◆◆歌物語 ❷ プロテスト・ソング世界と日本
🔴憲法とたたかいのブログトップ
憲法とたたかいのblogトップ
【このページの目次】
◆イムジン河水清く
◆ SMAP の「世界に一つだけの花」、 SMAP 解散問題
◆「竹田の子守唄」
◆「アメージング・グレース」
◆「広い河の岸辺」大震災・つながりもとめて
◆韓国の軍政からの民主化闘争のなかのうた
◆「勝利を我らに」=公民権運動・ベトナム反戦のなかで
◆ジョン・レノン=「イマジン」
◆「ヘイ・ジュード」=チェコ民主化のたたかい
◆「ヨイトマケの唄」=美輪明宏
◆「ドナ・ドナ」=ジョン・バエズ
◆ニッポン人脈記・演歌よ(朝日新聞連載全 9 回)演歌リンク集
★★プロテスト・ソング傑作集(反原発・反戦・反権力・反差別など世界と日本のプロテスト・ソングの紹介・歌詞・動画)
http://protestsongs.michikusa.jp/index.htm#top
プロテスト・ソング( protest song )とは、社会の中の不公平や不正を告発し抗議する歌。一般にアメリカのフォーク・ソングの分野に関し使われた。それだけでなく民衆の中で古くから歌われてきた民謡には,権力者への批判をこめたものがしばしば見られるが,そうしたものもふくめていう。
★★当ブログ=歌物語 ❶ 労働歌・革命歌・うたごえ、ロシア民謡
http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/5769185.html
★★第1集「世界を震わせた芸術家たち」
本編: 89 分
( 20 世紀の芸術家=映画・小説・音楽などさまざまな分野にわたるが、レノン、ショスタコーヴィチ、ディラン、デビッド・ボウイなどプロテスト・ソングの動画もある)
または
★★デビッド・ボウイ in 西ベルリン 5m (上記の動画から)=ベルリンの壁崩壊の一端となった
(リンクは個別の項目にあり)
───────────────────────
🔵イムジン河水清く
──────────────────────
🔷🔷アナザーストーリー・イムジン河水清く
https://vimeo.com/433511001
🔷映画=パッチギ https://vimeo.com/433511554
🔷映画=パッチギLove&Peace
http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kempou7408&prgid=60362523
──────────────────────
🔵SMAP の「世界に一つだけの花」と解散問題
──────────────────────
★★ SMAP 「世界に一つだけの花」 5m
https://m.youtube.com/watch?v=mHDHVUSpuSY
◆朝日新聞デジタル= SMAP 解散問題
http://www.asahi.com/sp/topics/word/SMAP.html
【筆者コメント】
SMAP の「世界に一つだけの花」のメロディーそして歌詞が多くの人々の胸を打った。ヒットした 2003 年といえば、小泉政権の「構造改革」、財界の「新時代の『日本的経営』」が本格的に稼働した時代。学校でも会社でも、また一般社会でも新自由主義、競争主義が極端に猛威をふるい大手を振ってまかり通っていた時代であった。いじめや不登校をなかなか根絶できない学校、結婚の展望ももてない非正規労働に苦しんでいる青年たち、一方で正社員でも「勝ち組・負け組」の成果主義の競争のなかで長時間労働で健康をこわす寸前まで追い込まれる事態が今日でも進行中だ。成果が上がらないのは、「自分の努力が足りなかったからだ」「自分に能力がなかったからだ」と「自分の責任」にせざるをえない苦しみ。こうした競争主義は、社会全体にまん延し、未婚の急増、少子化、家庭崩壊、自殺、犯罪、退廃文化の広がりを引き起こした。この政府・財界、大企業の戦略は、結果的には、格差と貧困をつくりだし、職場の技術の継承発展を妨げるばかりか、搾取強化による貧困の増大が日本経済の健全な発展の足かせとなった。
この競争主義の社会全体へのまん延に真っ向から異議を申し立て、批判を投げつけたのが、この「世界に一つだけの花」である。イラク戦争が起きて世界中に平和の大切さが求められた時期でもあり平和の歌にも通じる。
「小さい花や大きな花、一つとして同じものはないから、 NO.1 にならなくてもいい、もともと特別な Only one 」「それなのに僕ら人間は、どうしてこうも比べたがる ? 一人一人違うのにその中で、一番になりたがる ? 」「そうさ 僕らは、世界に一つだけの花、一人一人違う種を持つ、その花を咲かせることだけに、一生懸命になればいい」 —- 。
なんという新鮮な呼びかけか !! どんな人でも、かけがえのない、たった一度しかない人生を幸せに生きる権利をもっていることを高らかにうたった日本国憲法 13 条の「個人の尊重」「幸福追求権」そのものではないか !! 国民の多くが共感の声をあげた。シングルで 300 万枚を超え、学校の教科書にも取り入れられた。ちょうど終戦直後に、はじめて国民が自由を手にした時代に「青い山脈」という歌が口ずさまれたように、この歌は、まさに国民的愛唱歌になりつつある。今後ともそうなるのは間違いない。なぜなら競争主義、戦争の危険性がいまだに猛威をふるっているからだ。
2016 年冒頭から「 SMAP の解散騒動」が起きた。 5 人一人ひとりの誰もが抜群の能力をもっているとはいえ、グループとしては、「嵐」などと違い年齢も高くなり、人気にかげりが出るのはやむをえないと思われる。しかし、解散が「円満解決」にならず、「決裂」状態になったのは、残念でならない。 12 月 26 日の『 SMAP×SMAP 』最終回の最後に「世界に一つだけの花」を歌った 5 人の姿は、なんとも悲しい姿であり、文字以外何のメッセージもなかった。それは 2016 年 1 月 18 日のジャニーズによる「公開処刑」とも呼ばれた “ 謝罪会見 ” の続きであった。
なぜこんなことになるのか。その背景にあるのが、ジャニーズというワンマン経営・ブラック芸能企業による芸能人の封建的・資本主義的搾取の存在だ。収入だけでなく、恋愛・結婚問題はじめ全生活にわたりタレントの行動に縛りをかける企業のあり方はいかにも異常だ。「独立」や「独立意思」を発見すると、たちまちタレントの収入活動を妨害する報復措置をとる。こんな経営体が存在すること自体驚きだ。しかも NHK や民放や CM 業界に絶大なる権限をもっているのだ。まるで「人買い」「安寿と厨子王」の世界ではないか。紀藤弁護士が指摘しているが、労働基準法、独占禁止法、不当競争防止法その他数多くの法律違反がまかり通っている(下記の朝日記事)。欧米には余りない特殊な団体だ人権団体や労働運動が関与できないものか。欧米には余りない(下記のプレジデントオンライン論文参照=アメリカの組合方式などで解決できる問題)。「世界に一つだけの花」の後に置いた論座や朝日新聞の記事を参考にしてほしい。
このジャニーズの支配のなかで、木村拓哉のような親ジャニーズ派が生まれ、 5 人の亀裂が決定的なものになった。企業のなかでは、よくある話だ。ということは「世界に一つだけの花」の歌詞の精神を木村拓哉自身が裏切ったことになる。もともと人気でいえば「 No. 1 的存在」が、仲間との団結の妨げになったのかもしれない。いずれにしても木村拓哉も「週刊女性」 2016 年版の「嫌いなジャニーズ」部門でぶち抜きのランキングトップとなった。当然の話だと思う。
しかし、わたしたちとしては、戦後日本の文化遺産となりつつある「世界に一つだけの花」を今後とも、大切にして大いに歌い続けようではないか。
🔷🔷ジャニーズ事務所に注意 「元SMAP3人出演巡り圧力」情報 公取委
2019年 7月 18日朝日新聞
アイドルグループ「SMAP」の元メンバーをテレビ番組に出演させないよう圧力をかけた場合は独占禁止法に触れるおそれがあるとして、公正取引委員会が元メンバーが所属していたジャニーズ事務所(東京都)に対して注意していたことがわかった。
■違反認定に至らず
関係者によると、ジャニーズ事務所から独立した元メンバーの稲垣吾郎さん、草なぎ剛さん、香取慎吾さんをテレビ出演させないよう同事務所が圧力をかけているとの情報があり、公取委が聞き取り調査などを実施。しかし、違反行為を認定するには至らなかったという。ただ、こうした圧力をかけていれば独禁法に触れるおそれがあると公取委は判断。ジャニーズ事務所に対し、注意を行ったという。独禁法は、本来自由である契約を不当に妨害する行為を禁じている。
公取委による注意は、違反行為の存在を疑うに足る証拠が得られなくても、違反につながるおそれのある行為がみられた場合に、未然防止を図る観点から行われている。2017年度に公取委が処理した118件のうち、違反事実を認定して排除措置命令を出したのが13件、違反の疑いがあるとして警告したのが3件、注意は88件だった。
SMAPは16年12月31日に解散。メンバーのうち、稲垣さん、草なぎさん、香取さんの3人は17年にジャニーズ事務所を離れ、「新しい地図」を立ち上げて再出発していた。3人はそれぞれレギュラー番組に出演していたが、19年3月までにすべて終了した。(中野浩至)
■「圧力、事実ない」
ジャニーズ事務所は公式ウェブサイトでコメントを発表。「弊社がテレビ局に圧力などをかけた事実はなく、公取からも独禁法違反行為があったとして行政処分や警告を受けたものでもありません。とはいえ、当局からの調査を受けたことは重く受け止め、今後は誤解を受けないように留意したいと思います」などとしている。
🔷🔷アメリカのように芸能人組合をつくるしかない=テレビ報道から
SAGの活動はWiki参照
◆プレジデントオンライン・なぜ日本の芸能人は「独立」ができないのか
2016.2.17 松谷創
http://president.jp/articles/-/17343
◆ Wiki = SMAP 、 SMAP 解散騒動、ジャニーズ事務所、「世界に一つだけの花」、槇原敬之など参照。
◆◆(もういちど流行歌)「世界に一つだけの花」SMAP5人が歌うからこその説得力
2016 年 12 月 17 日朝日新聞
2003年3月の曲
年内の解散を発表しているSMAP。累積売り上げ300万枚に達した代表曲は、シングルとして発売される前から、5人にとって特別な曲でした。
(年末解散を発表したSMAPの代表曲「世界に一つだけの花」の累計出荷枚数が300万枚に達したとして、日本レコード協会は、トリプルミリオン作品に認定した。シングルのトリプルミリオンは、1999年3月発売の「だんご3兄弟」以来2作目。「世界に一つだけの花」は2003年3月に発売された。今年1月にSMAP解散の可能性が持ち上がって以降、ファンが購買運動を続けている)
「生きる糧」「名曲」 … 「世界に一つだけの花」への声
♪ ♪
教科書にも載る国民的ソング「世界に一つだけの花」。アンケートでも、回答者の87%が支持した。
「オンリーワンが大切という考え方に共鳴した。5人の個性が輝くSMAPが歌うから説得力があった」(東京、37歳男性)、「決してうまいわけではないのに、5人があわさった歌声は唯一無二の存在」(埼玉、46歳女性)。
デビュー25年、SMAPの音楽活動を支えてきたビクターエンタテインメントにはSルームというSMAPのための部署がある。同ルームのプロデューサー見上浩司さん(53)は、SMAPがこの曲を「僕らにとって一番大切な曲」と語るのを節々に聞いてきた。
元々は2002年発表のアルバムの中の1曲だった。作詞作曲は槇原敬之さん。最初に出した曲はイメージが違うとボツに。締め切り間際に再挑戦し、2時間で書き上げたという。
見上さんによると、SMAPのアルバムを作るときはいつも壮大なコンペが行われる。毎回、新進気鋭のアーティストを含め、多くの作曲家から曲を募り、1千曲以上が集まる。
「みんながSMAPに歌ってほしいと曲を書いてくれた。彼らほど作り手の創作意欲をかきたてる存在も珍しい」
選曲には、SMAPの5人も参加。60曲ほどに絞られた段階で、各自でデモテープを熱心に聴き、いろいろと意見を出す。「世界に―」については、最初から5人の反応は一致した。
「いい曲だ!」「これ、アルバムにおさまるだけの歌じゃないよね?」
5人は、多くの人に聴いてほしいと思った。アルバム発売後のコンサートツアーで、この歌を最も盛り上がるラストにもってくるという演出をメンバーで話し合って決めた。それがテレビ局のプロデューサーの目に留まり、草なぎ剛さん主演のドラマ「僕の生きる道」の主題歌に起用されることに。シングルバージョンの発売が決まった。
リリースは03年3月。その直後にイラク戦争が始まっている。見上さんは、曲が爆発的に受け入れられた背景にはそんな社会情勢が大きかったとみる。
「想像を超えたところで曲が時代とリンクし、平和を願う歌として成長していった。彼らもどこかでそれを自覚した」
年末の紅白歌合戦で初の大トリを務めたSMAPは平和への思いを言葉にしたあと、この歌を熱唱する。
「メッセージを話し、心を込めてパフォーマンスする姿に鳥肌がたった」(埼玉、48歳女性)、「圧巻の存在感と心を打つ歌声に釘付けになった。誰もが認める国民的スターが誕生した瞬間だった」(北海道、56歳女性)。
それから13年。この歌は多くの人を勇気づけてきた。「子どもの障害がわかり、途方に暮れながら商業施設を歩いているときに、流れてきたこの歌に心を打たれ、涙した」(東京、52歳女性)、「仕事がきつかったとき、この歌を聴いて、お風呂で泣きながら歌って、自分を励ました」(福岡、41歳女性)、「車イス生活をしながら離婚して3人の娘につらい思いをさせているかもと気にかけていたときに聴き、オンリーワンの母を突き進めと背中を押してもらった」(北海道、54歳女性)。
見上さんが見てきたSMAPは「時代や運で大きな存在になったのではなく、才能と努力の人たち」。いつの日か、5人がまた集まって歌いたいと思う日が来る。そう信じ、準備はいつでもしておくつもりだ。
◆メンバー出演作の主題歌も
読者アンケートの3、4位の曲も、実はSMAPのメンバーと関係がある。
「月のしずく」は、女優の柴咲コウさんが出演映画「黄泉がえり」の劇中歌を役名でリリースしたもの。映画の主演を務めたのが、草なぎ剛さんだった。
「映画の世界観と柴咲さんの魅力的な声が合っていて、素晴らしかった」(北海道、58歳女性)、「映画ではこの曲で泣いた。その歌詞と今のSMAPの状況を思うと涙が出る」(東京、53歳女性)。
「RIDE ON TIME」は、元々1980年の大ヒット曲。こちらは木村拓哉さん主演のドラマ「GOOD LUCK!!」の主題歌に起用され、リバイバルヒットした。
「何年経っても色あせない曲。これを聴けば、ドラマの一場面が、木村さんの顔が、パッと思い浮かぶ」(神奈川、47歳女性)
(林るみ)
<調査の方法> 朝日新聞デジタルの会員登録者を対象に11月中旬、アンケートを実施した。回答者は3272人(男性25%、女性75%)。調査会社オリコンが2003年3月に調べたシングル売り上げランキングの上位20曲から「好きな曲」「思い出深い曲」を選んでもらった。曲は同月発売とは限らず、また何カ月にもわたってランク入りする場合もある。アーティスト名の表記は当時のもの。
◆◆「世界に一つだけの花」「 NO.1 にならなくてもいい もともと特別な Only one 」の歌詞
作詞・作曲 槇原敬之(まきはらのりゆき)
花屋の店先に並んだ
いろんな花を見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど
どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて
争うこともしないで
バケツの中誇らしげに
しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は
どうしてこうも比べたがる ?
一人一人違うのにその中で
一番になりたがる ?
そうさ 僕らは
※ 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい※
困ったように笑いながら
ずっと迷ってる人がいる
頑張って咲いた花はどれも
きれいだから仕方ないね
やっと店から出てきた
その人が抱えていた
色とりどりの花束と
うれしそうな横顔
名前も知らなかったけれど
あの日僕に笑顔をくれた
誰も気づかないような場所で
咲いてた花のように
そうさ 僕らも
( ※ くり返し )
小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1 にならなくてもいい
もともと特別な Only one
※ 「 」内はシングルバージョンのみ有り
◆◆「私」「人生」 … 槇原敬之デビュー20年のベスト盤
2009 年 12 月 10 日
シンガー・ソングライターの槇原敬之がデビュー20年となる来年、ベストアルバムを2枚出す。元日発売の「ベスト・ラブ」「ベスト・ライフ」だ。「どんなときも。」「世界に一つだけの花」など数々のヒット曲を送り出しすすす
た希代のソングライターが軌跡を振り返った。
ベストアルバムは、90年のデビューから今年11月の最新シングル「ムゲンノカナタへ」までの中から選曲。「ベスト・ラブ」は初期の代名詞だったラブソングを、「ベスト・ライフ」は人生や日常を見つめた歌が中心で、それぞれ15曲を収めた。
大学浪人中にデビューした槇原。将来への不安が消えないなかで生まれたのが、「どんなときも。」だった。映画のテーマ曲の依頼を受けた喫茶店を出て、すぐに「どんなときも」という言葉がメロディーと共に浮かび、道ばたでメモをとった。「これはダサイなあ、と思ったけど、ずっと頭の中に鳴っていた。好きなことをやりたい、という切なる思いだったんだろう」
このヒットで一躍、人気歌手になり、「もう恋なんてしない」「冬がはじまるよ」など自信なさげな男性の恋愛を描いた曲を生み出していく。「ぼくも恋愛でうまくいったためしがなかった。でも自暴自棄でなく、希望も入れていた。つらいことにも何か意味があるはずだと先天的に思っていた」
だが、多忙で自分を見失う。99年に覚せい剤所持容疑で逮捕され、有罪に。それが自分を見つめ直す機会になった。「すべてがなくなり、見晴らしが良くなった。信じていたものがいいかげんだったことに気づき、何が本当に正しいかを知りたくなった」
仏教に出合い、作品のテーマを私小説風の世界から「人生」へと広げた。その成果が、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」だ。依頼を受けて最初に出した曲をボツにされ、締め切りが迫るなかで書きあげたという。
「部屋の床に犬と寝ていてパッと起きたら、ものすごくきれいな雨が降っている朝だった。頭に浮かんでくる景色を文章化していくだけで、自分が書いた感覚はなかった」と言う。「ナンバーワンでなくオンリーワン」という主題は、仏教の教え「天上天下唯我独尊」が念頭にあった。
03年に発売されたSMAPのシングルは約250万枚を売り上げた。「ぼくが歌ったら、こんなにはやらなかった」と笑いながら、「人を見て幸せをはかるのではなく、自分の内面から真の幸せを見つける時代になってほしい」と話す。
ベスト盤ではこれらの代表曲は、アレンジを大胆に変えて再録音した。来春ごろには新しいアルバムを発表したいという。(宮本茂頼)
◆◆「生きる糧」「名曲」 … 「世界に一つだけの花」への声
林るみ
2016 年 12 月 17 日朝日新聞
解散までのタイムリミットが迫るSMAP。その代表曲「世界に一つだけの花(シングル・ヴァージョン)」をテーマにしたbe「もういちど流行歌」のアンケートには、朝日新聞デジタルの会員3272人が協力してくれました。寄せられた声の一部を紹介します。
「世界に一つだけの花」SMAP 5人が歌うからこその説得力
今月、発売から13年9カ月かけて累積売り上げ300万枚の大台を突破。その原動力は、グループ存続を願うファンによる購買運動だ。ファンの人生とともにこの曲はあった。
「入院中の母にSMAPのライブを見せようとポータブルDVDを病室に持ち込んだとき、あんたアホかというような苦笑いしたのが、母の最後の笑顔だったかも。この歌をうたうSMAPを見ている間、母の苦しそうな表情が和らいだ」(岡山、56歳女性)、「ダウン症の息子が、お母さんはSMAPが好きだからと買ってくれたのがこの曲のCDだった。実は私はすでにそのCDを持っていた。それは息子専用になり、擦り切れるくらい、今も聴いている。8年前からコンサートに息子も来るようになり、今年も一緒に行くのを楽しみにしていた」(愛知、54歳女性)、「長男に胎教で毎日聴かせ、生まれてからもコンサートのDVDを毎日見せていたら、この歌を聴くとご機嫌になってくれて、育児が楽しくなった。11年後、コンサートに初めて一緒に行った。生SMAPに感無量の息子が、この歌を聴いたときに見せた笑顔は忘れない」(東京、42歳女性)。
ドラマ「僕の生きる道」の主題歌として記憶する人も少なくない。余命宣告された主人公の教師役を草彅剛さんが演じた。
「29歳の夫をこのドラマの主人公同様、ガンで亡くした。それから1、2年間は何をしていたのか記憶もないが、テレビでこのドラマを見ることで、少しずつ心の穴を埋めていった。この曲とSMAPは命の恩人であり、生きていく糧だった」(新潟、45歳女性)、「入試の直前、ドラマのエンドロールで流れた歌を聴き、号泣。センター試験はボロボロで浪人した」(東京、31歳女性)。
女性だけでなく、男性からも多くのコメントが寄せられた。
「中学生から高校生にかけて、一人前になれなくて迷っていたとき、この曲は自分は自分でいいのだと思わせてくれた」(山形、25歳男性)、「『僕ら人間はどうしてこうも比べたがる?』。この歌詞を耳にしたとき、涙があふれてきた」(大阪、60歳男性)、「当時は定年退職する3年前で、強烈に胸に響いた。『ナンバーワン=企業人、オンリーワン=私人』。定年後の指標になった」(大阪、70歳男性)。
音楽の教科書に載るなど、若い世代にも広く浸透している。
「私がおなかにいるとき、母は何度もこの歌を聴かせたと言っていた。これ以上ない名曲だと思う。私たち家族のテーマソング」(大阪、13歳女性)、「小さなころから幼稚園などで耳にして口ずさんでいたため、小学生のころまでは『君が代』に相当するような国民の曲だと思い込んでいた。まさかアイドルがうたっていたとは。それがわかったときは驚いた」(東京、18歳女性)、「学校などで事あるごとにうたわされ、飽きるほど聴かされたので、子どものころはあまりいい印象を持っていなかったが、年を重ねて改めて聴くと、なじみのメロディーにいい歌詞だなぁと思う」(岡山、21歳女性)。
シングルの発売は2003年3月5日。同月20日、米軍などによるイラク侵攻が始まった。「もし、すべての人があるがままの自分を好きになれたら戦争なんてなくなる、と思う」。メンバーがそう語るCMも流された。
「海外から日本に一時帰国したとき、CMでSMAPの歌とメッセージを聞き、心に響いた。彼らがアイドルグループであるというのも驚いた。世界に誇れるすてきな歌だ」(海外、48歳女性)、「アメリカのイラク侵攻反対のデモで、みんながうたったのがこの歌。沿道の店の店員さんやお客さんも手を振ってくれた」(大阪、57歳女性)。
そして、5人への称賛、ラブコール。
「他と違えばいじめられる世の中で、個性としてそれを誇る勇気と、それを認める気持ちが素直に込められた歌。SMAPが歌や踊りが下手と言われながらも愛されてきたのも、その個性にほかならない」(東京、53歳女性)、「いくらメッセージ性が強い曲であっても、5人はユニゾンで大げさすぎず、さらりと楽しげにうたうから、押しつけがましくない。曲のもつメッセージがすーっと心に素直に入ってきた」(千葉、42歳女性)、「歌詞も曲も最高傑作、解散する前にもう一度聴きたい」(東京、56歳男性)。(林るみ)
◆◆誰もがオンリーワン――。そんなメッセージに、多くの人が支えられた
朝日新聞 16.12.25
「世界に一つだけの花」(作詞作曲・槇原敬之さん)は、福岡県飯塚市の甲斐みどりさん(52)のテーマソング。店長を務める同市のカフェ「Green Terrace(グリーンテラス)」では、オルゴールバージョンがゆったりと流れる。人生の折々に、この歌があった。
次男、義人(よしと)さん(21)には重度の知的障害がある。小中学校の卒業式などで他の子と比べ、「もし健常だったらどんな進路に進んだかな」と思ったこともあった。
そんな時、口ずさんだ。
《ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン》
「義人はオンリーワン。人と比べず、何にでも挑戦してみようと思わせてくれた」。義人さんと一緒にスキーやバスケットボール、水彩画、ピアノなどに取り組んだ。義人さんのスキーの腕前は競技会に参加するほどになり、水彩画では個展を開いてポストカードを1500枚以上売り上げた。「思いがけないことができるようになって、家族の大きな喜びになった」
《花屋の店先に並んだ いろんな花を見ていた ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね》
甲斐さんは2008年まで小学校の教諭だった。カフェは13年、障害がある人たちの居場所にしたいと開いた。定期的に開くコンサートでこの曲を演奏すると大合唱になる。解散はショックだった。でも、「歌とともに刻まれた思い出がなくなることはありません」。
東日本大震災の被災地の人々も勇気づけられた。
11年夏、木村拓哉さんと稲垣吾郎さんは2度、岩手県釜石市の釜石商工高校を訪問。テニス部の生徒とテニスをしたり、被災者に手料理を振る舞ったりした。
当時校長だった金沢広利(ひろよし)さん(61)は「写真撮影にも気さくに応じ、生徒一人一人と握手をしてくれた。涙を流す生徒もいた」と話す。「解散は非常に残念。それでも、あのときの恩は決して忘れない」
(力丸祥子、滝沢文那)
◆等身大、ゆえに喪失感
SMAPはなぜ、広く受け入れられてきたのか。「アイドルらしくない曲でもヒットさせる求心力を持っていた」というのは、多くの曲を手がけた作詞家の森浩美さんだ。明るさ全開の「SHAKE」(96年)は「出無精で本当は1人で家にいたい。でもケンカは嫌いな草食男子の先駆け」という。
94年の「オリジナル スマイル」に込められるのは平和への思い。東日本大震災後、2011年の紅白歌合戦、この曲の歌詞「山程ムカつくこと 毎日あるけど」を、「山程立ち直ること」と変えて歌った。
音楽評論家・能地祐子さんは「SMAPはキラキラの王子様ではなく、地上に近いアイドル。クラスにいるような男の子たちが成人し、社会に出て、中間管理職の悲哀も感じて、それをずっと『僕たち』という主語で表現してきた」という。「多くの人には、一緒に時代を生きてきたという感覚が強く、喪失感も大きいと思う」と話した。
(江戸川夏樹、岡田慶子)
◆◆小野登志郎・芸能ムラに反旗翻した SMAP たち=近代化が遅れていた業界で今年起こった構造転換の深層を考える
朝日論座
2016 年 10 月 17 日
2016 年は、 SMAP が解散に至った騒動を見ればわかるように、芸能界がその構造を劇的な形で転換させていくことになる元年になるだろう。
ここで壊れていくのというものには様々なものがあるが、その中で特に注目すべきなのは、壊れつつあるのは芸能界の、本質的に〝ブラック〟な構造であるということだ。
芸能界や芸能事務所の全てが悪、悪徳事務所に支配されている、というつもりは毛頭ない。だが、芸能界の基本的な構造に問題がないとは言えない。
紀藤正樹弁護士はブログで、芸能人が事務所に束縛される現状のありかたについて、「芸能人の事務所縛りは、日本に、はびこる巨悪の一つであると思っています」と述べ、「労働基準法上も、独占禁止法上も、不正競争防止法上も、多くの法的問題をはらんでいる」「基本的に事務所縛りの問題は、プロデュース料やアイデア料、著作権料などの金銭解決で行うべき」「日本の芸能界は近代化が遅れている」( 2016 年 1 月 19 日のブログより)と述べているが、この構造にメスが入る、というより、芸能人自身の手で破壊しつつあり、彼ら彼女らは村の遺制に造反しつつあるのだ。
SMAP 騒動でとくに強い印象を残したのはあの「謝罪会見」。 1 月 18 日のフジテレビ系バラエティ番組「 SMAP×SMAP 」での発言だ。あらためて読んでみると、頂点にあるスターたちの、ダークで底知れぬ複雑さを感じてしまう。
「僕たちのことで、お騒がせしてしまったことを、申し訳なく思っております」(稲垣くん)
「本当に沢山の方々に心配をかけてしまい、そして、不安にさせてしまい、本当に申し訳ございませんでした」(香取くん)
「本当に申し訳ございませんでした。これからもよろしくお願いいたします」(中居くん)
「ジャニーさんに謝る機会を木村くんが作ってくれて、今ぼくらはここに立てています。 5 人でここに集まれたことを安心しています」(草なぎくん)
普段はリーダーとして、このような場合にはセンターにいるであろう中居くんが左端、要するに舞台でいう下手(しもて)に立っていたことなども、ファンだけでない人びとを戦慄させたが、圧巻は草なぎくんの、「ジャニーさんに謝る」というところだろう。公共の電波を使用し、自らが所属する事務所の社長に対して謝罪するという前代未聞の生放送だが、芸能界というのは、ここまでハラスメントが行き渡った世界なのかと、わたしだけでなく、多くの人が思ったことだろう。
金や社会的地位があっても、このような「公開処刑」と一般に言われるほどのことがまかり通る世界に対して、わたしたちは夢を見ることはできなくなってしまうのでは、という危惧すらいだく。
実際、 BPO (放送倫理・番組向上機構)にこの会見を「パワハラ」として訴える動きすらあった。
香取くんのいう「沢山の方々」も、ファンよりも利権関係者に対する謝罪なのではないか、というようにもとられかねない謝罪であった。
それにしても、だ。
また、所得の面もそのひとつだ。当然ながら、芸能界には富も名誉も手に入れた人間も多い。しかし一方で、芸能界に所属する人間では、社会的地位も保障もない、ワーキングプアとでもいうべき存在が多いことも事実だ。
SMAP 騒動で明らかになったのは、封建的慣行を受け入れハードワークに耐えれば富も名声も手に入る、という約束が崩壊したことだ。「国民的」な芸能人として 20 年以上活躍しても、事務所との関係が悪化すれば、これまでの業績は無視され、破壊されてしまいかねない。
SMAP 解散も、そういった観点から見ることができるだろう。
この解散は、 SMAP という「国民的芸能グループ」が終焉し、「国民的」という冠をつけられる芸能人自体が最終的にいなくなっていくプロセスを描いるのだろうか。今後の彼らから目を離すことはできない。
そして、能年玲奈である。今は「のん」と名乗っているそうだが、事務所を辞めるからといって本名を使わせないというのは、どこまで中世なのか、この国の芸能村は。民法の信義則違反はもとより、本名は商標権の対象外になるだろうし、ちょっと今どき信じられないくらい凄まじい嫌がらせだ。
大阪で公演した際の JYJ = 2012 年、大阪市住之江区大阪で公演した際の JYJ = 2012 年、大阪市住之江区
こういった人気の絶頂にあったアイドルが問題を起こして物議をかもしたことは過去にもある。 5 人の東方神起から分裂して結成された JYJ だ。この時も日本だけでなく韓国の両国にまたがって話題になった。多大なる紆余曲折があったものの、東方神起と JYJ は別々に活動し人気を得ている。
封建的な芸能ムラの溶解はすでに始まっている。わたしは 5 人の東方神起分裂騒動の時に、それを感じたものだ。
この問題を考える上で、一つ重要なファクターがある。近代的な法律ではなく、力の強い人間に権力が集まる封建的遺制の残る分野には、いったいなにがあったのか。いたのか。それは、法の外にあるアウトロー、法の埒外の暴力をつかさどる物騒な組織、グループ。そう、暴力団である。
暴対法、暴排条例以後、暴力団の力は減衰し、そして分散化している。芸能ムラの融解の遠因にこれがあるという指摘がある。
実際、芸能ムラの重鎮を長年務めてきた人間は周囲にこう漏らしているという。
「ヤクザが使えなくなってもう統制が取れなくなった」
今まで暴力団の底知れぬ恐怖、威勢を使い権勢を維持してきた芸能ムラの一村長は、自分たちが作ってきた秩序、構造が破壊されることにたいして、深く苦悩しているという。
暴力団の問題だけでなはない。芸能人と芸能プロダクションの間にあった封建的遺制、イデオロギーはこれから通用しなくなっていく。芸能界の溶解はすでに始まっている。芸能界の既存の構造が、その自重に耐えられず重力崩壊を起こしつつあるのだ。
この崩壊のプロセスがどのくらいの期間続くのかはわからない。しかし、すでに前時代は終焉してしまったのだ。
この芸能界の変容は、これからの日本の社会のあり方を見る上でも非常に興味深いケースになるだろう。そして、それは翻って、日本人と日本の社会にとっても大きな変化をもたらすことになるだろう。そう、わたしは考えている。
◆◆タレントの自由とは 事務所、強い影響力 SMAP解散から考える
2016 年 10 月 21 日朝日新聞
年内いっぱいでの解散を発表したSMAP。一連の騒動は、人気タレントでも発言や去就が、所属する芸能事務所の強い影響下にあることを印象づけた。タレントの自由はなぜ制限されるのか。
SMAPファン歴約20年の東京都港区の主婦泉沢智子さん(55)は、「自由な雰囲気が彼らの魅力だったのに、もう感じられない。最近の発言も彼ら自身の言葉とは思えない」と嘆く。ジャニーズ事務所は一連の経緯について「取材には応じられない」としているが、背景には独立をめぐる問題があったとされる。
独立や移籍が芸能界で騒動になるのはSMAPに限らない。NHK連続テレビ小説「あまちゃん」に主演した能年玲奈さんは9月18日、ロケ地を訪れ、豪雨の被害にあった岩手県久慈市の施設に応援メッセージを寄せた。署名は「のん」だった。
能年さんは、契約していた事務所と「専属契約の履行と更新をめぐる諸問題」(事務所)が発生。本名でもある「能年玲奈」を使えなくなり、7月に「のん」への改名を公表した。事務所は「協議しているが解決に至っていない」とする。
お笑いコンビ・爆笑問題は1990年、当時所属していた事務所から独立。その後テレビの仕事が激減した。太田光さんは今年1月、深夜のラジオ番組で「ある日(レギュラー番組の現場に)行ったら、『お前ら何しにきたの』と言われたんだから」と明かし、田中裕二さんも「芸能界こわいと思った」と応じた。
現在所属する事務所「タイタン」の社長で太田さんの妻の光代さんは「事務所が作った人気を自分たちのものと勘違いした。仕事は事務所が取ってきた『事務所の枠』で、本人たちの実力ではなかった」と話す。
元大手事務所関係者は「独立や移籍をしたら、しばらく干されるのは避けられない」とする。人気が出た直後に独立されると、事務所は人材の発掘や育成、宣伝などに投じた資金を回収できない。
「大手事務所がよく使うのが『共演NG』というカード」と同関係者。テレビ局に「 ○○ さんが出るならうちのタレントは出演させられない」と告げるというのだ。在京キー局関係者も「大手事務所がドラマの出演者や主題歌、脚本にまで口を出すなど番組制作への関与が年々強まっている」と説明。「ドラマで事務所の意向に反した俳優を使おうとしても、別のバラエティー番組でその事務所のタレントが使えなくなるので結局闘えない」という。
大手事務所は多数の番組にタレントを送り込んでいる。例えば、ジャニーズ事務所と吉本興業のタレントが主役や司会を務める主な番組は、NHKと在京キー局で週に計100番組を超える。
こうした現状について、日本テレビの大久保好男社長は9月の定例会見で「(大手事務所には)優れたタレントが多い」としつつ、「テレビ局が自ら新しい才能を育てることも重要」。テレビ朝日の早河洋会長は「スターとは大衆が決めるもの。事務所の影響力に右往左往しているかのように思われるのは残念」と話した。
◆力関係、米国は逆
日本の芸能界は海外からどう見えるのか。SMAP解散を「今後のソロ活動で数々の困難が待ち受けている」などと報じた仏紙ルモンド。東京特派員フィリップ・メスメールさんは「江戸時代、藩に属さない浪人が差別された。組織に属することで疑似家族をつくる古い日本的風土が芸能界にはあるのでは」と見る。
日米のエンタメ業界に詳しい放送プロデューサーのデーブ・スペクターさんは「日本のタレントの多くは経験も技術もない素人。仕事を得られるのはプロダクションのおかげで、力関係で下になるのは当然」と指摘する。「米国では俳優や歌手らタレントがあくまでも主導権を握り、マネジャーを雇う」と話す。
米国で映画の制作や監督をしている細谷佳史さんは、映画やテレビの俳優らが所属する俳優組合の存在を挙げ、「経験が少ない俳優は組合に入れないなど、実力主義が徹底されている。演技力や知名度を持つ人気俳優が移籍問題で仕事を失うことは想定しにくい」と話す。(滝沢文那、赤田康和)
◆◆論壇時評・高橋源一郎=SMAPの謝罪、社会に潜む暗黙のルール拡大する
朝日新聞 16.01.28
たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。本紙「折々のことば」連載中の哲学者・鷲田清一さんとのトークイベントに先日参加。対談の模様は近く紙面と朝日新聞デジタルで紹介されます。=早坂元興撮影 たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。本紙「折々のことば」連載中の哲学者・鷲田清一さんとのトークイベントに先日参加。対談の模様は近く紙面と朝日新聞デジタルで紹介されます。=早坂元興撮影
SMAPという「国民的」アイドルグループが、所属する事務所からの独立をめぐる大きなスキャンダルに巻きこまれ、テレビで「謝罪」をすることになった。その画面〈1〉をわたしは見た。
沈鬱(ちんうつ)な表情の5人が並んで立ち、思い思いに、ときに口ごもりながら、「謝罪」のことばを述べた。いったい、彼らは、なんのためにそこにいて、誰に、どんな理由でそのことばを口にしているのか。どれもよくわからないことばかりだった。同時に、これは、わたしたちがよく見る光景であるようにも思えた。
この「事件」に関して、即座に、おびただしい意見が現れた。たとえば。
「SMAPの解散は昨夜までしょうもないゴシップだったのに、昨夜の会見を境に雇用者の圧力で被雇用者の意思が曲げられるとか、批判検証をしないマスコミとか、個人を犠牲にして感動を消費する社会とか、日本が抱える複数の問題がクローズアップされて一気に社会問題へランクアップしてしもうた」〈2〉
ツイッター上に現れた、この呟(つぶや)きは、多くの共感を呼んだが、それほどに、人びとの関心は深かったのだ。
米ロサンゼルス在住の映画ジャーナリスト猿渡由紀は「こんな騒動は、アメリカでは絶対に起こり得ない」と書いた〈3〉。それは、「人気グループの解散も、タレント事務所の移籍も、本人たちがしたいならするだけのことで、当たり前に起こる」からだ。
「日本の芸能界がサラリーマン式なら、ハリウッドは完全なる自営業式。タレントは、自分のキャリアを自分でコントロールし、その代わり、責任も、全部自分で持つのだ」
「アクターズ・スタジオ・インタビュー」は、アメリカの人気テレビドキュメンタリー番組でDVDにもなった〈4〉。名優・名演出家を輩出する演劇学校へ赴いたスターたちが、そこの学生たちの前でインタビューを受ける。ポール・ニューマン、ロバート・デニーロ、メリル・ストリープ、等々。彼らの、ことばの多彩さと表現の巧みさに、いや、単なる俳優のことばを超えて、ひとりの生身の人間の人生の重みを伝えることばを持つことに、いつも驚かされた。それは、「自分のキャリアを自分でコントロール」し「責任も、全部自分で持つ」ことから生まれるものなのだろうか。
神林龍は「解雇」をめぐる西洋と日本の違いについて、こんなことを語っている〈5〉。欧州では、「解雇」というものは「ソーシャル」なものと考えられている。つまり、「社会」に認められたルールに反してはいけないのだ。そして、その、認められたルールの下では、当人の意志に反してなされる「解雇」は「犯罪に近い行為とみなされる」のである。
それに対して、「日本では解雇は基本的にプライベートな問題とされます。双方が和解したのなら問題がなかったことになってしまう世界」であり「こうなると第三者は何が起きたのかも分からず、その解雇がどのような規範に基づいてなされたのかを客観的に判断することが困難」になるのである。
その上で、神林は、他の会社で起こった解雇であっても、自分たちとつながった同じ社会の問題、と考える欧州に比べ、しょせん他人事(ひとごと)と考えるわたしたちの国では、組合活動が沈滞するのも無理はない、とした。
SMAPの「謝罪」会見を見て、どこか同じ境遇を感じた会社員は多かった。華やかな世界に生きる彼らも、実は「事務所」という「組織」が決めた暗黙のルールに従わざるをえない「組織の中の人」だったのだ。
雑誌「SWITCH」で藤原新也が、現代の若者たちの写真を撮り、インタビューをしている〈6〉。見応えも、読み応えもある特集だったが、とりわけ、福田和香子のものに、わたしは惹(ひ)かれた。
「周りの友達と上手(うま)く馴染(なじ)むこともできないし、無理して合わせるのも変だよなと感じて」いた福田に、事件が起きる。「中学の家庭科の先生が『君が代』不起立をやって」左遷されたのである。その処分の後、校門の前に立ってひとりで抗議をしていた先生に「頑張ってね、応援してるよ」と声をかけられなかった福田は、その悔いを残したまま、やがて国会前のデモに行くようになる。けれども、そんな彼女の周囲にいた、以前からの友人たちは、離れていった〈7〉。
それもまた、「謝罪」のために立ち尽くすアイドルグループのように、わたしたちにとって馴染み深い風景なのかもしれない。どちらも、この社会が隠し持っている暗黙のルールに違反したから起こったことなのだ。
自分の「正義」に疑いを抱きながら、それでも、「危ういバランス感覚」で活動をつづける自分について、福田はこういっている。
「下手に正義を掲げて突っ走ってしまったら、すごく偏った人間になってしまうから。半分靴紐(くつひも)がほどけていて、全力では走れなくてダラダラ歩いているぐらいのほうがいいのかなとも思う」
自分の足元を見つめること。そして、それがどれほど脆弱(ぜいじゃく)な基盤の上に置かれているかを知ること。それでも自分の足で歩こうとすること。そんな場所から生まれることばを、わたしたちは必要としている。「組織」や「社会」にしゃべらされることばではなく、「自分の」ことばを。
〈1〉SMAPの謝罪は18日のフジテレビ系バラエティー番組「SMAP × SMAP」で放映された
〈2〉「こなたま(CV:渡辺久美子)」のツイートから
〈3〉猿渡由紀「『SMAP騒動』は起こらない」(ネット投稿、24日、 http://bylines.news.yahoo.co.jp/saruwatariyuki/20160124-00053732/ 別ウインドウで開きます)
〈4〉アクターズ・スタジオ・インタビュー(日本版DVDは「アクターズ・スタジオ」)
〈5〉神林龍「西洋解雇規制事情」(POSSE29号)
〈6〉「特集:写真家の現在 藤原新也」(SWITCH・34巻2号)
〈7〉大学生・福田和香子と藤原新也の対談(同上)
──────────────────────
🔵竹田の子守唄=被差別部落の悲しみを歌った子守唄
藤田正
──────────────────────
★★竹田の子守唄=消えた名曲の謎 16m
❶ https://m.youtube.com/watch?v=OXPLPjzVI-U
❷ https://m.youtube.com/watch?v=uIBsNsHrPFk
★竹田の子守唄原曲赤い鳥 Ver.
★竹田の子守唄(元唄)
★山本潤子の竹田の子守唄
◆◆以下の解説は、藤田正( Beats21 ブログ)=竹田の子守唄から引用
http://www.beats21.com/ar/A04021902.html
2003 年8月の後半に、高野山で「第 34 回部落解放・人権大学講座」という、人権に関連する様々なテーマを扱う規模の大きな催し物が開催された。
ここに記載するのは、8月 21 日に行なわれた藤田正( Beats21 )の講座を整理したもの。当日は大きな体育館が満杯になるほどの盛況で、「竹田の子守唄」や放送禁止歌に関する関心の高さをうかがわせた(課題別講2 歴史・文化3「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」)。
◆はじめに
「竹田の子守唄」もそうですが、歌というのは非常に多面体です。ただ耳にして、いい歌だな~と思う場合もあります。ビートルズのジョン・レノンの歌は、英語がわからなくても「すごいな」と思います。しかしその後、彼の伝記などを見ると、「ジョン・レノンの歌の多くは、彼の苦難の道から発酵したものなのだ」ということがわかってきます。「竹田の子守唄」もそういう歌です。
本日は、「竹田の子守唄」が持つそういった部分、名曲のうわべではなく、土台の部分、あるい背骨の部分のお話したいと思います。
赤い鳥「竹田の子守唄」が消えた経緯
まずフォーク・グループの赤い鳥に一九七〇年代に歌われた曲を聞いてください。
守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし (一番)
盆がきたとて なにうれしかろ
帷子はなし 帯はなし (二番)
この子よう泣く 守をばいじる
守も一日 やせるやら (三番)
はよもゆきたや この在所こえて
むこうに見えるは 親のうち (四番)
◆高野山で( Beats21 )
「竹田の子守唄」は、今で言えば、小学校一年から六年ぐらいの主に女の子が、奉公に出され、奉公先の赤ちゃんをおぶって、お寺や神社の境内をあやして歩いた時代に生まれた歌です。それは明治、大正、そして昭和の初めあたりの頃だと言われています。
一番の歌詞の意味は「守り子に来た私(女の子たち)も嫌になる旧盆から先は、雪もちらつくし、背中の赤ちゃんも泣くし」です。歌の舞台とされる京都の人に、この歌詞の意味を訊ねたことがあります。すると、「京都の冬は、他国の人には想像できないくら寒いから、こんな歌詞が出来たんでしょう」と説明を受けたこともありました。
ただ、この歌詞をじっと見ているとですね、単なる寒さだけではなく、もっと深い心の傷を描いているようにも感じるんです。
問題になる歌詞が四番です。ここにある「在所」とは一般的には「いなか」「郷里」などの意味ですが、京都では、時として被差別部落を指す言葉にもなります。この「在所」の意味が、のちのちヒット曲「竹田の子守唄」をメディアから追い出してしまう要因の一つとなりました。このことはあとで触れることにします。
その先に、赤い鳥の「竹田の子守唄」がどのようにヒット曲になったかをお話ししなくてはなりません。
伝統的な歌が有名になるには必ずきっかけがあります。「竹田の子守唄」は、京都の竹田にある被差別部落で生まれ育てられたものだと言われています。鹿子絞りが有名だったあの地区で、女性たちがお母さんやおばあさんから受け継いだ題名もない歌をうたっていた …… これが「竹田の子守唄」の原型です。
一九五〇年代から六〇年代かけて、政治運動や労働運動と一緒になった「うたごえ運動」が盛んになりました。その流れの中、竹田の被差別部落にも、青年たちの小さな合唱団ができました。
そこへ、クラッシックの作曲家、尾上和彦(当時は多泉和人)さんが合唱の指揮にやってきます。そして尾上さんは竹田で、グループのある青年のお母さんとも出会いました。彼女は、地元の子守唄や昔の歌をたくさん知っていたからです。お母さんの歌を聴いた尾上さんは、びっくりしてしまいます。「これは大変な歌だ、素晴らしい」と。そして、家に帰って譜面に起こしたのが、私たちが知っているいわゆる「竹田の子守唄」の出発点だったのです。
その時の、最初は歌詞もついていなかった楽譜が、歌詞が加えられしだいにうたごえ運動のサークルの中へ広がっていきました。六〇年代も半ばのことです。
うたごえ運動を追いかけるようにしてフォーク・ブームがやってきます。
そのフォークの人たちも「竹田の子守唄」を耳にします。当時、後藤悦治郎さんもまた、日本にこんなに美しい歌があったのかと驚いたアマチュアのフォーク・シンガーの一人でした。後藤さんは、のちに赤い鳥のリーダーとなる人物です。当時のフォークの人たちは、欧米の歌を英語でうたうことから出発しました。それが六十年代の中頃からでしょうか、「日本の歌を再発見し、作りだそう」という気運が生まれてきます。「竹田の子守唄」は彼らによって「発見」され、京都のフォーク・サークルでも有名な歌となっていったのです。
たとえば、私がここに紹介する一つに …… 六〇年代の真ん中に出された自主製作盤のLPがあります。大塚孝彦さんがリーダーとなったグループで、高田恭子さんというのちにレコード大賞の新人賞を取った女性もうたっています。私が知る限り、これが「竹田の子守唄」の最初のレコーディングのはずです(LP『ザ・ファースト・アンド・ラスト』)。
この歌の解説に、大塚さんは次のように書いておられます。
「竹田の子守唄のA面の最後は、もう一度日本民謡でひきしめます。高田恭子と大塚孝彦の最大のヒットとなった曲、実は同志社大学の合唱団『麦』を小生が聞きに行って、この曲に魅惑され楽符をもらったのが、そもそもの始まりで、その起源は余り定かではなく、京都の竹田のあたりだろうと言われています。日本人の間にはいまだに根強く部落民に対する差別意識が残っていますが、部落民であるために幼くして子守女にやられた哀しい少女の身の上をうたった歌です。五木の子守唄とまったく似た内容です」(「楽符」は原文どおり)
◆高野山で( Beats21 )
大塚さんはこの歌を部落の歌だと知ってうたっていたんですね。
後藤さんは、大塚さんたちがうたう「竹田の子守唄」にショックを受けたそうです。そして後藤さんは、この歌によって英語ばかりだった自分のバンドを解散し、新たに「赤い鳥」を結成します。そして「竹田の子守唄」で、ヤマハのコンクールでグランプリを獲得し、プロ・デビューするわけです。
で、いい歌であればあるほど、人やメディアなどを通じてどんどん広がっていきますね。地球の反対側で生まれた哀しい歌が、海を渡れば楽しい歌だと思われている、なんてこともあります。この「竹田の子守唄」も、出身地がわからないけど、素晴らしい歌だよね、と広がっていきました。大手から発売したシングル盤「竹田の子守唄」は、七〇年代当時、百万枚ほども売ったと言われています。
当然、ファンからは「この竹田ってどこですか?」と聞かれます。しかし赤い鳥の後藤さんは、そのたびに口を濁していたそうです。京都、関西のフォーク仲間では大変に有名な歌であっても、彼は持ち歌の故郷を自分たちできちんと調べたことがなかったからです。
そこで彼は、故郷を捜し始めます。結果として、その故郷が京都だということがわかりました。それも、後藤さんと一緒に故郷探しをしてくれた友人が、京都のある女性から、歌の中の「在所」とは京都では被差別部落のことだと指摘されたのです。
冒頭でも言いましたように、この「在所」という言葉は、一般的な「田舎」という意味もあり、京都においても必ずしも被差別部落だけを指すものではありません。
しかし、その意味すら検証せず、歌が有名になるにつれて「部落をテーマにした歌のようだから、(放送などで紹介するのは)やめておこう」という形でウワサは広まっていったようです。仮に「在所」が被差別部落であったとしても、この素晴らしい歌を積極的に紹介し、部落の人たちの苦しみを訴えかけることこそが、メディアの人たちの役割なのではないかと思うのですが、事態は逆の方向へ進んでいったのです。
ちなみに、竹田の生まれで作家の土方鉄さんは、この歌が有名になった頃から「うちのムラの歌だ」と書いておられます。そしてその文章では、歌の中の「在所」を被差別部落だとはされてはいないのです。
このようにきちんと書かれている文章があるにもかかわらず、広範囲に流布されていったのは、無責任な「あれは部落の歌だから … 」というような、何か腫れ物にでも触るようなウワサなり口調だったようです。
『放送禁止歌』を書かれたテレビ・プロデューサーの森達也さんが大手のテレビ局で資料を調べていると、「竹田の子守唄」に関する「在所=未解放部落」と書かれてた文書を見つけたそうです。その文書には「同和がらみでOA不可」(OA不可=オン・エア不可、つまり放送できない)とも書いてあったそうです。何度も言いますが、「在所」は、京都地域においてもすなわち被差別部落ではないんです。それなのに、いつしかこうのように断定されてしまう。
人権を尊重するのであれば、私たちメディアの人間は、差別に苦しんできた人たちの美しい結晶を進んでオンエアすべきはずなのに、なかなか腰が重い。加えて「在所」という一つの言葉すら、調べもしないで間違った判断を下してしまう。これは、二重の差別と言えるんじゃないですか? とても残念なことです。
◆子守唄とは
これから、「竹田の子守唄」の元歌を導入聞いてもらいます。これは、竹田の皆さんにいただいたテープイすが、私たちが知っている赤い鳥の歌とはずいぶん違い、さらにリアリティのあるものです。これを導入部分にして、日本の子守唄は何なのかお話したいと思います。
いま竹田で発見されている元歌は二つあります。元歌としての「竹田の子守唄」と、「竹田こいこい節」です。年代も少し違い、一番古いだろうと言われているのは元歌のほうです。
この子よう泣く 守りせというたか
泣かぬ子でさえ 守りゃいやや どしたいこうりゃ きこえたか
この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら どしたいこうりゃ きこえたか
来いよ来いよと こまもの売りに
来たら見もする買いもする どしたいこうりゃ きこえたか
寺の坊さん 根性が悪い
守り子いなして 門しめる どしたいこうりゃ きこえたか
久世の大根めし 吉祥の菜めし
まだも 竹田のもんばめし どしたいこうりゃ きこえたか
盆が来たかて 正月が来たとて
なんぎな親もちゃ うれしない どしたいうこりゃ きこえたか
「ねんねーんころりよ~」で知られる「江戸の子守唄」は、江戸時代の後期に日本全国に広まった歌のようですが、今聴いてもらいました、くどき歌、なげき歌といった内容の子守唄(正しくは、守り子唄)は、江戸末期から明治時代にかけてたくさん作られ、昭和の大戦が終わるあたりで役目を終えた歌のようです。「竹田の子守唄」も、その中の一つ、というわけです。
北原白秋が集めた全国の子守唄の全集を見ても、「江戸の子守唄」のように赤ん坊にうたいかける優しい歌もたくさんありますが、この赤ん坊を殺したいぐらいつらい、というメッセージ・ソングがたくさんあります。これは守り子に出された当時の女の子たちの、特に貧しく差別を受けてきた子どもたちの、心象風景だろうと思います。
次に、「竹田こいこい節」を聴いていただきます。これは、元唄より少し新しい世代の歌だそうです。ちょっと音が悪いのですが …… 。
新建(しんだち)新建と いばるな新建
広い新建に寺がない こいこい
ねんねんころりよ 寝た子はかわい
起きてなく子は つらにくい こいこい
この子よう泣く もりをばいじる
守りも一日やせるやら こいこい
盆が来たとて 何うれしかろ
親もなければ 家もない こいこい
赤い鼻緒の じょじょはいて
竹田の岩公(いわこ)に
こうてもろた こいこい
◆高野山( Beats21 )
聴いてもらったこのテープの、音がなぜ悪いのかにも因縁があります。
この歌は本当に貴重で、このような女性が生きてらっしゃるだけでも非常にありがたいなことなのです。でも、この女性たちは自分たちが知っている子守唄が録音されることを喜ばないんだそうです。なぜかというと、彼女たちは、かつて自分たちの人間性や文化を徹底して否定され、職業差別や結婚差別などたくさんのつらい目にあったがゆえに、自分たちの歌が価値あるものだと、思うことができない、とても恥かしい。こういう感情をもってらっしゃる。
ですから歌を知っているおばあちゃんに、「はいマイク!」とは、いかないのだそうです。身内の方々など一番信頼している人が話を聞きながら、目立たない所にマイクを置いてようやく残すことができたテープなのです。
音が悪いこと、これも部落差別と密接に関わっていることを含んでおいてほしいのです。
と同時に、子守唄は特に明治、大正の時代に貧しい子どもたちの間で歌われたと言いましたが、もちろん、部落の子に限らず当時の「小さな女性労働者」は、こういった苦しみの歌、怒りの守り子唄をうたっていました。でも、部落に多くの子守唄が残ったのはなぜでしょう。
ある研究者によると、地元の子守唄を実際にうたったことがある人の年齢を、部落と部落でない地域とで比較すると、二十年の差があったそうです。
明治に近代化が始まり、工場などの賃金労働者として若い女性たちもかり出されます。当然、部落の女性たちも子守よりは条件のいい工場へ行こうとしますが、そこで就職差別にあいます。仮になんとか勤めたとしても、一緒にご飯を食べさせないなど様々な残酷な差別がありました。そして、泣く泣く家に帰ってくる。そうすると部落の子どもたちに残された労働手段は、内職や守り子しかなかったのです。それで、うたい継がれた子守唄は長く、部落の中に残ったのだそうです。
歌がうたい継がれ、今でも地元で生きているということ自体が差別の表われなんですね。
私のように音楽が好きな人間からすると、「竹田の子守唄」は非常にユニークな歌なんです。ずっと昔の元の歌が二つも残っていて、赤い鳥ら若い人が見つけ大ヒットにし、一度放送禁止歌的なものになり、また甦ってと …… このように、おおよそ百年にわたって歴史が追え、かつドラマチックな「人生」を歩み続ける歌はめったにありません。
民衆文化の創造
また、この歌を検証していくと部落差別の問題が歌詞の中に綿々と語られています。
先ほど、おばあちゃんたちがうたい継いだ子守唄は素晴らしいと同時に、部落差別の象徴だと言いましたが、そこには、その前の世代のおばあちゃんたちの苦しみがあるわけで、それを越えていかなければならないのです。
たとえば「久世の大根めし 吉祥の菜めし まだも竹田のもんばめし」と、かつての京都の被差別部落にあったつつましい食事風景を、のちの赤い鳥もうたうようになりますが、ずっと差別され続けた人にとって、これは苦々しい歌です。
赤い鳥が全盛の頃、歌の伝承者であった岡本ふくさんが楽屋を訪れ、頼むから歌わないでくれと彼女から懇願されたそうです。
しかし、リーダーの後藤さんは、ふくさんの息子さんに相談しながら、こう考えたそうです …… こんな社会的な、苦しみをうたい込んだ歌こそフォーク・ソングじゃないか。我々がうたい続けるのはこの歌なんだ。おあばちゃん悪いけどうたわせてもらうよ。
後藤さんの選択が絶対に正しいのかどうかはわかりません。
しかし、新しい世代が新しい考え方のもとに、なすべきことはあります。かつては「部落に文化なんかない」なんて言われました。
しかし私から言わせれば、とんでもない話です。正反対なのです。
被差別部落の人々や、苦難の上に生きてきた人々の中にこそ、正当な民衆文化が花咲くのだと断言してもいいと思います。というのは、私はポピュラー音楽が専門ですが、ジャズでもブルースでも二十世紀のポピュラー音楽における画期的な表現は、貧しく差別を受け、流浪の旅をし、大変な苦労をして、常に人間とは何かを問うた人たちの中から生れ出たからです。
ジャズの巨人の一人、ルイ・アームストロングなど、まさにこの通りです。一番に惨めな生活、一番に苦しめられた社会の中に育った、一人の才能のある人間が画期的なジャズのクリエーターになったのです。これはロックでもブルースでも同じです。
しかも、そのほとんどが十代だ、というのも興味を惹かれます。
「黒人なんて人間ではない」などと、今でも言われています。私はジャズやブルースを生んだアメリカの南部を歩いてきましたが、その差別たるやすさまじいものがあります。でも黒人たちは「俺たちこそが本当のアメリカ文化を担っているのだ」と、差別に対して叛旗を翻したのです。
その百年の歴史が、アメリカの音楽文化、つまりジャズやブルースの歴史となっているのです。
ゆえに「竹田の子守唄」も、誇り高き文化の結晶である。
これからは、そのように声を上げて主張し、みんなにうたってもらうべき歌が「竹田の子守唄」だと私は思っているのです。
(おわり)
『竹田の子守唄』(藤田正著)も参照のこと
──────────────────────
🔵アメージング・グレース@アメリカ オバマが歌った、ゆるす心
朝日新聞 16.01.01 (世界はうたう)
──────────────────────
★★ヘイリー アメイジンググレイス
https://m.youtube.com/watch?v=c-LuchVEuvE
★★ Amazing Grace ( My Chains are Gone ) – Chris Tomlin ( with lyrics )
かつて奴隷取引の拠点だった米南部サウスカロライナ州チャールストン。ここで昨年6月、白人至上主義の男に射殺された牧師ら黒人9人の追悼式があった。
大勢の参列者を前に、黒のスーツに身を包んだオバマ大統領が壇上に立った。
力強く進んでいたスピーチが、突然止まった。
沈黙が10秒ほど続いた。
犠牲者の同僚であるロニー・ブレイルスフォード牧師(57)が前方をうかがうと、オバマ氏は5メートルほど先の演台で下を向いていた。
「何を言おうとしているのかな」。そう思った直後、オバマ氏は伴奏なしで歌い始めた。
《アメージング・グレース
なんと甘美な響き
人でなしの私を救って下さった》
たちまち総立ちの大合唱に。天を見上げ、涙を流す人もいた。ふだん冷静に振る舞う大統領が、この日は犠牲者一人ひとりの名を、叫ぶように読み上げた。
「事件直後の遺族の行動から、大統領はこの歌を選んだと思う」。ブレイルスフォードさんは振り返る。
追悼式の1週間前。逮捕された容疑者が出廷した。遺族は一人ひとり、モニター越しに男に語り掛けた。
「あなたは私から大切な人を奪いました。もう彼女(母)と話し、抱きしめることもできません。でも私はあなたをゆるします」
「私は自分がとても憤っていることを告白しますが、憎むことはありません。ゆるさねばなりません。あなたの魂のために私は祈ります」
地元の教会で23年、ゆるすことの意味を説いてきたブレイルスフォードさんもその言葉に圧倒された。
*
賛美歌アメージング・グレースの作詞者はジョン・ニュートン(1725~1807年)。奴隷貿易に長年携わった後、牧師になった英国人だ。
「彼は大勢のアフリカ人奴隷の売買に手を染めた。罪の償いとゆるしを求め、この歌を作ったのでしょう」
やはり追悼式に参列した同州下院議員のジョセフ・ニールさん(65)は話す。歌は海を渡り、米国で広く親しまれるようになった。
「奴隷制は米国を分断し、南北戦争の原因にまでなった。その後も、この歌は差別にあらがう歌として歌われてきたのです」
1960年代にはミシシッピ州の公民権運動家ファニー・ルー・ヘイマーがこの歌を路上で歌った。「彼女は警察官から瀕死(ひんし)の暴行を受けても、ゆるすことを歌った。この歌はアフリカ系米国人に、苦難に耐える勇気と強さを与えてきた」
オバマ氏の歌声への熱狂的な反応は、今も苦難にある人々の琴線に触れたからだとニールさんは考える。
*
昨年12月。サウスカロライナ州コロンビアの黒人教会を訪ねた。礼拝でコリー・ローリック牧師(63)は直前に起きたカリフォルニア州の銃乱射事件の犠牲者を悼み、信者とアメージング・グレースを唱和した。
ローリックさんは「ここの部分が特別です」と言い、その一節を朗読した。
《多くの危険と苦労、誘惑を乗り越え
やっとたどりついた
こんなに長い道のりを無事に来られたのも神の恵み
神の恵みは私を故郷にも導いてくださる》
退役軍人のロバート・ジョンソンさん(74)は言った。「私たちアフリカ系は、奴隷制度や人種隔離をくぐり抜けてきた。この歌詞を聴くたびに、全ての記憶が脳裏によぎるんだ」
ジョンソンさんは、軍での体験を思い出す。
白人兵士が飲食店で座って食事している時も、黒人は「向こうへ回れ」と追い返された。裏手に回ると、店の壁に開いた穴からパンが出てきて路上で食べた。
「国家のために戦おうという時に、その国で座って食事できなかった」
半世紀前の記憶。それでも、今も胸が痛む。
独立宣言で「平等」をうたった米国は今年、建国240周年を迎える。人種や宗教に起因する憎悪犯罪はなおも絶えない。7年前、初のアフリカ系大統領として華々しく就任したオバマ氏の任期は残り1年。彼が掲げた「一つのアメリカ」の理想は、いまだ遠い。
それでも、ローリックさんは「ゆるし」を説く。
「我々の歴史は、痛みの歴史。何か被害を受けた時、ゆるせなければ、いつまでも憎しみに心を支配される。ゆるすことは、自らを解放することなのです」
隣のジョンソンさんが身を乗り出して言った。「(何が起きても)私たちは前進しないといけないからね」。ローリックさんが「その通りだ」と応じた。2人は顔を見合わせて大きく笑った。
(チャールストン、コロンビア〈サウスカロライナ州〉=金成隆一)
◇
「歌うことは罪だ」と叫ぶ黒覆面の男たちがいる。
為政者によって、禁じられたメロディーもある。
それでも歌は、私たちの人生に欠かせない。
世界の「うた」にまつわる物語をめぐる。
<黒人教会襲撃事件> 昨年6月17日、米南部サウスカロライナ州チャールストンのエマニュエル・アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会で、黒人9人が白人至上主義の男(21)に射殺された。男は「人種間の戦争を始めたかった」と供述。チャールストンは奴隷取引で栄えた港町で、同教会は1816年ごろに白人教会を脱した黒人らが設立。焼き打ちに遭ったり、創設者の1人が処刑されたりした。1960年代には公民権運動の拠点になり、キング牧師も演説した。
◆アメージング・グレースの歌詞
Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found ,
Was blind but now I see.
アメージング・グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる
‘Twas grace that taught my heart to fear ,
And grace my fears relieved ,
How precious did that grace appear ,
The hour I first believed.
神の恵みこそが 私の恐れる心を諭し
その恐れから心を解き放ち給う
信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか
Through many dangers , toils and snares
I have already come.
‘Tis grace hath brought me safe thus far ,
And grace will lead me home.
これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑があったが
私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった
The Lord has promised good to me ,
His Word my hope secures ;
He will my shield and portion be
As long as life endures.
主は私に約束された
主の御言葉は私の望みとなり
主は私の盾となり 私の一部となった
命の続く限り
Yes , when this heart and flesh shall fail ,
And mortal life shall cease ,
I shall possess within the vail ,
A life of joy and peace.
そうだ この心と体が朽ち果て
そして限りある命が止むとき
私はベールに包まれ
喜びと安らぎの時を手に入れるのだ
The earth shall soon dissolve like snow ,
The sun forbear to shine ;
But God , Who called me here below ,
Will be forever mine.
やがて大地が雪のように解け
太陽が輝くのをやめても
私を召された主は
永遠に私のものだ
When we’ve been there ten thousand years ,
Bright shining as the sun ,
We’ve no less days to sing God’s praise
Than when we’d first begun.
何万年経とうとも
太陽のように光り輝き
最初に歌い始めたとき以上に
神の恵みを歌い讃え続けることだろう
◆ピーター・バラカンさん、クリス・ペプラーさんに聞く
ピーター・バラカンさんが選んだ5曲/クリス・ペプラーさんが選んだ5曲
歌は人をつなぎ、癒やし、励ます。日本に様々な音楽を届けてきた2人のDJに、「歌の持つ力」「世界を変えた歌」について聞いた。
◆反戦や反差別、貢献大きい ピーター・バラカンさん
歌には、何よりも人をまとめる力がある。歌詞だけではなくメロディーも、そして歌うという行為自体がエモーショナルなものだ。
ベトナム反戦運動、南アフリカの反アパルトヘイト運動でも、歌の貢献は大きかった。またボブ・マーリーが歌うレゲエのビートはジョン・レノン以上に世界中に影響を及ぼした。虐げられていた弱者が、彼の歌からどれだけ力を得たか。歌にこれだけ力があるから為政者も恐れる。公民権運動をリードしたピート・シーガーは長年、米連邦捜査局(FBI)に内偵調査されていたという。
私自身が歌の力を初めて感じたのは12歳くらいの頃。ボブ・ディランの「風に吹かれて」を聞いた時だった。政治のことは何も分からなかったが、何を言おうとしている歌詞なのか、初めて聞いた時から深く印象に残った。
今は歌がネット配信され、イヤホンで各自が聞く時代。何がヒット曲なのか分からなくなった。
世界の誰もが知っているヒット曲というのは、ラジオから流れて、みんなの耳に同時に触れるものだ。かつては米英のヒットチャートが注目されたが、それも薄れた。米国自体が内向的になり、影響力が減ったことも理由にあると思う。ただ悪いことばかりではない。ユーチューブやストリーミングによって、世界中どんな音楽でも聞けないものはなくなった。
各国のラジオ放送も聞ける。キューバのブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのように、英語圏以外のアーティストが広く聞かれる例もある。
平和を祈って世界中で同時に同じ歌を歌おうというイベントも可能になった。
ネットでシェアされて世界に広がったファレル・ウィリアムスの「ハッピー」(2014年)は、そんな時代の、まれにみる大ヒット曲だ。乗りやすいリズム、単純なメッセージ。誰もが、その曲を耳にするひととき幸せになれる。歌の良さとは、そういうところかもしれない。
◆誰でも発信、権力者に脅威 クリス・ペプラーさん
生まれたばかりの赤ちゃんも、歌には反応する。人に必要不可欠な、生きるあかしと言ってもいい。
歌は、人生と共にあるものだと思う。僕は14歳の時、大好きなピンク・フロイドの来日公演に行った。当時の僕はお坊ちゃん。でも高卒後に父が亡くなって、20代はつらかった。30歳の時、ピンク・フロイドが再来日。公演に行き、その間の日々を振り返って号泣したのを覚えている。
デジタル化で、歌の愛され方は変わった。音楽の聞かれ方が多様になり、ヒットチャートの集計が難しくなった。経済成長で欧米と肩を並べ、「舶来の方がいい」という意識も消えた。
複製が簡単になり、録音の歌の価値は下がった。でも一方で、生の音を体感するライブの価値はむしろ高まっている。かつてはアルバムを売るためにツアーをしていたが、今はアルバムがツアーのパンフレットのようになった。
ネットは誰もが「放送局」になれる時代をもたらした。権力者には両刃の剣。だから規制しようとするのだろう。
東日本大震災によっても、音楽を巡る環境は変わった。
震災の直後、みな「上を向いて歩こう」を口ずさんだ。それは確かに歌の力だった。
ただその後、最大公約数的な「小さな幸せ」の歌が多くなったと感じた。大きな問題があるのに本音を言わず、何事もなかったように。そんな居心地の悪さを感じた。
個人的にも震災にはかなりやられた。震災前は、週末の晴れた日にアンダーワールドの「ツー・マンス・オフ」を聞きながら、車を走らせるのが好きだった。レインボーブリッジを渡りながら「東京って最高の街だな」って。震災が来て、「もうそんな時代は戻って来ない」と思った。また聞けるようになったのは、2年くらいたってからだ。
ヒットチャートにも最近、毒のある刺激的な音が増えてきた。歌は人間の感情や心をさらけ出すもの。健康的で、いいことだと思います。
(聞き手・いずれも石田博士)
──────────────────────
🔵震災・つながりもとめて歌われている
「広い河の岸辺」
──────────────────────
★★特報・首都圏=中高年の心をとらえた「広い河の岸辺」 25m
★「マッサン」のエリーが口ずさむ「広い河の岸辺」 8m
★マッサン挿入歌 The Water is Wide スコットランド民謡(悲しみの水辺) by bich10m
★「花子とアン」の花子が聞いた「広い河の岸辺」
The Water is Wide
★クミコ「広い河の岸辺 ~ The Water Is Wide ~」 5m
https://m.youtube.com/watch?v=HEpwmMyeKHo
★★ Irish Roses: Women of Celtic Song-The Water is Wide. 3m
★ヘイリーの The Water Is Wide3m
【筆者コメント】
明治時代に日本に入ってきたスコットランド民謡だが、中高年の八木さんが翻訳、クミコが歌って、中高年に大ブレイク。「花子とアン」で村岡花子が学校時代に口ずさみ、さらに「マッサン」でエリーが口ずさんだことでさらに広がっていった。日本人好みのゆったりとしたメロディー、人生という大海に翻弄されながら生きてきた人びとを応援する歌詞が大きな共感をよんだ。
しかもこの歌詞は、人生ってとても厳しいものだ、簡単に困難がのりこえられるものではないこともリアルに表現している(とくに英語の歌詞。 3 番以降も困難さ続く)。その意味ではこの歌が共感をよんでいる背景には、 3.11 大震災、その後の人と人のつながりの体験が背景にあると思われる。鎮魂歌「花は咲く」、そして新井満さんの歌詞の翻訳でブレイクした「千の風になって」が思い出される。人生のたそがれ期に入った私も強く胸を打たれた。まずは上記の Irish Roses の透明感のある歌を聞いてほしい。
◆◆クミコの「広い河の岸辺」=被爆、反戦、つながり —- 歌で
(赤旗 16.01.03 )
(ひと)広い河の岸辺=八木倫明さん 日本語訳した外国民謡で「歌の輪」をつなぐ
2015 年 1 月 9 日朝日新聞
英国などで歌い継がれてきた民謡を日本語に訳した「広い河の岸辺」がヒット中だ。原題は「ザ・ウォーター・イズ・ワイド」。大河を前に人は無力で愛は無常、それでも小舟があるなら「漕(こ)ぎ出そう ふたりで」と呼びかける。
自身も歌に励まされた。日本フィルハーモニー交響楽団の事務局で働くかたわら、南米の竹笛「ケーナ」を演奏してきた。第二の人生を求め2004年に退団。中南米のハープ「アルパ」の奏者とデュオを組むが、収入は不安定で妻子との間で溝も生じた。
初めてのCD向けに一生歌えるような曲を探していた09年、この曲に出会う。「自分と重なり、訳がすらすらと出てきた」
昨年、曲に共感した歌手クミコさんが、合唱用の楽譜付きCDを発売。期せずしてNHKの連続テレビ小説「花子とアン」や「マッサン」のヒロインが劇中で幾度も原曲を歌ったことで、歌の輪が一気に広がった。
東日本大震災の被災地など行く先々で聴衆と声を合わせてきた。「東京に戻ると、若者でさえ、先の見えない現実に途方に暮れていると気づく。今こそ求められる歌だ」と使命感を新たにした。
曲との出会いを本にする計画も進んでいる。「人生、広い河に直面するのは1回や2回じゃない。でも、小舟があれば。そんな想像力こそ希望の源だと思うんです」やぎりんめい(56歳)
◆広がる「広い河の岸辺」( 15.02.15 赤旗日曜版)
広い河の岸辺
河は広く 渡れない
飛んでゆく 翼もない
もしも 小舟が あるならば
漕ぎ出そう ふたりで
愛の始まりは 美しく
優しく 花のよう
時の流れに 色あせて
朝露と 消えていく
ふたりの舟は 沈みかける
愛の重さに 耐えきれず
沈み方も 泳ぎ方も
知らない このわたし
河は広く 渡れない
飛んでゆく 翼もない
もしも 小舟が あるならば
漕ぎ出そう ふたりで
The Water is wide
The water is wide , I can’t cross over
And neither have I wings to fly
Give me a boat that can carry two
And both shall row , my love and I
Now love is gentle and love is kind
The sweetest flower when first it’s new
But love grows old and waxes cold
And fades away like morning dew
There is the ship and she sails the sea
She’s loaded deep as deep can be
But not so deep as the love I’m in
I know not if I sink or swim.
The water is wide , I can’t cross over
And neither have I wings to fly
Give me a boat that can carry two
And both shall row , my love and I
──────────────────────
🔵We shall overcome 「勝利を我らに」
=公民権運動・ベトナム反戦のなかで
──────────────────────
◆◆ WE SHALL OVERCOME
★★ワシントン 20 万人集会 6m
MLK ; March on Washington for Jobs & Freedom 1963/08/28
★★ Joan Baez – We shall overcome4m
★★キング牧師「私には夢がある」音声和英対訳
◆当ブログ=ガンジー・キング牧師・シャープ・伊藤真などの非武装の抵抗主義をどう考えたらよいか
http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2842481.html
「勝利を我等に」(英語 : We Shall Overcome 、ウイ・シャル・オーヴァーカム、直訳では「我らは打ち勝つ」)は、アメリカ合衆国のプロテスト・ソングである。
原曲は、黒人のメソジスト牧師でゴスペル音楽作曲家チャールズ・ティンドリー( en:Charles Albert Tindley 、 1851 年 -1933 年)が 1901 年に発表した霊歌「アイル・オーバーカム・サムデー」( “I’ll Overcome Someday” )。
1960 年代にアフリカ系アメリカ人公民権運動が高まる中で、フォークシンガー=ピート・シーガーが広め、運動を象徴する歌にした。ピート・シーガーは、 20 世紀半ばのフォーク・リバイバル運動の中心人物の一人である。第二次世界大戦前の 1940 年代から全国放送のラジオで活躍し、 1950 年代はじめにはウィーバーズ ( The Weavers ) の一員として一連のヒット作を出した。 1960 年代にはプロテストソングのパイオニアとして公の場に再登場し、国際的な軍縮、公民権運動を推進した。
「勝利を我等に」は、公民権運動のピーク、 63 年のワシントンでの 20 万人大集会での全員合唱が有名である。このときキング牧師が有名な「私には夢がある」という演説が行なわれた。
この「勝利を我等に」は、ジョーン・バエズ、ピート・シーガーなどにもうたわれた。時期を同じくしたアメリカのベトナム反戦運動のなかでも、反戦歌として盛んにうたわれた。上條恒彦、小室等、高石ともやなど日本人フォーク歌手によってもうたわれた。日本では、反戦運動・平和運動や社会運動、うたごえ運動・歌声喫茶でも広く歌われてきた。
◆ We shall overcome (勝利を我らに)
We shall overcome , we shall overcome
We shall overcome some day
Oh deep in my heart , I do believe
That we shall overcome some day
われらは勝つぞ われらは勝つぞ
いつの日か われらは勝つ
こころに強く のぞみを灯[とも]し
きっと勝つ われらが
We’ll walk hand in hand , we’ll walk hand in hand
We’ll walk hand in hand some day
Oh deep in my heart , I do believe
That we shall overcome some day
手をたずさえて 手に手をとって
手をつなぎ ともに歩こう
こころに強く のぞみを灯[とも]し
きっと勝つ われらが
We shall live in peace , we shall live in peace
We shall live in peace some day
Oh deep in my heart , I do believe
That we shall overcome some day
争いは いやだ
平和に生きよう なかよく生きていこう
こころに強く のぞみを灯[とも]し
きっと勝つ われらが
We shall brothers be , we shall brothers be
We shall brothers be some day
Oh deep in my heart , I do believe
That we shall overcome some day
兄弟姉妹 だれでもみんな
なかよしで 生きていこう
こころに強く のぞみを灯[とも]し
きっと勝つ われらが
The truth shall make us free , truth shall make us free
The truth shall make us free some day
Oh deep in my heart , I do believe
That we shall overcome some day
本当のこと 見きわめていく
真実は 自由のカギ
こころに強く のぞみを灯[とも]し
きっと勝つ われらが
We are not afraid , we are not afraid
We are not afraid today
Oh deep in my heart , I do believe
That we shall overcome some day
おそれるものか 勇気をだして
夢をもち 歌をうたおう
こころに強く のぞみを灯[とも]し
きっと勝つ われらが
──────────────────────
🔵Imagine/ イマジン(想像してごらん / 思い描いてごらん)
John Lennon/ ジョン・レノン
──────────────────────
★★ジョン・レノン=イマジン
http://protestsongs.michikusa.jp/english/lennon/imagine.htm
★ imagine 英語日本語歌詞 3m
★★心に刻んだ歌 2 イマジン 75m
★★ BS ジョン・レノン没後 30 年 ~世界を変えたイマジン~ ( 前編 ) 50m ( Pandra に無料登録してログイン)
★★ BS ジョン・レノン没後 30 年 ~世界を変えたイマジン~ ( 後編 ) 50m ( Pandra に無料登録してログイン)
🔵イマジンは生きている=レノンとヨーコからのメッセージ 90m
https://drive.google.com/file/d/10GdufJUQv_–1U7snP7G8KDGqlnTmWP8/view?usp=drivesdk
イマジンImagine (John Lennon’s album)はJohn Lennonの代表曲。
イギリス人ミュージシャン、元ビートルズのジョン・レノンの曲。 1971 年に発表。同年発表のセカンド・ソロ・アルバム「イマジン」に収録。対立や憎悪のないユートピア的な世界を希求する歌詞で、多くの歌手がカバーしている。「ローリング・ストーン」誌が選ぶ最も偉大な 500 曲第 3 位。原題《 Imagine 》。世界のどこかで戦争が起こると反戦メッセージが込められたこの曲が世界中の放送局から流れ出す。但し、アメリカが当事者になると米国内では放送禁止という憂き目にあう、ある意味、世界の反戦平和メッセージソングの代表曲と言えるだろう。「戦争」という語をひとつも使わずに反戦を主張している優れた作品だ。
◆ジョン・レノンの英女王宛て手紙=「戦争関与に抗議、勲章返却」
IMAGINE、ジョンがいる2020を 凶弾からあす40年、コロナと分断の米国
2020年 12月 7日朝日新聞
2005年12月8日、セントラルパークのストロベリーフィールズに集まったジョン・レノンのファン。例年の命日は大勢がここでビート
ニューヨークで1980年8月、レコーディングスタジオに到着したジョン・レノンとオノ・ヨーコさん=AP
ビートルズの元メンバー、ジョン・レノンがニューヨーク(NY)で殺害されてから、8日で40年。その歌は今も、人々をひきつける。米国は今年、新型コロナウイルスで28万人超が亡くなり、大統領選でも国内の分断があらわになった。ファンは言う。「2020年こそ、ジョン・レノンが必要だった」(ニューヨーク=藤原学思、ワシントン=野上英文)
「美しい声。神秘的でいて、ロックンロール。彼は私たち一人ひとりに、ごく個人的に語りかけてくるような存在なんです。それも、困難を乗り越えようとしているときにこそ」
NY市在住のジャレド・ゴールドスタインさん(53)は、レノンの魅力をこう語る。兄の影響で、6歳の頃からビートルズやレノンの楽曲と育ってきた。2009年からは、NY市公認のツアーガイドとして、観光客らをレノンゆかりの地に案内している。
英国で生まれ育ったレノンは、ビートルズ解散後の1971年、妻のオノ・ヨーコさん(87)とNY市に移住した。当時は女性解放や反体制派の活動家を扱うなど、政治的メッセージの強い作品が多かった。ただ、75年にオノさんとの間に息子が生まれたことを機に数年は音楽活動の一線から退き、子育てに専念。亡くなる直前にオノさんと発表したアルバム「ダブル・ファンタジー」では、夫婦愛や家庭生活を歌った。
生きていれば、今年で80歳だった。ゴールドスタインさんはツアーで、レノンが移住直後に暮らした小さなアパート、ギターを買った楽器店、頻繁に訪ねた薬局などをめぐる。
「『10代の頃に自分を見失い、レノンに救われた』というような人たちが、誕生日の記念にやってくることもある。そんなときはあまり話しすぎず、彼らの思い出を聞く役に回る」
ゴールドスタインさんがツアーで必ず訪れるのは、レノンが玄関前で撃たれた自宅マンションの「ダコタハウス」、そして、向かいにあるセントラルパークに設けられた追悼場所「ストロベリーフィールズ」だ。
公園の地面には、レノンの代表作のタイトルが記されている。
「IMAGINE(イマジン)」
■彼が伝えたかった「世界は変えられる」
71年に発表された「イマジン」は国境や宗教、所有欲といった壁を越え、平和や人類愛を希求する歌だ。半世紀近く経った今も、世界で歌われる。今年の米国では特に、そうした場面が目立った。
大統領選で民主党のバイデン氏の勝利が確実となった11月7日深夜、首都ワシントンの飲食店前では男性がギターを手に歌い出した。50人ほどが体を揺らし、声を重ねる。「イマジン ノー トランプ(想像してごらん、トランプ大統領がいない世界を)」
「イマジン」が、批判を受けることもある。新型コロナの感染が広がった3月、「ワンダーウーマン」で主演を務めた俳優ガル・ガドットさんは仲間らと「イマジン」を歌いつなぐ動画をインスタグラムに投稿した。自主隔離が広がる中で連帯を訴えるつもりだったが、「豪邸で自主隔離し、優れた医療サービスを受けられるセレブが『ともに生きよう』と訴えるのは筋違いだ」などと非難の声が殺到した。ワシントン・ポストの音楽評論家も「特権階級の子守歌になっている」と書いた。
だが、「ドクターロック」と呼ばれ、レノンの大ファンでもあるインディアナ大名誉教授のグレン・ガスさんは「彼が言いたかったのはただただ、『想像してほしい、なぜ世界を変えようとしないのか、十分な人数がそれに賛同すれば世界を変えられる』ということだった」と反論し、こう語る。「同時多発テロがあった01年と同様、この異常な20年も、我々はレノンを必要とした。彼はポップスター以上の存在。代わりはいない」
■後絶たぬ銃の犠牲、妻ヨーコさんの訴え
事件は80年12月8日の深夜に起きた。スタジオから戻ったレノンは自宅前で4発の銃弾を受け、まもなく死亡が確認された。殺人罪で有罪が確定した男は現在も服役中で、今年8月には11度目の仮釈放申請が却下された。
オノさんは事件後、夫の命を奪った銃を規制する必要性について、声をあげ続けてきた。昨年の命日には血にまみれたレノンの眼鏡の写真とともに、「ジョン・レノンが撃たれて殺されてから、米国で140万人超が銃によって殺された」とツイッターに投稿。「イマジン」の一節を引き、「想像してごらん、すべての人が平和な人生を送っている様子を」とも記した。
ただ、米国での銃の犠牲者はなかなか減らない。オノさんは13年、16年のレノンの命日にも同じ画像をツイートした。銃による死者数は13年は「105万7千人超」、16年は「120万人超」だった。全米の銃撃事件についてまとめている非営利団体「ガン・バイオレンス・アーカイブ」によると、19年は自殺で亡くなった2万4090人を含め、3万9521人が銃によって死亡した。
バイデン氏は大統領に就任後、殺傷能力の高い銃の規制などを進める方針を明らかにしている。しかし、強大な政治力を持つ「全米ライフル協会(NRA)」などは反対しており、実現は容易ではない。
🔵(文化の扉)ビートルズが変えた世界 革新的な音・スタイル、飄々と枠組み超え
朝日新聞 2020年 11月 30日
わずか7年半。デビューからビートルズが存在した時間だ。ポップミュージックの扉という扉を開け放った4人は、自由な思想と革新の音とともに、足早に去っていった。解散から半世紀。ビートルズは私たちに何を残したのか。
ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター。歴史を変えた四つの才能は、英国の港町・リバプールの中南部の、自転車で行き来できる距離にいた。船員を通じて海外の情報が入りやすい環境で、共通して夢中になったのは米国南部の黒人音楽やロックンロールだった。
1960年代初め、エルビス・プレスリーらが付けたロックンロールの火は消え、分厚いベビーブーム世代を形成した英米の10代は、スター不在の時代を過ごしていた。
そんな渇きのあった巨大市場に、衝動的なロックンロールと、洗練されたメロディーを携えて飛び込んできたのがビートルズだった。若者たちの絶大な支持を受けたビートルズは、大人たちの批判を浴びながら、社会現象を巻き起こした。
*
60年代半ばから、ビートルズはさらなる革新の時代に入る。「愛してる」「愛してほしい」から始まった詩世界は、次第に深化し、象徴的、啓示的なものへと変貌(へんぼう)していく。
複雑なリズムや転調を用い、管楽器やオーケストラ、インド楽器のシタールや、シンセサイザー、犬笛まで使った。逆回転を多用し、テープを切り刻んでランダムにつないだ音を用いるなど、誰も想像だにできなかった革新的な音を生み出した。
アルバム全体を一つのテーマに沿って表現する画期的な手法も生みだし、ポップミュージックをアートへと昇華させていった。当時10代でニューヨークに住んでいた音楽評論家の室矢憲治氏は「全く聴いたことのない新しい音で、『僕らを一体どこに連れて行くんだ』という気分にさせてくれた」と振り返る。
*
ビートルズの言動や哲学は、社会を大きく動かした。「受け入れがたいね。バカげている」。64年、公演予定の米フロリダの会場の規定で有色人種を隔離していることを問われ、ビートルズは人種隔離をする会場では演奏しないと宣言。会場は人種隔離を撤回した。この動きは公民権運動の背中を押し、米南部などのイベント施設の人種隔離は次々と撤廃されていった。
「何ものも、僕の世界は変えられない」
「アクロス・ザ・ユニバース」ではこう歌った。「権力への反抗」というロックの枕詞(まくらことば)は、ビートルズには似合わない。肩ひじ張ってさけぶ自由ではなく、ウィットを交えて権力や権威を皮肉りつつ、とことん自らのやりかたで飄々(ひょうひょう)と既成の枠組みを超えていく。そんな姿を無数の若者が追いかけ、大人たちもしぶしぶついていった。
世界は変わった。マッシュルームカットは「長髪」ではなくなり、エレキギターは不良だけのものではなくなった。その音はポップミュージックの共通基盤に組み込まれた。彼らを追う若者の一人だった室矢氏は語る。「ビートルズを見て、『自分も何かを表現していいんだ』と思わされた。彼らがくれたのは『自由に生きていい』というメッセージだった」(定塚遼)
■戦い嫌ったジョン 音楽評論家・湯川れい子さん
来日公演のとき、正面からの取材はできなかったのですが、ツテをたどりホテルで4人と会うことができました。音楽ジャーナリストではなくファンを装ってです。4人が描いた絵が床に散らばっていました。
ポールは「何か飲む?」と気遣ってくれたけど、ジョンは警戒して離れた場所から不機嫌そうにじーっと見つめていました。
でも解散後、ジョンに「あの時は悪かった」と言われました。その時は息子のショーン君も一緒で、お互いの子どもの話になりました。当時流行(はや)っていた鎖鎌で相手を倒すゲームについて、ジョンから「現実なら血が出て傷つく人がいるのに、それが快楽になるなんてすごく怖いことだよ。戦争にも無自覚になってしまう。子どもには絶対そういうゲームは与えないでほしい」と言われたのが印象に残っています。
<訪ねる> ジョン・レノンとオノ・ヨーコの軌跡をたどる「DOUBLE FANTASY ジョン&ヨーコ展」が、東京・ソニーミュージック六本木ミュージアムで来年1月11日まで開催中。ビートルズCD「レット・イット・ビー」は税込み2750円、品番:TYCP-60014、ユニバーサルミュージックから発売中。
ジョン・レノン 生誕80年・没後40年 世界は今も「イマジン」を求めて
東京新聞
ジョン・レノン(右)とヨーコ・オノ=1972年4月、米ニューヨークで(AP・共同)
「想像してごらん、全ての人々が平和に暮らしていると」 −。米国で人種差別反対や反戦運動が盛り上がっていた一九七一年、ビートルズのメンバーだったジョン・レノンが発表した「イマジン」のフレーズだ。それから半世紀近く、レディー・ガガら世界中のアーティストたちが歌い継ぎ、世界中で親しまれている。今年はレノンが生誕して八十年、凶弾に倒れてから四十年。「イマジン」は今も必要とされている。 (鈴木伸幸)
「ラブ&ピース」と訴え続けたレノンにまつわる内容が書かれたことから命名された「レノン・ウォール」が世界中にある。今、ホットなのは香港だ。民主化を訴える市民が「人権」「自由」「人民に力を」などと書いたカードで壁を埋め尽くす。もちろん「イマジン」の歌詞も。
街のあちらこちらにウォールができては当局が撤去。すると別の場所にウォールができて、また撤去 −。現地英字紙「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」は最近「香港大学の校内で急拡大したウォールが撤去された」と大きく報じた。
ウォールが初めて登場したのは冷戦下のプラハだった。八〇年十二月八日、レノンが米ニューヨークの自宅前で熱狂的なファンに撃たれて死去した直後から、民主化を求める若者たちが、壁にレノンが手掛けた歌詞やメッセージなどを落書きするようになったことがきっかけだ。以降、世界各地にウォールは生まれている。
今も人々の心の支えとなっているレノンの原点は、ビートルズ。六二年にレコードデビューし、大ヒットを連発、ライブで世界のファンを興奮させた。その中心にいたレノンは後に結婚する前衛芸術家のヨーコ・オノ(87)と六六年に出会ってから、メッセージ性の高い楽曲を作るようになった。米国では人種差別反対やベトナム戦争反対のデモ隊と警官の衝突が頻発。レノンの母国英国では分離独立を目指す北アイルランドの紛争が激化していた時代だ。
六九年には、オノとの新婚旅行で訪れたアムステルダムでホテルに記者を呼び、平和について話し合う「ベッド・イン」を実施。人種や民族による差別に反発して大きな袋に入り、姿形を隠して記者会見する「バギズム」でも注目された。七一年には、体制を批判する「パワー・トゥ・ザ・ピープル」を発表。続く「イマジン」では、「宗教も、国境も、物欲もない、争いのない世界を想像してごらん」と訴えた。
「イマジン」の誕生にはオノが影響している。レノンは亡くなる二日前、英BBC放送の取材にこう話している。「歌詞もコンセプトも多くはヨーコから出ている」「彼女の本『グレープフルーツ』からのアイデア」。その著書には、読者に青空や太陽を空想させるために「イマジン(想像してごらん)」というフレーズが繰り返されている。
静かなメロディーの歌詞はアナキズム(無政府主義)ともいえ、体制側には疎まれた。レノンは七一年、ニューヨークに移住しようとした。だが、反戦運動への影響を懸念した当時のニクソン政権は永住権取得を即座には認めなかった。
「イマジン」は「(夢を追うのは)僕一人じゃない。いつか君も一緒になって、世界は一つになるだろう」と締めている。だが、今も世界は一つにならず、米国では黒人差別による分断が深刻化し、世界的に排斥主義がまかり通っている。
レノン、オノと親交の深い作詞家で音楽評論家の湯川れい子(84)は「東アジアには軍拡の動きがあり、ロシアや東欧も不穏。地球温暖化に加え、食料不足や経済格差も深刻化して『イマジン』の発表時より、今の世相は悪い」と嘆く。
「ジョンとヨーコは西洋と東洋、男と女、陰と陽 −と対照的な存在。徹底的な話し合いで壁を越えて一つになり、『イマジン』が生まれた。それが愛され続けるのは、永遠の真理だから。拳を突き上げるのではなく、話し合う。そうしなければ未来はない。今こそ『イマジン』だと思う」
◆元祖イクメン 軽井沢の夏休み
レノンは「元祖イクメン」だった。七五年十月九日、自分と同じ誕生日に息子ショーンが生まれた。自身が少年時代に家庭環境に恵まれず、七〇年に発表した名曲「マザー」には母親への思いを込めた。そんな体験からか、ショーン誕生を機に音楽活動を控え、子育てに積極的に参加した。
頻繁に訪日し、七七年からはオノの別荘がある長野・軽井沢で夏を過ごすようになった。そこでよく通った喫茶店「離山房」は今もある。レノンは、ヨレヨレのシャツにジーパン姿で、ゴム草履を履いて、やって来た。そんな格好の外国人宣教師も少なくなく、当時の経営者、槙野あさ子(93)は「最初、誰だか分からなかった」と言う。
カラマツ林の中にある静かな店をレノンは気に入ったようで、ショーンを自転車に乗せてやって来ては庭のハンモックで遊んでいた。何かいたずらでもして、オノに叱られてショーンが泣いていると、レノンは笑いながら「ママは怖いね」と慰めていた。レノンとオノはいつもコーヒー、ショーンはブルーベリージュースを飲んでいた。
七九年八月末。「また、あした」と店を出たレノンは革ケースに入ったライターを置き忘れた。ところが翌日、急用で米国へ。音楽活動を再開したレノンは八〇年夏は来店せず、その後、姿を見せることはなかった。ライターは八七年、来店したオノに返した。オノは点火して炎を眺めながら「ジョンが後ろにいるみたい」とつぶやいたという。
(文中敬称略)
★六本木で2人の軌跡展
レノンとオノの軌跡を写真や動画などで振り返る展示会「ダブル・ファンタジー」は東京・ソニーミュージック六本木ミュージアムで来年一月十一日まで開催中。要予約。レノンの新ベストアルバム「ギミ・サム・トゥルース」も発売された。公式ファンクラブ「ザ・ビートルズ・クラブ」のオンラインストアに各種のDVDやCDなどがそろっている。
◆◆以下は Wiki =イマジン( Imagine )から引用
イマジン( Imagine )は、 1971 年に発表されたジョン・レノンの楽曲である。
◆解説
ジョンのソロ時代のアルバム『イマジン』のタイトル・ナンバーである。ジョンのソロ作品の中で極めて人気が高く、 1999 年に BMI は “Imagine” を top 100 most performed songs of the 20th century とした。 2002 年にはギネスブックを発行しているギネス・ワールド・レコーズ社が 31 , 000 人以上から取った「英国史上最高のシングル曲は ? 」というアンケートの結果、「ボヘミアン・ラプソディ」に次ぐ第 2 位を獲得し、 2004 年に『ローリング・ストーン ( Rolling Stone ) 』誌が選んだ「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング 500 ( The RS 500 Greatest Songs of All Time )」では 3 位にランクされた。 2005 年 1 月に the Canadian Broadcasting Corporation はリスナーによる投票で本作を過去 100 年のうちで最も偉大な歌とした。
ジョンは完成当時「やっと(ポール・マッカートニー作の)イエスタデイみたいないい曲ができた」と喜んだという。なお、「イマジン」の原曲はビートルズ在籍時にすでに存在しており、 1969 年の「ゲット・バック・セッション」で演奏されたテープが残されている。
イマジンは、 2012 年、ロンドン・オリンピックの閉会式でも世界平和の祈りを込めたパフォーマンスで使用された。 2014 年 11 月にはユニセフ /UNICEF のプロジェクトに採用され、ジョン・レノン自身の動画・音声を含めた世界バージョンが作られて公開された。
◆歌詞
国家や宗教や所有欲によって起こる対立や憎悪を無意味なものとし、曲を聴く人自身もこの曲のユートピア的な世界を思い描き共有すれば世界は変わる、と訴えかける。人類愛や平和を勧める歌として多くの人々に愛唱されてきたが、共産主義的思想であるという批判も存在する。
「 Imagine (想像しなさい)」と呼びかける形で始まる歌詞について、ジョンは、オノ・ヨーコの詩集『グレープフルーツ』から拝借したと語った。ヨーコの詩集『グレープフルーツ』の中にある詩「ツナフィッシュ・ピース・サンドウィッチ」には「想像しなさい、千の太陽が一辺に昇る所を … 」というくだりがあり、ジョンはそのフレーズがいたく気に入って曲のタイトルなどに使用したという訳である。ヨーコが第二次世界大戦時を東京で過ごしたことが、その平和希求の歌詞に反映したのかもしれない。
近年、「天国は存在しない」の部分が葬儀にふさわしくないとして、イギリスの葬儀では使用が禁止されている。「宗教もない」については、死の直前のインタヴューで「完全に自由な信仰」だとジョン・レノンは語った。
◆ Imagine/ イマジン
(想像してごらん / 思い描いてごらん)
John Lennon オリジナル ( 1972 年)
Imagine there’s no heaven
It’s easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today
想像してごらん、天国はないと
簡単でしょう
地面の下に地獄もない
私達の上に空があるだけ
想像してごらん、全ての人間を、
今日を生きている
Imagine there’s no countries
It isn’t hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living flife in peace
想像してごらん、国境のない世界を
そんなに難しくないさ
命を奪う武器もなくて
宗教の違いもない
想像してごらん、全ての人間を、
平和に生きている
You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one
僕は夢見人かもしれないけれど
一人ぼっちじゃないよ
いつの日か仲間になって
世界がひとつになる
Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world
想像してごらん、財産のない世界を
あなたにできるだろうか?
欲張りや飢餓の心配もない
人類の兄弟愛
想像してごらん、全ての人間を、
世界を分かち合う
You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one
僕は夢見人かもしれないけれど
一人ぼっちじゃないよ
いつの日か仲間になって
世界がひとつになる
──────────────────────
🔵韓国の軍政からの民主化闘争のなかでうたわれたうた
──────────────────────
韓国の闘争の歴史の詳しくは以下参照
◆◆当ブログ=光州事件から民主化闘争、韓国労働運動の歴史
★韓国 = 非正規職撤廃連帯歌 2m
★韓国 = 建設労働者の歌 3m
◆◆ 1980 年光州事件で歌われた歌
★★歌詞や曲(背景は光州事件の映像)
http://protestsongs.michikusa.jp/korean/hakuryu/kwangjucity.htm
WE SHALL OVERCOME 光州 City by 白竜 HAKURYU
在日コリアンの白竜が、ロック・シンガーだった頃に発表した曲。 1980 年に世界を驚愕させた韓国での光州事件(光州人民蜂起)に対する全斗煥政権の暴力的な弾圧により、多くの犠牲者が出た。その様子を歌った政治的なメッセージソング。
デビューアルバム「シンパラム(新しい風)」が、この曲のために大手レコード会社から発売中止処分に。 しばらくはコンサートを続けながら会場で自主制作盤で販売した。 後に KITTY レコードからこの曲をタイトルにした「光州 City 」というアルバムとして発売された。 CD 化もされたがとうに廃盤になり、今はレア・アイテムだ。
作詞・作曲 田 貞一
熱く燃えてる南の大地が
俺の目を覚ます
五月の空に銃声が鳴り響き
街は炎に包まれた
自由を叫ぶ人の歓声で街は沸きたってる
光州 City 、時代の嵐が吹きすさぶ街さ
テレビの画面に映ったあいつが
不敵な笑いを浮かべてた
額を切られた男が右手を上げ
勝利の V サインを送る
五月の愛の嵐に人々は熱く燃えている
光州 City 、時代の嵐が吹きすさぶ街さ
子供を殺された年老いた女が
大地をたたき泣きじゃくる
女や子供や年老いた男までが
兵士たちに立ち向かってゆく
長すぎた冬の時代に終わりを告げるために
光州 City 、時代の嵐が吹きすさぶ街さ
◆◆ 1987 年韓国民主化闘争のなかでうたわれた「朝露」
★★歌詞や曲の動画
http://protestsongs.michikusa.jp/korean/morning_dew.html
We Shall Overcome 아침 이슬 ( 朝露 )
訳:李政美
長い夜を暮らし草葉に宿る
真珠より美しい朝露のように
心に悲しみがみのるとき
朝の丘に立ち微笑を学ぶ
太陽は墓地の上に赤く昇り
真昼の暑さは私の試練か
私は行く、荒れ果てた荒野に
悲しみ振り捨て私は行く
ヤン・ヒウン 朝露韓国の社会派フォーク・シンガー、 김민기 / 金珉基 / キム・ミンギが 1970 年に作った歌で歌詞には戦いへの道を歩みだす覚悟が表現されていると思われる。彼の小学生の頃の同級生で、同じく社会派シンガーである 양희은 / 楊姬銀 / ヤン・ヒウンが歌うバージョンが広く親しまれ、普及していった。
韓国では建国から数年後の 1961 年の 박정희 / 朴正熙 / パク・チョンヒによる軍事クーデターから 1988 年の 노태우 / 盧泰愚 / ノ・テウ大統領によるソウル・オリンピック実現まで 박정희 / 朴正熙 / パク・チョンヒと 전두환 / 全斗煥 / チョン・ドゥファンという 2 人の大統領による軍事独裁政権が続き、国民たちの自由はかなり制限されていた。このような軍事政権の不当な弾圧に対する反政府運動が進歩的な大学生を中心に常に起こっていた。
反政府闘争に参加した学生、民衆らが士気を上げ、結束力を高めるために広く歌われたのがこの歌だった。この歌が発表されたのは 박정희 / 朴正熙 / パク・チョンヒ政権の時代だったが、その頃には「禁止曲」制度があり、この歌も「禁止曲」になった。反政府的なメッセージが込められていると判断された曲が政府によって「禁止曲」という烙印を押され、それらの曲を演奏したり放送したりすると犯罪になり警察に連行された。 김민기 / 金珉基 / キム・ミンギ自身も 1972 年に自作の歌を歌って警察に連行され、その後、彼の歌はすべて「禁止曲」扱いされた。
1980 年 5 月の光州民衆抗争でも学生たちに歌われた。
現在はすでに「禁止曲」解除され、「不朽の名曲」のひとつとして韓国内で広く歌われている。
──────────────────────
🔵89 年チェコ民主化のたたかいのなかで歌われた「ヘイ・ジュード」
──────────────────────
★★ BS ドキュメント=ヘイ・ジュード♫革命のシンボルになった名曲 80m
★マルタ・クビショバのヘイ・ジュード 5m
★チェコ/マルタのヘイジュード 4m
★ Hey jude5m
★ Hey Jude — by Marta Kubišová7m
★原曲ビートルズ Hey Jude The Beatles
http://www.dailymotion.com/video/x1390tb_hey-jude-the-beatles_music
★ヘイジュード _ 訳詩 Hey Jude-The Beatles.wmv
★チェコのプラハの春 1968 ( 20 世紀の社会主義 6 )
★ 1989 年からの出発 チェコとスロバキア ふたつの道 ~ビロード革命より 20 年~
1968 年に誕生したビートルズの名曲「ヘイ・ジュード」。 1968 年の自由化運動「プラハの春」を、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍の戦車隊に踏みにじられたチェコスロバキアでは、市民たちの心の支えとなった歌があった。国民的歌手マルタ・クビショバが歌う「ヘイ・ジュード」や「マルタの祈り」だった。マルタは、替え歌の歌詞やビデオクリップの映像に共産党政権の弾圧への抵抗のメッセージを込めた。このため、歌手としての活動の場を取り上げられ、有形無形の迫害を受ける事になったが、屈する事はなかった。
そして、 1989 年。 11 月のベルリンの壁崩壊に続いて、チェコでもビロード革命が始まり、ついには民主化勢力が政権を握った。これによりマルタは再び大群衆の前で革命のシンボルとなった曲を歌った。
ドキュメント番組では、マルタ・クビショバの生きざまを通して、チェコ市民の抑圧との闘いを見つめる。
以下は、
世紀を刻んだ歌:「ヘイ・ジュード」(番組の感想)より
http://www7a.biglobe.ne.jp/~frommybeatles/heijyu-do.htm
◆「ヘイ・ジュード」とは
・1968年にジョンは前妻と別れ、ヨーコと結ばる。前妻との息子ジュリアンが悲しみに落ち込んでいるのを見て、励ますためにポールが作った曲である。
・1968年7月に録音。ビートルズが設立したばかりの会社アップルから8月末に最初のレコードとして発売。世界中で大ヒットし、チェコでも隠れて聴かれる。
・1990年1月、自由を取り戻したプラハの町でマルタの「ヘイ・ジュード」が頻りに流されている。なぜ?
◆ソ連軍のチェコ侵入
・1968年8月21日、60万人のソ連軍が突如チェコの首都プラハに侵入し、1日で町を制圧する。
・戦車や装甲車が走り回り、抵抗する市民に威嚇射撃。その様子が国営放送で流される。抵抗の最後の砦だったラジオ放送局にも突入し、緊迫した銃声の音やアナウンサーの叫びがラジオから流れる。
・一部始終を見ていたマルタは一夜にしてアイドル・スターから戦う女に変身する。その姿は祖国の自由を守るために戦ったジャンヌ・ダルクにたとえられる。
・反骨精神のメッセージ・ソングとして、「ヘイ・ジュード」をカバーするが、受難の始まりの賭けでもあった。
◆マルタの生い立ち
・1942年生まれ。取材時は58歳で、当時もチェコの国民的な歌手。
・1945~1948年 : ナチスから解放され、第2次共和制の平和な時代。
・1948年~ : 共産党政権の暗く重苦しい冬の時代。血の粛清が行われていたスターリン独裁体制のソ連の支配下。
・マルタの少女時代は工場で義務労働。過酷な労働条件のガラス工場で3年間勤務。
・1966年にレコード会社のプロデューサーにスカウトされ、プラハに出てレコード・デビューする。チェコでは改革派のドブチェク氏が勢力を拡大。
・当時、ビートルズが世界を席巻し、マルタも彼らのファンであった。但し、チェコ共産党からは西洋文化を象徴する好ましくない歌として白眼視される。若者は裏ルートでレコードを入手し、隠れて聴く。
・1968年はプラハの春と呼ばれる。マルタもソロ歌手として発売した「マルタの祈り」が大ヒットし、一躍、国民的歌手となる。時代の英雄として崇められていたドブチェク書記長もマルタのファン。
・この年に映画監督と結婚。夫は反体制の社会派映像作家であり、マルタも感化されてメッセージ性を持った歌を歌うようになる。
◆1968年8月21日以降
・マルタの夫はソ連軍の暴挙を撮影したビデオ・テープの国外持ち出しに成功。その映像が侵略の事実を全世界に初めて伝え、国際的な非難が湧き上がる。
・1968年9月、ドプチェク書記長は失脚し、モスクワに移送される。言論弾圧が厳しくなり、知識人に ① 共産党を支持するか、 ② 永遠に国を捨てるかの選択を迫る。多くの人が共産党支持に廻るなか、マルタは第 ③ の「戦う」道を選ぶ。
・1968年10月、マルタはアルバム「ソング・アンド・バラード」の制作の準備を進める。オープニングに美しいバラードを入れて、チェコ国民に勇気と希望を与えたいと思う。その時、「ヘイ・ジュード」と出会い、チェコ人にだけ分かる暗号のメッセージを歌詞に込めてカバーする。
・1969年10月にアルバムを発表し、「ヘイ・ジュード」をシングル・カット発売すると、チェコ史上空前の大ヒット(60万枚の売り上げ)となる。発売禁止になっても、地下でひそかに歌い継がれる。
・アルバムの一曲「ママ」のクリップ・フィルムでは、釘を打ち付けられた血まみれの人形を抱いて歌い、明らかにソ連軍に対する痛烈な批判を表している。マルタの周囲に筋金入りの活動家が集まり、ソ連に反感を抱く多くの市民や学生から支持を受ける。
・1969年10月、その影響力を恐れた当局からマルタに出頭命令が下され、主に「ヘイ・ジュード」の歌詞について尋問を受ける。
・1970年1月、音楽界からの永久追放が決定。すべてのレコード発売と表現活動を禁止される。生活が窮乏し、袋貼りの内職を始める。
◆マルタの「ヘイ・ジュード」
・ジュードをチェコの少女に置き換え、片方の少女がもう一人の少女を勇気付けるという会話形式の歌。
・歌うことで世の中を変えようという独立と反抗の気持ちを込める。
・マルタの「ヘイ・ジュード」和訳の一部
「韻」の終わりがある / すべての歌の終わりには
「陰」があって / 私たちに教えてくれる
人生はすばらしい / 人生は残酷
でもジュード / 自分の人生を信じなさい
人生は私たちに / 傷と痛みを与え
時として傷口に塩をすりこみ / 杖が折れるほどたたく
人生は私たちをあやつるけど / 悲しまないで
──────────────────────
🔵美輪明宏「ヨイトマケの唄」
(朝日新聞うたの旅人)
──────────────────────
★★戦後 70 年・夏 長崎にて対談=戦争と平和 瀬戸内寂聴 × 美輪明宏 58m
または
★★美輪明宏私の人生・ ボクらの時代 60m
★★美輪明宏ヨイトマケの唄の物語=美輪の人生とともに 86m
★★美輪明宏 紅白でのヨイトマケの唄 5m
https://m.youtube.com/watch?v=IUgz7RBsFrg
★美輪明宏「ヨイトマケの唄」が誕生した経緯 10m
★美輪明宏さんが語る 原爆 戦争体験 11m
★「母と暮らせば」美輪明宏と山田洋次 50m
https://m.youtube.com/watch?v=q12FMaPo-Uc
(朝日新聞うたの旅人)
かつて、多くの人が汗と石炭にまみれて働いた炭鉱跡。地底へと続いた坑道が口を開けていた=福岡県飯塚市の大門坑跡
◆福岡県飯塚市、「無償の愛」がテーマ
年に一度の祭りにあって、そこだけが静まりかえった。昨年大みそかの東京・NHKホール。紅白歌合戦の舞台だ。闇から現れた美輪明宏さん(77)は、いつもの金髪ではなかった。黒のかつら、黒一色の衣装。「ヨイトマケの唄」を歌った。
「よいっと巻け!」は、工事現場の機械化が進んでいなかったころ、綱を引いて槌(つち)を上下させて、地盤を突き固める作業の時に使われた掛け声だ。
歌詞は、泥にまみれ、男たちと働く母の姿を描く。その息子はいじめられながらもエンジニアとなり、亡き母に感謝する。
6分ほどもあるのに、この舞台を撮るテレビカメラは2度しか切り替わらなかった。「圧倒的」。放送直後から、毒があるインターネットの世界でさえ称賛があふれた。
この歌は、1965年にレコード化された美輪さんの代表曲だ。しかし、歌詞に出てくる「土方」「ヨイトマケ」という言葉が差別表現だとして、民放から敬遠された。特に1980~90年代のことだ。
「差別はあなたの心の中にあるんじゃないの!」。美輪さんは放送局の廊下で、ある民放幹部にそう食って掛かったことがある、と明かした。「だって体を張って働く人たちにこそ支持された曲ですから」
美輪さんは実母の愛を知らない。「死に顔しか覚えていない」
文 ・ 中島耕太郎
写真・麻生 健
◆貧しい人のプライドを励ます
例えようのない戦慄から生まれた「ヨイトマケの唄」
「紫色のお化けが出る」。戦後の混乱が収まらない1950年代初め、東京・銀座にそんなうわさが広がった。
正体は、まだ10代だった美輪明宏さんだ。出演していたシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんぱり)」の不入りに、広告塔を買って出た。髪やシャツ、靴下に至るまで紫で統一し、歌を口ずさみながら歩いたのだ。
世は朝鮮戦争による特需で潤っていた。派手なサンドイッチマン効果で店はにぎわい、美輪さんも「神武以来の美少年」とメディアに持ち上げられた。57年、軽いテンポで男女の別れを歌ったレコードデビュー曲「メケメケ」の大ヒットで人気は決定的になる。絹張りの靴を履き、エナメルの爪にダイヤの指輪。車を買い、運転手を雇った。
そんな50年代の終わり、美輪さんは興行で炭鉱が集まる福岡県筑豊地方を訪れた。用意されたタクシーに福岡市から乗り、行き着いた先は正確には覚えていない。石炭の粉で黒ずんだ街だった。
100人も入ればいっぱいとなる小屋で、細いヒールを傷んだ床にめり込ませながら歌った。シャンソンを中心にしたロマンチックで、甘美な世界だ。しかし、ふと観客席に目を落とした時、例えようのない戦慄(せんりつ)に震えた。
床に敷いたむしろの上にあぐらをかく老若男女。壮年の男女の手はみな、石炭で黒く、老人の顔の深いしわの間まで、炭が黒光りしているように見えた。子どもたちは、世に疲れた瞳をしていた。
「この人たちの前で歌える歌が、私にはない」――。孔雀(くじゃく)のように着飾った自分の姿が恥ずかしく、道化師のように思えてきた。やっとのことでステージを務め、東京に帰った。
筑豊地方には、50年代前半、200を超える炭鉱があり、国産石炭の半分以上を産出した。地域が好景気の時には、およそ50もの芝居小屋があって、庶民も気晴らしを楽しんだという。
しかし、50年代後半、石炭から石油へエネルギーの転換が進むと、暮らしは暗転。大量の失業者が出て、野草や池のザリガニで食いつなぐ家もあった。
朝日新聞社編「石炭史話」は、「お母さんは選炭仕事に出ましたが、私が奉公に出ないと弟2人が学校に行けないのです」と書き残して家を出た15歳の少女がいたと記録している。美輪さんが筑豊を訪れたのは、そうした時期だった。
炭鉱で木枯らしとひもじさに震え、死んでしまった幼い兄弟を歌った「ボタ山の星」、従軍慰安婦を主題に、反戦の思いをあらわにした「祖国と女達」、そして「ヨイトマケの唄」。美輪さんが人々の苦しみを見詰め、社会を風刺する歌を作り始めるのは、この時からだ。
「ヨイトマケの唄」は、どんな思いで作ったのか。美輪さんに尋ねると「貧しい人ほど、魂が美しい人が多い。そんな人々のプライドを励ます歌が必要だと思ったの」との答えが返ってきた。自身と友人の体験が盛り込まれているという。
それはまず、小学生の時に目にした光景だった。「クラスで最も汚らしく、嫌いだったヨシオの鼻水を、授業参観に来た彼の母親が自分の口で吸い出した。我が子を思う素朴な行為に胸が温かくなった」。ヨシオと友達になり、母親が働くヨイトマケの現場を訪ねていく。そこで「ヨシオのためならエーンヤコーラ」という掛け声を聞いた。この経験に、苦労してエンジニアになった別の友人の姿を重ねたという。
長崎市に生まれた美輪さんは2歳で実母と死別した。10歳で被爆。10代後半で銀座で歌い出した後も、貧血に悩み、被爆の後遺症だと思っていた。
「ヨイトマケの唄」を書き上げた美輪さんは、華やかな衣装を捨て、素顔に白シャツでこの曲を歌った。「そんな歌はやめろ!」とトマトを投げつける客もいたという。「ストーンと人気を失って苦しい時代になった」と美輪さん。それでも歌い続けた。
「ヨイトマケの唄」を作ってから数年後、NET(現・テレビ朝日)のスタッフの目にとまり、朝のワイドショー番組の先駆けとなった「木島則夫モーニングショー」で取り上げられた。すると、視聴者から2万通もの手紙が届いた。
「私たち労働者の歌だ」
レコードの発売が決まり、美輪さんは表舞台に復帰。フォークソングの流行前夜、「社会派歌手」に時代が追いついてきたのだ。
雨の降る2月のある日、記者は筑豊に向かった。2010年夏に、新たに見つかった飯塚市の大門(おおかど)坑跡を訪ねた。
殺風景な砂場に埋まった幅3・3メートルの坑道は、20度の急勾配だという。「坑道の角度は普通、15度くらい。ここではよっぽど石炭の層へ急いだんだな。何たって当時の石炭は『黒いダイヤ』だから」。案内してくれた発見者の安藤喜八郎さん(64)が言う。
メタセコイアやカエデを原木とする石炭は、地下300メートル前後にあることが多かった。坑夫たちは地の底で、2500万~6500万年前の地層と格闘し、日本の近代化を支えた鉱物を掘り出した。一帯ではガス爆発や坑道の崩落といった事故も絶えず、筑豊の石炭史100年で、2万人の命が失われたとも言われる。子を思い、過酷な労働に耐えた親が、きっと多かったことだろう。
◆ヨイトマケの唄歌詞=美輪明宏作詞
父ちゃんのためなら エンヤコラ
母ちゃんのためなら エンヤコラ
もひとつおまけに エンヤコラ
今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
工事現場の昼休み
たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が
貧しい土方の あの唄が
子供の頃に小学校で
ヨイトマケの子供 きたない子供と
いじめぬかれて はやされて
くやし涙に暮れながら
泣いて帰った道すがら
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た
姉さんかぶりで 泥にまみれて
日にやけながら 汗を流して
男に混じって ツナを引き
天に向かって 声をあげて
力の限り 唄ってた
母ちゃんの働くとこを見た
母ちゃんの働くとこを見た
なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと
息をはずませ 帰ってはきたが
母ちゃんの姿 見たときに
泣いた涙も忘れ果て
帰って行ったよ 学校へ
勉強するよと言いながら
勉強するよと言いながら
あれから何年経ったことだろう
高校も出たし大学も出た
今じゃ機械の世の中で
おまけに僕はエンジニア
苦労苦労で死んでった
母ちゃん見てくれ この姿
母ちゃん見てくれ この姿
何度か僕もぐれかけたけど
やくざな道は踏まずに済んだ
どんなきれいな唄よりも
どんなきれいな声よりも
僕を励ましなぐさめた
母ちゃんの唄こそ 世界一
母ちゃんの唄こそ 世界一
今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
父ちゃんのためなら エンヤコラ
子どものためなら エンヤコラ
◆レジスタンスのうた(毎日新聞)
──────────────────────
🔵「ドナ・ドナ」
ジョーン・バエズ
──────────────────────
2012 年 6 月 30 日朝日新聞(うたの旅人)より
★★ Joan Baez ~ Donna , Donna3m
◆収録しない特別な曲
1967年1月、歌手の森山良子さん(64)は、東京都世田谷区にある成城学園高校の「4年生」だった。学生らによる大規模な音楽イベント、スチューデント・フェスティバルに欠かせないアマチュア歌手で、練習に明け暮れて、留年していた。
ちょうどそのころ、「フォークの女王」と呼ばれたアメリカ人歌手、ジョーン・バエズさん(71)の初来日公演があった。
バエズさんは59年のニューポート・フォーク・フェスティバルで一躍名を成した歌手。「ドナ・ドナ」は60年のファースト・アルバムに収録されている。日本でのシングル盤は来日前年の66年2月に発売されていた。
黒人の公民権運動、それに続く、60年代後半のベトナム反戦運動の中で、バエズさんは、反戦や生きる悲しみなどを、歌に込めて発信した。「ドナ・ドナ」もやがてアメリカの暴力性を告発する反戦のフォークソングとして世界に広まった。
バエズさんの公演当日、森山さんが高校から帰宅すると、母親から伝言を聞かされた。
「新宿の厚生年金会館の楽屋に行くように」
言付けたのは、知人のイベンターで、厚生年金会館は、バエズさんの公演会場だった。森山さんは自分でチケットを買い、客としてみるつもりだった。それなのに「楽屋」とは?
当時、一緒に練習していた先輩から最初に「覚えてくるように」と厳命された曲が「ドナ・ドナ」だった。バエズさんのレコードを渡されたが、歌詞カードはなかった。何度も聴いて音として英語の歌詞を覚えた。ほかのバエズさんの曲も覚えた。
楽屋を訪ねると、「バエズの歌をうたう東京の高校生だよ」と、バエズさん本人に紹介された。「聴かせて欲しい」。バエズさんからせがまれた。何曲かうたうと、「後半のステージに出て来て」と誘われた。
「狐(きつね)につままれたような思い」だった。大ホールのステージ。隣には「女王・バエズ」がいて、自分の声にハーモニーをつけている。よく似た透明な2人の声が会場に響き渡った。
そんな公演の裏側で奇妙な出来事があった、と報道された。
67年2月21日付の朝日新聞は社会面のトップで、「TOKYOミステリー 反戦の歌など堂々と誤訳要求」と報じている。ステージでのバエズさんの言葉をそのまま訳すな、とアメリカの中央情報局(CIA)が通訳に圧力をかけたというのだ。
「ドナ・ドナ」の来歴に詳しい大阪府立大学教授(ドイツ思想)の細見和之さん(50)は、当時のバエズさんがうたう「ドナ・ドナ」について、「首にひもをかけられるがごとく、無理やりベトナム戦争に徴兵される兵士の痛みを歌った」と語る。
森山さんは「和製バエズ」と呼ばれるようになっていった。しかし、本人は「違う」と抵抗した。「反戦や公民権運動などのメッセージ性の強い歌はおこがましくて避けたかった」。「ドナ・ドナ」は初めて大観衆の前で歌った特別な曲だ。だが彼女は一度もアルバムに収録していない。リクエストされなければステージでもうたわない。
森山さんは言う。「自分でうたっているのに、内容を表面的にしか捉えられていなかった」
◆抑圧されたユダヤ人の悲しみ
ユダヤ系音楽家のステージが11日間続く音楽祭「ボストン・ジューイッシュ・ミュージックフェスティバル」。ジャズと融合したユダヤの音楽が会場を熱狂の渦に巻き込んだ=ボストン
19世紀後半のユダヤ系移民の人たちが、働き暮らした部屋を再現した博物館の展示=ニューヨーク
◆翼を持つ鳥のように海を渡った「ドナ・ドナ」
荷車のうえに子牛が一頭
縄に縛られて横たわっている
空高く一羽の鳥が舞っている
鳥は行ったり来たりして飛びまわって いる
※ライ麦畑で風が笑う
笑って笑って笑い続ける
一日中 そして夜半まで
ドナ・ドナ・ドナ・ドナ
ドナ・ドナ・ドナ・ドナ※
子牛がうめくと農夫が言う
いったい誰が子牛であれとお前に命じ たのか
お前だって鳥であることができたろう に
燕(つばめ)であることができたろうに
※~※繰り返し
ひとびとは哀れな子牛を縛りあげ
そして引きずっていって殺す
翼を持つものなら空高く舞い上がり
誰の奴隷にもなりはしない
※~※繰り返し
原詩は、アーロン・ツァイトリンというユダヤ人の作だ。ポーランド・ワルシャワで作家活動をした詩人で、東欧系ユダヤ人が日常的に使っていたイディッシュ語で書いた。ただ、書いた場所はニューヨークで、1940年以前のことだ。
前記は、大阪府立大学教授の細見和之さんによるその訳詞だ。広く知れ渡り、音楽の教科書に載っている日本語歌詞からは大きな隔たりがある。重く、深い。
日本語版の「ドナ・ドナ」はNHKの「みんなのうた」で66年に放送され、国内に広まったとされる。細見さんは言う。「メッセージ性は低くなり、『かわいそうな子牛さんの歌』になった。思想性が排除された結果、小学校の教科書に載るようになったのでしょう」
ニューヨーク・マンハッタンのタイムズスクエアで、「ドナ・ドナ」の作曲者、ショローム・セクンダのことを考えた。「ドナ・ドナ」をくちずさめても彼を知る人はほとんどいまい、と。
セクンダは1894年、ウクライナで生まれた。ユダヤ人だ。「歌の天才」の呼び声が高く、1907年にニューヨークに渡り、名門ジュリアード音楽院の前身でクラシックを学んだ。そして、東欧系ユダヤ人の文化を受け継ぐイディッシュ劇場で作曲のキャリアを積んだ。
イディッシュ劇からブロードウェーに進出したユダヤ人もいる。ただ、イディッシュ劇は、ユダヤ移民の歴史や生活に根ざした題材や音楽が用いられるため、一般的なミュージカルとは趣が異なる。
セクンダは32年、後にジャズのスタンダードとなる「バイ・ミーア・ビスト・ドゥー・シェーン」〈邦題「素敵(すてき)なあなた」〉を作る。イディッシュ劇用の曲だったが、37年に英語の歌詞がつけられ、全米で大ヒット。ところが、彼は100ドル未満で著作権を売り渡してしまう。
セクンダと同時代のユダヤ系音楽家に、後にアメリカ音楽の体現者と呼ばれるG・ガーシュウィンがいた。だが、セクンダは彼と隣あわせにいながら、ユダヤ移民の世界にこだわり「ドナ・ドナ」を誕生させた。40年公演のイディッシュ劇の挿入歌として。その劇の台本を担当したのが作詞者のツァイトリンだった。
彼は前年に劇場支配人から招待され、ワルシャワから渡米していた。この旅は彼にとって人生最大の転機となった。渡米直後、ワルシャワのユダヤ人が、新たにできたゲットー(強制居住区域)に移住させられたのだ。そして、42年には、ワルシャワ近郊にユダヤ人の絶滅収容所が作られ、ツァイトリンの父親は、ここに移送される途中に殺されてしまう。
この死を詩に残した詩人がおり、一部の研究者らの間で「ドナ・ドナ」の作詞者だと考えられていた。イツハク・カツェネルソンだ。彼もまたアウシュビッツの強制収容所で殺されている。
「ドナ・ドナ」の原詞はそんなユダヤ人の苦難を連想させる。ただ、研究が進み、「虐殺」を直接的に歌ったものではない、とされている。詞に出てくる言葉を細見さんはこう「解釈」している。
荷台=ユダヤ人が置かれた運命
子牛=虐げられるユダヤ人
自由の鳥=自由な異教徒
農夫=傍観者的な異教徒
そして、細見さんは「鳥の『自由』と子牛の『奴隷状態』が明白に人間同士の関係を示している。『ドナ・ドナ』が抑圧された人の悲しみを歌った歌であることは疑いない」と解説している。
セクンダの次男で、ニューヨーク大学教授のユージーン・セクンダさん(68)は「父は明るくて太陽のような人だった」と言う。父ショロームは「ドナ・ドナ」の詞をどう思っていただろう。
戦後、大虐殺から逃れたユダヤ人が、欧州の難民収容所で「ドナ・ドナ」をうたっていた、という話がある。大戦中に劇の挿入歌が、どうやって欧州に伝わったのか。まだ謎は多い。細見さんは言う。「翼のない子牛の歌が、翼を持つ鳥のように大西洋を渡った」。時空を超える旅人の力が備わっていたのだろう
──────────────────────
🔵ニッポン人脈記・演歌よ
( 2012 年 12 月朝日新聞連載)
──────────────────────
◆◆演歌関係総合リンク集
★★昭和偉人伝・船村徹の人生秘話=ヒット曲誕生 110m
★★演歌の作曲家・船村徹をしのぶ、名曲とともに 90m
http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v118029421FJXhR2Rh
★★プロファィラー – 阿久悠の生涯 55m
★★昭和は輝いていた・なかにし礼の作詞家人生=石狩挽歌・人形の家・祭だなど誕生秘話
160m
★★寺島実郎塾=昭和歌謡史・なかにし礼 40m
http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v118581054Q3hsWyJM
◆◆(あのとき・それから)1889年 演歌の「源」?誕生 風刺も人情も「日本のこころ」
17.08.24 朝日新聞
(明治22年)
(川上音二郎(右)と妻の女優・川上貞奴。明治の終わりごろ撮影)
(下町には、今も演歌を中心に取り扱うCD店がある=東京都台東区)
(空き缶で作った「カンカラ三線」を弾きながら唖蝉坊の曲を歌う岡大介さん=東京都台東区)
《「権利幸福嫌いな人に 自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい」》
日本の「演歌」は、川上音二郎が1889年に作ったこのオッペケペー節から始まったともいわれる。演説でなく歌で自由民権運動を広げる「演説歌」は民権演歌、壮士演歌とも呼ばれ、それが演歌のルーツというのだ。
平凡社の世界大百科事典にも、これが「演歌の第1号」とある。ただしこの歌にはメロディーがなく、ラップに近い。今でいう演歌とは、音楽的なつながりは薄そうだ。
*
「創られた『日本の心』神話」の著書がある大阪大学准教授(音楽学)の輪島裕介さん(42)は「壮士演歌は一種の語り物と考えるべきで、戦後演歌との間に強いつながりはない」と見ている。
輪島さんによれば、いわゆる今の演歌は1960年代後半から70年代にかけて成立したものだ。「こぶし」や「うなり」などの要素は当初「民謡調」「浪曲調」などと呼ばれ、50年代後半から60年代前半にかけて流行歌の中に採り入れられ、演歌の中心的な特徴となっていったという。
確かに「演歌」と聞いてまず連想する北島三郎や都はるみ、五木ひろしらがデビューしスターになったのは、60年代以降だ。しばしば「演歌の女王」と呼ばれる美空ひばりも、それ以前はブギウギやジャズの歌い手だった。
60年代は、グループサウンズなど相対的に新しい音楽ジャンルが台頭した。そのことで、逆に「日本的・伝統的」な大衆音楽への社会的な欲求が高まった。「旧来の大衆音楽を維持したいという産業上の要請がそこに結びつき、『演歌』というジャンルが生まれたのです」
その土台にある戦前の流行歌は、服部良一にしろ古賀政男にしろ、ジャズなどの西洋音楽の影響を強く受けていた。「演歌は日本の心」とはよく言われるが、それほど単純な話ではなさそうだ。
*
一方、芸能史研究家の瀧口雅仁さん(46)は旋律より歌詞に注目、明治時代の演歌(演説歌)の流れを現代に受け継いだのはフォークソングではないかと指摘している。「政治批判や社会風刺は、江戸の戯作(げさく)や川柳などにも見られる日本文化の伝統の一つ。演説歌もフォークソングも、その系譜に位置づけられる」
政治批判の演説歌と現代の演歌では、歌詞の内容はかけ離れている。60年代に反戦や社会批判を歌い上げたフォークソングもまた、後には男女の出会いや別れが主題になっていった。「どちらも『歌では世界を変えられない』という疲弊感から、社会より自分の内側に目が向かっていったのでは」
歌手の岡大介(たいすけ)さん(39)は、「自由演歌」と呼ぶ明治大正の演歌を歌い3枚のアルバムを出している。最初はフォークを歌っていたが、十数年前に先輩のフォーク歌手、今は亡き高田渡に明治から大正に活動した演歌師・添田唖蝉坊(あぜんぼう)を教えられ、のめり込んだ。「ノンキ節」「ラッパ節」など唖蝉坊の歌詞には、毒のある政治批判が連なる。
「演歌のメッセージ性が失われたのは、レコードの時代になり、唖蝉坊のように街頭で歌う演歌師の生計が立たなくなってからでしょう」
明治の終わりごろから演歌師たちは、街頭でバイオリンを弾きながら歌うようになった。ラジオやレコードの時代に入り、下火になった演歌師の一部は、ギターで盛り場を流すようになっていった。いわゆる「流しの演歌歌手」の源流とも言われている。
そう考えると、明治の演歌と今の演歌にはやはりつながりがなくもない。岡さんは「演歌はもともと演説の歌です」と言い切り、「日本の叫びを日本の言葉と日本の節で歌うことができる唯一の歌」と定義づける。
「日本の伝統」は、決して一色ではない。(樋口大二)
◆違う形、生まれてくるかも 「花街の母」などの作詞家・もず唱平さん(79)
演歌のルーツが明治の演説歌だという説はあやしいと思っています。史料的な証拠がない。
ただし大正時代に鳥取春陽という人がいました。ジャズを吸収した曲を書き、日本で初めてレコード会社と専属契約した作曲家ですが、一時期、唖蝉坊と一緒に流しの演歌師をしていた。僕は春陽の作曲した「籠の鳥」が、日本の演歌のルーツではないかと思ってます。
演歌の定義は僕にもわかりません。ただ指揮者の岩城宏之さんが「演歌はアンパンみたいなものだ」と言うてます。ジャズのコードやリズムも採り入れたのが外側のパンの部分で、入ってるあんこは、音楽的にはファとシがない「ヨナ抜き」音階のメロディー。日本語で音楽的にしゃべろうとすると、自然とヨナ抜きになるんですよ。しゃべり言葉の抑揚を大きくすれば、より感情を伝えやすくなる。演歌のメロディーは日本語のしゃべり言葉の延長線上なんです。
しかし本当のあんこは、音楽よりむしろ詞かもしれない。弱者、敗者に寄り添い、義理と人情を歌う。少なくとも江戸時代から変わらない日本人の心でしょう。演歌というジャンルは今は終焉(しゅうえん)期かもしれません。でもかつてジャズやポップスを吸収して演歌が成立したように、違う形で未来の演歌が生まれる端境期なのだと思いたいですね。
◆「演歌」のなりたち
1878年 この頃、土佐の自由民権運動で「よしや節」が流行
89年 川上音二郎の「オッペケペー節」が作られる。明治憲法発布
1905年 添田唖蝉坊の「ラッパ節」が流行
10年 この頃から、往来にバイオリン演歌師が登場
22年 鳥取春陽「籠の鳥」のレコード発売
25年 ラジオ放送が始まり、街頭の演歌師に代わってラジオやレコードの時代に
31年 「酒は涙か溜息(ためいき)か」がヒット、以降古賀メロディーが続々登場
37年 服部良一作曲「別れのブルース」(淡谷のり子)がヒット
66年 五木寛之が小説「艶歌(えんか)」発表
70年 「現代用語の基礎知識」に初めて「演歌(艶歌)」の項目が登場
70年代 こぶしやうなりを特徴とする「演歌」というジャンルが確立
2016年 超党派の議員連盟「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」発足
(輪島裕介「創られた『日本の心』神話」、西沢爽「日本近代歌謡史」などによる)
◆◆なかにし=戦争の狂気語り続ける
(赤旗 17.02.26 )
🔴◆◆(憲法を考える)施行70年 憲法は芸術だ 作家・作詞家、なかにし礼さん
(朝日新聞 17.05.03 )
(簡単じゃない。でも理想を忘れたらむごたらしい現実しかないんです」=相場郁朗撮影)
数々のヒット曲を作詞、映画やオペラでも活躍した作家が、がんと闘いつつ、旧満州での加害体験を小説で描いた。体験や創作活動を振り返り、「芸術作品」と表現する憲法への思いを語った。首相が改憲に向けた具体的な考えを示した施行70年の節目。悲惨な戦争と華やかな繁栄を見てきた作家は、何を訴えたいのか。
――憲法を芸術作品と言っていますね。
「戦争をしないことをうたう日本国憲法は世界一です。特に前文は人類の進化の到達点だといってもいい。世界に誇れる芸術作品ですよ。日本語として美しくないからダメだと批判する人もいますが、私が芸術だというのは、日本人の琴線に触れる叙情詩だといっているわけではないのです。憲法は詩でも小説でもない。世界に通用させるべき美しい理念をうたい、感動を与えることができるから芸術だということです」
「正確を期すために、持って回ったいい方があったり、生硬な日本語が使われたりしているのは事実です。抽象的な理想を掲げているので、流暢(りゅうちょう)さとか、日本人が美しいと感じる文章であるかどうかが重要なのではありません。大事なのはその中身です」
「首相が、2020年に改正した憲法を施行したいと明言したと聞き、驚きました。首相は憲法を尊重し擁護する義務を負っているのに、改正の期限を切るなどというのは、大問題ですよ。しかも、9条を含めて改正しようというのは、もってのほかです。この憲法の理念と理想は世界の人びとにも感動を与えることができる。最初は理解されないかも知れない。でも、説得して、少しずつでも世界に広めていくことです」
*
――「時には娼婦(しょうふ)のように」「天使の誘惑」といった、甘美な愛の歌を生みだしてきた芸術の世界と関連するのですか。
「私のことを軟派なエロじじいと思うかもしれませんが、愛は人間に与えられた最高の幸福ですよ。エロスは人を愛すること。人が人を愛し、歓喜を味わう、それが平和。エロスがなければ平和もありません。私の中では一貫しています」
「人を愛することは基本的人権の謳歌(おうか)であり、場合によっては、権力に対する最大の反逆になり得るのです。政府が市民を統制し監視する社会を描いたジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』や戦前の日本を持ち出すまでもなく、権力は究極的には、個人が国以外を愛の対象にすることを拒絶したい。恐怖で個人を縛り上げようとします。それに抵抗することなのです。こうしたことを理解して、憲法の前文を大事に思う人が増えてくれるとうれしいですね」
――平和を強く意識するようになったきっかけは何でしょうか。
「私の人生の土台をつくったのは戦争の体験です。戦後、うれしいこともいっぱい経験しましたよ。でも、戦争以上の強い体験はないんです。個人は国家に翻弄(ほんろう)され、捨てられるものだと経験しました。3回ありました」
「私は満州で生まれました。家族は北海道から満州に渡って酒造りをして、関東軍に納めていました。しかし、無敵の関東軍は、日本の国民を守ってくれませんでした。1945年8月8日にソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄、侵攻を始めたとたん、関東軍は百数十万人の居留民を置き去りにして逃げました。それが最初の棄民経験です」
「2度目は、日本国政府に見捨てられました。ポツダム宣言を受諾した8月14日、外務省は在外機関に訓電を打って、居留民はできるだけ現地に定着しろという方針を示すのです。日本国内の食糧も少なかったからでしょう。3度目は政府が引き揚げ事業を積極的に行わなかったことです。居留民は自主的に収容所をつくって身を寄せ、金を集めて、アメリカ、中国の国民党と共産党、ソ連と掛け合いました。日本に帰る事業が始まったのが46年の夏です」
「改憲を訴える政治家たちは、個人よりも国家を優先させたいようですが、その先にあったのが棄民です。地獄のような体験をし、何度も命の危険にさらされました。機銃掃射が頭の30、40センチ先を走り、30メートル離れた所で爆発があって爆風を受けました。弾丸が右耳の横をかすめたこともあります。なぜ私が生き残ったのかは分からない。運です」
*
――昨年発表した小説「夜の歌」で、8歳の少年だった引き揚げ時に、自らが加害者になった経験も赤裸々に描いていますね。
「がんが再発し、最後の小説のつもりで取り組んだ作品です。書いてこなかったことも、伝えるべきことは書かねばならないと思いました」
「軍用列車で脱出する途中、私たちと同じように、中国人の暴徒やソ連の機銃掃射から逃げまわっていた開拓団の人びとが『乗せて下さい』と列車に群がり、しがみついたのです。それに対して、日本刀を振り上げる関東軍の若い将校が、手を離さなければ指を切り落とすと怒鳴り、私たちにその手を振り払うように命令しました」
「私は泣きながら、同じ日本人の指を1本1本もぎ取るようにはがしたのです。開拓団の中には、当時の私よりも幼い子供や赤ん坊を抱いたお母さんもいれば、老人もいましたよ。そうした人びとを見殺しにさせられたのです」
「これまで、自分が戦争の被害者になった経験については小説にしてきました。今回は、個人が国家の犠牲になることだけではなく、国家によって同胞までも見殺しにさせられたことも実際にあったということを書きました。戦争で悲惨なことを経験させられるのは個人です。戦争に対する嫌悪感は人一倍持っています」
――個人と国家の関係をどう考えますか。
「戦前の日本でリベラルな言論人として知られた清沢洌(きよし)の戦争中の日記が、戦後、『暗黒日記』として公刊されています。ここには、政府による弾圧におびえつつ、個人の自由が束縛されていく様子が記されています。これが再現されないよう、声をあげ続けなければなりません」
「ただし、声をあげるのも個人としてです。いくら仲の良い仲間がたくさんいても、平和や憲法のことを訴えるのはあくまで個人としてで、いかなる団体や集団の一員としてではありません。ネットで他人の意見に賛同するような消極的な姿勢ではなく、一人ひとりが自分の言葉で意思を示していくことが大切なのです。なぜならその方が勇気が必要だからです」
*
――作家や作詞家として活躍した戦後はどんな時代でしたか。
「60年安保や70年安保もあって、社会は大きく揺さぶられ、既存の権威や古い階層構造が壊れた時期に作詞家として活動できたといえるでしょう。ジュークボックスが普及した時期で、その中ではビートルズやローリングストーンズとも戦わなければならない。そこは国際競争です。ビートルズのリズムやアメリカのフルバンドの編曲などを研究しました。そうやってザ・ピーナッツの『恋のフーガ』も生まれたわけです」
「いろいろな分野で新しい才能が出てきましたよ。イラストレーターの横尾忠則、カメラマンの篠山紀信、演劇の寺山修司や唐十郎、みんな仲良しで、親分とか師匠がいない。独立独歩でガーンと社会に出てきたのが共通点。時代がエネルギーをくれていた気がしますね。バブル時代を経て、私が歌謡曲だけでなく、オペラや演劇、小説、映画などで仕事ができたのも、日本が平和で個人を認めてくれたからでしょう。そうした個人主義が、団塊の世代のミーイズム(私生活主義)に転じてしまい、日本社会に蔓延(まんえん)し、いまに至る閉塞(へいそく)感をもたらしているのかも知れません」
――その閉塞感の先は、どんな世界が待ち受けるのでしょう。
「真珠湾攻撃前の日本は、いまの北朝鮮を考えると想像しやすいでしょう。世界からの制裁で石油や資源がない、負けると知りながら、アメリカとの戦争に突っ込んでいきました。論理と理性で動くべき政治が、その国だけで通用するオカルトの迷妄と感情に支配されてしまうと、地獄に向かって走ってしまう。閉塞した社会は、おかしな方向に出口を求めてしまう恐れがあります。北朝鮮だけのことと思わないことです」
「この気配を止めないといけません。いま、日本の指導者は『どんなことがあっても戦争は回避します』と言うべきです。戦争をしないという次元に向けてシフトを変えないから、このままではいつか戦争になってしまいます。どんなことがあっても、『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう』との決意を貫く。今からでも遅くないから、憲法の理念を理解して、どんな国をつくるか、真剣に考えることです。国際政治の現実に付和雷同するだけなら『日本も核兵器を持つべきだ』という結論になるのはあっという間です。保守派は甘ちゃんだと批判するでしょうが、私は個人として言い続けます」
(聞き手・池田伸壹)
◇
なかにしれい 1938年生まれ。大学在学中から訳詞を手がけ、「恋のフーガ」「北酒場」などの約4千曲を作詞。小説「長崎ぶらぶら節」で直木賞。
🔴◆◆演歌の歴史と今日の演歌
(小学館百科全書=倉田喜弘)
日本の流行歌の一種。歌によって意見を述べるという意味で、「演説」に対応することばとして明治中期から使用された。思想を歌に託して表明することは古くから行われてきたが、植木枝盛 ( えもり ) 作『民権田舎歌 ( いなかうた ) 』や安岡道太郎作『よしや武士 ( ぶし ) 』のように、「数え歌」や「どどいつ」の旋律に頼るものは演歌とよばない。したがって演歌の嚆矢 ( こうし ) は川上音二郎作『オッペケペー』となる。 1889 年(明治 22 )の暮れにつくられたこの歌は、京都・新京極の寄席 ( よせ ) で公開されるや、たちまち京都市民の心をとらえた。政府の施策を非難することなく、自由と民権の伸張を平易に説く『オッペケペー』は、多年にわたる川上の反権力闘争の成果といえるが、翌年に壮士芝居を率いて東上した川上一座の公演によって、横浜や東京でも流行し始めた。絶頂に達するのは 1891 年 6 月以降である。歌詞の内容とリズムをたいせつにするだけで、一定の旋律をもたないこの歌は、音楽的にはデクラメーション declamation という。端唄 ( はうた ) や俗曲以外、はやり歌が皆無に近かった当時の民衆にとって、だれもが容易に口ずさめる『オッペケペー』は、民衆娯楽の新分野を形成することになった。
東京にたむろする壮士のなかには、川上をまねて街頭で放歌高吟するかたわら、この歌本を売って生活の糧 ( かて ) を得る者が現れる。『ヤッツケロ節』『欽慕節 ( きんぼぶし ) 』『ダイナマイトドン』など同類の歌もつくられたが、政府を弾劾する歌詞もあって、しばしば官憲の弾圧を受けた。こうした壮士の歌に「演歌」の名を冠する一団もあったが、世間では一般に「読売」とか「壮士歌 ( うた ) 」とよんだ。ところが壮士の大半は書生であり、『法界節 ( ほうかいぶし ) 』や『日清 ( にっしん ) 談判破裂して』を月琴 ( げっきん ) で流したので、壮士歌はむしろ「書生節」という名称で親しまれるようになった。そのころ、黒地の着物に編笠 ( あみがさ ) をかぶり、薄化粧を施して娘たちの歓心を買おうとする書生たちの行為は、社会問題として大きな波紋をよんだ。添田唖蝉坊 ( そえだあぜんぼう ) が、社会主義的な歌をつくったのもこの時代である。
1910 年代になると、東京の神長瞭月 ( かみながりょうげつ ) と大阪の中林武雄の歌がもてはやされ、『残月一声』『松の声』『不如帰 ( ほととぎす ) 』などが好まれた。やがてバイオリンが用いられると、目新しいこの楽器にひかれ、書生節の周辺を聴衆が取り巻くことになる。大正中期、『一かけ節』や『七里ヶ浜の仇浪 ( あだなみ ) 』(真白き富士の嶺 ( ね ) )が全国に浸透するころ、書生節の歌手は「演歌師」といわれ始め、映画の力とも相まって『船頭小唄 ( こうた ) 』や『籠 ( かご ) の鳥』が一世を風靡 ( ふうび ) した。
1930 年代になってレコード歌謡に人気が集まると、書生節は消滅して「歌謡曲」が台頭し、東海林 ( しょうじ ) 太郎、音丸 ( おとまる ) 、上原敏 ( びん ) らが「流行歌手」として誕生してくる。またレコード会社専属の作詞家として西条八十 ( やそ ) 、佐伯孝夫 ( さえきたかお ) 、藤田まさと、作曲者として古賀政男 ( まさお ) 、古関裕而 ( こせきゆうじ ) 、大村能章 ( のうしょう ) ほか多士済々。そして 1960 年(昭和 35 )前後に「艶歌 ( えんか ) 」ということばとともに「演歌」が復活する。美空ひばりをはじめ、島倉千代子、春日 ( かすが ) 八郎、三波春夫ら、枚挙にいとまがないほど多数の歌手が出現し、その歌声は民衆の魂を揺さぶって黄金時代を形成した。外国のポップスの流行につれて、こぶしのきいた日本調の歌謡曲を演歌とよんだわけであるが、第一次石油ショック( 1973 )を境に歌謡曲は演歌とニューミュージックに二分された。こうした用語の変遷や歌詞ないしは歌い方に注目するとき、今日の演歌は、日本的な土壌に立脚した歌声だと定義づけることができよう。 1970 年代以降も、北島三郎、森進一、五木ひろし、細川たかし、都はるみ、水前寺清子、八代亜紀、小林幸子、石川さゆりらの歌手が活躍し演歌を支えているが、歌謡曲のさらなる多様化、演歌ファン層の高齢化などにより、歌謡曲分野に占める演歌の位置付けは相対的に低下している。
★川上音二郎のオッペケペー節(歌:御堂 諦) 4m
★川上音二郎(作)・オッペケペー節 / 土取利行(唄・演奏) 4m
◆◆演歌よ ❶ 船村徹と鳥羽一郎、北島三郎
★★演歌の作曲家・船村徹をしのぶ、名曲とともに
100m
http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v118029421FJXhR2Rh
★北島三郎=風雪流れ旅
★鳥羽一郎=兄弟船
https://m.youtube.com/watch?v=-O9WvbKRWcE
◆北へ行くほど味が出る
粉雪が烈風に舞う。日本最北の地、北海道稚内市。
街角に「ラーメンは北へ行くほどうまい」とかかれた看板がある。だが、作曲家の船村徹(ふなむらとおる)(80)にいわせるとこうなる。
「演歌は北へ行くほど味が出る」
初めて訪れたのは1965(昭和40)年だった。ギターを抱え、オホーツクの咆哮(ほうこう)を聞きながらさまよった。夜は漁師たちとコップ酒である。
「血液までも凍るような寒さ。でも、人々はたくましかった。怪物のような冬と向き合う姿に、希望の光を見つけた思いがした」
「別れの一本杉」「王将」と大ヒットを飛ばし、当時すでに不動の地位を築いていた。それなのに、なぜ北へ北へとさすらったのか。
栃木出身の船村は、茨城出身の作詞家で亡くなった親友高野公男(たかのきみお)の言葉がひっかかっていた。「お前は栃木弁の心で歌を作れ。俺は茨城弁の心で詞を書く」
世の中は、東京一極集中になだれをうっていた。音楽づくりの現場も例外ではない。しかし、様々な人たちの営み、その息づかいを知らずに、人の心をとらえる歌が生み出せるのか。
船村は78年、レコード会社との専属契約をやめ、フリーになった。「演歌巡礼」と称して土地土地の風に身をさらし、五感を研ぎ澄ました。「演歌は日本固有の風土から生まれた民衆のうめき。我がものにするには、裸になって民衆の懐に飛び込む以外にない」。その「巡礼」の終着点が、稚内だった。
80年、作詞家星野哲郎(ほしのてつろう)と組み、「風雪ながれ旅」を出した。「息子」と呼んできた北島三郎(きたじまさぶろう)(76)が「アイヤー アイヤー 留萌 滝川 稚内」と声を振り絞った。
演歌は働く者への応援歌でもある。82年には、北の海に生きる漁師を描いた「兄弟船」がヒットした。歌ったのは内弟子鳥羽一郎(とばいちろう)(60)だ。
もとは遠洋漁業の乗組員だった鳥羽。歌手になった弟山川豊(やまかわゆたか)(54)の後を追うように27歳のとき三重から上京し、船村が泊まっていたホテルを訪ねた。どの部屋かわからず、館内放送で呼び出した。
船村はいう。「鳥羽の目はギラギラしていた。目に油でも塗っているようだった」
炊事、洗濯、掃除、草むしり、車の運転と何でもやった。「つらいときは、荒波をザブンザブンかぶりながら命をかけていたころを思い出した。とにかくおやじについていくことだけを考えた」
船村がテレビのリポーターとして、樺太(サハリン)への墓参団の船に乗っていたときのこと。鳥羽は稚内の港で船を迎えたが、下りてこない。駆け込むと、船村は船室で酔いつぶれていた。
死して祖国の土を踏めなかった人たちへの思い。心乱し、ひたすら酒を飲み続けるしかなかったという。
鳥羽はいう。「ぼろぼろ泣くおやじを見て、船村演歌の神髄にふれた思いがした」
演歌は心で歌うもの。船村は住み込みの内弟子制度をいまも続ける。「濃密な人間関係でないと、人を育てることはできない」
2009年にデビューした走裕介(はしりゆうすけ)(39)も10年間、船村と寝食をともにしてきた。「最初の3年は『帰れ』と毎日のようにいわれました。やめようか、と何度思ったことか」
この夏に出した5曲目の「北国(きたぐに)フェリー」は、オリコンの演歌・歌謡曲部門で初めて週間ランキング1位に輝いた。「修業は一生続きます」
日本人には演歌の血が流れている、と船村はいう。
2012年師走。
ああ、演歌が聴きたい。
(このシリーズは、文を小泉信一、写真を近藤悦朗が担当します。文中敬称略)
◆◆大衆の情、5500の歌に 作曲家・船村徹さん死去
朝日新聞 17.02.18
2015年4月、船村さんの功績を紹介する「日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館」が栃木県日光市にオープン。北島三郎さんらに囲まれ会見に応じる船村さん(手前)
「王将」「矢切の渡し」「みだれ髪」などは、心に染みいる曲だった。16日に心不全のため84歳で亡くなった作曲家の船村徹(本名福田博郎〈ひろお〉)さん。涙や故郷、男の心意気などを音で描き、多くの弟子を愛し、また多くの人に愛される音楽家だった。
1932年、栃木県船生(ふにゅう)村(現塩谷町)生まれ。東洋音楽学校(現東京音楽大)ピアノ科で学び、親友だった作詞家・高野公男さんとコンビで作った「別れの一本杉」(春日八郎さん)が55年に大ヒットした。北島三郎さん(80)の「なみだ船」「風雪ながれ旅」、鳥羽一郎さん(64)の「兄弟船」などを作詞家の星野哲郎さんと共作。作品は5500曲を超すという。78年以降、各地の民衆の心を探った「演歌巡礼」が船村演歌を下支えし、忘れられた歌を供養する式典「歌供養」(84年以降)は人柄の温かさを示した。
17日、まな弟子の歌手の北島さんと鳥羽さんが東京都内で会見を開いた。北島さんは「命ははかない」と悔しさをにじませた。船村さんは2人の芸名の名付け親。「出会わなければ今の北島三郎はいない」。鳥羽さんにとっては内弟子として共に暮らし、デビュー曲「兄弟船」を作ってもらった恩人だ。「最後にくれた曲『悠々と … 』(2016年1月)が遺書のようなんです。『たとえば俺が死んだなら』と始まるんでね」と涙を見せた。
歌うのが苦しかった時、歌手をやめようと思った時、船村さんに救われた歌手は少なくない。舟木一夫さん、瀬川瑛子さんもそうだった。五木ひろしさんは「私たちがしっかりと継承していきたい」。昨年歌謡界で初めて文化勲章を受章。昨年10月の受章会見では「大衆音楽や演歌が認められ、大変光栄」と喜んだ。今年1月、受章祝賀会で「なんとなく生きてきて、もうちょっと生きそうな感じ」と会場を和ませていた。
通夜は22日午後6時、葬儀は23日午前11時から東京都文京区大塚5の40の1の護国寺で。喪主は長男蔦将包(つたまさかね)さん。
(岡田慶子、江戸川夏樹)
<船村徹評伝>「演歌は不滅」貫いた
情(じょう)の人だった。市井に生きる人々の喜怒哀楽に寄り添い、土や海のにおいが濃厚に漂う歌を作った。しっとりとした女の情念あふれる曲も世に送り出した。
新人時代の1955年「別れの一本杉」を発表すると「他人の家に土足であがるようなもの」と酷評されたという。敗戦後、日本の復興はめざましく地方から大都会に多くの人が集まっていた。故郷への思いを歌うこの曲は「時代遅れ」とみなされた。だが、評論家の予想とは裏腹に大衆は「船村演歌」を支持した。「お前は栃木弁の心で歌を作れ。俺は茨城弁の心で詞を書く」。栃木出身の船村さんにそう言ったのは、茨城出身の作詞家で親友の故・高野公男さんだった。
洋楽が浸透しつつあった61年には名曲「王将」を発表。西條八十の「吹けば飛ぶよな将棋の駒に~」という詞を見て「これは俺のこと。吹けば飛ぶような五線紙に命を懸けている」と思ったという。
11年前。北海道の港町で一緒に酒を飲んだ。「人生に泣き、酒に笑い、音楽の心を知る。そんな人生でしたね」。遠くを見つめるようにして静かに語った言葉が印象に残っている。外は冷たい風が吹いていた。
刑務所の慰問も続けてきた。作詞・作曲した「希望(のぞみ)」は船村さんの真情そのもの。心の奥底を揺さぶるメロディーは大衆のうめきだ。「日本人が日本人である限り、演歌や日本のメロディーは不滅」と語った。その言葉を私は信じる。
(編集委員・小泉信一)
◆◆演歌よ ❷ 小林旭
★★昭和の巨星スペシャル 作詞家 阿久悠 心に残る名曲の数々 前編
https://m.youtube.com/watch?v=yODClQ-RdFk
★小林旭=熱き心に
★小林旭=昔の名前で出ています
◆不器用だね これが俺流
東京・六本木のスタジオ。レコーディングを終えた小林旭(こばやしあきら)(74)は、胸の高鳴りを抑えることができなかった。
これは西部劇じゃないか。
歌ったのは阿久悠(あくゆう)作詞、大滝詠一(おおたきえいいち)作曲の「熱き心に」。
北国の旅の空 流れる雲 はるか 時に人恋しく
伸びやかで清涼感あふれるメロディーに壮大な言葉が連なる。時は1985(昭和60)年。
阿久はこう語っている。「男の影が薄くなる哀(かな)しみを感じ、小林旭を男の最後の切り札のように思い、大スケールの詞を書いた」
たしかに映画「渡り鳥シリーズ」で日本中を沸かせた小林のイメージは強烈である。20代のときのヒット曲「アキラのズンドコ節」「北帰行」からして男っぽかった。
つかみどころのない人間の情念を、詩情豊かに歌い上げる。小林は「それが演歌だ」という。「でも、ビブラートがどうだとか、オブラートがどうだとか、声をうまくカバーしたり、出したり引いたりということが俺にはできなかった」。元妻の美空(みそら)ひばりは「演歌の女王」だった。「さようなら」という歌詞一つとっても縦横無尽に多彩な「さようなら」を表現できた。
「まさに天才だったね」
ヒットを連発する北島三郎(きたじまさぶろう)(76)や五木(いつき)ひろし(64)がうらやましかった。どうしたら彼らのように持ち味を出せるのだろうか。
「いいんだよ、旭さん。ぶっきらぼうでも、ぶつけていけばいいんだから」
アドバイスをしたのが「演歌の竜」と呼ばれたディレクター馬渕玄三(まぶちげんぞう)。ひばりや島倉千代子(しまくらちよこ)(74)を育てた名伯楽・馬渕は「魂を込めて歌うことの大切さ」を説いた。
転機は75年、36歳のときに発表した「昔の名前で出ています」だろう。翌年、経営していた会社が倒産し、多額の借金を背負う。「小林旭」という名前を引っさげ、キャバレーを営業で回った。
京都にいるときゃ 忍(しのぶ)と呼ばれたの 神戸じゃ渚(なぎさ)と 名乗ったの
作詞星野哲郎(ほしのてつろう)。夜の世界に生きるホステスたちの切なさを描いた演歌である。
当時の胸中は?
「複雑だったよ。歌の世界と違って、現実の俺は多額の借金を背負った男。でもそんなこと、かなぐり捨てて、女の心情を拾いあげてやれば何とか歌えるんかいなあと。気持ちをパッと切り替えたら、スーッと冷静になったね」
結果は売り上げ200万枚を突破する大ヒット。今に歌い継がれる名曲となった。
小林はかつて、日活時代に共演した浅丘(あさおか)ルリ子(こ)(72)を愛していた。結婚を考え、浅丘の父に会ったこともあった。「でもね、どこのどいつか分からんやつにうちの娘はやれん、なんてことを言われ、なんだこのヤロー、と。それで駄目になった」
ダイナマイトのように危険な香りの男。だからマイトガイ。そんな小林に、演歌を提供しているのが作曲家の杉本眞人(すぎもとまさと)(63)だ。昨年は星野哲郎の詞をもとに「昭和・露地裏話」を発表した。新宿西口かいわいの人間模様が情感たっぷりと歌われている。
小林旭の魅力とは。
「武骨でぶっきらぼうだけど、やんちゃなところもあって。カッコよくやせ我慢もしたりする。男の中の男だね」
土や海の香りがする演歌ではない。熱き心で時代を駆け抜ける。「それが、『俺流演歌』なのかな」と小林。
来年2月、新曲「素晴らしき哉(かな)人生」が発売される。一途に夢を追いかけてきた男の歌だ。
マイトガイはいまも熱い。草食男子なんて知らねえよ、とでもいうように。
(小泉信一)
◆◆演歌よ ❸ 阿久悠さん
★藤圭子=京都から博多まで
https://m.youtube.com/watch?v=4_IXHmylBoo
★都はるみ=北の宿から
◆満たされぬものがある
静岡県伊東市。海を見渡す山の上に阿久悠(あくゆう)(本名・深田公之〈ふかだひろゆき〉)は眠っている。墓石には「悠久」と大きく刻まれている。
2007年逝く、70歳。生涯に5千曲の詞を書き、シングル売り上げは歴代作詞家で類を見ない6800万枚強。オーディション番組「スター誕生!」は企画から関わり、審査員もつとめた。
その阿久は、演歌も変えた。
初めての演歌は1972年の「京都から博多まで」。スポットライトに照らされた白い顔の藤圭子(ふじけいこ)(61)が、ドスのきいた声で歌い上げた。
《二度も三度も 恋したあげく やはりあなたと 心にきめた》
恋の行方を相手にゆだねたりなんかしない。自分の意志で動く女性を描いた。
《京都から博多まで あなたを追って 恋をたずねて行く女》
都(みやこ)はるみ(64)に書いた「北の宿から」(75年)は「女ごころの未練でしょう」と歌い上げる。それまでの演歌のつくりだと「未練でしょうか」と問いかける形になるところ、あえて「か」を抜いた。自分を客観視し、自立する女性を登場させたという。
都はどう思ったか。
「めめしいようで違うんですよね。『あなた死んでもいいですか』なんて言いながら、この女は絶対に死なないなと思う。強い女なんです。私に似ているなと思った」
阿久はのちに「J―ENKA」という造語も生んだ。一人息子の深田太郎(ふかだたろう)(47)はいう。「時代がかっていない、現代人に根ざした『今の演歌』という意味なのでしょう」
阿久は「時代の飢餓感にボールをぶつける」ことを自分に課していた。世の中が豊かになっても満たされないものがある、と。象徴的なのは、河島英五(かわしまえいご)が歌った「時代おくれ」だろう。
《目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず》
この国がバブルに浮かれ始めた86年、49歳のとき発表した。親友の上村一夫(かみむらかずお)が45歳で急逝した年だ。劇画「同棲(どうせい)時代」で一世を風靡(ふうび)し、「天才」といわれた劇画家。「彼の死がぼくを変えた。天下をとる気でいたのが空しくなった」と阿久は語っている。
遺作集「リリシズム」を編集した上村の一人娘、汀(みぎわ)(47)はいう。
「父も阿久さんも、昭和が輝いていた時代を懸命に生きた。けれど、ちょっと止まって足元を見ようよ、と思ったのでは。時代に遅れることをむしろ胸を張って受け入れようとしたんじゃないかな」
かつて「ルイジアナ・ママ」でヒットを飛ばし、レコード会社のディレクターに転じた飯田久彦(いいだひさひこ)(71)は、伊東にあった阿久の自宅まで何度も原稿を取りにいった。「ほとんどが手渡し。『どうだ!』という風にね」
飯田が手がけたのは、ピンク・レディーに岩崎宏美(いわさきひろみ)、桜田淳子(さくらだじゅんこ)。「ファクスや電話では温度が直接伝わらないから」。阿久は常々そういっていた。
その後テイチクの社長までつとめた飯田は、78年、サザンオールスターズのデビューにかかわったときのことが忘れられない。曲は「勝手にシンドバッド」。沢田研二(さわだけんじ)の「勝手にしやがれ」、ピンク・レディーの「渚(なぎさ)のシンドバッド」と、阿久が作詞した二つの歌の題をくっつけた。
怒られないかな? 緊張しながらうかがうと、阿久はにこやかな顔でこたえた。「面白い。こういうユーモアのあるのがいいんだよ」
演歌、ヒット歌謡、アイドル、フォーク。自在に行き来した阿久は生前、こんなことをいっていた。「男は心に紙飛行機を。1枚の紙と小さな窓があれば、どんな世界にでも飛んでいける」
その墓の前、海がどこまでも広がっている。
(小泉信一)
◆◆演歌よ ❹ 遠藤実
★★昭和偉人伝 歌謡界の偉大な作曲家 吉田正 遠藤実
https://m.youtube.com/watch?v=AaJ0i42xX-E
★森昌子=せんせい
★一節太郎=浪曲子守唄
https://m.youtube.com/watch?v=CbQgbu-mSgc
◆人の世に涙の川あり
演歌には涙がつきものだ。
その涙に「偉大な力がある」と語っていたのは作曲家遠藤実(えんどうみのる)である。疎開先の新潟で少年期を過ごし、1949(昭和24)年、17歳のとき上京。流しをしながら独学で音楽を学んだ苦労人だ。
「高校三年生」「星影のワルツ」「北国の春」と、手がけた作品は5千曲以上。遠藤はこうも言っていた。
「心の波動が我知らず涙をこぼさせる。その涙は苦悩を洗い流してくれる」
あのとき森昌子(もりまさこ)(54)も涙が枯れるほど泣いただろう。2008年6月19日。場所は東京都杉並区の遠藤宅。
「先生に声をかけてほしかったのです。先生のところへ行けば、また自分に自信が持てるんじゃないか、と」
離婚し、20年ぶりに芸能界に復帰したが、仕事のストレスが重なり入院。声も出なくなってしまった。
「でも、私は歌の道に戻ってくるしかなかった。間違いじゃないですよね」。問いかける森に遠藤はこたえた。
「間違いじゃない。みんな待っていたんだ。いい歌を歌えるのはこれからだよ。もう泣くな。上を向いて歌え」
森のデビューは13歳のときだった。「せんせい」「同級生」「中学三年生」の学園3部作を遠藤が作曲。中学の制服姿でレッスンを受けたが、そのときも泣いてしまった。
「緊張してうまく歌えませんでした。そんな自分が情けなくて。でも、先生は叱りませんでした」
人生の師である遠藤は、森が来訪した半年後に逝く。76歳。没後に贈られた国民栄誉賞の表彰式に出たのは、養子の由美子(ゆみこ)(48)だった。
由美子が館長をつとめる新潟市の「遠藤実記念館 実唱(じっしょう)館」には、遠藤がつくった自筆の詩が飾られている。
人の世に涙の川があり
苦労の山もある
その川を渡るとき
その山を越えるとき
歌と云(い)う友がいる
由美子も歌手だった。高校を中退して17歳のとき新潟から上京。遠藤の自宅に住み込みながらレッスンを受けた。「徳巻駒子(とくまきこまこ)」の芸名でデビューするも売れず、30歳で引退。愛妻節子(せつこ)との間に子どもがいなかった遠藤は、由美子を養子にした。
遠藤は晩年、心臓の血管が詰まる病気に苦しんでいたが、手元にはいつも五線紙があった。森へのエールをこめた新曲もつくっていた。
「自分で歌い、デモテープに吹き込んでいました。でも息が続かず、とてもつらそうでした」と由美子はいう。
泥臭いほど義理堅く、辛抱強い。根っからの越後人である遠藤にしごかれて花を咲かせたのが、やはり新潟出身の一節太郎(ひとふしたろう)(71)。遠藤の内弟子第1号となったのは19歳のときだ。「炊事、洗濯、掃除と何でもやった。でも、歌だけは上達しませんでした」
歌声に特徴がない、と遠藤から命じられたのが「声をつぶせ」。浪曲師のような声にしようと夜は北風に向かい、のどから血が出るまでうなる練習をした。
弟子入りして2年余りが過ぎた1963年、遠藤から芸名をもらい、「浪曲子守唄」(作詞作曲・越純平(こしじゅんぺい))でデビューする。独特のしゃがれ声で、流れ者の男の人生を哀感こめて歌い上げた。
《逃げた女房にゃ 未練はないが お乳ほしがる この子が可愛い》
「レコーディングのとき、先生はうちのおやじを新潟から呼び寄せ、立ち会わせてくれたのです。『この歌は売れますよ』とね」
いまも歌い継がれる「浪曲子守唄」。一節は心をこめて歌う。男の涙がほろりとこぼれる。(小泉信一)
連載〈ニッポン人脈記〉
ホーム最新の朝刊一面最新のYou刊一
◆◆演歌よ ❺ ちあきなおみと「喝采」
★ちあきなおみ=喝采
◆残像20年 喝采はやまず
ちあきなおみ(65)が表舞台から姿を消して20年になる。
伝説の歌姫といわれるちあきの才能を、早くから見抜いていたのが作曲家船村徹(ふなむらとおる、80)である。名曲「矢切の渡し」も、もとはちあきに提供した曲だった。
「彼女はね、オタマジャクシ(音符)の裏側を歌えるんです。文章でいうなら、行間を読むことができるということと同じなんです」
1947(昭和22)年、東京都板橋区に生まれたちあきは、母の影響で幼いころからタップダンスを習い、米軍キャンプを回った。10代のころはジャズ喫茶やキャバレーで歌い、69年、「雨に濡(ぬ)れた慕情」でデビューする。圧倒的な歌唱力と表現力。72年には「喝采」(吉田旺〈よしだおう〉作詞、中村泰士〈なかむらたいじ〉作曲)で日本レコード大賞に輝いた。
《いつものように幕が開(あ)き 恋の歌うたうわたしに 届いた報(し)らせは 黒いふちどりがありました》
◇
活動休止のきっかけはマネジャーでもあった夫郷エイ治(ごうえいじ、エイは金へんに英)の死と伝えられる。郷は92年9月11日、肺がんのため55歳で逝った。「私も一緒に焼いて」とちあきは号泣し、棺(ひつぎ)にすがりついたという。
2人を引き合わせたのは、郷の兄で俳優の宍戸錠(ししどじょう、79)。73年、テレビドラマの夫婦役でちあきと共演した宍戸は「誰か、いい男いない?」と聞かれ、離婚して独身だった俳優の郷を紹介した。「エースのジョー」といわれた宍戸とは対照的に、郷はシャイで物静かな男だった。
「で、お前ら、よろしくやれよ、と」
宍戸はいう。「俺もびっくりするほど気が合った」。結婚後も「一卵性夫婦」といわれるほど深い絆で結ばれた2人。郷が亡くなり、友人らがしのぶ会を開いたが、ちあきは姿を現さなかった。
「ここはお前がしっかりしなくちゃいけない、と言っていたんだけどな。郷の遺影も貸してくれなかった」
宍戸もこの20年、ちあきと音信不通だ。「でもな、あいつにはブランクは関係ない。永遠に歌えるだけの才能を神様から与えられているんだから。あいつはひばりよりうまかった。俺が死ぬ前にもう一度歌ってほしい」
◇
2000年、過去の作品を集めた6枚組みCD「ちあきなおみ・これくしょん~ねぇあんた」が日本コロムビアから発売された。ほとんど宣伝していないのに、1万3千円のボックスがこれまでに10万セット売れ、本人不在の再ブームの発火点となった。
ディレクター衛藤邦夫(えとうくにお、45)は「愛する夫に殉じて歌を捨てた、というイメージもあり、それがカリスマ性を高めたのでしょう」という。
その残像は、薄まるどころか、時とともに鮮烈になっている。ちあきをこよなく愛し、昭和歌謡を歌い続ける渚(なぎさ)ようこはいう。
「まさに役者。歌そのものに入り込んでいる。静かな狂気が憑依(ひょうい)している感じ」
新宿ゴールデン街にある渚の店の近くには、ちあきの伝説的アルバム「もうひとりの私」のジャケット写真に使われた老舗バーがあった。
渚はいう。
「レコード業界の関係者行きつけの店で、ひび割れた浪曲のレコードとか、都(みやこ)はるみとかをガンガンかけていた。ちあきさんも来ていたんじゃないかな」
マスターが倒れ、店を継いだのが渚の友人の歌手ギャランティーク和恵(かずえ)。ちあきのヒット曲にちなみ「夜間飛行」と名前を改め、07年にオープンした。
ちあきが物憂げな表情でひじをつき、アルバムのジャケット写真にも使われているカウンターは昔のままだ。壁にはちあきのポスターや写真が貼られている。ファンがグラスを傾け、思いをはせる。
どこからか、あの歌声が聞こえてくる。
《それでもわたしは 今日も恋の歌 うたってる》
喝采はなりやまない。(小泉信一)面
◆◆演歌よ ❻ 渥美二郎と「夢追い酒」
★渥美二郎=夢追い酒
https://m.youtube.com/watch?v=cfnjpaDqS28
◆踏まれても踏まれても
色紙にサインしても「いらねえよ。こんなもの」。目の前でレコードを割られたこともある。
「いつか『欲しい』といわせたい。その日までの辛抱だ」。世に出るまで、渥美二郎(あつみじろう、60)はずっとそう思って耐えてきた。
1969(昭和44)年、16歳のとき高校を中退して流しの世界に。
宿場町として古くから栄えた東京は足立区の下町、北千住には、流しの演歌師たちが泊まる寮があった。そこを根城に「1曲いかがですか」。3曲200円、ギター一本で名曲をしぼり出した。
父も祖父も流しで、母はクラブ歌手。ギターは子どものころから遊び道具だった。
8年の流し生活をへて作曲家遠藤実(えんどうみのる)に師事する。78年の3曲目のシングル「夢追い酒」が転機となった。
《悲しさまぎらす この酒を 誰が名付けた 夢追い酒と》
遠藤が作曲し、作詞は星野栄一(ほしのえいいち)。渥美はいう。「これが売れなければ、歌手をやめようと思っていました」
全国の有線放送に自分の歌をリクエストし、電話代だけで1カ月分の給料が飛んだ。名前を知ってもらおうと、ふだんから「渥美二郎」と縫い取りをしたシャツを着た。新幹線や飛行機の中でも歌詞カードを配った。
人気はじわじわと広がり、79年度の日本レコード大賞ロングセラー賞を受賞する。売り上げ枚数は260万枚。日本の演歌史上、ベスト3に入るヒット作となった。
それにしても、流しの世界から転身して演歌界でいまも活躍しているのは、北島三郎(きたじまさぶろう、76)と渥美の2人ぐらいだろう。渥美は89年、胃がんの手術をし、再起を危ぶまれたこともあった。「でも、負けてたまるかと。歌うから渥美二郎なんです」
昨年10月、デュエット曲を出した。相方は五月(さつき)みどり(73)。「渥美さんって、道ばたの花のよう。踏まれても踏まれても芽を出し、花を咲かせ、実をつけるのです」
◇
その渥美と同じレコード会社に所属し、デビュー45年を迎えた冠二郎(かんむりじろう、63)。「旅の終りに」「炎」などで知られる冠も、どん底を味わった。
埼玉県秩父市出身。作詞家三浦康照(みうらやすてる)に師事し、18歳のときにデビューするが、ヒットに恵まれない。1日の稼ぎといえば、師匠の家の掃除や洗濯、肩もみでもらう千円の駄賃ぐらい。銭湯にいく金もなくてアパートの流し台の上に乗り、ホースで水をかけて体を洗った。「大好きなおはぎを、糸で3等分にして食べていました」
自分のレコードを持って営業に回る。10年間で少なくとも3千軒のスナックを訪ねた。駅の待合室で夜露をしのいだこともある。むなしさ、寂しさを紛らすため、いつしか酒浸りになっていた。
アルコール性肝炎になって救急車で運ばれたことがある。「ああ、これで死ねる。これで楽になれる。もう歌わなくていいんだ。そう思うと、正直ほっとした」
絶望のふちにいた冠を救ったのが、母の言葉だった。
「兄(あん)ちゃん。もうちょっと頑張れ。兄ちゃんには私の血が流れているんだ」
紅白歌合戦出場を目標に、酒を断つことを誓う。ひたすら歌い続けて91年、念願の初出場を果たした。
◇
昨年9月、後輩歌手たちと一緒に九州をキャンペーンで回った。その中の一人、伊藤美裕(いとうみゆ、25)は立命館大卒。テレビ局に就職が内定していたが、オーディションで優勝して一昨年デビューした。「就職活動期は追い立てられる羊みたいな気持ちでした。でもこのままでいいのかと。歌手になる夢は捨てられなかった」
3曲目のシングルは「北国行き 11:50」。愛する人に会うために、長距離列車で北へ向かう歌だ。世代を継いで、演歌という列車が走っていく。(小泉信一)
◆◆演歌よ ❼ 都はるみと生方恵一
★都はるみ=涙の連絡船
◆しょせん道づれ 男と女
中西龍(なかにしりょう)というアナウンサーをご存じだろうか。名前や顔は知らなくても、NHKの名物ラジオ番組「にっぽんのメロディー」(1977~91年)のナレーションを聴いた人は多いのではないか。
歌に思い出が寄り添い
思い出に歌は語りかけ
そのようにして歳月は
静かに流れていきます
自ら考えたせりふを、独特の抑揚で語る。少し太く、強く、そして温かな声。中西のファンだった都(みやこ)はるみ(64)はいう。「『ああ 女心の 涙の連絡船 …… 』なんて風にナレーションをされると、しみじみしましたね」
中西は、斜め上を見て歌うはるみのポーズを評して言った。「劇場にいる歌の神様を仰ぎ見ている」
◇
風狂で型破りな人生だった。NHKに入ったのは1953(昭和28)年。初任地の熊本には、恋仲だった東京・新橋烏森の芸者を連れて赴任した。酒を愛し、地方局を転々として浮名を流した。
「なにやら大変な人がやってくるらしい」。56年、中西が鹿児島から北海道旭川へ異動になった際、新人アナウンサーとして旭川放送局に勤務していた生方恵一(うぶかたけいいち、79)はうわさを耳にした。
「確かに、無頼作家のようでした」。中西からは「言葉の感覚を磨かなければ立派なアナウンサーになれない」といわれた。飲み屋にいても、中西は心に浮かんだ詩をコースターの裏に走り書きする。私淑する生方はそれをノートに清書した。「演歌が嫌いだった私が、のちに演歌の番組をすんなり担当できたのも中西さんの影響が大きい」
独特の語り口は、当時から人気があった。
「高校野球の中継なんか、こんなぐあい。『真っ青に晴れ上がった旭川市営球場。白い雲が右から左にゆっくり流れていきます。あっ、その間にランナー二塁に盗塁成功です』と。放送自体がひとつの詩でした」
中西が東京に転勤になったのは37歳のときだ。大河ドラマ「国盗(と)り物語」や「にっぽんのメロディー」のナレーションで全国区になった。
徳川夢声(とくがわむせい)や森繁久弥(もりしげひさや)の系譜に連なる職人的な技術を持っていた。美空(みそら)ひばりもほれ込み、リサイタルのナレーションを頼んだこともある。名曲「悲しい酒」はこんな風に紹介されたという。
さかずきに
零(こぼ)した涙 飲みほして
ああ 今宵(こよい)も外は
しんしんと冷えています
84年、56歳の誕生日を機に早期退職し、以後はフリーで活動した。「せき、こえ、のどに浅田飴(あめ)」のテレビCMも中西のナレーションだ。98年、病に倒れ、70歳で逝った。
◇
その生涯を評伝小説『当(とう)マイクロフォン』で描いたのが、中西と親交のあったNHK元プロデューサーで作家の三田完(みたかん、56)だ。
「たとえば田中角栄(たなかかくえい)は逮捕され失脚したけれど、あんないい政治家はいなかった、みたいなメンタリティーって日本人にはある。演歌は理でなく情の世界。それがわかっていた中西さんは、己の人生を演歌に近いものに故意に仕立てていったのではないか」
生前、三田が中西の自宅を訪ねると、3畳ほどの書斎に有線放送の端末機があった。「演歌チャンネルをつけっぱなしにして文章を書くのが至福のときだったようです」
2011年、CD「心のナレーション中西龍」が発売された。監修・構成は三田。
泣いて笑って転んで起きる 晴れのち曇り 雨に雪
しょせん道づれ 男と女
回り舞台さ 人生は
この語り。まさに演歌の心である。(小泉信一)
◆◆演歌よ ❽ 竜鉄也=「奥飛騨慕情」
★竜鉄也=奥飛騨慕情
◆あゝ奥飛騨に 情けあり
星空に白い湯煙がとけていく。北アルプスの懐に抱かれた、岐阜県は奥飛騨温泉郷。名曲「奥飛騨慕情」は、この地から生まれた。
《君はいで湯の ネオン花あゝ奥飛騨に 雨が降る》
自ら作詞作曲して歌ったのは、盲目の演歌歌手、竜鉄也(りゅうてつや、本名・田村鉄之助〈たむらてつのすけ〉)。流し時代に訪れた奥飛騨温泉郷で、雨の日に詞と曲が浮かんだという。1980(昭和55)年に全国発売され、250万枚売れた。81年には日本レコード大賞ロングセラー賞を受賞した。
妻美津枝(みつえ、79)は語る。「2人で手を取りあって泣きました。やっと世間に顔向けできる、と」
◇
1936年、奈良県に生まれ、飛騨高山で父と義母に育てられる。病気が原因で視力が落ち、26歳のとき光を失った。独学のアコーディオンを抱え、流しの演歌師になる。
演歌のテーマが「人生の切なさ」にあるなら、竜ほど味わった歌手はいないだろう。
奥飛騨でスナックのママをしていた美津枝と出会ったときは40歳近くになっていた。美津枝は結婚していたが、思いはとめられず、駆け落ちした。その後、県内の郡上八幡(ぐじょうはちまん)で始めた歌謡酒場は、79年に火事で全焼する。
「やっと築いた小さな城でした。『ああ、これで人生おしまいだ。俺はここで死ぬ』と竜は火の中に飛び込んだ。私は引きずるように外に出しました」
だが、転機はそこから訪れる。東京の出版社の社長が新聞記事で火事のことを知り、関心をもって訪れた。お礼に、と竜がアコーディオンで弾き語りで歌ったのが「奥飛騨慕情」だった。
美津枝はいう。
「社長さんが『これはいける!』とテープに録音して東京に持って帰ったら、あれよあれよという間にレコードデビューが決まったんです」
「あの火事で、すべての厄が焼け落ちてしまったのかもしれません。私も覚悟を決めました。どこまでもこの人の心の杖になろう、と」
ヒット歌手となって東京に出てからも、もうけになるショーより、障害者の施設や刑務所を慰問で回ることが多かった。かつて竜と一緒に流しをしていた米子偲(よなごしのぶ、82)はいう。「彼は、心の目で世の中を見ていました」
流し時代のもうひとりの仲間、星健二(ほしけんじ、76)はいまもトレードマークのマドロス帽で高山の夜の街に出る。高校を卒業後、愛知、岡山、四国、富山と渡り歩き、25歳のころ高山にやってきた。
「飛騨の冬は厳しい。暖かい店の中に入ると髪に凍り付いた雪がとけ、ポタポタ流れてくるんです」
◇
2001年、竜はリハーサル中にくも膜下出血で倒れ、05年に美津枝と高山に帰った。病床を離れられないまま10年暮れ、74歳で息を引き取った。
遺品のサングラスをかけて歌うのは弟子の向林利明(むかいばやしとしあき、62)。地元で大工の棟梁(とうりょう)をしていたが、歌手に転身した。「歌は語りだ。人の心に届くように魂をこめて歌え、といわれました」
向林は、竜の遺作となった「俺の人生」を歌う。
《さけて通れぬ いばらの道を 這(は)って転んで 又(また)立ち上がる》
竜はもう一人の弟子、桜美里(さくらみさと)も娘のように可愛がっていた。作曲家の船村徹(ふなむらとおる、80)から「飛騨の美空ひばり」と評された歌声をもつ。地元高山でスナックを経営する傍ら、昨年、竜が生前に作詞・作曲した「炎の女」で全国デビューした。
病床で竜がつぶやいた言葉が忘れられない。「何かほしいものはありますか?」。問いかけに、竜はこたえた。「奥飛騨の水が飲みたい」
その奥飛騨はいま、一面の銀世界。「奥飛騨慕情」の歌碑に雪がしんしんと降り積もっている。(小泉信一)
◆◆演歌よ ❾ 新沼謙治と千昌夫
★新沼謙治=嫁に来ないか
https://m.youtube.com/watch?v=9-bBNdyJ_lU
★千昌夫=北国の春
https://m.youtube.com/watch?v=QehLoO-rn8g
★千昌夫=星影のワルツ
◆君らしく がんばっぺし
「大御所と呼ばれる方々を頂点にピラミッドがあったら、俺はその横の空き地に生えてるペンペン草だよ」
新沼謙治(にいぬまけんじ、56)は、雑誌のインタビューでこんなふうにいったことがある。
オーディション番組「スター誕生!」に合格し、1976(昭和51)年、「おもいで岬」でデビューした。当時19歳。作詞した阿久悠(あくゆう)から「君らしく生きなさい」といわれ、その言葉を胸に刻んできた。
「嫁に来ないか」「津軽恋女」とヒットを飛ばしても偉ぶらず、東北なまりが残る素朴な歌いぶりは変わらなかった。
その新沼から笑顔が消えた。2011年3月11日。海は魔物と化し、故郷の岩手県大船渡市をのみこんだ。
多くの芸能人がボランティアとして被災地にかけつけた。しかし、新沼は東京から離れなかった。「おまえ、何してるんだ。なぜこないんだ」。実家の80歳の母は電話口で怒った。
理由があった。妻博江(ひろえ)のがんが再発し、入院していることを母に打ち明けた。
「まいったよ、おふくろ …… ってね」
4月に入って初めて車で現地に入った。夜、明かりはどこにもなく、何も見えない。カーナビが「この先に踏切があります」とアナウンスするが、線路も列車も津波に流されていた。
「現実を思い知らされた。ほんとうに悲しかった」
私のことはいいから。博江の言葉に背中を押され、各地で震災支援のチャリティー公演を続けた。
9月7日、東北での公演の日に、博江の容体は急変した。新沼を乗せた新幹線が東京駅に着いたのは夜11時半ごろ。最期をみとることはできなかった。
◇
博江は、かつてバドミントンの世界女王だった。現役引退後、競技の普及活動を通じて新沼と知り合い、86年に結婚。式は大船渡のホテルで挙げた。
「ふるさとに帰ると、女房と結婚したときのことを思い出すんです。商店街に『謙治さん、博江さん、おめでとう』という横断幕があってね。幼稚園の子どもたちもみんな手を振ってくれてね」
昨年11月、母校の大船渡市立第一中学校を訪ね、創立50周年記念式典で講演した。演題は「望みを捨てるな!」。
「ファンの方からこんな言葉をもらったんです。『奥さんの分まで頑張ってね。応援しているわよ』って」
そのあと、新曲を発表した。題名は「ふるさとは今もかわらず」。作詞・作曲は新沼本人が手がけた。バックコーラスを大船渡、東京、長崎の子どもたちがつとめる。
《緑豊かなふるさと 花も鳥も歌うよ 君も 僕も あなたも ここで生まれた》
◇
新沼は今年も、先輩の千昌夫(せんまさお、65)と一緒に支援コンサートを続ける。小さな町や村にも足を運ぶ。
「千さんとのコンサートは、1+1=2ではなくて5ぐらいのパワーがある」
千の故郷、岩手県陸前高田市も大きな被害を受け、千は友人を失った。
海岸線に奇跡的に残った松をテーマにした「いっぽんの松」(作詞喜多條忠〈きたじょうまこと〉、作曲船村徹〈ふなむらとおる〉)を千は高らかに歌う。
「演歌は人生の応援歌。東北がんばっぺし、の思いをこめて俺は歌い続ける」
復興支援のコンサートの締めくくりは「北国の春」(作詞いではく、作曲遠藤実〈えんどうみのる〉)である。
《白樺(しらかば) 青空 南風 こぶし咲く あの丘 北国の ああ 北国の春》
《あの故郷(ふるさと)へ帰ろかな 帰ろかな》
希望の歌声が会場をつつみこむ。うれしいときも、つらいときも、歌は身近にある。2013年。三陸の海の波間に陽光がきらめいていた。(小泉信一)
🔴憲法とたたかいのブログトップ
憲法とたたかいのblogトップ