三池闘争とは・三池と荒木栄・炭鉱描いた映画・その後の炭鉱

三池闘争とは、三池と荒木栄、その後の炭鉱

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【このページの目次】

◆荒木栄とうたごえ、三池闘争、三池炭鉱、筑豊炭鉱、その後の炭鉱リンク集

◆三池争議=昭和史再訪

◆炭鉱の歌が聞こえる=荒木栄と森田ヤエ子(西日本新聞連載)

◆荒木栄と花田克己(宇部興産炭鉱労働者)

◆講談=荒木栄物語=大谷竹山

Wiki=荒木栄

◆三池炭鉱をたどって=炭塵爆発以降

◆当ブログ=炭鉱描いた山本作兵衛と筑豊炭鉱史

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/3050951.html

◆当ブログ=歌物語労働歌・革命歌・うたごえ、ロシア民謡

🔵三池闘争

ホッパ前で
三池主婦の会も

59-60三井三池闘争3m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v115438711A76ajfPF

🔵NHK戦後50年三池争議

https://drive.google.com/file/d/1hllTqOtNHlsYzUTiswrHAgTTMExtMSRl/view?usp=drivesdk

★★渦巻く暗闇〜工作メモが語る 三池争議計60m

https://m.youtube.com/watch?v=HG7IyKR-axI

は下記

★★三池物語(三池炭鉱の歴史、三池闘争)

105m

(新海覚雄描く)

宮本=戦後炭鉱運動史(2000)

https://drive.google.com/file/d/1AsyiKyYyd2fyAwXu6Zg1qVrPdsPJXagD/view?usp=drivesdk

炭労10年史(64年)

https://drive.google.com/file/d/1TAURev4GLP_zfkliFl

みいけ労組20年(68

https://drive.google.com/file/d/1EX8gNr_EeMgnIlBdrSx_D9XsNEFrpauC/view?usp=drivesdk

みいけ労組20年資料集(68年)

https://drive.google.com/file/d/1EX8gNr_EeMgnIlBdrSx_D9XsNEFrpauC/view?usp=drivesdk

G0C6dmFnup_PI3/view?usp=drivesdk

★★三池闘争の証言

57m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v115438400NHyBhdjz

★★NHK福岡放送局・三池争議50周年6m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v115438708A7gQqgEh

★★ETV三池を抱きしめる女たち~戦後最大の炭鉱事故から50年~58m

1963(昭和38)年11月9日、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で、戦後最大の炭鉱事故が起きた。死者458人、CO(一酸化炭素)中毒患者839人を出す、炭じん爆発事故であった。 

今年、その日から50年目を迎えた。だがCO中毒の後遺症に苦しむ夫を抱えた妻たちにとっては、何も終わっていない。

★★三池炭鉱炭じん爆発事故計25m

朗読https://m.youtube.com/watch?v=srjT6wi4WfU

朗読

https://m.youtube.com/watch?v=DAmY5Hv4bJo

https://m.youtube.com/watch?v=CIeNrnBo3J8

https://m.youtube.com/watch?v=xdLMrgxWV0k

https://m.youtube.com/watch?v=JRu20wJSn_0

https://m.youtube.com/watch?v=O7Gfso0eDhw

🔵労働者作曲家・荒木栄

指揮をする荒木栄

★★音楽センター・荒木栄の歌と生涯 52mhttps://drive.google.com/file/d/1pJVpNhaQ-CjbAnhGPisPvf_N-_QRDWyj/view?usp=drivesdk

★★ドキュメント映画=荒木栄の歌が聞こえるhttps://drive.google.com/file/d/1Fdtjg7gZP_ImWJrMD5MPJWqhqfTQVJCg/view?usp=drivesdk

8312森田ヤエ子=荒木栄の生涯.pdf 

8510神谷国善=荒木栄の歌と生涯.pdf 

◆◆当ブログ=鑑賞=うたごえの歴史、ロシア民謡、労働歌・革命歌

を参照のこと

Wiki=荒木栄、うたごえ運動参照。音楽センター「労働者作曲家 荒木栄」を購入して下さい。三池闘争のなかで作られたすばらしい名曲の数々の紹介。

荒木栄の代表作紹介(音楽センター)

★地底のうた(荒木栄)2.34m

(この動画のなかに、大原社研の五十嵐仁氏が書いた「三池闘争の今日的意義」が紹介されている)

★★地底の歌11m(オーケストラー伴奏)

https://m.youtube.com/watch?v=rxdPpu4c3J0

★★地底の歌9.6m

(三池闘争という労働運動の発展のなかで、またうたごえ運動の発展のなかでつくられた名曲。たたかう三池労働者の姿がみごとに描かれている)

組曲「地底のうた」 

作詞

作曲荒木  栄 

序章 (合唱)

………前奏(序章)F……… 

有明の海の底深く 地底にいどむ男たち

働く者の火をかかげ 豊かな明日と平和のために

  たたかい続ける 革命の前衛  炭鉱労働者

第一章(テノール独唱・合唱)

………前奏(第一章)F……… 

眠った坊やのふくらんだ頬をつついて表に出れば

  夜の空気の冷え冷えと 朝の近さを告げている

………アコ間奏……… 

「ご安全に」と妻の声 渡す弁当のぬくもりには

  つらい差別に負けるなと 心をこめた同志愛

………間奏(第一章)Fm……… 

夜は暗く 壁は厚い

だけれど俺たちゃ負けないぞ 

職制のおどかし恐れんぞ あのデッカイたたかいで会社や、ポリ公や、裁判所や、暴力団と・・・

男も女も、子供も 年寄りも

  「ガンバロウ!」の歌を武器に

  スクラムを武器に  闘い続けたことを忘れんぞ

………間奏(第一章)Fm……… 

夜の社宅の眠りの中から

あっちこっちからやってくる仲間 

悲しみも喜びも分け合う仲間

  闇の中でも心は通う 地底に続くたたかいめざし

  今日も切羽(きりは)へ 一番方(かた)出勤 

第二章(合唱)

………前奏(第二章)Dm……… 

崩れる炭壁(たんぺき) ほこりは舞い 汗はあふれ

担ぐ坑木 肩は破れ 血は滴る

ドリルはうなり 流れるコンベア 柱はきしむ………

  独占資本の合理化と

  命をかけた闘いが夜も昼も

………アコ間奏……… 

暗い坑道 地熱に焼け ただようガス

岩の間から 滴る水 頬をぬらし

カッターはわめき 飛び去る炭車 岩盤きしむ

  「落盤だァー」 「埋まったぞー」

  米日反動の搾取と

  命をかけた闘いが 夜も昼も続く………

第三章(テノール・バリトン重唱)

………前奏(第三章)Cm……… 

落盤で殺された 友の変わり果てた姿

狂おしく取りすがる 奥さんの悲しみ

  幼児(おさなご)は 何にも知らず 背中で眠る

  胸突き上げるこの怒り この怒り

ピケでは刺し殺され 落盤では押し潰され

  炭車のレールを血で染めた仲間

労働強化と保安のサボで 次々に仲間の命が奪われてゆく

  奪ったやつは誰だ! 「三井独占!」

  殺したやつは誰だ 「アメリカ帝国主義!」

奪ったやつを 殺したやつを

許さないぞ 断じて許さないぞ

第四章(合唱)

………前奏(第四章)C……… 

おれたちは栄えある 三池炭鉱労働者

団結の絆 さらに強く

真実の敵打ち砕く 力に満ちた闘いを

  足取り高く すすめよう

おれたちは栄えある 三池炭鉱労働者

スクラムを捨てた 仲間憎まず

真実の敵打ち砕く 自信に満ちた闘いの

  手を差しのべよう 呼びかけよう

おれたちは栄えある 三池炭鉱労働者

弾圧を恐れぬ 不敵の心

真実の敵打ち砕く 勇気に満ちた闘いで

  平和の砦 かためよう

  かためよう

★俺たちは栄えある三池炭鉱労働者

(1)https://m.youtube.com/watch?v=0hLHG8HCWuw

(2)https://m.youtube.com/watch?v=eyi5OvmRDZk

(3)https://m.youtube.com/watch?v=K8e4bnXHNXY

★がんばろう

https://m.youtube.com/watch?v=IjqcXc3A4-Q

★三池主婦の子守歌(荒木栄)2.10m

https://m.youtube.com/watch?v=RablrOePjOs

または

福岡県大牟田市・熊本県荒尾市にあった三井三池炭鉱の機械工で、各種の労働運動歌を作詞作曲し、歌を通して労働者を鼓舞して闘った荒木栄さんの代表曲です。三池争議が長期化するなか、三川鉱のホッパー(石炭の出荷までのタンク)にピケを張っていた炭鉱労働者達を見て、作詞作曲されたものです。

作詞・作曲: 荒木 

1.雨の降る夜は 辛かろね

  ホッパーにらんで 夜明けまで

  無口のあんたが 火を囲む

  ビニール小屋に 届けたい

  腹巻き 綿入れ 卵酒

2.小さなこぶしを 振り上げて

  「警官帰れ!」と 叫んだ子

  目玉を命を 奪われた

  たぎる仲間の 憎しみを

  この子に 孫に つがせよう

3.燃える三池の 火の柱

  拡がれ国の 隅々に

  かぁちゃん達の 正しさが

  勝利の朝を 呼んでる

  眠れ 坊やよ 安らかに

★わが母のうた

https://m.youtube.com/watch?v=dv6aWXiuOn0

★炭婦協行進曲

★心はいつも夜明けだ

https://m.youtube.com/watch?v=xD7caeslzG4

★この勝利ひびけとどろけ

https://m.youtube.com/watch?v=_5lHcWCKryo

★星よお前に

https://m.youtube.com/watch?v=0Z7tYU3aX4o

★沖縄を返せ

https://m.youtube.com/watch?v=r6m4lP7SaHA

★燃やせ闘魂

https://m.youtube.com/watch?v=xKS_MHZC-QY

★大合唱曲『返せ沖縄』(1965年)21m

https://m.youtube.com/watch?v=5LGM7jrGOKU

【以下はphaeo作成=画像と歌の解説が詳しい】

★炭掘る仲間(荒木栄)3.07m

(1)http://m.youtube.com/watch?v=RW50xGXR8CE&list=PLG3852lA6oTgdvqDKWqrjgsWBVivbGxoQ

(2)https://m.youtube.com/watch?v=enpsNQGf5JY

(3)https://m.youtube.com/watch?v=-gOMxOF0Nao

みんな仲間だ 炭掘る仲間 ロープ のびきる まおろし切羽未来の壁に たくましく この つるはしを 打ち込もう 

みんな仲間だ 炭掘る仲間 たたかいすすめた おれたちの闇を貫く 歌声が おい 聞こえるぞ 地底から 

みんな仲間だ 炭掘る仲間 つらい時には 手をとりあおう家族ぐるみの あと押しが 明るいあしたを 呼んでいる 

みんな仲間だ 働く仲間 煙る三池の たてよこ結ぶ 

旗に平和と 幸せを 三池炭鉱労働者 三池炭鉱労働者 

★この勝利ひびけとどろけ(荒木栄)2.3m

★闘う火を(荒木栄)2.25m

★守れホッパー(荒木栄)2.16m

★母ちゃん炭坑を下りて行く(松尾アイ子作詞。CO2事故主婦のたたかい)

★はちまきかたく

★足音高く3.53m

★大行進のうた(荒木栄=全日自労)2.02m

★がんばろう(荒木栄)2.15m

がんばろう つきあげる空に くろがねの男のこぶしがある燃えあがる女のこぶしがある 闘いはここから 闘いは今から 

がんばろう つきあげる空に 輪をつなぐ仲間のこぶしがあるおしよせる仲間のこぶしがある 闘いはここから 闘いは今から 

がんばろう つきあげる空に 国のうちそとのこぶしがある勝どきをよぶこぶしはひとつ 闘いはここから 闘いは今から

★炭坑節(月が出た出た)歌詞と試聴

http://www.worldfolksong.com/sp/songbook/japan/tankou.htm

◆荒木栄写真

http://www.utagoekissa.com/araki.html

◆◆異風者からの通信

http://www.miike-coalmine.org/

(三池コーナーには、三池闘争のさまざまな写真と解説がある)

ヤマのkoe=三池闘争の手記・記録など

http://www.miike-coalmine.org/data/koe/koe.html

三池闘争写真集

http://www.miike-coalmine.org/sougi/miike-sogi.html

父ちゃんたちの労働歌(荒木栄の歌の歌詞)

http://www.miike-coalmine.org/mid/main.html

◆◆うたごえサークルおけら

http://bunbun.boo.jp/index.htm

荒木栄コーナー=全曲の歌詞と楽譜。講談=荒木栄物語(当ブログ引用)。手紙と写真。荒木栄を訪ねて。

うたごえ歌集・青年歌集・メーデー歌集・カチューシャ・どん底・ともしび・矢沢歌集・千曲集・若人・バラライカその他ジャンル別、年代別の膨大な全曲3700曲のデーターベース=歌詞と楽譜一覧。検索可能。

関鑑子

神野和博作品集・園田鉄美作品集・

すずききよし作品集

青年歌集の全曲の歌詞と楽譜

ロシア民謡コーナー=歴史と全520

唱歌コーナー(明治・大正・昭和別。唱歌解説)

うたごえの歴史・関鑑子年表

◆◆プロレタリアの歌をもっと知ろう!

=戦前の革命歌・戦後のうたごえの歌詞

文献紹介

http://www15.ocn.ne.jp/~pro_song/sirou.html

Wiki=三井三池炭鉱・三井三池争議・三井三池三川炭鉱炭じん爆発・荒木栄– Wikipedia参照。平井陽一『三池争議戦後労働運動の分水嶺』ミネルヴァ書房、2000年。

★★映画=フラガール(常磐炭鉱閉山後、地域振興のためにハワイアンランドの建設。フラダンスに炭鉱の娘たちが応募する。その労苦の物語)

https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5eERuakdaSW5uLUk

◆◆映画=『幸せの黄色いハンカチ』1977

(夕張の炭鉱労働者描く)

https://drive.google.com/open?id=1MepbupFw2fmJJs4iIttr0Db2wSy9ib4z

★山田洋次監督が語る、高倉健!初めて会った時の印象、撮影秘話、映画『幸福の黄色いハンカチ』でのエピソード9m

https://m.youtube.com/watch?v=b0BzOfeBYec

★★映画=『幸せの黄色いハンカチ』1977 

http://www.tudou.com/programs/view/Qj7NEG3tcZs/

または

http://www.tudou.com/programs/view/ozYVrO6rC2w/

(接続困難な場合、Puffinアプリにアドレスをコピーして見てください)

または

★テレビドラマの『幸せの黄色いハンカチ』

https://m.youtube.com/watch?v=LGvBLgCMo8c

★★映画=女ひとり大地を行く(亀井文夫監督、夕張炭鉱の労働者描く)

https://drive.google.com/open?id=1dgjwhJY1Ue3eZLci6XdtXxgThx7s1Ijy

(以下ムービーウォーカーより引用)

炭勞北海道支部とキヌタプロとの共同製作になるもので、脚本決定稿は「原爆の子」の新藤兼人が書き、「母なれば女なれば」の亀井文夫が監督した。撮影は仲沢半次郎。出演者は「満月三十石船」の山田五十鈴に「母のない子と子のない母と」の宇野重吉、それに岸旗江(「満月三十石船」)、北林谷栄、桜井良子、神田隆など。

ストーリー

昭和七年冬、秋田県横手在の農夫山田喜作は生活苦のため妻サヨと二人の子を残して北海道の炭鉱に行った。しかし炭坑の生活があまりに苦しく、彼は脱走した。仕送りを断たれたサヨが子供をつれて炭鉱へ行くと喜作は爆発で死んだと知らされ、彼女は女坑夫としてそこに居着くことになった。折から始まった戦争で彼女に好意をもつ金子も戦死した。戦争が終わると炭鉱は明るく刷新されサヨは選炭婦となり、長男喜一も大きくなって坑夫として働いていたが、仕事を嫌う彼は看護婦文子と駆け落ちし豫備隊に入った。東京に出ていた二男喜代二も母の許に帰り坑夫となり、若い選炭婦孝子と親しくなったが、その父河村は組合を脱落して行った。挑戦の戦争が始まってからのある日、十八年前の爆発で死んだ人の骨が坑内から出、それを見たサヨは卒倒した。急に気の弱くなったサヨが喜一を探して千歳町に行くと彼は逃げてしまった。一方、炭鉱では新しい増産方式をめぐって組合と会社が対立し争議は次第に大きくなっていたが、その頃中国から秋田に帰った喜作は妻子を尋ねて炭坑にやってき、争議に加わる中に自分の子とは露知らず喜代二と親しくなった。何者かによって坑内の排水ポンプを動かす送電線が切られ喜代二に疑いがかかったが、それは会社の命で河村がやったことと判った。孝子により一切の真相が公表され、喜一も改心して母の許に戻り、サヨと喜作の再開の日もきた。

🔵映画=にあんちゃん101m

https://drive.google.com/file/d/1d0qv5AXL30ZD0eNQ_KP08RB1MFrGcUgW/view?usp=drivesdk

昭和28年春。佐賀県にある鶴の鼻炭鉱でストライキが行われている最中、安本一家の大黒柱である炭鉱夫の父親が、息を引き取った。残された喜一、よし子、高一、末子ら子供たちは父に死なれた悲しみよりも、明日からの生活への不安に胸をしめつけられていた。20才になったばかりの喜一が小さな弟や妹たちを養ってゆくなど、この不景気な炭鉱村では無理な話だ。事実、喜一は最低賃金の特別臨時の職にしか就けなかった。近所の長屋の人たちも、皆その日暮らしの苦しい生活をしていた。子供たちは学校に弁当も持っていけない状態で、末子や高一(にあんちゃん)も昼休みは校庭の片隅でお腹を抱えていた。若い保健婦・堀かな子は、彼らをどうにかしてやれないか末子の担任教師・桐野に相談したが、同じ境遇の子は沢山いると言われてしまう。不景気は続き、喜一が失業した。一家共倒れの悲劇を防ぐため、喜一は高一と末子をどこかへ預け、良子と自分は給料の良い長崎に働きに出かけることを決

🔵詩人・宇部興産炭鉱労働者の花田克己

196912月、飯塚書店から刊行された花田克己(1931~2019)の第3詩集。

 この詩集は、私の三冊目の詩集である。しかし第一詩集『おれは坑夫』、第二詩集『うまい酒』の主な作品とそれ以後二年半の主な作品を一冊にまとめたものである。私の四〇年近い生涯と、ほぼ二〇年の詩作活動のひとつの決算とも言えるものである。

 既刊の二冊の詩集はいずれも私が所属していた「宇部詩人集団」が発行してくれたものであり、地方での出版であった。しかしさまざまな援助によりかなりひろい反響を得たことは私にとって大きな励ましとなった。だが地方での出版という枠から免れることのできない面もあった。それだけにこの詩集は私の第一詩集という側面もあり、全国的な批判を是非するどく寄せて下さるよう読者のみなさんに切望するものである。

 しかも出版される現在が、歴史的な一九七〇年闘争のさなかという光栄をになっていることに重大な責任を痛感磨るのである。いまはただこの詩集が七〇年闘争にほんの少しでも寄与できるものであってほしいと願うのみである。(「あとがき」より)むかし宇部には筑豊炭田につながる鉱脈の上に炭鉱があったから、そこに関係していたのだろう。

🔵宇部興産炭鉱労働者のうた

【作詞】花田克巳

【作曲】荒木栄

1.瀬戸内海の海底深く

  九州むけて掘り進み行く

  宇部と小野田の四つの炭鉱を

  流れる汗で一つに結ぶ

2.仲間の流した血のしみこんだ

  多くの友のいのちを呑んだ

  ボタの埋め立てかなしみこえて

  今日も夕日が彩っている

3.米騒動の闘いのなか

  倒れていった先輩たちの

  いのちはわれらの血潮にとけて

  あすを明るく染め上げている

4.スクラム組んだおれたちの顔

  ひとつひとつに朝陽が映える

  長い歴史と明日への希望

  こめてひらめく組合旗

  われら闘う宇部興産炭鉱労働者

🔵炭鉱(ヤマ)の娘

【作詞】花田克巳

【作曲】玉置利雄

1.なんばの音を 子守りのうたと

  聞いてねむって 育った私

  焼酎くさい 父さんの頬の

  ひげにさされて ないてたわたし

2.ぼたの埋立 はだしでとんで

  硬函(ぼたばこ)ならぶ とっぱなに来て

  九州に沈む 夕陽をながめ

  戦死の父さん しのんだ私

3.朝のかがみに 化粧をいそぎ

  おわりに強く 口紅ひけば

  好きなあの人 かがみにうかぶ

  化粧はスミに 負けないためよ

4.地下タビくさい わたしの足と

  だんちにくさい あの人の足

  並べて進めば ひらけてくるよ

  本当の幸せ みんなのしあわせ

  本当の幸せ みんなのしあわせ

この歌は私が作詞した「炭鉱(ヤマ)の娘」に、日鉄二瀬の玉置利雄さんが作曲してくれたものである。「炭鉱の娘」は三池闘争のなかで、荒木栄の歌と並んで、三池の仲間たちはもちろんのこと、オルグに参加したたくさんの人々が自分たちのうたとしてうたってくれた。
 「炭鉱の娘」の職場は選炭場である。私の妹も13歳からこの選炭場で働いた。第1回九州のうたごえのプログラムに「炭鉱の娘」が掲載され、第2回九州のうたごえの創作曲コンクールで3位に選ばれた。その後、三池闘争30周年を記念して「炭鉱の娘」「炭鉱の子」など6曲がミュージックテープとして作成され反響を呼んだ。

🔵荒木栄の手紙から

宇部興産の斗いによせて

一九六〇年十二月末、宇部興産資本の合理化攻撃が襲いかかってきました。この闘いの武器として「宇部興産炭鉱労働者のうた」「三池で燃やした火を燃やせ」を作り荒木栄さんに作曲を依頼したのです。ものすごい速さで詞に曲がついて帰ってきました。資本の側がせいぜい二週間とたかをくくっていた闘いが、八十二日間の無期限ストライキという激烈な闘いに発展し、敵の土台をゆすぶったのです。荒木さんの作曲した歌がその大きな力になったと、私たちは確信しています。この時、楽譜についてきたのが、このパンフに掲載している手紙です。この手紙からさえ、荒木栄さんの面影がほうふつとうかんでくるでしょう。 (花田 克己)うたごえ新聞/(19660415日)第286

🔷荒木先生からの手紙

宇部興産炭鉱労働者の斗いを注目しております。三池の斗いの不屈の斗魂が宇部の仲間にうけつがれることでしょう。

 御依頼の創作曲をお送りします。実は創作上の問題をもっとほり下げてみるために、しばらく創作をやめて勉強してみたいと思っていたところでしたが、宇部の斗いにふれ、創作の必要を感じましたのでとりくんでみました。あなたの作品には、もっと欲をいいたいのですけど、これをこの斗いにおけるはじめの作品にして、深く斗いの心にふれてゆかれることを希望します。

 メロディについては、あまり自信もてませんが、大衆の中にもちこみ、ふたたびそれをとり出すという態度で今後とりくんで行くことが必要だと考えます。

 御健斗をいのります。あとでこの歌の状況、斗いの状況などお知らせ下さい。

 尚、この曲のコッピーをとっておりませんのでプリントでも一枚お送り下さい。  三月九日 荒木栄

三池でもやした火をもやせは前作品に比べて、すぐれていると思います。斗いの深部にふれて来ました。欲をいえば、三池でもやした火は何であったか、どのようにもやしたらいいかという内容がほしいとは思いますが、それは次の作品に期待出来そうです。この歌は三池でも、ぜひ広めたいと考えます。宇部、貝島の斗いを支持する三池のうたごえ行動をおこそうと、昨日、三鉱うたごえサ協会議で話し合い、次の日曜は社宅工作(鉛筆、ノートなどのカンパの訴えも合わせて)をやる予定です。

 “斗争記念のホッパーパイプ、ふかせばうかぶ斗う三池”というところ、作曲しながら涙が出ました。みんなもきっとそうでしょう。斗いの激しさに見合う創作のテンポをあげましょう。どんどん書いて下さい。そして他の仲間にも作ることをすすめて下さい。ぼくの方も、集団的に作曲活動をおこす運動にしたいと思います。

 そちらへ出向くよう御依頼の件ですが、ほんとうにできれば行きたいのですけれど、こちらの仕事や、三作の組織問題などここしばらくはどうしても行けない状態です。一応サ協で話合ってはみます。ぼくが行くということより、サ協として宇部斗争に参加するということの方が発展的ですので、そちらからサ協あて連絡して下さい。貝島へは三川から宮脇君が次の日曜日に行くことを決定しました。サ協事務局は三鉱労組本部(不知火町2)気付、原守男でいいですから。

先日、“かさなび”(玉置氏作曲)をみました。仲仲よく曲がついています。そちらでうたっていますか。いま三池では、正月にお送りした“仲間のうた”を中心に“ボタ山ゴロゴロ” “ボチョンボはわがふるさと”などうたわれています。

 明るく、くったくなく、そして、芯の強い歌が要求されるときです。生活をえがくことのうまさ、まじめさをもっているあなたの詩に、斗いの息吹きと八十一か国共産党宣言の力強さがふかく結びついたら、うたごえの詩の貧困さに画期的な新しさと豊かさをもたらすことでしょう。(以上の文章は宇部興産鉱職場合唱団発行「花田克己詞作品集」より転載させていただきました。 尚、楽譜の小音符は、大牟田センター合唱団発行、荒木栄作品集「わが母のうた」に掲載されているもので、荒木さんが改作されたものと思われます。事務局でも調査して、改めてご紹介したいと思います。) うたごえ新聞社

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第一便/三池の不屈の斗魂を宇部へ

 速達を拝見しました。

 宇部興産炭鉱労働者の斗いを注目しております。三池の斗いの不屈の斗魂が宇部の仲間にうけつがれることでしょう。

 御依頼の創作曲をお送りします。実は創作上の問題をもっとほり下げてみるために、しばらく創作をやめて勉強してみたいと思っていたところでしたが、宇部の斗いにふれ、創作の必要を感じましたのでとりくんでみました。あなたの作品には、もっと欲をいいたいのですけど、これをこの斗いにおけるはじめの作品にして、深く斗いの心にふれてゆかれることを希望します。

 メロディについては、あまり自信もてませんが、大衆の中にもちこみ、ふたたびそれをとり出すという態度で今後とりくんで行くことが必要だと考えます。

 御健斗をいのります。あとでこの歌の状況、斗いの状況などお知らせ下さい。

 尚、この曲のコッピーをとっておりませんのでプリントでも一枚お送り下さい。  三月九日 荒木

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第二便/斗いの激しさに見合う創作

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 あたなのお返事の速さと感受性のするどさから、宇部の斗いのはげしさが伝わって来ます。

 三池でもやした火をもやせは前作品に比べて、すぐれていると思います。斗いの深部にふれて来ました。欲をいえば、三池でもやした火は何であったか、どのようにもやしたらいいかという内容がほしいとは思いますが、それは次の作品に期待出来そうです。この歌は三池でも、ぜひ広めたいと考えます。宇部、貝島の斗いを支持する三池のうたごえ行動をおこそうと、昨日、三鉱うたごえサ協会議で話し合い、次の日曜は社宅工作(鉛筆、ノートなどのカンパの訴えも合わせて)をやる予定です。

 “斗争記念のホッパーパイプ、ふかせばうかぶ斗う三池”というところ、作曲しながら涙が出ました。みんなもきっとそうでしょう。斗いの激しさに見合う創作のテンポをあげましょう。どんどん書いて下さい。そして他の仲間にも作ることをすすめて下さい。ぼくの方も、集団的に作曲活動をおこす運動にしたいと思います。

 そちらへ出向くよう御依頼の件ですが、ほんとうにできれば行きたいのですけれど、こちらの仕事や、三作の組織問題などここしばらくはどうしても行けない状態です。一応サ協で話合ってはみます。ぼくが行くということより、サ協として宇部斗争に参加するということの方が発展的ですので、そちらからサ協あて連絡して下さい。貝島へは三川から宮脇君が次の日曜日に行くことを決定しました。サ協事務局は三鉱労組本部(不知火町2)気付、原守男でいいですから。

先日、“かさなび”(玉置氏作曲)をみました。仲仲よく曲がついています。そちらでうたっていますか。いま三池では、正月にお送りした“仲間のうた”を中心に“ボタ山ゴロゴロ” “ボチョンボはわがふるさと”などうたわれています。

 明るく、くったくなく、そして、芯の強い歌が要求されるときです。生活をえがくことのうまさ、まじめさをもっているあなたの詩に、斗いの息吹きと八十一か国共産党宣言の力強さがふかく結びついたら、うたごえの詩の貧困さに画期的な新しさと豊かさをもたらすことでしょう。

 期待しています。   三月十三日 新しい同士へ  荒木栄

http://bunbun.boo.jp/okera/v_araki/ara_bunken1.htm

(以下の3つのPDF文献は労旬デジタルライブラリーから)

◆総評10年史

◆三池労組=みいけ20

◆三池労組=みいけ20年資料集

(以下の7PDF文献は、スマホの場合=画像クリック上部の下向き矢印マークを強くクリック全ページ表示) 

5406三鉱連=英雄なき113日のたたかい

◆宮本=戦後炭鉱運動史

◆炭労=炭労10年史

◆朝日新聞西部本社編=石炭史話・筑豊炭鉱史

◆鳥西=戦後炭鉱労働運動の大衆闘争の形成=戦後復興期の三井砂川労組の事例PDF26p

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234698-20050200-0053.pdf?file_id=289

◆北田寛ニ=50年代北海道炭労の学習活動

◆戸木田嘉久=三井三池闘争から学ぶ

◆清水慎三=三井三池争議(日本の争議)

◆平井陽一=「三池争議とは」PDF

クリックして631-02.pdfにアクセス

◆明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域(三池炭鉱関係5遺産・高島炭鉱・端島炭鉱=軍艦島)

http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/map.html

◆日本の近代化遺産(3)石炭産業

http://www.nishida-s.com/main/categ4/34sekitanngyou/

◆三池終わらない炭鉱の物語=三池の歴史

http://www.cine.co.jp/miike/history.html

◆ヤマのkoe=三池闘争関係の手記・聞き取りその他

http://www.miike-coalmine.org/data/koe/koe.html

◆石炭産業の歴史(研究テーマ別に論文を読む「日本の経験」を伝える図書館ジェトロ・アジア経済研究所)

http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/list_08.html

◆三池炭塵事故(ジェトロ論文)

http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe5_d06.html

◆◆炭鉱の時代を生きた祖母 「ニッポン写真遺産~思い出まるごとスキャン~」

朝日新聞18.08.22

(写真中央がケイさん。産出した石炭を洗う「洗炭場」で働いていたという=1950年ごろ撮影。高洲さん提供)

(炭鉱近くの社宅前に立つ、小学1年の高洲建雄さん=1963年撮影、高洲さん提供)

(写真集のイメージ(中のページ))

(社宅の跡地に立つ高洲建雄さん。今は太陽光発電施設になっている=2018年7月、山口県美祢市)

 朝日新聞社が始めたアルバム・写真デジタル化サービス「ニッポン写真遺産~思い出まるごとスキャン~」。この春の本格スタート以来、受注枚数は50万枚を超えました。今回も、寄せられた写真の中から印象的なものをご紹介します。

◆家族養うため、勤め上げた思い出話

 すましたポーズをとる頭巾姿の3人の女性。座っているのは石炭の上だ。この写真は、国内最大の無煙炭の産出量を誇った大嶺炭田(山口県美祢〈みね〉市)の山陽無煙鉱業所で、1950年ごろに撮影された。

 同市の高洲建雄(たつお)さん(61)は、今年4月に初孫が生まれたのを機に、子どもたちに写真を引き継ぎたいと、貼り付け式アルバム7冊、ポケット式アルバム71冊を「ニッポン写真遺産」でデジタル化した。その中に、亡き祖母ケイさんの写真もあった。

 1908(明治41)年生まれで同県下関市出身のケイさんは、夫の戦死を受け「家族を養わねば」と、戦後すぐから山陽無煙鉱業所で働き始めた。写真の場面は、カメラを買ったばかりの同僚が昼休みに「撮っちゃろうか」と声をかけてきて写されたものだという。

 ケイさんはその後、炭鉱を運営する宇部興産の系列病院などに異動し、55歳の定年まで勤め上げた。

 建雄さんは、炭鉱がにぎやかだった頃の社宅で幼少期を過ごした。しかし、石炭から石油へのエネルギー革命で、街は徐々に活気を失う。小学1年で3学級あった学年が、6年では2学級に。「高学年になると、転校する子が朝礼で何人か並んであいさつする儀式が毎週のようにあった」

 70年に山陽無煙鉱業所は閉山。ケイさんは85年に亡くなった。

 今の美祢市では、炭鉱で働いた経験のある人は少なくなった。建雄さんは「祖母からはよく炭鉱の仕事の話を聞いた。その時は何とも思わなかったが、今となっては貴重な話ばかり。とてもありがたく思っている」(樋口慶)

◆約4千枚が1枚のディスクに

 ニッポン写真遺産は家庭のアルバムやプリント写真をお預かりしてスキャンし、画像データと一緒にお返しするサービスです。約4千枚のL判写真が、パソコンで閲覧できるDVD―Rディスク1枚に収まります。部屋の片付けやお子さんへの引き継ぎに便利です。自分史作りの準備にも最適。スマホで思い出を持ち運ぶこともできます。

詳しくは下記へウェブサイト

https://shashin-isan.asahi.com/

◆◆三池闘争1959-60

1955年、エネルギー源の重油への転換により石炭鉱業合理化臨時措置法が公布され、非能率炭鉱が廃坑化されることになった。59年、石炭大手18社は炭価引下げのため11万人の整理を含む合理化の実施に踏み切り、三井鉱山では119日、6000人の希望退職者を募集したが、応募者は1324人にすぎず、8284580人(うち三池2210人)の解雇などの第二次合理化案を発表し、組合の反対を排して10月から希望退職者募集を強行した。しかし、三池では整理人員に満たず、会社は1211日組合幹部・活動家300人を含む1297人を指名解雇し、翌年125日炭鉱を閉鎖した。三池労組は全面ストに突入したが、3月には争議反対派が三鉱連の支持のもとに第二組合を結成、会社とともに生産を再開しようとしたので、第一、第二組合は激突した。第一組合は同炭鉱三川坑のホッパー(貯炭槽)を確保していたので、採炭しても運び出すことができず、会社申請による業務妨害排除の仮処分が執行されたが、第一組合は総評(日本労働組合総評議会)系組合員の支援を得てこれを確保し通した。組合側は、前年来の日米安全保障条約改定阻止闘争(安保闘争)の高まりに期待したが、それも7月には鎮静化し、池田内閣の要請に基づく中央労働委員会の斡旋(あっせん)により、会社は指名解雇を撤回し、該当者は自発的に退職するなどの条件で111日争議は解決した。

◆◆その後の炭鉱

◆田川市=炭鉱・炭坑節ライブラリ炭坑節のふるさと=炭鉱聞き書き映像など

http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/tankouliv/list.html

炭都田川

http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/Default.aspx?site=5

◆山本作兵衛炭坑記録画(田川市)

http://www.y-sakubei.com/index.html

★★当ブログ=炭鉱描いた山本作兵衛

★★昭和への旅・廃墟=明延鉱山・大生紡績・羽幌炭鉱(最盛期と現在の廃墟を訪ねる)

◆筑豊炭田

http://orange.zero.jp/zbc54213.wing/tikuhou01.html

★常磐炭田関連遺産25m

★民謡 常磐炭坑節

★知の回廊97回「『石炭から原子力へ』の半世紀を問い直す 福島県常磐炭田から見直す『資源』の意味28m

★いわきの産業遺産~炭鉱から観光のハワイアンズへ5m

http://m.youtube.com/watch?v=hTO6IZvWf18

NHK夕張炭鉱閉山46m

http://m.youtube.com/watch?v=X3PhukHSFeA

★昔の夕張9m

★夕張市の今と昔9m

★夕張市の今と昔9m

★遺響北海道炭鉱遺産写真館4m

★池島炭鉱閉山ドキュメント27m

http://m.youtube.com/watch?v=lPr5vn6p6e4

★池島炭鉱存続に関わるテレビ放送(15m)

(1)http://m.youtube.com/watch?v=97gTLdsaEYs

(2)http://m.youtube.com/watch?v=Ep3VUnBCDJE

★昭和40年代の池島の暮し(音声無し)17m

http://m.youtube.com/watch?v=OUa-eVGZgKo

★昭和の池島(池島の子供の達)(12m)

(1)http://m.youtube.com/watch?v=1mxQ1JPZcSg

(2)http://m.youtube.com/watch?v=LEzxbhDyOzU

★池島炭鉱見学10m

★池島炭鉱跡 長崎市池島5m

★太平洋炭鉱閉山前夜10m

★★NHKアーカイブ=軍艦島40m

http://www.myvi.ru/watch/23135027081_9JFjzI-wIUWP6V4FamGkuA2

★日本長崎縣軍艦島紀行9m

http://m.youtube.com/watch?v=22hjrQCkKZ8

★軍艦島1974 全島民退去9m

◆別子銅山のいま

(赤旗日曜版17.07.02

◆早稲田大=炭砿労働者の閉山離職とキャリアの再結成– 「常磐炭砿で働いた人びと」第10

http://www.tankou.org/modules/tankou1/index.php?id=12

◆常磐炭鉱離職者の再就職決定過程

クリックして80992_49.pdfにアクセス

Wiki=常磐炭田

◆常磐炭田史研究会

http://tankouisan.jp/

◆田川市石炭・歴史博物館

http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/sekitan/

◆直方市石炭記念館

http://coal.miningjapan.org/nougata/

◆大牟田市石炭産業科学館

http://www.sekitan-omuta.jp/top.html

CiNii検索=炭鉱・三池・筑豊・常磐などでは以下の他に数多くの論文がある】

◆◆戸木田=戦後炭鉱労働運動の展開過程

(1)http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/16101.pdf

(2)http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/16504.pdf

◆戸木田=「産業革命」以前における石炭鉱業の形成

クリックして15201.pdfにアクセス

◆長野他=1940年石炭産業の労働力と朝鮮人労働者移入

クリックしてnagano_199205.pdfにアクセス

◆柴田=「記憶」の無人島・軍艦島廃鉱の島・長崎県端島

◆田中智子=戦前三池の労務政策の変遷と労働者の抵抗PDF

クリックしてDF00370L037.pdfにアクセス

◆田中智子=戦後の三池炭鉱における労務管理と労働者の抵抗に関する研究PDF

クリックしてDF00380L055.pdfにアクセス

◆村串=戦後北海道炭鉱の友子制度(夕張)

クリックして65-2murakushi.pdfにアクセス

◆中川雅子=ふるさとを創れ―三池炭鉱と筑豊炭鉱、炭鉱文化の比較―PDF

クリックして02_NAKAGAWA.pdfにアクセス

◆三井三池炭鉱閉山後の炭鉱離職者の再就職状況に見る労働者の転職可能性PDF

クリックして01j004.pdfにアクセス

◆友田=日本の炭鉱映画史と三池PDF

『三池終わらない炭鉱の物語』への応答

戦前戦後の炭鉱映画一覧表あり

クリックしてRitsIILCS_22.2pp.21-37Tomoda.pdfにアクセス

◆原田正純ほか=三池三川鉱炭じん爆発から40一酸化炭素中毒の長期予後PDF

クリックして15-2-1.pdfにアクセス

COAL MINING=炭鉱写真集など(夕張・岩倉・貝島・三池)

http://coal.miningjapan.org/index.html

◆三井三池炭じん爆発事件

http://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe5_d06.html

◆輝かしい三池炭鉱の歴史(4)=三池炭鉱の歴史を知る藤田八束の日記

http://sakana114.exblog.jp/17842486/

◆三井三池闘争文献映像紹介

http://homepage2.nifty.com/ikariwoutae/starthp/subpage03.html#mai

◆水溜=50年代炭鉱のうたごえ運動

クリックしてMIZUTAMA.pdfにアクセス

◆犬飼=筑豊における人間疎外と回復

◆奧野=筑豊炭田地誌

◆筑豊炭鉱と朝鮮人

http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/kyosei/tikuhou.html

◆寺島実郎=筑豊とは

http://mitsui.mgssi.com/terashima/nouriki0909.php

◆島西=戦後炭鉱労働運動の大衆闘争の形成・三井砂川労働組合

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00234698-20050200-0053.pdf?file_id=289

◆夕張市民アンケート

http://www.econ.hokkai-s-u.ac.jp/~masanori/09.11yubari

◆長弘=わが石炭生産へ従事した頃

クリックしてp156.pdfにアクセス

◆◆三池争議

朝日新聞=昭和史再訪

2009117日朝日新聞夕刊紙面より 

櫓(やぐら)などが残る宮原坑跡。1898年に開坑された=福岡県大牟田市、永持写す

三池炭鉱はその高い煙突が「炭坑節」に歌われた、日本屈指の炭鉱だった。明治6年に官営炭鉱となり、三井財閥に払い下げられた。有明海海底にも広がる豊かな炭田から掘り出された良質炭は日本の近代化を支えた。だが戦後まもなく中東で巨大油田が発見されると、石炭は一気にエネルギーの主役の座を失った。

「エネルギー革命」と呼ばれた構造転換の中で起こったのが三池争議だった。会社側は高コストを抑え、炭価を下げたい。だが昭和30年ごろの三池は「社会主義の実験場」とみられるほど労働者の勢いが強かった。業を煮やした会社は労組幹部たちを大量に指名解雇。これに端を発する戦後最大の労使紛争が始まった。

大牟田生まれの吉田廸夫(みちお)さんは当時中学生。デモ隊が練り歩く様子を祭りのような雰囲気だったと思い出す。全国から「三池支援」の労働者や学生が来た。大牟田駅前通りからデモの波が続いた。

東京では岸信介内閣が推進した新日米安保条約への反対闘争が並行していた。606月の新条約自然成立後は、野党勢力は三池へのテコ入れを強め、7月には全国から10万人を集めた支援集会を挙行。会社側も対決姿勢を崩さず、一触即発の空気が広がった。

街ではすでに暴力ざたが起こっていた。15千人いた三池労組の5分の1が第2組合(新労)を結成し、働く仲間がスト続行か就労かで割れた。吉田さんの叔父は新労。叔父の不在の夜、その家に叔母やいとこを守るため泊まり込んだ。炭鉱の重労働を癒やしあうものだった人と人との温かいつながりは、いつか壊れてしまっていた。

争議は事実上、会社側の勝利に終わった。その3年後、炭塵(たんじん)爆発の大事故が起こった。死者458人、一酸化炭素(CO)中毒患者839人。組合の別なく多くの労働者が犠牲になった。

「総労働対総資本」、刺殺事件も

1960125日、福岡県大牟田市を中心とする三井鉱山三池炭鉱で三池労組が無期限ストに突入した。会社側は前年12月に1202人を指名解雇し、撤回を求める労組側と対決。中央の経営者団体や労組の全国組織・総評も巻き込んだ争議は「総労働と総資本の闘い」と呼ばれた。

317日に新労働組合(三池新労)が結成され労働組合が分裂。就労した新労と三池労組が衝突し200人以上が負傷、暴力団員が三池労組員を刺殺する事件も発生した。

指名解雇を事実上認める中央労働委員会斡旋(あっせん)案を三池労組が受諾、111日にストを解除した。大牟田市企画の映像記録はDVD「三池 終わらない炭鉱(やま)の物語」(熊谷博子監督)として市販される。

1960328日朝日新聞夕刊1面(東京本社最終版)

97年に炭鉱は閉山した。市職員となった吉田さんは生涯教育課で働いていた。「炭鉱(やま)のことは早く忘れたい」という気分が市民には強かったという。石炭にはつらく苦い思い出が多すぎたからだ。けれど吉田さんは、炭鉱にかかわった人々の体験談を徹底的に記録しておこうと考えた。

「なんも恥ずかしいことをしとったわけじゃなか、忘れるなんてとんでもなか。ここでまちの先輩がどんなことを考えてどう生きたか、その歴史を知らんと、大牟田をこれからちゃんとつくっていくことがでけんごとなる」

市予算獲得まで3年をかけ、東京のドキュメンタリー映画監督による撮影が01年から始まった。撮影2年、登場した炭鉱関係者は72人。三池港近くの「石炭産業科学館」で上映される映像記録を見る。

三池争議当時の分裂した両組合の人々がそれぞれ、自分の行動を淡々と語っている。労働者の団結で闘おうとした三池労組も会社側を理解しようとした新労も、どちらもエネルギー革命の大波の中で、何とか生き抜こうとしていたことが伝わってくる。

彼らは、インターネット革命やグローバリゼーションという巨大な構造転換のさなかをいま生きる私たちの先輩でもあった。

(永持裕紀)

当時の三池労組幹部で指名解雇された一人だった那須俊春さん

◆信じていた「社会主義」

故郷の大牟田へ敗戦後に復員してきたら炭鉱は人手不足でね。入れ墨入れた者(もん)以外、すぐ雇ってくれた。まず採炭でした。地下700メートルの真っ暗闇でカビくさいにおいがするし、ネズミが動き回る。天井がミシミシいう。怖かったなあ。落盤で3人の仲間を失ったし、けが人も大勢出た。

三池闘争は、生産優先だった会社に安全対策を迫る活動から始まりました。「資本論」を読む学習会も活発で、団結は固く、どんどん強くなりました。昭和30年すぎからは十分な量の石炭を採ったらその日の仕事を終わりにした。私(わたくし)は550人の組合員の分会長で、現場でそんな生産調整を判断したんです。

「先は社会主義」と信じ、資本の搾取を防いでおる自分たちの職場はその実現に近づいていると考えていた。労働者が主人公として生き生き働く職場こそ人類がめざすべきもんでしょう? 三池闘争はそれを守る闘いだった。結果的に労働側は負けたかもしれんけれども、今でもあれは正しい闘争だったと思います。

「山猫スト指揮」という理由で私も解雇され、その後社会党(当時)福岡県本部で働き、大牟田市議になりました。自分なりに資本との闘いは続けましたが、やっぱり労働者が団結せねば強大な資本には対抗できない。時代や経済状況が変わっても、これは不変の真理だと思いますね。

◆◆(あのとき・それから)1963年(昭和38年) 三井三池炭鉱で炭塵爆発事故 安全より生産、原発は大丈夫か

朝日新聞17.10.18

(炭塵爆発事故の犠牲者が仲間に担がれ、三川坑・第2斜坑から運び出された=1963年11月9日、福岡県大牟田市)

(炭塵爆発に巻き込まれた同僚を救うためヤマの男たちが次々に入坑していった=1963年11月9日、福岡県大牟田市)

(特別立法を求めてCO患者家族の会の主婦たちが労働省(当時)前で座り込みを続けた=1967年7月、東京・大手町

 東京電力福島第一原発の事故後、原発を規制する原子力安全・保安院(当時)は国会事故調査委員会から「電力会社の虜(とりこ)」と批判された。かつて福岡県大牟田市の三井鉱山三池鉱業所で、そのころの国策の石炭産業を担った鉱員OBには54年前の戦後最悪の炭鉱事故と重なって映る。

 1963年11月9日、三池三川(みかわ)坑の第1斜坑で石炭を運ぶ炭車が暴走した。連結器が壊れたのだ。坑道に堆積(たいせき)した炭塵(たんじん)をまき上げ、暴走車が切断した高圧線の火花か摩擦熱で着火して大爆発が起きた。第1斜坑は空気を送る入気坑でもあり、爆発で生じた一酸化炭素(CO)が広がった。坑内の1400人以上のうち458人が死亡、CO中毒による労災と認定された患者は839人にのぼる。

     *

 松尾けい虹(けいこう)さん(86)の夫修さんは採炭工だった。当時35歳。仲間を担いで坑口まで何度も往復し、帰宅した直後は元気だったが、脳をCOに侵されていた。日が暮れると「怖い」と脅(おび)える。一人では床に就けず、父を慕う8歳と5歳の娘が添い寝したが、すぐ音を上げた。「しがみつかれて息ができないよ」。かと思うと真冬に「セミが鳴く」と言い出し、「冬は鳴かないでしょ」となだめる娘を平手打ちする。「いちばんの被害者は子どもたちですよ」

 水俣病と格闘した原田正純医師は熊本大大学院在学中、医局の指示で三池に赴いた。三池争議の終結から3年。三井の病院の医師と三池労組の組合員の相互不信は根深かった。原田医師は、卓球は得意だが、洋服を着られないCO中毒患者を診たという。記者の取材に生前、こう語った。

 「卓球は反射の要素が強いんです。一方、洋服はどこに手を入れるのか形を認識しないと着られない。だが、三井の医者は『卓球はできる。詐病だ』と。こうした偏見が医学界に浸透したわけです」

 九州大などの医学者からなる三池医療委員会は松尾さんの夫を含む738人を軽症と判定し、これを受けて国は66年、「職場復帰は可能」と判断、労災補償を打ち切った。

 松尾さんらは損害賠償を求めて三井鉱山を訴えた。弁護団の美奈川成章さん(71)らは三井鉱山を追い詰める「荒木メモ」を入手する。荒木忍・九州工大教授は事故の政府調査団に加わって入坑し、炭塵が積もった坑道の状況を克明に記録した。ところが調査団長で鉱山学の権威の元九州大学長が「不可抗力説」を唱え、メモは埋もれてしまう。荒木さんは法廷への提出を快諾し、証言台にも立った。

 福岡地裁は93年、三井鉱山の責任を認める判決を言い渡し、最高裁で確定した。

     *

 「あれは人災です」。三川坑と並ぶ三池の主力、宮浦坑で仕繰(しくり)工として坑道の補修に携わった平畑金一さん(87)は断言する。炭塵対策のため散水・清掃する保安要員の大半を会社は生産現場に回した。炭塵爆発が起きたのは三池の月間出炭量が戦後最高を記録した翌月のことだ。

 検査に来る通産省鉱山保安局(当時)の監督官は会社幹部を伴って本線坑道を歩くだけ。平畑さんは「検査とは名ばかりだった」と振り返る。

 織田喬企(たかき)さん(77)は三川坑の仕繰工OBだ。作業を指揮する係員から、炭塵爆発を防ぐ岩粉(がんぷん)を坑道にまくよう指示される日があった。決まって監督官が検査に入る前だったという。「規制機関といっても相手は国策を進める三井鉱山。会社の虜だった点は原発を規制する保安院と瓜(うり)二つです。福島は第2の三池だ」

 原発の運転期間をめぐり、福島の事故を教訓に法が定めた「原則40年」のルールについて、原子力規制委員会の新委員、山中伸介・前大阪大教授(61)は就任が決まった6月に「(40年は)少し短い」と述べた。ルールでは規制委が認めれば1回だけ例外的に延長できる。九州電力川内(せんだい)原発から30キロ圏に全域が入る鹿児島県いちき串木野市の介護施設運営・江藤卓朗さん(60)は不安を覚え、陳情を出した。これを受けて市議会は9月、「原則40年」を守るよう求める意見書を可決し、首相や経済産業相らに送った。江藤さんは「例外が例外ではなくなるような感じがします」。(田中啓介)

◆「魂を売らない」科学者と共に 松尾けい虹さんら「三池CO家族訴訟」原告代理人・美奈川成章さん(71)

 「炭塵爆発は不可抗力だった」という三井鉱山の主張を支えたのが、元九州大学長の学説です。荒木忍さんはそれに敗れ去った人ですから、ぼくらは最初、あまり期待していなかったんです。

 ところが、九州工大を辞めてから移った私立大の研究室を訪ねたら、当時の資料を大量に持っていた。政府調査団の一員として事故直後に入坑して撮った現場の生々しい写真も、アルバムに整理してきれいに保存していて、「炭塵は間違いなく坑道に堆積していた。これで会社の過失責任を立証できる」と確信しました。

 学界の権威である元学長の周りには、彼に忠実な専門家がごまんといました。その一人が、「不可抗力」を唱える元学長の論文の草稿を持ってきたそうです。末尾に並ぶ執筆者の中にあった自分の名前を、荒木さんは線を引いて消した、と。こんな研究者は異端も異端です。だから排斥されていった。この裁判に取り組んで、「科学者っていうのは、いくらでも魂を売るんだ」と思いましたね。

 裁判所は「爆発は不可抗力ではなく、責任は三井鉱山にある」と認めました。松尾けい虹さんたちが裁判を起こしたからこそ、専門家の魂を売らなかった荒木さんも無念を晴らすことができたわけです。

◆三井三池炭塵爆発事故の関連年表

1959年 三池争議が起きる

  60年 三池労組がスト解除、争議が終結

  63年 三池三川坑で炭塵爆発事故

  65年 福岡県警、三井鉱山幹部11人を業務上過失致死傷の疑いで書類送検

  66年 福岡地検、全員を不起訴

      労働省(当時)、CO中毒患者738人への労災補償の打ち切りを通告

  67年 炭鉱災害CO中毒症特措法が成立

  72年 松尾さんら2家族、三井鉱山に損害賠償を求めて提訴=家族訴訟

  73年 2家族が訴訟に参加

      CO中毒の患者・家族422人が三井鉱山を提訴=マンモス訴訟

  87年 マンモス訴訟原告の大半が和解

  93年 家族訴訟で福岡地裁、三井鉱山に賠償命令。松尾さんらの求めた「妻への慰謝料」は認めず

  97年 三池炭鉱が閉山

  98年 最高裁、松尾さんらの上告を棄却

🔵炭鉱の歌が聞こえる=荒木栄と森田ヤエ子

西日本新聞連載(5)

荒木栄と森田ヤエ子

【西日本新聞連載・炭鉱の歌が聞こえるの続きNo.は以下】

森田ヤエ子

 森田ヤエ子さんは、新潟県湯沢町生まれ。「炭鉱労働者募集」のビラを見て20歳の時、産炭地だった山田市に移り住んだ。「がんばろう」は約1400人の労働者が解雇通告を受け、「総資本対総労働」の闘いといわれた60年の三井三池闘争の労働者を描いた作品。 

労働者作家といわれた故・荒木栄が曲をつけ、全国の労働争議や安保反対デモなどの現場で歌い継がれた。 

 三菱山田鉱の文学サークルに属し、小さな炭坑(ヤマ)でまかない婦しながらサークル機関誌に詩を投稿し、100曲余りの労働歌を作詩。反戦歌の歌詞も手がけた。2005年亡くなる。

どんづまり 女として、労働者として

2007.03.31 朝刊 

 九州 思想の水脈

風だまりには、落葉が吹きよせられ

陽だまりから、こどもたちがかけ出してくる

売店の戸が開くとたちまち娘の名前は

「もうし」に変わってしまう

 闘争歌「がんばろう」の作詞者、森田ヤエ子は生前、一冊の私家版作品集を残している。質の悪いバラ紙にガリ版刷りで五十一ページ。「ごまいし」と題された小冊子の巻頭の詩に登場する「もうし」と来店客に言葉をかけられる娘は、おそらく森田自身である。

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 戦後復興を下支えした筑豊には、多くの労働者が流れ込んだ。新潟で生まれ、父を失い、鹿児島県指宿市の親類宅で育ったヤエ子もその一人である。一九四八年春、指宿の職業安定所で手渡された三菱上山田炭鉱の求人募集ビラに応じて、ハーモニカ長屋(炭鉱住宅)に移り住んだ。職場は購買部だった。

 組合主導のコーラス部に入り、演劇活動にも参加した。ここで知り合った炭鉱労働者・森田実五郎(故人)と結婚。少女時代から短歌を詠む文学少女は文芸誌「地軸」「山田文学」の同人となって詩を書き、五八年、詩人の谷川雁を中心に「サークル村」が始まるとすぐに投稿を始めた。そこから派生した森崎和江、河野信子らの「無名通信」にも作品を寄せている。

 詩人・森田に対する印象を尋ねると、森崎は言葉少なに、「詩がどうとかではなくて、『女として』どう生きるか、何を書くかでした」と返した。

 「無名通信」(一九五九年十二月号)に森田の「共稼ぎの必然性」が掲載されている。「女性の社会的地位を押し下げる階級社会」「性的にも男子中心に出来上がった枠」に「慣れすぎてきた私たち」を自己批判する森田は、森崎、河野をはじめ中村きい子、石牟礼道子らが言葉(表現)を手探りしていたサークル村の一隅に確かにいた。

 「もうし」という代名詞にも届かない呼び掛け語に圧縮されてしまう存在から、女であり、ひとりの人であり、何より炭鉱労働者である「森田ヤエ子」へ。

 表現に託した希求であったのだろう。

 五五年、石炭鉱業合理化臨時措置法が施行され、炭鉱閉山が急速に増えていく。日本最大の出炭量を誇る三井三池炭鉱に先駆け、中小炭鉱が群れた筑豊がエネルギー政策転換の荒波にもまれていく。駅には離職者が列をつくり、廃屋となった炭住が目立ち始めた。ボタ山に草が茂った。その場に身を置きながら、森田は筑豊の荒廃を描き、国への怒りを詩に込めた。

 「サークル村」(一九六〇年三月号)掲載の炭鉱事故に材を採った「人を喰った坑口」。

絶望!坑夫六人!

(中略)この国をむしばむ者の手は古洞にガスを漂わせ、水魔をひそませ人を喰った坑口は

そしらぬ顔で押し黙っている

 詩語としてはイメージの膨らみに欠ける。しかし、表現がストレートな分、メッセージは明らかだ。「一人の労働者として詩を書き続けたい」「書棚に収められる詩より、人のものとなる詩を書きたい」と常々周囲に語った森田が、労働運動の団結と鼓舞のために沸き起こったうたごえ運動に魅了されていったのは必然だったのかもしれない。

 森田は「人を喰った坑口」と同時期に作った「どんずまり」を荒木栄に送った。

おいつめられくいつめてどんずまり

そのどんずまりでおいつめられくいつめた

 「当時の筑豊、そして東北から鹿児島、筑豊へ流れ着いたヤエさん自身の詩でもあった」と森田の友人、元小学教諭の中山佳南子(70)=福岡県嘉麻市=は語る。荒木は曲を付けたが、詞に十分満足していたわけではない。森田への書簡で、荒木はこの詩に「どん底生活者の千々の思い」を読み取りながらも、「運動として発展させる要素」に欠けることを指摘している。

 虐げられた者たちの闘争へ。森田は三池争議の渦中へ飛び込んでいく。=敬称略(岩田直仁、塩津健司)

【荒木栄と森田ヤエ子による作品一覧】

 タイトル      制作年

どんずまりのうた   1959年

おれたちの胸の火は  1960年

がんばろう      1960年

団結おどり      1960年

花をおくろう     1960年

月見草        1960年

田植えうた      1961年

よろこび       1961年

おい仲間たち     1961年

黒潮のうた      1961年

新島と板付と     1961年

ふるさと       1962年

春まつり音頭     1962年

五月のうた      1962年

わが母のうた     1962年

【写真説明1】講演する森田ヤエ子さん。「ぽっちゃりとしてかわいらしい人でした」と友人の中山佳南子さんは語る

女のこぶし リズムに脈打つ民族の血

 2007.04.02 朝刊 

 九州 思想の水脈

 中山佳南子(70)=福岡県嘉麻市=は、三池争議の支援から筑豊に戻ってきた友人、森田ヤエ子の興奮した表情を今も覚えている。

 「三池に行って、私、目が覚めたわ」と森田は弾む声で語った。「筑豊のどんづまり」で閉塞感を抱えていた森田は一九六〇年一月に三池を訪ね、労働者に団結と闘争という道があることを肌で知った。とりわけ、三池の女たちの姿に衝撃を受けたという。

 森田が三川坑の炊き出しなどに参加した三月、争議は新たな段階に突入した。十七日に第二組合(三池新労)が発足し、ストライキを解除。二十九日、三池労組の久保清が暴力団員に刺殺された。全国の労組からの支援者を含む三万人以上の労働者が約一万五千人の警官とにらみあう中、三池労組の主婦会がデモの前線に躍り出た。

 荒木栄とともにうたごえ運動に取り組んでいた猿渡章博(67)=福岡県大牟田市=は語る。

 「久保さんの事件が大きかったんです。炭鉱といっても、『主婦は家庭』という時代なのに、主婦会が拳を突き上げて警官に向かっていったんです。森田さんにとっても衝撃だったんでしょう」

 初の共作「どんずまりのうた」(五九年)の後、荒木と手紙を通して交流を続けていた森田は五月、筑豊に戻った後、「闘いはここから」と題した一つの詞を荒木に送る。

 二人がつくった十五の曲の中で、最も長くさまざまな労働組合で歌い継がれることになる「がんばろう」である。

 実は「がんばろう」の歌詞のうち、有名な「くろがねの男のこぶしがある」に続く「燃えあがる女のこぶしがある」は、森田の原詞では「もえつくす女のこぶしがある」だった。

 「出来た曲をみんなで歌ってみると、ここでひっかかったわけです。『燃え尽きちゃいかんだろう』という声が圧倒的に多かった」と、九州のうたごえ事務局長だった神谷国善(80)=東京都=と証言する。神谷らの意見に荒木も同意し、歌詞が変えられたが、森田は「詩人の心を台無しにした」と怒ったという。「燃え上がるでは、全然不足なのよ。女は『燃えつくす』ほどの気持ちで闘っていたんだから」。最晩年に至っても時折そう漏らしていたことを友人の山岸はま子(80)=福岡県嘉麻市=は記憶している。

 今、荒木の曲をあらためて聴くと、似たメロディーが多いことに気付く。

 森田も一度だけ、荒木の曲作りを「マンネリズム」と批判したことがある。これに対し、荒木は書簡で自作のリズムが似ているのは「民謡の田舎節(陽旋法)による」と説明し、共通のメロディーを生みやすい音階だが、そこに「脈打っている民族の血(中略)日本人的要素・庶民的風格」を認め、「ためらわず使い続ける」と宣言している。「がんばろう」の詞を「労働者階級の共有財産」と語った森田は荒木の答えに深く頷(うなず)いたであろう。

 ちなみに、「がんばろう」を初めて聴いた東京の労働者が、冒頭の「がんばろう つきあげる空に」を「何だろう 月が出る空に」と聞き誤ったという話が残されている。既に都市生活者の体から民謡のリズムが失われつつあったのか、日本民謡の音階を使いながらも、荒木の歌には地方のイントネーションが宿っていたのだろうか。三池争議の熱から遠く離れた場所では、「突き上げる」イメージが持ちにくかったのかもしれない。

 いずれにしろ、神谷が語るように「がんばろう」は「あの時代の三池でしか生まれなかった」歌である。

(岩田直仁、塩津健司)

【写真説明1】1960年8月に行われた「第2回西日本うたごえ」の祭典。5000人が声を合わせ「がんばろう」を歌ったという

集団制作の試み「場」から生まれ、そして

2007.04.03 朝刊 

 九州 思想の水脈

 炭住に激励に訪れた全国の「うたごえ行動隊」を労働者や主婦、子供が取り囲む。新作の歌詞を布に大書し、人々が練習に励む-。三池争議中に撮影された「うたごえ」に関する写真は数多く残されている。

 「声を合わせて歌うと、腹の底から元気がわいて、その場がぱあっと明るくなるようだった」と三池労組組合員だった村中利行(67)=熊本県荒尾市=は語る。切迫した同じ状況に置かれた者が、声を合わせて心を一つにし、互いを奮い立たせることは容易に想像はできる。だが、歌の多くが、集団から生み出された-という事実は、現代の目には奇異に映るだろう。

 一九六〇年前後、を持つ専門家・知識人と、を持たない大衆の協働による表現の模索が重ねられた。筑豊の詩人、森田ヤエ子がかかわった「サークル村」も「うたごえ運動」もその一つである。こうした取り組みのほとんどはすぐに破たんしたが、三池では一時期、実を結んだ。

雨の降る夜はつらかろね

ホッパーにらんで夜明けまで

無口のあんたが火を囲む

ビニール小屋に届けたい

腹巻き綿入れ卵酒

(「三池の主婦の子守歌」より)

 この歌は曲も詞も荒木栄だが、詞は労働者の妻たちとひざをつき合わせて語り合う作業からできたという。荒木は自らの歌が個人の作品というより、労働者たちが集う「場」から生まれたことを何度も口にしたという。

 荒木の歌がある時期、三池労組という集団の「心」を表現した共有財産だったとすれば、六〇年三月、三池労組を脱退し第二組合の三池新労を結成した中心人物の一人、池崎勇夫(78)=福岡県大牟田市=が組合歌「炭掘る仲間」や「がんばろう」に「どこか違和感を感じ始めた」というのは、当然かもしれない。

 「戦時中の海ゆかばみたいなもの。気勢は上がるが、それが要求実現につながるとは思えなかった」と池崎は語る。十一月、三池労組は争議「敗北」を受け入れ、六一年八月には三池新労の組合員数が三池労組を上回った。

 六二年三月、荒木が率いていた合唱団の研究生として新たに参加したのは、目標三百五十人に対しわずか十人だった。「足もとからじっくり固めてゆく活動のスタイルが必要なのではないか」と荒木は日記に記した。わずか半年後に死が待っているとも知らず

 戦後50%を超えた労組の組織率(全国)は六〇年には既に32・2%まで落ち込んでいた。三池争議を機に、日本の労使関係は、徹底対立から、協調を基本に条件闘争を行う路線へとかじを切った。七〇年安保闘争を境に、労組の組織率はさらに低下していく。

 「うたごえ運動は労働組合運動と平和運動に連携して発展した」と振り返る元・九州のうたごえ事務局長、神谷国善(80)=東京都=は「総評の消滅がうたごえ運動にダメージとなった」と認めながらも、「今は平和運動とともに歩んでいる」と強調する。しかし、平和運動もマスパワーを持ち得なくなっていることは、例えば在日米軍再編に対する市民団体の動向を見るだけでも明らかだろう。

 むしろ、組合離れの理由として神谷が挙げた「消費者、地域の生活者の問題がせり上がってきたのに、労組はこれに対応できなかった」ことが、世間の「荒木栄の忘却」とつながっているのではないだろうか。

 社会が豊かさを増し、「搾取される労働者」像が薄れるにつれ、前面にせり出してきたのは「消費者としての市民」像である。歌も消費物と化した、という見方は一面的過ぎるだろうが、少なくとも「ともに生み出し」「ともに歌う」ものではなくなった。 =敬称略(岩田直仁、塩津健司)

歌、ふたたび 掘り起こしを待つ遺産

2007.04.04 朝刊 12

 九州 思想の水脈

 森田ヤエ子が私家版の作品集を出した一九六一年以降の作品資料があると耳にして、福岡県嘉麻市山田に森田の友人、山岸はま子(80)を訪ねた。飯塚からのバスは一時間に二本前後。炭鉱全盛期のにぎわいは想像もできない。

 昨年他界した山岸の夫、義照が書斎に使っていた離れを探すと、たんすの大きな引き出しに「荒木栄・森田ヤエ子往復書簡」「森田ヤエ子作品集」とラベルが張られていた。だが、中はからっぽだった。「夫が死ぬ前に、どなたかに引き継いだのでしょうか」。困惑する山岸が友人たちに問い合わせてくれたが、知る者はいなかった。

 森田は炭鉱閉山後、トタン葺(ぶ)きの小さな家に暮らしながら、筑豊で道路工事や清掃といった日雇い労働を続け、二〇〇四年に病死した。夫に早く先立たれ、子どもがいない晩年は寂しいものであっただろうが、山岸は「ヤエちゃんは一本筋が通った人でしたから、泣き言は言わん人でした」としのんだ。

 今年、森田の三回忌に予定されていた「しのぶ会」は、準備作業の中心にいた義照の死で見送られた。「ヤエちゃんにすまんことで。せめて作品なりとも世に出してください」と山岸は涙を流した。

 森田は二〇〇〇年ごろまで、各地のうたごえサークルの求めに応じて歌詞を送っていたらしい。文学仲間の本田文吉(75)=飯塚市=は「一労働者として詩を書き続ける行為は、彼女の人生の中心だったから、書かないはずはありません」と三冊の「展望」という文芸同人誌を取り出してきた。

 それぞれの巻頭に森田の詩が一つずつ載っていた。九〇年の詩-。

大慈大悲の母の乳房

そのまろやかなぼた山は

どこに消えたのか

(中略)

削りとられえぐりとられ

傷だらけの体でふるいたち

大空に牙をむくその姿は

(「ぼた山」より)

 筑豊の底辺にうずまく憤りや悲嘆を一人の詩人が書き続けたことを、この詩が教えてくれる。

 三井三池鉱閉山から十年を迎えた三月三十日、一本の映画がクランクインした。タイトルは「荒木栄の歌が聞こえる」。過去にも三池炭鉱が舞台の映画を撮った大牟田市出身の港健二郎監督(59)は語る。

 「荒木栄の歌は、実は七〇年代プロテストフォークの源流ではないのか? 格差社会の中で、連帯や友愛、抵抗を歌った荒木をとらえ直してみたい」

 連載冒頭で紹介したドキュメンタリー映画「三池 終わらない炭鉱(やま)の物語」や竪坑などを近代産業遺産として保存しようという運動と同様、炭鉱の遺産を「富(ふ)の遺産」として再評価する試みである。

 映画が蘇(よみがえ)らせる荒木が肝臓がんで死去したのは、三池争議終結から約二年後の六二年十月二十六日。最後の曲も森田の作詞だった。

雑草のたくましさ

踏まれては伸びひろがって

ああわが母こそ太陽

闘いを育てる太陽

 (「わが母のうた」より)

 「雑草」は労働者、「わが母」は共産主義に理想を見た荒木と森田の文脈では、「母なる人民」である。争議の余熱の中、仲間に囲まれて、三十八歳で早世した荒木は、そのの温もりを最後まで感じたであろう。だが、その後も長い人生を生きた森田はどうだったのか? 「ぼた山」を読むと、母は筑豊の風土と一体となり、新たな相貌(そうぼう)と化していたのではないだろうか

 山岸に頼まれた森田の資料探しは、今回の取材ではかなわなかった。掘り起こしを待つ「遺産」は荒木だけではない。 =敬称略

(岩田直仁、塩津健司)

=おわり

🔵講談・荒木栄物語

自作自演:大谷 竹山 

【講談中の大谷竹山】

客席の電燈、暗転し荒木栄の作曲歌「もえろもえろ闘魂もえろ(もやせ闘魂?bunbun注)」が流れ出す中に開幕。演者、高座に現れ、釈台に座り一礼すると、曲終わる。以下、読者は音楽の部分はそれを思い浮かべつつ読んでください。

 ええ、講談といいますと、若い人には余り馴染みがないようです。仇討の話や忠臣義士の物語、または、封建的義理の話ではそうなるのが当然でございます。

 その、あまり親しまれていなかった講談を、働く人民大衆から愛好されるようなもの、つまり、民主的で、民族的で、大衆的な香りの高い講談に創りあげたいわけです。民族の音楽、うたごえがそうであるように、講談も日本民族のよろこびと悲しみ、怒りと、希いを、うたいあげたいのです。

 そのようなのぞみをこめて、わたくしはここに労働者音楽家荒木栄の物語を講談にし、自分で演じることに致しました。

かえりみれば、三十八年間の短い生涯の中、さらに短い十三年間の音楽生活とはいえ、のこされた作詞作曲の数々にまつわる思い出はとても一席の読切講談では語りつくせるものではありません。

 しかし荒木栄についての記録は、その音楽的業績について多くの評論、解説が多いが、彼の伝記、逸話、生活記録といったものはほとんど、まとめられたものが見あたりませんでした。

 従って、手さぐりで書いたこの講談は、いわば最初の試作品ともいうべきもので、荒木以外の人物はすべて仮名(かめい)、創作上の人物で、モデルもありません。ですからこの講談は全国各地で実演する中で、大衆に教えられて練り上げられ、特に現地で、それを望む次第でございます。

 また、ことばも九州の方言をまともには書き得ず、標準語に近いものですが、これも大牟田の現地で書き改めたいと思っております。さらに、音楽と講談を結合させたこの一つの試みは、特に労音の会員の中で練りあげていただきたく存じております。

 では、荒木栄物語

うたごえよ、たたかいと共に

ピシッ!と、ここで張扇を叩く。

 張扇とは大きな舞扇の一番上の骨だけを一本とり、これをベタベタと日本紙で、幾重にも張り固めたものです。

 一九五九年、十二月七日、わが国労働運動史上、最大のたたかいとなった三井三池の闘争の火蓋は切って落とされたのであります。即ち、一四〇〇人を越える「指名退職勧告書」というものが会社側から発せられたのです。

 共産党、社会党をはじめ、多くの組合活動家がこの名指しの中に入っておりました。会社はこの前にも六〇〇人に及ぶ首切りをやったばかりです。アメリカの石油をどんどん入れるため、石炭の方は不景気だというのが口実ですが、同時に首切りあとの少ない人数で、うんと働かせて、大資本家三井が、うんと儲けようという合理化の首切りです。

 こうなっては組合側もついに堪忍袋の緒を切って、猛然と立ち上がり、三井三池の闘争は天下のストライキとなり、たたかいの火の手は燃え上がるばかり、ついに、一九六〇年夏、ホッパーの争奪戦となったのでございます。  

ええ、ホッパーと申しますのは一口に云えば石炭の貯蔵所でございます。船や貨車で積み出す前に、石炭は一度ここに貯蔵されます。ですから、ここをおさえて積み出せないようにしてしまうと、きたない話ですが一種のふんづまりのようになってしまい、会社がいくら労働者中の裏切と分子を使って第二組合を作り、炭を掘らせてみても、ふんづまりでは、すぐお手あげになります。

 掘らせても貯蔵できません。そこで、このホッパー争奪戦が三池ストライキのいわば天王山、関ヶ原となったわけでございます。

 二万を越える警官が動員されて、弾圧体制がしかれる中で、こちらも二万を越える労働者と全国からかけつけた応援隊とが対峙して、まさに火を吐く寸前のきびしいにらみ合いがホッパー前の広場で展開されました。

 ちょうど、このたたかいの最中です。東京は日比谷の国会議事堂も、連日数万のデモ隊に包囲されておりました。今だに忘れ得ぬ安保反対の闘争です。アメリカ側の弾よけになって、戦争地獄の道づれをさせられる条約、安保条約改悪に反対して、日本中が湧きに湧いたたたかいです。なにしろ当時は浅草のストリッップのステージでも、ストリッパーが、服やブラジャーを一枚一枚ぬぎながら「安保、反対!安保、反対!」とやったんですからねえ、子どもの遊びにも「安保反対ごっこ」というのがあったくらいなもんで、いや、もう、たいへんなさわぎでした。

 その安保のたたかいが三池のたたかいを支え、三池のたたかいが、安保のたたかいの一環となって、日本人民は歴史的な大闘争をくりひろげておりました。

 デモ隊うず巻く国会周辺でわきあがる「うたごえ」、これと全く同じ「うたごえ」が、海山はるか越えたここ九州三池のホッパーの前で、今日もまた天にひびけとうたわれていたのでございます。

張扇鳴り、講談中止、「がんばろう」の歌が流れ出す。歌は第一節を高らかに、第二節から音がしぼられる。その低く流れる音楽に乗って、また講談が語られ始める。歌は二節で終わり、あと講談のみ。

ホッパー前で

 歌声うず巻くホッパー前に座り込んでいる見渡す限り労働者の中に、小柄だががっしりした荒木栄と大男の深井清一が、隣りあわせで座っています。二人の体は荒縄で腰のあたりをたがいに結びつけています。

 いまや二人だけではなく、多くの人たちが縄で結びあっているのは警官がおそいかかり、ごぼう抜きにされるのを防ぐためです。頭にはいずれも鉄かぶと、手にはいざというとき、武器とも変わるプラカード。

 「のう、荒木さん、いつ聞いてもよか歌ですたい」

 「やあ、ありがとう。君たちにそげん云うてもろうたら、おれも作る張合があるよ」

 「だけど、荒木さん、みんな不思議に思っとるが、荒木さんはそげん多か歌を、いつ作っとるか。組合や党の活動も忙しかろに、それに合唱団の仕事もあるし、落ち着いて、歌を作ったり、作曲するひま無かと思っとるが」

 「うん、おれ、作詞作曲はどこでもできるんじゃ。腕組んでデモ行進している時でも頭ん中に曲が浮かぶこともあるし、こうして座りこみしているときもな、手帳におたまじゃくしを書いてるときもあるんじゃ。ほれ、見ろよ………」  ポケットから出して見せるアカハタ手帳。終わりの方の余白のページ。なにやら音楽記号がこまかく書き込まれていた。

 「なるほど………おれ、作曲ちゅうもんは、静かな部屋で、ピアノでもポンポンたたきながでなかと、でけんもんと思うとった」

 「そんなことはなかと。おれ、こうして、たたかいの中の方が、すうっと、曲が浮かんできよるんじゃ」

 話しているところへ、知らせがきて、清一の兄の庄五郎が居住地の緑ヵ丘住宅で検挙されたという。それッというので、清一と栄は四、五人の労働者と共に駈けつけました。

 家の前は一杯の人だかり、二部屋しかない家の中も見舞いの主婦や娘たちで一杯です。男は多くホッパーやその他へ出ていてあまりおりません。

 「あ、清ちゃん」

庄五郎の女房マサは四二、三歳、色は黒いがガッシリした炭鉱の主婦です。

 「うちの父ちゃんな、第二組合の人と喧嘩して、相手をけがさしたじゃと、それで、警察に持ってかれてしまった。制服が二十人もと、私服が三人も来てな、手錠かけての」

 「ちきしょう ひどかごとしやがる」「うちの父ちゃん、口べたじゃけん、第二の連中と口喧嘩しとううちに、ついなぐりっこになったんじゃろ。父ちゃん、かわいそうじゃ、十六ん時から坑内で働いてきたと、それが四十五にもなって首じゃけん、気が短かなるんも、当り前じゃ、………あれ、荒木さんも一緒か、気がつかんで、すまなか」

「奥さん、心配なか、今夜にでも大勢でデモかけて父ちゃんの釈放要求するばい」

「すまなかあ、わし、父ちゃんがやられて、いなくなって、今さら、荒木さんがいつか作って教えてくれた歌、思い出したんよ。わしらの気持、あの歌のとおりじゃけん」

「そうか、ありがとう。そう思ってもらうと、おれ、作ったはりあいがある。音楽作るものの妙利と思っとる。じゃ、どうだ、ここに集まってるみんなで、あの子守歌、うたおう、おれ、指揮さしてもらうけん」

三池の主婦の子守歌

「よか、賛成!」「異議なし」「頼むぞッ」

 緑ヵ丘炭鉱住宅に静かに流れ出す「三池の主婦の子守歌」

張扇ピシッと鳴り、講談休止、同時に「三池の主婦の子守歌」流れる。二節続いて、張扇ピシッと鳴り、曲終わる。講談、始まる。 ええ、こうしてたたかいつづけられた三池闘争も、安保条約改悪案通過、岸内閣につづく池田内閣の策動により、組合側は会社の首切り案を大体においてのむような形で終わりをつげたのでございます。しかし三池のたたかいは安保のたたかいと一つになって、日本人民の団結を大きくもりあげ、日米の支配階級の座を大きくゆり動かしたのでございます。

 だが、一方、首切案や安保条約が通ったために、一部には失望や、いわゆる挫折感といったものがみなぎったのであります。三池の若い人たちの中にもそれは現れ、あの深井清一も毎夜のように大牟田の盛り場のおでん屋で呑むようになりました。

 「おやじ、もう一本くれよ」

 「清ちゃん、それくらいでやめときなよ」

 「売りもん、買いもんじゃろ、くれといったらくれよ」

 「清ちゃんも変わったな。ストライキの最中はそんなじゃなかった。じゃ、これ一本だよ」

おやじが出す酒を呑みつづける清一。  「清一君、おれだ」

 「ああ、荒木さんか。おや、みよちゃんも一緒か」荒木と、清一の恋人で、リンゴのようなほほをしたみよ(みよ子?bunbun)、合唱団のメンバーです。

 「清ちゃん けいべつするわ」

 「けいべつされても、おれ、どうしようもなか。がっかりしちょって、淋しか気持じゃ」

 「清一君、無理はなか。しかしだ、労働者はいくらつまづいても、また立ち上がるんじゃ、最後にはきっと勝つたい。自分を捨てて、どうなる。自分の力で立ち上がるんじゃ。」

「いつか中国の代表が来たときじゃ、誰やらが、おれたちこげん山捨てて、中国で働きとうなったと言ったらのう、中国の代表の人が言うとった、中国は皆さんを何万人でも迎える力はある。しかし、日本の労働者は日本の祖国でたたかい、自らを解放することだと。中国の人民は何度も敗れ、何度も挫折した。しかし最後には人民が勝利したと。なあ、清一君、元気を出すんだ」

 荒木が清一を説いている最中、街を歌いながら通る若い人たちの歌声がきこえてきました。それは荒木栄自身の作曲歌だったのです。

張扇ピシッと鳴り、講談休止、「心に夜はない(心はいつも夜明けだ? bunbun)」の歌声、高らかに流れて来る、第一節は音高く、第二節より低くなり、講談それに乗って始まる。歌は第二節で終わる。 元気にあふれて歌い流れる声をきくうちに、清一は暗い胸にかすかな明るい光りを感じていたのです。

 清一よ、元気を出せ、ストライキのときの、あの元気はどうしたのだ。三池の山に一時的に暗い夜はおとずれても、わかものたちの胸には夜はないのだ、いつも夜明けの光りに向かって立ちあがるのだ--うた声はそう自分を励ましているように、ひしひしと清一の胸に迫ったのです。清一は盃から手を放すと、黙って立ちあがりました。

労働者のたたかいとともに

 こうして、荒木栄の歌は多くの人たちの心に火をともし、燃えあがらせていましたが、やがて、たたかい疲れた彼は病の床に倒れ、肝臓ガンと診断されたのです。

 そして大牟田の病院の一室に横たわる身となったのでございます。傍には彼の妻が看護しております。

 「母ちゃん、長い間、苦労かけたのう」

 「なんじゃな、まるで永の別ればするようで、おかしか」

 「いや、おれ、自分の寿命を知っとうけん、死ぬことは、恐れとらん。ほんとに恐れとらん。しかし、ほんとは死にとうない。生きたいんじゃ。生きて、生きてのう、もっと歌ば作りたか、もう一度でもよか、指揮棒が持ちたいんじゃ、のう、母ちゃん、もう一度でよか、指揮棒ば持ちたかなあ」

 荒木のやせ衰えた頬、くぼんだ両眼、その眼はまだ情熱に燃えて輝いているのでした。

 そこへ、深井清一とみよ子のわかい夫婦が訪ねてきました。先日結婚したばかりです。 「すまなかなあ、二人の式に行けずと。こんな形でなかば、二人に祝いの曲は作ってやったのに………

 「ありがとう、でも、わたしたち、荒木さんの曲を次づぎと歌ったんです。荒木さんが出席してるんと同じか、みんなそう言っとった」

 「そうか、みよ君も……… 二人とも、まだ若か人たちじゃ、うらやましかのう」

 「父ちゃん、あまりしゃべると、体に悪か」

 「大丈夫じゃ、おれ、まだ元気だ。おれな、労働者の天下が必ず来るという確信ば、ますます強か持っとるのじゃ、それがうれしかなあ」

 「荒木さん、その元気だもん、大丈夫よ。あ、それからね、合唱団の人たちのおみやげ持ってきたの。わたしたちの結婚式で合唱した荒木さんの作った一番新しい歌のテープよ」

 「ああ、ありがとう、すまんが、そこでかけてくれないか」

 「はい ………  みよ子は枕元のなかまから送られてきていたテープレコーダーに、持参のテープをかけ、スイッチをひねりました。静かに流れ出す曲、それこそ、近づく死を前に荒木栄が一代の情熱をこめて作曲したものでございます。

張扇ピシャリと鳴り、講談休止、「母なる太陽(わが母のうた? bunbun)」の歌が静かに流れる。低く静かに。二節目より、それに講談がかぶさる。 かくて、日本の労働者階級が生んだ最大の音楽家、荒木栄は、数かずの名曲をのこして、一九六六年十月二十六日、秋風渡る大牟田の一角に、三十八年の短い生涯を終わったのでございます。

 しかし、かれが、うたいあげたうたは、今なお、そして、将来まで、日本人民のたたかいと共に、高らかに、うたいつづけられて行くことでございましょう。「うた声よ、たたかいと共に」一席の読切講談でございます。

講談、読み終わると共に、音楽高まり、ますます高まる中に幕。 完

作成(2008/01/10) by bunbun 

◆◆荒木栄

Wikiより

荒木栄(あらきさかえ、19241015– 19621026日)は福岡県大牟田市出身のソングライター。三井鉱山三池製作所(三井三池炭鉱)の機械組立工で、主に労働歌を作曲した。戦後日本を揺るがした三井三池争議に参加し、その前後を通じて労働者を励ます歌を作る。代表作に「がんばろう」、「この勝利ひびけとどろけ」、

「沖縄を返せ」など。

荒木栄(あらきさかえ、19241015– 19621026日)は福岡県大牟田市出身のソングライター。三井鉱山三池製作所(三井三池炭鉱)の機械組立工で、主に労働歌を作曲した。戦後日本を揺るがした三井三池争議に参加し、その前後を通じて労働者を励ます歌を作る。代表作に「がんばろう」、「この勝利ひびけとどろけ」、

「沖縄を返せ」など。

19241015福岡県大牟田市の三池炭鉱社宅で10人兄弟(兄4人、姉4人、妹1人)の三男として生まれる。

1930三井鉱山で働いていた父が解雇。以降苦しい子供時代を送る。

1939三川尋常高等小学校を卒業。三池製作所に就職。

19455海軍に徴兵され横須賀海軍工作学校に入隊。

19458終戦。その後復員。この頃に自らの心境を多くの短歌にして詠んでいる。

1946職場の混声合唱団での活動を始める。ハーモニカやヴァイオリンを独学で学ぶ。

東京藝術大学音楽部同声会(同窓会)の通信教育などを受けてこれらの楽器を学ぶ。ちなみに、この通信教育は日本で通信教育が始まったばかりのもの。

19473ビルマで戦没した兄の安夫の妻・荒木ヒサエと結婚

19475バプテスト教会の洗礼を受ける

1949作曲活動を開始。大牟田混声合唱団や三池製作所混声合唱団に入団

以下の最初の三曲は宮沢賢治の童話を元にしたオペレッタ「ひのきとひなげし」の挿入歌。「啄木よ」は死後に見つかったもので、題名は付けられていなかったため、(仮題)となっている。

ひとつ星のうた/うたおうよおどろうよ/落日のうた(後藤安男)/この人を守れ(吉開某)/啄木よ(仮題)

1950労働者を励ます歌を作り始めるのはこの頃から

炭鉱ばやし(淀川正)/採炭のうた(坂本茂雄)/選炭情歌/地底建設のうた(-)

1952青年団を主体としたうたごえ運動を起こす

1953113日間の闘い。蛮声会を結成。第1回九州のうたごえに参加

7炭婦協行進曲

1954うたう会の設立。久留米医科大学(現在の久留米大学)病院で胃を手術。退院後は設計課に異動

10おやすみ仲間たち

12大牟田うたう会のうた

19553回九州のうたごえに参加

3春のうたごえ

4新さくら音頭

12心の中に(-)

1956大牟田センター合唱団を結成

1そとは北風

3燃やせ闘魂

4星よお前は/希望の沖に(堤洋子)

5せんぶりせんじのうた

9仲間の顔(湯浅僖規)

10沖縄を返せ(全司法福岡高裁支部)

11労働者はまだ(後藤安男)/夜明けだ

1957日本のうたごえに参加。地元で開催される全日自労全国大会に向けて作曲

10憎しみの中から(全日自労大牟田分会)/手(竹下八重子)

1958勤務評定反対運動に参加し、「組曲・子供を守るうた」は勤務評定反対の歌

1人工衛星行進曲

9組曲・子供を守るうた(上野博子)

1959製作所分離に際して闘いを本格的に開始し、また炭鉱を巡る闘いを励ます歌を作り、社宅公演を行う

1三井鉱山が三池労組に対し6000人の希望退職や製作所の分離を含む会社再建案を提示。組合は強く反発

5日本共産党に入党

829会社側が4580人の人員削減案を発表

1024製作所分離に際し製作所支部が三池労組を脱退。荒木は三池労組に残る

122会社側が1492人に退職を勧告

123会社側が退職勧告に応じない1278人を指名解雇

1大行進のうた(全日自労大牟田分会作詞グループ)

9どんと来い

11どんづまりのうた(森田ヤエ子)

1960三池争議の中で多数の曲を作って「うたごえ統一行動」を進める。曲はいずれも労働者を励ましたり、争議中の妻や子供たちを歌った歌

125会社側がロックアウトを通告。三池労組は無期限ストに突入

317三池炭鉱新労働組合(三池新労、第二組合)を結成

325以降、三池労組の組合員の約半分が三池新労に加わってストから離脱

328三池新労が就業して生産が再開される

328久保清が暴力団員に刺殺される

77ホッパーへの組合員立ち入り禁止とする仮処分を福岡地裁が下す。ホッパーの攻防戦が始まる

810中央労働委員会は斡旋案を発表。炭労と総評も受け入れる方向で動く

96炭労臨時大会。三池労組は条件付きで斡旋案の受諾を決定

1029会社側と組合との交渉が妥結。生産再開に関する協定を調印

111ロックアウト解除

1111三池労組は無期限ストを解除

121生産完全再開

1みんなでみんなで敵をうて(三鉱創作グループ)

4おれたちの胸の火は(森田ヤエ子)/三池の主婦の子守唄

5みんなニコニコ(三鉱創作グループ)

6がんばろう(森田ヤエ子)

7団結おどり(森田ヤエ子)/守れホッパー(井手信義)

9闘いの火を(前原桃枝)

12ひびかせろ(三川うたごえ行動隊)/仲間のうた(大江将精)/花をおくろう(森田ヤエ子)/月見草(森田ヤエ子)

1961三池争議敗北後の中で励ます歌を作り続け、うたごえや創作曲の後進の育成を進める。また他地域の活動家とも交流をする

1田植えうた(田植歌)(森田ヤエ子)

3宇部興産炭鉱労働者のうた(花田克巳)/三池でもやした火を燃やせ(花田克巳)/よろこび(森田ヤエ子)/炭郎くんと炭子さん(投野一隆)/おい仲間たち(森田ヤエ子)

4炭鉱社宅のおかみさん/こぶし固めて(上野信幸)

5心はいつも夜明けだ(永山孝)

7黒潮の歌(森田ヤエ子)

11新島と板付と(森田ヤエ子)/組曲・地底のうた

まわそう機械を(-)

1962三池争議を描いた構成劇「不知火」をまとめる(九州各地で公演)。板付基地問題より反基地運動に関わる。

325板付基地包囲事件。これに際して「この勝利ひびけとどろけ」などを作曲する。

5久留米医科大学病院で胃を再び手術

728米の山病院に入院

1026午後2時に、米の山病院で胃癌によって死去(享年38

1ひざっこぞうの唄(門倉さとし)

2アメリカ帝国主義をたたき出せ/ふるさと(森田ヤエ子)

3筑紫野に春を/春まつり音頭(森田ヤエ子)/春と夜明けと若者たち(井上明)/真っ赤な花はみんなの意気だ(橋本輝雄)

4この勝利ひびけとどろけ/こうず(平川さよ子)

5五月のうた(森田ヤエ子)

6平和と軍縮を(新宿合唱団)

7この道を行く(門倉さとし)/おれたちは太陽(門倉さとし)

8わが母のうた(森田ヤエ子) ※遺作

制作年不明沖縄かがやけ/ミイ・ニシ/夢を紡ぐもの

◆◆三池炭鉱をたどって

2013121318日朝日新聞 

大惨事、「昔の出来事」か

 福岡県大牟田市の三井三池三川(みかわ)坑跡で11月9日、「戦後最悪の炭鉱事故」の犠牲者を追悼する式典が営まれた。

 1963年のこの日、ウインチにつないだ炭車が三川坑第1斜坑を上がる途中、連結器が壊れて暴走し、坑道に積もった石炭の粉じんを巻き上げた。炭じんの雲ができ、切断された高圧線の火花か摩擦熱により着火、大爆発した。

 炭じんは完全燃焼しにくい。一酸化炭素(CO)が大量に生じ、坑口からの外気に流され、有明海の下を走る坑道の先まで広がった。死者458人。その95%はCOによる中毒死だ。

 「坑内作業を終えて体を洗っていたら停電した」。電気工だった宮脇好光(75)はふり返る。

 大惨事とはつゆ知らず、爆発現場のある坑口側をめざして水平坑道を歩いていたら、前から来た鉱員が突然倒れた。引き返したところ仲間が倒れ、天井が回り出して宮脇も気を失った。

 8時間後、救護隊に当時の三井鉱山の病院へ運ばれる。だが、すぐ家に帰された。激しい頭痛、めまい、吐き気に襲われたのは2、3日後だった。

 「しばらくして症状が出るのがCO中毒の特徴」。水俣病と格闘した医師原田正純は生前、私の取材にそう語った。熊本大の大学院在学中、医局から指示され事故直後の現地に赴く。

 「総資本対総労働」と呼ばれた三池争議が終わって3年。三井の病院の医師と三池労組の組合員の相互不信は根深かった。

 卓球は得意だが、洋服を着られない患者を原田は診た。

 「卓球は反射の要素が強い。一方、洋服はどこに手を入れるのか形を認識しないと着られない。だが、三井の医者は『卓球はできる。詐病だ』と。こうした偏見が医学界に浸透した」

 事故の3年後、九州大教授がトップの三池医療委員会は「自覚症状だけでは職場復帰不能と判定する条件にならない」との意見書を出す。その結果、国は長期療養を要す患者ら84人を除く738人について「労働能力が回復し、職場復帰は可能」と判断、労災補償を打ち切った。

 「棄民政策だ」。坑道を補修する仕繰(しくり)工だった織田喬企(たかき)(74)は憤る。爆発直前、作業指示を出す係員と坑内の保安態勢をめぐって口論になり、同僚約80人を乗せた人車(じんしゃ)は織田を残して第2斜坑を下がっていった。

 そのとき入坑した掘進工の男性は翌朝、意識不明の状態で救助され、しばらく入院した。40年間、三池に取り組んだ原田の診断は「CO中毒によるパーキンソン症状」だが、国は「職場復帰できる」と判定した。

 男性は動作が鈍り、三井が用意した坑外の軽作業をこなすのがやっと。賃金が安く、家族を養えない。愛知県東海市に妻子と移り、港湾荷役の仕事に就いたが、何度も負傷したという。働き詰めで家計を支えた妻に先立たれ、50歳で病死した。

 あの大事故は「昔の出来事」で片づけられるのか。三池をたどる。

 =敬称略(田中啓介

 【写真説明】

追悼式典が開かれた旧三川坑の構内で炭車が野ざらしになっていた=11月9日、福岡県大牟田市

弱い者が守られない

 三井三池三川(みかわ)坑の炭じん爆発事故から4年後の1967年、一酸化炭素(CO)中毒患者家族の会の松尾けい虹(けいこう)(82)は東京・三宅坂の社会党本部(当時)を訪ねた。患者のための特別立法が政治日程に上っていた。

 ヤマ元の福岡県大牟田市に残した夫修(おさむ)はCOに侵され、後遺症に苦しんでいた。不意に暴れ出す、ささいなことで娘をたたく。国から軽症と判定され、前年、労災補償を打ち切られた。低賃金の坑外作業に回り、あすのコメを買う金を心配する日々。「完全治療・収入補償・解雇制限」を譲らぬよう三池労組幹部と社会党へ陳情に来たのだ。

 委員長佐々木更三は「事故の死者は何人? 生きている人がいたのか」。松尾は憤激した。「社会党が弱い者の味方と言うなら、党の命運をかけて三池の問題をやってください」

 しかし、軽症患者を置き去りにした法律が成立し、松尾は失望する。光明をもたらしたのは隣県・熊本の水俣病患者らだ。69年に加害企業チッソを相手に損害賠償訴訟を起こした。「私たちもできる」。当時の三井鉱山を訴える資料を集めた。

 だが、三池労組の幹部は「検討する」。半年待った末の答えは「ノー」。松尾ら2家族は72年、労組を見限って提訴した。

 訴状を出す当日、福岡地裁近くの弁護士事務所から電話で通告した。すると「自宅にいる」と労組幹部は誤解したらしい。「裁判所に行かせるな」と、指示された2~3人がバイクで大牟田駅へ急行した――。後で組合関係者から聞かされた。

 93年、一審で三井の責任を認めさせ、途中夫を失うが、判決は最高裁で確定した。松尾が述懐する。「組合でも何でも権力を持ちすぎると組織は腐る」

 三池労組に雇われる書記の一人だった堤玉枝(77)は松尾らの闘いを支援した。集会に顔を出し、鉱員の社宅を深夜回って裁判のビラを投げ込む。

 「松尾さんたちが絶対正しいと信じていたから」

 執行部は快く思っていなかったのだろう、組合員が減り、財政が厳しくなった78年、書記の中で1人だけ指名解雇を通告された。60年の三池闘争は1200人の指名解雇撤回を求める闘いだった。「その三池労組がなぜ?」。玉枝は承服できず、組合本部前に止めた乗用車に書記仲間4人と籠城(ろうじょう)、12日間ハンストをして撤回させた。

 だが、仕事がない。居づらくて2カ月後に退職。簿記を学び、地元企業に再就職した。

 83年、死刑囚に対する初の再審無罪判決のニュースが全国を駆けめぐった。合成洗剤追放の市民運動に取り組んでいた玉枝は、時の人である免田栄(88)を招けば集会の人寄せになると考え、熊本市の仮住まい先まで出かけた。それが縁で二人が結婚したのは翌84年のことだ。

 「労働者を守らぬ労働組合が衰えたのは必然ではないか」

 三池労組の姿勢を思い起こすと、玉枝はそんな気がして仕方がない。=敬称略(田中啓介)

「福島は第2の三池や」

 いま、名古屋市の郊外で暮らす眞村勲(76)は福岡県大牟田市の三井三池三川(みかわ)坑で働いた17年間、2度も死に直面した。

 最初は1963年の炭じん爆発事故だ。作業を終えて戻る途中、坑道に煙が充満して意識を失う。中学の同級生だった炭鉱員が通りかかって人工呼吸を施し、仲間の手も借りて坑外へ担ぎ上げてくれた。

 運良く一酸化炭素(CO)中毒の後遺症は免れ、4年間のリハビリ後、坑内の電気工に復帰した。ある日、誰かが電源を入れていたと知らず3300ボルトの高圧線に触れ、2メートル近く吹き飛ばされた。

 奇跡的にやけど一つしなかったが、「炭鉱はこりごりだ」。妻にも相談せず辞め、妹が住む名古屋へ引っ越した。70年のことだ。その後はタクシー運転手などを経て中部電力のグループ企業に入り、定年まで勤めた。

 眞村は50年前を顧みて言う。

 「原発と同じ安全神話が三池にもあった。炭じん爆発が起きるなんて。COの怖さも何も会社から教育されないんだから」

 鉱山会社を規制する通産省鉱山保安局の出先が福岡市にあった。三川坑と並ぶ三池炭鉱の主力、宮浦坑で仕繰(しくり)工として坑道の補修に携わった平畑金一(83)は「監督官は年1回来るかどうか。検査とは名ばかりだった」と振り返る。3人一組で入坑すると、三井鉱山の幹部十数人が付き従い、ピッケルをつきながら本線の坑道を歩くだけ。支線の先の採炭現場まで足を運ぶことはなかったという。

 平畑は三池労組の職場委員をつとめた。労働者の安全確保が生産向上の大前提と考え、たとえば坑道に積もる炭じん対策では、舞わないように清掃・散水する保安要員を職場に置いた。

 ところが「生産阻害者」の汚名を着せられ、59年、指名解雇になる。彼らの解雇撤回を求める三池争議に労組が敗れ、保安要員の大半は生産現場に回された。63年10月、三池炭鉱の月間出炭量は戦後最高を記録、翌11月、炭じん爆発が起こる。

 「あれは人災ですわ」。前々年に関西で再就職し、いま京都市に住む平畑はそう言い切ると福島の原発事故後「東電の虜(とりこ)」と批判された原子力安全・保安院に半世紀前の監督官の姿を重ねた。「福島は第2の三池や」

 炭じん爆発に関する集会が今年11月10日、地元であった。目的は追悼でも回顧でもない。抗議だ。

 政府調査団長の元九州大学長が「爆発は不可抗力」との見解をまとめ、福岡地検は事故の3年後、三井鉱山幹部を不起訴にした。だが不可抗力説はのち民事訴訟の判決で否定された。

 集会実行委員会の会長山下開(88)は三池労組の書記次長だった。「あの調査団は結果的に第三者を装って国家権力や企業に都合よく事態を収めようとした。福島の被災地でも同じことが繰り返されていないか。我々の経験を伝え、警鐘を鳴らしたい」。50回目の集会に託した山下の思いである。=敬称略(田中啓介)

今は昔の「がんばろう」

 《がんばろう つきあげる空に

  くろがねの男のこぶしがある

  もえあがる女のこぶしがある》

 労働歌「がんばろう」の冒頭である。1960年6月、安保粉砕を叫ぶデモ隊10万人が歌って国会議事堂を包囲した。

 作曲者は福岡県大牟田市の三井三池製作所の機械組立工だった荒木栄。音楽を独学し、三池争議のさなかに作った。

 「作曲したから歌ってみてくれと荒木さんから頼まれたんだよ」。それが「がんばろう」だったと大城(おおき)誠(73)は振り返る。荒木らが結成した大牟田センター合唱団に加わり、三池労組うたごえ行動隊の中心メンバーでもあった。大城らは歌詞を書いた紙を三川(みかわ)坑のホッパー(貯炭槽)周辺のピケ小屋に貼り出し、代わる代わる各地から支援に来る組合員たちに指南した。歌は瞬く間に全国へ広まった。

 大城は63年の三川坑の炭じん爆発に巻き込まれ、一酸化炭素(CO)中毒のため4年間入院した末、70年に退職した。「辞める」と伝えたら、三井鉱山の人事課員は満面の笑みを浮かべたという。その後、歌手だった実弟がクラブ回りをしていた札幌市へ妻子と移り、この夏まで34年間ラーメン店を営んだ。

 「CO患者は会社から消えてほしかったんだろうな」

 大城のような三池労組の組合員が減るのも喜ばしかったに違いない。会社による工作もあり、争議中の60年3月に三池労組が分裂して三池新労が誕生していた。鉱員の大半は請負給だ。ストを続けていては収入が途絶える。新労の1500人が採炭を再開、ピケを張る三池労組の組合員と衝突した。会社に求めた1200人の指名解雇撤回を果たせず三池労組は争議に敗れる。やがて勢力は逆転し、炭じん爆発直前の63年10月の時点で新労の6700人に対し、三池労組は4千人だった。

 実は荒木は炭じん爆発事故を予言したような歌を死の前年の61年、作詞作曲している。「地底のうた」である。

 《崩れる炭壁 ほこりは舞い 汗はあふれ

  担ぐ坑木 肩は破れ 血は滴る》

 事故の9カ月前、三井は10%の賃下げを三池労組に突きつけた。石炭から石油へ転換する時代を乗り切るため、合理化路線を突き進んでいたのだ。

 荒木の作詞作曲による「どんと来い」は「資本家」を痛烈に批判する。

 《不景気ちゅうて

  首切り賃下げ やり放題》

 2008年、記録映画「荒木栄の歌が聞こえる」が公開された。メガホンを取った港健二郎(66)は大牟田出身だ。三池労組に残った知人は市内を走る炭鉱電車の踏切の監視員に配転させられたという。「いまのブラック企業の追い出し部屋のはしり。組合の分断にしても、より多くを三池争議から学んだのは資本家、経営者の側だ」

 もし荒木が存命なら、非正規労働者があふれる社会を目の当たりにして、いったい何を思うだろう。

 =敬称略(田中啓介)

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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