トルストイの戦争と平和論

トルストイの戦争と平和論

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★★トルストイの遺言=戦争と平和 90m

★トルストイの名言5m

★トルストイ民話集『人はなんで生きるか』の紹介28m

★トルストイ朗読「イワンの馬鹿」72m

◆トルストイの生涯と名言

トルストイの名言・格言

◆中村 唯史 =トルストイ『戦争と平和』における「崇高」の問題PDF32p

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◆宮坂 和男 =トルストイの生命論PDF17p

◆岩崎 紀美子=内なるトルストイ : 与謝野晶子の初期評論を支えたものPDF28p

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◆原 卓也=トルストイの宗教思想PDF10p

◆松沢 弘陽=札幌農学校・トルストイ・日露戦争–1学生の日記と回想(資料)PDF21p

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◆左近 =賀川豊彦における平和思想の形成過程 : トルストイの影響をめぐってPDF15p

◆奥村=トルストイとスタニスラフスキイ : 芸術観の親近についてPDF10p

◆坂根=広津和郎論 : 「怒れるトルストイ」を中心にPDF9p

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◆関 啓子=トルストイにおける自由教育論をめぐって8p

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◆末包 丈夫=トルストイとツルゲーネフの間

15p

◆関 啓子=クループスカヤにおけるトルストイの影響8p

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◆末包 丈夫=トルストイと老子PDF14p

◆上條 宏之=日本における初期社会主義とトルストイ キリスト教社会主義者木下尚江・野上豊治の検討を通して・その1

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その2

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深澤論文

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🔵トルストイの日露戦争論(「平民新聞」)

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近代デジタルライブラリー

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871597

戦争が最高潮に達した8月、

39号は、全紙をあげてトルストイの「日露戦争論」全12章を掲載した。これはトルストイがロンドン・タイムズ1904627)に寄稿した非戦論「悔い改めよ」を秋水、枯川が共訳したもの。「平民新聞」(190487)に「トルストイ翁の日露戦争論」として全文訳載され,日本国内でも大きな反響を呼んだ。

「平民新聞」は次号の社説に,トルストイの個人主義的非戦論に対する社会主義的立場における非戦論との相違を説き,戦争の原因は「人々真個の宗教を喪失せるが」ではなく,「列国経済的競争の激甚なるに在り」とした。

◆トルストイの日露戦争論(一部のみ)

(うみねこ堂一丁目提供)

http://uminekodo.sblo.jp/article/48291260.html

Leo Tolstoy

トルストイ 『胸に手を当てて考えよう』訳:北御門二郎氏 地の塩書房

トルストイの書簡安部磯雄(『平民新聞』代表)との書簡

レオ・トルストイから安部磯雄への手紙

1904年10月23日から11月5日の間にヤースナヤポリャーナにて書かれたもの

親愛なる安部磯雄 様

お手紙ならびに 英文論説掲載の新聞 拝受拝読致しました。厚く御礼申し上げます。

欺かれ 愚鈍化された双方の国民の間に行われている戦争 という恐るべき犯罪に反対している、聡明で道徳的で宗教的な人々が 

日本にも多数いるであろうことを、私はこれまでにも信じて疑いませんでしたが、今、その確証を得て 実に喜びに堪えません。

日本の地に、自分が親しく交流出来る友人や同志がいることを知り得たことは、私にとって大きな喜びです。

ところで、全ての敬愛する友に対して そうありたいと思うように、貴方に対しても率直でありたいと思いますので、歯に衣着せずに申し上げますが、私は社会主義には賛同できませんし、非常に賢明で精力的な貴国民の中でも最も精神的に発達した人々が、ヨーロッパから非常に根拠薄弱で、妄想と誤謬に満ちた社会主義の理論を本家のヨーロッパでは既に廃れかけている理論を取り入れたことを 残念に思っております。

社会主義の目的は、人間の中の最も低劣な性質を満足させることに、つまり 物質的幸福にあり、しかもその提唱する手段では、それは決して達成されないのです。

人間の幸福は、精神的なもの、つまり道徳的なものであって、その中に物質的幸福も含まれているのです。

そして、この より高い目標は、諸国民あるいは人類を構成する あらゆる結合体の宗教的な、つまりは道徳的な完成のみによって到達できるのです。

私が宗教と言うのは、全人類に普遍的な神の掟に対する理性的信仰のことであって、

その掟は、万人を愛し、万人に対して 己れの欲する所を施せという戒律の中に、はっきり示されております。

私は そうした方法が、社会主義その他のはかない理論より以上に非現実的なものに見えることは知っていますが、これこそ唯一の真実な方法なのです。

我々が誤った、決してその目的を達成することのない理論の実現に躍起となればなるほど、それは現代に最もふさわしい人類および各個人の幸福の水準に到達するための

唯一の真実な方法の適用を 妨げるのです。

貴方の社会主義的信条に対して、忌憚なき意見をのべたこと、それに まずい英語で書いたことをお許し下さるよう、そしてまた私があなたの真の友であることを信じて下さるよう

お願いしつつ 擱筆(かくひつ=文章を書き終える)致します。

レオ・トルストイ

今後ともお便り戴ければ 幸甚に存じます。

トルストイ『胸に手を当てて考えよう』 訳:北御門二郎氏

1904年4月30日

「どうか戦争を企てたあなた方、

戦争を必要とし、戦争を弁護するあなた方が、日本人の弾丸や地雷のそばへ行ってください。我々は、行きません。

なぜなら、我々にはそんなこと必要ではないばかりか、一体なぜ そんなことが誰かに必要なのか 分かりませんから」

というのが 当然である。

でもやっぱり彼らはそうは言わないで、

戦争に出かけていくし、彼らが肉体を滅ぼすものを恐れて、肉体も霊も滅ぼすものを恐れない限り出かけざるをえないのである。

昨日私は、知り合いの農夫から二通の手紙を引き続き受け取った。

「今日、私は召集令状を受け取りましたこれで いよいよ遠い極東地方で、日本軍の弾丸の下をくぐらねばなりません。

..4人の子供をかかえた妻はどうしたらいいでしょう?私は招集を拒否することはできませんでした。でも前もって言っておきますが、私のために日本人のただ一つの家族も

戦死者を出すことはないでしょう。

ああほんとうに、今まで一緒に生きてきたもの、生き甲斐であったものを何もかも棄てて行くのは 何と恐ろしく、切なく苦しいことでしょう」

「現在 地表のほとんど3分の1に広がる、隠れた悲しみを計る尺度は、どこにあるのでしょう?そして我々は 遠からず

復讐と恐怖の神の生贄に供されることでしょう。私はどうしても精神の均衡を確立することができません。

ああ私はどんなに、自分が唯一の主なる神に仕えることを妨げる、

こうした二重性を持つ自分を憎んでいることでしょう。」

この人はまだ、真に恐るべきは 肉体を滅ぼすものではなくて、肉体も霊も滅ぼすものであることを充分悟らず、そのために、軍務を拒否することが出来ないけれども、

()訳者 北御門二郎氏 徴兵を拒否

それでも家族を棄てて出発するにあたり、

自分は日本人の家族のただ一つからも戦死者を出すようなことはしないと約束している。

彼は最も重要な神の掟、全ての宗教の掟である「己れの欲するとこをろ人に施せ」を信じている。

そして現在、その掟を大なり小なり意識的に認めているそうした人々は、単にキリスト教世界のみならず、仏教の世界、マホメット教の世界、儒教の世界、バラモン教の世界にも何千人ではなく何百万人といるのである。

真の英雄は、他人を殺そうとしながら自分は殺されなかったばかりに、現在英雄扱いされている人々ではない。

真の英雄は、人殺したちの列に加わることを断乎拒否し、キリストの戒めに背くよりは 殉教の苦難をえらんで、現在、監獄にいたり

ヤクーツク州に流されたりしている人たちなのである。

そう、現在における大きな戦いは、今、日本人とロシア人の間で行われている戦いでもなく、これから起こるかもしれない△人種と△人種との戦いでもなく、地雷や爆弾や銃弾で行われる戦いでもなく、まさに今、目覚めつつある人類同胞の意識と、人類を取り囲み、圧迫を加える闇と 苦悩との戦いなのである。

ある人々は宗教などという代物は全然不必要だと決めてしまい、宗教なしに生きながら、いかなる宗教もいっさい不必要だと説いているし、またある人々は、現在説かれているような歪められた形のキリスト教を墨守して、

相変わらず宗教なしで暮らし、人々の生活の指針となり得ない、虚しい外面的形式のみを説いているのである。

しかし一方では、現代の要求に答える宗教がちゃんと存在しており、全ての人々に知られていて、隠れた形で人々の心の中に住んでいる。

◆石川啄木のトルストイ論(当ブログから)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/48165_36757.html(青空文庫)

🔴◆◆トルストイの『戦争と平和』を読む

木村奈保子

 最近のイラクの現状を表すのに、「古典的なゲリラ戦」という言葉が使われた。それはいったいどんなものなのであろうか。私は、文字通りの古典であるこの『戦争と平和』に、それを理解する手がかりを見いだした。

 もちろん、ここに書かれた19世紀初頭のフランスとロシアの関係が、そっくりそのまま現在のアメリカとイラクに当てはまるわけではない。フランスとロシアの軍事力は対等に近いが、アメリカとイラクの軍事力には極端な差がある。しかし、あっけない首都の占領、にもかかわらず勝利できずにいる軍隊、各地で生じているゲリラ戦、これらの中に、200年を隔ててなお両者に共通する普遍的なものを見ずにはおれない。

「古典的ゲリラ戦」についての考察

 『戦争と平和』の第四巻第三編の記述にそって具体的に見ていこう。トルストイは、まず、これまでの歴史に疑問を抱く。どうして、全国民の力のごく一部分に過ぎない軍隊の敗北で、なぜその国民全部が征服されることになるのか。「軍隊が勝利をうるやいなや、たちまち、戦勝国民の権利は、戦敗国民の損失として増大する。軍隊が敗北するやいなや、その敗北の程度に応じて、国民はたちまち権利をうしない、自国の軍隊が完敗すれば、国民も完全に征服されてしまう。」これは、トルストイにとっては不可解であっても、事実であり、歴史はそれを証明してきた。

 しかし、1812年におけるナポレオンのモスクワ占領からその撤退に至る過程は「一国民の運命を決する力は、征服者の手にも、軍隊や戦闘の中にすらもなくて、なにかべつのものの中にあることを、証明した。」「戦勝は通例の結果をもたらさなかった」。近辺の百姓たちは、牛馬の糧食となる干し草を全部燃やしてしまい、決してモスクワを占領したナポレオン軍に渡さなかった。「従来のいかなる軍事的伝説にもあてはまらない戦争が、はじまったのである。」

 それをトルストイは剣道による決闘を始めた二人の人物に例える。二人は、はじめは剣道の法則にのっとった試合を行った。しかし、傷ついた一方(この場合はロシア)が、剣を投げ捨てて、「最初に手にあたった棍棒をとり、それをやたらにふりまわしはじめた」。ナポレオンは、ロシアの皇帝と将軍に、彼らの「戦争のやり方がすべての法則に反していることを訴えてやまなかった。(まるで人を殺すのに何か法則があるかのように)」。フランス側の訴えにもかかわらず、また、棍棒で戦うことが恥ずかしく思われるロシア側の地位の高い人々の思惑にもかかわらず、「国民戦争の棍棒は、ものすごい怪力をこめてふりあげられ、何者の趣味にも法則にも頓着無く、愚かしいまでの単純さでしかもよく目的にかないながら、遮二無二ふりあげられたり打ち下ろされたりして、ついに侵入軍が全滅するまで、フランス軍をたたきのめしてしまったのである。」

 「こうした試練に際して、他の国民ならこうした場合法則どおりにどんな行動をとるかなどということを問題とせず、率直に、気がるに、手あたりしだいの棍棒をとって、心中の怒りと復讐の念が、侮蔑と憐憫の情にかわるまで、敵をたたき伏せうる国民は幸いである。」

 この「棍棒」に例えられる戦い方として大きな役割を果たしたのが、不正規(ゲリラ)軍による遊撃(パルチザン)戦である。「いわゆる戦争の法則に対するもっとも明確にして有利な逸脱のひとつは、個々に分散した人々の、一団に密集した人々に対する行動である。この種の行動は、つねに、国民的性格をおびた戦争において現れる。これらの行動は、集団が対立するかわりに、個々に散った人々が、めいめい勝手に襲撃し、優勢な敵の軍隊の攻撃を受ければさっそく遁走、さらにまた機を見て襲撃に出るという方法である。」

 こうした戦い方が可能であり、有効でもあるというのはどうしてなのだろうか。ここで「軍の士気の意義を決定し表現すること」が「軍事学の課題」となる。「進撃にさいしては集団的に行動し、退却にあたっては分散して行動せよとおしえる戦術上の法則は、軍隊の力がその士気に左右されるという真理を、ただ無意識に立証しているにすぎない。人を弾雨の下へみちびくためには、攻撃軍を撃退する以上の、集団行動によってのみえられる規律が必要である。」しかし、1812年のフランス軍が集団的に退却したのは「軍の士気があまりに沮喪して、ただ集団だけが軍をいっしょにささえたから」であり、逆にロシア軍の方は「戦術上は集団で攻撃すべきだったのに、じっさいには個々に分散している。それは、士気があまりにあがっていて、個人個人が命を待たずにフランス軍を攻撃するので、一身を困難と危険にさらすように強制する必要がなかったからである。」

 「遊撃戦がわが政府によって公然と採用されるまえに、すでに数千の敵兵--落伍者、略奪兵、挑発隊など--が、コザックや百姓たちに掃滅されていた。」遊撃隊は、ロシア政府によっても編成されるようになり、大きさや性格を異にした部隊が百を数えた。「なかには、軍隊の体裁をそのまま取り入れて、歩兵、砲兵、司令部、その他生活の便宜を備えたものさえあったが、なかにはまた、騎馬のコザックだけのものもあった。歩兵と騎兵の小さな混合部隊もあり、だれにも知られていない、百姓や地主の集団もあった。一ヶ月のうちに数百の捕虜をえた寺男を指揮者にした徒党もあれば、数百のフランス兵を殺したワシリーサという村老の女房などもあった。」

 現在のイラクにも、「おのが国土を侵入から清掃する」という目的のため、士気高く、何ものにも強制されずに「一身を困難と危険にさらす」何人もの「ワシリーサ」がいるのではないだろうか。その一方で、自分は国際的な条約や法律を蹂躙しておきながら、イラクの人々のゲリラ戦に苦情を申し立てるアメリカの姿がある。彼らの士気はあまりにも沮喪しているので、誰でもいいから自分たちといっしょに行動する軍隊を求めているのではないだろうか。

戦争の描かれ方 

 さて、『戦争と平和』とは、ロシアを讃え、フランスをののしる話ではない。戦争の賛美でも否定でもなければ、平和への説教でもない。そうした価値判断は『戦争と平和』のなすべきことではない。そこに存在する一人一人の人間を、その全体像において捉えること、これが『戦争と平和』が唯一なしていることである。

 第一部第二編から戦場の場面が始まる。1805年、オーストリア軍とロシア軍が連合してナポレオンひきいるフランス軍と対峙する。ここでトルストイがまずもって描いたのは、軍隊の壮大な滑稽さである。

 ある歩兵連隊を、総指揮官が見に来るという知らせが来た。「おじぎはつねに、したりないよりしすぎた方がましだ」という説を根拠に、「兵たちは、三十露里の行軍ののちに、終夜一睡もしないで、修理や手入れに忙殺され、副官たちや中隊長たちは、点検をくりかえした結果、朝までには連隊は、前夜さいごの移動の際に見られたような、だらだらした無秩序な群集でなくて、二千人の整然とした集団--そのひとりひとりがおのれの位置と任務を知り、ひとりひとりの身に付いた一個のボタン一条の革紐までが、所定の位置にあって清潔さにかがやいている集団を現出していた。」

 ところが、総指揮官クトゥーゾフは、ロシアから来た軍隊がどれほどみじめな状態にあるかをオーストリアに見せたかったのである。そのことがこの連隊に伝えられたのは、総指揮官が来る一時間前であった。

 「さあ、やっかいなことをしてしまったぞ!」「だからおれがいったじゃないか、行軍状態のまま、外套着用だって」と連隊長は大隊長を責め、あわてて、兵士に服を替えるよう指図をする。なんとかみんな揃いの外套に着替えられたのだが、その中で、一兵士に降格された青年将校がひとりだけ違う外套を着ていることで、また一悶着起こってしまうのである。

 軍隊内では、盗みも発生する。若い軽騎兵ロストフは、同じ部隊の将校がその犯人であることを発見し、連隊長に言った。ところが、連隊長はロストフにその発言をうそだと決めつけた。他の将校たちも、事実はロストフの言うとおりであることを知っているにもかかわらず、こういう事件が表沙汰になることで、連隊全体が不名誉を被ると考え、ロストフに発言の撤回と謝罪を迫る。若いロストフは古参の将校たちに責め立てられ、目に涙をためて、「ぼくにとって連隊旗の名誉が……。ええい、なんでもいいです、ほんとうに、ぼくがわるかったです!……」という言葉を口に出してしまう。

 このロストフ、戦場に出たが、彼が思っていたような華々しいことは何一つできなかった。「ロストフは、何をしていいかわからないで、橋の上に立ちどまった。たたき斬る(彼はいつも戦闘というものをそういうふうに想像していた)にも相手がいなかったし、橋を焼く手伝いをすることも、彼はほかの兵たちのようにわら束をもってこなかったのでできなかった。彼はただ立って、あたりを見まわしていた、とたんにくるみでもまきちらすような音が橋の上に起こった」。フランス軍からの砲撃で三人の軽騎兵がやられたのだった。ロストフは彼のすぐそばにいた兵が倒れるのを目にして、恐怖にとらわれる。「何もかもすんでしまった。が、臆病者だ、そうだ、おれは臆病者だ」とロストフは考える。

 橋を焼くことを命じた大佐は、その成果について得意げに振る舞い、損害については、「『いうにたりません!』と大佐は、バスで答えた。『軽騎兵二名負傷、一名即死』彼は即死という美しい言葉をひびき高くずばりと発音しながら、幸福の微笑をおさえきれないで、明らかな喜びをもってこう言った。」

 トルストイは、心理描写は最小限にとどめ、ほとんどの場面を情景描写に当てている。しかし、そこで描き出された情景は、何よりも雄弁に、各人の心理状態と、そして軍隊の不条理さ、非人間性を物語っている。

 しかし、戦争で悲惨な目にあった人々が、戦場で体験した感覚そのままに、反戦や厭戦の立場に立つわけではない。

 ロストフは、そのあとの攻撃に際して、落馬して手を捻挫しただけで、ほうほうの体でフランス軍から逃れ、負傷兵として運ばれた。「暖かく明るい家、毛の柔らかい毛皮外套、速い橇、健康な肉体、家族の愛情と心づかいなどを思い出していた。《なんだっておれはこんなところへ来たんだろう!》と彼は考えるのだった。」しかし、彼の厭戦的気分も長く続くものではなかった。若いアレクサンドル皇帝を一目見るや、「いまだかつて経験したこともないような、優しさと歓喜の感情を経験した。皇帝に属するいっさいのもの--あらゆる線、あらゆる動き--が、彼には、魅力あるものに思われたのだった。」「《ああ! もし陛下が今すぐ火の中へ飛び込めと命じられたら、自分はどんなに幸福になるだろう》とロストフは考えた。」古参の軽騎兵大尉ヂェニーソフは、出征中はだれにも惚れる相手がいないので、陛下に惚れ込んだのだと、ロストフのあまりにも甚だしい皇帝への熱中ぶりをからかうが、これはロストフを怒らせるだけだった。

 冒頭で紹介したパルチザン戦の具体的な記述においても、悪しき侵略軍を、同じ目的に身も心も結ばれた正義の防衛軍がやっつけるとでもいった血湧き肉踊るシーンを期待してはならない。そんなものはまるで描かれない。ここでもやはり、一人一人の人間がリアリティー豊かに描き出されるのである。

 あるパルチザン部隊は、同時にふたつの大部隊から合流を呼びかけられる。しかし、この部隊を率いるヂェニーソフは、どちらの部隊に対しても、すでにもう一方の指揮下に入ったという手紙を書く。彼は、自らの独立性を確保するためには、こういうしたたかなやり方も辞さない。

 このヂェニーソフの部隊には、チーホンという百姓出身の男がいた。彼はこの隊で最も役に立つ勇敢な男であったが、他のコザックや軽騎兵たちの道化にされていた。「ヂェニーソフの隊の中でチーホンは特別な例外的な地位を占めていた。なにかとくに骨の折れるいやなこと--ぬかるみにはまった車を肩で押しだすとか、馬の尻尾をつかんで泥沼から引きだすとか、その皮を剥ぐとか、フランス軍のまっただなかへ忍び込むとか、一日に五十露里ずつも歩くとか、こうしたことをしなければならぬ時には、だれもが笑いながらチーホンをさすのだった。『なあに、あいつぁなにをされても平気だ、まるで頑丈な去勢馬よ』みんなは彼のことをこう言っていた。」

 さらにこの部隊に少年兵ペーチャがやってくる。彼は、軍人の兄(ロストフ)にあこがれ、自分も手柄を立てたいという功名心から軍隊に志願したのだった。「彼は、軍隊内で見たり経験したりすることでひじょうな幸福を感じていたが、それと同時に、のべつ、今自分のいないところでは、それこそ正真正銘の英雄的なことが行われているのではないかという気がしてならないのであった。そして彼はいつも、今自分がいないところへいそいで行こうとあせっていた。」そして、彼は、意味もなく無謀な行動に出て、頭を弾丸に打ち抜かれて死ぬ。

 一方、フランスの軍人として登場するのは、まずは、捕虜になった少年兵である。「少年は寒さからまっ赤になった両手で軽騎兵にしがみつき、むきだしの両足を暖めようとして、もぞもぞ動かしたり、眉をつり上げて、びっくりしたようにあたりを見まわしたりしていた。」

 モスクワから脱出したフランス軍のうち、捕虜を率いて進む部隊は、特に惨めな状態であった。物資を運ぶのはまだ何かの役に立つことがわかるが、「同じように飢えてふるえているロシア人を張り番したり、護ったりするばかりか、途中こごえて落伍する者でもあれば、命によって射殺しなければならぬのはなんのためか、--これは不可解以上にいやなことであった。したがって、護送兵たちは、彼ら自身が苦しい状態におかれているなかで、彼らの心にある捕虜に対する同情の念に負けて、そのためいっそう自分たちの状態をわるくするのを恐れるかのように、ことさら陰鬱に、過酷に、彼らを扱うのであった。」

 このフランス兵たちによって、ピエール(この小説の重要な人物の一人ではあるが主人公ではない、この小説に「主人公」は存在しない)は、捕虜として辛酸をなめ、彼が精神的に大きな影響を受けたカラターエフは銃殺される。しかし、トルストイは銃殺した側の方がむしろ恐怖にかられていたことを書くのを忘れない。

 トルストイの、一人一人の人間に対する愛と批判を同時に兼ね備えた作家としてのまなざし。それはある人間や国家や民族を、お決まりの型にはめて、「悪」だの「善」だのというレッテルを貼ってすますことから最も遠いところにある。それは、戦争をあおるプロパガンダを見抜く目ともなる。この小説を堪能することによって、そういう人間観察の視点が養われていくのでは、と思わずにはいられない。

忙しい人に薦める『戦争と平和』の読み方

 実を言うと、トルストイの作品は、これまでほとんど読んでこなかった。トルストイぐらい読んでおかねば恥ずかしいという妙な「教養主義」に引きずられながらも、どうせ、お説教くさい小説に決まっているという根拠のない先入観にとらわれて、読むことを積極的に楽しもうという気にはなれなかった。

 この『戦争と平和』にしても、分量の長さと、登場人物の多さに加えて、最初の出だしが社交界での愚にもつかないおしゃべりとくれば、よほど暇を持て余している人間のための読み物であろうと判断して、本棚でほこりをかぶらせるがままにしてしまった。

 しかし、いまや、この時代--世界が大きく変化しようとしている時代--にあって、この小説が描き出していることを、新しい読み方で、--単に教養を深めたいとかではなく、現代を理解するために、今現実に生じている出来事を全面的に把握する見地を得るために--読み直すことに、大きな意義を感じている。

 私がお薦めするのは、トルストイの専門家などからはひんしゅくを買うかもしれないが、戦争のシーンだけを読むという読み方である。最初の第一編はそっくり飛ばして、第一巻第二編から読んでいくのである。遺産だの、恋愛だの、家庭生活だのといった話がでてくると、取りあえずどんどん飛ばしていく。分量は半分以下になる。それすら読む時間がなければ、冒頭に紹介した第四巻第三編だけでもいい。

 その上で、登場人物たちに馴染みになれば、他の箇所も読んでみることをお薦めする。そこには、例えば、農民たちの生活を改善しようという理想と善意に満ちたピエールの行動が、何一つまともな結果を生まず、かえって農民たちの生活を苦しくしている(しかもピエール本人はそのことに気がついていない)のを見るだろう。ピエールとは違って、実際的な能力に長け、戦場でその知性と勇気をいかんなく発揮するアンドレイ公爵が、愛するナターシャとの結婚に際しては、反対する頑固な父親が突きつけた条件に譲歩してしまうという不面目な様を呈するのを見るだろう。残忍な人間ではないのに、みんなからひどく怖がられているニコライ老公爵は、娘を知的な女性に育てたいと思って無理に数学を教える。その父親におびえて過ごしてきたのに、甥の勉強を見る時、同じように、厳しく振る舞ってしまうマリヤ。あふれる生命力そのものであり、おのが心のままに、時にはとっぴな行動をしでかしてしまうナターシャ・・・。最初は閉口していた人物の多さ、話の長さに、いつの間にか引きつけられている自分を発見するかもしれない。 

引用は、河出書房新社 世界文学全集21~23(中村白葉訳)より。

現在入手可能なのは、岩波文庫(米川正夫訳)か新潮文庫(工藤精一郎訳)。

どの図書館にも必ず備えてあるはずである。

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🔵トルストイの生涯と作品

小学館(百科)

[法橋和彦] 

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Лев Николаевич Толстой Lev Nikolaevich Tolstoy 

1828-1910

ロシアの文学者。828日(新暦99日)由緒(ゆいしょ)ある伯爵家の四男としてトゥーラ市近郊ヤースナヤ・ポリャーナに誕生。2歳で母を失い、9歳で父と死別。5歳のころ、長兄ニコライの話から、万人が幸福になる秘密の記された「緑の杖(つえ)」の探索や「蟻(あり)の兄弟」ごっこに熱中。これらはロシア現代史の起点となるデカブリスト貴族の乱(1825)に淵源(えんげん)する独創的な遊びであった。その痕跡(こんせき)は処女作『幼年時代』の「遊び」の章に初出し、その由来は『戦争と平和』のエピローグで、叔父(おじ)ピエールの革命思想に感動するアンドレイ・ボルコーンスキイの遺児ニコーレンカの描写に認められよう。これらの意義は最晩年の『想い出』にも強調され、生涯トルストイの体制批判と求道精神の原点となった。その一環として彼は死後の埋葬をも「緑の杖」ゆかりの森に指定した。

【目次】

 文学の方法と特質

 再度のヨーロッパ旅行

 幾百万農民の世界観へ

 専制政治への批判

 日本への影響

🔴(1)文学の方法と特質

16歳、東方問題が時代の焦点であったのを受けて外交官を志望、後見人のもとからカザン大学アラブ・トルコ学科へ進むが、ルソーを愛読、哲学的思索に没頭して落第、翌年法学部に移り、新進の民法学者メイエルの感化を受け、自発的にモンテスキューの『法の精神』と照合してエカチェリーナ2世の『訓令』批判を書き残して「哲学と実践を統一」するため18474月に退学、兄妹5人で遺産を協議分割、ヤースナヤ・ポリャーナで地主生活に入る。所有農奴(男性数330)の生活改善運動に取り組みつつ、体育から医学に至る体系的な自習プランを超人的に実践するも3か月で挫折(ざせつ)、ここに至る間の生活心理は自伝的性格の作品『少年時代』(1854)、『青年時代』(1857)に続く『地主の朝』(1856)によく分析されている。以後22歳までの3年間を「非常に荒廃した生活のうちに送る」が、51年長兄ニコライとカフカスへ向かい、翌年現地で砲兵下士官として現役編入。ビバーク生活のなかで「夢想と現実を融合」する創作方法を確立、『幼年時代』(1852)を「頭でなく心で書くこと」に成功。自らを実験台として獲得した「魂の弁証法」、「村民の心に移り住むことのできる能力」と「清新な道徳的感情」(チェルヌィシェフスキー)は以後トルストイ文学の不変の特性となった。『襲撃』(1853)、『森林伐採』(1855)および戦記小説の金字塔たる三部作『セバストーポリ物語』(1855~56)は、カフカスにおける実戦参加やクリミア方面軍に志願転属して1855年の露土戦争に従軍、最激戦の第四稜堡(りょうほ)を死守した体験から書かれ、階級的な戦場心理の分析、死の刹那(せつな)における生の回帰的継続性、民族問題とジェノサイド、子供の目や自然保護からの戦争批判、戦争の正義・不正義の問題等々が総合的に考察された。またロシア外地たるカフカスへの旅やその地での生活は、のちに不滅の青春小説『コサック』(1863)に結実し、山岳民族出身の悲劇的英雄ハジ・ムラートに関する見聞は晩年に手がけられた同名の遺作として光彩を放っている。

🔴(2)再度のヨーロッパ旅行

185511月、ロシア農奴制廃止の政治的引き金となったクリミア戦争から帰還して、ツルゲーネフをはじめ多数の文学者から歓迎されたが、首都の文学サロンになじめず、翌年には30年間のシベリア徒刑からモスクワへ帰ってきたデカブリスト老夫婦を主人公とする小説を構想。これが『戦争と平和』への端緒となる。57年、最初のヨーロッパ旅行で公開ギロチンを見物、恐怖の衝撃からパリを退散、帰途ルツェルンでの体験をもとに民衆芸術に酷薄な西欧ブルジョアジーの文化性を告発する短編に着手。58年アレクサンドル2世による農奴解放案を聞き、その欺瞞(ぎまん)性に激怒、「農民は土地なしで解放されない」と主張、同時に自らをデカブリストの革命的伝統にたつ貴族と規定、「下からの革命」を警告する手紙(未発送)を書く。59年には贅沢(ぜいたく)な有閑マダムの末期(まつご)の苦しみと老馭者(ぎょしゃ)のわびしい病死に重ねて、彼の墓標のために切り倒される1本の樹木の死を描き、三者の美醜を論じた短編『三つの死』を、また都会の社交文化における新婚生活の危機と田園の勤労生活における夫婦の友愛の成立を描く『家庭の幸福』を発表、60年には最初の教育論文『児童教育に関する覚書きと資料』、短編『牧歌』『チーホンとマラーニヤ』を脱稿して、6月教育事情視察のために二度目の外国旅行へ妹とたつ。南仏に長兄を見舞うも、920日肺結核で死去(37歳)。この兄の死の悲しみは、2年後の宮廷医ベルス家の次女ソーフィヤ18歳への結婚申込みとともに、後の『アンナ・カレーニナ』のレービンのプロットに詳しく描かれている。

🔴(3)幾百万農民の世界観へ

18612月の農奴解放令布告に強い不信を抱きつつ、農地調停員として農民の利益を擁護、地主たちの反感を買い1年後に辞任。ツルゲーネフの偽善性を批判して決闘を申し込むほど神経過敏となる。8月、教育雑誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』刊行(予約読者少なく18631月休刊)。62923日、34歳を過ぎて結婚。翌年から88年(60歳)初孫誕生までの25年間に妻に94女(うち夭折(ようせつ)41女)を産ませる。63年ツルゲーネフの『父と子』におけるニヒリズム、チェルヌィシェフスキーの『なにをなすべきか』における女性解放思想を「嘲笑(ちょうしょう)する目的」で喜劇『毒された家庭』を書く。69年完結の『戦争と平和』のエピローグにも女性の社会的進出に対する論争的意図がうかがえる。

 1870年代初頭よりピョートル大帝時代の小説を構想するが、現代との脈絡をみいだせず擱筆(かくひつ)、『アンナ・カレーニナ』の主題形成と並行して『ロシア語読本』の制作に精励、『鱶(ふか)』『飛びこめ』『カフカスのとりこ』など多くの起死回生の物語が、難産した『アンナ・カレーニナ』における死と生の二つのプロットの展開に活力を与えたと推察される。70年代末よりツルゲーネフとの友情を回復、『教義神学の批判』や『四福音書(ふくいんしょ)の編集翻訳』に着手、民話に注目、『懺悔(ざんげ)』によって特権的な貴族的生活を脱し「額に汗して営々と働く幾百万農民」の世界観に転機を求めた。84年には『わが信仰はいずれにありや』を脱稿、禁煙を始め、チェルトコフとともに民衆図書普及社「ポスレードニク」を創立。85年『ロシア思想』誌1月号は、82年のモスクワ国勢調査参加を資料とする『さらば我ら何をなすべきか』の掲載で発禁。ヘンリー・ジョージの『進歩と貧困』を読み、土地私有廃絶を決意、家産を憂慮する妻との不和つのる。87年には飲酒と肉食を断つ。80年代後半には創作民話『イワンのばか』をはじめ、実在した不幸な優駿(ゆうしゅん)の一代記『ホルストメール』、権威ある法官の刻々の死を裸にして描いた『イワン・イリイーチの死』、姦通(かんつう)問題を正面から取り上げた『クロイツェル・ソナタ』、資本主義的諸関係の浸透する農村の悲劇を描く戯曲『闇(やみ)の力』、さらには『人生論』を完成、『芸術とはなにか』に取り組むなど広範な領域での力作を生み出したが、91年これらの著作権を放棄する手紙を公表、妻との確執を決定的なものにした。その秋リャザン、サマラ諸県に凶作飢饉(ききん)が発生、現地で難民の救済のため不休の活動を続け、翌年4月には187か所、毎日9000人に給食、14万余ルーブルの資金カンパが寄せられた。11月下旬グロート教授の紹介で小西増太郎を知り、老子『道徳経』の共訳を始める。

🔴(4)専制政治への批判

1890年代後半のトルストイは、専制政治は戦争を引き起こし、戦争は専制政治を支える、戦争と闘いたいと思う人々は、もっぱら専制政治と闘うべきであると主張した。『愛国主義か平和か』『キリスト教と愛国主義』『カルタゴは破壊されなければならぬ』『愛国主義と政府』といった反戦的社会時評が政府と教会に対して礫(つぶて)のように投げられた。99年には兵役拒否のドゥホボール教徒たちを海外へ移住させる資金を得るために最後の長編『復活』が完成した。政府は国際的な世論を恐れてトルストイの自由を奪えなかった。そのかわり宗務院が19011月に彼を破門した。以後トルストイは古いロシアの終焉(しゅうえん)を全身で感じながら、ニコライ2世やストルイピン首相にあて、暴力と死刑と私有の政治を痛烈に批判する手紙を出し続けた。101028日未明、医師マコビツキーを伴い家出。31日夕刻、アスターポボで下車。117日午前65分永眠。彼の死は稲妻のようにロシアにおける革命的転換の始まりを告げたといわれる。

🔴(5)日本への影響

二葉亭四迷と同学の森體による『戦争と平和』の一部戯訳(1886)に続いて、明治20年代初頭に始まるトルストイの移入と伝播(でんぱ)は近代日本の文学のみならず、社会運動や宗教活動にも深い影響の跡を残している。

 森鴎外(おうがい)は処女作『舞姫』を発表するための跳躍台として、社会的不公正に憤激する若きトルストイの短編『リュツェルン』をレクラム文庫からとくに選び、『瑞西(スイーツル)館に歌を聴く』と題して訳出(1889)した。田山花袋(かたい)は『コサック』を英訳から(1893)、ロシアでトルストイと老子の『道徳経』を共訳して帰朝した小西増太郎は尾崎紅葉(こうよう)と組んで『クロイツェル・ソナタ』を原文から訳出(1896)した。小泉八雲(こいずみやくも)は東京帝国大学文科大学でいち早くトルストイの『復活』や『芸術論』を積極的に論じ、後任の夏目漱石(そうせき)も同じくトルストイの美学的見解に強い関心を示した。漱石は『英文学形式論』や理論的大著『文学論』のなかで、トルストイが芸術に下した定義を「大体において要領を得て居る」と述べている。『帝国文学』に優れたトルストイ論を発表(1904)した斎藤野の人(さいとうののひと)をはじめとする多くの逸材たちのトルストイへの注目もこの伝統に根ざしている。

 トルストイ初期戦記小説の秀作『筒を枕(まくら)に』(原題『森林伐採』)の名訳(1904)を出した二葉亭四迷を得て、『復活』を新聞『日本』に218回にわたって訳載(1905)した内田魯庵(ろあん)は、この時代もっとも早くからトルストイの翻訳紹介に尽くした功労者である。魯庵訳『めをと』(原題『家庭の幸福』)を読んだ国木田独歩は自らの破婚の悲痛な体験と重ねて、そのこみ上げる感想を『婦人新報』に発表(1897)した。

 独歩の友人でのちに社会主義者となる大阪天満(てんま)教会の牧師、百島操(ももしまみさお)もトルストイの宗教的民話の翻訳普及に尽くしている。植村正久、桑原謙三、丸山通一らキリスト者によるトルストイの宗教論と並んで、北村透谷(とうこく)の好評論『トルストイ伯』(1892)や、『破戒』執筆にあたって英書から『アンナ・カレーニナ』の構成を研究した島崎藤村(とうそん)、それと並んで若き日の河上肇(かわかみはじめ)がトルストイにひかれて『人生の意義』を翻訳したり、ト翁(おう)の社会主義観を論じた諸エッセイを書いている(1905~06)ことも注目に値しよう。

 このころ、兄の蘇峰(そほう)(1896)に続いて徳冨蘆花(とくとみろか)がヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ね(1906)、数年後の大逆事件に臨んではトルストイの非暴力主義を体して、幸徳秋水(しゅうすい)らに対する強権的な処刑を批判する講演(『謀叛(むほん)論』)を第一高等学校で行い、秋水記念の庵(いおり)を建てて帰農した。蘆花が秋水を弁護した最大の理由は、1904年日露戦争勃発(ぼっぱつ)の危機に際して『ロンドン・タイムス』に発表されたトルストイの非戦論『考え直せ』を秋水が堺枯川(さかいこせん)と共訳で『平民新聞』に一挙掲載した英断と労苦への共鳴にあった。当時『平民新聞』の読者であった学習院生徒、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)はこれを読んで志賀直哉(なおや)と兵役義務の賛否について論じ合っている。こうしたトルストイの存在がその後、若い白樺(しらかば)派の同人たちの多様な創造的実践を促す一つの大きな要因となった。魯庵訳『イワンのばか』(1906)が社会主義入門の書とまで喧伝(けんでん)されたのもこの時代に属する。その影響は漱石の『吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である』の馬鹿竹の話にも認められよう。

 早くからトルストイに親炙(しんしゃ)していたユニテリアンの社会主義者、安部磯雄(あべいそお)は戦火を超えてトルストイと反戦の手紙を交わし合った。内村鑑三の無教会主義の実践と絶対反戦の信条もこの時代に直接トルストイから受け継がれたものである。

 その内村をモデルの一人として登場させた有島武郎(たけお)の『或(あ)る女』が、『アンナ・カレーニナ』の悲劇を踏まえて、新しい女性の封建的な諸規制からの解放と経済的自立の志向を戦後の社会構造に密着して鋭く問題視しえたこととあわせて、木下尚江(なおえ)が戦中『火の柱』や『良人(りょうじん)の自白』において「天国を地上に経営する」人類の責務と反戦の思想を説いて広く世人の注目を集めるに至る下地にも、トルストイの主張と芸術的感化力がいかに大きく働いていたかが如実に知れよう。こうした時代を背景に、石川啄木(たくぼく)は大逆事件を機に社会主義文献を収集するかたわら、かつて『平民新聞』に訳載されたトルストイの非戦論を重病の床で筆写したのであった。

 明治がトルストイの死と接して大逆事件で終わり、「冬の時代」を経て、いわゆる大正デモクラシー期に入ると、トルストイのほぼ完全な全集が春秋社から、また個人作家研究誌としては世界でも類をみない規模で『トルストイ研究』(1916.9~19.1)が刊行され、広津和郎(かずお)の『怒れるトルストイ』をはじめとする優れた評論を生んだ。

 演劇界では島村抱月の手で松井須磨子(すまこ)主演の『復活』が帝劇の舞台に上り、『生ける屍(しかばね)』が続いて上演され、トルストイの名は民衆の底辺にまで浸透した。土木作業の現場で林芙美子(ふみこ)もカチューシャにあこがれて詩を書き始めた1人であり、『貧しき人々の群』で脚光を浴びた中条(宮本)百合子(ゆりこ)もトルストイの人道主義の理想に大きく影響されて成長した。蘆花に師事した前田河広一郎(まえだこうひろいちろう)たちを含めて、彼らの文学的出発からトルストイの存在を差し引くことはできない。同じころトルストイの作品に共鳴して弁護士を志し、生涯を労働者救援活動に捧(ささ)げた人に布施辰治(ふせたつじ)がいる。

 1920年代後半を盛期とするプロレタリア文学運動のなかでは、レーニンやプレハーノフらによるトルストイ主義批判が文学理論の活用として重視されたが、運動に対する徹底的な弾圧のすえに1933年(昭和85月、中央大学での滝川幸辰(ゆきとき)の学術講演「『復活』にあらわれたるトルストイの刑罰思想」が国体の本義に敵対する発言として政・軍・官の指弾を浴び、これを口実に大学の自治と研究の自由は奪われるに至った。

 この時期にトルストイの家出の真相をめぐって正宗(まさむね)白鳥と小林秀雄の間で闘わされた、いわゆる「思想と実生活」論争には、中国への侵略が拡大していく重苦しい時局へのいらだちが、言葉なき言葉として幾重にも屈折して内攻せざるをえないかの観を呈している。本多秋五による戦中の労作『戦争と平和』論が戦後日本のトルストイ観や研究にとって貴重な架橋となった。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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