ワイダ監督の映画の世界とポーランド民衆の苦悩

◆◆ワイダ監督の映画の世界とポーランド民衆の苦悩

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🔵アンジェイ・ワイダ監督リンク集

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★★アンジェイ・ワイダ=祖国ポーランドを撮り続けた男 90m

または

★★映画=灰とダイヤモンド(ワイダ監督)(最初5mはワイダ監督の解説)

https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5WTR6QW9rcE1yckU

★★映画=大理石の男(ワイダ監督)150m

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=53776521

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=53776539

★★映画=カティン(ワイダ監督)120m

https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5QWR6OUxnMXI2Yjg

または

https://m.youtube.com/watch?v=9k3U6qyoaKw

★★映画=世代(ワイダ監督)初の作品

https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5U2RwMlhMcklfWG8

★★映画=コルチャック先生(ワイダ監督。生徒たちとナチス収容所へむかった孤児院長)137m

Wiki=コルチャック参照。コルチャックは孤児院長だけでなく、教育学者・児童文学者でもあった。

◆◆映画=カチンの森

◆◆カティン事件について(映画「カティン」の背景)

1940年春ソ連軍が4400人のポーランド軍将校をカティンで虐殺した事件。当初ソ連はドイツ軍の仕業だと主張したが、死体の証拠からソ連軍が行ったことが大戦後判明した。39年の独ソ条約でポーランドの東西をドイツとソ連で分割しあうことを秘密協定。ソ連軍の占領下におかれたポーランド将校がポーランド支配に邪魔になるとのスターリンの判断で虐殺したと推察される。Wiki=カティンの森事件参照。この映画の最後の虐殺場面、別途アップのソ連の強制収容所の詳細、日露戦争の報復のために北方領土を奪取したことなど、スターリン以降のソ連が社会主義でもなんでもない社

会であったことを証明している。ワイダ監督の父親もカチンの森で殺された将校であった。

★★ドキュメント・カチンの森50m

★解説・カチンの森9m

★解説・カチンの森10m

★★地下水道 97m

この映画の背景となっているワルシャワ蜂起については、Wiki=ワルシャワ蜂起参照。1944730日にソ連軍はワルシャワ10kmまで到達。81日ポーランド国内軍と市民5万人は蜂起開始。しかしドイツ軍が猛反撃。ビスク河対岸までソ連軍は占領したが、なぜかポーランド軍の支援をせず見殺しにする。こうして蜂起はついに失敗に終わる。「地下水道」の最後の場面は、ソ連軍のいる対岸を撮影している。ワルシャワ蜂起の指導者たちが親ソ連派でなかったことがスターリンの判断で蜂起の支援をやめた理由だといわれている。

★★鉄の男

★★ワレサ・連帯の男

https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5dFBEblNoWE5veXc

★★ワルシャワ蜂起を継承するポーランド国民55m

★★ワルシャワ蜂起映像24m

◆ワルシャワ蜂起博物館

(赤旗17.08.11

★★映画=リベリオン ワルシャワ大攻防戦(ワイダ監督の映画ではない。ワルシャワ蜂起を描くポーランド映画。Rebellionとは、 英語で「反乱」のこと)125m

https://drive.google.com/open?id=1M9Eafh2ZwCFjaSydpKxQqidghHqhr-gF

2次世界大戦末期にポーランドで起きたワルシャワ蜂起の真相を描く。1944年。ステファンたちは、祖国の解放を信じてレジスタンスに身を投じる。だがワルシャワの街は、ソ連軍の裏切りとドイツ軍の攻撃によって崩壊していく。

★★ポーランド連帯のたたかい(20世紀の社会主義557m

★★ポーランド連帯のたたかい1980-8120世紀の社会主義5 

★★ 1989年からの出発 ポーランド 大国支配からの脱出 連帯勝利より20年~

Pandraに無料登録ログイン)

1989年の東欧革命で、最初に民主化の口火を切ったポーランド。共産党政府からの自由と「自主管理」を求

求める労働組合連帯6月の自由選挙で圧勝。マゾビエツキ政権を誕生させ、40年に及ぶ共産党支配は終わりを告げた。しかし新生ポーランドの歩みは困難を極める。ポーランドの悲願は、周辺の大国に左右されない、独自のポーランドを打ち立てること。ロシアとヨーロッパの大国の脅威にさらされ、国を分割占領された歴史を持つ人々の思いは、急激な体制転換による倒産失業や政治不信、イラク戦争やEU加盟など様々な課題を前に揺れ続ける。大国支配からの脱出を夢見たマゾビエツキ元首相、クワシニエフスキ前大統領ら指導者、イラクで犠牲になった兵士などを通し、ポーランド苦難の20年を描く。

★★ドキュメント・戦後ポーランドの民主化の歴史、80年代の連帯、ワレサのたたかい77m

◆◆ワイダ監督の遺作「残像」=体制に抗し信念貫く画家の苦闘

(赤旗17.06.02

◆ワイダ監督の「残像」

赤旗17.06.15 きょうの潮流

 冒頭から続く場面。なだらかな草原の丘を画家の教授と学生たちが笑いながら転がっていく。和気あいあいとした雰囲気の野外講義。「人は認識したものしか見ていない」一転して教授の自宅。独り向かう白いキャンバスが突然、真っ赤に染まる。独裁者スターリンの肖像画が描かれた巨大な垂れ幕が窓を覆い光を奪う。自由と抑圧を暗示させる映画の導入部。アンジェイ・ワイダ監督の真骨頂でしょういま岩波ホールで公開中の「残像」は昨年90歳で亡くなったワイダ監督の遺作です。第2次大戦後、ソ連の強い影響下に置かれたポーランド。そこでは社会主義の名を借りたスターリン式の専制政治、思想統制の嵐が吹き荒れていました弾圧の中で信念を貫いた実在の芸術家を主人公に、自由とは、人間の尊厳とは何かを問いかけます。教授を追われ職にもつけず、食料配給も受けられない。芸術を枠にはめ、表現の自由を抑え込もうとする国家体制に苦悩しながら抗する姿はワイダ自身と重なりますジャーナリストの綿井健陽(たけはる)さんは、内心の自由を縛る共謀罪が時の政権によってごり押しされようとしている日本でも同じ空気が現れてくると。「自己検閲意識と萎縮をもたらす法律が覆う社会や国家は、自分の内面と身体に巧妙に入り込んでくる」死の直前にワイダが込めたメッセージ。人間は自由を得るためにどれほどの代償を払い、たたかってきたのか。私たちはすでに知っている。そのことを忘れてはならない。歴史の残像を―。

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🔵ワイダ監督の生涯

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◆◆アンジェイ・ワイダ

(小学館百科全書)

山田正明

Andrzej Wajda

1926- ]

ポーランドの映画監督、舞台演出家。36日東北部のスバウキに陸軍将校の子として生まれる。第二次世界大戦開戦直後に父は消息不明となり、一家は過酷な運命を強いられた。戦後クラクフ美術大学で絵画を学んだのち、ウージの国立映画大学へ進み、1953年に卒業、翌年『世代』で監督としてデビューした。続く『地下水道』(1957)、『灰とダイヤモンド』(1958)によって、カワレロビチらとともに「ポーランド派」の旗手として広く世界に知られ、以後もポーランドの社会矛盾と民族的同一性を追求する作品を発表し続けている。『約束の土地』(1975)でモスクワ国際映画祭の金賞を受賞し、東欧で初めてスターリン時代の実態を描いた『大理石の男』(1977)は、1970年代後半に現れた「モラルの不安派」誕生の契機となった。1980年代に入り、自主管理労組「連帯」を強く支持した『鉄の男』によって、1981年にカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞。しかし同年末以降の軍政下で映画人協会会長職を追われ、自ら率いる映画製作集団「X(イクス)」も解散させられ、国内では厳しい状況下にあった。そのほか1980年代の作品に『ダントン』(1982)、『悪霊』(1987)など。1987年(昭和62)に京都賞受賞のため三度目の来日をした。1990年代に入ると、京都賞で獲得した賞金をもとに、クラクフ市に日本美術・技術センターを建設すべく奔走し、1994年に完成させた。そのほかに『コルチャック先生』(1990)、『鷲(わし)の指輪』(1992)、アダム・ミツキェビッチ原作の『パン・タデウシュ物語』(1998)を監督した。舞台演出家としても変わらずにクラクフを中心に活動している。しかし自由化以後の作品は、現代の映画観客の主流である社会主義体制を知らない若年層の期待にこたえられず、興行的にあまり成功しておらず、ワイダの作品を支持するのは旧体制に翻弄(ほんろう)された世代である。なお、1999年度のアカデミー名誉賞を受賞した。

◆◆A・ワイダ監督、死去 ポーランド映画「抵抗3部作」90歳

20161011日朝日新聞

自作の題材にもしたワレサ元ポーランド大統領(左)と並ぶアンジェイ・ワイダ監督=ロイター

 「灰とダイヤモンド」や「大理石の男」など、祖国ポーランドの苦難の現代史を一貫して描いてきた映画監督のアンジェイ・ワイダさんが9日、ワルシャワ市内の病院で死去した。90歳だった。関係者によると、亡くなる数日前に体調を崩し、入院していた。

 1926年、ポーランド北東部の町スワルキに生まれ、第2次世界大戦中には対独レジスタンス運動に参加。戦後、美術大学に進学するが、進路を変えてウッチ映画大学を卒業した。

 レジスタンスの体験を基にした長編監督デビュー作「世代」(54年)を始め、「地下水道」(56年)、「灰とダイヤモンド」(58年)とドイツとソ連に翻弄(ほんろう)されながらも抵抗を続けるポーランドの若者たちを活写。この「抵抗3部作」で、国際的な評価を得た。

 76年、社会主義政権への懐疑をテーマにした「大理石の男」を撮る。81年にはその続編となる「鉄の男」を発表。この作品は、後に大統領となるレフ・ワレサ氏を委員長とする自主管理労組「連帯」の抵抗運動の勝利を描き、カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを受賞。民主化後の89年から91年まで、上院議員を務めた。

 18歳の時、クラクフの国立博物館の「日本美術展」で浮世絵など日本の古美術と触れたことが、芸術の道へのきっかけとなったとされる。日本との関わりは深く、89年、歌舞伎役者の坂東玉三郎を主演にドストエフスキーの「白痴」を下敷きにした舞台「ナスターシャ」を演出。95年に勲三等旭日中綬章を受けている。

 00年に米アカデミー賞特別名誉賞、06年にはベルリン国際映画祭の名誉金熊賞を受賞。完成したばかりの最後の作品「残像」は来年、日本での公開が予定されている。(高野弦=ベルリン、編集委員・石飛徳樹)

◆「世界の思想に一石」

 映画評論家の佐藤忠男さんは「スターリン批判の直後、社会主義イデオロギーに人間的な立場から疑問を投げかける映画をつくり、世界の思想状況に一石を投じた。社会主義の痛烈な批判によって映画作りを禁止されるまで政府と対立したが、弾圧にも妥協せずに信念を貫き、彼が映画をつくれるかということが国民的関心となった。ポーランドの社会主義からの脱却に果たした役割は大きかったと思う。一貫して格調高く、政治や人間というものを真面目に考え、きちんと描き抜くという正統的な作家だった」と話した。

◆◆政治を撮り続けた原点とは アンジェイ・ワイダ監督死去

朝日新聞編集委員・石飛徳樹

20161011日朝日新聞

 9日に亡くなったポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督。彼はデビュー時から亡くなる直前まで、祖国ポーランドの政治状況とダイレクトに結びついた映画を作り続けた。

アンジェイ・ワイダ監督死去 「灰とダイヤモンド」

 そしてそれは芸術家としては珍しいことに、政治体制の批判ばかりではない。1981年の「鉄の男」では、自主管理労組「連帯」の勝利を高らかにうたいあげ、カンヌ国際映画祭のパルムドールを獲得した。これほど一貫して政治的な映画監督はめったにいない。

 彼の代表作と言えば、大抵の人は、ドイツとソ連の侵略と闘う祖国の若者を描いた「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」という初期の「抵抗3部作」か社会主義政権への懐疑を主題にした「大理石の男」を挙げるだろう。

 しかし、私にとっては2007年に発表された「カティンの森」の衝撃に勝るものはない。第2次世界大戦下でソ連が行ったポーランド人将校の大量虐殺を描いており、ワイダ監督の念願の作品だったという。彼の父親が、このカティンの森で犠牲になっていたからだ。

 ラストシーン。ポーランドの将校たちが次々に倒れていくさまを静かに映し出した後、真っ黒の画面にエンドタイトルがずっと無音で流れていく。私は映画館が明るくなっても席を立つことが出来なかった。ワイダ監督がなぜ政治をダイレクトに扱ってきたか。その答えが「カティンの森」にはあるように思えた。

 80代になっても、政治へのコミットメントを原動力にした創作意欲は衰えることを知らなかった。13年には、「連帯」のレフ・ワレサ委員長(後に大統領)を主人公にした「ワレサ 連帯の男」のメガホンを取った。

 90歳になった今年も新作「残像」(原題)を撮り、先月のカナダ・トロント国際映画祭でお披露目されたばかりだった。第2次大戦後、社会主義政権の弾圧と闘った画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキの物語。この最後の作品は来年、日本での公開が予定されている。(編集委員・石飛徳樹)

◆◆(天声人語)ワイダ監督が死去

20161012日朝日新聞

 主人公の青年がウォッカの入ったいくつものグラスに、火をつけていく。一つひとつを第2次大戦中に命を落とした仲間に例えて。しかし青年の戦いは終わっていない。抵抗組織の一員として共産党幹部を暗殺しなければならないポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ氏の「灰とダイヤモンド」だ。時代に翻弄(ほんろう)されながら死へ向かう青年の姿は悲惨でもあり、英雄的でもある。共産主義政権下で検閲を受けながらも、政治性の強い作品を撮り続けた巨匠が、90年の生涯を閉じた共産圏の「鉄のカーテン」のなかで何が起きているのか、スクリーンを通して知らせた。「大理石の男」には、社会主義への懐疑があった。「鉄の男」は政府に抵抗する労働組合の勝利を描いた問題は検閲を容認するかどうかではなく、「検閲そのものを無効にしてしまうような映画を作ることなのだ!」とワイダ氏は著書で述べた。検閲は担当官が理解でき想像できる範囲にとどまり、本当の独創には及ばないと。抵抗の芸術家としての重い言葉だ制約や緊張が芸術を鍛えた例の一つであろう。検閲があるがゆえに観客が映画の細かいところを読み取ろうとしてくれたと、受け止めた。西側の評価が、創作の励みになった分割や占領、共産主義の圧政に苦しむ祖国を思い続けた。晩年の仕事には、旧ソ連秘密警察がポーランド人捕虜を銃殺し、父の命をも奪った「カチンの森事件」を選んだ。国家の暴力に向き合う人間を描き続けた生涯だった。

◆◆アンジェイ・ワイダ監督を悼む 祖国への思い、鋭く温かく 大竹洋子さん

20161012日朝日新聞

「大理石の男」

 ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督が9日死去した。1980年に「大理石の男」を公開して以来、数多くの監督作を上映してきた東京・岩波ホールの前企画室長で、元東京国際女性映画祭ディレクターの大竹洋子さんが、90歳で逝ったワイダ監督の作品世界を振り返りつつ、その厳しくも温かい人柄をしのんだ。

    ◇

 1980年夏、「大理石の男」(77年)のキャンペーンでアンジェイ・ワイダ監督とクリスティナ夫人(舞台美術家)が来日した。ワイダさんの来日は70年の大阪万博が最初で、それ以来だという。

 期待と畏(おそ)れで待ち受けていた私たちに、ワイダさんはにこりともしなかった。鋭いまなざしが恐ろしくて、「こんにちは、ワイダさん」という覚えたてのポーランド語を発することもできなかった。

 すぐに行われた記者会見ではさらに厳しかった。グダニスク造船所で大ストライキが起き、「連帯」が生まれる直前の予断を許さない祖国ポーランドが胸から離れなかったのであろう。

 あれから35年余りが経ち、私たちはまるで家族のようになった。ワイダさんの家はワルシャワにあるが、旧都クラクフに滞在する日も多い。ナチスドイツはワルシャワを破壊したあと、この美しいクラクフに占領本部をおいた。

 87年に京都賞を受けたワイダさんは賞金4500万円を基金として、クラクフに日本美術館を設立したいと提唱し、高野悦子さん(故人)を先頭に募金活動が始まった。多くの日本人に日本とポーランド政府の協力も得て、日本美術技術博物館(愛称Manggha)が誕生したのは94年11月のことだった。

 ワイダさんの父上は騎兵隊の将校で戦場に赴いていた。母上と息子たちが、カティンですでに殺されていた帰らぬ父を待ち続けたのも、ドイツの友好国日本の美術展が開かれ、10代のワイダ少年が初めて見る浮世絵に衝撃を受けて、映画監督への道を歩み出したのも、ここクラクフだった。

 ワイダさんは、常にポーランド人のために映画を撮っていた。政治的作品も文芸作品も、ポーランドという国の歴史の流れの中にあった。決して外国人に向けて作られたものではない。しかし、それゆえに世界の人々に感銘を与えることになった。このぶれることのない姿勢を私は心から尊敬する。

 東京国際女性映画祭にも優しかった。「カティンの森」(2007年)は女性が主役だから、まず女性映画祭で上映してから岩波ホールで公開するようにと、ワイダさんは書き送ってくれた。それで日本における「カティンの森」の初上映、という栄誉を私は担ったのである。

 99年、完成したばかりの「パン・タデウシュ物語」を見ようとクラクフを訪ねた。19世紀ポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィチの国民的文学を原作にした作品だ。当時のローマ法王はクラクフ近郊出身のヨハネ・パウロ2世だった。バチカンでこれを見終わった法王は「ミツキェヴィチさんがどんなにお喜びになるでしょう」と言われた。ワイダさんには一番うれしい言葉だった。

 14年12月にManggha創立20周年記念のセレモニーでお会いしたのが最後になった。誰もが素晴らしいと称賛する「ポヴィドキ」(残像の意)という作品を残してワイダさんは逝ってしまった。

 名優ズビグニェフ・ツィブルスキ亡きあとのワイダさんお気に入りの俳優はダニエル・オルブリフスキだが、彼は訃報(ふほう)に接して「アンジェイはミツキェヴィチに会えてさぞうれしいだろう」と言ったそうである。私も同じことを考えていた。そしてツィブルスキにも会えるのだと。そんなことを思って気を紛らわせながら、この取り返しのつかない悲しみに私は耐えている。

◆◆巨匠ワイダ監督の遺産、日本への愛 設立の博物館、文化伝える拠点に ポーランド

朝日新聞17.02.08

 昨年10月に亡くなったポーランド映画の巨匠アンジェイ・ワイダ監督は、日本文化への深い理解で知られた。生前、古都クラクフに残した施設はいま、同国最大規模の日本語学校となり、両国の懸け橋となる人々を送り出している。

 平日の午後、ビスワ川のほとりにある3階建ての校舎で、日本語の授業が始まった。「『馬』を書く時は、点の向きに注意してくださいね」。教師歴20年のヨアンナ・ボスルカさん(43)の声が響く。

 生徒の女子大学生カロリーナ・ミレックさん(19)は将来、日本語の通訳として働くのが夢だ。「(人気漫画)NARUTOを生んだ国に行ってみたい」

 ワイダ監督が資金の一部を出して、日本美術技術博物館「マンガ」を設立したのは1994年。建設費は、ワイダ氏が「灰とダイヤモンド」など、映画の制作にあたって描いた「絵コンテ」と引き換えにして、日本で寄付を集めた。

 ポーランドの日本美術愛好家フェリクス・ヤシェンスキが1900年前後に収集した浮世絵など約7千点を展示する。「マンガ」は、葛飾北斎の代表作の一つ「北斎漫画」にちなむヤシェンスキのペンネーム。直後に日本語コースが開設され、校舎も建てられた。

 「当初は、何人が来るのか不安だった」(ボグナ・ジェフチャールック・マイ館長)という博物館には、いま年間10万人が訪れる。5~6人の生徒しか集まらなかった日本語コースには、現在100人ほどが籍を置く。

 トマシュ・ミクラシェフスキさん(37)は大学生だった98年から2年間、ここで学んだ。共産政権時代、上映が許されていた数少ない西側の映画が「侍映画」。日本文化に憧れ、博物館に浮世絵を見に来て、学校の存在を知った。

 大学卒業後、政府に就職し、2007年から8年間、東京のポーランド大使館で経済担当官として働いた。日本企業の誘致やポーランド製品の輸出を促進する仕事にかかわり、相談にのった企業は約400社にのぼる。13年に安倍晋三首相がポーランドを訪問した際には、日本の農産品を売り込むイベントの裏方も務めた。昨年就航した成田―ワルシャワの直行便の開設にもたずさわった。

 日本人の妻とは、東京勤務の時代に知り合った。「日本語学校がなければ、大使館で仕事をすることもなかった。ワイダ監督に感謝しています」

 ワイダ氏が日本文化にひかれたきっかけは、まだポーランドがナチスドイツの占領下にあった18歳の時だ。展覧会で浮世絵を目にして、その美しさに魅せられた。ボグナ館長は、「日本芸術の詳細な描写が彼の心にしみこんだ」という。

 「絵だけではない。日本で舞台を演出したとき、ハエの飛ぶ音を出してくれと頼んだら、飛ぶ方向が水平か垂直かを担当者に聞かれて驚嘆していましたよ」

◆茶道教室も

 博物館は、茶道や習字などの文化を伝える拠点にもなっている。

 着物姿がよく似合うアンナ・ビェラックさん(32)は「宗州」という「茶名」を持つ。大学時代に博物館であった裏千家のイベントで、着物の美しさに魅せられた。それが縁で茶道を始め、奨学金をもらって京都で1年間修業した。6年ほど前から、ここで茶道を教える。

 「人と人との和。そして一期一会の心。日本のおもてなし文化を知るにあたって、茶道ほど良いものはありません」

 ワイダ氏とは、個人的によく話した。博物館に来るたび、イベントの内容に口を出した。話していると、日本への愛が「病気のようにうつった」という。

 「もう彼がここに来ることはない。でも、私たちはこれからもずっと、この場所と日本文化を愛し続けるでしょう」

 (クラクフ〈ポーランド南部〉=高野弦)

◆キーワード

 <アンジェイ・ワイダ氏> 祖国ポーランドの苦難の現代史を一貫して描いてきた映画監督。1926年、ポーランド北東部の町スワルキに生まれ、第2次世界大戦中には対独レジスタンス運動に参加した。レジスタンスの体験を基にした長編監督デビュー作「世代」(54年)を始め、「地下水道」(56年)、「灰とダイヤモンド」(58年)などで国際的な評価を得た。

 権力と闘う労働者を描いた「鉄の男」(81年)で、カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを受賞。89年、歌舞伎役者の坂東玉三郎を主演にドストエフスキーの「白痴」を下敷きにした舞台「ナスターシャ」を演出。95年に日本政府から勲三等旭日中綬章を受けた。昨年10月、90歳で死去。

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◆◆ワイダ監督作品紹介

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◆◆世代

19811219()公開

’40年代のドイツ軍占領下のポーランドを舞台に反ナチ運動に青春を捧げた若者たちの苦悩を描く。「約束の土地」のアンジェイ・ワイダ監督のデビュー作。原作・脚色はボブダン・チェシュコ、撮影はイェジー・リップマン、音楽はアンジェイ・マルコフスキー、美術はロマン・マンが各々担当。出演はタデウシュ・ウォムニツキ、ウルシュラ・モドジニスカ、タデウシュ・ヤンチャル、ヤヌーシュ・パルシュキェヴィッチ、リシャルト・コタス、ロマン・ポランスキーなど。

◆ストーリー

ドイツ軍占領下のポーランド。ワルシャワ郊外のプディという町に母と暮らすスタフ(タデウシュ・ウォムニツキ)は、ドイツ軍の貨物列車から石炭を盗むという仕事を仲間の青年たちとやっていた。ある晩、居酒屋で木工所で働くセクワ(ヤヌーシュ・パルシュキェヴィッチ)という職人に会い、彼の見習工として、工場に雇ってもらうことになる。そこではヤショ(タデウシュ・ヤンチャル)という青年が働いていた。仕事柄、夜間のカトリック系の学校に通うことになったスタフは、その帰り道、抵抗運動勧誘のアジ演説をするドロタ(ウルシュラ・モドジニスカ)という少女を知り惹きつけられる。組織に入ったスタフは、ヤショも誘うが彼は応じない。数日後、製材所に材木を取りに行ったスタフが、理由もなくドイツ兵に殴られ、そのことに怒りを感じたヤショらは、復讐を企てる。以前にスタフが見つけたピストルを手にしたヤショらは武器を使って敵をやっつけた。その行動をドロタらは非組織的だと非難し、ヤショはスタフらから離れていった。折りしもワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たち一掃を目的とする攻撃が開始されるが、ポーランド人たちは、ゲットーの戦闘を他人事のように見つめていた。しかし、ゲットー絶滅を防ごうと出かけたセクワたちを救出しようと、トラックに乗り込んだスタフの班に、自発的にヤショが参加し、セクワは救出されるが、ヤショは壮絶な死をとげる。翌朝、スタフはドロタの家に泊まるが、彼女はやがてゲシュタポに捕えられてしまう。スタフは班のキャップとなって抵抗運動を続けるのだった。

◆◆地下水道

1958110日公開

第二次大戦下のポーランドにおける対独ゲリラ戦の一挿話を描いた一篇。イェジー・ステファン・スタウィニュスキーの原作『下水渠』をスタウィンスキ自ら脚色、三十一歳の若手アンジェイ・ワイダが監督した。撮影はイェジー・リップマン、音楽はヤン・クレンズ。主演はタデウシュ・ヤンチャル、テレサ・イゼウスカ、ヴィンチェスワフ・グリンスキー、そのほかポーランド国立映画アカデミーの学生たち。一九五七年度カンヌ国際映画祭・審査員特別賞、一九五七年度モスクワ世界青年平和友好映画祭青年監督賞をそれぞれ受賞。

◆ストーリー

一九四四年九月末、爆撃と戦火で廃墟化したワルシャワの街。過去数年つづけられてきたパルチザン部隊による地下運動も悲惨な最終段階に達した。ザドラの率いるパルチザン中隊もドイツ軍に囲まれ、もはや死を待つばかり。そこで彼らは地下水道を通り市の中央部に出て再び活動をつづけることにした。夜になって隊員は地下水道に入った。中は広いが汚水が五十センチから一メートル半にも達している地下水道は暗黒と悪臭の無気味な世界である。隊員はやがて離ればなれになり、ある者は発狂し、またある者は耐え切れずマンホールから表に出てはドイツ軍に発見され射殺された。地下水道へ入る日、負傷したコラブ(タデウシュ・ヤンチャル)と、彼を助けて道案内してきたデイジー(テレサ・イゼウスカ)の二人も、やっと出口を見つけたと思ったのも、そこは河へ注ぐ通路と知って、落胆の余りその場に坐りこんでしまった。そのころ、先を行くザドラと二人の隊員は遂に目的の出口を見つけた。が出口には頑丈な鉄柵が張られ、爆薬が仕かけられていた。一人の隊員の犠牲で爆薬が破裂、出口は開かれた。ザドラと残った一人の従兵は地上へ出た。がこのときザドラは他の隊員がついてこないのを不審に思い、従兵に尋ねた。従兵はザドラが隊員を連れてくるようにとの命に背き、彼らは後から来ると嘘を言い、自分だけが助かりたいばかりにザドラについてきたのだ。これを知ったザドラは従兵を射殺。そして彼はこの安全な出ロまで地下水道をさまよう隊員を導くため再びマンホールに身をひそませた。

◆◆灰とダイヤモンド

195977日公開

「地下水道」のアンジェイ・ワイダが監督したポーランド映画。ドイツ降服直後のポーランドを背景とする、ロンドン派の抵抗組織に属した一人の青年の物語である。イェジー・アンジェイエフスキーの原作を、アンジェイエフスキー自身とワイダが脚色にあたり、撮影はイェジー・ウォイチック。音楽はフィリップ・ノワック指揮のウロツラウ放送五重奏団。出演するのはズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジイジェフスカ、アダム・パウリコフスキー、ボグミール・コビェラ、スタニスラフ・ミルスキー、ズビグニェフ・スコフロニュスキー等。

◆ストーリー

一九四五年五月八日、ポーランドのワルシャワ。町のはずれの教会のそばに、二人の男が待ち伏せていた。党地区委員長シュツーカを殺すためだ。見張りが車の接近を叫んだ。銃撃。車の男達は惨殺された。シュツーカの車は遅れて着いた。《こんな殺人がいつまで続くのか》通りがかりの労働者達は彼に詰問した。--夕方、街の放送塔がドイツの降伏を告げた。殺人者達は落ち合う。見張りの男は町長秘書だった。町長主催の戦勝祝賀会がホテルである。二人の男、アンドルゼイ(アダム・パウリコフスキー)と若いマチェック(ズビグニエフ・チブルスキー)はそのホテルへ行く。彼等はロンドン派の抵抗組織へ入り、独軍と戦った。解放後は町長やワーガ少佐の指令で反党地下運動に従う。シュツーカが部下とホテルに現れ、マチェックは始めて誤殺に気づく。隣りに部屋をとった。誤殺した男の許婚が男と寝るのを見た。バーに美しい給仕クリスチナ(エヴァ・クジイジェフスカ)がいた。アンドルゼイは少佐に呼ばれ、暗殺の強行を命ぜられる。ソヴェトから帰国早々のシュツーカは息子が心配だった。死んだ妻の姉を訪ねる。少佐の住む家の大佐夫人だ。引取られた息子はワルシャワ蜂起以後、生死不明だった。ホールで歌が始り、誰もいないバーでマチェックとアンドルゼイは酒に火をつけ、死んだ仲間をいたんだ。アンドルゼイは朝四時に任務でワルシャワへ発つ。《それまでに殺す。連れてってくれ》マチェックは頼んだ。彼はクリスチナにいう、《今晩十時、部屋で待つ》相手にされぬ。町長秘書は酒飲みの老新聞人にささやかれた、《町長が新政府の大臣になる》出世の機会だ。盃を重ねた。宴会場には町長も到着した。マチェックの部屋の戸が叩かれた。クリスチナだ。《貴方なら後腐れがないから来たの》女は話す、両親は戦争中死んだと。町長秘書は泥酔し、老記者を連れ宴会場へ押入った。マチェックは女と時を過す。愛し合っていた。男はいつも離さぬ黒眼鏡のことを話す。ワルシャワの地下水道にいたのだ。二人は外へ出る。雨が降りだし、教会の廃墟に雨宿りした。女は墓銘を読む。《……君は知らぬ、燃え尽きた灰の底に、ダイヤモンドがひそむことを……》ノルウィドの詩だ。普通の生活がしたい!死体置場には今日殺した二人の死体があった--。保安隊が反党派の残党を捕えた。その中の不敵な少年はシュツーカの息子だった。マチェックはホテルの裏で女と別れるが、同志を見かけ、思わず便所へ隠れた。《裏切って女と逃げるのか》アンドルゼイはいう《そんなら俺がやる》--マチェックは引受けてしまう。宴会場では町長秘書が消火器の液をまき散らし町長から見放された。マチェックは息子に会いに行くシュツーカの後をつける。ふりむきざま、乱射した。相手が抱きついてきた時、祝賀花火が一斉に揚った。--マチェックは荷物をまとめ、クリスチナに別れを告げた。《行ってしまうの?》夜明けだった。宴会の流れはまだ続いている。マチェックは同志の出発を物陰で見た。アンドルゼイからも見放された町長秘書が、彼にすがろうとする。逃げるマチェックは保安隊にぶつかった。追われ、撃たれた。ホテルでは町長や伯爵や大佐夫人達が亡霊のようにポロネーズを踊っていた。クリスチナは立ちつくしている、涙を流して。マチェックはいつか町はずれのゴミ捨場を獣のようにうめき、笑いながら、よろめきはっていた。ボロ屑の中で、最後のケイレンがくる。汽車の響きが遠ざかった。

◆◆大理石の男

198096()公開

スターリニズム全盛の時代と現代のポーランド社会をつなぎながら、この国が乗り越えてきた戦後と、その時代に生きたある煉瓦工の悲劇をドキュメンタリーを作る過程で描く。製作はバルバラ・ぺツ・シレシツカ、監督は「すべて売り物」のアンジェイ・ワイダ、脚本はアレクサンドル・シチボル・リルスキ、撮影はエドワルド・クウォシンスキ、音楽はアンジェイ・コジンスキ、美術はアラン・スタルスキが各々担当。出演はイェジー・ラジヴィオヴィッチ、ミハウ・タルコフスキ、クリスティナ・ザコヴァトヴィッチ、ピョートル・チェシラク、ヴィエスラフ・ヴイチク、クリスティナ・ヤンダ、タデウシュ・ウォムニツキ、ヤツェク・ウォムニツキ、レオナルド・ザヨンチコフスキ、ズジスワフ・コジェンなど。

◆ストーリー

1976年のポーランド。映画大学の女子学生アグニェシカ(クリスティナ・ヤンダ)は、彼女の第1回ドキュメンタリー作品としてテレビ局で仕事をすることになった。彼女は、50年代の労働英雄の姿を描くことで、その年代の人々や周囲の状況を伝えようと思いあたり、主人公の調査のため博物館に行った。そして、その倉庫の隅で、かつて有名だった煉瓦積みエマテウシュ・ビルクート(イェジー・ラジヴィオヴィッチ)の彫像が放置されているのを発見した。ビルクートは、戦後のポーランドで最初に建設された大工業プロジェクトの建設に従事した労働者だったが、現在の消息は不明だった。そして、生き証人とのインタビューを通じて、彼女は、一人の労働者を浮き彫りにしてゆく。映画監督ブルスキ(タデウシュ・ウォムニツキ)は、当時統一労働者党員が組織したデモンストレーションでビルクートは煉瓦積みの新記録を打ち立てたと語った。マスコミは彼にとびつき、彼を描いた映画で、ブルスキも監督として新しい道を歩むことになったのだ。次に会ったミハラック(ピョートル・チェシラク)は、もと保安隊の将校で今はストリップ劇団の座長をしているが、彼はビルクートの経歴を詳しく知っていた。ビルクートは煉瓦積みのチームの班長だったが、そのデモンストレーションに参加した時、熱く焼けた煉瓦を渡された。それはサボタージュの意図だったのだが、同僚の一人が犯人として疑われた時、ビルクートは彼をかばい、共に刑務所に送られることになり、ビルクートは職も名誉も失つてしまったのだ。出獄したビルクートは、入獄中に別れた妻を探していたということだが、めぐり逢えたのかは定かでなかった。ビルクートの前妻がザコパネにいるらしいということからその町を訪ねたアグニェシカは、彼女に会った。そして、彼女の悲惨な生活と夫との再会の話に胸うたれた。しかし、主人公がみつからなくては映画は完成できないだろうということでテレビ局が、彼女の企画を没にしてしまった。困ったアグニェシカは、父(ズジスワフ・コジェン)に相談する。父は、彼女に平凡な真実こそが何よりも大切であること、映画が完成するということよりも、彼女が追求したそのものが真実だということを説明する。彼女は、ビルクートの息子がグダニスクの造船所で働いていることを知り、彼を訪ねた。ビルクートはすでにこの世になく、それ以上のことは、息子の口から聞き出せなかった。しかし、彼女はあきらめない。彼女はビルクートの息子と共にワルシャワに向かった。

◆◆鉄の男

1981年公開

50年代に労働英雄として祭りあげられた男の後半生を追う映画大学の女子学生の行動を描いた「大理石の男」(77)の続篇で、ポーランドの自主管理労組連帯の社会的・政治的位置についての考察を含んだ社会派映画。製作総指揮はバルバラ・ペツ・シレシツカ、監督は「世代」のアンジェイ・ワイダ、脚本はアレクサンドル・シチボル・リルスキ、撮影はエドワルド・クウォシンスキ、音楽はアンジェイ・コジンスキが各々但当。出演はイェジー・ラジヴィオヴィッチ、クリスティナ・ヤンダ、マリアン・オパニア、ヴェスワヴァ・コスマルスカ、イレナ・ビルスカなど。

◆ストーリー

19808月。ワルシャワ放送局のラジオ番組のニュース・リポーター、ヴィンケル(マリアン・オパニア)は、大規模なストライキが行なわれているグダニスクに派遣された。ストライキが行なわれている造船所にもぐり込み、指導者マチェック(イェジー・ラジヴィオヴィッチ)を失墜させるのが目的だ。マチェックとその周辺の人物たちの資料を公安警察から受け取ったヴィンケルは、マチェックの妻アグネシカ(クリスティナ・ヤンダ)に会うことを勧められた。彼女は、かつてマチェックの父で労働英雄ビルクート(ラジヴィオヴィッチ二役)のドキュメンタリーを撮り、それが縁でマチェックと結婚したのだが、労働者を支援したために今は拘置されたままだ。翌日グダニスク造船所の門の前で群衆に呼びかけているマチェックを発見したヴィンケルに声をかける者がいた。グダニスク放送局で会ったことのあるシデク(ボグスワフ・リンダ)で、彼はヴィンケルを局内の映写室に案内すると、70年の街頭デモのフィルムを見せ、マチェックについて語りはじめた。― 68年の学生蜂起から2年後のデモ、ビルクートの死を経て造船所の技師となるまで……。そして、マチェックの母やビルクートの同志だったフレヴィッチ夫人(イレナ・ビルスカ)、その娘アンナ(ヴェスワヴァ・コスマルスカ)などの証言でだんだんとビルクートの死にまつわる事実、マチェックの活動が明らかになってゆく。それにしたがって、ヴィンケルには、自分に負わされた任務に対する反撥が芽ばえていった。そして、いよいよ拘置所のアグネシカを訪ねる時がきた。彼女からすべての経過を聞いたヴィンケルはマチェックたちの側に立つことを決意した。マチェックに関するレポート提出を拒否しワルシャワ放送局を免職になるヴィンケル。折りから、この日、831日政労合意によるストライキ中止の協定調印が行なわれ、連帯委員長レフ・ワレサが会場の中を進む。かけつけるマチェックや釈放されたアグネシカらが見守る中、調印は終わった。次の瞬間、拍手が響き国歌が流れるのだった。

◆◆コルチャック先生

1991914()公開

ユダヤ人迫害の中で、子供たちを守ることにその生命を捧げた実在の人物の姿を描くヒューマン・ドラマ。製作はレギーナ・ツィグラー、ヤヌーシュ・モルゲンスターン、ダニエル・トスカン・デュ・プランティエ、監督は「悪霊」のアンジェイ・ワイダ、脚本はアグニエシュカ・ホランド、撮影はロビー・ミュラー、音楽をヴォイチェフ・キラールが担当。出演はヴォイツェフ・プショニャック、エヴァ・ダウコフスカほか。

◆ストーリー

ユダヤ人の小児科医、ヤヌーシュ・コルチャック(ヴォイツェフ・プショニャック)は、また孤児院の院長として子供たちを守り育てることに喜びを見出していた。しかし1940年、ナチスの侵攻により、ユダヤ人はポーランド人社会から切り離されゲットーに送られることになった。コルチャックの孤児院も例外ではなかったが、誇り高きコルチャックはユダヤを示す腕章をつけることを頑なに拒み、投獄さえ経験する。そんな過酷な日々にあっても彼は飢えた子供たちに食料を与えるために奔走し、そのためには手段も選べず、密輸業者からの献金も受け入れねばならなかった。ユダヤ人の強制収容所送りが始まった。コルチャックは友人の手助けで国外に脱出することもできたが、彼に子供たちを見棄てることなどできようはずがなかった。ダビデの星の旗を高く掲げながらトレブリンカ収容所行きの列車に乗り込んだコルチャックは、恐怖に打ち震える200人の子供たちを抱きかかえながら、共に死の道へ赴くことを選んだのだった。

◆◆カティンの森

200912月公開

巨匠アンジェイ・ワイダが、第2次世界大戦下、ソ連軍によりポーランド軍将校らが虐殺された実在の事件を映画化。戦争に引き裂かれた家族たちそれぞれの思いが痛切に胸に響く。

◆ストーリー

19399月、クラクフのアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)は娘を連れ、夫のアンジェイ大尉(アルトゥル・ジミイェフスキ)を探しに行く。一方、東から来た大将夫人(ダヌタ・ステンカ)はクラクフに向かう。アンジェイや仲間のイェジ(アンジェイ・ヒラ)たちは、ソ連軍の捕虜となっていた。アンジェイは、見たことすべてを手帳に書き留める決意をする。アンナはクラクフに戻ろうとするが、国境を越えられない。11月、アンジェイの父はドイツ軍の収容所に送られる。翌年初め、アンナと娘、アンナの義姉と娘は、ロシア人少佐の家に匿われていた。義姉親子は強制移住のため連れ去られるが、アンナたちは逃げ延びる。春、アンナと娘は義母のいるクラクフへ戻り、義父の死を知る。アンジェイはイェジから借りたセーターを着て、大将、ピョトル中尉らと別の収容所に移送される。19434月、ドイツは一時的に占領したソ連領カティンで、多数のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。犠牲者リストには大将、イェジの名前が記され、アンジェイの名前はなかった。大将夫人はドイツ総督府で夫の遺品を受け取り、ドイツによるカティンの記録映画を見る。19451月、クラクフはドイツから解放される。イェジはソ連が編成したポーランド軍の将校となり、アンナにリストの間違いを伝える。イェジは法医学研究所に行き、アンジェイの遺品をアンナに届けるよう頼む。イェジは大将夫人からカティンの嘘を聞き、自殺する。国内軍のパルチザンだったアンナの義姉の息子タデウシュは、父親がカティンで死んだことを隠すよう校長から説得されるが、拒否する。その帰り道、国内軍を侮辱するポスターを剥がした彼は警察に追われ、大将の娘エヴァと出会う。校長の妹はカティンで遺体の葬式を司った司祭を訪ね、兄ピョトルの遺品を受け取る。そして兄の墓碑にソ連の犯罪を示す言葉を刻み、秘密警察に狙われる。法医学研究所の助手グレタはアンナに、アンジェイの手帳を届ける。

◆◆ワレサ 連帯の男

201445()公開

「灰とダイヤモンド」「カティンの森」のアンジェイ・ワイダ監督作。東欧民主化の口火となった、ポーランドのグダンスクにおける共産圏初の自主管理労組「連帯」初代委員長レフ・ワレサの闘いを、当時の記録映像を織り交ぜながら描く。出演は「ソハの地下水道」のロベルト・ヴィェンツキェヴィチ、アグニェシュカ・グロホフスカ、『ナイトメア・シティ』のマリア・ロザリア・オマジオ。

◆ストーリー

1980年代初頭のポーランド、グダンスク。レーニン造船所で電気工として働くレフ・ワレサ(ロベルト・ヴィェンツキェヴィチ)の家に、イタリアから女性ジャーナリスト、オリアナ・ファラチ(マリア・ロザリア・オマジオ)が取材に訪れる。ワレサは、197012月の食料暴動の悲劇を語り始める……。物価高騰の中、労働者の抗議行動を政府が武力鎮圧。ワレサは両者に冷静になることを叫び、検挙された際、公安局に協力するという誓約書に署名を強いられる。ワレサと妻ダヌタ(アグニェシュカ・グロホフスカ)は、アパートで質素な生活を送っていたが、この事件以降、歴史的転変期の真只中に深く関わり、ワレサは次第に類まれなカリスマ性と政治的感性を発揮していく。ワレサが乳母車に非合法ビラを隠していたため、生後数か月の娘と一緒に逮捕される一方で、ダヌタは家宅捜査を行う公安局職員に対して果敢に立ち向かう。1970年の事件から9回目の記念日、造船所の正門前でワレサは演説しながらリーダーとしての使命を自覚する。19808月、彼はレーニン造船所のストライキ指導部のトップに立ち、「連帯」委員長として自由と権利のために戦う反体制の象徴になる。同月31日、共産党政府と労働者の間で、社会主義圏では画期的な政労合意が調印された。しかし198112月、戒厳令布告直後、ワレサは住宅から連れ去られ、1年間の軟禁生活を強いられる。ワレサは自由を奪われ、活動家の仲間との接触を遮断される中、政府への協力を求められるが拒み続けるのだった。198211月、ソ連のブレジネフ書記長が死去。その直後、ワレサは軟禁から解放され、グダンスクで民衆の熱狂的な歓迎を受け、再び運動に身を投じていく。198310月、ノーベル平和賞を受賞、出国を許されないワレサに代わり、ダヌタがノルウェイで行われた授賞式に出席、スピーチを行った。1989年、政権側と反体制である「連帯」、カトリック教会が参加した「円卓会議」で、ワレサたちは勝利する。1989119日、東西ベルリンの壁が崩壊。その6日後、ワレサはアメリカ・ワシントンの米国議会に招かれ、スピーチを行う。彼は「我々民衆は……」と始め、「今度は別の人々が壁を壊すでしょう。自由は人間の権利だからです」という言葉で結んだ。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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