った人についてお話します。 

 それは『緒方洪庵』という人の事です。 

この人は、江戸時代末期に生れました。お医者さまでした。この人は名を求めず、利益を求めず、溢れるほどの実力がありながらも、他人の為に生き続けました。そういう生涯は、遥かな山河のように美しく思えるのです。 

 〔緒方洪庵〕は、今の岡山県〔足守〕という所で生れました。父は〔藩〕の仕事をする武士でした。 

(洪庵)「父上、私は医者になりたいと思います!」 

 十二歳の時、突然〔洪庵〕は、父親に言いました。しかし、父は嫌な顔をしました。 

(父)「武士の子は、どこまでも武士であるべきだ!!」 

 父は〔洪庵〕を立派な武士にしたかったのです。 

 では、なぜ〔洪庵〕は、それほどまで〔医者〕に成りたかったのでしょうか? 

 それは… 

 〔洪庵〕が子供の時、岡山の地で、《コレラ》という病気が凄まじい勢いで流行しました。人が嘘のように、ころころ死んだのです。〔洪庵〕を可愛がってくれた隣の家族も、たった四日間の間に、みんな死んでしまいました。 

 又、当時の《漢方医術》では、これを防ぐ事も治療する事も出来ませんでした。 

(洪庵)「私は医者になって、是非人を救いたい。そして出来るなら、漢方ではなく、オランダの医術《蘭方》を学びたい!」〔洪庵〕は人の死を見ながら、こう決心したのでした。  

 しかし、〔洪庵〕の父の許しは遂に出ませんでした。そこで、〔洪庵〕は16歳の時、ついに置手紙をして家出したのでした。そして『大阪』へ向かいました。 

 なぜ、大阪だったかといいますと、その当時、この地で〔蘭方医〕が、塾を開いていたからなのでした。〔洪庵〕は、この塾に入門して、オランダ医学の〔初歩〕を学びました。又、幸いなことに、父親も大阪へ転勤となって移って来た為、やがて〔洪庵〕の医学修行も許してくれるようになったのでした。 

 大阪の塾で、すべてを学び取った〔洪庵〕は、さらに《師》を求めて江戸に行きました。そして、江戸では『あんま』をしながら学びました。 

 『あんま』をして、わずかなお金を貰ったり、他家の玄関番をしたりしました。 

それは、今でいうアルバイトでした。 

 こうして〔洪庵〕は、江戸の塾で四年間学び、遂に〔オランダ語〕の難しい本まで読めるようになったのです。 

 その後、〔洪庵〕は『長崎』へ向かいます。長崎。当時、日本は鎖国をしていました。《鎖国》というのは、外国とは付き合わない、貿易しないという事です。 

 しかし、長崎の港、一ヶ所だけを、中国とオランダの国に限り、開いていました。長崎の町には、少しながら、オランダ人が住んでいました。 

もう少し、《鎖国》についてお話します。 

鎖国というのは、例えば、日本人全部が、真っ暗な箱にいると考えて下さい。長崎は、箱の中の日本としては、針で突いたような小さな穴で、その穴から、微かに《世界の光》が、差し込んでくる所だったのです。〔洪庵〕は、この長崎の町で、二年間勉強し、暗い箱の日本から、広く世界の文明を知ろうとしたのです。 

 29歳の時、〔緒方洪庵〕は大阪へ戻ります。そして、ここで『医院』を開いて、診療に努める一方、オランダ語を教え《塾》も開きました。 

 ほぼ同時に、結婚もしました。妻は〔八重(やえ)〕といい、優しく物静かな女性でした。〔八重〕は、終生〔洪庵〕を助け、塾の生徒たちから、母親のように慕われました。 

 〔洪庵〕は、自分の塾の名を、自分の号である〔適々斎〕から取って、《適塾(てきじゅく)》と名付けました。《適塾》は人気が出て、全国からたくさんの若者たちが集まって来ました。 

 《適塾》は、素晴らしい学校でした。 

門も運動場もない、普通の二階建ての〔民家〕でしたが、どの若者も、勉強がしたくて、遠くからはるばるやって来るのです。 

 江戸時代は、身分差別の社会ですが、この学校はいっさい平等で、侍の子も、町医者の子も、農民の子も、入学試験無しで学べました。塾へは、多くの学生達が入学して来ましたが、先生は〔洪庵〕一人です。 

 〔洪庵〕は、病人たちの診療をしながら教えなければならないので、体が二つあっても足りませんでした。 

 それでも塾の教育は、うまくいきました。それは、塾生のうちで、よくできる者が、できない者を教えたからでした。 

余談ながら、(わぁ~司馬遼調)僕は大学生の頃、三回ほどこの〔洪庵〕さんの作られた『適塾』に見学に行っている。今は中に入れるのかどうかは知らないが、昔(今から25年ほど前)は、見学できた。(僕の家からは自転車でも行けた)ほんとにこの狭い民家の中で、たくさんの学生達が、不眠不休で勉強していたのかと思うと、感動しまくりだった。(柱に刀傷もあったなぁ。ストレス溜まってたんやろなぁ・・) 

 僕は、村田蔵六(のちの大村益次郎)が、試験が終る度に、この『適塾』二階の物干し場に出て、豆腐をアテに酒を飲み、試験後の疲れを癒していたと小説『花神』で読み、実際、(オンボロになっていた)物干し場に出てみて、感動したのを覚えている。 

 この『適塾』、のちの『大阪大学 医学部』の卒業生で、この大学の教授になられた枚方市のホスピス医〔南吉一〕師と、のち御一緒に「紙芝居」を作る事になろうとは、その時、まだ知らなかった・・。(これも司馬遼調のパクリです) 

〔洪庵〕は、自分が長崎や江戸で学んだ事を、より深く、熱心に教えました。〔洪庵〕は、常に学生たちに向かってこう言いました。 

「君たちの中で、将来、医者に成る者も多くいるでしょう。しかし、医者という者は、とびきりの親切者以外は、成ってはいけない。病人を見れば、『可哀想でたまらない』という性分の者以外は、《医者》に成る資格は無いのです。 

 医者がこの世で生活しているのは、人の為であって、自分の為ではありません。決して、有名に成ろうと思わないように。又、お金儲けを考えないように。ただただ、自分を捨てて人を救う事だけを考えなさい。 

 又、オランダ語を勉強したからといって、医者にだけ成る必要はありません。自分の学んだ《学問》から、人を生かし、自分を生かす道を見つけなさい。」と。  

このような《教育方針》でありましたので、適塾からは、さまざまな分野の『達人』たちが生れました。幕末の戦争で、敵味方の区別なく傷を負った兵士を治療した『日本赤十字』の創始者や、又、今や壱万円冊の顔となった慶応義塾大学の創立者〔福沢諭吉〕など、多くの偉人たちを輩出しました。 

 やがて、そのような〔洪庵〕の評判を聞きつけた《江戸幕府》は、「是非、江戸に来て、『将軍』様専門の医者(奥医師)になってくれ」と言ってきます。それは、医者としては目もくらむような名誉な事でした。 

 しかし、〔洪庵〕は断りました。「決して、有名になろうと思うな。」という、自分の戒めに反する事だったからです。 

 しかし幕府は許さず、ついに〔洪庵〕は「もはや断りきれない。討ち死にの覚悟で参ろう。」と、いやいや大阪を出発しました。 

 江戸に行った〔洪庵〕は、その次の年、そこであっけなく亡くなってしまいます。 

 もともと病弱であったのですが、江戸での華やかな生活は、〔洪庵〕には合わず、心の長閑さが失われてしまったのが原因でした。江戸城での、〔しきたり〕ばかりの生活に気を使いすぎ、それが彼の健康を蝕み、命を落とさせたのでした。 

 振り返ってみると、〔洪庵〕は、自分の恩師達から引き継いだ、《たいまつの火》を、より一層大きくした人だったのでしょう。 

 彼の偉大さは、自分の《火》を、弟子たち一人ひとりに移し続けた事でした。弟子たちの《たいまつの火》は、後にそれぞれの分野で、明々と輝きました。やがて、その火の群れは、日本の《近代》を照らす大きな明かりとなっていったのです。後生の私達は、〔洪庵〕に感謝しなければならないでしょう。 

緒方洪庵、享年54歳。 

おしまい。 

◆◆WEB漫画=緒方洪庵 

◆◆緒方洪庵 

おがたこうあん 

18101863 

江戸末期の蘭方(らんぽう)医学者。文化(ぶんか)7714日、備中(びっちゅう)国(岡山県)足守(あしもり)藩士佐伯瀬左衛門(さえきせざえもん)の三男として生まれる。幼名田上之助(せいのすけ)、名は章、字(あざな)は公裁、適々斎または華陰と号した。通称は三平、のち洪庵と改めた。1825年(文政8)父が大坂蔵屋敷留守居役になったため同行して大坂に出た。生来柔弱であり、武士に適さないと自覚し、病苦の人を救う医の道を志し、翌1826年中天游(なかてんゆう)の門に入った。4年後、苦心して江戸の坪井信道(しんどう)の塾に入り、3年間在塾。一方、宇田川榛斎(しんさい)、宇田川榕菴(ようあん)、箕作阮甫(みつくりげんぽ)らの指導も受け、学は大いに進んだ。そして洪庵の訳になる『人身窮理(きゅうり)小解』『視力乏弱病論』『和蘭詞解(オランダしかい)略説』『白内翳治(はくないえいち)術集編』などが写本で広く読まれた。また榛斎と榕菴の大著『遠西医方名物考 補遺』の度量衡表を分担執筆した。 

 1836年(天保7)長崎に赴く。オランダ商館長ニーマンJohannes Erdewin Niemann17961850)について学んだともいわれるが、良友に恵まれ、青木周弼(しゅうひつ)、伊藤南洋(岡海蔵)(17991884)と『袖珍内外方叢(しゅうちんないげほうそう)』を共訳、好評を博し広く利用された。このころから洪庵を名のる。 

 1838年、中天游門下の億川百記の娘八重(18221886)と結婚、大坂・瓦(かわら)町に適々斎塾(適塾)を開き、1843年過書(かしょ)町(大阪市中央区北浜33)に移った。洪庵の名声は高く全国から俊秀が集まり、移転後の塾内寄宿門人は637名を数える(その名を記録した『姓名録 適々斎』は日本学士院に保存)。外塾生をあわせると2000人とも3000人ともいわれる。おもな塾生には、箕作秋坪(しゅうへい)、大鳥圭介(けいすけ)、佐野常民、長与専斎、柏原学而(かしわばらがくじ)18351910)、福沢諭吉、花房義質(はなぶさよしもと)18421917)、緒方郁蔵(いくぞう)、坪井信良(18251904)、石井信義(18401882)らがおり、また塾生の橋本左内(さない)は安政(あんせい)の大獄で、大村益次郎(ますじろう)1869年(明治2)刺客に襲われたのちに死亡した。明治初期の政治家・軍人の列には薩長(さっちょう)の顔が、文化人の列には適塾の顔が並ぶ。 

 著書、訳書は多く、前出のもののほか、緒方郁蔵との共訳で全国に普及した大著『扶氏(ふし)経験遺訓』(30巻)や、安政のコレラ流行(1858)に際して出版した『虎狼痢治準(ころりちじゅん)』、『病学通論』(3巻)、ジェンナー牛痘種痘に関する写本『モスト牛痘説』などがある。 

 1849年(嘉永2)牛痘苗が輸入されて京都に到着した際、越前(えちぜん)藩医笠原白翁(かさはらはくおう)に分与を請い、厳かな分苗式を行った。そして大坂に除痘館(じょとうかん)を設け、大和屋(やまとや)喜兵衛、緒方郁蔵らの協力を得て種痘を行い、ついに奉行所(ぶぎょうしょ)から官許を得るなど天然痘の予防に貢献、その記録『除痘館記録』がある。 

 1862年(文久2)、洪庵は幕府の強い要請を受けて奥医師兼医学所頭取に就任した。しかし10か月後の文久(ぶんきゅう)3610日、多量の血を吐いて急逝し、江戸駒込(こまごめ)高林寺と大坂の龍海寺に葬られた。贈従(じゅ)四位。現在、適塾は国の史跡・重要文化財に指定され、大阪大学が管理し一般に公開されている。[藤野恒三郎] 

『緒方富雄著『緒方洪庵伝』(1942/増補版・1977・岩波書店)』 

◆適々斎塾 

てきてきさいじゅく 

緒方洪庵(おがたこうあん)の蘭学(らんがく)塾。備中(びっちゅう)(岡山県)足守(あしもり)藩士の三男に生まれた緒方洪庵は、大坂の蘭医中天游(なかてんゆう)、江戸の坪井信道(しんどう)に学び、さらに長崎遊学後、1838年(天保9)大坂・瓦(かわら)町に開業し、蘭学も教え始めた。その学塾を適々斎塾(適塾)といい、1843年船場過書(せんばかしよ)町に移転後大いに発展し、全国から多数の門人が参集し、その数は3000人を超えたという。門人には、村田蔵六(大村益次郎(ますじろう))、武田斐三郎(あやさぶろう)、佐野栄寿(常民(つねたみ))、菊池(箕作(みつくり))秋坪(しゅうへい)、橋本左内(さない)、大鳥圭介(けいすけ)、長与専斎(ながよせんさい)、福沢諭吉、池田謙斎(けんさい)らがある。幕末期の塾の教育の実状は「元来適塾は医家の塾とはいえ、其(その)実蘭書解説の研究所にて、諸生には医師に限らず……(およ)そ当時蘭学を志す程の人は皆此(この)塾に入りて其仕度をなす」(長与専斎『松香私志』)というごとく、技術・知識の学としての蘭学を学ぶという傾向が強くなった。建物は国の重要文化財、また「緒方洪庵旧宅および塾」として国史跡指定を受け現存する(大阪市中央区北浜三丁目)。[沼田 哲] 

『緒方富雄著『緒方洪庵伝』(1942・岩波書店) ▽緒方富雄編著『緒方洪庵適々斎塾姓名録』(1967・財団法人学校教育研究所) ▽沼田次郎著『洋学伝来の歴史』(1960・至文堂)』 

──────────────────────────

🔵華岡青洲の生涯

──────────────────────────

はなおかせいしゅう 

17601835 

(小学館百科全書) 

江戸末期の外科医。麻酔剤の開発を行い、麻酔下に日本最初の乳癌(にゅうがん)手術を行うなど積極的治療法を推進した。宝暦(ほうれき)101023日、紀伊国(きいのくに)上那賀(なが)郡名手庄西野山村字平山(和歌山県紀の川市西野山)に生まれる。名は震、字(あざな)は伯行、随賢と号し、また居所の名をとって春林軒ともいう。父は村医者であった。23歳で京都に遊学、吉益南涯(よしますなんがい)17501813)から古医方を、大和見立(やまとけんりゅう)17501827)にオランダ、カスパル流外科を学び、在洛(ざいらく)3年ののち帰郷し家業を継いだ。古医方派の実証主義をとり、「内外合一、活動究理」、すなわち内科・外科を統一し、生き物の法則性を明らかにすることを信条として、積極的な診療技法を展開した。彼の開発した麻酔薬「通仙散」は、マンダラゲ(チョウセンアサガオ)を主剤とするもので、ヨーロッパの薬方に採用されていることを知ったのがヒントになり、中国医書を参考に改良を加えたものである。成分の配合と麻酔効果の関係を研究するため、たびたび被験者として協力した母は、おそらくその中毒によって死亡、妻も失明した。この麻酔薬を用いて多くの手術を行ったが、1804年(文化11013日、紀州五條(ごじょう)の藍屋(あいや)利兵衛の母、勘に行われた乳癌摘出手術は日本最初である。手術は成功したが、患者は翌18052月に死亡している。このほかに乳癌手術だけでも150例ほど行っている。門人録に署名しているもの305人、広く全国から入門が相次いだ。天保(てんぽう)6102日死去。[中川米造] 

『呉秀三著『華岡青洲先生及其外科』(1923・吐鳳堂書店/複製・1994・大空社) ▽松木明知著『華岡青洲と麻沸散――麻沸散をめぐる謎』(2006/改訂版・2008・真興交易医書出版部)』 

◆◆WEB漫画=華岡青洲 

◆◆杉田玄白の青洲宛の書簡 

杉田玄白が華岡青洲の業績を知り、華岡青洲に送った手紙。

未だ貴意を得ず候へども一書呈上致し候。時分柄薄暑と相成り候へども弥々御安清にならせられ候由、目出たく存じ奉り候。

然れば老兄の御高名は江戸表まで相聞え御頼もしく存じ罷り在り候。旧年以来かねて御随身中に罷り在り候由の宮川順達と申す加賀の書生出府致し委しき御噂承知致し候。数年御治療のところ被労御精心の段ほぼ承りさてさて御頼もしく存じ奉り候。

老拙儀も二三世外治を以て旦那家に仕へ罷り在り候こと故何卒生民の為め少しにても治業の慮らひ工夫致し候て益にも相成りたく年来心懸け候へども差したる義もこれなく、犬馬の老積り最早当年八旬に及び空しく朽ち果て申すべく残念に存じ奉り候。

さりながら老驥伏櫪の志は相止み申さず折節不審の義有之候へども本科は格別同業の者には海内に承り及び候者もこれなく候。幸ひ老兄の御噂承り及び候へどもこれまで好縁も御座なく罷り在り候。順達罷り越し候て御手術御煉熟の段申し聞けさてさてと感心致し候ことに御座候。

江戸表は御聞及びもこれあり候哉。手を下し候はば宜しかるべしと存じ候病人も間々これあり候へども比々白面貴价の公子のみにて痛苦を忍び候ものこれ無く拙業とは存じながらその術施し難く打過ぎ候ことばかり多くこれあり候て遺憾少なからず候。 さりながら以来不審の義もこれ有り候はば御文通にてなりとも御相談申したく候。拙者は老衰に及び候へども倅どもの為めにも御座候間彼等より申し上げ候ことも御座あるべ候。御許容なし置かれ下さるべく候。

順達より書面差上げ候様承り候間卒忽ながら申し上げ候。以来御知己の内へ加へられ置き下さるべく頼み奉り候。恐惶謹言。

   五月四日       杉田玄白 翼花押      

華岡随賢様人々御中     

  参考文献 上山英明「華岡青洲先生その業績とひととなり」医聖・華岡青洲顕彰会

憲法とたたかいのブログトップhttps://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

江戸時代の先駆的な人びと❷大塩平八郎・安藤昌益・三浦梅園・伊能忠敬・ジョン万次郎・二宮尊徳・大原幽学

江戸時代の先駆的な人びと❷大塩平八郎・安藤昌益・三浦梅園・伊能忠敬・ジョン万次郎・二宮尊徳・大原幽学


🔴憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

──────────────────────

🔵江戸時代の先駆的No.人びと❷リンク集

──────────────────────

◆当ブログ=江戸時代の先駆的な人びと杉田玄白・高野長英・渡辺華山・緒方洪庵・華岡青洲

🔴【大塩平八郎】

★★その時歴史が動いた=役人の不正許すまじ ~大塩平八郎 決起の時43m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDA5NTQ1ODQw.html?x

★★BS歴史館=真説・大塩平八郎の乱=大阪から江戸を撃つ 58m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDI3NjAxNDk2.html?x

★★歴史捜査・大塩平八郎汚職腐敗の幕政を正す

★★ライバルたちの光芒大塩平八郎vs水野忠邦52m

★★まんが日本史=大塩平八郎の乱13m

★★File87 歴史編1 史上最強のおやっさん~ 大塩平八郎31m

★講義=大塩平八郎と生田万35m

★講義=大塩平八郎の乱7m

◆大塩の乱資料館=大塩平八郎と大塩平八郎の乱の文献、例えば「檄文」「洗心洞箚記」や大塩平八郎について書かれた文献などすべて原文のまま掲載しているすごい資料集。これにつきる。下のサイトマップから入った方がわかりやすい。

http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/index.htm

サイトマップ

http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/sightmap.htm

◆森鴎外=大塩平八郎(青空文庫)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2298_16910.html

◆有光 隆司=森鴎外「大塩平八郎」とゲーテ「ギヨツツ」 : 平八郎と宇津木の人物造型をめぐってPDF20p

9304三谷秀治=大塩平八郎.pdf

🔴【安藤昌益】

★★安藤昌益の思想 -青森県八戸市・安藤昌益資料館-7m

★安藤昌益資料館の活動13m

◆安藤昌益資料館

http://www.shoeki.org

★★安藤昌益人類史初の万民平等を宣言!!!(1752)地球文明の課題解決のヒントを提供!!!—Ngo未来大学院=NFS=NGO FUTURE SCHOOL37m

★哲学入門・安藤昌益の思想

🔷ETVハーバード・ノーマンの生涯

https://vimeo.com/434574737

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kempou7408&prgid=60382689

🔴【三浦梅園】

★★風之荘「円相」20三浦梅園29m

◆三浦梅園研究所

http://baienspirit.web.fc2.com

◆国東市・三浦梅園資料館

http://www.city.kunisaki.oita.jp/site/kyouikukage/baiensiryoukan.html

🔴【伊能忠敬】

★★歴史列伝・伊能忠敬50m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1157861038Ws9EbQM

★★歴史鑑定・伊能忠敬の生涯53m

★★歴史秘話・伊能忠敬の地図づくり44m

★★その時歴史が動いた・伊能忠敬 : 56歳からの挑戦 43m

または

★★歴史鑑定・伊能忠敬の生涯54m

🔵英雄たちの選択・伊能忠敬はなぜ日本地図を作ったのか58m

https://drive.google.com/file/d/1xJD5r-y_O6fKjoqYF320atKNN0-qK65d/view?usp=drivesdk

★★BS歴史館・世界を驚かせた日本地図58m

★★伊能忠敬の地図作り、天文学への情熱53m

58m

http://www.dailymotion.com/video/x5sp46u_伊能忠敬が上陸できなかった島を測量_tech

◆朝日新聞デジタル=伊能忠敬(地図・人物)

http://www.asahi.com/sp/topics/word/伊能忠敬.html

🔴【ジョン万次郎】

★★歴史列伝・ジョン万次郎

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v116582122braD4Hwp

★★その時歴史が動いた・漂流からアメリカに学び開国論43m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v118846845ySb8eYdS

★★知恵泉・ジョン万次郎=苦難こそチャンス45m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v118429055C6ZCdyr2

★★その時歴史が動いた=間宮林蔵の北方探検異境の大地を踏破

🔴【二宮尊徳・大原幽学】

★★歴史秘話・天然痘とコレラとたたかった緒方洪庵と飢饉とたたかった二宮尊徳

🔵歴史鑑定・二宮尊徳56m

★★その時歴史が動いた=二宮尊徳飢饉を救う

★★歴史列伝・二宮尊徳-農村の財政改革

★★大原幽学記念館

http://www.city.asahi.chiba.jp/yugaku/

★★映画=山本薩夫監督「天保水滸伝 大原幽学」

🔷映画=天保水滸伝(大原幽学)

https://drive.google.com/file/d/1Jdb9SfEQuZ6evcgtxOwpKwPOkCNWIu_e/view?usp=drivesdk

★★『ちば見聞録』#033 「房総の偉人~大原幽学~」(2015.5.16放送)【チバテレ公式】21m

★★千葉県旭市「農村を救った知の侍 大原幽学」15m

千葉県旭市と大原幽学 赤旗19.05.30

🔴【その他】

🔵歴史鑑定・平賀源内=マルチクリエイターhttps://vimeo.com/638915882

★★歴史列伝・平賀源内

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v115786698qRCnTqmX

★★BS歴史館・関孝和の和算

──────────────────────────

🔵大塩平八郎=大阪で反乱を起こした与力

──────────────────────────

民衆の苦しみ

◆◆大塩平八郎

小学館(百科)

おおしおへいはちろう

大塩平八郎・大塩平八郎の乱

1793-1837 

江戸後期の陽明学者、大坂町奉行与力。諱(いみな)は後素、字(あざな)は子起、号は連斎、中斎など。幼少期に父母を亡くしたため、大坂町奉行与力だった祖父の嗣(し)となり、13~14歳ころより町奉行所に出仕する。かたわら、ほとんど独学にて陽明学を修得し、30代の前半に自宅に私塾「洗心洞(せんしんどう)」を開く。門弟には、江戸時代後期、動揺する幕藩制支配の最末端を担った大坂町奉行の与力・同心や、近隣の農村の村落支配者層が多かった。大坂町奉行与力としては切支丹(キリシタン)逮捕、奸吏(かんり)糺弾、破戒僧遠島等々の実績をあげ、与力としての役職の頂点に昇るが、上司の高井山城守(やましろのかみ)の辞任と進退をともにし、38歳にて致仕する。以後は「洗心洞」での講学と著述に専心し、『洗心洞箚記(さっき)』上下2巻、『儒門空虚聚語(しゅうご)』2巻、『同附録』1巻、『増補孝経彙註(いちゅう)』1巻、『古本大学刮目(かつもく)』8巻などの著述をなす。その陽明学は経書の解釈において、また、中国・宋明(そうみん)時代の儒者の著作の博引ぶりにおいて、幕末の儒林で有数のものである。1836年(天保7)、年来の大飢饉のなかで大坂市中に餓死人が続出すると、陽明学の「万物一体の仁」の立場より、その惨状を傍観視できず、当局に救済策を上申するが拒否される。翌372月、近隣の農民に檄文(げきぶん)を飛ばし、大坂市中の諸役人とそれと結託した特権豪商を誅伐(ちゅうばつ)するため、門弟とともに挙兵するが、小一日もちこたえられず敗走。市中潜伏中、幕吏に囲まれ、同年327日自刃。墓は大阪市北区末広町、成正寺(じょうしょうじ)内にある。

[宮城公子] 

大塩平八郎の乱

江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有(みぞう)の大飢饉(ききん)であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。もと大坂町奉行与力(まちぶぎょうよりき)であり陽明学者であった大塩平八郎は、こうした市中の惨状を無視しえず、養子格之助(かくのすけ)を通じて、しばしば救済策を上申するも拒否された。しかも時の担当者、大坂東町奉行跡部山城守(あとべやましろのかみ)は適切な対策を出せないばかりか、翌年に予定されている新将軍宣下の儀式の費用のために江戸廻米(かいまい)の命令を受けると、市中の惨状を無視してそれに応じた。さらに市中の大豪商の賑恤(しんじゅつ)もこのときにはふるわなかった。こうした大坂町奉行諸役人と特権豪商に対し、大塩平八郎は彼らを誅伐(ちゅうばつ)してその隠匿の米穀、金銭を窮民に分け与えるため、挙兵を決意する。あらかじめ自分の蔵書を売却して金にかえ、それを近隣の農民に分け与え、挙兵への参加を工作していた。37219日、大塩は幕政批判の主旨の檄文(げきぶん)を飛ばし、「救民」の旗印を掲げて、私塾「洗心洞(せんしんどう)」に集う門弟二十数名とともに、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場(せんば)へと繰り出した。一党は300人ほどになっていたが、鎮圧に出動した幕府勢と小競り合い程度の市街戦を繰り返したのみで、小一日もちこたええず四散する。兵火は翌日の夜まで燃え続け、大坂市中の5分の1を焼いた。主謀者大塩父子は約40日後、大坂市中に潜伏しているところを探知され、自刃。この乱は、幕政の中枢の都市大坂で、しかも元与力であり著名な陽明学者であった人物が主謀したことによりその影響は大きかった。幕政担当者はこれを契機に天保(てんぽう)の改革に取り組み、一般民衆のなかには「大塩残党」を名のる越後(えちご)(新潟県)柏崎(かしわざき)の生田万(いくたよろず)の乱、備後(びんご)(広島県)三原の一揆(いっき)、摂津(大阪府)能勢(のせ)の山田屋大助の騒動などの連鎖反応が起こった。

[宮城公子] 

◆◆大塩平八郎の檄文

(以下の本文・口語訳は「大日本思想全集」第十六巻〈昭和6年。先進社内同刊行会〉による)

口語訳

天から下された村々の貧しき農民にまでこの檄文を贈る

 天下の民が生前に困窮するやうではその国も滅びるであらう。政治に当る器でない小人どもに国を治めさして置くと、災害が並び起るとは昔の聖人が深く天下後世の人君、人臣に教戒されたところである。それで、

 徳川家康公も『仁政の基は依る辺もない鰥寡孤児などに尤も憐れみを加へることだ』と云はれた。然るに茲二百四五十年の間太平がつゞき、上流の者は追々驕奢を極めるやうになり、大切の政事に携はつてゐる役人共も公然賄賂を授受して贈り或は貰ひ、又奥向女中の因縁にすがつて道徳も仁義も知らない身分でありながら、立身出世して重い役に上り、一人一家の生活を肥やす工夫のみに智を働かし、その領分、知行所の民百姓共には過分の用金を申付ける。これ迄年貢諸役の甚しさに苦しんでゐた上に右のやうな無体の儀を申渡すので追々入用がかさんできて天下の民は困窮するやうに成つた。かくして人々が上を怨まないものが一人もないやうに成り行かうとも、詮方のない事で、江戸を始め諸国一同右の有様に陥つたのである。

 天子は足利家以来、全く御隠居同様で賞罰の権すら失はれてをられるから下々の人民がその怨みを何方へ告げようとしても、訴へ出る方法がないといふ乱れ方である。依つて人々の怨みは自から天に通じたものか。年々、地震、火災、山崩れ、洪水その他色々様々の天災が流行し、終に五穀の飢饉を招徠した。これは皆天からの深い誡めで有がたい御告げだと申さなければならぬのに、一向上流の人人がこれに心付かすにゐるので、猶も小人奸者の輩が大切の政事を執り行ひ、たゞ下々の人民を悩まして米金を取立る手段ばかりに熱中し居る有様である。事実、私達は細民百姓共の難儀を草の陰よりこれを常に見てをり、深く為政者を怨む者であるが、吾に湯王武王の如き勢位がなく、又孔子孟子の如き仁徳もないから、徒らに蟄居して居るのだ。ところがこの頃米価が弥々高値になり、市民が苦しむに関はらず、大阪の奉行並に諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻し米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一斗位の米を大阪に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、ひどい事を致してゐる。昔葛伯といふ大名はその領地の農夫に弁当を持運んできた子供をすら殺したといふ事であるが、それと同様言語道断の話だ、何れの土地であつても人民は徳川家御支配の者に相違ないのだ、それをこの如く隔りを付けるのは奉行等の不仁である。その上勝手我儘の布令を出して、大阪市中の遊民ばかりを大切に心得るのは前にも申したやうに、道徳仁義を弁へぬ拙き身分でありながら甚だ以て厚かましく不届の至りである。また三都の内大阪の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つてゐて未曾有の有福な暮しを致しをる。彼等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ、又は自己の田畑新田等を夥しく所有して何不足なく暮し、この節の天災天罰を眼前に見ながら謹み畏れもせず、と云つて餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、この際四民が難渋してゐる時に当つて、絹服をまとひ芝居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つてゐるのは何といふ事か、それは紂王長夜の酒宴とも同じ事、そのところの奉行諸役人がその手に握り居る政権を以て右の者共を取締り下民を救ふべきである。それも出来なくて日々堂島に相場ばかりを玩び、実に禄盗人であつて必ずや天道聖人の御心には叶ひ難く、御赦しのない事だと、私等蟄居の者共はもはや堪忍し難くなつた。湯武の威勢、孔孟の仁徳がなくても天下の為めと存じ、血族の禍を犯し、此度有志のものと申し合せて、下民を苦しめる諸役人を先づ誅伐し、続いて驕りに耽つてゐる大阪市中の金持共を誅戮に及ぶことにした。そして右の者共が穴蔵に貯め置いた金銀銭や諸々の蔵屋敷内に置いてある俸米等は夫々分散配当致したいから、摂河泉播の国々の者で田畑を所有せぬ者、たとひ所持してゐても父母妻子家内の養ひ方が困難な者へは右金米を取分け遣はすから何時でも大阪市中に騒動が起つたと聞き伝へたならば、里数を厭はず一刻も早く大阪へ向け馳せ参じて来てほしい、各々の方へ右金米を分配し、驕者の遊金をも分配する趣意であるから当面の饑饉難儀を救ひ、若し又その内器量才力等がこれあるものには夫々取立て無道の者共を征伐する軍役にも使たいのである。決して一揆蜂起の企てとは違ひ、追々に年貢諸役に至るまで凡て軽くし、都べてを中興 神武帝御政道の通り、寛仁大度の取扱ひにいたし年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を有難く思ひ、父母妻子をも養ひ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では尭舜、日本では天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したいのである。

この書付を村々に一々しらせ度いのではあるが、多数の事であるから、最寄りの人家の多い大村の神殿へ張付置き、大阪から巡視しにくる番人共にしらせないやう心懸け早速村々へ相触れ申され度い、万一番人共が目つけ大阪四ケ所の奸人共へ注進致すやうであつたら遠慮なく各々申合せて番人を残らず打ち殺すべきである。若し右騒動が起つたことを耳に聞きながら疑惑し、馳せ参じなかつたり、又は遅れ参ずるやうなことがあつては金持の金は皆火中の灰と成り、天下の宝を取失ふ事に成るわけだ。後になつて我等を恨み宝を捨る無道者だなどと陰言するを致さぬやうにありたい。その為め一同に向つてこの旨を布令したのだ。尤もこれまで地頭、村方にある税金等に関係した諸記録帳面類はすべて引破り焼き捨てる、これは将来に亙つて深慮ある事で人民を困窮させるやうな事はしない積りである。去りながら此度の一挙は、日本では平将門、明智光秀、漢土では劉裕、朱全忠の謀反に類してゐると申すのも是非のある道理ではあるが、我等一同心中に天下国家をねらひ盗まうとする欲念より起した事ではない、それは日月星辰の神鑑もある事、詰るところは湯武、漢高祖、明太祖が民を弔ひ君を誅し、天誅を執行したその誠以外の何者でもないのである。若し疑はしく思ふなら我等の所業の終始を人々は眼を開いて看視せよ。

 但しこの書付は細民達へは道場坊主或は医師等より篤と読み聞かせられたい。若し庄屋年寄等が眼前の禍を畏れ、自分一己の取計らひで隠しおくならば追つて急遽その罪は所断されるであらう。

茲に天命を奉じ天誅を致すものである。

 天保八丁酉年 月 日        某

  摂河泉播村々

   庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ

 〔註〕

小前 細民、貧民。

湯王 殷の湯王、民を愛するを以て知らる、夏の桀王の暴虐を討つて伊尹と共にこれを亡ぼす。

武王 周の武王、暴虐を極めた殷の紂王を討ち亡ぼし、善政を施した。

湯武 湯王と武王。

天照皇太神の時代 古代日本の政治が至平至公であり理想主義的であつたことは、本居宣長、賀茂真淵、平田篤胤、佐藤信淵等の説くところであつて、茲には善政を布き、産業奨励に力められた天照皇太神の時代の宜しきことを讃仰する意。

中興の気象 建武中興の事、後醍醐天皇が王政復古に力められた時代の雄邁な気象、精神。

原文

 四海困窮致候者永禄永くたへん、小人に国家を治しめば災害並び至と、昔の聖人深く天下後世、人の君、人の臣たる者を御戒術置候故、

 東照神君も「鰥寡孤独におゐて、尤あはれみを加ふべく候、是仁政の基」と被仰置侯。然るに、茲二百四五十年太平の間、追々上たる者、驕奢とて、おごりを極、大切の政事に携候諸役人共、賄賂を公に、授受とて、贈貰いたし、奥向女中の周縁を以、道徳仁義存もなき拙き身分にて、立身重き役に経上り、壱人一家を肥し候工夫而已に智術を運らし、其領分知行所の民百姓共に過分の用金申付、是迄年貢諸役の甚しきに苦む上、右之通、無体の儀を申渡、追々入用かさみ候故、四海困究と相成候に付、人々上を怨ざるものなきよふに成行候得共、江戸表より諸国一同、右之風儀に落入、

 天子は、足利家以来、別て御隠居御同様、賞罰の柄を御失ひ候に付、下民の怨何方え、告愬とて、つげ訴ふる方なきやふに乱候に付、人々の怨天に通じ、年々、地震、火災、山も崩れ水も溢るより外、色々様々の天災流行、終に五穀飢饉に相成候、是皆天より深く御誠の有がたき御告に候へども、一向上たる人々心も付ず、猶、小人奸者の輩大切之政事執行、唯下を悩し金米を取立る手段計に相懸り、実以、小前百姓共の難儀を、吾等如きもの、草の陰より常々察、怨候得ども、湯王武王の勢位なく、孔子孟子の道徳もなければ、徒に蟄居いたし候処、此節米価弥高直に相成、大阪の奉行並諸役人、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道をいたし、江戸之廻し米をいたし、

 天子御在所の京都にては、廻米の世話も不致而已ならず、五升壱斗位の米を買に下り候もの共召捕などいたし、実に昔葛伯といふ大名、その農人の弁当を持運び候小児を殺候も同様、言語道断、何れの土地にても人民は、

 徳川家支配の者に相違なき処、如此隔を付候は、全奉行等の不仁にて其上勝手我儘の触れ等を差出、大阪市中遊民計を大切に心得候は、前にも申通り、道徳仁義を不在拙き身分にて、甚以、厚かましき不届の至、且三都の内、大阪の金持共、年来諸大名へ貸付候利徳の金銀並扶持米を莫大に掠取、未曾有之有福に暮し、町人の身を以、大名の家へ用人格等に被取用、又は自己の田畑新田等を夥敷所持、何に不足なく暮し、此節の天災天罰を見ながら、畏も不致、餓死の貧人乞食を敢て不救、其身は膏梁の味とて、結構の物を食ひ、妾宅等へ入込、我は揚尾茶屋へ大名の家来を誘引参り、高価の酒を湯水を呑も同様にいたし、此の難渋の時節に絹服をまとひ候かわら者を妓女と共に迎ひ、平生同様に遊楽に耽候は、何等の事哉、紂王長夜の酒盛も同事、其所之奉行諸役人、手に握居候政を以、右の者共を取締、下民を救ひ候も難出来、日々堂島相場計をいじり事いたし、実に禄盗に而、決而天道聖人の御心に難叶、御赦しなき事と、蟄居の我等、もはや堪忍難成、湯武之勢、孔孟之徳はなけれども、天下之為と存、血族の禍を犯し、此度有志のものと申合、下民を苦しめ候諸役人を先誅伐いたし、引続き驕に長じ居候大阪市中金持の町人共を誅戮におよび可申候間、右之者共穴蔵に貯置候金銀銭等、諸蔵屋敷内に置候俸米、夫々分散配当いたし遣候間、摂河泉播之内、田畑所持不致もの、たとへば所持いたし候とも父母妻子家内の養ひ方難出来程之難渋ものえは、右金米等取分ち遣候間、いつにても、大阪市中に騒動起り候と聞伝へ候はゞ、里数を不厭、一刻も早く、大阪へ向馳参べく候、面々え右金米を分遣し可申候、鉅橋鹿台の金粟を下民え被与候趣意に而、当時の饑饉難儀を相救遣し、若又其内器量才力等有之ものは、夫々取立、無道之者共を征伐いたし候軍役にも遣ひ可申候。必一揆蜂起の企とは違ひ、追々年貢諸役に至る迄軽くいたし、都て中興

 神武帝御政道之通、寛仁大度の取扱にいたし遣、年来驕奢淫逸の風俗を一洗相改、質素に立戻り、四海万民、いつ迄も、

 天恩を難有存、父母妻子をも養、生前之地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遺し、尭舜、

 天照皇太神之時代に復し難くとも、中興の気象に、恢復とて、立戻し可申候。

 此書付、村々一々しらせ度候得共、多数之事に付、最寄之人家多き大村之神殿え張付置候間、大阪より廻有之番人共にしらせざる様に心懸け、早々村々え相触可申、万一番人共眼付、大阪四ケ所の奸人共え注進致候様子に候はゞ、遠慮なく、面々申合、番人を不残打殺可申候。若右騒動起り候と乍承、疑惑いたし、馳参不申、又は遅参に及候はゞ、金持の金は皆火中の灰に相成、天下の宝を取失可申候間、跡に而我等を恨み、宝を捨る無道者と陰言を不致様可致候、其為一同へ触しらせ候。尤是まで地頭村方にある年貢等にかゝわり候諸記録帳面類は都て引破焼捨可申候是往々深き慮ある事にて、人民を困窮為致不申積に候。乍去、此度の一挙、常朝平将門、明智光秀、漢土之劉裕、朱全忠之謀叛に類し候と申者も是非有之道理に候得共、我等一同、心中に天下国家を簒盗いたし候欲念より起し候事には更無之、日月星辰之神鑑にある事にて、詰る所は、湯武、漢高祖、明太祖、民を吊、君を誅し、天討を執行候誠心而已にて、若疑しく覚候はゞ、我等の所業終候処を、爾等眼を開て看。

 但し、此書付、小前之者へは、道場坊主或医師等より、篤と読聞せ可申候。若庄屋年寄眼前の禍を畏、一己に隠し候はゞ、追て急度其罪可行候。

奉天命致天討候。

 天保八丁酉年 月 日  某

  摂河泉播村々

  庄屋年寄百姓並小前百姓共え

以上、原文。

────────────────────────

🔵安藤昌益=万民平等の社会を説く

────────────────────────

カナダの思想家 ノーマン

◆◆安藤昌益

あんどうしょうえき

17031762

(小学館百科全書)

江戸中期の思想家。通称は孫左衛門。著作時の堂号は確龍堂良中(かくりゅうどうりょうちゅう)、別号は柳枝軒(りゅうしけん)。正信、草高とも名のる。[三宅正彦]

◆生涯と行動

経歴の大部分は不明で、1703年(元禄16)に生まれ、1744年(延享1)から1746年の間、陸奥(むつ)国三戸(さんのへ)郡八戸(はちのへ)町(青森県八戸市)で町医者を開業、1762年(宝暦121014日に出羽(でわ)国秋田郡二井田村(秋田県大館(おおだて)市)で死没し、同村の曹洞(そうとう)宗巌松山(がんしょうざん)温泉寺(おんせんじ)に墓所があることだけが確実である。先祖の孫左衛門が1674年(延宝2)に二井田村の肝煎(きもいり)(名主)を務め、昌益も1761年(宝暦111014日に同村で孫左衛門と称して課役を負担し、子孫も孫左衛門(まごじやむ)という屋号で同地に現住していることなどから、昌益の出生地も二井田村で、村役人クラスの上層農民出身と推定される。

 昌益は八戸時代、医者、学者として高い評価を得、八戸藩から賓客の治療を命ぜられ、代官、側医、祐筆(ゆうひつ)、神官支配頭(がしら)、御用商人など10余人を門人にしていた。1756年(宝暦6)二井田村の安藤本家の当主が死去し、1758年ごろ、昌益は帰村して本家を継ぐ。二井田は米代(よねしろ)川支流の才(さい)川沿いの村で、贄柵(にえのさく)の故地と伝えられる。稲作一本の水田地帯で村高1500石、160750人、北秋田随一の大村で近郷の諸村を威圧していた。しかし、昌益が帰村したとき、村は宝暦(ほうれき)の飢饉(ききん)で疲弊(ひへい)しており、昌益は有力地主や村役人層を門人にしつつ、酒食の費用がかさむ神事の停止など、村救済案を郷中(ごうちゅう)に提案し実現している。温泉寺の過去帳に「昌益老」と異例の敬称がつけられているのは、村人の敬意を示すものであろう。[三宅正彦]

◆思想と著作

昌益の思想は、気一元論、社会変革論、尊王論を特色とする。根源的実在である「活真」(気)が分化して万物を生成する営為を「直耕(ちょくこう)」という。地上で生成された最初の存在は米であり、米から人や鳥獣虫魚が分化する。人の生産活動も「直耕」である。万物は、男と女、水と火というように対をなしており、男の本性は女、女の本性は男と、相互に対立するものの性質を自己の本性にしている。このような関係を「互性(ごせい)」という。「直耕」を行い「互性」を保つ限り、自然や社会、身体は矛盾なく調和している。このような時代を「自然の世」という。しかし、中国の聖人やインドの釈迦(しゃか)などが現れ、支配し収奪するものと支配され生産に従うものとの絶対的対立関係「二別」をつくりだす。「二別」に基づく諸制度を「私法」、「私法」の行われる時代を「法世」という。「法世」は「直耕」と「互性」が否定される反自然的状態なので、災害や闘争や病気が絶えない。「法世」を「自然の世」に変革するために過渡的社会が構想される。

 その過渡的社会は、「法世」の階級や身分などを形式的に保ちつつも、すべての人に「直耕」させることによって、実質的に「二別」を形骸(けいがい)化させていく社会である。過渡的社会の権力は、全国的には「上(かみ)」(天皇)、地域的には「一家一族」(血縁共同体)を基盤とする。後者の自治を「邑政(ゆうせい)」とよぶ。過渡的社会に「直耕」と「互性」を体現した真に正しい人「正人」が現れたとき、「自然の世」に移行するのである。昌益は中国の王を否定するが、日本の天皇は収奪者ではないとして尊ぶ。神仏混淆(こんこう)など後世の神道を否定しても、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神道は「自然」の体現として尊ぶ。昌益の思想傾向のうちに尊王斥覇(せきは)論の系譜を見落としてはならない。

 なお昌益の文章には、東北方言とくに秋田方言の特徴が貫徹し、その思想を規定している。

 昌益の著書として、『自然真営道』(東京大学総合図書館所蔵の稿本と、慶応義塾大学図書館・村上寿秋所蔵の刊本とがある)、『統道真伝』(慶大図書館所蔵)、『自然真営道 甘味の諸薬自然の気行』(上杉修所蔵)、『確龍先生韻経書』(同)などがある。[三宅正彦]

『安藤昌益研究会編『安藤昌益全集』全21巻(22分冊)・別巻1・増補篇319832004・農山漁村文化協会) ▽渡辺大濤著『安藤昌益と自然真営道』(1970・勁草書房) ▽ハーバート・ノーマン著、大窪愿二訳『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』(『ハーバート・ノーマン全集 第3巻』所収・1977・岩波書店) ▽三宅正彦編『安藤昌益の思想的風土 大館二井田民俗誌』(1983・そしえて)』

◆◆安藤昌益=自然真営道

しぜんしんえいどう

江戸中期の思想家安藤昌益(しょうえき)(確龍堂良中(かくりゅうどうりょうちゅう))の著書。稿本と刊本がある。これまでの通説では、封建制社会否定論が展開される稿本に対して、世をはばかって、その穏健な部分のみを要約したのが刊本だとされていた。だが、近年では、刊本に自然観と医学理論批判とを記述した独自の思想内容を認めるようになった。稿本と刊本の相関関係については、今後の研究をまたなければならない。[三宅正彦]

稿本『自然真営道』

美濃(みの)紙に書かれた原稿で、もとは10193冊。成立年代を示唆する資料として、巻1の序に「宝暦(ほうれき)五乙亥(いつがい)二カ月」(1755)とある。後世方(こうせいほう)医学(中国の金(きん)・元(げん)代に、朱子学の影響を受けて成立した医学を祖述する江戸時代の一派)の病理論である運気論(うんきろん)の系譜を引きつつ、独自の気一元論、陰陽五行(いんようごぎょう)説を述べ、自然、社会、人体の本来的な合一、万物の相互依存性、人間すべてが生産活動に従う当然性、階級的・身分的差別の作為性を主張している。全巻は4部分に大別される。

(1)大序巻 原理論的叙述。

(2)古書説妄失糾棄(もうしつきゅうき)分(巻第124) 儒教・仏教など既成諸思想の批判と天照大神(あまてらすおおみかみ)、天皇制の尊重を説く。

(3)真道哲論巻(巻第25) 現実の差別社会を本来的・理想的な平等社会に変革する過程としての過渡的社会論など。

(4)自然真営道本書分(巻第26100) 気の運動論と漢方全科にわたる自己の医学説。

 文章表現上、独自の用語や造字が多く、その漢文体はきわめて日本語的で、北奥羽とくに秋田比内(ひない)地方の方言を使うなどの特徴がある。本書は長らく世に知られなかったが、1899年(明治32)ごろ、明治~昭和の思想家狩野亨吉(かのうこうきち)が入手した。当時すでに第383922冊が散逸していた。1923年(大正12)東京帝国大学図書館に移譲された直後に関東大震災で大部分が焼失した。現在、東大総合図書館に所蔵される稿本は、「大序」、第1924251212冊のみである。24年、ふたたび狩野は東京の吉田書店から第353733冊の写本を入手した。現在は慶応義塾大学図書館所蔵。1952年(昭和27)さらに上杉修(おさむ)が中里進の協力によって、青森県八戸(はちのへ)市の岩泉也(いわいずみなり)家から第91022冊の写本を掘り起こした。現在、上杉家所蔵。[三宅正彦]

刊本『自然真営道』

33冊。1753年(宝暦33月刊行。初刷本(しょずりぼん)の出版元は、江戸の松葉清兵衛と京都の小川源兵衛。後刷(あとずり)本は後者だけ。1752年の静良軒確仙(せいりょうけんかくせん)(昌益の門人で八戸藩の側医、神山仙庵(かみやませんあん))の「序」と昌益の「自序」を付す。「人は自然の全体也(なり)。故(ゆえ)に自然を知らざる則(とき)は吾()が身神の生死を知らず」(自序)という立場から、独自の気一元論、陰陽五行説によって、天文、地理、人体を論じ、既成の漢方医学を批判した。文章表現上の特徴は稿本と同じである。本書の後刷本は1932年(昭和7)に狩野が発見し、現在は慶大図書館の所蔵。初刷本は1972年に村上寿秋(青森県三戸(さんのへ)町)が本家の村上寿一家(同県八戸市南郷(なんごう)区)から発見した。神山仙庵が各巻に署名押印し、第1巻には正誤を行っている。[三宅正彦]

『『安藤昌益全集 第1巻』(1981・校倉書房) ▽『日本思想大系45 安藤昌益・佐藤信淵』(1977・岩波書店)』

◆◆安藤昌益=統道真伝

とうどうしんでん

江戸中期の思想家安藤昌益(しょうえき)(確龍堂良中(かくりゅうどうりょうちゅう))の著書。55冊の原稿で、成立年代は不明。ただし、巻242章に再度「宝暦(ほうれき)二壬酉(じんゆう)年」(1752。壬酉は壬申(じんしん)の誤り)と記され、著述時代を推測させる。内容は、独自の気一元論、陰陽五行(いんようごぎょう)説に基づき、自然の無始無終性・無差別性、人と転定(天地)の合一性、米が万物の根源であることなどを主張し、階級的・身分的差別を批判している。巻1「糾聖失」は、儒教をはじめ老荘(ろうそう)、兵家(へいか)など中国の既成思想を批判。巻2「糾仏失」は仏教の批判。巻3「人倫巻」は人身、人倫の独自的解説。巻4「禽獣(きんじゅう)巻」は独自の草木、鳥獣虫魚観などを叙述。巻5「万国巻」は、世界諸国論、日本の風土的卓越性などを叙述。本書はこれまで稿本『自然真営道』の縮約版とみられたときもあったが、文章表現上の特徴は同じながらも、概念構成や内容上の異同があり、独立の別書と考えられる。1925年(大正14)に明治~昭和の思想家狩野亨吉(かのうこうきち)が東京の文行堂書店から入手し、一市井人依田壮介が第二次世界大戦の戦火から守り抜いた。現在は慶応義塾大学図書館所蔵。紙質が新しいので、原本でなく写本である可能性がある。影写本は京都大学図書館所蔵。[三宅正彦]

『『統道真伝』上下(岩波文庫)』

◆◆カナダ人に再評価された安藤昌益

http://s.webry.info/sp/54153788.at.webry.info/201501/article_5.htmlより

 ハーバート・ノーマン全集3巻「忘れられた思想家 安藤昌益」(岩波書店)を読みました。昌益(170372)は江戸中期の医者、思想家。アナーキーで過激な思想が受け入れられず、長い間埋もれた存在でした。東大図書館に通って研究を続け、再評価したのが日本生まれのカナダ人ノーマンさんでした。

 昌益は秋田・大館生まれ、青森・八戸で町医者をやっていた。江戸時代の封建社会を批判する「自然真営道」という本を10092冊残しました。明治32年(1899年)に一高(東大教養)校長だった狩野亮吉博士〈大館出身)が発見して、広く紹介しました。本は東大が買い取りましたが、関東大震災で図書館が全焼、本も燃えました。その後、12冊が貸し出されていて無事だったことが分かり、狩野博士が新たに見つけた3冊と合わせ、15冊が現存しています。

 身分社会を批判し、差別のない農本民主主義による「自然の世」を唱えたため、昭和の軍国主義下で取り上げられることもなく、再び埋もれてしまったそうです。

 「士は忠に似せて上に諂(へつら)い下を刑し、賄を貪(むさぼ)る者多く、忠を正し下を慈(いつくし)む者寡(すくな)く、農は農にして農なり。工は巧言を以つて上下に諂い、商は農業の如くに風雨を厭(いと)わず働力を為すことを嫌う。しかも商は士農工の三民より倍して多く成る。是れ身力を労せずして言品を以つて渡世を為さんと欲する故なり。此を以つて直耕の転道を業とする者少く、妄(みだ)りに貪り食うもの多くして利欲妄念のみ盛んにして、転気の運行を汚す。食ふ所の人は多く生ずる所の諸穀は少なく、終に乱世となる」(「自然真営道」4巻・四民)

 農民から年貢を取りたて、他の3民は無税なのだから昌益の怒りは当然です。現代はサラリーマンだけが年貢のようにきっちり税を取りたてられて不平等ですね。

ハーバート・ノーマン( 1909 – 57) 宣教師の子として軽井沢で生まれる。カナダの外交官。日本史の歴史学者。1940年に東京の公使館に赴任。開戦のため42年日米交換船で帰国。戦後、GHQに出向し昭和天皇とマッカーサーの通訳を担当。米の赤狩りでスパイ容疑をかけられ、57年に赴任先のカイロで自殺した。

 これを再評価したのが、カナダ人のノーマンさん。外交官として日本に勤務する傍ら東大図書館で「自然真営道」を写真撮影。日本の研究家に頼んで英訳してもらい研究したそうです。2度目の東京勤務時代の1949年に英文で「忘れられた思想家」を発刊、翌50年に岩波新書(大窪愿二訳)2巻が出て、再評価につながったそうです。

 ノーマンさんは「昌益は徳川時代の日本社会を客観的かつ批判的に眺め、それを解体しつつある制度とみたただ一人の社会思想家であった」と絶賛しています。東北のため広がりはなかったが、反対に弾圧されることもなかった。

 昌益は京都で医学を学んだり、晩年は長崎にも足を運んでいます。生まれ育った秋田は北前船で京都や大阪との交流が盛んで、先端の思想に触れることができたようです。

 ただ、著作のほとんどが震災で焼けているため資料が少なく、ノーマンさんは西洋の偉人との比較を交えて昌益を論じていました。だから、やや過大評価という感じもしました。

 故郷の大館には「安藤昌益を世界に発信する会」(代表・新野直吉 元秋田大学長)というのがあって、文化祭などでアピールしているそうです。もっとメジャーになって、NHKの大河ドラマなんかで見たいですね。

─────────────────────────

🔵三浦梅園=唯物論・弁証法を説く

─────────────────────────

◆◆三浦梅園

みうらばいえん

17231789

江戸中~後期の哲学者。享保(きょうほう)882日、豊後(ぶんご)国(大分県)国東(くにさき)半島の山中に生まれる。生涯この地で学者として過ごす。名は晋(すすむ)。字(あざな)は安貞。梅園は号。青年期に、長崎かその帰途の熊本で、中国経由の西洋天文学の知識に触れ、当時の日本の思想界を代表する仏教哲学や儒教哲学とは本質的に異なる第三の哲学を確立する。

 第一主著『玄語(げんご)』(全8巻)は、梅園が独創した「反観合一」という名の認識論と「条理」という名の存在論によって、宇宙と自然と人間およびその間に派生するすべての現象を「一即一一(いちそくいちいち)」的に再構成した哲学書であり、第二主著『贅語(ぜいご)』(全14巻、1789)は、同じく認識論と存在論で、宇宙論、天文学、医学、地理学、生物学、鉱物学、経済学、倫理学、政治学等の諸学の範疇(はんちゅう)を『玄語』よりも具体的、贅疣(ぜいゆう)的(こぶやいぼのように無用な存在として)に再構成すると同時に、「反観合一」と「条理」の普遍妥当的有効性を論証する役割も果たしている、世界に類例をみない奇書である。第三主著『敢語(かんご)』(1763)は、「他人が容易に発言しえない正論を敢て語る」という意図から命名された倫理学の書物である。以上の三大主著を梅園自ら「梅園三語」と命名して重要視している。ほかに『価原(かげん)』『玄語手引艸(てびきぐさ)』『詩轍(してつ)』(1786)など著書多数。著書原本はすべて国の重要文化財に指定されている(指定名称「三浦梅園遺稿」)。「人生、恨むなかれ、人の識()るなきを。幽谷深山、華、自(おの)ずから紅(くれない)なり」。これは、寛政(かんせい)元年67歳の生涯を閉じるに際して、梅園が墨(すみ)黒々と書き残した自己の学問と人生に対する感懐であった。[高橋正和]

『島田虔次・田口正治他校注・校訂『日本思想大系41 三浦梅園』(1982・岩波書店)』

[参照項目] | 価原 | 玄語

◆◆三浦梅園=玄語

げんご

江戸中期から後期を代表する哲学者三浦梅園(ばいえん)の代表的著作。全8巻。本書は「反観合一、徴(あらわれ)に正に依()る」という客観主義的実証主義的方法論を掲げて、まったく独創的な「玄なる一元気の研究」をほぼ完成に近いまでに推し進めた。梅園は、1753年(宝暦331歳の年に書き始め、75年(安永453歳の年に、23年の歳月と23回の換稿の果てに『安永(あんえい)四年本玄語』としていちおうの体裁を調える。しかし、思索と換稿の筆は臨終の日まで続き、その成果は『浄書本玄語』として残されている。第二主著『贅語(ぜいご)』(全14巻)、第三主著『敢語(かんご)』(全1巻)とあわせて「梅園三語」と自称する。江戸時代を支配した二大哲学としての仏教哲学が須弥山(しゅみせん)説という自然観に、儒教哲学、なかでも日本の江戸時代を支配した朱子学が地方体説という自然観に立脚しているのに対して、第三の哲学としての梅園哲学は地球体説という西洋から伝来した新しい自然観に立脚している。[高橋正和]

◆◆三浦梅園=価原

かげん

三浦梅園(ばいえん)1773年(安永2)ごろに著した経済書。梅園の哲学「条理学」を当時の経済問題――奉公人賃銀の変動、農民の離村、農産物価格の不安定性など――に適用し、作物の豊凶・貨幣流通量・物価・労賃の間の基本的関係を考察している。その分析方法「条理学」は、明(みん)末清(しん)初の中国の自然哲学などを梅園が吸収して独自に体系化したものであるが、本書でも経済現象を仮想の一島に抽象化して考察するなど、その科学的方法は注目すべきものであり、欧米の経済学や学問的方法との類似も指摘されている。[島崎隆夫]

『三枝博音編『三浦梅園集』(岩波文庫)』

─────────────────────────

🔵伊能忠敬=日本地図を完成させた天文学者

─────────────────────────

大日本沿海輿地全図

◆◆伊能忠敬

いのうただたか

17451818

江戸中期の測量家。通称勘解由(かげゆ)。号は東河。上総(かずさ)国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれる。母の死後、父の実家であった武射(むさ)郡小堤の神保(じんぼ)家に移り、18歳で下総(しもうさ)国佐原の伊能家へ婿養子に入る。名家ではあったが負債で没落しかけていた酒造業を再興し、米の仲買いなどで産を築き、名主や村方後見(むらかたこうけん)として郷土のために尽くした。若いときから学問を好み、数学、地理、天文書に親しみ、50歳で隠居すると江戸に出て、19歳年下の高橋至時(よしとき)について天文学を学んだ。当時、正確な暦をつくるうえに必要な緯度1度の里程数が定まっておらず、天文学上の課題になっていた。この解決のために忠敬は長い南北距離の測量を企て、北辺防備の必要から幕府の許可を得やすい蝦夷地(えぞち)南東沿岸の測量を出願して官許を得た。1800年(寛政12)期待したとおりの成果を収めたが、その後全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次にわたり、延べ旅行日数3736日、陸上測量距離43708キロメートル、方位測定回数15万回という大事業となった。道線法と交会法を併用する伝統的な方法はけっして新しくはないが、細心な注意と測定点を十分に多く設ける厳密性を図った、根気と努力の勝利といえよう。忠敬の得た子午線1度の長さは282分(110.75キロメートル)で、現代の測定値と約1000分の1の誤差しかない。

 忠敬は一期測量するごとに地図をつくったが、最終の成果をみずに江戸・八丁堀の自宅で死去した。弟子たちの編集によって『大日本沿海輿地(よち)全図』が完成されたのは1821年(文政4)である。大図は1町(約109.1メートル)を1分(約3ミリメートル、36000分の1)で214枚、中図はその6分の1216000分の1の縮尺で8枚、小図はさらに2分の1432000分の1の縮尺で3枚からできている。これに『沿岸実測録』を添えて幕府に献上された。図法はサンソン図法と一致し、地球を球として扱ったため、東北地方や北海道はやや東へずれている。しかし、これは日本初の科学的実測図であり、当時の西欧の地図と比べても誇るに足る業績といえる。官製の地図とはいっても、忠敬の学問的探究心がその出発で、下からの熱望に支えられた事業だからこそ、この輝かしい成果を得たのである。

 この地図は江戸時代には一般に活用されることはなかったが、明治維新後、新政府によって発行された軍事、教育、行政用の地図に基本図として使われ、影響は明治末期にまで及んだ。シーボルトが高橋景保(かげやす)を介して得たこの測量図によって、外国製の地図にも日本の正しい形が描かれるようになった。[石山 洋]

『大谷亮吉編著『伊能忠敬』(1917・岩波書店) ▽保柳睦美編著『伊能忠敬の科学的業績――日本地図作製の近代化への道』(1974/復刻新装版・1997・古今書院)』

◆◆大日本沿海輿地全図

だいにほんえんかいよちぜんず

江戸時代後期、伊能忠敬(いのうただたか)が作成した日本最初の実測日本地図。「伊能図」「日本輿地全図」ともいわれる。忠敬は日本全国の測量を180016年(寛政12~文化13)に行い、測量が一段落進むごとに、36000分の1の縮尺で製図し、これをまとめて長さ6尺、幅3尺ほどの地図(大図という)とした。大図は214枚あり、次に大図を6分の1に縮小して縮尺216000分の1の図(中図)8枚をつくり、これをまた2分の1にして縮尺432000分の1の地図(小図)3枚に仕上げた。その完成は忠敬の死後、1821年(文政4)のことであり、これが『大日本沿海輿地全図』である。この地図によって初めて日本の海岸線が正確に知られるようになり、日本の地理学上きわめて大きな貢献をした。江戸時代、この地図は幕府の独占であり、1828年のシーボルト事件で問題となった品のなかにはこの地図の写しも含まれていた。[内田 謙]

◆◆加藤剛父子=伊能忠敬没200年「夢と歩む」人生から学ぶ

赤旗18.02.26

◆◆国土地理院の地図づくり=伊能忠敬に学ぶ

赤旗18.06.16

◆◆(文化の扉)伊能図、出回っていた? わずか3年後に写本、過度に「秘」と強調か

朝日新聞18.06.04

 没後200年を迎えた江戸時代の測量家、伊能忠敬(いのうただたか)(1745~1818)。日本初の実測によってつくられた日本地図は、その精巧さから幕府の禁制品だったとされてきた。だが、最近の研究で民間知識層に広まっていた可能性も浮上している。

 伊能忠敬は、現在の千葉県香取市にあった商家の当主。隠居後の50歳で江戸へ移り、幕府天文方の役人、高橋至時(よしとき)から天文学や暦学などを学ぶ。

 測量を始めたのは、学問上の課題だった緯度1度の長さを測り、「地球の大きさを知る」ためだった。55歳から17年かけて全国の沿岸部と主な街道を歩き、死後3年たった1821年に「大日本沿海輿地(よち)全図」(伊能図)としてまとめられた。

 伊能図は、縮尺の違いで「大図」「中図」「小図」の3種類。香取市で5月20日にあった没後200年記念式典では、市民体育館に実物大パネルが並んだ。214枚に分割された日本列島(大図)は、縦47メートル、横45メートル。バスケットボールコート2面分でも北海道が収まらず、日本海の位置に置いたほどの巨大さだ。同市にある伊能忠敬記念館の山口真輝(まさてる)学芸員は「日本の形を明らかにするのが目的で、実用性は考えられていない。さすがに大きすぎるので、必要な情報が入る範囲で中図と小図もつくられたのでは」と話す。

 当時の地図は大きさや形にあまりこだわらず、目的に応じて絵画的に描く「絵図」が一般的だった。伊能図の精巧さには、幕末に来日した英国艦隊が驚いたとも伝わる。現代の日本地図と比べても遜色ないとされる一方、専門家からは北海道や東北、九州南部などで東西方向にずれがある、とも指摘される。

 伊能忠敬研究会の菱山剛秀理事によると、緯度が天体観測で比較的容易に調べられたのに対し、経度は地点間の時間の差を測る必要があり、正確な時計がない当時は観測が難しかった。このため、計算で求めた経線が地図上に引かれ、実測との間にずれが生じたとみられる。

 ただ、伊能図の経線を無視し、地図の形だけを比較すると、ずれはかなり小さくなるという。菱山さんは「伊能図の精度は、決して悪くない。丸い地球を平面に描くには技術的な問題もあり、伊能は迷ったあげく、地図の形は変えず、自分が実直に測量した結果を信じたのだろう」と推測する。

 1828年、ドイツ人医師シーボルトが伊能図を持ち帰ろうとし、関係者が処分された「シーボルト事件」が起きた。伊能図は幕府の秘図で、厳重に管理されていたと思われてきた。

 だが、広島県立歴史博物館の寄託資料から、高田藩(新潟県上越市)の元中老(家老の補佐)で、失脚して在野の知識人だった鈴木甘井(かんせい)が1807年に描いた写本が見つかり、今年4月に発表された。伊能が第4次調査後につくり、幕府に出した東日本の地図を、完成のわずか3年後に写し取っていた。

 伊能図は、最終の「大日本沿海輿地全図」以外にも調査のたびにつくられ、同博物館の久下(くげ)実主任学芸員は「途中段階の伊能図は、国際情勢に関心があった民間知識層にも広がっていた可能性がある」とみる。

 伊能の測量隊は、作業に付き添った諸藩の藩士に測量の成果を知らせることを禁止されていたとも言われる。だが、伊能忠敬研究会の鈴木純子代表理事によると、富山県射水(いみず)市の庄屋で伊能とも会った測量家、石黒信由(のぶよし)の家には、無彩色だが最終の伊能図の写しが伝わる。鈴木さんは「シーボルト事件の影響で、『秘』が過度に強調されているのかもしれない」と話す。

 (渡義人)

◆神様に選ばれた人 落語家・立川志の輔さん

 伊能忠敬をテーマにした創作落語を、2011年から続けています。きっかけは、その4年前に伊能忠敬記念館を訪れたこと。それまであまり興味がなかったのに、入り口にあった伊能図と現在の日本地図を重ね合わせる映像を見て、ぼうぜんとしました。現代のような測量器具もないのに、ずれがほとんどない。これは何なんだと。このすごさを、自分の落語で伝えたい。ところが、伊能忠敬の性格を表すような資料があまりなく、本人にしゃべらせると、どうもリアリティーがなく、よそよそしい。いつもなら長くても半年でつくれるのに、つくっては壊しの繰り返し。結局まわりの人に語らせるスタイルにし、完成まで4年かかりました。

 地図のために17年も歩き続けるなんて、今の人にやれと言っても難しい。それが出来たのは、やはり地図の神様に選ばれた人だったんでしょう。あのとき、私は伊能忠敬に「俺のやったことを知らない人がいるんで、知らせて欲しい」と選ばれたんだと思っている。できる限り、語り継いでいきたいですね。

 <見る> 東京・上野の東京国立博物館のTNM&TOPPANミュージアムシアターで、バーチャルリアリティー作品「伊能忠敬の日本図」を7月1日まで特別上演中。水木金は1日5回、土日祝は1日6回上演。高校生以上500円、小中学生300円(入館料別)。

─────────────────────────

🔵ジョン・万次郎

─────────────────────────

万次郎を育てた米船員

◆◆ジョン・万次郎

ジョン・万次郎=中浜万次郎

なかはままんじろう

18271898

幕末明治期の英学者。別名ジョン万次郎。土佐国中浜(なかのはま)村(高知県土佐清水(しみず)市)の漁夫の家に生まれる。1841年(天保12)、出漁中遭難漂流し無人島(ぶにんとう)(鳥(とり)島)に漂着し、アメリカの捕鯨船ホーラント号に救助され、同国に渡り教育を受けた。50年(嘉永3)ボイド号でホノルルから帰国の途につき、翌年8月鹿児島に上陸、長崎で取調べを受けたのち故郷に帰された。5212月藩庁に召され、徒士(かち)格に登用されて藩士に列し、53年幕府に招聘(しょうへい)されて普請役(ふしんやく)格に列し韮山(にらやま)代官江川英龍(ひでたつ)の手付(てつき)を命じられた。ペリー来航時には重用され、外国使臣の書翰(しょかん)の翻訳や軍艦操練所教授、鯨漁(くじらりょう)御用を勤め、60年(万延1)新見正興(しんみまさおき)の遣米使節には通弁主務として随行した。61年(文久1)小笠原(おがさわら)島の調査、64年(元治1)薩摩(さつま)藩に聘せられ軍艦操練・英語教授を委任された。68年(明治1)土佐藩に召され、翌年徴士として開成(かいせい)学校二等教授として英学を教授した。70年、プロイセン・フランス戦争観戦のため品川弥二郎(やじろう)、大山巌(いわお)らとともに渡欧を命ぜられたが、翌年病を得て帰国した。以後悠々自適の生活を送った。[加藤榮一]

『中浜明著『中浜万次郎の生涯』(1970・冨山房)』

◆◆ペリー×ジョン万次郎、講談で実現 接点のない二人を扱った台本、発見

朝日新聞17.06.15

 ペリー提督率いる米艦隊が江戸幕府に開国を迫った幕末の大事件・黒船来航(1853年)と、高知出身の漁師で漂流中に米の捕鯨船に救助され、帰国後は幕府の通訳などとして活躍したジョン万次郎(中浜万次郎、1827~98)。実際は接点のなかった、この二つをカップリングさせた講談本が、初めて確認された。

 見つけたのは日本美術研究家のエリス・ティニオスさん。2015年11月に京都市内の古書店で購入。ジョン万次郎の研究者である北代(きただい)淳二さんが調査し、未知の講談の台本と判明した。

 表紙込みで約80ページ。「泰平新話(たいへいしんわ)・巻之一」というタイトルの下に「亜墨利加(あめりか)舶来航、兼土佐萬次郎説話」と書かれ、著者は「王笑止」とある。

 書かれたのは黒船来航と同じ嘉永6年8月(西暦だと同年9月)。ペリーが開国を要求する親書を幕府に渡したのが旧暦の6月9日、退去が同12日だったので、来航後、わずかの間に執筆されたことがわかる。

 本文は「サテ此度(このたび)北亜墨利加合衆国ト云国王ヨリ我大府ヘ書翰(しょかん)ヲ呈上致シマシタ」との書き出しで始まり、前半は黒船来航と幕府の対応、後半は万次郎登用の経緯から万次郎が伝える米事情へと続く。

 ペリーから受け取った大統領親書の英文を、他の通訳が困惑するなか、万次郎が「何ノ苦モナクスラスラト読ミ」解くのが見せ場の一つだが、実際には万次郎が幕府通訳になったのはペリー来航の1カ月後で、翻訳に関わった事実はない。

 北代さんは「最新の出来事を大筋に据えつつも、あくまで講談の台本として虚実ないまぜて面白おかしく話を進めている。黒船来航前後に万次郎がいかに知られた存在だったか、さらには黒船に対する庶民の受け取り方がどうだったのかを知ることができる貴重な史料」と話す。「架空のペンネームの筆者が一体誰なのかはわからないが、短期間に豊富な情報を集めていたことには感心する」

 この講談本が実際に高座にかけられた記録は見つかっていない。ペリーの2度目の来航が西暦の54年2月と早かったため、上演できなかった可能性もあるという。

 一方、横浜市立大学名誉教授の加藤祐三さん(アジア近代史)は「前段では浦賀の初対面で交戦を回避して話し合いに入ったことを印象づけながら、後段では万次郎の語る米国経験を踏まえ、アメリカには39~42年のアヘン戦争を起こした英国のような好戦的なところがないとしたところがうまい。聞き手は今後も続く交渉への期待を抱いたはず」と評価する。

 「事実に反する箇所や誤解、誇張もあるが、これは当時の瓦版などにもよくある。様々な風説書(海外事情の伝聞集)を活用してアヘン戦争を描いた嶺田楓江(みねたふうこう)の『海外新話』(49年)を意識したのでしょうか。口語体で、演じればおそらく1時間ほど。聴き手を引き付ける語り口です」(編集委員・宮代栄一)

─────────────────────────

🔵二宮尊徳=農村の自力的回復を志向した農政家

─────────────────────────

(筆者より=「江戸時代の先駆者」の1人に二宮尊徳をあげることに異論もあると思う。しかし、その生涯を振り返ると、危機に陥っている農村の経済改革を自らを犠牲にして粉骨砕身の奮闘ぶりには、たいへん教訓的なものがある。明治政府の修身教育に利用されたが、二宮尊徳の実像が歪められた気がする)

🔵英雄たちの選択・二宮尊徳http://m.pandora.tv/view/keiko6216/62584404

★★その時歴史が動いた=二宮尊徳飢饉を救う

★★歴史列伝・二宮尊徳-農村の財政改革

◆◆二宮尊徳の生涯

にのみやそんとく

17871856

(小学館百科全書)[内田哲夫]

江戸後期の農政家。名は金次郎、尊徳は後の名乗(なのり)。相模(さがみ)国足柄上(あしがらかみ)郡栢山(かやま)村(神奈川県小田原市)百姓利右衛門(りえもん)の長子に生まれる。早くから父母に死別、兄弟は親戚(しんせき)の家に分散、二宮家伝来の田地はすべて人手に渡る。17歳のとき用水堀の空き地に棄苗(すてなえ)を植えて米一俵を収穫、「小を積んで大を為()す」ことを実感したという。苦難のすえに24歳で一町四反歩の農地を所持し、一家の再興に成功。1818年(文政1)小田原藩家老服部(はっとり)家の家政再建を依頼され、また老中に就任した藩主大久保忠真(ただざね)より模範人物として表彰された。1820年江戸在勤の小田原藩士たちのために低利の貸付金と五常講(ごじょうこう)を考案して苦境を救う。1822年藩主忠真より分家宇津(うつ)家(旗本)の領地再建を命ぜられ、下野(しもつけ)国(栃木県)桜町(さくらまち)領の復興を図り、1831年(天保2)第一期を終了。1833年初夏のナスに秋の味があるのに驚き、稗(ひえ)を播()かせて飢饉(ききん)を防いだという。1837年藩主忠真より前年からの飢饉に苦しむ小田原藩領の救済を命ぜられ、小田原へ赴く。1840年から小田原付近の農村救済のための報徳仕法(ほうとくしほう)を実施する。1842年老中水野忠邦(ただくに)より普請役(ふしんやく)格として幕府役人に取り立てられる。1844年(弘化1)「日光仕法雛形(にっこうしほうひなかた)」を作成、一家、一村、一藩再建のための指導書とする。尊徳の指導は小田原藩領のほか日光神領、烏山(からすやま)、下館(しもだて)、相馬(そうま)各藩に及んだ。日光神領立直し仕法の業なかばに、安政(あんせい)31020日、下野国今市(いまいち)陣屋で病没、70歳。著書に『為政鑑(いせいかがみ)』『富国方法書』『三才報徳金毛録』などがある。おもな門人には『報徳記』の著者富田高慶(とみたたかよし)、『二宮翁夜話』の著者福住正兄(ふくずみまさえ)や安居院庄七(あぐいしょうしち)、岡田良一郎らがいる。

 尊徳は身長6尺(約182センチメートル)、体重25貫(約94キログラム)の強健な大男で、合理的精神に富み、和漢の古典を独自に読み替える独特の才能があった。彼の思想は実践活動と深く結び付いていた。各自が財力に応じて支出計画をたてることを「分度(ぶんど)」といい、分度生活の結果生ずる余剰を社会に還元することを求め、これを「推攘(すいじょう)」と称した。分度をたてて推攘を図ることによって人は苦境を脱し、一村は再興され、藩もまた立ち直るとした。この方法(仕法)の根本は報徳精神とよばれ、明治以後の農村の精神的背骨として多くの影響を与えた。墓は神奈川県小田原市栢山の善栄(ぜんえい)寺、同地には尊徳記念館があり、生家が保存されている。また小田原市および栃木県日光市に報徳二宮神社がある。

◆◆二宮尊徳を活用した戦前の道徳教育

二宮尊徳の報徳仕法が成功した要因のひとつは,事前に詳細な調査を行ってプランをたて,領主をはじめ地主,農民の分に応じた消費を規定した「分度」を画定し,余財を自己の将来や他人のために「推譲」することとし,報徳金と称する領主と農民との中間に位置する資金を創設運用したこと,もうひとつは,窮乏する共同体の経済から上昇農民の自立を目指す「勤労」エネルギーを褒賞制度などによってひき出したことである。もともと報徳思想は神儒仏3教の折衷より成るが,自然の天道に対し衣食住を生み出す人道を対置し,生産労働と生活規律を重視するなど,民衆の生活意識に根ざす規範を創出した点に新時代へ向けた思想化をみることができる。 明治以降,内村鑑三『代表的日本人』(1894)などは,経済行為の基礎としての道徳を説いた尊徳を肯定的に評価した。

他方,明治政府は国民教化の観点から尊徳を顕彰し,明治37(1904)年以降,修身教科書に孝行,学問,勤勉,精励,節倹など,多くの徳を備えた人物として登場させた。昭和初年以降,小学校校庭の「負薪読書」の金次郎像も一般化する。これらは貧しい民衆の能動的エネルギーを開発しつつ,これを体制内にとどめおこうとする支配層の意図にもとづく。戦後の一時期,平和と民主主義のシンボルとしての二宮尊徳像が再生し,1円札の肖像案(1946)ともなったが,今日でも勤倹節約の模範人物としてのイメージが強く残っている。

<参考文献>『二宮尊徳全集』全36,佐々井信太郎『二宮尊徳伝』,奈良本辰也『二宮尊徳』『日本の名著26 二宮尊徳』(1970・中央公論社) 守田志郎著『二宮尊徳』(1975・朝日新聞社)

(海野福寿)

◆◆報徳社

ほうとくしゃ

(小学館百科全書)

二宮尊徳(にのみやそんとく)が創唱した報徳の教えに基づく結社組織。1843年(天保14)設立の常陸(ひたち)国(茨城県)下館(しもだて)藩の報徳信友講と相模(さがみ)国(神奈川県)小田原(おだわら)仕法(しほう)組合が最初とされている。報徳思想は、勤労、分度、推譲を徳行の原則とし、個人や社会の衰貧復興計画としての報徳仕法を行うために報徳社が組織された。幕末期には難村復旧、家政立て直しのため相模、下野(しもつけ)(栃木県)、遠江(とおとうみ)(静岡県)などに普及したが、明治以降は静岡県掛川(かけがわ)の岡田佐平治(さへいじ)・良一郎(りょういちろう)・良平(りょうへい)3代が指導した遠江国報徳社(1875年設立、1911年大日本報徳社と改称)を中心に静岡県下で発展した。また、ほかに小田原報徳社、駿河(するが)東報徳社、報徳報本社、報徳遠譲社、駿河国西報徳社、静岡報徳社、三河報徳社などがあった。これらは設立事情の差異により生じた分派で、192440年(大正13~昭和15)に合同、大日本報徳社の傘下に入った。報徳社は、経済と道徳との調和を説いて協同精神を強調するとともに、報徳金の積立てと運用による無利・低利の貸付け、殖産興業、農事改良、風俗教育などを行い成果をあげた。一方、政府は地方改良運動、民力涵養(かんよう)運動、国民更生運動、経済更生運動などの際、国民教化と地方自治政策の一手段として報徳社を指導、奨励したため、報徳運動は全国的に広まった。第二次世界大戦後、報徳社組織は後退しているが、1977年(昭和52)の大日本報徳社所属社は全国で208社、社員数9040人、報徳金は292000万円となっている。なおこのほかにも各種の報徳団体がある。[海野福寿]

『八木繁樹著『報徳運動100年のあゆみ』(1980・龍渓書舎)』

[関連リンク] | 報徳博物館 http://www.hotoku.or.jp/

◆◆Wiki=二宮金次郎の銅像

戦前の学校教育や、地方自治における国家の指導に「金治郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金治郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われており、特に平田東助・岡田良平・一木喜徳郎らによる指導が大きかった[12]

小学校の校庭などに見られる「金治郎像」は、彼らの政策によって展開された社会環境を前提として、国家の政策論理に同調することで営業活動を行った石材業者や石工らによって広まったとされる。小学校に建てられた「金治郎像」でもっとも古いものは、大正13年(1924年)、愛知県前芝村立前芝高等尋常小学校(現豊橋市立前芝小学校)に建てられたものである。その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが1メートルとされ、子供たちに1mの長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に製作された像はきっかり1メートルではないことが多い。これは、昭和15年(1940年)頃に量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。この像が戦後、GHQの指令により廃棄されたといわれることがあるが、二宮尊徳が占領下の昭和21年(1946年)に日本銀行券(1円券)の肖像画に採用されていることからも分かるとおり、像の減少と連合軍総司令部は特に関係は無い。戦前の像は青銅製のものが多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる。

金属供出に際して、教育的配慮として、教師や児童の立会いの下で像にたすきをかけて壮行式を挙行し、戦地に送り出したり、撤収後の台座に「二宮尊徳先生銅像大東亜戦争ノタメ応召」の札が立てられたこともある[13][14]

石像のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像やコンクリート像などがつくられることもあった。像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をして本を読みながら道路を歩くと交通安全上問題があることから、1970年代以降、校舎の立替時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にあるほか、「現在の児童の教育方針に合わない」などの理由で、破損しても補修に難色を示す教育委員会もある[15]。 岐阜市歴史博物館調べによると、市内の小学校の55.1%に「二宮金治郎像」が存在し(2001年現在)、近隣市町村を含めると、58.5%の小学校に「二宮金治郎像」が存在する。また、平成15年(2003年)に小田原駅が改築され橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく立てられた。

──────────────────────

🔵大原幽学

──────────────────────

おおはらゆうがく17971858

小学館百科全書

江戸後期の農村改革思想家。尾張(おわり)藩家老大道寺(だいどうじ)氏の一族とも、幕府御小人目付(おこびとめつけ)高松彦七郎の弟という説もあるが出自は不明。ただし、武士の出身であることは確かである。少年時代から家を出て、関西方面を遊歴し、神儒仏をはじめ易学、観相など種々の学問、先進農業技術などを身につけた。1830年(天保1)江州(ごうしゅう)(滋賀県)伊吹山松尾寺を訪ね、提宗和尚(ていそうおしょう)の激励を受けて社会教化の実践を決意し、中山道(なかせんどう)を経て信州(長野県)上田に至り、富商小野沢六左衛門に寄寓(きぐう)して道学の講義を開講、徐々に門人も増えたが、1年で上田を去り江戸に向かう。その後、相模(さがみ)(神奈川県)から房総の各地を巡歴、1833年ごろから下総(しもうさ)国(千葉県)香取(かとり)、海上(うなかみ)、匝瑳(そうさ)3郡の東総の村々を中心に道を講じて巡講、彼独特の教学を「性学」と名づけ、村々に性学門人が増加していった。1835年香取郡長部(ながべ)村名主遠藤伊兵衛に招かれて性学を説いて以後、ここを中心として北総の村々を巡講するに至った。

 ここで『性学趣意』『微味幽玄考』などの書を著すとともに、荒廃した農村復興のために土地共有組織「先祖株組合」を結成させて農家永続の策をたて、また農地の交換分合、耕地整理などから農作業、施肥などの農事指導まで行い、1848年(嘉永1)には長部村は領主から模範村として表彰されるまでになった。

 しかし、門人数の急増、教導所「改心楼」の建設などが関東取締出役(とりしまりしゅつやく)の嫌疑を受け、幕府評定所(ひょうじょうしょ)の取調べを受けることとなる。1857年(安政4)幕府の判決が下り百日押込(おしこめ)の刑を申し渡され、江戸にて謹慎、翌18582月刑期を終えて長部村に帰村、38日未明に遠藤家墓所で自殺した。墓は自刃した場所にある。なお千葉県旭(あさひ)市長部の大原幽学記念館に遺品、関係資料があり、傍らに幽学の当時の居宅がある。[川名 登]

『中井信彦著『大原幽学』(1963/新装版・1989・吉川弘文館) ▽木村礎編『大原幽学とその周辺』(1981・八木書店)』

★★映画=山本薩夫監督「天保水滸伝 大原幽学」

★★大原幽学記念館

http://www.city.asahi.chiba.jp/yugaku/

★★『ちば見聞録』#033 「房総の偉人~大原幽学~」(2015.5.16放送)【チバテレ公式】21m

★★千葉県旭市「農村を救った知の侍 大原幽学」15m

大原幽学(おおはらゆうがく、寛政9317日(1797413日)– 安政538日(1858421日))は、江戸時代後期の農政学者、農民指導者。下総国香取郡長部(ながべ)村(現在の旭市長部)を拠点に、天保9年(1838年)に先祖株組合という農業協同組合を世界で初めて創設した。

◆生涯

出自は明らかでないが、尾張藩の家臣大道寺直方の次男として生まれたとの説もある[1]。若き頃は大道寺左門と名乗っていたという。号は静香。

   幽学の語るところによると、18歳のとき故あって勘当され、美濃、大和、京、大阪を長く放浪していたという。はじめは武芸、のち知友から占い手法を身に付け、易占、観相、講説などで流浪の生活を支えていた[2]

    その後、神道、儒教、仏教を一体とする、独自の実践道徳である「性学」(生理学、性理道ともいった)を開いた。天保2年(1831年)房総を訪れ性学を講ずるようになり、門人を各地に増やしていった。そして、天保6年(1835年)に椿海の干拓地の干潟八万石にあった長部村に招かれ農村振興に努力することになった。

幽学は、先祖株組合の創設のほかに、農業技術の指導、耕地整理、質素倹約の奨励、博打の禁止、また子供の教育・しつけのために換え子制度の奨励など、農民生活のあらゆる面を指導した。「改心楼」という教導所も建設された。嘉永元年(1848年)2月に、長部村の領主清水氏は、長部村の復興を賞賛し、領内の村々の模範とすべきことを触れている。

    嘉永5年(1852年)、反感を持つ勢力が改心楼へ乱入したことをきっかけに村を越えた農民の行き来を怪しまれ勘定奉行に取り調べられる。安政4年(1857年)に押込百日と改心楼の棄却、先祖株組合の解散を言い渡される。

   5年に及ぶ訴訟の疲労と性学を学んだはずの村の荒廃を嘆き、翌年、墓地で切腹。千葉県旭市には旧宅(国の史跡)が残っており、切腹した場所には墓が建立された。愛知県名古屋市の平和公園にも門人がたてた墓碑がある。著作に「微味幽玄考」「性学趣意」「口まめ草」等がある。

◆同時代の代表的な農民指導者

二宮尊徳

大蔵永常

渡部斧松

◆描かれた作品

映画 

『月の出の決闘』(1947年)– 丸根賛太郎監督、阪東妻三郎、青山杉作他

『天保水滸伝大原幽学』1976年)– 山本薩夫監督、平幹二朗、浅丘ルリ子他

小説

高倉テル,『大原幽学伝』,美和書林(1949)

内山朝治,『武士にて候―先覚者大原幽学、その闘い』,東洋出版(2002/4/30)

佐藤雅美,『吾、器に過ぎたるか』,講談社(2003/05)、のち講談社文庫『お白洲無情』(2006/05)

参考文献

中井信彦,『大原幽学(人物叢書),吉川弘文館(1963)

奈良本辰也他著,『日本思想大系〈52〉二宮尊徳・大原幽学』,岩波書店(1973/05)

木村礎,『大原幽学とその周辺(日本史研究叢書),八木書店(1981/10)

高橋敏,『大原幽学と飯岡助五郎―遊説と遊侠の地域再編(日本史リブレット人),山川出版社(2011/02)

脚注

1 中井信彦,『大原幽学(人物叢書),吉川弘文館(1989/05)

2 『大原幽学伝』(1949年)高倉テル著、美和書林発行

🔷🔷大原幽学と千葉県・旭市 赤旗19.05.30

憲法とたたかいのブログトップ

富岡製糸場と「あゝ野麦峠」「女工哀史」、紡績労働者のたたかい(甲府・山一林組・鐘紡・東洋モスリン・富士紡川崎)

富岡製糸場と「あゝ野麦峠」「女工哀史」、紡績労働者のたたかい(甲府・山一林組・鐘紡・東洋モスリン・富士紡川崎)


🔴憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

【このページの目次】

◆富岡製糸場・繊維労働者リンク集

◆富岡製糸場の歴史

⚫︎どんな工場だったか

⚫︎「男軍人 女は工女 糸をひくのも国のため」

⚫︎工女たちの生活

◆『あゝ野麦峠』に描かれた女工哀史

◆「女工哀史」と細井和喜蔵、女工小唄

◆最初のストは甲府の製糸女工

◆岡谷山一林組争議

◆鐘紡争議

◆東洋モスリン争議、東洋モスリンの労働女塾、高井としを「私の女工哀史」から

◆富士瓦斯紡績川崎争議と煙突男

────────────────────

🔵富岡製糸場、繊維労働者リンク集

────────────────────

◆当ブログ=近江絹糸労働者の人権闘争

(戦後の紡績労働者のたたかい)

(以下の文献のPDFはスマホの場合=画像クリック最初のページの上部の下向き矢印マークを強くクリック全ページ表示のこと)

◆玉川寛治=製糸工女と富国強兵

0803経済・玉川=蚕糸業産業遺産㊤㊦

◆鈴木=女工と争議(東洋モスリン争議)

◆早田リツ子=工女への旅ー富岡製糸場から近江絹糸まで

◆早田リツ子=工女への旅ー富岡製糸場から近江絹糸まで

◆近江絹糸民主化闘争委員会=近江絹糸の労務管理

◆『学習の友』連載・白石=近江絹糸争議

◆『学習の友』=近江絹糸、紡績労働者の生活記録

◆近江のうた=近江絹糸労働者の手記

◆関口=近江絹糸労働者の手記「近江のうた」の紹介

◆三輪=東亜紡泊工場の生活記録運動

◆三輪=50年代の職場サークル、紡績労働者など

◆木下・鶴見=母の歴史

◆江口圭一=日本の労働者と農民(戦前、小学館「日本の歴史」29)=「あゝ野麦峠」「山一争議」なども詳しい。

◆犬丸義一・中村新太郎=日本の労働運動史㊤明治・大正

◆犬丸義一・中村新太郎=日本の労働運動史㊦昭和・戦前

◆労働者教育協会・労働運動史研究会編『日本の労働運動史(戦前)』

労働運動のあけぼの

反戦運動の展開と社会主義

足尾暴動

大正期労働運動の高揚

総同盟の分裂

共同印刷争議

日本共産党の創立

合法無産政党

3.15事件と治安維持法

大恐慌下の女子労働者の闘争

戦争と労働運動の敗北

◆歴史科学体系・日本労働運動史

◆塩田庄兵衛=日本のストの歴史(戦前)

日本鉄道機関方(1898最初の大スト)

三菱長崎造船所(1907

東京市電(1910片山潜指導)

米騒動(1918

八幡製鉄所(1920

神戸川崎・三菱造船所(1921

山一林組(1927

野田醤油(192728

鐘ヶ渕紡績(1930

東洋モスリン亀戸(1930

東京地下鉄(1932

東京市電(1934

愛知時計電機(1937

◆塩田庄兵衛=日本の労働運動史(労旬ライブラリー)

◆日本労働組合物語明治

◆日本労働組合物語大正

◆日本労働組合物語昭和

◆日本労働組合物語戦後(1)

◆日本労働組合物語戦後(2)

🔴富岡製糸場

★★歴史秘話=富岡製糸工場の女工たち43m

★★花燃ゆNo.42=生糸が世界を駆ける(群馬県令となった楫取素彦。美和も群馬に。県令としての最初の仕事が富岡製糸場を軸にした製糸業の発展であった)

★工場見学=富岡製糸場30m

★富岡製糸場 TOMIOKA Silk Mill 8m

★富岡製糸場が世界文化遺産登録へ5m

★富岡製糸場 世界文化遺産登録へ12m

http://m.youtube.com/watch?v=9I5H3iVIy9E

🔵歴史鑑定・富岡製糸場工場長は渋沢栄一の従兄弟https://vimeo.com/641824776

★★世界遺産=富岡製糸場と絹産業遺産群

the 世界遺産富岡製糸場と絹産業遺産群30m

★ラジオ=富岡製糸場40m

★世界遺産へ!富岡製糸場~群馬は文明開化の原点15m

https://m.youtube.com/watch?v=VxflzILRO2I

★富岡製糸場 TOMIOKA Silk Mill9m

★富岡製糸場 内ガイド案F2C有料(計40m

http://video.fc2.com/content/20140621ZyK6GFRr/

http://video.fc2.com/content/20140621hpdQaM4B

★『富岡製糸場』守り続けた片倉工業!操業停止後も22m

http://m.youtube.com/watch?v=aD0PsGVGDOw

★富岡製糸 生糸で暮していた時代 8m

★★養蚕農家から製糸場まで=繭から着物の製造過程(群馬の蚕糸業から)13m

★繭の糸取り3m

Wiki=富岡製糸場

◆◆山崎=昭憲皇太后と富岡製糸工女のエートス

PDF18p(明治66月富岡製糸場訪問=明治政府の「富国強兵」の一端が、この論文で明らかにされている)

⚫︎いと車とくもめくりて大御代の富をたすくる道ひらけつつ(富岡製糸場の正門入り右側に石碑に刻印)

⚫︎とる糸のけふのさかえをはじめにてひきいたすらし国の富岡

他にも「上州小唄」「工場歌」「運動歌」の紹介。すべて富岡製糸場を讃える歌である。さらに一転して野麦峠を越えた女工たちが悲惨さをうたった「糸引き唄」も紹介。

◆◆日本の近代化遺産(1)絹産業(その歴史

と産業)

http://www.nishida-s.com/main/categ4/32kinusanngyou/index.htm

◆富岡製糸場HP

http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html

◆◆富岡日記と映画「紅い襷」

◆和田英=富岡日記

和田 英

富岡製糸場で働いた工女の日記

http://cruel.org/books/tomioka/tomioka.html

◆富岡日記から

http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/archives/2155412.html

◆映画=「紅い襷たすき」富岡製糸場の工女・和田英たちを描いた映画

オフィシャルサイト=予告編あり

映画『紅い襷~富岡製糸場物語~』明治維新、日本の大転換期―― 若き女性たちの活躍が、あらたな産業の扉をひらいた 知られざる感動の物語

【あらすじ=オフィシャルサイトから】

明治初期、日本の近代化を大きく牽引した輸出品は重厚な「軍艦」ではなく、しなやかな「絹」でした。

その生産を支えていたのは、名もなき女性たちの手であったことをご存知でしょうか。

故郷を離れ、新しい日本のために糸をひき続けた若き工女たちと、フランスから、製糸業を通して日本の近代化に尽力した、製糸場の首長ポール・ブリュナとエミリ夫人、そして厳しくも温かいフランス人女性教師。彼女らによって、日本に新たな産業の風が吹き込まれたのです。

工女たちが、それぞれの不安や葛藤を抱えながらも、次第に身分や国境を超え、近代化という扉を自ら開いた先で手にしたものとは?そして「生糸の神様」と呼ばれたブリュナが日本に残したものとは……

主人公・横田英を演じるのは本作品が映画デビューとなる水島優。映画「罪の余白」での熱演も記憶に新しい吉本実憂が英の幼馴染・鶴を演じます。さらに、50年後の英(和田英)役を大空真弓、製糸場長・尾高惇忠役を西村まさ彦、渋沢栄一役を豊原功補など豪華な顔ぶれが集結しました。

日本の近代化の始まりとそれを担った若き工女たちの姿を、長野・松代の工女・横田(和田)英の手記と取材資料をもとに紐解いていきます。

◆日本のシルクロード訪ねて(岡谷・上田・富岡)風の旅

http://atomos-saty.blog.ocn.ne.jp/blog/cat6667850/

◆製糸技術の発展と女子労働

「日本の経験」を伝える図書館ジェトロ・アジア経済研究所

http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe9_d02.html

◆参考・玉川寛治「製糸工女と富国強兵の時代」(新日本出版)

────────────────────────────

🔵富岡製糸場はどんな工場だったのか(筆者コメント)

────────────────────────────

(1)「富国強兵」のための官営模範工場

富岡製糸場は「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として世界遺産の暫定リストに記載されており、20146月の第38回世界遺産委員会(ドーハ)で正式登録された。日本はすでに江戸時代末期に生糸の欧米への輸出が始まっていた。明治政府は、「富国強兵」の政策を具体化するために、近代化された器械による製糸業を日本各地に広げていくために、官営のモデル工場をつくり、その技術をベースにした工場を各地につくっていくことにした。

「富岡製糸場」の記念碑は 正門を入り東繭倉庫に向う途中にあるもので 創業翌年(明治6年)に 明治天皇の要請で皇后が富岡製糸場を行啓した時に詠んだ歌「いと車 とくもめくりて大御世の 富をたすくる道ひらけつつ」(製糸場の発展が日本の発展に繋がる期待を表した歌)が碑文に刻まれている。まさに「富国強兵」が目的であったことが明記されている(皇后の行啓図参照)

上記の歴史秘話では、働いた女性がこの歌詞で歌をうたっている。

伊藤博文と渋沢栄一は官営の器械製糸場建設のため、フランス公使館に、いわゆるお雇い外国人として適任者を紹介するように要請し、エシュト・リリアンタール商会横浜支店に生糸検査人として勤務していたポール・ブリューナ (Paul Brunat) の名が挙がった。明治政府はブリューナが提出した詳細な「見込み書」の内容を吟味した上で、1870年(明治3年)6月に仮契約を結んだ。

生糸を生産する製糸業は幕末の開国以来の主要な輸出産業で、北関東・甲信の養蚕地帯を基盤として農村マニュファクチャー(工場制手工業)が発達した。明治後期には、人力で器械を動かす従来の「座繰(ざぐり)製糸」に海外の技術を取り込んだ「器械製糸」が普及し、飛躍的に生産力が高まって、清国を抜いて世界最大の生糸輸出国となった。このように、製糸業は原料・生産形態・技術のすべてが国内的基盤に支えられていたため、やがて輸出して外貨を獲得する、政府が器械製糸の発展を意図して官営のモデル工場として普及していく上で大きな役割を果たすことになる。富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。 製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物であり、フランスやイタリアの製糸工場ですら繰糸器は150釜程度までが一般的とされていた時代にあって、世界最大級の規模。

(2)破格の労働条件=ブラック企業ではなかった

富岡製糸場は、生産技術だけでなく、労働環境もフランス式に整備されていた。製糸場資料によれば、勤務時間は7時間45分が基本。休日は日曜日と祭日、年末年始と夏季の各10日間を含み年間76日とある。明治期の労働環境としてはかなりの厚遇で、能力別の月給制度や就業規則、産業医制度も整い、寮費や食費は製糸場が負担。余暇を利用した工女余暇学校も設けられていた。

 開業当初、工女(富岡製糸場では女工ではなく「工女」と呼ばれた)の多くは、地方の素封家や旧士族の子女だった。政府が各府県に発布した諭告書に「伝習を終えた工女は、出身地へ戻り、器械製糸の指導者とする」と記されている。工女たちは郷里の未来と期待を担う技術研修生(指導者候補)であった。

『富岡日記』は、工女の姿を伝える貴重な史料である。和田英(えい)(松代藩士・横田数馬の次女で工女となった当時17歳)による回想録『富岡日記』には以下のような記述がある。「父が私を呼び……他日この地に製糸場出来の節差支えこれ無きよう覚え候よう、仮初にも業を怠るようのことなすまじく一心にはげみまするよう」

 後の『日記』に「業は進みますだけ楽で面白くなりますから、少しも退屈しません」と綴った英は、就労8ヵ月で一等工女に昇進、14ヵ月の富岡生活を終えた後、郷里に新設された民営の西条村製糸場(後の六工社)で指導工女を務めるなど地域産業に貢献した。

 今回の登録勧告には、英たち勤労女性の社会的貢献を後押しした製糸場のあり方が評価されたと見る向きもある。

 ちなみに、英の『日記』には繭を選りわける際の匂いに閉口したこと、他県出身者にライバル意識を燃やしたことや、糸繰りの手ほどきを受けた先輩の横顔など、仕事にまつわる諸事をはじめ、日々の食事やフランス人技術者夫人のファッション、夕涼みや親睦会、花見の模様など息抜きの時間も描写されている。多忙ななかにも働きがいを見出す、充実した日々であったことがうかがわれる。

工女たちは熟練度によって等級に分けられていた。開業当初は一等から三等および等外からなっていたが、1873年には等外上等および一等から七等の8階級に変わった。

賃金は以下の通り。

一等工女 25円 二等工女 18円 三等工女 12円 等外工女 9円。給料は月割りで支給。別に作業服代として、夏冬5円支給される。明治8年には4段階から8段階に変更。年功序列ではなく能率給であった。

25円は当時では破格の賃金である。

食事は「富岡日記」では以下の通り。「私ども入場いたしました頃は、皆自分の部屋で食事をいたしました。・・・十一月ごろから大食堂が出来まして、ご飯の茶碗と箸だけ持っていくのであります。・・・・生な魚は見たくてもありません。塩物と干物ばかり、牛肉などもありますが、赤いんけんの煮たのだとか切り昆布(こんぶ)とあげ蒟蒻(こんにゃく)と八ツ頭などです。・・・朝食は汁に漬物、昼は煮物、夕は干物・・・・。」

工女たちはブリューナがフランスから連れてきたフランス人教婦たちから製糸技術を学んだ。び、18735月には尾高勇ら一等工女の手になる生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞した。リヨンやミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われることにつながったとされる。工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。和田英や春日蝶が18747月に帰郷したのも、そうした工場の一つである民営の西条製糸場(のちの六工社)で指導に当たるためであった。なお、初期には人数は少なかったが、蒸気機関の扱いなどを学ぶための工男たちも受け入れており、西条製糸場の設立にも、そうした工男が貢献している。

(3)民間に払い下げられてからは労働環境が悪化

 富岡製糸場は1893年に民間に払い下げられた。最初は三井家、1902年原合名会社時代、

1939年から今日まで片倉製糸へと経営が移行した。以降も富岡製糸場の伝統は生き続け、高品質な生糸の量産化に貢献、近隣農家の養蚕技術改良にも主導的役割を果たした。

 しかし利潤を求める民営下では、工女たちの就業時間は徐々に長くなり、11012時間に。休日も月2日となるなど労働環境はだんだんと悪化していった。三井への払い下げ後の1898(明治31)には、ストライキも起きている。それまでの「15歳以上」という募集条件に満たない10-12歳くらいの少女も少なくなかった。入場後、間もなく脚気になって歩けなくなって同郷の工女の看病で入院生活を送った工女もいた(上條宏之「絹ひとすじの青春」)。それは、各地に製糸工場や紡績工場がつくられるなかで、戦前日本資本主義の特徴である、小作など貧農家庭の口減らし策として前借金制度、「インド以下的低賃金」、長時間労働、寄宿制度などの「女工哀史」「あゝ野麦峠」的状態が広がり、その反映で富岡製糸場がかつてもっていた厚遇が崩されていったのである。

戦後も製糸工場として稼働していたが片倉工業は1987年についに操業を停止した。富岡工場(旧富岡製糸場)を閉業した後も一般向けの公開をせず、「貸さない、売らない、壊さない」の方針を堅持し、維持と管理に専念した。

(4)「富を助くる道」=「生糸と軍艦」=戦前の製糸業が占めた位置

日本各地に製糸業の工場が広がった。諏訪岡谷、須坂、上田など長野県が日本一となり全国の30%を占めた。全国に8大製糸会社があったがうち6社が岡谷で占められていた。山梨、埼玉、群馬、福島、山形、愛知、岐阜など)でも製糸工場が多数できた。生糸の大部分は製糸工場から横浜の売込(うりこみ)問屋に販売され、さらに外国商社を通じて主に米国に輸出された。製糸工場は、売込問屋に生糸を届け、代金を受け取る前に、生糸の生産、特に原料となる繭の仕入れのために多額の資金を必要とした。それを賄ったのが、主に売込問屋による前貸しだった。売込問屋はそのための資金を民間銀行から借り入れ、さらに民間銀行には日本銀行が資金を供給していた。

綿糸を生産する紡績業は、幕末にイギリスから安価な綿織物が輸入されたことから、江戸時代に発達していた河内の綿作地帯や生産地の尾張が壊滅的な打撃を受ける。その後、渋沢栄一が設立した大阪紡績会社が24時間操業などの大規模生産で成功を収めると、関西を中心とした6大紡績会社が独占的地位を固め、清国・朝鮮への輸出を伸ばした。しかし、原料の綿花はインド・清国、機械はイギリス・アメリカからの輸入に依存していたため、貿易収支は赤字であった。

重化学産業が未発達であった日本資本主義にとって、製糸業、綿紡績業が広がるなかで、繊維産業が日本資本主義のなかで占める位置は戦略的に極めて重要なものとなった。日清戦争前では、生糸と絹織物が輸出の50%を占めた。それ以外では茶の輸出が主な商品であった。日清戦争後は、綿紡績業が急激に発展し、中国・朝鮮に綿糸綿布の輸出が急増する「先進国型」の産業となった。しかし、このアジア貿易では、綿花をインドから輸入しており、赤字になる時もあった。

もちろん日清戦争(1894~95)、日露戦争(1904~05)があった明治後期は、軍備拡張を急ぐ政府により官営八幡製鉄所が設立されるなど、重工業も発達し始めた。三菱長崎造船所が欧州航路船を建造するなど造船技術は世界水準に達し、工作機械でも池貝鉄工所がアメリカ式旋盤を完成させた。しかし、国内需要を満たすだけの生産力を生み出すことはできず、鉄類や軍需品の輸入はむしろ増加し、慢性的な貿易赤字の状態が続いたのである。

そこで製糸業が大きな役割を果たしたのである。国産の繭や機械での生産が可能な製糸業は、輸出の拡大によって外貨の獲得を望める唯一の産品であった。対米貿易では、生糸・絹織物を輸出した。これは「後進国型」の側面をもっていたが、外貨獲得産業としては、戦略的な位置を占めたのである。獲得した外貨で、欧米から軍艦・兵器・鉄・機械・船舶など軍需品や重工業製品を輸入した。日露戦争に備えて軍備拡張は国家的課題となり、製糸業がそれをまかなったのである。製糸業が「国を助くる道」、「生糸は皇国の基もとい」、「男軍人 女は工女 糸をひくのも国のため」(最後の言葉は明治後期製糸女工によってうたわれた「工女節」)と位置づけられたのは、こういう背景があった。富岡では休日や就業時間への配慮があったが、製糸業の多くの工場においては、数多くの製糸女工が「工女節」を歌いながら過酷な労働環境に耐え、家計の足しとして期待する親のために働いたのである。このような生糸・綿紡績に依存した状態は、戦時経済で本格的な重化学工業化が進んだ1940年代まで続いた。

◆◆米田佐代子=「理不尽」許さない女性群像ー富岡製糸場の世界遺産登録によせて

(「赤旗」14.07.01

群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、近代日本の産業遺産としては初めてユネスコの世界遺産に登録されることになった。

注目されるのは、決め手となったイコモス(ユネスコの諮問機関)の報告が、近代産業の貴重な遺構への評価とともに、「女性たちの指導者あるいは労働者としての役割」や「労働者の労働環境・社会的状況についての知見を増すこと」を勧告し、近代日本の女性労働の歴史に関心を持つよう求めた点である。

「富国強兵」と「生糸と軍艦」

1872 (明治5)年に開業した官営富岡製糸場では、当初エリート技術者養成の目的もあって「工女」には士族出身者も多く、当初は週休や8時間労働が保障されていた。しかしまもなく労働条件は悪化、民間払い下げ後の1898 (明治31)年にはストライキも起こっている。

全国から集まった工女たちのなかには「15歳以上」という募集条件に満たず、10-12歳ぐらいの少女も少なくなかった。入場後間もなく脚気になって歩けなくなり、同郷の工女の看病で入院生活を送った工女もいる。(上条宏之著『絹ひとすじの青春』)

「進取の気概にあふれた富岡製糸場」(藤岡信勝者『教科書が教えない歴史』)と持ち上げるだけではすまない現実があった。各地の民間製糸場では、山本茂実著『あゝ野麦峠』で知られるような長時間労働や罰金制度などが横行したことも事実である。

なによりも明治政府の近代化=殖産興業政策は、日本がアジアの強国をめざす「富国強兵」の柱でもあった。。「生糸と軍艦」といわれたように、生糸は輸出の花形として外貨を獲得、それが洋式軍艦の輸入をはじめ巨額な軍事費の原資になったのである。

しかし、当時の工女たちの実態を「哀史」とみるだけでいいか。指摘したいのは、彼女たちが労働のなかでつちかった「納得できないことには黙っていない」という精神である。長野県松代出身の横田(和田)英は、後に当時の思い出を『富岡日記』に書くが、仲間とともに助け合いながら技術習得に「一心に精を出し」、時には差別的処遇に抗議の声をあげ、「野中の一本杉のように」まっすぐ生きたと語っている。松代帰国後は近代的製糸場開設に力を尽くし、在来工法に固執する人びとに向かって堂々と自説を主張したという。

人間としての「めざめ」を今

こうした精神は富岡工女だけでなく、各地の民間製糸場で働く貧しい農村出身の工女たちの間にも生きていた。1886 (明治19)年、山梨県甲府の製糸工場主が連合して一方的に労働時間延長や貸金切り下げを強行した時、市内雨宮製糸では100余名の工女たちが「雇主が同盟規約という酷な規則を設けわたし等を苦しめるなら、わたし等も同盟しなければ不利益なり」と近くの寺に立てこもって「同盟罷工(ストライキ)」を決行した。

労働組合もなく指導者もいない時代に、同じ器械で糸をとる少女たちが自主的に団結して「理不尽」とたたかったのである。

今回の世界遺産登録を機に、近代日本の黎明期を生きた女性労働者たちの「人間としてのめざめ」を思い起こすことは、時代は違うが今もブラック企業や不当解雇に苦しみながら働く女性たちにとっても、大きな励ましになるのではないだろうか。

(よねだ・さよこ女性史研究者)

(20140701,「赤旗」)

◆◆富岡製糸場で働いた労働者たち

(1)名もなき工女に光/高瀬豊二著『異郷に散った若い命』復刻

2014.07.05 赤旗

故郷・父母思い官営時に56人逝く 官営時代(1872~93年)の富岡製糸場(群馬県富岡市)で働いた若い工女の墓や過去帳を調べ、その実態に迫った42年前の著書が復刻され、注目されています。日本共産党市議でもあった高瀬豊二さん(故人)が1972年に出した『異郷に散った若い命-旧官営富岡製糸所工女の墓-』。高瀬さんの活動と復刻にかけた思いを現地にみました。

 6月下旬の夜。富岡市内の一戸建て2階の部屋で、10人が車座になりました。再版実行委員会の集まりです。復刻本普及のための熱い論議が続きました。「偉業」を今に 実行委員会の発足は、4月にユネスコ諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)が世界遺産登録を勧告した直後です。事務局の赤石竹夫さん(67)は「どうしても建物に目がいってしまうが、そこで働いていた人に光をあてたこの本を改めて世に問うことは意味あることではないかと考えました」といいます。実行委員の一人、強矢義和さん(59)も「42年前に工女に光をあてた業績を多くの人に知ってもらいたい」と話し、小板橋淑恵さん(61)は「復刻版をぜひ読みたいと思い、お仲間に入れていただいた」といいます。

 『富岡製糸場と絹産業遺跡群』の著者で、富岡製糸場総合研究センターの今井幹夫所長は、「復刻版発刊に寄せて」で高瀬さんの仕事を「偉業」とたたえこう書いています。「(製糸場の)経営を支えたのが全国各地から入場した名もない工女たちである。名もなきがゆえに表面的には捉えきれない部分を内包している。かかる面からしても『異郷に散った若い命』の復刻は大きな意義ある計画である」9歳で死亡も 著者の高瀬豊二さんは戦前、治安維持法違反で投獄され、そのときの病気がもとで戦後右足を切断。66年から3期12年、日本共産党市議として活動。その間、製糸場創立100年に向け「長いあいだ心の一隅にひめていた工女の墓の調査をはじめ」ました。富岡市史編さんにかかわり、91年に79歳で亡くなりました。

 高瀬さんの調査では官営時代に亡くなった工女は56人。富岡市の龍光寺と海源寺にある墓石は50基。最も多い年が1880年(明治13年)の15人。募集要項は「15歳から」なのに過去帳では9歳、13歳を筆頭に20歳までが31人。出身県の最多は滋賀県の21人。高瀬さんは、9歳10カ月の娘が、滋賀県から両親の手を離れて富岡の地に来てひとり寂しく死んでいったことなどに思いをはせ「文字も消えかかった墓石の傍にたつとき、一掬の涙なきを得ない」と書いています。人間を書いた 開業時全国から窮乏した士族の娘を中心に400人以上が集められました。当時は鉄道もなく、徒歩、馬、かごでした。長野県の松代から富岡まで4日かけたという記録があります。

 亡くなっても引き取る人はなく、同僚480人がお金を出し合い5人の工女の墓を建てた記録も残っています。「故郷を思い、父母を思いながら死んでいった」と高瀬さんは書き、「日本資本主義発達のいしずえとなった」と工女たちに思いをよせています。後の『女工哀史』にふれつつ、官営時代について「記録にあらわれた限りでは、その後に続く時代よりもよい労働条件だったといえるようだ」とのべています。

 実行委員の一人、日本共産党の甘楽町議山田邦彦さん(56)は「高瀬さんは、そこで生きた人間を書いた。涙を流し、汗を流した人間がいたということだ」といいます。この日の集い出席者は、高瀬さんの調査の模様を「自転車に乗ってこつこつと調べていた。すごい人だよなあ」などとしのんでいました。年次別工女死亡者数 年次   人数明治6年  1人  7年  2人  9年  6人 10年  4人 11年  5人 12年  8人 13年 15人 14年  2人 16年  1人 17年  3人 18年  2人 19年  1人 22年  1人 23年  2人 24年  1人 25年  2人 計   56人『異郷に散った若い命』から

(2)戦後の富岡製糸場、元工女たちの胸の内

登録は「誇りです」/楽しかったコーラス・ダンス

2014.07.05 赤旗

 群馬県富岡市の富岡製糸場が世界遺産に登録されました。1872年(明治5年)に官営の製糸場として開業、民間に払い下げられ、1987年に操業を停止しました。この115年の歴史のうち、最後の片倉工業時代(39~87年)の50年代に入社して働いた2人の元工女に当時の話を聞きました。

 2人は富岡市在住の海津すみ子さん(76)と浅川タツ子さん(73)。においは強烈 海津さんは祖父母、両親から3代続く富岡製糸場の労働者。1954年(昭和29年)3月、中学卒業と同時に15歳で入社。69年(昭和44年)まで15年間働いたあと退職。再入社、中断、転勤はありましたが、最後は富岡工場で操業停止まで計31年間働きました。

 「糸と糸をつなぐときに、結び目の余分の糸を0・8から1以内にするように歯で切るんです。私はそれが苦手で苦労しました」といいます。生糸の原料となる繭は、県内外から年5回集められました。生糸になるまではたくさんの工程があります。海津さんは、歯で糸を切る作業のある繰糸の仕事ははずれましたが、工程の多くを担当しました。「不器用な人はつらかったと思います」とふりかえります。休憩を含め早朝5時からと午後1時15分からの2交代8時間労働でした。

 仕事のあと、歌や演劇、フォークダンスを夜遅くまで楽しんだのは「懐かしい思い出」です。敷地内のブリュナ館には広い畳の部屋があって、そこが会場でした。

 ずっと工場敷地内の寮生活でした。「寮生同士けんかもしましたが、お風呂場で背中を流しっこしてそれで仲直りです」 よかったのは工場内に診療所があったこと。週1日ずつ、内科・外科の医師2人が交代で診察にあたりました。

 敷地内を歩きながら海津さんは思いだすようにいいました。「蚕のさなぎのにおいは強烈で、いまでもそのにおいがよみがえってくる」20歳で総寮長 海津さんの後輩にあたる浅川さんも同じく中卒で55年に入社し、61年まで6年間勤めました。産地ごとに調べた繭の糸の長さや太さに応じて、繭と繭の組み合わせを決める仕事に従事しました。

 そのかたわら浅川さんは男性従業員からよく「タツ子くるか」と声をかけられたといいます。繰糸場に行って湿度と温度を管理するためです。生糸の品質に影響するのです。「私は年少でもありますし、『はいっ』と言っていきました。床から天窓の開け閉めをするんです。男の人も怖がるほどで、女性でやったのは私ぐらいでしょうかね」と笑います。

 敷地内の片倉富岡学園(のちに片倉富岡高等学園)では、和裁、洋裁、生け花、国語、社会を学びました。楽しかったのはコーラスの活動。「『みずのわコーラス』というサークルをつくってみんなで歌いました。楽しかったですよ」と浅川さん。「みずのわ」は「水の輪」。石を落とすと広がる水の輪のように、コーラスの輪が広がるようにとの思いを込めました。

 20歳で総寮長に抜てきされました。年上の寮生からの風当たりが強く「つらくて東京に逃げ、会社もやめました」。

 今回の世界遺産登録について2人は口をそろえました。「誇りです」ブリュナ館 富岡製糸場建設のために明治政府が雇ったフランス人技師ポール・ブリュナが家族と暮らした住居。後に工女たちの寄宿舎や読み、書き、和裁を教える夜学校として、さらに片倉富岡高等学園の施設として利用されました。

◆◆(文化の扉)富岡製糸場 花見も買い物も、10代工女ライフ

14.09.15朝日新聞

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産の「富岡製糸場」(群馬県富岡市)。製糸場というと、劣悪な環境と長時間労働、とのイメージもありますが、富岡は違ったようです。

 いまでも色鮮やかな、れんがの建物。近代化に向けて走り出した明治の日本人の意気込みが宿っているかのようだ。ここ富岡製糸場は、1872年に設立された。

 19世紀後半、生糸の需要の高い欧州で蚕の病気が流行。日本産の生糸や蚕種(蚕の卵)が注目された。輸出が急増したものの、質の悪い生糸も出回り、政府は良質な生糸を生産しようと、官営製糸場の設立を検討。古くから養蚕が盛んで、広い土地も確保できる富岡を建設地に選んだ。

 生糸生産の「模範工場」と位置づけられた富岡には、外国の機械や指導者を入れて、日本の技術と最新の海外の技術を融合させ、良質の生糸の大量生産を実現した。また、最新技術を各地に伝えるため、若い女性が「伝習工女」として全国から集められた。

 1873年に信州(長野県)から富岡にやってきた和田英は、製糸場での暮らしを「富岡日記」として残した。初めて見た製糸場内には、金色に輝く真鍮(しんちゅう)の道具があり、脇目もふらずに仕事をしている工女たちがいて、「夢の如くに思いまして、何となく恐ろしいようにも感じました」と記した。

 明治維新で功績のあった長州(山口県)の出身者が優遇されていることに腹を立てたり、病気になった同郷の工女の看病もこなしたりしながらも、英は生糸づくりに励む。初期の富岡製糸場は、1日の労働時間は7時間45分で、週に1日は休みがあった。工女たちは、花見に出かけたり、給料で新しい着物を買ったりした。富岡製糸場総合研究センターの今井幹夫所長は「富岡日記に描かれているのは、今も昔も変わらない、10代の女性の生活です」と話す。

 一方で、製糸場の女性には過酷な環境で働かされるとのイメージがある。病気で工場を追い出され、故郷へ向かう途中で息絶えた女性など、製糸場で働いた女性たちの姿をまとめた「あゝ野麦峠」(山本茂実、1968年刊)。79年には映画化もされた。古典的な「女工哀史」(細井和喜蔵、25年刊)や、「日本の下層社会」(横山源之助、1899年刊)にも、厳しい労働環境におかれた製糸場の女性たちが描かれている。

 「模範工場」として、労働環境も模範を目指した富岡製糸場に対し、富岡以外では、過酷な労働を強いた製糸場があったのも事実のようだ。製糸場の歴史に詳しい研究者らによると、かつて製糸場で働いていた人たちに話を聞くと「働けてよかった」と語る人と、「本当に嫌なところだった」と振り返る人に分かれるのだという。

 今井さんは「それぞれの歴史を冷静にみることが大切」と言う。富岡製糸場の世界文化遺産登録を決めたユネスコの世界遺産委員会も、「女性労働者の労働と社会的境遇に関する知識の充実を図ること」を求めている。(藤井裕介)

 <読む> 和田英の「富岡日記」は、これまでにたびたび出版され、今年6月にはちくま文庫版が出た。富岡での日々のほか、製糸技術を地元に持ち帰って伝える「富岡後記」もつづられている。「富岡製糸場と絹産業遺産群」(今井幹夫編著、ベスト新書)は富岡製糸場の歴史や、一緒に世界文化遺産に登録された養蚕農家の田島弥平旧宅なども解説している。

 <訪ねる> 世界文化遺産登録後、入場者が急増。富岡製糸場によると、昨年度の入場者数は約31万人だったが、今年度は4~8月で55万人に達した。団体の見学は事前に予約が必要だが、今年度は既にほぼ埋まっているという。個人の見学は可能。担当者は「大勢の人に見てもらえるのはありがたいのですが、少し時間をおいて来ていただけたら。製糸場はずっと待っていますから」

今も変わらぬ向上心 俳優・風見章子さん

 群馬県富岡市出身で、市のふるさと大使にもなっています。製糸場で働いてきた人、世界文化遺産登録にしようと取り組んできた人など、大勢の人たちの長い間の積み重ねがあったからこそ、世界文化遺産に登録されたのだと思っています。

 私の家の近くでも、桑畑が広がっていました。桑の実を採って食べながら、家に帰った思い出があります。

 製糸場では10代の女性も頑張っていたということですが、私も家庭の事情で、15歳で女学校を辞めて上京しました。エノケン一座に入ったのですが、父が芸事が好きだったからで、それまで俳優になるなんて考えたこともありませんでした。

 俳優として成功するため、いつも稽古場には一番乗りで、練習をしていました。電車に乗っている時も、演技のことを考えていました。やるからには、まじめに取り組みます。負けず嫌いなんでしょうね。稽古もつらいと思ったことは一度もありません。93歳の今も、向上心は10代の頃と変わりません。

 私は、10代でいい仕事に出会えました。夫には、いろいろ苦労しましたが(笑)。

──────────────────────────

🔵「あゝ野麦峠」に描かれた「女工哀史」

────────────────────────────

★★山本茂実=「あゝ野麦峠」(短期間のみアップ)

(このPDFは、スマホの場合=画像クリック最初のページの上部の下向き矢印マークを強くクリック全ページ表示)

★映画=「あゝ野麦峠」から=3m×2

(1)http://m.youtube.com/watch?v=eEqpQVHwKjo

(2)http://m.youtube.com/watch?v=EnkTDjJ42UE

★野麦峠~みねの願い~5m

★ラジオ名作劇場=あゝ野麦峠58m (再)

★★映画=山本薩夫監督「あゝ野麦峠」

158m

PCの場合過剰広告少なくするために全画面表示で見て下さい)

 明治から大正初めにかけて飛騨から糸引き女工がこの峠を越えて信州の諏訪(すわ)の製糸工場に働きに出かけた。女工たちの峠越えを描いた山本茂実(しげみ)の小説『あゝ野麦峠』やその映画化で、有名となった。峠には五輪塔やお助け小屋があり、女工たちが泊まった宿が一軒残っていたが、松本市街地に移築保存された。山本茂実は、吹雪の中を危険な峠雪道を越え、また劣悪な環境の元で命を削りながら、当時の富国強兵の国策において有力な貿易品であった生糸の生産を支えた当時10代の女性工員たちの姿を伝えた。山本は10数年におよび飛騨・信州一円を取材し数百人の女工、工場関係者からの聞き取りを行ったという。

また山本薩夫は、「あゝ野麦峠」と「続あゝ野麦峠」の二つの映画を制作した。山本監督の「あゝ野麦峠」のDVD144月に発売されるそうだ。なにはともあれ嬉しいかぎりだ。

◆角川文庫・山本茂美「あゝ野麦峠」「続あゝ野麦峠」

【筆者=以下の唄は、山本氏が「あゝ野麦峠」の巻尾で紹介している「糸引き唄」「女工小唄」から引用したもの。それらは、細井和喜蔵の巻尾に紹介されている「女工哀史」に踏襲されている。戦前の全国の女工に広がっていった。「野麦女工」は、戦前の女子繊維労働者の原型となった】

工場は地獄で主任は鬼でまわる検番火の車 

かごの鳥より監獄よりも 寄宿住まいはなお辛い 

ここを脱け出る翼をほいしいや せめてむこうの陸(おか)までも 

野麦峠はダテには越さぬ 一つ身のため親のため 

うちが貧乏で十二の時に 売られてきましたこの工場 

よその会社は仏か神か うちの会社は鬼か蛇か 

飛騨の高山コジキの出場所 娘はキカイで血の涙 

工女工女と軽蔑するな 工女会社の千両箱 

男軍人女は女工 糸をひくのも国のため 

行こうか信州へ戻ろうか飛騨へ ここが思案の野麦峠

◆小学館・日本の歴史29=中村正則

◆あゝ野麦峠の解説

http://www6.plala.or.jp/ebisunosato/nomugi.htm

◆「あゝ野麦峠」の原作と映画の解説

(村田美津子の旅日記からhttp://www.geocities.jp/muratabijp/page018.html)

 飛騨と信州に跨る『野麦峠』は冬の間、人の往来を妨げ、人をまったく寄せ付けない最大の難所となっています。 「野麦」とは、この地方独特の呼び名で飢饉の時に不思議と花が咲き、実が成ったという(熊)笹のことです。 この野麦街道は、飛騨の高山から野麦峠を越えて、寄合渡(よりあいど)から、境峠を通り木曽の藪原に出たものですが、江戸時代中期には黒川渡(くろかわど)から入山峠を経て、梓川沿いに松本に至る道が開かれ、これも野麦街道と呼ばれるようになったと云われています。 江戸時代には、天領飛騨国代官所所在地であった高山と江戸を結ぶ幹線道路として公用に使われ、尾張藩からは「尾州岡船」の鑑札を受けた牛方等により、信濃から飛騨へ米・清酒などが、飛騨からは信濃の中南信地方の歳とり魚としての鰤(ぶり)等海産物や曲物(まげもの)などが運ばれた道でした。 明治4年(1871年)の廃藩置県では、飛騨国は筑摩(ちくま)県に編入され、県庁(松本市所在)と支庁(高山市)とを結ぶ連絡路として、また岡谷・諏訪と方の製糸業の盛んな頃は工女の往来する道となったのです。 このように、飛騨国と信濃国を結ぶ公用道路として、また文化や物資などが交流した道としても重要な街道だったようです。

 時は、明治36年2月、飛騨から野麦峠を越えて信州諏訪へ向かう百名以上もの少女達の集団がありました。 毎年、飛騨の寒村の少女達はわずかな契約金で長野県は岡谷の製糸工場(キカヤ)へ赴く。 岐阜県吉城郡河合村角川で生まれた「政井みね」、はな、きく、ときも新工(シンコ)として山安足立組で働くことになっていたです。 途中、ゆきという父無し子の無口な少女も一行に加わっり、明治日本の富国強兵のための外貨獲得はこのような工女のか細い手に委ねられていたと云います。 当時の日本と云えば、明治維新以後、富国強兵策の基で、外貨を稼いで軍備増強の元手を担ったのは「生糸」でした。 農家の養蚕によって作る繭を原料に、10代、20代のうら若き製糸工女の手によって、紡がれていたのです。 製糸業の中心は、長野県や群馬県でしたが、とりわけ信州諏訪地方に集中していたのです。

 工女達は周辺農村部から集められ、粗末な寄宿舎に寝起きし、ろくに休みもなく1日12時間以上の過酷な労働に従事していたと云います。

 「政井みね」も河合村角川から口減らしのために出稼ぎに出たのです。 初めて糸引きに出る子は「シンコ」と呼ばれ、小学校四年を終えたばかりの11~12歳。 雪が残る2月には、赤い腰巻きにワラジばき、背中に風呂敷包みを背負って、製糸工場のある長野県の岡谷に向かったのです。

その様子は、細井和喜蔵の『女工哀史』や山本茂実の『あゝ野麦峠』などの著作で多くの人々に感動を渦を巻き起こしました。 特に山本茂実の『あゝ野麦峠』は山本薩夫監督によって、1979年(昭和54年)に映画化され、大きな反響を呼びました。

 また、続編『あゝ野麦峠 新緑篇』も、1982年(昭和57年)に同じく山本薩夫監督によって映画化されています。

 この『あゝ野麦峠』は、昭和43年(1968年)、朝日新聞から出版された山本茂実著のルポルタ-ジュです。

【野麦峠を目指す工女達】

 明治から大正にかけて、飛騨地方の貧農の娘達は、まず、飛騨古川や高山の町に集まり、工場毎の集団になって、美女峠を越え、寺附(朝日村)又は中之宿(高根村)で1泊。 その後、難所の野麦峠(標高1672m)を越えて信州に入り、奈川村のどこかの集落の宿に泊まり、奈川渡を経て、島々(安曇村)又は波田(波田町)に泊まって、塩尻峠を越えて諏訪地方に入ったと云います。

 約3泊4日の行程であったこの旅は、1934年(昭和9年)に国鉄高山線が開通するまで続いたようです。

 話しは横道に反れました、再び「政井みね」の話しに戻します。

三年後「政井みね」は、一人前の工女になっていた。 取り出す糸は、細く一定で光沢がなければ輸出用にはならず、毎日の検査で外国向けにならない糸を出したものは、みんなの前で検番から罵倒され、一定基準に合格しない場合は当人の給金から罰金が差引かれたと云います。 

「とき」と「はな」は劣等組、「みね」と「ゆき」は、社長の藤吉から一目おかれるほどの優等工女で、跡取り息子の春夫もそんな二人に関心を抱いていたのです。

 大日本蚕糸会の総裁伏見宮殿下一行が足立組を訪れた日、劣等工女の「とき」が自殺。 やがて正月がやってくると各工女達は、一年間の給金を懐に家に帰るが、「ゆき」には帰る家がなかったのです。 一人ぼっちの正月の寂しさと、「みね」をライバル意識していたことから、「ゆき」は春夫に身を任せるのでした。

 ある日、金庫の金が紛失し、帳付けの新吉は藤吉に嫌疑をかけられます。新吉を慕う「きく」は見番頭に相談するが、小屋に連れ込まれて手籠めにされ、自暴自棄になった彼女は小屋に火を付け、新吉と共に天竜川に身を沈めてしまったのです。 旧盆で工場が休みになると、工女達は束の間の解放感に浸り、幾つかのロマンスが生まれました。 「はな」は、検番代理にまで昇格した工女達の唯一の理解者、音松とこの夜結ばれました。「ゆき」は春夫の子を宿していましたが、春夫には許婚者がおり、彼女は妾になるのを嫌い、春夫から去って、一人子供を育てようと野麦峠を彷徨っているうちに流産してしまいます。

 明治41年にはアメリカに不況が訪れ、この岡谷にもその不況が押し寄せ、生糸の輸出は止まってしまいました。倒産から逃れるには、国内向けの生糸を多く生産しなければならず、労働条件は日増しに悪化。

 そんな中、「みね」は肺結核で倒れました。こうなれば、病気の工女は使いものにならず藤吉は、「みね」を家族の元に帰すべく電報を打ったのです。「ミネビョウキスグヒキトレ」の電報の知らせを受けた兄の辰次郎は夜を徹してキカヤに駆けつけたのです。

 そして、辰次郎は物置小屋に放り出されて衰弱しきった「みね」を背板に乗せ、工場の裏門から出た。「みね」の病名は腹膜炎で重体。 幾日も兄の背にうずくまって峠の茶屋に辿り着いた。

この時の野麦峠は燃えるような美しい紅葉で覆われていたと云います。「みね」の前で、涙で霞む故郷が広がっていた。「あ~、飛騨が見える、飛騨が見える」と呟(つぶや)くように言ったきり、その場に力なく崩れた。 それは「百円工女」と云われた模範工女の最期だったのです。

 時に、明治42年11月20日午後2時「政井みね」享年22歳のことでした。

 山本薩夫監督の映画『あゝ野麦峠』では、「政井みね」を大竹しのぶ、「政井辰次郎」を地井武男、そして野麦峠の「お助け茶屋の老婆」には北林谷栄が好演して感動の渦を巻き起こしたましたが、『あゝ野麦峠』著の山本茂実氏は、大正6年(1917年)長野県松本市生まれ、早稲田大学文学部卒業。 若者向け雑誌「葦」を創刊。編集長を勤めながら『あゝ野麦峠』の他『喜作新道』『高山祭』など庶民の歴史を数多く描いています。 しかし、平成10年(1998年)81歳で没。 

 山本茂実氏の『あゝ野麦峠』は、この峠を越えた飛騨の糸引きたちの証言を基に、明治時代を写した「記録文学」と云われています。乗鞍岳を望む北斜面の峠道は、堅い氷が刃をむく。 飛騨に戻る12月は4~5mもの雪で埋まると云われ、吹雪の中を紐で体を繋(つな)ぎ、念仏を唱えながら一列で歩く。 雪と氷の峠を越える百数十㎞、文字通りの命がけの道程だったと云われています。

 その「野麦峠」は、標高1627mの北アルプス有数の峠で、現在も冬場は深い雪に沈みます。

 ここで、若干その峠の様子を更に山本茂実氏の『あゝ野麦峠』の原作を引用して紹介します。

『しかし雪道の前進はなかなかはかどらなかった。 いくら川浦の男衆でも腰まである前夜からの積雪を足でけちらして進むのでは、そうはかどるはずはなかった。 そうかといって行列の先頭に足の弱い者を立てるわけにはいかない。 先頭は元気の者が選ばれて、川浦衆と一緒に工女は雪を踏み、第一番に行く人の足跡を第二番手がまた踏み、その上をさらに元気な工女たちが続く。 こうして三百人、五百人と踏んではじめてそこに道ができる。 吹雪がひときわ激しくタイマツを襲って、幾つかを吹き消して通り過ぎた。 もうだれも一言も発する者はなかった。 吹雪はタイマツと共に工女衆の歌声も吹き消してしまったのである。 ビュ-ッ、ビュ-ッと、鋭い刃のように吹雪が梢を通り過ぎる音が聞こえるだけだった。………

【復元:川浦工女宿(野麦峠から信州側に下った在所に設置)。受難女工慰霊碑】

 この雪深い野麦峠を越えたて行った工女達が働く場所も過酷なものでした。 親と雇い主の間で交わされた証文を盾に、一日16時間も働くことを強いられ、病死、自殺に追いやられた工女も少なくなかったと云われていますが、八ケ岳に初雪を見る頃になると工女達は元気になる。 それは、暮れの帰る日が近づいて来たからです。 現在、峠の道は、県道が開通して歴史街道になっており、頂上には「お助け小屋」が復元されています。 峠道を歩くと地蔵菩薩に出会うことが出来、ここを通った工女達が何度も手を合わせたに違いありません。 更に、峠の頂上には「政井みねの供養碑」が建てられており、その供養碑から飛騨側に少し下って行くと飛騨の山々が重なって見えます。

 また山峡に光る屋根・屋根は野麦の集落で、ふるさと飛騨との別れと再会の場でもあったのでしょうか。 この山頂からは遠く乗鞍岳の他、木曽の御岳山が見えると云われています。

◆『あゝ野麦峠』(山本茂美著)の感想

以下Histoire日誌からそのまま

http://ehatov1896-rekishi.doorblog.jp/tag/あゝ野麦峠

明治・大正というと華やかなイメージがありますが、その一方で犠牲になった人も大勢いたという事がこの『あゝ野麦峠』でもよくわかります。今日から3回にわたって諏訪湖の女工さんのお話をしたいと思います。

第一回は女工さん達の暮らしぶりや労働内容について。

1 必死に働いた女工達

 今は廃れてしまいましたが、明治・大正時代の日本の主要産業は紡績業と製糸業でした。とりわけ日本の生糸(蚕の糸)は海外でも非常に評価されました。まさに日本の近代化に大きく貢献したのですが、その製糸工場では沢山の女工さんが働いていました。(なんと13歳くらいの少女も!)

どんな仕事かというと、蚕から糸を取り出すという細かくて大変な仕事でした。

釜のなかは180度の熱湯で、室内温度は華氏80度(27度くらい。)を余裕で越えていたそうです。今みたいに冷房もなかったところで朝から晩まで働いていたのです。しかも周囲はさなぎの悪臭も漂っていたそうです。それで女工さんが具合が悪いから休ませてくれといえば、検番(現場監督)にビンタを食らうばかりで、休ませてくれません。無理が祟って結核だとか色々と病気にかかってしまった女工達も少なくなかったそうです・・・

2 逃げ場のない女工さん達

 製糸工場は今風に言えばブラック企業そのものでした。今みたいに社会保障も労働三権もなかった時代だし、女工さん達には、婚活や起業、転職などの選択肢がある筈もありません。当時の女工さん達は口減らしのためだとか、貧しい実家の家計を助ける為だとか、諸事情があってやめるにやめられない状況だったのです・・・

女工さんの出身地は飛騨が多かったのですが、当時の飛騨はこれといった産業もない貧しいところでした。だから、女工さんが工場から持ち帰る給料を当てにしていました。

だから、女工さんが仮に飛騨まで逃げ帰ったとしても「根性がない」と言われ、白い目で見られるのが関の山。また、口減らしのために娘を工場へやった家族にとって、娘が突然帰ってくるのは非常に困るのです。

3 湖に身を投げた女工達

 工場で検番にどやされるのも地獄、逃げるのも地獄。そんな追い詰められた女工さん達は湖や川に身を投げたそうです。彼女達は着物の袂に石をいくつも入れました。自分の死体が浮かび上がらない為に。

「カラスの鳴かない日はあっても、女工が諏訪湖に飛び込まない日がない」といわれるほど、自殺者が多かったのです・・・

時々、諏訪湖や川から女工さんの水死体が浮かび上がる事も、川沿いにある工場の水車に水死体が引っかかることもあったそうです。

その女工さんの水死体を火葬するのですが、早く焼く為に水死体をなんとに三人で竹やりで腹の辺りを何度も突っ突いて水気をだして、それから火葬したそうです。死体をさらに竹やりで突くなんて酷い話です

4 諏訪湖の女工哀史 その2(野麦峠で亡くなった女工達)

製糸工場は正月になると休みになります。女工さん達は故郷に帰れるとウキウキするのですが、しかし信濃の冬の厳しさは相当なもの。特に飛騨出身の女工さん達は野麦峠という険しい峠を越えなくてはなりません。

ぴゅーぴゅーと刃の様な鋭い凍った風、そこを歩いた人間がたちまち雪だるまになるほどの激しい雪。あたりは猛吹雪で視界が悪い。壮絶な風景です。

明治時代はパンツもなかったから、女工さん達の腰巻きのすそは凍ってガラスの破片のようになり、女のモモは切れて血が流れ、ワラジをいくら取り替えてもたびは凍り、足は凍傷にふくれ、宿についてもすぐ火にあたることはできなかったそうです。

凍死する女工さんも、雪の谷底に落ちる女工さんだっていました。また、妊娠している女工さんは寒さのあまりに流産してしまったとか・・・

一応運び屋と呼ばれる男性(体が弱い女工さんを負ぶったりする男性)やお助け茶屋などの休息所や宿屋も峠にあったのですが、それでも女工さん達には冬の峠越えは厳しい。

ましてや外灯も舗装道路もなかった時代だから尚更大変でした。

政井みねという女工さんは「ああ飛騨が見える」と言って、兄におんぶをされたまま、この峠で亡くなったそうです・・・

いま野麦峠には、「冬の野麦峠を歩いた女工達の事を忘れないでおくれ」と現代の私達に語りかけるように、政井みねの像が建っています。

5 女工の間でも勝ち組、負け組が・・・

 製糸の作業は細かい作業なので向き不向きも当然ありました。今の日本と同じく、明治・大正当時の女工の間でも勝ち組、負け組がいたみたいです。

器用で糸引きが向いていた女工さんは仕事でさほど苦労することなく、沢山給料ももらえた上に、表彰までされました。なかには田んぼや家を買った女工もいるというからすごいですよね。30年ローン組んで家を買った人から見ればなんとも羨ましい限りの話です。

しかも優秀な女工さんはアチコチの工場で引く手あまただったそうです。

一方、気の毒なのは糸引きが向いていない人。不器用で仕事も失敗ばかり。だから検番から年中どやされました。しかも失敗をすれば罰金として給料からひかれてしまい、年末には財布もスッカラカンで故郷に帰れなかった女工さんもいたとか。

それから、いくら器用な女工さんでも体が弱い人は、無理が祟ってそのまま死んでしまったそうです・・・

────────────────────────────

🔵「女工哀史」と細井和喜蔵

────────────────────────────

◆◆細井和喜蔵『女工哀史』のあらまし

小学館(百科)

近代日本の経済発展を担った大機械制工場下の紡績業・織布業の「女工」(女子労働者)の実態を描いた記録。

細井和喜蔵(ほそいわきぞう)著。1925年(大正147月改造社刊。1916年の工場法施行後も紡績業などでは深夜業がなくならず、「女工」の多くは過酷な労働条件、自由を拘束される寄宿舎生活のもとに置かれていた。本書はヒューマンな眼(め)で、「女工」募集法、雇傭(こよう)契約制度、労働条件、虐使、寄宿舎生活、「福利増進施設」などの実態と、「女工」の心理や病理を精緻(せいち)に描き(「女工小唄(こうた)」も採譜収録)、あわせて工場の組織と経営実態についても鋭いメスを加えている。文献資料とともに著者自身の職工体験、寄宿舎生活を送った妻、堀(現姓高井)としをの体験などをもとに書かれた。初版刊行後たちまち版を重ね、深夜業廃止および20年代後半の紡織労働運動発展の礎(いしずえ)となり、その印税は労働者解放の資にされた。古典的文献として今日も読み継がれている。

[阿部恒久] 

◆細井和喜蔵わきぞう

1897-1925 

大正時代のプロレタリア作家。明治3059日京都府与謝(よさ)郡加悦(かや)町(現与謝野(よさの)町)に生まれる。早く両親を失い、尋常小学校5年にして織屋の小僧となり、以後関西各地の織物・紡績工場などで働き、やがて労働運動に参加。1920年(大正9)上京、東京モスリン亀戸(かめいど)工場に入り、翌年の争議で活躍したが、組合幹部との対立などから退職。

同工場で知り合い結婚した堀(現姓高井)としをに生計を支えられながら、プロレタリア文学の創作に着手、『種蒔(たねま)く人』などに発表した。23年より自身と妻の体験をもとに「女工」の人間的復権を目ざして『女工哀史』を執筆し始め、25年(大正147月改造社より出版したが、直後の818日病没した。

[阿部恒久] 

◆近代デジタルライブラリー女工哀史

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021433

◆近代デジタルライブラリー工場 細井和喜蔵 (改造社, 1925)

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/987571

◆近代デジタルライブラリー工場鉱山結核予防読本 図書 (衛生講話資料) / (産業福利協会, 1930) 

目次:寄宿舍女工の結核調表 

目次:紡績女工の結核患者就業年月 

目次:(十一) 工場附屬寄宿舍規則 

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094147

◆「細井和喜蔵を顕彰する会」のホーム・ページ

http://www5.ocn.ne.jp/~wakizou/

◆◆細井和喜蔵と『女工哀史』(犬丸義一・中村新太郎『日本労働運動史』㊤明治・大正)から

(鉛筆の芯でひざをつつきながら、日本労働学校の講義を聞いた繊維労働者、細井和喜蔵の真摯な姿には、頭が下がる)

◆細井和喜蔵『女工哀史』のあらまし=高木郁朗(初版は1925年、改造社刊)岩波文庫

1980年7月改訂版。

I.本書の目的

 紡績産業は人類の生活を支える基本的な財であり、また当時の日本資本主義にとってもっとも重要な産業であった。しかし「女工」とよばれて、そのなかで働いている女性労働者は(実は男性労働者も)、労働の現場においてきわめて悲惨な状況におかれていた。本書は、筆者自身の体験と、現場を巡り歩いて収集した事実を記録することによって、その非人間的な状況を社会に向って告発することを目的としている。

II.本書の内容

第1 その梗概; 紡績と織物を含む紡織産業はいまや世界的な地位を得ている。その分野の推定労働者数は200万人以上で、そのうちの約80%は女子労働者(女工)である。

第2 工場組織と従業員の階級; .紡織企業の生産過程には50から70の異なった職種がある。また社員・職工が軍隊のように階級化されており、その間の差別は著しい。

第3 女工募集の裏表; 紡職女工不足の時代に入り、よけいに女性労働者を「拘束」しようとする傾向が強まった。企業は多額の募集費をかけて、直接、あるいは募集人を通じて、全国から募集するが、ここでは多くのウソ・甘言がまかりとおる。とくに募集人の場合には、誘拐同然の手口で工場に送り込み、さらにいくつかの工場を転々とさせてその度に企業から周旋料をとるケースもある。

第4 雇傭契約制度; 雇用契約においては「事業の都合などにより解雇されても異議を申し立てない」といった誓約書をいれるなど、会社側による一方的な内容が多い。

第5 労働条件; 工場法施行後、労働時間は1日あたり紡績11時間、織布12時間が標準となっているが、実質的には強制的な残業もあり、故郷の家に送金の義務をもつ女性労働者たちは自分の健康をも省みず、進んで残業をしてしまう。賃金は複雑な制度になっているが、女性労働者は基本的には受負(出来高)給であるが、日給の場合もある。「給品制度」の名のもとに賃金の一部が工場の製品で支給される場合もある。

第6 工場における女工の虐使; 紡織産業発展の第1期には上司による暴力などの懲罰制度や賃金をゼロにしてしまうような罰金制度があったが、第2期には「能率増進」の名のもとに、個人対個人、部対部、工場対工場の三重に推進される労働者間の競争が女性労働者を苦しめる。このため、トイレへ行く時間も制約される。

第7 彼女を縛る二重の桎梏; 女性労働者には、寄宿女工と通勤女工があるが、寄宿女工の場合には、工場のなかで厳しい労働に服すほか、寄宿舎に帰っても、外出の制限、食物・書籍・衣服・髪型などへの干渉、手紙の開封や没収、強制預金などきびしい桎梏がある。

第8 労働者の住居および生活; 寄宿舎は逃亡防止の城郭で、いぜんよりは改善されたが、占有面積は112畳みで、1部屋に多人数を収容している。主食は外米または最下級の国産米に麦などをまぜたもので、おかずは普通家庭の3分の1程度である。

第9 工場設備および作業状態; 湿気と騒音が多い作業場で、標準動作が設定されている。

10 いわゆる福利増進施設; 大工場では病院または医局、保育場または幼稚園、保険・金融にかかわる会社扶助などがある。保育場があっても15分で授乳しなければならない。

11 病人、死者の惨虐; 地震、家事、流行病などの災害では多くの犠牲者がでる。

12 通勤工; きわめて劣悪な「指定下宿」がある。

13 工場管理、監督、風儀; 工場と警察署は結託して女性労働者に非人間的な取り扱いをする場合がある。工場内では上司の暴力が是認されており、性的暴力も多い。

14 職工の教育問題; 紡織業では男女ともに教育程度が低い。

15 低賃金のため外部の娯楽に接触できない労働者むけの各種のイベントが組織される。

16 女工の心理; 働くことがあたりまえになり結婚後も共働きが多い。親元への送金の比率が高く、親のために働くという意識をもっている。女性間に嫉妬や争いがある。

17 生理ならびに病理的諸現象;女性労働者の結核は職業病で、高い死亡率の原因である。消化器病などが多く、また乳児死亡率も高い。心の病も多い。

18 紡織工の思想; 団結心などは弱く、容易に労働組合はつくれない。

19 結び; 紡織労働者の悲惨な状況を変えるためには必要な労働を全員でおこなうという「義務労働」が必要である。

付録 女工小唄; 「籠の鳥より監獄よりも寄宿ずまいはなおつらい」「工場は地獄よ主任が鬼で廻る運転火の車」などを収録。

III.読むうえでのポイント

  本書は、まさに現場主義の立場にたって資本主義の害悪の側面を紡績女工をつうじてみごとに告発している。ここで描かれる資本主義は、原始的な時期のものではなく、すでに工場法が制定され、労働組合できている時期のものであることに留意する必要がある。その労働者の惨状の一部は姿はかわっても現在にも通ずる。ただ、「最小限度を示した工場法の規定も、労働組合が活動して職工自身厳重な監督機関とならざる限りは到底実行を期し難い」など、労働組合や工場委員会(従業員代表制度)の記述はあるが、問題の解決策はなお読者や後世に委ねられているといってよい。

IV.著者について

  細井和喜蔵は1897年京都府の生れ。幼くして両親と死別し、13歳から自活し、大阪・東京の紡績工場で働いたが、初期労働組合にも参加したため、工場からブラックリストをまわされたりもした。上京後は直接的な運動からは離脱し、文学に興味をもっていたこともあり、体験にもとづくルポルタージュをまとめあげた。本書の初版刊行1カ月後の19258月に急性腹膜炎で死去。死後、自伝的小説『奴隷』『工場』の2冊も刊行された。

◆◆書評・『女工哀史』(赤旗15.10.04

◆◆細井和喜蔵が紹介した女工小唄

籠の鳥より監獄よりも 寄宿住いはなお辛い

工場は地獄よ主任が鬼で 廻る運転火の車

糸は切れ役わしゃつなぎ役、そばの部長さんにらみ役

偉そうにするな お前もわしも、同じ会社の金もらう

偉そうにする主任じゃとても、もとは桝目のくそ男工

会社勤めは監獄勤め、金の鎖がないばかり

男工何する 機械の蔭で、破れたシャツの虱(しらみ)取る

うれし涙を茶碗に受けて、親に酒だと飲ませたい

いつも工場長の話を聴けば、貯金貯金と時計のようだ

うちが貧乏で十二の時に、売られてきましたこの会社

此処を脱けだす翼がほしや せめてむこうの陸までも

嬉し涙を茶碗にうけて 親に酒だと飲ませたい

寄宿流れて 工場が焼けて 門番コレラで死ねばよい

▼早く年明け 二親さまに つらい工場の 物語り

🔷🔷細井和喜蔵の妻・高井としをが描いた「女工哀史」と生き方

🔷🔷高井としを=『私の女工哀史』

◆高井としを=私の「女工哀史」

細井和喜蔵には「高井としを」という妻がいた。結婚は細井25歳、高井としを20歳の時だから、結婚生活はわずか3年である。高井としをも貧しい家に生まれ、満126ヶ月で紡績会社へ働きに出た。岐阜県の炭焼工夫の娘として生まれ、小学校にも行っていない(識字教育は自分で)この女性、としをは、実は『女工哀史』の共同筆者ともいえる人物です。もうひとりの筆者は、わずか三年の結婚生活ののち、自らも東洋モスリンなどで働いて、病む身となって死んで行った細井和喜蔵です。

彼女も例にもれず『女工哀史』そのままの労働を強いられるが、17歳の時「一枚のビラ」(吉野作造の文章が記載)によって目ざめ、東京に出て亀戸の東京モスリン工場に就職、近くの図書館にかよって猛勉強を続ける。19歳ではじめての工場ストライキを経験し、この時大衆の前で発言したのをきっかけに労働組合の活動家に成長する。めったにない休日に「寄宿舎」を出て大日本友愛会という組織がバラまいたビラを見たとき、全国80万余の女工に対して「生きる道」「人間の道」を教えたのである。このビラの文章を書いたのは、吉野作造。「人はだれでも、その人だけの個性を持っている・・・それを生かせ。生かすために団結せよ」と。

ともかく、としをは、やさしい文字で大きく書かれているビラを読んで、胸の底までゆさぶられ、親が急病とウソを言って工場(寄宿舎)をはなれ、衣服からぞうりまで売ってカネに替え(汽車賃には不足だったか)、東京に出てきた。亀戸のモスリン工場に自ら再び職工として入ると、今までとは全くちがう生き生きとして女工となって、以前には「見るもおそろしい」はずであった工場主や監督を驚かせる働きぶり。週一度の休日をあてがわれる身となり、休日は友人づくりと図書館通いに。

 そして。1921年(私の生まれた年)、東京モスリン工場での初めての女工ストライキ。その日、彼女は、人々の前で大演説をしたのです。堀としをは、ふるえながら寄宿舎内の大広間の演だんにのぼっていく。

「みなさん私たち女工も日本人です。田舎のお父さんやお母さんのつくった内地米をたべたいと思いませんか。たとえメザシ一匹でも、サケの一切でもたべたいと思いませんか。街の人たちは、私たち女工のことを「ブタ」だ「ブタ」だといゝますが、なぜでしょう。それは「ブタ」以下の物をたべ、夜業の上がりの日曜日は、半分居眠りしながら外出して、のろのろ歩いているので「ブタ」のようだというのです。私たち女工も日本人の若い娘です。人間らしい物をたべて、人間らしく、若い娘らしくなりたいと思いますので食事の改善を要求いたしましょう」 

十八才の彼女の話は、全員の大拍手でむかえられた。大拍手に続いたのは、三日目からの「女工の食事」改善。いなりずしや鮭が、内地白米を半分まぜた「くさくない」米のおかずとして出されはじめた(朝鮮系女工は区別された)。八時間労働は会社によって拒否はされたけれど。労働運動とか、男女合同しての労働組合とかのアイディアはまだなかったけれど、「友達をつくって、団結して」の吉野作蔵のことばは彼女の胸に刻まれて、やがて全国の労働組合形成にまでつながって行ったのです。

 和喜蔵と彼女の生活は、彼女が工場にでて働き、和喜蔵は原稿を書くという毎日だった。彼女は語っている。

「細井は決して寄生していたのと違います。双方、了解の上で、片方は原稿書くし、片方は生活費を稼ぐ。夫婦の相対的なそれこそ生活なのです。細井は子どものときに早く両親に別れ、身体が非常に弱かった。だけど非常に誠実で辛抱強い人でした。あんまり言うたらいかんけど、男性的な魅力のある人ではなかった。ただ辛抱強く一つのことに熱中して仕事をするし、その前向きの正しい思想が魅力でした」

 こんにち通説として『女工哀史』は細井和喜蔵と高井としをの共作とされているそうだが、長い間、彼女は正当な評価を得ていなかったらしい。彼女の晩年(1975)に聞き取りをした中村政則は『労働者と農民〜日本近代を支えた人々』(小学館ライブラリー)で書いている。

「彼女は和喜蔵との死別後、労農党の労働組合活動家であった高井信太郎と再婚して、関西に移り住んだ。だが、夫の信太郎は何度も獄に入れられ、二人の生活は苦労の連続であった。高井家には、つねに特高の目が光っていた。彼女は、「高井は、別荘のほうが長かった」といって、笑っていたが、怒りと涙で過ごした日々もあったことだろう。

 その信太郎も、空襲による火傷が原因で、昭和21年(1946)に死んだ。以後、彼女は「ニコヨン」(日雇い労働者)をしながら五人の子どもをかかえて、夢中で生きてきた。昭和265月には伊丹で全日本自由労働組合をつくり、初代委員長となり、三年間つとめた。多いときは、1200人も組織したこともある。それ以後も休むことなく、日雇い健保の制度化、教科書無償化闘争、福祉の闘いの先頭にたって、世の母のため、子のために日夜励んでいる」。

 細井和喜蔵没後五十周年に際して書いた彼女の詩を掲げておく。

 「女工哀史」後五十年!

 ああ 細井よ、あなたが死んで

 とうとう五十年目

 私は七十二歳のおばあちゃんになった

 よくも生きたと思います

 あなたが死んで

 悪妻の 代表のように云われ

 この世の中が いやになったり

 酒を飲んだり 男友たちとあそんだり

 旧憲法では 相続権もなかった私

 でも 私は ちゃんと相続できたのよ

 それは あなたの考え方

 それは あなたのしんぼう強さ

 おまけについてた 貧乏神

 みんな みんな もらったよ

 そして 七十二歳の今日 このごろ

 やっぱり 貧乏で 幸せで

 若い人と一緒に 話し合ったり

 学習したり

 へんなばあさんになりました

 あなたが死んで

 細井から高井姓にかわった私は

 細井家とは何の関係もないと思っている人 

たちに

 思い知らせてやりたい

 財産とは 金や物だけではないことを

 その考え方や 生き方を

 いつまでも いつまでも 守り抜くのが

 本当の相続人だと

 解らせてあげたい

 親も 子もない 兄弟もなかった

 どん底貧乏の和喜蔵は

 何も 残さなくても

 『女工哀史』とともに

 いつまでも いつまでも 生きている

 その心を そのがんばりを

 私は みんな みんな もらっている

 そして 若い人に受けついでもらう

 私は 七十二歳でも

 若い友人が 多勢いる

 そして 『女工哀史』をテキストに

 学習会も行ないます

 貧乏なんて 何でもない

 貧乏で 幸せな ばあさんの一人言

       (197410月)

────────────────────────

🔵日本最初のストライキは甲府の女工たち

────────────────────────

◆◆米田佐代子=明治19年の甲府製糸女工の争議

(このPDFは、スマホの場合=画像クリック最初のページの上部の下向き矢印マークを強くクリック全ページ表示)

◆◆日本最初のストライキは甲府の製糸女工

(谷川巌『日本労働運動史』より)

 日本最初のストライキは、山梨県の甲府の製糸女子労働者によって行われました。1876年に中澤喜八が経営する生糸製作所です。

同じ甲府の雨宮製糸のストは有名です。1885(明治18)年、山梨県甲府の製糸女子労働者(当時女工、工女といった)によって行われましたが、翌86年には、甲府雨宮製糸の女子労働者たち百余名が6月14日、近くの寺にたてこもってストライキに立ち上がりました。それは、県下の製糸業者が同業組合をつくり、「工女取り締まり規約」を定めて、実働14時間をさらに40分のばし、これまで「上等」で1日32.3銭であった賃金を22.3銭に切り下げようとしたのにたいして、がまんができなくなったためでした。

 「すこし遅刻しても同盟のきびしい規制でようしゃなく賃金を引き下げられ、長糞、長小便は申すにおよばず、水いっぱいさえ飲むすきのないのに、工女たちは腹をたて、雇い主が同盟規約という酷な規制をもうけ、わたしらを苦しめるなら、わたしらも同盟しなければ不利益になり、優勝劣敗今日において、かかることに躊躇すべからず。先んずれば人を制し、おくるれば人に制せらる。おもうに、どこの工女にも苦情あらんが、苦情の先鞭はここの紡績工場よりはじめん、といいしものあるやいなや、お竹、お松、お虎のめんめん、ひびきの声に応ずるごとく」といっせいに職場をひきあげて、近くの寺にたてこもったと『山梨県労働運動史』はのべています。 

 会社はびっくりして、「首謀者」と話し合った結果、6月16日には、出勤時間を1時間ゆるめる、その他優遇策を考える、ということで争議は解決しました。この雨宮製糸のストライキは、同じようなひどい規制で苦しめられていた他の製糸工場へとひろがっていきました。

────────────────────────

🔵1927年山一林組争議

────────────────────────

★★山本茂実=「あゝ野麦峠」のなかの「山一林組争議」

(このPDFは、スマホの場合=画像クリック最初のページの上部の下向き矢印マークを強くクリック全ページ表示)

◆◆1300名の女工の決起と全面敗北

(「労働相談・労働組合日記」から)

昭和2年(1927年)828日信州岡谷の大製糸会社「山一林組」で、日本で最初の大規模な製糸女工のストライキ「山一争議」が起きた。

28日朝6時 6名の代表が林社長に嘆願書提出

要求内容

労働組合加入の自由を認めよ

組合加入を理由とする不当転勤、降格の禁止

組合員ゆえの解雇をするな

組合員に問題がある時は組合役員に連絡を!組合役員が責任をもって導く。

食事・衛生の改善

福利厚生の施設を与えよ

賃金の改善

林社長「外の人間(労働組合)に干渉される必要はない」と拒絶。

正午、組合、ビラ「同志のために」を自動車で岡谷周辺住民に一斉に配布し、薪炭店を借りて「争議団本部」の看板を掲げる。 

午後7時、岡谷クラブで決起集会(千数百名参加)。

20数名の女工らが次々に壇上に立ち、工場側の虐待と不正をあげ、労働者は団結せよと熱弁をふるった。

「私たちは身売りされた奴隷ではない!!

「私たちは日本産業を担う誇り高き労働者である」

「募集時の契約通りの賃金を支払ってください」

「私たちはブタではない。人間の食べ物を与えてください」

そして最後に立った17歳の女工山本きみが「この最低限の嘆願書を受け入れてくれるまでは、私たちは死んでも引き下がりません」と涙を浮かべて絶叫した時、千数百名の男工女工はみんな泣いて、つもりつもった怒りを爆発させたのである。

岡谷の町に繰り出したデモの労働歌は町々に響き渡った。

搾取のもとに姉は逝き 地下にて呪う声を聞く 

いたわし父母は貧に泣く この不合理は何たるぞ

かくまで我は働けど 製糸はなおも虐げぬ

悲しみ多く女子(おなみご)や されどわれらに正義あり

[会社側]

製紙業界経営者全体がふるえ上がる。もし山一で女工が勝利したら、おそらくすべての工場で女工は一斉に蜂起するに違いないと。

製紙業界の決議「一致団結して山一を絶対に勝たせる」「山一の争議女工を一切雇用しない」。

会社側の団体交渉拒否の声明書

「団体交渉権の確立は会社の管理権を失うことで、これは製糸業の経営を不可能ならしめ、ひいては日本産業の基礎を危殆(きたい)におちいらしむるもので、国民として許すべからざるものである」

山一林社長は大量なゴロツキと警察官を動員して総力をあげて、組合攻撃。

田舎の父母へ卑劣な手紙。

会社のビラやポスター。「一部の扇動者に騙されるな」「犬も3日養えば主の恩を忘れじ」「破壊は易く、建設はむずかし」「働け稼げ、不平不満は身を滅ぼす」。

「争議団が爆弾を投げる」とデマをばらまく

動揺させた田舎の親を大挙動員。娘を力づくで無理やり連れ帰る親たち。それを阻止しようとする女工労組との必死な攻防。

糧道攻め。警察・ゴロツキ・在郷軍人・町の右翼青年団が、竹ぶすまで炊事場、食堂、寄宿舎を占拠・ロックアウトで1000名全員を工場の外へたたき出す。雨中でふくろだたきにあう女工。多くの労組幹部は逮捕(60名)。

この時の信濃毎日新聞記事。

「白昼公然、少なくもわれら長野県において同胞の子にむかって飢餓のいたるをもっておびやかす工場主の存在するを――実に長野県の大なる恥辱でなくて何であろう。あえて問う、岡谷に人道はありや、なしや」

全国から大量の食糧の差し入れ、支援が届けられた。

しかし、917日。21日間、激烈に闘い抜いた争議団は、ついに解散を決めた。全面敗北だった。

最後まで「母の家」に残り、争議団解散を宣言した47名の女工たちの最後のビラ。

「ついに一時休戦のやむなきにいたりました。・・・・・しかしながら私どもは屈しませぬ。いかに権力や金力が偉大でありましても、私どもは労働者の人格権を確立するまではたゆまず戦いを続けます。私どもは絶望しませぬ。最後の勝利を信ずるがゆえであります。終わりに私どもを激励し援助下さった多くの人々に対し厚く感謝します。」

たたかいの唄も(志村建世のブログより) 

女工小唄は、哀調を帯びた民謡系の恨み節だったが、昭和2年の山一林組争議では、「立てよ日本の女工」が歌われた。「日本の革命歌」(西尾治郎平・矢沢保編一声社1974年)によると、メロディーはメーデー歌(聞け万国の労働者……)と同じだった。歌詞は製糸労働組合が作り、デモ行進で歌ったとされている。

 搾取のもとに姉は逝き 地下にて呪う声を聞く

 いたわし父母は貧に泣く この不合理は何なるぞ

かくまでわれら働けど 製糸はなおも虐げぬ

 悲しみ多き乙女子や されどもわれらに正義あり

苦しきときは組合の 人と語りて胸晴らす

組合こそは味方なれ 組合こそは母なれや

しかし同時にこんな「労働者の歌」もあって、こちらは「船頭小唄」(おれは川原の枯れすすき……)のメロディーデ歌われたそうだ。

 オレは非道の紡績で お前は涙の林組

 朝の五時から暮れるまで こき使われる労働者

労働者とてねえお前 この安月給じゃ暮らせない

 栄養不良と寝不足で 肺は虫ばみ目はくらむ

どうせオレらの一生は 枯れたすすきで暮らそうと

 後の子供の世のために 力合わせて戦おうよ

このころの労働歌には、当時の流行歌のメロディーを借りたものが多かった。「美しき天然」(空にさえずる鳥の声……)も、強欲不遜の資本家を攻撃する歌になっている。

 岡谷の争議は、従業員の大半を占める千名以上が参加して「私たちの組合を認めて下さい」と嘆願したのだが、会社は「団体交渉権を認めたら産業が崩壊する」として、町ぐるみで徹底的な弾圧に出た。寄宿舎や食堂が閉鎖されて追い出された組合員は、わずかにキリスト教会などに救済された。

「山一争議」がついに労働者の大敗北に終ったその翌日の信濃毎日新聞の記事は「労働争議の教訓」として次のように論じます。

「女工たちは、繭よりも、繰糸枠よりも、そして彼らの手から繰り出される美しい糸よりも、自分達の方がはるかに尊い存在であることを知った。彼らは人間生活への道を、製糸家(資本家)よりも一歩先に踏み出した。先んずるものの道の険しきがゆえに、山一林組の女工たちは、製糸家との悪戦苦闘ののち、ひとまず敗れたとはいえ、人間の道がなお燦然たる光を失わない限り、しりぞいた女工たちは、永久に眠ることをしないだろう」「実に長野県の大なる恥辱でなくて何であろう。あえて問う、岡谷に人道はありや、なしや」と書いた。

───────────────────────

🔵鐘紡争議

───────────────────────

1930(昭和5)籠城闘争・ストライキが先行した鐘紡争議

(「労働相談と労働組合日記」より)

19291024日暗黒の木曜日から不況のどん底に落ち込んだ世界資本主義社会。賃下げ、解雇の嵐が吹き荒れた。これに抵抗する労働者は全国的に立ち上がり、果敢なストライキを繰り広げた。横浜ドックでは賃上げ、最低賃金の決定、退職手当の増額を要求し全労働者が10日間のストライキに決起し臨時工の一部社員化も含め勝利した。

東京交通労働組合が結成された。125日人件費の削減に反対して抜き打ちストライキに突入。一旦は勝利的解決を勝ち取ったが当局の巻き返しに420日ふたたび全面ストライキに突入。6日間闘いぬいたが敗北した。

1930年に入るとますます失業者は増大し250万人に及んだ。労働争議が激増する。30年には2289件、191805人が争議件数と参加者数だ。その多くが、「賃下げ反対、解雇反対」という切羽詰まった理由からだ。2500名の「東洋モスリン」大争議や鐘ヶ淵紡績(鐘紡)が有名だ。

全国で36工場。労働者36千人の日本最大の紡績会社。欺瞞的な「家族主義」「温情主義」をとなえ争議ゼロを誇っていた鐘紡。しかし、45日、世界恐慌を理由とした23.6%もの大幅賃金切り下げを発表した。

籠城闘争・ストライキが先行した鐘紡争議

49日大阪淀川工場で女工たちが賃下げ撤回を要求して決起した。自発的工場籠城闘争だ。この自発的ストライキはたちまち全国各地の鐘紡の工場に飛び火した。京都・兵庫・東京・熊本。その中ではじめて労働組合が結成された。労組結成が先ではなく、労働者のたたかい、大衆闘争が先行したのである。

鐘紡の2か月に及んだ全国的ストライキは、64日実質勝利とストライキ参加者の職場復帰を勝ち取り終わった。

───────────────────────

🔵東洋モスリン争議 

───────────────────────

◆鈴木=女工と争議(東洋モスリン争議)

◆高井としを=私の「女工哀史」

◆◆恐慌下の闘争・富士ガス紡の「煙突男」、東洋モスリンの労働者のたたかい(犬丸・中村=日本労働運動史㊦から)

◆◆東洋モスリンのたたかい

(以下は「労働相談と労働組合日記」より)

1930年(昭和5年)215-228亀戸第一工場で、昭和恐慌のあおりを受けた操業短縮による工場閉鎖・解雇に反対しストライキ。さらに続いて1930年(昭和5年)926-1119日亀戸工場で大規模争議が起きた。組合同盟日本紡織洋モス支部協議会加盟の従業員2482人(うち女性2062人)は、大量解雇反対を掲げストライキに突入、地域ぐるみの大闘争が繰り広げられたが、最終的に組合側敗北で終結した。

東洋モスリンとその争議には以下のような関係者が活躍した。

細井和喜蔵文筆家。19202月より亀戸工場に勤務。19223月頃起こった争議に参加した。のち退社し、職場経験も生かして1925年に代表作『女工哀史』を刊行した。争議のなかで成長をとげた高井としを(堀としを)は細井和喜蔵の妻である。

丹野セツ社会運動家。東洋モスリンで女工として働いた。

中本たか子小説家。1930年頃東洋モスリンの女工のオルグ活動に入った。

帯刀貞代女性運動家。亀戸工場の女工を対象として「労働女塾」を開き、労働者意識と女子教育を組み合わせた教育活動を行った。1930年の工場争議に参加・支援した。

【東洋モスリン労働女塾】

労組法も労基法も憲法も、そして8時間労働制も決して上から与えられたものではないのです。このような圧倒的多数の先輩労働者の血のにじむ闘いがあったからこそです。

まさに<労働者は必ずたちあがる>のです。

<女工哀史>に抗した女性労働者2062名の決起!

下の記事は、19301026日の亀戸、東洋モスリン争議に関連する当時の新聞記事です。 私たちの同じ下町でこれほど大きな争議を先輩労働者が闘っていたことを、今ではほとんどの人が知りません。

この年の926日、文字通りの<女工哀史>に抗した女性2062名を中心とする3千名の東洋モスリン労働者がストライキに突入します。労働者は寮と工場に籠城します。

全国の労働組合が支援に立ち上がり、1024日には亀戸市内で『東洋モス争議団が演じた夜の戦闘的大デモ計画は今後も他の争議に応用される惧れがあり、昨夜の如く大衆が一時に殺到した地域が広汎に亘る』大デモを敢行し、2425日と警視庁の弾圧で300名が逮捕されます。ストライキは1119日まで果敢に闘われます。

記事は、当時の政府・警視庁の『徹底的に弾圧の方針を執るべく・・・戸外一歩を出る者は片端しから検束している』が、それ以上に僕が感動するのは、これほどの弾圧にももかからわず当時の何千という多数の先輩労働者が職場でストライキを闘い、全国の労働者が続々と亀戸市内に結集し、激しい闘いに決起しているという事実です。しかも決して東洋モスだけではないのです。

この年、同じ亀戸の第一製薬亀戸工場で43名が1026日から1119日までのストライキ。隣の墨田の鐘紡工場では3097名(女性2396名)の労働者が47日から17日までストライキ。

以下は当時の新聞記事 時事新報 1930.10.26(昭和5)より

************************************************

東洋モス争議団へ果然弾圧方針を執る

首謀者十数名の行方を厳探

検束者は亀戸署へ

亀戸東洋モス騒擾事件に就て警視庁では事件を極めて重大視して二十五日早朝鑑識課員、労働係員を現場に派して実地検証に当らしめ、一方検束したる百八十六名に就ては亀戸、両国、久松、西平野各署で厳重取調

べを進め直接関係のないものは続々釈放し、暴行又は煽動的行為のあったものは引続き留置し、昨夕全部亀戸署に移して本調べに移った。

一方首謀者と目される茅野真好外十数名は警察隊と衝突の際行方を晦ましているので厳重捜査中である尚警視庁では午後東洋モスの争議団員に対しては徹底的に弾圧の方針を執るべく争議団員、及び大衆党員にして戸外

一歩を出る者は片端しから検束している

騒擾罪と決す 警視庁の合議で検事局と意見一致

警視庁では二十五日午前十時から丸山総監を中心に小林官房主事、上田特高課長、芥川労働係長等総監室に集合鳩首取調方針に就て協議したが、に騒擾を暗示しているから当然騒擾罪として取調べる事に一決検事局と意見一致し検事局では平田検事が騒擾罪として取調を進めている

大争議の新警戒法 各署から召集二三百名駐在

東洋モス争議団が演じた夜の戦闘的大デモ計画は今後も他の争議に応用される惧れがあり、昨夜の如く大衆が一時に殺到した地域が広汎に亘る場合制止に当る応援巡査の召集に一大苦心を感じ、召集に応じた者は突然大衆に直面するため種々の手違いを生ずる場合があるので、警視庁ではこれを防止する方法を講究しているが今後は東洋モスの如き大争議がある場合は各署から十数名宛を召集二三百名として争議区域に駐在せしめ、警戒に当らせることに決定した 。これがあれば駐在警官は争議の経過を知悉して取締れると云うのである

各署に取締りの通牒

洋モス争議に関し、二十五日午前警視庁官房主事より、各警察署に対し取締手配の通牒を発した、これは洋モス争議団員が二三日前から、連日洋モスと取引関係のある安田銀行各支店へ不穏ビラを撒布したり、或は下町方面の人家へ瓶入の薬物を投込んでいる事実があった為めである。

◆◆東洋モスリン争議のなかの「労働女塾」

(鈴木=『女工と争議』から)

(合いがあった。=章終わり)

◆◆高井としを=『私の女工哀史』

細井和喜蔵には「高井としを」という妻がいた。結婚は細井25歳、高井としを20歳の時だから、結婚生活はわずか3年である。高井としをも貧しい家に生まれ、満126ヶ月で紡績会社へ働きに出た。岐阜県の炭焼工夫の娘として生まれ、小学校にも行っていない(識字教育は自分で)この女性、としをは、実は『女工哀史』の共同筆者ともいえる人物です。もうひとりの筆者は、わずか三年の結婚生活ののち、自らも東洋モスリンなどで働いて、病む身となって死んで行った細井和喜蔵です。

彼女も例にもれず『女工哀史』そのままの労働を強いられるが、17歳の時「一枚のビラ」(吉野作造の文章が記載)によって目ざめ、東京に出て亀戸の東京モスリン工場に就職、近くの図書館にかよって猛勉強を続ける。19歳ではじめての工場ストライキを経験し、この時大衆の前で発言したのをきっかけに労働組合の活動家に成長する。めったにない休日に「寄宿舎」を出て大日本友愛会という組織がバラまいたビラを見たとき、全国80万余の女工に対して「生きる道」「人間の道」を教えたのである。このビラの文章を書いたのは、吉野作造。「人はだれでも、その人だけの個性を持っている・・・それを生かせ。生かすために団結せよ」と。

ともかく、としをは、やさしい文字で大きく書かれているビラを読んで、胸の底までゆさぶられ、親が急病とウソを言って工場(寄宿舎)をはなれ、衣服からぞうりまで売ってカネに替え(汽車賃には不足だったか)、東京に出てきた。亀戸のモスリン工場に自ら再び職工として入ると、今までとは全くちがう生き生きとして女工となって、以前には「見るもおそろしい」はずであった工場主や監督を驚かせる働きぶり。週一度の休日をあてがわれる身となり、休日は友人づくりと図書館通いに。

 そして。1921年(私の生まれた年)、東京モスリン工場での初めての女工ストライキ。その日、彼女は、人々の前で大演説をしたのです。堀としをは、ふるえながら寄宿舎内の大広間の演だんにのぼっていく。

「みなさん私たち女工も日本人です。田舎のお父さんやお母さんのつくった内地米をたべたいと思いませんか。たとえメザシ一匹でも、サケの一切でもたべたいと思いませんか。街の人たちは、私たち女工のことを「ブタ」だ「ブタ」だといゝますが、なぜでしょう。それは「ブタ」以下の物をたべ、夜業の上がりの日曜日は、半分居眠りしながら外出して、のろのろ歩いているので「ブタ」のようだというのです。私たち女工も日本人の若い娘です。人間らしい物をたべて、人間らしく、若い娘らしくなりたいと思いますので食事の改善を要求いたしましょう」 

十八才の彼女の話は、全員の大拍手でむかえられた。大拍手に続いたのは、三日目からの「女工の食事」改善。いなりずしや鮭が、内地白米を半分まぜた「くさくない」米のおかずとして出されはじめた(朝鮮系女工は区別された)。八時間労働は会社によって拒否はされたけれど。労働運動とか、男女合同しての労働組合とかのアイディアはまだなかったけれど、「友達をつくって、団結して」の吉野作蔵のことばは彼女の胸に刻まれて、やがて全国の労働組合形成にまでつながって行ったのです。

  和喜蔵と彼女の生活は、彼女が工場にでて働き、和喜蔵は原稿を書くという毎日だった。彼女は語っている。

「細井は決して寄生していたのと違います。双方、了解の上で、片方は原稿書くし、片方は生活費を稼ぐ。夫婦の相対的なそれこそ生活なのです。細井は子どものときに早く両親に別れ、身体が非常に弱かった。だけど非常に誠実で辛抱強い人でした。あんまり言うたらいかんけど、男性的な魅力のある人ではなかった。ただ辛抱強く一つのことに熱中して仕事をするし、その前向きの正しい思想が魅力でした」

 こんにち通説として『女工哀史』は細井和喜蔵と高井としをの共作とされているそうだが、長い間、彼女は正当な評価を得ていなかったらしい。彼女の晩年(1975)に聞き取りをした中村政則は『労働者と農民~日本近代を支えた人々』(小学館ライブラリー)で書いている。

「彼女は和喜蔵との死別後、労農党の労働組合活動家であった高井信太郎と再婚して、関西に移り住んだ。だが、夫の信太郎は何度も獄に入れられ、二人の生活は苦労の連続であった。高井家には、つねに特高の目が光っていた。彼女は、「高井は、別荘のほうが長かった」といって、笑っていたが、怒りと涙で過ごした日々もあったことだろう。

 その信太郎も、空襲による火傷が原因で、昭和21年(1946)に死んだ。以後、彼女は「ニコヨン」(日雇い労働者)をしながら五人の子どもをかかえて、夢中で生きてきた。昭和265月には伊丹で全日本自由労働組合をつくり、初代委員長となり、三年間つとめた。多いときは、1200人も組織したこともある。それ以後も休むことなく、日雇い健保の制度化、教科書無償化闘争、福祉の闘いの先頭にたって、世の母のため、子のために日夜励んでいる」。

 細井和喜蔵没後五十周年に際して書いた彼女の詩を掲げておく。

 「女工哀史」後五十年!

 ああ 細井よ、あなたが死んで

 とうとう五十年目

 私は七十二歳のおばあちゃんになった

 よくも生きたと思います

 あなたが死んで

 悪妻の 代表のように云われ

 この世の中が いやになったり

 酒を飲んだり 男友たちとあそんだり

 旧憲法では 相続権もなかった私

 でも 私は ちゃんと相続できたのよ

 それは あなたの考え方

 それは あなたのしんぼう強さ

 おまけについてた 貧乏神

 みんな みんな もらったよ

 そして 七十二歳の今日 このごろ

 やっぱり 貧乏で 幸せで

 若い人と一緒に 話し合ったり

 学習したり

 へんなばあさんになりました

 あなたが死んで

 細井から高井姓にかわった私は

 細井家とは何の関係もないと思っている人 

たちに

 思い知らせてやりたい

 財産とは 金や物だけではないことを

 その考え方や 生き方を

 いつまでも いつまでも 守り抜くのが

 本当の相続人だと

 解らせてあげたい

 親も 子もない 兄弟もなかった

 どん底貧乏の和喜蔵は

 何も 残さなくても

 『女工哀史』とともに

 いつまでも いつまでも 生きている

 その心を そのがんばりを

 私は みんな みんな もらっている

 そして 若い人に受けついでもらう

 私は 七十二歳でも

 若い友人が 多勢いる

 そして 『女工哀史』をテキストに

 学習会も行ないます

 貧乏なんて 何でもない

 貧乏で 幸せな ばあさんの一人言

       (197410月)

───────────────────────

🔵富士瓦斯紡績争議と煙突男のたたかい

───────────────────────

(Wikiなどより)

1930年は、富士瓦斯紡績(富士紡)で大争議がおきた。川崎工場3000名に378名の解雇が通告され、争議に入った。11月にストライキに突入。有名な「煙突男」のたたかいもあり、1121日勝利した。

この「煙突男」田辺潔は、1930年(昭和5年)に神奈川県川崎市(現:川崎区域)の富士瓦斯紡績川崎工場の紡績工場の労働争議の際に、争議の支援活動として工場の煙突に登り、そのまま6日間にわたって居座る事件を起こした人物(田辺潔、1903 – 1933)につけられたあだ名。1930年の事件以降も同様の事件が複数発生した。

発端

1930年当時の日本は世界恐慌の渦中にあり、多くの労働者が解雇され、それに反対する労働争議も多発していた。富士瓦斯紡績川崎工場でも6月に最初の解雇通告がなされ、これに対して労働組合が争議団を結成して会社と交渉に当たり、調停を得て一度は妥結する。

当時工場には総同盟系と労農党系の2つの組合があった。このとき争議を行ったのは総同盟系の組合である。

しかし、9月になって会社側は減俸や手当の減額を通告した。再び争議が起きるが、労農党系の組合が途中から単独のサボタージュ闘争に転じた。これに対して会社側はサボタージュした従業員の除名を通知するなど強硬な姿勢を取り、争議団は資金難に陥って闘争は難航していた。

その最中の19301116日の午前5時頃、川崎工場の煙突に一人の若い男性が登った。この煙突は排出口付近の周囲に足場があり、ここに彼は陣取って頂上の避雷針に赤旗を結びつけ、小旗を振りながら争議を扇動する演説をおこなった。男性は5日分の食料を持ち、長期滞在を見込んでいた。

経過

この日は日曜日ながら工場は仕業日で、この人物の出現に一時騒然となったが、警官が警戒する中で平常通り操業はおこなわれた。しかし、居合わせた争議団員は警察に検束された。

男性は睡眠時は油紙と外套をかぶり、起きているときは折を見て演説や軽口を繰り返した。1日半が経過した1117日の夜には警察が見守る中で、争議団と男性が会話を交わす。煙突からの煙で男性の顔や旗は真っ黒になった。彼の出現は17日の各新聞で報じられたことから、野次馬も集まり始め、会社側は周囲に電灯を急遽増設した。

争議団と警察が協議し、18日の朝に争議団代表が水や食糧を持って煙突に上り、男性に下りるよう説得したが、不調に終わる。このとき、争議団からの説得により食料を受け取るのと引き替えに、男性は避雷針にくくりつけていた赤旗をはずしている。

警察は18日夕方に争議団が申し出た再度の食料補給を拒否。会社側は男性の説得に成功した者に報奨金を出すと表明したため、19日には失業者数名が煙突に上ることを申し出たりした。この間、警察と会社側は彼を実力で地上に下ろす方法を検討したりしたが妙案は出なかった。一方、1121日午後には中国地方でおこなわれた陸軍特別大演習の視察から東京に戻る昭和天皇の乗ったお召し列車が近くの東海道本線を通過する予定となっていた。男性は取りはずしたとはいえまだ赤旗を持っており、警察は通過時にそれが掲げられて列車に乗る天皇から見えることを恐れていた。

19日の夜7時頃、時事新報の加藤重六という新聞記者が煙突にある梯子を上り、25分にわたって男性と会見した。男性は鎌倉町鵠沼に住む田辺潔(たなべきよし)と名乗り、防寒用に記者からチョッキを借り受けた。このとき男性は「解決するまで決して下りない」と答えている。この会見内容は翌日の時事新報に掲載され、男性の名前が明らかにされた。

20日に再度争議団関係者が煙突に上るが、男性は改めて争議の完全解決を要求してなお滞在を続けた。その日の午後、男性の実兄である社会学者の田辺寿利(当時日本大学講師)がもう一人の兄とともに現場に赴いた。寿利が事件解決後に雑誌『中央公論』に寄稿した文章によると、声で男性が弟であると確認した寿利は川崎警察署長と面談し、今回の行為が(お召し列車が通過しても)不敬行為に当たらないことを確認したのち、弟の生命の保障を署長に依頼した。そのうえで争議の解決と、弟の生命の問題を切り離して、後者について署長・工場長・争議団責任者での会談を開くことを提案する。この提案は署長の同意を得、寿利は工場長と争議団を説得してそれぞれ同意を取り付けた上で夜11時に署長に開催を求めたが「必要を認めない」と拒絶されてしまったという。警察は会社側に争議解決を働きかける方針に転じた。21日の未明に東京から労農党本部の関係者が争議の支援に訪れ、警察側は彼らを検束せずに会社側との交渉に当たらせた。

滞在は5日を超え、6日目となる21日には近隣の川崎大師の縁日と重なり、群衆は1万人近くに上った。この日、正午から川崎警察署長が会社と争議団の調停に入った。争議者への一時金(解雇者への解雇手当・予告手当を含む)の支給、除名者の復職と給与の支給、社宅や寮に居住していた解雇者への移転料の支給を内容とする覚書が取り交わされて午後1時半頃に争議は妥結した。妥結が伝えられると男性は午後322[6]に地上に下り立ち、ただちに工場付属の病院に入院した。滞在時間は130時間22分であった。下りた直後に男性は「今日まで寒さと風のため苦しめられたが,目的が貫徹すればいいとそればかり考えていた。大便はまだ一度もしない。争議が長引けば1か月位はかかるものと覚悟していた。昨夜の風雨はからだのしんまでしみたような気がして苦しかった。然しあれだけの群衆が我々の闘争を応援して呉れたことを思うと誠に感謝に堪えない」と述べている。お召し列車は予定通りに通過した。

田辺 潔とその後

田辺潔は190312日、北海道釧路市に生まれた。旧制第一横浜中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)在学中に結核に罹患して中退。その後結核は治癒したが、以後は進学せずに鵠沼の寿利の家で独学ののち、さまざまな職業を転々とする。寿利の文章によると、ある日潔は労働運動に身を投じることを寿利に告げたが、寿利が「おまえはインテリだからその資格がない」と諭すと、「まず労働者になる」と返答して出奔したという[9]1927年には横浜市電気局(横浜市電)の信号手となったが、翌年に争議に参加して解雇され、それ以降は活動家となり、事件当時は労農党中央執行委員で川崎市議会議員の糸川二一郎に寄食しながら労働運動に携わっていた。したがって、富士瓦斯紡績の従業員ではなかった。

【田辺潔と大山郁男】

潔が煙突に上るに至った経緯については、争議解決のために借財までして奔走する糸川の姿を見た潔が自ら発案したとする説と、別の労農党中央執行委員が争議の応援演説で「高いあの煙突の上にあがって下りろというまで下りないでおったら,必ずこの争議は勝てる。そんな勇気のあるやつはいるか」という言葉に応えたという2つの説が伝えられている。いずれにせよ、潔は労農党の争議支援活動の一環として煙突に上ったことには違いがない。

潔は退院後の1128日に住居侵入罪で検束された。釈放後は労農党の演説会で弁士として活動したりしたが、やがて労農党から離れて日本労働組合全国協議会(全協)にかかわって活動をしていたという。

富士瓦斯紡績争議から約2年後の1933214日朝、潔は横浜市中区の山下公園の堀から遺体となって発見された。事故死として報じられたが、当時の共産党機関紙「赤旗」第122号(1933228日)は、潔が1月に伊勢佐木警察署に逮捕された後、拷問を受けて「虐殺された」と伝えている。

争議の舞台となった富士瓦斯紡績川崎工場は、1939年に東京電気(現・東芝)に売却ののち、太平洋戦争中の川崎大空襲で焼失し、跡地は川崎競馬場になっている。

★★京浜協同劇団・演劇=ミスターチムニー!「天空130尺の男」110m

◆橋本哲哉「煙突男 田辺潔小論」(金沢大学経済学部論集第172号、1997年)

クリックしてAN00044251-17-2-129.pdfにアクセス

◆橋本哲哉「昭和煙突男と兄田辺寿利」(金沢大学経済学部論集第182号、1998年)

クリックしてAN00044251-18-2-101.pdfにアクセス

◆歴史への招待「おれは天下の煙突男」(1981年放送、NHK総合テレビ)

憲法とたたかいのブログトップ

砂川事件と砂川闘争・伊達判決・最高裁判決・田中最高裁長官の司法逸脱問題・再審請求

砂川事件と砂川闘争・伊達判決・最高裁判決・田中最高裁長官の司法逸脱問題・再審請求


🔴憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

【このページの目次】

◆砂川事件・伊達判決・最高裁判決・田中最高裁長官の司法逸脱問題・再審請求リンク集

◆砂川闘争・砂川事件・伊達判決とは

◆砂川事件最高裁判決

◆資料・アメリカの意を受けた田中耕太郎最高裁長官(米公開文書から)

◆砂川事件伊達判決・最高裁判決以後

◆◆朝日新聞連載・新聞と9条=砂川事件・地裁伊達判決・最高裁判決

──────────────────────────

🔵砂川事件・伊達判決・最高裁判決リンク集

──────────────────────────

【最高裁長官の司法逸脱問題・再審闘争】

★★ETV砂川事件60年後の問いかけ=駐日大使と最高裁長官の合意文書後の再審問題58m

【いま砂川事件が問うもの(赤旗17.12.25)】

★砂川事件と田中最高裁長官4m

1711月砂川事件再審請求、東京高裁が棄却決定10m

★★1711月砂川事件再審請求、報告会(後編)40m

◆伊達判決を生かす会

http://datehanketsu.com/

★★レイバーネットTV117 : 戦後史のタブー「米軍基地と日本国憲法」~砂川事件裁判・再審請求が問うもの85m

2015/06/18 砂川裁判再審請求訴訟を起こしている元当事者・土屋源太郎氏と弁護団による記者会見6m

◆水島朝穂直言=砂川事件最高裁判決の「仕掛け人」 2008526

http://www.asaho.com/jpn/bkno/2013/0415.html

◆水島朝穂直言(4.15) 砂川事件最高裁判決の「超高度の政治性」――どこが「主権回復」なのか

http://www.asaho.com/jpn/bkno/2013/0415.html

Naverまとめ=あれから58今なお再審が続く「砂川事件」のその後

http://matome.naver.jp/m/odai/2145743986851499101

◆砂川事件再審請求の概要PDF2p

クリックしてsaisingaiyou.pdfにアクセス

◆砂川事件「伊達判決」と田中耕太郎最高裁長官関連資料 : 米国務省最新開示公文書(2013.1.16開示)の翻訳と解説 

布川 玲子 , 新原 昭治 , 山梨学院大学法学論集 71, 220-211, 13-03-30 オープンアクセスPDF10p

◆砂川事件「伊達判決」に関する米政府解禁文書(原文と翻訳)PDF48p

The Declassified Documents of U. S. Government Concerning the Decision of Tokyo District Court on the Sunagawa Case Judged by Akio Data (1959)オープンアクセス

🔷書評・吉田=日米安保と砂川判決の黒い霧

◆◆砂川事件、再審認めず 最高裁

2018719日朝日新聞

 東京都砂川町(現・立川市)にあった米軍基地の拡張計画に反対する学生らが1957年、基地に入った「砂川事件」で、最高裁第二小法廷(菅野博之裁判長)は、日米安保条約に基づく刑事特別法違反で有罪となった4人の元被告について再審開始を認めない決定をした。18日付の決定で、元被告らの特別抗告を棄却した。今回の請求で再審が開かれないことが確定した。

 この事件では一審が「米軍の駐留は憲法9条に反する」と無罪を言い渡したが、最高裁大法廷が1959年に「日米安保条約のような高度に政治的な問題に司法判断はしない」などとして破棄した。当時の田中耕太郎・最高裁長官が、米国側に裁判の見通しなどを伝えたとする米公文書が2008年以降に相次ぎ見つかったことを機に、元被告らは「公平な裁判を受ける権利を侵害された」と主張し、再審を求めていた。(岡本玄)

◆◆砂川事件再審請求 元被告「裁判所は逃げた」

20171116日東京新聞

記者会見する元被告の土屋源太郎さん(手前右)ら=15日、東京都千代田区の司法記者クラブで

 駐留米軍の合憲性が争われた一九五七年の「砂川事件」の再審請求審で、東京高裁は十五日、東京地裁決定に続き、再審開始を認めなかった。東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見した元被告らは怒りをあらわにし、最高裁に特別抗告する方針を示した。

 「裁判所は逃げた」。元被告らは、「不公平な裁判が行われた」とする訴えの中身に踏み込まないまま、高裁が退けたことに怒りの声を上げた。

 事件では、五九年の一審東京地裁判決の無罪判決を破棄した最高裁の田中耕太郎長官(故人)が、上告審判決前に駐日米大使らに裁判の見通しなどを伝えたとする米公文書が二〇〇八年以降、相次いで見つかった。元被告側はこれらを新証拠に、不公平な裁判が行われた恐れがあるとして、罪の有無を判断せずに裁判を打ち切る「免訴」にするべきだと主張していた。

 この日の高裁決定は、そもそも免訴を認めるべきケースではないとし、公文書の内容や、裁判への影響については「判断するまでもない」とした。

 元被告側の吉永満夫弁護人は「高裁が公文書の内容に触れずに結論を出そうとした苦肉の策だ」と痛烈に批判。元被告の坂田茂さんの長女和子さん(60)は「父は有罪判決を受けて、解雇されてもずっと闘ってきた。その結果が、公平な裁判かどうかは関係ないというのでは、父の無念を晴らすことはできない」と語気を強めた。

 高裁は、公文書の記載を前提に田中長官の発言の是非などを検討した東京地裁の決定について、棄却の結論は変わらないながら「不適切」と表現した。

 過去には、公平で迅速な裁判を受ける権利を定めた憲法三七条を根拠に免訴を言い渡した例もあり、元被告らは「整合性がとれない」などと批判した。

<砂川事件> 1957年7月、東京都砂川町(現立川市)の米軍立川基地拡張に抗議するデモ隊の一部が基地に立ち入り、7人が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反の罪で起訴された。東京地裁は59年3月、「米軍駐留は戦力の保持を禁じた憲法9条に違反する」として全員に無罪を言い渡した。検察側が上告し、最高裁は同年12月、安保条約は高度な政治問題で司法判断になじまないとして一審判決を破棄。63年に全員の有罪が確定した。

🔷🔷最高裁判決直前、原案批判のメモ 担当調査官名で 「高度な政治判断は裁判の対象外」示した砂川事件

朝日新聞2020613

 極めて政治性の高い国家行為は、裁判所が是非を論じる対象にならない――。この「統治行為論」を採用した先例と言われる砂川事件=キーワード=の最高裁判決で、言い渡しの直前に、裁判官たちを補佐する調査官名で判決の原案を批判するメモが書かれていたことがわかった。メモは「相対立する意見を無理に包容させたものとしか考えられない」とし、統治行為論が最高裁の「多数意見」と言えるのかと疑問を呈している。28面=矛盾突く

 統治行為論はその後、政治判断を丸のみするよう裁判所に求める理屈として国側が使ってきたが、その正当性が問い直されそうだ。

 メモの日付は1959年12月5日。判決言い渡しの11日前にあたる。冒頭に「砂川事件の判決の構成について 足立調査官」と記されており、同事件の担当調査官として重要な役割を担った足立勝義氏がまとめたとみられる。判決にかかわった河村又介判事の親族宅で、朝日新聞記者が遺品の中から見つけた。

 砂川事件では日米安全保障条約が違憲かどうかが争われ、最高裁全体の意見とみなされる多数意見は、判事15人中12人で構成された。安保条約に合憲違憲の審査はなじまないと「統治行為論」を述べる一方で、日本への米軍駐留は「憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ」と事実上合憲の判断を示している。多数意見に加わらなかった判事のうち2人が「論理の一貫性を欠く」と判決の個別意見で指摘していることは知られていた。

 メモはさらに踏み込んでおり、原案段階での多数意見の内訳を分析している。安保条約を合憲とする田中耕太郎長官らは、合憲違憲の審査はできないとする藤田八郎、入江俊郎裁判官とは本来「相対立する」とし、田中長官らはむしろ、多数意見とは別の理由で「合憲の判断を示すことができる」とした判事らと一致していると指摘した。

 そして統治行為論を述べたものは最多でも裁判官15人のうち半数に足りない7人に過ぎないとし、多数意見としてくくられた考えが「果たして多数意見といえるか否か疑問である」「相対立する意見を無理に包容させたものとしか考えられない。しかも、その包容の対象を誤っている」とした。

 メモが生まれた経緯などは不明だが、判決の構成という核心部分について、最高裁内部でも異論があったことがわかる。最終的な判決をみる限り、メモが受け入れられることはなかった。(編集委員・豊秀一)

キーワード

 <砂川事件> 1957年、東京都砂川町(現立川市)の米軍基地拡張に反対する学生ら7人が基地に立ち入り、刑事特別法違反の罪で起訴された。同法の前提である米軍駐留について東京地裁は59年3月、憲法9条2項が禁じる戦力にあたり違憲と判断。全員に無罪を言い渡した。検察が跳躍上告し、最高裁は「日米安保条約は違憲とは言えない」との結論を裁判官15人の全員一致で出したが、理由付けは12人の「多数意見」と、それとは異なる3人の「意見」に分かれた。

異例メモ、判決案の矛盾突く 「相対立する意見を無理に包容させたもの」 砂川事件

2020613 

 「相対立する意見を無理に包容させたものとしか考えられない」。統治行為論を初めて採用した砂川事件最高裁判決について、判決原案のまとめ方を批判する内部メモが見つかった。統治行為論は、臨時国会の召集義務をめぐって10日に判決があった那覇地裁の訴訟でも国側が主張。有無を言わせずに政治判断を正当化する手段としても使われてきた。判決はどんな流れで生まれたのか。そしてメモは何を意味するのか。(編集委員・豊秀一)1面参照

 砂川事件の最高裁判決をめぐっては、1959年8月3日に在日米大使館が米国務長官(当時)にあてた公文書の存在が知られている。布川玲子・元山梨学院大教授(法哲学)が米国立公文書館から入手した。

 それによると、田中耕太郎・最高裁長官(当時)は首席公使に、(1)判決は12月となるだろう(2)判決では世論を動揺させるような少数意見を避け、実質的な全員一致の判決を生み出すような評議が進むことを期待している――と伝えた、とある。

 実際、判決は12月16日に言い渡され、結論は全員一致となった。

 最高裁がこの判決期日を検察側と弁護側に伝えたのは、11月25日。大法廷の合議は水曜日に行われる慣例で、判決までに合議できるのは、12月2日と9日の2回となる。今回見つかったメモが書かれたのは12月5日。最後の合議の機会の4日前にあたる。

 判決直前のメモは、15人の裁判官の審議に影響を与えたのだろうか。

 高見勝利・上智大名誉教授(憲法)は、判決の構成は変わらなかったが、裁判官の見解に影響を与えた可能性はあるとみる。メモによると、12月5日時点で、垂水克己裁判官は安保条約について「合憲と判断ができる」「私見によれば合憲であると判示してよい」との見解を示していた、とされる。しかし確定した判決文にこの表現はない。高見名誉教授は「足立メモで矛盾点を突かれ、見解を修正した可能性は否定できない」と話す。

 最高裁調査官の経験もあり、最高裁判事を務めた泉徳治弁護士は「メモは最後の9日の合議のために作られ、配布されたのではないか。ぎりぎりの段階まで判決案の細部を詰める作業が続いていたということだろう」とみる。「ただし、足立案を採用するとなれば、判決期日の延期は必至だ。12月9日の合議では字句の修正はあっても、ほぼ原案通りとすることが確認されたと思う」と述べる。

 当時は最高裁が誕生して10年余り。泉弁護士によると、裁判官が自説を主張し、調査官も遠慮なく意見を述べていたという。「自由な空気が異例のメモを書くことができる背景にあったのではないか」

 足立勝義調査官は64年4月に最高裁調査官の職を離れたあと、東京地裁東京高裁福岡高裁刑事裁判を担当。佐賀地家裁所長を最後に退官した。

 多数意見、首尾一貫性欠いた

 長谷部恭男・早大教授(憲法)の話 砂川事件最高裁判決の多数意見は、裁判官たちのさまざまな意見をとりまとめた結果、政治的で首尾一貫性を欠くものになった。足立調査官のメモは、この矛盾を正面から突いたものだ。判決理由に説得力をもたせるためにはできるだけ多くの裁判官の支持を得る必要があり、無理をしたのだろう。半年後には、憲法7条を根拠に内閣が衆院を解散したことの合憲性が争われた「苫米地事件」の判決を控えていた。ここで統治行為論を採用する準備をしていたと思われ、衆院解散よりはるかに政治性の高い日米安保条約の合憲性というテーマで、統治行為論の先例を作っておく必要もあったのかもしれない。

 砂川事件の最高裁判決に至る主な出来事

<1959年3月30日> 東京地裁が米軍駐留を違憲と判断

<4月> 検察側が最高裁に跳躍上告

<8月3日> 在日米国大使館が米国務長官あてに田中耕太郎長官の話として裁判の見通しを航空書簡で送る

<9月7日> 最高裁で口頭弁論が始まる

<18日> 最高裁で口頭弁論が終わる(6回目)

<11月25日> 最高裁、判決を12月16日に開くことを検察側と弁護側に通知

<12月5日> 同日付の足立勝義調査官メモが作成される

<16日> 最高裁が判決言い渡し

【砂川闘争と砂川事件・伊達判決・最高裁判決】

★★砂川闘争の映像(亀井文夫日本のドキュメンタリー 政治・社会編 DVDBOX 作品紹介(2)から)5m

★砂川事件映像 3m

http://m.youtube.com/watch?v=RK5UAidE4-0

★★『砂川事件』をマンガで解説=アメリカ軍駐留と日米安保条約は憲法違反になるの?

『砂川事件』をマンガで解説。 アメリカ軍駐留と日米安保条約は憲法違反になるの?

★★伊達判決から最高裁判決まで4m

★第100 多摩探検隊 「砂川の記憶─57年目の証言─」 10m

★内灘闘争 & 砂川闘争 6m- 1953 & 1956 

【新海覚雄「闘う砂川の人々」より】

◆平権懇=砂川闘争

http://comcom.jca.apc.org/heikenkon/soukai_2005.html

◆弁護士ドットコム=砂川判決Q&A

https://www.bengo4.com/kokusai/d_403/

★安保=そもそも戦後は本当に終わったのだろうか?砂川事件、地位協定(そもそも総研) 

http://video.fc2.com/content/20140114ubanYBxr

★末浪靖司さん講演「米軍基地違憲『伊達判決』の歴史的意義」70m

★「日米地位協定を問う」新原昭治氏(国際問題研究家)3回計50m

1.http://m.youtube.com/watch?v=5S8Pvex0SHE

2.http://m.youtube.com/watch?v=59_ggzRKiFw

3.http://m.youtube.com/watch?v=9l00s5UsEJg

★「日米地位協定を問う」 坂田茂氏( 伊達判決を生かす会)の発言 10m

★「日米地位協定を問う」土屋源太郎氏( 伊達判決を生かす会)の発言 10m

SS22 奥平康弘×木村草太×春名幹男「砂川事件判決とは?」50m. 2014.04.16

https://m.youtube.com/watch?v=pXGYu6Kftbo

★【憲法第9条】ラジオ砂川事件って何…? 集団的自衛権とどんな関係があるの…?10m

★長沼判決40周年記念集会 自衛隊は違憲講演 内藤功(弁護士)150m 作成者:きかんし放送局

◆◆田村=土地に杭(くい)は打たれても 心に杭は打たれない(砂川闘争・砂川判決・最高裁判決・再審闘争)

http://tamutamu2011.kuronowish.com/sunagawajikenn.htm

Wiki=砂川事件(砂川闘争・砂川判決)

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

◆砂川闘争・砂川事件国会参考人陳述

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/022/0388/02209200388002a.html

【最高裁砂川事件判決を利用した安倍政権の集団的自衛権の正当化問題】

★青木理=そもそも砂川判決とは10m

★安保法制採決を前に あらためて「砂川判決」を問う 憲法学者・浦田一郎教授が「違憲」を訴え30m

★共産党・井上=集団的自衛権 砂川判決 根拠にならず25m

★共産党・宮本=集団的自衛権砂川判決根拠論崩れる60m

★天木直人さんと土屋源太郎さんが語る集団的自衛権と伊達判決100m

◆深草徹=砂川事件最高裁判決によって 集団的自衛権の行使が認められるとの俗論を排すPDF11p

クリックしてdata41.pdfにアクセス

─────────────────────────────────

◆◆砂川闘争・伊達判決・最高裁判決・日米政府と司法の癒着の暴露(写真で見る)

─────────────────────────────────

(砂川闘争)

(東京地裁=伊達判決)

(安保改定へ向けて伊達判決は邪魔)

(最高裁へ「跳躍上告」)

(最高裁伊達判決廃棄)

20134月新原氏文書公開)

(文書の中身=藤山・マッカーサ会談)

(なんと上告中に田中耕太郎最高裁長官とマッカーサーが密談)

(こうして日米安保条約改定調印)

60年安保闘争)

─────────────────────────────────

◆◆砂川闘争と砂川事件・伊達判決

─────────────────────────────────

◆◆中本たか子「砂川の誇り」

(旬報社デジタライブラリー)

土地に杭はうたれても、心に杭は打たれまいと、砂川町民が「砂川基地拡張反対同盟」を結成し「町ぐるみ」でたたかわれた砂川闘争。在日米軍のジェット爆撃機発着のための基地拡張をめぐる反対闘争は、労働組合や平和団体、学生なども参加して14年にわたってたたかわれ、遂に米軍に立川基地拡張を断念させた基地反対闘争の輝ける記録。

はじめに-砂川闘争は生きている

I オラたちの土地はわたせない

1 基地拡張のはなし 

当選祝いの席に基地拡張の通告

土地泥棒 に怒る農民たち

奪われた砂川の土地・73万坪

こわされた農地に雀の涙の補償

米軍と日本政府を相手にして

2 たたかいの始まり

家族ぐるみで反対同盟を結成

調達局の役人に先制の攻撃

勤労者組合がたたかいの支柱に

町議会が全員一致の反対決議

町ぐるみでたたかう体制づくり

労組・政党が支援共闘を申入れ

II 土地にクイは打たれても

1 町民総決起大会前後

半鐘鳴らして戸別訪問を阻止

労働者の支援共闘を受け入れ

阿豆佐味天神境内で総決起大会

基地拡張第二案を逆手に使って

突然、反対同盟から12名の脱落者

労組員を先頭に測量隊を押し返す

行動隊もスクラム組んで抵抗

東京地裁が調達局援護の決定

脱落者グループに甘いエサ

2 心にクイは打たれない

原水禁世界大会へ代表を派遣

胸えぐる被爆者たちの訴え

砂川基地闘争を強くアピール

測量強行 へ警官隊も出動

調達庁長官とピザづめの交渉

強制測量にバリケードづくり

ピケ隊のスクラムへ警棒の雨

砂川に打ちこまれた七本のクイ

装甲車を先頭に血の弾圧

条件闘争移行の主張とゆさぶり

「暁の町議会」で反対闘争続行へ

来なかったアメリカ軍事調査団

III 砂川と沖縄一つに結んで

1 麦は踏まれても

モンペ姿の婦人行動隊が活躍

踏みにじられた青い麦畑

唐がらしいぶし自力で守りぬく

砂川道場と団結小屋の誕生

文化人基地問題懇談会も生まる

2 父祖の地を守って

条件派、協力謝金の増額へ動く

土地収用 をあせる調達庁

「補償料ネコババ」のデマ宣伝

強制収用に実力阻止の方針きめる

協議通知書燃やし夜の火祭り

メーデーの行進の先頭を切って

新任の調達庁長官へ抗議文

3 原爆基地化への怒り

調達庁がまたも新聞にデマ記事

プライス勧告に沖縄と砂川の怒り

全学連も積極的な支援行動

逆転した保守・革新の勢力比

砂川を訪れた沖縄の代表団

宮崎町長、都知事の命令を拒否

砂川と沖縄を結ぶ固いキズナ

四原則貫徹と祖国復帰めざして

第二次収用認定通知を一括返上

人海戦術で強制測量阻止へ

IV 警棒に打ちかったスクラム

1 燃えたつ赤旗の波

沖縄と国際電話で勝利の誓い合い

文化人・学生がぞくぞく闘争を支援

強制測量へあの手この手の挑戦

連日五千人をこえる砂川支援部隊

国会議員団も測量阻止の先頭に

千四百人の武装警官隊で実力行使

破れなかったスクラムの城壁

2 民族の誇り砂川

あと三日!期限切れへのあせり

暴徒 と化した二千人の警官隊

スクラムの勝利-測量中止

砂川違憲判決から安保闘争へ

一九七〇年闘争へつづく波

あとがき

◆◆「赤とんぼ」の歌と砂川闘争 – 1953 & 1956

砂川闘争と唄「赤とんぼ」の話も有名です。(朝日新聞記者の伊藤千尋さんの記事から)

《「赤とんぼ」には、伝説化した話がある。56(昭和31)年、東京・立川の米軍基地拡張に反対した砂川闘争で、警官隊と立ち向かった学生や農民たちからわき出た歌が「赤とんぼ」だった。「日本人同士がなぜ戦わなければならないのか」と歌声は問いかけた、と伝えられる。

当時、動員された学生は3千人。雨の中、警官隊と肉弾戦となり負傷者が続出した。最後に向き合ったのは学生ら50人と、警官150人だった。「今だから話しましょう」と、全学連の砂川闘争委員長として現地で指揮した政治評論家の森田実さん(75)はこう語る。

「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況で、獰猛な相手を人間的な気持ちにさせようとした。勇ましい『民族独立行動隊』を歌えば警官も勢いづける。そこで『赤とんぼ』を選び、日没までの30分、繰り返し歌った。警官隊は突撃して来なかった。私たちは人道主義で戦った。警官にも純粋な気持ちがあった」

母のぬくもりを懐かしみ、郷愁を誘う「赤とんぼ」は、自らの人間性を思い出させる歌でもあった。この美しい感性を、日本人は持ち続けられるだろうか。

「赤とんぼ みな母探す ごとくゆく」(畑谷淳二)》

◆◆「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」

「砂川闘争」とは、1955年から1957年にかけて激しい攻防があった、米軍基地拡張反対闘争。

米軍が突如日本各地の米軍基地の拡張を表明し、各地で反対運動が起こりました。

当たり前です。今日まで田んぼや畑で生活していたものが、米軍の都合で奪われるのです。

立川の砂川町は養蚕のための桑畑が多い農村であり、立川基地の拡張に町をあげて反対を表明しました。

これに対し、国は拡張のための測量を警察を導入して強行しました。最初は農民たちが座り込み抵抗しましたが、多勢に無勢で測量のための杭打ちを許してしまいました。

町は反対同盟を結成し、「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」を合言葉に更なる抵抗を決意し、多摩地区の労働組合、社会党、総評、全学連がその運動に加わることで、一大闘争となりました。

最大の攻防となった1956年10月13日には、学生たちが先頭にたちスクラムを組みピケをはった反対同盟を警官隊が警棒で襲いかかり、無抵抗のピケ隊に800人近くの負傷者が出ましたが、なんとかその日の測量を阻止することができました。

無抵抗の人たちに襲いかかり、警棒で殴る、突く、首を締めるなど、暴虐の限りをつくした警官隊のなかにも、服毒自殺する人が表れ、測量は14日突如中止となりました。

その後、強引な土地買収にも抵抗し、やがて砂川基地拡張に反対を表明した美濃部革新都知事の誕生で米軍と国は拡張を断念することに。実に15年に及ぶ大闘争は、農民たち反対同盟同盟の勝利となりました。

その間、逮捕された学生労働者たちへの裁判において、東京地裁は「日米安保条約は憲法違反であり、被告は無罪」という「伊達判決」が出されました。これに危機感をもった政府は、高等裁判所を飛び越えて最高裁に持ち上げ、最高裁は差し戻しの判決が下されました。後に、アメリカの公文書館で田中最高裁長官とマッカーサーとの談合が明かになり、裁判そのものが結論先にありきの茶番であったことが明らかとなったため、再審請求が行われているようです。

◆◆内灘闘争・内灘事件

うちなだじけん

(砂川闘争の前段階の闘争として内灘闘争がある。あらましは以下)

基地闘争全国化への口火となった石川県内灘における米軍基地反対闘争。1952年(昭和279月、日米合同委員会は、朝鮮戦争下に特需生産された米軍砲弾の試射場として内灘村砂丘地の接収を決定した。これに対し村議会はただちに反対を決議。婦人を中心とする村民がムシロ旗を押し立てて県庁に押しかけ、連日金沢市内で街頭署名に立つなかで、県議会も全会一致で反対を決議した。同年12月吉田内閣は翌531月から4か月の期限付き接収と決定したが、期限切れが近づくにしたがって継続使用の動きをみせた。そのため運動は再度高揚し、石川県評を中心とする革新陣営により内灘接収反対実行委員会が結成され、51日試射中止となった。その後62日、閣議の無期限使用決定により、「金は1年、土地は万年」をスローガンに掲げた村民の座り込み、デモ隊と警官隊との衝突、北陸鉄道労組の米軍物資輸送拒否決定と48時間ストなど運動は最高潮に達し、全国的関心を集めた。しかし、同月15日試射は再開され、接収賛成派が台頭、村内に亀裂(きれつ)が生ずるなかで、9月村当局は政府と妥結、ついで11月村長選挙での基地反対派の敗退により闘争は終結した。57年接収解除となった。[荒川章二]

◆◆砂川事件と伊達判決

小学館(百科)

1955~57年(昭和30~32)東京都北多摩郡砂川町(現立川市)における米軍立川飛行場拡張反対闘争をめぐる事件。基地闘争の天王山といわれた。防衛分担金削減を条件に米空軍基地拡張要求をのんだ鳩山一郎内閣は、555月地元に接収の意向を伝えるが、砂川町ではただちに基地拡張反対同盟を結成、町をあげての闘争体制を整え、運動は三多摩地区労協と原水禁運動との提携に発展していく。

9月の強制測量は反対派、警官あわせて5000人が衝突、負傷者100人を出す闘争最初の山となり、条件闘争派の顕在化という厳しい状況のなかで、反対同盟は「土地に杭(くい)は打たれても心に杭は打たれない」と徹底抗戦を声明した。ついで11月には社会党・総評の支援動員中止のすきをついて測量が強行され(2名起訴、第一次砂川事件)、反対派の苦難の時期が続いた。

 反対派は以後世論喚起に努め、それは基地問題文化人懇談会結成、全学連の支援方針決定、総評の支援強化・共産党との共闘方針採択を経て、19569月、共産党、日本平和委員会、全学連を正式構成員に加えた21団体の砂川支援団体連絡会議として結実する。こうして10月の強制測量は武装警官2000人余、反対派6000人余が衝突する闘争の峠となり、政府は測量中止を発表した。

 その後、19577月土地返還請求訴訟を起こしていた基地内民有地の強制測量に反対して第二次砂川事件があり、7名が起訴された。この訴訟で59330日東京地方裁判所は米軍駐留は憲法第9条違反であるとして無罪判決を下した。いわゆる伊達(だて)判決である。

時まさに日米安全保障条約改定作業中であり、検察側は最高裁判所に跳躍上告、同年1216日、最高裁判所は、外国軍隊は憲法第9条にいう戦力にあたらないから米軍の駐留は憲法に違反しないとし、また、米軍駐留を定めた安保条約は高度の政治性を有し、司法裁判所の審査にはなじまないとして、事実上の安保合憲・統治行為論により原判決を破棄、東京地裁に差し戻した(6312月有罪確定)。1か月後安保条約は調印されたが、同裁判は日米安全保障条約の憲法適合性を争点とする最初の裁判として重大な意義をもった。

◆◆砂川闘争とは

朝日新聞=昭和史再訪

東京都立川市はかつては米軍基地の街だった。立川駅北口から派手なバーなどが続き、「夜の女」も多かった。

「冷え切りし深夜の街に東北の訛(なま)り言葉の娘が媚(こ)びを売る」。同市初の女性市議、須田エンさんの短歌だ。市政浄化と反戦平和を掲げて、昭和30年に初当選した。

基地経済で潤う人がいる一方、騒音などが市民を悩ませた。朝鮮戦争当時の昭和27年、航空用ガソリンが井戸に混入し、焼死者まで出た。

エンさんが市議に当選した年、立川駅から北に約2キロの砂川町で米軍基地拡張が始まった。まず地元農民が反対し労働組合の人たちや学生が支援した。エンさんも駆けつけた。警官を伴った測量に反対派が抵抗。砂川は「反基地」を象徴する場所となった。

手を焼いた米国側は、昭和43年、基地拡張計画を中止した(52年日本に返還)。そして昭和47年、基地跡地の一部に自衛隊が移駐してきた。

エンさんの長女、加藤克子さんはこの時に反戦を掲げる「立川自衛隊監視テント村」を仲間とつくった。

軍隊がある限り、殺したり殺されたりする悲劇は続く、私たちはそれを断ち切る道を選んだはずだ――。そういう考えで、基地近くのテントから自衛隊の行動を追った。自衛隊員に「反軍」を呼びかける放送やビラ配りも続けた。

30年後、イラク復興支援特別措置法が成立し、自衛隊のイラク本土での活動が始まった時、自衛隊官舎にビラを入れたテント村メンバー3人が住居侵入容疑で逮捕された(2008年有罪確定)。

◆測量強行で流血騒動、最後は撤回

1955(昭和30)年5月、米軍立川基地の拡張計画が地元の旧砂川町(現立川市砂川町)に伝えられた。航空機のジェット化による滑走路延長のため。反対住民は基地拡張反対同盟を結成し砂川闘争開始。7月以降の強制測量の動きに何度も抵抗し、561013日の警官隊を伴う測量強行では負傷者が1千人以上に。「流血の砂川」といわれた。政府は測量打ち切りを発表し農民とデモ隊勝利の形に。

地権者23世帯が最後まで買収を拒否し、米軍は68年に基地拡張を撤回。国も69年に閣議で計画中止を決定した。その後米軍は立川基地を全面返還。基地跡はいま国営昭和記念公園(83年開園)や、陸上自衛隊駐屯地も含む広域防災基地となっている。

加藤さんは学習塾講師をしながら30年間以上、こうした活動を続けてきた。原点は「戦争はいやだ」という思いだった。少女時代に見知った立川の「夜の女」も戦争犠牲者が大多数だった。父の須田松柳(しょうりゅう)さんが開業する歯科には朝鮮戦争に派兵された黒人兵が来た。松柳さんも中国に3年間従軍した。大多数の日本兵と同様に多くを語らなかったが、やはり同じような大きな苦労があったに違いない。

「戦争に投げ込まれた男も女も、ああいやだと強く思っていたはず。戦後の苦労は、戦争に比べればずっとうれしい苦労だった。だからこそ、復興は進んだと思うんです」

敗戦後10年の時代に始まった砂川闘争に、流血の危険を冒してまで大勢の人が参加した原動力は、戦争の悲惨な記憶だった。それを受け継ぐ形で加藤さんが「反戦」を貫く理由を、記者は理解できた。

3月下旬、デモ隊と警官隊が50年余り前に衝突した拡張予定地に立った。すぐ近くで米軍戦闘機が轟音(ごうおん)と共に発進した光景を想像することはもう難しい。在日米軍基地はその後沖縄に集中していった。

普天間飛行場の移転先探しに躍起になっている政権の姿を思い浮かべながら考えた。自分にとっては移転先としてどこが最適なのだろう。自衛隊の活動や米国との同盟、つまり日本の「安全保障問題」を、自分の身に引き寄せて、どこまで考えてきただろう。

地元農家などが農作物を植えている現場では菜の花が咲いていた。毎年春の自分の仕事を、黄色い花はしっかりと果たしていた。

(永持裕紀)

父の宮岡政雄さんが反対農家の中心だった(元教師)、福島京子さん

毎晩、六法全書を広げた

砂川は江戸時代に切り開かれた土地で、父は16代目の農家でした。昭和の初め以来、軍の飛行場拡張で土地が接収されても文句は言えなかった。敗戦後はアメリカ軍でした。自分の土地が有無を言わさぬ形で基地にされました。

昭和30年の拡張計画の時、もうこれ以上は許せんという気持ちが強かったようです。国民主権の世になり日本も独立したはずなのに、いつまでも強い者の言いなりになってたまるかという気持ち。それは反対農家に共通していた。

父は近衛兵で敗戦は台湾で迎えました。ひどいところだったと兵隊時代のことを話していました。戦争にこれ以上協力するものかという思いも強かったはずです。

砂川闘争では基地拡張反対同盟の副行動隊長に。隊長の青木市五郎さんと共にまとめ役となり、支援の労働者や学生たちと連携しました。私がよく覚えているのは、毎晩小さな六法全書を広げている姿です。闘争でも、国を相手にした土地明け渡し請求の訴訟でも、法律を武器に闘った。私にも「感情的になったら道を見失うよ」と話しました。自分たちは主権者として毅然(きぜん)として、あくまで理性的に。そんな闘争スタイルでした。

立川基地が日本に返還された時、父は64歳でした。「(基地だったところを)歩いてきたよ」と笑ったうれしそうな顔が、忘れられません。

◆◆伊達判決とは

(伊達判決を生かす会作成)

 1955年に始まった米軍立川基地拡張反対闘争(砂川闘争)で、1957年7月8日、立川基地滑走路の中にある農地を引き続き強制使用するための測量が行われた際に、これに抗議して地元反対同盟を支援する労働者・学生が柵を押し倒して基地の中に立ち入りました。この行動に対し警視庁は2ヵ月後に、日米安保条約に基づく刑事特別法違反の容疑で23名を逮捕し、そのうち7名が起訴され東京地裁で裁判になりました。1959年3月30日、伊達秋雄裁判長は「米軍が日本に駐留するのは、わが国の要請と基地の提供、費用の分担などの協力があるもので、これは憲法第9条が禁止する陸海空軍その他の戦力に該当するものであり、憲法上その存在を許すべからざるものである」として、駐留米軍を特別に保護する刑事特別法は憲法違反であり、米軍基地に立入ったことは罪にならないとして被告全員に無罪判決を言い渡しました。これが伊達判決です。 この判決に慌てた日本政府は、異例の跳躍上告(高裁を跳び越え)で最高栽に事件を持ち込みました。最高裁では田中耕太郎長官自らが裁判長を務め同年12月16日、伊達判決を破棄し東京地裁に差し戻しました。最高裁は、原審差し戻しの判決で、日米安保条約とそれにもとづく刑事特別法を「合憲」としたわけではなく、「違憲なりや否やの法的判断は、司法裁判所の審査には原則としてなじまない。明白に違憲無効と認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、右条約の締結権を有する内閣および国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的判断に委ねられるべきものである」として自らの憲法判断を放棄し、司法の政治への従属を決定付けたのです。そしてこの判決の1ヶ月後の60119日、日米安保条約の改定調印が行われ、現在までつながっているのです。 なお、砂川町(現在は立川市に編入)にまで広がっていた米軍立川基地は、68年には拡張計画を撤回、69年に日本に返還され、現在は、一部を自衛隊航空隊が使用しているものの、大半は昭和記念公園や国の総合防災拠点となっています。

伊達判決を覆すための日米密議

 伊達判決から49年もたった20084月、国際問題研究家の新原昭治さんが米国立公文書館で、駐日米国大使マッカーサーから米国務省宛報告電報など伊達判決に関係する十数通の極秘公文書を発見しました。これらの文書によると、伊達判決が出た翌朝閣議の前に藤山外相がマ大使に会い、大使が「この判決について日本政府が迅速に跳躍上告を行うよう」に示唆し外相がそれを約束しました。さらに、大使は本国国務省へ十数回に及ぶ電報で、岸首相や藤山外相との会見や言動を本国に伝えており、また自ら跳躍上告審を担当した田中最高裁長官と会い「本件を優先的に取り扱うことや結論までには数ヶ月かかる」という見通しを報告させています。このように、伊達判決が及ぼす安保改定交渉への影響を最小限に留めるために伊達判決を最高裁で早期に破棄させる米国の圧力・日米密議・があったことが、米国公文書で明らかになりました。

◆◆伊達判決要旨

(伊達判決を生かす会作成)

日米安保条約第三条に基づく行政協定に伴う

刑事特別法違反(砂川)事件判決

  昭和三十二年七月八日、東京都北多摩郡立川町所在のアメリカ軍使用の立川飛行場内民有地の測量を東京調達局が開始し、この測量に反対する砂川町基地拡張反対同盟員・支援労働組合員、学生団体員等1,000余名は、同日右飛行場北側境界場外に集合して反対し、一部の者が滑走路北側付近の境界柵数十メートルを破壊し、被告人7名は他の参加者300名とともに境界柵の破壊箇所から立入禁止のアメリカ軍使用区域に数メートル立ち入ったことは、安保条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法第二条に違反する行為である。

 憲法第九条は、国家の政策の手段としての戦争、武力による威嚇又は武力の行使を永久に放棄したのみならず、国家が戦争を行う権利を一切認めず、陸海空軍その他一切の戦力を保持しないと規定している。この規定は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように」(憲法前文第一段)しようとするわが国民が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を維持し」(憲法前文第二段)、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等によってわが国の安全と生存を維持しようとする決意に基づくものであり、正義と秩序を基調とする世界永遠の平和を実現するための先駆たらんとする高遠な理想と悲壮な決意を示すものである。憲法第九条の解釈は、アメリカ軍の駐留は、軍備なき真空状態からわが国の安全と生存を維持するため自衛上やむを得ないとする政策論によって左右されてはならない。

 アメリカ軍の駐留が、国際連合の機関による勧告又は命令に基づくものであれば憲法第九条第二項前段によって禁止されている戦力の保持に該当しないかもしれない。しかしアメリカ軍は、わが国がアメリカに対して軍隊の配備を要請し、アメリカがこれを承諾した結果駐留するものであり、わが国はアメリカに対して必要な国内の施設及び区域を提供している。(行政協定第二条第一項)アメリカが戦略上必要と判断した際は、日本区域外にもその軍隊を出動し得、その際には国内の施設、区域がこのアメリカ軍の軍事行動のために使用され、わが国が直接関係のない武力紛争に巻き込まれる危険性があり、それを包括するアメリカ軍の駐留を許容したわが国政府は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きないようにすることを決意」した日本国憲法の精神に悖る。

 アメリカ軍が外部からの武力攻撃に対してわが国の安全に寄与するために使用される場合、わが国はアメリカ軍に対して指揮権、管理権を有しないことは勿論、日米安全保障条約上アメリカ軍は外部からのわが国に対する武力攻撃を防禦すべき法的義務を負担するものでもないが、日米間の密接な関係から、そのような場合にアメリカがわが国の要請に応じ、国内に駐留する軍隊を直ちに使用する現実的可能性は頗る大きいものと思われる。 アメリカ軍がわが国内に駐留するのは、日米両政府の意思の合致があったからであって、アメリカ軍の駐留は、わが国政府の行為によるものであり、わが国の要請とそれに対する施設、費用の分担その他の協力があって始めて可能となるものである。わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的でアメリカ軍の駐留を許容していることは、指揮権や軍出動義務の有無に拘わらず、憲法第九条第二項前段によって禁止されている戦力の保持に該当するものであり、結局わが国内に駐留するアメリカ軍は憲法上その存在を許すべからざるものと言わざるを得ない。

アメリカ軍が憲法第九条第二項前段に違反し許すべからざるものである以上、アメリカ軍の施設又は区域の平穏に関する法益が一般国民の同種法益以上の厚い保護を受ける合理的な理由は何ら存在しないところであるから、国民に対して軽犯罪法の規定(拘留又は科料)より特に重い刑罰をもって臨む刑事特別法第二条の規定(一年以下の懲役又は二千円以下の罰金もしくは科料)は、なに人も適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないとする憲法第三十一条に違反し無効なものといわねばならない。

 よって、被告人等に対する公訴事実は起訴状に明示せられた素因としては罪とならないものであるから、刑事訴訟法第三百三十六条により被告人等に対しいずれも無罪を言渡す。

昭和三十四年(1959年)三月三十日

東京地方裁判所刑事第十三部

裁判長裁判官  伊達秋雄

裁判官  清水春三

裁判官  松本一郎

◆◆伊達判決PDF (伊達判決全文)

クリックしてhanketsu.pdfにアクセス

─────────────────────────────────

◆◆砂川事件・最高裁判決とは

─────────────────────────────────

◆砂川事件最高裁判決全文PDF

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55816

◆◆砂川事件最高裁判決

砂川事件最高裁大法廷判決

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第3条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反被告事件

昭和34年(あ)七710号

同12月16日大法廷判決

上告人 東京地方検察庁検事正

被告人 7名

弁護人 海野普吉 外282名

主   文

原判決を破棄する。本件を東京地方裁判所に差し戻す。

理由

 原判決は要するに、アメリカ合衆国軍隊の駐留が、憲法9条2項前段の戦力を保持しない旨の規定に違反し許すべからざるものであるということを前提として、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約3条に基く行政協定に伴う刑事特別法2条が、憲法31条に違反し無効であるというのである。

1.先ず憲法9条2項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文および98条2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、9条1項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条2項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補ない、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。

 そこで、右のような憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。

2.次に、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法9条、98条2項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。

 しかるに、右安全保障条約は、日本国との平和条約(昭和27年4月28日条約5号)と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、平和条約6条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される2国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあって、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によって認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国60箇国中40数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当っては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。

 ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従って、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第1次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となっている場合であると否とにかかわらないのである。

3.よって、進んで本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその3条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であって、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となってあたかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約1条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によって引き起こされたわが国における大規模の内乱および騒じょうを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなっており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。

 果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法9条2項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。(なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和27年2月28日その調印を了し、同年3月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあったが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和27年3月25日に行政協定が憲法73条による条約であるから、同条の規定によって国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月26日に行政協定は安全保障条約3条により政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法73条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約3条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかったからといって、違憲無効であるとは認められない。)

 しからば、原判決が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法9条2項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤ったものであり、従って、これを前提として本件刑事特別法2条を違憲無効としたことも失当であって、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。

 よって刑訴410条1項本文、405条1号、413条本文に従い、主文のとおり判決する。

 この判決は、裁判官田中耕太郎、同島保、同藤田八郎、同入江俊郎、同垂水克己、同河村大助、同石坂修一の補足意見および裁判官小谷勝重、同奥野健一、同高橋潔の意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

◆◆裁判官田中耕太郎の補足意見

は次のとおりである。

私は本判決の主文および理由をともに支持するものであるが、理由を次の2点について補足したい。

1.本判決理由が問題としていない点について述べる。元来本件の法律問題はきわめて単純かつ明瞭である。事案は刑事特別法によって立入を禁止されている施設内に、被告人等が正当の理由なく立ち入ったということだけである。原審裁判所は本件事実に対して単に同法2条を適用するだけで十分であった。しかるに原判決は同法2条を日米安全保障条約によるアメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性の問題と関連せしめ、駐留を憲法9条2項に違反するものとし、刑事特別法2条を違憲と判断した。かくして原判決は本件の解決に不必要な問題にまで遡り、論議を無用に紛糾せしめるにいたった。

 私は、かりに駐留が違憲であったにしても、刑事特別法2条自体がそれにかかわりなく存在の意義を有し、有効であると考える。つまり駐留が合憲か違憲かについて争いがあるにしても、そしてそれが違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できるところである。

 およそある事実が存在する場合に、その事実が違法なものであっても、一応その事実を承認する前提に立って法関係を局部的に処理する法技術的な原則が存在することは、法学上十分肯定し得るところである。違法な事実を将来に向って排除することは別問題として、既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である。それによって、ある事実の違法性の影響が無限に波及することから生ずる不当な結果や法秩序の混乱を回避することができるのである。かような場合は多々存するが、その最も簡単な事例として、たとえ不法に入国した外国人であっても、国内に在留するかぎり、その者の生命、自由、財産等は保障されなければならないことを挙げることができる。いわんや本件駐留が違憲不法なものでないにおいておや。

 本件において、もし駐留軍隊が国内に現存するという既定事実を考慮に入れるならば、国際慣行や国際礼譲を援用するまでもなく、この事実に立脚する刑事特別法2条には十分な合理的理由が存在する。原判決のふれているところの、軽犯罪法1条32号や住居侵入罪との法定刑の権衡のごとき、結局立法政策上の問題に帰着する。

 要するに、日米安全保障条約にもとづくアメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性の問題は、本来かような事件の解決の前提問題として判断すべき性質のものではない。この問題と、刑事特別法2条の効力との間には全く関連がない。原判決がそこに関連があるかのように考えて、駐留を違憲とし、従って同法2条を違憲無効なものと判断したことは失当であり、原判決はこの一点だけで以て破棄を免れない。

2.原判決は1に指摘したような誤った論理的過程に従って、アメリカ合衆国軍隊の駐留の合憲性に関連して、憲法9条、自衛、日米安全保障条約、平和主義等の諸重要問題に立ち入った。それ故これらの点に関して本判決理由が当裁判所の見解を示したのは、けだし止むを得ない次第である。私は本判決理由をわが憲法の国際協調主義の観点から若干補足する意味において、以下自分の見解を述べることとする。

 およそ国家がその存立のために自衛権をもっていることは、一般に承認されているところである。自衛は国家の最も本源的な任務と機能の一つである。しからば自衛の目的を効果的に達成するために、如何なる方策を講ずべきであろうか。その方策として国家は自国の防衛力の充実を期する以外に、例えば国際連合のような国際的組織体による安全保障、さらに友好諸国との安全保障のための条約の締結等が考え得られる。そして防衛力の規模および充実の程度やいかなる方策を選ぶべきかの判断は、これ一つにその時々の世界情勢その他の事情を考慮に入れた、政府の裁量にかかる純然たる政治的性質の問題である。法的に認め得ることは、国家が国民に対する義務として自衛のために何等かの必要適切な措置を講じ得、かつ講じなければならないという大原則だけである。

 さらに一国の自衛は国際社会における道義的義務でもある。今や諸国民の間の相互連帯の関係は、一国民の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに直接に影響を及ぼす程度に拡大深化されている。従って一国の自衛も個別的にすなわちその国のみの立場から考察すべきでない。一国が侵略に対して自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以でもある。換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従って自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである。

 およそ国内的問題として、各人が急迫不正の侵害に対し自他の権利を防衛することは、いわゆる「権利のための戦い」であり正義の要請といい得られる。これは法秩序全体を守ることを意味する。このことは国際関係においても同様である。防衛の義務はとくに条約をまって生ずるものではなく、また履行を強制し得る性質のものでもない。しかしこれは諸国民の間に存在する相互依存、連帯関係の基礎である自然的、世界的な道徳秩序すなわち国際協同体の理念から生ずるものである。このことは憲法前文の国際協調主義の精神からも認め得られる。そして政府がこの精神に副うような措置を講ずることも、政府がその責任を以てする政治的な裁量行為の範囲に属するのである。

 本件において問題となっている日米両国間の安全保障条約も、かような立場からしてのみ理解できる。本条約の趣旨は憲法9条の平和主義的精神と相容れないものということはできない。同条の精神は要するに侵略戦争の禁止に存する。それは外部からの侵略の事実によって、わが国の意思とは無関係に当然戦争状態が生じた場合に、止むを得ず防衛の途に出ることおよびそれに備えるために心要有効な方途を講じておくことを禁止したものではない。

 いわゆる正当原因による戦争、一国の死活にかかわる、その生命権をおびやかされる場合の正当防衛の性質を有する戦争の合法性は、古来一般的に承認されているところである。そして日米安全保障条約の締結の意図が、「力の空白状態」によってわが国に対する侵略を誘発しないための日本の防衛の必要および、世界全体の平和と不可分である極東の平和と安全の維持の必要に出たものである以上、この条約の結果としてアメリカ合衆国軍隊が国内に駐留しても、同条の規定に反するものとはいえない。従ってその「駐留」が同条2項の戦力の「保持」の概念にふくまれるかどうかはーー我々はふくまれないと解するーーむしろ本質に関係のない事柄に属するのである。もし原判決の論理を是認するならば、アメリカ合衆国軍隊がわが国内に駐留しないで国外に待機している場合でも、戦力の「保持」となり、これを認めるような条約を同様に違憲であるといわざるを得なくなるであろう。

 我々は、その解釈について争いが存する憲法9条2項をふくめて、同条全体を、一方前文に宣明されたところの、恒久平和と国際協調の理念からして、他方国際社会の現状ならびに将来の動向を洞察して解釈しなければならない。字句に拘泥しないところの、すなわち立法者が当初持っていた心理的意思でなく、その合理的意思にもとづくところの目的論的解釈方法は、あらゆる法の解釈に共通な原理として一般的に認められているところである。そしてこのことはとくに憲法の解釈に関して強調されなければならない。

 憲法9条の平和主義の精神は、憲法前文の理念と相まって不動である。それは侵略戦争と国際紛争解決のための武力行使を永久に放棄する。しかしこれによってわが国が平和と安全のための国際協同体に対する義務を当然免除されたものと誤解してはならない。我々として、憲法前文に反省的に述べられているところの、自国本位の立場を去って普遍的な政治道徳に従う立場をとらないかぎり、すなわち国際的次元に立脚して考えないかぎり、憲法9条を矛盾なく正しく解釈することはできないのである。

 かような観点に立てば、国家の保有する自衛に必要な力は、その形式的な法的ステータスは格別として、実質的には、自国の防衛とともに、諸国家を包容する国際協同体内の平和と安全の維持の手段たる性格を獲得するにいたる。現在の過渡期において、なお侵略の脅威が全然解消したと認めず、国際協同体内の平和と安全の維持について協同体自体の力のみに依存できないと認める見解があるにしても、これを全然否定することはできない。そうとすれば従来の「力の均衡」を全面的に清算することは現状の下ではできない。しかし将来においてもし平和の確実性が増大するならば、それに従って、力の均衡の必要は漸減し、軍備縮少が漸進的に実現されて行くであろう。しかるときに現在の過渡期において平和を愛好する各国が自衛のために保有しまた利用する力は、国際的性格のものに徐々に変質してくるのである。かような性格をもつている力は、憲法9条2項の禁止しているところの戦力とその性質を同じうするものではない。

 要するに我々は、憲法の平和主義を、単なる一国家だけの観点からでなく、それを超える立場すなわち世界法的次元に立って、民主的な平和愛好諸国の法的確信に合致するように解釈しなければならない。自国の防衛を全然考慮しない態度はもちろん、これだけを考えて他の国々の防衛に熱意と関心とをもたない態度も、憲法前文にいわゆる「自国のことのみに専念」する国家的利己主義であって、真の平和主義に忠実なものとはいえない。

 我々は「国際平和を誠実に希求」するが、その平和は「正義と秩序を基調」とするものでなければならぬこと憲法9条が冒頭に宣明するごとくである。平和は正義と秩序の実現すなわち「法の支配」と不可分である。真の自衛のための努力は正義の要請であるとともに、国際平和に対する義務として各国民に課せられているのである。

 以上の理由からして、私は本判決理由が、アメリカ合衆国軍隊の駐留を憲法9条2項前段に違反し許すべからざるものと判断した原判決を、同条項および憲法前文の解釈を誤ったものと認めたことは正当であると考える。

以下略

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 小谷勝重 裁判官 島保 裁判官 斉藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 河村又介 裁判官 入江俊郎 裁判官 池田克 裁判官 垂水克己 裁判官 河村大助 裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 奥野健一 裁判官 高橋潔 裁判官 高木常七 裁判官 石坂修一)

◆◆田中耕太郎最高裁長官の米大使への通報と最高裁スピード判決

当時の最高裁長官(田中耕太郞)が、上告審判決の見通しを駐日米公使と密談して伝達していた事実が暴露された。米軍駐留を違憲とした伊達一審判決を1217日に超スピードで破棄し、しかもそれを少数意見のない全員一致の判決で出すことを、米国側の要請に応じて最高裁長官が応諾していた。

これは、当時の駐日米大使がワシントンの国務長官に送った公電から明らかにされたもので、元山梨学院大教授の布川玲子とジャーナリストの末浪靖司が米国立公文書館から入手した。きわめて重大な司法権の独立を揺るがす由々しき問題であるとともに、米国が最高裁判決を、しかも憲法判断を指図しているという日本の主権がいかに犯されているかという由々しき問題である。なお最高裁は憲法81条で違憲審査権をもっているが、これ以降米軍駐留が違憲かどうかなど「高度の政治的問題は審査になじまない」(「統治行為論」)と判断を避けるようになった。

なお共同通信は、「砂川事件」違憲判決、「60年安保改定遅れに影響」することを恐れて急いだことを以下のように指摘している。

2013/4/8 

 1960年の日米安保条約改定に絡み、米軍旧立川基地の拡張計画をめぐる「砂川事件」で米軍駐留を違憲とした59年3月の東京地裁判決(伊達判決)が改定手続きの遅れに影響したとの見解を、日本側が在日米大使館に伝えていたことが7日、機密指定を解除された米公文書で分かった。

公文書は59年8月3日付でマッカーサー駐日米大使(当時、以下同)が米国務長官に宛てた公電。布川玲子・元山梨学院大教授(法哲学)が今年1月、米国立公文書館に開示請求して入手した。

公電によると、改定日米安保条約批准案の国会提出時期について「外務省と自民党の情報源」が在日米大使館側に「(59年)12月開会の通常国会まで遅らせる決定をしたのは、最高裁が砂川事件の判決を当初予定されていた晩夏ないし初秋までに出せないことが影響した」と示唆。「事件は延期の決定的要因ではないが、係争中であれば社会主義者らに論点をあげつらう機会を与えかねない」と述べていた。

今回公開された公電では、砂川事件の上告審で裁判長を務めた田中耕太郎最高裁長官が59年夏、面会したレンハート駐日米公使に「(最高裁の)評議では実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶりかねない少数意見を回避するやり方で評議が進むことを願っている」と語っていたことも明らかになった。〔共同〕

【布川・新原著『砂川事件と田中最高裁長官』日本評論社】

◆◆米国務省最新開示公文書(2013.1.16開示)の翻訳と解説――布川玲子・新原昭治

目次

⚫︎ 文書入手の経緯(布川玲子)

⚫︎ 文書コピー

⚫︎翻訳

⚫︎ 新文書の意義と背景(新原昭治)

布川玲子=文書入手の経緯

以下本稿にて紹介する米国務省開示公文書は、在日米大使館マッカーサ ー大使が、195983日に米国務長官に宛てて出した航空書簡(G73) である。砂川事件「伊達判決」関連米国務省公文書については、国際問 題研究者新原昭治が入手した「砂川ファイル」として纏っていた14(新原資料)を山梨学院大学『法学論集』(64)において、新原、布川両名にて3年前に紹介したところであるが、今回紹介するのは、20131月、 布川が、米国立公文書館(NARA)に対し同国の『情報自由法』に基づ いて、日本から航空便で開示請求した結果、20132月末に入手できた資 料である。

布川が、本文書に関心を持ったのは、20123月フリージャーナリスト末浪靖司氏より同氏が、NARA で入手した上記新原資料を補充する& の米国務省開示公文書(末浪資料)の情報提供を受けたことに発する。そこには、田中長官が、自らが裁判長を務めている大法廷裁判にかかる審議情報を、米国側に伝えていたことが記されている。これを受け、かねてよ り砂川事件関連の日本側公文書開示請求に取り組んでいる「伊達判決を生 かす会」が、最高裁判所に司法行政文書開示申出を行うことになった。 布川は、その際、申出書に資料として付す末浪資料の翻訳を担当した。

その翻訳過程で、田中長官が、法廷で当事者に通知する前に米国に裁判 日程を洩らしていることが推測される、G73書簡の存在を知った。しかし これは、安全保障上の理由から NARA 所有国務省開示文書のファイルか ら抜き取られていた。しかし、いったん開示されたものであるなら、誰か 抜き取り前に見た研究者がいるのでは、といろいろ手を尽くしたが見るこ とはできなかった。その後、どうやら NARA での開示作業中に当初から 抜き取られていた可能性が高いことが判明した。

そこで探索を諦めていたところ、本学名誉教授我部政男先生より、上述 の「開示請求」という方法を教示いただき、試みてみた。その結果、専門 の研究者の方々の経験では、開示してもらえることは稀とのことであるが、 各方面の方々のお力添えにより、今回幸運なことに NARA より開示の 上、コピーを送付していただけた次第である。

文書コピー

など

翻訳

大使館 東京発(発信日1959.8.3 国務省受領日 1959.8.5) 国務長官宛

書簡番号 G-73

情報提供 太平洋軍司令部 G-26 フェルト長官と政治顧問限定

在日米軍司令部 バーンズ将軍限定 G-22

共通の友人宅での会話の中で、田中耕太郎裁判長は、在日米大使館主 席公使に対し砂川事件の判決は、おそらく12月であろうと今考えている と語った。弁護団は、裁判所の結審を遅らせるべくあらゆる可能な法的手 段を試みているが、裁判長は、争点を事実問題ではなく法的問題に閉じ込 める決心を固めていると語った。こうした考えの上に立ち、彼は、口頭弁論は、9月初旬に始まる週の1週につき2回、いずれも午前と午後に開廷すれば、およそ3週間で終えることができると確信している。問題は、そ の後で、生じるかもしれない。というのも彼の14人の同僚裁判官たちの多くが、それぞれの見解を長々と弁じたがるからである。裁判長は、結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶる素になる少 数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っていると付言した。

コメント:大使館は、最近外務省と自民党の情報源より、日本政府が新日米安全保障条約の提出を12月開始の通常国会まで遅らせる決定をしたの は、砂川事件判決を最高裁が、当初目論んでいた(G-81)、晩夏ないし初秋までに出すことが不可能だということに影響されたものであるとの複数 の示唆を得た。これらの情報源は、砂川事件の位置は、新条約の国会提出を延期した決定的要因ではないが、砂川事件が係属中であることは、社会 主義者やそのほかの反対勢力に対し、そうでなければ避けられたような 論点をあげつらう機会を与えかねないのは事実だと認めている。加えて、 社会主義者たちは、地裁法廷の米軍の日本駐留は憲法違反であるとの決定 に強くコミットしている。もし、最高裁が、地裁判決を覆し、政府側に立 った判決を出すならば、新条約支持の世論の空気は、決定的に支持され、 社会主義者たちは、政治的柔道の型で言えば、自分たちの攻め技が祟って投げ飛ばされることになろう。

ウイリアム K. レンハート 1959.7.31

マッカーサー

新原昭治=新文書の意義と背景

日米安保条約改定のための両国間の交渉は、東京で195810月以来おこなわれた。そのありのままの経過を見る上で、米国の国立公文書館に保管されている関連の米外交文書が最有力資料であることは広く知られている。

だがその開示文書群にも、しばしば空白がある。

今回、布川玲子の開示請求に応えて開示された東京・米大使館の秘密書簡は、その歴史の空白を埋める貴重な外交文書だが、ここで「空白」と言うのは、もう一つ別の意味である。

日米安保条約改定の交渉が条約や関連諸取り決めの形をとって、両国代 表による調印により両国間の公式の外交文書となったのは、交渉開始から 15ヵ月後の19601月であった。今回の「発見」で、未だ少なくない非開示の日米交渉文書の一つが明るみに出たのだが、それの持つ意味はそれだけにとどまらない。実はあの日米交渉そのものを途切らせるかのような 「空白」が、1年余の長い時間の流れの途中にポッカリと穴をあけていた のだが、その空白の持つ意味が、今回初めて判明したのである。

交渉そのものになぜ空白が生じたのか。それは、長いこと謎だった。

よく知られている例で説明しておこう。「核密約」として有名な事前協議の運用法を秘密裏に生々しく取り決めた裏協定である秘密「討論記録」は、19596月に完全に仕上がっていた。それなのに半年間は、放置 されたままだった。それがマッカーサー駐日米大使と藤山外相により東京 でイニシャル調印されたのは、半年後の翌196016日のこと。ワシン トンでの改定安保条約調印の13日前である。

両国政府が全力投球で推進していた安保条約改定交渉の途中で、日本側は突然19596月から7月にかけての調印というそれまでの計画に待った をかけたのだった。(20103月開示外務省極秘文書「日米相互協力及び 安全保障条約交渉経緯」1960年作成参照。)

従来、安保条約改定問題の研究家らは、その理由を「自民党の党内事情」に求めた。しかし実は、それ を越える大きな原因があったのだ。東京地裁での伊達秋雄裁判長による 「米軍駐留は憲法違反」の判決(1959330)の跳躍上告を受けた最 高裁が、当初の目論見通りに審議をすすめられなかったことが、予定の時 間表を大きく遅らせた主因であるとした日本側の外務省筋、自民党筋の示唆を、米大使館もその通りと受け止めていたのである。

その目で、当時の国内報道や開示済みの米解禁文書を読み返すと、興味深い。 伊達判決から1ヵ月後の1959429日、マッカーサー大使は本国政府に対し重要な報告電報を送る。62日投票の参院選挙を前にして、もし 日米両政府が安保条約改定で「合意」に達すれば、選挙で「有利な効果を もたらしうる」と岸首相と藤山外相が主張しており、その実現を望んでい ると報告したのだ。米政府の最高意志決定機関「国家安全保障会議」では 30日、日米両政府が来たる620日に改定安保条約の調印をおこなうこ とで合意に達したという事実が報告された。

それから間もない参院選挙直後の630日、藤山外相が近くみずからワ シントンに出かけて、改定安保条約の調印をおこなうこともあると東京で 公言した。これは、岸首相が711日から1ヵ月間、欧州と中南米諸国訪問への出発が準備されている直前のことで、同外相は「岸首相の外遊中、 ワシントンで調印ということもありうる」と記者会見で述べた(「朝日」 630日付夕刊)

しかし7月に入ったとたん、安保条約調印に関する見込み発言はにわか に大きく修正された。76日、政府は、「改定安保条約の調印および国会提出の時期については、急がないことに意見が一致した」と公表したの

(「朝日」76日付夕刊)。それから流れは、19601月の岸首相訪米 による改定条約調印を事実上待つ形となっていった。

当時、国民の運動と世論が新しい動きを見せていた。社会党、共産党などの諸政党、労働組合、民主団体等々を結集した「安保条約改定阻止国民会議」の行動が発展しつつあった。また、戦後日本における最大の冤罪事件となった松川事件の公正裁判を求める大運動も盛り上がり、砂川事件の伊達判決支持をも掲げた運動へと進みつつあった。

そのほぼ1年前、警察官の権限の大幅強化を狙った警察官職務執行法 「改正」案は、人権侵害との国民的な批判が短時間のうちに全国にひろが って、岸内閣のくわだては孤立し失敗に終わった。それを想起させる事態 の再来が予感された状況だったのである。そしてなによりも、伊達判決が日本国民の心の中に生き続けていた状況 をアメリカ自身が鋭く敵視していた。元駐日大使特別補佐官の経歴を持つ ジョージ・パッカードが回顧した通り、東京地裁における伊達判決は、 「日米安保条約の正当性に対し深刻な疑念を投げかけただけでなく、1951 年の対日平和条約以来の歴代日本政府の外交的業績のすべてを台無しにし た」(George Packard, PROTEST IN TOKYO:THE SECURITY TREATY CRISIS OF 1960, Princeton University Press)が故に、伊達判決を生かせの国民世論とそれに対立するアメリカ政府の対抗関係は、 安保条約交渉に大きな影を投げかけざるを得なかったのだった。

◆◆米の砂川関係公開文書

新原昭治氏(日米関係史研究家)より「伊達判決に関する米政府解禁文書」の翻訳(2008年4月27日)から

(駐日大使から国務長官宛)要旨一覧

日時(日本時間)

*1959

330日 午後752分 *部外秘 

本日、「米軍の日本駐留、安保条約、行政協定は違憲であり、被告は無罪」の東京地裁・伊達判決が出た。

当大使館は、日本外務省と打ち合わせ、マスメディアの質問に「大館はコメントしない、日本政府がコメントする立場だ」と答えている。

「日本政府は上訴する」ことを今夜の参院予算委員会で法務大臣が言明する予定。

*331日 午後217分 *極秘

大使が、日本政府が迅速な行動をとり、地裁判決を正すことの重要性を強調。安保条約協議に複雑さを生み、423日の東京、北海道知事選への影響を懸念を表明。

日本政府が、跳躍上告することが非常に重要。社会党など左翼勢力が高裁判決を最終的なものとせず、最高裁の判断まで論議の時間がかかりすぎる。

藤山は、全面的に同意し、今朝9時に開かれる閣議で、最高裁に跳躍上告することを承認するよう勧めたいと語った。

*331日午後9時 *

外務省当局者から、今夕、日本政府が跳躍上告をするかを決めていない、と報告あり。

法務省が緊急に検討中で、外務省当局者は、なるべく早く解決することが望ましい、と認識している。

*41日午後806分 *部外秘

伊達判決は、政府内部でも予想されておらず、国会で政府と社会党との鋭い論議を起こし、憲法問題専門家や評論家の議論、コメントが飛び交っている。

岸首相は、国会でも大衆向けでも、伊達判決は少数意見で、最終的判断は最高裁でなされる。日本政府は、憲法9条の解釈を変えない。政府として自衛隊、安保条約、行政協定、刑事特別法は意見ではないと確信し、安保条約改定交渉を続ける。

新聞は、伊達判決を大きく扱っているが、331日に比べ落ち着いた態度になっている。

各紙論評と社会党の動向の報告。

*41日午後826分 *

藤山が内密に会いに来て、日本政府が憲法解釈に完全な確信がある、砂川事件の上告でも憲法解釈維持されるであろうことを米国政府に伝えたい。

最高裁への跳躍上告を検討中であり、最高裁は本件に最優先権を与えるであろうが、最終判決までは3?4ヶ月かかる、といった。

地裁判決が覆されることを日本政府が確信している。社会党が司法の尊重と騒いでいることは、最高裁の判決時には、政府に有利に働くであろう。

米軍の法的地位について両国政府の交渉が立ち往生になる印象を与えるのはまずい。明日、事前に公表の上、条約関連の会談の開催を提案。この会談で、日本政府が合憲性に確信を持って条約交渉を前進させたいという意図をアメリカ政府に保証させたい、とも語った。

藤山は、明朝、福田と船田と会い、事前公表予定の会談が、自民党にとて有意義か、チェックする。

*43日午後326分 *

福田幹事長は、地裁判決を最高裁の直接上告することを決定した、と語った。

*43目午後1044分 *

法務省が、最高裁に直接上告する決定を発表。外務省は、法務省から最高裁への提出書類を準備中と報告あり。

最高裁の審理の速さは不明だが、数週間から数ヶ月という予測がある。

政府幹部は、判決が「?社会党の選挙活動に利する?日本の国際的威信?左翼が日本の国防体制に障害をもたらす法的対抗手段の可能性」などから、伊達判決が覆ることを確信している最高裁判決をせきたてるようとしている。

外務省筋が大使館員に、静岡地裁の富士演習場事件(米軍使用のため接収された土地で自衛隊が訓練に使用することは違法)で、原告からの「迷惑訴訟」の性格が伊達判決の影響で「違憲訴訟」の変質する可能性あり、と語った

*424日午後335分 *

最高裁は、砂川事件の地裁判決上告趣意書の提出期限を615日にすることを422目に決めた。

外務省当局は、「上告審の審理は7月半ばに開始されるだろうが、現毅階で決定に時期は予測できない。

内密の話し合いで、田中耕太郎担当裁判長(当時の最高裁長官)は大使に「本件は優先権が与えられているが、審議が始まったあと決定に到達するまでには少なくとも数ヶ月かかる」と語った。

*522

砂川事件は、ニュース、論説などで関心を呼び、政府と社会党との安全保障をめぐる対立もきわだち、最高裁では逆転するという政府の確信に対して、社会党の軍事増強への攻撃に一時的でも明るい援助を与えていると、オブザーバーたちは見ている。

弁護側は、7人の被告人に千人の弁護士を集めるといっている。審議の予備的打ち合わせで、第一小法廷の斉藤主任裁判官が、被告1人に弁護士を3人以下としたことについて、朝日新聞を含め多くの評論家から非難されている。

斉藤裁判官は、弁護士人数の制限は、最高裁審議の促進と最高度の優先度を与えるための措置である、説明している。さらに、最高裁が米国最高裁のジラード事件の迅速な決定を重視し、8月には判決を行うだろうと予測した、と新聞は報道している。

*68日 *部外秘

(62日に東京地検が最高裁に提出した上告趣意書の要点)

*913日午後210分 *

最高裁審理で弁護側は、予想通り、在日米艦隊が54年にインドシナで、58年に台湾海峡の金門馬祖島周辺で作戦行動を行った、と申し立てた。

▼97日の米国コメントを外務省当局者に伝え注意深く吟味した。外務当局はこのコメントを検察事務所にはまだ届けていない。それは、在日米艦隊が54年の南シナ海での行動は明確に否定しているが、台湾海峡関連が否定されていないので、弁護側から安保条約関係への新たな攻撃を受けることになるからである。外務当局者の話では、台湾海峡についても南シナ海でのものと同一あるいは共通のものといえないか、そうすれば918日の検察側の最終論議に大きな助けとなる、ということである。

▼97日の米国コメントの台湾海峡部分では、FORCES(兵力)とといってFLEET(艦隊)に言及しないことので国務省が承認しなかったのであろう。検察側は、外務省経由の米側のコメントの検討に時間がかかるだろうから、両行動とも同様に否定できると伝えられればよいのであるが。この回答は915日までに必要であり、迅速な返事を求める。(このコメント電報は解禁文書に含まれてはいない。)

*915日午前1028分 *秘 *国務長官から大使宛返信

台湾海峡危機の際の米「軍」が、第7艦隊については、安保条約の下で日本に出入りしている部隊ではない、といえても、他の海兵航空団や第5空軍部隊は、日本の基地を使用しているから、第7艦隊と同様にはいえない。

検察官は「第7艦隊は日本に出入りしている部隊ではない。台湾海峡での作戦で西太平洋中の利用できる基地を使用した」と述べてもよい。

上記のことは、あまり役立たないであろう。検察官が、インドシナと台湾の状況の関する同方向の表明が必要なら、関連国務省電報の第7艦隊の運用に関する声明を使ってもよい。

*917日午後853分 *

関連電報の情報は、外務省当局者に伝え深謝された。許可された情報は、今朝検察官に伝えられ、918日の最終陳述で使うと知らせてきた。

*919目 *部外秘

弁護士たちは、99目、11日、14日、16日の連続4期日ぶっ通し発言した。弁護団の攻撃は、安保条約が国連憲章と日本国憲法に違反することの論証の試みに集中し、目米両国の意図を非難した。

弁護団は、社会党容共派の黒田寿男、総評弁護団の内藤功、自由法曹団・共産党員の風早八十二、日教組法律顧問の芦田浩志、元最高裁判事の真野毅が発言した。

弁護側は、諸条約やそれに基づく国内法の合憲性を不問に付すことが違憲だ、と述べ、1891年のロシア皇帝暗殺未遂事:件を当時の大審院が死刑にしなかったこと対照させ、砂川事件を政治的ではなく法律的な理非曲直で判断せよ、とも述べた。

口頭論議は、918日の弁護側と検察側の最終弁論で打ち切られる。尋問は新聞で引き続き報じられているが、論説によるコメントはなく、法廷周辺は平穏である。

◆◆(憲法を考える)砂川最高裁判決の呪縛=吉永満夫さん、春名幹男さん、南野森さん

2016524日朝日新聞

砂川事件最高裁判決をめぐる経緯

 米軍駐留の合憲性の判断を避けた57年前の最高裁判決。近年見つかった米公文書で裁判の公平さに疑問符がつく一方、安保法制のお墨付きにも持ち出され、今も私たちに絡みつく。

◆◆公平性、最高裁自ら検証を 吉永満夫さん(砂川事件再審請求弁護団代表)

 59年前、東京の米軍立川基地拡張計画に反対するデモ中、基地内に数メートル立ち入ったとして7人が逮捕、起訴されました。基地の地名から砂川事件と呼ばれています。

 米軍の駐留自体が憲法違反として一審は無罪。それを破棄した最高裁判決が今もさまざまな影を落としています。

 転機は8年前。最高裁での審理中、田中耕太郎最高裁長官が駐日米国大使・公使らと「内々に」面談し、裁判の見通しや評議の内容を示唆していたことを示す米国の公文書が見つかりました。そこで元被告人らは「憲法が保障する公平な裁判を受けられなかった」と裁判のやり直し(再審)を求めたのですが、東京地裁は今年3月棄却し、現在東京高裁が審理しています。

 被害者にあたる米国側と担当裁判長が内々に面談しただけでも不公平な裁判のおそれを感じます。地裁は、長官が裁判所を代表して「国際礼譲」の対象の米側関係者と内々に面談したからといって直ちに不公平な裁判をするおそれがあるとはいえないとしていますが、「国際礼譲」と「内々」は矛盾します。

 さらに米公文書が、長官が「駐留米軍は違憲」とした一審の無罪判決について「覆されるだろう」と米側に示唆したとする点も、「米大使が受けた印象が記載されているにすぎない」としています。しかし面談し、そんな印象を与えただけでも問題でしょう。

 再審請求を棄却する結論が先にあって、理由は後でひねり出した感じがします。

 裁判官が評議の秘密を漏らすことは裁判所法や裁判官倫理に反し、罷免(ひめん)に値する行為です。田中長官の意識は、裁判官というより政治家だったのではないか。戦前は東大で商法を教え、戦後、第1次吉田内閣の文相を務め、参院議員に転じました。ある書物で、左翼的暴力の脅威から民主主義を守るために戦う必要があるという趣旨の主張をしています。米大使に評議内容を伝えるくらい、何の問題もないと考えたのでしょう。

 これだけ裁判の公平性を疑わせる明白な証拠があるのに、裁判所が再審開始決定しないのはなぜか。裁判官の保身でしょう。大飯原発の運転差し止め判決をした福井地裁の裁判長が昨年、名古屋家裁判事に異動させられたのを見ても、時の政権の意向に反する判断をすればどこに飛ばされるかわからないと考えても不思議ではありません。

 仮に再審開始となれば、砂川事件最高裁判決の正当性が否定され、「駐留米軍は違憲」とした一審判決が再浮上します。最高裁判決を根拠に集団的自衛権行使容認に踏み切った安倍政権にも影響を与える事件です。田中長官の問題は再審の手続きだけに任せず、最高裁が自ら検証に乗り出して、負の遺産を清算すべきです。(聞き手・山口栄二)

 よしながみつお 42年生まれ。71年弁護士登録。横浜事件第3次再審請求事件弁護人。著書に「崩壊している司法」など。

◆◆米の介入、冷戦後に変化 春名幹男さん(早稲田大学客員教授)

 砂川事件が起きたのは、日米安保条約改定の予備的協議が始まろうとする時期でした。米国は日本のことをヨチヨチ歩きで防衛力も弱い、監督の対象と考えていました。

 安保条約改定反対の世論が盛り上がるなか、砂川事件の一審判決で「米軍駐留は違憲」と指摘され、駐日米大使はかなり慌てたのでしょう。日本側の外相に「スピーディーな行動で地裁判決を正す重要性」を強調し、高裁を飛び越え最高裁に直接上告せよ、と圧力をかけたことを、ジャーナリストの新原昭治氏が発見した米公文書が示しています。その通り、検察は跳躍上告の手続きをとりました。

 さらに、米大使は最高裁長官と会談し、上告審の見通しを問いただす行動に出ました。日本は三権分立の制度を採る独立国です。司法権への介入は傲慢(ごうまん)で、非難されるべき行為でした。

 米国による司法権への介入という意味では、やはり1957年に起きた「ジラード事件」も特筆すべきです。群馬県の米軍演習地内で薬莢(やっきょう)拾いをしていた主婦を、米兵ジラードが背後から発砲して即死させた事件です。

 米側は日本側と、殺人罪でなく傷害致死罪で起訴することを条件に米兵の身柄と裁判権を引き渡す密約を交わしました。裁判の判決は傷害致死罪で懲役3年執行猶予4年の有罪。逃げる主婦を後ろから狙い撃ちした行為を傷害致死で済ませることで、米国側の無理な要求を政府だけでなく、裁判所も受け入れたのです。砂川事件でも、この前例をふまえ安易な司法介入が行われたのかもしれません。

 同年、訪米した岸信介首相との会談で、アイゼンハワー米大統領は「求められないところにはいたくない。米軍撤退の開始を検討する用意がある」と伝えました。「我々が日本を守ってやっているのだから多少の問題があっても我慢しろ」というわけです。安保条約改定交渉では米軍による日本防衛義務規定を加える検討をしており、「米軍駐留は憲法違反」と断じた砂川事件の一審判決は邪魔でしかない。「早く取り消せ」というのが本音だったでしょう。

 冷戦終結で、米国内の世論の空気も変わりました。日米防衛協力のための指針(ガイドライン)は改定のたび、日本防衛についての米軍の関与の度合いが弱まっています。2000年までにナチス戦争犯罪情報公開法と日本帝国政府情報公開法が米議会で成立しました。「反共のとりで」として同盟関係を築くため、日独両国の過去の戦争犯罪をあいまいにした米側の姿勢にも、変化が出てきています。

 日本は、冷戦期の「米国は必ず日本を守ってくれる」という幻想からそろそろ脱却して、現実的な安全保障戦略を考えるべき時期でしょうね。

(聞き手・山口栄二)

 はるなみきお 46年生まれ。共同通信ワシントン支局長を経験、専門は日米関係。著書に「仮面の日米同盟」など。

◆◆弱い「番人」、支えは国民 南野森さん(九州大学教授)

 砂川事件をめぐり、最高裁長官が紛争の事実上の当事者である駐日米大使と面会していたのは異常な出来事です。ただ、それをもって、憲法に保障された「公平な裁判」ではなかった、と立証できるかといえば難しいと思います。

 理由は二つあります。

 まず、当時の田中耕太郎長官が大使に伝えた内容は裁判の見通しにとどまり、結論を漏らしたとまでは言えないからです。また、長官といえども最高裁に属する15人の裁判官の1人にすぎず、絶対的な権限があるわけではありません。一審の無罪判決を破棄した最高裁判決の結論も15人全員が一致したものでした。このため、再審請求を退けた東京地裁決定は法律論としては理解できます。

 砂川事件で問われた日米安保条約について、最高裁は「高度に政治的」な問題だとして判断を避けました。統治行為論と呼ばれます。自衛隊の存在が憲法に照らして許されるかについても、最高裁は一度も判断したことがない。憲法81条で法律や行政行為が憲法に反していないかを判断する違憲審査権が認められているにもかかわらず、です。

 少数意見をすくい上げたり、政治のブレーキ役を果たしたりする権限があるのに政治と正面から向き合おうとしないのは、最高裁がそれほど強い立場にはないからです。

 最高裁の違憲判決には物理的な強制力があるわけではなく、国会が無視することもある。親などを殺す尊属殺人の規定を違憲とした判決は20年以上放置され、一票の格差について「違憲状態」という判決が続いても、国会は根本的な是正に動いていません。こうして司法の信頼や権威が損なわれることを恐れて、最高裁は現実政治の思惑を忖度(そんたく)しようとするのです。

 また、踏み込んだ判断をすれば、政治からしっぺ返しを食う可能性もないとは言えません。アメリカで違憲判決が続いた30年代には、大統領が意に沿う判決を導き出そうと連邦最高裁判事の増員を画策しようとしました。日本国憲法でも、最高裁判事の任命権は内閣にあります。

 しかもいま、目的のためなら、長年積み上げてきた法の論理でも踏みにじろうとする傾向が顕著です。安倍政権は砂川事件判決を奇妙に解釈して、集団的自衛権行使に道を開きました。当時の首相補佐官も「法的安定性は関係ない」と口にしたほどです。

 法の秩序を保ち、法の支配を安定させるには、為政者に憲法を守らせ、国会や内閣に司法の判断を尊重させなければなりません。でも最高裁には後ろ盾もなく、思い切った決断をしづらい。支えになるとすれば国民の理解と信頼です。それがなければ、最高裁が「憲法の番人」として振る舞うことはできないのです。(聞き手・諸永裕司)

 みなみのしげる 専門は憲法学。編著に「憲法学の世界」、AKB48の内山奈月さんとの共著「憲法主義」など。

─────────────────────────────────

◆◆砂川事件・伊達判決・最高裁判決その後

─────────────────────────────────

◆◆筆者=安倍政権の「最高裁砂川判決」の活用=「最高裁砂川判決」を活用した「集団的自衛権の行使可能」論の問題点

憲法裁判上有名な「最高裁砂川判決」を突然、安倍政権が活用し始めたことには驚かされた。安倍政権は、歴代政府が憲法上禁じてきた集団的自衛権の行使を容認するための理屈づくりに現在、安保法制懇(5月連休明けに報告発表予定)を中心に必死となっている。自民党内や公明党はじめ歴代法制局長官や多くの憲法学者などから総反発を食らっている。そこで思いついたのが、195912月の「最高裁砂川判決」の活用だ。「憲法には、個別的自衛権も集団的自衛権も書いていない。最高裁の砂川判決があるだけだ。その中から(集団的自衛権を)どう考えていくかという課題もある」(14.2.10衆院予算委員会)と繰り返し、高村副総裁など自民党幹部も同じ発言をし始めている。確かに「最高裁砂川判決」には「(憲法上)」わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではない」という一文がある。この「固有の自衛権」に「集団的自衛権も含まれている」とのべて、「最高裁の判決でも認めている」と「お墨付き」、はくをつけるために引用しようとしているのだ。

砂川事件の弁護団の内藤功氏は、以下のようにのべている。米軍駐留を違憲とした東京地裁の「伊達判決」を破棄した最高裁判決は不当だが、その不当判決でさえ、集団的自衛権の行使について判決は一言も認めていない。当時の法廷では、自衛権とは、日本が侵略された場合の「個別的自衛権」のことで、「集団的自衛権」については誰も考えていなかった。ただ田中耕太郎裁判長だけは、判決に添付されている「補足意見」で「自衛は他衛」などとのべて集団的自衛権の「思想」を表明したが、他の裁判官14人は同調せず、大法廷判決では採用されなかった。この経過からすれば、むしろ集団的自衛権の行使は否定されたのである。

内藤氏が指摘している通り、事実、当時の法制局長官は、「砂川判決をめぐる若干の問答」のなかで「わが憲法がいわゆる集団的自衛権を認めているかどうかという点も、なお未解決だね。個別的自衛権のあることは今度の判決ではっきりと認められたけれども」(『時の法令』60344)とのべている。

◆◆安保法案合憲の根拠砂川裁判の当事者が怒り「許せない」

2015.06.19日刊ゲンダイ

土屋源太郎氏(右)は激怒

 安倍政権は集団的自衛権の行使容認が合憲である根拠として、1959年の砂川事件の最高裁判決を錦の御旗にしているが、この上告審は裁判長(最高裁長官)が米国に魂を売って書き上げた「デタラメ判決」だったことを国民はよく考えた方がいい。

 当時の田中耕太郎最高裁長官がマッカーサー在日米国大使と密かに話し、砂川判決を政治的にねじ曲げたことが、米国の公文書で明らかになっているのだ。そんな判決文を安倍政権があえて持ち出したことに対し、裁判の元被告人である当事者が18日、ついに怒りの声を上げた。

 衆院議員会館で会見を開いた元被告人は、土屋源太郎氏(80)。1957年に米軍立川基地の拡張反対闘争で基地内に侵入したとして逮捕・起訴されたひとりだ。土屋氏らは米国の公文書を根拠に、最高裁判決が憲法37条の「公平な裁判所」に違反しているとして、現在、砂川事件の再審請求訴訟を行っている。

1/2 次のページ

「(安保関連法案で)この汚れた、まさに無効の判決を持ち出して引用することは大きな欺瞞だ。国民をだます方便でもあり、我々当事者は絶対に許せない」(土屋源太郎氏)

 米公文書では、田中最高裁長官と米大使の密通がクッキリだ。極秘公電は3通あり、裁判の日程や進め方、判決の見通しについてまで事細かに報告されている。当時、日米安保条約の改定の議論が始まっていて、砂川事件の1審判決(米軍駐留は違憲)がネックになっていたことから、米国は最高裁の早期の逆転判決を希望していた。公文書には〈田中裁判長は、来年のはじめまでには最高裁は判決を下すことができるだろうと言った〉〈田中裁判長は、下級審の判決が支持されると思っているような様子は見せなかった〉とまで書かれているのだから驚く。

 こうした事実を政府が知らないはずはない。再審請求訴訟で極秘公電の翻訳をした元外交官の天木直人氏は、「判決の成立過程を知りながら合憲の根拠にしたなら、これほどフザケタ話はない」「安倍政権の安保法制の合憲性の議論以前に、田中最高裁長官が憲法違反」と憤った。

 土屋氏は、そもそも「砂川裁判の最高裁での審理で、自衛権の議論はなかった」とも明言した。

 デタラメ判決が再審となれば政府は赤っ恥をかく。悪いことは言わない。安保法案をいますぐ引っ込めるべきだ。

◆◆「安保法案 合憲」強調 首相 砂川判決を引用

201569 朝刊

 首相は法案が合憲との根拠について一九五九年の最高裁による砂川事件判決を挙げ「わが国の存立を全うするために自衛の措置を取りうることは国家権能として当然のこと」と指摘。その上で今回の集団的自衛権の行使容認に関し「他国の防衛を目的とするのでなく、最高裁判決に沿ったものであるのは明白」と述べた。

◆◆砂川事件弁護団 再び声明 合憲主張「国民惑わす強弁」

 他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案について、政府が一九五九年の砂川事件の最高裁判決を根拠に合憲と主張しているのに対し、判決時の弁護団の有志五人が十二日、東京都内で会見し、「裁判の争点は駐留米軍が違憲かに尽きる。判決には集団的自衛権の行使に触れるところはまったくない」とする抗議声明を出した。五人はみな戦争を知る白髪の八十代。「戦争法制だ」「国民を惑わすだけの強弁にすぎない」と批判し、法案撤回を求めた。 (辻渕智之)

 「集団的自衛権について砂川判決から何かを読み取れる目を持った人は眼科病院に行ったらいい」

 会見の冒頭。新井章弁護士(84)は眼鏡を外し、鋭いまなざしを子や孫世代の記者たちに向けた。そして「事件の弁護活動をした私らは裁判の内容にある種の証人適格を持っている」と法律家らしく語り始めた。

◆◆砂川事件免訴を求める再審請求を提出した土屋源太郎さんに聞く

 自民党の高村副総裁は、集団的自衛権の行使を「合憲」とする根拠として、一九五九年一二月の砂川事件最高裁判決が、「個別的」か「集団的」かを問わず、自衛権を「固有の権利」としていることを挙げた。しかしこれはとんでもない話である。もともと同裁判は「集団的自衛権」の「合憲性」を論じるものではなかったというだけではなく、そもそもこの判決は当時の田中最高裁長官、日本政府、マッカーサー駐日米大使の謀議によって進められたそれ自体司法の独立を踏みにじる違憲・無効のものである。同事件の元被告として免訴を求める再審請求を提出した土屋源太郎さんに話をうかがった。

◆伊達判決をよみがえらせる時だ

――一九五九年三月三〇日に東京地裁で有名な「伊達判決」が下されました。すなわち一九五七年七月八日に米軍砂川基地拡張に反対する闘争の中で、土屋源太郎さんたち、支援にかけつけた学生や労働者が米軍基地内に入ったということで刑事特別法違反で逮捕・起訴された件で、東京地裁の伊達秋雄裁判長が、安保条約に基づいて日本に駐留する米軍は憲法九条2項で保持することが禁止された「戦力」にあたるため憲法違反であり、被告たちは無罪という画期的判決です。

 この判決に政府が介入し、検察側は高裁を飛び越えて最高裁への跳躍上告を行いました。そして一九五九年一二月一六日に最高裁大法廷で「駐留米軍は憲法違反ではない」との理由で一審無罪判決が破棄され、東京地裁に差し戻すという判決が下されました。

 そして結局一九六一年三月の東京地裁差し戻し審判決で罰金二〇〇〇円という有罪判決が出されて確定したわけです。

 いま土屋源太郎さんたち「伊達判決を生かす会」は砂川事件裁判の免訴判決を求める再審請求書を提出して、新しい裁判闘争を始めています。この闘いの意味についてお話しいただけませんか。

◆米公文書館で新資料の発見

土屋 二〇〇八年から一三年にかけて国際問題研究者の新原昭二さんや元山梨学院大教授の布川玲子さん、ジャーナリストの末浪靖司さんが、米国公文書館で伊達判決をめぐる重要な文書を発見した。それは当時のマッカーサー駐日米大使が「伊達判決」に関して岸内閣の藤山外相、さらに田中耕太郎最高裁長官と話した内容を、駐日米大使が本国政府に送った報告だ。

この中で藤山外相は、翌年に予定されている日米安保改定の争点にならないように「跳躍上告」して最高裁に送り、一審判決を破棄することを相談し、またマッカーサー駐日米大使は三回にわたって自分が大法廷の裁判長を引き受けることになる田中耕太郎最高裁長官と密談し、裁判の進行スケジュール、判決は「全員一致」で下すこと、一審判決を踏襲しないことなどを確認している。

こうしたことは、司法の独立性に反する違法・違憲の行為であって許されるものではなく、それだけで最高裁の「地裁差し戻し」判決は無効だ。そこで私たちは二〇〇九年三月に内閣府、外務省、最高裁、法務省に関連文書の開示を求めた。これが「伊達判決を生かす会」の出発です。

しかし文書開示請求への回答は「不存在」という理由での却下だった。省庁への異議申し立ても却下され、最高裁にいたっては異議申し立てそのものを受け付けなかった。最高裁の言い分は、より上級の裁判所がない以上受け付けることはできない、不服があれば裁判を起こしてくださいというものだった。

実際には、米国公文書館の文書によれば最高裁の田中長官と駐日米大使は三度にもわたって一審伊達判決破棄の謀議をやっていたことが明らかであるわけだから、最高裁判決が「汚染」されていることになる。しかし問題は「再審」で「無罪」を勝ちとるのはできないということだ。なぜなら私たちが、米軍基地内に入ったという事実関係自身はあるわけだから。

◆「公平原則」に反した最高裁判決

土屋 そこで吉永満夫弁護士と相談して最高裁判決を無効とし、東京地裁に再審請求を行って免訴の判決を求める、という方針を決めた。吉永満夫弁護士は太平洋戦争中の弾圧事件である横浜事件再審請求訴訟の弁護も担当していた。横浜事件の再審請求裁判は、本来無罪判決であるべきなのだが、「免訴」という判決が出た。そこで、そういう形もあると相談し、最高裁の「汚染」された判決は憲法三七条の「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する」という規定に反するものであり、その「公平」原則に反する最高裁判決に規定された確定判決も無効なので、「免訴」を求める、という方針を今年一月に決めた。

その方針を二月二六日の記者会見で発表した時には、「再審請求提出」は「早くて夏」と記者の質問に答えたのだけど、その後、三月に高村自民党副総裁が「集団的自衛権『合憲』」の根拠としてこの最高裁砂川判決を持ちだすということを言い出したので、なおさらこの最高裁砂川差し戻し判決の無効と「免訴」を求めることに意味があると議論し、国会会期中の六月一七日に「再審請求書」を提出し、七月二八日には補充書を追加提出した。最初の請求書提出では支援弁護団は六六人だったが、九月一〇日段階で九〇人になっている。いま再審請求支持署名も集めており、現在一万三〇〇〇人を超える人々の支援をいただいています。ご協力よろしくお願いします。知識人・文化人にも広げたいと思っている。また沖縄の反基地闘争との連帯も進めていきたい。

私は、普通に考えるなら検察や裁判所が再審請求を却下するのは難しい、と思う。アメリカの公文書館の資料が四つもある。その資料が虚偽であるとは言えないはずだ。この資料が虚偽でないとしたら最高裁判決の公平性が問われるのは当然だ。この判決に関わった最高裁の裁判官は一五人いるが、裁判を統括し、指揮したのは田中耕太郎本人だ。

そして再審開始決定を勝ち取る過程で、安保条約の違憲性が問われるし、また「統治行為論」(国家統治の基本に関する高度の政治性を有する政府の行為は、司法審査の対象外とする、という最高裁砂川事件判決の論理)の問題点も明らかにすることができる。

◆小学生時代の戦争体験から

――土屋さんが砂川闘争に参加するようになったいきさつを話していただけませんか。

土屋 私は一九三四年八月に東京で生まれた。太平洋戦争が始まったのが小学校一年生の時で、小学校五年で敗戦を迎えた。四年生の時に母親の実家があった宮城県に一人で疎開し、一九四五年四月一八日の空襲で、東十条にあった家が焼かれた。そして一家そろって長野県軽井沢に疎開し、そこで敗戦を迎えた。疎開前に私が通っていた学校も焼けて廃校になってしまった。

戦争中はやはり軍国少年だったが、そうした経験もあって変わっていきます。学校が再開して、教師が筆と墨汁で教科書に墨塗りしているのを見て、大人への不信感が強まった。食えないことも重なって戦争はおかしい、という気持ちが強まったね。

中学、高校では生徒会活動にも参加して、平和や社会問題に関心を持つようになった。一九五三年に明治大学に入学し、六月一日には民主化闘争で全学ストがあって、その時に闘争委員になって学生運動にのめりこんだわけだ。その年の一二月には日本共産党に入党した。

◆都学連の先頭で農民の闘い支援

土屋 一九五六年の砂川闘争の時には明大自治会の中央執行委員長で、かつ全学連の中執になっていた。そして五七年初めには都学連委員長になった。砂川闘争は米軍砂川基地の拡張をめぐって一九五五年に始まっていたのだけど、この時は全学連は参加していない。当時の全学連は、原水禁運動に重点を置いて米英大使館デモなどを行っており、かつ砂川反対同盟内部でも全学連に支援を申し入れることへのためらいがあったと聞いている。したがって五五年の闘争は地元の農民と三多摩地区の労働組合の運動だった。

それで五五年の闘争ではけが人や逮捕者も出て、地主への買収工作も強まり、一部の地主は土地を売却し、町議会議員の中でも闘争から抜ける人も出てきた。そこで反対同盟としては総評や全学連に支援を求めることになった。こうして東京地評、全学連、社会党、共産党が全体として支援にかけつけた。

一九五五年、五六年の闘争は、米軍滑走路を拡張するために一二六戸もの農民の土地が対象となり、砂川町議会も反対決議を上げた。一九五五年には農民の土地に杭が打たれて、そのとき「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」という有名なスローガンが生まれた。その時、杭打ちは途中で中止となった。

一九五六年の闘争は、前年途中で中止になった杭打ちを再開することで始まったわけですが、とりわけ一〇月の闘いでは総評、全学連は一万五~六〇〇〇人を動員し、流血の激突の中でついに工事中止を宣言させた。

◆なぜ米軍基地内に入ったのか

――基地の中に入ったという刑特法違反容疑で、土屋さんたちが事後逮捕されたのは激しく闘われた五五~五六年の闘争ではなく一九五七年七月の闘争ですよね。なぜ五五~五六年の闘いではなく五七年の闘争で刑特法が適用されたのでしょうか。

土屋 そこが重要なところなんだ。もともと立川には戦前から陸軍の航空基地があった。それを米軍が基地として接収するわけだが、後に砂川反対同盟の行動隊長になる青木市五郎さんは米軍司令部に乗り込んで基地内にある自分の土地の「賃貸契約」を米軍に結ばせることになった。

一九五六年の闘争の中で、青木さんは今度は米軍基地内にある自分の土地の返還訴訟を起こした。それに対して米軍の意を受けた「調達局」は青木さんの土地の強制収用を図り、そのための測量を試みた。一九五七年七月八日の闘争は、この土地測量を阻止することを目的としていた。

つまり一九五五年、五六年の闘争が基地拡張反対闘争で、基本的に現にある基地の外での闘いだったのに対し、五七年の闘いは米軍基地の中の青木さんの土地をめぐる攻防だったわけで、初めから米軍基地の中に「入る」ことを意識した闘いだった。したがってそれは「刑特法」の対象になることも意識していた。

一九五七年七月八日に、私たちが米軍基地の中に入った時、警官隊の後ろには米軍がいた。後で聞いた話では、米軍は混乱が起きたら発砲する態勢も取っていたという。抗議闘争の中で学生・労働者側と調達庁との話し合いで、杭打ちをしないと調達庁が表明したため、双方が同時に引き上げた。それでもって九月二二日に事後逮捕ということになった。

伊達判決を棄却した最高裁の一九五九年判決は、あえて憲法論を避け、しかも田中耕太郎最高裁長官の下で少数意見を抑え、全員一致の判決を出すという方針に貫かれていた。それは安保改定交渉が伊達判決のために遅れてしまった状況があり、かつ自民党の中でも改定案がなかなかまとまらない中で、安保交渉を進めていくために行われたものであることは明らかだろうと思う。

(二〇一四年九月一九日)

◆◆砂川事件、再審請求7月17日に

20140527日朝日新聞

 旧米軍立川基地の拡張計画に反対した学生らが逮捕された1957年の「砂川事件」で、有罪判決を受けた元被告らが「公平な裁判を受ける権利を侵害された」として、東京地裁に来月17日、再審請求を申し立てる。この事件の最高裁判決は安倍政権が集団的自衛権の行使容認の根拠として引用しており、元被告らは「ゆがんだ解釈だ」と抗議している。

 一審判決は「米軍の駐留は憲法9条に反する」として元被告らを無罪としたが、最高裁は「合憲」として一審を破棄。審理を差し戻された地裁は、罰金2千円の有罪判決とした。

 だがその後、最高裁判決の前に当時の最高裁長官が米国側に判決の見通しを伝えていたことが、米国の公文書から判明。元被告らは今回、「最高裁は公平な裁判をしていない。差し戻しを受けた地裁は裁判を打ち切るべきだった」と主張する。元被告の土屋源太郎さん(79)は「安倍政権に抗議するとともに、事件の当事者として発言する責任がある」と語った。

◆◆東京地裁=砂川事件再審を棄却、最高裁長官の米側接触は認定

201639日赤旗

(写真)記者会見で砂川事件再審請求の棄却決定に抗議する請求人の土屋源太郎さん(右から2人目)ら=8日、東京都内

 米軍駐留の合憲性をめぐって争われた1957年の砂川事件で有罪が確定した元被告らの再審請求について、東京地裁刑事10部(田辺三保子裁判長)は8日、棄却を決定しました。元被告らは同日、「砂川事件最高裁判決を集団的自衛権の根拠とする政府に迎合した不当な決定だ」とする抗議声明を出し、即時抗告して東京高裁で争う方針を発表しました。

 砂川事件をめぐっては、国際問題研究者の新原昭治氏が2008年4月、当時の田中耕太郎最高裁長官(裁判長)が被害者の立場にある駐日米国大使らと密議を繰り返し、裁判の経過や最高裁へ跳躍上告するなどの見通しを伝えていたとの米機密公電を発見。元被告らは14年6月、これらを新証拠として、砂川判決は憲法の保障する「公平な裁判所」によるものではなかったとして再審を申し立てていました。

 地裁の決定書は、田中長官が米大使館関係者と面会し、裁判情報を提供していたとの機密公電の内容を大筋で事実だと認めました。一方、裁判所の代表が「慣例上」部外者と交際することも認められているなどとして、「直ちに不公平な裁判をするおそれが生ずるとは解しえない」と正当化しました。

 記者会見で、元被告の土屋源太郎さん(81)は今回の棄却について、「裁判の公正と司法の正義を(司法が)自らの手で放棄した」と厳しく批判。安倍政権が集団的自衛権容認の憲法上の根拠とする砂川判決を、戦争法の施行直前に司法が追認したとして、「非常に政治的な決定だ」とも指摘しました。

 武内更一弁護士は「公平な裁判だったかどうか、本論に入ったことには大きな意義がある」と述べ、田中長官の当時の言動について審理がなされた点は評価しました。

 元被告の武藤軍一郎さん(81)は「日本の司法の独立を一人でも多くの人に訴えていきたい」とし、同じく椎野徳蔵さん(84)は「良心・体力のあるかぎり、声をあげ続けたい」とたたかい続ける決意を語りました。

◆砂川事件

 旧米軍立川基地(東京都)の拡張反対運動で、学生らが基地内に立ち入って起訴された事件(1957年)。一審で東京地裁は米軍駐留を憲法9条違反として全員無罪としました(伊達判決)。しかし、跳躍上告で最高裁大法廷(田中耕太郎裁判長)は59年、一審を破棄(砂川判決)。地裁へ差し戻し、61年に有罪が確定しました。

◆◆「司法自ら正義を放棄」 砂川事件元被告、憤り 再審請求棄却

朝日新聞16.03.09

 旧米軍立川基地の拡張計画に反対した学生らが1957年に逮捕・起訴された「砂川事件」で、東京地裁(田辺三保子裁判長)は8日、元被告ら4人が求めた再審を認めない決定をした。元被告らを無罪とした一審判決を破棄した59年の最高裁大法廷の判断の公平性が争われていたが、地裁は「不公平な裁判の恐れはなかった」と判断した。

 「納得できないし、不当な決定だ。裁判の公正と司法の正義を、裁判官が自らの手で放棄した」

 元被告で再審を求めていた土屋源太郎さん(81)は、決定後の記者会見で悔しさをにじませた。

 最高裁判決の前に当時の田中耕太郎・最高裁長官が、米国側に裁判の見通しなどを伝えていたことが記された米公文書が2008年以降、見つかった。元被告側は、最高裁判決は日米間の意向をもとに出されたとして、「公平な裁判を受ける権利を侵害された。裁判を打ち切る『免訴判決』にするべきだ」と14年6月に再審請求した。

 この日の決定は、最高裁長官が裁判所を代表して外部の団体と会うことはあるとして、「米大使館関係者と面会したことで、直ちに不公平な裁判をする恐れが生じるとは理解できない」と指摘した。田中長官が米国側に語った内容は「結論をほのめかしたり、秘密を漏らしたりしたとは推測できない」と述べた。

 事件当時は、日米安全保障条約の改定交渉が大詰めを迎えていた。弁護団代表の吉永満夫弁護士は「最高裁長官と駐日米大使がそういうやりとりをしたこと自体が問題だ」と指摘。近く即時抗告し、改めてその公平性を問うという。(塩入彩)

◆◆砂川事件「真実知る学習会」

 安倍政権が集団的自衛権の法的根拠とし、川崎にも縁のある「砂川事件判決」の真実を知ってもらおうと、市民有志らでつくる実行委員会が2016324日(木)、中原区の川崎市総合自治会館ホール(JR南武線・武蔵小杉駅徒歩7分)で学習交流会を開く。

 砂川事件は1957年、東京都砂川町(現立川市)の米軍旧立川基地の拡張に反対するデモ隊の一部が基地内に入り、川崎市民を含む7人が刑事特別法違反罪で起訴された。東京地裁では米軍駐留は憲法9条に違反するとの判決が下された(伊達判決)が、最高裁で破棄された。

 事件をめぐっては、当時の田中耕太郎最高裁長官(故人)が判決前に米国側と接触し、裁判の見通しなどを漏らしていた米国公文書が後に判明。これを受け、元被告と遺族4人が裁判のやり直しを求めたが、東京地裁が今月8日に再審請求を棄却する決定を下し、4人は即時抗告する方針を示している。

 学習交流会は「砂川最高裁判決を裁く」と題し、川崎合同法律事務所の三嶋健弁護士が事件の全容を紹介。区内在住で米国公文書を入手した布川玲子元山梨学院大学教授が基調報告を行う。

 パネルディスカッションでは国鉄労組組合員として事件に参加し、再審請求を行った椎野徳三さん、当時の被告の一人で日本鋼管労組員・故坂田茂さんの娘、和子さん、日本鋼管労組員として事件に関わった大高陽さんが登壇。「砂川最高裁判決の真実」をテーマに被告としての体験談について語るほか、再審請求の話題にも触れる予定。実行委員会の植田泰治さんは「川崎にゆかりの深く、今の戦争法案につながる根の深い事件。多くの人に知ってもらえれば」と参加を呼び掛ける。

 開催時間は、午後6時30分から8時45分。費用は資料代として500円。

 問い合わせは、砂川最高裁判決を裁く!学習会実行委員会の長島進一さん(川崎労働組合総連合事務局長 【電話】044・211・5164)もしくは植田泰治さん(治安維持法国賠同盟川崎支部事務局長 【携帯電話】090・5316・7532)。

◆◆砂川再審 高裁も認めず、元被告「政治意図感じる」特別抗告へ

20171116日赤旗

(写真)砂川事件の再審請求即時抗告審のため、東京高裁に向かう元被告の土屋源太郎さん(前列左から2人目)ら=15日午前、東京・霞が関

 米軍立川基地(旧砂川町、現東京都立川市)の拡張に抗議する人たちの一部が基地内に立ち入ったとして起訴され、米軍駐留の合憲性が争われた1957年の砂川事件をめぐり、有罪が確定した元被告ら4人による再審請求即時抗告審で東京高裁(秋葉康弘裁判長)は15日、再審開始を認めなかった東京地裁の判断を支持し、弁護側の即時抗告を棄却する決定をしました。元被告らはただちに声明を出し、「司法の独立を投げ捨て、政府に迎合した不当な決定である」と抗議。最高裁に特別抗告すると表明しました。

 砂川事件の一審判決(59年3月30日の伊達判決)は、米軍の駐留は違憲として被告人を無罪としました。しかし、判決を不服とした国側が高裁を経ずに最高裁に「跳躍上告」し、同年12月に最高裁が一審判決を破棄、差し戻し。地裁で罰金刑が確定しました。

 ところが、国際問題研究者の新原昭治氏らによって、当時の田中耕太郎最高裁長官が駐日米国大使らと密議を繰り返し裁判の見通しを伝えていたとの米機密公電が判明。60年1月の日米安保条約改定を前に判決を急いでいた経過が明らかになっています。元被告らは、これらを新証拠として2014年6月に再審請求しました。

 弁護側は、田中長官が裁判情報を事件被害者である米側に伝えたことが、公平な裁判を受ける権利を保障した憲法37条1項に違反し、差し戻し後に裁判を打ち切る「免訴」とすべきだったと主張しました。しかし、高裁決定は、弁護側の主張は免訴事由に当たらず、再審請求は認められないとしました。

 記者会見で元被告の土屋源太郎さん(83)は「安倍政権は砂川事件の最高裁判決を曲解して集団的自衛権行使や安保法制の法的根拠に使っている。だから、再審を開始したら大変な問題になるという政治的な意図や背景を感じざるをえない」と述べました。

 元被告の故坂田茂さんの長女和子さん(60)は「公平な裁判だったかどうかの検討なしに免訴にあたらないということで済まされてしまっては、父の無念は晴れない」と語りました。

 元被告の武藤軍一郎さん(83)は伊達判決について、「日本の平和、戦争をしないという点から米軍の駐留を憲法との関係で真正面から受け止めて判断した血の通った宝の判決」だと述べ、改めて意義を強調しました。

 弁護団は、高裁決定は法律論で再審を認めなかったものの、田中長官が米側と密議した事実については高裁でも否定できなかったとも指摘しました。

🔴🔴No.2

─────────────────────────────────

◆◆朝日新聞連載・新聞と9条=砂川事件・地裁伊達判決・最高裁判決

─────────────────────────────────

◆◆はじめに=戦後70年 新聞と9条(上丸)

連載は、憲法制定(軍備なき国)、朝鮮戦争と再軍備、砂川事件、沖縄から、70年安保と革新自治体、長沼判決(現在連載中)と続いている。ここで再録したのは、砂川事件のみである。これまでに発刊された書籍や朝日デジタルのWeb新書を見て下さい。

筆者=上丸洋一(じょうまる・よういち) 

1955年生まれ。「新聞と戦争」「検証昭和報道」「原発とメディア」などの連載を担当してきた。

 新聞や言論は、憲法誕生から「砂川事件」までの約10年間、9条とどう向かい合ってきたのか。新たな安全保障関連法案が国会で審議されているいま、集団的自衛権容認の最大の根拠とされる砂川最高裁判決を中心に、当時の自衛権をめぐる政府の解釈や報道ぶりを振り返る。それ以前から米軍駐留、冷戦下での朝鮮戦争、自衛隊発足と既成事実が積み重なり、9条は非武装と再軍備の間で、何度も試練を経ていた。(文中敬称略)

1946年3月 草案要綱、不戦の決意で同調

 敗戦から半年余りたった1946年3月6日、政府は、新しい憲法の骨格を示す「憲法改正草案要綱」を発表した。要綱は第9条で戦争放棄と戦力不保持をうたっていた。

 当時の新聞は9条をこう評した。

 朝日新聞「(戦争の絶滅を)世界各国に先立つて、憲法中に規定しようとするのは……平和的日本国民の心情を厳粛に世界に対して表現したもの」(7日付社説)

 読売報知「世界中どこにこれほど平和主義に徹底した国があるか。……日本は無抵抗主義に徹底する覚悟を決めたのである」(社長・馬場恒吾執筆の論評、8日付)

 産業経済新聞(現・産経新聞)「侵略好戦の悪夢から覚醒したる日本国民が経験と悲運を通じて獲得したる最終にして最高なる決意を全人類の前に示提(提示)するもの」(8日付社説)

 世界に、全人類に向けて不戦と非武装の決意を示すことに各紙とも異論はなかった。

 当時は一般に「自衛権」の存在さえ懐疑的にみられていた。

 首相の吉田茂は6月、国会で答弁する。

 「近年の戦争は多く自衛権の名において戦われたのであります」

 「本案の規定は……自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」

1947年6月 本土非武装と沖縄駐留、表裏

 憲法の施行まもない1947年6月、連合国軍最高司令官マッカーサーは、米国記者団に語る。

 「米国が沖縄を保有することにつき日本人に反対があるとは思えない。なぜなら沖縄人は日本人ではなく、また日本人は戦争を放棄したからである」(新崎盛暉ほか「沖縄戦後史」)

 マッカーサーは占領統治に天皇の権威を利用するため、天皇制を維持したいと考えた。他の連合国の承認を得るためには日本の軍国主義の解体と非武装化が必要だった。そして日本本土の安全保障は、米国の統治下にあるために日本の憲法の効力が及ばない沖縄の基地でカバーする。

 9条による本土の非武装化と沖縄の軍事基地は表裏の関係にあった。

 51年9月のサンフランシスコ講和会議で、沖縄は引き続き、米国の施政権下に置かれることになった。

 この前後、朝日、毎日、読売各紙が社説で沖縄について論じることはなかった。

 講和条約発効の時、沖縄タイムスはこう述べる。

 「もがいたところでどうともならぬ諦めがわれわれの胸を締めつける」(52年4月29日付社説)

 沖縄が本土に復帰し、日本国憲法の下に入るのは72年5月のことだ。そして、今日まで「基地の島」の現実に大きな変化はない。

1950年6月 朝鮮戦争、再軍備か改憲議論

 1950年6月、北朝鮮軍が韓国に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。

 米海軍の要請を受けて海上保安庁の掃海隊が出動。1隻が機雷に触れて爆発し、乗組員1人が死亡した。

 連合国軍最高司令官マッカーサーは、首相の吉田茂に7万5千人規模の警察予備隊を創設するよう指示。8月に発足した警察予備隊は52年10月、保安隊に改組され、54年7月の自衛隊発足へとつながっていく。

 再軍備について政府は、自衛のための実力の保持まで9条は禁じていない、と説明した。

 これに対し、自衛力をもてるよう憲法を改正すべきだという主張が毎日、読売などの社説にみられた。

 朝日新聞の場合、憲法改正で得るものより、失うものの方が大きいとみて、改正反対の立場をとった。

 朝鮮戦争は53年7月に休戦協定が結ばれた。この間、日本は米軍を主体とする国連軍の補給基地の役割を担った。

 朝鮮戦争に際し、9条は無力だったのか。法律学者の戒能通孝はこう述べる。

 「日本に軍隊がなかったことは、日本の参戦をくいとめるとともに、ソ連の参戦をもくいとめた。いいかえればそれは戦場の局地化を可能にし、世界戦争をくいとめていたのである」(法律時報59年5月号臨時増刊)

1953年11月 自衛隊「憲法触れない範囲で」

 朝鮮戦争の休戦協定調印から3カ月あまりたった1953年11月、首相の吉田茂が国会で次の趣旨の発言をした。

 「米軍の保護のもとにいるということは早くやめたい。米軍の漸減に応じて憲法に抵触しない範囲で保安隊を増強する」

 「保安隊を自衛隊に切り替えて外部からの侵略に備えるとしても、自衛隊は『戦力』ではない」

 既成事実を積み上げながらも、表向き「再軍備はしない」と発言してきた吉田が一歩、踏み出した。

 自衛のための実力は、憲法が保持を禁ずる戦力ではない。

 この見解を政府は今も継承する。

 朝日新聞は53年12月16日の社説で、次のように主張する。

 「(日本の自衛力は)現憲法の精神によって戦争に参加せず、ただひたすらに国土と国民を護(まも)る任務に終始するものでなければならず……そういう自衛力を作り上げるのには、憲法の改正は要しないであろう。憲法を改正すれば、そこから一切の堤防が決壊する」

 一方、読売新聞社説は論じた。

 「(制定時と)国際環境が根本的に変化したのであるから、必要な自衛力を持ち得るよう改正が行われることは望ましい」(54年5月3日)

 こうして54年7月、陸海空の自衛隊が発足した。

砂川の二つの判決=9条のあり方、格闘は続く

 自衛隊の発足が近づく1954年6月、参院議員の鶴見祐輔が本会議場で演説した。

 「自衛とは海外に出動しないということでなければなりません。……一度この限界を超えると、際限もなく遠い外国に出動することになることは、先般の太平洋戦争の経験で明白であります」

 「憲法第九条の存する限り、この制限は破ってはならないのであります」

 自衛隊は海外派兵しない。

 そうした趣旨の参院決議を経て54年7月、自衛隊が発足する。

 ――自衛をどうするのか。

 戦後の新聞が格闘してきた最大のテーマの一つが、これだった。

 憲法改正か。憲法には手をつけずに再軍備を容認するのか。一方で吉田茂政権は論議より先に、なし崩し的に再軍備を進めた。

 自衛隊発足を前にした53年後半から54年前半にかけて、再軍備の実情と合わないなどの理由で憲法改正を社説で主張する新聞が全国紙、地方紙を通じて優勢だった。

 しかし、54年12月に憲法全面改正を主張する鳩山一郎政権が発足すると、慎重論、反対論に転ずる新聞が続出した(梶居佳広「1950年代改憲論と新聞論説」)。

 砂川事件が起きた57年の憲法記念日、朝日新聞社説は主張した。

 「自衛隊が、アメリカを援助するために、海外に出動することはできないのである。ここに、日米安保体制に対する、日本の憲法上の限界がある」

 「憲法十年の歩みを静かにふりかえりつつ……過去の誤りを再びくり返すことのないよう、深く自省しなければならない」

 今も少しも古びていないことが不思議だ。

そして砂川事件が起き、伊達判決と最高裁判決という二つの判決が出された。

 1957年7月、東京都砂川町(現・立川市の一部)の米軍立川基地で、基地拡張に反対する学生、労働組合員約300人が基地内に立ち入り、7人が刑事特別法違反で起訴された。弁護側は「米軍駐留とそれを許す日米安保条約は、戦力の保持を禁じた憲法9条に反する」と主張。

東京地裁(裁判長・伊達秋雄)は59年3月、駐留米軍は「戦力」にあたり違憲と判断。全員に無罪を言い渡した。

 これを不服として検察側が、二審を飛び越えて最高裁に跳躍上告し、米軍駐留、日米安保条約を合憲とした。

 日米安保条約の改定交渉が始まってまもない1958年10月17日のことだ。

 衆院外務委員会で、首相の岸信介が発言した。

 「それ(集団的自衛権)があったからというて直ちに外国派兵が可能になり、それが憲法に違反しないというような結論にはならないのでありまして……

 「私は憲法改正論者であります。……現在の憲法のもとにおいてこれができないのみならず、憲法九条の改正におきましても、海外派兵というような意味における改正は、私一個の考えではそういう改正論は持っておりません」

 同じころ、読売新聞社説(4日付)は主張した。

 「岸首相らは国会で繰返(くりかえ)し『……海外派兵は絶対に考えていない』と明言しているから、それ相当の自信もあることと思う。政府はあくまでこの方針で(安保改定交渉を)押切(おしき)ってほしい」

 集団的自衛権を行使して海外に派兵することは許されない。

 政府も新聞も、その認識で一致していた。

 当時の憲法9条をめぐる議論は、自衛のための武力を持てるか否か、自衛隊が合憲かどうかが焦点であり、集団的自衛権の行使は議論の対象になっていなかった。

 砂川事件跳躍上告審で、最高裁大法廷(裁判長・田中耕太郎)は59年12月16日、駐留米軍は日本の戦力にあたらない、として一審の違憲判決を破棄、東京地裁に差し戻した。

 判決理由はこうだった。

 ――日本は平和と安全の維持に必要な自衛措置を取り得る。その目的にふさわしい方式、手段である限り、国際情勢の実情に即して適当と認められる方策を選ぶことができる。憲法9条は他国に安全保障を求めることを禁じていない。

 ――駐留米軍は、日本に指揮権、管理権がないから日本の戦力ではない。

 ――安保条約のように「高度の政治性」をもつものについての合憲、違憲の判断は、一見極めて明白に違憲無効でない限り、裁判所の違憲審査権の範囲外にある。その判断は条約締結権をもつ内閣および承認権をもつ国会、終局的には、主権をもつ国民の政治的批判に委ねられる。

 先にみたように、岸内閣は当時、集団的自衛権を行使して海外に派兵することは憲法上許されない、新安保条約は憲法の範囲内で締結するとの見解を繰り返し表明していた。

 「統治行為論」と呼ばれる最高裁判決の論理に立つなら、「集団的自衛権の行使は憲法上、許されない」という内閣の判断を、司法は尊重することになる。

 この内閣の判断を飛び越えて最高裁が「集団的自衛権行使は合憲」と判断したとすれば、判決の論理と矛盾する。

 砂川最高裁判決のあとも歴代内閣は憲法上、集団的自衛権は行使できない、との見解を変えなかった。

 結局、砂川判決には、集団的自衛権の行使を合憲と認めた痕跡はみあたらない。

🔴砂川事件 1

201573

砂川事件で、破棄差し戻しの判決を言い渡した最高裁大法廷=1959年12月16日

 56年前の判決が、国会で、ジャーナリズムで、論議の的となっている。

 1959年12月16日に最高裁が言い渡した砂川事件判決のことだ。

 「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」

 昨年春、自民党副総裁の高村正彦(73)がこの一節を引いて、集団的自衛権の行使は憲法9条に反しない、と党内で説明を始めた。「必要な自衛のための措置」として最高裁は集団的自衛権の行使を排除していない、との趣旨だ。

 ところが、今年6月、安全保障関連法案の審議が進むなか、3人の憲法学者が衆院憲法審査会で「安保法制は違憲」「砂川判決は合憲の根拠とならない」と述べて一気に注目が集まった。

 砂川事件は57年7月、米軍立川基地の拡張に反対する学生、労働組合員ら約300人が基地内に立ち入り、うち7人が起訴された事件だ。東京地裁は59年3月、米軍駐留を違憲と判断し、無罪を言い渡した。

 しかし、最高裁は、駐留米軍は憲法が保持を禁ずる戦力にあたらないとして一審判決を破棄し、地裁に差し戻した。最高裁長官の田中耕太郎が補足意見でこう述べた。

 「今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである」

 判決翌日の読売新聞が社説で批判する。

 「自衛のためのみならず他衛のための戦力保持をも許されるような口ぶりであるが、たいへんな脱線である」

 憲法学者の橋本公亘(きみのぶ)もこう語った。

 「憲法は他国の防衛義務というようなことを全く考えていない。……そういうことに介入しないことが憲法の精神であることは、一点の疑う余地もないだろうと思うのです」(法律時報60年2月号臨時増刊)

 判決2カ月後の60年2月26日、首相の岸信介が衆院安保特別委員会で発言する。

 「自衛隊は、各国におけるところの軍隊と同様な権利や行動範囲を持つものでない。いかなる場合においても、この領土外に出て実力を行使するということはあり得ないという建前を厳守すべきことは、日本の憲法の特質でございます」

🔴砂川事件2

 午前6時半、警官隊が、道路に座り込む地元住民や支援の労働組合員の排除を始めた。悲鳴と怒号で辺りは騒然となった。

 住民らのスクラムはみるみる警官隊に押し破られ、労組員が苦痛に顔をゆがめながら引き抜かれていく。警官も服が裂け、帽子が飛ぶ。巨大な米軍機が爆音をあげて頭上をかすめていった――。

 混乱する現場の模様を朝日新聞夕刊は、そう伝えた。1955年9月13日、現在は東京都立川市の一部となっている東京都北多摩郡砂川町でのことだ。

 米軍立川基地の滑走路を延長するため、その予定地に測量隊を入れようとする調達庁(防衛施設庁の前身)と警官隊。これを阻止する反対住民、労組員。そして、500人にのぼる報道陣(15日付新聞協会報)。町を東西に貫く五日市街道は数千人の人波で埋まった。

 午前9時前、朝日新聞の取材陣が前線本部をおいている街道沿いの民家の前で、警官隊とデモ隊が激しく衝突し、双方にけが人が出た(高橋しん一「九月十三日の砂川」世界55年11月号)。

 このようすを前線本部の2階から見ていた朝日新聞記者がいた。戦前から警察取材にあたってきたベテランで警視庁キャップを務める川手泰二(かわてたいじ)と、当時31歳の社会部員、伊藤牧夫だった。

 川手が叫んだ。

 「警官隊、がんばれー」

 隣で伊藤が叫ぶ。

 「デモ隊、がんばれー」

 当時24歳の八王子支局員、佐伯晋(すすむ)(84)がその場を目撃した。

 昼すぎ、警官隊と住民側の双方がいったん行動を中止し、昼食をとった。警官隊は握り飯、労組員はパンだった(13日付朝日新聞夕刊)。

 休憩中、警官隊に向かって演説する者が現れた。作家の梅崎春生(はるお)がそれを近くで聞いていた。

 「暴力をふるつて土地を取り上げて、飛行場を拡(ひろ)げて、そして飛ぶのはどこの飛行機か。アメリカの飛行機ではないか。お前たちはアメリカのために働いてゐるのか」(梅崎「ルポルタージュ砂川」群像55年11月号)

 この日、測量隊は7本の杭を打った。

 住民は、うち3本を夜になって引き抜いた(14日付朝日新聞)。(上丸洋一)

🔴砂川事件

201577

1993年に92歳で亡くなった砂川ちよさん。写真は85歳当時=遺族提供

 1955年5月4日、選挙で初当選したばかりの砂川町長、宮崎伝左衛門の自宅を調達庁(防衛施設庁の前身)東京調達局の職員が訪れた。

 「実はまた立川基地を拡張することになりましたもんで、なんとかご協力を……」(伊藤牧夫ほか「砂川」)

 職員は、米軍立川基地の拡張計画を町長に伝え、協力を要請する。

 現状では大型輸送機やジェット機の発着に支障がある、と米軍が日本政府に拡張を求めていた。

 砂川町は人口約1万2500。1年前の54年6月、村から町に移行した。桑畑や麦畑が広がる農村地帯だが、基地関連の職場などで働く勤労者世帯も少なくなかった。大正時代に陸軍が飛行場を建設して以来、幾度も土地の接収が繰り返されてきた。

 米軍基地の拡張計画が発表されると、予定地にあたる約140世帯は先祖伝来の土地が奪われることに反発した。数日後に関係住民が「砂川町基地拡張反対同盟」を結成。町議会は全員一致で反対を決議する。

 55年6月18日、町民総決起大会が町の中心部にある神社の境内で開かれた。

 町の婦人会長、砂川ちよが、自らまとめた決議文を読み上げた。

 「私ども、婦人の真に信頼できる『安全保障』は、『今後絶対に戦争をしないために平和憲法を守りぬく』という一語あるのみでございます」

 砂川ちよの著書「砂川・私の戦後史」などによると、ちよは1901年、静岡県生まれ。静岡女子師範学校を卒業後、結婚して夫の郷里の砂川村(当時)に移った。

 終戦間際の45年8月2日、B29の焼夷(しょうい)弾で自宅が全焼。戦後、戦争放棄を誓う新憲法の趣旨を聞いて、ちよは「嬉(うれ)し涙が溢(あふ)れてくるほど」深い感動を覚えた。

 55年8月6日、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。前年のビキニ事件以来、原水爆反対の声が高まっていた。

 大会に参加したちよは、原水爆禁止運動は基地拡張問題に無関心ではならない、と訴えた。

 大会宣言に、次の一節が盛り込まれた。

 「基地反対の闘争は、原水爆禁止の運動と共に、相たずさえてたたかわなければなりません」

 9月中旬になって調達庁は、警官隊を動員して測量を強行した。(上丸洋一)

🔴砂川事件

 砂川町での強制測量2日目の1955年9月14日朝、警官隊は、座り込みの住民ら26人を検挙した。住民や支援の労働組合員はスクラムを解いた。町は悲痛な空気に包まれた(14日付朝日新聞夕刊)。

 砂川の事態を各紙社説はこう論じた。

 朝日「(政府は)安保条約の義務とはいえ、基地の拡張が、国土と耕地の狭い日本の国民にとって、いかに大きな負担であり、犠牲であるかを深く考えて民衆に対したとは見えない」(15日)

 毎日「基地の拡張を政府に取りやめさせることは、国際的な取決(とりき)めがある以上できないことであろう。政府は……補償について十分な考慮を」(16日)

 読売「地元民は……現実を直視し、国家全体の秩序を考慮に入れて根気よく話合(はなしあ)って有利な条件を獲得するといった賢明な手段に出るべきである」(13日)

 朝日は政府の姿勢を批判し、毎日、読売は補償での解決を促した。

 この時期の3紙の関連社説に共通するのは「憲法」の文字がないことだ。なぜなのか。そもそも、外国軍の駐留と憲法の関係はそれまで、どう論じられてきたのか。

 占領下の50年1月25日、共産党の野坂参三が、衆院本会議で政府を追及した。

 「(憲法9条は)単に日本の武力のみでなく、外国の陸軍、海軍、空軍の基地を日本に設定することも放棄したことを意味するとわれわれは考える。従って、一切の軍事基地協定は……憲法違反でもあります」

 首相の吉田茂が答えた。

 「(占領終結後の)仮定の問題について答弁はできない」

 同様の質問に吉田は51年2月20日の衆院外務委員会で、自衛権の発動として外国の協力を求めるのは憲法上、許されると答弁するが、その後、議論は深まらなかった。

 51年9月の安保条約調印から、砂川で衝突が起きた55年秋までの間、朝日新聞が社説で、安保条約と憲法の関係について、まとめて見解を述べることはなかった。

 ただ、54年5月3日の社説「平和憲法の明示する途(みち)」にわずかに次の一節がある。

 「すでに日本はアメリカとの間に安全保障協定を結んでいる。しかしそれは同時に、平和憲法を守り通すべき権利と義務とを放棄したものではない」

 安保と憲法は両立し得る、両立させねばならぬ、と朝日新聞は考えた。(上丸洋一)

🔴砂川事件

201579

軽井沢の別邸の庭を散歩する鳩山一郎首相夫妻=1956年8月

 「土地に何万本クイが打たれたってかまやあしない。わしらの気持(きもち)がしっかりしていれば、心にクイは打たれないんだから」

 1955年9月、砂川町基地拡張反対同盟の総会で、第一行動隊長の青木市五郎が発言した(伊藤牧夫ほか「砂川」)。

 心に杭は打たれない。

 この言葉はその後、砂川闘争を象徴する言葉として語り継がれる。

 このころ、米軍基地をめぐる紛争が各地で頻発していた。山形、山梨、愛知、大阪など全国30カ所の反対闘争の代表者が集まる会議も総評などの主催で開かれた。

 14日の天声人語はこう書いた。

 「プロペラ機がジェット機になったから空軍基地を拡(ひろ)げろ、大砲もロケット砲になったから射撃演習場を拡げろと、兵器発達のまにまに基地提供の負担がふくれ上(あが)るのでは、(日米安保条約・行政協定は)うかつな白紙契約だったと悔いざるを得ない」

 「基地問題では地元民が勝ったためしはない。国際条約を背景の国家権力の前には、個々の国民は弱い。しかし、基地拡張の無理押しが通る度毎(たびごと)に、もっと貴重なもの、国民の心が離れ失われてゆくことを、政府も米国もよくよく考うべし」

 14日の夜遅く、砂川町の婦人会長、砂川ちよの一行6人が、東京・上野から列車で首相の鳩山一郎が静養する軽井沢に向かった。社会党国会議員の引率で首相に面会し、事態の収拾を要請するためだった。

 翌15日午前、駅前の旅館に待機する一行に、首相側は面会を断ると伝えてきた。しかし、夕方になって、代表2人に限って面会を許された。ちよともう一人が地元の実情を鳩山に訴えた。

 鳩山「あんなことになって残念だ。なんとか円満に解決したいと思うが……

 面会は1分ほどで終わった(伊藤ほか「砂川」)。16日の朝日新聞と毎日新聞がこの面会を小さく報じた。

 旅館で待つ間、ちよは米大統領アイゼンハワーへの手紙を仲間と考えた。

 そこに次の一節があった。

 「日本の真の独立のための自衛なら、決して今さらこの飛行場の拡張など必要はありません」(砂川ちよ「砂川・私の戦後史」)

 そのころ、米国帰りの外相の発言が政治問題化していた。いずれ日本は、海外派兵するのか――。(上丸洋一)

🔴砂川事件

2015710

 1955年8月末、外相の重光葵が日米安保条約の改定を提起するため訪米した。

 国務長官ダレスとの最後の会談を終えた31日、米政府関係者が記者団に語った。

 「日米双方とも将来日本が海外に派兵できるようになることを考え方の基本にしている」

 この発言が日本に伝えられると(55年9月1日付朝日新聞夕刊)、海外派兵は憲法にふれるとして政治問題化した。

 会談に同席した米国滞在中の民主党幹事長、岸信介が記者会見で説明した。

 「日本側が海外派兵について米国側に将来の約束を与えたというようなことは絶対にない。……ダレス長官から逆に日本の現在の憲法および国民感情は(日米)対等の立場をとり得ないようにしているではないかと強く突込(つっこ)まれた。……現在の憲法のもとでは海外派兵の約束について話合(はなしあ)いなどできるわけがない」(3日付朝日新聞)

 52年4月に発効した安保条約は、日本が米国に基地を提供し、米国はこれを「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる」と定めていた。米国の日本防衛義務は明記されておらず、条約上、日米は対等な関係になかった。砂川事件の根はここにあった。

 重光―ダレス会談の具体的なやりとりは、日本側の会談メモ(要旨)の内容を2001年7月16日付朝日新聞が報じて明らかになる。それによると。

 重光「安保条約調印の際、非武装化された日本は、軍事的双務協定の締結が不可能だった。しかし今や(日本の防衛力増強で)現在の一方的安保条約に代わる相互的基礎に立つ新防衛条約を締結する機運が熟している」

 ダレス「現憲法下において相互防衛条約が可能か。日本は米国を守ることができるか。例えばグアムが攻撃された場合はどうか」

 重光「そのような場合は協議すればよい」

 ダレス「日本の憲法は日本自体を守るためにのみ防衛力を保持できるというのが、その最も広い解釈だと考えていた」

 日本の憲法は、日本が米国の防衛に直接、参画することを認めていない。

 ダレスは、そう認識していた。

 「憲法が許さなければ意味がない」

 ダレスは重光を突き放した。(上丸洋一)

🔴砂川事件

2015713

支援の労働組合員と警官隊が衝突した=1956年10月13日、砂川町

 米軍立川基地の拡張計画が表面化して1年近くたった1956年春のことだ。

 当時23歳で全学連(全日本学生自治会総連合)の平和部長だった森田実(82=政治評論家)は、東京・四谷のそば屋に足を運んだ。評論家の清水幾太郎(いくたろう)が会いたがっている、と関係者から連絡があったからだ。

 清水は、石川県内灘村(現・内灘町)の米軍試射場をめぐる土地返還闘争など、米軍基地の問題にかかわってきた。

 そば屋の2階に3人の男が待っていた。砂川町基地拡張反対同盟の青木市五郎、総評事務局長を務めた高野実、そして清水だ。清水が熱く語った。

 「全学連は砂川闘争に立ち上がってほしい。森田君、頼む」

 9月、砂川は緊張が高まった。調達庁が10月から拡張予定地の立ち入り調査に入ることを明らかにした。

 9月25日、全学連が記者発表した。

 「10月1日から連日200~300人の学生を現地に派遣する。測量が予定される10月5日には3千人を動員する」(9月26日付朝日新聞)

 森田は、貸し切りバスを手配して都内の大学を回り、学生を乗せて砂川町に送り込んだ。車中、森田がマイクを握った。

 「憲法9条は戦力の保持を禁じている。米軍の駐留は憲法違反だ」

 10月に入って測量隊が現場近くに幾度か現れた。しかし、住民側を支援する社会党国会議員団などと押し問答した末に引き揚げる、といったことを繰り返した。

 12日午後、警官隊1300人が出動、デモ隊との乱闘になり、双方に計264人の負傷者が出た(13日付朝日新聞)。

 13日は朝から冷たい雨が降った。

 午後1時、警官隊2千人が3500人のデモ隊に突入し、またも乱闘となった。

 「警官隊は一斉に警棒を手にした。『それッ』とかけ声が警官隊からあがる。『このヤロウ、公務執行妨害だぞ』と叫ぶ。警棒がヒタイにとぶ。腹をぐんと突く。うめき声をあげて労組員たちが倒れた」

 「警官隊の行動は一段と激しくなった。……労組員、学生たちのスクラムに踊りこんで、髪の毛をひっぱり、首を絞め、腹をける。警棒が首に突き当(あた)り、腕に振り下(おろ)される」(14日付朝日新聞)

 負傷者887人を出したこの現場を評論家の中野好夫が目撃した。(上丸洋一)

🔴砂川事件

 1956年10月13日、砂川町での警官隊とデモ隊の衝突を目の当たりにした評論家、中野好夫は、朝日新聞に寄稿して次のように述べた。

 「二千の鉄カブトとコン棒は、たしかに一応目的を達したであろう。だが、これは歴史にのこる恥多き勝利であり、そして堂々の敗北であった」(14日付)

 14日夜、政府は、翌日以降の測量を打ち切ると発表した。米軍基地拡張に反対する住民たちは喜びにわいた。

 中野の批判は政府や警官隊だけでなく、新聞論調にも向けられた。

 10月5日の毎日新聞が社説で主張した。

 「わが国は日米安保条約とこれに伴う行政協定によって、両国政府がみとめた基地拡張のため、土地を提供しなければならない。国際取決(とりき)めで義務付けられたことを、国内法に従って実施する以上、国民はこれに従うのが当然である」

 「地元の反対は同情に値するが……反対だから実力で阻止するというのでは……国の秩序は維持できない」

 これに対し、中野は「基地問題の背後にあるもの」と題する論文(中央公論56年12月号)で、基地拡張の根拠である日米行政協定は、成立の際、民主的な手続きが踏まれていない、と反論した。

 事実、駐留米軍の権利などを取り決めた日米行政協定の内容を、政府は52年2月の調印まで公表しなかった。

 発表された協定は、米国が日本全土のどこでも基地として使用することを求めることができると規定していた。

 この協定を吉田茂内閣は、国会審議にかけなかった。国会ですでに承認済みの安保条約に基づく取り決めであり、このうえ承認は必要ない、というのが理由だった。

 中野はこう書いた。

 「彼ら(報道機関)は……農民諸君にはまことに気の毒だが、(買収に)応じろという。だが、もしかりに彼らの新聞社なり、放送局なりが、『目的遂行に必要な施設として』(収用を)要求されたとしたらどうであろう」

 「成立において悪法であるものに対して、ただ無反省な従順だけが正しい合法性だとは、理性のルールの狂わないかぎり、私には考えられないのである」

 行政協定は60年、ほぼ同じ内容で日米地位協定に引き継がれた。(上丸洋一)

🔴砂川事件

2015715

バリケードを挟んでにらみ合う学生、労組員らと警官隊=1957年7月8日

 「計画どおりにやる。とにかく砂川はやる」

 米軍立川基地は計画通り拡張するのか、という記者団の質問に、首相の岸信介が答えた。1957年6月28日、ハワイ・ホノルルでのことだ。岸は米大統領アイゼンハワーとワシントンで会談。日米安保条約の改定を提起して帰国する途中だった(29日付朝日新聞夕刊)。

 55年5月に表面化した基地拡張計画は、その年の9月と翌年10月、反対住民らと警官隊の衝突で多数のけが人を出した。

 そして57年6月下旬、調達庁は、基地内に土地をもちながら賃貸契約の更新を拒否している住民8人の所有地を収用するため、測量の予備作業に取りかかる。

 7月8日午前5時、基地内で本格的な測量作業が始まった。当日の朝日新聞夕刊などによると、滑走路北側の広場に全学連の学生や労組員約1300人が集まり、基地内の警官隊約1400人とにらみ合った。

 午前10時35分、測量が終わった。住民側は約2千人に増えていた。学生が柵を破って基地の中に4、5メートル入り、有刺鉄線のバリケードを挟んで警官隊と対峙(たいじ)した。一時は警官隊が実力で排除しようとしたが、午後0時半、警官隊と学生双方が同時にひいた――。

 その後、強制測量は見送られ、土地の収用は法廷での争いに焦点が移る。

 当時、砂川町青年団の副団長だった豊泉喜一(85)は「基地の拡張を憲法問題ととらえた住民は、婦人会長の砂川ちよさんら一部の人だった」と振り返る。

 砂川闘争を継続的に取材した数少ないジャーナリストの一人、鈴木茂夫(84)は、今も立川市に住む。

 54年、ラジオ東京(東京放送=TBS=の前身)に入社。翌年のテレビ開局で発足したニュース報道部門の一員として、57年秋まで、繰り返し現地を訪れた。

 「最初140世帯ほどあった反対派が、保守の風土と人間関係のあつれきの中で次第に条件闘争に転じ、最後は23世帯になる。その抗争の過程が砂川闘争でした」

 「憲法? 砂川と憲法9条を結びつけて考えた取材記者は、ほとんどいなかったのではないでしょうか」

 米軍が基地拡張中止を日本政府に通告したのは、ベトナム戦争のさなかの68年12月だった。(上丸洋一)

🔴砂川事件 10

 日曜日の朝6時前だった。東京・阿佐ケ谷の民家の一室を間借りしていた当時23歳の明治大学生、土屋源太郎(80)は、だれかがふすまをたたく音で目を覚ました。

 1957年9月22日のことだ。

 「来たな」

 ふすまを開けると、男が3、4人立っていた。奥の庭先にも6、7人いる。

 土屋はこの日、警察が自分を逮捕しにくるかもしれないという情報を前日のうちに得ていた。東京・本郷にあった全学連の事務局で新聞記者が教えてくれたのだ。

 2カ月半前の7月8日、全学連の学生ら約300人が米軍立川基地の柵を破り、中に入った。都学連(東京都学生自治会連合)委員長の土屋は、この行動を指導する立場にあったというのが逮捕理由だった。

 下宿の外に出ると、テレビカメラが2、3台見えた。新聞記者の姿もあった。土屋は、待っていた英国車ヒルマンの後部座席に乗せられ、警視庁に向かった。

 警視庁の玄関前に大勢の報道陣が待ち構えていた。土屋は取り調べに黙秘を貫く。

 同じ朝、当時23歳の東京農工大学生、武藤軍一郎(80)は、東京・府中にある大学の寮で眠っていた。

 「おいっ、起きるんだ。武藤だろ」

 4、5人の男が自分を取り囲んでいた。

 武藤が砂川の現地に行ったのは7月8日が初めて。スクラムがずるずると基地の中へと動き出した。気がつくと最前列にいた。警察官が目の前で絶え間なく、カメラのシャッターをきった。

 総評傘下の労働組合員十数人も9月22日に逮捕された。総評弁護団の常任幹事を務めていた当時26歳の弁護士、内藤功(84)は、この日の逮捕に権力の意図を感じた。

 22日は、翌日の秋分の日に続く連休初日にあたっていた。弁護団メンバーと連絡をとるのが困難で、各署に分散留置された逮捕者との接見や釈放要求にも手間取った。

 この日の朝日新聞夕刊は、1面トップでこう報じた。

 「砂川事件 デモ指導者一せい検挙」

 「労組、学生23人 刑事特別法を発動」

 刑事特別法は第2条で、正当な理由なく米軍基地に立ち入った者は1年以下の懲役または2千円以下の罰金もしくは科料に処する、などと定める。

 10月2日、土屋、武藤ら学生と労組員の計7人が起訴された。(上丸洋一)

🔴砂川事件 11

 米軍立川基地への立ち入りで逮捕者が出た1957年は、日本国憲法施行10年にあたる。5月3日の憲法記念日、政府、自民党は記念式典を行う予定だったが、「与えられた憲法を祝う必要はない」という異論が自民党から出て結局、見送られた(5月3日付読売新聞)。

 その日、朝日新聞は社説で論じた。

 「現行憲法の戦争放棄の規定によって、公然たる再軍備が禁止されている以上は、日本の自衛隊が、アメリカを援助するために、海外に出動することはできないのである。ここに、日米安保体制に対する、日本の憲法上の限界がある」

 5日前の4月28日、朝日新聞は、日米安保条約について、次の問題点を社説で指摘し、改定の必要を説いていた。

 軍隊を駐留させる権利を米国に与えながら、日本防衛の義務を規定していない▽日本における内乱の鎮圧のため、日本政府の要請で米軍が出動できる、と規定している▽日本への核兵器持ち込みを拒絶する仕組みがない▽期限の定めがない。

 社説は「(安保条約)廃棄論はまことに勇ましいが、それに代わるべき安保体制の裏付(うらづけ)」が要ると述べ、社会党などの主張とは一線を画した。これが安保条約改定に関する朝日新聞の最初の社説だった。

 6月、首相の岸信介が米大統領アイゼンハワーと会談、改定交渉開始を提起する。

 安保改定で国民の防衛意識を喚起し、これをテコに憲法を改正、海外派兵を可能にして真に対等な日米相互防衛条約を結ぶ。それが岸の構想だった(松尾尊よし〈たかよし〉「日本の歴史21」)。

 1年あまりたった58年10月4日、外相の藤山愛一郎と駐日米国大使マッカーサーが会談し改定交渉が始まる。大使は、連合国軍最高司令官だったマッカーサーのおいにあたる。のちに大使は、砂川事件の裁判にも水面下で深く関与することになる。

 15日、朝日新聞は、岸が米メディアのインタビューに対し、こう語ったと報じた。

 「日本が自由世界の防衛に十分な役割を果(はた)すために、憲法から戦争放棄条項を除去すべき時がきた」

 17日の朝日新聞社説「岸首相に直言する」は、岸の発言を次のように論評した。

 「自己というものを失ったほどの対米全面協力の意思を打ち出したものであることは想像に難くない」(上丸洋一)

🔴砂川事件 12 

2015721

東京地裁で砂川事件の公判を取材した佐伯晋・元朝日新聞記者=2015年5月、東京都内

 砂川事件の裁判は1958年1月18日、東京地裁で始まった。

 被告は、米軍立川基地の拡張計画に反対して基地に立ち入り、刑事特別法違反で起訴された学生、労働組合員7人。

 主任弁護人には、戦時下に歴史家の津田左右吉(そうきち)や、経済学者の河合栄治郎らの言論・思想弾圧事件を担当した人権派弁護士、海野普吉(うんのしんきち)が就いた。

 初公判の傍聴席は約60人が詰めかけ、満席となった(18日付朝日新聞夕刊)。

 その後、公判は月に1、2回のペースで開かれた。

 当時、東京地裁刑事部の庁舎は、中央区築地の勝鬨橋(かちどきばし)のたもと、旧海軍経理学校の建物があてられていた。霞が関に新庁舎を建てるまでの仮庁舎だった。

 初公判から1年がたった59年2月、当時28歳の朝日新聞社会部員、佐伯晋(すすむ)(84)が持ち場がえで司法担当になった。

 佐伯は53年に入社し、東京の八王子支局に赴任。55年秋と56年秋、砂川での住民、学生らと警官隊の衝突を取材した(連載第65回)。

 57年春に本社の社会部に異動。宮内庁が皇太子(現・天皇)の婚約を発表(58年11月)するまでの動きを取材してきた。

 司法担当の主な取材先は東京地裁と東京地検。前者は裁判報道、後者は、特捜部が内偵を進める汚職捜査などの動向をつかむことが仕事の中心だ。

 佐伯は特捜部取材では他社の記者に歯が立たなかった。一方、当時の裁判報道は、著名な事件を除いて、記者は法廷に出向かず、霞が関の記者クラブで、裁判所が出す資料をもとに原稿を書いていたという。

 それなら、と佐伯は裁判取材に力を注いだ。2、3日に1度、午後に築地の地裁刑事部を訪れた。

 裁判官の中には、部屋に入れて話をしてくれる人もいた。そんな裁判官の一人に、刑事第13部長の伊達秋雄がいた。

 伊達は当時50歳。最高裁調査官として8年間、最高裁判事の補佐役を務めたあと、56年9月に東京地裁に移った。

 伊達は、砂川事件の裁判長である。

 佐伯が伊達と言葉を交わすようになったとき、砂川事件の裁判は、判決の言い渡しが近づいていた。

 弁護側はこの間、日米安保条約の違憲性を強く主張してきた。(上丸洋一)

🔴砂川事件 13

2015722

砂川事件の裁判が続く1958年8月、踏切に入った米軍トラックと特急列車が衝突。列車が脱線転覆した(山口県岩国市)

 1958年1月に東京地裁で始まった砂川事件の公判で、弁護側は主張した。

 ――米軍の駐留とそれを許す日米安保条約は、戦力の保持を禁じた憲法9条に反する。米軍基地への立ち入りを禁じた刑事特別法2条は、憲法違反の安保条約に基礎をおいており無効。被告人は無罪である。

 検察側が反論した。

 ――9条は、日本自体が戦力を保持することを禁止する趣旨。日本が米軍の駐留を承認しても、日本が米軍を管理下におくものではない。米軍駐留は9条に反しない。

 検察側は12月13日、7人の被告に懲役6カ月を求刑した。

 裁判が進行する中、裁判長の伊達秋雄は法律誌にエッセーを寄せた。「私の足跡」と題するその文章に次の一節がある。

 「(戦後)何よりもうれしかったことは……平和主義、自由主義、民主主義を標榜(ひょうぼう)する新憲法の精神に従ってのびのびと裁判することができることとなったことでした。裁判とは戦争に協力することであるという強制意識から解放されて、新憲法に強調せられた人権の保障ということが、今やわれわれ裁判官の最大の任務とされたことです」

 「その上私どもには法令の違憲審査権が認められることになりました。今までいかんともし難かった悪法は、これからは、憲法の精神に照らして、違憲のレッテルをはることによって、その無効を宣言しその適用を拒否することができることになりました」(時の法令58年6月23日号)

 伊達のもとで砂川事件の判決文を起案したのは、当時28歳の陪席判事、松本一郎(84=独協大名誉教授)だった。松本がやっと文案をまとめて伊達に見せると、伊達はあっさり論破して書き直しを命じた。

 あるとき、松本がたまりかねて言った。

 「私の結論に賛成なのか反対なのか、はっきりして下さい」

 伊達がにやりとして言った。

 「お前の頭を借りて、考えをまとめているのがわからないのか」(松本「道程」)

 59年3月下旬、朝日新聞社会部の司法担当記者、佐伯晋(84)は東京地裁刑事部に立ち寄った。伊達が部屋に入れてくれた。

 「ああ、今度の月曜日は、傍聴された方がいいですよ」

🔴砂川事件 14

2015723

違憲判決言い渡しの翌日、自宅で心境を語る伊達秋雄判事=1959年3月31日

 「本件各公訴事実につき、被告人らはいずれも無罪」

 1959年3月30日午前10時半すぎ、東京地裁の仮庁舎の法廷に、裁判長、伊達秋雄の低い声が響いた。

 米軍立川基地に立ち入ったとして、刑事特別法違反で起訴された学生、労働組合員7人に無罪判決が言い渡された。

 法廷は騒然となった。

 被告の一人、当時24歳の東京農工大生、武藤軍一郎(81)は、聞き違いではないか、と一瞬思った。次の瞬間、体の中を風が吹き抜けるような、震えが走るような感じに包まれた。

 米軍駐留について判決はこう述べた。

 「日本が自衛目的で米軍の駐留を許容していることは、日本に指揮権があるか、ないかにかかわらず、憲法第9条第2項が禁止する陸海空軍その他の戦力の保持に該当するものといわざるを得ない」

 米軍駐留は違憲、と明確に判断した。

 さらに判決は次のように述べる。

 ――被告が米軍基地に立ち入ったことは刑事特別法2条に違反する。しかし、同法の刑罰は、同様の行為に対する軽犯罪法の刑罰よりはるかに重い。

 ――憲法違反の存在である米軍が、刑事特別法2条によって一般国民より厚い保護を受ける合理的理由はない。

 ――そうである以上、刑事特別法2条は、適正な手続きによらなければ刑罰を科せられないと規定する憲法31条に反し、法律としての効力は無効である。

 これが無罪の理由だった。

 しかし、判決は、日米安保条約が現に存続する以上、日本は米国に基地を提供し駐留させる義務があるとも述べて、基地の存在をただちに否定したのではなかった。

 この日の判決は、裁判長の名をとって、以後「伊達判決」と呼ばれることになる。

 記者席で取材した朝日新聞社会部の佐伯晋(84)は、当日の夕刊に記事を書いた。

 「伊達裁判長は、顔の前で手を振って騒ぎをしずめながら、強く張りのある声で、読みつづける。『……米軍の存在は憲法上許すべからざるものである』――キメつけるような一句に、顔を紅潮させた海野普吉主任弁護人がグッと身をのりだした。青ざめた検事席。七人の被告、七、八十人入った満員の傍聴席はみなコブシをにぎりしめていた」(上丸洋一)

🔴砂川事件 15

2015724

砂川事件の東京地裁判決を報じる1959年3月30日付朝日新聞夕刊1面

 「米軍駐留は違憲」

 1959年3月30日、東京で発行されている大手紙の夕刊は、砂川事件の東京地裁判決をいずれも1面トップで報じた。

 51年9月のサンフランシスコ講和会議が近づくころから、新聞の多くは、米軍の駐留を容認してきた。非武装日本の軍事的空白を埋めるという理由だった。6年余の占領で外国軍隊の駐留には慣れていた。

 講和条約発効後の世論調査では、8割近くが日米安保条約に賛成した(51年9月16日付毎日新聞=連載第46回)。

 国会でもジャーナリズムでも、駐留米軍と9条の関係はほとんど問われないまま、米軍の駐留が続いた。

 そこへ、違憲判決が出た。判決は9条の存在を人々に思い起こさせた。

 再軍備反対、外国軍隊の撤退を主張する社会党は判決当日の参院予算委員会で、さっそく政府を追及した。

 「最高裁が最終的に決定するまで政府は断じて安保条約改定に進むべきではない」

 首相の岸信介が答えた。

 「憲法解釈を変える必要は認めません。安保条約改定という従来の方針を変えることは考えておりません」

 ――駐留米軍は米国の軍隊であって日本の戦力ではない。憲法9条と米軍は無関係。米軍が核兵器を持ち込んでも日本の憲法で米軍を縛れない。

 それが従来の政府見解だった。

 社会党は同日、内閣総辞職を求めた。

 判決言い渡し後、裁判長の伊達秋雄が記者団に語った。裁判官と報道の距離は今よりはるかに近かったようだ。

 「憲法を守るべき裁判官として憲法を正しく解釈すればこのような結論に達せざるをえない。米軍の駐留がなくなったら日本に軍事的真空状態が起(おこ)り、どうして国を守るのかという非難も当然起る。このことについては私自身個人的な見解をもっているが、それは政治家が答えるべきであって裁判官が答えるべきものではない」(59年3月30日付日本経済新聞夕刊)

 違憲判決を社説でどう書くか。

 それぞれの新聞社で激論が交わされたことだろう。

 結論が出なかったのか、書くに書けなかったのか。砂川事件判決を翌31日の社説で即座に取り上げた新聞は、大手紙には1紙もなかった。(上丸洋一)

🔴砂川事件 16

2015727

米軍駐留違憲判決を受けて開かれた社会党の幹部会。正面は浅沼稲次郎書記長=1959年3月

 1959年3月30日に言い渡された砂川事件東京地裁判決は、米軍駐留と憲法9条の関係を次のように判断した。

 ――9条は自衛権を否定するものではない。しかし、侵略戦争はもちろん、自衛のための戦力を用いる戦争も、自衛のための戦力保持もともに許されない。

 ――日米安保条約が規定する米軍駐留の目的の一つは「極東における国際の平和と安全の維持」であり、米軍は日本の外に出動し得る。日本が自国と直接関係のない武力紛争に巻き込まれる恐れが絶無でない。憲法の解釈は、自衛のためには米軍駐留もやむを得ない、といった政策論に左右されてはならない。

 ――米軍の駐留は日本側の要請と基地の提供などがあって初めて可能となる。日本に指揮権があるかないかを問うまでもなく9条第2項が禁ずる戦力の保持にあたる。

 新聞各紙が、社説で論評した。

 長崎新聞「近ごろマレなる名裁判である。……憲法は外国軍隊まで規制しないとか、外国軍隊が持つ原子力兵器はワク外だとかいっている政府への一大痛棒といわなければならない」(31日)

 神戸新聞「いままでにこうした判決が一つもないのが、ふしぎといえばいえるぐらいのものである。……政治的に論議の多い問題についての、法律解釈なり政治解釈を裁判官が下して悪い、というのは当(あた)らない」(同)

 北海道新聞「われわれは、政治的権力の強大な圧力や既成事実の重みに対して安易に妥協しない精神こそが、憲法を守り民主主義と国民の人権をまもるもっとも基本的な条件であることを、この判決からくみとるべきではあるまいか」(4月2日)

 地方紙には評価する声があったが、東京で発行されている大手紙は総じて批判的だった(法律時報60年2月臨時増刊号)。

 産経新聞「借りものであっても戦力は保持してならぬとまで解釈を広めることは、政治的発言としてはともかく、公正なる判断としては、何としても少数意見、異常解釈であるとせねばなるまい」(4月1日)

 毎日新聞「憲法の規定によって(駐留米軍を)しばることができるものではないし、それを日本の戦力と解釈すべきものとは考えられない」(同)

 朝日新聞は判決を「きわめて異様」と酷評した。(上丸洋一)

🔴砂川事件 17

2015728

政治評論家として活動した長谷部忠・元朝日新聞社長(左から2人目)=1967年4月、東京・代々木

 砂川事件の東京地裁判決を朝日新聞は、1959年4月2日の社説で批判した。

 ――米軍駐留によって生ずる戦力は、米国が保持するのであって、日本自体の戦力ではない、したがって憲法違反ではない。

 この政府見解を示したうえで、社説は、駐留米軍を日本の戦力と断定する意見は多くないと述べ、「判決はきわめて異様だといわざるをえない」と断じた。

 「(日米安保条約に基づく米軍駐留は)合憲的であるとみなすのが、過去十年余りにわたって政権を持続してきたわが保守党政府の根本政策となっているのである」

 「(締結後数年もたって)国内においては違憲であるとして、これを否定するようなことがあるとすれば、その国の国際的信用というものは、地に落ちるであろう」

 従来の政府見解を尊重せよ。

 社説はそう主張した。

 東京新聞社説(1日)は判決に「賛成できない」と述べつつ、こう論じる。

 「憲法の精神を忘れ、現実の政治に左右された(政府の)無制限の拡張解釈に対しては、一つの警鐘といえるであろう」

 読売新聞社説(1日)は、判決の評価は控えて、「一日も早く最高裁の明確な解釈が出ることが最も望ましい」と述べた。

 一方、読売新聞の1面コラム「編集手帳」は、裁判長に賛辞を送った。

 「伊達秋雄裁判長はまことに勇気のある裁判長であった。……政治的に融通のきく判決を下す裁判官よりも、世評を気にせず、真理に勇敢な裁判官の方を国民は信用する」

 「第九条の解釈は……本質は非武装にあることをだれでもが知っていたのだ」

 「政治家の憲法の解釈にすくなくとも相当な無理があったことはわたくしたちがよく知っている。……その無理が苦しいから憲法改正論が出て来る。しかし改正憲法が施行されるまでは、現行憲法の精神を忠実に守るべきではないか」

 元朝日新聞社長の長谷部忠(ただす)は指摘した。

 「問題は……こういう判決が下される余地を、憲法と防衛との関係に残したまま……防衛の既成事実だけが、つぎつぎに積み重ねられているという事実にある」

 「東京地裁の判決は、この病根をえぐりだし、一般にマヒしかけた意識を呼びさましたという点だけでも、その意義は小さくない」(5日付朝日新聞)(上丸洋一)

🔴砂川事件 18

2015729

馬車で東宮仮御所へ向かう皇太子さま、美智子さま=1959年4月10日、東京都千代田区の桜田門前

 米軍駐留は憲法9条に反する、と判断した砂川事件東京地裁判決に対し、最高検は1959年4月3日、最高裁へ跳躍上告することを決め、手続きをとった。

 跳躍上告は、一審判決で法律などが違憲と判断された場合に、二審を飛び越えて直接、最高裁に申し立てる上告をいう。

 最高裁は、他の事件に優先して跳躍上告の審理にあたる。

 58年10月に始まった日米安保条約の改定交渉は、自民党内で時期尚早などの声があがり、実質的な進展がないまま59年春を迎えていた。この間、朝日新聞は、安保改定について、社説で次のように論じる。

 「改定の方向は、やがては在日米軍基地をなくすというように、むしろ軍事面では、互いにかかわり合いを薄くすることによって、かえって日米間の真の政治的協力を深め得るようなものであらねばなるまい。……安保条約が不要となる状態ができるまでの過渡的なものでなければならぬということである」(59年1月27日付)

 当時の安保条約は、米軍の駐留を「暫定措置」と規定しており、その規定に沿った主張だった。

 外相の藤山愛一郎は59年3月21日、「月末か4月初めに安保交渉に入る」と表明する。一方、社会党、総評などは3月28日、「安保条約改定阻止国民会議」を結成。安保改定は自衛隊の核武装と海外派兵に道を開くと主張して、組織的な反対運動に立ち上がった。

 その矢先の30日、砂川違憲判決が出た。

 朝日新聞は4月8日の社説で主張する。

 「在日米軍の出動や、その装備につき、アメリカ側が日本と協議し、わが方の合意を条件とすべきことは当然のことである」

 「(安保改定は)現行条約の不備と危険性をできるだけ取り除いて、わが国を平和と安全の方向に導くというものでなければならない。そのかぎりにおいてのみ改定には賛成できるのである」

 10日の朝日新聞夕刊社会面は、皇太子の結婚パレードのニュースで彩られた。

 「お二人は礼装の手を振る。皇太子は右手を高く、妃殿下は左手をソッと。会釈をくりかえし、笑顔を左右にくばられる」

 「群衆の後列からひと際カン高い声が『ミッチ、こっちを向いて』……もちろん声は届かないが、あたりに笑い声がわく。だれもとがめるものはいない」(上丸洋一)

🔴砂川事件19

 「日本の運命を左右する憲法裁判を闘い抜くため、上告審は1千人の大弁護団の結成をめざす」

 1959年4月上旬、砂川事件の被告弁護団が記者発表した。

 ところが、東京地裁から事件記録の送付をうけた最高裁第一小法廷は28日、「審判を迅速に終結せしめる」との理由で被告1人につき弁護人を3人に制限すると決定、被告に通知した。

 弁護団は5月1日、弁護人選任権の侵害だとして最高裁に特別抗告した。

 翌2日朝、海野普吉や内藤功(84)ら弁護団5人が最高裁を訪れた。第一小法廷の主任裁判官、斎藤悠輔と面会するためだ。

 内藤は当時、弁護団の事務局長。砂川事件とは57年9月の学生、労働組合員の逮捕時からかかわってきた(連載第73回)。

 内藤によると、斎藤は、弁護人の数の制限について次のように説明した。

 「ジラード事件では米連邦最高裁が夏休み返上で迅速な審判をしてくれた。その手前、こちらも夏休み前に結審して、9月早々にも判決を言い渡したい」

 ジラード事件とは57年1月、群馬県の米軍演習場で、敷地内に入って空薬莢(やっきょう)を拾っていた農家の女性が、ジラードという名の米兵に射殺された事件だ。演習場周辺の住民は薬莢を換金して生活の糧にしていた。

 日米どちらに裁判権があるか、双方の主張が対立したが、米連邦最高裁が日本の裁判権を認める判決を出した。

 海野が斎藤に反論した。

 「しかし、それはそれ、これはこれだ。全然別の話ではないか」

 斎藤はさらに、こう述べた。

 「砂川事件はすでに新聞、雑誌などで論じ尽くされており、裁判所もよく論点を理解している。弁護人の答弁書はできるだけ簡単にしてほしい。検察庁にも上告趣意書は箇条書き程度でいいので、5月末までに提出するよう要望してある」

 内藤は、けげんに思った。

 なぜ、こんなに急ぐのか。

 内藤は、斎藤が新聞記者に、こう話している、とも聞いた。

 「検察官が上告趣意書の作成に時間がかかるなら最高裁の調査官を貸してもいい」

 このころ、政府は、7月に新安保条約の調印を終え、9月中に批准したい意向をもっていた。(上丸洋一)

🔴砂川事件 20

2015731

法相として国会審議に臨む高辻正己氏(中央)=1989年2月

 砂川事件の弁護団と最高裁との間で、弁護人の数の制限などをめぐってやりとりが続く1959年5月6日のことだ。内閣の調査審議機関である憲法調査会の第30回総会が開かれた。委員の一人、政治学者の蝋山政道(ろうやままさみち)が発言した。

 ――51年9月の日米安保条約調印に至る交渉の中で、政府は、駐留米軍と憲法9条の関係をどう考えたのか。

 参考人として出席した元外務省条約局長、西村熊雄が答えた。

 「そういう条約関係を設定しようとするとき、九条二項は、足の裏についたご飯つぶのように、こちらの議論のじゃまをし、弱くしました」

 同じく参考人の内閣法制局次長、高辻正己(のち最高裁判事、法相)が、集団的自衛権と憲法の関係について、こう述べた。

 「日本国がその存立を全うし、日本国民が平和のうちに生存する権利が他国の武力攻撃によって侵される場合、第三国との間に設定した軍事的協力関係に基づき、これと協力して他国の武力行使を阻止する。これは本来の自衛権の幅の中であり憲法に反しない」

 「しかし、今の憲法の下では、他国が武力行使を受けた場合に、それを(日本が)阻止するということは、集団的自衛権の名においてもそれを正当視するわけにはいかない」

 日本の自衛のため外国の協力を得るのは憲法に反しない。しかし、日本が他国の戦争に参加することは許されない。

 この解釈は、その後の歴代内閣にも踏襲されることになる。

 59年5月7日、砂川事件の弁護団が最高裁第一小法廷の裁判長、斎藤悠輔と面会した。こうした場に最高裁長官の田中耕太郎が姿を現すことはなかった。田中とは事前に相談している、と斎藤は言った。そして弁護団にこう告げた。

 ――全裁判官、夏休みを返上してでも、できれば8月中にも判決を出したい。

 朝日新聞は8日、1面トップで「『砂川違憲』上告審 八月中にも判決」と報じた。

 安保条約の改定交渉はこのころ、日米間で大筋で合意に達し、8日からは行政協定の改定交渉に入った。日本政府としては、違憲判決のまま安保条約を改定することは避けたかった。(上丸洋一)

🔴砂川事件 21

201583

安保改定阻止を叫んで道路に座り込む全学連のデモ隊=1959年5月15日、東京都内

 「米軍駐留は違憲」と判断した砂川事件東京地裁判決に対し、東京地検は1959年6月2日、最高裁第一小法廷に上告趣意書を提出した。憲法9条と米軍駐留の関係について、検察側は次のように主張した。

 ――憲法が保持を禁ずる戦力は、日本が管理、支配する戦力を言う。日本政府は米軍の駐留を許容するとしても、日本が指揮、管理し得ない外国軍隊は、戦力の保持に該当しない。

 ――国家には自衛権がある。自ら安全を保持したり、他国の協力を得て独立安全を保持したりすることができる。戦力不保持を強調して国の安全を危うくするのは、かえって憲法の平和主義の本旨をゆがめる。

 上告趣意書は、国連憲章第51条が定める集団的自衛権と日米安保条約の関係について、こう述べた。

 ――集団的自衛権とは、他国が武力攻撃を受け、それが自国の安全に「死活的」な影響を与えると判断されるとき、その武力攻撃を他国と共同して排除し得る権利をいう。

 ――安保条約の規定では、駐留米軍は「極東における国際の平和と安全の維持に寄与」し、「外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与する」ために配備される。これは国連憲章が認める個別的または集団的自衛権の行使にあたる。

 ――駐留米軍は武力攻撃が発生した場合にのみ、国連憲章の許す範囲で軍事行動をとり得る。侵略のための出動や自衛権の乱用はしないという法的保障がある。

 ――極東の平和と安全に対する脅威は、日本に対する脅威でもある。日本が自国と直接、関係のない武力紛争に巻き込まれる恐れがあるという一審判決は誤り。

 ――米軍の駐留を許した日本政府の行為は平和の維持を図るものであり、憲法が基調とする平和主義の精神に反しない。

 検察側は、こうした論理で、駐留米軍は憲法に反しない、と主張した。

 ここで論じられているのは、極東もしくは日本に外部から武力攻撃があったとき、直接、攻撃を受けていない米国が集団的自衛権を行使することだ。日本が集団的自衛権を行使することについては一切、言及していない。

 6月12日、砂川事件は大法廷に送付された。24日、弁護側は大法廷の裁判官、田中耕太郎の忌避を申し立てた。(上丸洋一)

🔴砂川事件 22

 1959年6月14日、最高裁長官の田中耕太郎と、経済学者の中山伊知郎の対談が読売新聞に掲載された。

(最高裁長官の田中耕太郎)

 タイトルは「裁判と雑音」。

 3週間前の5月25日、田中は全国の高裁長官、地裁所長を集めた会合で訓示した。

 「最近の裁判批判は、表現の自由を越えており、放置できない」

 49年に福島県の東北線松川駅近くで起きた列車転覆事件「松川事件」で、最高裁の判決公判が近づいていた。この事件は、作家の広津和郎(ひろつかずお)が一、二審の有罪判決に対する詳細な批判を中央公論に連載して注目を集めてきた。田中の右の発言は、松川裁判を批判する演劇が上演されたことへの反発とみられた(25日付朝日新聞夕刊)。

 田中は55年にも裁判所長に向けて「世間の雑音に耳を貸すな」「司法の独立を維持せよ」と訓示し、物議を醸していた。

 読売新聞の対談で田中は言った。

 「世間の反響というものは自分に都合のいい判決があったときは大いに拍手かっさいするが、都合の悪いときには力や運動をもって阻止しようとする傾向がある」

 「(有罪判決を批判する)松川事件といまの(無罪判決を支持する)砂川事件はちょうど反対でしょう。運動する人たちは大体において同じ傾向の人じゃないですか、その点が不快です」

 田中はさらに、こう発言した。

 「集団的な騒ぎを起(おこ)すということはその集団に加わる個人個人の動機のいかんを問わず社会の根本の秩序を害するという意味において非常に重く罰せられなければならない。……法律家でも現在その点においていくらかマヒしておるのではないか」

 砂川事件の弁護団事務局長だった内藤功(84)によると、弁護団は、これを事件への予断に満ちた発言と受け止めた。一審の無罪判決に不満を述べ、裁判官や弁護人を暗に非難している、とみたのだ。

 田中はほかにも、最高裁長官として発表した51、52年の「年頭の辞」で、正当な原因による戦争がある、と裁判官に向けて語ったり、「インテリゲンチアの平和論や全面講和論」を強く非難したりしていた。

 砂川弁護団は59年6月24日、不公平な裁判をするおそれがあるとして、最高裁大法廷に田中の忌避を申し立てた。

 大法廷は7月2日、「理由がない」としてこれを却下した。(上丸洋一)

🔴砂川事件 23

 「駐留米軍は日本の管理下にない。従って憲法が禁ずる戦力の保持にあたらない」

 そう主張する検察側の上告趣意書に反論するため、砂川事件弁護団は1959年8月4日、計50万字にのぼる「答弁書」を最高裁大法廷に提出した。

 米軍駐留と憲法9条の関係について、弁護団は次のように論じた。

 ――憲法9条は自衛権を否定しないが、一切の戦力の保持を禁じ、自衛のための武力行使も禁じている。

 ――米軍が日本に駐留するのは日本政府が基地を提供し、駐留を許容しているからだ。日本の領土内に軍事力の存在を許すことは憲法が禁ずる戦力の保持にあたる。

 ――駐留米軍が日本の管理支配できない軍隊であるなら、それは日本の民主的コントロールの外にある最も危険な戦力であり、日本を戦禍に巻き込むおそれがある。

 答弁書の論点は多岐にわたる。

 このうち、国連憲章51条が規定する集団的自衛権と日米安保条約、駐留米軍の関係について、答弁書は次のように論じた。

 ――国連憲章51条は集団的自衛権の行使を、外部からの武力攻撃が現実に発生した場合に限って認めている。ところが、安保条約は、駐留米軍が、日本防衛に限らず、広く極東の平和の維持のため、日本との相談なしに、米国だけの判断で出動することを認めている。このような積極的攻撃的な条約は国連憲章に反する。

 ――米国は国連加盟国であり、国連憲章の枠内でしか行動し得ないと検察側は言うが、その保障はない。

 このように、弁護側が集団的自衛権について語るのは、安保条約が国連憲章51条を逸脱しているという文脈においてであり、日本が集団的自衛権を行使することの是非は弁護側、検察側とも一切論じなかった。

 8月12日、首相の岸信介は、遅くとも60年春をめどに、新安保条約の承認を国会に求める、と表明する。

 それまでの交渉で、新条約には次の点を盛り込むことが合意されていた。

 米国の日本防衛義務を明らかにする▽日本が負う義務は憲法の枠内に限定する▽核兵器の持ち込みや、日本の領域外への出動は事前に協議する▽期限を10年とする。

 社会党委員長の鈴木茂三郎は18日、記者会見でこう述べた。

 「安保阻止に死力を尽くす」(上丸洋一)

🔴砂川事件 24 

 「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又(また)は集団的自衛の固有の権利を有すること……を承認する」

 1951年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約の一節だ。

 これ以後、59年秋に砂川事件最高裁上告審が始まるまでの間、集団的自衛権は日本でどう語られてきたのか。

 国際法学者の横田喜三郎が51年9月に出した著書「自衛権」はこう述べる。

 ――日本には自衛権がある。ただし憲法の制約上、武力によらない自衛権である。

 警察予備隊はすでにあったが、国内の治安維持が目的とされた。政府が軍備はもたないと表明している間、集団的自衛権の行使を論議する余地はなかった。

 自衛隊の発足を1カ月後にひかえた54年6月3日、外務省条約局長の下田武三が衆院外務委員会で答弁する。

 「現憲法のもとにおいては、集団的自衛ということはなし得ない」

 日米安保条約の改定交渉が始まってまもない58年10月30日、首相の岸信介は、衆院予算委員会で明言する。

 「日本領土に加えられたもの(武力攻撃に対して)は、アメリカはアメリカに加えられた侵害として防衛する。またそれと対等のことを考えると、アメリカに加えられたところのものを日本が日本に対する侵害として考える。こういうのが一番対等な意味でありますが、そういうことが考えられないことは言うをまたないのであります」

 「憲法上、日本の防衛の義務、すなわちあらゆる侵略を自衛の力でもって排撃するということは、日本領土内に限られておるわけであります」

 砂川事件上告審の最高裁判決を前にした59年11月20日には、防衛庁長官の赤城宗徳が衆院内閣委員会で答弁した。

 「アメリカの本土を攻撃された場合に日本が行ってこれを援助する、こういうような完全なる形が集団的自衛権……であります。憲法上の制約等もありますので、そういうことはできない」

 国際法上、日本は集団的自衛権をもつが、憲法は自国防衛しか許していない。

 政府は、そう言い続けてきた。

 そもそも集団的自衛権は「自衛」のための権利なのか。50年代半ば、専門家の間でそんな疑義が浮かんでいた。

 (上丸洋一)

🔴砂川事件 25 

 集団的自衛権について、日本の国際法学者らが「自衛権の観念の濫用(らんよう)である」との見解をまとめたことがある。

 米軍立川基地の拡張計画をめぐって、地元住民と調達庁との間で対立が続いていた1956年7月、有斐閣から刊行された「国際連合と日本」がそれだ。

 国連をどう改善するか、日本の立場から何を要望するか。これをテーマに53~55年、国際法などの専門家が定期的に集まって討議、研究した。これをもとに国際法学者の横田喜三郎と法哲学者の尾高朝雄がまとめた共著書だ。本書は言う。

 「集団的自衛権に関する(国連)憲章第五一条の規定は、理論的に見て、適当なものとはいえない」

 「自己に対しては、まだ直接に(武力攻撃が)発生していないばかりでなく、近い将来にかならず発生するという急迫性もない。それにもかかわらず、これに対して自衛権を行使し、武力行動をとることは、自衛権の観念に反する」

 こう指摘した上で、本書は次のように、個別的、集団的自衛権を規定する国連憲章51条の改正を提言する。

 ――北大西洋条約機構(NATO)のような地域的安全保障協定を結ぶ国が他国からの侵略に対して武力行使をする場合、国連安全保障理事会の決定や許可を必要とする。ところが、実際には常任理事国の拒否権にあうことが少なくない。

 ――集団的自衛権は、安保理の決定や許可なしで武力行使できるようにするための「法律的技術」として「自衛権」の名を用いたものにほかならない。国連総会の3分の2の賛成で武力行使が許可されるよう制度を改めれば、集団的自衛権は必要なくなる。そのうえで憲章51条を改正し、個別的自衛権だけを認めるようにすべきだ。

 研究会に参加したのは国際法学者の大平善梧、高野雄一、入江啓四郎ら。ほかに一般の有識者として最高裁長官の田中耕太郎が参加したと書かれている。ただし田中がそこで何を聞き、何を話したかは不明だ。

 田中は当時、日本の安全保障を国連に期待していた。「新憲法と世界観的立場」と題する論文で、こう述べている。

 「(実力行使ができない日本は)国際連合の集団的安全保障を求める権利があり、またこれに協力する義務を負う」(ジュリスト55年1月1日号)(上丸洋一)

🔴砂川事件 26

2015810

砂川事件の審理が始まった最高裁大法廷。左が弁護人席、右が検察官席=1959年9月7日

 1959年9月7日午前10時3分、15人の裁判官が最高裁大法廷の席についた。傍聴席には米ソの記者数人も陣取り、全111席がほぼ埋まった。砂川事件上告審の審理が始まった(7日付朝日新聞夕刊)。

 検察側は、検事総長の清原邦一が自ら総括弁論に立った。極めて異例だった。

 「(東京地裁の違憲判決は)憲法の解釈に重大な誤りを犯した不当なものであると思料いたします。……速やかに原判決破棄の審判あらんことを」

 さらに検察側は主張した。

 「わが国の平和と安全のために、現実に自衛戦力を保持すべきか否か、果たしていずれがわが国の平和と安全を確保する所以(ゆえん)であるかは、諸般の条件を考慮して決定さるべき政策問題であって、憲法第九条の解釈問題ではない」

 一方、主任弁護人の海野普吉は憲法制定時、9条は自衛戦力をも禁じたと理解されていた、と主張、一通の手紙を引用した。

 新憲法の条文を審議する過程で、9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」の字句を加えた衆院議員、芦田均が、同じ外交官出身の元外相、有田八郎にあてた手紙だった。

 51年2月3日付のこの手紙に、芦田はこうつづっていた。

 「現在の状況にては憲法の解釈如何(いかん)に拘(かかわ)らず、警察力(警察予備隊)とさへ云(い)へはタンク(戦車)、大砲で整備した部隊でも差し支えなしと考えており、恐らく当分これで押通(おしとお)すものと思はれ候(そうろう)」

 「さりとて之(これ)を違憲呼ば(わ)りしては、御国(おくに)のためにならず、憲法改正も容易ならず、結局解釈の余地ある限り自衛の武力は差し支えなしとする他に簡易な方法なしと考えたる次第に候」

 芦田は20日前の51年1月14日付毎日新聞に寄稿し、次の趣旨のことを述べていた。

 自分が「前項の目的を達するため」の字句を加えたことで、自衛戦力の保持が可能になった(連載第38回)。

 海野は、芦田の9条解釈が政治的、政略的な解釈だったことがこの手紙で明らかになったと述べ、次の言葉で弁論を結んだ。

 「最高裁判所においては政策的、政略的議論によって憲法を行政機関による蹂躙(じゅうりん)から守られることを固く信じ、速やかに本件上告を棄却せられることを固く信じて本弁論を終わる」(上丸洋一)

🔴砂川事件 27

 砂川事件上告審が最高裁大法廷で始まった1959年9月7日、主任弁護人の海野普吉の弁論中のことだった。傍聴席の一部から2回、拍手が起きた。

 裁判長の田中耕太郎が注意した。

 「ここは演説会場ではありません。拍手は許しません」(8日付朝日新聞)

 弁論はこのあと、9、11、14、16日と続き、弁護側が、米軍駐留を違憲と判断した一審判決を支持する観点から、次のような主張を展開した。

 ――駐留米軍は自衛隊と一体になって日本の戦力を形成する。日米合同演習さえ実施しているのに、米軍は日本の戦力ではないとは単なる形式論にすぎない。

 ――日本は米軍の極東地域出動基地とされている。安保条約の条文自体で、明文をもって出動の契機が厳格に制限されていない。そのため、侵略出動になる危険性を防止する法的な保障がない。

 ――東西両勢力の一方につくことなく、中立を保持してこそ日本の安全と平和が保たれる。それが憲法の精神だ。

 弁護人の一人、当時28歳だった新井章(84)は安保条約について、自衛権を規定した国連憲章51条に反し、当然、憲法にも反すると主張し、次のように述べた。

 「最近、われわれの周囲において、この憲法の平和主義を、あるいはあまりに子供じみた幻想と笑い、あるいは発足当初よりの事情変更を強調し、更には『与えられた憲法』として敢(あ)えて軽視し去ろうとする声が聞かれます。殊にそれが憲法を擁護すべき、まさに憲法上の義務を負う政府当局者において多く聞かれるのはまことに遺憾であります」

 「理想は常に現実に一歩を先んじ、現実をリードするところに理想たる所以(ゆえん)をもつのであります」

 検察側は9日からつごう4日間、もっぱら弁護側主張の聞き役に回った。

 上告審に合わせて、朝日新聞は、憲法学者、伊藤正己による解説記事「『砂川弁論』の問題点」を6回、連載する。

 伊藤は、こう指摘した。

 「憲法問題は多少とも政治性をもつから……司法審査にも当然に限界が存在する。問題は、駐留軍が違憲かどうかの判断がこの限界内であるかどうかなのである」(17日付)

 18日、弁論最終日を迎えた。(上丸洋一)

🔴砂川事件 28

2015812

上告審の口頭弁論が終わって記者会見する最高裁の田中耕太郎長官=1959年9月18日

 砂川事件上告審は1959年9月18日、検察側、弁護側の最終弁論が行われた。

 検察側の弁論に立ったのは最高検検事、吉河光貞。戦時下にスパイとして摘発されたドイツ人、ゾルゲの取り調べにあたるなど、一貫して公安畑を歩いてきた。

 吉河は、こう述べた。

 「法の解釈は絶えず変転する現実に即応し、これに対処し得るよう合理的な弾力性がなくてはならないことは……改正の容易でない憲法の解釈について最もよく妥当する」

 「いずれの安全保障の方式が国の安全を保持するため最も妥当なものであるか否かの問題は、国の政治部門に委ねられるべき政策の問題である」

 「現実の安全保障の方式が、憲法前文にいう平和主義と国際協調主義にもとらず、憲法第九八条第二項に規定する『条約及び確立された国際法規を遵守(じゅんしゅ)する義務』に違反するものでない限り、これを憲法上の問題とすることはない」

 この部分では9条は立論の外にあった。

 一方、弁護側はこう主張した。

 「憲法が、いたずらに『時代の変化』に応じて自由に解釈され、白を黒とまでいいうるなら、それは法の自殺である。そこに残されたものは、法の仮面をかぶった権力政治でしかない」

 「国の安全保障の問題は憲法第九条の限界の範囲内においてのみ専ら政策の問題なのであり、これをすべて政策――即(すなわ)ち時の権力者の自由に委ねられる事項――というのは、結局憲法第九条を無意味ならしめるものである」

 閉廷後、主任弁護人の海野普吉が語った。

 「最も驚いたのは、最終日の弁論で検察側が『憲法九条は時勢に応じて解釈すべきだ』との主張をのべたことだ。……大変な問題だ」(19日付朝日新聞)

 最高裁長官の田中耕太郎は「スムーズに済んでホッとした」と話した(同)。

 憲法学者の伊藤正己は、朝日新聞(19日付)紙上で、こう述べた。

 「裁判の結果はよかれあしかれ政治的影響をもたざるをえず、最高裁としての責任は重い。かくしてこの判決は、わが憲法史を飾る一ページともなりうるであろう」

 判決は早くて、年末とみられた(18日付朝日新聞)。(上丸洋一)

🔴砂川事件 29

2015813

国会内で話し合う岸信介首相(右)と藤山愛一郎外相=1959年11月10日

 砂川事件の上告審で最高裁大法廷は1959年9月28日、15人の裁判官による合議を開始した。11月中には終えて、その後、判決文の起草にかかるものとみられた(29日付朝日新聞)。

 10月3日、首相の岸信介が日米安保条約の改定について、12月の通常国会に改定案を提出したいと表明した。

 翌4日、外相の藤山愛一郎が1カ月近くに及んだ外遊を終えて帰国。これ以降、安保改定をめぐる論議が活発化する。

 28日、社会党書記長、浅沼稲次郎が衆院本会議で岸に質問した。

 「(砂川事件の最高裁)判決が行われるまでは、いかに独裁、独善的な岸内閣であっても裁判の決定を無視することはできないであろう……最終的な判決があるまでは(新安保条約に)調印はできないということに私はなろうと思うのであります」

 岸「私ども政府としては、別にこの判決の時期とは関係なし、われわれの信念に基づいてやっております」

 藤山は11月7日、歴史家の家永三郎、評論家の清水幾太郎らが参加する学者、知識人のグループ「安保問題研究会」から出されていた公開質問書に回答を示す。

 「憲法の解釈上は、日本は他の国が武力攻撃をうけているだけで、日本自身が攻撃されていない場合、他国と協力して自衛権を行使することはできないということになっております。新条約においても、米国が武力攻撃に対抗して自衛措置をとる場合でも、日本が攻撃されないかぎり、日本は米国と協力して自衛行動をとる義務を負わないのですから、(新安保条約は)憲法に違反するものではありません」

 さらに藤山は10日、衆院本会議で安保改定交渉について報告、次のように述べる。

 「日本の場合、憲法上の関係よりも、外国領土防衛の義務を負うことは考えられないことであり、従って、条約地域は日本領土に限定することといたした次第であります」

 憲法の制約があるから、日本は集団的自衛権を行使しない。

 藤山は繰り返し、そう表明した。

 11月16日、日米両政府は、新安保条約の調印を60年1月10~15日の間とすることで了解したと報じられた。

 最高裁大法廷は59年11月25日、判決言い渡しを12月16日と決定した。(上丸洋一)

🔴砂川事件 30

 「原判決を破棄する。本件を東京地方裁判所に差し戻す」

 砂川事件上告審で、最高裁大法廷の裁判長、田中耕太郎が判決を言い渡した。1959年12月16日午前10時すぎのことだ。

 「米軍の駐留は違憲」と判断した同年3月の東京地裁判決を、大法廷は、裁判官15人の全員一致で破棄した。

 開廷から10分後、被告の一人、当時25歳の土屋源太郎(80)が法廷から出てきた。

 外の歩道に待ち構える20~30人の支援者に向かって土屋が声を張り上げる。

 「ただ今、原審さしもどしの判決が出され、非常に怒りにもえています」

 判決の言い渡しは10時22分に終わった。

 関係者が談話を出した。

 田中「主文、つまり結論において全員一致できたことはなによりも喜ばしい」

 清原邦一(検事総長)「結論として検察官の主張を採用したものであり……最高裁の識見に対し敬意を表する」

 海野普吉(主任弁護人)「第九条問題はまだかなりな争いの余地を残している」

 宮崎伝左衛門(砂川町長)「数百万人の犠牲をはらってかち得た平和憲法を、あくまで守り通すためにわれわれは伊達判決を支持して闘い続けてきた。……最高裁裁判官の良識と勇気を私は疑わざるを得ない」(以上、16日付朝日新聞夕刊)

 岩井章(総評事務局長)「最高裁は恐らく憲法上の解釈問題よりも岸(信介)首相の渡米(と新安保条約)調印前に伊達判決を否定する形をつくり上げることを考えたものと思う」(17日付読売新聞)

 一審の裁判長、伊達秋雄が東京地裁で記者団に囲まれた。

 「お辞めになるという話は……

 伊達の表情が一瞬、きっとなった。

 「最高裁の判決で責任をとる、とらないなんて、とんでもない話ですよ。もちろん最高裁の判決は尊重しなければならない。だが、わたしは正しいと思ってやった。良心に恥ずるところがない。責任をとる必要はないと思います」(16日付朝日夕刊)

 最高裁判決当日の朝日新聞夕刊1面の解説記事は、次の一節で結ばれていた。

 「約九カ月間の短い命ではあったが、政府と国民に、国の最高法規である憲法にあらためて目を向けさせるチャンスを与えた伊達判決は、日本憲法史上をかざる画期的な一ページとなるであろう」(上丸洋一) 

🔴砂川事件 31

2015817

最高裁判決を受けて大規模な報告集会が開かれた=1959年12月16日、東京・日比谷野外音楽堂

 原判決を破棄、差し戻した1959年12月16日の砂川事件上告審で、最高裁大法廷は、判決理由を次のように述べた。

 ――憲法9条は、自衛権を否定していない。憲法の平和主義は無防備、無抵抗を定めたものでなく、自衛のために必要な措置をとることができる。

 ――日本の平和と安全を維持するための安全保障は、その目的を達するにふさわしい方式、手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができる。憲法は日本が他国に安全保障を求めることを禁じていない。

 こうして判決は、武力による自衛を憲法は否定していないという判断を示す。

 では、駐留米軍は憲法に反しないのか。

 ――9条2項が自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、日本に指揮管理権のない外国の軍隊は、同条項が禁ずる戦力にあたらない。日本が米軍の駐留を許したのは「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文)防衛力の不足を補おうとしたものだ。

 ――日米安保条約は国会の承認を経ており、違憲か否かの判断は裁判所の審査になじまない。一見極めて明白に違憲と認められない限り、裁判所の違憲審査権の範囲外にあり、内閣や国会、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられる。

 そして、判決はこう結論づける。

 ――日本と極東の平和維持のために駐留する米軍は一見極めて明白に違憲無効とは認められず、原判決は破棄を免れない。

 国家が自衛権をもつことは、東京地裁判決も認めた。しかし、地裁判決は、自衛のための戦争も戦力保持も憲法は許していないとし、駐留米軍は違憲と判断した。

 一方、最高裁は、安保条約も、駐留米軍も「一見極めて明白に違憲とは認められない」と述べたが、「合憲」と言い切ることはなかった。

 判決を受けて、朝日、毎日、共同通信の記者が法律雑誌の座談会に臨んだ。

 A「一審判決の方が正しいと論理的には考えている人も、まあ最高裁に行けばひっくり返るだろうといったような空気で、たしかにそこに何か問題があった」

 D「政府は圧力をかける必要はないんで、安心して(最高裁に)まかしておけばいいんですね」(法律時報60年2月号臨時増刊)

 (上丸洋一)

🔴砂川事件 32

 砂川事件の上告審で最高裁大法廷は、裁判官15人の全員一致で「原判決破棄、差し戻し」の結論を出し、10人が「補足意見」「意見」を表明した。

 裁判長で最高裁長官の田中耕太郎は補足意見で次のように述べた。

 「自国を守ることは、同時に他国を守ることになり、他国の防衛に協力することは自国を守る所以(ゆえん)でもある。……今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである」

 憲法学者の橋本公亘(きみのぶ)がこれを批判した。

 「憲法は他国の防衛義務というようなことを全く考えていない。……こうしたことが認められるとなると、国際紛争に積極的に介入するというような非常に危険な思想になる」(法律時報60年2月号臨時増刊)。

 法律学者の戒能通孝(かいのうみちたか)は「禅問答にはなるけれども、法律的論理にはなり得ない」と評した(同)。そもそも「他衛」という言葉には厳密な法律的定義が欠けていた。

 砂川裁判の元弁護人、内藤功(84)は振り返る。

 「あれは田中氏独自の思想の表明であり、日米両政府への忠誠宣言、信条告白だとみていました。集団的自衛権に通じる言葉ではありますが、集団的自衛権の法律論として構成されていません」

 実は田中は、54年末に書いた論文「新憲法と世界観的立場」で、すでに「自衛と他衛」という言葉を使っていた。

 「我が国は他の(武力以外の)方法により自己の安全を保障しなければならないこと、現実の問題としては国際連合の集団的安全保障を求める権利があり、またこれに協力する義務を負う」

 「集団的安全保障への加入の目的は……自衛と他衛とを含む国際社会における平和と秩序の維持に貢献することである。新憲法の精神はここにあると思う」(ジュリスト55年1月1日号)

 国連中心の集団安全保障で自らを守る。

 田中はそう考えた。この時点では、国連による軍事的安全措置までは容認した「伊達判決」の考えと田中の考えの間に、大きな開きはなかったように思われる。

 しかし、砂川裁判の補足意見で「自衛と他衛」という言葉を使ったのは別の目的だった。この言葉で田中は、日米安保条約が容認されることを強調した。(上丸洋一)

🔴砂川事件 33

 「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」

 1959年12月16日、砂川事件上告審で最高裁大法廷が言い渡した判決の一節だ。

 「必要な自衛のための措置」の中に集団的自衛権の行使が入っていたかどうか。

 砂川事件の一審「伊達判決」も国家の自衛権は認めていた。しかし、憲法は、自衛のための戦争も、そのための戦力保持も禁じていると判断。日本が取り得る安全保障策は、国連による軍事的安全措置に限定される、と述べていた。

 最高裁はこれに反論する。

 「わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又(また)は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない」

 一審判決が示した国連の軍事的安全措置に限らず、実情に応じて適当な安全保障策を選ぶことができる。それゆえ、他国に安全保障を求めることは憲法に反しない。

 これがこの箇所の結論だ。

 「集団的自衛権」という言葉自体は上告審にしばしば登場するが、それは、安保条約が集団的自衛権を規定する国連憲章51条に適合するか否かを論ずるときだけだ(連載第84、86回)。

 当時の岸内閣は「自衛のための措置」といえど憲法の制約を受ける、と表明していた(連載第87回)。

 判決翌日の朝日新聞に専門家の座談会が掲載された。

 政治学者の蝋山政道(ろうやままさみち)が発言する。

 「政府が憲法に即してどういう行動をとるべきであるかを具体的に示すのが最高裁の役割だ。私が、こんどの判決について多少物足りないと思うのは、その点だ」

 弁護団の一人で元最高裁判事の真野毅(まのつよし)は法律誌に寄稿した論文で指摘した。

 「砂川判決で本当の重要点は、アメリカ軍隊が日本の戦力に当(あた)るかどうかの一点に帰着するという厳然たる事実を、何人(なんぴと)も直視しなければならぬ」(法律時報60年2月号臨時増刊)(上丸洋一)

🔴砂川事件 34

2015820

最高裁判決後、記者団に囲まれる砂川町の宮崎伝左衛門町長=1959年12月16日、東京・霞が関

 「日本は安全保障のため日米共同防衛体制をとっているが、これは自衛隊が盾、米軍が剣の役割をする体制である」

 砂川事件上告審当時の防衛庁統合幕僚会議議長、林敬三の言葉だ。

 弁護人の内藤功(84)は口頭弁論でこの言葉を引き、駐留米軍は自衛隊と一体不可分の存在、憲法が保持を禁ずる戦力にあたる、と主張した。

 1959年12月16日の最高裁判決は次のように述べた。

 「同条(9条)二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力……を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」

 米国の軍隊は日本の軍隊ではない、だから日本の戦力ではない。

 最高裁は、そう判断した。

 17日の読売新聞1面コラム「編集手帳」が判決を批判した。

 「日本の指揮管理は受けないから『日本の戦力』ではない、という。だが、安保条約ではこの軍隊が『日本の戦力』として存在し、日本の安全を保障している。とすると『日本の戦力』とはいったい何か?」

 「(最高裁が)憲法の番人としての権威を示してくれるものと期待していたのだが……どうやらみごとに外れたようだ」

 18日の「天声人語」もこう書いた。

 「それなら、仮(か)りに米陸海空軍の大半を日本に投入し、巨大な外国戦力を積み上げても、それは日本の戦力でないからかまわぬといえるのか」

 「庶民の常識ではノーというほかないし、仮想敵国にも通用しない論理だろう。それは法律論の魔術であり、実質的には憲法九条の死滅ともいえよう」

 政府、自民党は昨年来、集団的自衛権の行使が合憲であることの根拠は砂川最高裁判決だと説明してきた。

 内藤はいま、こう反論する。

 「最高裁判決は、自衛のための戦力が憲法違反かどうかを判断していない。そこを飛び越えて判決が、集団的自衛権の行使を容認するなど論理的にあり得ない。判決は集団的自衛権行使の根拠に全くなり得ません」(上丸洋一)

🔴砂川事件 35

2015821

最高裁の小谷勝重判事。戦後の最高裁発足時に弁護士から転じた=1958年11月

 1959年12月16日に出た砂川事件最高裁判決を国際法学者の高野雄一は次のように評した。

 「そこには安保条約問題の天目山である『極東の平和』条項や集団的自衛権に関する(国連)憲章・憲法的判断はなんらみられない。この点、結論のいかんにかかわらず、判決の含む実質的判断の面に非常な物足りなさ不満足さを感ぜざるをえない」(ジュリスト60年1月臨時増刊号)

 日米安保条約は、米軍が日本の基地から極東へ出動することを認めている。このことを、集団的自衛権について規定した国連憲章や、戦争を放棄した日本国憲法に照らしてどうみるか。

 判決がそれらの点にふれていないことが高野には不満だった。

 最高裁判決は、安保条約が合憲か違憲か直接、判断しなかった。

 その理由を判決はこう述べた。

 ――安保条約は高度の政治性をもつ。違憲、合憲の判断は司法審査になじまない。一見極めて明白に違憲無効と認められない限り、内閣、国会の判断、終局的には主権をもつ国民の政治的批判に委ねられる。

 統治の根幹にかかわる行為には司法の審査権が及ばないという「統治行為論」だ。

 憲法は81条で裁判所に違憲審査権を認めている。最高裁大法廷の裁判官の一人、小谷勝重は判決理由の一部に反対する、として次の「意見」を述べた。

 「(多数意見によると)立法行政二権に対する司法権唯一の抑制の権能たる違憲審査権は、国の重大事項に全く及ばないこととなり……三権分立の制度を根本から脅かすものと思う」

 判決翌日の読売新聞1面コラム「編集手帳」は「(高度の政治性を理由に)司法裁判所が審査から避けて通るという印象は強い」と書いた。一方、朝日新聞社説は「単に逃避と見るべきではあるまい」と述べて判決を肯定した。

 最高裁判決が出る以前、岸信介内閣は、安保条約の改定をめぐって「集団的自衛権の行使は憲法上、許されない」という趣旨の発言を繰り返した(連載第87、92回)。

 最高裁判決が示した統治行為論に立つなら、最高裁は内閣の判断を尊重することになる。最高裁が内閣の判断を飛び越えて集団的自衛権の行使を合憲と判断したとみるのは、判決の論理と矛盾する。(上丸洋一)

🔴砂川事件 36

 砂川事件の最高裁判決が出た1959年12月16日、各紙夕刊は1面トップで判決を報じた。朝日新聞は憲法学者、伊藤正己の解説を3面に掲載。伊藤はこう述べた。

 「判決は、駐留米軍が憲法で禁止されていないことを認めたのであるが、それ以上に、それが日本の安全保障のための政策として望ましいものであるとか、憲法の精神にそったものであるとかの判断をしているわけではない」

 17日の朝日新聞社説は、判決を「ほぼ妥当」と評価した上で、こう論じた。

 「判決によって、(政府が)安保改定へのフリーハンドを得たかのように受取(うけと)るとすれば、およそ国民の願望に背を向けるものといわれよう」

 判決は、安全保障政策を政府の恣意(しい)に委ねたのではない、と念を押した。

 読売新聞社説は「判決を自己の立場を有利にするため、我田引水的に乱用してはならない」とクギを刺し、毎日新聞社説は「極めて常識的な結論」ながら、論争は今後も続くだろうと述べた。

 高知新聞の社説はこう主張した。

 「憲法の解釈に何よりも大切なことは、その精神が『戦争のざんげ』と『武力の否定』の平和主義に貫かれているということだけは忘れてはならぬと思う。最高裁判決は、この基本認識において果たして完全だといえるかどうか」

 新聞協会報(60年1月1日号)によると、17日だけで全国42紙が関連の社説を掲載した。判決を全面支持したのは2、3紙にとどまり、大半は、明確さに欠けるなどの不満を述べながらも判決は尊重するという論調だった。

 18日の朝日新聞夕刊は、ニューヨーク・タイムズが砂川事件最高裁判決を、ワシントン・ポストが日米安保条約の改定問題を、それぞれ論説で取り上げたと報じた。

 ニューヨーク・タイムズ「この判決は岸(信介)首相が新条約を批准してもらうのを助けると同時に、憲法の意味についての疑問をなくするために憲法を改正するのを助けるべきものである」

 ワシントン・ポスト「日本が岸政権を通じて自発的に米国との軍事同盟を続けることを選んだことは極東および自由世界陣営にとって大きな意義がある」

 60年1月16日、岸は、新安保条約調印のため米国に向け出発した。(上丸洋一)

🔴砂川事件 37

2015825

岸信介首相らの訪米に抗議するキリスト教団体の人たち=1960年1月15日、東京・銀座

 砂川事件の一審で違憲判決を言い渡した東京地裁判事、伊達秋雄は、1959年12月の最高裁判決を受けて、こう語る。

 「もし憲法制定当時に日本憲法が掲げる平和主義が、今度の(最高裁)判決のいうような内容のものだということをいったとしたらどうでしょう。果(はた)して世界無比の人類の理想を掲げたものとしてあのように誇ることができたでしょうか」(法律時報60年2月号臨時増刊)

 憲法制定時、外国軍隊の駐留は禁じられていない、と人々は考えただろうか。

 伊達は、そう問うた。

 60年1月19日、新日米安保条約の調印式がホワイトハウスで行われた。51年に結ばれた旧条約と同様、新条約の正文も調印の日に初めて公表された。

 新条約では、米軍の日本防衛義務が明記された。また、発効から10年たてば、日米いずれかの通告で、1年後に条約は終了する、と定められた。

 朝日新聞はかねて、こう主張していた。

 ――核兵器の持ち込みや日本領域外への出動、移動については、事前協議だけでなく、日本側の事前の同意を条件とせよ。

 ――日本領域外での作戦を許す条項をはずして、目的を日本の安全に限定せよ。

 しかし、これらは実現しなかった。

 朝日新聞は21日の社説で指摘した。

 「われわれが得たものは、疑念の解消ではなく、深まりゆく不安であった」

 政府は2月5日、新条約を国会に提出した。26日の衆院安保特別委員会で、首相の岸信介が答弁した。

 「(自衛隊が)この領土外に出て実力を行使するということはあり得ない」

 「このことを前提としてこの条約が結ばれておる」

 砂川最高裁判決のあとも、政府の見解に変化はなかった。

 3月15日、社会党議員が質問した。

 「(商工相として日米開戦の詔書に署名した岸が)いかに防衛的(な条約)だと言ってみましても、国民はなかなか信頼しない。……過去の戦争に対して一体いかに現時点において感じておられるのか」

 岸「十分に反省をした結果として、こうした防衛の条約を結んで、そうして日本を安全にしておく、日本を戦争の危険から防ぐということが絶対に必要であるという信念に立っておるのであります」(上丸洋一)

🔴砂川事件 38

2015826

安保条約単独可決に抗議する全学連のデモ隊と警官隊=1960年5月20日、国会前

 新安保条約の国会審議が大詰めを迎えた1960年5月19日、朝日新聞は、首相の岸信介と社会党委員長、浅沼稲次郎の主張を大きなスペースで紹介した。

 岸はこう論じた。

 「もはや単独に自国が保有する防衛力のみによっては、防衛の完全を期しがたい」

 「戦後の日本が平和憲法の精神に徹し、自衛のため以外に武力を行使しないことは明白であるし、米国もまた……国際連合の主唱者であって、最も平和的な国家であることは言をまたない」

 一方の浅沼は、衆院解散を要求した。

 同日夜11時すぎ、国会議事堂の廊下に座り込む社会党議員らを警官隊が排除。11時50分に始まった衆院本会議で50日の会期延長を自民党だけで可決した。

 日付がかわった20日午前0時すぎ、全野党と自民党の一部が欠席のまま新安保条約が承認された。

 政府は、米大統領アイゼンハワーが6月19~23日に訪日することをすでに公表していた。条約は、衆院の可決から30日以内に参院で議決されない場合、自然承認される。5月20日の単独可決は、大統領の訪日に間に合わせるためとみられた。

 朝日新聞は21日、1面トップに社説を掲載し、「岸退陣と総選挙」を要求した。

 このころの朝日新聞の世論調査(6月3日付)によると――。

 岸内閣を支持する  12%

 岸内閣を支持しない 58%

 戦後、最低の支持率(当時)だった。

 6月5日、民法学者、我妻栄の寄稿が朝日新聞に掲載された。東京大法学部で岸と机を並べた我妻が、首相に忠告した。

 「道は、ただ一つ。それは直ちに政界を退いて、魚釣りに日を送ることです」

 10日、米大統領秘書ハガチーが来日。羽田空港の出口でデモ隊に囲まれ、米軍のヘリコプターで脱出する。

 東京の治安警備を担当する陸上自衛隊第1普通科連隊の中隊長、狩野信行は10日夜、出動命令が翌朝出た場合、隊員に何を言うか考えた。結論はこうだった。

 「絶対に銃を奪われるな」

 「万一奪われたならば、床尾板(しょうびばん)(肩にあてる部分)で打撃してもよいし、銃剣で突いてもよいから必ず奪い返せ」(軍事史学2004年3月号)

 出動命令は、出なかった。(上丸洋一)

🔴砂川事件 39

 1960年6月15日午後7時すぎ、「安保反対」を叫ぶ全学連の学生数千人が国会構内に突入した。学生と警官隊が激しく衝突する中、当時22歳の大学生、樺(かんば)美智子が死亡した。

 しかし、首相の岸信介は、米大統領アイゼンハワーの訪日をすぐには断念しなかった。警察庁長官の柏村信雄(かしわむらのぶお)を呼び、早急に治安を回復するよう迫った。

 柏村が岸に進言した。

 「総理……このデモ隊は、機動隊や催涙ガスの力だけではなんともなりません。もはや残された道は、一つ。総理ご自身が国民の声を無視した姿勢を正すことしかありません」

 岸は顔面蒼白(そうはく)になった――。

 朝日新聞の警察担当記者だった鈴木卓郎が、十数年後に柏村から聞き出した(鈴木「警察庁長官の戦後史」)。

 6月16日、政府は大統領の訪日延期を要請。大統領は19日、沖縄を訪れ、2時間ほど滞在したものの、東京には来なかった。

 朝日新聞は18日、社説で主張する。

 「岸内閣が自分の誤りも失態も認めようとせず、ひたすら強引と硬直によって、ただ官僚的に、権力的に、国民に対してきたことが、国民に反発を起こしてきた」

 「総辞職を断行するよりほかはない」

 19日午前0時、新安保条約は、参院で議決されないまま自然承認された。

 23日、新安保条約が発効し、岸が辞意を表明する。国会議事堂周辺から、やがてデモ隊の姿が消えていった。

 7月7日、東京地裁で砂川事件の差し戻し審が始まった。弁護側は主張した。

 「最高裁は、安保条約が違憲かどうかは最終的には国民の政治的批判にまかされるとして違憲審査権を放棄した。被告たちの行為(基地内立ち入り)はまさに政治的批判の表現である」(8日付朝日新聞夕刊)

 被告は無罪を主張した。

 「砂川基地拡張反対は憲法を守るたたかいであった。われわれを無罪にした伊達判決は全面的に正しい」(9日付朝日新聞)

 61年3月27日、東京地裁は被告、弁護側の主張を退け、7被告全員に罰金2千円の有罪判決を言い渡した。

 判決を不満とする弁護側と、量刑が軽いとみた検察側がともに控訴した。

 5月、一人の判事が裁判所を辞めた。

 伊達秋雄だった。(上丸洋一)

🔴砂川事件 40

2015828

裁判官を辞めたあと弁護士、大学教授として活動した伊達秋雄さん=1974年

 砂川事件最高裁判決から1年半近くたった1961年5月30日、朝日新聞夕刊社会面に次の見出しのベタ記事が載った。

 「伊達裁判長やめる」

 一審で駐留米軍違憲判決を言い渡した東京地裁判事、伊達秋雄の退任を伝える11行の記事だった。伊達は当時52歳。左耳の神経性難聴が理由と記事は伝えた。

 当時の心境を伊達は後年、こう語る。

 「法曹の世界におりながら政治的な判断をするのは、どうかと思うのです。あの最高裁の判断などは政治的判断だと思うんですよ。……そんな最高裁のもとにいるより、自由な発言を確保した方が自分としては気が楽だなあということもあって」(法学セミナー77年6月号)

 退任後、伊達は弁護士に転じると同時に、法政大教授に就任。「退官の弁」と題するエッセーを法律誌に連載する。

 その中で、42年秋から終戦まで勤務した「満州国」司法部での仕事にふれている。

 ――行政当局は、労務対策と治安対策から、法的根拠なしに、抜き打ち的に浮浪者狩りをして強制的に炭鉱などに送り込んでいた。その数は十万人を超えたであろう。

 ――突然、拉致されて、強制労働に服した者の恨みは次第に高まり、険悪な空気さえ見受けられた。

 そこで司法部は「保安矯正法」を制定、不服申し立ての制度などを設けて改善を図った。伊達は収容者に事情を聴き、誤って収容されたと認められる者を多数釈放したという(判例時報61年8月11日号)。

 日本に戻ったのは46年9月。その後、新潟地裁、東京地裁などに勤務した。

 大日本帝国憲法から日本国憲法へ。

 伊達は戦後、こう考える。

 「政府が積み重ねてきた既成事実を合憲化するのが司法の役割だとする国策乃至(ないし)国益優先の思想は旧時代のものであり……憲法の精神をありのままに宣明することこそ司法のあるべき姿だ」

 こうした思いと、平和主義への敬虔(けいけん)な気持ちは、国策に追随した戦時中の体験と「私自身に対する痛烈な自己批判」から生まれた、と伊達は、回想記につづる。

 「(砂川違憲判決で)一番おそれたのは、この判決が憲法九条の改正問題の契機となりはしないかということであった。それが杞憂(きゆう)に終(おわ)ったことは幸いであった」(伊達「半生の記」)(上丸洋一)

🔴砂川事件 41

 その文字が視線の先にふれたとき、国際問題研究者の新原昭治(しょうじ)(84)は、胸が高鳴るのを覚えた。

 「SUNAKAWA」(砂川)

 「AKIO DATE」(伊達秋雄)

 2008年4月、米メリーランド州にある米国立公文書館の閲覧室でのことだ。

 機密指定が解除された1950年代後半の日本関係の外交文書をめくるうち、新原は、砂川裁判の裏面がつづられた文書を発見する。

 59年12月に最高裁が一審「伊達判決」を破棄してから、半世紀近くがたっていた。

 この間の61年3月、東京地裁は7被告全員に罰金2千円の有罪判決を言い渡す。62年2月、東京高裁が控訴を棄却。63年12月、最高裁が弁護側の上告を棄却して被告の刑が最終的に確定した。

 米軍立川基地は68年に米軍が拡張計画の中止を発表。77年に日本に全面返還された。そして「砂川」は、ほとんど新聞に登場しなくなる。

 新原が見つけた14の関連文書の一つは、一審判決翌日の59年3月31日午後、駐日米国大使マッカーサーが米国務長官あてに出した極秘の至急電だった。

 「今朝8時に藤山(愛一郎外相)と会い、米軍の駐留と基地を日本国憲法違反とした東京地裁判決について話し合った」

 「私(大使)は、もし自分の理解が正しいなら、日本政府が直接最高裁に上告することが、非常に重要だと個人的には感じている……高裁への訴えは最高裁が最終判断を示すまで論議の時間を長引かせるだけのこととなろう……と述べた。……藤山は、今朝9時に開かれる閣議でこの上告を承認するように促したいと語った」(新原、布川〈ふかわ〉玲子「砂川事件と田中最高裁長官」)

 マッカーサーは藤山に対し、最高裁に跳躍上告するよう迫った。

 伊達判決の影響を最小限に食い止めて、日米安保条約の改定を急ぎたい。

 マッカーサーはそう考えたのだろう。

 日本側も同じ考えだった。

 一審判決の当日、法務省、最高検はすぐに跳躍上告の検討を始める(30日付朝日新聞夕刊)。そして4月3日にその手続きをとる(連載第81回)。

 4月24日午後、マッカーサーは国務長官あてに公電で伝える。最高裁長官と内密に話し合った、と。(上丸洋一)

🔴砂川事件 42

201591

 国際問題研究者、新原昭治(84)が2008年4月、米国立公文書館で発見した砂川事件上告審に関する14の外交文書のなかに、次の一通があった。1959年4月24日、駐日米国大使マッカーサーが国務長官あてに出した公電だ。

 ――内密の話し合いで、最高裁長官の田中耕太郎は、本件(砂川上告審)には優先権が与えられているが、日本の手続きでは審理開始後、判決までに少なくとも数カ月かかると私に語った(新原昭治、布川〈ふかわ〉玲子「砂川事件と田中最高裁長官」)。

 最高裁長官が、裁判の利害関係者である米国大使に、法廷外で内密に会っていたことを公電は語っていた。

 マッカーサーは、田中から得た情報を、その後も本国政府に報告した。

 7月末、田中は米国大使館の首席公使に対し、共通の友人宅で次のように語る。

 ――判決はおそらく12月だろう。(駐留米軍の実態などの)事実問題ではなく、法的問題に争点を限定する決心を固めている。少数意見を回避して、全員一致の判決となるよう願っている(〈1〉=「砂川事件と田中最高裁長官」)。

 この情報をマッカーサーは8月3日付の書簡で国務長官に伝えた。

 駐留米軍は違憲と判断した一審「伊達判決」に対し、大法廷では、一人の裁判官の反対もなく、全員一致で判決を出したい。

 そんな思いを田中は、口頭弁論が始まる1カ月以上前に米国に伝えていた。

 口頭弁論が終わり、裁判官の合議が進む11月5日、大使は国務長官あてに極秘書簡を送る。

 ――田中と非公式に会談した。砂川事件について裁判官の幾人かは手続き上の観点から、他の裁判官は法律上の観点から、また他の裁判官は憲法上の観点から問題を考えている、と田中は示唆した。一審判決は覆されると考えている印象だった〈2〉。

 〈1〉〈2〉は、米国立公文書館が所蔵する機密解禁文書の一節だ(要旨)。

 〈1〉は2013年1月に元山梨学院大教授(法哲学)の布川玲子(70)が米国の情報公開制度を使って入手した。〈2〉はジャーナリスト末浪靖司(75)が11年秋に同公文書館で発見した(末浪「対米従属の正体」)。

 裁判所法75条はこう定める。

 裁判官による評議の経過や各裁判官の意見は秘密を守らねばならない。(上丸洋一)

🔴砂川事件 43

 「結審後の審理は実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っている」(新原昭治、布川玲子「砂川事件と田中最高裁長官」)

 最高裁長官の田中耕太郎が1959年7月末、在日米国大使館の首席公使にこう語っていた。大使のマッカーサーが国務長官にあてた8月3日付書簡の一節だ。

 砂川事件上告審が始まる1カ月ほど前、田中は、全員一致判決で世論の分裂を回避したいとの意向を米国に伝えていた――。

 元山梨学院大教授(法哲学)の布川玲子(70)が米国の情報公開制度を使って資料を入手。これに協力した国際問題研究者、新原昭治(84)が2013年4月、この事実を新聞、通信十数社に伝えた。

 各紙が報道し、社説で論評した。

 「田中長官のあまりに卑屈な対米従属姿勢は、沖縄県民の基本的人権と平穏な暮らしを脅かす米軍基地のありようの源流の一つであり、今に続く現在進行形の問題だ」(4月10日付琉球新報)

 「司法までも米国の意向を忖度(そんたく)していたとなれば『司法の独立』どころか、それこそ『国の存立に関わる』醜態ではないか」(12日付北海道新聞)

 「戦後史をつらぬく司法の正統性の問題だ。最高裁と政府は疑念にこたえなくてはならない」(14日付朝日新聞)

 さかのぼれば、田中は59年12月16日に最高裁大法廷で一審判決破棄の判決を言い渡したあと、記者団にこう語っていた。

 「判決は政治的な意図をもって下したものでないことをはっきり言っておきたい」

 「自分の意に反する判決が出た場合『裁判所が政治的圧迫に屈した』とか『良心をまげた』とかいう言動が最近多い。これは裁判の民主社会における役割を理解しない最も危険な風潮です」

 田中は記者会見で何回も繰り返した。

 「全裁判官が一致した結論が出せたのはなによりでした」(17日付朝日新聞)

 17日夕、マッカーサーは国務長官あてに公電で伝える。

 ――最高裁が全員一致で判決を下したことは、多くが田中長官の手腕と政治的資質による。本件での長官の貢献は、日本の憲法の発展ばかりか、日本を自由世界に組み込むうえで画期となる(末浪靖司「対米従属の正体」)。

 (上丸洋一)

🔴砂川事件 44

裁判官は法の理念に奉仕するという燃えるような理想主義的態度が要求される。法は裁判官によつて活力を与えられるから、裁判官の人格の力を度外視しては真に裁判らしい裁判はあり得ない」

 「この故にこそ憲法は司法権を独立のものとし……裁判官の独立を保障しているのである」

 最高裁長官の田中耕太郎は、長官在任中に発表した論文「裁判官の良心と独立について」(法曹時報1955年1月号)で、そう述べている。

 憲法76条第3項は言う。

 「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」

 あらゆる圧力や介入を排し、他におもねることなく、独立して職務にあたる。

 それが裁判官の義務とされる。

 ところが、近年相次いで発見された米外交文書の記述から、田中が、砂川事件上告審をめぐって、利害関係者である在日米国大使館に情報提供していた疑いが濃厚になった。

 田中は1890(明治23)年、鹿児島市生まれ。東京大法学部で学んだあと、助教授、教授に。商法と法哲学を講じた。

 戦後の1946年に第1次吉田茂内閣の文相に就任。参院議員を経て、50年3月、最高裁長官に就いた。熱心なカトリック信者。反共産主義を信条とした。

 48年に出した著書「平和主義の論理と倫理」に、田中は、こう書いている。

 「人間が不完全な限り、正義の実現のために実力の行使は止(や)むを得ない」

 51年には新聞の座談会で発言する。

 「われわれは鉄のカーテン群(共産主義諸国)の侵略に対しては戦わなければならない。日本人にはこのような意味における『戦わなければならない』という信念が欠けている」(51年1月1日付毎日新聞)

 外交文書を入手した一人、元山梨学院大教授(法哲学)の布川玲子(70)は言う。

 「自由主義陣営の中に日本をはっきり位置づけること、これは田中にとっての正義だった。そのために司法府の長として全力を尽くす。伊達判決破棄は、田中が自分に課した使命だったのではないか」

 60年10月、田中は、70歳の定年で最高裁長官を退任。11月、国際司法裁判所の判事に就任した。(上丸洋一)

🔴砂川事件 45

 「駐留米軍は日本の軍隊ではない。だから憲法が保持を禁ずる戦力にあたらない」

 1959年12月の砂川事件最高裁判決はそう判断した。それは東京大教授(国際法)、横田喜三郎の考えと重なる。横田は田中耕太郎のあと、最高裁長官に就く。

 占領が続く50年1月28日、横田は読売新聞への寄稿「戦争放棄と自衛権」で次のように述べる。

 「憲法の規定の上からいえば廃止されたのは、日本の軍備である。他の国の軍備ではない。しかし、精神からいえば、日本を完全な非武装状態におくことが目的であるから、他の国の軍備でも、日本においておくのは、適当でない」

 実際に侵略されたときに、外国の軍事援助を受けることは憲法上、さしつかえないが、外国軍隊や軍事基地の常駐、常設は憲法の精神に反する、と横田は主張した。

 その横田が51年9月のサンフランシスコ講和会議が近づくころ、見解を変える。

 「日本がみずから再軍備することなく、友好的な外国の軍隊が日本にあつて、日本の防衛に当(あた)るということは……もつとも望ましく、もつとも適当な方式である」(日本及〈および〉日本人51年7月号)

 「(憲法によって)廃止され、禁止された軍隊と戦力は、疑いもなく、日本の軍隊と戦力でなくてはならない」(横田「自衛権」51年9月刊)

 考えを変えた理由を横田は、説明しなかった。横田は「安保条約の理論的支柱となった」(71年8月27日付朝日新聞連載「日本の裁判 最高裁判所」第35回)。

 52年11月、吉田茂内閣は「戦力」についての統一見解を閣議で了承する。

 「(駐留米軍は)米国の保持する軍隊であるから憲法第九条の関するところではない」(11月26日付朝日新聞)

 駐留米軍を違憲とした59年3月の「伊達判決」を横田は次のように評した。

 「アメリカの軍隊や戦力について、日本の憲法で、これを保持するとか、保持しないとか規定することは、およそナンセンスである。……伊達判決はまことに奇妙な解釈で、おそらく、世界の何人(なんぴと)にも承服されないであろう」(59年4月20日付読売新聞夕刊)

 12月、最高裁大法廷が伊達判決を破棄した。横田は、最高裁判決を全面的に支持した。(上丸洋一)

🔴砂川事件 46

201597

横田喜三郎・最高裁長官の米国演説を伝える1963年8月15日の朝日新聞

 「裁判官が真剣に勇気をもってその重大な使命を果たしたことに敬服する。……特に安保条約が違憲でないこと、米駐留軍が日本の戦力でないことについて、(裁判官に)一人の反対もなかったことは……判決の内容に重みを加えている」(59年12月17日付日本経済新聞)

 1959年12月に砂川事件最高裁判決が出たあと、国際法学者の横田喜三郎はこれを高く評価した。

 しかし、別の見方もあった。

 憲法学者の黒田了一は指摘した。

 「最高裁が駐留軍を(日本の軍隊でないことを理由に、事実上)合憲と判示した論理構造は、かつて横田教授が唱え……かつ今回の砂川事件において検察側が主張したところとまったく軌を一にしている」

 「それ(横田の形式主義的法解釈)を一五人の裁判官が一人の例外もなく採用したということはおどろくべきことである」(法律時報60年2月号臨時増刊)

 最高裁判決から1年近くたった60年10月、横田は、田中耕太郎のあとを受けて、最高裁長官に就任した。

 その横田が訪問先の米国で「政治問題と日本の最高裁判所」と題して演説したのは、63年8月14日だった。横田は砂川最高裁判決について、次のように語った。

 「この判決は歴史的な意義を持つものというべきである。それは第一に日本の最高裁が政治問題はその管轄権の範囲外であるとの原理を初めて認めたという点であり、第二に政治的見地からいえば、この判決は日本の平和と安全ならびに日米間の友好と協力のために堅い基礎を築いたという点である」(8月15日付朝日新聞夕刊)

 横田は判決の政治的意義を説いた。

 16日の朝日新聞夕刊コラム「今日の問題」がこの演説を取り上げた。

 「(これでは)いかにも、日本の最高裁長官が手土産を持参し、お世辞の一つもいったように聞(きこ)えないでもない」

 「高度の政治問題に介入しない態度を信条としながら、逆に国際政治に自ら介入するような結果を招くことだけは、いただきかねる」

 砂川事件はこのとき、最高裁で2度目の審理が続いていた。7被告の有罪が最終的に確定したのは4カ月後だった。

 半世紀が過ぎた2014年、元被告の一部が再審請求を決意した。(上丸洋一)

憲法とたたかいのブログトップ

憲法とたたかいのブログトップ

シベリア抑留・満蒙開拓・中国残留孤児の悲劇、日系米移民問題

シベリア抑留・満蒙開拓・中国残留孤児の悲劇、日系米移民問題


🔴憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

【このページの目次】

◆筆者コメント

◆シベリア抑留・満蒙開拓・中国残留孤児リンク集

◆シベリア抑留問題

◆満州・シベリアからの引き揚げ者の喜びと悲しみ

◆「帰り船」「異国の丘」「岸壁の母」など

◆満蒙開拓・満蒙開拓青少年義勇軍

◆中国残留孤児問題

◆「大地の子」=中島恵の山崎豊子秘話

◆日系米移民問題(上記の15年戦争によって起きた問題とは異なるが、苦難を重ねた日系米移民・日系南米移民問題をここで扱いたい)

🔴【筆者コメント】 

◆◆4589日ソ連の対日参戦後起きた、満蒙開拓の日本人の死者の急増と中国残留孤児、そして6万人の死者を出したシベリア抑留

1941年(昭和164月にモスクワで日本と旧ソ連と中立条約が結ばれた。日本は、1939年のノモンハン事件でソ連軍に敗れて以来、さしあたり北方への進出をあきらめ、南方へ進むことにした。外務大臣松岡洋右(ようすけ)は、まず独伊と三国同盟を結び、ついでこれを、ソ連を含む四国協商に発展させ、この力を借りて英米を牽制(けんせい)し、この間に南進するという構想をたてた。この構想を実現するため、日本は409月に日独伊三国同盟を締結し、ソ連に中立条約の締結を提案した。ソ連も19398月に独ソ不可侵条約を締結していたが、同年9月にはヨーロッパで戦争が始まっていたので、ヨーロッパとアジアでの二正面戦争を避けるために日本の提案に応じた。かくて、日ソ両国は、41413日、有効期間5年の本条約を成立させ、一方が第三国の軍事行動の対象となった場合に、他方は当該紛争の全期間にわたって中立を守ることを約した。

 ところが、この条約を結んで2か月余しかたたない19416月に独ソ戦が始まった。松岡外相は南進を一時延期して対ソ戦を開始するよう強く主張した。御前会議はこの主張を排し、南進を確認し、さしあたり独ソ戦への不介入を決めた。日本が南進を開始し、日米関係が悪化し同年12月に日本が米英などと戦争状態に入ったのちも日ソ間の中立は維持された。太平洋戦争の進展とともに、「100万の強固な関東軍」は、次から次へと南方戦線に移動し、弱体化が進んだ。

4545日にソ連は日ソ中立条約の有効期限が満了後延長しないことを通告。同年89日には連合国間の協定(ヤルタ協定)に基づき、日本に宣戦を布告して攻撃を開始した。日ソ中立条約は、法的には有効期間中にソ連によって破棄された。

一方、1931年の満州事変後、貧窮した農家救済と反ソ連の防壁として満蒙開拓が本格的に始まった。1945年までに送出された移民数は、満蒙開拓青少年義勇軍約10万人を含め、約32万人にもなった。この農民たちを中心に、在満州の商人などの自営業者、官吏など多くの日本人が、ソ連参戦前の満州で生活していた。関東軍は、ソ連軍に次々に敗退し、後方に下がって防御体制を組んだ。こうして数多くの在満の日本人が見捨てられ、ソ連軍の銃火のもとにおかれた。南方への逃避行がはじまり、数多くの悲劇が起きた。約8万人の日本人が、この逃避行のなかで死去した。親と別れ別れとなった子どもたちの多くがそのまま中国に取り残されて、中国人に助けられ、中国人として育てられた。こうして中国残留孤児という悲劇も起きた。

さらに終戦後、ソ連に抑留された人員は、関東軍を中心にした軍人・軍属が563000人、「満州国」官吏、協和会役員、朝鮮総督府、樺太庁の官吏などが12000人に及ぶ。抑留された日本兵たちは、日々の労働にノルマ(労働基準)を課せられ、食糧不足、寒気、劣悪な生活環境のために、病人、死者が続出し、全体で7万人が死亡した。シベリア抑留のさまざまな文献などが1510月に世界記憶遺産に登録された。

ソ連の対日参戦によって起きた、これらの惨劇をいまこそ把握して、平和を守る糧にしていかねばならない。

────────────────────────

🔵シベリア抑留・満蒙開拓・中国残留孤児・日系移民問題リンク集

─────────────────────────

🔴【シベリア抑留】

🔵Wiki=シベリア抑留者は、収容所で『日本しんぶん(にほんしんぶん/にっぽんしんぶん)』を読まされていた。「アクチーフ(活動家)づくりに活用された。

第一号は、1945915で、各地で随時日本人の編集委員を募集していたという[1]。最初は手書きの雑なものであったが、満州から本格的な新聞生産設備が来ると、新聞の体をなしたという。

1946年中ごろまではそれほど政治宣伝的な記事の少ない新聞で、天皇批判などは少なかったが、1947年ごろになると一転、強烈な日本批判とソ連への賛美、日本共産党の礼賛、皇室廃止などを掲げる政治新聞に変わった。1947年当時、ソ連国内の日本人収容所で民主運動が盛んな時期であったことから、『日本しんぶん』が民主運動と連動して、一連のキャンペーンを張ったと見る歴史家も多い。

編集長は大場三郎で、これはソ連秘密警察・対日部署のイワン・コワレンコ中佐(当時)の偽名であった。また、諸戸文夫こと浅原正基、相川春樹矢浪久雄)、吉良金之助小針延二郎高山秀夫袴田陸奥男宗像肇など日本人の編集委員が十数名いた。

袴田陸奥男のグループと浅原正基グループが対立。KGBをバックに持つ袴田グループが勝ち、浅原グループは収容所に逆送された。日本しんぶんを批判すると、場合によっては、一般収容所から数段階厳しい矯正労働収容所に送致された。しかし、思想教育の最大のものは、「アクチーフ」になると日本帰国が早まるというもの。

★シベリア抑留世界記憶遺産登録1m

★★その時歴史が動いた 「ソ連対日参戦 スターリンの焦燥」 43m

https://m.youtube.com/watch?v=44aXCAUGoyw

★★ETV特集 沈黙を破る手紙 戦後70年目のシベリア抑留 1595日放映60m

http://www.myvi.ru/watch/05230027092_n9y5F6kxWUyxOwF-eY9U3A2

★★NHKHV特集「引き裂かられた歳月、証言記録、シベリア抑留」98m

または

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001230001_00000

🔵【立花隆さん追悼】NHKスペシャル▽立花隆のシベリア鎮魂歌 抑留画家・香月泰男https://drive.google.com/file/d/1C_0YIB7NsBDvtSMQ18Y5KKMPb7vsrC3d/view?usp=drivesdk

飽くなき好奇心と深い思索を通じて「人間とは何か」を問い続けてきた“知の巨人”立花隆さん。その足跡をしのび、NHKスペシャル・ETV特集をセレクション放送します

山口県長門市(旧三隅町)出身の画家・香月泰男は、太平洋戦争の従軍から敗戦、シベリア抑留に至る4年間の過酷な体験を、62歳で亡くなるまで描き続けた。立花さんは1969年に香月さんの話を聞き書きし、『私のシベリア』という一冊の本にまとめている。番組では、自ら極寒のシベリアに渡った立花さんが、戦争と抑留という時代に翻弄された画家の足跡を追う。(1995年放送)

★★NHK特集「引き裂かられた歳月、証言記録、シベリア抑留」45m

★★シベリア抑留=韓国・朝鮮人の60

★★朝鮮人のシベリア抑留90m

★★サハリン残留日本人家族の歳月、日本人女性(朝鮮人の妻)のその後110m

(前編)

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v128904291hDJH87mg

(後編)

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v128904599jsEY2D7a

★★シベリア抑留描く画家=宮崎進40m

★★NEWS23シベリア抑留の現実(15/7/28

10m

★★NNNドキュメント凍土の記憶30m

【赤旗15.11.01

★★NHK戦争証言=シベリア抑留62

★★NHK戦争証言=シベリア抑留・女性24

★★『凍土に呻く』 シベリア抑留歌集19m

★シベリア抑留 望郷の歌12m

★シベリア抑留 歌声に救われ

★★【戦後70年】「シベリア抑留」の実態記憶遺産登録(栗原俊雄・荻上チキ)65m

https://m.youtube.com/watch?v=5SLHgnKWpeE

★★戦争を考える:シベリア抑留記~木下芳太郎氏インタビュー~50m

★★シベリア抑留 命を救ってくれた小隊長 60年目の奇跡23m

★★シベリア抑留体験者 極寒の記憶 絵筆に込めて

★『異国の丘』演劇~異国の丘~8m

https://m.youtube.com/watch?v=koKdk911ng4

❷https://m.youtube.com/watch?v=A-XLwuUZnpU

🔷🔷シベリア抑留=戦後74年—未解決 赤旗19.08.17

◆シベリア抑留手記(青春の足跡)

http://page.freett.com/char/mokuji.html

◆シベリア抑留手記(佐々木芳勝)

http://www.asahi-net.or.jp/~ID1M-SSK/

◆シベリア抑留の記録(岡本輝雄)

http://www.eonet.ne.jp/~yowara/siberia1.html

◆愛知県立大学・戸松 建二=第二次大戦後における日本兵シベリア抑留問題 : 収容所における「民主化政策」をめぐって PDF36p

◆東海大学・白井久也=国際法からみた日本人捕虜のシベリア抑留

PDF10p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jarees1993/1994/23/1994_23_33/_pdf

0108本木=シベリア抑留の回想.pdf

1004前衛・論点=シベリア抑留への補償と謝罪.pdf 

9107講談社文庫・御田重宝=シベリア抑留.pdf

─────────────────────────

🔴【満蒙開拓】

長野県が異常に突出

★★満州開拓移民と関東軍=取り残された民衆110mhttp://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=yhfs8o6q&prgid=60520667&cate=06

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kempou7408&prgid=60397327

ソ連軍参戦を知った関東軍、その家族、官吏たちは直ちに列車で南下。一方満州開拓民は見放され、取り残された。関東軍は「見捨てたのではなく、南下によって抗戦体制を作るための作戦命令だった」と言い訳をする。こうして終戦時の満州開拓移民の実に1/3にあたる8万人が南下中、死去した。そして1.5万人が残留して中国残留孤児となった。見放された民衆、なんという悲劇か!!

🔵戦後の引き揚げ者・満州移民(赤旗21.2.12)



🔵満州国の創出
https://furuyatetuo.com/bunken/b/70_mansyusousyutu/hajimeni_.htm
 
古屋 哲夫
はじめに
1満洲建国路線の形成
2建国過程の諸側面
3満洲国の基本構造
むすび
註釈

★★満蒙開拓(満州開拓政策がどのようにつくられ実施されたのか)48m

★★NHK戦争証言=満蒙開拓青少年義勇軍~少年と教師 それぞれの戦争~90m

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001230003_00000

★★満蒙開拓青少年義勇軍へ動員した教師たち(長野県)86m

🔵SBC満州青少年義勇軍の悲劇50m

🔵SBC祖父が夢見た満州分村そして自決50m

★★8万人が殺された満州への国策移民(長野県伊那郡河野村)50m

★★その時歴史が動いた=「ソ連参戦の衝撃 満蒙開拓民はなぜ取り残されたのか」 43m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDIzOTQ3NjA0.html?x

または

https://m.youtube.com/watch?v=F5qnnanGSVw

🔵満蒙義勇軍訓練所・内原

赤旗20.11.12

★★東京・武蔵小山商店街の人々の満州移民44m

★★テレメンタリー「満州侵攻 71年目の真実~草原に眠るソ連秘密基地の謎」25m 16621

http://video.9tsu.com/videos?q=満州侵攻%2071年目の真実

★★NHK戦争証言=満蒙開拓青少年義勇軍20m

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001230003_00000

★★映画=満蒙開拓青少年義勇軍44m

https://m.youtube.com/watch?v=tzpsNE1Yexk

★満州国 満蒙開拓青少年義勇軍 集団自決8m

★★滿洲拓殖移民の真相60m

★満州の悲劇、紙芝居に-開拓団の集団自決16m

★★ドラマ・満州からの引き揚げに尽力した人たち145m

(前編)http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kempou7408&prgid=55961452

(後編)http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kempou7408&prgid=55967760

★満蒙開拓団30m

http://www.dailymotion.com/video/x4dgxc_満蒙開拓団_news

http://www.dailymotion.com/video/x4e2zw_満蒙開拓団2_shortfilms

★満蒙開拓団の暮らし15m

★★NNNドキュメント奥底の悲しみ 引揚者の記憶=「特殊婦人」45m

http://www.asyura2.com/16/senkyo201/msg/660.html

太平洋戦争の敗戦を機に、本土への引き揚げを余儀なくされたのは軍人だけでなく、 これまで築き上げてきた資産を放棄した、着の身着のままの一般の人々でした。

山口県長門市の仙崎港は、全国でも5番目に多い41万人が引揚げた港です。

そこで引揚げの援護業務にあたった、厚生省の記録を探ると、私たちは聞き慣れない言葉を見つけました。「特殊婦人」の文字です。それは一体何を意味するのか私たちの取材が始まりました。

全国で最も多くの人が引揚げた博多港、そして佐世保港へと取材を進めるうちに、当事者たちの記憶の奥底には、70年間、家族にも打ち明けられなかった、深い悲しみがあったのでした。

◆戦争の悲劇「特殊婦人」

2016226日朝日新聞(記者レビュー)

山口県長門市仙崎の港には、全国で5番目に多い41万人が引き揚げたという

 戦後70年の節目もあり、昨年は戦争にまつわる番組が数多く放送された。これだけの年月を経てもなお、浮かび上がってくる真実がある。むしろ今だからこそ、なのだろう。

 21日深夜に放送された「NNNドキュメント16 奥底の悲しみ」(日テレ系)で「特殊婦人」という言葉を知った。旧満州などで性的暴行を受けた引き揚げ者の女性をさすのだという。タブー視され、広く語られることのなかった存在でもある。

 制作は山口放送。昨年5月に地元で放送し、日本放送文化大賞のグランプリ、民放連賞報道番組部門の最優秀を受賞した作品に、さらに取材を重ね、一部を再構成した。

 敗戦後、天井裏に隠れた女性は「どうしようもなかった。それが戦争に負けたということ」。幼い頃に目撃したつらい記憶をつづった男性は「負の世界」を書き終え、肩の荷が下りたという。引き揚げ後、望まれぬ小さな命は、極秘の中絶・堕胎によって失われていった。

 家族にも伝えていなかった壮絶な体験を、絞り出すように語る引き揚げ者たち。その複雑な表情が言葉以上に物語る。「戦争というものが生み出す、奥底の悲しみ。その深さを、私たちはまだ知りません」。番組を締めくくる言葉が重たく響く。

★★NNNドキュメント・満州引き揚げ女性へのソ連兵の性暴力・日本軍の性暴力(山口放送第2弾)52m

★★ETV告白・満蒙開拓団の女たち=ソ連兵接待所で団の生き残りはかった悲劇58m

(画面のAPPから)

戦前、岐阜県の山間地から、旧満州(中国東北部)・陶頼昭に入植した650人の黒川開拓団。終戦直後、現地の住民からの襲撃に遭い、集団自決寸前まで追い込まれた。その時、開拓団が頼ったのは、侵攻してきたソビエト兵。彼らに護衛してもらうかわりに、15人の未婚女性がソ連兵らを接待した。戦後70年が過ぎ、打ち明けることがためらわれてきた事実を公表した当事者たち。その重い事実を残された人々はどう受け止めるのか。

3人の当事者が番組で証言する。共通するのは「生きて帰らにゃ」「そのために犠牲になっても」。70年余の間、秘めていた悲しさ、苦しさがにじでていた。亡くなった女性は録音テープを残していた。「私のたどった道は歩ませたくない」と。制作者はこの声を視聴者に届けたかった。しかし、NHKの一部の管理職は苦々しく思ったのか、番組を封じ込めようとしたが放送された。下記のように反響をよんだ。

◆(TVがぶり寄り)満蒙隠された事実

2017819日朝日新聞

ETV特集「告白~満蒙開拓団の女たち~」から

 追悼の8月。1年にひと月、せめて8月ぐらいは戦争に関する番組を見て、生の声から学びたい。今年はそうした中で5日放送のETV特集「告白~満蒙開拓団の女たち~」が最も考えさせられた。

 番組は当事者とその家族の証言で淡々と伝える。1945年8月、中国東北部・旧満州にソ連軍が侵攻し日本の関東軍の主力はいち早く撤退。残された日本の開拓団は略奪や強姦(ごうかん)にさらされ、48もの開拓団が集団自決した。そんな中で岐阜の黒川開拓団は、若い女性にソ連軍の性の相手をさせて生き延びる道を探る。接待、と呼ばれたそれは10~20代の未婚女性が務めた。17歳だった女性は鉄砲を背負った兵隊に押し倒され「お母さんお母さん」と泣くだけだったという。しかし引き揚げ後、その事実は黙殺され、接待を務めた女性たちは差別を受け、村を追われ、慰霊碑に事実は記されなかった。

 生きるために仕方なかった、村人全員が当事者で、被害者だという。しかし、女性たちの悔しさを思うと怒りが沸く。特に自国民を捨てた関東軍、国策として移入させながら何ら保障しなかった国へは、憤りしかない。戦争とは愚かさの限り。番組は長年隠されてきた、その実態を知らせた。そこから私たちは真実を見極め、後世に伝えるのが役目だと痛感する。

 (ライター・和田靜香)

◆◆「性接待」語る、満蒙開拓の女性たち 岐阜から入植 敗戦直後、旧ソ連兵相手に

:朝日新聞18.08.20

(開拓団での体験などを語る佐藤ハルエさん=岐阜市、吉本美奈子撮影)

(都内在住の女性が戦後に書き写した「性接待」当時のメモ)

(慰霊碑の隣に建立された、説明のない「乙女の碑」=岐阜県白川町)

 岐阜県の旧黒川村など(現・白川町)から戦時中に旧満州(中国東北部)へ入植した満蒙開拓団の女性たちが、敗戦直後に団幹部の指示で旧ソ連兵に「性接待」をさせられたと告白し、衝撃を与えている。長く伏せられてきたが、「なかったことにできない」と公の場で語るようになった。過酷な歴史の語り継ぎを支えるのは、女性の妹や息子たちだ。

 「『(夫が)兵隊に行かれた奥さんたちには、頼めん。あんたら娘が犠牲になってくれ』と言われた」

 今月10日、岐阜市民会館であった証言集会。元黒川開拓団員で、終戦当時20歳だった佐藤ハルエさん(93)=岐阜県郡上市=が話し始めると、空気はピンと張り詰めた。

 「白川町誌」などによると、黒川開拓団は1941年以降、600余人が吉林省陶頼昭に入植した。敗戦後、旧日本軍に置き去りにされ、現地住民らによる襲撃や略奪を受け、隣の開拓団は集団自決した。

 当事者の証言によると、黒川開拓団は幹部が近くの旧ソ連軍部隊に治安維持を依頼。17~21歳の未婚女性15人前後を「接待」に出した。45年9月から11月ごろまで続き、一時期、中国兵の相手もさせたという。

 都内在住の女性(90)は当時17歳。初めは飲酒の接待と思っていたという。ふとんが多数敷かれた仕切りもない部屋で、他の女性たちと共に暴行された。

 逃げようとしたこともあったが、相手にスコップの柄で打たれた。当時のメモを書き写したノートには、「乙女ささげて数百の命守る」などとある。自分たちを差し出した大人が許せず、帰国後、旧黒川村には2回しか行っていない。

 当時21歳だった安江善子さん(2016年、91歳で死去)は13年、長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館で講演した。録画によると、性接待を切り出された女性たちは泣き、団の年配者から「一緒に死のう」という意見も出た。だが、副団長が「団を守るのか、自滅するか。お前たちには、力があるんだ」と説得したという。

 開拓団には医務室が設けられた。性病や妊娠を防ごうと、薄めた消毒薬で、女性たちの体内を洗浄した。

 作業を手伝った鈴村ひさ子さん(89)=岐阜県中津川市=は当時16歳。差し出されそうになったが、実姉の善子さんが「その分も出るから」と交渉し、免れた。

 開拓団は46年9月、帰国した。最終的に約400人が戻った。鈴村さんは「帰ってこられたのは姉さんのお陰です」と話す。子どもができなかった善子さんに次男を養子に出した。

 証言によると、接待を強いられた女性のうち4人が性病や発疹チフスなどにより現地で死亡。帰国後、長期入院する人もいたという。うわさが広がり、独身を通した人もおり、多くは村外へ出たという。

◆家族ら、支え継ぐ

 地元では、長くこの出来事は語られなかった。

 現地で亡くなった4人の女性を悼み、「黒川分村遺族会」が82年に「乙女の碑」の除幕式をしたが、説明書きはない。

 状況を変えたのは、2011年に戦後生まれで初の遺族会長になった藤井宏之さん(66)=白川町=だ。両親は帰国できたが、兄姉4人が現地で亡くなっている。性接待の歴史は薄々聞いており、「開拓団を救った恩人。口を閉ざしていていいのか」と、従来の姿勢に疑問をもっていた。

 たまたま、満蒙開拓平和記念館に語り部としてハルエさんや善子さんを紹介したところ、講演で性接待の話が出た。この問題が公に話されたのは初めてで、この後、取材や講演の申し込みが相次ぐようになった。宏之さんは最近、ハルエさんや善子さんらの息子らとの交流を深めている。最初は傷つけていないか気になったが、むしろ親たちへの感謝や誇りを口にされ、ほっとした。

 10日の集会には、ハルエさんの長男、佐藤茂喜さん(64)=郡上市=もマイクを握った。「母たちが集団自決していたら、僕らはこの世にいないんです」。涙を流して母に感謝する茂喜さんに拍手が起きた。

 ハルエさんらの証言活動に協力するのは、終戦時10歳で、接待の女性のため風呂を沸かした安江菊美さん(83)=白川町。ずっと胸にしまってきた。83年に月刊誌が場所や名前をぼかして取り上げた時は、燃やしたほどだ。だが、亡くなる直前の善子さんに語り継ぐよう託された。「もう時間がない」と、自身も講演する。

 宏之さんたちは今、乙女の碑に説明書きを加えることを検討中だ。ただ、建立にかかわった前遺族会長の藤井恒さん(85)=同町=は「家族にも隠していて、建立に反対の女性もいた」と話す。当事者に配慮しながらどう後世に伝えるか、模索が続いている。(里見稔、編集委員・伊藤智章)

◆キーワード

 <満蒙開拓> 日本政府は1936年から国策として旧満州への開拓政策を進め、敗戦直前に旧ソ連が侵攻した際、国境地帯や鉄道沿線などに約27万人がいた。日本の関東軍主力は先に撤退しており、住民避難は難航した。敗戦後の政府の帰国支援も遅く、現地住民や旧ソ連兵による暴行、略奪を受けた。旧満州での民間人死者約18万人中、開拓団が約8万人。

◆(現代ビジネス)「ソ連兵への性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白

満州・黒川開拓団「乙女の碑」は訴える

平井 美帆レポート

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608

◆(インタビュー)性接待、伏せられた記憶 黒川分村遺族会会長・藤井宏之さん

朝日新聞18.10.20

https://digital.asahi.com/articles/DA3S13731547.html

★★満州へ花嫁を送れ 女子拓務訓練所25m

NNNドキュメント 2013.8.4. 

長野県は戦前、旧満州(現中国東北部)に全国最多の約33000人を送り出した。日本の開拓移民政策によるものだ。さらに国は、地方自治体に対し開拓移民の伴侶として、若い女性も積極的に送り出すよう求めた。1940(昭和15)年、長野県は全国に先駆けて、今の塩尻市に「長野県立桔梗ヶ原女子拓務訓練所」、いわゆる「大陸の花嫁学校」を開設。翌年、訓練生は開拓団のひとつを訪問し4組が結ばれた。その1人、結婚当時18歳だった村松ミつめさん(90)は、希望を胸に渡った大陸でその後、子ども2人を飢えと疲労により亡くす。さらに、ソ連侵攻と敗戦の混乱の中での逃避行。奇跡的に再会した夫と、2人の子どもを連れ1953(昭和28)年に帰国した。終戦から68埋もれた戦時下の国策を掘り起こす。

★ドキュメント・敗戦後の600万人在外邦人・シベリア抑留者引き揚げ

★★ドラマ・遠い約束(終戦直後の満州の孤児たちの悲劇)

https://drive.google.com/open?id=1M_DF7PrjIn9qBTiO4eI74W_m2oBsygd0

◆書評・加藤聖文=満蒙開拓団

(赤旗17.05.28

◆◆満蒙開拓団の悲劇

(赤旗16.12.30

◆◆資料・ソ連兵の殺戮・強姦・略奪行為

http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

★満州引き揚げ者の証言・娘よ30m

https://m.youtube.com/watch?v=f5ZwSdlfJiA

https://m.youtube.com/watch?v=0EXvGOJD0wg

★満州引き揚げ者の証言30m

https://m.youtube.com/watch?v=V-4JZcYTfwA

https://m.youtube.com/watch?v=iI-TC5HZ4O4

★★赤木春恵=満州引き上げを語る110m

★★【ぼくは軍国少年だった/満州】宝田明さん戦争証言140m

★満州写真館(満州の写真)

http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html

★証言記録 満蒙開拓青少年義勇軍~少年と教師 それぞれの戦争~90m

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001230003_00000

🔷🔷書評・細谷=「日本帝国の膨張・崩壊と満蒙開拓団」 赤旗19.05.26

◆満鉄の歴史(アエラ17.09.18)

★「そうだ 満州、行こう」6m

★大陸に残る大日本「満州」5m

★こども満州19m

https://m.youtube.com/watch?v=NhErYmRf8WM

★★その時歴史が動いた=ラストエンペラー最期の日

★★アニメ=「蒼い記憶-満蒙開拓と小年たち」製作:満蒙開拓・映画製作委員会170m

https://m.youtube.com/watch?v=0sCbREqqkag

https://m.youtube.com/watch?v=tCeRQm0FljM

★★戦後中国共産党に協力し残留した医療など技術者など日本人たち=最初の日中友好運動計130m

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kameari621&prgid=54522085

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kameari621&prgid=54522093

PCの場合全画面表示で見ると過剰広告減)

◆満蒙開拓青少年義勇軍と内原町

http://blogs.yahoo.co.jp/buryou2925/31714802.html

◆静岡大学・山本 義彦=経済更生運動と満蒙開拓移民 : 静岡県地域の事例PDF39p

クリックして080611003.pdfにアクセス

◆東北公益文科大学・松山 薫=満蒙開拓の痕跡をたずねて : 山形県にあった「日輪兵舎」〔序章〕PDF16p

◆徳島大・玉 真之介=「満洲移民」から「満蒙開拓」へ : 日中戦争開始後の日満農政一体化について

クリックしてLID201204192001.pdfにアクセス

◆専修大・今井 雅和=満蒙開拓再考PDF5p

◆愛知県立大学・内木靖=満蒙開拓青少年義勇軍ーその生活実態PDF30p

◆大東文化大・田中 寛=「満蒙開拓青少年義勇軍」の生成と終焉 : 戦時下の青雲の志の涯てにPDF49p

◆佐藤広美=白取道博著, 『満蒙開拓青少年義勇軍史研究』, 北海道大学出版会, 20082, 255, 6720

PDF4p

◆北大・白取 道博=「満蒙開拓青少年義勇軍」の創設

PDF16p

◆北大・白取 道博=「満蒙開拓青少年義勇軍」の創設過程PDF35p

クリックして45_P189-222.pdfにアクセス

◆北大・白取 道博=「満州」移民政策と「満蒙開拓青少年義勇軍」PDF34p

クリックして47_P107-139.pdfにアクセス

◆横浜国立大・白取 道博=「満蒙開拓青少年義勇軍」の政策的位置(19411945)PDF18p

◆満蒙開拓青少年義勇軍の悲劇と、教育界の戦争責任とはNEVERまとめ

http://matome.naver.jp/m/odai/2143922141781056401

────────────────────────────

🔴【中国残留孤児】

★★NHKテレビドラマ大地の子

https://m.youtube.com/channel/UCU40xw9PPIrOYzJ4EAMhpsg

(全11回。7欠。YouTubeに削除されずに残っている)YouTubeで検索のこと

★★NHKプロジェクトX 046 「大地の子、日本へ」 ~中国残留孤児・35年目の再会劇~46m

★★中国残留孤児の夫たちの歳月90m

http://video.9tsu.com/videos/view?vid=35616

★★アーカイブズ 中国残留孤児・残留婦人の証言 

下部につらい経験をもつ多くの残留孤児の証言

◆鹿児島大学・小栗 実=ある「中国残留孤児」の半生の記録PDF40p

クリックして3_Oguri.pdfにアクセス

◆明治大学・西埜 章=中国残留孤児訴訟における国の不作為責任PDF42p

クリックしてhoritsuronso_79_4-5_343.pdfにアクセス

◆山田 陽子=中国帰国者の日本語習得と雇用 : 国家賠償請求訴訟における帰国者の陳述および身元引受人の語りから18p

◆山田 陽子=「中国帰国者」と身元引受人制度 : 中国残留孤児の日本への帰国をめぐってPDF13p

◆神戸大学・浅野 慎一 , [トン] 岩い=中国残留孤児の「戦争被害」 : 置き去りにされた日本人の戦後処理被害PDF21p

クリックして81000822.pdfにアクセス

◆張 嵐=「中国残留孤児」を育てた中国人養父母:——ライフストーリー調査をもとにPDF12p

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh/2010/23/2010_106/_pdf

◆千葉大学・張 嵐=日本における中国残留孤児のアイデンティティライフストーリー研究からPDF16p

クリックしてjinshaken-18-5.pdfにアクセス

◆張 嵐=中国残留孤児の永住帰国に対する自己評価を巡る社会学的考察「中国残留孤児国家賠償請求訴訟」に関するインタビューを介してPDF20p

クリックしてzhang.pdfにアクセス

◆宮武 正明=中国等残留孤児・婦人の帰国と生活支援

7p

クリックして10Miyatake.pdfにアクセス

────────────────────

🔵日系移民の苦難の歴史

───────────────────

★★戦時のアメリカ日系人収用に人権擁護でたたかったコレマツ(池上彰教室から)16m

★★知恵泉・Fコレマツ=日系人差別とたたかった男・池上彰.45m

★★BSドキュメント・音楽の力=強制収容所マエストロたち=ナチス・日系人収容所・クワイ河日本軍の収容所の音楽家

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1287263375y4NyFQ6

★★NNNドキュメント・ブラジル移民の苦難を歌にたくす55m

★★BS米国日系人部隊442連隊の真実=多くの犠牲者をだした英雄たちといわれたが50m(下記のBS1の動画はさらに戦闘状況が詳しい)

★★BS1スペシャル 「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 英雄たちの真実」50m

★★BS1スペシャル 「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 “英雄”たちの真実」❷50m

🔵2つの祖国(山崎豊子)120m

──────────────────────────

🔵シベリア抑留問題

若槻泰雄 小学館百科全書

──────────────────────────

◆◆シベリア抑留問題とは

第二次世界大戦終結後、当時のソ連占領地区の日本軍人らが、シベリアなどに移送、労働を強いられ、日本への引揚げが大幅に遅れた問題のこと。

終戦時点において、満州(中国東北)、北朝鮮、千島、樺太(からふと)(サハリン)などソ連占領地域の在留日本人は、日本政府の推算では2726000人であった。このうちソ連に抑留された人員の内訳は、関東軍を中心にした軍人・軍属が563000人、「満州国」官吏、協和会役員、朝鮮総督府、樺太庁の官吏などが12000人と推定されている。ソ連は1945年(昭和208月下旬から466月までの間に、これら日本人を1000名単位の作業大隊に編成し、各地に移送した。地域的にはシベリア472000人、外モンゴル13000人、中央アジア65000人、ヨーロッパ・ロシア25000人と推定され、捕虜収容所約1200か所、監獄その他特殊収容所約100か所に分散収容されて、採鉱、採炭、森林伐採、鉄道建設、道路工事など、主として屋外重労働に従事させられた。ソ連は、戦後の荒廃した経済の再建のために、これら日本兵を労働力として使用したのである。第二シベリア鉄道の建設には5万人の日本人が投入されている。このような措置は、日本兵の帰国を約束したポツダム宣言第9項に違反し、1929年ジュネーブで調印された「捕虜の待遇に関する条約」にももとる行為であった。

 日本兵たちは、日々の労働にノルマ(労働基準)を課せられ、食糧不足、寒気、劣悪な生活環境のために、病人、死者が続出し、全体で7万人が死亡したと推定されている。このようななかで、抑留初期、望郷の思いを込めて歌われた歌が、抑留者仲間のつくった『異国の丘』(作詞増田幸治、作曲吉田正)である。この歌は1948年夏、復員兵によって日本国内に紹介され、爆発的に流行した。

 1947年初めごろからは、抑留所内で「民主運動」が暴威を振るった。初期には旧日本軍の悪弊を打破するための自発的なものであったが、やがて、ソ連の政治部将校の指導の下に、ソ連への忠誠を民主主義と称し、これを「学習」して思想改造し、「ソ同盟復興」のために献身的に労働することを目的とする運動となった。この運動のなかで、元憲兵や資産家出身者、ついで反ソ的人物、自由主義者、傍観者、さらには恣意(しい)的に選ばれた「反動分子」を集団的に糾弾する「吊(つる)し上げ」が頻繁に行われた。これは暴力よりも恐ろしいといわれ、多くの抑留者は、この難を免れるため、また、「民主化」しないと帰国を許されないことを恐れて、この運動に参加した。その結果、49年には、帰還兵たちが舞鶴(まいづる)入港に際し、帰国業務や家族の歓迎を無視し、「米日反動荒れ狂う日本列島へ敵前上陸」を呼号し、赤旗を振り、労働歌を高唱するなどの光景がみられたのである。[若槻泰雄]

◆◆シベリア抑留者の帰還問題

(小学館百科全書)

ソ連地区からの抑留者送還は、他地域の送還がほぼ終了した194612月の米ソ協定締結後から開始された。協定では毎月5万人を送還することになっていたが、ソ連は、冬季輸送の困難、日本側受入れ準備の不備などを理由として、しばしば中断、延引し、この間、抑留者数をはじめ、捕虜に関するあらゆる情報をまったく流さなかった。このような態度に対して、日本国民さらには国際世論の要請や非難も高まった。504月タス通信は、戦犯、病人など少数者を除く51万人の送還は完了したと声明、これに対し、日本政府はなお約37万人が未帰還であるとして、5月、国連に提訴した。さらに翌年2月引揚援護庁は、未帰還者340585人、うち生存者77637人と発表したが、これについてのソ連の回答はなかった。その後、5311月の日ソ赤十字社の協定によって、戦犯として抑留されていた日本人の送還が行われ、さらに日ソ国交回復に関する共同宣言発効後の561226日、最後の集団帰国者1025人を乗せた興安丸が舞鶴に入港した。しかし行方不明者は多数に上っており、なおかなりの自発的および強制的残留者がいるといわれる。[若槻泰雄]

『高杉一郎著『極光のかげに』(1977・冨山房) ▽厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』(1978・ぎょうせい) ▽若槻泰雄著『シベリア捕虜収容所』上下(1979・サイマル出版会)』

◆◆シベリア抑留とは何だったのか

(赤旗16.08.24

◆◆シベリア・モンゴル抑留 犠牲者追悼の集い=千鳥ケ淵戦没者墓苑、小池氏あいさつ

2017824日赤旗

(写真)シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集いで献花する参列者=23日、東京都千代田区

 第2次世界大戦後、シベリアやモンゴルに抑留され、強制労働をさせられた旧日本軍捕虜の犠牲者を追悼する「シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い」が23日、東京の国立千鳥ケ淵戦没者墓苑で行われました。各地から参列した元抑留者や遺族は、黙とうし献花しました。

 追悼の集いは2003年から、旧ソ連の指導者スターリンが1945年に抑留・強制移送を命じた8月23日に毎年開き15回目。兵士ら60万人以上が抑留され、6万人以上が死亡。元抑留者らは遺骨収集と実態解明を求めています。

 「シベリア抑留者支援センター」世話人で元抑留者の池田幸一さん(96)は主催者を代表し「全ての遺骨収集は200年かけても終わらない。日本やロシアなどの政府に問題と責任がどこにあったのか、再発防止のための政策などはあるのか説明してほしい」とのべました。

 伯父をシベリアで亡くした男性(68)は、声を詰まらせ「正式な死亡記録はありません。伯父が生きた22年間の証しがないように思え、無念でなりません」と話しました。

 日本共産党から小池晃書記局長、島津幸広、畑野君枝両衆院議員が参列し、小池氏は党を代表して、抑留犠牲者に哀悼を表するとともに「シベリア抑留は旧ソ連のスターリンと日本の戦争指導部が合作で引き起こしたもの。全容の解明とすみやかな遺骨収集に取り組み、二度と再びこのような事態を繰り返さないため憲法9条を守り抜く」とあいさつしました。

◆◆抑留死4964人、名簿公表 厚労省、ロシア提供資料

201649日朝日新聞

旧ソ連による抑留死者と身元の特定状況

 厚生労働省は8日、第2次世界大戦後に旧ソ連に抑留されて死亡した日本人のうち、新たに延べ4964人分の名簿を公表した。ロシア政府から提供された資料を翻訳して判明したもので、肉親の最期を知る情報になる可能性がある。

 抑留死亡者はモンゴルを含むシベリア地域で約5万5千人いる。今回は、この地域が最も多い4584人。モンゴルとの国境に近いイルクーツク州などの収容所や病院で亡くなった。ほかに樺太(現ロシア・サハリン)地域が375人、旧満州(現中国東北部)地域が5人。旧満州地域の名簿公表は初めてとなる。

 2011年6~7月と今年1月に提供された資料を日本語に翻訳し、名前のカタカナ表記と死亡年月日、死亡場所の三つを整理。読み方を誤ったままロシア語で資料がつくられ、日本人の名前として不自然な表記も含まれている。厚労省は07年からウェブサイト上で死亡者の名簿を公開。すでに延べ約5万人分(うち身元特定約4万人)に上り、今回の公開分との重複も多いとみている。

 厚労省は昨年4月、約1万人分の死亡者名簿を公開。北朝鮮や中国、樺太などシベリア地域以外で亡くなった人も初めて含まれた。今回公開した名簿は、この時に翻訳が間に合わなかった資料の一部だ。遺族に最期の情報を提供することが目的で、資料の写しや翻訳したものを都道府県を通じて無償で提供する。

 ただ、シベリア地域以外で亡くなって身元を特定できた903人のうち、遺族に情報を提供できたのは406人分にとどまる。(久永隆一)

◆◆シベリア抑留の記録 酷寒・過労・飢え帰還後も険しい道

151118日朝日新聞(文化の扉)

 戦後70年を迎えた今年、「シベリア抑留・引き揚げ」の記録が世界記憶遺産に登録された。広島・長崎の被爆、沖縄戦の犠牲などとともに語り継がれるべき惨禍だが、その記憶は薄れつつある。

 1945年8月、日本の敗戦にともない、旧満州(中国東北部)などにいた日本軍(関東軍)の将兵や軍属らがソ連軍の捕虜となり、順次各地の強制収容所に移送された。その数には諸説あるが、一部民間人も含めて約60万人とされる。「シベリア抑留」の発端だった。

 抑留者は、炭鉱での採掘や森林の伐採、鉄道建設工事などの過酷な労働を強いられた。食料は乏しく、衛生・医療環境も不十分だった。過労と飢え、病気に加えて、酷寒の気候で落命する人たちが相次いだ。抑留中の死者は約6万人にのぼる。

 敗戦後、日本は連合国の占領下にあり、米ソ間では冷戦と呼ばれる対立が深まった。抑留者の帰国は46年末に始まったが、国際情勢の影響でしばしば中断。抑留期間が10年を超えた人もいた。

     *

 そうした苦難を伝えるのが、ユネスコの世界記憶遺産に登録された記録。引き揚げ港だった京都府舞鶴市の舞鶴引揚記念館が所蔵する。

 収容所では様々な物資が欠乏していた。金属製のスプーンは、金(かな)くずを拾い集めて、れんがの型で鋳直したという。白樺(しらかば)の木を削った箸もある。

 白樺の樹皮に、空き缶から作ったペンとすすを水に溶いたインクで記したのが「白樺日誌」。「屍(かばね)移す馬橇(うまそり)の哀(かな)し木立かな」「シューバ(外套〈がいとう〉)被(かつ)ぎ 寝(ね)ぬる夜寒や隙間風」と、抑留者の死や酷寒の夜をつづる。こうした「文書」は所持品検査で没収されたが、「白樺日誌」は奇跡的に持ち帰ることができた記録という。

 一方で、手作りのパイプやマージャン牌(ぱい)などは、つかの間の安らぎを求める思いをしのばせる。記念館の長嶺睦学芸員は「これまで苦難が強調されてきたが、抑留者には潜在的に生きようとする力があったことも伝えたい」と話す。

     *

 祖国に帰還した人々の歩みは様々だ。多くの抑留者は戦後社会で、自らの体験を積極的に語ることなく生活再建に取り組んだ。だが、それは必ずしも平坦(へいたん)な道ではなかった。抑留中にソ連の思想教育を受けたことから、「シベリア帰り」を「アカ(共産主義者)」と見なす風潮があった。そのため就職に困難をきたした例は少なくない。

 『シベリア抑留者たちの戦後』の著書がある富田武・成蹊大学名誉教授は、「元抑留者たちは、死亡した戦友の分まで祖国の再建に尽くす一方で、戦争を思い出させる『余計者』扱いされたという思いがあったのでは」と指摘する。

 詩人・石原吉郎は抑留中「もっとも恐れたのは(故国から)『忘れられる』ことであった」と記した(『望郷と海』)。戦後社会は元抑留者を必ずしも温かく迎え入れたわけではない。抑留中に死亡した人々の遺骨は、国が91年から収集しているが、今も約3万3千柱が現地に残る。そうしたことも記憶にとどめたい。

 (西岡一正)

 <読む> 歴史的な概要を知るには栗原俊雄『シベリア抑留』(岩波新書)。小熊英二『生きて帰ってきた男』(同)は著者の父の体験を通して、抑留およびその前後の日本社会の様相を描き、示唆に富む。体験記には高杉一郎『極光のかげに―シベリア俘虜(ふりょ)記』(岩波文庫)などがある。

 <見る> 世界記憶遺産に登録された記録や資料類は、京都府舞鶴市の舞鶴引揚記念館で見ることができる。山口市の山口県立美術館では、抑留体験をテーマとした画家・香月泰男の「シベリア・シリーズ」のうち9点を来年1月17日まで展示している。

◆父の経験、作品で伝える 漫画家・おざわゆきさん

 父は19歳で敗戦を迎え、4年余り、ソ連に抑留されました。その体験を素材に『凍(こお)りの掌(て)』という作品をまとめました。

 捕虜だったことは知っていましたが、父から詳しく聞いたことはなかったんです。2006年に抑留者が描いた絵画展を見て「私が形にして残すしかない」と決意しました。

 あらためて聞いてみると、現実にあったとは思えないことばかり。見知らぬ土地で強制労働をさせられ、それがいつまで続くかわからない。その状況を想像するだけでもつらい。自宅にこもって作画に打ち込んでいると、自分も暗黒の時間にいるかと思えるほどでした。

 最近完結した『あとかたの街』では、母の空襲体験を描いています。若い世代は自分の未来を考えて戦争に関心を持ち始めています。漫画の創作を通して、その片鱗(へんりん)だけでも伝えることは今後もできると思います。

─────────────────────────

🔵満州・シベリアからの引き揚げ者の喜びと悲しみ

─────────────────────────

◆◆復員引揚問題

ふくいんひきあげもんだい

(荒 敬=小学館百科全書)

第二次世界大戦後の海外在留の日本軍人・軍属および一般日本人の帰還問題、とくに旧ソ連・中国本土地域からの引揚げが遷延した問題をさす。

 まず復員であるが、厚生省(現厚生労働省)の調べでは敗戦時の旧陸海軍軍人・軍属の総兵力は陸軍が約550万、海軍が約242万であり、このうち内地部隊は陸軍が約250万、海軍が200万弱とされる。内地部隊の復員は、陸軍が1945年(昭和2010月までにほぼ完了し、海軍は458月末日までに8割が帰郷した。また外地部隊の復員はアメリカ軍管理地域から始まり、中国軍、オーストラリア軍、イギリス軍の各管理地域へと順次実施され、481月までにいちおう完了した。イギリス軍管理地域では主力部隊送還後も132000人が作業部隊として約1年間残留させられた。

 敗戦直後、海外に残留していた軍人・軍属および一般日本人は660余万に上り、軍人・軍属と一般人との内訳はそれぞれ半数ずつであったが、送還は軍人・軍属が優先された。引揚げ者数は1946年末までに500万人以上に達しピークを越した。47年にはさらに74万人余が引き揚げた。この時点で密出国などを加えればその実数は600万人以上と推定されている。引揚げが遷延した地域は旧ソ連・中国であるが、サンフランシスコ講和で両国と条約を締結せず国交を回復しなかったので、その後も政府間交渉は困難を極めた。

 ソ連占領地域の満州(中国東北)、北朝鮮、千島、樺太(からふと)(サハリン)では関東軍の軍人・軍属と「満州国」官吏を中心に約575000人がソ連本土に移送され労働を強制された。日本当局の推算ではソ連地域の日本人在留者数は2727000人とされていた。引揚げが開始されたのは他の地域がほぼ完了した194612月の米ソ協定後であったが、送還は遅々として進まなかった。49年に日本で送還遅延が政治問題化し留守家族全国協議会は引揚げ促進の全国大会を開催し、国会も年内完了を決議した。504月タス通信は送還完了を発表した。日本当局は約37万人が未送還にあるとして国連に提訴した。5312月、国際赤十字社の働きで送還が再開され、また56年、日ソ国交回復で「総ざらい引揚げ」が行われた。

 中国からは1946年末までに300余万人、48年までに45000人が引き揚げたが、中国内戦の影響と中華人民共和国の成立で中断し、その後も朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)で引揚げは空白状況を続けた。中国からの呼びかけで日本赤十字社と中国紅十字社が532月「共同コミュニケ」を発表、55年には政府間直接交渉も開始され、53年から58年までに21回にわたって延べ35000人弱が引き揚げた。

 集団引揚げは1958年で終わり、以後は個別引揚げの段階に入った。とくに72年の日中国交正常化以後、敗戦の混乱のなかで中国に取り残された日本人残留孤児の調査および帰国は、戦後の社会問題となった。[荒 敬]

★★かえり船=田端義夫=引き揚げ船の動画

波の背の背に ゆられてゆれて

月の潮路の かえり船

霞む故国よ 小島の沖じゃ

夢もわびしく よみがえる

捨てた未練が 未練となって

今も昔の 切なさよ

瞼合わせりゃ 瞼にしみる

霧の波止場の 銅鑼(どら)の音

熱い涙も 故国に着けば

嬉し涙と 変わるだろ

鴎行くなら 男の心

せめてあの娘に 伝えてよ

★★『異国の丘』の歌=復員船の動画

★★『異国の丘』の歌=シベリア

作詞:増田幸治・補作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正

今日も暮れゆく 異国の丘に

友よ辛かろ 切なかろ

我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ

帰る日も来る 春が来る

今日も更けゆく 異国の丘に

夢も寒かろ 冷たかろ

泣いて笑ろて 歌って耐えりゃ

望む日が来る 朝が来る

今日も昨日も 異国の丘に

おもい雪空 陽が薄い

倒れちゃならない 祖国の土に

辿りつくまで その日まで

◆◆捨てられた開拓移民 逃避行、幼子ら次々落命

朝日新聞15.11.24

 終戦時、植民地を含めて海外には軍・民約660万の日本人がいた。当時の人口の約9%にあたる人たちの引き揚げが始まったが、旧満州や朝鮮半島北部ではソ連侵攻後、女性や子どもたちが「難民化」。病気や飢えのほか、ソ連軍の攻撃や集団自決のために旧満州では約24万人が亡くなったとされる。

◆飢えや病気、「自決」も

 赤土のデコボコ道を裸足で踏みしめ、幼い弟を背負った母の背を無言で追い続ける。のどの渇きが我慢できず、側溝の泥水をすくってなめた。

 1946年5月、旧満州東北部。前沢節子さん(81)=長野県飯田市=は大古洞(たいこどう)から西へ歩いていた。500人近い同郷の農業開拓移民の人たちと日に20~30キロずつ進む。ろくに食べる物もなく、夜は地元住民の集落で世話になったり野宿をしたり。「足は象みたいにパンパンに腫れて。それでも歩いた」。移動は15日間で約300キロ。

 前沢さん一家が、長野県南部から国策の「満蒙(まんもう)開拓団」として旧満州に渡ったのは40年5月だった。「20町歩(6万坪)の地主になれる」。そんな誘いに背中を押された。長野県からは全国最多の約3万3千人が入植した。

 だが、45年8月9日にソ連軍が旧満州に侵攻。まもなく日本は終戦を迎えたが、開拓団員には、悲劇の「始まり」となった。ソ連兵や暴徒化した住民が押し寄せ、略奪や強姦(ごうかん)が起きた。

 10歳だった前沢さんは18日、自宅から大古洞の国民学校の建物に避難した。母(当時35)、妹(同8)、弟(同2)、祖母(同63)と一緒。父は10日に召集されていた。女に見られないよう頭を丸め、顔に灰を塗り、危険を感じると床下に隠れる毎日だった。心労がたたったのか、10月に祖母が死亡した。

 46年5月の300キロの逃避行の末、ハルビンにたどり着き、収容所2カ所で4カ月近く過ごした。引き揚げを待つ人たちですし詰め状態。食事はアワやコーリャンのおかゆが配られるだけ。シラミが媒介する発疹チフスが蔓延(まんえん)し、高熱の末に毎日、何十人と亡くなった。

 8月、配給されたソ連の紙幣を手に、高熱で衰弱した母の好物の細巻きずしを街で買ってきた。だが、口に運んでも食べてくれず、静かに息を引き取った。2歳の弟も高熱が続き、目を開けなくなった。

 旧厚生省の「援護50年史」などによると、終戦前、旧満州には約155万人の邦人がいた。旧満州に渡った開拓団員は約27万人で、うち約8万人が死亡した。飢えや栄養失調に苦しみ、大半が病死。地元住民やソ連兵に追い詰められ、「自決」した人たちも多数いた。

 10月、列車で南下し葫蘆(ころ)島から船に乗った前沢さんは妹と2人、博多港に降り立った。同郷の開拓団員950人のうち戻れたのは506人。「涙も言葉も出なかった。生きた屍(しかばね)。人間の理性や感情を失わせるのが戦争です」

 北緯38度線を越えて朝鮮半島を縦断し、故郷を目指した人もいた。児玉ミツコさん(90)=広島県神石(じんせき)高原町=は、44年7月から軍の機関に勤める夫と平壌で暮らしていた。

 夫は45年8月下旬にソ連兵に連行され、児玉さんは翌年、幼い長女を抱えて南下した。トラックや徒歩で進んだ際、死んだ子を背負って歩く母親がいた。山中で首をつっている人も見た。博多港にたどりついたのは46年8月。「地獄でしかなかった」と振り返る。

◆先に撤退した関東軍

 ソ連軍が旧満州に侵攻したとき、駐屯していた日本の陸軍「関東軍」の戦略は、本土決戦を遅らせる時間かせぎの「持久戦」だった。旧防衛庁防衛研修所がまとめた大戦史の戦史叢書(そうしょ)によると、45年7月までに旧満州の大半を放棄し、朝鮮半島北部に接する南部に立てこもる計画を決定。実際に後退させ始めた。

 ソ連との国境付近に点在していた開拓団について、戦史叢書は「軍の指導により国境に入植し、交通線の維持確保・生産・補給など兵站(へいたん)に一役も二役も買っていた」と記す。それなのに、後退も知らされず、保護策もほとんどとられなかった。

 「何故に居留民よりも速かに後退したのか――とただされれば、それはただ一つ、作戦任務の要請であった」。関東軍の作戦参謀だった草地貞吾大佐は戦後、手記にそう書いた。

 関東軍が持久戦を決めた背景には、敗戦を重ねていた南方や本土に兵力をとられ、弱体化していたことが挙げられる。その穴埋めとして45年6月以降、旧満州の開拓団などの男子が「根こそぎ動員」された。旧厚生省の資料によると、その数は約15万人。

 「ソ連が満洲に侵攻した夏」の著書がある作家の半藤一利さん(85)は言う。「国境付近にいる開拓団の人たちは、ソ連に警戒心を持たせるための『見せかけの軍隊』、案山子(かかし)のような存在にされた」

 日本政府が受諾したポツダム宣言には、日本軍の武装解除と本国送還の方針は盛り込まれたが、民間人については触れられなかった。「居留民ハ出来得ル限リ定着ノ方針ヲ執ル」。日本政府は8月14日付の在外公館あての暗号電信でこう示した。国内で食糧や住宅不足が深刻化し、300万人以上を受け入れる余地がないと考えたのだ。

 日本の敗戦過程に詳しい国文学研究資料館の加藤聖文准教授は「ポツダム宣言受諾を議論し、終戦に向かう過程で、日本政府の焦点は唯一『国体護持』だった。海外の邦人をどう保護するのかという意識は欠落し、民間人は結果的に、棄民となってしまった」と指摘する。

 旧満州の民間人の犠牲者数は詳しい調査がなされないまま、24万人余りと推計されている。その数は原爆(広島、長崎で45年末までに約21万人)や沖縄戦(県民約12万人)を上回る。

◆中国残留孤児、なお難題

 戦後、日本政府は連合国軍総司令部(GHQ)の指導の下、45年11月24日に博多や佐世保、舞鶴などの港に地方引揚援護局を設け、46年末までに約500万人を受け入れた。

 引き揚げ者数は博多(47年まで)、佐世保(50年まで)がそれぞれ139万人余り。シベリア抑留者の引き揚げ先となった舞鶴が58年までで約66万人などだった。一方、国内で徴用されていた朝鮮半島出身者や中国人ら約130万人が、日本人を迎えに行く船に乗って出国したのもこれらの港だった。

 引き揚げ途中に親を失った子どもたちも多くいた。旧厚生省の「引揚げと援護三十年の歩み」によると、博多、佐世保には孤児計3062人が到着。648人は身元がわからず施設に収容された。大陸でソ連兵に強姦された女性のなかには、日本の港を目前に海に身を投げた人もいた。彼女たちを受け入れ、堕胎手術をする「保養所」も設けられた。

 引き揚げ途中で中国人に預けられたり売られたりして、いまも身元がわからない「中国残留孤児」の問題も残る。日中国交正常化後の81年から、残留孤児が訪日して肉親を捜す調査が始まった。これまでに2818人が孤児と認定されたが、確認が難しくなり、ここ3年は訪日調査は実施されていない。

◆邦人の状況「極めて平静」

 ソ連の旧満州侵攻時、朝日新聞東京本社版は1945年8月10日付朝刊で「ソ連 対日宣戦を布告」と大本営発表を報じた。15日付まで連日その動向を伝えたが、日本軍については「激戦展開中」などとわずかな記述。現地の様子が再び掲載されたのは20日付。現地発の特派員記事で、玉音放送のラジオを「百五十万在満日本人は直立不動千万無量の感慨の裡(うち)に謹んで拝した」「混乱から起上り(略)市民は極めて平静」と書いた。邦人の悲劇の一端が報じられ始めるのは9月4日以降だった。

 満蒙開拓団の送り出しの際には、「満州へ!満州へ!」と書き出した38年6月23日付(東京朝日新聞)記事で「彼等(かれら)は既に成功者」と持ち上げ、「大事業を終局まで成功に導かねばならない」と呼びかけた。39年6月7日には「満蒙開拓青少年義勇軍」の壮行会を主催。8日付で「征け若き先駆者」と見出しを掲げ、10代の青少年を「鍬(くわ)の戦士」と鼓舞した。

 ◇この特集は、伊藤宏樹、木村司が担当しました。

◆◆12歳、ひとりぼっちの引き揚げ 旧満州逃避行、「兄ちゃー」叫ぶ妹と生き別れ

朝日新聞15.11.24

 終戦時、海外にいた日本人が祖国に戻ってきた引き揚げ。70年前の11月、受け入れのための援護局が各地に設けられ、帰国が加速した。だが、中国東北部では、ソ連侵攻などで民間人が厳しい逃避行を強いられた。飢えや寒さのなか、目の前で次々と倒れていく家族。ひとり帰国を果たした少年はいま、なにを思うのか。

 南アルプスと天竜川に挟まれた長野県飯田市の上久堅(かみひさかた)地区。唐沢徳(のぼる)さん(82)=同県豊丘村=の故郷、下伊那を一望する山に慰霊碑が立つ。周辺では4軒に1軒ほどが、1939年から段階的に旧満州に入植した。

 希望を胸に全国から加わった「満蒙(まんもう)開拓団」。慰霊碑には、逃避行で病気や飢えなどにより命を落とした500人以上の名が刻まれている。

 碑の前では、73年からほぼ毎年、秋の彼岸に生存者らが慰霊祭を開いてきた。だが、ここ数年は開かれていない。唐沢さんは「おれたちがいなくなったら誰が碑を守ってくれるかな。次の世代では悲しみがわかる者は少ない」と話す。

◆病気で母弟死亡

 唐沢さんの一家7人は42年春、県南部の村が募った農業開拓団に応じた。両親と祖母、2人の弟、妹と一緒。旧満州の東北部を流れる松花江(しょうかこう)左岸の平原で大豆や麦などを育てて暮らした。だが、終戦直後からソ連軍や現地住民に襲われて死者が出るようになり、600人以上で歩いて逃げ回った。

 唐沢さんは当時12歳。父は終戦間際に召集され、祖母は43年に亡くなったため、母(当時36)と、10歳、4歳の弟、6歳の妹の5人で一行に加わった。

 ところが越冬に選んだ濃河鎮(のうかちん)の穀物倉庫で伝染病の発疹チフスが蔓延(まんえん)。連日10~20人が亡くなり、凍った遺体が外に積まれた。最期が近い人の体からはシラミが次々と離れていった。「感情がまひして悲しいとも気の毒だとも思わない。おれもいつかは死ぬのかな、と思った」と振り返る。

 近くで寝ていた母と2人の弟が相次いで亡くなり、唐沢さんも高熱でもうろうとした。一方、妹は、現地の人にもらわれていった。

 逃避行で家族とはぐれても涙を見せなかった気丈な妹が必死に抵抗した。「嫌がって体を反り返して。『兄(にい)ちゃー、兄ちゃー』て叫んで泣いた。兄貴として守ってやれなかったことがふがいない」。その後の消息はわかっていない。

 倉庫でまきが尽きたころ、父の知り合いの現地の男性が連れ出してくれた。暖かい長屋の一角に居候し、食事も出してくれた。

 冬を越した46年8月、同様に現地で身を潜めていた15人ほどの若者で日本を目指した。徒歩や船、列車などでハルビンを経由して葫蘆(ころ)島にたどりつき、引き揚げ船で佐世保(長崎県)に着いた。帰国後、シベリア抑留から引き揚げた父と再会。やがて父の元も離れ、営林署職員を定年まで勤め上げた。

 旧満州の支配強化や防衛、人口移転などを目的に国策で進められた満蒙開拓。その土地は、日本の先遣隊が買収し、現地の人をほかへ追いやった経緯がある。唐沢さんは、逃避行のきっかけになった現地住民の襲撃について、「日本人の傲慢(ごうまん)さが、現地の人に余計に反感を買ったんじゃないか」とみている。

 貧しさから脱しようと開拓団に加わったが、国策にだまされたとの思いもある。「政治にも一度は疑いを持つことが肝心じゃないかな。こんな出来事があったことを若い人に覚えておいてもらいたい」

◆全国から27万人

 「満洲開拓史」や旧厚生省の「援護50年史」などによると、満蒙開拓団としては、全国から約27万人(青少年義勇軍を含む)が入植した。都道府県別の入植者数では、最多の長野県(約3万3千人)に次ぎ、山形県(約1万7千人)、熊本、福島、新潟、宮城、岐阜の各県(各約1万2千人)、広島県、東京都(各約1万1千人)などが目立つ。

 唐沢さんの故郷長野県南部では戦前、養蚕が主産業だったが、世界恐慌をきっかけに絹糸の価格が暴落したことで困窮していた。そのうえ、県内の大半の町村が国策に乗り、開拓団を盛んに募ったことが参加者が多い背景とされている。

 (伊藤宏樹)

◆◆戦後の引き揚げ「週刊朝日」15/11/27

🔴◆◆「岸壁の母」の悲劇

★★二葉百合子の「岸壁の母」の語り=バックに動画6m

https://m.youtube.com/watch?v=-t85CGQF6oU

★菊池章子の「岸壁の母」

http://www.uta-net.com/movie/122182/

★二葉百合子の「岸壁の母」4m

作詞:藤田まさと 

作曲:平川 浪竜

母は来ました 今日も来た

この岸壁に 今日も来た

とどかぬ願いと 知りながら

もしやもしやに もしやもしやに

ひかされて

(セリフ) 引揚船が帰って来たに

今度もあの子は帰らない。

この岸壁で待っている

わしの姿が見えんのか。

港の名前は舞鶴なのに

なぜ飛んで来てはくれぬのじゃ

帰れないなら大きな声で

お願いせめて、せめて一言

呼んで下さい おがみます

ああ おッ母さんよく来たと

海山千里と 言うけれど

なんで遠かろ なんで遠かろ

母と子に

(セリフ)あれから十年

あの子はどうしているじゃろう。

雪と風のシベリアは寒いじゃろう

つらかったじゃろうと命の限り抱きしめて

この肌で温めてやりたい

その日の来るまで死にはせん。

いつまでも待っている

悲願十年 この祈り

神様だけが 知っている

流れる雲より 風よりも

つらいさだめの つらいさだめの

杖ひとつ

(セリフ)ああ風よ、心あらば伝えてよ。

愛し子待ちて今日も又、

どとう砕くる岸壁に立つ母の姿を

Wiki=「岸壁の母」のモデル=端野いせさん

SV-AS10 ImageData

流行歌、映画「岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせ(1899915 – 198171日)さん。

明治32年(1899年)915日、石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれ、函館に青函連絡船乗組みの夫端野清松、娘とともに居住していたが、昭和5年(1930年)頃夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和6年(1931年)に上京する。新二は立教大学を中退し、高等商船学校を目指すが、軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学、 同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。

終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)815日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。

しかしながら、帰還を待たれていた子・新二(1926)は戦後も生存していたとされる。それが明らかになったのは、母の没後、平成12(2000)8月のことであった。

ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていた。新二は母が舞鶴で待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。理由は様々に推測され語られているがはっきりしない。 新二を発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年(1996年)以降、3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだという。旧満州(現中国東北部)の関東軍陸軍石頭(せきとう)予備士官学校の第13期生で構成される「石頭五・四会」会長・斉藤寅雄は「あのひどい戦いで生きているはずがない」と証言し、同会の公式見解では「新二君は八月十三日、夜陰に乗じて敵戦車を肉薄攻撃、その際玉砕戦死しました」と述べられている(北國新聞社平成18年(2006年)104日)。

端野いせは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。昭和519月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてる。息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)71日午前355分に享年81で死去。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し、一瞬たりとも新二のことを忘れたことがなかったことを、病院を見舞った二葉が証言している。

──────────────────────────

🔵満蒙開拓とは

──────────────────────────

◆◆満州開拓とは

風間秀人=小学館百科全書

日本が満州(中国東北地区)支配の一環として行った国策移民。満州への移民は、日露戦争(190405)後、関東都督(かんとうととく)府や南満州鉄道(満鉄)により農業移民という形で行われたが、満鉄付属地に入植した一部のものを除き失敗に終わった。本格的な満州移民の送出は、満州事変(1931)後、関東軍の主導下に展開されたが、それはおおよそ次の3時期に区分できる。[風間秀人]

◆第一期

1932年(昭和7)より36年までの試験移民期。農業教育家加藤完治(かんじ)や拓務省の協力のもとに在郷軍人会を中心とした武装試験移民が送出された。[風間秀人]

◆第二期

1937年より41年までの本格的移民期。36年広田弘毅(こうき)内閣より20か年100万戸移民計画が発表され、大量の満州移民団が送出された。[風間秀人]

◆第三期

1942年より45年までの移民崩壊期。国内農業者の大量兵員化と軍需徴用のために移民団が組織できず、移民送出は停滞、ついには全面停止に至った。なお同時期には、1937年に設立された満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍(1518歳の少年で組織)が、一般移民団送出の停滞を補完すべく、移民の中軸となっていった。

 満州移民の送出形態は、村内の貧農を中心に村を分割する分村移民や近隣、数か村の移民者を集めて一移民団とした分郷移民を主としており、送出、受入機関として満州移住協会、満州拓殖会社が設立された。1945年までに送出された移民数は、満蒙開拓青少年義勇軍約10万人を含め、約32万人であった。

 移民の目的は、昭和農業恐慌打開のための貧農送出とともに、満州の治安確保、対ソ防備・作戦上の軍事的補助者としての役割を移民団に課すことにあった。そのため、移民入植地には、当時ソ連との国境に近い北満州が選定され、2000万ヘクタールの移民用地が強制収用された。しかし、この土地収奪は逆に反満抗日運動を激化させた。19343月、三江(さんこう)省依蘭(いらん)県土竜(どりゅう)山地区の農民3000人が謝文東(しゃぶんとう)の指揮により移民団を襲撃した土竜山事件は、その代表的なものであった。4589日のソ連参戦により、対ソ戦の軍事要地に入植していた移民団は大きな犠牲を出し、日本に帰国しえたのは11万余人にすぎなかった。[風間秀人]

『満州移民史研究会編『日本帝国主義下の満州移民』(1976・龍渓書舎)』

◆◆Wiki=満蒙開拓青少年義勇軍

満蒙開拓青少年義勇軍(まんもうかいたくせいしょうねんぎゆうぐん)とは、日本内地の数え年16歳から19歳の青少年を満州国に開拓民として送出する制度であり、満蒙開拓団に代表される満蒙開拓民送出事業の後半の主要形態である。

◆沿革

1937年(昭和12年)113日「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」という文章が首相近衛文麿をはじめ全閣僚に提出された。署名人は、農村更生協会理事長石黒忠篤、満州移住協会理事長大蔵公望、同理事橋本伝左衛門、那須皓、加藤完治ら6名であった。成人移民が蹉跌をきたしていた拓務省としては、この建白書は「渡りに船」であった。早速「満州に対する青少年移民送出に関する件」を立案し、1130日の閣議でこれを決定している。またその年の12月には、「満州青年移民実施要項」を作成した。

◆義勇軍の募集

1938年(昭和13年)1月、この「満州青年移民実施要項」に基づいて、早々と募集が開始された。募集要項によると、小学校を卒業し、数え年16歳から19歳までの身体強健なる男子で、父母の承諾を得たものであれば誰でもよいとされた。成人移民を補充するものでありながら、その名称が青少年移民でなく、青少年義勇軍であるのは、日中戦争遂行上必要不可欠な満州支配の安定的維持に青少年が挺身することとして、当時軍国主義的意識の昂揚した青少年に訴えるためであった。その狙いが功を奏して、成人移民は貧農層が中心だったのに対して、青少年義勇軍は高等小学校の成績上位・中位層が中心となった。自由応募が原則であったが、実態は当局から各都道府県への割り当て数が決められ、さらに道府県から各学校への割り当て数が決められていた。それに応じて各高等小学校の担当教師が卒業生に主体的に応募するように働きかけた。青少年義勇軍送出において学校教育の果たした役割は重要であった。

◆入植まで

各都道府県で選抜された青少年300名を標準として中隊に組織し、加藤完治が所長を務める茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所(いわゆる内原訓練所)で3か月の学習、武道及び体育と農作業の基礎訓練を受けた後に、満州国の現地訓練所にて3ヵ年の訓練を経て、義勇隊開拓団として入植した。この訓練教育期間は、満州国における「民族協和」の中核として開拓地の満州国の発展、さらには日満一体化に寄与することが期待された。

◆入植の実態

この満蒙開拓青少年義勇軍は、1938年(昭和13年)から1945年(昭和20年)の敗戦までの8カ年の間に86,000人の青少年が送りだされた。これは満州開拓民送出事業総体の人員の3割を占めており、同事業に欠かせない存在であったといえる。しかし、その実態をみると、青少年だけで構成されているだけに、団幹部の力量に左右される面があった。また、その入植地の環境も一般開拓団以上に厳しい場合も多かった。そうした中で一致団結して理想を追求した団もあったが、条件が悪く、しかも団幹部に恵まれない場合には、精神的に耐えられず生活が荒んだ者もあった。暴力事件や周辺農村との間で軋轢を起こすこともあった。

◆◆加藤完治と内原訓練所

小学館百科全書

◆加藤完治

かとうかんじ

18841967

農本主義者で農民教育および満州開拓移民の指導者。東京生まれ。1911年(明治44)東京帝国大学農学部卒業。内務省地方局勤務ののち、1913年(大正2)愛知県安城農林学校教師。1915年創設された山形県自治講習所の初代校長に就任し、筧克彦(かけいかつひこ)流の古神道理論に基づき農民子弟の教育にあたった。ついで1926年茨城県友部(笠間(かさま)市)に農村中心人物の養成指導を目的とする日本国民高等学校が創立されると、その校長となった。満州事変後は関東軍の東宮鉄男(とうみやかねお)大尉と結び満州移民を推進した。1938年(昭和13)満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍制度が発足し茨城県内原(うちはら)(水戸(みと)市)に中央訓練所が設立されると、その所長をも務めた。戦後は公職追放処分を受けるが、解除後、私塾的な日本高等国民学校の校長に復職、また旧満州開拓関係団体の役員を務めた。[北河賢三]

『加藤完治全集刊行委員会編・刊『加藤完治全集 第一巻』(1967) ▽上笙一郎著『満蒙開拓青少年義勇軍』(1973・中公新書)』

◆内原訓練所

うちはらくんれんじょ

満州(中国東北部)農業移民の訓練所。とくに満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍を訓練した。1938年(昭和13)茨城県東茨城郡下中妻村内原(現水戸(みと)市)に設立。所長は加藤完治(かんじ)17歳前後の高等小学校卒業の少年を3か月間、「皇国精神」「武道」「農業」を中心に訓練し、満州へ送り出した。38年以降45年までその送出者数は86530名に達し、その多くは、敗戦直前のソ連参戦のなか満州で戦死した。[小林英夫]

────────────────────────

🔵中国残留孤児問題とは

────────────────────────

◆◆中国残留孤児問題とは

伊藤一彦 小学館百科全書

日中戦争終結後、中国に残留させられた日本人「孤児」をめぐる問題。

 中国残留日本人孤児とは、1945年(昭和2089日ソ連の対日参戦以降の混乱で、肉親と別れ中国に残された日本人児童のこと。厚生労働省は、「当時の年齢が概ね13歳未満で、本人が自己の身元を知らない者」として、それ以外の「中国残留婦人等」と区別する。[伊藤一彦]

残留孤児発生の歴史的背景

日本は19319月満州事変を引き起こし、翌19323月傀儡(かいらい)国家「満州国」を創出して中国東北地方(満州)を実質的な植民地とした。日本の人口増加とくに農村余剰人口問題の解決、さらにソ満国境の防衛のため、1932年秋の武装移民団を皮切りに、関東軍の支援のもとに満蒙(まんもう)開拓団が北満各地に送り込まれた。1936年に日本政府が20か年100万戸移住計画を決定して以後、開拓団の移住は本格化し、終戦までに27万人に上った。

 満蒙開拓団には貧農の次三男が10町歩(約10ヘクタール)の地主になれるという宣伝にひかれて自ら参加した者もあったが、団員送出ノルマ達成に焦る地元当局により強制されて加わった者も多かった。開拓団に割り当てられた農地には、現地の中国人や朝鮮人が開墾した土地を低価格で暴力的に取り上げた例も少なくなく、開拓団は侵略の先兵として中国民衆の怨嗟(えんさ)の的となった。1945年のソ連参戦前、関東軍は満州の4分の3の放棄を決定、すでにソ満国境付近の兵力の多くが撤退していた。そのとき、ソ連側に撤退を知られないため在満の一般日本人に対しても秘密にされ、開拓団の安全はまったく考慮されなかった。ソ連軍が攻撃してきたとき、開拓団の壮年男子は根こそぎ軍に動員されており、残された老人、女性、子供は砲火に追われ、中国人の報復襲撃にさらされつつ、自力で避難した。逃避行の最中に多数の死者が出、数千人に及ぶ乳幼児が中国人に拾われたり託されたりした。中国残留日本人孤児の多くはこうして発生したが、開拓団以外にも残留孤児となった場合があったことはいうまでもない。

 第二次世界大戦後、国共内戦と中華人民共和国の成立、そして冷戦の深化により、日中両国は対立関係にあり、残留孤児問題は忘れられたばかりか、岸信介内閣が1959年「未帰還者に関する特別措置法」(昭和34年法律第7号)を制定、残留孤児等の戸籍を「戦時死亡宣告」により抹消してこの問題の幕引きを図った。[伊藤一彦]

孤児の永住帰国

中国で、孤児は日本人ゆえにいじめられ、とりわけ排外的風潮の強まった文化大革命のなかで、日本のスパイなどとして迫害された事例があった。

 19729月の日中国交回復まで、残留孤児問題は表面化しなかった。国交回復後、孤児とその肉親の互いの消息を求める声が出てきたが、日本政府の対応は緩慢で、1981年になって初めて孤児47人の国費による集団訪日調査が実現した。その後1999年(平成1111月までに30回、2116人が肉親探しに来日し、672人の身元が判明した。判明率は初期には50%を超えたが、孤児の高齢化等により次第に低下、10%以下ということもあった。2000年からは、中国現地での日中共同調査により新たに孤児と認定した者の情報を日本で公開し、肉親に関する情報が得られた者についてのみ訪日対面調査を行っている。200911月現在、永住帰国した孤児は2536人、同行家族は6779人。2008年現在で、なお1527人の身元が判明していない。

 1993年までは日本の親族の同意がなければ、日本人と判明しても国費による永住帰国はできなかった。しかし、1994年に「中国残留邦人帰国促進・自立支援法」が定められ、訪日調査の一員となれば自動的に日本人とみなされ、本人だけでなく配偶者と未成年の子供の渡日旅費や定住支援が受けられるようになった。

 国費帰国者は、定着促進センターで4か月間(のちに6か月間)日本語や習慣を学び、約16万円の自立支度金を得て公営住宅に住み、その後1年近く生活保護を受けられる。しかし、ことばをはじめ文化の壁は厚く、就職も困難で、日本社会に溶け込むのは容易でない。帰国孤児が高齢ということもあり約7割が生活保護を受けたが、出国すると支給されなくなるため、中国の養父母のもとを訪れることができず、中国では「豊かな日本に行ったのに、育てられた恩を忘れた」と孤児に対する非難があがった。また孤児に伴われて来日した子や孫が、学校等で差別され、非行に走るという事例も生じた。

 200212月の東京地裁を皮切りに、永住帰国者の8割余が日本政府の責任を問う訴訟に踏み切った。200612月の神戸地裁で勝訴したほか、7地裁で敗訴となったが、こうした活動により、200711月、国民年金満額支給等を定める「改正中国残留邦人支援法」が成立、これを受けて関係訴訟はすべて取り下げられた。[伊藤一彦]

『関亜新・張志坤著、浅野慎一ほか監訳『中国残留日本人孤児に関する調査と研究』全2巻(2008・不二出版) ▽蘭信三編『中国残留日本人という経験――「満洲」と日本を問い続けて』(2009・勉誠出版) ▽井出孫六著『中国残留邦人――置き去られた六十余年』(岩波新書)』

◆◆(戦後70年)遠き日本へ、尽きぬ思い 「私は中国残留孤児」訴え続ける

15.12.28朝日新聞)

 終戦から70年たった今も、自らが中国残留日本人孤児だと訴え続けている人たちがいる。しかし、申請しても養父母や近親者などは亡くなっており、今となっては証明する手がかりすらない。日本への強い思いを胸にしたまま、申請者自身の高齢化も進んでいる。

 「狂ったように証拠を探し回ったのに、私はふるさとに戻れません」

 遼寧省撫順市の黄飛燕さん(推定71)は2003年、厚生労働省から「非認定」の通知を受けた時の心境を、涙ながらに語る。

(日本への思いがあふれ、涙する黄飛燕さん。部屋には日本に帰った残留孤児から贈られた日本人形が置かれていた)

 両親を相次いで亡くした後の1996年、父親の知人女性、史春栄さん(当時82、97年死去)から「あなたは日本人だ」と告げられた。史さんの証言によると45年、同市の日本企業で鉄道の保線をしていた夫が、同じ職場の日本人から、黄さんを預かった。しかし史さんには子どもが5人おり、子どものいない黄さんの父親に託したという。

 当初、黄さんは動転したが、日が経つにつれ日本にいるかもしれない父母に思いをはせるようになった。会いたいという気持ちはどんどん膨らみ、中国政府と厚労省に申請をした。01年ようやく厚労省職員と面談できたが、すでに史さんは亡くなっており、他に有力な証言者はいなかった。

 非認定後も黄さんは、毎朝早く家を出て、実の父親と思われる男性が働いていた場所の近くで聞き込みをした。いつか「帰国」できたときのために、語学学校で日本語の勉強もした。

 しかし次第に、家族には家庭を顧みていないと映るようになった。応援してくれていた夫とも、気持ちがすれ違うようになり06年に離婚した。

 なおも手がかりを探し続ける黄さんは、片言の日本語で、涙ながらに訴える。

 「からだ、ちゅうごく。こころ、にほん」

 同じく撫順市に住む王志杰さん(推定70)は98年、肺がんで病床にあった母親から「あなたは、夫の同僚の日本人の娘だ」と伝えられた。

(ベッドに座る王志杰さん。「自分のルーツがわからず、眠れない夜を過ごすことが多い」=いずれも中国遼寧省撫順市、筋野健太撮影)

 すぐに日本政府に残留孤児の申請をしたが、後日、非認定の通知が届いた。通知によると、実の父親だと思われる日本人男性は確認できたが、すでに亡くなっていた。妻は健在だったが「自分の子どもではない」との返答で、実の母親が誰なのか分からないままだ。

 「夜、静かになった時、私の祖国はどこなのかという思いが渦巻き涙が止まらない。戦争がなかったら、こんな苦悩もなかった」

◆証拠集め、申請者に委ねる

 厚労省による残留孤児調査は、本人の申請を受けて始まる。日本にある残留孤児に関する届け出や満蒙開拓団の名簿などの資料で名前を調べ、次に、申請者自身が集めた証拠や証言などと照らし合わせる。こうして作った名簿を中国側にチェックしてもらい、集団による訪日調査で肉親捜しをすることを条件に、永住帰国を認めていた。

 しかし近年は、申請者が集められる肉親情報が少なくなったことや、高齢化してきたことなどから、00年以降、厚労省職員が中国で聞き取りをして、中国政府と共同で残留孤児と判断できれば永住帰国ができるようにした。ただ、証拠や証言の収集は、変わらず申請者に委ねている。

 厚労省によると、これまで2818人が残留孤児と認定されたが、近年は数が減っている。認定は申請された年から数年後になるため、年がずれるが、07年から今年までの申請数は80人で、認定者数は10人だけ。養父母ら、証人が亡くなったことが大きな理由だ。また、日本式と中国式で数や並び方に違いがあり、認定の判断材料となる種痘の痕が、老化で不鮮明になっていることも一因だという。

 南誠・長崎大多文化社会学部助教(39)は「証明材料探しを、年老いた申請者に委ねる調査方法には無理がある。日本政府は、残留孤児の帰国に関して受け身だった。遅きに失したが、積極的に申請者に協力するよう方法を見直すべきだ」と話している。(筋野健太)

◆キーワード

 <中国残留日本人孤児> 1931年の満州事変後、中国東北部(旧満州)に移り住んだ日本人の子どもで、45年の終戦前後の混乱で両親と別れ、現地に置き去りになった人たち。日本政府は、敗戦時におおむね13歳未満で、両親が日本人だった人と規定している。

◆◆中国残留孤児のいま

(朝日新聞15.12.26

◆◆山崎豊子の「大地の子」(Wikiより一部引用)

『大地の子』(だいちのこ)は、山崎豊子の小説、また小説を原作としたテレビドラマ。中国残留孤児・陸一心(りくいっしん)の波乱万丈の半生を描いた物語である。

19875月号から19914月号まで文藝春秋の月刊誌『文藝春秋』に連載され、1991年に同社から単行本が全3巻で刊行、1994年に文春文庫版が全4巻で刊行された(ちなみに山崎豊子の作品の中、文藝春秋で文庫版を刊行したのは『運命の人』と本作だけであり、他の作品は全て新潮文庫(新潮社)で刊行されている)。

この作品を書くために、山崎は1984年から胡耀邦総書記に3回面会し、取材許可を取り、当時外国人に開放されていない農村地区をまわり300人以上の戦争孤児から取材した(山崎は「残留」という言葉があたかも孤児達が自分の意思で中国に残ったかのような印象を与えるとの理由から、残留孤児という呼称を使わなかった)。

20131119NHK総合テレビで放送されたクローズアップ現代「小説に命を刻んだ~山崎豊子 最期の日々」において、山崎の肉声テープで「中国大陸のそこここで、自分が日本人であることも分からず、小学校にも行かせてもらえず牛馬の如く酷使されているのが本当の戦争孤児ですよと、私はこれまで色々な取材をしましたが、泣きながら取材したのは初めてです。敗戦で置き去りにされた子どもたちが、その幼い背に大人たちの罪業を一身に背負わされて『小日本鬼子(シャオリーベンクイツ)』、日本帝国主義の民といじめられ耐えてきた事実、日本の現在の繁栄は戦争孤児の上に成り立っているものである事を知ってほしい。大地の子だけは私は命を懸けて書いてまいりました」とのコメントが紹介された。

◆◆中島恵 =山崎豊子さんの『大地の子』秘話

中島恵 | ジャーナリスト

2013930 

日頃、中国を専門として記事を執筆している私ですが、8月末ごろから、なぜか急に『大地の子』(山崎豊子著、文春文庫、全4巻)を再読したくてたまらなくなり、手に取りました。人生で3回目の通読です。約3週間かけて読み切り、感動の涙を流し、自分の仕事に役立つことがまだまだ多いと実感しました。そして、さらに本書の回想録である『「大地の子」と私』(文春文庫)も手に取りました。おそらく今夜あたりには読み切るだろうというまさにそんなとき、「作家の山崎豊子さん、死去、88歳」という訃報が飛び込んできましたので、その偶然の一致に我ながら驚きました。

メディアのニュースで山崎さんの代表作として挙げられているのは『白い巨塔』や、比較的近年の作品である『沈まぬ太陽』ですが、私にとって、最も思い出深く、最高傑作だと思えるのは、やはり中国を描いた『大地の子』しかありません。

『大地の子』はこちらにくわしい解説がある通り、ある中国残留孤児の人生を描いたストーリーです。満州開拓団にいた男の子が、日本の敗戦後、過酷な体験をして生き残り、中国人養父母のもとで育ちます。「小日本鬼子」(日本の蔑称)といじめられながらもたくましく生き、大学を卒業して鋼鉄公司に就職しますが、文化大革命の嵐に巻き込まれ労働改造所に送られ、筆舌に尽くしがたい苦労をします。

しかし、養父の温かく懸命な救出活動により生還。国家を挙げて取り組む日中合作の製鉄所プロジェクトのメンバーになりますが、そこには実の父がいた……という話です。NHKでドラマ化されたので、記憶に残っている人も多いでしょう。日本の名優・仲代達矢や中国の名優・朱旭を上回るほどの素晴らしい演技をしたのが、当時、無名の俳優だった上川隆也でした。セリフとはいえ、上川隆也の中国語は本当にすばらしかったです。

親子の情愛がテーマだが、悲惨な戦争も描く

この小説で描いている主たるテーマは、主人公である残留孤児・陸一心と養父・陸徳志、実父・松本耕次との親子の情愛、恩愛です。これを中心にして、戦争の悲惨さ、文化大革命の実態、中国人の濃い人間関係と足の引っ張り合い、日中国交正常化、中国国内の政争、日中の経済格差、中国人の日本観、日中の不幸な歴史的関係、といったものも描いています。ドラマでは、1960~80年代の貧しい中国の農村の風景や迷信、人々の服装などディテールもしっかり描かれていて、その時代を研究している人々にはおおいに参考になると思います。しかし、中でも今回、私が本書を再読していてとくに強く印象に残ったのが、日中共同の製鉄プロジェクトで日中の技術者が激しく対立する場面でした。

日本側が輸出したアンカーボルトのコンテナを中国側が開けてチェックし、「アンカーボルトが錆びているじゃないか」と文句をつけるシーンです。日本側は「通常、ボルトは埋め込んでしまうので、多少錆びていても使用できるから大丈夫だ」と説明するのですが、中国側は「信じられない。こちらは貴重な外貨を使っているのだ。こんな製品は絶対に受け入れられない」と突っぱねます。そして、陸一心が「日本人はシミのついたワイシャツを買いますか? ズボンの中に入れてしまうから平気だ、とはいわないでしょう? だから、こういうものは我が国では受け入れられない」と説明するのです。

わかりあえない中国人と日本人を描くシーンに胸がつまる

通常、国際社会では問題にならないようなささいなことについて、平気でイチャモンをつける中国人に唖然とする日本人―。そして、日本側への不信感を募らせ、「バカにされたくない」と思うプライドの高い中国人――。

この対立は、まさに現在の日中の関係悪化にもつながる、日本人と中国人の根本的な「考え方の違い」を現わしていて、深く考えさせられました。当時の中国では「国家」や「党」が表に出てプロジェクトを推し進めているのに対し、日本側は一民間企業(この小説のモデルとなっているのは新日鉄)が、プロジェクトを背負わされ、多くの技術者が、言葉もよくわからない中国で事業に取り組まなければならない。日中国交正常化後、初の大型プロジェクトとして鳴り物入りで始まった事業ですが、当時の日本人関係者が慣れない中国でいかに苦労したか、その一端が山崎豊子さんの綿密な取材で明らかになっています。現在、中国に住み、中国人と丁々発止でビジネスをしなければいけない14万人の在留邦人にとっても、参考になるところが大きいのではないかと思います。

中国を美しく書いてくれなくてもいい

小説の後日談である『「大地の子」と私』の中で、なぜ山崎さんがこの小説を書いたのか、執筆のきっかけや秘話も紹介しています。中国の招待で1983年、84年と続けて訪問され、そのとき、北京の出版社の方から「宋慶齢について書いてくれませんか?」と依頼されました。宋慶齢は孫文の妻となった女性、有名な宋家の3姉妹の二女です。ですが、山崎さんは「私にはとても中国人は書けません」と辞退します。すると、「あなたは『二つの祖国』でアメリカを書いたじゃないですか? アメリカを書けて、中国は書けないんですか?」といわれ、そこで「二つの祖国」で日系アメリカ人を書いたことを思い出し、「中国には戦争孤児がいた。これなら書けるかもしれないとひらめいた」といいます。

しかし、取材には長い年月がかかりました。1984年に取材を始めましたが、中国の取材は役所の厚い壁に阻まれて遅々として進まず、困りぬいた山崎さんは一旦あきらめようとします。そんなとき、救いの手を差し伸べてくれたのが当時の中国共産党・胡耀邦総書記でした。会見に先立って「1人の中国人と、1人の日本人として語ろう」というひと言が伝えられたといいます。当時、中国の常識では最高指導者が外国の一作家と会うことなど、考えられないことだったとか。山崎さんはホテルで3日間待機させられ、ついに会見が実現しました。このときの2人の会話のうち、象徴的な場面が、同著の中に収録されています。

”’山崎さん:「小説はスローガンではありません。私は中日友好のために小説を書くと報道されていますが、最初からそれを前提にして書くことはできません。書いたものが結果的に中日友好のためになればと思っています」

胡耀邦総書記:「中国を美しく書いてくれなくてもよい。中国の欠点も、暗い影も書いてくれて結構。ただし、それが真実であるならば」”’

山崎さんの胸に「それが真実であるならば」が重くのしかかってきましたが、胡耀邦総書記との会談のあと、普通では考えられない未開放地区の農村のホームステイなどの許可も下り、東北地方、新疆ウイグル自治区、延安、西安、内蒙古などの取材を行うことができたと書いています。胡耀邦総書記の支援がなかったら、おそらく『大地の子』が日の目を見ることはなかったでしょう。

失脚した胡耀邦氏のお墓に参る

このようにして、ようやく大作『大地の子』は完成しました。しかし、完成を目前にした1989年4月、胡耀邦氏は亡くなってしまいます。天安門事件の2カ月前でした。胡耀邦氏といえば、政治改革に取り組んで保守派の批判にさらされて失脚した人物。民主化を叫ぶ大学生にも理解を示していました。胡氏への学生たちによる追悼デモが天安門事件の引き金になったといわれています。

山崎さんは葬儀の日、北京にいました。中央電視台で放送された葬儀の中継を見たあと、矢もたてもたまらず、自宅を訪問します。古びた質素な四合院、それが胡耀邦氏の私邸でした。警備員との問答の末、ようやく門を開けてもらい、中で李昭夫人と涙の対面を果たします。そして、後日、最終回を書き終えた山崎さんは江西省の共青城(共産主義青年団の町)にあるお墓を訪れ、出来上がった著書を墓前に供えたそうです。

『大地の子』は限りなくノンフィクションに近い小説だといわれており、小説の中に出てくる中国の指導者の名前も、「トウ平化」「趙思央」「夏国鋒」「江卓民」など、明らかに本名が誰かわかる人物も登場します。また、主人公・陸一心のモデルとなる残留孤児がいるわけではありません。山崎さんが取材した何人かの孤児のエピソードをつないで構成しているそうですが、残留孤児の中で、高校以上に進学した人はわずかしかいなかったとか。ほとんどが農村で労働力のひとりとして働き、中には自分の名前くらいしか書けなかった人も多かったそうです。山崎さんは「残留孤児」という言葉は決して使いませんでした。本書によると、「残留」という言葉には「自分の意思で残った」ニュアンスがあるからだそうです。

山崎さんは1924年(大正13年)生まれ。戦時中は学徒動員のために軍需工場で砲弾磨きをしたそうです。戦争の不条理や悲惨さを身をもって経験した最後の世代。私は先日来、山崎さんの本を読み返しながら、「ああ、山崎さんがあと20年若かったら、また中国のリアルな小説を書いてくれないだろうか」と思ったばかりでした。今の厳しい日中関係を、どのような目で見つめていたのでしょうか。

─────────────────────────

🔵日系米移民・南米移民問題

─────────────────────────

移民船
戦時の在米日系移民の収容所
日系米移民の部隊

◆◆ハワイ「元年者」の足跡 明治元年に海を渡った人々 日系移民150年

朝日新聞18.06.06

(石井仙太郎の子孫、クウイポ・カナカオレさん。家の近くには石井が働いた製糖工場の跡が残る=マウイ島ハナ、宮地ゆう撮影)

(石井仙太郎と妻のカヘレ=クウイポ・カナカオレさん提供)

(デービッド・イマナカさん(右)とクリスティーナ・タマルさん)

 米ハワイに日本人が初めて移民して今年で150年になる。明治元年(1868年)に海を渡った人々は「元年者(がんねんもの)」と呼ばれた。ハワイの日系人社会の礎となった彼らは、どんな人たちだったのか。(ハナ〈米ハワイ州マウイ島〉=宮地ゆう)

 ホノルル市内の高層マンションに見下ろされるようにマキキ墓地がある。日本式の墓石やキリスト教の墓を縫って歩いていくと、縦長の古い石碑があった。

 「明治元年渡航者之碑」

 1927年建立。「在留日本人有志」と刻まれている。埋め込まれた銅板には英語と日本語で、初めて日本からハワイに移民した「元年者」について書いてある。「現存者は石井仙太郎翁(九十四歳)、棚川半造翁(八十九歳)の二名に過ぎない」

 石井仙太郎は元年者の中で最も長生きしたと言われ、36年、103歳で亡くなった。子孫が今もマウイ島に暮らしていた。

◆違法出国、マウイ島へ

 マウイ島の東の突端にあるハナは緑が深く、色鮮やかな花やヤシの木が密生している。その中に、黒ずんだれんが造りの高い煙突と壁が残っていた。

 「あれがセンタローが働いていた製糖工場ですよ」

 クウイポ・カナカオレさん(76)が指さした。

 1868年、30代半ばだった石井仙太郎は、岡山からハワイへ渡ってきた。

 ハワイ日本文化センターなどによると、約150人の一行はほとんどが男性だった。移民募集時にあった江戸幕府は、横浜を出発する時にはなくなっていた。明治政府が渡航許可を取り消し、元年者たちは違法出国になってしまった。一行は約1カ月かけてオアフ島に到着。石井はさらにマウイ島へ移った。

 ひ孫にあたるカナカオレさんは、石井が働き暮らした場所のすぐ近くに住む。「センタローの娘だった祖母は、海を渡ってきたサムライのひいおじいちゃんの話をよくしてくれました」

 石井はサトウキビ畑で働き始めた。このころはフィリピン、中国、ポルトガル、スペインなどからの移民が共に働いていたが、人種によって賃金が違い、日本人はフィリピン人に次いで低かった。多くは農業に不慣れで、思い描いた生活とはかけ離れていると感じた。帰国者が相次ぎ、最終的に残ったのは50人ほどだったという。「どんな生活が待っているかわからずに来て、言葉も通じない所で生きていくのは大変な勇気だったと思う」

 残った元年者は、日本とのつながりや習慣を持ち続けた後の世代とは違い、現地に溶け込むのに懸命だった。「センタローは言葉を覚えるのが早く、適応力もあった。厳格で、心身共に強い人だったようです」とカナカオレさんは話す。

 石井は、近くの農家で働く先住民のハワイアンの女性がロバの背に荷物を載せるのを手伝ううち親しくなり、結婚。子をもうけ、農場で鶏や豚を飼った。今は、暮らした家の近くの海を見下ろす小さな墓地に、夫婦で並んで眠っている。

 カナカオレさんの先祖には石井のほかハワイアン、アイルランド人、スウェーデン人やネイティブアメリカンもいる。「あなたは国連のような存在ね、と祖母は誇らしげでした」。自分のルーツをたどりたくて、移民の記録を図書館で探したこともある。「いつか岡山に親戚が見つかったら、どんなにすてきでしょう」

◆日系人13%、「ローカル」と呼ぶ人も

 ハワイの日系人社会は時代とともに変化した。

 3世のジェーン・クラハラさん(87)は「日系人というより米国人として育てられてきた」と振り返る。1941年12月、日米開戦時の真珠湾攻撃はそんな日系人を複雑な立場に追いやった。「父親は米国の検閲官として働き始め、いとこ2人は(日系人で構成された)442部隊に入った。みな米国人としての忠誠を見せようとしていた」

 ハワイ大のクリスティン・ヤノ教授(人類学)は「442部隊などの活躍は、戦後のハワイの日系人の地位を大きく変えた。復員して教育を受けた日系人も多く、政治経済の要職を日系人が占めるようになった」と話す。現在、ハワイ州知事、上下院議員にも日系人がいる。

 国勢調査によると、米国全体で日系人は約0・2%なのに対し、ハワイ州では約13%を占める。

 一方、ヤノ教授は「昔から移民の間には差別や摩擦があった。先住民のネイティブハワイアンが常に支配されてきた歴史も忘れるべきではない」と指摘する。

 独特のアイデンティティーも生まれている。

 「自分はローカル」というのは、4世のデービッド・イマナカさん(28)=写真右=だ。高校の同級生で3世のクリスティーナ・タマルさん(27)=同左=も「日本や米国本土に住んでみて、日本人とも本土の米国人とも違うことに気付いた」。

 ハワイは二つ以上の人種をルーツに持つ人の割合が約24%と高く、「多様な人種が共存する島」とも言われる。「ローカル」という言葉が、ハワイの複雑な移民史を象徴している。

◆キーワード

 <ハワイの日系移民> サトウキビ畑の労働者不足を補うため、ハワイ王国が移民の手配を要請。募集に応じた約150人が1868年、日本からハワイへ渡った。その後しばらく途絶えたが85年に再開。98年、米国のハワイ併合を経て、米政府がアジアからの移民を事実上禁じた1924年まで、日本から20万人以上がハワイに移民したと言われる。中には、ハワイに渡った男性と写真だけで見合い結婚をした約2万人の「ピクチャーブライド(写真花嫁)」も含まれている。

◆◆(世界発2015)負の歴史残し教訓に 米の日系人強制収容所跡地

 第2次世界大戦中、米国で日系人が強制収容された施設を保存する動きが相次いでいる。戦後まもなくは「負の歴史」として当事者も触れようとしなかった過去だが、近年になって、「当時の教訓を現在に生かすべきだ」という意見が米国でも強まっている。

◆復元・保存、元収容者が動く

 カリフォルニア州のシエラネバダ山脈のふもと、マンザナールの収容所跡地に4月末、数百人が集まった。強制収容された人たちが歴史を語り継ぐ年1回の「巡礼」で、今年が46回目だ。標高1100メートル以上の荒涼とした砂漠地帯は強風で土ぼこりが舞う。跡地の慰霊塔近くに設けられた演台で話が続いた。

 ここで生まれた女性は「母親に当時の話を聞こうとしても、『いいことが何もなかった』としか答えなかった」と打ち明けた。別の収容所を体験した女性は「トイレ、シャワー、洗濯の場所が離れた建物にあり、プライバシーもなかった」と回想した。

 収容者たちが受けた精神的な影響などを研究してきたカリフォルニア州立大サクラメント校のサツキ・イナ名誉教授も、別の収容所で生まれた。この日の基調講演で「私たちは自分たちの歴史を取り返し、一度は沈黙に陥っていた事柄に声を与えている」と語った。

 米国での日本人や日系人の強制収容は、開戦直後の1942年に大統領令で決まった。本土ではマンザナールなどに「移転施設」がつくられ、最大で約12万人が収容された。

 環境は過酷だった。人里離れた場所に鉄条網で囲まれたバラック小屋が並び、兵士が警備に立っていた。移動の自由を奪われた例が多く、戦後は「強制収容所」との呼び名が定着している。

 一方、戦後に解放されると、施設は解体された。残った木材なども周辺の農家らが利用し、痕跡はほとんどなくなった。日系人の多くは米国との「同化」を目指し、強制収容の話題を避けた。

 状況を変えたのは、元収容者たちの動きだ。強制収容への補償運動が盛り上がった80年代から、マンザナールの元収容者らは保存や復元に向けて州や連邦政府に働きかけた。92年には国定史跡に指定され、国立公園局の管理下に入った。

 2004年には強制収容の歴史を伝えるビジターセンターが開館。今年からは再現されたバラック小屋の中で当時の生活ぶりを伝える展示が始まった。収容者らが造っていた日本風庭園の発掘・再現も進む。現在は年に約8万人が訪れる。

 マンザナール国定史跡で歴史解釈を担当するアリサ・リンチさんによると、最近の訪問者には、収容所と直接かかわりがなく、歴史を詳しく知らない人も増えているという。「他の場所でも公民権運動の時の暴行やテロ事件など、暗い歴史の現場を史跡として残し、教訓とする傾向が強くなっている。マンザナールもその一つだ」と指摘する。

◆大統領「過ち繰り返さない」

 触発されるように他の場所でも保存や復元の動きが出てきた。アイダホ州ミニドカの施設跡地は01年に国立公園局の管理下に置かれ、08年には国定史跡となった。バラックや鉄条網の再現が進み、ビジターセンターも計画されている。

 収容中に米国への忠誠を誓うことを拒んだ人たちが集められたカリフォルニア州ツーリレークも、08年に国立公園局の管理下に入った。現在は敷地や残された刑務所などを限定的に公開しているが、将来のあり方を同局が検討している。

 連邦政府が関与しない動きも各地にある。ワイオミング州ハートマウンテンやユタ州トパーズでは地元の人や元収容者たちが協力して見学者施設を建設。アーカンソー州ローワーでは墓地の保存を地元の大学が進め、やはり施設があった同州ジェロームとの中間の町に記念館もオープンした。

 米本土と比べ、あまり知られてこなかったハワイの強制収容にも焦点が当たり始めた。

 オバマ大統領は今年2月、ハワイ州のホノウリウリ収容所跡地を国定史跡に指定すると発表。4千人以上の日系米国人や戦争捕虜が収容された場所で、オバマ氏は「過去の過ちを繰り返さないよう、我々の歴史の痛ましい部分を思い起こす史跡になる」と語った。

 マンザナールで強制収容を経験し、史跡として残す運動の中心を担ったスー・クニトミ・エンブリーさん(故人)の息子、ブルース・エンブリーさん(57)は「施設をつくって終わり、では決してない。日系人は強制収容で財産や権利を失ったが、戦後に自分たちで主張し、取り返した。その力強い物語こそ、多くの人に知って欲しい」という。

◆周辺の開発めぐり摩擦も

 跡地保存が進み、「当時の状況をどう残すか」を巡って問題も起きている。

 マンザナールの近くでは、ロサンゼルスに電気を供給するための大規模な太陽光発電基地が計画されてきた。しかし、元収容者らは「いかに人里から離れ、隔離された場所か、伝えることが困難になる」などと反対し、国立公園局も「ふさわしくない」と表明。今年4月になって、計画は再検討されることになった。

 ツーリレークでは、跡地の一部が農業用空港になっている。動物などが入らないように周囲に柵を建てることが計画されているが、「巡礼」の実行委員会などは「歴史的に重要な場所を傷つけることになる」と反対。地元住民との対立につながる懸念もある。

 4月には、収容者たちが戦中に作った美術品を入手した個人が、競売にかけようとした事例も起きた。日系人らから「我々の歴史から収入を得ようとするのか」と抗議が起き、撤回された。

 (マンザナール=中井大助)

◆キーワード

 <日系人の強制収容> 1941年12月の真珠湾攻撃で日米が開戦後、米政府が「スパイ活動の防止」などを理由に米西海岸などに住んでいた日本人・日系人を対象に行った。42年2月の大統領令が根拠。米本土では、最大で約12万人が、7州10カ所に設けられた収容所での生活を強要された。戦後に補償を求める運動が起き、88年に成立した法律で米政府は強制収容を謝罪。収容者1人あたり2万ドルの補償金を支払った。

◆◆(書評)『アメリカの汚名 第二次世界大戦下の日系人強制収容所』 リチャード・リーヴス〈著〉

201824日朝日新聞

『アメリカの汚名 第二次世界大戦下の日系人強制収容所』

 憎悪のあらゆる構図を追跡調査

 1941年12月、日本軍の真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争が始まった。このときからアメリカ国内(とくに西海岸)に住む日系アメリカ人はどのような状況に置かれたか、その詳細なリポートがアメリカ人ジャーナリストによってまとめられた。「一二万人以上の日系アメリカ人が自宅から追い立てられ、第二次世界大戦のあいだ中、国内一〇カ所の『転住センター』といくつかの刑務所に抑留」されたのである。

 転住センターとはいえ砂漠に建てられたその収容所は、まさにジャップと謗(そし)られる敵国人のゲットーであった。ここには財産をすべて奪われた日系アメリカ人が集められ、世代による意識の違い、所内の協力者へのリンチ、さらには巡視のアメリカ軍兵士からの侮辱と、それこそ憎悪のあらゆる構図がある。著者はこの収容所をアメリカ近代史の汚点とみるだけでなく、戦時下の人間心理の歪(ひず)みを問題にする。

 ルーズベルト大統領によって出された命令(42年2月)。それに先立ち、コラムニストのリップマンの「外と内からの攻撃」という一文はワシントン・ポストにも掲載され、「日本人の血を引く全員」を「戦略的地域から即刻一斉退去」させる方針が、国会議員らによって確認される。アメリカ国民の真珠湾攻撃への怒りは、日系アメリカ人に向けての暴力と化す。収容所内でも、日本軍の攻撃を讃(たた)える1世とアメリカに忠誠を誓う2世との間には、この状態をどう受けいれるかの対立があった。

 著者は、日系2世を含む第100歩兵大隊(第442連隊と合体)の欧州戦線でのバンザイ攻撃や2世語学兵の戦い、2世兵士の個々の体験を追跡調査している。戦後、アメリカ国内で日系2世兵を見る視線の変化についてもふれている。第2次世界大戦の裏側にひそむそれぞれの国の「戦争犯罪」の総括を本書は教えている。著者の執筆の姿勢に学ぶべき点は多い。

 評・保阪正康(ノンフィクション作家)

     *

 『アメリカの汚名 第二次世界大戦下の日系人強制収容所』 リチャード・リーヴス〈著〉 園部哲訳 白水社 3780円

     *

 Richard Reeves 36年生まれ。ジャーナリスト、コラムニスト。ニューヨーク・タイムズ政治部長などを歴任。

◆◆難民拒絶で再び注目される、日系人強制収容施設の歴史

Huffpost

20151122 

堀潤 ジャーナリスト/NPO法人8bitNews代表

◆米国内で広がる「シリア難民拒否」の声

パリで発生した同時多発テロを受け、米国ではシリア難民の受け入れを拒否するべきだという世論が一気に高まった。

テロ発生前からシリア難民の受け入れ拡大を表明していたオバマ大統領は16日、「難民の受け入れを拒否することは我々の最も深いところに根ざした価値を裏切ることになる」と語り、シリア難民の受け入れ拡大をあらためて表明した。ところが、野党共和党の議員達はオバマ氏の姿勢に反発。大統領選出馬を表明している共和党のテッド・クルーズ上院議員をはじめ多くの議員が「市民をテロの脅威から守るためには受け入れは拒否するべきだ」とオバマ大統領を強く非難。「シリア難民受け入れ停止法案」が議会に提出され下院で可決された。ニューヨークタイムズ紙の調べによると、全米50の州のうち26の州知事がシリア難民の受け入れに反対する姿勢を示し、対立は強まっている。

そうした中、ワシントン州のインズリー知事は18日、シリア難民の受け入れは必要な措置だとした上で、第二次世界大戦中の日系人強制収容政策の過ちを繰り返してはならないと訴えた。一方で、バージニア州ロアノーク市のバウアーズ市長は当時の日系米国人と同様、シリア難民の受け入れは米国にとって脅威だと発言し、批判を浴びた。バウアーズ市長は20日、当時の日系米国人がテロリストと受け取られかねない発言だったと陳謝した。

◆いま注目される、差別と迫害の象徴「日系人強制収容施設」

いま再び注目を集める日系人強制収容施設。米国人たちは戦後この問題とどう向き合ってきたのか。カリフォルニア州に現存する当時の収容所跡地「マンザナー」を訪ねた。

ロサンゼルス市街から北におよそ200キロ。砂漠を抜け、青い空を突き刺すように切り立った岩肌むき出しの山々にかこまれた谷間の地に施設は建設された。

194112月、日本軍によるハワイ真珠湾攻撃ではじまった太平洋戦争。日米開戦を受け、直ちに全米10箇所に強制収容施設がつくられ、敵国にルーツを持つ11万人以上の日系米国人たちが大人から子どもまで男女を問わず住まいを追われここに集められた。マンザナー強制収容所にはロサンゼルスなどから1万人以上が収容され、戦争が終わるまでの間、差別と偏見にさらされながらここでの生活を強いられた。戦後、10箇所の収容所の多くが解体されたが、マンザナーは国定公園に指定され、収容所内にあった建物の一部が戦争資料館として今も当時のまま保存されている。

資料館に入ると、おかっぱ頭の黒い目をした少女が憂鬱な顔でこちらをみつめる大きな白黒写真が掲げられていた。奥に進むと写真やパネル、当時の生活を伝える服や日用品など、現物の展示が並ぶ。メインゲートのパネルには「なぜ、私たちは差別をしたのか?」というタイトルが記され、当時、米国人がどのような言葉や態度で日系人を差別し、蔑んできたか、当時の時代背景と共に解説が続く。「ここは白人の地域だ、JAP(ジャップ:日本人の蔑称)は出て行け」という大きなパネル写真には「こうした差別は間違っていた」という説明が添えられ、謝罪やもう二度と繰り返してはならないという決意のメッセージがそこに込められていた。

館内を撮影していると、子どもを連れた男性が入館してきた。男性は57歳、父親は空軍のパイロットとして第二次世界大戦を戦った。機会があれば近所の子どもを連れて度々ここを見学しているという。「子どもたちに事実を教え、よりよい未来をつくってもらいたい。敗戦から這い上がって成長した日本人に敬意を感じている」と語った。その後もこの男性と同じように子どもを連れて熱心に展示を解説して回る白人たちの姿が後を絶たなかった。

この施設では収容された人たちの名前や年齢、出身地などを全てデータベース化して公開している。職員に照会を頼めば親身になって家族や友人の名前がないか一緒に探してくれるのだ。私がいる間も、初老の日系人の女性が施設を訪れ、職員と顔をつきあわせながらパソコンの端末を覗き込んでいた。家族の名前を探しにここを訪ねたという。「死んでしまった自分の家族の名前を探しに来たの。どんな思いで生き抜いたのか、少しでも想像したかったから」。

過ちを繰り返すことがないよう人々の記憶の風化を防ぐ取り組みが陸の孤島で続いてきた。敗戦からの復興を成し遂げた日本への敬意を抱き、差別と迫害の歴史と向き合いかつての敵国との友好関係を築いてきたことに誇りを持つアメリカ市民がいる。今回のパリ同時多発テロを受け、アメリカ国民がシリア難民とどう向き合うのか。70年の取り組みの真価がいま問われている。

◆◆日系人女性ら、差別と絆と 強制収容所を描く「マンザナ、わが町」

2015101

「役に思い入れがあるんです」と熊谷真実。マンザナ強制収容所を模したセットがある稽古場=東京都墨田区

 劇団こまつ座が3日から、戦時中の日系アメリカ人強制収容所の女性5人を描いた「マンザナ、わが町」(井上ひさし作、鵜山仁演出)を東京・新宿の紀伊国屋ホールで上演する。農業移民だった夫を病で失い、日本に帰した3人の子どものために米国で浪曲師として働くオトメ天津(あまつ)の役を熊谷真実が演じる。

 1942年、米カリフォルニア州のマンザナ強制収容所。浪曲師、ジャーナリスト、奇術師、歌手、映画女優の5人が、収容所を美化した朗読劇「マンザナ、わが町」を所長から上演するように言われ、内容を巡って互いにやり合う。しかし、日系人の差別や人生を語りあううちに、絆は深まる。

 熊谷は、オトメを「現実的で直情径行型、情があって正直者。私に似ているところもあり、すっと入りやすい」と言う。浪曲師の役だけに、師匠に習い、浪曲寄席や独演会にも足を運び、「苦労しています。浪曲漬けですよ」。

 「藪原検校」「頭痛肩こり樋口一葉」などの井上作品に出演してきた熊谷。「台本を読んですごいと思ったのは日系人の『差別』という言葉を使わずに、事柄を連ねて問題を浮き彫りにしている。差別された日系人という被害者の立場ではなく、いかに生きたかに焦点をあてているのでそのように演じたい」と話す。

 オトメが「苦労したね、あんたも」と、ジャーナリストのソフィアに言うセリフがある。「その言葉にオトメの苦労や生き方を出せたらいいな」

 土居裕子、伊勢佳世、笹本玲奈、吉沢梨絵出演。25日まで、7千円。午後6時半からの夜公演は6500円。03・3862・5941(こまつ座)。

 (山根由起子)

◆◆朝日新聞連載・日系米国人の70年(全15回)

朝日新聞2015.9.9-10.02

◆◆(1)オバマの恩師

朝日新聞2015.9.9

ハワイの教師、エリック・クスノキ

 その日、ホノルルから来た教師のエリック・クスノキ(66)は、ポロシャツに半ズボン、スニーカーという格好だった。数年前のことだ。ごく普通の観光客としてホワイトハウスを見学する予定だったのだから、無理もない。

 保安検査を受けると、なぜか自分たちだけ奥の部屋に連れて行かれた。15秒後、現れたのは米大統領バラク・オバマその人だった。一緒にいた妻と娘は泣き出した。

 「クス先生、お元気でしたか。故郷のみんなは、どうしてますか」

 「ミスター・プレジデント(大統領閣下)」。とっさに答えながら、クスノキは理解した。そうか、バリーは今も、ハワイを自分のふるさとだと考えているんだな。

 日系3世の米国人であるクスノキが初めてオバマと会ったのは、40年前の9月だった。ハワイの名門私立校プナホウの教師になって1年、珍しい名の14歳をホームルームの担任として受け持った。日系人が多い土地柄だから、最初は「オバマ」を「オハマ」の間違いではないかと思っていた。

 顔を合わせてみると、父はケニア生まれ、母は白人だという。出席を取る際、名のバラクをうまく発音できずにいたら、「バリーと呼んで下さい」と彼は言った。

 自分だって姓を名乗ると、ロシア出身のクスノスキーさんですか、などと間違われることがある。他の人と違っていても何の問題もない、と彼に話した。

 バリーは、相手が何かを言うのを待ってから話す少年だった。出しゃばらず、決して攻撃的には振る舞わない。目の前の大統領は年を重ねてはいたが、同じ人だった。

 日系人である自分が、彼にどんな影響を与えたのか、はっきりとは分からない。しかし、もし彼が別の土地で育っていたら、今のような大統領には決してならなかっただろう。そうクスノキは確信している。=敬称略

 (ホノルル=真鍋弘樹)

 もし私たちが異国で生まれ育ったとしたら。そんな空想を現実のものとして生きる人々が、海外に移民した日本人たちだ。なかでも日系米国人たちは、あの大戦で日本を敵国として戦った国で生を営んできた。そこにある、私たちが体験し得なかった「もう一つの戦後」の歩みをたどる。

◆◆(2)ハワイ社会とカヌー

2015910

第2次世界大戦当時のホノウリウリ強制収容所(ハワイ日本文化センター提供)

 10代の頃のオバマの担任教諭だった日系3世のエリック・クスノキは、戦後まもなく、ハワイのワイキキで生まれた。

 現在のような高層ホテルは、まだ立ち並んでいなかった。海岸を裸足で走り、野生のマンゴーをもぎ、時々サーフィンをして、一日中遊んでいた記憶が残っている。

 日本からハワイへの大規模な移民が始まったのは1885年のことだ。労働力不足からハワイ王国が日本政府に申し入れた。米国併合後の1924年には日本からの移民が禁じられたが、それでも戦前にはハワイ人口の4割近くを占めるまでになった。

 クスノキの祖父母は戦前に広島と熊本からハワイに移住し、プランテーションに住み込んだという。母方の祖父がホテルで働くようになり、その後、小さな食堂を開いた。アメリカンフードとハワイの伝統料理を混ぜたような料理で、加えて白飯が供され、テーブルにはしょうゆも並んでいた。

 その食堂のメニューが象徴しているように、ハワイは20世紀を通じて、多文化、多民族の島として発展してきた。ハワイ先住民や白人に加え、日系人もその一員となる。ハワイ社会では、誰もがマイノリティー、少数派だと言われる。

 自分は何者だと思うか。そうクスノキに問うと、こんな答えが返ってきた。

 「ハワイで生まれ育ち、ジャパニーズであり、米国市民であり。そのすべてが私のアイデンティティーです。同様に、この島では生徒だって、すべての子がみんな違う。そして、すべての子がそれぞれの贈り物を持っているんです」

 祖父母らは幼いクスノキに、こう語っていたという。私たちは一隻のカヌーに乗っているようなもの、力を合わせないと沈んでしまうんだよ、と。今や地球こそが「一隻のカヌー」だということを、オバマ大統領も分かっているはずだと恩師は思う。

 だが、そんな多様性の島ハワイも、日系人たちが敵視され迫害された歴史を持つ。74年前の12月、日本軍の真珠湾奇襲攻撃をきっかけにして日系人コミュニティーへの監視が強まり、一部の指導者たちが強制収容所に連行されていった。

 今年2月、ホノルル近郊にある強制収容所の跡地を国定史跡にすると発表したのはクスノキのかつての教え子、オバマだった。=敬称略(ホノルル=真鍋弘樹)

◆◆(3)再発見された収容所

2015911

ホノウリウリ強制収容所の図面を示す林達巳=ホノルルのハワイ日本文化センター

 日系人の間で、そこは「地獄谷」と日本語で呼ばれていたという。足を踏み入れた時、背丈ほどもあるイネ科の植物が生い茂り、葉先が目に突き刺さりそうだったのを林達巳(80)は覚えている。

 オアフ島のホノウリウリと呼ばれる場所に戦時中、日系人強制収容所があったと記録にある。だが戦後は正確な場所さえ忘れ去られ、ハワイに強制収容の歴史があったことを知らぬ日系人も少なくなかった。

 元日本航空ホノルル支店長で、退職後もハワイで生活している林は、日系人団体のハワイ日本文化センターでボランティアとして活動をするうちに収容所を探し出そうと思い立つ。2002年4月。他のメンバー、写真家、GPS測量の専門家らと一緒に、近くの農家の記憶を頼りにして、ホノルル中心部から車で40分ほどの荒れ果てた土地を探し歩いた。

 そこは周囲から孤絶した、外部から決して目が届かない谷底だった。ふと振り返ると、数少ない当時の写真に写っていたコンクリートのU字溝が目の前にある。

 肌があわ立った。

 周囲にトマトが野生化して実っていた。当時、収容所で栽培されていたのだろう。

 「地獄谷への収容は、できれば忘れたい経験だったのでしょう。再発見されるには年月が必要だったのだと思います」

 米本土と違い、日系人が当時の人口の4割近くを占めたハワイでは、強制収容所に連行されたのは日本語学校の教師や僧侶ら少数の日系社会の指導者たちだけだった。そのためか経験者の口は重く、どこにあったかさえ語り継がれてこなかったのだ。

 ホノウリウリ収容所跡地を国定史跡とすることを今年2月に発表した米大統領オバマは、その理由に「人種偏見、戦時ヒステリー、政治指導者の失敗」という負の教訓を挙げている。日本文化センター会長のキャロル・ハヤシノ(61)は、こう語る。

 「ハワイの日系人に何が起きたのか、史跡となることで人々が記憶にとどめることができる。日系人だけでなく、すべての米国人にとって重要な教訓がここにある」

 ハヤシノはカリフォルニア出身で、両親や祖父母が米本土の強制収容所に入った経験を持つ。ホノウリウリに送られたハワイの日系人たちの多くも、その後、米本土へと移送された。=敬称略(ホノルル=真鍋弘樹)

◆◆(4)新天地での差別

2015.09.14 

 ロサンゼルスから北に約350キロ離れたカリフォルニア州マンザナールは、標高1100メートルの荒涼とした砂漠地帯の中にある。ここに第2次世界大戦中、1万人以上の日系人が強制収容された。

 現在は国定史跡となり、再現されたバラックの中には当時の生活の様子や強制収容に至った道を学ぶ展示も用意されている。そこに記録されているのは、長い差別と、それに負けなかった人たちの歴史だ。

 カリフォルニア州の日系人史は1941年の日米開戦から70年以上、さかのぼる。明治政府ができた翌年の1869年、マンザナールから北西に300キロの、同州プラサビルに到着した集団移民が始まりだ。19世紀半ばのゴールドラッシュで栄えた地域に、戊辰戦争で敗れた会津藩から出発した一行が入植し、養蚕と茶の栽培を目指す「若松コロニー」を築いた。

 コロニーはすぐに行き詰まり、入植者たちも離散したが、この地で19歳の生涯を閉じた少女「おけい」の墓は残り、日系人にとっては象徴的な場所となる。入植100年を記念して建てられた碑には「カリフォルニアの農業への、日本人の影響がここから始まった」と記されている。

 新天地を求めて太平洋を渡る人は続き、1910年までには数万人になった。だが、移民たちは白人中心の米社会から冷たい扱いを受けた。

 13年にはカリフォルニア州が土地所有を米国籍者に限る法律を制定した。当時は「黄色人種」の移民が米国籍を得ることは原則として認められず、日系人たちもその道を閉ざされた。米国に20年以上住んだ男性が国籍を求める訴訟も起こしたが、米最高裁は22年の判決で「日本人は白人ではない」と認めなかった。

 米国は「出生地主義」を取る。米国で生まれた2世は国籍を得たが、偏見の目は日系移民全体に向いた。カリフォルニア州の要人は24年、米議会でこう証言した。

 「(移民のうち)日本人がもっとも同化せず、この国に対する危険をはらむ」「彼らが米国に来るのは、植民地を設け、誇り高き大和民族の永久の拠点を作るためだ。彼らはずっと、日本人のままなのだ」

 同じ年、日本からの移民を実質的に禁じる法律が成立したが、それでも差別は残り続ける。日本と米国の戦争が始まると、それはすぐに姿を現した。(プラサビル=中井大助)

 「おけい」の墓に花を手向けるボランティア=米カリフォルニア州プラサビル

◆◆(5)開戦と強制収容

2015915

強制収容の記憶を話すジョージ・タケイ=米ニューヨーク

 日系人俳優のジョージ・タケイ(78)は、5歳になったばかりの、あの朝の光景を今でも鮮明に思い起こすことができる。

 「早く起こされて弟と一緒に窓の外を見ていたら、銃を持った2人の兵士が歩いて来たんです。玄関をたたき、父親が応じると、家から出て行くように言われました」。一家は手で運べる分だけの荷物を持ち、ロサンゼルスの自宅を離れなければならなかった。

 1941年12月に日米が開戦し、米国では「日本に協力するのではないか」と日系人を疑う声が高まっていた。ロサンゼルス市長は「米国で生まれながら、天皇への秘密の忠誠がある」と述べ、新聞にも「日系人をすぐに太平洋沿岸から排除すべきだ」という主張が掲載された。42年2月にはルーズベルト大統領が「国防」を理由に、指定された地域から住民を立ち退かせる権限を軍に与える大統領令に署名。これが、西海岸に住んでいた約12万人の日系人を無理やり移住させる根拠に使われた。

 自宅を追われたタケイ家は、ロサンゼルス郊外の競馬場にできた仮設住宅で数カ月過ごした後、父親から「田舎での長いバケーションに出かける」と伝えられる。3日間鉄道に揺られて着いた先は東に2500キロ以上離れた、アーカンソー州ローワー。そこには米政府が日系人を住まわせるため、全米に計10カ所設けた「リロケーション(移住)センター」の一つがあった。実態は鉄条網で囲まれ、見張り棟から兵士が目を光らせる強制収容施設だった。

 戦後、人気SFシリーズ「スタートレック」に出演したタケイは共演者たちと話して驚いた。米国の東海岸で育った人は、日系人が強制収容された歴史をほとんど知らないのだ。「憲法があるじゃないかと答える人が多い。でも、憲法があっても私たちの人権が踏みにじられたのです」

 今秋、自らの経験を題材にしたミュージカル「アリージアンス」でニューヨークのブロードウェーに立つ。「米国史の忘れられたページ」を一人でも多くの人に伝えたいとの思いからだ。

 「忠誠」という意味のタイトルに深く関わる出来事がミュージカルには登場する。43年、米国は収容者らにある質問を突きつけた。それがタケイ家に重大な結果をもたらし、戦後の日系人社会にも深い分断を生んだ。=敬称略(ニューヨーク=中井大助)

◆◆(6)問われた忠誠

2015916

ツーリレーク強制収容所について語るビル・ニシムラ=米ロサンゼルス郊外

 1942年に米ロサンゼルスの自宅から退去させられ、アーカンソー州ローワーの施設に強制収容された日系人俳優のジョージ・タケイ(78)はある夜、両親が深刻に話し合っている場面を目撃する。その頃、多くの日系人が同様に悩んでいた。

 強制収容の理由を後付けするように、米政府は43年、収容者たちに複数の質問をする。その中に、こんな2問があった。

 「米軍に入って戦う用意があるか」

 「米国に無条件の忠誠を誓って敵から守り、日本の天皇、その他外国政府への忠誠を放棄するか」

 日本で生まれたタケイの父親は米国籍が得られず、「イエス」と答えれば、日本も捨てることになる。米国で生まれた母親は夫と国の間の選択を迫られた。「尊厳の問題だった」とタケイは振り返る。

 両親は「ノー」と答え、一家はカリフォルニア州ツーリレークに移動させられた。米政府が「不忠誠者」とみなした日系人を集めた強制収容施設があった。

 同じくツーリレークに入ったビル・ニシムラ(95)は到着した時、それまで過ごしていたアリゾナ州の収容施設との違いに驚いた。呼び止めた米兵からいきなり腕をつかまれ、地面に投げ出されたのだ。

 米国で生まれ育ち、日本への強い愛着はなかった。しかし質問には強い憤りを覚えた。「米市民として何も悪いことをしていないのに、政府は私の権利を奪って強制収容した。こんな問いに答える必要はない」

 無回答で提出すると、施設所長に呼び出され、「答えはノーか」と聞かれた。「私は知らない。判断の権限はあなたにある」。ツーリレーク行きが決まった。

 そこでニシムラは日本を支持する「奉仕団」に加わる。日の丸のはちまきを頭に巻き、「天皇陛下万歳」と声を上げた。米国籍も放棄した。「米国に裏切られたと思い、政府から言われるがままに行動することが嫌でした」と理由を振り返る。

 もっとも、心が日本に傾いたわけではなく、むしろ米国が掲げる「自由」を追求した結果の選択だった。終戦後も米国にとどまり、弁護士の尽力で国籍も回復できた。

 「強制退去にしない」と伝えられた時、「米国が自分のことを忘れていない」と心から感謝した。だが、戦後長く、その思いを語ることはなかった。=敬称略

◆◆(7)沈黙から継承へ

2015.09.17 

 米国への忠誠を問う質問に答えず、米国が「不忠誠」とみなした日系人を集めたカリフォルニア州ツーリレークの強制収容施設へ送られたビル・ニシムラ(95)は、戦後長く、戦中の経験を口にしなかった。

 強制収容の苦い記憶を乗り越えようと、日系人の多くは戦後、日本とのつながりを断ち、米国への同化を目指した。ニシムラも、ツーリレークにいたことを明かせば「トラブルメーカー」「不忠誠者」と言われ家族にも影響が及ぶことを恐れた。

 しかし時間の経過とともに米国内でのツーリレークへの評価も変わり、「政府によって権利が不当に侵害されたにもかかわらず、自由への信念を貫いた」という見方もされるようになった。元収容者らが施設跡地を訪れる隔年の「巡礼」への参加希望者は増え、米政府も国定史跡に指定した。

 ニシムラにとっても、2000年の巡礼が転機となった。集会で「ここにいる人は、何が本当に起きたのか、教わりに来ている」という言葉を聞き、胸のつかえが取れた。以来、「経験を伝えることが自分の責任」と、依頼があればいつでも話している。

 東京に住む元中学教師の川手晴雄(68)は、ニシムラの体験を聞いた一人だ。06年の巡礼に参加し、ニシムラと同室になった。

 ツーリレークに収容された川手の父・正夫は米国籍を放棄して戦後に日本へ向かい、1996年に亡くなるまで日本で暮らした。

 父の没後、川手は遺品の中から日記を見つける。日本へ向かう時の「再建に貢献することを切望」する思いがつづられ、「日本に米国の自由と民主主義を植えたいと思った」という生前の言葉と重なった。

 しかし、父は日本社会にも違和感を抱いたのか、十分に溶け込めなかった。政治的な活動はせず、遺品の中には、米国へ帰ることを模索した手紙も残っていた。

 川手は今も、戦争で国と個人の関係が一変した父親の人生をたどっている。日本の安保法制をめぐる議論にも思いは重なる。

 「戦争になると、国家が前面に出て個人の権利が侵害されるのは常。第2次世界大戦では日本でも米国でも起きた。日本の国会での論議で、その側面がほとんど登場しなかったのが不安です」=敬称略

(ロサンゼルス=中井大助)

◆◆(8)当たって砕けろ

2015.09.18 

 部隊の行進を思わせるドラムの音に、切なげなウクレレの旋律が重なる。

 この叙情あふれる曲になぜ、「ゴー・フォー・ブローク」、当たって砕けろと訳される勇猛な題名が付けられているのか、聞いた人は不思議に思うだろう。

 作曲、演奏するのは、ハワイ出身の日系4世、ジェイク・シマブクロ(38)。超絶技巧の持ち主として知られ、日本にもファンが多いウクレレ奏者である。

 「誇りと同時に犠牲があった。多くの入り交じった感情を込めて曲を書きました」

 この曲は、第2次世界大戦における日系2世部隊に捧げられたものだ。「ゴー・フォー・ブローク」は、米陸軍第442連隊戦闘部隊の合言葉であり、その字義通り、のちに合流した第100歩兵大隊と共に欧州戦線で捨て身の猛攻を見せる。米陸軍で「史上最強」かつ「最多の戦死傷者」を出した部隊とも言われる。

 日系部隊の歴史は、強制収容所と並び、「敵国の民」として生きることの苛烈(かれつ)さを見せつける。日系人たちが収容所で受けた「忠誠登録」の質問で、「米軍に入って戦う用意があるか」という問いにイエスと答えた2世たちの多くが入隊した。命を賭して米国への忠誠を示すことで戦後の日系人の社会的地位を押し上げ、人種偏見を切り崩す礎となったが、のべ9千人以上の戦死傷者を出している。

 ホノルルには、日系人部隊に所属していた2世たちが集まるクラブハウスがある。シマブクロは少年時代、その近くに住んでいた。冷水機の水を目当てに、毎日のように顔を出す子だった。

 トランプをし、お茶を飲み、まるで自分のおじいちゃんのように退役軍人たちに接していたが、彼らが戦争について話すのを聞いた記憶はない。少なからぬ2世たちが、その後、この世を去った。

 長じて日系人部隊について詳しく学び、シマブクロは思う。自分たちの世代が送っている、この生活こそが、彼らが命をかけて守ろうとしたものだと。息子2人を授かった今だからこそ、それが分かる。

 「彼らのしたことを決して忘れないことが、私たちの世代の責任でしょう。そして、自分も次世代の人生のために何かを残さなければと思うんです」=敬称略

◆◆(9)二つの敵

2015924

元日系人部隊のクラブハウスに展示されている軍服や銃=ホノルル

 ウクレレ奏者のジェイク・シマブクロが少年時代に通った元日系人部隊のクラブハウスは、観光客でにぎわうワイキキから、わずか車で10分ほどの場所に今もある。

 日本の公民館の雰囲気にも似て、飾り気のない部屋に会議用の机が並ぶ。違うのは室内に小銃や軍服、米国の勲章が飾られていることだ。戦場へ赴く日系2世のために母親らが縫った「千人針」もある。

 「戦争が人生を変えました」

 日系人部隊に所属していたことがあるフジオ・マツダ(90)は静かに語り始めた。

 「ハワイで生まれた自分は、法の定める通りに米国市民だと思っていた。だが日本軍の真珠湾攻撃で、米国で生まれただけでは十分ではないと知ったのです」。友人の親が連行され、夜間に家から明かりが漏れたら射撃すると警告された。

 日米開戦時、多くの日系2世は兵役の適齢期だった。マツダと同様、1万人を超す2世の青年が米軍に志願したとされ、多くが第100歩兵大隊、第442連隊に配属されて欧州戦線に向かった。自分たちが米国民であることを身をもって示すために。

 日系人部隊は激戦地ばかりに配置された。仏東北部で独軍に包囲されたテキサス大隊約200人を、その数を上回る戦死者を出して救出したのはよく知られている。

 「2世部隊は消耗品として扱われたが、それは私たちの望みでもあった。自分たちの価値を証明する機会だったのだから」。戦闘で右腕を失い、のちに上院議員となる故ダニエル・イノウエはそう語っている。

 終戦の翌年、当時の米大統領トルーマンは首都ワシントンでの表彰式で日系兵たちを自らたたえた。「君たちは敵だけではなく、偏見とも闘い、それに勝ったのだ」

 生還した2世たちは戦後、退役軍人向けの奨学金を手に高等教育を受け、米国社会で地歩を築いていく。イノウエら政界に進出した2世の多くも日系人部隊出身だ。

 「2世の戦功は戦後、人種で分断された社会の在りようを変えた。その恩恵を得たのは決して日系人だけではなく、移民社会全体でした」とマツダは語る。日系2世たちが流した血は、戦後の米国で、人種間の壁を低めることにつながっていく。

 戦後、マツダは6人の子をもうけた。うち4人が日系人以外と結婚し、今では孫13人、ひ孫3人に恵まれている。=敬称略(ホノルル=真鍋弘樹)

◆◆(10)人間秘密兵器

2015925

タケジロウ・ヒガ=ハワイ州ワイパフのハワイ沖縄センター

 第2次世界大戦の欧州戦線で独軍と戦った日系人部隊とは逆方向に、つまり日本軍を相手とする太平洋戦線に向かった2世たちがいた。彼らはのちにこう呼ばれた。

 「人間秘密兵器」

 ミリタリー・インテリジェンス・サービス(MIS=米陸軍情報部)は、通信傍受や捕虜の尋問を任務とした特殊部隊だ。日本軍の機密などを入手し、「戦争終結を2年早めた」と言われるが、1970年代まで存在すら公にされなかった。要求された能力は日本語に堪能なこと。子どもの頃に一時期日本で過ごし、米国に帰った「キベイ」(帰米)の2世たちが主力となった。

 MISはアジア・太平洋に点在する戦場に送られた。部隊の一員としてビルマ(現ミャンマー)に配属されたテッド・ツキヤマ(94)は言う。「私たちはいわば、日本軍と戦う米軍の『耳』だったのです」

 なかには、自分が育った地に「敵兵」として上陸した者もいた。

 なぜ、親類や友人がいる島に攻め込んでいるのか。ここで自分は人を殺すのか。

 45年4月、水平線上に沖縄本島を目にしたタケジロウ・ヒガ(92)は、上陸艇の甲板で涙を抑えられなかった。

 ハワイで生まれ、両親の故郷沖縄で2歳から16歳まで過ごした。帰米の2年後に日米が開戦し、米軍から声をかけられて、やむなく志願した。ニューギニア、レイテ島を経て向かった沖縄は、地形が分からなくなるほど爆撃で破壊されていた。洞窟を巡り、沖縄方言で住民に投降を呼びかけた。

 ある日、見覚えのある顔の捕虜2人を尋問した。顔をじっと見つめ、「おまえ、同級生の顔を忘れたのか」と言うと、元級友らは「はあっ」と息を吐いて泣き崩れた。「尋問後に殺されると思っていた」と。

 日米両国で育ったがゆえに、国と国が争うはざまに身をさらした日系2世兵士たち。あれから70年、ハワイで暮らしながら、ヒガは自分が経験したことの意味を考え続けている。

 「結果的に、私は最後まで人に向けて銃を撃たずに済んだ。もし10代で米国に戻らずに沖縄に残っていたら、きっと日本側で戦争に巻き込まれていたんでしょう」

 そして、はっきりとした日本語で付け加えた。「人を殺し、モノを壊すだけ。戦争ほど馬鹿らしいことはない」=敬称略

◆◆(11)レーガンの言葉

2015928

ロナルド・レーガンが1945年にカズオ・マスダに贈った感謝の言葉を刻んだ碑=米カリフォルニア州サンタアナ

 終戦から時間がたち、日系人の間から「不当な強制収容に補償を」と求める声が上がるようになった。米政府は1980年に検討のための委員会を立ち上げ、3年後に出た報告書は「謝罪と補償をすべきだ」と結論づけた。

 だが、補償すれば米国の過ちを認めることにもなる。予算も必要だ。なかなか動かない議会を説得するため、「米国政治年鑑」の編集者でワシントンに顔が利いたグラント・ウジフサ(73)にも声がかかった。

 補償を実現させる運動に協力を求められ、ウジフサは最初は「絶対に無理だから、やめてくれ」と思った。「だが公聴会で、泣きながら強制収容について話す2世たちを見て、考えが変わった」。ウジフサはロビー活動に加わる。下院議員のバーニー・フランクが法案を強く推したこともあり、議会通過のめどはたった。

 ただ、高い壁が残っていた。拒否権を持つ大統領のロナルド・レーガンは支出増に反対で、側近も「強制収容は必要だった」との立場。何とか覆す必要があった。

 レーガンの心を動かす、日系人とのつながりがないか。ウジフサが聞いて回ると、一つの案が浮かんだ。

 日系人で構成された米軍第442連隊は、欧州戦線で多数の死者を出し、その中には25歳でイタリアで命を落としたカズオ・マスダがいた。戦後、マスダの姉が強制収容所から地元カリフォルニア州に帰ろうとすると、「安全は保証しない」と地元の白人男性から脅された。

 戦後も残る日系人への差別を抑え込みたかった米軍は45年12月、幹部がカリフォルニアまで赴き、マスダの遺族に勲章を贈る式典を開催する。その後に開かれた集会には映画俳優であり、米軍に所属していたレーガンも招かれていた。

 当時の新聞報道によると、集会でレーガンは「海岸の砂に染みこんだ血はすべて一つの色だ。米国は世界の中で特有だ――人種ではなく、考え方と理念に基づいたただ一つの国だから」と述べ、マスダとその家族に感謝の言葉を向けていた。

 ウジフサは決めた。「人に迫る時は、二者択一にするのが大切。大統領に、『カズオ・マスダに拒否権を行使するのですか』という問いかけにしよう」=敬称略

 (ニューヨーク=中井大助)

◆◆(12)補償の実現

2015929

第442連隊所属の記録が刻まれた、カズオ・マスダの墓石=米カリフォルニア州ウェストミンスター

 日系人の強制収容に対する補償と謝罪を実現させるには、拒否権を持つ大統領ロナルド・レーガンの承認が不可欠だった。補償に否定的な大統領を動かす唯一の手がかりは、レーガンが40年以上前、欧州戦線で亡くなった日系人米兵カズオ・マスダに感謝の言葉を向けたエピソードだ。しかしまず、それを本人が思い出す必要があった。

 1980年代、全米日系市民協会(JACL)で補償の実現に向けたロビー活動をしていたグラント・ウジフサ(73)は、交流があったニュージャージー州知事のトム・キーン(80)を頼った。高校で歴史を教えた経験もあるキーンは2年前の講演で「強制収容は当時のルーズベルト大統領ら、米国の偉人がかかわった恥ずべき行為。だからこそ、後世に伝えるべきだと考えた」と強制収容への思いを語っている。

 88年に遊説でニュージャージーを訪れた大統領に、キーンはウジフサから託された手紙を渡す。送り主は、マスダの妹。45年の式典でレーガンが兄のために発言したことに感謝し、「兄の名前がつけられた地元の中学校で何度も生徒に話し、そのたびに、あなたの言葉を紹介しています」とつづったうえで補償への賛成を求めた。キーンによると、数日後にレーガンから電話があり「マスダのことは覚えている。補償に賛成したいと思う」と伝えてきた。

 補償法案は、日系人で構成され、マスダも所属した米軍第442連隊にちなんで「下院442法案」と名付けられた。88年8月、レーガンの署名で補償法が成立。米政府が強制収容を経験した日系人に謝罪し、1人あたり2万ドルを支払うことになった。署名式にはマスダの妹も参加した。

 ウジフサは、今も強調する。「強制収容施設から出て、米国のために命を落とした兵士たちが、米国の政治を動かした。移民社会の米国で、日系人はどの移民集団にも負けない強い物語を持っている」

 当時のJACLを率い、442連隊の結成も助言した日系人の故マイク・マサオカに対して現在、「強制収容に抵抗せず、米側に協力した」との批判の声もある。ウジフサは言う。「当時は戦争中。銃を持った兵士に抵抗することが可能だったのか」。JACLは今年の年次総会で、マサオカの生誕100年を記念する決議を採択し、功績をたたえた。=敬称略(ニューヨーク=中井大助)

◆◆(13)テロの衝撃

2015930

元米運輸長官のノーマン・ミネタ=メリーランド州アナポリス

 2001年9月11日は米国で、「真珠湾攻撃以来の衝撃」と形容される。

 当時運輸長官だったノーマン・ミネタ(83)は旅客機がニューヨークの世界貿易センタービルに突入した後、ホワイトハウス地下の緊急指令センターに呼ばれる。そこで「全部着陸させろ」と、全米の航空機の運航を停止する決断をする。ただミネタの心には空の安全とは別の懸念もあった。

 サンノゼ市長、下院議員を経て、クリントン政権でアジア系初の閣僚になったミネタも、第2次世界大戦中は家族とともに強制収容施設で過ごした。長年の民主党員でありながら共和党のブッシュ政権でも閣僚となり、経験を生かす。「9・11が起きる前にも、大統領から経験を聞きたいと言われ、強制収容の話をした」

 同時多発テロの後、米国内ではアラブ系市民らに疑いのまなざしが向けられた。ミネタのかつての経験と重なった。ブッシュが「ノーマンとその家族に起きたことを繰り返してはいけない」と語ったのが、印象に残る。ミネタも航空会社に対し、安全確保を名目にして「人種に基づいた判断」をしないよう、指示する手紙を出した。

 ロサンゼルスの全米日系人博物館で館長を務めていたアイリーン・ヒラノ(66)は、9・11が日系人にとっても節目だったと振り返る。

 テロの前から、ヒラノはアラブ系米国人と交流があった。日系人が差別を乗り越えて米社会で重要な位置を占めていることにアラブ系の団体が関心を抱き、日系人の歴史継承の中心的存在となっている博物館に問い合わせをしていた。

 同時多発テロが起きた後に彼らに連絡を取ると、心配は的中した。石を投げられ、暴言を受け、アラブ系市民は恐れと不安の中で暮らしていた。

 「今こそ、日系人の経験を伝えなければ」と痛感した。博物館の理事会を全米でもアラブ系の人口が多いミシガン州ディアボーンで開き、アラブ系市民の言葉に耳を傾けた。博物館もその後、「万人の人権が大切」というメッセージを強め、04年には9・11を特集する展示も開催した。

 ヒラノは言う。「攻撃を受け、恐怖で覆われた社会がいかに簡単に人権を無視するのか。9・11は歴史が繰り返される可能性を感じた最初の機会だった」=敬称略

 (ロサンゼルス=中井大助)

◆◆(14)声を上げる勇気

2015101

ロサンゼルスの全米日系人博物館

 米同時多発テロから間もない2001年9月末、ロサンゼルス中心部にある全米日系人博物館の周りで数百人がろうそくを手に祈りを捧げた。テロの犠牲者を追悼すると同時に、アラブ系市民らへのヘイトクライム(憎悪犯罪)を防ぎ、冷静さを保つよう呼びかけるためだった。

 「我々はいつの時も、発言する責任がある」。戦後、日系人強制収容への補償を米政府に求める運動に取り組んだリリアン・ナカノ(故人)は集まった人に訴えた。

 同時多発テロで、日系人の歴史に再び注目が集まった。人種や信仰に基づく差別が繰り返されないかとの懸念からだけではない。米国が世界を敵と味方に分け「対テロ戦争」に突き進む中、国家に異議申し立てをする権利の大切さも改めて認識された。

 テロ当時、日系人博物館の館長だったアイリーン・ヒラノ(66)は言う。「第2次世界大戦中の出来事は、日系人という一つのグループに起きたというだけでなく、他の人にとっての教訓でもある」

 強制収容の経験は日系人の間に、人種や国籍を問わず国家に自由を奪われた人々への共感を広げていった。その流れが思わぬ形で日本へと向かったのが、07年に米下院本会議で可決された「従軍慰安婦について日本政府に謝罪を求める」決議だった。

 提案した下院議員マイク・ホンダ(74)は日系3世。幼少期にコロラド州の強制収容所にいた。政治家になり、米政府に日系人への謝罪を求める運動にも積極的に関わった。

 決議当時、ホンダは取材にこう答えている。「政府が間違ったことをしたら、謝らなければならない。強制収容所と同じことだ。米国から謝罪を勝ち取った私たちだからこそ、やらなければならない」

 ホンダの活動には、日系人の間でも賛否がある。上院議員を長く務め、08年にヒラノと結婚した日系人政治家の重鎮ダニエル・イノウエは慰安婦決議には反対していた。一方で戦中は米軍に志願し、12年に他界したイノウエは生前、歴史から学ぶことの大切さについて、こうも語っていた。

 「戦中、政府に『間違っている』と声を上げることは、(国に忠誠を誓って軍に)志願した我々と同じ勇気が必要だった。私も強制収容施設に入っていたら、どうだっただろう」=敬称略

◆◆(15)「日本」を受け継ぐ

2015102

世界中の人が行き来するニューヨークのタイムズスクエアに立つフレッド・カタヤマ

 今年4月、訪米した日本の首相、安倍晋三が米議会で演説した。その様子を傍聴しながら、フレッド・カタヤマ(55)は予想外の感慨にとらわれた。

 「かつて米国の政治家は日系人にひどい差別をした。でも今、強制収容への謝罪と補償が決まった議場で日本の首相が話し、議員が拍手を送っている。こういう国に生まれたことを誇りに思う」

 自身は戦後生まれだが、祖父や父親は戦中に強制収容された。子供の頃のカタヤマにとって、日本は「敵国」。「自分は米国人」と強く意識し、高校のディベートでも「広島、長崎への原爆投下は正当だった」との立場をあえて取った。

 考えが変わったのは大学に入ってからだ。ジャーナリストを志望し、日系人の先輩記者から「それなら日本語を勉強した方がいい」と言われた。学ぶにつれ嫌悪が関心に変わり、記者として日本に赴任もした。今もロイターテレビのアンカーの傍ら、米日カウンシルやジャパン・ソサエティーなど日本関連団体の理事を務める。

 日本人の政治家に自分を重ねることは、普段はない。だが米議会で演説する安倍首相を見てカタヤマが感じたのは、自分の中にある「日本」だった。

 戦後、日本人と日系人は長く疎遠な関係が続いた。しかし戦後70年を迎え、関係は変わるべき時期に来ているとカタヤマは考えている。

 「強制収容への補償を求めた1980年代は、『日本人と一緒』と言われないよう日本と距離を置く必要があった。でも、今は米国も変わっている」

 黒人大統領が誕生し、テレビでもアジア系やヒスパニック系米国人が当たり前に登場する。幾多の民族が生きる米国の多様性を守り、日系人は戦後70年を生きてきた。

 この夏、日系人が集まった講演でカタヤマは語りかけた。「日系米国人を一つにするものは何でしょう。もはや強制収容の体験ではありません。戦後の移住者も、強制収容されなかった人も含め、それは日本から受け継いだものなのです」

 だからこそ日本人とより交流し、将来も「日本」を受け継ごう。カタヤマの言葉に、会場から拍手がわいた。=敬称略(ニューヨーク=中井大助) =終わり

◆◆日本の移民の歴史

(小学館百科全書の「移民」から引用)

(1)明治以降第二次世界大戦まで 

徳川幕府が家光(いえみつ)以来の海外渡航の禁制を解いたのは1866年(慶応2)である。1868年(明治1)以後1941年(昭和16)までの移民数は776000人に達している。おもな移民先は、ハワイ23万人、ブラジル189000人、アメリカ107000人、旧ソ連56000人、フィリピン、グアム5万人、カナダ35000人、メキシコ15000人などであった。このなかには満州(現中国東北部)への開拓農の移住32万人は含まれていない。1896年(明治29)制定の移民保護法における移民の定義は「労働ニ従事スルノ目的ヲ以(もっ)テ(清韓(しんかん))両国以外ノ外国ニ渡航スル者及其()ノ家族ニシテ之(これ)ト同行シ又ハ其ノ所在地ニ渡航スル者ヲ謂()フ」とされていたからである。満州への移民を含め、第二次世界大戦前までの移民の合計は約110万人と考えられる。この数字は、ヨーロッパ諸国の移民、とくにイギリス(植民時代から第二次世界大戦前まで2000万人)、イタリア(1000万人)のみでなく、ドイツ(500万人)と比べても、はるかに少ない。

 日本における本格的な移民は1886年(明治19)日布渡航条約に基づく布哇(ハワイ)への移民とともに始まる。条約締結の前年に956人が甘蔗(かんしょ)(サトウキビ)園労働者として渡航したのを最初に、以後94年までの10年間に移住者は3万人に達した。政府間の条約に基づく移民ということで、これを官約(かんやく)移民という。その後、94年に移民保護規則が公布され、さらに96年にこれが移民保護法となる。ハワイとの官約移民から政府が手を引いてから、移民はもっぱら移民会社(1896年には20社を超える)を通じての契約移民の形で行われており、弊害も続出し、移民者の保護が叫ばれていた。移民保護法の制定以後、移民は大幅に増加し、大正末期まで、ハワイ、アメリカ、カナダなどを中心に年平均16000人の移住が行われた。しかし、ハワイ、アメリカへの移民は、1908年(明治41)日米紳士協約により制限され、さらに24年の移民法(いわゆる排日移民法)により激減する。

 この時期に北アメリカにかわる移住先として比重を高めるのがラテンアメリカ、とくにブラジルである。ブラジルへの最初の移民は、1908年笠戸丸(かさどまる)によるコーヒー園への契約移民799人の移住に始まり、3334年(昭和89)の最盛期には年間移住者は2万人を超えるに至った。だがブラジル移民も、34年制定の新憲法により制限を受け、以後漸減する。

 アジア地域への移民は、フィリピンを除き、それまで少数にとどまっていたが、1935年以後、中国、満州への移民が急増する。とくに、36年から満州移民20か年100万人計画が推進され、集団農業移民=分村移民という形で、全国農村地域、なかでも、長野、山形、熊本、福島、新潟、宮城、岐阜の諸県から多くの開拓団、義勇隊が移住した。第二次世界大戦敗戦までの満州開拓者の数は32万人に達した。

 第二次世界大戦前における前述の海外移住により、1940年(昭和15)の外国在留日本人移民数は170万人(満州82万人、中国本土37万人、ブラジル20万人、アメリカ10万人、ハワイ9万人、その他の地域12万人)に達したが、これらは第二次大戦後、南北アメリカ・ハワイを除く地域からことごとく引き揚げるに至った。

(2)第二次世界大戦後から1980年ごろまでの海外移住

第二次世界大戦後の海外移住者数は1981年(昭和56)まで累計239679人となっている。その年次別の推移をみてみると、1951年以後、移民は増加し始め、57年には16620人とピークに達した。しかし、以後は減少、いったん4000人台となったのち、71年、72年にふたたび増加、以後減少し、3500人前後の数字を示していた。70年代後半から移民が振るわないのは、ヨーロッパ先進諸国以上に、経済発展に基づく強い国内労働力需要と国内生活水準の上昇により、一般の移住意欲が薄らいだためであろう。

 先の海外移住者の数字は旅券発給統計に基づくもので、この数字から職業移動を中心とする渡航費貸付および支給移住者を差し引いた約17万人は、自費による移住者であり、アメリカ、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアなどに多い。とくに、アメリカへの移住のほとんどは自費移住者であるが、その大部分が国際結婚(第二次世界大戦後の、いわゆる戦争花嫁などを含む)、養子縁組である。

 次に渡航費貸付および支給移住者についてみてみよう。その数は、南アメリカ移民の再開された1952年度から81年度までの累計で71491人。年度別推移では、52年度から60年度までは増大し、60年度8386人をピークとして以後は急減、7778年度には500人を割るに至る。60年度以後の移民の急減は、主として農業移民の減少による。第二次世界大戦後の移民再開以来、農業移民は圧倒的比重を占め、とくに5661年度の間は毎年5000人を超えていたが、その後激減し、年間100人前後となるに至った。以後、農業にかわり、工業およびその他の専門技術者、技能者の比重が著しく増大した。

 この時期に移住者の増加が顕著となったカナダ移民についてみると、197781年度総数959人のうち、農業48人、技術628人、商業その他119人、近親呼び寄せ164人で、専門技術者の移民が中心を占めている。技術者の内容も、以前は自動車組立て・修理や旋盤工などが多かったが、その後はプログラマー、弱電技術者などが中心で、要求される専門技術も高度化した。カナダの1962年移民法改正およびアメリカの1965年移民・国籍法改正にみられたように、移民受入れ国では、出身国を問わず能力・技術ある者を受け入れる政策をとる国が多くなった。

(3)1980年代以降の出移民および入移民

日本からの出移民の減少傾向は1980年代に入っても続き、8084年の年平均移住者(外務省が旅券を発給した際に永住のためと答えた人)の数は2957人にまで減少したが、8589年には平均3056人で3000人の線を維持している。

 日本からの出移民のうち、さらに渡航費支給移住者について第二次世界大戦後の動向を検討してみよう。戦後におけるその総数は19524月~873月まで66690人で、その5年間ごとの平均移住者数を算出してみると、5559年が6467人でもっとも多かった。その後この数は急激に減り始め8084年は147人、8589年は48人、90年はわずかに14人で、それ以後の数字の発表はない。この渡航費支給移住者の著しい減少が海外移住日本人の1980年代以降における性格変化をもっともよく表している。つまり、第二次世界大戦後の海外移民の性格を、先にあげた六つの対照的な移民の形態にあてはめてみるならば、農業移民の減少にも絡んで定着型から雇用型に、国家の援助に頼らず自発的意志に基づくという意味で計画型から自由型に、また補助型から非補助型に、集団移民から分散移民に、契約移民から企業移民に、さらに一時移民から恒久移民に転換するに至った。移民のこうした性格の変化が前記の数的変化にも表れている。日本の移民は第二次大戦前の出稼ぎ型あるいは窮迫型から、自らの自由意志と自己選択に基づく自立型移民に変化したのである。

 次に日本への入移民についてはどうだろうか。登録外国人の総数は1952年の573318人から、80年に776000人、95年に1362371人、2000年に1686444人へと増加している。つまり在日外国人の数は195280年に20万人以上、さらに8095年には58万人以上、952000年の5年では32万人以上増えている。なお、第二次世界大戦前1940101日現在の在日外国人の数は39237人にすぎなかった。これが52年に57万人を超えたのは、戦後も日本にとどまった在日韓国・朝鮮人および台湾人が、外国人登録法の制定などにより、永住資格保有外国人として52年の数字に含まれたからである。ともかく、日本からの出移民数(194589年の海外への移住者数262573人)に対し、日本への入移民の増加は、はるかに多数といえる。また、8597年までの13年間の出国者を差し引いた外国人入国者の合計は1319000人(概数)で、この間、毎年10万人ずつ増となっている。なお、この数字は出入国管理庁などの把握した合法的な出人国者の数字に基づくもので、これ以外にボートピープル(難民)などの形での密入国者の存在も考慮せねばならない。[皆川勇一]

世界全体についてみてみると、経済的に豊かな国々は、日本と同様あるいはそれ以上の入移民問題を抱えている場合が多い。1990年の西欧6か国における総人口に対する外国人居住者割合は、スイス16.3%、ベルギー9.1%、ドイツ7.3%(91年)、フランス6.3%、スウェーデン5.6%、オランダ4.6%であるのに対して、日本は97年でもなお0.95%にとどまっており、この点からみれば比重は軽いといえる。むしろ、外国人労働者の労働面・生活面での満足度を高めるように配慮しながら、どのような形で受け入れ、日本経済の発展や社会生活の充実に貢献してもらえるかを真剣に考えるべきだろう。

 今後さらに進行する少子化・高齢化問題に直面している日本にとって、外国人労働力の受入れは、将来のいっそうの発展と安定を確保するためのだいじな選択肢の一つである。

 なお、日本の移住業務は1963年に設立された海外移住事業団を改組した国際協力事業団(JICA(ジャイカ))、さらに2003年以降はそれを再編した国際協力機構(JICA)が中心となって行っている。[皆川勇一]

◆◆日系米移民の歴史

日系アメリカ人の歴史は19世紀末の移民に始まる。最初の移民たちはハワイのサトウキビやパイナップル畑の労働者として入植した。後に日本から多数の移民が入植した。しかし低賃金で働く勤勉さと生活力、また地元経済に金を落とさない(日用品を日本から取り寄せていた)こと、そしてアメリカのマジョリティであった白人種のキリスト教徒と文化が異なる黄色人種であったために疎まれ、第一次世界大戦における同盟国であったにもかかわらず、カリフォルニア州などでは白人種による日系移民の排斥運動が起こった。

そして第二次世界大戦時における日米間の対立と日系人の強制収容という悲劇を乗り越え、日系人による経済的成功や社会的成功と合わせて、日本とアメリカの同盟関係の構築や1960年代以降の公民権運動、日米間の経済的な結びつきの強化などが後押ししたアメリカ社会における地位向上の時代を経て現代に至っている。

日系アメリカ人は、2005年の国勢調査において1,221,773人、アメリカ合衆国(以下アメリカ)の総人口の0.4%を占めている。日系人コミュニティーはカリフォルニア州、ハワイ州、ニューヨーク州、ワシントン州にあるものが大きい。現代でも年に7000人近い日本人がグリーンカード(永住権)を取得してアメリカに移住している。2011年の調査では、アジア系アメリカ人の内訳では、中国系、フィリピン系、インド系、ベトナム系、韓国系に次いで、日系アメリカ人は6番目、7.5%となっている。

日系アメリカ人は初めてアメリカにわたった第一世代のことを一世、その子供たちの世代を二世、三世、四世、五世(en:Gosei (fifth-generation Nikkei))と呼んでいるが、イッセイ (Issei) やニセイ (Nisei) といった言葉は英語でも通用する言葉になっている。

日系人の強制収容所の一つであるマンザナール強制収容所

日系アメリカ人は当初から偏見と差別に苦しむことが多く生活も苦しかった。特に、北米及び南米へ移民した日系人の中には、第二次世界大戦中に強制収容所に収容されたり、戦後しばらくも激しい民族差別を受ける立場にあった者が多かった。しかし、汗水流して働き、教育熱心で、第442連隊戦闘団に代表されるようにアメリカ国民としての義務を果たし、立派なよきアメリカ国民になろうと努力していた。特に一世の世代は過酷な労働をこなしながら、稼いだお金を自分たちのためには使わず、子供たちの教育のために注いだ。

一世や二世の時代に第一言語として用いられた日本語も、世代が進み現地化が進むごとに徐々に現地語である英語にとって変わられ、自然な流れとして日本語を理解しない日系人が増えている。そのため、家庭や居留国の日本語補習校などで日本語教育を受けた人物も少数ながらも存在はするものの、三世や四世の世代で日本語を話すことができる人々は主に外国語として日本語を学んだ人々である。アジア系移民で特に母国の公用語に英語が含まれない国出身の家庭では、英語以外の母国語が使われるケースが多いが、その中でも日系人に限り、半数以上の家庭で英語のみが使われ、英語が主流という家庭も含めるとほぼ4分の3までもが家庭内でも英語を会話に用いており、日本語が使われているケースは他非英語系アジア移民の率の半分ほどである。

なお、1920年代前後に出生している二世は、日本での教育費用が居留国のそれと比べて安価であったこと、または、日本文化を継承する目的で日本の学校に通うことがある種の流行になった時期がある。ハワイ・オアフ島のワイキキ界隈や、ロサンゼルスのリトル・トーキョー、サンフランシスコのジャパンタウンなどの日本人街では、今でも多くの日本語の看板を目にすることができる。

ただし、北米の日系人は韓国系アメリカ人や中国系アメリカ人などと比べると、民族街に集結したり、相互扶助を行うことが少ない。特に北米では、第二次世界大戦において日本がアメリカの敵国となったこともあり、祖国への忠誠を誓う目的で、あまり日系人が民族性を出さず、アメリカに同化するように努力したことも関係している。戦前に築いた日系コミュニティー、つまり日本町が、西海岸の数箇所でしか保存できなかったり、多くが消滅してしまったのは、構成していた不動産や財産を彼らが強制収容所に送られる前に手放さざるを得なかった上に、大戦後も残る日本への反感の中で、アメリカに同化して暮らさざるを得なかったからである。

◆◆日系米移民強制収容所

フランクリン・D・ルーズベルト米大統領は、日系人人口が多いハワイにおける日本側の情報活動に危機感を抱き、1936年に作戦部長にあてた覚書で「わたしに明確な考えが浮かんだ。日本の船舶と乗組員に接触するオアフ島の日系人の身元を極秘に洗い出し、有事に際して強制収容所に最初に送り込む特別リストに氏名を記載しておくべきだ。」と提案している。[1]

その後、19377月に行われた日本陸軍による中華民国への軍事行動に対する通商航海条約の継続停止措置。19409月に行われたフランス領インドシナ北部への進駐に対するアメリカ国内の日本人資産の凍結と貿易制限。さらに19417月に行われたフランス領インドシナ南部への進駐に対する81日の日本への石油の全面禁輸に踏み切るなど、日米間の関係が緊迫度を増した。日米間における開戦が危惧される中、同年11月にアメリカ政府は国内に在住する日系アメリカ人および日本人名簿の作成を完了した。

その後アメリカが128日(アメリカ時間では127日)に日本海軍艦隊によって行われた真珠湾攻撃をきっかけに、日本や日本を追ってアメリカに対して宣戦布告を行ったドイツ、イタリアなどの枢軸国と戦争状態に入った後、アメリカ政府はアメリカ本土及び友好国がその大半を占める中南米諸国に住む、枢軸国の国家をルーツに持つ日系アメリカ人と日本人、ドイツ系アメリカ人とドイツ人、イタリア系アメリカ人とイタリア人に対して「敵性市民」としての監視の目を向けることになった。

なお、開戦前にフランクリン・D・ルーズベルト大統領の命により日系アメリカ人および日本人の忠誠度を調査したカーティス・B・マンソンは「90パーセント以上の日系二世は合衆国に対して忠誠であり、日系人より共産主義者の方が危険である。」と報告していた[2]。しかしながら、原田義雄ら2人の日系アメリカ人が、捕虜となった日本海軍のパイロットの西開地重徳一飛曹の脱走を手助けをした「ニイハウ島事件」等の例が、日系アメリカ人に対する批判的な論調を後押しすることになる。

なお、この様な反逆的な事例、もしくはそれを疑わせるような事例は、ドイツ海軍の潜水艦「Uボート」によりアメリカ東海岸沿岸やメキシコ湾沿岸からアメリカ国内に送られたスパイへの、ドイツ系アメリカ人による支援に対する疑い[3] など、大戦中を通じてドイツやイタリア系アメリカ人にむしろ多数みられた。

大統領令9066号が発令された後の19422月下旬から、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸沿岸州と準州のハワイからは一部の日系アメリカ人と日本人移民約120,000人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられた。

最終的に同年329日をもって対象地域に住む日系人に対し移動禁止命令が下り、それ以前に自ら立ち退いた一部の人間を除く多くの日系人は、地元警察とFBI、そしてアメリカ陸軍による強制執行により家を追い立てられ、戦時転住局によって砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られた「戦時転住所」と呼ばれる全米10ヶ所の強制収容所に順次入れられることになった。しかし、強制収容所の建設工事が間に合わなかったため、一部の人は一時的に16ヶ所に設けられた「集結センター」に収容されたが、その内のいくつかは体育館や競馬場の馬舎(本項冒頭に掲載の羅府新報に記載されているサンタアニタパーク競馬場もその一つ)であった。

議会ではアメリカ本土の議員(準州であるハワイからの議員はいなかった。)から全てのハワイ諸島在住の日系人と日本人移民の強制収容を支持する声も挙がったが、ハワイでは約1000人以上の日系人と日本人移民と約100人のドイツ系アメリカ人とイタリア系アメリカ人がアメリカ本土もしくはハワイの8箇所に設置された強制収容所に送られるに留まった[11]

ハワイでは既に戒厳が宣告されており、スパイ行為や破壊行為の抑止は十分できると考えられた為、ハワイ諸島在住の日系人と日本人移民の大部分は強制収容を免れた。また、ハワイ諸島には、1940年米国国勢調査の時点で全住民の約37.3%に相当する157905人の日系人(うち「ネイティブ」即ちハワイもしくは米国内で生まれた者、もしくは米国以外で生まれたが親が米国国籍を持っていた者が12552人と約76.3%を占めた[12])が住むなど、日系人があまりにも多く、社会が成り立たなくなると同時に膨大な経費と土地を必要とすることになるため、強制収容するには現実的に無理があった。

開戦当時、ペルーやブラジル、メキシコやコロンビアなどのラテンアメリカ諸国の殆どはアメリカの強い政治、経済、さらに軍事的影響下にあり(モンロー主義)、その殆どが1942年に入ると連合国として参戦するか、もしくは参戦はしないものの連合国よりの政策を取っていた。

そのような中で1942418日に、ペルーの首都・リマのアメリカ大使館からジョン・K・エマーソン(英語版)書記官(後の駐日アメリカ合衆国公使)が国務省あてに「ペルーの日系人が危険である。」と報告した。

この様な報告を受けて194212月から1945年にかけてこれらの中南米諸国家に対して出された、日系人及び日本人移民のアメリカへまたは現地の強制収容要請により、ペルーやボリビアなどの中南米13カ国で、アメリカ合衆国大使館が「日系人社会に影響力がある。」という戦争とは関係のない理由で指定する日系人及び日本人移民を現地の国家の警察の協力によって逮捕し、アメリカ海軍の艦艇でアメリカに連行された。「正規の入国手続きを経ていない不法入国」を理由に逮捕し、テキサス州クリスタルシティ(英語版)の移民労働者用のキャンプに強制収容された。一部についてはアメリカ軍兵士の捕虜と交換船により交換された。

また、ブラジルではタカ派のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領の独裁体制下で、「ブラジル文化に同化しない」と評された日系ブラジル人に対する弾圧が1930年代を通して進み、アメリカ合衆国の上述のような姿勢と相まって、戦中の日系ブラジル人は非常に厳しい立場に立たされた。

最終的にアメリカ政府は、メキシコとカナダ、南アメリカ諸国に住むのべ13カ国に住む2264人の日系人及び日本人移民をアメリカ国内の強制収容所に強制連行し、そのうち1771人(80%)はペルー移民及びその日系子孫のペルー人であった。

大統領令9066号の発令以降、上記のように12313人の日系アメリカ人、つまり日本人にそのルーツを持つアメリカ国民と日本人移民、そしてメキシコやペルーなどのアメリカの友好国である中南米諸国に在住する日系人と日本人移民が、アメリカ全土の11か所に設けられた強制収容所に強制収容された。

また、そのほかにも、ニューヨーク州ニューヨークのマンハッタン島の横にあるエリス島に設けられていた移民者収容施設にも、日系人と日本人移民約8,000人が収容された。

なお、最初に開設されたポストン強制収容所は19425月に開設された。その後相次いで強制収容所が開かれ、最後に開設されたクリスタル・シティ強制収容所は同年11月に開設された。

憲法とたたかいのブログトップ

戦艦大和の特攻の悲劇=戦艦大和・戦艦武蔵の最期

戦艦大和の特攻の悲劇=戦艦大和・戦艦武蔵の最期


🔴憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

【このページの目次】

◆戦艦大和・戦艦武蔵リンク集

◆戦艦武蔵の最期

◆昭和史再訪=戦艦大和の最期

◆映画の旅人=男たちの大和

◆筆者コメント=無謀な戦艦大和の特攻作戦

◆吉田満=戦艦大和の最期(口語体)

◆毎日新聞データ・戦艦大和は不沈艦だったのか

─────────────────────────

🔵戦艦大和・戦艦武蔵リンク集

────────────────────────

★★その時歴史が動いた=戦艦大和沈没・大艦巨砲主義の悲劇43m

★★映画=男たちの大和144m

この映画は、原作の辺見作品と同じく反戦的色彩の強い作品。

★★巨大戦艦大和~乗組員たちが見つめた生と死~73m

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001230007_00000または

★★巨大戦艦 大和 ~乗組員たちが見つめた生と死

180m Youku

http://v.youku.com/v_show/id_XNDQ1MDg3MzA4.html?x

★★歴史列伝・戦艦大和125m(CMあり)

★戦争証言・戦艦大和の最期 10m- 61年目の真実 

http://m.youtube.com/watch?v=9Dwq_FiIowE

★巡洋艦「矢矧」の乗組員が見た戦艦大和の最後1~7 – 60mYouTube

★戦艦大和の最後 群青 25m

★戦艦大和 その栄光と終焉17m

http://video.fc2.com/content/20130821cyFpRhG6

★海底の戦艦大和48m

http://video.fc2.com/content/20130913hraLCfqw

★悲運の戦艦大和 10m

http://video.fc2.com/content/20110512ut3ZdM32

★ドキュ「戦艦陸奥」 197050m

http://v.youku.com/v_show/id_XNDEzNDU4MjI4.html?x

★★戦艦「大和(やまと)」の潜水調査

朝日新聞16.06.24

動画

http://digital.asahi.com/articles/ASJ6J4K6XJ6JPITB009.html?iref=video_all

 太平洋戦争末期、乗組員約3千人とともに東シナ海に沈んだ戦艦「大和(やまと)」の潜水調査に、広島県呉市が行政機関として初めて成功した。22日、そのデジタル映像や写真を報道機関に公開。艦首にある菊の紋章も鮮明に浮かび上がった。

 呉市は先月、鹿児島県枕崎市沖約200キロの海域で調査。71年前、米軍の攻撃を受けて沈み、海底約350メートルに横たわる大和の船体を無人の潜水探査機で10日間撮影した。公開されたのは、波の抵抗を減らす球状艦首(バルバスバウ)や3枚翼で直径5メートルのスクリューなどが映る約3分半の映像だ。

 1985年と99年の民間調査はアナログ映像で撮影。デジタルの今回は、より鮮明にとらえた。呉市は映像の解析を進めて大和の構造や沈没時の状況を詳しく調べ、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の展示の充実をはかる。

 この映像は7月23日から大和ミュージアムで一般公開する。解説を加えた新たな映像も9月に公開予定。調査船で現地へ行った大和ミュージアムの新谷博・学芸課長は「海に沈む大和の鮮明な姿を多くの人に見てもらい、平和を考えるきっかけになれば」と話す。(泉田洋平)

◆◆呉市が海に眠る戦艦大和公開4m

622日、広島県呉市が鹿児島県沖約270kmの海域の水深350メートルの海底付近で撮影した戦艦大和のハイビジョン映像を公開した。大和は194547日に米軍の攻撃を受けて沈没し、約3000人の乗務員が死亡した。

世界最大の263メートルを誇り、46cm砲は40kmの射程距離を持っていたが、日本の敗戦が濃厚の中、最後の戦いに赴いた。同日1402分、左舷中央部に爆弾3発命中し、その後10本の魚雷が突き刺さった。爆発のキノコ雲は高さ600メートルにも及んだ。助かった人数は276名だけだったという。

26日に生放送された『みのもんたのよるバズ!』(AbemaTV)には日本海軍史研究家の畑野勇氏が登場し、呉市が公開した映像を次々と解説していった。

艦首の菊の紋章については「菊の紋章は天皇と皇室を表します。日本海軍の紋章はすべてついています。チーク材に金箔。1.5メートルもあったといいます」などと説明した。また、真鍮で作られた5メートルものスクリューの製造技術が当時としては相当高かったことや、大和は大きい軍艦だが速度50kmで進み、スクリューやバルバスバウ(球状艦首)などの当時の最新技術を惜しみなく注ぎこまれたと説明した。

MCのみのもんた氏(71)から「なんで、引き上げることしないんですか?」と聞かれ、畑野氏は「引き上げて下さいと言う人もいれば、いたましい思いをかきたてられるのでそっとしておいてくださいと言う人もいます。どちらの意見も正しいってことで。後世にいかに伝えるかが重要です」と語った。また、海が荒れているため、引き上げにはかなりの資金・人手が必要だという。

★★深層NEWS 戦艦大和の新事実44m 20160811

https://m.youtube.com/watch?v=gLIvQDr34bk

【戦艦武蔵関係】

★★ドキュメント=戦艦武蔵の最期135m

https://m.youtube.com/watch?v=zTcDLfQIz9U

https://m.youtube.com/watch?v=expnFW1ONNE

★★兵士たちの証言 : 戦艦 武蔵 シブヤン海に沈む NHK(3/7)44m

http://www.dailymotion.com/video/x2iuuia_兵士たちの証言-戦艦-武蔵-シブヤン海に沈む-nhk_school

★★NHKスペシャル戦艦武蔵の最期50m

★★NHK戦争証言特集=戦艦大和・武蔵

http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/special/vol12.htm

l

★戦艦武蔵の最期9m

★★ドラマ・戦艦武蔵90m

または

https://m.youtube.com/watch?v=FpGmglbkt8A

★★NEXT戦艦武蔵知られざる悲劇30m

http://www.myvi.ru/watch/18245827111_t1ZFloWSI0OPaO8A3Kxobw2

★★戦艦武蔵の甲板士官の遺言55m

NHK戦争証言=戦艦武蔵の最期10m

【電子文藝館 反戦・反核文学一覧より】

http://bungeikan.jp/domestic/

の左側の反戦・反核文学

◆渡辺 清「戦艦武蔵の最期(抄)」 

http://bungeikan.jp/domestic/detail/846/

◆渡辺 清(戦艦武蔵乗員)「少年兵における戦後史の落丁」 l 

http://bungeikan.jp/domestic/detail/845/

◆◆(書評)『戦艦武蔵』 一ノ瀬俊也〈著〉

2016911日朝日新聞

『戦艦武蔵』=戦争忘却を促す「事実への逃避」

 戦艦大和が様々に語られてきたのに対し、なぜ武蔵はそうならなかったか。これが本書の問いである。すでに著者は『戦艦大和講義』(人文書院)において、大和をめぐる言説やサブカルチャーを通じて日本精神史の照射を試みた。が、今回の切り口は違う。むろん、本書を読むことで、武蔵の建造から沈没までの戦史を知ることができる。が、著者の狙いは、歴史/物語、あるいは真実/虚構の二分法に疑義を呈することだ。

 例えば、現代人は戦争を知らないと言われる。だが一ノ瀬によれば、海軍の動向を振り返ると、必ずしもリアリズムからではなく、当時から既に戦争をファンタジー化し、巨艦信仰を背景に開戦に突入した。また、艦長の遺書には広く共有された語りの様式美が刷り込まれていること、生き残った乗員の証言が人々の望むように脚色され定型化することなども分析している。

 本書は物語論である。大和の沈没が日本再生のための崇高な死とされ、感動の涙で消費されるのに対し、元乗組員・佐藤太郎の小説『戦艦武蔵』は通俗時代劇の話法を踏襲しているという。これを批判した吉村昭の記録小説『戦艦武蔵』は事実だけを探求したとされるが、一ノ瀬によれば、都合よく台詞の創作や事実の取捨選択をした教訓の物語に過ぎず、戦争責任の問題もぼかされた。大和に比べて、武蔵は多くの生存者が残り、海軍での恨みつらみを抱えていたことも武蔵の物語を暗くしたという。

 最後に著者が問題視するのは、「客観的な真実」を神聖化し、物語を排除することで、なぜ戦争が起きたのか、兵士の死がもつ意味を人々が考えなくなる近年の動向だ。これを「事実への逃避」と呼ぶ。かくして武蔵は何者でもなくなり、無味乾燥な教科書の一ページや軍事マニアのネタとしてのみ記録される。そして、ただの記号的な事実になるとき、太平洋戦争は本当に忘却されるのではないかと痛感させられた。

 評・五十嵐太郎(建築批評家・東北大学教授)

 『戦艦武蔵』 一ノ瀬俊也〈著〉 中公新書 929円

 いちのせ・としや 71年生まれ。埼玉大学教授。日本近現代史。『旅順と南京』『日本軍と日本兵』など。

◆戦艦「武蔵」か 新たな動画公開NHKニュース

1534 

フィリピンのレイテ島近くのシブヤン海で、太平洋戦争末期に撃沈された当時としては世界最大級の軍艦、「武蔵」とみられる動画が新たに公開されました。

旧日本海軍の戦艦「武蔵」は、太平洋戦争末期の昭和19年10月、レイテ島に上陸を始めたアメリカ軍に反撃するためレイテ湾に向かう途中、アメリカ軍による魚雷などの攻撃を受け撃沈されましたが、その後、船体は見つからず、どこで沈没したかは謎のままになっていました。

ところが、アメリカのIT企業マイクロソフトの共同創業者で資産家のポール・アレン氏が、「シブヤン海で、『武蔵』の船体を発見した」として2枚の写真を投稿したのに続いて、4日、新たに自身のホームページに「旧日本海軍の『武蔵』」とタイトルをつけた1分余りの動画を新たに公開しました。

「武蔵に間違いない」

広島県呉市の「大和ミュージアム」の館長で、旧海軍の歴史を研究している戸高一成さんは、公開された動画を見たうえで、「写真を見た時点で、ほぼ間違いないと思っていたが、この動画で、間違いなく『武蔵』だと言ってよいと思う。非常に驚きました。艦首の辺りは、武蔵など大和型の戦艦の特徴がよく出ていると思います」と指摘しています。

さらに、「動画を見て、比較的よい状態で残っていると感じました。『武蔵』については、どのような状況で最期を迎えたのか、不明な部分がかなりあり、今回の発見で、こうした点が明らかになると期待されます」と指摘しています。

そのうえで、「太平洋戦争の記憶が薄れ、過去になりつつあるなか、改めて戦争のことを考える意識を高めるうえで、戦後70年の節目の年に発見されたことは、大変、意義があると思う」と話しています。

造船所の史料館では驚きの声

武蔵を建造した長崎市の造船所の史料館を訪れた人たちは「見つかるとは思わなかった」などと話し、驚いた様子でした。

戦艦「武蔵」は、旧日本海軍からの極秘の指令を受けて、昭和13年から長崎市の三菱重工業長崎造船所で建造され、昭和17年にしゅんこうした、当時としては世界最大級の軍艦で、昭和19年10月、フィリピンのレイテ島の近くにあるシブヤン海で魚雷などを受けて沈没し、乗員1000人余りが死亡しました。

武蔵の船体の一部とされる写真や動画がツイッターに投稿され、注目を集めるなか、三菱重工業長崎造船所にある史料館には、多くの人たちが見学に訪れています。展示されている資料は、およそ50点で、船を建造するときに使われた22キロの大型ハンマーや、海軍に提出した見積書などがあります。

また、進水式で縄を切る際に使われたおのや、横須賀に寄港した際に撮影した昭和天皇も写っている記念写真なども展示されています。

訪れた人たち、長崎市の西岡千晴さん(25)は、「自分が生きている間に武蔵が見つかるとは思いませんでした。船員や船の供養になるので、できれば日本に戻してほしい」などと話していました。

─────────────────────────────────

◆吉田滿 戰艦大和の最期

http://azure2004.sakura.ne.jp/yamato/yamato-shoko.html

口語体http://azure2004.sakura.ne.jp/yamato/yamato_ginza_kyuji.html

◆◆昭和史再訪=戦艦大和の最期

2010731日朝日新聞夕刊紙面より 

広島県呉市の大和ミュージアムに展示されている10分の1の戦艦大和。当時の資料と共に戦時下の日本の一端を伝える(資料提供・大和ミュージアム)

戦艦「大和」の全長263メートルは、JR山手線東京駅のホームより長い。最大幅38.9メートル。20.7メートルの主砲の射程42キロ。水圧で動く砲台の動きは驚くほど素早く、まるでタコが足を動かすようにくるくると標的に向かって動いたという。内部にはエレベーターもあり、その豪勢さは皮肉交じりに「大和ホテル」と言われたこともあったという。

大正111922)年のワシントン海軍軍縮条約で、戦艦の新規建造は禁じられていた。だが日本海軍は条約はいずれ失効すると見据え、昭和91934)年に「史上最大最強の戦艦」の設計に着手。それが戦艦大和だった。

建造費は約13780万円。広島県呉市にある呉市海事歴史科学館・大和ミュージアムによると、「今なら、東京―大阪間の新幹線開通費にも匹敵する巨額」だ。

建造は極秘裏のうちに進められた。艦の具体的内容は大蔵省のごく一部にしか知らされなかった。ではどのように予算計上したのか。

戦前、海軍の造船技術畑を歩んだ日本軍艦史研究の第一人者、故・福井静夫氏は、著書「日本戦艦物語 II」に経緯を記している。

予算編成では、第三次補充計画(通称(三)<マルサン>計画)と呼ばれるもののなかに取り込んだ。「大和」は第一号艦、「武蔵」は第二号艦と表記。海軍部内や大蔵省に対する「(三)計画」の折衝書類には、戦艦を意味するものはほとんど記載されていなかったという。

戦後40年、海底で全容を確認

1945329日、戦艦大和は沖縄特攻「天一号作戦」のもと、第二艦隊(司令長官・伊藤整一中将)の旗艦(艦長・有賀幸作大佐)として呉を出航。徳山に寄り、一路、沖縄を目指した。47日正午過ぎから、九州南西沖で米軍による激しい攻撃を受け、午後2時過ぎに沈没した。

大和沈没が朝日新聞で報道されたのは戦後の45928日、「わが戦艦大和の最期」。翌年812日、大和に乗艦していた能村次郎大佐らを取材したルポが掲載された。82年に沈没地点(後に北緯304317秒、東経1280400秒と判明)が確認され、85年に「海の墓標委員会」(辺見じゅん委員長)が海底に眠る大和の全容を確認、遺品の一部を引き揚げた。

 1946812日朝日新聞朝刊2

昭和1211月、呉海軍工厰(こうしょう)で大和の建造が始まった。「仮想敵国アメリカに(建造が)漏洩(ろうえい)して、同国に同様の建造を許したのでは、基本計画は元も子もなくなる」(呉市史)ため、軍港は海側が855メートルにわたって目隠しされた。設計図面にも艦の全体像は最後まで表れず、身元調査を経て憲兵隊が許可した工員だけが作業に従事した。

起工からほぼ4年。開戦直後の昭和161216日に大和は完成した。

「不沈艦」とうたわれた戦艦大和はしかし、沖縄特攻作戦(天一号作戦)で沖縄に向かう途中、巡洋艦1隻、駆逐艦8隻とともに米軍戦闘機の猛攻撃を受け、わずか2時間余りで沈没した。大和ミュージアムの資料によると、大和には3332人が乗り組み、うち生存者は1割にも満たない276人だった。

大和ミュージアムでボランティアで案内人を務める住田勝彦さんは、乗艦者名簿の前で声をつまらせている来館者の姿を、しばしば見かけるという。「ご遺族の方か関係者だろうと思いますが、戦争が残した傷の深さをあらためて痛感するのです」

大和ミュージアムの中央のホールには、実物の10分の1の大きさの戦艦大和が展示してある。

館長の戸高一成さんは「1930年代は世界的には、航空時代に入っていた。日本は従来の戦艦技術を極めたが、航空機と戦艦とでは技術進歩の速度が何倍も違った。そこに大和の悲劇もある」と話した。

「大和に関する膨大な資料のうち、明らかになっているのはまだ氷山の一角。関係者の証言も含めもっと大事にしていきたい。歴史は正確なデータがなければ、未来に向けて正しい判断ができない」

(羽毛田弘志)

大和最後の乗組員の一人として語り部を続ける 八杉康夫さん

◆平和の意味、問い続ける

15歳で海軍志願兵。横須賀海軍砲術学校で、標的までの距離と大砲の弾の発射角度を高等数学で計算する技術を学び、測距儀を扱う上等水兵として昭和2013日、大和乗艦の発令を受けた。

46日、真新しい褌(ふんどし)と肌着に着替えた。7日は曇天。午前10時ごろ「戦闘配食、急げ!」の号令が出た。レンズで敵機を捕捉した途端、雲の上に上昇して測距不能になった。真上から機銃や爆弾による猛攻を受け、こちらはむやみに撃つばかりだった。米軍は日本のレーダー技術の未熟さを研究し尽くしていた。

艦沈没とともに、海に放り出された。漂流中、上官の高射長が「お前は若いんだ。頑張って生きろ」と言って艦の丸太を流してくれ、私はそれにつかまって生き延びた。

命からがら戻った呉で本土決戦部隊の訓練をし、87日、原爆が投下された広島の復旧のため広島入りした。死体置き場にいた被爆した少年が、私の足をつかみ水を求めた。重体者に水はやるなと教えられ、「衛生兵以外は負傷者を救助するな」と軍の命令を受けていた私は「待っておれよ。戻るから」と言ってしまった。絶命前に水を飲ませればよかった。命を救われた私が、水を乞(こ)う少年に手をさしのべなかった。人生で最も苦しい思い出に今も悩む。平和とは何か? これからも問いながら生きていきたい。

◆◆映画の旅人=「男たちの大和/YAMATO」

201397日朝日新聞

【画像】坊ノ岬(水平線の右)近くの海岸から南西海上を望む。戦艦大和はここから約200キロ沖の海底に眠っている=鹿児島県枕崎市

◆あの火柱は大和なのか

 唐の高僧、鑑真和上が薩摩国秋妻屋浦(あきめやうら、現在の鹿児島県南さつま市坊津町秋目)に着いたのは、奈良時代中期の天平勝宝5(753)年12月20日だった。仏教の戒律を伝えるため日本への渡航を試みて12年、失明する苦難を乗り越え、波荒い東シナ海を渡り、ようやく上陸したのである。

 鑑真が着いた坊津町秋目は、カツオ漁で知られる枕崎市から車で50分、入り組んだ入り江の奥にある小さな集落だ。太平洋戦争末期、近くの山に軍の防空監視所ができ、若い女性が交代で敵機を見張った。その一人が「海のむこうに、赤い火柱を見た。大和だったのではないか」と話しているという。この女性が93歳で健在と聞いた私は、地元の方の案内で、おばあさんを訪ねた。「ええ、海に火の玉のようなものが」

 敗色濃い1945年4月6日、日本海軍が誇る巨大戦艦大和は、水上特攻として片道だけの燃料を積んで山口・徳山沖を出発、沖縄へ向かった。翌7日、ここの近海で米軍機の猛攻を浴び爆発、沈没した。おばあさんは、あの火柱は大和沈没時と信じている。鑑真到着から約1200年後のことである。

 「ここいらでは、いろいろ大和伝説がありまして」。枕崎でボランティアガイドをしながら、地元に残る大和の言い伝えを調べている北川忠武さん(70)は苦笑する。

 山で草を刈っていたら、海から煙が上がった。海で異変があったので役場に聞きに行くと、大和が沈んだといわれた。浜に大和の乗組員の死体があがったので収容した。海から雷のような音を聞いた――などなど。

 「大和出撃は極秘だから、役場が知るはずはないし、大和沈没の年に、近くで輸送船が撃沈されたから、漂流死体はそのときのものでしょう。ここから沈没地点までは200キロで、100キロ先の屋久島でも見えるのは年に数回だけ。しかも大和沈没の日は曇りで視界が悪く、音はともかく、見えるはずはない。個々の記憶が、みな大和に結びついてしまう」と北川さん。

 昭和末期、潜水調査で海底の大和が発見され、最も近い本土の枕崎に慰霊碑ができたころから、こうした話が取りざたされた。映画「男たちの大和」も、元乗組員の娘は枕崎から漁船をチャーターして現場に向かう。

 それまで長年、大和沈没地点は徳之島沖とされてきた。大和についての代表的著作、吉田満著『戦艦大和ノ最期』に「徳之島ノ北西二百浬(かいり)ノ洋上、『大和』轟沈(ごうちん)シテ巨体四裂ス」と記されていたからである。大和伝説は、この古典的名著から始まっていた。

文・牧村健一郎

写真・山本和生

◆兵士の目で戦争を描いた「男たちの大和/YAMATO」

 戦艦大和の語り部として知られる八杉康夫さん(85)が、大和に乗艦したのは1945年1月、17歳の上等水兵としてだった。目標との距離を測る測距儀が担当で、持ち場は艦長がいる艦橋(ブリッジ)の上、大和のてっぺんである。

 4月7日午後2時20分、米軍機の猛攻で大破した大和は大きく傾斜し、高さ20メートル以上の高所にいた八杉さんの目の前に海面がせり上がってきた。飛び込み、海上を漂流、「もうだめかと観念したとき、(上官の)高射長が、つかまっていた丸太を渡してくれた。高射長はいつのまにか波間に消えた」と、八杉さんは広島県福山市の自宅で往時を振り返る。

 評判になった吉田満の『戦艦大和ノ最期』は、本になるとすぐ読んだ。吉田は東京帝大在学中に学徒出陣、大和に電測士として乗艦、やはり九死に一生を得て生還した。八杉さんは、士官室にいる吉田少尉の顔を知っていたという。一読、文語体の荘重な文章に、さすが帝大出、と感銘を受けた。だが疑問も持った。

 まず、沈没地点だ。『最期』では徳之島の北西二百浬(かいり、初版は西方20浬)と徳之島を起点にしているが、大和が米軍機の第2波攻撃を受けた時、便所で鉢合わせた士官が「とても奄美大島まで行けん」と話すのを忘れられなかった。徳之島は奄美より南にある。そこまで大和が行ったとは思えないのだ。

 『最期』の記述をもとに、徳之島で大和の慰霊祭が行われ、八杉さんも参加したが、釈然としなかった。その後、公開された米軍資料などで場所が絞られ、80年から魚群探知機などを使った現地調査も実施され、82年5月、ついに海底に眠る大和が確認された。北緯30度43分、東経128度4分。枕崎からは200キロほどだが、徳之島からはもっと離れていた。ひん曲がった鉄板、長靴、さらに頭蓋骨(ずがいこつ)がモニターに映し出され、八杉さんら大和乗組員は涙が止まらなかった。

 『最期』には、救助船を指揮する下士官が、船べりをつかんで離さない漂流兵の手首を短刀で切る、という衝撃的な記述がある。船べりはかなり高く、海上から手が届くわけはない、あり得ないことだ、と八杉さんは憤慨した。

 ある時、大和の番組で東京のNHK放送センターにいると、たまたまその吉田がいて、喫茶室で会った。いくつか疑問を呈すると、吉田は言葉少なく、「あれはノンフィクションで描いたのではありませんから」と答えたという。

 八杉さんは映画「男たちの大和」で、敬礼の仕方など、海軍軍人の所作を指導した。映画の感想を聞くと、「まあ、兵隊の気持ちは出ていたね」

 これまで戦記もの映画といえば、山本五十六ら司令官、指導者が主役をはるケースが多かった。53年公開の映画「戦艦大和」(新東宝)も、士官だった吉田の本が原作だ。「だから今回は『艦底からみた大和』を描きたかった」と元東映のプロデューサーで「男たちの大和」を企画した坂上順さん(73)は言う。戦いを「下から支えている側」から描きたい。いたって地味な烹炊(ほうすい)員(調理担当の兵士=反町隆史)を、主役の一人として登場させたのも、そんな思いからだった。

 佐藤純弥監督(80)も「兵士一人ひとりを見つめる」映画にしたいと考えた。戦時中、親しかった叔父が35歳で徴兵され、一兵卒として満州に行き、シベリアに抑留、現地で病死した。この叔父の無念さを忘れることができない。

 ただ、悲劇の全体を俯瞰(ふかん)する目、客観的、批判的な視点も必要だ。『最期』の中で「負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ(略)日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」という言葉を残した臼淵大尉(長嶋一茂)は、この映画でもはずせなかった。

 ジャーナリストで日銀副総裁も務めた藤原作弥さん(76)が、吉田満に初めて会ったのは72年ころ、日銀の記者クラブだった。当時、藤原さんは時事通信の金融記者、吉田は日銀政策委員会庶務部長で、よく記者クラブに顔を出していた。学生時代に『最期』を読んでいた藤原さんは声をかけ、以降、親交を結んだ。

 藤原さんも、敗戦後、満州から命からがら引き揚げてきた。「生かされてきた」という思いは吉田と共通する。「あの作品は、戦後すぐ、ほぼ一日で書き上げたといわれますから、ディテールに多少問題があっても仕方ない。フィクション、ノンフィクションの垣根を超え、滅びゆくものへの哀惜をこめた、平家物語のような作品といえます」

 映画「男たちの大和」は予想外だったという。派手な戦闘場面が売り物の大スペクタル映画だろう、という先入観があったが、見終わった印象は「戦争を描きながら平和を訴える、静かな祈りのメッセージだった」と話す。

 長年、生き残った大和乗組員と接してきた「大和ミュージアム」の相原謙次副館長(58)も言う。「彼らの多くは、家族にも『大和に乗っていた』とは言わなかった。異口同音に、死んだ仲間に生かされてきた、と言っていました」。自分だけが生き残ってしまった、という罪悪感に似た気持ちを秘めて、その後を生きてきたのだろう。

 大和は乗組員3332人、そのうち生存者は1割にも満たない276人、現在健在なのは10人足らずという。 

◆あらすじ

 鹿児島・枕崎漁港に若い女性(鈴木京香)が現れ、大和が沈没した海域に連れて行ってくれ、と頼む。元大和乗組員だった漁師の神尾(仲代達矢)は、女性が自分の恩人だった内田兵曹の養子と知り、要望を入れ、少年乗組員とともに現場にむかう。近づくにつれ、米軍機の襲来で仲間は次々に倒れ、自分だけが九死に一生を得たあの日の出来事を、ありありと思い出す。

 2005年公開。原作はノンフィクション作家・辺見じゅん(1939~2011)の『男たちの大和』(新田次郎賞受賞)で、辺見は1985年の大和の潜水調査の際、潜水艇に乗り組み、海底350メートルに眠る大和を実見している。この調査は辺見が委員長の「海の墓標委員会」が実施、実弟の角川春樹が事務局長だった。角川は映画「男たちの大和」にも製作として参加している。

 99年の2度目の潜水調査では、艦首の菊の紋章がより鮮明に撮影され、多くの遺品が引き揚げられた。「男たちの大和」の冒頭で、これらの映像が紹介されている。

 大和のロケセットは、広島県尾道市向島の造船所に原寸大で作られた。艦首から艦橋付近までの190メートルの巨大なセットで、撮影後は一般公開され、100万人が訪れる人気スポットになった。また映画公開の05年に、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)がオープン、十分の一の巨大な大和の模型が人気を呼び、映画との相乗効果もあって161万人が入場、地方の施設にもかかわらず、05年度の美術館・博物館入場者の全国1位になった。映画も大ヒット、とりわけ若者層に人気で、観客は400万人を記録した。

ぶらり

 唐の高僧・鑑真の来日を記念する鑑真記念館(電話0993・68・0288)が、本土上陸の第一歩をしるした鹿児島県南さつま市坊津町秋目にある=写真1枚目。鑑真座像や遣唐使船の模型などがある。坊津は中世以降、海外交易の要の港として発展、坊津歴史資料センター輝津(きしん)館(電話0993・67・0171)には、往事の貿易品や朱印状などがあり、来年2、3月には、「戦艦大和-坊ノ岬沖海戦」と題する企画展を開く予定だ。

 東シナ海を一望する枕崎郊外の断崖の上に、平和祈念展望台=写真2枚目=があり、大和を含む第2艦隊の戦没者を慰霊する碑がある。ここで毎年4月、慰霊祭があったが、関係者が高齢化し、慰霊祭は昨年で終了した。すぐ近くの火之神公園は、雄大な景観で知られ、映画「男たちの大和」のロケが行われた。

 今年4月、JR枕崎駅の駅舎が復活=写真3枚目=した。駅移転のため、駅舎が取り壊され、長年、ホームだけだったが、地元の熱意で再建され、「本土最南端の終着駅」の誇りを取り戻した。

 大和を建造し、海軍・呉鎮守府があった広島県呉市に、大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館、電話0823・25・3017)があり、大和の模型や遺品、ゼロ戦などが展示されている。市内には、大和を建造したドック跡や旧呉鎮守府司令長官官舎を復元した入船山記念館など、旧海軍関係の史跡がある。

見る読む

 映画「男たちの大和」のDVDは東映から発売されている。税込みで3990円。

 原作は辺見じゅん著『決定版 男たちの大和』(上下巻、ハルキ文庫)。吉田満の『戦艦大和ノ最期』は各種あるが、講談社文芸文庫版は鶴見俊輔の解説、古山高麗男による作家案内が秀逸だ。大和ナンバー2の副長だった能村次郎の『慟哭(どうこく)の海』は、指揮官から見た記録で、貴重だが、絶版なので図書館か古書店で探すほかない。

─────────────────────────────────

【筆者コメント】 

◆◆無謀な戦艦大和の特攻作戦

─────────────────────────────────

454月日本海軍の連合艦隊司令部と軍令部は、戦艦「大和」を旗艦とする第2艦隊を沖縄本島の浅瀬に突入、座礁させ、沿岸砲台となって米上陸部隊に艦砲射撃を加えることを目的とする「天一号作戦」を発令した。

 しかし、沖縄本島周辺海域に展開する米英海軍の勢力は空母19隻、戦艦18隻、巡洋艦32隻、駆逐艦12隻、その他戦闘機・急降下爆撃機・雷撃機など1633機と、第2艦隊とはとても比較にならないほどの強大な戦力を誇っていた。

一方の第2艦隊には空母も戦闘機も同伴しないため、沖縄への出撃は自殺行為に等しく、沖縄本島の浅瀬に座礁して艦砲射撃を敢行するなど、到底無理な作戦であった。

もちろん、第2艦隊の首脳達も一発返事で受諾したわけではなかった。仮に沖縄へ出撃したとしても、1100機を越える米英空母艦載機の猛襲を突破して沖縄に到達出来る可能性はゼロに等しく、艦隊首脳たちは当初、『犬死にだ』などと猛反発したという。

「作戦」の名に価しないこの無謀な特攻には驚かされる。戦闘機の援護なし・片道の燃料で沖縄戦へ=陸にのりあげ大砲陣地として活用しようというもの。「こんな作戦は成功しない」という意見、理性あるものなら誰もが思ったであろう。この「成功なし」という意見を「1億総特攻の先駆けとなる。後世に巨艦使わずとう海軍へのそしりだけは避けたい」と理屈にもならない意見で葬り去った。

こうして「海軍特攻」「総員死に方用意」が掲げられ乗組員を駆り立てた。吉田満みつる「戦艦大和の最期」には以下のようなエピソードが紹介されている。

ー出撃前夜、戦艦大和では乗組員3332名全員による最後の酒宴が開かれた。

吉田満少尉(1979)は副電測士(レーダー運用担当副士官)として大和に乗り込んでいた。沖縄突入作戦の是非と戦死の意味について議論となった士官たちが乱闘騒ぎを引き起こし、その場に駆け付けた室長の臼淵磐大尉(21歳)がこう言い放ち、乱闘騒ぎを鎮静化させたという。「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。

日本は『進歩』ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずして、いつ救われるか。俺たちは、その先導になるのだ。日本新生に先駆けて散る。正に、本望じゃないか」といった。臼淵大尉のこの名言により、乱闘騒ぎで殺気立っていた士官たちは改めて沖縄突入作戦への決意を新たにしたと言われている。2人の将校の経歴は以下の通り。

臼淵 磐(いわお)

東京・青山出身で、海軍兵学校卒のエリート海軍士官(大尉)。

1944年10月、戦艦「大和」に配属され、フィリピン海戦に参加。

翌年4月7日の沖縄特攻作戦で、持ち場の後部副砲(15.5センチ砲)射撃指揮所に米急降下爆撃機の投下した爆弾が命中し、爆死。享年21歳。 

沖縄出撃前夜、作戦の是非を巡って乱闘騒ぎとなった士官たちに「日本新生論」を説き、騒ぎを鎮静化させたことでも有名だが、実際に日本新生論を語ったかどうかは不明とされる。

吉田 満

東京出身、元戦艦大和乗組員。

1943年12月、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部在学中に学徒出陣で海軍に徴用され、少尉に任官。1944年末に戦艦大和に配属され、副電測士(レーダー副担当士官)となる。(当時21歳)

1945年4月7日の沖縄特攻作戦で東シナ海に沈没した大和から脱出し、生き残りの駆逐艦に救助され奇跡的に生還。

戦後は日銀に約30年ほど勤務し、GHQの検閲に阻まれながらも戦争手記「戦艦大和ノ最期」を1952年に発表する。

しかし、同手記で描かれている、生き残りの駆逐艦「初霜」の乗組員が救助艇にしがみつく大和乗組員の腕を軍刀で叩き斬ったとの虚偽記載に元駆逐艦乗組員から猛反発を食らい、後に八杉氏と対面することになった吉田は「初霜事件」が創作であったことを認める。日銀退社後、東洋英和女学院の理事に就任。1979年9月、56歳で他界。

こうして死者2740人、駆逐艦に救助された生存者300人というまさに悲惨な結果を招いた。特攻というと零戦による特攻が代表的な例としていつも紹介され陸軍海軍合わせて3800人の死者が生まれた。この戦艦大和特攻だけで、その7割の規模の死者を出しているのだ。しかも大和乗組員の証言や「男たちの大和」が描いているように、生き残った者は「生き残り」ではなく「死に損ない」とさいなまされたのだ。こんな大規模な悲劇は他に余りない。

もともと戦艦大和自体、日露戦争時代と同じ「大艦巨砲主義」の産物であった(「その時歴史が動いた」参照)。太平洋戦争時は、「航空主兵時代」=空母と航空機が戦争の主力となっていた。日本海軍も真珠湾作戦やマレー沖海戦プリンスオブウェールズ撃沈で「航空時代」到来自覚していたはず。またミッドウエー・サイパンでも体験したはず。米は計画中の戦艦をすべて空母に変更した。しかし日本海軍の「作戦要務令」=明治以来艦艇中心・航空は補助=艦隊決戦主義が貫かれた。そして防御のためのレーダーの開発、V型信管の開発、暗号解読の立ち遅れなどが生まれた。陸軍よりも合理性あった海軍でも大和は計画段階から反対意見あったが続行することとなった。さらに2番艦の戦艦武蔵の建造も続行した。44年にようやく信濃などの戦艦を 空母にきりかえた。戦艦大和の世界最大の46センチ砲も艦隊決戦かなかったから1回も使わなかったのである。戦艦大和の悲劇は、ここから始まっていたのだ。

─────────────────────────────────

◆◆吉田満『戦艦大和の最期』(口語体)

─────────────────────────────────

 昭和二十年四月、少尉として乘組んでゐた。配置は電測士乙(副電測士)甲は大森中尉。

 二日、大和は、呉軍港の碇泊地最外廓に打たれた二十六番ブイに繋留中。ドツクの整備を待つてたゞちに入渠し、出動に備へて、艦内外部の修理と兵器の増備を行ふ豫定であつた。

 早朝、突如、艦内スピーカー。「〇八一五(八時十五分)ヨリ出港準備作業ヲ行フ 出港ハ一〇〇〇(十時)」

 かくも不時の出港は前例がない。されば待望のときか。

 通信士からは緊迫した信號の動きを傳へてくる。われわれを待つものは出撃のほかにない。

 入渠整備の豫定と稱しての碇泊も、眞實は發動の僞裝であつた。

 あゝいかにこの時を、この時をのみ、期して待つたことか。

 出撃こそその好機。

 また出撃は、晝夜の別も寛嚴のけじめもない猛訓練を一擧に終止させ、そこからわれわれを解き放つてくれる。

◆一

 待望の時。

 米軍が沖繩の一角に上陸してから十日を經ぬころである。作戰はその方面に向ふものに相違ない。

 噂がさゝやかれる――關門海峽を通過し、佐世保か釜山で重油を補給して一路南に向ふか。或ひは、豐後水道を堂々直進するか。――さゝやきはたかまり、ひろがつてゆく――作戰海面はどこか。

 大和に從ふ僚艦は何々。艦隊編成如何。南海に決戰場を求め一擧に雌雄を決するのか。――喧々囂々

 その聲を壓して艦内スピーカーが凛とひゞく。

「各分隊、可燃物ヲ上甲板ニ出セ」

「各自ハ身ノ廻リ整理ヲナセ、終レバ私物ヲ水線下ニ格納セヨ」

「艦内警戒閉鎖トナセ」(浸水および火災防止のため通路のハツチも各室の扉蓋も嚴重に閉鎖する)

「陸上ヘノ最終便(連絡艇)ハ〇八三〇(八時半)ニ出ス」

「艦内閉鎖ハ各分隊長點檢セヨ」

 命令號令が亂れとぶ。

 時が追ひ拔くやうに流れ去る。

 陸上への最終便の短艇指揮を指命され、第一波止場に向ふ。

 全天、薄雲に蔽はれ、海面は煙り、睡るやうな軍港街は全く平生とかはらぬ姿である。

 波止場に着き、所用を達したのち、三度上陸場附近を點呼して、未乘艦者の殘留してゐないことを確かめた。出撃に際して出港におくれゝば銃殺が例である。

 これが俺の足の踏むさいごの土か、ふとそんなことを思ひ浮かべる。

 歸艦後即刻とりこめるため、短艇揚收準備を急がせながら返路を大和に向ふ。微風がこゝろよい。

 大和は外舷をくまなく銀灰色に塗粧した直後で、四周を壓して磐石の如く横たはつてゐる。

 大和に近く投錨した矢矧(新型巡洋艦)から、「出撃準備ヲ完了シ……」と發光信號を點滅させてゐるのがよめる。生氣を匂はすやうにそれは閃いて見えた。

 ひそかに歡聲が湧きあがつてくる。

 すべてたゞこの機に備えて來た、まさにその時。快哉――

 歸艦してもいま更ら身の廻り整理の要もない。そのまゝ出港準備作業にとりかゝる。

 十時、大和はしずかに前進をはじめた。出港は呉軍港内に大和一艦のみ。ひそかな、しかし悠容たる出陣。

 碇泊する僚艦からは、千萬のまなこが無言の歡呼をこめて注視してゐる。それが痛く胸を射る。

 われらこそかれらの輿望を切に擔ふもの。

 一兵にいたるまでも誇らかに胸を張つて甲板に整列する。

 想へば巨艦の、往つてふたたび還らぬ最後の出撃であつた。

 各電探兵器の作動良好を確かめ、分隊長に屆ける。

 つねのごとく途次、訓練を反覆しつゝ周防難に向ふ。

 艦長は幕僚と、艦橋で作戰討議をたゝかはせてをられる。海圖臺のわきには、赤表紙の分厚な書册が置かれ、背文字は太く「天一號作戰關係綴」と讀まれる。

 「天」號作戰とは、回生の天機といふ意味でもあらうか。

 海圖臺には、沖繩本島周邊のもつとも詳密な海圖數枚が用意され、その上に、大和主砲の射程、四十粁(十里)の縮尺目盛に合はせたコンパスが、米軍の上陸地點を中心に弧を描く。かはされる言葉は少いが、コンパスを握る指の爪は、こもる力に白く濁つてゐる。

 薄暮のころ入港して、三田尻沖に假泊する。大和の通過できぬ狹水道を經て先廻りした驅逐艦が、すでに數隻入港してゐた。

 この錨地に結集し一時投錨して、陸上との交通を絶つたまゝ出動の命を待つ。

 僚艦がそれぞれ別個に呉を出港してきたのは、機密保持のためである。

 こゝに戰備を整へつゝ機の熟するのを待つあひだ、しばしの休息に回天の英氣を養ひ、白日の心境に必死の鬪魂を磨かうとする。

 總員集合、令達。戰鬪服裝に身を固めた三千の乘組員は、無氣味な靜肅をたゝえて密に整列する。

 艦長は、本作戰の目的、大和の使命を述べられ、總員の奮起を切望された。

 米機動部隊が近接し、明早朝來襲の算大、との情報が入る。身うちがひきしまる。

 戰鬪服裝のまゝ寢につく。心ははやるが、思ひ切り熟睡する。

 三日、早朝、豫期したごとく米機來襲の報。配置に就く。

 急速出港、第二警戒航行序列に散開する。(警戒航行序列は、各艦の位置を、警戒および防禦に適するごとく定めて航行する對勢をいふ。第一序列はそのうちの防空對勢)。

 スクリユーを廻はす機關は停止させてあるが、不時の來襲に即應するため、機械も鑵も煖めて、ただちに機動出來るごとく待機しつゝ漂泊せねばならぬ。

 出動は米機動部隊の避退後であらう。焦つてはならない。「時」をこそ捉へねばならぬ。

 午前、B29一機が盲爆をおこなつた。中型爆彈一箇を投じたが、損害はない。

 だが寫眞偵察を敢行したのではないか。本艦隊の動向すでに蔽ひ切れぬのか。

 午後、内地の各地が猛烈な空襲にさらされてゐると、情報がしきりに入る。(しばらく待つてくれ、もうすこし……われわれが出撃さへすれば……)心のうちに叫びつゞける。

 日の落ちるのを待つて、昨夜投錨したその同じ錨地に假泊する。

 この非常のときに、數日前卒業したばかりの新候補生五十餘名が、大和乘組の光榮に頬を紅潮させ、大發(木造艇)を横付けに乘艦してきた。そして直ちにいく組かに分れて艦内見學をはじめた。

 かれらが眞の戰力となるのはいつの頃か。

 通信科の敵信班が、米機間の緊急電報をぬすみ、即刻飜譯して、「機動部隊ハ明日一日各地ヲ空襲ノ上、東方ニ避退セン」と情報を屆けてくる。

 いよいよ出撃も近い。

 夜食がなんとうまいのか。

 快的に熟睡する。

 四日、早朝、米機來襲の報。配置につき、出港して漂泊をはじめる。

 年前午後、前日と同樣、滿を持して警戒する。

 驅逐艦「響」が、漂泊中觸雷した。ひそかに米機から投下されてあつた機雷の、作動圈内に入つたものであらう。被害は比較的輕微であるが、鑵に損傷を受けたため航行不能に陷つた。驅逐艦「初霜」が曳航して呉に回航することにきまる。

 艦長から「士氣をいかに振作するかについてはかられる。

 呉を出港してからほとんど緊急配備のため、傳統の猛訓練は止むを得ず中絶されてゐた。三日間の休養により兵員の體力はやゝ恢復したが、あの積日の過勞はなほ挽回されるに至つてゐない。だが訓敵中絶による氣力の弛緩をこそ戒しめねばならぬ。

 艦長は結論を出された。「明日ヨリ警戒配備ノマヽ綜合訓練ヲ強行セン」

 米機動部隊がわが出動を牽制してくるとき、最善をつくしてこれに對さねばならぬ。訓練再開による士氣昂揚。

 夕食後巡洋艦「矢矧」から、第二水雷戰隊司令官が來艦され、司令長官と要談される。作戰の詳細な檢討か。

 艦内、きはめて平穩。

 通信參謀から、「艦隊各艦アテ書類アルユエ二一〇〇(九時)短艇用意セヨ」と命達され、艇指揮の指命を受ける。

 艦橋にのぼると、星なき暗夜に、本日の空襲により炎上中らしい微光が二點みとめられる。遠からぬ陸岸か。

 用命を圓滑に達するため、各艦の假泊隊形、風向風速、潮、海圖を確かめ、手帳にしるして舷門におりた。豫想所要時、二時間半。

 使用艇はなじみの一號大發、艇長は手練の椙本兵曹。

 まさに絶好の夜間短艇達着訓練といふべきか。乘艦當初、今日に備へて連日の黎明達着訓練が。重ねられたことを想ひうかべ、感無量。

 艇長も艇員も終始默々として一語を發する者もない。

 散開して假泊する各艦を一順すると、いづれも暗黒の洋上に、動かぬもののごとく鎭坐してゐる。そこに、つゝしみ睡る無數の毅魂。

 歸還して、任務完了を通信參謀に屆ける。十一時半を過ぎてゐた。

 すでに一點の微光もない。眞の暗夜。

 寢室の机に向つて、一日の電測訓練記録を整理する。終つて瞑目、少時。

 やがて春陽も近い。

 わが迎へる春はいづこの春か。

 五日、午前、砲術長から、電測時訓練に關して照會がある。電探大標的を、「矢矧」に曳航させるとき、射距離、曳索長をいかにすべきか、と。

 昨日の決定に基き、艦内各部の訓練が再開され、綜合應急訓練は熾烈を極める。艦長は徹底的に缺陷を指摘し、反覆訓練をつゞけられる。

 錬度いまだ充分でなく、完全なものは何一つない。艦橋は痛烈な叱聲であふれ、殺氣がみなぎつた。

 午後、米機動部隊避退、の報がとゞく。

 沖繩の戰況に關し大本營發表がある。刻々に切迫の度を加へてゐる。

 胸中に火が走る。

 訓練の合間、艦橋で休憩中「櫻、櫻」と叫ぶ聲。見れば三番見張員が、見張用の眼鏡を陸岸に向け目を當てたまゝ片手をあげてゐる。

 早咲きの花か。

 先を爭つてその眼鏡にとりつき、こまやかな花瓣のひとひらひとひらをまな底に灼きつけようと、瞳をこらした。霞む眼鏡の視界のなかで、この見收めの内地の櫻は、誘ふやうに絶え間なく搖れてゐた。

◆ニ

 一次室(青年士官室)で、戰艦對航空機論がたゝかはされる。戰艦必勝論、絶無。

 夜、五時半頃、突如として艦内スピーカーが、

「候補生退艦用意」

「各分隊、酒ヲ受取レ」

「酒保開ケ」

 と矢つぎ早やに令達する。いよいよ出動準備か。

 候補生の退艦用意はきはめて迅速。完了をまつて一次室に招き別盃をかはす。

 航海士鈴木少尉が乾盃しようとして、盃を手からすべらし、床にくだけ散らした。顏色を失ひ、一瞬悄然とうなだれた。

 不吉な兆しだといふのか、この期に及んで、凶兆におびえるとはどうしたことか、そんな輕悔の視線がしたゝかにそゝがれた。

 だが蔑視する者、貴樣らは何を恃むのか。何に依つて、平靜を保つのか。

 たゞおのれの死に、何か一片の特殊をねがつてゐるに過ぎぬのではないか。異常なものを空に描き、その異常の故の亢奮に縋つてゐるのではないのか。

 われを迎へるものは、まさしく死。あの唯一の、しかもあやまつことのない死にほかならぬ。

 この平凡極まる死を、よく受け入れる用意があるといふのか。

 鈴火少尉とそむしろ眞率に、死の正體に眼覺めたといふべきではないか。

 直觀せねばならぬ。おのれを詐つてはならぬ。

 誰の盃もひとしく微塵にくだけてゐる。たゞこのしばらくを、もろ手に支へてゐるに過ぎない。

 死はも早や眞近に明かにあり、さへぎるものも、のがれるすべもない。

 死に面接し、死を捉へぬばならぬ。死こそ眞實に堪へるもの、いな、眞實を強要するもの。も早や僞る餘地はない。

 いまにして、耳目を掩つて死にむかはうと、酒氣を招かねばならぬとは。

 この俺に缺けたものは何か。この弱さは何なのか。

 甲板士官江口少尉が、出動前夜の最後の無禮講を控へて、なほ精神棒をふるひ、兵の入室態度を叱正してゐる。

 老兵が一人怒聲で叩かれ、眸を殺して魯鈍な動作をくり返してゐる。

 苦痛の表情さへ失つたあの老兵も、一日後のわがいのちを知らぬわけはない。そのことを思ひ浮かべても見ないのか。考へつきて惱み呆けたのか。

 おそらく彼の息子にも年の近い若輩の江口少尉、その氣負つた面貌にあふれるものを、覇氣とよび、軍規ととなへるべきか。

 一次室から、所屬分隊の居住地へ遠征。痛飮快飮を重ねる。

 出撃。斗酒なほ辭せず。

 乘員三千、すべて戰友、一心同體。

 廊下で少年兵に遭ふ。一面識もないが、童顏に、微醺のせいか、紅く稚氣をたゝへてゐる。

 きびしく答禮を返し、身をかはさうとすると、閃めくもの――俺たちの墓場はお互ひに遠くはないのだ。俺たちは、ひとつのむくろ――肩をかゝへて、「お前」と叫んでやりたい衝動を辛うじてこらへる。

 十一時、副長がみづからスピーカーを通じて、「今日ハ皆愉快ニヤツテ大イニヨロシイ。コレデ止メヨ」と親しく、つよく命達された。

 血の氣が顏からひき、肩から腕が痙攣する。叱聲、怒聲がとび散り、ひろがつて壁にひゞく。

 この胸のうちに、疼いてゐたあの心は、はたとまなこをとぢた。

 六日、時、驅逐艦一隻づつを兩舷に横付けさせ、全力をもつて、急速燃料搭載、不要物件卸し方の夜間作業を行ふ。

 月明の夜、出撃の氣は艦内に漲る。

 一時頃、B29一機、大和の眞上を通過。「作業ソノマヽ、對空戰鬪配置ニツケ」の命令。しかし高々度のため發砲せず。

 大和偵察の執拗さに齒ぎしりする。

 二時頃、驅逐艦に移乘して、候補生たちは退艦して行つた。なほゆたかな春秋に富む龍駒を、この決死行に拉致するには忍びない。

 大和乘組はかれら宿年の夢想であつたらう。いま出撃といふこの時に、果たしかけた夢を、なげうたねばならぬかれらの心中を想ひやつた。前途よ、洋々たれ。

 最近に、他の艦船に轉勤の命令を受けてゐたものは、この機會に退艦する。渡された横木の上を驅逐艦に移乘してゆくかれらのまなじりには、さいごの時に戰友と訣れねばならぬ無念さもうかゞはれるが、それを見送る甲板上の眸に浮く羨望の色もかくしがたい。

 こちらは死におもむくもの、かれらはともかく安きに身をかはす者である。

 戰鬪に堪へぬ重患者も退艦をゆるされた。足手まとひである。

 四十を過ぎる程の老兵は如何にすべきか。いくさの用には立たず、その家族の上なども思ひ合はせて、この際死出の旅から免れさせることをわれわれ青年士官は艦長に具申したが、幹部協議の末、一部の退艦がゆるされた。

 かれらを見送る頃、不要物件卸し方の作業も終了する。

 大和は刻々に身を固め、戰ひの裝ひをとゝのへる。

 未明、熱料塔載作業終了と同時に、兩側の驅逐艦の横付けを離す。

 矮小な驅逐艦の重油搭載量はいか程のものか。しかもその提供を受けて、辛うじて大和の巨躯が油でふくらんだ。

 恐らくは艦隊保有量の底をはたいての補給であらう。明日からは驅逐艦の鑵は干あがるか。それらを米機は高空から仔細に偵察してゐる。

 朝、スピーカーは舟出の氣勢をこめて、「出港ハ一六〇〇(四時)、總員集合ヲ一八〇〇(六時)ニ行フ、前甲板」とつたへる。艦内の閉鎖状況が重ねて點檢される。

 異常な緊迫を目前に控へた、一種氣づまりな無聊にいつか落ちこむ。と、「郵便物ノ締切ハ一〇〇〇(十時)」スピーカーが流れる。

 郵便物の締切、何の締切か、俺のこの手で書く文字の終止符。

 氣が進まぬが、皆はげまし合つて家にしたゝめようとする。これが遺筆だと知りつくしてゐては筆が走らぬ。だがこの俺の手の一文字をも心待つ人たち。その心に報いねばなるまい。しかし――母の悲しみをどうしたらいいのか。ひたぶるに、はてもなく悲しんでくれる母。さうにきまつてゐる。この歎きを、先立つ俺が少しでも慰めてあげるすべがあらうか。いささかでも、この身に代つて背負ふすべもあるといふのか。

 ない。ないのだ。ないとすれば、何一つお返しもせずに先立つて死に果てるとの俺の不幸を、どうして詫びたらよいのだ。いかにして報いたらよいのだ。

 ――いな、おもてをあげよ。涙をぬぐへ。俺はも早やたゞ出陣の戰士。すでにあるは戰のみ。母を想ふな。打ち伏すおくれ毛を想ふな。

 たぐひなく勁い肉親の愛は尊からう。がそれにつきない。より大いなるもののために斷ち切るとき、いやまさる眷戀の情は、さらに尊ぶに値しよう――

 わが身を鼓舞しつゝやうやく筆を進める。「私のものはすべて處分して下さい。皆樣ますますおげんきで、どこまでも生き拔いて行つて下さい。そのことをのみ念じます」これ以上、書くことばもない。

 ――あゝ、これをよむ人、母上、そこひもない嘆き。泣かれもしよう、喚かれもしよう。私は、默つて、俯して、死んでまいります。いまはこの死が、實りゆたかなものであることを、願ふのみです。幸ひ私の死がそのやうにめぐまれたものであつたら、どうかよろこんで下さい。祝つてやつて下さい。私はたゞ、ひたすらに死の途を歩みます。

 讀む人の心の肌にふれる思ひで、よみ返すことができず、郵便箱に押し入れると、私室をのがれ出た。

 これで、あの親しい人たちと俺とを、うつし世に結ぶ一切のものは失はれてしまつた。俺はいまそのことを知つてゐる。あの人たちは知らない。

 だがいつの日かは知られるだらう。

 知り給ふ日、この身はすでに亡いとすれば、も早や再び、あの人たちと心ふれ、魂を合はすことは出來ぬのか。

 一次室に集合し、恩賜の煙草、酒保の支給を受ける。

 哨戒直や航海科の當直員にあたつてゐて、いち早く配置に就く者がある。かれらはいづれも純白の風呂敷に清裝一揃へを包み、軍刀をひつさげて閾に立ち、踵を揃へて默禮すると、身をひるがへして去つてゆく。

 見送る戰友の口から、「げんきでやれよ」「貴樣らしく死ね」、と餞けのことばが飛ぶ。怒つたかれらの肩は、この荒つぽい別辭を浴びて消えていつた。

 血肉をわけ合つたほどに交りの濃い戰友たち、その訣れにも、肩を叩いたり手を握つたりする者はない。一見固いこの一瞬の底にこそ、かけがいのない者との訣別にふさはしい、何かが流れてゐるのであつた。

 前後二回、B29一機づつの高々度偵察。

◆三

 午後、出港準備作業。ゆくてに入港を約束せぬ出港である。

 身の廻り品を、定められた配置、前檣(前部のマスト)頂上に近い上部電探室に置く。これよりいかなることがあつても、配置を下ることはない。

 兵器の作動、極めて良好。

 大軍艦旗は翩翻とひるがへつてゐる。

 大和はほゞ戰鬪準備を完了した。

 四時、出港、旗艦「大和」第二艦隊司令長官坐乘。これに從ふもの、九、「矢矧」「冬月」「涼月」「雪風」「霞」「磯風」「濱風」「初霜」「朝潮」

 日本海軍最後の艦隊出撃であらう。選ばれた十隻。

 哨戒直に立つ。艦橋(艦の心臟且頭腦)に勤務して、艦内各部の見張員を掌握し、その報告を取捨選擇して、艦長以下の各幹部に復誦し直結するのを任務とする。

 左に司令長官(中將)、右に參謀長(少將)、新參の學徒兵として、この身の幸運を想ふ。

 原速(十二ノツト)で悠々豐後水道を直進する。

 矢は弦を放たれた。

 六時、總員集合。最後の總員集合であらう。

 散れば二度と會することはない。たゞ渾然の氣魄に結ばれるのみ。

 大和は舷側に横波を蹴立ててひたすらに進む。左右の僚艦の艦尾を噛んで白波が數條耀く。いまこそわれらを貫くひとすじのものが、この潮流をおかして驀進する。その途はわが生の有終を飾るべき場、また必定の死につらなる場でもある。

 作戰がすでに發動したため、艦長は指揮所、艦橋を離れられることがない。副長が代つて、聯合艦隊司令長官から艦隊に宛てた壯行の詞を達せられる。本作戰をして戰勢挽回の天機となさん、と。

 君が代奉唱。軍歌。萬歳三唱。

 清明な月光、遙かに仰ぎ見る前檣頭、いまさら何をいふことがあらうか。

 解散して、一番主砲右舷のハツチを下りようとすると、前方の錨甲板に佇む士官をみとめた。月に冴えた頬に、濃く影を落とした太い眉、森少尉である。闊達な人柄と艦内隨一の酒量できこえ、またその美しいいひなづけを以て鳴る彼。

 暗い波間に投げてゐた眸をこちらに返すと、耳元に口を近づけて怒つたやうに言ふ。「俺は死ぬからいゝ。死んでゆく奴は仕合はせだ。俺はいゝ。だがあ奴はどうするのか、あ奴はどうしたら仕合はせになつてくれるのか。……きつと俺よりもいゝ奴があらわれて、あ奴と結婚して、そしてもつとすばらしい仕合せを與へてくれるだろう。きつとさうだ。……俺と結ばれたあ奴の仕合はせはもう終つた。俺はこれから死にに行く。だからそれ以上の仕合はせをつかんでもらうんだ。もつといい奴と結婚するんだ。その仕合はせを心から受ける氣特になつて欲しいんだ。

 俺は眞底悲しんでくれるものを殘して死ぬ。俺は果報者だ。だが殘された奴はどうなるのだ。いい結婚をして仕合はせになる。俺はそれが、それだけが望みだ。あ奴が仕合はせになつてくれたとき、俺はあ奴のなかに生きる。生きるんだ。だがこの俺の願ひをどうしてつたへたらいゝのか。別れてくるとき、自分の口からもくり返し言つた。それからも、何度となく手紙で書いてきた。俺を超えて、仕合はせを得てくれ、それだけがさいごの望みだと。……しかしそれをどうして確かめるのだ。あ奴が必らずそうしてくれると、何が保證してくれるんだ。祈るのか。祈らずにをれない、この俺の氣持は本當なのか。たしかなのか。そして、たゞ祈るだけでいゝのか。自分を投げ出して祈ればそれでいゝのか。どうかあ奴にまできこえてくれと、腹の底から叫ぶしかないのか」

 あらいその聲に涙はない。涙のゆとりはない。彼は切願のあまり、眞實怒りにせきこんでゐる。

 怒りを吐きつゞける彼、うなづきつゝことばもない自分、この二人を蔽ふものは、これが見收めの澄んだ月空。二人の足を支へるものは、今夜かぎり二度と踏むことのない、堅い大地のやうな最上甲板の觸感。

 いひなづけの方、あなたはこよなき愛を獲られた。

 彼の全心こめた祈りは、きゝいれられるだらうか。ききいれて下さるにちがひない。

 彼は怒つたまゝ口を結び、凝然と波頭にみ入つてゐる。漆黒の波間に、はかなく、またたくましくくだける銀白の波頭。

 この目に涙が滲んできて、顏をそむけた。風が頬の涙をつめたく吹き過ぎる。

 好漢森少尉、あすは貴樣も天晴れのはたらきに散り果てるか。

 立ちつくす彼の肩を突き放すと、「ハツチ」に走りより、ラツタルを駈けおりた。

 も早やすべては定まつてゐる。いかにせんすべもない。かれは祈り、ひたすらに祈るだらう。そして散華する。その人が祈りにこたへる。そのやうにしかならぬ。ほかに途はない――

 なにか憤ろしく、床さへ踏み拔きたいもどかしさで走りつづけた。

 たゞちに配置に就く。

 艦橋で作戰談をきく。本作戰は、沖繩の米上陸地點にたいするわが特攻機の攻撃と不離一體の作戰である。過量の炸藥を裝備した鈍重な特攻機にとり、優秀な米戰鬪機の邀撃はまさに致命的である。だが尋常ならばその猛反撃は必至であり、特攻機攻撃は挫折する確率が大きい。そこでその間米迎撃機群を吸收して、その方面を手隙にするための囮が他に必要となる。それは多くを吸收するための魅力と、長く吸收するための對空防禦力を備へたものでなければならぬ。大和こそ最適の囮とみとめられ、その壽命を長引かせるために、九隻の護衞艦が選ばれたのであつた。

 沖繩海面は一應の目標に過ぎず、眞に目指すところは、米精鋭機動部隊の集中攻撃の標的であつた。したがつて全艦とも燃料塔載量は辛うじて往路をみたすのみで、いかにして歸還するかはまつたくかへりみられてゐない。敵地に向けて發進するふねが往きの然料しか持たぬ、これは勇敢といふよりは無暴であり、むしろ自暴自棄である。

 だが萬一沖繩上陸地點に到達しえた場合の積極作戰も、もちろんもくろまれてゐた。大和の主砲による上陸軍の攻撃である。砲彈最大限が滿載され、そのうち徹甲彈(通常艦船撃沈のために用いられ貫徹力大)をもつて輸送船團の潰滅、三式對空彈(航空機撃墜用のもの、彈片はいちじるしく細分しくまなく四散する)をもつて人員の殺傷が期せられた。

 すなはち、まづ全艦突入の對勢により、身をもつて米海空勢力を吸收し、特攻機奏功のみちをひらく。命脈あれば、さらにたゞ突進、敵の眞只中にのしあげ、全員火となり風となり全彈打ちつくす。もしなほ餘力あれば、一躍して陸兵となり、つひに黄土と化する。

 世界海戰史上、空前絶後の特攻作戰であらう。

 はたしてその成否如何。

 士官のあひだにはげしい論戰。わが航空兵力はどれだけあるのか。恐らく零に近いものではあるまいか。

 必敗論が壓倒した。

 大和の出動が當然豫期される諸條件の符合、米軍のこれまでの愼重極まる偵察振り、情報にあるごとく沖繩周邊に待機する優秀かつ大量の機動部隊群、皆無にもひとしいわが制空力、提灯をさげて暗夜をゆくにも劣る情勢といふべきか。

 まづ豐後水道で潜水艦魚雷に傷付くか。あるひは途半ばに航空魚雷に斃れるか。(青年士官のほゞ一致した結論となつたこの豫測は、あまりにも鮮やかに的中した。)

 必敗を根據づけようとする痛烈な作戰討議をかたはらに、哨戒長臼淵大尉は、薄暮の洋上に眼鏡を向けたまゝ低く囁くやうに言ふ。

「進歩のないものは決して勝たない。負けて目ざめることが最上の途だ。日本は進歩を輕蔑してきた。わたくし的な潔癖や徳義にこだはつて、眞の進歩を忘れてゐた。敗れて目ざめる、それ以外にどうして日本が救はれるか。いま目ざめずしていつ救はれるか。俺たちはその先導になるのだ。新生にさきがけて散るのだ。」彼、臼淵大尉の持論である。

 何故日本は負けねばならぬのか、何故俺たちはこのやうにして死なねばならぬのか、この問ひは若い士官たちのあひだに毎夜のやうに持ち出され、時には夜を徹してつきつめた口論が沸騰することもあつた。

 第一線に來て見れば、艦隊の敗戰の状はすでに蔽ひ難く、決定的な敗北は單なる時間の問題に過ぎず、大和に乘組むおのれのいのちもまた旦夕に迫つてゐることは疑ひ得ない。何がもたらす敗北か。何の故の出陣の死か。この敗戰、死は何をあがなひ、いかに報いられるのか。これは執拗に解決を迫る設問であつた。

 敗戰の救ひへの先導、臼淵大尉のこの結論には、それを裏付ける論據と實踐が用意されてゐた。彼は大和きつての勇猛な指揮官であり、總員の士氣をほゞその掌中に握り、かつもつとも俊敏、もつとも進歩的な砲術士官であつた。

 艦隊の先鋒はやうやく水道の半ばを過ぎた。これより敵地に入る。

 潜水艦に對する電波哨戒を始める。徹宵哨戒とならう。

 電探室は、兵器の熱源に蒸せかへり、人いきれに息苦しい。當直には非番の兵四名が、暗い一隅に折重なつて眠つてゐる。

 かれらの肉體はなほどれだけのいのちを保たうといふのか。數時間か、また十數時間か。

 泥のやうに朽ち果てて、そのことも知らぬげに無心に睡り呆けてゐる。すでに疲勞があまりに重いか

 當直員四名は、愼重緊密な探信を行つてゐる。平靜で、訓練時と何ら變らぬ。

 かれらの一擧一動はいま刻々に艦隊を率いつゝある。その運命を導きつゝある。あの終りもないかに思はれた至烈の訓練の成果を示すのはたゞこの時。

 その躯間に漲る生氣、眉間にほとばしる嬉々とした自負、胸中は、傲りを知らぬ集注に充ちみちてゐるのであらう。めぐまれたかれら。

 逆探が潜水艦らしいものを探知した。電探を同方向にむけるとやはり微感度がある。(米艦の輻射した電波をまづ逆探によつて捕捉し、その方向に間歇的にわが電探を指向してこれを確かめる。はじめに電波を輻射してわが所在の探知されるのを防ぎつゝ、米軍の動向を逸早く捕捉するためである)。

 潜水艦は一乃至三方向から終始觸接してくるごとくである。魚雷發射を覺悟せねばならぬ。

 もとより夜間のため視覺兵器は無用。同方向に水中聽音機を指向し、魚雷發射音に備へる。發射音をきけば、音高、音速、音向にしたがつて魚雷をかはす。

 通信科の敵信班が、サイパン宛敵緊急電話を傍受した。暗號文でなく平文で、「大和以下十隻、基準針路何々、速力何ノツト……」 わが足跡を詳細に報告しつゞけてゐる。豫期したところではあつたが、すでに周到極まる觸接が開始されてゐる。

 十一時四十五分、艦橋勤務立直の十五分前、艦橋當直に立てば、電測士甲、大森中尉と交代し電測距離を報告する。

 電探室の張り詰めたカーテンを押しひらき、烈風に吹きつけられるまゝ、一歩一歩ラツタルをのぼる。

 暗雲が月を蔽ひ、いよいよ濃密を加へた視界に一點の光源もなく、無際限の闇黒あるのみ。

 この身は飜弄されて紙のやうにラツタルに纏ひつく。

 ――待て。こゝでさいごの家郷禮拜をしよう。絶好の機會だ。この機を失したならば二度とその機會はあるまい。一人でも目にふれる人があると、神聖をけがすやうで氣が進まぬからだ。あす、日がのぼつてからではおそい――よく氣がついた。ありがたい。

 針路から家郷の方向を推定して正對し、手摺をにぎりしめ頭を垂れた。手摺の鋲の肌が掌に密着してつめたいが、掌のうちはやゝ汗ばんで温い。

 父、母、姉、そして一年前陣沒して今は亡き兄、はつきりとわがみ前に立ち給ふ。

 數々の瞳、面差しが、網膜をよぎつて消える。短いわが生涯に、忘れがたい人たち。

 それらすべての姿は、眼界を蔽ひ、身近くまのあたりに拜せられた。「ありがたうございました」唇が思はず呟きをくり返す。唇は間歇して痙攣を刻んでゐる。

 この我がまゝな幼い自分を、よくもゆるして交はつてくれた方たち。身にあまる御厚意と庇護、そして鞭撻――

 私はいま死んで參ります。たやすい死の途をめぐまれました。死ぬ者は安樂におもむく者です。だがあなた方は、あすからの日々を、いかに耐へいかに忍ばれるでせうか。その艱苦、私などのはかり知るところではありません。

 しかしそこに、ひとすじの光りを希ふことを私にもおゆるし下さい。忍苦の途からひとりのがれてゆく私はまことにふさはしくないけれど、なほ一掬の祈りを汲ませて下さい。あなた方のゆく手には歡びこそ、新生のさちこそありますやうにと――

 いつまでこのやうな陶醉にひたることがゆるされよう。あゝわが知り得た、浴しえた、至幸のとき。

 吹きつのる突風が、片々のこの身を艦橋に吹き入れた。

 艦橋は、鈍い無明のうちに殺氣をはらんでゐる。人の動きはほとんどなく、それぞれのかすかなかたちが影繪のごとく固着してゐる。二十名にあまる士官、下士官、傳令兵が、所要の位置に根を据えてみづからの任務に沒入してゐる。その充實感があふれて息苦しい。

 夜間の識別の便のため、艦内帽の後部に、長官は「シチ」、艦長は「カ」、副長は「フ」と小型の螢光板をつけてをられる。その淡光があたりを領してたのもしいが、わづかに動くと、夢幻のなかの文字のやうに美しく、むしろ微笑ましい。

 あすこそは戰ひの日。ひたすらに、悔いなき戰ひを戰はう。

 いまや虎穴に入らうとしてゐる。

 つひに魚雷發射音をきかぬまゝ、接岸航行に移つた。のちに一擧に航空魚雷を以て屠ることを期してか、潜水艦は偵察を行つたのみで、これまで魚雷攻撃を控へてくれた。意想外のことである。

 水道はやうやく陸岸も高く海邊も深い箇所にさしかゝり、この場合夜間潜水艦にたいしもつとも安全な接岸航行がとられた。

 暗夜のため視界はきはめて狹く、坐礁の危險を防いで陸岸までの距離を愼重に電測しつゝ、極力接岸をはかつて進む。(大和裝備の電測兵器によれば測距の誤差は五十米を出ない)。 

 突入完了まではすべてこのやうに細心周密でなければならぬ。大事の身である。

 大和はもとより攻守の中心勢力。陸測距離を逐一艦橋で報告しながら、この身の重責を思ひ、息をひそめてたかぶりを抑へる。

◆四

 七日「黎明、大隅海峽を通過し、西南進をつづける。

 大和は、塔載してきた〇式水上偵察機一機をカタパルトで射出し、鹿兒島基地に避退させ、むざ/\海底行きの道伴れとなることを防いだ。

 艦隊上空に一機の味方直衞機もない。水上特攻艦隊は一切の空軍援助から見放された。その後二度と味方機を見ることはなかつた。

 だがよし、なけなしの三百や五百の戰鬪機群が出動してゐたとしても、延べ三千機の壓倒的猛襲を前にしては、空拳のあはれさをのこすにとどまつたであらう。

 日の出と同時に潜水艦は電探の感度から消え去り、交替に、マーチン偵察機が觸接をはじめた。艦隊對空砲火の射距離限度附近を巧みに旋回しつゝ追躡をつづける。折を見て發砲すると鮮やかにこれをかはし、ふたたびやゝ近接して追躡をつづけてくる。

 對空用の電探が活躍をはじめた。觸接機の程度の距離のものは、もちろん一機ものがさず、刻々に測距、測角を報じてくる。雲高が低く視界は極端に不良で、對勢は全く不利であるが、觸接機の動靜は手にとるやうに知られる。

 だがその觸接の何と巧妙なことか。天候を利して雲間に隱顯しつゝ追躡をつづける。

 編隊右翼の「初霜」が落伍しはじめた。「ワレ機關故障」の旗旒信號が掲げられる。艦影は次第に遠ざかり、無電は急速修理中の旨をつたへてくる。

 脱落か。凄慘な豫感が背筋をはしる。

 幕僚の動きや、信號の授受はやゝ活溌だが、艦橋はいつたいに極めて平靜、嵐の前の靜けさといふのがこれか。

 朝食。電探室前のラツタルを攀ぢのぼり、電波輻射用ラツパの臺上に出て、顏を潮風にふかれながら握り飯を頬張る。さいごの朝食であるだけに、なにか大空にじかに包まれながらたべて見たい氣特に誘はれたのであつた。

 電探名測手の片平兵曹をよび、膝を接してたべはじめる。母の乳をはなれて朝めしというものをたべはじめてから、けふまでそれを何度重ねただらうかなどゝ、こころ愉しく數へて見たりする。朝飯といふものとももう縁がなくなる、そのことがおかしいことでもあるやうに、笑ひがこみあげてくる。

 だが片平兵曹は、默々と急いでたべおはり、するどく會釋して臺を下りて行つた。こめかみからひたひにかけて、孤獨になりたい焦燥の色がありありとうかんでゐた。

 彼には郷里に懷姙中の妻がある。しかも待ちこがれた初ひ子である。彼はつひにわが子にひとめふれることもなく散り果てるであらう。そのことはも早やうごかしがたく定まつてゐる。

 しかしひとを避けるのはなにゆえか。――士官は手紙の檢閲を通じて部下の下士官の懷情をくま/\まで熟知してゐる。自分より年下のしかも獨身の士官の口から、萬一慰藉のことばでもきかされはせぬかと、それをおそれたのではあるまいか。

 陰性潔辟な彼らしい。だがその偏狹な苦辱の眸のまゝに朽ちるとき、妻のうちによみがへることもかなはぬことを彼は知らぬのか。

 一方わが死を悲しみくれるものは骨肉のみ。彼のごとくに、死にぎわに心を閉ぢさせるほど斷ちがたい糸もない。愛戀の火の燃えるものもない。

 これは幸ひといふべきか、不幸といふべきか。

 散つてうづく嘆きをのこす苦しみと、ただ骨肉の嘆きに送られる安らひと、いづれが生甲斐に價するものか。

 思ひふけりつゝうつろにひらいた瞼は、眠りを求めて熱を含んでゐる。涼風が痛い。

 朝の日がにぶく黄光を波頭に照り返して眩ゆく、それがまたこころよい。まばゆさに吸はれてまなこをとぢると、涙が滲んでくる

 海はあくまで青く、重い波が舷側を打つ。

 九州の最南端の陸岸はすでに艦尾方向に消えた。ふたたび内地を肉眼に見ることはないであらう。刻々に離れて、ただひたすらに離れゆくのみ。

 一點の島影もない。基準進路二百五十度。

 日本の船團と遭遇する。數隻の小輸送船團。どこから還つてきたのか。

 内地ももう間近い。霞む船影、疲れ果てた船あしに、かれらの傷ましい勞苦を想ふ。こゝに辿り着くまで、どれほどの犧牲が拂はれたことか。

 大和に向ひ、「御成功祈ル」と發信してくる。微笑が艦橋に溢れた。

 辛うじていのち永らへ老人が、死裝束の血氣の若者に送る餞けのことば。だがその期待に、われわれはそうことができようか。

「初霜」がいよ/\視界外に遠ざかりつゝある。單獨で脱落すれば米機の集中は必至。これを拾ひあげるため、やがて豫定の變針點に達したとき、反轉して「初霜」の位置まで逆行し、編隊に組入れ、のちふたゝび豫定針路に變針することに一決した。

 九時頃、上部電探(對艦船用)室にゆく。大和は、たま/\艦隊の當直は非番。(十隻を二直に分け、交互に當直に立つて電波哨戒を行ふ)兵たちは勤務から解かれて、默々と配置に坐つてゐる。

 老兵は背を曲げた姿勢で、ぶざまに蹲り、青黒い顏に苦澁をたゝへてゐる。太て/\しく死によりかゝつた投げやりとも見え、また死に打ちひしがれた困憊とも見える。

 數々の悦樂がすべてわが身に喪はれることをかこつてゐるのか。あすから妻子に訪れる難澁の日々を歎いてゐるのか。――叱る氣持も起らぬ。

 恩賜の煙草をくばる。ポケット、ウイスキーをのみ廻はす。

 班長宮澤兵曹は、顏もあげず、「兵器の調子は完璧です」といふ。彼は、結婚四日目にはからずも出撃を迎へたのだ。

 ひとのいいのろけ振りでよく笑はせた彼。

 だが出港以來その精勵さはますます加はり、度を過してすさまじい。少憩中も兵器の調整を怠らぬ。

 勤務をゆるめてふとわれに返る一瞬の空漠が、堪へがたいのだらう。

 傳令が嬉々として、「吉田少尉、今日の夜食は汁粉です」といふ。主計科の兵隊にでもきいたものか。かわいゝ糸切齒を見せて、いさゝか手柄顏。

 彼には班長のことばに出ぬたゝかひも、老兵の心痛も全く意中にない。たださいごの夜食がもつとも人氣のある夜食であることが、そしてそれを誰にでも知らせてよろこばせてやることだけが、重大關心事である。そしてその先にある死は忘れ去られてゐる。――だが突入は今夜半の豫定。夜食まで無事ならば作戰の成功は疑ひない。そのときの汁粉はどんな味がするか。

 九時四十五分、哨戒當直に立つ。自分が大和最後の哨戒直とならうとは、思ひも設けぬこと。

 暗雲はいよ/\低く驟雨がある。視界は局限され、哨戒至難、當直の任務もつとも重大である。

 頬が引きつれる。緊張のあまりか。

 艦橋中央の羅針儀臺に突つ立ち、眼鏡を握りしめる。各部と通ずる傳聲管の蛇口や、夥しい電話機の巣にかこまれ、蹠の痛むまでゆかの格子を踏む。

 對潜哨戒を嚴にする。眼鏡による捕捉は不可能に近い。

 變針して、南進をつづける。沖繩海面に向ふことを隱蔽するため、當初はむしろ西進し、やゝ迂回して南下するコースが選ばれた。その南下直進の針路に入つたわけである。

 晝食は戰鬪配食。片手に皿、壁に倚りかゝつて氣ぜはしい食事。

 最後の飯の味か、(夕食時までこの餘裕が保てるとは思はれぬ)誰もそんな豫感に刺されつゝも、心のこもつた首途のこの銀飯(白米飯)をくふ。さつぱりとしてうまい。

 湯呑になみ/\とつがれた熱い紅茶をすゝる。それはあたゝかく身うちにふれて腹に泌みた。胸のおくに疼くもの。

 食後、艦長を中心に和氣藹々、歡談がかはされる。突然艦長が、「電測士」とよばれる。

 艦長「貴樣は一人息子だつたな」

「さうであります」

「後顧の憂ひなしか、どうだ」(出港數日前、この擧を豫期して家庭の状況を全員に問はれた。後顧の憂ひなし、と私は答申した。)

「ありません」

「本當にないか]

 うなづくも打ち消すもならず、ただ炯々の眼光に一閃たゝへた悲愁の色を直視した。

 勇猛と技倆を以つてうたはれた名艦長が、士官の末輩に至るまで、その身上をいかに知悉してをられたか。いまにして初めて知つた。――「本當にないか」と念を押す、その聲音、こちらが答へられぬと見て、ひときはしみ入る眼光。

 鋭氣俊敏の參謀たちのまなざしも、柔和の光りがうかがはれた。ただ滿腹の倦怠と安堵だけではない。數歩をへだてずに死にゆくわれら弟たちに寄せる、肉親にも近いいたはりのかげであつた。

◆五

 十二時、征途の半ばに達した。

 長官は左右を顧み珍らしく破顏一笑「午前中はどうやら無事にすんだな」

 十二時二十分、電探が大編隊らしいもの三目標を探知する。後部對空電探室から、室長長谷川兵曹のいつも變らぬしづかな濁み聲が流れるやうに測距測角を報じてくる。

 いまゝで無數にくり返された訓練目標射撃に、これと同じ状況、同じ對勢、同じ調子の探信がどれだけ行はれたか分らぬ。今のこの事態こそ、これこそ紛れもない實戰なのだと、自分に承知させるのに骨が折れる。

 目標發見。ただちに艦隊各艦に緊急信號が發せられる。

 スピーカーがその旨を達しをはると、艦内はさらに靜肅の度を加へた。じーんと重い緊張。

 對空戰鬪迫る。探知方向にたいし各部の見張を集中する。

 十二時三十二分、二番見張員の蠻聲「グラマン二機、左二十五度(方向角)、高角八度、四〇(距離四千)、右ニ進ム」

 肉眼捕捉

 ときに雲高は千乃至千五百米、機影發見は至近に過ぎ、照準至難、最惡の對勢。

「今ノ目標ハ五機……十機以上……三十機以上」雲の切れ間から大編隊が現はれ、大きく右に旋回。

「敵機は百機以上、突込んでくる」叫ぶ聲は航海長か。

「射撃始メ」艦長下命。

 高角砲二十四門、機銃百五十門、一瞬砲火を開く。護衞驅逐艦の主砲も一齊に閃光を放つ。

 戰鬪開始。招死の血戰は火蓋を切つた。

 われは初陣。

 肩の肉が盛りあがり躍り出さうとするのを抑へつゝ膝にかゝる重量をはかり、この身は昂奮にたぎりつゝみづからのたかぶりを眺め、奧齒を噛みならしつゝ微笑みをひたひにたゝへる。

 壓倒する騷音のうちに、身近かの兵が彈片にたをれその頭骨が壁を叩くのをきゝ分け、瀰漫する硝煙のうちにその血の匂ひをさぐる。

「敵は電爆混合」甲高い聲。

 編隊の左外輪「濱風」がたちまち赤腹を出す。艦尾を上にして逆立つ。轟沈まで數十砂を出ない。ただ一面に白泡をのこすのみ。

 雷跡が水面に白く針を引くごとくしづかに交叉して迫つてくる。その目測距離と測角を回避盤に睨みながら、艦を魚雷方向と平行に持つていつてぎり/\にかはす。要は見張と計算と決斷だ。

 艦長は最高部の防空指揮所、航海長は艦橋、二者一體の操艦。

 艦長の號令が傳聲管を貫いてわが耳を聾するばかり、語尾がわれて凄まじい怒聲だ。

 爆彈、機銃彈が艦橋に集中する。

 大和は最大戰速(二十六ノット)を振りしぼり、左右に舵一杯をとりつゝ必死に回避をつづける。さすがに艦内の動搖震動は甚しい。

 あはや寸前に魚雷をかはすこと數本。つひに前部左舷に一本をゆるした。

 敵來襲の第一波が去つた。

 傾斜はほとんどないが、後部副砲射撃指揮所附近に直撃彈二發。

 米機はすべてF6F及びTBF。爆彈は二十五番か。(二百五十キロ)

 雷跡は相當顯著だが雷速は從來に比しやゝ速いか。(航海長)

 襲撃はきはめて巧妙、避彈の巧緻、照準の不敵、恐らく全米軍切つての精鋭に相異ない。(參謀長)

 長官は默然と腕を組み微動もせず、參謀長は温顏をほころばせ、虚心に敵をたゝへる。

 航海長、左右をかへりみて莞爾「たうとう一本當てちやつたね。」こたへて笑ふものもない。

 擔架が死體三箇を艦橋から盜むごとく運び去る。機銃彈の彈瘡によるもの。

 それをまたぬすみ見るわが失態を愧ぢ憤りつゝ、一抹の憫情がおのれをあはれむごとく湧きかへるのをどうすることもできぬ。

 測的分隊長傳令、「後部電探室被彈、直チニ被害ヲシラベ報告セヨ」

 後部電探室被彈か。たま/\哨戒直に當つてゐなければ俺は當然そこに配置してゐたのだ。同室勤務の童顏大森中尉、温厚長谷川兵曹、そして部下の誰かれの顏がさつとまな底にうかぶ。

 艦橋後部のラツタルを驅けおりようとすると、手摺右の鐵壁に喰ひ入る肉一片。肱で彈いてゆき過ぎる。

 信號科の下士官が旗甲板から「雷測士、そとは機銃彈でとてもいかんです」と叫ぶ。その叱聲が彈雨の間にち切れて耳を刺す。

 犬死するぞ、と氣づかつてくれたのだ。

 ありがたう。おもてを向け手をかざして、「了解」の意をあらはす。だがそれに反應した動作に移る餘裕はない。

 俺には任務がある。いな。わが身に代つて戰友のあまたが果てたかも知れぬ。危急に驅せる責務があるのだ。

 ラッタルを滑り落ち、硝煙が鼻を衝くうちを走る。手摺にひどく擦りつけた掌の、皮のはげたところが燃えて痛い。

 すぐそばの機銃指揮塔に胸から上をあらはして立つた士官がたま/\振り向く。こちらは走りながら視線がぶつかる。同期の高田少尉。鐵兜をま深くかぶり、淺黒い顏をほころばせて、「げんきでやれや」と喚きながら鞭を振つてくれる。

「オウ」突嗟にこたへて走り過ぎたが、これが大阪ものの、あの善良な高田少尉の見收めとならうとは。

 煙突の下部附近を驅け拔けようとして、助田少尉に遭ふ。白鉢卷から血糊二本をしたゝらし、杖にすがり辛うじて歩いてくる。彼の配置は後部副砲射撃指揮所、直撃彈二發の中でいかにして爆死を免れたのか。唯一の生存者か。

 日頃人なつこく柔和な彼も、鋭い一瞥を投げたのみ。小柄の、雨衣も裂け散つてゆがんだ肩の、うしろ姿が痛々しい。思はず默禮してたゝずみ、氣をとり直して急ぐ。

 電探室前に走り寄つたが、ラツタルの跡形もない。止むなくロープを下ろして滑りおりる。

 堅牢安固の電探室が、眞二つに裂け、上半分は吹き飛んでない。整備に整備を重ねてけふの決戰に備へて來た兵器は、四散して殘骸もみとめられぬ。部品の殘滓さへない。

 朽ちた壁に叩きつけられた、ひとかゝへ大の紅い肉塊。手足や首などの、突出物をもがれた胴體。――あたりにはじかれた四個の肉塊をかゝへて來て前に並べる。

 他の八名は全く飛散して屍臭さへ漂はぬ。何といふ空漠。

 焦げた爛肉に點々と軍裝の被布らしいカーキ色の屑がはりついてゐる。脂臭が芬々と鼻をつく。首や四肢の附け根の位置を確かめ得ぬどころか、四箇の死屍のあひだに何らの判別の手がゝりさへ見出せぬ。ただ芯が燒けて手ざはりも粗い赤肌を撫でまはすのみだ。

 これがあの戰友部下の若い肉體と同じものか。この肉塊はただ、その時を經て變り果てた姿に過ぎぬのか。――信じられぬ。訝しい。

 悲憤でもない。恐怖でもない。ただ堪へ切れぬ不審感。

 ときに脛に無氣味にひびきながら、艦尾方向から押しつぶすやうな音波が押し寄せてきた。顏をあげれば左後方から第二波の來襲。

 俺には艦橋勤務がある。俺の死場所はこゝではない。

 すでに被爆の衝撃もある。やがて彈雲が蔽ひ包むのだ。

 頭を下げ片手を手摺にふれながら狂氣して走る。一切は眼中にない。

 前檣直下のラツタルに躍りあがらうとする瞬時、網膜の周邊が緊張すると、あの機銃指揮塔が片影もない。煮湯を呑む思ひで首を曲げ、まなこをくりあけてみつめたが、深くえぐられたあとには、ただ濛々と白煙が逆卷くのみ。

 一瞬に、彼も部下も塔も根こそぎ奪はれた。

 高田少尉、ゆるしてくれ。あのとき俺は貴樣の激勵のことばにこたへなかつた。激勵を返さずに走り去つてしまつた。

 番頭のやうに篤實で、酌のうまかつた奴。

 目をとぢてラツタルを馳せのぼる。俺の通過がもう數十砂早かつたら、見事貴樣と同體に散華してゐたものを。

 ひるむおのれを鞭打ち敵愾心をかき立て、「總員戰死、兵器全壞、使用不能」と、分隊長に屈ける報告を聲高に繰返しながら、ラツタルを突きのぼる。機銃彈がキン/\と背を叩き、風壓は振り落とさんばかり縱横に煽り立てる。

 ただちに分隊長に報告。

 空戰の利刄、對空電探はかくて緒戰に粉粹された。暗天のもと、蔽ひ迫る米機、ただ肉眼を以て對するのみ。

 耳底に低くさゝやく聲が、消えようとして消えぬ。電測士甲、大森中尉の聲。三時間前、哨戒直に立つ直前に、電話を流れて耳底に殘つた、あのさいごの聲。

「吉田少尉、貴樣には面倒なことばかりさせて、苦勞をかけたなあ……すまんかつたなあ」――さうではない……ちがひます。私こそ怠慢でした。私こそ氣まゝでした。……

「貴樣には……」「貴樣には……」聲が絶えない。ときには笑みを含み、ときには愁ひを含んでこのいのちに觸れ、いのちを責めてさゝやく。

 彼もすでに亡い。彼を死なせて、何をこたへたらよいのか。いかに報いたらよいのか。

 米機の突入はすべて緩降下對勢による。

 日本機のごとく過長の距離を直進することなく、左右に稻妻型に反轉しつゝ突込んでくる。直進してくる目標は、對勢の變化が上下方向だけだが、反轉横向すると左右變化が大かつ速やかとなり、機銃のごとき單純な兵器の照準能力を全く超絶する。

 投雷投彈のためには照準する間、或る距離の直行は不可缺だが、米機はこの不利な對勢をわづかにたもつのみで、たちまち飛燕の肉迫コースに移る。

 機銃彈の彈着状況は頗る不良とならざるを得ぬ。

 かゝる襲撃法はその投雷の優秀、照準の巧捷によるのは勿論だが、雲高が低く主砲の彈幕もうすく、高角砲また屏息して、近接が比較的容易なためでもある。

 さらに機銃員が敵機の過量かつ急撃に眩惑された點も蔽ひがたい。

 吹流しや風船の假設目標にたいする訓練射撃の成果に、一喜一憂してきた機銃員、かれらの目にはまさに一つの驚異、一つの眩覺。間斷もない炸裂の殺到、ゆるみない光、音、衝迫の集中だ。

 五發の發砲ごとに一發づゝ赤色の曳踉彈を發射して、その彈着状況(赤い尾が目標をかすめるのが確認される)により修正を行はうとするが、對勢變化が急激なため容易に捕捉できぬ。

 いたづらに追從するのみ。

 二十五粍機銃彈の速力は、米機のそれのわづか數倍に過ぎぬ。それで曳踉射撃は無理か。

 第二波も、ふたゝび百機以上、左後方。雷撃機が多いか。

 大和に向ふもの、約二十本。左舷に三本をゆるした。後檣附近。

 量の壓倒的優勢は、大和の性能を以てしても、避雷を全く絶望とした。

 まさに天空四周より閃々迫りくる火の槍ぶすま。

 わが海軍に比絶する大和の彈幕は、少からぬ脅威を與へはしたが、米編隊は一部の犧牲をあらかじめ計量して、ことさら迂遠な回避方法をとらず、まつしぐらに照準のベスト・コースをなだれ込む。そしてその間投雷投彈のため素早く直進を行ふや、横向快走して砲火を避けつゝ銃撃を敢行する。

 銃撃はさいごの反轉後直線的に艦橋に迫りつゝ概ね二齊射。硝煙、唸り、火柱が、かれらの息吹きのやうに艦橋の窓めがけて吹きこむ。

 紅潮した米搭乘員の顏がいづれも至近に押し迫つて、面詰されるやうな錯覺を起こす。

 砲火に仕とめられゝば一瞬火を吐き海中に沒するが、必らず投雷投彈を終了してゐる。戰鬪終止までつひに、進んで體當りする輕擧に出るものは一機もなかつたが、任務未了のまゝ撃墜されたものも極く少かつたに相異ない。

 正確緻密沈着なそのコースの反覆は、むしろ端正なスポーツマンシツプの香を放ち、未知の底知れぬ強靱さを祕めて迫つてくる。

 いまやたゞ被害を局限し戰鬪力を温存して相手の消粍を待つほかない。

 二十五粍機銃の三聯裝砲塔(六疊間大)が直撃をくらひ、つぎつぎに空中に數回轉して落下する。機銃員の死傷もおびたゞしい。

 各砲塔の銃口は、指揮塔から電氣誘導により操縱されるためたゞ發射のみを行ふのが常態だが、電波はやがて斷絶して、指揮系統も滅裂、止むなく各個に銃測照準にすがりはじめる。照準はいよいよ不正確を極める。

 萎縮、動搖のきぎしあきらか。

 飛行甲板から白煙が上る。

 艦の左右、前方に至近彈集中、いく層もの大水柱内に突入する。豪雨に數倍する水量が窓からほとばしつて吹きこむ。

 海圖臺は慘憺と水びたしになる。水をぬぐひながら血涙を呑む。

 首筋から胸、腹へと潮水が流れてなまあたゝかく、肌着がすけばぞくぞくする。全身にくまなくしたゝる。あたりの散亂は手がつけられぬ。

 顎紐が顎に喰ひ入つてくる。ぬれた眉は微風にさはやか。

◆六

 第二波が去ると、踵を接して第三波の來襲。左正横から百數十機。驟雨の去來のごとし。

 直撃彈多數、煙突附近に集中命中。臼淵大尉が直撃彈に斃れた。

 死を以て新生への目ざめを切望したあの智勇兼備の若武者は、散つて一片の肉一滴の血ものこさぬ。眞の建設を夢見、その故にこそ敢鬪をさゝげた若者の骨肉は、虚空にあまねく飛散した。

 塚越中尉、井學中尉、關原中尉、七里少尉、……機銃指揮官戰死の報はあとを絶たぬ。

 魚雷、すべて左舷に五本。傾斜計の指度がわづかに上昇しはじめる。

 連續被害のため、應急員の死傷多く、防水遮防作業はほとんど不可能となる。

 ――魚雷命中すれば、防水區劃の一部に浸水する。區劃は細分されてゐて浸水を局限するが、やがて水壓は非浸水區劃との境界の鐵壁をしなはせ、これを潰滅させて浸水を擴大する。そこで非浸水區劃の内側から太い圓材(丸太)を以て鐵壁を支へ、決潰を遮防せねばならぬ。――應急員の任務。

 だが被雷は間斷なく繼起し、浸水は跳梁を重ね、一切を覆滅し去る勢ひ。たゞ兵員の救出に汲々とするのみ。

 すなはち、遮防作業中、附近に被雷が相ついで起る。たちまち水攻めにさらされ、ラツタルをつたつて上方へ、内部へと脱出せねばならぬ。鐵壁に切られた丸窓をくぐり拔け、足元のハツチの留め金をガツキリ締めてそこで浸水を押しとどめる。そしてその壁を遮防線とする。

 だがそのためには、われにつゞいてラッタルを突きあがる戰友の頭を蹴落として、ハツチを閉じる間隙を作らねばならぬ。

 いかに至難のことか。血の出る猛訓練もよく達し得ぬ異常の應急作業。

 いたづらに開かれがちなハッチを拔けて、浸水は奔騰しつゝなだれ込む。傾斜の進行は意想外に速い。すでに五體に不安感がある。

 傾斜が五度に達すれば、戰鬪力は半減する。彈藥の運搬に支障をきたし、重心の喪失感は士氣をそこなふ。猶豫はできぬ。

 浸水した防水區劃とまさに對稱をなす反對舷の區劃に注水し、傾斜復舊をはからぬばならぬ。そのための吃水線の沈下は。――速力の低下は。――萬止むを得ぬ。

 この注水は、注排水管制所の所掌。ランプの指示する片舷の浸水區域を見て、所要の對稱區域に、ボタン一つでたちどころに海水をみたす機能。――この注水の敏捷適確こそ、大和の特技の尤なるもの、しかもそれもはかない希望に過ぎなかつたか。

 後部奧深く位置した注排水管制所が、魚雷二本、直撃彈數發の集中を浴びて、脆くも機能を失つた。

 天われにくみせざるか。

 魚雷及び爆彈の連續集中は最も苦手。あたかもこの要衝の位置を知悉して狙撃したごとき執拗精確な攻撃だ。

 管制所の破壞は、つひに右舷區劃の注水を全く不可能とした。訓練時の想定にはかつてない最惡の不可測の事態。かくも遺憾悲運をきはめた事態が、それのみが唯一の現實とならうとは。

 米軍はよく渾身の膂力を、連續強襲、魚雷片舷集中の二點にそゝいだか。

 艦長が數度「傾斜復舊ヲ急ゲ」と、スピーカーも裂けんばかりにくり返し令達される。

 だが防水區劃の注水はすでに不能となつた。いまや、右舷の防水區劃以外の各室に海水を注入するほか方策もない。

 敵は脚下に迫り傾覆をはかつてゐる。あやふし。いかなる犧牲をも甘んじてこれを恢復せねばならぬ。

 全力運轉中の右舷機械室、罐室に無斷注水する。「急ゲ」と私は電話一本で指揮所を督促した。

 兩室は、海水ポンプで注水可能の、最大最低位の部屋。傾斜復舊に最大の效果が期待されるのだ。

 機關科員數百名が、海水奔流の瞬間、その飛沫の一滴となつてくだけ散つた。奔入する潮のうち、何も見ず何もきかず、人肉はすべて一塊となつて溶け渦流となつて四散したか。沸き立つ水壓の暴威。

 かれらこそこれまで、炎熱、噪音とたゝかひ、默々と艦を走らせてきた機關科員。もつとも勞苦の重い勤務に、汗と油にまみれてひたすら精進してきた兵員なのだ。

 かれらの生命はからくも艦の傾斜をあがなつた。だが走力はむなしく隻脚を強ひられ、速度計の指針は折れたやうに振れてかたむいた。

 第四波、左前方より飛來。百五十機以上。

 魚雷數本、左舷の、各部。直撃彈十發以上、後檣後甲板。

 艦橋は、機銃彈による被害が續出する。目の高さに横にくり拔かれた狹い見張窓から、彈片は削りそがれて無軌道に戯れるやうに噴きこむ。

 彈道がどこからどう貫くのか、皆目見當もつかぬ。避けるすべもない。裸身をつぶてにさらすのみ。

 一瞬、前後、左の三方から落ちこむやうな重壓が來る。後方の兵とは背と胸を接し、左方の士官とは肩を觸れてゐたが、それがそのまゝ倒れてきたのだ。

 振りほどくやうにこの身をぬけ出すと、もたれ合つた三本の背柱は、よじれながら崩れ落ちた。

 前の兵もうしろの兵もぬぎ捨てた服のやうにうごかぬ。即死。

 左方、西尾少尉は、唐突に起きあがり、左膝を立てた姿勢で、右腿部を縛らうと懸命だ。ほとばしる鮮血を吸つて手拭ひが眞紅にふくれあがる。たちまち血の氣が顏面からひく。かなりのふかで――衞生兵をよび、擔架を敷かせる。

 その上にうつ伏すと、顏をあをむけ、何かを見上げるやうにして、かすかに笑みをうかべた。われ悔いなし、の平安か。そのまゝ意識を失ふ。

 眉目秀麗な彼、その散華のさまはあまりに鮮やかで、いまはの微笑がしばらくは瞼から消えぬ。

 三人の肉塊は、尺にみたぬへだたりで、彈道から俺をさへぎつたのだ。

 電探傳令岸本上水(十八歳)が唇をふるはす。纏ひつく肉片や血しぶきに脅えたのだ。しかもつたへる報告にみちた、戰友の悲運。

 一發顎を張りとばして氣合ひを入れてやる。さつと童顏が紅潮する。可愛い。

 降下する一團の飛霰がたび重なるにつれて、艦橋員の損傷はやうやくあらはれてきた。まき散らされた肉片は處理できたが、血痕は痣になつてのこつた。

 すでに人員は半減していちじるしく行動が樂になつたことを感じながら、誰が消えたかをかへりみるゆとりはない。

 上部電探室にゆく。兵器は動搖逸脱して全く使用に堪へぬ。連續被害および本艦發砲の衝撃のためだ。

 至錬の本兵器も、つ心に爲すところなくして止むか。

 きはめて狹い室内に、兵らは重なり合ひ、動搖震動にたへてゐる。これが、日本海軍至寶の電探兵。

 機銃彈々片が側壁を盲貫して闖入してくる。さらに動く者もない。硝煙と火花を吹きつけ森水長の首を掠めてゆかに落下した。耳の下から太く赤い火ぶくれになつた。

 縱順で有能な電探測者森水長。

 うつむいたまゝ差し出すのを取れば、拇指頭大の鋭い一片。手にこゝろよいぬく味がのこる。

 火傷のあとをさすりながら彼はひつそりと笑ひつゞける。

 その後つひに沈沒まで、再びこゝにおりてかれらを脱出させる機會がなかつた。かれらはその姿勢のまゝ、總員、艦と運命を共にしたといふ。妻子ある兵も少くなく、紅顏の少年兵がまた多かつた。

 ただ一人の生存者青山兵曹の言によれば、のち沈沒の寸前、轟々たる爆發音、相つぐ衝撃のうちに、かれらは折重なつて斃れ、默然と死相をさらし、かれが晩出しようとして「行くぞ」と叫んでも、數人の者がたゞわづかに瞳をあげただけだといふ。

 戰鬪中自分の任務を持たぬものには、かゝる例もすくなくない。状況不明のまゝに、ショツク、停電、横轉、被彈、に重圍されると、「今死ぬか、いま死ぬか」の切迫感に堪へ切れず、先づ舌がしびれてくる。次には手足の自由がうばはれ、つひには瞳孔がひらき切る。

 肉體はなほぬくみを保つてゐるが、實はあはれにも死を待ちこがれたむくろに過ぎぬ。

 だが、かれらにまさつて精勵な兵があらうか。この兵らにしてなほ死神に屈せぬばならぬのか。

 魚雷集中。防水の完璧を誇る送受信室が、つひに浸水についえた。通信長以下通信科員の過半をこゝに失つた。

 艦隊旗艦大和に通信機能なし。たゞ發光と旗旒によるのみ。巨人がその耳口を失つて、なほ何をなしうるか。

 傾斜計指度、十七度。實速力、十餘ノツト。

 右舷の注水區域を擴大し、傾斜復舊を急ぐ。

 爆彈集中のため、應急中樞の第二應急部指揮所が潰滅し去つた。内務長以下の應急幹部の根幹、全滅。副長(副艦長、兼、應急防禦最高指揮官)は、たまたま第一應急部指揮所にあつて無事。

 忽忙の間、第五波、前方から急襲。百機以上。

 ときに「矢矧」が、大和の前方三千米に全く停止し、「磯風」を横付けさせようとしてゐる。

「矢矧」に座乘の水雷戰隊司令官が、沈汲寸前の「矢矧」を捨てゝ、「磯風」に移乘されるのか。(司令官の戰死は、作戰の遂行にたいし甚大な支障となる。)

 この状況を見て、大和に突込まうとする米機の一部が、反轉して二艦に向つた。――「矢矧」は魚雷十數本の巣と化し、たゞうす黒い飛沫となづて四散。「磯風」は停止し、黒煙を吐きつゝある。

 右に「冬月」、左に「雪風」が、水柱の幕帶を突破しつゝ大和あてに發信してくる。「ワレ異常ナシ」

 屈強二艦躍の、その名を賭けての力鬪。

 護衞に任ぜられた九隻のうち、その任を果たしつゝ、あるのは、この二艦のみ。他の或るものは姿を沒し、或るものは停り、傾いた。

 二艦の、兵一員にいたるまでの鬪魂と錬度を、思ひみよ。

 落伍した「初霜」は全く消息を絶つた。すでに米機の重圍下、惡戰苦鬪の末、相果てたものか。

 直上に敵機なし。緒戰以來はじめての空隙。

 大和は「もとより少からぬ彈雨を浴びたが、状況すでに不明。艦内の通信機關はまさに寸斷された。指揮統率は尋常でない。

 止むなく無傷の兵を探し出し、肩を叩いて傳令に走らすが、目をはなさぬうちに、ことごとく機銃彈に狙はれてころげ落ちる。巨體の細胞は切りはなされ、脈絡を絶たれ、それぞれ死滅してゆく。

 後甲板、消火にうごめく影。

 機銃砲塔の全壞多く、甲板はたゞ一面荒涼として、鐵塊の龜裂をのこすのみ。

 等身大の細身の人肉が、高く測距儀の袖から垂れさがつて搖れやまぬ。

 漆黒に塗粧した露天甲板は、いたるところくり拔かれ、一面の變色だ。露出した兵器はことごとく損傷し、空中線はその片鱗さへない。

 傾斜過度のため高角砲以上は全く沈默し(運彈不能)、機銃のみ掉尾の血戰。

 艦橋下部に被彈多く、臨時治療室の軍醫官は總員戰死。その他數なき死傷も傳へるにすべなく、さいごのさまを知るものもない。

 すでに多數集積した士官の戰死報告も、やがて中絶するまゝ記憶より脱してゆく。

 艦橋に降りそゝいだ機銃彈はその數を知らぬ。人員消粍ますます甚しい。

 爆彈また眞向からきそひ落ち、吹きつけるつぶてとなつて、ことごとくひたひぎわをかすめ去る。しかも艦橋幹部に一人の死傷者もない。

 初彈以來すでにいくばくの時を經過したのか。瞬時の閃芒か。しからずか。

 胸裡、ひそかに歡心が湧く。いさゝかの疲勞もない。

 空腹をおぼえ、傾斜計をにらみつゝ菓子をくふ。うまい。雨着の兩ポケツトに詰まつた菓子。

 第六、第七、第八波、相ついで來襲。各百機内外、いづれも後方。

 敵はつひにわが鈍足に乘じて舵をくだくか。豫感が背筋を冷やす。

 たがいにせんすべもない。雷跡の綾なす糸をぬけるには、も早や機動力がか細い。

 汗ばむ掌をにぎり合はせ、艦尾の衝撃に神經をとぐ。

 はたして後部に魚雷集中し、艦尾はしばし宙に浮き火柱水柱に包まれる。

 副舵が取舵(左旋回)一杯のまゝ、舵取室を浸水に奪はれる。主舵を面舵(右旋回)一杯としても、固定した副舵が抵抗となりわづかに右旋回をなすのみ。

 一切の行動は左旋回の範圍内に限られる。半身不髓。

 しかも主舵舵取室もまた浸水に瀕しつゝある。

 米軍の來襲作戰は次のごとしか。――量的壓倒による彈幕突破、天候を利しての緩降下雷撃、魚雷片舷集中、傾斜急増による速力激減、鈍速にたいしての必中爆撃、對空兵力の覆滅、後方よりの雷撃による舵の破碎、再び雷爆集中、致命の追撃。

 巨艦、こゝに進退を失ふか。

 直撃彈が、爆彈、ロケツト彈、燒夷爆彈をまじへて降りそゝぎその數を知らぬ。煙突附近より黒煙がのぼる。

 傾斜急増、殘速七ノツト、わづかに左旋回を行ふ。

「霞」が右前方から、「ワレ舵故障」の旗旒を掲げて盲進してくる。おなじく舵をもがれたものか。

 われまた避けるすべもない。不髓のこの身がいら立たしい。

 膽をくだきつゝ辛うじてこれをかはす。

 主舵操舵長(中尉)からの電話が、妙に濕つたひゞきで耳に沁みる。隣室までの浸水をつたへつゝ、その間刻々の操舵を復誦してくる。

 やがてさすがに切迫した聲が、「浸水マ近シ、浸水マ近シ」とくり返す……一瞬の破壞音をのこして、消息を絶つ。

「ワレ舵故障」の旗がするするとのぼる。この旗旒が大和にはためくのも、これが最初、かつ最後。

 不沈の巨艦も、いまや水面をのたうち廻る絶好の爆撃目標に過ぎぬか。

◆七

 傾斜三十五度

 米主力は雲間に集結待機しつゝあるのか。數機ないし十數機づつとどめを刺さんと殺到する。弱體の目標にたいし、效率攻撃。

 われ避彈不能、全彈命中、ゆかに俯して被害の衝撃に堪へる。必中の被彈は、この肌に刺されるにもひとしくむごくこたへる。

 艦長「シツカリ頑張レ」數回繰返される。この聲を聞いたものは何人あつたか。

 電源が斷たれ、令達器は使用不能。肉聲のとゞくかぎりのものがこの聲にわづかに肩を引きしめたのみ。

 中部左舷に大水柱上る。足元をすくはれた薄氷感。

 航海長より艦長へ「いまの雷跡は見えませんでしたか」

 艦長「見えなかつた。」

 航海長「見えませんでしたか」

 この魚雷こそつひに致命傷となつたか。或ひは潜水艦がひそかに近接し集中發射したものではないか。威力絶大。

 傾斜計の指度が目に見えて顯著となる。

 わづかに疲勞をおぼえ、ゆかに肱をつけでよりかゝる。身をなゝめ横たへるのに絶好の傾斜。こゝろも輕い。

 肩で息を吐きながら菓子を頬張りサイダーを呑む。炭酸がのどをはじけて、うまい。自分が喰つてゐるのか。ただ食慾が滿たされてゐるのか。

 ふと、あばらの下から、なにびとかの聲、「お前、死に瀕したもの、死の豫感をたのしめ、死を抱擁しろ。さて死神の顏色はどうだ。……いゝか、お前が生涯をかけて果たしたものは何なのだ。あるのか。あれば示せ。あればうたへ」

 こぶしを胸に合はせ、身を悶えつゝ「俺の一生は短いのだ、あまりに短く、あまりに幼かつた……ゆるしてくれ。放せ。胸を衝くな。いつてくれ。えぐるな。消えろ」なんと弱い呟き。

 周圍の人の氣配は變らぬ。もの憂く見かはして、互ひに生きのこつたことを確かめ合ふ。活動したあとのこの身の熱氣が感應し合ふのみで、それ以上には何もない。

 しばしの虚脱、敵襲も小休止。

 たゝかつた。――濁りない回想。

 あたりはしづか。まことに閑か。

 傾斜計の指度が、この靜寂のなかを、滑るやうに進む。

 副長から艦長に「傾斜復舊ノ見込ナシ」すき透る副長の聲。

 聲高に艦橋一杯にこれを復誦する。

 傾斜復舊不能――沈沒確實――作戰挫折――そして目前の死、――想ひは瞬間に結論をつかむ。だがうろたへるまでもない。みな、引きつれたやうに身を固くしたまゝだ。

 その中を長官の周圍に匍ひ寄るのは參謀たちか。さいごの協議か。

 やがて、いや、一瞬ののちかも知れぬ、長官がつと身を起こす。參謀長が左手を羅針儀に支へつゝ、長官ににじり寄るやうにして敬禮。永い沈默。目が互ひの目を射る。

 長官は答禮を返ししづかに左右をかへりみ、幕僚の一人一人と念入りの握手、一瞬微笑まれたやうに思へたが、長身をひるがへして、艦橋の長官私室へ。(沈沒まで、この部屋の扉は開かれず、また絶え間ない破壞音の故か、自決の銃聲もきかれず、携帶拳銃をすて、身を以て艦の最期を味ははれたか。第二艦隊司令長官伊藤整一中將の御最期。長官はこの作戰に終始反對し、とくに發進時期の遲延をおそれ、しばしば中央に具申したが、つひにいれられす。半日の遲延、これがさいごの痛痕事となつた。その故か、初彈以來、長官は窓ぎわの椅子に腕組みしたまゝ、彈雨血霰のなかを、石のごとく寡默を押し通し、組まれた腕は、この答禮のときはじめて解けたのだ。)

 長官が艦橋をよぎると、副官(少佐)が、終始長官に侍從する任にあるため、死をも共にすべく、身がるにあとを追つた。參謀長が一躍してうしろからがつきとこれを捉へる。ラツタルを二三段駈けおりた副官、そのバンドにむんづと片手をかけ、片手に手摺を握りしめつゝ齒を噛み鳴らす參謀長。

 兩者無言。滿面朱をそゝぎ、氣合ひを應じ合ふこと數秒、つひに副官が顏をそむけつゝゆづる。

 參謀長はこれを艦橋に引きあげてはげしく突き放す。

 艦隊はこゝに首上を、やがて主城を失ふか。

 松本少尉と艦橋後部で遭ふ。顏面蒼白、指をあげて、「俺たちも時間の問題だからな」とさゝやきかける。

 指さすところは艦の後部、乾舷とよばれる最上甲板に、水がひたひたと寄せあがつてゐる。浮城のごとしといはれたあの乾舷。乾舷に波がかゝれば顛覆は確實。

 こゝろやさしき詩人、松本少尉、すでにみづからの過情に斃れたか。

 この時なほ大和の終焉を夢想する氣持さへ湧かぬ。緊張のゆえか。巨艦の雄渾に魅了されたのか。

 艦橋の生存者は十名を出ない。倉皇として脱出しようとする者がある。

 配置を去つてどこに行くか。他に死處でもあるといふのか。

 去るものは去るべきだ。たゞこの得難い寸秒の間、かれらの心中、いさゝかの悔恨もないか。

 このとき、幸ひに泰んじ得られたおのれを何に謝すべきか。

 あたりはいよいよひそやか。もとより戰ひの終結を急ぐ破壞音は止まぬが、このわが耳朶にふれるは優しいしゞまのみ。

 目にうつるものすべてに白光が射し、すきとほり、まなこは、初めて見ることを知つたごとき愕き。瞳孔も、その底までも澄み切つたか。

 ふたゝび胸奧の聲、「お前、憐れむべきもの、つひにむなしく死の軍門に降るか。死にゆくお前を力づける何ものもないか。かへりみてみづからにとるべきもの一片とてないか。」

「待て。待つてくれ。俺の半生はむしろ惠まれたもの。……あたゝかい肉親。すぐれた師友。こゝろよい環境、ゆたかな希望、乏しからぬ資質……

聲「そのどれに眞のお前があるか。それらすべてが、死にゆくお前に加へるものは何なのだ」

 「いや、それだけじやない。さらにかがやくもの。……消えぬもの」

聲「何だ」

 「あの數々の想ひ出……美しく、こゝろひらけ、悔いなき……

聲「眞實か」

 「……どうしたんだ、この不安は、なぜ俺はこんなに、いら立つんだ」

聲「さて……。お前は謙虚といふことを知つてゐるか。お前は頭を垂れたことがあるか。」

 「……あゝ、謙虚……俺。不遜のやから……ゆるしてくれ、辛うじて謙讓といひ得る行爲のたつた一つあつたと、答へさせてくれ」

聲「そのとき、眞に謙讓だつたか。何にたいして……いかに……

 「もうやめろ。詰問するな。俺は自分で自分をさばく。」

聲「は、は、みづからをさばくか。愚かもの。死臭にまかれつゝなほみづからを欺くか」

 「このわづかの安逸を奪つてくれるな。恐ろしい。殺してくれ。懼れから救つてくれ。殺せ」

 艦長「御眞影はどうか」

 責任者九分隊長から、私室に御眞影を奉持してすでに内側から扉に鍵した旨の應信がある。身を以て護られることは疑ひをゆるさぬ。

 見れば航海長、掌航海長(操艦航行の責任者およびその補佐)が、ロープでからだを羅針儀に縛りつけようとしてゐる。もとより萬一浮上するごとき恥辱を、あらかじめ防ぐためだ。

 とつさにこれにならはうとし、かねて用意のロープをまさぐつた。

「何をするか。若いものは泳がんか」參謀長の怒聲が、鐵拳をまじへて降つてくる。からだごとぶつかつてきて、はしから毆りつけられる。

 意をひるがへし、齒をかみくだく思ひで繩を投げ捨てる。止むなく命にしたがつたが、憤懣は消えぬ。今に至つて脱出するとは、何のための特攻出撃か。

 眞實は、數分前、長官をかこむさいごの協議に、作戰中止、人員救濟の上歸投の決定が、爲されたのだ。われわれだけが、それを知らされてゐなかつた。

 僚艦にはすでに、その旨の信號が發せられ、大和の前檣頂の應急燈は、このとき兩側の驅逐艦に、必死に「チカヨレ、チカヨレ」を連發してゐたのだ。(驅逐艦は、沈沒の渦流或ひは誘爆の衝撃をおそれて、敢て近接せず。賢明の策だつた)

 さきに脱出した參謀たちは、一點射しきたる生還の光明を見たのだ。歸投の決定に參加し、身を處して生せながらへる途をさぐつたのだ。

 われわれもそれを關知してゐたらどうだつたか。よく泰んじてこの身の顛倒に堪へ得たか。

 いのちあると知るものは蒼ざめ、いのちなしと氣負ふものはきほひ立つ。

 死出の同志はその半ばを失つていまや必死行に成算もなく、征途また半ばに達して燃料はわづかに歸路をみたすに足りる。――さいごの機會に下された伊藤長官の獨斷、作戟拾收命令。

 狹い視界内を水平線が縱にふれながら壓迫してくる。どす黒い波形がたてにあふれるやうに押しひろがる。傾斜八十度。

 暗號士から、暗號書の處置終了を傳聲管でとゞけてくる。おのれの腕に軍機書類をことごとく抱き、艦橋暗號室に入り内からこれをとざした、と。

 鉛板を表紙に打つて沈降に萬全を期し敵の手中に落ちることを極力防止し、さらに潮水に消えるインキで印刷しかつ文字と異る紙型を重ねて刻印した暗號書、しかもなほ身を持つて機密を保持せねばならぬ。、

 艦長「總員上甲板」さいごの下命。艦長傳令から口傳へで各部に傳へる。

 寥々たる生存者。すでに時期を失したことは明らかだが、たゞ一人でも多く救はうとされたのだ。

 あゝこの時この命令を、「總員退去」の意に解した者、一兵とてあつたか。

 かつてない特攻葬送作戰の、征途半ばに展開した惡戰苦鬪の末に、誰か一縷の生還を期するものがあらう。まして殘存僚艦が、すでに作戰任務を解かれたと知るべきよしもない。

「總員死に方用意」、ひとしく待ち設けたもの、たゞこれのみ。

 大和の最後が數刻おそくとも、燃料は歸還を保するに足りず、殘黨以て突入のほかなかつたのだ。

 どこからか落下してきた暗號書二册を、無意識に海圖臺内に收める。

 艦橋たちまち人影を見ぬ。

 去るべきか、配置。無二の死所、艦橋。

 そこで俺のすることはもうないのか。

 刹那、不覺の焦燥、ゆかの椅子に指をかけ見張臺から脱出する。

 さきの奴のかゝとにしたゝかに蹴落とされ、一度艦橋の底にころげこんだが、「やれやれ」とのどでぼやきながら匍ひ出す。

 うしろに明るい聲、「よし、俺がしんがりだ」通信士、渡邊少尉。(彼は腹まで窓のそとに乘り出したとき、艦もろともに海に呑まれた。氣壓か、水壓か、窓から打ち出されるやうに撥ねて、水中に投じたといふ)窓をよじり出て、さいごにふりむけば、いとしい艦橋が、なにかほの暗く、横轉してひどく狹く見える。

 航海長、掌航海長は、再三の脱出のすゝめもきかず、肩を引く腕もはらひのけ、互ひに身三箇所づつを固縛し合つて、膝をつきあはせてゐる。肩が一つのやうに組み合つてゐる。

 操艦の責めはそれほど重いものか。

 ともにかつと目玉をみひらき、迫りくる海面を睨み据えたまゝ、茂木中佐、花田中尉御最後。

 艦長附森少尉の、沈沒の瞬時まで叫びつゞけた「頭張レ」の聲、兵の肩をどやしつゞけた姿が、いまも髣髴とする。鐵兜、防彈チヨツキをつひに捨てず、敢鬪をつくした彼、こゝろ憎き覺悟。(われわれは艦橋内部の配置ゆえに、かゝる重武裝を持たなかつた。)

 屹立する艦體、露出した艦底、巨鯨などいふも愚か。

 ふと身近に戰友あまたをみとめた。

 彼の眉があまりに濃く、彼の耳があまりに青い。誰も幼い表情、いな、無表情といふべきか。

 誰もが恍惚と、――彼らしいまな差しにふけつてゐる。俺も恐らくさうだらう。

 何にみいつてゐるのか。

 視界を蔽ふ渦、敷きつめた波の沸騰、巨艦を支へる氷かとみまがふその純白と透明。――しかも耳を聾する濤音が一そうの放心脱魂にさそふ。

 見るは一面の白。きくはたゞ地鳴りする渦流。

「沈むか」はじめて、灼くがごとく身に問ひたゞす。

 水が甲板を侵しはじめる。だが、人影がただ波に吸はれてゆくものか。

 打ち出す彈丸のやうに、湧きあがる水壓が人體をはじきとばすのだ。それも思ひ思ひの方向に。

 かるがると彈ねる。樂さうに――と見る間に、五十米の距離を一瞬に渦流はよぎつた。早くも足元に飛沫がせりあがり、いびつな鏡のやうないく面もの水が、(十面もそれ以上も)別々に躍りながら鼻先にきらめく。それぞれがなかに人間を浸し、人間は跳ねてゐるものも、逆立ちするものも――

 この精巧な硝子模樣が、莊麗な泡沫の生地をいろどる。

 しかもその泡にうかべた眞青の縞の、この美しさ、やさしさ、と思ふ瞬間、渦流に逸し去られてゐた。無意識に息を吸ひこんでゐた。

 吹きあげられ、投げ出され叩きのめされるまゝ、八つ裂きの責め苦のうちに思ふ――さいごにちらと見た裟婆よ、ゆがみ顛倒しつゝも、たへなりしその色。――息を詰めた胸に、この色の慰めが明るい。

 事前に遠く泳ぎ得て、この渦流を免れた者は皆無。かゝる大艦の脱出には、三百米の、渦流中心からの距離を要するといふ。救出決定はおそきに過ぎた。

 總員戰死、これこそさだめであつたのだ。

 ときに大和の傾斜はまさに九十度(かゝる例稀有、一般艦船は三十度で沈むのを常とする)、主砲々彈が、彈庫内で横轉し、細い尖端の方向に滑つて、天井に激突、誘爆を若起。

 未曾有の例のため、この椿事を夢想する者もない。

 艦すでに全く水中、身もまた渦中、

 一發一艦必轟沈の徹甲彈、一發一編隊必墜の三式彈、計二千發を下らぬ。

 先づ前部主砲彈庫が誘爆した。沈沒後約二十秒か。

 沈沒前ならば、爆風直截のため、人肉はすべて彈片と化して四散しただらう。水流がわれわれを弄びつゝよく風壓を減殺してくれたのだ。誘爆なかりせば、もとより渦流のうち、急轉海底に沈降するほかない。

 あなや覆らうとして赤腹をあらはし、水中に沒するとたちまち、一大閃光を噴き火の巨柱を暗天ま深く突き上げ、砲塔も砲身も、全艦の細片がことごとく舞ひ散つた。

 さらに底から湧きのぼる暗褐の濃煙が、しばしすべてを噛みすべてを蔽ひつくす。

 火柱は實に六千米(驅逐艦航海士の觀測)

🔴🔴No.2

◆八

 鹿兒島よりよく望見しえたといふ(のち新聞紙にも報道)先端を傘のごとく開き、その中に米機多數を屠つた。

 前部彈庫一方の誘爆のみでは、吹き起こす力が濁流に及ばなかつたのか。渦の中を引きまはされつゝ、やがて全身に異常なシヨツクを感じ(このとき爆風が吹き過ぎた)反對方向に逆卷かれると、頭上にうごめく厚い障壁に突きあたつた。――これこそすでに浮上して火雨の洗禮にさらされつゝある戰友のむくろだつたのだ。かれらは、身を以て、火箭から守つてくれたのだ。

 そのうちふたゝび水面近くから引きもどされた。

 約二十秒後、さらに後部彈庫の誘爆。爆風はこの身を水面に押し流した。

 だが艦體の蔭にあつたわれら少數のものを除き、すべて身を彈巣となしたらう。またわれわれのみが水中爆傷をかはすことを得た。

 艦橋上部の構造物に密着した者こそもつとも安全にいく重にも守られ、先に脱出しながら甲板に近付いたものは、近付くに從つて風壓に暴露したのだ。

 しかもわれわれとて身にいさゝかの彈瘡を帶びぬものはない。傷あさきもののみがよくその後の苦鬪に堪へ得たのだ。

 俺もつむじの左に長い裂傷と火傷とを受けた。のち軍醫官の診斷によれば、破片は相當大きく、たゞ頭部に切線方向に接觸したため致命傷を免れたといふ。

 接觸時にはわが身もまた疾風のごとく吹き廻されつゝあつたが、それと彈丸とが切線方向にふれる確率はどれ程のものか。

 人と生れて切線なるもののお蔭を蒙らうとは。笑ふべきか。

 煙突に呑まれたものも極めて多い。恐るべきその吸引力(五歩右にあれば私も危かつた。歸還後、全生還者について、入水のときの位置をしらべたが、煙突の周圍は廣範圍の空隙をなしてゐた。)

 火柱が逆落とした吹き落ち、赤熱の鐵片木塊が沖天に飛散し轟々落下して、辛うじていち早く浮きあがつた多くの戰友を殺傷した。

 渦中迂回の末さいごに浮上したわれわれはその灼熱の空を見ず、たゞ濛々たる硝煙を仰いだ。

 煤煙はやがて潮に斷たれて晴れ渡り、一面に泡立つ重油のうねりをのこすのみ。

 渦に卷かれながらの、この身の責め苦にひきくらべ、何と他愛もない想ひが浮き立つてゐたことか――サイダーが十センチほど殘つてた……菓子も五袋はあつた……沈沒場所の水深、四百三十米は海圖でたしかめたが、この勢ひで落ちてゆけばどの位かゝるものか。……四百三十米の距離感……

 だが呼吸が、つまつてきた。二度目のシヨツク後間もなく、つひに衝きあがる胸苦しさが口元までこみあげ、ガバと水を呑みはじめ――鼻と口から、ふいごで吹きこむやうに海水が入る。その顎のうごきを無意識にかぞへる………………十五……十七……この分じや、からだじゆうが水であふれるまで、死ねんのだらう。まだか……まだだめか……殺せ、殺してくれ……目のふちがうす明るく、瞼の裏が黄色く、鼻孔のきな臭さが苦悶をぼかすやうで、足元もかるく、何もかも夢心地にかすみはじめ――ぼかつと、水面に出た。

 誘爆が五砂おそくても敢へなかつただらう。

 落下する火柱にあたらぬほどに迂回し、しかも呼吸の極限までに浮上したもののみが救はれたのだ。

「薄明るくなつたので、やれやれ冥途かとホツとしたよ」と渡邊大尉。「ナムアミダブツと、二度言つたやうな氣がする。念佛のことなんか考へたこともなかつたが」と迫候補生。

 かく重疊した僥倖の、どの一つを缺いても、ふたたび日を見ることはできなかつたものを。

「大和轟沈 一四二〇(二時二十分)」敵味方同時に飛電を發する。間斷なき對空戰鬪二時間、ここに終止。

 重油がしみてまづ目が開かぬ。息を吐きながらこじあけ、耳をぬぐひ、漂ふこと數分――なんだ、まだ裟婆か、冥途じやなかつたのか、浮きあがつためか。また生きるんだな、畜生――

 細雨降りしきる洋上に、重油、寒冷、機銃掃射、出血、鰭とたゝかふ。

 ま近に見れば、灰色に光る波、うねりも荒く、重油を纏ひ密にねばる外洋の波。泥糊のごとき重油層。一面の氣泡、漂ふ無殘の木片。

 放歌してみづからはげますもの。この身の重さに喘ぐもの。哀れ發狂して沈みゆくものもある。(重油の吸收は生理に異常をきたす)

 重油の黒一色のため流血は見えぬが、深傷の者は苦しみ方がせはしい。

 元氣過ぎて餘り跳ねるものは鱶の餌食となるのか、瞬間に吸ひこまれる。

 若い兵の多くは、母を戀ふらしい斷末の聲をひき、力つきて沈んでゆく。天をつかむやうにさし上げたもろ手が、むなしくぬけ落ちる。それに笑ひ狂つた唱聲がまじる。

 聲がわたる。「准士官以上は姓名申告。附近の兵をにぎれ」叫ぶあの頭から耳へのかたちは副砲長か。

 ――さうだ、俺は士官だつた、兵隊をにぎる、一人でも多く收拾して次の行動を待つ。――俺はいま何を放心してゐたのか。

 聲をからして、眼鼻もわかちがたい兵を集め、抑へ、しづかに、何ものかを待たせる。

 脚絆をといて筏を組み、重傷者を拾ひあげねばならぬが、木塊はことごとく四裂して、筏に堪える長さのものがない。

 重油に刺された目は、うねりをこえて波間に何を求めるか。――

 大和の艦影。鼠色の鐵塊。立泳ぎで伸びをしながら、憑かれたやうにさがし求める。

 ある筈もない。無情な波のかなたに、あるのは泡、泡。

 この足の踏まえてゐたものが消え失せるとは、何と想像もつかぬ寂莫なのか。

 機銃掃射。心地よげな機影。海面を流れ過ぎる彈あしの帶。恐怖はない。――俺をよけてゆくのが不思議だ。

 醜怪な漆黒の頭、顏面、その飄逸さにふつふつと笑がこみあげつゝも、舌端は無念の火を吐き舌打ちをつゞけ、絶えずあたりを睥睨する。

 肌着までとつぷり水びたしになる。齒の根を鳴らし、こぶしを固めてかち合はせつゝ寒さに呻く。わけのわからぬ無念と、どうにもならぬ寒さと。

 後生大事にまたがつてゐた椅子の切片がしきりに沈み、したゝかに水を呑まされる。苦澁のあまり手を離して見ると、忽ちひとりで沈んでいつた。クツシヨンの藁に海水が沁みこんで重くなつたものだらう。わざわざおもりをかゝえてゐたにもひとしい。

「御苦勞樣」聲に出して自分を慰めてやらうとしたが、聲がのどにつまり笑ひはひたひにかたまつて、こめかみがわづかに顫へただけだ。

 あたらしい木片を求めようと身を轉ずると、身近かの兵の視線に遭ふ。魚のやうな臆病小心の眸。「安心しろ。お前なんかいぢめんから」さう呟きつゝよけて泳いで、やうやく細片數個を捉へる。

 兩脇にはさんでから振れ向けば、その兵は體をひねつたまゝこちらをすかして見てなほ憎々しげだ。よく見れば、通信科の少年兵だ。少年。

 何がこれ程までに、彼の血相を變へさせるのか。それはもうどうすることもできぬのか。

 何ものかが胸をつき、立泳ぎの足先をじりじりと曲げて、これに堪へる。

 凍死は睡るごとく深く安らかだといふ。このまゝ睡魔のおとづれを待てばよい。

 だがむらがる兵の、重油に濁る目、喘ぐ口、この執念をいかにすべきか。

 望むべくは、時を得てたゞ死を潔くすることのみ。ひたすらにかくみづからを鞭打つ。

 ふと思ふ。この貴重の時。眞の音樂をきくのは今を措いて他にあらうか。

 聽かう。心さへ直ければきける。一瞬を得るのだ。

 自らの音樂を持たなかつたのか。すべては僞りだつたのか。

 ――待て、今きこえてきたもの、たしかに、バッハの主題だ。

 ――ちがふ。作爲だ。眩覺じやないか。

 いな、思ふな。構へるな。

 あゝこの時、わが身の救はれることを思ひ知つてゐたら、果してよく晏如を保ち得たらうか。

 見よ、俺に向つて笑みかける顏。童顏の、あの少女のやうな野呂水長。

 直接の部下ではなく、たゞ艦橋で數度傳令に使つたことがあるのみ。利發謹直、拔群の模範兵、彼。

 丸顏の頬のかたはらに浮沈みする黒い木片。ほころぶ口元にかすかに齒の白さ。

 俺が濁流からぬけ出したことを喜んでくれてゐるのだ。この眸、無私無心の笑ひよ。反射的に釣りこまれて笑ふ。

 ふと涙ぐみ、涙あふれ、やむなく鼻を重油に漬けて顏をそむけた。――も早やともに死の手中にある俺たちが、こんなにゆたかな生をたのしむのはふさはない。――こらへるべきか。

 この笑は、この涙は、いかなる心情か。

◆九

 驅逐艦(月型)が全速で直進してくる。餘りにまともに艦首を向けてくる。救はれやうもないくせに、今更ら回避するのもおかしいが、兵をつれてわづかながら針路から遠ざかる。

 至近まで來て面舵一杯をとり、艦尾を大きく左に振る――漂流者の間を縫い、逞しい波をかき立てて滑り去つた。

 俺たちはその降り斜面の半ばに漂つてゐた。ここから數メートルふねに近くその波の頂きより向ふに出たものは、スクリユーに根こそぎ吸ひこまれた。

 信號兵を總動員して、五箇の手旗が、「シバラク待テ」を發信してゐる。信號兵が旗をふりながら機銃彈でころげ落ちるのがよく見える。「シバラク待テ」――勇躍(俺たちを救ひ、戰鬪員を補充して突入するか)

 軍歌をやめさせ、兵をはげまし、きたるべきものを待たせる。おのれのいのちに沒してゐる兵たちの目には手旗信號のうつるゆとりもない。

 驅逐艦停止。空爆下決死。

 泳ぎ着かねばならぬ。目測二百メートル。

 はやる兵を抑へ、木ぎれを押し合つて泳ぎ進む。あせるのは禁物。餘力を盡瘁して、ゆきつくと力つきるのは分り切つてゐる。長い戰鬪と漂流、肉體はも早や極限にある。

 雨着の裾、編上靴の重み、脚絆の煩はしさ、重油。飴の中を歩くにもひとしい。

 二百メートルを泳ぎ切る永さ。漂流の全時間にもまさるか。

 漂流時間――渦に落ちてから、事實はすでに三時間近くを經てゐたのだ。

 だが實感では、せいぜい二十分足らすだ。この忌まはしい時間を、かくも逆に短くうけとるのは何ゆえか。――徹底した空虚の故。全き虚無的消耗の故だ。

 命の綱を前にして、赤裸の人間を見る。

 重油いよいよ濃く、波艦體に打ち返り、惡感が背筋を走つてやまぬ。

 人を求め、聲を求めて見上げれば、焦慮たゞ堪へがたい。つれなくそゝり立ち、蔽ひかぶさる艦體。

 眼底灼け、下肢はすでに麻痺感がある。

 泥油にちぬられた綱、掌、群がりひしめく力。綱も掌も重油にしたゝつてゐる。

 先頭切つてゆき着いた兵二人は、綱にとびつき、ずるつとそのまゝ、姿を沒した。――(助かつた)といふ氣のゆるみ。二どと浮きあがることはあり得ぬ。

 三人目をうしろからかゝへ、右手首に噛りついて齒のかどで油をそぎ落とす。皮ごと剥ぐかも知れぬ。血のにじむほど綱を捲きつけてやり「あげーえ」と甲板に叫ぶ。一本の手首が辛うじて一人の體重を支へる。しづかに綱が引かれる。

 と、その足首にしがみつく奴。靴は綱よりもすがり易い。引きあげられる奴の靴底を見のがし得ぬのだ。一本の手首は、二人の體重を支へ切れぬ。どうとはづれて、そのまゝ。

 次からは、一人をあげさせると、下に構へてゐて、まとひつく腕をなぐり返す。

 綱を見上げる目の執着の光り。かれらのこの生きんとするちから。尊いか、みにくいか。思ふな。一人でも多くの兵を救ふんだ。

 生きんとするかれらは必死、生かさうとするわれも必死。格鬪。

 ふと氣付くと、兵の影がない。いく名救へたか、わづか四名か。――過半數はむなしく水中に沒し去つた。

「急げ、急げ」と叫ぶ聲。甲板からだ。艦はしづかに前進をはじめた。

 目の前に繩梯子一つ。ゆがんで垂れさがり、位置は艦尾にもつとも近く、スクリユーの渦はすぐ身近かだ。さいごの、ぎりぎりの機會。

 のめるやうにくひさがる。兩手六本の指の第二關節が、わづかにかゝる。下半身を波が洗ふ。

 ほしいまゝに浪費を重ね、ひとをなぐりつゞけてきた膂力が、いよいよおのれを支へるとき、このか細さはどうしたことか。衰へ、つきんとし、生へのわが執着を試みるかに、ぬけ去る。死力をつくして、この身とたゝかふ。

 放してやれ、まゝよ、この指先きを、たゞわづかにゆるめただけで、それだけで――樂になるんだ。樂になりたい。樂になれ。死んでやれ――あゝ死のいかに甘く、いかに安易なことか。

「がんばれ、がんばれ」甲板から、耳を突き刺す兵の聲。兵ともつれ合つた俺の振舞ひも目撃してゐたのだ。眞情に生きたこの激勵。

「生きろ、生きろ、こゝまできて死んで相すむか。死んでゆるされるか」身うちに叫ぶ聲。

 初めて、眞に初めて、生を求める意地がカツとひらく。

 生きたい希ひじやない。生きねばならぬ責務だ。

 肉體が消えて、魂魄がやうやくに燃え、すべてを奪はれたとき、眞のおのれが殘つた。

 血と油にまみれ、繩にからまれた俺にあるものは、あの消えることのない火、止まぬ傾きのみ。

 いまこそ死ぬべきとき、死をゆるされるとき。故にこそまた、生きるとき、生きねばならぬとき。

 たゝかつて生きるか、くじけて死に果てるか、長い苦鬪の果て――二名の兵が兩手にとりつき、繩からもぎとつて甲板に投げ出す。倒れたまゝ顏をあげる力もない。たゞもうこの身を支へねばならぬことからまぬかれたのだと、とけるやうに全身に感ずる。

 俺は、生きるべくさだめられたものか。

 兵が軍裝をぬがせてくれ、のどに指を入れて重油を吐かせ、「貴重品はございませんか」ときく。貴重品どころか。その持ち合はせもない。毛布をまとはせてくれる。

「頭を怪我してをられます。治療室へ」と注意され、片手をあげると、指が二本きづの中に入る。痛みもない。氣もつかなかつた。

 治療室を求めてゆくと、死屍壘々。いく度もつまづき倒れる。奮戰隨一の「冬月」だ。

 倒れてゐると、突きとばすやうにしてゆく士官の横顏。「田邊少尉」なつかしい學友。さうだ、かれは「冬月」の航海士だつた。

 全身重油まみれのこの姿を眺めまはして、「何だそのざまは」と哄笑する。だが彼こそ狹い廓下を膝で歩いてゆくじやないか。恐らく自分では氣付いてゐまい。數十時間、重要勤務に頑張りつゞけたのだ。足が立たず、膝をひきづつてゐる。

 そのくせ人を笑ふとは。

 治療室で、傷を縫合して貰ふ。軍醫官二名、しめた鉢卷が血しぶきに染まつてゐる。部屋の一隅は、天井から坂をなして死體の山。目藥を刺す。

 艦内は、血なまぐさいなどと生やさしいものじやない。青臭く、のどがむせる。

 作戰變更をきく。突入にあらす、歸投と。聲もなく唇をかむ。

 發熱、相當。過勞と重油吸收のためか。惡感が止まぬ。

 士官寢室に辿りつき、倒れるごとく折重なつて寢る。

「大和の乘員きけ、元氣なものは本艦の作業を手傳へ」怒鳴りこんでくる山森中尉、自分も辛うじて壁によりかゝつて立つてゐる。無念の形相だ。誰もからだがいふことをきかぬ。

 夜通し、「配置ニ就ケ」の緊急ブザー、「對潜戰鬪」の號令をきゝつゞける。「雷跡右四本」などとつたへる聲、惡夢のやうにきく。――もう泳ぐのはたくさんだ。こんどこそ死んでやる。

 ――終夜の潜水艦攻撃をからくも切り拔けた。被雷二本はいづれも不發でことなきを得た。

 艦隊中殘存艦は「冬月」「涼月」「雪風」「朝潮」の四艦。「冬月」は「霞」を「雪風」は「磯風」をそれぞれ處分する。

「霞」「磯風」は停止のため、放置して敵に捕獲され、機密の洩れるのを防ぎ、敢へて撃沈するめだ。

 横付けは五分間、かけられた二本の横木の上を、士官はすべて軍帽をつけ軍刀を提げ、公用書類を手に移乘してくる。五分を經過すれば殘員の有無にかゝはらず横木を叩き落とし、儀禮的に一周ののち、手練の魚雷一閃、處分を了る。

「涼月」、准士官以上總員、死傷、しかも機械、罐故障、「冬月」あてに、「ワレ後進シテ鹿兒島ニ向フ」と發信してきた(のち修理に成功、佐世保に變更。)

「冬月」「雪風」、八日朝佐世保に入港、「朝潮」同日晝、「涼月」薄暮、炎上のまゝ沈みつゝ入港し、たゞちにドツクに入る。

 副長、「雪風」の短艇に救助された。あの痩躯で、しかも下部の配置から、いかにして脱出されたのか。

 特攻作戰ゆえに、艦長の戰死は必至だ。戰鬪經過報告(きはめて貴重)および艦一切の殘務整理等、すべての責任は副長にある。これらはすべて充分豫期してゐたのだ。

 やうやく救助艇に達したが、力つきて、まさに沈まんとするのを引きあげると、すでに困憊その極に達し、全く意識なく、やむなく毆打をつづけつゝ艦に急いだといふ。ひたひから後頭にかけて、長い彈瘡。

 艦長附森少尉を洋上に目撃した兵がある。彼は濁流をのがれながらも、つひに還らなかつたのか。死をねがつて、過たずゆき着いたか。

 瘡が深かつたか。武裝が重かつたか。

 或ひは舷側で兵は救はうとし、鼓舞叱咤、その職に斃れ、その任に殉じたか。

 いかに彼、死に挑み、正對し、たゝかひ、それをかち得、かくして生をつくし生を全うしたことか。

 大和最後尾の機銃群指揮官、兵器が被彈して作動停止するや、部下の全員を砲塔下に集め、菓子を分け恩賜の煙草一本をのみまはしたが、何か心殘りあるかに思ひ、尿意だと氣付せ、一列にならび一齊に放尿した。そして總員肩をそろへ波濤の上に倒れた。だがかれのみ兵のさいごを見とゞけんと二、三歩おくれたためか、寸秒の間、ひとり微速に回轉するスクリユーに捲きあげられ、兵すべてを捲き落としつゝ、はからずも渦中から掬はれた。

「世にも恐ろしい巨大なものが眼前に迫つて、ハツト俺は氣を失つてゐた」と彼はいう。右肩から左脇腹に袈裟掛けに裂かれたが、武裝に守られて瘡も淺く、化膿を免れたのだ。

「朝潮」救助艇艇指揮「船べりに手をかけてどうしても離れん奴がゐるから引上げてやつたが、えらい苦勞した。」漂泊生還、數度におよぶ測的分隊長だ。しかも及ばす、治療室に運ばれたとき、すでに呼吸なし。人口呼吸二時間。

 よく蘇生はしたが、苦悶の状、なほ見るに堪へなかつたといふ。水中爆傷による胸腔壓迫だ。

 彼、半年前、驅逐艦先任將校として南海に轉戰したとき、集中爆撃を受けて撃沈されたが、甲板上にあらかじめ用意した筏を以てその乘員の大半を救出し、漂泊しつゝ僚艦を待つた。逃走中の海防艦に遭遇するや、これを横付けさせ、總員移乘してたゞちに戰鬪配置につき、みづからは艦橋にのぼり操艦および砲戰指揮を行ひ、氣魄と錬度とを以てよく危機を脱し歸投したといふ。剛睫氣鋭の彼、一觸人を斬り肺腑に迫る。

 八日、朝、一夜を睡つて體力は全く恢復したが、目が痛い。甲板に出て顏を洗ふ。陽光がしみる。

 内地の山の美しさに思はず嘆息をあげる。「やつぱり生きるのもいゝなあ」

 だがこの春陽の明色は、數なき死のかたはらになほ保たれたわがいのちを愧ぢさせるほど、かがやかしくはればれしい。

 大和の乘員總員集合。言ひ放つ副砲長。「貴樣らにはひと仕事したといふやうな色が見える。そんなことでどうするか。いまこそいよ/\貴樣ら古強者を必要とするのだ。すぐにでも俺について突つ込んでゆく。いゝか。」

 同夜から佐世保軍港外の病院分院に入り、傷の治療をうける。

 白衣の身、波近き病棟、花匂ふ夜、思ふこと多し。何か不甲斐なさに堪えず、病院長に願ひ出てとくにゆるされ、治療の途中から呉に赴き、新任地を求める。

 副長「より以上の死に場所を得る。それで何をいふことがあるか」。

 素志を達して、ふたたび特攻隊配屬となる。

 休暇を賜はり、電報を打つて故郷に旅立つ。――父上、母上、諦めてをられるかも知れぬ。よろこびの心構へをしていただかねばならぬ。

 家に着く。父、「まあ、一杯やれ」。母は――状差しに私からの電報を見つけた。文字が形をなさぬまでに涙ににじんだその一葉の紙。こんなに自分の死を悲しんでくれる魂のあることを、俺は少し忘れかけてゐはしなかつたか。一場の戰鬪に傲りかけてはゐなかつたか。頭の傷を、誇つてはゐなかつたか。内地の人の堪へてゐる生活の眞實を、少しでも汲まうとしてゐたのか。

 あの數日の體驗、この乏しい感懷が、死線を超えた實感なのか。

 さうじやない。

 俺たちは萬に一の生をも期することはゆるされなかつた。みづから死を撰んだんじやなく、死に捉へられたのだ。

 精神の死といはんよりは肉體の死。人間の死といはんよりは動物の死。

 これほど安易な死はあるまい。

 一瞬とて死に直面したことがあつたか。出港以來みづからを凝硯したことがあつたか。その間に、一刻の生甲斐をも感じ得られたか。

 俺を死との對決から救つたものは、戰鬪の異常感だ。また去りゆく者の悲懷、あきらかな祖國の悲運だ。

 ひるがへつて、あの報いられぬ無數の戰災の死を思ひ見たことがあるか。

 自分の周圍にあのとき、父が、母がゐたとしたらどうか。脱出の機會、生還の餘地があつたとしたらどうだつたか。

 悲慘な生活のうちに果てるとしたならどうだ。ただ値もない犧牲となると想へばどうだ。

 あの俺の位置に立つて、俺のごとくに振舞はぬものはあるまい。婦女子といへどももとよりしかり。

 必死の途はきはめて容易だ。死自體は平凡かつ必然だ。死の尊ふべきは、ただその自然さによる。大地自然が尊ばれるごとくに。

 しかり。死の體驗の故に俺たちを問ふな。あれは死じやない。いかに職責を全うしたかを、その行ひのみを問ふてくれ。

 俺は果たして分をつくしたか。分に立つて死に直面したか。いな、唯々諾々と死神に屈したのではなかつたか。特攻の美名にかくれて、死の掌中に陶醉したのではなかつたか。

 ほかでもない、薄行の故だ。

 俺は日常の勤務に精勵だつたか。一擧手一投足に至誠をつくしたか。一刻一刻に全力を傾けたか。

 しかしこの試錬を賜はつたのは何ゆえか。

 一たび死の與へられた幸運を謝すべきか。或ひはついに死を奪はれた僥倖を謝すべきか。

 間髮、幽明の岐路、暗鬪のうちに逆行すればどうだつたのか。俺を迎へたものは死か。あの忌まはしく貧しきものが死か。死か。

 思ふな。死はも早やお前にかゝはりはない。この時を、不斷眞摯への轉機となせ。

 死は身に近ければむしろわれより遠ざかり、生が完きとき初めて死に直面する。

 眞摯の生、それのみが死に對する正道。虚心。眞摯。――徳之島西方二十哩の海底に、埋積する三千のむくろ。かれら終焉の胸中はたしていかん。

底本:「軍艦大和」銀座出版社

    1949(昭和24)年810日 発行

─────────────────────────────────

◆◆戦艦大和は不沈艦だったのか

毎日新聞・データでみる太平洋戦争

http://sp.mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data5.html

─────────────────────────────────

70年前の194547日、沖縄を目指した戦艦大和が航空攻撃を受け、九州・坊ノ岬沖で乗員2740人と共に撃沈された。上空直援のない裸艦隊の出撃は無謀でしかなかったが、メンツにこだわった海軍は「一億総特攻の先駆け」とうそぶいた。この海上特攻作戦で、巨大戦艦が撃墜したとされる敵機はわずかに3機。就役後3年半足らずの生涯のうち、世界最大の46センチ主砲が敵戦艦に火を噴くことはついになかった。国家予算の4%強の建造費をつぎ込み、大艦巨砲主義の誇大妄想が生んだリバイアサン。大東亜共栄圏を夢見た日本の象徴は、無敵の〝不沈艦〟だったのか。データをひもといてみた。【高橋昌紀/デジタル報道センター】

◆◆米軍編隊、効果的に大和を挟撃

1分間に13本の魚雷投下し次々命中

海軍の公式記録である「軍艦大和戦闘詳報」(1945420日作成)によると、第1遊撃部隊による沖縄突入の海上特攻作戦で、戦艦大和が上げた戦果は撃墜3機、撃破20機とされている。戦訓として、同詳報は米軍機の被弾・防火対策がほぼ完全だったと指摘。「機銃弾は相当命中し火を発するもの多数ありしも間もなく消火し 撃墜に至らざりしもの極めて多かりき」(一部略、原文はカタカナ)という。

米軍はまた、戦闘機・爆撃機・雷撃機を組み合わせた対艦攻撃法に習熟していた。編隊は高性能の機上レーダーに誘導され、敵艦隊上空に到達。各機は高周波無線機を搭載しており、戦闘空域にいる機上の「攻撃調整官」がタイミングを計り、効果的に攻撃目標を振り分けた。直援機のない水上艦艇にとって、同時多方向からの統制された攻撃を回避し続けることは難しかった。

戦史研究家の原勝洋氏は戦例として、第84雷撃機中隊(空母バンカーヒル所属)の記録を挙げる。計14機が小隊ごとの5編隊に分かれ、大和の左舷側を3編隊、右舷側を2編隊が個別に挟撃。わずか1分ほどの間に13本の魚雷を投下し、計9本の命中を報告した(報告に重複があったと思われる)。これは日本艦隊に対する第2次空襲(47日午後057分~同127分)の一部で、同時に参加した第84戦闘機中隊も通常爆弾14発の投下、ロケット弾112発の発射の記録を残している。

◆情報戦で既に敗れていた日本艦隊

日本艦隊は情報戦の段階で、既に敗れていた。海上特攻作戦は突然に決まったため、物資補給に関する交信などが急増。米軍は暗号を解読(通称「マジック情報」)し、その意図を45日には察知されてしまった。6日午後320分の出撃直後には豊後水道で、哨戒中の米潜水艦2隻に発見される。

「大和出撃」の報に米第5艦隊のスプルーアンス大将は、第54任務部隊(旧式戦艦10隻など)に迎撃準備を命令した。しかし、第58任務部隊(正規空母7隻など)のミッチャー中将は戦艦に対する絶対的優位性を証明するため、独断での航空攻撃を決意した。大和が引き返すことを恐れ、潜水艦に攻撃禁止を命じたという。

大和最後の出撃航路

◆大和側死者3721人、米軍は12

7日午後034分、大和は主砲による対空射撃を開始。3次にわたる空襲を受け、約2時間後の午後223分に転覆した。損害には諸説あり、「軍艦大和戦闘詳報」は魚雷10本、爆弾6発とする。第1遊撃部隊(戦艦1、軽巡洋艦1、駆逐艦8)の残存艦は駆逐艦4隻のみ。大和の2740人を含め、計3721人が戦死した。米軍は計367機が出撃。10機が撃墜され、戦死者は12人だった。

大和の損害

◆鈴木貫太郎〝終戦内閣〟組閣 戦局逼迫に「一同唖然」

47日の帝都・東京。4カ月後にはポツダム宣言を受諾する鈴木貫太郎内閣が組閣された。親任式後の控室で、閣僚らに海戦の結果が伝わってきたという。

「一同は、そこまで戦局が逼迫(ひっぱく)していたのかと唖然(あぜん)とした」

内閣書記官長(当時の官僚トップ、現在の内閣官房長官の前身)となった迫水久常氏は後に回想している。

「この戦艦大和沈没の悲報は、国民の間に大きな信頼を獲(か)ち得ていただけに、これからの一つの使命を暗示しているように感じたのであった」

◆◆1933年、海軍軍縮派を一掃

◆「海軍無制限時代」に突入

「ワシントン海軍軍縮条約」(1922年)と後の「ロンドン海軍軍縮条約」(1930年)により、列強の海軍力には制限が加えられた。しかし、軍整備は天皇の大権に属するとして、「統帥権干犯問題」が政争化する。海軍内では国際協調路線の「条約派」に対し、戦備増強を唱える「艦隊派」が反撃。1933年に大角岑生(おおすみ・みねお)海相により、「条約派」の提督たちは一斉に予備役に編入されてしまった。この「大角人事」を経て、日本は軍縮条約を破棄。「ネイバル・ホリデー(海軍休日)」は終わり、世界の海軍は無制限時代に突入する。

大和型戦艦の建造について、海軍航空本部長の山本五十六、海軍省軍務局長の豊田副武(そえむ)らは反対を唱えたという。だが、帝国海軍は航空主兵論をしりぞけ、大艦巨砲主義を固守する。

◆大和1隻の建造費で何が買えたのか

国家予算に占める割合

大和型戦艦の2隻(大和、武蔵)は1937年の第3次海軍軍備充実計画(通称・マルサン計画)で、建造が決定された。1隻当たりの予算は11759万円に上り、その年度の国の一般会計歳出(決算ベース)では約4.3%を占める。

これはどの程度の規模なのか。JR東海によるリニア中央新幹線(品川―名古屋)の土木工事費(駅舎、車両などを除く)は約4158億円。国の一般会計予算(2014年度計約958823億円)と比べると、約4.2%に相当する。感覚的には大和1隻の建造費用はほぼ、リニアの建設費に匹敵するといえよう。

この大和型戦艦2隻の予算要求に対する大蔵省査定において、海軍は〝ごまかし〟をした。すなわち、駆逐艦3隻と潜水艦1隻の予算を架空計上。大和型戦艦の建造費は過少(35000トン級戦艦並み)に見積もった。これは予算額から、実際の大きさ(64000トン)を推察されることを避けるためだった。大和型戦艦の秘匿対策は徹底しており、艦載した世界最大の46センチ主砲は書類上は「九四式四十糎(センチ)砲」と命名された。

大蔵省(現財務省)査定ごまかし

◆「大和は昭和3大バカ査定の一つ」

貴重な国力を費やした巨大戦艦は、華々しい戦果を上げられずに水没した。

19871223日未明、東京・霞が関の大蔵省。88年度の政府予算大蔵原案の説明会の席上、整備新幹線計画(510兆円超)の採算性を批判する同省の田谷広明主計官はたとえ話をした。

「昭和の3大バカ査定といわれるものがある。それは戦艦大和・武蔵、伊勢湾干拓、青函トンネルだ」「航空機時代が到来しているのに大艦巨砲主義で大和、武蔵をつくった」

◆◆世界最大の主砲口径46センチにこだわり

◆敵国艦隊の「弱点」突くつもりが

なぜ、日本海軍は世界最大の砲口径46センチ(18インチ)にこだわったのか。それは仮想敵国の〝弱点〟に由来する。米海軍は太平洋と大西洋に分断されており、当時のスエズ運河の閘門(こうもん)幅は33.3メートルだった。通過するために艦の大きさが制限され、主砲の搭載能力に影響した。その最大値を日本海軍は40.8センチ(16インチ)と判断。当時の米英海軍の主力艦の砲口径も実際、その数値だった。これを上回ることで、建艦能力の差がもたらす数的な劣勢を補おうとした。大和型戦艦は相手の射程外からの「アウトレンジ」攻撃を期待し、同級戦艦の46センチ砲からの打撃にも耐えられるように耐弾防御を施す。

主砲の射撃は

射撃データ入力

斉射(一斉射撃)

着弾観測

射撃データ修正

斉射

の繰り返しとなる。敵艦の前後を砲弾が包み込む「挟叉(きょうさ)」を続けていくうち、やがては命中弾を得られるようになる。しかし、敵艦は回避運動をとるかもしれない。自艦も動いている。風速、波浪などの自然条件も影響する。

さらに46センチ砲を最大射程4万メートル超で射撃した場合、砲弾(1.46トン)が着弾するのは約90秒後。有効射程とされる2万~3万メートルにおいても、30秒前後かかるという。敵艦の未来位置を予測し、命中させるには神業的と言える技量が要求された。

砲弾到達図

◆係留しているだけで燃料大食らい

一方で、交戦時には、敵弾を回避するための操舵(そうだ)性能が要求される。大和型戦艦1番艦の大和は就役前の公試運転で、20ノットで転舵したところ、艦首が回頭を始めたのは約40秒後だった。最大速力27ノットでは約90秒後にもなった。基準排水そ量64000トンという巨大さは当然、機動性の低下をもたらした。空母が中心の高速機動部隊に追随するには速力が十分ではなく、艦隊運用は難しかった。燃費は1リットル当たり62センチ。航行しなくとも、港に停泊しているだけで自家発電用などに重油を消費した。ちなみに、より小さい長門級戦艦(32720トン)でさえ、150トン消費したとされる。前時代的な大艦巨砲主義に基づいた大和型戦艦は就役後も、金食い虫だった。

連合艦隊は大和を温存。将兵は皮肉を込め、豪華装備の巨大戦艦を「大和ホテル」とあだ名した。

全長 263m

最大幅 38.9m

公試排水量 69,100t

満載排水量 72,809t

重油搭載量 6300t

航続距離 16ノットで7200海里

速力 27ノット

基準排水量 64,000t

軸馬力 前進153,445馬力

乗員数 2,500人(就役時)

主砲 45口径46cm3連装砲×3

副砲 55口径15.5cm 3連装砲×4

高角砲 12.7cm 2連装×6

機銃 25mm 3連装×8 / 13mm 連装×4

飛行機 水上偵察機・観測機×6

◆◆すでに終わっていた戦艦の時代

◆航空機、潜水艦の餌食に

太平洋戦争開戦劈頭(へきとう)の19411210日、日本海軍基地航空隊は英東洋艦隊のZ部隊を壊滅させた。3時間足らずで、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈。「戦争の全期間を通じて、私はそれ以上の衝撃を受けたことがなかった」と英首相ウィンストン・チャーチルを涙に暮れさせた。

英海軍によるタラント空襲(194011月、伊戦艦3隻撃沈破)、日本海軍による真珠湾空襲(米戦艦4隻撃沈破)は港内に錨泊(びょうはく)中の艦隊に対する攻撃だった。しかし、このマレー沖海戦では史上初めて、航行中の戦艦が航空攻撃のみで撃沈された。大和就役は6日後の19411216日。既に戦艦の時代は終わっていた。

欧州海域では独海軍の「ビスマルク」が英空母機の魚雷攻撃でかじを傷つけられたために航行の自由を失い、優勢な英戦艦隊に捕捉された。姉妹艦「ティルピッツ」はフィヨルド内に退避中、大型爆撃機からの特殊爆弾「トールボーイ」に転覆させられた。ソ連海軍「マラート」は独空軍ルーデル大佐の急降下爆撃を受け、大破着底。伊海軍「ローマ」は独空軍の誘導爆弾「フリッツX」のたった1発の命中で、轟沈(ごうちん)してしまった。

真珠湾空襲の第1航空艦隊航空参謀などを務めた源田実(戦後に航空自衛隊航空幕僚長)は戦時中、大和型戦艦を揶揄(やゆ)したという。「ピラミッド、万里の長城と並び、大和と武蔵は『世界三大無駄』の一つだ」

◆日本海軍 決戦の主力は戦艦

時代の変化に順応したのは真珠湾で痛打された米海軍で、

低速の旧型戦艦は陸上砲撃支援

高速の新型戦艦は機動部隊護衛

――と新たな役割を担わせた。日本機動部隊を率いた小沢治三郎中将は「敵の輪形陣(空母を中心とした隊形)を鉄壁としているのは、戦艦群である」と指摘する。味方航空機による上空直援があれば、戦艦は本来の打たれ強さを発揮できた。

日本海軍はしかし、期待できる航空戦力を失っていた。艦隊決戦の主力は日露戦争の時代と変わらず、戦艦に担わせるしかなかった。194410月の一連のレイテ沖海戦で、日本海軍が喪失した戦艦は3隻。大和型2番艦の「武蔵」は空襲を受け、シブヤン海に沈んだ。史上最後の戦艦同士の砲撃戦が起き、扶桑型戦艦の「扶桑」と「山城」が夜間に米旧式戦艦6隻の待ち伏せを受け、全滅した。日本海軍はお家芸とした砲雷撃戦においても、新式レーダーを装備したうえに数的優勢に立った米海軍に敵し得なくなっていた。

◆第ニ次世界大戦中に海没した主な戦艦

ロイヤル・オーク[]

アドミラル・グラフ・シュペー[]

コンテ・ディ・カブール[]

フッド[]

ビスマルク[]

アリゾナ[]

オクラホマ[]

レパルス[]

プリンス・オブ・ウェールズ[]

比叡[]

霧島[]

陸奥[]

ローマ[]

シャルンホルスト[]

武蔵[]

扶桑[]

山城[]

ティルピッツ[]

金剛[]

信濃[]

グナイゼナウ[]

アドミラル・シェア[]

日向[]

伊勢[]

榛名[]

主砲:Cm×門数 / 基準排水量:トン

軍港内での大破着底を含む

出典:「世界の戦艦プロファイル」など

日本の連合艦隊は戦艦10隻をもって、太平洋戦争に突入した。開戦後に就役した大和型2隻を含めると計12隻。4年足らずの戦いで、残存したのは1隻だけだった。その「長門」は1945915日に艦籍を抹消され、大蔵省財務局の管理下に移された。4671日。マーシャル群島ビキニ環礁での原爆実験で、「長門」は標的艦の1隻に使われた。呉軍港に擱座した戦艦3隻は47年までに解体され、各27004400トンの貴重な鋼材を得ることができたという。

◆◆末期には、大和の廃艦を検討していたが

◆昭和天皇「もう艦はないのか」で「海上特攻」へ

戦艦大和を軍港に係留し、浮き砲台とする――。

事実上の〝大和廃艦〟を大戦末期の19451月、日本海軍は検討していた。南方油田地帯からの輸送ルートはほぼ途絶。「戦艦ヲ主トシテ燃料ノ見地ヨリ第二艦隊ヨリ除キ軍港防空艦トス」(「第二艦隊改編要領」)。この結果、第1戦隊(戦艦3隻)の「長門」は横須賀、「榛名」は呉に回航された。ところが、大和だけは残された。連合艦隊首席参謀の神重徳(かみ・しげのり)大佐は「大和ヲ旗艦」として、「第二艦隊ヲ特攻的ニ」使用したいとの意向を明らかにしたという。

1945329日の東京・宮城(きゅうじょう)。3日前に沖縄に上陸した米軍を迎撃する「天一号作戦」について、海軍軍令部総長の及川古志郎大将は昭和天皇に奏上した。航空機による特攻作戦を徹底的に実施するとの及川総長の説明に対し、天皇は「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」と下問したともされる。奏上の結果を伝達された連合艦隊司令長官の豊田副武(とよだ・そえむ)大将は同日夜、緊急電報を発した。

「怖レ多キ御言葉ヲ拝シ、恐懼(きょうく)ニ耐ヘズ」「全将兵殊死奮戦誓ツテ聖慮ヲ安ンジ奉リ」「作戦ノ完遂ヲ期スベシ」

1遊撃部隊(大和と第2水雷戦隊)には45日午後、出撃準備の命令を下した。豊田長官は再び、全軍に電報を発する。

「皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ」「帝国海軍力ヲ此ノ一戦ニ結集シ光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揮スルト共ニ其ノ栄光ヲ後昆(こうこん)ニ伝ヘントスルニ外ナラズ」「以テ皇国無窮ノ礎ヲ確立スベシ」(GF機密第〇六〇〇〇一番電)

◆目的地到達前に壊滅必至もメンツにこだわり

海上特攻は実施部隊の意向とは異なるものだった。第2水雷戦隊(古村啓蔵少将、旗艦は軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」)の司令部は独自に検討を重ね、突入作戦が目的地到達前に壊滅することはほとんど必至との結論に達していた。43日には「水上部隊は兵器・弾薬・人員を陸揚げし、残りは浮き砲台とする」との案を第2艦隊司令部に意見具申。同意を得ていた。

しかし、出撃命令が先んじた。連合艦隊参謀長の草鹿(くさか)龍之介中将が大和に出向き、第2艦隊司令長官の伊藤整一中将の説得に当たる。「一億総特攻の魁(さきがけ)となってほしい」。草鹿参謀長自身も海上特攻には否定的だったが、伊藤長官に懇請したという。

5航空艦隊司令長官の宇垣纏(まとめ)中将は独断で、出撃した第1遊撃部隊の上空直援(7日午前610時)を行った。大和沈没を記した7日付の日記。

「全軍の士気を昂揚(こうよう)せんとして反(かえ)りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐(ふくしゅう)の念を抱かしむる外何等(なんら)得る処(ところ)無き無暴の挙と云(い)はずして何ぞや」

〝大砲屋〟である宇垣長官は、戦艦は野戦7個師団に相当するとし、大和も決戦のために保存すべきだったと指摘。昭和天皇の下問に「海軍の全兵力を使用する」と無思慮に奉答してしまい、無謀な海上特攻に至ったとして、及川総長を批判している。

戦後、大和特攻を回想し、もう一人の海軍トップ、豊田長官は吐露した。「成功率は50パーセントはないだろう。うまくいったら奇跡だ、というくらいに判断したのだけれども……(後略)」

◆◆大和の真実「片道燃料」はうそだった

◆タンクに6割以上の4000トン搭載

片道燃料での特攻出撃――。大和をめぐる「伝説」のなかでも、特に有名なものの一つだろう。事実は異なっていたようだ。確かに連合艦隊は第1遊撃部隊の搭載燃料を片道分の2000トン以内とすることを指示(GF機密第〇六〇八二七番電)。しかし、連合艦隊参謀の小林儀作中佐は戦後に証言する。

「呉のタンクは350万トンあったが、当時は大部分が空になっていた。しかし、タンクの底はおわんを伏せたように山型になっているので、両サイドには油がたまっている。武士の情を知らん様なことはできない。タンクの底の重油を集めれば約5万トンの在庫があった。『緊急搭載であわてて積み過ぎた』ということにした」(一部抜粋)

担当の呉鎮守府補給参謀の今井和夫中佐をはじめ、同鎮守府の参謀長や先任参謀、第2艦隊先任参謀の山本裕二大佐らも、承知していたという。この結果、第1遊撃部隊には計1475トンが補給された。大和への割り当ては4000トンで、燃料タンクの6割以上に達する。矢矧は1250トン、駆逐艦は満載だった。

元海軍軍令部員(中佐)の吉田俊雄氏によると、警戒や戦闘行動時には燃料消費量が急増するが、満載の3分の2の重油があれば往復は可能とみられる。沖縄への往路の5分の3で沈没した駆逐艦は、油を34割程度消費していたという。

1遊撃部隊の出撃時における燃料積載状況

「バカ野郎」激怒した大井参謀

「人情美談といえばそうともいえる。(中略)しかし、お涙頂戴や武勇伝で戦略指導ができるものではない」。海上護衛総司令部参謀の大井篤大佐は指摘する。総司令部は島国日本のシーレーン防衛を担っていた。ところが大和の特攻に必要として、重油割当量7000トンのうち約6割が割かれることになった。

この重油は中国大陸からの物資輸送、日本海での対潜水艦哨戒に役立つはずだった。「大和隊に使う4000トンは、一体、日本に何をもたらすのだろう」。45日付の豊田長官の訓示(前述)を連合艦隊参謀から聞き、大井大佐は激怒する。

「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。バカ野郎」

46センチ主砲が火を噴いたのはたったの1

戦艦大和の46センチ砲が敵艦に火を噴いたのは、たったの1回だった。レイテ沖海戦におけるサマール沖海戦(19441025日)で、主砲用1式徹甲弾104発、3式通常弾6発を砲撃。戦艦「長門」「金剛」「榛名」、重巡洋艦「羽黒」「利根」などを含めた第1遊撃部隊(栗田健男中将)は合計1300発以上を発射した。ただし、米海軍が失ったのは護衛空母「ガンビア・ベイ」と駆逐艦2隻、護衛駆逐艦1隻の4隻でしかなかった。このうち駆逐艦「ホエール」について、「日本戦艦戦史」(木俣滋郎著)は大和の副砲がとどめを刺したと記している。

◆◆山折哲雄=戦艦大和「いびつな時代」の「いびつな象徴」

宗教学者・山折哲雄さんインタビュー

日本人にとって、戦艦大和とはどのような存在なのか。〝不沈艦〟を生み出した天皇主権下の日本を「いびつな時代」という宗教学者の山折哲雄さん(83)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

宗教学者の山折哲雄さん=京都市中京区で2015323日、後藤由耶撮影

◆戦後70年の今を生きるために必要な三つのこと

戦艦大和とは日本そのものでした。大和という国土を象徴し、大和という民族を象徴していたからです。世界で最大最強の不沈戦艦だった。だからこそ、最初の朝廷が置かれた奈良の古代名が与えられたというわけです。大和という言葉は、日本人そのものの源流につながっている。「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」と、本居宣長は詠みました。大和という言葉を耳にして、日本人は何がしか自己の根拠にふれた感情を抱かざるをえない。1隻の戦艦としての存在をそれは超えていた。海戦の主役が航空機となっても、日本海軍の象徴であり続けたというわけです。どうも、富士山との共通性を感じますね。古来、日本人は山を神とあがめてきました。その中心が富士山でした。巡洋艦や駆逐艦を従えて海上を突き進む戦艦大和の勇姿(ゆうし)はまるで、富士山のように輝きそびえていたことでしょう。

「巨大なるもの」への根強い信仰が、日本人にはもともとあります。大和朝廷創成の記紀神話で、天照大神に「国譲り」をした大国主命(おおくにぬしのみこと)は非常に大きな神様でした。皇孫である聖武天皇は「国家鎮護」を祈り、大和の中心に当時最大の盧舎那大仏(東大寺)を祀(まつ)りました。ところが、そうした「巨大なるもの」の傍らに、「小さきもの」が存在していたことに注意しなければなりません。大国主命には少彦名命、そして盧舎那大仏には釈迦誕生仏です。

「巨大なるもの」をあがめる一方で、こうした「小さきもの」をいとおしみ、大事にするという心性です。たとえば一寸法師、桃太郎、瓜子姫などを例に挙げ、そうした日本人の特質を解き明かしたのが民俗学者の柳田国男でした。戦艦大和の場合はどうでしょうか

 日本人にとって、戦艦大和とはどのような存在なのか。不沈戦艦を生み出した天皇主権下の日本を「いびつな時代」という宗教学者の山折哲雄さん(83)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

 戦艦大和とは日本そのものでした。大和という国土を象徴し、大和という民族を象徴していたからです。世界で最大最強の不沈戦艦だった。だからこそ、最初の朝廷が置かれた奈良の古代名が与えられたというわけです。大和という言葉は、日本人そのものの源流につながっている。「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」と、本居宣長は詠みました。大和という言葉を耳にして、日本人は何がしか自己の根拠にふれた感情を抱かざるをえない。1隻の戦艦としての存在をそれは超えていた。海戦の主役が航空機となっても、日本海軍の象徴であり続けたというわけです。どうも、富士山との共通性を感じますね。古来、日本人は山を神とあがめてきました。その中心が富士山でした。巡洋艦や駆逐艦を従えて海上を突き進む戦艦大和の雄姿はまるで、富士山のように輝きそびえていたことでしょう。

 「巨大なるもの」への根強い信仰が、日本人にはもともとあります。大和朝廷創成の記紀神話で、天照大神に「国譲り」をした大国主命(おおくにぬしのみこと)は非常に大きな神様でした。皇孫である聖武天皇は「国家鎮護」を祈り、大和の中心に当時最大の盧舎那大仏(東大寺)を祀(まつ)りました。ところが、そうした「巨大なるもの」の傍らに、「小さきもの」が存在していたことに注意しなければなりません。大国主命には少彦名命(すくなひこなのみこと)、そして盧舎那大仏には釈迦誕生仏です。

 「巨大なるもの」をあがめる一方で、こうした「小さきもの」をいとおしみ、大事にするという心性です。たとえば一寸法師、桃太郎、瓜子姫などを例に挙げ、そうした日本人の特質を解き明かしたのが民俗学者の柳田国男でした。戦艦大和の場合はどうでしょうか。3000人を数えた乗組員たちは、一人一人がまさにいとおしき「小さきもの」たちでした。しかし、「巨大なるもの」はついに彼らを守ることができなかった。時の軍事権力が国威発揚を担わせた不沈戦艦があっけなく、沈没してしまったからです。「大きなもの」と「小さきもの」との美しい均衡は戦争になっては崩壊せざるをえなかったということです。

 わが国には「パクス・ヤポニカ(日本の平和)」と呼ばれるべき時代がありました。大きな戦争がなかった平安期の350年間と江戸期の250年間です。それは宗教的な権威と政治的権力が見事にバランスがとれていたため、実現しました。それが、天皇と藤原摂関家の関係であり、また天皇と徳川将軍家の二重構造でした。権威と権力が一つに集中することなく、社会のバランスが保たれていた。カトリックとプロテスタントの両派に皇帝・国王たちが入り乱れて世界を二分した西洋におけるような破滅的な宗教戦争は起きなかった。この日本の「パクス・ヤポニカ」の安定した状態が危機に陥るのはしばしば、強力な専制君主が現れたときです。承久の乱(1221年)を起こした後鳥羽、建武新政(1333年~)を断行した後醍醐の時代がそれで、この時2人は権威だけでなく、権力を手に入れようとしました。

 そして、明治天皇の時代がやってきます。維新後の天皇は国家神道の祭司長であり、近代憲法の主権者となった。世界は帝国主義の時代になっているということもあり、それに対応する独立国家としての西欧化が必要だった。しかし、この時1000年以上の間、根付いてきた「神仏習合」を否定したことは、破滅的な影響を与えました。

 当時の日本の支配層が西洋のような神道の一神教化を目指したということもあった。このことは日本人の美徳である異なる文明への寛容性を損ねることにもつながりました。かつての大和朝廷は中国の律令制度を導入しましたが、政治を混乱させる宦官(かんがん)制度は受け入れませんでした。自分の背丈に合わせ、制度や文物を受容してきたのです。その柔軟性が徐々に失われていったということです。西洋からは近代思想だけでなく、植民地思想も学んでいますが、「和魂洋才」と言いますか、そこに和の魂を一本通すことを怠ったといえるかもしれません。日本はその後、過度の集団主義へと傾斜していき、たとえ天皇が権力を振るわなくとも、天皇と一体化した政府・軍部が天皇の権威をかさに着て戦争の時代に入っていく。天皇を「玉」と呼び、まるで将棋の駒のように扱い操作する。

 太平洋戦争における敗戦で、天皇権威と政治権力に分立する政治システムが回復されました。象徴天皇を軸とする平和国家がつくられた。しかし、この現行憲法の改正で、天皇を国家元首化しようとの主張が自民党から提出されております。これは非常に危険なことです。先進国の国家元首は米国大統領、フランス大統領はもちろん、英国国王でさえ、正式に就任するのに議会の承認が必要となっています。

 議会主義による代議員制度の下で、国民に選択権がある。ところが、日本では国民は議会を通して次の天皇を選ぶことはできないことになっています。この点を無視したまま天皇の元首化を認めると、まるで王権神授説の復活でもあるかのようなことになる。明治憲法のように天皇を国家元首にしてはならないのです。

 今、われわれは戦後70年の「パクス・ヤポニカ」の状態を否定するかのような難しい時代を迎えています。この時代を生きるためどうしたらよいか、さしあたり三つのことを示したいと思います。

 一つ、人間とは何か。

 二つ、日本人とは何か。

 三つ、自己とは何か。

 これらの問いを循環させながら問いつづけることで、現代の難しい問題の解決に向かって進んでいってほしいと思います。特に日本人としてのアイデンティティーだけを追求すれば、偏狭なナショナリズムに陥ってしまう。かつての大日本帝国は大和民族の優秀性を掲げてうぬぼれ、唯我独尊の「八紘一宇(はっこういちう)」を唱えました。それは先にいった平安期、江戸期の「パクス・ヤポニカ」の時代とは異なり、本来の日本のあり方を示すものではありませんでした。そのようないびつな時代にあって、それを象徴するようないびつな幻想の「不沈戦艦」が戦艦大和だったのではないでしょうか。

◆◆参考文献 

「日米全調査 戦艦大和」 吉田満、原勝洋

「真相・戦艦大和ノ最期」 原勝洋

「戦艦大和・武蔵 そのメカニズムと戦闘記録」 秋元健治

「日本戦艦戦史」 木俣滋郎

「日本海軍史」 海軍歴史保存会

「世界の戦艦プロファイル」 ネイビーヤード編集部編

「世界の艦船 イギリス戦艦史」 海人社

「世界の艦船 イタリア戦艦史」

「世界の艦船 ドイツ戦艦史」

「世界の艦船 アメリカ戦艦史」

「徹底図解 戦艦大和のしくみ」 矢吹明紀、南波健一郎、市ヶ谷ハジメ

「戦艦大和ノ最期」 吉田満

「戦艦武蔵」 吉村昭

「ニミッツの太平洋海戦史」 CW・ニミッツ、EB・ポッター

「第二次世界大戦回顧録」 ウィンストン・チャーチル

「戦藻録」 宇垣纏

「海上護衛戦」 大井篤

「大本営参謀の情報戦記」 堀栄三

「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」 戸部良一

「山本五十六」 半藤一利

「大日本帝国の興亡」 ジョン・トーランド

「ドイツ海軍戦記」 CD・ベッカー

「戦史叢書 海軍軍戦備」 防衛庁防衛研修所戦史室

「戦史叢書 大本営海軍部・大東亜戦争開戦経緯」

「戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊」

「戦史叢書 海軍捷号作戦」

「戦史叢書 沖縄方面海軍作戦」

「大蔵省百年史」 大蔵省百年史編集室

「昭和国勢総覧」 東洋経済新報社編

「日本文明とは何か パクス・ヤポニカの可能性」 山折哲雄 など

◆◆戦艦大和:総員死ニ方用意1945年4月6日最後の出撃

 「総員死ニ方用意」。そう書かれた黒板が砲塔に掲げられると、乗組員たちはざわめいた。死の準備をせよ、という命令だ。戦艦大和は2日後の1945年4月7日、米軍の猛攻を受けて沈没し、約3000人が戦死した。18歳で水兵長として乗り組んでいた名古屋市在住の畦地哲さん(あぜち・さとし、88)は、今も自問する。「死を前提とする作戦だった。それは作戦と呼べるのか」【川上晃弘】

 4月6日、沖縄に向け山口県を出港した。仲間たちは艦上で「覚悟を決めた」「いざとなれば自決する」と言い合ったが、ぴんとこない。「戦死は当然と考えていたが、実際に自分が死ぬのだとは毛頭思えなかった」

 25ミリ3連装機銃の射手だった。敵機に照準を定め引き金を引く。照準器は最新鋭で、敵機の速度や進入角度を入力すると発射角度が自動的に計算される。艦首を0度とし時計回りに160~180度(右舷最後部)が受け持ち範囲だった。

 運命の7日昼過ぎ、見張りの声が響いた。「大編隊発見」。見上げると100機以上の敵機が近づき、高度2500メートルから1機ずつ急降下を始めていた。日本の戦闘機より急角度でスピードも速い。照準を合わせ、射程1500メートル前後で引き金を引く。全機を狙う余裕はなく、1番機の次は3番機と一つおきに狙うのが鉄則だった。

 次々に照準を合わせるため命中の確認はできない。畦地さんの右手人さし指に、引き金を引く感触が今も残る。「とても軽い。ちょっと引くとババババッと。敵機が多い時は引きっぱなしだった」

 恐ろしいのは直撃弾だ。「爆弾が向かってくるのは何となく分かる。これは死ぬ、と何度か思った」。それて海中に落ちると艦橋を超す水柱が上がる。びしょぬれになり、そのたびに「俺は生きてる」と実感した。

 攻撃はどれほど続いたか。ある時点でぴたりとやんだ。「また来ると身構えていたが、もう現れなかった。気づいたら船体が大きく傾いていた」。戦闘終了を意味する「総員退去」の声を聞いた。持ち場を離れて最上甲板に出ると、遺体の一部が転がっていた。砲声はなく、静けさが広がっていた。仲間が何人か寄り添うように座っている。「いよいよだ」「思い残すことはない」。みなさばさばした表情だった。

 船がゆっくり傾いていく。傾斜がきつくなると、一人で船の横っ腹を歩いた。黒色から赤色に変わる喫水線まで行き、そこで靴を脱いで息を吸い、頭から海へ飛び込んだ。

 何秒間潜ったか。顔を上げると数十メートル先に大和が見えた。直後に火柱が上がり、黒煙に変わった。大和の姿はもう見えなかった。

 同僚と浮遊物につかまり漂流を続け、そこで歌ったのが、敵艦隊を沈没させた時の軍歌「轟沈(ごうちん)」だった。「自艦が沈められ『轟沈』はおかしいけれど、元気が出ればどんな歌でも良かった」。数時間後、味方の駆逐艦に救助された。

    ◇

 「結局、運だった」。生死の境目について畦地さんは言う。敵の攻撃も予想され駆逐艦の救助活動は日没で終わった。海面にはまだ複数の乗組員が漂っている。「彼らは救助直前に望みを断たれた。助かった私と彼らの間に何の違いもない」

 戦後は名古屋で親族の運送業を手伝うなどして生計を立てた。大和は今も海に沈む。遺骨や船体を引き揚げる話もあったが、畦地さんは反対する。

 「彼らは大和と共に逝った。大和を枕に休ませてあげることが一番の供養と思う」

 ◇戦艦大和

 全長263メートル、基準排水量6万5000トン、46センチ砲3連装砲塔3基を搭載した史上最大の戦艦。1941年12月に就役し連合艦隊の旗艦を務めたが、海戦の主体は既に航空機に移行。威力を発揮できぬまま、米軍の沖縄上陸を阻止する「水上特攻部隊」として航空機の護衛なしに出撃し、45年4月7日に屋久島沖で米軍機に攻撃され沈没した。乗組員約3300人で生還者は276人。

20150407日毎日新聞

◆◆母の千人針で生還 戦艦大和元乗組員・名張の北川さん、平和への思い訴え /三重

 「沖縄特攻作戦を命じられたとき、顔面蒼白(そうはく)になりました」。戦艦大和の元乗組員、北川茂さん(90)=名張市豊後町=は69年前を「覚悟はしていたが、いざ、死んでこいと言われると……。二度と故郷に戻れないと思い、涙ぐみました」と振り返る。政府・与党の集団的自衛権の行使容認については「今の憲法9条を変える必要はない。69年間も平和を堅持したのだから」と訴える。15日は終戦の日−−

 広島の海軍呉海兵団にいた1945(昭和20)年2月17日、21歳だった北川さんは伝令兵で大和への乗艦を命じられた。全長263メートル、全幅38・9メートルの世界最大の戦艦は、大阪城のように大きく、感動した。巡洋艦は食事や休憩の連絡は伝令係がメガホンで伝え、全員に届くまでに10分近くかかったが、大和には艦内放送やエレベーターが備わっていた。

 戦局が悪化した3月下旬、上官から身辺整理を命じられ、「御賜煙草(おんしたばこ)」を授かった。荷物をまとめていると、下宿のおばさんが察して、お汁粉を作ってくれた。

 4月5日、甲板に集められ、沖縄特攻作戦を命じられた。飛行機の特攻は聞いていたが、「なぜ戦艦が特攻を」と動揺した。6日、巡洋艦1隻と駆逐艦8隻と共に出撃した。

 大和は7日午後2時23分、左舷への魚雷攻撃で沈没した。乗員3332人中、生存者は276人。海に落ちた北川さんは大和が沈む水流に巻き込まれたが、大和の水中爆発で海面に押し上げられた。沈没後も敵機の攻撃は続き、上半身裸の乗員は撃ち殺されたが、服を着て海と同色となった北川さんは助かった。同僚と2人で丸太にしがみつき、約4時間後、駆逐艦に救助された。「母が作ってくれた千人針を巻いていたのが良かったのかも」。今も大事な宝物だ。

 先月の閣議決定で集団的自衛権の行使が容認されたが、北川さんは「戦争するのが前提としか思えない。これからも体験談を語り継ぎ、平和への思いを訴えていく」と熱く語った。【行方一男】〔三重版〕

20140815日毎日新聞

◆◆戦艦大和:艦長、駐米時の日記発見、「豊かさ、比較にならぬ」

 「戦艦大和」艦長などを務めた海軍軍人が昭和初期、アメリカ滞在中につけていた英文の日記が見つかった。当時すでに「仮想敵国」だった米国の武力を探る一方、その豊かな国力を肌で感じていたことが分かる。当時の軍人によるアメリカ滞在日記が公になることはほとんどなく、貴重な1次資料だ。

 日記をつけていたのは松田千秋・元海軍少将(1896~1995年)。長男の孝行さん(81)が遺品から見つけ、孫で毎日映画社ディレクターの文治さん(44)が解読を進めた。

 当時少佐だった松田は1929年に渡米し翌年、在米大使館付武官補佐官に就任、計2年間、主にワシントンに駐在した。見つかったのは29年6~9月のもので、約120ページ。

 サンディエゴでは「飛行機に乗り街を見下ろした。約100隻の駆逐艦があり、20隻は稼働中だった」と記した後「標的」を意味するとみられる「guntargets」と書くなど、米軍艦に強い関心を示している。

 一方、アメリカは人も建物も大きく、食事に行っても食べきれないほど出てくるなど、豊かさに驚く記述も目につく。アメリカ通の軍人が少ない中、実体験でアメリカの国情を感じていたようだ。戦後は「アメリカは資源の豊かさや生産性など、日本とは比較にならないと思った」と振り返ったという。

 松田少佐は第2次近衛文麿内閣の直属機関で、開戦前の41年4月にスタートした「総力戦研究所」の所員として研究生を指導。諸外国の国力や国際情勢を踏まえつつ戦争のシミュレーションを行い、「日米戦日本必敗」の結論を下した。42年、松田少佐は海軍のシンボル「戦艦大和」の2代目艦長に就任するなど第一線で戦った。

 日記の内容は14日午後9時、BS11の「報道ライブ21 INsideOUT」で放送される。ほかにも武官補佐官時代の記録など手つかずの資料が多いため、文治さんは専門家と協力して研究を進める。【栗原俊雄】

20140814日毎日新聞

◆◆大和撃沈70年:最後の特攻、敵機撃墜たった3機

 70年前の1945年4月7日、沖縄を目指していた戦艦大和が鹿児島・坊ノ岬沖で撃沈された。無謀な海上特攻作戦を海軍は「1億総特攻の先駆け」と美化し、乗員2740人を戦死させた。世界最大の46センチ主砲が敵戦艦に火を噴くことはなく、この最後の艦隊出撃で、撃墜したとされる敵機はわずか3機だった。大艦巨砲主義の誇大妄想が生んだ不沈戦艦への信仰に対し、宗教家の山折哲雄さん(83)は「大和とは、いびつな時代のいびつな象徴だった」と指摘する。【高橋昌紀/デジタル報道センター】

 海軍の公式記録である「軍艦大和戦闘詳報」(昭和20年4月20日作成)などによると、大和が上げた戦果は撃墜3機、撃破20機とされている。米海軍機の被弾・防火対策は優れており、撃墜することが難しかったという。上空直援が無かった日本の第1遊撃部隊(大和、軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」、駆逐艦8隻)に対し、米空母機動部隊は雷・爆撃機と護衛の戦闘機で構成した戦爆連合367機を投入。未帰還10機・戦死12人の損失だけで、日本艦隊を壊滅させた。第2艦隊司令長官の伊藤整一中将はじめ、日本側の全戦死者は大和の2740人を含む計3721人。残存艦艇は駆逐艦4隻だけだった。

 この海上特攻作戦は連合艦隊司令長官の豊田副武(そえむ)大将でさえ、成功すれば「奇跡」とみていた。矢矧を旗艦とした第2水雷戦隊司令部は「水上部隊は兵器・弾薬・人員を陸揚げし、残りは浮き砲台とすべし」との意見具申を行っていた。作戦に反対する伊藤中将ら現場指揮官に対し、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介中将は「一億総特攻の魁(さきがけ)となってほしい」と説得したという。

 劇的な最期を遂げた不沈戦艦は戦後、さまざまな神話を生んだ。連合艦隊は沖縄への片道燃料(艦隊総計2000トン以内)だけで、特攻艦隊を送り出したとされる。しかし、実際には「武士の情を知らん様なことはできない」(連合艦隊参謀・小林儀作中佐)と、大和には満タンの6割超に当たる4000トン、第1遊撃部隊全体では1万トン超を秘密裏に給油。沖縄への往復は十分に可能だったとみられる。

 無敵のゆえんとなった世界最大の46センチ主砲が敵艦隊に向けられたのは結局、レイテ決戦におけるサマール沖海戦(1944年10月25日)の1回だった。米護衛空母部隊に向け、大和は主砲弾100発以上を発射。しかし、その戦果は駆逐艦1隻撃沈だけだったとみられる。当時の国家予算の4%強を投入した巨大戦艦について、戦後の大蔵官僚は「日本三大バカ査定の一つ」と断じた。

 「大国主命、奈良の大仏……。古来、日本人は『巨大なるもの』への信仰がある」。宗教学者の山折さんは説明する。ただし、もちろん、巨大戦艦は神仏などではなかった。「明治維新以降は、平和な平安、江戸期とは異質な時代だった」と指摘し、大和については「(乗員という)『小さきもの』を守ることもできなかった」と話している。

20150407日毎日新聞

◆◆戦艦大和:沈没70年 呉で追悼式 戦死3千人の冥福祈る

 旧日本海軍の戦艦「大和」が沈没してから丸70年となった7日、大和が建造された広島県呉市にある旧海軍墓地で追悼式が営まれ、遺族や海上自衛隊関係者ら約300人が黙とうをささげた。参列者は、特攻として出撃し海に沈んだ戦艦の非業の最期に思いをはせ、戦死した約3000人の乗組員の冥福とともに、平和への誓いを新たにした。

 大和は呉の海軍工廠(こうしょう)で建造され、1941年12月に就役した。戦艦としては世界最大級の全長263メートル、最大射程約42キロに及ぶ46センチ口径の主砲3基を搭載していた。だが45年4月6日、米軍が上陸した沖縄に向かう水上特攻作戦のため停泊地の徳山(現山口県周南市)沖を出撃し、翌7日に鹿児島県沖で米軍機の猛攻を受けて沈没。乗組員3332人のうち9割以上が亡くなった。

 追悼式は乗組員の遺族や市民らでつくる「戦艦大和会」が主催。高齢化などで生存者が年々減り、会主催の追悼式は2005年以来。会長の広一志さん(91)=呉市=は、41年8月から2年間、信号兵として大和に乗船した。

 「若い世代は(日米開戦の)12月8日を知らない人もいる。大和を通じて、若い人にも戦争を知ってほしい」と話した広さんは、「失った大和の友人たちにも夢があり、生きていれば家庭も持ったはず。彼らの犠牲のおかげで今の平和がある。だからこそ、平和を大切にしていきたい」と話した。【石川裕士】

◆◆論点:戦後70年を前に、記憶をどう語り継ぐ

20150407日毎日新聞=論点戦後70年を前に㊤

 第二次世界大戦の敗戦から69年がたった。最前線で戦った人たちはもちろん、「銃後」にあって空襲や飢えなどに苦しんだ人たちも高齢化し、そうした体験を聞き取ることが難しくなっている。一方、国内では若者の右傾化が指摘されるなど社会情勢は大きく変化している。今後、私たちの社会は悲惨な体験や記憶をどう語り継いでいったらいいのだろうか。

◇悲惨さ隠し美化する危険−−星野智幸・作家

 東日本大震災のショックで人恋しくなったのか、ここ数年、僕は旧友たちに立て続けに会った。ある男性は、昔と変わらずに懐かしく感じた一方で、ふと韓国や中国の話になると「あそこだけは行きたくない」と激越な調子になって驚かされた。かつて政治には全く無関心だったのに、急に国防問題を持ち出す友もいた。自衛隊の存在を誇り、その意義を得々と語るのだ。

 僕が知っている友人たちとは似て非なる物言いだった。そして、そんな例が何人も続いたのだ。仕事がないとか家庭崩壊とか、特段の苦境にある人たちではない。マジョリティーがそうなっていることを怖いと感じた。過去の戦争が美しい物語として記憶され始めている背景には、そのような変化があると思う。

 彼らは職を失いはしていなくても、職場環境は悪化している。非正規雇用は増える一方だ。正社員にも過大な責任が課され、本来の職務を十分に果たしきれない。誰もが自分への価値を見失っていく。そこへ大震災が起こり、先の見えない不安が強まる。代わりにアイデンティティーを与えてくれる組織なり共同体なりを渇望していたところへ、日本の正しさや強さを強調されると、多くの人が簡単に取り込まれてしまった。

 戦争は美しくも格好良くもない。人間の手足が吹き飛び、内臓が飛び出す。極めてグロテスクだ。ところが、社会から必要とされていないと感じて苦しむ人たちは、戦争の悲惨さを想像する余裕がない。戦争のもたらす痛みより、今の自分の苦しさの方が重く、それを解消してくれるなら戦争をも肯定してしまう。

 近年、戦争を描く小説や映画で最も求められるのは「泣ける」こと。冷徹なリアリズムは敬遠される。涙は現実の悲惨さを感動に変えてしまう。泣かせるための装置が「自己犠牲」だ。あの犠牲は、他人のために意味があったのだ、と。日本が起こした昭和の戦争は間違っておらず、特攻隊をヒーロー視して感謝する、国家規模の大きな物語が人気を集める。失われつつある自らのアイデンティティーが救われるからだ。東日本大震災後の「絆」の連呼も同じこと。千差万別の津波被害や原発事故の物語が、分かりやすい大きな物語にまとめられてしまう。それが今、歴史の解釈にまで及んでいる。

 だが冷静に考えねばならない。そこで払われた犠牲は国家のためだ。その国家は国民を守ったのか。社会をよくしてくれたのか。戦時中はさんざん命を使い捨てにした揚げ句、都合よく英霊に祭り上げた。今後も同じことが起こるだろう。それを今、最も苦しんでいる人たちが受け入れ、求めてしまっているのだ。

 これまで新聞をはじめとするジャーナリズムが取り組んできた、個々の戦争体験者を探し出して実態を伝える手法は、社会が渇望している物語とはすれ違っている。しかし、やめてしまえば戦争の個々の事実はなかったことにされてしまう。言葉にしておくことは決定的に大事だ。

 感動を目的とした一元的な大きな物語は、歴史の中の矛盾する事実を切り捨ててしまう。それを消さずに小さな物語の集まりとして描けるのが文学だ。個々人の体験をフィクションに変換しながら、あくまでも個人的な言葉で語るからだ。大きな物語のいかがわしさを破る力が、そこにはある。【聞き手・鶴谷真】

◇無数の悲劇、伝える責任−−八杉康夫・「戦艦大和」元乗組員

 戦争は地獄だ。悲惨な体験をした人こそ、その実態を伝えることができる。

 私は1945年4月、米軍が上陸した沖縄に向けて特別攻撃隊(特攻)として出撃した「戦艦大和」の乗員で17歳だった。3000人以上が戦死し生還者は300人に満たなかった。戦後に生還者や遺族らによって「大和会」が結成され、先輩たちが「大和」の歴史を伝えていた。

 しかし、そうした人たちが次々と亡くなった。戦争の、特攻の悲劇を伝える人がいなくなってしまうと思い、25年ほど前から自分の体験を講演や学校の授業などで話すようになった。これまでに北海道から鹿児島まで、600回以上、話をしている。

 本当の戦争は、バーチャルなゲームとは違う。無数の悲劇を生む。たとえば米軍機の攻撃を受けた「大和」の甲板は血だらけで、あちこちに死体や負傷者が横たわっていた。衛生兵が、ちぎれた腕や足を海へ投げ捨てていた。

 沈没後は重油の海を漂った。駆逐艦が救助のためにロープを下ろしてくれたのだが、生存者が奪い合った。「どけー、俺のだあ」などと怒号が飛び交っていた。階級も年齢も関係なかった。本当の修羅場で、人間の本性をみた気がした。

 その後、呉で海軍陸戦隊に配属になった。広島に原爆が投下された翌日の8月7日、救助活動のため現地に入った。街には黒こげになった遺体がたくさんあった。身元が分かるはずもなく、引き取り手もほとんどみつからなかっただろう。3日間作業をして、私自身も被爆した。戦後は後遺症に苦しんだ。

 「大和」もそうだが、近年「特攻」が映画や小説などで注目されているようだ。

 家族や国を思い「特攻」で亡くなった若者たちは、尊いと思う。私は彼らの遺影や遺書をみると、自然に涙が流れ、手を合わせる。しかし、特攻という作戦自体は間違っていた、と伝えたい。若い人が死んでしまったら、その国はどうなってしまうのか。

 ただ戦争を始めた当時の為政者を責めるつもりもない。当時はまさに帝国主義の、食うか食われるかの世界だった。為政者たちはそういう時代の教育を受け、その時点では適切と思った決定をした。彼らを今の価値観で裁いてみても、説得力は乏しいはずだ。

 一方で、その歴史から学ぶべきことは多い。たとえば当時の日本は「自存自衛のため」と戦争を始めたが、資源の少ない日本が自存自衛できるわけもなく、共存共栄しかなかった。それは現代でも同じだ。さらに外国の領土に色気を出したり、国家間の対立を武力で解決しようとしたりすると、大きなつけが回ってくる、ということも語り伝えなければならない。過去の戦争を美化するような人には「それなら、実際に戦争を経験してみろ」と言いたい。

 私は「大和」の沈没と原爆で2度地獄からはい上がってきた。死んでいった人たちのことを伝えるのが使命だ。今後も体が続く限り戦争の実態を伝えたい。しかし、そう遠くない将来、我々のような戦争体験者はいなくなるだろう。

 教員から体験談を求められたり新聞やテレビの取材を受けたりすることが多い。ほとんど応じている。教育やジャーナリズムは今後一層、戦争の実態をしっかりと学び、伝える責任があると思うからだ。【聞き手・栗原俊雄】

◇「体験の持つ力」信じたい−−田所智子・戦場体験放映保存の会事務局次長

 「戦場体験放映保存の会」(東京都北区滝野川6、03・3916・2664)は2004年に発足した。社会人や学生などのボランティアが第二次世界大戦で国内外の戦場にいた軍人や軍属、民間人の生の声を映像で記録し、インターネットで放映している。

 今、聞き取りに携わっているのは20代前半から80代までの30人。設立当初からのモットーは三つで、まずは「無色」。つまり特定の党派の立場ではないこと。そして「無償」、さらに「無名」。為政者や軍幹部たちは、戦後に自分たちの考えや体験を伝えることもできた。そうした機会がなかった兵士たちの話を聞き記録しようということだ。初代代表の上田哲(故人。元社会党衆院議員)の発案だった。

 私はその前、イラク戦争の反対デモに参加するなど反戦平和活動にかかわっていたが、戦争の実態をどれほど知っているのか疑問があり、放映保存活動に参加した。当初は「無色」に不安があった。「戦争体験者の、都合よく美化された話を記録するだけになってしまうんじゃないか。たとえば『反戦・平和』といった旗を掲げた方がいいのでは」と。上田に「歴史の評価は、定まるべき所に定まってゆくはず。人間の、民主主義の力を信じようよ」と言われて、半信半疑で始めた。

 以来10年、およそ2500人の証言を集めた。当初は関東での聞き取りが中心だったが、未曽有の規模で行われた戦争の実情を知るには、証言も相当の数を集めなければならない。10年に「戦場体験キャラバン」を始めて、全国各地におもむいている。

 「無色」を貫いたからこそ、これほど多くの人たちが協力してくれたと思う。政治色を帯びると、戦争体験者は「自分の体験談が都合のいいように利用されてしまうのでは」と恐れただろう。「無色でなければ参加しなかった」というスタッフもいる。

 極限状態である戦争では、国家のありよう、個人の人間性があらわになる。それぞれの体験はまさに「事実は小説よりも奇なり」で、聞き取りを始めたらやめられなくなった。聞く人がいないまま埋もれていた体験がたくさんあったし、今もあると思う。

 体験者の戦争の評価はさまざまだ。「加害体験」を語る人がいる一方、「あの戦争で俺は男になった」という人もいる。何を話してくれてもいい、映像の編集はしないのが、基本的な方針だ。見る人が自分で解釈する余地をできるだけ多く残したいから。

 戦争体験者は減っていく。時間との闘いという危機感は持っている。しかし正直言って、証言者の減少より怖いのは「戦争の実相を知ろうとしている人が、減っているんじゃないか」ということだ。人間は生々しく、ときにグロテスクな事実よりも、理想を投影した心地よい物語を求めがちであり、戦争の記憶が遠くなっていくほどその志向は高まるだろう。それでも、「体験そのものが持つ力」を信じて聞き取りを続けたい。

 戦後のある時期までは、戦争世代ならではの共通の価値観があったと思う。それは、たとえば「とにかく戦争はごめんだ」ということだ。

 戦争体験を引き継ぐからには、そうした価値観まで紡ぎ直したいと個人的には思う。今後は、他の団体との連携など、証言を活用する方法も工夫しなければならないと感じている。【聞き手・栗原俊雄】

==============

 ◇戦後生まれが約8割

 総務省の人口推計によると、2013年10月1日現在の総人口約1億2730万人のうち、「戦後生まれ」は約1億119万人で、全体の79.5%を占める。一方、1960年代後半に数千団体に上ったとされる戦争体験者らの「戦友会」は高齢化などで90年代以降、相次ぎ解散。日本海軍の象徴であった戦艦大和の元乗組員らによる「戦艦大和会」も、戦後50年の95年に活動を休止した。近年は再び特攻ブームといわれ、作家で歌人、辺見じゅんの「男たちの大和」、百田尚樹の小説「永遠の0(ゼロ)」がともにベストセラーとなり映画化されるなど特攻隊員への関心が高まっている。

人物略歴

◇ほしの・ともゆき

 1965年米国生まれ。早稲田大卒。新聞社勤務後、メキシコ留学。「俺俺」で2011年大江健三郎賞。最新刊に「夜は終わらない」。

==============

人物略歴

◇やすぎ・やすお

 1927年広島県福山市生まれ。15歳で海軍に志願。戦後は音楽家となり楽器の調律事務所も経営。著書に「戦艦大和 最後の乗組員の遺言」。

==============

人物略歴

◇たどころ・さとこ

 1966年8月6日、兵庫県生まれ。大阪大医学部卒。同会の設立から参加。共編著に「戦場体験キャラバン 元兵士2500人の証言から」(彩流社)。

憲法とたたかいのブログトップ

治安維持法のもとでたたかった人びと=伊藤千代子などの群像・野呂栄太郎・尹東柱・三木清獄死・長野県教員「2・4事件」・北海道「生活図画事件」・横浜事件・治安維持法体制

治安維持法のもとでたたかった人びと=伊藤千代子などの群像・野呂栄太郎・尹 東柱・三木清獄死・長野県教員「24事件」・北海道「生活図画事件」・横浜事件・治安維持法体制


🔴憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

【このページの目次】

◆治安維持法のもとでたたかった人びとリンク集

◆伊藤千代子の生涯

=略歴・土屋文明うたう・碑文・最後の手紙・塩沢富美子との出会い・広井暢子千代子語る

◆こころざし半ばで倒れた多くの人びと

=『抵抗の群像』を読む・不屈の青年群像・市川正一・上田茂樹・岩田義道・河上肇・飯島喜美・相沢良・高橋とみ子・田中サガヨ・高島満兎・古川苞 ・公爵の娘=岩倉靖子・司法官赤化事件・新島繁・池田勇作・古川友一・遠藤元治・藤本仁太郎・鵜沼勇四郎・乗富道夫・寺田行雄・和田四三四・関淑子・加藤四海・亀戸事件とは・治安維持法犠牲者の戦後・八坂スミ(小林多喜二については当ブログ=小林多喜二参照)

◆野呂栄太郎

◆尹 東柱(ユン・ドンジュ)・鶴彬・〈徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢に満つるとも〉を詠んだ石井百代さん・宮澤・レーン事件

◆三木清獄死事件・長野県教員「24事件」・「北海道「生活図画事件」三浦綾子「銃口」・横浜事件

◆治安維持法体制

治安維持法はどんな法律・なぜ小林多喜二や山本宣治が殺されたのか・治安維持法の歴史・治安維持法条文・特別高等警察・治安維持法と共謀罪

───────────────────────

🔵治安維持法のもとでたたかった人びとリンク集

───────────────────────

★★ETV10万人の検挙者を出した治安維持法(データで読み解く戦争の時代)58m

1925年に制定された当初、主に共産党などの取締りを目的としていた治安維持法。しかし、20年間にわたる施行期間の中で、取締りの対象は、共産党の外郭団体、そして戦争遂行などの国策に妨げとなる人々へと拡大していった。番組では、取締りの実態を記録した司法省や内務省などの公文書の中から、10万人にのぼる検挙者のデータを抽出。なぜ一般の市民まで巻き込まれることになったのか、検証を行った。数々の共産党弾圧・長野県教員「24事件」・北海道「生活図画事件」・朝鮮での弾圧など

出演

松本五郎,杉浦正男,元小樽商科大学教授荻野富士夫,大竹一燈子,谷岡健治,三浦みを,九州大学名誉教授内田博文,シン・ゼチョル,シン・サンジン,京都大学名誉教授水野直樹,

★★ラジオ・萩上チキ=治安維持法90年、たたかった人びと=杉浦正男さん62m

https://m.youtube.com/watch?v=Iy8aXTGa2fQ

15.04.26赤旗】

【日刊ゲンダイ17.05.12

◆当ブログ=小林多喜二から学ぶ


治安維持法のもとでたたかった人びと=小林多喜二の生き方と虐殺の過程をこのブログでみてほしい。

◆当ブログ=阪口喜一郎=そびゆるマストの反戦兵士

◆当ブログ=山本宣治


◆当ブログ=反戦文学作品紹介、反戦川柳を書いた鶴彬つるあきら


◆当ブログ=戦前軍部に反対の声をあげた人びと=斎藤隆夫・水野広德・宮武外骨・長谷川如是閑など


◆当ブログ=いまプロレタリア文学がおもしろい


◆当ブログ=反戦住職・竹中彰元の生き方


◆当ブログ=日本ファシズムの研究=古屋哲夫ほか


◆当ブログ=わかりやすい昭和史(高校日本史、半藤、ファシズムへの道)



◆当ブログ=戦争国家の民衆動員とは=古屋哲夫氏などの研究から


◆当ブログ=文学者・文化人、マスコミのアジア太平洋戦争協力


◆当ブログ=ゾルゲ事件と尾崎秀実の『愛情はふる星のごとく』


★★種まく人々=治安維持法犠牲者のたたかいとその志倭引き継いだ人々の記録40m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v125095973dhDEaegb

★★『組曲虐殺』から考える治安維持法と現代島村 教授(フェリス女学院大学)152mにレジメあり)

★★治安維持法を考える宮田汎さん60m

★★そもそも総研=秘密保護法案:治安維持法から学ぶこと22m

https://m.youtube.com/watch?v=dt4aKRYVbH8

★不屈の日本共産党員小林多喜二5m

★不屈の日本共産党員市川正一5m

★不屈の日本共産党員宮本顕治2m

★★日本共産党の歴史(1922-1992100m

◆李修京=平和を希求し,武力に抵抗した文学青年考察 : 尹東柱,小林多喜二,鶴彬,槇村浩を中心にPDF18p

クリックして18804314-61-08.pdfにアクセス

◆(伊藤千代子)千代子こころざしの会

http://www.lcv.ne.jp/~tiyoko17/index.html

◆みんなの「伊藤千代子」のブログ

http://s.webry.info/sp/f-mirai.at.webry.info/theme/9bd3032aff/index.html

◆◆藤田=時代の証言者-伊藤千代子

◆廣登が征く(伊藤千代子ツアーなど)

http://blog.livedoor.jp/fujita19340829/archives/19142573.html

◆産別会議記念図書室

http://www.zenrouren-kaikan.jp/tosho/index.html

伊藤千代子・小林多喜二PDFあり

千代子の会No.4=女学校時代PDF20p

クリックして20080923_chiyoko_no4.pdfにアクセス

藤田=小林多喜二と前橋

http://www.zenrouren-kaikan.jp/tosho/study20081101_fujita.html

野呂アイ=高橋とみ子と尚絅女学校のもう一つの歴史

http://www.zenrouren-kaikan.jp/tosho/study20080923_noro.html

◆◆9302日本共産党=こころざしつつたふれし少女.pdf

◆◆8410山岸一章=相沢良の青春.pdf

◆治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟・中央

http://www7.plala.or.jp/tian/

◆治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟大阪

http://s.webry.info/sp/f-mirai.at.webry.info/theme/107c17ae6d/index.html

◆治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟広島(「聳ゆるマスト」の阪口喜一郎など反戦水兵など治安維持法下のたたかい資料豊富)

http://www5.hp-ez.com/hp/kokubai/page7/index

◆大島博光・治安維持法の時代

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-191.html

◆大島博光・小林多喜二と伊藤千代子

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-78.html

◆詩聖・尹東柱

http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/history/71.htm

◆治安維持法

http://www7.plala.or.jp/tian/

────────────────────────────

🔵伊藤千代子の生涯

────────────────────────────

千代子と交流のあった土屋文明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊藤 千代子(いとう ちよこ、1905年(明治38年)721 – 1929年(昭和4年)924日)は、昭和初期の社会運動家。日本共産党員。

長野県諏訪郡湖南村南真志野(現・諏訪市)の農家に生まれる。2歳で母と死別、9歳で亡母の実家・岩波家に移り養育される。諏訪高等女学校(現・長野県諏訪二葉高等学校)に進学、同校教諭(のち校長)で歌人の土屋文明から英語・国語・修身の授業を受ける。同校卒業後は諏訪郡の高島尋常高等小学校の代用教員となるが、1924年(大正13年)私立尚絅女学校(宮城県仙台市、現・尚絅学院女子高等学校)高等科英文予科を経て、翌年には東京女子大学英語専攻部2年に編入。同大学社会科学研究会で活躍。

1927年(昭和2年)830日、長野県岡谷で起こった製糸業最大の争議「山一林組争議」(女工ら労働者による30日ストライキ)の労働者支援を行う。同年秋、労働農民党の浅野晃と結婚。翌1928年(昭和3年)、初の普通選挙を戦う労働農民党の藤森成吉候補らの支援活動を行う。同年2月日本共産党に入党。党中央事務局で文書連絡や印刷物の整理などの活動を始めて半月後[1]、三・一五事件の弾圧により検挙され警視庁滝野川署から市ヶ谷刑務所に収監、拷問により転向を強要されるが拒否し続ける。ところが拘禁精神病を発病し、松沢病院に収容され、急性肺炎により病死。享年25。郷里の龍運寺墓地に葬られる。

◆関連文献

東栄蔵『伊藤千代子の死』未来社、197910

藤森明『こころざしいまに生きて 伊藤千代子の生涯とその時代』学習の友社、199511

藤田廣登『時代の証言者伊藤千代子』学習の友社、20057

◆◆伊藤千代子略歴

(千代子こころざしの会作成)

1905年(明治38)

7月21日 0才 伊藤千代子、長野県諏訪郡湖南村南真志野(現諏訪市)の農家に生まれる

1907年(明治40)

2月20日 2才 千代子の母・まさよ死去、養祖母・よ祢が母親がわりになる

1908年(明治41)

2月17日 3才 婿養子であった若い父・義男、妻・まさよの死去により協議離婚

1912年(大正 元)

4月1日 7才 千代子、湖南尋常高等小学校へ入学

1914年(大正 3) 9才 亡母の実家で千代子を養育することになり、中洲村(現諏訪市)中金子の岩波家へ移る。転校した金子分教場で平林たい子と同クラスになる。生徒24名。

《第一次世界大戦はじまる》

1916年(大正 5)

9月1日 11才 金子分教場併合で、新築の中洲尋常高等小学校へ。担任・川上茂の「早教育」(特別授業)を受ける

1917年(大正 6) 12才 ひきつづき、川上茂の、「早教育」(特別授業)を受ける。読書・勉学すすむ

《ロシア10月社会主義革命》

1918年(大正 7)

4月1日 13才 小学校を卒業し、諏訪高等女学校へ入学

歌人・土屋文明、同校へ赴任

1919年(大正 8) 14才 土屋文明から英語・国語・修身の授業を受け、大きな影響を受ける

1920年(大正 9) 15才 土屋文明、諏訪高女校長となる

1921年(大正10)

16才 千代子、土屋テル子夫人宅で英語補習を受ける(文明着任以来)

千代子、軽い肋膜炎で学校を少し休む

1922年(大正11)

4月1日 17才 千代子、諏訪高女を卒業。生徒総代で卒業証書授与

高島尋常高等小学校の代用教員になる

土屋文明、松本高女へ移る

《日本共産党創立》

1923年(大正12) 18才 女子英学塾を2回受験(不合格)

《治安警察法による第一次弾圧》

1924年(大正13)

4月 19才 小学校教師を突然退職し、仙台の尚絅女学校高等科英文予科へ入学

1925年(大正14)

4月 20才 東京女子大学英語専攻部2年へ編入学

大学内の社会科学研究会結成に参加

《治安維持法公布 男子普通選挙法公布》

1926年(昭和 元) 21才 学外のマルクス主義学習会に参加。浅野晃を知る

学内の「社研」組織拡大。講師活動で塩沢富美子らを指導

大学内の社会諸科学研究会につづき、マルクス主義学習会を組織して活躍する

1927年(昭和 2) 22才 女子学連結成に参画、委員になる

8月~ 

岡谷の山一林組製糸工場大争議を支援

秋、労働農民党オルグの浅野晃(元諏訪中学校教師)と結婚

《日本共産党「27年テーゼ」決定》

1928年(昭和 3)

2月20日 23才 初の総選挙に労働農民党から立候補した藤森成吉らの支援活動

2月29日 《「赤旗」創刊。普選初の総選挙(山本宣治ら当選)》

3月15日 

千代子、日本共産党に入党し、中央事務所の活動任務につく

《3・15弾圧事件。〔県下で80人検挙〕》

千代子、3・15事件の大弾圧で検挙され、警視庁滝野川署に連行される。悪名高い毛利基警部の取調べ・拷問を受ける。

市ヶ谷刑務所に収監される。

獄中で学習をつづけ、同志を励ましたたかう

《緊急勅令による治安維持法改悪(最高刑を死刑に)》

《特高警察を全府県に設置》

1929年(昭和 4)

24才 《3月5日、山本宣治、右翼に刺殺される(改悪治維法強行可決 に反対したため)》

4・16事件、検挙者約千人。〔県下20人検挙〕》

浅野晃・水野成夫ら、天皇制権力に屈服し獄中転向

千代子、転向強要攻撃が強まるなか拒否してたたかう

8月1日 千代子、拘禁精神病発病

8月17日 松澤病院へ収容される

9月 

千代子の身内・伊藤一郎氏ら面会。正常に回復という

9月24日 

千代子、急性肺炎により病状悪化

誰にも看取られることなく24歳2ヶ月の生涯を閉じる

          ◇

千代子の遺骨、帰郷し、龍雲寺墓地に葬られる

🔴伊藤千代子と土屋文明(千代子こころざしの会作成)

 短歌というものが、単に文学の一分野というにとどまるものでなく、かくも深い影響力を持っているのだ、ということを私たちは片や伊藤千代子の24年の短い生涯、片や土屋文明の100歳の大往生というツインの歴史から感動をもって受けとめている。

 土屋文明とは『アララギ』の総帥、歌人土屋文明のことである。その若き日の4年間が教育者として諏訪高女とともにあったのである。

 大正 7年3月25日 長野県立諏訪高等女学校教諭

   9年1月31日 補同校校長

  11年3月14日 補長野県松本高等女学校校長

 伊藤千代子と土屋文明との運命的な出会いは、諏訪高等女学校へ入学した1918年(大正7年)4月であった。土屋文明からは英語、国語、修身の授業を受ける。さらに土屋テル子夫人宅で英語補修を受けていたといわれる。この4年間に豊かな感受性とひたむきな情熱をひそめる千代子は、歌人教師土屋文明に大変大きな影響を受けることとなった。その後、波瀾の生涯を経て24歳の若さで実質獄死する。

 それから5年後、弾圧が極に達していた時代に『アララギ』1935年(昭和10年)11月号を飾ったのが以下の6首であった。

 某日某学園にて         土屋文明

・語らへば眼かがやく處女(をとめ)等に思ひいづ 諏訪女学校にありし頃のこと 

・清き世をこひねがひつつひたすらなる 處女等の中に今日はもの言ふ 

・芝生あり林あり白き校舎あり 清き世ねがふ少女あれこそ

・まをとめのただ素直にて行きにしを 囚へられ獄に死にき五年がほどに

・こころざしつつたふれし少女(をとめ)よ 新しき光の中におきておもはむ

・高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき

「某日某学園にて」6首が「伊藤千代子がこと」3首への変身の経緯

 土屋文明が昭和10年に詠んだ「某日某学園にて」6首は、昭和17年に『六月風』に収録、戦後も昭和49年自選『土屋文明歌集』(岩波文庫)に収録されている。

 今回、伊藤千代子顕彰碑碑文の一部として、文明6首のうち後半3首を刻むことになったが、何故この3首なのか。

 伊藤千代子像を鮮明に表象した土屋文明とともに、それ以上に鮮烈に千代子の短い生涯を記憶の中に保存していたのは、塩沢富美子(野呂栄太郎夫人)であった。伊藤千代子と塩沢富美子の出会いは昭和2年4月であり、獄は府中刑務所で、一緒であった。千代子のことについて、長い沈黙ののち、ほとばしるようにして書いたのが、1976年(昭和51年)5月号『信州白樺』への寄稿「信州への旅」であった。

前年10月墓参をすませている。

 塩沢富美子はさらに10年後1986年『野呂栄太郎とともに』を著わしたが、この中でも再び千代子の回想を記している。

 塩沢富美子は、土屋文明とはまたちがった形で、千代子との終生忘れがたい思いを歌に詠み綴った。1979年(昭和54年)、「追憶」と題するものである。

・市ヶ谷の未決監庭の片すみに こぶしの花をはじめてみたり

・花の下に佇みてわが名呼ぶ伊藤千代子を 獄窓よりみしが最後になりぬ

・きみによりはじめて学びし「資本論」 わが十八の春はけわしく 

・学窓を去りにし君はあらしの中 くぐりて捕われき三月十五日

・獄の君を変名の便りで慰さめし われ同じ道に蹤く燃ゆる心で

・余りにも疾く獄に送られしわれに 勇気づけんと君は呼びかく

・縞の着物束ねし黒髪長身のきみは 歩くふりしてわれに呼びかく

・運動場にだされし三十分に何気なく きみは獄窓に近づきて呼ぶ

・君と交せし二言三言のその言葉 忘れ得ず生きし五十年を

・ひそやかなわれとの会話ききとがめ 獄吏走りきて君を連れ去る

・身も心もいためつけられただひとり 君は逝きけり二十四歳

・君と交わせし言葉忘れず五十年 春さきがけて花咲くこぶしよ

・年ごとに春さきがけてこぶし咲く わが胸の白き花君はかえらじ

 言語に絶する苦難の時代を生き延びた塩沢富美子は、戦後・新しき時代に生きることになるが、片時も夫・栄太郎そして同志千代子のことを忘れることはなかった。その真骨頂を後世・未来に伝えねば・・・の使命感に燃えて生きたといってよい。

 かくして、前記『信州白樺』への寄稿「信州への旅」、そして『野呂栄太郎とともに』として結実することになった。この取材の過程で、塩沢富美子は土屋文明を訪ねている。

 おそらく、生涯秘めてきた千代子への思い、上記「追憶」歌にこめた思いを文明にこもごも語ったにちがいない。そして千代子の実像をようやくにして知った文明が、塩沢富美子のたっての願いにこたえて、93歳にして、やや利かなくなった腕をふるわせながら、渾身の力をこめて、新たな歌を詠む心境で書き綴ったのが、3首であった。歌題はもはや「某日某学園にて」ではなく、「伊藤千代子がこと」であった。

「伊藤千代子がこと」

・まをとめのただ素直にて行きにしを 囚へられ獄に死にき五年がほどに

・こころざしつつたふれし少女(をとめ)よ 新しき光の中におきておもはむ

・高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき

 この自筆の3首は塩沢富美子の部屋を飾っていたが、その後日本共産党中央委員会へ寄贈されたものである。

 こうした歴史経過を考慮して、党中央の配慮もあり、また3首を碑文の一部として刻むについて、遺族のご理解も得られ、晴れて 伊藤千代子顕彰碑の一角を飾ることになった次第である。

《伊藤千代子生誕100年記念事業の一環として碑文は直筆のものに代えられた。》

 さて、土屋文明が伊藤千代子らについて詠った歌はこれらにとどまらない。

昭和22年(1947年)、「諏訪少女」と題して再び千代子の回想を詠んだ。『自流泉』(昭和23年)に、「諏訪少女」の一連が載っている。

・われ老いてさらばう時に告げ来る 諏訪の少女のきよき一生を

・書き残し死にゆきし人の数十首思ひきや跣足(はだし)にて遊びし中の一人ぞ

・槻(つき)の木の丘の上なるわが四年 幾百人か育ちゆきにけむ

・湖の光る五月のまぼろしに 立ち来むとして恋しなつかし

・処女なりし君をほのかに思ひいづ 淡々しくわりんのその紅も

昭和30年(1955年)、『青南集』の「諏訪を過ぎて」の5首中、

・訴ふと川を渡りし少女等の 歎きの数も水の上の霧

・清き生()を紅葉づる山にかくせれば 道に会はさむ真処女もなく

・少女等は七緒を貫ける真珠(しらたま) 散りのまにまに吾老いにけり

  土屋文明は、松本高女へ転任と決まっての告別式で、涙ぐむ生徒に「涙に甘えるな」の訓辞を残した。 目標を高くせよ、しっかり勉強するんだ、‥‥。このような苦言はすばらしく新鮮で、生徒の心に深く根をおろしたのであった。 このような土屋文明であったが故に、伊藤千代子のようにいわばひとすじに思想に殉じた生き方にも限りない共感をよせ、 深い憤りと愛おしみを寄せもしたのであった。

◆土屋文明

明治23-平成2(18901990)。歌人。群馬県高崎市出身。幼少期に育てられた叔父に俳句を教わり、旧制高崎中学時代から俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿。卒業後、恩師の紹介により伊藤左千夫を頼って上京し、創生したばかりの『アララギ』の最年少の同人となりました。大正14(1925)1歌集『ふゆくさ』を出版。昭和5(1930)斎藤茂吉に代わり、『アララギ』の編集発行人になりました。芸術院会員。61年文化勲章受賞。

◆◆伊藤千代子顕彰の碑文(千代子こころざしの会作成)

 伊藤千代子は1905年(明治38)7月21日、ここ諏訪の南真志野の農家に生まれ幼くして母と死別、湖南小学校から中洲小学校へ転校し、祖父母の援助で諏訪高等女学校(現二葉高校)に学び、高島小学校の代用教員の後仙台尚絅女学校から東京女子大学へと進んだ。

 千代子は常に生活に苦しむ人々に心をよせ、世の中の矛盾と不公平さを許せず、学内で「資本論」を学ぶなど、社会科学研究会で中心的に活動した。郷里では初の普通選挙をたたかう革新候補の藤森成吉を支援、岡谷での歴史的大争議であった山一林組の製糸工女らを激励し、社会変革の道にすすんだ。

 1928年(昭和3)2月、千代子は日本共産党に入党。3月15日の治安維持法による野蛮な弾圧で逮捕、市ヶ谷刑務所に投獄される。千代子は獄中での狂暴な拷問や虐待にも屈せず、同志を励ましたたかい続けたが、ついに倒れ1929年9月24日、24歳の若さで短い生涯を閉じた。

 千代子の死後、女学校時代の恩師でアララギ派の歌人土屋文明は暴圧化のきびしい言論統制の中の1935年、教え子伊藤千代子の崇高な生涯を悼み歌に詠んだ。

 千代子のこころざしは今も多くの人々に受け継がれ、生きている。

◆◆伊藤千代子の故郷を訪ねる旅

赤旗18.01.25

◆◆伊藤千代子を詠んだ歌とは?

200455()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、戦争に反対して拷問され、亡くなったという伊藤千代子、その死を惜しんで土屋文明がうたった歌とは?(福岡・一読者)

 〈答え〉 戦前、天皇制国家の専制支配と侵略戦争に反対して、たたかった日本共産党員など多くの人々が死刑法である治安維持法で逮捕され命を落としました。この中には、多くの若い女性もいました。

 『日本共産党の八十年』は、化粧用のコンパクトに「闘争・死」の文字を刻み獄死した飯島喜美、弾圧機関である特別高等警察におそわれ重傷を負い死去した高島満兎(まと)、獄中でチリ紙に「信念をまっとうする上においては、いかなるいばらの道であろうと」という姉あての手紙を残した田中サガヨ、それに、伊藤千代子の四人をあげ、「それぞれが二十四歳の若さで、侵略戦争に反対し、国民が主人公の日本をもとめて働いたことは日本共産党の誇り」と記しています。

 伊藤千代子(1905~1929年)は、東京女子大に入学すると社会諸科学研究会に入り、長野県の製糸工場の大争議の支援などのなかで、22歳で入党。党中央事務局で文書連絡や印刷物の整理などの活動を始めて半月後の3・15事件で逮捕されました。拷問をうけ、獄中で党員の夫の天皇制政府への屈服を知り、衝撃を受けますが、同調を拒否。市ケ谷刑務所で栄養失調になり、病院に転送後亡くなりました。

 諏訪高等女学校(現諏訪二葉高校)校長を務めた歌人、土屋文明は一九三五年、短歌誌『アララギ』で、教え子・千代子を悼んで次のように詠みました。

 まをとめのただ素直にて行きにしを 囚えられ獄に死にき五年がほどに

 こころざしつつたふれしをとめよ 新しき光の中におきて思はむ

 高き世をただ目ざす処女(おとめ)らここにみれば 伊藤千代子がことぞかなしき

 (喜)〔2004・5・5(水)〕

◆◆伊藤千代子最後の手紙公開にあたって

畠山忠弘・前苫小牧市議会議員

 戦前の暗黒時代に平和と民衆の幸せのためにたたかい、逮捕され、獄死同然で逝った伊藤千代子最後の手紙四通が北海道苫小牧市立中央図書館で一日から、公開されています。

 長野県諏訪市出身の伊藤干代子の手紙が、なぜ、苫小牧市立中央図書館にあるのか。なぜ、今公開なのかについて簡単にふれてみたいと思います。

 私が、東京の伊藤干代子研究室、藤田広登氏から、「伊藤千代子獄中最後の手紙四通は、千代子の最期をたどる上で貴重な手紙で、苫小牧市立中央図書館にあるかもしれない、ぜひ、探して欲しい」との手紙をいただいたのは、二〇〇二年一月のことでした。

 伊藤干代子の夫であった浅野晃が、自分の持っている著書や書籍、書簡類を、苫小牧市立中央図書館に寄贈しており、伊藤千代子の四通の手紙も、それまで預けていた、長野市の伊藤千代子研究家・東栄蔵氏に手紙を出し、取り戻したということまでは明らかだが、その後がわからないとのことでした。

 夫であった浅野晃は、千代子が一九二八年三月十五日に逮捕されたあと、二十日ほど遅れて逮捕されましたが、水野成夫らに同調して、獄中で変節し、その変節文書を使って思想検事は、千代子にも変節を強く迫りました。しかし、千代子はきぜんとして拒否し最期までたたかったことはよく知られています。だが、官憲による厳しい拷問や脅迫に加え、最愛の夫である晃の変節に直面し、拘禁精神病を発言し、一九二九年九月二十四日、肺炎で、誰にもみとられることなくこの世を去ります。

 公開された手紙四通は、浅野晃の母親と妹にあてた手紙で、一九二九年五月八日から、七月二十九日までに書かれたものです。このうち、最後の手紙は、亡くなる二ヵ月ほど前に書かれたもので、千代子の最期を知る上で、極めて重要な意味を持つものでした。

公開された手紙のーつから

 「朝露にぬれた麦畑や大根畑のひろびろとつづいた野方町からあの岡から谷の辺りはどんなに気持ちいいだろうと私も時々思い出していました。ここではね今地しぼりの花ざかりです。高い煉瓦の塀に沿ってまるい黄色な頭を春風にユラユラゆすぶっています、淑ちゃんは地しぼりを御存じですか、強情な大変力のある面白い花ですよ。ダリアの畑へでも菊へでもおかまいなしにずんずん押し込んでいって肥料を横収りにしてしまいます。

 田舎では野菜や桑を荒らすのでお百姓は眼の仇にしていぢめています。命あるものはみんなあらん限りに生きようとしているのですね。生きようとするからこそ、その大切な命をも投げ出すのですね。(略)」(五月八日 浅野淑子あて)(しんぶん赤旗 20050407

ひと=伊藤千代子の獄中最後の手紙の公開に尽力した

 畠山忠弘さん

 国の主人公は、天皇でなく国民だ、と主張する日本共産党員というだけで、逮捕され、刑務所に入れられた戦前。一九二八年。

 その党に二十二歳で加わり、十六日目に逮捕・投獄。拷問され、変節を迫られ、愛する夫の転向に直面しても「節」を曲げず。しかし、苛烈(かれつ)な造反に病に倒れ、二十四歳で世を去った伊藤千代子とは。

 「彼女の最後の手紙が苫小牧市にあることは、まったく知りませんでした」

 三年前の正月、東京の研究家から、その旨の手紙を受け取り、「確認」を頼まれたのです。千代子を知るにつけ、粘り強い信念、心根のやさしさに驚嘆。魅力のとりこになりました。

 手紙は、疎開先・苫小牧市の文化振興に功ありとして、市立中央図書館に「コーナー」が設けられている、千代子の夫の未公開資料の中にありました。

 「命あるものはみんなあらん限り生きようとしているのですね……」(義妹への手紙)。獄舎のれんが屏にしがみつくように咲く「地しぼり」の花に自らを重ねた千代子の生きざまと無念。これを世に知らせたい。当時、同市の共産党市議団長。闘志がわきました。

 議員団で協議、市議会で公開を迫り、中央図書館に通い、資料を集め、千代子の地元・諏訪市にも二度行きました。この四月一日から、夫の母や妹、弟への手紙四通が公開の運びに。

 市議を退いた今も、人々の面倒をとことん見ています。七月三日に同市で開催する「伊藤千代子最後の手紙公開記念の集い」の準備に忙しい毎日です。

  文・写真 土田 浩一

(しんぶん赤旗 2005.5.12

◆◆伊藤千代子の進学と塩沢富美子との出会い

(藤森 明著「こころざし いまに生きて」学習の友社 p26-53=京都学習情報)

 千代子は、代用教員時代に貯えた資金で仙台の尚桐学校高等科に入ったが、田舎の祖母たちも千代子の固い決意にほだされて、かわいそうな孫のためにと、やがて援助するようになっていった。

 開校は入試に当っても、英語の学力が重視されていたので、千代子はしだいに自信を深め、次の飛躍をめざしたのであろう。それが一九二五(大正一四)年四月に、かねてから心に期していた東京女子大学英語専攻部への進学となった。

 東京女子大学は、一九一ハ(大正七)年に青山女学院と女子学院専門部が合体し、キリスト教主義に基づいて創立され、初代学長が新渡戸稲造であって比較的新しい校であった。その新渡戸学長が国際連盟に派遣されることになった後は、安井哲子が新たに学長になり、校舎は西荻窪の武蔵野の林の中にあった。

 大学時代の千代子は、いつも地味な着物に紺の袴をつけ、髪は後に巻いて、すらりとした長身で、面長な色白の顔に黒い瞳は大きく、信州人特有の赤い頬をしていたという。それに口数の少ない人で、話をするときは低い静かな声で説得力があり、やさしくて目立たない人柄が、みんなから好感をもたれ、学生間の彼女に対する信頼感も大きなものがあったようである。

 そんな彼女が、ひとたび動き出すと彼女のまわりには、多くの学生たちが集まってくる。「社会諸科学研究会」は、すでに学校公認で公然と活動していたが、この研究会と並行して「マルクス主義学習会」をひそかにつくり、その講師になっていたのが、伊藤千代子であり、〝知は力なり〟をかかげて学習を広げた。

 千代子は、「資本主義のからくり」という初歩的なものから、マルクスの『賃労働と資本』や『共産党宣言』、それにレーニンの『国家と革命』や『唯物弁証法』、さらにエンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』、マルクスの『資本論』など、政治・哲学・経済学に関する入手できる本を紹介し、これらをテキストにして毎週一~二回の学習会を、放課後に寄宿舎の部屋へ集まって勉強会を開いていた。

 のちに千代子の遺志を継ぐことになる塩沢富美子(旧姓下田、野呂栄太郎夫人)は、当時を回想して、次のように書き残している。

「私たちはそれに吸いこまれるように……勉強しました。そして私たちは今更のように、今まで自分が如何に真実を知らなかったかを知り、目からうろこが落ちるような思いで、新しい社会と国家を考えるようになりました」。

 英語専攻科の四年生になっていた千代子が、寄宿舎の東寮から西寮に移って、下級生の塩沢富美子と同じ寮生活になり、食事も同じテーブルでするようになると、副寮長は何となく、千代子と富美子の接近を警戒の目で見ている様子があったという。

 それから間もなく、秋も深まるころに突然、千代子が寮を去り、空いたその部屋に移った富美子は、びっくりして更に次のように述懐している。

「窓ぎわの作りつけの机の引出しをあけてみると、そこにおびただしいローソクの燃えたれが残っておりました。その頃、寮は十時の消燈でしたから、そしてマルクスやレーニンの本を読むことは大っぴらにできませんでしたので、夜、ローソクをともして勉強していて、それを私たちは〝ローベン〟と称していましたが、千代子さんがいかに勉強していたかということを思いました」。

 下級生で、しかも学習活動の仲間でもあった富美子は、どうして千代子が寮を去ったのか、そして学校にくることがまれになったかの事情を、あまり細かく聞くことはいけないとさとり、何か外での仕事をはじめたためだろうぐらいに思っていた。たまに現われては、一年生の富美子の教室に濃紺の袴をつけて静々と千代子が入ってきて「どう? 元気? 勉強している?」などといわれると、富美子は胸がドキドキして、何もしやべれなくなるが、それでも一生懸命に話をしてくれたという。

 千代子の燃えるような情熱と勉強ぶりに深く感動していた塩沢富美子は、その後の生涯にわたる導きの星として、千代子を敬愛しつづけ、その心に残された足跡に励まされ、彼女は幾多の試練をのり越えていくのである。

──略──

千代子の発病と最期

 千代子は、諏訪高女時代に軽い胸膜炎(乾性)を病んだことがあって、もともとそう丈夫ではなかった。それが三・一五の弾圧で投獄されてからのひどい拷問と虐待に、よく耐えて一年六ヵ月も獄中にあった。

 逮捕されてから市ケ谷刑務所に送られるまでの間に、相当にひどい拷問と虐待を受けて千代子の体はボロボロ、高熱を出して一〇日も寝たままの状態で独房に放り込まれていた。

 ようやく元気を取りもどした千代子は、薄暗い独房の中では、外も眺められず、あっても見上げるような高いところに小さな窓がひとつ、そこでトイレのふたをおこして、それを踏み台にし、うるさい看守の足音が聞えるまで、トイレの小窓から外の僅かな自然を眺めて喜んでいたという。

 こうして千代子は、自分のことは後回しにしても、獄中の同志を励まし続け、看守に改善や処置することを要求する先頭に立っていた。

 同じ獄中にあって、奥に隔離される千代子の独房の近くへ肋膜炎で移された原菊枝は、「千代子さんの監房での生活ぶりは、実に輝けるものだった」、また、「いつも真面目に党のことを考え、外で働いている多くの同志のこと、そして中に同じく入っていて金銭にも、衣服にも困っている多くの同志のことを考えて、決して自分だけの生活の満足を計るようなことはしなかった」と述懐している。

 千代子の体がめっきり衰弱してきたのを心配した原菊枝は、千代子に「あなたは体が弱いのだから、少しは栄養をとらなければ」といっても、千代子は「それはそうですけれども、……」といって、獄中の同志のことを考え、励ますことで不屈にがんばっていた。

 それがその年の暮れころから足の裏に黒い斑点が出るようになり、千代子は座ると痛いといって、医者に診察してもらったが、リューマチだから仕方がないといって放っておかれた。

 それから年が明けて一ヵ年が過ぎたころ、千代子の頚部のリンパ腺が四ヵ所も五ヵ所も大きくはれ上ってきた。そこでまた例の医者に診てもらうと水銀軟膏を少しくれたという。当時は水銀軟膏を用いるのに、シラミの炎症に殺菌用として塗ったことはあるが、リンパ腺に効くわけはなかった。

 千代子が獄中に入れられた年の夏から冬にかけての千代子の月経は、ニヵ月に一回くらいしかなかったと自分でいっているが、このころになると全くなくなって、「私は、とうとう中性になった。中性って、ちっとも気持のいいものではないね」と笑っていたという。

 しかし、このころから、千代子は物忘れはするし、語学の方も一日休むとすぐやり直し、差し入れされたカントの本をよく読んでもわからないことが多く、「どうも頭が悪くなって仕方がない」といっていたという。

 原菊枝は後に千代子の病気について「あの最後の病気が、この当時から徐々に頭へ食い込んでいたのではないだろうかと、私は後になって思い合わせている」と書いている。

 刑務所の中の医者は、決してどこが悪いかの病名やどの程度に悪いかの病気の進行状況は教えなかった。

 五、六月ころになると、千代子は今度こそ保釈運動を外の人に頼んで出られるようにするといって、自分の布団をみんな宅下げにして、刑務所のセンベイ布団に包まれ、この方がみんなと同じだから気持がいいといって、愉快そうに笑っていたという。千代子は原菊枝にも「私が出たら、きっとあなたを出してあげるから待っていらっしゃい」と話していたという。

 保釈は裁判所の職権であって、事件の審判のほかは、決して各自の思想・信条には立ち入らないことになってはいたが、その人間の考え方の如何によって保釈にもするし、死んでも出さないという悪法の乱用をしていた。千代子はこのことを十分に承知していたはずであり、保釈運動は必要なたたかいではあったが、容易なことではなかった。千代子は、この時点で相当に身心がまいった状態になっていて、ときに妄想がはじまっていたのではなかろうか。

 そんな千代子に、思いがけない大衝撃を与える事件がおそってきて、彼女の神経をズタズタにしてしまうのである。

 それは、千代子の共産党入党の推薦者であり、党指導部の大幹部であった水野成夫が、天皇制権力に屈服して日本共産党の解体を主張する「日本共産党労働者派」と称する運動に転落したことである。このいわゆる「解党派」は党を破壊していく役割をもっていたから、党はかれらを除名した。

 ところが、権力の側はこれをテコに、獄中にあった同志たちへの転向をすすめる攻撃を強めてくる。千代子たちにも、当然、およんできたが、獄中の彼女らは結束して、断固、反対していた。

 それが、こともあろうに、千代子にとって最も身近で信頼していた夫であり、同志でもあった浅野晃が、天皇制権力に屈服した解党派グループの一員であることを知らされた千代子はがく然とする。しかも、衝撃と悲嘆にくれる千代子に毎日、検事局から呼び出しがかけられ、解党派への同意と転向を執拗にせまられ、強要される。それに対して千代子は、一人で最後の力を振りしぼって、きっばりと拒絶し、たたかった。それにしても千代子にとって、最も信頼し、愛する同志であった夫の裏切りと転向への悲しみ、怒りは、どんなであったであろう。

 担当した亀山慎一検事は、千代子には絶対に見せないという浅野との約束の上中書を見せ、千代子を解党派に落す意図で読ませた。心身ともに弱って極限にあった千代子は、ついにそのショックと苦痛に押しつぶされ、激しく発狂した。

 同じ獄中にいた原菊枝の記憶では、投獄された女性一六人のうち四人が発狂したといわれ、「人間の脳髄はいつどうなるか信じられないものだ。まさか自分は気狂いになりたいとか、なってもいいと考えたのでもあるまいに、不可抗力的に脳髄が狂ってしまうのだ」と脳の破壊されていく恐ろしさを記している。

 千代子が発狂して、かなりひどくなってからも、同志を思う心からか、看守を呼びつけて何やら同志の病気のことで、せき込むように熱心に訴えている千代子の姿に、獄中の同志たちも、みんな涙を流したという。

 千代子の病状がさらに悪化して、ようやく東京荏原(えんばら)の松沢病院に移されたのは、八月中旬ころであったと見られる。一会した人たちの後日談を総合してみると、発狂したといっても一時的なもので、精神異常の拘禁性ノイローゼを克服して正常化に向かっていたという。

 しかし、千代子は、満足な治療も与えられないまま、九月二四日の午前零時四〇分、急性肺炎により、誰にも看とられることもなく、生涯を終えた。

 千代子がこの世に生きて二四歳ニヵ月という若さで命を奪われ、囚われの身になって、わずかに一年六ヵ月後にむかえた死であった。

 千代子の死は、まさに天皇制権力と、それに屈服して解党派に走った裏切りものたちへの憤りの中の無念の死であったのである。

◆◆広井暢子=伊藤千代子の足跡をたどってみて

(広井暢子著「女性革命家たちの生涯」新日本出版社 p27-32。京都学習情報)

 伊藤千代子さんの二十四年の生涯をまとめてきました。

 すでに彼女が死んで半世紀以上もたち、しかも共産党員や活動家が「非国民」「国賊」といわれた社会、党活動も非公然をよぎなくされた時代の資料は今のゆたかな情報化社会では考えられないほど限定されたものしかありません。

 私が伊藤千代子さんの名をはじめて知ったのは、『月刊学習』で婦人共産党員の生き方を紹介するために調査対象としてピックアップしている時でした。その後、東栄蔵さんの書いた『伊藤千代子の死』を読んだ私は、土屋文明さんの歌を介して短歌を詠む人たちの間で関心がもたれ、生いたちを中心に調査されていたことに感銘をうけるとともに、戦前の共産党の歴史にかさねて彼女の生き方を調べ明らかにしたいと思ったのでした。

 短歌にかかわる人のなかでは、短歌誌『未来』に〝伊藤千代子がことぞかなしき〟を書いた吉田漱さんもいます。また、諏訪で伊藤千代子さんの墓をまもっているまたいとこの伊藤善知さんによると、やはり短歌にかかわって千代子さんを知り、だいぶ前に高知県から千代子さんの墓を訪ねて来た人がいたということです。その人が「赤旗」をすすめ郵送してくれていたといいます。今回の調査でその話を聞いた『月刊学習』編集部の田畑さんがその場で「赤旗」の購読をすすめ、地元の人に配達をしてもらうようにしたそうです。

 諏訪地方で育った千代子さんが、同級生や代用教員の仲間、教え子のなかで、忘れられない印象をあたえていたことはこれまで書いたところですが、戦後に地元の新聞が千代子さんのことを報道したとき、病死した千代子さんの棺が荒縄でぐるぐるまきにしばられて監視つきで送られてきたと書かれたといいます。しかし伊藤善知さんは千代子さんは、火葬にされ骨つぼに入れられて帰郷したのが事実であると語っています。

 小学校時代の現存する同級生の数人に電話(男性ばかりでしたが)をしても新しい情報を得られませんでした。七十年前の記憶をたどることの困難は当然でした。もっと早い時期に、千代子さんの情報、資料をあつめておきたかったと悔やまれました。

 そんななかで、小学校の同級生で、千代子さんが諏訪をはなれるまで交流のあった松本ムメヨさんが諏訪市に健在でした。毎年、九月二十四日が近づくと千代子さんのことを思いだすという松本さんは「面長でロが小さく、背がすらっとしていてお姫様のように美しい人だった」千代子さんのことを「どうぞみんなに知らせてください」と話され、また、この取材に協力してくれた諏訪市の「赤旗」出張所の同志は「諏訪市にこんな立派な先輩がいたことをはじめて知りました。すぐれた先輩のたたかいに大いに学んでいきたい」と語っていました。

 千代子さんが仙台の学校へ行ったのは〝なぜか〟ということがいろいろといわれていました。今回の調査でやはり彼女は英語を学びたいという意欲をもち、そのために仙台の尚網女学院に進学したことが本当のところだろうという確信を持ちました。それは、一つは三瓶孝子さん(経済学者)が東京女子大の入学試験を同じ仙台で一緒にうけているのですが、その試験場で英語を学ぶために仙台にきていることを話していること、このとき東京女子大に合格したのは三瓶さんと千代子さんの二人だったというわけですから、その印象は強かったと思います。

 もう一つは、新たにわかったことですが、土屋文明さんの夫人のところに千代子さんが英語を習いに通っていたという事実です。これは、土屋文明さんの家族の方が『月刊学習』一九八五年四月号の伊藤千代子の話を土屋さんに話したところ、土屋さんの知っていることもほぼ同じような内容であることをいわれながら、その話のなかで、三年前に亡くなった夫人が英語を教えていたことを話されたことで判明したことです。土屋さんの夫人は津田英語塾を卒業した人でした。

 土屋さんにとっては、諏訪高女の一女生徒というだけでなく、直接土屋さんの家に出入りし、向学心に燃えた女生徒として、その姿が強く焼きつき、その人がらとともに、忘れがたい女生徒だったのでしょう。新たな事実がわかるたびに喜びとともに〝もっと早く手を打たねば〟と思うばかりです。

 千代子さんの東京女子大時代の活動、さらに三・一五で検挙、獄中のたたかいなどについて、調査を必要とする内容が次々とでてきました。そんなときに千代子さんの裁判所の聴取書や訊問調書がみつかりました。戦前の裁判所の予審は、共産党員の思想そのものを罰とする立場でおこなわれ権力の側の彼らにとって有利な材料を裏づけようとするため、すべてを無条件に使うことはできません。しかし、他の裏づけ資料をあわせるなら一定の資料ともなります。

 ところが、これらの記録が旧かなづかいの旧漢字用語、そのうえ写真複写であるために、私には判読じたいがやっかいなことでした。それを、日本共産党中央委員会党史資料室の蓮見さんが現代かなづかいに直して、便箋にきれいに書きなおしてくれるという労をとってくださったことで、それが活用可能となったということもありました。

 聴取書の第二回、三月二十四日付を読み、最後に「警部毛利基」の名をみたときには身体がふるえる思いがしました。小林多喜二の死の場面がうかび〝千代子さんあなたも毛利に……〟と思わず「ああ」とうなってしまいました。

 彼女が科学的社会主義を知り社会活動に参加しだしたのは東京女子大でしたが、当時の、学生運動のなかでも女子学生の中心的存在であったこと、すでに反党分子や党を脱落した人たちもふくめて、党員や活動家が数は少なくともいたこと、そして当時の活動のようすを知る手がかりもいくらか見つけだすことができました。

 こうした資料を照らしあわせながら千代子さんの活動の足跡をあとづけていったのですが、なかでも塩澤富美子さんが戦後一時期に発行されていた『新女性』や『信州白樺』に千代子さんの思い出を書かれた内容は、千代子さん像をいっそう鮮明にするものでした。

 塩澤さんのお宅で話をうかがったとき、千代子さんの姿にはじめて出会いました。そして、塩澤さんが千代子さんの全人格に敬愛をいだき「私が頼ってきた人で、姉のような感じでした」という言葉に、大学の寮で静かに社会のあり方や矛盾、学業について語りあう二人の姿が目にうかぶようでした。決してアジテーターではなかったけれど、説得力があり、心の強さを秘めていた千代子さんだったと話す塩澤さん。同じ時代に共通の思想で結ばれた二人がとても似ているという印象をもったのは私だけではないようです。

 今回の調査で、千代子さんの三・一五検挙のときのようす、そのときの党の任務などが明らかになりました。党の中央事務局で全力で任務を果たしていた彼女が検挙、投獄されたとき、ひるむことなく敢然とたたかったのでした。

 『月刊学習』四月号(一九八五年)で伊藤千代子さんのことがとりあげられているのを知って一冊の本が届けられました。『月刊学習』を印刷している光陽印刷の矢作さんからでした。その本は矢作さんの夫人の母・原菊枝さんの『女子党員獄中記』復刻版で、そのなかに千代子さんの獄中のようすが書かれていました。これまで書かれた千代子さんの獄中の姿といえば精神に異常をきたしたときのようすばかりが中心でした。

でも私は、その状況だけをとりだして千代子さんの獄中を書き残すのは、読み手には強烈かもしれないけれど、正しい継承ではないし、正確ではないと思ってきました。彼女は敵権力によって拘禁性の精神病におとしいれられたのであり、それは夫の党への裏切りに遭遇したことへの怒りと悲しみの深さとしてみるべきだと思うのです。また、彼女の獄中での同志や肉親にたいする態度につらぬかれている共産党員像をこそ書かれなければと思ったのです。

 今回の調査で彼女の精神状況がその後たしかに回復していたこともわかり、その死はまさに天皇制権力と党を裏切った者たちへの憤りのなかでの死であったのです。

 そしていま、千代子さんの墓は、諏訪市湘南の南真志野の竜霊寺にあります。細長い黒御影石の墓の表には「圓覚院智光貞珠大姉」と刻まれています。この墓の近くに、かつての千代子さんの実家がありました。

 戦後四十年の年に、こうして千代子さんを記録でき、私自身にとっても忘れられない出会いとなりました。

───────────────────────────

🔵こころざし半ばで倒れた数多くの人びと

───────────────────────────

◆◆『抵抗の群像』を読む

(「労働相談・労働組合日記」から)

「かつてこのような抵抗の青春を生き闘った人々がいたという歴史の真実」(まえがき)

今日、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟編「抵抗の群像」第一集・二集(光陽出版社)が届きました。治安維持法のもとで生きたたかった160人の先輩たちの手記がおさめられています。

治安維持法は、1925(大正14)年422日に公布され、「私有財産の否認」「国体(天皇制)を変革することを目的として結社を組織」したり、「結社への支援」「協議もしくは煽動」、「目的のためにする行為をなしたる者」を取り締まる、後には死刑も含めた歴史・世界に名だたる悪法です。社会主義・共産主義者の弾圧と同時に、労働組合・農民運動・知識人・自由主義者・宗教人・・・あらゆる民衆の運動を弾圧するために使われました。

1933220日、警視庁・築地警察署特高の拷問で29歳の若さで虐殺されたプロレタリア作家小林多喜二が有名ですが、治安維持法下の悪逆非道は、特高警察による虐殺死80名、拷問・虐待による獄死1617名。逮捕送検者7万5681名、未送検者の逮捕・拘束者は数十万人にのぼっています。

一読しただけで弾圧への憎しみがわいてきます。と同時に感動もしています。

あれだけの凄まじい弾圧下で、私たちの先輩たちは闘い続けたことにです。

倒れても倒れても立ち上がり続けたことにです。

それは、「虐殺死80名、拷問・虐待による獄死1617名。逮捕送検者7万5681名、未送検者の逮捕・拘束者は数十万人」がまさに証明しています。すごい数です。こんなにも多くの数の人々が拷問や獄を怖れず果敢に闘っていたことに、あらためて驚いています。

「抵抗の群像」は、その内の160名の方々を私たちに教えてくれます。無名(と言っては失礼だとは思いますが)の英雄・抵抗者、無数の「小林多喜二」が、民衆の、労働者の解放のために人生を賭けて、命をかけて奮闘していたこと、私たちのこの地域に、東京に、日本に、世界に、歴史に、確かに存在していたのだと。

◆◆戦前、多くの不屈の青春があった

2004715()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 日本共産党は青年が中心になって創立したと聞きました。どんな状況だったのですか?

 (東京 一読者)

 〈答え〉 日本共産党は82年前のきょう(7月15日)東京・豊多摩郡渋谷町の民家での会合をつうじ創立されました。創立から一年ほどの間に参加した党員は百人余。創立時、市川正一(30)、国領五一郎(20)、渡辺政之輔(23)、川合義虎(20)、河田賢治(22)、谷口善太郎(23)ら、多くが20代~30代でした。

 当時は、天皇絶対の専制政治で、党は非合法の政党として出発せざるをえませんでした。しかし、党は当初から、天皇専制にかわる主権在民の民主政治をつくるための民主主義革命の旗をかかげ、弾圧をうけながらも「シべリア出兵反対、朝鮮人民の独立闘争支持」「18歳以上のすべての男女に普通選挙権を」と、勇敢にたたかいました。

 中国への本格的な侵略が開始されると、治安維持法・特高警察による弾圧はいよいよはげしく、32年には、党中央委員・上田茂樹(31)=以下いずれも死亡時の年齢=、党中央委員岩田義道(34)らが虐殺され、翌33年2月には党九州地方委員長西田信春(30)、作家・小林多喜二(29)が残虐な拷問をうけ絶命、同月、『日本資本主義発達史講座』の編集でも知られる野呂栄太郎(33)も事実上の拷問死させられます。33年12月には、党中央委員として活動中の宮本顕治(現名誉役員)が逮捕されますが、25歳の若さでした。

 党幹部だけでなく、広島・呉港で現役水兵・兵士の反戦運動を組織した阪口喜一郎(31)、党中央事務局で連絡・印刷などの活動をした伊藤千代子(24)、獄中からちり紙で姉へ「信念をまっとうする上においてはいかなるいばらの道であろうと」と手紙を書いた田中サガヨ(24)、化粧用コンパクトに「闘争・死」の文字を刻み獄死した飯島喜美(24)、日本共産青年同盟中央機関紙「無産青年」配布網を組織した高島満兎(まと)(24)。みんな人生はこれからという若さでした。こうした無数の人々、青年たちの不屈のたたかいは、日本共産党の誇りであり、いまの私たちのたたかいをも勇気づけ、励ましてくれるものです。(喜)

◆◆敗戦を前に獄死した市川正一とは?

2007816()「しんぶん赤旗」

〈問い〉 宮城刑務所で獄死した市川正一とは、どんな人ですか? (福島・一読者)

〈答え〉 市川正一は、日本共産党の創立当時からの党員であり、第2次大戦前の日本共産党の誇るべき指導者の一人です。天皇制権力の野蛮な迫害で16年間も獄につながれ、敗戦の半年前の1945年3月15日、ついに、宮城刑務所で衰弱死しました。53歳でした。

 市川は、山口県宇部市に生まれ、早稲田大学を卒業、読売新聞社に入社、18年、同社への軍部の影響浸透に反対してストライキを計画して失敗し退社、その後、国際通信社の翻訳記者などをします。このころから、河上肇の出していた『社会問題研究』などを購読し、社会主義を研究、22年には、早稲田の同窓の平林初之輔、青野李吉らと、月刊雑誌『無産階級』を発刊。23年1月、日本共産党の結成を知ると、すぐに入党しました。

 その後、市川は党の理論機関誌『赤旗』や雑誌『マルクス主義』の編集委員をし、『日本金融資本発達史』を著すなどしながら、26年の日本共産党再建大会で党中央委員に選ばれ、金融恐慌下の国民生活の防衛闘争や中国への侵略に反対する「対支非干渉同盟」の組織、28年2月の「赤旗」創刊と初の普通選挙で山本宣治ら2人を当選させるたたかいの先頭に立ちました。

 29年4月28日、検挙された市川は、「われわれは日本共産党員であるがゆえにこの法廷に立たされている」と、自分たちが他のいかなる「犯罪」によるものでもなく、日本の労働者階級と人民の利益を擁護してたたかう、日本共産党の一員であるがゆえに、ただそのゆえにのみ、法廷にたたされているとのべて、裁判の反人民的性格をきびしく糾弾しました。これは、党の性格と伝統、その任務と目的をひろく国民に知らせるためにおこなったものでした。

 市川は陳述を「一言でいうと、私の全生活は、日本共産党員となった時代とそれ以前の時代との二つにわけられる。そして日本共産党員となった時代が、自分の真の時代、真の生活である」という言葉で始め、「党の発展は必然である。党の勝利、すなわちプロレタリアートの勝利は必然である」という言葉で結びました。(翌32年、『日本共産党闘争小史』として、非合法出版)

 市川は、獄中の非人間的な待遇のために栄養失調となり、歯を失ってほとんど食事もできない状態になりますが、それでもなお燃えるような闘志をもって侵略戦争に反対し、断固としてたたかいつづけました。

 〈参考〉『不屈の知性』(小林栄三著)、『獄中から―心優しき革命家・市川正一書簡集』、『戦前日本共産党幹部著作集・市川正一集1~3巻』(以上、新日本出版社)、『市川正一公判陳述』(新日本文庫)(喜)

◆市川正一の最期

2015315()赤旗 きょうの潮流

 戦前の日本共産党の幹部、市川正一(しょういち)が亡くなってからきょうで70年になります。終戦の5カ月前に、仙台の宮城刑務所で53歳の生涯を閉じました刑務所当局は「老衰」と発表しましたが、身長168センチあった人の体重が、31・6キロになっていました。歯は5、6本となり、飯粒などを机の上で指ですりつぶして食べていました。16年にわたる獄中生活下の栄養失調によるものでした宮城の党員たちが、東北大医学部でホルマリン池槽に放置されている遺体を発見したのが、1948年3月。人体解剖の教材用でした。それを撮影した故庄司幸助氏(元党衆院議員)は「解剖し尽くされ、骨の間に茶褐色のわずかばかりの肉のささくれが残っていた。むごいことをするものだと思った」と証言を残しています市川正一は早稲田大を卒業後、党創立直後に入党し、29年に「四・一六事件」で逮捕。「日本共産党員になった時代が真の時代、真の生活である」と公言した姿勢そのままに、苦難に耐えぬく勇気と気概をもった革命家でした公判では、弾圧された被告を代表して陳述をしました。裁判長の執(しつ)拗(よう)な脅しに屈せず「科学の光明と冷静な論理の力で相手を圧倒していく陳述」(志位和夫委員長)で、党の本当の姿を国民の前に堂々と明らかにしました郷里の山口県光市にある市川正一の碑には、多くの人びとに勇気を与えた陳述の言葉が刻まれています。「党の発展は必然である。党の勝利、すなわちプロレタリアートの勝利は必然である」

【大島博光=市川正一たたえる詩】

◆◆特高に逮捕され闇に葬られた党創立者の一人、上田茂樹とは?

20071020()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 特高に逮捕され闇に葬られた党創立者の一人、上田茂樹とはどんな人ですか?(香川・一読者)

 〈答え〉 上田茂樹は、大分県中津藩(現中津市)の出身で自由民権運動の闘士だった上田長次郎(のちに戴憲と改名)の八男として1900年7月27日、札幌で生まれました。

 父の事業失敗で、中津の中学を2年で中退し、17年に上京、昼は保険会社に働き、夜は正則英語学校で勉強、このころから社会主義文献を読み始め、山川均、堺利彦らのML研究会に参加、21年暮れ、山川らと「前衛社」という雑誌の発行を始めました。父が65歳で病没、その半年後の22年7月15日、22歳の茂樹は、父たち自由民権のたたかいを真っすぐに継承する日本共産党の結成に参加、翌年、中央委員になります。

 23年6月、第一次共産党弾圧で渡辺政之輔らとともに茂樹は投獄され、そのことで関東大震災中の虐殺を運よく免れ、12月に保釈されると、24年5月、日本共産党の理論機関誌『マルクス主義』の創刊に参加、ついで25年9月に創刊された合法面の機関紙としての「無産者新聞」の編集にたずさわります。26年5月、治安維持法違反で禁固10カ月の判決を受け下獄、翌年1月出獄すると、すぐに27年テーゼに基づき、党中央アジプロ(宣伝煽動)部と党関東地方委員長を担当、工場細胞(現支部)づくりに全力をあげます。その一方、『無産階級の世界史』『世界歴史』を執筆、パブロビッチ『帝国主義の経済的基礎』など5冊の訳書を刊行、学習会講師としても活動します。

 この最中の28年3月15日の大弾圧で逮捕され、獄中で結核を再発しますが、30年はじめには結核病舎で30人の同志たちの指導者として、待遇改善のためにたたかいます。のちに「赤旗」は「上田同志の獄内闘争の最大のものは31年8月29日の朝鮮併合記念日の反対デモ、そしてそのデモヘの暴力弾圧に反対して組織されたハンガーストライキである。このハンストは、デモに参加した朝鮮人被告の懲罰反対を要求して組織され、病舎のみでなく市ヶ谷刑務所全体をまきこむにいたった。刑務所はこの形勢に驚いて、ついに懲罰を取り消さざるをえなかった」と書きました。

 かっ血、重肺患のため、執行停止で出獄した上田茂樹は党中央委員として直ちに活動に復帰しますが、32年4月2日、街頭連絡中にスパイの手引きによって逮捕され、そのまま消息を絶ちます。警視庁で虐殺されたことは確実ですが、虐殺者の追及も遺体の捜索もされないままに今日に至っています。31歳の若さでした。「赤旗」は「同志上田茂樹は敵の追及に一言も答えなかった。そして同志上田は虐殺されたのだ。ただちに大衆的抗議を!」と訴えました。

 上田茂樹が消された翌33年2月には西田信春が消息不明になり(後に官憲による拷問死とわかる)、次いで小林多喜二が虐殺されました。

 反戦平和と民衆の解放のために不屈にたたかい抜いた彼らの人生は、日本共産党の歴史に深く刻まれています。(喜)

◆◆中国侵略に反対し殺された岩田義道とは?

2005611()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、岩田義道という愛知県出身の日本共産党員が戦争に反対して殺されたと知りました。どんな人だったのですか?(名古屋・一読者)

 〈答え〉 岩田義道は、戦前の日本共産党中央委員の一人です。1928年2月創刊の「赤旗」の編集・宣伝に携わり、32年4月に活版化、部数を800部から7000部へと戦前最高へと引き上げました。当時は天皇が国の権限すべてを握っている社会で、戦争や天皇絶対に異を唱えたり、「赤旗」を持っていたりするだけで、特別高等警察(特高)に逮捕されました。

 岩田は28年3月15日の日本共産党と支持者への大弾圧(3・15事件)の際には逮捕をのがれ、途中一時期の投獄をはさみ、31年1月から地下活動に移ります。同年9月18日、中国東北部へ侵略が開始される(「満州事変」)と、岩田らを指導部とする党は翌19日、「帝国主義戦争反対、中国から手を引け」の檄(げき)を発表し、侵略反対のたたかいをすすめました。この最中に、党内に潜んでいたスパイの手引きによって岩田は特高に捕らえられ、3日後の32年11月3日、虐殺されます。遺体を見た友人の鈴木安蔵(静岡大名誉教授)は「たくましい彼の顔は紫色に腫(は)れ上がり、鉄の鎖でしめられた両足、手首のすさまじい残虐な拷問の跡とともに、われわれの眼を蔽(おお)わしめるのみであった」と書いています。

 岩田は1898年、現在の愛知県一宮市に生まれ、小学校を出てから東京の紙問屋や、郷里の小学校の教員として働いたのち、松山高校、京都大学へ進学。働く中で貧しい人々の苦しみに直面し、どうしたら貧しい人を救えるか考えます。模索の中で、経済学者の山田盛太郎にマルクス主義を勧められた岩田は、京大時代、『資本論』を原文で3回も通読するなど、猛烈な学習でマルクス主義への確信を深めていきました。1925年には「マルクスの弁証法についての一考察」という論文を書き、『日本資本主義発達史講座』の編集にも党指導部としてかかわり重要な役割を果たします。

 地下活動に入れば「二度と会うことはできなくなるだろう」と考えた岩田は、河上肇に金を借り、船頭だった両親に舟を贈っています。死を覚悟した生活にも、揺るぎない確信と優しさをもち続けた人でした。(佐)

◆◆『貧乏物語』を書いた河上肇とは?

2007823()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 『貧乏物語』を書いた河上肇は日本共産党員だったのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 河上肇(はじめ)は、戦前の絶対主義的天皇制が支配した暗黒の時代、非合法下の日本共産党にすすんで加わった誠実な経済学者です。

 河上が京都帝国大学教授となるのは1915年のことです。河上は、16年9月から、大阪朝日新聞に「貧乏物語」を連載し、資本主義社会の生む貧困と害悪を暴露して読者に感銘を与えました。しかし、それはまだ、社会のすべての人が「心がけを一変」して無用のぜいたくをやめれば「貧乏の根絶」が可能だというものでした。学問上で科学的社会主義への接近を始めた河上は19年には30版も重ねていた『貧乏物語』を絶版にし、同じころ『社会問題研究』という個人雑誌を発行し、マルクスの理論を紹介。『賃労働と資本』『資本論』第1巻の翻訳書等も刊行しました。

 26年、治安維持法の最初の適用として学生社会科学連合会への弾圧が加えられ、同会の指導教授となっていたことが口実にされ大学を追放されます。

 その後、河上は30年2月の総選挙・京都1区に労農党から立候補。非合法下の日本共産党と接触し、国崎定洞が送ってくれたコミンテルン機関紙掲載の「32年テーゼ」を翻訳、32年9月、53歳で日本共産党に入党します。身を潜めていた家で入党通知をうけた河上は「たうたうおれも党員になることが出来たのか」と、「たどりつき、ふりかヘりみれば、やまかはを、こえてはこえて、きつるものかな」という一首を詠みます。

 しかし、はげしい暴圧とテロのなかで33年1月12日に検挙され、転向を強要されます。河上は「獄中独語」と題する文章を書きます。それは「実際運動とは関係を絶ち元の書斎に隠居する」というもので、同じ時期に、党を公然と攻撃・破壊する側にまわった佐野、鍋山らの転向声明とは、大きく異なっていました。37年6月、出獄した河上は、健康悪化のなかで、自叙伝を執筆。多くの知識人が時流に乗って侵略を賛美したことに憤慨して、「言ふべくんば真実を語るべし、言ふを得ざれば黙するに如(し)かず」という詩をひそかにつくっています。

 終戦2カ月後、河上を党に迎えるために党幹部が訪問すると、栄養失調で衰弱しふせっていた身を起こし正座し「終始弱い態度しか取り得ざりしものにて、諸君に対し面目なし」とのべ、戦後も党員として認められた感激を日記に「隠居の老人役に立つべき仕事あらば本望」と記しました。46年1月30日、党の前進を願いつつ、67歳の生涯を終えた河上に、党中央委員会は「革命の闘士、同志河上肇の死をいたみ、われら一同闘争に邁進する」とその死を深く悼む電報を送りました。(喜)

 〈参考〉『不屈の知性』(小林栄三著、新日本出版社)、『河上肇・自叙伝』(岩波文庫) 

◆◆コンパクトに「闘争・死」と刻み 獄死した飯島喜美とは?

2005818()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 反戦平和のたたかいで、若くして死んだ飯島喜美とはどんな女性ですか?(京都・一読者) 

 〈答え〉 飯島喜美は、コンパクトに「闘争・死」と刻み、野蛮な拷問に屈せず、信念を誇り高くつらぬき、24歳で獄死した日本共産党員です。

【飯島喜美のコンパクト】

 喜美は、1911年、千葉県旭市の、ちょうちん職人の家に13人きょうだいの長女として生まれ、小学卒業後、すぐに女中奉公に出て、15歳で、『女工哀史』の舞台となった東京モスリン紡織亀戸工場に入りました。 工場は2交代12時間の過酷な労働と、低賃金、強制的な天引き貯金、監獄のような寄宿舎では読む本も制限されて手紙も開封されていました。

 喜美は、工場でひそかに開かれていた、科学的社会主義の研究会に参加。28年の賃上げ要求ストライキでは、16歳で500人の女工たちのサブリーダーを務め、会社側に要求を認めさせました。

 29年の4・16弾圧(天皇制政府による日本共産党と支持者へのいっせい検挙)で喜美も亀戸署に検束されますが、それに屈せず、日本共産青年同盟(共青)に加盟、5月に日本共産党に入党。翌30年には、労働組合の国際組織プロフィンテルン第5回大会に、日本の女性として初めて参加しています。

 帰国した31年10月は、中国東北部への侵略開始(31年9月、いわゆる「満州事変」)の直後でした。喜美は、重大な情勢のなか反戦運動を広げるために、日本共産党中央婦人部で、女性労働者を組織する活動にとりくみました。「赤旗」32年7月15日付の「戦争が拡がる 婦人は起(た)って反対せねばならぬ」というよびかけなどに喜美の活動の様子がうかがえます。

 しかし、スパイの手引きにより33年5月逮捕されます。獄中で結核となり、まともな治療もされないなかで、信念を貫きましたが、35年12月18日、24歳の誕生日の翌日、栃木刑務所で獄死しました。

 遺品の真ちゅう製のコンパクトは父親の倉吉さんが保存し、後に党中央委員会に寄贈されました。反戦平和と社会進歩のために命をささげた飯島ら青年たちのたたかいは、日本共産党の誇りです。(喜)

 参考 『新版・不屈の青春』(山岸一章著、新日本出版社)、『時代を生きた革命家たち』(広井暢子著、同)

◆きょうの潮流 赤旗19.07.15

 「闘争」「死」と刻まれたコンパクト。肌身離さず持ち歩き、自身の顔を映し出す大切なものにしるした凄烈(せいれつ)な文字。それは、どんな弾圧にも屈せずたたかい抜く覚悟の証しだったのでしょう飯島喜美さん。戦前の紡績工場で女工哀史そのままの過酷な労働を強いられ、社会進歩にめざめていきます。16歳の若さで500人の女工たちの先頭に立ち、ストライキを指導。迫害も恐れず、日本共産党に入党しました世界中の労働組合が集まった国際会議では日本の女性労働者を代表して演説。より良い働き方や社会をめざすことに情熱を傾けながら、時の暗黒政府によって検挙・獄死させられました。わずか24歳でしたその短くも誇りある生涯をまとめた『飯島喜美の不屈の青春』が最近、学習の友社から出版されました。喜美と同じ会社に勤めた著者の玉川寛治さんは戦前回帰に動く今の安倍政権にたいする危機感があったといいます「人権のかけらもない治安維持法によって多くの国民が犠牲になった。それを反省するどころか適法だと公言し恥じない政権に抗し、喜美たちのたたかいを受け継ぐ決意を込めた」。足跡への反響は大きく、わが身に引き寄せた感想も日本の歴史のなかで反戦平和と民主主義の旗を掲げつづけてきた党は、きょう創立97周年を参院選のさなかに迎えました。闇夜につながる勢力とのつばぜり合いのなかで。時代を切り開いてきた先人の声が聞こえてくるようです。いまこそ、日本共産党員魂を呼び起こせと。

◆◆戦前の反戦運動で命奪われた若者、相沢良とは

2005813()「しんぶん赤旗」

相沢良記念碑

 〈問い〉 戦前、反戦運動をしたことで命を奪われた若者が少なくありません。戦後60年、その一人ひとりを思い起こし心に刻むことが大事ではないでしょうか?津軽出身の相沢良という女性もそんな一人と聞きました。どんな人かご紹介ください。(青森・一読者)

 〈答え〉 相沢良は、戦前、主権在民と反戦の運動に身を投じ、拷問と獄中生活による病気で25歳8カ月の短い生涯を閉じた女性です。足跡を丹念にたどって『相沢良の青春』(新日本出版社)を著した故山岸一章は「少女時代から、いつも本を手もとから離したことがなく、ゆたかな教養と理論的確信をつかんでいた」「私が最も感動したのは、いつでも自発的に、能動的に困難な活動を自分の任務にし名誉欲や名声欲をかけらも残してないこと」と、若い死を惜しんでいます。

 良は1910年、青森市浪岡の三代続く村医者の家に生まれ、県立青森高等女学校から東京・大森の帝国女子医専に進学します。良が入学した28年は、中国への侵略拡大をはかろうとしていた時期で、3月15日には日本共産党への大弾圧があり、大学では社会科学研究会も解散させられ、反戦運動は非公然の活動に移っていました。

 帝国女子医専にも日本共産青年同盟(共青)班がつくられ、良は地下の党に直接協力する活動の責任者に。逮捕状の出た東京市バスの労働者を下宿に1カ月半もかくまったこともありました。30年5月のメーデーに参加。停学処分を受け中退、横浜の富士紡績保土ケ谷工場の労働者に。全協(日本労働組合全国協議会)分会機関紙「赤い富士絹」を配布中に検挙され、津軽に戻り、体力が回復すると、青年と読書会を開催。中国侵略開始前夜の31年4月には上京し日本反帝同盟と連絡をとり、「共青の青森派遣オルグ」として青森に戻っています。このことから山岸氏は「(共産党に)入党したと考えられる」としています。

 31年12月、良は特高に追われ、花嫁姿に変装して北海道へ。札幌で、フルヤ製菓や豊平のゴム工場の労働者とサークルをつくり、「クロさん」の愛称で慕われました。33年4月4日良は検挙され、野蛮な拷問にも信念を貫き、懲役5年の刑に。獄中で肺エソになり、刑務所を出されたときは、手足は針金のように細く、出所7日目の36年1月28日、家族にみとられ亡くなりました。良を偲び故郷の浪岡と札幌に顕彰碑が造られ、浪岡では毎年5月、碑前祭がおこなわれています。(喜)

◆◆24歳の命を奪われた高橋とみ子

2006629()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、反戦平和のたたかいの中で命を奪われた伊藤千代子。その千代子が学んだ仙台市の尚絅(しょうけい)女学校の後輩に高橋とみ子という女性がおり、その人も24歳で命を奪われたと聞きました。どんな人だったのですか?(宮城・一読者)

 〈答え〉 1934年、治安維持法による暴圧の中、宮城の地で日本共産青年同盟に加わり活動していた高橋とみ子は、特高警察によって、24歳の命を奪われました。

 32年に結成された直後のプロレタリア美術家同盟やエスペランチスト同盟にも加わっていたとみ子は、当時仙台市内にあった片倉製糸や旭紡績の女工たちに、洋裁や生け花を教えながら、日本労働組合全国協議会(全協)仙台支部の組織化をすすめていました。紡績工場の過酷な労働に怒りを込め、苦しい境遇にあった女工たちに心を寄せて、自身も女工たちと同じような地味な装いをする、心優しい人でした。

 彼女が逮捕されたのは、34年10月20日、県内の留置場をたらいまわしにされたあげく、11月21日県北の中新田(なかにいだ)警察署で殺されました。警察は自殺と発表して、拷問死を覆い隠し、真実がわかったのは戦後になってからでした。

 彼女が逮捕されたときの弾圧の背景には、28年3月15日や29年4月16日の全国いっせい弾圧を受けても不屈にとりくまれた運動がありました。32年には県内で125人が逮捕されましたが、それを乗り越える運動の新たな高揚が起きていたのです。それを根絶やしにしようと34年の大弾圧となったのです。

 とみ子が運動に参加したのは、プロレタリア美術家同盟仙台支部の結成に参加した次兄辰夫の影響とともに、尚絅女学校の存在が大きかったものと推測されます。尚絅女学校はバプテスト系の学校で、進歩的開明的校風があり、20年代には、近代思想の高波の中で、社会主義・共産主義を自由に論ずる状況もあったといわれています。

 とみ子が入学する2年前の28年、女子学生社会科学連合会第1回大会に同校も参加し、地方委員も出していました。とみ子の卒業時、教師排斥のストライキも起きています。

 とみ子が虐殺された翌年と2年後、旭紡績の女工たちは2度にわたり賃上げと待遇改善をもとめてストライキに立ち上がり、一人の解雇者もだすことなく全面勝利しました。現実社会の矛盾とそこから生まれる要求に立脚した堂々たるたたかいでした。

 毎年11月には、とみ子をしのび、そのたたかいを顕彰する墓前祭が開かれています。(遠)

【赤旗16.11.07

◆◆命をかけて反戦の信念を貫いた田中サガヨとは?

2005817()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 先日、伊藤千代子のことが紹介されていましたが、千代子と同じように、侵略戦争に反対してたたかい、24歳で亡くなった田中サガヨ、飯島喜美、高島満兎のこともご紹介ください。(京都・一読者)

 〈答え〉 「お姉さんお久しいございます。今又私はとらわれの身となっております」という書き出しで、留置場でチリ紙に走り書きした手紙を残した田中サガヨは、70年前の1935年、24歳10カ月の若さで、天皇制権力によって命を奪われた日本共産党員の女性です。

 サガヨは山口県下関市豊田で1910年、造り酒屋の三女に生まれ、高等女学校を卒業後、タイプの技術を習得。29年、働きながら勉強をすることをめざし、兄・尭平(ぎょうへい、49年の衆院選で山口2区から日本共産党公認で当選)をたよって上京。東大社研にいた兄から科学的社会主義の理論を学びます。やがて検挙された兄の救援活動をするなかで、共産党とともに歩む決意を固めます。

 兄が「一命を捨てる覚悟があるのか」というと、「もちろんよ、私も随分考えてのことよ。一命を棄てるの、覚悟の、そんな神がかりの言葉はどうかと思うの。私の聞きたいのは、私のようなものでも、一生懸命やれば何かできるかしら」といって、32年に入党しました。前年の31年秋には、天皇制政府が中国東北部(旧「満州」)への侵略を開始。反戦平和のたたかいをすすめる共産党にたいする攻撃を集中した時期でした。サガヨは、「赤旗」中央配布局の仕事につきました。「赤旗」は32年4月から活版印刷になり発行部数は7千部に。「日本帝国主義の満洲強奪の駆引、『満洲国承認』に反対せよ!」(32年9月15日付)、など、侵略戦争反対を訴えますが、33年2月には小林多喜二が虐殺され、宮本顕治氏が逮捕された翌日の33年12月27日、サガヨも銀座4丁目で逮捕され、拷問を受け、重い結核にかかります。保釈は認められず、病状が悪化し、35年4月、市ケ谷刑務所を出されますが、20日後の5月14日に生涯を閉じました。

 チリ紙には「信念をまっとうする上においては、如何なるいばらの道であろうと、よしや死の道であろう(と)覚悟の前です。お姉さん。私は決して悪い事をしたのではありません。お願いですから気をおとさないで下さい」と書かれていました。

 現憲法にはサガヨらが命をかけた反戦平和と主権在民の主張は刻みこまれました。(喜)

 参考 『時代を生きた革命家たち』(広井暢子著、新日本出版社)

◆◆反戦平和の信念を貫いた共産党員、高島満兎とは?

2005820()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 反戦平和のたたかいで、若くして死んだ高島満兎とはどんな女性ですか?(京都・一読者)

 〈答〉 戦前、日本が中国への侵略戦争を始めたころ、反戦運動をおこなったことで、残虐さではナチスのゲシュタポと並び称せられる特別高等警察(特高)に捕まり野蛮な拷問をうけ、少なくない人々が命を奪われました。特高におそわれ、2階から飛び下りて下半身不随となり、1934年7月13日、24歳9カ月の生涯を閉じた高島満兎もそんな一人です。

 満兎は1909年10月、福岡県久留米市の造り酒屋の2女に生まれ、快活な少女として育ち、久留米高女(現明善高校)に在学中は陸上の選手でした。26年、日本女子大学に入学、クラスでも寮でも「まとしゃん」とよばれ慕われました。

 満兎の生き方に影響を与えたのは長兄・日郎(じつろう)でした。日郎は、旧制中学を卒業後、油絵を描いていましたが、労働農民党の活動に参加。27年夏、検挙されると、留置場の壁に「労働者、農民を苦しめる天皇制を打倒せよ!」と書き、不敬罪で4年間、鹿児島刑務所に。仮出獄した翌32年3月、24歳で急逝します。

 この兄との交流を通じて、満兎は29年ころから学生社会科学連合会(学連)の目白班に参加。卒業前に日本共産青年同盟(共青)に加盟します。(満兎に共青加盟をよびかけたと思われる早大共青班の加藤為作も豊多摩刑務所で32年、24歳で獄死しています)

 30年4月、大学を卒業した満兎は「無産青年」編集局で組織部の仕事につき各地に配布網を広げることに没頭しました。千葉医大の共青班は、満兎の指導で、75人ほどの「無産青年」読者会を組織し、国鉄千葉機関区に「帝国主義戦争反対!」のビラをまいたり、共青のポスターをはったりしています。中国東北部への侵略開始というきびしい情勢下でのたたかいで、満兎は31年暮れから32年にかけて結核で入院しますが、途中で病院をぬけだし、活動。この年に日本共産党に入党し、共青中央の農民対策部長となり、長野などで共青再建のために奔走しました。しかし、33年3月、東京・新宿の借家で寝ていたときに特高の襲撃をうけ、骨盤を複雑骨折。ギプスに包まれ、下半身を動かすこともできないまま翌年、亡くなりました。新しい時代の夜明けを信じながら。(喜)

 参考 『新版・革命と青春』(山岸一章著、新日本出版社)、『時代を生きた革命家たち』(広井暢子著、同)

◆◆忘れ去られた反戦の医師・末永敏事の発掘

赤旗日曜版17.10.29

◆◆戦前の日本共産党員・古川苞とは

2006621()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前の日本共産党員、古川苞(しげる)とはどんな人ですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 日本共産党の戦前史には、野蛮な天皇制国家の専制支配と侵略戦争に反対して勇敢にたたかい抜いた、多くの若き活動家の名が刻みこまれています。古川苞(1906―35年)もその一人です。

 古川は、主に東京・東部の葛飾、江東、江戸川、墨田、台東、足立で活動。34年、4度目の検挙のとき、特高の拷問に一言もしゃべらず、60日間のハンストをし、蛎(カキ)男に警視庁も悲鳴(読売新聞昭和9年7月19日付)と報道されました。腸結核で重体となり仮釈放、日本共産党再建の志を最後まで捨てずに『資本論』の学習をしつつ、35年12月15日葛飾区で死去しました。29歳でした。

 古川の生涯については、作家の山岸一章が研究し、『不屈の青春』(新日本出版社)にまとめています。山岸はその中で、「黙々と地味な仕事に骨身を惜しまず自己犠牲をつらぬいた」人として彼を讃えています。

 古川は、北海道小樽市に生まれ、水産技師だった父について宮崎、東京、山形を転々、23年に山形高校に入学、24年、学生社会科学連合会(学連)結成に呼応して校内に亀井勝一郎らとともに山形社会思想研究会を結成しました。26年、東京帝大文学部に入学すると、新人会に加入、本所柳町元町の東大セツルメント(=貧困地区に託児所などを設け生活向上に助力する活動)で市民学校の講師をしています。当時、東京モスリン亀戸工場労働者で飯島喜美らとともに働いていた伊藤憲一(後に党衆院議員、大田区議)は、古川の教えを受けた一人で、「彼の真剣な態度は、生徒の信頼を一身に集めていた。講義の終わりに、戦争はなぜおこるかという質問をだして討論をやらせた」と語っています。(前掲書)

 28年2月1日「赤旗」創刊と同時に読者になり、3・15事件で検挙、翌29年2月、日本共産党に入党、同年の4・16事件でも検挙され、拷問で病気が悪化、健康を回復すると、弾圧をぬってひそかに「赤旗」印刷の仕事につきます。そのころは、中国東北部に侵攻を開始し(満州事変、31年9月)、国内では、戦争に反対する日本共産党を容赦なく弾圧した時期でした。

 小林多喜二の虐殺(33年)につづき、34~35年には、高島満兎、高橋とみ子、田中サガヨ、飯島喜美(いずれも24歳)らの命が奪われました。野呂栄太郎(33年11月検挙、34年2月、33歳で絶命)、宮本顕治の検挙(33年12月)後の35年には党中央の機能が失われるなかで、古川は実質的な党東京市委員長として「党を死守してたたかった、もっともすぐれた闘士」(前掲書)でした。(喜)

◆◆治維法違反で検挙、自殺した公爵の娘、岩倉靖子とは?

200849()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、華族の子弟にも日本共産党支持者がいたのですか? 「赤化華族」事件と岩倉靖子について知りたいです。(長野・一読者)

 〈答え〉 戦前、戦争反対、主権在民を主張した日本共産党と科学的社会主義の理論は、いわゆる無産階級にとどまらず社会各層の人びとの心をとらえました。1932年には、警察も「最近に発覚せるシンパ(支持者のこと)ハ官吏、大学教授、弁護士、文士、新聞記者、学者、銀行会社員、名家富豪の子弟等極めて広汎ニ亘り」(同年12月の警保局保安課「日本共産党ノ運動概要」)と記したほどでした。「名家富豪の子弟」には、天皇の「藩屏」(はんぺい=帝室を守護する者の意味)である華族もふくまれていました。

 33年の「華族赤化」事件とは1月18日の八条隆孟(当時27歳、父は子爵)の検挙に始まり、3月下旬、森俊守(24歳、父は旧三日月藩主で子爵)、久我通武(父は男爵、祖父は侯爵)、山口定男(23歳、祖父は明治天皇の侍従長)、上村邦之丞(20歳、海軍大将の孫)、岩倉靖子(20歳、後述)、亀井茲健(22歳、父は昭和天皇の侍従で伯爵)、小倉公宗(23歳、父は子爵)、松平定光(23歳、父は旧桑名藩主で子爵)、さらに9月に中溝三郎(25歳、本人が男爵)の10人が治安維持法違反で検挙された事件です。(この事件とは別に、新人会に参加した山名義鶴、大河内信威、黒田孝雄、京都学連事件で検挙された石田英一郎、築地小劇場を創設した土方与志、宮崎竜介の妻・柳原白蓮らの華族が知られています)

 八条らは、東京帝大の学習院出身者でつくる「目白会」の中で後輩たちと読書会をひらき、「無産者新聞」を普及、数十人を組織していたといわれます。天皇制政府は衝撃をうけ、改心した者には温情で、そうでない者には厳罰の方針をとり、八条、森、岩倉の3人を起訴、他はあっさりと反省手記を書いたということで釈放しました。

 女性でただ一人検挙された岩倉靖子は、明治維新の立役者で華族でも最上流の公爵となった岩倉具視(ともみ)のひ孫です。靖子は「人夫などが汗水たらして働いている姿を見て帰っては可哀そうだと涙ぐみ、同族や富豪のぜいたくぶりを見ては、どうして世の中に等差がひどいのかと思い沈む」少女でした。

 女子学習院から日本女子大にすすみ、いとこの夫・横田雄俊(大審院院長・秀雄の4男、長男は戦後の最高裁長官・正俊)の影響で、32年3月、社交クラブ「五月会」をつくり上流中流階級の女性に日本共産党の影響を広げようとします。

 検挙後、「肉親の情」「家門の名誉」で迫る取り調べにも、靖子は仲間についての具体的な供述は拒否し抵抗したため、他の検挙者と違って市ケ谷刑務所に収監されました。そして、保釈直後の33年12月21日早朝、自宅で自殺しました。遺書には「説明もできぬこの心持を善い方に解釈して下さいませ」と鉛筆でしたためてありました。人間の良心を乱暴にふみにじり、屈服させようとした天皇制権力のむごさは今日もなお糾弾されなければなりません。(喜)

 〈参考〉浅見雅男『公爵家の娘・岩倉靖子とある時代』中公文庫、荻野冨士夫『昭和天皇と治安体制』新日本出版社

◆◆戦前の「司法官赤化事件」とは?

2008910()「しんぶん赤旗」

〈問い〉 戦前の1930年代にあった「司法官赤化事件」とは、どんな事件だったのですか?(福岡・一読者)

 〈答え〉 「司法官赤化事件」とは、1932年から33年にかけて、10人をこえる裁判官や裁判所の職員が、全国各地で治安維持法違反を理由に逮捕され、そのうち東京地裁の尾崎陞(すすむ)判事など4人の判事と書記の西館仁など5人の裁判所関係者が起訴された事件です。

 天皇制の絶対的な権力のもとで、「天皇の名で」裁判をおこなう裁判所にまで、日本共産党の組織が及んでいたということで、「神聖な司法部まで」日本共産党の影響があった重大問題だと大々的に報道されました。

 事件は、これらの人々が、日本共産党に資金カンパをしたとか、「赤旗」の配布を受けていたとか、研究会に参加したとか、あるいは一部の人が活動家に住居を世話したとか、日本共産党員になったとかいう、今でいえば全く当然の何でもない普通の活動が罪にとわれたものです。

 しかし、そもそも治安維持法は、こうした日本共産党への加入や活動支援、協力を、「国体の変革(国の政治のあり方を根本的に変える)」として、天皇制のもとでは、許せない考え方だとし、最高刑は死刑をもって厳罰に処すという、思想を罰する悪法でした。

 裁判の結果は、判事の尾崎が6年、滝内礼作、為成養之助が各3年、福田力之助が2年、組織の活動の中心メンバーで、「転向しなかった」とされた書記の西館仁は8年と、この5人には懲役の実刑が科せられました。

 なお、戦後前記の4判事は、いずれも弁護士となり、自由法曹団に加入して、各方面で活躍しました。また、西館仁は日本共産党中央委員・北海道委員長などとして活動しました。(法)

◆◆映画「母べえ」で「父べえ」のモデル=ドイツ文学者の新島繁は誰?

2008315()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 映画「母べえ」で、坂東三津五郎が演じた「父べえ」のモデルは実在の人で小林多喜二とも交流があったと聞きました。どういう人だったのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 映画の実在の主人公はドイツ文学者の新島繁(本名・野上巌)で「母べえ」の綾子さんともども戦前戦後の二十数年間を杉並で暮らしました。

 新島は1901(明治34)年山口県生まれ。県立山口中学、山口高等学校をへて東大文学部ドイツ文学科を卒業、26年日本大学予科のドイツ語教授となり、プロレタリア文化運動に積極的に参加しました。こうした活動が大学当局ににらまれ思想上の理由で日大を追われ失職します。新島はやむなく31年、杉並区高円寺に古書店大衆書房を開き、綾子さんは代用教員をして生活を支えます。この古書店には、近くの馬橋に住んでいた小林多喜二が時たま、「インタナショナル」(野呂栄太郎主幹の産業労働調査所発行)などを買いに立ち寄っていました。

 新島は、33年3月15日、二人の娘、「初べえ」と「照べえ」の手を引いて敬愛する多喜二の労農葬会場・築地小劇場へかけつけました。しかし、会場付近は警官隊が包囲していて近づけませんでした。

 新島は32年10月、戸坂潤、岡邦雄、永田広志、服部之総(しそう)らが中心になって、哲学者、社会・自然科学者などが幅広く参加する唯物論研究会の結成に参加。後に幹事となり、『社会運動思想史』を書きます。

 この唯研は、科学的社会主義にもとづく文化運動が弾圧・解体されていったとき、唯物論の学問的研究を掲げて創立された研究団体でした。特高警察は38年11月から翌年にかけて、その中心幹部をはじめ43人を治安維持法違反として一斉に検挙しました。新島もその一人で、都内の警察署をたらい回しにされ拷問をともなう取り調べを受け、40年4月起訴され、未決勾留入獄します。

 映画の主人公は獄死しますが、新島は獄中で初志を貫けず、心ならずも「上申書」を提出することによって同年12月保釈出獄します。

 敗戦を迎えた新島は、戦中に多喜二のようにたたかえずに挫折した過ちへの深い反省に立って、日本共産党にいち早く入党し精力的に活動を始めます。執筆活動をしながら自由懇話会、全日本教員組合、民主主義科学者協会などの設立に尽力し、杉並区民生委員などの地域活動、原水禁運動、松川事件救援活動などに献身しました。

 54年綾子さんの死去後、55年神戸大学に赴任し57年教授となりますが同年12月病死しました。地元杉並では「唯研弾圧事件」60周年にあたる1998年から新島繁の業績に光をあてる顕彰運動をすすめてきました。

◆野上=映画「母べえ」のモデルだった父

(赤旗17.09.04

◆◆敗戦の前年に獄死した池田勇作とは?

2009124()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 山形県には戦前、獄死した池田勇作という忘れてはいけない先駆者がいると聞きました。どんな人だったのですか?(山形・一読者)

 〈答え〉 池田勇作は、戦前、弾圧に屈せず、反戦を訴え、プロレタリア文学を志し、40年6月に治安維持法違反で検挙され、1944(昭和19)年3月13日、東京・豊多摩刑務所で30歳の若さで獄死した人です。勇作の妻、郁(旧姓阿部、日本女子大卒、紀伊国屋書店勤務)も夫とともに検挙され半年後釈放されますが勇作の遺骨を抱いて故郷・余目町に帰り、終戦の3日前8月12日、過酷な取り調べのために発症した結核で病死します。

 池田勇作は1913年、鶴岡市で下級士族の家に生まれ、訓導をする伯母たちに支えられ旧制中学に学び、4年生(16歳)の時、仲間と共に社会科学研究会をつくります。その後中退し上京、電機学校(現東京電機大)に入学。東京では築地小劇場に刺激を受けますが伯母の死で学費が途絶えて31年春、帰郷。「荘内春秋」新聞の編集に加わり、「プロレタリアスポーツとは何か」など多くの記事を寄稿。その一方、プロレタリア作家同盟、演劇同盟、映画同盟また同文化連盟などの支部を鶴岡の町に次々と発足させ、それらの活動を「荘内春秋」や「荘内新報」に載せる活動を精力的におこないます。また、作家同盟機関誌『荘内の旗』を創刊しますが、多喜二労農葬の日(33年3月15日)に4回目の予防検束を受け、第1号はすべて押収され、第2号も所在不明。第3号の1冊だけが奇跡的に発見され、そこに多喜二への思いと虐殺への怒りをこめた作品「黙祷(二)」(筆名、浮田進一郎)をみることができます。この時期の著作には戯曲「遺族」(演劇同盟機関紙『鍬と銃』)など14編が見いだされています。

 36年2月、再び上京、岡部隆司らとともに日本共産党の再建運動に取り組む一方、雑誌『機械工の友』の創刊(38年9月)から編集に深くかかわり読者会を精工舎や東京計器など数社に組織、『中央公論』に「生田修」名で2編、ダイヤモンド誌に1編とほかに絶筆となる長編小説「河岸」を「最上駿作」名で発表しています。これらの作品は、「労働者の幸せのためにこそ新しき政治が打ち立てられるべき」(「一旋盤工の生活より」『中央公論』54年巻)という勇作の思想にそって、労働者の向上心と仲間同士の助け合い、励ましあい、家族への温かい思いやりの大切さ、を描いています。

 池田勇作は、これまであまり知られていませんでしたが、池田道正・山形大学名誉教授らの努力で、昨年春、遺作集『魂への道標―池田勇作と郁の軌跡』が出版され、ブログhttp://ikeda-yusaku.blogspot.com/もつくられています。(道)

◆◆敗戦直前、拷問でたおれた古川友一とは?

2008221()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 小林多喜二の1928年1月1日の日記に寺田とともに登場する古川とはどういう人ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二は小樽高商時代の初期に虐げられ貧しい人々に共感の目を注いで小説を書いていました。その多喜二が北海道拓殖銀行に勤務しながら小樽の階級闘争の現実に直面します。それまでマルクス主義の周辺で模索していた多喜二が、その思想的動揺を振り切っていくきっかけとなったのは1927年秋に彼が小樽社会科学研究会に参加したことがあげられます。この社会科学研究会で中心的役割を果たしていたのが小樽きっての理論家といわれた古川友一(こがわ・ともいち)です。

 古川は1889年青森県弘前に生まれ、朝陽尋常小学校卒業後、樺太(現サハリン)を経て小樽市役所に勤務します。そして1926年労農党小樽支部結成に参加、ついで社会科学研究会を組織し、そこには当時の小樽の労働・農民運動の活動家や小樽高商の学生が参加していました。

 この社会科学研究会は、毎週火曜日に開かれることから「火曜会」と呼ばれていました。会合は主に古川の家で行われていました。テキストには「資本論解説」「金融資本論」「レーニンの弁証法」「共産党宣言」などが使われチューターは古川がつとめました。

 28年2月の第1回普通選挙では山本懸蔵候補を応援、2月中旬には多喜二とともに東倶知安方面遊説に参加します。多喜二の『東倶知安行』に登場する吉川は古川です。古川は、その直後の3・15弾圧で検挙、小樽署で拷問を受けます。『一九二八年三月十五日』の冒頭に登場するインテリの小川龍吉も古川友一がモデルです。失職した古川を髪結いをして支えた妻のキヨが、お恵のモデルです。

 その後、古川は労農派の立場で、ひそかに資本論研究会を続けますが小樽での活動の場を奪われ43年ごろ上京、小樽高商で多喜二と同期生であり当時同盟通信社にいた板垣武雄の尽力で43年、同盟通信社に勤務します。

 44年6月、御茶ノ水の自宅に突然踏み込んできた特高警察に連行され東京・府中刑務所に収監されます。小樽での資本論研究会活動が理由ですが、彼が反戦の立場をとり短波受信機を持っていたことからスパイ容疑をかけられたともいわれています。

 古川はその後、厳寒の小樽署に連行され激しい拷問をうけましたが節を曲げず不屈にたたかい、「脚気衝心」(脚気にともなう心筋障害)のため小樽病院で45年1月12日死去しました。享年56歳でした。(登)

◆◆反戦に命を捧げた遠藤元治とは?

20071110()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、新潟県で戦争に反対する人民戦線運動に参加し、特高の拷問のために命を奪われた遠藤元治(もとじ)とはどんな人ですか?(新潟・一読者)

 〈答え〉 遠藤元治は、戦前、侵略戦争に反対し、27歳で命を奪われた新潟県長岡市出身の日本共産党員です。遠藤ら、反戦平和・主権在民の旗を掲げた党の戦前の不屈のたたかいは、真の愛国主義・民主主義を体現したもので、一政党の誇りにとどまらない日本の戦前史の誇りといえるものです。

 遠藤は、1911(明治44)年、長岡市の実業家の3男として生まれ、長岡中学をへて、1929年(昭4年)、第三高等学校(京都大学の前身)へ入学します。ちょうど、世界恐慌で失業、農業危機が深刻となり、労働争議・小作争議が続発、天皇制政府は中国への侵略を準備し、治安維持法改悪に反対した山本宣治が右翼テロによって刺殺された直後でした。

 前年には大学でも軍事教練がとりいれられましたが、三高には、まだ自由の伝統が残り、自由寮はその名の通り、出入りの制限もなく、寮監もおらず、学生の自由に任されていました。そこに、寮に門限を設け、正副総代も学校が任命するなどの規制が出されます。

 30(昭5)年7月2日、全学900余のうち700人以上が参加する学生大会がひらかれ、学生たちは寮に籠城(ろうじょう)します。しかし一週間後、警官隊が寮に乱入、遠藤(当時2年)は、責任者として退学処分になります。

 その後、遠藤は、神戸のゴム工業所事務員となり、大阪地方の全協(日本労働組合全国協議会)で活動、33年3月ころに故郷の新潟県に戻ります。

 当時、新潟の党は前年(32年)の弾圧によってほぼ壊滅していました。遠藤は、同年4月ごろに入党、農民組合の書記をしながら、東京・新潟間を往復し、「赤旗」(現在の「しんぶん赤旗」)を配布、県党再建に力をそそぎました。

 しかし、天皇制政府は、32年11月には党中央委員・岩田義道を、翌33年2月にはプロレタリア作家小林多喜二を拷問で虐殺、遠藤も33年8月11日、逮捕されます。遠藤は、過酷な拷問にも「死をもって党の秘密を守る」と二十数日間ハンストをおこない、極度に衰弱、その後、懲役2年の刑で市ケ谷刑務所へ送られますが、35年暮れ、執行猶予処分を受け、実家で特高の監視つきの療養をしばらく続けます。

 そして、遠藤は、ふたたび敢然として、北日本農民組合(北農)に青年部を確立し、これをテコに農民運動の統一と反戦活動の拡大に情熱を傾けるなか、37年3月、約40人が検挙された「北農青年部事件」でふたたび検挙され、はげしい拷問と獄中の虐待のため重体となり39年10月11日、仮出獄、2日後の13日、その尊い生命を人民解放のために捧(ささ)げつくし生涯を終えました。(喜)

 〈参考〉『美しい未来を求めて―反戦にいのちを捧げた遠藤元治27歳の生涯』(加藤栄二著、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟新潟県本部発行)

◆◆戦前、22歳で命を奪われた日本共産党員、藤本仁太郎とは?

2007113()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、関西地方の日本共産党員のたたかいはすごかったと先輩に聞きましたが、そのなかで、22歳で命を奪われた、藤本仁太郎という名がありました。どんな人ですか?(大阪・一読者)

 〈答え〉 戦前、天皇制権力の暴圧のもとで、少なくない日本共産党員が侵略戦争に反対し国民主権の世の中をつくるためにたたかい、命を奪われました。1934年(昭和9年)12月8日の夜明けに22歳11カ月の生涯を終えた藤本仁太郎(じんたろう)もそんな一人です。

 藤本は、32年10月30日の弾圧で壊滅した日本共産党関西地方委員会の再建のために21歳の若さで関西地方委員長となります。翌年3月に逮捕され、特高警察の残虐な拷問と獄中の虐待によって重体となり、仮釈放され23日後に亡くなりました。

 藤本は兵庫県城崎郡日高町(現豊岡市日高町)の自作農家の6人きょうだいの二男で、村の高等小学校を卒業すると製糸工場の給仕となり、昼は働き夜は中学講義録で勉強しました。

 世界恐慌下、低賃金と激しい労働、劣悪な労働環境の製糸工場の中で、藤本は、女性労働者の待遇改善の要求を支持して会社側とあらそい、30年3月、在職4年で退職します。その後、生家の農業を手伝い、村の青年団に入って、プロレタリア文学・芸術運動の機関誌『戦旗』をかくれて読むように。読書会や回覧雑誌を組織する計画をたてますが、警察からのよびだしと親の反対をうけ、その年(30年)の12月上旬、家を出て神戸へ行き、シバタゴム工場で働き始めます。工場では、文化サークルを組織、翌年に非合法化下の日本共産党に入党、工場に党員4人の細胞(現支部)をつくり、細胞長になり、工場新聞を発行しました。

 当時、関西の党組織は31年8月26日の大弾圧で約1千人が検挙され、下司順吉、峠一夫など185人が起訴されて壊滅的な打撃をうけた直後でした。検挙を逃れた共産党員は、各工場に細胞をつくり、藤本は再建された党神戸市委員会の委員に選ばれました。神戸製鋼のある職場では党員7人で、500人中200人の労働者を革命的な工場委員会に組織しますが、32年7月、ストライキ準備中に工場だけで120人以上が検挙されました。その一人、岡山県津山市出身の須江操は、特高警察の野蛮な拷問でひん死の状態になって、仮出所後4日目に21歳で死去しました。

 32年10月30日の大弾圧のさい、逮捕をまぬがれた藤本は、ひるむことなく、関西の党組織再建の中心になります。33年2月26、27日には、小林多喜二の虐殺に抗議したプロレタリア演劇団の追悼劇上演(中之島公会堂で5千人の労働者が参加)や、同27日の神戸三菱造船労働者2千人によるストライキなど勇敢なたたかいをつづけました。

 しかし、計画していた、小林多喜二の労農葬の3日前の3月12日夜、ついに藤本は天王寺の路上で逮捕されたのです。

 ふたたび、戦争への道を歩まないためにも、これら反戦平和のためにたたかい抜いた一人ひとりの人生を語り継ぐことが必要ではないでしょうか。(喜)

 〈参考〉『新版・不屈の青春~戦前共産党員の群像』(山岸一章著、新日本出版社)

◆◆戦前、秋田の若き農民運動指導者 鵜沼勇四郎とは?

2007929()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、秋田の若き農民運動指導者で獄死した鵜沼(うぬま)勇四郎とは?(秋田・一読者)

 〈答え〉 日本共産党の党名には、反戦平和と国民のくらしを守ってたたかい、命を奪われた多くの人生が刻まれています。秋田県の若き農民運動指導者で、1938年(昭和13年)6月12日、28歳で獄死した鵜沼勇四郎もそうした一人です。

 鵜沼は、10年(明治43年)、秋田県湯沢市の旧幡野村の小作農の家に生まれました。当時の秋田は、大正年間に入って急速に巨大化した地主制度と、29年(昭和4年)の大恐慌や続く凶作で、農村の窮乏化はすすみ、欠食児童、教員の給料欠配、婦女子の「身売り」などが激増しました。

 昭和に入ってからは小作争議が34年487件、35年471件と全国一に広がっていました。北秋田郡前田村(現北秋田市)争議、南秋田郡下井河村(現井川町)争議、平鹿郡沼館町(現横手市)団平争議、雄勝郡湯沢町(現湯沢市)小川家争議などがその代表的な争議です。

 鵜沼は、これらの小作争議を指導するなかで、32年に日本共産党に入党、秋田県党再建の責任者となり、32年4月から同年11月10日のいわゆる11・10弾圧(102人検挙)までの7カ月間に、県南を舞台に、20数人までに党員をふやしました。

 鵜沼は、高等科2年のころは、石川啄木の歌集をふところにしのばせている多感な少年でした。18歳のころには、プロレタリア文学の雑誌『文芸戦線』や『戦旗』を読み、友人とスイカ畑の番小屋で、ひそかに社会科学の研究会をひらいたりしました。

 彼を決定的に変えたのは、29年の前田村小作争議でした。大地主の一方的な小作料引き上げの通告に抵抗する農民組合にたいして、地主側は暴力団を使い、石合戦や日本刀で切り結ぶ凄絶(せいぜつ)なものでした。鵜沼は緊迫すると、がまんできず、家から2日間歩きとおして争議団本部にかけつけました。

 前田村から帰った鵜沼は、雄勝農民組合の書記として職業的に活動するようになり、各地の小作争議の援助に飛び回り始めます。弱冠20歳。このころからずっと野良着で通したといわれます。彼がかかわった争議には、必ず婦人部と少年団がつくられて、地域ぐるみでたたかったことが特徴でした。デモでは、だれもが声をそろえて歌えるように、「モシモシ、××××さんよ、世界のうちでお前ほど、強欲非道なやつはない、どうして、そんなにひどいのか」と替え歌を作って歌いました。

 32年検挙された鵜沼は実刑6年を受け、獄中ではエスペラント語を勉強していましたが、結核と刑務所の虐待によって、出獄間際に獄死しました。鵜沼と一緒にたたかった沼館町の島田平兵衛も全資産を農民運動に投じて同年7月、28歳で死去、十文字町(現横手市)出身の小川正治も41年8月、巣鴨刑務所で獄死しています。(喜)

 〈参考〉『新版・不屈の青春~戦前共産党員の群像』(山岸一章著、新日本出版社) 

◆◆『蟹工船』執筆に協力した乗富道夫とは?

2008223()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 小林多喜二の『蟹工船』執筆に協力した乗富道夫という人がいると聞きましたがどういう人ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 小林多喜二が1921年小樽高商に入学した時、樺太から年長の乗富(のりとみ)道夫が同期生として入学してきます。二人は学内の近代劇研究会に属していました。乗富は多喜二がマルクス主義に興味を持ち始めたころにはすでにマルクス主義の立場をとっており理論的には多喜二をリードしていました。

 乗富は卒業論文に「共産党宣言」の英独語版翻訳を提出し教授会ではそれをめぐって紛糾したといわれています。

 24年、二人は小樽高商を卒業し、多喜二は小樽に残り、乗富は安田銀行函館支店に勤務します。そこで乗富道夫は政治研究会函館支部結成に参加、労農党に入党、労働組合の闘争支援を行い、活動家の資本論学習会のチューターをつとめます。さらには野呂栄太郎の主宰する産業労働調査所の函館支所長として労働者教育や調査活動を進めていました。蟹工船の実態調査などもその一環として進めていました。

 一方、小林多喜二が北洋漁業、とりわけロシア領海近くの蟹工船での漁夫虐待事件やあくどい搾取の実態に関心をもち始めるのは27年です。前年の新聞報道により蟹工船の実態が赤裸に暴露されたことに触発されたからです。銀行の友人たちの協力で新聞の切り抜き作業を行ってもいました。

 当時、多喜二は拓銀で働くかたわら磯野小作争議や港湾労働運動支援を続けていました。そこに函館から応援に来ていたメンバーから函館の安田銀行にいる同期生の乗富道夫が蟹工船に関する詳しい調査を行い、その資料をもっていることが伝えられたのです。こうして多喜二は函館の乗富と3年ぶりに再会し、その協力のもとに蟹工船の実態のより正確な情報、資料を入手できたのです。

 こうして乗富の調査・研究協力が多喜二の『蟹工船』の執筆に大きな役割を果たしたのです。

 『蟹工船』は、雑誌『戦旗』の1929年5、6月号に発表され全国的な反響を呼び起こしました。

 その後、乗富は、労働争議支援のため再三にわたり検挙されます。そのため、銀行を解雇され、特高警察からもマークされ函館での活動の場を奪われ、多喜二と前後して上京します。そして計理士(公認会計士の前身)として生活していきます。活動の状況はよくわかっていませんが、多喜二の虐殺遺体が杉並・馬橋に帰った33年2月21日夜、寺田らとともに枕辺に駆けつけていることからみて、上京後も多喜二との連携を保っていたことは確かです。多喜二の死の数年後、乗富は肺結核で病没しました。(登)

 〈参考〉藤田廣登『小林多喜二とその盟友たち』(学習の友社)

◆◆小林多喜二の盟友、寺田とは? 

2008220()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 小林多喜二が1928年1月1日の「折々帳」(日記)で「古川、寺田、労農党の連中を得たことは画期的なことである」と書いていますが、寺田とはどういう関係の人ですか。(東京・一読者)

 〈答え〉 多喜二の日記に登場する寺田は、青森県出身、小樽高商(現小樽商科大学)で多喜二の2年後輩の寺田行雄のことです。

 寺田は多喜二が卒業し拓銀小樽支店に入社した翌年の1925年、小樽高商社会科学研究会の結成に参加、ついで同年10月、大震災による外国人の騒乱を想定した学内の軍事教練押しつけへの反対運動の中心メンバーとして活動し35日間の停学処分を受けました。

 26年同校卒業後、北海タイムス(現北海道新聞)小樽支局に入社、記者業務のかたわら小樽の労働運動、農民運動とのつながりをつよめ、同年、小樽社会科学研究会(古川友一主宰)に加入して小林多喜二に何度も参加を働きかけます。多喜二は27年9月ごろに小樽社研に参加、ここでの学習を糧にして「断然マルキシズムに進展していった」と28年1月1日の日記で高らかに宣言したのです。

 こうして、多喜二と寺田は小樽の労働・農民運動の前進のために協力しあうようになり、28年2月の第1回普通選挙で労農党から立候補した共産党員山本懸蔵を応援してたたかい、その直後の3月15日の大弾圧に遭遇し、寺田は検挙、拷問を受けます。『一九二八年三月十五日』に登場する「佐多」は寺田がモデルです。

 寺田は翌29年4月16日の弾圧でも検挙されましたが、多喜二の上京後も小樽に残って活動を続け全協小樽産別組合の組織化や労働新聞配布などにより3度目の検挙を受け札幌刑務所に勾留され、北海タイムス社を解雇されます。

 31年10月執行猶予で出獄しましたが、小樽での活動の場を奪われ、一足先に上京していた家族と合流、杉並・高円寺に移り住みます。隣駅の阿佐ケ谷・馬橋には多喜二一家が住んでおり、こうして2人の活動を家族ぐるみで支えあう関係が小樽から東京へひきつがれたのです。

 多喜二の虐殺遺体が馬橋に帰ったあとの通夜、葬儀は寺田一家が協力して進められました。火葬場まで付き添った寺田の次姉セツさんが多喜二の分骨を分けてもらい供養を続け、戦後、大館の小林多喜二生誕の地碑建立のおり散骨したのはこのような事情からでした。

 寺田は多喜二虐殺後も杉並に残り反戦活動に全力をあげ37年の人民戦線事件で4度目の検挙を受けましたが節を曲げずにたたかいました。その後、大阪で旭区の増田きみさんと結婚、43年4月8日、大阪府茨木市外の春日村(現茨木市五日市)の北川療養所で結核のため病没。享年38歳でした。(登)

〈参考〉藤田廣登著『小林多喜二とその盟友たち』学習の友社

◆◆戦争反対の人民戦線めざし獄死した和田四三四とは? 

20071115()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、国家総動員体制で侵略戦争に突入していったとき、大阪でこれに抵抗して、日本共産党再建と人民戦線運動の推進にあたったという和田四三四とはどんな人ですか?(福岡・一読者)

 〈答え〉 戦前、日本が無謀な太平洋戦争に突入していく時代、弾圧で日本共産党中央委員会が壊滅した(35年春)後も、命を賭して反戦平和のためにたたかった人たちがいました。1942年8月13日、32歳の若さで獄死した和田四三四(わだ・しさし)もその一人です。

 和田は、伊予松山藩主だった松平家の一族で、父の松平定安、母マツの6男として、1910(明治43)年に松山市で生まれ、のちに道後湯之町の和田家の養子となり、松山中学(現松山東高)をへて、31年3月、松山高商(現松山大)を卒業します。松山高商時代は、寡黙で目立たず一人コツコツと『中央公論』や『改造』などを読み、山岳部に入っていたといいます。

 卒業後しばらく同大学図書館に勤めた後、32年に大阪に出て、1年ほど、港区の法律事務所で労働運動を研究、その後、全労大阪金属港南支部連合会の書記となり、港南消費組合結成に尽力します。

 反ファシズム人民戦線運動が広がり、34年3月にはジュネーブで全世界の労働者代表会議がひらかれます。四三四の実兄は、「この会議に弟は、日本の労働者代表として出席する予定だった。それで弟を激励したが、2月下旬、事情ができ、代わりが行くことになったと。理由は、もし一カ月大阪を不在にすると、港南消費組合が弾圧で壊滅するおそれがある。自分は大阪を死守するということだった」と、感銘した思い出として語っています。

 34年、和田は日本共産党へ入党、同年9月1日の室戸台風で大正区、港区に大被害がでると昼夜をわかたず救援活動を行いました。35年3月~36年5月、大原社会問題研究所大阪支所の嘱託となります。和田はここで働きながら、36年3月、奥村秀松、宮木喜久雄らとともに党関西地方委員会を再建し『統一戦線樹立のために』など各種パンフレットを発行、ついで7月には党中央再建準備委員会をつくり、共産主義者の結集と人民戦線運動の推進にあたりました。しかし、同年12月、9府県約240人の検挙という弾圧をうけ、和田、奥村は獄死、日本における人民戦線運動は中絶しました。

 『人民戦線史序説』の著者、岩村登志夫氏の「(和田は)常に世界的視野に立って行動していたがそれができたのはなぜ?」との問いかけに、実兄は「大原社研で東京からしばしば訪れた大内兵衛、森戸辰男らと交流、とくに所長の高野岩三郎氏とは親しかった。当時のトップレベルの自由主義者、マルクス経済学者らと交流をたもっていたこと。また、先祖から父親に至るまで自由主義、人道主義的精神が流れており、それが彼の血肉となって思想として受け継がれてきた」と語っています。(喜)

 〈参考〉青木書店『日本社会運動人物辞典』、犬丸義一・中村新太郎著『物語・日本労働運動史』(新日本選書)、松山大学温山会報第33号、仙波恒徳「異端の先輩、和田四三四」

◆◆戦前、26歳で逝った共産党員・関淑子とは?

200796()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 「日本のうたごえ」の指導者、関鑑子さんの妹、淑子さんとはどんな人ですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 関淑子(せき・よしこ)は、戦後の「日本のうたごえ」運動をリードした関鑑子(あきこ)の9歳下の妹で、不屈にたたかい抜いた日本共産党員です。1935年1月27日、病気保釈中に特高警察の目をくぐって活動中、東京・浅草で不慮の火災に遭い、26歳の若さで亡くなりました。

 淑子の父は、美術評論家の岩二郎(如来)、母トヨは日本で最初の看護婦の資格をとった人で、自由で進歩的な考えをもった家庭で育ちました。キリスト教の洗礼も受けていた淑子の転機は27年8月。娘の死を悼む父の手記にはこう記されています。

 「北海道における姉の音楽会出席不能の理由説明のため、左翼劇団の人々に伴はれ、その地に赴きしところ、劇団の人々とともに豚箱に投げ込まれ、理不尽なる拷問を受け、この時における淑子の当局に対する憤まんのいかに深刻なりしかは、これが動機となりて、淑子は真剣にマルキシズムの研究に没頭、卒業を前にして退学し、遂に実行運動に人り

 北海道から帰るとまもなく、津田英学塾(現在の津田塾大)を退学、関東金属労組本部の書記になり事務所に住みこみます。29年の4・16事件で検挙され、留置場で知った金舜実という朝鮮人女性が、バケツに氷を入れて両足を長時間浸される拷問にも屈しない姿に「強く感銘を受けた」と淑子はのちに語っています。

 同年11月ごろ、全協(全国労働組合協議会)の活動家・佐藤秀一(45年2月24日、豊多摩刑務所で獄死)と結婚。31年1月ごろ、八カ月の赤ちゃんを早産し亡くします。淑子は赤ちゃんの小さな骨壷を肌身はなさず持って、日立亀戸工場などの労働者を組織する活動、同年夏から共産青年同盟の活動に。翌32年3月ごろ、横浜で検挙された淑子はひどい拷問を受けます。父は手記で、「淑子を素裸にして箕巻きにし逆さに吊して責めたることあり、つひに仮死の状態に陥りたるにより当局も驚き、兄姉を呼出して引渡したる人権蹂躙の極致にして」と告発しました。

 危篤状態で釈放され一時療養した淑子は、じきに共青の中央機関紙「無産青年」の仕事にかかわります。

 同年9月また逮捕され、獄中で重態となり翌年秋、保釈に。病気の体をおして淑子は、特高の目をくぐって、ベークライト工場や舞踊研究所で働き、党組織との連絡を回復するために努力を続けました。このため、裁判は欠席のまま懲役3年に逃亡罪1年が加えられました。

 焼死したとき、スーツケースには、最後まで勉強していた独文の『ドイツイデオロギー』と独和辞典が残されていました。

 府立第2高女(現竹早高校)時代の友人、菅野清子は次の歌を詠みました。

 こころざし竟(つい)に抂(ま)げずとききしときひそかにわれの君を誇りし

 〈参考〉山岸一章著『革命と青春~日本共産党員の群像』(新日本選書)(喜)

◆◆戦前、特高に殺された加藤四海とは?

2007811()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 東京・目黒区の出身で、戦前、反戦活動をして特高警察に殺された加藤四海という人がいると聞きました。どんな人ですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 日本共産党という党の名前には、中国などへの侵略戦争と植民地支配に反対して、不屈にたたかった人びとの歴史が刻みこまれています。

 太平洋戦争が始まる前の年、1940年(昭和15年)5月11日に東京・目黒警察署に検挙され、翌12日に虐殺された加藤四海(よつみ)も、そんな日本共産党員の一人です。享年30歳の若さでした。

 四海は1910年、東京・港区下高輪で、農商務省の地質技官の5人きょうだいの末っ子に生まれ、14歳で中目黒に転居。麻布中学に入って社会主義運動に関心をもちます。27年4月、東京商科大学(現一橋大学)に入学したときは、第1次山東出兵(同年5月)で侵略戦争拡大が急テンポにすすみ日本共産党が「対支非干渉運動を全国に起せ!」とよびかけたころで、四海は学内で学生連合会や社会科学研究会のリーダーの役割を果たしていたとみられます。

 29年、四海が大学3年のとき、東京商大には、東大、法大、早大などとともに、反帝同盟の学生班がつくられ、9月4日、銀座街頭デモの計画が立てられます。しかし、開始直前、約100人が検挙され、四海は、進歩的な学者だった上田貞次郎の息子・正一とともに二人だけ退学処分になります。

 四海は、これにめげず、農民運動に参加する決意をかため、茨城県南部の農村へ。当時19歳の四海は「黒ぶちの眼鏡をかけ、やせ形で一見いかにもよわよわしい感じがする」青年だったといわれます。四海は、谷原誠二の別名で、現在の龍ケ崎市八代に事務所をつくり、源清田、生板、羽原、美並などの村々に農民組合を組織し、30年から翌年にかけての原村羽原と美並村の小作争議にかかわります。31年、大田村でおこなった演説会の弾圧で、四海は首謀者と目され一カ月勾留。その直後に、日本共産党に入党、29年の4・16事件後2年数カ月ぶりに再建された党茨城県委員会の責任者になりました。同年9月、満州事変がぼっ発。あらしのような弾圧のなかで、四海は農民運動だけでなく、水戸高校の学生運動も指導。32年秋、検挙され、水戸地方裁判所で「わたしは絶対に転向しない」と宣言して、函館刑務所で5年間の獄中生活を送ります。

 獄を出たときには、党中央は壊滅していましたが、四海は不屈な精神で、党の再建をめざして、山代吉宗、春日正一、山代巴、徳毛宜策らと連絡をとり京浜グループを形成、東京と神奈川にわかれて、工場別の学習サークルをつくり、党再建を準備、40年5月、25人が検挙されます。

 特高警察は、京浜グループにたいして残虐な拷問をおこない、山代吉宗は敗戦の年の1月14日に広島刑務所で、板谷敬は同年2月16日に横浜刑務所で獄死。茨城県で四海とともにたたかった米山真一も、34年1月、水戸警察署で拷問をうけ、釈放後まもなく死去しています。

 加藤四海については、作家・山岸一章が関係者に丹念に取材し『新版・不屈の青春―戦前日本共産党員の群像』(新日本出版社)に収録しています。(喜)

◆◆関東大震災直後の亀戸事件とは?

200791()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 関東大震災直後に起きた亀戸事件とは?(山梨・一読者)

 〈答え〉 1923年9月1日午前11時58分、死者9万1千人をこえた関東大震災が起きました。2日成立したばかりの山本権兵衛内閣は翌3日、東京府と神奈川県に戒厳令をしき、軍隊を動員しました。混乱の中で、朝鮮人や社会主義者が暴動をたくらんでいるというデマが流れ、当局も「震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ」(内務省警保局長から各地方長官あての電報)としたことなどで、流言は広がり、多くの町内で在郷軍人や青年団が「自警団」を組織し、朝鮮人に襲いかかりました。軍隊も、とくに江東方面では朝鮮人を「敵」として追いたて殺害しました。虐殺された総数は正確にはわかっていませんが、6千人を超えるという調査もあります。

 前年創立の日本共産党にたいして、警察は、震災3カ月前の6月5日、いっせい弾圧を加え、30余人を検挙しました。しかし、南葛(現在の江東、墨田)を中心に労働運動はなお活発でした。このため、軍と警察は一体になって、震災の混乱に乗じて、社会主義者を一挙に根絶やしにしようとします。

 9月3日、被災者救援のため活動中の南葛労働会の本部から、川合義虎(21)=民青同盟の前身である日本共産青年同盟初代委員長=と、居合わせた労働者、山岸実司(20)、鈴木直一(23)、近藤広造(19)、加藤高寿(26)、北島吉蔵(19)、さらに同会の吉村光治(23)、佐藤欣治(21)、純労働組合の平沢計七(34)、中筋宇八(24)らが相次ぎ亀戸署に留置されました。

 同署では、その夜から翌日にかけて、多数の朝鮮人が虐殺されました。川合ら10人は軍に引き渡され、5日未明、近衛師団の騎兵第13連隊の兵士によって刺殺されました。これがいわゆる「亀戸事件」です。

 「社会主義者狩り」は、亀戸ばかりではありませんでした。9日ごろには、共産党の合法部隊だった農民運動社を近衛騎兵連隊の一隊が襲い、浅沼稲次郎夫妻ら8人をとらえ重営倉にいれ、後手にしばったまま梁(はり)につりさげました。堺利彦ら第1次共産党弾圧の被告が収容されていた市ケ谷刑務所にも軍隊がおしかけ、被告たちの引き渡しを迫りました(刑務所長が拒否したため、被告たちは命びろいした)。獄外にいた山川均も追われますが、友人宅を転々と逃げ、助かりました。士官たちは、吉野作造や大山郁夫ら民本主義のリーダーもねらい、大山は拘引されましたが、新聞社が行方をさがしたので、釈放されたのでした。16日には、アナーキスト・大杉栄夫妻と6歳になる甥(おい)が甘粕憲兵大尉によって絞殺される甘粕事件が起きます。このように大震災時に、驚くべき野蛮なテロリズムに支配勢力が走ったことは、国民にはけっして忘れることのできない教訓です。(喜)

 〈参考〉『亀戸事件~隠された権力犯罪』(加藤文三著、大月書店)、『物語・日本近代史3』(犬丸義一・中村新太郎著、新日本出版社)

◆◆治安維持法の犠牲者は戦後どう扱われたの?

2005922()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 戦前、戦争に反対して特高に拷問され命を落とした人が少なくないと聞きました。平和の礎(いしずえ)となった、こうした人びとをけっして忘れてはいけないと思います。治安維持法の犠牲者にたいして戦後、政府はどんな扱いをしたのですか?(愛知・一読者)

 〈答え〉 1925年施行の治安維持法は、太平洋戦争の敗戦後の45年10月に廃止されるまで、弾圧法として猛威をふるいました。拷問で虐殺されたり獄死した人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕された人は数十万人におよびます(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)。

 この法律は思想そのものを犯罪とし、天皇制をかえて国民主権の政治を願った日本共産党員には最高、死刑という重罰を科すものでした。また、活動に少しでも協力すれば犯罪とされ、宗教者や自由主義者も、弾圧の対象とされました。

 戦後、当然この法律は廃止されました。しかし、治安維持法で弾圧された犠牲者にたいしては「将来に向かってその刑の言渡を受けなかったものとみなす」とされただけで、なんの謝罪も損害補償もされませんでした。一方、拷問・虐殺に直接・間接に加わった特高たちは何の罪にも問われませんでした。

 ドイツやイタリアでは、第二次大戦時のナチス政権下の犠牲者や「反ファシスト政治犯」犠牲者に対しての国家賠償を早くに実施しています。戦争犠牲者に対する戦後補償は国際社会の常識です。日本弁護士連合会も「公式に謝罪をし、肉体的、精神的被害に関する補償を含めた慰謝の措置をとることが、侵害された人権の回復措置として必要不可欠である」と勧告しています。

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟は、1968年に当時の犠牲者や遺族、家族の人びとを中心に、設立されました。治安維持法の時代の実態やその教訓を学び、治安維持法など戦前の悪法で弾圧の被害をうけた犠牲者に国としての責任を認めさせ、謝罪させ、国家賠償をおこなう法律を制定するよう、運動をすすめています。その後、国家賠償要求同盟は、直接に被害をうけた人や親族の運動にとどまらず、ふたたび戦争と暗黒政治の復活を許さないためにたたかう多くの人たちが加入、犠牲者に対する国家賠償法の制定を要求する国会請願行動を毎年続けています。(喜)

◆◆治安維持法国賠償同盟創立50年記念映画=「種まく人びと」

(赤旗17.06.05

★★種まく人々=治安維持法犠牲者のたたかいとその志倭引き継いだ人々の記録40m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v125095973dhDEaegb

───────────────────────────

🔵野呂栄太郎と『日本資本主義発達史』

───────────────────────────

◆◆野呂栄太郎ってどんな人なの?

2004211()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 今年、没後七十年を迎えるという、野呂栄太郎はどんな人だったのですか。 (大阪・一読者)

 〈答え〉 野呂栄太郎は戦前の日本共産党の指導的幹部の一人です。日本資本主義の成り立ちや諸矛盾を科学的社会主義の「科学の目」で分析・解明し、その後の日本資本主義の科学的研究の出発点を切り開いた経済学者でもあります。

 一九〇〇年に北海道の開拓農村で生まれ、少年時代に関節炎で片足を切断しました。二〇年に慶応義塾大学に進み、科学的社会主義の理論・運動に接し、社会科学を研究する学生団体の設立・運営や、日本最初の労働運動のための研究調査機関である産業労働調査所の活動に加わりました。

 一九二六年~三〇年発表の五論文を収めた主著『日本資本主義発達史』(三〇年刊行)は、まず、「皇国史観」などの非科学的歴史観がまかり通っていた日本の歴史を具体的に分析し、階級社会と国家の成立や支配階級・支配体制の変動など、日本社会の発展・変革の過程をあとづけました。

 明治維新をへて資本主義に進んだ日本についても、絶対主義的な天皇制と、封建的要素の強い地主制、はじめから権力と結びついて発展をとげた財閥・独占資本の相互関係を浮き彫りにし、その反動的・侵略的性格や諸矛盾を明らかにしました。

 これらは侵略戦争と植民地支配に反対し、天皇中心の社会を国民が主人公の社会に変革する課題を掲げた、戦前の日本共産党の路線を豊かに発展させるものでした。

 野呂は三〇年ごろ日本共産党に入党し、合法面では『日本資本主義発達史講座』の編集で中心的役割を担いました。肺結核との闘病を抱えていましたが、三二年十月の弾圧で党指導部が破壊されると、中央委員の一人として党指導部の再建に着手しました。スパイの手引きで三三年十一月に検挙され、翌年二月十九日、拷問による病状悪化で生涯を閉じました。(博)

◆野呂栄太郎と『日本資本主義発達史』リンク

◆野呂栄太郎『日本資本主義発達史講座』(1935岩波書店)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281718

◆倉田稔=経済学者・野呂栄太郎PDF27p

http://ci.nii.ac.jp/els/contents110006555708.pdf?id=ART0008536702

◆松本剛=<研究余滴> 野呂栄太郎関連文献の収集PDF4p

クリックしてade_20_43.pdfにアクセス

◆山田舜=野呂栄太郎 一九二九年

PDF22p

クリックして3-540.pdfにアクセス

PDF25p

クリックして3-608.pdfにアクセス

◆飯田鼎=野呂栄太郎と『日本資本主義発達史』研究 : 日本におけるマルクス経済学研究()PDF21p

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234610-19811001-0083.pdf?file_id=77221

◆山本義彦=野呂栄太郎論 : 日本資本主義の史的展開

PDF43p

クリックして080613005.pdfにアクセス

PDF21p

クリックして080613007.pdfにアクセス

PDF44p天皇制国家

クリックして080613009.pdfにアクセス

PDF38p天皇制国家

クリックして080613009.pdfにアクセス

野呂猪俣現段階論争の意義と限度 : 野呂栄太郎論(3)PDF71p

クリックして080613006.pdfにアクセス

◆福冨正実=日本資本主義論争と野呂栄太郎論(I) : 守屋典郎氏の野呂理解における偏見についてPDF31p

クリックしてC040038000302.pdfにアクセス

◆青空文庫・野呂栄太郎著作(書簡中心)

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person287.html

◆◆野呂栄太郎と『日本資本主義発達史』

のろえいたろう

19001934

(小学館百科全書)

共産主義者。マルクス主義の立場からの日本資本主義発達史研究の開拓者の1人。明治33430日北海道生まれ。慶応義塾大学在学中から学生運動、労働者教育運動に参加。卒業後は産業労働調査所で、日本および世界の政治・経済の現状分析および日本資本主義発達史研究に従事し、猪俣津南雄(いのまたつなお)などの日本資本主義論に厳しい批判を行った。1931年(昭和6)から『日本資本主義発達史講座』(193233)を企画し、中心となってその編集にあたったが、この『講座』に予定された彼自身の論文は、ついに書かれることなく終わった。3210月、日本共産党中央部が一斉検挙でほとんど壊滅したあと、彼が、片足は小学生のときの病気がもとで義足であるうえに、重い肺結核を病む身で、党中央部の再建を目ざして地下活動に入ったためであった。地下に潜行した彼は、獄中の最高幹部佐野学(まなぶ)、鍋山貞親(なべやまさだちか)が転向声明(19336月)を発するという困難な状況のもとで党中央部の再建と機関紙『赤旗(せっき)』の刊行に努めたが、331128日に逮捕され、翌34219日東京・品川署で獄死した。まだ33歳の若さであった。生前に刊行された彼の著作は『日本資本主義発達史』(1930)一冊だけだが、この一冊は講座派理論の礎石を据えたものであり、その後の日本資本主義論に多大の影響を及ぼした。[山崎春成]

『『野呂栄太郎全集』全2冊(196567・新日本出版社) ▽塩沢富美子著『野呂栄太郎の想い出』(1976・新日本出版社) ▽塩沢富美子著『野呂栄太郎とともに』(1986・未来社)』

◆『日本資本主義発達史』

野呂栄太郎(のろえいたろう)の代表作。1930年(昭和5)に鉄塔書院から出版。日本における科学的歴史学の先駆をなす作品であり、日本の『資本論』ともよばれた。192425年(大正1314)野呂は日本労働学校その他で『資本論』を教えたが、労働者は、『資本論』を武器に日本歴史を分析するとどういうことになるのかとしばしば質問した。この労働者の要求にこたえるべく執筆したのが本書であり、主として明治維新以後の日本資本主義の発展過程、その構造的矛盾の分析に重点が置かれている。本書の特徴は、なによりも野呂が生きていた時代の192030年代の日本社会の現状分析と、明治維新に対する歴史分析とを結合させた点にあり、明治維新のブルジョア革命としての不徹底さが、日本帝国主義による国内抑圧と中国侵略とを必然化させたのだと説いた。野呂は、社会発展の原動力をその社会に内在する矛盾の生成・発展・衰滅・新たなる矛盾の生成という観点からとらえる唯物弁証法を本書の随所で駆使しており、そのダイナミックな手法が多くの読者を魅了した。「工業における資本主義の急速にして高度の発達と農業におけるそれの局限的にして低度の発達――この不均衡の加速度的激化――ここに、日本資本主義の根本的にして致命的な矛盾がある」という有名な文章にみられるように、野呂は、日本資本主義と半封建的地主制との矛盾対立的な結合の仕方そのもののなかに、日本におけるあらゆる政治的反動化の基礎をみいだしたのである。この見地から野呂は、専制的天皇制・地主的土地所有の廃止などを要求するブルジョア民主主義革命の遂行を日本革命の第一義の課題とした。本書は、日本人民解放のために捧(ささ)げられた革命的実践の書としても不朽の声価を得ている。岩波文庫、『野呂栄太郎全集 上』(新日本出版社)所収。[中村政則]

『塩沢富美子著『野呂栄太郎の想い出』(1976・新日本出版社) ▽守屋典郎著『日本資本主義分析の巨匠たち』(1982・白石書店)』

◆◆八坂スミさんとは?

2006715()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 先日の本欄で石井百代さんのことが紹介されていましたが、もう一人、「生きることが/反戦平和につながれば/わたしは生きる/這いずろうとも」と歌った八坂スミさんとはどんな人ですか?(三重・一読者)

 〈答え〉 戦前、戦後の日本共産党の84年間の歩みには、平和と国民だれもが幸せに生きられる社会を願って、誠実にたたかい抜いた無数の人々の名が刻みこまれています。

 この歌を残した八坂スミさん(本名・石塚ルイ、1891―1986)もそんな日本共産党員の一人です。この歌は八坂さんの90歳のときの作品で、これを収めた歌集『わたしは生きる』は、86年度の多喜二・百合子賞を受賞しました。作品が「今日の社会や政治のあり方に対する、作者のおう盛で積極的な関心が特徴的」であり、政治詠も「作者自身の共産党員としての生き方、格調の高い、平明で澄みとおった歌風とよく溶けあって、独特のみずみずしさ、のびやかさが」あると評価されました。授賞式で八坂さんは、「私の歌の土台は共産党員であること」「党に人間らしく生きることを教えてもらいました」と語っています。

 八坂さんは、福岡市博多で生まれ、福岡高等女学校を卒業し20歳で結婚。封建的な家制度の中で苦しみ1923年、婚家をでて上京します。早大の学生だった甥(おい)の下宿で学生たちの世話をするなかで、日本共産党員の吉田寛の友人だった長村宜平を通じて、河上肇の『貧乏物語』や「赤旗」などにふれ、社会主義に共鳴、活動家をかくまったりします。疎開していた北海道浦河で終戦をむかえ入党。47年帰京し、地域の活動、婦人民主クラブや「草の実会」会員として女性の運動にも参加しています。「八坂スミ」のペンネームも新宿区落合八の坂に住んだことに由来します。

 その後転居した埼玉・戸田市では、共働きの家庭が増えて、「放課後の子どもを放っておけない」と自宅を開放、学童保育を始めた八坂さん。すでに70歳を過ぎていました。

 古食卓ひとつがわが家の机にて児らくる午後は拭き清め待つ

 八坂さんは、渡辺順三さんを囲むアカハタ短歌会にも参加します。その後、沼津の老人ホームに入所しますが、78歳のときに戸田市に戻り一人暮らしを始めます。

 選挙のときには、力をふりしぼって、「反戦平和の党支持を」と訴えました。

 食べぬ日もあった/曲折の八十二年、しあわせは/これからですよ―というような/党の躍進(1973年)

 這うことも/できなくなったが/手にはまだ/平和を守る/一票がある(1982年)

 比例代表選挙が導入され、初めての政党選択選挙で「抜群の躍進」をしたときは―

 身に沁(し)む/九十二年の生き甲斐/「日本共産党」と 堂々ときょうは書ける日

 党員の誇りとたたかう気迫にあふれた95歳の生涯でした。(広)

───────────────────────────

🔵詩人・尹 東柱(ユン・ドンジュ)の獄死

───────────────────────────

同志社大の詩碑

★★尹東柱の生涯=たやすく書かれた詩35m

◆尹東柱の詩

http://www002.upp.so-net.ne.jp/izaya/Yundonju.htm

★カンハヌル主演映画[ドンジュ]映像2m

★ドンジュの映画(韓国語)

Wikiからの略歴

191712 – 19452

間島(現・中国吉林省延辺朝鮮族自治州)出身の詩人。本貫は坡平尹氏。号は海煥(ヘファン、해환)。

第二次世界大戦下の日本において治安維持法違反の嫌疑で逮捕され獄死した。朝鮮語での詩作を続け若くして非業の死を遂げた尹東柱は、大韓民国において国民的詩人として有名であり、北朝鮮でも一定の評価を受けている。

1932年、龍井のキリスト教系学校・恩真中学に入学、一家も龍井に移住した。1935年に平壌のプロテスタント系学校・崇実中学校に編入学するが、崇実中学は神社参拝問題のために1936年に当局によって廃校とされた。東柱は龍井に帰り、日本人経営の光明学園中学部に編入。1936年頃より、延吉で発行されていた雑誌『カトリック少年』に、「尹童柱」「尹童舟」などの名義で童詩を発表し始める。

1938年、光明学園を卒業し、ソウルの延禧専門学校(現・延世大学校)文科に入学する。この在学中に崔鉉培から朝鮮語を学んでいる。1940年には創氏改名によって「平沼東柱」となった。この間、朝鮮日報や雑誌『少年』に詩を投稿している。

194112月、延禧専門学校を卒業。学校卒業時に、代表作「序詩」を含む自選詩集『空と風と星と詩』の出版を計画するが、恩師とも相談の上、内容的に出版は難しいとの判断から出版を断念。友人に配布したものが後世に伝わることとなった。

一旦帰郷した東柱は、父に日本留学を勧められ、1942年に日本に渡り、4月に立教大学文学部英文科選科に入学する。4月から6月にかけてソウルの友人に「たやすく書かれた詩」など5編を送ったのが、現存する最後の作品である。夏休みに帰郷したのが最後の帰郷となった。

19429月、京都に移り、10月同志社大学文学部英文学科選科に入学する。1943714日、在学中に治安維持法違反の嫌疑で下鴨警察署に逮捕された。このとき、従弟の宋夢奎、同じ下宿の高熙旭も逮捕されている。友人との会話の中で、朝鮮人徴兵や民族文化圧迫などの政策を非難したり、友人に対して朝鮮語・朝鮮史の勉強を勧めたり、朝鮮独立の必要性を訴えたり、民族的文学観を語ったりしたことなどが、民族意識の鼓吹・民族運動の煽動にあたる罪とされた[2]。逮捕の際に蔵書やノート・原稿類が押収されたが、そのまま所在不明となっており、このため京都で書かれたであろう作品は確認することができない。

1944222日、尹東柱と宋夢奎は起訴され、331日に京都地方裁判所で懲役2年の判決を言い渡される。尹東柱と宋夢奎は福岡刑務所に収監された。

【同志社大にある記念碑】

1945216日、福岡刑務所で獄死した(満27歳没)。なお、獄中で注射を繰り返し打たれていたことから毒殺を疑う説もある。絶命前に言葉を叫んでいるが、日本人看守には理解されなかった。尹東柱について書かれた伝記の中には、この言葉を朝鮮語であったろうと推測するものもある。遺体は父が引き取り、龍井の東山教会墓地に葬られた。なお、ともに投獄された宋夢奎も310日に獄死した。

◆◆尹東柱(ユン・ドンジュ)詩集から

◆自画像 (1939年 専門学校2年) 

山の辺を巡り田園のそば 人里離れた井戸を

独り尋ねては そっと覗いて見ます。

井戸の中は 月が明るく 雲が流れ 空が広がり

青い風が吹いて 秋があります。

そして一人の男がいます。

なぜかその男が憎くなり 帰って行きます。

帰りながら ふと その男が哀れになります。

引き返して覗くと男はそのままいます。

またその男が憎くなり 帰って行きます。

帰りながら ふと その男がなつかしくなります。

井戸の中には 月が明るく 雲が流れ 空が広がり

青い風が吹いて 秋があり

追憶のように男がいます。

◆たやすく書かれた詩 

194263日 立教大在学中) 

窓辺に夜の雨がささやき

六畳部屋は他人の国、

詩人とは悲しい天命と知りつつも

一行の詩を書きとめてみるか、

汗の匂いと愛の香りふくよかに漂う

送られてきた学費封筒を受け取り

大学ノートを小脇に

老教授の講義を聴きにゆく。

かえりみれば 幼友達を

ひとり、ふたり、とみな失い

わたしはなにを願い

ただひとり思いしずむのか?

人生は生きがたいものなのに

詩がこう たやすく書けるのは

恥ずかしいことだ。

六畳部屋は他人の国

窓辺に夜の雨がささやいているが、

灯火をつけて 暗闇をすこし追いやり、

時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし、

わたしはわたしに小さな手をさしのべ

涙と慰めで握る最初の握手。

◆空と風と星と詩 序詩  (19411120日)

(伊吹郷訳)

死ぬ日まで空を仰ぎ

一点の恥辱なきことを、

葉あいにそよぐ風にも

わたしは心痛んだ。

星をうたう心で

生きとし生けるものをいとおしまねば

そしてわたしに与えられた道を

歩みゆかねば。

今宵も星が風に吹き晒らされる。

◆◆ユン・ドンジュ略年表

(ユン・ドンジュ追悼会で配布された小冊子より抜粋)

1910年 日本の韓国「併合」。朝鮮半島の植民地化。

1917年(大正6年) 1230日 中国東北部(満州)間島省和龍県明東村に長男として生まれる。(注:現在の中国延辺朝鮮族自治区)

1925年(大正14年) 治安維持法制定(41年に改正され、重罰化)

1931年 満州事変。関東軍による中国東北部(満州)の占領へ。

19323月 傀儡国家満州国誕生。

1935年(昭和10年)9月 平壌の崇実中学に編入学

19363月 神社参拝拒否で崇実中が自主廃校となり故郷の中学に編入。

1938年 ソウルの延禧専門学校(現・延世大学)に入学。いとこの宋夢奎(ソン・モンギュ)と寄宿舎に入る。

1940211日 朝鮮総督府の制令により「創氏改名」が施行される。創氏改名に抗議し投身自殺した人も出る。

1941年 延禧専門学校卒業。手書きの朝鮮語による詩集「空と風と星と詩」を3部作り、恩師と親友に贈る。日本に渡る前に尹を「平沼」と創氏。平沼東柱を名乗った。いとこは宋村と創氏し、宋村夢奎と名乗る。

19422月ごろに渡日。立教大学文学部英文科に選科生として入学。10月には同志社大学文化学科英文学専攻に選科生として編入。いとこの宋村は京大史学科選科に入学。

1943714日 治安維持法違反の嫌疑で逮捕される。いとこの宋村も逮捕。

1944年 裁判の結果、2年の刑が確定し福岡刑務所に収攬される。

1945216日 福岡刑務所で獄死。36日に故郷に埋葬される。いとこの宋村は310日に獄死。

1948年 韓国で詩集「空と風と星と詩」が刊行される。

1984年 尹東柱全詩集「空と風と星と詩」(伊吹郷訳、記録社)が刊行される。

1995年 没後50年 延世大学で50周年追悼会開催。同志社大に「序詩」の碑が建立される。韓国KBSNHKが共同で「空と風と星と詩~尹東柱・日本統治下の青春と死」を制作し、放映する。

◆◆尹東柱(ユンドンジュ)どこからきて、どこへゆく

2017914日朝日新聞

天ケ瀬吊橋=京都府宇治市

 木々の葉、そして川面、濃淡さまざまな緑が風に揺れていた。なるほどハイキングには申し分ない。京都府宇治市の山あい、宇治川の両岸を結ぶ天ケ瀬吊橋(つりばし)を歩く。

 尹東柱(ユンドンジュ)がこの吊橋を渡った時、風は吹いただろうか。1945年2月、日本敗戦の半年前に福岡刑務所で獄死した詩人である。27歳だった。逮捕されたのは留学生として過ごしていた京都で、容疑は治安維持法違反――独立運動に関わったとされた。

 逮捕の2カ月ほど前、尹東柱は同志社大学の学友たちと宇治川にハイキングに来ている。この橋で仲間に囲まれた写真が、確認されている生前最後の一枚となった。

 生誕100年を迎え、この10月には詩を刻んだ「記憶と和解の碑」が吊橋に程近い川沿いに建つ。立命館大学名誉教授の安斎育郎(77)を代表に、建立委員会が実現に努めてきた。日韓交流に役立てたい、過去に誠実に向き合うことが大切だと安斎は言う。

 「人が生きる上で一番重要な価値は『自由』だと私は思っている。それを尹東柱は決定的に奪われた」

 韓国では国民的詩人として名高い。朝鮮人が移住していた中国東北部の村に生まれ、クリスチャンの家で育った。ソウルの延禧(ヨンヒ)専門学校(現・延世〈ヨンセ〉大学)を卒業して日本に留学し、立教大学、続いて同志社大学に通う。朝鮮は日本の支配下で、中国東北部が日本の傀儡(かいらい)国家「満州国」となった時代を尹東柱は生きた。

 早くから文学を志し、詩を書いている。日本留学時代の詩は、立教大学にいた頃の5編しか残されていない。詩集刊行が果たされたのは戦後――理不尽な死の後だった。

 「空と風と星と詩」と題された詩集で、最も広く知られた「序詩」は同志社大学の詩碑にもハングルの原詩と共に刻まれている。

 〈死ぬ日まで空を仰ぎ/一点の恥辱(はじ)なきことを、/葉あいにそよぐ風にも/わたしは心痛んだ。/星をうたう心で/生きとし生けるものをいとおしまねば/そしてわたしに与えられた道を/歩みゆかねば。/今宵(こよい)も星が風に吹き晒(さ)らされる。〉(伊吹郷訳)

 「風が吹いて」という一編は〈風がどこからきて/どこへゆくのか、/風が吹いているが/おれの苦悩(くるしみ)には理由(わけ)がない。〉(同)と始まる。

 尹東柱の詩は時代背景と切り離せない。だが、そこにとどまるものでもない。

 作家の多胡吉郎(61)は尹東柱の詩に魅せられ、長年その足跡を追ってきた。「最後の一枚」を発見したのも多胡である。NHKディレクターとして日韓共同で番組を制作した時のことだった。熱意と熟慮の探究は著書「生命(いのち)の詩人・尹東柱」に詳しい。

 「あの若さで、怒り、悲しみ、苦しみ、全て自分の内深くに一度ため、言葉を紡ぎ出している。他者を非難するような一行がどこにもない」。その大きさ、民族も国も超えた「輝ける魂」にひかれてやまないと多胡は語った。

 越境者の旅は、日本で断ち切られた。風のように自由であったなら――あり得たはずの詩(うた)を思う。=敬称略(文と写真・福田宏樹)

◆◆心やさしい若者の獄中死

赤旗18.05.28

◆◆(問う「共謀罪」)語れば罪、獄死詩人に光 戦時下留学の尹東柱、映画に

朝日新聞17.05.24

 「共謀罪」法案は「内心の処罰」との批判もある。言論や思想の自由が制約されると、どうなるのか。今夏、東京と大阪で公開される韓国映画は、治安維持法を切り口に問いかける。

 「空と風と星の詩人~尹東柱(ユンドンジュ)の生涯~」(110分)。植民地下の朝鮮半島から日本に留学中、友人らと朝鮮の独立を語り合ったとして治安維持法違反の罪で投獄され、27歳で獄死した詩人、尹東柱の人生に迫ったモノクロ映画だ。

 治安維持法は1925年に成立した当初、「国体」の変革を目的とする結社を禁じていた。だが、28年の改正で「目的遂行罪」が追加された。結社をつくる目的のために集ったり、語ったりしたとみなされれば、取り締まりの対象になった。尹に適用されたのも、この条項だった。

 尹は42年、「平沼東柱」という名前で立教大に入学。転入した同志社大に在籍中、中国で朝鮮の独立運動にかかわった幼なじみたちと下宿先などで語り合い、朝鮮文化や民族意識の高揚を図ったなどとして44年3月、京都地裁から懲役2年の有罪判決を受けた。確定後、福岡刑務所で翌45年2月、亡くなった。

 「共謀罪」法案も、犯罪の計画や準備行為を処罰する内容。尹の詩碑がある同志社大のコリア研究センター長、太田修教授(日朝関係史)は「治安維持法によく似た法案が議論されている今、ただ集まって、話をしただけで処罰された尹東柱を検証し、教訓とする意義は大きい」と指摘する。

 イ・ジュンイク監督は「尹は、日本の軍国主義に非暴力で抵抗した。その価値観、世界観が人類に正しい方向を示してくれる」という。映画は、東京都新宿区のシネマート新宿(03・5369・2831)で7月22日から公開される。

 (岡本玄)

(映画の一場面。治安維持法違反の罪に問われ、取り調べを受ける尹(左))

◆◆韓国の詩人・尹東柱(ユンドンジュ)生誕100年=映画「空と風と星の詩人ー尹東柱の生涯」

(赤旗日曜版17.07.23

◆早世の詩人=尹東柱(ユンドンジュ)

15.02.10朝日新聞

生前1冊の詩集も出せなかった若き詩人が、没後70年の今なお、多くの人をひきつけている。

 終戦まで半年という1945年2月、27歳で獄死した詩人、尹東柱(ユンドンジュ)。同志社大学在学中、思想犯として治安維持法違反の疑いで捕まった。

 日本からの独立運動に関わったという嫌疑をかけられた。特別高等警察(特高)に目を付けられたのは、運動歴のあった幼なじみと親しかったためだった。

 在日コリアンの詩人、金時鐘(キムシジョン)(86)は「尹東柱の詩に政治的な内容はない。時節に同調しない詩を、朝鮮語で書き続けたことが、すぐれて政治的だった」。ハングルで書くこと自体が危険視された時代だった。

 同志社大学の今出川キャンパスには、尹の詩碑がある。自筆のハングルと、日本語訳が刻まれている。

死ぬ日まで空を仰ぎ

一点の恥辱(はじ)なきことを、

葉あいにそよぐ風にも

わたしは心痛んだ。

星をうたう心で

生きとし生けるものをいとおしまねば

そしてわたしに与えられた道を

歩みゆかねば。

今宵(こよい)も星が風に吹き晒(さ)らされる。

 41年作の、最も有名な一編「序詩」だ。詩集の巻頭につける予定だった。間もなく太平洋戦争が勃発。出版は断念せざるを得なかった。

 「二十代でなければ絶対に書けないその清冽(せいれつ)な詩風」。そう紹介した、詩人・茨木のり子の文章は、日本の高校教科書にも掲載された。

 この詩碑が建ったのは20年前、50周忌の年。同大出身の在日コリアンらが働きかけた。南北双方で敬愛される詩人。「ワンコリア」の同窓会設立のきっかけになった。大学側は「尹東柱の詩の言葉は、まさに創立者・新島襄の良心教育の願いに呼応している」と、応じた。

 若者らしい純粋さがまぶしい尹の言葉はしかし、見方を変えると違った意味が立ち現れる。

 「生きとし生けるもの」は、原詩を直訳すると、「すべての死にゆくもの」だ。その一つは、当時の日本の植民地政策の中で失われゆく母語ではなかったか。実際、「朝鮮語の印刷物がこれから消えていくから、何でも買い集めよ」と、弟妹に頼むほど、危機感を持っていたという。

 今、韓国から尹の詩碑を訪ねる旅行者が後を絶たない。修学旅行生だけで年間約1万人が訪れ、個人旅行で立ち寄る若者も多い。

 「尹東柱評伝」の翻訳者で詩人の愛沢革(あいざわかく)(65)は「尹の詩は、自分がどう生きるべきかを問い続ける道だ。やさしい言葉で、後世の読者を励ましている」と言う。(成川彩)

◆◆尹東柱、悲運の生涯をたどる 韓国の詩人、生誕100年 多胡吉郎さん著作

20175101630

多胡吉郎さん

 第2次大戦中に留学先の日本で治安維持法違反の罪に問われ、27歳で獄死した韓国の国民的詩人、尹東柱(ユンドンジュ)。生誕100年を迎え、元NHKディレクターで作家の多胡吉郎(たごきちろう)さんが『生命(いのち)の詩人・尹東柱』(影書房)を出版した。

 尹は、植民地時代の朝鮮から1942年に留学し、立教大学や同志社大学で学んだ。学校など公の場所で日本語が強制されるなか、ハングルで詩を書き、死後、韓国で高く評価された。

 詩は日本語にも訳され、詩人の故茨木のり子さんがエッセーで紹介するなど日本人のファンも少なくない。母校の立教大学では卒業生らが毎年、2月16日の命日の頃に追悼の会を開き、福岡や京都でも市民らが集う。

 多胡さんは95年に韓国放送公社(KBS)と尹のドキュメンタリーを共同制作。尹の研究がライフワークとなった。著書ではこれまでに集めた資料、インタビュー記録などを整理し、尹と日本の関わりを中心にまとめた。

 韓国では尹は日本の支配に抵抗し、悲運の死を遂げた英雄として描かれるが、多胡さんは事実の究明にこだわった。ハングルで詩を書いたことが罪とされた、と言われることもあるが、「特高月報」や判決文などに言及はないという。

 刑務所で人体実験のために謎の注射を打たれて死んだとの説も広がる。多胡さんは、関係者の証言などを詳細に検討。栄養失調や結核の可能性もあり、「真相は謎」と結論づけた。

 多胡さんの当初の尹への関心は、その生涯を通して隣国の人の痛みを知る、というものだった。韓国語を勉強し、やがて詩を通して尹の清らかな心にひかれていった。「詩は私の20代の頃の純粋な魂を呼び覚ましてくれる。人生にとってかけがえのない宝となりました」と語る。(桜井泉)

◆尹東柱の願い

(赤旗17.05.29

◆◆韓国の「尹東柱文学館」を訪ねて

(赤旗17.03.21

◆◆荻野富士夫=3.15共産党弾圧事件90

赤旗18.03.14

◆◆長女「歴史繰り返すのか」 治安維持法で検挙、学者の裁判記録

2017628日朝日新聞(問う「共謀罪」)

新村猛氏

 「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織的犯罪処罰法が7月11日に施行される。国会では治安維持法との類似が議論されたが、同法で検挙された研究者の遺族は、当時の裁判記録をたどって、「共謀罪」拡大適用に警鐘を鳴らす。

 名古屋大学名誉教授だった故・新村猛(しんむらたけし)氏の名古屋市の自宅で2014年秋、ぶ厚いつづりなどが見つかった。治安維持法で摘発されたときの予審調書や弁護資料。発見した長女の原夏子さん(83)は「記録が残っているなんて」と驚いた。猛氏はこの事件で職を失ったため、釈放後は父・出(いづる)氏の辞典編集を手伝い、戦後、「広辞苑」を送り出した。

 同志社大学予科の教授だった猛氏は1937年11月8日朝、京都市の自宅から警察署に連行された。研究者仲間と雑誌「世界文化」で反ファシズム運動を紹介していた。非合法だった共産党とは関係ないので、治安維持法で検挙されるとは思わなかったという。

 1925年成立の治安維持法は28年の改定で結社に参加していなくても「目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」も罪とした(目的遂行罪)。あいまいな規定で拡大適用されていった。

 猛氏も「目的遂行罪」にあたるとされ、39年夏、京都地裁で、懲役3年執行猶予5年が言い渡された。だが、今回見つかった弁護士の接見メモには罪を否定する言葉が並んでいた。〈意図ハ全部アトヨリ附(つけ)加エラレタルモノニシテ其(その)当時存在シタルモノニアラズ〉

 夏子さんは、今国会の採決強行に憤り、「歴史を繰り返すのか」と案じる。父は「共産党拡大のため」という意図がでっちあげなのに執筆や会議を手がかりに処罰された。「電話やメールなど手がかりがたくさん残る今はもっと怖い」

 猛氏の次男恭(やすし)さん(70)=横浜市=は、「共謀罪」の「犯罪集団に不正権益を得させるなどの目的で犯行を計画した者を処罰する」とする規定と、目的遂行罪が似ていることが気がかりだ。「恣意(しい)的に拡大解釈される危険がある。自由な研究が阻害されないか」

 参院法務委員会の議論で、法務省刑事局長は「組織的犯罪集団の構成員でない者」も処罰対象となることを認めた。「共謀罪」に反対する山下幸夫弁護士は「どんな団体や個人にも適用される可能性があり、政府の方針に反対する者が処罰されうるという点で、治安維持法と果たす機能は似たもの」と話す。「ただ、萎縮しないことも大切だ」(河原理子)

 <新村猛(しんむら・たけし)> 1905~92年。フランス文学者、名古屋大学名誉教授。父で言語学者の新村出(いづる)を手伝って「広辞苑」(初版55年、岩波書店)を編み、第4版まで改訂にあたった。平和運動に積極的にかかわり、原水爆禁止運動の統一に尽力した。

🔴◆◆〈徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢に満つるとも〉の短歌にこめられた女性の思い 

(新聞と9条)女たちは書いてきた44

2016126日朝日新聞

短歌を通して護憲や平和を訴えた石井百代さん=1978年ごろ、遺族提供

 2016年、東京・世田谷文学館に中野重治が戦時下に発表した小説などの肉筆原稿が展示された。治安維持法違反で2年あまり拘禁され、出獄後に書いた「転向5部作」の一部。寄贈者は筑摩書房で中野の担当編集者だった故・石井立(たつ)の遺族だ。

 立の母・石井百代(1903~82)は78年9月18日の朝日歌壇への投稿で一躍有名になった。

 〈徴兵は命かけても阻むべし母・祖母・おみな牢に満つるとも〉

 四女の井村マリ子(83)は「徴兵反対とは言うだけで思想犯に問われ、牢に入れられるという実感を持つ、母の世代ならではの歌」とみる。

 百代の長男・立は京都帝大在学中に学徒動員の対象になり、入隊検査で肺浸潤が見つかった。休学、療養している間に、学友の多くが戦死した。次男の和夫(89)は陸軍予科士官学校に在学中に朝鮮半島へ。終戦時、18歳だった。百代は〈兄や妹の夫も戦死し、甥(おい)と従兄弟(いとこ)二人も死に……次女の夫は原爆死〉と記録している。

 夫・正は耳鼻科医院を開業していたが、48歳で軍医にとられ、戦後は戦争責任を問われて、公職追放になった。立はそんな正を誘って哲学書の翻訳を始めた。中野をはじめ、戦時中に思想弾圧を受けた作家とも交流し、「友の死の上に築かれた平和を守り抜かねば」と百代に説いた。

 百代はその切実さに打たれ、半面「お国のため。仕方がない」と息子たちを差し出した自分を恥じた。立が40歳で亡くなると、恥の思いは一層強くなった。

 投稿した短歌には「有事立法を聞いて」と添え書きした。前年の77年に福田赳夫首相が防衛庁長官に有事立法の研究を指示。百代は女性たちの勉強会でそれを知り、詠んだ。井村は言う。「感覚的に迫るものがあったのでしょう。有事立法は徴兵につながる。体を張って止めなければ、と」

 短歌は週刊誌で作家の瀬戸内寂聴が取り上げ、平和集会のビラやプラカードにさかんに引用された。「祖母」を「妻」と詠み替える人があっても、百代は「いいじゃないの、詠み人知らずの歌みたいで」とおおらかだったという。

 歌への反響が続いていた79年正月に、百代が書いた歌稿が残っている。

 〈憲法を画餅(がべい)にすなと言いし子の遺影に祈る母に力を〉(阿久沢悦子)

◆◆共謀罪・治安維持法・鶴彬=今はまだ岸辺漂う笹舟が 編集委員・福島申二

(鶴彬については、当ブログ=鶴彬・反戦川柳を参照のことhttp://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/9709845.html?p=2

朝日新聞17.05.28

 江戸の川柳に〈足おとで二ツに割れるかげぼうし〉というのがある。

 うまいなあと思う。恋仲のふたり、月夜の逢(あ)い引きだろうか。人目を忍んで寄り添うところへ誰かの足音が聞こえ、はじかれたように体を離す。

 しかし別の解釈もあるなとふと思ったのは、いわゆる「共謀罪」法案からの連想だ。2人は実は、何かあやしいひそひそ話をしていたのかもしれない。そこへ人の気配を感じて――。つまり、そうしたことだけで「ご用」となりかねない危うさを、この法案ははらんでいる。

 川柳を持ち出したのは当方といささか縁があるからで、本紙「朝日川柳」の選者を週に1回務めている。日々1500前後の投句を頂戴(ちょうだい)するから、選外の句にも捨てがたいものがある。最近多かった共謀罪がらみの句から紹介すると。

  私までは及ばぬものと共謀罪

  観劇にオペラグラスも憚(はばか)られ

  党内に治安維持法あるような

  思い出しておくれと多喜二鶴彬(つるあきら)

 一句目は、自分は関係ないと思っていても、いつ「一般人」ではなくなるかも知れない法案の本質をうがつ。二句目は法務大臣の「花見かテロの下見か」の珍答弁を風刺する。三句目は、安倍色に染まって内部から異論も反対も出ない「自由民主」党を痛烈に皮肉っている。

 そして四句目。戦前の社会を締め上げた治安維持法の犠牲になった作家小林多喜二と川柳人の鶴彬の名には、忘れてはならない歴史の教訓が張りついている。

     *

 鶴彬の本名は喜多一二(かつじ)といい、小林多喜二に字面が似ているのは不思議な因縁だ。カーキ色の時代に立ち向かうように川柳を作り、29歳で獄死した生涯は、有志の寄付などで映画にもなり、作品も知られるようになってきた。

  屍(かばね)のゐないニュース映画で勇ましい

  銃剣で奪った美田の移民村

  初恋を残して村を売り出され

 二句目は旧満州への開拓入植、三句目は娘の身売りである。「日本に向かって『この道を行くべからず』と叫び続けた人だった」と、映画を作った神山征二郎監督からお聞きしたことがある。

 戦前の治安維持法は、成立すると可能な限り拡大解釈された。解釈が限界を超すと改悪が図られた。「不当に範囲を拡張して無辜(むこ)の民にまでは及ぼさない」と言って生まれた法がおそるべき怪物と化していく中で、おびただしい理不尽と悲劇が起き、戦争で国は破滅した。

 「はじめにおわりがある。抵抗するなら最初に抵抗せよ」と朝日新聞の大先輩で反骨のジャーナリストだった故・むのたけじ氏は言っていた。真を射る言葉は苦い昭和の体験に根ざしている。

 今の共謀罪をただちに治安維持法の再来とは言えないだろうし、当時とは司法や社会のありようも違う。とはいえ相似形は疑いようがない。泳げぬ者が海に落ちたような大臣答弁のしどろもどろこそが、この法案がいかに曖昧(あいまい)で、恣意的(しいてき)に拡大解釈されうるかを物語っている。

 犯罪者を捕らえるというより、捕らえたい者を犯罪者にする道具になりかねない。「テロ」「五輪」と反論を封じやすい語に包まれて、危うい卵は参議院に送られ、産み落とされようとしている。

     *

 笹舟(ささぶね)を岸辺から浮かべると、しばらくはくるくる漂っているが、ひとたび川の流れに乗ると一気に下っていく。

 今の政権になって、特定秘密保護法や集団的自衛権を含む安保法が相次いで成立した。今度は共謀罪、さらに3年後の憲法改変の旗を揚げ、政権は自らの望む「国のかたち」への作り替えを急ぐ。

 「平和安全法制(安保法)の時、戦争法案って言われた。特定秘密保護法が成立する時、自由がなくなると言われた。2年経って、何も変わらない」と菅官房長官が先日語ったそうだ。

 すぐ目に見えて変わるものなら分かりやすい。本当に怖いのは、共謀罪にしても、確かな自覚症状のないままにこの国を深いところから蝕(むしば)んでいくことだ。

 いまはまだ岸辺を漂っている日本という笹舟が、あるとき一気に戻れぬ流れに乗ってしまわないか。不安は膨らむ。

───────────────────────────

🔵宮澤・レーン事件

──────────────────────────

◆◆Wiki=宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件

宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件(みやざわひろゆき・レーンふさい ぐんきほごほういはんいはんえんざいじけん)は、1941年に発生した軍機保護法違反罪の冤罪事件。宮澤・レーン事件と通称される。

宮澤弘幸(1919年、東京府代々幡町代々木初台生まれ)は北海道帝国大学工学部電気工学科の学生であったが、1941128日、太平洋戦争の開戦をラジオで知ると、同学のアメリカ人英語教師であるハロルド・レーン、ポーリン・レーン夫妻宅に駆けつけた。その際に偶然眼にした根室第一飛行場のことを夫妻に対して話したとの廉(かど)で、またレーン夫妻はこの伝聞を駐日アメリカ大使館駐在武官に伝えたとの廉(かど)で、事前に張り込んでいた特高警察によりそれぞれ敵国のスパイとして逮捕された。

19421216日(宮澤)・同月14日・21日(レーン夫妻)に1審の札幌地方裁判所で軍機保護法違反の罪に当たるとして宮澤とハロルドに懲役15年、ポーリンに懲役12年の有罪判決を受け、194355日~611日に大審院でいずれも上告棄却判決を受けた。

なお当該飛行場の存在は事件前に報道されており公知の事実であった。宮澤は逮捕後、特高警察によって拷問と取調べを受けた。宮澤は北大が学生を勤労奉仕として送り込んだ樺太の「工事隊」にも参加しており、一審判決ではこれも「大日本帝国の軍事機密の探知」と認定した。

宮澤は網走刑務所・宮城刑務所に服役し、栄養失調と結核を患った。終戦後の19451010日に釈放されたものの、1947222日に結核がもとで死去した(27歳没)。レーン夫妻は19439月に交換船で帰米し、終戦後の1951年に北大に復帰した(ハロルドは1963年、ポーリンは1966年に札幌で死去)。

参考文献

上田誠吉『人間の絆を求めて』花伝社、1988

上田誠吉『ある北大生の受難』花伝社、2013

★レーン・宮沢事件風化させない 保護法廃止、命日に訴え 追悼集会(2014/02/22)北海道新聞3nm

◆田村=宮澤・レーン事件とは

http://tamutamu2014.web.fc2.com/miyazawajikenn.htm

◆逸見勝亮 宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件再考 : 北海道大学所蔵史料を中心に 北海道大学大学文書館年報 20103PDF25p

クリックしてARHUA5_006.pdfにアクセス

◆宮澤・レーン事件広める会

http://miyazawa-lane.com

DVDレーン・宮澤事件紹介

http://vpress.la.coocan.jp/miyazawa.html

◆リーフレット=宮澤・レーン事件

http://www.liveinpeace925.com/pamphlet/leaf_miyazawa_lane2.htm

◆◆マンガでみる宮澤・レーン事件

クリックしてleaf_miyazawa_lane.pdfにアクセス

◆山本玉樹=宮澤・レーン事件の教訓をいま

赤旗17.05.28

───────────────────────────

🔵1945年 哲学者・三木清の獄死 「共謀罪」に重なる治安維持法

───────────────────────────

★★100de名著=三木清・人生論ノート

https://m.youtube.com/watch?v=oRXn0zV8IoU

https://m.youtube.com/watch?v=ZVWnVoRS74Q

https://m.youtube.com/watch?v=m9Aef73y51E

https://m.youtube.com/watch?v=8X7ztcokEVA

◆青空文庫・三木清著作

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person218.html

◆青空文庫・三木清=人生論ノート

http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html

 (昭和20年)

 「『共謀罪』が無くても、テロ犯は取り締まれます」

 日本弁護士連合会の共謀罪法案対策本部事務局長、山下幸夫弁護士(54)は、3月に横浜市であった神奈川県弁護士会主催の講演会で、聴衆約160人を前に語った。

 爆発物、化学兵器、ウイルスなどテロ準備が対象の法律はすでにある。国会で審議中の「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織的犯罪処罰法改正案は、「準備行為」が拡大解釈されれば犯罪と無関係の市民を監視し、政府と異なる意見表明を脅かす可能性がある。「社会を一つの方向に導く現代版の『治安維持法』です」と山下弁護士は述べる。

     *

 1925年に制定された治安維持法は、国体の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社やその加入を禁止し、思想運動や大衆運動を弾圧した。45年10月4日の連合国軍総司令部(GHQ)の「人権指令」で廃止された。

 指令8日前の9月26日、「人生論ノート」などで知られる哲学者の三木清は、東京の豊多摩拘置所の独房で、寝台から落ちて亡くなっているのが発見された。朝日新聞は「治安維持法等の容疑により拘引されたものと云(い)はれてゐる」「(三木の)獄死事件は(中略)思想警察への強い反発として多くの反響を呼んでゐる」と伝えた。

 三木の研究者で和歌山大名誉教授の永野基綱(もとつな)さん(80)によると、三木は2度、警察に検挙されている。最初は30年。知人に「頼まれて出した金」が共産党への運動資金だったため、治安維持法違反の罪で懲役1年執行猶予2年の有罪判決を受けた。法政大教授の職も失った。45年には疎開先の埼玉で、治安維持法関連で特高警察にマークされていた昔の友人を一晩泊め、金銭と服を提供。これが獄死につながる検挙となった。

 共産党員ではなく、首相を務めた近衛文麿の政策研究会の一員だった三木が検挙された背景を、研究者の永野さんは「三木は歴史と社会の中で生きる人間が直面する非人間的な問題を批判した。いわば行動的なヒューマニズムを貫いたからだ」と解説する。

(1925年2月、治安維持法に反対して、労働団体などがデモ行進した=東京・芝)

 一方、治安維持法や特高警察について研究する小樽商科大の荻野富士夫・特任教授(64)=日本近現代史=は「治安維持法の目的遂行罪による解釈の拡大がなければ、三木は獄死することはなかった」と話す。目的遂行罪は、28年の改正で、最高刑を死刑に引き上げるのとともに導入された。潜伏の手助けやカンパ、出版物配布の援助などが対象とされ、行為が目的遂行罪に当たるかは、本人の意図の有無ではなく、特高警察や思想検事の判断だった。

     *

 当初のターゲットだった共産党員だけでなく、宗教団体や自由主義・民主主義者へと取り締まりは広がった。太平洋戦争直前の41年の改正では再犯のおそれを理由に拘禁を続ける予防拘禁制が取り入れられた。警察の統計では治安維持法違反による検挙者は約7万人。しかし荻野さんは「思想事件」の検挙者は数倍だとみる。令状を読み上げられることもなく、罪名がわからないまま取り調べられ、「違反する」運動にかかわらぬように警告後、釈放されるケースも多かったという。

 九州地方の男性(91)も44年9月17日朝、突然、下宿から刑事に連行された。「戦死者は靖国神社に合祀(ごうし)するのではなく、キリスト教徒らの遺族の意思を尊重すべきだ」と書いた文集が検閲に引っかかったらしい。刑事に殴られる取り調べが1週間続き、釈放された。「治安維持法違反の検挙だと思っている。自由に発言できない時代が再び来ないことを願っている」

 荻野さんは「治安維持法を歴史的事項にとどめるのではなく、現代への教訓と考え、人権を脅かす法には声を上げ続けるしかない」と語る。(平出義明)

◆社会のあり方、考え続ける 「三木清研究会」事務局長・室井美千博さん(67)

 1999年に発足した三木清研究会は、彼の郷里である、現在の兵庫県たつの市を中心とした会員が講演会や研究発表、「人生論ノート」の読書会をおこなっています。私は、三木が卒業した旧制兵庫県立龍野中学(現龍野高校)の後輩だったこともあって、高校時代から三木の著作にふれてきました。

 「人生論ノート」は戦時色が濃い38年に文芸誌「文学界」で始まった連載をまとめ、太平洋戦争が始まる41年に刊行されました。その一編「幸福について」にある「幸福の要求が今日の良心として復権されねばならぬ」という言葉は、ファシズムの時代への批判であるとともに、現代にもあてはまります。

 「中央公論」の36年の論文「日本的性格とファシズム」では「単なる役割における人間はなほ真の人間ではなく、いわば偽善者即(すなわ)ち仮面を被(かぶ)つた人間である。真の人格はそのような役割を脱ぎ棄(す)てて裸の人間になつた時にあらわれる」といい、真の人格を認めない全体主義はファシズムでありヒューマニズムに対立すると述べています。

 三木は穏健な思想の持ち主です。その彼を獄死させた社会のあり方には憤りを感じます。三木は自ら考えることの重要さを訴えています。「今」がどのような時代か、一人ひとり問い続けることが大事だと思います。

◆治安維持法の関連年表

<1925年>

 治安維持法制定

<28年>

 共産党員の大量検挙(3・15事件)

 治安維持法改正で最高刑が死刑になり、結社員だけでなく結社と関係する者(シンパ)も取り締まりの対象に

<30年>

 三木清が共産党への資金提供容疑で検挙される

<31年>

 満州事変

<33年>

 作家の小林多喜二が特高警察による拷問で死亡

<37年>

 日中戦争始まる

<38年>

 国家総動員法制定

<41年>

 予防拘禁制の導入と罰則強化を盛り込む治安維持法の改正(3月)

 太平洋戦争始まる(12月)

<42年>

 神奈川県特高警察が共産党再建謀議の容疑で言論・出版関係者らを逮捕。拷問で4人が獄死。「中央公論」「改造」が廃刊させられた(横浜事件)

<45年>

 三木清検挙

 終戦(8月)

 三木清が獄死

 GHQの「人権指令」

───────────────────────────

🔵長野・戦前の「2・4事件

600人の青年教師たちを治安維持法違反で検挙(赤旗17.05.06)

────────────────────────────

Wiki=二・四事件

二・四事件(にいよんじけん)は、193324日から半年あまりの間に、長野県で多数の学校教員などが治安維持法違反として検挙された事件。弾圧の対象となったのは、県内の日本共産党、日本共産青年同盟、日本プロレタリア文化連盟関係団体や、労働組合、農民組合など広範囲に及んだが、特に日本労働組合全国協議会(全協)や新興教育同盟準備会の傘下にあった教員組合員への弾圧は大規模で、全検挙者608名のうち230名が教員であった。このため、この事件は「教員赤化事件」、「左翼教員事件」などとも呼称された。

4月までに検挙された教員のうち28名が起訴され、このうち13名が有罪となって服役した。また、検挙された教員のうち、115名が何らかの行政処分を受け、懲戒免職や諭旨退職によって教壇から追われた者も33名にのぼった。

この事件を契機に、全国各地で同様の弾圧が行なわれ、193312月までに岩手県、福島県、香川県、群馬県、茨城県、福岡県、青森県、兵庫県、熊本県、沖縄県で多数の教員が検挙され、「教員赤化事件」ないし「赤化教員事件」は、長野県の事件に限定せず、全国における一連の事件を指す総称として用いられるようになった。

もともと長野県では、大正時代から白樺派などの影響を受けた自由主義教育が盛んであったが、1930年代に入ると、そのような伝統の上に、左翼的教育運動である新興教育運動が広がりを見せるようになった。1931年秋には新興教育研究所(新教)の支部が伊那と諏訪に設けられ、19322月には、日本労働組合全国協議会(全協)傘下の日本一般使用人組合教育労働部長野支部が結成されたのを機に、新教の2支部は統合されて長野支部となった。

百数十名の教員を組織したこの運動は、教育理念や教材について、例えば、アララギ派、三沢勝衛、木村素衛などを俎上に載せた組織的批判活動を展開し、組合員ではない教員にも影響を及ぼすようになっていった。新興教育運動は、マルクス主義ないし弁証法的史的唯物論を掲げた左翼運動であったが、細野武男の回想によれば「さるかに合戦一つを説明するのでも階級闘争やと言って説明」するようなものであったという。

二・四事件で弾圧された教員の多くは、子どもたちや父母を始め、周囲から信頼されていた優れた教員であった。このため、例えば、7名が逮捕された木曽地区の中心人物であった日義村の日義小学校の名取簡夫(なとり ふみお)が検挙された後、名取を慕っていた生徒たちの間に「同盟休校」を行い、警察書に出向いて名取の解放を求めようとする動きなども起こったという。

しかし、二・四事件の弾圧によって、長野県の教育は、新興教育のみならず自由主義的伝統も失われ、満蒙開拓青少年義勇軍の大規模な送り出しに象徴される戦争協力体制への著しい傾斜を見せることになった。

◆新興教育運動と 「二・四事件」 (長野県教員 赤化事件) の社会的意義PDF28p

柿沼肇

───────────────────────────

🔵「生活図画教育」事件とは?=戦前の北海道での治安維持法弾圧事件

───────────────────────────

★★生活図画事件=松本さん・菱谷さん表現の自由が弾圧された当時の様子を語りました。(15/08/19)6m

赤旗19.05.20

https://m.youtube.com/watch?v=lHcNu8J5UU8

★★1600915 伝える、伝わる~生活図画事件の証言~ (TVF2016応募作品)20m

https://m.youtube.com/watch?v=WNumEC916uM

★★生活図画事件を体験した美術教師松本五郎

(きかんし)90m

★★2014 09 21 生活図画事件講演会

事件の概略33m

本編43m

質疑36m

🔷🔷日常を絵にしただけなのに=治安維持法被害者語る 赤旗日曜版19.07.28

◆◆Q&A「生活図画教育」事件

2008510()「しんぶん赤旗」

 (北海道・一読者)

〈答え〉 生活図画教育とは、1932~40年、北海道旭川師範学校・熊田満佐吾、旭川中学校・上野成之両教師とその教え子たちが実践した美術教育です。

 それは、教え子たちに、身の回りの生活を見つめさせ、題材を選び、自らと現実の生活をより良く変革することをめざす絵の教育でした。しかし、戦争を推し進める国家権力はこうした教育さえ許さず、41年北海道綴方(つづりかた)教育連盟への弾圧に次いでこれらの教師たちを弾圧しました。これが「生活図画事件」といわれるものです。

 熊田は「リアリズムの図画を通してその時代の現実を正しく反映させなければならない」として「美術とは何か」「美術は人間に何をもたらすか」を学生に討論させ、工場などで働く人びとを描かせました。

 上野は、31~35年に続いた大凶作の現実に生徒の目を向けさせ、「凶作地の人たちを救おう」「欠食児童に学用品を送ろう」をテーマに美術部員にポスターを共同制作させました。ポスター「スペイン動乱は何をもたらしたか」の制作では「戦争という現実を考え直してみる目を要求した」と後年、語っています。

 これらの実践は、32年旭川中等学校美術連盟の組織へと発展、卒業生は「北風画会」を結成し毎年、旭川市内で展覧会を開き、市民に親しまれました。

 教師となった卒業生は、生活図画教育のみならず、生活綴方にも取り組み、アイヌ差別やいじめの解決、地域青年団の活動など、戦後民主教育の先駆ともいえる実践をしました。

 41年1月北海道綴方教育連盟の教師53人とともに熊田は検挙されました。師範学校は美術部員を取り調べ、卒業直前に5年生5人を留年・思想善導、1人を放校にします。9月、特高は留年の5人を含む熊田の教え子(国民学校教師)21人、上野と教え子3人を検挙します。軍隊に入隊または入隊直前3人(判明分)は、後に憲兵に取り調べを受け、1人が虐待で亡くなっています。

 裁判では、稲刈り途中で腰を伸ばした農婦を描いた「凶作地の人たちを救おう」のポスターについて、「地主ト凶作ノ桎梏(しっこく)ニ喘(あえ)グ農民ヲ資本主義社会機構ヨリ解放セントスル階級思想ヲ啓蒙スルモノ」として処断し、これらの絵を総括して「プロレタリアートによる社会変革に必要な階級的感情及意欲を培養し昂揚する為の絵画である」(旭川区裁堀口検事)と断定。治安維持法目的遂行罪として熊田を3年半、上野、本間勝四郎を2年半の実刑に、12人を執行猶予付の有罪としました。生活綴方と並んで戦前民主教育の一つの峰ともいえる生活図画教育を弾圧した80日後、日本はマレー半島と真珠湾に攻撃をしかけました。()

 〈参考〉宮田汎編著『生活図画事件』〔自費出版、連絡先電話&FAX011(385)5753)〕

 〔2008・5・10(土)〕

◆◆「生活図画事件」に学ぼう

(ブログhttp://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/204ded10c539c6c7389af067e895bae8

戦時下、生活のありのままを描く「生活図画教育」を実践していた北海道の教員や学生らが治安維持法違反容疑で逮捕された事件があった。

大量の逮捕者が出た思想弾圧事件だが、あまり知られていない。

偏見を恐れ、口を閉ざしていた関係者の一人が当時を証言した。

特定秘密保護法など戦前の思想統制と似た時代が到来する中、「一人一人が小さくても声を上げなければ」と訴える。 

(出田阿生)

 二枚の絵がある。題名は「レコードコンサート」と「休憩時間」。一枚は、レコードをかけ、クラシック音楽を聴く学生たち。もう一枚は、勤労動員で製紙工場の拡張工事に汗を流した後、原野で休憩している若者。北海道音更町の松本五郎さん(九三)が、二十歳のときに仲間を描いたものだ。

 これら何げない日常風景の絵が、「犯罪」の証拠とされ、一九四一年九月、当時、旭川師範学校五年生だった松本さんは、治安維持法違反容疑で逮捕された。

 絵が好きだった松本さんは、師範学校の美術部長に就いていた。師事していた教員の熊田満佐吾(まさご)さんは「生活図画」という教育運動を進めていた。単に美しい絵を描くのではなく、生活のありのままを絵に写し取り、より良い生き方を考える。そんな教育手法だった。

 当時、同様の教育運動の作文は「生活綴方(つづりかた)教育」、美術は「生活図画教育」と呼ばれていた。

 ところが四〇年一月、生活綴方教育が「子どもに資本主義社会の矛盾を自覚させ、共産主義につながる」として、教員らが一斉検挙される事件が起きる。逮捕されたのは、五十六人ともいわれる。

 翌年一月、今度は生活図画教育を指導していた熊田さんが特別高等(特高)警察に逮捕される。松本さんら教え子も、同年九月、寄宿舎に突然やってきた警察官に連行された。

 共産主義思想を学んだこともなく、全く身に覚えがない。「二、三日で帰れるだろう」と思っていた。だが、それは大間違いだった。

 接見禁止で外部との連絡を絶たれ、独房に放置された。シラミの卵が産みつけられた布団を体に巻いて、眠れぬ夜を過ごした。神経衰弱になり、毛髪が針金に変化したような錯覚に陥った。

 取調べがようやく始まったのは、約二カ月後。説明すれば分かってもらえるという期待はすぐに裏切られた。「コミンテルンや唯物史観とは何か、紙に書けと言われた。『知らない』と応えると『そこに本がたくさんあるから参考にして詳しく書け』と強要された。何度も書き直しを命じられた」

 こうして、操り人形のように描かされた「論文」が、「共産主義者」を裏付ける証拠となった。

 「検事が思わず失笑した警察の調書もあった」という。松本さんは古事記の「因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)の紙芝居を作ったことがあった。ワニザメに毛をむしられ「赤裸」になったウサギを、大国主命(おおくにぬしのみこと)が治すという物語。調書では「アカ(共産主義者)を助ける意味だ」とこじつけた。

 「何を言っても受け入れられない」と、あきらめた。氷点下三〇度になる極寒の刑務所で、手足や顔の皮膚が凍傷でただれる冬を過ごし、四二年末に釈放された。その後、懲役一年三月、執行猶予三年の判決を受けた。

人生壊され

 「逮捕されて人生を壊されたのは、純粋に夢の実現に向けて燃えていた教員志望の青年たちだった。『たとえ勤労動員で授業がつぶれても学生の本分は学問。感性を磨き、どう生きるかを考えよ』と説く熊田先生の教えに感動した。それがすべて罪とされた」

 師範学校を退学処分となった松本さんは、戦後、卒業資格を取得して教員になった。「竹やりで戦車に立ち向かえという国家総動員体制では、科学的な思考は邪魔になる。自分の頭できちんと考える教育をすることが危険視されたのだろう」と松本さんは言う。

現存者2

 「生活綴方事件」については、事件を題材とした作家三浦綾子さんの小説「銃口」で広く知られている。だが、生活図画事件は知る人は少ない。しかも、逮捕された人の中で、現存者は松本さんを含め二人だけだ。

 長年話さなかったのは、思い出すことのつらさに加え、偏見を恐れたからだという。松本さんとともに逮捕された仲間の一人は、勤め先で「思想犯で刑務所に入っていたことがあるらしい」といううわさを社内で流され、会社の要職を外されたという。元号が平成にかわった後の話だ。

 「もう事件について黙っているときではない」。松本さんが事件について語り始めたのは八十歳を過ぎてから。「語ってほしい」と自らの教え子たちに背中を押されたことも大きかった。今年九月には「証言 生活図画事件」を自費出版した。

 今、教育基本法には「愛国心」が盛り込まれ、国家安全保障戦略にまで「わが国と郷土を愛する」という文言が入った。そして、特定秘密保護法によって、国民の知る権利が奪われようとしている。

 「知る権利が奪われたら、為政者が思いのままになる。人権より国家を優先させる時代にしてはならない」と松本さんは憂える。「今ならまだ間に合う。誰かがなんとかしてくれるだろうと思うのは駄目。一人一人が声を上げ続けなければ」

「関係ない」が統制招く 小樽商科大荻野富士夫教授

 大正デモクラシー時代、子どもに作文や図画を自由に創作させる教育運動が各地で起きた。一九三〇年代半ばには生活に密着した形を目指して「生活教育運動」となり、特に東北地方や北海道で盛んだった。こうした運動が四〇年前後に集中して弾圧を受けた。

 共産主義者ではない教員や学生が大量に検挙された。「現状を客観的にとらえ、改善を考えよう」という教育趣旨を、当局が「危険思想の芽生え」として摘み取ろうとしたのだ。

 北海道での弾圧が突出しているわけではない。自然条件が厳しい土地柄で、苦しい生活を直視する教育をすれば、社会の矛盾に気づきかねないと当局が警戒した側面はあるかもしれない。

 父や兄が徴兵されて人手不足なのはなぜなのか。子どもがそうしたことを考えれば、戦争反対とまでいかなくても厭戦(えんせん)的な気持ちにつながる。

 治安維持法制定当時、政府は「慎重に運用」「一般国民とは関係ない」と説明した。多くの人が「自分とは関係ない」と思っていたら思想統制の社会が到来した。安倍晋三首相の靖国神社参拝や改憲への動きを見ると、特定秘密保護法が将来どう運用されるのか、やはり安心できない。

—–

生活図画事件 人々の暮らしを写実的に描く「生活図画」という教育運動が弾圧された事件。「資本主義の矛盾を自覚させ、共産主義を広めかねない」として、旭川師範学校や旭川中の教師、学生らが治安維持法違反容疑で逮捕された。逮捕者は27人にも上るとされる。

◆◆三浦綾子文学館『銃口』展示

~いま、考えておきたい平和のこと~

★★「銃口」が今訴えること ~三浦綾子の遺言~6m

★★文学解説 銃口 201507 森下辰衛(三浦綾子記念文学館特別研究員)22m

★★1時間でわかる三浦綾子2014 at 北海道教育大学旭川校62m

★★ドキュメント・光あるうちに 三浦綾子37m

開催にあたって

この度、昨年ご好評を頂いた『銃口』展を開催する運びとなりました。

『銃口』は、昭和の戦争がすすむ時代<天皇は神>という教育を受けた一人の男性が、やがて教師となり熱心に教えた綴り方(作文)教育で突然警察に捕まるという「北海道綴方教育連盟事件」(生活図画事件)を題材に、<昭和と戦争>を描いた作品です。

作品には、三浦綾子自身が軍国主義教育に何の疑いも持たなかった教師体験の反省から、「この昭和という体験は、どうしても書きのこしておきたい。戦争を二度とおこしてはならない、おこさせてはならないと、若い人たちが真剣に考えてくれれば」という願いが込められています。

『銃口』は<三浦綾子の遺言>とも言われ、書き終えた綾子は「昭和時代が終わっても、なお終わらぬものに目を外すことなく、生きつづけるものでありたい」と次の世代へ大切なメッセージを託しました。

戦後70年の今、少しずつ風化しその時代を語れる人が少なくなってきた中で、語り継ぐべきことを一人でも多くの方に知って頂ければと願っています。

現代も様々な形で人間に向けられている銃口。それに対して無関心に生きることは、結果的に自分が自分に銃口を向けることになるのではないでしょうか。

そのことに気付き、その危険に目をそらすことなく、人間が人間らしく生きることの大切さを再認識するきっかけになれば幸いです。

『銃口』(上)あらすじ

昭和元年、北森竜太は、北海道旭川の小学4年生。父親が病気のため納豆売りをする転校生中原芳子に対する担任坂部先生の温かい言葉に心打たれ、竜太は、教師になることを決意する。竜太の家は祖父の代からの質屋。日中戦争が始まった昭和12年、竜太は望んで炭鉱の町の小学校へ赴任する。生徒をいつくしみ、芳子との幸せな愛をはぐくみながら理想に燃える二人の背後に、無気味な足音……それは過酷な運命の序曲だった。

『銃口』(下)あらすじ 昭和16年、竜太は思いもよらぬ治安維持法違反の容疑で拘留、七か月の独房生活の後、釈放された。坂部も同じ容疑で捕らえられ釈放されたもののすでに逝くなっていたことを知り慟哭。芳子や家族に支えられ、ようやく立ち直った矢先に、召集の赤紙が届く。それは芳子との結婚式の直前だった。軍隊生活、そして昭和20815日終戦。満州から朝鮮への敗走中、民兵から銃口を突きつけられる。そこへ思いがけない人物が現れて助けられ、やっとの思いで祖国の土を踏む。再会した竜太と芳子にあの黒い影が消える日はいつ来るのか……

───────────────────────────

🔵横浜事件と治安維持法

───────────────────────────

★★20170301 UPLAN【後半】短縮版「横浜事件」上映=横浜事件ビデオ42m

★横浜事件国家賠償 訴え退ける6m 20160630

★「司法は責任をとらずに逃げた」横浜事件国賠訴訟で不当判決5m

★横浜事件国家賠償訴え退ける-20160630

★戦時中最大の言論弾圧事件横浜事件7m

https://m.youtube.com/watch?v=d7tnNsKg9Qc

◆◆(問う「共謀罪」)「監視」の先、弾圧懸念 横浜事件ゆかりの人

2017613日朝日新聞

「横浜事件」端緒の地を伝える碑の前に立つ、柚木哲秋さんと金沢敏子さん=富山県朝日町

 組織的犯罪処罰法改正案が導入しようとする「共謀」の処罰。その先にあるのはもの言えぬ社会では――。戦時下最大の思想弾圧とされる「横浜事件」=キーワード=とかかわりをもった人たちは、参院での審議を見つめる。

 事件の舞台の一つ、富山県朝日町(旧・泊町)の料理旅館「紋左(もんざ)」。1942年夏、評論家として活躍していた細川嘉六(かろく)が旅館に招いた出版・言論関係者らが船遊びや宴会に興じた際に撮った写真が残っている。

 細川を囲み旅館の庭で浴衣姿で収まった人たちはその後、「共産党再建準備会」の会合に参加した疑いをかけられ、治安維持法違反容疑で相次いで検挙された。

 地元テレビ局ディレクターだったころ、事件を知った金沢敏子さん(65)は「権力に批判的な人を捕まえるため、当局に写真が利用された。日常の楽しみの場が、『危険な場』にでっちあげられたのです」と話す。「自分が暮らす地域で起きたこととは」とショックを受け、研究会を作った。

 「共謀罪」法案が成立すれば、さまざまな犯罪に適用され、当局の監視の網は日常にぐっと身近になる。「友人との平穏な語らいの場面まで監視されることにならないか」。金沢さんは国会審議から目を離せずにいる。

 旅館には「泊・横浜事件端緒の地」と刻んだ碑が立つ。主人の柚木哲秋さん(66)は事件の資料コーナーもホールにつくった。事件当時、旅館を営んでいた祖母も、特高に事情をきかれた。ここで起きたことを語り継ごうと思っている。

 金沢市の元大学教授、平館道子さん(82)も「人間の心に土足で入るようなもの」と法案に反対する。

 父利雄さんは旧ソ連経済に詳しい旧満鉄東京支社の調査部員で、旅館を訪ねた翌年、連行された。「研究していた内容がとがめられたのよ」と母に聞いた。取り調べを経て、再会した際に父の手に傷があった。

 「論文も何もかも、奴隷のことばで書いていたよ」という父の言葉が忘れられない。権力の許す範囲でしか表現できなかったという意味だ。「本を読み、考えることさえ自由にならない時代があった。次の世代が暗くならないよう、いま、声を上げています」(高木智子)

 ◆キーワード

 <横浜事件> 1942~45年、言論・出版に携わっていた約60人が「共産主義を宣伝した」などの治安維持法違反容疑で神奈川県警特高課に逮捕された。拷問で4人が獄死、約30人が有罪判決を受けた。のちの再審で免訴の判決が出て、横浜地裁は2010年、刑事補償を認める決定で実質的な「無罪」判断を示した。

◆◆国の賠償責任認めず 横浜事件、「違法な対応」は認定 東京地裁判決

201671日朝日新聞

 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」=キーワード=をめぐり、再審で2008年に「免訴」が確定した元被告2人の遺族が「裁判記録を焼かれたため、生前に再審を開始できなかった」などとして、国に計1億3800万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が30日、東京地裁であった。本多知成裁判長は、国に賠償責任はないとして、遺族の請求を棄却した。遺族は控訴するという。

 判決は、元被告らを逮捕した神奈川県警特別高等課(特高)による拷問を知りながら起訴した検察官や、有罪とした裁判官に「職務上、不十分で違法な対応があった」と認定。裁判記録は「裁判所職員の何らかの関与のもとで廃棄された」とも認めた。そのうえで、1947年の国家賠償法施行より前の公務員の違法行為について、国は賠償責任を負わないと結論づけた。

 遺族側は、元被告の死後に始まった再審で「無罪」とせず、有罪か無罪かを判断せずに裁判を打ち切る「免訴」としたことも違法だと主張したが、判決は「無罪判決で名誉回復されるという心情は理解できるが、免訴により有罪判決は効力を失い、不利益は回復された」と述べた。

 訴えていたのは中央公論社の編集者だった木村亨さんと旧満鉄調査部員の平舘利雄さんの遺族。2人は43年に「共産主義を宣伝した」として逮捕され、治安維持法違反の罪で有罪とされた。86年に再審を請求したが、裁判記録がないことなどから棄却された。

 2人の死後、遺族の請求で始まった再審では、治安維持法の廃止を理由に免訴が確定。横浜地裁は10年、刑事補償を認める決定の中で、実質的に「無罪だった」と判断していた。

◆遺族「これからも闘う」

 「司法の犯罪を司法自らが裁かなければ、浄化はできない。何も得るものがない判決だった」。故・木村亨さんの妻で原告の木村まきさん(67)は、判決後の会見で失望をにじませた。

 まきさんは「横浜事件でひどいことは色々あるが、拷問と裁判記録の焼却が大きい」という。亨さんは98年に死去。「意図的に記録を焼却して再審請求を妨げ、被害回復の機会を与えないまま死亡させるに至った」と訴えてきた。

 判決は「たとえ廃棄に裁判所職員がかかわっていたとしても、再審の判断をする際に違法行為があったわけではない」として賠償責任を否定。まきさんは「どうしてこんな判決になるのか、不思議でならない。これからも闘い続けたい」。河村健夫弁護士も「裁判所が自分で焼いておいて、記録がないからと再審を棄却した。理解に苦しむ判断」と批判した。(千葉雄高)

◆キーワード

 <横浜事件> 1942~45年、中央公論や改造社、朝日新聞社などの言論・出版関係者約60人が「共産主義を宣伝した」などとして神奈川県警特別高等課に治安維持法違反容疑で逮捕された事件の総称。拷問による取り調べで4人が獄死したほか、約30人が有罪判決を受けた。元被告らが86年から4度にわたり再審請求したが1次、2次は棄却。3次と4次は再審を認めたものの、いずれも治安維持法の廃止などを理由に有罪、無罪を示さない「免訴」の判決が言い渡された。

◆◆(ひと)木村まきさん 横浜事件を記録する遺族

2015423日朝日新聞

木村まきさん

 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」。中央公論社の編集者だった元被告・故木村亨(とおる)さんの妻として裁判を闘い記録を残す。その過程を弁護団と「横浜事件と再審裁判」にまとめ出版した。「遺族の責任を痛感します。耳を澄まして死者の声を聴き、応えたい」

 1942~45年、共産主義を宣伝したなどとして編集者らが治安維持法違反容疑で逮捕され、4人が獄死。約30人が有罪になった。裁判記録は焼かれ、再審請求は「記録がない」と退けられた。

 98年、夫の急逝直後、自ら請求人になった。再審の扉は開くが、有罪無罪を判断しない「免訴」が確定した。「他界した元被告らを有罪の悪夢から解放したい」と、今も国家賠償訴訟で争う。

 司法は逃げずに事件と向き合ってほしい。そう願い、裁判官に「私と夫の心と身体に触れてほしい。胸や背中に聴診器を当て、触診し、打診し、問診し、心と身体の声を聞いてほしい」と訴えた。

 書籍編集者時代、市民運動の会合で34歳年上の亨さんと出会い、「父に似ている」とひかれ、92年に結婚。夫が体験した事実を全て記録したいと、約130本のビデオ映像と2千枚の写真を撮り「全発言」を集めた本も出版した。

 2年余り拘束された夫が拷問の恐怖などを記した約80冊の日記やメモを守って暮らす。「同じ事件が起きぬよう、今の問題として伝え続けます」

 (文・写真 高波淳)

    *

 きむらまき(66歳)

◆◆横浜事件

よこはまじけん

(小学館百科全書)

太平洋戦争下に特別高等警察によってでっち上げられた最大の言論弾圧事件。1942年(昭和17)総合雑誌『改造』89月号に掲載された細川嘉六(かろく)の論文「世界史の動向と日本」は、内務省の事前検閲は通過していたが、陸軍報道部長谷萩那華雄(やはぎなかお)18951949、戦犯として刑死)によって共産主義宣伝論文であると批判された。これをきっかけとして神奈川県特高は細川を検挙、さらに細川の知人や関係者が次々と検挙された。

その検挙者の一人の家で1枚の写真が発見された。写真は、細川が『改造』『中央公論』『東洋経済新報』などの編集者や満鉄(南満州鉄道)調査部の人々と郷里の富山県泊(とまり)町(現朝日町)へ旅行したときのもので、神奈川県特高はこの会合を「泊共産党再建事件」としてフレームアップ(捏造(ねつぞう)、でっち上げ)し、編集者や調査員を続々検挙した。細川検挙に前後して、世界経済調査会の川田寿(ひさし)190579)夫妻もアメリカ共産党と関係ありとして検挙され、さらに細川の関係していた昭和塾関係者も検挙された。これらの事件を口実として44年、改造社、中央公論社は軍閥政府から強制的に解散させられた。さらに日本評論社や岩波書店の編集者も検挙された。自白を強いる拷問は凄惨(せいさん)を極め、獄中死者、出獄直後の死者は4名を数えた。

 治安維持法違反で摘発された約60名のうち半数が起訴のうえ有罪となり、敗戦の年(1945910月に懲役2年、執行猶予3年の判決で釈放された。元被告たちは、拷問した元特高警察官を告訴したが、有罪となったのは3名だけで、その警察官も投獄されなかった。戦後復刊された『改造』は1955年(昭和30)廃刊、『中央公論』は60年に『風流夢譚(むたん)』事件などで編集方針を後退させた。横浜事件と特高弾圧に関する記録は被害者によって精力的に書かれ、治安維持法や特高の恐ろしさを伝えた。86年末には元被告のなかの『改造』『中央公論』編集者たちが横浜事件の再審を裁判所に要求する運動を始めた。1994年(平成6)にも再審請求をしたが、いずれも「当時の訴訟記録が存在しない」などを理由に棄却された。98年には第三次再審請求が出され、「ポツダム宣言に違反する治安維持法は814日のポツダム宣言の受諾と同時に失効した」、その効力を失った法を根拠に有罪判決をすることはできない、「無罪、もしくは刑の廃止があったとして免訴を言い渡すべきだった」として、裁判のやり直しを求めている。1945年の判決から半世紀以上を経て元被告人の多くは亡くなった。第三次の請求人6人のうち元被告本人は1人であったが、その1人も20033月末に亡くなった。それから半月後の415日、第三次再審請求に対して、横浜地方裁判所は、再審の開始を認める決定を出した。同地裁は、「ポツダム宣言受諾によって同法は実質的に効力を失っており、元被告らには免訴を言い渡すべき理由があった」とし、法令適用の誤りを理由に再審開始を認めたのである。[松浦総三]

『松浦総三著『戦時下の言論統制』(1975・白川書院新社) ▽美作太郎ほか著『横浜事件』(1977・日本エディタースクール出版部) ▽中村智子著『横浜事件の人びと』増補版(1979・田畑書店) ▽木村亨著『横浜事件の真相――つくられた「泊会議」』(1982・筑摩書房) ▽畑中繁雄・梅田正己著『日本ファシズムの言論弾圧抄史――横浜事件・冬の時代の出版弾圧』(1986・高文研) ▽青山憲三著『横浜事件 元「改造」編集者の手記』(1986・希林書房) ▽笹下同志会編『横浜事件資料集』(1986・東京ルリユール) ▽神奈川新聞社編・刊『「言論」が危うい――国家秘密法の周辺』(1987・日本評論社発売) ▽海老原光義著『横浜事件――言論弾圧の構図』(1987・岩波書店) ▽小野貞・気賀すみ子著『横浜事件・妻と妹の手記』(1987・高文研) ▽森川金寿著『細川嘉六獄中調書――横浜事件の証言』(1989・不二出版) ▽小泉文子著『もうひとつの横浜事件――浅石晴世をめぐる証言とレクイエム』(1992・田畑書店) ▽小野貞・大川隆司著『横浜事件――三つの裁判』(1995・高文研) ▽横浜事件の再審を実現しよう! 全国ネットワーク編『世紀の人権裁判 横浜事件の再審開始を!』(1999・樹花舎・星雲社発売) ▽木村亨著、松坂まき編『横浜事件 木村亨全発言』(2002・インパクト出版会)』

◆◆(問う「共謀罪」 表現者から)「戦前と違う」とは思わない 半藤一利さん

2017420日朝日新聞

作家・半藤一利さん(86)

 戦争は昔の話。本当にそう言い切れるのだろうか

     ◇

 私が11歳のとき太平洋戦争が始まった。東京大空襲では、逃げている途中に川に落ちて危うく死にそうになる経験もした。

 向島区(現・墨田区)の区議だったおやじは「日本は戦争に負ける」なんて言うもんだから、治安維持法違反で3回警察に引っ張られた。

 当時は戦争遂行のための「隣組」があった。「助けられたり、助けたり」という歌詞の明るい歌もあるが、住民同士を相互監視させる機能も果たした。いつの世も、民衆の中には政府に協力的な人がいる。「刺す」という言い方もあったけれど、おやじを密告した人がいたんだろう。

 歴史を研究してきた経験から言えるのは、戦争をする国家は必ず反戦を訴える人物を押さえつけようとするということだ。昔は治安維持法が使われたが、いまは「共謀罪」がそれに取って代わろうとしている。内心の自由を侵害するという点ではよく似ている。

 治安維持法は1925年の施行時、国体の変革を図る共産主義者らを取り締まるという明確な狙いがあった。その後の2度の改正で適用対象が拡大され、広く検挙できるようになった。

 政府は今回の法案の対象について「『組織的犯罪集団』に限る」「一般の人は関係ない」と説明しているが、将来の法改正によってどうなるか分からない。

 私に言わせると、安倍政権は憲法を空洞化し、「戦争できる国」をめざしている。今回の法案は(2013年成立の)特定秘密保護法や、(15年成立の)安全保障法制などと同じ流れにあると捉えるべきだ。歴史には後戻りができなくなる「ノー・リターン・ポイント」があるが、今の日本はかなり危険なところまで来てしまっていると思う。

 「今と昔とでは時代が違う」と言う人もいるが、私はそうは思わない。戦前の日本はずっと暗い時代だったと思い込んでいる若い人もいるが、太平洋戦争が始まる数年前までは明るかった。日中戦争での勝利を提灯(ちょうちん)行列で祝い、社会全体が高揚感に包まれていた。それが窮屈になるのは、あっという間だった。その時代を生きている人は案外、世の中がどの方向に向かっているのかを見極めるのが難しいものだ。

 今回の法案についてメディアはもっと敏感になるべきだ。例えば、辺野古(沖縄県名護市)での反基地運動。警察が「組織的な威力業務妨害罪にあたる」と判断した集会を取材した記者が、仲間とみなされて調べを受ける可能性はないか。「報道の自由」を頭から押さえつけるのは困難でも、様々なやり方で記者を萎縮させることはできる。

 法案が複雑な上、メディアによって「共謀罪」「テロ等準備罪」など様々な呼び方があり、一般の人は理解が難しいだろう。でも、その本質をしっかり見極めてほしい。安倍首相は法律ができなければ、「東京五輪を開けないと言っても過言ではない」と答弁した。それが仮に事実だったとしても、わずか2週間程度のイベントのために、100年先まで禍根を残すことがあってはならない。(聞き手・岩崎生之助)

     *

 はんどう・かずとし 「日本のいちばん長い日」「ノモンハンの夏」など昭和史関連の著作多数。「文芸春秋」の元編集長。

◆◆共謀罪はなぜ現代版治安維持法なのか

(赤旗日曜版17.04.09

◆◆共謀罪と治安維持法

(赤旗17.03.14

【共謀罪と治安維持法=赤旗17.03.21

◆◆治安維持法の教訓、今こそ「共謀罪」法案、自民内で了承

 犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織的犯罪処罰法の改正案に対し、「市民への監視が強まるのでは」との懸念の声が上がっている。「一般人は対象外」と政府は説明するが、「善良なる国民には関係ない」として成立した戦前戦中の治安維持法の姿を重ねる人たちもいる。「息苦しい時代を繰り返さないで」と訴える。

◆特高が監視、「時代逆戻りダメ」

 「夜中に寝ているところを引っ張られて」。三重県松阪市の太田まささん(102)が警察に拘束されたのは1933(昭和8)年3月。県内の共産党員ら150人が治安維持法違反容疑で一斉に検挙された。

 当時18歳。容疑は「赤旗」を読んだことだった。松阪は農民運動が盛んで、若い活動家も多かった。「お兄さんたちと話したくて出かけた」。取り調べでは「会合の出席者は」「転向しろ」と怒鳴られ、肩やひざをたたかれた。「女だからその程度で済んだ」

 不起訴となった後、結婚して東京に移った。そこにも、同法を盾に思想を取り締まった特別高等警察(特高)が来た。「過去が夫に知れたらどうするの」と太田さんは訴えた。「ずっと監視されていたんですね」

 戦後、同法は廃止されたが、荻野富士夫・小樽商科大特任教授(日本近現代史)は「特高の手法は公安警察に受け継がれた。イスラム教徒の監視などは典型例だ」と指摘する。2010年、警視庁公安部作成とみられる内部文書がネット上に流出し、国内のイスラム教徒の情報収集が明らかになった。「モスクの出入り」などの項目もあり、特高の監視名簿と似ていた。荻野氏は「共謀罪が成立すれば、広範な監視が正当化される恐れがある」とみる。

 数年前に足を骨折した太田さん。「時代を逆戻りさせちゃならん。足さえ動けば、反対を訴えるのに」

◆夫の苦難、「誰も他人事でない」

 中央公論社の編集者だった木村亨さん(故人)は晩年、病室のカレンダーの5月26日に、赤いペンで「投獄 拷問開始」と書き込んでいた。1943(昭和18)年の同日早朝、特高警察に踏み込まれ、家族の目の前で連行された。

 戦時下最大の言論弾圧とされる「横浜事件」。雑誌編集者ら約60人が逮捕され、拷問で4人が獄死した。木村さんらが旅館で開いた出版記念パーティーが、「共産党再建の準備会」と決めつけられた。

 有罪判決を受けた木村さんは戦後、再審請求を続けた。92年に結婚して活動を支えてきた妻まきさん(68)は「当時は戦争を嫌う、20代のジャーナリストに過ぎなかった。治安維持法違反なんて、夢にも思っていなかった」と話す。

 治安維持法について政府は当初、「不当に範囲を拡張して無辜(むこ)の民にまで及ぼすことはない」(小川平吉司法大臣)と強調した。しかし、拡大解釈や法改正を経て市民を弾圧する道具となり、拷問が横行した。

 木村さんは治安維持法と共謀罪が似ていると集会などで訴える。「国が邪魔な人の息の根を止められる。誰にとっても他人事(ひとごと)ではない」(黄チョル、後藤遼太)

◆処罰の対象、広がった歴史 専門家、「乱用」懸念

 1925(大正14)年に成立した治安維持法は、国体(天皇を中心とした国のあり方)の変革と私有財産制度の否認を目的とした組織や宣伝を禁じた。当初は共産党が狙いだったが、壊滅後は矛先を労働組合や芸術運動、宗教団体、言論人、官僚にまで広げた。28年の法改正で「目的遂行罪」が追加され、共産党とつながりがなくても、結果的に目的遂行に資する行為が対象に。41年の改正では、党の支援団体に属したり、団体の準備をしたりするだけで対象になった。制定時の「あいまいな解釈は許さぬ」「思想に立ち入らない」などという政府答弁に反して、適用範囲は際限なく広がっていった。

 渡辺治・一橋大名誉教授は、治安維持法と今回の法案の類似性について「天皇制転覆とテロ。どちらも、国民に不人気な『悪』の取り締まりを口実にしている」と指摘。「犯罪が起きる前に取り締まろうとする点、組織の一網打尽を狙う点も共通している。犯罪の予防を突き詰めると、権力による乱用が不可避だ」と危惧する。

◆◆書評・奥平康弘『治安維持法小史』

(赤旗17.04.30

──────────────────────────

🔵治安維持法体制とは

──────────────────────────

治安維持法とはどんな法律だったか?

2002213()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 テレビで戦前、治安維持法という法律があったと聞きましたが、どんな法律なのですか。(千葉・一読者)

 〈答え〉 治安維持法は創立まもない日本共産党などを標的に、一九二五年に天皇制政府が制定した弾圧法です。「国体を変革」「私有財産制度を否認」することを目的とする結社の組織・加入・扇動・財政援助を罰するとしました。「国体」とは天皇が絶対的な権力をもつ戦前の政治体制で、「私有財産制度を否認」とは社会主義的な思想や運動をねじまげて描いた政府の表現です。

 この法律は、結社そのものを罰する点でも、思想や研究までも弾圧する点でも、前例のないものでした。そのうえ二八年には大改悪が加えられました。

 まず、最高刑が懲役十年だったのを、国体変革目的の行為に対しては死刑・無期懲役を加え天皇制批判には極刑でのぞむ姿勢をあらわにしました。

 また「結社の目的遂行の為にする行為」一切を禁止する「目的遂行罪」も加わり、自由主義的な研究・言論や、宗教団体の教義・信条さえも「目的遂行」につながるとされていき、国民全体が弾圧対象になりました。

 さらに四一年には、刑期終了後も拘禁できる予防拘禁制度などの改悪が加えられました。

 治安維持法の運用では、明治期制定の警察犯処罰令など、一連の治安法規も一体的に利用し現場では令状なしの捜索や取り調べ中の拷問・虐待が日常的に横行しました。

 日本共産党は二八年三月十五日や二九年四月十六日の大弾圧など、治安維持法による、しつような弾圧を受け、拷問で虐殺された作家の小林多喜二や党中央委員の岩田義道をはじめ、獄死者、出獄直後の死亡者など、多くの犠牲者を出しています。

 政府発表は治安維持法の送検者七万五千六百八十一人、起訴五千百六十二人ですが、一連の治安法規も含めた逮捕者は数十万人、拷問・虐待による多数の死者が出ました。(清)

◆◆治安維持法って何?

2017227日赤旗

 Q 共謀罪が「現代版治安維持法」と呼ばれることがあるけど、治安維持法って何?

 A 戦前の絶対主義的天皇制のもとで政府が気にくわない主張や活動をする団体をつくることや、そのメンバーになることを犯罪とした法律です。1925年につくられました(45年10月廃止)。

 Q 政府の気にくわないことって?

 A 処罰対象は「国体を変革すること」「私有財産制度の否認」などとなっています。

 当時の絶対主義的天皇制のもとでは、民主化を求めることは弾圧対象でした。治安維持法は、「国体を否定しまたは神宮もしくは皇室の尊厳を冒とく」として処罰対象にしているので、国や宗教について、政府と違う考えを持つことも許さない規定です。政治や労働、文化運動にとどまらず、多くの宗教者も弾圧されました。あいまいな規定のため、当時の特高による乱用と拡大解釈で、誰でもが容疑者になりえました。

 Q 罰則は重かったの?

 A 2回の改悪が行われ、最高刑は死刑まで引き上げられました。有罪判決を受けて、刑期満了になっても再犯しそうな人を拘束する「予防拘禁」もありました。警察が人の思想・信条にいったん目をつけたら、徹底して圧殺できる仕組みです。

 Q 犠牲者はどれくらいいるの?

 A 検束・勾留された人は数十万人にのぼります(表)。命を落とした人は、氏名が特定できるだけで500人余りいます。

 (2017・2・27)

◆◆小林多喜二、山本宣治が殺されたわけは?

200634()「しんぶん赤旗」

 〈問い〉 小林多喜二や山本宣治が殺されたのは「3・15事件」における特高警察の拷問を告発したためだと聞きましたが、どういうことですか?(北海道・一読者)

 〈答え〉 1928年3月15日未明、天皇制政府は、内務省、検事局や警察の総力をあげて、日本共産党員、支持者をいっせいに検挙しました。日本共産党が同年2月、「赤旗」(せっき)を創刊し、初の普通選挙で11人を労農党から立候補させ、山本宣治、水谷長三郎の2人の当選をかちとった直後でした。

 弾圧は、反戦平和と主権在民を掲げ国民の前に敢然と姿をあらわした共産党の圧殺が不可欠だったからでした。田中義一内閣はその年の4月、中国侵略をひろげ(第2次山東出兵)、国内では治安維持法を改悪(最高刑を「死刑」に)、特別高等警察(特高)の網を整備し、弾圧体制の強化をはかりました。

 3月15日の弾圧では、党組織の壊滅へ、検挙者にはげしい拷問を加えたことが特徴で、その後は「殺しても上司が引き受ける」という暗黙の了解で、歯止めがなくなり、虐殺も急増しました。

 小林多喜二が住む北海道小樽でも「3・15」からの二カ月間で500人もの人々が検束され、小樽警察は署長官舎に拷問室を急造し毛布で窓をおおって防音し、拷問をくり返しました。これを知った多喜二は、未定稿の「防雪林」の執筆を中断し「一九二八年三月一五日」を一気に書き上げ、野獣化した特高を告発します。

 山本宣治も翌1929年2月8日の帝国議会で追及しました。

 「福津正雄という人間は、冬の寒空に真裸で四つばいさせられて、竹刀で殴って『もう』と牛の鳴声をいえといって『もう』といわせ、あるいはその床をなめろといって、床をなめさせた、静秀雄という被告は竹刀で繰返し殴られて、もん絶した。ふと、眼がさめてみたら枕許に線香が立ててあった」「鉛筆を指の間にはさみ、あるいは三角型の柱の上に坐らせて、そうしてその膝の上に石を置く。あるいは足をしばって逆さまに天井からぶら下げて、顔に血液が逆流し、そうしてもん絶するまで、うっちゃらかしておく生爪をはがして苦痛をあたえる、というような実例がいたる所にある」

 政府側はこの事実を「断じて認めることはできませぬ」「これに対して所見を述べる必要はありませぬ」と答弁を拒否。戦後もその態度を変えていません。

 山本代議士は、この追及をした一カ月後、刺殺されました。犯人は右翼団体の一員で捜査にあたった特捜課長と親しい間柄だったことはのちに判明しています。多喜二も5年後の1933年2月20日、築地警察署で特高によって虐殺されます。5日は山宣没後77年です。(喜)

◆◆治安維持法

ちあんいじほう

小学館百科全書

第一次世界大戦後に高揚した社会運動、とりわけ日本共産党を中心とする革命運動の鎮圧を標榜(ひょうぼう)して1925年(大正14)に制定された法律。その後1928年(昭和3)の改正を経て、共産党員のみならず、その支持者さらには労働組合・農民組合の活動、プロレタリア文化運動の参加者にまで適用されるようになった。日本共産党指導部の壊滅した1935年以降、同法は宗教団体や学術研究サークルなどにまでその牙(きば)を向け、ファシズムへ向けて国民を思想統制する武器として「活躍」した。同法は1941年いっそう権力にとって都合のよいように改正されたが、敗戦直後の1945年(昭和201015GHQ(連合国最高司令官総司令部)の指令に基づいて廃止された。同法により検挙され、また起訴された者の数がどれほどになるかは、いろいろな統計によってかなりの食い違いがある。さらに統計から漏れた検挙者の数も相当多数に上ると推測される。そういう限定をつけたうえで、司法省の調査によるものをみると、1943年の4月までで同法により検挙された者は67223名、起訴された者は6024名に上っている。これが一つの目安となろう。同法の軌跡は、成立期(19251928年)、本格的発動期(19281935年)、拡張期(19351941年)、拡散期(19411945年)の四つに区分することができる。

◆成立期

社会運動取締りのための新しい治安立法の最初の試みは、1922年(大正11)第45議会に提出された過激社会運動取締法案であった。同法案の流産後、政府は緊急勅令で再度同法の制定をねらったが実現するに至らず、1923年関東大震災に乗じて、いわゆる治安維持令を緊急勅令の形で出すにとどまった。しかしこれは取締り当局の満足のいくものではなく、かくして治安維持法案が1925年の第50議会に提出されることになった。若干の修正を受けただけで成立した同法は、その第1条で「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的」として結社を組織したり、それに加入した者に10年以下の懲役・禁錮刑を科している。ほかに同法は、国体変革等の目的実行のための協議(2条)、目的実行の煽動(せんどう)3条)、目的達成のための犯罪の煽動(4条)、目的達成のための利益供与(5条)などの処罰を規定している。同法の最初の発動は、1926年(大正15)京都大学の学生を主体とした全日本学生社会科学連合会関係者に対してなされた(学連事件)。しかし、この発動は権力が同法発動の主たる対象としていた日本共産党とはさしあたり関係のない対象に向けられていること、また学連に対しては同法2条の実行協議罪が発動されていること(後年同法の発動はほとんど1条に限られる)などの点で、後の本格的発動とは様相を異にしていた。いわば小手調べの段階であった。

◆本格的発動期

同法の本格的発動は、1928年(昭和3315日、日本共産党関係者に対する全国一斉検挙(三・一五事件)であった。その後も共産党関係者に対する一斉検挙はたび重ねて行われていく。一方、政府は三・一五事件を宣伝して「共産党の陰謀」を印象づけながら、同法改正案を第55議会に提出した。それが不成立に終わると、政府は緊急勅令という形で改正を強行した。この1928年改正では、(1)国体変革を目的とした結社の組織者、指導者に対して最高刑に死刑が導入され、(2)結社のメンバーでなくとも、結社の「目的遂行ノ為(ため)ニスル行為」をなした場合には同法で処罰する旨の規定(いわゆる目的遂行罪)が加えられた。(1)は運動参加者への威嚇という効果をねらったものであるが、とくに(2)の改正が果たした役割は大きかった。目的遂行罪により同法は適用の対象を一挙に拡大し、労働組合の活動、文化運動、果ては弁護士の治安維持法被告のための活動までもが、日本共産党の「目的遂行ノ為ニスル行為」であるという理由で処罰されるに至った。こうした適用対象の飛躍的拡大に伴って、当局は運動参加者に対し、この重罰の威嚇や拷問、長期の拘禁などによって転向を強要した。たび重なる弾圧と、転向強要によって、社会運動は急速に衰退し、1935年には日本共産党指導部も壊滅して、治安維持法はそれが標榜していた目的を達することになった。

◆拡張・拡散期

しかし治安維持法は、天皇制のファシズム化に伴い新しい役割を受け持つこととなる。それを象徴したのが1935年末、大本(おおもと)教への同法の発動に始まる一連の宗教団体弾圧であった。天皇制の「国体」神話を認めない宗教が、この法によって抹殺され、国民のイデオロギー統制が進む。また、それまで処罰の対象とならなかった唯物論研究会のような研究活動や、非共産党系の労農グループにまで同法の牙は向けられていった。こうした治安維持法の濫用(らんよう)を法的に追認し、さらにいっそう広い対象に発動できるようにするために、1941年同法は大改正される。すなわち改正法は第1章で、「国体変革」結社に対する刑をさらに引き上げ、その「支援結社」「準備結社」あげくのはてには結社といえない「集団」の活動をも取り締まると規定してその対象を拡大した。また宗教団体を処罰するために「国体否定」(変革まではいかずともよい)結社処罰罪が新設された。さらに第2章では弁護人の制限、控訴の否定など同法に特別な刑事手続が新設され、第3章では非転向者を引き続き拘禁する予防拘禁制が導入された。こうして同法は、もはや権力の行使を規制するという意味での法とはいえない代物となったのである。

『奥平康弘著『治安維持法小史』(1977・筑摩書房)』

◆治安維持法から

大正一四年四月二二日公布

第一条〔1〕国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮(きんこ)ニ処ス

2〕前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二条 前条第一項ノ目的ヲ以(もっ)テ其()ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為()シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第三条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ヲ煽動(せんどう)シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第四条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ騒擾(そうじょう)、暴行其ノ他生命、身体又ハ財産ニ害ヲ加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第五条 第一条第一項及前三条ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若(もしく)ハ約束ヲ為シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ為シタル者亦(また)同シ

第六条 前五条ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減軽又ハ免除ス

第七条 本法ハ何人ヲ問ハス本法施行区域外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス

   附則

大正十二年勅令第四百三号(治安維持ノ為ニスル罰則)ハ之ヲ廃止ス

◆【治安維持法中改正ノ件】

  昭和三年六月二九日公布

治安維持法中左ノ通改正ス

第一条〔1〕国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

2〕私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

3〕前二項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二条中「前条第一項」ヲ「前条第一項又ハ第二項」ニ改ム

第三条及第四条中「第一条第一項」ヲ「第一条第一項又ハ第二項」ニ改ム

第五条中「第一条第一項及」ヲ「第一条第一項第二項又ハ」ニ改ム

   (『旧法令集』による)

◆◆特別高等警察(特高)

とくべつこうとうけいさつ

天皇制国家の下で、その国家に反対する社会運動ならびに思想の取締りを担当した警察の組織と活動。国家的治安の維持にあたる政治警察をフランスやドイツでは高等警察(フランス語でla haute police、ドイツ語でHoch Polizei)と称していた。日本では、この高等警察の任務の主たる部分をなす反体制運動の取締りをもっぱら行う機構が、そこから分離独立して特別高等警察となったのである。警察活動のこの部門は、「特高」とよばれて悪名をはせ、天皇制警察の代名詞のようになっている。

 高等警察からの特別高等警察の分立は、1910年(明治43)の大逆(たいぎゃく)事件を契機として翌年8月に警視庁に特別高等課(以下、特高課、特高警察と略す)が設けられたのを嚆矢(こうし)とする。以後、同課は、12年(大正110月に大阪府に、22年以降北海道、京都府のほか七県に順次設置され、三・一五事件を機に28年(昭和3)には残りの全県に設置された。特高警察の生涯はいくつかの時期に区分してみることができる。

第一期

警視庁に設置された当初の特高課は、特高、検閲の二係をもつだけであり、同盟罷業の取締り、爆発物取締り、出版物の検閲を担当した。特高警察のこの時代の活動は、主として、特別要視察人名簿にリストアップされた社会主義などの活動家たちを監視することにあった。

第二期

特高警察の活動が本格化するのは、ロシア革命を機に労働・農民運動、さらには社会主義、共産主義の運動が広範に展開されるに至ってからのことである。とくに、それら運動の取締りを名として1925年(大正14)に制定された治安維持法は特高警察の最大の武器となり、同法による28年の三・一五検挙は「特高」の名を一躍高からしめた。以後特高警察は従来高等警察の行っていた事務を次々に吸収し、組織的にも肥大化の一途をたどる。その結果、たとえば、警視庁では32年(昭和7)、特高、外事、労働、内鮮、検閲、調停の六課を擁して特別高等警察部ができた。さらに、1930年代前半に軍人・右翼による暗殺・クーデターの試みが頻発するに伴い、特高警察はこの取締りをも担当するようになる。

第三期

1937年(昭和12)日中全面戦争勃発(ぼっぱつ)以降、特高警察は従来の活動に加え、さらに反戦・反軍的活動の取締りに乗り出した。キリスト者などの宗教団体の取締りもこのような見地からいっそう厳しく行われるようになった。戦争が進むにつれ、特高警察は、一方では運動や組織とは無縁な庶民の言動にまで目を光らせるとともに、時の政権の反対者の抑圧・監視活動をも行うようになる。こうした特高警察は、敗戦直後の45104日付で出されたGHQ(連合国最高司令部)の指令「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」により解体された。

憲法とたたかいのブログトップ

南京事件の真相=南京大虐殺80年、日中戦争とは

南京事件の真相=南京大虐殺80


憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

【このページの目次】

◆南京事件リンク集

◆山田朗明大教授=南京事件70年─南京事件の真実は

◆南京事件の真相(赤旗)

◆中国の追悼式典

◆南京事件とは(小学館百科全書)

◆南京事件(昭和史再訪)

◆日中戦争とは

◆廠窖事件、事実を広く記念館再開(日本軍が中国人3万人を虐殺)

────────────────────────────

🔵南京事件リンク集

───────────────────────────

南京陥落

★★NNNドキュメント「しゃべってから死ぬ 封印された陣中日記」証言による虐殺の再現

15.10.04放映45m

または

★★NNNドキュメント・南京事件の紹介

★★NNNドキュメント・南京事件の真相№2=「便衣兵捕虜の殺人」「反乱への受動発砲」のウソ51m

http://www.dailymotion.com/video/x6jhizyNNNドキュメント南京事件の真相No.2

81年前日本が行った南京戦。日本は戦争の公式記録を焼却してしまい多くが失われた。ところが防衛省の敷地からは大量の灰や焼け焦げた紙の束が見つかっている。81年前に何があったのか、残された兵士の肉声インタビューや陣中日記など一次資料をひとつひとつ分析し改めて検証するとともに警鐘を鳴らす。

◆◆NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」=南京事件を再度検証

2018519日朝日新聞

(焼け残った軍の書類。番組はBS日テレで20日午前11時から再放送される=「南京事件2」から)

焼け残った軍の書類。番組はBS日テレで20日午前11時から再放送される=「南京事件2」から

 日テレ系NNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」が放送されたのは、2015年10月のことだった。元日本兵の日誌や証言、現地取材といった一次情報に立ち返り事件を再検証し、南京事件否定論者や、戦時中は日本人もまた加害者であったことを忘れがちな我々に、現実を突きつけた。

 同作はギャラクシー賞や早稲田ジャーナリズム大賞を受賞するなど高い評価を得る一方、ネット上などで内容を疑問視する声も出た。

 その批判に対するアンサーとも言える続編「南京事件2 歴史修正を検証せよ」が5月13日深夜に放送された。今回も1996年に発見された軍の公式記録、さらに毎日新聞大阪本社で保存されている検閲で掲載不許可となった写真など、またも一次史料を丹念にひもときつつ真実を追究。圧巻は、南京事件での捕虜銃殺は虐殺ではなく自衛発砲であるとする主張への反論。戦争を語る時、聖戦のように言葉を巧みに置き換えて殺戮(さつりく)を肯定する傾向があるが、「自衛発砲」も戦後の軍幹部の責任回避であることを提示した。

 SNSの広まりで、批判に対して萎縮する番組が多い中、論より証拠で応えた。これぞジャーナリズム。日テレの良心と称されるNドキュ、ここにあり。(ジャーナリスト・中山治美)

◆◆隅井=真実追究「南京事件No.2

赤旗18.06.04

◆◆戸崎=歴史修正とたたかう「南京事件No.2

赤旗日曜版18.06.10

★★南京大虐殺の証拠~当時の記録映像と生存者の確実な証言32m

★★南京大虐殺 兵士たちの記録 陣中日記 2008小野賢二調査 – 46m

◆以上の4つのドキュメントの解説=「南京事件 兵士たちの遺言」は渾身の調査報道。古めかしい革張りの手帳に綴られた文字。それは78年前の中国・南京戦に参加した元日本兵の陣中日記だ。ごく普通の農民だった男性が、身重の妻を祖国に残し戦場へ向かう様子、そして戦場で目の当たりにした事が書かれていた。ある部隊に所属した元日本兵の陣中日記に焦点をあて、生前に撮影されたインタビューとともに、様々な観点から取材した。 

「我々はあの戦争の加害者であることを忘れてはいけない」

NNNドキュメントコメント

◆(記者レビュー)南京事件を冷静に追う

20151016日朝日新聞

写真

元日本軍の兵士が書き残した日記には、多くの中国人を射殺したとの記述が

 4日深夜の「NNNドキュメント シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言」(日テレ系)。事件の記録がユネスコの世界記憶遺産に登録される直前の放送だったが、冷静かつ客観的な検証の姿勢が興味深く、録画で再度見直したほどだ。

 事件の犠牲者数について番組は、東京裁判で20万人以上と認定され、中国側は30万人と主張していると紹介。同時に、日本は「非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できない」としつつ「被害者の具体的な人数については諸説あり、どれが正しい数かを認定することは困難」との立場であることも示した。またインターネットなどでは、虐殺や事件そのものがなかったと主張する人々がいることにも触れた。

 一方で取材班は、当時南京に進軍した元兵士の複数の日記に「(捕虜を集め)年寄りも子供も一人残らず殺した」など生々しい記述があることを明かす。「何万という捕虜を殺したのは間違いない」という当事者の声や、「見たことは口外するな」と上官に口止めされたとの証言も紹介。現地で日本軍による虐殺があったとされる場所も訪ね、検証する。ナレーションは必要最低限。淡々と取材の結果を重ねていった。

 テレビ報道とは何か。それを突きつけるような、力のある番組だったと思う。(後藤洋平)

NNNドキュメントについて

【赤旗16.05.01

【南京事件を調査せよ】

◆詳細な書籍「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」小野 賢二 (編集), 本多 勝一 (編集), 藤原 (編集)大月書店1996 

◆◆日テレが産経に抗議「恣意的な記事」「南京事件」番組巡り

(朝日新聞16.10.29

 日中戦争中に起きた「南京事件」を取材した日本テレビのドキュメンタリー番組をめぐり、産経新聞社が掲載した番組の検証記事の内容が事実と異なるとして、日本テレビが同社に対して文書で抗議した。抗議について26日にホームページで告知し、「産経新聞の記事は客観性を著しく欠く恣意(しい)的なもので、厳重に抗議する」としている。

 番組は昨年10月に日本テレビ系で放送された「南京事件 兵士たちの遺言」。日本兵の日記や証言などをもとに、中国で捕虜や住民を殺害したとされる事件を検証する内容で、優れた放送作品などに贈られる昨年度のギャラクシー賞(優秀賞)を受賞した。

 この番組に対し、産経新聞は今年10月16日付朝刊で「『虐殺』写真に裏付けなし」という見出しの記事を掲載。川岸に多くの人が倒れている写真の取り上げ方について、逃れようとする中国兵同士の撃ち合いや多くの溺死(できし)があったという記録に触れていないと批判した。捕虜の殺害についても「暴れ始めたためやむなく銃を用いた」とする大学教授の見方を紹介した。

 一方、日本テレビはホームページで「虐殺写真と断定して放送はしていない。産経新聞記者の『印象』から『虐殺写真』という言葉を独自に導き、大見出しに掲げた。いかにも放送全体に問題があるかのように書かれた記事は不適切と言わざるをえない」と指摘。やむなく発砲したという見方についても「同じ証言の存在を具体的に紹介した上で、当時の一次史料にはそのような記載がないことを伝えた」と反論した。

 産経新聞社広報部は朝日新聞の取材に「当社の見解は、10月16日付の当該記事の通りです」。日本テレビ広報部も「ホームページに記載した通りです」としている。

◆南京大虐殺の虐殺現場(NNNドキュメントから)

【小野 賢二さんの研究と陣中日記】

【虐殺報道は全て隠された=「南京で見たことは一切しゃべってはならない」。中国人捕虜たち】

【下4つは、揚子江河口での虐殺現場=暗くなってから、捕虜たちを揚子江川岸に連行し機関銃で一斉射撃し、その後銃剣でとどめを刺し、死体を揚子江に流した。もちろん揚子江川岸での殺害は十数万の南京事件の犠牲者の一部(70001万人)であり、多数は、南京城周辺(安全区や幕府山周辺など)で殺害された】

建物の下からの機関銃による虐殺
シートで隠された機関銃による虐殺

◆南京大虐殺80年=陣中日記が蛮行の記録

赤旗日曜版17.12.10

◆南京大虐殺から80

赤旗17.12.07-09

◆◆南京事件80年日中市民が平和交流

赤旗17.12.15

◆◆笠原十九=南京事件80

赤旗17.12.14

赤旗19.05.19

★★フィルムは見ていた!検証「南京大虐殺」(MBC編集。アメリカの宣教師が撮ったフィルム)50m

★★ドキュメント南京1937 “Nanking 1937″120m(中国南京大虐殺記念館で日本人向けに上映されている映画)

★★笠原十九司 『南京大虐殺否定論13のウソ』の13年 

作成者:祐児三輪

http://m.youtube.com/watch?v=jtbaFxAr2UM

★南京大虐殺6m

https://m.youtube.com/watch?v=qrb9F3Ld3M0

★★映画「南京!南京!」

https://drive.google.com/open?id=1mCns37617eATXyqP20nuUHTECNZ2Zp9J

または

日本語字幕版(1)~(14

135m(テレビ録画で少々見にくいが)

★★中国製作・映画=「南京! 南京!135m(日本語部分は分かるが中国語部分は下記の中国語から推察のこと)

◆映画の解説=「南京! 南京!

http://j.people.com.cn/94478/96695/6642806.html

★★中国映画《南京19371996

https://m.youtube.com/watch?v=maIU-Yuk_qA

(日本語部分は分かるが中国語部分は下記の英語・中国語から推察のこと)

◆◆藤原彰=南京の日本軍

(スマホの場合=画像クリック最初のページのみエラー表示画面の上部の下向き矢印マークを強くクリック全ページ表示)

◆南京事件Q&A

http://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/lite/d/FrontPage

◆南京事件初歩の初歩=南京事件資料

http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/shoho.html

15年戦争資料 @wiki 南京事件資料

http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/

15年戦争資料=ラーベの日記

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/m/pages/176.html?guid=on#id_caebbba4

15年戦争資料 @wiki – 日中歴史共同研究 

◆小田実訳=南京虐殺(日本ペンクラブ)

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/antiwar/odamakoto.html

◆南京大虐殺・ユネスコ登録問題

(赤旗日曜版15.10.25

◆青木理=南京虐殺ユネスコ登録問題

(サンデー毎日15.11.22「抵抗の拠点から」)

◆◆笠原十九司=ユネスコ記憶遺産「南京大虐殺の記録」登録の資料を見る

◆◆旧日本軍関係者が語る南京大虐殺

(赤旗15.12.13

★★NHKスペシャル「日中戦争 ~なぜ戦争は拡大したのか~」 から一部8m

◆塩田・吉岡対談=南京大虐殺に迫ったNHKスペシャル、戦争の検証・メディアの役割(上記のドキュメントを語る)

(赤旗17.02.20)

🔵 戦争PTSD=ずっと父親が嫌いだった40m http://m.pandora.tv/view/keiko6216/62517694

🔵 クローズアップ現代・戦争神経症兵士の戦後(陸軍病院)30mhttp://m.pandora.tv/view/keiko6216/62517691

◆書評・堀田善衛『時間』(日本軍の南京虐殺を描いた小説)

◆(書評)『1★9★3★7』 辺見庸〈著〉

2015126日朝日新聞

『1★9★3★7(イクミナ)』

おまえなら殺さなかったのか

 書名の由来は日中戦争に突入した「1937年」。同年12月に南京大虐殺が起きた。

 「おまえなら果たして殺さなかったのか」。著者は、日本兵による殺害、略奪、強姦(ごうかん)があった戦時に立ち返り、自らにその問いを突きつける。それが戦争と日本人を掘り下げる本書の出発点となった。

 そこに立ち塞がるのは、著者を苦しめる事実の数々だ。

 中国で従軍した作家武田泰淳の小説「審判」には、兵士らが上官の気まぐれな命令で、罪ない中国の農民2人を一斉射撃で殺す場面がある。泰淳の「従軍手帖(てちょう)」にはこの場面と重なる記述があるという。また、兵士らの証言記録には、強姦しながら戦友に手を振る男たち、しばられた中国人を刺し殺す訓練の光景も。著者は、正気を保つことに「自信がない」ともらす。

 絶望に満ちた事実に正面から向き合った文章を読むのはつらいが、目が離せなくなる。読者にも過去の出来事を自らの問題としてとらえさせる力があるのだ。

 さらに、この思索は、中国で将校として従軍した、今は亡き実父の残影を見極めようとする試みに及ぶ。

 戦後に地方紙記者になった父が書いた従軍記。その中に中国人を拷問する部下に中止を命じた記述があり、偽善の臭いをかぎとった。「(拷問は)あなたの指揮下で生じたことではないか」。ひとつの行為の責任さえ曖昧(あいまい)にする父の姿。しかし、同じ状況下だったら、自分も「大差なかったのではないか」。

 著者は苦悩の末、どんなに残酷な行為に対しても「これが戦争というものだ」「戦争が人間性をゆがめた」とする責任転嫁に満足し、無責任体質が蔓延(まんえん)した戦後日本の問題性を提示していく。責任を曖昧にすることを許さない「戦争考」には、重すぎるほどの説得力がある。この歴史を繰り返さないためにも、本書を読み、改めてまわりを見渡すことが必要に思えた。

 評・市田隆(本社編集委員)

 金曜日・2484円/へんみ・よう 44年生まれ。作家。78年、中国報道で日本新聞協会賞。『自動起床装置』で芥川賞。

★★こころの時代・辺見庸=1937(上記の本の内容について語る58m)

◆書評・「南京事件を調査せよ(赤旗16.10.10

───────────────────────────

🔵山田朗明大教授=南京事件70年─南京事件の真実は

128映画人九条の会第2回交流集会/講演)

http://kenpo-9.net/document/071208_yamada.html

───────────────────────────

 みなさん、こんにちは。ご紹介いただきました山田です。今日は128日ですから、太平洋戦争が始まってちょうど66年目です。

 先ほど小山内美江子さんのお話がありましたが、66年前の今ぐらいの時間に、ようやく国民にどこで戦争が起ったのか大本営から発表されました。最初の朝のニュースでは、「西太平洋上において米英軍と交戦状態に入れり」という発表でした。「西太平洋上」と言っても、どこかということはこの時点では発表されていません。午後になって、それはハワイだということが発表され、戦果があったのかどうかは、夜にならないと発表されませんでした。ですから128日の時点では、どこで戦争は起こったのか、戦果があったのかどうかということは、しばらくは分からなかったのです。

 小山内さんが聞いたというラジオの臨時ニュースは午前7時のものだと思います。大本営の発表は、午前6時に行われています。陸軍の大平大佐という報道部の人が、「大本営陸海軍部発表」と言って記者の前で発表するシーンが今でもときどきニュース映画を使った映像の中に出てきますが、実はあれは本当の発表ではありません。本当の発表は6時にやったのですが、ムービーカメラが動いていなくて、あとからもう一度発表し直してもらった。それが残っている映像です。本当の発表じゃないものが、ニュース映画として流されて、それが現在ではあたかも本当の発表のように伝わっている。ですから、本当の発表のときに撮った写真と、人の並び方などが微妙に違っています。

 別にあれは嘘だったという話をするつもりではないのですが、当時から映画の持つ宣伝効果というものを大本営も考えて、もう一回発表しようということになって、それで大平大佐はちょっと声が裏返ったりして、興奮した感じの発表になっている。それが今からちょうど66年前のことです。

◆南京事件からわずか4年で太平洋戦争

 それよりさらに4年遡る70年前が南京事件です。1937年に日中戦争が全面化して、太平洋戦争、対英米戦争が起こるまで、わずか4年です。4年間で状況はそんなに変わったのです。

 193712月に南京が陥落し、日本国民の多くはこれで戦争が終わったと感じた。蒋介石政権は一旦、首都を内陸部の漢口に移し、さらに奥地の重慶に移していたので、陥落した時点では南京は首都ではなかったのですが、それでもずっと首都であった所を占領したということで、これで戦争は終わりだ、と提灯行列も行われて、盛り上がったわけです。

 ところが、その時点でこの先、アメリカ、イギリスと戦争になるなんていうことを考えていた人がどのぐらいいたか。歴史的に、たった4年間で日中戦争から対英米戦争へ突入していくわけですが、それはこの南京陥落のあと日本はずっと日中戦争をやっていって解決がつかなくなるからです。

 日本側は当時、これはイギリス、アメリカが蒋介石を支援しているからだ。蒋介石政権だけだったら抵抗できないのに、英米がうしろで援助しているからこの戦争は終わらないんだ、と考えていました。援蒋ルート(蒋介石を援助しているルート)を絶てばこの戦争は終わると。

 ところが援蒋ルートというのは、仏印、現在のベトナムから、あるいは当時のイギリス領であったビルマ(現在のミャンマー)から伸びているわけですから、またアメリカもかなり物資を補給しているわけですから、その英米仏に圧力をかけないと日中戦争は終わらない、と考えた。中国との戦争なんですけど、悪いのは英米だと、段々そっちの方に八つ当たり気味になっていき、どんどん日本と英米との関係が悪化して行ったのです。

 ところが、単独ではやはり英米相手には戦えない。それで三国同盟——ドイツと同盟を結んで、英米に圧力をかけるという路線に進んでいくわけです。ですから日中戦争と、対英米戦争=太平洋戦争というのは、三国同盟をつなぎにして繋がっていくということなんです。

 その日中戦争初期に起きた大事件が、南京事件です。70年前の1213日に南京は陥落します。ちょうど70年前の今頃(128日)は、日本軍が南京めがけて殺到している状況だったのです。

◆南京大虐殺をめぐる争点

 南京事件をめぐってはそれを否定するという立場の方もいて、そういう映画も作っているようですが、これは結構、対立しているところがあります。どういうところが対立しているかというと、レジュメでいくつか争点を挙げました。

犠牲者の数(数万人~30万人超の諸説あり)が確定できない理由

「事件後、南京の人口が増えた」という説の真偽

「ゲリラ(便衣兵)殺害は戦闘行為」という説の真偽

その他さまざまな否定論・「まぼろし」論はなにゆえに出てくるのか

 まず、犠牲者の数がどれくらいなのかということですが、中国は公式的には30万人というふうに発表しています。これは何がベースになっているかというと、東京裁判のときに出た2627万人という犠牲者の数です。当時の埋葬記録を合計すると2627万という数字になり、これがベースになって、30万人という数字が出ています。

 しかし、これにはいろんな説があって、日本の歴史学の研究者では、10数万から20万人ぐらいじゃないかという人が多いです。また、虐殺とは何かという定義をいろいろと細かくしていって、捕虜を殺したのは一種の戦闘行為であり、戦闘行為は虐殺ではないと言う人もいます。そうなるともっと少なくなって数万人になります。極端な場合、なかったという人もいるんですが、これはどう考えてもあり得ません。これはあとからお話しますが、現にそこで、日本側の人間でその光景を見た人が記録(日記)を付けています。これはリアルタイムで付けられた記録で、しかも複数の人がその現場を見ています。

 それから、事件後、南京の人口が増えたという説があります。これは大抵の否定派の本に書いてあります。学生でそれを真に受けている人がいますが、実はここで言うところの「南京の人口」というのは、南京の一部分の人口のことなんです。

 南京周辺の大雑把な地図を載せていますが、南京市というのは非常に広い領域で、その中に城壁で囲まれた南京城区と言われる部分があります。普通、我々が南京としてイメージしているのは、この南京城区です。さらにその中に、国際安全区と呼ばれる難民避難地区があります。で、人口が増えたというふうに記録されているのは、この国際安全区なのです。つまり、南京全体(南京市あるいは南京城区)の人口が事件の前より増えたというような話ではなくて、多くの人が避難してきたから、その安全区の人口が増えたというだけのことなんです。

 これを、南京の人口が事件の前より増えたというふうに真ん中を省略して語ってしまって、人口が増えたぐらいだから虐殺はなかったんだ、という話に繋げている。ですから南京と言ったときに、どこを指すかということを明確にしないで議論しているから、うっかりすると騙されてしまうのです。

 もう一つ、ゲリラ──当時の言い方ですと「便衣兵」と言うんですが、その殺害は戦闘行為であるから虐殺ではないんだ、という人がいます。しかし当時、日本の兵隊たちが実際にどういうことを見たのか、この「ゲリラの殺害」がどういうものであったのかという実態を、あとでお話します。

◆どうしてこんなに否定論が出てくるのか

 その他、様々な否定論がありますが、一つ一つ反論していってもいいのですが、時間もありませんので、どうしてこんなに否定論が出てくるか、ということについてお話します。

 確かに曖昧なところはあるんです。犠牲者の数が何人なのかはっきりしないからです。どうしてはっきりしないのか、あとで実際に日本兵が見た光景をお話しますので、それで大体原因が判ります。結論から言いますと、遺体を揚子江に流してしまっているんです、大量に。ですから、調べるにも調べようがないんです。南京で亡くなった人は、そこで遺体が確認されて埋葬記録が残る。ところが、これは戦闘で亡くなったのか、虐殺なのか、なかなか区別ができません。そして南京というのは揚子江に面していますので、主に虐殺された人の遺体というのは組織的に河に流されてしまった。ですから、その数が掴めないのです。

 でも、数がはっきりしないからと言って虐殺は無かった、というのは極端な話です。実は犠牲者の数がはっきりしないというのは、どんな戦争でもあることです。例えば沖縄戦の犠牲者の数も正確には判らない。なぜなら、戸籍まで焼かれてしまったからです。ですから、〈平和の礎〉には、名前が刻まれている人もいますし、名前が判らず「誰々の子」と書かれている人もいます。そういうふうに、実は犠牲者の数が正確には判らないというようなことは、むしろ普通のことなんです。

◆その時、南京にいた日本兵は何を見たのか

 今日お話したいのは、現場で、そこに居た人が何を見たのか、ということです。これは大事なことです。先ほどの小山内さんのお話も非常に迫力があったのは、実際に現場で小山内さんがご覧になったことだからです。

 当時、南京大虐殺の現場を多くの日本人が見ているはずなんです。当然そこには多くの日本兵が参加しているわけですから。実は新聞記者も見ているはずなんですが、新聞記者でそれをはっきり記録に残している人はいません。ましてや当時の新聞には、南京に行った記者のそのような報告は載せられていません。しかし、載せられていないから、その人たちが何も見なかったのかというと、決してそうではありません。当時、軍人が残した日記の中には、しばしば新聞記者が出てきます。ですから、新聞記者が現場にいて状況を見ていたことは確かなんです。しかし、戦争と言論の統制というのはセットになっていて、そこで見たことを新聞記者は書けないんです。それを記事にしたところで採用されないわけですから、最初から記事にしないんです。

 まず現場を見てみようと思います。レジュメに南京の地図があります。南京というのは、ちょうど揚子江に面していて、日本軍はこれを包囲するように南の方、それから東の方、そして揚子江の北側からも侵攻して、まさに南京を包囲する形で布陣しています。

 それで、最初に日記を残しているのは、16師団──16師団というのは、地図に16Dと書いてある部隊です。南京の東の方から侵攻していった師団です。これは京都の師団です。この師団長が日記に残しているんです。南京攻略戦を指揮した第16師団長、中島今朝吾という人の日記です。

南京攻略戦を指揮した第16師団長・中島今朝吾中将の日記

出典:「南京攻略戦『中島師団長日記』」『歴史と人物 増刊 秘史・太平洋戦争』(1984年)261頁。

 19371213日の日記です。師団長ですから当然、師団司令部で指揮を執っているわけです。13日は南京陥落の日ですから、南京のすぐ外側に司令部があったと思われます。「一、本日正午、高山剣士来着す」(読み易くするため、日記を現代用語ふうに直しています。以下、日記は同様)。──剣士というのですから、すごい剣道の達人なんでしょうね。「時あたかも捕虜七名あり。直ちに試し斬りを為さしむ」。まず司令部に連れて来た捕虜7名を試し斬りさせた。その剣士という人の腕前を確かめるために、それだけのために捕虜7名を斬らせたのです。

 「到るところに捕虜を見、到底その始末に堪えざる程なり」。投降した中国兵がいっぱい居て始末に負えない、ということです。その次ですが、「大体、捕虜はせぬ方針なれば」と言って、捕虜に取ることはしない方針だ、と言っています。国際法上はすでにジュネーブ条約というものが1929年に締結されています。日本は批准していないのですが、戦時においては捕虜を確保した方がそれを保護する義務がある。しかし、捕虜はしない方針だ、と言うんです。「片端より之を片付くることとなしたれども、中々実行は敏速には出来ず」。捕虜にはしない、片っ端から片付けろ、ということです。「片付ける」ということはどういうことなのか、段々判ってきます。

 「一、佐々木部隊」──これは16師団に属している一つの大隊なんです。「佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、その仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり。尚続々投降し来る」。ここで「処理」と言っています。一個大隊は800人ぐらいですが、その人数で15千人を処理したと言っている。それから一中隊、200人ぐらいでしょうか、それで1300人ぐらい処理した、と言っています。

 で、どんどん捕虜が増えてきて、「この七、八千人これを片付くるには、相当大なる壕を要し」──壕というのは、穴のことです。「中々見当らず。一案としては百、二百に分割したる後、適当の箇所に誘(いざな)いて処理する予定なり」。16師団は内陸の方から攻めてますから、河がない。そうすると「処理する」というのは、殺害して穴に埋めてしまうということです。70008000人の人間を埋める穴はないから、分割して埋めると言っているわけです。こういう遺体は、のちに掘り出され骨になったものが発見されています。

 ここでは計画的に、最初から捕虜にしないで殺害して埋めてしまおうということを、師団長が言っているわけですから、この方針であったということが分かります。

 もう一つ、別の日記があります。

 今のは師団長、中将ですから、偉い人です。現場に直接行って殺しているところを見ているわけではありません。ですから、現場で見たわけじゃないじゃないか、という批判もあるかもしれませんので、もう一つ別の日記を紹介します。第13師団山田支隊、これは山形の部隊です。この部隊に所属した現場指揮官、将校が日記をつけています。それが次の第13師団歩兵第65聯隊第4中隊の少尉であった宮本省吾という人の日記です。

現場指揮官1/第13師団歩兵第65聯隊第4中隊少尉・宮本省吾の日記

出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)134頁所収。

 これは南京陥落後のものです。19371216日。「警戒の厳重は益々加はり。それでも午前十時に第二中隊と衛兵を交代し、一安心す」。これは、中隊が捕虜が脱走しないかどうか見張っているのですが、衛兵を交代してちょっと一安心だ、ということです。

 「しかしそれも束の間で、午食事中に俄に火災起り、非常なる騒ぎとなり、三分の一程延焼す」。これは、捕虜を収容していた所で火事が起きて、大変なことになった。で、この捕虜をどうするのか。このままだと手間がかかる。食事も与えなければいけない。それで、「午后三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜約三千を揚子江岸に引率し、これを射殺す。戦場ならでは出来ず、又見れぬ光景である」と記しています。捕虜を監視しているのが大変だから、もう殺してしまおうということになり、揚子江岸に引率していって射殺した、というのです。

 捕虜を管理するのが大変だから殺してしまうというのは、実は映画『硫黄島からの手紙』でも描かれていました。あれはアメリカ兵が捕虜にした日本兵を捕まえて、面倒くさいから撃って殺すというものでしたが、これはもっと大規模です。

 次は1217日、翌日のものです。

 この日は、南京の入城式というものが行われています。「本日は一部は南京入城式に参加」。これは映像でも残っています。日本側が撮った映像でも、ずいぶん荒涼として所を松井石根司令官をはじめとして馬で行くシーンが残っています。一部分は南京入城に参加したのですが、「大部は捕虜兵の処分に任ず」。つまり大部分の兵隊には捕虜の処分を命じたということです。「小官は八時半出発、南京に行軍。午后晴れの南京入城式に参加、荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た」。この人は将校で、入城式に参加したんです。

 しかし、午後に帰ってきて、「夕方ようやく帰り、直ちに捕虜兵の処分に加はり、出発す」ということで、南京入城式が行われているその当日、一方では、揚子江岸で捕虜を処分していた。「二万以上の事とて、ついに大失態に会い、友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一、傷者二に達す」とあるのですが、これはどういうことかというと、多くの捕虜を機関銃で撃った。ところが日本側がぐるっと囲んで撃ったものですから、向こう側にいる日本兵に当たってしまった。大失態とは、そのことを言っているんです。取り囲んで味方を撃ってしまい、それによって死んだ人もいた。「中隊死者一、傷者二に達す」ということですから、日本軍にとっては確かに大失態です。

 翌1218日、「昨日来の出来事にて、暁方ようやく寝に就く」とあります。射殺で時間がかかって、明け方までかかった。それでようやく寝に就いた。「起床する間もなく昼食をとる様である。午后、敵死体の片付けをなす。暗くなるも終らず、明日又なす事にして引き上ぐ。風寒し」。前日一日かけて射殺をして、死体の片付け(揚子江に流すこと)をした。しかし一日やったけど終わらなくて、また明日やることにした、というのですから、死体はすごい数だということです。「二万人以上の事」と、この宮本さんは聞いていたというんです。

 1219日になると、「昨日に引続き、早朝より死体の処分に従事す。午后四時迄かかる」と書いています。この日も揚子江に遺体を流す作業をやっていたと言うんです。

 これらを見ると、17日の南京入城の前日から組織的に捕虜の殺害が行われて、19日までの4日間、この13師団は一生懸命に捕虜の遺体を揚子江に流す作業をやっていたということが判ります。先ほどお話した、犠牲者の数が判らないというのは、ここなんです。このように無秩序に殺した遺体を、どんどん流してしまった。こんな状況(射殺された遺体が放置されている)がずっと人目に晒されるのはよろしくないので、大急ぎで遺体を流すということをやったために、また、誰も記録を付けているわけでもないので、そこで亡くなった人の数がどれくらいかが判らないのです。

 この日記は確かに現場の指揮官の記録なので重要です。これだけでも虐殺はなかった、なんてことはとても言えません。しかし、この人自身は手を下していない。この人自身は現場の指揮官で、兵隊に「やれ」と言って指揮はしているのですが、具体的に自分が手を下しているわけではありません。

 では、手を下した人は記録を付けているのかということですが、その前にもう一人、将校の日記を挙げておきました。

現場指揮官2/第13師団歩兵第65聯隊第8中隊少尉・遠藤高明の陣中日記

出典:前掲『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』219220頁所収。

 これも、先ほどの宮本さんと同じ事件を記録しています。つまり、一人の記録では不十分だと思いましたので、第13師団歩兵第65聯隊第8中隊の少尉である、遠藤さんという人の日記を挙げました。この人は中隊が違いますので、同じ現場には居たんだと思いますが、ちょっと違う作業をやっていたのかも知れません。

 1216日、先ほどの宮本さんの日記でも火事があったという日です。「定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く」。もう戦闘は終わっていることが分かります。「午後零時三十分、捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ、同三時帰還す。同所において、朝日記者横田氏に逢い、一般情勢を聴く」と書いてあります。まさに現場に新聞記者がいたんですね。「捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し、I(=第一大隊)において射殺す」。この日記を見ると、この人は現場で新聞記者に会っているんです。逆に新聞記者から捕虜の数が17025名だということまで聞いています。しかも軍命令が出て、捕虜の3分の1をまず射殺せよということになったというんです。

 どうしてこんなことになってしまったのか。さっき火事が起こって収容が困難になったということが出てきましたが、このあとに「一日二合宛給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養し居る今日、到底不可能事にして、軍より適当に処分すべしとの命令ありたりものの如し」とあります。要するに、兵隊自身も自ら食べ物を徴発している状態だから、ましてや捕虜に与える食料はない。ですから、「適当に処分すべし」という命令が出た、というんです。

 で、1217日ですが、「17日、幕府山頂警備の為、午前七時兵九名を差し出す」。「幕府山」というのは日本側が適当に付けて呼んでいる名前のようです。命令されて、警備のためにこの中隊からも兵を出したということです。「南京入城式参加の為、十三D(=第13師団)を代表して、R(聯隊=第65聯隊)より兵を堵列せしめらる」。堵列というのは、銃剣を持ってずらっと並ぶことです。「午前八時より小隊より兵十名と共に出発、和平門より入城。中央軍官学校前、国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く」。この人も入城式に参加したわけですね。「途中、野戦郵便局を開設、記念スタンプを押捺し居るを見、端書(ハガキ)にて×子、関に便りを送る。帰舎午後五時三十分、宿舎より式場間で三里あり、疲労す」。帰るのに時間がかかって疲れたというんですね。つづいて「夜、捕虜残余一万余処刑の為、兵五名差出す」とあります。この人の第8中隊からも捕虜を処刑するために兵を出した。「本日、南京にて東日出張所を発見」──東日というのは、東京日日新聞、現在の毎日新聞です。さっきは朝日新聞の記者が出てきましたが、ここでは東日新聞の出張所を発見。「竹節氏の消息をきくに、北支より在りて皇軍慰問中なりと。風出て寒し」。ここでも新聞関係の出張所があったということが証言されていて、同じ日に捕虜1万余を殺すために兵を差し出したということが書かれています。

 これも指揮官ですから、自ら手を下したという人ではありません。

 もうちょっと見てみましょう。同じ第13師団で、この同じ事件を日記に残していた人が他にもいます。現場の下士官──兵隊を指揮する立場で、一番現場に近い人です。第13師団山砲兵第19聯隊第8中隊の伍長であった近藤栄四郎という人の日記です。

現場の下士官/第13師団山砲兵第19聯隊第8中隊伍長・近藤栄四郎出征日記

出典:前掲『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』325326頁所収。

 1216日「午前中給需伝票等を整理する。一ヶ月振りの整理の為、相当手間取る。午后南京城見学の許しが出たので、勇躍して行馬で行く。そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る」。「徴発」というのは、お金を払って持ってきたという感じではないですね。買ったのなら、購入して帰ると書きます。でも「徴発」でも本当はお金を払わなければいけないんです。しかし当時の日本軍の感覚では、勝手に持ってくるというイメージです。「丁度見本展の様だ。お陰で随分酩酊した」と書いてあります。おそらく随分たくさんお酒を持ってきたんですね。

 「夕方、二万の捕虜が火災を警戒に行った中隊の兵の交代に行く」。ちょっと文章が混乱していますが、「遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し、護衛に行く。そして全部処分を終る。生き残りを銃剣にて刺殺する」とありますので、この人は実際に行って、生き残りの人を銃剣で刺したんですね。

 「月は十四日、山の端にかかり、皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨(いたま)しさこの上なし。戦場ならざれば見るを得ざるところなり。九時半頃帰る。一生忘るる事の出来ざる光景であった」というんですから、戦場慣れしている下士官の近藤さんも、あまりの痛ましさに、さすがに心を痛めています。同じ光景に遭遇しても、こういうふうに心を痛めている人もいたわけです。この人は実際に「生き残りを銃剣にて刺殺す」とありますので、そういうことが行われていたまさにその現場にいたということです。

 では、もう一歩近くにいた人はいないかということで、次の日記を見てみます。これも同じ事件ですが、兵士の日記が残っています。

現場の兵士/第13師団山砲兵第19聯隊第III大隊・大隊段列上等兵・黒須忠信の陣中日記

出典:前掲『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』350351頁所収。

 第13師団山砲兵第19聯隊の第III大隊・大隊段列──大隊段列というのは輸送部隊のことです──上等兵であった黒須さんという人の当時の日記です。

 1216日晴。「午后一時、我が段列より二十名は残兵掃蕩の目的にて、幕府山方面に向かう」。もう戦闘は終わっていますので、これは警備のためなんでしょう。「二、三日前、捕虜にせし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し、機関銃を以て射殺す」。機関銃で殺したとありますから、かなり具体的ですね。このときに、さっきの将校の日記によると、向こう側にいる日本兵に当たって、日本側にも死者が出ています。

 「その后、銃剣にて思う存分に突刺す。自分もこの時ばかりと、憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう」とあります。この人は、先ほどの伍長と違って、あまり痛ましいとは思っていません。このときとばかり思い切り突刺した、と書いてます。

 「山となって居る死人の上をあがって突き刺す気持は、鬼をもひしがん勇気が出て、力いっぱいに突き刺したり。うーんうーんとうめく支那兵の声。年寄りも居れば、子供を居る」。これは解釈がちょっと難しいところです。「年寄りと子供」と言っていますが、兵隊にしては年寄りで、兵隊にしては子供なのか、それとも本当に年寄りと子供なのか、どっちにも取れますが、「一人残らず殺す。刀を借りて、首をも切って見た。こんな事は今まで中にない珍らしい出来事であった。××少尉殿並に×××××氏、×××××氏等に面会する事が出来た。皆無事、元気であった。帰りし時は午后八時となり、腕は相当つかれて居た」と書いてありますから、相当殺したんでしょうね。

 この人は先ほどの伍長と違って、あまり良心の呵責がなかったようで、大いにやったという、なにか随分興奮して書いています。この人はまさに現場で、最後に止めを刺したという、そういうことを語っています。これが虐殺の現場中の現場にいて、現場で事を行った人の日記です。

 以上の日記は、同じ13師団で、同じ事件について記したものですが、記した人の立場が違います。将校と下士官と兵隊の3段階で、命令する人、現場を監督する人、そして実際に手を下す人です。

 どの段階でもこういう日記が残っているということは、まったく否定の余地がないということです。詳細に見るとちょっとずつ数が違っていたりすることはありますが、数千人を一つの単位として、機関銃で殺害しているということは分かります。ですから、どう解釈しても、虐殺がなかったとはおよそ言えない。こんなにみんなが揃って幻を見ていることはあり得ないことです。しかも実際に手を下した人が証言しているわけですから。

 ところが、同じ現場を見た人でも、実際にその虐殺が起ったその場に居合わせなかった人は、同じ日本兵でも違った印象を持った場合があるんです。

事件直後に到着した兵士/第16師団輜重兵第16聯隊輜重兵特務兵・小原孝太郎の日記

出典:江口圭一・芝原拓自編『日中戦争従軍日記─輜重兵の戦場体験─』(法律文化社、1989年)143頁。

 例えば、事件直後に到着した兵士の日記として、第16師団第16聯隊の輜重兵であった小原孝太郎という人の日記があります。この人は、虐殺事件のあった直後に、後方から輸送部隊としてやってきて、1224日に南京に到着しています。

 この人は、先ほどの13師団の虐殺現場に近いところを通っているんですが、こういうことを日記に残しています。

 「さて、岸壁の下をのぞいたら、そこの波打際の浅瀬に、それこそえらい物凄い光景をみた。なんと砂の真砂でないかとまがう程の人間が、無数に往生しているのだ。それこそ何百、何千だろう。南京の激戦はここで最後の幕をとじたに違いない。決定的のシーンだ。数え切れない屍体が往生している。敵はここまで来て、水と陸よりはさみ打ちに逢って、致命的な打撃をうけたわけなのだ。わが南京陥落は、かくて成ったわけである」。

 この人は、ここで最後の決戦が行われて、多くの戦死者がここで横たわっているんだと受け止めています。しかし、たぶん現実は違います。組織的に殺害された人が、まだ流されないで山積みになっていたんです。

 こういうふうに、同じ日本兵で、同じ現場を見たという人でも、ちょっと時間的にズレがあると、印象が違うんです。このあと南京に到着したような人は、同じ日本軍であっても、あるいは同じ虐殺の現場をチラッと見ても、必ずしもそれがこんなに組織的に殺害されたものであると受け止めていない人も結構いるんです。このあたりが、記録のなかなか難しいところです。

◆虐殺は非常に組織的に行われていた

 ここで示したのは、16師団と13師団の2つの記録だけですが、当時の南京攻略戦には7個師団の部隊が参加していて、それぞれ担当場所を変えて攻略していますので、この16師団と13師団だけが特殊であったとも思えません。というのは、捕虜がどれくらい出たかということを報告している部隊は、ほとんどないからです。それは、大抵の部隊がこの16師団や13師団のように捕虜を現地で処理したということです。

 ただ、全部殺したわけではなく、最後に挙げた小原さんによると、捕虜になった中国兵をすぐさま苦力(クーリー)──荷物持ちの労働者として使っている部隊があったというふうに日記に残しています。ですから、捕虜にした人たちをみんな殺したというわけではなくて、中には部隊長の判断で荷物持ちに使ったという部隊もあったということです。

 そういう点でいうと日本軍のすべてというわけではないのですが、しかし彼らの日記を見る限りは、虐殺というのが組織的に行われていたということが分かります。それから非常に気になるのは、捕虜だと言われている人の中に相当年齢が違う人が含まれているということです。本当に捕虜なのか。捕虜だと言っているけれど、かなり一般市民が混じっている可能性もあるわけです。

 日本では20万人前後の戦闘員、捕虜、一般市民を殺害したのではないかというふうに言われる場合が多いのですが、そのなかで一番数が多いのは、やはり捕虜の殺害です。1ヶ所に集めて機関銃で撃つというようなことが組織的に行われていたということです。

◆南京事件は慰安婦問題の原点でもある

 虐殺、それから徴発、略奪行為が相当行われていて、これがますます中国人の抗日意識を燃え上がらせました。

 それから、性暴力です。これも南京事件のとき多発したことは明らかで、実は日本軍自身もこれにはちょっと困ったんです。困ったんですが、憲兵が取り締まれないんです。あまりにも無秩序な状態になっていて、憲兵も取り締まれない。もちろん、日本の憲兵と言えども性暴力を許しているわけではないので、中には捕まる人もいる。捕まえて、憲兵隊に連れてこられると、当然その人たちは、別に俺たちだけじゃない、何が悪いんだ、みたいなことを言うわけです。中には起訴される人もいましたが、それは本当にごく一部で、ほとんど野放し状態なんです。

 さすがに、これは日本軍の威信を低下させることだ、と当時の日本軍と言えども考えたようで、その対策として、それだったら慰安所を置こうか、という発想になるわけです。ですから、南京陥落後、中国の戦地には非常にたくさんの慰安所が置かれるようになります。

 日本側としては、そういった激増する性暴力対策として慰安所を置きます。慰安所を作っても、中に誰もいないというわけにはいかないので、当然、「慰安婦」をどこからか供給するということになり、主として朝鮮からということになるんです。ですから南京事件というのは、その後の「慰安婦」問題の、ある意味では原点でもあるわけです。慰安所自体はもっと前からありますが、南京事件以降、これが爆発的に拡大します。

◆南京陥落によっても戦争は終わらず、泥沼化へ

 南京陥落によって、戦争はどうなったのかというと、結局どうにもならなかった。南京は陥落した、しかし戦争は終わらない。ところが日本政府は、これで戦争は終わったと思ってしまったんですね。

 日本政府は、現地でどんなことが行われているのかということを正確には掴んでいませんでした。ですから、外国メディアを通じて、ここで行われたことが部分的にほぼリアルタイムで世界に流されていたのですが、これは中国側の宣伝戦であるというような解釈をして、あまり真剣にこの事態を捉えませんでした。軍の中には、いくらなんでもまずかったんじゃないのか、ということを密かに思っている人がいたようです。その結果が慰安所の設置というような、また別の歪んだ形の解決方法を取っていくわけです。

 南京陥落というのは、日中戦争の大きな節目であり、このあと、翌19381月に、「爾後、国民政府を対手とせず」という声明を出してしまいます。国民政府、つまり蒋介石政権はもう風前の灯で、一地方政権に転落したから、もう相手にする必要はないということで、この声明を出したために、日本は自ら非常に困ることになるんです。「対手とせず」と言ってしまったものの、相手にしなければ戦争を終わらないわけです。最後には話し合いをしなければなりませんから。ところがこの声明を出したために、自ら戦争解決の方法を失ってしまい、どんどん中国奥地に進撃する。武漢三鎮(漢口など3都市)を陥落させれば参るだろう、あるいはここを陥落させたら参るだろう、ということでどんどん奥地に行ってしまうんです。

 しかし、それは無理なんです、どうやっても。なぜなら、日中戦争ではピーク時、約100万の兵力が中国戦線に張り付けられたのですが、日本軍が占領した土地について、単純計算で一人当たりの支配面積を割り出すと、日本兵は1キロ四方に1人なんです。とんでもない戦争をやっちゃったということなんです。そんなの、とても占領地を維持できません。そんな状態なのに、無理やり戦争を続けざるを得ないということで、どんどん焦っていって、英米と対立を深めていって、最初の方でお話したように三国同盟を結んで、武力南進をして、挙句の果てには対英米戦争ということになってしまうのです。

◆映画は時代の空気を現わすことができる

 今日お話した南京事件などは、若い人の中にも、そんなのはいくらなんでも考えられない、というようなことを言う人がいます。それは、当時の空気というものが分からないからなんです。確かにその時代の空気を掴むというのはすごく難しいことです。断片的な事件についてはある程度知ることができたとしても、その時代の空気がどんなものだったのかということを知るのは難しい。しかし映画は、それを再現することができます。

 私は『母べえ』を試写で拝見しましたが、当時の空気をすごく上手く伝えているように思いました。

 しかし、これはそう簡単にできることではありません。大変な準備をしなければいけない。体験者の話を聞けば分かることがありますが、体験者というのはその時代の空気の中にいましたから、当たり前のことを意外に思い出せなかったりします。今の人にとっては、「ええっ、そうだったの?」と思うようなことが当たり前のことだったので、意外に思い出話に出てこなかったりするんです。日記も、当たり前のことはあまり書かないですよね。そういう点で、映画として、映像として再現するというのは、大変な仕事だと思います。

 しかしそれが多くの人に与えるインパクトというのは、すごく大きなものがあると思いますので、今後いろんな映画で〈時代の空気〉がリアルに描かれることを期待しています。これで私の話を終わります。どうもありがとうございました。(拍手)

 (2007128日)

◆◆南京事件の真相

(赤旗15.10.04日曜版)

◆◆南京事件77周年

(以下14.12.13-14赤旗)

◆習主席、批判・友好の双方に言及 南京事件、中国初の「国家追悼日」

20141214日朝日新聞

中国・南京で13日、南京大虐殺記念館で開かれた追悼式典に参列した人々=ロイター

 中国が今年、旧日本軍による南京事件について定めた「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」を迎えた13日、江蘇省南京市で追悼式典が開かれた。中国の最高指導者として初めて式典に臨んだ習近平(シーチンピン)国家主席は、事件を強く批判しつつ、日中両国の友好の必要にも触れた。

 「南京大虐殺記念館」での式典は、昨年までは地方レベルの開催だったが今回から国家レベルに格上げされた。共産党序列3位の張徳江(チャントーチアン)・全国人民代表大会常務委員長ら党幹部のほか、事件の生存者や遺族ら約1万人が出席し黙祷(もくとう)を捧げた。

 習氏は演説で「歴史を顧みない態度と侵略戦争を美化する一切の言論に断固反対しなければならない」と強調。「南京大虐殺の事実を否定しようとしても、30万の犠牲者と13億の中国人民、平和と正義を愛する世界の人々が許さない」などと、事件の犠牲者が30万人に上るとの中国側の立場に改めて言及した。

 南京事件をめぐっては、2010年に公表された日中両国の有識者による歴史共同研究委員会の報告書で、日本側は「20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がある」としている。

 一方、習氏は「少数の軍国主義者が侵略戦争を起こしたことによって、その民族を敵視すべきではない。罪と責任を背負うのは少数の軍国主義者で、国民ではない」と指摘。式典開催について「恨みや憎しみをつないでいくためではない。中日の人民は代々の友好を続け、人類の平和にともに貢献するべきだ」とも述べた。

 11月に2年半ぶりの日中首脳会談が実現。対立を深めた両国に関係修復の兆しが生まれる中、習氏の発言に注目が集まっていた。

 共産党政権は2月、「抗日戦争勝利記念日」(9月3日)と南京事件の国家追悼日(12月13日)を制定。来年を「反ファシズム戦争勝利70周年」と位置づけ、ロシアと記念式典を計画するなど国際社会との連携も強める構えだ。(南京=金順姫、北京=林望)

◆南京事件から77年、中国初の「国家追悼日」 習氏「罪は詭弁では消せぬ」

20141213日朝日新聞

中国・南京で13日、南京大虐殺記念館で開かれた追悼式典で演説する習近平国家主席=ロイター

 日中戦争のさなかに起きた旧日本軍による南京事件から77年となる13日、中国江蘇省南京市にある「南京大虐殺記念館」で追悼式典が開かれた。中国は今年からこの日を「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」と定め、式典には習近平(シーチンピン)国家主席が参列した。

 中国の国家主席が追悼式典に列席するのは初めて。習氏は演説で南京事件を「反人類的な罪であり、時代の推移やうそや詭弁(きべん)で消え失せるものではない」と述べた上で、「追悼式典を行うのは、恨みや憎しみをつないでいくためではない。中日の人民は人類の平和にともに貢献するべきだ」と訴えた。

 習氏は演説の中で、事件の犠牲者が30万人に上るとの中国側の立場を改めて示した。日中両国の有識者による歴史共同研究委員会の報告書(2010年公表)で、日本側は「20万人を上限として、4万人、2万人など様々な推計がある」と記していた。

 午前10時(日本時間同11時)に始まった式典は、国営中央テレビが生中継した。

 式典の開始後、出席者は黙祷(もくとう)し、南京市内では哀悼の意を表するためのサイレンが鳴った。会場周辺では厳しい警備態勢が敷かれ、記念館に近い道路は封鎖されて立ち入りが制限された。

 共産党政権は今年2月、9月3日を「抗日戦争勝利記念日」に、12月13日を国家追悼日にそれぞれ制定し、国家レベルで歴史を重視していく姿勢を改めて示した。「反ファシズム戦争勝利70周年」と位置づける来年にかけ、国際社会にも連携を呼びかけていく構えだ。(南京=金順姫、北京=林望)

◆◆南京事件とは

(小学館百科全書その他)

南京大虐殺(南京事件)は、193712月、中国への侵略戦争の中で旧日本軍が当時の中国の首都・南京を攻略・占領し、中国軍兵士だけでなく、捕虜や一般市民を虐殺した事件。女性の強姦、略奪をはじめ数々の残虐行為が行われた。1937年(昭和121213日、上海派遣軍(司令官朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)中将)・第10軍(司令官柳川平助(やながわへいすけ)中将、杭州の2軍団からなる中支那(しな)方面軍(司令官松井石根(いわね)大将)が、中国の首都南京を攻略した際、中国軍の捕虜・敗残兵および一般市民に対して大残虐を行った。

占領当日から翌日にかけての南京城内外における掃蕩戦では、戦意を失った多数の国兵を掃射によって虐殺し、また以後1週間ばかりの間に、捕虜や、民間人の間に身を潜めていて狩り出された敗残兵(便衣(べんい)兵)の大部分が集団虐殺された。戦死者を含めて中国軍の犠牲者は10万を下らなかったと推測される。これら将兵のほか、掃蕩戦で犠牲になった市民や城外からの避難民、また敗残兵狩りの巻き添えで殺された市民も、少ない数ではなかった。中国軍将兵に対する集団虐殺は明らかに軍命令によるものであった。

 日本軍は21日まではほぼ全軍が城内に駐留し、その後は南京警備軍として1個師団だけとどまったが、軍隊教育で中国人蔑視観を植え付けられていたこと、過酷な急進撃を強いられたこと、集団虐殺の大惨劇を見せつけられたことなどによって、一部の日本軍将兵は凶猛化し、一般市民に対して虐殺・強姦(ごうかん)・略奪・放火と蛮行の限りを尽くし、勝利祭の饗宴(きょうえん)ともいうべきこの蛮行は数週間にわたって繰り広げられた。城内家屋の被害は、軍事行動によるもの1.8%、放火13%(主要実業街は平均32.6%)、略奪63%に及んだ。日本軍は遺棄死体84000と発表したが、現地の慈善団体が組織した二つの埋葬隊の記録によれば、その埋葬数はあわせて155337体に上り、揚子江(ようすこう)岸で集団虐殺されて同江に投棄されたものその他を加えれば、中国軍民の犠牲者は20万を下らなかったものと推測される。

 なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)でも取り上げられず未確認事項であるが、行政区としての南京市に属する揚子江下流各地でも大虐殺が行われたといわれる。上海派遣軍参謀長勇中佐は南京の埠頭地区下関(シャーカン)付近で市民を主とする中国人の大虐殺を命じ、その結果と思われる数万を下らない虐殺死体を実見したという、松井石根大将副官の証言もある。

 この事件の責を負い、極東国際軍事裁判で中支那方面軍司令官松井石根大将が、南京の国防部審判戦犯軍事法廷で第六師団長谷寿夫(ひさお)中将が、それぞれ死刑を宣告、処刑された。なお南京では、南京攻略戦に従軍した将校で三百人斬(ぎ)りを誇称した大尉、百人斬り競争の少尉2人が南京事件関係者として処刑された。

「南京では大量の虐殺はなかった」という反撃が歴史修正主義者たちによって繰り返し行なわれている。しかし虐殺のとき、南京にいた多数のジャーナリストは、それぞれが惨状を記事にしている。ニューヨーク・タイムズのF・T・ダーディン記者は「大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」「犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた」「なかには、野蛮このうえないむごい傷をうけた者もいた」(37年12月17日電)、「塹壕(ざんごう)で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された」(同年12月22日電)と報じています。

 シカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者は「(われわれが)目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた」「この門(下関門)を通ったとき、五フィート(約一・五メートル―訳者)の厚さの死体の上をやむなく車を走らせた」(37年12月15日電)、「私は、日本軍が無力な住民を殴ったり突き刺したりしているのを見た」(同年12月14日電)と報じます。

 米国などの南京駐在外交官も本国に事件の詳細を報告しており、それが東京裁判で南京事件を裁いた際の裏づけとされました。 (『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』青木書店)

 日本では報道統制がしかれたため、国民には事件は伝わりませんでした。しかし、一部高級官僚や軍部は南京の惨劇を知っていました。南京事件当時、外務省の東亜局長だった石射猪太郎は日記に「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪(りゃくだつ)、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍か」(38年1月6日)(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社)と書いています

 現場にいた日本の兵士も証言や日記を残しています。なかでも旧陸軍将校の親睦団体・偕行社(かいこうしゃ)の機関誌『偕行』に1984年4月~85年3月に掲載された「証言による『南京戦史』」は注目されます。「大虐殺の虚像」を明らかにする狙いで偕行社が募集したものでしたが、寄せられた証言は虐殺の実態を生々しく伝えます。

 松川晴策元上等兵は「(中国の)便衣兵が一列にならばされ、(日本の)兵士が次から次へと銃剣で突き刺したり、あるいは銃で撃っているのを見ました。その数は百や二百ではなかった」「土のうと死体が一緒くたになって、約一メートルぐらいの高さに積み重ねられ、その上を車が通るという場面を見ました」と証言しています。

佐々木元勝元上海派遣軍司令部郵便長は日記に「道路近くでは石油をかけられたのであろう。(死体が)黒焦げになり燻(くすぶ)っている。波打際には血を流し、屍体(したい)が累々と横たわっている」(37年12月17日)と書き残しています。

最終回の85年3月号で、編集部の加登川幸太郎氏は「(死者の)膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ないこの大量の不法処理には弁解の言葉はない」と虐殺の事実を認め、「旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫(わ)びるしかない」と謝罪しています。

🔴◆◆南京事件

朝日新聞=昭和史再訪

091010日朝日新聞夕刊紙面より 

日中両軍の激戦地だった中華門はいま市民の憩いの場=南京市

たとえば東京から愛知県豊橋まで。中国の上海から長江をそれだけの距離さかのぼれば南京に着く。滔々(とうとう)とした長江となだらかな紫金山(しきんざん)に囲まれた落ち着いた古都である。

日中戦争開始5カ月後の1937(昭和12)年1210日、上海を前月半ばに制圧していた日本軍は南京総攻撃を開始。12日から、7万人以上の兵士が市街地になだれ込んだ。防衛していた中国国民党軍は西北の長江からの脱出を図る。「残敵掃討」が、すぐに虐殺の動きに変わった。

中国敗残兵は投降の意思を示してもほとんど殺害された。日本の将兵の記録や手記によれば、兵士たちは「戦友のかたきだ」「やっちまえ」と叫びながら刺殺したり首を切ったりした。手記には「返り血で染まった顔は赤鬼のよう」「常人の表情ではなく」という記述もみえる。

「中国兵が軍服を脱いで市民に姿を変えている」と疑った日本軍は市街地の建物をしらみつぶしに調べ、兵士とみなした男たちを連行した。目つきが鋭い、軍帽をかぶった跡がある――など、根拠は明確なものではなかった。連行された市民、捕虜や投降兵たちが長江近くの下関(シアコワン)地区などで数百人、時には千人以上の規模でまとめて殺害された。

日本敗戦後の東京裁判で、南京事件責任者として絞首刑に処された松井石根(いわね)陸軍大将(事件当時中支那〈なかしな〉方面軍司令官)は処刑前、「(371220日ごろ)司令官として泣いて怒った」と述懐した。だが現地軍トップも統制できない状況は1カ月半以上も続いた。

中国は「犠牲30万」主張、日本に異論

1937(昭和12)年1213日、当時中華民国国民政府の首都だった南京を総攻撃していた日本軍は市内を制圧。政府庁舎に日章旗を立て「南京陥落」とした。日中両軍は同年7月に北京郊外・盧溝橋で衝突。8月の上海での戦闘で全面戦争に突入していた。

南京制圧後、日本軍は投降兵や捕虜、一般市民を多数殺害。傷害や女性への暴行、物資略奪も頻発。無秩序な状態は381月まで続いたが、当時の日本では報道されなかった。日本敗戦後に中国側は犠牲者を「30万人」とし、中国政府はいまも同様に主張。一方、日本の研究者の間では「4万~20万人近くが犠牲になった」との見方が主流。日本政府は「正しい数を認定するのは困難」としている。

19371213日東京朝日新聞朝刊2

事件当時の多数の遺体の写真、発掘された人骨など様々な資料が展示されているのが「南京大虐殺記念館」だ。平日にも1万人近い参観者が中国各地から訪れて、展示品を食い入るように見つめている。

参観して、日本人としていたたまれない気分になった翌日、南京師範大学日本語学科主任教授の季愛琴さんに会った。大学卒論に川端康成、修士論文には種田山頭火の自由律俳句を選んだ。藤あや子、水森かおりの演歌も大好き。長男も日本のアニメのファンだ。「日本の文化を知って私の人生はずいぶん豊かになりました」と話す。

「南京事件で一番怖いのは、人が理性を失うとどんな恐ろしいことでもできたという事実です。人にそういうことをさせた戦争について、すべての国の人間が考え続けなければいけません。日本人も中国人も」

日本軍の南京攻略の突破口となった中華門は15世紀の明代に築かれた。中国の都市は古代から、外敵を防ぐために「城」と呼ばれるれんが造りの高い壁で囲まれた。出入り穴の抜かれた城門は防御の要。20世紀の戦争でもなお現役で使われていた中華門を撃破した日本兵たちは、高さが20メートル近い城壁の上で、日章旗を立てて万歳をした。

万歳の場所で壁に手を当ててみた。中国史の厚みをそのまま伝えているかのような分厚さだ。ここに立った日本兵にもこの手ざわりがあったのだと思うと、その等身大の姿がぼんやり浮かんでくるようだった。彼らも戦場に出るまでは、ごく当たり前の人たちだった。

(南京=永持裕紀)

1930年代の日本の外交と軍事を研究する歴史学者(東大教授)

加藤陽子さん

◆極限に置かれた兵士たち

日中戦争期の日本側の史料には、中国を見下す表現が多々あります。中国を正式な戦争相手国とはみなさず、条約の不履行など「悪いこと」をした中国へ日本は報復しているのだとの感覚でした。軍部も政府も、武力で威嚇すればすぐ屈服するとみていた。

ところが378月に上海で戦闘が本格化すると、中国軍は強かった。8月以降の3カ月間で日本陸軍の死者は9千人以上にのぼりました。満州事変(31年)以来の抗日意識の高揚と、蒋介石が主導してドイツから購入した最新兵器が威力を発揮していたのです。

では、苦しみながら上海で激戦を制し、南京に向かった日本兵はどんな人たちだったか。1回目の徴兵を終え、家族や仕事がありながらまた召集された予備役(よびえき)や後備役(こうびえき)の兵士が約7割を占めていました。若くて20歳代後半。軍中央は、より若い兵からなる屈強部隊をソ連との戦闘用に温存し、弱いとみた中国との戦線には「老兵」といっていい彼らを投入したのです。

「南京一番乗り」を競わされた兵士たちは重い背のうのまま毎日数十キロ歩きました。食糧は中国人から略奪。戦いが一体いつ終わるのか分からないまま、倒れる戦友を目の当たりにする……。極限状況に置かれた人間の心理が南京での残虐行為の背景となった可能性があります。今後の大きな研究課題でしょう。

◆◆日本軍が中国人3万人を虐殺 廠窖事件、事実を広く 記念館再開

───父殺された男性「友好を大事に 絶対戦争はいけない」

2015105()赤旗

 第2次世界大戦中、日本軍が中国南部の湖南省南県廠窖(しょうこう)で行った虐殺をテーマにした「廠窖惨案遇難記念館」が、このほど約1年の改修を終え再オープンしました。1943年5月に同地域に侵略した日本軍は、中国側の研究によると、5月9~11日の3日間で3万人を虐殺。歴史の事実を伝える記念館に多くの人が足を運んでいます。(廠窖〈中国湖南省〉=小林拓也 写真も)

(写真)再オープンした廠窖虐殺事件の記念館を参観する人たち=9月13日

 2010年に開館した同記念館は改修をへて、展示面積が今までの2倍の1600平方メートルに拡大。350枚以上の写真、160件以上の展示品が飾られています。南県政府は改修のため、1500万元(約2億8200万円)を投入しました。

◆南京大虐殺に次ぐ

 国民党軍の敗残兵や難民、現地住民ら3万人が犠牲になったとされる廠窖虐殺事件は、中国大陸での日本軍による虐殺の中で、南京大虐殺に次ぐ規模の事件です。

 しかし農村で起きた事件で、南京と違い外国人の目撃者もなく、中国国内でもほとんど知られていませんでした。写真など当時の資料もほとんど残されていません。

 記念館の郭衛館長は「引き続き生存者の証言を集め、整理していきたい。戦闘に参加した日本兵の陣中日記など日本側の資料も収集したい」と語ります。

 いまも健在な事件の生存者は約30人。ほとんどが80歳以上です。

◆川は血で真っ赤に

 生存者の1人である馮秋生さん(81)は当時9歳。43年5月9日、多くの難民が自宅近くの川の周辺に生えていたアシの中に身を隠していたところ、日本軍機が上から爆弾を投下した場面を目撃しました。

 約1000人が殺され、川の水は血で真っ赤に染まり、100メートルほどの幅の川面は死体で埋まったといいます。

 当時7歳だった温正坤さん(79)は、日本兵にひざまずかされた父親(当時46歳)が銃剣で刺し殺されるのを目の前で見ました。3人の兄も日本兵に切られて負傷し、そのうち一番上の兄は障害が残りました。

 温さんはこう強調します。「過去の歴史を恨みとするのではなく、教訓にして、中日友好を大事にしたい。中国と日本は絶対に戦争してはいけない」

◆廠窖虐殺事件 中国を侵略した日本軍が1943年5月9~11日に湖南省南県廠窖で起こした虐殺事件。中国側の調査によると、南北10キロ、東西5キロの50平方キロの範囲を中心に3万人以上が死亡。当時、日本軍は長江(揚子江)の水運を確保するための江南せん滅作戦を展開。湖北省南部から湖南省北部の国民党軍をせん滅する過程で、民間人も無差別に虐殺したとみられています。

──────────────────────────

🔵日中戦争とはどういう戦争か

──────────────────────────

🔵日中戦争とは

小学館百科全書

1937年(昭和127月の盧溝橋(ろこうきょう)事件に始まり、19458月日本の降伏で終わった、日本と中国との全面戦争。日中十五年戦争という場合は、19319月の満州事変を起点とする。中国では一般に抗日戦争とよぶが、第二次中日戦争という言い方もある。

 日中戦争は、第二次世界大戦の東アジアにおける導火線であり、一貫してこの大戦の重要部分を占めた。[安井三吉]

発端

193777日の盧溝橋事件が発火点であるが、当初「北支事変」と称したように、日本にとり局地的解決の機会は何度もあった。しかし、一撃で中国を降伏させる、あるいは、「膺懲(ようちょう)」のために増派せよという拡大論が政府、軍部、マスコミをリードし、ずるずると全面戦争へと進んでいった。杉山元(はじめ)陸相などは「1か月ぐらいでかたづく」といっていたが、それは中国の抗戦力を完全に見誤るものであった。日本は711日の「華北派兵声明」に基づき、朝鮮、満州から送り込んでいた部隊に加え、同月末さらに日本から増派した3個師団をもって北平(ペイピン)(北京(ペキン))、天津(てんしん)一帯を一挙に制圧した。即時抗戦を主張する中国共産党に対し、なお和平に賭()けていた国民党政府の蒋介石(しょうかいせき)も、ついに29日、「最後の関頭」(和平が絶望的となり、抗戦の避けられない事態)に至ったことを表明した。89日、大山中尉事件(海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が上海(シャンハイ)の虹橋(こうきょう/ホンチャオ)飛行場付近で中国の保安隊に射殺された事件)が起こるや、日本は上海一帯にも続々と部隊を投入、13日ついに交戦状態に突入、上海事変(第二次)を起こすに至った。[安井三吉]

全面化

814日、国民政府は「自衛抗戦声明書」を発表、翌15日中国共産党も「抗日救国十大綱領」を提起した。日本も同日、上海派遣軍を編成する一方、戦争宣言ともいうべき「盧溝橋事件に関する政府声明」を発表、ついに全面戦争へと踏み切り、92日には「北支事変」の呼称を「支那(しな)事変」と改めた。

 他方、ソ連は821日国民政府と「中ソ不可侵条約」を結び、武器・弾薬の援助に乗り出すが、米・英の日本に対する態度は、この時点ではきわめて宥和(ゆうわ)的なものであった。この間、国共間の合作態勢は急速に進み、8月、華北の紅軍は国民革命軍の八路(はちろ)軍に改編され、前線に出動した(華中の紅軍は10月新四軍に改編)。9月陝甘寧(陝西(せんせい)・甘粛(かんしゅく)・寧夏(ねいか))辺区労農政府も陝甘寧辺区政府と改称、同月下旬中国共産党は第二次国共合作と抗日民族統一戦線の成立を宣言した。「蒙疆(もうきょう)」(察哈爾(チャハル)・綏遠(すいえん)地方)に入った関東軍は、大きな抵抗も受けず、8月末張家口(ちょうかこう)9月大同、10月綏遠、包頭(パオトウ)を占領、11月張家口に傀儡(かいらい)組織蒙疆連合委員会を組織した。華北では、831日北支那方面軍が編成され、平型関(へいけいかん)で敗北したものの、9月保定(ほてい)11月太原(たいげん)12月済南(さいなん)と占領地を拡大、同月、北平に傀儡政権中華民国臨時政府をつくった。華中では、中国側の激しい抵抗を受け、11月上海を占領したときには、日本軍の戦死傷者は4万に達していた。同月7日中支那方面軍が編成され、12月南京(ナンキン)を占領した。このとき日本軍は大虐殺事件を引き起こした。この事件で「二十万を下らない中国軍民の犠牲者が生じた」(洞富雄(ほらとみお)著『決定版南京大虐殺』)との説もある。この事件は国際世論の厳しい批判を招き、中国の抗戦意識を一段と高めるものとなった。国民政府は11月すでに首都を南京から重慶(じゅうけい)に移しており、南京占領によって中国を屈服させるという日本の当初の企図は実現しなかった。しかし南京占領、臨時政府の成立をみた日本は、19381月、ドイツの駐華大使トラウトマンを仲介にして進めていた和平工作を打ち切り、同16日「爾後(じご)国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」という同政府「抹殺」の第一次近衛(このえ)声明を発表するなどして、交渉による解決の道を自ら閉ざした。2月には中支那派遣軍が編成され、3月南京に傀儡政権中華民国維新政府を樹立した。「戦面不拡大」の方針とは裏腹に、同月台児荘(たいじそう)で敗北するや、5月徐州(じょしゅう)10月武漢(ぶかん)、広州(こうしゅう)をも攻略、戦線を揚子江(ようすこう)中流、華南にまで拡大した。[安井三吉]

持久戦

1年余の間に日本軍は、中国の主要都市と交通路のほとんどを占領したが、それはいわば「点と線」の支配にすぎず、広大な農村や四川(しせん)省などの奥地は支配できなかった。戦線は延び切り、これ以上大規模な作戦を展開する力は乏しくなっていた。そこで日本軍は占領地確保に重点を置き、兵力漸減の方向を打ち出すが、その実行は困難であった。他方中国側にも、全面的反攻に出るだけの力はまだ形成されていなかった。こうして軍事的均衡に至り、戦争は持久戦となった。

 193811月、日本は国民政府否認を改め、「東亜新秩序」形成を提唱する第二次近衛声明を発表した。軍事的解決の見通しがたたない以上、日本には政治工作によって戦争収束を図るしか道はなくなっていた。すでに日本は、臨時政府、維新政府などを軍の力でつくりあげていたが、これらの政府に加わった者は中国人の支持を得られるような人物ではなかった。そこで、国民党親日派の大物汪兆銘(おうちょうめい)を重慶から「脱出」させ、19403月南京に「中華民国国民政府」を樹立させた。これに先行して、19399月「軍事及び政治工作を統轄し、汪政権樹立工作、他方での重慶工作を促進するため」(防衛研修所戦史室著『北支の治安戦1』)支那派遣軍総司令部が設置されている。汪は、国民党の旗を掲げ、三民主義を信奉、孫文(そんぶん)の継承をうたったが、日本の傀儡政権であることに変わりなく、中国人は彼らを「漢奸(かんかん)」(民族の裏切り者)とさげすみ、その打倒をねらった。日本は汪政権と194011月「日華基本条約」なるものを結び、戦争解決を企図したが、この政権は中国の国民を代表し実力をもつ政権ではなかったから、それはまったくの徒労に終わった。[安井三吉]

解放区

中国共産党は1940年の百団大戦などを例外とし、主として遊撃戦術を駆使して日本軍と戦いつつ、解放区を建設、拡大していった。解放区は抗日民族統一戦線の模範地域とすることが目ざされた。農民を主体としたひとりひとりの民衆の立ち上がりが、中国の抗戦力の奥深い源泉であった。日本軍は、正規軍との戦いのほか、このような広範な人々と対決しなければならなかった。解放区は、1941年から翌年にかけて、殺し尽くす(殺光)、焼き尽くす(焼光)、奪い尽くす(搶光(そうこう))の三光政策を伴った日本軍の激しい攻撃と国民党軍の締め付けにより、一時大幅な縮小を余儀なくされた。しかし、解放区は1945年春には、全部で19、面積約100万平方キロメートル、人口約1億を擁するまでに発展した。この間、毛沢東(もうたくとう)の「新民主主義論」(19401月)の発表などがあり、解放区では、中国共産党の物的・人的な基盤が形成されていった。[安井三吉]

国共関係

比較的順調だった国共関係にも、武漢喪失(193810月)前後からさまざまな矛盾、対立が表面化する。国民党に対する日本の政治工作に加え、解放区拡大など中国共産党の勢力拡大に国民党が危惧(きぐ)を抱き始めたためである。1939年以降国民党は、中国共産党の活動に対する制限を強め、武力弾圧すら惹起(じゃっき)した。その最大の事件は19411月の皖南(かんなん)事件(安徽(あんき)省南部で国民党軍が新四軍を襲撃した事件)であった。このときは、中国共産党が国民参政会への出席を一時拒否するなど国共関係は著しく悪化したが、かつてのような全面内戦の状態に戻ることはなかった。[安井三吉]

兵站基地

日中戦争の泥沼からの脱出を、日本は「南進」に求めた。ヨーロッパにおけるドイツ軍の電撃的勝利は、このような方向に弾みを与えた。1941128日、日本は太平洋戦争に突入した。このときすでに日本は、中国との戦いで戦死者約18万、戦傷病者約43万を出していた。

 太平洋戦争の初戦における勝利は華々しかったが、早くも19426月、ミッドウェー海戦で主力空母4隻を失うという大敗北を喫した。米・英との戦端を開くや日本は、中国戦線から兵力の一部を引き抜いて南方へ転出させなければならなくなり、中国に対する軍事的勝利の可能性はいよいよ遠のいていった。日本は、中国の豊富な資源を米・英との戦いに動員し、中国を「大東亜戦争」の兵站(へいたん)基地化した。一方、日米交渉の最後の焦点が、日本軍の中国からの全面撤収にあった(ハル・ノート)ように、開戦前後から米・英は中国支持を明確化し、ビルマ・ルートなどの援蒋ルートを通じて国民政府に対する軍事援助を本格化させた。[安井三吉]

降伏

揚子江中流の要衝宜昌(ぎしょう)への攻撃、重慶・成都(せいと)への空爆(1940)、華北での中原(ちゅうげん)会戦(1941)、華中での長沙(ちょうさ)作戦(19411942)、浙(せっかん)作戦(1942)、そして大陸打通(だつう)作戦(1944)など、日本はなお幾度かの大規模な作戦を試みたものの、ついに中国を屈服させることはできなかった。それは、長期にわたった中国の人々の抗戦を基礎に、ソ連・米・英の援助、さらに解放区・国民党地区での日本人の反戦運動、朝鮮人の抗日闘争などの国際的支援があったからである。そして19458月、アメリカの2発の原爆投下、ソ連・モンゴル軍の参戦により、日本はついに降伏した。降伏文書の調印は92日行われたが、中国では翌3日を「抗日戦争勝利記念日」としている。支那派遣軍は99日南京で、第10軍は1025日台北でそれぞれ中国軍に投降した(関東軍は極東ソ連軍に投降)。こうして中国の日本軍約200万はすべて降伏した。中国(満州・台湾を含む)に展開した日本軍の戦死者は約54万人に達した。「満州国」と南京の「中華民国」は、日本降伏とともに崩壊した。植民地台湾、澎湖(ほうこ)列島、租借地関東州はすべて中国に返還された。中国に渡った約200万の一般日本人も、そのほとんどが帰国することになった(ソ連の対日参戦後、満州において、戦闘、襲撃、病気、飢餓、自殺などにより亡くなった日本人は約18万人である)。こうして、18941895年(明治2728)の日清(にっしん)戦争以来の中国に対する侵略と植民地支配の歴史に終止符が打たれたのである。[安井三吉]

惨勝

勝利した中国も、1000万の生命を奪われ、500億ドルもの物的損害を被った(沈鈞儒(しんきんじゅ)「関於戦争罪犯的検挙和懲罰」19519月)、といわれる。約4万もの中国人が労働力不足を補うために強制的に日本に連行された。台湾では、日本語使用の強要、姓名の日本式化(改姓名)など皇民化政策が進められ、何万という人々が「大東亜戦争」に日本兵として動員された。「満州国」でも、「五族協和・王道楽土」の掛け声の下で、中国人に対する民族的抑圧と差別が行われた。関東軍「七三一」石井特殊部隊による生体実験などはその代表的な一例であった。

 中国革命により、台湾に逃れた蒋介石政権との間に、日本は1952年(昭和274月「日華平和条約」を結んだが、日本と中華人民共和国との間に「戦争状態の終結」が宣せられるのは、1972929日の「日中共同声明」においてであった。戦闘が終わって27年もの後のことである。[安井三吉]

参考文献

『日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道34』(19621963・朝日新聞社) ▽臼井勝美著『日中戦争』(1967・中公新書) ▽歴史学研究会編『太平洋戦争史』全6巻(19711973・青木書店) ▽秦郁彦著『日中戦争史』(1972・河出書房新社) ▽伊藤隆著『十五年戦争』(『日本の歴史301976・小学館) ▽藤原彰著『太平洋戦争史論』(1982・青木書店) ▽藤原彰著『日中全面戦争』(『昭和の歴史51982・小学館) ▽江口圭一著『十五年戦争の開幕』(『昭和の歴史41982・小学館) ▽木坂順一郎著『太平洋戦争』(『昭和の歴史71982・小学館) ▽島田俊彦・稲葉正夫・臼井勝美他編『現代史資料 日中戦争15』全5巻(2004・みすず書房)』

コトババンクリンク

[参照項目] | 汪兆銘(おうちょうめい) | 解放区 | 関東軍 | 皖南事件 | 紅軍 | 国民政府 | 国共合作 | 近衛声明 | 上海事変 | 杉山元 | 太平洋戦争(第二次世界大戦) | 中国共産党 | 中国国民党 | 中ソ不可侵条約 | 東亜新秩序 | 七三一部隊 | 南進政策 | 日華基本条約 | 日中共同声明 | 八路軍 | ハル・ノート | 満州事変 | 盧溝橋事件

🔷🔷映画「太陽がほしい」=日本軍の中国女性への性暴力描く 赤旗日曜版19.08.04

🔷🔷作家・能島龍三の「遠き旅路」出版記念=歴史家・笠原十九四との対談 赤旗19.02.15

🔴憲法とたたかいのブログトップhttps://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

スターリンと芸術家たち(エイゼンシュテイン・マヤコフスキー・ショスタコビッチなど)

スターリンと芸術家たち(エイゼンシュテイン・マヤコフスキー・ショスタコビッチなど)

🔴憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

★★スターリンと芸術家たち=解説・亀山郁夫 東京外大教授。エイゼンシュテイン・マヤコフスキー・ブルガーコフ・ショスタコビッチの4人の芸術家とスターリンとのかかわりを亀山氏が映像とともに解説(ロシア心の闇・前編)

亀山郁夫
ショスタコビッチ
交響曲第5番
エイゼンシュテイン
マヤコフスキー

スターリンとエイゼンシュテイン・マヤコフスキー・ブルガーコフ66m

スターリンとショスタコビッチ25m

★★亀山郁夫・スターリンによって弾圧されたロシア・アバンギャルドの遺産を訪ねる106m

★スターリンとたたかったショスタコービッチ(名曲探偵=交響曲第5)

★★レニングラード・女神が奏でた交響曲ードイツ軍包囲下演奏されたショスタコービッチの交響曲第750m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v119476614bSEAeSKM

Wiki=交響曲第7番(ショスタコーヴィチ)解説

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC7%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

Wiki=交響曲第5番(ショスタコーヴィチ)解説

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

Shostakovich Symphony 交響曲No. 5

★バーンスタイン ショスタコーヴィチ交響曲5番45m

★ショスタコーヴィッチ:交響曲第7番:バーンスタイン

★★ロシア心の闇後編・亀山郁夫=ドストエフスキー80m

0205亀山郁夫=磔のロシア-スターリンと芸術家たち=ショスタコビッチ・エイゼンシュテインなど.pdf 

◆ショスタコーヴィチ抵抗の歌曲

(赤旗16.11.08

◆亀山郁夫=ドストエフスキー『罪と罰』刊行150

(赤旗16.05.20

★★亀山郁夫講演会「ドストエフスキーと現代『悪霊』の衝撃」

https://m.youtube.com/watch?v=Z7KcgIdO_HI

https://m.youtube.com/channel/UCs6JtPUbQERiV-BrWJk5HOg

★ドストエフスキーの『罪と罰』読書会(2015 3 2860m

★ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』読書会 (2016 4 16

https://m.youtube.com/watch?v=4T3rttOZgGw

https://m.youtube.com/watch?v=wuxhMhjoBW0

◆当ブログ=ソ連の歴史、崩壊から何を学ぶか

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2889539.html

◆◆志位=ショスタコーヴィチについての対談

日本共産党の志位委員長は、赤旗の新春対談で以下のような発言をしています。対談相手は荒井英治さん(東京フィルハーモニー交響楽団ソロ・コンサートマスター)

ーー 志位 ショスタコーヴィチは、旧ソ連のスターリンの圧政下で、その暴圧に抗して、芸術家としての良心を守り抜いた作曲家ですが、僕は、彼の音楽は、時代は違っても、あらゆる世の中の暴圧とたたかっている人々へのエールにもなっていると思うんです。いま、日本を「戦争する国」にするきな臭い動きがあるじゃないですか。それとたたかっている人々への励ましのメッセージにもなっていると思います。

ーー志位 僕の最初のショスタコーヴィチ体験というのは、中学生の頃にFMラジオで聴いた、レオニード・コーガン(旧ソ連のバイオリニスト)演奏のバイオリン協奏曲第1番でした。「夜想曲」から始まってとても不気味な感じがしましたね。こんな音楽がこの世にあるのかと驚いて、録音したテープを何度も聴きました。

 荒井 そうですか。僕も初めてバイオリン協奏曲を聴いたのがコーガンの演奏でした。

 志位 そうすると同じ盤の。

 荒井 そうだと思います。僕はバイオリンを小学校4年生、10歳のときから始めたのですけども、僕もあの曲は怖い曲だなと思いました。第1楽章は、何か僕は、独房に入れられて小窓があって、そこから格子の向こうに見える月を眺めているような、そんな風景を思い描いたんですね。

 志位 僕は、何というか、うっそうとした薄暗くて不気味な森があって、沼がいっぱいあるような、そこを歩いているような感じ。

 荒井 何か、言い知れぬ闇を感じますよね。

 志位 そうですね。あの曲をショスタコーヴィチが作曲したのが1947~48年、初演が1955年で、スターリンが死ぬ(53年)までは初演できなかったわけです。

「悔い」を拒み交響曲第4番作曲

 志位 ショスタコーヴィチはスターリン体制のもとで、2度にわたって命の危険にさらされています。最初は、1936年から37年の時期です。オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に対して1936年に「プラウダ」(ソ連共産党機関紙)が突然乱暴な非難をくわえた。

 荒井 「音楽の代わりの荒唐無稽」という批判ですね。

 志位 悪名高い批判です。スターリンは一種の直感で、これは危ないなと感じたのではないか。これは民衆の心を歌っていると、民衆の心に訴える強い力を持っている。こういう音楽は危ないぞ。そう恐れたからこそ、弾圧しようと考えたと思うのです。

 荒井 そうそう。ショスタコーヴィチは民衆を扇動していると。スターリンはこのオペラを劇場で見ているんですよ。聴衆はすごい拍手喝采していたでしょうから。

 志位 大喝采ですものね。音楽というのは人間の心に直接訴えかけるものではないですか。言葉というのは論理や事実で語りかけてくるものですが、音楽は直接魂に訴えかけてくる。音楽がそういうものであればあるほど、スターリンのような暴圧者は恐れたのだと思います。

 荒井 音楽そのものは理解できなくても、音楽の持つ力については理解していた。

 志位 そうですね。だからこそ迫害した。このときは、ショスタコーヴィチは本当に危なかったわけです。ガリーナとマクシムという彼の2人の子どもの回想録(『わが父ショスタコーヴィチ』)が出ているのですが、それによると、1937年にトハチェフスキーという赤軍の元帥が処刑される。そのとき、彼と親交があったということでショスタコーヴィチも危うく間一髪で粛清されるところだったという話も出てきます。

 こういう危機の時期にあって、ショスタコーヴィチが書いたのが、交響曲第4番(作曲は1934~36年)でしょ。

 荒井 そうですね。

 志位 彼は、「『プラウダ』の批判にたいして、私は悔いることを拒否した。悔いる代わりに私は交響曲第4番を書いた」といっています。

 荒井 まさにそういう内容ですね。それこそ民衆の怒り、不安をあらわすいろいろな内容が入っている。

 志位 交響曲第4番は大変な傑作だと思うんですが、これは、そのすぐあとにやってきたスターリンの大量弾圧を予言するような内容がありますね。

 荒井 そうです。まさにそういった民衆を押しつぶすような圧力を感じさせるようなものがあります。

 志位 だから、すぐに演奏できなくて、初演されたのは25年後の1961年でした。

 荒井 あれはよほどつらかったのではないかと思います。あの曲は僕は3度くらいしか演奏してないですけれども、第3楽章になると、何ていうか、巨大な墓地に寒風が吹きすさぶ中で一人立っていて、自分たちの仲間や家族がみんな亡くなって眠っていて、自分は生き残っていて何か語りかけているような、そういったイメージを持って演奏しますね。そうさせられる。

 志位 最後は、短調のピアニッシモで終わりますね。

 荒井 そうです。あのへんを演奏しますと、バルシャイ(ソ連の指揮者・ビオラ奏者)も、「人間、一番悲しいときは、もう涙も出てこない、そういう悲しさなんだ」と言っていましたが、そういうものを感じますね。ショスタコーヴィチの15の交響曲のなかで短調で終わるのは、あの曲だけなんですね。

 志位 あの終わり方は、ピアニッシモなのに心に突き刺さるような恐ろしい力がありますね。

スターリンの暴圧を風刺・告発

 志位 ショスタコーヴィチの2度目の危機は、1948年のジダーノフ(ソ連共産党政治局員)からの「形式主義的・西欧追随的」という批判です。このときも大変な苦境に立たされるわけですけれども、彼がとった行動というのは、スターリンの暴圧を厳しく風刺・告発する「反形式主義的ラヨーク」という曲をひそかに作曲することでした。

 荒井 そうです。公開で初演されたのは死後ですよね。

 志位 死後ですね。この時も、芸術家としての良心を、内面では守り通した。バイオリン協奏曲第1番という大傑作を残したのも、2度目の弾圧を前後した時期でしょ。

 荒井 そうですね。

 志位 そう考えると、私たちは、スターリン以後のソ連社会について、強制的な農業集団化や大量弾圧を経て社会主義とは無縁の覇権主義と専制主義の社会に変質したと厳しく批判していますけれども、そういう中で、それに屈せずに、人間の良心を守って、それで深い精神性をたたえた記念碑的傑作を残したというのはすごいことだと思いますね。

 荒井 ショスタコーヴィチの音楽にはユダヤ人をテーマに扱ったものがありますね。スターリンはユダヤ人を迫害していますよね。それがわかっていて迫害された人々へのシンパシー(共感)を音楽にしています。

 志位 バイオリン協奏曲第1番にも、ユダヤ的調子があらわれていますね。

人間としての良心 今でもお手本

 志位 僕は、15の交響曲のなかで、一番好きなのは第4番で、最高傑作だと思っているのは第8番(1943年)ですが。

 荒井 僕もそう思います。僕も4番と8番です。15番(1971年)も大好きなんですけれど。

 志位 その点も含めて一致しました(笑い)。4番と8番というのは、スターリン体制の抑圧のなかで、ものすごい葛藤をかかえながら、どんなことがあっても芸術家の魂を守り抜くぞという固い信条のようなものが貫かれていて、ものすごく好きですね。

 荒井 ショスタコーヴィチの素晴らしいところは、弱いところでファゴット一本にずっと演奏させる。クラリネットであったりフルートであったりチェロとか。延々と演奏させる。

 志位 独白するような。

 荒井 そう。あれって一人の人間としての声なんですよね。これは人間の心情といいますか、魂に訴えかけてきますね。交響曲8番では、第3楽章の行進曲がすごい。背筋が寒くなるような。恐ろしい音楽ですね。

 志位 恐ろしいですね。恐怖社会のなかでの人間の痛切な叫びが込められている。第3楽章から第4楽章に移るときの和音は、奈落の底に突き落とされるような感じを持ちますね。

 荒井 無理やり連行されていくような。

 志位 そう。連行されていくような。

 荒井 これは本当に傑作だと思うんですけれど、彼の音楽のいたるところに、社会の姿があらわれている。当時これを、演奏を生で聴いたロシアの人たちというのは、みんな言葉がなくても、言いたいことが全部わかっちゃう。

 志位 うん。わかっちゃう。

 荒井 ここに全部、縮図としてあらわされていますよね。

 志位 本当に。すごい曲をつくったものですね。

 荒井 やっぱり、人間の尊厳というものがそうさせるのかな。

 志位 どんな強大な権力でも、芸術家の良心をつぶすことはできないぞ、という強い意志がありますね。僕は、スターリンのもとでの旧ソ連社会というのは、たくさんの迫害や裏切り、むごたらしい犠牲者を生んだけれども、そこにはそれに抵抗して、人類の歴史に残る芸術的文化的遺産を残した人間の不屈の営みもあったということも、記録されるべきだと思います。

 荒井 もちろんショスタコーヴィチほどの才能が無ければ到底できないことだと思うんだけど、それにプラス意志ですよね。いくらでも書ける才能を持っていたけれども、そういう人が本当に書きたいものに心血を注ぐとこういうものができるんですね。そういう人がいたということは、単に時代の証言であるにとどまらないで、今の世の中でも何か人間としての良心のお手本であるように思います。

 志位 どんな権力をもっていようと、人間の良心を押しつぶすことはできない、真の芸術家の魂を思うように操ることはできない、人間の素晴らしさを示していると思いますね。

国民の素晴らしいエネルギー

 志位 時代が違うけれども、たとえば今の日本ってずいぶんきな臭いじゃないですか。秘密保護法とか。ああいう暴政とたたかうときに、ショスタコーヴィチの音楽は、時代が違っても、励ましになりますよね。

 荒井 そうですね。困難に立ち向かうパワーを呼び覚ます力がありますね。ピカソの「ゲルニカ」もそうですよね。あそこから出てくる強烈なメッセージ、エネルギーというのはやはりすごい、人々の胸を打ちます。僕はテレビは天気予報を見るためにつけるのだけれども、最近はニュース番組を見ていてもだいたい腹が立って消しちゃうんです。偏向報道と感じるときもあるし、何かアナウンサーが自分の言葉ではなくて、何かこういうふうに言わされているような、そういうことがすごくもどかしい。

 志位 芸術家の直感ですね。

憲法とたたかいのブログトップ

マララさん=女性差別・教育差別とたたかっている勇気ある少女

マララさん=女性差別・教育差別とたたかっている勇気ある少女


🔴憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

【このページの目次】

◆映画「わたしはマララ」の紹介

◆マララさんリンク集

◆マララさんに学びたい=筆者コメント

◆マララさんインタビュー(朝日新聞)

◆マララさんシリア難民のための学校をつくる

◆クローズアップ現代=マララさんインタビュー

◆パキスタンの学校テロから2

Wiki=マララ・ユスフザイ

◆マララさんの言葉

◆マララさん=たたかう17

◆マララさんの国連演説(137月)

◆マララさんのノーベル賞受賞の演説(1412月)

◆マララさんの父親の講演から

──────────────────────

◆◆マララさん動向

──────────────────────

◆◆マララさん、銃撃後初の帰国 「草の根の活動が世界を変える」

2018330日朝日新聞

イスラマバードで29日、アバシ首相(右から2人目)と面談したマララ・ユスフザイさん(同3人目)=パキスタン政府のツイッターから

 女子教育の重要性を訴えて2012年10月にイスラム武装勢力に銃撃されたノーベル平和賞受賞者マララ・ユスフザイさん(20)が29日、故郷パキスタンに一時帰国した。銃撃後に治療のために英国に渡った彼女にとって初めての帰国。面談したパキスタンのアバシ首相らに「草の根の活動が世界を変える」と訴えた。

 マララさんは29日未明、首都イスラマバード近郊の空港に到着。マララさんは首相や国会議員らとの集会で「『マララ基金』を通じた児童の教育支援を加速させたい」と語った。「帰国を果たせたことは夢のようだ」と、涙を拭う場面もあった。

 マララさんは14年にノーベル平和賞を受賞し、現在は英オックスフォード大に通っている。地元テレビは速報し、SNSでは「お帰りなさい」と歓迎する投稿があふれた。一方で、武装勢力の攻撃の可能性が拭えないため、移動時は10台以上の武装車両が取り囲んだ。今後の訪問先も公表されていない。(イスラマバード=乗京真知)

◆◆(書評)『ナビラとマララ 「対テロ戦争」に巻き込まれた二人の少女』 宮田律〈著〉

2017514日朝日新聞

◆『ナビラとマララ 「対テロ戦争」に巻き込まれた二人の少女』 二人の境遇を分けたものは?

 イスラムの女性たちに教育をと訴え、17歳でノーベル平和賞を受賞したマララ・ユースフザイさんはご存じですよね。2012年、15歳のとき、マララさんは「パキスタン・タリバン運動(TTP)」のメンバーに銃撃され、大きな傷を負った。それでも暴力に屈することなく教育の重要性を訴える彼女の姿は世界中の人々の心を打った。

 では、同じようにイスラムの女性たちに教育を、と訴えたナビラ・レフマンさんはご存じ? マララさんが銃撃されたのと同じ12年、ナビラさんはアメリカの無人機「ドローン」が撃ったミサイルで祖母を失い、自身も大けがを負った。8歳のときだった。

 二人は同じパキスタンの部族地域出身。対テロ戦争の犠牲者という立場もまったく同じ。けれど、ナビラさんのその後は、マララさんとは全然ちがった。ナビラさんは、アメリカの議会で自らの被害を説明し、部族地域でのドローン攻撃を停止するよう求めたが、スピーチを聞きにきた下院議員はたったの5人。

 〈みなさんは不思議に思いませんか?〉と宮田さんは問いかける。マララさんを銃撃したのはアメリカの敵であるTTP。ナビラさんたちを攻撃したのはアメリカのCIA。〈「加害者が誰なのか?」という違いこそが、彼女たちの訴えが世界に届くかどうかを決めているのです〉

 読書対象は小学校高学年以上。これ、9・11以後に生まれた子どもたちのための本なんです。中東の複雑な情勢を理解するのは正直、大人でも難しい。だけど本書はねばり強く説明する。「対テロ戦争」にいたるまでの欧米とイスラム諸国の長い歴史。同時多発テロ、イラク戦争……

 来日した11歳のナビラさんは語った。「戦争に大金を使うのでしたら、そのお金を教育や学校に使うべきだと思います」。難しいところは飛ばしていいよ。戦争の現実は二人の声から十分に伝わるはずだから。

 評・斎藤美奈子(文芸評論家)

     *

 『ナビラとマララ 「対テロ戦争」に巻き込まれた二人の少女』 宮田律〈著〉 講談社 1296円

 みやた・おさむ 55年生まれ。現代イスラム研究センター理事長。『イスラムは本当に危ない世界なのか』など。

◆◆映画「わたしはマララ」1512月に日本公開

★★NHKマララさんインタビュー48m

17歳の少女がノーベル平和賞を受賞!」2014年、世界中がそのニュースに湧き、パキスタン生まれのマララ・ユスフザイは一夜で時の人となった。この輝く瞳でまっすぐ前を見つめる可憐な少女が、いったい何を成し遂げたのか?『不都合な真実』でアカデミー賞®長編ドキュメンタリー賞を受賞したデイヴィス・グッゲンハイム監督が、マララの生い立ちを振り返り、彼女の素顔に迫る。

パソコンで大好きなブラッド・ピットやテニス・プレイヤーのフェデラーの画像を見てはにかむマララは、どこにでもいるふつうの女の子。しかし、左眼のあたりに傷跡が残る。女子が学校へ行くことを禁じるタリバン政権を批判するブログを書き続けたために、15歳の時に銃撃され瀕死の重傷を負ったのだ。

カメラは最愛の娘の死を覚悟した両親をとらえる。苦労して大学に進んだ父は、母と結婚して生まれた娘に、アフガニスタンの英雄的な少女マラライの名に因み、勇敢という意味も持つマララと名付けた。やがて父は男女共学の学校を設立する。全ての女の子に教育をというマララの夢は、父の希望でもあり、字の読めない母の悲願でもあった。

伝説の少女マラライは、銃弾に散った。だが、マララは再び立ち上がり、自らの手で宿命を変えた。家族の愛と平和を望む世界中の人々の願いに守られて──。

「ノーベル平和賞は始まりにすぎない」とマララは言う。ふつうの女の子が、目の前の小さなことから世界は変えられるよと、私たちの未来を祝福してくれる感動のドキュメンタリーが誕生した。

 デイビス・グッゲンハイム監督による、マララさんを描く映画「わたしはマララ」は10月から米国で公開され、世界中で上映される(日本では12月から)。マララさんは「この映画を通じて、人々が意識を向上させ、今も世界中で6600万人以上の女子が学校に通えずにいるということを思い起こしてほしい」と語った。マララさんは、同じ年頃の子どもたちに以下のような呼びかけをしている。

◆学校に通う年ごろのみなさんへ

 マララ・ユスフザイさんは、ボードゲームのモノポリーが好(す)きなごくふつうの18歳(さい)の女(おんな)の子(こ)です。イギリスのバーミンガムで女子校(じょしこう)に通(かよ)っていて、ふだんは毎日(まいにち)、宿題(しゅくだい)と向(む)き合(あ)い、テストに向けて勉強(べんきょう)しています。息抜(いきぬ)きのゲームでズルをして弟(おとうと)たちとケンカになることもありますが、本人(ほんにん)によると「ほんのちょっぴりだけ」だそうです。

 そのマララさんが去年(きょねん)、ノーベル平和賞(へいわしょう)を受(う)けました。今度(こんど)は映画(えいが)の主人公(しゅじんこう)にもなりました。彼女が特別(とくべつ)な有名(ゆうめい)人で、何(なに)か特権(とっけん)を持(も)っているからでしょうか?

 そうではありません。マララさんはあなたたちと同(おな)じようなごくふつうの一人(ひとり)の子として、「学校(がっこう)に行(い)きたい」と思(おも)った。その望(のぞ)みを隠(かく)さず、ブログに書(か)くなどして、おおっぴらに声(こえ)を上(あ)げた。そのことが気(き)に入(い)らない者(もの)たちが、マララさんを黙(だま)らせて、見(み)せしめにするため、撃(う)ち殺(ころ)そうとしたのです。

 今(いま)から3年前(ねんまえ)の2012年10月(がつ)まで、マララさんは、生(う)まれ育(そだ)ったパキスタンのスワート渓谷(けいこく)という地方(ちほう)で暮(く)らしていました。学校帰(がえ)りのバスに乗(の)り込(こ)んできた男(おとこ)たちが、「マララはどこだ」と聞(き)き、彼女の頭(あたま)をねらって銃(じゅう)を2発(はつ)、撃ったのです。奇跡的(きせきてき)に命(いのち)は助(たす)かりましたが、意識不明(いしきふめい)の重体(じゅうたい)になり、緊急手術(きんきゅうしゅじゅつ)のためイギリスに運(はこ)ばれました。

 男たちは、パキスタンで政府(せいふ)のやっていることを認(みと)めず、武器(ぶき)を手(て)にこの地方の人々(ひとびと)を支配(しはい)していた「パキスタン・タリバーン運動(うんどう)」のメンバーでした。

 パキスタンのほとんどの人はイスラム教(きょう)を信(しん)じています。マララさんもそうです。ところが、この「タリバーン」は、「イスラム教は女への教育(きょういく)を認めない」と主張(しゅちょう)して、学校を壊(こわ)したり、勉強する女の子たちに暴力(ぼうりょく)をふるったりしました。マララさんはそれに対(たい)し批判(ひはん)したのです。

 そのために撃たれてしまいました。でも声を上げることをやめませんでした。パキスタンだけでなく世界中(せかいじゅう)に、学校に通えない何千万人(なんぜんまんにん)もの子供(こども)たちがいることを知(し)り、その子たちの代(か)わりに、「あらゆる子供に教育を」と主張しています。

 今も命をねらう者たちがいるのに、とても勇気(ゆうき)がいることです。だから、彼女の言っていることは正(ただ)しいと支持(しじ)する姿勢(しせい)を示(しめ)すために、ノーベル平和賞が贈(おく)られたのです。

 映画もできて、世界中の注目(ちゅうもく)は増(ま)す一方(いっぽう)です。私(わたし)は同じ年頃(としごろ)の子を持つ一人の親(おや)としてちょっと気がかりで、聞(き)いてみました。

 でも、マララさんは「私は私。背(せ)の高(たか)さも同じです」と冷静(れいせい)でした。平和賞は世界中の子供たちへ贈られたもので、映画も、世界中の女の子の物語(ものがたり)だと受け止(と)めています。

 パキスタンにはまだ彼女を快(こころよ)く思わず、文化(ぶんか)の違(ちが)う西洋(せいよう)にちやほやされる操(あやつ)り人形(にんぎょう)だとみる人もいます。でも、私が聞いたのは、時(とき)にとつとつとしていましたが、彼女自身(じしん)が考(かんが)えた言葉(ことば)でした。

 マララさんは何より、ふるさとのパキスタンに戻(もど)りたいのに、身(み)の危険(きけん)にさらされるので帰(かえ)れずにいます。生まれ故郷(こきょう)を奪(うば)われているのは、今、国(くに)の中(なか)で戦争(せんそう)をしているシリアから、家族(かぞく)と逃(のが)れてくる何万人もの子たちと変(か)わりません。「難民(なんみん)」なのです。

 子供たちをそんな目(め)にあわさず、のびのび学校に通える平和な世界をつくる。それが大人(おとな)が取(と)り組(く)まなければいけない宿題です。

◆◆優しさに満ちた父娘の物語 ドキュメンタリー「わたしはマララ」

20151211日朝日新聞

「わたしはマララ」

 パキスタンで女性の教育権を求めたため過激派に銃撃され、その後も英国で活動を続けている昨年のノーベル平和賞受賞者、マララ・ユスフザイの歩みを描くドキュメンタリー「わたしはマララ」が、11日から公開される。マララ自身と監督に、作品に託した思いや舞台裏を聞いた。

 監督は、地球温暖化を扱った「不都合な真実」でアカデミー賞をとったデイビス・グッゲンハイム。最初はカメラを回さず、じっくり話だけを聞いたという。マララは「彼には、ひとが心のうちに閉ざしていたものを発見させる才能がある」と振り返る。

 これは「父と娘の物語」(グッゲンハイム)だ。教育を受ける意味、抑圧の下で声を上げる覚悟……。学校を運営していた父のジアウディンからマララが受け継いだものが描かれる。

 ただし、マララ自身が身の危険からパキスタンに戻れずにいる中、彼女の歩みを同国でのロケでたどることは事実上不可能だった。「過去」については、アニメーション映像にマララや父の語りで伝えるハイブリッド形式の映画となった。マララは「アニメーションはすばらしかった。ほかの誰かが語るのではなく、自身ですべてを語れたのもよかった」と話した。

 故国では「父親の操り人形」「欧米の言いなり」などと批判されることもあるマララだが、映画はそうした冷たい視線にも触れ、マララを過度には偶像視しない。弟たちとけんかしたりゲームに興じたりする、ふつうの18歳女子の素顔も描く。その分だけ、イスラム過激派のテロに臆さず活動を続けるマララの力強さが浮き彫りになってくる。

 グッゲンハイムは語る。「マララたちは、苦い感情を抱いてもおかしくない。でもこの一家は、愛と優しさ、希望に満ちている」。映画が描くマララの物語は、世界のあちこちでテロや紛争の嵐が吹きすさぶ今だからこそ、いっそう普遍的な意味を持つのだろう。(ロンドン=梅原季哉)

◆映画=私はマララ

(赤旗15.12.11

◆◆マララさんインタビュー=「一本の鉛筆を」教育で得る未来

(映画の公開にあたって)

「アエラ」15.12.12

──────────────────────

◆◆マララさんリンク集

──────────────────────

★★マララさん 国連スピーチ 日本語字幕

17m20137月の国連演説)

http://m.youtube.com/watch?v=iak1X8VedW0

 「テロリストは私と友人を銃弾で黙らせようとしたが、私たちは止められません。私の野心、希望、夢は何も変わりません。……言葉の力を信じています。教育という目標のために連携すれば、私たちの言葉で世界を変えることができるのです。……1人の子供に1人の教師、1冊の本と1本のペン――。それがあれば世界を変えることができます」

One child, one teacher, one book and one pen can change the world. Education is the only solution. Education first. Thank you.

◆◆マララさん 国連スピーチ=英文と対訳

http://s.webry.info/sp/studyenglish.at.webry.info/201307/article_23.html

★★マララさん ノーベル平和賞 授賞式スピーチ 

(日本語字幕)27m 20141210

http://m.youtube.com/watch?v=x9nQxzQgkdo

ノーベル平和賞の授賞式で、史上最年少の受賞となったパキスタン人のマララ・ユスフザイさんと、インドの人権活動家カイラシュ・サティヤルティさんに、メダルと賞状が送られた。

「なぜ戦車をつくることは簡単で、学校を建てることは難しいのですか?私たちは動くべきです。待っていてはいけない。政治家や世界の指導者だけでなく、私たち全ての人が、貢献しなくてはなりません。

みなさん『これで終わりにしましょう』と決めた

最初の世代になりましょう。……誰もいない教室も、失われた子供時代も、無駄にされた可能性も。もう「これで終わりにしましょう。……子供時代を工場で過ごすのも、女の子が幼いうちに強制的に結婚させられることも、戦争で子供の命が失われることも、子供が学校に通えないことも『もう、これで終わりにしましょう』」

◆◆マララさんノーベル賞受賞演説=英文と対訳

http://英語力.biz/759

◆◆不屈の少女マララ43m

★★昼オビ=命が狙われる少女マララ(Malala)30m

高橋和夫解説

http://m.youtube.com/watch?v=UkTKrFcdJos

またはhttp://www.dailymotion.com/video/x280ps1_14-10-13-rx-ho-ノーベル平和賞マララユスフザイ高橋和夫_news

★★16歳不屈の少女(「クローズアップ現代」201418日)26m

http://www.dailymotion.com/video/x1a0gjg_クローズアップ現代-201418放送_news#from=embediframe

◆上記のクローズアップ現代の全文起こし

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3449_all.html

★ノーベル平和賞にパキスタン少女10m

★マララさん 銃撃事件の波紋12m

★もう1人のマララたち~世界の女の子に教育を~/プラン・ジャパン6m

Malala Yousafzai Story: The Pakistani Girl Shot in Taliban Attack | The New York Times32m下部英語

Malala Yousafzai, 16, and Her Miraculous Story of Surviving Being Shot by the Taliban(マララさん銃撃事件)5m英語

【一部のイスラム教徒内での女性差別、女性の教育差別傾向について】

◆岩本珠枝=イスラムと女性の人権一国連での討議をとおしてPDF18p

クリックして19_houritsu4.pdfにアクセス

◆イスラムにおける人権

http://www.islamreligion.com/jp/articles/2575/

◆またWiki=イスラームと女性、サウジアラビアの女性の人権やヤフー知恵袋などを参照のこと。

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q12128712132

世界的には克服されつつある

◆朝日デジタル=マララさん特集を検索のこと。

──────────────────────

◆◆マララさんに学びたい=朝日新聞読者欄・筆者コメント

──────────────────────

◆◆朝日新聞読者欄から

◆(声)若い世代 マララさんの勇気学びたい

201515日朝日新聞

 中学生 佐伯結菜(東京都 13)

 マララ・ユスフザイさん(17)のノーベル平和賞受賞に感動しました。

 マララさんは女子教育を認めないイスラム過激派の反政府武装勢力「パキスタン・タリバーン運動」におびえながら、学校に自由に通えない日常をブログにつづり、注目を集めました。15歳の時、スクールバスに乗り込んできた武装勢力の男に頭と首を撃たれ、意識不明の重体になりました。それでも、彼女は「すべての子どもたちが良質な教育を」「教育なしに平和は来ない」などと訴え続けています。ノーベル賞授賞式でスピーチする姿から、とても力強い意志が伝わってきました。

 パキスタンでは先月、学校が武装集団に襲撃され、148人の子どもらが殺害されました。マララさんの勇気を無駄にしないためにも、この悲惨な出来事の背景をみんなが正しく知り、間違いなんだと主張することが重要です。世界中が協力してほしいと思います。

◆(声)マララさんの思い、世界へ届け

20141214日朝日新聞

 学習塾経営 高良悦子(福岡県 52)

 マララ・ユスフザイさんとカイラシュ・サティヤルティさんのノーベル平和賞受賞演説を読み、深く感銘を受けました。世界で多くの子どもが争いに巻き込まれ、貧困にあえいでいます。2人はそんな状況の中で声を上げ、危険と闘いながら活動しています。

 先日、1人の中学生がマララさんの国連での演説を学校で教わったと、「1人の子ども、1人の先生、1冊の本そして1本のペンで世界を変えられる」という部分を英語で暗唱してくれました。その後の文の意味を聞かれ、「教育こそが唯一の解決策である。一番に教育を」と教えると感心していました。

 2人の受賞が世界に影響を与え、関心を持つ子が増えるのはうれしいことです。2人を応援したいと思います。

◆◆マララさんに学びたい=筆者コメント 

マララ・ユスフザイさんは1997712日、北部山岳地帯のスワート地区(マラカンド県)に生まれた。父親のジアウディンさんは私立学校を経営する教育者で、マララさんもこの学校に通い、医者を目指していた。

同地はイスラム保守勢力が強く、07年には反政府勢力パキスタン・タリバーン運動(TPP)が政府から統治権を奪い、09年まで実効支配している。イスラム過激派 TPPは女性の教育・就労権を認めず、この間、200以上の女子学校を爆破したという。

091月、当時11歳だったマララさんは、英BBC放送のウルドゥー語ブログに、こうしたタリバーンの強権支配と女性の人権抑圧を告発する「パキスタン女子学生の日記」を投稿。恐怖に脅えながらも、屈しない姿勢が多くの人々の共感を呼び、とりわけ教育の機会を奪われた女性たちの希望の象徴となった。

同年、米ニューヨーク・タイムズも、タリバーン支配下でのマララさんの日常や訴えを映像に収めた短編ドキュメンタリーを制作している。11年には、パキスタン政府から第1回「国家平和賞」(18歳未満が対象)が与えられ、「国際子ども平和賞」(キッズライツ財団選定)にもノミネートされた。

2012109日、スクールバスで下校途中、武装集団に銃撃され重傷を負った。現地で弾丸摘出手術を受けた後、イギリスの病院に移送され、一命をとりとめたが、15歳の女子学生を狙い撃ちにしたテロ事件は、世界中に大きな衝撃を与えた。犯行声明を出した反政府勢力パキスタン・タリバーン運動(TPP)は、教育権を求める女性の「反道徳的」活動への報復であり、シャーリア(イスラム法)に基づくものとテロ行為を正当化している。

マララさんは201412月にはノーベル平和賞を受賞した。世界的に称賛の声が広がっているが、TTPはマララさんがスワート地区に戻れば、再び命を狙うと宣言している。TPPは201412月に軍関係の学校を銃撃し多数の子どもたちがまた犠牲となった。マララさんは、激しい怒りを表明。国連はじめ各国が糾弾した。さすがのアフガンのタリバンもこの行動を批判した。さらにナイジェリア北東部の村がイスラム過激派「ボコ・ハラム」の武装勢力に襲われ、少なくとも33人が死亡、180人を超える子どもや女性らが誘拐された。「ボコ・ハラム」は、「女性に教育は必要ない」と20144月にも200人の女生徒を学校から誘拐した。マララさんに学びながら、国連を中心に国際的な反テロのたたかい、教育と女性をまもる取り組みを

今こそ強めていくべきときだ。

◆◆ナビラ・レフマンさん=米無人機攻撃の住民被害を訴えるパキスタンの少女

20151118日朝日新聞

ナビラ・レフマンさん

 パキスタンで相次ぐ米国の無人機攻撃による住民被害。その悲劇を伝えようと15日に初来日し、「私が海外でできるのは、罪のない人がたくさん殺されていると声を上げ続けることです」と訴えた。

 故郷のパキスタン北西部の部族地域は、イスラム過激派のパキスタン・タリバーン運動(TTP)の拠点だ。ボン、ボンと鼓膜を揺する米無人機の爆撃音を聞いて育った。一帯での無人機による住民の犠牲は数百人と言われる。

 2012年10月24日。無人機の爆撃は突然始まった。畑で野菜を摘んでいた家族をミサイルが襲った。祖母は死亡。爆発でえぐれた地面に肉片が散った。自身も吹き飛ばされ、右腕から流血した。ほかに家族8人が負傷した。

 1年後、被害を告発する弁護士の勧めで教員の父と訪米した。数週間前には、同じパキスタンの少女でTTPに銃撃されたマララ・ユスフザイさん(18)がオバマ大統領と面会していた。だが、ナビラさんに耳を貸したのは議員5人だけ。米政府も取り合わなかった。

 昨夏には政府軍とTTPの戦火が故郷に迫り、避難民に。仮設小屋で一人、教科書をめくる。治安上の理由や貧しさなどで国内では550万人以上の子どもが学校に通えずにいる。「大学に行って弁護士になるのが夢です。困っている子どもたちを助けるために」。薄茶色の瞳が少しだけ笑った。

 (文・乗京真知 写真・角野貴之)

Nabila Rehman(11歳)

──────────────────────

◆◆マララさん語る=テロ思想根絶へ「兵器より子供に本を」「教育は義務であり責任」

インタビュー全文

2015925日朝日新聞

──────────────────────

マララさんの歩み

 マララ・ユスフザイさんがインタビューで朝日新聞とやりとりした際、マララさんの答え全文は以下の通り。

18歳のマララさん「無人機ではテロ思想を殺せない」

 ――あなたがノーベル賞を受けた後も、例えばボコ・ハラム(ナイジェリアの過激派)は女子生徒たちを誘拐し、人質にとったままです。今回の映画を通じ、女子教育をターゲットにする勢力に向かって何と言いたいですか。

 今回の映画は私たち家族の物語、私たちがテロリズムによって影響を受け、それでも教育を受ける権利や平和のために立ち上がったさまを描いています。でも同時に確かなのは、これは私たち一家族だけの話ではなく、世界中の何百万人もの人たちの物語、教育を奪われた何百万人もの女の子の物語だということです。だからこの映画を通じて、人々の意識が向上し、今でも多くの子供、世界中で6600万人以上の女子が学校に通えずにいるのだということを思い起こしてほしいと願っています。この問題について人々の理解を助け、その解決策を見いだす助けになればと願っています。

 ――あなたを撃った者たちはイスラム教の正しい信徒だと自称していますね。今年1月には、シリアで過激派組織「イスラム国」(IS)に2人の日本人が殺されました。イスラム教の真の意味についてどう考えますか。

 イスラムは平和の宗教です。イスラムという語自体が平和を意味するのです。問題はすべて、イスラムについての人々の異なる解釈、そしてそれがおのおのの目的と一緒にされてしまうことの方にあります。残念なことに、立ち上がって、これは正しくないと表明する宗教学者はあまりいませんし、これは真のイスラムではないと声を上げる人もあまりいない。私はできる限り努力して、イスラムが扱っているのは平和だということを言おうとしてきました。

 イスラムは真実と兄弟愛であり、その教えの中では明確に、あなたがもし一人の人間を殺せば、それは人類全体を殺害することであり、逆にもし一人の命を救えばそれは人類全体を救済することだと説かれています。教育を受けることはあらゆる個人の権利であるばかりではなく、義務であり責任なのです。学び、知識を得て、教育を受けるべきなのです。残念ながら、自分たちが真のイスラム教徒だと自称している人たちがいますが、彼らはイスラム教についての真実の、正しい知識を持っていないのです。

 正しいタイミングで声を上げることが大切です。もし声を上げなければ、事態はそのまま続きます。スワート渓谷(パキスタン北部、マララさんの故郷)でも、もし私が黙ってしまっていれば、父が黙ってしまっていれば、同じ状況が続いていたと思います。

 ――今年は被爆70年で、一方であなたの国パキスタンも隣国インドも核兵器を持っています。核というもの、あるいは兵器全般についてどう考えますか。

 残念なことに、兵器は常に破壊をもたらします。人々を殺害し、破壊する。世界は兵器にお金を費やしすぎています。もし世界の指導者たちが、軍に費やす総額のわずか8日分だけでも支出をやめようと言いさえすれば、その8日分の額だけで、世界中のあらゆる子供が12年間にわたり教育を受けるための1年分を確保できるのです。だから世界の政治指導者たちが軍と兵器、戦争への支出を止めれば事態は実際に大きく変わるはずなのですが、彼らにとっての優先事項として決めてしまっているのです。

 でも、私たちは戦いをやめず、彼らに対して、教育や保健衛生こそが人々にとって重要なのだと思い出させる必要があります。銃を製造することで人を助けることはできないのです。子供に銃を渡して、助けていることになりますか。私はこのお金を銃には使わず、代わりに学校や医療に使うと言うことこそ、その人を、その子供を助けることになるのです。

 ――オバマ米大統領に対して無人機の問題を提起したそうですが、それが理由ですか。

 私が無人機攻撃の問題に触れたのは、無人機がテロリストを殺害できるのは確かですが、テロリズムを、テロリズムの思想自体を殺すことはできないからです。テロリズムに対してそれを止めたければ、あらゆる児童が質の高い教育を受けられるよう保証する必要があります。こうした人たちの多くは教育を受けておらず、職がなく失業中で、希望もないのです。そして彼らは銃を取るのです。子供たちに銃を取らせたくないのであれば、本を与えなければなりません。

 変革はこれが歴史上初めてというわけではありません。努力が必要です。何度も何度もいう必要があります。いつかは彼らも耳を傾けざるを得なくなります。無視し続けることはできません。私を支持してくれる人が多ければ多いほど、私の声は人々の声になり、どんな指導者でも人々の声を無視できはしません。

 ――ノーベル賞を受賞したことで何か変わりましたか。

 私はそれでも同じ私です。背の高さも同じで、体が変わったわけでもない。

 でもこの賞がもたらしてくれたチャンスは、教育に対する注目、例えばノーベル平和賞を共同受賞したカイラシュ・サティヤルティさんや、マララ基金、そのほか多くの団体が教育のためにしていることについての注目、世界の注目を彼らの発言に集め、ナイジェリアやケニアの女の子たちに集めることができました。ノーベル賞をとった時、私は授賞式に5人の友達、ナイジェリアやパキスタン、シリアからの友達を招きました。あの日、この賞は私に対してのものではなく、あの年の賞はこれは児童に対してのものだという風に、とにかく感じたのです。

 うまくいけば、今後また本を書くかもしれません。別の映画ができるかもしれません。でも、今回の映画を通じて望んでいるのは、意識の向上です。これは一つの家族、ひとりの少女だけの話ではなく、何百万人もの子供たちが苦しんでいて、そこに今注目する必要があるということです。あらゆる子供に12年の教育が保証されるべきです。紛争の下で苦しんでいる子供たちもいます。そうした子供たちはもはや無視されるべきではないのです。彼らは未来そのものであって、もし無視するのならそれは未来を無視することです。だからこの映画がそうした意識を向上するよう願っていますし、学校の生徒たちもこの映画を見られるよう願っています。「マララと共に立つ生徒たち」というキャンペーンをやっていて、途上国でも先進国でも学校の生徒がこの映画を見られるようにしたいと思っています。

 ――パキスタンに戻る可能性があると聞きましたが、来年、直近の計画は何ですか。大学に進学しますか。

 まだ2年(英国の高校が)残っています。Aレベル(英国での大学進学前の高校卒業資格課程)を済ませてから、それから大学に行きます。でも、もうまもなくパキスタンを訪問できるのではないかと期待しています。学校教育が終わった後は、パキスタンに戻ることはとてもはっきりしています。

 ――パキスタン国内では、マララさんに対して、彼女は父親に命じられたことを発言しているだけだといった冷たい見方をする人もいます。

 そうした人はとても少数なのだと思いますが、批判されるのは時にはいいことで、そこから学べます。正しい人たちもいます。でも、私のキャンペーンは教育に向けてのものです。誰か個人を標的にしているわけではありません。無知、そしてテロリズムというイデオロギーが標的であって、人々を批判しようとしているわけではありません。女子は教育を受けるに値しないという考えを相手にしているのです。私のキャンペーンは教育への戦い、あらゆる女の子が学校に行く権利をめざし、あらゆる児童が12年間の教育、しかも質の高い教育を受けられるようにめざす戦いなのです。

 疑念は常にあると思います。ただ、私たちの国パキスタンでは、いつも、情勢が良い方向には向かっておらず、テロや爆弾事件が毎日のように起きています。ほとんど毎日、爆弾で人がなくなったと耳にします。人々は政治家への信頼を失い、希望を失っています。そうした信頼の欠如、希望の不在が、人々がよいことが起きると期待できずにいる一つの理由だと思います。

 脚光を浴びがちなのは少数派で、そちらがニュースになります。一方で多数派は沈黙を守っているので、そうした黙っている人たちの数が多くても、こちらの人たちが考えていることは、声を上げる少数派と比べると力に欠けます。

 ――映画によってそうした見方が変わると期待していますか。

 今回の映画が人々の意識を向上させ、私たち家族の物語を、この一つの家族がどうやって教育のために立ち上がったか人々がより深く理解してくれればと思います。私たちの話をより近く感じてくれるようになれば。

 でも、私自身はあまり考えていません。なぜなら、もし私が、自分に敵対している人たちのことばかり常に考え、どうしたらその態度を変えられるかとばかり考えていたら、どうやっても前には進めません。だから自分の課題に集中することが大事なんだと思います。教育に焦点をあて、信条に従って正しいことをやっていると考えることが大切です。あなたが仮に預言者か何かだったとしても、それに対して批判する人は常にいます。

 ――(記者会見で)あなたのメッセージが響くのは、あなたが特別な存在であるとか特権を得ているからではなく、まさに普通であり、同じような子供たちを代表しているからと思いますが、その半面、自分があまりに注目されすぎていて、単に自分自身でありたいと思うような時はありませんか。どうやって自分を保っていますか。

 とてもいい質問ですね。今現在、私には二つの違う生活があるみたいです。一人の女の子は、家では弟とけんかもして、普通の女の子のように暮らしています。学校に行き、宿題をしなければならないし、試験も受けなければならない、そういったことです。私は最近はGCSE(英国で義務教育を終了した生徒が受験する統一テスト)を受けたばかりです。そういう女の子が一方にいます。その一方でもう1人の女の子がいて、外の世界に向けて声をあげ、教育の権利を提唱している。

 二つの別の人生があるみたいに見えますね。でも、現実には私という1人の人間がそのすべてをしているんです。そして、私は毎日、できるかぎり努力してその二つをつなげ、それが私の人生なのだと考えるようにしています。学校へ行くふつうの生徒で、テストも受けなければならない一方で、この活動を通じて声をあげて女子の声を伝えようとしているとしても、私は私です。ある意味で私は二つをつなげていますが、でもどちらも私の人生の一部であり、どちらの意味でもそれが私なのです。

 ――あなたがふつうであることに感銘を受けます。ふだんの生活で余暇はどんな風に過ごしていますか。趣味は。

 友達と一緒に過ごして、買い物に行ったり、ビデオを見たり音楽を聴いたりしています。それから弟たちとのけんかですね。

 ――音楽はどんなものを。

 特にこれというのはなくて最新のものをきいています。あとは私たちが遊ぶのは、特定のゲームにはまっているんですけど、私たちの家族はほとんどモノポリー中毒です。モノポリーをするときほんの少しズルをすることがありますが、大してしていませんよ。弟たちは私がズルをするって思っているけれど、私からすれば、ほんのちょっぴりだけ、そんなにしていないんです。

──────────────────────

◆◆マララさん「教育は特権ではなく権利」シリア難民のための学校をつくる

──────────────────────

2015926日朝日新聞

記者会見で発言する友人を見守るマララさん(右)=25日午後、米ニューヨークの国連本部、金成隆一撮影

 昨年のノーベル平和賞受賞者でパキスタン出身のマララ・ユスフザイさん(18)が25日、国連サミットの開幕式に出席し、「教育は特権ではない。権利であり、平和です」と呼び掛けた。

 マララさんは各地から集まった約200人の若者と2階の傍聴席に立ち、階下の首脳らに向けて「見て下さい。将来の世代が声を上げています。世界の子どもに平和と繁栄と教育を約束して下さい」と訴えた。

 その後、シリアやパキスタン、ナイジェリア出身の友人と記者会見に出席。「平和の実現」や「教育機会の拡充」などの願いを語る友人の姿を見守った。

 この日のサミットでは、国際社会が2016~30年に取り組む「持続可能な開発のための2030アジェンダ」が全会一致で採択された。(ニューヨーク=金成隆一)

◆◆マララさんから学んだ勇気、シリア難民向け女学校(レバノン)

2015830日朝日新聞

マララ・ユスフザイさんが設立したシリア難民向けの女学校で、生徒がパソコンの使い方を学んでいた=レバノン東部、翁長忠雄撮影

 真新しい教室で、少女たちがコンピューターの画面と向き合っていた。生徒のララさんは英語で書いた。

 「私は、学校が好き」

 女子が教育を受ける権利を訴えて、史上最年少でノーベル平和賞を受賞したパキスタン出身のマララ・ユスフザイさん(18)が7月に開いた、シリア難民向けの女学校だ。内戦で隣国レバノンに逃れた14~20歳の約90人が学ぶ。

 開校式にはマララさん本人が訪れた。9カ月前に逃れてきたアーヤ・ハスフィさん(15)と妹のタスマンさん(13)が、学校近くの難民キャンプを案内した。

 2人が「先生になりたい」と夢を話すと、マララさんは「かなうといいですね」と答えてくれたという。タスマンさんは「とても優しかった。彼女のおかげで、勉強する勇気がわいてくる」と言った。

 壁に、マララさんの国連での演説の一節が貼られていた。「一人の子ども、一人の先生、一冊の本、一本のペンが世界を変える」

 (バリエリアス〈レバノン東部〉=翁長忠雄)

NGO「マララ基金」が資金を拠出して設立された学校で、教室に座るシリア難民の少女たちとマララさん(中央)=ロイター

 昨年のノーベル平和賞受賞者マララ・ユスフザイさんは12日、レバノンのシリア国境に近いベカー高原を訪れ、シリア難民のための女子校を開校した。女子教育を支援するNGO「マララ基金」が資金を拠出する。14~18歳の200人が学ぶという。

 マララさんはロイター通信に「私がここに来たのは、シリア難民の声に人々が耳を傾けねばならないからだ。難民たちは今まで無視され続けてきた」と述べた。12日はマララさんの18歳の誕生日。開校のスピーチで「きょうは私が大人になった最初の日です。世界の子どもたちを代表し、世界の指導者に対して銃弾でなく本に投資することを求めます」と訴えた。

 マララさんは同基金の共同設立者の一人。マララさんはノーベル平和賞の受賞演説で、賞金を基金に寄付すると表明した。基金はパキスタンのイスラム過激派「パキスタン・タリバーン運動」やナイジェリアの過激派「ボコ・ハラム」の脅威にさらされている女子生徒を支援している。

 過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭などでシリア難民は急増し、国外に逃れた約400万人のうちレバノンには少なくとも約120万人いるとされる。学齢期の子どもは約50万人に上るが、このうち約2割しか公教育を受けられていないという。

 レバノンの人口は約500万人で、さらに難民を受け入れるのは困難な状況だ。レバノン政府はシリア人の入国審査を厳しくしている。(カイロ=翁長忠雄)

 「すべての子どもに教育を」と訴え、ノーベル平和賞を受けたマララ・ユスフザイさん(18)の夢が、実を結びつつある。彼女がレバノンに開いたシリア難民向けの女学校を記者が訪れた。内戦で母国を離れ、学校に通えなかった子どもたち。マララさんの生き様に励まされ、「学ぶ喜び」に胸をときめかせる。

 「先生たちがよく教えてくれるので楽しい。大学でも学び、コンピューターのエンジニアになりたい」。生徒の一人、ゼナブ・ハジ・ムーサさん(15)は将来の夢を語った。

 2012年、シリア中部ホムスからレバノンへ一家8人で逃れてきた。マララさんの半生について知ったのは、入学後だ。

 パキスタン出身のマララさんは、ブログなどで女性の教育の権利を訴えた。12年、15歳の時にイスラム過激派に頭を撃たれ、意識不明の重体に陥った。だが奇跡的に快復し、14年にノーベル平和賞を受けた。賞金は、女子教育の実現に取り組む「マララ基金」に寄付された。女学校は、この基金の出資でできた。

 運営する地元NGO職員のファーティメ・ビリモさん(30)によると、生徒たちは、入学するまでマララさんのことを知らなかった。その生き様を知り、「自分たちと同じ年頃なのに、撃たれても教育のために声を上げ続けるなんて」と感銘を受けたという。

 生徒は学校でコンピューター、アラビア語、数学、英語を学ぶ。ゼナブさんは「強い反対にもめげないマララさんの生き方が、私は好きです。彼女は私の模範です」と話した。

 難民の子たちの学習環境は整っていない。女学校近くの難民キャンプには、14歳までが対象の学校しかない。またレバノンの公立校は通常、英語かフランス語で授業をするため、アラビア語で授業を受けてきたシリア人が授業についていくのは難しい。

 子どもたちをとりまく意識も問題だ。男子は家計を助けるため、13~14歳になると農作業や建設作業の現場で働くことが多い。女子だと10代半ばで結婚させられる人も多い。「学問はいらない」と娘を家から出したがらず、弟や妹の面倒を見させる親もいる。女学校に通い始めたが、親族に連れ戻された生徒もいる。

 「イスラム国」(IS)など過激派組織が勢力を広げる中、難民がシリアに戻るめどは立たない。

 ワシャーム・シャヒーン校長(70)は「子どもたちは高いフラストレーションを抱えている」と語った。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、8月時点でシリア難民は401万人。このうちレバノンに111万人いる。(バリエリアス〈レバノン東部〉=翁長忠雄)

─────────────────────────────────

◆◆クローズアップ現代=不屈の少女マララさん

─────────────────────────────────

201418日(水)放送

今、16歳の少女の言葉が世界の人々の心を揺り動かしています。

マララ・ユスフザイさん

「1人の子ども、1人の先生、1冊の本、1本のペンが世界を変えることができます。」

一昨年(2012年)女性の教育を否定するイスラム過激派に襲撃された1人の少女。

パキスタン出身のマララ・ユスフザイさんです。

頭を撃たれ一時、生死の境をさまよいました。

イギリスに緊急搬送され、奇跡的に一命を取り留めたマララさん。暴力に屈することなく活動を再開し、世界のリーダーたちに教育の重要性を訴え続けています。その姿は、世界各地の女性たちに勇気を与えています。

女性「私は暴力を決して認めません。」

今回、初めて日本のメディアのロングインタビューに応じ、教育にかける熱い思いを語りました。

マララ・ユスフザイさん

「私はすべての人に伝えたい。自分の権利のために声を上げる必要があるときにはそうすべきなのです。」

マララさんの強い信念は、いかにして生まれたのか。

16歳、不屈の精神に迫ります。

【不屈の少女 マララさん 独占インタビュー

ゲストマララ・ユスフザイさん】

◆バーミンガムでの新しい生活が始まり1年ちょっとになるが?

ゲストマララ・ユスフザイさん

バーミンガムでの新しい生活が始まり1年ちょっとになるが?

銃撃されたのは大変な経験でしたけど、お医者さんも驚くくらい早く回復しています。

ここバーミンガムでは、とても良い学校で勉強でき本当に幸せです。

学べて本も読めるのですから。

少し寂しく感じることがある?

そうなんです。

友だちに会えなくて寂しいです。

イギリスで同級生が口にするジョークは、私にはそう思えなかったり、また私のジョークが通じないこともあり、とても難しいです。

パキスタンでは、誰が一番良い成績を取るか、いつも競い合っていたので、よく勉強し楽しかったです。

イギリスでも学校で一番になりたいです。

◆不屈の少女 マララさん 信念の源は

マララさんが生まれ育ったパキスタン北西部のスワート地区です。男性優位の部族の慣習が根強い保守的な地域です。女性は年頃になると、人前で肌を出したり、1人で外出したりすることも許されません。

多くの女性は学校に通えず、読み書きができません。

3人きょうだいの長女として育ったマララさん。

教育者の父親の下、女の子も自由に生きるべきだと育てられ、学校に進学。将来の夢は、世界各地を冒険することでした。しかし、成長するにつれ、弟たちが自由にできることも自分には許されない社会の在り方に疑問を抱くようになりました。

当時の思いが自伝につづられています。

自伝『わたしはマララ』より

男は子どもでもおとなでも自由に外を出歩けるのに、母とわたしは、家族や親類の男が― 五歳の男の子でもいい― つきそっていないと、出かけることができない。

わたしは子どもの頃から、絶対、そんなふうにはなりたくなかった。

5年前、マララさんの人生を大きく揺るがす出来事がありました。

イスラム過激派のパキスタン・タリバン運動が町を占拠。イスラムの教えに反しているとして、女性が教育を受ける権利を否定します。学校などを次々と爆破し、マララさんも学校に通えなくなりました。

さらに命令に従わなかった人たちに対して、むち打ちや処刑を行うなど恐怖で支配していったのです。

なんとかして学校に戻りたい。

当時11歳だったマララさんは、ブログで厳しい現状を訴えることにしました。

タリバンのせいで27人いた同級生は11人になってしまった

ブログは国内外のメディアで取り上げられ、大きな反響を呼んだのです。

大人でさえ声を上げられない中で、言葉を発したマララさんの勇気は社会を動かしました。

マララ・ユスフザイさん

「圧政や迫害に反対の声を上げましょう。

権利を奪おうとするものを恐れないで。」

マララさんは、ペンの持つ力に初めて気付かされたと言います。

自伝『わたしはマララ』より

ペンが生みだす言葉は、マシンガンや戦車やヘリコプターなんかよりずっと強い力を持っている。

ファズルラー(過激派の幹部)のようなたったひとりの人間がすべてを破壊できるのなら、たったひとりの少女がそれを変えることもできるはずだ。

しかし、一昨年10月マララさんをイスラム過激派銃撃したのです。頭を撃たれ、3日間にわたり生死の境をさまよい続けました。

「マララ、マララ!」

世界各地でマララさんの回復を願う人々の輪が広がりました。

何度も手術を受け、一命を取り留めたマララさん。

現在はイギリスで家族に支えられながら教育の普及に向け、再び歩み始めています。

◆不屈の16歳 マララさん 教育にかける思い

どんな疑問から女の子を取り巻く状況がおかしいと考えるように?

私自身は本当に恵まれてると思うんです。

父は私に自由や、弟たちと対等な権利を与えてくれました。でも近所には、対等な権利なんて与えられない女の子がたくさんいて、学校に通うことも許されていませんでした。

あるとき、オレンジを売る小さな少女に会いました。

その子は手に紙を持っていて、何かを書こうとしていたんです。「勉強は好き?」と尋ねると「大好き」と答えました。話を聞いてみると、学校には行きたいけれど、家族のためにお金を稼がなければいけないと言うんです。

まだ、とても小さな女の子でした。そのとき、私は思いました。この子はオレンジを売るのではなく、学校に行ってオレンジがどうやってできるのか、自然や生物について学ぶべきではないかと。

暗黒の日々と表現される日々をどんな気持ちで過ごしたか?

毎晩、人が殺されるような社会で暮らすのは本当につらかったです。テロや過激派の支配など21世紀なのにこんな野蛮なことが起きるのかと思っていました。

(とても怖かったでしょう?)

はい。でも、たとえタリバンが学校の扉を閉ざしても、学びたいという私たちの心までは閉ざせないと思っていました。

教育の価値に改めて気付かされた?

奪われて初めていかに重要なものであるかを思い知らされました。学校に行くということは、知識を得るだけでなく、自分の未来を切り開くことだと思います。

だから、もう学校に行けないと言われたときは、まるで石器時代に引き戻されたかのようでした。

もし明日から学校に行かず、ずっと家にいなさい、唯一の仕事は、料理や皿洗いをし結婚して子どもを産み、子どもたちの世話をすることだけ。

それが、たった1つの生き方だと言われたら、そんな日々を想像できますか?

だから私はふるさと・スワートではこんなことが起きている、私たちの存在を無視しないでほしいと世界に訴えることにしたのです。

自分の声が本当に届いているのかどうか心配では?

はい。誰が耳を傾けてくれるのか、全く分かりませんでした。私自身も、女性が声を上げることの重要性に気付いていませんでした。

政府や軍が行動を起こして初めて女性の声がこんなにも力を持っていたのかと気付かされたんです。

私は今、こう考えています。

女の子が学校に行くべきでないのは、長年の文化で決められているからと言う人がいるけれど、その文化を創ったのは私たち自身であり、変える権利も私たちにあるのだと思います。

◆世界を動かす マララさんのメッセージ

マララさんは銃撃事件から9か月後、国連の壇上に立ちました。

マララ・ユスフザイさん

「タリバンは銃弾で、私たちを黙らせることはできませんでした。弱さや恐れ、絶望は消え、強さと勇気が生まれました」

マララさんのメッセージは、世界中の女性たちに勇気を与えています。

アフリカのウガンダから国連に招待されたナキア・ジョイスさんもその1人です。

◆立ち上がった ウガンダのマララ

ウガンダ北部のパデール県。住民の多くは自給自足で暮らしています。この地域の人々の情報源となっているラジオ局です。

地元で唯一の女性ジャーナリストとして活動しているナキアさん。マイクを通して、ウガンダの女性の権利向上を訴えています。そこで繰り返し伝えているのが、マララさんの言葉です。

ナキア・ジョイスさん

「みんな学校へ行きましょう。当然の権利なんだから。」

ナキアさん自身も女性だからというだけで差別される環境で育ちました。13歳のときにはマララさんと同じような体験もしました。

友達と学校に向かっていたある日、武装した集団に銃撃されたのです。とっさに草陰に隠れて助かりましたが、少女2人が殺されました。

理不尽な暴力に対し、無力感を感じていたナキアさん。命を失いかけたマララさんが、それでも闘っている姿に心を揺り動かされたと言います。

ナキア・ジョイスさん

「マララさんが私に自信をくれたんです。

若いマララさんが、権利について声を上げられるのなら、私にもできると思いました。」

ナキアさんは女性蔑視が深刻な農村部を取材し、ラジオを通して現状を変えたいと強く思うようになりました。ウガンダの農村部では、今も学校に行けるのは主に男の子。女の子は家にいて家事をするべきだという慣習が根強く残っています。

男性

「息子は学校に行き家族を養ってくれますが、娘はどうせ嫁に行ってしまう。女は家事をやっていればいいんです。」

この日の取材では、村の男性を集め、なぜ女性を蔑視するのか意見をぶつけました。

ナキア・ジョイスさん

「男性のみなさん、女性に暴力を振るうなんてひどいと思いませんか?」

農村部では女性が人前で発言することは、慣習として許されていません。それに反して声を上げるナキアさんに、男性からは厳しい言葉が向けられます。

男性

「女を男と対等に扱うなんて、オレは反対だ。

女のせいで、いろいろなもめ事が起きるんだ。」

男性

「女が男と同じように振る舞おうなんて、あんたどうかしているよ。」

以前は、言い返すこともできなかったナキアさん。

しかし、マララさんと出会ったことで自信をつけ強く訴えられるようになりました。

ナキア・ジョイスさん

「私は暴力を決して認めません。

私は女性のために声を上げているんです。」

これからもラジオを通して女性の権利のために闘い続けたい。現状を少しでも変えていくことが、自らの役割だとナキアさんは考えています。

ナキア・ジョイスさん

「少女であっても機会さえあれば、国全体を変えることができると知りました。

1日ではできませんが、変化は必ず起きると思います。私もマララさんのような象徴になりたい。特に女の子の権利のために闘い続けたい。」

◆16歳でリーダーに その思いは

16歳でリーダーに 重荷だと感じないか?

私の「責任」だと考えています。

以前は教育のために発言することは、私の「権利」だと思っていましたが、今は「やるべきこと」だと考えています。

応援してくれる人々の気持ちを思うと、「1人じゃない」と希望が湧いてくるんです。

祖国パキスタンでの名声のための活動という声を聞いて

名声のためにやっていると言われてもそれはそれで、かまいません。

でも、教育という大きな目的だけは支持してほしいと思います。

女性たちをどのように勇気づけるか?

女性が男性に頼らなければ権利を主張できない時代もありました。

でも、すべての女性に伝えたいのは今は自分たちで、権利を主張すべきだということです。

私たちには自由があるのだから自由を与えてほしいと誰かに頼む必要はありません。

(女性は声を上げるのをためらいがちだが?)

そうですね。

きっと、それは私たち女性が自分たちには力や能力がないと思っているからです。

でも私たちは女性や男性である前に同じ人間なのです。

だから自分たちを1人の人間として対等に考えるべきだし、もともと持っている可能性を信じるべきだと思うんです。

10年後、20年後 何をしていると思うか?

すべての子どもたちが学校に通っている姿を見ていたいです。

(あなた自身は?)

それが私の望むことです。

多くの学校を建て、この目で見てみたいのです。

学校に行くというのは、単に教室で本を読むことではなく、学ぶことを通じて、新しい世界と出会うことだと思います。

大切なのは、友達と机や、いすを並べることで、みんな平等なのだと学ぶことなのです。

黒人でも白人でも、イスラム教徒でもヒンズー教徒でも、お金持ちでも貧しくても、そんなことは重要ではなく、私たちは平等なのだと教えてくれるのです。

私は、それを実現するためにも政治家になりたいんです。

政治家に対する不信感と同時に政治家になりたい 矛盾では?

すべての政治家が堕落しているわけではないと思います。私が政治家になりたいのは、それが国全体を発展させるのに最善の方法だと思うからです。

医師になれば、地域の人たちを助けることができると思います。教師になれば、多くの人を育てられるでしょうが、国全体を変えることはできません。

だから私は政治家になりたいのです。そしてパキスタンで、オレンジを売っていたあの女の子が学校に行く姿を見たいんです。できるだけ早くパキスタンに戻って、ふるさとの人たちの力になりたいと思っています。

◆◆学びの場、消えぬ不安 パキスタン学校テロから2カ月

2015217日朝日新聞

パキスタン北西部ペシャワルの学校でイスラム過激派による無差別テロが起きてから16日で2カ月。市内にある別の女子学校では、2週間前から事務員が自動小銃で武装。屋上には狙撃要員が配置されている。冬休みが明けても約3割が欠席していたが、ようやく戻ったという。

 パキスタン北西部ペシャワルでイスラム過激派が学校に乱入し、児童生徒ら160人以上を殺害するテロが起きてから16日で2カ月がたった。政府はすべての学校の武装化を指示したが、テロの不安は消えない。周辺地域では700校が再開できないままだ。

◆遺志継ぎ、教え続ける

 襲撃された「ペシャワル陸軍公立学校」が再開にこぎつけた1月12日の朝、登校した図書室担当の女性教員、フィザ・ルバブさん(26)は、涙を抑えることができなかった。

 あまりに多くの同僚と子どもたちを失った。そのことを改めて思い知らされた。同じ家からいつも一緒に通っていた叔母で同校教員のソフィア・ヘジャブさん(39)も、もういない。

 1年半前、教員になったのはソフィアさんの勧めだった。ソフィアさんは、子育てが一段落した後に学位を取り直し、4年前から同校で国語のウルドゥー語を教えていた。女性が働きに出ることを好まない保守的なイスラム社会。家族を説得し、生き生きと教壇に立つソフィアさんがいつしか理想の女性になっていた。

 昨年12月16日、反政府武装勢力パキスタン・タリバーン運動(TTP)が送り込んだ6人のテロリストは、最も多くの生徒が集まっていた講堂の周辺で銃を乱射し始めた。

 フィザさんは20メートルほど離れた図書室で生徒45人を守るのに必死だった。うち14人は肩や胸、手足から血を流し、2人は息も絶え絶え。「身を隠して。声を出さないで」。軍部隊に救出されるまでの2時間あまり、ただ耐えるしかなかった。

 ソフィアさんが犠牲になったことを知ったのは、自分が救出されてから数時間後。講堂にいて、出入り口から生徒16人を逃がしたところで後頭部を撃たれて亡くなったと同僚に聞いた。

 学校へ行くのは今でも怖い。「包帯を巻いて通ってくる生徒たちを見て、私は勇気を奮い立たせた。生き残った生徒も教員も、精神的な後遺症が残っていない者はいない。でも、私が学校に通い続け、子供に教えることが叔母の遺志だと思う」とフィザさんは話す。

◆狙撃銃・有刺鉄線で要塞化

 政府と軍が威信をかけて再開させた現場の学校とは対照的に、周辺の学校では混乱が長引いている。

 政府は国内すべての教育機関に、安全策を強化するよう指示した。ペシャワルがあるカイバルパクトゥンクワ州では、12月下旬から1月初めまでの冬休みを利用し、学校周囲の外壁のかさ上げや有刺鉄線の設置、出入りの際の金属探知機による荷物検査、狙撃銃を持った警備員の屋上への配置など、事実上、学校を要塞(ようさい)化する措置を求めた。

 安全策が十分だと警察当局が承認するまで再開を禁じたため、州内の約2万8500校の大半は冬休みが終わっても再開できない状態が続いた。ようやく今月、大半は再開に踏み切ったが、州教育当局によると、治安が悪い地域を中心に700校あまりがまだ休校したまま。州政府は教員らに校内での銃所持を認める方針も決定。「襲撃された場合、治安部隊が駆けつけるまで対応する必要がある」(州情報相)として教員らに銃の取り扱い訓練もした。

 ペシャワルの住宅街で約800人が通う公立ドゥラザク女子校では、最近になって授業が再開したが、校門前と屋上に職員が自動小銃を持って立つようになった。他に数人の職員が拳銃を所持しているという。

 州内ではテロ後も、夜間に女子校校舎が爆破されたり、校長あてに脅迫電話がかかってきたりする事件が続く。校門前で銃を構える事務員のシャビル・メフムードさん(35)は「襲撃される可能性がある以上、武装するしかない」と話す。

◆過激派、対ソ連戦略から肥大化 アフガン侵攻が契機

 古来シルクロードの要衝として栄えたペシャワルは、1979年に隣国アフガニスタンへ侵攻したソ連軍と戦うイスラム勢力の出撃拠点となって以来、イスラム過激主義による混乱の中心となってきた。

 南下するソ連への防壁としたい米国や、アフガンやインドに対する戦略カードとして使いたいパキスタンが支援した武装集団が、ムジャヒディン(イスラム聖戦士)、タリバーン(宗教学生)などと名前を変えながら、暴力を「聖戦」とする危険思想を育んだ。

 戦う相手はアフガンを占領する外国軍だったはずが、次第に変化。ペシャワルのキリスト教会(2013年9月、80人死亡)、インド国境の検問所の観光客(昨年11月、60人死亡)、ペシャワルのイスラム教少数派シーア派の礼拝所(今月13日、20人死亡)など標的を変えてテロを起こす。過激派は国際テロ組織アルカイダなどとも関係を深め、「イスラム国」に参加を表明したグループもいる。

 暴力をのみ込んで肥大化した過激主義の行き着く先が学校テロだったと言える。米同時多発テロになぞらえ、「パキスタンの9・11」(アジズ首相顧問)というほどの衝撃だった。シャリフ首相は「根絶やしにするまで戦う」と宣言。政府と野党は、軍事作戦の全面的な支持で足並みをそろえた。

 性急なテロ対策には危うさも目立つ。政府は08年に凍結した死刑執行を復活。テロ犯を中心に20人あまりに執行した。裁判官や証人に対する過激派の脅迫がやまない現状を打開する理由で、テロ裁判を軍部管轄下に移すための憲法改正にも踏み切った。

 ソ連侵攻以来、住み続けてきたアフガン難民の弾圧も強まっている。不法滞在者を送還する名目だが、合法難民も家を捜索されたり、拘束されたりする例が相次ぎ、今年に入って3万人以上が帰還を余儀なくされた。(ペシャワル=武石英史郎)

◆パキスタン・タリバーン運動(TTP)

パキスタン政府の打倒やイスラム法による統治を目指し、2007年に発足。女性の社会進出や女子教育を敵視し、12年に女子学生マララ・ユスフザイさんを銃撃した。隣国アフガニスタンの反政府勢力タリバーンや国際テロ組織アルカイダと関係が深く、最近では、一部が分派して中東の過激派組織「イスラム国」への参加を表明した。パキスタン軍は昨年6月から、TTPの拠点がある同国北西部の部族地域で掃討作戦を続けている。

◆◆Wiki=マララ・ユスフザイさん

Malala Yousafzai

ノーベル平和賞受賞

生誕 1997712日(17歳)

パキスタン カイバル・パクトゥンクワ州ミンゴラ(英語版)

国籍 パキスタンの旗 パキスタン

肩書き スワート県子供会議議長

任期 2009 – 2011

宗教 イスラム教徒

宗派 スンニ派

受賞 シモーヌ・ド・ボーボワール賞(英語版)(2013年)

サハロフ賞(2013年)

ノーベル平和賞(2014年)

補足

マララ・デー(英語版)(712日)

ノーベル賞受賞者 ノーベル賞

受賞年:2014

受賞部門:ノーベル平和賞

受賞理由:銃撃を受けながらも女性差別を訴えた

マララ・ユスフザイ(英語: Malala Yousafzai、パシュトー語: ملاله يوسفزۍMalālah Yūsafzay1997712)は、パキスタン出身の女性。フェミニスト・人権運動家。ユースフザイやユサフザイとも表記される。カイバル・パクトゥンクワ州ミンゴラ(英語版)生まれ。2014年ノーベル平和賞受賞。

◆来歴

スンニ派の家庭に生まれる。父親のジアウディン(en:Ziauddin Yousafzai)は地元で女子学校の経営をしており、娘のマララは彼の影響を受けて学校に通っていた。マララという名はパシュトゥーン人の英雄であるマイワンドのマラライにちなんでつけられた 。彼女は数学が苦手だったが、医者を目指していた。2007年に武装勢力パキスタン・ターリバーン運動(TTP)が一家が住むスワート渓谷(英語版)(スワート県(英語版))の行政を掌握すると恐怖政治を開始し、特に女性に対しては教育を受ける権利を奪っただけでなく、教育を受けようとしたり推進しようとする者の命を優先的に狙うような状況になった。2009年、11歳の時にTTPの支配下にあったスワート渓谷で恐怖におびえながら生きる人々の惨状をBBC放送の依頼でBBCのウルドゥー語のブログにペンネームで投稿してターリバーンによる女子校の破壊活動を批判、女性への教育の必要性や平和を訴える活動を続け、英国メディアから注目された。マララは、イスラム世界における初の女性政府首脳である元パキスタン首相ベーナズィール・ブットーに刺激を受けたと語っている。

一方、アメリカのパキスタンに対する軍事干渉には批判的な見解を示し、201310月にアメリカのオバマ大統領と面会した際は、無人機を使ったアメリカのテロ掃討作戦をやめるよう求めた。

2009年、TTPがパキスタン軍の大規模な軍事作戦によってスワート渓谷から追放された後、パキスタン政府は彼女の本名を公表し、「勇気ある少女」として表彰した。その後、パキスタン政府主催の講演会にも出席し、女性の権利などについて語っていたが、これに激怒したTTPから命を狙われる存在となる。

◆銃撃事件

2012109日、通っていた中学校から帰宅するためスクールバスに乗っていたところを複数の男が銃撃。頭部と首に計2発の銃弾を受け、一緒にいた2人の女子生徒と共に負傷した。

この事件についてTTPが犯行を認める声明を出し、彼女が「親欧米派」であり、「若いが、パシュトゥーン族が住む地域で欧米の文化を推進していた」と批判、彼女に対するさらなる犯行を予告した。わずか15歳の少女に向けられたこの凶行に対し、パキスタン国内はもとより、潘基文・国際連合事務総長やアメリカのヒラリー・クリントン国務長官など世界各国からも非難の声が上がったが、TTPは「女が教育を受ける事は許し難い罪であり、死に値する」と正当性を主張して徹底抗戦の構えを示した。アンジェリーナ・ジョリーは事件を受け、パキスタン、アフガニスタンの少女のために5万ドル(約400万円)を寄付した。寄付金は、パキスタン、アフガニスタンにおける女性教育のために闘った女性、少女を表彰する賞の創設などに使われるという。

20131110日、ホワイトハウスでオバマ大統領一家と会談。

1013日、容疑者とみられる5人が逮捕された。

彼女は首都イスラマバード近郊のラーワルピンディーにある軍の病院で治療を受け、1014日には試験的に短時間だけ人工呼吸器を外すことに成功した[1015日、さらなる治療と身の安全確保のため、イギリス・バーミンガムの病院へ移送された。翌16日には筆談で「ここはどこの国?」と質問し、19日には病院職員に支えられながらではあるが、事件後初めて立ち上がった。

銃弾は頭部から入り、あごと首の間あたりで止まっていて、外科手術により摘出されたものの、頭部に感染症の兆候があったが、奇跡的に回復し、201313日に約2カ月半ぶりに退院した。家族とともにイギリス国内の仮の住まいでリハビリをしながら通院を続け、22日に再手術を受けた。

201319日、シモーヌ・ド・ボーボワール賞(英語版)を受賞した。同年712日、国際連合本部で演説し、銃弾では自身の行動は止められないとして教育の重要性を訴えた。国連は、マララの誕生日である712日をマララ・デー(英語版)と名付けた。また、同年1010日にはサハロフ賞を受賞した。

2014912日、パキスタン軍はマララ襲撃に参加したイスラム過激派10人を逮捕したと発表した。ただし、パキスタン・ターリバーン運動から分離した過激派ジャマトゥル・アハラールは、「あの襲撃には3人が関与し、うち1人は殉死し、2人は生きている」として軍の発表を否定している。また、パキスタン・ターリバーン運動の指導者マウラナ・ファズルッラーが襲撃を命じたとの説も否定している。

2014年、ノーベル平和賞受賞。17歳でのノーベル賞受賞者は史上最年少者。マララは受賞において「この賞は、ただ部屋にしまっておくためのメダルではない。終わりではなく、始まりに過ぎない」と表明した。マララの母国パキスタンのナワーズ・シャリーフ首相は「マララさんの功績は比べるものがないほど偉大だ」と賞賛した。しかし、マララの出身地スワト地区では、イスラム過激派に対する恐怖から、表立って祝う動きは殆ど見られない。パキスタンの有力紙は受賞決定を大いに歓迎し、マララを賞賛したが、パキスタンの一部保守層には、マララがイスラームに敬意を

払っていないとして、ノーベル賞受賞は「西洋の指示に従った結果」と皮肉る意見もある。マララに対する批判者は、Twitterで「MalalaDrama(マララ茶番)」というハッシュタグを使っている。

その他、インドのナレンドラ・モディ首相、欧州連合、国連の潘基文事務総長などが、マララの受賞を祝福した。アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は「人類の尊厳のために奮闘するすべての人たちの勝利だ」とし、日本の安倍晋三総理大臣は「女性が教育を受ける権利を訴え続けたことは、世界中の人々に勇気を与えた」と受賞を称えた。在日パキスタン人など日本国内のイスラム教徒も受賞を祝福した。

また、米タイム誌が発表した「2014年最も影響力のある25人のティーン」の一人に選ばれた。

◆◆マララさんの言葉

ワシントンの世界銀行で演説するマララさん=2013年10月11日、AP

 マララ・ユスフザイさん(17)は、パキスタン北部スワート地区で生まれ育ちました。女子教育を認めないイスラム武装勢力タリバーンが一帯を支配する中、2009年に学校に自由に通えない日常をつづったブログを始め、注目を集めるようになりました。

 15歳だった12年10月、下校中のスクールバスに乗り込んできた武装勢力の男に頭と首を撃たれ、一時は意識不明の重体に陥りました。英国バーミンガムの病院に運ばれ、奇跡的に回復すると、世界に向けた発言を再開しました。

 マララさんが訴え続けているのは、子供が教育を受ける権利の大切さ。ここで紹介する発言の数々には、「すべての子供に安全な環境で教育を」という願いと、「教育なしには平和は来ない」との信念が込められています。

◆私には教育を受ける権利がある 2011年放送CNN

 「私には教育を受ける権利があります。遊んだり、歌ったり、市場に行ったり、自由に発言したりする権利があるのです」

◆1冊の本、1本のペンで世界に変革を 2013年7月国連演説

 「テロリストは私と友人を銃弾で黙らせようとしたが、私たちは止められません。私の野心、希望、夢は何も変わりません」

 「言葉の力を信じています。教育という目標のために連携すれば、私たちの言葉で世界を変えることができるのです」

 「本とペンを手に取ろう。最も強力な武器なのです。1人の子供に1人の教師、1冊の本と1本のペン――。それがあれば世界を変えることができます。教育こそが解決策なのです」

◆全ての子供に教育を 2013年10月7日放送BBC

 「パキスタンに帰りたいが、まずは力強くならなくてはいけません。力を身につけるために必要なことはただ一つ。それが教育なのです。教育を受け、そしてパキスタンに戻ります」

「(ノーベル)賞をもらえなくても、それは重要なことではありません。私の目標は、(世界が)平和になり、すべての子どもが教育を受けられるようになることですから」

◆タリバーンの子供にも教育を 2013年10月11日世界銀行イベント

 「(襲撃される前)タリバーンが来れば、『銃を撃つ前に話を聞いて』と言おうと思っていました。そして『あなたたちの子供にも教育を受けさせたい』と」

 「テロとの戦いに銃を使うのは最善の手段ではありません。戦車や銃をつくったり、兵士のために大金を費やしたりしています。そのお金を本やペン、教師、そして学校のために使わなければいけないのです」

◆政治家に、首相になって国をよくしたい 2013年10月14日放送CNN

 「(故郷では)教育を受けた女性は、医師か教師になるのが精いっぱい。そうでもなければ、家事や育児をして、四方を囲まれた家の中で男性に言われるがままの暮らしをするしかありません」

 「医師になれば小さなコミュニティーを助けることができますが、政治家は国全体を助けられます」

 「首相になりたい。そうなればいいな、と思います。政治を通じ、国を治す『医師』として子供が学校に行けるようにできます。教育の質を向上させることも。予算の多くを教育に注ぐことができるようにもなります」

◆教育こそ国の強さ 2013年11月20日サハロフ賞受賞

「国の強さを決めるのは兵士や武器の数ではなく、識字率や教育を受けた人々の多さです。考え方を変えましょう」

 「(学校に行けない)子どもたちが欲しいのは、iPhone(アイフォーン)でもチョコレートでもありません。1冊の本と1本のペンです」

◆少女たちの解放を/2014年7月ナイジェリア

 「少女たちは私の姉妹。ボコ・ハラムに警告します。平和の宗教であるイスラムの名を誤用しないで。直ちに武器を置き、少女たちを解放しなさい」

◆◆マララさんの父親の講演から

ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんの父親であり教育者のジアウディン・ユスフザイ氏が、家父長社会では「女性が教育を受ける権利」が奪われ、いまだに男尊女卑の悪しき精神が引き継がれていることを解説。講演の最後に、マララのような子供を育てる秘けつを教えてくれます。

★★動画TED17miPhoneは字幕なし)

http://www.at-douga.com/?p=12192

ジアウディン・ユスフザイ: 私の娘、マララ

多くの家父長社会と 部族社会では 父親が息子の出世で有名になりますが 私は そんな中で数少ない 娘によって有名になった父親です これを光栄に思います

(拍手)

マララが教育のための キャンペーンを始めて 女性の権利を求めて立ち上がったのは 2007年のことでした 彼女の努力が認められたのは 2011年のことです パキスタン政府から 「国民平和賞」を授与されると 一躍有名になりました パキスタンを代表する 有名な女の子になったのです それまでマララは 「ジアウディンの娘」でしたが 今では私が 「マララの父親」と呼ばれます

ご来場の皆さま 人類の歴史を振り返ってまいりますと 女性の歴史とは 不公正の物語であり 不平等 暴力、搾取がつきものでした ご存知のとおり 家父長社会は 子どもが産声を上げた時から 始まります 女の子が生まれると その誕生は祝福されません 誰からも歓迎されず 実の両親にすら 喜ばれません 近所の人たちが訪れては 母親をなぐさめます 父親に「おめでとう」と 言う人はいません 女の子を産んだことで 母親は とても肩身の狭い思いをします 初めての子供が 女の子だった時 母親は悲しみにくれ 2人目の子供が女の子だと 母親はショックを受けます 今度こそ息子でありますようにと 願いながら 3人目の子供も女の子だと 犯罪者のごとく 罪悪感にかられます

この苦しみは 母親だけのものではありません 娘に受け継がれます 生まれた女の子が 大きくなると また苦しみをうけるのです 彼女が5歳になると 就学すべき年齢なのに 家にいなければいけません 彼女の兄弟達は 学校に行けるのにです

彼女が12歳になるまでは どうにか良い生活を送ります 楽しいことができます 道端で友達と一緒に遊んだり 一人で外を歩いたりできるのです 蝶々みたいに自由です ところが十代になると 13歳になると 女性は男性のつきそいなしに 出かけることを禁じられます 家の中に閉じ込められるのです もはや自由を謳歌できる 一個人ではなくなります 女性は父親や兄弟 そして家族にとっての いわゆる「名誉」になるのです ですから女性が この「名誉」を傷つけると 殺されることすらあります

面白いことに この「名誉」と呼ばれるものが 女の子の人生に 影響を及ぼすだけでなく 家族の男性陣の人生にまで 影響を与えるのです 7人の娘たちと1人の息子から成る 家族がいまして この1人の息子は 湾岸諸国に出稼ぎに出ています 7人の姉妹と両親を 食べさせるためです なぜかというと 7人の姉妹が スキルを磨いて 家を出て生活費を得ることが 恥だと考えているからです ですから彼は 「名誉」と呼ばれるもののために 自身の生きる喜びや 姉妹の幸せを犠牲にしているのです

家父長社会にある もう一つの規範が 「服従」と呼ばれるものです 良い女の子として 求められるのは とても物静かで慎ましく とても従順なことです これが良い条件です 良い女の子とは おとなしくなければいけません 彼女達に求められるのは 父親や母親、年長者による決定を 黙って 受け入れることです たとえ本人が嫌だったとしてもです ですから自分が気に入らない男性や 年の離れた男性との結婚でも 受け入れざるをえないのです 従順さに欠けると 受け取られたくないからです

まだ幼くして結婚させられても 受け入れなくてはいけません さもないと従順ではないという 烙印を押されるからです すると どうなると思いますか? ある女流詩人の言葉を借りるなら 「結婚を強いられ 夫婦関係を強いられ 次から次へと 息子や娘を産んだ」と この状況で皮肉なのは この母親が 同じ「服従」の大切さを 娘に説いて 同じ「名誉」の重要さを 息子に教えるのです こうやって悪しきサイクルが 果てしなく続いていくのです

ご来場の皆さま 何百万人の女性の このような窮状を 変えるためには 違う考え方を持つことです 男性と女性が これまでの考え方を変えること 開発途上国の 部族社会や家父長社会にいる 男性と女性が 家族や社会にある いくつかの規範を 断ち切ることです 国内にはびこる 女性の基本的人権に反する 社会の体制を作る 差別的な規範を 廃止することです

親愛なる兄弟姉妹の皆さま マララが生まれた日のことです 初めて溢れてきた思いは 実のところ 生まれたての子どもは 苦手な私でしたが― 生まれたばかりの マララの目を見ると 心から とても誇らしい気持ちになりました 彼女が生まれる ずっと前から 名前は決めていました 私はアフガニスタンで 自由のために戦った 伝説のヒロインに魅せられていました 彼女はマイワンドのマラライと呼ばれました 娘の名前は 彼女にちなんだものです マララが生まれて 数日後のことです 私のいとこが 我が家にやって来て 偶然にも 家系図を持ってきたのです ユスフザイ家の家系図で それを見ると 300年前の祖先まで さかのぼるものでした でも そこに書かれているのは 男の名前だけで ペンを手にした私は 私の名前から線を引いて 「マララ」と書きました

彼女が成長し 4歳半になると 私が経営する学校への 入学を認めました 皆さんは私が 女児の入学許可について あえて申し上げるのを 不思議に思われるでしょうか そう 話さなければいけないんです カナダやアメリカ その他の多くの先進国では 当たり前のことかもしれませんが 貧しい国々や 家父長社会、部族社会では 就学とは女の子にとって 一大事です 学校に通えるということは 自分のアイデンティティや名前を 認めてもらえること 学校に通えるということは 将来のために 自分の可能性を 探せる 夢や希望をかなえる場所に 足を踏み入れることです

私には5人の姉妹がおりますが 誰一人として 学校に通えませんでした 皆さん驚かれるでしょうが 2週間前のことです カナダビザの申請書を 作成していたんですが 自分の家族について 記載する箇所があり 姉妹の内 何人かの 名字を思い出せませんでした といいますのも 私の姉妹の氏名が書かれた書類を 一度たりとも見たことがなかったのです こういったことから 私は娘を大切にしました 父が私の姉妹 つまり父の娘達に 与えられなかったもの これを変えなければと思いました

私は娘の知性と聡明さを 大事にしてきました 私の友人が来ると 娘をそばに座らせ 様々な会合に 一緒に連れて行きました これら全ての良い価値観が 彼女自身に根付けばと願いました これはマララだけに 願ったことではありません こうした良い価値観全てを 男女分け隔てなく 私の学校の全生徒に教えました 教育を通して 子ども達を解き放ちました 私が女の子達 女子生徒に教えたのは 服従の教えを学ばないこと 男子生徒に教えたのは 偽りの名誉の教えを 学ばないことです

親愛なる兄弟姉妹の皆さん 私達は女性の権利のために 戦ってきました そして社会に もっともっと沢山の 女性の居場所を作るため 努力してきました ところが新しい障壁が 立ちはだかりました 人権を脅かし 特に女性の権利を危険にさらしている タリバン化と呼ばれたものです

タリバン支配下では 全ての政治、経済 社会活動において 女性の参画が完全に否定されます 数百にのぼる学校が破壊されました 女の子は学校に通うことを 禁じられます 女性はベールをかぶるよう強要され 市場に買い物に行くことすら 禁じられました 音楽は取り上げられ 女の子が鞭で打たれ 歌手が殺されました 何百万もの人々が苦しみましたが 声をあげた人は ほとんどいませんでした 一番恐ろしかったのは 殺人や鞭打ちが横行している そんな中で 自分達の権利のために 声をあげることでしょう 本当に本当に怖かったです

マララは10歳になると 教育を受ける権利のため 立ち上がりました BBC放送のブログに日記を投稿し 米ニューヨーク・タイムズの 短編ドキュメンタリー制作に協力し あらゆる場所で声をあげました マララの声が一番パワフルでした その声は勢いを増しながら 世界中に広がり これがタリバンが 彼女の活動を 容認できなくなった理由でした 2012109日のことです マララは至近距離で 額を撃たれました

私と私の家族にとって まさに世界の終わりでした 世界が大きなブラックホールに 飲み込まれたのです 私の娘が 生と死のはざまを さまよっている間 私は妻の耳元で つぶやきました 「私達の娘に起こったことは 私の責任だろうか?」

彼女はすぐに 「どうか自分を責めないで あなたは正義のために立ち上がった 自分の命の危険をさらしてまで 真実を求めて 平和を求めて 教育を求めた そんなあなたに感化されて 娘は後に続いたのよ 2人とも正しい道を歩んできたから 神様はきっとマララを守ってくださる」

この言葉に助けられて 自分を責めることは 二度とありませんでした

マララが病院で 耐え難い苦痛を経験し 顔の神経損傷による 重度の頭痛を抱えていた時 妻の顔に 暗い影がさしたのを見かけたものです そんな時でさえ 娘は不満をもらしませんでした よく私達に言ってくれたのは 「笑えなくたって 顔が麻痺していても大丈夫 よくなるから どうか心配しないでね」 彼女は私達をなぐさめ 癒してくれました

親愛なる兄弟姉妹の皆さん 私達がマララから学んだことは 最も困難な時でさえ 立ち向かっていく力です 皆さんに ぜひお伝えしたいのは マララが 子供と女性の権利を取り戻す 希望の象徴であったとしても 普通の16歳の女の子と 何ら変わりないことです 宿題が終わらない時は 泣きますし 弟達と喧嘩します 私には それがとても嬉しいんです

周りの人達から マララみたいに強くて 勇敢で雄弁で 落ちついた子供の 育て方の秘訣を聞かれます 私の答えは 「私が何かしてあげたのではなく あることをしなかったお陰でしょう 彼女の『翼』を切り取らなかった それだけです」

ありがとうございました

(拍手)

ありがとうございました 本当にありがとうございました 

(拍手)

引用元:TED

【マララさんの父親の発言15.03.30赤旗】

◆◆マララさん国連演説

19137月)

パキスタンで昨年10月、女子が教育を受ける権利を訴えて武装勢力に頭を撃たれたマララ・ユスフザイさん(16)12日午前(日本時間同日夜)、ニューヨークの国連本部で演説し、「すべての子どもに教育を受ける権利の実現を」と訴えた。元気な姿とともに、銃撃されても信念を曲げず、教育を受けられない子どものための活動を続けると世界にアピールした。朝日新聞デジタルが伝えた。

12日はマララさんの16歳の誕生日。国連はマララさんの取り組みや銃撃後の不屈の精神をたたえて「マララ・デー」と名付け、世界各地の若者リーダーのほか、国連の潘基文事務総長、国連世界教育特使のブラウン前英首相らによる会合を企画したと共同通信は伝えている。

──────────────────────

慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において。

パン・ギムン国連事務総長、ブク・ジェレミック国連総会議長、ゴードン・ブラウン国連世界教育特使、尊敬すべき大人の方々、そして私の大切な少年少女のみなさんへ、アッサラーム・アライカム(あなたに平和あれ)。

今日、久しぶりにこうしてまたスピーチを行えてとても光栄です。このような尊敬すべき人たちと共にこのような場にいるなんて、私の人生においても、とてもすばらしい瞬間です。そして、今日、私が故ベナジル・ブット首相のショールを身にまとっていることを名誉に思います。

どこからスピーチを始めたらいいでしょうか。みなさんが、私にどんなことを言ってほしいのかはわかりません。しかしまずはじめに、我々すべてを平等に扱ってくれる神に感謝します。そして、私の早い回復と新たな人生を祈ってくれたすべての人たちに感謝します。

私は、みなさんが私に示してくれた愛の大きさに驚くばかりです。世界中から、温かい言葉に満ちた手紙と贈り物をもらいました。それらすべてに感謝します。純真な言葉で私を励ましてくれた子どもたちに感謝します。祈りで私を力づけてくれた大人たちに感謝します。私の傷を癒し、私に力を取り戻す手助けをしてくれたパキスタン、イギリス、アラブ首長国連邦の病院の看護師、医師、そして職員の方々に感謝します。

国連事務総長パン・ギムン氏のGlobal Education First Initiative(世界教育推進活動)と国連世界教育特使ゴードン・ブラウン氏と国連総会議長ブク・ジェレミック氏の活動を、私は全面的に支持します。みなさんのたゆまないリーダーシップに感謝します。みなさんはいつも、私たち全員が行動を起こすきっかけを与えてくれます。

親愛なる少年少女のみなさんへ、つぎのことを決して忘れないでください。マララ・デーは私一人のためにある日ではありません。今日は、自分の権利のために声を上げる、すべての女性たち、すべての少年少女たちのためにある日なのです。

何百人もの人権活動家、そしてソーシャルワーカーたちがいます。彼らは人権について訴えるだけではなく、教育、平和、そして平等という目標を達成するために闘っています。 何千もの人々がテロリストに命を奪われ、何百万もの人たちが傷つけられています。私もその1人です。

そして、私はここに立っています。傷ついた数多くの人たちのなかの、一人の少女です。

私は訴えます。自分自身のためではありません。すべての少年少女のためにです。

私は声を上げます。といっても、声高に叫ぶ私の声を届けるためではありません。声が聞こえてこない「声なき人々」のためにです。それは、自分たちの権利のために闘っている人たちのことです。平和に生活する権利、尊厳を持って扱われる権利、均等な機会の権利、そして教育を受ける権利です。

親愛なるみなさん、2012109日、タリバンは私の額の左側を銃で撃ちました。私の友人も撃たれました。彼らは銃弾で私たちを黙らせようと考えたのです。でも失敗しました。私たちが沈黙したそのとき、数えきれないほどの声が上がったのです。テロリストたちは私たちの目的を変更させ、志を阻止しようと考えたのでしょう。しかし、私の人生で変わったものは何一つありません。次のものを除いて、です。私の中で弱さ、恐怖、絶望が死にました。強さ、力、そして勇気が生まれたのです。

私はこれまでと変わらず「マララ」のままです。そして、私の志もまったく変わりません。私の希望も、夢もまったく変わっていないのです。

親愛なる少年少女のみなさん、私は誰にも抗議していません。タリバンや他のテロリストグループへの個人的な復讐心から、ここでスピーチをしているわけでもありません。ここで話している目的は、すべての子どもたちに教育が与えられる権利をはっきりと主張することにあります。すべての過激派、とりわけタリバンの息子や娘たちのために教育が必要だと思うのです。

私は、自分を撃ったタリバン兵士さえも憎んではいません。私が銃を手にして、彼が私の前に立っていたとしても、私は彼を撃たないでしょう。 これは、私が預言者モハメッド、キリスト、ブッダから学んだ慈悲の心です。 これは、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、そしてムハンマド・アリー・ジンナーから受け継がれた変革という財産なのです。 これは、私がガンディー、バシャ・カーン、そしてマザー・テレサから学んだ非暴力という哲学なのです。 そして、これは私の父と母から学んだ「許しの心」です。 まさに、私の魂が私に訴えてきます。「穏やかでいなさい、すべての人を愛しなさい」と。

親愛なる少年少女のみなさん、私たちは暗闇のなかにいると、光の大切さに気づきます。私たちは沈黙させられると、声を上げることの大切さに気づきます。同じように、私たちがパキスタン北部のスワートにいて、銃を目にしたとき、ペンと本の大切さに気づきました。

「ペンは剣よりも強し」ということわざがあります。これは真実です。過激派は本とペンを恐れます。教育の力が彼らを恐れさせます。彼らは女性を恐れています。女性の声の力が彼らを恐れさせるのです。 だから彼らは、先日クエッタを攻撃したとき、14人の罪のない医学生を殺したのです。 だから彼らは、多くの女性教師や、カイバル・パクトゥンクワやFATA(連邦直轄部族地域/パキスタン北西部国境地帯)にいるポリオの研究者たちを殺害したのです。 だから彼らは、毎日学校を破壊するのです。 なぜなら、彼らは、私たちが自分たちの社会にもたらそうとした自由を、そして平等を恐れていたからです。そして彼らは、今もそれを恐れているからです。

私たちの学校にいた少年に、あるジャーナリストがこんなことを尋ねていたのを覚えています。「なぜタリバンは教育に反対しているの?」。彼は自分の本を指さしながら、とてもシンプルに答えました。「タリバンはこの本の中に書かれていることがわからないからだよ」

彼らは、神はちっぽけで取るに足りない、保守的な存在で、ただ学校に行っているというだけで女の子たちを地獄に送っているのだと考えています。テロリストたちは、イスラムの名を悪用し、パシュトゥン人社会を自分たちの個人的な利益のために悪用しています。

パキスタンは平和を愛する民主的な国です。パシュトゥン人は自分たちの娘や息子に教育を与えたいと思っています。イスラムは平和、慈悲、兄弟愛の宗教です。すべての子どもに教育を与えることは義務であり責任である、と言っています。

親愛なる国連事務総長、教育には平和が欠かせません。世界の多くの場所では、特にパキスタンとアフガニスタンでは、テロリズム、戦争、紛争のせいで子どもたちは学校に行けません。私たちは本当にこういった戦争にうんざりしています。女性と子どもは、世界の多くの場所で、さまざまな形で、被害を受けています。

インドでは、純真で恵まれない子どもたちが児童労働の犠牲者となっています。ナイジェリアでは多くの学校が破壊されています。アフガニスタンでは人々が過激派の妨害に長年苦しめられています。幼い少女は家で労働をさせられ、低年齢での結婚を強要されます。

貧困、無学、不正、人種差別、そして基本的権利の剥奪――これらが、男女共に直面している主な問題なのです。

親愛なるみなさん、本日、私は女性の権利と女の子の教育という点に絞ってお話します。なぜなら、彼らがいちばん苦しめられているからです。かつては、女性の社会活動家たちが、女性の権利の為に立ち上がってほしいと男の人たちに求めていました。 しかし今、私たちはそれを自分たちで行うのです。男の人たちに、女性の権利のために活動するのを止めてくれ、と言っているわけではありません。女性が自立し、自分たちの力で闘うことに絞ってお話をしたいのです。

親愛なる少女、少年のみなさん、今こそ声に出して言う時です。

そこで今日、私たちは世界のリーダーたちに、平和と繁栄のために重点政策を変更してほしいと呼びかけます。 世界のリーダーたちに、すべての和平協定が女性と子どもの権利を守るものでなければならないと呼びかけます。 女性の尊厳と権利に反する政策は受け入れられるものではありません。

私たちはすべての政府に、全世界のすべての子どもたちへ無料の義務教育を確実に与えることを求めます。 私たちはすべての政府に、テロリズムと暴力に立ち向かうことを求めます。残虐行為や危害から子どもたちを守ることを求めます。 私たちは先進諸国に、発展途上国の女の子たちが教育を受ける機会を拡大するための支援を求めます。 私たちはすべての地域社会に、寛容であることを求めます。カースト、教義、宗派、皮膚の色、宗教、信条に基づいた偏見をなくすためです。女性の自由と平等を守れば、その地域は繁栄するはずです。私たち女性の半数が抑えつけられていたら、成し遂げることはできないでしょう。

私たちは世界中の女性たちに、勇敢になることを求めます。自分の中に込められた力をしっかりと手に入れ、そして自分たちの最大限の可能性を発揮してほしいのです。

親愛なる少年少女のみなさん、私たちはすべての子どもたちの明るい未来のために、学校と教育を求めます。私たちは、「平和」と「すべての人に教育を」という目的地に到達するための旅を続けます。誰にも私たちを止めることはできません。私たちは、自分たちの権利のために声を上げ、私たちの声を通じて変化をもたらします。自分たちの言葉の力を、強さを信じましょう。私たちの言葉は世界を変えられるのです。

なぜなら私たちは、教育という目標のために一つになり、連帯できるからです。そしてこの目標を達成するために、知識という武器を持って力を持ちましょう。そして連帯し、一つになって自分たちを守りましょう。

親愛なる少年少女のみなさん、私たちは今もなお何百万人もの人たちが貧困、不当な扱い、そして無学に苦しめられていることを忘れてはいけません。何百万人もの子どもたちが学校に行っていないことを忘れてはいけません。少女たち、少年たちが明るい、平和な未来を待ち望んでいることを忘れてはいけません。

無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとってもっとも強力な武器なのです。

1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一に)。ありがとうございました。

◆◆闘う17歳「本とペンを」=マララさんらノーベル平和賞

20141011日朝日新聞

マララさんの歩み/語録

 女子教育を敵視する暴力に言葉の力で立ち向かうパキスタンの少女、マララ・ユスフザイさん(17)。貧しさから労働を強いられる子供たちを解放するインドの活動家、カイラシュ・サティヤルティさん(60)。学校にふつうに通うということ。今年のノーベル平和賞は、こんな当たり前の権利のために闘う2人の勇気に贈られる。

◆銃撃に屈せず権利訴える マララさん

 マララさんは今年7月、17歳の誕生日をアフリカのナイジェリアで迎えた。イスラム武装勢力「ボコ・ハラム」が4月に誘拐した200人以上の女子生徒の解放を訴えるためだ。生徒の家族らを前に演説した。「少女たちは私の姉妹。ボコ・ハラムに警告します。平和の宗教であるイスラムの名を誤用しないで。直ちに武器を置き、少女たちを解放しなさい」

 イスラム諸国では今、過激で不寛容な主張がどんどん幅をきかせている。穏健派は「反イスラム」と断罪され、攻撃の対象になる。そんな現状にひるまない勇気と、心に響く言葉こそ、マララさんの力の源だ。

 ナイジェリアと母国パキスタンは、小学校へ通えない子供の数はそれぞれ約900万人と500万人で世界ワースト1位と2位。女子教育を敵視する武装勢力の脅威にさらされている。

 マララさんも数年前までは、武装勢力の恐怖の中で生きる無名の少女だった。故郷のパキスタン北部スワート地区では2007年ごろ、反政府勢力パキスタン・タリバーン運動(TTP)が政府機関を追い出し、極端な宗教解釈に基づく支配を敷いた。女子学校の爆破が相次いだ。

 マララさんの父親はスワート地区で私財を投じて学校を開いていた。その知人だった英BBCの記者に頼まれて09年1月、マララさんは学校に行けなくなる様子を「グルマカイ(トウモロコシの粉)」のペンネームで現地語のブログに連載し、国内で反響を呼んだ。

 報復テロを恐れ、大人さえも口を閉ざす時代。翌月、北西部の中心都市ペシャワルで開かれた政治集会で「私の名はグルマカイではない。マララ・ユスフザイ。他の誰でもない」と宣言し、タリバーンとの闘いの先頭に名乗り出た。

 その後、内外メディアに頻繁に登場。教育の権利を訴えたが、12年10月、スクールバスで下校途中、武装した男に銃撃された。

 意識不明のまま、英国に搬送され、奇跡的に回復。昨年7月、16歳の誕生日に国連で演壇に立った。

 「私は誰も憎んでいない。タリバーンの息子や娘たちに教育を受けさせたい。本とペンを手に取ろう。一人の子供、先生、本とペンが世界を変える」

 演説は高い称賛を浴び、マララさんは教育の権利を訴える国際的なシンボルになった。英国の学校で勉強を続けながら、戦乱が続くシリアやガザの子供たちについて発言を続けている。(イスラマバード=武石英史郎)

 マララ・ユスフザイさん 1997年、パキスタン北部の山岳地帯で生まれる。12年10月、タリバーンに撃たれ意識不明の重体に。だが、英国に搬送され一命をとりとめた。

◆労働・売買から8万人救う サティヤルティさん

 「(受賞は)虐げられている子供たちにとって大きな名誉。児童労働と搾取の深刻さを世界に改めて知らせる機会となってほしい」

 サティヤルティさんは10日、ニューデリーの自ら主宰するNGO事務所で語った。1980年から子供たちを過酷な労働や搾取から救出する活動を続ける。

 原点は小学校に通い始めた6歳の日にある。教室から外を見ると、同じ年格好なのに靴磨きで働く子がいた。「先生になぜと尋ねると、貧しいからだと。子供から子供時代を奪う残酷さをそのとき感じた」

 これまでに労働現場や人身売買などから救出した子供の数は8万人を超える。

 デリー大学の学生マナン・アンサリさん(18)もその一人。6歳から地方の鉱山で働いていた。両親とも文字が読めない労働者。子供を学校に行かせる発想はなかった。日給10ルピー(約18円)ほどで泥まみれで働いた。7歳のころ、サティヤルティさんのNGOの運動員が来て両親を説得。児童施設に預けさせた。

 マナンさんはそこで学び、高校で好成績を収めて名門大に進学。将来は医師になりたい。サティヤルティさんを親しみを込めて「お兄さん」と呼ぶ。

 サティヤルティさんによると、インドで働かされる子供は「政府統計では500万人。でも民間の推計では5千万人」。「私が生きているうちに、児童労働はなくなってほしい。そのためにはまだ、やることがたくさん残っている」

 (ニューデリー=貫洞欣寛)

     *

 カイラシュ・サティヤルティさん 1954年、インド中部ビディシャ生まれ。エンジニアだった80年に児童労働問題の活動に身を投じた。世界最大のNGO連合体「児童労働に反対するグローバルマーチ」の活動を呼びかけた。

◆サティヤルティさんのノーベル平和賞受賞演説(要旨)

20141211日朝日新聞

 カイラシュ・サティヤルティさんの受賞演説の要旨(抜粋)は次の通り。

 私の人生の唯一の目的は、全ての子どもたちが自由に成長し、食べ、眠り、笑い、泣き、遊び、学校に行けるようにすること。そして何より、夢を持てるようにすることです。

 この数十年で学校に行けない子どもは半減し、死亡率や栄養失調も減り、数百万の子どもたちが亡くなるのを防ぐことができました。児童労働者の数も3分の1減りました。

 私たちは、急速なグローバル化の時代に生き、高速なインターネットを通してつながっています。

 しかし、つながっていないものもあります。思いやりの欠如です。一人ひとりの思いやりを世界的な思いやりにつなげましょう。世界に広げましょう。受け身の思いやりではなく、正義、平等、自由につながる変革の思いやりで。

 マハトマ・ガンジーは、「本当の平和を教えるのであれば、子どもたちから始めなければならないだろう」と言いました。私は、子どもたちへの思いやりを通して世界を団結させよう、と付け加えたい。

 親の借金のために働かされてきたインドの8歳の少女を救ったとき、彼女は「なぜもっと早く来てくれなかったの」と言いました。怒気を帯びた質問は、私を揺さぶり、世界を揺さぶる力がありました。彼女の問いは、全ての人に投げかけられたものです。

 私は、子どもへのいかなる暴力も根絶するため、すべての政府や企業などに要求します。奴隷制や人身売買、児童婚、児童労働、性的虐待、非識字は、いかなる文明社会でも許されません。

 私自身が初めて学校に行った日、校門の前で靴を磨く同い年の少年に出会いました。「なぜ彼は外で働き、一緒に学校に来ないの?」と教師に尋ねても、何も答えませんでした。少年の父親も「考えたことがない。働くために生まれたんです」と答えました。

 私は子どもながら、この少年が教室で一緒に勉強するという展望を持っていました。今こそ、すべての子どもが生存や教育などの権利を持つときです。

 知識を民主化し、正義を普遍化し、ともに思いやりを世界中に広げよう!

 搾取から教育へ、貧困から繁栄へ、奴隷から自由へ、暴力から平和への運動を求めます。

 ともに進みましょう!

◆◆マララさんノーベル賞受賞演説

マララさんノーベル平和賞受賞演説の全文〈邦訳〉

 今年のノーベル平和賞に選ばれたパキスタンのマララ・ユスフザイさん(17)は10日、オスロでの受賞演説で、世界中の子どもたちが質の高い教育を平等に受けられるよう、行動を起こすときだと訴えた。

     ◇

 慈悲あまねく慈愛深きアラーの御名において。

 国王、王妃両陛下、皇太子、皇太子妃両殿下並びにノルウェー・ノーベル賞委員会の皆様、親愛なる姉妹、兄弟たち、今日は私にとって素晴らしく幸せな日です。恐れ多いことに、ノーベル賞委員会は私をこの重要な賞に選んでくださいました。

 みなさんの絶え間ない支援と愛に感謝しています。今でも世界中から手紙やカードを届けてくださることに、お礼を申し上げます。みなさんの優しい励ましの言葉に、私は元気づけられ、刺激を受けています。

 私を無条件に愛してくれる両親に感謝します。父は、私の翼を切るのではなく、私を羽ばたかせてくれました。母は私に、がまん強くなろう、いつも真実だけを語ろうという気にさせてくれます。真実を語ることこそが、私たちが信じるイスラムの真のメッセージです。

 そして、私に自分を信じ、勇敢にさせてくれたすべてのすばらしい教師たちに感謝しています。

 最初のパシュトゥン人、パキスタン人として、そして最年少でこの賞をいただくことをとても誇りに思います。また、年下の弟たちといまだにけんかをしているノーベル平和賞の受賞者も、私が初めてだと確信しています。世界中が平和になってほしいのですが、私と弟たちに平和が訪れるのはまだ先になりそうです。

 また、長年、子どもの権利を守り続けてきたカイラシュ・サティヤルティさんとともに受賞できることを光栄に思います。実際、私が生きてきた期間の2倍もの時間を、この問題に注いでこられたのです。私たちがともに活動し、インド人とパキスタン人がともに子どもの権利という目標を達成することができると世界に示せることを誇りに思います。

 親愛なる兄弟、姉妹のみなさん、私はパシュトゥン族の「ジャンヌ・ダルク」である、(伝説の人物の)「マイワンドのマラライ」にちなんで名付けられました。「マララ」という言葉には、「悲しみに打ちひしがれた」「悲しい」という意味があります。ですが、その名前に「幸せ」という意味を添えようと、私の祖父はいつも「マララ」と呼びます。マララ、それは世界で一番幸せな少女のことであり、きょう、大切なことのためにともに闘っているのがとても幸せです。

 今回の賞は私だけのものではありません。教育を望みながら忘れ去られたままの子どもたち、平和を望みながら脅かされている子どもたち、変化を求めながら声を上げられない子どもたちへの賞なのです。

 私は彼らの権利を守るため、彼らの声を届けるために、ここに来ました。今は、彼らを哀れむときではありません。教育の機会を奪われた子どもたちを目にしなくなるよう、行動を起こすときです。

 人々は私をいろんなふうに呼ぶのだと知りました。

 ある人は、タリバーンに撃たれた少女と。

 ある人は、自分の権利のために闘う少女と。

 今は、「ノーベル賞受賞者」とも呼ばれます。しかし、弟たちは今も「うるさい、いばった姉」と呼びます。

 私が知る限り、私は、全ての子どもたちが質の高い教育を受けられることを望み、女性が平等な権利を持つことを望み、そして世界の隅々までが平和であることを願う、熱心で頑固な人間でしかありません。

 教育は人生の恵みの一つであり、不可欠なものの一つでもあります。このことを、私は17年の人生で経験しました。パキスタン北部スワート渓谷にある故郷で、私はいつも学校と、新しい物事を学び、発見することを愛していました。友だちと一緒に(植物染料の)ヘナを使って、特別な日に、自分たちの手を飾り付けたことを思い出します。花や模様を描くかわりに、私たちは数学の公式や方程式を手に書きました。

 私たちの未来はまさに教室の中にあり、私たちは教育を強く求めていました。ともに座り、学び、読みました。私たちはきちんとした身なりの制服に袖を通すのが好きでしたし、大きな夢を持って教室の席に座っていました。両親に誇らしく思ってもらい、優れた成績をあげたり、何かを成し遂げたりという、一部の人が男子にしかできないと思っていることを、女子でもできると証明したかったのです。

 こうした日々は続きませんでした。観光と美の地だったスワートは突然、テロリズムの地に変わってしまいました。私は10歳でした。400以上の学校が破壊されました。女性たちはむちで打たれました。人々が殺されました。そして、私たちのすてきな夢は悪夢へと変わったのです。

 教育は「権利」から「犯罪」になりました。女の子たちは学校に行くのを阻まれました。

 ですが、私をとりまく世界が突然変わったとき、私の中の優先順位も変わりました。

 私には二つの選択肢がありました。一つは何も言わずに、殺されるのを待つこと。二つ目は声を上げ、そして殺されること。私は二つ目を選びました。声を上げようと決めたのです。

 私たちの権利を否定し、情け容赦なく人々を殺し、イスラムの名を悪用するテロリストの不正な行為をただ傍観することはできませんでした。声を上げ、彼らに言おうと決めたのです。「聖典コーランの中で、アラーの神は一人を殺せば、人類全体を殺したも同然だということをおっしゃったことを学ばなかったのでしょうか? 預言者ムハンマドが『自らも他者も傷つけてはいけない』と説いていることや、コーランの最初の言葉が『読め』という意味の『イクラ』であることを知らないのですか?」

 2012年、テロリストたちは私たちを止めようとし、バスの中で私と今ここにいる友人を襲いました。しかし、彼らの考えも、銃弾も、勝利をおさめることはできませんでした。私たちは生き残り、その日から私たちの声は大きくなり続けています。

 私が自分の身に起こったことをお伝えするのは、珍しい話だからではありません。どこにでもある話だからです。

 これは、多くの女の子たちの物語なのです。

 今日は彼女たちの話もしましょう。私は、パキスタンやナイジェリア、シリアからこの物語を共有する仲間たちを連れてきました。あの日、スワートで一緒に撃たれ、学ぶことをやめずにいる勇敢なシャジアとカイナートも一緒です。さらに、カイナート・ソムロは激しい暴力と虐待を受け、兄弟を殺されましたが、屈することはありませんでした。

 マララ基金の活動を通じて出会い、今では姉妹のような少女たちも一緒にいます。勇敢な16歳のメゾンはシリア出身です。今はヨルダンで難民として暮らし、少年少女たちの勉強を手助けしながらテントを行き来しています。そして、アミナの出身地であるナイジェリア北部では、(イスラム過激派の)「ボコ・ハラム」が、少女たちが学校に行きたいと望んだというだけで、彼女らにつきまとい、脅し、誘拐しています。

 私は身長5フィート2インチ(157・5センチ)の、一人の女の子、一人の人間に見えるでしょう。高めのハイヒールを入れるとですけれどね。本当は5フィートしかありません。でも、私の意見は、私一人だけでなく大勢を代弁しているのです。

 私はマララであり、シャジアでもあります。

 私はカイナート。

 私はカイナート・ソムロ。

 私はメゾン。

 私はアミナ。私は、教育を奪われている6600万人の女の子なのです。

 そして、今日、私は自分ではなく、その6600万人の声を上げているのです。

 人々は、なぜ女の子が学校に行くべきなのか、なぜそれが重要なのか、と私に尋ねたがります。しかし、より大事な問いは、なぜ行くべきじゃないのか、なぜ学校に行くべき権利を持っていないのかだと思います。

 今日、私たちは、世界の半分で急速な進歩や近代化、開発を目の当たりにしています。しかしながら、いまだに数百万もの人々が戦争や貧困、不正といった極めて古い問題に苦しむ国々もあります。

 罪のない人々が命を落とし、子どもたちが孤児になるような紛争がいまだに起きています。シリアや(パレスチナ自治区)ガザ、イラクで、多くの家族が難民となっています。アフガニスタンでは、自爆攻撃や爆発で家族が殺されています。

 アフリカの多くの子どもたちは、貧しさのために学校へ行くことができません。申し上げたように、ナイジェリア北部には今も、学校に行く自由がない女の子たちがいます。

 インドやパキスタンのような多くの国で、カイラシュ・サティヤルティさんが言われるように、社会的なタブーのために多くの子どもたちが教育を受ける権利を奪われています。児童労働や女児の児童婚が強制されています。

 私と同い年で、とても仲がいい級友の一人は、いつも勇敢で自信に満ちた女の子で、医者になることを夢見ていました。でも、夢は夢のままです。12歳で結婚を強いられ、すぐに男の子を産みました。たった14歳、まだ彼女自身が子どもでした。彼女なら、とてもいいお医者さんになれたでしょう。でも、なれませんでした。女の子だったからです。

 彼女の話があったから、私はノーベル賞の賞金をマララ基金にささげるのです。マララ基金は、女の子たちがあらゆる場所で質の高い教育を受けられるよう援助し、声をあげるのを助けるものです。基金の最初の使い道は、私が心を残してきた場所パキスタンに、特に故郷のスワートとシャングラに、学校を建てることです。

 私の村には、今も女子のための中学校がありません。私の友だちや姉妹たちが教育を受けることができ、ひいては夢を実現する機会を手に入れることができるように、中学校を建てたい。これが私の願いであり、義務であり、今の挑戦です。

 これは私にとって出発点であり、立ち止まる所ではありません。全ての子どもたちが学校にいるのを見届けるまで、闘い続けます。

 親愛なる兄弟、姉妹の皆さん。マーチン・ルーサー・キングやネルソン・マンデラ、マザー・テレサ、アウンサンスーチーのような変革をもたらした偉大な人たちも、かつてこの舞台に立ちました。カイラシュ・サティヤルティさんと私のこれまで、そしてこれからの歩みもまた、変化を、それも息の長い変化をもたらすものであればと願っています。

 私の大きな希望は、子どもたちの教育のために闘わなければならないのは、これが最後になってほしい、ということです。この問題をこれっきりで解決しましょう。

 私たちはすでに、多くのステップを踏んでいます。今こそ飛躍するときです。

 今は、指導者たちにいかに教育が大切か、わかってもらおうと話すときではありません。彼らはすでにわかっています。彼らの子どもは良い学校に通っているのです。今は彼らに行動を求めるときなのです、世界中の子どもたちのために。

 世界の指導者たちには、団結し、教育を全てに優先するようお願いします。

 15年前、世界の指導者たちは地球規模の一連の目標「ミレニアム開発目標(MDGs)」を決めました。その後、いくつかの成果はありました。学校に通えない子どもの数は半減しました。とはいえ、世界は初等教育の拡大にばかり注力していましたし、成果が全員に行き届いたわけではありません。

 来年、2015年には、世界の指導者たちが国連に集い、次の一連の目標「持続可能な開発目標」を策定します。来たるべき世代のための野心的目標を決めるのです。

 なぜ世界の指導者たちは、途上国の子どもたちには読み書きなど基礎的な能力があれば十分、という見方を受け入れるのでしょうか。彼らの子どもには、代数や数学や科学や物理の宿題をさせながら。

 指導者たちは、全ての子どもに無料で、質の高い初等・中等教育を約束できるように、この機会を逃してはなりません。

 非現実的だとか、費用がかかりすぎるとか、難しすぎるとか言う人たちもいるでしょう。不可能だとさえ。それでも、今こそ世界がより大きな視野で考える時なのです。

 親愛なる兄弟、姉妹の皆さん。いわゆる大人の世界の人たちは理解しているのかもしれませんが、私たち子どもにはわかりません。どうして「強い」といわれる国々は戦争を生み出す力がとてもあるのに、平和をもたらすにはとても非力なの? なぜ銃を与えるのはとても簡単なのに、本を与えるのはとても難しいの? 戦車を造るのはとても簡単で、学校を建てるのがとても難しいのはなぜ?

 現代に暮らす中で、私たちは皆、不可能なことはないと信じています。人類は45年前に月に到達し、まもなく火星に着陸するでしょう。それならば、この21世紀に、すべての子どもに質の高い教育を与えられなければなりません。

 親愛なる姉妹、兄弟の皆さん、仲間である子供たちのみなさん。私たちは取り組むべきです。待っていてはいけない。政治家や世界の指導者だけでなく、私たち皆が貢献しなくてはなりません。私も、あなたたちも、私たちも。それが私たちの務めなのです。

 「最後」にすることを決めた、最初の世代になりましょう。空っぽの教室、失われた子ども時代、無駄にされた可能性を目にすることを「最後」にすることを決めた、最初の世代になりましょう。

 男の子も女の子も、子ども時代を工場で過ごすのはもう終わりにしましょう。

 少女が児童婚を強いられるのはもう終わりにしましょう。

 罪のない子どもたちが戦争で命を失うのはもう終わりにしましょう。

 学校に行けない子どもたちを見るのはもう終わりにしましょう。

 こうしたことは、もう私たちで最後にしましょう。

 この「終わり」を始めましょう。

 そして今すぐにここから、ともに「終わり」を始めましょう。

 ありがとうございました。

憲法とたたかいのブログトップ