男女平等の実現めざして❹女性解放=平塚らいてふ中心に市川房枝・山川菊栄など

男女平等の実現めざして女性解放=平塚らいてふ中心に市川房枝・山川菊栄など

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【このページの目次】

◆男女平等めざした人びと・平塚らいてふ、などリンク集

◆平塚らいてふなど『青踏』と巻頭の辞

◆与謝野晶子のうた

◆米田佐世子=NHK平塚らいてうと市川房枝 (日本人はなにを考えてきたか解説

◆平塚らいてふの生涯(「私の読書感想」から)

◆婦選運動の歴史(田村)

◆平塚らいてふ・青踏・市川房江=小学館百科全書

◆久保公子=権利の上に眠るな、今振り返る市川房枝の生涯と参政権へのとりくみ

◆森まゆみ=山川菊栄の生涯

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🔵男女平等めざした人びと=平塚らいてふ・市川房枝・与謝野晶子・山川菊栄などリンク集

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写真右側は与謝野鉄幹
明星

★★与謝野晶子=その時歴史が動いた=「青踏」で女性の自立宣言・山の動く日来たる 43m

【平塚らいてふ】

★★立花英裕:与謝野晶子と平塚らいてう:世紀の節目を生きた二人の女性4m

🔵知恵泉・平塚らいてふ

https://drive.google.com/file/d/1XhnycwpD4cDiThJKTKuyD7ut-4GtfkpU/view?usp=drivesdk

★★女性解放運動=NHK平塚らいてうと市川房枝 (日本人はなにを考えてきたか)90m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v121314866ayDgq2W5

★★鎌田慧 反骨のジャーナリスト(3) 平塚らいてう NHK人間大学2002.2.20

【市川房枝】

★★市川房枝=破れガラスの天井、女性参政権獲得のたたかい55m

◆ガラスの天井(英語: glass ceiling)とは、資質又は成果にかかわらずマイノリティ及び女性の組織内での昇進を妨げる見えないが打ち破れない障壁のこと。「私たちはいまだ、最も高く、硬い『ガラスの天井』を破ることができていません」。米大統領選で敗北したヒラリー・クリントン氏は、初の女性大統領誕生が幻となったことをこう表現した。

◆筆者から=平塚らいてう・市川房枝の戦争協力について

以上の2つのドキュメント動画のなかでふれられているように、満州事変に始まる日本の侵略戦争のさなか、国家総動員体制がしかれる中で、平塚らいてう・市川房枝ともに、国防婦人会に入り「銃後の母」として戦争協力の旗をふっていた。市川房枝は、より積極的に日本が植民地にしていた台湾まで行き、戦争のために貯蓄を募っていた。「まだまだ少ない。もっと貯蓄を」と台湾の婦人を激励していた。そのため市川房枝は戦後公職追放を受けた。しかし、2人は、戦後反戦平和のたたかいに全力をあげて邁進した。女性解放のたたかいに果たした役割は極めて大きい。だからこそ「戦争協力の深刻な反省」についても本当はもっと聞きたかったと思う。

★★市川房枝の映画 『八十七歳の青春市川房枝生涯を語る ダイジェスト計15m

https://m.youtube.com/watch?v=r_SEuiKteJs

https://m.youtube.com/watch?v=j_xuOrlBf-0

https://m.youtube.com/watch?v=2u35dhNHB-Y

★★市川房枝の生涯9m

http://static.veoh.com/m/watch.php?v=v14964754MCdxdH5M

★★女性たちのたたかい(20世紀の市民21 

または

http://video.fc2.com/content/201402079kNqV72h

★★新・映像の世紀プレミアム第3集「世界を変えた女たち」女性たちのたたかい

【働く女性関係】

★★日本人は何をめざしてきたか第2回 男女共同参画社会  ~女たちは平等をめざす~90m

PCの場合全画面表示で見ると過剰広告減)

戦後、女性の参政権が認められ、新憲法に男女平等が掲げられた。しかし、家事育児は女性の役割とされ、職場では結婚退職制や若年定年制が行われていた。60年代に入り、こうした雇用差別に裁判を起こす女性たちが現れる。

70年代、世界的なブームとなったウーマンリブが日本にも広がって、男性中心の社会を批判し、女性の解放をめざしていく。

国連の女子差別撤廃条約を批准するため、1985年に男女雇用機会均等法が制定される。労働省婦人少年局長の赤松良子さん(85)は、労使の狭間で苦渋の選択をした当時を振り返る。「財界や企業の猛反対で妥協せざるを得なかった。労働者側からは腰抜けだと、激しい非難の的になった」。均等法施行後も男性社員との格差はなかなか埋まらず、昇進を求める女性たちの裁判などが相次いだ。

1999年、仕事も家庭も男女が協働して担い、女性があらゆる分野で社会参画することをめざす男女共同参画社会基本法が制定された。参議院議員の堂本暁子さん(82)は、「当時は連立政権で、土井たか子さんと私、政治の中枢に二人の女性がいたことが法制定の強力な後押しとなった」という。堂本さんはその後、DV防止法にも深く関わった。

番組では、男女平等を進めてきた女性たちの姿を、職場の問題を中心に取材、世界の動きや政策決定の過程をまじえながら、証言で描いていく。

★★日本人は何をめざしてきたか第2回 男女共同参画社会 ~女たちは平等をめざすの詳細な証言

http://cgi2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/shogen/list.cgi?das_id=D0012200041_00000#main

★マタニティハラスメント対策ネットワーク 代表 小酒部 さやかさん

「マタハラの根絶をめざして 働き方の改革を訴える」

★元 労働省婦人局長 赤松 良子さん

「「女だてらに」と言われ続け 男女雇用機会均等法を立案」

★社会学者 上野 千鶴子さん

「リブからフェミニズムへ 戦後70年の女性史を見る」

★元「ぐるーぷ闘うおんな」活動家 田中 美津さん

「70年代にわき起こった ウーマン・リブを先導」

★元国際婦人年連絡会 事務局長 山口 みつ子さん

「市川房枝議員の秘書として 国際婦人年連絡会を支える」

★福岡セクシュアルハラスメント裁判 原告

晴野 まゆみさん

「日本初のセクハラ裁判提訴 男女は対立すべきではない」

★元 男女共同参画審議会 委員 大沢 真理さん

「女性差別は非効率的である 経済学から男女共同参画を」

★元 参議院議員 堂本 暁子さん

「女性が政治を動かした 男女共同参画社会基本法」

★国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会元メンバーの皆さん

中嶋 里美(元高校教師) 高木 澄子(元公務員) 山田 満枝(元自営業)さん

「合い言葉は「行動する」 個人で参加する女の運動」

15.07.20赤旗】

★★プロジェクトX「男女雇用機会均等法」誕生35m

★★日本の働く女性の差別撤廃の歴史48m

★★ETV憲法・男女平等=戦後女性たちのたたかいの物語(ベアテ・若年定年制撤廃・パート賃金差別是正・均等法・育休・夫婦別姓・政治分野均等法など)75m

★★ハートネット・憲法施行70年=男女平等28m

(赤旗17.01.11

★★母の肖像・子育ての歴史(江戸時代・戦前・戦後)(解説・香山リカ)(全4回)100m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v124597364qGEtF6Xh

★★憲法史=ベアテさん両性の平等・憲法24条を語る(各TV番組から)43m

★★BSTBS憲法誕生秘話=22歳の涙が生んだ男女平等46m

(以下の3つのPDFは、スマホの場合=画像クリック下向き矢印マークをクリック全ページ表示)

◆◆人と思想・小林登美枝=平塚らいてう

◆◆米田=近代日本女性史㊤

◆◆米田=近代日本女性史㊦

★当ブログ=日露戦争に反対した人びと=平民新聞、トルストイ、夢ニ、啄木、与謝野晶子、内村鑑三の与謝野晶子部分参照のこと。

NPO平塚らいてうの会

http://homepage3.nifty.com/raichou/

◆米田佐代子の「森のやまんば日記」

http://yonedasayoko.wordpress.com/

◆らいてうの家ブログ

http://m.blogs.yahoo.co.jp/sawa23y2000

Twitter平塚らいてう

https://mobile.twitter.com/Hiratsuka_LR

◆『青鞜』初期における平塚らいてうの思想「元始、女性は太陽であった」を中心に

理謙PDF

クリックしてbungaku02.pdfにアクセス

◆岡田=平塚らいてうの母性主義フェミニズムと優生思想 : 「性と生殖の国家管理」断種法要求はいつ加筆されたのかPDF

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004865712

◆川口さつき=「青踏」時代までの平塚らいてうPDF

クリックしてSyagakukenRonsyu_03_00_006_Kawaguchi.pdfにアクセス

◆松尾純子=米田佐代子著『平塚らいてう――近代日本のデモクラシーとジェンダー批判的検討』PDF

クリックして567-05.pdfにアクセス

◆桑原=平塚らいてうのロマンチック・ラブと 近代家族に関する思想と実践にみる葛藤とゆらぎ ── 1890 から 1910 年代を中心に ──

クリックしてr-sbk-ky_014_007.pdfにアクセス

◆大家慎也=真の自己と仮の自己―出発期の平塚らいてうを読み解く一視点― 

クリックして81003894.pdfにアクセス

◆今井ほか=平塚らいてう「新婦人協会」とセツルメント事業ー賀川豊彦を媒介にして

◆◆米田佐代子=平塚らいてふと湯川秀樹の戦後日記を読む、「核なき世界」への共鳴

◆◆米田佐代子=平塚らいてう生誕130

(赤旗16.11.16

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🔵元始女性は太陽であった=「青鞜」発刊に際して

平塚 らいてう

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ひらつか らいちょう 思想家 1886.2.10 – 1971.5.24 東京に生まれる。女性達の手になった日本初の文藝誌「青鞜」を主宰。 掲載作は、明治四十四年(1911)九月その創刊号にかかげた歴史的宣言であり、時にらいてうは二十六歳であった。大正五年(1916)二月号をもって終刊したが、女性の「人間」としての真の自由解放をうたいあげた真意は深く時流に生きて、太平洋戦争後もらいてうは永く反戦平和婦人運動の先頭に起ち続けた。

青鞜社同人
青鞜社の前で同人たち

元始女性は太陽であつた。――青鞜発刊に際して――

 元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。

 偖()てこゝに「青鞜(せいたふ)」は初声(うぶごゑ)を上げた。

 現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。

 女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。

 私はよく知つてゐる、嘲りの笑の下に隠れたる或(ある)ものを。

 そして私は少しも恐れない。

 併(しか)し、どうしやう女性みづからがみづからの上に更に新(あらた)にした羞恥(しうち)と汚辱(をじよく)の惨(いた)ましさを。

 女性とは斯くも嘔吐に価(あたひ)するものだらうか、

 否々、真正の人とは――

 私共は今日の女性として出来る丈のことをした。心の総てを尽してそして産み上げた子供がこの「青鞜」なのだ。よし、それは低能児だらうが、奇形児だらうが、早生児だらうが仕方がない、暫くこれで満足すべきだ、と。

 果して心の総てを尽したらうか。あゝ、誰か、誰か満足しやう。

 私はこゝに更により多くの不満足を女性みづからの上に新にした。

 女性とは斯くも力なきものだらうか、

 否々、真正の人とは――

 併し私とて此真夏の日盛(ひざかり)の中から生れた「青鞜」が極熱をもよく熱殺するだけ、それだけ猛烈な熱誠を有()つてゐると云ふことを見逃すものではない。

 熱誠! 熱誠! 私共は只これによるのだ。

 熱誠とは祈祷力である。意志の力である。禅定力である、神道力である。云ひ換へれば精神集注力である。

 神秘に通ずる唯一の門を精神集注と云ふ。

 今、私は神秘と云つた。併しともすれば云はれるかの現実の上に、或は現実を離れて、手の先で、頭の先で、はた神経によつて描き出された拵(こしら)へものゝ神秘ではない。夢ではない。私共の主観のどん底に於て、人間の深さ瞑想の奥に於てのみ見られる現実其儘の神秘だと云ふことを断つて置く。

 私は精神集注の只中に天才を求めやうと思ふ。

 天才とは神秘そのものである。真正の人である。

 天才は男性にあらず、女性にあらず。

 男性と云ひ、女性と云ふ性的差別は精神集注の階段に於て中層乃至下層の我、死すべく、滅ぶべき仮現の我に属するもの、最上層の我、不死不滅の真我に於てはありやうもない。

 私は曾(かつ)て此世に女性あることを知らなかつた。男性あることを知らなかつた。

 多くの男女は常によく私の心に映じてゐた、併し私は男性として、はた女性として見てゐたことはなかつた。

 然るに過剰な精神力の自(おのづ)からに溢れた無法な行為の数々は遂に治()しがたく、救ひがたき迄の疲労に陥れた。

 人格の衰弱! 実にこれが私に女性と云ふものを始めて示した。と同時に男性と云ふものを。

 かくて私は死と云ふ言葉をこの世に学んだ。

 死! 死の恐怖! 曾て天地をあげて我とし生死の岸頭に遊びしもの、此時、ああ、死の面前に足のよろめくもの、滅ぶべきもの、女性と呼ぶもの。

 曾て統一界に住みしもの、此時雑多界にあつて途切れ、途切れの息を胸でするもの、不純なるもの、女性と呼ぶもの。

 そして、蓮命は我れ自から造るものなるを知らざるかの腑甲斐なき宿命論者の群にあやふく歩調を合せやうとしたことを、ああ思ふさへ冷たい汗は私の膚へを流れる。

 私は泣いた、苦々しくも泣いた、日夜に奏でゝ来た私の竪琴の糸の弛んだことを、調子の低くなつたことを。

 性格と云ふものゝ自分に出来たのを知つた時、私は天才に見棄てられた、天翔(あまかけ)る羽衣を奪はれた天女のやうに、陸に上げられた人魚のやうに。

 私は歎いた、傷々しくも歎いた。私の恍惚を、最後の希望を失つたことを。

 とは云へ、苦悶、損失、困憊(こんぱい)、乱心、破滅総て是等を支配する主人も亦常に私であつた。

 私は常に主人であつた自己の権利を以て、我れを支配する自主自由の人なることを満足し、自滅に陥れる我れをも悔ゆることなく、如何なる事件が次ぎ次ぎと起り来る時でも我の我たる道を休みなく歩んで来た。

 ああ、我が故郷の暗黒よ、絶対の光明よ。

 自(みづ)からの溢れる光輝と、温熱によつて全世界を照覧し、万物を成育する太陽は天才なるかな。真正の人なるかな。

 元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。

 今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く病人のやうな蒼白い顔の月である。

 私共は隠されて仕舞つた我が太陽を今や取戻さねばならぬ。

「隠れたる我が太陽を、潜める天才を発現せよ、」こは私共の内に向つての不断の叫声、押へがたく消しがたき渇望、一切の雑多な部分的本能の統一せられたる最終の全人格的の唯一本能である。

 此叫声、此渇望、此最終本能こそ熱烈なる精神集注とはなるのだ。

 そしてその極(きはま)るところ、そこに天才の高き王座は輝く。

 青鞜社規則の第一条に他日女性の天才を生むを目的とすると云ふ意味のことが書いてある。

 私共女性も亦一人残らず潜める天才だ。天才の可能性だ。可能性はやがて実際の事実と変ずるに相違ない。只精神集注の欠乏の為、偉大なる能力をして、いつまでも空しく潜在せしめ、終(つひ)に顕在能力とすることなしに生涯を終るのはあまりに遺憾に堪へない。

「女性の心情は表面なり、浅き水に泛(うか)ぶ軽佻浮噪の泡沫なり。されど男性の心情は深し、其水は地中の凹窩を疾走す」とツアラトゥストラは云つた。久しく家事に従事すべく極め付けられてゐた女性はかくて其精神の集注力を全く鈍らして仕舞つた。

 家事は注意の分配と不得要領によつて出来る。

 注意の集注に、潜める天才を発現するに不適當の境遇なるが故に私は、家事一切の煩瑣を厭ふ。

 煩瑣な生活は性格を多方面にし、複難にする、けれども其多方面や、複雑は天才の発現と多くの場合反比例して行く。

 潜める天才に就て、疑ひを抱く人はよもあるまい。

 今日の精神科学でさへこれを実証してゐるではないか。総ての宗教にも哲学にも何等の接触を有()たない人でも最早(もはや)かの催眠術、十八世紀の中葉、墺国(オーストリヤ)のアントン、メスメル氏に起原を発し、彼の熱誠と忍耐の結果、遂に今日学者達の真面目な研究問題となつたかの催眠術を多少の理解あるものは疑ふことは出来まい。いかに繊弱(かよわ)い女性でも一度催眠状態にはいる時、或暗示に感ずることによつて、無中有を生じ、死中活を生じ忽然として霊妙不可思議とも云ふべき偉大な力を現すことや、無学文盲の田舎女が外国語を能く話したり、詩歌を作つたりすることなどは屡々私共の目前で実験された。また非常時の場合、火事、地震、戦争などの時、日常思ひ至らないやうな働をすることは誰れでも経験することだ。

 完全な催眠状態とは一切の自発的活動の全く休息して無念無想となりたる精神状態であると学者は云ふ。

 然らば私の云ふところの潜める天才の発現せらるべき状態と同一のやうだ。私は催眠術に掛れないので遺憾ながら断言は出来ないが、少くとも類似の境界だとは云へる。

 無念無想とは一体何だらう。祈祷の極、精神集注の極に於て到達し得らるゝ自己忘却ではないか。無為、恍惚ではないか。虚無ではないか。真空ではないか。

 実()にこゝは真空である。真空なるが故に無尽蔵の智恵の宝の大倉庫である。一切の活力の源泉である。無始以来植物、動物、人類を経て無終に伝へらるべき一切の能力の福田(ふくでん)である。

 こゝは過去も未来もない、あるものは只これ現在。

 ああ、潜める天才よ。我々の心の底の、奥底の情意の火焔の中なる「自然」の智恵の卵よ。全智全能性の「自然」の子供よ。

「フランスに我がロダンあり。」

 ロダンは顕れたる天才だ。彼は偉大なる精神集注力を有()つてゐる。一分の隙なき非常時の心を平常時の心として生きてゐる。彼は精神生活のリズムにせよ、肉体生活のリズムにせよ、立所に自由に変ずることの出来る人に相違ない。むべなる哉、インスピレーションを待つかの奴隷のやうな藝術の徒を彼は笑つた。

 其意志の命ずる時、そこに何時でもインスピレーションがある彼こそ天才となるの唯一の鍵を握つてゐる人と云ふベきだらう。

 三度の箸の上下にも、夕涼の談笑にも非常時の心で常にありたいと希ふ私は曾て白樺のロダン号を見て多くの暗示を受けたものだ、物知らずの私にはロダンの名さへ初耳であつた。そしてそこに自分の多くを見出した時、共鳴するものあるをいたく感じた時、私はいかに歓喜に堪ヘなかつたか。

 以來、戸を閉じたる密室に独座の夜々、小さき燈火が白く、次第に音高く、嵐のやうに、しかもいよいよ単調に、瞬(またゝき)もなく燃える時、私の五羽の白鳩が、優しい赤い眼も、黒い眼も同じ薄絹の膜に蔽はれて寄木(やどりき)の上にぷつと膨れて安らかに眠る時、私は大海の底に独り醒めてゆく、私の筋は緊張し、渾身に血潮は漲(みなぎ)る。其時、「フランスに我がロダンあり。」と云ふ思ひが何処からともなく私の心に浮ぶ。そして私はいつか彼と共に「自然」の音楽を――かの失はれたる高調の「自然」の音楽を奏でゝゐるのであつた。

 私はかの「接吻」を思ふ。あらゆるものを情熱の坩堝(るつぼ)に鎔す接吻を、私の接吻を。接吻は実に「一」である。全霊よ、全肉よ、緊張の極(はて)の圓かなる恍惚よ、安息よ、安息の美よ。感激の涙は金色の光に輝くであらう。

 日本アルプスの上に灼熱に燃えてくるくると廻転する日没前の太陽よ。孤峯頂上に独り立つ私の静けき慟哭よ。

 弱い、そして疲れた、何ものとも正体の知れぬ、把束し難き恐怖と不安に絶えず戦慄する魂。頭脳(あたま)の底の動揺、銀線をへし折るやうな其響、寝醒時に襲つて来る黒い翅の死の強迫観念。けれど、けれど、一度自奮する時、潜める天才はまだ私を指導してくれる。まだ私を全く見棄(みすて)はしない。そして何処から来るともなし私の総身に力が漲つてくる、私は只々強き者となるのだ。私の心は大きくなり、深くなり、平になり、明るくなり、視野は其範囲を増し、個々のものを別々に見ることなしに全世界が一目に映じてくる。あの重かつた魂は軽く、軽く、私の肉体から抜け出して空にかゝつてゐるのだらうか。否、実は目方なきものとなつて気散して仕舞つたのだらうか。私はもう全く身も心も忘れ果てて云ふべからざる統一と調和の感に酔つて仕舞ふのだ。

 生も知らない。死も知らない。

 敢て云へば、そこに久遠の「生」がある。熱鉄の意志がある。

この時ナポレオンはアルプス何あらむやと叫ぶ。実に何ものの障碍(しやうがい)も其前にはない。

 真の自由、真の解放、私の心身は何等の圧迫も、拘束も、恐怖も、不安も感じない。そして無感覚な右手が筆を執つて何事かをなほ書きつける。

 私は潜める天才を信ぜずには居られない。私の混乱した内的生活が僅に統一を保つて行けるのは只これあるが為めだと信ぜずにはゐられない。

 自由解放! 女性の自由解放と云ふ声は随分久しい以前から私共の耳辺にざわめいてゐる。併しそれが何だらう。思ふに自由と云ひ、解放と云ふ意味が甚しく誤解されてゐはしなかつたらうか。尤(もつと)も単に女性解放問題と云つても其中には多くの問題が包まれてゐたらう。併し只外界の圧迫や、拘束から脱せしめ、所謂(いはゆる)高等教育を授け、広く一般の職業に就かせ、参政権をも与へ、家庭と云ふ小天地から、親と云ひ、夫と云ふ保護者の手から離れて所謂独立の生活をさせたからとてそれが何で私共女性の自由解放であらう。成程それも真の自由解放の域に達せしめるによき境遇と機会とを与へるものかも知れない。併し到底方便である。手段である。目的ではない。理想ではない。

 とは云へ私は日本の多くの識者のやうな女子高等教育不必要論者では勿論ない。「自然」より同一の本質を受けて生れた男女に一はこれを必要とし、一はこれを不必要とするなどのことは或国、或時代に於て暫くは許せるにせよ、少しく根本的に考へればこんな不合理なことはあるまい。

 私は日本に唯一つの私立女子大学があるばかり、男子の大学は容易に女性の前に門戸を開くの寛大を示さない現状を悲しむ。併し一旦にして我々女性の智識の水平線が男性のそれと同一になつたとしたところでそれが何だらう。抑(そもそ)も智識を求めるのは無智、無明の闇を脱して自己を解放せむが為に外ならぬ。然るにアミイバのやうに貪り取つた智識も一度眼を拭つて見れば殻ばかりなのに驚くではないか。そして又我々は其殻から脱する為め多くの苦闘を余儀なくせねばならないではないか。一切の思想は我々の真の智恵を暗まし、自然から遠ざける。智識を弄んで生きる徒は学者かも知れないが到底智者ではない。否、却て眼前の事物其儘の真を見ることの最も困難な盲(めしひ)に近い徒である。

 釈迦は雪山に入つて端座六年一夜大悟して、「奇哉(きなるかな)、一切衆生具有如来智恵徳相、又曰、一仏成道観見法界草木国土悉皆成仏」と。彼は始めて事物其儘の真を徹見し、自然の完全に驚嘆したのだ。かくて釈迦は真の現実家になつた。真の自然主義者になつた。空想家ではない。実に全自我を解放した大自覚者となつたのだ。

 私共は釈迦に於て、真の現実家は神秘家でなければならぬことを、真の自然主義者は理想家でなければならぬことを見る。

 我がロダンも亦さうだ。彼は現実に徹底することによつてそこに現実と全く相合する理想を見出した。

「自然は常に完全なり、彼女は一つの誤謬をも作らず」と云つたではないか。自からの意力によつて自然に従ひ、自然に従ふことによつて自然を我ものとした彼は自(みづ)から自然主義者と云つてゐる。

 日本の自然主義者と云はれる人達の眼は現実其儘の理想を見る迄に未だ徹してゐない。集注力の欠乏した彼等の心には自然は決して其全き姿を現はさないのだ。人間の瞑想の奥底に於てのみ見られる現実即理想の天地は彼等の前に未だ容易に開けさうもない。

 彼等のどこに自由解放があらう。あの首械(くびかせ)、手械、足械はいつ落ちやう。彼等こそ自縄自縛の徒、我れみづからの奴隷たる境界に苦しむ憐れむべき徒ではあるまいか。

 私は無暗と男性を羨み、男性に真似て、彼等の歩んだ同じ道を少しく遅れて歩まうとする女性を見るに忍びない。

 女性よ、芥の山を心に築かむよりも空虚に充実することによつて自然のいかに全きかを知れ。

 然らば私の希ふ真の自由解放とは何だらう。云ふ迄もなく潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させることに外ならぬ。それには発展の妨害となるものゝ総てをまづ取除かねばならぬ。それは外的の圧迫だらうか、はたまた智識の不足だらうか、否、それらも全くなくはあるまい、併し其主たるものは矢張り我そのもの、天才の所有者、天才の宿れる宮なる我そのものである。

 我れ我を遊離する時、潜める天才は発現する。

 私共は我がうちなる潜める天才の為めに我を犠牲にせねばならぬ。所謂無我にならねばならぬ。(無我とは自己拡大の極致である。)

 只私共の内なる潜める天才を信ずることによつて、天才に対する不断の叫声と、渇望と、最終の本能とによつて、祈祷に熱中し、精神を集注し以て我を忘れるより外(ほか)道はない。

 そしてこの道の極(きはま)るところ、そこに天才の玉座は高く輝く。

 私は総ての女性と共に潜める天才を確信したい。只唯一の可能性に信頼し、女性としてこの世に生れ来つて我等の幸を心から喜びたい。

 私共の救主は只私共の内なる天才そのものだ。最早(もはや)私共は寺院や、教会に仏や神を求むるものではない。

 私共は最早、天啓を待つものではない。我れ自からの努力によつて、我が内なる自然の秘密を曝露し、自から天啓たらむとするものだ。

 私共は奇蹟を求め、遠き彼方の神秘に憧れるものではない、我れ自からの努力によつて我が内なる自然の秘密を曝露し、自から奇蹟たり、神秘たらむとするものだ。

 私共をして熱烈なる祈祷を、精紳集注を不断に継続せしめよ。かくて飽迄も徹底せしめよ。潜める天才を産む日まで、隠れたる太陽の輝く日まで。

 其日私共は全世界を、一切のものを、我ものとするのである。其日私共は唯我独存の王者として我が踵もて自然の心核に自存自立する反省の要なき真正の人となるのである。

 そして孤独、寂寥のいかに楽しく、豊かなるかを知るであらう。

 最早(もはや)女性は月ではない。

 其日、女性は矢張り元始の太陽である。真正の人である。

 私共は日出づる国の東(ひんがし)の水晶の山の上に目映ゆる黄金の大圓宮殿を営まうとするものだ。

 女性よ、汝の肖像を描くに常に金色の円天井を撰ぶことを忘れてはならぬ。

 よし、私は半途にして斃るとも、よし、私は破船の水夫として海底に沈むとも、なほ麻痺せる双手を挙げて「女性よ、進め、進め。」と最後の息は叫ぶであらう。

 今私の眼から涙が溢れる。涙が溢れる。

 私はもう筆を擱()かねばならぬ。

 併しなほ一言云ひたい。私は「青鞜」の発刊と云ふことを女性のなかの潜める天才を、殊に藝術に志した女性の中なる潜める天才を発現しむるによき機会を与へるものとして、又その為の機関として多くの意味を認めるものだと云ふことを、よしこゝ暫らくの「青鞜」は天才の発現を妨害する私共の心のなかなる塵埃や、渣滓(さし)や、籾殻を吐出すことによつて僅に存在の意義ある位のものであらうとも。

 私は又思ふ、私共の怠慢によらずして努カの結果「青鞜」の失はれる日、私共の目的は幾分か達せられるのであらう、と。

 最後に今一つ、青鞜社の社員は私と同じやうに若い社員は一人残らず各自の潜める天才を発現し、自己一人に限られたる特性を尊重し、他人の犯すことの出来ない各自の天職を全うせむ為に只管(ひたすら)に精神を集中する熱烈な、誠実な真面目な、純朴な、天真な、寧(むし)ろ幼稚な女性であつて他の多くの世間の女性の団体にともすれば見るやうな有名無実な腰掛つぶしは断じてないことを切望して止まぬ私はまたこれを信じて疑はぬものだと云ふことを云つて置く。

 烈しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である。――完――

青鞜社概則

 第一條 本社は女流文學の發達を計リ、各自天賦の特性を發揮せしめ、他日女流の天才を生まむ事を目的とす。

 第二條 本社を青鞜社と稱す。

 第三條 本社事務所を本郷區駒込林町九番地 物集方に置く。

 第四條 本社は、社員賛助員客員よりなる。

 第五條 本社の目的に賛同したる女流文學者、將來女流文學者たらんとする者及び文學愛好の女子は人種を問はず社員とす。本社の目的に賛同せられたる女流文壇の大家を賛助員とす。本社の目的に賛同したる男子にして社員の尊敬するに足ると認めたる人に限り客員とす。

 第六條 本社の目的を達する為め左の事業をなす。

 一、毎月一回機關雜誌青鞜を發刊すること。青鞜は社員及び賛助員の創作、評論、其他客員の批評等も掲載することあるべし。

 二、毎月一回社員の修養及び研究會を開くこと、但し賛助員の出席隨意たるべし。

 三、毎年一回大會を開くこと、大會には賛助員客員を招待し、講話を請ふことあるべし。

 四、時に旅行を催すこと。

 第七條 社員は社費凡三拾錢を毎月納附すべし。社費は毎月會並に大會の費用と社員、賛助員、客員への雜誌「青鞜」寄贈費とに當るものとす。

 第八條 雜誌「青鞜」發刊の經費は發起人の支出により、其維持は社員、賛助員、客員其の他の寄附による。

 第九條 幹部は編輯係、庶務係、會計係よりなる。

 第十條 係員は四人とし、半數づゝ一年毎に交代す。最初は發起人等是に當る。

 第十一條 係員は社員の選擧によるものとす。

 第十二條 係員は再選することを得。

發起人(いろは順)

中野 初子  保持 研子

木内 錠子  平塚 明子

物集 和子  

賛助員

長谷川時雨  岡田八千代

加藤 籌子  與謝野晶子

國木田治子  小金井喜美子

森 しげ子

社員

岩野清子 戸澤はつ子 茅野雅子 尾島菊子大村かよ子 大竹雅子 加藤みどり 神崎恒子 田原祐子 田村とし 上田君子 野上八重子 山本龍子 阿久根俊子 荒木郁子

佐久間時子 水野仙子 杉本正生

◆ヘッダ、ガブラー論

メレジコウスキー著(平塚らいてう訳)

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/trnsltn/hiratsukaraiteu02.html

◆『青踏』巻頭言(与謝野晶子)

そぞろごと

  与謝野 晶子

山の動く日来(きた)る。

かく云えども人われを信ぜじ。

山は姑(しばら)く眠りしのみ。

その昔に於て

山は皆火に燃えて動きしものを。

されど、そは信ぜずともよし。

人よ、ああ、唯これを信ぜよ。

すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。

 

一人称(いちにんしょう)にてのみ物書かばや。

われは女(おなご)ぞ。

一人称にてのみ物書かばや。

われは、われは。

 

額(ひたい)にも肩にも

わが髪ぞほつるる

しおたれて湯瀧(ゆだき)に打たるるこころもち、

ほとつくため息は火の如く且つ狂おし。

かかること知らぬ男。

われを褒め、やがてまた譏(そし)るらん。

 

われは愛(め)ず。新しき薄手(うすで)の玻璃(はり)の鉢を。

水もこれに湛ふれば涙と流れ。

花もこれに投げ入るれば火とぞ燃ゆる。

愁ふるは、若し粗忽(そこつ)なる男の手に碎(くだ)け去らば。――

素焼の土器(どき)より更に脆く、かよわく。

 

青く、且つ白く、

剃刀の刃のこころよきかな。

暑(あつ)き草いきれにきりぎりす啼き、

ハモニカを近所の下宿に吹くは懶(ものう)けれども。

わが油じみし櫛笥(くしげ)の底をかき探れば、

陸奥紙(みちのくがみ)に包まれし細身の剃刀こそ出づるなれ。

 

にがきか、からきか、煙草の味は。

煙草の味は云ひがたし、

甘(あま)しと云はば、かの粗忽者(そこつもの)

砂糖の如く甘しとや思はん。

われは近頃煙草を喫(の)み習へど、

喫むことを人に秘めぬ。

蔭口に男に似ると云はるるもよし。

唯おそる。かの粗忽者こそいと多(さわ)なれ。

 

「鞭を忘るな」と

ツアラツストラは云ひけり。

女こそ牛なれ、また羊なれ。

附け足して我は云はまし。

「野に放てよ。」

 

わが祖母(そぼ)の母はわが知らぬ人なれど、

すべてに華奢(かしゃ)を好みしとよ

水晶の数珠にも倦(あ)き、珊瑚の数珠にも倦き、

この青玉(せいぎょく)の数珠を爪繰(つまぐ)りしとよ。

我はこの青玉の数珠を解(ほぐ)して、

貧しさに与ふべき玩具(おもちゃ)なきまま、

一つ一つ児等(こら)の手に置くなり。

 

わが歌の短ければ

言葉を省(はぶ)くと人おもえり

わが歌に省くべきもの無かりき。

また何を附け足さん。

わが心は魚ならねば鰓(えら)を有(も)たず、

ただ一息(ひといき)にこそ歌ふなれ。

 

すいつちよよ、すいつちよよ。

初秋(はつあき)の小(ちいさ)き篳篥(ひちりな)を吹くすいつちよよ。

蚊帳(かや)にとまれるすいつちよよ。

汝(な)が声に青き蚊帳は更に青し。

すいつちよよ、なぜに声をば途切(とぎら)すぞ。

初秋(はつあき)の夜の蚊帳は水銀(みずがね)の如く冷(つめた)きを、

ついつちよよ、すいつちよ。

 

油蝉のじじ、じじと啼くは、

アルボオス石鹸(しゃぼん)の泡なり、

慳貪(けんどん)なる男(おとこ)の方形(ほうけい)に開(ひら)く大口(おおぐち)なり、

手握(てづか)みの二錢銅貨なり、

近頃の芸術の批評なり、

誇りかに語るかの若き人等の恋なり

 

夏の夜のどしや降(ぶり)の雨、

わが家は泥田の底となるらん。

柱みな草の如く撓み、

そを伝(つた)ふ雨漏(あまもり)の水は蛇の如し。

寝汗(ねあせ)の香、かなしさよ。よわき子の歯ぎしり。

青き蚊帳は蛙(かえる)の如く脹(ふく)れ、

肩なる髪は鹿子菜(ひるむしろ)の如く戦(そよ)ぐ。

この中(なか)に青白きわが顔こそ。

芥(あくた)に流れて寄れる月見草なれ。

その昔に於て

山は皆火に燃えて動きしものを。

されど、そは信ぜずともよし。

人よ、ああ、唯これを信ぜよ。

すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。

◆◆今野寿美=生誕140 与謝野晶子=まことの心歌ってこそ

赤旗18.04.20

★与謝野晶子君死にたまふことなかれ 

(詳細は、後段の与謝野晶子の反戦歌参照)

君死にたまうことなかれ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

ああおとうとよ、君を泣く 

君死にたまふことなかれ

末に生まれし君なれば   

親のなさけは まさりしも

親は刃やいばをにぎらせて  

人を殺せと をしへ教えしや

人を殺して死ねよとて  

二十四までを そだてしや

堺の街の 

あきびとの  

旧家をほこる 

あるじにて親の名を継ぐ君なれば  

君死にたまふことなかれ

旅順の城はほろぶとも  

ほろびずとても何事ぞ

君は知らじな、あきびとの  

家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ、 

すめらみこと皇尊は、戦ひにおほみづからは出でまさね 

かたみに人の血を流し獣の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、

大みこころの深ければ もとよりいかで思

おぼされむ

ああおとうとよ、戦ひに 

君死にたまふことなかれ

すぎにし秋を父ぎみに  

おくれたまへる母ぎみは、

なげきの中に いたましく 

わが子を召され、家を守もり、

安しときける大御代も  

母のしら髪がは まさりぬる。

暖簾のれんのかげに伏して泣く 

あえかにわかき新妻を

君わするるや、思へるや 

十月とつきも添はで 

わかれたる少女をとめ

ごころを思ひみよ 

この世ひとりの君ならで

ああまた誰をたのむべき  

君死にたまふことなかれ。

【新しく発見された与謝野晶子の歌=戦争の悲しさうたう=赤旗14.08.12

秋風やいくさ初はじまり港なる

たゞの船さへ見て悲しけれ

戦いくさある太平洋の西南をおもひて

われは寒き夜を泣く

「青鞜(せいとう)」は、1911年(明治44年)9月から 1916年(大正5年)2月まで52冊発行された、女性による月刊誌主に平塚らいてうが、末期だけ伊藤野枝が中心だった。 

『文学史的にはさほどの役割は果たさなかったが、婦人問題を世に印象づけた意義は大きい』との論もある。日本女子大卒業生が5人集まって出版。新しい女性と言うことで非難される。創刊の辞(後の方に掲載)「原始女性は実に太陽であった」は有名。 「青鞜」とは、ブルーストッキングイギリス社交界女性が青い靴下を目立つようにく。これがもとになり「青鞜」と云う雑誌の名前になった。

🔷🔷素顔の平塚らいてう、日記公開 役職就任「決心」・湯川博士に共鳴    19.01.29朝日新聞

 女性運動家の平塚らいてう(1886~1971)が戦後に書いた日記がデジタル化され、14日からNPO法人平塚らいてうの会」のホームページで公開されている。

 戦後の日記や史料は、72年に完結した自伝『元始、女性は太陽であった』の第4巻をまとめた小林登美枝氏から同会が継承していた。日記は53年1月から58年12月までが断続的に、大学ノート1冊に約100ページにわたってつづられている。22日、手紙など8点の史料とともに、原本が報道陣に公開された。

 53年11月には、国際民主婦人連盟(WIDF)副会長への就任要請を受け、「一晩考へた上、そろそろWIDFの副会長、一期だけ引受ける決心をする」という記述がある。同会の会長で女性史研究者の米田佐代子さん(84)は「勇ましい活動家ではなく、むしろ先頭に立つことは苦手だったと分かる」と分析する。

 平塚は、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹とともに「世界平和アピール七人委員会」に参加していた。日記には、湯川の新聞記事を貼り付けたページが多くあり、活動に共鳴していたことが分かる。米田さんは「原水爆をなくしたい思いや、命を守るためには女性が結集しなければならないと強く思っていたことが表れている」と話す。

別ウインドウで開きます

 日記は同会のホームページ(http://raichou.c.ooco.jp/)に掲載されている。

 (杉原里美)


🔴◆◆平塚らいてう―戦中から戦後へ―

NHKEテレ)「日本人は何を考えてきたのか第12回―平塚らいてうと市川房枝」(2013127日放送)をめぐって―

米田佐代子

はじめに

 すでにご紹介したようにこの番組に「ちょっぴり出演」し、らいてうの家案内や資料提供などで協力した一人として、期待と不安を抱いて放送を見ました。また多くの方からのご感想もいただきました。おおむね好評で、特に戦時中だけでなく、戦後のらいてうと市川の活動を紹介したこと、最後が福島の母親からの訴え(昨年新潟で開かれた母親大会の映像)で結ばれ、平和を願った先人のこころざしが現代に受け継がれるのをみせたこと、スタジオトークで伊東アナウンサーを含め田中優子、上野千鶴子のお二人が「二人が戦中のことを言葉にしていなくても身をもって戦後の女性たちの運動の先頭に立ったことが戦争の時代への反省ではないか、戦争の時代に経験したこと(戦争、あるいは国家にからめとられたと表現)は過去の問題ではなく、核問題や原発問題に直面している自分たちの問題でもある」と語られたことなどが好評の理由だったように思われます。

 じつは最初「昭和編」で知識人の「戦争加担・協力」問題を扱うところに女性二人を登場させることに違和感がありました。その前の「明治編」「大正編」では女性は一人も登場せず、案内人も女性はクリスティン・レヴィさんのみ、スタジオトークも男性ばかりという記憶があったのです(今回スタジオトークが女性ばかりで行われたのは、担当ディレクターの思い入れもあったと察しています)。わたしは以前ある歴史家が「戦時中、特に戦争協力の先頭に立ったのは女性であった」と書いたのを読み、「女性が戦時中戦争を支える役割を果たしたことは事実だが<特に>と言えるのか。社会的政治的に無権利であった女性よりも政治や経済を動かす立場にあり、家制度のもとで家父長であった男たちのほうがはるかに活動している。女は平和的であるはずなのに戦争加担した、という刷り込みがあるのではないか」と反問したことがあります。NHKの組み立てにいささかの危惧を感じたのは、そういう経緯が繰り返されるのではないか、という懸念があったからです。

しかし、わたしは「らいてうを青鞜の時代からとりあげ、戦後につなぎたい(市川も)」という担当ディレクター(女性)を信頼し、取材に協力しました。そのとき「らいてうを戦時下の言説の引用だけで見ないでほしい。戦争の体験を経て彼女がなぜ戦後平和運動に熱中したのか、そのとき市川房枝とどのように協力し、<運動に不向き>ならいてうがどれだけ奔走したか、その根底にあった戦争を阻止できなかったことへの反省と、彼女の平和思想は戦後にわかに生まれてきたものではなく、少なくとも第一次大戦後から一貫していたことも見てほしい」と申しました。

もちろん編集権はNHKにありますから、そこに容喙するつもりはなく、わたしは聞かれたことだけに答え、希望された資料の提供に努力しました。唯一の例外は、らいてうが戦後の1954年、中国紅十字会代表李徳全来日歓迎会のあいさつ文で「日本の女性が戦時中無権利で戦争を阻止できず中国人民に大きな被害を与えたことを愧じる」と書いた文章をぜひ紹介してほしいと申し入れたことです。それは撮影されましたが実際にはオンエアされませんでした。

わたしは、女性史の分野で「女性も戦争の加害者」という議論にたいし「戦時中の女は戦争協力した。そういう過ちを自分たちはしないようにしよう」というとらえ方への疑問を投げてきました。らいてうを「翼賛フェミニスト」「天皇主義に同調」「優生思想により母性を礼賛して国策に同調」等々とする評価に疑問を感じたからでもありますが、もっといえば一人ひとりの人間が歴史のなかで何を考え、どう生きたかをその全過程のなかでとらえるべきだという思いがあったからです。

「戦争責任」とは直接戦争に加担したものだけの責任ではないはずです。戦後世代の手はきれいだということはできない、というのがわたしの「らいてうの戦争責任」に向き合う時のスタンスでした。(わたし自身の「戦争責任論」についてはブックレット『女たちが戦争に向き合うとき』(ケイ・アイ・メディア2006)に書きました)

らいてうが戦時下に戦争政策に同調するような文章を書いたことは事実です。しかしその言説だけで彼女を「戦争協力者」とみることができるだろうか?らいてうは戦争「協力」しようとしたことはなかった、にもかかわらず戦争政策を遂行しようとする権力と対峙できず、(田中・上野両氏の発言によれば)「国家にからめとられた」のは歴史と時代認識における彼女の錯誤であり、「錯誤」だから免罪されるのではくそれが彼女の「戦争責任」にほかならない、とわたしは考えます。だからこそ「なぜそのような錯誤に至ったのか」と問い、「それを戦後どのように取り返したか」と問うこと、つまり戦後のあゆみがどうしても視野に入らなければならない、と。

高良とみの戦時下の言説を「戦争加担」とする論調に対し、詩人でとみの娘である高良留美子さんが、その言説を認めつつ「前後の文章を抜きにつまみ食い的に引用するだけでは思想の全容はつかめないし、戦争責任論も深まらない」と反論したことがあります。私も同感でした。

ちなみに高良さんもそうですが、わたしもらいてうの「戦争責任」については1996年に「平塚らいてうの「戦争責任論」序説」(『歴史評論』19964月号)、2002年に「「帝国」女性のユートピア構想とアジア認識」(同誌20024月号)を書いています。らいてうの戦時下の言説については触れたくないと思う人もいたようですが、それは間違いだと思ったからです。

半年以上に及ぶ取材活動に、私が参加したのは一部分ですが、その過程でわたしの考えていることと、取材側の構想にズレがあることもわかってきました。しかし全体の構成はNHKの責任です。その結果として番組を見た多くの方々から、最初に触れたように「よかった」と言ってくださったことを、率直に受け止めたいと思っています。

いくつかの感想に寄せて

たくさんの感想の中に、いろいろな意味で考えさせられたものがありました。旧知の歴史家保立道久さんが、わたしが戦時下のらいてうの言説にも触れながら「雷鳥に対してなぜ親しい感情を持つのか」を語ったと書いてくださったことは、ありがたいご指摘でした。「雲の上」の神格化されたらいてうではなく、悩み迷いながら自分で考えたことを発信し行動し、間違いを恐れず間違いがわかればすぐに改め、過去を振り向かず「古いキモノ」のように脱ぎ捨て、現在に至るまで受け入れられず批判、非難されても弁明しない生き方を、「あなた、よくやってきたわね」といとおしい思いで見ている自分を言い当ててくださったように思ったからです。

新聞にこの番組を見たという投書がありました。34歳の若い女性からで、らいてうにも市川にも好意的なご意見なのですが、戦中に触れて「竹やりや兵器生産にスライドしてしまった二人」と書かれていたのにはびっくりしました。戦争の時代を体験していない世代にとって、「戦争協力」という言葉がそういうふうに受け取られるのだ、と思いました。投書者は「戦後は反省して頑張った」と書き、その善意と好意はよくわかるのですが、らいてうは「竹やりや兵器生産」を称揚したことはなく、放送でもそうはいっていません。この番組を見るとこういった理解になってしまうのだろうか?この投書を載せた新聞に、この部分はテレビでも出なかったし事実ではないのですが、と問い合わせてみましたが、担当者は「らいてうの戦争協力」を指摘した点に問題はないという応答でした。

もう一つ重い提起をしてくださったのは、ご自身もインタビューに応じたらいてうのお孫さんの奥村直史さんです。「番組を見て、良いような、悪いような、色々な思い が浮かび、決定的に駄目でもないが、ちょっとおかしいとも思い、気持ちが定まりませんでした」というメールをくださいました。それはご自宅での長いインタビューがわずかしか出なかったことはともかく、らいてうが消費組合をやった成城と、らいてうが1942年に疎開した茨城県戸田井のロケに同行して語られたことが撮影シーンを含めて全部カットされてしまったことへの違和感でした。それはご自分の出番が少なかったなどという問題ではなく、らいてうの戦中を考えるときに消費組合から「疎開」への過程は決定的に重要だと思うが、そこが抜けてしまったので、らいてうの真意が理解されなかったのではないかという疑問でした。

この点は私も同感です。らいてうが市川と決定的に違ったのは、市川が戦争にも軍部にも反対だったのに、女性の権利を獲得するために戦争体制のもとであっても国策団体に参加して「女性運動を守ろうとした」のに対し、らいてうは自己の地位や組織を守ろうという意思はなかったのだと思います。自伝によれば、「強まる一方の戦争協力体制の中で、わたしは物を書く意欲を失い、自分がこの先あくまで権力に抵抗しぬいてゆける自信も、あやしくなってきました」とあります。多くの女性たちが様々な理由から国の組織や国策協力団体の役員に就任していくなかで、らいてうは何の役職にもつきませんでした。それはらいてうの娘さんの築添曙生さんによれば「お呼びがなかった」のだと思われるとのことです。「新しい女」と騒がれ、「家制度」を批判して法律婚をせず、「私生」の子を持つような女性を天皇制国家は決して認めなかったのだろうと思います。奥村さんは戸田井でのインタビューで「総動員体制に巻き込まれて、(しかし)役職に就くことには躊躇があり、日米開戦後すぐに戸田井に行き、書かず、迷いながら考えながらの疎開生活であったろう」と答えたそうですが、そこはカットされました。これらの感想に、わたし自身の感じたことを書きたいと思います。

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🔵平塚らいてふの生涯

【私の読書感想=平塚らいてう自伝「元始女性は太陽であった」から】

http://blog.zaq.ne.jp/mura339/category/81/

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 平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」(大月書店)下巻に収録された、小林登美枝「らいてう先生と私」(1971815日付)は本書の成立事情について、次のように述べています。

 「(前略)らいてう先生の自伝原稿は、私が先生のお話をうかがってまとめたものに、先生が綿密、丹念に手をいれられたうえで、それを私が清書し、さらにまた先生が目を通されるという作業をくりかえしながら、書きすすめました。(中略)

 原稿として完結しなかった、「青鞜」以後のらいてう先生の歩みのあとについては、「外伝」または「評伝」といった形ででも、いずれ私がまとめなければならない、責任を感じております。(後略)」

◆らいてうの家庭

 彼女は1886(明治19)年2月10日、父平塚定二郎、母光沢(つや)の三女として、東京市麹町区三番町で出生、明(はる)と名付けられました(平塚らいてう年譜 「元始、女性は太陽であった」下巻 大月書店)。両親の最初の子為(いね)は夭折、二番目の姉は1885(明治18)年1月30日、孝明天皇祭の日に生まれたので孝(たか)と名付けられたのです。母が彼女を身ごもると、姉は母の乳から離されて、乳母が雇われました。

 のちに彼女が見た平塚家の系図によれば、三浦大介義明は相模国三浦の豪族で、鎌倉幕府に仕えたその一族の為重が箱根の賊を平らげた功績により、相模国平塚郷に三千町歩を賜り、三浦姓を平塚に改めたことが記録されています。豊臣秀吉が天下を統一したとき、為重から7代目の因幡守為広は岐阜垂井城主として、秀吉に仕えていましたが、関ヶ原の戦いで石田三成方について敗死、その弟越中守為景は捕えられましたが、許されて紀州の徳川頼宣に仕え、兄為広の遺児3人を紀州侯に仕えさせると、自身は退官出家、久賀入道と名乗りました。

 為景には子がなかったので、兄為広の遺児の末弟勘兵衛を養子とし、代々勘兵衛を名乗り、御旗奉行の役職を勤め七百石の知行を賜っていました。彼女の祖父に当たる勘兵衛為忠は明治維新の際に洋式訓練を受けた紀州兵の中隊長として、神戸外人居留地の保護に当たったそうです。

 1871(明治4)年の廃藩置県により、為忠は紀州を離れることを決意、先祖伝来の屋敷と全財産を先妻の長男と二人の娘に与え、後妻の八重と、その間に生まれた二人の子供を連れ、東京に出てきました。これが1872(明治5)年のことで、父定二郎の15歳のときのことでした。

 父の話によると、このとき和歌山から東京に着くのに、汽船の故障などで5日もかかりました。祖父は当時陸軍の会計局長を勤めていた従兄津田出(いずる 紀州藩改革の功労者で岩倉具視に招聘される)を頼って、津田家の執事として彼の麹町下六番町の屋敷に住まわせてもらい、父も玄関番をしました。

 津田出は役所が窮屈だといって、九段坂上の陸軍偕行社(陸軍将校の社交・互助を目的とした団体)をよく利用しました。父もそこへ手伝いにいくようになり、給仕のような仕事をしていたようです。この偕行社にドイツ語の出来る松見という紀州出身の人がいて、地位は低いのに軍人の間では重んじられていたので、父は自分もドイツ語で身を立てようと決心、松見にドイツ語を教えてもらい、やがて正則のドイツ語を教える駿河台の私塾に通うための学費を作るために豆売りなどもして苦労しました。やがて外国語学校に入るための学費約200円を祖父から出してもらい、1876(明治9)年神田一橋に開校されていた外国語学校(東京外国語学校 東京外国語大学の前身)を受験合格しました。

 やがて卒業間近という時期に、以前から床についていた祖父の病気が長びいて、経済的に追いつめられ、やむなく同校を退学しようとしたところ、校長から才を惜しまれて、生徒から一躍教師に抜擢され、月給25円を給与されるに至りました。

 祖父の死後、父は官界に入り、農商務省・外務省を経て1886(明治19)年会計検査院に移り、翌年憲法制定に伴う会計検査院法制定の必要から院長に随行して、先進諸国の会計検査院法調査のため欧米諸国を歴訪しました。出発にあたり、院長は伊藤総理に呼ばれてプロシャ(ドイツ)の会計法を詳細に調べて来るよう命ぜられたということです。

 帰朝後父は1924(大正13)年66歳で官界を引退するまで40年間会計検査院に勤務し続けたのでした。

 父はいつも忙しかったのでしょうが、私生活では実に趣味がひろく、子供たちの遊び相手にもよくなってくれた、家庭的な父親でした。父は彼女を「ハル公」と呼び、末っ子の彼女が余程可愛かったのでしょうか、暇さえあれば彼女の相手になって遊んでくれました。五目並べや、お正月にはトランプの「二十一」・「ばばぬき」などをいつまでも倦きずに子供達の相手になって遊んでくれたものです。冬にはストーブや火鉢にあたりながら、グリムやイソップなどの童話を話してくれました。

 いまから考えてもおかしいのは、父が編物を上手にしたことです。彼女は小さな丸い手の甲にあかぎれが出来るので、父が、赤地に白い線をいれて、指が出るようになった手袋を編んでくれたのが気に入り、いつもそれをはめていたのを思い出します。「学校へいって、お父さんが編んだのだなんていうんじゃないよ」と笑いながら口どめされたところをみると、父としてはちょっと恥ずかしかったのでしょうか。

 母は田安家(御三卿の一、徳川吉宗の3男宗武がたてた家柄)の御典医(将軍や大名に仕える医師)飯島芳庵の三女で父より5年後の1864(元治1)年に生まれました。飯島家の初代芳庵が若くして死去し、実子が幼少だったので、田安家の殿様の御声がかりで、同じ田安家の漢方医であった高野家から妻子とも養子に入り、二代目芳庵として典医の職をついだのだそうです。

 母の生家飯島家は代々江戸住まいで本郷丸山町に大きな屋敷があり、暮らし向きも豊かでした。飯島家の末娘であった母は寺子屋で読み書き算盤を習い、踊りは五つぐらいから稽古したらしく、常磐津(ときわず 浄瑠璃の流派)は数え年十七歳で結婚する前に名取り(音曲・舞踊などを習うものが師匠から芸名を許されること)になっていました。

 その飯島家から、母が津田家の長屋住まいをしている父のところへ嫁いだのは、父の人物に芳庵が惚れこみ、末娘をくれる気になったからでした。

 江戸育ちの母は祖母の紀州弁がわからず、父は遊芸の雰囲気を好まなかったようで、せっかく嫁入り道具に持ってきた二丁の三味線を、納戸(なんど 屋内でとくに衣服・調度などを納める室)の奥にかけたまま一度も弾くことをゆるされませんでした。小姑の父の妹も同居していましたので、母はその育った時代の女の生き方として自分を殺すことに努めたような人でしたが、父からは、しとやかな美しい妻として愛されていたに違いありません。母の遺品の中に、母が若いころ習っていた茶の湯の本で、父が筆記してやったものが残っています。

 父が欧米巡遊に出かけていたころ、母は文明開化の先端をゆく官吏の家庭の主婦として、自分を再教育するために、家からあまり遠くない中六番町にあった桜井女塾[校長 矢島楫子 後の女子学院]に通い英語の勉強を、また一ツ橋の女子職業学校に洋裁や編物や刺繍などを学びに通ったりしていたので、彼女は自然と祖母の世話になることが多くなりました。

 当時の彼女の家は欧化主義の全盛時代のことでもあり、洋間の父の書斎には天井から大きな釣りランプが下がり、ストーブをたき、母は洋服を着て、ハイカラな刺繍や編物をするという雰囲気だったのに比べて、母の実家の古めかしい空気や貞庵(母の義理の兄)の奥さんが長火鉢の前で煙管(きせる)で刻み煙草を吸う姿が異様な印象として思い出されます。

 母が学校に出かけて留守の間、幼いわたくしたち姉妹の遊び相手になってくれるのは祖母の八重でした。祖母が紀州のどんな家の出身かは知りませんが、生まれ年は1833(天保4)年だったと思います。どこか堅苦しく、いつも取り澄ました感じの母にくらべて、祖母は開けっぴろげで庶民的で、身なりなどもいっこうに構おうとしません。

 読み書きは得意でなく、耳学問で知識をこやしてきた人でしたが、淘宮(とうきゅう)術の木版和綴じの本だけは、かなり熱心に読んでいるのをよく見かけました。

 母が学校に出かけて留守の間、彼女たちは祖母に連れられて、招魂社(靖国神社の前身)の境内にあそびにゆくのが日課でした。彼女は祖母に背負われ、姉は乳母が背負いました。ときには大村益次郎の銅像の建っている馬場を抜けて富士見小学校のあたりまで行きます。その途中に、みんなが琉球屋敷とよんでいる琉球王尚(しょう)家の邸宅があり、その前を通ると、髪をひっつめに結って長い銀のかんざしをさし、左前に着物を着た男の琉球人の歩いている異様な姿を、よく見かけたものでした。

 招魂社の表通り、つまり九段坂上の通りに絵草紙屋があって、この店先には欠かさず立ったものでした。彼女が祖母にせがんでよく出かけたのは千鳥ヶ淵の鴨の群れの見物でした。

 少し遠出をするときは、お猿のいる山王様(日枝神社)にも行きましたが、数寄屋橋を渡って、銀座の松崎へ、月に1回くらいお煎餅を買いにゆくのも楽しみの一つでした。松崎の帰り道は、かならずお堀端の青草の上、柳の木陰で一休みして、お堀端に浮かぶ鴨を見ながら、そこでお煎餅の一、二枚を食べることにしていました。

◆幼少の時代

 1890(明治23)年春、数え年5歳で、富士見町6丁目の富士見小学校付属富士見幼稚園に入りました。最初しばらくは祖母の送り迎えで、あとは姉といっしょに、招魂社の馬場を通りぬけて通うことになりました。

 幼稚園に通う彼女たち姉妹の服装は、ふだんはたいてい洋服に靴、帽子という格好ですが、式の日にはちりめんの友禅の着物に、紫繻子の袴をはいたりします。それでいて履物は、いつもの編みあげ靴、それにラシャで出来たつばのある帽子をかぶったりしたのですから、いまから思うとずいぶんおかしな格好をしたものでした。そのころ、洋服はまだ珍しく、洋服で通ってくるのは、九段坂上の富士見軒という洋食屋の娘で、青柳さんという子と、お母さんがドイツ人の高橋オルガさんという子と彼女たちぐらいなものでした。

 こうした集団生活の中に入ってみると、生まれつきはにかみ屋で孤独を好む性格が一層はっきりしました。他の子どもが愉快そうに遊んでいるとき、彼女は片隅で、ただそれを見ているのです。こうした引っ込み思案の性格は、もって生まれたものと、一つには声帯の発達が不均等で声の幅が狭く、大きな声がどうしても出せないところからもきていたようです。

 1892(明治25)年彼女は富士見小学校へ入学しました。そのころは、今のように、家で勉強するようなことはなく、家でやることといえば、手習いといっていた習字の稽古くらいのことで、予習、復習などしたことがありません。受持の先生はたしか高橋先生という男の先生で、なんとなく動作や話の仕方に活気がなく、そのうえ、学課もやさしいことばかりなので、学校もあまり楽しくありませんでした。学校の記憶はほとんど薄れてしまいましたが、招魂社を中心にした学校の往き帰りのことは、いまだによく覚えております。お能をはじめて見たのも、相撲というものを知ったのも、招魂社でのことでした。

 三番町界隈に芸者屋が多くなり、父はもっと閑静な土地を求めて、1894(明治27)年家を解体し本郷駒込曙町13番地に移転、この辺鄙(へんぴ)な駒込の地を選んだわけは、父がその年から、駒込追分町にある一高(東大教養学部の前身)で、ドイツ語を教えることになったからで、そのため彼女は本郷西片町の誠之小学校へ転校しました。

 富士見小学校は女の先生が多かったのに、誠之は裁縫の先生を除いて、男の先生ばかりでした。受持の先生は二階堂先生といって、色黒で鼻が高く、中背のがっちりした好青年でしたが、大きな声で子どもたちの名前を呼びつけにし、こちらも大声で「ハイッ」とすぐ元気よく答えないと叱られるのでした。

 紀元節とか天長節の挙式は、いつも戸外の運動場で、寒風の中で行われました。校長先生が教育勅語を読みおえるまで、、頭だけ下げて、じっと耐えていなければならないのでした。このころの子どもには、それがあたり前でもあったのです。そして「今日のよき日は大君の」などを声のかぎりうたい、小さな鳥の子餅の包みをだいて、大喜びで家へ帰るのでした。

 学課はまったく楽なもので、富士見小学校と同じように、勉強はほとんどしませんでしたが、たいてい総代を通しました。

 いまにして思えば、二階堂先生は彼女の非社交的な性格や、自由の世界を内部に求めようとする求心的な性向を、一番早く発見してくれた人といえましょう。お手玉や手まり、おはじきなどの遊びもさかんでした。

◆戦争の時代の空気

 当時は日清戦争のさなかで、世を挙げて軍国調の時代でした。大勝利を祝う提灯行列など、で、子どもたちはみんな戦争のことをよく知っていました。

 突然二階堂先生が兵隊にとられたと聞いたときは、みんなびっくりしました。ところが、しばらく学校に見えなかった先生が、ある日堂々たる近衛兵(このえへい 天皇の親兵)の美しい軍服姿で、学校に現れました。こんなときにもはにかみ屋の彼女はだまってはなれたところから先生をなつかしく眺めたことでした。

 もう一つこの先生で忘れられないことは、遼東半島還付について、教室でなにかの時間にとくに話をされたときのことです。戦勝国である日本が、当然、清国から頒(わ)けてもらうべき遼東半島を露、独、仏の三国干渉のため、涙をのんで還付しなければならなくなった事の次第を、子どもにもわかりやすく諄々と説き、「臥薪嘗胆」と黒板に大きく書いて、子どもたちに強く訴えられたのでした。日清戦争の思い出が、いまだに日露戦争よりもはるかにあざやかなのは、この二階堂先生の影響が少なからずあったのでしょう。

 彼女の家に「為平塚大兄」として、伊藤博文の書が掛軸になって残っておりますが、それは1895(明治28)年10月31日は、日本が清国からの償金の第一回の払い込みをロンドンでで受取った日で、晩年の父の話ですと、その日会計検査院の渡辺院長が、総理大臣伊藤博文をはじめ、陸海両軍の各大臣、次官、、会計局長などを芝の紅葉館に招待して、日清戦役関係の軍事費の検査状況を報告し、そのあとで祝宴を開いたその席上、父の請いをいれて書いてくれたものとのことでした。

 おそらくこのとき、戦勝のかげの犠牲者―戦死者や戦傷者のこと、その遺家族のことなど、その席にいるだれ一人として、思い浮かべてもみなかったことでしょう。

◆高等師範学校付属高等女学校へ入学=良妻賢母教育

 1898(明治31)年4月、彼女はお茶の水にあった東京女子高等師範学校付属高等女学校へ入学しました。誠之では、組の大半が小学校卒業だけでやめ、お茶の水に入ったのは彼女だけ、ほかに二人ほど、小石川竹早町にあった府立の高女に入りました。

 そのころの女学校といえば、お茶の水や府立高女のほかに、上流の子女のための華族女学校(後の学習院女子部)、私立の虎の門女学館、跡見女学校、明治女学校、横浜のフェリス女学校などで、高女以上では女高師と男女共学の上野の音楽学校の二つしかありませんでした。

 女高師付属のお茶の水女学校へ入ったのは、自分から志望したのではなく、父のいいつけに従ったまでで、女学校へ入学したことを、とくにうれしいとも思いませんでした。試験は学課一通りのほかに、裁縫の実技まであって、袷(あわせ)の右の袖を縫わされました。学課試験についてなにも思い出せないのは、みんなやさしい問題ばかりだったからでしょう。

 そのころは制服というものがなく、和服に袴と靴というのが、女学生一般の服装でした。お茶の水の生徒は、上中流の家庭の子女がほとんどで、彼女の組にも何人かの大名華族のほかに、明治新政府に勲功のあった新華族―いわゆる軍閥、官僚、政商というような人たちの娘が大勢いました。

 女学校へ入ってからも、彼女は発育がわるく、全体としてよほどおくてだったのでしょう。担任の矢作先生が初潮の話をしてくれたのが、なんのことかさっぱりわかりませんでした。むろん、異性への興味などあろう筈もありません。

 祖母は彼女の眉頭にほんの二、三本の柔らかい毛が逆生えしているのまでちゃんと見つけて、これは目上の人のいうことを「ハイ」と素直に聞くことのできない性分で、女にはよくない相だと、たびたび彼女にいい聞かせたものでした。後年の自分のあるいた道を思うと、祖母の人相術に思いあたるふしもありますが、祖母は早くから、孫の人となりを予見していたのでしょうか。 

 お茶の水に進学してからも、唱歌を除いて、学校の課目はどれもやさしく、成績も一番か二番を下ることはありませんでした。

 英語は自由課目ですが、英語をやらないものは、その時間を裁縫にあてられていて、彼女は父や母の考えからでしょうが、裁縫をやらされていました。それが二年生か三年生かのときに、どうしても英語が勉強したくなり、姉といっしょに学校外で、個人教授の先生について習うようになりました。

 とにかく自分からいいだして英語を習ったことは、自発的に両親に頼んでやった、はじめてのことでした。おそらくそれは、当時の父の復古思想に対する、彼女の最初の、無意識の反抗であったかもしれません。

 彼女が女学校に入学した明治三十年代前後は、鹿鳴館時代を頂点とした欧化主義からの反動期で、万事が復古調の世相となり、彼女の家でも、日清戦争の少し前ころから、今まで洋間だった父と母の居間が畳敷きとなり、洋装、束髪で、前髪をちぢれさせていた母が丸髷を結うようになり、姉と彼女も、洋服から紫矢絣の着物に変えて、稚児髷を結うという変わりようでした。 

 教育勅語がでたのは1890(明治23)年でしたが、その後2、3年して彼女の家からは、半裸体のような西洋美人の半身像の額が消え、教育勅語(「大山巌」を読む29参照)の横額が掲げられるようになりました。

 1898(明治31)年には、明治23年に公布されて以来、「民法出デテ忠孝滅ブ」[ボアソナード民法草案を批判した穂積八束論文(『法学新報』5号 明治24年8月刊)の題名]と非難され、その施行が無期延期となったボアソナード(「大山巌を読む26」参照)案の民法にかわって、新民法が実施されました。さらに1900(明治33)年には「治安警察法」が生まれ、いっさいの政治活動から女性がしめ出され、封建的家族制度と政治的不平等に苦しめられることになりますが、このような時代の空気が、父の女子教育に対する態度にも反映したに違いありません。

 文部省直属のお茶の水女学校では日本の家族制度維持を根本思想として、徹底した良妻賢母主義教育が行われていました。1899(明治32)年に出された高等女学校令には、学問や知識、教養よりも、家庭生活に直接役立つもの、裁縫、家政、手芸、行儀作法、芸能を重視するという、その教育内容が、はっきりと掲げられています。

 受持の矢作先生からから受けた授業は、世にもあじけない、心と心のふれ合いのないものでした。すべての学課を、形式的に教科書どおりに教え、教科書にあることを丸暗記させるだけで、生徒が自発的に考えたり、興味をもって勉強してゆくような教え方ではないのでした。あれほど索漠とした授業に、よくみんな辛抱したものだと思いますが、あの時代の娘たちは、それに疑問をもつこともなかったのでした。

 とくに運動好きというわけでもない彼女が、三年生のころからテニスに熱中しはじめたというのは、、一つには、学課のつまらなさの反動であったのかもしれません。

◆良妻賢母教育に反発

こんななかで、彼女はいつか数人の親しい友達をもつようになりました。この仲間は、結婚などしないで、なにかをやってゆこうという気持に、つよく燃えていました。

 彼女たちは因習的な結婚に反発し、つくられた女らしさに反抗して、わざと身なりを構わず、いつも真黒な顔をしていました。

 いつも伸びよう伸びようとする心の芽を、押えつけられているような気分で、学校生活を送っていた彼女たちは三年生の歴史に時間に「倭寇(わこう)」の話を聞いて、その雄大、奔放な精神にすっかり感激してしまいました。やがて彼女たちは、自分たちのグループを「海賊組」と命名しました。彼女はそのころから、授業のなかでもっとも反発をおぼえる「修身の時間」をボイコットするようになりました。

 修身は矢作先生の受持ちですが、女(おんな)大学式のひからびた内容の教科書(例えば山内一豊の妻の話など)を、ただ読んでゆくだけの講義に、つくづく退屈したからでした。

 おそらくこの退屈な授業に耐えられなかったのは、彼女一人ではなかったと思いますが、授業を欠席するというような、思いきったことをする生徒は、彼女一人だけでした。修身という大切な授業をボイコットしながら、あの厳しい矢作先生から、ふしぎなことに、彼女は一度も叱られませんでした。ふだんから温和しく、成績もよかった彼女は、多分、先生の気にいるような生徒だったのでしょう。

 女学校四、五年の一時期に、彼女が富士登山を思いたった気持の背景には、その当時、女性の富士登山者がぼつぼつ現れて、それを新聞などが賞賛的に書き立てていたことなどもいくらか影響したのでしょうか。

 いよいよ夏休みとなり、彼女は精一杯の勇気をふるって、父に富士登山の許しを求めました。小さいころ、あれほど父に可愛がられていた彼女でしたが、いつのころからか次第に、父に対して、気軽に話ができないようになっていました。はたして、彼女のひたすらな望みは、ひとたまりもなく父に退けられました。「馬鹿な。そんなところは女や子どもの行くところじゃないよ。」嘲りとあわれみをふくんだ、彼女にとってはなんとも不愉快な表情で、父ははねつけました。彼女はまったく承服できない気持のまま、にじみ出る涙をおさえて、黙って引きさがるだけでした。

 その年の秋であったか、翌年の春であったか、祖母に付き添われて、胸を病む姉が久しく療養していた小田原十字町の宿を足がかりにして、海賊組のひとりの友達といっしょに、草鞋(わらじ)ばきで箱根の旧道を登ったことで、彼女は悶々とした思いを多少解消した形になりました。

◆日本女子大家政科へ入学

 五年生のころ、クラスで隣の席に、当時仏教学者として名高かった、村上専精(せんじょう)博士の娘さんがいました。新聞かなにかでこの村上さんのお父さんの講演会のあることを知った彼女はその講演会に行ってみる気になりました。

 会場は神田の錦輝館で、法然(ほうねん)上人か親鸞(しんらん)上人の何百年祭かの記年講演会でした。当時の彼女は、この講演や会場の雰囲気から大きな感銘を受けました。いま振りかえってみると、村上博士の講演からうけた感銘がのちに彼女を、宗教や哲学に近づける一つの機縁となったことは、疑いないことのように思われます。

 こうして急速度に、宗教や倫理、哲学などの方向に興味をもちはじめた彼女は、今後の研究に打ちこんでゆくために、開校まだ日の浅い、日本女子大学への入学を願うようになりました。

 当時女子大には、国文科、英文科、家政科の三つの科がありましたが、彼女の志望は英文科でした。ところが、彼女の志望を父に話してみると。「女の子が学問をすると、かえって不幸になる」と彼女の希望は一言のもとにはねつけられたのです。そのとき父が「親の義務は女学校だけで済んでいるのだ」といったことばが、その後いつまでも、彼女の耳底に残りました。

 物ごとを一途に思いつめてあとへひかない彼女の性質をよく知っている母は、母親らしい愛情から、彼女のためにいろいろとりなしてくれ、そのおかげで、「英文科ではいけないが、家政科ならば」という条件つきで、ようやく父から女子大入学の許しが出ました。

 大きな期待に胸を躍らせながら、創立間もない女子大の第3回入学生として、目白の校門をくぐったのは、1903(明治36)年4月のことでした。この時分の女子大生には何年か小学校の先生をしてきた人とか、未亡人、現に家庭をもちながら入学してきた人などもいて、なかには「小母さん」と呼んでいいような、中年の婦人もいました

。家政科の学生は百人近くいて一番多く、国文科ががもっとも学生の少ない科でした。「自主、自学」を建前とする学校だけに、すべてのことが生徒の自治にまかされているので、お茶の水ではまったく経験しないことばかりでした。

 週1回、午後二時間の校長の実践倫理は、各部の新入生を一堂に集めて行われるのですが、あくまでも、自学、自習、創造性の尊重ということに重点を置いて、たんなる知識の詰込み、形式主義の教育を排撃するという成瀬先生の説明は、お茶の水の押しつけ教育にうんざりしていた彼女をどれほど喜ばせたことでしょう。試験というものがなく、成績点もなければ、落第もなく、卒業のとき論文を出すだけという女子大の教育は、入学したばかりの彼女には、まったく理想的なものに映りました。

◆自分からすすんで寮生活

 さて、こうして通学していると、当時の女子大は寮生活が中心でしたから、寮に入らないと本当の校風が分からないということで、リーダーがしきりに寮に入ることを勧めるようになりました。彼女は、家の反対を押し切るようにして、二年のはじめころ寮にはいることにしました。

 そのころの寮は学校の構内の裏側にあり、木造日本建築の下宿屋のような建物で、棟割り長屋式に幾棟かに別れて立っており、それが一寮から七寮までありました。一寮が一家族ということになっていて、およそ二十人ほどですが、付属女学校の生徒から大学の上級生までがふくまれていて、寮母は上級生か女の先生がつとめました。

 彼女が入った七寮は付属高女の平野先生が寮監で、その下に家政科三年生の大岡蔦枝さんがお母さん役で責任をもち、その下に彼女と信州飯田出身で付属高女からきた出野柳さんがリーダー役で活躍していました。

 自分からすすんで寮に入った彼女でしたが、やがて寮の生活に疑問と幻滅を感じるようになりました。寮は八畳の部屋に四人ほど入っているのですが、机に向かっても、向い合わせの机に人がすわっているので、気持が落着きません。夜は夜で、修養会とか、何々会とか集まりばかりが多く、それらにいちいち出席していたら、自分のことがなにも出来なくなるのでした。

 自主、自治、独創ということは、成瀬先生からつねづねいわれていることですし、また自学自習主義が建前であるはずなのに、自主的な研究時間などは全くなく、同じような会合につぶす時間があまりにも多いことも、納得できないことでした。

 こうした学生の会合には、いつも出るのを渋っていた彼女でしたが、家政科の授業にはまじめに出席しました。料理の実習には、週二回の午後の時間が全部あてられていましたが、彼女はたいていさぼって、図書室に行ったり、文科へ傍聴にゆくことにしていたので、大体料理が出来上がるころを見はからって料理室にゆき、試食の段どりになると、すまして食べるだけはたべたものです。

 文科の講義では、西洋美術史の大塚保治先生は、「お百度詣り」の詩で有名な、竹柏園(佐佐木信綱の雅号)の歌人、大塚楠緒子さんの御夫君で、文学博士、帝大の教授ですが、この先生の講義のときは講堂がいっぱいになりました。幻燈でラファエルやミケランジェロの絵が見られるので、たのしい時間でした。

 学生が勉強しないことについての疑問とともに、もう一つ彼女には釈然としないことがありました。そのころの女子大では、家政学部が成瀬教育の寄りどころのようになっていて、学校にとって大事なお客様(主として当時の政、財界の知名人)が学校に見えると、その接待役は家政科の学生でした。お料理からお菓子なにもかもみんな学生の手作りですから、こんなとき真先きに働くような人が、共同奉仕の精神の持主として賞讃されるのでした。彼女はそんな評価の仕方が納得できないので、こうした接待のときはさぼりがちでした。

 それよりももっといやなことは、こうした後援者に対する成瀬校長の、過度な感謝の態度というか、その表現の仕方で、彼女は校長がつくづく気の毒になってしまうのでした。

 岩崎、三井、三菱、住友、渋沢などの財界の当主や、伊藤、大隈、近衛、西園寺などの政界の代表的人物が、なにかの時には学校へ見え、まれには話をきくこともありましたが、この人たちの話は、たいてい内容のないことをもっともらしく引き伸ばしたお座なりのものですから、感心したことなどなく、こういう種類の人たちをとうてい彼女は偉い人とも、尊敬できる人とも思えませんでした。

 とくに大隈伯はいかにも傲慢な感じの爺さんで、横柄な口のきき方でした。その説くところの女子教育の必要も、女子自身を認めてのことでなく、日本が列強に伍して行くようになって、女が相変わらずバカでは国の辱(はじ)だとか、男子が進歩したのに、女子がそれにともなわないでは、内助はおろか、男子の足手まといになるだけで、けっきょく、それだけ日本の国力が減退することになるといったものなので、呆れました。

 こうした周囲の雰囲気のなかで、彼女はやがて、成瀬先生の講義そのものに対しても、いままでのように打ちこめなくなってきたのでした。校長の実践倫理の講話は、校内では至上命令的で「神の声」のようなものですから、コントのポジティヴィズム(実証主義)のあとジェイムスのプラグマティズムが説かれるようになると、ひどく狭い実用主義、実利主義が学内を風靡するようになり、彼女にはもう我慢できないことでした。

 こうした雰囲気のなかで、勉強しているもの、本などにかじりついている者は異端視され、ことに実証主義的でない本など読んでいる者は危険思想の持主としてかんたんに睨まれるようになりました。

 とにかくそのころの彼女は読書欲にかられ、まるで本の虫のようにして書物を漁ったものでした。読むものは、宗教、哲学、倫理関係のもので、彼女はちょっとの休み時間にも図書室にかけこみ、ときには講義を休んで終日ここですごすようなこともありました。九時半だったかの消燈後も、食堂へこっそり入って、ろうそくの火で本を読んでいて、寮監にたしなめられたことなど思い出します。

 そうこうしているうちに、彼女は突然発熱し、パラチブスという診断を校医から受けて、家へ帰されました。

 彼女に女子大入学を許した以上、姉にも女子大の教育をうけさすべきだという父の意向で国文科ならば入ってもいいという姉に父が妥協、姉は彼女より1年遅れて、女子大国文科にはいりましたが、二年になって肺結核の初期という診断で療養生活に入り、結局中途退学してしまいました。やがて結核専門の療養所である茅ケ崎海岸の南湖院で同級生の保持研(子)(よしこ)さんと闘病生活を慰めあっていました。

◆宗教、哲学、倫理などへの関心

 当時の日本は日露戦争のさなかで、国をあげて戦争に協力していましたが、自分の内的な問題にばかりとり組んでいた彼女は、一度も慰問袋をつくったりするようなことをやった覚えがありません。

 与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」については、当時女子大が明星派の新しい文学を拒否していたからか、学校では話題にならなかったように思います。もともと学校自体も、ときの政治問題などについて、学生を社会的影響から隔離しようという方針でしたから、この時分の女子大生は、彼女に限らず、そのほとんどが新聞を読んだり、読まなかったりで、、どちらかといえば、読まない日の方が多かったことでしょう。いまふりかえってみて、日露戦争の印象は、小学生時代の日清戦争の記憶よりもずっと希薄なのはおどろくばかりです。

 先にいた七寮を、なにかの用事で訪ねたついでに、木村政(子)(らいてう研究会編「『青鞜』人物事典」大修館書店)という同級生の部屋に立ち寄ったとき、机の上に置かれた「禅海一瀾」という和綴木版刷り、上下二巻の本が目にとまりました。著者は鎌倉円覚寺の初代管長今北洪川老師ですが、めくっているうちに、ふと、「大道求于心。勿求于外。」(大道を外に求めてはいけない、心に求めよ)という文字が目に入りました。このことばこそ観念の世界の彷徨に息づまりそうになっている、現在の自分に対する、直接警告のことばではありませんか。この本は禅家の立場から、儒教―ことに論語、大学、中庸のなかの諸徳を批判したもののようでした。彼女は息をのむ思いで、矢もたてもなくこの本を借りうけて帰りました。

 それから間もないある日、彼女は木村さんに案内されて、日暮里の田んぼのなかの一軒家、「両忘庵」の偏額(へんがく 門戸または室内にかけた額)のかかったつつましい門をくぐりました。女子大三年の初夏のころだったと思います。

 迷いも悟りも二つながら忘れるというこの両忘庵の庵主、釈宗活老師は鎌倉円覚寺二代管長、釈宗演老師の法嗣(仏法統の後継者)で、両忘庵で独り暮しをされ、後藤宗碩(そうせき)という大学生が侍者(和尚に侍して雑用を務める者)をつとめていました。

 この日彼女は、相見(面会)につづいて参禅を許され、老師から公案(参禅者に示す課題)を頂き、後藤さんから坐り方を教えてもらい、その日から彼女にとって坐禅という、自己探究の果てしのない、きびしい旅がはじまりました。

 しかし他方で、卒業期が近づき、卒業論文提出の締切日がきてしまいました。この学校には試験というものが全然なく、卒業論文を提出して卒業がきまるので、クラスの人たちはみんな早くから、論文に夢中になっていました。しかしこの人たちとは反対に、いままで得たあらゆる知識を捨てる修行に日夜骨身をくだいている彼女には、論文を書くのはじつに辛いことでした。といって卒業だけはどうしてもしてしまいたかったので、短いものを、なるだけ時間をかけずに書くことにしました。

 1906(明治39)年3月数え年二十の春、彼女は家政科らしからぬ筋違いの論文がパスして、家政科第3回卒業生として社会に送り出されました。

 同年冬、一応健康を回復した姉と、帝大卒業を控えた義兄との結婚式が挙げられました。

 姉たちは結婚とともに姉たちのために建てた新しい家に引越しましたので、彼女は義兄がそれまで占領していた別棟の二間つづきの部屋に移りました。

 大きな円窓のある三畳の狭い方の部屋を書斎にし、四枚の襖で仕切られた四畳半を寝室兼坐禅の間として、そこには床の間に花瓶、床脇に香炉一つ置くほか何ももちこまないことにしました。床の間には、宗活老師にたのんで揮毫してもらった、書の掛け軸をかけました。

 卒業とともに、英語の書物を自由に読みこなせるように、英語の力をつけようと思った彼女は、両親には無断で、麹町の女子英学塾(津田塾大学の前身)[校長 津田梅子]予科二年に入学しました。その帰りには近くにある三島中洲先生の二松(にしょう)学舎に寄って漢文の講義をききました。それは禅をはじめてから、漢文で書いた書物を読むことが多くなったからです。そのために必要な学費は、家からもらう小遣いと、女子大三年のとき、講習会其の他で貴族院速記者に習った速記の収入でどうにかやりくりをしました。

 しかし女子英学塾の授業は狭い意味での語学教育に終始し、使う教科書も内容のないものでしたから、彼女は一学年の終わりを待たず。飯田町仲坂下の成美女子英語学校に転じました。1907(明治40)年の正月だったかと思います。

 こうして英語学校。二松学舎、速記の仕事という忙しい生活の中でも。両忘庵通いはいっそう熱心につづけました。ようやく老師に認められて見性(けんしょう 悟りの境地)を許されたのは、女子大卒業の年の夏で、慧薫という安名(あんみょう 禅宗で新たに得度受戒した者に初めて授与する法諱)を老師からいただきました。

 求め、求めていた真の人生の大道の入口が開かれたのです。さすがにうれしさのやり場がなく、彼女はその日、すぐに家に帰る気になれず、足にまかせてどこまでも歩きました。それからの彼女はずいぶん大きく変わりました。坐禅の先輩の木村政子さんといい相棒になって、芝居や寄席のような場所にも、足を運ぶようになりました。

 1907(明治40)年正月から通いだした成美女子英語学校はユニヴァサリストという教会付属の学校で、ここは英学塾のように文章をやたらに暗記させることもなく、出欠席もとらないという自由な学校で、読むものも英学塾より面白いのが取り柄でした。

◆生田長江との出会い、閨秀文学会

 ここで生田(長江)先生から、若きウェルテルの悩み、相馬(御風)先生にアンデルセンの童話、などを学びました。生田先生も相馬先生もまだそれぞれの大学を出て一、二年というところで、生田先生は少しのひげをぴんとひねりあげて、頭髪もきれいに分け、いつも洋服をきちんと着込んだ身だしなみのよい紳士でした。相馬先生は、赤門出の先生方のなかに、ひとり早稲田出ということでやや異色の存在でしたが。いつも粗末な和服姿で、気どりがなく、やさしいけれども神経質な気むずかしさと、どこか気の小さな人のよさの感じられる方でした。

【生田長江】

 同年6月になって成美のなかに閨秀(けいしゅう 学芸に秀でた婦人)文学会(らいてう研究会編「前掲書」用語解説)という、若い女性ばかりの文学研究会が生まれました。これは女性の文章に、非常に興味をもっていられた生田先生の肝入りでつくられた会で、講師の顔ぶれは新詩社系の人びとが中心で、与謝野晶子、戸川秋骨、平田禿木、馬場孤蝶(らいてう研究会編「前掲書」)、相馬御風、などの諸先生と生田長江先生、そのお友達の森田草平先生などでした。

 会員は成美で英語を勉強している生徒有志のほか、外部からも加わって、全部で十数人ほど、彼女も誘われるままによろこんでこの会に加わりました。学校の授業のあと、一週に一回の集まりを開きましたが、おそらく講師の先生方は無報酬で来ていられたにちがいありません。

 はじめて見る与謝野先生の印象が、いままで想像していた人と、あまりに違うことにびっくりしました。ふだん着らしく着くたびれた、しわだらけの着物といい、髷をゆわえた黒い打紐がのぞいて垂れ下っているような不器用な髪の結い方といい、見るからにたいへんななかから、無理に引っぱり出されてきたという感じでした。やがて先生の源氏物語の講義が始まりましたが、それはまるでひとりごとのようなもので、しかもそれを関西弁で話されるので、講義の内容は誰にもほとんどわからずじまいでした。

 彼女は閨秀文学会に加入してから生田先生の推薦で急速にツルゲーネフやモーパッサンなどの外国文学に親しむようになり、他方「万葉集」などの国文学を系統的に読みはじめていました。これは閨秀文学会で知り合った青山(山川)菊栄さんの刺激が多分にあったように思います。

 アメリカへ布教のため、弟子たちを連れて旅立たれた両忘庵主の釈宗活老師から、自分の留守中、他の師家につくなと戒められていましたが、あるとき興津清見寺住職の坂上真浄老師の提唱(禅宗で宗師が大衆のために宗旨の大綱を提示して説法すること)があったときその枯淡な印象が忘れられず、浅草松葉町の海禅寺で同老師の接心(禅宗で僧が禅の教義を示すこと)があると聞くと、紹介もなしに参禅することになりました。

 そのころの長らく無住だった海禅寺を復興させるため、鎌倉(円覚寺)から住職代理として、手腕のある青年僧中原秀岳和尚が来ていたのです。

 その日も海禅寺で参禅していた彼女は夜の八、九時になっているのに気付くと、急いで立ち上がり、宗務室の中原秀岳和尚が開けてくれた潜り戸から外へ出ようとしたとき、この青年僧になんのためらいもなく、和尚の好意に対するあいさつとして、接吻してしまったのです。

 数日後、中原秀岳和尚から結婚申し込みをうけ、当惑した彼女は木村さんに宥め役になってもらい、かなりの時を経過して、3人はなんでも遠慮なく話し合えるようになりました。

◆はじめての小説、森田草平との心中未遂

 閨秀文学会の会員の作品を集めて、回覧雑誌をつくることになり、このとき彼女は小説を生まれてはじめて書きました。彼女のほかに小説を書いたのは青山(山川)さん一人でした。彼女の「愛の末日」と題する小説は全くの想像で、女子大か何かを出た女性が恋愛を清算し、独立を決意して、地方の女学校の教師となって、愛人にわかれて、任地にひとり旅立って行くというようなものでした。

 この小説(?)を読んだ森田先生から、長い批評の手紙をもらったのは、1908(明治41)年1月末のことでした。

 達筆の薄墨で巻紙にしたためられた森田先生の手紙は「愛の末日」についての過分の讃辞にみちたものでしたが、彼女も巻紙に筆で返事を返事をしたためてだし、文通するようになりました。

 かくしてオープンな若い男女交際の場に乏しい当時の日本において、森田草平は彼女を男女関係の経験者と思い込んだ形跡があり、彼女は森田草平のだらしのない男女関係の実態をよく知らず、デートを重ねるうちに、森田草平が説くダヌンチオ「死の勝利」(生田長江訳 昭和初期世界名作翻訳全集22 ゆまに書房)の世界へと彼女が引き込まれていったようです。

【森田草平と「煤煙」】

 1908(明治41)年3月24日森田草平・平塚明子心中未遂で塩原尾頭峠(栃木県)を徘徊中、発見されました[塩原(煤煙)事件](新聞集成「明治編年史」第13巻 財政経済学会)。

 二人は宇都宮警察の巡査に発見され、、案内された温泉宿には生田先生、すこし遅れて母まで来ていました。母とともに帰宅して、心痛のため腸をこわして寝床についていた父は、、深く頭をたれて枕元に坐った彼女を見すえて、「たいへんなことをしてくれたね」といっただけでしたが、激怒を精いっぱいおさえていることは彼女のからだにすぐ感じられました。

 この事件の解決策として夏目(漱石)先生の側から、生田先生を通じて、父に述べられたことは、「森田がやったことに対しては、平塚家ならびにご両親に十分謝罪させる、その上で時期を見て平塚家へ令嬢との結婚を申込ませる」という内容だったようです。ところが父は、直接娘におききなさいと無愛想に答えたらしく、母に案内されて彼女の部屋に入ってきた生田先生に彼女は森田先生との結婚の意思はないと申しました。事件の後始末が、事件の当事者同士の話し合いにゆだねられず、第三者による結論としての結婚のおしつけに彼女は不満だったのです。

 その後何日かして夏目先生(一高の語学教師として彼女の父とは面識あり)から父あての「あの男を生かすために、今度の事件を小説として書かせることを認めてほしい。」という内容の丁重な親展の手紙がきました。母は父に代わって、それは受け入れがたいことを伝えに、夏目家を訪れましたが、夏目先生の強い懇願をうけ、父の意向は通らずじまいでした。

「漱石は正直に『よく解らない』といいながら、この事件の表に出た形と想いとはくいちがっていることを指摘している。」(塩原尾花峠・雪の彷徨事件 井手文子「平塚らいてうー近代と神秘―」新潮選書)

 山から帰って十日ほどあと、いちはやく母校の女子大から、除名の通知がもたらされました。寮監で桜楓会(同大同窓会)役員の出野柳さんが、その使者役となって彼女の家にみえました。彼女は「自分としては、母校の名を傷つけるようなことをしたとは思いませんが、桜楓会でそういうふうになさりたいのなら、むろんわたくしはそれをお受けします」とあっさり答えました。

 こうして世間がかってな見方で騒ぎ立てることはうるさく、不快なことには相違ありませんが、いちばん失礼だとおもったのは当時の新聞記者の、面会を強要するひどい態度です。わかってもらえそうな程度のことを少しばかり話すと、それが違った意味のものに作りあげられているのには驚きました。

 こんなことから、父は彼女を当分の間、家に置きたくないといいはじめ、彼女は鎌倉の円覚寺や母とともに茅ケ崎の貸別荘で過ごしたりしました。今度の事件の渦中に木村さんも巻き込まれた形となり、母校の女子大から妙な眼で睨(にら)まれるようになったので、女学校の家事の先生になって急きょ関西へ赴任してしまいました。

◆信州への旅、海禅寺へ

 1908(明治41)年9月初め、かつてお茶の水高女で「海賊組」の一人であり、女高師を出て松本の高等女学校に赴任した小林郁さんを訪ねて、彼女はひとりで、信州の旅に向かいました。

 一時小林さんから紹介された松本市内の繭問屋の蔵座敷に滞在しましたが、1週間ほどで松本から数里東南方の東筑摩郡中山村字和泉の養鯉所に落ち着くことになりました。彼女はここで散策と坐禅と読書に明け暮れる毎日を過ごしたのです。

 森田先生からは、この山のなかへも時おり手紙がきました。先生は謹慎していた夏目先生の自宅から、近くの、牛込横寺町にあるお寺に下宿し、そこで小説「煤煙」(岩波文庫)を書きはじめていました。彼女はそれが作品として立派なものであってほしいと願っていました。

 やがて朝夕眺めていた日本アルプスの連峰は雪をかぶり、彼女の部屋にも炬燵が入って、信州滞在も終りを告げねばならない季節となりました。こんなとき、森田先生から、例の小説がだいたい書けた。朝日新聞に、夏目先生の紹介で、来春元旦から発表されることになったと知らせてきました。

 中山村の養鯉池から引き上げたのは、十二月のなかばに入ってからでした。信州から帰京後、彼女は神田美土代町の日本禅学堂において、坐禅修行をはじめました。日本禅学堂はお寺ではなく、中原南天棒全忠老師(鎌倉禅の批判者)門下の駿足といわれた岡田自適(外科開業医)が私財を投じて独力で開いたものでした。

 森田先生の創作「煤煙」は、予告通り1909(明治42)年元旦から「東京朝日」に連載されました。新聞は毎朝配達されてきますから、父や母の眼に触れないはずはなく、読んでいるかも知れないのです。彼女も部屋に持ち込んで、ひそかに読んでいました。

 もともと「死の勝利」を下敷にしたともいえるこの小説が、自分の実感によるものでないのは仕方がないとしても、あれほど自分の趣味や嗜好で、また自分よがりの勝手な解釈で作り上げないでもよさそうなものだと思われるのでした。しかしほんとうに「一生懸命」に書いた苦心の作であることだけは、はっきりと感じられます。

 1909((明治42)年十二月下旬彼女は西宮市海清寺禅堂において臘八接心(釈迦が成道した12月8日にちなんで12月1日から8日まで徹夜で行われる接心)に参加、南天棒老師より「全明」の安名を受けました。

 一方新たな意気込みで英語の勉強にとりくみ、同年4月から神田の正則英語学校に通い、ここで斉藤秀三郎先生の英文法を聴きましたが、まるで講釈師がするように、折々扇子で机をたたいて講義されるのには驚きました。馬場孤蝶先生や生田先生宅へも時折伺っておりましたが、社会や政治の問題を、自分自身の問題として考えることもなければ、当時(明治43)年、世上やかましくさわがれた幸徳事件についても、生田先生のところで話題に出るほか、とくに関心はもちませんでした。

 塩原事件以来、海禅寺へふたたび出入りするようになったのは、1910(明治43)年の夏のことでした。

 その年の暑中休暇に東京へ帰ってきた木村さんが海禅寺にゆくと、秀岳和尚が彼女にひどく会いたがっているということで、木村さんに連れられるような格好で、再び出入りするようになったのでした。それがきっかけで、その後、木村さんが関西へ帰ってからもひとりでたまには海禅寺を訪ねたりするようになりました。

 遊びの味を覚えた和尚は、お酒が入ると馴染みの若い芸者の話などを得意そうにきかせるので、彼女がその待合を見たいといったことから、その日和尚の行きつけの待合に出掛けることになりました。

 ここでついに彼女は和尚と結ばれることになりました。しかし未婚の娘として、そのとき自分のしていることが、不道徳なことだという気持ちはありませんでした。それにしても、塩原事件というものがなかったなら、和尚とそんな関係になることは考えられないことでした。彼女にも性に対する好奇心が、無意識のうちに育っていたことは確かなことのように思われます。

 和尚は、それ以後の彼女に対する態度も控え目で、積極的に自分から待合へなど誘うようなことはありませんでした。

◆生田長江の文芸雑誌のすすめ

 1911(明治44)年、かぞえ年26歳を迎えた彼女は、相変わらず坐禅と図書館通い、それに英語の勉強に明け暮れて、人ともあまり交わらず、、といってこれという仕事もない毎日を送っておりました。

 こんな彼女に対して、生田先生はしばしば、女ばかりの文芸雑誌の発行をお勧めになるのでした。あるいは、先生のお勧めではじめた先きの閨秀文学会の回覧雑誌―森田先生との事件で一回きりで中絶したーが、ずっとまだ尾を引いていたのかもしれません。

 生田先生のせっかくのお勧めも、彼女はいいかげんに聞き流していましたが、生田先生は雑誌の話をなかなかお忘れにならず、だんだん具体的な計画まで話されるようになりました。

 何部刷って、印刷費はいくらぐらいかかる。そのぐらいの費用は、お母さんに御頼みになればきっと出してくださいますよ。お友達を集めて、一つ本当にやってごらんなさいーと、いよいよ熱心に勧められるのでした。

 彼女はそのころ彼女の家を泊り場所にしていた保持研(子)さんに生田先生からのお話をもらしたのです。保持さんは四国の今治の人で結核療養の後、再び学校にもどって、同年春ようやく卒業、寮をひきはらってから、そのころ姉はもう結婚して、夫の任地神戸へいっていましたから、彼女の家に寄寓して東京で職をさがしていました。

 生田先生からのお話に保持さんはとびつき、「ぜひやりたい、いっしょにやりましょう」と、まだ決心のきまらない彼女を促します。

 そこで二人の計画を母に話すと、「そんなことなら、あなたのためにとってあるお金があるから、そのなかから幾らか出してあげましょう」といって、最初の印刷費百円を、「お父さんは承知なさるまいけれど」と、出してくれることになりました。雑誌が出るまでには、この百円のほかにも、少しずつたびたび母からもらっております。

 雑誌発行の趣意書や規約草案ができると、まっさきに生田先生を訪ね、保持さんをまず先生に紹介して、「二人でやってみようかと思います」というと、たいへんよろこんでくださいました。

 生田先生を保持さんとお訪ねしたのは同年5月29日でしたが、この日は雑誌の誌名のことが話にでました。生田先生も、思いつく名を挙げているうちに、はたと膝を打って「いっそブルー・ストッキングはどうでしょう。」ということになったのでした。

◆「青鞜」の発行、与謝野晶子の寄稿、「青鞜」発刊の辞

 明治二十年代の日本では、このブルー・ストッキングを紺足袋党と訳したといいますが、彼女たちは生田先生と相談して、これに「青鞜」の訳字を使うことにしました(田中久子『「青鞜」とヨーロッパのブルー・ストッキングについて』(「国語と国文学」1965年7月号 至文堂)。

 1911(明治44)年6月1日青鞜社第1回発起人会が開催され、中野初子、木内錠(てい)子、物集(もずめ)和子(らいてう研究会編「前掲書」)、保持研子、平塚 明の5人が発起人となり、同社事務所(らいてう研究会編「前掲書」コラム)は物集氏宅に設置することになりましたが、彼女は保持さん以外とはだれもそう親しくはありませんでした。

 はじめて発起人会を開催した駒込林町の物集邸は樹木に囲まれた宏大な屋敷でした。本来ならば彼女の家に事務所を置くべきでしたが、父への遠慮もあり、片手間仕事で「青鞜」をやろうとしていた当時の彼女にしてみれば、こんなことで自分の本拠をかき乱されたくないと願っていたからです。このときの会合で、雑誌の編集発行人を中野初子さんに、雑誌の表紙は長沼智恵子(のちの高村光太郎夫人・らいてう研究会編「前掲書」)さんに引受けてもらうことになりました。

【高村光太郎と智恵子】

 麹町六番町の与謝野さんのお住居を、訪ねたときの印象も忘れられません。4年前の閨秀文学会当時とは大変な変り様で、萩、桔梗などの秋草模様の浴衣がけに、はやりの大前髪をくずれるにまかせたようなお姿は、むしろ個性的で異様にさえ見えました。

 ともかく賛助員になって頂きたいこと、創刊号にぜひ御寄稿願いたいことなど、ずい分欲ばったことを頼んで帰りました。ところが与謝野さんの原稿(十あまりの短詩「そぞろごと」)は第一着の原稿として8月7日に到着し、「青鞜」創刊号巻頭に掲げました(抄 堀場清子編「『青鞜』女性解放論集」岩波文庫)。

 いよいよ「青鞜」を世に送り出すにあたっては、「発刊の辞」といったものが必要ではないかということになり、忙しい保持さんから「あなた書いて頂戴」ということになって、彼女が引受けることになりました。八月下旬のむし暑い夜から夜明けごろまでに、ひと息に書きあげました。「元始、女性は太陽であった」の一文(「平塚らいてう著作集」1 大月書店)は、ずいぶん稚拙で舌足らずなものではありましたが、そのころの彼女の張りつめた魂の息吹きが、ひたむきに吐露されております。

 創刊の辞を書きあげたとき、彼女は雷鳥を筆名にすることを思いつきました。「雷鳥」を「らいてう」とひらがな書きにしたのは、雷という字のイメージが、あの鳥の姿にも、彼女自身にもなにかしっくりしないように思われたからです。このときから、半世紀をこえる「らいてう」-雷鳥との因縁は、松本平を越えて北アルプスを朝夕のぞむ、信州の山の中の生活(「元始、女性は太陽であった」を読む19参照)から生まれたものでした。

1911(明治44)年9月1日雑誌「青鞜」(復刻版 龍溪書舎)が創刊されました。

 「青鞜」創刊号の反響は予想外に大きなものでした。現在の女の生活に、疑いや不満や失望を抱きながら、因襲の重石(おもし)をハネのけるだけの勇気と実力を欠いていたこの時代の多くの若い女性の胸に、「女ばかりで作った女の雑誌」「青鞜」の出現が、一つの衝撃を与えたことは確かでした。

「青鞜」の運動というと、すぐいわゆる婦人解放と、世間から思われていますが、それは婦人の政治的、社会的解放を主張したものでなく、この時分の彼女の頭の中には欧米流のいわゆる女権論というものは全く入っていませんでした。しかし、後日、その発展段階において政治的、経済的、社会的な婦人の自由と独立への要求として発芽するものは内蔵されていたと見るべきでしょう。

(以下は、Wikiによるその後の平塚らいてうの生涯)

◆奥村博史との出会い

『青鞜』創刊の翌1912年(明治45年)55日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に与謝野晶子のパリ行きを取り上げた。翌6日には、晶子の出発の様子を「ソコへ足早に駆け付けたのは青鞜同人の平塚明子で(中略)列車の中へ入って叮嚀に挨拶を交換して居る」などと報じた(総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』(与謝野晶子特集号)では、鴎外によって「樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。(下略)」とまで評された。

もっとも、青鞜社に集まる女性が「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」などの事件を起こすと、平塚家には投石が相次いだ。しかし、らいてうはそれをさほど意に介せず、「ビールを一番沢山呑むだのは矢張らいてうだった」と編集後記に書いて社会を挑発するだけの余裕があった。そのうちに「新しい女」というレッテルを貼られるようになった。すると、らいてうは『中央公論』の1913年(大正2年)1月号に「私は新しい女である」という文章を掲載すると同時に婦人論を系統立てて勉強し始め、同年の『青鞜』の全ての号には、付録として婦人問題の特集が組み込むようになった。しかし、『青鞜』の19132月号の付録で福田英子が「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁に処せられると、らいてうは父の怒りを買い、家を出て独立する準備を始めることになった。

青鞜社は『青鞜』の他にも1912年(大正元年)末に岡本かの子の詩集『かろきねたみ』を皮切りに、翌19133月に『青鞜小説集』などを出版している。同年5月にらいてうの処女評論集『円窓より』も出ているが、出版直後に「家族制度を破壊し、風俗を壊乱するもの」として発禁に処せられている。

また、時期を並行して、1912年夏に茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののちに事実婚(夫婦別姓)を始めている。

らいてうはその顛末を『青鞜』の編集後記上で読者に報告し、同棲を始めた直後の1914年(大正3年)2月号では『独立するに就いて両親に』という私信を『青鞜』誌上で発表している。独立後、奥村との家庭生活[15]と『青鞜』での活動の両立が困難になり始めると、1915年(大正4年)1月号から伊藤野枝に『青鞜』の編集権を譲った。『青鞜』は従来の文芸雑誌とは別の、強いて言えば「無政府主義者の論争誌」として活気付いたが、その1年後には「日蔭茶屋事件」があり、休刊することになった。奥村との間には2児(長男、長女)をもうけたが、らいてうは従来の結婚制度や「家」制度をよしとせず、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れている。

◆母性保護論争

『青鞜』の編集権譲渡後は奥村の看病や子育てなどに追われていたが、1918年(大正7年)、婦人公論3月号で与謝野晶子が『女子の徹底した独立』(国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎない)という論文を発表すると、これに噛み付き、同誌5月号で『母性保護の主張は依頼主義か』(恋愛の自由と母性の確立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つ)という反論を発表した。すると、山川菊栄がこの論争に加わり、同誌9月号で『与謝野、平塚2氏の論争』(真の母性保護は社会主義国でのみ可能)という論文を発表。その後、山田わかなどが論争に加わると一躍社会的な現象になった。(母性保護論争)

この論争の中、1919年(大正8年)の同誌1月号で、らいてうは『現代家庭婦人の悩み』(家庭婦人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず)を発表している。同年夏には愛知県の繊維工場を視察し、その際に女性労働者の現状に衝撃を受け、その帰途に新婦人協会設立の構想を固めている。

◆新婦人協会の活動

新婦人協会は、1919年(大正8年)1124日に、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、らいてうにより協会設立が発表され、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立された協会の機関紙「女性同盟」では再びらいてうが創刊の辞を執筆。新婦人協会は「衆議院議員選挙法の改正」、「治安警察法第5条の修正」、「花柳病患者に対する結婚制限並に離婚請求」の請願書を提出。特に治安警察法第五条改正運動(女性の集会・結社の権利獲得)に力を入れた。

しかし、1921年(大正10年)に過労に加え、房枝との対立もあり協会運営から退く。また、伊藤野枝、堺真柄、山川菊栄などの社会主義者は赤瀾会を結成し、『新婦人協会と赤瀾会』(『太陽』大正107月号)を皮切りに新婦人協会およびらいてうを攻撃する。らいてうが去り、房枝も渡米した後、新婦人協会は坂本真琴と奥むめおらを中心に積極的な運動を継続し、1922年(大正11年)に治安警察法第52項の改正に成功。しかし、その後の活動は停滞し、翌1923年(大正12年)末に解散。らいてうは文筆生活に入った。世界恐慌時代になると消費組合運動等にも尽力、高群逸枝らの無政府系の雑誌『婦人戦線』へ参加する。

◆戦後の平塚らいてう

第二次世界大戦後は、日本共産党の同伴者として活動し、婦人運動と共に反戦・平和運動を推進した。1950年(昭和26年)6月、来日したアメリカのダレス特使へ、全面講和を求めた「日本女性の平和への要望書」を連名で提出。翌年12月には対日平和条約及び日米安全保障条約に反対して「再軍備反対婦人委員会」を結成。1953年(昭和28年)4月には日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。同年12月、国際民主婦人連盟副会長就任。1955年(昭和30年)、世界平和アピール七人委員会の結成に参加、同会の委員となる。

1960年(昭和35年)、連名で「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」発表。1962年(昭和37年)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成した。

【新日本婦人の会結成に参加=呼びかけ人=いわさきちひろ(絵本画家)野上 弥生子(作家)岸 輝子(俳優)羽仁 説子(日本子どもを守る会会長)桑沢 洋子(デザイナー)平塚 らいてう(女性運動家)櫛田 ふき(日本婦人団体連合会会長)深尾 須磨子(詩人)壺井 栄(作家)】

1970年(昭和45年)6月にも房枝らと共に安保廃棄のアピールを発表する。またベトナム戦争が勃発すると反戦運動を展開。1966年(昭和41年)「ベトナム話し合いの会」を結成、1970年(昭和45年)7月には「ベトナム母と子保健センター」を設立する。「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、らいてうは終生婦人運動および反戦・平和運動に献身した。

自伝の作に取り掛かるも、1970年(昭和45年)に胆嚢・胆道癌を患い、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院。らいてうは入院後も口述筆記で執筆を続けていたが、1971年(昭和46年)524日に85歳で逝去した。

◆◆(あのとき)1946年 初の女性議員39人誕生 信念で開いた道、遠い「均等」(昭和21年)

朝日新聞18.09.26

(1946年4月10日に行われた戦後初の衆議院選挙では、39人の女性議員が当選。初めて議席についた女性議員たち)

(1929年、大阪の街頭で署名を求め、女性参政権運動を進める女性たち)

 「社会は女性を待っている あなたも議員に挑戦してみませんか」。大隅半島にある人口約1万3千人の鹿児島県大崎町の商店街で9月中旬、こんなチラシが店に配られた。同町ではこれまで一度も女性議員が誕生していない。

 「商売に影響する」と断る人もいたが、運動を進める「鹿児島県内の女性議員を100人にする会」代表の平神純子・南さつま市議は「大崎ではずっと女性議員がゼロ。ゼロが当たり前の意識を変えないと」と訴えた。

 県内43市町村中、14市町村で女性議員がゼロで、平神さんは「県内すべての議会に女性議員を」と会を結成。来春の統一地方選に向け候補者を発掘する活動に取り組む。県内の市町村議会の女性議員は現在60人だ。

 女性議員ゼロが続く垂水(たるみず)市でも6月にセミナーを開催。出馬に意欲を見せる人もいたが家族の反対や家庭の事情など、「ガラスの壁」が立ちはだかる。だが、近隣市町の女性議員も協力し、誕生に向けた輪も広がっている。平神さんは「女性ゼロに違和感を持たない意識が蔓延(まんえん)している。壁はあつい。地道に働きかけ、住民たちが真剣に出そうと思うのを期待したい」。

     *

 「婦選は鍵なり」と戦前から奮闘、先頭に立ったのが市川房枝だ。女性解放運動を進めた平塚らいてうらと1919年に「新婦人協会」を創立、女性の政治活動を禁じた治安警察法改正の請願運動を展開。同法は一部改正され、女性の政治集会への参加や主催が認められた。24年には、「婦人参政権獲得期成同盟会」(翌年「婦選獲得同盟」に改称)が発足した。

 25年に普通選挙法が公布、満25歳以上の男性に選挙権が与えられたが、「婦選なくして真の普選なし」と運動は盛り上がる。市川は「女の選挙がまだ残っているという皮肉の意味でこの言葉(婦選)を使うようになった」(市川房枝政治談話録音)と戦後、話していた。

 市川らの運動は上からのお仕着せではなく、「台所」からの市民の視点を重視した。同盟は「参政権」「公民権」「結社権」を求め運動。政治と台所の関係を密接に国民生活の安定を図るなどを同盟の総会の宣言に掲げた。市川房枝記念会女性と政治センターの山口みつ子理事長(83)は「男女平等でなければ、社会はうまくいかないという信念を片時も忘れなかった。この宣言は参政権が実現した時の行動目標でもあった」。市川は31年発売のレコード「婦選の話」でも「台所から、工場から、事務所から(婦選の)後押しを」と呼びかけた。

 市川らは終戦後すぐに運動を再開、参政権の実現へと動く。45年に衆議院議員選挙法が改正・公布。46年4月10日、衆院選で女性が初の参政権を行使、39人の議員が誕生。そのうちの1人、園田天光光(てんこうこう)さんは「餓死防衛同盟」から立候補した。妹・松谷天星丸(てんほしまる)さん(96)は「演説するときは男女の差はなし。無手勝流の選挙だったが、紺のもんぺと赤いちゃんちゃんこを着た小さな女性が演説する姿は話題になった」。天星丸さんは姉を支え、「世のため、人のために働こうという情熱に共感を持ったサポーターだった」。

     *

 だが、その後も女性の政治参加は進まない。89年、参院選の「マドンナ旋風」で当選者が前回(86年)から倍増の22人となるが、衆院では女性当選者は2005年の「郵政選挙」で43人が当選するまで1946年の39人が最多だった。

 現在、衆参両院の女性議員は97人で全体の14%に過ぎない。各国議会でつくる列国議会同盟の9月1日時点の調査では日本(衆院)の女性比率は193カ国中161位。

 この5月に国と地方の議会選挙で男女の候補者数をできる限り「均等」にするよう政党に求める「候補者男女均等法」が施行。上智大の三浦まり教授(政治学)は「政治領域は男性のものだと女性議員の少なさに疑問を持ってこなかった」と指摘、「意思決定に多様な人が入ることが重要で同法は第一歩。政党の説明責任も問われる。女性議員比率が伸びないなら政党助成金を女性比率に応じて変えたり、女性候補者養成に一定額が使われるよう、使途に制限をかけたりする規定を入れることも考えられる」と話す。

 (宇津宮尚子)

◆「政治は男性が」意識の壁も 元文部相・「クオータ制を推進する会」代表、赤松良子さん(89)

 1946年4月10日。当時16歳でしたが、女性が初めて選挙権を使った衆議院選は画期的な出来事としてよく覚えています。母や姉たちが誇らしい表情で投票へ行き、そういう世の中になったと実感しました。女性参政権は民主主義の象徴です。

 旧労働省で婦人局長として、85年の男女雇用機会均等法成立に尽力しました。女性が仕事で差別されているのを見て、解決には法律を作るのが一番だと思ったからです。役所を退職後、幅広い分野で、特に、法律を審議したり、政策決定したりする政治分野での女性の進出が必要だと感じました。かけ声だけでなく、具体的に示した方がいいと考えたのが、候補者や議員を女性に割り当てるクオータ制。2012年、女性の候補者を増やす法律の成立を後押しする市民団体「クオータ制を推進する会」の代表に就任しました。

 候補者男女均等法の施行で、新しいステップへ進みました。男女雇用機会均等法も「花が咲いても実がない」などと批判されましたが、法律があるかないかでは全く違う。今後、各政党の努力が求められます。

 女性の政治参加に特別な障害があるとすれば、それは「政治は男性のもの」という意識。女性議員が増えるには時間がかかるかもしれませんが、進歩していくはずです。

◆女性の政治参加をめぐる主な動き(敬称略)

1919年 平塚らいてう、市川房枝らが新婦人協会を創立。治安警察法改正運動を進め、22年の治警法5条2項の改正により、女性の政治集会の主催や参加が認められる

  24年 婦人参政権獲得期成同盟会(25年に婦選獲得同盟と改称)が発足。婦選3案を中心に請願運動を展開

  45年 衆議院議員選挙法改正・公布、女性参政権が実現

  46年 戦後初の衆院選で、女性が初めて参政権を行使。39人の女性議員が誕生

  60年 中山マサが厚生相就任。女性初の閣僚

  86年 男女雇用機会均等法施行

  89年 参院選で「マドンナ旋風」。女性22人が当選

  93年 土井たか子が女性初の衆院議長に

  99年 男女共同参画社会基本法施行

2000年 大阪府知事に太田房江が就任。全国初の女性知事

  04年 扇千景が女性初の参院議長

  18年 候補者男女均等法施行

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🔵田村=婦選運動の歴史

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「与えよ一票婦人にも」(大正時代のポスターやタスキの標語)

 「皆さんは男性よりもずっと鋭い直感力と云(い)ふか一種のカンを持って居られます。人物の真偽をそのカンで嗅(か)ぎ分け、必ず真(ほん)ものに投票せられるでせう」=文部省が戦後まもなく作った選挙ポスター。

与謝野晶子は「婦選の歌」に「男子に偏る国の政治 久しき不正を洗ひ去らん……」と書いていた。

公民権=公民としての権利。公職に関する選挙権・被選挙権、公務員として任用される権利などの総称で、市民権ともいう。国政選挙の選挙を参政権というのに対して、地方自治体の選挙権を公民権という場合もある。

日本における女性の地位向上や権利確立をめざす運動は、女性による禁酒運動を契機に矢島楫子(やじまかじこ〔1833~1925〕肥後〔熊本〕の生まれの女子教育家)らによって、1886(明治19)年に東京で創設されたキリスト教の女性団体である矯風(きょうふう)会(組織化はアメリカで始まり1883〔明治16〕年世界的組織が結成されていた)の未成年の禁煙・禁酒法と売春防止法の法制化(廃娼運動)がその始まりである(1893〔明治26〕年には日本キリスト教婦人矯風会となる)。

運動は、1911(明治11)年6月、「元始(げんし=物事のはじめ)女性は太陽であった」とのキーワード(雑誌「青踏〔セイトウ〕」創刊号に掲げられた)で「新しい女」の出現を主張した社会運動家の平塚らいてう(1886~1971 東京生まれ。本名は奥村明〔はる〕)。第2次大戦後も諸種の女性運動に活躍した)の呼び掛けで青踏社(せいとうしゃ)が結成されたことで一つの転機を迎える。

第1次世界大戦後の1920(大正9)年3月には、らいてう・市川房枝(ふさえ〔1893~1981〕 愛知県生まれ、第2次大戦後も新日本婦人同盟〔現、日本婦人有権者同盟〕を組織する等、理想選挙を唱え、1953年から5回参議院選挙に当選した)らによって新婦人協会が結成され、女子の政治結社加入禁止規定した治安警察法第5条(1項「左の者は政治上の結社に加入することを得ず 軍人警察官神官僧侶教師学生女子未成年者公権剥奪及び停止者」2項「女子及び未成年者は公衆を会同する政談集会に会同し若しくは其発起人たることを得ず」)撤廃(1922〔大正11〕年4月20日2項の改正が実現)、妻の財産権確立、刑法の姦通罪削除、男女の機会均等の運動を行なった。

他方、1921(大正10)年には伊藤野枝(いとうのえ〔1895~1923〕福岡県生まれ女性解放運動家で、青鞜社に参加ののち、無政府主義運動を展開。関東大震災直後、夫の大杉栄とともに憲兵大尉の甘粕〔あまかす〕正彦に虐殺された〔甘粕事件=亀戸事件・朝鮮人虐殺事件とともに、戒厳令下の不法弾圧事件の一つ〕)・山川菊枝(やまかわきくえ〔1890~1980〕東京生まれ。青鞜社には参加せず、日本で始めてマルクス主義の婦人解放論を展開した。無産運動の理論支柱であった山川均と結婚。戦後片山内閣で新設された労働省婦人少年室初代局長となった)・堺真柄(さかいまがら〔1903~1983〕東京生まれの婦人運動家で、赤瀾会、第1次日本共産党、政治研究会、無産社、無産婦人同盟、社会大衆婦人同盟、日本婦人有権者同盟を歴任。父は福岡県生まれの社会主義運動家で、「万朝報」記者を経て、幸徳秋水らと「平民新聞」を創刊し、非戦論を展開。赤旗事件などで数度入獄。日本社会党・日本共産党の創立にも参加した堺利彦〔1870~1933〕)ら婦人社会主義者らが無産運動として赤瀾(せきらん)会を結成し、婦人の啓蒙・隷属からの解放を趣旨に急進的活動を行い第2回メーデーに参加、逮捕者を出している。赤瀾会は翌年には八日会となり、昭和初期には無産政党に系列化された形で無産婦人同体が結成されていった。

新婦人協会が1922年に解散され、1923(大正12)年2月には婦人連盟が、「我が国現下の教育問題、職業問題、両性の貞操問題、母妻児に対する保護問題を始めとして、幾多の婦人問題は当然改革さるべきものでありながら、聊かの改善も見ずに今日に及んで居ります。私共女性が男性と等しく人であるという内的覚醒に基づいて、これ迄女性の自由発展を抑圧した習慣因習から脱し、速やかに是等の諸問題を解決するの必要を痛感している次第であります。而して之を解決する実際運動としましては、唯一途私共女性が政治上の発言権を得て、直接に立法府を動かす他はありません」とする趣旨のもと、「国政の円満なる発達を期し、同胞国民幸福のため、速やかに婦人参政の実現を期す。地方自治に於ける婦人公民権の獲得は最も之れを急務とす。女子の政治結社加盟を自由にする為治安警察法の改正を期す。男女修学上の機会均等は時代の要求なり。吾等は速かに其の実現を期す」との綱領をもって結成された。

そこで、婦人参政権獲得を目指す必要性が確認された上で、そのための運動体組織が急務の課題と認識され、婦選要求実現のための大同団結体として、各婦人団体、個人のすべての結集を目的に、1924(大正13)年12月に「すでに多数の婦人が、社会の各方面に有力な活動をなしつつある今日、婦人を中心とする家庭生活が、社会国家生活と非常に密接な関係に於かれて居る今日、婦人が政治に参与することは、当然のことであって、これが可否は最早問題ではないのであります」との創立総会案内状をももって、久布白落美(くぶしろおちみ)を総務理事に市川房江を会務理事にして婦人参政権獲得期成同盟が結成され、その「宣言書」の3項には「我が国大多数の家庭婦人は其生活完成のため、法律上国家の一員たるべく之を要求す」としたためた。

同会は、各政党には絶対中立の立場をとり、婦選運動の中核を担うことになった。当然のことであるが当時の婦人参政権運動は、女性の社会的地位を向上させようという熱い情熱を持っており、その目標は国政への参加(婦人参政権。被選挙権でない)、地方政治への参加(婦人公民権)、政治結社への加入(婦人結社権)の3つの権利穫得においていた。

婦人参政権獲得期成同盟会は、治安維持法との引き換えで、1925(大正14)年に男子の普通選挙が承認されると、名称を「婦選獲得同盟」と変えた。それは単なる名称変更ではなく、普選が女性を取り残したことに対する女性の激しい怒りが込められていたが、市川房枝はその理由を次のように述べている。

「(普選は)辞書にもない新語であるが、短いし、それに『婦選』と同音なので、『普選』はまだ完成されてはいない、『婦選』が残っているのだ、という抗議の気持ちをこめて、会名に使うことにした」(『市川房江自伝 戦前編』)。

婦選獲得同盟をはじめとする各女性(婦人)団体は、デモ、講演会、署名運動などを盛んに行い、無産政党(生産手段をもたず、自らの労働によって得た賃金で生活している階級〔無産者階級・プロレタリアート〕無産階級の利益を代表する合法的な政党。男子普通選挙法が成立して以後の日本で、治安維持法によって事実上非合法とされた共産党を除く社会主義および社会民主主義政党を総称していわれた)も婦人公民権の実現を目指して動き始めた。

以後、婦人参政権獲得運動が本格化していき、昭和期になると婦選獲得同盟は帝国議会に対し参政権確立を訴え、政府や政友会・民政党両党も高まる普選要求の声を無視できなくなり、婦人公民権・参政権を実現する法案が幾度も提出された。だがその度に否決されてきた。

金融恐慌後の1928(昭和3)年になるとメディア(新聞)が「婦人に参政権を与へるべきか否かはただ時と条件の問題であって、もはや可否の問題でない」と論述するような風潮が生まれたていたが、1929(昭和4)年7月2日に成立した浜口雄幸(おさち)内閣の緊縮財政があった。緊縮財政の成否は、とりもなおさず、主婦(婦人)の節約にかかっていた。そのため、浜口首相、井上準之助蔵相、安達健蔵内相の3名が各婦人団体と懇談するなどの働きかけを行なうところとなる。普選獲得の婦人団体や他の団体もこれを好感をもって受け止め、各地で倹約運動が展開され、緊縮財政に協力するところとなる。

婦選獲得のビラ(1929年)

そして、1930(昭和5)年4月27日、婦選獲得同盟主催の第1回全日本婦選大会が開かれ、婦人参政権、婦人公民権、結社権を全日本婦人に一挙に付与することを要求し、その際国民の特に女子の政治教育を強化するべきだという決議を行う。さらに翌日の婦選獲得同盟第6回総会では、「1婦人及子供に不利なる法律制度を改廃しこれが福利を増進せんが為に。2政治と台所の関係を密接ならしめ国民生活の安定を計ると共に其の自由幸福を増進せんが為に。3選挙を革正し、政治を清浄、公正なる国民の政治となさんが為に。4世界の平和を確保し、全人類の幸福を増進せんが為に」、婦人参政権、婦人公民権及び結社権を要求する宣言がなされ、目的の達成の為には「進んで各団体と協力するが、政党に対して飽迄中立の立場を保持し、婦人としての独自の立場をとる」ことが確認された。

その直後の1930(昭和5)年の第58回帝国議会(特別議会)は、婦人参政権運動にとって大きな意味を持っていた。

浜口内閣は、緊縮財政政策の協力と引き換える形で当時の2大政党であった政友会、民政党の両党の賛成を得て、「婦人公民権法案」と呼ばれた3法案、すなわち「市制中改法律案」「町村制中改正法律案」「北海道制中改正法律案」を1930(昭和5)年5月8日、4月21日から開催されていた衆議院本会議に上程したのである。これらは、地方自治体の議員の選挙に関してのみであったが、その適用範囲を、「帝国臣民タル年齢25年以上ノ男子」から、「年齢25年以上ノ帝国臣民」に改め、婦人の公民権を認めたものであった。

法案は、本会議での若干の質疑のあと、8人の委員で構成される「市町村制中改正委員会に付託された。委員会では、17対1の多数で承認、5月10日の本会議の可決を経て、貴族院へ送られた。

こうした経緯に婦人参政権に取り組む多くの女性たちには、今度こそはとの期待を膨らませるが、貴族院議員たちの「女性に参政権を与えることは日本の家族制度になじまない」とする思想から可否もとらず審議未了とした。

それは、はからずも、「彼らの大多数は、婦人公民権に対して見解も誠意もなく、ただ流行の問題だから付和雷同しているにすぎず、(中略)貴族院と一戦を試みるほどの勇気も期待もすることが出来ない」と、無産運動と連携しないかぎり実現は難しいとして当時の婦選獲得の動きを切ってすてた無産婦人運動家の山川菊枝の見方(「値切り倒された婦人公民権」-中央公論昭和5年6月号)の正しさを証明するものとなった。

貴族院での審議未了後も婦選獲得の大衆運動は衆議院での可決を追い風にして果敢に展開される。それに押されて内務省は、1930(昭和5)年9月5日、あらためて婦人公民権法案を発表する。これに対して11月4日全国町村長会が「全国を通じ今日の状態に在りては、其教育の程度に於いて日常生活の状態に於いて、将又我家族制度及社会習慣上婦人は仮令公民権を付与せらるるも完全に其の権利を行使し得ざるや明らかにして、徒に事務上の煩瑣と選挙界の紛乱とを見るに過ぎざるのみならず、延ひて我家族制度の基礎を動揺せんことを惧るるが故」に「婦人に公民権を付与するは今日の我国情に適せざるものと認む」と反対表明を行なうが、浜口内閣は、翌年の1931(昭和6)年2月5日、婦人公民権法案を再び議会に提出した。

だがその内容は、公民権を「1.男子は20歳に引き下げるが、女子は25歳とする。2.女子は市町村議会の議員の選挙のみとする。3.妻が名誉職(当時は市町村会議員など、現在は民生委員・保護司など)に当選した場合は夫の同意を必要とする」という、前回より大幅に後退したものであった。

当然のことながら婦選獲得同盟は、これに猛烈に反対、2月14日の第2回全日本婦選大会(この大会で演説していた市川房江は演壇で暴漢に襲われる)で「夫の同意条項の人削除、男女平等の完全公民権」の実現を強く要求したが、2月10日、安達内務大臣は以下のように提案理由を説明した。

「女子の政治参与の事たるや、其理論的考察に於きましてこれを否認すべき理由に乏しきことは、恐らく疑いを存せざる所でありますけれども」「家族制度は我が社会組織の基本を為す重要なる制度でありまするからして、女子に公民権を付与するに当たりましても、是と家族制度乃至夫婦生活の関係に付きましては、特に慎重なる考慮」「司法関係に於て特定の行為に就いて妻は夫の同意を枝ることを要するものと為せるが如く、自治制度の関係に於きましても、妻が市町村の名誉職を担任するに付きましては、夫の同意を得つを要することとし、以て公民としての義務と、私生活に於ける関係との間に調和を保たんことを期し」。

後退した同法案は、3月7日の本会議で原案通り可決され、貴族院へ送付され、貴族院の委員会でも可決されたが、「 婦人と云うものは公民権を得る前にモットモット大事なことがあるのじゃなかろうか。天下国家を論ずる前には、先ず家庭の内務に付いて注目する必要があるのじゃなかろうか。社会を清める前に先ず家庭を清める必要があるのじゃなかろうか。そこに婦人の最も大なる使命が存して居るのじゃなかろうかと思う」「君に忠、父母に孝と云ふことは教育勅語の御精神であります」「片一方には節婦を表彰せられながら、片一方には婦人公民権などを議決させまして、さうして其家族制度を破らう、其日本の美風を失はせやう、婦人の使命を全うせしめざるやうにさせやう、婦人の重大なる責任を軽くしめしまはうと云ふやうな法案がでましたならば、是は誠に日本の美風の上に付え、一大欠陥を来すものであらう」「婦人を尊敬し婦人の天職、婦人の責任に鑑みて、此法案の否決せらしむことを望む」との紀俊秀(きい-としひで〔1970~1940〕和歌山生まれで、国懸の各神宮宮司、和歌山市長のほか博愛生命保険㈱、万寿生命保険㈱各社長等となり、父死亡後男爵を継ぎ、以後、死亡まで貴族院議員〔男爵議員〕を務めた)男爵の反対論があり、3月24日貴族院本会議はこれを否決する。

否決に対して婦選獲得同盟は、「我等は此婦人を屈辱的地位につかしむる制限法案に否決を心より歓ぶとともに、勇気もって完全公民権の獲得、婦人参政権の実現に飽くまで奮闘せん事を期す」と声明を出したが、1932(昭和7)年7月4日、内務省は、婦人参政権付与法案提出を見送る決定(省議)を行った以後、敗戦まで、制限付きであっても婦人公民権が議会に上程されることはなかった。

無産婦人大会で演説する堺真柄(1931年)

また、運動も1933(昭和8)年の第8回婦選大会では具体的方針を出すことすら出来ずに幕を閉じ、汚職の頻発していた東京市会の議員選挙に向けて啓蒙活動を中心とした選挙浄化運動をおこない、多少の成果をあげた婦選獲得運動は、15年戦争激化のなかでの国防婦人会などの発足に見られるように官製団体の活動が活発化していく中、婦選獲得同盟等の団体の活動も次第に戦争協力の色合を強くしていき、同盟自体も1940(昭和15)年に解体を余儀なくされた。すなわち国家は女性たちの参政権要求・政治参加要求を利用しながら戦時体制のなかに各種婦人団体を取り込んでいったのである。

そして男女平等の普通選挙権に実現は敗戦によるGHQ主導の戦後民主化政策を待たねばならなかった。

時は1945(昭和20)年12月17日、衆議院議員選挙法の改正が公布され、ここに男女平等普通選挙が実現、翌1946(昭和21)年4月10日に第22回衆議院議員総選挙が行なわれ、39人の女性代議士が誕生することになる。

🔴◆◆平塚らいてう

小学館(百科)

1886-1971 

女性運動の先駆者。東京生まれ。本名は明(はる)。1906年(明治39)日本女子大学家政科卒業。在学中より人生観を模索し続けるうちに禅に出会い、禅の修行が彼女の自我の確立に大きな影響を及ぼした。大学卒業後、生田長江(いくたちょうこう)主宰の閨秀(けいしゅう)文学会に参加、そこで知り合った作家の森田草平(そうへい)と1908年に心中未遂事件、いわゆる「塩原事件」を起こし、センセーションを巻き起こした。1911年には生田長江の勧めで、保持研子(やすもちよしこ)(1885-1947)、中野初子(1886-1983)、木内錠子(きうちていこ)(1887-1919)、物集和子(もずめかずこ)(1888-1979)とともに女性文芸誌『青鞜(せいとう)』を発刊、らいてうが書いた創刊の辞「元始、女性は太陽であった」は、女性自身による解放宣言として、大正デモクラシーの風潮のなかで大きな反響をよんだ。『青鞜』はしだいに「婦人問題誌」の色彩を増し1916年(大正52月まで続いたが、しばしば発売禁止処分にあった。青鞜社員の言動は「新しい女」の出現としてジャーナリズムの脚光を浴びたが、非難中傷されることが多かった。この間、らいてうは年下の画家奥村博史(ひろし)(1889-1964)と恋愛、同棲(どうせい)するが、あえて家族制度の下での婚姻手続を踏まない共同生活を実行し、これも話題となった。19181919年の母性保護論争では、「女権主義」の立場にたつ与謝野晶子(よさのあきこ)らと対立し、「母性主義」を唱えた。1920年には市川房枝、奥むめおの協力を得て新婦人協会を結成、女性の政治活動を禁止した治安警察法第5条の改正や花柳(かりゅう)病男子の結婚制限法制定の請願運動をおこし、前者の一部修正を実現させた。しかし、らいてうと市川の対立などから新婦人協会は192212月解散され、以後らいてうは執筆活動中心の生活に入った。昭和初期には高群逸枝(たかむれいつえ)らの『婦人戦線』の同人となり、また消費組合運動にも参加した。第二次世界大戦後は反戦・平和運動に力を注ぎ、日本婦人団体連合会会長、国際民主婦人連盟副会長などを務めた。

[北河賢三] 

🔴◆青踏せいとう

小学館(百科)

女流文芸雑誌。六巻52冊。生田長江(いくたちょうこう)の勧めで平塚らいてうにより1911年(明治449月創刊、16年(大正52月廃刊。青鞜社発行。発起人はらいてうのほか保持研子(やすもちよしこ)、中野初子、物集(もずめ)和子、木内錠子(ていこ)。誌名は、18世紀なかばイギリスのサロンで女権を唱えた女性たちがblue stockingとよばれたのにちなんで長江が命名。表紙は長沼(高村)智恵子(ちえこ)による。わが国初の女性雑誌として発足し、与謝野晶子(よさのあきこ)、長谷川時雨(はせがわしぐれ)、森しげ等、文壇知名婦人を賛助員とし、岩野清子、茅野雅子(ちのまさこ)、尾島菊子、加藤みどり、田村俊子(としこ)、野上八重子(弥生子(やえこ))、水野仙子ら多数の社員を集めた。「一人称にてのみもの書かばや/われは女(おなご)ぞ」の与謝野晶子の巻頭詩、「元始女性は太陽であつた」と始まるらいてうの創刊の辞を掲げた11号は、社則第1条に「女流文学の発達を計り、各自天賦の特性を発揮せしめ、他日女流の天才を生まむ事を目的とす」と記した。前年創刊された『白樺(しらかば)』の影響が濃いが、岡本かの子、瀬沼夏葉(せぬまかよう)、伊藤野枝(のえ)、神近市子(かみちかいちこ)、山田わか等、社員は増え続けた。しかし、女流文学を生み出すにはいまだ熟さない時代だった。相次ぐ発禁処分、尾竹紅吉(べによし)ら一部社員による遊廓(ゆうかく)見学、飲酒が吉原登楼事件、五色の酒事件などとして扱われ、新しい女に対する批判嘲笑(ちょうしょう)が高まるなかで女性問題に関心が集まり、婦人解放運動の一拠点とさえなっていく。19151月からは伊藤野枝がらいてうから編集を引き継ぎ、社員制から個人主宰とし、婦人の自立、貞操、堕胎、公娼(こうしょう)問題などが次々に提起される。出産のため帰郷した野枝にかわって一時生田花世が編集するが、上京後野枝が大杉栄のもとに走るなどの恋愛事件、神近市子の大杉刺傷事件のなかで廃刊となる。復刻版(1980・不二出版)がある。

[尾形明子] 

🔴◆新婦人協会

小学館(百科)

平塚らいてうの呼びかけにより、婦人の社会的・政治的地位の向上を目ざして1920年(大正9328日に発会した市民的婦人団体。平塚、市川房枝(ふさえ)、奥むめおが理事となり、治安警察法第5条(女子の政治活動禁止条項)の修正、婦人参政権要求、花柳病男子の結婚制限に関する請願活動を行った。発会式には70名(うち男子約20名)が集まったが、『婦人公論』編集長の嶋中雄作(しまなかゆうさく)や社会主義者の堺利彦(さかいとしひこ)も出席、多方面から期待が寄せられた。綱領として「男女の機会均等」「男女の価値同等観」の上に立った男女の差の承認、「家庭の社会的意義を闡明(せんめい)」すること、「婦人、母、子供の権利を擁護」することなどが掲げられたが、これには母性尊重を唱えるらいてうの思想が反映している。会員は女教師、婦人記者などを含めて19209月に331名を数え、同年10月には機関誌『女性同盟』を創刊した。223月には、女子の政談演説会参加のみを認める治安警察法第52項修正に成功したが、この時期、協会内部には意見の不一致が生じていた。また赤瀾会(せきらんかい)の山川菊栄(きくえ)は、それらの運動をブルジョア的な限界をもつものと批判した。2212月解散に至るが、日本の婦人参政権運動史上大きな役割を果たした。

[米田佐代子] 

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🔵市川房枝の生涯=「権利の上に眠るな」いま振り返る市川房枝の参政権への取り組み

久保公子(公益財団法人市川房枝記念会女性と政治センター)

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🔴◆市川房枝

1893-1981 

政治家、社会運動家。明治26515日愛知県に生まれる。愛知女子師範学校卒業後、小学校教員、新聞記者を経歴。1918年(大正7)上京、1919年友愛会婦人部に入り、婦人労働者大会で活躍。1920年平塚らいてうらと新婦人協会を設立した。1921年渡米しアメリカの女性問題、労働問題を研究。1924年帰国してILO(国際労働機関)東京支局に4年間勤務。また同年婦人参政権獲得期成同盟会(1925年婦選獲得同盟と改称)を結成、1940年(昭和15)の解散までこの運動に取り組んだ。この間、市政浄化運動、選挙粛正運動などにも力を入れた。第二次世界大戦期には女性運動のリーダーとして国民精神総動員運動、大政翼賛会の活動に従事した。戦後、新日本婦人同盟(1950年日本婦人有権者同盟と改称)を組織、一時公職追放にあったが、解除後1950年(昭和25)会長となった。1953年参議院選挙に無所属で出馬し当選。以後1959年、1965年と連続当選、1962年には第二院クラブを結成。1971年落選したが、1974年(全国区第2位)、1980年(全国区第1位)当選。この間、理想選挙、政治浄化の先頭にたって活躍。「実践一路」の人であった。昭和56211日死去。

[北河賢三] 

以下の久保公子論文は

http://www.dh-giin.com/article/20141110/2512/から引用

 来年2015年は、日本女性の参政権が実現して70年の節目である。敗戦を経て19451217日、衆議院議員選挙法が改正され、まず国政への男女平等参加が実現した。その権利の初行使は翌46年4月10日で、投票所への長蛇の列の中には紋付羽織姿の女性や、子どもの手を引く女性、食糧難のために「1票」を米や芋の「1俵」と勘違いした女性がいたという。また女性参政権獲得運動の中心的役割を果たしたあの市川房枝(18931981年)に至っては、戦後の混乱期で名簿漏れのために投票できず、その列を見守っていた……など、様々なエピソードが伝えられている。

 このときの選挙で39名(8.4%)の女性議員が誕生したが、数・割合ともにこれを上回ったのは2005年(43名、9.0%)、実に60年も要したことをご存じだろうか。さらに10年を経て2014年の現在は39名、8.1%と減少傾向にあり、列国議会同盟による国際比較では先進国の中で常に最下位に甘んじてきている。

 地方議会も、1946年の東京都制・府県制・市制・町村制の改正を経て、翌47年に行われた第1回統一地方選から70年近くたつが、女性議員はようやく11%台に達したところだ。そこで来年2015年の第18回統一地方選を視野に、市川房枝記念会女性と政治センターは今春から「女性を議会へ!全国キャラバン」を展開し、この活動をきっかけに、本誌で私たちの取組が3回連載で特集されることとなった。

 前号では、長崎(4月)、島根(5月)、石川(7月)へのキャラバンの模様や、当財団ならではの住民参加型選挙運動のツボ、議員活動を市川房枝政治参画フォーラムで学ぶ現・前議員が分担執筆した。

 今号は、五十嵐暁郎先生と筆者が執筆し、次号では島根キャラバンを共催していただいた毎熊浩一先生も執筆される予定である。ちなみに日本政治論が専門の五十嵐先生は、政治学者、故高畠通敏先生のご縁で財団の講師をお願いし、今回のキャラバンでも協力をしていただいている。

 前置きが長くなったが、本稿では、財団の創設者、市川房枝が生涯をかけて取り組んだ女性参政権運動と、その現代的意義、そして市川の志を引き継ぎ発展させてきた財団の諸活動についてお伝えしたい。

◆市川房枝の原点──向学心・向上心

 自伝の冒頭、市川は自分が生まれた1893年は「明治憲法公布4年後で、婦人の政治活動を禁止した集会及政社法公布3年後、日清戦争が始まる前年であった」と記している。木曽川に沿った濃尾平野の中心地、愛知県中島郡明知村(現一宮市)の農家の三女に生まれ、子どもたちの教育には熱心だが、かんしゃく持ちで妻に対しては暴君であった父と、字は読めないが記憶力抜群でやさしく、忍耐強かった母の姿を見て育った。

 小学校時代は勉強が嫌いで、学校をさぼることもあった。しかし、師範学校女子部を卒業したばかりの憧れの先生と出会ってからは勉学に励むようになり、畑や養蚕など家の仕事もよく手伝った。14歳のときには、当時在米中の兄を頼り、役場に単身渡米の渡航願を出しにいく行動派だったが、無謀な企ては許可されなかった。代用教員を経て師範学校に進み、3年生のときには級長に選ばれ、級友らと良妻賢母主義の校長に対して抗議のストライキも行った。当時の女子生徒らの青春群像は、永井愛作「見よ、飛行機の高く飛べるを」(1997年)に描かれ、今年も劇団青年座の創立60周年記念公演などで上演され続けている。

 卒業後は郷里の小学校教員となるが、大正デモクラシーに心を寄せ、向上心に燃える市川は熱心に講演会を聞き歩き、雑誌に「不徹底なる良妻賢母主義」なども投稿した。今年NHK連続テレビ小説「花子とアン」のヒロインで話題を呼んだ、後の村岡花子ともこの時期に出会った。読売新聞家庭欄への投書をきっかけに参加を勧められた、キリスト教夏期講習会(御殿場)でのことである。このように仕事以外の活動も増えて過労で倒れ、病気休職を機に教員を辞めて名古屋新聞記者になったが、1年後の1918年には上京。自分探しをする中で、当時新しい女といわれていた平塚らいてうと出会った。

◆「新婦人協会」「婦選獲得同盟」結成に参加

 2人の出会いは翌1919年、当時女性の集会・結社を禁じた治安警察法改正運動などのための「新婦人協会」結成へと発展し、1922年には治安警察法一部改正に成功して「女性の政談集会参加」が認められることとなった。市川はこの運動の途中、1921年に渡米し、ベビーシッターなどとして働きながら、女性参政権実現直後のアメリカで女性の政治教育、女性運動、労働運動などを学び、1924年1月、関東大震災から復興さなかの日本に帰国した。

 帰国後は、開設されたばかりのILO東京支局に就職。女性の坑内労働や深夜労働などの実態調査をする傍ら、同年暮れ、婦人参政権獲得期成同盟会(翌年、婦選獲得同盟に改称)の結成に参加し、仕事と運動の二足のわらじを履く生活となったが、ILOの仕事は自分でなくてもできると途中から半日勤務とし、1927年暮れに辞職した。

◆婦選なくして真の普選なし

 ILO辞職・婦選獲得運動専心の決意の背景には、1925年に男子の普通選挙法が公布され、次はいよいよ女子の選挙権・被選挙権の獲得をという、かつてない運動の高まりがあった。チラシに書かれた「婦選なくして真の普選なし」「与えよ一票婦人にも」には当時の女性たちの意気込みが感じられる。具体的な運動目標は、政治結社への加入の自由を求める治安警察法の改正、女性に公民権を与えるための市制・町村制の改正、男性と同等の選挙権・被選挙権を与えるための衆議院議員選挙法の改正で、これら婦選3案の実現を求める対議会活動が繰り広げられることとなった。

 全国に婦選獲得同盟の支部がつくられ、他団体とも協力して議会への請願署名運動、首相はじめ大臣や議員へのロビーイングのほか、婦選に賛成する男性候補の選挙応援は女性の弁士が珍しかった時代、多くの聴衆を集めた。また、講演会、街頭でのビラまき、雑誌発行や、市川が吹き込んだ講話「婦選の話」のレコードは、婦選の普及に一役買った。各地への講演行脚などの様子は当時の新聞記事に見ることができる。

 この婦選3案は1925年3月、若手男性議員に働きかけて衆議院に上程、可決されたが、貴族院で審議未了。この日衆議院の傍聴席は約200人の女性が埋めた。翌日の新聞には、「婦人権拡張論者のきりょう紹介」として提案理由を説明した山口政二、内ヶ崎作三郎、松本君平、高橋熊次郎らをちゃかし、4議員の頭にリボンをつけた岡本一平の風刺漫画が掲載されるという時代だった。

 1930年4月、日本青年館で開かれた第1回全日本婦選大会には全国から約600人の女性が集まり、政友会総裁犬養毅らが祝辞を寄せた。♪同じく人なる我等女性 今こそ新たに試す力 いざいざ一つの生くる権利 政治の基礎にも強く立たん♪と、与謝野晶子作詞・山田耕筰作曲による「婦選の歌」も世界的なソプラノ歌手荻野綾子の独唱で披露された。

 この大会翌日の婦選獲得同盟第6回総会では、婦選3案を要求する理由を、婦人及び子供に不利な法律制度を改廃し、福利を増進する、政治と台所の関係を密接にして国民生活の安定を計り、自由幸福を増進する、選挙を革正し、政治を清浄、公正な政治とする、世界の平和を確保し、全人類の幸福を増進する、と掲げ、これを総会宣言として採択した。翌5月、婦人公民権案が衆議院可決、貴族院で審議未了となったが、2度までも衆議院で可決されたことで運動は勢いづく。そのような中、創立以来、会務理事を務めてきた市川は、この2か月後に総務理事に選出され、名実ともに同盟の看板となった。

◆戦時下の活動──国策協力は婦選の実践

 このように運動の高揚期を迎えていた矢先の1931年に満州事変が勃発し、さらに37年日中戦争、39年第2次世界大戦、41年太平洋戦争開戦へと時代は突き進んだ。全日本婦選大会も1937年、第7回が最終回となった。

1936年犬養首相に要請する市川房枝たち)

 こういう時局であればなおのこと女性の政治参加が必要であると、ファッショ反対、戦争反対を表に裏に秘めながら、婦選獲得運動の一環として市政浄化や卸売市場改革、母性保護法・家事調停法制定などの運動を展開した。しかし、女性たちの高まる思いに反して運動は「冬の時代」を迎え、それは「咲きかけた花がむしりとられた」ようだったと、市川は後に自伝に記している。

 選挙粛正中央連盟評議員、国民精神総動員委員会幹事、大日本婦人会審議員、大日本言論報国会理事ほかを併任しながら、1940年に婦選獲得同盟解消を余儀なくされた後は、婦人時局研究会や婦人問題研究所などを拠点に、自主性を堅持しつつ、戦時下の政府の女性対策について提言をし続けた。

 国策への関与は、婦人運動を担ってきた者としてできる限り女性の要望を政策に反映させ、そのためには政策立案に女性が参加する必要があり、それは「婦選」の実践にほかならないという、苦渋の選択の結果であった。

 しかし敗戦を経て1947年、市川は戦中、大日本言論報国会理事であったことを理由に公職追放となり、講演、執筆などを含め一切の政治的活動を禁じられた。失意の生活は3年7か月続いた。

◆戦後──公職追放を経て活動の前線に復帰

 1950年追放解除後は、戦後いち早く立ち上げた新日本婦人同盟(現日本婦人有権者同盟)の会長に復帰して活動を再開した。52年には日米知的交流委員会の招きで渡米し、53年帰国後は東京地方区から無所属で参議院議員に当選。以後59年、65年と連続当選し、4度目の71年は落選。74年、80年は全国区から2位、続いて1位で当選した。

 市川の選挙は、「出たい人より出したい人」をスローガンに、推薦届出制による理想選挙方式で、選挙のたびに推薦会を立ち上げ、選挙費用も推し出したい人が持ち寄るという方式を6回貫いた。

 議員としては、平和憲法を守り、議会制民主政治を築くための二院制の確立、政治資金や選挙制度の改革、金権選挙の廃止、女性の地位向上などの問題に取り組んだ。5期25年間の国会質疑は232回を数え、これらは1992年、市川生誕100年記念事業として『市川房枝の全国会発言集』にまとめて刊行した。参議院会議録から採録したもので、発言の主要事項をキーワード化した索引も付し、テーマごとに通覧しやすいようにした。

 市川は戦前から女性団体を組織し、時に他団体と共同運動も組みながら対議会活動をしてきたが、自ら議員となっても運動をけん引し続けた。

 例えば、国連が提唱した1975年の「国際婦人年」には、実行委員長として超党派の全国組織女性団体・労組婦人部など41団体による国際婦人年日本大会を開催し、大会後は連絡会の世話人として連帯の絆を強めた。5年後の1980年には「国連婦人の10年中間年日本大会」を開催し、このときの最大のテーマは女性差別撤廃条約を批准することだった。男女雇用機会均等法や家庭科の男女共修、国籍法改正など、国内法を整備して批准するよう、市川は大会実行委員長として、また議員として政府に強く働きかけた。政府が批准したのは1985年、市川が亡くなって4年後だったが、憲法や法律だけでなく、さらに日本女性の権利を担保するものとして女性差別撤廃条約の批准は、晩年に最も力を入れた運動のひとつだった。その条約も万能ではなく、国連女性差別撤廃委員会からは日本政府に対し様々な是正勧告が出されているが、女性たちは差別撤廃委員会を傍聴し、意見を政府にも委員会にも提出するなど、新しい運動のよりどころとなるツールを得ることとなった。

 また航空機輸入疑惑をめぐるロッキード事件やグラマン事件など不祥事が後を絶たないことから、1979年には「汚職に関係した候補者に投票をしない運動をすすめる会(ストップ・ザ・汚職議員の会)」を女性・市民17団体で結成。市川は代表世話人として金権選挙を排除し、汚職政治家を追放する国民運動に浄財を募る募金広告を全国紙に、意見広告を地方紙に載せ、また汚職候補の選挙区に乗り込んだ。「今度来たら命をもらう」という脅迫電話もあったが、県警SPなどに守られながら、地元有権者に政治の入り口の選挙をきれいにすることがいかに大事かを訴えた(写真)。

 この運動は『ストップ・ザ・汚職議員!市民運動の記録』(新宿書房、1980年)に詳しいが、汚職関係候補6人のうち1人落選、残る5人も3人が前回より得票数を減らした。当時、朝日新聞の「声」欄には、募金広告を見て寄附をした人と思われる宮城県の男性から、次のような投書が載った。

◆小さな広告が自民党を圧倒

 松野頼三氏は落選した。田中角栄氏は、前回得票より、かなり減りました。さらに大きな成果は、自民党の安定多数確保に「待った」をかけたことです。

 身の危険をかえりみず、熊本県で青空演説を断行し、汚職議員追放と選挙浄化を訴えた市川房枝先生らの熱意が多くの人々に感銘を与えたのだと思います。あの小さな「ストップ・ザ・汚職議員」の募金状況報告では、寄付者の約60%が女性でしたから、やっぱり「天を支える半分の力は女性」ですね。

 政治の流れを変えるのは、私たちの1票の積み重ねであることを、しみじみ感じました。

 同様の運動は戦前もあった。1933年、東京市会選挙の際、婦選・市民6団体が東京婦人市政浄化連盟を結成した。当時ガス会社増資疑獄、市会議長選疑獄、墓地疑獄、市長選疑獄、社会局疑獄、財務局疑獄などに連座して起訴、収監されていた議員11人が立候補している状況に、「あなたの区には、被疑者が立候補している。掃き出せ、つき出せ、醜類を!!」と書いたチラシや、「市民は選ぶな醜類を 築け男女で大東京を」と書いた立て看板をつくり、チラシまきや演説会を行った。また市会議長選被疑者4人を訪ねて立候補辞退勧告状を手渡し、その他の7人には書留で郵送した。訪ねた4人のうち1人は自発的に立候補を辞退していたが、開票結果、残りの3人は全員落選、郵送した7人のうち3人も落選した。

 参政権を持たない女性たちが男性有権者、世論に訴え、間接的に選挙結果に影響を及ぼしたのである。当時から選挙の浄化は民主主義の基本として、市川にとって大きな課題であった。

「ストップ・ザ・汚職議員」の街頭演説(1979年9月15日、熊本市内)

◆婦選会館を活動拠点に

 敗戦の翌194612月、女性参政権実現を記念して、東京・渋谷区の現在地に木造バラック平屋建ての「婦選会館」が建てられた。市川らが寄附を集めてつくったもので、婦人問題研究所の所有とし、新日本婦人同盟の事務所も置かれた。また戦中、都下川口村(現八王子市)に疎開させて戦火を免れた婦選獲得同盟の図書・資料を配架する図書室も設けた。

 その後1962年、老朽化した婦選会館を現在の地上3階・地下1階の鉄筋コンクリート造に改築し、婦人問題研究所は発展的に解消して、自治省認可の「財団法人婦選会館」となった。

 財団の寄附行為には、主たる目的として「女性の政治的教養の向上と、公明選挙、理想選挙の普及徹底を図り、日本の民主主義政治の基礎を築くとともに、女性問題、女性運動の調査研究を行い、日本女性の地位を向上せしめること」が掲げられた。これに基づいて女性への政治経済教室ほかの諸講座、女性問題・女性運動・女性団体の資料収集や調査研究、婦選図書室の公開、出版、国際交流ほかの事業が行われ、市川は初代理事長として1981年に亡くなるまで、会館運営の責任を持った。1983年には財団名を「市川房枝記念会」と改称し、婦選会館は建物名として残っている。

 財団は一昨年創立50周年を迎えたが、市川理事長亡き後の歴史の方が長くなったことは感慨深い。

◆婦人参政権獲得運動からのメッセージ

 1983年、市川房枝記念事業の一環として、婦選会館2階に常設の市川房枝記念展示室を設置した。2012年には60インチ大型モニターを入れて視聴覚コーナーを整備するなど、大幅な改装工事をしたが、生涯年譜をベースに、婦選獲得運動の史資料や遺品、写真パネルなどを該当する年代に展示し、「目で見る日本の婦人参政権獲得運動史」の構成、コンセプトは変わらない。

 昨年は神奈川県の男子校の高校3年生50人が見学に訪れ、今年は前述の劇団青年座の団員が上演を前に市川の実像を学ぶために来室した。このほか、全国から女性たちの国内研修や、タウンウォーキングのグループ、卒論準備のための学生や、歴史の授業準備のために訪れる教師など、国内外からの見学者が後を絶たない。

 展示ケースに陳列されている、当時の運動の請願書、チラシ、日記、書簡、新聞記事、自伝草稿や愛用した品々などには、時を経た原物ならではの迫力がある。

 見学者の感想文はHPでも紹介しているが、展示物や映像、音声などを通して市川という存在に触れた喜びや発見などが素直に記されている。「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」「権利の上に眠るな」という市川のメッセージに気づき、その感想を記す人も多い。

 前述した、婦選要求の目的4項目はパネルに体系化して展示室に張られている。

 その前に立つと、「婦選は鍵なり」すなわち、婦人参政権が平和で民主的な社会をつくる鍵であり、女性たちはその鍵を使って社会参加をしていってほしいという市川のメッセージが伝わってくる。

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🔵森まゆみ=山川菊栄の生涯

───超然とした眼鏡の理論家、戦時中、鶉の卵を売って節は売らず

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山川均とともに

森まゆみ=暗い時代の人々

山川菊栄

http://www.akishobo.com/akichi/mori/v3

http://www.akishobo.com/akichi/mori/v4

 山川菊栄のことを美人だという人が最近二人いた。仏文学者の鹿島茂さんは「ハンサムウーマン」の第一として彼女を上げる。「徹底的に理性で詰める。義理や人情で男たちはなにバカなことをやっているのよ、ってところが実にハンサム」。政治学者の原武史さんも山川菊栄を絶賛していた。若いときの美しい写真が一枚残っているということは大事だ。といっても菊栄の写真は地味な着物に髪を結い上げ、眼鏡をかけている。化粧っけもなく、何一つ男への媚はない。そういう毅然とした勉学一筋の美しさが、選択眼のあるインテリ男性を魅了するのだろう。

 「青鞜」の女たちのことはかなり調べた私だが、山川菊栄とは地域的にも接点はなく、「青鞜」の周辺にいた女性なので調べが行き届かなかった。

 「青鞜」の主宰者、平塚らいてうが心中未遂事件で世を騒がし、また明治四十四年には「青鞜」発刊の「元始女性は太陽であった」の宣言で女性史上に名前を残し、戦後も平和運動の先頭に立って華やかな活躍をしたのと比べ、菊栄はやや地味である。社会主義に発つ婦人解放運動の理論家で、戦後、初代の厚生省婦人少年局長を務めた、くらいのことしか一般には知られていない。

 私自身、「母性保護論争」(一九一八~一九一九年の間に繰り広げられた働く女性と出産・子育てを巡る論争)などで、抜群に論理の切れがよいのは分かったが、伊藤野枝などに対する完膚なきまでの論破が、やや上から目線に思えて、若いときの私はそう好きになれなかった。しかし『青鞜の冒険』を書くさい、平塚らいてうがその後、母性保護から優生思想や国家主義になだれ、市川房枝ら婦人運動の指導者たちがすすんで戦争協力をしていく中で、どうして山川菊栄がそれをしないですんだのか、興味がわいた。

yamakawa山川菊栄(やまかわ・きくえ):1890年、東京生まれ。女子英学塾(現・津田塾大学)卒業。堺利彦・幸徳秋水らの金曜講演会、大杉栄らの平民講演会を通して社会主義を学ぶ。1916年「青鞜」誌上に廃娼問題をめぐる論文を発表し、文壇デビュー。平塚らいてう、与謝野晶子らと「母性保護論争」を繰り広げる。社会主義的な観点から女性問題を追及。プロレタリア運動の指導者のひとりであった山川均と結婚する。1921年には日本初の社会主義女性団体「赤瀾会」の結成に参加。戦後に労働省婦人少年局の初代局長に就任し、女性の権利擁護の運動に尽力した。

 生涯のライバルともいえる平塚らいてうとは、生田長江、森田草平らが講師を務めた閨秀文学会で十代の頃からの知り合いである。

 らいてうは自伝に印象をこう書いている。「青黄色く沈んだいかにも不健康な寒々とした顔色、縞目も分からないほど地味な木綿の着物の山川さんからは、若さとか、娘らしさというものがみじんも感じられず、わたくしは山川さんを、自分と同じ年頃かとばかり思っていました」。実際は菊栄の方が四歳年下だ。

 よく書くなあ。らいてうらしい歯に衣着せぬ証言である。しかし、その見栄えのせぬ人がいうことが歯切れ良く、鋭いので注目したという。自分の興味に忠実ならいてうは、麹町区土手三番町にある山川家を訪ねたが、「古風な暗い感じで、部屋の中に何の装飾も色彩もなく、火の消えたような冷たい空気を感じたことだけは、よく覚えております」、とこんな印象だった。

 山川菊栄は旧姓を青山菊栄といい、母方の祖父は水戸藩の儒者青山延寿である。弘道館の教授を務めた。父は森田竜之助といい、松江藩の出身で、早くフランスに留学、畜産を学んで帰ったが、帰国後は不遇であった。らいてうの家が、紀州徳川家の藩士で、父が会計検査院次長にまでなった維新の勝ち組だったのに引き換え、菊栄の家は維新の負け組のインテリだった。それがおのずと家の雰囲気に出ていたのであろう。反対に雪の塩原心中事件で世間にバッシングされたらいてうを本郷区丸山福山町に菊栄が見舞うと、堂々たるお屋敷住まいで女中もたくさんいるのに驚いた。「平塚さんは世評はどこふく風とばかり、いつもの通り淑やかに、しかし勝ち誇り、自信に充ちた面持ちで禅を説き、『碧巌録』をすすめた」。元祖スピリチュアルのらいてうの面目躍如。これまた相手をきびしく、よく見ているものである。

 菊栄が生まれたのは明治二十三年(1890)、麹町区四番町九番地といい、いまの九段である。番町小学校から府立第二高女(いまの都立竹早高校)にすすみ、祖父の死により、戸籍上は青山家を継いだ。「その頃女で有名なのは芸者かメカケ。まだ女優も歌手もない頃でした」。菊栄は馬賊になろうと思ったという。さぞ愉快だろう、と。

 十代で国語伝習所、閨秀文学会などに出かける知識欲の強い少女だった。女子英学塾を卒業、辞典の編集、翻訳、家庭教師などで自活しようとした。大正四年頃、神近市子の紹介で大杉栄にフランス語を習い、平民講演会などにも参加。

 評論家としてのデビューは「青鞜」(大正五年正月号)である。菊栄は「青鞜」の発刊に際しては「その貴族趣味と芸術偏重にあきたらない思いをした」という。学習院の上流子弟であった志賀直哉、武者小路実篤、木下利玄などが出した「白樺」を連想した。しかし女性が抱える問題が男性より深刻であったため、この雑誌は徐々に「文芸の女性の天才を生む」ことから「女性の人権の主張、家族制度への反抗」に向かっていく。

売文社の人々。写真の右から二番目が山川均。その左隣が順に山崎今朝弥、堺利彦、大杉栄。

 この年は富山魚津の漁民の妻たちによる「米騒動」の起きた年である。そして翌年、ツァーリ(皇帝)の専制に民衆が喘ぐロシアで二月革命が起き、それは日本の社会主義者を大きく勇気づけた。しかしロシア共産党は一九一九年コミンテルンを設立、各国に支部を作るため、片山潜からは堺にモスクワに来ないか、という話があった。「革命運動をその国の実情を知らない外国人の意見で決めるのはおかしい」と堺も山川も考えた。

 菊栄は乳飲み子を育てるかたわら、大正八年、平塚らいてうと与謝野晶子の「母性保護論争」に参入、社会主義的見地からの家庭論を主張した。皮切りは、フリーの歌人として、稼がない夫を持ちながら十三人もの子を生み育てた与謝野晶子が「女性は男にも国家にも依頼主義にならず、自立して子どもを育てるべき」といった。これに対しらいてうは、スウェーデンの社会思想家エレン・ケイの影響のもと、「恋愛の自由と母性の確立が女性解放の条件であり、妊娠、出産、育児期の女性は国家が保護するべきである」と主張。ここに割ってはいった菊栄は「女性の経済的な自立を強調する晶子は、労働の権利を重視するあまり生活権の要求を軽視し、逆に母性の国家による保護を強調するらいてうは、母親の生活権の要求ばかりを重視するので、万人のための生活権という考えには思い及ばない」と主張、結局「現今の差別社会では女性は幸福に子どもを生み育てることはできない。社会主義の実現こそが鍵」だと述べた。山田わかも良妻賢母主義から「家庭婦人も報酬はもらっていないが、家事に誇りを持つべき」と付け加えた。

 今風にいい直すと、晶子が叩きあげ/キャリア女性代表、らいてうがママさん(子持ち女性)中心主義だとすると、菊栄はそのどちらにも当てはまらない農村漁村、工場で働くもっと厳しい生活の人々を救いあげる方法を社会主義に見出していた、といえるのかもしれない。生理休暇、産前産後休暇、育児休暇、通称使用などかなりの部分は戦後の労働運動の中で「働く女性の権利」として実現したが。それもバックラッシュで母子家庭の児童手当などは削減されつつある。

 菊栄は群をぬいた理論家として認められた。が、家庭は夫均のたびかさなる下獄、雑誌の発禁、講演旅行、療養、山川家の不幸などがつづき、落ち着いた家庭生活は営めなかった。雑誌は逮捕や発禁のたびに誌名を替えざるをえず、住む家も転々としている。

 大正九年(1920)、折からの大正デモクラシーの雰囲気の中、平塚らいてうは市川房枝らと新婦人協会を結成、雑誌「女性同盟」を発刊し、(1)女性の政治参加を阻む治安警察法第五条の撤廃、(2)花柳病男子の結婚禁止、に関する二つの請願を国会に提出した。しかしこの協会は傾向の違う婦人が参加したこともあって、らいてうが引き、市川房枝が外遊不在中に「治安警察法第五条修整」に成功したと同時に分裂して終わる。

 同じ年の十二月、社会主義者は大同団結して「社会主義同盟」が成立した。しかし治安警察法第十七条(労働者の団結とストライキの禁止)によって昂然と創立大会は開けず、準備会を創立大会とした。案の状、翌大正十年(1921)一月の第一回公開大会は開会と同時に解散を命じられている。

 そして三月、伊藤野枝、堺利彦の娘真柄、久津見房子、中曽根貞代らと初めての社会主義婦人団体「赤瀾会」を結成、五月のメーデーに参加した参加者は全員検束された。菊栄は子どもの病気の世話でメーデーなどに参加できず、呼びかけ文を書いたくらいだったといっている。

 六月の神田青年会館に七百人集まった婦人問題講演会も講演者ははしから弁士中止とさえぎられ、会は解散せざるをえなかった。このとき菊栄は「平生は小柄な体に似合わぬ地声のように思われる野枝さんの声が、講演ではよくとおって美しく、声量の豊かなのに驚いたものでした」といっている。

 赤瀾会には勤労婦人は参加できなかった。直ちに職を奪われるからだ。せっかく女性の政治参加を禁止する治安警察法第五条を撤廃しても「社会主義社には適用されなかったも同然でした」「赤瀾会は若い活動家の弾圧による犠牲がたびたびで怖れられ、公然の活動を封じられ会員は他の団体の中で縁の下の力持ち的仕事に終わったのが事実でした」(『日本婦人運動小史』)。

 夫を獄に取られ、妻たちは内職をして一家を支えたり、獄中の夫やその友人たちにまで本や食べ物を差し入れした。そのため体を壊し、道半ばに倒れた人も少なくなかったという。菊栄は小学校の教員だった中曽根貞代、女子高等師範の学生だった山口小静、女子医専の学生だった原田かつ子の名を上げている。「当時は結核が青年病で多くの優秀な同志を奪ったものでした」。そうしたインテリ層のほかにも、折から盛んになった労働運動の中で、「演説女工」として有名になった山内ミナ、田島ひでなどもいた。

 同じ頃、大正九年(1920)には「社会主義研究」が弁護士山崎今朝弥(やまざき・けさや)の手から山川に托され、大森の自宅は編集所のようになった。

 大正十年(1921)、堺や山川は東京で「日本共産党準備会」を秘密裏に立ち上げるとともに、山川の在宅日に「水曜会」なる研究会を開き、ここに集まる青年たちが有力な活動家になった。その中には戦い半ばで倒れた渡辺政之輔(台湾基隆で射殺)や河合義虎(関東大震災時に虐殺)もいれば、戦後に代議士となった徳田球一や井之口政雄(共産党)黒田寿雄(社会党)などもいた。

 この水曜会から雑誌「前衛」も生まれている。この辺は運動史としては地味な部分で研究者以外あまり知る人もいないが、こうした山川の活動を菊栄は支え、近くから見ていたことになる。この頃も夫妻ともに病状すぐれず大森と鎌倉極楽寺の家を行き来して半ば療養生活を送った。

 大正十二年(1923)九月一日、関東大震災。山川家の住む大森の家も療養先の鎌倉の家も倒壊。菊栄は麹町の無事だった実家森田家に振作を連れて避難し、均は大森の家と荷物を整理した。そして十六日、菊栄と均は四万人以上が焼死した本所被服厰(ひふくしょう)跡を見に行っている。そして二十日頃に届いたのは、かつての仲間、大杉栄と伊藤野枝が甥とともに憲兵隊によって虐殺されたという報であった。

 一九一七年、といえば大正六年、ロシアで労働者による革命が起こったときには「暗夜に灯火を見る思い」だったと山川菊栄はいっている。日本ではそのころ、大逆事件のあとで、社会主義冬の時代といわれていた。ロシア革命の影響で山崎今朝弥(やまざき・けさや)弁護士宅に集まった三十八人の人々は、ロシア革命に対する支持激励の決議文を送ることになった。その草案の起草をした山川均はそれを皆の前で読むのに感極まって、声が出なくて困ったという。その後、ソビエト連邦がどのような経路をたどって一九九三年に崩壊するかまでの歴史はまだ彼らには見えていない。「労働者の権力」の中に官僚機構ができ、労働者を「人民の敵」として多数粛清していく陰惨な歴史はまだ見えてこない。

 とにかく世界で初めてツァーリの絶対主義帝政を倒し、労働者の政権ができたということは歓迎すべき、嬉しい出来事だった。やがて吉野作造の「民本主義」を説いた歴史的論文も出て、大正デモクラシーの花が咲く。大正九年(1920)には最初のメーデーが行われ、労働者たちは街頭をデモ行進した。とはいえこれが自由に行われたわけではない。さっそく治安警察法十七条(労働者の団結とストライキの禁止)で、赤瀾会に属する女性たちも検束された。ストライキといえばこの十七条を盾に、巡査が駆けつけ、主立ったものをブタ箱に入れる、演説会があれば弁士が出るやいなや「弁士中止」と臨検の警部が手を上げる。「解散」とどなる。天皇や皇太子の外出には危険回避のために、前日から社会主義者を捕まえ、「ブタ箱」で「保護」した(いまでも上野の美術館などに皇室の人々が来ると、前日に公園の野宿者一掃が行われ、彼らは根津や谷中に下りてくる。パリのテロに警戒を強め、サミットやオリンピックに向けテロ対策を強化すると政府はいうが、それを口実に国民の自由な街頭行動や集会の束縛を許してはならないと思う)。

 大正十年(1921)四月、山川均は堺利彦や近藤栄三、高津正道、橋浦時雄らとともに、日本共産党準備会を秘密のうちに発足させ、翌年、七月十五日に日本共産党(第一次)が創立される。当時はソ連の世界革命を目指すコミンテルン日本支部という位置づけで承認された。

 この間、山川均は「青服」「新社会」(復刊)、山崎今朝弥から引き継いだ「社会主義研究」などの雑誌を出し、大正十一年(1922)には均と菊栄の共同出資で「前衛」を創刊。社会主義陣営での内部対立もはげしかった。大正十一年の山川均「無産階級運動の方向転換」は独りよがりの英雄主義を脱して運動を大衆とともにでなおすことを訴えた。いままでの社会主義運動は少数の「前衛」によるエリート主義によって、実際の大衆の生活からはなれてしまった。これからは運動の方向を転換して、大衆の生活欲求に寄り添いながら運動を進めていくべきだと主張した。同じ年、アナボル論争(アナルコサンディカリズム〔無政府組合主義〕とボルシェビズム〔レーニン主義〕との間の論争。アナ派は政党の指導によらない労働組合の自由な連合を重視し、ボル派は共産党を中心とした中央集権的な組織論を重視した)は決着を見、アナ派は舞台から姿を消した。

 しかし出してもすぐ発禁になるため雑誌は続かなかった。大正十二年(1923)、関東大震災の未曾有の被害を逆手にとって、政府は社会主義者を予防検束にし、大杉栄・伊藤野枝夫妻、南葛労働組合の平澤計七、河合義虎などを虐殺した。このとき、在日朝鮮人の人々も多く殺された。山川均と菊栄は大森の安普請で建てた家が倒壊し、行く先を告げずに家をたちのいたため軍隊の手に渡らずにすんだ。その後の借家難もあり、神戸の垂水に転居。大正十四年(1925)には神戸御影に、大正十五年(1926)には鎌倉に転居する。一粒種の振作は病気がちで、その診療のために東京と鎌倉を行き来した。

 大正十三年(1924)、山川均は解党を訴え、共産党はいったん解散。モスクワに盲従する人々、ブルジョワの中に入ってそれきり消えた人々、福本イズムなどさまざまな誤りの中で、その後の運動は小さく、失速させられていく。やがて、山川均は迫り来るファシズムに対して人民戦線を企てるが失敗して検挙されてしまうことになる。

 いっぽう運動が弾圧されてからの社会主義者やアナキストには「『主義者』と称して強がってルバシカを着込み、毛を長くして威張るとか、金をもらって歩くとか寄生虫のような連中も出てくるという情けない有様も一部には見られました」と述べている。これは私がじかにアナキスト望月百合子に聞いたことだが、石川三四郎の世田谷の千歳村の共同学舎にもそのような、威勢がいいばかりで勤労意欲のない「アナキスト」が多くやってきたそうだ。白山南天堂なども大正十三年はずいぶんとにぎわった。アナキズムが政治的に力を持たなくなり、それは文化的、性のアナーキーに向っていた。彼らは金がないながらも一杯のアブサンで時間をつぶし、酔いつぶれて安易に男女関係を持った。こういうことに山川菊栄は批判的であった。

 大正十四年三月、治安維持法成立。これは普通選挙法とバーターというか抱き合わせだった感がある。山川菊栄は「治警法を何倍にもした悪法で、同年成立した普選を骨抜きにし、革新勢力をねこそぎにするためのものだった」(「土手の松風」)といっている。

 おなじ大正一四年、ヨーロッパ帰りの秀才、福本和夫によって山川均の理論ははげしく批判される。福本は山川を「現実追従主義」「折衷主義」と批判して、更なるエリート主義の純化を訴えた(福本イズム)。山川の理論は影響力を失ったが、そのきっかけとなった福本和夫もまた昭和二年(1927)、ソビエトのコミンテルンの批判を受けて失脚する。

 一部のアナキストは弾圧がはげしくなれば卑怯者は去るといい、社会主義者のあるものはモスクワ崇拝に傾き、あるものは運動を捨てた。この中で菊栄らは政治研究会の綱領の中に婦人の特殊的要求(いっさいの男女不平等法律の廃止、教育と職業の機会均等、公娼制度の廃止、最低賃金の保障、同一労働に対する男女同一賃金、母性保護)などを提案したが、男性の指導者は無理解であり、婦人の幹部はそれに追随した。これを皮切りに、菊栄は労働組合評議会の婦人テーゼ草案を書くことになる。その後、大正十五年には第一次共産党事件(一九二三年六月五日、山川均や堺利彦など約八十名が一斉検挙された、共産党に対する最初の弾圧事件。第一審判決は一九二五年、第二審判決は翌一九二六年)の山川均の無罪判決が出た。

 苦しい歳月だった。昭和四年(1929)には山川の父清平が死去。昭和八年(1933)には菊栄を陰になり日なたになり、かばってくれた姉松栄がなくなった。

 最近、池本達雄氏の調査により、この松栄の随筆集がお茶の水大学の女性文庫にあることがわかり、二人でいってコピーをとってきた。菊栄の影に隠れて目立たないが、この松栄もたいへん優秀な人で、お茶の水の女子校等師範を出て、教師になっている。佐々城という人と結婚したがエスペラントの普及に努め、五十くらいでなくなった。驚いたのは、その追悼本を作って女子校等師範に寄付するにあたり、その母、八十近い千世(ちせ)が書いた文字の美しさである。「山川菊栄の母はこのような美しい手蹟を持つ人であったのか」と驚いた。

 昭和の初期にはナップ(全日本無産者芸術連盟)やコップ(日本プロレタリア文化連盟)が結成され、プロレタリアの文化運動、そして労働運動も盛り上がったのだが、小林多喜二の虐殺、そして3・15、4・16何度かの弾圧を経て、「昭和八年が少し動けた最後かな。それからは全く動けなかった」(向井孝)と聞いている。山川均は学校教育としては同志社の中学を中退しただけだが、もともと理科系に強く、家の世話はもちろん、とくに農業や畜産にも興味の深い人だった。菊栄はそれまで祖父延寿にしろ、父竜之助にしろ、男が家事をするのは見たことがなかった。「ここへ来てはじめて主人という名の大工、建具屋、左官、庭師をただでお抱えにしておくような身分になった」といっている。均は最初、商売も考えたが、昭和七、八年から、畑を耕すかたわらウズラ飼育をはじめる。青菜を畑に育て、それを肉引き器で挽いて資料に混ぜ、鳥かごの餌入れに一日三回やる。昭和十一年(1936)にはいまの藤沢市弥勒寺に移って湘南ウズラ園を開業。

 翌年、山川均は執筆禁止となる。十二月にいわゆる人民戦線事件(一九三七~一九三八年にかけて、人民戦線結成を企てたとして、日本無産党や社会大衆党などの関係者四百人あまりが治安維持法違反で検挙された事件)で均は検挙、起訴され、家族から引き離され、病気のまま、東調布署から巣鴨拘置所に移された。十四年(1939)五月、保釈出所、藤沢に帰る。均のいない間、菊栄は長靴を履き、泥だらけになって鶉(ウズラ)の小屋を掃除し、卵を箱詰め、出荷、掛取に奮闘したという。

 三越の食堂に世話してくれる人がいて、そのころの一円の定食には山川夫妻が育てたウズラ卵が三つ葉や湯葉と一緒にお吸いものに入っていた。しかし菊栄が掛け取りにいっても、一つ一銭三厘の値段通りさっと代金を支払ってはくれず、いつもたらたらこごとをいわれた。築地本願寺前の鳥八という店の主人は食用ウズラの代金を一度ですませたことはない。「私のように高利貸しや特高のおかげで百パーセント忍従の美徳を身につけている人間でなかったら、その辺におきちらしてある鶏の包丁であの男をひとつきにしたことでしょう」。ここなど、ユーモアと皮肉を加味した胸のすくような名文である(『女二代の記』)。

 その後、昭和十二年(1937)、日中戦争勃発、十七年(1942)に山川均は一審判決で懲役七年となる。直ちに控訴、控訴審判決は五年と二年縮まった。もちろん上告。昭和二十年(1945)四月、均の郷里に近い広島県高木村(いまの府中市)に親戚の高橋家を頼って疎開。これは振作の妻美代がお産を控えていたこともあり、振作が官憲の手で殺される可能性もないとは言えない父母と妻を、政治的にも軍事的にも意味のなさそうな広島の岡山よりの山間部に疎開させたのである。そこで終戦を迎え、九月、一足先に均は藤沢に帰った。菊栄は十月に帰宅、この間、均が起訴された原因である「人民戦線事件」は連合軍の命令により、上告中のまま解消された。すなわち社会主義者山川均の無罪は証明されたことになる。山川夫妻は自ら額に汗することによって、どうにか戦争協力をせずに、手堅く暗い時代を乗り切った。

 この活動も執筆もできない時期に山川菊枝は何をしていたか。それが彼女の代表作『武家の女性』と『わが住む村』である。二作とも岩波文庫に入っており、聞き書きをいかした庶民史の名著といえる。

 『武家の女性』は水戸藩の儒者であった菊栄の祖父、青山延寿ときくの間にできた菊栄の母千世を中心とする物語である。千世は安政四年(1857)年に水戸にうまれたが、それから維新までの十年は激動の時代であった。ことに、佐幕派(諸政党)と勤王派(天狗党)が二手に分かれてしのぎを削った水戸藩では、殺しあいや暗殺は日常茶飯事、血のつながりのある人々も、処刑獄門といった目に遭う。その中で、女性たちがどうやって日常を送ったか。貧乏侍にも楽しみがなかったわけではない。夫婦の融和、嫁姑関係、女の子のしつけ、男の子のしつけ、学問、食べ物、きもの、家の構造に至るまで、記憶力のいい母千世に根掘り葉掘り聞いて、優しい日本語で書き留めている。

 とくに、女に学問はいらぬと、裁縫を習いにいく。一通りできるようになると合格点を出し、みんなで「おめでとうございます」と祝う。その旦那が面白い人で、押し入れから袖付きの布団を出して、歌舞伎の女形の声色を使い、娘たちの笑いさざめく様子など、のんきで和やかで楽しい。しかし主婦が元気で働き者で気配りや機転が利くかどうかで一家の命運は決まる。「申し分なく行き届いてテキパキと働く」「真正直に、骨身を惜しまずに働く」が褒め言葉である。そのために母は娘を、姑は嫁を徹底的に仕込んだものだが、現在では男女同権のもと、娘に家事をさせることもあまりないのはちょっと惜しまれる。菊栄は親族中の女性を「気持ちのいい人」「のんきな人」「優しい人」「楽天的なサラサラした人」などと評し分ける。一番低い評価は「冷たい人」。一家の男の子に四書五経の手ほどきをしたのが祖父、青山延寿で、四十過ぎてはげたので付けまげを付ける苦労があった。「よく働く上に無遠慮で、快活で世話好き」だった祖父が藩の内戦に巻き込まれ、家屋敷を取り上げられ狭い長屋に押込められるいきさつ、など深刻な中にユーモアも漂う。身分制度の時代故、商家から嫁に行ったものは正妻になれず、「お部屋」でおわったとか、妾が何人いても正妻は威厳を保ったとか、他国から嫁いだものは武家でも「よそ者」と蔑まれたとか。圧巻は七人までも気に入らぬ嫁を里に返した本家の因業な姑、それに文句をいわなかった本家の主人に、叔父である延寿は「お前は世間を畏れるが、俺は天を畏れる」と一言でいさめるところ。また烈公徳川斉昭は奢侈禁止令を出したが、その前の哀公の時代は芝居も遊芸も絹物も許されており、どの時代に育ったかで人格に影響があることも菊栄は書き留めている。特段社会主義の理論や価値観で当時の水戸藩を切ってはいないが、正確で具体的な叙述がこころよく、また祖父延寿の理非をわきまえた正義感が、孫である菊栄の中にも生きていたのを感じる。

 「公文書にないものは歴史ではない」とする歴史学の中に、このような生活史の著作はどのように位置づけられるのか、これを民俗学の泰斗柳田國男が後押しして戦争たけなわのころに出版されたというのが、特異である。柳田は得てして、高級官僚であって上からの視点しかなかったようにいわれるが、社会主義者を戦時中に励ましてこうした著作を自分の主宰する郷土史文庫の一冊として刊行したことも一つの抵抗として評価しなければならないことだろう。しかしおそらくこの作品で印税はなく、「『村の秋と豚』、『婦人と世相』の二冊は纏め上げはしたものの出版社がつぶれたり不誠意だったりで一銭にもならず、改造社から出た『女性五十講』は発禁。『女は働いている』という一つだけがわずかの収入になりました」と次に述べる『女二代の記』に書いている。

『おんな二代の記』東洋文庫、1972年(初版は日本評論新社、1956年)

 戦後、『武家の女性』を引き継ぐかたちで、昭和三十一年(1956)には『女二代の記』を刊行。これまた前半は記憶力のよい母千世から聞いた維新後の千世自身のライフヒストリー。

 ご一新になって水戸から青山一家が上京してきたころの東京の様子。武家屋敷は荒れ果て、ある建物はほぐされて移築され、ある屋敷には薩長の田舎武士が住んでいた。青山家は麹町に古い旗本屋敷を買って住む。勉強したい千世はそのころようやくできかけた中村正直(日本で初めて家庭でクリスマスを祝った人としても知られるが、その様子も書かれている)の同人社女学校を皮切りにいくつかの学校で学び、女子師範の第一期生となる。

 ここにもお垂髪に打ち掛けの皇后がハイヒールを履いて室内で傘をかざされて見学に来たのに笑いをこらえる女学生、皇后たちの方もお嬢さん置物に堅い小倉袴を履いた女学生に大笑いという、文明開化時に特徴的な「ちぐはぐ」な様子が面白い。そして自由主義的な中村正直校長のあと、女高師も国粋主義時代になるとお太鼓の着物姿に、更に鹿鳴館時代にはなれぬ洋装に、と、時代に流されていく。明治初期のウサギの流行、西郷どんの大人気、列強の植民地主義へのインテリ女性の憤懣などが描かれる。

 そして千世は松江出身の森田辰之助と結婚し、四人の子を生す。その三番目の次女が菊栄で、菊の花の香るころにうまれたのであった。隣に住んでいる水戸弘道館教授の延寿は、兄と姉に漢文を教えるが、少し歳のはなれた菊栄には教えてくれない。それはとても悔しかったようである。菊栄の父守田竜之助という父親は、菊栄の自伝では「派手なことが好きなはったりの多い発明家のような人で、母親は苦労した」という印象を受ける。しかし調べてみると、彼は松江の人で、明治の初期に欧米で畜産業を学び、養豚業を手がけた創始者であるらしい。写真で見るとなかなかの美男子だ。しかし水戸藩の儒者の娘千世とは生涯、あわなかった。父は不在がちでたまに帰ってくれば、派手なことが好きな性分から、子どもをお祭りや縁日に連れ出すくらいで、この家は祖父の方に重心が偏った母子家庭のようなものだった。

 後半は菊栄自身のライフヒストリー。姉松栄が母の様に女高師をすんなり出て、女学校の教師になったのと対照的に、なにも自分で納得しなければ気がすまない菊栄は学校選びも迷走して、津田を出たのは二十二歳である。

 母のことを語るときは菊栄というプリズムを通しておおらかな遠い昔話となるところが、自分のこととなるとそれはまぎれもない現実である。山川均と結婚してからの病苦と弾圧に抗しての生活史は淡々と語られて、いっそ迫力がある。

 この辺の運動史はたいへん貴重な記述であるが、その複雑な経緯と出てくる人名を追うだけでもややこしい。ファシズムに反対する運動が大きくまとまりそうでまとまりきれずに力を失っていくさまは、いまの日本の政治状況と重ねてみるととてもおそろしい。そんな状況を菊栄はどんな気持ちで過ごしていたのだろうか。

 息子振作の夫人美代の姪岡部雅子は、一九三七年に十二歳ではじめて叔母の姑である菊栄にあった。「母を訪われた菊栄に、次々に身に迫る弾圧の中にある人に見られがちな、不安定で神経質にぴりぴりした表情や、逆にいなおったり、肩肘を張って力んだりと行った姿はなく、落着いた奥深い人間味、緊張となごみ、温かさや安定感と親しみも感じさせる、静かで地味なごく普通の女性を見たのだった」と書いている(『山川菊栄と過ごして』)。 戦後、雅子は教師の仕事を続けながら、山川夫妻のよき助手となった。

 たくさんの同志が戦い半ばで倒れたことを菊栄は、まるで魯迅が教え子の頓死を悼むように書き続ける。関東大震災でなくなったハイカラな知識人の大杉、無邪気で乱暴な奥様の野枝、「近年は大杉氏もおいおい神格化して超人的な英雄、絶世の美男、ひとめで女を悩殺するドンファンとまで相場が上がっていますが、私の見た限りでは、あの妙な事件は、大杉氏に魅力がありすぎたのではなく、金がなさすぎたからのことに過ぎなかったと思うのです」などという評言は菊栄でなければ書けないものである。

 天性の風来坊で山川家を助けてくれたが、大杉の復讐といって福田大将狙撃未遂で獄死した村木源次郎。車夫をしながら夫婦極貧の中でいたわりあった渡部政太郎夫妻。高井戸の聖者、奇人の江渡狄嶺(えと・てきれい)。朝日新聞の記者ながらロシアで行方不明となった大庭呵公(おおば・かこう)。きょうのごはんは薄いオカユか、と嘆いた河合義虎、期待の星だったのに胸を病み、台湾で死んだ山口小静、彼女のことは繰り返し、書いている。彼女をしのぶ堺利彦の詩は山口に捧げられたものであるが、運動そのものの困難を示してもいるのでここに掲げたい。

  また一つつぼみがおちた

  立ち止まり

  ふりかえり

  いとほしむ暇もない

  我々の道の歩み

 ややさかのぼってしまった。戦後、占領軍は思わぬ役目を山川菊栄にふる。戦後、府中から帰京、均も菊栄もさっそく活発な活動を始めた。菊栄は昭和二十一年(1946)四月、平林たい子、神近市子らと「民主婦人協会」を結成した。昭和二十二年(1947)九月、労働省の初代婦人少年局長に任命されたのである。これは平塚らいてう、市川房枝、奥むめおはじめ、主立った婦人指導者が戦争に加担してしまったとき、戦前から引き続き婦人の労働条件改善に関わり、しかも戦争協力をしなかった人は、菊栄しかいなかったことによる。また当時、片山均首相の初めての社会党内閣であったことや、GHQがケーディス率いる民政局のニューディル派が優勢だったことにもよる。

 実力からしても適正な抜擢といえよう。菊栄は局長として、人材抜擢を行い、谷野せつ、高橋展子、その他の人を部下とした。しかし旧弊な官僚たちからは煙たがられたし、官庁にはちゃんとした女性用トイレさえなかったようである。

婦人少年局長時代の山川菊栄(1948年頃)

 そのころの山川菊栄は若いころのすっきりと美しい俤(おもかげ)はなく、いかにも地味で気安げなおばさんで、白いブラウスにスーツ姿でどこにでも出かけた。二年半ほどで官僚を辞任したあとも、イギリスの労働党政府から招かれヨーロッパを視察、そののちは夫の看病もあり、家にくる後進に講話をするなどして、あまり目立つ役職には就かなかった。それでも「婦人の声」を創刊、山川均は藤沢の家の庭にバラ園を造る傍ら大きな机で執筆を続けたが、胃がんにより一九五八年、七十八歳で死去。社会党葬がおこなわれた。 菊栄はこの同志でもあり、生涯の恋人でもある山川均と四十年あまりを添い遂げ、亡き後も藤沢で、親族の岡部雅子と独立自律の共同生活を続けた。

 平塚らいてうは、戦時中をふりかえることもせず、というか後ろを振り向かないのも彼女の麗質ではある。共産党を支持したこともあって、共産党系の婦人団体で活躍し、世界民主婦人連合副会長などを務め、いまも顕彰されている。いっぽう山川夫妻は社会党を支持したが、社会党は労働組合に基礎を置く党員の少ない政党で、その凋落もあって、山川菊栄が読み継がれているとはいえない。

 しかし『武家の女性』『わが住む村』『女二代の記』そして晩年に書いた『幕末の水戸藩』の四作は、いまも比類ない生活史として燦然と光を放っている。

 一人息子振作は東京大学を卒業して医学研究者となり、孫二人にも恵まれ、菊栄は一九七七年、八九歳で大往生を遂げた。地味ではあるが、ぶれのない、透徹した一生だったと思う。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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