ピカソの生涯と作品・ゲルニカにこめた平和への思い

◆◆ピカソの生涯と作品・ゲルニカにこめた平和への思い

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【このページの目次】

◆ピカソリンク集

◆解説=ピカソとゲルニカ(小学館百科全書)

◆大島博光=ピカソを語る

◆大島博光=ピカソとゲルニカ

◆大島博光=世界の共産党員物語・ピカソ

◆ピカソの「フランコの夢と嘘」

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🔵ピカソリンク集

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青年時代のピカソ
ゲルニカ
フランコ将軍
スペイン内戦
ゲルニカ爆撃
多数の死者を出したゲルニカ
戦争と平和
戦争と平和
戦争と平和
戦争と平和
戦争と平和
戦争と平和

★知への旅・ピカソとゲルニカ

★ドキュメント・ピカソと女たち、そして傑作が

★★映画=ゲルニカ

https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5ZDBTR0EzeGVuOWc

🔵アナザーストーリー・ピカソ、ゲルニカ

★★美の巨人・ピカソとゲルニカ26m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v115084737Dtb6j2SC

★★ピカソ(100-20世紀)20m

https://m.youtube.com/watch?v=IJZ6axIo_D8

【ゲルニカ】

★巨匠たちの青の時代

★日曜美術館 ピカソを捨てた花の女10.05.23 44m- FC2

http://video.fc2.com/content/20130503KxgdPA2P/

★迷宮美術館~出張!ピカソ展

★パリピカソ美術館11m

★ピカソ(音楽とともに)5m

★ミステリアス・ピカソ天才の秘密全8

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm5038442

◆◆9903小学館ライブラリー・ピカソの祈り-ゲルニカ.pdf

大島博光著作「ピカソ」

名著を掲載

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-entry-1673.html

◆大島博光記念館記事一覧

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/?all

大島博光記念館 Oshima Hakko Museum

「ピカソ」 目次

🔴新日本新書『ピカソ』 “Picasso”

「ピカソ」の目次は以下

序 「神話」を超えて

    レーニンとピカソと

    ピカソの神話

マラガからラコルーニャヘ 

世紀末のバルセロナ

    オルタ・デ・エブロ

青の時代

    カサヘマスの自殺

    人生

バラ色の時代

    「洗濯船」の住人

    サーカスの時期

    大道芸人たち

    抱擁

ガートルード・スタインの肖像

    オランダの旅

    ゴソルへ向かう

    肖像の完成

アヴィニョンの娘たち

キュビスムの時代

    フォルムの芸術

    十年後のオルタ・デ・エブロ

    エヴァの出現

    ロシヤン・バレーとオルガと

新古典主義の大女たち

シュルレアリスムとピカソ

    エリュアールとピカソ

ミノトール

スペイン戦争とゲルニカの誕生

    スペイン戦争が始まる

    ゲルニカ

    エリュアールの「ゲルニカ」

第二次世界大戦中のピカソ

    大戦が始まる

    羊を抱いた男

パリの解放と平和の探求

    パリの解放

    ピカソの入党──泉へ行くように

    屍体置場

    粘土と火の労働者ピカソ(ヴァローリスでの陶芸制作)

    鳩は世界じゅうを飛びまわる

フランソワーズ・ジローと子供たちと

戦争と平和

    スターリン肖像事件

ジャックリーヌ・ロックと「カリフォルニー」荘

アヴィニョンにおけるピカソ展

ピカソ生誕九十年

永遠の若者-アラゴンのピカソ讃歌

ピカソの死

    アルベルティによる墓碑銘

    ムージャンの魔法使いのバラード

 あとがき

 収録図版目録 巻末

<新日本新書『ピカソ』1986.8初版>

以上の他にも大島記念館にはピカソの記事が以下掲載されている。

◆大島=ピカソを語る Talk about Picasso

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-192.html

世界の共産党員物語 ピカソなど18記事

◆大島=ピカソを謳う Hymn to Picasso5記事

http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/blog-category-205.html

9101荒井信一=ゲルニカ物語-ピカソと現代史.pdf 

9903ピカソの祈り-ゲルニカ.pdf

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🔵解説・ピカソとゲルニカ

小学館百科全書

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◆ピカソPablo Ruiz Picasso

18811973

スペインの生んだ20世紀最大の芸術家。キュビスム創始の中核となることによって、以後の現代美術のすべてに計り知れないほどの影響をもっただけでなく、初期から晩年に至るまでの制作の各時期に、それぞれきわめて独自な様式と美学を提示し、無数の名作を残している。さらに水彩、素描、版画、舞台装置、タペストリーやステンドグラスの下絵、壁画など驚くべき多面的な活動をし、過去のどのような画家をもはるかにしのぐ作品量(総数は8万点を超えると推定される)を示した点でも破格の存在である。

 18811025日、マラガの美術工芸学校の教師ホセ・ルイス・ブラスコを父として生まれる。母はマリア・ピカソ・ロペス。早くから絵を好み、8歳で最初の油彩を描いている。91年、父はコルーニャの美術学校に転勤し、ピカソもこの学校に学び、ついで95年の父のバルセロナ、ラ・ロンハ美術学校への移動とともに彼もここに移り、翌年同校を卒業。98年にはマドリードのサン・フェルナンド・アカデミーに学ぶがまもなく退学した。いわゆるカタルーニャ・ルネサンス、アール・ヌーボーの時期のバルセロナでの青春は、絵画のうえでも、人間形成のうえでも、ピカソにもっとも大きな影響を及ぼしたと思われる。

 1900年、ピカソが常連であった「四匹の猫」で最初の個展。この年の暮れ、最初のパリ滞在。翌年、二度目のパリ滞在。それまでロートレック風の主題、技法で歓楽街の女や芸人を描いていたピカソの作風に、この年、新しい明確な特徴が現れる。青を主調とし、貧しい人々、肩をすくめ肩を寄せ合って生きる人々を描く作品群の開始で、0104年の「青の時代」である。

 1904年ピカソは四度目にパリに出て、有名なモンマルトルの集合アトリエ「洗濯船」の住人となり、すでに知り合っていたマックス・ジャコブをはじめ、アポリネール、ドラン、アンドレ・サルモンらとの交友が始まる。そして05年ごろから、青の作風にバラ色やより鮮明な色彩が加わり、人物たちの姿勢にも柔らかさが生まれる。主題的には旅芸人が多く描かれ、「青の時代」と異なり、静かな優しさ、愛がテーマとなる。いわゆる「ばら色の時代」、ときには「サルタンバンクの時代」とよばれる0506年の作風である。

 1906年ごろからイベリア彫刻、アフリカ彫刻の影響がしだいに現れ、06年の夏にスペインの村ゴソルで過ごした時期を契機としてプリミティズムへの転進が始まり、その成果が07年のキュビスム最初ののろし『アビニョンの娘たち』として結晶する。キュビスムの探求は、この年出会ったブラック、のちには同郷の後輩フアン・グリスたちとともに第二次世界大戦前後まで続く。ピカソ自身は参加しなかったが、11年のアンデパンダン展でのキュビストたちのデモンストレーション以来、この新しい美学と手法は現代美術に決定的であった。

 キュビスムの手法はその後もとくに1920年代まで断続的に現れるが、1917年にコクトーとともにイタリア旅行をしたこと、ロシア・バレエ団のバレリーナ、オルガ・コクロバに出会ったことが、彼の作品に写実主義的な傾向を生み出させている。18年にはオルガと結婚、そして第一次大戦後の1924年には「新古典主義の時代」とよばれる作風が生まれる。南フランスでの生活、オルガとの愛、21年の長男ポールの誕生、大戦後の人間性回復を求める一般の人心などが、この新しい作風の背景にある。堂々とした量感を誇る肉体、明確なアングル風の輪郭線、明るい色彩と表情、躍動感などがこの作風の特徴である。

 ついで192532年ごろの作風を「メタモルフォーズの時代」などとよぶ。シュルレアリスムとの接触、ブルトン、エリュアール、ミロたちとの接触によって内面的な世界の表現が、すでにキュビスムによって変形されている形態に、いっそうのゆがみを与える。この時期オルガとの結婚生活が不安定なものとなり、若い愛人マリ・テレーズに出会ったことが、彼の心理状態を屈折させたことも事実である。28年には彫刻家フリオ・ゴンサレスとの出会いから彫刻に興味をもち、裸婦像に動物的形態を接合させた一連の『メタモルフォーズ』と題した彫刻を制作している。

 193237年には、闘牛、ミノタウロス、両者を接合させた「ミノタウロマキア」などのテーマが多く描かれる。ナチスの台頭によるヨーロッパの不安、故郷スペインでの、やがてゲルニカの爆撃に至る政治的抗争などがその背景になる。36年の人民戦線の勝利のあと、ピカソはマドリードのプラド美術館館長に任命されている。『フランコの夢と嘘(うそ)』の版画連作(1937)、パリ万国博覧会スペイン館のための壁画『ゲルニカ』(1937)がこの「ミノタウロスとゲルニカの時代」を象徴する。

 第二次大戦中はパリ、ロワイヤン、そしてパリと居を移し、暗い、なかば軟禁に近い生活のなかで室内や静物を描く。牝牛(めうし)の頭蓋(ずがい)骨の静物がとりわけ象徴的である。1944年のパリ解放後、共産党に入党したピカソは政治的な季節を迎え、「戦争と平和」のテーマへの関心が持続する。51年の『戦争と虐殺』、52年のバローリスの礼拝堂の壁画『戦争と平和』がその決算である。

 すでに1940年代なかば過ぎから、ピカソの制作にはしだいに自由な明るさ、遊戯性が現れていたが、50年代以降、晩年の多産な年月となる。版画、陶芸への熱中、マネの『草上の昼食』やベラスケスの『ラス・メニーナス』による翻案の連作、描くとは何かを自問した『画家とモデル』のテーマ、クロード、パロマ、マハたち子供を描く作品など、大量の造形が生み出された。そして7348日、南フランス、ムージャンにおいて91歳の多産な生活は閉じられた。

 大量の作品は、世界各地の美術館、個人に所蔵されているが、バルセロナおよびパリのピカソ美術館、「青の時代」の作品の多いモスクワのプーシキン美術館などがその代表的なもの。戯曲『しっぽをつかまれた欲望』(1941)などの著作も残されている。[中山公男]

『神吉敬三編著『25人の画家19 ピカソ』(1980・講談社) ▽『アート・ギャラリー12 ピカソ』(1985・集英社) ▽HL・ヤッフェ著、高見堅志郎訳『ピカソ』(1965・美術出版社) ▽P・デカルグ著、中山公男訳『ピカソ――破壊と創造の巨人』(1976・美術出版社) ▽J・ラミエ著、安東次男訳『ピカソの陶器』(1975・平凡社) ▽飯田善国著『20世紀思想家文庫5 ピカソ』(1983・岩波書店)』

◆ゲルニカとピカソ

ゲルニカは、スペイン北部、バスク地方ビスカヤ県にある町。人口152642001)。ビスケー(スペイン語名ビスカヤ)湾に注ぐムンダカ川の谷に14世紀の中ごろ建設され、1876年までバスク人の議会が支配していた。1937426日、フランコ側を支援するナチス・ドイツの空軍が、バスク地方の自治と統一を象徴する町ゲルニカを爆撃した。

同年夏のパリ万国博スペイン館の壁画を共和政府から依頼されていたピカソは、この事件に強烈に反応し、51日に構想を練り始め64日に完成した。しかしピカソは、ゲルニカには直接言及せず、この愛する

祖国の惨禍を、スペイン人の深層心理に根ざした闘牛の象徴性に託し、キュビスムが可能とした破壊的なフォルムと、黒、白、灰色という悲劇的な色調で描き、『ゲルニカ』に時空を超えたヒューマニスティックなメッセージを与えた。闘牛の象徴性に関しては、牡牛(おうし)をファシズム、馬を抑圧される人民とするアングロサクソン系の解釈と、前者を人民戦線、後者をフランコ主義ととるスペイン系の解釈がある。この作品はその後ニューヨーク近代美術館に展示されていたが、81年、63点のデッサンや関連作とともに初めてスペインに帰り、ピカソの遺言に従って、マドリードのプラド美術館付属の19世紀館に展示されたが、92年ソフィア王妃芸術センターに移った。

◆◆原田マハ『暗幕のゲルニカ』の紹介

16.05.23赤旗日曜版)

◆◆ゲルニカと浦上天主堂、戦禍を結ぶ二つのマリア

編集委員・福島申二

2017618日朝日新聞(日曜に想う)

 梅雨入りの雨にぬれる長崎の浦上天主堂で、胴体を失って頭部だけが残った二つのマリア像を見た。同じ祭壇に安置された聖母はそれぞれに、20世紀に起きたむごい戦禍を私たちに伝える。

【ゲルニカのマリア像】

 長崎への原爆投下と、スペインのゲルニカへの無差別爆撃である。

【浦上天主堂のマリア像】

 かつて、浦上天主堂の正面祭壇には美しい寄せ木造りのマリア像が置かれていた。しかしあの日、爆心地から500メートルにあった天主堂は一瞬のうちに壊滅する。秋になって復員してきたひとりの神父が、廃墟(はいきょ)のがれきから奇跡のようにマリアの頭部を見つけた。かき抱(いだ)くように持ち帰って大切にしたのが、いまでは知る人も増えた「被爆マリア」である。

 ゲルニカ空爆は、原爆より8年前の1937年4月26日に起きた。民衆を標的にした空からの無差別殺戮(さつりく)のさきがけとされ、ピカソが怒りの絵筆をとった大作でも知られる。ここでも破壊された教会から焼け残ったマリア像の頭部が見つかり、長く大切に保管されてきた。

 似た過去を持つ二つのマリアは、互いの都市の人々を平和交流で結んだ。

 原爆投下から70年の一昨年には、先方から長崎にマリアのレプリカが贈られて教会の祭壇に安置された。ゲルニカに始まる非人道の行き着いた先が原爆投下だったことを思えば、焦土に残った二つのマリアは、偶然とはいえ何かの意思が働いたかのように思われてならない。

    *

 この4月、ゲルニカは空爆から80年を迎えた。こんどは長崎からの巡礼団が被爆マリアのレプリカをたずさえて追悼行事に出席した。マリアのほおは黒く焼け焦げ、水晶の両眼は失われて深い空洞となって、ひとたび見れば忘れがたい。

 「戦争の犠牲者や今も苦しむ人々に悲しげに寄り添い、もう争いはやめよと語りかけてくるお顔です」と、巡礼団を率いた高見三明(みつあき)大司教(71)は言う。

 自身も母親の胎内で被爆し、祖母ら身内が亡くなった。その高見さんが「被爆国の自覚がない。あまりにも」と言葉を強めるのが、核兵器禁止条約交渉への日本の不参加だ。3月末、国連議場の無人の日本政府代表席に「あなたがここにいてほしい」と英語で書かれた嘆きの折り鶴が置かれたのを、ニュース写真などでご記憶のかたもあろう。

 日本政府の軍縮大使は核保有国に足並みをそろえるように、わざわざ核禁止条約への批判を強い調子で演説したうえで議場から去っていった。

 いかにアメリカの「核の傘」を頼む立場にせよ、これでは唯一の戦争被爆国としての世界への役どころを捨ててしまったことになる。日本は核の保有国と非保有国の「橋渡し役」を自任してきたはずだった。この15日から再開された詰めの交渉会議にも日本の姿はない。

 長崎で原爆に遭い、7年前に90歳で他界した歌人竹山広さんの最晩年の一首が被爆者の失望を集約してはいないか。

 〈原爆を知れるは広島と長崎にて日本といふ国にはあらず〉

 核廃絶への願いをこめて日本から世界に広まった折り鶴が、いま、現実を言い訳に理想をしりぞける日本政府への嘆きとなって差し向けられている。

    *

 ゲルニカの無差別爆撃はドイツ空軍によって行われた。その後、パリを占領したナチスの将校がピカソのアトリエを検閲に来て、机上にあった怒りの絵「ゲルニカ」の写真を指さして聞いたという。

 「これを描いたのはあなたか」

 ピカソは答えた。

 「いや、君たちだ」

 そのドイツも第2次大戦後期に連合国軍の激しい都市爆撃を浴びた。全土の死者は60万人ともいわれる。米軍の空襲に焦土と化した日本も、中国では無差別爆撃を繰り返した。加害も被害も、正義も悪も、いともたやすく反転する。そうした中で、ピカソが描いたように、おびただしい無辜(むこ)の生が裁ち切られてきた。

 昨今の国際情勢は不穏できな臭く、現実的という言葉が幅をきかせる時代である。こんなときこそ、現実に付き従うばかりの僕(しもべ)になることは拒みたい。理念の羅針盤、それを見失うまいと思う。

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🔵大島博光=ピカソとゲルニカ(「ピカソ」より)

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🔴(1)スペイン戦争が始まる

 一九三六年の夏、突如として政治がピカソの生活のなかへ闖入(ちんにゅう)してくる。祖国スペイン共和国にたいするフランコ・ファシスト軍の反乱が始まったのである。「ひづめの割れた、悪魔の足をした、蒼黒い」(ネルーダ)古きスペインは死に絶えてはいなかったのだ。ピカソは共和国を支持し、そこに希望を託していた。

 共和国政府によってプラド美術館長に任命されていたピカソは、祖国の至宝たるプラドの芸術作品を安全に保存するため、これを疎開させた。一九三七年六月、フランコ将軍がプラド美術館を爆撃すると、ピカソはこれを非難告発して言う。

 「プラド美術館から救出された絵画が、バレンシアでどんな状態にあるかを、わたしは見た。スペイン絵画を救ったのはスペイン人民だということを、世界は知るにちがいない」

 ピカソはプラド美術館長のポストを名誉として受諾していたが、それだけでは充分だと思わなかった。ファシスト軍と闘うスペイン人民の悲惨、窮乏、苦境にたいして、ピカソは自分のもっている全手段をもって応える。ファシストの恐るべき犯罪、勝ちほこった「野獣」のふりまく恐怖を前にして、彼は怒りの声をあげ、この悲劇の残酷さ、むごたらしさを、その天才をもって描きだすことになる。また内戦の犠牲となったスペインの子供たちを支援するため、ピカソは多くの絵を売って、多額の義捐金をいく度も贈った。

 祖国スペインで始まった悲劇はただちにピカソの芸術に影響をあたえたというわけではない。スペイン人民の恐るべき悲劇にたいして、おのれの芸術をもって対応するためには、準備の時と、それにふさわしい絵画的表現法を見いだすことが必要だった。

 こんにちでは、それは「ゲルニカ」というかたちをとって明白に見えるが、それはピカソがその解決をわれわれに提出して見せてくれているからである。しかし、一九三六年にはまだそういうわけにはゆかなかった。人びとはゴヤをまねることを彼にすすめたが、そんなことはピカソにとって問題にならなかった。戦争画家のように、自分の絵画のなかに戦争をそのまま描くことは問題ではなく、自分の絵画が闘争を始めねばならない。怒りにふるえるおのれの全人間感情をこめて、おのれのイメージで、おのれの叫びで、この悲劇の本質を抉りださなければならない。それがピカソの問題であった。

 この年の夏、ピカソは南仏カンヌの後方の丘にあるムージャンに避暑に出かけた。エリュアール夫妻、マン・レイ、それから新しい恋人ドラ・マールなどがそこに合流する。

 八月十九日、グラナダでガルシーア・ロルカが銃殺されたというニュースがとどく。

 スペインでは政治的緊張はさらに高まって、いまや国際義勇軍までが戦線で戦っている。

 エリュアールは、シュルレアリストたちにとってタブーだった「状況の詩」──「一九三六年十一月」を書く。

 見るがいい 廃嘘をつくりだすやつらの働きぶりを

 やつらは金もちで辛抱強く整然としていて陰険でけだものだ

 しかもやつらは 地上でやつらだけになるために全力をあげている

 やつらは人間のはしくれで 人間に汚物を浴びせる

 やつらは からっぽの宮殿を 地面すれすれに折り曲げる・・・

 この詩はルイ・バロの紹介で、共産党の機関紙「ユマニテ」(一九三六年十一月十七日付)に掲載されると、たちまち大きな反響をよんだ。当時まだ党の外にいたエリュアールは、シュルレアリストたちの閉じこもっていた内部世界から抜けでて、反ファシスト闘争に連帯を示したのである。

 ピカソは親友エリュアールのこの詩にたいへん感動した。この詩は高い芸術性と歴史的政治的主題とが矛盾なく両立しうることを証明していた。それに刺戟されて、ピカソは一九三七年一月の初め「フランコの夢と嘘」という詩を書き、それに一連のつづきの版画を彫り、添えた。

 「・・・子供たちの叫び 女たちの叫び 小鳥たちの叫び 花たちの叫び 木組みと石たちの叫び 煉瓦の叫び 家具のベッドの椅子のカーテンの瓶の猫たちの紙たちの叫び たがいに引掻きあう匂いたちの叫び 首を刺す煙の叫び 大釜のなかで煮える叫びたち・・・」

 この詩は、その発想、言葉のつながりにおいて自動記述的(オートマテイック)であるが、その主題は政治的であって、フランコを告発し、フランコがスペインにおしつけている大いなる不幸を表現している。

 ピカソは、エリュアールとはちがった流儀で、おのれの芸術手法と、スペイン人民支援の意志とをむすびつけたのである。

 一連の版画で、フランコは気味のわるい蛸のような怪物として描かれ、笑う太陽のもと、虱の描かれた幟(のばり)をもって戦争に出かける。ついで巨大なペニスにまたがって、綱渡りする・・・さらに、つづき漫画のようにつづくデッサンのなかに、怪物フランコの冒険物語が描かれる。そこには腹を抉られた馬、怪物の王冠を突き落とす牡牛、断末魔の叫びをあげる女たちが現われる。ここでピカソは痛烈な風刺をもって、フランコをきわめて卑猥な、胸の悪くなるようなイメージに描いている。またここでは、牡牛は正義の象徴として措かれ、スペイン人民の英雄主義の象徴として描かれている。ピカソは牡牛や馬を、自分の創作活動のなかに現われてきたままに捉えている。したがってミノトールとおなじように、牡牛や馬はつねに善と悪のいずれかにわかれているとは限らない。

 その後、スペイン共和国支援のためにそれらの版画は絵はがきとなって売られるようになる。

🔴(2)ゲルニカの誕生

 一九三七年一月、スペイン共和国政府はその夏のパリで開かれる万国博覧会のスペイン館を飾る壁画をピカソに依頼し、ピカソはそれを受諾する。スペインの共和主義者たちは、その壁画がゴヤの「五月三日」のような政治的にも有効な作品となることを望んでいた。ホセ・ベルガミンはそれを催促するように書いている。「わたしはこんにちまでのピカソの絵画をかれの未来の作品への序曲とみなしている。わたしはピカソを未来の独立不覊で革命的な真のスペイン人民画家とみなしている……われわれの現在の独立戦争は、むかしの戦争がゴヤに与えたように、ピカソにかれの絵画的、詩的、創造的な天才のいっそうの充実を与えるであろう」(『カイエ・ダール』一九三七年一~三月)

 スペイン館の壁画をひきうけたものの、ピカソはなかなかその仕事に手がつかなかった。この年の一月に「坐った女」を描き、その後数ヶ月に、いくつかのドラ・マールの肖像や静物を描いているが、そこには政治的な意図をもったものはほとんどない。しかも、一九三七年一月の日付をもつ「坐った女」は、ピカソが恋人たちを描いた肖像画のなかでも、もっとも優しく、もっとも陽気なもののひとつである。

 こうしてピカソのもっとも有名な作品となる壁画は、「ダンス」や「アヴィニョンの娘たち」のように、念入りな仕上げ、芸術的傾向や気分の変化から生まれたものではなく、ましてや計画された作品でもない。それはじつに、スペイン戦争のもっとも残酷な悲劇にたいするピカソの反発から生まれたイメージである。このイメージのなかに数年来のピカソの作品のなかに現われていた多くのテーマやモチーフが結晶することになる。

 その悲劇──世界に衝撃をあたえたゲルニカの悲劇は、一九三七年四月二十六日に起こった。ビスカヤ湾岸からおよそ一〇キロの地点にあるバスクの小さな町ゲルニカは、フランコを支援するナチス・ドイツ空軍によって──正確にはフォン・リヒトホーヘンのひきいるコンドル部隊によって爆撃され、全焼し全滅した。ゲルニカがなんら戦略的な要点でもなく、ほとんど全市民が犠牲になったことで、衝撃はいっそう大きかった。「ニューヨーク・タイムズ」の特派員は四月二十九日に報告している。

 「ハインケル戦闘機とユンケル爆撃機の焼夷弾と爆弾は、怖るべき残忍さと科学的精密さをもって、バスクの文化と政治的伝統の中心ゲルニカを壊滅させた。」

 四月二十九日の「ロンドン・タイムズ」は報じている。

 「戦線からはるか後方にあるこの無防備の町にたいする爆撃はまさに三時間半に及んだ。ドイツ軍機の急降下爆撃によって町に投下された爆弾はおよそ五〇〇キロに達した・・・戦闘機は町のまわりの畑に避難した町民たちに機銃掃射を浴びせた。町の議事堂をのぞいて、ゲルニカじゅうがたちまち炎につつまれた。議事堂にはバスク人民の古文書が保存されており、むかしスペイン王たちが住民たちの忠誠の誓いとひきかえに、ビスカヤ地方の民主的権利の保証を誓ったゲルニカの有名な『自由の樫の木』がたっていた」

 四月三十日、当時アラゴンが編集長であった「ス・ソワール」紙が破壊されたゲルニカの写真を掲載した。

 五月一日、ピカソはゲルニカの最初の習作を描く。五月九日の日付をもつ全体の構図のスケッチは、五月十一日にはキャンバスのうえに移され、八つの段階を経て、六月の初めに完成することになる。グラン・ゾーギュスタン街のアトリエにおいて、それらの段階の画面はドラ・マールによって、逐次写真に撮られる。

 できあがった画幅はきわめて大きなものであった(三・五一七・八二メートル)。構成の上ではピカソはごく古典的な形式をとっている。中央の三角形の頂点にはランプがある。大きな横顔を見せている女の腕が、そのランプを差しだしている。人物たちと部屋の部分とは、舞台装置の印象をあたえるように圧縮されて配置されている。左側には大きなランプに照らされた部屋があって、テーブルの上には頸をのばして嘴を大きく開けている烏が描かれている。右側には瓦屋根の家と炎に包まれた家、その窓と入口などが、きわめてキュビスム風な幾何図形で描かれている。およそ古典的な絵においては、恐怖の場面は一般に広場でくりひろげられ、殉教者や無実の者たちは四方に逃げようとしている。しかしここでは逃げることは不可能である。町と町の人たちは爆弾によって全滅させられていたからである。そこでピカソは、この閉ざされた舞台装置を選んだのだが、そのために彼の意図をいっそう効果的に集中することができた。

 八人の登場人物──中央には馬が断末魔の叫びをあげている。左側には牡牛が顔を横に向け、尾を立てている。その下に顔をのけぞらせた女が苦痛の叫びをあげ、死んだ子供を腕に抱いている。右側には、ランプを差しだしている女の横顔をかこむように、もうひとりの女が光の方に身を伸ばしており、さらにもうひとりの女が、炎を吹いて燃える家の前で、腕を重くあげて大きくわめいている。

 前面にはひとりの戦士が床に横たわり、手に折れた剣を握りしめている。剣のそばには花がある。

 牡牛と死んだ子供をのぞいて、その他の顔はみな口を大きくあけて、あるいは断末魔の叫びをあげ、あるいは怒りと恐怖の叫びをあげている。──それらすべては、ゲルニカの時代に、絵画があげた叫びそのものである。ひき裂かれ、ふみにじられたスペイン人民の悲劇にたいして、絵画があげることのできた叫びそのものである。

 さて、ランプをかざした女は、この殺戮の場面に自由の象徴として君臨している。彼女は虐殺を見いだして驚愕の声をあげている。彼女はまた正義であり生であり、彼女がいなければここには希望はないであろう。彼女がしっかりと握っているランプが、画面の頂点を占めているのにたいして、画面の底辺では、死んだ戦士が折れた剣をこれまたしっかりと握っている。それは生と死との約束された勝利と敗北との対照をみせている。そしてランプをかざした女は、画面ぜんたいの構成を統一し、右側から左側へと動くリズムを保証しているのである。

 ところで、左側の牡牛については多くのことが語られてきた。ある人たちは(たとえばヴィセンテ・マルレロのような)牡牛は悪であり暴力でありファシスムであるという。またある人たち(たとえばフワン・ラレアのような)にとっては、それは人民の象徴であり、スペインの獣神(トーテム)である。それにたいして批評家フェルミジエはおよそつぎのように言う。

 「それはあまり説得力がない。画面ぜんたいのなかで牡牛が演じている役割を分析する必要があろう……ミノトールはまことに意地悪な野獣である。しかしピカソはそれをよろこんで美化する姿で描き、しばしば自分の同類、自分の共犯者に仕立てている。……『フランコの夢と嘘』において、フランコは馬と一体化しており、牡牛はスペイン人民の勇気を表わしている。したがって牡牛にたいするピカソの態度はまちまちで、ちがった態度が共存している。構図ぜんたいを描いた最初のスケッチの一枚を見ると、画面は四人の主要人物──ランプをかざした女、死んだ戦士、馬、牡牛──から成り立っている。……つづいてピカソはこの四つのイメージをさらに組み合わせてゆく、その後の画面の展開過程をみると、劇的な場面が決定され、人物たちの組み合わせが決まると、ピカソは人物たちの象徴的な意味に心を使うよりは、むしろ構図の問題に没頭する。……犠牲者である馬は画面の中央を占める。四つ脚をふんばりながら地に崩れ落ちる馬の動きは、牡牛のそれよりも大きく力強い。しかし牡牛そのものは何ものをも意味しない。……牡牛は観衆の想像にまかされたものであるかもしれない。悪であり、力であり、野獣性であり、善であり、抵抗の勇気であり、あるいは牛小屋の牛であるかも知れない。なおどうしてもそれにかかずらうなら、それは運命であるかも知れない。」

 またピエル・デックスは言う。

 「牡牛や馬の正確な意味を明らかにしようとするのはむだであろう。牡牛と馬との組み合わせはスペインそのものであり、スペインの光と影である。たとえ馬が断末魔の叫びをあげていようと、牡牛はファシスムでありえないだろう。恐らく暗い力を表わしてはいるが、高貴な対立者である。牡牛は自分にかかわりのない虐殺から眼をそらしているのだ……

🔴(3)ピカソの思い

 また、ラファエル・アルベルティは書く。

「──ピカソよきみは言う。『わたしは生涯を自由にささげてきた。そしてこれからも自由でありつづけたい……

 きみは自由であり、いつにもまして自由になるだろう。なぜなら芸術を解放した者は、けっして束縛されることはないだろうから。

 ……自由のもっとも鋭い叫びを、きみは『ゲルニカ』によって挙げた。自由は、残酷さと卑劣さをもって虐殺されて、横たわっていた。きみを駆ってその死を告知させ、あのしかけられた戦争を、ただやめさせるという目的だけで非難させたのは、自由なのだ。

 怒りに燃えて告発し

 きみは天にまでおし挙げた きみの慟哭を

 断末魔の馬のいななきを

 そしてきみは 腕を切り落された母親たちから

 怒りの歯を抜きとった

 きみは地面に並べて見せた

 倒れた戦士の折れた剣を

 えみ割れた骨の髄と

 皮膚の上のぴんと張った神経を

 苦悶を 断末魔の苦しみを 憤怒を

 そしてきみじしんの驚愕を

 ある日きみがそこから生まれてきた

 きみの祖国の人民を

それらすべてを、きみは『ゲルニカ』と名づけた……」(アルベルティ『途切れざる光』)

 「ゲルニカ」の制作中に、ピカソはつぎのように言明している。

 「スペイン戦争は、人民にたいする、自由にたいする、反動の闘いである。わたしの芸術家としての全生涯は、もっぱら反動と芸術の死に反対する絶えざる闘争であった。ゲルニカと名づけるはずの、いま制作中の壁画においても、わたしの最近のすべての作品においても、わたしははっきりとスペインの軍部にたいする憎悪を表現している。軍部こそはスペインを苦しみと死の海に投げこんでいるのだ。」

 この声明のなかの「芸術の死」にたいする反対というのは、ミラン・アストライ将軍にたいする返答である。その頃、将軍は哲学者・詩人ミーゲル・ウナムノにたいして「知識人(インテリ)などやっつけてしまえ。死万才!」ということばを投げつけたばかりであった。それにたいしてウナムノは「あなたは勝利するでしょう。あなたは必要以上に物理的な力をもっているのだから」と答えたといわれる。ウナムノはピカソにとって青春の象徴そのものであった。

 「ゲルニカ」は、パリの万国博覧会のスペイン館に陳列されるやいなや、いろいろな批評を浴びた。フランコ派からは罵倒され、左翼からはほめたたえられた。ある共産主義者は「武器を執れ、という決起の呼びかけを期待していたのに、これは死亡通知状」だと言って嘆いた。またスペイン共和国のある高官は「『ゲルニカ』は反社会的で、滑稽で、プロレタリアートの健康な心情とは無縁だ」と言った。

 しかし、パリの批評界は熱烈にこれを歓迎した。『パリの虐殺』の著者ジャン・カッスーは書く。「いままであらゆる意味で拒絶されていたこの絵画に、名のある人びとが押しよせた。いまやこの絵は、充実と現状性とに、身振りと叫びとに、みちあふれている。それはわれわれのもっとも身近な悲劇を表現している。」

 それまでピカソにほとんど心動かさなかった批評家アメデ・オザンファンも「ゲルニカ」を評価して言う。「この男はつねに状況と同じ高さにいる。われわれはいまこの世界がだらしのないことを知っている。すべてのひとが卑められているのだ。こんにちの時代は重大でドラマチックで危険にみちている。『ゲルニカ』はこの時代にふさわしい。」

 「ゲルニカ」の制作後、一連の「泣いている女」が描かれる。十月二十六日の日付をもつ「泣いている女」はとりわけ有名である。女の手は口もとのあたりでハンカチを切り裂いている。涙だらけの顔には眼が飛びだしており、顔は悲しみのためにひきつり、ゆがんでいる。これはスペインの悲劇を反映した傑作の一つに数えられている。この肖像画のモデルは、ユーゴスラビヤ生まれの写真家で、シュルレアリスムの支持者ドラ・マールであり、ピカソは一九三六年にエリュアールの紹介で彼女を知ったのであった。その後およそ十年のあいだ、彼女はピカソとともに暮らし、絶えずそのモデルになる……

<新日本新書「ピカソ」>

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🔵大島博光=世界の共産党員物語・ピカソ

(「月刊学習」87~88年)

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🔴❶ピカソ青年時代、スペイン人民との結びつき

 二十世紀最大の傑作といわれる絵画「ゲルニカ」の画家ピカソ、世界じゅうを飛びまわった、平和運動のポスターの「鳩」を描いた画家ピカソ──そのピカソが、共産党員であったことはあまりよく知られていないようです。

 ブルジョア批評家たちは、共産党員ピカソにはできるだけふれないように努め、ふれる場合には、ピカソはただ共産党に利用されただけだとか、平和の「鳩」はアラゴンがピカソのところから盗みだしたものだとか、いって、ピカソを共産党から引きはなし、あるいは事実をゆがめて、〝解毒をはかっているのです。

 そうしてピカソは悪魔的な力と理想とに引きさかれているといって、心理分析の図式を描いてみせる批評家もいれば、実存主義の文句でピカソをきらびやかに飾ったり、難解な形而上学的な言葉を長ながとつらねる者もおり、あるいはピカソをひたすら魔術師として語り、崎型(きけい)学として語る者もいるといったありさまです。

 しかし、人間ピカソの姿が明らかになり、彼の生涯の時代時代と芸術の展開発展の関係が明らかになるにつれて、彼の芸術とその意義もまた、ますます明らかになってきているのです。「ピカソを雑誌や漫画新聞の伝説でしか知らなかった数百万の人びとが、とつぜん作り笑いをやめて、ピカソを心から信頼しはじめたのだ」とアラゴンはいいます。たくさんの人びとが、「ゲルニカ」と「鳩」の画家ピカソが自分たちと無縁ではなくて、自分たちの仲間だということを感じはじめたのです。

 人間ピカソ、画家ピカソ、そうして共産党員ピカソのあとを少しばかり追ってみましょう。

◆ピカソの生いたち

 パブロ・ピカソは、一八八一年十月二十五日、スペインのアンダルシア地方マラガに生まれました。父親のドン・ホセは絵の教師で、ピカソに小さな子どもの時から絵を描くことを教えたのです。

 またドン・ホセは、絵にたいする自然な愛着と同時に、闘牛にたいする愛着を息子に伝えます。ピカソにスペイン的な精神と形象をあたえたものは、まさにこの闘牛だったといえましょう。九歳のピカソが残している最初の油絵は牡牛であり、闘牛士なのです。この闘牛への愛着、執着は、作品においても生活においても生涯ピカソから、消えることはありませんでした。晩年、南仏ムージャンに居をかまえたころには、アルルやニームの闘牛場に、ピカソはその姿をあらわしたのです。

 ピカソはわずか十五歳でバルセロナの美術学校の入学試験にパスします。もう彼はアカデミックな絵画修業をひととおり終わっていたのです。そのころピカソの一家が住んでいたバルセロナは、文化的にも活気にみちた街で、若いピカソが世界へ飛躍する跳躍台となります。

 ここでピカソが青年期を迎えたころ──十九世紀末におけるスペインの社会状況を見てみましょう。それは画家ピカソの生成にとっても無縁ではないからです。

 「学校の先生よりももっと貧乏」というスペインのことわざがあるように、絵の教師ドン・ホセ一家の生活もらくなものではなかったのです。ピカソは自分の最初のパリ旅行にふれて、友人サバルテスにこう語っています。

 「おやじは旅費をくれて、おふくろといっしょに見送ってくれた。だが、家に帰れば、おやじにはもう何ぼかしのかねも残っていなかったのだ……

 つまり、そのころも、こんにちでも、スペインでは貧乏はきわめてありふれたものだったのです。

 一九〇三年から一九〇五年にいたるいわゆる「青の時代」のピカソの絵には、乞食たちが寒そうにうずくまっていたり、やせ細った旅芸人たちが、途方にくれたような表情で立っています。それらは、そのころのスペインの貧困さ、みじめさそのもののイメージなのです。当時のスペインの歴史は、貧農の反抗とプロレタリアートの闘争でみちみちているのです。

 一八九〇年、ヘレス地方の日雇労働着たちは町を襲撃しています。一八九年、カタルーニヤの葡萄園の小作人たちは、土地闘争のために立ち上がっています。一八九〇年、バルセロナでは、バクーニン主義者の指導する暴動が起きています。一八九二、三、四年とつづいて、ビルバオの炭坑労働者たちは会社側の監視に反対し、バラック住宅の改善、強制的な給食反対、労働時間の短縮などを要求して大ストライキを敢行しています。「カタルーニヤの工場地帯では、週に三日だけ働き、バルセロナでは工場閉鎖で一万七千人の失業者で溢れていた」(ブルーゲーラ『スペイン現代史』)のです。

 また当時バルセロナではアナーキスムの運動が盛んで、暴動や騒乱が頻発していたのです。ピカソの一九〇一年ころのデッサン、「アナーキストの集会」「囚人」などは、彼がバルセロナの街頭で見た光景を描いたものにちがいありません。

◆オルタとコソルの村で

 十七歳のピカソは一八九八年の夏を、病気静養をかねて、友人バヤレスの山の村の家で過ごします。そこはタラゴナ地方の高地にある、オルタ・デ・エブロという村でした。彼は村の人たちにとけこんで暮らし、鍛冶屋、靴屋、農民たちの働く姿を見、彼らからそれぞれものをつくる技法を教わるのが好きだったといわれます。サバルテスはつぎのよう語っています。

 「……ピカソはみんなといっしょに働いた。森の仕事や庭での仕事や、家畜の世話など……彼は百姓のズック靴をはいて、驢馬(ロバ)の世話をし、井戸から水を汲み、ひとびとに話しかけ、しつかりと荷造りをし、生馬に荷物を積み、牛乳をしばり、かまどに火を燃やして米をたき、その他いろんなことどもをした。彼はよくこう言ったものだ。『わたしの知っていることはみんな、オルタ・デ・エブロの村でおぼえたものだ』と……

 このエピソードほどに、ピカソの庶民性を物語っているものはありません。こうしてピカソは生涯にわたってスペイン人民とふかく結びつくことになります。

 「このオルタ滞在は、ピカソ伝説における最初の『素朴主義者(プリミチヴィスト』のエピソードとなる」と批評家フエルミジエはいって、つぎのように書いています。

 「……彼は生涯、ひじょうに素朴で野性的な男であり……態度は直接的であり、冷酷さと同時にあたたかい人間的な寛大さをもっている。……彼の外見、身なり、生き方はまるで労働者や村の職人のそれに似ている。そして恐らく、彼の政治参加、貧しい人たち、無知で何ひとつ持っていない人たちにたいする同情ほど本心からのものはない」

 その後まもなくパリに出て、ピカソは大画家への道を歩み始めます。しかしときどきバルセロナへ帰ったり、夏にはスペインの山地へ出かけるのが好きでした。

一九〇六年の春には、彼は愛人のフエルナンドといっしょに、ピレネーの高地にあるゴソルの村を訪れます。このときも健康を害していたので、静養をかねての旅でした。ゴソルの村は海抜一四二三㍍の高地にあって、あたりは野性にあふれた雄大な風景でした。村の生活ぶりも、オルタ・デ・エブロにもまして素朴なものでした。そのころのピカソの姿を、愛人のフェルナンド・オリヴィエはこう書いています。

 「そのころ、彼には故国の雰囲気が必要でした。そしてそれは彼の創作欲を刺戟したのです。あそこで描かれた習作には、きわめて強烈な感動、感覚がただよっています……スペインで見たピカソは、パリにいるピカソとはひどくちがっていました。陽気で、人づきあいもよくなり、もっと生きいきとして元気で、落ちついてものごとにうち込んでいました……

 彼は農民たちとつきあうのが好きで、彼らからも好かれていました。彼はのびのびと自由にふるまい、彼らといっしょに酒をのみ、彼らといっしょに遊びました。あの不毛で荒涼とした雄大な風景のなかで……彼はパリにいる時のように、社会の外にはみ出ているようには見えませんでした。……この密輸入者のいっぱいいる村で、彼はなんとちがった人間になり、どれほどうちとけた人間になったことでしょう。彼は密輸入者たちの長い物語に熱心に耳傾けて、まるで子どものように面白がっていました……

 これがキュビスムの画家になる数年前のピカソの姿です。故国の親しい風物と人びとのなかにうちとけて暮らし、民衆の話に耳を傾け、故国の人民と結びついたピカソの姿です。

(本稿は拙著『ピカソ』(新日本出版社)に拠って書かれています。詳しくは同書を参照されたい。)

  キュビスム

  一九〇七~一四年ころピカソやブラックによって創始され、フランスを中心におこった美術運動(派)の名称で、立体主義または立体派と訳されています

🔴❷ファシズムを告発する「ゲルニカ」

◆ファシズムヘの怒り

 一九三六年の夏、突如としてピカソは政治に眼をひらきます。そのときピカソは五十五歳。青年時代の「青の時代」を通過し、有名な「アヴィニョンの娘たち」を描き、立体主義(キュビスム)の絵画を追求し、そのかたわら新古典主義といわれる豊満な大女たちの絵を描いて、ピカソの名はすでに世界にとどろいていました。

 ピカソに政治に眼を向けさせたのは、祖国スペイン共和国にたいして、ファシスト・フランコ軍が反乱を始めたからです。つまりスペイン市民戦争の勃発です。

 スペイン共和国は、一九三一年四月、スペイン各地でおこなわれた地方選挙の結果、共和制を支持する人民が決定的な勝利をおさめて、スペイン人民が流血をみることなくして獲得し、成立させた共和国でした。その折、アルフォンソナ三世はついに王位を放棄し、ブルボン王朝は崩壊したのです。この偉大な夢の実現と未来への希望は、どんなにスペイン人民を歓喜させたことでしょう。それにつづく数年はスペインの民主的な文化が花ひらく輝かしい季節となります。

 しかし、春の日は長くはつづきませんでした。国際反動とファシストたちは、若いスペイン共和国の隙をうかがい、おのれの出番を待っていたのです。こうして一九三六年七月、ヒトラーとムソリーニに支援されたフランコ軍が、スペイン人民に襲いかかったのです。

 ピカソは共和国とスペイン人民を支持し、そこに希望を託していました。そしてピカソは共和国政府によって、プラド美術館長に任命されていました。

 ピカソはこのポストを名誉として受けもつだけでは十分と思わず、スペイン人民の支援に全力を傾けるのです。ファシストの恐るべき犯罪、勝ちほこった「野獣」のふりまく恐怖を前にして、ピカソは怒りの声をあげ、この悲劇の残酷さを、その天才をもって描くことになります。また内戦の犠牲となったスペインの子どもたちを支援するために、彼は多くの絵を売って、多額の義援金をいく度も贈ったのです。

◆ゲル二力の悲劇

 一九三七年一月、スペイン共和国政府は、その夏パリでひらかれる万国博覧会のスペイン館をかざる壁画をピカソに依頼しました。ピカソは壁画を引き受けましたが、なかなかその仕事に手がつきませんでした。そうこうしているうちに、世界を衝撃させる事件が起きたのです。──ゲルニカの悲劇です。

 一九三七年四月二十六日、バスク地方の小さな町ゲルニカは、フランコを支援するナチス・ドイツ空軍によって三時間半にわたる波状爆撃をうけ、町は全焼全滅し、死者は二千人にのぼりました。ナチスの戦闘機は、町のまわりの畑に避難した町民たちにまで機銃掃射を浴びせたのです。このドイツ軍による爆撃の目的は、爆弾と焼夷弾との共用効果を、非戦闘員の住民にたいして実験することにあったのです。

 このファシストによる残酷な犯罪の知らせは、たちまち世界に伝えられ、世界じゅうの人びとに衝撃をあたえたのです。

 四月三十日には、フランスの新開には、廃墟となったゲルニカの写真が掲載されたのです。

 スペインの同胞のうけた、この残酷な悲劇にたいするピカソの怒り、反発──そこから一挙に、壁画のイメージが生まれ、傑作「ゲルニカ」へと結晶してゆくのです。

20世紀最大の傑作・ゲルニ力

 できあがった画幅はきわめて大きなものでした(三・五七・八二メートル)。構成の上でピカソはごく古典的な形式をとっています。

 中央の三角形の項点にはランプがあります。大きな横顔を見せている女の腕が、このランプを差し出しています。人物たちと部屋の部分とは、舞台装置の印象をあたえるように圧縮されて配置されています。左側には大きな電灯に照らされた部屋があって、テーブルの上には頸(くび)をのばしてくちばしを大きく開けている鳥が描かれています。右側には瓦屋根の家と炎に包まれた家、その窓と入り口などが、きわめて立体主義風な幾何学図形によって描かれています。およそ古典的な絵においては、恐怖の場面は一般に広場でくりひろげられ、殉教者や無実の者たちは四方に逃げようとしています。しかしここでは逃げることは不可能なのです。町と町の人たちは爆撃によって全滅させられていたからです。そこでピカソはこの閉ざされた舞台装置を選んだのです。

 八人の登場人物──中央には馬が断末魔の叫びをあげています。左側には牡牛が顔を横に向け、尾を立てています。その下に顔をのけぞらせた女が苦しみの叫びをあげ、死んだ子どもを腕に抱いています。右側には、ランプを差しだしている女の横顔をかこむように、もうひとりの女が光の方に身を伸ばしており、さらにもうひとりの女が炎を噴いている家の前で、腕を重くあげて大きくわめいています。前面にはひとりの戦士が床に横たわり、折れた剣を手に握りしめています。剣のそばには花が描かれています。

 牡牛と死んだ子どもをのぞいて、その他の顔はみな口を大きくあけて、あるいは断末魔の叫びを、あるいは怒りと恐怖の叫びをあげています。それらすべてはゲルニカの時代に絵画があげた叫びそのものなのです。ひき裂かれ、ふみにじられたスペイン人民の悲劇にたいして、絵画があげることのできた叫びそのものなのです。そしてそれはまたピカソがファシズムの暴虐にたいしてあげた叫びにほかならないのです。ここに、絵画「ゲルニカ」が二十世紀最大の傑作といわれる理由があるのだと、わたしは考えます。

 「ゲルニカ」についてはいろいろな解釈がおこなわれていますが、ピカソの友人でスペインの大詩人ラファエル・アルベルティが「ゲルニカ」について書いた詩を引用しておきたいと思います。

 ……怒りに燃えて告発し

 きみは天にまでおし挙げた きみの慟哭を

 断末魔の馬のいななきを

 きみは地面に並べて見せた

 倒れた戦士の折れた剣を

 えみ割れた骨の髄と

 皮膚の上のぴんと張った神経を

 苦悶を断末魔の苦しみを憤怒を

 そしてきみじしんの驚愕を

 ある日きみがそこから生まれてきた

 きみの祖国の人民を

 それらすべてを

 きみは「ゲルニカ」と名づけた

 (アルベルティ『途切れざる光』)

◆仔山羊と鳩

 それから十数年後の一九五〇年、ピカソの「ゲルニカ」の映画がつくられたとき、詩人のエリュアールはそれにすばらしい解説を書いたのです。そのなかには、「ゲルニカ」の意義にふれた、つぎのような美しい文章があります。

 「ゲルニカの焼け焦げた樫の木のしたに、ゲルニカの廃墟のうえに、ゲルニカの澄んだ空のしたに、ひとりの男が帰ってきた。腕のなかには鳴く仔山羊をかかえ、心のなかには一羽の鳩を抱いていた。かれはすべての人びとのために、きよらかな反抗の歌をうたうのだ。愛にはありがとうと言い、圧制には反対だと叫ぶ、反抗の歌を。心からの素直な言葉ほどにすばらしいものはない。かれは歌う──ゲルニカはオラドゥールとおなじように、ヒロシマとおなじように、生ける平和の町だ。これらの廃墟は、恐怖(テロル)よりももっと力強い声を挙げているのだ。

 ゲルニカよ! 無辜(むこ)の人民は虐殺にうち勝つだろう」

 ここには「ゲルニカ」につづくピカソの仕事が簡潔に、しかも詩のように描かれています。「腕のなかには鳴く仔山羊をかかえ……」というのは、一九四四年につくられたピカソの彫刻「羊を抱いた男」を指しており、「一羽の鳩」というのは、一九四九年の第一回世界平和大会のポスターに描かれた、ピカソの「鳩」を指しているのです。つまり、「ゲルニカ」によるファシズムの告発ののちには、ピカソは平和運動にその芸術と実践をもって参加したのです。

 なおヒロシマと並べられている「オラドゥール」というのは、フランスの南西部リモージ市から二十キロほど西にある村の名です。第二次大戦末期の一九四四年六月十日、敗走を始めたナチス・ドイツ軍は狂暴になって、通過する村々に火を放ったのです。オラドゥールの村も焼きはらわれ、全村民が虐殺され、女と子どもたちは教会に閉じこめられて焼かれたのです。ひとつの村が文字どおり地図から消された悲劇として、オラドゥールはチェコのリデイツェ村とともに有名です。

<本稿は拙著『ピカソ』(新日本出版社)に拠って書かれた。詳しくは同書を参照されたい。>

🔴❸絵画はわたしの武器=ピカソの共産党入党声明に思う       

「ゲルニカ」の魅力語って

 先年、わたしはマドリードを訪れた帰途、バルセロナのピカソ美術館を訪れた。美術館は、石の家並の迫った、狭い小路にあって、石壁も灰色で古めかしい建物であった。その街のあたりは少年のピカソが遊んだところだとも聞いた。ここには、主としてピカソ初期の絵やデッサンが集められていて、この天才画家の生成過程の一端が見てとれるようだった。入口ではまた「ゲルニカ」その他の絵の複製刷を売っていたので、それを買って、長い紙筒のなかに入れて持って帰った。

 この九月、ピカソの傑作「ゲルニカ」がニューヨークからスペインに還され、マドリードのプラド美術館に展示されることになった。それを機会に、「ゲルニカ」について多くのことが語られた。「ゲルニカ」の魅力を語り、その芸術性や手法を語るに急で、その手法や芸術性が表現している内容そのものにはできるだけ触れまいとしたり、それを蔽いかくそうとしているような語りぐちも見られた。ピカソを「ゆがめたり」「骨抜きにしたり」「だらだらとした長談議の宮殿のなかに閉じこめたり」(アラゴン)する試みはあとを絶たないのであろう。

 周知のように、「ゲルニカ」はヒットラーとフランコのファシズムにたいするピカソの怒りの表現であり、芸術による告発である。

 一九三七年四月二十六日、ナチス・ドイツ空軍は、バスク地方の小さな町ゲルニカに無差別爆撃を加え、町を廃墟にし、住民二千を殺した。この野蛮な破壊・虐殺にたいする怒りを、ピカソはスペイン人民の叫びとして「ゲルニカ」のなかに定着させた。過酷なスペイン市民戦争のなかで、ふみにじられ虐殺されたスペイン人民の姿を、ピカソは二十世紀の光のもとで描き出している。あの歯をむきだしにして死の叫びをあげている馬、虚空をつかもうとして開いた手、長い伸びた女の咽喉(のど)、狂乱の叫びをあげる単純なプロフィルたち──死の叫びをあげる馬のまわりのこれらの強烈なイメージは、自由と独立のためにたたかうスペイン人民の恐るべき犠牲の姿を、全世界の眼のまえに衝撃的に突きつけたのである。そしてピカソはしばしば「絵画はわたしのたたかう武器だ」と語っている。

「ユマニテ」掲載の入党声明

 一九四四年パリ解放後、ピカソはフランス共産党に入党する。その入党声明をよむと、ピカソが絵画を武器としてたたかった画家であることがよくわかる。

     ◇

 わたしの共産党への入党は、わたしの全生涯、わたしの全作品の当然の帰結である。なぜなら、わたしは誇りをもって言うのだが、わたしは絵画をたんなる楽しみの芸術、気晴らしの芸術と考えたことは一度もなかったからである。わたしはデッサンによって、色彩によって──それがわたしの武器だったから──世界と人間たちの認識のなかにつねにいっそう深くはいりこみたかった。この認識が毎日よりいっそうわれわれを解放してくれるために。わたしはわたしの流儀で、じぶんがもっとも真実で、もっともただしく、もっともすばらしいと考えたものを表現しようと思った。それは当然つねにもっとも美しかった。偉大な芸術家たちはそのことをよく知っている。

 そうだ、わたしは真の革命家としてつねに自分の絵画のためにたたかってきたことをよく覚えている。しかし、それだけでは十分でなかったことを、いまわたしは理解したのだ。あの恐るべき圧制の数年は、自分の芸術をもってたたかうだけでなく、自分自身をあげてたたかわねばならぬことを、わたしに教えたのである・・・。

 そこで、わたしは少しもためらうことなく共産党へ行った。なぜならわたしはじつは、ずっと前から党とともにいたのだから。アラゴン、エリュアール、カッスー、フージュロンなど、すべてのわたしの友人たちはそのことをよ<知っている。もしわたしがまだ公式に入党しなかったとすれば、それはある種の「無邪気さ」によるものだった。わたしは、自分の作品、わたしの心での入党で十分であり、しかもそれがすでにわたしの「党」だと信じていたのだから。

 世界をもっともよく知ろうとし、世界を建設しようと努め、こんにちと明日(あす)の人びとをいっそう眼ざとくし、いっそう自由にし、いっそう幸せにしようと努めているのは、党ではなかろうか。フランスにおいても、ソヴエトにおいても、あるいはわがスペインにおいても、もっとも勇敢にたたかったのは共産党員ではなかろうか。どうしてためらうことがあったろうか。政治参加(アンガージェ)をするのが恐ろしかったか?──ところでわたしは反対に、これほど自由に、申し分なく感じたことはかってなかった!

 それにわたしはひとつの祖国を見つけようとひどく急いでいたのだ。わたしはずっと前から亡命者であったが、いまやわたしは亡命者ではない。スペインがついにわたしを迎え入れてくれる時まで、フランス共産党が腕をひらいてわたしを迎え入れてくれた。わたしはもっとも尊敬する人たち、もっとも偉大な学者たち、もっとも博大な詩人たちを党のなかに見いだした。そしてまたあの(パリ解放の)八月の日日に見た、蜂起したすべてのパリ市民たちの美しい顔をそこに見いだした。わたしはふたたびわが兄弟たちのなかに仲間入りをしたのだ!

 (一九四四年十月二十九日付ユマニテ祇)

     ◇

 この時、ピカソはすでに六十三歳の巨匠であった。この入党や声明が、かるい思いつきなどによるものでないことは明らかである。そしてフランコ体制のもとではスペインには絶対帰らないといっていたピカソの、その「ゲルニカ」がいまスペインに迎え入れられたのである。

 知らない人もあるだろうから、ピカソの入党声明を訳出してみたが、その芸術も含めて、私たちはたたかう巨人ピカソの姿に感動させられる。

(おおしま ひろみつ・詩人)

<こののみ「赤旗」1981125日>

🔴❹鳩の紋章の楯を手に、ピカソの「戦争と平和」 

◆朝鮮戦争の細菌作戦を告発

 ピカソに「戦争と平和」という壁画がある。南仏ヴァローリスにある、十四世紀に建てられた古い礼拝堂を改造した美術館の壁を飾るもので、そこはいま「平和の殿堂」とよばれている。

 一九五二年に描かれた「戦争と平和」は、「ゲルニカ」(一九三七年)とおなじように、その時代の闘争と状況にこたえたものである。その前年に描かれた「朝鮮の虐殺」についで、この壁画は朝鮮戦争におけるアメリカ軍の細菌作戦を告発すると同時に、そこから「戦争と平和」という発想を得ているのである。

【朝鮮の虐殺】

 「戦争と平和」は、それぞれ独立した一枚の画から成り、それぞれが五十㍍というぼう大な大きさで、あわせて一〇〇平方㍍に達する。この途方もない大きさは、初めからこの礼拝堂の壁を飾ることがきまっていたからである。

◆二枚のパネルが語るもの

 「戦争」のパネル──この壁画は、板を貼り合わせたパネルに描かれている──では、戦争を象徴する、角を生やした奇怪な人物が、痩せ馬の曳く柩車に乗って、血まみれの剣を振りかざしながら進んでいる。そして左手に持った皿からは、細菌がばらまかれている。背景の空には、おなじく武器を振りかざした一群の兵士が影絵のようにくっきりと浮びあがっている。──この不吉な一団に面と向って、画面の左端に、平和の戦士が正義の剣と無垢の楯を手にして、一団をおし止めようと足をふんばって、力強く立ちはだかっている。

 この構図は、ピカソの意図をはっきりと示すイメージから成っている。色彩は壁画で一般に用いられるよりは鮮やかである。朱、青、黄、褐色、白・・・しかし黒が支配的である。この戦争を象徴する亡霊のような人物たちが、殺戮(さつりく)を演じている舞台の上には、星もない夜が降りてくるように見える。

 片方の「平和」のパネルでは、青と緑と灰色とが、平和にふさわしい雰囲気をかもし出している。子供たちは跳ねまわり、女たちは踊り、半人半馬(ケンタウロス)が笛を吹き、翼のある馬(ペガサス)を坊やが追っている。画面の右側、オレンジの木かげでは、三人の人物がそれぞれ自分の仕事にうちこんでいる。母親は赤ん坊に乳をのませながら読書しており、男は紙のうえにペンを走らせている・・・この楽園のようなイメージの上には、表の穂の光芒をもった多色の太陽がかかっていて、人類の幸福を見守っている。ここでは、さんさんたる陽光を浴びて、平和のもとで働き、生きるよろこびが謳歌されている。

◆全世界の闘う人民を励ます

 「戦争と平和」、光と闇との、不幸と幸福との、対照を描きだした途方もない大作である。戦争と平和──このテーマは、「ゲルニカ」以来、ピカソの頭にこびりついていたテーマのひとつであった。この壁画では、その前年に描かれた「朝鮮の虐殺」におけるような、辛棟な手法はとられていない。「戦争」は影のなかに現われ、破壊と犯罪の一団をしたがえている。しかし、「戦争」はその前にたちはだかるライバル「平和」の前におしとどめられ、あとずさりしてゆく・・・「平和」の戦士は、象徴的なミネルヴァ(ローマ神話における知識・芸術の女神)と鳩の紋章のついた楯を手にして、死と破壊の戦車をおし止めている。「平和」の戦士は、血に飢えた怪物に堂堂とたちむかい、地獄の敷居のうえにすっくと立っているのである。

 こんにち、細菌戦争どころか、核戦争を叫ぶやからにたいして、世界じゅうで数万・数十万規模の反核反戦集会がくりひろげられている。この対比対照をみる時、このピカソの壁画は象徴的である。この壁画をとおして、ピカソは戦争に反対して闘っている全世界の人民を支持し励ましているのである。

🔴池澤夏樹=ピカソの作品に思う 国民を束ねる「フランコの夢と嘘」 

20151110日朝日新聞

 ピカソに「フランコの夢と嘘(うそ)」という二枚セットのエッチングがある。どちらも葉書(はがき)サイズの小さな絵を九点、3×3の齣(こま)割りで劇画のように並べたもの。馬に乗った男(これがフランコ)、雄牛、死体、怪物、有刺鉄線、泣く女などの乱雑でグロテスクな変奏曲である。

 大半は一九三七年一月に一気に制作され、六月になって四枚が追加された。その前の年の秋、フランコ将軍は人民戦線の政府に武力攻撃を加え、スペイン内戦が始まっていた。

 ピカソはフランコの野望の正体を暴こうとした。この作は彼の初めての政治的メッセージであり、大作「ゲルニカ」に先行するものだった。

 自作の詩が添えてある。シュールレアリスムの、自動筆記のような手法で書かれて、「……子供たちの叫び女たちの叫び鳥たちの叫び木と石の叫び煉瓦(れんが)の叫び家具の……」という悲痛な内容。

 翌一九三八年、戦いに勝ったフランコは国家元首となり、その支配は一九七五年の彼の死まで続いた。

 ぼくはピカソが好きだから彼の絵をずいぶん見ている。タイトルを憶(おぼ)えているものも多い。その記憶の中で先日から「フランコの夢と嘘」というフレーズが脳裏を行き交っている。それも「フランコ」ではなく「夢と嘘」の方が。

    *

 これを今の日本に重ねようというつもりではない。もっと深いところで「夢と嘘」という言葉が低く鳴っている。政治というのは根源的には「夢と嘘」を操作する技術ではないのか。

 社会を滑らかに運営するだけなら行政だけで済む。それを超えて強い求心力で国民を整列させ、未来に向けて行進させる。そうして束ねられた国家は外に対しては強いのだろう。

 だから無能な政治家は民心統合のために周囲の国に対する敵愾(てきがい)心を利用する。ナショナリズムを煽(あお)り、危機感に訴える。そして、しばしば、国民はそれに応じるのだ。戦火で傷ついてから政治家を恨んでももう遅い。責任は扇動に乗ってしまった国民にある。

 では敵ではなく夢で束ねるのは?

 ピカソはフランコの個人的な野望を夢と呼んで諷刺(ふうし)・糾弾したが、実はそれは国民の一部が共有する夢だった。だからフランコは勝利し、スペインを掌握し、独裁は三十年以上続いた。

 現代ギリシャ語では政治家はポリティコスと言う。これは古代ギリシャで都市国家(ポリス)の運営者という意味で作られた言葉だ。

 それとは別に政治家をキベルニティスと呼ぶことがある。原義は「舵(かじ)取り」(情報工学で言うサイバネティクスの語源でもある)。国家という船を駆動するのは国民の力だが、舳先(へさき)をどちらに向けるか決めるのは政治家の役目。

 そこで船を進める指針として前方に目標を掲げる。それが政治家が言う「夢」である。そもそも人が勝手に抱く欲望を睡眠時の脳内生理現象に重ねて夢と呼んでいいものか、ぼくは疑問に思うのだが、それはともかく、あり得べき自分たちの像を未来に措定して、そちらに行こうとみなを叱咤激励(しったげきれい)する。

    *

 政治には何か未来像が要るらしい。

 隣国を敵と名指して戦意高揚を図るのは、その敵に勝った時の喜びを想像させて、あるいは敗れた時の悲惨を想像させて、国をまとめる詐術だ。

 夢の方はもう少し穏やか。経済的な繁栄とか祝祭の約束とか。

 実を言えば、二十一世紀の今、どこの国ももう無限の経済成長は望めない。必死でごまかして先送りしているだけ。「夢」は「嘘」にならざるを得ない。

 安倍首相は東京オリンピックという祝祭で国民をまとめようと考えたが、それは「フクシマはアンダー・コントロール」という嘘と抱き合わせだった。放射能問題が「もれなくついてきます」。

 現代の嘘の専門家が広告代理店。

 「今、これをお買いになると純金の子豚が当たります」というのは正確には「当たるかもしれません」だろう。「三本の矢」はコピーとしてはうまかった。つまりよくできた嘘だった。「新・三本の矢」はどうみても失敗作。中は空っぽということが露骨に見えてしまった。

 その一方で、経済優先・消費扇動の現政権に対してこれを批判する側の声は(僕も含めて)誠実なのだろうが今一つ迫力がない。地味でクラい。

 現政府が言っていることは嘘だと言っても、もう成長がないことを認めた上で社会を変えようと言っても、人はなかなか聞いてくれない。ぼくらの側には広告代理店がいないから自前でやるしかないわけだし。

 それでもずいぶん変わってきたとも思う。若い人たちがモノを欲しがらなくなったのはよいことなのだろう。深層からこの社会は変化しているのかもしれない。

◆◆ピカソの「ゲルニカ」と対峙する作品「フランコの夢と嘘」

2008/06/04 「波乱万丈 旅日記」

今日は、1937年にパブロ・ピカソの代表作「ゲルニカ」が完成した日だそうです。「ゲルニカ」についてはどこかで取り上げた記憶があるので、今日はこの大作と同じ年に描かれた218コマからなる版画「フランコの夢と嘘」という作品に注目します。といっても、直接見たことがなく、私にはこの版画について語るべき素養もありません。いつものように、識者の解説を引用するに留まります。

まずは、徳島県立近代美術館 主任学芸員 友井伸一さんの解説から。

<フランコの夢と嘘>は、1936年に起こった、スペイン人民戦線政府に対してフランコ将軍率いる軍部が行った反乱のために困窮した人民戦線政府を支援するために制作された版画です。それぞれ葉書大に区切られた9つの区画に、まるで漫画のように、虐殺された人民や、弾圧するフランコの姿が、滑稽な化け物や、ゆがみ苦しむ異形の姿で描かれています。このように人物を歪形(デフォルメ)させる描き方は、愛する女性たちにも及びます。

次に、「波乱万丈 旅日記」のサイトからさらに詳しい解説を。

フランコの夢と嘘2《フランコの夢と嘘》は,元来が非政治的な人間ピカソが,初めて政治的立場を明確にした作品である。そればかりか,内容的にも密接な関係にある《ゲルニカ》とともに,普通は自作に題をつけることをしなかったピカソが例外的に自分でタイトルを付けた作品でもある。そのタイトルは,版画には直接刻まれてはいない。

これら2集は,1937年のパリ万博スペイン館で売り出された訳だが,その際,きわめてシュルレアリスティックなピカソ自筆の詩のファクシミリ版と共に,同じくピカソがデザインしたポートフォリオに入れられ,その表紙に《フランコの夢と嘘》と大書されたのである。

このタイトルは,H.B.チップが言うように,劇作家カルデロン・デ・ラ・バルカの有名な2作『人生は夢』と『この世では,すべて真実ですべて嘘』に由来するスペインの格言に着想したようである。つまり,極めてスペイン的な両義性を駆使しながら,痛烈なフランコ弾劾を展開しているのである。これはピカソがフランスに亡命したスペイン人の救援支金の一部として無償供与したもので,一時は18コマをバラバラにして葉書として売ることも考えられたようだが,画面がコミック風というか劇画風に展開する圧倒的な力を尊重したのであろう。今日われわれが見る形そのままで発売されることになった。

1章の上部,第2章の上部と下部に刻まれた自筆の年月日から,この版画の大部分が193718日,9日に制作され,残りが同年67日に制作されたことが分かる。18日,9日は,ビカソが後に《ゲルニカ》となる壁画の制作を引き受ける直前のことで,それはまたフランコ率いる国民戦線軍がマドリード包囲を強化し,イタリア軍が彼の生地マラガを包囲した時期とも一致する。そして67日は,正に《ゲルニカ》の完成直後であった。

自筆年記が逆転しているのは極めてピカソらしいが,それによって,この18コマは,第1葉の右上から左へと読み進むべきだということが明らかになる。第1集全部と第2集の第10,第13,第14コマでは,醜悪なしかし滑稽でもある怪物に擬せられたフランコ将軍が,様々な非現実的でグロテスクな行為の主人公として告発されている。ピカソ特有の諧謔が息づいているが,そこにはドン・キホーテの世界を垣間見ることもできるだろう。

2集には,最後の4コマが空白のままで67日の日付けも無い試し刷りが存在し,日本では広島県立美術館が所蔵している。この4コマが,《ゲルニカ》との関連で刻まれたことは,主題が第17コマのものを除いて《ゲルニカ》のための習作デッサンのヴァリエーションであることから明らかだが,技法的にもエッチングが主体で,13日,9日のエッチング,アクアチント併用技法とは異っている。同じ技法とは言え,主題展開から見て,第2集最初の10コマ目までが13日,11コマから14コマまでが19日の作と見るべきだろう。

注目すべきは,1月段階における牡牛と馬の象徴性である。仕牛は,第5,第13,第143コマに登場するが,そのいずれにおいても,醜悪な怪物に対する正義の象徴として描かれている。それに対して馬の象徴性は両義的である。第1,第32ヨマでは怪物と一体化しながらすでに臓物を引きずったり,怪物を裏切っており,第10コマでは怪物に食い殺され,第15コマではその怪物と合体し牡牛に切り裂かれた腹からは怪物の様々なアットリビュートが溢れ出るというように,むしろ悪の象徴として扱われているケースが多いが,第12コマでは,一転して傷ついた男を庇護する美しい白馬に変身している。このようにピカソにおける動物の象徴性は決して一義的なものではなく,それは大作《ゲルニカ》に関しても言えることである。

15コマのきわめて印象的な泣く女は,残り3コマの悲劇の母子像とともに《ゲルニカ》制作中に登場した主題である。しかし人生最大の女性問題をかかえていたピカソにとつて,「泣く女」は特別な意味を持った主題であったに違いない。68日からこの主題シリーズが集中的に制作されたばかりでなく,以後数カ月にわたつて追求されることになるからである。[KK](「波乱万丈 旅日記」http://www.tcn.zaq.ne.jp/akahj701/right.htm

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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