ベアテさんが語る憲法24条・男女平等

ベアテさんが語る憲法24条・男女平等


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【このページの目次】

◆ベアテさんリンク集

◆ベアテさんの生涯(田村)

◆ベアテさん作成の憲法原案

◆ベアテさんの国会での証言

◆ベアテさん東京新聞インタビュー

◆ベアテさんと日本国憲法(Wikiから)

◆伊藤=ベアテさんロングインタビュー・日本国憲法の誕生部分

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🔵ベアテさんリンク集

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★★憲法史=ベアテさん両性の平等・憲法24条を語る(各TV番組から)43m

★★BSTBS憲法誕生秘話=22歳の涙が生んだ男女平等46m

★★新・平成日本のよふけ:ベアテ・シロタ・ゴードン25m

https://m.youtube.com/watch?v=K6UDzlNtdo8

https://m.youtube.com/watch?v=VKxOXmBketo

★★ハートネット・憲法施行70年=男女平等28m

(赤旗17.01.11

★★日本の働く女性の差別撤廃の歴史48m

★★ETV憲法・男女平等=女性たちのたたかいの物語75m

★★NHKアナザーストーリー・日本国憲法の誕生物語

ベアテさんと男女平等、鈴木安蔵たち憲法研究会と基本的人権・生存権、大島共和国憲法)

(❷❸は、当ブログ=日本国憲法誕生物語を参照)

★★憲法行脚の会=ベアテ・シロタ・ゴードンさんをお迎えして

https://m.youtube.com/watch?v=ssSJfUWuPWU

https://m.youtube.com/watch?v=GM2wKM_x69s

https://m.youtube.com/watch?v=iT1nCpf0FpY

https://m.youtube.com/watch?v=bsP5sMK7b0I

https://m.youtube.com/watch?v=c-ffqwBJN8o

https://m.youtube.com/watch?v=rlNTZoPpDg0

https://m.youtube.com/watch?v=iT1nCpf0FpY

https://m.youtube.com/watch?v=C7u94k568qA

https://m.youtube.com/watch?v=oNs5HYZx_JY

https://m.youtube.com/watch?v=6hOgwV93K0o

◆◆田村=ベアテさん紹介(下記に引用)

http://tamutamu2011.kuronowish.com/sirotakouennkai.htm

🔷🔷ベアテさんと美智子さんとの交流=「日本国憲法ありがとう」

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🔵田村=ベアテさんの生涯

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1923(大正11)年リストの再来と言われたロシアの国際的ピアニスト、レオ・シロタ氏の娘としてウィーンに生まれたた。

1929年、5才の時、山田耕筰の招きで東京音楽学校(現・東京芸大)に赴任した父とともに来日し、約10年間少女時代を乃木坂で過ごし、日本の女性が無権利状態に置かれていることをつぶさに見て育つ。

1939年、両親を日本に残し米カリフォルニア州の名門ミルズ大に留学。米国籍を取得した。卒業後、米誌タイムの助手として働き、終戦後の1945年末にGHQ付の通訳・翻訳官として再来日した。

1946年2月、民政局長ホイットニー准将の下、22歳の若さで日本国憲法起草作業に従事。第14条(「法の下の平等」)、24条(両性の平等)など人権に関する条項を書き上げる一方、案文をめぐる日本政府との折衝で通訳を務めた。

 1947年に離日。GHQの通訳だった男性と結婚し、長女のニコルさんらをもうけた。育児の傍らニューヨークのジャパン・ソサエティーなどに勤務、日米交流を進め、故市川房枝氏ら日本の女性リーダーとも広く交流した。

 ニューヨーク在住し、1996(平成8)年より度々来日、憲法起草での自身の役割を積極的に語り、日本の憲法は「歴史の英知」として戦争放棄をうたった9条を擁護する講演活動を日本全国で展開、その数200ヶ所以上に及んだ。

 1997年エイボン女性大賞受賞。6ヶ国語に堪能。

 2000年5月2日には国会(参院)の憲法調査会で意見陳述し、「日本国憲法は世界に誇るモデルだから50年以上も改正されなかった。他の国にその精神を広げてほしい」と訴えた。

 また、ニューヨークの日米交流団体「ジャパン・ソサエティー」などに勤務し、狂言の野村万蔵さん、版画家の棟方志功さん、茶道の千宗室さんらを米国で紹介。文化の橋渡し役としても活躍した。

 2004(平成16)年10月29日、「10・29輝け日本国憲法」集会(主催=同実行委員会)が、ゴードンさんを米国から迎えて東京・千代田区の九段会館で講演とシンポジウムが開かれ、会場には、約1,000人が詰めかけた。講演したゴードンさんは、経歴を詳しく語った上で、憲法草案制定会議のメンバーとなり、図書館を回って資料を集め、草案の女性の権利の部分をまとめ、現憲法の24条に残ったことや、1946年3月4日に民政局の運営委員会と日本政府代表の徹夜の極秘会談で通訳を務めたことなどを語り、「57年間も改正されなかったのは、いい憲法だから」「憲法9条は他の国もモデルと認め、まねしたらいい」と述べた。

 2012年12月30日、膵臓(すいぞう)がんのため、ニューヨーク市内の自宅で死亡した。89歳だった。ニコルさんによると、最期の言葉は日本国憲法に盛り込まれた平和条項と、女性の権利を守ってほしい、という趣旨だった。追悼の意を示したい場合は、作家の大江健三郎さんらが憲法9条を守ろうと活動を続ける「九条の会」への支援を求めている。

 2013年4月28日、ゴードンさんの追悼式が、米ニューヨークで行われた。

 ニューヨーク・フィルハーモニックのバイオリン奏者で、息子が同楽団の音楽監督を務める建部洋子さんはゴードンさんの力で奨学金を受け取り、ニューヨークで音楽を学ぶことができたと述懐。戦前、日本でゴードンさんの母親からピアノレッスンを受けたというオノ・ヨーコさんもビデオメッセージを寄せ、日本のアーティストを励ましてくれたことに感謝をした。

 また、ジャパン・ソサエティーの桜井本篤理事長が、ゴードンさんと交流があった皇后美智子さまから「戦後社会における日本女性の権利のためにゴードンさんが果たした役割を重視しており、その功績が日本で長年にわたって記憶されると信じている」とのメッセージが宮内庁の川島裕侍従長が寄せられたことを披露した。

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🔵ベアテさん作成の憲法の原案

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 家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、法の保護を受ける。婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎をおき、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の合意に基<べきことを、ここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、住居の選択、離婚並びに婚姻および家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定さるべきである。

妊婦と乳児の保育にあたっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。彼女達が必要とする公的援助が受けられるものとする。嫡出でない子供は法的に差別を受けず、法的に認められた子供同様に、身体的、知的、社会的に成長することに於いて機会を与えられる。

養子にする場合には、その夫と妻、両者の合意なしに家族にすることはできない。養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような偏愛が起こってはならない。長子(男)の単独相続権は廃止する。

公立、私立を問わず、国の児童には、医療、歯科、眼科の治療を無料で受けさせなければならない。また適正な休養と娯楽を与え、成長に適合した運動の機会を与えなければならない。

学齢の児童、並びに子供は、賃金のためにフルタイムの雇用をすることはできない。児童の搾取は、いかなる場合であれ、これを禁止する。

国際連合ならびに国際労働機関の基準によって、日本は最低貨金を満たさなければならない。

すべての日本の成人は、生活のために仕事につく権利がある。その人にあった仕事がなければ、その人の生活に必要な量低の生活保護が与えられる。女性は専門職業および公職を含むどのような職業にもつく権利をもつ。その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。同じ仕事に対して、男性と同じ貨金を受ける権利がある。

日本国憲法第24条(家庭生活における個人の尊重と男女平等)  

 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選択、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

「この世に生まれてざっと50年。私(日本国憲法)は一生懸命平和を守ってきました。あれから日本は一度も戦争を起こしていません。どうか私を誉めてください。私はまだまだ役に立ちます。どうか私を守ってください……それを決めるのは、主権を持った皆さんです」(GHQで英文の憲法草案が作られる過程《憲法に男女平等を書いたベアテ・シロタ・ゴードンさんを描いた》ジェームス三木脚本・青年劇場{真珠の首飾り}舞台の一場面から)

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🔵ベアテさんの国会での証言

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20005月、参院憲法調査会の参考人質疑で発言するベアテ・シロタ・ゴードンさん

第147回国会 参議院憲法調査会 第7号 2000(平成12)年5月2日(火曜日)

参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 

私は、ベアテ・シロタ・ゴードンと申します。

きょうは遠くから来た方もいると思います。しかし、私が一番遠いところから来たと思います。ニューヨーク市から来ました。憲法調査会が私を呼んでくださったことを大変光栄に思います。ありがとうございます。

そして、憲法調査会ときょうのお客様の間にこんなに多くの女性も参加しているのは本当にうれしいです。これは第2次大戦の前には考えられなかったことですので、55年の後にこのようなことが実際に起こるというのは夢みたいです。女性参議院議員43人が今活躍していることは、本当におめでたいです。アメリカのセナトよりずっといいです。アメリカで女性はセナトに9人だけです。ですから、日本の女性たち、おめでとうございます。

1945年の12月に、私はアメリカの軍属としてニューヨークから日本へ飛んできました。私は5年間日本を見なかったので、破壊された東京を見たときに心が痛みました。私はウィーンで生まれましたが、五歳半のときに家族と日本に移りましたので、東京はオーストリアのウィーンより私のふるさとでした。

私の両親は戦争中、軽井沢にいましたので、私はマッカーサー総司令部の仕事を始める前に軽井沢へ行きました。食料不足と燃料不足で苦労した両親は、私に戦争中の様子を教えてくれました。また心が痛かったです。2日間滞在の後は、私は東京へ帰ってマッカーサー総司令部の民政局に入って仕事を始めました。

私の最初の仕事は、女性政治運動そして小さい政党の運動のリサーチでした。そして、1カ月そこで勤めたころ、2月4日の朝10時に民政局長ホイットニー准将が私たちを呼んで、次のことを発表しました。あなたたちはきょうから憲法草案制定会議のメンバーになりました、これは極秘です、あなたたちはマッカーサー元帥の命令で新しい日本の憲法の草案をつくるのが任務です。これを聞いたのは20人ぐらいでした。みんな随分びっくりしました。

マッカーサー元帥は、その2月4日まで自分のスタッフにこの仕事を与えるつもりは全くなかったので、松本烝冶無任所大臣に何度も民主的な憲法の草案を頼みました。松本さんはいつも明治憲法と余りにも変わらない草案を書きましたので、最後にマッカーサー元帥はこの仕事をホイットニー准将に頼みました。

ホイットニー准将の発表が終わった後、ケーディス大佐が憲法草案の仕事を振り分けました。人権に関する草案は3人に与えられました。男性2人女性1人、その女性が私だったのです。

その後、3人で人権の草案についてはだれがどういう権利を書けばいいかと相談したときに、2人の男性が、ベアテさん、あなたは女性ですから女性の権利を書いたらどうでしょうかと言いました。私はすごく喜んで賛成しました。しかし、女性の権利のほかにも学問の自由についても書きたいと言いました。みんなで賛成して、私は間もなくジープに乗っていろんな図書館へ行っていろんな国の憲法を参考に集めました。この仕事は極秘だったので、1カ所の図書館だけに行ったら、図書館長がなぜ司令部の代表者はこんなにいろんな憲法に興味があるのか疑うといけないと思い、私はいろんな図書館に行きました。事務所へ帰ってきたら、みんながこの本を参考に見たがったので、私は引っ張りだこになりました。

マッカーサー元帥の命令ではこの憲法を早く書かなければなりませんでした。それで、私は朝から晩までいろんな憲法を読んで、何が日本の国に合うのか、または自分の経験で日本の女性にはどういう権利が必要であるかをよく考えました。

私は、戦争の前に10年間日本に住んでいましたから、女性が全然権利を持っていないことをよく知っていました。だから、私は憲法の中に女性のいろんな権利を含めたかったのです。配偶者の選択から妊婦が国から補助される権利まで全部入れたかったんです。そして、それを具体的に詳しく強く憲法に含めたかったんです。

例えば、最初の私の草案には次のことを書きました。

「家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定さるべきである。」。

ほかの条項には私は次のことを書きました。

「妊婦と乳児の保育に当たっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。彼女たちが必要とする公的援助が受けられるものとする。嫡出でない子供は、法的に差別を受けず、法的に認められた子供同様に、身体的、知的、社会的に、成長することにおいて機会を与えられる。」。

そしてまた、私は次の言葉を書きました。

「養子にする場合には、夫と妻、両者の合意なしに、家族にすることはできない。養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような偏愛が起こってはならない。長男の単独相続権は廃止する。」。

そのほかにも私は子供の教育の平等についても条項を書きました。

すなわち、「公立、私立を問わず、国の児童には、眼科の治療を無料で受けさせなければならない。また、適正な休養と娯楽を与え、成長に適合した運動の機会を与えなければならない。」。

そういう詳しい点を草案に含めました。

それで、カーネル・ロウストとプロフェッサー・ワイルズに私の草案を見せて、2人とも賛成して、次に民政局の運営委員会と私たちのコミッティーの会議があったときに、それを推薦しました。

その運営委員会には3人がいました。カーネル・ケーディス、ケーディス大佐ですね、コマンダー・ハッシーとコマンダー・ラウエル。みんな弁護士であってみんな男性でありました。

そして、その男性は、私が書いた草案にあった基本的な女性の権利に賛成しましたが、私が書いた社会福祉の点について物すごく反対しました。そういう詳しいものは憲法に合わない、そういうものは民法で決めなければならないというようなことを私に言いました。私はがっかりして、こういう社会福祉の点を憲法に入れなければ、民法をつくる男性はそういう点を絶対民法に入れないと私は言いました。

ケーディス大佐は、あなたが書いた草案はアメリカの憲法に書いてあるもの以上ですよと言いました。私は、それは当たり前ですよ、アメリカの憲法には女性という言葉が一項も書いてありません、しかしヨーロッパの憲法には女性の基本的な権利と社会福祉の権利が詳しく書いてありますと答えました。

私はすごくこの権利のために闘いました。涙も出ました。しかし、最後には運営委員会は私が書いた条項から次の言葉だけ残しました。すなわち今の第24条、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」、それだけが残りました。

ホイットニー准将がこの草案を日本の政府に渡したときには、私が一番最初に書いた基本的な女性の権利についての言葉がまだ入っていました。すなわち、「結婚と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく、相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく、両性の協力に基づくべきことをここに定める。」、日本の政府は、その「親の強制ではなく」と、「かつ男性の支配ではなく」という言葉をカットしたんです。

とにかく、私は運営委員会が私が書いた草案をあんなに縮めたということについてはもちろん随分がっかりしました。しかし、運営委員会が私みたいな若い者より、私はそのときに22歳でした。だからその運営委員会が私より随分権力を持っていたので仕方がないと思いました。一番基本的な権利が第24条に入っていることで、心が重たくても受け入れなければならないと思いました。

1週間の間に憲法の草案ができ上がって、民政局部長ホイットニー准将がマッカーサー元帥にそれを提出しました。その次にホイットニー准将は草案を日本の政府の代表者に渡しました。それで私たちの仕事が終わったと思いました。でも、そうではありませんでした。

3月4日にまた極秘の会議が開かれました。この会議に参加したのは民政局の運営委員会と日本政府の代表者でありました。

私もその会議に呼ばれたのは、草案を書いたからではなく、通訳として呼ばれました。通訳は5人いましたので、通訳部長はジョセフ・ゴードン中尉でした。1年半ぐらいたった後、私はそのゴードン中尉と結婚しました。だから、憲法の草案の仕事からいろんな結果が生まれました。

10時に極秘会議が開かれました。会議が終わるまで部屋からは出られないことが命令されました。お食事もその部屋で食べなければならなかったんです。おいしくないアメリカの陸軍から出たCレーション、お肉などの缶詰と、そしてKレーション、これは乾物。そういう食事が出ました。

私は、会議が3、4時間で終わると思いました。しかし、最初からいろんな議論がありました。特に天皇制についての議論が長かったです。意味だけではなく、言葉の使い方、どういう字を使うか、全部議論になって、大騒ぎでした。日本側は、我々のつくった草案ではなく、日本政府がまた新しくつくった草案を基本にして、私たちは私たちでつくった草案を基本にして、それを比べるのは本当に複雑でした。日本側は英語がわからず、アメリカ側は日本語がわからないので、通訳の仕事はとても大変でした。日本政府が新しくつくられた憲法の条項を順番に翻訳しなければならず、そしてそれを運営委員会が読んで日本側に返答しなければならず、随分時間がつぶされました。

私は通訳が速かったので、アメリカ側と日本側の両方の通訳をしました。日本側は私によい印象を持ちました。運営委員会議長ケーディス大佐はそれにすぐ気がつきました。夜中の2時に男女平等の条項がまた大変な議論になったのです。日本側は、こういう女性の権利は全然日本の国に合わない、こういう権利は日本の文化に合わないなどと言って、また大騒ぎになりました。天皇制と同じように激しい議論になりました。もう随分遅く、みんな疲れていたので、ケーディス大佐は日本の代表者の私への好感をうまく使いたいと思いました。そして、こういうことを言いました。ベアテ・シロタさんは女性の権利を心から望んでいるので、それを可決しましょう。日本側は、私が男女平等の草案を書いたことを知らなかったので、ケーディス大佐がそれを言ったときに随分びっくりしました。そして、それではケーディス大佐が言うとおりにしましょうと言いました。それで、第24条が歴史になりました。

翌朝の10時まで通訳の仕事を続けました。24時間通訳の仕事をしました。ケーディス大佐はうちへ帰りなさいと言って、私は神田会館へ行きました。その日はよく寝ました。ジョセフ・ゴードン中尉は憲法の仕事を続けて、午後の6時まで働きました。いろんな詳しい言葉の使い方を調べました。

 さて、日本の国民は新しい憲法を喜んで受け入れました。日本の政府はそのときに余り喜ばなかったのです。日本の国民は、日本の憲法がマッカーサー元帥のスタッフによって書かれたということは知りませんでした。しかし、1952年に占領軍がアメリカに帰ったときに、ある日本の学者と新聞記者はそのことを知って、この新しい憲法は日本に押しつけられたものであるから改正すべきだと主張しました。

マッカーサー元帥が憲法を日本の政府に押しつけたということが言えますでしょうか。普通、人がほかの人に何か押しつけるときに、自分のものよりいいものを押しつけませんでしょう。日本の憲法はアメリカの憲法よりすばらしい憲法ですから、押しつけという言葉を使えないかもしれません。特に、この憲法が日本の国民に押しつけられたというのは正しくありません。日本の進歩的な男性と少数の目覚めた女性たちは、もう19世紀から国民の権利を望んでいました。そして、女性は特別に参政権のために運動をしていました。この憲法は、国民の抑えつけられていた意思をあらわしたので、国民に喜ばれました。

憲法草案に参加した我々は、この仕事について長い間黙っていました。一つの理由は、これが極秘であったからです。もう一つの理由は、次のような私の気持ちから出たものです。

憲法を改正したい人たちが私の若さを盾にとって改正を進めることを私は恐れていました。それだから黙った方がよいと思って、私は日本の新聞記者のインタビューを受けませんでした。5年前まで親しいお友だちにも何も話しませんでした。1回か2回だけ、1970年ごろ、ある学者に少しこの話をしました。

私は、私の若さについて一言申し上げたいと思います。

当時の22歳と今の22歳の人を比べれば、大きな違いがあります。私は、22歳のときに6カ国語をしゃべれました。私は、19歳半で大学を卒業しました。6歳のときからピアノとダンスを習いました。6歳のときからいろんなコンサート、オペラ、芝居などを日本で見ました。第2次大戦が始まったときにアメリカにいた私は、日本にいた両親から隔離されたので、1人でお金を稼いで生活しなければならなかったのです。19歳から22歳まで3年間、難しい翻訳、リサーチとジャーナリズムの仕事をしました。その上に、私の大学ミルズ・カレッジは進んでいた大学であって、フェミニズムがまだ流行ではないときにフェミニストでありました。私は、22歳のときにも世界を回ったことがあって、ヨーロッパとアジアのいろんな国に旅行しました。

私は、小さいときから日本の軍国主義を自分の目で見ました。私は、憲兵隊のことをよく知っていました。憲兵隊は、毎日私のうちへ来て、私の女中さんたちにいろんなインフォメーションを頼みました。

私は、6歳のときから日本の社会に入って、日本のお友達と遊んで、虐げられた女性の状況を自分の目で見ました。私は、奥さんがいつでも主人の後ろを歩くことを自分の目で見ました。

私は、奥さんがお食事をつくって、だんなさんとだんなさんのお友達にサービスして、会話には参加しないで、お食事も一緒にとらないで、全然権利がないことをよく知っていました。好きな人と結婚できない、離婚もできない、経済的権利もない、それもよくわかりました。

家庭の中では女性が力を持っていることも知っていました。女性は、子供の教育と主人がうちへ持ってきた給料をコントロールしていました。それも私は知っていました。ですから、私は、22歳のときに何にも知らない小娘ではありませんでした。

ある方は、この憲法は外から来た憲法であるから改正されなければならないと言います。日本は、歴史的にいろんな国からずっと昔からよいものを日本へ輸入しました。漢字、仏教、陶器、雅楽など、ほかの国からインポートしました。そして、それを自分のものにしました。だから、ほかの国から憲法を受けても、それはいい憲法であればそれでいいではないですか。若い人が書いたか、年とった人が書いたか、だれがそれを書いたということは本当に意味がないでしょう。

いい憲法だったらば、それを守るべきではないですか。

この憲法は50年以上もちました。それは世界で初めてです。今まではどんな憲法でも40年の間に改正されました。私は、この憲法が本当に世界のモデルとなるような憲法であるから改正されなかったと思います。

日本はこのすばらしい憲法をほかの国々に教えなければならないと私は思います。平和はほかの国々に教えなければなりません。ほかの国々がそれをまねすればよいと思います。

1999年の5月15日に……

少しだけ、それじゃ一番最後のことを済みませんですけれども言いたいと思います。

私は、日本の女性をすごく尊敬しています。日本の女性は賢いです。日本の女性はよく働きます。日本の女性の心と精神は強いです。

私は専門家ではありません。私はシロタと申します。けれども素人でございます。私はお母さんでありおばあさんです。だから、私は子供と孫の将来について心配しています。平和がないと安心して生活ができないと思います。私は外人ですから、皆様日本人は私の声を聞かなくてもいいと思います。私は日本で投票できません。

しかし、日本の女性の声を聞いていただきたいのです。私の耳に入っているのは、日本の女性の大数が憲法がいい、日本に合う憲法だと思っているということです。

日本の憲法のおかげで日本の経済がすごく進歩しました。武器にお金を使わないで、そのお金をテクノロジー、教育、建築などのために使って、日本が世界の中で重要なパワーになりました。隣のアジアの国々も日本について安全な気持ちを持っています。日本の女性はそれをよくわかっています。

だから、私は一つのお願いがあります。日本の女性の声を聞いてください。

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🔵東京新聞のベアテさんインタビュー

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日本国憲法の「男女平等」を起草した ベアテ・シロタ・ゴードンさん(2007年5月1日配信『東京新聞』)

 このインタビューは二〇〇四年四月二十日、ニューヨーク・マンハッタンのベアテさんの自宅で行われました。

ベアテさん=1923年、ウィーン生まれ。29年、作曲家・山田耕筰の招きで東京音楽学校(現・東京芸大)に赴任したピアニストの父、母とともに来日。少女時代を東京・乃木坂で過ごす。39年、米留学。卒業後、米タイム誌リサーチャーなどを経て、45年、GHQ民政局スタッフとして再来日。日本国憲法の人権条項起草にかかわる。著書に「1945年のクリスマス」(柏書房)など。ニューヨーク在住。

 Q憲法にどんな思いを込めましたか? 

 3日で施行60年を迎える日本国憲法。日本女性の地位向上の願いを込めて男女平等条項を起草したのは、GHQ民政局のベアテ・シロタ・ゴードンさんでした。記者が以前、自宅を訪ねて行ったインタビュー内容を、歴史の貴重な証言として紹介するとともに、施行60年にあたってのメッセージを寄せてもらいました(記者・豊田洋一)。 

地位向上願い 権利を女性に

 豊田 なぜ憲法草案起草にかかわることになったのですか。

ベアテ 私は一九四六年の一月から、連合国軍総司令部(GHQ)民政局行政部の政党課でリサーチャーとして日本女性の政治運動や小政党を調査していました。二月四日、民政局長のホイットニー准将が私たち局員を呼んで「マッカーサー元帥から憲法草案をつくるよう命令がありました」と伝えたのです。当時、政党課にはロウスト中佐、ワイルズ博士と私の三人がいて、行政部長のケーディス大佐は私たち三人に「人権のことを書きなさい」と割り振りました。草案は一週間でつくらなければなりません。三人で分担することにして、ほかの二人が私に「あなたは女性だから、女性の権利を書けばいいのではないですか」と言ったのです。

 豊田 どんな気持ちで引き受けましたか。

 ベアテ 憲法草案を書くなんて思っていなかったから、最初はびっくりしましたが、女性の権利を書くことになり、すごく喜びました。私は五歳半から十五歳半まで日本にいて、当時の日本女性には権利が全然なく、その苦労を詳しく知っていましたから、女性にもいろんな権利を与えたいという気持ちで草案づくりを始めました。憲法の専門家でない私は、いろんな国の憲法を参考にしようと、ジープに乗って東京の図書館を回り、本を借りてきました。草案づくりは極秘で、一カ所だけ行くとよくないと思い、三カ所で十か十一の憲法を見つけ出して事務所に戻ったのです。

 豊田 草案づくりでは、どんなことを重視しましたか。

 ベアテ 集めてきたスカンディナビアや、ワイマール、ソ連の憲法には女性の基本的な権利だけでなく、社会福祉の権利もちゃんと書いてあったので、憲法にこれを入れたいと思いました。民法を書くのは、官僚的な日本男性ですから、憲法にちゃんと入れないと、民法にも入らないと思ったんです。民法を書く人が縮められないよう草案に詳しく書きました。

 豊田 そのまま草案になったのですか。

 ベアテ ケーディスは「ベアテさんは日本女性のために、米国憲法以上の自由を書きましたね」と言ってくれましたが、「基本的な男女平等はいいが、社会福祉は憲法には合わない。そういうものは、民法に書かなければいけない」と認めてくれません。私、泣いちゃったんですよ。反論したんですが、まだ二十二歳の私には大佐ほどの力はなく、戦ってもどうにもならない。不満でしたが、基本的権利にとどめることを了承しました。

 豊田 日本側はGHQの草案をすんなり受け入れたのですか。

 ベアテ 日本政府には「これを基本に日本の憲法をつくってください」と草案が渡されていました。一カ月後、日本政府代表者とGHQとの会議があり、私は通訳として呼ばれました。会議は午前十時から始まり、すぐに私たちの草案を議論しているんじゃないことが分かりました。日本側は全く違う憲法案をつくってきたのです。ですから、日本側の案を英訳したり、ケーディスの返事を日本語に訳したり、議論があっちこっちに飛んで進みません。そうしたら、(当時外相だった吉田茂元首相の側近)白洲次郎さんが、書類をテーブルに置いて、どこかに行ってしまいました。それは私たちの草案の日本語訳でした。ケーディスは、この草案をベースにしようと言い、それ以降、議論が少し楽になりました。

 豊田 その後、議論は順調に進みましたか。

 ベアテ それでも天皇制は、ずいぶん時間がかかりました。日本側は天皇の権限を強くしたかったし、私たちは弱くしたかった。四、五時間はその議論だけでした。でも、私たちは部屋から出られません。陸軍から出された缶詰をそこで食べて、議論を続けました。

 豊田 ベアテさんの男女平等はどうでしたか。

 ベアテ 翌日の午前二時ごろ、男女平等の条項が(議題に)出てきました。日本側は最初「これは日本の歴史、文化に合わない。憲法には入れられない」と言ったので、激しい議論になりそうでした。でも、ケーディスはこう言ったんです。「女性の権利はシロタさんが書きました。通しましょう」。日本側はそれを聞いてびっくりしたと思いますが、私は通訳が早く、日本側からも信頼されていたので、日本側も最後には男女平等を受け入れてくれました。

 豊田 九条の戦争放棄規定は問題にならなかったのですか。

 ベアテ それはマッカーサーが「入れなければならない」と、最初から命令していたので、日本政府代表者との協議では全然、議論にならなかったと思います。ただ、ケーディスは亡くなる前、私に「九条の最初の草案には、侵略戦争だけでなく、自衛戦争もやってはいけないと書いてあったが、自分が消した」と言っていました。彼は、どの国でも自衛権はあると思っていたんです。戦争放棄条項はマッカーサーかホイットニーか、誰が書いたのかは分かりません。でもケーディスが自衛戦争の放棄を消したことは確かです。

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🔵Wiki=ベアテさんと日本国憲法

(Wiki=ベアテの生涯の憲法の部分抜粋)

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GHQ民生局に戦前日本に滞在した経験をもち、日本語が分かるタイムズ記者ベアテさんは赴任。民生局から憲法草案作成の命令を受けた後にベアテ・シロタが最初にとった行動は、都内の図書館に出かけて各国の憲法について書かれた資料を借り出すことだった。 流暢な日本語とタイム誌で培われたリサーチャーとしての能力がここで威力を発揮し、ベアテが収集した大量の資料は他の草案作成のメンバーにも重宝がられ、わずか22歳のベアテの名は民政局内で有名になった。

3名で構成された人権小委員会でベアテが担当したのは、社会保障と女性の権利についての条項であった。 とりわけ「女性の権利」については、当時の世界の憲法において最先端ともいえる内容の人権保護規定をベアテが書いた。アメリカ合衆国憲法には、60年経過した現在も「両性の本質的平等」にあたる規定が存在せず、彼女の草案が画期的であり、見方を変えれば急進的であったことがうかがえる。

ただ、その詳細にわたる記述は、主に運営委員会・ケーディス大佐の反対で大半が削除される。 ベアテが考えた人権規定の精神は、現行憲法では第24条、第25条、第27条に生かされることになった。ベアテの草案の一部は、次の通り。

19 妊婦と幼児を持つ母親は国から保護される。必要な場合は、既婚未婚を問わず、国から援助を受けられる。非嫡出子は法的に差別を受けず、法的に認められた嫡出子同様に身体的、知的、社会的に成長することにおいて権利を持つ。

20 養子にする場合には、その夫と妻の合意なしで家族にすることはできない。養子になった子どもによって、家族の他の者たちが不利な立場になるような特別扱いをしてはならない。長子の権利は廃止する。

21 すべての子供は、生まれた環境にかかわらず均等にチャンスが与えられる。そのために、無料で万人共通の義務教育を、八年制の公立小学校を通じて与えられる。中級、それ以上の教育は、資格に合格した生徒は無料で受けることができる。学用品は無料である。国は才能ある生徒に対して援助することができる。

24 公立・私立を問わず、児童には、医療・歯科・眼科の治療を無料で受けられる。成長のために休暇と娯楽および適当な運動の機会が与えられる。

25 学齢の児童、並びに子供は、賃金のためにフルタイムの雇用をすることはできない。児童の搾取は、いかなる形であれ、これを禁止する。国際連合ならびに国際労働機関の基準によって、日本は最低賃金を満たさなければならない。

26 すべての日本の成人は、生活のために仕事につく権利がある。その人にあった仕事がなければ、その人の生活に必要な最低の生活保護が与えられる。女性はどのような職業にもつく権利を持つ。その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。同じ仕事に対して、男性と同じ賃金を受ける権利がある。

また、現行憲法第24条の下敷きとなった草案全文は次のようになっていた。

18 家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統はよきにつけ悪しきにつけ、国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは法の保護を受ける。婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然である。このような考えに基礎をおき、親の強制ではなく相互の合意にもとづき、かつ男性の支配ではなく両性の協力にもとづくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それにかわって配偶者の選択、財産権、相続、住居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定されるべきである。

また、憲法第14条一項(法の下の平等)草案もベアテが起草している。

ベアテが参考にした各国の憲法条文は、次の通り。

ワイマール憲法・第109条(法律の前の平等)、第119条(婚姻、家庭、母性の保護)、第122条(児童の保護)

アメリカ合衆国憲法・第1修正(信教、言論、出版、集会の自由、請願権)、第19修正(婦人参政権)

フィンランド憲法(養子縁組法)

ソビエト社会主義共和国連邦憲法第10章・第122条(男女平等、女性と母性の保護)

ロシア語も堪能なベアテがいたために、最終的にはカットされた「土地国有化」の条項がソ連憲法から草案に取り入れられた、と考えられる。

34日から始まったGHQ案を日本語に翻訳する作業でも、ベアテの日本語の能力は、アメリカ側にも日本側にも印象づけられる結果となる。 ベアテは制約が多く意味が深い日本語(「輔弼」など)のニュアンスをアメリカ側に伝え、時々は当時の日本の習慣について説明し日本側の見解を擁護したことで、日本政府の代表にも好感を持たれていた。

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🔵伊藤=ベアテさんロングインタビュー・日本国憲法の誕生の部分のみ

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全文は

http://www.shinyawatanabe.net/atomicsunshine/BeateSirotaGordon/interview

伊藤 それでは次に、「GHQと憲法草案」についていろいろとお話しを聞かせて下さい。ベアテさんは、当時22歳だったわけですが、その若い女性が憲法草案に関わっていたことを口実に、日本国憲法の価値が失われてしまうことを懸念して、戦後ずっと口を閉ざされていたんですよね?

ベアテ そうです。1993年に、ケーディス大佐と一緒に来日しました。その時に初めて、いろんな日本人達と自由に「憲法」について話すことができました。

伊藤 なるほど。

ベアテ 日本人だけじゃなく、アメリカ人ともね。でも、日本ではそれが初めてだったんです。それがケーディス大佐がテレビ出演した最初です。その時に誰かが質問しました。「ケーディス大佐、女性の権利についてどうぞ何かお話し下さい」と。ケーディスさんは「ミセス・ゴードンの方がそれについては詳しいですから、あの方に聞いてみて下さい」と答えました。そのやりとりは、私の本に書いてありましたか?

伊藤 はい、書いてあったと思います。

ベアテ それから私の家へ来て、それで始まったんです。ケーディスさんの言うことは、私は常にしなければならないと思ってました。とても尊敬していましたから。泣くこともありましたけど。でも、あの人はとても優秀なブレインだったんです。そのことを日本の国民は知ってますか? ケーディス大佐が「Occupation(占領期)」の本当の中心人物だったってことを。

伊藤 いいえ。僕らが歴史の教科書で習うのは、最高司令官だった「マッカーサー将軍」のことくらいです。

ベアテ 中心はケーディス大佐です。

伊藤 先ほどのテレビ出演時にケーディス大佐が言っていたことですが、ベアテさんが女性の権利を含め「Human Rights(人権)」に関する条項を書いていた時に、そのやりとりの最中でベアテさんの上司のローストでしたか?

ベアテ いいえ、ルーストです。あの人の名前は「ルースト」なんです。日本の本では「ロースト」って書いてありますが、本当はそうじゃない。あの人はオランダから来たんですが「ROEST」です。ドイツ語の「ウムラート」みたいなものです。「ウ」が「ウュ」になるみたいな。「Röe」で、ルースト。

伊藤 なるほど、そうだったんですね。そのルーストとケーディス大佐とのやりとりが本の中でも出てきますよね? それで、どの条文のやりとりの時だったか忘れてしまったんですが、ルーストがある条文を「Forever No Change(永遠に変えられない)」にしようと提案したところ、ケーディス大佐が「次の世代が自分たちで問題を解決する為の権利を、我々の世代が奪ってしまうことになる。だからそういう文言はない方がいい」と言ったそうですが、そのやりとりは覚えていますか?

ベアテ そのことは覚えていません。でも、多分そう言ったでしょうね。

伊藤 マッカーサーも同じようなことを言っていて、「永遠に変えられないというのは良くないから、それは次世代が考えればいい」と。

ベアテ それはそうでしょう。

伊藤 今日本で話題になっている「日本国憲法改正」の政治的議論とは別にして、GHQが憲法草案を作った後は、やはり日本人自身が考えて、日本の次世代が試行錯誤して時代にフィットするようするべきだと、ベアテさんを含めたGHQの人達はそう思っていたんでしょうか? 要するに、詳細については変えたければ変えればいいと。

ベアテ そうね。私は、そういうことについては考えていませんでした。

伊藤 考えていなかった?

ベアテ 本当にあまり時間がなかったんです。草案を作った後は、もうそれでfinished。最終的には、いろんな文字とかはいろいろと変わりましたでしょ? ジョーがそのことはまだ続けて。その後も、それが日本の議会に行ったでしょ? だから、私はもうフォローしていなかったですね。それが今後どうなるかについては。そんなに大幅な変化はできないということは分かっていましたから。

伊藤 それでは、日本の議会中に議論され、新しく追記された『生存権』(第25条)についてはご存知ですか?

ベアテ 「生存権」って何ですか?

伊藤 何て説明すればいいですかね。「森戸辰男」という議員が、議会の中で「全ての国民に最低限度の生活を保障する」という権利を提案して、それが新しく追記されたんです。他にも、例えば『義務教育』の条項について、確かGHQの草案では小学校の「6年制」だったものが、今で言う中学校も入れて「9年制」を義務教育にしようという議論が起こったんです。そうやって、少しずつ憲法を修正したみたいなのですが、基本的にベアテさん達は草案作成後のフォローはしなかったってことですか?

ベアテ あまりしませんでした。「追補」のことですごく忙しくて、それもとても難しいものだったですから。

伊藤 そうですよね。

ベアテ 日本政府がちゃんとそのリストを作ってくれて、それを全部調べなければならなかった。いろんなことがあったんですよ。私達はそれを証明しなければならなかったので、とてもたくさんすることがあったんです。私が帰国するまでの間に。今からすれば、一生懸命草案を作った後の結果がどういうものであったのかに興味を持つと思うでしょうけど。でも、私はとても楽観的な人だったから。もうこれで大体良いんじゃないかと思ったんです。だから、アメリカへ帰ってから後は、もう本当に・・

伊藤 仕事や子育て生活でしたよね?

ベアテ そう、違う生活がありました。憲法草案を作るというのは、わずか一週間ちょっとのことだったんです。それは夢みたいな特別な時間だった。私にとっては、生きている間で一番ハイテンションな時間でした。

伊藤 なるほど。

ベアテ その一週間というのは、そうね……。「民主主義」の根を他の国に、少し前までは敵だった国に対して、全然敵とは思わないで、本当に心からこうみんなが一生懸命に作成しました。私だけじゃないですよ。みんなそうだったんです。20人くらい。まぁ、23人はもちろんそうじゃなかったかもしれないけど。大体そういう雰囲気だったんです。

伊藤 これはすごく質問の仕方が難しいのですけれど。いいですか?

ベアテ いいですよ。

伊藤 僕らの世代は、日本国憲法が「アメリカから押しつけられた」と日本の政治家が言っているのを聞いても、まるで実感はないですし、今まで60年間以上も存在していたというその事実の方が大事なことなので、もしそうであっても、それならそれでいいのではないかとも思っているんです。とはいえ、僕が逆に知りたいと思ったことは、例えばもしも、あの当時ベアテさんみたいな人がいなかったとして、もしもいわゆる「戦勝国」的な視点で憲法を作ったとしたら。「戦勝国」って分かりますか?

ベアテ はい、「the victor」のことですね。

伊藤 そうです。簡単に言えば、戦勝国として日本をアメリカの都合のいいように憲法を作ろうと「もし」していた場合

ベアテ もしも

伊藤 どこが具体的に違う憲法になっていたと思いますか? ベアテさんの本にも、戦勝国が都合よく作ったのではなく、ピュアなマインドを持っていたからこういう憲法になったと書いてありました。僕もいろいろ調べる中で、基本的には今はそう思っています。でもそうじゃない人達が作ると、どうなっていたということなのでしょうか? 例えば、条文で言えば具体的にどの箇所が違っていた可能性があると思いますか?

ベアテ 例えば、他の連合国の人達は「天皇」については辞めた方がいいと思っていましたね。それが一つ。もう一つは、あの当時には私が書いた「女性の権利」のような条文は他の国にはそんなになかったんです。アメリカ人の男性もそれほど進歩的ではなかった。だから、あの当時は考えてなかったけど、私じゃなくてもしも男性がそれを書いていれば、全然こういう憲法にならなかったでしょうね。

伊藤 確かにそうですね。

ベアテ 他の女性で同じようなものを書いていたとしたら、多分私みたいに世界中を見てた人だったと思いますよ。私は若かったけれども、アジア、ヨーロッパ、いろんな国へ行ってたでしょ? コスモポリタンだったんです、私は。だから、もしそういう人でなければ、あまり強くその権利について書いてなかったでしょうね。多分、その他の条文についても。例えば『Civil Rights(市民権)』。アメリカ人ですごい本を書いた人知ってる? ええと、ジョン・ダワー教授の『Embracing Defeat(敗北を抱きしめて)』。あの人が言った通り、「Civil Rights」の章は大体がその当時の一番進歩的な憲法だった。きっと今もまだそうでしょう。

伊藤 はい。

ベアテ もちろん、そういう人達は当時はそんなにいませんでした。だから、ちょうどあの「Government Section」の20人の間にそういう同じ意見を持った人達が随分いたからこそ、こういう憲法になった。他の人達が書けば、いろいろと違うものになる。おそらく「平和条項」の箇所もあれではなかったでしょうね。でも、私は映画監督のジャン・ユンカーマンさんとは同じ考えではないです。昨日、ジャン・ユンカーマン監督が言っていたのは、平和条項は総理大臣だった幣原喜重郎さんが考案したという説。そういう噂もあるんです。でも、私はそうは思わない。幣原さんみたいな人は、どうしてもそういう考え方はできない。軍閥からはそういう発想は出て来ない。だから、きっと随分違ったものになっていたでしょう。でも、あのマッカーサーが。いえ、あなたの質問を聞きましょう。

伊藤 ありがとうございます。今日は『9条』に焦点をあてるつもりはあまりないのですが、ユンカーマン監督が言うように、9条を誰が考案したのかについてはいろいろな説がありますよね? 実際は、誰があれを考えたのだと思っていますか?

ベアテ 私も本当に知りません。ケーディスさんにも聞きました。ケーディスさんは、多分マッカーサーが書いたか、もしくはハッシーがそれを書いたかもしれないと。何かそのセンテンスの文章の感じが、ちょっとハッシーらしいんですって。しかし、それを手で書いたのはホイットニーの筆跡か。マッカーサーとホイットニーの筆跡は

伊藤 すごく似ていたっていう

ベアテ そう、筆跡が随分似ていたんですって。だから本当に分からないんです。私は、ずっとケーディスさんが書いたものだと思ってたんです。でも「そうじゃない」と彼が言いました。出てきたものを「直しただけ」と言いました。「Defense(防衛)」の文字のことです。ケーディスさんが私に直接言いました。「自国がDefenseするのもいけないと書いてあった。それを自分が削除した」と。だから誰にも分からない。戦争放棄の思想がマッカーサーの頭の中にあったのか。マッカーサーは、本当は進歩的な人ではなかったと思います。あの当時、私達みんなが思っていたのは、おそらく彼は次期アメリカ大統領になりたいと思っているってこと。GHQにいた人達はみんなそう思っていたの。あの人は、歴史の為にも、そして大統領になる為にも「日本にとって良い憲法を残せれば、アメリカ国民も選挙の時に自分に投票するだろう」と考えていると私達は思っていたんです。

伊藤 なるほど。

ベアテ マッカーサーはあの当時は何も言わなかったけど、大体のアメリカ人は陸軍出身の人を大統領にするのが嫌いなんです。アイゼンハワーは大統領になりましたが、大統領になる前に陸軍を辞めて、コロンビア大学の学長になってるんですよ。

伊藤 そうだったんですか!

ベアテ それで、それを二年か何かやったんですよね。そうしたらみんなが忘れるでしょう? 陸軍のことを。そういう考え方。アイゼンハワーは一度「民間人」になった。だからみんながアイゼンハワーの為に投票をしました。そういうこともマッカーサーの頭の中には入っていたかもしれません。

伊藤 そんな考え方もあるんですね。

ベアテ でもそれが本当にそうであったのか、そうではなかったのかということは誰にも言えない。マッカーサーはもう亡くなりましたから。いろんな人達がいろんなことを言っているでしょ? でも私には考えられないんです。幣原さんみたいな方が

伊藤 そのような「戦争放棄」への思想があるなんてことが

ベアテ そうそう。松本烝治(元国務大臣)さんだって憲法を書いた時には、全然民主的なことは書けなかった。

伊藤 そうみたいですね。

ベアテ 幣原さんは松本さんよりも良かったかもしれませんけど。

伊藤 比べたらということですね?

ベアテ そう、比べたら。でも、私にはどうしても思えない。だって、私の幼い頃の思い出は、戦前の日本は本当に軍閥の国でした。ずっとそうだった。私は幣原さんのことはあまり知らないんですよ。でも、いろいろと聞きました。そういう話もちょっと出てきたのかもしれません。 幣原さんとマッカーサーは、何かそのことについて少し話したのかもしれません。I dont know. でも、あなた達はどう思うんですか? 幣原さんみたいな人達のことを。良い人だったのかもしれません。私は幣原さんのことは大分忘れてしまいました。近衛文麿さんのことならまだ私は覚えているけれど。でも、どうしても、幣原さんがそういうアイディアがあったとは思えないんです。

伊藤 実際に彼らとの面識があるベアテさんの実感がお聞きできただけでも良かったです。そんなに「いろいろな説」があったということさえも、僕らは学校では習いませんので。

 ところで、この資料見えますか? 英語で「SWNCC」っていう綴りの「スウィンク」っていう組織です。

ベアテ ええ、知っています。

伊藤 資料に『SWNCC228』というのがありますが、そもそもこれが何かが分からなくて。教えてもらえますか?

ベアテ スウィンク(SWNCC)はね、「State, War, Navy」。 Sは「State Department(国務)」。 Wは「War Department(陸軍)」。Nは「Navy Department(海軍)」です。その後は何でしたっけ?

伊藤 CC」と続いています。

ベアテ ああ、何かの「Committee」みたいなものかもしれません。

伊藤 分かりました。これはベアテさん達の民政局の資料の中でも、重要な資料として存在していたんですか?

ベアテ ケーディスさんが関係ある人達には見せていました。だって、SWNCCはアメリカの政府だったから。

伊藤 SWNCCの資料というのは、アメリカ政府からの「ディレクション」ということになるのですか?

ベアテ そう、ディレクションです。

伊藤 なるほど。これは何です?

ベアテ この人達はね、SWNCCの人達というのは、もちろんマッカーサーよりも上に位置します。ワシントンにいますから。でも、そこからいろいろなディレクションがあったんです。私はよく覚えていませんけど。手元には彼らが何を言ってたかっていう資料がありますか?

伊藤 いえ、今はないです。ただ、本の中にGHQ以外のいろいろな組織が登場してきて。『SWNCC』の他にも『JCS』とかですね。

ベアテ Excuse me?

伊藤 JCS」です。日本語で言うと「統合参謀本部」ですかね。これも多分、アメリカに本部があったものだとは思うんですが

ベアテ Far Eastern Commission』ですか?

伊藤 いえ、違いますね。

ベアテ ちょっと待ってて下さい。Ill ask my husband.(主人に聞いてくるわね)。

(中断)

ベアテ さっきの答えが分かりました。私が言った通り、主人は忘れない。SWNCCの「CC」は、「Coordinating Committee(調整委員会)」でした。そしてJCSは「Joint Chiefs of Staff」。意味は、このSWNCCに勤めていた一番上の人達は、みんなが「Chiefs of Staff」なんです。その一番上の人達が一緒にやる時が「Joint」で、JCSです。

伊藤 なるほど、なるほど。

ベアテ 分かりましたね?

伊藤 はい、分かりました。僕が混乱するのは、日本で憲法の話になると「押しつけ」かそうでないかとなって、結局その話に集約されてしまうことが多いことです。

ベアテ ええ、知ってますよ。

伊藤 これは僕の勝手な推測ですが、なぜ「押しつけ憲法」という議論になるかと言ったら、やっぱり『9条』の存在があるからで、要はさっきもお聞きしたように、もしもベアテさん達みたいな人じゃない人達が憲法を作っていたとしたら、戦勝国としてアメリカの都合の良いように作ろうとしていた場合も、同じように『9条』が入っていたんじゃないかと思っている人が多いと思うんです。言っている意味は分かりますか?

ベアテ ええ、もちろん。

伊藤 つまり、戦勝国として「軍事力を持たせない」という意図と、そもそも「戦争が二度と起きて欲しくない」と一般の日本人の平和への想いは、お互いにルーツは違うけれども、憲法として出来あがった時には結局同じような条文として表現される。勝った国が負けた国に対して「軍事力を持つな」と言うことと、僕ら日本人が「やっぱり戦争は嫌だ」と思うことの違い。その棲み分けがうまくできなくて、僕はいつも混乱してしまうんです。

ベアテ ええと、その場合はそうですね。どういう風になるか。他の人達はどう思うか

伊藤 まあ、難しい質問ですよね。

ベアテ 難しいですよ、これはとても。みんなが私に言うのは、多分私達が草案を作っていなければ、他の人達が憲法を書いていたなら、あんまり良い憲法にはなっていなかったでしょうということ。あなたが言う通り、普通は戦勝国が自分の為に利用したいと思うでしょう。しかしあの時はちょうど、マッカーサーと国はそういう考えではなかった頃です。少なくとも、私達が憲法を作った時には、そういう考え方はあまりなかった。けれど、それから数ヶ月後に「Cold War(冷戦)」が始まった時には変わったと思います。アメリカでも。だから、もう少し後に憲法を作っていたら、多分もっと違うものになっていたでしょうね。アメリカの為の、戦勝国の為のものに。

伊藤 もしも「時期」が違っていたらということですね。

ベアテ 私はそう思います。確かにそうでしょう。でもあの憲法草案時は、それがまだだったの。これは全部ロシアについてのことですよ。

伊藤 はい、分かってます。

ベアテ Cold Warはすぐに始まったじゃない? 始まったのは、トルーマン大統領のあの有名なスピーチをした時。

伊藤 はい、そうでしたね。

ベアテ 確かすぐ後だったと思います。その時期を正確に知りたいですか? 主人が知っているかもしれない。

伊藤 いえ、大丈夫です。

ベアテ そうね。調べることできるものね。ところで、土井たか子先生が私に言ったことは興味がありますか?

伊藤 もちろん聞きたいです。

ベアテ 聞きたい? 私が土井先生と一緒にイベントに出演した時のことです。私は「土井先生、あなたと同じイベントに出るのは私はとっても恥ずかしいです。だって、あなたは憲法の研究者で、Professorです。私は本当に法律の素人です。本当に素人なんです」って言いました。

伊藤 確かにそうですけど、そこまで恥ずかしがらなくても(笑)。

ベアテ 「私は弁護士じゃないですから」とも言ったんです。そうしたら土井先生が言ったのは「あなたが弁護士じゃなかったから、こういう女性の権利について書くことができたんだと思います。もし弁護士だったら、たった9日間でこういうものは書けない。この意味はこうでとか、この権利はどうでしょうかねとか言って、とても大騒ぎになって書けなかったと思う。あなたの条文を読むと、それが心から出てきたっていうことが分かります。あなたが心から書いたものだから、弁護士みたいな他の人には書けなかった」と言ってくれました。土井先生の指摘は、本当にそうだと思ってます。私は本当に心からあの権利を望んでいました。だから、土井さんの話を聞いた時、私は思わず泣いてしまいました。でも、日本人だったら、偉い人の前で泣くのは駄目なことでしょう?

伊藤 そうですね。

ベアテ 私は「そういう気持ち」も全部日本から教わったんですよ。日本の習慣では、子供を産む時でさえ女性が「ああ~ッ」とscreamしちゃいけなかったんです。でも、最初にアメリカで子供を産んだ時、私はscreamしちゃいました。「scream」って分かりますか?

伊藤 はい。叫んじゃったんですね(笑)。

ベアテ 私の夫はベッドの傍にいて、私が「あら、今screamしてしまったでしょ?」って聞いたら、夫が「構わないですよ。ここにはいろんな女性がいますが、みんなscreamしてますから」って。でも、私は「それはみっともないことだと思います」って言ったの。その時、ちょうどお医者さんが入って来て、夫が「ベアテは、今とってもナーバスになっています。それはscreamしたからです」と伝えると、お医者さんも「私はあなたの為にメダルを持って来てたんだけど、screamしちゃったんならあなたにメダルはあげられないね」って。

伊藤 そう言ったんですか(笑)。

ベアテ そう。そう言って笑ってるの。夫も笑っているんですよ。私は痛くてしょうがないのに(笑)。だから、私は「なぜ笑ってるんです?」って言ったら、お医者さんが「泣いた方いいですか?」って。まあ、やりとりはそれで終わりで、その後出産するんだけど、とにかく当時の私は本当に日本人みたいな考え方だったんです。

 だから「女性の権利」については、本当に心から望んでいました。多分、他のアメリカ人だったら同じ気持ちにはならなかったでしょう。特に男性はね。アメリカ人も、当時の男性はそんなに進歩的ではなかったですからね。それは土井先生が言う通りです。でも、その考えがそんなに進歩的なことだとは私は思っていなかった。あたり前のことだと思っていましたから。確かに、他の国の憲法にもそういう条文が全部揃っているのはなかったけど、ある国の憲法にはある権利が書いてあって、別の国の権利条項には違うものが入っていた。それを、全て私は集めた。私の考えで、いろんな国から一番良いと思う権利をみんな「one constitution」に入れたんです。だから、日本のある専門家が言っていたのは、「GHQが全世界の叡智を調べて、それを日本の憲法に集約したみたいだ」って。アメリカの憲法とも違う。そう、ジェームス三木さんがそれを言っていました。「歴史のwisdom(知恵)がそこに入っている。だから、世界中が一緒に書いたみたいだ」って。私は本当にその通りだと思います。憲法を作った私達20人くらいの中には、1人か2人は法律の専門家だったんですけど、大体はそうじゃない普通の人達だった。先生とか役人とか、そういう人達。4人は大学の教授だった。他にも、普通のビジネスマンみたいな人が数人いて。社会のいろんな立場から来た人達が集まっていたんです。

伊藤 まさに、だからこそ、法律の専門家とは異なる柔軟な発想で、他国の憲法を集めてきては「これは良い条文」って素直に選択できたわけですよね?

ベアテ そう。だってね、誰も私達が憲法を作るなんて考えてなかったんですよ。全然考えていなかった。当初、マッカーサーは「日本の政府が書きなさい」って命令していたんですもの。でも、日本政府の案はあまりにも以前と変わらない憲法草案だったから。本当に明治の頃と同じ。ちょっとだけ違う漢字を使ったり、ちょっとだけ何か違う表現だったり。でも、何にも変わってなかったんです。『ポツダム宣言』には、民主的な憲法を「その国」が書かなければならないって書いてありました。それを命令していたの、マッカーサーに。でも、提案されてきたものは全く民主的な案じゃなかった。だから、憲法草案を作るとは思ってなかったところに、あの週末に突然決まったんです。金曜日か土曜日に。私達は月曜日に知りました。ケーディスさんも知らなかった。いや、彼はおそらく日曜日には知っていたのかもしれない。ホイットニーは、金曜日か土曜日には知っていたと思う。だって、マッカーサーはとてもホイットニーのことを

伊藤 信頼していた?

ベアテ そう。面白いのはね、マッカーサーの事務所はすぐ近くだったんです。私達のGovernment Sectionと。

伊藤 同じフロアじゃなかったんですか?

ベアテ 同じフロアどころか、隣のオフィスだった。ケーディスさんは、マッカーサーと二回だけ話をしたことがあったそうです。二回だけ。後は、全部ホイットニーを通してマッカーサーの耳に情報が入っていたみたい。

伊藤 そうなんですか!

ベアテ そう、たった二回だけ。だから、実際はケーディスさんからいろいろな考えが出ていた。彼の頭の中から。Government Sectionのことだけじゃなくて、他のセクションのことも。私から見ると、ケーディスさんが指導者だった。

伊藤 しかし、マッカーサーと直接話したのはたった二回だけとは驚きですね。

ベアテ 二回だけ。マッカーサーは私達にとっては「天皇陛下」みたいな存在だったんです。もちろん、ホイットニーとかウィロビーとかそういう人達は話をしていたみたいだけど。毎日、報告に行くものだと思っていたから、私もびっくりしましたよ。

伊藤 そりゃそうですよね。

ベアテ 実際は、全部ホイットニーを通して。でも、ホイットニーはとてもケーディスさんのことを好きだったの。彼が優れたブレインだっていうことを分かっていたんでしょうね。

伊藤 その話を聞いた後に聞くのも何ですけど、ベアテさんがマッカーサーと直接話すなんてことは

ベアテ 私はカクテルパーティで一回会ったことがあります。

伊藤 「会った」という程度なんですか?

ベアテ ええ。「会った」ってそれだけ。あの人は女性嫌いだったんです。特に事務所で勤めている人に対しては。彼の事務所には、全然女性はいなかった。男性だけです。

伊藤 じゃあ、隣のオフィスという距離なのに、ベアテさん達が会ったのはそのカクテルパーティのわずか一回というような関係しかなかったんですね。

ベアテ いつだったか、ちょうど私がエレベーターに乗ろうとしている時に、マッカーサーが食事から帰って来て、ロビーで見ました。でも、私は隠れました。会いたくなかったんです。怖かったですね、とっても。マッカーサーは怖かった。彼は、自分の奥さんのことは愛していたと思いますけど、女性に関して何かトラブルがあったみたいです、オーストラリアで。ある将軍が、自分のジープの女性ドライバーと情事があって、スキャンダルがあったんですよ。その後、マッカーサーは自分の事務所に女性は配属しないようにって命令したの。あっははは、いろんな面白い話を思い出しました(笑)。

伊藤 すごくリアルな話です。しかし、ケーディスさんでもたった二回なんて。それが本当にびっくりです。

ベアテ 私もびっくりした。Oh, is that possible? General did not talk to anybody.

伊藤 そんな話は資料を読んでいてもなかなか出てこないです。

ベアテ 出てこないでしょうね。私も二年前までは知らなかったですから。あ、いや、四年前ですね。ケーディスさんが亡くなる前に会ったんですよ。ニューヨークにいた時に、時々は会っていました。ケーディスさんが帰って来た後、時々お食事に行くとかそういうことがありました。

伊藤 そうだったんですか。

ベアテ あの人は弁護士で、大きい弁護士会社のパートナーだったんです。だから、会う機会がありました。まあ、頻繁にじゃないですけど。あの人は、私のことも、私の夫のことも好きだったんです。うん、好きだったの(笑)。ケーディスさんを正式にインタビューしたこともありました。コロンビア大学が「日本の占領期」についてファイルを作成しようとしていて、その時に大学側が私に頼んで、私はいろいろな人達をインタビューしたんです。

伊藤 GHQの憲法草案に対して、日本側が「この女性の権利の条文は進歩的すぎる」と反対した時に、それに反論して認めさせたのが、確かケーディスさんでしたよね?

ベアテ ケーディスさんは、私の「日本女性の権利」に対する想いには反対しなかった。ただ、詳細に書くことは「憲法には合わない」と思っていて、その他の社会福祉関連の権利は「民法に書く方が良い」という考えでした。私も随分そのことについて考えてみました。あの人はアメリカ憲法のことについて詳しかった。他の『Steering Committee(舵取り委員会)』の人もみんなアメリカ憲法をよく知っていたんです。政府に勤めていた人達だったから。一人は「Governor of Puerto Rico(プエルトリコ政府)」のラウルさん。そしてもう一人はハッシーで、似たような立場。あの人達はいつでも「アメリカ憲法こそが一番良い」と思っていた。あるでしょ? ずっと以前からこうだったんです。ヨーロッパの憲法なんか読んでいなかった。アメリカ憲法には、そういう社会福祉関連の条文がないんです。だから、その三人は「それは憲法には合わない」って。「それは憲法という法律の趣旨とは違うものだ」って。憲法というのは何か

伊藤 Principle(信念)」 みたいなものってことですか?

ベアテ そう。だから「それはいらない」って。憲法に入らないとしても、ケーディスの立場からすればそんなに問題じゃなかった。民法に入れればいいと思っていたから。でも、私は「民法を書く人達は、絶対そういう考えを、社会福祉のことを書かないと思う」って言ったんです。なぜなら、「日本の官僚はとっても封建的な人達ですから」って。それを私は経験として知っていました。

 日本に暮らしていた時、私はパパとママの通訳をしていたんです。暮らしていると、警察とかいろいろ接する機会があるでしょ? 時々、日本の官僚に会わなければならないことがあった。私は通訳として話していたから、幼いながらも「こういう人達はイマジネーション(想像力)がない」と思っていました。とても保守的だということも。そういう人達は、こういう権利のことは自分からは書かない。もちろん、憲法に書いてありさえすれば、それが命令だから書く。でも、憲法に入っていなければきっと書かない。そのことについて、私は本当に随分と考えました。ケーディスさんが亡くなった後もずっと。彼と他の二人は、社会的な条文を具体的に憲法に書くことを「本当にみっともない」と思っていたんです。けれど、ケーディスさんはそういう社会福祉の考え方については反対ではなかった。もしかしたら、嘘をついていたかもしれません。私には本心は分からない。当時、彼が私に言ったことは、「心配しないで。私はまだ日本に長くいますから、その間民法を注意深くチェックしますよ」と。本心だったかどうかは分かりません。

 私が一つ思うのは、私の娘が弁護士になりたかった時にケーディスさんに電話して、「あなたの会社に入れるでしょうか?」って聞いた時のこと。そしたら彼は「娘さんはとても頭が良いから入れますよ。でも、これだけは伝えて下さい。私がこの弁護士会社にいる間は、女性はトップになれません」って言いました。あの会社には、パートナーが10人ぐらいいて、その人達が一番儲けて、決める人達。彼がそこにいる間は、女性はそういう立場にはなれないって言ったんです。その考え方は、もちろんちょっとねえ

伊藤 彼の本心がそこに表れていたかもしれないってことですね?

ベアテ 私の娘のミキちゃんにそれを言ったら、「それじゃあ、私はそこには行かないわ」って。もっと違う別の良い会社に入りました。ミキちゃんは今52才ですから、今からもう30年前の話ね。とにかく、ケーディスさんはあの時にそう言いました。確かに、ケーディスさんが辞めた後は、すぐに一人の女性がトップパートナーになりました。だからそこに関してだけは、私は彼の考えに疑いがあります。だって、そういう考えであれば、社会福祉のことに関してもね

伊藤 なるほど、そうですね。

ベアテ 今となっては分かりません。あの人の本心は。確かだったことは「あなたの書いたものに私は反対していません。民法には入りますよ」ということだけ。本当に土井先生が言った通りですね。弁護士の考え方と、私のような普通の人、素人とは考え方が違うんです。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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