山田洋次監督の映画の世界、寅さんと渥美清

◆◆山田洋次監督の映画の世界・渥美清と寅さん

憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

【このページの目次】

◆山田洋次・渥美清リンク集

◆山田和夫=渥美清・山田洋次が語ってきたこと

◆山田洋次・吉永小百合など=「母と暮らせば」語る

◆インテリ嫌いの寅だけど=寅さんと教養を考える、山田洋次インタビュー(朝日新聞)

◆山田洋次の経歴と「人生の贈り物」インタビュー(朝日新聞)

◆「男はつらいよ」データ集

◆寅さんの名セリフ

───────────────────────

🔵山田洋次・渥美清リンク集

───────────────────────

🔵山田洋次の青春ー映画の夢ー「キネマの神様」を取り終えて90m

https://drive.google.com/file/d/1q7OvF_PBdQx9XMMCg5bEb5KJtdpMkeG-/view?usp=drivesdk

🔷🔷寅は変わらずここに 映画「男はつらいよ」50周年記念 みんなの寅さん展

201986日朝日新聞

最多5作品に登場したリリー(浅丘ルリ子)と寅さん

第15作「寅次郎相合い傘」の台本も展示される。山田監督の書き込みがあり、四つ葉のクローバーが挟まれている

啖呵売りの道具

 1969年の公開から50年となる人気映画「男はつらいよ」シリーズ。今年12月には22年ぶりに新作となる第50作「男はつらいよ お帰り 寅さん」が公開されます。これを記念し、朝日新聞社は東京・日本橋の三越本店で、撮影時の小道具や台本などを展示し、これまでの軌跡をたどる「みんなの寅さん展」を7日から19日まで開催します。展覧会の詳細を紹介するとともに、原作者の山田洋次監督(87)に「なぜ、いま寅さんなのか」を聞きました。

◆自由ではた迷惑、そんな人間も認めて 山田洋次監督インタビュー

 ――50作目の「男はつらいよ」が今年の暮れに公開されます。なぜ撮ろうと思ったのでしょう。

 これまでの49作のフィルムをつなげて回すと3日分くらいの長さになります。それを1本の作品に編集したらどうなるだろう、と前から考えていました。

 どういうコンセプトでまとめればいいのかということですが、(寅さんの甥〈おい〉の)満男(吉岡秀隆)と、恋人だった泉(後藤久美子)が再会するという柱を立てれば物語が展開するのではないかと思いました。満男は結婚して子どもがいるが、奥さんが亡くなって独身。泉も結婚して海外で暮らしている。そんな2人が出会うラブロマンスにしてみては、と。

 ――制作を決めたのはいつごろですか。

 昨年です。いま、できあがった作品を見ると不思議な映画になりました。それぞれの俳優の50年分のドキュメンタリーを見ているようなのです。そこに全然年をとらない寅、幻想的な寅が現れる。いままでたくさん映画を作ってきましたが、こんな不思議な思いは初めてです。

 ――主人公の寅さん(車寅次郎)を演じた渥美清さんは1996年に亡くなっています。代役は考えませんでしたか。

 そんなことまったく考えられません。渥美さんの代わりはありえない。

 ――若い人に映画を通じてどんなメッセージを伝えたいですか。

 寅のようにはみ出した人間、人口統計にも入るか入らないか分からないような人間を容認すること、考え方も行動も自由でめちゃくちゃで、はた迷惑な人間も排除してはいけないということです。

 寅は、阪神淡路大震災のボランティアに参加したことがあって(48作「寅次郎紅の花」)、ああいう非常事態では役に立つ存在になる。彼が、組織にとらわれない自由な人間だからなんです。

 いまは非常に窮屈な時代です。組織であれ地域であれ、ゆとりがなくなりました。「しょうがないな。目をつぶっておくよ」と言う人がいなくなった。寅は余剰人員そのものかもしれません。ですが、「困ったやつだな」と言いながらそういう人間を認めるという寛容さが今の時代には大事なんです。

 ――寅さんは誰にでも声を掛けます。

 悲しい顔をしている人を見かけると、「何か困ったことがあるのかい」と尋ねる。誰とでもすぐ友だちになれる、誰とでも会話を交わすということがいまの人はできなくなってきた。映画館で隣に座った人がうるさかったら「静かにして下さい」と直接言えばいいんだけど、支配人のところに言って告げる。何かあると警察に訴える。ネットに書き込む。そんな社会になっているようです。

 ――寅さんの言動は、ときに哲学者のようです。

 いまの若い人は、何か質問されると、答えが正しいかどうかを検討してから答える。「正解です」というような言い方をよく聞く。それではAI(人工知能)と変わらないのではないでしょうか。正解かどうかではなく、自分の感じ方や心を通して答えるのが寅なんです。(聞き手 編集委員・小泉信一)

◆燃えるような恋をしろ

 「みんなの寅さん展」では、「男はつらいよ」の魅力を、印象に残るセリフや名シーンの映像、数多くの撮影小道具などで振り返る。

 映画の見どころは、「フーテンの寅さん」こと車寅次郎の自由な旅と、マドンナとの恋。浅丘ルリ子、栗原小巻、吉永小百合、竹下景子……、日本の映画史を彩る名女優42人が演じたマドンナを紹介しつつ、恋の名シーンを上映。「『男はつらいよ』の幸福論」の著作がある精神科医・名越康文さんによる「恋と心に効く名セリフ」解説コーナーもある。

◆風の吹くまま、気の向くまま

 縁日などで露店を出して物を売る、テキ屋の寅さん。気ままなフーテン暮らしの旅先などで、魅力的なマドンナに出会っては恋に落ち、浮かれて一騒動を起こすのがおなじみのパターンだ。

 全49作にわたって故・渥美清さんが主演し、同一俳優が演じた最長の映画シリーズとしてギネス世界記録にも認定された。

 展覧会では、格子柄の背広や腹巻き、トランクなどの衣装、小道具一式が展示される。展示品とは別に、帽子やトランクを持って、撮影できるフォトスポットも。寅さんになりきる楽しみを味わうことができる。

◆私、生まれも育ちも葛飾柴又

 寅さんの故郷は、今も下町情緒が色濃く漂う、東京都葛飾区の柴又。帝釈天参道の老舗団子屋で待つ、母親違いの妹さくらと、おいちゃん、おばちゃんのもとに旅から帰ってくるところから物語は始まる。めったに帰ってこない寅次郎を皆は温かく迎えるものの、おっちょこちょいでケンカっぱやい寅さんは、ささいなことでケンカをしては居づらくなり、また旅に出ていく。

 会場では、団子屋の居間セットを忠実に再現。当時高級品だったメロンの切り分けをめぐり大げんかになる有名な「メロン騒動」の映像などを見ながら、今にも寅さんが現れそうな空間を楽しめる。

◆けっこう毛だらけ、猫灰だらけ

 名優・渥美清さんの魅力がさえる、啖呵売(たんかばい)にも注目だ。「四谷、赤坂、麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋なねえちゃん立ちションベン」など韻を踏んだかけ声や話術で物を売る。渥美さんは少年時代に憧れたテキ屋の売り様を生き生きと語っていた。山田監督はその姿を見て、「車寅次郎」のイメージを膨らませたという。

 会場では、十三代目片岡仁左衛門演じる人間国宝の陶芸家に、寅さんが売りつけようとしたがらくたの古美術品などの小道具を映像・セリフパネルと共に展示。現代ではなかなか聞けない口跡の鮮やかさ、言葉遊びの面白さを堪能することができる。あすから、東京・日本橋三越。

◆◆2016年渥美清・寅さん没20年

★★渥美清、心の旅路(渥美清がつくっていた俳句。そこにもみられた渥美清が考えていた軌跡を追う)88m

★★渥美清の寅さん誕生秘話58m

★★ドキュメンタリードラマ・若き日の渥美清の夜明け前58m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v12586959588ws87X3

★★ドキュメント・渥美清=寅さんと格闘したその素顔

(前編)

(後編)

【赤旗日曜版18.08.21

【渥美清・寅さんと俳句】

 日本列島を移動する人の波。今年の夏もまた、お盆休みの帰省ラッシュが始まっています。家族連れで、あるいは1人で。ふるさとに向かう表情は柔らかい望郷。その思いが一貫して流れていたのが映画「男はつらいよ」のシリーズでした。この夏は寅さん役を演じた渥美清さんが亡くなってから20年。各メディアが特集を組み、改めて俳優渥美清の人間像や寅さんの魅力に光が当てられています全国を旅しながら、切ない出会いと別れをくり返していく寅。そこには常に、人と人との結びつき、人と地域のつながりが細やかに描かれていました。山田洋次監督自身、それを全48作のモチーフにしてきたと語っています特集の一つに渥美さんがつくった俳句をもとにして彼の人生を振り返る番組がありました。風天の俳号で詠んだ270首もの句。「麦といっしょに首ふって歌唄う」「お遍路が一列に行く虹の中」「赤とんぼじっとしたまま明日どうする」人や生きるものへの情愛、心に残った風景が浮かび上がるような句。渥美さん=寅さんが大切にしてきたもの。山田監督は「美しい文化は美しい社会からのみ生まれる」といいますこの20年、日本は大都市圏への集中が進み、地方はますますさびれています。人間関係も希薄になり、格差や貧困をひろげる社会は憎しみや差別を助長しています。今もみんなの心のなかで旅路をつづけている寅さんなら、きっとどこかで誰かに語りかけているはずです。「故郷ってやつはよ」と。

16/8/12赤旗きょうの潮流)

★★BS1スペシャル 20151115 『戦争を継ぐ~山田洋次・84歳の挑戦~』

100m

★戦争を継ぐ~山田洋次・84歳の挑戦~前編

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v1258702087bdDJfmB

★戦争を継ぐ~山田洋次・84歳の挑戦~後編(10m後から

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v125870824MyqDJweG

★★山田洋次インタビュー=寅さん・故郷・家族・監督への道

90m

★★われらのヒーロー伝説渥美清100m

または

http://video.fc2.com/content/20150917GAw7gDFq/

★★渥美清の生涯と寅さん130m

または

★★「泣いてたまるか」36回=「男はつらいよ」の原点となったフジテレビの連続ドラマ(山田洋次など監督)各回48m

9tsuで「泣いてたまるか」で検索のこと

http://video.9tsu.com/

🔵ドラマ・少年寅次郎総集編(脚本・山田洋次)90m

https://drive.google.com/file/d/1W3jPIYVnt2LYq1MIUk_DHU5NJQp7Kec6/view?usp=drivesdk

🔵ドラマ・車寅次郎物語(少年寅次郎)=山田洋次(1)

48m

🔵ドラマ・車寅次郎物語(少年寅次郎)山田洋次(2)

48m

★渥美清の肖像 20m

https://m.youtube.com/watch?v=qDJHvYHssjQ

https://m.youtube.com/watch?v=JUsOuHDKAuk

https://m.youtube.com/watch?v=wt13fsD9peo

★寅さんレビュー=山田洋次ほか30m

https://m.youtube.com/watch?v=GKFvRErU0Z0

https://m.youtube.com/watch?v=WbfadIUTqg8

https://m.youtube.com/watch?v=2tBSUj0Ir2Q

★東京中小企業家同友会 東京社長TV 「寅さんと私」山田洋次監督15m

★★黄色いハンカチ山田洋次 震災と向き合う.90m

https://openload.co/f/4JgGdXQkDBY/ガレキに立つ黄色いハンカチ山田洋次 震災と向き合う.mp4

★★「山田洋次、家族の絆を語る」京都四條南座との共催イベント30m

★★明星大学公開講座 映画『男はつらいよ』の日本語と文化の魅力90m

★★特報首都圏・山田洋次と戦争25m

★【 母と暮せば 】あらすじ〈浜村淳・映画サロン〉30m 2015/11/7

🔷母と暮らせば(吉永小百合・山田洋次監督)

https://drive.google.com/file/d/18Q7gAJLMtNo7-y5VTFpqFfpiRuhPpR8E/view?usp=drivesdk

https://m.youtube.com/watch?v=XEWOgHJ8DbM

★今晩は 吉永小百合です ゲスト:二宮和也() 映画『母と暮せば』撮影秘話22m

https://m.youtube.com/watch?v=TMbUW3DhEB8

★二宮出演の映画『母と暮せば』の撮影現場裏話《二宮和也ラジオ~2015/5/3122m

https://m.youtube.com/watch?v=kKGZ54BZYRs

★「母と暮らせば」山田洋次×美輪明宏×二宮和也 未来のために – 15.12.18 30m

★山田洋次さん、落合恵子さん、内橋克人さん~講演会「さようなら原発」51m

★山田洋次監督が黒澤明の言葉を語る! 山田洋次の演出ノート 8m

http://st.wowow.co.jp/sp/detail/3117

★★「男はつらいよ」短編動画一覧

★★「男はつらいよ」名場面集34m

http://video.fc2.com/content/201505049GK6UhfN/

★★映画=「男はつらいよ」全48

fc2などでさがしてください。FC2ではほとんど見られるが年6000円の有料会員必要。Youkuは中国語吹き替えでダメ。

◆映画=『幸せの黄色いハンカチ』 1977

https://drive.google.com/open?id=1MepbupFw2fmJJs4iIttr0Db2wSy9ib4z

★山田洋次監督が語る、高倉健!初めて会った時の印象、撮影秘話、映画『幸福の黄色いハンカチ』でのエピソード9m

https://m.youtube.com/watch?v=b0BzOfeBYec

★テレビドラマの『幸せの黄色いハンカチ』

https://m.youtube.com/watch?v=LGvBLgCMo8c

◆山田洋次=藤沢周平の映画三部作

(隠し剣鬼の爪が一番よかった。4回も見た)

★★映画=たそがれ清兵衛 130m

★★映画=隠し剣鬼の爪130m

https://drive.google.com/open?id=12CEFo4E1VaFiJfmswTrEU0UxXqqGsPiE

★★映画=武士の一分 120m

◆書評・『倍賞千恵子の現場』

(赤旗17.09.10)

🔵映画=キネマの天地135m86

松竹が撮影所を大船に移転する直前の昭和89年の蒲田撮影所を舞台に、映画作りに情熱を燃やす人々の人生を描く。脚本は井上ひさし山田太一朝間義隆山田洋次が共同執筆。監督は「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」の山田洋次、撮影も同作の高羽哲夫が担当。

★★映画=家族

★★映画=下町の太陽

★★映画=同胞はらから

(統一劇場の岩手の農村の公演の青年団の取り組み)

http://video.fc2.com/content/20160731v7Gdq3N5

★★映画=霧の旗

松本清張原作・橋本忍脚本・倍賞千恵子と滝沢修

★★映画=故郷

★★映画=遥かなる山の呼び声

★★ドラマ・遥かなる山の呼び声=山田洋次シナリオ(安部寛・常盤貴子主演)

https://drive.google.com/file/d/1iW-pLpzwIhZ2fxMP7qdAAK6Rh0odfUQ6/view?usp=drivesdk

★山田洋次自作を語る-「家族」(1970年公開) 映画「息子」への系譜1991.10(16m)

★★映画=息子 

★山田洋次 映画「息子」を語る 199110 16m

https://m.youtube.com/watch?v=nUe_yo3lI6w

★山田洋次、大江健三郎 映画「息子」と「寅さん」を語る 1991.10 14m

https://m.youtube.com/watch?v=WYFP287PM1w

★★映画=母べえ 

または

★虹をつかむ男 南国奮斗篇 1996 120m

https://m.youtube.com/watch?v=-0R-8ceOluM

★映画=弟120m

【中国内限定のYoukuTudouの動画が見れないときの対策 http://yuyu.miau2.net/watch-youku-tudou-video/

または

http://www.tudou.com/programs/view/qLTWakx5Hvo/

◆山田洋次の映画「学校」シリーズ

less北山が山田洋次監督の映画『学校』を語る57m

★映画「学校」原作者松崎運之助 NHKラジオ深夜便48m×2

https://m.youtube.com/watch?v=qhoRkU2trKk

https://m.youtube.com/watch?v=cUmA4-IT2lY

★★映画=学校No.1

★★映画=学校No.2

★★映画=学校No.3

★★映画=学校No.415

【山田洋次「家族はつらいよ」シリーズ】

★★新東京物語

(山田洋次監督が小津安二郎監督の「東京物語」に感銘。そのリメイク映画。出演俳優たちは、ほとんど「家族はつらいよ」シリーズに出演。筆者=しかし、家族を追求するこのシリーズは、あまり成功したとはいえないのでは。「家族」「故郷」「息子」「黄色いハンカチ」や藤沢周平シリーズなども家族を追求しており、こちらの方が胸をうつ)

https://drive.google.com/open?id=1YmbYcs8IwgZLps4XeGzTi5yv9dPr-88r

★★小津安二郎監督「東京物語」

(筆者=これを見る限り、残念だが、小津映画の方が胸をうつ)

★★俺たちのシネマ【東京家族】山田洋次が出す小津安二郎の家族31m

★★山田洋次・家族はつらいよシリーズの歴史28m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v138894901ggMBjkK4

★★映画=家族はつらいよ

★★家族はつらいよ

https://drive.google.com/open?id=1F-M4XEKB7NhTHtUIfwQ3Xu3kxWNJT2de

★★家族はつらいよ(上映中)

◆(映画「家族はつらいよ3」妻よ薔薇のように 笑いの中に現代性、冴える芸

2018525日朝日新聞

「妻よ薔薇のように 家族はつらいよ3」

 家族あるいは家庭が、映画の格好な題材であることは疑いない。それは、いわば社会の縮図にほかならないのだから。

 これは山田洋次監督の「家族はつらいよ」シリーズ3作目である。「今回は妻への賛歌」だと監督はいう。笑いの中に現代の風を通わせる、当年86歳の老大家の充実した仕事ぶりにはただただ恐れ入る。

 周造(橋爪功)と富子(吉行和子)の老夫婦、その長男の幸之助(西村まさ彦)と妻の史枝(夏川結衣)と2人の息子という平田一家に、一騒動もちあがる。炊事と洗濯の家事に疲れた史枝が、ついうとうとする間に、空き巣にへそくり40万円を盗まれる。会社から帰った幸之助の態度がいただけない。「俺があくせく稼いだ金をピンハネしていたわけか」「昼寝とはいい身分だな」などと嫌みたらたら。温厚な史枝が黙って家を出てしまう。

 ハイライトは、長女夫婦(林家正蔵、中嶋朋子)と次男夫婦(妻夫木聡、蒼井優)が駆けつける家族会議だ。例によって、賑々(にぎにぎ)しく、滑稽に、混乱する。

 山田監督は、程よいテンポと機知で、私たちの期待に違(たが)わず楽しませてくれる。もちろん、おなじみのキャストのアンサンブルも見事なものだ。

 ひょっとして、結末がいささか甘いなどと不満をもらす向きがあるかもしれない。しかし、史枝の家出の奥に昨今のセクハラ問題に通じる女性蔑視を臭わせつつ、声高に訴えないのが山田作品の身上である。

 それにしても今更、山田監督の技量に感じ入るのも妙なものだが、その磨きあげた芸は、老来いよいよ冴(さ)えてきているようである。(秋山登・映画評論家)

◆◆「家族はつらいよ」No.3=妻よ薔薇のように 山田洋次監督

赤旗18.05.28

★★NHKごごナマ170525・山田洋次監督=寅さん秘話・美保純・家族はつらいよ52m

🔷🔷お帰り寅さん、桑田さんが歌う 山田監督ラブコール 22年ぶり新作 朝日新聞2019年4月12日

 1969年の公開から50年となる映画「男はつらいよ」シリーズ。今年12月に22年ぶりの公開となる新作「男はつらいよ お帰り 寅さん」=キーワード=に、サザンオールスターズの桑田佳祐さん(63)が出演して主題歌を歌うことになった。「夢の共演」を実演させたのは、原作者でもある山田洋次監督(87)の手紙だった。(編集委員・小泉信一)

 桑田さんは、自身が出演したテレビのレギュラー番組に「音楽寅さん」と名付けるほどの寅さんファン。寅さん(車寅次郎)を演じた俳優の故・渥美清さんには「男の色気」を感じていたといい、「ファンのひとりとして、まねをしながら生きてきたような気がします」と話す。恋することのもどかしさ、家族や人間同士の絆、生きることのもろさやはかなさ、切なさも映画から学んだという。

 そんな桑田さんが「男はつらいよ」を熱唱する姿を山田監督は覚えていた。「桑田佳祐という人と渥美清さんは、心情において深く重なっているのではないか」。松竹によると、新作の製作を発表した昨年秋、直接手紙を書いて自分の思いを伝えた。

 「新しい寅さんの幕開けをあの素晴らしい桑田さんの『男はつらいよ』で始められないか。出来れば出演もしていただき、華を添えてもらえないだろうか」

 映画では、「パーン」という高音で始まる冒頭のオープニングシーンに登場。おなじみの四角いトランクを傍らに置いた桑田さんが、江戸川の河川敷にたたずむ場面が映し出される。

 「桑田君が歌う『男はつらいよ』は、人を優しい気持ちにさせ、元気づけてくれる。『まあ、こんな私でもなんとか生きていけるんじゃないかな』と観客の背中をポンと押してくれるような素晴らしい主題歌となりましたね」と山田監督は話している。

 ■柴又の記念館、あす新装開業

 映画の舞台、柴又(東京都葛飾区)も22年ぶりの新作に沸いている。寅さんの魅力を追体験できる「葛飾柴又寅さん記念館」(同区柴又6丁目)は大規模改修が終わり、13日にリニューアルオープンする。式典には山田監督のほか、マドンナのリリーを演じる浅丘ルリ子さん(78)も出席し、テープカットに臨む。

 館内には、歴代マドンナが映し出されたり、柴又の名所を背景に寅さんと記念撮影できたりするコーナーが新設される。映画の世界をイメージしたカフェもオープンする。

 少し離れた場所にあった「山田洋次ミュージアム」も館内に移設。「幸福の黄色いハンカチ」「学校」など過去の作品の予告編が鑑賞できるコーナーもある。

 寅さん記念館は、渥美さんが亡くなった翌年の97年に葛飾区が江戸川の河川敷近くに建てた。開館20年の2017年には来館者数450万人を達成。寅さんを知らない若い世代や外国人観光客も訪れている。

 ■映画公開50周年、関連企画が続々

 12月の公開に向けては、さまざまな企業が参画する「男はつらいよ50周年プロジェクト」が進行中だ。人気セレクトショップ「BEAMS JAPAN」(東京都新宿区)も、寅さんにちなんだ新商品を開発中という。11年には、寅さんのファッションを特集する女性誌が話題になった。「寅さんのことば」などの著書がある娯楽映画研究家の佐藤利明さん(55)は「ダボシャツに腹巻き、雪駄……。古くさいと思われていたスタイルを『粋』と感じる人が増えてきたのではないか」と語る。新作への注目が高まる今年、さらなるブームを予感しているという。

 ◆キーワード

 <男はつらいよ お帰り 寅さん> 寅さんのおいで小説家になった満男(吉岡秀隆)が、かつての恋人イズミ(後藤久美子)と再会し、物語が展開する。満男の母親で寅さんの妹さくら(倍賞千恵子)や夫の博(前田吟)のほか、帝釈天の寺男・源公(佐藤蛾次郎)や印刷工場のタコ社長の娘あけみ(美保純)も出演。渥美さんは96年に亡くなっているが、過去の名場面を随所に使ってドラマを再現。マドンナのリリー(浅丘ルリ子)はジャズ喫茶のママとして出てくる。

◆◆寅さんに突き動かされ 50作目撮影へ 山田監督「日本人の心に今も」

朝日新聞18.09.07

 スクリーンに寅さんが22年ぶりに帰ってくる。6日、東京都内で開かれた記者会見で映画「男はつらいよ」の50作目となる新作を撮ることが松竹から発表された。原作者の山田洋次監督(86)はこれまでシリーズの継続には慎重な姿勢だった。第1作の公開から来年で50年。山田監督を突き動かしたものは何だったのか――。

 「戦後70年を超えるけども、今振り返ってみて、1960年代の後半から70年代前半にかけてが一番日本人が元気だったんじゃないか。精神的にも充実してたんじゃないのか。一生懸命働いて、お金稼いで、車やカラーテレビを買い、エアコンを入れる。それが実現しつつある年だった」。山田監督は会見の冒頭、「男はつらいよ」誕生当時をそう語った。

 もともとは68年10月から69年3月までフジテレビ系で放送された連続テレビドラマだ。主人公はテキヤの車寅次郎(渥美清)。最終回、一山当てようと渡った奄美大島でハブにかまれて死ぬが、視聴者から抗議が殺到。同年8月、松竹映画として第1作が公開された。

 「学もなければお金も家族もなくて、頭も顔も悪い。何も取りえのない変な男が、元気いっぱいスクリーンで活躍して、思いもかけないヒットをして、何作も何作も続編を作るようになった。その当時、僕は予想もしないことで本当に面食らいながらも、まだ作るのかな、と思いながらも作り続けてきたわけなんです」と山田監督。

 一方の渥美さんは生前、当時を振り返りこんなことを語っていた。

 「私という独楽(こま)が山田洋次さんという独楽にぶつかって勢いよく回り始めたような気がします」

 互いに「戦友」として車寅次郎という人物をつくりあげたのだろう。

 「寅さんを演じることができるのは渥美さんしかいない」と山田監督は新作には慎重だったが、来年で公開から50年を迎えることや今でも根強い寅さん人気が山田監督を動かした。東日本大震災の被災地からも「家族みんなで寅さんを見て元気になりたい」「大声で笑い、泣きたい」などと寅さん映画を上映してほしいという声が多く寄せられた。山田監督も「寅さんが日本人の心の中に根強く生きていることを改めて痛感した」と以前、取材に答えていた。

◆公開から50年に向け、企画目白押し

 節目の年に向け、「寅さん再び」の動きが目白押しだ。5日には、小説『悪童(ワルガキ) 小説 寅次郎の告白』(講談社)が発売された。筆者は山田監督。

 「黙って聞いていたさくらの眼(め)から大きな涙がぽろぽろこぼれ落ちましてね」

 そんな寅さんの語り口調で書かれている。映画では表現が難しかった寅さんの出生の秘密や、家出をして柴又を飛び出すまでのエピソードも克明に。映画では簡単に紹介する程度だった寅さんの生い立ちが描かれたのは初めてとなる。編集者は「活字の世界を通じて寅さんの魅力に迫りたかった」と話す。

 寅さん映画の世界を再現した「葛飾柴又寅さん記念館」(東京・柴又)も50周年を記念して来年4月に大幅にリニューアルされる。渥美さんが亡くなった翌年の1997年に開館。入館者はこれまでに450万人を突破した。併設する「山田洋次ミュージアム」を拡張し、カフェスペースもオープンするという。

 「美しい風景を後世に伝えよう」とロケ地となった自治体が柴又に集い、名産などをPRする「寅さんサミット」も今年11月3、4の両日に開かれる。帝釈天の寺男「源公」を演じた佐藤蛾次郎さん(74)がゲスト出演する。「寅さんをあまり知らなかった若い人たちが最近柴又を訪れている。人情深く、明快な生き方をしている寅さんに理想の大人像を見いだしているのかな」と話す。

 (編集委員・小泉信一)

◆予定されている50周年企画

◇全49作を4Kデジタル版に

◇新しい寅さんのキャラクターデザイン誕生

◇写真パネルとともに、映画で使われた衣装や台本、小道具などを紹介する「50周年記念展」を開催(全国巡回、朝日新聞社主催)

◇寅さんをテーマにした落語やトークイベントを東京都内で開催

◇毎週土曜夜、BSテレ東(現BSジャパン)で全49作を順次放送(10月6日から)

◇2019年の郵便局での年賀状印刷に、寅さんをイメージしたデザイン登場

★【家族はつらいよ】 あらすじ 山田洋次監督〈浜村淳・映画サロン〉49m 2016/02/13 

◆◆山田洋次インタビュー=「家族はつらいよ

(赤旗17.05.24

◆◆家族はつらいよ=老いていくって、大変なんだ 山田洋次監督「家族はつらいよ2」

朝日新聞17.05.26

 山田洋次監督の「家族はつらいよ2」が27日から全国公開される。橋爪功と吉行和子の夫婦とその子どもたち、孫たちという3世代が織りなすホームドラマの第2弾。前作の「熟年離婚」に続き、今回もまた「老人の免許証返納」「独居老人の孤独死」といった最近注目の問題を、笑いにくるんで扱っている。

 平田周造(橋爪)は、妻の富子(吉行)が海外旅行に出かけたのを幸い、居酒屋のおかみ(風吹ジュン)とドライブに出かける。ところが、その途中でトラックと接触事故を起こす。長男の幸之助(西村雅彦)は、父に免許証の返納を通告すべく家族会議を招集。一方、周造は高校の同級生だった丸田(小林稔侍)と40年ぶりに再会するのだが……

 山田監督は85歳。山田調とも言うべき人間喜劇の切れ味はますますパワーアップしている。

 「40~50代の頃は、こういう表現をすべきだとか、すべきでないとかにとらわれて、自由に発想しきれなかったんじゃないかな。芸術とは本来、もっと楽に、ふうっと生まれるもの。画家の横尾忠則さんと知り合ってから変わったかもしれません。あの人の面白がり方が面白いんです」

 カラフルな冒頭のタイトルバックは、横尾さんが担当した。山田監督も登場して笑わせる。「ちょっと自慢なんですよ。最近タイトルバックに凝った映画って少ないでしょ。昔は随分あったんだけどね」

 今回も、テーマは深刻だ。丸田は離婚後、ずっと独居生活を続けてきた。「彼はこの国の高度成長を支え、バブル崩壊で社会から脱落し、無縁社会に閉じ込められた。この国は今、安らかに老後を迎えられません。年を取ることは本当に大変だ、という気持ちを、観客の皆さんと共有したかった」

 一人の人間の死が、クライマックスで描かれる。「喜劇において人の死はタブーですらあるので、正直怖かったですよ。でも、一方で死を描いた喜劇の名作はたくさんある。アレック・ギネス主演の『マダムと泥棒』なんか、人が次々死ぬのにおかしくて仕方がない」

 周造の車の「もみじマーク」が落ちた時に枯れ葉が舞ったり、周造がバタンと扉を閉めたら姿見がゆらゆら揺れたり、細かいところで笑わせてくれる。

 「ディテールを丁寧に撮ることは大切。しかしいくら監督が頑張っても、スタッフが『なぜそんなところにこだわるんだろう』と思っていたら、いい映画にはなりません」と山田監督。「僕たちはそれを撮影所の先輩から教わった。この映像文化を、次の世代にも継承していかないといけない」(編集委員・石飛徳樹)

◆◆(家族って)女はつらいよ、考えてきた 山田洋次監督に聞く

朝日新聞18.05.31

 少子高齢化が急激に進むなか、多様化する家族について考える生活面の年間企画「家族って」。今回は番外編として、「男はつらいよ」など、「家族」をテーマに映画を撮り続けている山田洋次監督(86)に話を聞きました。

◆「さくら」の労働、評価してこなかったこの国

 ――山田監督の「家族はつらいよ」の最新作では、「主婦」がテーマでした。なぜいま主婦を?

 いま、ではなく、寅さんを作っているときから、いつも考えていたことです。

 妹の「さくら」は、実家の団子屋さんの共同経営者だけど主婦です。作品の中心的存在ですが、彼女はとても賢い人で、一緒に暮らしている家族や地域の人、自分の友達の心がよく読み取れ、生活を大事に暮らしている。だれかの言葉にあったけれども、教養とは人間関係に関する深い洞察じゃないかって。さくらさんは、この教養がある人で、そういう人がいてくれると、家族、地域、職場はうまくいく。

だから寅さんはさくらに会いに戻るし、家族にいろいろな人が出入りします。地域と家族が垣根なく緩やかにつながっていくっていうかな。そんな光景はこの国から消えてしまいましたけどね。

 だから「男はつらいよ」は、さくら、女性の「主婦はつらいよ」という物語でもあります。

 ――そうなんですね

 ただ、「主婦」や「嫁」という言葉には、とても引っかかる。女性を付属物のように考える響きがありま

す。「家族はつらいよ」では三世代同居を描いていますが、それがいいとか、そうじゃなきゃいけないなんてこと、僕は考えてません。それは「親の介護は息子の嫁がする」ということにつながってしまう。

 「働く女性」という言い方も変です。主婦は「働かない女性」なのかと。さくらのような複雑で難しい労働を、「女の仕事」とひとくくりにし、評価してこなかったことに、この国の大きな問題があるんじゃないでしょうか。

 ――家事や育児など女性の無償労働の問題が、ずっと念頭にあったのですね

 僕は終戦直後に学生時代を過ごし、民主主義について盛んに議論した。寮で「なぜ主婦の仕事はこんなに圧迫されているんだろうか」っていう話も真剣にしました。男は外で仕事して評価されているのに、主婦の労働は評価されないのはおかしいんじゃないかと。団塊以降の人がむしろ保守的になっているんじゃないかと思いますよ。

 結婚するとき、なんで同じ名前のまま結婚できないのか、随分不合理だなと思いました。

 子育てのときも迷いました。当時は保育園も少ないし、結局うやむやなまま、妻はやりたい仕事をあきらめた。僕はそのころ監督になりたてで、ものすごく忙しかったから。

 結局、どちらも妻が譲ってくれた。ほんとうに悪いことをした。彼女は亡くなりましたが、「大きな負担かけたね」って口に出して言うべきだったと今でも思うんですよ。

 ――家族をめぐるニュースで気になることはありますか

 撮影現場のスタッフには女性も多いんですが、多くはフリーランスで働いていて経済的に不安定。子どもを認可保育所に入れるのも大変らしい。

 この前、国会議員が「子どもを3人産め」と言っていたけど、冗談言うな、といいたい。女性が安心して子どもを産める国にするために、あなたがちゃんと働けと。

 ――家族や夫婦にとって大切なことは

 「あ、自分は間違っていた」と思ったら、素直に自分を変えることです。もちろん、関係を修復できず、別れることもあるでしょう。人間は、そういう厄介な存在です。映画でも、別れるという結末の物語も作んなきゃいけない。男女が憎み合う姿や、つらい話を描くことになるけど、どうやって立ち直っていくのかという、そこからね。

 ――家族っていい面がある一方、苦しみの源でもありますよね

 そりゃそうですよ。「家族はつらいよ」というのはそういう意味です。僕の一家は(旧)満州から引き揚げて貧乏してましたからね。両親も離婚して、つらいことが色々ありました。古い田舎町の人間関係も煩わしくて。そんな田舎と家族から解放されたいと思って東京に出て来た。その僕が、故郷や家族の映画を作ってる。不思議ですね。

    *

 やまだ・ようじ 1931年、大阪府生まれ。東大法学部卒業後、助監督として松竹に入社。61年に監督デビュー。「男はつらいよ」の第1作を69年に公開。77年の「幸福の黄色いハンカチ」で日本アカデミー賞を受賞。「家族はつらいよ」シリーズ3作目の「妻よ薔薇(ばら)のように」が劇場公開中。

◆◆「家族はつらいよ」に出演した橋爪功さん

(赤旗日曜版17.05.28

◆◆笑うってすてきなこと 山田監督とのんさん、映画が持つ力を語る

2017617日朝日新聞

山田洋次監督(右)とのんさん=東京都葛飾区、鬼室黎撮影

 公開中の「家族はつらいよ2」の山田洋次監督(85)と、ロングランヒットを記録するアニメ映画「この世界の片隅に」で声優を務め、寅さんファンでもある俳優のんさん(23)が、初対面で語り合いました。話の行方は映画と笑いに――。

 ――「家族はつらいよ2」は、橋爪功さんや吉行和子さん出演のホームドラマ。高齢者の危険運転など社会問題を素材にしながらも、喜劇です。

 のんさん「家族会議がいつもけんかで、めんどくさかったり、しんどい思いをしたりするけど絆がある。喜劇だと笑いにできるのがすてき」

 山田監督「大したことない出来事のようだけど、当の家族にとっちゃ深刻で、しかもそう簡単に解決しない。家族ってそういう風に面白い」

 「背後には日本の重苦しい現実がある。独居老人も登場させました。生々しくは出さないけど死骸もちょっと映る。喜劇は人の死という重いテーマを扱わないのが普通、常識。でも思い切って扱って、なおかつ笑えないかな、と」

 ――「この世界の片隅に」は、戦時中の広島を生きる女性・すずを描いて共感をよびました。

 山田監督「物語の先に原爆が落ちる重い現実があるのを知りながら、観客はつい笑ったり楽しく見ちゃったりする。すずさんはひとりでいるときに、ふっと鼻歌を歌いながら自分を励ましている。そういう人ってすてきだよね」

 のんさん「『男はつらいよ』は(BS番組の)『土曜は寅さん』でずっと拝見していました」

 山田監督「お若いのに。劇場での寅さんは、上映中にみんなワーワー、色んなこと言ってゲラゲラよく笑う。本当ににぎやかだったね」

 のんさん「寅さんは見る度に、やだもうこの人!ってなるのに、やっぱり寅さんが好き!って同時に思えるのが不思議」

 「最近、コメディー作品ってそんなにないな、と思っていて。私はたくさん挑戦したいんですけど。時代的に求められていないんですかね?」

 山田監督「今は世界的になんだか不幸な、重苦しい時代でしょ。そういう時代には大笑いして、さあ明日から元気になって生きていこうと思いたいわけじゃない?」

 のんさん「でも泣きたいという欲が強い方もたくさんいますよね」

 山田監督「誤解を恐れずに言えば、泣きたいという人に比べて笑いたいという人のほうがちょっと知的な感じがするね。『人間は愚かなんだな、でもそれが人間なんだな』っていう大きな肯定が、笑いにはあるんじゃないかな」

 深刻な社会問題も、戦時下の厳しい日常も、笑いに昇華させ、明日を生きるチカラに変えていく。映画館で思いっきり笑いたくなりました。

 <文化くらし報道部・佐藤美鈴> 人生を豊かにしてくれる映画に感謝。次はぜひ映画「女はつらいよ」をつくってほしい。

◆◆TVドラマ・山田洋次・石井ふく子「あにいもうと」

赤旗18.05.21

◆山田洋次監督書き下ろし喜劇=前進座「裏長屋騒動記」

(赤旗日曜版17.05.07

🔷🔷(インタビュー)希望の黄色いハンカチ 映画監督・山田洋次さん

朝日新聞デジタル2019年3月12日

 明治以来150年もの間、この国は成長と拡大の先にある「幸福」を信じ、長い坂道を上り続けてきた。そして8年前、巨大津波と原発事故は、その物語のもろさを突きつけた。震災は、私たちに何を問いかけたのか。被災地に暮らす記者(35)が、「家族」を通じ幸せのあり方を描いてきた山田洋次さん(87)に聞いた。

 《東日本大震災の津波に襲われ、「奇跡の一本松」が残った岩手県陸前高田市。約10メートルかさ上げされた大地に「黄色いハンカチ」がはためいている。姉と自宅を失い、山田さんの作品を心のよりどころにしてきた菅野啓佑さん(77)が震災の2カ月後に掲げた。菅野さんは7年半の仮設住宅暮らしを終え、昨年末、再建した自宅に移り住んだ。再びハンカチを翻らせ、仲間の帰りを待ち続けている。》

 ――菅野さんは「黄色いハンカチを掲げることが、おれにとっての希望なんだ」と話しています。

 「本当に涙がでてくるよ。申し訳ないような、ありがたいようなね……。生きるか死ぬかというすさまじい目に遭った人が、黄色いハンカチを何度も掲げてくれるなんて。映画監督冥利(みょうり)につきると言いたいな」

 ――菅野さんとは手紙でやりとりを続け、「希望よ永遠に」と書いた板も贈っています。

 「贈ったわけじゃない。『書いてくれ』って言われ切羽詰まって書いたようなものを大事にして下さっていると聞くと、ぼくは恥ずかしくて。穴に入りたいという気持ちですよ」

 ――恥ずかしいとは。

 「ぼくが経験した苦労なんて、彼の苦労に比べたら本当に知れているんだよ。ぼくは引き揚げ者で、中学生のときに内地に難民のように移住して知らない土地で暮らし始めた。そのときの状況にほぼ近いんだろうけど、当時は日本中、そういう境遇の人がいっぱいいたからね」

 《菅野さんが暮らしていた今泉地区は、600軒あった家々が根こそぎ流された。高台移転とかさ上げによる住まいの再建が始まった。総事業面積は東京ドーム64個分の約300ヘクタール。1600億円の国費が投じられる。だが宅地の7割には利用予定がなく、空き地になりかねない。》

 ――巨額の国費を投入したのに人が住まない。地元では半ば自嘲気味に「ピカピカの過疎の町」という表現も使われ始めています。

 「あそこから消えてしまった人たちはたくさんいる。残った人も、今までより海抜が10メートルも高いところに暮らしていかなくてはならない。出来たてでピカピカして、しかも寂しくて。いったいいつになったら、家やお店が並ぶ『町』になるんだろうね」

 ――地元の人々が言う「復興」とは、「今日と同じ明日が来る」「震災前と同じ暮らしを取り戻す」という、ささやかで確かなものでした。

 「阪神大震災のあった神戸の長田地区で、小さなお稲荷さんが焼けてしまった。復興の掛け声とともに、巨大な耐震のビルがズラズラ建つとき、地元のおばあさんが聞いたそうだ。『あのお稲荷さんは、いつどこに建てて下さるのでしょうか』と。つまり、市民にとって、復興するというのは、そういうことなんだね。近所の人たちがお稲荷さんの前で朝のあいさつを交わし、昔なじみの豆腐屋で朝の豆腐を買うといった、和やかで平和な暮らしのイメージは、市の計画にはないと思う」

 《復興の基本方針で、政府は復興期間を10年と設定。前半の5年を集中復興期間、後半の5年を復興・創生期間とした。津波被災地の岩手・宮城では住宅再建が進む一方、原発被災地の福島では住民帰還がままならない現状がある。》

 ――原発事故をきっかけに、経済成長を支えてきた「科学技術」は万能ではないと、多くの人が考えるようになりました。

 「原発が止まり、節電が続いた時期、高速道路は暗くなったし、街灯もネオンも消えた。けれども、そのことで特に不自由はなかった。日本中が少し我慢して節電すれば、原発を停止しても大丈夫じゃないか、って思った。どうして国をあげて、あの時そういう風に考えなかったのだろうか」

 ――9基が再稼働し、節電という言葉も聞かれなくなりました。

 「あたり前のことだけど、地震は自然現象で原発のメルトダウンは人工的災害。人間が犯した失敗です。あの大災害によって、核エネルギーがどんなに危険かってことをぼくたちは痛いほど知ったはずなのに、今は忘れかけようとしている。あるいは忘れさせられようとしているような気がするね」

 《少子高齢化が進む中、地方では人口減少が深刻化している。特に地方を象徴する被災地は、復興基本法の理念の中で『21世紀半ばにおける日本のあるべき姿』と位置づけられた。》

 ――復興とは幸福と密接に結びついた理念ではないでしょうか。

 「『日本のあるべき姿』というけど、一体どんな姿をイメージして高級官僚はその言葉を使うんだろうね。ぼくは日本人が『幸福』という言葉を身近に使い始めたのは1950~60年代以降だったと思う。電気洗濯機を初めて手にした時代にぼくは結婚したけど、60年代の日本は割にうまくいっていたような気がする。懸命に働いて豊かな生活を目指していた時代。『幸福』が餌のように目の前にぶら下がっていた、あの時代」

 ――高度成長期と重なります。

 「それが『これでいいのか』という迷いが始まったのが、70年代じゃなかったのかと思う。大阪万博のあった70年に、ぼくは『家族』という映画を作った。主人公一家は長崎から北海道に移住する途中で千里山の万博会場までは行ったけど、時間切れで追い返されてしまった。科学技術の進歩バンザイのあの頃、すでに日本人は『幸福』イコール物質的ぜいたく、という考え方に不安を感じ始めてたのではないのかなあ。寅さんはあの時代に誕生したんです」

 ――震災後、「物質的な豊かさが大事」という価値観が見直された空気を感じたのですが。

 「地域が破壊され、大都市に人口が集中する。AIの時代が来て、効率化が進む。こういう方向性が、人間にとって本当に幸せなのかね。隣近所が仲良く、しょうゆやみそを貸し借りして、古いなじみの豆腐屋や八百屋で買い物をする暮らしの型が消えることが。日本人が明治から大正・昭和にかけて築いてきたライフスタイルを、ブルドーザーで潰すように消してしまっていいのか、それで幸せになれるのか、ということを、国をあげて議論しなくてはいけなかったのではないかと思うわけ」

 ――国も地方創生に力を入れていますが。

 「だったら新幹線の駅も飛行場も、これ以上つくるのをやめた方がいい。高速道路を作るお金を地方の暮らしや文化活動に回せばいいと思う。新しい『町』ができるには3代のつき合いが必要だ、ということを詩人の田村隆一さんから聞いたことがある。一つの町で子どもが大きくなって結婚し、孫が生まれる。50年、100年というスタンスのおつき合い。大震災の後、この国の政治はそういうビジョンを持っているのか、ということを問われたんじゃないかな」

 ――庶民のささやかな幸せを、政治は本気で考えていないと。

 「陸前高田のぼくの友人が、仮設住宅での長い生活を終えてようやく移り住んだあの一軒家の周りがいつにぎやかになるのか。地方の過疎化を解消するために、命をかける政治家がいるのか、と問いかけたい。それができないのなら、この人じゃムリだと思ったら、政治家を交代させればいい。それが民主主義でしょう」

 ――「幸せ」って、どこにあるんでしょう。

 「被災した人のことを考えると、ぼくはぼく自身の生き方を問われているような気がします。陸前高田のあの一軒家の隣や向かいに家が建って、主人がその家の娘や孫たちと縁側に座って、庭の黄色いハンカチを眺めてビールを飲む。そんな生活が彼らに戻るために、ぼくは日本人の一人としてなにができるのか、しているのか、ということです」(大船渡駐在・渡辺洋介)

     *

 やまだようじ 1931年生まれ。2008年から日本芸術院会員。12年に文化勲章を受章。「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」は77年の公開。主演は高倉健。

 ■取材を終えて

 経済成長を追い求めて得た豊かさと引き換えに失ったものは、一体何だったろう。復興政策を考える時、岩手県沿岸部に妻と子ども2人の家族4人で3年間、暮らしてきた私は、この問いと向き合わざるを得なかった。人口3万6千人の大船渡市では地域社会のつながりが残る。親子で街を歩き、公園で遊んでいると、頻繁に声をかけられる。お土産のお裾分けや手料理を分けてもらうことも少なくない。こうした助け合いやつながりを、地元の言葉で「よいとり」と呼ぶ。「形にならないもの」に再び光があたり、生き方を見直そうと問いかけたのが大震災ではなかったのか。山田さんの思いに触れ、復興のあり方について再度、考えるべきだという思いを強くした。ら

◆◆山田和夫=「男はつらいよ」の27年間、渥美清・山田洋次が語ってきたこと(前衛9612月号)

◆寅さんの葛飾柴又訪問ガイド

──────────────────────────


───────────────────────────

🔵「母と暮らせば」

───────────────────────────

原爆、家族の悲しみ「じわっと」 吉永小百合さん、山田洋次監督の映画「母と暮せば」主演

 戦後70年の締めくくりに山田洋次監督の映画「母と暮せば」が公開される。長崎の原爆で息子を失った母親を、吉永小百合さんが情愛を込めて演じる。終戦の年に生まれ、「戦後×年という言い方がいつまでも続いてほしい」と願う吉永さんにとって、119本の出演作の中でも特別な作品になりそうだ。

 きっかけは井上ひさしさんだった。広島の原爆で父を失った娘を描く「父と暮せば」を発表した井上さんは長崎がテーマの「母と暮せば」を書きたいと漏らしていたという。しかし、果たさないまま他界。その遺志を継いだ山田監督がオリジナル脚本を作り上げた。

 吉永さん演じる伸子は息子の浩二(二宮和也)と2人暮らし。助産婦で生計を立て、浩二を医大に通わせていた。1945年8月9日。原爆が投下され、浩二の肉体は一瞬にして溶けてしまう。3年後。墓参りを済ませて帰宅した伸子の前に、浩二の亡霊が現れる。

 山田監督から出演依頼があった時「即答で、やりますと申し上げました」。むろん、いつも即答するわけではない。「山田監督の『母べえ』(2008年)の時は戦時中の母親役でした。小さな子のお母さんなので『年齢的に無理です』と申しますと、山田監督は『あの頃のお母さんは疲れていたんですよ』とおっしゃった。疲れたお母さんなら私にも出来るかなと(笑)」

 吉永さんは81年に放送が始まったNHKドラマ「夢千代日記」で、広島で胎内被爆した芸者を演じた。これがきっかけで始めた原爆詩の朗読会は現在も続けている。「朗読のこともあって山田監督は私にこの役を下さったのだと思います」

 吉永さんが朗読する詩の一編に、栗原貞子の「生ましめんかな」がある。被爆して死にひんした産婆が、最期に出産を手伝って旅立つという内容。今回演じる伸子の職業も助産婦なのは偶然だろうか。

 「命の継承に携わる仕事であることが大きいと思います。私自身、ちょうど70年前の3月に産婆さんに取り上げてもらいました。年を言うのは嫌なんですけど(笑)。すぐ防空壕(ごう)に入らねばならない状況だったそうです。その頃の産婆さんは大変だったでしょうね」

 映画の冒頭。原爆が落ちた瞬間の映像がすさまじい。「原爆は、人間が人間として生き、そして死ぬことを許さなかった。それが集約された映像でした。唐突に愛する人を奪われた家族のつらさを感じました」

 衝撃的な場面で始まるが、その後は、伸子の日常と、息子の亡霊との対話が丹念に描かれ、戦争反対の声高なメッセージはない。笑いの要素もふんだんに盛り込まれている。

 「松竹映画らしいホームドラマですね。山田監督も『原爆の映画ではなく、家族の映画です』とおっしゃっていました」。吉永さんは、かつて出演した68年の「あゝひめゆりの塔」を思い出すという。女学校の生徒で作られた看護部隊が沖縄戦でほぼ全滅する実話を元にした物語。吉永さんも女学生の一人を演じた。

 「あまりにも悲惨な状況に、私たちはパニックになって泣き叫んでいました。完成した映画を見た時、何かが違うと感じました。約20年後、ひめゆり部隊のドキュメンタリーを見る機会がありました。生き残った方が『涙も出なかった』と証言されていた。本当の悲惨さの前では表情がなくなるんだと知りました」

 「夢千代日記」も、声高な反戦ドラマではなかった。小さな温泉街が舞台のつつましやかな物語だった。「今回もダイレクトに反戦を訴えるのでなく、楽しいファンタジーとして描かれています。見終わった後、原爆で亡くなった青年の人生や、残された人々の悲しみがじわっと残ってくれれば」

 戦後70年の今年は単に数字上の節目ではなかった。安保法制が成立するなど実際にも曲がり角の年になった。「戦後×年という平和な時代がね、続かなくなるんじゃないかという危惧があります」と吉永さんは言う。戦後71年以降も「自分なりの方法で、(戦後×年を)続けていきましょうというメッセージを発信していきたいと思っています」。

 (編集委員・石飛徳樹)

    *

 「母と暮せば」は12日全国公開。共演は黒木華、加藤健一、浅野忠信ら。ノベライズ版「小説 母と暮せば」(山田洋次、井上麻矢著)は集英社刊。大下英治による評伝「映画女優 吉永小百合」が朝日新聞出版から刊行された。

◆◆山田洋次=映画「母と暮らせば」に寄せて、若者に希望を託して

(赤旗15.12.09

◆◆吉永小百合さん「戦争はだめ、核もだめ」「週刊朝日」15.08.21

◆◆山田洋次監督「母と暮せば」=長崎原爆、悲しみに思い寄せ

2015826日朝日新聞

撮影現場の教会で指示を出す山田洋次監督=7月10日、長崎市、池田良撮影

 映画監督の山田洋次(83)が取り組む83作目の映画「母と暮せば」のテーマは長崎原爆だ。映画を通して「幸せの原風景」を問い続けた監督人生。戦後70年の夏に見たものは何か。

 1945年8月9日、長崎市の人口は約24万。原爆資料保存委員会の報告によると、原爆による死者は7万3884人、負傷者7万4909人(同年12月末まで)。「統計的な数字だけで死者を語るのは、犯罪に等しい。ひとりひとりに本当の悲劇はある」

 61年に監督デビュー。69年から公開された「男はつらいよ」シリーズをはじめ、「幸福の黄色いハンカチ」「母べえ」など家族や地域社会のありかたを通して「幸せの原風景」を描いてきた。

 その背景に色濃く横たわるのは、やはり戦争だ。3歳の時、父親が南満州鉄道で働いていた関係で満州国(現中国東北部)に渡った。裕福だったが、敗戦を機に生活は一変。父は失業、中学生の山田もピーナツや古本を売るアルバイトをした。当時を振り返り、「酷(むご)い仕打ちを僕たちはしていた。非礼な差別意識を僕は心から恥じます」と言う。

 今回、一冊の本が参考になったという。精神科医の野田正彰著「喪の途上にて」。520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故などの遺族のその後を追ったノンフィクションである。

 「ある日突然、肉親を失う。しかも、亡きがらさえ見つからない別れもある。遺族の精神的な悲しみ、混乱に一生懸命思いを寄せ、映画をつくりました」

 山田は、映画に込めたメッセージを声高に主張する人ではない。むしろ、そういうことを嫌った。しかし、今回は「生涯で一番大切な作品にしたい」と言う。「戦時下の生活を体験している世代も、やがていなくなる。戦争を語り継がなければ」

 「母と暮せば」の公開は12月12日。松竹大船撮影所の先輩、小津安二郎監督の誕生日で命日でもある。(編集委員・小泉信一)

 <母と暮せば> 長崎で助産婦をして暮らす伸子(吉永小百合)は夫を結核で亡くし、長男も戦死。長崎医大生の次男浩二(二宮和也)と暮らしていた。だが1945年8月9日午前11時2分、原爆が投下され、爆心地近くの医大で講義を受けていた浩二の消息は不明となる。捜し続けた伸子は3年後の8月9日、浩二の恋人・町子(黒木華)に「浩二のことは諦める」と伝えた。

 だがその夜、浩二の亡霊が現れ、「母さんは諦めが悪いから、なかなか出てこれなかったんだよ」と伸子に告げる。広島、長崎、沖縄を題材にした「戦争三部作」を構想していた劇作家の故井上ひさしの遺志を、山田洋次監督が継いだ。今年4月から撮影が始まり、7月長崎ロケが行われた。

◆◆(評・映画)「母と暮せば」 未来への展望、求めて苦心

20151211日朝日新聞

 長崎の原爆投下から3年後の話である。助産婦の伸子(吉永小百合)は幸い生き延びて、いまも働いている。その家に、あのとき原爆の光をあびて即死した息子の浩二(二宮和也)が、ある日、幽霊になって楽しそうに訪ねてくる。

 ただもう冗談を言って伸子を笑わせているようだけれど、恋人だった町子(黒木華)の話になると悩む。幽霊が悩むというところがいい。

 日本の怪談では、死んでも死にきれない深い恨みのある死者が幽霊として出てくることになっている。しかし劇作家の井上ひさしは広島を舞台にした名作「父と暮せば」で、生き残った娘の縁談と未来が心配でならないからこそ現れるという、新しい魅力的な幽霊を生み出した。

 山田洋次監督のこの映画は、亡くなった井上ひさしの遺志を受け継ぐものとして作られている。恨みの話になりそうなところを、そうではなく、未来への展望のある物語にするために苦心しているのだと思う。たとえば息子の幽霊は、ただ自分がおしゃべりをするためではなく、母を慰め励ますためにはるばるあの世からやってきたのだろう。

 この映画はあの時代の世相を正確に描くことに力を入れている。たとえば召集された人の消息を聞きにゆく復員局という役所があった。自分の父親の戦死の状況を知りたいと言って役所にくる幼い女の子がいる。この子の凜(りん)とした様子などはとても印象に深い。幽霊になってでも見守り続けたい何かが人間世界にはあるのだと思わせられる。

 ただ、その「何か」が朧気(おぼろげ)にしか見えず、手探りしているようなもどかしさも感じたけれども。(佐藤忠男・映画評論家)

◆◆映画監督・山田洋次さん 大声で笑い、怒ればいい

20151212日朝日新聞(フロントランナー)

新作「母と暮せば」について、生涯で一番大事な作品をつくろうという思いで製作に臨んだ、という=東京都中央区築地

 今日12月12日は、映画人にとって特別の日だ。巨匠小津安二郎監督の誕生日であり、ちょうど60年後、没した日なのだ。その日、同じ松竹の流れをくむ自身の新作「母と暮せば」が、全国公開される。「同じ日になったのは偶然ですが、やはり何か縁を感じますね」と感慨深そうに言う。

 松竹に入社したころは、小津監督の全盛期だった。でも、「小津映画はいつも同じ手法、世界で、僕らは問題にしてなかった」。あこがれていたのは、毎回意欲作を発表する木下恵介であり黒澤明だった。イタリア映画「自転車泥棒」のようなリアリズム映画を撮りたかった。

(フロントランナー)山田洋次さん 「井上ひさしさんの遺志をゆだねてもらった」

 小津のすごさを意識したのは、「寅さん」を撮りだしたころからという。人間を見る角度、人間の描き方が、いつのまにか影響されていた。

 48作に及ぶ「寅さん」シリーズで、日本人のお腹(なか)の皮をよじらせ続けた監督は、一方で「同胞」「家族」など、戦後社会の変貌(へんぼう)を見つめる重厚な作品も手がけてきた。長崎の原爆をテーマにした「母と暮せば」は、後者に属するが、原爆というシリアスなテーマにもかかわらず、あるいはだからこそ、ユーモアが随所に埋め込まれている。

 原爆で亡くなる医大生の息子は、亡霊になって母の前に現れる。彼のキャラクターは、戦死した若き詩人、竹内浩三からイメージを得たという。21歳で入営、フィリピンで戦死した竹内は、明るく剽軽(ひょうきん)な性格で、漫画好きの青年だった。映画に登場する息子も確かによく笑い、明朗だ。浩二という名も竹内にちなむ。

 「笑い」は物事を距離をもって見るときに、初めて現れる。描くのは簡単ではない。監督3作目の喜劇「馬鹿まるだし」ができあがり、劇場に行くと、客が大声で笑っている。自分でも驚いた。僕も人を笑わせる映画をつくれる、こういう風にすればいいんだ、と客に教えてもらったという。

     *

 ある時、大阪・天王寺の映画館の支配人から、こんな話を聞いた。

 寅さんシリーズに、いしだあゆみさんがマドンナの「寅次郎あじさいの恋」という作品がある。夜遅く、寅さんが寝ている部屋に彼女が忘れ物をとりに来るという、ちょっと色っぽいシーンで、突然、「いてまえ」(やっちまえ)というかけ声が起きた。すると「アホか。こういう時に何もできへんのが、寅のええとこやないか」と声がかかり、場内大爆笑に包まれた。支配人から「えらいシャシン(映画のこと)、つくりましたなあ」といわれた。

 「最近、日本人はおとなしくなってしまった。政治的なことも含め、不満があれば大声で怒り、叫び、楽しければ、おもしろければ、大声で笑ったらいいのに」

 次回作は熟年離婚を扱う「家族はつらいよ」で、小津監督の「東京物語」を下敷きにした2年前の作品「東京家族」の出演者が、そのまま出る。来春公開、久しぶりの本格喜劇だ。

 (文・牧村健一郎 写真・郭允)

◆「井上ひさしさんの遺志をゆだねてもらった」

松竹に入社してすぐのころ、大船撮影所で。映画監督が適任か悩んでいた。

 ――新作「母と暮せば」は、故井上ひさしさんとの縁から生まれたのですね。

 おととしの夏、東京のホテルで、ひさしさんの三女で「こまつ座」代表の井上麻矢さんから、話を聞いたのが発端です。ひさしさんは、広島原爆をテーマにした「父と暮せば」、沖縄戦が舞台の「木の上の軍隊」を手がけ、その次に長崎を舞台にした作品を書き、この三部作を作り終えたところで一生を終えたいとまでおっしゃっていたそうです。麻矢さんは、ひさしさんの遺志を僕にゆだねてくれたのだけど、決まっていたのは「母と暮せば」というタイトルだけでした。

 ――麻矢さんによると、監督は身を乗り出し、長崎の母ならクリスチャンだろうな、教会があってステンドグラスがきれいで、と、その場でどんどん構想をお話ししたそうです。

 そうでした。息子は長崎医大の学生だな、とすぐ思った。あの大学は爆心地に近くて、900人近い学生、教授、職員たちが死んでいますから。

 ――原爆と平和を伝える映画だから、戦後70年の年にぜひ公開したいと、急ピッチで具体化しました。

 今年7月、海が見える高台に立つ長崎の黒崎教会で、最後のロケをしました。母と、息子の亡霊が手を取り合って堂内を歩くシーンで、俳優に交じって出演してもらうエキストラには、その教会の信者の方に出てもらいたいと、当初から考えていました。

◆よく笑う少年

 ――悲劇的な話ですが、ユーモアの隠し味も魅力です。監督自身も少年時代、おしゃべりで冗談好きだったそうですね。

 もの静かで思索的な少年だった、と思いたいが、実は昔の友人に聞くと、山田君はよく笑い、ひとを笑わせるのが好きだったというんですよ。落語が好きで教壇で一席演じたりしたことはありましたけどね。「母と暮せば」の息子も、そんな僕自身が投影されているかもしれません。

 あれは竹内浩三へのオマージュ(敬意)です。竹内は三重県の生まれのシティーボーイ。軍服姿でしゃがんでニコっと笑っている写真があるでしょ。軍服を着ているのにあんな人間くさい表情をした写真は珍しい。息子役の二宮(和也)君には、竹内の本をたくさん、読んでもらいました。

◆パシナの雄姿

 ――お父上が大阪の汽車製造会社の技師で、満鉄に引き抜かれて一家で旧満州に渡ったそうですね。

 中学は大連でした。僕の家から大連一中に行くには、大連駅のガードをくぐるんだけど、朝、ガードに差しかかると、ちょうど出発直前のパシナ(満鉄の大型機関車)が、白い水蒸気をシューっと噴き上げているんです。濃いグリーン、流線形の巨大な機関車が、これから始まる長い旅にそなえて、エネルギーをため込み、ぶるぶる震えるようにして満を持している。

 芸術も同じだ、と後に思いました。外からは静かに見えるが、内部には今にも爆発せんばかりのエネルギーが充満していて、動きはあくまでゆっくり、さりげなく。

 ――終戦時は中学生。数年後に山口県に引き揚げ、東大へ進み、松竹に入社します。入社数年後のスナップ(プロフィル欄で紹介)では、おとなしそうで、映画の助監督に見えません。

 撮影所に入ってみて、映画監督に僕は向かないと思った。監督は荒っぽい現場を束ねる親方であり、会社との駆け引きや時にスターをしかりつける政治力も必要。あの静かな小津さんにもそういう面はあった。でも僕は大声をだせないし、とても向かない。だから脚本家になろうと思った。

 ある時、同期生と一緒に撮影所長のところへ、助監督が監督に昇進する基準は何か、と聞きに行った。すると所長は「うーん、強いて言えば顔付きかな」。これにはみんな怒ったよ。

 ――井上ひさしさんも日本人の笑いを追求した作家でした。

 井上さんには「キネマの天地」の脚本を手伝ってもらいましたが、その時、脚本のフレーム、つまり構造の重要性を教わりました。井上さんは古今東西の芝居をよく知っていて、この場面はモリエールのあれにある、歌舞伎のあの芝居を参考にするといい、とヒントを続々、くれるのです。「母と暮せば」は麻矢さんから話を聞いて、すぐにフレームが浮かびました。

 ――泉下の井上さんと語り合うような思いで脚本を書いたそうですね。

 ええ。井上さんがあの特徴ある口を大きく開けて、アハハと笑ってくれるのを期待しながら。

 プロフィル

 ★1931年、大阪府生まれ。幼少時代を旧満州で過ごし、引き揚げ後の54年に東京大法学部卒、助監督として松竹に入社。その頃松竹には、大島渚、篠田正浩、吉田喜重ら、後に松竹ヌーベルバーグと呼ばれる気鋭の若手がいた。写真は松竹に入社してすぐのころ、大船撮影所で。

 ★61年、「二階の他人」で監督デビュー。64年、「馬鹿まるだし」(ハナ肇主演)で本格的な喜劇を初めて監督。以降、ハナの喜劇や坂本九の映画などの後、69年、「男はつらいよ」(渥美清主演)シリーズ開始。「寅次郎紅の花」(95年)まで48作製作され、国民的映画といわれる。

 ★「家族」(70年)、「故郷」(72年)などで高度成長期の社会の変容を描き、「幸福の黄色いハンカチ」(77年)では高倉健の名演もあり日本アカデミー賞など。藤沢周平原作「たそがれ清兵衛」(2002年)も高い評価を受け、木村拓哉主演「武士の一分」(06年)は大ヒット、吉永小百合主演「母べえ」(08年)はベルリン国際映画祭コンペティション部門に出品された。監督50周年を記念し、13年に小津監督の代表作「東京物語」を現代に置き換えた「東京家族」を発表。14年に「小さいおうち」。文化勲章、朝日賞など受章・受賞多数。

◆◆山田洋次=映画「母と暮らせば」に寄せて、若者に希望を託して

(赤旗15.12.09

◆◆山田洋次=戦争の罪悪を繰り返さない

(赤旗日曜版15.12.1312.2012.27

───────────────────────────

🔵インテリ嫌いの寅だけど=寅さんと教養を考える、山田洋次インタビュー

──────────────────────────

2015820日朝日新聞

「男はつらいよ 寅次郎恋歌」(山田洋次監督、1971年)の志村喬(左)と渥美清=松竹提供

 日本の庶民は昔からインテリが嫌いだった。映画には、冷血動物のような高級官僚が眼鏡を光らせて弱い者いじめをし、学園ドラマでは、勉強ばかりしている生徒が「ガリ勉」とあだ名され、嫌われ役を担っていた。

 フリーライターの永江朗さん(57)は、庶民のインテリ嫌いには「健全な面がある」と言う。「肩書や権威を信じないという態度につながっているからです」

 こうした庶民の代表は映画「男はつらいよ」の車寅次郎だ。渥美清演じるテキヤの寅は、うじうじ恋に悩む大学生を「インテリってのは自分で考えすぎますからねえ」と揶揄(やゆ)したり、若い医師に「てめえ、さしずめインテリだな」とタンカを切ったりして、観客の爆笑と共感を呼んできた。

 実生活の役に立たない学問を小馬鹿にする寅は、国立大学の人文社会系学部の廃止や転換を求める文部科学省と一見、相通じるものがある。

 寅の生みの親、山田洋次監督(83)は「しかしね、寅は本物の教養のある人はちゃんと尊敬しているんですよ」と言う。例えば、妹さくら(倍賞千恵子)の義父に当たるひょう一郎(ひょういちろう)(志村喬)。彼は大学でインド古代哲学を教えていた。

 「今の政府が求めるものとは最も遠い学問でもね、ひょう一郎がインド哲学を一生懸命勉強していることがこの国にとって重要な意味を持つということを、寅はきちんと理解している。こういうインテリを適当にからかいながら、深い愛情を持って接しているんです」

 また、さくらの息子の満男(吉岡秀隆)から「何のために大学に行くの」と問われた寅は「(人生の一大事に直面した時に)勉強したヤツは、自分の頭できちんと筋道を立てて、はて、こういう時はどうしたらいいかなと考えることができるんだ」とも言っている。

 「渥美さん自身は、大変な読書家でとても教養のある人でした。だから観客は安心して笑うことができたんだと思う」と山田監督。ところが今は、インテリをあざ笑う寅の表面だけが残り、裏側の尊敬や愛情が消えてしまった。

 山田監督は現代の風潮を「知らないことを恥ずかしく思わなくなってしまったのでは」と憂える。一国の宰相がポツダム宣言を「つまびらかに読んでいない」と平気で言ってしまえる世の中。若者たちも知ったかぶりをしなくなっている。いや、知ったかぶりさえしなくなったというべきか。

    *

 1980年代にはまだ知ったかぶりの文化が残っていた。『日本型「教養」の運命』などの著書がある帝京大の筒井清忠教授(67)は「知識人と大衆が分離している欧米と異なり、両者の間がとても近かった」と言う。「しかし、その近さが災いし、70年代から大衆文化の影響力が増し、教養主義が衰弱していった。80年代はその最後の輝きだったのではないか」

 輝きの一翼を担ったのが、堤清二氏率いるセゾングループだった。イメージ広告を駆使し、文化的なライフスタイルを提示した。東京ではデザイナーズブランドの服を着た若者が「ポストモダン」と口にし、おしゃれな映画館シネヴィヴァン六本木に通って、商業映画に回帰したジャンリュック・ゴダールの新作を見る。小脇には浅田彰著『逃走論』を抱え、薄暗いカフェバーでフランス現代思想の用語を交えた会話を楽しんだ。

 「教養」はダサイ印象を与えるため、「知」と言い換えられた。「知」をまとうことは一種のファッションと化した。若者たちは争って背伸びをした。若者の背伸びは決して悪いことではない。それは成長の原動力となっていた。ただ一方で、資本主義に取り込まれすぎた「知」はうさんくささも露呈した。

    *

 教養を求める志向が人々の間から消滅してしまったかというと、必ずしもそうではない。例えばスタジオジブリのアニメ映画。世代や性別を超えて多くの人々が見ている。これを元に、異なる立場の人同士が意見交換できる。現代のコミュニケーションツールとして有効に機能している。

 ジブリの鈴木敏夫プロデューサー(67)は言う。「ジブリを支えた2人の監督、高畑勲と宮崎駿は教養をとても大事にしている。僕は高畑さんから加藤周一を、宮崎さんから堀田善衛を教わった。2人とコミュニケーションを取るために、たくさん本を読みました」

 「千と千尋の神隠し」には日本古来の宗教観、「もののけ姫」には被差別民の歴史、「かぐや姫の物語」には伝承民話に対する深い教養が土台に横たわる。鈴木プロデューサーは言う。「ジブリの映画は『教養映画』と呼んでもいいかもしれませんね。高畑さんと宮崎さん、どちらの映画にも若者への説教が入っている。これも『教養映画』の一つの条件ですよね」

◆◆山田監督インタビュー=「さしずめインテリだな」寅さんは教養をどう見ていたか

2015819日朝日新聞

「男はつらいよ 寅次郎恋歌」(山田洋次監督、1971年)の志村喬(左)と渥美清=松竹提供

 文部科学省が国立大学の人文社会科学系学部の廃止・転換を求める通達を出すなど、現代の日本社会には「教養」というものに対する逆風が吹いている。寅さんという「教養」とは対極にいそうな人物を生み出した映画監督の山田洋次さん(83)は「教養」についてどんな考えを持っているのだろう。

――「男はつらいよ」の車寅次郎はインテリ嫌いだとよく言われます。実際そんなセリフもたくさんありますが、インテリ嫌いの一言ではくくれない思いもあるような気がします。

 そうだね。寅さんのインテリ嫌いが最も雄弁に語られているのはね、「続・男はつらいよ」で山崎努が演じる若い医者と、寅が言い争いをする場面でね、山崎さんが「その点については僕が謝る」という言い方をしたのを受けて、寅が「お! てめえ、さしずめインテリだな」って言うところですね。そこで観客が大爆笑した。びっくりしました。

――有名なセリフですね。私も大笑いしました。

 「てめえ、インテリだな」というのは僕が書いたセリフです。だけど、そこに「さしずめ」をくっつけたのは渥美清さん。優れた俳優というのは、とっても素晴らしい言葉を、時々無意識に出してくるんですよ。寅さんはね、深い教養のある人のことは分かるんですよ。そういう人のことはちゃんと尊敬しています。

――インテリをからかう裏には、教養への尊敬があるんですね。

 「寅次郎恋歌」に志村喬さんが演じた(ひょう)一郎(は風の右に火3つ)という元大学教授が登場します。寅の妹さくら(倍賞千恵子)の夫である博(前田吟)の父親です。彼は大学でインド古代哲学を教えていた。寅にとってはインド古代哲学は縁もゆかりもないけれど、(ひょう)一郎のような人がそれを一生懸命勉強していることがこの国にとって重要な意味を持っていることは理解している。彼を尊敬しています。適当にからかったりしながらも、心の底で深い愛情を寄せている。

――実社会で役に立たない学問を馬鹿にする寅さんと、人文社会科学系学部の廃止・改編を通達する文部科学省の考え方は表面上は似ていますが、奥のところで違っていますね。

 インド古代哲学なんていうね、実学しか必要ないと言っている今の政府が求めるものからは最も遠い学問でもね、寅さんは認めている。教養がなくなるとね、乱暴な決めつけをするようになります。今の政府・与党がそうですよ。居酒屋で酔っ払ったおじさんが話しているんならいいですよ。「やっつけろ」とか「つぶしてしまえ」とか。でも、公の席で口にすることではないですよ。

――教養って何でしょうか。

 それはとても難しい問題だけどね、ある種の常識って言うのかなあ、あれは「寅次郎相合い傘」でしたが、浅丘ルリ子のリリーと船越英二のパパと寅さん、3人で北海道を列車で旅している時にね、寅さんが言うんです。パパのことを「この男、変わってるよね」と。そして「俺たち常識人には理解出来ないよね」って続けた。観客がワーッと大笑いするんですけどね。じゃあ、常識って何だろうと思うわけです。例えば、日本は1941年にパールハーバーに奇襲を仕掛けてアメリカと戦争を始め、1945年に2回の原子爆弾を受けて戦争が終わった、というようなことはまあ常識として知っていなくちゃいけない。でもこうした歴史的知識を知らない人が増えている。しかも知らなくても大学に入れる。それなら覚える必要はない。でも、そうじゃないですよね。常識は知っていなくちゃいけないんです。国民がどんな常識を持っているかで、その国の文化レベルが決まってくるんじゃないでしょうかね。その意味で、インド古代哲学を研究する人がこの国には必要だということを、寅さんは常識として知っているんだと思いますよ。

――教養がないのは常識がないことですね。

 常識として持っていなきゃいけない教養というのがありますよね。そういう知識を持っていないことを恥じるというかな、そういう気持ちがなくなってきた気がしますね。昔、スノビッシュという言葉があってね、簡単に言ってしまえば、知ったかぶりをすることなんだけど、知識があることを自慢するという発想が今の若者にはあまりないんじゃないかな。日本と米国が戦争をしたことを知らなくても恥ずかしいと思うことがないですよね。

――常識がないと寅さんのセリフを面白がることもできないような気がします。

 寅さんが「さしずめインテリだな」と言って観客がワーッと笑うということはね、いろんな大事な意味があってね。渥美さんという俳優は、実は非常に知的な人なんです。大変な読書家だし、人間について、世界について深い教養を誰よりもよく持っている。誰よりも道理を心得ている。すべてを分かっている渥美さんが「さしずめインテリだな」と言っている。だから観客は「馬鹿だねえ」「どこが馬鹿なんだよ」というやりとりを聞いて、安心して一緒に笑うことが出来る。そんじょそこらの役者じゃ成り立たないんです。

――「インテリは自分で考えすぎますからねえ」というセリフも印象に残っています。第3作「フーテンの寅」で、好きな女に告白も出来ない河原崎建三の大学生に向かって寅さんが言うんですよね。

 そうそう、ありましたねえ。「自分の頭は空っぽだから、たたけばコーンと音がする」ってね。インテリはね、寅さんのことがうらやましいんだよ。インテリの頭の中は配線がゴチャゴチャだからね。あのセリフも、渥美さんが道理をわきまえた知的な人だから言えるんだと思いますね。

――山田さんもうらやましいですか。

 ハハハ。僕はね、渥美さんにこう言われたことがあるのよ。「山田さんはインテリですね」って。僕をからかってるんですけどね。「なんで? 僕のどこがインテリなの?」と聞いたらね、「山田さんはしつこいから」って言うんですよ。撮影現場で何度も何度もやり直しをさせるからなんですけどね。「映画の作り方がね、あきらめが悪い」って。「それはインテリだからなんですよ」と。「あたしなんかはすぐに諦めるね」と渥美さんは言うんだ。江戸っ子っていうのは、そういう傾向があるのかね。「だけど、ものを作る人にはね、諦めの悪さが必要なんですよ」と渥美さんは言ってた。そういうことを深い部分で理解しているんですよね、渥美さんは。

――渥美さんのような人が少なくなりました。

 昔、先代の柳家小さん師匠が落語協会の会長だった時、「会長の仕事は大変でしょう」と聞いたんです。そしたら小さん師匠がね、「いやあ、大したことはやってねえけどね、物事を決めるには理事会を開かなきゃいけないんだけど、話がややこしくなるとね、理事の連中はすぐ『もういいや、そんなことどうでも。早く酒飲もう』となっちゃう」と。

――私もややこしくてなかなか決まらない会議によく出席させられます(笑)。

 でもね、民主主義の議論っていうのはね、しつこく果てしなくやらなきゃいけないんですよ。「同胞」という映画の議論はそうでした。夜遅くなっちゃって、「議長、もうやめようよ」というセリフに観客はわーっと笑うわけだけど、その笑いってのは、「そういうことってあるよねえ」という思いと同時に、「やめろよ」と言いながらも最後の最後まで一生懸命議論することへの共感があるんですよ。

――果てしない議論は馬鹿馬鹿しいという思いと、でもその議論が必要だという思い。当時の観客は両面を理解していましたね。いまは馬鹿馬鹿しいという思いだけになりがちです。

 そうだねえ。最初から議論する気がないというかなあ。自分がこう決めたら何が何でもこれで行くんだ、議論は形ばかりでいい、というのが今の国会なんか見てるとそうなっていますね。少数の意見にも、ちゃんと耳を傾けて真摯(しんし)に考える。それが民主主義じゃないのかな。

――民主主義って、面倒くさくて格好悪いものなんですよね。

 そう。とっても効率が悪いんですよ。果てしなく議論しなきゃいけないし。安保法案なんて2年かけても3年かけても議論し尽くさなきゃいけないんじゃないのかね。うんざりするくらい議論しなきゃいけない。早く決めちゃいけない。延々と議論して、寅さんに「あんたたち、しつこいねえ。やっぱりインテリだねえ」とからかわれるくらいでないといけないんですよ。

――本当ですねえ。

 寅はちゃんとそういう果てしない議論を認めるんですよ。あくびしたり、居眠りしたりしながらね。強引に多数決で決めちゃえというのは、寅さんは「良くねえ」と言うんじゃないかなあ。「そんなこと言わないで、あいつの言い分を聞いてやれよ」とね。渥美さんという人がね、そういう人だったんです。大勢の人がいるとね、一番目立たない人のことをいつも見ている。その人がどういうことを考えているのかを想像するのが渥美さんは好きだったね。少数意見にこだわる人の気持ちを渥美さんは面白がっていましたねえ。

――民主主義の理想の形ですね。今日はありがとうございました。(聞き手 編集委員・石飛徳樹)

───────────────────────────

🔵山田洋次監督の経歴、「人生の贈り物」(朝日新聞連載)

1931- ] 

───────────────────────────

映画監督。大阪府豊中(とよなか)市生まれ。1954年(昭和29)東京大学法学部卒業、松竹大船撮影所に演出助手として入社。主として野村芳太郎(よしたろう)の助監督をつとめ、1961年に『二階の他人』を初監督。『下町の太陽』(1963)、『馬鹿(ばか)まるだし』(1964)などの庶民喜劇で着実に実力をつける。1969年に監督した渥美(あつみ)清主演の『男はつらいよ』が大ヒットし、以来年1~2本のペースで1996年に渥美が亡くなるまでこのシリーズ48作品をつくり続け、松竹の屋台骨を支えながら日本の代表的監督となる。その間、『家族』(1970)、『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』(1977)、『遙(はる)かなる山の呼び声』(1980)、『キネマの天地』(1986)、『息子』(1991)、『学校』(1993)など、松竹映画の伝統を受け継いだ良質のドラマを生み出している。2002年(平成14)より時代劇作品も手がけ、『たそがれ清兵衛』(2002)は海外からも注目された。2003年から横綱審議会委員を務める。2004年文化功労者。

[品田雄吉] 

◆◆人生の贈りもの=映画監督・山田洋次

2014100615

やまだ・ようじ 東大法学部卒業。松竹入社。1961年、「二階の他人」で監督デビュー。国民的映画「男はつらいよ」をはじめ、「家族」「幸福の黄色いハンカチ」「学校」など数多くの作品を通じて人間の生き方を問いかけている。

情けなさ知った、幼き日の阿蘇山

 ――毎年夏休みを鹿児島県奄美大島の加計呂麻(かけろま)島で過ごされています。18年連続と聞きました。「もはやここは第二の故郷」と滞在先の色紙に書かれています

 加計呂麻島は映画「男はつらいよ」最終48作「寅次郎紅の花」(1995年)の舞台となりました。寅さんが「元気かい?」とマドンナのリリーに会いに来る。もう若くない2人は自然豊かな島で仲良く一緒に暮らすのです。渥美清さんは亡くなりましたが、寅さんはいまも島にいて、赤い花が咲くデイゴ並木の木陰で地元の人たちと語り合っているような気がします。

 ――まさに「心のふるさと」ですね

 若いころは北国に毎年スキーに行きましたが、年を取るとやはり暖かい土地のほうですね。奄美ではスキューバダイビングに挑戦したこともあります。台風で外に出られなかったこともありますが、そんなときは地元の人が宴会を開いて歓待してくれます。僕はお酒は飲めないけれど、人々の情の細やかさに癒やされます。

 ――故郷といえば、お生まれは大阪府の豊中市です

 1931(昭和6)年9月13日、父正、母寛子の次男として生まれました。日本の中国侵略が本格的に始まった年です。父は九州大学工学部を卒業した技術者。大阪市内にあった汽車製造会社で蒸気機関車の設計をしていました。阪急沿線の分譲地を購入し、山小屋風のモダンな家を自ら設計しました。

 ――その大阪から3歳のとき旧満州に移住します

 満鉄(南満州鉄道)が当時、長距離を給水なしで走る蒸気機関車の研究をしていて、そのプロジェクトチームに父が誘われたのです。満州の旅順で生まれた母は転勤を喜んだのではないでしょうか。女学校を卒業するまで内地の土を踏んだことがなく、そのせいか開放的で日本的な因習に染まらない女性でした。

 ――満州に渡る前に一家で九州旅行に出かけたそうですね

 父の郷里である現在の福岡県柳川市へ墓参にでかけたついでに足をのばし、阿蘇山に行ったことを覚えています。強力(ごうりき)のおじさんが僕を背負ってくれました。でも見知らぬ大人に背負われたうえに硫黄の臭気に包まれた不気味さが怖くて、僕は大声をあげて泣きました。母が強力のおじさんに気をつかって僕をしかりつける。その気持ちはわかるけど怖さはどうしようもない。オイオイ泣きながら「ボクは意気地なしだなア」とひどく自分が情けない人間に思った。あの阿蘇山での幼児体験から僕の人生が始まったような気がします。

 (聞き手・編集委員 小泉信一)

満州の映画館、お手伝いさんの涙

 ――3歳のとき、旧満州に渡りました。新京(現・長春市)の小学校に入学したそうですね

 担任は村上先生という若い独身の女性でした。僕の遠い記憶の中では、広い額、きりりとした眉、意志の強そうなあごの線。オードリー・ヘプバーンを東洋的にしたような色白の美人でした。

 その村上先生があるとき、「仲のよい友達の名前を言いなさい」と順番に指名したのです。クラスには小林君という体が大きくめっぽう乱暴な怖い男の子がいて、みんなが一人残らず小林君の名前を挙げるのです。この異常な状況に、先生の美しい眉がだんだん曇ってきました。

 ――目に浮かぶようです

 僕は級長をしていたので、先生はせめて僕からは別の答えが聞けるはずと期待していたに違いない。なのに僕も意気地なく「小林君です」と答えてしまった。ところが最後に、稲垣君という色白の少年が「僕は小林君なんか大嫌いです」と堂々と宣言したのです。僕は恥ずかしかった。「なんて僕は卑怯(ひきょう)なのだ」と悲しかった。

 ――忘れられない体験ですね

 父の転勤で小学2、3年のときは奉天(現・瀋陽)で過ごしました。板東君という友達ができ、彼の自宅には講談全集が並んでいました。僕の家では『小公子』『家なき子』など翻訳本しか読ませてもらえず、講談本は低俗だという理由で許されなかった。だから僕は板東君から借りた非公認の講談本を親に隠れて夢中で読みました。霧隠(きりがくれ)才蔵、猿飛佐助(さすけ)、荒木又(また)右衛門……。わくわくするほど面白かったなあ。

 ――奉天のご自宅には、長崎の五島出身のお手伝いさんが働いていたそうですね

 「ふみさん」と言いました。あるとき、このふみさんが「白蘭(びゃくらん)の歌」という長谷川一夫、李香蘭主演の映画を見に行くことになり、若い娘を1人で映画館に行かせるわけにはいかないということで母に命じられて小学生の僕がボディーガードとしてついて行ったのです。併映作品が山本有三原作、田坂具隆(たさかともたか)監督の「路傍の石」でした。

 僕は「白蘭の歌」の方は何も覚えていないが、「路傍の石」はよく覚えている。吾一という少年が田舎から身売りされて東京の商家で懸命に働くという物語です。

 気がつくと、ふみさんが泣いていた。女中のふみさんは吾一少年の悲しみを自分のものとしていたのでしょうね。声をあげて泣いていたので僕はびっくりしたのです。

 ――映画「小さいおうち」でお手伝いを演じた黒木華さんのような人だったのでしょうか

 あんな美人ではないけど色白でふっくらとしていて、いつも泣いたあとのような目元の寂しい娘さんでした。真っ暗な映画館の中で白い頬に涙がキラキラ輝いていたことを僕はよく覚えています。

 ふみさんにはやがて結婚話が来て、郷里の五島に帰って行きました。

 (聞き手・小泉信一)

空腹抱えて見た、ソ連映画の美しさ

 ――終戦の年の1945年はどこで何をしていましたか

 大連の中学生でしたが、勉強はせずに勤労動員の日々でした。8月になり、ソ連が参戦したので慌てて大連市の周囲に戦車壕(ごう)を掘ることになった。その上を戦車が走ると、どんと落ちる仕掛けです。

 ――そして15日を迎えました

 炎天下、フラフラになりながら作業していたが、突然中止となり、近所の小学校に集められた。「おそれ多くもいまから天皇陛下のお言葉がある」というのですが、音質の悪いラジオで何を言っているのか分からない。ただ覚えているのは、整列した僕の目の前にいた木村君という男の子の痩せた背中を、汗がタラタラ流れていたことです。脂肪がなく、肩甲骨がぐわっと浮き出た木村君の背中のイメージは鮮明に脳裏に残っています。

 ――では、敗戦はどこで知ったのですか

 電車に乗って学校に帰ったら「日本は戦争に負けたらしいぞ」と上級生が言うのです。やがて教師が来て「明日から当分登校しなくていい」と言いました。僕は戦争に負けたという衝撃より、炎天下のつらい労働が明日からなくなるらしいという安心感でホッとしたものです。

 ――街はどんな様子でしたか

 中学に通じる坂道の下に貧しい中国人街が広がっていて、その屋根屋根に何百本もの国民党の「青天白日旗」が掲げられていたのを見て身震いした。中国人は何日も前から日本が降参するのを知っていたわけです。僕たちは急に怖くなって走るようにして家に帰りました。

 「復讐(ふくしゅう)されるかも知れない」と日本人は本能的に感じました。酷(むご)い仕打ちを僕たちはしていたわけです。中国人や韓国の人たちに対して抱いていた非礼な差別意識を僕は心から恥じます。

 ――ご家族は

 預金も株券もゼロになり、通信手段もすべてストップ。満鉄の技師だった父は完全に失業。日本円は使えなくなり、収入は途絶え、それまでの比較的裕福な暮らしが一転してしまいました。

 中学生も食うために働かなければならず、僕はピーナツや古本を売るアルバイトをしました。でも、ピーナツ売りは腹ペコなので我慢できずつい商品を食べてしまう。これでは儲(もう)けは出ないのですぐやめてしまったけど。

 ――ソ連占領下、「空腹」が一番の思い出でしょうか

 育ち盛りの子どもにとって空腹ほどつらいことはないけど、でもそんな中でソ連軍専用の映画館に潜り込んで「石の花」という美しい映画を見たことが懐かしい記憶です。生まれて初めてのカラー映画。すてきな出だしだったなあ。

 森の中の樹の枝にとまっているトカゲが音楽と共に美女に変身する。ソ連というあの野蛮な国が、こんな美しい幻想的な映画をつくるのかと不思議な気がしたものです。(聞き手・小泉信一)

苦しい闇屋の旅、笑いがくれた勇気

 ――旧満州から日本へ引き揚げたのは1947年春でした。山口県で暮らします

 父の姉の家に身を寄せて宇部中学に転入します。生まれて初めて経験する日本の田舎の生活は戸惑うことばかり。なかなか友達ができない。「ぬしゃあ、どこの人間じゃ」。聞き慣れない長州弁の中で標準語を話すのは気が引けました。

 満州時代の僕はおしゃべりで冗談好きな少年でしたが、次第に自分を閉ざして無口な少年になったような気がします。

 ――孤独な青春です

 肉体労働の経験もない父には仕事が見つからない。僕たち家族は伯母にお金を借り、小さな雑貨屋みたいな店を始めたのです。闇市で仕入れたタワシ、せっけん、ろうそくなどを並べ、道行く人に売る。ふかしたサツマイモを輪切りにして皿に並べて売ったりもしました。

 ――暮らしはなかなか良くなりませんね

 工場で燃焼したあとの石炭ガラを貨物車両からトロッコにシャベルで移し、そのトロッコを押して埋め立て現場の海岸に運ぶアルバイトもしました。もうもうと粉塵(ふんじん)が立ちこめ、汗だらけの体が真っ黒になるのです。

 栄養失調気味の中学3年生には重労働でしたが、仕事が終わると事務所に行き、キムさんという在日朝鮮人の親方からお金をもらうのです。「ゴクロウサン。ヤマダ、コレノメ」となみなみと丼に注いだ濁酒(どぶろく)を飲まされるのですが、僕は酒が弱い。懸命に顔をしかめて飲むとその顔がおかしいのか、周りのおじさんたちがドッと笑う。しかし笑われた僕は決して不愉快ではなかった。不思議な温かみがキムさんたちにはありましたね。

 ――冬休みにはお兄さんと闇市に出す品物を仕入れに遠方に行っていたそうですね

 仙崎という日本海側の漁港に行き、魚の干物やいりこなどを仕入れました。長い時間、超満員の、それも客車代用の貨物車両の、しかも連結器の上に乗っていたりする。振り落とされまいと取っ手にしがみつく。ハルさんと呼ばれる若者が「なんじゃい、その格好は。サルが木の枝にとまっとるようじゃい」と大声でからかうと皆が笑う。なぜかおかしくて僕も笑ってしまう。笑うことで苦しい人間は勇気を得るのですね。

 ――寅さんの世界みたいです

 ハルさんが闇屋を取り締まる警察官に「お互い日本人じゃろが。食ってゆけんのは同じじゃなあか」と陽気に叫ぶと警察官も苦笑して引き下がる。みじめな闇屋の旅も、ハルさんがいるとどんなに救われたことか。

 ――苦学の末、旧制山口高校から東京大学に進みました

 東京へ行きたかった。東京は出自を問わず、誰でもありのままに受け入れる自由で開放的な街のように思えたのです。貧乏だから私立大学は無理。東京の国公立大学といえば単純に東大だと考えて受験しました。

 ――法学部に進みます

 何となくです。卒論がないので楽に卒業できると思ったのです。(聞き手・小泉信一)

サークルで芽生えた映画界への憧れ

 ――大学では学生寮に入ります。暗い学生だったそうですね

 いまの言葉で言うと、ネガティブな青年でした。2年生のとき、同室の友人から「仲間から身を引いて批判的な姿勢であり続ける限り、君自身が変わることは決してありえない」と説教され、サークルに入ることを勧められました。のちにセゾングループの創設者となる堤清二さんらがつくった「東大自由映画研究会」です。学生が主人公の劇場用映画を学生の力で製作するという無謀な夢を抱いて全員が忙しく駆けずり回っていましたが、その活動の中で映画界への漠然とした憧れが芽生えたような気がします。

 ――まさに転機です

 五月祭に今井正、山本薩夫(さつお)の両監督を招いて、初めて「映画監督」と呼ばれる人を間近に見ました。憧れの人でした。今井さんの吸っていたたばこの銘柄や、山本さんが履いていた靴の形までよく覚えています。

 ――4年生になり、就職を考えざるをえなくなります

 なにしろ成績が悪くて、卒業すら危なかったから普通の企業は無理だと学生課から厳しく言われて。入社できればどこの企業でもいいと思った。アルバイトで生活をすることは考えられない時代でしたから。

 ――どこを受けたのですか

 学校の成績は考慮しない会社です。新聞社、放送局、出版社など。運良くある新聞社に受かりました。早めに研修が始まったのですが、政治部への配属が決まってがっかり。政治なんてまったく興味がなかったのでこの新聞社は諦め、時期が遅れて求人があった松竹大船撮影所を受けました。1954年の2月。2千人以上の受験者がいてとても無理だと思いました。予想通り落ちましたが、大量の助監督が日活に引き抜かれたので補欠で採用されたのです。

 ――映画界はまだ繁栄を謳歌(おうか)していた時代ですね

 初任給は6千円。半年後に1万1千円。安月給ですが貧乏暮らしが長かった僕にとってちゃんと月給が出ることがうれしかった。撮影所の食堂で山盛りの白いご飯を目の前にして「ああ、これで食べる心配がなくなったな」とひどく幸せな気持ちになった日のことをよく覚えています。

 ――就職の翌年、1955年に結婚されました

 鳥取出身の女性で、東京の女子大生でした。学生運動を通じて知り合いました。(2020年の)東京オリンピックのために間もなく消える、神宮外苑にある日本青年館の地下食堂で披露パーティー。300人の参加者、会費350円。サンドイッチとビールだけのささやかな式でしたが、生まれて初めてスーツと革靴を作りました。

 新居は新聞広告で探した10畳の貸間。僕が書いた「蜂の子」という脚本が東映の教育映画に採用され、脚本料8万円をもらい、そのお金で目白の古道具屋でタンスを買いました。今でも大切に使っています。あの頃の8万円はかなり遣(つか)い出があったものです。(聞き手・小泉信一)

笑い声に救われ、わずかな自信

 ――1954年に同期入社した大島渚さんらが「日本のヌーベルバーグ(新しい波)」と呼ばれる潮流の中で独立します

 僕は取り残された感じでした。あの頃の松竹は愚にもつかぬメロドラマ、甘ったるい歌謡映画やホームドラマが多くて。松竹のマエストロ的存在だった小津安二郎監督もブルジョアの暮らしを得々として描いているようにしか思えなかった。

 ――その松竹で黒澤明さんも映画を撮っています。「醜聞〈スキャンダル〉」(50年公開)と「白痴」(51年)です

 黒澤さんの仕事ぶりは松竹のスタッフに強烈な印象を残したようです。松竹育ちの監督はスタッフの前では悩む姿を見せたくない、というよく言えばダンディズムの伝統があったけど黒澤さんは全く違った。なりふり構わず苦しみをむき出しにして夢中になって映画を作る。「ああ、それでいいんだ」と松竹の助監督たちは感動したのです。

 ――松本清張原作の「ゼロの焦点」(61年)を映画化することになり、脚本家橋本忍さんの助手として橋本家に通いました

 日本一のシナリオライターの橋本さんは楽々と脚本を書くのだろうと想像していたけど、実はのたうち回るように苦しみながら作り上げるのだということを教えられました。脚本が完成した日、僕が「脚本家は油まみれで働く労働者のようですね」と言ったら、橋本さんは「いや、お百姓に近いんじゃないか」と答えました。「種をまいて芽が出て、天気を気づかったり水の心配をしたりしながら作物の実りを待つ。そういう忍耐のいる、いや、忍耐だけが頼りの仕事だよ」と。

 ――7年の助監督生活を経て「二階の他人」(61年)でデビュー。2作目が「下町の太陽」(63年)でした

 前年の62年に歌手デビューした倍賞千恵子君が歌った「下町の太陽」が大ヒットして、それを主題歌にして明るく楽しい「青春歌謡映画」をつくれという会社の提案です。結果的には憧れていたイタリアのネオリアリズム風のちょっと暗い映画になってしまってあまりヒットしなかったけど、倍賞君に出会ったのは大きな収穫でした。それ以降、この素晴らしい女優に僕はどれだけ助けられたか分かりません。

 ――3作目が喜劇映画「馬鹿まるだし」(64年)です。一世を風靡(ふうび)していたクレージーキャッツのハナ肇さんが主役でした

 口角泡を飛ばして映画を論じ、日本映画での喜劇に対する不当に低い評価を嘆いてみせる。ハナさんのひたむきさを作品に出したいと思ったが、完成して試写室で見たらバラバラでちっともおもしろくない。

 すっかり気落ちして封切りの日も家で寝ていたらプロデューサーに呼び出されました。新宿の映画館のドアを開けたら、どーっと笑い声が押し寄せた。僕の映画は可笑(おか)しいんだということを観客が教えてくれた。僕に、わずかながら監督としての自信を与えてくれた喜劇の第一作です。(聞き手・小泉信一)

渥美さんの魅力、寅さん生んだ

「男はつらいよ」の地方ロケ。(右から)武田鉄矢さん、倍賞千恵子さん、渥美清さんの演技を見守る山田洋次さん=1978年、熊本県阿蘇市

 (83歳)

 ――いよいよ渥美清さんのお話です。第一印象は

 ハナ肇さん主演の「馬鹿」シリーズに2度脇役として出演したけど、実に強烈な印象でした。片時もじっとしていない。シェパードのように暴れ回る――。この役者と仕事をしたくないな、と思ったものです。

 ――ですが「男はつらいよ」で再び一緒に仕事をします。あの映画は、同じ題名の連続テレビドラマ(1968~69年、計26回)から始まりました

 渥美さんを主人公にしたドラマの脚本を書いてほしいというフジテレビの提案があり、あの強烈な役者と四つに組んでみよう、そのためには彼のことをよく知らなければと、僕の仕事場だった赤坂の旅館に来てもらったのです。

 渥美さんが少年時代に憧れたテキヤの話をたっぷり聞きました。「四谷赤坂麹町(こうじまち)、チャラチャラ流れるお茶の水、粋な姐(ねえ)ちゃん立ち小便……」という啖呵(たんか)バイの口上を朗々と披露する。なんと話が上手な人だと驚嘆しました。そして、その見事な表現力とおそるべき記憶力。まるで名人の落語家のような話しっぷりに僕は圧倒されたのです。

 ――話芸の天才です

 渥美さんは東京の下町で貧しい少年時代を過ごしました。病弱で学校は休んでばかり。戦後の混乱期に不良少年時代を経て浅草のストリップ劇場でコメディアンとしてデビューし、そしてテレビ、映画を通して喜劇スターとなる。その渥美さんの人生観や美意識、感性を土台に、落語に登場する「熊さん」をモデルにして生まれたのが「車寅次郎」です。

 ――しかしテレビ版「男はつらいよ」の最終回では、寅さんは奄美大島でハブにかまれてあっけなく死んでしまいます

 こんな自由奔放な生き方を、今の管理社会は許さないのだと主張したかったのです。ところが、テレビ局に「あんな終わり方はひどい」「よくも寅を殺したな」と抗議の電話が鳴りっぱなし。僕は大いに反省しました。それほど視聴者に愛されていたのならスクリーンの中で寅さんを生き返らせよう、それが僕の役目だと、映画化を会社に提案しました。

 ――当初は、上層部から猛反対されたと

 「テレビでやったものをまた映画でやって客が来るのか」と冷たい反応でした。僕は「大勢の視聴者があれほど寅さんの死を悔やんでくれたのだからきっと見に来てくれる」と譲らず、最後は、当時社長だった城戸四郎さんの「それほど山田君がやりたいと言うなら、やらせてみようじゃないか」の一声で映画化が決まりました。

 ――上映は69年8月でした。やがて、盆と正月の年2回の公開となります

 いつだったか渥美さんがこんなことを言っていた。「私という独楽(こま)が山田洋次さんという独楽にぶつかって、勢いよく弾んで回り始めたような気がします」と。二つの独楽が勢いよく回り出したわけです。(聞き手・小泉信一)

寅さん、いまも観客の心の中に

最新作「小さいおうち」は第64回ベルリン国際映画祭に出品された。黒木華さん(右)が日本人4人目の最優秀女優賞を受けた=今年2月、ベルリン

 (83歳)

 ――1971年公開の第8作「寅次郎恋歌」で初めて観客動員100万人を突破しました

 日本は高度成長のまっただ中にあったけど、このまま走り続けていっていいのかという不安が日本人の胸の中に頭をもたげつつあった時代です。そういう心の隙間に、寅さんは座を占めたように思います。

 ――正月と盆の年2回公開。国民的映画となっていきます

 カネも学歴も地位もない。頭も顔もよくない。美女に振られてばかりいるアンチヒーロー。観客は寅の愚かな姿を笑いつつ、心の奥底で共感していたのだと思います。

 ――渥美清さんが96年8月4日に他界し、寅さん映画は48作目で終わります

 40作目を過ぎたころから渥美さんの体力が急激に落ち始めました。「肝臓が悪いと、体がどうしようもなくだるいのです」と教えてくれましたが、実はがんだったのです。

 ――幻の49作目がありました

 「寅次郎花へんろ」とタイトルまで決まっていた。舞台は高知県。傷心の女性がお遍路の旅に出て寅と出会う。主な配役も決まっていました。

 打ち合わせも兼ねて倍賞千恵子君はじめ数人で6月下旬、渥美さんの事務所に近い代官山のレストランで渥美さんと打ち合わせをしたのです。話が済んで僕たちは渋谷の方に坂道をブラブラ下っていくのですが、渥美さんが店の玄関に立ったままいつまでも見送ってくれていた。それが最後の姿でした。

 ――寅さんはどこかで生きているような気がします

 入れ子というのかな。車寅次郎の中に渥美清が入っていて、さらにその中に本名の田所康雄(たどころやすお)がいて。その一番中の田所康雄が抜け出してしまったけど周りは残っている。観客の心の中にいまも寅さんは生きているのです。

 ――2000年代に入ってからは「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」「武士の一分」と時代劇3部作を撮りました

 刀を抜いて命のやりとりをする――。そういう映画を一度は撮ってみたいとかねがね思っていました。志を高く持ち、貧乏であることを誇りに思う武士の姿を(原作者の)藤沢周平さんが描いてくれています。

 ――「母べえ」(08年)では寅さん以来34年ぶりに吉永小百合さんとコンビを組みました

 戦争という無気味(ぶきみ)な時代の荒波に翻弄(ほんろう)されながら優しく強く生きる母親が主人公です。あの役は吉永さんしかいなかった。

 ――そして2011年を迎えます。監督生活50年を記念にした「東京家族」の撮影が4月から始まる予定でした

 大先輩の小津安二郎監督の名作「東京物語」へのオマージュ作品ですが、3月11日に大震災が起きました。クランクイン直前だったので、このまま撮影に入っていいものかどうか悩んだのです。結局、撮影を1年延期しました。戦後最大の災害を経た東京を舞台にして脚本を書き直し、12年3月から撮影を始めたのです。(聞き手・小泉信一)

暗雲の時代、心から笑える喜劇を

201410171630

映画づくりへの情熱を語る山田洋次監督。83歳のいまも、蒸気機関車のように力強く走り続ける=東京都渋谷区、小玉重隆撮影

 (83歳)

 ――今年で監督生活53年を迎えました。作品を作る上で最も大切なことは何でしょうか

 どうしてもこういうものを作りたいと作家の内部に湧き起こる衝動ではないでしょうか。

 たとえば、焼物師が壺(つぼ)をつくるとき、彼は考え考え粘土をいじくり、こねあげて、ある形に到達する。そして「ああ、この形だ」と思ったとき作品が決定する。「なぜ、この壺はこの形なのか」と尋ねられても、彼には説明できないでしょう。

 ――監督は普段、1人ではあまり食事をしません。「山田組」のスタッフや知人、友人がいつもいます

 映画をつくるという仕事は、気の合った仲間と旅行をするようなものだと木下恵介監督が言っていたそうです。

 スタッフや俳優たちが船員とすれば監督はかじ取り。「男はつらいよ」のときは、船の舳先(へさき)に渥美清さんが立って威勢よく音頭を取っていたのです。

 ――あのような人はいません

 役者になるために生まれたような人でした。素晴らしい頭脳と才能の持ち主。天才です。

 ――今年2月に高松市で開かれた「さぬき映画祭」で「風船おじさん」の話を観客の前で披露しました。とても印象に残りました

 多摩川河川敷の青テントで暮らすインテリのホームレスが、風船にぶら下がって空の旅をしようと夢見る話ですが、こんな突飛(とっぴ)なストーリーを考えるのはとても楽しいことです。

 ――9月13日で83歳になりました

 (2012年に)100歳で亡くなった新藤兼人監督という大先輩がいますが、ともあれ映画界の長老クラスになってしまいました。喜ぶべきか、悲しむべきか。

 ――次回作は熟年離婚をテーマにした喜劇「家族はつらいよ」(2016年公開)です。撮影が進んでいます。

 「東京家族」(13年)の撮影現場で、橋爪功さんはじめ出演者たちと雑談しながらふと思いついたストーリーです。

 「東京家族」の主要キャストがほとんど同じシチュエーションで登場しますが、こっちは喜劇。「東京家族」のパロディーです。自分の映画のパロディーを自分で作るわけです。

 ――なぜいま、喜劇なのでしょうか

 未来に暗雲が垂れ込めた時代だからこそ喜劇です。心から笑って「ああ、人生は捨てたものじゃないんだ。頑張って生きていこう」という思いを抱いて、観客が劇場をあとにするような映画を作りたい。それは昔からの僕の夢です。

 ――「男はつらいよ」シリーズ最終48作「寅次郎紅の花」(1995年)以来、21年ぶりの本格喜劇になります

 年老いた僕が僕自身をからかうような気分です。息子や娘のような若いスタッフに労(いたわ)られながら撮影に励んでいます。

 (聞き手・編集委員 小泉信一)

─────────────────────────────────

◆◆男はつらいよデータ集

─────────────────────────────────

小学館(百科)

日本映画。1969年(昭和448月に第1作が公開されて以来、盆と正月の年2作の平均ペースでつくり続けられている庶民喜劇。そもそもは映画監督山田洋次の原作で連続テレビドラマとして放送されたものだが、放送終了後、テレビで主演した渥美(あつみ)清と山田洋次監督のコンビで劇場用に松竹で映画化され、たちまち人気シリーズとなった。渥美の演ずるフーテンの寅(とら)こと車(くるま)寅次郎が的屋(てきや)稼業に飽きると、ふらりと生まれ故郷の東京は葛飾柴又(かつしかしばまた)に舞い戻り、叔父夫婦や倍賞(ばいしょう)千恵子演ずる妹さくらに、心配をかける。心配の種となるのは、寅さんの美女に対する一目惚(ひとめぼ)れというのが毎回おなじみのパターンで、マドンナ役とよばれる相手女優が一作ごとに変わるのが新味となる。意気がよく人のいい寅さんの人間的魅力を中心に、人情の温かさをじっくり描いて根強い人気を保ち続けている。なお、シリーズ中、山田監督以外の作品が2本あった。渥美清の死去により、第48作『寅次郎紅の花』がシリーズ最終作となった。

[品田雄吉] 

◆ツイッター寅さんの言葉と口上

https://mobile.twitter.com/torasanmeigen

◆がんばれ凡人」HP

http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/index.htm

以下の「男はつらいよ」の資料は、すべて

「がんばれ凡人」HPからの引用です。「寅さんの名セリフ集」は、たいへん面白い。

◆◆「男はつらいよ」データ

1作「男はつらいよ」

 昭和448

 ロケ地:京都・奈良

 マドンナ:光本幸子

 観客:543千人

2

 「続・男はつらいよ」

 昭和4411

 ロケ地:京都

      三重県柘植

 マドンナ:佐藤オリエ

 観客:489千人

3

 「フーテンの寅」

 昭和451

 ロケ地:四日市

      湯ノ山温泉

 マドンナ:新珠三千代

 観客:526千人

4

 「新・男はつらいよ」

 昭和452

 ロケ地:葛飾柴又

 マドンナ:栗原小巻

 観客:485千人

5

 「望郷篇」

 昭和458

 ロケ地:浦安・札幌

      小樽

 マドンナ:長山藍子

 観客:727千人

6

 「純情篇」

 昭和461

 ロケ地:五島列島

 マドンナ:若尾文子

 観客:852千人

7

 「奮闘篇」

 昭和464

 ロケ地:越後広瀬・沼津

      青森県鯵ケ沢

 マドンナ:榊原るみ

 観客:926千人

8

 「寅次郎恋歌」

 昭和4612

 ロケ地:岡山県備中高梁

 マドンナ:池内淳子

 観客:1481千人

9

 「柴又慕情」

 昭和478

 ロケ地:静岡・金沢

      東尋坊

 マドンナ:吉永小百合

 観客:1889千人

10

 「寅次郎夢枕」

 昭和4712

 ロケ地:甲府

 マドンナ:八千草薫

 観客:2111千人

11

 「寅次郎忘れな草」

 昭和488

 ロケ地:網走

 マドンナ:浅丘ルリ子

 観客:2395千人

12

 「私の寅さん」

 昭和4812

 ロケ地:天草・阿蘇・別府

 マドンナ:岸恵子

 観客:2419千人

13

 「寅次郎恋やつれ」

 昭和498

 ロケ地:津和野・温泉津

 マドンナ;吉永小百合

 観客:1944千人

14

 「寅次郎子守唄」

 昭和4912

 ロケ地:磯部温泉・信州

      唐津

 マドンナ:十朱幸代

 観客:2267千人

15

 「寅次郎相合傘」

 昭和508

 ロケ地:青森・函館

      札幌・小樽

 マドンナ」浅丘ルリ子

 観客:200万人

16

 「葛飾立志篇」

 昭和5012

 ロケ地:山形県寒河江市

 マドンナ:樫山文枝

 観客:2131千人

17

 「寅次郎夕焼け小焼け」

 昭和517

 ロケ地:兵庫県龍野市

 マドンナ:太地喜和子

 観客:1685千人

18

 「寅次郎純情詩集」

 昭和5112

 ロケ地:別所温泉

      新潟県六日町

 マドンナ;京マチ子

 観客:1726千人

19

 「寅次郎と殿様」

 昭和528

 ロケ地:松山市・大洲

 マドンナ:真野響子

 観客:1402千人

20

 「寅次郎頑張れ!」

 昭和5212

 ロケ地:長崎県平戸島

 マドンナ:藤村志保

 観客:1881千人

21

 「寅次郎わが道をゆく」

 昭和538

 ロケ地;阿蘇

      田の浦温泉

 マドンナ:木の実ナナ

 観客:1897千人

22

 「噂の寅次郎」

 昭和5312

 ロケ地:信州・木曽福島

 マドンナ;大原麗子

 観客:1915千人

23

 「翔んでる寅次郎」

 昭和548

 ロケ地;北海道支笏湖

 マドンナ:桃井かおり

 観客;1726千人

24

 「寅次郎春の夢」

 昭和5412

 ロケ地:和歌山・京都

      西陣

 マドンナ:香川京子

 観客:1841千人

25

 「寅次郎ハイビスカスの花

 昭和558

 ロケ地:沖縄・軽井沢

 マドンナ:浅丘ルリ子

 観客:2063千人

26

 「寅次郎かもめ歌」

 昭和5512

 ロケ地:北海道奥尻島

 マドンナ:伊藤蘭

 観客:1889千人

27

 「浪花の恋の寅次郎」

 昭和568

 ロケ地:大阪市天王寺

      生駒山

 マドンナ:松坂慶子

 観客:1821千人

28

 「寅次郎紙風船」

 昭和5612

 ロケ地:久留米・柳川

      秋月

 マドンナ;音無美紀子

 観客:1448千人

29

 「寅次郎あじさいの恋」

 昭和578

 ロケ地:京都・丹後半島

      信州

 マドンナ:いしだあゆみ

 観客:1393千人

30

 「花も嵐も寅次郎」

 昭和5712

 ロケ地:湯平温泉

      湯布院

 マドンナ:田中裕子

 観客:2282千人

31

 「旅と女と寅次郎」

 昭和588

 ロケ地;佐渡島

      北海道羊蹄山

 マドンナ:都はるみ

 観客:1511千人

32

 「口笛を吹く寅次郎」

 昭和5812

 ロケ地:岡山県高梁市

 マドンナ;竹下景子

 観客:1489千人

33

 「夜霧にむせぶ寅次郎」

 昭和598

 ロケ地:根室・釧路

 マドンナ:中原理恵

 観客;1379千人

34

 「寅次郎真実一路」

 昭和5912

 ロケ地:茨城県牛久沼

      枕崎

 マドンナ:大原麗子

 観客:1448千人

35

 「寅次郎恋愛塾」

 昭和608

 ロケ地:秋田県鹿野市

      五島列島

 マドンナ:樋口加南子

 観客:1379千人

36

 「柴又より愛をこめて」

 昭和6012

 ロケ地:伊豆七島

      式根島

 マドンナ:栗原小巻

 観客:1407千人

37

 「幸福の青い鳥」

 昭和6112

 ロケ地:福岡県筑豊・飯塚 マドンナ:志保美悦子

 観客:1511千人

38

 「知床慕情」

 昭和628

 ロケ地:北海道知床

 マドンナ:竹下景子

 観客:2074千人

39

 「寅次郎物語」

 昭和6212

 ロケ地:伊勢志摩

 マドンナ:秋吉久美子

 観客:1434千人

40

 「寅次郎サラダ記念日」

 昭和6312

 ロケ地:信州小諸

      長崎県島原

 マドンナ:三田佳子

 観客:1822千人

41

 「寅次郎心の旅路」

 平成元年8

 ロケ地:ウィーン

     アムステルダム

 マドンナ:竹下景子

 観客:1852千人

42

 「ぼくの伯父さん」

 平成元年12

 ロケ地:佐賀県吉野ヶ里

      古湯温泉

 マドンナ;後藤久美子

 観客:190万人

43

 「寅次郎の休日」

 平成212

 ロケ地:大分県日田市

 マドンナ:後藤久美子

 観客:2083千人

44

 「寅次郎の告白」

 平成312

 ロケ地:鳥取

 マドンナ:後藤久美子

 観客:210万人

45

 「寅次郎の青春」

 平成412

 ロケ地:宮崎

 マドンナ:後藤久美子

◆◆『男はつらいよ』

Wikipediaから

『男はつらいよ』は、渥美清主演、山田洋次原作・監督(一部作品除く)のテレビドラマ及び映画。テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては何かと大騒動を起こす人情喜劇シリーズ。毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも、失恋するか身を引くかして成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることが多い。

 主人公「フーテンの寅」こと車寅次郎は、父親、車平造が芸者、菊との間に作った子供。実母の出奔後父親のもとに引き取られたが、16歳の時に父親と大ゲンカをして家を飛び出したという設定。第1作は、テキ屋稼業で日本全国を渡り歩く渡世人となった寅次郎が家出から20年後突然、倍賞千恵子演じる異母妹さくらと叔父夫婦が住む、生まれ故郷の東京都葛飾区柴又・柴又帝釈天の門前にある草団子屋に戻ってくるところから始まる。

 シリーズのパターンは寅次郎が旅先や柴又で出会うマドンナに惚れてしまい、マドンナも寅次郎に対して好意を抱くが、それは多くの場合恋愛感情ではなく、最後にはマドンナの恋人が現れて寅次郎は振られてしまう。そして落ち込んだ寅次郎が書き入れ時である正月前、もしくは盆前に再びテキ屋稼業の旅に出て行くという結末で一貫している。

 『寅次郎夢枕』の千代や、いわゆる「リリー三部作」のリリーなどのように、寅次郎に恋愛感情を持ったマドンナもいたが、この場合は、寅次郎の方が逃げ腰になり、自ら身を引く形となっている。また、マドンナと「うまくいっている」と誤解している時点で、寅次郎が柴又に帰り、さくら達にマドンナとの楽しい体験を話す場面は、渥美清の語りは落語家のような名調子で、スタッフやキャスト達は「寅のアリア」と呼んでいた。

 第42作以降の4作品は、寅次郎の相手となる通常のマドンナに加え、さくらの息子満男(吉岡秀隆)が思いを寄せる泉(後藤久美子)がマドンナとして登場するようになり、寅次郎が満男のコーチ役にまわる場面が多くなっている。渥美が病気になり快活な演技ができなくなったため、満男を主役にしたサブストーリーを作成、満男の恋の相手が必要になったため、当初は予定されてなかった泉が登場することとなる。山田監督の話によれば第49作で泉と満男を結婚させようと考えていたらしいが、渥美の死去により幻になった(『紅の花』で泉の結婚式を妨害し、結婚式を中断させたのは結婚への伏線であったとも考えられる)。

◆◆映画「男はつらいよ」名セリフ集 

日本の情緒と、日本人の心を描きつづけてきた山田洋二郎監督の映画「男はつらいよ」。

今は亡き寅さん。しかし映像の中ではいつでも私たちの目の前に姿をみせてくれる寅さんの、数々の名セリフを集めてみました。

映画のシーンを思い浮かべながら、味わってみてください。 

◆第1作「男はつらいよ」から 

>>>冒頭の語り

 桜が咲いております。懐かしい葛飾の桜が今年も咲いております・・・・・・。思い起こせば二十年前、つまらねぇことで親爺と大喧嘩、頭を血の出るほどブン殴られて、そのまんまプイッと家をおん出て、もう一生帰らねえ覚悟でおりましたものの、花の咲く頃になると、きまって思い出すのは故郷のこと。・・・・・ガキの時分、鼻たれ仲間を相手に暴れまわった水元公園や、江戸川の土手や、帝釈様の境内のことでございました。風の便りに両親(ふたおや)も、秀才の兄貴も死んじまって、今はたった一人の妹だけが生きていることは知っておりましたが、どうしても帰る気になれず、今日の今日まで、こうしてご無沙汰に打ち過ぎてしまいましたが、今こうして江戸川の土手の上に立って、生まれ故郷を眺めておりますと、何やらこの胸の奥がポッポッと火照ってくるような気がいたします。そうです、私の故郷と申しますのは、東京葛飾の柴又でございます。

>>> おまえ頭が悪いな、俺とお前は別の人間だぞ、早え話が俺がイモ食えばテメエの尻からプッと屁が出るか?

>>> ハチの頭だとかアリのキンタマだとかゴタク並べやがって、おいテメエ、要するにさくらのことを嫁に貰いてえんだろう? 

>>> 博からさくらへの愛の告白

 「僕の部屋から、さくらさんの部屋の窓が見えるんだ。朝、目を覚まして見てるとね、あなたがカーテンを開けてあくびをしたり、布団を片づけたり、日曜日なんか楽しそうに歌をうたったり、冬の夜、本を読みながら泣いていたり。あの工場に来てから三年間、毎朝あなたに会えるのが楽しみで、考えてみれば、それだけが楽しみでこの三年間を・・・。

 僕は出て行きますけど、さくらさん、幸せになってください、さようなら」

◆第2作「続 男はつらいよ」から 

>>>

散歩先生 「俺が我慢ならんことは、お前なんかより少しばかり頭がよいばかりに、お前なんかの何倍もの悪いことをしている奴がウジャウジャいることだ・・・・・・。こいつは許せん、実に許せん馬鹿どもだ、寅」

寅次郎  「私より馬鹿がおりますか」

>>>

寅次郎  「バカヤロ、あのお嬢さんがラーメンなんか作るかい、手前の考えは貧しいからいけねえよ」

源 公  「そいじゃ、何作るんだよ」

寅次郎  「決まってるじゃねえか、スパゲッチーよ」

◆第3作「フーテンの寅」から 

>>> インテリというのは自分で考えすぎますから、そのうち俺は何を考えていたんだろうなんて分かんなくなってくるわけです。つまりテレビでいえば、裏の配線がガチャガチャに込み入っているわけなんですよね。ええ、その点私なんか線が1本だけですから、まあ、言ってみりゃ空っぽといいましょうか、叩けばコーンと澄んだ音がしますよ、殴ってみましょうか?

>>> 女にはね、たしなみが必要なんだよな。亭主の前でもってさ、よくバタバタあたしオシッコに行こう、なんて、おばちゃんよくやってるじゃない。あ、漏っちゃうなんて。そら、行っちゃいけねえとは言わねえよ。行ってもいいんだよ。ただ、男の気がつかねえように、すーっと用を済まして帰ってくるっていう、そうしたたしなみがほしいって言っているわけだ。

◆第5作「望郷篇」から  

>>> 上等上等、あったかい味噌汁さえありゃ充分よ。あとはおしんこと海苔と鱈子(たらこ)一腹ね、辛子のきいた納豆、これにはね、生ネギを細かく刻んでたっぷり入れてくれよ。あとは塩こんぶに生玉子でもそえてくれりゃ、もう何もいらねえよ、おばちゃん。 

 上へ  

◆第7作「奮闘篇」から 

>>> 夏になったら、鳴きながら、必ず帰ってくるあの燕(つばくろ)さえも、何かを境にぱったり姿を見せなくなることもあるんだぜ。 

◆第8作「寅次郎恋歌」から 

>>> 例えば、日暮れ時、農家のあぜ道を一人で歩いていると考えてごらん。庭先にりんどうの花がこぼれるばかりに咲き乱れている農家の茶の間、灯りがあかあかとついて、父親と母親がいて、子供達がいて賑やかに夕飯を食べている。これが・・・・・・これが本当の人間の生活というものじゃないかね、君。

>>> はぁー、いやだやだ。俺は横になるよ。オイまくら、さくら取ってくれ、いや違うな、さくら、枕取ってくれ。(おいちゃんの言葉)

◆第9作「柴又慕情」から 

>>> 風呂なんざなくたっていいんだ、俺は銭湯が好きだからな。「ひとっ風呂浴びてらっしゃいな、その間に晩ご飯の支度しておくからさ」 タオル、洗面器とシャボン、「どうせあんた細かいお金なんか持たないんだろ」 40円ぽんと貰って、「じゃ行ってくらあ」「行ってらっしゃい」、やがて俺は風呂へ行く。帰ってくるとご飯になる。何、別におかずなんて大したものはいらねえ、どうせ家賃は大したことないんだから。おつまみに刺身一皿、あとは煮しめと吸い物、それに卵焼きにおひたしか何か・・・・・・お銚子を3本ぐらいすっと飲む、昼間の疲れでウトウトする、おかみがすっとそれを見て、「さくら、枕を持ってきておあげ。ついでに腰のあたりでも揉んであげなよ」 さくらっていうのはその下宿の娘だけどね。・・・・・・何だ、その面は? 

◆第10作「寅次郎夢枕」から 

寅次郎 「おばちゃん、今夜のおかずは何だい?」

つ ね  「お前の好きなお芋の煮っころがし」

寅次郎 「貧しいねぇ うちのメニューは。もうちょっと何かこう 心の糧になるおかずはないかい、例えば厚揚げとか筍とかよ」

>>>  いいか、恋ってのはそんな生易しいもんじゃないんだぞ。

 飯食うときだってウンコする時だって、いつもその人のことで頭がいっぱいよ。何かこう、胸の中が柔らかぁくなるような気持ちでさ。ちょっとした音でも、例えば、千里先で針がポトンと落ちても、アーッとなるような、そんな優しい気持ちになって、もう、その人のためなら何でもしてやろう、命だって惜しくない、「ねぇ寅ちゃん、私のために死んでくれない?」って言われたら、ありがとう、と言ってすぐにも死ねる、それが恋というものじゃないだろうか・・・・・・。どうかね、社長? 

>>> 寅次郎に縁談が来て、おいちゃんが相手の家族に電話で説明する場面

 えーと、本人の勤務先は……つまり何といいますか、セ、セールスマンでございます。え・・・・・・え・・・・・・。柴又尋常小学校を卒業致しまして、それから葛飾商業を、ま、こちらのほうは少し早めに卒業しまして。は、それから後? も、もちろん東大なんかじゃございません。ええ、早稲田大学でも慶応でもございません。つまり何といいますか、つまり私どもの教育方針と申しますのは、その・・・・・・じ、実力主義でございまして・・・・・・え、そうですが、・・・・・・はい・・・・・・、くだらない大学なんぞ出るよりも、その方がよっぽど・・・・・・早めに社会に出しまして、みっちり鍛えましたわけで・・・・・・。え、趣味? 趣味は・・・・・・ああ、趣味は旅行でございます。当人何よりも旅行が好きです。年がら年中旅行しております、ハイ・・・・・・。あ、身体は? それだけは頑丈そのものでして、病気一つしたことがございません。

  上へ 

◆第11作「寅次郎忘れな草」から 

>>> 言ってみりや、リリーも俺と同じ旅人よ。見知らぬ土地を旅する間にゃ、それは人には言えねえ苦労があるのよ・・・・・・。例えば、夜汽車の中、いくらも乗っちゃいねえその客もみんな寝ちまって、なぜか俺一人いつまでたっても眠れねえ・・・・・・。真っ暗な窓ガラスにホッベタくっつけてじっと外を眺めているとよ、遠くに灯りがポツンポツン・・・・・・。あ-、あんな所にも人が暮らしているんだなあ・・・・・・。汽笛がポーツ、ポーツ・・・・・・、ピーツ。そんな時よ、そんな時、なんだかわけもなく悲しくなって、涙がポロポロと出たりするのよ。そういうことってあるだろう、おいちゃん。

リリー 「あたし達みたいな生活ってさ、普通の人達とは違うんだよね。それもいい方に違うんじゃなくて、何て言うのかなぁ、あってもなくてもどうでもいいみたいな、つまりさ、アブクみたいなもんだね」 

寅次郎 「うん、アブクだよ。それも上等なアブクじゃねぇや。風呂の中でこいた屁じゃねぇけども、背中の方に回ってパチンだ」 

 >>> なぁ~に言ってんだい。四角いカバンしか持ってねぇじゃないか、何が入ってるか知らないけど。

(おいちゃんの言葉)

◆第13作「寅次郎恋やつれ」から 

>>> 俺あ、昔からあれ不思議なんだけどさ、どうして風もねえのに波は立つのかな。沖のほうで誰かがこんな大きな洗濯板で、わいわいこうやって波を立てているんじゃないかな。 

>>> おい、さくら、歌子ちゃんがもう今すぐ来るってよ! おい、おじちゃん、なにボヤッとしているんだよ。さくら、さくら、そのなんだ。あ、そう、そう、お茶いれて、おばちゃん、ぼやっとしてないで、料理を作る、料理を。おじちゃん、そんな所で、バカみたいに口あいてるんじゃないよ、歌子ちゃんがこれから長旅で疲れて帰ってくるんだから、二階へ、スーッと行って、ふとんをサーッと敷いてやる、いいね。え、博、お前、風呂わかせ、風呂、熱くわかしてね。よーし、あ、大切なことを忘れてた。ちょっとみなさん、ちょっと集まってください。みなさんも先刻ご承知のとおり、歌子さんは、ごく最近、夫を亡くされました。だからまかり間違っても夫とか、彼とか、ダーリンとか、旦那とか、その他のことは一切口走らないでください。わかったね。ことに、お前は女だから、そうだ、さくら、お前の亭主は死んだことにしろ、博、お前は即刻死ね。

歌子 「お父さん」

父  「うん?」

歌子 「長い間、心配かけてごめんなさい」

父  「いや、なにも、君が謝ることはない。謝るのは多分私のほうだろう。私は口がへただからなんというか、誤解されることが多くてな。私は君が自分の道を、自分の信ずる道を選んで、その道をまっすぐに進んでいったことがうれしく、私は、ほんとうにうれしく・・・」

◆第15作「寅次郎相合傘」から 

リリー「幸せにしてやる? 大きなお世話だ。女が幸せになるには男の力を借りなきゃいけないとでも思ってんのかい、笑わせないでよ」

寅  「でも、女の幸せは男次第じゃねえのか」

リリー「へーえ、初耳だねえ。私、今まで一度だってそんなふうに思ったことはないね。もしあんた方がそう思ってんだとしたら、それは男の思いあがりってなもんだよ」

寅  「お前も可愛げがない女だな」

リリー「女がどうして可愛くなくっちゃいけないんだい。寅さん、あんたそんなふうだから年がら年じゅう女に振られてばかりいるんだよ」

>>> そうそう、俺なんか定年ありゃしねえ。あれはどうやったらいいんだ、区役所に申請すんのか?

◆第16作「葛飾立志篇」から 

>>> いいかい? あーいい女だなあと思う。その次には話してみたいと思う。その人のそばにいるだけで、何かこう気持ちがやわらかくなって、あーこの人を幸せにしてあげたいなーと思う。この人の幸せのためなら俺はどうなってもいい、死んだっていい、とそんなふうに思うようになる。それが愛よ、違うかい? 

◆第17作「寅次郎夕焼け小焼け」から 

>>> 私、近頃よくこう思うの、人生に後悔はつきものじゃないかしらって。

 ああすればよかったなあという後悔と、もう一つは、どうしてあんなことをしてしまったんだろうという後悔・・・・・・。(志乃の言葉)

>>> もしも警察が来て俺のことを聞かれても、縁を切ったというんだぞ。さもないと満男が犯罪人の甥になってしまう。

>>> あんな男の人の気持ち初めてや。もう200万円なんてどうでもいい、寅さんの気持ちだけでウチは幸せや。(ぼたんが泣きじゃくりながら)

◆第18作「寅次郎純情詩集」から

寅次郎 「・・・悪かった。何しろ、あの時は俺も、若かったから・・・」

おいちゃん 「何が若かっただ、バカ。あれは先月のことだ!」

>>> まぁ、こう人間がいつまでも生きていると、陸(おか)の上がね、人間ばっかりになっちゃう。で、うじゃうじゃ、うじゃうじゃ。面積が決まっているから。で、みんなでもって、こうやって満員になって押しくらまんじゅうしているうちに、ほら、足の置く場所がなくなっちゃって、で、隅っこにいるやつが、お前どけよと言われて、あーっなんて海の中へ、バシャンと落っこって、アップアップして、助けてくれー、なんてね死んじゃうんです。結局、そういうことになるんじゃないんですか。

(綾に「人はなぜ死ぬんでしょうね?」と聞かれて)

>>> 最後の床についたときもね、寅さんに逢える日が来ることを楽しみにしていたのよ。意識がなくなりかける時にね、私が耳もとで「お母様、早くよくなって寅さんに逢いにいきましょうね」、そう言ったらお母様は、うれしそうな顔してコックリうなずいたわ。誰にも愛されたことのない悲しい生涯だったけど、でも最後に、たとえひと月でも寅さんていう人が傍にいてくれたことで、お母様はどんなに幸せだったか、私にはよく分かるの。

◆第19作「寅次郎と殿様」から 

>>> 人間の運命なんて分からないもんな。たとえばの話、この敷居をまたいだ時に、いい女にバッタリ会って、その女と所帯持っちゃうかもしれねえもんな。 

◆第20作「寅次郎頑張れ!」から 

>>> そりや好きな女と添いとげられれば、こんな幸せはないけどさ。しかしそうはいかないのが世の中なんだよ。みんな我慢して暮らしてるんだから、男だって、女だって。

>>> やっぱり食事はレストランがいいな。けちけちしないでデザートも取ってやれよ。今の若い娘はよく食うからねえ。あのガラスの器に入ったあれ、何て言うんだ、アイスクリームをこう、ねじりウンコのように山盛りにしたヤツ、あれなんか一口でペロッと食べちゃってさ。そこで二人は人影の少ない公園に行く。じっと娘の目を見る。お前が好きなんだよという思いを込めて娘の目を見る。そうすれば必ずお前の気持ちは通じるんだ。そこだよ、それで最後のセリフを言う。アイ・ラブ・ユー。できるか、青年。

  上へ 

◆第25作「寅次郎ハイビスカスの花」から 

寅次郎「おや、どこかでお目にかかったお顔ですが。姉さん、何処のどなたです?」

リリー「以前、お兄さんにお世話になった女ですよ」

寅次郎「はて?こんないい女をお世話した覚えはございませんが」

リリー「ございませんか!この薄情者!」

寅次郎「何してるんだよお前、こんなところで」

リリー「商売だよ。お兄さんこそ何してんのさ、こんなところで」

寅次郎「俺は、リリーの夢を見てたのよ」

>>>  生きている間は夢だというのは、確かセックスピアの言葉でしたな。(御前様の言葉)

>>> 男に食わしてもらうなんてまっぴら。でも、あんたと私が夫婦だったら別よ。(リリーの言葉)

さくら「どうしたの、そんなこと言われて」

寅  「そら、オレ照れくさいからよ、冗談じゃねえよ、お互い所帯なんか持つ柄じゃねえだろう、エヘヘって笑ったのさ。そうだよ、そしたら、そしたらリリーのやつ・・・」

さくら「リリーさんが、どうかしたの?」

寅  「悲しそうな声してな、『あんたには女の気持ちなんて分かんないのね』。そう言って涙こぼしてたなあ」

さくら「リリーさんの愛の告白ね」

寅  「おい、バカなこと言うなよお前、まじめな顔して。満男が聞いているよ、エヘヘ」

博  「兄さん、笑い事じゃないんだ。リリーさんがその時どんな気持ちでいたか、分からないんですか?」

つね 「そうだよ、女にそこまで言わせてさ」

◆第26作「寅次郎かもめ歌」から

>>> こういうことはな、ゆとりを持たせなきゃいけないんだ。早めに行ってお茶の一杯も飲んで気を落ちつけて。あ、そうだ。縁起を担ぐようだけど、今日一日、落ちるとか、すべるとか転ぶとか、その手の言葉を口にするな、いいか。

 願書はバッグにしまっておけ、落とすといけないから。あ、いけねえ、落とすなんて言っちゃった、つい口がすべっちゃって、あ、また言っちゃった。

◆第27作「浪花の恋の寅次郎」から 

>>> そりゃ今は悲しいだろうけどさ。月日がたてばどんどん忘れて行くものなんだよ。忘れるってことは本当にいい事だよ。 

◆第28作{寅次郎紙風船」から 

>>> 御前様にお尋ねします。

 亭主に死に別れた女房が他の男と再婚する場合に、やはり一周忌までは待つべきでしょうか。それとも三回忌まではがまんしなきゃならないもんでしょうか。そのへんのところは、お経には何と書いてありますか。

>>> 寅の小学校時代の同級生が、酒に酔った寅に「ケチなクリーニング屋」とくさされて――

 いいか寅、俺にだってお得意がいるんだよ、お得意が。俺が洗ったシーツじゃなきゃ困る、俺がアイロンかけたワイシャツじゃなきゃ嫌だ、そう言ってくれる人が何人もいるんだよ。商売っていうのはそういうものなんだ。

>>> いい女が泣くと笛の音に聞こえるなあ。おばちゃんが泣くと夜鳴きそばのチャルメラに聞こえるんだよ。

◆第29作「寅次郎あじさいの恋」から 

寅次郎「よう、いろいろ世話になったな、ねえちゃん」

かがり「もうお帰りどすか」

寅次郎「ああ」

かがり「今、朝御飯の支度できますけど」

寅次郎「ああ、それで豆腐買いに行ってくれたのかい、ああ、それは悪かったなあ。いやね、ちょっと夕べやりすぎちゃって、へっへ、具合が、また今度来たとき御馳走になるよ、うん、あばよ」

寅次郎「あっ、ええと、お、おれ、今どこに居るんだっけ?」

かがり「ここは五条坂いうとこですけど」

寅次郎「五条、あっ、じゃ、こっちが四条でこっちが七条ということになるわけか。はは、京都は道が分かりやすくていいやな、じゃ」

寅次郎「じゃあ、かがりさん、世話になったな」

かがり「寅さん」

寅次郎「えっ」

かがり「もう会えないのね」

寅次郎「・・・・・・いやあ、ほら、風がな、風がまた丹後の方に吹いてくることもあらあな。元気でなあ!」

>>> 寅さん、この間は、ごめんなさい。

私は、とても恥ずかしいことをしてしまいましたけど、

寅さんならきっと許してくださると思います。

今は、夏休みで私も機織りの合間に、民宿の手伝いに借り出され忙しい毎日です。

母も娘も元気で手伝ってくれています。

寅さんは、今どこかしら?相変わらず旅の空かしら?

風はどっちに向かって吹いてますか?丹後のほうには向いてませんか?

今度、寅さんが来たら、この間のような間に合わせでなく、

美味しい魚の料理を腕を振るってお腹一杯食べさせてあげたいと思います。

寅さんの楽しい話を聞きながら・・・・・・。(かがりからの手紙)

◆第30作「花も嵐も寅次郎」から

>>> あいつがしゃべれねえーてのは、あんたに惚れてるからなんだよ。今度あの娘()に会ったら、こんな話しよう、あんな話もしよう、そう思ってウチを出るんだよ。いざその子の前に座ると、ぜーんぶ忘れちゃうんだね。で、馬鹿みてーに黙りこくってんだよ。そんなてめえの姿が情けなくって、こー、涙がこぼれそうになるんだよ。な、女に惚れてる男の気持ちって、そういうもんなんだぞ。

>>> 俺から恋をとってしまったら、何が残るんだ。三度三度メシを食って、屁をこいて、クソをたれる機械、つまりは、造フン機だよ。

寅次郎「さくら」

さくら「なあに?」

寅次郎「やっぱり、二枚目はいいなあ、ちょっぴり焼けるぜ」

 上へ 

◆第31作「旅と女と寅次郎」から 

>>> そんな人生もあるのねぇ。明日何するかは明日になんなきゃ決まらないなんて、いいだろうなぁ。(流行歌手はるみの言葉)

◆第32作「口笛を吹く寅次郎」から 

>>> でも、だけどね。レントゲンだってね、ニッコリ笑って映したほうがいいの。だって明るく撮れるもの、そのほうが。

◆第34作「寅次郎真実一路」から 

ふじ子「奥様にどうぞよろしく」

寅次郎「そういう面倒なものは、持ち合わせちゃおりません」

ふじ子「あら、ごめんなさい」

寅次郎「いいえ、へへ、それじゃ、ごめんなすって」

>>> 自分の醜さに苦しむ人間は、もう醜くはありません。(博の発言)

◆第35作「寅次郎恋愛塾」から

あけみ「寅さん、かわいそう。あたし、今のつまんない亭主と別れて一緒になってあげようか。本当よ、あたし、人妻になって初めて寅さんの魅力わかったんだもん」

寅次郎「あけみ、お前のその優しい気持ちは本当に嬉しいよ。だけどな、俺は、お前、出来ない相談だよ」

あけみ「どうして?」

寅次郎「だってさ、お前と俺が一緒になったら、このタコのこと、お父さんといわなきゃいけないだろ、俺それイヤ、俺死んでもイヤ、それ」

若 菜 「秀才よ、法律の勉強してるの」

寅次郎 「へーえ、悪いことでもしようっていうのか?」

>>> お前、遠山の金四郎を知らないの? ほう、驚いた、裁判官になるっていう男が、あんな偉い男を。

◆第36作「柴又より愛をこめて」から 

>>> オレ、分かるよ、あけみさんの気持ち・・・。おじさんのやることは、どんくさくて、常識外れだけど、世間体なんて全然気にしないもんな。人におべっか使ったり、お世辞言ったり、おじさん絶対にそんなことしないもんな。(満男の言葉)

真知子「首すじのあたりがどこか寂しげなの。生活の垢がついていないというのかしら」

寅次郎「それは、ネクタイをしていないせいじゃないですか。ダボシャツだから」

◆第38作「知床慕情」から 

>>> 昔から早メシ早クソ、芸のうちといって、私など座ったと思ったらもうケツを拭いております。この間などはクソをする前にケツを拭いてしまって、親せき中で大笑い。

>>> 行っちゃいかん。・・・・・・俺が行っちゃいかんと言うわけは、俺が・・・、俺が、惚れているからだ。

(順吉が悦子に) 

◆第39作「寅次郎物語」から 

>>> 働くってのはな、博みたいに女房のため子供のために額に汗して、真黒な手して働く人達のことをいうんだよ。

満 男「人間は何のために生きてるのかな」

寅次郎「何て言うかな、ほら、あ-生まれて来てよかったなって思うことが何べんかあるだろう、そのために人間生きてんじゃねえのか」

◆第40作「寅次郎サラダ記念日」から 

>>> 寅さんが早稲田の杜に現れて やさしくなった午後の教室

>>> 愛ひとつ 受け止めかねて帰る道 長針短針重なる時刻

>>> 寅さんが この味いいねと言ったから 師走六日はサラダ記念日

◆第42作「ぼくの伯父さん」から 

>>> まず片手にさかずきを持つ。酒の香りを嗅ぐ。

酒のにおいが鼻の芯にジーンとしみとおった頃、おもむろに一口飲む。

さあ、お酒が入っていきますよということを五臓六腑に知らせてやる。

そこで、ここに出ているこのツキダシ、これを舌の上にちょこっと乗せる。

これで、酒の味がぐーんとよくなる。

それから、ちびりちびり、だんだん酒の酔いが体にしみとおってゆく。

(満男に酒の飲み方を教える場面)

満男 「不潔なんだよ。だって俺、ふと気づくとあの子の唇とか胸とか、そんなことばっかり考えているんだよ。俺に女の人を愛する資格なんかないよ」

寅  「お前は正直だな、えらい」

◆第44作「寅次郎の告白」から 

>>> おじさん、世の中でいちばん美しいものが恋なのに、どうして恋をする人間はこんなに無様なんだろう。今度の旅でぼくが分かったことは、ぼくにはもうおじさんのみっともない恋愛を笑う資格なんかないということなんだ。いや、それどころか、おじさんの無様な姿がまるで自分のことのように哀しく思えてならないんだ。

 だから、もうこれからはおじさんを笑わないことに決めた。だって、おじさんを笑うことは、ぼく自身を笑うことなんだからな。(満男の言葉)

>>> あのおじさんはね、高い崖の上に咲いている花のように、手の届かない女の人には夢中になるんだけど、その人がおじさんを好きになると、あわてて逃げ出すんだよ。今まで何べんもそんなことがあって、そのたびに俺のお袋泣いてたよ、バカねお兄ちゃんは、なんて。・・・・・・つまりさ、きれいな花が咲いているとするだろう、その花をそっとしておきたいなあという気持ちと、奪い取ってしまいたいという気持ちが、男にはあるんだよ。おじさんはどっちかというと、そっとしておきたい気持ちのほうが強いんじゃないか。 (満男の言葉)

◆第45作「寅次郎の青春」から 

寅次郎「何だ、それじゃお前泉ちゃんを愛していないのか」

満男 「今の僕の気持ちを、愛してるなんてそんな簡単な言葉で言えるもんか」

泉 「あの鐘がチャリンと鳴って、ドアが開いて、いつかすてきな男の人が現れるのを待ってるんだって、あのおばさん」

満男「へーえ、ロマンチックだなあ」

泉 「満男さんは、女の人にそんなふうに待っていてほしい?」

満男「え?」

泉 「私、そうは思わない。幸せが来るのを待つなんて嫌。第一、幸せが男の人だなんて考え方も嫌い。幸せは自分で掴むの。それがどんなものかわからないけど、ああこれが幸せだというものを、私の手で掴むの。待つなんて嫌」

◆第48作「寅次郎紅の花」から 

>>> 格好なんて悪くったっていいから、男の気持ちをちゃん伝えてほしいんだよ、女は。

 だいたい男と女の間っていうのは、どこかみっともないもんなんだ。後で考えてみると、顔から火が出るようなはずかしいことだってたくさんあるさ。でも愛するってことはそういうことなんだろ、きれいごとなんかじゃないんだろ。(リリーの言葉)

憲法とたたかいのブログトップ

投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください