ロシア革命100年・社会主義にひかれる若者たち・そもそも社会主義とは・ソ連の歴史と崩壊・プーチンのロシア

ロシア革命100年・社会主義にひかれる若者たち・そもそも社会主義とは・ソ連の歴史と崩壊・プーチンのロシア


🔴憲法とたたかいのブログトップ https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/29/憲法とたたかいのblogトップ/

【このページの目次】

◆ロシア革命・ソ連・ロシアリンク集、ソ連映画リンク

◆ロシア革命100年と社会主義を考える

◆社会主義にひかれる若者たち

◆ロシア革命=小学館百科全書

◆ロシア革命の意義・スターリン以降のソ連をどうみればよいか(日本共産党綱領の一部改定についての報告から)

◆レーニン=小学館百科全書

◆ソ連の歴史と解体=小学館百科全書

◆現代ロシア=プーチン帝国

◆ソ連の崩壊=小学館百科全書

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🔵ロシア革命・ソ連・ロシア、ソ連映画リンク集

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◆当ブログ=日本共産党の社会主義論・そもそも社会主義とは何か

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3048833.html

◆当ブログ=戦後世界史=ストーンのアメリカ現代史全11BS冷戦史全24回・中東史全7回・ブッシュの戦争全5回・CIA史全3池上彰の現代史講座全13は、戦後の詳しいソ連史となっている

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/4033570.html

◆当ブログ=戦後東欧のたたかい、89年の東欧の崩壊

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2993645.html

◆当ブログ=不破哲三『スターリン秘史ー巨悪の成立と展開』語る(16卷)

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/54550077.html

◆当ブログ=エイゼンシュテインの映画の世界

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3036231.html

★★映画=戦艦ポチョムキン(エイゼンシュテイン監督) 字幕・日本語

★★映画=10月(10月革命)(エイゼンシュテイン監督。字幕・日本語

https://drive.google.com/open?id=1gzsJfxBrw5IvvpihD6etIdp6bwIPVVi5

◆当ブログ=日本共産党の社会主義論

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3048833.html

◆当ブログ=不破哲三『スターリン秘史ー巨悪の成立と展開』語る(16卷)

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/54550077.html

◆当ブログ=スターリンと芸術家たち(エイゼンシュテイン・マヤコフスキー・ショスタコビッチなど)

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2847647.html

🔵プロファイラー・革命家レーニン58m

https://drive.google.com/file/d/1Y5Ig6qAybtzNMLUa9GRGcpkLWVY1aet0/view?usp=drivesdk

★★ロシア革命とレーニンの生涯40m

PCの場合全画面表示で見ると過剰広告減)

★★BS現代ロシアでのスターリン復活現象と抑圧への告発50m

★★BSドキュメントライシュの『みんなのための資本論』

(このドキュメントは、映画『みんなのための資本論』の中心部分を動画にしたもの)50m

【筆者コメント】 

映画の中心部分の解説だが、アメリカの貧困と格差のの増大をシャープに分析した動画で、面白い。同じものにピケティの『21世紀の資本』がある。ほぼ同時期に2人の分析が社会に出た背景には、急速に増大したアメリカの貧困と格差問題がある。このブログで分析してきたSEIU15ドル最賃運動の前進、ムーア監督のさまざまな映画、そしてこれまでになかったアメリカ大統領選挙で「貧困と格差の解消」を強く訴えた民主党のサンダースへの支持の急速な拡大に、証明されている(イギリスのコービン労働党党首が、右派、議員から激しく攻撃されながらも地方や労働組合の支持を受けて奮闘しているのも、急速にひろがっているイギリスの貧困と格差問題がある)。ピケティは、富裕層への課税の強化を解決策として提起したが、ライシュは、とりわけ労働者の労働運動と賃金闘争の強化を呼びかけている。

インタービューを掲載した社会学者のパットナムも同じ主張だ。経済学者クリーグマンの主張もほぼ同じだ。アメリカの学界の有力な潮流を形成しつつある。こうした潮流に励まされて、サンダースを支持する大きな流れが生まれたのである。

ピケティやライシュの著書や映画のタイトルは、ともに訳者たちによって日本受けをねらってマルクスの「資本論」風のタイトルにしているが、まさにその通り、ますますマルクスの「資本論」の分析、つまり搾取と資本蓄積による貧困化と格差の増大、労働運動の強化と階級闘争の前進の方向にたどらざるをえないことを示している。アメリカの新しい労働運動とサンダースなどの政治闘争の前進に大いに期待したい。

◆◆マルクス生誕200周年=マルクスの理論家・革命家の両面に光が

市民運動の発展と響きあう、志位委員長 講演で強調

2018423日赤旗

 22日に開かれた「日本共産党と大学人のつどい」(主催=全国学者・研究者党後援会)の記念講演で、志位和夫委員長は、「マルクス生誕200周年を迎えた今年、世界でマルクスへの注目が高まっている」とのべ、「世界や日本でわき起こっている新しい市民運動に参加しつつある広範な人々にもマルクスが響きあい、共感をもって受け入れられる条件が広がっているのではないか」と強調しました。

(写真)マルクス特集をした独紙「南ドイツ新聞」と英紙「フィナンシャル・タイムズ」

 志位氏が、ヨーロッパでマルクスの人気が高まっているとして紹介したのは、独紙「南ドイツ新聞」が2018年元日号でおこなったマルクス大特集です。「生誕200周年を前に、かつてほとんどなかったほどカール・マルクスの人気が高まっている」「『共産党宣言』にはきわめて現代的な考え方が見られる」などと注目しています。

 さらに志位氏は、英紙「フィナンシャル・タイムズ」(18年3月10、11日号)の大特集を紹介。この特集では、筆者が資本主義の熱心な支持者でありながら、『共産党宣言』は今日的意義をもっていると主張。「現代の富の配分を目の当たりにすれば、マルクスとエンゲルスは愕然(がくぜん)とするに違いない」、「世界人口の上位1%が残り99%の人々と同等の資産を所有する異常な現実に直面している。持てる者が持たざる者に対してこれほど優位に立ったことは、史上かつてなかったことである」「万国のアクティビスト(積極行動主義)よ、団結せよ!」と呼びかけています。

 志位氏は、今日のマルクスへの注目について、▽資本主義の矛盾を明らかにした理論家▽社会を変革する革命家――という両面でマルクスに光があたっていると強調。「マルクスの生涯をたどるとき、その時、その時の人民の革命運動に飛び込み、情熱的に連帯し、その中で自らの理論を鍛え上げ、豊かにしていった生涯だったといえると思います」と述べ、1848年のヨーロッパ革命・ドイツ革命で民主共和制と国民主権の旗を掲げ、50年代は亡命先のイギリスでチャーチスト運動への連帯に取り組み、60年代はアメリカの南北戦争での奴隷制反対のたたかいに熱く連帯し、70年代にパリ・コミューンへの連帯と教訓を引き出す取り組みに情熱を傾けたことなどを挙げました。

 志位氏は、「今、世界でも、日本でも、現状変革をめざす新しい市民の運動がわき起こっています。マルクスの革命家としての生涯は、この運動に参加しつつある広範な人々にも響き合い、共感をもって受け入れられるのではないでしょか」と語りかけ、日本共産党としてもこの機会にマルクスの魅力を広く国民のなかに明らかにする活動にとりくむ決意をのべました。

◆◆きょうマルクス生誕200年、独大統領マルクスは現代に通じる多面的業績語る

201855日赤旗

(写真)生誕200年を迎えたマルクスを特集するドイツの新聞や雑誌(伊藤寿庸撮影)

 【ベルリン=伊藤寿庸】ドイツのシュタインマイヤー大統領は3日、ベルリンで、同国出身の思想家・革命家カール・マルクス生誕200年に当たり、マルクスの多面的な業績や現代的な意義について触れる講演を行いました。

 同大統領は、マルクスが「熱烈な人道主義、出版の自由、人間的な労働条件、8時間労働、女性の役割の評価、環境保護」に取り組んだと指摘。現代のグローバル化を予言し、労働者と機械の競争などの分析は、現代の労働者が直面するAI(人工知能)、ロボットなどの問題に通じると述べました。

 マルクスが、経済学者、哲学者、歴史学者、社会学者だっただけでなく、ジャーナリスト、労働運動の指導者、教育者でもあり、政治的迫害を受けた人、亡命者でもあると指摘。マルクスが「ドイツの思想家」であっただけでなく、国際主義を体現していたと強調しました。

 ドイツでは有力週刊誌紙が、マルクス特集の別冊を相次いで発行。マルクスの生地トリーアでは誕生日の5日、生家を博物館にした「カール・マルクス・ハウス」が改装を経て再び公開されます。

 左翼党系のローザ・ルクセンブルク財団はベルリンで「マルクス生誕200年 政治・理論・社会主義」と題する国際会議を2日から5日間にわたって開催し、若い学生などが多く参加しています。

◆◆色あせないマルクスの経済分析力

(赤旗日曜版18.01.28

◆◆米若者たちが社会主義旋風=予備選で番狂わせ次々

赤旗18.09.25

◆◆(世界発2018)社会主義、共鳴する若者 アメリカとイギリス

朝日新聞18.03.07

 グローバル資本主義の中心地である米国や英国で、「社会主義」に魅力を感じる若者たちが声を上げている。きちんと学び、定職に就き、まともな家に住みたい。そんな当たり前の希望がかなわない格差の拡大が背景にある。彼らは「格差是正」を訴える老政治家にこぞって共鳴し、国政を動かそうとしている。

 (マナサス=江渕崇、ロンドン=下司佳代子)

◆アメリカでは 「赤狩り」今は昔「現実的な選択肢に」

(2016年米大統領選の民主党予備選に立候補したバーニー・サンダース上院議員の支持者たち=同年3月、米アリゾナ州、ロイター)

(バーニー・サンダース上院議員)

(バーニー・サンダース上院議員に触発され、州下院議員になったリー・カーターさん=昨年11月、米バーニジア州マナサス)

 ♪組合の精神が労働者の血潮に宿るとき 世にこれほど力強いものはない

 昨年11月の深夜、首都ワシントンから車で1時間弱のバージニア州マナサスに若者たちの歌声が響いた。

 社会主義運動が盛んだった約100年前に米国で生まれた労働歌「連帯よ永遠に」。バージニア州議会下院選で共和党のベテラン現職を破って当選を決めた民主党のリー・カーターさん(30)の勝利集会だった。

 全米で地方選挙があったこの日、カーターさんら米最大の社会主義団体「米民主社会主義者(DSA)」のメンバーが、市議などの公職に15人も当選した。大手メディアなどが想定していない事態だった。

 カーターさんは元海兵隊員。社会主義への思い入れはなかった。転機は2年前。退役後に就いた電気工事の仕事で感電事故に遭った。何週間も起き上がれない重傷を負ったのに会社も州当局も労災を認めず、約4800ドル(約55万円)あった月収はゼロになった。

 「労働者と会社の利益は違うと思い知らされた。これを見過ごしたら、他の人が同じ目に遭うのを許すことになる」

 州議会選への立候補を決めた後、DSAに入った。「民主社会主義者」を自称し、2016年の米大統領選予備選で旋風を巻き起こしたバーニー・サンダース上院議員(76)の運動に触発されたからだ。

 専任スタッフはともに22歳の男女2人だけ。若者中心のボランティアたちが毎日100軒近くをノックして回った。

 共和党候補からは、攻撃を受けた。レーニンやスターリン、毛沢東のイラストとカーターさんの顔写真を並べて「社会主義」と大書したビラが配られた。

 だが得票率にして9ポイント差で、予想外の勝利を決めた。「反トランプ政権」の空気が追い風となり、若年層の投票率が上がったことが勝因とみられている。

 カーターさんは「僕の世代にとって社会主義は、労働者が経済の主導権を取り戻すための現実的な選択肢になった」と言う。

 米ソ対立が深刻化した1950年代にマッカーシズム(赤狩り)の嵐が吹き荒れて以降、「敵国」の思想である社会主義は米国でタブー視されてきた。

 しかし1980年以降に生まれたミレニアル世代の意識は、もはや違う。幼い頃に冷戦が終結。「資本主義」と言えば08年のリーマン・ショック以降の経済危機が真っ先に頭に浮かぶ人たちだ。昨秋のネット上の調査では、ミレニアル世代の53%が「米経済は自分に不利に動いている」と答え、「社会主義国に住みたい」が「資本主義国に住みたい」を上回った。

 DSAは、そんな若者を引き寄せる。企業や富裕層の政治への影響を排し、働き手の発言力向上をめざす。私企業や市場を完全には否定しない。DSA全国政治委員会のラビ・アフマド・ハッケさん(39)は「職場でも医療でも選挙でも、そこに労働者の利益が反映されることを目指します」と語る。今年11月の中間選挙に向け、DSAや、ほかの左派系政治団体が若者からの支持を伸ばしている。16年の大統領選以降、「中道」路線と「左派」の綱引きが続く民主党の戦略に大きく影響しそうだ。

 10年の中間選挙で、当時のオバマ政権に対抗する保守派の茶会運動(ティーパーティー)が勢いづき、共和党を右傾化させた時とは正反対の動きが進んでいる。

◆イギリスでは 「ゆりかごから墓場まで」に喝采

 昨年11月、大学授業料の無償化を求める千人規模のデモ隊がロンドンの街を練り歩いた。「教育を無料に」「金持ちに課税を」と書かれたプラカードが揺れる。英議会前にさしかかると、デモ隊はサッカーの応援のように声をそろえた。

(「教育を無料に 金持ちに課税を」と書かれた横断幕を持ってデモ行進する若者たち=昨年11月、ロンドン)

(ジェレミー・コービン労働党党首=ロイター)

 「オー! ジェレミー・コービン!」

 コールしたのは最大野党・労働党党首の名だった。ジェレミー・コービン氏(68)は1983年に下院議員に初当選。反緊縮財政・反戦が信条だ。90年代に労働党を躍進に導いたブレア氏の中道路線「ニューレイバー(新しい労働党)」にことごとく反対。マルクス主義者と揶揄(やゆ)され、党内主流派からは嘲笑されてきた。

 そのコービン氏が15年の党首選で圧勝した。支えたのは若者を中心とした一般党員だった。それから2年半。熱狂は冷めるどころか強まる一方だ。

 昨年6月の総選挙では、労働党が終盤に脅威の伸びを見せ、与党・保守党を過半数割れに追い込んだ。40代以下の全世代で労働党の得票が保守党を上回った。特に18、19歳では労働党への投票が66%。保守党の19%を大きく引き離した。

 オックスフォード辞典は、若者が政治的、社会的に大きな変化を起こしたとして「ユースクエイク」(若者の反乱)を昨年の「今年の言葉」に選んだ。

 コービン氏が長年続けてきた「反緊縮」の訴えが今、若者を引きつける。総選挙で注目された労働党マニフェストの目玉は、大学の授業料無料化だった。

 英国の大学はほぼ全校が国立だ。ブレア政権下の98年に授業料を払う仕組みになり、保守党政権でも上限額の引き上げが続いた。いまは平均で年間9千ポンド(約138万円)。生活費なども含め卒業時には5万ポンド(約770万円)の借金を抱えるのが普通だ。将来に対する不安や怒りは、緊縮財政で弱者に我慢を強いる政治に向かった。昨年の総選挙では英南東部カンタベリー選挙区にその地殻変動が端的に現れた。労働党のシングルマザー候補が在職30年の保守党ベテラン男性議員を破り、保守党は99年間守ってきた議席を失った。

 労働党の議員事務所で働くライアン・スミスさん(22)は、留学先の米テキサスでバーニー・サンダース上院議員の選挙を手伝い、政治にのめり込んだ。反緊縮と民主社会主義を掲げるサンダース氏とコービン氏の姿が重なり、労働党の運動員になった。「コービン氏の公約は、新自由主義にくたびれた人たちが待ち望んでいたものだ」と話す。

 コービン氏は昨年9月の労働党大会で、第2次大戦直後に手厚い社会保障政策を実施したアトリー政権の「ゆりかごから墓場まで」に言及し、喝采を浴びた。

 スミスさんはいう。「コービン氏はポピュリストではない。40年間同じことを言い続け、彼を必要とする時代が来たのだ」

◆コービン党首を支える草の根の力

(赤旗16.10.03

ロバート・バーナード・ライシュ(英語: Robert Bernard Reich, 1946624)は、アメリカ合衆国の経済学者、文筆家、カリフォルニア大学バークレー校公共政策大学院教授。これまで、ハーバード大学ケネディスクール教授、ブランダイス大学社会政策大学院教授、アメリカ合衆国労働長官を歴任している。

★★国際報道171107・ロシア革命100年=ロシア革命に共感感じる若者たち13m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v12973507825GwSQ3e

◆◆萩原=格差拡大のなかで社会主義に注目する若者たち

赤旗日曜版18.01.21

★★ETVロシア革命100年後の真実=革命の経過・評価58m

【この動画について筆者コメント】 

ロシア革命100年の特集として171125NHKETVで放送された。塩田氏が編集にあたっているので、ロシア革命とレーニンの歴史的経過として正しい映像も多く含まれている。しかし全体として「犠牲の多い暴力革命」という側面の強調が多々見られる。1905年革命の際に日露戦争を有利にすすめるために明石三郎が革命勢力に金銭と武器を提供しようとしたが失敗。ドイツが革命勢力に莫大な金銭や武器を提供し、レーニンなど革命家を「封印列車」でロシアに送りこんだ。ロシア革命ではエイゼンシュテインの「十月」の映画(上記)のような武装闘争は基本的になかった。「国家と革命」でレーニンが強調しているように、レーニンはエスエルが過半数を占めた憲法制定会議を解散させて議会制民主主義の道を絶った。とくに内乱と帝国主義国の干渉の時期=「戦時共産主義」の時期に、チェカなど政治的抑圧が強化された。とりわけ「土地革命」で富農を敵として弾圧したこと。農民から食糧を強制徴収したことで起きた農民の反乱を武力で弾圧したこと。タンボフでは1.4万人が殺され、毒ガスも使用されたこと=1921.6.21レーニンはのちに新経済政策=ネップで)農民の自由な取引など市場経済を導入して是正されるが、教会の財産没収、反政府インテリの取り締まりなど「ブロレタリア独裁」のための政治的抑圧は続いた。これらはスターリンの独裁・粛清の体制につながっていったと動画はのべている。

現代のロシアでこのロシア革命が学校でどのように教えられているのか、ロシア国民のロシア革命への世論調査(ロシア革命肯定48%・否定32%)も紹介される。「スターリン支配」「軍事偏重で暮らし犠牲」などの印象が強いロシア革命・ソ連も含め「犠牲があった」ことは見つめつつ、ロシア革命を肯定する意見が多数あることに驚いた。プーチンのロシアも大きな矛盾を抱えていることがこのことでよく分かる。

からまでの解説が、どこまでが事実なのかを深めでいく必要がある。❶❷は事実に近い。敵の矛盾の革命的利用か。しかし政治資金は大衆に依拠した自主的なものが基本。レーニンたちを乗せた「封印列車」は、ドイツ仕立てでなく独自性貫いている。はもっと研究が必要。武装闘争の側面あったのでは。

問題は❹❺❻。とくに強調されている「戦時共産主義」時代のレーニンの民主主義の欠如、議会制民主主義の軽視などの問題点については、当時レーニンが「国家と革命」で武装革命を普遍的なものとし議会制民主主義を否定したように、「理論的にも荒れた時期」(不破)であり、内乱と外国軍隊の介入で政権そのものが存亡の危機に立たされていたなかで、民主主義的政策が欠如したというレーニンたちの政策的過ちが存在していた。しかし、それはスターリンのような本質的な過ちではなく同一視はできない。なおタンボフの1.4万人の死者・毒ガス使用については、研究必要(Wikiには、帝国の末期以来、タンボフではしばしば農民反乱が起きた。ロシア内戦後期の1920年から1921年にかけ、タンボフ周辺ではアレクサンドル・アントーノフが率いるボリシェヴィキや赤軍に対する大規模な農民蜂起が起きたが(タンボフ反乱)、毒ガスなどを用いる赤軍により鎮圧されたと書かれている)。

【ロシア革命のなかのレーニンの活動、その後のスターリンの過ちについては、以下の不破解説が分かりやすい】

★★不破=『古典教室』講義一覧

http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

★★第12回(最終回)マルクス、エンゲルス以後の理論史

http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

◆「古典教室」 不破社研所長の第12回講義あらまし

マルクス、エンゲルス以後の理論史

科学的社会主義の本道に立って

 前回の講義で不破さんは、マルクス、エンゲルスの理論と精神をつかみ、その目で変革の前途を考える努力をしている党は資本主義諸国にいまほとんどなく、日本共産党の態度は世界でも独特の地位を占めていると紹介しました。

 社会主義運動は、そもそもマルクスの理論が出発点のはずなのに、なぜこうなっているのか。それには歴史があります。不破さんは、1930年代からソ連崩壊(91年)まで半世紀以上、「マルクス・レーニン主義」というマルクスの理論とは似て非なる理論体系が世界の共産主義運動の中で支配的な地位を占めるなかで、「その間違った理論体系を根本から打破しようと一貫して努力してきたのが日本共産党でした」とのべて、マルクス以後、レーニンの時代、そしてスターリン時代と歴史をたどり、日本共産党の理論闘争の意義を明らかにしました。

マルクスを継承したレーニン、似て非なるスターリン

 マルクス、エンゲルスが死んだあと、その理論と精神を正面から受け継いだのは、ロシアのレーニン(1870~1924)でした。

 18歳で『資本論』を読み始め、マルクス、エンゲルスの手に入るあらゆる文献を徹底的に研究し、革命運動の分析に生かし、発展させました。

 レーニンの研究は、マルクス理論の全分野に及びました。哲学では、38歳で『唯物論と経験批判論』を執筆しました。不破さんは「私自身、この本を読んではじめて、エンゲルスの『反デューリング論』にはこれだけの意味があったのか、と悟ったものでした」と語りました。20世紀初頭、物理学が危機に陥ったとき、危機の根本を分析して打開の展望を示したのは、レーニンのこの本でした。ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英さんの先生である坂田昌一さんは、レーニンの理論を素粒子論研究の指針にしました。また、その数年後、第1次世界大戦中に、ヘーゲル弁証法を徹底して研究して書いた『哲学ノート』は弁証法の研究になくてはならない本になっています。

 経済学では、世界大戦の根源と性格を解明しようとして書いた『帝国主義論』(1916年)は20世紀の資本主義の発展段階を研究した、いまでも大事な著作になっています。

 「レーニンの本領は革命論でした。ロシア革命を指導した、その指導ぶりはみごとなものです」。不破さんは日露戦争のさなかに始まった1905年の第一革命で、ブルジョア民主主義革命にどう立ち向かうかという課題が提起されたとき、メンシェビキのようにブルジョアジーに政権を任せるというのではなく、マルクス、エンゲルスの文献を研究して、人民が主導する民主主義革命の路線を世界の革命運動で初めて打ち立てたとのべました。

 17年の二月革命では、帝政ロシアの専制君主ツァーリの政府が倒れたあと、労働者と兵士のソビエトが、ブルジョア諸党がたてた臨時政府に政権を任せてしまうという複雑な事態が起きました。亡命先のスイスから、「封印列車」でドイツを通ってロシアに戻ったレーニンは、「四月テーゼ」を発表。臨時政府とソビエトの「二重権力」を解消するために、ソビエトの多数を獲得するという多数者革命路線を提起しました。そして臨時政府の大弾圧をはねのけて、少数派だったボリシェビキが多数者を獲得し、帰国の半年後には十月革命を勝利させ、革命政府は「土地を農民へ」の土地改革を実行、農民の支持も得ました。

 イギリス、フランスなど14カ国がロシア革命をつぶそうと干渉戦争(18~20年)を始めます。そのなかで、内戦時の非常体制を固定化する「戦時共産主義」論やヨーロッパ革命での「少数者革命」論など、理論の荒れた時期も生まれます。その背景には『国家と革命』での誤った理論展開がありました。

 干渉戦争に勝利して平和を勝ち取ったあと、レーニンは、活動の全領域にわたって理論と政策の総点検をやり、国内建設では「新経済政策」を打ち出し、市場経済への大転換を遂げます。異なった社会制度の国ぐにとの平和共存外交を打ち出したのも、ヨーロッパ革命で多数者獲得、統一戦線の方針を基礎づけたのも、このころでした。レーニン本来の理論的活力を取り戻した「最後の3年間」でした。

 「そうやって転換してきたレーニンですが、足もとに大穴があいていることに気がつきました。それがソ連邦結成問題です」。レーニンは、大きな国も小さな国も対等平等で合同する連合を考えていましたが、スターリンは、ロシアへの吸収合併でソビエト連邦をつくろうとしていました。

 レーニンは、「この大ロシア排外主義と生死をかけたたたかいをする」と宣言し、ソ連結成の方式を正しましたが、スターリンの少数民族抑圧の態度は続きました。レーニンは、病床から党大会へ手紙を送り「これは帝国主義の振る舞いだ」と痛烈に非難し、スターリンが「粗暴すぎる」ことを理由に、交代するようにと書きましたが、まもなく病気で倒れ、政治活動不能になります。

 権力を握ったスターリンはやがて、もっとも粗暴な大国主義者として行動しはじめました。

 「マルクス、エンゲルスの理論に対する態度も、スターリンとレーニンはまったく違いました」と不破さん。「レーニンは、マルクスを誤解したことはありましたが、最後まで、マルクス、エンゲルスに忠実でした。しかし、スターリンは、レーニンが死んだ直後の講演『レーニン主義の基礎』のなかで、マルクス、エンゲルスは古い時代の理論、現代に役に立つのはレーニン主義だとマルクスの棚上げを公然とよびかけました。しかし、そのレーニンも、スターリンは自分に都合の良い部分を政略的に使っただけでした」

 ここで不破さんが、1冊の分厚い本を取り出すと、受講生の注目が集まりました。スターリンがレーニン全集から削ってしまった文献を集めた本です。「スターリンが封印した文献はこれだけあるんです。さらに、肝心の『最後の3年間』の重要な文書は、スターリン時代には、ほとんど日の目を見ませんでした。スターリンにとっては、レーニンも自分の政略の道具でしかなかったのです」。受講生から、ため息がもれました。

 スターリンが30年代に支配権を握ったときに、ソ連の変質が始まります。

 スターリンは、ソ連の党の中で権力を確立すると、大量テロに走ります。党とソ連社会を自分に忠実に従う舞台につくりかえようと、35~38年に、反対派だけでなくレーニンとともにたたかってきた人たちまでをも抹殺を図りました。徹底的な論争で多数派になって党をまとめたレーニンの活動の仕方を知る者がいては、自分勝手な党運営ができなくなるからです。

 テロの犠牲者たちにはみな、ドイツや日本の手先といったレッテルが張られましたが、その罪状はスターリンが自分でシナリオを書いて押し付けたものでした。大量テロは近隣諸国の共産党やコミンテルン(共産主義インタナショナル)にも及びました。ポーランドの党は指導部全員が銃殺され、解散。スターリンは自分の権力と領土の拡大だけを狙う専制・大国主義者に変質しており、理論面でも、「マルクス、エンゲルスによる科学的社会主義の豊かな理論体系を、自分の目的に都合のいいようにつくりかえた」ことを不破さんは明らかにしました。

 社会主義の理論では、大量テロを正当化するため「社会主義が進めば進むほど階級闘争が激化する」という新しい理論までつくり出しました。そして、マルクスの理論の全体が、ソ連の社会体制を社会主義のモデルとして意義づける「理論」に置き換えられました。

 世界論、資本主義論では、「資本主義の全般的危機」論がもちだされました。現代は、レーニンが説いた帝国主義の時代からさらに進んで、資本主義が解体と崩壊に向かう危機の時代に入った、その危機を生み出し深めているのは、ソ連社会主義の誕生と発展にあるという理論です。これは、ソ連の擁護を世界の革命運動の最大の任務とするソ連中心主義やソ連依存主義をあおる理論ともなりました。

 世界観の問題でも、スターリンは、弁証法と唯物論、史的唯物論をいくつかの単純なテーゼにまとめた自己流の教科書で置き換えました。弁証法のテーゼから、マルクスやエンゲルスが重視した「否定の否定の法則」を外してしまったため、それ以後、ソ連系の哲学教科書からは、この法則がいっせいに姿を消すという奇怪なことも起こりました。

 こうして、スターリンは、マルクス、エンゲルスの理論を、似て非なる理論体系につくりかえてしまったのです。

 53年のスターリン死去後、後継者らは大量テロについては批判したものの、スターリンの大国主義と官僚専制主義も、その理論体系もすべて引き継ぎました。

日本共産党―現代に生かす理論的発展への努力

 日本共産党は、「50年問題」の教訓に立って、自主独立の立場を確立しましたが、そのとき以後、ソ連の干渉や誤った理論とたたかいながら、マルクス、エンゲルスの理論を現代に生かす理論的発展への努力が、党の活動の重大な課題となります。

 不破さんは年表を紹介しながら、理論的出発点となった61年の党綱領採択(第8回党大会)から党史を追っていきました。

 まず党綱領の特徴を説明した不破さん。ここで重要な点は、多数者革命論とともに、民主主義革命をへて社会主義革命に至る段階的発展論にあります。この問題では、レーニンもコミンテルン第4回大会の綱領問題に関する決議で同様の考えを示していました。

 ソ連との論争でまずぶつかったのは「アメリカ帝国主義論」でした。ソ連が無原則的な対米協調路線に踏み込んだのに対し、日本共産党は63年、アメリカ帝国主義の今日の侵略政策の特徴は、大国との衝突を避けて、社会主義を目指す大きくない国や個々の民族解放運動への攻撃を狙うところにあると分析し、これを「各個撃破政策」と名づけました。協調路線に基づく部分的核実験禁止条約に反対すると、同条約を押し付け、干渉するソ連の党と大論争が起こりました。

 しかし、64年にアメリカはベトナム侵略戦争を開始します。「私たちの世界情勢の分析の方が正しく、ソ連の干渉がいかに間違っていたのかを見事に示すものでした」

 中ソが論争に明け暮れるなか、66年、団結してのベトナムへの支援を呼びかける党代表団が、ベトナム、中国、北朝鮮に派遣されました。「私の最初の外交訪問でした」と振り返る不破さん。毛沢東との会談決裂を口実とした中国毛沢東派による大干渉に対し、67年の「4・29」論文で『国家と革命』を振り回す「武力革命論」を論破し、マルクスの理論にある多数者革命こそが大道だと公然と提起。「10・10」論文では当時の毛沢東路線を全面批判しました。

 68年には、ソ連のチェコスロバキアへの国家侵略を社会主義の大原則に反すると徹底的に批判。69年には、懸案である千島列島の領土問題について、ソ連側の大国主義の誤りの根本をついた解決案を出しました。

 日本の社会主義の前途について本格的な解明の第一歩となったのが70年の第11回党大会です。複数政党と政権交代制などの見解を具体的に決定するとともに、未来社会を展望する基本的な態度として、発達した資本主義国では「新しい人類の偉大な模索と実践の分野」と宣言。「私たちにとって非常に転換点となった大会でした」

 73年の第12回大会では、名指しはしなかったもののソ連の上からの農業集団化の誤りを解明。76年の第13回臨時大会ではソ連流の呼称である「マルクス・レーニン主義」と手を切り、本来の呼び名「科学的社会主義」に戻しました。発表した「自由と民主主義の宣言」は、ヨーロッパでの国際理論会議で大きな驚きと反響を呼び起こしました。

 世界史論として、77年の第14回大会では、ソ連は本格的な社会主義ではなく幼年期とも言える「生成期」の段階だと規定しました。ソ連のアフガニスタン侵略(79年)に対し、不破さんの著作『スターリンと大国主義』でソ連の歴史的変質の過程を初めて全面的に解明しました。「あとで知ったことだが、日本での出版の4カ月後に、中国語訳の海賊版が早くも出回っていた」との余談も紹介されました。

 91年、とうとうソ連が崩壊しました。94年の第20回大会で綱領を改定し、その改定報告では、ソ連社会が、社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会でもありえなかったと断定したのです。

 2004年の新綱領作成に講義は進み、不破さんは「それら党史の蓄積を全部踏まえたものとして仕上げた」と語り出しました。「実は、未来社会論を本当にマルクス、エンゲルスの理論を引き継ぎながら、どう現代的に生かすかというところに一番苦労しました」と明かした不破さん。金科玉条になっていた、未来社会を社会主義社会と共産主義社会の二段階に分ける考えを改め、生産手段の社会化の眼目が「人間の自由な発達」であったことをはっきりとさせ、発展させました。

この不破解説について解説(座談会)は、後述のロシア革命100年の項目で掲載。

★★映画=ジョン・リードの青春とロシア革命

(前編)https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5aUdPZmFkZkU4Snc

(後編)https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5bERmYU9GNVQ4aEE

◆ジョン・リード(John Reed

John Reed

18871920

(小学館百科全書)

アメリカのジャーナリスト、詩人。ハーバード大学卒業後、数冊の詩集を出版。雑誌『ザ・マッセズ』に加わり、メキシコに渡って革命家たちと寝食をともにし、『反乱するメキシコ』(1914)を書き名声を得た。第一次世界大戦中に渡欧し、ロシアでボリシェビキの指導者たちと親交を結び、十月革命を目撃して『世界をゆるがした十日間』(1919)を著す。帰国して共産主義労働党の結成にあたったのち再度ロシアへ。チフスのためモスクワで客死、クレムリンに葬られた。ほかに『赤いロシア』(1919)などの著作がある。[寺門泰彦]

『小笠原豊樹・原暉之訳『世界をゆるがした十日間』(1977・筑摩書房) ▽野田隆・野村達郎・草間秀三郎訳『反乱するメキシコ』(1982・筑摩書房)』

★★池上彰の現代史講義 第3 ソ連の誕生と崩壊

190m

http://www.at-douga.com/?p=13993

★★その時歴史が動いた・ソ連誕生後の内戦43m

★ソ連の歴史1=革命そしてレーニン 

★ソ連の歴史2=内戦と一党独裁 

★ソ連の歴史3=スターリンの登場 

★ソ連の歴史4=スターリンの大粛清 

★ソ連の歴史5=ヒトラーとスターリン 

★ソ連の歴史6=スターリン批判とフルシチョフ 

★ソ連の歴史7=ソ連崩壊のはじまり 

★ソ連の歴史8=ソ連の崩壊 

1991819 ソ連8月クーデター 声明放送15m

★ロシア革命・ソビエト成立までの 混迷の5年・その時歴史が動いた

https://m.youtube.com/watch?v=LUXQjhgHInI

★★大いなる実験(20世紀の社会主義=プロローグ)

105m

http://video.fc2.com/content/20140215Ab5tXAM2

または

★★ソ連一党独裁の崩壊(20世紀の社会主義3

60m 

★★ソ連ー強制収容所(20世紀の社会主義・最終回)

89m

★★ロシア革命とその後のソ連(20世紀の市民03

または

http://video.fc2.com/content/20140205a0NRUGCQ

1917年に始まる共産主義社会。崇高な理念と使命感にあふれた革命初期からスターリンの出現に伴う独裁体制への変質、そして恐怖に満ちた粛清の時代に至るまでのソビエト連邦の歴史を、当時の人々の証言を交えながらたどる。

★カラーで見る 独裁者スターリン49m

https://m.youtube.com/watch?v=u5th_zRM2Yo

★★ドキュメント・スターリングラードのたたかい(第二次世界大戦の転回点となったドイツとソ連とのたたかいをドイツ兵士・家族、ソ連兵士と国民の双方から描く。スターリン支配下のソ連であったがソ連人民の力でナチスドイツの侵略を打ち破った。このたたかいでドイツ25万人、ソ連50万人が亡くなった)140m(全3回

または

★★ロシア映画=スターリングラード-史上最大の市街戦

🔷ドキュメント=スターリングラードのたたかい

https://drive.google.com/file/d/1hsdHfuYZ2wQQeXr3m4khLyWCE8XXGPku/view?usp=drivesdk

★★映画・スターリングラード130m

https://m.youtube.com/watch?v=ZdI3JtBBgIY

★★史上最強の軍隊ソ連vsドイツスターリングラード攻防戦49m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v137093547F8sbCyZF

★★レニングラード・女神が奏でた交響曲ードイツ軍包囲下演奏されたショスタコービッチの交響曲第750m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v119476614bSEAeSKM

★★ソ連映画=誓いの休暇

https://drive.google.com/open?id=1pS_l4snigKk2sPfBBdQLA3nAu8p9RqiD

★★ソ連映画=人間の運命(捕虜の苦難からたたかいへ)

https://drive.google.com/open?id=1SLtiV7uhTMSiIwSrL8lUgyxk_GzK87Vo

★★ソ連映画=石の花

★★第2次大戦への道(1918-1938)ソビエト(ソ連) 

https://m.youtube.com/watch?v=BRJogH63N3k

https://m.youtube.com/watch?v=e1f3_-mRDZ4

https://m.youtube.com/watch?v=EU3u_PGq4Jo

https://m.youtube.com/watch?v=k_aUu2sCb-E

★★ソ連のアフガン侵略50m

★★BSソ連のアフガン侵攻はこうして決定された50m

https://m.youtube.com/watch?v=zjsbcXUfBtM

★★BSレーガンのSDI戦略のまやかし=ソ連の崩壊を誘う50m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v12893594658Dg7pmq

★★ソ連崩壊 19911225日「ゴルバチョフ時代の終焉」50m

★★ソ連崩壊 19911225日「ゴルバチョフ時代の終焉」

◆当ブログ=スターリンと芸術家たち(エイゼンシュテイン・マヤコフスキー・ショスタコビッチなど)

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2847647.html

◆◆プーチン

(小学館百科全書)

Владимир Владимирович Путин Vladimir Vladimirovich Putin 

1952 )

ロシアの政治家。レニングラード(現サンクト・ぺテルブルグ)市生まれ。レニングラード大学(現サンクト・ぺテルブルグ大学)卒業後の1975年に旧ソ連国家保安委員会(KGB)入りし、冷戦時代の5年間を旧東ドイツで諜報活動に従事した。1991年のソ連崩壊後は、サンクト・ぺテルブルグ市副市長などを経て、1996年からロシア連邦大統領府に勤務。実務家として辣腕(らつわん)をふるい「影の枢機卿」と異名をとる。1998年に連邦保安長官となり、19998月首相に就任すると、「テロリストの殲滅(せんめつ)」と「強いロシア」を唱えて、チェチェン共和国への軍事介入を指導し国内の支持を得た。同年12月、引退するエリツィン大統領から大統領代行に任命され、20003月の大統領選挙に当選、5月第2代ロシア連邦大統領に就任した。一貫して「強い国家」の建設を政策目標に掲げる。行政機構改革として連邦全土に七つの連邦管区を設置(チェチェンは直轄統治)して中央集権化を推進する一方、積極的に外国を歴訪し、CIS(独立国家共同体)諸国をはじめ、ヨーロッパ、アメリカ、中国、北朝鮮、中近東などと活発な首脳外交を展開する。2004年再選。大統領として2000年(平成12)に二度、さらに2005年と2009年にも訪日。20085月大統領2期目の任期を満了し、与党「統一ロシア」党首、首相に就任。さらに20123月の大統領選挙に立候補し当選した(就任は5月)。趣味は少年時代から始めた柔道。

★★BSプーチンの復讐(前編)50m

http://www.dailymotion.com/video/x6h3ezf

★★BSプーチンの復讐(後編)50m

http://www.dailymotion.com/video/x6h3faa

★★BSプーチンを支持する人びと(大統領選直前)50m

http://www.dailymotion.com/video/x6h3fip

★★BSプーチン・いかに権力を握ったか

★★BSプーチンが恐れた男

https://m.youtube.com/watch?v=hR_3Qv4B1vg

★★BSプーチンの野望(1)新大統領 誕生49m

https://m.youtube.com/watch?v=pZlzj3jMJbY

★★BSプーチンの野望(2)脅かされる民主主義49m

https://m.youtube.com/watch?v=47K4yG5qxuI

★★BSプーチンの野望(3)49m

https://m.youtube.com/watch?v=fG9SMtO_6k8

★★プーチンのロシア第01 強まる国家資本主義」

https://m.youtube.com/watch?v=B_Nq6mxQwIk

★★プーチンのロシア「第02 膨張するロシア正教」

https://m.youtube.com/watch?v=OSYCgFdQx70

★★プーチンのロシア =軍事エリート教育48m

https://m.youtube.com/watch?v=mUgI8B4wOvk

★★プーチンのロシア=グルジア紛争48m

https://m.youtube.com/watch?v=y4bmsTglpV4

★★プーチンのロシア第04 復活する軍事大国

https://m.youtube.com/watch?v=hQ6ODu-iaWQ

★★プーチンとロシア人富豪

★★NHKBS日ソ・日ロ領土交渉秘話=ゴルバチョフ・エリツィン・プーチン

(前編)60m

⭕️(後編)40m

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◆◆ロシア革命100年と社会主義を考える

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◆◆ロシア革命100年と社会主義

赤旗2017117

 1917年11月7日(旧暦で10月25日)にロシア「十月革命」が始まって100年となります。ロシア革命の世界史的意義を振り返るとともに、今日の社会主義をめざす国ぐにをどう見るか、日本における未来社会をどう展望するかを、日本共産党綱領と党大会決定をもとに考えてみます。

◆◆ロシア革命の世界史的意義

 ロシア革命が起きた20世紀初めの世界は「資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代」(日本共産党綱領)でした。世界中の圧倒的地域を植民地として支配していた英、仏、独、露などの「列強」は、その再分割をめぐって、第1次世界大戦(1914~18年)を引き起こしました。

 こうしたなか、皇帝(ツァーリ)による専制体制が敷かれていたロシアでは、「平和とパン」を求める国民の要求が高まり、1917年3月(旧暦2月)、首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)で労働者のストとデモが起き、これをきっかけに帝政が崩壊、臨時政府が樹立されました(「二月革命」)。

 しかし、臨時政府は戦争を継続したため、即時講和・食糧・土地を求める労働者・農民の運動の高まりの中で、レーニン(1870~1924年)が率いるボリシェビキ(ロシア社会民主労働党内の革命派)の指導のもとで労働者・兵士らが11月7日(旧暦10月)、武装蜂起して臨時政府を打倒。労働者・兵士・農民ソビエト(ロシア語で「会議」の意)が権力を握りました。

 「十月革命」によって、人類の歴史ではじめて資本主義から離脱して社会主義への道に踏み出そうという試みが始まりました。

⭕️世界に与えた巨大な「持続的」影響

 「十月革命」の影響は「近代の他のいかなる歴史的事件よりももっと深く、もっと持続的な反響を世界中に及ぼしている源」(E・H・カー『ロシア革命 レーニンからスターリンへ、一九一七―一九二九年』)となりました。

◆世界の「構造変化」につながる民族自決権の宣言

 その一つは、民族自決権を全世界に適用されるべき大原理としたことです。

 ソビエト政権は、革命翌日の11月8日に「平和に関する布告」を公布。交戦諸国民に無併合・無賠償の講和を呼びかけるとともに、民族自決の原理を高らかにうたいました。それは、発達した民族か遅れた民族か、ヨーロッパに住んでいるか、遠い大洋を超えた諸国に住んでいるかにかかわりなく、植民地を含めたすべての民族の権利と宣言されました。

 それまで「民族主義」は、ヨーロッパや北米に限定され、植民地支配を当然視するものでしたから、「布告」は革命的な飛躍がありました。

 ソビエト政権は続いて「ロシア諸民族の権利宣言」を発して、帝政ロシアの支配のもとにあったすべての民族に、ロシアから分離し独立国家を建設する自由を認めました。ソビエト政権はそれを現実に実行し、フィンランドとポーランド、バルト3国―エストニア、ラトビア、リトアニアが独立国として分離しました。さらに、帝政ロシアが他国に押し付けた不平等条約を破棄し、秘密協定を公表しました。

 このように、すべての民族の独立と民族自決権の完全な承認を、対外政策の根本にすえました。このことが、世界に衝撃を与え、民族解放運動の高まり、第2次世界大戦後の植民地体制の崩壊といった世界の「構造変化」につながっていきました。

◆人権概念を発展させた社会権の承認

 二つ目は、人権概念をフランス革命以来の自由権から、生存権、労働基本権、社会保障といった社会権へと発展させたことです。社会保障という言葉も、革命後のロシアで初めて使用されました。

 ソビエト政権は1918年1月、人間による人間の搾取の廃止などをうたった「勤労し搾取されている人民の権利宣言」を発しました。「宣言」は「社会国家の理念が一般的に承認され、権利宣言が各種の社会権を宣言・保障することが原則に」なるうえで「注目される」役割(『人権宣言集』=岩波文庫=の宮沢俊義氏の概説)を果たし、ドイツのワイマール憲法(1919年)やILO(国際労働機関)創設などへとつながっていきます。

 ILOの設置を定めたのは、第1次世界大戦の講和条約・ベルサイユ条約です。その背景について、『日本労働年鑑』1995年版(法政大学大原社会問題研究所)は、「講和条約のなかに労働問題関係の条項を取り入れざるを得ないと関係者に考えさせた決定的要因は、一九一七年のロシア革命とその影響だったといわれている」と指摘しています。その結果、「本来は賠償、軍事などを処理する講和条約」で、政府、使用者、労働者の代表が平等の投票権と地位をもって労働条件について協議する「三者構成主義」に立った国際機関が実現しました。

 ソ連社会はその後、スターリンによって変質させられ、崩壊するにいたりましたが、ロシア革命はその後の世界に持続的影響を与える世界史的意義をもつ出来事となったのです。

⭕️レーニン最晩年の積極的努力

 ロシア革命では、「レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力」(日本共産党綱領)が行われました。

◆「新経済政策」(ネップ)

 ソビエト政権は1918年3月、ドイツと講和条約(ブレスト=リトフスク条約)を結んで、戦争から抜け出しましたが、同年春ごろから、イギリス、フランスを先頭とする帝国主義国がソビエト政権への干渉戦争を開始。日本も、最高時7万人を超える軍隊をシベリアに送りこみました(22年に撤兵)。

 ソビエト政権は、これら帝国主義諸国との干渉戦争、国内の反革命勢力との内戦を余儀なくされ、危機的な状況に陥りましたが、最終的に勝利しました。

 レーニンは、勝利の見通しがつき、資本主義諸国の網の目のなかで、ソビエト・ロシアが存立する条件を勝ち得たと見定めたころから、いくつかの路線転換をはかります。

 その一つが「戦時共産主義」から「新経済政策」(ネップ)への移行です。「戦時共産主義」では、農民から余剰穀物を強制徴発していました。この矛盾が激化するなか、レーニンが試行錯誤のうえたどりついたのが、市場経済を活用しながら社会主義への前進に向かう路線=「新経済政策」でした。それまでの「市場経済=敵」という考え方からの大転換でした。

◆資本主義国との平和共存外交

 帝国主義諸国との「平和共存」という問題も、転換の一つです。

 22年にイタリア・ジェノバで開かれた国際経済会議の準備会合では、どんな国であれ、自分の社会制度を他の国に押し付ける権利はないこと、自分たちの社会制度は自分たちで決めることがうたわれました。資本主義諸国がはじめて資本主義以外の制度の存在を認めた宣言となりました。

 レーニンは、この会議を重視し、自ら団長となり、経済問題だけでなく大量殺りく兵器の禁止などを提案。会議と並行して、ドイツとラパッロ条約という講和条約を結び、公式の外交関係を樹立しました。

◆多数者の獲得と統一戦線論

 革命論では、干渉戦争の時期は「世界革命近し」という情勢認識から、少数者による革命論を一般化していましたが、革命情勢の成熟には長い時間が必要だとの認識に変化。勤労人民の多数を獲得することや、社会民主主義的潮流との統一戦線論などが展開されました。これは、のちの反ファシズム統一戦線戦術につながる提起でした。

◆スターリンの「大国主義」との生死をかけた闘争

 さらにレーニンはソ連邦の結成をめぐり、ロシア連邦がウクライナ、ベラルーシ、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの各ソビエト共和国を吸収・合併するというスターリンの大国主義的な方針に反対し、「大ロシア人的排外主義に対する生死をかけたたたかい」を宣言。最終的に、各ソビエト共和国が対等・平等の権利で新しいソビエト連邦に加盟するというレーニンの統合プランにもとづいてソ連邦が結成されました(1922年)。

 こうしたレーニン最晩年の積極的努力は、日本共産党の綱領にも生きるものとなっています。

⭕️スターリンによるソ連社会の変質と崩壊

 レーニン死後、ソ連の指導者となったスターリン(1878~1953年)とその後継者は、社会主義の原則を投げ捨て、「対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道」(日本共産党綱領)を進みました。

 とくに、スターリンは1929年から30年にかけて、穀物供出を強化するため農民に集団農場への加入を強制する農業「集団化」を強行。党や赤軍幹部、人民に対する大量弾圧(大テロル)を実行し、全面的な専制・独裁の体制を確立しました。さらに、ヒトラー・ドイツと独ソ不可侵条約と「秘密議定書」を締結し、ポーランドなどを分割したのをはじめ、第2次世界大戦中から戦後にかけての領土併合などの覇権主義といった数々の暴虐をつくしました。

 日本の千島列島や北海道の一部である歯舞・色丹の占領も、連合国の戦後処理の大原則=「領土不拡大」を踏みにじった暴挙でした。

 スターリン死後も、覇権主義はその後継者たちに無批判に引き継がれ、ついにはアフガニスタン侵略(1979年)の「泥沼化」、国民への抑圧、経済停滞などが重なり、ソ連の衛星国家の東欧諸国が崩壊したのに続いて、1991年、ソ連共産党は解散、ソ連邦も解体しました。

 日本共産党は、ソ連崩壊後の第20回大会(1994年)で、スターリン時代以後のソ連を総括して、それが、覇権主義の国家であったにとどまらず、その経済的土台においても「人民を経済の管理からしめだし、スターリンなどの指導部が経済の面でも全権限をにぎる専制主義、官僚主義の体制」であったことを明らかにしました。

◆◆ソ連の大国主義・覇権主義とたたかった日本共産党

1922年に創立した日本共産党は戦前、ロシア革命に対する日本帝国主義の干渉戦争に反対し、世界とアジアの平和のためにたたかいました。

 しかし、戦後、公然と活動を開始した日本共産党は1950年、スターリンによる武装闘争の押し付けという干渉を受け、党中央の一部が内通・呼応して中央委員会が解体されました(「50年問題」)。

 日本共産党は、党の統一を回復する過程で、自らの国の革命運動は自らの頭で決める、どんな大国でも干渉や覇権は許さないという自主独立の立場を確立しました。

 しかし、ソ連共産党は自らの言いなりにならない日本共産党を押しつぶそうと、国家権力まで動員して大干渉作戦に乗り出しました。

 日本共産党は全党の団結で干渉とたたかい、ソ連のチェコスロバキア侵略などの大国主義・覇権主義を厳しく批判。1979年の日ソ両共産党会談で、ソ連共産党に干渉の誤りを認めさせました。

 また日本共産党は、ソ連共産党との論争の中で、ソ連流のマルクス・レーニン主義の歪曲(わいきょく)を正し、世界観・革命論・未来社会論などあらゆる面でマルクス、エンゲルスの理論(科学的社会主義)の本来の姿と生命力を明らかにしました。

 1991年、ソ連共産党が解散に追い込まれると、日本共産党は「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉(しゅうえん)を歓迎する」との声明を発表し、世界に巨大な害悪を流しつづけた党の終わりを「もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」と表明しました。さらに綱領では「ソ連覇権主義という歴史的な巨悪の崩壊は、大局的な視野で見れば、世界の革命運動の健全な発展への新しい可能性を開く意義をもった」と明記しています。

◆◆社会主義をめざす国ぐにをどう見るか

 ソ連に続いて、第2次世界大戦後、アジア、東ヨーロッパ、ラテンアメリカの一連の国ぐにが、資本主義からの離脱の道に踏み出しました。東ヨーロッパではスターリンの覇権主義のもとでソ連型の抑圧社会の従属国家がつくられ、崩壊しましたが、中国、ベトナム、キューバでは「社会主義をめざす新しい探究」(日本共産党綱領)が続いています。これらの国を日本共産党はどう見ているでしょうか。

⭕️社会主義に到達した国ぐにではない

 日本共産党は第26回大会(2014年)で、中国、ベトナム、キューバについて、これらの国ぐには社会主義に到達した国ぐにではなく社会主義をめざす国ぐにだということを改めて確認しました。

 大会決議は、例えば中国について、経済規模では日本を抜いて世界第2位の経済大国となったものの、国民1人あたりの国内総生産(GDP)で見ればなお発展途上国並みであることを指摘し、「社会主義という以前に、社会主義の経済的土台である発達した経済そのものを建設することに迫られているのが現状である」と分析しています。

 その上で、「そこには模索もあれば、失敗や試行錯誤もありうるだろう。覇権主義や大国主義が再現される危険もありうるだろう。そうした大きな誤りを犯すなら、社会主義への道から決定的に踏み外す危険すらあるだろう」と率直に警告し、「私たちは、社会主義をめざす国ぐにが、旧ソ連のような致命的な誤りを、絶対に再現させないことを願っている」と表明しました。

⭕️資本主義国との対比が試される

 決議はさらに、社会主義をめざす国ぐにが世界の政治と経済に占める比重が年々大きくなるもとで、いやおうなしに資本主義国との対比が試されるようになっていると指摘。▽「人民が主人公」という精神が現実の社会生活、政治生活にどれだけ生きているか▽経済政策の上で人民の生活の向上がどれだけ優先的な課題になっているか▽人権と自由の拡大にむけて、自身が認めた国際規範にそくした努力がなされているか▽国際活動で覇権主義を許さない世界秩序の確立にどれだけ真剣に取り組んでいるか▽核兵器廃絶、地球温暖化などの人類的課題の解決にどれだけ積極的役割を果たしているか―という問題を提起しました。

 その上で、「中国やベトナム、キューバが、資本主義国との対比において、『社会主義をめざす新しい探究が開始』された国ならではの先駆性を発揮することを、心から願うものである」と表明しました。

⭕️中国に新しい大国主義・覇権主義のあらわれ

今年1月に開かれた日本共産党第27回大会は、26回大会の分析を踏まえ、「この間、中国の国際政治における動向に、見過ごすことのできない問題点があらわれてきた」として、次の4点を指摘しました。

 (1)「核兵器のない世界」を求める動きに対する妨害者として立ち現れるなど核兵器問題での深刻な変質(2)東シナ海と南シナ海での力による現状変更をめざす動き(3)国際会議の民主的運営をふみにじる横暴なふるまい(4)日中両党で確認してきた原則に相いれない態度。

 大会決議は以上の事実にもとづいて「今日の中国に、新しい大国主義・覇権主義の誤りがあらわれている」と厳しく指摘し、「中国にあらわれた新しい大国主義・覇権主義が今後も続き、拡大するなら、『社会主義への道から決定的に踏み外す危険』が現実のものになりかねない」ことを率直に警告しました。

 同時に決議は、中国が戦後、「平和5原則」(1954年)や「バンドン平和10原則」(1955年)など、国際政治の重要な民主的原則の形成に関与してきた国であることに言及し、「それだけに、これらの原則の否定ともなる大国主義、覇権主義の誤りを真剣に是正し、国際社会の信頼をえる大道に立つことを求める」と表明しました。

 日本共産党の志位和夫委員長は今年1月、中国の程永華大使の訪問を受けた際、こうした党大会決議案(当時)の内容をくわしく説明し、本国に伝えるよう要請しました。

 中国共産党と日本共産党とのあいだには、1960~70年代の「文化大革命」の時期に、中国側から干渉主義の猛烈な攻撃を受け、全党あげてのたたかいでそれを打ち破った歴史があります。中国側がこの干渉攻撃の誤りを率直に認め、「真剣な総括と是正」を表明して、両党関係の正常化に道をひらいたのは、干渉開始から32年後、1998年のことでした。そういう歴史があるだけに、日本共産党は、中国における新しい大国主義・覇権主義のあらわれにとりわけ深い懸念をもち、それが重大化しないうちに解決されることを、強く願うものです。

◆◆日本における未来社会の展望

 ソ連などの解体後、「資本主義万歳」論が一時的に流行しましたが、資本主義の優位性を示すことはできませんでした。逆に、現在の世界では、貧富の格差の拡大、不況と大量失業、金融投機の横行、環境の地球的規模での破壊など、資本主義制度の存続の是非が問われるような深刻な危機が進行しています。

⭕️「人間の自由で全面的な発展」を保障

 例えば格差と貧困の拡大では、OECD(経済協力開発機構)諸国では人口の上位10%の富裕層の所得と下位10%の貧困層の所得の比は1980年代には7倍だったのに対し、2014年現在では9・5倍に拡大。「過去30年で富裕層と貧困層の格差が最大」(OECDリポート、2014年)になっています。

 これは、マルクスが『資本論』で、資本の蓄積が進むと、一方に「富の蓄積」、他方に「貧困の蓄積」という富と貧困の二極分化が進むと指摘した「資本主義的蓄積の一般的法則」が、資本主義のもとで現実に働いていることを示しています。

 投機マネーの暴走という点では、世界の金融経済の規模は294兆ドルと実物経済(GDP)の合計78・5兆ドルの3・75倍に膨張(2014年)し、その多くが投機マネーとして世界経済を混乱させ、実物経済を支配し、各国の国民生活に打撃を与えています。

 こうした投機マネーを規制する国際的な協調体制が急務ですが、その根本的解決が資本主義の体制のもとで可能かということが問われています。

 これら資本主義の矛盾は、生産手段(工場、機械、土地など)が個々の資本家ににぎられ、生産の目的が資本の利潤を増やすこと(利潤第一主義)にあることから生まれています。したがって、これらの矛盾を解決するためには、生産手段を個々の資本家の手から社会の手に移し、生産の目的を「利潤第一主義」から「社会と人間の発展」へと変える必要があります。

 マルクスは『資本論』で、「生産手段の社会化」を中心とした変革によってつくられる未来社会―社会主義・共産主義の社会では、労働時間の抜本的縮小を可能にし、「人間の自由で全面的な発展」が保障されるという壮大な展望を描いています。

⭕️経済力――「浪費型の経済」一掃で豊かな生活に

 日本が社会主義の道に踏み出した際には、きわめて豊かで壮大な展望が開けています。

 日本は世界有数の発達した資本主義国で、巨大な経済力をもっています。社会主義への道を進む場合には、その経済力の水準を引き継ぐことになり、中国のような経済の急成長とそれに伴う社会的諸矛盾の拡大は決して起こらないでしょう。

 日本経済は現在の水準でも「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)を国民に保障するだけの経済力を持っています。格差と貧困、恐慌・不況をもたらす現在の「浪費型の経済」が一掃されれば、国民生活をはるかに豊かにすることを可能にするでしょう。

⭕️自由と民主主義、政治制度での豊かな展望

 自由と民主主義、政治体制でも、日本における未来社会は豊かで明るい展望をもっています。

 中国、ベトナム、キューバでは事実上の一党制をとっていますが、これはそれぞれの国で革命戦争という議会的ではない道で政権についたことと関連しています。スターリン型の政治体制が持ち込まれたという問題もあります。

 日本ではこのようなことは決して起こりえません。

 日本では憲法で国民主権、基本的人権、議会制民主主義がうたわれ、社会に定着しています。日本における未来社会は、こうした条件で出発しますから、一党制などは起こりえません。社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが、受けつがれ、いっそう発展させられるでしょう。

 日本共産党の綱領はこのような未来社会の展望を明らかにするとともに、その実現をめざす事業について、次のように明記しています。

 「これまでの世界では、資本主義時代の高度な経済的・社会的な達成を踏まえて、社会主義的変革に本格的に取り組んだ経験はなかった。発達した資本主義の国での社会主義・共産主義への前進をめざす取り組みは、21世紀の新しい世界史的な課題である」

◆◆(インタビュー)ロシア革命100年 日本共産党前議長・不破哲三さん

朝日新聞17.11.17

 ロシア革命から100年。労働者による革命で社会主義を打ち立てようというマルクスの思想が、ソ連という国家の形で実現し、世界は大きく揺さぶられた。だが、国際社会を二分する冷戦を経て、ソ連は1991年に消滅する。革命は世界をどう変えたのか。いま社会主義とは何か。日本共産党の不破哲三前議長に聞いた。

 ――ロシア革命を今日、どう評価しますか。

 「20世紀初頭は、資本主義が全世界を支配していた時代でした。その時、資本主義に代わる新しい社会を目指す革命がロシアで勝利した。マルクスの理論の中でしかなかった社会主義が現実化し、世界に大きな衝撃を与えたのです。社会党などがあった国では、左派が共産党に発展する。日本のように社会主義者はいるが、政党がなかった国にも共産党が生まれた。影響は世界に広がり、第2次大戦後には、中国やベトナムなどで革命が起きた」

 「もうひとつ大事なことは、ロシア革命が起点となって、民主主義の原則が新たな形で世界に定着したことです。のちに社会的権利と呼ばれる労働者の権利が、革命後の人民の権利宣言で初めてうたわれた。男女平等を初めて憲法に盛り込んだのもソ連の最初の憲法でした。革命は第1次世界大戦中に起きたが、革命政権は、大戦終結の条件として、民族自決権の世界的確立を求めた。これは国連の植民地廃止宣言に実りました。世界の民主的国際秩序の先駆けとなる原則を打ち立てました」

 ――ロシア革命の功罪のうちの「功」ですね。では、「罪」はどうでしょうか。

 「ソ連が積極的役割を果たしたのは革命後の短い期間、レーニン(1870~1924)が指導した時期でした。それをどんでん返しにしたのがスターリン(1879~1953)です。晩年のレーニンはスターリンの大国主義など危険性に気づいて闘争を開始したが、その途中で病に倒れた。スターリンは、一連の内部闘争を経て30年代には共産党と政府の絶対的な支配権を握り、社会主義とは本来無縁の独裁者になってしまった」

 ――スターリンの負の側面が暴かれたのは56年のフルシチョフによる批判以降です。それ以前の、たとえば不破さんのスターリン観は。

 「ソ連は革命後の困難を乗り越えて、第2次世界大戦で米英と組んで勝利したのだから、スターリンはすごい人物だと思い、スターリン全集なども全巻読んで研究したものです。ソ連で起こったスターリン批判はまだごく部分的なものだった。私は、1964年、党本部に入って理論部門を担当して、ソ連の『悪』にぶつかり、スターリンの指揮でソ連が日本共産党に内部干渉して、党を一時分裂させた歴史も知った。日本の革命は日本の党自身で考えて答えを出すという『自主独立路線』はこの痛苦の歴史から確立したものです」

 「スターリンについては、コミンテルン(共産主義インターナショナル)書記長ディミトロフが詳細な日記を残しており、私は最近、これらの内部資料を使って全6巻の『スターリン秘史』を書き上げました」

 ――何がわかりましたか。

 「スターリンは、第2次世界大戦でヒトラーを破ったが、戦争の始まる瞬間まで、ヒトラーと組んで世界を再分割する夢に酔っていた。戦争の時期にも、大国主義の野望は捨てない。東欧を支配し、対日参戦の条件に領土を要求する。今の中国にもその危険があるが、過去に覇権を握った歴史を持つ国は、新政権ができても大国主義が復活しやすい」

    *

 ――現代の世界についてはどう見ているのでしょう。

 「21世紀ほど貧困と格差がひどくなった時代はないでしょう。さらに資本主義による最大の害悪は、地球温暖化だと思います。エネルギー消費量がケタ違いに増えてこれほど環境を破壊するとは、誰も予想しなかった。この問題を解決できるかどうかで、資本主義の、人間社会を担う力が試されると言ってもよい」

 ――それを解く力が社会主義にあるということですか。社会主義も現実には、統制経済の破綻(はたん)など失敗の連続ではありませんか。

 「マルクスの考えは、十分な生産力が発達し、自由な人間関係が生まれる経済的基盤があって初めて社会主義が生まれるというものです。しかし、現在までに革命を成功させた国は、欧米の先進国ではなく、ロシアやアジアなど発展の遅れた国でした。社会主義に到達した国は世界にまだ存在しないのです」

 ――マルクス主義の可能性はまだあると。

 「マルクスの理論は、長く誤解されてきました。本当に自由な社会をつくるのが、社会主義の根本論なんですよ。政治的自由だけでなく、生活が保証された上で、自由に使える時間があり、人間の能力を自由に発展できる社会を目指していた。資本主義の段階で生産力をそこまで発展させるのが大前提でした。日本ぐらいの生産力があれば、人間の自由を保障することは十分できる。資本主義に取って代わる社会像に向けての変革の運動とその成功の条件は、資本主義自体の中から生み出されると思います」

    *

 ――不破さんは日本政治の変遷を見てきました。政治はどう変わりましたか。印象に残る人物は。

 「80年に一部の野党が『共産党を除く』という原則を唐突に打ち立てました。戦前の抑圧とは違うが、共産党排除という異様な政治体制が34年続きました。それ以前はマスコミでも、ひとつの政党として自然体で見られていました」

 「60年代、私が国会議員になる前に新聞の企画で、幹事長時代の田中角栄さんと顔を合わせました。政治家としてなかなか面白かった。彼が首相の時に、私が書記局長で国会論戦をずいぶんやったけれども、石油ショック後の物価高のこと、米軍の原子力潜水艦の入港の際の放射能監視のでたらめさなど、問題を指摘するとしっかりと認めて、『自分の責任でやる』と言って、実行するだけの幅がありました。いまの安倍晋三首相は野党との論戦に応じようとしない。自民党は劣化したんだと思いますね」

 ――なぜ劣化したのでしょう。

 「自民党政治の中身は財界密着と対米従属で、昔から変わりませんが、今は『戦前回帰』というウルトラ右翼の潮流が加わった。それに小選挙区制の問題もあります。党本部が候補者を選ぶので、派閥を超えて総裁が体制をがっちりと握っている。かつて『三角大福中』が首相の座を競い合ったような活力はない。さらに秘密保護法をやり、上級官僚の人事を全て官邸が行う。政治私物化の道具立てがそろってしまった」

 「野党が憲法に従って臨時国会を要求したら、遅らせて、いざ開くとなったら冒頭解散。選挙まで私物化した。自信のなさの裏返しではないか。昔の自民党のほうが強かったのではないでしょうか」

    *

 ――今回の総選挙で共産党は大幅に議席を減らしました。過去にもブームがありましたが、ある地点で壁にぶつかります。

 「日本共産党が前進したときには、必ず反攻作戦が組織されるのが、戦後政治の一つの特徴で、先ほどの『共産党を除く』の壁もその代表的な一つでした。それに負けないで前進する条件をつくってきたのが、私たちの歴史だった。今度の党自身の後退は、『市民と野党の共闘』をめぐる状況の突然の変化の中で起こったことで、『壁』の再現とは位置づけていません」

 ――共産党と他の野党との協力は野合だと批判されました。

 「綱領の一致は政党の『合同』の条件であって、『共闘』の条件ではない。綱領の違う政党が当面の国民的重大問題で一致してたたかうのが、共闘の本来の精神です。選挙中も訴えたことだが、第2次世界大戦でヒトラーがフランスを占領した時、宗教界から『神を信じる者も信じない者も』という声が上がり、これが抵抗運動・レジスタンスの精神になりました。今、日本の『市民と野党の共闘』を支えているのは、まさにこの精神だと思います」

 ――共産党という名にアレルギーがある人もいます。より広い層に訴えるために党名変更すべきだ、という議論があります。

 「いわゆるアレルギーの大もとには、いろいろな誤解があります。例えば、ソ連型、あるいは中国型の社会を目指している、という誤解。今度の選挙戦の教訓からも、そういう誤解を取り除いてゆく日常的な努力を全党を挙げて強めるつもりでいます。日本共産党は、戦前から95年、この名前で活動してきたが、将来的には、21世紀から22世紀をも展望しながら、日本に理想社会をつくるために活動する政党です。党名には、その目標が体現されています。誤解を取り除く本格的努力をしないで、名前だけ変えて当面を糊塗(こと)するといったやり方は、日本共産党の辞書にはありません」

 (聞き手・三浦俊章、池田伸壹)

    ◇

 ふわてつぞう 1930年生まれ。共産党の書記局長、委員長などを歴任。69年から衆院議員連続11期。「スターリン秘史」「宮本百合子と十二年」など著書多数。

◆◆不破=古典解説第12回(最終回)=マルクス、エンゲルス以後の理論史=ロシア革命でのレーニンの理論と活動、そしてスターリンとその後継者たちの過ち、真の社会主義の理論と体制とは何か

最終回の内容-不破さんは、「実はこういうテーマで話すのは私も初めて」と切り出し、マルクスの理論と精神を受け継ぐべく探求と模索を重ねたレーニンの業績と活動、「マルクス・レーニン主義」の名でまったく別物の理論体系と行動にすすんだスターリンとその後継者たちの過ちを話してゆく。そして日本共産党が、ソ連の干渉や、誤った理論とたたかいながら、科学的社会主義の本来の理論的立場を取り戻し現代に生かす理論的発展のために努力してきた、半世紀にわたる苦闘の歴史が語られる。最後に重ねて、「マルクスを本当に現代の世界に生かすために、これからも古典の勉強を」と呼びかける。 

【対談のよる解説】

第5課 マルクス、エンゲルス以後の理論史

曲折の歴史をへて 科学的社会主義の大道へ

レーニンの時代、スターリンの時代

レーニンの理論活動では最後の3年間が注目される

 山口 第5課の「理論史」は、不破さん自身がはじめての試みだといっているところですが、レーニンから始めましょうか。

 不破 レーニンは、マルクス、エンゲルスを懸命に読み、それを現実に生かすとともにその現代的発展に貢献した第一人者ですが、理論史的にはなかなか複雑なものがあるのです。

 一つは、その理論活動の歴史に、独特の荒れた時期10月革命後、干渉戦争と戦った時期です―があることです。そのあと、1923年3月に再起不能の重病に倒れるまで、私が最後の3年間と呼んでいる時期には、その理論的活力を驚くほど多彩に発揮して、国内建設の面でも、対外政策の面でも、国際共産主義運動の指導の面でも、新しい境地を切り開きました。

 もう一つは、レーニンは革命論を他の誰よりも重視したのですが、この面でのマルクス、エンゲルスの理論的な遺産をごく部分的にしか受け継げず、とくに多数者革命論にかかわるものはほとんど読むことができなかったことです。『国家と革命』で、武力革命が革命の原則だという結論をひきだしたのも、そこに大きな背景がありました。干渉戦争中の荒れた時期には、さらに極端になって、革命勢力が権力を握る前に多数者になることは原理的に不可能だということまで断言するようになります。少数者革命論への逆戻りでした。

 ところが、そのレーニンが、干渉戦争が終わって国際的な平和関係を確立したあと、内外政策の総点検にとりかかり、世界の革命運動の指導のうえでも、「多数者獲得」や「統一戦線」政策など、実に鮮やかな転換ぶりをみせたのです。コミンテルンの第3回大会(22年)や第4回大会(23年)が、路線転換の大きな舞台になりました。

レーニンの「過渡的要求」論は現代につながる

(写真)神戸女学院大学教授 石川康宏さん

 石川 この時期のレーニンの探求の中で重要だと思ったのは、「過渡的要求」についての提起でした(コミンテルン第4回大会)。発達した資本主義国での革命は、どこでも社会主義革命なのだといった決めつけではなく、その国の情勢に見合った「過渡的要求」の探求が必要だと述べていたわけですね。その後、1960年の共産党・労働者党による国際会議では、スターリンの「理論」を引き継いだ人たちが、当面の革命は社会主義革命でしかありえないとくり返したのに対し、日本共産党の代表が民主主義革命の必然性を対置して議論になるわけです。その日本共産党の立場が一方でスターリン「理論」の批判となっており、他方でレーニンのこの探求に歴史的に連なるものであったことは、今回はじめて知ったことでした。

 不破 レーニンの「過渡的要求」というこの問題提起には、明らかに多数者革命路線につながるものがありますね。コミンテルンでもレーニンがこれを提起した時には、社会主義革命の綱領があれば中間的、過渡的な綱領などいらないといってがんばる左翼派もいたと言いますから、そこには、60年の国際会議での討論を思わせる光景があったわけですよ。

スターリン問題―決定的な変質をおさえることがカギ

(写真)党社会科学研究所副所長 山口富男さん

 不破 スターリンの問題は、ことの性質がまったく違うのですね。レーニンの場合には、誤った議論を展開したことがあっても、それは歴史的な制約のもとでの理論上の誤りであって、社会主義の事業にたいする立場も、マルクスの理論への信頼にも、なんの揺るぎもないのです。だから、荒れた時期があっても、情勢が新たな展開をした次の時期には驚くような理論的活力を発揮して見せる。

 ところがスターリンは、根本の姿勢に異質なものがありました。とくに重大なことは、スターリン自身が、30年代に社会主義の事業とは無縁な存在に決定的に変質していたことです。その決定的な転機を画したのは、30年代の「大量テロ」だとみるべきでしょうね。国際的には覇権主義、国内的には専制主義のスターリン体制をつくりあげるために、ソ連の党の幹部、政府と軍の幹部、外国の共産党の活動家などを、何十万という規模で殺したのですから。これは社会主義の精神をひとかけらでも残している人物には絶対にやることができない、最悪の犯罪行為でした。

 ここを押さえないで、共産主義運動のなかで起こった理論上の誤りのように扱ったのでは、スターリン問題を根本から片づけることにならないと思っています。

 山口 スターリンについて、私がこういう人物だなと思ったのは、彼がソ連の体制を絶対的なモデルにして「全般的危機」論に彩られた革命論を打ち出したときに、本音として革命の自主的な発展を毛嫌いし恐れるわけですよね。そこに社会主義とも革命とも無縁な彼の立場を痛感しました。

スターリン「理論」が影響力をもった根拠はどこにあったか

 不破 スターリンのいう「マルクス・レーニン主義」が戦後の運動のなかで、国際的な影響力をもったというのは、第2次世界大戦の経過とも関係があるのですね。ソ連が反ファシズム陣営に加わってその勝利に貢献した、とくに無敵とも思われてきたヒトラー・ドイツを打ち破った主役がソ連だったことは、誰でも知っている事実でした。そのことが、世界で最初の社会主義国家ソ連の指導者ということと重なり合って、スターリンとその理論を飾り立てる栄光となったのでした。私たちも戦後、党に入った時には、その事実を前にしてすごい指導者だと思いましたからね。

 ところが、これは「スターリン秘史」でもこれから『前衛』で連載する部分の予告編になるのですが、第2次世界大戦の最初の段階では、スターリンはヒトラーの同盟者として行動し、ヨーロッパの領土分割合戦の仲間入りをしています。スターリンの思惑では、その次の段階では、ドイツ、イタリア、日本の3国軍事同盟に加盟して、大英帝国崩壊後の世界再分割の仲間入りをするはずでした。しかしこの話は、ソ連を騙(だま)し討ちにするためのヒトラーの謀略でしたから、41年6月、スターリンはヒトラーの不意打ち攻撃をうけ、思惑が外れた形で反ファシズム陣営の一翼を担う形になりました。その勝利が栄光となって、大戦後にスターリンの政治的、理論的権威を高めたのですから、歴史はなかなか皮肉なものです。もしスターリンの思惑がはずれないで、ヒトラーとの同盟による世界再分割の道を進んでいたら、スターリン流「マルクス・レーニン主義」など、世界の運動のなかで早くから存在の余地がなくなっていたでしょう。

日本共産党の理論闘争史理論的発展の原点は自主独立の立場の確立

 不破 「理論史」の最後の部分では、「日本共産党の理論闘争史」としました。

 日本共産党はいま、マルクスが基礎づけた科学的社会主義の理論を自主的に発展させてきた点で、世界の運動のなかでも独自の地位を占めているのですが、私は、その原点は、50年代にソ連、中国の干渉による痛苦の経験から教訓をひきだして、自主独立の立場を確立したところにあったと思います。

 スターリンの覇権主義の被害を受けた党は世界で多いのですが、そこから自主独立の立場―どんな問題でも他国の共産党の干渉は許さず、自分の頭で考え自分で答えを出す―、この教訓を引き出して、それをあらゆる活動の根本に据えたのは、資本主義諸国の党のなかでは日本共産党以外にはないのです。

 私たちは、はじめから、ソ連流の理論体系全部を相手にまわすといった形で理論活動を始めたわけではありません。まず日本革命の戦略・戦術を日本自身の頭で考えて決める、という態度をつらぬいたのが最初でした。それにたいしてソ連を中心にした諸党が、1960年の国際会議で、社会主義革命路線を押しつけようとしてきたわけで、これとの徹底論争で自分の立場をつらぬきました。

 次の段階では、アメリカ帝国主義の評価が論争の中心問題になりました。60年の国際会議でアメリカの戦争政策の危険性をあれだけ強調したのに、ソ連が「米ソ共存路線」に転向して、もはやアメリカ帝国主義の危険性はなくなったと言い始め、日本共産党がそれに同調しないと、64年、日本共産党批判の長文の書簡を送りつけ、同時にソ連に無条件服従の分子を集めて反党分派の旗揚げまでさせたのです。私たちは彼らがあげたすべての論点を論破する長文の書簡を送って反撃しました。

中国・毛沢東派との論争。「二つの戦線」での闘争

 不破 続いて起こったのは中国との論争です。ことの始まりは66年、ベトナム侵略戦争に反対する国際統一戦線の問題をめぐる両党会談での意見の違いにあったのですが、会談後、毛沢東派が中心になって日本共産党攻撃を開始した時には、攻撃の主内容は、レーニンの『国家と革命』を振りかざしての日本共産党の革命論への非難でした。

 世界の共産党のなかでも、ソ連と中国の双方から同時に干渉攻撃を受けた例は当時ありませんでしたが、私たちは、これへの反撃を「二つの戦線での闘争」と位置づけ、党の死活がかかる闘争として全党が文字通り全力をつくしたものです。

 論争の論点も多面的に広がり、いや応なしに理論的にも鍛えられましたね。この闘争のなかで、干渉主義反対はもちろんですが、革命論、社会主義論までふくめて、従来の定説、いわゆる「マルクス・レーニン主義」全体を総点検する必要があるところに一歩一歩進んでいったのですが、それに本格的に取り組むのは70年代になりました。

論戦の一つ一つが真剣勝負だった

 石川 そういう国際論争の開始の時期から、すでに半世紀近い時間が経過しているわけですね。

 ところで政治的に自主独立の立場をとるということと、自主独立の立場できちんと理論的な成果を生み出すことができるということは別問題です。その点で日本の共産党が、いま紹介のあった国際論争などの中で着々と理論の積み上げを行い、さらに70年代に入ると創造的探究ということで、より自覚的に理論の全面的な点検に進んでいくわけです。そこの自主独立の気構えだけではなく、それにもとづいて豊かな理論的な成果をあげることができたのはなぜなのか、その点、渦中におられた不破さんにお話いただければと思います。

 不破 まあ歴史の必然ですね。(笑い)

 石川 その一言ですか。(笑い)

 不破 国際論争について言いますと、一つ一つが真剣勝負なんですよ。ソ連との論争にしても、送りつけてきた長大な書簡には日本共産党への非難・攻撃の論点が限りなく並べられています。それへの反論となると、そのすべての論点を一発勝負で撃破しなければいけないし、相手方に反論の余地を与えるような中途半端な議論ももちろん許されません。中国の毛沢東派の革命論攻撃への反論にしても、これで完全に決着をつける力を持つだけのものが求められます。まず干渉攻撃との論戦で鍛えられたというのは、正直な実感ですね。

 もちろん、石川さんがいわれたように、自主独立の原点から、理論の発展がおのずから生み出されるわけではありません。国際論争に続く時期にも、われわれ自身がいろんな問題にぶつかりながら理論的な探究に力をつくしてきた。いま振り返ってみると、そこにはやっぱり歴史的な節目節目があるし、国際論争とは違った意味での真剣勝負が続きました。 

 石川 どんなところが節目になりますか。

 不破 国内の政治戦線でも、日本共産党の政治的比重が増してくると、日本の将来という問題でも日本共産党の見解がいや応なしに問われてきます。

 そういうなかで、70年の第11回党大会で宮本顕治さんが中央委員会報告のなかで、発達した資本主義国で社会主義に前進した経験は世界にまだない、それは「人類の偉大な、模索と実践の分野」であると発言しました。これは、ソ連型の「社会主義」を日本の将来のモデルとはみなさないということの宣言でした。ここには一つの新しい踏み切りがあって、この方向はこの大会での、反対政党の自由と選挙による政権交代を保障する政治的民主主義の体制についての決定とか、1976年の第13回臨時党大会での「自由と民主主義の宣言」に具体化されてゆきました。

国際的な定説扱いされてきたものを総点検する

 不破 もう一つの踏み切りの節目は、私たちの理論の呼称(呼び名)について、綱領・規約から「マルクス・レーニン主義」という呼称を廃棄した第13回臨時党大会の決定です。これは、実質的な内容から言うと、「マルクス・レーニン主義」の名のもとに国際的に定説扱いされているものを、科学的社会主義の本来の理論的立場を探究しながら、全体にわたって総点検するという意思表示でした。

 社会主義の問題も、発達した資本主義国の革命の独自性という角度からだけではなく、いま「社会主義国」として存在している国の問題も、理論的な総点検の内容には、当然含まれてきます。

 85年の「資本主義の全般的危機」という規定を党綱領から削除するという決定も、この総点検の成果の一つでした。これは、世界情勢の現実的分析を妨害するドグマを取り除いたという意義を持っていて、それ以後、世界情勢を現実の展開に即して分析・解明する視野が大きく広がりました。

マルクスの未来社会論の豊かな内容が浮かび上がってきた

 不破 日本共産党の理論闘争史の締めくくりの節目ですが、2003~04年の党綱領の改定の時、私たちが一番苦労したのは、レーニンが『国家と革命』で展開した社会主義二段階論をのりこえることでした。これも、いわば問答無用の不可侵のテーゼとして扱われてきましたからね。

 しかし、よく研究してみると、これもマルクスの読み違えにもとづく誤ったドグマでした。この誤ったドグマを取り払って、マルクスの未来社会論そのものを探究してみると、第3課の最後のところで勉強したように、『資本論』などの著作で、マルクスは実に豊かな未来社会論を展開していることが浮かび上がってきたのです。

 ドグマから解放されて、マルクスの理論的遺産を発掘してゆくと、そこには現代を考え未来を展望する上で、実に豊かな内容があります。私たちは党綱領の改定にあたって、マルクスのこれらの遺産を現代的に適用することに力をつくしましたが、これも私たちの党が、半世紀前に自主独立の立場を確立し、それを活動の根底において活動してきたからこその到達点であることを確信しています。

 山口 こう議論してくると、マルクス、エンゲルスの理論を真剣勝負で学ぶということと同時に、それを発展させてきた日本共産党の、現在の世界的に独特の位置をもつ理論的達成を真剣に学んでいくことが大事だなと思います。

 石川 3回のてい談をふりかえって、科学的社会主義の四つの要素が併存するというだけでなく、その全体をまとめる上で革命論が要になっているというところが、一番印象に残りました。そういう角度からきちんと勉強をしなおさなければいけない。科学的社会主義の理論をとらえる時に、革命論についての学習、研究が希薄なままではだめなのだということが、あらためてよくわかった気がします。

 山口 『古典教室』の最後に、「これからも、古典の勉強をぜひ大いに続けていただきたい」とあります。不破さんの真剣勝負の話を聴きながら、私たちもこの3巻にとどまらないで、マルクス、エンゲルス、日本共産党の勉強をぜひつづけたいと思います。

 ―3回にわたってありがとうございました。

◆◆ロシア革命100年=その世界史的意義と社会主義の未来

赤旗日曜版17.11.19

◆◆ロシア革命100年=日本共産党が「プラウダ」の質問に回答

20171123日赤旗

 ロシア革命100周年を記念してこのほど、ロシア共産党の機関紙「プラウダ」から同革命の評価や各国での変革の方針や活動について質問が寄せられ、日本共産党の田川実書記局員・国際委員会事務局長が回答を送りました。各質問と答えは次の通りです。

大十月社会主義革命とソ連のソビエト権力の経験が貴党の創設と発展にどのような役割を果たしましたか?

 日本共産党の綱領は、わが党の創設について、「日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなかで、1922年7月15日、科学的社会主義を理論的な基礎とする政党として、創立された」とのべています。ここでいう「世界の人民の解放闘争の高まり」に、十月社会主義革命が重要な位置を占めていることはいうまでもありません。

 ソ連は、レーニンが指導した最初の段階においては、おくれた社会経済状態からの出発という制約にもかかわらず、また、少なくない試行錯誤をともないながら、真剣に社会主義をめざす一連の積極的努力が記録されました。しかし、レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には他民族への侵略と抑圧という覇権主義、国内的には勤労人民を抑圧する専制主義の道を進みました。それは、社会主義の事業にきわめて甚大な損害を与えました。

 これら社会主義の精神から大きく逸脱した誤りが、ソ連共産党とソ連邦を崩壊に導いたと考えています。わが党は、1950年以降、スターリンとその後継者によるさまざまな干渉に直面し、それとのたたかいを通じて自主独立の路線を確立しました。

貴党の歴史のなかで、どの時期が、大十月社会主義革命の理念を最も明確に影響を受けましたか?

 十月革命は、「平和と土地とパン」というロシア国民の喫緊の要求を掲げた革命であり、資本主義から離脱し、搾取、抑圧、戦争のない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会の実現をめざす歴史的な挑戦でした。この革命は、世界史に深く刻まれ、今日も大きな影響を与え続けていると私たちは考えています。

 十月革命は、資本主義が世界を支配する唯一の体制とされた時代を過去のものとし、第2次世界大戦後の植民地体制の崩壊と諸民族の政治的独立という世界の構造変化へ導く重要な契機となりました。「平和に関する布告」「ロシア諸民族の権利の宣言」「勤労し搾取されている人民の権利の宣言」など、革命政権のイニシアチブは、民族自決権の確立と平和外交、労働者の権利と生活の向上、人民の社会権・生存権の確立に大きく寄与し、それらは現代の世界で当たり前のものとなっています。こうした到達を踏まえて私たちは今日の活動を進めています。

大十月社会主義革命は、プロレタリア革命でした。貴党は、現代の諸条件のなかで、自らの社会的基盤をどのように規定しますか? 企業および労働者大衆における貴党の活動経験を教えてください。

 日本共産党は、日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党であり、民主主義、独立、平和、国民生活の向上、そして日本の進歩的未来のために努力しようとするすべての人びとにその門戸を開いています。

 労働者階級のなかに強く大きな党をつくる課題については、私たちは今、職場支部と全党の共同の事業として取り組むよう呼びかけています。労働組合のあるなしにかかわらず、職場で労働者と日常的に結びつき、人間的な信頼関係をつくることを党活動の根本に位置づけています。それを土台に、資本の側による迫害とたたかいながら、労働者の権利を守る活動をすすめ、党の影響力の拡大に努力しています。

現代の諸条件のもと、貴党の戦術の主要な特徴は、何でしょうか? 貴党は、大十月社会主義革命の理念と経験を、現在の階級闘争にどのように生かしていますか?

 十月革命の経験では、私たちは、レーニンの最晩年の探求が貴重なものだったと認識しています。「市場経済を通じて社会主義へ」という新経済政策(NEP)、体制の異なる諸国との平和共存外交、資本主義諸国での労働者階級と勤労人民の中で多数派を形成することの重要性と統一戦線戦術への助言、などです。

 現在の日本社会が必要としている変革は、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現をめざす民主主義革命です。私たちの方針は、この変革を、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線勢力が、国民多数の支持を得て議会で安定的な多数を占めながら、一歩一歩進めるというものです。社会主義への前進も、国民の合意をもとに、段階的に進める長期的なプロセスだと考えています。

 レーニンの創造的探求は、日本において資本主義の矛盾を乗り越え、社会主義・共産主義の社会をめざす私たちのたたかいにとっても、重要な意義を持っています。

以下小学館(百科)から「ロシア革命」「レーニン」「ソ連の歴史と解体」「ソ連の崩壊」

の解説を紹介する。

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◆◆ロシア革命小学館(百科)

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藤本和貴夫

Русская Революция Russkaya Revolyutsiya ロシア語

Russian Revolution 英語

ロシアに起こった20世紀最大の人民革命。革命によって成立した政権が、史上初めて社会主義国家の建設を目ざし、そのことによって世界の反資本主義・反帝国主義運動に大きな力を与え、世界史に巨大な影響を及ぼした。

 革命は、広義には1905年革命と、1917年の二月革命および十月革命とからなり、前者を第一革命、後者の二つをあわせて第二革命ともよぶ。このうち十月革命は、ソビエト政権を樹立し、その後のソビエト連邦の誕生につながったため、狭義のロシア革命ともいう。

 なお、ここでいう二月革命、十月革命は、当時のロシアで公式に用いられていたロシア暦に従ったもので、西暦ではそれぞれ3月と11月にあたるため、三月革命、十一月革命ともいわれる。20世紀ではロシア暦に13日を加えると西暦になるが、ロシア暦は19181月末で廃止され、西暦にかえられた(なお以下の記述も、1901~181月末まではロシア暦に従ったが、適宜( )内に西暦を示した)。

(1)革命前のロシア

 ロシアにおいて、1890年代、無制限専制君主制の下に進められた鉄道建設と重工業の育成は、急速な工業化と高い経済成長をもたらした。それを可能にしたのは、フランスを筆頭とする膨大な外資の導入と、人口の8割以上を占める農民から徴収した穀物の「飢餓輸出」であった。しかし、20世紀初頭の恐慌はロシアの経済成長の矛盾を表面化させた。1900年末から01年にはキエフ、サンクト・ペテルブルグなどの学生運動が活発となり、街頭での市民、労働者との共闘を生み出した。また農奴解放令の発布(1861)以来平静であった農村でも、40年ぶりに一揆(いっき)が頻発した。同じころ、ロシア化政策に反対するフィンランドやポーランドなどの諸民族の反抗も激しくなった。

 大衆運動の活発化と並行して、政党の組織化が進んだ。1898年に結成されたロシア社会民主労働党は、1903年に国外で第2回大会を開き、ボリシェビキとメンシェビキの2分派を生み出しつつ、組織的な革命運動に乗り出した。一方、変革の担い手をプロレタリアート、勤労農民、革命的・社会主義的知識人に求めるSR(エスエル)党も、革命的なナロードニキのサークルを基礎に、01年末に結成され、専制に対抗する手段として「戦闘団」を組織、047月、大衆の弾圧で名高い内相プレーベВячеслав Константинович ПлевеVyacheslav Konstantinovich Pleve1846-1904)の暗殺を頂点とする多くのテロ活動を行った。また自由主義者たちも、03年にはゼムストボ(地方自治会)の反政府的地主層がゼムストボ立憲主義者同盟を、04年には自由主義的な知識人と地主が非合法結社の解放同盟を結成し、立憲政治を求める活動を開始した。

(2) 1905年革命

血の日曜日

1891年のシベリア鉄道起工によって極東への本格的な進出を開始したロシアは、満州(現中国東北)を目ざす日本と衝突、19041月(西暦2月。以下同じ)、日露戦争に突入した。しかしロシアは遼陽(りょうよう)、沙河(さか)の陸戦で敗れ、0412月(051月)には旅順要塞(ようさい)が陥落した。1905年革命の発端となる「血の日曜日」事件は、この敗戦による政府の権威の失墜のなかで起こったのである。これは、051922)日、ツァーリ(皇帝)ニコライ2世に対する請願行動のために冬宮を目ざした労働者とその家族に、軍隊が一斉射撃を浴びせ、多くの死傷者を出した事件である。司祭ガポンに率いられたこの行進は、首都ペテルブルグの工場のゼネストのなかで行われたものであり、「血の日曜日」はストライキ運動への弾圧であった。以後、「血の日曜日」に対する抗議ストライキは全国に波及し、とくにポーランドとバルト海沿岸地方では激烈なストライキと街頭デモのなかで多数の死傷者を出した。

日露戦争と革命の開始

ロシア軍は190523)月、陸戦最大の決戦となった奉天の会戦で敗れ、5月にバルチック艦隊が日本海海戦で全滅した。これは政府批判をさらに激化させた。5月には、ストライキの波がふたたび高まり、また4~6月には、農村でも農民が地主に対して、地主地での労働に対する報酬の引上げと借地料の引下げを要求、村ぐるみの闘争に立ち上がった。6月に起こった黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号の反乱は、反乱が軍隊をも巻き込んだことで社会に大きな衝撃を与えた。このようななかで、中央工業地帯の繊維工業都市イバノボ・ボズネセンスクで、512日から72日間にわたり、軍隊の弾圧にもかかわらず全市ゼネストが打たれた。ここでストライキ参加企業の労働者の代表によって構成された「代表者ソビエト」が、全市ストライキ委員会として生まれた。「ソビエト」とは会議、評議会を意味するロシア語であるが、以後この語は人民権力の機関をも意味することばとなる。

 86日、政府は選挙人資格を制限し、法案の審議権だけをもつ国会の設置を発表、一定の譲歩を示した。それと同時に、革命情勢に対応するため、日本との戦争の終結を急ぎ、ウィッテを代表として派遣し、728日(810日)、ポーツマス会談を開始、823日(95日)、ポーツマス条約に調印した。

十月宣言と革命の波及

しかし革命の波は、107日に始まるモスクワカザン鉄道の労働者ストライキを契機に、全国主要都市のストライキへと拡大、革命は最高潮に達した。8時間労働日や民主的諸権利、普通選挙による憲法制定会議の招集などがその要求とされた。ここで政府はウィッテの主張をいれてふたたび譲歩し、1017日、「十月宣言」を発布して、人身の不可侵、良心・言論・集会・結社の自由、立法権のある国会(ドゥーマ)の開設、制限付きの住民の選挙参加を認めた。また大臣会議議長(首相)の職が新設されてウィッテが任命された。

 これを機に、十月宣言を受け入れて反政府運動から手を引く自由主義者と、それを拒否する革命派との分解が始まった。カデット党(立憲民主党)は、十月全国ゼネスト中に創立大会を開き、国会を通じて政治的自由のための合法闘争と立憲君主制を目ざす方針をたてた。また、より与党的な立場から十月宣言を支持する「十月党」(オクチャブリスト)も結成された。

 十月全国ゼネストは、1021日に終結したが、ストライキの過程で同月13日に成立したペテルブルグ・ソビエトは、ストライキ終結後も活動を続行した。そのイニシアティブの下に、右翼からの防衛のための労働者の武装、検閲出版条例の空文化、8時間労働日の実力実施などが行われた。農村では、9月から年末にかけ、ヨーロッパ・ロシア中央部を中心に、土地を要求する一揆が激化した。10月から11月にかけて、クロンシュタット、セバストポリ、ウラジオストクなどで水兵を中心とした反乱が起こった。

 反撃の機会をねらっていた政府は、123日、ペテルブルグ・ソビエトの議長トロツキーを含むソビエトの代議員を逮捕、ソビエトは壊滅した。これに対し、モスクワ・ソビエトは127日にゼネストに突入、9日にはこれを武装蜂起(ほうき)へと転化したが制圧され、革命は鎮圧された。ゼネストを背景とした武装蜂起はバルト海沿岸地方、カフカス、グルジアにも繰り広げられた。またシベリア、黒海沿岸などの辺境地域では、地方権力の全面的な空洞化と、それにかわって共和国を称する人民権力の一時的な萌芽(ほうが)がみられた。

国会をめぐる闘争

政府は国会開設に向け、十月宣言の譲歩を限定することに力を注いだ。1906422日、ツァーリは妥協的なウィッテを罷免、23日に国家基本法(憲法)を公布した。そこでは、ツァーリは、国家評議会(上院にあたる)と国会(ドゥーマ、下院にあたる)によって制限される「最高専制権力」をもつものとされた。地主、ついでブルジョアジーに圧倒的に有利な選挙制度の下で、427日に開会された第一国会では、「中間的住民層」の獲得に成功したカデットが36%を占め第一党、無党派急進農民のトルドビキが20%で第二党となり、与党の立場をとるオクチャブリストは十数名にとどまった。社会主義諸党はボイコットした。政府は、土地改革などを要求して対立した国会を2か月半で解散した。

 19072月の第二国会では、社会主義者が選挙参加へ戦術を転換したためより急進的になり、40%以上を社会主義者が占めることになった。第二国会の解散後、政府は選挙制度を改悪し、11月の第三国会では、ようやくオクチャブリストが第一党、国権派などの右翼が第二党となり、国会を親政府派で占めることに成功した。

(3)再編と第一次世界大戦

ストルイピンの改革

第一国会解散後に首相となったストルイピンは、国内の大衆運動を徹底的に弾圧し、それとともに自営農民の創設による農業の近代化を目ざした。これは、豊かな自営農を、帝政の新たな支柱にしようとするものであった。しかし、1915年末までに自営農になったのは1割にすぎず、しかも彼らは共同体に残る農民と新たな対立を呼び起こした。19124月労働運動がふたたび活気づき、147月にはペテルブルグでバリケード戦が行われるまでになった。そして14719日(81日)、ロシアは第一次世界大戦に突入した。

第一次世界大戦の開始

開戦は、国内支配層の団結と挙国一致の雰囲気をつくりだし、労働運動を沈黙させた。そしてSR(エスエル)やメンシェビキら多くの社会主義者のなかにも祖国防衛戦争を支持する潮流を生み出した。しかし、ロシアは、開戦50日にして兵員輸送難と砲弾補給難に陥った。さらに1915年春から夏にかけてのガリツィア、ポーランドでの大敗は社会の動揺を大きくした。モスクワでは、全工業の動員を旗印に、中央と地方における「戦時工業委員会」が設置され、のちに労働者代表も加わり、帝政の改造による「戦える政府」を目ざした。労働運動も16年に入ると高揚し、また前線兵士の戦争意欲の喪失も問題となってきた。16年夏から年末にかけて、中央アジア住民を中心とする兵役動員に対する民族反乱も起こった。そして政権の頂点にたつツァーリのニコライ2世は、ラスプーチンと皇后のグループの恣意(しい)のままに動かされていた。1612月、専制内部からラスプーチンの暗殺が決行されたが、すでに手遅れであった。

(4)二月革命

首都の二月革命

1917年に入ると、首都ペトログラード(ペテルブルグを1914年に改称)では19日の「血の日曜日」記念日に大規模なストライキが打たれた。首都の社会主義系諸団体は、223日(38日)の国際婦人デーを屋内集会として記念する予定であった。しかし当日、工場地区ブイボルグの婦人繊維労働者たちは自らのイニシアティブでストライキに入り、周辺の工場に同調を求めた。食糧不足は深刻になっており、パンを求めて行列が続いた。夕方までに労働者街はゼネストの様相をみせた。翌日、ストライキは市の多くの区に広がり、市の中心部に行進した大衆は、「パンをよこせ」に加えて「戦争反対」「専制打倒」のスローガンを掲げ始めた。25日、ストライキは全市に拡大、デモ隊と警官・軍隊との武力衝突が本格化した。27日の朝には近衛(このえ)ボルイニ連隊が民衆への発砲を強いられる出動を拒否したが、それは急速に他の部隊に波及した。反乱に立ち上がった兵士たちは労働者とともに政治犯を解放した。28日には政府軍が消滅し、革命7日目の3114)日までに政府閣僚が逮捕された。

臨時政府の成立

帝政崩壊の過程で、新しく権力を担う労働者・兵士ソビエトと国会臨時委員会が成立した。227日の夜、ペトログラード・ソビエト結成大会が開かれ、社会主義者の右派・中間派を主流とする執行委員会が選出された。ソビエトには労働者とともに兵士も代表を選出した。そして31日のペトログラード労兵ソビエト「命令第1号」によって、兵士はソビエトに従うことが表明された。ペトログラード労兵ソビエトは、その後続々と結成される各地のソビエトの全国的中心となった。

 他方、227日の昼に設立された国会の臨時委員会は、多くの自由主義者の要求により、同日深夜、政権掌握を決意、翌朝より諸官庁の接収に乗り出したが、官吏もこれを支持した。ソビエトは自ら政府をつくる意志はなく、革命の成果を擁護する限りは国会臨時委員会を支持するとした。こうして、国会臨時委員会主導の臨時政府が3215)日に成立した。同じ日、ツァーリのニコライ2世は退位し、弟のミハイル大公に譲位したが、ミハイル大公が即位を拒否したためツァーリは存在しなくなった。約300年間続いたロマノフ朝はここに崩壊した。

臨時政府とソビエト

リボフ公を首相とする臨時政府は、ソビエト副議長となったケレンスキー法相を除けば全員自由主義者によって編成された。政府は、ソビエトの要求する政治犯の大赦、言論・出版・結社・集会の自由、身分・宗教・民族による制限の撤廃、憲法制定会議の招集準備など、国内の民主化を認めたが、戦争問題ではソビエトと協定を結ばず、連合国との協力による第一次世界大戦の勝利を目ざした。他方、ペトログラード労兵ソビエトは、「革命的祖国防衛主義」を掲げ、「無併合・無償金・民族自決による講和」の追求を確認していた。ミリュコーフ外相(カデット)が418日(51日)付けで連合国に宛(あ)てた好戦的な覚書の暴露によって、大衆のミリュコーフ打倒デモが引き起こされたが、臨時政府は、危機の乗り切りのため、ソビエトからの入閣を強力に求めることになった。ソビエト内主流派のSR(エスエル)、メンシェビキもこれを受け入れた。

第一次連立政府

5518)日には、リボフ首相の下に社会主義者6名と自由主義者9名とからなる第一次連立政府(第二次臨時政府)が成立した。しかしこれは同時に、ソビエト内に、自由主義者との連立に反対してソビエト権力の樹立を目ざす、ボリシェビキ、SR左派、メンシェビキ国際派などの潮流を明確に登場させた。これより先の43日、亡命地スイスからドイツ軍占領地帯を「封印列車」で帰国したレーニンは、帰国直後に「四月テーゼ」を発表、戦争が依然として帝国主義戦争であり、戦争を続ける臨時政府と対決し、ソビエトが全権力を握るべきだと主張した。これがボリシェビキの方針となり、大衆の支持を拡大していったのである。

 他方、第一次連立政府も連合国との協調体制を柱としていたが、618日に開始された東部戦線における夏期攻勢は失敗に終わり、兵士の不満は高まった。二月革命以後、労働者によって組織された工場委員会などによる資本家に対する労働者統制が開始されていた。また農民運動も、共同体を基盤に、地主地はいうまでもなく、ストルイピン改革で生まれた自営農民に対する攻撃を強めた。またロシア帝国内で6割近くを占める非ロシア民族の自立化運動も強まった。7月初め、政府は、人口でロシア人に次ぐウクライナ人の自治要求をある程度認めるに至った。

七月闘争からコルニーロフ反乱へ

この時期、すでに臨時政府打倒とソビエト政権樹立が可能だと考えて急進化した首都の一部兵士・労働者は、73日と4日、臨時政府打倒を目ざすデモを決行した。しかし政府は軍隊の動員に成功してこれを鎮圧、デモ参加部隊は前線へ送られて、カーメネフ、トロツキーらは逮捕、レーニン、ジノビエフらは地下に潜行した(七月闘争)。724日には、ケレンスキーを首相とした第二次連立政府が成立したが、彼によって最高総司令官に任命されたコルニーロフ将軍はケレンスキーの打倒を目ざして反乱を起こした。827日、前線軍の司令官たちに支持されたコルニーロフは、自己の部隊に首都進軍命令を出した。コルニーロフ軍の兵士は、ソビエトが派遣したオルグ(組織者)たちの説得でソビエトへの忠誠を表明するに至り、91日、コルニーロフは逮捕された。

ソビエトの革命化と「十月武装蜂起」

反コルニーロフ闘争の勝利は、各地のソビエト内のソビエト権力派を強化した。1917831日、ペトログラード労兵ソビエト総会が「革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権」を決議し、925日に至って、第一革命時の議長であるトロツキーを議長に選出した。同月28日、モスクワ労兵ソビエト合同会議も「全権力をソビエトへ」を可決した。このような動きは各地に波及し、全国的なソビエト権力の樹立が日程に上った。ボリシェビキは、1010日と16日、地下潜行中のレーニンを交えた中央委員会で「武装蜂起(ほうき)」を決定し、その時期についてはソビエトの動向を重視することにした。

 首都のソビエトは、1016日、首都の防衛を目的とする軍事革命委員会を設立した。SR(エスエル)、メンシェビキが委員会をボイコットしたため、これがボリシェビキ、SR左派ら、革命派のみによって構成される十月革命の合法的な指導機関となった。臨時政府は、24日未明、士官学校生を主力とする部隊を動かして反攻に出たが成功しなかった。第2回全ロシア・ソビエト大会が開かれた25日の昼過ぎには、臨時政府の立てこもる冬宮周辺以外はほとんどソビエトの管理下に入った。ソビエト権力の樹立が自覚的に追求されていたため、二月革命のような大規模な街頭デモやストライキは行われなかった。

🔴🔴No.2

ソビエト政権の樹立

1025日(117日)午後1040分にソビエトの本部スモーリヌイ会館で開会された第2回全ロシア・ソビエト大会は、軍事革命委員会による権力獲得という既成事実を突きつけられた。第1回大会(同年63~24日)と異なり、ボリシェビキが多数派であった。この日、夕方になって冬宮包囲を完成した首都の赤衛隊(労働者の武装部隊)、首都守備軍とバルチック艦隊の水兵とからなる部隊は、冬宮守備隊に対して最後通牒(つうちょう)とアジテーター(活動家、煽動(せんどう)者)を送った。夜の9時になって攻撃開始を告げる空砲がペテロパブロフスク要塞(ようさい)、続いてネバ川に浮かぶ巡洋艦アブロラ(オーロラ)号から打たれた。冬宮が包囲軍により占領され、この朝首都を脱出したケレンスキー首相を除く閣僚が逮捕されたのは26日午前210分であった。いったん休憩ののち、午前310分に再開されたソビエト大会は、レーニンによって書かれた最初のアピール「労働者・兵士・農民諸君へ」を採択した。それは、大会による権力の掌握を宣言するとともに、民主的な即時講和の全交戦国に対する提案、農民の要求である地主地などの没収とそれの農民委員会への引き渡しの保障、軍隊の完全な民主化による兵士の権利の保障、労働者統制の樹立、憲法制定会議の適時招集の保障、都市へのパンと農村への生活必需品の供給、民族自決権の保障を約束するものであった。そして最初の2項目は大会2日目に「平和についての布告」と「土地についての布告」として採択された。続く政府の構成問題は難航したが、結局、第二党となったSR(エスエル)左派に入閣を拒否されたボリシェビキは、レーニンを議長、トロツキーを外務人民委員、スターリンを民族人民委員とするボリシェビキ単独の「人民委員会議」を「臨時労農政府」として発足させた。大会は27日朝閉会した。

 他方、首都を逃れたケレンスキーは、クラスノーフПтр Николаевич Краснов/Pyotr Nikolaevich Krasnov1869-1947)将軍の軍を率いて首都を目ざしたが、1030日、プルコボの戦闘で敗れた。ロシア第二の都市モスクワの市街戦は113日のソビエト政権樹立宣言で終わった。ほぼ同じころ、ドイツ軍占領地帯を除く首都を中心とする北西部、中央工業地帯主要都市、白ロシアとこれら各地に駐屯する北部方面軍、西部方面軍、大本営においてソビエト権力が樹立された。「労働者統制令」が1116日に布告され、1214日には銀行が国有化された。同月16日には「軍隊の民主化」が布告され、軍隊から官位・階級・称号が廃止され、指揮官の選挙制が定められた。129日、ボリシェビキ14名、SR左派7名によって構成される新たな労農政府が形成された。1815日、憲法制定会議が開かれたが、レーニン政府は、ソビエト中央執行委員会が採択した「勤労被搾取人民の権利の宣言」の採択を迫り、これを否認した会議を解散した。この宣言はその後、1月の全ロシア農民ソビエトの合流をみた第3回全ロシア・ソビエト大会によって採択された。宣言には、ロシアは「労兵農ソビエト共和国と宣言され」「自由な諸民族の自由な同盟に基づいた各民族ソビエト共和国の連邦」として創設されると書かれており、レーニンは大会で「社会主義」を目ざすことをはっきりと宣言した。なお、124日にはそれまでのロシア暦から西暦への改暦が告示された。

(5)内戦と干渉戦争

ブレスト・リトフスク条約の締結

革命最初の危機は講和問題をめぐって起こった。ソビエト政府は全交戦国に、無併合・無償金の即時講和を提案したが、連合国側の無視とドイツによる侵略的要求に直面した。しかも旧来のロシア軍は解体を始めていた。ソビエト政府は、トロツキーの「戦争もせず、講和も調印しない」という方針を定めた。しかし、ドイツ軍の侵入の圧力の下、191833日(西暦。以下同じ)、ソビエト政府はドイツとブレスト・リトフスク条約を結び、戦争から離脱した。ソビエト・ロシアは広大な領土を失った。また講和に反対するSR(エスエル)左派の全閣僚が辞任したため、統一戦線政府が消滅したことも大きな痛手であった。

 このような情勢下に、正規軍方式による赤軍の建設が急がれ、旧将校の登用と、これを監視するとともに軍においてソビエトを代表する政治委員としてのコミッサールの任命が開始された。最高国民経済会議は、中央からの労働者の統制に乗り出した。農業政策では、3月にロシア共産党と名を変えたボリシェビキ党は、513日に「食糧独裁令」を、611日には「貧農委員会」の組織化を布告、武装食糧徴発隊を農村に投入したが、しばしば農民との衝突となった。共産党の農業政策に反発したSR左派は、最初のロシア社会主義共和国憲法を制定した第5回全ロシア・ソビエト大会中の76日、反乱を起こして翌日に鎮圧され、ソビエト内の第二党は姿を消した。

全面的内戦の開始

ロシア中央部でソビエト権力が確立されるにしたがい、反革命の拠点となったのは旧ロシア帝国周辺の諸民族地域である。19181月以来、ドン、クバン、ウクライナなどでソビエト軍と反革命軍との戦闘が続いたが、全面的内戦の合図となったのは、5月にウラル、シベリアで起こったチェコ軍団の反乱である。第一次世界大戦中ロシア国内で編成され、革命後はヨーロッパ戦線へ移動のためシベリア鉄道沿線に展開していた軍団の反乱は、ソビエト政権に深刻な脅威を与えた。シベリア各地に反ソビエト政権が生まれた。連合国はこれを契機に全面的な干渉戦争を開始、8月にはチェコ軍救援を口実に、日本軍、アメリカ軍を主体とする大部隊がシベリアに侵入した。

 92日、トロツキーを長とする共和国革命軍事評議会が、1130日にはレーニンを長とする労農国防会議が設置された。ソビエト軍は、8~9月、カザンをめぐる戦闘で初めてチェコ軍を撃破し、ボルガ地域を回復した。1918628日、主要工業部門の国有化が宣言されたが、それは続いて中小企業にまで及んだ。191月には食糧割当徴発の実施が決められ、農民は自家消費以外の全食糧を国家に引き渡すことが義務づけられた。これらの経済政策は、のちに戦時共産主義とよばれる。

革命と反革命の抗争

191811月に第一次世界大戦が終結すると、ソビエト政権はブレスト・リトフスク条約の廃棄を宣言、192月には赤軍がキエフに入り、ウクライナの全域を支配下に置いた。他方、対独戦争から解放された連合国軍は、南部ロシアに上陸したが、動員された連合国軍兵士の戦争拒否などのためロシア中央部に進撃できなかった。シベリアでは、189月に、SR(エスエル)とブルジョアジーの連合政権である全ロシア臨時政府が生まれたが、内部抗争ののち、11月、コルチャークのクーデターによって崩壊し、ブルジョア・地主反革命軍独裁政権が成立した。18年秋以降、革命によって土地を手に入れ、全体として平準化して「中農」化した農民たちは、反革命の制覇が土地の喪失につながることを自覚した。193月の第8回共産党大会も、中農との同盟を確認し、両者の関係は改善された。またこの大会は、コミンテルン(国際共産主義インターナショナル)の創設を決議し、帝国主義戦争に加担した第二インターナショナルにかわる第三インターナショナルとして、同月モスクワで創設された。それはプロレタリア国際主義に基づき、世界革命運動の指導を目ざすものであった。

 赤軍は19196月になってようやく東部戦線で反革命勢力のコルチャーク軍を撃退した。202~3月には、南部方面の戦闘で同じく反革命のデニキン軍主力も粉砕された。東部戦線では、2037日、赤軍がイルクーツクに入ったが、それ以東には進まず、バイカル湖以東には、日本との緩衝国として極東共和国が建設された。

革命の終結

戦争から平和への移行期の19204月、ポーランド軍が攻撃を開始、一時はキエフを占領された赤軍も、6月には反攻に転じ、8月には国境を越えてワルシャワ近郊に迫った。しかしビスワ川の戦闘での敗北によって赤軍は退却を余儀なくされた(ポーランド・ソビエト戦争)。

 内戦の終結は、ふたたび穀物割当徴発をめぐるソビエト政権と農民との対立を表面化させた。内戦と連合国の経済封鎖により、都市の状態も農村同様悪化していた。そしてこれらの矛盾は、19213月、クロンシュタット軍港の赤軍水兵および市民の反乱となった。反乱は制圧されたが、反乱の最中開かれていた第10回共産党大会は、この矛盾を解消するため、割当徴発制を廃止して現物税を導入し、農民に余剰穀物の販売を許すというネップ(新経済政策)への転換を決議した。いちおうこの時点をもって、ロシア革命の終結点とすることができる。

(6)ロシア革命の影響 

世界への影響

第一次世界大戦下、連合国の各政府は、二月革命による臨時政府の成立を歓迎した。東部戦線で戦闘力をもつ政府の出現を望んでいた連合国にとって、連合国との協定の遵守と戦争の遂行を掲げる強力な政府の出現は望ましいものだったからである。これとは逆に、十月革命によって成立したソビエト政権は、「平和についての布告」によって、各国人民、とくにイギリス、フランス、ドイツの労働者に帝国主義戦争反対を呼びかけ、秘密条約の暴露に踏み切って、既存の国際秩序を否定し、まったく新たな国際関係を呼びかけた。したがって、連合国側では、対独戦への影響が不明な段階では態度を決しかねたが、ブレスト・リトフスク条約の成立後は公然とした武力干渉による新政権の打倒に向かった。

 他方、ソビエト政権にとって、ロシア革命の持続・拡大を保障するものは、被抑圧階級、被抑圧民族との同盟であった。そのための国際組織が、1919年に創設された第三インターナショナルである。それは、帝国主義戦争によってもたらされた混乱を打開する新しい道を求める人々の希望となった。ヨーロッパでは、社会主義政党内の左派による共産党の組織が進み、新たなイデオロギーや文化を成立させた。また、第三インターナショナルは、被抑圧民族の解放へ向けてのさまざまな模索を行ったが、20世紀のもう一つの人民大革命である中国革命に大きな影響を与えた。また、第三世界の発展にとっては避けて通れない多くの問題を提起した。

日本への影響

十月革命に対する日本政府の対応は、1918年(大正78月から2210月に至るシベリア干渉戦争(シベリア出兵)であった。ロシアが革命によって弱体化したのを機に、朝鮮、満州(中国東北)に続き、バイカル湖以東のロシア極東部を日本の勢力圏に組み込もうとするものであった。その過程は、極東進出をねらうアメリカとのさまざまな対立を生みながら進行したが、最終的には成功しなかった。他方、大逆事件以来「冬の時代」にあった少数の社会主義者は、十月革命に期待を寄せた。シベリア出兵反対運動や労農ロシア承認運動が大衆運動として展開されるのは1921~22年で、小牧近江(おうみ)らの『種蒔(ま)く人』の呼びかけたロシア飢餓救済運動(1921)などに始まる。22年の東京のメーデーでは「労農ロシアの承認」が決議された。251月、ソ連と日本との間に日ソ基本条約が調印され、国交が樹立された。しかし、日本の支配階級は、ボリシェビズムが日本、とくに日本の植民地とされた朝鮮に浸透することを恐れた。治安維持法はその対策の一つであった。

ソ連・ロシアと欧米

ロシア革命の研究は革命直後から始まり、1920年代にはソ連と欧米で大量の史料が刊行され、回想録が書かれた。ソ連では、20年代初めからロシア革命の研究を専門とする月刊の『プロレタリア革命』誌や『赤い年代記』誌などが刊行され、豊富な史料・回想・研究が数多く公開された。

 これらの雑誌は1930年代初めにスターリンによって廃刊に追い込まれたが、国外に追放されたトロツキーがベルリンで出版した『ロシア革命史』(1931~33年刊)は、このような1920年代に発表された史料・回想や研究書を総括した上で革命の指導者自身が書いたロシア革命史として、現在でも高く評価されるものである。

 その後、スターリン時代に停滞した革命史研究は、1956年のソ連共産党第20回大会でのフルシチョフによるスターリン批判後に研究の見直しが始まり、革命50周年に当たる1967年を中心に膨大な1905年革命や1917年革命の史料集が刊行された。これらの史料集ではボリシェビキと労働者が中心で、時の権力の政策やボリシェビキと異なる政治的諸潮流はほぼ無視されたものであったが、多くの貴重な史料を研究者は利用できることになった。

 1920年代から30年代初めの研究がペテルブルグやモスクワといった中央での動きやボリシェビキ・労働者に集中していたのに対し、スターリン批判以後の研究は各地域や諸民族の動向にも注目するようになったことが特徴である。また1970~80年代にはボリシェビキ以外の社会民主主義政党であるメンシェビキや自由主義政党のカデット(立憲民主党)なども、批判的にではあるが、研究の対象とされるようになった。

 ソ連での主要な研究の方向が、革命の主体、革命の勝利の必然性の解明にあったとすれば、初期の欧米での研究に大きな影響を与えたのは、革命による亡命者たちであった。したがってここでは、革命の原因論と責任論が大きな比重を占めた。革命で倒された臨時政府の首相であったケレンスキーが編集した史料集『ロシア臨時政府』(全3巻)などは、それらをめぐる論争の産物である。

 他方、このような立場と一線を画したイギリスのEH・カーは、『ボリシェヴィキ革命 1917~1923』(全3巻)などで革命とそれが生み出した政治・経済・社会秩序の体系的な分析を行い、欧米や日本の研究者に大きな影響を与えた。

 ソ連でペレストロイカ(改革)が開始されるとソ連国内での歴史研究に対するそれまでの制限が急速に弱まった。禁書であったブハーリンやトロツキーらの著作が相次いで刊行され、ブルジョア史学と批判されていたEH・カーなど欧米の歴史家の研究が相次いで翻訳されるようになった。

 さらに、199112月のソ連崩壊は、それまで歴史研究に加えられていた多くの制限を取り除いた。共産党関係を中心に秘密とされてきた多くのアルヒーフ(公文書館史料)への接近がかなり自由になり、外国人研究者もロシアの研究者と同様にアルヒーフで研究できるようになった。これは中央の諸機関のものだけでなく、それぞれの地方のアルヒーフにも及んだ。

 これと並行して、これまで公開されることのなかった、アルヒーフに保存されている膨大な諸政党や諸事件の史料が、マイクロフィルムや書籍として公刊されるようになった。そのためこれまで実態が明確にならなかった革命と内戦期の農民、諸民族や諸地域とソビエト権力との関係についての研究も、これらの史料を使ってようやく進みつつある。

日本

日本でのロシア革命研究が本格的に始められたのは第二次世界大戦後、とくにスターリン批判後である。1968年に出版された共同研究(江口朴郎(ぼくろう)編『ロシア革命の研究』)によって初めて1905年革命と1917年革命が本格的な研究の対象とされた。

 1970年代に入ると、1917年革命の過程の研究が進むなかで首都やレーニンに集中された革命像の克服、革命が生み出した矛盾に注目する必要が認識されるようになった。そして諸地域における革命の構造を解明する「革命の地域研究」や諸民族地域の革命の構造が問題とされるようになった。ロシア革命は1917年の首都におけるソビエト権力の樹立で終わるものではなく、基本的には1922年まで続いた諸民族地域を巻き込んだ内戦・干渉戦争を含む過程である。

 そしてロシア帝国の「辺境」にあたるザカフカス、中央アジア、極東などの諸民族地域は、ロシア帝国にとっての植民地として存在していたものであり、ロシア革命は植民地解放の問題としてもとらえなければならないとの理解が広まった。はたしてこれらの地域は、ロシア革命によって植民地からの独立を果たしたといえるのかが問題とされるようになったのである。その結果、ウクライナ、ザカフカス、中央アジア、シベリア・極東などの革命の地域研究が進められた。

 また、1970~80年代にスターリン時代の研究が進むにしたがい、革命によって樹立されたソビエト政権と諸地域・諸民族との関係が、スターリン主義の成立を含めてその後のソビエト体制の歴史にきわめて重要な意味をもつことも同時に明らかにされるようになった。1991年のソ連崩壊による各共和国の独立は、まさに革命による植民地の解放がなされなかったことを主張したものであったということができる。

 連邦崩壊後、日本でもロシアで新しく公開されたアルヒーフを使った研究がようやく現れるようになっている。また各国が独立したことにより、ウクライナ語やグルジア語文献を利用したウクライナ史、グルジア史などの研究成果も生まれつつある。これらの研究によってロシア革命が新たな光をあてられることになることが期待される。

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◆◆ロシア革命の意義・スターリン以降のソ連をどうみればよいか

日本共産党綱領の一部改定についての報告

日本共産党中央委員会幹部会委員長 不破哲三

1994719日報告 1994723日採択 

http://www.jcp.or.jp/web_jcp/1994/07/post-48.html

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この報告には、ロシア革命をどうみればよいか、スターリン体制をどうみればよいか、スターリン以降のソ連をどうみればよいか、について理論的な解明がされている。以下紹介する。

◆◆ロシア革命の意義

20世紀の進歩に貢献した十月革命とレーニン時代の意味

 十月革命の評価の問題についても、二十世紀の世界の流れを全体としてとらえる見地にたってこそより明確になります。第十九回党大会では、科学的社会主義を学説、運動、体制の三つの角度からとらえ、体制論の問題としては、「レーニンが指導した時代」と「その道にそむいたスターリン以後の時代」とを区別することの重要性を強調しました。この見地は、綱領一部改定案でも展開され、とくにレーニンが指導にあたった時期に「民族自決、平和、男女同権、八時間労働制や有給休暇制、社会保障制度などを宣言し実行したこと」が、資本主義諸国にも影響をあたえて世界の進歩に貢献したこと、その人類史的な意義はその後のスターリンらの誤りの累積やソ連の崩壊によっても失われるものではないことが、強調されています。つまり、この時期のソ連における達成の意義と影響は、ソ連だけの範囲にとどまらず、また、一時的な一過性のものでもなく、世界各国での人民の闘争とむすびついて、二十世紀の世界の流れを社会進歩の方向におしすすめる巨大な力を発揮したのであります。

 今日、かつての植民地・従属諸国をふくめて、世界のすべての民族が自決権をもつことは、国際社会の普遍的な原理として、少なくとも理論的には承認されています。しかし、一九一七年十一月に、レーニンが革命政権の「平和についての布告」で、植民地諸民族にも民族自決権があると宣言したときには、まったく新しい問題提起として世界をおどろかせたのであります。

 社会保障制度をはじめ、国民の生活権、生存権が民主主義的権利の不可欠の柱として国際的にも認められるようになったことは、二十世紀の人類的な進歩の重要な側面をなしていますが、十月革命後のソ連における達成がこれらの世界的な進歩の出発点となったことは、理論的な立場を異にする人びとからも広く指摘されていることであります。

 たとえば、憲法学者の宮沢俊義氏は、岩波文庫の『人権宣言集』の序論のなかで、国民の生活権、生存権を「社会権」あるいは、「社会国家の理念」とよんでその歴史を紹介していますが、これも十月革命の意義を高く評価している議論の一つです。宮沢氏は、社会権が一般に承認されるようになったのは、第一次世界戦争以後のことで、ソビエト・ロシアにおける権利宣言の影響のもとに、ヨーロッパ諸国の憲法が「すべて多かれ少なかれ社会国家の理念を承認し、その表現として、権利宣言のなかで各種の社会権を宣言・保障」するようになったと、そのことをはっきりと指摘しています。

 もう一つの例をあげますと、労働の分野に国際労働機関・ILOがありますが、ILO発足三十周年を記念した文章のなかで、四代目にあたる当時の事務総長が、ILOがほかの国際機関とちがって、政府、労働組合、経営者が平等の資格で参加する国際機関になったのは、十月革命の影響によるものだったと、その経過を具体的に説明しています。ILOの第一号条約が、ロシアで実現した八時間労働制を国際条約化した八時間労働制条約だったことも、けっして偶然ではなかったのであります。

 このように、科学的社会主義の事業が何を達成したかを、体制論をふくめて評価する問題でも、それが、二十世紀の世界的な進歩にいかに貢献したかを事実にもとづいて科学的にとらえる見地が、きわめて重要であります。

◆◆スターリン以降のソ連をどうみればよいか

 ある社会を研究する場合、政治的な上部構造の面からだけでなく、経済的な土台の面からも見る必要があるということは、史的唯物論の根本的な要求の一つであります。この見地から旧ソ連社会を見る場合、重要なことは、スターリンが、民族自決権のじゅうりんや大量弾圧など、国際・国内の政治の分野で重大な誤りをおかしただけではなく、経済的土台の領域においても、根本的に誤った政策を強行して、レーニンが探究した過渡期の軌道をくつがえしてしまった、という事実にあります。

 社会主義とは「生産手段の社会化」だとよくいわれます。わが党の綱領にもそのことは明記されています。では「社会化」とはなにかと言えば、生産手段を社会、すなわち人民の手に移すことであります。生産手段を国有化しさえすれば、それが「社会化」だというわけにはゆかないのです。国有化が生産手段を人民の手に移す形態、手段となるか、少なくともそれに接近する一形態となるかどうか、ここに肝心な問題があります。

 ですからレーニンは、十月革命の最初の段階から、経済生活の全国的な管理と運営に人民が参加できる条件をつくりだすことを、社会主義への道の決定的な問題として強調しつづけたのです。彼が、晩年の探究のなかで、いわゆるネップ(新経済政策)に到達したさい、人民の文化的知的水準の向上に特別に力をいれたのも、人民の多くが字も読めない、文化がないような状態では、人民が経済の管理に参加する基礎がきずけないという、強烈な目的意識にもとづいてのことでした。

 ところがスターリンは、三〇年代に、工業でも農業でも、レーニンのこの方針を完全に投げすてました。スターリンの指導と命令のもとに強行された農業の「集団化」なるものは、農民の自発的な意思による協同組合化という科学的社会主義の大原則をふみにじって、農民を強制的にコルホーズなどに追いこんだものであり、農民は、国内の移動や旅行の自由さえもたない、極端に隷属的な生活条件のもとにおかれました。しかもそれは、シベリアその他への数百万の農民の追放をともなっていたのです。工業でも、革命の初期に重視された経済管理への労働者、労働組合の参加の制度は失われ、労働者は賃金など自分の労働条件の問題についての交渉の権利さえ大幅に制限されたり奪われたりしたうえ、人権を侵害する過酷な労働制度が強権をもって導入されるようになりました。

 たしかに形のうえでは、「国有化」もあれば「集団化」もありましたが、それは、生産手段を人民の手に移すことも、それに接近することも意味しないで、反対に、人民を経済の管理からしめだし、スターリンなどの指導部が経済の面でも全権限をにぎる専制主義、官僚主義の体制の経済的な土台となったのです。

 さらに、スターリン以後のソ連社会の重大で深刻な実態は、囚人による強制労働がおそるべき規模で存在しつづけたことであります。最初は、農村から追放された数百万の農民、つづいて大量弾圧の犠牲者たちが、絶え間ないその人的供給源となりました。多くの報告によれば、強制収容所の囚人労働は、毎年数百万という規模で、三〇年代から五〇年代までつづいたといわれます。この強制労働の制度は、たとえば、零下五〇度というシベリアの酷寒の条件での休息も休日もない長時間労働など、普通なら不可能な過酷な条件のもとでの労働を可能にして、スターリンが誇った多くの巨大建設の基盤ともなりました。さらに重要なことは、この膨大な強制労働の制度の存在が、社会の全体を、一歩間違えばだれでもそこへ転落するという恐怖でしめつけて、ソ連社会における専制的支配のささえという役割をはたしてきたことであります。

 みなさん、社会主義とは人間の解放を最大の理念とし、人民が主人公となる社会をめざす事業であります。人民が工業でも農業でも経済の管理からしめだされ、抑圧される存在となった社会、それを数百万という規模の囚人労働がささえている社会が、社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか。(拍手)

 このように、スターリンは、レーニン時代の探究の結論である過渡期の軌道をくつがえし、社会主義とは無縁な社会への転落の道をつきすすんだのであります。そしてその後のソ連指導部――フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフなどの指導部も、強制収容所の縮小・廃止をはじめ一連の「緩和」政策を実行しはしたものの、スターリンが転落させたこの道に根本的な批判をくわえることも、そこからぬけだすことも最後までできなかったし、やろうとしなかったのであります。

 ソ連共産党の最後の書記長であるゴルバチョフが、一九八七年の十月革命七十周年記念日でおこなった演説は、この点で記憶に値します。彼はそのとき、一方でペレストロイカや、帝国主義美化の「新しい思考」路線などを大宣伝し、いかにもソ連社会における新しい波の先駆けであるかのようなよそおいをしました。しかし、他方では、農業の強制的な「集団化」など三〇年代にスターリンがやったことについて、若干の逸脱があったことは認めながらも、それは、世界で最初の社会主義社会をきずきあげた「歴史的規模と歴史的意義をもつ偉業」であるとし、農業の「集団化」さえも、「結局は原則的な意義をもつ転換点」であって、「国の大半の住民の生活様式」を社会主義化したものだったと意義づけ、「当時の条件の下」で別の方針を選ぶことは不可能だった、そこに「生活の真実の立場がある」など、基本的にはスターリン礼賛に終始したのでした。

 スターリン以後の転落は、政治的な上部構造における民主主義の否定、民族自決権の侵犯にとどまらず、経済的な土台においても、勤労人民への抑圧と経済管理からの人民のしめだしという、反社会主義的な制度を特質としていました。旧ソ連社会の経済的諸制度のなかで、社会主義的性格をいちおう評価できるのは、レーニン時代に基礎がおかれた社会保障など人民の最低生活保障にかかわる諸制度ですが、それは、生産関係にではなく、分配関係に属するものであって、社会の経済的な骨格を形づくる基本的要素とはならなかったのであります。

 いま私たちが旧ソ連社会の実態についてたちいった批判をおこない、そのような社会が経済制度としても社会主義とは無縁であったことを、厳格な科学的な立場にたってはっきりと認識することは、将来、日本の国民が社会主義的な発展の道へふみだすかどうかが現実の日程にのぼってくるときにも、きわめて重要な意義をもつ問題であります。

◆教条的な図式主義をしりぞける

 最後に、スターリン以後のソ連社会を経済的社会構成体としてどう規定するかという問題にふれたいと思います。

 この問題では、社会主義社会やそれへの過渡期なのか、そうでなければ資本主義社会なのかというように、社会主義か資本主義かの二者択一の形で問題を提起するのは、問題のたてかたそのものが科学的でないということをまず指摘しなければなりません。実際、私が先ほど報告した旧ソ連の社会には、資本主義社会でもなかなか発見できないような(笑い)、人民にたいする前近代的な抑圧の制度が無数にあるわけであります(笑い)。ことはそんなに単純ではないのです。

 マルクスは『経済学批判・序言』で、原始共産制社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会を、これまで人類の歴史のうえにあらわれた四つの社会構成体として列記しています。これに共産主義社会をくわえれば、五つの社会構成体ということになりますが、マルクスは、そのさい、「大づかみにいって」をつけくわえることを忘れませんでした。われわれがあれこれの社会を研究するさいに、人類史には過去、現在、将来をつうじて、五つの社会構成体しか存在せず、どんな時代のどんな社会も、この五つのどれかにかならずあてはまるはずだ、とする教条的な見地はとるべきでないのです。

 マルクスは、自分の史的唯物論が、あらゆる時代、あらゆる社会につうじる「万能の合鍵(あいかぎ)」としてあつかわれることを、きわめてきらいました。この理論を、どんな社会にもあてはまる普遍的な歴史哲学にはしてくれるな、というのが、彼のくりかえし強調したことであります。マルクスにしてもエンゲルスにしても、実際にあれこれの社会の分析にとりくむとき、その社会があたえられた社会構成体のどの型に属するかという立場から出発したことは、一度もありませんでした。その社会の実際のしくみと運動を事実と実態にもとづいて分析し、そこからその社会にふさわしい規定をひきだすのがつねであって、歴史の複雑な展開のなかでは、現在の時点では予見できない新しい社会形態に出合うことがありうることも、彼らは当然の前提としていました。

 旧ソ連社会がいかなる社会構成体であったかの問題についても、教条的な図式主義をしりぞけた、実態にそくしての研究が重要であります。これからも、この社会については、多くの側面、多くの実態があきらかにされてくるでしょうし、多くの研究もおこなわれるでしょう。私たちは、この党大会でソ連をいかなる社会構成体とよぶべきかという学問的結論をだして、こんごの学問的研究を制約するつもりは少しもありません(笑い、拍手)。この党大会で、科学的社会主義の事業の担い手である日本共産党としての立場から確認したいのは、スターリンによる転換以後、強力をもって形づくられた旧ソ連社会が、社会主義社会でもそれへの過渡期の社会でもなかったということ、そこに私たちの認識の今日的な到達点があるということであります。(拍手)

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◆◆レーニン(小学館百科全書)

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池田光義

Николай Ленин Nikolay Lenin 

1870-1924

本名はウリヤーノフ УльяновUl’yanov であるが、一般的に知られているレーニンの名のほか150ほどのペンネームを使ったといわれる。ボリシェビキ党(ソ連共産党)の創設者で、ロシア十月革命を指導、世界で初めての社会主義国家(ソビエト連邦)を樹立した。マルクス主義を帝国主義・独占資本主義の出現や社会主義の建設といった新しい歴史的条件のもとで創造的に発展させた理論的功績も大きく、マルクスやエンゲルスに次ぐ評価を与えられているが、彼の定式化した諸命題が今日の発達した資本主義諸国にも妥当するのかどうか等をめぐって再検討の動きもある。

(1)生涯

1870422日、シンビルスク(レーニンの本名にちなんで、1924~1991年はウリヤノフスクとよばれた)で、父イリヤー・ニコラーエビチと母マーリア・アレクサンドローブナの間に6人兄弟の3番目の子として生まれた。父親は中学校校長、国民学校視学官などを務めた進歩的な教育者で、レーニンは厳格ながらも自由主義的な雰囲気の支配する家庭環境のもとで、幅広い教養を身につけることができ、学業も非常に優秀であったといわれる。17歳のとき、ナロードニキ思想に傾倒した兄アレクサンドルが皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に参加した罪で処刑され、これがレーニンの社会観に大きな影響を与えた。1887年にカザン大学法学部に入学、学生運動に加わるが逮捕されて退学処分となり、コクシキノ村(カザン県)に追放された。ここで兄アレクサンドルの愛読書でもあったチェルヌィシェフスキーの『なにをなすべきか』を熟読、ナロードニキ主義克服のための本格的格闘が始まった。翌1888年カザンに戻り、マルクス主義的サークルに参加、マルクスの『資本論』にも初めて触れた。1891年にペテルブルグ大学で抜群の成績で国家検定試験に合格、翌1892年サマラで弁護士補として活動したのち、1893年ふたたびペテルブルグへ向かった。ここでのちに妻となるクループスカヤと知り合い、また自由主義的ナロードニキ批判を目的として『人民の友とは何か』(1894)を執筆、出版した。1895年にはヨーロッパ各地を訪れ、スイスでは労働解放団を代表するプレハーノフと接触した。帰国後、ペテルブルグに労働者階級解放闘争同盟を結成するが12月に逮捕、投獄され、1897年にはシベリアに追放される。そこで同じく流刑されたクループスカヤと結婚し、1899年にはロシアにおける資本主義の発展の可能性と必然性を論じた『ロシアにおける資本主義の発達』を書き終えた。19001月、流刑は終わり、7月には西ヨーロッパに亡命し、12月に経済主義者や合法マルクス主義者に対抗して戦闘的マルクス主義政党を組織するための新聞『イスクラ』を創刊した。このころ、同じ目的で『なにをなすべきか?』(1902)、『貧農に訴える』(1903)を刊行した。1903年にロシア民主社会党第2回大会に参加したが、レーニン派(ボリシェビキ=多数派)は組織原則をめぐってマルトフ派(メンシェビキ=少数派)と対立、敗北した。

 1905年には第一次ロシア革命を経験、『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』を出版して労農同盟を中心思想としたボリシェビキの戦術を提起した。革命が失敗に終わったのち、ふたたび亡命(1907)を余儀なくされるが、『唯物論と経験批判論』(1909)で反動期に広がった日和見(ひよりみ)主義の観念論を批判したり、『ズベズダ』(1910)、『プロスベシチェーニエ』(1911)、『プラウダ』(1912)等の雑誌、新聞を創刊した。1912年初頭にはプラハの党会議でメンシェビキを除名し、ボリシェビキによる党再建に成功した。1914年に第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)、レーニンもスパイ容疑で逮捕されたが釈放されてスイスに移った。『戦争とロシア社会民主党』(1914)を発表して、戦争の帝国主義的性格を分析し、第二インターナショナルの諸党が戦争支持・自国政府擁護の立場に転換したのを批判、「帝国主義戦争の内乱への転化」「自国政府の敗北」というスローガンを提起した。1915年から1916年にかけて反戦派(国際派)社会主義者の国際会議を組織する一方、帝国主義の研究にも着手、『資本主義の最高段階としての帝国主義』(1916)に結実させた。

 1917年に二月革命勃発の知らせを受け、3月末に封印列車でフィンランドを経由してロシアに潜入、44日『現在の革命におけるプロレタリアートの任務』(いわゆる『四月テーゼ』)を発表し、「全権力をソビエトへ」のスローガンのもとに社会主義への移行の方針を提起した。7月、臨時政府の弾圧を逃れてフィンランドに潜伏、『国家と革命』(1917)を執筆した。その後、機関車に隠れてふたたびロシアに潜入し、十月革命を成功させ、人民委員会議長に選出された。19183月、ドイツとブレスト・リトフスク条約を結び、『ソビエト権力の当面の任務』で社会主義建設の方針を示すが、反革命内乱や列強の軍事干渉が起こったので戦時共産主義体制に着手した。また、19193月にコミンテルン(第三インターナショナル)の結成に成功、内乱と軍事干渉が弱まった1920年から1921年にかけて新経済政策へと移行させ、経済再建に努力した。1922年から脳軟化症による発作を数回経験したのち、1924121日、モスクワ郊外(ゴールキ村)で息を引き取った。遺体はモスクワ赤の広場の廟(びょう)に安置されている。

(2)人となり

レーニンの体格はむしろ小柄で、スラブ系の素朴な風貌(ふうぼう)をもち、生活態度も非常に素朴であったといわれる。だが流刑・亡命を含む波瀾(はらん)に富んだ52年の人生を通じて、終始精力的に理論的・実践的活動に打ち込み、言行ともに鋭いものがあり、多くの点でレーニンと対立したトロツキーもレーニン個人には高い評価を与えていた。芸術・文化に対しても幅広い関心と理解をもち、ゴーリキーに示した寛容な態度は有名である。

(3)思想的特徴

マルクス主義をロシアという後進国に適用しただけでなく、それを帝国主義、社会主義革命の時代という新しい歴史的条件のもとで創造的に発展させたという理論的評価が与えられているが、レーニンの学説が高度に発達した西欧資本主義諸国や現代の新しい諸条件にどれだけ有効であるかは、マルクス主義勢力の内部でも再検討が行われている。おもな理論的業績として、帝国主義を「資本主義の最高かつ最後の段階」「社会主義革命の前夜」として総合的に分析したこと、資本主義の不均等発展の理論によって世界再分割を目ざす列強による帝国主義戦争の不可避性、帝国主義諸国のなかでもっとも弱い環における社会主義革命の可能性を基礎づけたこと、抑圧されている諸民族の解放闘争を世界革命の一環として位置づけたこと、社会主義革命、社会主義建設における労働者階級と農民層の同盟の問題を提起したこと、労働者などの一般大衆に幅広く根を下ろし、民主集中制を組織原則とする新しい型の労働者党の必要性を説いたこと、などがあげられる。

(4)日本への紹介

レーニンの名が一般に日本で知られるようになったのはロシア革命以降のことである。それ以前には、日露戦争(1904~1905)前後に当時諜報活動に従事していた明石元二郎(あかしもとじろう)大佐がロシアの過激派の一人としてレーニンに注目していたのが知られている。1917年(大正6)堺利彦(さかいとしひこ)によって『新世界』に発表された「ロシア革命におけるロシア社会民主党の任務について」が日本で訳されたレーニンの最初の著作であった。

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◆◆ソ連の歴史と解体

(小学館百科全書)

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外川継男

(1) ソビエト同盟の成立 

戦時共産主義

十月革命によって臨時政府を倒したボリシェビキは、SR(エスエル)(社会革命党)左派と組んで世界最初の社会主義政権である労農政府を樹立した。首班にはレーニンが、外務人民委員にはトロツキーが、民族問題人民委員にはスターリンが就任した。

 新政権はかねてからの約束にしたがって、憲法制定会議を召集するために歴史上最初の自由な普通選挙を行ったが、その結果はエスエルが第一党で、ボリシェビキは23%を得たにすぎなかった。この憲法制定会議が、新政権の提案した宣言を拒否したところから、レーニンは武力を使ってこれを解散した。この直後、労農政府は第3回ロシア・ソビエト大会を開催して「勤労被搾取人民の権利の宣言」を採択させるとともに、ロシア・ソビエト社会主義共和国の成立を宣言した。

 新政権に反対する勢力は旧体制支持の地主・貴族・ブルジョアジー・軍人だけでなく、メンシェビキやエスエル右派からも生じた。新政府はこれらの反体制勢力を取り締まるために「チェカー」(非常委員会)とよばれる機関をつくって、厳しく弾圧した。これがのちの秘密警察「ゲー・ペー・ウー」の前身である。

 新政権のさしせまった課題は、どうしてモスクワやペトログラードをはじめとする都市の労働者に食糧を供給するかということであった。政府は穀物の国家による独占を図って「食糧独裁令」を発布するとともに、農村に貧農委員会をつくって、強制的に食糧を徴発した。1918年のなかばから政府は「戦時共産主義」とよばれる非常処置を実施して、白衛軍(反革命軍)や外国の干渉軍だけでなく、食糧の供出に応じない農民とも戦うことになった。

 19187月にエスエル左派が反乱を起こして蜂起(ほうき)したが、これをチェカーが鎮圧した。この事件によって政府は完全にボリシェビキだけが掌握するところとなり、それ以後の一党独裁体制が確立した。8月にはレーニンが危うく暗殺されそうになったが、このときから政府は「赤色テロル」を断行し、反対勢力を排除していった。ニコライ2世とその家族も処刑された。

 ボリシェビキ政権は、地主・貴族・軍人・コサックなど旧体制の支持者に加えて、英・米・仏・日など外国の干渉軍や、独立を主張する少数民族、食糧微発を拒否する農民とも戦わなければならなかった。そのために第一次世界大戦中のドイツの総力戦体制をモデルとし、あらゆる政治・経済の力を中央に集中した。チェカーをはじめ、一時的な処置として採用された革命直後のこのような政治システムは、その後のソビエト体制の基礎を形づくることとなった。

民族政権の成立と消滅

19183月のブレスト・リトフスク条約によって、ロシアは人口の26%、領土の27%を失った。それまでロシア帝国に組み込まれていたフィンランド、ポーランド、バルト三国とウクライナが独立した。ザカフカスの民族主義諸政党は19184月にザカフカス連邦共和国の独立を宣言したが、まもなくグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの3共和国に分かれた。しかしイギリス干渉軍の撤退後、ソビエト軍によって社会主義政権がつくられ、2212月にはロシア、ウクライナ、白ロシア、ザカフカスの4か国によってソビエト連邦(ソ連)が成立した。中央アジアでは184月にトルキスタン自治共和国がつくられたが、ボリシェビキ政権に反対するムスリム農民の反ソ暴動組織バスマチ(basmaciは「匪賊(ひぞく)、急襲者」の意)の抵抗運動は1920年代の末まで続いた。イスラム教徒の遊牧民の多い中央アジアでは、24年から36年にかけて五つの共和国がつくられ、ソ連邦構成共和国となった。

 帝政ロシアには多くのイスラム教徒が住んでいたが、そのおもな定住地は中央アジア、ボルガ川沿岸、カフカス山地、クリミア地方であった。ボルガ川沿岸のタタール人とバシキール人は一つの国になるのを望んでいたが、1919年に分断されてタタール自治共和国とバシキール自治共和国がつくられた。

 新たに形成されたソビエト連邦は、理論上はロシア連邦と、それと対等な共和国との同盟、および自治共和国または自治管区、自治州がロシア連邦に自発的に加入する形をとっていた。しかし、これはあくまでもたてまえで、ボリシェビキ政権が押しつけたものであった。そして各共和国の連邦からの離脱も、実際には不可能だった。

ソビエト共産党

十月革命に勝利したボリシェビキは、1898年に設立されたロシア社会民主労働党が1903年の第2回の大会でレーニンの率いるボリシェビキ(多数派)とメンシェビキ(少数派)に分裂してできたものだった。しかし実際にはボリシェビキのほうが党員数は少なく、二月革命の直前にはわずか24000人ほどだった。その後1918年にロシア共産党(ボリシェビキ)と改名し、25年に全連邦共産党(ボリシェビキ)、52年にはソビエト連邦共産党(ソビエト共産党)と名のるようになった。

 レーニンは第2回大会のときからロシアの革命党がヨーロッパの社会主義政党とは根本的に異なる職業的革命家の政党で、上からの指令には文句なく従う一枚岩の組織であるべきだと主張してきた。革命後、まだ党員数も少なく組織も弱かった共産党が、広大な領土と100以上の多民族国家を統治することができたのは、この共産党がその指令を遂行する地方ソビエトと秘密警察を完全に掌握していたからであった。

 共産党の最高機関は党大会であったが、これは名目にすぎず、実際には大会で選出された中央委員会と、そこで選ばれた政治局が党と国家のすべての重要事項を決定した。さらにその頂点の書記長が最高権力者としてしだいに独裁的な権力を行使するようになった。

レーニンとスターリン

レーニンはマルクス主義者だったが、あくまでも実践的な政治家だった。彼は革命当初にはロシアにおける社会主義革命は、ヨーロッパ資本主義国の革命をまって初めて完遂されると信じていた。しかし、しだいにその可能性が薄れると、獲得した政権を維持するために原則から離れて現実的な手段をとるようになった。多くの同志の反対を押し切って十月革命をなしとげ、労農政権の維持のためにドイツと屈辱的な講和を結んだ彼は、戦時共産主義政策が多くの労働者・農民の反対にあって生産活動が麻痺(まひ)するようになると、1921年からは「ネップ」とよばれる新しい経済政策を打ち出した。これは農民に対する土地および生産物の比較的自由な処分と、商工業における限られた範囲内での私的活動を認めるものだった。ネップが始まった年には旱魃(かんばつ)のため、南ロシアを大飢饉(ききん)が襲い、全国で500万人もの餓死者がでた。多くの農村が昔の共同体を復活して、閉鎖的な自給経済にたちもどった。政府は割当て徴発制度を廃止して、現物税制度にかえ、農民の手元に残った生産物を自由市場で売ることを認めた。

 1922年に政府が教会の貴重品を没収したのに抗議して、聖職者が暴動を起こしたとき、レーニンは銃殺を含めて断固これを鎮圧することを命じた。政府の政策に反対する者に対する彼の非情な態度は、その後のスターリンのやり方に受け継がれた。

 レーニンは19233月の三度目の発作のあと、完全に公務から離れた。この前後から病床にあって241月に死ぬまで、適切な政策を実行するには、党官僚の知識と教養が決定的に不足していることを痛感していた。彼はスターリンがその粗暴な性格から書記長としてふさわしいとはいえず、その地位からはずすべきだと考え、そのことを妻に口述筆記させた。またレーニンは、民族問題に関するスターリンの処理の仕方にも、民族感情や伝統を理解しない排外的な大ロシア主義があることを心配した。しかしこのレーニンの「遺言」は公表されることなく、スターリンはあたかもレーニンの後継者であるかのごとく葬儀を取り仕切り、トロツキーら政敵を次々に排除して、独裁的権力を固めていった。

(2) 一国社会主義 

工業化と農業の集団化

スターリンは遅れたソ連を近代的な国家にするために、1928年から五か年計画を実施して重工業優先の工業化を図るとともに、農家をまとめて大規模なコルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)の創設にのりだした。資本主義諸国に囲まれたソ連が一国でも社会主義社会を建設できること(一国社会主義)を国民に示すために、彼は食糧の供出を確保し、遅れた農業を機械化するとともに、労働力を電力・石炭・製鉄・軍事工業などの分野にまわす強硬な政策をとった。

 集団化に反対する農民は各地で一揆(いっき)や暴動を起こしたが、党=政府は「国家政治保安部(ゲー・ペー・ウー)」といわれる秘密警察の軍隊を使って、これらを鎮圧した。すでに農村には革命前やネップ期のクラーク(富農)は少なくなっていたが、当局は集団化に反対する農民はすべてクラークに分類して強制収容所に送り、その家族は強制移住させられた。この「クラーク絶滅」とよばれる政策で犠牲になった農民は500万とも1000万ともいわれる。しかし集団化はスターリンが期待したような成果を生まなかった。倍増が予想された穀物の減産はそれほどでもなかったが、家畜は大幅に減って、集団化以前のレベルに回復するには1950年代なかばまでかかった。1932~33年にはまたしても大飢饉が襲って300万以上の農民が栄養失調と伝染病で死んだ。しかし政府は外貨を獲得するためにこの時期にも穀物の輸出を続けた。

 一方、工業化は労働者数の著しい増加とともに進められた。第一次五か年計画のあいだに、工業労働者は2倍に、1940年までには3倍に増えた。政府は労働者にそれぞれの分野ごとに作業量(ノルマ)を定め、それを超過したものには多額の報奨金と名誉を与えた。一方、1932年から国内旅券制度を施行して、農民や労働者の自由な移動を禁止した。

 第一次五か年計画は予定より早く目標が達成されたと発表された。この間にスターリングラードのトラクター工場、ボルガ白海運河、マグニトゴルスクの金属工業のような大規模な計画が実現した。五か年計画はその後も続けられ、19416月にドイツ軍がソ連に戦争をしかけてくるまでには、基本的な重工業分野の基礎ができた。しかし、工業部門では量的成長はみられたが、質的成長が伴わず、また農業部門では畜産をはじめ大きな課題を残した。

 ソ連の経済は「ゴスプラン」とよばれる国家計画委員会が統括し、市場ではなく国家の必要に応じて上から下へ指令する形をとるものであったが、このような体制は第二次世界大戦後しだいに機能しなくなり、ペレストロイカによって消滅した。

スターリンのテロル

1929年に満50歳の誕生日を迎えたスターリンは、『プラウダ』をはじめ全ソ連の新聞・ラジオで偉大な「指導者」として称賛された。スターリン崇拝の始まりである。34年の第17回党大会は「勝利者の大会」とよばれたが、それは集団化と第一次五か年計画の勝利を祝う意味からであった。

 193412月、レニングラード(サンクト・ペテルブルグ)の共産党の第一書記だったキーロフが暗殺された。犯人はニコラーエフという若い党員だったが、おそらくキーロフの人気をねたんだスターリンの命令を受けて暗殺したのだろうと推定される。この事件を口実としてジノビエフとカーメネフを含むレニングラードの反対派が見せしめの裁判にかけられ、自白を証拠に処刑された。これを手はじめに38年にはブハーリンらが処刑された。第17回党大会に出席した政治局員の2人、政治局員候補6人中5人、中央委員と同候補139人のうち98人が逮捕されて銃殺された。粛清は党員から軍人や役人、文化人にも及んだ。元帥のトゥハチェフスキーはじめ赤軍の7人の司令官がドイツと通謀したかどで死刑に処せられた。ドイツとの戦争が開始されたとき、ソ連側には有能な司令官が十分いなかったことが、開戦時の被害を大きくした理由だったといわれている。

 スターリン時代に処刑されたものは200~300万、逮捕されたものは1000~1500万にも達すると推定されている。そのなかには被疑者の家族や子供、さらに日本人を含む外国人もいた。

収容所群島

ソ連は共産党が一党独裁体制で支配した国だったが、党=政府は反体制分子を秘密警察の手で逮捕し、正式な裁判もせずに強制収容所に送った。裁判をする場合も、県党委員会書記と県ソビエト議長およびゲー・ペー・ウーの代表からなるトロイカとよばれる欠席裁判で銃殺をふくむ懲罰を行った。強制収容所はラーゲリとよばれたが、その総管理局はグラーグと称した。ラーゲリは革命直後の1918年につくられ、その後ソ連が崩壊するまでソビエト体制を支えてきた。グラーグの特殊部門のなかには木材の伐採や鉱山の採鉱、道路、ダム、鉄道、運河、全市街の建設など、ソ連の計画経済の重要な部門を担当するものも少なくなかった。そこで働く囚人を監視するため、グラーグは通常の軍隊のほか、戦車隊、砲兵隊、航空隊などをもっていた。

 白海運河やモスクワボルガ運河、バム鉄道など、またマグニトゴルスク、コムソモリスク・ナ・アムーレなど新都市の建設も、収容所の囚人によって行われた。なかでもソロフキ島のほか、極東のコルィマ、シベリアのノリリスク、ボルクタなど大規模な施設が有名だが、収容所はソ連国内のいたるところにあって、自らもラーゲリに入れられていたソルジェニツィンはソ連を「収容所群島」とよんだ。

大祖国戦争

スターリンの一国社会主義のもとでとられた外交政策は、資本主義諸国に囲まれている社会主義の祖国ソ連をなんとしてでも防衛することであった。そのため彼は、コミンテルン(第三インターナショナル)を通じて各国の共産党を利用した。1939年にはナチス・ドイツと独ソ不可侵条約を結んだが、これには秘密議定書があって、ポーランドをドイツとソ連で二分すること、ドイツがリトアニアをとるかわりに、ソ連がエストニア、ラトビア、フィンランド、ベッサラビアなどをとることが決められていた。さらに1941年には日本との間に日ソ中立条約を締結して、東からの攻撃の可能性に備えた。

 19399月、ナチス・ドイツがポーランドに侵略して第二次世界大戦が始まると、ソ連は東部ポーランドに軍を進駐させた。ついでワルシャワとルブリン地区をドイツに与えるかわりにリトアニアを手に入れ、これにエストニア、ラトビアを加えたバルト三国を占領し、翌年7月にはこれをソ連邦に編入した。フィンランドとの間には3911月から翌年3月にかけて「冬戦争」を行い、ソ連が勝利したが、フィンランドは賠償を払って独立を保つことができた。さらに、ソ連は406月にルーマニア領の北ブコビナとベッサラビアを占領し、8月にはモルダビア・ソビエト社会主義共和国を樹立した。

 416月、ドイツ軍がソ連に侵攻して独ソ戦が開始された。当初スターリンはドイツの侵略を楽観していたため、ソ連軍は大きな損害を被った。スターリンはラジオ放送で国民に祖国防衛を訴えた。「祖国戦争」とよばれたナポレオン戦争にちなんで、その後この戦争は「大祖国戦争」とよばれるようになった。

 ドイツ軍は11月なかばにはレニングラードを包囲し、モスクワ郊外まで迫った。キエフは陥落し、ウクライナ全土とクリミアの大部分はドイツ軍に占領された。しかし、1942年夏から翌年2月にかけてのスターリングラードの戦いでソ連はドイツ軍を破り、437月のクルスクの戦いにも勝利して、しだいにドイツ軍を押し返していった。このあとソ連軍は東ヨーロッパ各地からバルカン半島とバルト地方まで進出し、455月にはついにベルリンを陥落させた。さらに8月にはヤルタ会談の約束にしたがって敗戦まぎわの日本に宣戦を布告し、わずか1週間余の戦争で南サハリンと「北方領土」を含む千島列島を獲得した。

(3)第二次世界大戦後のソ連 

冷戦とソ連

第二次世界大戦において連合国の一員として勝利したソ連は、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどを支配下に収め、これらの東欧圏に共産主義政権を押しつけた。ユーゴスラビアは独自の対独パルチザンを指揮したチトーのもとに、ソ連とは別の社会主義路線を歩んだため、19486月コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)から追放された。

 アメリカの核兵器独占は、19498月にソ連が原爆実験に成功し、さらに538月には水爆実験にも成功したところから、その圧倒的優位が崩れた。5810月、米・英・ソ3国はジュネーブで核実験停止のための会議を初めて開いたが、その後これは東西両陣営の戦略核兵器の制限交渉へと進展していった。ソ連は195710月には世界最初の人工衛星を打ち上げ、アメリカにショックを与えた。614月には初の有人衛星ボストーク1号が成功し、宇宙開発の分野でソ連はアメリカに一歩先んじていることを証明した。

 ドイツは連合国によって分割統治されていたが、米・英・仏の3国が統合統治を決めたことによって、ソ連は19486月から495月の間にベルリン封鎖を実施した(19618月には「ベルリンの壁」が築かれた)。これに対抗してアメリカをはじめとする西側諸国はマーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)を実施して大量の物資をベルリンに空輸した。こうしてドイツは1949年に、西側に属するドイツ連邦共和国(西ドイツ)と東側のドイツ民主共和国(東ドイツ)に分断され、この状態は1990年のドイツ統合まで続く。ソ連は西側のマーシャル・プランに対して19491月経済援助相互会議(コメコン)を設立して対抗したが、ソ連中心の分業体制を押しつけるやり方は、東欧諸国の不満を招いた。

 西側はアメリカを中心に19494月にNATO(北大西洋条約機構)をつくったが、これには後にトルコ、ギリシア、西ドイツも加入して、軍隊ももった。これに対抗してソ連をはじめとする東欧8か国(アルバニアをふくむ)は551月ワルシャワ条約機構という名の軍事同盟を結成して、東西の対立は激化した。しかし東側の結束が見せかけであることは、562月のソ連共産党第20回大会におけるフルシチョフのスターリン批判をきっかけに、一気に表面化した。この年6月にはポーランドで、さらに10月にはハンガリーで民衆が反政府暴動を起こした(ハンガリー事件)。さらに中国もソ連政府のスターリン批判や対米接近、平和共存路線に反発して、中ソの対立はしだいに激しいものになっていった。

 ソ連の東ヨーロッパ支配は、19622月キューバ危機においてフルシチョフがケネディの強硬な態度に屈伏を余儀なくされたこと、688月のチェコスロバキアの自由化路線に対しソ連が軍事介入(チェコ事件)したことによって、弱体化していった。さらにブレジネフ時代の経済の不振から、ソ連にとってはベトナムやキューバやアフリカ諸国に軍事・経済援助することはますます大きな負担となった。

フルシチョフとブレジネフ

1953年のスターリンの死後、64年までの11年間はフルシチョフが、そのあと82年までの18年間はブレジネフが、共産党の書記長としてソ連を治めた。

 フルシチョフのスターリン批判は、新しい時代の到来を予感させるものであり、それはソ連社会に一時的な「雪どけ」とよばれる現象をもたらした。スターリン時代に粛清された多くの政治家が名誉回復され、それまでの厳しい検閲が緩んで、エレンブルグの『雪どけ』やソルジェニツィンの『イワン・デニソビッチの一日』などの作品が発表された。フルシチョフはソ連国民に、近い将来ソ連はアメリカに追い付き、追い越すことができると楽観論を述べた。

 しかし、1963年の穀物生産は旱魃(かんばつ)もあって前年より23%も減少し、アメリカやカナダから飼料用穀物を輸入しなければならなかった。中央アジアや西シベリアで行われた処女地開拓も失敗に終わった。彼はまた、共産党の地方組織を農業と工業に分割したりして、その思いつきの政策から党員の反感をかった。6410月、共産党の幹部会はフルシチョフの経済政策と外交政策の失敗を理由に解任を決議し、後任にはブレジネフが選ばれた。

 ブレジネフはフルシチョフが始めた非スターリン化を中止し、中国との公の論争もやめた。彼は1966年にはスターリンが称していた党書記長の地位につき(フルシチョフは第一書記を称していた)、77年には国家元首である最高会議議長も兼務した。しかし彼のスターリンに次ぐ長い治世は、首相のコスイギンが提唱し中途で挫折(ざせつ)した改革を除けば、安定を望むあまり、政治的にも経済的にもなんら進歩がみられない「停滞の時代」であった。党幹部も役所の高官も長年にわたって同じ地位を占め続け、有能な若手の登用を妨げた。経済の分野では軍事産業と宇宙工学に重点的に予算を配分して西側に対抗したが、オートメーション、コンピュータなどのハイテクの分野では完全に立ち後れた。また消費物資の生産技術でも進歩がみられず、電話、テレビ、マイカーなどを求める国民の要求にこたえることができなかった。

 ブレジネフ時代には反体制知識人に対する締め付けが復活し、ソルジェニツィンは国外追放になり、物理学者のサハロフは国内流刑(るけい)になった。しかし国の内外で印刷された少なからぬ非合法出版物がひそかに出回り、庶民の間には体制を批判するアネクドート(政治逸話)が流行した。ブレジネフの外交政策は、19688月のチェコスロバキアへの武力介入(チェコ事件)と、7912月のアフガニスタン侵攻にもっともよく表れている。前者はソ連支配下の東ヨーロッパ諸国の離反を招き、後者は夫や息子を戦場に送り出したソ連国内の一般民衆の反発をかった。彼の時代にソ連は西側との間に「緊張緩和(デタント)」を進めたが、これは政府の財政的負担から、もはやアメリカに対抗できないという現実からもきていた。

(4)ペレストロイカとソ連の解体 

ゴルバチョフの登場

1982年にブレジネフが死んだあと、アンドロポフとチェルネンコという2人の病身の老人があとを継いだが、いずれも短期間で病死し、853月に53歳のゴルバチョフが党書記長に選ばれた。彼は就任早々、長期間停滞していた人事の刷新を図り、ついで経済の加速化のために職場の規律の強化や、節酒を呼びかけた。しかし864月にはチェルノブイリ原子力発電所の大事故が発生した。最初この事故はゴルバチョフ自身にも詳細が知らされなかったが、しだいに被害の大きさと危機の本質が国際的にも知られるようになると、ゴルバチョフは「グラスノスチ」とよばれる情報公開政策を打ち出した。さらに経済の加速化のためには政治・外交・文化などすべての分野にわたる「建て直し」が不可欠であるとして、ペレストロイカ(建て直し)をスローガンに掲げた。

 ペレストロイカのなかでもっとも成果をあげたのは外交とグラスノスチの分野で、もっとも失敗だったのは経済と民族問題であった。まずアメリカとの関係改善のため、ゴルバチョフは198610月にアイスランドのレイキャビークで当時のアメリカ大統領レーガンと会談し、8712月にはワシントンを訪問して中距離核戦力全廃条約に調印した。892月にはソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了した。

 長年にわたる米ソの冷戦は、198912月のゴルバチョフとアメリカ大統領GHW・ブッシュとのマルタ会談で終わりを告げた。この会談に先だちゴルバチョフは、1968年のソ連軍のチェコスロバキア介入が誤りであることを認め、またブッシュに書簡を送って、東ヨーロッパ諸国の非共産主義化を容認する用意があることを伝えた。

 マルタ会談前に、ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアなどでは共産党の一党支配が崩されていたが、198910月にはゴルバチョフは東ドイツを訪問して、かたくなな東ドイツ大統領ホーネッカーを退陣させるきっかけをつくった。かくて、119日にはベルリンの壁が市民の手によって壊された。これは東ヨーロッパ諸国がソ連の支配=共産圏から脱して、新しい世界秩序を打ち建てる上での象徴的事件であった。

 言論の自由は文学だけでなく、映画や音楽などの大衆芸術の分野でも大きな変化を生んだ。アメリカの映画やロック音楽が次々に入ってきて、若者の間に爆発的人気をよんだ。スターリンの粛清を告発したアブラーゼ監督の『懺悔(ざんげ)』や、反体制派の烙印(らくいん)を押されていたタルコフスキーやミハルコフ監督の映画も相次いで上映された。以前には厳しい検閲を受けて、事実上政府の独占であった新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどのマスコミも自由になり、革命以来初めて市民は公然と政府を批判できるようになった。

民族問題の噴出と経済改革の失敗

グラスノスチによって、それまで長く抑えられてきたソ連内部のさまざまな民族問題がいっせいに表面に現れてきた。マルクス・レーニン主義の見地からすれば、民族主義とはブルジョア国家における階級的抑圧のイデオロギーであって、共産主義社会においては消滅するものだと説かれてきた。しかし実際にはソ連では少数民族の独立の希望は認められず、マルクス・レーニン主義とならんでロシア語が諸民族を統合する手段として強制された。

 ペレストロイカ以後の最初の民族問題は、まず198612月カザフ共和国で起こった。それまで共産党の第一書記だったカザフ人のクナーエフにかわってロシア人が任命された。これに抗議して約1万人の民衆がデモを行い、軍隊が出動して死者がでた。夏にはバルト三国でも独立を要求するデモが相次いだ。19882月にはアゼルバイジャン共和国のなかの自治州ナゴルノ・カラバフのアルメニアへの返還を要求するデモがエレバンで起こった。ナゴルノ・カラバフは人口の大部分がアルメニア人で、1920年代初めにその帰属が争われ、スターリンによって強引にアゼルバイジャン領に入れられた歴史をもつ。しかもこの紛争はアルメニア人がキリスト教徒、アゼルバイジャン人がイスラム教徒であるところから、宗教問題もからんでいた。同年3月にはアゼルバイジャンのスムガイトで大規模な抗議デモが起こって、多くの死傷者を出した。両国の対立は19901月に最悪になり、アルメニア人の村がアゼルバイジャン人に襲撃され、バクーにはソ連軍が入って大衆暴動を鎮圧した。このときも多くの死傷者が出た。

 グルジアでも19894月に首都のトビリシで民族の独立を要求する大集会が開かれ、反ソ的なスローガンが叫ばれた。これに対しソ連軍が介入して、多くの死傷者が出た。しかしこのあとゴルバチョフは、グルジアのソ連からの離脱の要求は認められないと、はっきり拒否した。

 バルト三国では19898月に独ソ不可侵条約50周年を記念して、600キロメートルにおよぶ「人間の鎖」がつくられ、三国の人々は独立時代の国旗を掲げてソ連邦からの分離・独立を要求した。これらの国ではソ連軍への徴兵を拒否したところから、19911月、リトアニアとラトビアの両首都にソ連軍が入って死傷者がでた。この事件については、それまでペレストロイカに好意的だったアメリカをはじめとする西側諸国もソ連を非難した。このあと2月から3月にかけて行われたバルト三国の独立の是非をめぐる国民投票では、圧倒的多数が独立賛成を表明した。

 一方、ソ連経済は1988年からいっそう悪化し、消費物資の不足、国家財政と貿易収支の赤字、工業生産と国民所得の成長のマイナス、インフレの昂進(こうしん)、ストライキの頻発といった最悪のコースをたどった。外貨獲得の一番手だった石油生産も87年をピークに減産傾向になり、外国に石油を売って穀物や工業製品を買うという、これまでのやり方も通じなくなった。19905月、ソ連政府は95年までに市場経済へ移行する案を最高会議に提出し、ここに革命以来の計画・指令経済との決別を表明した。しかし、この急進的経済改革案は党内の保守派や軍事産業部門と労働組合の指導者などの反対から、なまぬるい折衷的なものに終わって、効果があがらなかった。このような妥協的な改革に満足しない急進改革派は、ゴルバチョフを見限って離れていった。

ソ連邦の解体

一方、ソ連の中心的存在だったロシア連邦共和国ではかねてからゴルバチョフの改革の遅れを批判していたエリツィンが、19905月の第1回人民委員大会で最高会議議長に選出された。この大会はまた「国家主権に関する宣言」を圧倒的多数で採択したが、これはロシア共和国の主権をソ連の中央政府の上に置くことをうたっていた。9月にロシア共和国最高会議は、500日で市場経済への移行をめざす急進的な改革案を採択した。しかし、ゴルバチョフはこの改革案を、連邦の存続を危うくする可能性があるとして受け入れることを拒んだ。

 19916月、ロシア共和国で直接投票による最初の大統領選挙が行われ、エリツィンが57%を獲得して当選した。これより1年前にゴルバチョフは人民代議員大会でソ連邦の初代大統領に選出されていたが、直接選挙ではなかっただけにエリツィンが優位にたった。

 ゴルバチョフはなんとかしてソ連を存続させようと、199011月に各共和国に「新連邦条約草案」を送るとともに、最高会議にその審議をゆだねた。しかしバルト三国とグルジア、アルメニア、モルダビアはこれに加わることを拒否した。914月にはロシア共和国を含む9か国とソ連邦政府の一応の合意をみて、820日に新連邦条約の調印が行われる予定であった。ところが調印2日前になって、クリミアで静養していたゴルバチョフが、突如「国家非常事態委員会」によって軟禁されてしまった。共産党の保守派やKGB(国家保安委員会)、軍部、産業界の8人からなるこの委員会は、連邦制の存続を危うくし、ソ連を弱体化する一連の改革に反対して、クーデターを企てたのであった(八月クーデター事件)。

 しかし市民も軍隊も彼らの企てを支持しなかった。モスクワではクーデター派によって派遣された戦車に市民が駆け寄り、中の兵士を説得する光景も見られた。非常事態委員会の出動命令を拒否した狙撃(そげき)師団もあった。西側諸国はクーデター派を認めず、エリツィン大統領の支援を約束した。1991821日の朝にはクーデターの失敗は明らかになった。非常事態委員会のメンバーは自殺したプーゴ内相を除いて逮捕され、ロシア共和国の最高会議でそれが報じられると大きな拍手が起こった。しかし、同時に彼らを重要な職務に任命したゴルバチョフ大統領に対する批判も相次いだ。22日の正午すぎに最高会議ビル(通称ホワイトハウス)のバルコニーに現れたエリツィンは、「ロシア万歳! エリツィン万歳!」を叫ぶ大衆にこたえて、「ロシアはソ連邦、世界、民主主義を救った」と演説するとともに、共産党指導部のなかに今回のクーデターを後押しする勢力のあることを指摘して、暗にゴルバチョフを攻撃した。

 この時点で民心は完全にゴルバチョフから離れてしまっていた。一方、エリツィンはクーデター派が共産党の指導部であったところから、クーデター支持者の捜査が終わるまでロシア共和国内の共産党の組織的活動と新聞の発行を一時禁止し、さらに内務省、軍、KGB内でいかなる政党も組織活動をすることを禁じた。当初ゴルバチョフは書記長を辞任するつもりはなく、共産党の改革を進めるとしていたが、事態はそれでは収拾がつかない段階まで進行していた。1991824日、彼はついに書記長を辞任し、共産党中央委員会に自主解散を呼びかけた。ここにおいて、ソビエト政権の成立以来全ソ連邦をまとめてきた扇の要(かなめ)であったソビエト共産党がなくなってしまったのである。この日ウクライナの議会が独立を決議して、それに続く諸共和国の、連邦からの独立・脱退の口火を切った。

 クーデター前にゴルバチョフが考えていた連邦案は、すでに過去のものになった。1991121日にはウクライナで独立批准の国民投票が行われ、80%以上が独立に賛成した。ここにおいてロシア、ウクライナ、ベラルーシ3国の首脳がミンスクに会合して、「ソ連邦はもはや存在しない」ことを確認し、旧ソ連のすべての国に開かれた「独立国家共同体」(CIS)の結成を宣言した。このときゴルバチョフはこの会議に招かれていなかった。1221日にはカザフスタンのアルマ・アタでこれら3国に中央アジアの5か国、さらにアルメニアとアゼルバイジャン、モルドバが加わって、ロシアを含む11の国が「独立国家共同体」を創設した。当時内戦中であったグルジアは2年遅れてこれに参加したが、バルト三国は最初から参加する意思がなかった。

(5)エリツィンと新生ロシア

エリツィンはソ連の崩壊から199912月の大統領辞任まで、8年間にわたってロシアを統治したが、それは民主主義政治と市場経済を掲げながら、政治面では大統領の権限を強化しつつ議会を押さえこんで強権政治を行い、経済面では生産の落ち込みと激しいインフレを引き起こして、市民生活を窮乏のどん底に陥れた。

自由化

エリツィン政権は19921月から、首相ガイダルのもとで思いきった価格の自由化に踏み切った。これは異常なインフレを招き、年金生活者をはじめ、労働者、公務員、軍人らの生活を直撃した。2月には政府の経済政策に反対する12万人の大デモがモスクワの中心部で行われ、エリツィンとガイダルの辞任を要求した。12月に人民代議員大会はガイダルの首相就任を否決し、中間派のチェルノムイルジンが就任した。

 エリツィンは19933月のテレビ演説で、特別統治体制の導入を発表した。4月の大統領信任の国民投票で、彼は都市部では高い支持を得たものの、経済改革のしわ寄せを受ける農村では低く、独立志向の旺盛(おうせい)な北カフカスなどでは強い不信任を受けた。9月に彼は人気の高い保守派のルツコイ副大統領を解任したが、憲法の規定にもないこの強引なやり方は議会側の反発を招いた。これに対してエリツィンは、最高会議と人民代議員大会の活動停止という強硬措置でこたえた。大統領と議会との対立はついに104日の銃撃戦に発展した。エリツィンはこの日モスクワに非常事態令を導入し、ルツコイと最高会議議長のハズブラートフらが立てこもる最高会議ビルを戦車で砲撃した。この武力による鎮圧で89人の死者と516人の負傷者、1452人の逮捕者を出した。

ロシア新憲法成立

銃撃戦のあったこの年、199312月に行われた総選挙では、ジリノフスキーの率いる極右の自由民主党が24%の票を獲得して第一党に躍り出た。しかし、ドゥーマとよばれる国家会議(下院)の構成からみると450議席中、改革派が3派で計131、中間派3派が計103、共産党など保守派2党が計100、極右が63議席で、第一党といっても政治をリードできる議席ではなく、改革派にしても相対的多数でしかなかった。エリツィンには独自の支持政党がなく、これ以後彼は大統領の権限を強化する政策をとり、議会の承認を必要としない大統領令を発して議会と対立し続けた。

 この選挙と同時に行われた国民投票では、エリツィンの提案した新憲法草案が承認され、ここに首相、軍司令官の任命権と国家会議(下院)の解散権をもつ新しい大統領制が生まれた。新憲法では、ロシアは共和制の連邦国家で、連邦を構成する共和国、地方、州など89の単位の地位は平等であって、土地など私的財産は保障されることがうたわれた。

 このあと、しだいにエリツィン政権は急進改革派から中道、中間派寄りにその軸足を移すようになる。その背景には農業・工業生産の減退、国民階層間の格差の拡大があった。国有産業の民営化で莫大(ばくだい)な利益を得るものが出る一方で、月給の遅配から勤労者や年金生活者の暮らしはますます悪化した。中央アジアやバルト諸国からロシアへ引き揚げてくるものたちの住宅や就職も問題だった。ソ連崩壊前、ソ連のロシア以外の国には2500万から3000万のロシア人が住んでいたが、1994年までにそのうち約200万人が帰ってきた。

少数民族問題

エリツィン政権にとってはロシア連邦内の少数民族問題も頭痛の種であった。ロシアの国名そのものも、いったんは「ロシア」に決まったものの、19924月の人民代議員大会で、「ロシア」では連邦内の少数民族の存在が無視されるとの反対があったことから、「ロシア」と「ロシア連邦」の二つが国名となった。少数民族のなかでももっとも強硬なチェチェン(チェチニア)は、199111月にイングーシ(イングーシェチア)を置き去りにして独立を宣言し、9312月のロシア議会の選挙をボイコットするなど、ロシア中央との対決を強めた。ロシア政府は94年秋に始まったチェチェンの内戦に介入して、19か月にわたって独立派と戦った。この戦争でロシアはアフガニスタン介入のとき以上の犠牲者を出し、エリツィン政権に対する国民の支持は急減した。いったんは停戦に合意したチェチェンとの戦争は、1999年秋にふたたび始まった。このときロシア側は、チェチェンではイスラム過激派の武装集団がロシア各地で爆弾テロを行っているとの介入理由をあげた。ロシア軍の攻撃に、多くのチェチェン人が隣のイングーシに難民となって逃れた。

ポスト・エリツィン

19966月に行われた大統領選挙では、第1回目の投票でエリツィンが35%、共産党のジュガーノフが32%を得票した。ゴルバチョフは1%にも満たなかった。このあとの決選投票では、53.8%を獲得したエリツィンがかろうじて再選された。

 翌1997年は豊作に恵まれ、ロシア経済は比較的安定していたが、98年のアジアに始まる経済危機に巻き込まれて、8月にはルーブルが一挙に暴落し、通貨・金融危機がロシアを襲った。エリツィンはこのころから次々に首相の首をすげかえ、外国の借款で支えてきたロシア経済は混乱の極に達した。一方、チェチェンのテロリストによるといわれるモスクワなどのアパートの爆破は、ロシア人の民族主義をかきたて、199912月の下院選挙ではチェチェンに対する強硬策を主張する首相プーチン支持の新党「統一」が共産党に次ぐ第二党に躍進した。この変化を背景に、エリツィンは任期終了半年前の1231日、突如辞任し、大統領代行には後継者と目されたプーチンが就任した。翌20003月の大統領選でプーチンが当選、5月に大統領に就任した。

 プーチン2期目の任期満了に伴い、プーチンから後継者指名を受けたメドベージェフが20083月の大統領選に立候補して圧勝。同年5月第3代大統領に就任した。プーチンは首相に就任した。

◆◆24 

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◆◆現代ロシア問題

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◆◆ロシア大統領再選=核で対抗と併合誇示の危うさ

2018321日赤旗主張

 ロシア大統領選挙で現職のプーチン氏が圧勝し、2024年までの通算4期目の政権をスタートさせました。「この団結の維持が極めて重要だ。ロシアの名の下に共に大仕事にとりかかろう」。モスクワの勝利集会で呼びかけたプーチン氏ですが、そこには世界の平和に深刻な影響を与える「大仕事」も含まれます。

◆生活と経済支援の一方で

 今月1日に行われた大統領の教書演説は、すでに新たな6年の任期を展望した施政方針の披露でした。2時間に及ぶ演説の前半でプーチン氏は、初当選した2000年以来、旧ソ連崩壊後の混乱から国民生活と経済を立て直したと、貧困層の削減や出生率の上昇など成果を列挙しました。新任期で国内総生産(GDP)の倍加、2000万人の貧困人口の半減の達成、中小企業の支援強化、インフラ整備、地方都市間の空路の増強などを掲げ、アジアと欧州を結ぶ鉄道輸送の4倍化も打ち出しました。

 しかし、そうした経済戦略を実行する際に必要な「安全保障」として大統領が公表した核兵器の増強は、世界を驚かせました。

 大陸間弾道ミサイル(ICBM)80基や原潜3隻の追加配備、米国が日本や欧州で展開するミサイル防衛を突破する新型ICBMの開発、超音速ミサイルなど、核戦力の増強を映像も使い誇示し、「ソ連崩壊後に生じた巨大な穴はすべて修復された」と自賛しました。

 プーチン氏は、米トランプ政権が「核態勢見直し」(NPR)で核兵器使用の敷居を下げたと厳しく批判しました。一方でロシアも「自国と同盟国への核・大量破壊兵器の使用、および自国への通常兵器による侵略で存亡の危機に立たされた場合、対抗で核兵器を使用する権利を持つ」と改めて表明しました。その後、米国のテレビに「新たな軍拡競争か」と問われ、それを否定せず、「核抑止力が無力化されないよう攻撃システムを向上させる」と言明しました。

 核軍拡を「戦略バランスを保つ世界平和の保障」と正当化する大国主義的な態度は、隣国との領土をめぐる行動にも表れています。

 プーチン氏は投票日直前、4年前にロシア軍の威嚇をバックに、「住民投票」をへてロシアに併合されたウクライナ領のクリミアとセバストポリを訪問しました。ロシアとの間の大規模な橋や国際空港の建設を視察し、「皆さんは母なるロシアに戻ってきた。発展のため多くのことをやる」と実効支配を進める構えを見せたのです。

 この地域でもロシア大統領選の投票が行われました。ウクライナはもちろん、フランス政府などがそのことを非難しています。国連憲章違反の他国領土の併合後、欧米が発動した対ロ制裁は続いており、プーチン氏の掲げる経済向上は容易ではありません。

◆問われる日本の対ロ外交

 安倍晋三首相は5月にも訪ロしてプーチン大統領と会談する予定です。唯一の戦争被爆国の首相としてロシアの新たな核軍拡に何を言うのか。クリミア併合、そして日本の千島列島、歯舞・色丹の占領・併合の根底にある覇権主義的な領土拡張の誤りを正面から正す立場で臨めるのか。首脳間の「信頼」や「経済協力」で日ロ領土問題が解決しないことは歴史が示しています。対ロ外交の抜本的な転換が強く求められます。

◆◆(プーチン帝国 2018ロシア大統領選)暗殺の野党指導者、追悼に1万人

2018226日朝日新聞

「誰が(暗殺を)依頼した」などと書かれたプラカードを掲げて行進する参加者ら=25日、モスクワ、中川仁樹撮影

 3月18日投開票のロシア大統領選を前に、3年前に暗殺された野党指導者ボリス・ネムツォフ氏を追悼する行進が25日、モスクワ中心部であった。ロシアによるウクライナ南部クリミア半島併合などについてプーチン大統領を厳しく批判したネムツォフ氏の死後、ロシアでは併合を批判する声は封じられ、政権翼賛を強いる圧力は高まっている。参加者は「異論を交わせる政治が必要だ」と訴えた。

 気温は零下15度を下回ったが、行進にはネムツォフ氏の支持者や、民主化運動団体から約1万人が参加。横断幕やロシア国旗を手に約2・5キロを歩いた。

 主催者は「追悼」の目的を強調したが、参加者らは「プーチンのいないロシアを」などと反政権のスローガンもくり返した。プーチン氏が「圧倒的勝利」で4選を目指す大統領選目前。主催者によると、地方では行進の許可申請が却下されるか、開催場所を人気の少ない場所に移されたという。

 プロスキーヤーのイーゴリさん(41)は「大統領選は完全なフェイク。デモでしか自分の意思を表明することができない」と話した。

 ネムツォフ氏はエリツィン前政権時代の元第1副首相。プーチン政権下で野党に転じた。15年2月27日深夜、クレムリンを目の前に望む橋で銃撃され、死亡した。昨年7月、実行犯とされた南部チェチェン共和国駐在の内務省軍副隊長ら被告5人に11~20年の自由剥奪(はくだつ)の判決が言い渡され、背後関係が不明なまま捜査に事実上の幕が引かれた。(モスクワ=喜田尚)

◆◆(プーチン帝国 2018ロシア大統領選)腐敗・貧困反プーチンのうねり 集会、立ち上がる若者

朝日新聞2018.01.31

(ナバリヌイ氏が集会で放つ政権批判の鋭い言葉に若者は熱狂した=2017年10月、ロシア北部アルハンゲリスク)

(代えるべきだ」と書かれたプラカードの前で叫ぶデモ参加者=2017年6月、ウラジオストク、いずれも中川仁樹撮影

 3月18日のロシア大統領選は、現職のプーチン氏の当選が確実だ。それでも、汚職や抑圧姿勢、さらに6年延びる政権を批判し、投票ボイコットや自由な選挙を求める集会には大勢の若者が足を運ぶ。何が彼らを駆り立てるのか。(モスクワ=中川仁樹)

 大統領選への立候補を拒否された反体制派アレクセイ・ナバリヌイ氏(41)が呼びかけた1月28日の反政権集会は、全国100カ所以上で開かれた。当局はナバリヌイ氏を拘束し、集会直後に解放。規模の拡大に強い警戒感を示した。

 集会前、ロシアで人気のSNS「テレグラム」にある反体制派グループ「抗議するモスクワ」のチャットに書き込みが続いた。

 「どこに集まろう」「警察の捜査が入った」

 このチャットに登録し、やり取りを見る人たちは2500人を超す。

 グループができたきっかけは、ナバリヌイ氏が呼びかけた昨年3月の反政権集会だった。プーチン氏が大統領に復帰した2012年以降では最大規模で、モスクワで1万人以上が参加し、地方にも広がった。ここで出会った若者たちが集まったグループだ。

 中心のオリガ・チェザーレさん(22)は企業で市場調査を担う。大学生のときに英語と仏語を学び、インターネットで外国メディアのニュースを読むようになった。ロシアを巡る紛争や事件、汚職など「様々な記事でロシアメディアと伝える視点が違う」と驚いた。政府に反発する気持ちが心に芽生えた。

 昨年3月、初めて集会に出た。広場を埋めた大集団に「こんなに集まるとは」。仲間とナバリヌイ陣営にボランティアとして参加。ビラを印刷し、通りで配った。警察に拘束された経験もあるが、「平和的に運動するのが大切」と抵抗はしなかった。祖母や母はプーチン氏まで批判しようとは思っていない。

 「ナバリヌイ氏が大統領になれば本当に国がよくなるのかは自信がない」という。それでも「政権交代が必要なのは間違いない」。

◆暗殺事件に不信感

 サンクトペテルブルクのエカテリーナ・クズネツォワさん(21)が初めて政府に不信感を覚えたのは、15年の野党指導者ネムツォフ元第1副首相の暗殺事件だ。容疑者は逮捕されたが、政府が関与しているのではと疑念がわいた。16年にタックスヘイブン(租税回避地)の実態を暴露した「パナマ文書」には、プーチン氏の親友の名前もあり、さらに不信が募った。

 警察が怖くて集会には及び腰だったが、大勢が参加した昨年3月の集会で一歩を踏み出せた。「やっと居場所を見つけた」

 4年前、ロシア中部の町からサンクトペテルブルクの大学に進学。学費が当初の3倍近くの年25万ルーブル(約48万円)に上がり、支払いが苦しくて退学した。だが仕事は見つからない。友人はコールセンターに就職したが、時給はわずか150ルーブル(約290円)だ。

 多くの人々はプーチン氏を支持し、変化を求めていない。「でも私は政府に不満だから集会に参加する」

 政権への不満は地方にも広がる。ロシア北部セベロドビンスクのオレグ・サビンさん(33)は「ロシアにはインドのカーストのような階層がある」と憤る。

 倉庫で働き、月給は1万3千ルーブル(約2万5千円)。自立できず、両親と暮らす。給料のいい仕事を探したが見つからなかった。生活苦から消費者金融3社から金も借りている。

 一方で「役人は国民の金を盗んで外国に家を買い、その子供は留学して大企業に就職している」と嘆く。「ロシアの金持ちは大統領の友人、地方でも権力者の友人だけだ」。もっとも腐敗は庶民にも広がり、撲滅するのは簡単ではないという。「ロシアが変わるには2世代ぐらい必要だろう」

◆ナバリヌイ氏、対話で支持拡大

 選挙不正への抗議が大規模な反政権集会に発展したことは11~12年にもあったが、長続きしなかった。今回は昨年3月以降も6月、10月と全国で大勢が集まった。民主運動をする市民団体「ベスナ」のボグダン・リトビンさん(23)は「ナバリヌイ氏が入念に準備を進めた」と指摘する。

 ナバリヌイ氏は昨年3月の集会前、動画サイトにメドベージェフ首相の不正蓄財を告発する映像を公開。3カ月で視聴回数は2千万を突破した。その後もSNSを通して地方まで組織化。国政政治家が訪れない地方都市も訪れ、エリート層でない若者と対話して支持を広げた。

 ロシアでは00年代、プーチン氏の国民的人気が高まるにつれ、野党も補完勢力となり、議会がオール与党体制になった。プーチン氏の政敵排除が進み、存在感のなくなったリベラル派から国民の支持は離れた。

 ナバリヌイ氏は政治の公正さや選択肢の必要性に訴えを絞り、行き場のない反政権派の受け皿となった。

 だが、リトビンさんは指摘する。「運動は新たな段階に発展したが、まだ何も獲得していない」

◆最近のロシアの主な反政権運動と関連の動き 

2011年12月 下院選の不正疑惑を受け、ソ連崩壊後で最大規模の反政権集会 

  12年 5月 プーチン大統領の3期目の就任前日にモスクワで大規模集会 

  13年 9月 モスクワ市長選で、ナバリヌイ氏が約27%を得票し2位に躍進 

  15年 2月 野党指導者ネムツォフ氏がモスクワで射殺される 

  17年 2月 ナバリヌイ氏、横領罪で有罪判決を受ける  

      3月 プーチン氏の大統領復帰後で最大規模の集会  

     12月 ナバリヌイ氏の大統領選立候補を選管が拒否

◆◆(プーチン帝国 2018ロシア大統領選)欧米不信、急ぐ軍備増強 原潜は最新、「核大国」の威信回復

18.02.19朝日新聞

(昨年8月にモスクワ郊外で開かれた軍事フォーラムで大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射台も登場した)

(シリアで過激派組織から奪ったという戦利品の武器も展示されていた=いずれも中川仁樹撮影)

 ロシアが軍備の近代化を急いでいる。背景には欧米への根強い不信感があり、プーチン大統領は軍事力の増強で国際社会での存在感を高める考えだ。「強いロシア」のイメージを、3月18日の大統領選での圧勝につなげたい思惑もある。(モスクワ=中川仁樹)

 東欧リトアニアとポーランドに挟まれたロシアの飛び地カリーニングラード。2月上旬、ロシア軍がこの軍事戦略上の要所に、核を搭載できる短距離弾道ミサイル「イスカンデル」を配備したとのニュースが流れた。

 カリーニングラードには、すでに最新鋭のS400地対空ミサイルシステムや地対艦ミサイルも配備済み。北大西洋条約機構(NATO)幹部は「ロシアの長期的な軍備近代化の一環だ」と懸念を示す。

 かつてソ連に併合され、1990年の独立回復宣言後にソ連内務省軍に首都を急襲された歴史があるリトアニアのグリバウスカイテ大統領は「リトアニアだけでなく、欧州の半分の国の脅威になる」と警戒を強める。

 ロシアは約7千発の核弾頭を持つとされる。91年のソ連崩壊前後から兵器の老朽化が進んだが、近年は新型弾道ミサイルや原子力潜水艦などを次々と実戦配備し、「核大国」の威信を回復してきた。

 昨年11月には最新鋭の原潜が進水。ロシアメディアによると、静粛性や水中での機動性が大幅に向上し、米原潜を上回る「世界一の性能」を誇るという。搭載する16基の潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の射程は8千キロ以上で、ロシア領海からでもワシントンなど米国の主要都市に到達する。超音速戦略爆撃機の改良型や、新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の更新計画もある。

 プーチン氏は兵器の近代化比率が2012年の16%から約60%に向上したと主張。「戦略核兵器は(米国などの)ミサイル防衛システムを突破する能力を持つ」と自信を示す。

◆NATO拡大に反発

 「ロシアは中距離核戦力(INF)全廃条約などを順守しているが、米国は欧州の戦術核を近代化し、ロシア国境付近に配備した」

 米国が今月2日発表した「核戦略見直し」(NPR)でロシアの脅威を強調すると、ロシア外務省はすぐに反論した。

 米国は16年、ルーマニアで陸上配備型の迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の運用を始め、ポーランドへも配備する計画だ。イランからのミサイルの迎撃を想定したものだが、ロシアは巡航ミサイルを発射できるとして、1987年に米ソが調印したINF条約違反だと反発する。

 背景にはプーチン氏の欧米への不信がある。ソ連崩壊で、旧ソ連軍は東欧諸国から撤退。ロシアは「我々は敵ではなく、パートナー」(エリツィン元大統領)と欧米との関係改善を期待した。

 だが、NATOは旧ソ連のバルト3国など東欧諸国に加盟国を拡大してロシア国境に迫った。旧ソ連のジョージアやウクライナなどでは「カラー革命」で親欧米政権が誕生。プーチン氏は「西側が背後で支援した」と批判する。

 欧米は無人機やミサイル防衛システムなどの開発を進め、ロシアには「(我々の)核抑止力が損なわれ、安全保障が脅かされる」との懸念も強まった。プーチン氏は昨年10月の国際会議で「西側との関係で、我々の最大の失敗は信頼しすぎたことだ」と話した。

◆「強い指導者」前面に

 大きな転機は14年3月のウクライナ南部クリミア半島の併合だった。ウクライナ危機の最中、ロシアの特殊部隊が侵攻して素早く占領。プーチン氏は1年後のテレビ番組で、ロシアが当時、核戦力を臨戦態勢に置く可能性はあったかと問われ、「用意ができていた」と明言して世界を驚かせた。

 国際ルールを無視した併合は欧米などの批判を浴びた。対ロ制裁が科され、主要国首脳会議(G8サミット)からも排除された。

 しかし、ウクライナの政変を米国の陰謀と信じる多くのロシア人は「現地のロシア系住民を守った」と熱烈に支持。6割前後だったプーチン氏の支持率は8割以上に跳ね上がった。

 15年にはシリアに軍事介入し、過激派組織「イスラム国」(IS)などを空爆。支援するアサド政権の勢力回復を果たし、中東での存在感を格段に高めた。

 ロシア軍は実戦で初めて潜水艦が水中から巡航ミサイルを発射するなど、シリアは最新兵器の「試験場」にもなった。

 3月の大統領選に向け、プーチン氏はこうした軍事的な成果を最大限、利用する考えだ。出馬表明の翌週、シリアのロシア軍基地を電撃訪問。「テロリストを撃破した」と兵士を称賛する姿をテレビ中継させ、強い指導者を印象づけた。

 3月18日の投票日は、国民の愛国心に訴えるため、あえてクリミア併合4周年となる日を選んだ。プーチン氏がクリミアに飛んで投票するというアイデアもあるという。

◆◆(プーチン帝国 2018ロシア大統領選)戦勝の日、気づけば政権主導 行進、市民発のはずが

朝日新聞18.02.22

 3月のロシア大統領選で通算4期目を目指すプーチン大統領が、第2次世界大戦での勝利という歴史を使って国民の愛国心に訴えている。ソ連時代に2千万人超もの犠牲者を出した大戦の記憶を語り継ぐ市民の運動は、いつの間にか政権に乗っ取られた。(スモレンスク=石橋亮介)

(勝利をたたえる記念碑。「幸せがどれほどの犠牲と引き換えに得られたものか、命ある限り忘れないで」と書かれている=1月25日、スモレンスク)

(2015年5月9日、モスクワで開催された不滅の連隊の行進に参加するプーチン大統領(中央)=ロイター)

 ロシアで近年急速に広まった市民運動がある。その名は「不滅の連隊」。第2次大戦でソ連が1945年にナチスドイツに勝利した記念日の5月9日、戦闘に加わったり、犠牲になったりした身内の写真を掲げ、市民が一斉に行進する。昨年は全国2千カ所以上で、約780万人が参加した。

 ソ連は大戦で、ナチスドイツの撃破に重要な役割を果たした。ソ連の2千万人超の犠牲者は国別では最大。親族に戦没者がいる人は多い。ロシアの世論調査で、独ソ戦の勝利が「誇りを感じる国の歴史」と答える人は8割以上にのぼる。

 だが月日が経つにつれ、戦勝記念日の行事は形骸化した。不滅の連隊の運動が始まったのは12年。「参戦した身内と勝利を祝い、戦争の記憶を語り継ぐ」という趣旨が共感を集め、運動は急速に広まった。

 ベラルーシ国境に近いスモレンスク。広告会社を営むデニス・ペストゥノフさん(36)も14年から市内で行進を主催する一人だ。首都モスクワなど各地で行進を主催する団体「不滅の連隊ロシア」のメンバーで、昨年は約2万5千人を集めた。「先祖に感謝し、記憶を後生に伝えるのはロシア人なら当然」と語る。

 ペストゥノフさんの曽祖父も前線で行方不明になった。世間的には無名でも、家族にとっては祖国の英雄。不滅の連隊は、そんな家族の思いを市民が共有する場なのだという。

 「参加者にあるのは家族への純粋な気持ちだけ」とペストゥノフさんは言う。

 与党関与の新団体、勢い増す 最初の企画者「政治利用だ」

 行進にプーチン氏が初めて加わったのは、戦後70年の15年。水兵の制服姿の父親を写したセピア色の写真を抱え、約50万人の市民の先頭をゆっくりと歩くプーチン氏の姿は、繰り返しテレビで放送された。その後、毎年参加している。

 数百万人を動員する「不滅の連隊」の力を政権は放ってはおかなかった。

(セルゲイ・ラペンコフさん)

 12年にシベリアのトムスクで最初に運動を企画した一人で、ジャーナリストのセルゲイ・ラペンコフさん(49)は各地で行進を主催する「不滅の連隊ロシア」についてこう吐き捨てた。「彼らは政府が作った私たちのクローン。愛国心をあおるための政治利用だ」

 ラペンコフさんらは団体「不滅の連隊」を立ち上げ、運動を広げてきた。ところが、与党・統一ロシアやプーチン氏の支持組織である全ロシア国民戦線などが運営に関与する形で「不滅の連隊ロシア」が15年に設立された。

 ラペンコフさんらの初めての行進には約6千人が集まった。すると、統一ロシアが資金提供や党組織を通じた活動の拡大を持ちかけてきたという。

 だが、ラペンコフさんたちは「市民が政治で分断される場にしたくない」と拒否。政治活動を行わないとする会則を定めると、政権に近いモスクワの区議会議員が「不滅の連隊ロシア」の前身組織を立ち上げた。

 新団体は独自に行進を催すだけでなく、各地でラペンコフさんの仲間に「給料を払う」と移籍を持ちかけたり、学生を動員してパレード参加者を水増ししたりしながら、規模を拡大したという。いまや全国組織のNPOとして政府認可を得て、勢力を広げている。

 ラペンコフさんは「権力にとって、国民の誇りや記憶は石油や天然ガスと同じ国家の資源。コントロールし利用したいんだ」と嘆く。

 支持拡大に歴史利用

 プーチン氏は、第2次大戦の勝利を国民からの支持拡大に利用してきた。

 ウクライナ南部クリミア半島を併合した2カ月後の14年5月の戦勝記念日。プーチン氏はクリミア半島を訪れ、「クリミアが祖国に戻ってきた」と、ソ連の勝利の歴史に重ね、併合の事実を国内外に誇示した。

 戦後70年の節目の15年には、モスクワで最新鋭のミサイルや軍用車両が登場する史上最大規模の軍事パレードを実施。演説で「(ソ連軍の)不滅の偉業が祖国を救い、ナチスから欧州を解放した。英雄的行為の頂点として永遠に歴史に刻まれる」と語った。

 大統領選を間近に控える今年1月には、独軍による約900日間の包囲で数十万人が餓死したレニングラード(現サンクトペテルブルク)の追悼行事に参加。今月2日は、スターリングラード(現ボルゴグラード)の戦いでの勝利を記念する式典で、兵士の愛国心を受け継ぎ「どんな試練にも立ち向かい国の発展に尽くす」と覚悟を語った。

 大手世論調査機関レバダ・センターの調査では、14年3月以降プーチン氏の支持率は80%を下回ったことはない。力強い指導者であり、国民に寄り添う愛国者という「プーチン像」は、確実に国民の間に浸透している。

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◆◆ソ連の崩壊

(小学館百科全書)

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木村英亮

(1)ペレストロイカの理想と現実

チェルノブイリ原発事故とグラスノスチ

1986426日、ソ連共産党第27回大会の直後、ウクライナ共和国キエフ市の北方にあるチェルノブイリの原子力発電所4号炉が爆発、大量の放射性物質が空中に噴き上げられ、火災が発生した(チェルノブイリ原子力発電所事故)。消防隊員の献身的な消火活動によって他の三つの原子炉への延焼は防がれたが、事故後の処理は遅れ、発電所からわずか3.5キロメートルの距離にあるプリピャチの45000人の住民に対する緊急避難命令は、爆発から36時間後に初めて出されるというありさまであった。放射性物質の放出は事故後も続き、926日にようやく「石棺」による密封作業が終わった。死者は9000人に達したともいわれており(2006WHO死者推定値)、北のベラルーシでは農地の20%が使用不能となり、放射能による被害はトルコ、イタリア、ドイツなど国境の外にまで広がった。

 これほどの大事故にもかかわらず、テレビは事故の翌々日428日に初めて簡単に報道し、新聞は30日にようやく4行の記事を載せるというありさまで、時代錯誤的な情報統制が白日の下にさらされた。この事件をはずみとして、秋からグラスノスチ(情報の公開、言論の自由)が急速に進み、一部の新聞、雑誌にソ連社会の実態や、それまで隠されていた歴史上の事実や解釈についての大胆な記事が現れ始め、人気を博した。また、ゴルバチョフら新指導部は、事故の発生とその後の処理のまずさの原因が旧来の体制そのものにあることを痛感し、根本的な改革の必要性を確認した。共産党政治局は、9月下旬、改革に向け大胆に立ち上がるよう呼びかけた。

高学歴社会の実現

すでにソ連社会には、根本的改革、ペレストロイカの条件ができていた。逆に、これらの条件が古い体制の維持を許さなくなっていたといえよう。その条件の一つは、教育の普及と高学歴社会の実現である。198889年、大学(総合大学、単科大学)は898校あり、学生数は約500万人、88年の入学者は108万人で、日本とほぼ同じ程度の進学率であった。高学歴化は、革命前には文字さえもたなかった中央アジアなどの民族地域をも含めて達成されたのである。このような条件がそれまでの官僚支配を崩すものであったことは当然であろう。指導者層も、たとえば歴代の党書記長がたたき上げであったのに対し、ゴルバチョフは初めてのモスクワ大学出身者であった。このゴルバチョフが教条主義・権威主義との闘いや、「新しい思考」に基づく改革に大胆に立ち上がるよう呼びかけたのである。すでにフルシチョフ時代から言論統制はむずかしくなってきており、反体制知識人の活動が続いていた。ここにきてグラスノスチは知識階級全体の要求となり、予測を超えた奔流となって逆にゴルバチョフをも突き上げたのである。

労働者民主主義と国有企業法

革命当時、人口の一部を占めるにすぎず、しかも大部分が読み書きできなかった労働者階級もまた、いま人口の大部分を占めるようになったばかりでなく、質的にも政治・経済を自らの手で担うにふさわしいものに成長した。労働者階級が政治・経済の主人公となることが社会主義であるとすれば、ようやくその条件が形成されたことになる。

 知識階級のイニシアティブによって始まったペレストロイカが、勤労者へその裾野(すその)を広げ、本格的なソ連社会主義再生のきっかけとなるかと思われたのが、19876月に最高会議で採択され、881月に施行された国有企業法である。その第一の内容は、ソ連経済の基本単位としての国有企業の自主裁量権を大幅に拡大し、独立採算制と資金自己調達制を基本として中央の指令を減らすことである。第二は、企業の労働集団を全権的運営者としたことで、企業長をはじめとする職場の長は、これまでの任命制にかわって、それぞれの部局の労働集団によって5年までの任期で選出されることになった。これによって労働者の職場や仕事に対する関心と生産意欲が高められるはずであった。しかし、国の管理機関の改革が進まず、移行措置が不十分であったために、企業長による歯止めのない賃上げが行われるなど弊害が大きくなり、まもなく棚上げとなった。

大統領制の導入と共産党一党制の廃止

1988年末、新しい最高権力機関として人民代議員大会が創設された。代議員の任期は5年で執行機関の長との兼務は禁止された。902月共産党中央委員会総会では共産党の一党支配の廃止が決められ、3月には人民代議員大会によって新設の大統領にゴルバチョフが選出された。こうして国の実権の、党から国家機関への移動が完成したのである。

 このようなソ連の変化は、1989年から90年にかけて東欧に激動をもたらし、1955年の創設以来、東側軍事ブロックの中核をなしてきたワルシャワ条約機構はその役割を終えて917月に政治機構を解体した。また、経済相互援助会議(コメコン)も同年6月に解体の議定書の調印が行われ、ソ連・東欧ブロックは名実ともに消滅した。ハンガリーなどいくつかの国はヨーロッパ共同体(EC)に準加盟し、全欧安保協力会議(CSCE)にも加盟した。また、ソ連自体も西側への接近を強めた。一方、ゴルバチョフは19895月に北京(ペキン)を訪問して中ソ関係を正常化し、909月にはトルクシブ鉄道と北疆(ほくきょう)鉄道がつながるなど中国との関係も密接になった。

 冷戦の終結により、米ソ間の軍縮交渉も進み、198712月中距離核兵器廃棄条約(INF条約)が調印され、915月には完全に履行。同年7月には戦略兵器削減条約(START(スタート))も調印された。こうして、世界の緊張緩和がさらに進んだ。

(2)ソ連崩壊と市場経済導入

▼8月政変と共産党の解散

1991819日、突如、副大統領ヤナーエフが健康上の理由でゴルバチョフ大統領の職務を引き継いだこと、非常事態国家委員会が全権力を掌握したことが発表された。このクーデターの発生は、ソ連国民ばかりでなく、世界を驚かせた。これに先だつ同年6月の投票で、エリツィンが4555万票という史上空前の得票でロシア連邦共和国大統領に選出された。ロシア国民は共産党の意思に反し、むしろその妨害に逆らい反発してエリツィンを大統領に選んだのである。ロシア共和国はすでにその1年半前の90年初めに民族主権宣言と人民主権宣言を発表し、612日の共和国人民代議員大会でそれを採択していた。この段階でロシア共和国とソ連との二重権力状態が生まれていたのである。

 クーデターが起こると、エリツィンはただちに抗議のゼネストを呼びかけた。1991820日夜から21日朝にかけてロシア共和国政府の建物(ベールイ・ドム)の近くで戦車の出動などに抗議していた市民十数人が死傷した。まもなく非常事態国家委員会は国民の支持を得られず解散、22日早朝ゴルバチョフがクリミアから戻り、ヤナーエフらは逮捕され、内相プーゴは自殺、クーデターは失敗に終わった。ゴルバチョフはクーデター直後の824日、共産党が関与していたとして党の解散と書記長辞任を声明した。こうした政変の後、多くの都市でレーニン、ジェルジンスキー、カリーニンらロシア革命指導者の銅像がデモ隊によって倒されたのは、ソ連が終末へ向かう象徴的光景であったといえよう。エリツィンは7月のロシア共和国大統領就任直後、国家機関などでの政党の活動を禁止し、党と国家との癒着を断とうとしていたが、11月、ソ連共産党の活動を停止し、党組織を解散させる大統領令を出した。

ソ連解体とエリツィンの指導権の確立

19911月、ソ連軍のリトアニアにおける武力行使に対し、ロシア共和国最高会議は抗議の訴えを決議した。これに対し、連邦指導部は3月に「主権共和国連邦に関する条約」案、ついで8月にはこれを共和国寄りに修正した新連邦条約案を発表し、ソ連の維持を図ろうとした。クーデターはその採択を阻止する意図をもつものであったが逆効果となり、共和国の連邦離れを決定的にした。9月に最後の連邦条約案である「主権国家連邦に関する条約」案が発表されたが、121日、ウクライナが国民投票で参加を拒否したことによって連邦の維持は不可能となった。そして1221日、アルマアタでグルジアを除く11共和国が独立国家共同体(CIS)創設の議定書に調印、CIS成立によって69年間続いたソ連は解体した。これに伴ってソ連とロシア共和国の二重権力の状態も終わり、エリツィン大統領が前面に登場した。社会主義の再生を求めたペレストロイカの時代は終わり、資本主義を目ざす時代が始まる。

全面的な市場経済化路線への移行

ロシアでは19921月、副首相ガイダルによって価格が自由化され、国際通貨基金(IMF)の指導の下に資本主義に向け市場経済化の路線へ踏み出したが、たちまちハイパー・インフレーションが始まり、この年のうちに物価は26倍となり、年金生活者などの生活はどん底に落ちた。混乱のなかでマフィアが流通を握り、貧富の差が拡大し続けた。意図されているような市場経済は、国営企業の大部分が国有のままであったり、民営化されても独占が維持されている場合には実現がむずかしいが、そのための改革は遅れていた。巨大な軍需産業の民需への転換も大仕事である。財政は大幅な赤字となり、投資が急減しているばかりでなく、外国への資本の逃避が起きた。このような状況は、欧米諸国による資金援助の効果を減殺した。通貨ルーブルの安定を達成することも必要で、ルーブルの切下げを断行した。農業政策ではソフホーズ(国営農場)の株式会社化などの改編を実行したが、これにより投資が急減し、農業全体の生産が低下、穀物はソ連時代の60%台にまで落ち込んだ。

 このような経済的混乱のなかで、ロシアでは大統領と人民代議員大会との対立も深まり、命令や法律が守られず、一種の無政府状態が生じた。199212月にはガイダルが失脚し、チェルノムイルジンが首相に選出された。エリツィンは934月の国民投票で過半数の支持は得たが、その後も政治の不安定が続き、10月にはついに最高議会を武力制圧して大統領権限を固めた。12月に行われた議会選挙ではエリツィン支持の改革派が第一党を占めたが、極右の「自由民主党」も多くの議席を獲得し、不安定な政治が続いた。

旧ソ連各地域での民族紛争の激化

100以上の民族からなるソ連の解体は、民族紛争を解決することはできず、むしろその激化をもたらした。とくに多民族性の強い都市や、ドイツ人、ユダヤ人など少数民族の状況は悪化した。ロシア以外の共和国におけるロシア人の地位も不安定であった。

 ウクライナでは、ロシアとの結び付きの弱まりとともに経済が悪化、大統領、首相、最高会議3者の争いのなかで改革は中断し、ロシア人が多い東部での炭鉱ストなどによる地域的な対立も激しくなった。ザカフカスでは、ナゴルノ・カラバフをめぐるアゼルバイジャンとアルメニアとの紛争が泥沼化し、そのなかでアゼルバイジャンの人民戦線政府は1年続いたのちに崩壊した。グルジアでは独立運動派の大統領ガムサフルディアの強権支配の下でアブハジア、オセチアとの民族紛争が激化し、元ソ連外相シェワルナゼを国家評議会議長に迎えて国内の安定と団結を目ざした。モルドバではルーマニア系住民と、ロシア人の多い「沿ドニエストル共和国」との対立が続き、リトアニアではサユディスが独立のイニシアティブをとってきたが、199210月の選挙で旧共産党系に敗れた。ラトビア、エストニアも含めたバルト諸国は旧ソ連のなかでは比較的生活水準も高かったが、ロシアとの経済関係の復活が求められた。中央アジアではタジキスタンで、旧共産党系の政府とイスラム勢力との内戦が続いた。ソ連の解体前後には諸外国とのつながりが求められたが、931月、7か国による独立国家共同体憲章が調印されるなど、共和国間の経済関係の回復も模索された。

(3) ソ連崩壊の世界史的意義

 1917年にロシア革命が成功を収めたのは、戦争で生活に行き詰まった人々の平和の要求、農民の土地の要求、諸民族の自決の要求にこたえたことによる。これらの要求にソビエト政権のような形でこたえた例はなく、世界に大きな衝撃を与えた。また大恐慌の時期にソ連の計画経済があげた成果は、世界に大きな影響を与え、資本主義の下で経済に対する国家の介入が行われるようになった。ソ連崩壊以降、ソ連のような中央集権的指令的な経済の破綻(はたん)は明らかとなったが、環境や資源、また南北問題などの解決のために、なんらかの計画化が求められていることもまた確かである。集団化をはじめとする農業政策は、ソ連でもっともうまくいかず、スターリンの政策の失敗が目だった分野であるが、個人経営と協同組合経営、小規模経営と大規模経営、工業との結合の問題などは、ソ連に限らない問題である。農業を含めた国民経済全体を急速に発展させた経験は、とくに開発途上国にとって重要である。今日、民族紛争が世界的に噴出する一方で、広域経済圏の形成も試みられている。解体に終わったとはいえ、多民族の地域を連邦制の形で結合し、一つの分業体制を形成しようとした経験も貴重であろう。

 失敗に終わったとはいえ、これらの問題について、掲げられてきた社会主義の理論との関連をも含め、公開されつつある資料によって歴史的事実に即して明らかにしていくことが必要である。これは、ソ連を含めた世界史の再検討にまで及ぶべきであろう。

 ロシアをはじめとする旧ソ連各地域の状況はまだ流動的であり、結果は予測できない。長く共産党の一党支配が続いたために議会政治にも慣れていない。現在諸勢力のいくつかの政党への組織化の過程が進行中であるが、最終的にはどの勢力が多くの支持を集めるかによって将来が決まるであろう。その際、旧ソ連外の諸国の動向、働きかけも大きな役割を果たすであろう。ソ連の崩壊によって、アメリカ、西欧諸国とともに世界の政治・経済に対する日本の責任は大きくなっている。なお、ソ連崩壊後のロシアについては「ロシア連邦」「ロシア史」の項目を参照。ウクライナなど旧ソ連の構成共和国についてはそれぞれの項目を参照のこと。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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