日本の映画史と労働映画・独立プロなど民主的映画

◆◆日本の映画史と労働映画・独立プロなど民主的映画

憲法とたたかいのブログトップ 

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【このページの目次】

◆労働映画筆者コメント

◆プロレタリア映画・労働映画・独立プロ映画リンク集

◆プロレタリア映画とは

◆独立プロの映画とは=小学館百科全書

◆山田和夫講演録=憲法と映画の歴史(映画人9条の会)

◆日本映画の歴史=小学館百科全書

◆時代劇とは、その魅力=小学館百科全書ほか

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【筆者コメント】 

労働運動、政治闘争、労働者教育の上で映像の果たす役割が極めて大きい。当ブログもそういう趣旨でつくってきた(たとえばカテゴリー「労働運動史」での映像)。労働者の闘いを描いてきたブロレタリア映画運動がこれまで果たしてきた役割も大きかった。今日、映画、TV番組、ネット動画など映像の量そのものは増えてはいる。TVでのドキュメントなどはかつてと比べて良い番組が提供されるようになっている。しかし残念ながらかつての独立プロの映画のような物語的な映像がたいへん少なくなっている。たたかいのなかの人間像を描く映像が本当に欲しい。映像を記録する手段やネットに載せる手段は、かつてと比べて誰でも可能になっている点は有利だ。全労連や映演総連などプロ集団が援助しながら映像を集団的に作成し、集団的に上映する運動がいまこそもとめられていると心底思う。かつて全国金属が中心になりながら争議団や東京や全国の労働組合が結集してつくりあげた映画「ドレイ工場」の教訓はいまでも生きていると思う。

★★日本の労働映画HP

http://sfujikazu.web.fc2.com/labourfilm/labour_film_list.html

労働映画についての情報を掲載した貴重なHPである。以下の日本と世界の労働映画一覧と戦後初期労働映画上映会記録、が掲載されている。残念ながら更新止まっている。

🔷🔷松竹の100年

(朝日新聞20.06.29)

★★映画人たちの8.15(終戦=戦争と平和を考える)90m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v111113312hKc2St2C

★淀川長治 わが青春のハリウッド100m

★淀川長治120m

https://m.youtube.com/watch?v=ZmTdWQtJIXc

★淀川長治の映画塾1~映画の演出~50m

★淀川長治の映画塾3~映画のシナリオ~60m

★淀川長治の映画塾4~映画美術~50m

◆労働ムービーベスト200(牧民雄氏作成)

http://roudouundoumeiji.com/rekisi-124.html

◆映画人九条の会=とくに講演録

http://kenpo-9.net

◆当ブログ=映画「ドレイ工場」

10万人の創造=映画「ドレイ工場」の記録

◆当ブログ=学校教育(映画「どぶ川学級」)

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2998651.html

◆『学習の友』映画「ドレイ工場」を観て座談会

◆当ブログ=米軍とたたかった瀬長亀次郎、阿波根昌鴻と映画=沖縄

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2848519.html

(以下のPDF文献は、スマホの場合=画像クリック最初のページのみ上部の下向き矢印マークを強くクリック全ページ表示)

◆山田和夫=映画評論集(「前衛」から)

山田和夫

(小林多喜二と映画・日本映画の積極的な伝統・特攻を描いた映画・ハリウッドと赤狩り・ハリウッドが描いたテロと戦争・映画に見る「戦争する人間」のつくりかた・日本映画は戦争をどう描いてきたか・日本映画産業の自立と再生・黒澤明・「男はつらいよ」の27年)

◆戦前、映画統制に反対した岩崎昶

(赤旗17.06.07

◆山田和夫=日本映画の歴史と現代

◆山田和夫=映画と資本論(日本映画の歴史と現代)

◆山田和夫=世界映画の発見ハリウッドのレッドパージ

◆当ブログ=ハリウッドのレッドパージと「ローマの休日」

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2848206.html

◆当ブログ=エイゼンシュテインの映画の世界

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3036231.html

◆山田和夫=エイゼンステイン

◆山田和夫=映画「戦艦ポチョムキン」

◆当ブログ=エイゼンステインの映画

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3036231.html

◆当ブログ=ワイダ監督とポーランド

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3004597.html

◆当ブログ=ケン・ローチ監督の映画の世界

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/64850531.html

🔷辰巳孝太郎=映画で考える資本主義(赤旗日曜版20.08.02)

◆羽渕=日本映画の反戦の伝統

◆映画「男たちの大和」を見て

◆当ブログ=山本薩夫監督の映画の世界

◆山本薩夫の映画

◆当ブログ=山田洋次監督と寅さん

◆当ブログ=弱者へ目をそそいだ木下恵介監督

◆当ブログ=黒澤明監督の映画の世界

◆当ブログ=社会派監督・熊井啓の映画の世界

◆当ブログ=映画「若者たち」

◆当ブログ=追悼 高倉健さん

◆当ブログ=追悼 菅原文太

◆◆日本における労働映画一覧

http://sfujikazu.web.fc2.com/labourfilm/labourfilm_Japan.xls

◆労働映画研究会資料

http://sfujikazu.sitemix.jp/labourfilm/1ki_shiryo_index.html#top

◆世界における労働映画一覧

http://sfujikazu.web.fc2.com/labourfilm/labourfilm_World.xls

◆戦後初期労働映画上映会記録

クリックして1ki_joeikai_kirokushu.pdfにアクセス

◆友田義行=日本の炭鉱映画史と三池PDF

『三池 終わらない炭鉱の物語』への応答─

最後に戦前戦後の炭鉱を描いた映画一覧表がある。こんなに沢山映像をとっていたとは。

クリックしてRitsIILCS_22.2pp.21-37Tomoda.pdfにアクセス

◆大原社研所蔵ビデオDVDリスト=上記の日本の労働映画リストのほんの一部。残念、あちこちに散逸して存在している。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/own/video.html

◆北海道大学の道幸哲也教授などが中心になっている労働法教育のセンター=NPO法人働く文化ネットでは、労働映画鑑賞会を推進している。右側の労働映画鑑賞会から。

http://hatarakubunka-net.hateblo.jp/archive/category/労働映画上映・保存

◆電機連合連載・働く文化ネット・鈴木不二一=21世紀は労働映画の時代となるか」

【映画は労働映画からはじまった】

◆一橋大フェアレイバー研究教育センターでもドキュメンタリー映画上映会を開催して労働映画の研究も推し進めている。「労働」をテーマにしたドキュメンタリー映画を、「労働」以外のテーマを取り扱ったドキュメンタリー映画と一緒に上映している。

http://www.fair-labor.soc.hit-u.ac.jp/events.html

◆青野恵美子「労働組合における映像制作の試みとその効果」〔『労働法律旬報』1706号(20091025日発行)掲載〕

クリックして091025.pdfにアクセス

◆洋学館憲法研究所=映画の紹介

http://www.jicl.jp/now/cinema/index.html

Wiki=日本プロレタリア映画同盟(下部参照) 、独立ブロ参照。戦前・戦後の独立ブロ映画の販売は、Googleで独立プロ名画特選検索。

◆プロキノ研究史がかかえる問題立命館大

クリックしてRitsIILCS_22.3pp99-110Satou.pdfにアクセス

◆プロキノ映画『山宣渡政労農葬』 フィルム の考察立命館大学・雨宮

クリックしてRitsIILCS_22.3pp111-124Amemiya.pdfにアクセス

◆プロキノとその研究史:解説 牧野守

http://www.geocities.jp/sfujikazu/dai2kai_siryo.html

◆プロキノとは

http://www.yidff.jp/docbox/5/box5-2.html

◆プロキノ作品集の紹介と販売

DVD プロキノ作品集

Prewar Proletarian Film Movements Collection. Center for Japanese Studies, University of Michigan. プロキノ関連雑誌、図書や映画がオンラインで閲覧可能。

◆日本の独立プロの映画の紹介

http://espace-sarou.com/archives/category/dvd/dokusen

◆独立プロ名画特選28

http://dvdcinemasalon.p2.weblife.me/pg705.html

◆アマゾン独立プロ特選映画・セットの販売一覧

◆滝浪=小津安二郎の「小市民映画」再考 : 同時代的批判PDF

クリックして83_3.pdfにアクセス

CiNii検索=古田尚輝。TVとの関わりで劇映画の変化、TV放送の映画の変遷、アニメ映画の輸出、アニメ企業、鉄腕アトムなど貴重な8つの論文。

◆泉裕子=プロレタリア運動と映像表現との関わり

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/5111/126.htm

◆日本の労働映画百選PDF

クリックして100sen.pdfにアクセス

◆「月刊連合」168-9月号=日本の労働映画百選

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🔵プロキノ=日本プロレタリア映画同盟

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プロキノのシンボルマーク。

1929年に結成され、度重なるメンバーの検束によって、1934年には解体された。

メーデー、労働組合運動、労働農民党の山本宣治代議士の葬儀を記録した他、アニメーション制作など当時としては先駆的な取り組みが行われた。巡回映画会も取り組まれた。日本プロレタリア音楽同盟との共催の映画上映会なども行われ、映画と音楽のコラボレーション[1]も取り組まれた。

準機関誌『新興映画』を1929年9月から1930年6月まで刊行。1930年8月から『プロレタリア映画』を発刊したが、度重なる発売禁止のために1931年で途絶えた。

小林多喜二は「プロキノ友の会」の発起人であった。東京の他、神戸・大阪・京都・高知などにも支部が存在した。

元メンバーのなかには、戦後のアニメーション映画や記録映画・教育映画で活躍した者も少なくない。

商業的な映画会社との関わり

プロキノに関与したもののなかには東宝の文化映画課長、中華電影公司製作部長になる松崎啓次、PCLに入社する能登節雄[3]、芸術映画社、松竹と渡ったアニメーター瀬尾光世[4]J.O.スタヂオから電通映画社までを渡り歩いた田中喜次らのように、商業的な映画会社に就職するものもいた。映画会社に所属する俳優や映画監督として加入した者として、山内光(岡田桑三)と木村荘十二がいる。上野耕三、岩崎昶、厚木たか、井上莞のように運動が崩壊した後、映画会社に就職するものも少なくなかった。プロキノの元メンバーを複数受け入れた映画会社として、PCLと芸術映画社が挙げられる。

日本共産党との関わり

日本共産党を支持する勢力の強い全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)の傘下に発足し、続いて日本共産党の指導下にあった日本プロレタリア文化連盟に加盟したことから、日本共産党の方針の影響を強く受け、多くの活動家が治安維持法違反容疑で検挙された。

沿革

1927年、佐々元十がプロレタリア劇場内にプロレタリア映画班という組織を作り、実質的に一人で『1927年メーデー』を9.5ミリフィルムのパテ・ベビー(Pathe Baby)カメラで撮影・製作[5][6]

プロレタリア映画会のポスター

1928325日、全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)が結成されたのに伴い、同年4月にはプロレタリア劇場と前衛劇場が統一され、東京左翼劇場が設立されたのに伴い、プロレタリア劇場映画班は左翼劇場映画部となり、野田醤油争議を撮影するなどして注目された。本作が工場の労働者たちに大反響を呼んだことがプロキノ結成の大きな切っ掛けといわれる[7]。プロレタリア雑誌「戦旗」に、佐々元十の「玩具・武器ー撮影機」(『戦旗』19286月号)[8]を掲載。

1929年2月、佐々元十、岩崎昶、北川鉄夫らで日本プロレタリア映画同盟結成。労働農民党の山本宣治代議士が殺害されると、3月8日、東京での告別式を山内光(岡田桑三)が、松竹の腕章をつけ、撮影を担当[9]。京都では、3月9日の京都駅への遺骨到着から3月15日の葬儀までを山宣葬儀対策本部の書記長・田村敬男がプロキノ京都支部の松崎啓次らと相談して上田勇、北川鉄夫らの3台の隠しカメラで撮影した。同年9月、左翼映画雑誌「新興映画」(新興映画社)発刊。翌年6月まで。

1930531日、「プロレタリア映画の夕」(読売講堂)が開催、日本プロレタリア音楽同盟の合唱隊が出演。同年、8月、「プロレタリア映画」発刊。同年、新興映画社編『世界プロレタリア映画物語集 1輯』、新興映画社編『プロレタリア映画運動の展望』を刊行。田中喜次らに影絵アニメーション映画「煙突屋ペロー」の製作を委嘱した。

1931年、日本プロレタリア映画同盟編『プロレタリア映画のために』を京都共生閣より刊行。アニメーション『三匹の小熊さん』(婦人之友社、作画:村山知義)を岩崎昶が監督、撮影を並木晋作が担当。岩崎昶らが第12回メーデーを撮影。東京の市電とバスの運転手たちの運動を捉えた「全線」などを製作。北川鉄夫脚本のアニメーション『奴隷戦争』[12][13]を製作した。

1932年、上野耕三が『労農団結餅』を製作。音画芸術研究所がプロキノ京都支部にいた松崎啓次、木村荘十二によって設立された。

1933年、木村荘十二監督「河向ふの青春」の製作をプロキノの篠勝三と能登節雄が応援。そのまま、ピー・シー・エル映画製作所入社。

1934年、プロキノ解体。

出典

1日本プロレタリア音楽同盟の歴史

2大原社研_大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編

3日本のドキュメンタリー作家 No.5 プロキノ

4 日本アニメクラシックコレクション [DVD4巻セット 第三巻 解説 佐藤忠男

6 戦前の小型映画について 川崎市市民ミュージアム 学芸員 川村健一郎

7岡田晋『日本映画の歴史』三一書房、1957年、148-151

8プロキノ研究史がかかえる問題立命館大学

9No.104 KINO BALAZS 104回キノ・バラージュ/2003524 テーマ:『戦前のアマチュア映画』

10 岡田桑三のこと 岡田一男

11南山城の光芒新聞『山城』の二五年 -84-

12平和への軌跡 38】生き字引の田村敬男 2009528

13日本映画データベース

14OISR.ORG20世紀ポスター展 プロキノ『奴隷戦争』ポスター

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🔵独立プロとは

小学館百科全書[佐伯知紀]

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製作・配給・興行の流通機構を統御する大会社に所属せず、プロデューサー、監督、俳優などの製作者主体に映画作りを行うプロダクションをさす。略して独立プロということが多い。メジャーmajor company(大会社)とインディペンダントindependent production(独立プロ)とも対応させるが、時代や国、また集団によってその内実には大きな幅がある。

◆映画製作と独立プロ

ハリウッドの創設者たちが、当時の一大トラストであるMPPC(発明王エジソンが率いたモーション・ピクチャー・パテント・カンパニーの略)に反旗を翻した独立系製作会社(反トラスト派、後のメジャー)であった事実や、帰山教正(かえりやまのりまさ)の映画芸術協会、小山内薫(おさないかおる)の松竹キネマ研究所などの、なかば独立プロ的性格をもった集団が日本映画近代化の先駆けを果たした歴史を考慮すれば、映画製作と独立プロは本来的に近しい関係だということもできる。意欲と進取の若い精神で1960年代初頭、世界を席巻(せっけん)したヌーベル・バーグも、フランス映画がメジャーをもたず、その製作のほとんどを多彩な独立プロが担っていたことを抜きにしては語れない。強大なメジャー帝国を世界に誇ったアメリカ映画も、1950年代にはテレビの攻勢を受け、製作部門を切り離して配給会社への転身を余儀なくされる。リスク(危険)の大きい製作は、その多くが独立プロへと移行されたのである。バート・ランカスター製作の『マーティ』(1955)の成功や、カーク・ダグラス製作の『スパルタカス』(1960)などはこの期の産物である。

◆独立プロと映画運動

日本映画では1920年代にさまざまな独立プロが輩出している。牧野省三(しょうぞう)のマキノプロや衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)の衣笠映画連盟、時代劇スターの阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)、市川右太衛門(うたえもん)、片岡千恵蔵(ちえぞう)、嵐寛寿郎(かんじゅうろう)の各独立プロ、それに広い意味ではプロキノ(日本プロレタリア映画同盟)の創設も含められよう。しかし、大資本を必要とするトーキー時代の到来が、これらを大会社のもとに吸収してしまう。一般に、この独立プロなることばが特有の意味を定着させたのは、第二次世界大戦後、東宝争議とレッド・パージで撮影所を追われた左翼的映画人やその周辺の人々が、1950年(昭和25)から1953年にかけて展開した映画運動のためである。その文脈における「独立」は大企業からの独立を意味し、自主製作はもちろん、もっとも困難とされる自主配給や自主上映の回路までもが模索された。

◆東宝争議については、当ブログ=山本薩夫の映画の世界、を参照のこと

“Œ•独立プロ誕生の契機となった東宝争議

新星、キヌタ、近代映画協会などの独立プロがそれで、『暴力の街』(1950)の山本薩夫(さつお)、『どっこい生きてる』(1951)の今井正、『原爆の子』(1952)の新藤兼人(かねと)らが活躍し、イデオロギーに濃淡はあるものの、焼け跡日本で息づいていた国民的ヒューマニズムを喚起した。日本のこの独立プロ運動は、大手が量産体制を整える1954年ごろより衰退していったが、近代映画協会は現在も存続している。[佐伯知紀]

◆映画産業停滞期における独立プロ

1960年代に加速した経済の高度成長がもたらした国民レジャーの多様化、テレビ文化の普及などのために、映像娯楽を一手に独占していた映画産業は急激な地盤沈下に直面する。とどまることを知らない観客数の減少により、大手製作会社が自ら構築した製作、配給、興行というコストのかかるシステム(ブロック・ブッキング・システム)を維持することが困難になった。その間隙(かんげき)を縫うように小さなプロダクションが誕生してくるのは、東京オリンピックが終了した翌年の、1965年(昭和40)ごろからである。また、大手の一角、大映が倒産するのは1971年である。

 このような状況のなかで有名スター、著名監督なども専属会社を離れ、自分たちのプロダクションを興していく。三船敏郎の三船プロ(1962)、石原裕次郎の石原プローモーション(1963)、勝新太郎の勝プロ(1967)、中村錦之助(なかむらきんのすけ)(萬屋(よろずや)錦之介、19321997)の中村プロ(1968)が設立され、各社を代表するスターが、従来の枠組を超えた共演を果たし、話題をよんだ。この場合の独立プロの輩出は、映画界の既存システムの弛緩(しかん)が生み出したものともいえるだろう。この間、大手会社の東宝はリスクの高い製作部門を子会社化、あるいは縮小し、経営資源を配給、興行部門に集中していった。

 もっとも、1970年代から1980年代なかばまでは、ジャンルと観客を限定化することで、東映やくざ映画、日活ロマンポルノなど、おもに男性観客を対象とした撮影所製作の映画が量産されていた事実も見落とせない。そのなかで映画と大衆(老若男女の観客)という主題を担った唯一の例外が、松竹の『男はつらいよ』シリーズ(19691995)だったともいえるだろう。いずれにしても、配給、興行に経営の中心を置き直し、事業の多角化を図ることで大手映画会社は企業としての延命を図る。

 加えてシネマ・コンプレックス(シネコン)の到来が、その配給、興行の地図を大きく塗りかえてゆく。1993年(平成5)に初めてオープンしたシネコンは、激減する一方だった映画館数(最低値は1993年の1734館)の増加に貢献し、2012年においては、3339スクリーンを数えるに至っている。

◆独立プロとインディーズ

一方、1980年代なかば以降「インディーズ」ということばが一般化していくことも指摘しておかねばならない。というのも「独立プロ」の語には、経緯のなかで、左翼的な意味合いが含まれており、また、1960年代後半に本格化したスタープロ、監督プロの場合においても、既存の撮影所=スタジオが対抗概念として前提とされていたからである。

 インディーズは、それらとの区別において用いられたものでもある。元来は欧米のミュージック・シーンで使用されたことばであったが、基本的には自主製作映画、自主上映から出発した人材が多く、かならずしもスタジオを前提としない映画製作に特徴をもっていた。1977年から始まったPFF(ぴあフィルム・フェスティバル)に代表される自主映画のフィールドからスタジオ製作の長編劇映画に進出する監督、プロデューサーが現れると、当初の意味は曖昧(あいまい)化していった。そして、1990年代以降は、従来の独立プロとインディーズが混在しながら、製作現場をリードしてきたといえるだろう。

 もっとも、独立プロ、インディーズを概括するのは容易ではない。現状では、当初の意味合いを保持した個人プロダクションの規模から、大手出版社の映像部門までも含んでおり、その内実には相当の開きがあるからである。小規模プロダクションの場合、作品を製作した後の上映に困難を抱え込むことが多いのは、前述したように、大手映画会社がそのシステムを系列化しているためであり、この点において配給興行優位の現状があることは否定できない。もっとも、その種の作品にふさわしい小規模な劇場、ミニシアターが、大都市を中心に展開していったのも1980年代の特徴である。

 しかし、シネコン時代に入るとやや事情が異なってくる。放送局が中心となる製作委員会方式の映画が多数のスクリーンで一挙に公開され、興行的な成功を収める現象が増加するにつれて、ミニシアター系統の作品の集客力が低下してゆく事態が招来した。小プロダクション、インディーズは独力で製作を図りながらも、製作委員会の一員に名前を連ね、制作担当として参加するなど多様な展開を行っている。

◆著作権をめぐる状況

ところで、1980年代以降、映画作品のテレビ放映、ビデオ発売、衛星放送における放映など二次使用、三次使用の割合が増えてきた。コンテンツとしての映像が、フィルム以外の媒体で個人的に繰り返し鑑賞できる環境が整い、従来の映画館入場者数だけでは、鑑賞人口を把握できない時代になった。そして、これに伴い著作権の問題が新しい視点で論議されるようになってきた。

 これは映像ソフトとしての作品の重要度が増したことでもあり、製作に参加すること、つまり著作権を保持することをおろそかにできない時代になったことを意味している。その意味では、大手も製作に関与せざるをえない状況になったといえよう。2000年代に入り、映画映像コンテンツの知的財産としての価値が強調され、また2012年(平成24)には放送がすべてデジタル化し、衛星放送・CS・ケーブルテレビのチャンネル数が増加、インターネットによる映像配信が現実化するなど、映画映像分野の環境は著しく変化しており、その変化は現在進行中でもある。ともあれ、独立プロ、インディーズを取り巻く状況に、日本映画の課題が集約的に現れていることは間違いない。

『山田和夫監修『映画論講座4 映画の運動』(1977・合同出版) ▽戦後日本映画研究会編『日本映画戦後黄金時代7 独立プロ』(1978・日本ブックライブラリー) ▽新藤兼人著『新藤兼人映画論集1 私の足跡――独立プロ30年のあゆみ』(1980・汐文社) ▽今村昌平・佐藤忠男・新藤兼人・鶴見俊輔・山田洋次編『講座 日本映画5 戦後映画の展開』『講座 日本映画6 日本映画の模索』(1987・岩波書店) ▽岡田裕著『映画 創造のビジネス』(1991・筑摩書房) ▽大高宏雄著『興行価値――商品としての映画論』(1996・鹿砦社) ▽兼山錦二著『映画界に進路を取れ』(1997・シナジー幾何学) ▽丸山一昭著『世界が注目する日本映画の変容』(1998・草思社) ▽村上世彰・小川典文著『日本映画産業最前線』(1999・角川書店) ▽大高宏雄著『日本映画逆転のシナリオ』(2000・WAVE出版) ▽掛尾良夫著『映画プロデューサー求む』(2003・キネマ旬報社) ▽大高宏雄著『日本映画のヒット力――なぜ日本映画は儲かるようになったか』(2007・ランダムハウス講談社)』

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🔵山田和夫=日本映画の積極的伝統と歴史系譜

「前衛」2006.07-08

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🔵山田和夫=講演・憲法と映画の歴史

(映画人9条の会)

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【講演録】映画人九条の会200638学習会 復刻

http://kenpo-9.net/mail/mail_57.html#h2-3

 特定秘密保護法の強行制定や集団的自衛権の行使容認など、安倍政権のもとで「戦争する国」づくりが急速に進んでいます。「戦争する国」づくりが進めば、やがて言論表現の自由は抑圧され、映画にも様々な規制がかけられるでしょう。

 映画人九条の会は200638日、映画評論家で映画人九条の会代表委員のお一人でもあった山田和夫さん(故人)を講師にお招きし、「大日本帝国憲法」下の戦前、戦中、映画人はどのような状況におかれていたのか、昭和14年(1939年)に施行され「映画法」のもとで映画や映画人はどのような苦しみを味わわされたのかなど、「映画が自由でなかったとき」のことをじっくりと語ってもらいました。

 多くの映画人、映画関係者、映画ファンの皆さまに、今こそ「映画が自由でなかったとき」のことを知っていただきたいと思い、講演録を復刻しました。ぜひお読みください。

 ただいまご紹介いただきました山田和夫です。  今日は「憲法と映画」という題で講演しますが、むしろ副題の「映画が自由でなかったとき」がどんな状況であったかをできるだけ具体的にお話をして、では今私たちは何をしなければならないか、を考えるきっかけにして頂ければと思います。

◆はじめに戦艦大和が沈んだとき私は……映画『男たちの大和』の善意と真実

 レジュメにある戦艦大和が沈んだとき私は……映画『男たちの大和』の善意と真実を入り口として、お話させていただきます。

 ご存じのとおり去年の暮れ(20051217日)から映画『男たちの大和』が公開され、東映で久しぶりの大ヒットになりました。監督の佐藤純彌さんは、初監督作品が『陸軍残虐物語』という強烈な反軍映画でしたし、また、いろんな文章を読みましても、今の憲法を非常に大切にされている、そして二度と戦争をしてはいけない、という気持ちを強くお持ちの方であるということは疑いがありません。

 8月にこの映画のクランクアップ記者会見、こういう記者会見は珍しいんですけれど、私はシナリオが事前に読めなかったこともあり、心配だったのでこの記者会見に行きました。

 帝国ホテルの大広間に600人も集めて行われ、半分は募集した一般の男女高校生、もう半分がマスコミでした。そこで記者から「もし戦争になったら、あなたは愛する人のために戦いに行って死ぬことが出来ますか」という質問が出ました。私は不安だったんですが、反町隆史さんや中村獅童さんといった俳優さんが、少し考えながらも「愛する人のために死ねます」と言うんですね。確信犯的に言い切ったのは渡哲也さんで、石原軍団の長ということもあるのでしょうが、「私はそういう事態になったら命がけで行きます」とズバリ言うのです。

 あ~あ、と思っていたら、最後に佐藤純爾監督が「違う」と、はっきり言いました。「戦争が起きてからでは遅い。戦争が起きないように我々は何をしなければいけないのか、それをこの映画を見て考えて欲しい」と発言されたのです。

 私はホッとしたのですが、しかし翌日のスポーツ紙やテレビで取り上げられたのは、俳優さんたちの「愛のために戦争に行きます」という姿ばかりで、監督の発言は一切出て来なかった。実は仲代達矢さんも良いことを言っていましたが、これも出てこなかった。その状況に私はとても心配になりました。

 この映画を見に行った人の中で色々な反響がありますが、私の周りでは「危惧しながら見に行ったが、思ったより良かった」という声がかなりあります。この映画は、そういう反応が出るような面も持っています。その点では佐藤純爾監督の、戦争は絶対に起きてはいけないという思いが滲み出ている部分も結構ありますが、逆に「若者の純粋さは尊い、美しい」という声が出てくると、ちょっと待ってくれよ、と言いたくなる。

 戦艦大和が沈んだあの1945年の6月、私はまさに、あの映画に出て来た17才の海軍特別年少兵でした。海軍特別年少兵は海軍で最も年若い兵士で、14才から15才で海軍に入り、過酷な訓練を受けて、17才くらいで軍艦に乗艦します。この年少兵については今井正さんが1972年に『海軍特別年少兵』という映画を作っておられますので、それをご覧になれば実態がよく分ります。

 私は同じ17才で、海軍航空隊におりました。16才で予科練の少年兵を志願して、しかし基礎訓練が終わった頃には乗る飛行機がなく、水上水中の特攻要員に志願しろということになり、そして最後の17才の年に、岡山の海軍倉敷航空隊で水上特攻要員の訓練を受けていました。

 17才の年少兵だった私も、同じく戦艦大和とともに沈んでいった沢山の17才の年少兵も、実のところ日本のやっている戦争がどういう戦争であったのか、何も分っていなかったんですね。

 まず学校の教育は、日本は神の国で、天皇陛下の御稜威(みいつ)、つまり御威光で全世界を一つの家にする、ということで、日本の行っている戦争は聖なる戦争、聖戦だと。当時は国民という言葉はなく、臣民、つまり王様の家来ということですが、臣民は天皇のために命がけで戦って死ぬことが最大の名誉であると教えられていました。しかもアジア太平洋戦争が始まってからの──中国を侵略し、アメリカ、イギリスと戦争を始めた時に、その理由も経緯も何も教えられなかった。なぜ始まったのかも分らない。ただ日本軍は正しい、相手国が間違っている、ということしか知らなかったわけです。そういう教育で頭が作りかえられていたことが基礎にあります。

 それに加えて、当時の大衆的な人気のある娯楽メディアというのは映画しかないのです。ラジオもNHKしかありません。その映画が、状況の推移の中で、一つの方向のことしか語らない、知らせないというものに統制されて行く。

 私たちは、学校ではそういう教育を受け、学校から解放されても一つの方向のことしか語らない映画を観て楽しんで子供時代を過ごし、成長したのです。

 私のレジュメに映画『男たちの大和』の善意と真実とありますが、私は佐藤純爾さんの善意は疑いませんが、出来上がった映画は大変に危険だと思いました。中国の新聞から、「『男たちの大和』という恐ろしい映画ができたらしいが、それについて批評を書いてくれ」という依頼が来ました。私は、「恐ろしい映画というのは困る。そういう映画ではないが、大きな問題点もある」ということで、「この映画には、死んで行った少年兵に対する悲しみと涙はあるが、少年兵たちを死なせた責任者に対する怒りがない。涙はあっても怒りがない」と書きました。

 中国の人たちがこの映画を見た時に、「ああ、日本の若者も大変だったんだな」と思うかも知れません。しかし同時に、「私たちの方がもっと大変だった」という声が必ず続いて出るでしょう。  その彼我の温度差というか、考えの方の差が現にある時に、いくら主観的には善意であっても、キチンと描かなければ、逆方向の危険な効果を生んでしまうということを、私は自分の経験から申し上げたいのです。

 私自身がそれを経験したのは昭和18年、194310月の「学徒出陣」のニュース映画です。これは当時、ただ一つのニュース映画であった「日本ニュース」の中でも、傑作の呼び声高いものです。

 その映画を私は劇場で観ました。そのニュースは二つのテーマしかなかったのです。最初は「決戦」と題したニュース映画が上映されました。南太平洋海戦のニュースですが、これは実はアメリカ側が撮ったものだったのです。そのフィルムを日本が南方で鹵獲(ろかく)して、それを使って見せているわけです。アメリカ側が撮ったものですから、日本軍機が撃墜されるシーンなどが入っています。それまでのニュース映画では、検閲で絶対に見せなかったものです。しかし1943年の10月頃となると、日本がギリギリのところまで追い込まれていた頃ですから、もう今までの勝った勝ったの報道では国民を引っ張っていくことができないということで、そういう凄惨な現代戦の実態をある程度見せようということになったのです。今までそんな凄まじい戦闘場面は見たことがなかったから、私も観客もびっくりしました。

 その場面が終わったあとに、真っ暗な画面の向こうから白抜きで「学徒出陣」というタイトルが出てくるのです。実に上手い編集です。最初に太平洋戦争の凄まじい状況を見せて、いよいよじっとしていられないから学徒も出陣するんだ、ということでタイトルが出切って、そのあと有名な雨の中の分列行進の場面が続くという構成だったのです。

 私は当時これを15歳で観ましたが、子供であろうと大人であろうと、観た人はショックを受けたと思うのです。本当にじっとしていては駄目だ、なんとかしなければこの国は危なくなる、というふうな思いを駆り立てるには、最も効果的な構成であったのです。

 戦後、その雨の中の分列行進を撮影した人たちの談話が出ましたが、彼らは実は1920年代から30年代の終わりにかけて、プロレタリア映画運動で勇敢な映画の闘いをやった人たちなんですね。弾圧で潰され、ニュース映画のカメラマンになった。だから、なんとか今の戦争の実態を伝えたいと思っていた彼らは、徴兵猶予を打ち切られて出征する学生たちの行進を死への旅立ちと受け止め、まさに葬送行進曲の気持ちで、あの映画を撮ったということなんですね。そしてこの映画は、ニュース映画として屈指の傑作になったのです。

 しかし、実際にその映画をリアルタイムで見た一人である私が、その時にどんな印象を持ったかと言えば、旧制中学生である子供の自分たちもじっとしているわけにはいかない、という気持ちに駆られて、そして少年航空兵に志願するという結果になったのです。

 作った人たちの主観的な思いはそうであっても、それがどういう時にどういう人たちに観られるかによって、私たちの場合には教育の素地があった上で、戦争が激しくなったときに観せられましたから、本当にもうすべてを捨てても行かなければならない、という気持ちになったということなんです。だから、何をどう描くかということがキチンとやられていないと、主観的にはそんなつもりではなかったというだけでは済まないことがどんどん起きる。私自身がその被害者の一人です。そのことによって自分の愚かさを逃れようとは思いませんが、しかしそういう恐ろしい効果を映画が持ったということです。

 だから『男たちの大和』についても、史上最も愚かな作戦と言われているあの海上特攻に、いったい誰が送り出したのか、こんな馬鹿なことを命じたのはいったい誰なのかという怒りがもっと描かれていれば、違った結果が出てくるだろうと思うのです。

 今また、2005年の終わりから2006年にかけてこういう映画が出てきたということになると、かつて日本映画がどうであったかということを、もう一度みんなで考え直す必要があるのではないかと思います。

◆「大日本帝国憲法」からはじまった──天皇絶対主義、国民は「臣民」

 いよいよ本論に入ります。いま私たちが守ろうとしている憲法は、言うまでもなく1947年に公布された「日本国憲法」ですが、その前にあったのは、明治23年、1890年に公布された「大日本帝国憲法」です。

 憲法というのは、その国の基本法なのです。すべての法律は、基本法に基づいて作られます。ヨーロッパでは15世紀頃から、王様に勝手なことをさせないために民衆が王様を縛るために憲法を作りました。民衆が権力者に押し付けるのが憲法なんです。

 ところが、日本の「大日本帝国憲法」は欽定憲法、つまり天皇が定めて国民に下賜するものとして始まりました。「大日本帝国憲法」の一番の勘所が何かと言えば、第一章「天皇」第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書いてあることです。そもそも万世一系などというのは、歴史を少し勉強すれば怪しげなものであると分るんですが。そして第三条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とある。

 では「国民」という言葉はどこに出てくるかというと、出てきません。出てくるのは「臣民」という言葉です。第二章「臣民の権利義務」で出てくる。だから「国民」はいない。主権はすべて天皇が握っているという天皇絶対主義で、国民は「臣民」であるというのが、「大日本帝国憲法」時代の日本の在り方でした。

◆「教育勅語」「軍人勅諭」そして「戦陣訓」

 天皇はその前後に、憲法をサポートする形でいろんな「勅語」「勅諭」を発しています。その中で一番有名なのが「教育勅語」です。大日本帝国憲法の翌年に出されたのですが、これには「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とある。有事の際には全てを捨てて国のために尽くせ、ということです。それを反省して戦後「教育基本法」が出来たのですが、その教育基本法も今、変えようとしている大変な時代です。(20061222日に改定された)

 その前に、西南戦争の直後に明治天皇が「軍人勅諭」を出しています。私も軍隊に1年半ほど居ましたので丸暗記させられましたが、流石にもう憶えていません。ただ、意味は憶えています。「我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある」という言葉から始まる。天皇が絶対者で、その絶対者に率いられているのが日本の軍隊であるということです。この仕組み、天皇と軍が一体化したところに、戦前戦中の恐ろしい状況の根幹があったと私は思います。

 その延長線上で1941年、太平洋戦争が始まった年に東条英機陸軍大臣が出したのが「戦陣訓」です。「生きて虜囚の辱かしめを受けず」と書かれたものです。これのために、どれだけ多くの日本の兵隊が死に至ったか。最後まで闘って手を挙げることは、世界的には名誉なことなのですが、それを「生きて虜囚の辱かしめを受けるな」というのが「戦陣訓」だったのです。

 また戦後、B級、C級戦犯で沢山の人が処刑されましたが、これらの人たちの多くが、上官の命令によって捕虜を虐待したとして戦争犯罪に問われたものです。その根幹にはこの「戦陣訓」がありました。捕虜になるような者は軍人の風上にも置けない、敵でも捕虜になる奴は何をやってもいいんだという、捕虜を蔑視する考え方があったからのです。

 現在、米英軍のイラク兵捕虜に対する虐待問題が続々と出てきていますが、これもメンタリティは同じですね。それに人種差別意識も加わっているでしょうし。日本もアジア侵略は明治時代から始まりましたが、中国人はチャンコロ、ロシア人はロスケと蔑称し、蔑視していました。その延長もあるのですが、基本的には「戦陣訓」によって捕虜になることほど恥ずかしいことはない、捕虜になるぐらいなら死ねと言われてきたものですから、敵兵の捕虜たちを人としてまともに扱うなどという気にならなかったのです。

◆新聞紙法、出版法、治安維持法、そして映画法

 そういう大日本帝国憲法、勅語、勅諭があり、それを大きく支えるために、「新聞紙法」「出版法」というメディアを統制するための法律ができます。そして、その総元締めとして1925年、大正14年にできたのが「治安維持法」です。

 「治安維持法」がどういうものだったかというと、国体を変革する、つまり天皇制を変えようとして団体を作ったり運動をしたりする人は、最高で無期懲役の刑罰に処するというものです。

 これが1928年、昭和36月に改悪されました。当時でも法の改正は、形だけでも議会を通さければならないものだったのですが、「治安維持法」の改悪は勅令によって改正されました。欽定憲法ではそれが可能だったんですね。勅令で法改正をし、議会が事後承認するという形です。

 どういう改悪だったかというと、最高刑が死刑です。国体を変革しようと運動した者は勿論、運動する者と知って協力した者も死刑です。「治安維持法」を死刑法にしたのです。

 この法律には映画に対する言及はありませんが、仮に天皇を些かでも批判するような映画を作ったとしたら、「治安維持法」で検挙されるわけです。

 先ほど言いましたプロレタリア映画運動という、労働者や農民のための自主制作、自主上映運動が活発に行われたのですが、これが「治安維持法」で弾圧されました。今では考えられないことですが、自主上映をやったということで捕まって、ひどい目にあった人が何人もいます。

 映画法が出来るのはもっと後の時代ですが、基本は大日本帝国憲法から治安維持法に至る大きな筋があったのです。

◆「映画法」の3本柱──1.映画検閲の徹底/事前検閲の追加

 映画については、検閲がすでに1912年、大正元年から各地の警察が映画を事前に見て、上映を禁止したり、カットするという形で行われていました。しかしそれでは、ある町ではカットされたものがある町ではカットされないという事態が起こり、統一できないということで1925年、治安維持法ができた年に、全国の映画の検閲を内務省の警保局に一元化することになりました。その一元化の際の基準が、後にできる「映画法」にそのまま移行しました。

 映画法自体には、検閲を合格しなければ映画の上映を許可しないとしか書いてありませんが、ではどういう基準で検閲をやるのかというと、「映画法施行規則」というのがあって、そこに不合格の基準が列挙してあります。これが先に述べた検閲一元化の際に設けられた基準を援用しているわけです。ただ違う点は、「映画法」以前は出来上がった映画を見てカットしていたのですが、「映画法」以降はシナリオ段階で事前検閲し、出来上がった映画を見てまたカットする、という運用になりました。

 「映画法施行規則」を読みますと、ここでも大日本帝国憲法がバッチリと出てきます。「1.皇室の尊厳を冒涜し又は帝国の威信を損するおそれのあるもの」。これがまず駄目です。二番目は「政治上・軍事上・外交上・経済上その他帝国の利益を害するおそれあるもの」、三番目は「国策遂行の基礎たる事項に関する啓発宣伝上支障のおそれあるもの」、四番目が「国民文化に対し誤解を生じせしめるおそれがあるもの」、五番が「製作技術が著しく拙劣なるもの」、六番には「善良なる風俗をみだし国民道義を頽廃せしむるおそれあるもの」とあります。

 このように映画の検閲というのは、想像できないぐらい目茶苦茶なことをやっていました。

 今でこそ俳優が天皇を演じることは珍しくありませんが、戦前戦中ではもうとんでもないことです。天皇の尊厳を傷つけるような映画は、はじめからないんです。反体制的な映画──貧乏人は団結して闘わなければいけないとか、貧乏人はこんなに酷い目にあっているのに金持ちはこんなに贅沢をしているなどいうことをチラチラと見せただけで、全部切られたのです。だから、そんなものは始めから撮らないという自己規制が拡がります。

 自己規制が拡がって最大の災厄を受けたのが、接吻場面です。日本映画に接吻場面が出てくるのは戦後ですが、外国映画では接吻場面が片っ端から切られました。『ニューシネマ・パラダイス』の主人公の少年が大きくなって、親友だった映写技師の贈り物として、接吻場面ばっかりの切られたフィルムを貰うというシーンがありますが、日本だってそうだったのです。男の俳優と女の俳優の口が近づいたと思ったらパッと離れた、なんて馬鹿馬鹿しいものもありました。

 検閲で一つの基準ができると、それがまた無限に拡大する。例えば、「皇室の尊厳を冒涜」ということがどこまで行くかというと、外国の王室を扱った映画は全部引っ掛かります。英国映画の『ヘンリー八世の私生活』という名作映画も上映禁止になりましたし、キャサリン・ヘップバーンの『スコットランドのメアリー女王』も駄目、有名な『うたかたの恋』というフランス映画も上映禁止になりました。もし『ローマの休日』があの当時製作されていたなら、日本では公開できなかったでしょうね。止めどがありません。

 特に日本の監督たちが怒ったのは、菊の御紋章どころか菊の御紋章に似た模様すら使ってはいけない、などといった拡大解釈でした。当時、黒澤明さんは助監督時代に検閲官のところへの使い走りをやっていたのですが、当時を振り返り、「あの連中は精神異常者なのではないかと思った」と書いています。御所車の模様が「菊に見えるから駄目だ」と言われたのですから。それくらい映画は不自由を強いられたのです。

2.映画人の登録制と技能審査/実質的な思想調査による統制

 段々と中国との戦争が大きくなり、一方で映画の影響力も大きく広がってきて、遂に1939年、昭和14年に「映画法」ができます。

 この「映画法」の三本柱の一本目は「映画検閲の徹底」です。これは、できたものを検閲するだけでなく、作る前に検閲する、事前検閲を追加しました。

 そして二本目がもっと怖い「映画人の登録と技能審査」です。これは監督や俳優、技術スタッフのみならず、映画界で仕事をする者は、営業部長や専務や社長に至るまですべて登録証明書を貰わないといけない、というものです。登録証明書を貰うためには審査があります。

 例えば昭和15年度に実施された演出の部の技能審査の問題ですが、「映画の社会的使命を論ぜよ」「我が国の国際的発展の次第を述べよ」「日本は何の為に多大の犠牲を払って支那に於ける大事業を為しつつあるか」「映画法に於ける登録制度の目的は何か」「次の事について述べよ。松下村塾、国民精神総動員等々」といった問題が延々と続きます。これは完全に思想調査ですね。

 助監督をやっていた人が監督に昇格する時には、その第一回監督作品が審査にかかります。1943年に黒澤明さんが『姿三四郎』で初監督をやる際にも、審査にかかりました。これに通れば黒澤さんは監督として認められます。審査するのは、内閣情報局の役人と、映画界から数人の代表が出て行います。役人は『姿三四郎』のシナリオを読み、「アメリカ映画みたいではないか。アメリカと戦争している国で、こんなアメリカ映画のような作品を作るのを許すわけにはいかない」と言ったのです。『姿三四郎』は戦中の大ヒット作品になったのですが、それは面白くできているからです。それがけしからん、と言う。これで黒澤さんは監督デビューできないかと思ったその時、映画界代表の一人で、すでに巨匠と言われていた小津安二郎が黒澤さんに近づいて握手を求め、「黒澤君、おめでとう。この映画は100点満点中、120点だ」と言ったのです。大巨匠の言葉に内閣情報局の役人は何も言えなくなってしまった。それで黒澤さんは1943年、『姿三四郎』で監督デビューを果たしたのです。とても良い話ですね。

 黒澤さんと小津安二郎は、いろんな意味で対照的でしょ、映画の作り方から言っても。黒澤さんはプロレタリア美術連盟でストライキの絵なんかも描いたし、非合法の無産者新聞の配達をやった経験のある人なんです。ところが小津安二郎さんは、政治的なこと社会的なことから距離をおいていて、触れないようにしていたのです。しかし小津さんも、「こんな良い映画なのに、役人風情がなにを言うか!」と我慢できなかったのでしょうね。そんなところにも小津さんの良いところが現われています。

 一昨年、小津安二郎さんの生誕100年の折に、吉田喜重監督が鋭いことを言いました。「小津さんの映画で驚くべきことは、軍服姿が一人も出てこない」と言ったのです。私はハッと思いました。あの1930年代、40年代の戦前・戦中の時期に軍服姿の登場人物を一人も出さなかったことに、小津さんの美意識を感じました。イデオロギー的にどうとか言うよりも、受け入れたくないものは受け入れない、というものがあったのでしょうね。

 というわけで、技能審査による監督の登録というものがいかに理不尽なものであったかということがよく分かります。

3.国策による企業の整理・統合

 三番目の柱に、「国策による企業の整理・統合」ということがあります。

 映画というのはフィルムで撮るわけですが、当時、生フィルムの原料は可燃性のニトロセルロースが使われており、これは火薬の原料と同じなので、政府は軍需資材と認定しました。そして生フィルムは軍需資材で戦争に必要なものだから、戦争を進める国策に沿わない映画会社には生フィルムを配給しない、と申し渡したんです。

 当時は随分たくさん映画会社があったのですが、劇映画は3社に統合せよ、と命令したのです。最初は2社と言ったらしいのですが、映画の資本家が暗躍してもう1社作ったのが大映です。そういうことで3社にして、国策に沿うような映画を作らない限りフィルムは配給しないという、台所から締め上げるような方法で「企業統合」を進めました。

 これは実は、非常に大きな影響を持ちました。「企業統合」を国の命令でやったのです。今の言葉で言えばMAですが、これは天下り式官製MAですね。国策によるリストラの強行です。

 これに対して伊丹万作監督は、作った映画がほとんど残っていないのは残念ですが、本当の意味のリベラリストで戦争中、ついに戦争協力映画を一本も作らなかった人です。体を壊したこともあって、戦争中はシナリオしか書いていません。そのシナリオで一番有名なのが『無法松の一生』ですね。これをお弟子さんの稲垣博監督が撮って、これがまた検閲に引っ掛かるのですが、それはまた後でお話します。

 その伊丹さんが1941年、映画法による「映画界新体制案」──東宝と松竹と大映の3社に統合する案に、堂々と批判の文章を書いています。

 「日本映画」という統制雑誌に、「自分一個の不安もさることながら、それよりもまず、失業群としての大勢の映画人の姿が、黒い集団となってぐんと胸にきた」と。その後には、「今度のような重大な問題の討議にあたって、一度も、そして一人も従業員代表が加えられていない」「いったい今までだれが映画を作ってきたのだ。だれが映画を愛し、映画を育ててきたのだ。実質的な意味では、それはことごとく従業員のやったことではないか」と続きます。見事な反論です。

 これは、今でもそういう傾向がありまして、依然として映画運動の代表者や映画労働組合の人間は、文化庁の映画の諮問委員会などには呼ばれません。

 当時、映画評論家で映画法に対する反論を書いたのは多分、岩崎昶さん一人だろうと思います。岩崎さんはその前に「唯物論研究会」にいて、「唯物論全書」の中の「映画論」という本を出して、それで治安維持法で捕まって1年ほど監獄にいたのですが、出てきて後、「映画法によって日本映画は衰退する」と勇敢にも書きました。

 伊丹万作さんと岩崎昶さんの二人の抵抗は、記録に残しておく必要があると思います。

◆映画企業、映画人はそのとき……映画企業は国策を歓迎した

 「映画会社新体制案」の当時、一番古い映画会社は日活でした。次に松竹で、東宝は1937年に出来たばかりの新興映画会社でした。

 この時、第一映画という会社の専務をやっていた永田雅一、後の大映社長で自民党の重要人物にもなるのですが、彼が暗躍をして「映画会社新体制案」から日活を排除し、日活の多摩川撮影所を取り上げて、日活を興行だけの会社にしてしまうんです。そして取り上げた多摩川撮影所を使って「大映」──正式名称は「大日本映画製作株式会社」という怖ろしい名前なのですが、これをでっちあげたんです。

 そして当時、お上の覚えの目出度かった作家の菊池寛を社長に据え、自分は専務になりました。日活が再び製作を再開するのは、戦後の1954年です。

 実はこの「企業統合」に、当時の映画資本家は誰も反対しませんでした。お上の命令で競争会社が減り自分たちが残れば、収入や利益が確保されるということです。実際にこの3社体制になってからは、どの会社も儲かっています。いっぱいあった会社をみんな潰しちゃったのですから。特に大映には、大都映画、新興キネマ、第一映画、全勝キネマ、その他名前が憶えきれないほどの多くの会社が統合されています。完全な整理統合です。

 整理統合した3社独占体制が戦争中にできて、ニュース映画は日本映画社の「日本ニュース」だけ、映画雑誌などもみんな統合されました。

 レジュメに映画企業、映画人はそのときという項がありますが、そこで一番考えなければいけないのは、映画企業は国策を歓迎したということなんですね。そこでは永田雅一の大映創立策謀などと並んで驚くのが、当時松竹の社長だった城戸四郎氏です。映画界ではただ一人、1947年の3月に東京裁判の証人として城戸四郎が呼ばれます。

 私もその証言を読んで驚いたのですが、被告人(戦犯)側の弁護士がこう質問します。「昭和3年から16年まで、つまり日中戦争から太平洋戦争の開始まで、法律により映画のテーマまたは映画の製作が強要されることがありましたでしょうか」と訊いたのです。

 それに対して城戸四郎は、「法律により要求され、あるいは強要されたことはありません」と答えていることが、証言記録に堂々と残っているんです。

 あれだけ検閲によって、日本の多くの才能ある作家たちが虐められ、作りたくもない映画を作らされたり、作った映画もズタズタにされたことを、「そんなことはありませんでした」というわけですから、向こうの弁護士は大喜びしたそうですよ。

 重光葵というA級戦犯(禁錮7年)がいますが、彼などは感謝の手紙を城戸さんに出しているんです。当時、統制によって映画人たちを苦しめたことが彼らの罪の一つとして問われていたわけで、それを松竹の社長が「いやいや全然苦しめられていません」と言うわけだから。国策を歓迎したことは、そういうところに端的に現われてくるわけです。

 城戸さんについてはもう一つあります。デビット・コンテという、アメリカ占領軍の民間情報教育局(CIE)映画課長がいました。この人は大変進歩的だったので1年ほどでマッカーサーに追い返されてしまいますが、この人こそ最初に日本映画の民主化の流れを作った人です。

 彼が映画会社の社長を呼んで懇談した時に、「心配することがあったら、遠慮なく言ってくれ」とコンテが言ったら、まったく想像もしないことを城戸四郎は言ったそうです。何を言ったかというと、「アメリカ軍はよっぽど注意しないと、共産主義の映画がどんどん入ってくるから、それを大いに取り締まってもらいたい」と。デビット・コンテは左翼系の人ですから、「こんな話が出てくるとは思わなかった」ということが、後にコンテが雑誌「世界」に寄稿した占領の映画史の中にあるんです。

 戦争中、映画は自由ではなく、随分いじめられたという状況にありながら、むしろ逆に、資本の側はあまりそうは思っていなくて、国のおかげで儲かった、あまり苦しんでなかった、というようなことを平気で言うような心理状態がある、ということを頭の中に入れておいて頂きたいのです。

 ですから、これからも彼らが「文化を大切にする」とか「自由を大切にする」と言うような時は、あまり期待しない方が良いのではないかと思います。むしろ、そういうことは強制しない限り、あの人たちは動かないだろうと思った方が良いですね。

◆たたかった映画人たち

 伊丹万作さんの文筆による抵抗や、黒澤明さん、小津安二郎さんの話は先ほどしましたが、そういう中で最も勇敢な闘いをやったのは亀井文夫でしょうね。

 亀井さんは戦後の東宝大争議の時も指導的立場にいて、山本薩夫や今井正と一緒にやった人です。彼が1938年に作った『上海』という映画と、上映禁止になった『戦ふ兵隊』(1939年)は、いまビデオで見られますからぜひ見ていただきたいのですが、それがあの当時いかに勇敢な仕事だったかということがよく分かります。

 『上海』という映画は、1937年の17日の盧溝橋事件で中国北部で戦争が始まり、8月には中国中部の上海で戦争が始まります。そこでの戦いはものすごい激戦で、上海を占領するのに日本軍は3ヶ月かかったわけです。その間にすごい犠牲を出していますが、そこから西へ西へと進んで、その年の12月には南京を落す。ですから南京大虐殺というのは、「上海での抵抗があまりにも激しかったので、日本軍がひどい目に合った意趣返しではないかと思われる」という説があるくらい、上海での中国軍の抵抗は激しかったわけです。

 亀井文夫は上海には行っていませんが、三木茂という名カメラマンが撮影してきたフィルムを、日本にいる亀井さんが編集するという仕事をやったわけです。そうすると送ってくるフィルムがすごいんですよ。町中が焼け野原になって、コンクリートの建物の一部屋、一部屋が陣地になって戦った跡が歴然としている。中国にはクリークと呼ばれる小さな運河がいっぱいあるのですが、その岸辺は中国軍の塹壕のようになっていて、そこで日本軍がいかに苦戦したかということがありありと分かる。そうした廃墟と化した焼け跡の戦場の跡ばかりを撮っているわけです。そこには穴の開いた鉄兜が転がっていたり、中国兵が持っていた唐傘みたいなものが転がっていたり、戦死した日本兵の卒塔婆が並んでいる前でお坊さんがお祈りを捧げている中を、ひらひらと紋白蝶が飛んでいる、といったフィルムばかり撮っていたのですね。亀井さんは「これなら作れる」と言って、記録映画『上海』を作ったわけです。

 この映画は一応、「日本軍はかくも勇猛果敢に戦った」とナレーションでは勇ましいことを言っているので、なんとか検閲は通りましたが、映像はとんでもない戦争の現実を映し出していました。

 特に素晴らしいと思ったのは、上海には「租界」という欧米諸国が植民地同然に治外法権で持っているテリトリーがあるわけです。そこを日本軍が行軍するシーンが出てきます。そこでは日の丸の旗をもって歓迎している人々がいて、それは全部日本人です。そこをカメラがなめていくと、日の丸の旗が絶えたところから、ただ立って見ているだけの中国人たちが画面に現われてくる。これはもう何も言葉は要らないですよね。占領軍というのは、その国の民衆にそのように迎えられるものなのですよ。だから私はイラクだって同じだと思うんだけれど、何の説明も要らずに、カメラが追う映像だけで戦争の本質をちゃんと伝えているわけです。この映画は上映はできたけれども、亀井さんは陸軍に呼ばれて大目玉をくらったということです。

 その次の『戦ふ兵隊』はごまかしが効かなかったのか、ついに上映禁止になって、亀井さんは治安維持法違反で捕まります。1941年の6月に逮捕されて、その年の12月に太平洋戦争が勃発し、その後に釈放されるのですが、映画法での登録が取り消されて映画界には戻れない状態でした。そういう仕組みになっていたわけです。

 『戦ふ兵隊』はフィルムが残っていて、今では見ることができます。この映画はもっとすごいです。日本の戦争というものが中国に対する侵略戦争であったということを、戦時中にもかかわらず、かなり露骨にはっきりと言っています。それはもう、かなりヤバイなぁというような描き方です。戦車の上からカメラが、翻る日の丸をなめて背景を捉えているわけですが、その向こうは全部焼け野原ですよ。日本軍の戦車が通った跡はみんな焼け野原で、自分の家に火をつけられて悲しんでいる中国の農民の姿などの場面がいっぱい出てきます。

 そういうような映画を作って、ついに彼は逮捕され、出てきたときにはもう映画が作れないという状況があったわけです。

 それから山中貞雄に関しては、黒木和雄監督が新しい作品で『紙屋悦子の青春』(2006年/遺作)という映画を作りましたが、その次は山中貞雄の伝記を撮りたいと黒木監督が言っているようですので、それができれば、もっといろんなことが分かると思うのですが、山中貞雄は1938年にまだ29歳に2ヶ月足りない若さで戦病死した天才的な監督です。

 残念ながら現存している作品は、まとまったものとしては『丹下左膳 百万両の壷』(1935年)、『河内山宗俊』(1936年)、『人情紙風船』(1937年)の3本しかありません。『人情紙風船』という映画は、出来上がった直後、山中監督は召集令状を受けて戦場に行き、翌年に亡くなってしまうという悲劇的な成り立ちをしていますが、映画そのものも死の影がにじみ出るような暗い出来上がりになっています。前進座との提携作品で、河原崎長十郎と奥さんの河原崎(山岸)しづ江さんとが浪人の夫婦役で、貧乏長屋の庶民に溶け込むことができないうちに悪事に巻き込まれて、侍としての誇りを恥じて心中してしまうという話なんです。

 この映画はもともと歌舞伎の「髪結新三」を原作にして、三村伸太郎がシナリオを書いて、それに山中貞雄が手を入れて映画化したものなのですが、シナリオ段階での最後は非常に明るいんですね。長屋の庶民たちが「俺たちが一緒になれば世の中も変るよ」みたいなセリフも出てくるような、明るい結末だったのです。ところが山中貞雄はとてもそんな気持にはなれなかったらしいですね。最後は浪人夫婦が心中をして、浪人仕事で貼り合わせていた紙風船が家の前の路地をコロコロと転がり出て行くところをカメラがじっと見つめるという、想像するだけでも気が滅入るような映画になっちゃったんですね。

 でも、そこに本当に1937年にそのような映画を作った──山中貞雄は「『人情紙風船』山中貞雄の遺作とはチトサビシイ」と手記に残していますが、若き天才的作家がそのような暗い気持におそわれていたのが1937年だったということは、証言として非常に大切だし、機会があればぜひ皆さんと一緒にもう一度見たいと思っています。

 稲垣浩の場合は、『無法松の一生』(1943年)があるわけです。その後3回ぐらいリメイクされましたが、やはり阪東妻三郎、園井恵子が出演した最初のオリジナル版が一番良いですね。

 このシナリオを書いたのが伊丹万作です。ところがこれが検閲に引っかかった。この時の検閲官のセリフというのが、当時の検閲官の陋劣な心情をそのまま暴露したかのようなもので、「人力車夫風情が、帝国軍人の妻に横恋慕するとは」というものでした。この作品は、無法松と呼ばれている人力車夫が、偶然の機会に軍人一家と親しくなって、軍人が亡くなった後、その未亡人と一人息子を一生懸命守るというお話ですから、その間に未亡人にほのかな恋心を抱くわけです。それがけしからんと言われ、「人力車夫風情の横恋慕」というすさまじい言葉になって出てくる。そんなに艶かしい場面なんて出てこないんですよ。ただ居酒屋に貼ってある美人のポスターを見て、それに未亡人の顔がダブるといった切ない場面はあるのだけれど、そんなのは全部駄目だ、少しでも想像させるものはいかん、と言って切られたのです。

 ですから稲垣監督は戦後、三船敏郎、高峰秀子主演で、「カットされたところも全部入れ込んだ完全版を作る」ということでリメイク(1958年)して、これがベネチア国際映画祭でグランプリを受賞するのですが、どうもやっぱり1943年版のほうが良いですね。

 実は先日、自宅の近くの九条の会でお話したのですが、その地域の九条の会の人たちは、今日の皆さんよりもっと高齢者の方が多くて、「やはり阪妻の無法松のほうが良かったですね」と言うと、「そうよ!そっちの方がいいわよ!」とおばあちゃんたちが大声を上げていました。オリジナル版には、そういう苦しい中で撮ったものの迫力というものがありますね。そういうものまで切ったということです。

 何も反戦を謳っているとか、体制に反旗を翻したとか、そういう問題ではなく、要するに人間が人間らしくある、そういう表現がすべて駄目だということなんです。本当の自由でないということはそういうことなんだ、ということを私たちは理解しておく必要があると思います。

 木下惠介は、黒澤明と同じ1943年に『花咲く港』というコメディで監督デビューします。この作品は特に問題なく通ったのですが、戦争中に作った最後の作品で『陸軍』(1944年)という映画があります。この作品は、火野葦平が書いた小説の映画化ですが、北九州小倉を舞台に、明治時代からずっと続いている軍人一家の物語です。母親役を田中絹代が演じていますが、自分の息子がいよいよ太平洋戦争に出征することになり、その部隊が小倉の町を行進していくところを母親が見送るわけです。それはどこまでも、どこまでも息子に追いすがっていって、涙を流しながら追いかけていく、というのが有名なラストシーンです。これはずいぶん長いんですよ。

 これはビデオにもなっていますからご覧になると分かりますが、自分の息子が戦争に行く、そのとき涙を流しながら見送ることは、一人の人間として、母親として当然のことではないかと思うのですが、「これは日本の母ではない。米英の母の姿ではないか」と言って、えらく怒られたらしいんですね。

 それで嫌気がさして、木下惠介は故郷に帰って終戦までの半年間ほど映画を作らなくて、それで戦後帰ってきて最初に作ったのが『大曾根家の朝』(1946年)です。これは木下さんが戦後に語っていることですけど、「私が描きたかったのは、軍国主義の流れの中で、打ちのめされた日本の母の、人間としての嘆きを、僕の爆発した怒りのままに叩きつけた。こんなにも人間の魂を痛めつけた、非人間的な過去の日本への抗議だと思って、この『大曾根家の朝』を作った」と。

 この映画は、 小澤栄太郎演じる職業軍人がリベラリストの学者の家に入り込んで、末っ子の息子を特攻隊に送り出したりするわけです。そして終戦を迎えた最後に、杉村春子演じる母親がその軍人に向かって「あなたにはこの家に居ていただきたくない。出ていってもらいたい。日本からも出て行ってもらいたい」と、すごい啖呵を切る場面があるんです。それが戦争中の、抑えに抑えた日本の母親の怒りの爆発だったと。その前にあったのが『陸軍』のラストの涙だったわけですから、決して突然の意思表明ではなかったということですね。

◆国策映画への妥協を強いられた人々のなぜ?

 国策映画への妥協を強いられた人々のなぜ?というのが、これが一番難しい話なんです。いま名古屋の大学に、ピーター・B・ハーイというアメリカの学者がいるのですけど、「帝国の銀幕 十五年戦争と日本映画」という本を出しています。いろんな資料を集めていて、非常に勉強になるのですが、なぜか意図的な部分があるんですね。

 どういうところかというと、「今井正と山本薩夫は、ともにいったん戦争が終わると真摯な左翼思想家、全身全霊をささげた平和主義者であると自称したが、戦時中は政府の戦意高揚の動きに熱心に協力した。彼らは生存中、戦時中の活動については沈黙を守った。この二人は、戦争遂行への参加ではなく、戦後彼らが表明した欺瞞によって批判されるべきだ」と、こう書いています。

 これはおかしいんですよ。例えば同じ本の後の方には、今井さんが「戦争協力映画を作ったことが、自分が犯した誤りのなかで一番大きいと思っている」という言葉を引用しているんですね。それがどうして沈黙を守っているということになるのでしょうか。これは非常に意図的だとしか思えない。

 山本薩夫さんも『翼の凱歌』(1942年)だとか、今井さんも『望楼の決死隊』(1943年)だとか、明らかに国策映画を作っています。そのことについて彼らが反省するのは当然だし、むしろその償いのために、戦後は一貫して反戦平和のための活動をやってこられたと思います。 ですから、戦争中の妥協というか挫折というか、そういうものを軽く見ることは出来ないと思いますが、戦後そのことをどのように活かしたか、ということからきちんと見るべきだと思います。

 その当時は映画法があり、そして治安維持法があり、がんじがらめになっていた。伊丹万作のような人は、自分は戦争中一本も協力映画は作らなかった。しかし自分はこの戦争は間違っていると思ったけれど、いったん戦争が始まれば国が負けたらどんなことになるかわからないから、なんとか勝って欲しいと思った、だからそんな人間に戦争責任を追及する資格はない、と本来なら一番責任追及できる人が、そういうふうに謙虚な反省をされているわけです。

 それから岩崎さんなどもそういう抵抗をされたわけですけど、「結句、自分は潜在的な戦犯だった。本当の意味で反戦のために戦えなかった」という反省の文章を書いています。

 監督では家城巳代治さんが同じような文章を書いています。そういうふうな人たちが、みんな誠実な反省の上に立って戦後の行動を決めていったというところを、私たちはキチンと見ていかなければいけないだろうと思います。

◆戦後日本国憲法の時代──占領行政化、憲法の不完全実施

 戦後の日本国憲法の時代というのは、映画が自由でなかったときのパートⅡになるんですね。つまりアメリカ占領軍の時代に新しい憲法ができて、そこには国民に主権があるということを堂々と謳っている。旧憲法だと、法律の定める範囲の中で表現の自由があると書いてあるのに対して、新憲法では基本的人権を大々的に謳ってあるわけだから、本当は自由になったはずなんだけれども、1952年まではアメリカ占領軍の直接の検閲もありましたし、統制もあった。  それに加えて1950年の朝鮮戦争とともにレッドパージというのがあって、多くの芸術家が職場を追われたのです。

◆「赤追放」(レッドパージ)──企業は再び「国策」を歓迎した!

 ここでも企業は再び「国策」を歓迎したという項目があります。事実それは、「占領軍の指令に基づいて各撮影所から共産主義、あるいはそれに同調するとみられる人たちを追放することに決めた。これによって日本の映画は健全に発展するであろう」という声明を当時の5社長が共同で出すんですね。占領軍の絶対権力のもとで反対はできなかったでしょうが、もう少しものの言いようはあったのではと思うような声明を出しています。

 東宝の人などは、その時のレットパージの通達のコピーを資料として出しています。それを読むと「通達をもらった瞬間から、自分の撮影所にある私物を持ってただちに立ち退け、二度と立ち入りは許さない」というようなことが書いてある。それが東宝の社長命令で出ています。

 そういうふうなことがあって、占領政策のもとでの不自由に対しても、映画人が有効な抵抗をしたかどうかは議論があるけれども、一番駄目なのは企業の資本家たちですね。

◆憲法9条の危機と向かい合ういま

 それじゃあ、私たちが戦争中に心ならずも国策に映画人も協力させられたような事態を、これから絶対にもたらさないようにするためには、どうしなければいけないか。それは一昨年の2004年、映画人九条の会が発足した時に、高畑勲監督が講演された中で、「戦争がいったん始まった時には大きな情緒的な暴風のようなものでみんなが押し流されてしまう。戦争が始まらないようにするために、いかにすべきか。いったん始まったら、押しとどめることはなかなかできない」ということを強調されました。私もそうだと思います。

 だから憲法9条が大切なんであって、今の自民党の方も「憲法9条の第1項はそのままでいいじゃないか」とおしゃっているわけで、彼らは「第2項が問題だ」と言っています。

 第2項を改正することで「自衛隊」が「自衛軍」になるわけです。それから鉄砲を撃ってもいい、戦争してもいいという「交戦権」を否定する部分を全部取ってしまう。「交戦権の否定」を外せば、一番大切な歯止めがなくなる。

 しかも今、天皇の存在を考えないといけませんが、昔の天皇の存在と比べれば「絶対神聖、不可侵」などとは思わない。政府は昔は天皇を利用していたけど、今の日本の政府はアメリカを利用している。むしろアメリカに利用されている。アメリカ第一主義のもとで、日本の自衛隊は「自衛軍」になってアメリカ軍と合体するという方向がどんどん進んでいます。

 今の天皇には絶対的な権力はないかもしれないけれど、また新たな権力者としてのアメリカと「米軍」と、日本の「自衛軍」が出てくる可能性が出てきます。

 「隊」から「軍」になるのは、山田朗先生(明治大学教授)の講演(2006125日「護憲派のための軍事講座」)をお聞きしたんですけど、たった1字違いでも大違いなんです。「軍」になると、旧憲法下の「天皇と軍との一体化」が基本になってすべての自由が奪われていったのと同じような状況がいつでも起こりえると思っても間違いではない。そういう事態になってきていると思います。

 ですので「映画が自由でなかったとき」のパートⅡは、また機会を改めてお話したいと思いますが、今日のところはこれで終わらせてもらいます。(拍手)

◆質疑応答

【質問1】

 大変いいお話、ありがとうございました。今の日本の政治家たちは、「先の戦争は植民地解放のすばらしい戦争だった」と言っています。たとえばイラクにしても今、アメリカに占領をされることに対して闘いますし、先の戦争でもフランスなどが抵抗運動を行っています。日本はなぜそれが出来なかったのか。

 もう一つは、戦争の総括が全然やられていない。この点について先生のご意見を聞かせください。

山田

それはまことに恥ずかしいと思っていることの一つです。ヨーロッパではヒットラー・ドイツの下でも、映画『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』(2005年)に出てきたような本当に勇敢な21歳の女性たちの「白いバラ(Die Weise Rose)抵抗運動」があった。

 日本にそういうものはなかったのかと言われると、必ずしもそうではない。ただ、非常に弱かった。それは真剣に総括しなければいけないことだと思います。

 山本薩夫さんにしても、今井正さんにしても、映画界に入る前からいろんな運動をやってこられた人が、やはり映画界の中では「こういう映画しか作れなかった」という状況もあったけれど、しかしその中でもギリギリの抵抗をやった人間が何人かはいる。そういうことをもっと私たちは、掘り起こさなければいけない。

 それから抵抗運動、日本の場合は治安維持法がものすごい暴力を持って、特に共産党員はかたっぱしから監獄へほうり込まれて、その中にはちょうど「白いバラ抵抗運動」のゾフィー・ショルと同じような21歳そこそこの若い女性が何人も頑張って獄中で死んでいます。そういうことが文学にもなかなか現れてこないし、ましてや映画にも現れてこない。わずかに小林多喜二が記録映画になって知られていますが、そこのあたりにも課題があります。

 私たちがもっと調べれば──今日お話したこととも関連しますが、伊丹万作の3巻の全集も出ています。その内の1巻はほとんど評論ばっかりで、その中に見事な文章があります。そのようなものを掘り起こして知らせることから始めないといけない。

 確かに非常に弱かったし、その面では恥ずかしい面の方が強いけれども、しかしそれだけではない。よくも頑張ったなぁと思われるような作品も作っているし、発言もしているというところを、みんなで良い意味の発掘をしたり、広げたりということをしていきたいと思います。

【質問2】

 冒頭にお話しされた『男たちの大和』の記者会見の話ですが、仲代達矢さんも素晴らしいことを言われたとおっしゃっていましたが、実際にどういう発言をされたのですか?

山田

 『男たちの大和』の記者会見が帝国ホテルで行われたとき、半分の300人は一般の男女高校生でした。その人たちの質問でこういう質問があったんですよ。仲代さんもほとんど同じ年頃だった、ということで、「17歳、18歳と言ったら私たち高校生と同じ年頃だけど、絶対に死ぬことが分かっているのにどうしてみんな特攻出撃に行ったんですか?」と。

 それに対して仲代さんは、「私自身、同じ年頃だったからよく分かるけど、私たちはそういうふうにしか考えられないように教育されていたんだ」と言いましたね。仲代さんは「むしろ戦争が終わった途端に、そうしろ、そうしろ!と言っていた大人が、手の平を反したように反対なことを言い出したことに愕然とした」とも言っていました。そういうのは一切報道に出てこなかったですね。

◆おわりに

司会

時間もありませんが、山田さんに言い足りなかったことをもう少し語っていただきたいと思います。

山田

 言い足りないことばかりなのですが、戦争中にただ一つニュース映画を出していたのは、日本映画社でした。戦後、日本映画社の製作局長に岩崎昶さんがなったんですね。その時に「我々は民主主義のために映画を作るんだ」という大変立派な戦後の宣言を出した。

 そして1946年に『日本の悲劇 自由の声』という、亀井文夫さんが監督した4巻ぐらいの中編の記録映画を出しました。それは戦争中の日本ニュースを編集したものでした。撮ったのは昔の検閲を通ったフィルムだけど、それがいかに嘘であったかということを立証するような映画を作った。

 一番の見どころは、最後に天皇が出てきて、天皇は昔は大元帥陛下だということで、きらびやかな軍服姿で白馬にまたがっている観兵式の場面がある。その大元帥の天皇の軍服姿がオーバーラップしてだんだん変わっていって、今の背広姿の天皇に変わるという有名な場面がラストだったのです。それで締めくくったように、「天皇制批判」ということが一貫していた。

 その当時、CIEの民間情報教育局の方の検閲は通ったけど、ところが総理大臣の吉田茂が──吉田茂は自分で「臣・茂」と呼ぶぐらいの人だったので、天皇を批判するなんてとんでもないと言って、「こんなものを許可するようだったら困る」とマッカーサーに直訴した。CIE とは別に、保守的なCCTという陸軍の検閲部があり、そちらでもう一度検閲させたら「とんでもない」となって、たった1週間、神田の交通会館で特別上映を認められただけで、そのあとフィルムは没収されてアメリカに持って行かれました。亀井さんは戦争中も災難にあったけど、戦後も災難にあったのです。

 そしてその次に亀井さんが作ったのが、山本薩夫さんと共同監督の『戦争と平和』だったんですね。私なんかはその映画を見て目覚めることができた、非常に記念すべき映画です。

 なんで目覚めることができたかというと、初めて日本の劇映画で、「日本が侵略戦争をやったんだ」ということをはっきりと描かれたわけですね。描いた材料というのは、亀井さんが隠し持っていた記録映画『戦ふ兵隊』のフィルムの断片なのです。

 それまでは日本の劇映画では、日本の戦争は侵略戦争だとは言っていない。いわば『男たちの大和』の若者たちと同じように純粋に国のためにとしか思っていなかった。「その純粋さだけは嘘ではなかった」ということに取りつかれていた。だけど(この映画で)やはり自分も侵略戦争に加担していたんだと思い、幸い私は戦闘には参加していませんでしたが、初めて愕然とした。

 純粋な気持ちで侵略戦争をやったってしょうがないんです。だから、そういうことが一番大切なことだと分かったのです。

 この映画も半年間、占領軍の検閲にひっかかりました。どこが切られたかというと、前に一度「映画の自由と真実ネット」で上映したときにお話しましたが、戦争を止める力は働く者の団結にあり、というのをデモでもって表現したのです。そこがバッサリと占領軍に切られた。30分近くカットされたという災難もあって、戦後もなお日本映画は自由ではなかった。

 その最たるものが、1950年の9月に命令一下でやられたレッドパージです。これも「映画の自由と真実ネット」の講演会で、若杉光夫監督と新藤兼人監督のお話を聞いたことがあります。その中で新藤さんが自分の目撃談として話されたことですが、松竹の家城巳代治監督もパージされた。彼の松竹の最後の作品が出来上がった直後にパージされ、試写を見に撮影所に行ったが、撮影所に入れなかったことがあったそうです。それを新藤さんが目撃した話をしてくれました。アメリカのハリウッドで赤狩りに遭った人もみんな撮影所に入れなかったそうですが、日本でも同じことがあったのです。

 もう一つ重大なことは、アメリカ映画が圧倒的に日本に輸入できるような仕組みを占領時代に作ってしまったのです。これは、戦後いろんな映画史が書かれていますが、なぜか書かれない。私はその頃に映画の業界通信の記者をやっていましたが、大蔵省やいろんなところを取材して、いろんなマル秘文章も見ましたし、それを記事にして書いたこともあります。全部、トップダウンでアメリカ映画が入ってきました。特にソ連や社会主義国家の映画は極度に入れさせない。それにさらに占領軍の検閲もあった。日本国憲法では「検閲はこれをしてはならない」と第21条にあるんだけれど、しかし占領軍がいる間は占領軍の検閲があった。

 そのことも含めて、今日もなお日本映画界の7割近いシェアをアメリカ映画が占めているのは、日本人がアメリカ映画大好きでそうなったという面もありますが、その前に絶対的な占領軍の権力が「アメリカ映画を何本、イギリス映画を何本、フランス映画を何本」と輸入本数の割り当てをやっていたからです。

 サンフランシスコ条約ができた後は、日本の大蔵省が引き受けてやって、1964年の貿易自由化まで輸入本数の割り当てを続けていたのです。それまでは外貨の管理がうるさかった。そんなに外貨を持っていなかったので、儲けた外貨を全部もっていかれたら大変だという表向きの理屈で、外国映画の輸入を制限したのです。しかし制限の仕方が「アメリカ映画第一主義」で、いろんな仕組みがあったのですが、それは今日は止めておきます。

 私のまとめ方がうまくなくて、レジュメにある「戦後日本国憲法の時代」と「憲法九条の危機と向かい合ういま」について、もう少しいろんな角度からお話できれば良かったと思います。

 それから、アメリカ映画産業の状況が大分はっきり分かってきました。日本の映画産業はアメリカの10年遅れぐらいで走っていますから、アメリカの映画産業の状況を知れば、これからの日本の映画産業の状況も見えてきます。そのことについて私ももう少し勉強して、その上でまたお話する機会があればと思います。以上です。(大きな拍手)

★文責は映画人九条の会事務局(小見出しは山田講師のレジュメによる)

◆附録:映画法(昭和14年法律第66)

第一条 本法ハ国民文化ノ進展ニ資スル為映画ノ質的向上ヲ促シ映画事業ノ健全ナル発達ヲ図ルコトヲ目的トス

第二条 映画ノ製作又ハ映画ノ配給ノ業ヲ為サントスル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ主務大臣ノ許可ヲ受クベシ

2 前項ニ規定スル映画製作業及映画配給業ノ範囲ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第三条 前条第一項ノ許可ヲ受ケタル者死亡シタル場合ニ於テ其ノ業ヲ相続ニ因リテ承継シタル者ハ之ヲ同項ノ許可ヲ受ケタル者ト看做ス

第四条 主務大臣ハ第二条第一項ノ許可ヲ受ケ映画ノ製作ノ業ヲ為ス者(映画製作業者)又ハ同項ノ許可ヲ受ケ映画ノ配給ノ業ヲ為ス者(映画配給業者)本法若ハ本法ニ基キテ発スル命令又ハ之ニ基キテ為ス処分ニ違反シタルトキ又ハ其ノ業務ニ関シ公益ヲ害スル行為ヲ為シタルトキハ其ノ業務ノ停止若ハ制限又ハ其ノ許可ノ取消ヲ為スコトヲ得

第五条 映画製作業者ノ映画ノ製作ニ関シ業トシテ主務大臣ノ指定スル種類ノ業務ニ従事セントスル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ登録ヲ受クベシ但シ十四歳未満ノ者ハ此ノ限ニ在ラズ

第六条 主務大臣ハ前条ノ登録ヲ受ケタル者其ノ品位ヲ失墜スベキ行為ヲ為シタルトキ其ノ他同条ノ規定ニ依ル当該種類ノ業務ニ従事スルヲ適当ナラズト認メタルトキハ其ノ業務ノ停止又ハ其ノ登録ノ取消ヲ為スコトヲ得

第七条 映画製作業者ハ命令ヲ以テ定ムル場合ヲ除クノ外第五条ノ規定ニ依ル登録ヲ受ケザル者ヲ同条ノ規定ニ依ル当該種類ノ業務ニ従事セシムルコトヲ得ズ前条ノ規定ニ依ル業務停止中ノ者ニ付亦同ジ

第八条 行政官庁ハ危害予防、衛生其ノ他公益保護上必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ映画製作業者ニ対シ映画ノ製作ノ現業ニ従事スル者ノ就業其ノ他映画ノ製作ニ関シ制限ヲ為スコトヲ得

第九条 映画製作業者主務大臣ノ指定スル種類ノ映画ヲ製作セントスルトキハ撮影開始前命令ノ定ムル事項ヲ主務大臣ニ届出ヅベシ届出ヲ為シタル事項ノ主タル部分ヲ変更シタルトキ亦同ジ

2 主務大臣ハ公安又ハ風俗上必要アリト認ムルトキハ前項ノ規定ニ依リ届出ヲ為シタル事項ノ変更ヲ命ズルコトヲ得

第十条 主務大臣ハ特ニ国民文化ノ向上ニ資スルモノアリト認ムル映画ニ付選奨ヲ為スコトヲ得

第十一条 主務大臣ハ公益上特ニ保存ノ必要アリト認ムルトキハ映画ヲ指定シ其ノ所有者ニ対シ複写ノ為一時其ノ提出ヲ命ズルコトヲ得

第十二条 主務大臣ハ必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ映画配給業者ニ対シ外国映画ノ配給ニ関シ其ノ種類又ハ数量ノ制限ヲ為スコトヲ得

第十三条 映画ハ命令ノ定ムル所ニ依リ行政官庁ノ検閲ヲ受ケ合格シタルモノニ非ザレバ之ヲ輸出スルコトヲ得ズ

2 主務大臣ハ特別ノ事情アル場合ニ於テハ前項ノ検閲ニ合格シタル映画ノ輸出ノ制限又ハ禁止ヲ為スコトヲ得

第十四条 映画ハ命令ノ定ムル所ニ依リ行政官庁ノ検閲ヲ受ケ合格シタルモノニ非ザレバ公衆ノ観覧ニ供スル為之ヲ上映スルコトヲ得ズ

2 前条第ニ項ノ規定ハ前項ノ場合ニ之ヲ準用ス

第十五条 主務大臣ハ命令ヲ以テ映画興行者ニ対シ国民教育上有益ナル特定種類ノ映画ノ上映ヲ為サシムルコトヲ得

2 行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ依リ特定ノ映画興行者ニ対シ啓発宣伝上必要ナル映画ヲ交付シ期間ヲ指定シテ其ノ上映ヲ為サシムルコトヲ得

第十六条 主務大臣ハ必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ映画興行者ニ対シ外国映画ノ上映ニ関シ其ノ種類又ハ数量ノ制限ヲ為スコトヲ得

第十七条 行政官庁ハ危害予防、衛生、教育其ノ他公益保護上必要アリト認ムルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ映画興行者其ノ他映画ノ上映ヲ為ス者ニ対シ興行時間、映写方法、入場者ノ範囲其ノ他映画ノ上映ニ関シ制限ヲ為スコトヲ得

第十八条 主務大臣ハ公益上特ニ必要アリト認ムルトキハ映画製作業者、映画配給業者又ハ映画興行者ニ対シ製作スベキ映画ノ種類若ハ数量ノ制限、映画ノ配給ノ調整、設備ノ改良又ハ不正競争ノ防止ニ関シ必要ナル事項ヲ命ズルコトヲ得

第十九条 本法施行ニ関スル重要事項ニ付主務大臣ノ諮問ニ応ズル為映画委員会ヲ置ク

2 映画委員会ニ関スル規程ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第二十条 行政官庁ハ当該官吏ヲシテ映画ヲ製作シ又ハ上映スル場所ニ臨検セシムルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ其ノ身分ヲ示ス証票ヲ携帯セシムベシ

2 行政官庁ハ映画製作業者、映画配給業者又ハ映画興業者ニ対シ其ノ業務ニ関スル事項ニ付報告ヲ命ズルコトヲ得

第二十一条 第二条第一項ノ規定ニ依ル許可ヲ受ケズシテ映画ノ製作又ハ映画ノ配給ノ業ヲ為シタル者ハ六月以下ノ懲役又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス

第二十二条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス

 一 第四条ノ規定ニ依ル停止又ハ制限ニ違反シタル者

 二 第八条、第十二条、第十六条又ハ第十七条ノ規定ニ依ル制限ニ違反シタル者

 三 第十三条第一項ノ規定ニ違反シ又ハ同条第二項ノ規定ニ依ル制限若ハ禁止ニ違反シテ映画ヲ輸出シ又ハ輸出セントシタル者

 四 第十四条第一項ノ規定ニ違反シ又ハ同条第二項ノ規定ニ依ル制限若ハ禁止ニ違反シタル者

 五 第十五条又ハ第十八条ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者

 六 第二十条第一項ノ規定ニ依ル臨検ヲ拒ミ、妨ゲ若ハ忌避シ又ハ同条第二項ノ規定ニ依ル報告ヲ為サズ若ハ虚偽ノ報告ヲ為シタル者

第二十三条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ百円以下ノ罰金又ハ科料ニ処ス

 一 第五条ノ規定ニ依ル登録ヲ受ケズシテ業トシテ同条ノ規定ニ依ル当該種類ノ業務ニ従事シタル者

 二 第六条ノ規定ニ依ル停止ニ違反シタル者

 三 第七条ノ規定ニ違反シタル者

 四 第九条第一項ノ規定ニ依ル届出ヲ為サズシテ映画ノ撮影ヲ開始シタル者

 五 第十一条ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者

第二十四条 映画ノ製作若ハ映画ノ配給ノ業ヲ為ス者又ハ映画興行者其ノ他映画ノ上映ヲ為ス者ハ其ノ代理人、戸主、家族、同居者、雇人其ノ他ノ従業者ガ其ノ業務ニ関シ第二十一条、第二十二条第一号乃至第五号若ハ第六号後段又ハ前条第三号乃至第五号ノ違反行為ヲ為シタルトキハ自己ノ指揮ニ出ザルノ故ヲ以テ其ノ処罰ヲ免ルルコトヲ得ズ

第二十五条 第二十一条、第二十二条第一号乃至第五号及第六号後段並ニ第二十三条第三号乃至第五号ノ罰則ハ其ノ者ガ法人ナルトキハ理事、取締役其ノ他ノ法人ノ業務ヲ執行スル役員ニ、未成年者又ハ禁治産者ナルトキハ其ノ法定代理人ニ之ヲ適用ス但シ営業ニ関シ成年者ト同一ノ能力ヲ有スル未成年者ニ付テハ此ノ限ニ在ラズ

第二十六条 前二条ノ場合ニ於テハ懲役ノ刑ニ処スルコトヲ得ズ

  附 則(略)

注) この法律は、昭和1445日に公布され、同101日より施行された。上記のものは、昭和16年改正前の制定時の条文である。

本法は昭和201226日をもって廃止された。

山田和夫講演録PDF版

クリックして06.3.8映画人九条の学習会山田和夫講演録.pdfにアクセス

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🔵日本映画の歴史

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小学館(百科)

登川直樹

(1)サイレント映画時代

19世紀末、アメリカのエジソンが発明したキネトスコープは1896年(明治29)に、またフランスのリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフは翌1897年に日本に輸入され、「活動写真」の名で公開されたが、やがて国内でも製作されるようになり、「銀座街」「浅草仲見世(なかみせ)」などの風景実写のほか、『紅葉狩(もみじがり)』のように舞台の芸を書割を吊(つ)るした野外で歌舞伎(かぶき)俳優が演じたものもつくられた。

 映画の初期には、諸外国と同じく日本でも実写フィルムと寸劇風の短編劇映画を数本あわせて一番組として興行するのが普通だったが、しだいに実写は消えて劇映画も長編に変わっていった。ただ日本では最初から上映中にスクリーンの横で台詞(せりふ)を語り情景の説明を行う弁士(活動写真の弁士、略して活弁、のちに説明者とよばれる)がつく習慣で、これがサイレント映画(無声映画)を通して行われた。そのうえに初期の日本映画では女方(おんながた)が当然のように用いられ、大正後半になってようやく女優が普通に使われるようになった。

 1912年(大正1)には横田商会など4社が合併し、日本活動写真株式会社(日活)が創設され、牧野省三(しょうぞう)による尾上松之助(おのえまつのすけ)主演の旧劇(時代劇)映画が京都の撮影所で、女方を使った新派映画が東京の向島(むこうじま)撮影所で盛んにつくられた。これらはいまから考えれば荒唐無稽(こうとうむけい)で安易なものであったが、それにもかかわらず活動写真は目覚ましく普及して、たちまち大衆の娯楽として広まった。それは、当時の芝居に比べてはるかに手軽な入場料と、地方にも続々と増えた映画常設館によって全国に行き渡ったばかりでなく、その内容が、動く写真のもの珍しさのうえに、弁士の説明に助けられたわかりやすさ、映像の魔術的な魅力、スターの人気などが一体となって、新しい娯楽として人々の強い関心を集めたからである。

 しかし日本映画が独自の表現技術を備えるのはサイレント中期の1918年ごろからである。そのころから映画人のなかに、映画を舞台劇の模倣でなく映画固有のスタイルをもったものにしようという運動が広まっていき、純映画劇とよばれた帰山教正(かえりやまのりまさ)の『生の輝き』や『深山(みやま)の乙女(おとめ)』(ともに1918)、枝正義郎(えだまさよしろう)(1888-1944)の『哀(かなしみ)の曲』(1919)などが生まれた。続いて栗原(くりはら)トーマス(1885-1926)監督・谷崎潤一郎(じゅんいちろう)脚本の『アマチュア倶楽部(くらぶ)』(1920)、小山内薫(おさないかおる)総指揮・村田実(みのる)監督・牛原虚彦(きよひこ)(1897-1985)脚本らによる『路上の霊魂』(1921)などが新しい試みで注目された。

 しかし本格的な芸術映画の隆盛はサイレント末期の1920年代後半(大正末から昭和初期)にやってきた。時代劇では活気のある立回りシーンをもったチャンバラ映画が流行したなかで、主人公の世をすねたような生き方にニヒルな雰囲気を漂わせる力作が、阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)主演・二川文太郎(ふたかわぶんたろう)(1899-1966)監督の『雄呂血(おろち)』(1925)、大河内伝次郎(おおこうちでんじろう)主演・伊藤大輔(だいすけ)監督の『忠次(ちゅうじ)旅日記』三部作(1927)など相次いだ。現代劇では新派の流れをくむ悲劇のほか叙情映画やメロドラマが大勢を占めるなかで、それに自然描写を溶け込ませた五所平之助(ごしょへいのすけ)の『村の花嫁』(1928)や、庶民の生活の悲哀を描いた小津安二郎(おづやすじろう)の『大学は出たけれど』(1929)など個性的な作風をもつ新鮮な映画が競ってつくられた。また社会批判的な主張をもったいわゆる「傾向映画」が時代劇・現代劇を問わず生まれたが、これらは当時の経済的、社会的に不安な状況に対する反応でもあった。こうしたサイレント末期の映画の隆盛を招いたのは、日活、松竹をはじめとする製作会社の安定、さらに阪東妻三郎、片岡千恵蔵(ちえぞう)、嵐寛寿郎(あらしかんじゅうろう)、市川右太衛門(うたえもん)らの俳優が中心となった独立プロ(独立プロダクション)の活況によるもので、大衆の支持を得ながら映画は経済的にも基盤を強化しつつあったといえる。娯楽映画がますます大衆のなかに浸透していくと同時に、たとえば衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)の『狂った一頁(ページ)』(1926)のように思いきった実験映画もつくられて、日本映画全体が大きく枠を広げつつあった。

(2)トーキー開始以後

日本で最初の本格的なトーキー映画(発声映画)は、1931年(昭和6)五所平之助監督、田中絹代主演の『マダムと女房』であるが、数年間はサイレントとトーキーは並行してつくられた。1930年代なかば以降の本格的なトーキー時代に入ると、文学作品の映画化によって日本映画の内容は一段と豊かになった。島津保次郎(やすじろう)の『お琴(こと)と佐助(さすけ)』(1935)、内田吐夢(とむ)の『人生劇場』(1936)、伊丹万作(いたみまんさく)の『赤西蠣太(あかにしかきた)』(1936)、田坂具隆(ともたか)の『路傍の石』(1938)、豊田四郎(とよだしろう)の『若い人』(1937)などの文芸映画が生まれた。また衣笠貞之助の『雪之丞変化(ゆきのじょうへんげ)』三部作(1935~1936)が林長二郎(後の長谷川一夫(はせがわかずお))主演により娯楽時代劇として大ヒットした。一方では原作に依存しないオリジナル脚本による映画も活発につくられ、溝口健二(みぞぐちけんじ)監督、山田五十鈴(いすず)主演の『浪華悲歌(なにわエレジー)』『祇園(ぎおん)の姉妹(きょうだい)』(ともに1936)、小津安二郎の『一人息子』(1936)、内田吐夢の『限りなき前進』(1937)、山中貞雄(さだお)の『人情紙風船』(1937)などの力作が生まれた。

 1931年満州事変が勃発(ぼっぱつ)して以来軍国主義的な色彩が強まるにつれて、『五人の斥候兵(せっこうへい)』(1938)のような戦争映画から『馬』(1941)のような農家が軍馬を育てる物語にまで、多くの映画にそれが反映し、1941年の太平洋戦争勃発によってさらにその傾向は強まった。『ハワイ・マレー沖海戦』(1942)、『加藤隼(はやぶさ)戦闘隊』(1944)、『あの旗を撃て』(1944)などの、いわゆる戦意昂揚(こうよう)映画が次々とつくられた。なかで稲垣浩(いながきひろし)の『無法松の一生』(1943)は、戦争とは無縁な世界を扱ったヒューマニズムを謳歌(おうか)した秀作として注目された。

 トーキー時代に入って以来、膨張した製作費などのため俳優や監督の独立プロは姿を消し、撮影所をもつ大手の会社による量産体制が確立していたが、戦時中の企業統制によって映画会社も松竹、東宝、および日活をはじめとする他社を合併した大映の3社に整理統合され、配給事業も一社にまとめられた。1939年には映画法が施行されて脚本の検閲など政府の干渉は強まり、フィルムの割当ても減少し、映画製作は質量ともに低下していった。

(3)第二次世界大戦後の隆盛期

第二次世界大戦後、日本映画の復興は目覚ましかった。当座はフィルムも機材も乏しく、映画製作には難問が山積していたが、娯楽に飢えていた大衆の渇望に支えられて、わずか5年ほどで戦前の産業規模に立ち直った。占領軍の検閲を受けながら製作を続けた復興期は、木下恵介(けいすけ)の『大曽根(おおそね)家の朝(あした)』(1946)、黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946)、山本薩夫(さつお)・亀井文夫(かめいふみお)の『戦争と平和』(1947)など、いわば民主主義的テーマをかざした力作が注目を浴びたが、やがて映画作家たちはそれぞれの個性を発揮する方向に伸びて日本映画の多様性が一段と増した。つねに社会的問題を追求した山本薩夫、今井正(ただし)、運命的な悲劇を描いた溝口健二、親子の別れを独自のスタイルでとらえた小津安二郎、女の哀れを追った成瀬巳喜男(なるせみきお)などそれぞれに個性的な題材や様式で秀作を競った。なかでも第二次世界大戦中に登場した黒澤明と木下恵介は新鮮な作風で異彩を放ち、市川崑(こん)、新藤兼人(かねと)らの新人も登場した。

 1951年(昭和26)にベネチア国際映画祭で黒澤明の『羅生門(らしょうもん)』(京マチ子、三船敏郎(みふねとしろう)主演)がグランプリを受賞したのを皮切りに、日本映画の海外受賞は堰(せき)を切ったように相次いだ。その後もベネチアでは溝口健二の『西鶴一代女(さいかくいちだいおんな)』(1952)、『雨月物語(うげつものがたり)』(1953)、『山椒大夫(さんしょうだゆう)』(1954)、黒澤明の『七人の侍』(1954)、市川崑の『ビルマの竪琴(たてごと)』(1956)、稲垣浩の『無法松の一生』(1958)、小林正樹(まさき)の『人間の條件(じょうけん)』(1959~1961)と受賞が続いた。カンヌ国際映画祭では1954年に衣笠貞之助の『地獄門』(1953)がグランプリを獲得、ベルリン国際映画祭では1953年に五所平之助の『煙突の見える場所』(1953)、1959年に黒澤明の『隠し砦(とりで)の三悪人』(1958)、カルロビ・バリ国際映画祭では1954年に新藤兼人の『原爆の子』(1952)が受賞した。1955年アメリカのアカデミー賞の最優秀外国映画に稲垣浩の『宮本武蔵(むさし)』(1954)が選ばれたのも加えて、日本映画の受賞ブームは概して時代劇が欧米人の好奇心に迎えられたことにもよるが、やがて小津安二郎の『東京物語』(1953)、新藤兼人の『裸の島』(1960)、大島渚(なぎさ)の『少年』(1970)など現代劇にも及んで、日本映画の芸術的水準が海外から高く評価されるようになった。

 こうした1950年代の日本映画の隆盛は映画産業統計にも表れていて、1958年のピークに向かって上昇の一途をたどったことがわかる。日本映画の製作本数は年間500本を超え、映画観客は延べ12億人に迫った。映画会社は松竹、東宝、大映、東映に加えて日活が1953年に製作を再開、東宝から分かれた新東宝も加えると6社の態勢が確立した。技術的には、木下恵介監督、高峰秀子主演の『カルメン故郷に帰る』(1951)で国産方式の色彩映画がつくられ、『地獄門』(1953)でイーストマン方式が採用されるなどカラー映画の時代に踏み出し、またワイド・スクリーンも普及するなどして映画の魅力を高めた。これらは映画の内容とも呼応するもので、各社それぞれに得意とする娯楽映画のジャンルを開拓し、スター・システムを堅持して大衆との結び付きを強めた。松竹の『君の名は』(1953~1954)、東宝の『ゴジラ』(1954)、東映の『鳳(おおとり)城の花嫁』(1957)、日活の『嵐(あらし)を呼ぶ男』(1957)などに代表されるヒット映画の連作は映画企業を安定させ、その余裕のもとで芸術的な映画製作の冒険ができた意味でも重要であった。

(4)テレビ時代の日本映画

しかし1960年を過ぎると、映画界はしだいに困難な状況に入っていった。日本全体の産業構造の変化によって人口が都市に集中し、地方の映画興行はたちまち不振に陥り、テレビの急速な普及は映画観客を減らす大きな要因となった。映画界は2本立て、3本立ての氾濫(はんらん)で量産競争に駆り立てられ、質よりも量を満たすことに追われた。そのため芸術的な冒険は退けられ、より安全な、ヒット映画をシリーズ化したいわゆる路線映画が増え、より刺激的な性や暴力の表現がしだいにエスカレートした。

 しかし、そうしたなかでも、大島渚、篠田正浩(しのだまさひろ)、吉田喜重(よししげ)ら松竹ヌーベル・バーグの若手の意欲的な試みもあり、今村昌平(しょうへい)の『にっぽん昆虫記』(1963)、勅使河原宏(てしがわらひろし)の『砂の女』(1964)、小林正樹の『怪談』(1964)、篠田正浩の『心中天網島(てんのあみじま)』(1969)、山田洋次の『家族』(1970)、熊井啓(くまいけい)の『サンダカン八番娼館(しょうかん)・望郷』(1974)など、新人監督も台頭して日本映画の新しい分野を開こうとする作品が生まれた。

 しかしテレビの普及浸透は徹底的であった。映画最盛期の1958年(昭和33)にテレビ受像機の登録台数は150万台で、全国世帯中わずか5%の普及にすぎなかったが、1960年には800万台、1980年には3000万台と急速に伸びて、全国家庭の80%以上に達した。これに逆行して映画館は減少の一途をたどり、最盛期の7800館から1980年代に2000館以下に減り、日本人の映画観覧回数も1人平均年12回から年1.4回に激減した。映画産業が深刻な打撃を受けたことはいうまでもない。

 映画製作は過当競争から一転して製作本数の切り詰めにかかり、大手各社は自主製作を減らして独立プロ作品の補充配給に力を入れた。その結果、野心的な作品が増え、新人が登場する機会も増えた。ベテラン監督である新藤兼人の『竹山ひとり旅』(1977、モスクワ国際映画祭ソ連美術家同盟賞)、黒澤明の『影武者』(1980、カンヌ国際映画祭グランプリ)、『乱』(1985)、鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』(1980、ベルリン国際映画祭審査員特別表彰)、市川崑の『細雪(ささめゆき)』(1983)をはじめ、今村昌平の『楢山節考(ならやまぶしこう)』(1983、カンヌ国際映画祭グランプリ)、大島渚の『戦場のメリークリスマス』(1983)、篠田正浩の『槍(やり)の権三(ごんざ)』(1986、ベルリン国際映画祭銀熊賞)、熊井啓の『海と毒薬』(1986、ベルリン国際映画祭銀熊賞)、『千利休(せんのりきゅう) 本覺坊遺文(ほんがくぼういぶん)』(1989、ベネチア国際映画祭銀獅子賞)、山田洋次の『男はつらいよ』シリーズ(1969~1997)に混じって、東(ひがし)陽一の『サード』(1978)、大森一樹(かずき)(1952- )の『ヒポクラテスたち』(1980)、相米慎二(そうまいしんじ)(1948-2001)の『セーラー服と機関銃』(1981)、小栗康平(おぐりこうへい)(1945- )の『泥の河』(1981、モスクワ国際映画祭銀賞)、『死の棘(とげ)』(1991、カンヌ国際映画祭グランプリ)、森田芳光(よしみつ)(1950-2011)の『家族ゲーム』(1983)、伊丹十三の『お葬式』(1984)、『マルサの女』(1987)、根岸吉太郎(1950- )の『ウホッホ探検隊』(1986)など、多数の新人監督がキネマ旬報などのベストテン上位に力作佳作を放ったのは注目される。

 その後、国の映画製作助成もようやく実現し、1990年(平成2)、芸術文化振興基金が創設された。約600億円を基金に芸術各般に補助金を交付するもので、映画にも長編劇映画1本に2500万円、年間約10本などの補助金を交付する制度が実施された。その後の金利低下などで補助する作品数や補助金額がやや減少したが、国からの助成制度としては初めて国際的水準に達したといってよく、良心作や野心作が企画の段階で支援を受けている。

 それでも日本映画はなお厳しい状況のもとにある。なかでもアメリカ映画の娯楽大作に押されぎみなのは深刻で、かつて1950年代まで邦画と洋画の配給収入比は82と日本映画が断然優位にたっていたが、その比率が1986年には逆転し、1990年代には邦画と洋画の比率は46となった。2000年代に入っても洋画優位の状況はしばらく続いていたが、2000年代中ごろから邦画が盛り返し、2006年には21年ぶりに邦画が洋画を上回った(邦画53.2%、洋画46.8%)。2007年にはハリウッド娯楽大作の続編が相次いで封切られたため、ふたたび洋画が僅差ではあるが優位にたった(邦画47.7%、洋画52.3%)が、翌年からは邦画の優位が続いており、2011年現在、邦画54.9%、洋画45.1%である。

(5)多様化する映像メディアの時代

テレビの普及はほとんど飽和状態に達したが、ビデオの普及もこれを追っている。1982年(昭和57)にテレビを所有する家庭のわずか10%にすぎなかったビデオ機の普及は1990年代に入って過半数に達し、映画館はさらに窮地に追い詰められた観がある。いわゆる名画座は良心的な旧作の上映拠点であったが、しだいに立ち消えてほとんど姿を消した。これと対照的にビデオはますます活況を呈し、とくにレンタル・ビデオの収益は年間3000億円を超える。映画館も1990年代に入って同一建物に複数館を収めたシネコン(シネマ・コンプレックス=複合型映画館)が出現し、スクリーン数も増加して2010年(平成22)には3412となったが、201112月現在では3339と、やや減少している。

 1980年代以降の日本映画の注目すべき動向の一つはアニメーション映画の隆盛であろう。かつてはテレビ漫画や子供向け雑誌漫画の映画化が主であったが、やがてオリジナルの長編映画が活発になり興行的にもヒットした。『風の谷のナウシカ』(1984)、『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』(1988)、『魔女の宅急便』(1989)、『もののけ姫』(1997)、『千と千尋(ちひろ)の神隠し』(2001、ベルリン国際映画祭金熊賞、アカデミー長編アニメーション映画賞)など、もっぱら宮崎駿、高畑勲(たかはたいさお)(1935- )らの製作監督になるこれらの作品は、着想、作画、物語展開、技術処理などに独創性を発揮して広い客層の支持を得た。長編アニメの安定したヒットはその後も続き、2001年の統計では、アニメ映画の配給収入が日本映画の配給収入全額の50%を超えてピークであったが、2011年では、邦画の復権もあり28%程度となっている。

 こうしたアニメの隆盛に呼応するように、映画会社の自主製作の形態は大きく変わってきた。撮影所は量産体制をやめて最小限度の自主製作にとどめ、独立プロの作品を取り込んで配給番組を編成するようになった。量産体制の基盤であった撮影所はその必要性を失ったわけで、松竹大船撮影所の閉鎖売却は自然の成り行きともいえる。1936年蒲田(かまた)から大船に移転して以来、数々の名作を世に送ってきた大船撮影所は20006月、山田洋次監督の『十五才・学校』の撮影終了を最後に64年の歴史を閉じた。これからの映画製作に必要なものは、大きなステージや広いオープン・セットの敷地ではなく、撮影後のポスト・プロ(合成作業など)に威力を発揮する設備機材を備えた空間で、松竹が都内に準備する新撮影所もその事実を証明するにちがいない。

 1990年代以降、大手映画会社の自主製作切り詰めを埋め合わせるように、独立プロ作品が急増した。キネマ旬報などのベストテンにもそれが反映して、多くの新人監督が登場し注目された。なかでも周防正行(すおまさゆき)(1956- )は『シコふんじゃった』(1991)、『Shall we ダンス?』(1995)を放ち、崔洋一(さいよういち)(1949- )は『月はどっちに出ている』(1993)、『マークスの山』(1995)を、北野武は『その男、狂暴につき』(1989)、『キッズ・リターン』(1996)、『HANA‐BI』(1997、ベネチア国際映画祭グランプリ)、『菊次郎の夏』(1999)、『座頭市』(2003、ベネチア国際映画祭監督賞)などで、いずれも新鮮な話術や描写力をみせた。さらに『Love Letter』(1995)、『リリイ・シュシュのすべて』(2001)などの岩井俊二、『幻の光』(1995、ベネチア国際映画祭金のオゼッラ賞等)、『誰も知らない』(2004)などの是枝裕和(これえだひろかず)(1962- )、『萌(もえ)の朱雀(すざく)』(1997、カンヌ国際映画祭カメラドール)、『殯(もがり)の森』(2007、カンヌ国際映画祭グランプリ)などの河瀬直美(1969- )、『顔』(1999)などの阪本順治(1958- )、『ラヂオの時間』(1997、ベルリン国際映画祭国際映画団体連盟ドン・キホーテ賞)などの三谷幸喜(みたにこうき)(1961- )、『がんばっていきまっしょい』(1998)などの磯村一路(いつみち)(1950- )、『愛を乞(こ)うひと』(1998)などの平山秀幸(1950- )、『EUREKA(ユリイカ)』(2000、カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞)などの青山真治(1964- )、『GO』(2001)、『北の零(ぜろ)年』(2005)などの行定勲(ゆきさだいさお)(1968- )、『ジョゼと虎と魚たち』(2003)などの犬童一心(いぬどういっしん)(1960- )、『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)の山崎貴(たかし)(1964- )、『フラガール』(2006)の李相日(リサンイル)(1974- )、『長い散歩』(2006、モントリオール国際映画祭グランプリ)の奥田瑛二(1950- )とあげれば新しい顔ぶれは多彩である。

 新人監督輩出の一方、ベテラン監督もマイペースで活躍した。新藤兼人の『午後の遺言状』(1995、モスクワ国際映画祭ロシア映画批評家審査員賞)、『生きたい』(1999、モスクワ映画祭グランプリ)、今村昌平の『うなぎ』(1997、カンヌ国際映画祭最高賞)、深作欣二の『忠臣蔵外伝・四谷怪談』(1994)、『バトル・ロワイアル』(2000)、篠田正浩の『少年時代』(1990)、『スパイ・ゾルゲ』(2003)、市川崑の『どら平太』(2000、ベルリン国際映画祭特別功労賞)、『かあちゃん』(2001)、熊井啓の『日本の黒い夏・冤罪(えんざい)』(2001、ベルリン国際映画祭特別功労賞)、山田洋次の『学校』シリーズ(1993~ )、『たそがれ清兵衛』(2002)、黒沢清の『回路』(2000、カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞)などである。とはいえ、1990年代には黒澤明、木下恵介、小林正樹、伊丹十三、2000年代に入ると相米慎二、深作欣二、野村芳太郎、今村昌平、黒木和雄、熊井啓、市川崑が相次いで他界。新藤兼人も『一枚のハガキ』(2010)を最後に2012年、100歳で亡くなった。また俳優では渥美清(あつみきよし)、三船敏郎、岸田今日子(1930-2006)、森繁久彌(1913-2009)など多くの個性派人材がこの世を去った。

 若いころに大胆な実験的作風で注目された黒木和雄は、21世紀になると円熟の境地を示す秀作を連作した。いずれも戦争の末期を回想して反戦を訴える『美しい夏キリシマ』(2002)、『父と暮せば』(2004)、『紙屋悦子(かみやえつこ)の青春』(2006)である。李相日の『青 chong(ちょん)』(2000)は日本映画学校の卒業制作作品であるが、在日韓国・朝鮮人の自己主張の作品として画期的であり、これでデビューした李相日はやがて『フラ・ガール』(2006)、『悪人』(2010)などで若手の映画監督の先頭にたつ。崔洋一の『血と骨』(2004)は在日韓国人のすさまじい生き方の回顧である。荒戸源次郎(あらとげんじろう)(1946- )の『赤目四十八瀧(あかめしじゅうはちたき)心中未遂』(2003)、是枝裕和の『誰も知らない』(2004)、緒方明(おがたあきら)(1959- )の『いつか読書する日』(2004)は、いずれも現代の日本の一面を独自の視点で鮮かに切りとった佳作である。滝田洋二郎(たきたようじろう)(1955- )の『おくりびと』(2008)は葬式を美しく演出する仕事をていねいに描いて、この年のアメリカのアカデミー外国語映画賞を受賞した。若松孝二(わかまつこうじ)(1936-2012)の『あさま山荘への道程』(2008)は、連合赤軍事件を克明に追求した力作である。山田洋次の『母べえ』(2007)は戦争中に反戦思想をもって生きた家族の実話であり、ありそうでなかった貴重な内容のホームドラマである。木村大作(きむらだいさく)(1939- )の『劒岳(つるぎだけ) 点の記』(2008)は明治時代に剣岳に初登頂した人々の実話だが、撮影監督の木村大作がその撮影力を全開にして山岳に取り組んだところによさがあった。また、長年ごくわずかしかいなかった女性監督が、1990年代ごろから急速に増えてくる。『かもめ食堂』(2005)や『トイレット』(2010)の荻上直子(おぎがみなおこ)(1972- )や、『ゆれる』(2006)の西川美和(にしかわみわ)(1974- )などを代表にあげることができる。彼女たちによって日本人の生活をみる視野は確実に広がった。

 映画製作で近年目だつ現象は、大作と低予算作品との両極分解が進行していることである。大作は民間放送のテレビ局や映画会社をはじめ、出版社や商事会社など、いくつかの会社の共同出資によってつくられるもので、できあがった作品は、東宝をトップとする大手配給網で公開される。予算は潤沢でぜいたくな配役をすることができるが、一作ごとに資金を回収しなければならないので、商売的成功のプレッシャーが大きいため、内容的には通俗に流れやすい。他方、低予算映画は、客席が100程度のミニシアターでしか上映できないために、あまりにも貧相な作品になりやすい。商業主義と、芸術性や社会性を追求しようとする作家たちとの葛藤は、映画史上いつの時代にもみられる現象であるが、それが平成時代に入ってからは、シネコンを中心とする大手配給網の映画と、ミニシアターなどの単館系映画との分裂、という傾向が両極となっている。しかし、それぞれの映画にも良い作品はあり、さらなる前進を期待したい。

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🔵時代劇とは、その魅力

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◆◆時代劇の魅力

(朝日新聞GLOBE17.05.07

◆◆時代劇とは

(小学館百科全書)佐藤忠男

映画やテレビで明治時代以前の時代を扱った作品の総称である。旧劇、髷物(まげもの)、チャンバラ映画、剣戟(けんげき)映画などともいう。大部分は源平時代から江戸時代までを扱い、とくに江戸時代に集中しているが、奈良時代、平安時代などを扱った若干の作品や、明治初期を扱った作品などもこれに含めてよぶ場合もある。日本映画が産業として成り立つようになった1910年(明治43)ごろから、産業として落ち込み始める1960年代のなかばごろまで、日本で大量生産されていた映画の半分はこの時代劇だった。以後、映画では製作本数も全体のなかでの比率も低下してくるが、テレビでは今日に至るまで重要なジャンルであり続けている。[佐藤忠男]

◆草創期~昭和初期

日本で劇映画の製作が本格的に行われるようになったのは19071908年ごろからであると考えられるが、当時、時代劇の製作はおもに歌舞伎の小芝居一座の総出演によって、現代劇は新派の劇団の出演によって行われた。1908年(明治41)、京都の劇場主の牧野省三(しょうぞう)は横田商会の依頼で歌舞伎の一座をそっくり出演させて映画をつくったが、翌年、尾上松之助(おのえまつのすけ)一座でつくった『碁盤忠信(ごばんただのぶ)』で松之助の豪傑ぶりが評判になり、松之助は一躍人気者となって、1926年(大正15)に亡くなるまでに1000本以上の時代劇に出演して日本映画史上最初のスーパースターとなった。

 尾上松之助の時代劇は主として講談本による単純な英雄、豪傑、侠客(きょうかく)、忍者などの物語で、歌舞伎調で封建的な忠義の物語をおっとりと演じた。ファンはおもに子供である。1920年代なかばになると、これには飽き足らない勢力による時代劇の新しい動きが生じる。阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)がその代表的なスターで、権力に対する反逆や絶望といった主題もとりあげ、アメリカ映画的なスピーディなアクションで青年層をうならせた。こういう傾向で一つのピークとなったのは、1927年(昭和2)の伊藤大輔(だいすけ)監督・大河内伝次郎(おおこうちでんじろう)主演の『忠次(ちゅうじ)旅日記』三部作である。それまで日本映画は教養の低い階層の低俗な娯楽にすぎないとみられていたのだが、この作品が知識層の心も激しく揺さぶってから日本映画も芸術としてみられるようになったのである。

 伊藤大輔と大河内伝次郎は、引き続き、『新版大岡政談』(1928)、『興亡新撰組(しんせんぐみ)』(1930)、『御誂治郎吉格子(おあつらえじろきちこうし)』(1931)などの傑作で、反体制的な激情をうたいあげた。この時期、時代劇は黄金時代を迎える。衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)監督・林長二郎(のちの長谷川一夫)のコンビは『二つ燈籠(どうろう)』(1933)などの作品で歌舞伎の心中ものに通じる優美で情緒的なスタイルを示して女性ファンをうっとりさせたし、伊丹万作(いたみまんさく)監督は片岡千恵蔵主演の『赤西蠣太(あかにしかきた)』(1936)をはじめとする一連の喜劇で封建社会を風刺した。稲垣浩(ひろし)監督も片岡千恵蔵とのコンビで情感豊かな股旅(またたび)ものなどをつくり出した。『瞼(まぶた)の母』(1931)はその一例である。山中貞雄監督は軽妙なタッチで人情の機微を描いた。劇団前進座と組んだ『河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)』(1936)などの傑作がある。マキノ正博(のちにマキノ雅広と改名)監督は『鴛鴦(おしどり)歌合戦』(1939)で歌える俳優を集めて時代劇のミュージカル化を試みている。

 19301932年は左翼運動の盛んな時期で、映画もこれに応じて百姓一揆(いっき)などを主題にした左翼的作品が盛んにつくられた。そして1939年(昭和14)の映画法公布によって映画界が政府の統制下に入ると、時代劇も国策に協力して、歴史映画と称して歴史を国家主義的な立場から描く作品が現れる。たとえば溝口健二(みぞぐちけんじ)監督の大作『元禄忠臣蔵』前後編(19411942)は、大石良雄(内蔵助(くらのすけ))が吉良義央(きらよしなか)(上野介(こうずけのすけ))への復讐(ふくしゅう)を朝廷がどう思うか悩むという、信じがたい勤皇忠臣蔵となった。アヘン戦争(18401842)など、イギリス帝国主義のアジア侵略もよくとりあげられた。[佐藤忠男]

◆第二次世界大戦後

1945年(昭和20)の第二次世界大戦敗戦後、日本を支配したアメリカ軍は時代劇を封建思想の温床であるとして厳しく制限した。それは徐々に緩められたが忠義と復讐をうたう『忠臣蔵』は1952年に占領が終わるまで許可されなかった。占領期間中には時代劇の新しい展開があった。黒澤明監督、三船敏郎主演の『羅生門(らしょうもん)』(1950)は人間にとっての真実とは何かと問うドラマであり、これがベネチア国際映画祭でグランプリを受賞したことで日本映画は初めて全世界に知られるようになった。続いて『七人の侍』(1954)はかつてない迫力あるアクション映画として世界に知られ、トシロー・ミフネは国際的に著名な俳優として知られた。溝口健二監督、田中絹代主演の『西鶴一代女(さいかくいちだいおんな)』(1952)や『雨月物語』(1953)は日本の伝統的な美の結晶として、やはり世界的に高く評価された。

 他方、占領終結とともにただちに立回りを見せ場とする古くからの大衆的時代劇は復活した。新しいスターも現れた。中村錦之助(きんのすけ)(のちの萬屋(よろずや)錦之助)と市川雷蔵は歌舞伎出身らしい端正な動きと朗々たる口跡で、勝新太郎は情念の赴くままの奔放さで確固たる芸風をつくり、人気を得た。中村錦之助の代表作は内田吐夢(とむ)監督による『宮本武蔵(むさし)』五部作(19611965)、市川雷蔵は溝口健二監督による『新・平家物語』(1955)、勝新太郎は『座頭市(ざとういち)物語』シリーズ26作(19621979)であろう。黒澤・三船の時代劇は世界の知識層にサムライのイメージを定着させたが、勝新太郎のこのシリーズは第三世界に広く受けた。ハンディのある貧しい男が実はどんなやくざよりも強いというメッセージが共感されたのである。

 映画が産業的に衰退し始める1960年代になると、時代劇は製作費のわりに儲(もう)からないということになって製作本数はぐっと少なくなる。大衆娯楽映画のいちばん大きな流れだった立回り中心のいわゆるチャンバラは、現代劇としての任侠映画、やくざ映画にとってかわられて、テレビに一部受け継がれただけで消えていく。しかしそれで時代劇がすべてなくなったわけではない。黒澤明は壮大な歴史劇として『影武者』(1980)と『乱』(1985)で世界的な名声を保った。篠田正浩監督の『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』(1969)は、近松門左衛門の世界を今日の感覚でとらえ直す貴重な試みであった。侍ややくざの物語だけでなく、民衆の生活が描かれるようになったのも新しい動きといえよう。姥捨(うばすて)山伝説による深沢七郎の小説『楢山節考(ならやまぶしこう)』は木下恵介監督によって1958年にいちど歌舞伎的な様式で映画化されて秀作になったが、1983年には今村昌平(いまむらしょうへい)によってまた別な民俗的な興味を豊かに取り入れた映画になった。『影武者』と今村昌平監督の『楢山節考』はカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞している。1989年(平成1)の熊井啓監督の『千利休(せんのりきゅう) 本覺坊遺文(ほんがくぼういぶん)』は茶道の祖利休の晩年を三船敏郎が大きな風格で演じた。1999年の大島渚監督の『御法度(ごはっと)』は新撰組にゲイの人間関係の問題を盛り込んだ異色の時代劇である。2000年(平成12)の神山征二郎(こうやませいじろう)1941 )監督の『郡上一揆(ぐじょういっき)』は江戸時代の最大の百姓一揆の一つをかつてない本格的な民衆史のドラマとして描いている。時代劇は商業的には衰えたが内容的にはいっそうの広がりと深まりをもてるようになってきているのである。

 これまでの時代劇の大部分は英雄、豪傑、反逆者、侠客などの血なまぐさい闘争の物語を扱ってきた。例外的に溝口健二や今村昌平の作品で娼婦(しょうふ)や農民や商人が大きく扱われている程度であった。1964年(昭和39)の山本周五郎原作、野村孝(のむらたかし)19272015)監督の『さぶ』では経師屋(きょうじや)の職人の男たちの友情が物語の中心になっていたが、これは例外的な作品である。

 1990年代になって藤沢周平(ふじさわしゅうへい)の時代小説が評判になると、時代劇の流れも少し変わった。彼の小説は従来のように英雄本位でなく、官僚や役人としての武士の日常生活なども極力現実的に描こうとするもので、この流れを映画に定着させたのは山田洋次監督の『たそがれ清兵衛(せいべえ)』(2002)である。武士の見直しはさらに進む。2010年の森田芳光(もりたよしみつ)19502011)監督の『武士の家計簿』は金沢藩に経理専門で仕えた武家のホームドラマであり、2012年の滝田洋二郎(たきたようじろう)1955 )監督の『天地明察』は、江戸時代に日本独自の暦をつくった算術家の物語で、ともに立ち回り抜きの新しい時代劇である。[佐藤忠男]

『佐藤忠男・吉田智恵男編著『チャンバラ映画史』(1972・芳賀書店) ▽伊藤大輔著、加藤泰編『時代劇映画の詩と真実』(1976・キネマ旬報社) ▽稲垣浩著『日本映画の若き日々』(1978・毎日新聞社) ▽永田哲朗著『殺陣――チャンバラ映画史』(1993・社会思想社) ▽佐藤忠男著『日本映画史』全4冊(1995・岩波書店) ▽京都映画祭実行委員会・筒井清忠・加藤幹郎編『時代劇映画とはなにか――ニュー・フィルム・スタディーズ』(1997・人文書院) ▽筒井清忠著『時代劇映画の思想――ノスタルジーのゆくえ』(2000PHP研究所) ▽名和弓雄著『時代劇を斬る』(2001・河出書房新社) ▽岩本憲児編『日本映画史叢書 時代劇伝説――チャンバラ映画の輝き』(2005・森話社) ▽川本三郎著『時代劇ここにあり』(2005・平凡社) ▽小川順子著『中部大学学術叢書 「殺陣」という文化――チャンバラ時代劇映画を探る』(2007・世界思想社) ▽佐藤忠男著、野沢一馬企画・構成『意地の美学――時代劇映画大全』(2009・じゃこめてい出版)』

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Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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