60年安保闘争とはどんなたたかいだったのか

◆◆60年安保闘争とはどんなたたかいか

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【このページの目次】

60年安保闘争リンク集

60年安保闘争市民たちの一カ月(動画解説)

60年安保闘争(小学館百科全書)

60年安保共闘(塩田庄兵衛「戦後日本の統一戦線の歴史」から)

◆朝日新聞・昭和史再訪=日米安保条約改定(1960年)

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◆◆60年安保闘争リンク集

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★★60年安保闘争-11m

★★60年安保とは何だったのか 日めくりタイムトラベル60m

★日本 1960 Japan13m

1960 昭和35年を振り返る33m

https://m.youtube.com/watch?v=wwyyY1eLZ8E

★上田晋也のニッポンの過去問 60年安保闘争の光と影35m. 20150715

★★安保闘争写真解説「私の激写した60年安保闘争」(大谷英之)44m

★★20150730 UPLAN 保坂正康 戦後史から、「60年安保」と今国会を考える75m

★昭和宰相列伝6 岸信介、池田勇人(1957-1964)9m

★★NHKみんな豊かになりたかった 1960年代の日本 2010年)80m

https://m.youtube.com/watch?v=7iSHF5Umtq4

【安保とその時代】

★★安保とその時代日米安保を生んだ冷戦58m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v31992986pGn8q8Kr

★★安保とその時代改定への道のり58m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v31992989NKYsaXHN

★★安保とその時代60年安保,市民たちの一ヶ月90m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v31992984gf5Zc7sh

60年安保闘争の最終局面1か月の経過の映像と証言。全学連主流派の過大評価に問題あり。

★★安保とその時代愚者の楽園、安保に賛成した男たち90m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v31992992ae23BeJ3

◆当ブログ=統一戦線の歴史日本の5960年の安保共闘の経験

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/9385988.html

9711今口栄一=国鉄労働者の半生・国鉄東灘闘争・宮原での安保闘争

◆三宅=第1 60年安保闘争と労働者の運動(日本の社会・労働運動の史的研究、三宅明正 編、2011年、千葉大学大学院、人文社会科学研究科) PDF13p

クリックして131119informal_miyake.pdfにアクセス

◆衣笠=60年安保闘争の福岡県での展開ー県安保共闘の組織化過程PDF34p

クリックしてKJ00000724794-00001.pdfにアクセス

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◆◆NHKスペシャル「安保とその時代 第3回・60年安保 市民たちの一カ月」のあらまし

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★★安保とその時代60年安保,市民たちの一ヶ月58m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v31992984gf5Zc7sh

60年安保闘争の最終局面1か月の経過の映像と証言。全学連主流派の過大評価に問題あり)

60年安保闘争、警官隊の暴力、樺美智子さん死亡。敗戦から15年、まだ戦争の記憶が強く、大衆食堂のおかもちにも安保反対の文字(背後に民商の文字)

運動の拡大につれ、抗議の矛先は岸信介に、安保の内容論議は十分でなく、岸自認とともに運動は終息、以後今日まで条文はかわらない。挫折、敗北。

57年岸首相就任、ただちに渡米、旧安保の改定申し入れ、背景は基地反対闘争(700以上の米軍基地、犯罪・事故、アメリカへの不満)。

米軍が日本を守る規定、日本に情報を与える規定がなく、内乱条項があった、著しく不平等、岸はより対等になる改定で国内の不満をおさえようとアイゼンハワーも同意、改定してでも基地が必要だと新安保案、事前協議の義務、内乱条項の撤廃、共同防衛の義務

世論の二分、賛成-対等化を評価、反対-アメリカの戦争にまきこまれる危険が増す。

中曽根康弘・科学技術庁長官(当時)、賛成

反対運動の中心、安保改定阻止国民会議、労働運動が社会党・共産党によびかけて吉田かせい、軍拡・核武装につながるのではないかという不安。

60年1月19日、条約調印、あとは両国議会での承認。アイゼンハワーの来日も決定、反発した「全学連」、指導したブント=安保の本質は軍事条約、それは粉砕しなければ、戦闘的なデモンストレーションを。

米軍駐留が双務的になる、これは日本が軍国主義化すること江田五月、父は江田三郎(社会党書記長)横道孝弘、父親は社会党議員、成田・飛鳥田・・・7人衆と呼ばれた。

60年5月19日、ここから激動の一カ月、岸が国会で採決を、可決されれば一カ月後に自然承認となる、6月のアイゼンハワー来日の前に成立させようと、自民党内部からも議論がつくされていないと反対の声。

中曽根、強行採決に危惧。安保反対とともに岸の政治行動に反対という声が、アイク来日の日に自然承認があわされていた、アイクへの媚態ではないかという声も。

社会党は国会内で座り込み、衆院議長室封鎖、議長は500人の警官隊を導入して議員をごぼう抜き。

水野きよし・赤城防衛庁長官の秘書官、あの時には国会に右翼が入っており、右翼に秘書バッチ(国会通行の自由)をつけさせてごぼう抜きに参加させていた。

清瀬一郎衆院議長、5月20日、自民党議員だけの議場で採決、安保条約可決、1ケ月後の自然承認を。

ここから運動は岸退陣を求めるものになる、岸退陣あるいは国会解散を求めて。ここから運動の指示がなくても、人々が集まるようになった、一般市民・労働者・主婦も、安保反対・岸を倒せ。

東京大田区では暖簾デモ(店の暖簾をかかげて)、(民商)戦後15年、やっと商売が軌道にのった、平和であってこその商売

中野区でも100軒の商店が店をしめて抗議デモに、オレたちが主人公というパワーがあった、戦後日本は生まれ変わったんだというパワー。まだ生々しい戦争の記憶、安保でアメリカの戦争にまきこまれるのではないか。

60年5月24日、知識人、20をこえる大学300人の教員が国会へのデモ、戦争中の自分たちへの悔恨がある、軍国青年だったという作家・大西巨人、言語道断。

「若い日本の会」文化人、石原慎太郎は自民単独での強行採決に抗議、しかし改定には賛成。江藤じゅんに学んだ、国民大衆は政治案件については無知に近い、反対の運動は必然だったろうが論理はまったく通らないものだった。反対の声は全国に広がる、各地の基地周辺でも、山形県、アメリカは開墾した土地をとっていった、神町キャンプ、57年返還運動で土地をとりもどす、安保改定でまた同じことが起こるのでは、アメリカは人間をいじめる国。

函館、高校生の運動、函館東高校、学校新聞アンケートで生徒の7割が改定反対、徴兵制復活への恐れも、戦後民主主義の蹂躙、民族独立行動隊の歌(デモの歌)。

熊本・荒尾、三井三池炭鉱(当時日本一の出炭量)、大量首きりとのたたかい、首切り反対と安保反対と、両方のつながりは強行採決、石炭から石油への強引な転換、国民のたたかう力を奪おうとした。

沖縄・宜野湾、米海兵隊普天間基地の周辺でも、アメリカの施政権下だったが本土の大学に進学した学生たちも、「沖縄返還運動、本土復帰」が先、反安保も当然だったが。当時の沖縄には安保条約は適用されてい、本土との往来にもパスポートが必要、沖縄出身の学生たちはパスポートを剥奪される危険をおかして安保闘争に参加、目立って運動した学生は沖縄にもどるとパスポートの再発行がされなかった(本土にもどれない)。

マスコミ、内閣支持率は最低、岸の不人気には経歴も影響、東條内閣の商工大臣、岸は反安保を一部の声と断じ、「声なき声」に答える、いまは「声ある声」だけだと発言。

60年6月4日、品川駅に全学連1000人座り込み、全国各地でスト、560万人、国会前に13万人、請願署名は最終的に2000万人、「声なき声」の会(全学連や労働組合に属さない一般の人の会)・中心は政治運動と無縁の絵画教室の若い女性教師、元憲兵・会社の社長・主婦・高島田の人も、東京郊外にたくさんの団地、ここの主婦たちも、生活の中の身近な関心事だった、日常のくらしの一番大きな問題に安保があった、銀座のフランスデモに、感激した・市民というのはこういうものか。

ブント幹部、葉山氏、運動にお祭り的大衆的高揚が生まれてきた、安保の本質を理解しない反政府運動に。石田雄、安保から民主主義に問題がすりかわった、不平等性の改善はあったが自発的な従属に入った、安保の本質を考えない状況はいまもつづいている、安保の根底にあるのは武力による抑止。

岸は外交分野でも大きな抵抗にあっていた、ソ連・中国は警戒、露骨な挑戦と受け止めた、フルシチョフの強い非難、日本を侵略する国はないのになぜ基地を、岸の反論、防衛条約、侵略された場合の準備だけ、国論を分裂させようとするもの。

アイゼンハワー来日に先立ち、ホワイトハウスの報道官が来ることに。

60年6月10日、自然承認まであと9日、共産党・全学連反主流派が羽田空港に動く、ハガチー秘書、アメリカ大使館に向かうクルマを3000人が取り囲む、社会党幹部等も、米軍のヘリによって救出、記者会見、反対派一部の共産主義者、大統領来日は予定どおりにと発表。

中曽根、アイク来日は小さなこと、それよりも国民の結束が大切、来日に反対。

60年6月15日、国会周辺10万人の市民、全学連主流派はこの日を天王山と、午後3時2万の学生が国会前に、葉山氏・ブントの基本方針のもとで、反主流派がハガチー事件で運動をもりあげたことへの対抗もあった。5時半南通用門から国会突入開始、機動隊は放水、社会党江田書記長は双方引けと指示するが、学生は国会内に、7時すぎ第四機動隊が反撃(武器としての警棒使用許可、鬼の四機)、たくさんの怪我人、社会党の議員も秘書も怪我人をはこんだ、マスコミの報道陣もなぐられた樺美智子(東大4年)が亡くなった、翌朝まで負傷者589人。

山形の農民、あの時日本はかわると思った

政府にも動揺が、岸は終日国会内の総理大臣室に、闘争に断固たる姿勢で、強力に排撃する、自衛隊の投入を検討。中曽根、閣議で心配だといったのは私と赤城防衛庁長官だけ

水野清・赤城長官秘書、赤城氏は防衛庁幹部を集めた、事務次官・・たいへんなことになる、相手は日本人、それを撃ち殺すことはできないと結局、国会への自衛隊出動はなし。

岸はアイク来日の断念をアメリカに伝達

60年6月17日、マスコミは突如反安保闘争への批判、大手7者共同宣言、「暴力を排し、議会主義を守れ」、暴力闘争への批判、言論の自由を保障せねば、ここから新聞の論調もおさまっていく、知識人の多くも暴力反対の流れに、他方で全学連はますます挫折感をもって暴力を。

60年6月18日、全国統一行動、自然承認がその夜に迫る、最後の抗議、深夜0時をまわると承認となる。60年6月23日、藤山・マッカーサー調印、新安保発行、岸自認表明。

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◆◆60年安保闘争

小学館百科全書

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日米安保条約の改定に反対して1959年(昭和34)から1960年にかけて展開された国民運動。195198日サンフランシスコ講和条約とともに調印された安保条約は、「極東における国際の平和と安全」を目的として米軍の日本駐留を認めたが、アメリカが日本への防衛義務を負わない片務条約であった。当時から国民のなかには、安保条約が憲法第9条に背馳(はいち)することや世界平和や日本の安全に資するものとはならない、などの理由で反対論が存在した。

19589月、岸信介(のぶすけ)内閣は、外相の藤山愛一郎をアメリカに派遣して国務長官ダレスと安保条約改定交渉に入った。改定の焦点は、条約の片務性解消と事前協議制に絞られた。国民のなかからは、新条約が自衛隊の増強を義務づけていること、米軍の行動の大半が「事前協議」事項になっていないこと、条約の適用地域が限定されていないこと、また新条約が片務的関係を改め「相互防衛」条約に近づくことから事実上の軍事同盟になり、以前にも増して日本がアメリカの軍事戦略に深く組み込まれること、などを理由として反対の声が強まった。

 安保反対闘争は、1958年秋の警察官職務執行法改定反対闘争(警職法反対闘争)を勝利に導いた共闘組織に基づく運動の成果を学んで組まれた。19593月、総評、中立労連、原水協(原水爆禁止日本協議会)、護憲連合、平和委員会、日本社会党(共産党はオブザーバー)を中心に134団体が参加する安保改定阻止国民会議が結成され、同会議は第二次世界大戦後の日本における最大規模の国民的統一行動組織として翌19607月までに23次に及ぶ全国的統一行動を展開した。当初「安保は重い」といわれたが、19598月の原水禁大会を経ると少しずつ運動は盛り上がっていった。反対闘争の最初の画期は、19601月に岸全権団がアメリカで条約を調印し、舞台が国会に移ってからであった。調印阻止闘争は有効に組まれなかったが、国会で「極東」の範囲、事前協議制、国会の条約修正権など新条約の危険が明らかにされると、院外でも国会請願が行われ、反対運動は活発化していった。しかも5月上旬にはアメリカのU2型偵察機が旧ソ連上空で撃墜され、同型機が厚木飛行場にも配備されていることが暴露されると、国民の安保条約に対する関心も高まっていった。

 このような状況のなかで岸内閣は、1960519日、衆議院安保特別委員会に続いて、同日の深夜、本会議で、野党と反主流派を除く自民党主流派だけで安保条約を強行採決するという挙に出た。政府の強行突破は、安保闘争をその広さと深まりにおいて質的に転換させ、闘争の第二の画期を形づくることになった。学生、文化人、労組員、一般市民など多くの人々が自発的にデモに参加して連日国会を取り巻くという情勢となり、運動は爆発的に広がった。総評を中心とする労働組合も64日と15日の両日ゼネストに入った(6/4640万人)610日には、大統領アイゼンハワー訪日の打合せのため来日した大統領秘書のハガチーが羽田空港でデモ隊に包囲され、ヘリコプターでアメリカ大使館に脱出するという事件が起こった。

 一方、615日の事件が起こった。全学連主流派は、国会突入戦術をとっていたが、同日夜、国会構内で警官隊と衝突、混乱のなかで東大生樺美智子(かんばみちこ)が死亡した。世論は沸騰し、岸内閣は翌16日午後の閣議でアイゼンハワーの訪日延期を決定せざるをえなくなった。一方、それまで反対運動の進展に大きな役割を果たしてきた各新聞は、17日「共同宣言」を発表し、暴力を排除し議会主義を守れと訴え、運動を牽制(けんせい)し始めた。反対運動は、16日、17日に続いて、18日には空前の33万人が国会包囲デモに参加し、盛り上がっていった。19日、新安保条約は自然承認され、岸首相は翌20日引退を表明した。

安保闘争は、条約改定を阻止できなかったが、大統領アイゼンハワーの訪日を阻止し岸内閣を退陣させた。安保闘争が1年半の歳月にわたって大きな国民運動として展開されたのは、安保条約がかならずしも日本の平和を保障するものではないと国民の多くが考えていたからであった。また1960419日以降の運動の高揚は、政府の強行採決が多くの国民に民主主義そのものへの挑戦として受け止められたからであった。安保闘争の意義は、戦後の平和主義と民主主義とが国民のなかに根づきつつあったことを示したところにあったといえよう。

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◆◆昭和史再訪=日米安保条約改定(1960年)

35年 自ら街頭へ、市民運動の原点

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  53年前。デモ隊は連日、国会を取り巻き「安保反対、岸内閣は退陣せよ」と叫んでいた。1960年1月19日に米国で岸信介首相が改定した新安保条約に調印。学生と労組を中心にした反安保運動が高まり、衆院での強行採決もあって市民を巻き込んだ戦後最大の国民運動となっていく。6月15日、全学連主流派が国会に入り、警官隊と衝突。東京大4年生の樺(かんば)美智子さん(当時22)が亡くなった。

 その日、ラジオ局の記者だった元毎日放送報道局長の辻一郎さん(80)は、民放労連のデモで国会横にいた。学生が死んだらしいと聞き、取材者として国会内に入ると、「学生と警官の間に入って止めようとしたという江田三郎社会党書記長が、どろんこになって引き揚げてきた」。

 辻さんが他局の音源も使って制作し、翌年放送されたラジオ番組「あれから一年」はこの日を生々しく記録する。アナウンサーが「目の前で警官隊が警棒をふるっております……警官隊が私の顔を殴りました」と実況。年配男性は「人を殺さんでくれよ。学生なんか子どもじゃないか」と警官隊に泣き声で訴えた。

 ジャーナリストの田原総一朗さん(79)は当時、岩波映画の新入社員だった。「僕も6月は毎日のようにデモ隊の中にいました」。戦争が終わって15年。「みんなとにかく反戦でした。岸首相は元A級戦犯容疑者。日本が戦争に参加できるようにするための安保改定だと思い込んでいた」

 田原さんは「僕を含めて、ほとんどの人が安保改定の中身を知らなかったが、改悪に違いないと思う理由はあった」と、58年の警察の権限を重くする警察官職務執行法改正案の国会提出をあげる。

 「岸さんは憲法を改正しようと思い、まずデモ隊などを押さえ込むために警職法を改正しようとしたが、反対が強く廃案になった。国民は、この岸がやる安保改定が改善のわけがないと思ったのです」

 6月19日午前0時、国会や首相官邸を群衆が取り巻く中、新安保条約は自然成立。岸首相は23日に退陣を表明する。その後の池田勇人首相は憲法改正や再軍備といった政治課題を避け、経済成長策へとかじを切る。「憲法改正をしないと言わざるをえませんでした。60年安保騒動がそうさせた」と田原さん。

 樺さんが亡くなった翌日、録音機を抱えて国会の南通用門へ行った辻さんも「日本が変わったと実感しました」。マイクを向けると、人々は逃げず、自分にもしゃべらせてほしいと寄ってきた。「60年安保は大きな節目。宮澤喜一元首相も回顧録で、政治の戦前回帰が終了して『新しいデモクラシーが生まれた』と。1人ででもデモに行くという人もたくさん出てきた」

 「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)事務局長を務めた吉川勇一さん(82)も60年安保が日本の市民運動の始まりだったとみる。

 「声なき声の会」は、その嚆矢(こうし)だった。美術教師の小林トミさんらがはじめた「誰デモ入れる」と書いた幕を掲げたデモには、サラリーマンや主婦、高校生らが連なった。「大政党や労組の動員ではなく、1人ひとりが自分で考えて参加する市民運動が誕生。ベ平連にも受け継がれた」と吉川さん。その流れはイラク戦争や原発、そして特定秘密保護法案への反対運動へと続いている。(三ツ木勝巳)

人工衛星打ち上げ、警職法改正案も背景

 「日本が米国に基地を貸し、米国は自由に使えるが、日本防衛の義務はない。一方的な不平等条約だった」。大阪大大学院の坂元一哉教授(57)は、1951年の旧日米安全保障条約をこう解説する。

 60年の新安保条約では、米国による日本防衛義務を明文化し、米軍の基地使用に一部、事前協議の制度を設け、期限も10年にし、その後は1年前に通達すれば廃棄できる点など、大きく改善された。

 57年に旧ソ連が世界初の人工衛星を打ち上げ、核ミサイルの時代に入り、安保条約は危険だという議論が出る。岸内閣で警職法改正案や防諜(ぼうちょう)法案が持ち上がったのも国民に不安をもたらし、反安保の背景になったと、坂元教授はみている。

◆ブラウスにズック姿の樺さん 樺美智子さんとデモに参加していた東京大名誉教授・長崎暢子さん(75歳)(証言)

 樺美智子さんとは大学1年生のとき同じクラスでした。文学部では、彼女は日本史、私は東洋史を専攻に選びました。彼女は徳川最後の将軍の徳川慶喜論をリポートにしていました。反安保運動が高まってくるのは3年から4年の春です。

 亡くなった6月15日のデモの時も、国会の近くで止められて、みんなが「岸を倒せー」とか言っている時に、「卒論進んでる?」「ううん、あんまり。もっとやらなきゃね」というような話をしていました。

 デモ隊は素手でした。樺さんも上はブラウスにカーディガン。靴はズックだったと思います。こん棒も、ヘルメットもありません。

 国会の門に進むと「女はあぶないからさがれ」と言われました。でも、樺さんと私ともう1人はズボンをはいているから男扱いでいいと言って私は15列目くらいに、樺さんも2列くらい離れたところにいました。

 雨が降っていました。国会の敷地へ入っていくと列がばらけたように思います。私も最後は最前列で警官と対峙(たいじ)して、突かれたり殴られたりし、しばらく入院しました。警棒で突かれた腹部は今でも変です。

 樺さんは膵臓(すいぞう)が破裂していました。警察発表では樺さんは人雪崩で押しつぶされたとなっていますが、私はうそだと思っています。彼女は警察に顔が知られていたはずです。死因鑑定書は公開されませんでした。

1960年6月19日 朝日新聞朝刊

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◆◆59-60年安保闘争のなかの安保反対国民会議

(塩田庄兵衛=「戦後日本の統一戦線運動」より)

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当ブログ=「統一戦線の歴史日本」http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/15662611.htmlから

1951年秋、サンフランシスコで締結された対日平和条約と日米安全保障条約(旧安保条約)52428目に発効し、日本は名目上「独立国」となったが、実質的には半占領下におかれたアメリカ帝国主義への従属的同盟国として、独占資本主義の復活・強化、軍国主義 ・帝国主義の復活・強化の道を歩むというサンフランシスコ 体制のもとにおかれた  

民擁同運動の解体後、統一戦線運動の影は薄くなったようにみえたが、新しい情勢に応じて新しい目標をかかげて、人民の力を結集する運動は多面的にたえまなくつづけられた 。対日講和間題をめぐって、「全面講和」か「単独講和」かの選択をめぐる議論が国論を二分してたたかわされたが、南原繁・大内兵衛 ・末川博らを先頭とする知識人などの「全面講和」論は世論の結集に影響力をもった。 同時に大衆的署名運動が展開された。すなわち、1951115目、共産党 ・労農党 ・産別会議・私鉄労連・全造船など40労組、その他の民主団体によって結成された全面講和愛国運動全国協議会(全愛協)の署名運動は、このころ国際的に展開されていた原子兵器禁止を求めるストックホルム・アピール、ベルリン・アピー ルの署名運動と結合してすすめられた(480万集計) 社会党も総評も「再軍備反対、中立堅持、軍事基地提供反対、全面講和実現」の「平和4原則」を決議して世論をもり上げた

「講和」「日米安保」のサンフランシスコ 両条約の発効にともなう治安体制強化をはか って上程された破壊活動防止法(破防法)に反対して、52年春、総評と中立系組合がストライキ闘争をくりかえしたが、知識人・学生がこれと連帯して行動するという新しい経験をもった。 

53年の内灘闘争から55-56年の砂川闘争にいたる全国各地の軍事基地反対闘争には、地もと農・漁民を支援して、社・共両党、労働者、学生、知識人らが共同してたたかう経験を積んだ。さらに 543月のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による第5福竜丸被災事件が発端になって爆発的に高揚した原水爆禁止運動は、3 ,300万国民の署名をあつめ、558月には原水爆禁止日本協議会(原水協)が主催して原水禁世界大会が広島でひらかれるという大統一行動が生まれた 。同じ時期に「生命を生みだす母親は生命を育て、生命を守ることを望みます」というスローガンをかかげて母親大会という新しい性格をもった大衆運動も成立した。

55年体制」と呼ばれる新しい時期が展開した 1955年、自由党と民主党との保守合同によって、単独で国会議席の過半数を制して政権を維持しつづげる自由民主党が結成された 。サンフランシスコ両条約への対応をめぐって左・右に分裂していた杜会党が、左派の優位のもとに合 同して一体化した  

50年間題」の分裂に苦しんでいた共産党が 6全協をひらいて極左冒険主義とセクト主義を自已批判し、党の統一回復の基礎をつくり出した 。このように政治勢力は新しい配置についた 。経済界は重化学工業を中心に産業構造を転換しつつ 「高度経済成長」の軌道の上に乗った 。総評が中 心になって賃金引上げの統一闘争を組織する「春闘」もこの年からはじまった。

安保条約の改定による日米軍事同盟の強化・日米共同作戦体制の構築が歴史の次のステップの焦点に浮かび上ってきた

1957年~58年教育への国家統制強化の基盤として、教師への勤務評定を制度化する攻撃にたいして、日教組は平和教育・民主教育をまもる立場から父母と連帯して勤評反対闘争を展開した 。各地に地域共闘が生まれた

58年秋、岸信介内閣は警察官職務執行法(警職法)改正案を突如国会に提出した 。「オイコ ラ警察の復活反対」「デートのじゃまをする警職法反対」のスローガンをかかげて、民主主義の危機を憂える運動が全国にもえあがった 。警職法改悪反対国民会議が結成され 大衆的統一行動が組織された 。社会党が指導権をにぎる中央の国民会議は共産党を排除したが、各地に1 ,200にのぼると算えられた地域共閾会議が組織され、そこでは共産党も加えて共同した 。この広範で機敏な統一行動の力で警職法改正案は国会で審議未了で廃案となった 。統一戦線運動の勝利と評価してよい成果であった

以上のような運動の蓄積のうえに立って 19605-6月を頂点とする安保反対の大統一戦線運動が展開された 。それは要約すれぼ次のような運動であった。

1960(昭和35)1月、岸信介首相がワシントンに飛んで、19519月に結ばれた安保条約にかわる現行の新安保条約に調印した

この安保条約改定にたいして大きな反対運動がおこった。 安保条約は憲法第9条に違反して日本の再軍備をすすめ、しかもアメリカに従属する侵略的軍事同盟として、日本国民の意思とは無関係にアメリカがおこす戦争に日本をまきこみ、アジアの平和をみだす危険性を強くもっている、という声が国民の間からあがった 。このように判断する共産党・社会党・総評をはじめとするすべての安保反対勢力が結集して、1959(昭和34)3月に安保条約改定阻止国民会議(安保国民会議134団体 、のち138団体に)を結成し、その後1年半にわたって23次におよぶ全国的統一行動を展開した 。国会に提出された反対請願署名は2千万をこえた

そこで政府・自民党は,国会内での野党の鋭い追及・国会外での大衆運動のはげしい盛り上りを突破して、新安保条約の成立を強行することをはかった 519日深夜、国会内に導入された警官隊が野党議員を実力で排除し 衆議院で自民党の単独採決を強行して、新安保条約を ‘‘ 承認 してしまった。ところが ,この議会制民主主義のルールをふみにじるクーデター的なやり方は、国民の反対運動の火に油を注いだ 。平和の危機と民主主義の危機とが一体のものであることが強く意識され 、「安保条約改定反対」のスロ一ガンに「民主主義を守れ」「岸内閣を倒せ」というスローガンがつけ加わって、戦線は一挙に拡大した 。さらに国会でのスケジュールにタイミングをあわせて 、アイゼンハワー・ アメリカ大統領の日本訪問が計画されたので、岸内閣の背後にあるアメリカ帝国主義の影がくっきり浮かびあがり、「アイク来日反対」のスロー ガンがつけ加わり広がった

国会議事堂・首相官邸を包囲した抗議デモは、やがてアメリカ大使館にも向かうようになり、その人波は最高時には30数万人にのぼ った 。全国津々浦々に組織された2千にも及ぶ共闘組織の網の目が草の根からこの運動を支えた 。全国それぞれの地域で、さまざまの創意ある運動が展開された 。労働者、学生ぱかりでなく農民・中小業者・大学教授・芸術家、さらに家庭婦人までが街頭に出て、集会 ・デモ行進に参加した。その大衆行動の規模は史上空前のものであった

しかし、その隊列の足並みがピッタリ揃っていたというわけではなかった。当時日本社会党は、今日とはちがって安保条約改定反対をはっきり唱え、国会論戦で政府をきびしく追及し、大衆運動にも積極的態度をとった。 しかし、安保国民会議の指導権を独占しようというセクト主義の態度が目についたし 、また運動のすすめ方についても左右に動揺した 。そして社会党の右派は、たたかいの決定的局面で脱落し、民主社会党を結成して運動にブレ ーキをかげ、自民党政府をよろこばせた。これと連動して労働組合のナショ ルセンター 全労会議(同盟の前身)や新産別は、反共主義の立場から安保国民会議への参加を拒否した。最大のナショナルセンター総評は,当時から社会党と「運命共同体」的なブロックを形成していたが、前述したような結成以来の闘争経験の蓄積のうえに立ち、労働者の大衆組織としてのエネルギーを発揮して運動の主力部隊として健闘した。64日、15日、22日の3回にわたって、国鉄労働者を中心に数百万人の政治ストがうたれ、国民に強い感銘をあたえた

当時、日本共産党は国会にきわめてわずかの議席しかもたず、組織勢力もこんにちとは比較にならぬ小さなものであったが、この闘争を、アメリカ帝国主義と日本独占資本の「二つの敵」による侵略戦争と民族抑圧、帝国主義・軍国主義復活・強化の路線に反対する決定的に重要なたたかいととらえ、独立・平和・民主主義・生活向上のための民族民主統一戦線の形成をめざして一貫して 全力投球した 。そして、この闘争をつうじて共産党は 量的にも質的にも飛躍的に拡大・強化された。

ところが、安保闘争の ‘‘ 主役 ’’ は学生運動であるかのようにマスコミは宣伝し、一部の知識人もそのように評価した 。たしかに学生の正義感と情熱、機敏な行動力はきわ立っていて目をひいた 。しかし当時、全学連の指導部を占拠していたトロツキストたち(共産主義者同盟を名のる)は、極左冒険主義的な戦術で学生部隊と警察機動隊との衝突を挑発して混乱状態をことさらにつくりだし、大衆的統一行動を妨害し、分裂させる役割を演じた。この舞台裏はやがて明るみに出た。

支配体制側は、反安保陣営のこれらの不協和音を利用することをはかるとともに、武装警官隊、右翼暴力団を総動員して大衆運動を攻撃した 。その凶暴性がもっとも露骨に示されたのが615日夜の国会議事堂周辺での惨劇であった。 一般市民・演劇人の平穏なテモ隊を右翼暴力団が襲撃し、さらに学生や大学教授団への警察機動隊の野獣のような暴行が徹底して行なわれ ・死者1名と千数百人の重軽傷者がでた

520日未明、衆議院で自民党が単独採決した新安保条約は、参議院では、採決することなく、憲法の規定を利用して一ヶ月後に自然成立したとされ、623日に日米両国政府代表が批准書を交換して発効した。この間の35日間が、日本をゆり動かした安保闘争のヤマ場であった。

結局、新安保条約の成立と批准を阻止する運動目標は達成されなかった 。そこから ‘‘ 敗北論挫折論 ’’‘‘ 前衛不在論 ’’ などの否定的評価を唱える者も生まれた

しかし幾つかの大きな成果がかちとられた 。アイゼンハワー 米大統領の訪日は中止され ,国際的に大きな反響を呼んだ 。岸内閣は総辞職に追いこまれ た。 そしてなによりの成果は、労働者階級を中心部隊とする人民諸階層の統一戦線によって, 安保条約を廃棄して独立・平和・民主・中立・生活向上の新しい日本を築いていく展望がひらかれたことであった。それは反帝・反独占の民族民主統一戦線と呼ばれるようにな った

安保国民会議は、社会党・総評ブロックが指導権をにぎろうとするセクト主義から、日本共産党を統一行動の方針を協議する幹事団体会議の正規のメンバ ーとせず、オブザ ーバー にとどめるという不公正があり、また参加団体の全体会議で運動方針をきめるとい った民主的な運営の力量もなかった 。そして共産党が ,当初から強く主張していた沖縄返還要求を運動目標に加えることはついに受入れなかった 。それはいわば多数の参加団体の行動を調整するための連協議機関であり、統一行動の旗振り役であって、明確な指導性をもつ機関ではなかった 。しかし大衆行動のひろがりともり上りのなかで、運動の節目節目に 開催された全国代表者会議が意志統一の場の役割を演じ、予想もしなかったような運動の発展のなかで、事実上、社会党 ・共産党・総評を3本柱とする統一戦線組織として機能するようになってい った。

ところで運動の発展のなかで共産党は、「岸内閣は退陣し、国会を解散し、選挙は岸一派をのぞく全議会勢力の選挙管理内閣でおこなえ」と提唱し、これに賛同する意見も政界・学界にあった。しかし社会党は、議員総辞職戦術で政府に圧力をかげる方針をかかげ しかも結果的にそれを実行しなかったから ,

選挙管理内閣構想は具体化したかった 。なお批准後になって共産党は 、「安保条約反対の民主連合政府」を提唱した。つづいて社会党は、「護憲・民主・中立の政府」を唱えた 。それらは当面の日程にのぽる条件はなかったが、政権構想の提示という統一戦線運動の展望をしめす意義をもった。共産党は、安保閾争をたたかいぬいたのち、19617月の第8回党大会で、 新しい綱領を確定した 。そこでは 、「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である 。わが国は 、高度に発達した資本主義国でありながら ,アメリカ帝国主義になかば占領された事実上の従属国となっている」ととらえ、そこから導き出される展望として「現在、日本の当面する革命は、アメリカ帝国主義と日本独占の支配、二つの敵に反対するあたらしい民主主義革命、人民の民主主義革命である」と規定し、この革命を達成するために、「アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する人民の強力で広大な統一戦線、すなわち民族民主統一戦線 をつくり、その基礎のうえに独立 ・民主・平和・中立の日本をきずく人民の政 府・人民の民主主義権力を確立すること」を主張した。「綱領」はさらに,「独立・民主主義・平和・中立・生活向上のためにたたかうなかで、労働組合・農民組合をはじめとする人民各階層の大衆的組織を確立しひろげつよめるとともに、反動諸党派とたたかいながら民主党派、民主的な人びととの共同の団結をかため、民族民主統一戦線をつくりあげる

アメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対するこの民族民主統一戦線は、労働者階級の指導のもとに労働者・農民の同盟を基礎とし、そのまわりに勤労市民・知識人・婦人 ・青年・学生・中小企業家・平和と祖国を愛し民主主義 をまもるすべての人びとを結集するものである」と重ねて表明した

こうして日本共産党はそれ以来こんにちまで ,統一戦線運動を戦略的課題として綱領に明記した目本で唯一の政党として、その課題を系統的に追求しつづけてきた

ちなみに日本社会党は、195510月に左・右が合同した際に作成された綱領に次の点を明記した

「わが党の本来の任務は 、日本資本主義発達の現段階において、その有する歴史的条件に対応し、この資本主義社会を民主的・平和的に変革し、いわゆる 平和革命を遂行することによって、社会主義社会を実現することである 。同時にわが党は、第2次大戦後の日本をめぐる内外の情勢にかんがみて、あらたに

目本の完全な独立の回復と確保という重大な任務をも担当しなげれぱならな い。

「わが党の任務の規定は、わが党の性格と構成をあきらかにする 。日本社会党は民主的 ・平和的に社会主義革命を遂行する立場から必然的に階級的大衆政党である 。言いかえれば、わが党は,労働者階級を中核とし、農民・漁民・中小商工業者・知識層・その他国民の大多数を組織する勤労者階層の結合体であ る。

このように自己規定した社会党の綱領は ,同時に次のような反共主義の立場を明らかにして、統一戦線への障害をつくり出した 。「共産主義は事実上民主主義をじゅうりんし、人問の個性・自由・尊厳を否定して、民主主義による杜会主義と相容れない存在とな った 。」 「われわれの立場は、戦略として暴力革命を企図する日本共産党と根本的に異る 。」

1955年に採択された社会党のこの綱領は 、その後も修正されることなく存続 したが ,社会党は64年の党大会で 、その綱領のうえに重ねて新しく綱領的文書 「日本における社会主義への道」を採択した(66年の党大会で補強 ・完結) そこでは戦略目標を、ら民族完全独立の任務をともたなう社会主義革命、と設定し、議会と大衆闘争との結合による平和的・民主的方法でそれを達成することと、労 働者階級を中核とする広範な「反独占国民戦線」の形成によって、社会主義への道を切りひらく過渡的政権の構想が唱えられた 。「道」は次のように説明した。

「過渡的政権とは、社会主義政権の確立以前の段階において 、それへの移行接近のために樹立される政府であり、われわれはこれを社会党政権と呼ぶ。それはわが党のヘゲモニーの下にあるといへ、未だ完全な社会主義政権にまで至っておらず、その政府の基本的施策は護憲・民主・中立におかれ、同時に社会主義的諸施策も端緒的・漸次的に実施される

この政府の構成は、()社会党の絶対多数の単独政権を基本とする 。しかし そのほかにも ()比較多数の社会党に他の会派の閣外協力による単独政権、社会党と保守を除く他の革新的会派との連立政権等の形も考えられる 。」

このように社会党政権樹立のための反独占国民戦線を構想しているが、統一戦線的発想とはいえないであろう 。其の後、19861月に、「愛と知と力による創造」と題する日本社会党の「新宣言」が採択されたことにともなって、さきの「綱領」も「道」も廃棄されたことは改めていうまでもない

このような社・共両党の基本方針のちがいは、安保闘争で実現した統一戦線運動を継続 ・発展させることの困難と連動した。

安保闘争の共闘組織であった「安保条約改定阻止国民会議」は、19613月に「安保反対・平和と民主主義を守る国民会議」として再発足し、大衆運動の弾圧を目的として自民党と民杜党が共同提案した政治的暴力防止法(政暴法) 反対闘争の推進力となって、その国会通過を阻止するなどの成果をあげた

かし、やがて社会党 =総評ブロックが固執した「いかなる国の核実験にも反対」を運動の基本原則とするという主張と核拡散防止条約(部分的核停条約)支持の可否をめぐる対立が直接原因となって、1963年の原水爆禁止世界大会で原水協が分裂させられ、社会党 =総評ブロックが原水禁(原水爆禁止日本国民会議) を別個に組織したことに連動して、安保国民会議は機能停止状態におちいった 。その後、社会党=総評ブロックは、「安保条約反対・平和と民主主義を守る全国実行委員会」(反安保全国実行委員会)をつくり、一方、共産党をふくめた統一 戦線を指向する民主団体などで構成する「安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員 会」がつくられ、2つの団体が並立することにな って、全国的規模での持続的な統一戦線組織は存続できなくなった 。したが って60年代後半以降 、アメリカ原子力潜水艦寄港反対・ベトナム 侵略戦争反対=ベトナム 人民の解放闘争支援 ・日韓条約批准反対・沖縄返還要求・小選挙区制反対などの全国民的課題について、社・共両党をはじめ民主諸団体や著名人たちが呼びかけて、統一実行委 員会をつくって大衆行動を組織する、という方式がうまれたが、一時的な統一行動あるいは1日共闘にとどまって持続性をもちえなくた った 。原水禁運動も、1977年に原水協・原水禁両組織が、14年ぶりに統一世界大会の開催にこぎつげたが、実質的な統一には道が遠い状況である

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11) くわしくは塩田庄兵衛著『実録 60年安保闘争』(1986,新日本出版社)

ここでは安保国民会議結成のよびかけの全文と構成団体名簿を資料として紹介する。

安保条約改定阻止国民会議結成よびかけ(1959 =昭和34328)

わが国は、日米安全保障条約とそれにともなう行政協定、MS A諸協定によってアメリカの軍隊の国内駐留を認め、軍事基地を提供してまいりました。 その間に朝鮮動乱や台湾海峡の紛争がおこり、これらの基地は朝鮮や中国に対するアメリカの前線基地となって日本が戦争の当事国となったのであります。 守ってもらうための軍事基地が、実は攻めてゆくための基地になっている 。これらの事実は国民の問に重苦しい不安をまきおこしました  

砂川などの軍事基地に反対する闘争のとき 、土地を守る農民や労働者、学生に対し、日本の政府は警官を動員して棍棒の雨をふらせ 、日本人の要求と利益をふ みにじってまで,アメリカの方針に忠実でした。 

私達はこの様なさまざまな経験を通じて「日本の独立が制限され、国民が知らない問に戦争の当事国となっている」と云う厳しい現実が、日米安全保障条約によって義務づげられていることを身をもって理解し、その廃止を要求してきたのであります

今政府は、この安全保障条約を改定しようとしています 。改定は、この条約を廃止するためではなく、かえ ってその条約体制を強化する目的で行われるのです。改定によって、日本が共同防衛の義務を負い、それによって自衛隊の増強や核武装が要求されると云うこと 、韓国や台湾と同盟して、中国やソ連を攻撃する基地を進んでひきうけること、憲法が否定されて民主主義と平和の基調が崩され ることと、等々は、日本の運命、民族の将来のために由々しい重大事であります。

私達はかつて無責任な軍国主義と軍事同盟が 国民の意志とは別に、戦争を挑発し中国をはじめとするアジア諸国ならびに日本国民を塗炭の苦しみに追いこんだことを忘れてはなりません

今、岸内閣が歩もうとしている途が、あの途にあまりにも共通していることを私達、強調したいと思います

私達は、この様にして日本の平和と民主主義を危機にさらし、国民生活を破壊する安全保障条約の改定に対しては絶対に反対を致します  

私達は、目本の安全保障はいかなる軍事ブ ロックにも加入せず自主独立の立場 を堅持し、積極的な中立外交を貫くことによっ てこそ確保されると信じます。

このことは平和憲法をゆがめずに厳守することによって実現は可能であると思 います

国民のみなさん! 私達はこのたび以上の方針を実現するための共闘機関として「安保条約改定阻止国民会議」を結成することになりました  

全国の各種団体がこの国民会議にこぞって参加される様心から要請致します。 警職法改悪案を廃案にした、国民の力で「安保条約の廃止と改定の阻止」のためにたち上りましょう  

全国の平和を愛する諸団体のみなさん! 中央の国民会議は328目に結成大会を開きます 。安保条約の廃止を要求し、改定に反対するすべての政党、団体をもうらしたこの様な会議を各地で組織して下さい 。選挙運動の中で みんなの力が、国民の関心をよびさまし、国民運動を発展させる様努力しましょう

学者、文化人の人たちとも提携を強化し、私達の闘いを一層前進させて下さ い。

労働者のみなさん! 私達のあいだには安保条約と言うと私達の職場と直接関係がないと言う錯覚があります

しかし組合運動を弾圧し、勤評をおしつけ、首切り合理化を達成しようと言う政府と独占資本の方針が、軍国主義の復活をはかる政策の具体的な現れだと言うことをみなさんはよく承知しておられると思います

労働者階級が、この政策を阻止するためにたち上らないならば、岸内閣はなんの抵抗もなしにこの戦争政策を実現させてしまうでしょう 。今ただちに職場の討論をおこし、415日の職場大会を起点としてみんなの決意をしっかりと一つにまとめて下さい

そして警職法改悪反対闘争にたち上ったときの様に断固とした実力行使にたちわ、上り調印を阻止しましょう 。労働者階級の確信をもっ た闘いこそ,国民の心の支えです。

日本社会党・全日本農民組合連合会・憲法擁護国民連合・日本平和委員会・原水爆禁止日本協議会・日中友好協会・日中国交回復国民会議・人権を守る婦人協議会・全国軍事基地反対連絡会議・全日本青年学生共闘会議・日本労働組合総評議会・平和と民主主義を守る東京共闘会議・中立労組連絡会議

国民会議構成団体一覧

<幹事団体>

社会党、総評、中立労連、平和と民主主義を守る東京共闘会議、平和委員会、原水協、日中国交回復国民会議、日中友好協会、人権を守る婦人協議会、全国軍事基地連絡協議会 、全日農、青年学生共闘会議、護憲連合、日本共産党(オブザーバー)

<参加団体>(134団体)

社会党、日本共産党、総評、中立労連、平和と民主主義を守る東京共闘会議、平和委員会、原水協、全国旅館従組、全百貨、全食品 、全生保、全自連、全電通、土建総連、日教組、全国税、全商工、民放労連、全国金属、全蚕労連、全電波、全財務、全税関、炭労、全逓、鉄鋼労連、全日自労、全農林、電機労連、全国セメント、全国ガス、新聞労連、国労、全港湾、全医労、私鉄総連、全専売、 全林野、日高教、全印総連、恩給労組、全司法、全調達、全造船、動力車労組、日中国交回復国民会議、日中友好協会、人権を守る婦人協議会、全日農、青年学生共闘会議、護憲連合、全鉱、東電労組、国民文化会議、日本文化人会議、人類愛善会、国際平和協会、民医連、日ソ翻訳出版懇話会、日本中国婦人交流会、社会主義協会、社会主義文学クラブ、日本ユネスコ 東京都委員会、日本アナキスト連盟、仏教者平和協議会、,丸山教本庁、中国研究所、国際事情研究会、ジャバン・プレス ・サービス、草の実会、中大自治会、全学連、全学新、社青同、全青婦会議、社会主義婦人協会、日本アジア・アフリカ連帯委員会、部落解放同盟、世界連邦促進同志会、日本ヴェトナム友好協会、日蓮宗世界立正平和運動本部、ソヴェト研究会、平和婦人新聞、全日本学生寮自治会連合、中販連、日の基社会事業団、婦団連、緑の会、日青協、日中貿促議員連盟、全国大学生協連、全国日本生協連、婦人民主クラブ、くらしの会、新日本文学会、国際平和協会、早大社 研、貿促労協 ,健康と生活を守る会全国連合会、日生連、私学協、学民協、キリスト者平和の会、日本キリスト社会事業団、日ソ協会、沖縄連、沖縄問題懇談会、中国帰還者連絡会、中国人俘虜殉難慰霊実行委員会、時局研究会、世界経済 研究所、世界労働運動研究所、地方議連、日患同盟、全商連、日本機関紙協会、民青同、日朝協会、その他。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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