NHK日本と朝鮮半島2000年=古代から今日までの侵略・友好の歴史

◆◆NHK日本と朝鮮半島2000年=古代から今日までの侵略・友好の歴史

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【このページの目次】

NHK日本と朝鮮半島2000年リンク集=今日の日韓関係・渡来人・仏教を通じての交流・朝鮮通信使

NHK日本と朝鮮半島2000年(各年代解説)

◆日朝交渉史(小学館百科全書)

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🔵NHK日本と朝鮮半島2000年リンク集

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◆◆NHK日本と朝鮮半島2000

(90m×10)韓国の協力をえながらNHKが作成した貴重な映像。朝鮮半島との関係では、これほど密接な関係がある。

◆半月城通信=金明秀

http://www.han.org/a/half-moon/mokuji.html#johmon

在日問題・戦後の在日の人権問題・竹島問題・従軍慰安婦問題・強制連行問題・朝鮮の植民地支配史・北朝鮮問題・朝鮮史などきわめて豊富な資料集。立場の違いのある見解もあるが役に立つ。とくに「日本と朝鮮半島2000年」シリーズを理解する上で参考になる朝鮮古代史・中世史・近世史、また日本との深い関係史などが詳細に掲載されている。

日韓歴史共同研究報告書(2005.6.10)

古代・中近世・近現代の報告書。

http://www.geocities.jp/yk_namiki/stock/050916/japan_korea_history.htm

🔵日韓関係悪化と解決方向

🔵池上彰=日韓関係悪化はなぜ

🔷(いちからわかる!)韓流ブーム、また起きているの?

2020811日朝日新聞

 「愛の不時着」人気で「第4次」とも。文学の翻訳もさかんだ

 アウルさん 韓国(かんこく)ドラマが最近また人気なの?

 A 「愛の不時着」のことだね。北朝鮮(きたちょうせん)の軍人と、韓国の財閥令嬢(ざいばつれいじょう)の恋愛(れんあい)ドラマで、動画配信大手のネットフリックスが2月に配信すると、連日、トップ10の上位入りする勢いだ。北の軍人役のヒョンビン人気に加え、ストーリー展開のおもしろさが評判だよ。「梨泰院(イテウォン)クラス」など他のドラマも好調で、第4次韓流(かんりゅう)ブームという人もいる。

 ア 男の人も、けっこうはまっているみたいだね。

 A 韓国文学の翻訳もさかんだ。日常的な女性差別を告発した「82年生まれ、キム・ジヨン」は、日本語版が約20万部に達した。

 ア 韓流といえば、ペ・ヨンジュンの「冬のソナタ」を思い出すね。

 A NHKが2003年に放映すると、中高年女性を中心に「ヨンさま」ブームが起きた。第1次韓流だね。当時に比べると、今はコロナ禍(か)で俳優や歌手が来日できず、大規模なイベントが開けないなど、ちょっと寂(さび)しいけれど。

 ア その後のブームって何があったかな?

 A 10年ほど前に東方神起(とうほうしんき)などのKポップが流行した。17年ごろになると、東京・新大久保のコリアンタウンで鶏肉料理「チーズタッカルビ」が話題に。韓国の化粧品などを「かわいい」「おしゃれ」と感じる10代、20代の女性たちがインスタグラムに写真をアップして人気が広まったよ。

 ア いま日韓関係は良くないよね。

 A 戦時中、日本の植民地支配下で「徴用工(ちょうようこう)」として働かされた韓国人の補償(ほしょう)をめぐり、政府間で厳しい対立が続き、国民感情がぶつかることもある。ただ、韓国の文化コンテンツは、世界に通用するほど高いレベルになった。国の違いを超え、いいものはいい。そんな楽しみ方をする人が増えたんじゃないかな。もちろん歴史をきちんと学ぶことも大切だけどね。(桜井泉)

🔷🔷「韓国は『敵』なのか」=日韓改善求め第1次分賛同署名 8400

韓国元総理ら67氏 呼応して声明発表

2019819()赤旗

https://peace3appeal.jimdo.com

 日韓関係の深刻な悪化を憂慮する元政府代表や学者、弁護士らが、日本政府による韓国政府との冷静な対話を求めた声明「韓国は『敵』なのか」(7月25日発表)の世話人一同は16日、声明の賛同署名が第1次募集締め切りの15日までに8404となったとウェブ上で発表しました。賛同者一覧や一言メッセージも公表しています。 (声明要旨

 発表文は、日韓間での外交的解決の模索にも触れた上で「問題の根本的な解決は容易なことではなく、時間がかかる」と指摘。賛同署名を8月31日まで継続すると表明し、賛同への協力を訴えました。

 また、韓国の元総理、元国会議員、ジャーナリストら67人が12日、「韓国は『敵』なのか」の声明に応答する形で、声明「韓日の危機を超え、東アジアに平和を」を発表したと紹介。同声明では「われわれは日本知識人75名の声明〈韓国は『敵』なのか〉に共感し、日本政府も、彼らの問いに正しく答えることを望む。われわれは決して、新しい時代を敵対と対決で迎えてはならない」などと訴えています。

🔵<声明> 韓国は「敵」なのか

 はじめに 

 私たちは、7月初め、日本政府が表明した、韓国に対する輸出規制に反対し、即時撤回を求めるものです。半導体製造が韓国経済にとってもつ重要な意義を思えば、この措置が韓国経済に致命的な打撃をあたえかねない、敵対的な行為であることは明らかです。

 日本政府の措置が出された当初は、昨年の「徴用工」判決とその後の韓国政府の対応に対する報復であると受けとめられましたが、自由貿易の原則に反するとの批判が高まると、日本政府は安全保障上の信頼性が失われたためにとられた措置であると説明しはじめました。これに対して文在寅大統領は7月15日に、「南北関係の発展と朝鮮半島の平和のために力を尽くす韓国政府に対する重大な挑戦だ」とはげしく反論するにいたりました。

1、韓国は「敵」なのか

 国と国のあいだには衝突もおこるし、不利益措置がとられることがあります。しかし、相手国のとった措置が気にいらないからといって、対抗措置をとれば、相手を刺激して、逆効果になる場合があります。

 特別な歴史的過去をもつ日本と韓国の場合は、対立するにしても、特別慎重な配慮が必要になります。それは、かつて日本がこの国を侵略し、植民地支配をした歴史があるからです。日本の圧力に「屈した」と見られれば、いかなる政権も、国民から見放されます。日本の報復が韓国の報復を招けば、その連鎖反応の結果は、泥沼です。両国のナショナリズムは、しばらくの間、収拾がつかなくなる可能性があります。このような事態に陥ることは、絶対に避けなければなりません。

 すでに多くの指摘があるように、このたびの措置自身、日本が多大な恩恵を受けてきた自由貿易の原則に反するものですし、日本経済にも大きなマイナスになるものです。しかも来年は「東京オリンピック・パラリンピック」の年です。普通なら、周辺でごたごたが起きてほしくないと考えるのが主催国でしょう。それが、主催国自身が周辺と摩擦を引き起こしてどうするのでしょうか。

 今回の措置で、両国関係はこじれるだけで、日本にとって得るものはまったくないという結果に終わるでしょう。問題の解決には、感情的でなく、冷静で合理的な対話以外にありえないのです。

 思い出されるのは、安倍晋三総理が、本年初めの国会での施政方針演説で、中国、ロシアとの関係改善について述べ、北朝鮮についてさえ「相互不信の殻を破り」、「私自身が金正恩委員長と直接向き合い」、「あらゆるチャンスを逃すことなく」、交渉をしたいと述べた一方で、日韓関係については一言もふれなかったことです。まるで韓国を「相手にせず」という姿勢を誇示したようにみえました。そして、六月末の大阪でのG20の会議のさいには、出席した各国首脳と個別にも会談したのに、韓国の文在寅大統領だけは完全に無視し、立ち話さえもしなかったのです。その上でのこのたびの措置なのです。

 これでは、まるで韓国を「敵」のように扱う措置になっていますが、とんでもない誤りです。韓国は、自由と民主主義を基調とし、東アジアの平和と繁栄をともに築いていく大切な隣人です。

2、日韓は未来志向のパートナー

 1998年10月、金大中韓国大統領が来日しました。金大中大統領は、日本の国会で演説し、戦後の日本は議会制民主主義のもと、経済成長を遂げ、アジアへの援助国となると同時に、平和主義を守ってきた、と評価しました。そして日本国民には過去を直視し、歴史をおそれる勇気を、また韓国国民には、戦後大きく変わった日本の姿を評価し、ともに未来に向けて歩もうと呼びかけたのです。日本の国会議員たちも、大きく拍手してこの呼びかけに答えました。軍事政権に何度も殺されそうになった金大中氏を、戦後民主主義の中で育った日本の政治家や市民たちが支援し、救ったということもありました。また日本の多くの人々も、金大中氏が軍事政権の弾圧の中で信念を守り、民主主義のために戦ったことを知っていました。この相互の敬意が、小渕恵三首相と金大中大統領の「日韓パートナーシップ宣言」の基礎となったのです。

 金大中大統領は、なお韓国の国民には日本に対する疑念と不信が強いけれど、日本が戦前の歴史を直視し、また戦後の憲法と民主主義を守って進むならば、ともに未来に向かうことは出来るだろうと大いなる希望を述べたのでした。そして、それまで韓国で禁じられていた日本の大衆文化の開放に踏み切ったのです。

3、日韓条約、請求権協定で問題は解決していない

 元徴用工問題について、安倍政権は国際法、国際約束に違反していると繰り返し、述べています。それは1965年に締結された「日韓基本条約」とそれに基づいた「日韓請求権協定」のことを指しています。

 日韓基本条約の第2条は、1910年の韓国併合条約の無効を宣言していますが、韓国と日本ではこの第2条の解釈が対立したままです。というのは、韓国側の解釈では、併合条約は本来無効であり、日本の植民地支配は韓国の同意に基づくものでなく、韓国民に強制されたものであったとなりますが、日本側の解釈では、併合条約は1948年の大韓民国の建国時までは有効であり、両国の合意により日本は韓国を併合したので、植民地支配に対する反省も、謝罪もおこなうつもりがない、ということになっているのです。

 しかし、それから半世紀以上が経ち、日本政府も国民も、変わっていきました。植民地支配が韓国人に損害と苦痛をあたえたことを認め、それは謝罪し、反省すべきことだというのが、大方の日本国民の共通認識になりました。1995年の村山富市首相談話の歴史認識は、1998年の「日韓パートナーシップ宣言」、そして2002年の「日朝平壌宣言」の基礎になっています。この認識を基礎にして、2010年、韓国併合100年の菅直人首相談話をもとりいれて、日本政府が韓国と向き合うならば、現れてくる問題を協力して解決していくことができるはずです。

 問題になっている元徴用工たちの訴訟は民事訴訟であり、被告は日本企業です。まずは被告企業が判決に対して、どう対応するかが問われるはずなのに、はじめから日本政府が飛び出してきたことで、事態を混乱させ、国対国の争いになってしまいました。元徴用工問題と同様な中国人強制連行・強制労働問題では1972年の日中共同声明による中国政府の戦争賠償の放棄後も、2000年花岡(鹿島建設和解)、2009年西松建設和解、2016年三菱マテリアル和解がなされていますが、その際、日本政府は、民間同士のことだからとして、一切口を挟みませんでした。

 日韓基本条約・日韓請求権協定は両国関係の基礎として、存在していますから、尊重されるべきです。しかし、安倍政権が常套句のように繰り返す「解決済み」では決してないのです。日本政府自身、一貫して個人による補償請求の権利を否定していません。この半世紀の間、サハリンの残留韓国人の帰国支援、被爆した韓国人への支援など、植民地支配に起因する個人の被害に対して、日本政府は、工夫しながら補償に代わる措置も行ってきましたし、安倍政権が朴槿恵政権と2015年末に合意した「日韓慰安婦合意」(この評価は様々であり、また、すでに財団は解散していますが)も、韓国側の財団を通じて、日本政府が被害者個人に国費10億円を差し出した事例に他なりません。一方、韓国も、盧武鉉政権時代、植民地被害者に対し法律を制定して個人への補償を行っています。こうした事例を踏まえるならば、議論し、双方が納得する妥協点を見出すことは可能だと思います。

 現在、仲裁委員会の設置をめぐって「対立」していますが、日韓請求権協定第3条にいう仲裁委員会による解決に最初に着目したのは、20118月の「慰安婦問題」に関する韓国憲法裁判所の決定でした。その時は、日本側は仲裁委員会の設置に応じていません。こうした経緯を踏まえて、解決のための誠実な対応が求められています。

おわりに

 私たちは、日本政府が韓国に対する輸出規制をただちに撤回し、韓国政府との間で、冷静な対話・議論を開始することを求めるものです。

 いまや1998年の「日韓パートナーシップ宣言」がひらいた日韓の文化交流、市民交流は途方もない規模で展開しています。BTS(防弾少年団)など、K-POPの人気は圧倒的です。テレビの取材にこたえて、「(日本の)女子高生は韓国で生きている」と公然と語っています。300万人が日本から韓国へ旅行して、700万人が韓国から日本を訪問しています。ネトウヨやヘイトスピーチ派がどんなに叫ぼうと、日本と韓国は大切な隣国同士であり、韓国と日本を切り離すことはできないのです。

 安倍首相は、日本国民と韓国国民の仲を裂き、両国民を対立反目させるようなことはやめてください。意見が違えば、手を握ったまま、討論をつづければいいではないですか。

 2019年7月25日

🔷🔷対韓輸出規制拡大、話し合いで事態の解決はかれ

201984日赤旗主張

 安倍晋三政権が、輸出管理の手続きを簡素化する優遇措置の対象国から韓国を除外する政令の改定を閣議決定しました。韓国に対して日本は7月、半導体材料の輸出管理を厳格化する措置をとっています。今回の規制強化は、日韓両国の関係悪化に一層拍車をかけるものです。韓国側は日本政府の対応に激しく反発しています。深刻化している事態を打開するため、安倍政権は今回の閣議決定を撤回し、韓国政府と解決に向けて冷静な話し合いを行うべきです。

◆政経分離の原則に反する

 今回の政令改定によって、軍事転用の恐れのある製品などの輸出先として問題がないとされて輸出優遇の対象となっていた27カ国から韓国は外れます。この仕組みで指定された優遇対象国が除外されるのは、韓国が初めてです。化学物質や工作機械など幅広い品目の韓国への輸出の際、原則として個別の許可が必要になります。さきの半導体の原材料などの輸出規制に続く、今回の輸出規制拡大は、さまざまな業界へ悪影響を及ぼすことが強く懸念されます。

 シンガポールのバラクリシュナン外相は2日、バンコクで開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)と日中韓の外相会議で、「信頼関係を増進して相互の依存度を高めることが、この地域の共同繁栄のために必要なことだ」と日本の措置が地域全体に否定的影響を与えることに懸念を表明しました。

 一連の輸出規制強化は、安倍首相が参院選の党首討論(77)で「徴用工の問題で、国と国との約束(1965年の日韓請求権協定)を守れない国であれば(安全保障上の)貿易管理をちゃんと守れないだろうと思うのは当然だ」と述べたように、「徴用工」問題をめぐる韓国の対応に対する報復措置であることは明らかです。

 日本政府は表向き「韓国の輸出管理や運用が不十分なことを踏まえた見直し」(世耕弘成経済産業相)といいますが、韓国側のどこが「不十分」なのか具体的に示しておらず、説得力はありません。

 「徴用工」問題という政治上の紛争解決の手段に貿易問題を使うことは道理がありません。安倍政権のやり方は、政治問題を経済問題にからめない政経分離の原則に反する禁じ手です。

 「徴用工」問題などの政治的紛争の解決には外交的な話し合いしかありません。植民地支配下で強制労働させられた被害者に対する日本企業の賠償も、個人の請求権は消滅していないとの一致点を大事にして両国がよく話し合い、被害者の名誉と尊厳が回復できるようにしていくことが必要です。

◆「未来志向」の立場で

 米朝首脳会談や南北首脳会談など、北東アジアの非核化・平和をめぐり激動的な情勢が進展している下で、日韓関係が悪化の道をたどることは、あまりに深刻です。

 どんなに困難な問題であっても、粘り強く話し合い前向きに解決するのが政治の責任です。自制を求める声を聞き入れず、韓国に対し強硬姿勢を取る安倍政権の対応は大問題です。いまこそ「和解と善隣友好協力に基づいた未来志向的な関係を発展させる」(1998年の金大中(キムデジュン)大統領と小渕恵三首相が発表した「日韓パートナーシップ宣言」)との立場で悪循環から脱却する努力を真剣に追求することが求められます。

🔷🔷韓国を優遇対象から除外=安倍政権 禁じ手の措置強行

201983日赤旗

 政府は2日、安全保障上の輸出管理で優遇措置をとっている優遇対象国(旧「ホワイト国」)から韓国を除外するための政令(輸出貿易管理令)の改定を閣議決定しました。新たな政令は7日に公布され、28日に施行されます。ホワイト国の指定取り消しは初めて。日本は2004年、韓国をアジア唯一の「ホワイト国」に指定していました。

 菅義偉官房長官は閣議後の記者会見で、「あくまで輸出管理を適切に実施するための運用の見直し」「アジア各国と同様の扱いに戻すもので、禁輸措置ではない」と説明しますが、一連の経過を見れば元徴用工問題をめぐる韓国への報復措置であることは明らかです。政治的な紛争の解決に貿易問題を使うという禁じ手であり、何ら道理のないものです。

 経済産業省によれば、今回の政令改定により、韓国向けの輸出については個別の申請を不要とする一般包括許可が適用できなくなるとともに、大量破壊兵器や通常兵器などに転用されるおそれがある場合は輸出許可申請が必要になります。

 政府は7月4日、フッ化水素など半導体材料3品目で輸出規制を強化。今後は軍事転用のおそれがあるとみなされれば、幅広い品目で個別の許可が必要になるため、韓国向け輸出で大混乱が生じる可能性があります。世耕弘成経産相は閣議後の記者会見で、「3品目に限らず、迂回(うかい)輸出や目的外転用には厳正に対処する」と述べました。

 韓国は輸出規制強化を不当と批判。旧「ホワイト国」から除外しないよう協議に応じるよう繰り返し求めていましたが、日本側はまともに協議に応じることなく閣議決定に踏み切りました。韓国は経済的損失を確認できれば、世界貿易機関(WTO)に提訴することも検討しています。

 経産省は従来、優遇措置を取っている国を「ホワイト国」と呼称していましたが、これを廃止し、AからDの4グループに区分。旧「ホワイト国」を「グループA」に変えます。韓国は今後、「B」指定になります。

◆文大統領「無謀な決定」

 韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、2日に開いた臨時閣議の冒頭、日本が貿易管理上の優遇対象国からの韓国除外を閣議決定したことについて、「無謀な決定だ」として遺憾の意を表明しました。

 文氏は、日本の措置は、日本企業に元徴用工らへの賠償を命じた韓国最高裁判決を受けた「明白な貿易報復」と指摘。「相応する措置を断固として取っていく」と警告しました。

 韓国政府はその後、対抗措置として、日本を貿易管理上の優遇対象国から外し、輸出管理を強化すると発表しました。

 文氏は、日本が、韓国や米国が提案した話し合いに応じなかったことを挙げ、「状況を悪化させてきた責任が日本にあることが明確になった以上、今後起きる事態の責任も全面的に日本政府にある」と主張しました。

 さらに、日韓の間には「不幸な歴史による深い傷があり、両国は傷を癒やそうと努力してきた」と強調。「いまになって加害者である日本が傷をえぐるなら、国際社会の良識が決して容認しないだろう」と語りました。

🔷🔷対韓輸出規制拡大の閣議決定の撤回を求める=日本共産党志位委員長が談話

201983日赤旗

 安倍政権が2日、韓国を輸出管理の手続きを簡略化する優遇措置の対象国(「ホワイト国」)から除外する政令改正を閣議決定したことを受け、日本共産党の志位和夫委員長が発表した談話は次の通りです。

 一、安倍政権は、本日、輸出管理の手続き簡略化の優遇措置の対象国(「ホワイト国」)から韓国を除外する政令改正の閣議決定を行った。この決定は、「徴用工」問題という政治的紛争の解決の手段として貿易問題を使うという、政経分離の原則に反する道理のないものである。

 わが党の警告にもかかわらず、安倍政権が閣議決定を強行したことは、きわめて遺憾である。

 一、半導体の原材料などの輸出規制に続く今回の措置が、日韓関係に深刻かつ重大な悪影響を与えることが強く懸念される。

 わが党は、安倍政権に対し、政令改正の決定を撤回し、韓国政府との冷静な話し合いにより、事態の解決をはかることを、強く求める。

🔷🔷志位=対韓輸出規制拡大の閣議決定の見送りを、志位委員長が首相に緊急申し入れ

201981()

 貿易問題や「徴用工」問題などをめぐり日韓関係が悪化するなか、安倍政権が韓国むけ半導体の原材料などの輸出規制に続き、韓国を輸出管理の手続きを簡略化する優遇措置の対象国(「ホワイト国」)から除外する政令改正を8月2日にも閣議決定すると報じられたことを受け、日本共産党の志位和夫委員長は31日、安倍晋三首相に対し緊急の申し入れを行い、事態の外交的解決を要請しました。

 志位氏は同日、国会内で記者会見し、「日韓関係にきわめて深刻かつ重大な悪影響を与えることが強く懸念される」として閣議決定の見送りを求め、「現状を維持したうえで、韓国政府との話し合いの席につき、事態の外交的解決の努力を」と緊急に申し入れをした趣旨を説明しました。

 文書は、穀田恵二国対委員長が自民党の森山裕国対委員長に手渡しました。両者は「深刻な事態」との認識で一致し、森山氏は「ただちに安倍首相に伝える」と応じました。

 志位氏は会見で、安倍首相が7月7日のフジテレビの党首討論で「徴用工の問題で、国と国との約束(日韓請求権協定)を守れない国であれば(安全保障上の)貿易管理をちゃんと守れないだろうと思うのは当然だ」と述べ、「徴用工」問題の解決の手段として輸出規制を行ってきたことを指摘。「この時の党首討論でも述べたことだが、政治的な紛争の解決の手段として貿易問題を使うのは政経分離の原則に反する『禁じ手』だ」と厳しく批判しました。

 一方で、外務省が、輸出規制を「徴用工問題とは関係ない」「あくまで貿易管理の問題」と説明している点にふれ、「首相の説明と外務省の説明が違う。こうした政府の矛盾した態度は国際社会ではとうてい通用しない」と断じ、「政治上の紛争解決は外交的な話し合いで解決すべきだ」と強調しました。

 志位氏は、輸出規制により、すでに民間交流に影響が及び、日本の輸出企業にとっても打撃になっていると指摘。「ホワイト国」除外に措置を広げれば「両国間の国民レベルでの感情が悪化し、経済関係もいよいよ深刻になる。出口のない泥沼に落ち込み、関係悪化の悪循環を引き起こすことになる」と警鐘を鳴らし、冷静な外交的解決を重ねて求めました。

申し入れ全文

 一、日本と韓国の関係が悪化するなか、安倍政権が、韓国向け半導体の原材料などの輸出規制に続き、韓国を輸出管理の手続きを簡略化する優遇措置の対象国(「ホワイト国」)から除外する政令改正を8月2日にも閣議決定すると報じられている。この措置をとるならば、日韓関係にきわめて深刻かつ重大な悪影響を与えることが、強く懸念される。

 一、安倍首相は、韓国に対する輸出規制の理由について、「徴用工」問題にかかわって「国と国との約束を守らない」ことをあげた。しかし、政治上の紛争解決の手段として貿易問題を使うのは、政経分離の原則に反する「禁じ手」である。政治上の紛争の解決は、あくまでも外交的な話し合いによって解決すべきである。

 一、わが党は、緊急の対応として、安倍政権に対して、韓国を「ホワイト国」から除外する政令改正を見送り、現状を維持したうえで、韓国政府との話し合いの席に着き、事態の外交的解決の努力を行うことを要請する。

🔵日韓関係 打開の道は、話し合いで外交的解決をー日本共産党の提案と働きかけ

201983日赤旗

19.08.04赤旗日曜版

(写真)徴用工問題についての志位委員長の「見解」を報じた「赤旗」2018年11月2日付1面

 日本政府が輸出管理の手続き簡略化の優遇措置を受けられる対象国から韓国を除外する政令改定を閣議決定したことによって、日韓関係への深刻かつ重大な影響が懸念されています。日本共産党の志位和夫委員長は2日、安倍政権に対し閣議決定の撤回とともに、韓国政府との冷静な話し合いにより、事態の解決をはかることを強く求めました。この立場は、発端となった「徴用工」問題から日本共産党の一貫した立場です。

◆政経分離反する

 日韓の経済関係の悪化をもたらす今回の事態は、日本政府が7月4日に韓国を対象に半導体材料の輸出管理を強化する措置を発動したことで、大きな問題に発展。参院選最中に行われた民放番組の党首討論(7月7日)で安倍晋三首相は「徴用工の問題で、国と国との約束(1965年の日韓請求権協定)を守れない国であれば(安全保障上の)貿易管理をちゃんと守れないだろうと思うのは当然だ」と「徴用工」問題の解決の手段として輸出規制をあげました。

 これに対し日本共産党の志位和夫委員長は「政治的な紛争の解決に貿易問題を使うのは、政経分離の原理に反する『禁じ手』だ」と指摘。「政治上の紛争解決は外交的な話し合いで解決すべきだ」と批判しました。

 さらに、日本政府が対韓輸出規制拡大の閣議決定を行うとの報道に接し、志位氏は7月31日、安倍首相に対し、閣議決定を見送り、事態の外交的解決をはかるよう緊急に申し入れました。穀田恵二国対委員長(衆院議員)も同日、来日した韓国国会議員との会合で、「いま重要なことは、両国政府が誠実に話し合うことだ」と発言。議員レベルでも両国政府が対話をもつよう働きかけていくことが重要だと呼びかけました。

◆一致点を大事に

 今回の問題の背景にある「徴用工」問題でも、日本共産党は冷静な対話による解決を求めてきました。

 韓国の大法院(最高裁)が2018年10月30日、元徴用工の植民地支配下での強制労働に対する日本企業の賠償責任を認める判決を出したことを受けて志位氏は同年11月1日に記者会見し、「徴用工問題の公正な解決を求める――韓国の最高裁判決について」と題する見解を発表しました。

 見解は、日韓請求権協定で国と国との請求権が放棄されていたとしても、個人としての被害者の請求権は残っているということは、日韓両国の政府と最高裁が認めていると指摘。この一致点を大事にしてよく話し合って被害者の方々の名誉・尊厳を回復することで解決するよう提起しました。

 国会では穀田氏が同月、「徴用工」問題で質問に立ち、河野太郎外相は個人の請求権が消えていないと認めざるをえませんでした。

 昨年12月13、14両日に日韓議員連盟代表団が訪韓し、文在寅(ムン・ジェイン)韓国大統領と会談しましたが、志位氏も参加して党の見解を踏まえ発言。自民党の額賀福志郎議連会長も志位氏の発言を受け、「個人の請求権は残っている」と述べ、文大統領も「個人の請求権は消滅していないということは重要なことだ。この立場に立てば、円満な解決がはかられるのではないか」と応じました。

 日韓両国政府はこの一致点を大切にして、元徴用工・被害者の名誉と尊厳の回復にむけた前向きの解決が得られるよう冷静に話し合うべきです。

 韓国に対する輸出規制により、すでに民間交流に影響が及び、日本の輸出企業にも打撃になっていると報じられています。韓国を優遇対象国から除外することで両国間の国民レベルでの感情が悪化し、経済関係もいよいよ深刻になる関係悪化の悪循環を引き起こしてはなりません。現状を打開するためには、日本共産党が一貫して求めてきた冷静な外交的解決しかありません。

🔵韓国を優遇対象国除外、安倍外交 破綻の末の暴走

赤旗19.08.03

 政府は2日、安全保障上の輸出管理をめぐる優遇対象国(旧「ホワイト国」)から韓国を除外することを閣議決定しました。破綻した安倍外交が進路を見失った末の暴走行為であり、日韓関係に不毛な対立を生みだし、国益を大きく損ねるものです。

◆報復措置は明白

 問題の発端となったのは、経済産業省の突然の表明(71)です。「日韓間の信頼関係が著しく損なわれた」として「韓国との信頼関係の下で輸出管理に取り組むことが困難になった」と表明。半導体材料3品目を輸出規制する方針を示しました。これらは武器に転用されるおそれがあるとして、国際的な輸出管理の対象になっている品目です。

 世耕弘成経産相は翌日の記者会見で、元徴用工問題について「G20(首脳会議)までに満足する解決策が得られなかった」ため、「韓国との信頼関係が著しく損なわれた」と指摘。さらに安倍晋三首相は7月7日のフジテレビの党首討論で「徴用工の問題で、国と国との条約(日韓請求権協定)を守らない国であれば(安全保障上の)貿易管理をしているかどうかわからないと考えるのは当然だ」などと述べました。

 こうした経過から、政府の一連の対応は元徴用工問題での報復措置であることは明白です。政治的紛争の解決手段として貿易問題を使うという、政経分離の原則に反する道理のない対応です。

 菅義偉官房長官は2日の記者会見で、「あくまで韓国の輸出管理制度や運用の不十分な点があることを踏まえた措置だ」と強調しますが、具体的にどのような問題が韓国側にあったのか、政府はこれまで一度も具体的事実を示していません。

 そもそも、韓国に安全保障輸出管理上の疑義を訴えているのは日本だけです。国際的にもおよそ支持が得られない以上、何の説得力もありません。

◆稚拙な外交手法

 安倍政権が韓国への輸出規制強化に着手した7月1日に先立つ6月下旬には、G20大阪サミット(首脳会議)が開かれました。本来なら、7月の参院選に向けて外交面での成果をアピールするのが狙いでしたが、領土問題ではロシアのプーチン大統領に一蹴され、トランプ米大統領からは「日米安保条約は不公平だ」と言い放たれるなど、「安倍外交」は総破綻に陥りました。

 朝鮮半島の非核化をめぐる動きにも取り残される中、安倍政権に唯一残された外交カードが、「嫌韓」ムードをあおることでした。

 しかし、こうした強硬策は両国の感情的対立をあおるだけです。外交的手法としては稚拙といわざるをえないばかりか、隣国との不毛な対立をあおることで国内的な支持を獲得しようという動きはきわめて危険なものです。

 経産省は韓国の除外をめぐる意見公募(パブリックコメント)で、約4万件中95%が賛成、1%が反対だったとしており、これを除外決定の根拠の一つにしています。ただ、募集期間が24日間ときわめて短く、周知徹底も不十分でした。賛否があいまいな意見も少なくないとみられ、恣意(しい)的な分類がなされた可能性もあります。

 そうした中、経産省が公表した「代表的意見」には、「政治的な対立と経済を切り離してきた原則が揺らぐ」「今までは大丈夫だったのに、どうして急に規制を持ち出したのか」「反日感情を悪化させ、観光産業や地域経済への影響を懸念する」「選挙対策としか思えない」「日本の国際的な信頼を下げる」など、道理ある意見も数多くみられました。(竹下岳)

🔵「韓日種族主義」批判(赤旗20.12.28)

🔷🔷安倍の反韓政策と反韓世論の誘導 日刊ゲンダイ19.08.06

19.08.02赤旗

🔴【日韓交流文化関係=韓国ドラマ契機】

★★韓国民主化の流れのなかで=「冬のソナタ」を通じての日韓文化交流・金大中の文化産業育成58m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v115260077PgkE5rBz

◆◆友がいてこそ競いあえる 赤旗日曜版18.02.25

🔷🔷政治関係、険悪だけど日本からの訪韓客最多 3月、37.5万人 SNS通じ「第3次」の波 201962日朝日新聞

韓国のドラマ「トッケビ」の撮影地を訪れる観光客ら。日本人もたくさん来る場所だという=2018年1月、韓国・江陵、白井伸洋撮影

 日韓の外交関係が徴用工をめぐる問題などで「過去最悪」ともいわれる中、今年3月、日本から韓国を訪れた人が約37万5千人に達し、月別では1965年の国交正常化以来、最高を更新したことが韓国観光公社の調べでわかった。SNSを通して韓国のファッションや食文化に親しむ10~20代の女性たちが、政治の壁を越えて交流を支えている。

 1日、観光客でにぎわうソウル・明洞で、熊本県合志市の石川愛奈さん(23)と貴島小百合さん(23)がスーツケースを押しながらホテルを目指していた。道に迷うとスマホの地図アプリを道行く人に示し、身ぶり手ぶりで教えを求めた。

 「韓国に来るのは3回目だけど、親切な人ばかり。国同士難しい問題はあるのは知っていますが、全然気になりません」

 2泊3日の旅の目的は「服とコスメの購入」。お目当ての店はインスタグラムで調べてきたという。

 同じ明洞で「黒糖タピオカミルクティー」で有名なカフェで並んでいた愛知県の天野花香さん(20)は、両親を誘って1泊2日で来た。「韓国はインスタ映えするおいしいものがたくさんあって、学生のこづかいで買えるかわいい服があるイメージです」

 韓国観光公社によると、最近の日本からの観光客の主力はこうした10代、20代の女性という。公社のハ・サンソク日本チーム長は「政治に影響されない若い日本の女性が、新しい韓流ブームの影響を受け、韓日関係が梗塞(こうそく)状態にもかかわらず、こぞって韓国を訪れている」という。

 「新しい韓流ブーム」とは、2年ほど前から始まったとされる「第3次韓流ブーム」だ。原動力はNHK紅白歌合戦にも出場したTWICEなどのK―POPグループの人気だ。

 韓国・東国大大学院生で韓国の芸能事情にも詳しい成川彩さんは「第3次韓流ブームを支える10、20代の多くはSNSを通じて自分の趣味に合った情報だけを得ているため、政治の影響をほぼ受けていない」と話す。

 一方の韓国では数年前から日本旅行ブームが続き、昨年日本を訪れた人は史上最多の約750万人に達した。東京や大阪だけでなく温泉や自然の豊かな地方も人気を集め、日本各地の地方空港へ直行便が延びる。

 日韓関係に詳しい韓国人学者は「多くの韓国人にとって、日本政府への不満と、日本文化や個々の日本人への好印象が矛盾しなくなって久しい」と語る。

 ただ、両国政府は元徴用工訴訟などをめぐり対立が続く。元韓国政府高官は「日本政府が韓国人へのノービザ制度の見直しなどをすれば韓国側が同じ措置をとるのは必至で、交流は大打撃を受ける」と懸念する。(ソウル=武田肇)

🔵 人の命のために、彼は行動した 人をつなぐ夢は今も 新大久保駅、韓国人留学生事故死20年

2021年1月25日朝日新聞

 東京のJR新大久保駅で韓国人留学生の李秀賢(イスヒョン)さん(当時26)が線路に落ちた日本人を助けようとして死亡した事故から、26日で20年となる。李さんが語った「人をつなぐ」という夢は今も生き続けている。(大部俊哉、編集委員・牧野愛博)

 「日本語の勉強を頑張って、ワールドカップで通訳のボランティアがしたい。そして、いつか韓国や日本をつなぐ仕事に就きたい」

 李さんは英語の授業中、教員の田中展子さん(74)に目標を聞かれ、はにかみながら答えた。2000年夏。サッカー・ワールドカップ(W杯)日韓大会が2年後に迫っていた。

 李さんは韓国の高麗大学に在学中、地域研究の授業で日本に関心を持ち、留学先に選んだ。00年1月に赤門会日本語学校(東京都荒川区)に入学し、日本語と英語の授業を受けていた。机にはいつも、使い古してボロボロの日本語と英語の2冊の分厚い辞書を広げていた。初級クラスから入った日本語は、半年で上級にも手が届くほど上達した。

 田中さんは30年間勤めた同校を昨春に退職するまで19年間、命日の前後には李さんについて書かれた記事を教材にし、英語や日本語で語り合う時間を設けた。「国籍など考えず、ただ人の命のために行動した。一人でも多くの人に、彼の行動から何かを感じてもらえたらと思います」

 事故から1年後、両親と日本人有志からの寄付金を原資に、アジアから日本への留学生に奨学金を支給する「李秀賢顕彰奨学会」(現・NPO「LSHアジア奨学会」)が設立された。02年から20年までの奨学生は18カ国・地域から計998人にのぼり、今年には1千人に達する見込みだ。

 ■「勇気のおかげ」

 韓国から奨学生として同校に通う呉承勲(オスンフン)さん(24)は日本の漫画が好きで、デザインなどを学ぼうと応募した。「日本が好きだからここにいるし、話してみたら韓国人を悪く言う日本人にも会わなかった。それを知れたのも、李さんの勇気のおかげだと思います」と話す。日本のゲーム会社でデザイナーやイラストレーターとして働く夢に向かって、勉強に励んでいる。

 李さんの母、辛潤賛(シンユンチャン)さんは最近、夫と李さんが眠る釜山市の墓地に、李さんを紹介した日本の本を供えた。韓国でも初めて李さんを巡る日韓交流を伝える本が出版された。

 朝日新聞の電話取材に辛さんは、「20年は早かった。事故現場で一緒に泣いてくれた人、奨学金を寄付してくれた人、今でも便りをくれる人。大勢の日本の方々のお陰で気持ちが随分楽になった。感謝の気持ちしかない」と語った。

 ■日韓悪化、母「お互いを愛する気持ちを」

 事故から20年。日韓関係は悪化の一途をたどった。16年から17年にかけて駐日大使だった李俊揆(イジュンギュ)氏は「秀賢さんの殺身成仁(身を捨てて仁をなす行為)で生まれたお互いを思いやる心を育てられず、最悪の韓日関係を作り上げてしまった。合わせる顔がない」と語る。

 20年の間、日韓間に様々な摩擦が起きた。小泉純一郎首相による靖国神社参拝、李明博(イミョンバク)大統領の竹島上陸。最近では、元徴用工や元慰安婦が提訴した訴訟で韓国の裁判所が日本の企業や政府に賠償を命じる判決が大きな問題となり、両国関係は行き詰まっている。

 内閣府世論調査では、事故直後の01年度には「韓国に親しみを感じる」が50・3%だったが、19年度には26・7%に減った。「韓国に親しみを感じない」は45・5%から71・5%に増えた。一方、韓国のドラマやK―POPは日本で人気を集め、韓国に日本のアニメや漫画が流入して文化交流が進む現実もある。

 韓国のある駐日大使経験者は、「ほとんどの韓国人は日本が好き。不買運動も、政治家や市民団体があおったり、徴用工慰安婦など韓国人の感情を刺激する事件があったりすると、一時的に持ち上がるが、長続きはしない」と語る。

 辛さんは「秀賢が今の両国関係を見れば、胸が痛むだろう。秀賢がやったことは、我が国が、お前の国が、ということではない。お互いを愛する気持ちを持ってほしい」と語った。

🔷🔷日韓、対立越える強い絆 東京=新大久保駅の転落事故で日本人を救おうとした韓国人留学生 朝日新聞2019年6月1日

辛潤賛(シンユンチャン)さん

 5月24日夕刻の東京・市谷。ビルの6階に準備された会場で笑みをたたえて来場者を迎える女性がいた。JR新大久保駅で2001年、線路に落ちた人を助けようとして電車にはねられた韓国人留学生、李秀賢(イスヒョン)さん(当時26)の母、辛潤賛(シンユンチャン)さん(69)だ。

 来場者は、辛さんの夫、李盛大(イソンデ)さんの死を悼んだ。今年3月、病気のため79歳で亡くなった。会場正面の祭壇に飾られた生花の中に、穏やかな表情の遺影があった。

 事故後に寄せられた弔慰金は日本で学ぶアジアの留学生を支えている。毎年1月の李秀賢さんの命日と、10月の奨学金授与式には必ず、夫婦そろって来日してきた。辛さんは「口数の少ない夫でした。私がいつも代弁者だった」と語る。この日、出席した奨学会関係者は、02年から昨年まで897人に奨学金が送られたと報告した。

 16年の大みそか、夫婦が住む釜山の日本総領事館前に、慰安婦を象徴する少女像が設置された。李盛大さんは自宅でテレビのニュースを黙って見つめていた。辛さんが傍らで「解決方法がないものか。心が痛む」とつぶやくと、李盛大さんもうなずいたという。

 当時、ふたりが気遣った人物の一人が森本康敬釜山総領事(当時)だ。日韓関係が最悪といわれるなかでの今年3月、辛さんはそんな思いを堂々と韓国メディアに明かした。24日、会場を訪れた森本さんが辛さんの手を取ってお悔やみを伝えると、辛さんは耐えきれず涙をこぼした。

 逆に、最もつらいはずの辛さんが、李秀賢さんらを思いやって涙をこぼす来場者の女性の手を取り、笑顔で励ます場面もあった。

 辛さんは「こんなにたくさんの人に来ていただいてうれしい限りです」と語った。

 温かい心の通い合いを目の当たりにし、会場の日韓当局者も居住まいを正した。鈴木憲和外務政務官は「感謝の気持ちをもって頑張る」と語り、金敬翰(キムギョンハン)駐日韓国公使も「こんなに強い絆で結ばれた人々の思いを考えれば、日韓関係が悪くなるはずがない」と述べた。ただ、現実は厳しい。

 奨学会を手伝ってきた谷野作太郎元内閣外政審議室長は「(李盛大さんや李秀賢さんらの)何をやっているんだという叱責(しっせき)の声が聞こえてきそうだ」と語った。(編集委員・牧野愛博)

🔵Wiki=新大久保駅乗客転落事故

   新大久保駅乗客転落事故(しんおおくぼえきじょうきゃくてんらくじこ)は、2001年(平成13年)126日(金曜日)の1914分頃に東日本旅客鉄道(JR東日本)山手線新大久保駅で発生した鉄道人身障害事故である。

(駅に設置された日本語韓国語プレート)

◆事故概要

山手線新大久保駅で泥酔した男性がプラットホームから線路に転落。その男性を救助しようとして線路に飛び降りた日本人のカメラマンと韓国人留学生が、折から進入してきた電車にはねられ、3人とも死亡した。

人命救助のために自らの命を投げ出したこの件は、美談として日韓両国で大きく報道されるとともに、事故の犠牲者を追悼・顕彰するプレートが新大久保駅のホームと改札の間の階段に設置された。このプレートには日本語と韓国語で事故の経緯等が記されている。

その後、救出を試みた2人の遺族には当時の森喜朗内閣総理大臣より書状が贈られ、警察庁からは警察協力章が授与された。

しかしカメラマンと暮らしていた母親は国や市からの表彰について、近所の知人に対して「本当はそっとしておいてほしい、美談であっても息子が死んだ事には変わりがない」と嘆き、事故から数年後に孤独死した。

事故の翌年、明仁天皇は死亡した韓国人留学生の両親を招待して慰労した。留学生の父親は後に奨学金財団を設立し、アジア出身の学生を援助した。2015年には日本政府から旭日双光章が贈られた。父親が2019年に死去した際、河野太郎外務大臣は弔意を表し、親子の遺志を受け継ぐよう努力すると述べた。

最初に転落した男性が駅構内の売店で購入した酒を飲んでいたことが判明し、JR東日本は通勤圏の一部駅構内での酒類の販売を一時取り止めた。

◆その後の対策

この事故を受けて国土交通省は、列車の速度が速く、かつ本数の多い駅について「駅ホーム上に列車非常停止ボタンを設置、または転落検知マットを整備する」「プラットホーム床下に退避スペースを確保する」2点の対策を取るよう全国の鉄道事業者に指導した。その結果、2006年度末まで列車非常停止ボタンが全国の約1700駅に設置された。

新大久保駅では事故のあった年に、転落者が逃げ込めるようホーム下に避難スペースを設ける工事が行われた。

さらに2013年には新大久保駅にホームドアが設置された。

◆この事故を題材とした作品

『あなたを忘れない』(あなたをわすれない)は「日韓友情年2005の記念事業」として作成された日韓合作映画[1]。新大久保駅乗客転落事故を題材にしたフィクション映画であり、公開は事故から6年と1日後の2007127日。韓国では20081030日に公開。

🔷🔷小平奈緒と李相花 お上の演出でない友情物語 稲垣康介

201831日朝日新聞

 メモを見て原稿を打ちながら、不覚にも涙ぐむ自分に驚いた。日本人記者に見られたら恥ずかしい。周囲を見回す。大丈夫。皆、視線はパソコンに釘付けだ。原稿はすぐに仕上がった。この物語を早く伝えたい。その気持ちが後押ししたのだと思う。

 平昌冬季五輪のスピードスケート女子500メートルで、小平奈緒の金メダルに立ち会う幸運に恵まれた。そのときの話だ。

 レース後、3連覇を逃した李相花(イサンファ)(韓国)の瞳から涙があふれ出た。「イ・サンファ」コールが観客席からわき起こる。李は太極旗を持ち、リンクを回り始めた。

「チャレッソ」ねぎらう小平奈緒

 待っていた小平に李は抱きかかえられた。耳元でささやかれると、小平にしがみついた。心から信頼する人間にしか、あんな風に身をゆだねたりはしない。最強のライバルの絆の深さ。私は知らなかった。

 例えば、テニスでも試合後、ネット越しに健闘をたたえあい、握手をする習慣がある。視線も合わせない選手もいれば、心から勝者を祝福できるトッププロもいる。負けたときこそ、選手の品格がにじみ出る。

 小平と李の友情物語は、2人が並んで座った記者会見で明かされた。

 「チャレッソ」。小平は韓国語で「よく頑張ったね」とねぎらい、さらにこう言ったという。「プレッシャーの中でよくやったね。まだリスペクトしているよ」

         ◇

 3年余り前、小平はソウルで開かれたワールドカップで初優勝した。レース後、すぐに留学先のオランダ行きの飛行機に乗らなければならなかった小平を李が気遣った。「空港までのタクシーを呼んでくれて、お金も出してくれて。悔しいはずなのに。すごくうれしかった。人としても、選手としても尊敬できる友達です」

 李は小平が韓国に遊びに来た話を紹介。「ライバルであることをポジティブに考えている」「私が日本に行くと彼女が面倒をみてくれて、日本食も送ってくれます」

 スポーツ記者という職業柄、感動の瞬間によく立ち会う。記者人生26年。かなり「免疫」はあると自負していたのだが、グッと来た。原稿はこう締めくくった。

 〈その場に居合わせた人が優しい気持ちになれる記者会見だった〉

 平昌五輪は開幕前、韓国の大統領府が主導したアイスホッケー女子の南北合同チームが騒がれた。「南北融和」を演出する急ごしらえの決定は、本来、国際オリンピック委員会(IOC)が忌み嫌う政治によるスポーツへの介入そのものだった。

 なのに、バッハIOC会長は南北の関係者と貴賓席で観戦し、ご満悦だった。スポーツが分断国家の「平和の懸け橋」になれるとアピールできて誇らしかったのか。アイスホッケー女子の金メダリスト、ルギエロIOC委員(米)は、南北合同チームが「ノーベル平和賞を受賞してほしい」と話した。いかにも軽い。お上に無理やり押しつけられた選手たちに真の友情が芽生えるとは思えない。五輪が終われば、彼女らは一生会わない可能性が大きいのだ。

         ◇

 日韓の話で言うと、2012年ロンドン五輪のサッカー男子3位決定戦、日本対韓国の取材を思い出す。試合当日、当時の韓国の李明博(イミョンバク)大統領が島根県の竹島(韓国名・独島)に上陸した。試合後、勝った韓国選手の一人が「独島は我々の領土」と書かれた紙を掲げた。すごく嫌な気分になった。平昌でも応援団のコリアの「統一旗」に竹島が描かれていることが話題になった。だから、政治とは無縁で、小平と李が長年育んできた絆はすがすがしかった。

 国家間の確執を超えた友情で、私は08年北京五輪の逸話に記事で触れてきた。開会式の当日に軍事衝突したロシアとジョージアの選手が、射撃で銀と銅メダルを手にした。ふたりは表彰台で抱き合った。

 「なにごとも私たちの友情を壊せない」

 良い光景だった。でも、もうこの美談に頼らなくていい。現地で取材した小平奈緒と李相花という、極上のネタがある。

 20年東京五輪には200を超す国と地域からアスリートが集うだろう。平昌の2人のように互いを認め合い、高め合うライバルたちの国際交流は、きっとある。

◆◆(0218 韓国への視線は:上)嫌韓、共催W杯が刺激した スポーツ熱狂の影、平昌は?

朝日新聞18.01.16

(江陵市内の歩道橋では、各国の国旗が掲げられ、日本と韓国の国旗が隣同士ではためいていた=15日、韓国)

 草の根チームでサッカーを楽しむ名古屋市の宮沢弘さん(52)は、その光景をはっきり覚えている。

 〈2002年5~6月、日本と韓国がサッカーワールドカップ(W杯)を共催〉

 韓国で1次リーグを見て回った。埼玉スタジアムであった日本―ベルギーを映す大田(テジョン)駅前のパブリックビューイングは、日本のチャンスにブーイングが起きた。「『敵だ。負けちまえ』の雰囲気で、共催ウェルカムモードの報道とは全く違っていた」

 決勝トーナメントでは、韓国の李天秀(イチョンス)がイタリアのマルディーニの頭を蹴るラフプレーが許せなかった。日本がベスト16だったのに対し、韓国はベスト4。誤審騒動もあった。「あんな勝ち方は日本人からすると、うれしくない。韓国の選手もファンも、俺たちとは違う」

 韓国の印象が悪くなった。ツイッターで、竹島問題などで韓国を批判する他の人の発言を拡散させた。

◆社会の一部に広がる「嫌韓」

 昨年9月、米国と韓国にルーツがあるモデルが出演したCMがネット上に流れると「反日タレントを使うのをやめろ」と、ツイッターで反発する声が相次いだ。差別的な文脈で「在日」という言葉が繰り返し使われた。

 タレント、ケント・ギルバート氏の「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」(講談社+α新書)は47万部を超え、昨年最も売れた新書ノンフィクションとなった。「自尊心を保つためには、平気で嘘(うそ)をつくのが韓国人」などの記述が並ぶ。

 1998年の小渕恵三首相と金大中(キムデジュン)大統領による日韓共同宣言の流れの中で開かれた02年W杯だったが、こうした「嫌韓派」が増えるきっかけになったという見方がある。

    *

 〈05年、「マンガ嫌韓流」がベストセラーに〉

 「マンガ嫌韓流」の著者、山野車輪氏は言う。「W杯で生まれた嫌韓は、『親韓』を演出しようとしたマスコミ不信でもある。慰安婦問題などで既に嫌韓だった自分と、人々の気持ちを代弁する両方の思いから書いた」

 一方で、03年にNHKのBSで放送された「冬のソナタ」など韓国ドラマが人気を博した。

 「ネットと愛国」などの著書があるジャーナリストの安田浩一氏は「W杯から韓流ブームの時期に韓国を『発見』した人が多かったのでは」とみる。「こうした人々にはそれまで韓国は遅れた小国に過ぎなかった。それが、その力や高度に発展した社会を見せつけられ、一部の日本人には脅威に映った」

    *

 〈13年7月、サッカー東アジア杯日韓戦で、日本のサポーターが旭日旗(きょくじつき)を掲げたとして、韓国側が「歴史を忘れる民族に未来はない」との横断幕を広げた〉

 昨年もサッカーのアジア・チャンピオンズリーグで、旭日旗をめぐって日韓のサポーターがつかみ合いになる騒動が起きた。

 今年2月、平昌(ピョンチャン)冬季五輪が開幕する。慰安婦問題の日韓合意について韓国側が新たな方針を示し、安倍晋三首相の開会式への出席が政治案件になっている。ネットでの言説に詳しい評論家の古谷経衡(つねひら)氏は「運営面やメダル争いにからんで『嫌韓派』にネタを与える『絶好の機会』になるだろう」とみる。

 親韓と嫌韓の溝は広がる一方なのか。

 W杯を観戦して韓国のイメージが悪くなった宮沢さんは数年前、「ネットの嫌韓派も反論する側も言葉が汚く、イメージだけで言っているように感じた。『キムチを見るのも嫌』とまでなることに疲れた」とツイッターのアカウントを閉じた。「近いからこそ、嫌いになるのも一度は通る道では。期待を込めて、仲良くなれることを祈っている」

    ◇

 韓国への親しみと反感という二つの視線。平昌五輪はスポーツのメガイベントを通じて日本が韓国を見つめる、W杯日韓大会以来の機会となる。02年を起点として、日本から韓国への視線を探った。

◆「親しみ感じる」37%

 内閣府の世論調査によると、韓国に「親しみを感じる」という人は、日韓共催のサッカーW杯があった2002年は54.2%で、前年から3.9ポイント上昇した。その後、増減しながら11年は62.2%に。しかし、李明博(イミョンバク)大統領(当時)が竹島に上陸した12年に39.2%に急落。その後は30~40%台で推移し、昨年は37.5%だった。

 日本人の韓国への入国者数は、韓国観光公社のデータによると、00年は約247万人だったが、12年は約352万人まで増加。しかし、翌13年から減り、15年は約184万人に。16年は約230万人だった。

◆◆(0218 韓国への視線は:中)韓流、ブーム去って「定着」

2018117日朝日新聞

昨年末のNHK紅白歌合戦でTTポーズを披露するTWICEのメンバー=東京・渋谷のNHKホール、林敏行撮影

 「平昌(ピョンチャン)で待ってます。ぜひ来て下さい」

 1月上旬、韓国の俳優チャン・グンソクさんが日本のテレビ番組で流暢(りゅうちょう)な日本語で呼びかけた。「グンちゃん」の愛称で知られ、日本でも人気が高いチャンさんは昨年12月、平昌五輪・パラリンピックの広報大使に就任。地元は、日本の「韓流」ファンが観戦に訪れることに期待を寄せる。

 昨年末のNHK紅白歌合戦に、9人組の韓国の女性グループ「TWICE」が出場した。Kポップ歌手の紅白出場は6年ぶり。ネット経由で10~20代の女性を中心に人気に火がついた。

 ミュージックビデオの再生回数は1億超。両手の親指と人さし指で泣いている顔文字をまねする「TTポーズ」やファッションが注目を集め、女性誌でも特集記事が繰り返し組まれた。韓国以外に、日本出身3人、台湾出身のメンバーもいる。

 Kポップに詳しいライターの松谷創一郎さんは「韓国の音楽だから聴いている、という感覚は若者には希薄。単純に『かっこいい』や『かわいい』の象徴になってきた」と指摘する。

     *

 〈2003年、NHKのBSがドラマ「冬のソナタ」を放送〉

 02年日韓サッカーワールドカップの翌年、空前の韓流ブームが起きた。「冬ソナ」以来、日本では「韓流」の映画やドラマが相次いで公開・放送された。Eテレ「ハングル講座」のテキストは、教育テレビ時代の04年に月約11万部だったのが、05年は約22万部へと急増。11年には「東方神起」「KARA」「少女時代」が紅白に出場した。

 だが歴史問題で日韓関係が冷え込んだあたりからブームはしぼむ。

     *

 〈12年、李明博(イミョンバク)大統領(当時)が竹島に上陸〉

 「ハングル講座」のテキストも、その頃から「なだらかに減少傾向」(NHK出版の担当者)で、昨年は約15万部だった。

 松谷さんは、韓国文化の人気がなくなったというより「定着した」とみる。「若い人にとってのKポップは上の世代にとっての洋楽のようなものになった」と話す。

 ただ、歴史認識をめぐる問題が影を落とす。

 都内の保険会社に勤める女性(24)は友人と平昌五輪を見に行く予定だ。「冬ソナ」をきっかけに、小学5年以来、自他ともに認める韓流ファン。昨年だけでも韓国を8回訪れた。

 とはいえ、日韓関係については「傍観者でいたい」と語る。

 好きな俳優や歌手についてSNS経由で韓国語の情報を集めるが、自分からは発信しないという。「『韓国文化が好き』と言うと、ネットで絡まれるので」

 学生時代の日本人の交際相手が、ネット上での韓国への明らかなデマや誹謗(ひぼう)中傷を読み、「韓国ってやばいな」と漏らしたのがショックだった。自身も、歴史認識をめぐって日本を批判する韓国語のツイートを読むと「『うざい』と思ってしまう」と話す。

 金成ミン(キムソンミン)・北海道大准教授(メディア・大衆文化論)は、日本の韓国への視線の特徴は「日本と比較したうえで、好きか嫌いという感情にこだわる」と指摘する。「『冬ソナ』なら日本のドラマにない純愛。Kポップなら、日本のアイドルにない歌唱力、ダンス。あくまで日本と対照させて語ってきた」。ただ「グローバルに流行しているものにあこがれ、そのスタイルがたまたま韓国発だった、という10~20代の感覚は今までにない。韓国を好きか嫌いかでしか考えない状況は変わっていくかもしれない」。

 平昌五輪で、何らかの理由で不満や批判の応酬がネットを中心に起こりうる、とみるが「良きにせよ、あしきにせよ、改めて韓国を発見して驚くようなことはない。互いによく知る『隣国』になったということだ」と話す。

◆日韓の友好関係の壁に従軍慰安婦問題や徴用工問題などの歴史問題がある。以下の池上彰のレボートや以下の当ブログのページ参照のこと

当ブログ=朝鮮人・中国人強制連行問題=映画『軍艦島』と徴用工問題、産業革命世界遺産、強制連行慰霊碑、花岡事件

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/5627463.html

当ブログ=従軍慰安婦問題

http://livedoor.blogcms.jp/lite/blog/kouichi31717/article/edit?id=2998350

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/10900186.html

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/13576372.html 

◆◆連載(池上彰が歩く韓国 to平昌)少女と徴用工、像からのぞく変化

 来年に韓国で開かれる平昌(ピョンチャン)冬季五輪・パラリンピックに向け、ジャーナリストの池上彰さんが韓国を取材するシリーズ。第4回は、開幕まで5カ月を切って大会に関心が向き始めた今、日本の人々にとって気がかりな活動の現場をソウルに訪ね、取材した。

 どうもモヤモヤする。ソウルの日本大使館前に少女像([1])が設置され、今度は徴用工像([2])まで。慰安婦と呼ばれる女性たちがいたことは事実だし、徴用工の存在もあった。日本人として申し訳ない思いがある。

 その一方で、日本は謝罪してきたし、相応の解決金も出してきた。ところが、それで終わらない。来年の平昌五輪に、日本から気持ちよく応援に行くには、この問題を何とかしたい。現地を見ることにした。

 ここで慰安婦問題を巡る日韓合意について確認しておこう。2015年12月、ソウルで行われた日韓外相会談で合意したもので、日本政府は、こう表明した。

 「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦としてあまたの苦痛を経験され、心身にわたり、癒やしがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する」

 その上で韓国政府が設立する財団に10億円を拠出。「今回の発表により、この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」と明記した。これを受けて韓国政府は、日本大使館前の少女像について「適切に解決されるよう努力する」と述べている。

 それなのに……である。

 まずはソウルの日本大使館前で少女像を「守っている」団体のメンバーに話を聞いた。「少女像籠城(ろうじょう)大学生共同行動」の朴志蓮(パクチヨン)さんだ。

 日本大使館が入るビルは韓国の警察が警備している。ビル近くの歩道に少女像が設置され、少女像の横にはビニールテントがあって、寝泊まりできる。大学生だが、休学して2年になるという。

 いつまでやるつもり?

 「韓日合意を廃棄するまでです」

 なぜこんなことを?

 「(慰安婦問題は)歴史の中の話だと思っていました。でも、(元慰安婦の)おばあさんの話を聞いて、今も進行していることだと知ったからです」

 大使館の前に少女像を置くことはウィーン条約([3])に違反していると日本は指摘する。条約では大使館の受け入れ国には「威厳の侵害を防止するためすべての適当な措置をとる特別の責務を有する」となっている。どう思う?

 「民間人が私費を投じてつくったもので、威嚇するものではありません」

 日韓合意で、慰安婦問題は解決済みと合意したことについてはどう思う?

 「おばあさんたちはそれに対して、とても反発しました。公式謝罪や法的賠償については何の言葉もなく、しかも賠償ではなく、補償金、寄付金の状態でお金をもらうという、怒るしかない状況でした」

 そのお金を受け取ったおばあさんたちもいるが。

 「おばあさんたちも多様です。名誉と人権を回復しようという考えの人もいましたが、疲れ果てた人もいます。高齢ですし、『自分は終わりにする』という人もいるわけです」

 安倍総理が謝罪している。あれでは不十分?

 「真摯(しんし)さをみせようとするなら、直接おばあさんたちを訪ねるべきです」

 国民の選挙で選ばれた政府同士の約束は、それぞれの国民に不満があっても守るのが民主主義では?

 「大統領が国民を無視して結んだことです。私たちが朴槿恵(パククネ)大統領([4])を引きずり下ろした大きな理由の一つがこの問題だと思います」

 あなたは日本が嫌い?

 「いいえ、好きです。漫画も好きですし、ハハハハハ。すしも好きですし。隣の国ですし。外国に行けば、顔が似ているじゃないですか。日本人に会えば、懐かしくなります。歴史的な事実について解決すれば、もっと良い関係になるのではないかと思います」

 見るからに普通の女子学生だった。私の質問に時折目を泳がせる場面もあって、過去の日韓の交渉経緯について詳しくない様子も見受けられたが、元慰安婦の「おばあさん」への純粋な思いが原動力になっているようだった。

          

 一方、徴用工像を建設する動きはなぜなのか。

 韓国労働組合総連盟対外協力本部局長のチョ善児(チョソナ)さんに聞いた。

 「慰安婦問題は国民全体が力を結集していますが、強制徴用の問題は今の時代に生きている労働者たちが掘り起こしていく必要があると考えました」

 日本で戸惑いが広がり、平昌五輪で韓国に行きたくないよね、という声もちらほら聞かれるが?

 「労働団体である私たちの場合、強制動員で日本の工事現場や工場で犠牲になったり、生き抜いてきたりした人々を改めて記憶することが重要だと考えるわけです。私たち自身が忘れてはだめだという趣旨でこの事業を始めました」

 日韓請求権協定([5])で解決済みと日本政府は言っているが?

 「私たちは清算がされていないと思っています。実際にあったことをまた起こさないために、未来を模索するための合意が必要です。正常な状態なら、加害者が被害者に『申し訳なかった』と言い、被害者が加害者に『許します』と言います。それを基盤にして、これから平和に過ごそうという約束をします。それが正常な解決だと思います」

 国と国が約束したら、それは守らなければならないのでは?

 「一般的にはその通りですが、『慰安婦問題は事実ではない、それらの人々は自発的に来た』などという人が日本の政界に出て来なければ、状況はここまでにならなかったでしょう」

 日本政府が謝罪しても、日本国内で「そんな事実はなかった」と言い出す人がいると、韓国側が硬化する。その繰り返しだということだろう。

 すでに徴用工像が立てられているソウル市内の竜山(ヨンサン)駅前。高齢の女性が像を熱心に見ていたので声をかけた。71歳だった。

 「おじいさんやおばあさんが苦労した話を知っています。日帝時代([6])35年の苦労を知っています。今があるのは祖先のおかげです」

 日本をどう思う?

 「とても親切で、礼儀もあり、良い印象です。また(日帝時代に)汽車もつくり、韓国を発展させました。いい部分もありますし、感謝もしていますが、最後に正しく締めてくれればいい」

 驚いた。日本が朝鮮半島を統治していた時代、「日本はいいこともした」と日本の政治家が発言して大騒動になったことがあるが、まさか韓国の人から同じような発言が出るとは。でも、これも現代の韓国の一断面なのだろう。

 韓国の労働組合の方針について、私の韓国滞在中の9月中旬、韓国の新聞2紙が同時に社説で批判を掲載した。「『韓国は外国公館の安寧と品位を守ってくれない国』という世界の見方が、韓国にとって何の得になるのか疑問だ」(朝鮮日報)「日本は緊密な安保的協力関係を強めるべき、地理的に最も近い隣国だ」「感情的に葛藤を深めることは自制しなければいけない」(中央日報)

 少女像を守る女子学生が「日本は好き」とあっけらかんと発言し、新聞が自制を呼びかける。平昌五輪を控える韓国社会に、明らかに変化が見える。モヤモヤは消えないが、少し晴れた気もする。

     *

 [1]少女像 2011年、ソウルの日本大使館前で毎週行われてきた旧日本軍の元慰安婦らの抗議集会が1千回を迎えたのを記念に、慰安婦問題を象徴するものとして、日本大使館前に設置された。昨年12月には、釜山の日本総領事館にも設置された。このほか、今年夏にも韓国国内約10カ所で新たに除幕された。

 [2]徴用工像 韓国の労働団体が主導する市民団体が今年8月、植民地時代に朝鮮半島から労務動員された徴用工の像をソウルに設置したほか、日本の軍需工場が多数存在した仁川でも徴用工父娘像の除幕式を開いた。9月には、釜山の日本総領事館前にも来年設置すると発表した。日本は戦時中、労働力不足を補うため、約70万人を朝鮮半島から動員したとされる。日本政府は1965年の日韓国交正常化にあたり、植民地支配下での徴用や徴兵などの個人補償は韓国側に任せ、経済協力の形で清算に代えた。韓国政府も、徴用工問題は「解決済み」の立場をとっていた。

 [3]ウィーン条約 1961年に採択された外交関係に関する条約で、各国大使や外交官の身分保障や職能などが定められている。日本大使館前の少女像については、日本政府は条約で規定する「公館の威厳の侵害」に関わるとして、移転を要求してきた。

 [4]朴槿恵大統領 1979年に暗殺されるまで18年間の独裁政治を続けた朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の長女で、2012年に大統領に当選した。しかし、職権を乱用したり企業に圧力をかけたりして友人のチェ・スンシル氏の国政介入を可能にした問題で弾劾(だんがい)訴追され、憲法裁判所から今年3月に罷免(ひめん)された。

 [5]日韓請求権協定 1965年6月、日本と韓国の国交樹立のため、日韓基本条約とともに調印された。この協定で、日本は韓国に無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力を約束。日本側は賠償問題は「法的には済み」の立場をとっている。一方、韓国政府は2005年から、日本軍慰安婦、原爆被害者、サハリン残留韓国人は協定対象外と主張。12年には韓国の司法が、「日本が植民地支配していた時代に徴用され、強制的に労働につかされた韓国人の元労働者らが、徴用先の日本企業に損害賠償などを請求する権利はまだある」と認めた。

 [6]日帝時代 日本が武力や外交によってアジア・太平洋地域に進出し、占領した時代の中で、現在の韓国と北朝鮮を日韓併合条約によって併合した1910年から終戦の45年までの35年を、韓国でこう呼ぶ。

◆◆「未来志向」日韓葛藤20年 共同宣言、生かされぬ精神

朝日新聞18.10.07

 日本と韓国は8日、1998年の小渕恵三首相と金大中(キムデジュン)大統領による「日韓パートナーシップ宣言」から20年を迎える。両国は節目を利用して関係を強化する戦略も描いていたが、自衛艦旗(旭日〈きょくじつ〉旗)をめぐる葛藤が起きた。宣言の未来志向の精神が生かされなかったのは、なぜなのか。

 「2人の決断を再確認し、日韓(関係)をしっかり前向きに進めていきたい」。河野太郎外相は5日昼に行った記者会見で、宣言についてこう語った。

 ソウルで1日に開かれた記念式典では、韓国の李洛淵(イナギョン)首相が「金大中氏のバランス感覚と、小渕氏の配慮が最強の両国関係をつくった」と振り返った。

 98年10月の金氏の訪日にあわせて出された宣言は、小渕氏が韓国国民に植民地支配のおわびを初めて表明。金氏は当時の韓国の常識を破り、日本の戦後の歩みを高く評価した。歴史認識問題に区切りをつけ未来志向の関係に転換する契機となる合意と評価された。 河野氏が宣言を評価した直後、状況が暗転したことが、日韓の20年間を象徴しているようだった。岩屋毅防衛相が5日夕、自衛艦旗の掲揚をめぐる摩擦を受け韓国で行われる国際観艦式への不参加を表明した。

 文在寅(ムンジェイン)政権の外交アドバイザー、梁起豪・聖公会大教授(日本政治)によると、旭日旗は2000年代後半から、サッカーの国際試合で日本側サポーターが使ったことで、国民感情を刺激する存在になった。日本側からも、政治家らが韓国の世論を刺激するような言動を行い、関係が悪化する悪循環を繰り返してきた。

 17年に韓国を訪れた日本人は231万人、日本を訪れた韓国人は714万人に上った。20年前と比べると、それぞれ約1・2倍と約10倍だ。安倍晋三首相は文氏が就任してから1年半の間に、5回の首脳会談と12回の電話協議を行った。

 人々の交流や政治面での対話は確実に増えているが、なぜ宣言の精神は生かされないのか。

 一つは世論だ。韓国が提案する15年の日韓慰安婦合意に基づく財団の「処理」や、元徴用工の訴訟問題は、日本にとっては国家間の合意を根底から揺るがしかねない問題だ。ある日本政府関係者は「妥協的な姿勢を見せてはならないという意識が働く」と語る。

 ただ、両国が共通の利益を見いだしている課題もある。北朝鮮問題だ。日本政府には歴史認識問題は事を大きくせずに「管理」し、北朝鮮問題で韓国と向き合うべきだという考え方がある。日本政府関係者は「現状維持が一番いい。下手に慰安婦問題などに触れれば連携にひびが入りかねない」と語る。韓国外交省幹部も「日本との関係が重要なのは、朝鮮半島の非核化や南北関係発展という目標の達成のため。関係改善が目的ではない」と話す。

 西野純也・慶応大教授(韓国政治)は「是々非々で関係を築いていくしかない。東アジアの秩序が変化するなか、韓国との協力強化は優先して進めるべきだ」と語る。(武田肇=ソウル、鬼原民幸、藤原慎一)

◆日韓関係のあゆみ

 <1998年> 金大中大統領が訪日し、小渕恵三首相と日韓パートナーシップ宣言を発表

 <2002年> サッカーW杯を日韓が共催

 <04年> 韓国ドラマ「冬のソナタ」がNHK地上波で放送される。韓流ブーム

 <05年> 島根県議会が「竹島の日」制定

 <12年> 李明博大統領が竹島に上陸。日韓関係悪化

 <15年> 慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」うたう日韓合意

 <18年> 日韓パートナーシップ宣言20年 

◆◆(朝日新聞社説)日韓共同宣言20年 後世に恥じぬ関係構築を

朝日新聞18.10.08

 女性たちがグループでのデビューを目指して歌や踊りを競う韓国の人気テレビ番組「プロデュース48」が先日、最終回を迎えた。

 彼女たちの命運を決めるのは「国民プロデューサー」という名の視聴者による投票。100人近くから勝ち残った12人の中には、HKT48の宮脇咲良さんら日本人3人も含まれた。

 いまや世界を席巻する韓流だが、スター選びは、とうの昔に国籍の枠を超えている。

 韓国は長く日本の大衆文化に固く門戸を閉ざしてきた。だが「文化侵略される」といった国内の反発を押し切り、開放にかじを切ったのは、20年前のきょう出た日韓共同宣言だった。

 「21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ」の副題を冠した宣言は、当時の小渕恵三首相と金大中(キムデジュン)大統領が署名した。

 過去の植民地支配の痛切な反省と心からの謝罪を表明した小渕氏。それを受けとめ、未来志向の関係発展に向けた互いの努力を呼びかけた金大中氏。

 それは1965年の国交正常化以降初めて、政治が主導した関係改善の試みだった。安保、経済、環境など各分野で双方が取り組む行動を細かく定め、今日の日韓関係の土台を築いた。

◆交流を妨げる政治

 宣言後、最も大きく変化したのは人の流れだ。

 今年、両国を行き来した人の数はついに1千万人を超えると予想される。国交正常化の年の往来者数は約1万人。半世紀余りで千倍になった。

 だが、宣言が乗り越えようとした「不幸な過去」はくすぶり続ける。活発な交流も幾度となく政治に翻弄(ほんろう)されてきた。

 6年前に当時の李明博大統領が、韓国で植民地支配の象徴とされる竹島を訪れると、途端に日本からの旅行者は減った。

 インターネットやSNSの発達は多くの交流を生むと同時に情報の独り歩きや炎上も招く。

 市民同士のつながりを支えてきた文化面では最近、ショッキングな出来事があった。

 秋元康さんの作詞で韓国の男性グループ、BTS(防弾少年団)が出そうとした新曲の発売が急きょ中止に。秋元さんを「右翼的だ」といった批判がSNSで展開されたためだ。

 Kポップに詳しいジャーナリストの古家正亨さんは「文化に政治やナショナリズムを持ち込もうとする新たな動きが、日韓双方に出始めている。とても心配だ」と語る。

 負の流れを断つために政治は機能しているのか。むしろ、双方の政治家の言動は問題の発信源となっていないか。

 日韓両政府とも関係改善への強い意欲が示されない現状は、なんとも危うい。

◆過去直視と未来志向

 例えば3年前に政府間で合意した慰安婦問題がそうだ。

 合意に基づき、日本政府の資金をもとに韓国政府が作った、元慰安婦らの支援にあたる財団は今、存続の危機にある。

 韓国政府は合意の破棄を否定しつつも、前政権の失政だとして事実上の形骸化を図り、責任を果たそうとしない。日本政府も問題は「解決済み」の一点張りで、その硬直した姿勢が韓国側を刺激するという悪循環。

 共同宣言の核心である「過去の直視」を日本が怠り、韓国が「未来志向の関係」を渇望しないのならば、いつまでたっても接点は見つからない。

 日韓はさらに、核保有国を自任する北朝鮮とどう向き合うかという懸案にも直面している。

 非核化という最終目標は共有している。だが、それをどう達成するかという考えは、日韓で大きく隔たる。早急に認識を詰める必要がある。

 日韓関係を長年研究してきた小此木政夫・慶応大名誉教授は中国の台頭や日韓の国力の差の接近などを挙げ、「この20年で両国をとりまくシステムが大きく変化した。地域の安定のためにも互いに不可欠なパートナーだと認識する必要性が、むしろ強まってきた」と指摘する。

 だが現状はと言うと、首脳同士の定期往来であるシャトル外交に合意しながらも、軌道に乗る兆しが見えない。

◆大局見据えた決断

 シャトル外交の復活がそれほど難しいのであれば、共同宣言後に韓国の国務総理(首相)と日本の首相らが、格式張らない往来を重ねた閣僚懇談会からでも再開すべきではないか。

 現在の韓国の首相は、日本通で言葉も堪能な李洛淵(イナギョン)氏。政治の対話チャンネルを機能させるため、双方があらゆる工夫をこらさねばならない。

 後世に責任を持つ政治指導者として、大局を見据え、隣国との信を交わす。地域のリーダー国である日韓はどんな関係を築くべきなのか。国際社会で両国が担うべき役割は何か――。

 20年前、日韓の首脳が自ら決断し、ともに歩み寄り、新時代を切り開こうとした意味は大きい。宣言の精神は少しも色あせてはいない。

◆◆書評・池内敏「日本人の朝鮮観はいかにして形成されたか」

赤旗18.04.07

◆◆「冬ソナ」続編でブーム再燃? 脚本執筆中「長く愛され幸せ」

朝日新聞17.01.11

 韓流ブームの火付け役となったテレビドラマ「冬のソナタ」の続編が動き出している。15年前の「冬ソナ」を書いた脚本家2人が執筆中だ。日韓関係のゆらぎや中国の台頭といったアジア情勢が韓国ドラマに影を落とすが、制作会社は韓国のほか、日本や中国でも放映したい意向だ。

 続編づくりを担うソウルの制作会社「PANエンタテインメント」の広報担当は「まだ企画段階」としつつ、「次の冬に放送したい。日本や中国との同時放送も検討中」と語る。いま明らかなのは、最初の冬ソナの脚本を書いた金恩姫(キムウニ)さんと尹銀卿(ユンウンギョン)さんが続編も担当することだけ。ストーリーはもちろん、主演したペ・ヨンジュンさんやチェ・ジウさんが再び登場するのかも公表されていない。

 執筆中の金さんと尹さんは「書いている、という以外のことは話せない」としながらも取材に応じてくれ、ブームを振り返った。

 日本の盛り上がりを実感したのは、NHKの地上波で放送された2004年だった。東京で開かれた催し「『冬のソナタ』グランドフィナーレ」に出席し、ファンの熱さに驚いた。

 「冬ソナは私たちと日本をつないでくれた」と2人は口をそろえる。ファンだけでなく日本の脚本家との交流も始まった。いまもイベントで日本に呼ばれる。「韓国で冬ソナはもはや古典のようですが、日本では長く愛されて幸せです」

◆韓流は中国シフト

 冬ソナが韓国で放送された02年に、サッカーワールドカップが日韓で開かれた。韓国への関心が高まる中、03年4月にまずNHKのBSで冬ソナが始まった。韓国ドラマの魅力が知れ渡り、放映権料も比較的安いため、放送するテレビ局が急増した。

 一方で、11年には韓流コンテンツを重視し過ぎると、フジテレビを取り囲む「嫌韓」デモが起きた。12年に李明博(イミョンバク)大統領(当時)が竹島に上陸したのを境に、地上波で見る機会は減った。それでも昨年にBSやCS、ネットテレビなどで放送された韓国ドラマは約400本にのぼる。

 誠信女子大学の盧東烈(ノドンリョル)教授(放送産業)は冬ソナの功罪を指摘する。「韓国ドラマのグローバル市場が開けた一方、韓流スターの出演料が高騰し、制作費を押し上げた。国外で売れなければ制作費が回収できない」。近年、韓国ドラマの市場は中国にシフトする。韓国在住の映画ライター土田真樹さんによると「星から来たあなた」(13年)、「太陽の末裔(まつえい)」(16年)が中国で大ヒットし、韓国のロケ地に中国人観光客が殺到しているという。(成川彩、谷辺晃子)

◆「日韓の交流、深まって」 訪韓120回、大桃美代子さん

 タレントの大桃美代子さんは、冬ソナ放送の際に番組宣伝を担った。「長身の主人公の立ち姿が美しくて見とれたが、展開がゆっくりで日本で受けるのかなって半信半疑でした」。視聴者から熱のこもった手紙が次々届き、驚いたという。

 韓流スターにインタビューする機会が増え、あいさつぐらいは韓国語でしたいと3カ月ほどソウルに語学留学した。訪韓は120回を超える。「政治ではいかんともし難いところを、冬ソナが一気に日本と韓国を近づけた。続編で再び韓国に興味を持つ人が増え、交流が深まってほしい」

◆キーワード

 <冬のソナタ> 韓国で02年に放送された全20話の恋愛ドラマで、ペ・ヨンジュンさんやチェ・ジウさんが出演した。03年にNHK・BS2、04年にはNHK総合で放送され、最終回の視聴率は海外ドラマでは異例の20・6%を記録。経済効果は日韓合わせて3千億円超ともいわれた。

🔵朝鮮戦争と日本

🔵日本の戦後=朝鮮戦争・再軍備・マッカーサー

https://drive.google.com/file/d/1mgfED9Byr16oz1kcx1dMCHlnsLdTLi1A/view?usp=drivesdk

🔵BS朝鮮戦争秘録

https://drive.google.com/file/d/1-xvDa1fefVAyve1pIy75YtdDaV47hPzm/view?usp=drivesdk

🔵BS朝鮮戦争への日本人の参戦(前編)

https://drive.google.com/file/d/1zm7miHJ6vdtIApkqQlj8ju1ON-vuw3DU/view?usp=drivesdk

🔵BS朝鮮戦争への日本人の参戦(後編)

https://drive.google.com/file/d/11_b8gfbVZonnIqvOg0OHlTy3ObMYUUDQ/view?usp=drivesdk

🔷🔷和田春樹=朝鮮戦争開戦70年(赤旗20.06.25)

◆◆(耕論)朝鮮戦争と戦後日本

=朴慶南さん、武田晴人さん、佐道明広さん

朝日新聞18.07.28

 東西冷戦のさなか、朝鮮半島で同じ民族が争った戦争は27日、休戦から65年を迎えた。朝鮮戦争は日本社会や在日コリアンにも大きな影響を与えた。講和はいつ結ばれるのだろうか。

◆南北と在日、家族も分断 朴慶南さん(作家)

 朝鮮戦争が始まった1950年、私は生まれました。生年月日を書くと、戦争と家族のことをいつも思います。

 父は、日本の植民地支配下の朝鮮半島南部で生まれました。7歳の頃、日本に先に来ていた私の祖父を頼り、家族で来日しました。やがて父は鳥取で飛行場をつくる仕事に就き、朝鮮人のまとめ役になったそうです。

 日本では戦後も朝鮮人への厳しい差別があり、まともな仕事につけませんでした。父はアメを売って、日々の生活を何とかしのいでいました。

 朝鮮戦争の特需は、日本経済に大きな弾みとなりました。「金(かね)へん景気」と言われた頃です。父は、はかり一つでくず鉄屋を始めました。

 同じ民族が南北に分断され、血を流しました。父はそのことでいつも心を痛めていました。対立は、我が家にも影響を及ぼしています。家族、親戚は、南、北と日本に引き裂かれているのです。

 父方の祖父は59年、「帰国事業」で日本から北朝鮮に渡りました。祖父は、長男である父に一緒に行くよう求めました。私は9歳でした。父は家族を連れて行くことに不安を感じたのでしょう。日本に残りました。代わりに年の離れた父の弟が行きました。

 北朝鮮は、戦争で米軍の激しい空爆を受け、荒れ果てていました。父は毎月のように薬や粉ミルク、服などを段ボールに詰め、お金も送りました。弟から「もし兄さんが韓国籍を取れば、私たちはこの地で生きていけない」と言われ、朝鮮籍のままでした。このため父は長い間、故郷の韓国に行けませんでした。

 2000年6月、金大中(キムデジュン)大統領と金正日(キムジョンイル)総書記の間で史上初の南北首脳会談が開かれました。父はテレビに釘付けでした。「南北に自由に行けるようになる」。そんな喜びもつかの間、現実は、そうたやすくはありませんでした。

 在日社会も韓国を支持する民団と北朝鮮を支持する総連という組織が、対立を深めました。家族や友人の間でそれぞれ別々の組織に属する人もいます。でもいつもけんかしているわけではなく、日常の付き合いが続いていることも珍しくありません。

 2月の平昌(ピョンチャン)五輪では、南北の選手団が朝鮮半島をかたどった「統一旗」を掲げて行進しました。あの旗を見ると胸が熱くなります。そして4月の南北首脳会談、6月の米朝首脳会談。私は一日中、テレビを見ていました。

 朝鮮戦争は休戦のままです。昨年の今頃は米国の北朝鮮への攻撃が取りざたされました。まずは戦争を終わらせ、不安定な状況を解消して欲しいと願っています。

 父は7年前に亡くなり、遺灰をふるさとの川にまきました。自由に行けなかった南の地で、いま眠っています。(聞き手・桜井泉)

     *

 パクキョンナム 1950年、鳥取県生まれの在日韓国人2世。著書に「やさしさという強さ」「あなたが希望です」など。

◆「軽武装・経済重視」明確に 武田晴人さん(東京大学名誉教授)

 朝鮮戦争が戦後の日本経済に与えた最大の影響は、進む方向性を大きく絞り込んだこと。経済成長のために何をすべきかが明確になりました。

 戦後改革で国のかたちがある程度決まった後、市場経済に戻そうとしたのが1949年のドッジラインです。統制をやめ補助金を廃止しましたが、それは劇薬にすぎた。処方箋(せん)は間違っていなかったかもしれませんが、当時の日本には体力がなく、副作用でふらふらになってしまった。

 カンフル剤になったのが朝鮮戦争の特需です。敗戦後の日本は外貨不足に苦しみましたが、特需により一時的に解消されます。米軍の物資調達がドル払いだったからです。

 当時の日本人は、特需が一時的なものだということはわかっていました。外貨に余裕がある間に輸出を拡大しなければならない、貿易を介してしか経済発展はないというのが共通了解でした。

 朝鮮特需でブームに沸いたのは、小麦や砂糖、綿糸など軽工業や食品工業が主体でした。しかし、いずれアジア諸国でも軽工業が発展するだろうから、そこで競っても将来はない。他のアジア諸国がまだやっていない機械や金属などの産業を育て、産業構造を重化学工業化すべきだと当時の政策担当者は考えました。より高度な産業へのシフトが、50年代後半の産業政策、貿易政策の焦点になります。それが高度成長につながっていくわけです。

 ただ、実際の経済成長とはずれがありました。50年代後半から、日本の貿易依存度は低くなっていきます。政治家や官僚は貿易、貿易と騒いでいたけれど、現実には内需依存で日本経済は拡大したわけです。最初は設備投資が、後を追うように個人消費が伸びた。生産と雇用が拡大し、賃金も上がっていきました。

 朝鮮戦争によって、東アジアの地政学的なかたちが決まりました。日本が西側陣営に明確に属するようになったなかで、「軽武装・経済重視」を実現できたことは、朝鮮戦争のプラスの影響だったといえます。マイナスは、朝鮮半島と中国という大きな輸出市場を日本が失ってしまったことです。中国は、戦前の日本にとって輸出の3割近くを占める市場でした。それがなくなったことは、経済発展の制約になりました。

 朝鮮戦争がつくりだし、日本の高度成長を支えた条件は、70年代には消滅しました。入れ替わるように韓国、台湾、そして中国が急激に経済成長し、90年代以降には東アジアに巨大市場が出現します。全世界の目がこの地域に向くようになりました。

 遠くない将来、朝鮮戦争が終結すれば、経済面での世界地図の大きな変化に、政治がようやく追いついたことになります。(聞き手 編集委員・尾沢智史)

     *

 たけだはるひと 1949年生まれ。専門は日本経済史。著書に「高度成長」「脱・成長神話」「仕事と日本人」など。

◆自衛隊・沖縄、今に連なる 佐道明広さん(中京大学教授)

 多くの日本人は、朝鮮戦争が戦後日本にどれだけインパクトを与えたのかを忘れがちです。政治や経済、社会に、はかりしれない大きな影響を与え続けました。あの戦争がなければ、日本はまったく違う国だったかもしれません。

 1950年6月25日に突然、戦争が起こらなければ、後に自衛隊の前身となる警察予備隊が同年8月にできることはあり得なかったでしょう。日本に駐留していた米軍を朝鮮半島に出動させたために、必要とされたからです。

 終戦直後から、再軍備に向けて、旧陸海軍のさまざまなグループが水面下で活動していましたが、日本政府にも国民にも、再軍備についての展望や広範な合意はありませんでした。世界的な戦争がすぐ近くで起きてしまったから、マッカーサーの指令で、国民的な議論は二の次のまま、つくられました。

 日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約と旧日米安保条約の締結も、朝鮮戦争がなければどうなっていたでしょう。日米交渉にもっと時間がかかり、独立がずっと後になった可能性があります。現在とは違う日米関係や対外関係になっていたかもしれません。こうした点からも、現在まで続く戦後日本のかたちがつくられたのは朝鮮戦争があったからだといっても過言ではないと思います。

 日米安保条約でアメリカが一番欲しかったのは、朝鮮半島に何かあったときに備えるために、この地域で自由に使える基地でした。1980年代末から90年代にかけて盛んに「冷戦が終わった」と言われましたが、それはヨーロッパのことで、アジアでは、朝鮮半島が典型ですが、冷戦の構図はそのままでした。

 朝鮮戦争ではイレギュラーな形で、歴史上例のない国連軍が編成され、日本国内の米軍基地にもまだ国連軍の旗が掲げられています。そのうち3カ所は沖縄の基地です。

 現在、日本の国土の0・6%に過ぎない沖縄県に、在日米軍専用施設の7割以上が集中していて、普天間などその大多数を占めるのが海兵隊の基地です。海兵隊は50年代以降に反米軍基地運動が高揚したために本土から沖縄に移りました。今も沖縄に常駐している理由は、朝鮮半島有事の時に米国の要人を救出することが最大の任務だからと考えられています。朝鮮半島情勢は沖縄にも大きく影響しているのです。

 朝鮮半島の状態がどう変わるのか、休戦が講和になって本当に平和が来るのか、まだ予断を許しません。しかし、日本は朝鮮半島やアジアの国々とどのような関係を築くのか、自らの安全をどのような防衛戦略で確保しようとするのか、しっかりと立ち止まって、国民的な議論をして考えるべき時でしょう。(聞き手・池田伸壹)

     *

 さどうあきひろ 1958年生まれ。日本政治外交史専攻。著書に「自衛隊史――防衛政策の七〇年」「沖縄現代政治史」など。

◆◆朝鮮戦争と日本=日本の「参戦」

=消された戦争 記録と記憶:4)朝鮮戦争=戦後5年、「赤紙」また

朝日新聞18.08.17

 あの敗戦からわずか5年。不戦をうたう平和憲法ができてまもなく始まった隣国での戦争に、日本人は深く関与していた。南北、米朝の首脳会談で、終結への期待がにわかに高まった朝鮮戦争。今も日本のかかわりの全容は、明らかになっていない。

(朝鮮半島沖で沈没し、犠牲者が出た掃海艇「MS14号」=「日本の掃海」(国書刊行会)から)

(角山安のぶさんは今も、航海に使うロープを編み込んだ飾り結びを作る。7月、作品を佐賀市に寄贈し、笑顔を見せた)

(海王丸の日誌に1950年8月21日、韓国兵607人を乗せたと書かれている)

◆朝鮮戦争、魚雷におびえ軍人輸送 占領下、米軍に口止めされた遺族

 魚雷攻撃に備え、枕元にライフジャケットを置いて寝た。角山安のぶ(かくやましずのぶ)さん(96)=佐賀市=を乗せた船が朝鮮半島へ近づく。1950年8月。角山さんにとって2度目の「戦地」だった。

 太平洋戦争中は、旧日本海軍にいた。44年11月、神奈川・横須賀から航空母艦「信濃」に乗って広島・呉に向かう途中、米潜水艦の魚雷を受けた。計4発。傾く艦体から海に飛び込んだ。

 敗戦から5年。再び交戦する海域へ身を投じるとは思ってもみなかった。

 戦後、旧運輸省航海訓練所の教官となり、帆船「海王丸」で実習生と航海に出て、船乗りを育てていた。その海王丸が韓国行きを命じられたのは、朝鮮戦争が勃発して2カ月後。軍人らの輸送が目的だった。「そりゃ怖い。でも、米軍のいうことは絶対。行きたくないなんて言えなかった」

 海王丸は3度にわたり、米軍人や韓国人ら計2013人を運んだ。航海日誌には、仁川に停泊していた50年10月14日朝、北朝鮮機により仁川港と船舶が攻撃されたという記述が残る。

 角山さんは任務を終えて長崎・佐世保に戻り、ほっとしたことを覚えている。「また、生きて帰れた」

     *

  防衛省防衛研究所の調査では、朝鮮戦争で軍人や軍需品の輸送、機雷の掃海などに動員された日本人は確認できただけで約8千人。調達庁(旧防衛施設庁の前身)がまとめた「占領軍調達史」では、開戦から約半年で船員や港湾労働者ら56人の日本人が死亡したとされるが、こうした史実はほとんど知られていない。

 開戦時、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下にあった。海上保安庁職員は極秘裏に機雷掃海を命じられ、犠牲者も出た。遺族は米軍から「口外しないように」と言われた。平和憲法の施行3年後に起きた実態は、当時の海上保安庁長官が78年に手記を出すまで明らかにならなかった。

 米軍は「国連軍」として朝鮮戦争に兵を出した。その医療行為に日本赤十字社の看護師らも投入された。

 「君たちに赤紙が来た」。50年暮れ、牧子(まきこ)智恵子さん(92)=東京都練馬区=は勤務先の福岡県内の国立病院で、事務長から告げられた。女学校時代は地元・佐賀の工場で機関銃の弾を磨く仕事に動員された。戦後、山口県にある日赤看護師の養成所を卒業し、働き始めた矢先だった。

 派遣先は福岡市内の「国連軍病院」。傷ついた米兵たちがベッドに寝かされていた。手術の準備や消毒をする生活は約1年続いた。

 「傷病兵には、日本人も交じっていた」と牧子さんは証言する。「やっと終わったはずの戦争に、また大勢の人が巻き込まれた。個人の意思が無視され、命が奪われる。戦時中の空気そのものでした」

     *

  米軍の武器を造った日本国内の工場もあった。

 その一つ、大阪府枚方市の「小松製作所(コマツ)」大阪工場は、52年の発足から55年まで砲弾の製造を続けた。

 「造っても造っても追いつかない状態。まさに『特需』やった」。製造に携わった元社員の80代の男性=大阪府=は振り返る。プレス作業を担当。火薬を入れるために別の場所にトラックで陸送されていったが、先輩から「口外してはいけない」と言われていた。

 社史によれば、砲弾の売上高は55年の受注終了までに約160億円に達した。工場発足時に約300人だった従業員は、54年に千人を超えた。男性は「戦争の道具を造っていたと今思えば恐ろしいが、当時は食うのにも困る時代。戦争に協力しているとか、考える余裕もなかった」という。

 朝鮮戦争特需をきっかけに、日本は経済大国への道を歩んでいった。

 (安田桂子、大部俊哉)

◆キーワード

 <朝鮮戦争への日本人の関わり> 防衛省防衛研究所の調査によると、朝鮮海域での掃海や輸送に動員された船員や港湾労働者は少なくとも約8千人。また、日本国内からは弾薬やナパーム弾の部品、有刺鉄線、トラックなどの物資を米軍に提供した。

 連合国軍総司令部(GHQ)の文書には、開戦から2週間あまりの間に150人の日本人が、在日韓国人団体を通じて参戦を志願したとの記述もある。

🔴NHK日本と朝鮮半島2000年

★★⭕️日本と朝鮮半島2000 01 古代 人々は海峡を越えた

http://m.youku.com/html/page404.html

★★⭕️日本と朝鮮半島2000 02 任那日本府の謎

または

http://v.youku.com/v_show/id_XMjU1MDQ0NTI0.html?x

★★⭕️日本と朝鮮半島2000 03 仏教伝来~渡来人がもたらした飛鳥文化~

http://v.youku.com/v_show/id_XMjM0NDUwMjIw.html?x

★★この03回については、以下の動画参照。

◆◆渡来人の遺跡=高麗神社

(赤旗16.09.30

◆◆(みちのものがたり)高麗王若光の道 埼玉県 渡来人が故郷を見た土地(朝日新聞16.09.25

 炎天下でも、歩きたくなる道はある。この夏、埼玉県日高市の高麗(こま)神社へ通った。

 山あいの何げない小道が気持ちいい。

 渡来文化の日本への影響を追究した在日朝鮮人作家の金達寿(キムダルス)(1919~97)もまた、この地を何度も訪れ、西武線の高麗駅から高麗神社まで約3キロの道のりを歩いた。「都塵(とじん)のなかではちょっと想像もできないような、いい道」と書き、高麗川のほとりに座ると、帰れない故郷を思う気持ちが慰められるとも語った。「高句麗人が居を定めたのも、この土地に故郷を見たからだと思う」

 高句麗とは、中国東北部から朝鮮半島北部にかけて668年まで約700年間存在した古代国家。日本では高麗(こま)と呼ばれ、多くの高句麗人が日本に渡って来たといわれる。

 「続日本紀(しょくにほんぎ)」には716年、上総(かずさ)など東国7カ国に住む高麗人1799人を武蔵国に移住させ、高麗郡を建郡したとある。現在の日高、飯能両市にまたがる一帯だ。

 1970年代後半、発掘調査に携わり、高麗郡の存在を考古学的に実証した高麗浪漫学会会長の高橋一夫さん(70)は言う。

 「風景が似ていることは、渡来人にとって、治水など自分たちが持つ高度な技術を発揮できる場所として、重要な要素だったんですよ」

 高麗人は無人だった土地を開拓し、三つも寺院を建てた。建郡は大規模な国家プロジェクトだったとみられる。

 「地方行政機構のモデルを示そうとした。対外的には、滅びた王族が国内にいることをアピールし、天皇を中心とする日本型の小中華思想を示したのではないか」

     *

 高句麗といえば、韓国ドラマで知った人も多いだろう。始祖の生涯を描いた「朱蒙(チュモン)」、中興の祖・広開土(こうかいど)王をペ・ヨンジュンが演じた「太王四神記(たいおうしじんき)」。日本で放映された当時は、高麗神社に「ヨン様」ファンが大勢訪れた。韓流は朝鮮古代史を一気にお茶の間に持ち込んだ。

 高句麗からの渡来人にも、主人公になれそうな人物がいる。王族の血をひく若光(じゃっこう)だ。

 666年に来日、2年後に祖国が滅亡したため、日本にとどまり、朝廷から貴族の位階に叙され、「高麗王(こまのこきし)」という姓を授かった、と記録にある。のちに高麗郡郡司となり、晩年は「白髭(しろひげ)さま」と尊ばれ、高麗郡で没し、葬られたと伝えられる。

 高麗神社から約70キロ南、神奈川県大磯町にも、若光の伝説が残る。町内の高麗山のふもとには、かつて高麗神社と称していた高来(たかく)神社が立つ。史実ははっきりしていないものの、若光が高句麗系渡来人の精神的支柱だったことをうかがわせる。

 日高市の高麗神社は、その若光を主祭神として祭っている。「高麗家系図」によると、宮司は若光の子孫が代々務め、現在の高麗文康さん(49)で60代目。日本で脈々と高句麗の血をつないできたことになる。

 鎌倉幕府が滅亡した前後には戦乱に巻き込まれ、断絶の危機もあった。しかし、その後は「戦に参加しない」を家訓とし、代々受け継ぐことで高麗家を守ってきた。

◆歴史を知ることの意味は?

 高麗郡は形を変えながら1896(明治29)年まで存続した。しかし、入間郡に編入される形で地図から消えた。

 前年、朝鮮半島の支配権をめぐって争った日清戦争で日本は勝利し、朝鮮人蔑視の風潮が強まっていた。1910年の日韓併合後は、高麗神社に朝鮮総督府関係者が参拝し、新聞などで「内鮮融和」が強調された。一方、地元の人によると、軍隊などでは高麗出身というと「朝鮮人か」といじめられたという。

 金達寿は太平洋戦争中、「朝鮮人が行くと、祖先が来たと歓迎してくれる」村があると聞き、心ひかれた。戦後ほどなく高麗の里に赴いた。

 51年、作家の坂口安吾も高麗神社を訪れている。戦前の歴史を疑い、自分の目で確かめようとした安吾は、海を渡って日本に移り住んだ人々にも関心を向けた。神社で獅子舞の笛の音を聴き、エッセーに「民族のハラワタをしぼって草の露にしたような切なさをたたえている」と書いた。

 古代に大陸からやって来た人々は60年代までは「帰化人」と呼ばれた。彼らを不当に軽視する言葉だとして、歴史学者の上田正昭(1927~2016)は「渡来人」に呼び改めるように提唱した。文明の導入に大きな役割を果たし、大和朝廷の一員として政治、経済を支えただけでなく、技術や芸能、仏教はもとより日本の神々の世界にも影響を及ぼしたと説いた。

 70年代、上田に共鳴した金達寿は、日本各地で朝鮮文化を再発見する旅に出かけ、「日本の中の朝鮮文化」シリーズを著す。高麗神社や若光は第1巻で取り上げた。

 それでも大きく見れば、高麗郡の歴史が顧みられることはほとんどなかった。

 その名を地元で呼び起こしたのが高麗神社の59代目宮司だった故・高麗澄雄さんだ。息子の文康さんは96年、父がこう言うのを聞いた。

 「あと20年たつと、高麗郡建郡1300年。盛大にお祝いしよう」

 高麗郡って? 20年後の話って? 文康さんは当初、意味が分からず、冗談かと思ったという。後になって96年は高麗郡消滅から100年の節目だったことに気がついた。

 「100年たつと、地元でも忘れてしまう。その悔しさ、無念さがわかった」

 2002年、日韓ワールドカップ共催の年に準備を始めた。地域興しとして取り組む態勢を整えながら、15年、一般社団法人「高麗1300」が発足。日高市も動いた。

 事業の核には「歴史」を置く。東アジアの中での高麗郡と位置づけ、専門家と市民が共同で高麗郡や渡来文化の研究を進める。高麗浪漫学会も13年に発足した。

 「これまで高麗郡は深く研究されたことはなかった。まだわからないことだらけ」と、会長の高橋さん。実は若光が高麗郡にいたのかどうかも、わかっていない。

 高句麗史跡を3度訪ねるなど、韓国との交流を重ねてきた。埼玉以外の、朝鮮半島からの渡来人ゆかりの地との連携も始まっている。

     *

 そして祝祭の年。シンポジウムや講演会はどこも盛況を博す。4月、若王の生涯を探ろうと、神奈川県大磯町の高来神社から高麗神社まで歩くウォークイベントを開催し、4日間で延べ255人が参加した。5月には3千人が色鮮やかな高麗の衣装を着て、パレードをした。

 神社でも、高麗人の装束展や韓国の伝統音楽の演奏会など神社にしては異色の行事が続く。文康宮司は言う。

 「特別なことをしている意識はない。渡来の歴史を知ることは、日本人とはどういうものかを問いかけること」

 日高市内には、あちこちにチャンスンが立っている。大きな目をむく「天下大将軍」と「地下女将軍」。朝鮮半島の村の入り口で見かける魔よけである。

 山あいを歩いているのに、海を渡ってきた風を感じる。暑さが気にならなかったのは、きっとそのせいだ。

 (文・林るみ 写真・杉本康弘)

◆今回の道

 高句麗国王の使者として来日した若光は都で官人として仕えたのち、武蔵国へ移ったといわれているが、そのルートは明らかでない。

 神奈川県大磯町の高麗山ふもとの高来神社(明治期に高麗神社から改称)一帯では、一族と海を渡って来た若光が相模国大磯に上陸、この地に大陸文化を広めたと言い伝えられている。

 古道研究家の宮田太郎さん(57)は、初期の高麗郡の中心地が大磯の高麗山の真北にあることと、若光の別名「玄武若光」に注目する。四神信仰で玄武は北を守護する神。「若光たちは測量技術をもって、玄武の方角をめざし、移住に適した土地を探した可能性が高い」。宮田さんが「高麗若光ライン」と名付けたルートには測量に適した丘や峠、渡来文化を考えるうえで重要な神社、遺跡や古墳群が分布しているという。

 この説をもとに「高麗1300」事務局は今年4月、高麗王・若光ウォーク(約95キロ)を実施した。(写真は聖天院に立つ若光像)

◆ぶらり

 高麗神社(電話042・989・1403)は「出世神社」といわれ、芳名板には総理大臣経験者ら著名人の名が並ぶ。社殿は明治神宮などを設計した伊東忠太によるものだ。裏手には代々宮司の住居であった高麗家住宅がある。

 同神社から徒歩5分。高麗山聖天院勝楽寺(電話042・989・3425)も若光ゆかりの寺院だ。若光の墓とされる高麗王廟(びょう)がある。14世紀に法相宗から真言宗に改宗。庭園が美しく、本堂からの眺めもよい。拝観料は大人300円。境内には在日有志が建立した在日韓民族無縁仏慰霊塔や高句麗の広開土王など偉人の像、3.1独立運動にゆかりのあるソウル・パゴダ広場の八角亭を縮小再現した建物もある。

 西武池袋線高麗駅から徒歩10分。巾着田曼珠沙華(きんちゃくだまんじゅしゃげ)公園(電話042・982・0268)では毎年秋の彼岸の頃、約500万本の曼珠沙華が、赤いじゅうたんを敷き詰めたように咲き渡る。巾着の形のように流れる高麗川に取り囲まれていることが名の由来。開花期間中は有料(300円)。

 西武池袋線高麗駅前には、朝鮮半島の魔よけのチャンスンが立つ。JR高麗川駅前、高麗神社や聖天院の前にもチャンスンがある。

◆味わう

 日高市のご当地グルメとして最近人気なのが高麗鍋だ。「地元産野菜を使用」「高麗ニンジン入り」「キムチ味」の3条件を満たせば、あとは店次第という。JR高麗川駅近くの「はら」(電話042・985・1919)の高麗鍋=写真=には、埼玉県産小麦粉の手打ちうどんが入る。

◆読む

 金達寿「日本の中の朝鮮文化」シリーズは、電子書籍化されている。坂口安吾のエッセー「高麗神社の祭の笛―武蔵野の巻―」は青空文庫で。上田正昭『渡来の古代史』(角川選書)には、高麗氏についての解説もある。

 高麗文康『陽光の剣 高麗王若光物語』(幹書房)は、高麗神社宮司自ら筆を執った若光の物語。比古地朔弥『まんが高麗王若光物語』(埼玉新聞社)は、漫画で高麗家の歴史も伝える。高麗郡の歴史は「高麗1300」のHP(http://komagun.jp/別ウインドウで開きます)が詳しい。

飛鳥寺
飛鳥寺
王興寺(韓国)

★★歴史秘話・沖の島=神宿る島、古代朝鮮半島と鉄の道43m

(大和朝廷は、朝鮮半島の伽耶かやなどの鉄に依拠していた。その交流がわかる沖ノ島の遺跡。沖ノ島については、当ブログ=日本の国家の起源を参照)

★★明らかになる古代の日韓関係=クローズアップ現代

http://v.youku.com/v_show/id_XNjQzMTYzNTk2.html?x

★★発見!謎の金銅製馬具~古代日本と朝鮮半島の交流史~

58m 

★その時歴史が動いた・蘇我氏は開明的であった

http://v.youku.com/v_show/id_XMjIzODQxNjcy.html?x

★その時歴史が動いた乱世の英雄編ミステリー大化改新~蘇我入鹿暗殺の実像~

★★その時歴史が動いた=蘇我馬子・飛鳥寺建立・日本最初の仏教寺院・古代の文明開化

★★歴史秘話・聖徳太子

http://v.youku.com/v_show/id_XMjkxMjg5MTgw.html?x

★★日韓の国宝が海を越えた~半跏思惟(はんかしゆい)像はるかな旅~20160615NHK50m

【赤旗16.06.27

★日韓国宝展 ソウル 半跏思惟像 韓国語4m

◆◆日韓の国宝が対面 半跏思惟像、東京国立博物館で

2016628日朝日新聞

【国宝・半跏思惟像=中宮寺門跡蔵】

 イスに座って片足を踏み下げ、もう一方の足を組んで思索のようなポーズをとることから、その名がある「半跏思惟像(はんかしゆいぞう)」。日韓を代表するこの像の名品2体が相対する特別展「ほほえみの御仏」が東京・上野の東京国立博物館本館で7月10日まで開かれている。

【韓国国宝78号・半跏思惟像】

 展示されているのは奈良県にある中宮寺門跡所蔵の「国宝・半跏思惟像」と、韓国国立中央博物館所蔵の「韓国国宝78号・半跏思惟像」。中宮寺門跡の像は像高約126センチ。7世紀後半の作品で、クスノキの部材を複数組み合わせて作られている。一方、韓国国宝78号の像は像高約83センチ。鋳造としては大型の部類に属し、こちらは6世紀後半の製作と考えられている。

 いわゆる半跏思惟像は約2千年前のインドのガンダーラにすでに作例があり、かの地では観音菩薩(ぼさつ)を表現することが多かったようだ。

 一方、「韓国や日本では、この種の像は弥勒菩薩を表しているケースが多い」と東京国立博物館アソシエイトフェローの西木政統さんは話す。

 釈迦入滅後のはるかな未来、すべての命あるものを救済してくれるという弥勒信仰は高句麗・新羅・百済が並立した6~7世紀の三国時代に盛んで、朝鮮半島では30体以上の半跏思惟像が旧新羅及び旧百済地域などで確認されている。

 本展は古代の日韓文化交流の証しを両国で展示し、鑑賞してもらおうとの意図で企画された。韓国ではソウルの国立中央博物館で、同じ内容の特別展が一足早く今月中旬まで開催された。

 東京国立博物館特別展室長の丸山士郎さんによると、現在、如意輪観音としてまつられている中宮寺の半跏思惟像も元々は弥勒菩薩として作られた可能性が高いという。78号像の製作地については高句麗説などもあってはっきりしないが、中宮寺の像が朝鮮半島由来の信仰と造仏技術の影響下で製作されたことはほぼ確実とみられる。

 共通の文化基盤のもとに生まれた二つの像をこの機会にじっくり観察してみてはどうだろう。(編集委員・宮代栄一)

★★BS歴史館・仏教伝来=古代の文明開化58m

★旧高校講座(4)東アジア世界の動乱と古代日本=飛鳥時代30m

http://v.youku.com/v_show/id_XMzkxNTE0MDAw.html?x

★新高校講座(4)東アジアの動乱と国家建設20m

全文起こし

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume004.html

★★ドラマ聖徳太子=蘇我馬子など朝鮮半島との関係、仏教伝来など詳しい。

★ドラマ・聖徳太子(前編)97m

★ドラマ・聖徳太子(後編)100m

★★⭕️日本と朝鮮半島2000 04 白村江の敗戦から律令国家へ

英雄たちの選択天智天皇の白村江での唐とのたたかいの真相58m

そして「日本」が生まれた 白村江の戦い 古代史上最大の対外戦争 

その時歴史が動いた43m

http://video.fc2.com/content/201311297VDMNf1g

【飛鳥時代】白村江の戦い – 14m

★★⭕️日本と朝鮮半島2000 05 日本海ヘの道 ~幻の王国・渤海~

または

http://v.youku.com/v_show/id_XMjM0NDY3NTQw.html?x

渤海遺跡

★★⭕️日本と朝鮮半島2000 06 蒙古襲来の衝撃 ~三別抄と鎌倉幕府~

http://v.youku.com/v_show/id_XNDkyMjUyMTE2.html?x

三別抄のたたかい
日本への蒙古襲来

以下の4動画も参照

高校講座 日本史「モンゴル襲来」

http://v.youku.com/v_show/id_XMzkxNjAzNTMy.html?x

北条時宗、起死回生の決断 ~モンゴル軍壊滅の時~ その時歴史が動いた43m

http://video.fc2.com/content/20120807MVKKzvuB

モンゴル軍来襲・先がけの功我にあり ~九州武士・竹崎季長の戦い~その時歴史が動いた43m

http://video.fc2.com/content/20120807pW6N9F3Z

モンゴル帝国vs日本 730年目の真実 「発見!幻の巨大軍船」 73m

★★⭕️日本と朝鮮半島2000 07 東シナ海の倭寇の光と影

http://v.youku.com/v_show/id_XNDkyMjM1NTYw.html?x

倭寇

★★⭕️日本と朝鮮半島2000 08 豊臣秀吉の朝鮮侵略

または

http://v.youku.com/v_show/id_XMjM0NTA3MDg4.html?x

秀吉の朝鮮侵略で朝鮮人の耳を納めた耳塚
秀吉の水軍とたたかったイ・スンシン

◆◆(文化の扉 歴史編)異説あり 秀吉、朝鮮出兵の理由 欧州に対抗か、布教通した日本支配を警戒

2018625日朝日新聞

 天下統一を果たした豊臣秀吉が2度の朝鮮出兵を行ったのは、新たな領土を求めてのことだと考えられてきた。しかし、そこにはアジア支配を進めるスペインやポルトガルを排除しようとの企図があったという説が注目を集めている。

 朝鮮出兵は、関白となった豊臣秀吉が主導し、中国・明の征服を企図して朝鮮へと攻め込んだ侵略戦争だ。文禄元(1592)年に始まって翌年休戦した文禄の役、慶長2(1597)年に再開され、翌年の日本軍撤退で終わった慶長の役を合わせて、このように呼ばれる。

 ただし、目的はよくわかっておらず、従来は「秀吉の誇大妄想の結果」「家臣に恩賞として与える土地が不足していたため」などと考えられてきた。

     *

 だが、秀吉は当時、世界の覇者となったスペイン・ポルトガルのアジア支配に対抗するために出兵したとする学説が発表された。宮城学院女子大学の平川新(あらた)学長(日本近世史)が、4月に刊行した著書「戦国日本と大航海時代」で唱えた。

 両国は1494年、世界を分割支配することで合意した「トルデシリャス条約」を結び、領土拡大に向けて動き始める。

 ポルトガルはインドのカリカットやゴアに拠点を建設。マレー半島のマラッカを攻撃して勢力下においた。一方、スペインは艦隊をフィリピンのセブ島に派遣し、マニラを占領した。

 やがて両勢力は日本に目をつける。1549年にはポルトガル系の宣教組織であるイエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。80年代にはスペイン系のフランシスコ会士も来日し、カトリックの布教が盛んに行われた。

 しかし、そんな宣教師の多くが「征服のための先兵」だったとみる研究者は多い。イエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョはフィリピン布教長にあてた85年の手紙で「早急に兵隊・弾薬・大砲、数隻のフラガータ船(軍船)を派遣してほしい。キリスト教徒の大名を支援し、服従しようとしない敵に脅威を与えるためである」と書く。

 「コエリョは大名を改宗させ、その武力で中国・明を征服しようとしていた」と平川さん。「宣教師らは、キリシタン大名は彼らの指示に忠実に従うとみていた。だから日本支配についても楽観していたようです」

     *

 イエズス会の野心を、秀吉も警戒していたようだ。キリスト教徒の国外退去を命じた87年のバテレン追放令は、宣教師の軍事力や信徒への影響力の排除が目的と平川さんはみる。

 この一連の流れの中で始まったのが朝鮮出兵だった。92年5月、朝鮮・漢城の陥落を肥前名護屋城(佐賀県唐津市)で聞いた秀吉はその後の予定として、明の征服後はおいの秀次を征服地域の関白とし、自らは東シナ海交易の拠点だった寧波に居住して、天竺(てんじく)をも切り取ると、手紙で秀次らに書き送っている。

 前後して、琉球と高山国(台湾)にも服属を要求。中でもスペインのフィリピン総督には複数の書簡を送り、「旗を倒して予に服従すべき時なり」「多数の武将がマニラ占領を予に求めている」と恫喝(どうかつ)した。

 平川さんは「秀吉の目的は、単なる朝鮮侵略ではなく、その先の唐・天竺・南蛮(東南アジア)を服属させることにあった」と推測する。「フィリピン総督への書簡で秀吉は『カトリックの布教は、その国を侵略する策略である』と糾弾した。布教を隠れみのに征服を狙うスペイン・ポルトガル勢力を、逆に服従させようとしていた」

 実際、こうした秀吉の強硬外交や軍事行動は、脅威に映ったようだ。マニラが秀吉の攻撃目標になったと恐れ、総督の使者が「大きな城壁を備えておくことが重要」と、マニラの監査官に書き送った手紙が残る。

 秀吉以前、スペイン・ポルトガルでは日本征服論が盛んだったが、朝鮮出兵以降、そうした意見は鳴りを潜める。「他国への侵略行為を肯定するつもりは毛頭ないが、出兵が結果的にスペイン外交に方針転換を促した可能性はある」と平川さん。

 時代劇では晩年、老いさらばえ、判断ミスなどが頻発したように描かれる秀吉だが、それをはっきり裏付ける一次史料は存在しない。平川説は、当時の世界情勢という視点から、秀吉外交に再考を迫った新説と言えそうだ。(編集委員・宮代栄一)

◆日本は「帝国」だった

 宣教師が本国とやりとりした史料には、徳川家康は「Rey(国王)」ではなく、「Emperador(皇帝)」、日本は「Imperio(帝国)」と記されている。当時、欧州で皇帝を称したのは神聖ローマ帝国の統治者のみで、英国もフランスも一格下の王国に過ぎなかった。一方、家康は神聖ローマ皇帝と同格で、各地の大名が国王格(たとえば伊達政宗は「奥州の王」)だった。

 平川さんは、日本を軍事力に富んだ「帝国」とみる考え方は、ヨーロッパ人によって秀吉~家康の統治期に形成されたとみる。この視点は受け継がれ、中国、ロシア、インド(ムガール)、ペルシャ、トルコ、神聖ローマと並び、幕末期、日本は「世界7帝国」の一つに数えられるまでになる。

 <読む> 「秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか」「家康はなぜ鎖国に転じたのか」など、史料に基づいて、戦国日本外交の様々ななぞを解き明かすのが、今春刊行の「戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略」(平川新著、中公新書)。論理展開も明快で読みやすい。

◆◆朝鮮通信使とは

朝鮮通信使

ちょうせんつうしんし

(小学館百科全書)

李氏(りし)朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節。日本では朝鮮来聘使(らいへいし)ともいう。1404年(応永11)足利義満(あしかがよしみつ)が日本国王として朝鮮と対等の外交(交隣(こうりん))関係を開いてから明治維新まで、両国は基本的にその関係を維持した。それを具体化したのが両国使節の往来による国書の交換である。義満以来かなり両国使節の往来があったが、徳川将軍は直接使節を送らず、朝鮮も釜山(ふざん)以外への日本人の入国を禁じたので、近世では朝鮮使節が来日するのみとなり、国書の交換もその際にまとめて行われた。近世の朝鮮使節は1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した。日本側はこれらをすべて通信使と考えたが、朝鮮側は、初めの3回は徳川将軍からの国書(対馬(つしま)藩宗(そう)氏の偽作)への回答と、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役で日本に拉致(らち)された被人(ひりょにん)の刷還(さっかん)を目的とする回答兼刷還使を名目とした。この齟齬(そご)は柳川一件(やながわいっけん)を契機に修正され、以後9回は名実ともに通信使となった。

 通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていたが、12回目は天明大飢饉(てんめいだいききん)のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年にようやく実施された。その後はたびたび計画されながら財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎えた。朝鮮側の通信使派遣には日本の国情偵察という目的もあり、来日のたびごとに詳しい観察記録が残されていて、外国人による近世日本についての貴重な記録の一つとなっている。なお1711年(正徳1)、新井白石(あらいはくせき)は、朝鮮側国書にある将軍の呼称を従来の「日本国大君(にっぽんこくたいくん)」から「日本国王殿下」に改めさせ、また使節の接遇を簡素化したが、白石失脚後はすべてもとの形態に戻された。[荒野泰典]

『申維幹著、姜在彦訳『海游録――朝鮮通信使の日本紀行』(1974・平凡社・東洋文庫) ▽中村栄孝著『日鮮関係史の研究 下』(1969・吉川弘文館) ▽映像文化協会編『江戸時代の朝鮮通信使』(1979・毎日新聞社) ▽宮崎道生著『新井白石の研究』増訂版(1966・吉川弘文館)』

◆◆柳川一件

やながわいっけん

対馬(つしま)藩主宗義成(そうよしなり)とその重臣柳川調興(しげおき)の争論が発端で、宗氏(柳川氏)の日朝両国国書の改竄(かいざん)などの不正が露顕し、近世初期の日朝関係最大の問題となった事件。柳川氏は調興の祖父調信(しげのぶ)一代で家臣の筆頭にまでのし上がった存在で、調興の代には朝鮮関係から宗氏の家政まで擅断(せんだん)するようになっていた。また、調興は人質として幼少から徳川家康・秀忠(ひでただ)の膝元(ひざもと)に置かれており、幕府要路に強力な人脈をもっていた。義成と調興の確執は、調興がそのような地位を足場に幕臣化しようとした点に発しており、1615年(元和1)に義成が家督を継いでほどなくその兆しがみられ、31年(寛永8)に双方が幕府に訴えたことから争論となった。その際明らかになった日朝関係上の不正には、それまでの朝鮮使節来日の際の国書の改竄・取り替え、国王使(将軍使)を詐称しての使節の朝鮮派遣などがあるが、これらは宗氏あるいは柳川氏の罪というよりは、中世以来の日朝関係の諸慣例を放置していた幕府の姿勢に起因したものである。

 争論は当初調興の有利が噂(うわさ)されたが、1635年将軍家光(いえみつ)の親裁によって義成の無罪、調興らの有罪が決定した(調興は津軽に流罪、そのほかにも死刑・流罪)。この裁定には、義成室が日野資勝(ひのすけかつ)娘で家光室の鷹司(たかつかさ)氏と親類にあたることが影響しているといわれるが、それだけではなく、当時の幕府の対外政策、大名統制策の基本路線に沿ったものであった。一件後、将軍の国際的称号を日本国大君(にっぽんこくたいくん)とし、外交文書に日本年号を使用すること、対馬以酊庵(いていあん)へ京都五山(ござん)の長老を輪番で派遣して外交文書を管掌させる以酊庵輪番制の設定など、日朝関係上の諸体制が整備された。[荒野泰典]

『荒野泰典著『大君外交体制の確立』(『講座日本近世史2 鎖国』所収・1981・有斐閣) ▽田代和生著『書き替えられた国書』(中公新書)』

★★⭕️日本と朝鮮半島2000 09 朝鮮通信使 ~和解のために~

http://v.youku.com/v_show/id_XNDkyMjM4OTAw.html?x

雨森芳州

★★朝鮮通信使の歴史80m

★★朝鮮通信使秘話=その時歴史が動いた42m

の脚色・その時歴戦が動いた 柳川一件 ~近世対馬動乱

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm16750140

★★歴史秘話ヒストリア対馬国書偽造

◆◆(文化の扉 歴史編)民衆が熱狂、朝鮮通信使 500人規模、先々で交流 接待役の藩は大出費

朝日新聞18.01.21

 近世日本と朝鮮王朝を橋渡しした朝鮮通信使。昨秋、関係資料が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」に登録された。文化交流の花形としても大歓迎を受けた一行だが、迎える側には少なからぬ苦労もあったようで。

 朝鮮通信使は朝鮮王朝から江戸幕府への外交使節だ。徳川政権は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で破綻(はたん)した国交を対馬藩を通じて修復させ、1607年ついに再開にこぎつける。

 以後、1811年まで200年余りの間に12回の使節が日本を訪れた。海路、瀬戸内海を抜けたのち陸路で将軍のおひざ元、江戸をめざし、ときには日光まで足を延ばした。

 正使や副使をはじめ画家や医者、芸能者まで含み、400人から500人にも及ぶ大使節団だった。道中は見物客でごったがえし、ちまたには関連の絵図や刊行物が出回るなど、大いに人気を博したという。

 「おまつりですね。『鎖国』のイメージとは、まるで違った」と、朝鮮通信使に詳しい仲尾宏・京都造形芸術大客員教授。異国の空気をまとった通信使の到来は、民衆にとっても一大イベントだったのだ。

     *

 しかし、迎える側には苦労が絶えなかった。

 往来の沿線で迎える10万石以上の大名などは、その接待に莫大(ばくだい)な支出を強いられたようだ。供応の食事はもちろん、出迎えや護衛、関係先への進物などなど。相手は国を代表する外交使節だけに、藩のメンツをかけても、もてなしに手抜かりは許されない。両国の外交を一手に引き受けた対馬藩も、最後は幕府が援助する資金で持ちこたえている状態だった、とも。もちろん、負担は末端の農民たちにものしかかった。

 福岡藩の場合、一行を迎えた場所は玄界灘に浮かぶ相島(あいのしま)(現在の福岡県新宮町)。島民数百人の小さな島に、通信使一行に加えて接待役の藩士ら数百人が押し寄せた。客館がその都度造られ、豪華な特産品が取り寄せられて一行をあきれさせるほどだったという。

 ときには不慮の出来事もあった。相島では、大風で船が破損したり流されたり、福岡藩側に60人余りが亡くなる事故も起きている。

     *

 こんな苦労に支えられながら、通信使一行の行くところ、あちこちで交流の花が開いた。

 なにしろ、儒学や医学、文学など豊富な知識を携えたエリート集団だ。いまで言う外国人タレントなみの人気だったらしく、行く先々で詩文や揮毫(きごう)を求めて知識人や群衆が詰めかけた。日本人の旺盛な知的好奇心はとどまるところを知らなかったようで、通信使側は鶏が鳴くまで眠れなかった、との記録もある。

 仲尾さんは「朝鮮側も『小中華』意識があり、儒教国家として文化を伝え、教化しなくてはとの自負や使命を感じていたはず。一方、日本の識字率は高く、通信使側は、少女がよい字を書くことに、びっくりしている。そんな土壌があって交流が成り立ったのでしょう」。

 文化の伝播(でんぱ)は一方的だったわけではないと、寄港地となった赤間関(あかまがせき)(山口県下関市)の町田一仁・下関市立歴史博物館長は指摘する。「たとえばサツマイモの栽培など農業技術も朝鮮側へ伝えられた。そこには双方向の交流があったのです」

 町田さんによると、当初やや上から目線もあった彼らだが、日本社会の衛生状態のよさを書き残すなど、回を重ねるにつれて日本への理解が進む様子が記録から読み取れるそうだ。

 朝鮮通信使はあくまでも外交使節。幕府や藩は必ずしも市井の人々との交わりを無制限に推奨したわけではなかったとの見方もある。けれど、異文化交流と相互理解の深化は、民衆のパワー抜きに語れない。両国が筆談でコミュニケーションできる漢字文化圏に属していたことも大きかったようだ。

 対馬藩で対外交渉を取り仕切った近江出身の雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は、その外交方針に「誠信」の交わりを掲げた。国際交流の足腰の強さは、民間レベルの地道な積み重ねがはぐくむもの。「善隣友好」とは一朝一夕に築き上げられるものではないことを、朝鮮通信使は教えてくれる。(編集委員・中村俊介)

◆「世界の記憶」不思議な縁

 ユネスコの「世界の記憶」には、全国ゆかりの自治体などでつくるNPO法人朝鮮通信使縁地連絡協議会と韓国の釜山文化財団が共同で申請した。日韓合わせて111件333点。外交の記録、通信使が残した日記や行列の様子を模写した絵画類などの旅程の記録、国境の垣根を越えて展開した学術や芸術面分野における文化交流の記録などで構成されている。

 朝鮮通信使の関連資料と同時に、古代の石碑である「上野三碑(こうずけさんぴ)」(群馬県)も登録された。楷書体の文字が刻まれる「多胡(たご)碑」もそのひとつ。拓本が朝鮮通信使を介して漢字のふるさと中国へもたらされ、書の手本にもなった。朝鮮通信使が取り持つ、なんとも不思議な縁である。

 <読む> 仲尾宏『朝鮮通信使』(岩波新書)や同『朝鮮通信使の足跡』(明石書店)などがお手ごろ。「世界の記憶」に絡めた仲尾宏・町田一仁(共編)『ユネスコ世界記憶遺産と朝鮮通信使』(明石書店)もおすすめ。朝鮮通信使自身の手による記録も東洋文庫から出ている。

◆◆「朝鮮通信使」「上野三碑」がユネスコ世界記憶遺産に登録

2017111日朝日新聞

朝鮮通信使に関する記録/上野三碑

【朝鮮通信使】

【上野三碑】

(三碑の記録形態は、上野国に住み着いた朝鮮半島からの渡来人がもたらしたもので、かれらとの密接な交流の中で、当時の都(飛鳥、奈良)から遠く離れた地元の人々によって文字で刻まれたもの。山上碑は日本語の語順で漢字を並べた最古級の歴史資料=詳細は高崎市解説参照=https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/

 31日未明(日本時間)に発表されたユネスコ(国連教育科学文化機関)の「世界の記憶」(旧・記憶遺産)。国内候補の古代石碑群「上野三碑(こうずけさんぴ)」(群馬県)と、日韓の団体が共同申請した「朝鮮通信使に関する記録」が選ばれた一方、もう一つの国内候補、第2次大戦中に多くのユダヤ人を救った外交官・杉原千畝(ちうね)の資料(杉原リスト)は登録されず、明暗がわかれた。

 高崎市にある上野三碑は地域の人の信仰の対象でもあり、約1300年にわたって守られてきた。解説ガイドなどをしてきた市民団体「上野三碑ボランティア会」の森賢六会長は「渡来系の人々と協力して地域づくりに取り組んだ古代の人々の精神を後世に伝えていきたい」と喜ぶ。

 一方の杉原リスト。日本ユネスコ国内委員会が初の公募で16件から絞り込んだ2件のうちの一つだったが選ばれなかった。審査は非公開。杉原の出身地で、申請した岐阜県八百津町にはユネスコから理由などの連絡は入っていないという。国内委員会の関係者は「再申請するとしてもどう改善すればいいのか現時点では全く分からない」と困惑。今後の国内選考の基準にも影響を与えそうだ。

 このほか、日中韓などの市民団体と日米の民間団体などが異なる立場から旧日本軍の慰安婦に関する資料を申請していたが、ユネスコはともに「登録保留」とし、互いの対話を促した。

◆「日韓友好の芽」期待

 朝鮮半島から海を渡った通信使。対馬から江戸まで長い旅程の足跡が残る各地では、両国友好の証しとなった登録を喜んだ。

 日本側のNPO法人「朝鮮通信使縁地連絡協議会」(長崎県対馬市)の松原一征(かずゆき)理事長は「両国の葛藤が続く21世紀の今こそ負の面だけでなく、朝鮮通信使をよみがえらせて手を結ぶことが大事。今回はその第一歩だ」と語る。申請した資料の所有・管理者は両国で40カ所近く。歴史観の違いなど苦労もあっただけに、喜びはひとしおという。韓国側の申請団体、釜山文化財団の柳鍾穆(ユジョンモク)代表理事は「両国が朝鮮通信使の誠信交隣の精神をもとにさらに活発に交流し、ともに発展していくことを願います」とコメントした。

 通信使がたどったルート上の自治体は、その行列を再現するなどして、友好の歴史を今に伝えてきた。

 通信使の正使らが宿泊した広島県福山市の鞆の浦にある福禅寺では31日、決定を祝うイベントがあり、駐広島大韓民国総領事館の李載雄(イジェウン)・副総領事らも出席。くす玉を割り、地元名産の保命酒で祝杯をあげた。

 対馬藩に仕官し「誠信」を重んじる外交方針を説いた儒学者、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)。その出生地、滋賀県長浜市の富永小学校でも同日、芳洲の生涯を描いた絵本の読み聞かせ授業があった。東アジア交流ハウス雨森芳洲庵の元館長、平井茂彦さん(72)は「友好の芽が育てばうれしい」と期待した。

◆◆朝鮮通信使・連載・雨森芳洲(日朝交流の推進者)をたどって

2015.09

江戸時代、朝鮮と「誠信」で

(雨森芳洲)

 日韓関係が悪化すると顧みられる江戸時代の人物がいる。雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)(1668~1755)。対馬藩お抱えの儒者で、朝鮮との外交や通商で「誠信」の姿勢を貫いた。

 1728年に著した「交隣提醒(こうりんていせい)」でその意味を「互いに欺かず、争わず、真実をもって交際すること」と説いたこともよく引かれる。

 3世紀前にこんな先人がいたという史実自体に何か救われる思いがする。しかも、芳洲には私たちを何度も振り返らせる多面的な魅力がある。芳洲との縁(えにし)から日韓交流に携わる人々をたどり、彼の思想にも立ち入りたい。

 芳洲が両国の「懸け橋」として脚光を浴びたのはそう昔ではない。1990年、来日した韓国の盧泰愚(ノテウ)大統領(当時)が宮中晩餐(ばんさん)会のスピーチで言及したのがきっかけだ。

 幾筋かの伏線はあった。とりわけ今日まで熱心な民間交流を続けるのが雨森家の故郷、滋賀県長浜市高月町の雨森地区だ。115戸、ざっと400人の集落で先人を顕彰する芳洲会の活動がある。

 旧家が並ぶ集落内を水路のせせらぎが巡り、コイがはね、水車が回る。路傍の花々の手入れも行き届き、まるで集落全体が箱庭のようだ。

 今年は中東呼吸器症候群(MERS)で延期されたが、ほぼ毎夏、ソウルから高校生がホームステイに訪れ、浴衣姿で花火やスイカ割りに興じる。家族同然の歓待に「国は不仲でも人間は仲良くできる」という体験を刻む。

 交流の拠点は84年に完成した「東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵(あん)」。館長の平井茂彦さん(70)は当初から活動のまとめ役を務める。

 「ホームステイや見学、研修に来る人たちを歓迎したい一心で環境整備と地域作りを続けてきました。芳洲精神に立ち返るため、その生涯を題材にミュージカルを創り、小学校の学芸会で上演し、地域こぞって鑑賞しています」

 そんな日々の営みを平井さんが地域に報じる週刊新聞は1500号を突破した。「韓国で日本を悪く言う人がいても、実際の日本は良かったと思う人が増えてほしい」

 芳洲庵は、京大名誉教授の上田正昭さん(88)が滋賀県に掛け合って実現した。新井白石の研究の傍ら芳洲に興味を持ち、68年夏に雨森地区の土蔵で「交隣提醒」を読んで感激したのが発端だ。

 何よりその「歴史認識」に驚いた。芳洲の時代は豊臣秀吉の侵略が朝鮮に恨みを残す一方、日本では武威におごる気風が続いていた。芳洲は朝鮮侵略を「無名の師(理由のない戦争)で両国の民衆が多数殺された」と断じた。

 上田さんは「国の恥を隠すのが一番の恥。外交を担うリーダーには大局的で率直な歴史観が不可欠です。戦後、私は東アジアの歴史学者たちに対して肩身が狭かったが、芳洲を知って救われました」と感慨深げに振り返る。

 上田さんは市民同士の交流を「民際(みんさい)」と名付けた。「年に数百万人が往来しても日韓の国民感情は悪い。雨森地区のような民際で補わなければ」。今やそれはかけがえのない安全装置というべきか。(川戸和史)

板挟みに苦悩、「半白」の髪

 雨森(あめのもり)家の故郷、滋賀県長浜市と並んで、芳洲(ほうしゅう)の墓所がある長崎県対馬市にも対馬芳洲会がある。現会長の松原一征さん(70)は福岡と対馬を結ぶフェリー会社の社長だ。

 父は教師だったが、大卒後は海運会社に入り、29歳で独立。事業の傍ら島おこしの突破口を探っていて、韓国の盧泰愚(ノテウ)大統領(当時)のスピーチに接し、「これだ!」と跳び上がるほど感動した。

 早速、芳洲顕彰の石碑建立を発起し、芳洲会の立ち上げへと走る。朝鮮通信使ゆかりの自治体などを束ねて交流する縁地連絡協議会(縁地連)も組織して20年になる。

 いま最も力が入るのが、日韓両国に残る通信使に関する外交文書や詩文・書画などをユネスコの世界記憶遺産に登録申請する日韓共同の活動だ。「通信使は平和遺産そのもの。共同提案は融和の呼び水になる」

 だが交流には逆風も吹く。対馬では一昨年、韓国人による仏像窃盗事件に抗議するため、呼び物の通信使行列が中止になった。松原さんはそうした動きに反対して孤立。脳裏には芳洲が去来した。

 芳洲は朝鮮外交で道義を重んじたが、その場しのぎの藩上層部と対立し、辞表を出したり学友・新井白石に転職の世話を頼んだりと気苦労の多い人生だったらしい。50歳過ぎで頭髪は「半白」と朝鮮の使節が書き残している。

 「いつの世も交流の意味を理解しない批判は多い。芳洲さんも板挟みの苦しみから交隣の真実に目覚めた。私もそれを追体験しているように思います」と松原さん。

 一方、芳洲会は対馬の歴史研究を日韓の学術交流に結びつけてもきた。

 初代会長だった永留久恵さんは郷土史家。その公正な探求心には「街道をゆく」の取材で訪れた作家の司馬遼太郎さんも一目置いた。長大な「対馬国志」のほか、「雨森芳洲」の著書がある。

 教職を長く務め、若手とともに学び合う「共学の精神」を貫いた。日韓の歴史学者も永留さんを慕って対馬で開かれる学会に集い、芳洲会の若手の導きで史跡や史料を実見し、研究を深めた。芳洲会は日韓の交流史研究を対馬から支える知的センターだった。

 その永留さんがこの4月、94歳で亡くなった。副会長の小島武博さん(66)は「研究蓄積を後代にどう伝えるかが課題です」という。

 ひとつの道を開いたのが永留さんの息子、史彦さん(61)だ。本州の新聞社を辞め、対馬で出版社を起こした。「対馬国志」の出版を続けるためだ。永留さんは史彦さんが歴史学を学びながら学者にならなかったことに不満だったらしい。だが、史彦さんが起業して間もなく、新たに書き上げた原稿を渡して一言。「これを出版してくれ」

 小冊子「盗まれた仏像」は50ページ足らずだが、仏像の盗難事件と返還を阻む韓国の司法への無念さが行間ににじむ。長い歴史の中で、平和的にもたらされた対馬の仏像たちがいかに多いか、かんで含めるような文章が続く。「これで父に認められたかな」と史彦さんには思えた。(川戸和史)

反目の芽をつみ続ける

 江戸時代に計12回来訪した朝鮮通信使は日朝外交の頂点、まさに「ハレ」の舞台だ。一方、日朝関係がおおむね平穏に推移した礎は「ケ」といえる地味な外交や貿易での問題解決に根ざしていた。

 その舞台は今の韓国・釜山市にあった倭(わ)館(日本では和館)だった。鎖国の例外とされた租界のような町で、500人ほどの日本人が住んだ。

 盧泰愚(ノテウ)大統領(当時)の1990年のスピーチは、芳洲(ほうしゅう)と朝鮮の通訳官・玄徳潤(ヒョンドギュン)との友情に触れた。その舞台も倭館の朝鮮側窓口「誠信堂」だった。芳洲は62歳の時、藩の外交を担う裁判(さいはん)という役職で釜山に赴任し、朝鮮から提供される実質的な食糧補助の交渉などに当たった。

 相手方が徳潤。彼は正徳通信使(1711年)などで来日しており、芳洲とも旧知だった。この通信使は、芳洲の学友で当時は幕府の実力者だった新井白石が接遇の儀礼や国書の書き方などで前例を次々に破ってトラブルが続発した。徳潤は、板挟みになって収拾に腐心する芳洲の姿を目の当たりにしていた。

 2人に詳しい同志社女子大名誉教授の信原修さん(79)は「共に困難を乗り切った同志的な友情から知音(親友)関係へと深まった」とみる。

 朝鮮には政治的支配階級の両班(ヤンバン)と常人(庶民)との間に専門的な実務官僚の「中人」階級がいた。外国語通訳も中人で、合理的、現実的な問題解決力が求められた。朝鮮語を会得した芳洲は彼らとも本音で付き合った。「中人の役割がもっと解明されれば、日朝交流の多面性が把握できる」と信原さんはみる。

 もっとも慶応大名誉教授の田代和生(かずい)さん(69)は「江戸時代の日朝関係は表面的には平穏でしたが、根底には互いへの蔑視や敵意など対立の圧力がありました」という。

 個人的な友情は歴史の一コマに過ぎない。だが、貴重な安全装置であったのだろう。

 「小さな反目の芽を紛争に発展させないための日常的な問題解決の連続こそ、対馬藩と朝鮮との外交の真骨頂でした」と田代さん。ウマが合うから仲が良い程度では「誠信」とはいえないのだ。

 「芳洲はそんな日常経験から互いに欺かず争わずという誠信こそ日朝外交の鉄則なのだと悟ったのでしょう。この理念をハレの外交である通信使の応接でも貫き、トラブルを乗り切っていったのです」

 さて、因縁めいた話を在日コリアンの建築家として倭館を長く研究している清泉女子大講師の夫学柱(フハッチュ)さん(41)から聞いた。日朝間でもめ続けた倭館の懸案に建物の雨漏り補修があったのだという。

 「倭館の建物は、軒下の居住空間は日本式、軒より上は朝鮮式の建築でした。朝鮮の屋根は暖房効果を優先するため土で塗り固める一方、屋根板がなく、防水に弱かった。そこで雨漏り補修や新改築の折衝が繰り返されました。しかし、予算や体面の問題から軒を境にした日朝の分担は変わらず、雨漏りへの懸念は幕末まで続きました。まるで国際結婚のような難しさです」

 平和の中に忍耐あり。現代に一脈通じる歴史の断面といえようか。(川戸和史日韓学生通信使、学び合って

日韓学生通信使、学び合って

朝鮮通信使も立ち寄った鞆の浦の福禅寺対潮楼を訪れた日韓誠信学生通信使の参加者たち=広島県福山市

 大学生の日韓交流は盛んだが、早稲田大学、ソウルの高麗大学などが続ける「誠信学生通信使」の取り組みは、相互理解を深化させるひとつの仕組みを築きつつある。

 加害者と被害者の違いは、世界中で歴史認識を切り裂く最大の溝だ。しかし、日韓の参加者が共通の視点に立てれば、この溝を未来に向けて埋めていく共同責任に似た自覚に至ることもできる。

 このプログラムは日韓の学生数十人が数日間の泊まりがけで歴史の現場を訪ねる学習旅行だ。歴史の現場で関係者の話を聞き、討論を重ねる。

 2009年と10年は植民地・朝鮮で林業振興に尽力した浅川巧の故郷、山梨県北杜市を訪ねた。韓国学生は「朝鮮に尽くした日本人がいたなんて」と驚き、既成の「日本と日本人」像が揺らぐ。

 感化を受けた一人、李(イ)(岩田)美英(ミヨン)さん(31)は大卒後、来日して鳥取県米子市で日韓交流の仕事に就いた。いまは米子高専で韓国からの学生受け入れなどに携わる。「日本への偏見が消えて私の世界は広がった。同じ体験は後輩にも役立つはず」

 11年の福島第一原発事故でプログラムは転機を迎える。韓国側が東日本の訪問を辞退し、会場は広島へ。広島経済大学も加わって、原発と核兵器という今日的問題を朝鮮人被爆者の歴史問題と併せて考えることになる。

 広島の原爆で多くの朝鮮人が被爆したことは韓国でほとんど知られておらず、学生たちは「自分たちの無知が同胞の苦境を助長したのか」という罪悪感に襲われる。

 そして教科書やマスコミの受け売りで固定された「自分の立ち位置」が揺れ出す。日本側の参加者では歴史の知識不足が露呈することもある。双方が相まって無知に対する共通の負い目意識が深まる。被爆地の臨場感も加わり、率直な討論が相互理解の実感につながっていく。

 ふだんは日本でも韓国でも、相手国の友人とは敏感な歴史問題は話さない学生がほとんどだ。ネットでは互いへの罵詈雑言(ばりぞうごん)があふれ、参加者は「果たして議論が成り立つか」と緊張して集まる。

 討論を振り返った学生の感想を読むと、ナショナリズムを背負って相手にレッテルを貼る「否定か肯定か」の重苦しい二分法的な認識が崩れ、人間同士で分かり合えた爽快感や達成感が伝わってくる。

 「あまりにも簡単に相手を非難するが、自分はどれだけ正確に知っているか」「歴史は相手を非難するためでなく未来を築くために学ぶもの」

 早大の岩垣梨花さん(22)は昨年、日本語が堪能な韓国の友人と共同でリーダーを務めたが、「自分も韓国語を学んで意思疎通に貢献したい」と痛感。ソウルに留学した今年は討論で念願の通訳を務めた。彼女のように繰り返し参加するメンバーを軸に日韓の学生が触発し合い、企画や準備に工夫を凝らす「手作りの相互理解」が厚みを増す。

 学生たちの交流はどこか雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)と玄徳潤(ヒョンドギュン)との絆の深まりを追体験しているように見える。往時との差は「未来」という鍵の重みだろうか。

 (川戸和史)

希望も痛みも記録に残す

 対馬のいかなる郷土史にも出ていないし、いまの対馬の人一般の記憶にはないのではないか――。

 作家の司馬遼太郎さんが「週刊朝日」の「街道をゆく/壱岐・対馬の道」にこう書いた1978年ごろ、全国的にも雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は「忘れられた思想家」だった。なぜか?

 そもそも江戸時代の人たちに、芳洲の朝鮮外交への関わりはほとんど知られていなかった。晩年の随筆「多波礼具左(たはれぐさ)」「橘窓茶話(きっそうちゃわ)」は広く読まれ、「篤実の碩儒(せきじゅ)」として記憶されてはいた。しかし、外交理念を説いた「交隣提醒(ていせい)」は幕府の外交担当者らを除いて広まらなかったようだ。

 そして江戸後期には、日朝交流そのものが衰退していく。朝鮮通信使は1811年まで続いたが、この時は対馬どまり。江戸に来た最後は1764年。幕末維新まで100年のブランクがあった。

 江戸幕府も朝鮮王朝も進んで廃止したわけではない。だが、双方とも財政難で、将軍の早世や災害もあり、延び延びのうちに幕府が倒れた。

 北九州大学名誉教授の三宅英利さん(90)はいう。

 「朝鮮の関心は次第に興隆する中国・清朝に向かい、日本への警戒感も関心も共に薄れた。通信使の延期が続く間に西洋の船が頻繁に現れ出し、兵学者らが海防論や征韓論を唱え始める。これが日本の朝鮮観が悪化していく地ならしになった」

 芳洲も日朝交流もろとも忘却の波にのまれた。

 ただ、日本初の朝鮮語教科書を著すなど教育の先覚者としては認められていた。あるいは正徳通信使(1711年)の時に新井白石との論争で徳川将軍より天皇が偉いと主張し、戦前までは尊王論者とされた。その反動で戦後は一段と忘れられたようだ。

 そんな芳洲のリバイバルに貢献したのが、1979年公開のドキュメンタリー映画「江戸時代の朝鮮通信使」。

 対馬や滋賀県長浜市・雨森地区などゆかりの地のルポや絵巻や書画などの映像と俳優西村晃さんの渋い語りで「動く朝鮮博覧会」とでもいうべき盛大な往時の姿をたどる。

 製作したのは在日2世の故・辛基秀(シンギス)さん。在日1世の多難な人生を記録映画「解放の日まで」(86年)に残す一方、日朝の平和な「明」の歴史が看過されすぎていることを無念に思い、生涯を通信使の研究に捧げた。

 「希望の歴史も、痛みの歴史もすべて記録に残す」「歴史は巡る。加害者と被害者の別はない」が信念だった。それが記録を重んじ、記録から真実を見いだすことこそ誠信外交の土台だと説いた芳洲に重なるのは、偶然ではない。

 娘の理華(リカ)さん(51)がいま、韓国で父の映画の上映活動を続ける。「日韓関係の悪化を心配して、通信使が歴史の中で果たした役割や意味をもっと深く知りたいという人が増えているのです」

 6月30日には韓国の国会での上映が実現した。企業や学校から上映要望も相次ぐ。

 記録を残し、残された記録を時代に応じて生かす。この努力が失われる時、暗く不幸な歴史が始まるのだろう。

東アジア、共存への窓 

 雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は対馬藩お抱えの儒者だった。彼を埋もれたスーパー外交官だったとする見方には批判的な研究がある。

 芳洲の先見性として例示されるのが(1)「誠信之交」の外交理念(2)外交記録の重視(3)時代変化の認識――豊臣秀吉の朝鮮出兵から時間がたち、武威を笠に着る日本の外交手法が朝鮮に通じなくなってきた――の3点だ。

 関西大名誉教授だった故・泉澄一さんは対馬藩の記録を精査し、これらが芳洲の独創というよりも先人の蓄積に負ったものだと指摘した。

 朝鮮と江戸幕府の間で板挟みに苦労した対馬藩では、外交問題を客観的に分析して合理的に解決する「実学」的な姿勢が芽生えた、と泉さんは見る。医者の子で医学を志したこともある芳洲は、持ち前の資質に加え、先人の著述からも深く学び、記録方法の改善や朝鮮語教育などの独自策も加え、対馬の実学山脈に頂点を築いたということか。

 儒教の一派である朱子学が圧倒的な権威をもった朝鮮王国でも、西洋科学の刺激を受けた実学者の系譜が存在した。ただし、弾圧され影響力は乏しかった。

 花園大学元客員教授の姜在彦(カンジェオン)さん(88)は「今の日韓も互いをもっと実学的に見るべきです。韓国は特定の歴史認識に縛られて身動きができなくなる。日本は無知が生む偏見を省みない。考え方が朝鮮の実学者と近い芳洲が日朝外交で活躍した史実は、私たちに現実をもっと柔軟に考えるよう促しています」という。

 芳洲は大転換期を生きた。朝鮮出兵後も続いた日本の強面(こわもて)外交が朝鮮に通じなくなった当時は、先進国の誇りを手にした韓国と停滞する日本という近年の構図と重なる。

 また、当時は東アジアの国際秩序を規定する中国の体制が漢民族の明朝から異民族の清朝に代わった後だ。これも米国の退潮と中国の台頭という現代を連想させる。

 そんな視界不良の中で芳洲は「誠信」を貫いた。

 高麗大客員教授(立命館大教授)で東アジア思想史を教える桂島宣弘さん(61)は「芳洲の考え方は、江戸時代中ごろの儒者としては普通のものだが、それを日朝関係など国際場裏で展開した点が独特でした」という。

 明清交代で日本や朝鮮では自分たちを中心に世界を考える意識が強まった。日本では古代から続く皇統が誇られ、朝鮮は自らこそ正統な文化の中心と考えるようになった。

 「しかし、芳洲は日本も朝鮮も一長一短ある、と独善に陥らなかった。利害を乗り越えて信義や誠実を優先した。それが儒教的な倫理観に基づく誠信之交なのです」

 「衣食足りて礼節を知る」という言葉とは裏腹に、経済発展を果たした末になお東アジアではナショナリズムの衝突がやまない。近代西洋が生んだ政治外交の理念とは異なるものの、それと相補って共存と融和を促す鍵が、東アジアの伝統的な倫理や英知にもあるのではないか。芳洲をそこへと開いた窓と見て、顧みる人は今後も絶えないに違いない。(川戸和史)

★★⭕️日本と朝鮮半島2000 10 脱亜への道

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江華島事件
江華島事件

★★朝鮮王朝儀軌流転46m

◆◆吉野誠・「明治150年」を考える=朝鮮を天皇の「属国」視

赤旗18.07.10

NHK高校講座 日本史 30 日清戦争30m

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【以下筆者コメント】 

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🔵筆者コメント「日本と朝鮮半島2000年」No.1とNo.2=大和政権と朝鮮半島

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日本と朝鮮半島2000 01 古代 人々は海峡を越えた

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日本と朝鮮半島2000 02 任那日本府の謎

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倭は加耶(任那)と関係が深かった

大和政権が奈良盆地に誕生した頃の3Cには、朝鮮には、漢の帯方郡・楽浪郡の支配の拠点とともに、朝鮮半島南部には、辰韓(12小国連合。新羅へ)・馬韓(50小国連合。百済へ)・弁韓(南端=かやなど12小国へ。養蚕・稲作・鉄)などゆるやかな小国連合体が生まれていた。

日本とのかかわりでは、弁韓地域の加羅から(=加耶かや)との関係から始まる。金官加耶(きんかんかや)中心・安羅・大加耶など12国。後の百済と新羅の間の国。洛東ナクトン川下流。高句麗・新羅に対抗するため百済・倭と同盟関係を後に結んだ。その後の5Cには百済に侵攻され、さらに6C新羅に侵攻される。こうして加耶は、6C百済や新羅に吸収。

加耶は、これまで「任那」にんな(みまな)と日本ではよび、日本書紀では日本の植民地扱いしていた。「日本書紀のみまな記述」と「広開土王碑文の倭の侵入文」を根拠に、みまなを倭が支配していたと学校の教科書などには70年代まで「任那日本府」として記述されていた。現在では日韓ともに、かや(任那)と教科書で記述されている。

テソンドン古墳=金官加耶国の王の墓には、巴ともえ型銅器(忍者の手裏剣みたいな盾の飾り)が出土した。大阪平野の巨大古墳出土とまったく同じ。大和政権が同盟の証として贈与したか。また朝鮮では取れないヒスイまが玉も大量に出土した。とくに鉄製品多く出土した。農具・武器・鉄ぺい(鉄の板)も。大和政権その他の小国家などが5Cまでは鉄の精錬技術もたないため鉄を必死に入手しようとした。この入手先がかや=金官加耶国。かやは、交流・同盟したか。また傭兵or軍事支援をしたのか。また玉・塩・生口=どれいor労働力or軍事力を提供したのか不明。

加耶だけでなく深い百済との関係

百済ひゃくさいは4C-660没。くだら、ペクチェともいう。馬韓の流れ。高句麗文化の影響=高句麗支配層から分離したか=基層は南方農業文化。扶余ふよ(プヨ)は百済の都。360年文字伝来や384年仏教伝来。仏教文化発達。4-5Cには高句麗南下とのたたかい。新羅とからをめぐるたたかいも起きた。そのため倭と連合して高句麗・新羅連合による圧迫を防ごうとした。日本に支援もとめた。すでにかやは唐・新羅に滅。最近の発掘で出挙すいこなど日本の律令体制は中国モデルだが百済の影響強い。飛鳥寺や四天王寺大阪のがらん配置=一塔三金堂方式も王興寺に類似。武寧王ぶねいのとき大和と国交。聖明王せいめい(538.552)のとき、仏像・経典大和へ五経博士はかせ(百済から献上儒学者=百済のから一部吸収への代替措置)派遣。

大和政権は、加耶との深い関係だけでなく、366年に百済に使節を派遣し鉄の贈与も受けた。百済からは漢字も学んだ=王仁わにが論語と千字文せんじもんを大和政権に提供した(日本書紀)。こうして加耶や百済を通じて、4-5C大和地方中心に鉄製品大量に出土。当時まだ鉄生産能力がなく、すべて朝鮮半島から入手した。

369年には百済から大和政権へ七支刀贈る。当時の百済は、武寧ぶねい王=高句麗南下によるハンソン漢城=ソウルから熊津へ都を移転する事態に直面していた。

百済が南下して領土支配を強めようとしていた地域=栄山江えいさんこう=ヨンサンガン流域=光州周辺では近年北部九州とうり二つの30-70mの前方後円墳が13発見=全羅南道に11=新徳シンドク古墳等と全羅北道に2存在。またかめ棺遺跡もあり。墓に入る門の両横にある玄門立柱石、石棺、赤いベンガラ装飾、木製埴輪などは百済にはなく倭人のものであることは明白。しかも日本にはすでにつくられなかった6Cの建設。この前方後円墳を一体どう考えたらよいか。また韓国南部で数多くの倭製の甲冑が出土している。これも同じ流れ。ほとんど5C後半から6C半ば=武寧王の前か後か?武寧王の墓は南朝様式さらに日本にしかない高野槙こうやまき=倭や中国南朝がバックにいることを高句麗に示した。

前方後円墳は武寧王の豪族の墓=豪族の墓は本来かめかんを九州豪族をまねてor百済に官人として雇用された倭人or協力した倭人or古くから中国との交易中継地で倭が住み着いたもの=朝鮮学者。

定住した倭人=鉄もとめた九州・大和地方の豪族or百済と同盟結んでいた倭の軍人=九州北部の豪族倭人が前方後円墳つくった。石室の石の組立方やベンガラという赤い装飾は、九州の番塚古墳=小さい前方後円墳と同じ様式。江田船山遺跡ワカタケルの百済製冠出土=武寧王の王冠とほぼ同じ。日本書紀の「512任那4県委譲」叙述=日本人学者。日本書紀「筑紫国軍500人護衛して百済に」あり。

このの百済に仕えた九州豪族の軍人たちが真実であろう。

今城塚古墳(継体天皇墓)に百済の武寧王が継体の長寿祝う銅鏡出土した。九州豪族の岩井の乱(527)は、継体天皇の百済支援軍を新羅の意向を組んで妨害した。岩井は新羅と交易していた。岩井の墓・岩戸山古墳は新羅風=九州豪族は大和の支配受けていたが同時に百済とも直接提携していた。

日本書紀に「任那日本府」=かやの一つの国・安羅あらをテコ入れするため、継体が任那復興会議開催=新羅対策。この「任那日本府」は何か。倭の居住人、倭の使節団、百済派遣の倭の官僚=朝鮮人学者説、安羅の倭の官僚などの説。しかし復興会議不調。532年金官かやはとうとう新羅によって滅。その後新羅により562年に「任那滅」=日本書紀。その後は、三国時代となり、倭は百済と強く連携していく。大和政権、九州豪族、中国豪族などと並立しながら。

【近年、福岡県、古賀市の九州豪族の船原古墳で発掘された新羅製の豪華な馬具】

新羅が伽耶を圧迫攻撃したことで継体天皇は九州へ軍隊派遣。これに新羅と連携した筑紫の大豪族岩井が妨害、527年大和政権と戦争。岩井は敗れた。しかし岩井子孫は立派な古墳をつくった。その50年後に九州の豪族が新羅製の馬具を、何かあわてたように埋めた。当時大和政権は、北部九州を支配はしていたものの、九州豪族の「自由」な動きがあったことを示す。また百済支配地域に13の前方後円墳が存在しているが、これも九州豪族が百済の軍事的官僚をしていた現れ。

明らかになる古代の日韓関係=13.12.02クローズアップ現代25m

http://v.youku.com/v_show/id_XNjQzMTYzNTk2.html?x

上記のクローズアップ現代の全文起こし

http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3440.html

さらに上記を詳しく解明=発見!謎の金銅製馬具~古代日本と朝鮮半島の交流史~ 58m – FC2

http://video.fc2.com/content/20140523gMzHkBEP/

その時歴史が動いた=継体天皇と岩井の乱

★継体天皇 大和を救う=その時歴史が動いた

http://v.youku.com/v_show/id_XMjE5MTYwNTAw.html?x

【継体天皇と岩井の古墳、船原古墳出土の馬具の数々】

高句麗との関係

高句麗(BC37-668)は、コグリョ、高麗、狛。最後には唐に滅ぼされる。中国地方政権or朝鮮政権かは論争あり。北朝鮮国境の集安が首都。ツングース系。自然信仰。仏教も。朱蒙しゅもうが国起こす=高句麗伝説上の始祖=夫余の始祖・東明王の伝説と共通。朱蒙=善射=弓を上手に射る。新羅と同盟して百済倒す。白村江の戦いの後668唐・新羅連合により滅ぶ。広開土王こうかいどおう(好大王)時代には強大となる。こうくり・新羅VS百済・加羅・倭との対決が明記。碑文=中国集安。「倭辛卯年391米渡海、破百残新羅、以為臣民」。これは、新羅・百残は高句麗の属民であり朝貢していた。倭が391年に海を渡り新羅・百残を破り臣民とした。攻撃して倭はしりぞいた。長寿王は好大王の次。 

「大和の侵略」とのべている広開土王碑文をどう考えればよいか。百済が高句麗とたたかうために倭をひきこんだと考えられる。3つくらいの見解がある。日本人学者=広開土王碑=百済がかやをすでに影響下においていた?倭が百済の要請うけてかやの傭兵として戦ったか?=朝鮮学者の説。近畿の大和政権が百済・かや支援した=この説はほとんど支持なし。九州豪族支援=日本学者説?倭が鉄をかやから入手していたことは事実。またかや・百済が日本の中国交易ルートであったことも事実。 

新羅との関係もその後開始

新羅しんらは、シルラ、しらぎともいう。辰韓の流れくむ。4C後半-935660年唐と組んで百済倒す朝鮮半島統一。護国仏教。世俗五戒。663白村江で倭追いやる。しかし高句麗没後唐と対決する。8C日本との交流促進。10C高麗に帰順。慶州・慶州石窟庵・武ぶれつ陵(武れつは倭と連携試みる=倭の留学生通じて)。

大和政権にとって渡来人が果たした役割

朝鮮半島からの渡来人とらいじんは3波。BC2-AD3玄海灘を通じた海上の道=朝鮮半島南端ヌクトに日本人、壱岐に朝鮮人。稲作伝える小国小国連合=朝鮮・中国との関係。

5C6C高句麗からの圧迫による百済などからの南下。文字・仏教・とくに農具や武器など鉄器扱う。

7C百済滅亡による亡命ー

とくにの時期の技術者や文化人など量的に多い。帰化人という用語は支配者思想入り込む。典型は、秦氏はたうじ(新羅系。京都山城。政府財政・土木工事・鉱山開発)。秦河勝のかわかつ(渡来。太子の近侍者。京都の広隆寺創建=京都太子ゆかり。みろく菩薩半か思惟像で有名)・漢氏あやうじ(明日香村など。西文氏かわちのあやうじ)や阿知使主あちのおみ(漢氏の最初。後漢)なども。止利仏師や行基や高向玄理たかむこのくろまろなどどは渡来人。

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🔵筆者コメント・「日本と朝鮮半島2000年No.3=仏教伝来、渡来人がもたらした飛鳥文化

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百済の果たした重要な役割=1C中国から漢字伝来本格的には5Cの百済による漢字の受容=文字はじめて使用。さらに538年ごさんぱい=元興寺縁起=蘇我氏など100人参加、百済の服、百済の僧参列とある。or552日本書紀=正しい百済文書でも確認=仏教公伝=百済4C仏教中国から受け入れた聖明王が中心。プヨ538都遷都・定林寺じょうりんが仏像と経典伝える。中国から来たのではない。仏教もあるが高句麗南下に日本の支援を求めたのが中心。

【百済の王興寺遺跡から発見された仏舎利=飛鳥寺のものとほぼ同じ。伽藍配置も】

◆百済の王興寺は飛鳥寺(=法興寺)の原型か?

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2008_04_16.htm

部下の渡来系の東漢氏やまとのあやうじが仏教輸入、蘇我氏摂取=祖先に韓子からこなどあり百済系の豪族。蘇我氏・聖徳太子たちが仏教をもとめていた、受容し背景には、国家形成のイデオロギーとして=君臣一体思想=国家仏教=護国仏教。それ以前に伝来。

百済の王興寺遺跡(百済の都プヨ)からも証明された。飛鳥寺はこれまで高句麗方式一塔三金堂方式と考えられていた。しかし王興寺おうこうじのがらん配置と同じ=聖明王の息子6C後半建立。一塔三金堂方式。一つの五重の塔=下に青銅製・金の舎利器・金の首飾りや玉やまが玉発見=飛鳥寺と同じ。舎利容器から577年王興寺建立=その9ヶ月後仏像つくる技術者たちが飛鳥へ行き飛鳥寺の建設に携わったと日本書紀記す。こうして10年後588年飛鳥寺建設=王興寺モデルにして建設。三つの金堂。玉や曲玉や金の装身具=飛鳥寺五重の塔でも同じもの発見。蓮の絵の瓦も双方似ている。止利仏師606釈迦三尊の裏に漢字の落書き=漢字職人まで広がっていた。その後百済はみろく寺など巨大な寺建設639=九重塔に舎利器発見=舎利と玉。日本でも桜井市で巨大な百済大寺おおでら跡地09発見九重塔跡地6年後は645蘇我滅国家仏教へ。

それ以降、法隆寺(建設意図は以下の通り。対外=唐侵攻663白村江の敗北再侵攻防衛=太宰府に大野城建設と対内権威=豪族同意・仏教と太子信仰を通じて。天智死後672壬しんの乱=豪族連合から天皇中心の中央集権国家に。台座に文字)。

こうして飛鳥美術の発展。高松塚古墳は高句麗系の渡来人の墓。女人群像=キトラ古墳=高松塚南も同じ。両方とも7C-8Cはじめ石室壁画・朱雀すざく=南・玄武=北・白虎=西・青竜=東。四神しじん。中国古代の五行思想由来=中国・朝鮮東アジア共通。天井は天文図。すべて高句麗の壁画古墳=たとえば江西大墓壁画と同じ死後も霊魂生きると同じ。7C後半の660百済滅また668高句麗滅後渡来人として日本に。文化をもった貴族層・技術もつ。河内の史氏ふみうじ=西文氏。この交流ははかりしれない。

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🔵筆者コメント・「日本と朝鮮半島2000年」No.4=白村江の敗戦から律令国家へ

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天智天皇てんじ(=中大兄皇子。持統天皇・元明天皇・弘文天皇の父)と中臣氏なかとみうじ(祭祀つかさどる)の藤原鎌足のかまたりによる大化の改新(645)とはなにか。鎌足と中大兄皇子による入鹿・蝦夷殺害=「乙巳いつしの変」が正しい説=大化の改新は大化の変化646-650をさす。NHK入鹿の方が朝鮮半島情勢よく見ていたという新しい説=唐・新羅攻撃予測した国家づくり提起・蘇我氏はもともと百済より=当時の百済のプヨの王宮の防衛の山城の配置と同じ。これにたいして中大兄皇子は反百済側に立ち反動的な対応したという説。留学生たちも唐・新羅と連携すべきという意見。晩年の門脇説などでは、天智天皇は白村江の戦いの敗北後、結局唐対策強化をはかる。唐などの東アジア情勢の情報や分析が立ち遅れ、後手後手となった。18年前に入鹿たちは唐対策を要請していた。

孝徳天皇(=軽皇子かるのおうじ=泉南地域豪族連合?中大兄皇子鎌足たちと組んで入鹿殺す?。大化の改新直後の政治担当。難波の宮建設=交通の便・対外対策。唐・中国風。唐の留学生新羅ルートで帰国。唐・新羅重視。遣唐使2回派遣。しかし新羅派徐々にら弱体化=中大兄皇子反発勝手に明日香に戻す。藤原氏(鎌足不比等以後天皇の外戚として権力ふるう=奈良・平安時代)。

こうして後手後手の状況で白村江の戦い(663年=はくそんそう・はくすきえ)が開始された。中大兄皇子は、訪日中の百済王子たてた百済復興軍・日本対新羅・唐という布陣。中央・地方豪族よせ集め=中央集権なし。実践経験なし。見事に敗北した後中央集権の重要性自覚する。百済からの亡命者とともに当面九州=水城みずき堀ありや大野城・菊池城=小さな百済仏発見から近畿の各地に山城・そこに八角の寺多数建設。天智天皇戸籍整備=徴兵制用意。その後唐と新羅が対立関係となり、新羅との使節交流。仏教も新羅と交流。亡命してきた百済と新羅から唐の中央集権制取り入れる。新羅駐留の唐軍から何回か使節よこす=唐の脅威痛感。防人(さきもり)664年に中大兄皇子が防人と烽(ほう=烽火(のろし))の制度をおいてから。前年663年の朝鮮半島での白村江の戦いに負けたための防衛措置の一つ。

その中で壬申の乱じんしん(672.6大海人皇子対弘文天皇こうぶん=大友皇子=天智天皇の子)が起きる。この天武天皇のもとで律令制が(7C後半-10C)が確立される。浄御原令きよみはらりょう(689天武時代)から大宝律令(701)、そして養老律令(757)へ。天武天皇てんむ(673-86大海人皇子)は、高句麗。唐がいつ攻めてくるか対策。新羅の知恵も借りる。中央集権制へまっしぐら。この時代に「天皇」という称号が生まれた。以前は大王だいおうorおおきみ=中国の皇帝にあたる。8Cはじめ「日本」はじめて使う。中国も「日本」使う=以前倭。飛鳥池の工房跡に富本銭など活用。天皇という木簡も発見。

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🔵筆者コメント・「日本と朝鮮半島2000年」No.5=日本海への道 幻の王国・渤海の道

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朝鮮半島と交流した北陸の豪族たち

弥生時代の長野県北信・木島平きじまだいら村の根塚遺跡ねづか=朝鮮の鉄剣発見。弥生末期日本海側の遺跡には鉄製品多い。日本はひすい輸出=朝鮮半島はひすい産出しない=朝鮮遺跡にひすい400点近く出土。それらは、糸魚川or近畿などからのひすいか?=大和政権だけでなく北陸豪族=海ルートが存在した。朝鮮半島の戦乱のなかから移住してきた人たちもいた。故郷に簡単に行き来可能。

北陸豪族は、丹波国、丹後国、若狭国、越国などをつくっていた。5C福井の若狭の豪族=前方後円墳=西塚古墳・上の塚古墳などまきむくろ古墳群=黄金の耳かざり=朝鮮の大カヤ国=カヤのものであった。6C大和政権と対立していた新羅の土器も出土した。6Cには越国から507継体天皇を大和政権に出した。その背景には、百済と交流していた北陸・近江豪族の力を借りて大和政権強化することにあった。越国こしのくに(こし王国。新潟から福井地方。高句麗から漂流・727勃海からの使者=木造船。阿部比羅夫)は最大の豪族。阿部比羅夫あべのひらふ(越国守。蝦夷征伐。百済支援・白村江の戦い)の出身地。

勃海(698-926)との交流

渤海は、満州ツングース系民族。高句麗滅後、高句麗遺民もふくめ、大そ栄=勃海建国した。まっかつ人などを含む多民族国家=6C後半ツングース系高句麗とたたかう=として建国。記録なし。7C中国吉林・黒竜江省中心・ロシア沿海州・北朝鮮の一部を支配。34回使節日本へ送る=唐とも新羅とも敵対しているために、日本との連携強めた=その後唐と和解新羅とも和解。農耕社会と遊牧狩猟社会の交易で成り立つ。

黒竜江省に首都=上京じょうきょうの東京城=霊光塔という仏塔現存=仏教興隆9つの寺院その後首都は東京へ移転。高句麗文化+唐の文化影響下の漢字・宮殿と9つの寺院=仏教文化。

727年平城京へ使節以降日本と交流計34回=西の突けつ・南支配していた新羅=日本と険悪関係を牽制するため日本と同盟はかる(高句麗はかつて日本と交流その流れ組む)。唐とは和解=日本だけが新羅と対決・藤原仲麻呂。日本からも使者。

金沢港に奈良時代の遺跡=帯留めや唐草紋の土器=勃海のもの。高麗から使者がきた敦賀にも寺に遺物。出羽国の秋田城跡=727人使節おくりたびたび交易訪問8C後半遺物。

渤海は200箇所以上の遺跡ウラジオストックの博物館に勃海遺物=帯留め・鉄釜・毛皮=金沢や秋田城と同じもの。日本海に面したウラジオストック近郊のクラスキノ遺跡=城遺跡=漢字が刻まれた土器=日本製?=上京が日本交易のために城をつくった=上京とクラスキノ間を「日本道にほんどう」と呼んだ=勃海から皮製品。日本から絹・水銀輸出。宣明暦=唐の最新のもの。音楽舞曲=宮中に残っている。漢詩の交換。遣唐使も勃海経由で行き帰り。勃海文化は契丹926建国に継承される。

 こうした北陸豪族の力を背景に26代継体天皇が誕生する。531武烈天皇血縁途絶える越前or近江から=朝鮮半島・百済と密接関係。鉄鉱石産出の近江生まれ。大伴金村かなむら物部あらかいたちが擁立。北陸・近江豪族の力を借りて大和政権強化して地方豪族=吉備・出雲などの勢力や九州=磐井の乱鎮圧した。経済的にも屯倉設立した。今城塚古墳。

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🔵筆者コメント・「日本と朝鮮半島2000年」No.6=蒙古襲来の衝撃 三別抄と鎌倉幕府

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蒙古襲来=元寇の2

1274文永の役=4万の襲来。初日火薬弾や弓など元圧倒=世界最新鋭武器。翌日攻撃やめて撤退=秋で時期悪い準備不足弾なし1日で撤退。日本3mの防塁を博多湾岸20km突貫工事でつくる。

1281弘安の役=元と高麗属国4万人+10万人=南宋属国から計1回目の3倍。台風で軍壊滅=神風信仰その後も=神国思想。1274文永の役の頃元は1276南宋制圧=これでユーラシア大陸統一。1284時宗没。

▼3回目の襲来をやめさせたベトナム人民

クビライは3回目の襲来計画を立てつつあった。ちょうどベトナム遠征と同じ時期。大越・ベトナム遠征・チャンバスで勝利。しかし、バクダン川の戦い=多くの杭を干潮のときに打ち込み元を誘い込み杭のため船動けず大越の巧みなゲリラ戦敗北=ベトナム戦争思い起こす=これがフビライの日本第三次攻撃を中止させた。台湾もてこずる・ミャンマーもてこずるこうして3次の計画とうとう断念。1294クビライ死去。

三別抄さんべつしょうにも日本助けられる

ベトナムだけでなく日本は高麗政府に反乱起こした三別抄(=左別抄・右別抄はともに正式軍・神義軍はゲリラ軍。珍島拠点)にも助けられた。元の侵略は朝鮮人の民族的意識形成する出発点になった。クビライ=5代。1268元から手紙=13C南宋と提携していた日本に元との提携=最後に兵をも使うと脅迫。日本と友好的だった高麗は日本に国書送る=元との友好すすめる。軍隊・人員・物資動員の恐れ。1271高麗から別の手紙=蒙古は野蛮・日本へ食料と兵の救援乞う=日本と同盟結ぶ手紙=江華島・首都から珍島ちんど首都、三別抄さんべつしょうという軍とは別政府=徹底して元とたたかう軍集団=農民中心の軍=政府への反乱軍でもある斐仲孫=ペ・ジュンソン将軍指導者。鎌倉幕府・時宗や朝廷は、元のもとにあると思い込み高麗を相手にせず=提携できず。元軍珍島攻撃残党は済州島へそこで抵抗・200里の長城つくる。ハッポで造船=そこへ反乱軍が船破壊。1273元と高麗軍済州島攻撃そのために日本攻撃遅れる。1274鎮圧後日本攻撃。結局3年間抵抗つづく。沖縄浦添の中山王の墓などに高麗瓦・この頃から沖縄のグスク築城技術発達=三別抄の残党が沖縄に渡ったか?

◆◆異説あり モンゴル襲来 勝因は「神風」ではなかった?

201718日朝日新聞(文化の扉 歴史編)

異説あり モンゴル襲来<グラフィック・下村佳絵>

 モンゴル帝国(元)の襲来を、鎌倉武士が2度にわたって食い止めた「元寇(げんこう)」。文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)とも長年、暴風雨(神風)が勝因とされてきたが、近年、新たな見方が浮上している。

 今まで「元寇」はおおむね次のような経緯だったとされてきた。

 1274(文永11)年、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略。鷹(たか)島(長崎県)上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。

 続く1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日本側の防戦で一時撤退。さらに鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため、退却(弘安の役)。その後、皇帝フビライは3度目の日本遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。

 危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は「神風」といわれ、第2次世界大戦中には、神国日本を裏付ける材料として使われた。

     *

 だが、こうした見方は修正が必要らしい。くまもと文学・歴史館の服部英雄館長(日本中世史)は、文永の役について「モンゴル軍が日本に攻め寄せた夜に嵐が来て翌朝撤退したと書く本が多いが、そんな史料は存在しない」と主張する。

 元になったと思われるのは『八幡愚童訓』という鎌倉時代の史料。だが、「夜中に神が出現し矢を射かけたため、蒙古はわれさきに逃げ出した」といった内容だ。さらに、西暦換算すると、モンゴル軍の襲来時期は11月で台風のシーズンではない。「寒冷前線通過に伴う嵐が来た可能性はある。でも、それで大量の軍船に被害が出たという記録はない」という。

 では、なぜ撤退したのか。「攻略が思うようにいかない場合、冬の前に帰国する計画だったのでは。軍勢の数も900隻・4万人とされてきたが、これは搭載されたボートなどを含めた数字。実際は112隻、将兵は船頭を含めて1万2千人ほど」と服部館長。

 続く弘安の役では、台風でモンゴルの軍船が一部被害を受けたと思われるが、「沈んだのは鷹島沖の老朽船だけ。本来なら大勢に影響はなかったが、食料などに不足をきたし、日本側の猛攻を受けたため撤退した」とみる。

     *

 一方、フビライが3度目の日本遠征をやめた理由はベトナム侵攻で敗北したからとの説が有力だ。

 ハノイ国家大学人文社会科学大学のグエン・バン・キム副学長によると、モンゴル軍は1258年、85年とベトナムの陳朝を攻め、タンロンなどを攻略したが、1288年のバクダン川の戦いで大敗。多くの軍船を失った。同川では、軍船の足止めのために使われた木杭が出土している。「フビライにとってバクダン川の敗戦が膨張政策を見直す契機になったのは間違いない」とキム副学長。

 服部館長によると、「鎌倉武士は戦の勝因を神風とは考えていなかった」らしい。「主張したのは敵国調伏の祈祷(きとう)をした社寺。武士はむしろ自らの戦績を誇った」

 しかし、そのはるか後世、「神風」の記憶だけが歪曲(わいきょく)され、西欧列強の脅威に直面した明治期と、「神州不滅」が叫ばれた第2次世界大戦中の2度にわたり、「元寇」は日本人の国民意識の形成に大きな役割を果たすことになる。

 対馬などにはモンゴル侵攻時に殺された日本の戦死者の墓が今も残る。だが、オーストラリア国立大学のナランゴア教授によれば、それらは歴史として受け入れられ、今では、現在の日本とモンゴルとの和解・友好の象徴になりつつあるという。時代と人々の意識によって、レガシー(遺産)の意味も大きく変わるということなのだろう。

 (編集委員・宮代栄一)

◆世界史的視野が必要

 「元寇」という言葉が生まれたのは江戸時代。寇は「侵略」を意味する言葉だ。

 モンゴル帝国の伸長に関しては一国にとどまらない世界史的視野での議論が欠かせないため、近年は元寇も、ヨーロッパや東南アジアなどを含めた「モンゴル襲来」「モンゴル・インパクト」の一環として論じられることが多い。先月も東京・昭和女子大学で国際シンポ「ユーラシアにおけるモンゴルのインパクト」が開催された。

 <訪ねる> 長崎県松浦市の鷹島神崎遺跡(国史跡)にはモンゴルの軍船が沈む。市立鷹島歴史民俗資料館と鷹島埋蔵文化財センターでは引きあげられた船体などが見学可能。福岡市の元寇史料館(要予約)は貴重な蒙古関係資料を展示する。

 <読む> 「神風」説を否定し、学界の内外に一大センセーションをまきおこしたのが、服部英雄氏の『蒙古襲来』(2014年、山川出版社)。新井孝重氏『戦争の日本史7 蒙古襲来』(07年、吉川弘文館)は従来説等をバランスよく俯瞰(ふかん)する。

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🔵筆者コメント・「日本と朝鮮半島2000年」No.7 東シナ海の倭寇の光と影

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倭寇わこうは、14C登場。対馬列島の海の民。九州北部・瀬戸内海からも。対馬出身多い。90の島々で田畑なし。50㎞先に朝鮮半島=遠くに半島見える。壱岐出身も多い=拠点。

14C15C高麗の半島西と南の海岸近くにある政府倉庫襲う=米や人など。中国の港も襲う。ベトナムの磁器も。略奪だけでなく交易も=もともとやっていた。

日本が動乱時期に入った1350年以降南北町時代さらに大規模な襲撃を行った。とくに九州は統制とれず=対馬は外から食糧手にしなければ生きていけない。高麗は元の属国で軍事的対応とれず。海賊ということだけでなく500隻の船数千人規模の騎馬軍団組織し内陸へ入ったこと高麗文献にある。朝鮮人も加わっていた?高麗対決。

チェジュ島はモンゴル人残り軍馬育てる高麗と対決=イソンゲ高麗勝利李王朝。倭こうと連携したか?日本は南朝と北朝分裂。高麗はモンゴル侵攻で病弊李氏朝鮮。

モンゴル=元は衰え明へと各国の国家権力の弱体化時代。明と室町幕府交易=勘合貿易=倭こう取り締まり約束。1392朝鮮王朝成立後取り締まり。1522応永の外こう=朝鮮王朝の対馬襲撃嘉吉条約結ぶ。

この頃以降倭寇は減少した。16C倭こう活発になったがそれは中国人海賊主体=日本人海賊も参加。明でも戚継光取り締まりを強化した。

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🔵筆者コメント・「日本と朝鮮半島2000年」No.8=秀吉の朝鮮侵略

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秀吉の朝鮮侵略は、文禄慶長の役(=壬申倭乱じんしんわらん・イムジンワラン1592987年間)という。秀吉の中国の明を支配する野望=部下に知行与える「唐から入り」「天皇を北京へ」・大航海時代の影響。

佐賀の肥前・名護屋の名護屋城5ヶ月で建設し大陸攻略の拠点とした。初戦のみ1ヶ月で朝鮮王朝の首都ハンソン漢城から平壌占領まで殺戮し尽くす、捕虜を日本に。王朝建国200年平和謳歌軍事力は弱体化していた。明も当初支援軍送らず=王朝と日本が共闘組む可能性憂慮。

1592李舜臣半島南部ハンサンドで水軍勝利を契機。義兵が決起=全羅道チョルラドの闘い半島一気にひろがる。明4万の兵参戦=明自身の自衛と「抗倭援朝」。秀吉軍は平壌から追い払われ南下。明との講和・和平交渉=明も適当に撤退したいと和平使節名護屋に=朝鮮王朝抜き北京でも交渉。日本は「朝鮮4道支配」主張、その間加藤清正など30ヶ所倭城つくる=半島端。交渉は決裂。

 1597年再び豊臣14万派兵=慶長の役=戦いの目的はもはや朝鮮4道の支配。かつての兵たん基地として朝鮮を利用して明攻撃・朝鮮温存と違って凄惨な戦い・耳や鼻切り取って耳塚=京都の秀吉つくった寺へ送る(上記下図の写真が耳塚)。李舜臣再び戦う=潮流の激しい所で秀吉水軍打ち破る。李舜臣りしゅんしん(イスンシン。水軍将軍=救国の英雄となった。1592閑水道の闘い=砲撃と弓矢水軍勝利征海権握る。韓国ドラマ人気や「孤将」蓮池薫翻訳。こうしたなかで「降倭」といわれた降伏する日本兵士。清正のウルサン城の戦い=明と朝鮮軍包囲。追撃。

98秀吉死去後朝鮮侵略は中止。李舜臣戦死。朝鮮人を大量に捕虜として日本に。白磁・有田焼などは朝鮮人捕虜から継承。儒学者カンハンなども。その後朝鮮通信使を送るが、その目的は、捕虜を連れて帰る任務。徳川時代に。その後明は経済的に衰退し1644後金=後の清に。

【朝鮮侵略で連行された朝鮮人陶工集団】(赤旗15.09.05)

◆連行された九州の朝鮮人陶工集団http://www.yoyokaku.com/sub7-66.htm

有田の朝鮮人陶工の記念碑
有田焼

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🔵筆者コメント・「日本と朝鮮半島2000年」No.9=朝鮮通信使用 〜和解のために

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朝鮮通信使は、対馬国のくにの仲介なしにあり得なかった。対馬は朝鮮との貿易で利益を得ていたし領主の宗氏そううじは14C後半以降朝鮮との交易を続けていた。倭館貿易も対馬経由。対馬の領主、宋義智そうよしとしは、1691吉に通信使を送る計画=朝鮮侵略№1の講和。家康への通信使開始工作。講和が日本政府の意向と3回も偽造した。朝鮮通信使は、朝鮮撤退後1年後の1599に開始された。対馬から和を結びたい→1604朝鮮使節ユジョン対馬派遣・京都家康面会・家康和を結びたい=家康威信しめしたい=朱印船と同じ。その後家康国書出すが、それまでは対馬藩作成偽物(家康は国書出したくなかった=王朝も偽物知っていた)。反日感情強く家康からの要請という形とりたいと対馬が対応した。

1607返書→1609スタート=回答兼刷還使かいとうけんさっかんし=豊臣の朝鮮侵略の捕虜=被虜人ひりょにん520万人連れ帰り目的=連れ帰れたのは2000人くらい。1636家光時代通信使4回目から=そのとき清が興隆都侵略=朝鮮も日本との交流必要となる。

計あわせて12回=200年間。鞆の浦宿泊=福禅寺=日本で一番景色が良い。近江八幡=彦根藩が接待=朝鮮街道=呉服屋などが接待=画や書など文化交流・筆談=民衆交流=参勤交替の「下に」と違う「交隣」=江戸時代の韓流ブーム。約500人音楽演奏・官僚だけでなく文化人参列=都から瀬戸内海ルート江戸まで2000km。将軍変わるたびに使節。フサンに倭館設けて外交貿易=朝鮮人参・絹輸入=日本から銀=倭館の外へ出ること禁止。雨森留学。柳川一件やながわ(国書偽造事件)・雨森芳州あめのもりほうしゅう(対馬藩儒学者。通信使№8そして№9のシン・ユハン接待=お互いに交流。朝鮮語教科書作成。

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🔵筆者コメント・「日本と朝鮮半島2000年」No.10=“脱亜”への道

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江華島事件は、1876雲揚号が江華島砲台を挑発して占領。南の永宗島ヨンジョンド砲台と島占領。井上艦長報告=「一同承知の通り戦争起こす」侵略計画意図=米が日本にした砲艦外交をそのまままねて、近代日本のアジア侵略の第一歩となった。後に兵士派遣して開国要求=清の宗主国を無視。日朝修好条規(1876江華島条約=朝鮮開国)を結び開国を強制した。関税自主権なし、これも米にやられた型と同じ。江華島(カンファド)1866仏艦67米艦に鎖国として大院君拒絶。砲台建設をしていた。大院君だいいんくん(高宗の父。デウォンジュン)はやや親日派であったが、高宗(1863-1907コジョン。朝鮮王朝最後。開国後開化=修信使日本に派遣学ばせる。洋式と軍隊。金玉均など重用。1907ハーグ密使事件)や王妃のびん妃(高宗の后。1873大院君退けて政権掌握清派日清戦争後ロシア派。1895日本軍に虐殺)は反日をつらぬいた。こうして壬午じんご軍乱(1882日本侵略=洋式軍指導・びん妃にたいする軍人・民衆の反乱。びん妃失脚すぐ復権。親日派追放。清が介入・清軍出動。王朝親清派強まる)が起きた。済物浦条約(さいもっぽ。1882.8壬午じんご軍乱後の後始末。日本権益獲得=大使館のための駐兵権・仁川や元川での権益獲得)を結んだ。王朝は親日派=独立党と親清派=事大党に分裂した。

金玉均ぎょくきん(キム・オッキュン)は、李朝開化派。朝鮮の宗主権主張する清と朝鮮支配ねらう日本。福沢諭吉は慶応に朝鮮からの留学受け入れ。金玉均も福沢支援。しかし福沢諭吉は甲申こうしん政変後徐々に脱亜に傾く=「朝鮮・清を討て」=日清戦争支援した。金は清からの独立主張。「日朝が文明化することで西洋列強に立ち向かう」立場。日本はこうした開化派を支援。日本後ろ盾にクーデター=甲申こうしん政変。しかし清の介入で失敗=金が期待した日本政府支援失敗した。ロシアや英も朝鮮介入していたので強硬に出られず。金の理想のなかに侵略・植民地化ではない日朝連携の道わずかだがあったとNHKは解説するが。朴泳孝えいこう(李朝開化派。クーデター失敗後日本に。韓国併合後日帝に優遇)。

このようななかで甲申こうしん政変が起きた。84金・朴のクーデター=日本軍支援3日天下=清1500人兵士出動鎮圧。びん妃清側に。朝鮮政府によって死去。天津条約(1885日清天津協定=朝鮮から両軍撤退が結ばれた。

やがて、さいせいぐ(東学創始)・東学(新興宗教)・そんへいき(東学。後に3.1独立運動指導者)、全ほう準(地方官吏出身ほう起。東学呼応)などによる甲午農民戦争こうご(94.5-10東学党の乱。開国で穀物価格高騰=農村疲弊。全羅道中心20万人)が起きた。このなかで日清戦争(94-95東学党の乱に清と日本出兵。伊藤=日本は「東洋の平和」のために出兵。を朝鮮王宮占領。日清開戦)が起きた。黄海海戦こうかいに日本は勝利して下関条約(95.4)を結んだ。日清戦争後、桂タフト協定(95.7)・三浦ご楼(長州出身)・甲午の改革(94-96対日従属)の後乙未事変いつみ(95.10びん妃虐殺。三浦ご楼指揮官憲と大陸浪人=熊本出身)が起き、日露戦争の要因の一つとなった。

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🔵日朝交渉史(小学館百科全書)

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日本と朝鮮の関係は、最近の言語学、歴史学、文化人類学、民俗学など諸分野の研究が進歩するにつれ、東アジア諸地域文化交流のなかで多角的に探究され、戦前の既成概念を大きく改めるようになってきている。視点を新たにした、日本の『古事記』『日本書紀』や朝鮮の『三国史記』『三国遺事』(さんごくいじ)などの古典批判や、中国古文献の研究も進み、遺物・遺跡の発見による検証も深まってきた結果である。[中村栄孝]

◆倭との関係

中国文献(『魏志東夷伝』(ぎしとういでん)など)に基づく日本と朝鮮との関係を追究することは限界にきている。紀元前後から「倭()」が朝鮮北部の中国属領を経て中国の首都に朝貢し、朝鮮南部には金属資源を求めて触手を伸ばした。北部にできた高句麗(こうくり)王国は、4世紀に入ると南下してきた。また、中・南部には馬韓(ばかん)に百済(くだら)王国、辰韓(しんかん)に新羅(しらぎ)王国が興り、いずれも中国に朝貢して冊封(さくほう)を受け、3国はそれぞれ勢力を競った。倭は、南部にあった弁韓(べんかん)の狗邪韓(くやかん)国(任那加羅(にんなから))に拠点を得て、3国に対抗し、同じく中国に朝貢して冊封を受け、その権威を借りて文物の摂取に努めた。日本の古墳文化発展の時期に相当する。倭王国形成の過程については諸説が出ていて、いまだ定説はない。朝鮮国家の日本での分国形成に由来するとか、北方騎馬民族の移動によるという着想もある。[中村栄孝]

◆古代日本の朝鮮観

日本に大和(やまと)政権の統一支配が形成されるに伴い、日本が高句麗、百済、新羅を朝貢国とする伝統的朝鮮観の中核ができて『古事記』『日本書紀』のなかに古伝承として定着した。新羅は、高句麗と結んで日本の勢力を破り、唐の勢力を導入して、百済を攻め滅ぼし、百済の復興を策動する日本を退けた。ついで高句麗を滅ぼして、7世紀に統一国家を建設し、日本との修好を続けながらも、その地位を高め、対等儀礼の形成に努めた。日本は、67世紀に朝鮮進出工作に挫折(ざせつ)してからも、これを朝貢国とみる観念を固く持続し、後世長く公式外交を開かなかった。10世紀のころ、後百済(ごひゃくさい)王国の要請も、高麗(こうらい)王国の希望も拒否している。[中村栄孝]

東アジア通商圏の一環目次を見る

同じころ、中国への遣使をやめ、唐・宋(そう)の交替後は、中国商船の高麗、日本への往来により、経済的、文化的交流があり、12世紀になると、受動的関係から転じて高麗、宋へ商船の進出が始まった。南宋と高麗・日本との海上交通による接近は、13世紀に、中国本土の支配を目ざすモンゴルに、高麗征服に続いて2回の日本攻撃(元寇(げんこう))を断行させた。元の成立で東アジア通商圏が形づくられても、外交関係は断絶したまま、鎌倉幕府による武家の国防活動も反映し、日本商船の無秩序な進出となり、14世紀後半は、朝鮮、中国の沿海で「倭寇(わこう)」の海賊的行為が展開された。日本では、1367年(正平22・貞治6)に、元および高麗から倭寇禁制の要請を受け、足利(あしかが)政権が朝廷から一任されて、天竜(てんりゅう)寺僧の名義でこれに応じた。武家政権が外交権を接収する端緒になった。[中村栄孝]

◆交隣関係――日本国王と朝鮮国王

中国では明(みん)が興り、元を打倒して漢人支配を回復すると、李成桂(りせいけい)(太祖)が親明政策をとって朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建て、対日交隣政策を国是とし、日本では足利義満(よしみつ)がこれに応じた。この前後に、義満と朝鮮王太宗(たいそう)とは、それぞれ明から冊封を受けて、日本国王と朝鮮国王になり、対等の国交が成立した。足利政権は、伝統的観念に基づく批判のため、儀礼上に特例をつくりながらも、宮廷から外交権を接収し、対外的元首としての地位を持続した。これは徳川政権に継承されて明治政府の外交権回収まで続いた。外交上の実務担当は、局務家(太政官(だいじょうかん)中の外記(げき)の上席の者)から五山禅僧を経て儒臣へと推移している。[中村栄孝]

◆定約通商の体制

朝鮮は、15世紀初め、日本からの渡来者を優遇したので、貿易を目当てにその数が急増した。世宗(せいそう)は、その統制策を講じ、通交者と商人を区分して自主規制を求め、常時通交者に図書(としょ)(印)を与えて保障とし、また、出入浦所(ほしょ)(港)を指定して薺(せい)(乃而(だいじ))浦()、富山(ふさん)(釜山)浦()、塩浦(えんぽ)の三浦(さんぽ/みつうら)に限り、一方、対馬(つしま)の位置を利用し、島主の文引(ぶんいん)(日本で吹挙(すいこ)・吹嘘(すいこ)、渡航証明書)の発給を認めた。続いて積極的に「歳遣船定約(さいけんせんていやく)」(年間渡航船数の協定)で使船を制限した。1443年(嘉吉3)、対馬島主宗貞盛(そうさだもり)との「癸亥(きがい)約条(嘉吉(かきつ)条約)」で歳遣50船と限定し、その後、世祖は定約を日本本土の通交者に及ぼし、77年(文明9)、成宗(せいそう)がすべての通交者と船数を約定し、15世紀後半は、定約通商の体制が確立していた。

 当時の貿易は、朝鮮からの絹、麻布、苧布(からむし)、新興の木綿機業による織物類、朝鮮人参(にんじん)などが主要輸入品で、日本からは金、銅、錫(すず)、銀、硫黄(いおう)などの鉱産、および博多(はかた)貿易を中継として南洋特産の蘇木(そぼく)(丹木(たんぼく))、胡椒(こしょう)、黒角(こくかく)(水牛角)、諸種香料などが輸出された。朝鮮では官営貿易(一時的に私貿易も)が原則で、政府の財政負担が漸次に過重となり、滞貨も増して紛争を招いた。また朝鮮国内流通経済の発展に伴い、潜商(せんしょう)(密貿易)が常習的になり、浦所居留の恒居倭(こうきょわ)や通事と漢城(ソウル)の貴族や商人との結託も目だってきた。[中村栄孝]

◆約条の制限強化

16世紀の初め、中宗の対日秩序回復政策に反発して、1510年(永正7)に三浦で日本人の暴動(三浦の乱)が起こり、対馬との通交貿易が絶たれた。12年に「壬申(じんしん)約条(永正(えいしょう)条約)」が成立し、制限が強化され、浦所は薺浦一港とし、恒居倭の居留を廃し、対馬島主歳遣船を25隻に半減し、また定約者は本土の35船に更新し、継続者も再審査して図書を改給した。島主宗氏は通商体制の復旧を図り、21年(大永1)に釜山浦の再開、23年に島主歳遣船5隻の増加に成功したが、44年(天文13)海賊の蛇梁(だりょう)侵犯で疑惑を受け、通交を絶たれた。47年に、「丁未(ていび)約条(天文条約)」が成立して、島主歳遣船25隻を回復し、釜山浦一港となり、本土定約者が更新された。その後、55年(弘治1)に、日・明海賊の連合による全羅(ぜんら)道沿海の侵寇(乙卯達梁(いつぼうたつりょう)の倭変)が起こると、海賊捕斬(ほざん)の功を理由として5隻を回復し、歳遣船が30隻になった。[中村栄孝]

◆通商圏の変貌と対馬の貿易独占

16世紀後半は、日・明の国交が絶えたが、中国沿海の通商は新来のポルトガル人を加えて発展し、東アジアの通商圏は変貌(へんぼう)を遂げていった。中国も海禁を緩めたが、日本船は往来を許されないため、中国海賊と連合して活動し、日本の五島(ごとう)列島が、その根拠地になった。そのころ、対馬島主は、朝鮮渡航者に対する文引発給権を媒介にして、日本本土の定約者などの名義を集中的に継承し、家臣に給付して領国支配の確保に利用し、朝鮮貿易独占の体制を固めていった。豊臣(とよとみ)秀吉が、1587年(天正15)征明計画を意図し、朝鮮の従属要請交渉を宗氏に命じたのは、このような時期であった。やがて9298年(文禄1~慶長3)の朝鮮出兵(文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役、朝鮮では壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)倭乱)となった。

 戦後、対馬島主宗氏は、その財政的基礎として朝鮮貿易の復活を急ぎ、和平の成立に尽力し、1609年に「己酉(きゆう)約条(慶長条約)」により、通交の体制を更新し、島主歳遣船20隻を復活し、釜山浦一港が開かれ、極度に制限されたが、徳川政権から朝鮮との外交事務の管掌を認められ、引き続き貿易を独占することができた。[中村栄孝]

◆徳川政権の外交体制

日本軍の朝鮮撤兵にあたり、明軍との停戦協定が和平の端緒になった。当時、秀吉の遺命を受けた徳川家康が、対馬島主宗氏と老臣柳川調信(やながわしげのぶ)らがその折衝にあたることを認めており、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後は、積極的に継続を指令し、ちょうど明軍が帰還したので朝鮮との直接交渉が進展した。やがて家康が征夷(せいい)大将軍となり、07年には、「日本国王」の名義で送った国書に対する回答使が渡来し、交隣関係が復旧した。その後も相次いで朝鮮使節がきたが、当初から対馬島主宗氏らが、足利(あしかが)政権の慣行に基づいて策謀を巡らし、日本国王の国書を偽作あるいは改作していた。これが35年(寛永12)に暴露し、徳川家光(いえみつ)は関係者を処刑し、外交体制を刷新し、新規の儀礼に基づく「通信使」を迎えた。

 このとき、征夷大将軍の対外称号を「日本国大君(たいくん)」と定めて朝鮮の承認を得た。足利政権の例により外交を専断し、中国との復交に成功しなかったので、新例を開いたのである。徳川政権は後世、近代国際社会参加の際もこれを用いた。新井白石(あらいはくせき)が朝鮮外交儀礼を改革したとき、1回だけ日本国王号を称した。通信使は1811年(文化8)までに9回渡来し、新将軍の即位を賀し、来使に答書を託送した。[中村栄孝]

◆明治の外交

明治新政府は、外交権を接収すると1868年(明治1)、対馬の宗義達(よしさと)(重正)に外交関係刷新を朝鮮に交渉させ、未解決のまま外務省に継承した。朝鮮では、国王の生父興宣(こうせん)大院君李応摂政(りしおうせっしょう)時代で、排外政策を強くとっており、交渉の停滞が日本の「征韓論」を誘発した。大院君隠退後、政局が変化して76年の日朝修好条規(江華条約)が成立した。近代国際関係展開の転機になったが、一面、対中国宗属関係との矛盾が波乱を生んだ。列強の進出が政界の党争に関連して、開化・保守の対立を生み、農民の不満と苦悩から甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、94年、日清(にっしん)戦争を誘発した。親日開化派は甲午更張(こうごこうちょう)の改革を断行して自主独立を図り、日本は独占的支配をねらったが、列強の圧力(三国干渉)で後退し、97年には「大韓帝国」が成立した。その後、日本は近代産業の発展を背景として大陸進出を目ざし、1904年ロシアと戦って勝利すると、乙巳(いっし)保護条約を押し付け韓国を保護国とし、10年これを併合した。[中村栄孝]

◆日本支配と独立回復

併合後は朝鮮総督府が置かれ、明治憲法の勅令に基づく法令により、琉球(りゅうきゅう)・台湾を先例とする同化政策をとり、日本資本主義の発達に高度の寄与を続けた。地方自治拡充、官吏任用、財政制度、経済開発、兵役制度、および貴族院議員の勅選などがその基本線に沿っている。しかし、帝国主義的支配の進展につれ、民族的抵抗は高まり、独立運動とその弾圧が繰り返された。1945年(昭和20)日本の敗戦により解放された。その間、1919年(大正8)の三・一独立運動は、武断的支配から文治政治に転回させ、第二次世界大戦中の皇国臣民化と労働要員徴用の強制や徴兵制度の施行は、深刻な影響を残している。

 独立回復後、米ソ両国の対抗から1948年に韓国(大韓民国)と北朝鮮の分裂を生じ、50年の朝鮮戦争以来、長期化した。65年に日韓協定が成立し、複雑微妙な関係を生み、南北両国と日本の間には、永住権、民族教育、出入国などに関し、過去にも連なる重要問題が多い。

 なお、日本の朝鮮への侵略、併合以降、第二次大戦での日本の敗戦による解放までは「朝鮮史」の項に、解放後から現在に至るまでの交渉史は「日本と朝鮮半島との関係(第二次世界大戦後)」「朝鮮」の項に記述されているので参照されたい。[中村栄孝]

『中村栄孝著『日鮮関係史の研究』上中下(196569・吉川弘文館) ▽中村栄孝著『日本と朝鮮』(1966・至文堂) ▽金錫亨著、朝鮮史研究会訳『古代朝日関係史』(1969・勁草書房) ▽中塚明著『近代日本と朝鮮』(1977・三省堂)』

[参照項目] | 嘉吉条約 | 韓国併合 | 騎馬民族 | 元寇 | 遣新羅使 | 遣唐使 | 冊封体制 | 三浦の乱 | 朝鮮 | 朝鮮通信使 | 日本と朝鮮半島との関係(第二次世界大戦後) | 文禄・慶長の役 | 柳川一件 | 倭寇

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る 

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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