1949年の3つの謀略事件=下山・三鷹・松川事件

◆◆1949年の3つの謀略事件=下山・三鷹・松川事件

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【このページの目次】

3事件リンク集と映画紹介

Wiki=国鉄三大ミステリー事件

◆下山事件=小学館百科全書・昭和史探訪

◆三鷹事件=小学館百科全書・高見=再審請求

◆松川事件=小学館百科全書

◆前坂俊之=1949(昭和24)年とはどんな時代だったのか

◆古屋哲夫=松川事件に至る反共意識の動員について

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🔵下山・三鷹・松川事件3事件リンク集

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4978月の3つの謀略事件=下山事件7/5・三鷹事件7/15・松川事件8/17が戦後史、戦後労働運動史に与えた影響は極めて大きい。

詳細はWiki=下山事件、三鷹事件、松川事件参照のこと。

◆◆当ブログ=731部隊と帝銀事件

http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2859970.html

(「日本の黒い霧」=戦後の謀略事件は、帝銀事件に始まった)

★★映画=終戦のエンペラー・マッカーサー.

★日本の復興途上・昭和23―25年40m

https://m.youtube.com/watch?v=p-It8JEwXdE

★★下山事件とは(「ビーパップハイヒール」) 14m

★★映画=謀殺・下山事件1-2(熊井啓監督)70m

★★映画=謀殺・下山事件2-2

(熊井啓監督)

【「謀殺下山事件」あらすじ=ムービーウォーカー】

昭和247月、敗戦後の騒然とした雰囲気の中で労働運動は大きく高揚していた。昭和日報の社会部記者・矢代は、上野に集結するシベリヤからの復員兵たちの集会を取材していたが、その時、下山国鉄総裁の行方不明を知らされた。翌朝、下山の死体が発見されると、政府はいち早く他殺説に近い立場をとり、各新聞の主張も自殺説と他殺説に分かれた。この中で昭和日報は、他殺の線ですすめるべく、矢代に東大法医学研究室を取材させた。矢代は遺体解剖を行なった和島博士の「死体轢断の鑑定は絶対に間違いない」という言葉で他殺説に自信を持つが、一方、事件現場近くで下山の姿を見たという証言者が現われたり、東大鑑定に対する慶応の異論も出て、自殺説がクローズアップされてきた。しかし矢代は他殺の臭いを執拗に追い続け、東大研究室に通い続けるうちに、轢断現場近くに、大山の死体を運んだ時についたと思われる血痕を自らの手で発見する。この発見と前後して無人電車の暴走という「三鷹事件」が発生。追求の手をゆるめず走る矢代の背後に黒い妨害の手が現われ、ホームから突き落とされ、電車に轢かれそうになる。彼は検察の要請で特別研究生として身分を拘束されることになった。事件から一ヵ月後、警視庁が自殺を発表することになったが、突然、その発表は中止された。その二週間後、何者かによってレールがはずされ列車が転覆するという「松川事件」が起こり、政府はこれを利用し、労働組合、左翼への弾圧を一層強めた。捜査陣は遺体についた油や色素の鑑定と出所究明に走りまわり、矢代もまた若い刑事・大島と身をすりへらし地道な捜査にあたった。とこが、年の瀬もつまったある日、人事異動を名目に中心メンバーがはずされ、捜査本部は解散した。しかし矢代はあきらめなかった。大島とともに、下山を誘拐した三人のメンバーの一人という男・堀内から矢代あてに送られた表紙の真偽を確認するために北海道まで飛んだこともあった。五年、十年と時間が走り過ぎていった。そんな時、死体を現場で運んだらしいという男・丸山の存在を知った。矢代と大島は丸山に執拗に食い下がり、ついに事件当日の模様を自白させた。しかし、その内容には矢代たちが調査した事との食い違いがあり、全面的に信ずることはできなかった。そんなある日、丸山は駅のホームから転落死してしまった。事故死なのか、誰かに突き落とされたのか……。矢代は丸山の遺体の前で、得体の知れぬどす黒いものに対する激しい怒りがこみあげてくるのだった。

◆◆7407松本清張=日本の黒い霧㊦帝銀事件・鹿地・松川・レッドパージ.pdf

🔴★戦後最大の謀略事件=下山事件15m

🔴★★三鷹事件

★★TBS三鷹事件 61年目の死後再審請求32m

三鷹事件

★★検証 三鷹事件 200919m

または

★★三鷹事件とは=ナレーション:水無月 13m

★三鷹事件とは5m

https://m.youtube.com/watch?v=Jj7oCAEpEbY

★★三鷹事件の冤罪を問う

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kempou7408&prgid=60397315

🔷🔷「三鷹事件」再審認めず 新証拠を否定 東京高裁 朝日新聞201981

 東京の旧国鉄・三鷹駅で1949年、無人の電車が暴走して6人が死亡した「三鷹事件」で、東京高裁(後藤真理子裁判長)は31日、電車転覆致死罪で死刑が確定した竹内景助・元死刑囚=45歳で獄死=の裁判のやり直しを認めない決定を出した。元死刑囚の長男(76)が2011年に再審請求をしていたが、高裁は「確定判決に合理的な疑いを抱かせる新証拠はない」と判断した。

 確定判決によると、国鉄で運転士や検査係を務めた竹内元死刑囚は49年7月15日夜、三鷹駅の車庫から電車(7両)を発進。1両目の運転席から飛び降りた後、暴走・脱線した電車が6人をはねて死亡させた。竹内元死刑囚はいったん自白したものの、途中から無罪を主張していた。

 弁護団は再審請求で「1、2両目のパンタグラフは構造上、別人が上げた」などとする鉄道工学者の鑑定をもとに「自白通りの単独犯行は不可能で、複数の犯人が複数の車両で操作した」と主張した。しかし、高裁は2両目のパンタグラフは「事故の衝撃で上昇したと理解するのが自然だ」と指摘し、複数犯説を退けた。現場近くで竹内元死刑囚を見たという目撃証言の不自然さを指摘する鑑定についても、「外灯の当たり方などを十分踏まえていない」と信用性を否定した。

 事件当時、政府は連合国軍総司令部(GHQ)の意向を受け、戦後の復員で増えた国鉄職員らの大量解雇に踏み切っていた。警察は労働組合を率いる共産党員が主導した犯行とみて調べ、党員9人と非党員の竹内元死刑囚の計10人が逮捕・起訴されたが、党員9人は無罪になった。竹内元死刑囚は東京地裁で無期懲役、東京高裁で死刑となり、最高裁は55年、8対7の僅差(きんさ)で上告を棄却した。

 同じ49年夏には下山定則・国鉄総裁が列車にひかれた状態で見つかった「下山事件」、福島県で乗務員3人が死亡した脱線事故「松川事件」も起き、三鷹事件と合わせて「国鉄三大ミステリー」と呼ばれる。(阿部峻介)

 長男「おやじ、犯人じゃない」

 「そんなのない。おやじは犯人じゃない」。弁護団によると、三鷹事件で再審請求をした竹内元死刑囚の長男、竹内健一郎さん(76)は「棄却決定」を聞いて憤ったという。決定後の会見で高見沢昭治弁護士は「70年前だからといって、冤罪(えんざい)事件をこのまま終わらせてはいけない」と話し、高裁に異議申し立てする方針を明らかにした。

 元東京高裁判事の木谷明弁護士は「歴史や時間の経過からすれば、再審を認めることに対し、相当な重圧があっただろう」と語る。「それでも、鉄道工学者の証人尋問を認めるなど、もっと真相解明に努めるべきだった」と求めた。

🔷🔷三鷹事件再審認めず 赤旗19.08.01

🔷🔷三鷹事件70年 赤旗19.03.18-19


🔵ETV特集 シリーズ1949  第二回 松川事件 1999.7.2844m

 http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=62136272&cate=06

🔵 ETV特集 シリーズ1949  第一回 三鷹事件 1999.7.2744m

 http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=62136269&cate=06

🔴★松川事件とは

🔷🔷戦後最大の冤罪 福島・松川事件70年 元被告「自白頼み脱却を」 東京新聞19.08.15

1949年8月、東北線の金谷川-松川間で起きた列車転覆現場

 福島市松川町で起きた列車転覆を巡り、被告二十人全員が最終的に無罪となった戦後最大の冤罪(えんざい)事件といわれる松川事件が十七日で七十年を迎えた。無罪確定まで十四年間の法廷闘争を経験した阿部市次(いちじ)さん(95)=福島市=は「検察や裁判官が自白を『証拠の王』とする限り、冤罪はなくならない」と自白に依存した捜査からの脱却を訴えた。

 一九四九年八月十七日未明、東北線の線路が外され列車が転覆し、乗務員三人が死亡した。一人の「自白」をきっかけに国鉄の組合員ら計二十人が逮捕され、福島地裁は全員に死刑を含む有罪判決を下した。その後、事件の謀議を行ったとされる同時刻帯に被告が団体交渉に参加していたことを示す会議メモを検察が隠蔽(いんぺい)していたことが判明。アリバイが証明され、六一年に仙台高裁差し戻し審で全員無罪となった。

 一審判決後、公正な裁判を求める運動が全国に拡大。市民の力が冤罪救済に寄与した先駆的な事例となった。

 「無実と知りながら時の権力に迎合して(司法が)有罪を求めることの不当さ」を世に伝えることこそが、今も事件を語る意義だと、七十年を迎えるに当たり公表した談話で阿部さんは記した。

 二十人で存命するのは阿部さんともう一人だけ。阿部さんはこれまで冤罪がもたらす被害を訴えるため、講演会などで獄中での思いを語ってきた。

 事件の約一カ月後に連行された阿部さんは「何もやっていない」と聴取や公判で繰り返したが、一審判決は死刑。刑務所から週刊誌に冤罪を訴える手紙を送っても、大部分がそのまま戻ってきた。「世間は私たちが犯人だと信じている」と悲しみが募ったという。「大事な青壮年期を奪われた」。阿部さんは談話で悔しさをにじませた。

◆世界記憶遺産に再申請へ 支援運動 社会に影響

 事件では一審の有罪判決が出た後、公正な裁判を求める署名運動が全国に広がり、その後の冤罪事件の支援運動に影響を与えた。同事件の資料室を設けている福島大(福島市)などが裁判記録の保存や収集活動を継続。福島大や関係者は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」(世界記憶遺産)への資料の登録を目指している。資料室は獄中の被告と支援者らの往復書簡など約十万点を保管。室長を務める初沢敏生(としお)教授(57)は八月上旬「当時の紙は酸性が強く、劣化が進んでいる」と、黄ばんだはがきを手にしながら説明した。

 資料室は今年から保存体制を強化し、劣化防止のための処理を業者に依頼。被告のアリバイを証明し、無罪判決を獲得する鍵となった会議メモも傷みがひどく、優先的に処理した。だが予算に限りがあり、全てに同様の手当てをするのは難しい。

 資料収集に協力してきたNPO法人「福島県松川運動記念会」は昨年、福島地検が保管する事件の記録を閲覧し、供述調書などを写真に収めた。吉田吉光事務局長(72)は「再発防止の観点から、専門家に分析してもらう必要がある」と話す。

 福島大は記念会などと連携し、二〇一七年にユネスコの国内委員会に記憶遺産登録に向けた申請をしたが、推薦は見送られた。記憶遺産の新規審査は二〇年以降となる見通しで再申請する意向だ。

 吉田さんは、松川事件が「(無実の)被告を守る組織をつくり、真実を多くの人に知らせるのが大切だと証明した」として、資料の貴重さを訴えている。

<松川事件> 「下山事件」「三鷹事件」と並び、連合国軍総司令部(GHQ)占領下の1949年夏に起きた国鉄に絡む三大事件の一つ。GHQや政府が推進する人員整理を巡り、国鉄と労働組合の間で緊張が高まる中、国労と東芝労組の組合員計20人が汽車転覆致死などの容疑で逮捕、起訴された。当時、東芝でも労働争議があった。福島地裁は50年、5人の死刑

🔷🔷松川事件70年「諏訪メモ」スクープの元記者・倉嶋さん「冤罪終わらせて」 毎日新聞19.08.17

取材した写真や記事に見入る倉嶋康さん=神奈川県相模原市の自宅で2019815日午後248分、柿沼秀行撮影

 「例のメモ、検察に?」「あるよ」。福島地検の検事正は明快に答えた――。戦後最大の「冤罪(えんざい)事件」とされる松川事件。当時、毎日新聞福島支局の記者だった倉嶋康さん(86)=相模原市=は、死刑を宣告された元被告のアリバイを証明する「諏訪メモ」の所在をスクープし、逆転無罪のきっかけをつくった。事件は17日で発生から70年を迎える。「終わった出来事ではない。それぞれの立場の人が、情熱をもって仕事と向き合い、冤罪を繰り返さないでほしい」と訴える。【柿沼秀行】

 事件は1949817日未明に発生。福島市松川町の東北線でレールが外されて列車が脱線・転覆し、3人が死亡した。旧国鉄労組の組合員ら20人が逮捕された。裁判で検察側は、被告らが人員整理への不満から、共謀して列車を転覆させたと主張。1審で5人が死刑、5人が無期懲役など全員が有罪判決を受けた。

 倉嶋さんが福島支局の新人記者として赴任したのは55年。事件は2審で3人が無罪となり、死刑4人を含む17人が有罪とされ、裁判の舞台が最高裁に移っていたころだ。

 下宿近くの銭湯で、無罪となった元被告とよく顔を合わせていた倉嶋さん。ある日、背中を流し合っていると、ぼそっと「(死刑判決を受けた)1人の無罪が立証されるかも」と言われた。列車転覆を計画した「謀議」をしたとされる時刻、別の場所で団体交渉(団交)に出席していたことを示すメモが存在するという。後に記録者の名前から「諏訪メモ」と呼ばれるようになる。

 その後、朝日新聞などがその存在を報じたが所在は不明で、実在するのか分からなかった。倉嶋さんは弁護士や福島地検を回り、所在を追い続けた。

 地検を張っていた時のこと。郡山支部長が車で出て行くのを見た。親しい事務官に聞くと「例の件さ」と言う。確信した倉嶋さんは検事正の部屋に駆け込み「今帰った支部長、団交記録の件で?」と切り込んだ。検事正はその気迫に押されてか「そうだ」との返事。「記録は今、検察に?」とたたみかけると、正直に「あるよ」と答えた。メモは大学ノートに鉛筆書きで34ページほどという情報もくれた。

やはり検察が隠していたのだ――。地検を出た倉嶋さんは自転車で支局に帰った。その日のうちに書いた記事は57629日付の毎日新聞福島版に「『諏訪メモ』発見さる/検事が保管/松川事件、被告のアリバイ立証か」と大きく載った。

 反響は大きく、国会でも取り上げられるなどし、ついに最高裁に新証拠として提出された。検察側の主張は次々と崩され、検察のシナリオに符合するように自白を強要された冤罪成立の過程が明らかにされていった。最高裁は仙台高裁への差し戻しを命じ、高裁は618月、全員を無罪とし、63年に最高裁で確定した。

 警察・検察の取り調べを巡っては今年6月、裁判員裁判対象事件などでの録音・録画(可視化)を義務づける改正刑事訴訟法が施行された。街中には防犯カメラも普及し、容疑者の検挙に貢献している。

 ただ、倉嶋さんは「機械任せにしていると、人の心理を心得ない捜査官が出てくる。容疑者と平板に向き合っていると、大事なことを見逃し、冤罪が生まれる可能性がある」と心配する。さらに「弁護士もマスコミも行儀よくなった。でも、もっと正義感や信念をもって誠実に仕事に向き合っていいと思う」。なんとなくで済ませる。その空隙(くうげき)にこそ、冤罪の温床があると指摘する。

🔷🔷松川事件70年 赤旗19.04.30-05.01

★★映画=「松川事件」170m

山本薩夫が監督。新藤兼人・山形雄策が共同で脚本。製作資金4500万円はカンパによって調達された。東北本線金谷川駅と松川駅間で上り旅客列車の脱線転覆事件が49817日に起きた。1か月後本間刑事によって19歳のチンピラ青年赤間勝美にたいする激しい取調べが始まった。否認を続ける赤間に、警察官、検察官によってあらかじめ用意されたウソの供述書を筋書通りに作らされた。こうしての国鉄労組から10名、東芝労組から10名が次々と逮捕された。その年の125日、福島地方裁判所で第1回公判が開かれた。赤間は冒頭から警察での自白をひるがえし、無実を主張した。昭和25126日、死刑5名、無期懲役5名、残る10名に長期刑という判決。裁判は被告たちの考えたほど甘いものではなかった。昭和281222日、仙台高等裁判所における第2審判決の日がきた。3名をのぞいて全員有罪。判決文というより、検事の最終論告そのものだった。裁告たち、弁護人団は怒りにふるえた。佐藤一被告がトラックの上に立ち、被告団声明を読みあげた。拍手が起り、「真実の勝利のために」の歌声が起った。

★★映画=「ニッポン泥棒物語」120m

山本薩夫監督。主演・三国連太郎

松川事件の1960916日の第18回差し戻し審公判(仙台高等裁判所)に実際に­弁護側証人として出廷し、事件当日に事件現場付近で「九人の男と出会った」との目撃談­を語った元窃盗犯2名の証言と事件の史実に基づいて構成されたコメディ仕立てのフィク­ションである。原作となる文献は特に示されていないが、事件に関わる証言のほとんどは­19648月に当時の労働旬報社から刊行された松川事件対策協議会・松川運動史編­纂委員会編「松川十五年 真実の勝利のために」に記述されており、製作当時に確認されていた目撃談はほぼ忠実に­映画に再現されている。

【あらすじ=ムービーウォーカー】

窃盗、強盗、置き引き、泥棒の種類も多い中で、林田義助はそのトップクラスの破蔵師である。狙いをつけた家を詳細に調べあげた末、土蔵に穴を開けて品物をリレーで運び出すと、ずや師と呼ばれる盗品買いの処へもってゆき現金に代えるのだ。義助が前科四犯の破蔵師になったのは歯科医の父が死んだあと、母や幼い弟妹を養うため、歯科医を継ぐが、戦争で薬が手に入らず、この商売に入ったのがきっかけだった。こんな義助がある時仲間たちと温泉に遊びにゆき、芸者桃子に認められ世帯をもつことになった。里帰りする桃子に、手土産をと、盗品を渡したのが、義助にケチをつけ、苦手の安東刑事につかまって拘置所ゆきとなった。ここで自転車泥棒庫吉のもとに弟子入りした義助は、保釈になると庫吉と呉服屋に忍びこみ、巡回中の消防団に追われる破目となった。線路づたいに逃げた義助は、その夜九人の大男とすれちがった。その夜明けのこと、大音響と共に杉山駅で列車転覆事件が起った。桃子に訴えられて刑務所に行った義助は、杉山駅列車転覆事件の犯人だという三人の男に会った。だがその中には小男と足の不自由な男がいた。無実を訴える三人の男を見て、義助はあの夜会った九人の男が犯人ではないかと、不蕃を抱いた。やがて、堅気になる決心で出所した義助は、ダム工事場で働くと共に、はなと結婚し、子供も生れた。平和な生活の中で、義助は前科を隠すことに苦心した。だが、昔の仲間の弟であの事件で国鉄を馘となった健二が、弁護士藤本を同伴で、杉山事件の目撃者として証人になって欲しいと訪ねて来た。義助は、安東刑事からあの犯行は三人でやったと言わなければ、はなに前科をばらすと脅かされていた。自分の生活を守るため、藤本らの話をけった義助だが、無実の三人が十年の刑を終えたのを聞くと、決心をして、東北高等裁判所へとんだ。あの晩の見たままを語る義助に、安東刑事は、彼の前科をあばいたが、傍聴席から、目顔で応援するはなを見た時、義助は堂々と証言し、裁判官は、義助の証言を全面的にとりあげた。

◆松川事件資料記憶遺産に

(赤旗17.03.26

◆塩田庄兵衛=松川運動の歴史的意義

PDF29p

クリックして60004_25.pdfにアクセス

◆「松川15年」(旬報社デジタライブラリー)

◆「松川運動全史」(旬報社デジタライブラリー)

(第1章は、49年の松川事件などの背景となる情勢を詳しく展開)

◆松川事件無罪確定50周年、世界記憶遺産に

(赤旗16.09.14

◆◆国鉄を舞台にした3つの謀略事件

(赤旗16.10.18

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🔵Wiki=国鉄三大ミステリー事件

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国鉄三大ミステリー事件(こくてつさんだいミステリーじけん)とは、連合国軍占領下の日本において1949年(昭和24年)の夏に相次いで発生した、日本国有鉄道にまつわる真相に謎が残る三つの事件のこと。

◆三大事件

以下の三大事件のことをいう。

他にも当時の国鉄では松川事件と類似した列車脱線事件として以下の事件が発生した。いずれも未解決。

◆背景

1949年(昭和24年)、中国大陸では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線を境に共産政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換した(逆コース)。まずは高インフレにあえぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年61日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した日本国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。

同年123日に実施された戦後3回目の第24回衆議院議員総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進。共産党系の全日本産業別労働組合会議(産別会議)や国鉄労働組合もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と人民政府樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の74日には、3万人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた。

◆捜査と裁判

国鉄が人員整理を起こそうとしていたことから、人員整理に反対する国鉄労組による犯行という観点から捜査が進められた。

下山事件では下山総裁が自殺なのか他殺なのかが争点になった。死体が生体轢断(自殺の根拠)か死後轢断(他殺の根拠)かで大きな争点となった。捜査一課は自殺説を主張、警視庁捜査二課が他殺説を主張した。最終的には他殺説及び自殺説について公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。

三鷹事件では国鉄労働組合員11人が起訴された。裁判では10人の共産党員に無罪判決が出て1人の非共産党員に死刑判決が確定した。

松川事件では国鉄労働組合員10人と東芝松川工場(現・北芝電機)労働組合員10人の計20人が起訴された。裁判ではアリバイが成立して全員の無罪判決が確定した。

これらの三事件では、「GHQが事件を起こし国鉄労組や共産党に罪をなすりつけて、人員整理をしやすくした」とする陰謀論が存在する。1人の有罪が確定した三鷹事件もアリバイの存在や供述の変遷などから、冤罪疑惑が指摘されており、獄死した元死刑囚の家族により再審申し立てがされている。

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🔵下山事件

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小学館(百科)

1949年(昭和2475日、国鉄初代総裁下山定則(さだのり)(同年61日就任)が行方不明となり、翌6日常磐(じょうばん)線綾瀬(あやせ)駅付近で轢死(れきし)体となって発見された事件。死因をめぐり自殺説、他殺説が捜査当局、ジャーナリズム、法医学界それぞれを二分するという前例のない事態となった。半年後、警視庁は自他殺を明言しないまま捜査本部を閉じ、真相は謎(なぞ)に包まれたまま64年の時効成立で迷宮入りとなった。事件に関する各種資料のほとんどはなお未公表である。

 当時ドッジ・ラインの一つの柱として行政機関職員定員法による人員整理(定員3割減)が予定されており、国鉄95000人の首切りは、官公労組織の中核、国鉄労組との対決という点でも、一連の整理の最大の山であった。事件は、ストを含む実力行使の方針を決定していた国鉄労組の反対闘争の出鼻をくじき、さらに民間側の人員整理にも大きな影響を与えた。三鷹(みたか)、松川両事件と並び戦後史の大きな転機をつくった事件である。

[荒川章二] 

◆◆下山事件(昭和史再訪

昭和24年(1949年)7月5日 国鉄総裁の死、黒い霧の残像

 電車の刻むレール音が上から降ってくる。東京都足立区西綾瀬のJR常磐線高架沿いの道路から、レールは金網の柵と遮音壁に遮られ、近づくことも望むこともできない。

 1949(昭和24)年7月5日朝、東京・日本橋の三越本店に入ったあと、行方が分からなくなっていた国鉄の下山定則総裁(当時49)が翌6日未明、この場所で、バラバラになった轢死遺体(れきしいたい)でみつかった。当時は柵や壁がなく、周りは田んぼや湿地だった。

 この年、国鉄は運輸省から分離、公共企業体への移行に伴って9万5000人の解雇が計画され、大屋晋三運輸相や下山総裁らが事件直前の7月1日、国労に通告。国労中央執行委員だった斎藤喜作さん(89)は通告をおこなう大屋運輸相の隣で鉛筆を2本握りうつむく総裁の姿を鮮明に記憶する。「追い込まれ、深刻に考えている様子でした」

 不明になる前日の4日、国鉄は第1次3万700人の解雇を発表。斎藤さんは「撤回を求めるストを計画したが、衝撃的な総裁の死によって、世間の耳目は国労組合員に集まり、ストを決行する意志は打ち砕かれた」とふり返る。

 下山総裁の死は、他殺か、自殺か――。事件直後から、法医学会、新聞界に対立する意見が起きた。朝日、読売は「他殺説」、毎日は「自殺説」を展開。警視庁の捜査本部にも両説があったとされるが、事件から1カ月後、「自、他殺いずれとも決定はできない」と発表した。

 11年後の60年、作家松本清張は雑誌「文芸春秋」で連載「日本の黒い霧」を開始。その1回目に「下山国鉄総裁謀殺論」を取り上げ、総裁は連合国軍総司令部(GHQ)と関連する米国の謀略機関によって殺害されたと推理した。

 清張の推理と自身の体験から出発して、作家の柴田哲孝さん(55)は2005年、「下山事件 最後の証言」を著した。体験とは、祖父の妹から「下山事件をやったのは、もしかしたら、(亡くなった)兄さんかも知れない」と打ち明けられたことだ。

 「最後の証言」は、事件と打ち明け話が結びつくのか、調べる過程が描かれている。GHQとつながりがある祖父と日本軍の特務機関の人脈が事件に関与したことを明かした。首謀者は「国鉄を取り巻く利権構造」にかかわる人物と推測する。柴田さんは「身内に関係者がいなければ、明らかにならなかった」。

 一方、捜査資料の検討や取材を通じ他殺論を批判、著書「下山事件全研究」で総裁の自殺を唱えたのは佐藤一さんだ。事件の1カ月後に列車が転覆した「松川事件」の一、二審で死刑判決を受け、差し戻し審で最高裁が検察の上告を棄却、無罪となった人だ。2009年に亡くなった。

 佐藤さんの知人で著述業の天野恵一さん(65)は「死刑判決を受けた経験から、事実が無視され人権が踏みにじられることに敏感だった。事実に誠実に向き合い『自殺』という結論に至った」と語る。

 東京経済大の桜井哲夫教授(63)=社会学・社会史=は「松本清張が下山謀殺論の基盤をつくり、ノンフィクションライターたちが後を追った」と語る。清張が執筆したころに比べ、米国の公文書公開によって、占領期、米中央情報局(CIA)と日本の政治とのつながりは明確になった。「下山事件から60年以上すぎても、日本の政治、経済にはアメリカの影がついてまわっている」。一方、自殺論も根強い。桜井教授は「事件の謎が、事件を解き明かそうとする情熱を生んだ」とみる。(平出義明)

他殺か自殺か、鑑定結果巡って対立

 下山総裁の死因は東京大医学部で鑑定がおこなわれた。東京大医学部の古畑種基教授らは下腹部などにわずかに内出血が見られるが、遺体のほとんどの傷は生活反応がなく「死後轢断(れきだん)」と断定した。一方、慶応大医学部の中館久平教授は手足の甲にある表皮剥離(はくり)していない皮下出血が「轢死体特有」と反論した。両教授らは、事件から約2カ月後の衆院法務委員会などで、真っ向から対立した。

 64年7月5日、事件は時効となった。直後に、南原繁・元東大総長、桑原武夫・京大教授、松本清張ら知識人11人が「下山事件研究会」を結成した。調査成果は書籍「資料・下山事件」にまとめ、刊行された。

 ◇資料不足、松本清張の頃も今も ドキュメンタリー映像「日本の黒い霧」のシナリオを書いた近現代史家・藤井忠俊さん(82歳)

 下山事件が起きた時、旧制山口高校の学生だった。山口市には連合国軍総司令部(GHQ)の対敵諜報(ちょうほう)部隊(CIC)が常駐。学生が左翼運動にかかわらないように目を光らせていた。事件は「GHQが関係している」と直感的に感じた。直後に三鷹事件、松川事件と続き、当時の多くの人と同じように、下山事件とつながりがあると考えた。

 2000年ごろ、私の妻康栄が館長を務める北九州市立松本清張記念館で、「下山国鉄総裁謀殺論」を含む松本清張の「日本の黒い霧」のドキュメンタリー製作の話が持ち上がった。茨城大などで現代史を教えていたことから、シナリオを書くことになった。

 映像では客観的であることに努め、自殺論に触れた上で、清張の推理した他殺論を紹介した。清張が集めることが出来なかった米国の資料は公開されている一部を入手。GHQも事件当初は「他殺」と考えていたことが分かったが、どのような結論に至ったかの資料は得られなかった。

 事件を調べるうちに、なぜ、総裁は死亡したのか、真相を知ろうとする「下山病」になる気持ちがわかった。日本の戦後史はGHQの占領期に言論統制がおこなわれ、データが不足し空白になっている。清張の「謀殺論」から半世紀が過ぎ、清張が限界を感じたであろう状況とそう変わっていないこと自体、驚きだ。

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🔵三鷹事件

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小学館(百科)

1949年(昭和24715日午後9時過ぎ、国鉄の中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、死者6人(一審判決)ほか重軽傷者を出した事件。これに先だつ712日、国鉄当局は約63000人の第二次人員整理のため解雇通告を始めたが、715日の国鉄労組中闘委員会は反対運動をめぐって統一左派と民同派が対立、分裂状態に陥っていた。事件はこの夜起こり、翌日吉田茂首相は、一部の組合や共産党が社会不安を挑発、扇動していると断じた。捜査当局も、共産党の国鉄労組関係者が反対闘争を盛り上げるために行った犯行と断定、三鷹電車区分会員など10人を「電車往来危険、同転覆、同致死罪」で起訴した。分会員9人はすべて解雇者であり、竹内景助以外は共産党員であった。下山(しもやま)事件に続くこの事件は、国労の反対闘争に大打撃を与え、国労中央委員会がストを含む実力行使の方針を撤回する一方で、解雇は順調に進んだ。

 公判では、被告らの共同謀議に基づき列車暴走、転覆をねらった犯行か否かが争点となったが、1950811日の一審(東京地裁)は、共同謀議は実体のない「空中楼閣である」として、単独犯行を主張した竹内被告を無期懲役にしたほか、他の9被告には無罪を宣告した。ついで51330日の二審も、共同謀議は証明不十分として一審を支持したが、竹内には死刑を言い渡した。55622日、最高裁は87という僅差(きんさ)の多数決で上告棄却、刑が確定した。竹内被告は上告審前後から無実を主張し、棄却後も再審を請求していたが、再審決定審理中の671月病死した。なお、最高裁が口頭弁論を開かず判決を言い渡したことが、学界・法曹界で問題化し、以後最高裁における死刑事件審理では口頭弁論を開く慣行が生まれた。

[荒川章二] 

🔵「三鷹事件」の再審開始(『創』2012年1月号より)=高見澤弁護士

背景として考えるべき当時の占領政策

――この事件は、三大謀略事件のひとつと言われるように、当時の社会的状況を抜きには考えられないわけですね。

【高見澤】当時の占領政策のもとで、国鉄というのがどういう立場にあったかですね。それを考えないと、この事件の真相は理解できないと思います。

 最近、当時のことを覚えている人に話を聞いたのですが、国鉄の運行について、当時は占領軍が掌握していたことを重視する必要があると言われました。

 事件の起きた1949年は、中国では共産党政府ができ、朝鮮戦争はいつ勃発するかわからないという状況ですから、日本を占領していた連合軍としては国鉄がストライキで止まるようなことがあっては全体の作戦行動に影響する。労働組合がストライキを起こすなどして、そういうことが絶対に起らないようにと考えていたことは間違いありません。ところが、その年の総選挙で共産党が4議席から35議席に大躍進しており、日本政府も共産党を何とか非合法化して、押さえ込みたいという意図があったと思います。

 それが端的に現れているのが事件翌日7月16日の朝刊に載った吉田茂首相の声明文です。待ってましたとばかりに事件の背後に共産党や労働組合がいるように匂わせたすごい内容の文章です。

 この事件が謀略事件であることは間違いないのですが、そのあたりの真相については、今でも闇に葬られたままです。再審ではそういうことは論点にはなりませんが、再審請求書では背景として簡単に触れました。

 例えば、事件当時、共産党が暴走事故を起こすというような、共産党の秘密指令のような形をとった怪文書、怪情報が出回っており、それも裁判所に証拠として提出されています。

 それから警察内部では、事件直前に三鷹駅で事故が起きるという電話連絡が来ています。さらに、事故の直前に三鷹駅脇にジープが止まっていたとか、事故直後にMPが来て見物人を追い出し、日本側の捜査に待ったをかけたとか、証拠がありますので、そういうことも再審請求書に書いておきました。

 そうした状況からしても、竹内景助さんが思いつきで、単独でできるような犯罪ではない。組織的な何かが動いて、この事件は起こったんだということを知ってもらう必要があると思ったのです。下山、三鷹、松川と三大謀略事件とよく言われるのですが、冤罪であることを明らかにするためには、そうした社会状況や時代背景を、裁判所も正確に理解する必要があるだろうと思います。

 竹内景助さんの無実を法的に明らかにするというのが再審の直接の目的ですが、できれば戦後の、闇に葬られている、占領下の司法の誤り、これも明らかにしたいと思っています。

――隠されている証拠が開示されると歴史的な意義もありますね。

【高見澤】竹内さんの生前に再審が開始されていたら、さらに新しい証拠が出てくる可能性もあったと思います。

 例えば、列車を長い時間止める時にはエアブレーキだけだと抜けてしまうから手ブレーキをかけておかなければならないと言われています。ですから列車を暴走させるためには、誰かが最後部の運転席の手ブレーキをはずしたのではないかという疑いがあり、当時の構内運転手用のマニュアルを探しています。ところが、あちこちに問い合わせをしたのですが、そういうマニュアルなどを含めて、国鉄からJRに移ったときに膨大な資料が処分されてしまったということです。

 その関係では、当時の構内運転手で生存している人がいないか探してもらったのですが、年を取ってから構内運転手になる方が多く、年齢的に生きている人はいませんという話になりました。新証拠を探し出すのはなかなか大変です。

 そういう困難な状況もありますが、このところ、裁判所も再審に次第に前向きになっているようにも思いますし、マスコミの認識も変化しつつあります。三鷹事件については、竹内さんの無実を勝ち取るとともに、占領下の歴史的真実を少しでも明らかにするために、何としても再審の扉をこじあけたいと思っています。

 また、広く事件を知ってもらうために、集会や署名運動が必要ですが、今回の再審請求にあわせて「竹内景助さんは無実だ!三鷹事件再審を支援する会」(世話人・大石進)が結成され、2012年1月1918時半から武蔵野公会堂で「竹内景助氏の再審を実現する集い」が開かれることが決まっています。

再審申立にあたって故・竹内景助長男

 三鷹事件は私が小学校に入学した年の7月に起りました。父親は国鉄職員であることを誇りにして、私の入学式にも国鉄の帽子をかぶって学校まで駆けつけてくれ、校庭での集合写真に写っています。父はいつも私たち子どもたちを可愛がり、出勤前によく畑に連れて行ってくれたことなどが、今でも懐しく思い出されます。

 その父親が、どういうわけか、国鉄を解雇されてしまいました。父親は生真面目で、直ぐに就職先を探しながら、家族を養うためにキャンデー売りなどをしていました。ところが事件から半月後、突然に警察に連れて行かれ、それ以降、一度も家に帰ることはなく、死刑判決を受けたまま、45歳の若さで獄死してしまいました。

 そのため、私たち家族は、生活に困ったばかりか、社会の偏見と差別にあい、文字通り塗炭の苦しみを味わいました。私たちは、父親のような家族思いで子煩悩なものが三鷹事件を起こすはずがないと、家族全員、父親の無実を信じ、苦しい生活の中、母親は父が死んでからもあちこちに出向いて一生懸命訴え、私もそれに同行したことも何度もありました。

 しかし、死刑囚の子どもだということで、就職や結婚にも言葉では言い尽くせないさまざまな困難を経験し、母親がなくなった後は、社会から隠れるようにして暮らすしかなく、父親の無実を信じながら、再審を申し立てることなど、とても出来ませんでした。

 このたび、父親がなくなってから45年を前にして、弁護団の先生方のお力添えで、ようやく再審を申し立てることになりました。こんなに有難いことはありません。何も悪いことをしていないのに、死刑という最も重い罪を着せられた本人はもとより、最後まで父を愛していた母親も、そして無実を信じて私と結婚してくれた妻も、草葉の陰で喜んでくれていると思います。(中略)

 私も父親の冤罪を晴らすために最後まで頑張りますので、皆さん方には、これからもご支援ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。

平成231110日     

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🔵松川事件

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小学館(百科)

1949年(昭和24817日午前39分、東北本線松川駅付近で列車が転覆し、機関車乗務員3人が死亡した事件。人為的な鉄道線路破壊が原因であった。事件発生後1か月して、当時19歳の元国鉄工手の自白調書(いわゆる赤間(あかま)自白)に基づき、捜査当局は国鉄労組福島支部員と東京芝浦電気(東芝)松川工場労組員の共同謀議に基づく犯行と断定、最初の逮捕者を含め国鉄側10人、東芝側10人、計20人を起訴した。その大半は共産党員であった。

 当時ドッジ・ラインに沿って行政整理、企業整備が進められていたが、95000人の解雇をめぐる国鉄労使の対決はその成否を握っていた。この対抗の最中に起こったのが下山(しもやま)、三鷹(みたか)事件であり、両事件で行政整理反対の闘争意識をくじかれた国鉄労組を三たび襲った怪事件が松川事件であった。しかも、国労福島支部は左派が指導権をもち、反対闘争の拠点支部の一つであった。また東芝は民間企業整備で最大の注目を集めていた経営で、松川工場では東芝労連の指導下でスト突入を予定していた。事件発生の翌日、増田官房長官は「今回の事件はいままでにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流においては同じものである」との談話を発表したが、捜査はこの談話の方向で進められ、地域的・全国的な労組の闘争、共産党の活動に大きな打撃を与えた。

 裁判では、自白者も含め全被告が犯行を否認し、この自白の信憑(しんぴょう)性、取調べの際に拷問、強制があったか否かが最大の問題となった。一審の福島地裁は、1950126日、死刑5人、無期懲役5人を含め全員有罪を宣告し、531222日の二審仙台高裁判決も、3人を無罪としたほかは死刑を含む内容であった。しかし、上告審に至って、検察側が押収していた、被告らのアリバイを証明する「諏訪(すわ)メモ」の存在が明るみに出、検察の主張する共同謀議説が崩れた。このため最高裁は多数意見(7人、反対5人)をもって、仙台高裁差戻しを命じた。

 裁判の流れを変えた背景には、新証拠の発見とともに大衆的裁判闘争の発展があった。国民に無実と判決の不当を訴える被告自身の通信活動(約15万通)、被告家族の全国行脚(あんぎゃ)による訴えにこたえ、支援体制は未曽有(みぞう)の広がりをみせた。弁護団は二審後173人という空前の規模に達し、志賀直哉(しがなおや)、吉川英治(よしかわえいじ)、川端康成(かわばたやすなり)、宇野浩二(うのこうじ)ら文化人も公正裁判を要請した。なかでも広津和郎(ひろつかずお)は1953年秋、雑誌『中央公論』に「真実は訴える」を発表し、第二審判決後は同誌に544月号から4年半にわたり「松川第二審判決批判」を連載、世論をリードした。5839日には、総評、国労、日本ジャーナリスト会議、自由法曹団、国民救援会など四十数団体、および個人が参加する全国組織「松川事件対策協議会」が結成され、その後、松川大行進現地調査、松川劇映画運動(370万人観客動員)などを通じて公正裁判要求、無罪要求を国民世論にしていった。

 こうした支援運動のなかで、最高裁決定を受けた仙台高裁は、多数の証人尋問、現場検証実施、書証提出など事件全体を調べ直し、196188日、「犯行の直接の決め手は自白のみ」、その自白の信用性は認められず「赤間自白なくして松川事件は存在しない」、実行行為の中心者とされる者のアリバイも明確であり、事件の根幹は大きく揺らいだ、として、被告全員に無罪を言い渡した。ついで、63912日、最高裁は検察側上告を棄却し、14年の歳月を要した裁判は終わった。しかし、翌年8月、事件は時効となり、米軍謀略説もあるが、真相は現在に至るも不明である。

 なお、無罪確定後、元被告人は国家の賠償を求めて訴訟を起こし、1969423日一審、7081日に二審判決が行われた。賠償額は7600万円余であった。

[荒川章二] 

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🔵1949(昭和24)年とはどんな時代だったのか=前坂俊之

(静岡県立大学国際関係学部教授)

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(1)共産主義の防波堤に、吉田内閣

GHQ(連合国総司令部)による五年間の占領でほとんどの対日占領改革は成し遂げられた。1949年(昭和241月、戦後3度目となる総選挙を前に、マッカーサーは「日本の民主化は終了し、今年は経済の安定に取り組む年である」との年頭所感を発表、対日占領政策の転換を示唆した。その中で「労働者には様々な負担がかかるが、それは避けられない。だからといって安易にストライキは許されない」と釘を刺した。

こうした発言の背景には国際的には米ソ超大国による冷戦の激化、アジアでは中華人民共和国の誕生(194910月)、朝鮮民主主義人民共和国、ベトナムなどの共産主義の台頭によって、アメリカは中国、アジアでの優越的な地位を失なった点がある。共産主義の波がドミノ的に周辺国や日本に及ぶことを恐れた。米国はヨーロッパにおけるドイツ、極東における日本の2大敗戦国の経済を安定化することで共産主義の防波堤を作る世界戦略を作成し、アジアでは日本・韓国・フィリピンなどを反共国家としてソ連・中国・北朝鮮を包囲する。そのためには日本の経済再建と一刻も早く独立させる必要があった。

すでに前年から米国の対日政策の転換は始まっていた。ロイヤル米陸軍長官は「日本を共産主義進出阻止の防壁とし、アジアの工場再建すべき」と米政府に提言、同政府は具体的な政策プログラムに着手、その主なものが対日講和条約の締結であり、日本の再軍備ともいえる国家警察隊の組織、さらには経済安定九原則の指示(※4)や対日援助の増大など、経済の安定化であった。これらを米国側から強く要求と期待が日本側に突きつけられた。

国内政治では1948(昭和23)年に吉田内閣が成立するが、少数与党で安定せず、その年の12月に内閣不信任案が可決されてしまう。吉田はすぐに衆議院を解散し、翌年の491月に総選挙に打って出た。この時の総選挙は激烈を極めて2当1落(200万円使えば当選、100万円では落選する)といわれる金権選挙のはしりとなった。また、『三バン』 (選挙戦で当選するには『ジバン』(地盤)、『カンバン』(看板=肩書)、『カバン』(鞄―金)の三つのバンが必要条件という意味)が流行語ともなった。

選挙結果は、吉田率いる民自党が解散時から112増の264議席を獲得して過半数を大きく超えた。池田勇人、佐藤栄作、前尾繁三郎らの高級官僚が多数当選した。逆に、連立三党の社会党は112議席から48議席へと大幅に議席を減らし、民主党も90から69議席に後退、国民協同党も半減し、中道三派は惨敗した。こうして第3次吉田内閣が成立したが、吉田首相の貴族趣味の白タビに英国紳士風の葉巻をふかしながら政治を牛耳っていくスタイルを、人々は『ワンマン』『白タビ』とニックネームで呼び、以後六年間におよぶ長期保守政権の幕あけとなった。

(2)共産党の大躍進・革命前夜かという雰囲気に 

一方、この総選挙で共産党は四議席から三十五議席へと大躍進した。これを追い風とみて「吉田内閣打倒と民主人民政権の樹立」を叫び、支持・支援を国民に訴えた。

折りしもドッジ・ラインの実施で、日本経済は安定化にむかったものの、中小企業はバタバタと倒産が相次ぎ、民間企業や政府系企業では厳しい人員整理が行われた。

政府やGHQに対する不満は爆発寸前まで高まり、その反動として共産党支持が拡大した。そんな時、ソ連によるシベリア抑留者でされ、共産主義に洗脳された「赤い引揚者」約2000人が引き揚げ船『高砂丸』などで舞鶴に入港、肉親の歓迎を拒否し、インターナショナルを歌って気勢を挙げて共産党に集団入党するなど、『革命近し!?』という異様な熱気に包まれた。「われわれは筋金入りのコミュニストだ」と発言し、『筋金入り』「つるし上げ」(反動的な言動にたいして糾弾すること)などが流行語となったが、合計9万5千人がソ連から引き上げてきた。

この状況をマッカーサーと吉田内閣、財界は危惧した。吉田はGHQの指示によって、前年には強大な公務員組織の力を削ぐため、スト権否定を法制化、49年は本格的に共産党勢力の厳しい取締り対策を次々と講じていった。

同年四月、政府は「団体等規制令」を公布。左翼団体・個人にも取り締まり対象に拡大、法務省に団体役員や構成員の氏名のなどの登録を義務づけた。この新政令で共産党は有力党員を登録したため、翌50年から本格化するレッド・パージ(のターゲットにされた。

 団体等規制令の制定を受け、東京都や各自治体では「公安条例制定」が相次いだ。デモや集会の事前の届出を義務づけ、公安委員会の許可を必要とする内容で、労働運動への規制を狙ったものであった。

 同年五月、「行政機関職員定員法案」(いわゆる「定員法」)が国会を通過、約29万人の行政整理を発表。旧軍人の復員と外地からの引き揚げ者で約60万人にもふくれあがった国鉄と、全逓(全逓信労働組合)の労働者を整理するのと組合幹部を狙い撃ちする意図もあった。

61日、初代の総裁に下山定則が就任し、国鉄は国営から公共企業体として独立採算制のもとスタートした。

「定員法」に対して国鉄や組合も猛反発した。国鉄労組のストライキが多発し、「人民電車」事件や列車妨害事件が頻発した。国鉄と当局の激しく対立。全逓、全官公労組、国鉄労組合も同調し、日本製鋼所、東芝製作所でも争議が起こった。

共産党は拡大中央委員会を開き、徳田球一書記長は「吉田内閣を九月までには倒す」とのいわゆる「9月革命」を叫ぶ。630日、福島県平市で、共産党支持者と警察の間で衝突し赤旗を掲げて警察署を占拠すると騒乱事件の「平事件」が起こった。相次ぐ騒乱、列車妨害の事件で社会的な不安がピークに達した。

(3)列車恐怖時代に突入 

ここで『戦後3大謎の事件』といわれる下山事件(76日)三鷹事件(715日)、松川事件(817日)の恐ろしい事件が相次いだ。この他にも悪質な列車妨害事件が続出し、710日までに686件、犯人の捕まった150件のうち、20名までが前国鉄職員で動機は首を切られた恨みだった。国民は『列車恐怖時代』と恐れおののいた。

下山事件

 71日、国鉄は95千人の首切りを組合に通告、4日、第1次分37千人の首切りを発表した。その翌五日に事件は起きた。下山定則総裁が出勤途中、「買い物をする」と日本橋・三越に寄った後、行方不明となった。6日深夜、常磐線綾瀬駅付近でバラバラの轢死体として発見された。

捜査の結果、5日の夕方、現場付近で下山に似た男性を目撃した人物が17人もおり「元気なく歩いていた」と自殺を匂わせる内容だった。さらに現場から約1キロ離れた旅館に、「下山らしき人物が5日午後、3時間ほど滞在した」との証言も得られた。

遺体を解剖した東大法医学教室は、死後轢断の可能性、すなわち他殺説を示唆した。生活反応が認められない、靴底に付着した土が現場付近のものでない。眼鏡やライターなど所持品が轢断現場から発見されなかったーなどから別な場所で死亡(自殺か他殺かは不明)した下山の遺体を、何者かが現場に運んだ可能性も浮かんだ。

『朝日』など新聞の多くは「他殺説が決定的 特別捜査本部を設置」などの大見出しで、他殺説をとり、最高検察庁も「他殺」を意味する「死後轢断」と公表した。警視庁の捜査本部では自殺、他殺の両面から捜査が行われたが、決定的な証拠を得られないまま84日、自殺として事件を締めくくり、捜査本部を解散する。

しかし、その後も他殺、『毎日』は自殺説をとり、両説をめぐって、警察、検察の捜査陣も新聞、マスコミも2分して謎の事件の究明が続けられる。松本清張は小説で、CIAがからんだ謀略、他殺説を指示した。国鉄の人員整理とその反対闘争の最中に起こったこの事件は続く三鷹、松川事件とともに労働運動に打撃を与え、国鉄労働組合は、すっかり気勢をそがれた。

三鷹事件

 下山事件から1週間後の712日、国鉄当局は第二次整理分63千人の首切りを通告した。対応をめぐって国鉄労組は15日分裂した。その日午後九時半ごろ、中央線三鷹駅で7両編成の無人電車がまま暴走、ホームの車止めを突破、駅前交番を破壊して商店街へと突っ込み、乗客ら六人が死亡、20人が負傷するという惨事が起きた。翌日、吉田首相は「最近の社会不安は共産主義者の煽動によるもの。人員整理は国家のために必要」との声明を発表した。

 警察当局は国労の共産党員らの共同謀議による犯行と見て共産党員9人と非党員の竹内景助の計十人が逮捕されたが、一審では「共産党員らによる共同謀議説は捜査官らが作り上げた『空中楼閣』であり、竹内一人の犯行である」として、竹内に無期懲役を、他の全員に無罪判決が下った。控訴審では竹内を無期懲役から死刑に変更。最高裁でも871票差で竹内の死刑が確定した。竹内は無実を主張しつつ、1967年に獄中で病死、事件は故意によるものか、事故なのか、謎に包まれたままとなった。

 下山、三鷹事件という血なまぐさい列車事件が続く中、国鉄の第3次整理として国労の指導者の解雇通告が行われ720日、吉田内閣の念願だった国鉄の大人員整理は完了した。

松川事件

三鷹事件から約1ヶ月後の817日深夜、東北本線の青森発上野行の上り旅客列車が、福島県松川駅に近いカーブで脱線・転覆、機関士、助手ら3人が死亡した。レールの継ぎ目やボルトが取り外されていた。翌日、増田甲子七官房長官は「集団組織による計画的な妨害行為と推定され、三鷹事件などと思想的底流は同じも」との談話を発表した。

捜査当局は、三鷹事件と同じく国労福島、東芝松川工場の労組幹部の共同謀議によるものとして各十人を逮捕、起訴。第一審は死刑五人、無期懲役5人を含む全員有罪。第二審は死刑四人、無期懲役2人を含む十七人が有罪。最高裁では「原審破棄、差し戻し」となり、仙台高裁で「全員無罪」の判決が出され、最高裁で無罪が確定した。

作家の広津和郎らが第2審の段階から「松川事件は冤罪事件である」として救援活動に立ち上がり、大衆的な裁判闘争の盛り上がりによって最高裁の差し戻しややり直し裁判に無罪判決に大きな影響を与えた。

三鷹、松川事件は謎につつまれたまま迷宮入りし、結局、3大事件は労働組合や、共産党などに大きなダメージを与えた。昭和23年には労働争議参加者671万人であった、翌年には331万人と半減、さらに25年には235万人と3分の1に落ち込んだ。組合組織率も246月の665万人が、25年には577万人とダウンしてしまう。国鉄のみならず中央・地方の官公庁、公団の62万人の首切り、民間企業43万人の整理も抵抗なく進んだ。翌50年には追い討ちをかけるようにレッド・パージの嵐が吹き荒れることになる。

(4)竹馬経済時代からドッジ・ライン不況へ 

ところで、経済はどうなっていたのか。戦後のどん底からすこしずつ脱し始めていた。戦後4年目で庶民の生活は戦後の焼け跡、廃墟の中のドン底からは脱し始め、衣食住は好転し始めた。男は国民服、軍隊服に兵隊靴、女はもんぺというそれまでのスタイルもだんだん少なくなり、衣料切符制度(25年に廃止)もなきに等しい状態であった。食生活も輸入米の増加、料飲店の再開、食料統制の撤廃によって外食権なしで、飯を食べられる。戦後すぐの栄養失調、買出しというてんやわんや時代は過去のものになりつつあった。しかし住生活はまだまだであった。引揚者で人口が増えたのに対して、住宅の新築はすすまず、住宅不足は深刻であった。

19492月、トルーマン大統領の特命を受けてGHQの経済顧問としてジョセフ・ドッジ公使(デトロイト銀行頭取)が来日した。

ドッジは敗戦後の西ドイツの通貨政策を成功させた男で、日本経済の再建のために派遣された。ドッジ公使は『日本経済は足が地についていない竹馬経済であり、竹馬の足を切って自分の足で自立すべきである』と警告。「日本経済はアメリカの接助と国内のさまざまな補助金の二本の足でやっとたっており、両足を地につけず竹馬にのっている。竹馬を高くすると転んで首を折る」と診断して、「自立経済を達成するには、竹馬を切り落とさなければならない」とのきびしい態度を示した。この「竹馬経済論」が一躍、流行語になった。

 ドッジは37日、昭和24年度の財政予算にあたって次のような荒療治(いわゆるドッジ・ライン)を日本政府に指示した。その内容は

超均衡予算の編成-各年度ごとの財政収支を均衡させ、いままでの国債の大幅な償還と、デフレ黒字予算を組む、

価格差補給金や損失補給金など、政府の補給金の思い切った削減、

復興金融金庫の新規貸出しはすべて打ち切り、国の一般会計から従来発行された復金債を償還する、

対ドル単一為替レートを設定し、かくれた貿易補給金をいっさい打ち切る、

アメリカからの対日援助物資の見返り資金を重要産業向けの設備投資資金などへ運用することーによって悪性インフレを退治して、自由貿易を促進するーなどであった。(内野達郎『戦後日本経済史』講談社学術文庫(昭和53年刊)

このドッジの命令に従って予算作りを担当したのが吉田学校の優等生・大蔵大臣の池田勇人である。池田は大蔵省主計局長を経験した予算作りのベテランだが、そこを見込んで吉田が引っ張って議員に当選、いきなり大蔵大臣に抜擢した。その池田もあまりにも厳しいドッジの命令と、国内の反ドッジ勢力の板ばさみに悩まされ、一度は辞職を考ええる。しかし、吉田に説得されて再びドッジの命令する予算作りを敢行、予算を成立させた。

425日から米政府の強い意向で1ドル360円の単一為替レートが実施された。事前の日本政府の積算、予想では330円となっており、若干の円安となったことが貿易収支にはプラスに働いた。さらに512日には、GHQによって東京、大阪、名古屋3取引所の再開が許可され、占領経済から自由経済へと大きく舵を切った。ドッジラインは悪性インフレを克服するための荒治療として大きな効果を発揮した。

同年5月、アメリカから税制改革のためカール・シャウプ(コロンビア大学教授)を団長とする使節団が来日する。ドッジラインによる経済安定化を税制面から助ける目的で、8月にGHQにシャープ勧告をおこなった。所得税中心主義の徹底、資本蓄積のための減税、法人税の減税、大衆課税の強化、補助金制度の見直しなど、国の負担を地方へまわし、地方税を2倍にするなど従来の税制を抜本改革するものだった。50年の予算編成で即実行を吉田内閣にせまった。

ドッジ、シャウプの2大カンフル剤としての強力なデフレ政策によって通貨は縮小の方向に流れが変わり、戦後インフレは急速に収束していき、翌50年に消費者物価は七・二%下落する。また、昭和24年には戦後経済を管理してきた経済統制も急速に撤廃され、自由経済への移行も進んだ。

「金は出さず回収する、輸入は高く、輸出は安い」-企業は深刻な資金不足に襲われ、整理・倒産が続出し、日本経済は一転してデフレ状態に陥っていく。合理化に迫られた企業は、設備の合理化をはかる資金的余裕はなく、勢い人員整理によって失業者があふれた。19492月から翌年六月までの民間企業での人員整理は40万人にも及んだ。とくに緊縮財政を義務づけられた政府関係企業の場合、人員整理はより厳しく、これに対する強い反発が起きた。

このように、昭和24年の経済は『竹馬経済時代』から『ドッジライン不況』へ急転した年と捉えることができる。ドッジラインショックで、年後半にはインフレはおさまりだしたが、こんどは一転してデフレの谷間に落込み、どこもかしこも金づまりの世の中になった。

街を歩くと値下げや投売りの看板がやたらと目につく。値下げのトッブは衣料品で昭和24年春には12000円もした背広が、ドッジライン実施後の25年春には4600円にと3分の1に急落。金づまりで中小企業は、事業を続けていくためには、原価割れでも注文にも応じて、生産を切らさないため『自転車操業』に追いまくられた。この自転車操業という流行語が生まれたのもこの年だった。「亭主の小遣いを減らす、これすなわち我が家のドッジライン」と皮肉られた。

長く失業対策の代名詞ともなった『ニコヨン』という言葉ができたのもこの年で 、昭和246月、東京都は失業対策事費の日当を245円と決定し100円札210円札4枚というところからニコヨンが日雇い労務者の代名詞となった。その後日当は上がったが、エコヨンの名は固定化した。

11月に中小企業の金詰りに乗じてできた東大生のヤミ金融として話題となった『光クラブ』山崎晃嗣社長(27歳)=東大法学部学生=が服毒自殺したのがこの時代を象徴したアプレ犯罪のはしりだった。

また、11月には現在の交通ルールと同じ、対面交通方式に切り替えられ「人は右、車は左」の交通標語が実施された。

(5)日本人を勇気づけた明るい話題 

古橋広之進の快挙

暗いニュースが続く中で、海の向こうから日本人を勇気づけるビッグニュースが飛び込んできた。85日、アメリカ・ロサンゼルスで開かれた全米水上選手権で、古橋広之進は4008001500メートル自由形に出場、すべてに世界新記録をマークして優勝するという快挙を達成した。

前年のロンドンオリンピックは、日本は敗戦国のため参加できなかった。しかし、国内大会では古橋と橋爪四郎は競い合って世界新を連発していた。ところが、「日本のプールは短いのだろう」「日本の時計は遅くはないか」と海外の見る目は冷たかった。このため、戦後はじめて参加を許された国際競技で古橋らはその実力をいかんなく発揮、米マスコミから「フジヤマのトビウオ」のニックネームをつけられたが、敗戦のショックからまだ立ち直っていない多くの日本人に勇気と感動を与えた。

ノーベル賞に輝いた湯川秀樹

 古橋らの快挙の余韻も覚めぬ11月、さらに大きなニュースが飛び込んできた。日本人初となる湯川秀樹のノーベル賞受賞(物理学賞)である。

 湯川は地理学者の小川琢治の三男。京都帝国大学地理学教授の父のもと京都で育ち、京都帝国大学に進み、生涯の友・朝永振一郎(後にノーベル物理学賞受賞)と出会う。京都帝国大学理学部物理学科を卒業して母校の副手となり1932年に湯川スミと結婚、湯川姓となった。

34年、重力、電磁力とは異なる新しい「核力」を媒介するものとして、中間子の存在を発見、翌年「素粒子の相互作用について」と題する論文にまとめた。37年、アメリカの物理学者アンダーソンが宇宙線中に未知の粒子を発見し、湯川理論は世界の注目を集めたが、その検証と理論の発展は戦争で中断された。

 湯川理論が証明されたのは戦後で、1947年にイギリスで二種類の中間子の存在が確認され、その一つが湯川粒子と判明した。湯川理論は未知の素粒子の存在を理論的に予言し、新しい素粒子論を物理学の分野に切り拓くのに大きな功績を残した点が高く評価され評価され、ノーベル賞受賞に結びついた。

野球熱の高まり

 生活が徐々に安定し、スポーツを楽しむ余裕も生れた。日本のプロ野球が再開したのは464月。赤バットの川上哲治(ジャイアンツ)、青バット大下弘(セネターズ)らの人気に牽引され、国内プロ野球球団もしだいに整備されつつあった。そうした中、フランク・オドール監督率いるサンフランシスコ・シールズ(3A)が10月に来日、全日本などと計六試合を戦い、大変な人気を博した。

 このシールズとの試合中、日本人の関心を集めた飲み物が「コカ・コーラ」である。コカ・コーラは大正時代から販売され、戦後も米軍基地での一部の日本人はすでに知っていたが、一般に向けに販売されたのはこれが初めて。豊かな国アメリカの代名詞としてその後、コカ・コーラは爆発的ヒット商品となって日本に浸透していく。

この年の11月、プロ野球が二リーグ制として発足した。毎日新聞社をはじめ、近鉄、西日本新聞社、大洋漁業、広島、西鉄などが新球団結成に名乗りをあげ、この新球団の加盟をめぐり、「これ以上球団を増やせば経営が困難になる」と巨人、中日、大洋が反対に回ったに対し「広く門戸を開くべきだ」と、阪神、南海、大映、東急、阪急が賛成、結局、セントラル野球連盟(巨人、阪神、中日、大洋、広島、国鉄)、太平洋(パシフィック)野球連盟(毎日、南海、東映、西鉄、阪急、近鉄)に分裂、翌50年春から2リーグ制としてスタートする。

映画、レコードで大ヒット「青い山脈」 ひばりデビュー

 この年にヒットした歌謡曲は「三味線ブギウギ」(市丸)、「月よりの使者」(竹山逸郎・藤原亮子)、「銀座カンカン娘」(高峰秀子)、「長崎の鐘」(藤山一郎)、「かりそめの恋」(三条町子)、「トンコ節」(加藤雅夫・久保幸江)、「玄海ブルース」(田端義夫)など。

 映画では「晩春」(小津安二郎監督、原節子主演、松竹)、「野良犬」(黒澤明監督、三船敏郎主演、新東宝・映画芸術協会)、「お嬢さん乾杯」(木下恵介監督、佐野周二、原節子主演、松竹)、「女の一生』(亀井文夫監督、岸旗江主演、東宝)、『静かなる決闘」(黒澤明監督、三船敏郎主演、大映)などがヒットし観客を集めた。

 こうしたなか、映画、レコード共に最大のヒットを飛ばしたのが「青い山脈」である。朝日新聞に連載された石坂洋次郎の小説を、東宝が映画化。監督の今井正と脚本は初めての井出俊郎が共同で書き上げた。封切り前の東宝社内での評価は散々で、「素人の書いた掛け合い漫才の台本で、つまらない映画を作ったものだなと酷評された。試写室はまるでお通夜のような雰囲気で、私は腹を切って死にたいと思った」と井出は語る。

 ところが、いざ映画館にかかると空前の大ヒット。服部良一の作曲による軽快な主題歌(唄・藤山一郎・奈良光枝)も爆発的ヒットとなった。大衆は敗戦、焼け跡の貧しい現実を吹き飛ばす底抜けに明るい元気な青春映画を求めていたのである。(「証言の昭和史7 講和への道より 学研」)。

 戦後歌謡界の女王・美空ひばりが彗星のごとくデビューしたのもこの年である。松竹映画「踊る竜宮城」の主題歌「河童ブギウギ」がデビュー曲となった。同年の秋の主演映画「悲しい口笛」の主題歌が大ヒットし、十二歳の可愛いアイドルは一躍、スターに。この不世出の天才少女の出現は「100万円の宝くじをひきあてたみたいだ」と関係者を大喜びさせた。

文壇では芥川賞が復活した。戦没学生の手記「きけわだつみの声」や放射線障害で死の床にあった長崎大学教授、永井隆博士の「この子を残して」「長崎の鐘」などが若者の共感を呼び、ベストセラーとなって映画や歌にもなった。

また、世間をあっと驚かせたのが雑誌「夫婦生活」の発売だった。創刊号は7万。即日売り切れで直ちに二万部を増刷する人気ぶり、特集記事は「不感症と不能症の治し方」「性の若返り」などで、戦後の性のタブーからの開放や男女平等の社会を反映したものだが、その後も「新夫婦」「夫婦読本」などの類似本も出版されるが、長くは続かなかった。

🔴🔴No.2

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◆◆古屋哲夫=松川事件に至る反共意識の動員について

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◆古屋哲夫著作集から

http://www.furuyatetuo.com/bunken/index.htm

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19481218日、アメリカ政府は、マッカーサーに対して経済9原則の実施を指令し、日本を中国に於ける共産党の勝利に対する反共防波堤に仕立上げる意図を明らかにした。この本国政府の指令を実現するために、G. . . は、既存の支配体制の強化と安定を図ったのである。  

  49年の時点に於て、この様な支配体制の再編り強化は、努働運動の抑圧、企業合理化による経済安定=独占資本の支配の強化として具体化される。そして、この年の初めから首切り、賃銀遲缺配、集中生産を名とする工場閉鎖が続出する。1月の総選挙には、マッカーサーは、民自党の絶対多数獲得に「保守的政治哲学にめいりような、決定的な委任をあたえたこの熱心な秩序整然たる選挙に満足」の意を表した。更にG.H.Q.ヘプラー労働課長は、石炭・電産・海員・繊維・私鉄等の組合に対しスト中止を勧告した。   

  ー方でこの様な労働者の「利益」の侵害を強行した支配者は、他面そこに生ずるに違いない強い抵抗を反共意識の動員によって克服しようとしたのである、だから一連の攻撃の主自標が「企業に不忠実なもの」として、共産党員に向けられたことは云うまでもないが、しかしこれらの政策は単に共産党員のみでなく労働者階級全体の 犠牲の上に支配体制を強化再編するものであっ,たから単なる「反共」の強調=舊意識への単なる観念的呼びかけでこと足りる筈はなかった。そこでは、戦前の握力によって蓄積された「赤」への恐怖を呼びさまし、「暴力」「破壊」「テロ」等、あらゆる悪徳のかたまりとしての「赤」を民衆の前に再現しなければならなかった。しかも絶対多数を獲得しながら、政治的信頼感をよびおこしえなかった吉田内閣が、再編政策の擔當者であったこの時期に、吉田より悪質な「民衆の敵」として「赤」を印象づけることは、再編策強行のための、必須の条件になっていたと言ってよい。フレーム・アップはもはや単なる偶然ではありえなかった。

 常時この様な反共意識の動員のために好都合ないくつかの条件が存在した。第一は、広汎な舊意識の残存である。勿論、共産党が35議席を獲得したことにもあらわれている様に、天皇制的意識は、その中核を失い、解体しつゝあった。しかし反共意識はまだ、「共産党はおっかない、天皇に反対するからいやだ」といった形で広く残留していた。支配置制の再編強化の強行にあたって、この「反共意識」を民主主義の名の下に、政治の表面に呼び出すことが企てられたのである。即ち占領軍によって変革のジンボルとしてもち込まれた「民主主義」は、自発的な政治参加=政治的自由を風土化しえないまゝに「秩序」と「安定」のシンボルに逆轉させられ、醇風美俗と中庸の道を支持するに至っていた。第二には、占領下に於ける最高の政治的権威として共産党にまで公認されたマッカーサーが反共の態度を明かにしたことである。19483月のトルーマン「封じ込め」政策以来顕著となる。G...の反共的態度は、この年の7月4日のマ・カーサー声明で一つの頂点に達した。彼は、共産主義が犯罪分子、変態的分子の集りであるとして、反共体制の確立を説いた。この共産党非合法化を示唆した声明は、「反共」こそが占頷下での正統的イデオロギーであることを明示したのである。

  第三に、体制の側の再編成の強行と、赤裸な弾壓に直面して、多<の社会的運動が「反共」の旗をかかげることによって、占領下での正統性を主張し、自らを異端から区別しようとしたことである。そして地域闘争の可否をめぐる労働運動内部での戦術論争が、この異端=正統という対立に結びつき、組合内部で強い影響力を持った共産党の指導と、G...に支持された国民同派の対立という形で激化し、組織を内部から崩壊させたの  であった。勿論そうした対立はすでに4711月の国鉄労組反共連盟の結成に始り、翌48年7月、いわゆるボッダム政令による公務員法改悪に反対する全国的な職場離脱によって一層激化し、更にこの49年には、合理化政策のヤマとみられた国鉄人員整理を目前にして、いわば一つの頂点に達し、イデオロギー的対立は、組織全体に滲透していった。   

  即ち6月に入ると、公安条例反対闘争から、東交スト、 「人民電車」、国電スト(6月10日、中央線京浜線がストップ)と続く、闘争の盛り上りの中で、この様な組織内部での対立は極度にまでクロ-ズ:・アップされた。  そして労働者の具体的「利益」をまもるたゝかいは、暴力政治対議会政治、共産主義対民主主義という上からつ くり出された政治的争点の中にまき込まjれた。組織の分裂と闘争力め弱まりは、おゝうべくもなかった。まさにその時点をとらえて、フレーム・アップへの準備が始られたのは偶然ではない。

  この様な情勢をとらえて突如として列車妨害の記事が大新聞の紙上に噴出する。613日毎日新聞は、二面のトップに大々的に「御召列車妨書か、山陽、東海道線で線路に石」という見出しをかゝげ、二面の3分の1をつぷして列車妨害を報じた。当時、新聞がまだ2頁であったことを考えると、この記事にいかに大きな比重がおかれたかがわかる。そして最近「列車転覆を企てると思われる悪質事故の続出」があり、今度の御召列車通過の  線路に「不審な列車妨害事故が発生」したと傅え、更に「この種悪質事故はその手口から単なる子供などのいたずらとして片づけられぬなにか一連性(例えぼー種の予備行動)のある犯行の現れではないかともみられる」と述べている。しかし、その内容は東海道線掛川~袋井間と熱海東方の線路に小石56個、こぶし大の石1個が置かれていたという2件にすぎず。一緒にのせられる奥原熱海保線分区長と国警刑事部小倉捜査課長の談話も「今回のことは子供のいたずら」とみられ、「計画的とは思えぬ」と述べていた。だから翌614日の朝日が「御召列車の妨害はデマ」という小さな記事をかゝげたのは当然であったと云えよ。しかし奇怪なことに、御召列車妨害を否定した朝日は、59日、10日、64目というまさに舊聞にぞくする事件をとりあげて「ふえた悪質な列車妨害、手のこんだ機関車転覆事件も」という3段披きの記事をかゝげたのである。その内容は次に掲げる通りであるが、この記事が、正にこの時点に現れる必然性は記事自体の中に見出すことは出来ない。

 最近原因不明の列車妨害が続出、五月に入ってからは特に多くなった。悪質な例では5月9日、豫譛線でレールの継目を丸太棒でコジリあけ、旅客列車を転覆させて死傷三を出した事件、つゞいて10日同所に同じような妨害があり、これは機関車脱線だけですん。東京近郊では横浜線に多く、京浜線でも4日、六郷鉄橋上と大井町とで継目板をレールの上においた2つの事件が報告されている。ー番多いのは、小石を線路に並べる手でこれは大部分子供のいたずらと見られているが、北海道追分機関区では入庫中の機関車をジャッキで持上げ転覆させたというのがあった。操作知ったものでなければ出来ないので当局側ではこの点を特に警戒している。

 そして朝日は、以来、3大新聞の中で最も詳細な列車妨害についての記事を掲げ始める。 こゝではその詳細を書く余裕はないが、6月中に於ける紀事を簡箪にひろってみよう。

6.17 

「線路に石、また2件」(レール上に小石)

6.22 

「列車の上に大石」(機関車の屋根にパケツ大の石を落す)

6.23 

「信越線々路に大右」(道路の舗装用大石、2米のスギ材)

6.28 

「列車妨害、120件、子供のいたずらが多!,ヽ」(この記事は相当なスペースをとって26日の日曜日の事故を一々報じているが内容はレール上に小石、10件、マクラ木1件、列車に投石3件、列車に発砲2件、その他1件である)

6.28 

「線路上に雷管」

6.29 

「トンネルにダイナマイト、妨害か、鹿児島本線で」(城山トンネル内にダイナマイト130個が散乱)

6.29 

27日にも4四件」(列車に投石3、レ―ル上に角材1)

〃 

「各県に捜査本部」(國警県部隊長全國会議で取締り強化を指令)

6.30 

「列車妨害続く28日も4件」(投石3、レール上に青草一抱えと板一板)

6.30 

巡回予算増額せよ国鉄労組中闘で声明」(政府や当局はこの原因をあたかも組合員の責任であるかのように宣傅しているが大部分は学童のいたずらで、これを首切り闘争反対戦術と結びつけるのは言語道断である。当局は速かに巡回予算を増額せよ)

6.30 

政治的意図の印象国鉄下山総裁が反撃」(『組合員の責任である』といったことはない、しかし、最近のは学童のいたずらもあるが、専門的知識を持ち、内部の事情に通じている者が計画的に行っていると思われる所がある。またその地域もかつて急進分子が多かった地方に発生しており何等かの政治的意図によったものであったかの印象をうける」)

 こうしたしつようで、思わせぷりな妨害記事は共産党乃至国鉄労組の暴力化の前徴であるかの様な印象を読者に押しつけることに奉仕したものと云えよう。この様な記事は7月に入ると、平事件、下山事件、三鷹事件、等に紙面をとられて減少してくるが、7月4日「現業員3名の逮捕、取鳥で列車妨害の疑い」という記事あらわれたことは注目しておこう。

「列車妨害の激増」「手口の専門家」「現業員の逮捕」とつゞく、朝日、初めから「一連性のある犯行」とした毎日に対して、読売はやゝ出おくれれおくれていたが、6 25日「列車妨害を厳戒、山手線にも大石、大半が少年?」として、゚列車妨害の増加を述べるや翌26日には、「列車妨害を逮捕;共産党名乗る二鉄員員」というセンセーショナルな見出しを3段抜きでかゝげ、朝日や毎日が暗示している方向をズバリと打出したのである。これにつゞけて、「昨年の3倍、こゝ6ケ月激増の妨害」という記事をかかげその中で「仙鉄でも同様捜査を進めた結果去月29日鉄道建設会社、米澤出張所人夫1名を検挙したが、背後関係、動機について一切語らないまゝに送検した」と、いかにも何か背後関係がある:かの様に報道した。3紙の中では、読売が最゚も露骨に反共的だったと云えよう。いずれにしろ、この様に3大新聞が6月中旬から突如として「列車妨害」を大々的とりあげ、一貫して何か暗い背後関係をにおわせ続けたのは何故だったのか、我々は今、その点について直接に実証するに足る資料は持ち合わせていない。しかし次の点には注目しなければなるまい。

 朝日年鑑、昭和2526年版は、この様揉な事態を反映して、「列車妨害」という特別の項目を設けて、昭和14年以来の統計をのせている。それによると戦前は年間400件位、戦後になると、21721件、221069件、231478件と激増しているが、これは、戦後、あらゆる犯罪が激増したことを考えれば特に不思議ではない。24年に入ると1月~4月には100件台に増加しているのがわかる。そしてこの記事は、次の様に解説している。「国鉄当局の説明によれば24年5月以降急激に件数がふえたのは、従来報告のなかった様な小さな事件まですべて報告させる様にしたためでもあるが、 それにしても増加したのは事実である」として以下に、豫譛線事件(前掲朝日記事参照)を例としてあげている。では国鉄当局が5月から調査方法を変えて、事故件数の目立った増加を統計の上に表わそうとした意図はどこにあったのだろうか。5月と云えば、定員法によって27万の官公庁人員整理が決定された時である。そして6月に入り、労働者の闘争が高まりをみせようとした時、一面では、公安条例による警察支配の強化とG.H.Qの公然たる介入、―言ひかえれば裸の権力による弾圧が加えられると同時に、他面では、5月~6月の人為的にうなぎ上りとたった列車妨害の記事を噴出させながら、大新聞が反共意識の動員にのり出してくるのである。松川事件とほゞ同様の事件である5月9日の豫譛線での列車転覆が、その時の新聞には全くあらわれず、1か月以上たった6月中旬に、各新聞が一せいに列車妨害の記事をとりあげた時、いずれもその最初の記事の中で「最近激増する列車妨害の悪質さ」を例証する事件として引き合いに出してこいることは注目に値する。(朝日 6.14. 毎日 6.13. 読売 6.26.)それは列車妨害の事例と統計が、最も好都合な時期まで蓄積されていたことを意味すると思われる。そして東交ストから「人民電車」に至る一連のたゝかいの直後の時点が選ばれたのだ。「レーノレの上に小石何個とか、コブシ大の石何個とか、幅何センチ長サ何メートルの角材」等の詳細な記事が突如として噴出する。それはこの程度の妨害さえ、この時になって初めて現れた重大事であるかの様に、常時のわずか2頁の新聞が足なみをそろえてこれだけのスペースを割いたことは、政治的なマス・コミ操作としか考えられないではないか。そして平事件を騒擾とした直後、マッカーサーは、その政治的意図を明かにする。前掲の共産主義者は変態的分子・犯罪者であるという彼の声明はこうした文脈の中でもう一度読み直して欲しい。そしてそれぽフレーム・アップの準備完了の合図ともきこえた。支配者は、何時、何処ででも、フレーム・アップを強行することが出来る条件を完成したのである。

3

 71日、各新聞は、共産党の警察不法占拠として、いわゆる「平事件」を報じ、翌日から共産党員の検挙と他県からの警官隊の応援の記事がつゞき、5日には仙台高検が「騒擾罪」の適用を決定したことが伝えられる。と同時に、平市につゞき、福島、若松両市が不穏な情勢にあると報ぜられた。(これは「県会赤旗事件」と「三菱廣田工場」の人員整理反対闘争であるが詳細は、塩田庄兵衛氏の別稿によられたい)。国警福島県本部隊長新井裕の談話は云う「県内は一応落着したが平はじめ福島、若松、郡山の事件はその底流は同じで、労組側は明らかに計画的な行動とみれらる」(朝日 72)「事態が長びき拡大する場合は非常事態宣言を政府に要請するつもりだ」(同 73)「非常事態宣言用意、樋貝国務相談」(読売 72)「福島県下に非常警備態勢」(同 75)「『国家非常事態の宣言』首相、布告準備を完了」(同 77)こうした中で74日、国鉄第1次首切り、37,000名、同1362,000名が強行される。そして76日には下山事件とならんで「福島管理部事件」が寫具入りで報道された。6月中旬以来列車妨害が左翼勢力によって計画的に行われているとの印象をうえつけるのにに努力して来たマス・コミは、こゝでそれを具体化する。保守党の側から流されて来だ89月暴力革命説(例えば廣川幹事長の反共国民運動の提唱―朝日 49615)の前哨戦が始まったかの様に騒ぎたてたのである。

 列車妨害についてのプレス・カンパニアによってつくり出にされた、不安感の上に、今度は地域闘争=暴力革命の実例とし福島県下の諸事件が推しつけられる。それは、不安感を人為的に恐怖にまで高め、フレーム・アップに対する警戒心の武装解除を目指したものと言えよう。つゞく下山、三鷹事件、その間をぬってくり返される列車妨害の報道を、共産党の暴力(8月暴力革命)という文脈の中で読ませようとする意図は、もはやおゝうべくもないものとなった。だからいち早くこれらの事件の調査にのり出した衆議院考査特別委員会、参議院地方行政委員会の報告が、上記諸の事件の間の相互の関連、全体としての計画性をつくり出してみせることに最も力をそゝいだのは当然であったと云えよう。彼等の結論は、次の如である。

 今回の事件は国鉄の人員整理、炭坑業、諸工業の企業整備に伴う労働不安の情勢に乗じて、日本共産党員 (必ずしも中央部を指さない)が国鉄労祖、炭坑労組その他左翼急進分子と結んで論文にいわゆる地域闘争を特に福島県地方を選んで実行したものであるとみとめられる。しかしこれら一連の事件が全く共産党の同時齊発的計画にもとづくものであったとは断言しがたく、又これを所謂暴力革命のテスト又はその前哨戦と判断するだけの適確な証明は今の所得られない。しかし巷間には早くから7月革命、8月革命などというデマが広く流布されていたこと、又あたかも帰って来たソ連引揚者が共産革命的に組織されていたことなどかれこれ考え合わせる時、それらは単に偶発的競合に過ぎないぎないとして看過すべ,きであろうか」(官報号外「第六国会参議院会議録」第25号附録その4) *こゝには野坂参三「政権えの闘争と国会活動」(「前衛」37244)志田重男(「人民闘争より権力闘争え」 (38245)2論文が援用されでいる。尚、衆院考査委の報告については詳細に述べる紙幅がないが、上述の福島県下の諸事件が、平事件を牽制するものであった、として、その計画性を強調している。(官報号外「第六国会衆議院会議録」第3号附録)

 この様な、支配者とマス・コミの動向は7月の国鉄整理、8月の全逓整理に対する反対闘争を、一部少数分子反民主主義的不逞の輩共産党の暴力→8月革命の名の下に一挙に弾圧するための伏線であったと理解される。では「福島県地方をえらんで実行したもの」とされた「地域闘争・権力闘争」(前掲参院地方行政委)の実態はどの様なものであったか、参院地方行政委の報告には、資料「福島県下の治安概況」として国家地方警察福島県本部の作成した治安警察日誌とでも云うべきものが掲載されている。それは(1)平事件前後の状況(平地方を中心として)2)平事件前後における郡山、.福島方面の状況(3)三菱廣田工場事件とその後の会津方面の状況であり、そのすべてを引用する紙幅はないが、松川事件との関連 で、若干の点をみることにしたい。(尚、この報告は、84日―9日の6日間にわたる議員派遣(岡田喜久治・鈴木直人)によって作成されたものであり、従ってこの日誌も松川事件以前につくられたものと思われる。後出の塩田氏の論稿と合わせて読まれたい。)

630(日付)14・・53(時間) 東芝松川工場労組(県会デモヘの)応援のため、100名福島駅に下車、スクラム組んで議揚に入る。

72 830 福島地区内庭坂機関区150、郡山方面250管理部前に集合(国鉄人員整理反対)

 1140 友誼団体但会員700名管理部前に集合。武田久他3名交々アジ演説を行う。

 1210 外郭団体である東芝松川工場労組赤旗を先頭に応援合流その数800名気勢をあげ武田久外8名が管理部長に首切返上の交渉をした。(東芝労組が国鉄労組の外廊団体とみられていたことは注意する必要がある)

 1400 管理部長は群衆の面前において行政整理に対する経過を述べさせられた。

 1410 管理部長の経過報告に納得いかずとして斉藤千外200名は管理部長室に押入って交渉を始めた。当時室外に800名。

74 1600 国鉄労組支部武田久外3名管理部長に面談、首切説明を求め午後5時退去した。

  1740 国鉄福管第1次人員整理818名発表(41.1%)

  1930 群衆管理部長室に押寄せて鉄道講習所教官本間某を階段より引下し殴打した。

  2030 2階に押入ったもの100名、管理部長に面会強要、21時には150名となり、椅子を破壊し部長室のドアを破って侵入した。(これが福島管理部事件として報道された)

77  900 福島県貨物係斉藤千外30名は伊達駅駅長室に押入って行政整理の対象基準を明確にしろと暴行脅迫した。(伊達駅長事件、尚このすぐ後には斉藤千が伊達駅長の不正事実を摘発しこれを認めさせたと演説したという記事があり、両方での評価は大きく違っている)

713 1900 福島市稲荷公園に於て国学院大学教授安津素彦一行反共演説会を開催、聴衆200名、午後10時終了、事故なし(専ら、組合と共産党員の活動を記録したこの日誌に、特別にこの項目が入れられていることは、警察活動が、「反共」=組合弾圧の枠の中で行われたことを示している)

714 500 7日伊達駅長及び横山助役を暴行脅迫した国鉄労組福島支部文化部長斉藤千外11名に対し、暴行など厳罰に関する法律違反者として逮捕状の執行を行い、梅津五郎外4名を除き7名逮捕、保原・福島地区(身柄は福島地区に留置) 

  900 斉藤千等の釈放について福島地区へ阿部市次、岡田十良松、保原地区へ福島地区労議長杉原清外1名交渉に来たが拒否されて退去

720 伊達駅長脅迫事件の容疑者更に3名逮捕、高橋時雄外2

721 500 74日午後8時頃より福島管理部長室に不法侵入した支部委員長外9名の逮捕状執行を行ったが逮捕者9名未逮捕1名(諏訪誠二)

724 930 管理部不法侵入被疑者次の5名判事拘留で福島刑務所に収容、福島製作所近藤兼雄を除く4名ハンストに入った。武田久、上川知巳、岡田十良松、小山那夫。

  1930 管理部不法侵入容疑の4名検事釈放午後10時、鈴木信

 これらの日誌はいずれも725日乃至26日で終っているが、こゝで確認出来ることは6月下旬から7月上旬 にかけて闘争が盛り上りをみせたこと、そしてそれが前掲の「事件」という形につくり上げられて、強い弾圧が行われ、7月下旬までに、福島管理部事件16名、伊達駅長事件25名と40名をこえる活動的分子が逮捕され、 闘争か弱まったということである。後に松川事件の容疑者とされた人々が、この様な形ですでに警察の日誌の上 に表われていたことは、松川事件の捜査が、事件そのものの分析の上にではなく、従来からの労働運動弾圧の延長上に、即ち「反共」という警察活動の骨組に合わせてつくりあげられたことを示している。

  しかし、松川事件を、下山、三鷹事件につづいて、フ レーム・アップする理由は何処に存したのであろうか。たゞ単に福島の運動を弾圧するだけなら、この日誌にみられる線を更に強行することで足りたのではないか。こ れまでの本稿の分析の上で考えると、反体制勢力の活動を決定的に打ちくだくための、最後の追打ちが松川事件のフレーム・アップではなかったかと考えられるのである。

 718日、国鉄当局は、国鉄労組中央闘争委員会の共産党員の全部と、革同派計14名の首切りを発表した。そして民同派は、被解雇者の中闘委員としての資格を否認してこれに追打ちをかけた。共産党対民同の対立は、722日民同派が零号指令を発して、民同派による中央委員会を召集した時、最大のヤマ場をむかえる。815日、国鉄労組の新執行委員会が成立し、民同派の勝利は決定的となった。そしてその直後に松川事件が起ったのである。(817日)

  松川事件直後820日、日経連は、「当面の労働情勢に対応して経営者のとるべき態度」を下部団体、会員会社に配布したが、それには次の様に記されている。 

一、共産党員の排除は往々労組法11条違反として争われて来たが、この際新たな観点に立ち、企業防衛の信念に基き人員整理に際しては「意識的継続的非協力者」として職場から排除する。また就業規則、業務命令違反は迅速的確に處断する。

二、反共第二組合はたとえ組合員が少数といえども会社施策の重点をその組合に集中すべきである。

三、法延闘争を恐れず経営者は十分法規を検討、共産分子の排除を断行する所信を法廷でひれきし徹底的に争う(読売 821

 労働者の「利益」を守る闘争が、共産主義対民主主義という抽象的争点の中にまき込まれた時、その中からこの様な資本の「利益」が強引に貫徹されて来る。この様な逆転こそ、この時点での体制強化再編めための政治的支配技術の中心であり、それは一連のフレーム・アップ によって初めて成功裡に遂行されえたということが出来るであろう。 

  附記 本稿は、福島新吾氏の示唆に負う所が多い。又塩田庄兵衛氏には有益な御教示を頂いた。記して感謝の意を表したい。 

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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