アテルイ=東北蝦夷の英雄、アイヌ民族のたたかい、松浦武四郎

アテルイ=東北蝦夷の英雄、アイヌ民族のたたかい

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アテルイは、「蝦夷」と呼ばれる人びとの指導者である。当時「蝦夷」は、アイヌ民族だけでなく、東北在住の人びとや奈良・平安時代の古代国家によって本州中部から、東北地方に追われたさまざまな人びとも含まれていた。従ってアテルイ=アイヌ民族と断定するのは誤りであるが、アイヌ民族も含む東北の人びとの指導者であることは事実である。それは、アテルイの部族の氏族社会、文化などをみても類推できる。当ブログでは、アテルイのたたかいとともにアイヌのたたかいを並列的に扱う。

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【このページの目次】

◆アテルイの反乱・アイヌ民族リンク集=アイヌの文化・アイヌのたたかい・松浦武四郎など

◆アテルイとは

NHKBS時代劇アテルイ

◆歴史ロマン対談/英雄アテルイの時代と東北の今

◆アテルイの最期=京都

◆坂上田村麻呂・蝦夷(えぞ・えみし)

◆アイヌ民族の歴史と文化

(日本共産党のアイヌ新法の提案・世界へ発信・アイヌ民族と琉球民族・アイヌ民族の3つのたたかい・アイヌ民族の歴史と文化)

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🔵アテルイの反乱・アイヌ民族・松浦武四郎などのリンク集

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アテルイの反乱関係

★★BS歴史館・アテルイ=平安朝廷とたたかった東北の英雄

(最後3分切れ) 

PandraPCの場合全画面表示で見ると過剰広告減)

★★阿弖流為アテルイ・平将門・源義経

https://m.youtube.com/watch?v=r96uKOuq73k

🔴★★NHKドラマ・『火怨・北の英雄 アテルイ伝』

(43m×4)

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=upstge&prgid=49840428&ref=msearch

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=upstge&prgid=49840435&ref=msearch

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=upstge&prgid=49840450&ref=msearch

http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=upstge&prgid=49840460&ref=ch

◆東北の歴史にひそむ深い闇、画期的なテレビドラマ「北の英雄 アテルイ伝」

http://www.bunanomori.org/NucleusCMS_3.41Release/?itemid=365

★★演劇・「火怨の蝦夷 阿弖流為」2015年公演

100m2015ひらかた肝高倶楽部第4回公演)

2014阿弖流為の詩 速報(ひらかた肝高倶楽部)6m

★アテルイ

作成者:SolidBlueRecords

★講義=奈良~平安期の東北事情

作成者:eboardchannel

★★英雄たちの選択・坂上田村麻呂58m

◆◆アテルイVS坂上田村麻呂(日刊ゲンダイ15.12.16)

★アテルイと田村麻呂(13m×3)

作成者:あきひろやなだ

1.http://m.youtube.com/watch?feature=relmfu&v=e27nfitjGtQ

2.http://m.youtube.com/watch?v=WHsG0usLB-k

3.http://m.youtube.com/watch?v=CLFb0UlnY_U

★伝記レビュー【坂上田村麻呂】9m

https://m.youtube.com/watch?v=ZoZGEZI0mpQ

◆アテルイ復権の軌跡とエミシ意識の覚醒PDF21p

クリックしてreview_2011-01.pdfにアクセス

◆アテルイ文献

http://homepage2.nifty.com/tanizoko/aterui.html

8911新野直吉=古代東北の兵乱-蝦夷の闘い

(このPDFは、スマホの場合=画像クリック最初のページの上部の下向き矢印マークを強くクリック全ページ表示)

◆書評・高橋克彦=「水壁」

(赤旗17.05.14)

🔵(時代の栞)「火怨 北の燿星アテルイ」 1999年刊・高橋克彦 蝦夷像の転換

朝日新聞デジタル2021年3月10日
 ■東北の「英雄」、「逆賊」から復権 774年から811年にかけて、岩手県南部の胆沢(いさわ)地方を中心に、朝廷の派遣軍と地元民の蝦夷(えみし)たちが、土地の支配権をかけて血で血を洗う戦いを繰り広げた。「三十八年戦争」と呼ばれている。 高橋克彦さん(73)の小説『火怨(かえん) 北の燿星(ようせい)アテルイ』は、この戦争で、黄金を求めて進駐してくる朝廷軍に敢然と立ち向かった、蝦夷のリーダー阿弖流爲(あてるい)が主人公だ。 歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」などに、わずかな記述しか残っていない阿弖流爲の生涯を東北各地に伝わる伝承などを参考に描き切り、2000年に吉川英治文学賞を受賞した。 『火怨』について高橋さんは「共に戦う人間に郷土への熱い思いを伝えられるリーダーを描きたかった」と語る。根っこにあるのは「コンプレックス」だという。 岩手出身の高橋さんは、「30歳くらいまで、岩手は国にさからった者が多くて恥ずかしいと思いながら暮らしていた」と話す。阿弖流爲をはじめ、前九年の役で活躍した武将・安倍貞任(あべのさだとう)や、豊臣政権に反乱を起こした九戸政実(くのへまさざね)といった中央政権と戦った東北にとっての英雄が当時は逆賊として語られていたからだ。 「でも、『正史』に記されるのは、勝者の権力者にとって都合のいい歴史でしかない。それなら自分は存在しないとされる敗者の歴史を描こうと思った」と振り返る。     

* 実際、蝦夷の姿は歪曲(わいきょく)されて伝えられてきた。8世紀の歴史書「日本書紀」はその暮らしぶりを「蝦夷は肉食で五穀を食べず、家を建てずに樹(き)の下に住む」と記す。16世紀の「清水寺縁起絵巻」でも、蝦夷は貧相な武具を持つ異形の者として描かれている。 しかし、発掘などからは、日本列島の他の地域とほとんど変わらない蝦夷の姿や生活が明らかになっている。 7日まで岩手県北上市立博物館で開かれた特別展「蝦夷の赤い甕(かめ)」。企画した杉本良館長(59)によれば、8世紀終わりから9世紀初めにかけて、岩手県の和賀川流域などで「赤彩球胴甕(せきさいきゅうどうがめ)」と呼ばれる、丸い胴を持つ赤い特殊な土器が盛んに用いられた。 「その分布域は三十八年戦争で朝廷と敵対した蝦夷の居住域を示している可能性が高い。蝦夷が自分たちのシンボルとして使った器なのではないか」と杉本さん。彼らの支配層は横穴式の石室を持つ「末期古墳」と呼ばれる墳墓に葬られた。考古学からは蝦夷が文化的に遅れていた証拠を見いだすことはできない。 にもかかわらず、蝦夷や、その末裔(まつえい)ともいえる東北の人々に対しては、最近まで差別的視線が注がれてきた。 たとえば明治4(1871)年に江刺県(現在の岩手県の一部)に赴任した官吏は、県民について「蝦夷ノ風ヲ存シ、民俗頑愚」で「動(ヤヤ)モスレバ猪鹿(イノシカ)ノ郡(群)集スル如(ゴト)ク動揺ヲ醸(カモ)シ」と書く。 20世紀に入ってからも1988年、大阪商工会議所会頭だった佐治敬三・サントリー社長が「東北は熊襲(くまそ)の産地。文化的程度も極めて低い」と、南九州で朝廷に抵抗した熊襲と、蝦夷とを混同したうえ、差別発言をして、不買運動につながった。このように蝦夷は野蛮や未開などのイメージと共に語られてきた。     * そんな蝦夷像が変化したのは90年代以降だ。阿弖流爲が戦った坂上田村麻呂ゆかりの京都・清水寺に、阿弖流爲の碑を建てようという話が出たのを機に91年、岩手県水沢市(現・奥州市)に「アテルイを顕彰する会」が発足。 93年には奥州藤原氏の興亡を描いた、高橋さん原作のNHK大河ドラマ『炎(ほむら)立つ』が放映され、蝦夷が「中央政権の侵略に抵抗した人々」として認識されるようになった。 そして97年からは河北新報などで「火怨」の新聞連載が始まる。「蝦夷の気持ちを描くことで、自分の中に郷土への誇りを改めて見いだした。それが自分の軸になっている」と高橋さん。 阿弖流爲が802年に坂上田村麻呂に投降した胆沢城跡(奥州市)は現在、国史跡として整備され、城壁などが復元されている。一方、隣接の奥州市埋蔵文化財調査センターでは阿弖流爲の説明がロビーの壁一面に張り出され、手作りの「アテルイ像」も置かれるなど、阿弖流爲は今、故郷で見事に復権している。(編集委員・宮代栄一) ■中央の理不尽に立ち上がった姿 劇団わらび座俳優・安達和平さん(65) 私が「火怨」と向き合うことになったのは、東北を拠点に活動する劇団わらび座が創立50周年記念で取り組んだ、ミュージカルの舞台ででした。「東北の民族伝統とミュージカルの融合」を目指したこの作品で、初演から3年、約450回も主役を演じたのです。 阿弖流爲は東北の「英雄」なのですが、私は格好いい英雄を演じるのではなく、「普通の人」がやむにやまれず立ち上がっていく姿を描きたかった。なので、誰からも愛される人物として演じるよう、心がけました。彼は「戦(いくさ)をなくすための戦をした人」です。戦を始めるのは容易だが、終わらせるのは難しい。だから、阿弖流爲は子孫のため未来のため、その負の連鎖を自分の命で断ち切った。 上演にあたって、高橋克彦先生からは「標準語で演じてほしい」との要望がありましたので、そうしました。言葉は東北人にとって、いまだに負い目になっています。そして、東北の人々がそんな思いを抱えるようになった根源は、蝦夷を人として認めようとしなかった大和朝廷と阿弖流爲との戦いまでさかのぼるのです。 阿弖流爲は朝廷の理不尽な扱いに抵抗し、自分たちも同じ人間だと訴えて、証しを示すために戦いました。東日本大震災の際に全国から支援をいただけたのも、阿弖流爲から東北人に受け継がれた困難に立ち向かう精神に多くの人が共感したからだと思っています。 

■本の内容 8世紀、陸奥(みちのく)の黄金を求めて朝廷は征討軍を派遣した。蝦夷のリーダー阿弖流爲は善戦し、和睦を見据えて802年、胆沢城で兵五百余人と共に坂上田村麻呂に投降。しかし、助命はかなわず、阿弖流爲と副将の母礼は河内国で処刑された。

 ■阿弖流爲をめぐる歴史 789年 阿弖流爲、紀古佐美が率いる朝廷軍を巣伏(すぶし)の戦いで破る 794年 阿弖流爲、坂上田村麻呂の軍勢と戦う 802年 阿弖流爲、坂上田村麻呂に投降。京に送られ、母礼(もれ)と共に処刑される1993年 NHKで高橋克彦さん原作の大河ドラマ「炎立つ」放映(阿弖流爲役は里見浩太朗)  

94年 坂上田村麻呂ゆかりの清水寺京都市)に「北天の雄 阿弖流爲 母礼之碑」建立  97年 「火怨」連載開始  99年 「火怨」単行本発売2002年 新橋演舞場で「アテルイ」上演(主演・市川染五郎)。劇団わらび座がミュージカル「アテルイ 北の燿星」を岩手県水沢市(現・奥州市)で上演  13年 NHKBSプレミアムでドラマ「火怨・北の英雄 アテルイ伝」放映(主演・大沢たかお)  17年 宝塚歌劇団星組がミュージカル「阿弖流為-ATERUI-」上演(主演・礼真琴

アイヌ民族関係

(読者声)この1年:アイヌ文化への関心、広がり実感

朝日新聞20201231

 会社役員 土屋正人(北海道 61)

 話題の映画「アイヌモシリ」を鑑賞した。道東の阿寒湖畔で暮らす中学生の少年の1年を追った、まるでドキュメンタリーのような映画。父を亡くし、アイヌとしての自我と葛藤しながら成長していく少年の透き通ったまなざしに引き込まれた。主要キャストの大半が、役者としては素人のアイヌの方々だという。

 上映された映画館は、名画専門館にしては珍しく補助椅子を出すほどの満席。人々にアイヌ民族・文化への興味や共感が広がっていることを実感した。

 今年は北海道白老町に国立の「民族共生象徴空間」(愛称ウポポイ)の開館、樺太アイヌが主人公の川越宗一著「熱源」の直木賞受賞、アイヌの少女が活躍する漫画「ゴールデンカムイ」が人気を博すなどアイヌ関係の話題が尽きない年だった。

 アイヌ民族初の国会議員、故萱野茂氏はアイヌが和人に土地を奪われ、文化を破壊され、言葉を剥奪(はくだつ)されてきた歴史に光を当てた。来年はさらにアイヌ民族や文化への理解が進み、萱野氏も切望したアイヌ民族の復権の年になることを祈る。

🔷(いちからわかる!)アイヌの人が求める「先住権」ってなに?

2020年9月24日朝日新聞

 ■祖先の土地や資源を利用する権利。国などを訴えている

 ホー先生 北海道のアイヌ民族の団体が、サケ漁をする権利を求めて裁判を起こしたと聞いた。サケ漁をする権利とはなんじゃ?

 A アイヌの人たちは昔から、自由にサケを捕(と)って食料にしたり、交易をしたりしていたんだ。それが、明治政府が禁止したことで生活に困るようになった。

 国内の河川では今も、サケ漁は水産資源保護を目的に禁じられている。北海道では伝統儀式(ぎしき)に使う時は許可を受ければ捕れるけれど、昨年には無許可で捕ったアイヌの男性が問題になった。こうした中で今年8月、浦幌町(うらほろちょう)のアイヌの団体が「祖先が持っていた権利を返してほしい」と国と北海道を訴えたんだ。

 ホ 祖先が持っていた権利とはどんなものなのか?

 A アイヌ民族が「先住民族」だということは、昨年できたアイヌ施策(しさく)推進法で、はっきり認められた。その先住民族が持つ特別の権利が「先住権」と呼ばれている。

 漁業や狩猟(しゅりょう)のほか、森などの資源を採ったり、もともと住んでいた土地を利用したりする権利、自分たちのことを自分たちで決める自己決定権自治権も含まれる。国際人権規約には、少数民族が自分たちの文化を持ったり言語を使ったりする権利は否定されない、と書かれているよ。

 ホ ホホウ! なのに、なぜ認められないのじゃ?

 A アイヌ施策推進法では、先住権について何も触れていないんだ。憲法の「法の下の平等」に矛盾(むじゅん)しないか、先住民族だけに特別の権利を与えていいのかといった議論があるんだ。

 ホ アメリカなど海外の先住民族はどうなんじゃ?

 A アメリカやカナダオーストラリアなど先住権が認められている国もあるよ。裁判で勝ち取った例もある。「先住民族の権利に関する国連宣言」には日本も賛成しているのに、取り組みが遅れているという指摘もあるよ。(芳垣文子)

🔷🔷(いちからわかる!)「ウポポイ」って何?

202078朝日新聞

 アイヌをテーマにした初めての国立施設の愛称だよ

 コブク郎 最近「ウポポイ」という言葉を聞いたよ。どういう意味なの?

 A 日本の先住民族アイヌをテーマにした初めての国立施設「民族共生象徴(みんぞくきょうせいしょうちょう)空間」の愛称だね。アイヌ語で「みんなで歌う」という意味。新型コロナウイルスの影響で、開業が2カ月半延期されたけど、7月12日にオープンするんだ。

 コ どんな施設なの?

 A 北海道の新千歳空港から車で40分ほどの白老(しらおい)町に完成した。ポロトという湖に面した約10ヘクタールの敷地に、三つの施設がある。一つ目はアイヌ民族博物館(はくぶつかん)だ。民具や工芸品約700点の展示などを通じて歴史や文化を勉強できる。

 二つ目は民族共生公園だ。伝統的なコタン(集落)などが再現され、楽器演奏や踊りを鑑賞できる。

 コ 最後の一つは?

 A 慰霊(いれい)施設だ。かつて大学はアイヌの人々を研究対象ととらえて遺骨を勝手に持ち去り、収集した。そうした遺骨を集めて慰霊し、返還の準備ができるまで管理しているんだ。

 コ ひどいことをしていたんだね。

 A 明治政府はアイヌの人々を「土人」と呼び、和人との同化政策をとった。アイヌの人々は独自の文化を否定され、長年、差別や貧困に苦しめられてきたんだ。いまでは、アイヌ語を話せる人は、ほとんどいなくなってしまった。

 2008年に、当時の町村信孝内閣官房長官(ないかくかんぼうちょうかん)がアイヌの人々を「日本の先住民族」と公式に認める談話を出した。有識者(ゆうしきしゃ)による懇談会(こんだんかい)がつくられ、翌年、アイヌ文化を復興(ふっこう)させる施設をつくることになったんだ。

 コ たくさんの人に来て欲しいね。

 A 政府は年間入場者数100万人を目標にしている。でも、北海道が2月、本州の三大都市圏に住む人に調査したら、約1割しかウポポイを知らなかった。知名度アップが課題だね。(西川祥一)

🔷ウポボイとは(赤旗日曜版20.10.18)

🔷書評「アイヌの権利とは何か」(赤旗)

🔷アイヌが語るアイヌの文化 (赤旗日曜版20.09.06)

朝日新聞デジタル2021年2月1日 5時00分
 北海道東部、阿寒湖のほとりにある劇場で昨年11月、アイヌ民族の舞踊劇「阿寒ユーカラ『ロストカムイ』」を見た。アイヌ民族が「狩りをする神」とあがめていたエゾオオカミなど動植物や自然との共生をテーマにした物語である。政府の「Go To トラベル」事業が停止される前で、客席は観光客でほぼ埋まっていた。 「共生」はアイヌの精神の柱だ。自然豊かな北の大地で暮らす姿をイメージする人は多いに違いない。 1869(明治2)年に開拓使が置かれるまで「蝦夷(えぞ)地」と呼ばれていた北海道には約2万人のアイヌ民族が住んでいた。必要以上には木を切らなかった。野草も根絶やしにしてはいけないとの考えを持ち、その日食べる分だけを採っていた。 この世の森羅万象に「カムイ(神)」が宿ると考えた。「ヒグマはカムイがクマの衣を着て、毛皮や肉を人間に贈るために現れたと考えられた。利用したら感謝の気持ちを込め、カムイの国に送る儀式イオマンテを営んだのです」。アイヌ民族の詩人、宇梶静江さん(87)は語る。 32年前に57歳で生涯を終えた彫刻家砂澤ビッキさんも静かな時の流れの中で暮らし、小さな村の廃校を拠点に野外彫刻に取り組んでいた。 「四つの風」という作品がある。高さ約5メートルのエゾマツの柱が4本そびえ立つが、うち3本は倒壊し、そのままになっている。砂澤さんは生前、「風雪という名の鑿(のみ)が作品を完成させる」として自然倒壊を望んでいたそうだ。倒れ、朽ち、土に還(かえ)る。「命は循環する」というアイヌ民族の哲学そのものだった。 ■交易も活発…高かった経済力 一方、アイヌは他民族と活発に交易をする民でもあった。木造船や広域に及ぶ出土品、海岸台地上に築かれた砦(とりで)のような施設チャシが、そのことを物語っている。15世紀には北千島からカムチャツカ半島の南端にまで勢力を伸ばし、ラッコやオオワシを捕っていたという。 著書「千島通史の研究」(北海道出版企画センター)がある川上淳・札幌大教授(日本北方史)は「毛皮や羽根は珍しいものとして日本を含む周辺諸国の権力者が欲しがった。アイヌ民族は高価な交易資源を持っており、経済力は極めて高かった」と話す。 サケの皮で作った帆に潮風を受け、ダイナミックに大海を駆けめぐる姿が目に浮かぶ。森に囲まれたコタン(集落)で祭事を営み、穏やかに暮らしていた――というイメージとは明らかに異なる。江戸時代に入ると松前藩による管理が強まり、自由な交易は禁じられた。異を唱えたアイヌは一斉に蜂起。和人との戦いで多くの犠牲者が出た。 アイヌを題材にした歴史小説や漫画がヒットし、国立施設「民族共生象徴空間」(愛称ウポポイ)も北海道白老町に昨年開業した。ウポポイは、アイヌ語で「(大勢で)歌うこと」という意味だ。 関心が高まっている今こそ、アイヌ民族の多様な姿に目を向けたい。

(記者解説)哲学は「自然との共生」 アイヌ民族、実は多彩な姿 編集委員・小泉信一

朝日新聞デジタル2021年2月1日
 北海道東部、阿寒湖のほとりにある劇場で昨年11月、アイヌ民族の舞踊劇「阿寒ユーカラ『ロストカムイ』」を見た。アイヌ民族が「狩りをする神」とあがめていたエゾオオカミなど動植物や自然との共生をテーマにした物語である。政府の「Go To トラベル」事業が停止される前で、客席は観光客でほぼ埋まっていた。 「共生」はアイヌの精神の柱だ。自然豊かな北の大地で暮らす姿をイメージする人は多いに違いない。 1869(明治2)年に開拓使が置かれるまで「蝦夷(えぞ)地」と呼ばれていた北海道には約2万人のアイヌ民族が住んでいた。必要以上には木を切らなかった。野草も根絶やしにしてはいけないとの考えを持ち、その日食べる分だけを採っていた。 この世の森羅万象に「カムイ(神)」が宿ると考えた。「ヒグマはカムイがクマの衣を着て、毛皮や肉を人間に贈るために現れたと考えられた。利用したら感謝の気持ちを込め、カムイの国に送る儀式イオマンテを営んだのです」。アイヌ民族の詩人、宇梶静江さん(87)は語る。 32年前に57歳で生涯を終えた彫刻家砂澤ビッキさんも静かな時の流れの中で暮らし、小さな村の廃校を拠点に野外彫刻に取り組んでいた。 「四つの風」という作品がある。高さ約5メートルのエゾマツの柱が4本そびえ立つが、うち3本は倒壊し、そのままになっている。砂澤さんは生前、「風雪という名の鑿(のみ)が作品を完成させる」として自然倒壊を望んでいたそうだ。倒れ、朽ち、土に還(かえ)る。「命は循環する」というアイヌ民族の哲学そのものだった。 ■交易も活発…高かった経済力 一方、アイヌは他民族と活発に交易をする民でもあった。木造船や広域に及ぶ出土品、海岸台地上に築かれた砦(とりで)のような施設チャシが、そのことを物語っている。15世紀には北千島からカムチャツカ半島の南端にまで勢力を伸ばし、ラッコやオオワシを捕っていたという。 著書「千島通史の研究」(北海道出版企画センター)がある川上淳・札幌大教授(日本北方史)は「毛皮や羽根は珍しいものとして日本を含む周辺諸国の権力者が欲しがった。アイヌ民族は高価な交易資源を持っており、経済力は極めて高かった」と話す。 サケの皮で作った帆に潮風を受け、ダイナミックに大海を駆けめぐる姿が目に浮かぶ。森に囲まれたコタン(集落)で祭事を営み、穏やかに暮らしていた――というイメージとは明らかに異なる。江戸時代に入ると松前藩による管理が強まり、自由な交易は禁じられた。異を唱えたアイヌは一斉に蜂起。和人との戦いで多くの犠牲者が出た。 アイヌを題材にした歴史小説や漫画がヒットし、国立施設「民族共生象徴空間」(愛称ウポポイ)も北海道白老町に昨年開業した。ウポポイは、アイヌ語で「(大勢で)歌うこと」という意味だ。 関心が高まっている今こそ、アイヌ民族の多様な姿に目を向けたい。

🔵日曜美術館ーアイヌ文化・アイヌ文様44m

🔵アイヌ理解の場、進化に期待 北海道、ウポポイにある国立博物館

202093日朝日新聞

「私たちのことば」のコーナーの解説文。最初にアイヌ語が記される=北海道白老町

 7月に北海道白老(しらおい)町にオープンした「民族共生象徴空間」(愛称・ウポポイ)=キーワード=は、先住民族アイヌの文化の復興・発展などの拠点として、歴史や文化への国民理解をうながす役割も期待されている。その中核施設が「国立アイヌ民族博物館」だ。国立博物館として初めてアイヌ文化や歴史の展示、調査・研究に特化した館を訪ね、工夫や課題を探った。

 一人称の語りで文化発信

 常設の基本展示室に入ると、優しく歌うようなアイヌ語の語りが響いてきた。「私たちのことば」のコーナーだ。人々が謡い継いできた「神謡(しんよう)」などが聞け、語り手や解説の映像をモニターで見ながら目でもアイヌ語に触れられる。

 近くの展示ケースでは、同化政策でアイヌ語が危機にさらされる中、アイヌ語のローマ字表記と日本語で神謡を書きとめた知里幸恵(ちりゆきえ)(1903~22)のノート(現在は本に展示替え)や、歌人で民族運動の先駆けとしても知られる森竹竹市(もりたけたけいち)(1902~76)の詩集などが紹介されていた。

 テーマや解説の表記が他の博物館とは異なることに気づいた。最初はアイヌ語がつづられ、日本語や英語などはその後だ。解説文は「明治以降、アイヌ語は私たちの生活から引き離されてしまった」などと一人称で語る形式が多い。

 アイヌ民族の精神文化や伝統的な暮らし、歴史の展示に続く「私たちのしごと」のコーナーは、現代のアイヌの人々が多様な世界で活躍していることも伝えていた。「サラリーマン」「家具製作」などと題し人物シルエットが描かれたパネルの裏に、その仕事に就いている人の写真や言葉が記されている。「俳優」では宇梶剛士(うかじたかし)さんが思いを語っていた。

 差別の苦しみ「伝わらぬ」

 佐々木史郎館長(62)によると、米国の国立アメリカ・インディアン博物館などを参考に先住民族の視点に立った展示を目指し、アイヌの人々と一緒に考えてきた。歴史展示では、歴史や考古学の研究者にアイヌ出身者が少なく、研究者として参加したのは和人(わじん)(アイヌ以外の日本人)だったが、アイヌの人々の伝承や記録を活用し、声を反映させて作ったという。「いずれアイヌ出身の研究者の育成も支援したい」と話す。

 記者が取材したオープン初日、来館者からは「展示された過去の教科書などには差別的な表現があり、差別が長く続いていると実感した」(札幌市の38歳男性)などの声が聞かれた。

 一方、疑問の声も上がってきた。歴史展示では、政府が山林などを国有地化したり、伝統的な習慣を禁じる同化政策を進めたりしたことや、苦難の中で異議申し立てをしたアイヌの人々を紹介している。だが、北海道日高地方出身のアイヌ民族らでつくる「コタンの会」の清水裕二代表(79)は「解説や説明があまりに簡潔に感じた。一方的に日本に組み込まれたアイヌの苦しみが十分説明されておらず伝わってこない」と話す。「悲しい歴史を理解してこそ共生につながるが、現状では難しいのではないか」

 政府がアイヌを先住民族と認めたのは最近で、社会には差別やさまざまな格差がまだあるのが現状だ。北原モコットゥナシ・北海道大学准教授(44)は「女性の働き方の問題を解決するには、男性の家事参加を同時に考える必要があるのと同じ。先住民の課題は共に社会をつくる和人の課題でもあり、展示を見た和人が、日本国の歴史とアイヌ社会との関わりを考えられる工夫も必要だ」と指摘する。

 ウポポイの開設に伴って閉館した民間のアイヌ民族博物館の最後の館長を務めた野本正博さん(57)は、今はウポポイの運営財団に勤務する。「米国の博物館の展示からは、当事者の視点だけでなく、先住民族の人権問題と向き合い、国民に再認識させるという狙いも感じた。様々な声を聞き、先住権や人権を考える場としても進化させていきたいです」(丸山ひかり

 ◆キーワード

 <民族共生象徴空間(愛称・ウポポイ)> アイヌ民族博物館、民族共生公園と慰霊施設からなる。政府は年間来場者数100万人を目標に掲げている。慰霊施設には大学研究者らが墓所を掘り起こすなどして収集・保管していたアイヌの人々の遺骨が納められている。

🔵アイヌは先住民族(赤旗20.10.05)

🔵アイヌ施策推進法「地域計画」 政府が答弁書決定=アイヌの意見反映を、紙議員の質問主意書

202077日赤旗

(写真)紙智子参院議員

 日本共産党の紙智子参院議員が提出した「アイヌ施策推進法に関する」質問主意書に、政府は6月26日、答弁書を決定しました。

 質問主意書は、アイヌが民族の誇りを持って生活できる環境整備や、差別や権利利益の侵害の禁止を明記したアイヌ施策推進法が成立して1年になるもとで、いまだ多くの課題を残していると指摘。開業される「民族共生象徴空間」(ウポポイ)にかかわって、アイヌ民族の意見をどう取り入れたかを質問しました。

 答弁書は「アイヌ推進法の検討に際して55団体」から意見を聞いたものの、法成立後の意見聴取は明らかにしませんでした。

 アイヌ施策推進法は「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の「先住権」が記載されていないとして、「先住民族宣言」の各条文をどう具体化しているかの質問には、「宣言の各条について網羅的に国内措置を講ずるという観点からは検討していない」と回答しました。

 市町村が作成する「アイヌ施策推進地域計画」について、北海道新聞が「アイヌ民族側の提案を検討せずにできないと結論づけたり、協議と言いつつ自治体側が一方的に事業を提示し、十分な議論がないとの声も聞く」との指摘があるとして見解を求めたのに対し、アイヌの人々の意見が反映されていると認められない計画は認定しないとしました。

🔷🔷アイヌ民族の権利保障へ (赤旗20.09.03)

🔷🔷アイヌの願いとウポボイ(赤旗20.07.25-31)❶〜❺

🔷🔷宇梶静江「大地よ!アイヌの母神、宇梶静江自伝」

🔷映画=アイヌモシリ(赤旗日曜版20.10.04)

◆◆明治150年敗者の歴史に光を=東北では戊辰戦争の節目、北海道150年アイヌ

東京新聞「こちら特報部」17.06

◆(書評)『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』 鈴木拓也〈編〉

2016821日朝日新聞

『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』 

 日本の歴史と言われると、近畿地方を中心とした風景が浮かびがちだが、しかしもちろん、日本列島全域には有史以前から人が暮らしていたのである。

 本巻で完結した「東北の古代史」シリーズは、東北地方における最新の古代史研究をまとめたもので、各種資料を駆使して当時の社会の姿を再現していく。

 この巻では主に、坂上田村麻呂やアテルイが登場する、朝廷と蝦夷(えみし)の戦いと、東北地方における自然災害が扱われる。九世紀は地震、津波、火山災害の多い時代でもあった。

 シリーズを通して考えさせられるのはやはり、文字資料の重要さである。中央からの視点で記された資料と、発掘物が示すものをすりあわせる作業は非常に入り組んだものになる。

 記録に残されなかった歴史もこうして、慎重に読み解いていくことは可能である。しかしここでどうしても、歴史を自分たちで書き残し、伝えることの重要性を思わずにはいられない。

円城塔(作家)     

 『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』 鈴木拓也〈編〉 吉川弘文館 2592円

★★ETV発見されたレコードから見るアイヌの歌謡58m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v115087831xGg5e4RS

◆関心高まるアイヌの文化

(赤旗17.02.07

HTB57年目の証言「アイヌ民族 萱野茂さん 平和への願い」6m

★★アイヌとして生きる=浦川治造さん60m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v138888112WqDg6kQt

★★島田あけみ×萱野志朗×崎山敏也「アイヌ民族入門講座!」58m2014.08.21

https://m.youtube.com/watch?v=O6DDhi5u2IA

★武田=アイヌの歴史12m

★★アイヌモシリ ~アイヌ民族の誇り~25m

★★アイヌ民族博物館伝承記録「唄う・踊る・語る・奏でる」40m

Ainu, First People of Japan, The Original & First Japanese8m

★★その時歴史が動いた=アイヌ歌謡を金田一に伝えたアイヌ少女43m

または

https://m.youtube.com/watch?v=8hwzD_Ns_TM

❷❸は下部から

★アイヌ神謡集43m

★★20140929 のりこえねっとTV アイヌ・沖縄の今 石井ポンペ×金城実×寺中誠90m

★武田邦彦 音声:歴史を知る004 アイヌの歴史

11m

★★朝日ニュースター「アイヌとして生きる」60m

https://m.youtube.com/watch?v=6fYGtFRKvIg

❷❸❹❺❻は下部から

◆蝦夷史

http://www.geocities.jp/yasunobuogawa/rekisi.htm

◆アイヌ民族と日本古代史

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/ainuhist

ory/kodaishijyonokankeico.htm

◆東北地方の英雄アテルイは、アイヌ民族?

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1230578257

◆マンガ=シャクシャインの反乱(戦譚シャクシャイン)

http://oyna.web.fc2.com/shakushayn/top.html

◆マンガ解説=シャクシャインの反乱(戦譚シャクシャイン)

http://oyna.web.fc2.com/shakushayn/01/exp/exptop.html

◆戦譚シャクシャイン概略

http://dic.pixiv.net/a/戦譚シャクシャイン

◆書評・シャクシャインの戦い

(赤旗17.03.12)

🔷🔷 衆院国交委 アイヌ新法案可決=アイヌ差別 国策が原因、政府「重く受け止める」 2019年4月11日赤旗

 日本共産党の塩川鉄也議員は10日の衆院国土交通委員会で、アイヌ民族を「先住民族」と初めて明記するアイヌ新法案について質疑し、政府の歴史認識と同法案の意義をただしました。

 塩川氏は「明治維新から現在に至るまで、北海道開拓と『北海道旧土人保護法』等による政府の土地政策・同化政策が、アイヌ民族の言語も民族固有の文化も奪い、差別と偏見を生み出した」として政府の認識を質問。石井啓一国交相は「政府の同化政策により差別と貧窮がもたらされたことは重く受け止める」と答えました。

 塩川氏は、アイヌの人々の間にある、政府の反省と謝罪を求める声を重く受け止めるべきだと述べ、「政府の施策により言語や文化を奪われて差別を受けた歴史を国民全体の認識にする責任が政府にはある」と主張しました。

 また、古老の人々の生活困窮が深刻だとして、「政府として、低年金・無年金の実態の把握と要因の分析、生活保障・生活向上策の抜本強化が必要だ」と強調。本法案の策定過程について「当事者であるアイヌの人たちが参画し、多様な意見をくみ尽くしたと言えるのか。少なくない批判が寄せられていることを重く受け止めるべきだ」と述べました。

 さらに、「先住民族の権利に関する国連宣言」を受けて2008年に採択された、アイヌ民族を先住民族とするよう求める国会決議と本法案の関係を質問しました。石井国交相は「国連宣言と国会決議を踏まえた」と答え、現行のアイヌ文化振興法との違いについて「アイヌの人々が先住民族だという認識の下、文化振興に加え、地域・産業・観光振興等を総合的に推進する」と説明。内閣官房の橋本元秀アイヌ総合政策室長は、国連宣言の趣旨を「第1条『近年における先住民族をめぐる国際情勢に鑑み』の部分で示した」と答弁しました。

 塩川氏は「本法案に盛り込んだ『民族としての誇りをもって生活するための環境整備』が、アイヌの人々の生業(なりわい)につながることが重要だ」と強調しました。

 同法案は、同委員会で、日本維新の会を除く各会派の賛成多数で可決しました。

🔷🔷「アイヌは先住民族」法案明記 今国会に提出、観光資源の狙いも

2019年2月6日朝日新聞ら

 政府は、アイヌ民族を「先住民族」と初めて明記したアイヌ新法案を今国会に提出する。自民党の国土交通部会などの合同会議が5日、法案を了承した。法案は差別の禁止や、観光振興を支援する交付金の創設からなる。政府には、アイヌ文化を観光資源とし、訪日外国人客数の目標達成の一助にする狙いもある。近く閣議決定し、今国会での成立をめざす。

 法案は、アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を目的に掲げる。伝統的な漁法への規制の緩和なども盛り込んだ。新たな交付金は2019年度予算案で10億円を計上。アイヌ文化のブランド化推進やコミュニティー活動のためのバス運営への支援を想定する。

 政府は新法により、生活向上のための福祉や文化振興を中心にしたこれまでの施策から、地域や産業の振興、国際交流を見据えた総合的なアイヌ政策へ転換を図るとしている。

 法案の背景には、アイヌ民族をめぐる過去の経緯や、先住民族への配慮を求める国際的な要請の高まりがある。加えて政府が狙うのは、東京五輪パラリンピックが開催される2020年に4千万人達成の目標を掲げる、訪日外国人客へのアピールだ。

 20年4月には、国立アイヌ民族博物館などで構成するアイヌ文化の振興拠点「民族共生象徴空間」が北海道白老町に開業。政府は年間100万人の来場を目標としている。菅義偉官房長官は昨年8月、北海道を視察した際に記者団に「アイヌ文化の素晴らしさを世界に理解してもらうことで、国際親善に貢献でき、観光振興にもつながる」と述べた。(松山尚幹)

 ■「一歩前進」、残る格差・差別

 アイヌ民族は北海道を中心に居住し、独自の文化を持つ先住民族だ。約150年前の明治維新以降、大勢の日本人が入植してからは、長らく差別や貧困に苦しんできた。これまで「先住民族」として国内法で位置づけられたことはない。

 1899年制定の「北海道旧土人保護法」はアイヌ文化を否定して同化政策を推し進めた。1997年、この法律が廃止され、「アイヌ文化振興法」が制定されたが、アイヌの人々が求めていた「先住権」は盛り込まれなかった。

 今回の新法には「先住民族であるアイヌの人々」と初めて明記される。アイヌ民族初の国会議員、萱野茂さん(故人)の次男で萱野茂二風谷(にぶたに)アイヌ資料館館長の萱野志朗さんも「法律で先住民族であることを認めた点は一歩前進」と話す。

 だが、格差や差別は依然として根強い。北海道がアイヌ民族の居住を把握している63市町村を対象に行った調査(2017年)では、大学進学率は対象市町村全体の45・8%に対し、アイヌの人々は33・3%。面接調査した671人のうち23・2%が「差別を受けたことがある」と答えている。

 アイヌ民族である出自を公にしていない人もおり、アイヌの人々の正確な数は明らかになっていない。法律の整備とともに、差別や格差解消に向けた支援も求められている。(芳垣文子)

🔷北海道開拓とアイヌ

https://m.youku.com/video/id_XMzc5ODk5MjQ4NA==.html?spm=a2h2a.8293802.0.0&source=http%3A%2F%2Fi.youku.com%2Fi%2FUNDg2NTYzNDE0NA%3D%3D%3Fspm%3Da2hzp.8253869.0.0

◆◆「明治150年」を考える=アイヌの地 植民地に=北海道の近代

赤旗18.07.24

◆◆アイヌ文化、伝承と発信 漫画や演劇、内面踏み込み活写

2018713日朝日新聞

「ゴールデンカムイ」のアイヌ少女(C)野田サトル・週刊ヤングジャンプ/集英社

 長く差別を受けてきた北海道の先住民族アイヌの文化を伝承、発信する試みが、様々な課題を抱えながらも進んでいる。漫画や演劇では従来にない視点でアイヌ民族を描く作品が登場。衰退しつつあったアイヌ文化の現在地を探った。

オハウにイモシトアイヌの食文化を駅弁で発信

 週刊ヤングジャンプ(集英社)に連載中で今春アニメ化された「ゴールデンカムイ」は、明治末期の北海道で元兵士や脱獄囚らが莫大(ばくだい)な埋蔵金を命懸けで探し求める。主人公杉元佐一と行動を共にする狩りの達人がアイヌの少女だ。

 担当編集者の大熊八甲さんによると、作者の野田サトルさんは連載が決まると「この時代にアイヌは避けて通れない」と入念な取材を始めた。アイヌには「かわいそうなアイヌを描くのはもういい」と言われた。

 少女は弓矢で狩りをし、仕留めた獲物で料理を作る。下品な言葉も無邪気に話すが、アイヌには好評という。漫画がきっかけでアイヌ文化に興味を持つ人が増えた。大熊さんは「アイヌは作品の一要素。テーマではない」としつつ、「アイヌを特別視しないことが大事だ」と考える。

 仙台の劇団シェイクスピア・カンパニーは、四大悲劇の一つを幕末の北海道に移した「アイヌ 旺征露(オセロ)」を今年上演した。原作の黒人将軍オセロはアイヌ、部下イアゴーはアイヌと和人(アイヌ以外の日本人)が両親という設定に。出自を隠すアイヌが成功するアイヌに嫉妬し、陥れる構造にした。「土人」といった差別語で生々しい憎悪を表現した。

 東北弁のセリフにアイヌ語を交え、アイヌの婚礼の儀式を見せるなど地方演劇とアイヌ文化を結合させている。劇団主宰で脚本・演出を手掛けた下館和巳さんは「リアルなアイヌ像になった」。今月14日に札幌でアイヌの人々を招いて上演する。

 従来のフィクション作品でアイヌは和人に侵略される「よその人」として描かれがちだった。二つの作品は内面まで踏み込み、普遍的な人間性を活写した。

◆差別受けた歴史も含め、次世代へ

 明治以降、アイヌ民族は政府の同化政策でアイヌ語など独自の習俗を禁止された。1997年には民族の誇りを尊重するアイヌ文化振興法が施行されたが、施策は限定的だった。

 風向きが変わったのは2008年。「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が国会で採択されてからのことだ。現在は、地域振興や産業振興など幅広い取り組みを目指すアイヌ新法が検討されている。

 文化振興の目玉は、東京五輪・パラリンピックがある20年に北海道白老町で開設予定の「民族共生象徴空間」だ。ポロト湖畔に博物館や体験型公園などを整備。アイヌ文化の紹介に加え、新たに創造、発信する場をめざす。五輪を機に海外へ少数民族政策をアピールする狙いがある。

 アイヌ民族の推計人口は道内でも2万人を切った。アイヌ語研究の中川裕・千葉大教授は「マスコミを活用して東京からもアイヌ文化を発信すべきだ」と提案する。

 表現活動をするアイヌたちは、模索を続ける。宇佐照代さんは、伝統的なアイヌの踊りや歌をイベントなどで披露している。アイヌ文化振興法ができて、学校でアイヌ文化を教えやすくなったという。祖母がアイヌ語を隠れて話していた負の歴史を、次世代に伝える必要を感じる。

 音楽ユニット「イメルア」で活動する酒井美直さんは、以前は「アイヌを背負っている」と感じていた。いまは「アイヌは私の構成要素の一つ」と、肩の力を抜いて向き合う。

 「アイヌ 旺征露」でアイヌ舞踊などを演出した秋辺デボさんは「アイヌと和人がフェアな関係で協働できるようになってきた」とする一方、同胞の思いを代弁する。「150年も差別を受けてきたアイヌは、まだ素直になりきれていない」(井上秀樹)

◆◆(文化の扉)木彫り熊、その芸術性 北の大地で育まれ「嫌われ者」経て再評価

朝日新聞18.1.05

 北の大地が北海道と命名され、今年で150年目。代表的な土産品の木彫り熊は、開拓民やアイヌ民族が育んだ民衆芸術で、昭和の観光ブームで大人気となった。衰退の歴史を乗り越え、魅力が再評価されつつある。

 玄関やテレビ台の上と、かつては多くの家で見かけた木彫り熊。北海道函館市から車で約1時間半、発祥の地とされる八雲町の木彫り熊資料館を訪ねた。2014年に開館し、主に町内の作品が並ぶ。年間約5千人が来場し、6割が町外からだ。大谷茂之学芸員は「単なる土産物から、文化芸術として再定義されている」と話す。

 先月26日には、「最後の熊彫り職人」と名乗ったアイヌ民族彫刻家の藤戸竹喜(たけき)さん(釧路市)が84歳で亡くなった。その木彫り熊は、細かい毛並みと野性的な姿で「工芸品を芸術品まで高めた」と評されていた。

     *

 木彫り熊の源流は二つある。明治の初めに旧尾張藩士が開拓した八雲町では、農場を経営した徳川義親(よしちか)(1886~1976)がスイスで木彫り熊などを購入。こうした工芸を農民の冬の副業として勧め、八雲産が評判を呼ぶようになった。

 もう一つの旭川市では、アイヌ民族の松井梅太郎(1907~49)が熊に襲われ大けがをし、熊への思いが募って制作を始めたことが大きな契機となった。土産品として木工製品を製作していたアイヌ民族が、八雲の作品などにも触発されながら制作。職人が多く育ち、道内各地に指導へ出向いた。

 作風は多彩だ。サケをくわえたものを思い浮かべる人が大半かもしれないが、生態を模した荒々しいものから擬人化されたものまで幅広い。

 例えば、戦前に八雲で制作の指導をした十倉金之は、画家川合玉堂に師事して絵画を学び、その表現を持ち込んだ。熊の肩から花びらのような毛並みが広がり「菊型毛」と呼ばれた。木の素材を生かし、抽象的に表現した柴崎重行(1905~91)の作品は、江戸時代の僧、円空が彫った仏像に似ていると言われる。今も高値で取引され、偽物が出回るほどだ。

     *

 作家性の高い作品が生まれた一方で、機械で作られた粗悪な土産品が各地で量産された。札幌市立大学の上遠野敏教授(現代美術家)は「八雲で冬の農閑期の手仕事として生まれた農民美術は、日常の美を求めた工芸品とは違う彫刻の分脈を形成した。だが機械化で形骸化し、土産物の嫌われ者になってしまった」と分析する。

 だが、再評価の動きも起こっている。昔の木彫り熊をカラフルに再生させたり、樹脂などの軽い素材を使った作品が登場したり、多様な表現が出てきている。札幌市で木彫品などを扱う店「遊木民」の川口拓二代表は「土産物屋にずらりと並ぶ光景はなくなったが、今も結婚や転勤など祝い事に需要が高い」と話す。

 SNSを使ったり、関連グッズを作ったりして魅力を積極的に発信する人も現れている。スタイリストらが活動に賛同する「東京903(くまさん)会」は3年前に発足。主宰する編集者の安藤夏樹さんは「北欧インテリアなど現代の住環境にも合う。まだまだ可能性がある」と話した。(森本未紀)

◆人々の「誇り」結集 人類学者・中沢新一さん

 大学生のころ、夜行列車で北海道へ行き、人類学の調査や旅行をしていました。当時買った木彫り熊が今も実家にあります。一昨年、仕事で札幌に行き、念願だった八雲町木彫り熊資料館にも寄りました。

 スイスの土産を見本にしつつも、独自の芸術が生まれ、特に、円空仏を思わせる柴崎重行の「面彫り」は、すばらしかった。開拓した土地で生きる人たちの誇りが結集されたものだと感じました。

 これは、成熟した民衆芸術の完成形と言えるでしょう。そこに立脚しつつ、一歩先へ踏み出していくことで、伝統は新たな形に受け継がれます。その動きをこれから見るのが楽しみです。2020年の東京五輪を前に、多くの物が壊されてなくなります。残すべき文化として木彫り熊の再評価がもっとなされるべきだと思います。

 <訪ねる> 八雲町木彫り熊資料館では、特別展「徳川さんと八雲のかかわり」を開催中。ルーツであるスイスの作品や、徳川義親が使ったアイヌ文様の浴衣などを展示している。25日まで、月曜休館。入館無料。八雲や旭川の作品を展示する常設展も。問い合わせは町教育委員会(0137・63・3131)から。

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松浦武四郎関係

=蝦夷の探検家・アイヌ文化の研究者

◆◆松浦武四郎を描くNHKテレビドラマ「永遠のニッパ」 赤旗19.07.14

🔵永遠のニシパ松浦武四郎82m

https://drive.google.com/file/d/1WoSW-EKpc0_tGwSl1keoD_ODQUea8xBX/view?usp=drivesdk

ペリーの黒船来航、ロシアの国境画定要求など江戸幕府は海外列強から開国を迫られる未曾有の危機にあった。武四郎は蝦夷地をロシアから守らなければならないと決意して蝦夷地を探査する。蝦夷地探査はアイヌの人々の案内で行われた。そして武四郎はアイヌ文化の豊かさやアイヌの人々のやさしさに共感していく。しかしやがて蝦夷地を経営している松前藩のアイヌへの搾取略奪の実態を目の当たりにするようになる。武四郎はアイヌの女性リセと出会う。リセは美しく気高く家族を守っているが多くを語らない過去のいきさつがあり、愁いを帯びた瞳が印象的だった。武四郎は江戸に帰り、蝦夷地図を出版する。そしてアイヌが搾取されている厳しい実態を告発した。これに激怒した松前藩は武四郎に様々な妨害工作を仕掛け、遂には武四郎の命を奪おうと刺客を放つ。
命からがらに追われながらも武四郎は幕府に雇われて、ふたたび蝦夷地を探査することになる。今やロシアの南下を防ぐために蝦夷地の開拓は急を要していて武四郎に白羽の矢が立ったのだった。

「永遠のニシパ」公式HPより

幕末から明治初期にかけて蝦夷地を探査・記録し新たな名称として「北海道」のもととなる「北加伊道」を提案した探検家松浦武四郎の、先住民アイヌとの交流を描く。題名の「ニㇱパ」はアイヌ語で「尊敬する人」「大切な人」の意。

★★歴史秘話=アイヌ民族の現実と松浦武四郎(北海道の誕生)

🔵英雄たちの選択・松浦武四郎=大地とアイヌ守れ

★★英雄たちの選択・蝦夷探検家=松浦武四郎・北の大地とアイヌなど民を守れ58m

http://www.veoh.com/m/watch.php?v=v127252870apCy3c6P

★知恵泉 松浦武四郎 人生ワクワクさせる極意 冒険の旅に出よう 北海道へ行こう!

https://m.youtube.com/watch?v=8ty9rfVu7LE

◆◆松浦武四郎(小学館百科全書)

まつうらたけしろう

18181888

北方探検家、著述家。文化(ぶんか)1526日、伊勢(いせ)(三重県)の郷士(ごうし)の三男として生まれる。名は弘(ひろむ)、字(あざな)は子重。長じて武四郎を通り名としたが、著書の多くは竹四郎を用い、また多気志楼とも号した。1830年(天保1)津()の儒者平松楽斎(ひらまつらくさい)の塾に入る。1833年江戸に行き、その後諸国を遊歴。この間にロシアの南下による北方の危機を聞き、蝦夷(えぞ)地の探検を決意した。しかし旅人が奥地へ入ることは許されなかったため、1845年(弘化2)場所請負人和賀屋孫兵衛(まごべえ)手代庄助(しょうすけ)と変名し、東蝦夷、知床(しれとこ)岬まで到達、翌年は北蝦夷地勤番役の僕(しもべ)として樺太(からふと)(サハリン)を探検した。さらに1849年(嘉永2)には国後(くなしり)・択捉(えとろふ)を探検し、この間に見聞したことを『蝦夷日誌』『再航蝦夷日誌』『三航蝦夷日誌』に著した。1855年(安政2)幕府御雇に登用され、翌年箱館奉行(はこだてぶぎょう)支配組頭、向山源太夫(むこやまげんだゆう)手付として東・北・西蝦夷地を巡回。1857年には東西蝦夷山川地理取調御用を命ぜられ、主要河川をさかのぼり内陸部をも踏査、『東西蝦夷山川地理取調図』『東西蝦夷山川取調日誌』として呈上したが公にされず、そのこともあってか1859年御雇を辞任、以後約10年間著作活動に専念した。1868年(明治1)新政府から東京府付属、ついで翌年には開拓判官(はんがん)に任命され、北海道名や国郡名などの選定にあたった。しかしアイヌ介護問題などについて政府の方針と意見を異にしたため病を理由に辞任、以来著作のかたわら諸州を漫遊、死去直前に従(じゅ)五位に叙せられた。[山崎節子]

『吉田武三編『松浦武四郎紀行集』上中下(1975・冨山房)』

◆◆Wiki=松浦 武四郎

(まつうら たけしろう、文化1526日(1818312日)明治21年(1888年)210日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家、浮世絵師、好古家。名前の表記は竹四郎とも[1]。諱は弘[1]。雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数。蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案した。

◆生涯

文化15年(1818年)、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて郷士・松浦桂介ととく子の四男として生まれる。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。別書では、代々百姓で、父・桂祐の次男として生まれたとしている。父親は庄屋を営んでおり、比較的恵まれた中、文化的な素養を身に付けたとされる。13歳から3年間、平松楽斎(漢学者・伊勢津藩士)のもとで学び、猪飼敬所、梁川星巌らと知己を得る[5]。

山本亡羊に本草学を学び、16歳から諸国をめぐった。天保9年(1838年)に平戸で僧となり文桂と名乗るが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に[5]、弘化元年(1844年)に還俗して蝦夷地探検に出発する。1846年には樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し[5]、その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。蝦夷では詩人の頼三樹三郎と旅することもあった。安政2年(1855年)に蝦夷御用御雇に抜擢され再び蝦夷地を踏査、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版した。明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名(当初は「北加伊道」)を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。翌明治3年(1870年)に、アイヌ民族への搾取を温存する開拓使を批判して職を辞し、従五位の官位も返上した[6]。この間、北海道へは6度赴き、150冊の調査記録書を遺した。

余生を著述に過ごしたが、死の前年まで全国歴遊はやめなかったという。天神(菅原道真)を篤く信仰し(天神信仰)、全国25の天満宮を巡り、鏡を奉納した。好古家としても知られ、縄文時代から近代までの国内外の古物を蒐集し、64歳のときには、自分を釈迦に見立て古物コレクションに囲まれた「武四郎涅槃図」を河鍋暁斎に描かせている[7][8]。また、明治3年(1870年)には北海道人と号して、「千島一覧」という錦絵を描き、晩年の68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行った。

明治21年(1888年)、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により死去。遺骨は染井霊園の1種ロ102側に埋葬されているほか、武四郎が最も好きだったという西大台・ナゴヤ谷に明治22年(1889年)に建てられた「松浦武四郎碑」に分骨されてもいる。

なお、生地の三重県松阪市小野江町には、生家のほか、武四郎の遺した資料を保管する「松浦武四郎記念館」がある(平成6年(1994年)開館)。また、公益財団法人静嘉堂文庫には、武四郎が収集した古物資料約900点が保存されている。

◆作品

『四国遍路道中雑誌』 弘化元年(1844年) – 19歳の天保7年(1836年)に四国八十八ヶ所霊場をまわった紀行文をまとめた3巻からなる草稿。は吉田武三編『松浦武四郎紀行集(中)』(昭和50年(1975年)、冨山房発行)収録。

「蝦夷大概之図」 嘉永3年(1850年) 松浦武四郎記念館所蔵

「蝦夷変革図」 嘉永4年(1851年)

「千島一覧」 大判 錦絵3枚続 明治3年(1870年) 和泉屋市兵衛版 松浦武四郎記念館所蔵

「紅蓮の旅人」 歌謡曲 歌:浪曲師真山隼人 作詞:渡邊八尋 作曲:森悦彦 編曲:吉田まゆみ

外部リンク

松浦武四郎:作家別作品リスト青空文庫

⭕️松浦武四郎記念館松阪市

https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/takesiro/

⭕️『蝦夷年代記』(多気志楼、1870年)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763025

⭕️『西蝦夷日誌』(多気志楼、1872年)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763059

⭕️『竹島雑誌』(雁金屋清吉、1871年)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766228

⭕️『撥雲余興』(松浦弘、1882年)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/902682

⭕️知床日誌(奈良女子大学学術情報センター)

http://www.lib.nara-wu.ac.jp/nwugdb/k024/

◆◆(終わりと始まり)「北海道」命名150年 汗と涙の歴史に思う 池澤夏樹

朝日新聞18.02.08

 今年は北海道という行政地名が制定されて百五十年目になる。きりのいい数字だからこの地の歴史を振り返るのもいいだろう(ぼくはこの大きな島に生まれて、あちこち転居を重ねたあげく、今はここに戻って暮らしている)。

 十九世紀の後半、当時は蝦夷(えぞ)と呼ばれていたこの島を探検した松浦武四郎という人物がいた。ここからサハリンまでをくまなく歩きまわって精密な地誌を書いた。松前藩の場所請負制度という特異な統治の実態を明らかにし、それがアイヌの人々の絶滅に繋(つな)がることを警告した。

 明治維新直後の一八六九年、彼は蝦夷地開拓御用掛という職に就き、地名の選定を任された。この地に関して第一人者と認められたわけだ。

 そこで彼が提案した六つの名前のうちの「北加伊道」が「北海道」と字遣いを変えた上で採用された。

 道としたのは、古代律令制以来の五畿七道にならうものとして、いわば日本国の領土と認定するに必須の条件だったのだろう。東海道・南海道などと並ぶとなると北海道以外にはない。それを北加伊道とひねったのはアイヌ語を痕跡でも残したいという松浦の意地ではなかったか。

 彼は従五位に叙せられ、開拓判官に任ぜられた。しかし、この地の経営方針の基本として彼が提案した場所請負制度の撤廃を明治新政府は認めなかった。これが残されたのではアイヌは永遠に浮かばれない。彼は辞任し、位階を返上、東京に帰った。以後は二度と北海道に足を踏み入れていない。

 アイヌは旧土人という身分に押し込められた。この法律が廃されたのは一九九七年のことである。

     *

 その後の北海道は植民地であった。

 文字どおり民を植える地。

 流刑囚、戊辰戦争で敗れた東北諸藩の下級武士、新天地で一旗あげようという野心者ないし食い詰め者、家督相続から外れた次男三男、そういう人々が我々北海道人の祖先である。

 ここはずっと別扱いの地だった。その証拠に今も県という行政単位がない。国土交通省には北海道開発局がある。今もって開発の対象なのだ。

 ある時期まで北海道人には徴兵が免除されていた。この制度を利用して夏目漱石は本籍を札幌に置いて兵役を逃れた(この後ろめたさを、例えば『こゝろ』の主人公の心理に重ねることはできないか?)。

 中央政府にとって北海道はいつまで二級の地だったのだろう。

 太平洋戦争の末期、沖縄は国内でほぼ唯一の地上戦の舞台となった。三カ月に亘(わた)る戦闘で二十万人以上が亡くなった。その大半が沖縄の民間人ならびに沖縄で徴兵された兵士だったのは当然として、他の地域から送り込まれた中で最も多くの死者を出したのが北海道だった。一万八百余名という数字は次位の福岡県の倍を上回る。

 もともと北海道は軍事的な性格の濃い土地である。ソ連という仮想敵国を北に置いての経営だった。旭川は軍都と呼ばれたし、札幌の北海道神宮の大鳥居が北東を向いているのはロシアを睨(にら)んでのことと言われる。屯田兵もロシアを意識したものだったろう。

 だから多くの北海道の兵が死地とわかっている沖縄へ送り込まれた。早い話が北海道人は命が安かった。

 それはそれとして、明治以降、北海道の人々はよく働いたと思う。中央から遠い地で、寒冷などのハンディキャップを乗り越えて、他の都府県に劣らない地域社会を作った。

 今、都道府県別年収ランキングで北海道は三十位。物流の不利が大きいから重工業などは振るわない。その代わり、自然条件を生かした農業・牧畜と水産業が盛ん。食料自給率がカロリーベースで二百二十一%というのは全国一位である。生産額では四位になるけれど、それはつまり実質的に国民の栄養になる食料を作っているということだろう。

 それでも植民地の影は残る。

 JR北海道が赤字に苦しんでいる。もともと広大な土地であり人口密度は他の都府県より格段に低い。鉄道経営が営利事業として成り立ちにくい。

 一九八七年の国鉄分割に際して、国はJR各社に持参金を持たせた。その利子で経営を支えろということだったが、後の低金利政策への転換で持参金は画餅(がべい)に帰した。JR北海道は資金不足で車両の整備もままならず、ここ数年は事故を多発している。今後については廃線の話ばかり聞こえてくる。

 現代の社会で交通権は基本的人権の一つではないのか。人々は駅があって鉄道が走っているからそこに移り住んだ。通勤、通学、通院の手段を保障することは国の責務ではないか。日本国憲法第二五条には「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とある。

 中央から見て僻遠(へきえん)の地も住民にとっては世界の真ん中なのだ。

◆◆アイヌと共生の道探る主人公 わらび座ミュージカル「松浦武四郎」

朝日新聞18.08.30

 幕末の蝦夷地を探検し、北海道の名付け親となった人物のミュージカル「松浦武四郎~カイ・大地との約束~」を、わらび座が上演している。先住民族アイヌが受けた差別の歴史に踏み込み、共生の道を探る。

 調査で蝦夷地を訪れた武四郎(戎本〈えびすもと〉みろ)は、支配する松前藩から搾取や暴力を受け、漁場で重労働を課せられるアイヌの実態を知る。和人(アイヌ以外の日本人)との間に立って苦悩しつつ、アイヌが人間らしく暮らせるよう尽くす。

 脚本と演出の栗城(くりき)宏は、初めに企画した札幌商工会議所から「アイヌ文化を大事にした作品を」と言われた。劇中のアイヌの人々はユーモアがあり、恋もすれば自己主張も。「悲惨なだけでなく、どんな希望を持っていたか」を描いた。

 北海道命名150年の今年に合わせた芝居にするには重い現実がある。舞台は明治初期で終わるが、アイヌへの迫害はその後も続く。栗城は、武四郎の活動が現代と密接な関わりがあるとみる。アイヌを虐待する場所請負制度の廃止を訴え続けた。「武四郎が果たせなかった夢は、今の人類にとって大事な視点を持っている。彼のメッセージを考えてもらえれば」

 9月6、7日、東京・渋谷のさくらホール。048・286・8730(わらび座)。中、下旬に北海道内を巡演。(井上秀樹)

◆松浦武四郎展

日刊ゲンダイ18.10.17

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🔴『夷酋列像』(いしゅうれつぞう)

=松前藩の家老、蠣崎がクナシリ・メナシの戦いの後に描いたアイヌの有力者(アイヌ民族の蜂起を松前藩側に立って仲裁。松前まで連行された)の肖像画。その経過に以下の動画がある

★★夷酋列像(いしゅうれつぞう)その奥深さ NHK 北海道スペシャル 北海道博物館 開館記念特別展=50m 

または

http://www.dailymotion.com/video/x396w04

(スマホの場合Dailymotionアプリをダウンロードタイトルを検索にコピーペースト) 

★夷酋列像(予告篇) 20067m

(株)札幌映像プロダクション ライブラリー 

https://m.youtube.com/watch?v=DrDuRbIkJes

★夷酋列像 ダイジェスト3m

★松前藩屋敷9m

◆国立民族科学博物館の『夷酋列像』

クリックして20151203ishu.pdfにアクセス

◆筆者=カムイと白土三平のカムイ伝

カムイ(kamuy, 神威、神居)は、アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと。アイヌ民族の伝統的信仰は日本神道に近いとする説もあり、その場合多神教に分類される。カムイが日本語のカミと共通起源の語彙であるとする説もある。

日本語の「カミ」と同様、「霊」や「自然」と表現してもおかしくない(キリスト教の神のような唯一絶対の存在ではない)。日本神道の「八百万の神」も、アイヌの信仰文化と同様の「アニミズム」の特徴があるという説もある。

アイヌ民族の伝統的な世界観では、カムイは動植物や自然現象、あるいは人工物など、あらゆるものにカムイが宿っているとされる。一般にカムイと呼ばれる条件としては、「ある固有の能力を有しているもの」、特に人間のできない事を行い様々な恩恵や災厄をもたらすものである事が挙げられる。そして、そういった能力の保持者或いは付与者としてそのものに内在する霊的知性体がカムイであると考えられている。

カムイ外伝・カムイ伝=白土三平の大河マンガ

カムイ伝の「カムイ」は、アイヌ語の「カムイ」から

白土三平が名前をつけたもので、アイヌ民族とは無関係。しかし少数民族ゆえの苦しみ、部落出身のカムイの苦しみは、関係しているかもしれない。白土三平は、虐げられた人びとの象徴として「カムイ」という名前をつけたのであろう。もちろん「カムイ伝」には、何回もアイヌ民族が登場する。

『カムイ伝』で抜忍となったカムイは、変移抜刀霞斬り(へんいばっとうかすみぎり)や飯綱落し(いづなおとし)といった必殺忍法や、自己暗示等の技を駆使しつつ執拗に迫る追っ手と戦い、村々で起こる事件を解決しながら、終わりの無い旅を続けていく。エピソード内、カムイは下人や黒鍬・樵・漁師に代表される肉体労働者といった江戸時代の様々な階級に身をやつしている。

「カムイ」とは主人公である忍者、およびサブストーリーとして語られる狼の名前である。主にカムイ(非人)、正助(農民)、竜之進(武士)という三者三様の若者を中心に物語は展開されてゆくが、非人のカムイは物語の進展にともない傍観者的になり、農民の正助が物語の中心になっていく。江戸時代初頭の架空の藩を舞台に展開され、主人公もまた架空の人物である。百姓道具の発案を作中の架空の人物にさせていることや、作品の発表された時代背景により「穢多」「非人」身分を全て「非人」に統一しているなど、フィクション的要素も多い。旧来の漫画にはみられない様々な群像が入り乱れる骨太のストーリーが高く評価され、時代小説に比しても遜色ない漫画路線の礎を築いたとされる。江戸文化の研究者である法政大学総長・田中優子氏の「カムイ伝講義」は本当に面白い。

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🔵Wiki=アテルイ

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◆平安朝廷とたたかった蝦夷の軍事指導者

アテルイは、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者で、789年(延暦8年)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した紀古佐美指揮の朝廷軍を撃退した。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現在の奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。

その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたとされる。田村麻呂は802年(延暦21年)、胆沢城を築いた。

『日本紀略』には、同年の415日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。2人は田村麻呂に従い710日に平安京に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、813日に河内国にてアテルイとモレは処刑された。

なお史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代には通常アテルイと呼ばれる。

◆史料にみるアテルイ

アテルイは、史料で2回現れる。一つは、巣伏の戦いについての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。

史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。

征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)524日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。

◆巣伏の戦い

この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現在の奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。

◆朝廷軍の侵攻とアテルイの降伏

その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたとされる。田村麻呂は802年(延暦21年)、胆沢城を築いた。

『日本紀略』には、同年の415日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。2人は田村麻呂に従い710日に平安京に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、813日に河内国にてアテルイとモレは処刑された。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も旧河内国内には存在しない。「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したため、比定地とみなす説があったが、発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明し、枚方市宇山を植山とする説は消えた。

坂上田村麻呂が偉大な将軍として古代から中世にかけて様々な伝説を残したのに対し、アテルイはその後の文献に名を残さない。 これに伴って、アテルイ伝説を探索あるいは創出する試みも出てきた。田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイと目する説があり、賛否両論がある。

◆石碑、顕彰碑

上述の枚方市宇山にかつて存在した塚と、その近くの片埜神社の旧社地(現在は牧野公園内)に存在する塚を、それぞれアテルイとモレの胴塚・首塚とする説があり、1995年(平成7年)頃から毎年、岩手県県人会などの主催でアテルイの慰霊祭が行われ、片埜神社がその祭祀をしている。但しこのうち「胴塚」については発掘の結果、アテルイの時代よりも200年近く古いものであることが判明している。また枚方市藤阪にある王仁博士のものとされている墓は、元は「オニ墓」と呼ばれていたものであり、実はアテルイの墓であるとする説もある。

田村麻呂が創建したと伝えられる京都の清水寺境内には、平安遷都1200年を記念して、1994年(平成6年)11月に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されている。牧野公園内の首塚にも、2007年(平成19年)3月に「伝 阿弖流為・母禮之塚」の石碑が建立された。

2005年(平成17年)には、アテルイの忌日に当たる917日に合わせ、岩手県奥州市水沢区羽田町の羽黒山に阿弖流爲・母礼慰霊碑が建立された。同慰霊碑は、アテルイやモレの魂を分霊の形で移し、故郷の土の中で安らかに眠ってもらうことを願い、地元での慰霊、顕彰の場として建立実行委員会によって、一般からの寄付により作られた。尚、慰霊碑には、浄財寄付者の名簿などと共に、2004年(平成16年)秋に枚方の牧野公園内首塚での慰霊祭の際に、奥州市水沢区の「アテルイを顕彰する会」によって採取された首塚の土が埋葬されている。また、JR東日本は、東北本線の水沢駅盛岡駅間で運行している朝間の快速列車1本に、彼の名前を与えている。

◆モレ

モレ(母礼)(生年不詳 – 延暦21年旧8月13日(802年9月17日))とは、上記のアテルイと同時期、同地方に伝えられている蝦夷の指導者の一人と見られている(『日本後紀』、『日本紀略』では磐具公母礼)。アテルイと共に、河内国で処刑されたことが記されている。磐具公母礼(いわぐのきみもれ)。

🔴◆◆NHKBS時代劇「アテルイ伝」演出にあたり=佐藤峰世(演出家)

古代の東北には「蝦夷(えみし)」と呼ばれた人々が暮らしていた。彼らの文明がどのようなものであったかは、大学の先生方にお聞きしても、明確な答えは返ってこない。彼らは何ら弁明する手段をもたず、沈黙のまま歴史の闇に消えていった敗者である。しかし、私たちは、彼らの独特な「価値観によって支えられ、独自の社会構造と習慣と生活様式を具体化し、それらのありかたが自然や生きものとの関係にも及ぶような、そして食器から装身具・玩具にいたる特有の器具類に反映されるような」ものを、集積し、創造し、映像化しなければならない。そのために、下記の事柄を発想の基点とする。

) 蝦夷の社会は部族社会。族長を代表とし、血族を中心とした100人程からなる祭祀共同体であり、同時に軍事共同体でもある。共同体には掟(おきて)があり、掟からの逸脱は許されず、神々に支配された社会であった。阿弖流為は、一族の構成員を神々の呪縛から解放し、人間の誇りを獲得するが、神々から罰を受ける。一族には、それぞれの紋章があり、一族は紋章が描かれた族旗と共に行動した。結婚には、労働力の減少・増加という側面もあったが、部族同士の平和的共存を実現する手段でもあった。

2)蝦夷のアイデンティーは、縄文・続縄文文化の流れを汲む「狩猟・漁労」文化にある。秋の鮭漁。狩猟(鹿・熊・他小動物)。蝦夷の色は、赤と黒。ヤマトの色は白。

3)ヤマトの文化も受け入れ、複合文化を形成していた。農耕・水田稲作・鉄器の利用・埋葬方法(古墳)など。また、百合根からでんぷん質を摂取していた

4)祭しは祖霊崇拝・自然崇拝を中心としたシャーマニズムであり、主に女性のシャーマンが神がかりし、神の意思を仲介した。また、一族の構成員が神と共に遊べる楽しい場であった。

5)アテルイは、自らの文化・文明と、ヤマトの帝(ミカド)を中心とした律令(中央集権)国家の違いを認識した後に、蝦夷連合を組織し、自らのアイデンティーと土地と文化・文明を守るために、ヤマトとの戦争を決意する。ヤマトは、蝦夷の地に城柵を建設し、その周辺にヤマトからの移民を送り込み、蝦夷の土地を奪った。アテルイは、北上してくるヤマトの侵略を、胆沢の地でくいとめる為に、最後まで戦う。その死の三年後、桓武天皇は蝦夷征伐中止を宣言することとなる。

6)アテルイは戦争に敗れる。そして、投降する。ヤマトに虐げられてきた少数者の代表者として、ヤマトの民に語りたいことがあった・・・。戦争により自らの土地とアイデンティーを守ろうとした自分は愚か者であった。愚か者ではあるが、自分はヤマトの民と同じ人間である。同じ人間である以上、理不尽な差別は許さない。そして、里人たちに言い残した言葉あった。「故郷を追われても、いつかこの地に帰れ」

7)蝦夷は部族同士の戦に備え、ヤマト(大伴氏)との交易で馬を入手し、自ら馬を飼育していた。中には、アテルイのように、騎射の術に秀でた者もいた。

8)蝦夷の里には、季節ごとの花々が咲いている。

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🔵歴史ロマン対談・英雄アテルイの時代と東北のいま

高橋克彦さん(作家)伊藤博幸さん(考古学者)

2014.01.21-22 赤旗

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アテルイ(阿弖流為) ?~802年、奈良・平安時代のエミシの首長。大墓公阿弖流為ともいう。胆沢地方を本拠地に政府軍の侵攻に強固に抵抗、岩手・衣川の戦で政府軍に大打撃を与える。802年、坂上田村麻呂に投降し、大阪河内で処刑。

たかはし・かつひこ=1947年岩手県生まれ。83年『写楽殺人事件』で江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。『北斎殺人事件』で日本推理作家協会賞、92年『緋い記憶』で直木賞、2000年『火怨』で吉川英治文学賞。近著『東北・蝦夷の魂』はじめ著作多数。11年に日本ミステリー文学大賞受賞。「平和憲法・9条をまもる岩手の会」呼びかけ人。

いとう・ひろゆき=1948年岩手県生まれ。岩手大学平泉文化研究センター特任教授。74年から水沢市教委主事として胆沢城跡の発掘調査に従事。以後、水沢市・奥州市の埋蔵文化財調査センターを経て現職。2012年NHK・BS時代劇「北の英雄 アテルイ伝」の時代考証担当。岩手考古学会副会長。専門は日本古典考古学。『アテルイと古代東北』『古代胆沢城跡の研究』を執筆中。

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◆中央史観への疑問・抵抗の歴史

 東北地方の古代の歴史記述は、ヤマト・中央勢力の政治支配や文化の影響の視点(中央史観)からが支配的でした。近年、蝦夷研究や遺跡発掘の成果で大きく変化してきました。歴史小説で中央史観に異議を唱え、蝦夷の活躍を描いてきた作家・高橋克彦さん、奈良・平安時代に生きたアテルイの遺跡の発掘調査に関わり実像に迫ってきた考古学者・伊藤博幸さんに、「英雄アテルイの時代と東北の今」について語り合ってもらいました。

 伊藤 私が水沢市教委職員として陸奥国の古代城柵のあった胆沢城跡(奥州市水沢区)の発掘調査に加わったころに、テレビの歴史番組でご一緒したのが高橋さんとの最初の出会いでした。1990年代当時、高橋さんは、地元の英雄アテルイ(注)に注目し小説『火怨』を書いて、中央史観ではなく、郷土の歴史に誇りを持つことを盛んに説いていました。その後、『炎立つ』で、安倍氏、清原氏そして清衡ら藤原三代をテーマにドラマを書かれました。「獣」と断じられ消された歴史 高橋 東北の民は、中央の権力と何度もたたかい、敗北してきました。アテルイ、前九年・後三年合戦、平泉滅亡にまきこまれ、歴史をズタズタに書き換えられ、捨てられてしまった。私が蝦夷にこだわった最初は、100年続いた平泉都市の文化の輝きを伝えたいと思ったからです。『続日本記』のなかで、東北征伐の勅令に、天皇が東北の民を「獣」と断じているのに衝撃を受けました。なぜ東北の民はいわれなき討伐をうけなければならなかったか、蝦夷の苦悶や苦しみを無視する歴史年表の冷淡さにも腹が立ったのです。

 伊藤 そうでした。古代史で東北地方がないがしろにされて、学校の歴史教科書からも外されていました。明治生まれの方から、「アテルイのことをあまり大きくいわないほうがいい」と注意されたこともありました。アテルイ、安倍貞任、九戸政実らは、逆賊どころか郷土を守ろうとしたヒーローなのだという正当な評価をして、小説にされ、それがテレビドラマになってきました。考古学の論文ではなかなか広がらないところですが、高橋さんの功績が大きいと感じています。

◆遺物が次々発掘東北に新しい光

 高橋 それを支えてくれたのがみなさんの研究成果ですよ。多賀城(宮城県多賀城市)、胆沢城(岩手県)など中央政府の出先のあった遺跡の発掘で、漆文書や木簡が大量に出てきた。世界遺産に認定された都市・平泉、そこの柳ノ御所跡の井戸などから遺物が次々に発掘され、支配者層の生活ぶりとともに抹殺された民のことも分かってきました。東北全体が新しい歴史に光があたり、東北のアイデンティティー(自覚した魂)とアテルイの活躍とがリンクしたのでしょうね。工藤雅樹さん(故人、福島大教授)や伊藤さんら考古学研究者の視点がムーブメント(動き)になって私ら作家が燃え出したといえます。

 伊藤 北上川中流域は古代から「胆沢・和賀(我)・紫波」と呼ばれ、古墳時代には、馬・毛皮・琥珀・昆布などの特産品の交易品で栄えていました。奈良時代後半、ヤマト政権は、これらの特産品を掌握しようと胆沢地方を大軍で攻めます。

 高橋 文献にわずか出てきた「賊反逆」の争いが、「東北大戦争」のクライマックスを迎えますね。

 伊藤 そうです。延暦8年(789年)、政府は5万人余の征討軍を多賀城に集め、北上川を北上し衣川に進む。これを迎え撃ったのは、アテルイをリーダーとする蝦夷連合軍2800人。巧みな戦術で3000人に被害を与え、敗走させます。延暦13年、坂上田村麻呂が指揮する10万の兵が攻め、延暦20年には3度目の遠征がおこなわれます。そして、21年にアテルイが降伏し、田村麻呂とともに上京、最期は斬首されます。

 高橋 アテルイはなぜ降伏したと考えますか。新史料の出現で膨らむイメージ 伊藤 13年にわたる戦で、田畑は荒廃していました。アテルイ側も多くの戦士を失いました。ある研究者は、当時、胆沢の推定人口が1万人、青年・壮年の兵士2800人いたのに500人しか残らなったといいます。蝦夷軍が長びく戦でえん戦気分が出てきたし、政府側の分断策も進行し、アテルイが孤立していったことが敗因でしょう。アテルイは武将のリーダーだっただけでなく、優れた経済人であったことがだんだんわかってきました。

 高橋 政府側の「延暦の戦」の記述が実に詳しい。おかげで、アテルイの存在が明らかになったわけです。人物像のイメージも膨らんできました。『炎立つ』を書いていた頃、平泉の遺跡発掘の成果がどんどん発表されましてね。小説の改訂版をすぐ出すわけにはいかないから苦労しました。困った仕事ですね。

 伊藤 30年ほど前なら、アテルイ側に専門の武装集団があったから中央の大軍を敗走させた、との説明ですみました。しかし、いまは大きく変わりました。アテルイは、商品を運んだ流通路・北上川の要所要所を押さえた勢力だったのです。いまの「遅れた東北」の発想ではそんな勢力だったとは考えられませんでした。先人たちの知恵、目輝かす被災者 伊藤 被災した岩手・釜石市、山田町などで、郷土史の講座を開くのに協力してきました。津波をまぬがれた高台にある神社の下には縄文遺跡ある。「先人の知恵です。青森の三内丸山遺跡と同じくらい素晴らしい歴史があります」と語ると、目を輝かし、「そんな話を聞きたかった」と喜んでくれました。まさに、「考古学は地域を元気付ける」そのもの。考古学を勉強していて良かったと思えましたね。

 高橋 私自身、言葉遣いなどでコンプレックスを持っていました。東北人の心を取り戻したいと「蝦夷の復権」を叫んできました。でも、あの3・11大震災を体験した東北の民が、辛い思いをバネにたくましく立ち上がりました。自分のことよりも他人を気遣う被災者や秩序正しい避難所の様子は世界の人に感動を呼びました。「東北の魂」が発揮された姿を見て、私自身、少し考えを改めてきています。3・11の復興に受け継ぐ遺伝子 伊藤 アテルイ、前九年・後三年合戦、平泉滅亡そして、秀吉の奥州仕置、幕末から明治にかけての戊辰戦争をどう考えますか。

 高橋 この戦、東北人の抗いの歴史を「5連敗」とるのではなく、(中央権力から)差別され抑圧されてきたなかで、「勇気ある撤退」だった、時間をかけて熟成させた「ねかせる文化」の選択だったのではないか、と考えるようになってきました。「敗北」のたびに立ち上がった根底にある魂の歴史が、いま「3・11の復興」に受け継がれる遺伝子なのではないか。正直、大震災絡みの小説は書けなくなりました。そこで、昨年6月、2014年2月まで、「休筆宣言」をした。考える時間でした。

 伊藤 3月以降、東北の古代史を再びよみがえらせた作品に期待しています。

関係略年表 

645年 大化の改新 

710年 平城遷都 

720年 蝦夷反乱、按察使殺す 

724年 多賀城設置 

759年 桃生城・雄勝城設置 

767年 伊治城築造 

780年 伊治公砦麻呂の乱 

789年 政府軍5万余、アテルイに大敗 797年 田村麻呂征夷大将軍に任命

802年 胆沢城築造

1051年 前九年の合戦

1083年 後三年の合戦

1189年 奥州合戦、平泉藤原氏滅ぶ

◆◆アテルイの最期=清水寺と東北の「英雄」アテルイ、敵・味方を超え、結ばれた絆

15.07.22朝日新聞(京ものがたり)

 アテルイは蝦夷(えみし)の反乱を率いた頭領である。

 いや、反乱とは都の側の見方に過ぎない。蝦夷が都の「征討軍」と戦ったのは東北の地であり、蝦夷が京に攻め上ったわけではない。ならばアテルイは、侵略に抵抗した英雄ではなかったか。

 アテルイは史料にほとんど現れない。地元でも長い間「忘れられた偉人」だったが、1990年代から小説や舞台の主人公として度々登場。自然や家族とともに生きる誇り高い人物として描かれ、復権した。

 94年、清水寺の境内に建てられたアテルイと副将モレ(母礼)の顕彰碑も、その名を広める契機になった。寺を創建したのはアテルイと戦った征夷大将軍、坂上田村麻呂だ。

 十余年の戦いの末に投降したアテルイとモレは802(延暦21)年、500人余の兵とともに田村麻呂に従い、京へ上る。平安時代に編纂(へんさん)された歴史書「日本紀略」によれば、田村麻呂は2人を助命し故郷に返すべきだと進言したが、聞き入れられず処刑されたという。

 田村麻呂は「怒れば猛獣もたちまち倒れ、笑えば幼児もなつく」と伝えられ、知仁勇兼ね備えた武人であったとされている。戦った東北で首をはねず、わざわざ京へ連れ戻ったのは、アテルイの度量を見抜き、生かしたかったからではないか。

 アテルイもまた、500の兵を率いて最期まで戦う道もあったはずだが、田村麻呂を信じればこそ命を預けたとも思える。京へ上る道中で、2人の間に友情のようなものが芽ばえかけていたかもしれない。

 「相手の大将が田村麻呂でよかったと思ってるんです」と、京都岩手県人会の副会長で関西アテルイ・モレの会常任幹事の佐藤耕吉(64)は話す。「田村麻呂も誠心誠意、アテルイを助けようとしたのでしょう。だから恨みつらみは不思議とない。東北人の性格でしょうか」

 清水寺に碑の建立を実現させたのは、アテルイ・モレの会の初代会長を務めた岩手出身の高橋敏男(故人)の熱意だった。寺側に要望したときの気持ちについて、「清水の舞台から飛び降りる心境」と後日振り返った。当時、岩手で高校教師をした経験がある僧が寺にいた縁もあった。碑石は岩手県産御影石。「北天の雄」と記された碑文は清水寺の森清範貫主が筆をとった。

     *

 「田村麻呂とアテルイは単なる敵味方ではなかったはず。境内で2人の精神を今日に伝えることができるのは喜ばしい」。清水寺の坂井輝久学芸員(66)は碑の意義を語る。

 寺はアテルイの故郷、岩手県と交流を深めている。東日本大震災の後、岩手での法要と復興支援活動を毎年欠かさない。1200年前はすれ違いに終わった出会いが、新しい絆を結んでいる。=敬称略(樋口大二)

 <アテルイ> 平安時代初期、いまの岩手県奥州市(胆沢〈いさわ〉地方)を本拠にしていた蝦夷(えみし)の指導者。史料では「阿弖流為」または「阿弖利為」と記される。789(延暦8)年、胆沢に攻めこんだ朝廷軍と戦い大勝。のちに坂上田村麻呂に降伏し、処刑された。写真は岩手県などによってCGで復元された首像。

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🔵坂上田村麻呂と「蝦夷征伐」

(小学館百科全書)

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◆◆坂上田村麻呂

さかのうえのたむらまろ

758811

平安初期に活躍した武将。苅田麻呂(かりたまろ)の子。桓武(かんむ)天皇の二大事業の一つとして活発に行われた蝦夷(えぞ)征討において、武将としての器量を大いに発揮して活躍したことで有名。近衛府(このえふ)の少将であった791年(延暦10)征東副使となったのを契機に大使大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)のもとで蝦夷討伐に功をたて、796年には陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)、陸奥守(むつのかみ)を兼任し、ついで鎮守府(ちんじゅふ)将軍をも兼ね、翌年には征夷(せいい)大将軍に任ぜられた。801年(延暦20)の第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて赴き、4万の軍を率いて攻め、まず胆沢(いさわ)の地を攻略し、翌年胆沢城を築いて鎮守府を多賀(たが)城から移した。ついで803年にはさらに北進して志波(しわ)城をつくり、蝦夷地経略に多大の功績を残した。これらの功によって805年に参議となって公卿(くぎょう)の仲間入りをし、その後、中納言(ちゅうなごん)を経て正三位大納言(右近衛大将)にまで至った。この間、810年(弘仁1)に起こった薬子(くすこ)の変では嵯峨(さが)天皇の命で、東国への脱出を企てた平城(へいぜい)上皇らを大和(やまと)国(奈良県)添上(そうのかみ)郡で食い止め、武功をあげた。翌弘仁(こうにん)2523日に薨去(こうきょ)。姉妹又子、娘の春子が桓武天皇の後宮に入って、それぞれ高津(たかつ)内親王および葛井(ふじい)親王を生んでいる。京都東山の清水寺(きよみずでら)は田村麻呂の創建と伝える。[朧谷 寿]

『高橋崇著『坂上田村麻呂』(1959・吉川弘文館)』

◆◆蝦夷・「蝦夷征伐」とは

◆蝦夷(えぞ)とは

日本古代史上、北東日本に拠()って、統一国家の支配に抵抗し、その支配の外に立ち続けた人たちの呼称。「えみし」「えびす」ともいう。従来、「アイヌか日本人(和人)か」という人種論を縦糸にし、これに横糸として「蝦夷征伐」の歴史を織り合わせる形で、研究が進められてきた。現在では、その人種論、征伐史観ともに、大きな転換を迫られる研究段階にきている。[高橋富雄]

◆人種論

日本神話では、いわゆる「天孫民族(てんそんみんぞく)」が新しくきて、国土を統一したように伝えている。それを歴史に読み替えて、天孫民族が日本人、先住民族がエゾですなわちアイヌという理論に発展した。『類聚国史(るいじゅうこくし)』では、エゾを「風俗部」に数え、これを一種の「国内殊俗(しゅぞく)」すなわち「国内異民族」扱いしている。歴史的経過に照らせば、北東日本に拠った「国内異民族」にあたるものがアイヌであることは、まことに自然である。だから、エゾをアイヌと考えることは、十分理由のあることである。しかし、これは、蝦夷をエゾと読むようになった平安中期以降では無条件に正しいのであるが、蝦夷をエミシ(エビス)とよんでいた古代においては、これをすぐにアイヌと置き換えるだけの十分な理由がない。古代エゾ観念は人種観念でないからである。それを、エミシ時代の古代エゾをも含めて、通して、アイヌか日本人かという二者択一の人種論でとらえようとしてきたところに、この議論の誤りがあった。[高橋富雄]

◆歴史上の蝦夷観念

初めエゾという呼称はなかった。エミシ(エビス)であった。それをすべてエゾと考えてきたところに問題があった。エミシはもともと「勇者」の意味である。人名にエミシがあるのはこの意味である。他方、この勇者は、神武(じんむ)歌謡以来、「東の抵抗する勇者」として意識されるに至っている。「エミシを一人(ひたり)、百(もも)な人 人はいへども 手向ひもせず」が、皇師東征の歌であることに注意すべきである。こうしてエミシは「あずまびと」への賤称(せんしょう)ということになる。「あらぶる人たち」「まつろわぬ者たち」というのがその性格規定である。「夷」はヒナとも読んだが、「あずま」もヒナ=辺鄙(へんぴ)の意味であった。エミシはヒナ人である。律令(りつりょう)時代に彼らが無法、無道とされるのもこの意味である。すなわち歴史上のエゾ観念は、政治的、文化的な蛮族観念である。人種の違いに基づく異民族観念ではないのである。古代国家の統一に抵抗し、その支配と文化を受け入れないゆえに、体制側からすれば、未開、野蛮な人たち、その意味での政治的、文化的異民族であったのである。人種上の異民族であったかどうかは、別途の考察を要する。[高橋富雄]

◆日高見蝦夷

『日本書紀』景行天皇(けいこうてんのう)27年条には「東夷の中、日高見国(ひたかみのくに)あり。その国の人、蝦夷という」とある。これは、同じエミシのなかでも、東国エミシと日高見エミシは異なることを指摘し、後世のエゾに連なるエミシ、すなわち固有の意味のエゾ観念を示すものとして注目される。日高見国はすなわち「道奥(みちのく)」をさしたと考えられる。これまで、ただ「夷」と書いていたエミシを「蝦夷」と書いて区別するようになった点でも、特別なエミシが意識されたことを物語る。この景行紀の記事は、大化改新前後のエゾ事情を反映しているものと考えられ、歴史時代のエゾ観念の成立とすることのできるものである。そこで、エゾ経営が東北に進み、とくに激しい軍事的対抗関係に入るようになった東北中部あたりから以北のエゾについては、実際に人種的にも別種の人たちではなかったかと考えられる。その人名、地名についても、このあたりからヤマト語では説明できないものが出てきて、この人たちが「アイヌ系」であることを物語っている。この人たちが、もう少し時代が下り、場所も北海道に近づいて、エミシとも区別してエゾとよばれ、アイヌであることをはっきりさせるが、そうなるまでには、この「アイヌ系」のなかでかなりの変化があったと思われる。1011世紀ごろは、北方アイヌ系の人たちの間に、かなり大きな「ヒトの変革」があって、中世エゾ=アイヌの成立になったものと思われる。[高橋富雄]

◆蝦夷征伐史観

これまで、日本古代国家は45世紀のころヤマト国家として成立し、その後は、これを体制的に整えるのが国家の仕事で、国家を外に拡大する仕事は、国家悪者退治という程度に考えてきた。熊襲(くまそ)征伐、隼人(はやと)征伐、みなそうである。その最たるものに蝦夷征伐がくる。しかし、この「征伐史観」は正しくない。誤りの根本は、国家成立史観にある。45世紀のころのヤマト国家は、瀬戸内海中心の西日本国家として、第一次の成立をみただけである。その外側には、日本列島の半分にも上る広大な地域が、独立・半独立の状態に置かれていた。その残された独立諸日本を統一して初めて日本国家は完成するので、それまでは日本列島国家は成立しない。その第二次統一国家、第三次統一国家の統一戦争として、熊襲征伐も隼人征伐もあるのだが、とくにエゾ征伐とされているのは、東日本、北日本全体の経営にかかわるのであるから、これは日本国家形成の最大の統一事業のように考える必要がある。だから、そのとらえ方も「蝦夷征伐」のような悪者退治史観ではなしに、日本史を二分するような東西抗争史観を根底に置いて、「西の挑戦」に「東の応戦」を対置して、東国から奥羽へ、さらに蝦夷地に主権が進んで、初めて日本国家は完成するという史観に改まってこねばならない。エゾ経営史は国家成立史である。[高橋富雄]

◆エゾ問題の行方

エゾ人種論は、それがアイヌであるか日本人であるかさえ決まれば、それですべては解決すると考えてきた。エミシがエゾになり、最後にアイヌになっていくのには、東国から奥羽へ、さらに蝦夷地へ、何百年にもわたって、何百里も移動する民族の流離の歴史のあったことは没却されている。「エゾ征伐」を論じてきた人たちは、戦争が終わってしまえば、それでエゾ問題は終了したと考えてきた。エゾ経営は、外にたつエゾを内に組織し、そのエゾ世界に統一日本を実現することを目的とした。エゾ問題は、その目的がどう実現したかを見届けて終了する。これまでのエゾ征伐史観には、この観点が欠落していた。それは、古代エゾを中世エゾに送り届け、アイヌとしての歴史に至り着くのを見届ける必要があるとともに、国家のなかに編成されたエゾたち、すなわち俘囚(ふしゅう)らが、どのように「内民」としての「同等」を成し遂げたか、もしくは成し遂げないで「内なる独立」を保持し続けることになるのか。そのような「それからのエゾ問題」にも、しっかりした見通しをたてておく必要がある。彼らについて「俘囚郷」というムラの存在が知られ、彼らの「調庸(ちょうよう)の民」化が進まなかったことからすれば、この人たちのうずもれた歴史が差別の問題にも連なっていることは明らかである。この問題は日本史の暗部に連なる。[高橋富雄]

◆一つの日本

最近、アイヌも沖縄の人たちと同じ南方系のヒトで、北方系ではないのではないかという意見が強く出されている。アイヌ語についても、本来、日本語と同系ではなかったかという見解も有力になってきている。中央部に新しい大陸的要素が入って、日本は大きく変わった。もとは「一つの日本」であった。エゾはその原日本の担い手になるのでないか。そういうことも考えられてきている。[高橋富雄]

◆古代国家の蝦夷政策

古代蝦夷は、大和国家(やまとこっか)形成過程において領域内に組み込まれる人々としてまず登場する。「崇神紀(すじんき)」における大彦命武渟川別(おおひこのみことたけぬなかわわけ)の北陸・東国視察、「景行紀(けいこうき)」における武内宿禰(たけしうちのすくね)の東方視察とそれに続く日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国経営、毛野(けぬ)氏と蝦夷との確執、「斉明紀(さいめいき)」の阿倍比羅夫(あべのひらふ)の日本海側北行事業などにおいてである。いずれも説話的伝承的記事である。大化改新後、越国(こしのくに)(新潟県)に渟足柵(ぬたりのき)・磐舟柵(いわふねのき)の両柵(さく)が設置されるが、この時期の国家領域は新潟県・福島県北部に及んだことになる。7世紀後半に陸奥国(むつのくに)712年(和銅5)には出羽国(でわのくに)が設置されると、両国北辺における蝦夷支配と対立とが律令(りつりょう)国家にとって大きな課題となった。養老令(ようろうりょう)によれば、両国は「辺遠国」「辺要国」であり、「夷人雑類」の居住地。国司の任務は「饗給(きょうきゅう)、征討、斥候(せっこう)」という他国にはない任務が付加されている。

 奈良時代前期、仙台平野に国府兼鎮守府(ちんじゅふ)の多賀城(たがじょう)ができ、漸次、建郡、城柵建設が進むと、ここに柵戸(きのへ)・鎮兵として東国・北陸の農民が徴発・配備された。蝦夷は姓(せい)を与えられ、戸籍に編入されて班田農民化する者、交易関係を通じて緩やかな支配を受ける者とがあった。しかし国家収奪の強化、交易関係の混乱、現地社会の内部対立などから絶えず政情不安が生じた。709年(和銅2)陸奥・越後(えちご)蝦夷の乱、720年(養老4)陸奥蝦夷の按察使(あぜち)上毛野広人(かみつけぬのひろひと)殺害、724年(神亀1)陸奥蝦夷の大掾(だいじょう)(国司三等官)殺害事件などが起こり、いずれも征討軍の派遣をみる。また737年(天平9)大野東人(おおののあずまひと)による東国騎兵1000人、陸奥国兵5000人、鎮兵、蝦夷らを駆使した鎮撫(ちんぶ)政策と出羽柵への直通路開発事業や、758年(天平宝字2)の陸奥国桃生城(もものうじょう)、出羽国雄勝城(おがちじょう)建設などは現地社会の矛盾を激化させたのであろう。770年(宝亀1)蝦夷宇漢米公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)の離反を契機に、仙台平野北部から北上(きたかみ)盆地にかけての地域は以後約30年に及ぶ動乱期を迎えることになる。なかでも780年「俘軍(ふぐん)」を率いた上治(かみはり)(伊治(これはる))郡大領伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)の乱は、私怨(しえん)に起因するとみられたが、牡鹿(おじか)郡大領道島大楯(みちしまのおおたて)・按察使参議紀広純(きのひろずみ)殺害と多賀城の陥落という事態に発展した。桓武天皇(かんむてんのう)は「坂東の安危は此()の一挙に在り」という認識で3回にわたる征討戦に大軍を投入する。788年(延暦7)征東将軍紀古佐美(きのこさみ)による衣川(ころもがわ)付近の戦闘は官軍の損亡3000人に及ぶ大敗。794年征東大使大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)による10万人の征軍には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らが副将軍に起用され、斬首(ざんしゅ)457、捕虜150、焼亡75か所という戦果。801年は田村麻呂が征夷大将軍として4万人を率い、翌年胆沢城(いさわじょう)築城と胆沢蝦夷大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)、盤具公母礼(ばぐのきみもれ)500余人の降人を得、さらに志波城(しわじょう)築城までも行った。この段階で国家領域は岩手県北部に伸長したことになる。その後811年(弘仁2)征夷将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が爾薩体(にさて)(岩手・青森県境)、閉伊(へい)(岩手県東部)に2万人の兵を展開、815年に至って胆沢、多賀(たが)などの諸城柵および軍団に兵士・健士(有勲者)を重点的に配備する軍制改革が行われた。

 他方、出羽国では、878年(元慶2)国司苛政(かせい)に反発した上津野(かづの)(鹿角)、野代(のしろ)(能代)など12か村の「夷俘」の反乱(元慶(がんぎょう)の乱)が勃発(ぼっぱつ)するが、帰順した「義従俘囚」動員の成功や、出羽権守(でわごんのかみ)藤原保則(ふじわらのやすのり)、鎮守府将軍小野春風(おののはるかぜ)の懐柔策により動乱は終息。秋田城、雄勝城、国府を中心とする軍制改革をみた。こうして律令国家にとっての辺要国での蝦夷問題は、最北辺の国境線を明確にせぬまま終わった。

 この間、全国各地に分散移住させられた蝦夷は俘囚とよばれ、「俘囚計帳」に登録されるようになって調庸民化する者、調庸は免除され禄物(ろくもつ)が与えられるが、軍事力を期待されて要害警備の任につく者、平安末期に至るまで、朝廷儀式に参集することを義務づけられた者などの姿があった。『延喜式(えんぎしき)』によれば35か国に「俘囚料稲」が計上され、『和名抄(わみょうしょう)』では6郡に「夷俘郷」の名がみられる。[弓野正武]

『古代史談話会編『蝦夷』(1963・朝倉書店) ▽高橋富雄著『蝦夷』(1963・吉川弘文館) ▽新野直吉著『古代東北の開拓』(1969・塙書房) ▽豊田武編『東北の歴史 上巻』(1967・吉川弘文館) ▽大林太良編『蝦夷』(1979・社会思想社)』

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🔵アイヌ民族とは、その歴史と文化

(日本共産党のアイヌ民族政策・小学館百科全書なと)

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🔵日本共産党アイヌ民族政策

🔴❶日本共産党政策=アイヌの生活向上と権利を擁護し、実態をふまえた新法制定を

2017年10月

(2017総選挙/各分野の政策)

 アイヌ民族は、北海道を中心とする日本の先住民族であるにもかかわらず、明治期以降の国の同化政策によって、土地や資源、文化や言語、民族の権利や尊厳を奪われ、今なお差別や偏見の中、生活環境や進学において格差に苦しんでいます。

 2007年に国連総会で「先住民族の権利に関する国際宣言」が決議され、翌年に衆参の両院で「アイヌ民族を先住民族とする国会決議」が全会一致で採択されました。この国会決議を受けて日本政府も「政府として先住民族として考えている」(町村官房長官談話)と表明しました。アイヌ自身の粘り強い運動が政府の態度を変えるまでに至り、2009年には政府の「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」からアイヌの生活向上と権利を回復するための新法制定を求める報告書も提出されています。

 それから7年が経ち、ようやく政府は新法制定に着手するとしています。同時に、新法ができるより前にも、厳しい生活を強いられている実態や差別と偏見を克服する政府の取り組みが急がれます。日本共産党は、新法を含めた施策の抜本的拡充とともに、緊急の課題を国の責任で解決することを求めます。

1.新法ではアイヌが先住民族であることを明確にし、実態をふまえて権利回復の手立てを

 北海道中心に居住していたアイヌが今日まで苦しめられてきた大本には、明治政府以来の強制同化政策があります。新法においてアイヌが先住民族であると明確にするとともに、国としての謝罪が必要です。

 そのうえで、日本政府も賛成した「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(2007年)をふまえた権利回復の手立てを実効性あるものにしなければなりません。政府は今年度中に新法を制定するうえで実態調査を進めたいとしていますが、これまでの蓄積があるアイヌ協会や関係団体、関係自治体とよく連携し、アイヌ本人の意思もふまえながら、ていねいな対応と調査を進めることです。そのための必要な体制も確保しなければなりません。

 また、明治期よりアイヌ人墓地から研究目的と称して遺骨が持ち出され、今なお1000体以上が返還されていません。これはアイヌ民族に対する差別的処遇の象徴です。アイヌ遺骨は受け入れ先との協議のうえ、元の地に戻すことを基本に、返還作業を進めます。

 新法制定と並行して、教育の充実など民主的土壌の醸成につながることや、成立したヘイトスピーチ解消法を実りあるものにする努力も強めるべきです。

 アイヌ民族の権利や歴史を正しく教えることにより、アイヌ民族の存在や歴史について正しい理解を広げ、奪われた先住民としての権利や、民族としての尊厳を回復できるよう、教育をはじめあらゆる施策を強めます。

2.アイヌの経済的・社会的苦難を解決する緊急対策を求める

 北海道がおこなった実態調査では、アイヌ世帯が厳しい生活環境に置かれていることが明らかになりました。国連女性差別撤廃委員会からは「アイヌ民族や在日外国人の女性が置かれている『複合差別』の是正勧告」が出されています。これらの経済的・社会的苦難は、これまでの差別と偏見によるものが背景にあります。

 国として緊急に、文化・歴史の保護・伝承と合わせて古老・高齢者の生活保障、アイヌ女性が気軽に相談できる窓口の拡充、誰もが受けられる給付制奨学金の創設などの実施を求めます。

🔴❷アイヌの権利を守り、生活向上を進め、先住民族の新法制定を

1916.05

日本共産党北海道委員会

政府がアイヌ民族に対する差別や偏見の問題について20162月におこなった調査 では、「アイヌ民族に対する差別や偏見があると思う」と答えた人は、アイヌ民族を対象に した調査では72%だったのに対して、国民全体では18%にとどまり、国民のアイヌ民 族への理解がすすんでいないことが浮き彫りになりました。また、アイヌ民族を対象とし た調査では、「家族・親族・友人・知人が差別を受けている」と答え人が51%にも上り、 差別や偏見が実際の生活に大きな影響を与えていることも明らかになりました。国連女性 差別撤廃委員会からも「アイヌ民族や在日外国人の女性が置かれている『複合差別』の是 正勧告」も出されています。

2007年に「先住民族の権利に関する国連宣言」が出され、翌2008年には、衆参 両議院は全会一致で、アイヌ民族を先住民族と認めるよう日本政府に求める決議を採択、 同日、内閣官房長官は、アイヌ民族が先住民族との認識のもと総合的な施策に取り組むと の談話を発表しています。

それから10年になろうとしていますが、現状は国連宣言や国会決議にふさわしい施策 が進められずにきました。

現状を大きく改善するためには、アイヌ新法を制定し促進することを求めます

1、国連宣言を完全履行し、アイヌの権利を守り、生活の向上をはかります

抜本的に改善する第 1 は権利を守り、生活の向上をすすめることです

2013年に実施された「北海道アイヌ生活実態調査」によると、アイヌの316% の世帯が年間所得200万円未満で、公的年金を受給していない人は9.8%にも上っ ています。また、アイヌが居住している市町村では、生活保護率が他の市町村の1.4 倍になっており、進学率は高校が6%、大学は17%も低く、生活と教育、権利の面で のアイヌ民族の格差が歴然としています。

教育と雇用、社会保障の面での障害をすべて取り除くため、無利子の融資制度の制定 など、適切な援助をおこなうようにします。

2、アイヌの先住民族としての権利回復へアイヌ新法制定を

20079月、日本政府も賛成して採択された「先住民族の権利に関する国際連合 宣言」、国には46ヵ条にうたわれている諸権利を全面的に実効あるものにする責任が あります。

明治政府以来の強制同化政策を謝罪し、国の責任を明確にするとともに、生活の安定・ 向上、民族的文化の保護、教育向上などの諸権利を保障する「アイヌ新法」を早期に制 定するべきです。

政府のアンケートでは、差別や偏見の原因・背景として、「アイヌの歴史に関する理 解の不十分さがあること」、それを打開するためには、「アイヌの歴史・文化を広げ、 深めること」が、多くの人から指摘されました。

アイヌ民族の歴史と文化を深め、保護、継承し、広く国民に知らせていくため、以下 5つをおこなうようにします。

1 アイヌ文化の伝承に取って欠かすことの出来ないアイヌの古老たちの伝承活動を保 証するため、60歳を過ぎるすべてのアイヌ民族及びその子孫の生活の保障する。

2 学校教育でアイヌの歴史教育を充実する。

3 現在自主的に行われている.アイヌ語教室、刺繍教室などのへの支援を充実する。 4 各地で行われている伝統行事への支援と、それを行うための動植物の採取、捕獲等 の規制を解除する。

5 大学等が保管する遺骨を返還する。

◆◆(文化の扉)アイヌ文化、世界へ カムイの思想、五輪に向け発信

2016612日朝日新聞

アイヌ文化、世界へ

 2020年の東京五輪・パラリンピックの開催に合わせ、アイヌ文化を世界に発信しようという政策が進んでいます。日本の先住民族として独自の文化を守ってきたアイヌの人たち。長い苦難の歴史がありました。

 「アイヌ」とは、アイヌ語で「人間」を意味する言葉。アイヌ民族の人たちは北海道を中心に東北地方や千島列島、カムチャツカ半島南端、樺太南部などの地域で暮らしてきた。暮らしは自然と共にあり、漁狩猟や植物採集を生業とした。固有の文字を持たず、カムイ(神)の物語などは独特な節を付けた口承文芸で伝えてきた。ラッコやトナカイ、シシャモなどの言葉はアイヌ語が基だ。

 アイヌ文化が形成されたのは12~13世紀ごろ。中でもカムイとの関わりは重要だ。動物や植物、天変地異など周囲の全てに魂や霊が宿っていると考える。つまり、ものや現象は神々がその役割を果たすために化身して天上から舞い降りているのだ。

 ヒグマも神の化身。毛皮や肉などに解体した後は、神を元の世界に帰すための儀式を行う。北海道アイヌ協会の貝澤和明事務局長は「神には再びクマとして戻ってきてもらいたいとの願いが込められている。循環の思想だ」と話す。

     *

 アイヌの人たちは、本州の和人からエミシ、エゾ(蝦夷)と呼ばれてきた。古くは「日本書紀」に、阿倍比羅夫が遠征して「蝦夷(えみし)」を討つとある。和人の勢力は次第に東北北部へと拡大し、15世紀半ばからは、北海道へ多くが移住した。和人とのあつれきから争いが頻発。だが、コシャマインの戦い(1457年)、シャクシャインの戦い(1669年)で和人に敗北し、1789年の戦いを最後に服従は決定的になった。

 支配体制が確立していく17~19世紀にかけて、和人による「アイヌ絵」も盛んに描かれた。北海道大学アイヌ・先住民研究センターの佐々木利和客員教授は「あくまでも和人の目を通したもので見たままを描いているわけではないので注意が必要だ。偏見や差別意識に基づいて描かれたものも多い」と指摘する。

     *

 いま、国は北海道白老町に、国立博物館の建設などを計画する。開館は東京五輪が開催される2020年度。多文化共生をアピールする。

 だが、国がアイヌ民族を先住民族と位置づけ、文化の保護に乗り出したのは最近のことだ。

 アイヌ文化振興法が制定されたのは1997年。この年、明治以降の同化政策の柱となった北海道旧土人保護法がようやく廃止された。先住民族に対する国際世論の高まりなどを受け、国は2009年に「アイヌ総合政策室」を設置、五輪開催と軌を一にした文化発信へようやく動きだした。

 アイヌ民族が運営するアイヌ民族博物館(白老町)の野本正博館長は「観光のためにエキゾチックさを求められ誇りを失っていた時期もあった」という。また、アイヌ民族であることに関心の低い若い世代も増えているといい「今後は伝統を守りつつも、自由な発想で現在進行形のアイヌ文化を発信していきたい」と話す。(塩原賢)

◆新鮮な驚き、そのまま描く 漫画家・野田サトルさん

 北海道には23歳くらいまで住んでいましたが、身近にアイヌの方はいませんでした。マンガ「ゴールデンカムイ」を描くにあたり、道内の主要なアイヌ関係の施設はほぼ回ったと思います。アイヌ文化は知らないことばかりだったので、新鮮な驚きをそのまま作品を通じて伝えられているのかなと思います。

 和人もアイヌも、同じ人間であるということは常に意識しています。必要以上に善人だったり、卑屈な人物だったりという描き方はしません。アイヌはこの作品の重要なモチーフで真摯(しんし)に向き合うべきものですが、読者を楽しませることだけを考えています。アイヌの方から「『ゴールデンカムイ』を読んでないアイヌはいない」と言われたのはうれしかったですね。

 彫刻や刺繍(ししゅう)に魅せられています。民具は作画の資料でもありますが半分趣味で集めています。

 <訪ねる> 北海道白老町のアイヌ民族博物館は、ポロト湖畔にアイヌ民族の家(チセ)や倉庫、祭壇が立ち並び、コタン(集落)の様子を再現。チセ内で1時間に1回(1日計8回)、コタンの解説やアイヌ古式舞踊の公演がある。約6千点の民族史料を収蔵する。国は「民族共生象徴空間」として、この施設の周辺に国立博物館や体験・交流ゾーンなどを整備する予定。道内にはほかにも、萱野茂二風谷アイヌ資料館(平取町)、二風谷アイヌ文化博物館(同)や札幌市アイヌ文化交流センターなどアイヌ文化関連施設が各地にある。

アイヌ民族の起源

◆◆アイヌ、琉球は縄文系=本土は弥生人との混血―日本人のDNA解析・総研大など

2012 11 1 時事通信

 日本人を北海道のアイヌ、本土人、沖縄の琉球人の3集団に分けた場合、縄文人に起源があるアイヌと琉球人が近く、本土人は中国大陸から朝鮮半島経由で渡来した弥生人と縄文人との混血が進んだことが確認された。総合研究大学院大や国立遺伝学研究所(遺伝研)、東京大などの研究チームが、過去最大規模の細胞核DNA解析を行い、1日付の日本人類遺伝学会の英文誌電子版に発表した。

 アイヌと琉球人が同系との説は、東大医学部の教官を務めたドイツ人ベルツが1911年に初めて論文発表した。頭骨の分析では、狩猟採集生活の縄文人は小さい丸顔で彫りが深く、約3000年前に渡来し稲作をもたらした弥生人は北方寒冷地に適応していたため、顔が平たく長い傾向がある。

 総研大と遺伝研の斎藤成也教授は「ベルツの説が101年後に最終的に証明された。本土人は大ざっぱに言えば、縄文人2~3割と弥生人7~8割の混血ではないか。今後は縄文人のDNA解析で起源を探るほか、弥生時代に農耕が広がり人口が急増した時期を推定したい」と話している。 

NAVERまとめ=アイヌと琉球人は同じ!?DNA解析でわかった意外な事実

http://matome.naver.jp/m/odai/2135175326350743301

◆◆瀬川=アイヌ人と沖縄、日本文化

(赤旗16.03.14

アイヌ民族のたたかい

🔴❶アイヌ民族の戦い=コシャマインの戦い=Wiki

応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人(渡党)に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。

当時、和人は既に渡島半島から道南に進出しており(渡党、道南十二館などを参照)、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などを交易していた。アイヌの男性が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。

1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、14575月に和人に向け戦端を開いた。胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍は更に進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。

この事件の前年まで道南に滞在していた安東政季の動向などから、事件の背景に当時の北奥羽における南部氏と安東氏の抗争を見る入間田宣夫の見解や、武田信広と下国家政による蝦夷地統一の過程を復元しようとする小林真人の説がある。

アイヌ対和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後もアイヌの大規模な蜂起は起こっている(シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦い)。

なお、1994年(平成6年)より毎年7月上旬、北海道上ノ国町の夷王山で、アイヌ・和人の有志による慰霊祭が行われている。

🔴アイヌ民族の戦い❷シャクシャインの戦い(小学館百科全書)

しゃくしゃいんのたたかい

1669年(寛文9)、東蝦夷地(ひがしえぞち)シブチャリ(北海道新ひだか町)に拠点をもつアイヌの首長シャクシャインが起こした蜂起(ほうき)。この蜂起は東西蝦夷地の各地に波及し、鷹待(たかまち)(鷹匠)や商船の船頭など日本人390人余(『津軽一統志(つがるいっとうし)』)が殺された。松前(まつまえ)藩への攻撃も企てたが、国縫(くんぬい)(長万部(おしゃまんべ)町)で防ぎ止められ退いた。この戦いの前段には、松前藩への接近策をとるオニビシ(ハエを拠点とするハエクルの首長)との抗争があった。この抗争のなかでオニビシが殺され、ハエクル一族は松前藩に援助要請の使者を送り、援助を求めたが成功せず、使者も帰路に病死した。それが、松前藩による毒殺であるとの風説となって対日本人蜂起の直接のきっかけとなった。しかし、より重要な背景は松前藩の蝦夷交易体制の強化であった。松前藩はアイヌの松前城下、本州方面への渡航を抑え、交易の主導権を蝦夷地へ赴く日本人側に確保しようとしてきた。そのため、干鮭(からさけ)5束(100尾)=米2斗の交換比率が、米78升に下がるという状況を引き起こした。また松前藩の砂金取りが河川を荒らすことなどへの不満も前々から積もっており、不満は大きく広範であった。この戦いは、アイヌが日本人の主導権のもとに完全に屈服するかどうかという性格の戦いであった。幕府もこれを重視し、津軽藩兵を派遣した(実戦には不参加)。

 戦いは、鉄砲の威力で松前藩勢の優位の展開となり、ツクナイ(償いの宝物など)の提出、シャクシャインらは助命という条件で和議となった。しかし和議の約束は偽りで、酒宴に酔ったシャクシャインらは松前藩勢に囲まれ殺害され、シャクシャインのチャシ(砦(とりで))も攻め落とされて、この戦いは一段落する。しかし、その後も松前藩は1672年まで出兵を繰り返し、アイヌの動向を点検し続けた。この結果、首長の競合によるアイヌの政治勢力形成の可能性は失われ、同時に蝦夷地における松前藩、日本人側の主導権が確立していったのである。[田端 宏]

『「寛文拾年狄蜂起集書」(『日本庶民生活史料集成 第4巻』所収・1969・三一書房)』

🔴アイヌ民族の戦い❸クナシリ・メナシの戦い(アイヌ民族最期の戦い)

和人とアイヌの関わり

松前藩の『新羅之記録』には、1615年(元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(現在の北海道目梨郡羅臼町、標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前に行き交易したとの記録がある。また、1644年(正保元年)に「正保御国絵図」が作成されたとき松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ、1715年(正徳5年)には、松前藩主は江戸幕府に対し「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。1731年(享保16年)には、国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている。1754年(宝暦4年)松前藩家臣の知行地として国後島のほか択捉島や得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、国後島の泊には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。1773年(安永2年)には商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、1788年(天明8年)には大規模な〆粕(魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主に鰊が原料とされるが、クナシリでは鮭、鱒が使用された)の製造を開始するとその労働力としてアイヌを雇うようになる。

一方、アイヌの蜂起があった頃すでに北方からロシアが北千島まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して1784年(天明4年)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6年)に得撫島までの千島列島を最上徳内に探検させていた。ロシア人は、北千島において抵抗するアイヌを武力制圧し毛皮税などの重税を課しており、アイヌは経済的に苦しめられていた。一部のアイヌは、ロシアから逃れるために南下した。これらアイヌの報告によって日本側もロシアが北千島に進出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた『赤蝦夷風説考』などが著された。

アイヌの蜂起

1789年(寛政元年)、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人71人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。一方、幕府は、寛政34年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の寛政4年のことである。

事件から10年を経た1799年(寛政11年)東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年(文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)も公議御料となった。

蜂起の後

北見方面南部への和人(シサム・シャモ)の本格的な進出が始まったのはこの戦いの後、江戸幕府が蝦夷地を公議御料として、蝦夷地への和人の定住の制限を緩和してからである。幕府はアイヌの蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、場所請負制も幕府直轄とした。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分改善された。しかし、これはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していた。

また、1845年、1846年に知床地方を訪れた松浦武四郎が1863年に出版した「知床日誌」によると、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったという。また、人妻は会所で番人達の妾にされたともいわれている。男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされる。

さらに和人がもたらした天然痘などの感染症が、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結果文化4年(1804年)に23797人と把握された人口が、明治6年(1873年)には18630人に減ってしまった。アイヌの人口減少はそれ以降も進み、北見地方全体で明治13年(1880年)に955人いたアイヌ人口は、明治24年(1891年)には381人にまで減った。

◆『夷酋列像』(いしゅうれつぞう)

=松前藩の家老がクナシリ・メナシの戦いの後に描いたアイヌの有力者(アイヌ民族の蜂起を松前藩側に立って仲裁。松前まで連行された)の肖像画

経過に以下の動画がある=50m

https://m.youtube.com/watch?v=31hMKdFpBC8

『夷酋列像』(いしゅうれつぞう)は、江戸時代後期の松前藩の家老で、画家としても高名な蠣崎波響が、北海道東部や国後島のアイヌの有力者をモチーフに描いた連作肖像画である。寛政元年(1789年)5月、国後島とメナシのアイヌが和人商人の酷使に耐えかねて蜂起し、現地にいた70人余りの和人を殺害した。これがクナシリ・メナシの戦いである。

事件を受けた松前藩は260名の討伐隊を派遣したが、その指揮官の一人が蠣崎波響だった。戦いを鎮圧した後に討伐隊は藩に協力した43人のアイヌを松前城に同行し、さらに翌年の1790年にも協力したアイヌに対する二度目の謁見の場が設けられた。藩主・松前道広の命を受けた蠣崎波響は、アイヌのうちもっとも功労があると認められた12人の肖像画を描いた。これが「夷酋列像」である。絵は寛政2年(1790年)11月に完成し、波響はクナシリ・メナシの戦いで失った藩の威信を回復するために絵を持参して上洛する。大原呑響・高山彦九郎・佐々木良斎の尽力により、夷酋列像は光格天皇の叡覧を仰ぐことになる。

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🔵アイヌ民族の歴史と文化

(小学館百科全書)

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アイヌは、日本列島北部に先住してきた独自の言語と文化をもつ民族である。

 アイヌ語でアイヌとは人間を意味し、自らの居住する領域を陸と海を含めてモシリとよんでいた。アイヌの占有的に生活する領域はアイヌモシリ、すなわち人間の大地、人間の世界を意味する。近代の日本とロシアの国家体制に組み込まれるまでアイヌは、現在の北海道島を中心にサハリン(樺太(からふと))南半部や千島(クリール)列島、さらに本州の北端を含む広大な地域を活動の舞台にしていた。

 現在、アイヌは日本国内に大部分が居住し、北海道に約24000人、関東に約3000人を数える。日本全体では少なくとも3万人以上が生活していると推定される。また、ロシアのサハリン州に自らがアイヌとして民族名の登録をする者がごくわずかながら存在する。日本領有時代の1939年(昭和14)の統計によれば、サハリン島の南半部のアイヌは1263人であった。また色丹(しこたん)島には北千島から強制的に移住させられたアイヌがわずかながら居住していた。この地域は、近世末までアイヌが歴史的に居住してきた地域、すなわちアイヌモシリの歴史的伝統をふまえている。アイヌモシリは大きく三つの集団に分けられ、その差異は、言語学的にも認められる。北海道方言の集団は北海道島と国後(くなしり)・択捉(えとろふ)両島を含む地域、千島方言はウルップ島以北の千島列島の地域、樺太方言はサハリン島の南半部の地域であり、この方言の差は文化的な諸要素にも及んでいる。

 アイヌは基本的に自然物に依存した生活形態を日常としてきた。つまり食料はもとより日常生活に必要な素材の大部分を漁労、狩猟、植物採集という手段で自らの手によって得てきた。しかし、アイヌ社会は、自給自足の採集経済のみという閉ざされたものではなく、活発な交易活動を展開し、これに対応し得る大量の商品生産を組織的に行っていたことが、近年明らかになってきている。ことにラッコやオットセイ、テンなどの毛皮や、コンブやアワビなどの海産物を商品化していた。自然物のみに依存する脆弱なアイヌ社会のイメージは、見直しを迫られている。

 北海道島でみるかぎり、1314世紀ごろには、隣接する日本(本州以南の和人社会)や中国との直接的間接的な商品経済活動圏に組み込まれて、アイヌ社会はこれに対応できる商品生産を可能にする大きな川筋などを単位とする地域集団としての強い結束をもった社会へと転換したと考えられる。このことは、最近の考古学的な発掘調査の目覚ましい成果によって明らかにされつつあるのである。たとえば、少なくとも15世紀以前に用いられたとみられる大型の板綴船が北海道各地から出土しているばかりか、交易によってもたらされたとみられる大陸製や日本製の金属器や漆器、織物やガラスなどが出土している。イタオマチップとよばれる積載量の大きい板綴船を用いて盛んに行われたアイヌの自立的交易活動による文化交流や技術移転は、アイヌ社会と文化に大きな刺激を与えた。

 この交易を通して、アイヌ自らの言語と他者との言語の違いをはじめ、風俗・習慣という文化の相違を強烈に意識したとき、文化や利害を共有する仲間意識で結ばれた集団結合が強固に形成されていったと推定される。この時期をもって、今日でいう民族としてのアイヌとその文化の大枠が形成されたとみたい。他者が外見ですぐさまアイヌであることを識別できるアイヌ文様で飾られた衣服は、まさにこの所産である。

 アイヌは19世紀初頭に幕府によって大陸との往来を禁止されるまで、自由に交易や中国への朝貢を行っていた。これ以後、アイヌが介在していた交易活動は幕府が直轄経営するいわゆる山丹交易として、アイヌを排除して幕府の崩壊まで存続した。

 1868年の明治政府の成立とともに、蝦夷(えぞ)地は北海道と改称され、翌年、開拓使が設置された。先住民であるアイヌの土地は「無主地」として国有化され、本州からの多数の日本人移住者が送り込まれて、急速にしかも大規模に農業、鉱業、林業、漁業などを経営する「開拓」が行われた。とうぜん道路、港湾、鉄道などの整備も一体化して進行した。そのため豊かに限りない自然の恵みをアイヌにあたえてくれた環境は、またたくまに破壊されていった。原野も焼き払われて耕牧地にされ、狩猟や漁労の権利も奪われてしまった。このように伝統的な居住地での生活を追われ、アイヌはいやでも開拓に伴う賃労働で生活するしか方法がなくなっていった。採集民文化としてはもっとも成熟した段階に到達していたとみてよいアイヌは、明治政府による先住民としての権利の無視にくわえて、日本文化への同化を強いられ、目に見える範囲ではその文化の独自性を急速に失っていった。ことに、母語であるアイヌ語が公教育の場で禁止され、日常会話においても民族語を用いる機会は失われていった。

 しかし、1970年代後半より、国際的な先住民運動の高まりのなかでアイヌも世界の先住民と交流を深め、自らの民族的権利獲得と伝統的な文化再生の必要性を自覚していった。アイヌの民族的権利獲得の運動は、アイヌ最大の組織である北海道ウタリ協会を中心に多くの同族の支持によって進められた。その結果、アイヌを民族として否定する同化政策法ともいえる1899年(明治32)に制定された「北海道旧土人保護法」の廃止と、新たな民族の尊厳と権利を保証する法律の制定を求める声は、全国的に展開され、国や北海道などの関係機関も具体化に向けて動き出した。そして1997年(平成958日に、アイヌ新法が国会で可決成立し、71日に施行された。

 しかし、公教育の場をはじめさまざまなメディアを通して誤ったアイヌ像が植え付けられており、民族的な差別と偏見が払拭されない現状にあると言わざるを得ない。アイヌ新法では、これらの誤った認識を正すための事業を行うが、その主体は財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構である。これからの事業活動の成果が新法の将来に影響する重要な組織である。まだ、事業も緒についたばかりであり、今後に期待したい。

 なお、新法が制定される以前から取り組まれていたアイヌ語学習の場は、1998年現在、北海道内に14か所が設置され、また、アイヌの伝統的な歌舞も古式舞踊として文化庁より17団体が無形民俗文化財に指定されて次世代への継承が図られつつある。工芸技術の分野も機動訓練などの形で学習の場が設けられている。[大塚和義]

◆◆アイヌ民族の歴史

アイヌ文化の成立

考古学からみたアイヌ文化を北海道の擦文(さつもん)文化消滅以降と考えると、その成立年代は13世紀末ごろとすることができる。アイヌ文化の成立の基盤となったのは擦文文化であり、その担い手もアイヌであるといえる。そしてその存続年代と文化圏などから考えて、それは「エゾ」(蝦夷)とよばれる人々と結び付けることができる。

 アイヌ文化の成立期を13世紀以降から15世紀ころと考えると、その時期になんらかの「アイヌ文化の基本形態の形成」があったとしなければならない。考古学の成果をみると、住居構造の転換に伴う内耳(ないじ)土器そして内耳鉄鍋(てつなべ)の使用がその時期にみられる。それは、壁際に設けられたかまどによる生活から、屋内中央に設けた炉を囲む生活への転換を意味する。火に対する信仰・儀礼形態が確立しつつある時期であり、火と火の神への祈りを生活の中心に置いたアイヌの精神的な変換期でもある。それを推進させた外的要因として、内耳鉄鍋で代表させうる各種の本州産品の北海道への流入がある。外的物質文化による変換である。そしてこのような和産物の流入は、平等、互恵的な交易ではなく、アイヌ地への武力を背景にした和人の侵略を伴うことになる。その結果、アイヌは自己の手になるチャシ(砦(とりで)、柵(さく))を構築し、和人と相対することとなる。ここにアイヌ文化の重要要素の一つであるチャシが登場し、それは16世紀以降にきわめて軍事的色彩を濃くしていき、1789年のクナシリ・メナシの戦いまで続く。

 一方、炉と火の神を中心とした精神的変換を契機に諸儀礼の確立がみられる。考古学的には「物送り場」の調査によって証明される。食用動物や日常生活具、祭具などの霊的存在を天上の神々のもとに送り返す儀礼の最終的な場である。その対象がすべてにわたり、かつ送り場の数も増加するということは、擦文文化以降の精神的変革を意味している。この送り儀礼の最高の姿が仔熊(こぐま)飼育型のイオマンテである。また死者に対しては伸展葬の墓制が確立してくる。このように擦文文化を基盤として、一部に骨塚儀礼や動物信仰などのオホーツク文化の精神文化的影響を受けて、アイヌ文化が成立してくるわけである。考古学的には18世紀末までの「原アイヌ文化」とそのあと現代までつながる「新アイヌ文化」に分けられる。[宇田川洋]

和人の進出

1457年(長禄1)蝦夷(えぞ)地南部で起こったコシャマインらの一大蜂起(ほうき)は、アイヌ勢有利のうちに戦いを進めながらも、結果的にはアイヌ側の敗北に終わる。こののち、およそ1世紀にわたってアイヌ、和人間の闘争が続けられる。そのおもなものには、1515年(永正12)のショヤコウシ兄弟の蜂起、1529年(享禄2)タナサカシの蜂起、1536年(天文5)タリコナの蜂起などがあるが、そのいずれもが謀略をもってアイヌの指導者を殺すことで収拾が図られている。こうしたアイヌ・和人闘争の過程で和人勢力の再編が進み、安東氏一派から蠣崎(かきざき)氏(後の松前氏)への勢力の交代があり、蠣崎氏によって蝦夷地の和人が統一される。1550年(天文19)には、蠣崎氏とセタナイのハシタイン、シリウチのチコモタインとの間に一種の和平協定(蝦夷商船往還の制)が結ばれ、アイヌ・和人の協調の時代となった。

 こののち、松前氏が豊臣(とよとみ)秀吉、徳川家康によって蝦夷地の支配権を認められ、松前藩が成立する。米のとれない蝦夷地では、要所要所に商場(あきないば)(場所)という交易所を設け、そこでの対アイヌ交易権を家臣に知行として与えた。商場は複数のコタン(集落)を含んだり、従来のアイヌの勢力範囲を越えて設けられたり、さらに交易に不正が伴うなど、アイヌの側の不満が高じていき、ついに1669年(寛文9)に大規模なアイヌの蜂起となる。有名な「シャクシャインの蜂起」である。和人がシャクシャインらを謀殺することで戦いは鎮められるが、この戦争を収拾することで、松前藩は実質的な蝦夷地全域の支配権を確立する。この前後から知行地である商場の経営を、運上金を収めることで商人にゆだねるようになる。「場所請負制」である。これによってアイヌは、和人による蝦夷地支配という枠のなかに組み込まれ、従属を余儀なくされる。商人は利潤をあげるためにアイヌを酷使し、また、梅毒などの伝染病を持ち込むなどの無理無体を重ねた。そうした不満が高じて、1789年(寛政1)にはクナシリ、メナシなど東部のアイヌが蜂起した。このクナシリ・メナシの戦いでは松前藩の正規兵は直接戦闘を行わず、むしろ、和人の意向をくんだイコトイ、ツキノエらの同胞の説得によって蜂起を収拾した。この蜂起を最後として、大規模なアイヌ・和人闘争は終わりを告げる。アイヌは完全に和人の支配下に入るのである。

 この間のアイヌと和人の勢力関係は、1550年の協定までをアイヌ和人拮抗(きっこう)期、シャクシャインの蜂起前後までを和人優位期、それ以後を和人支配期とそれぞれ性格づけることができよう。[佐々木利和]

開拓以後

明治維新以降のアイヌは、幕末以来急速に進められていた内民化政策をいっそう受けることとなった。まず、それまで「異域」を意味した呼称方式「蝦夷地」が、古代以来の国家領域の理念といえる北海道と改称され、明治国家の行政区画割が導入されるに至り事実上消滅する。それとともに、もともとその土地に居住していたアイヌは、戸籍法の施行に基づき平民籍に編入され、日本式姓名をもって戸籍簿に登載される一方、「旧土人」といった新式呼称方式の創出によって「新平民」同様、別の差別を受けることとなる。

 こうして外面的に明治国家の構成員に加えられたアイヌは、明治政府によって一貫して「内地人民と同一」になること、すなわち「同化」政策(勧農と教育をセットにした統合)を受けることとなる。具体的には、男子の耳環(みみわ)、女子のいれずみの禁止などをはじめ、アイヌ固有の生産様式である狩猟、漁労法の禁止などが、アイヌ側の抵抗にもかかわらず強引に実行され、あわせて勧農や日本語、日本文字使用が奨励された。またアイヌの子弟多数が東京の開拓使仮学校に送られ、そこで日本式教育を受けたのをはじめ、樺太(からふと)(サハリン)と千島の領土の交換(1875)によって両地方から強制移住させられたアイヌへも勧農と日本式教育が実行された。それらは急激な生活環境の変化をもたらし、アイヌをいっそう衰微させるのみであった。

 1899年(明治32)「北海道旧土人保護法」が制定され、アイヌの農耕民化と日本式教育の徹底を通して「皇国臣民」化の完成が意図された。施行後17年を経過した1916年(大正5)では、アイヌのうち農業従事者は52%に達したが、年間の収入は一般農家の4分の1程度にすぎず、格差は歴然としていた。教育においても、アイヌの子弟のみを教育する「旧土人学校」が1901年(明治34)から1916年(大正5)までに21校(うち2校はすでに廃校)開校され、アイヌの子弟の就学率も1901年に45%弱(全道平均77%)であったものが、15年後の1916年には94%弱(同99%)と著しく高まった。しかしこの数字の裏には、アイヌの統合に対するとまどいや不信感を読み取らねばならない。

 そういう過程でアイヌの自発性を引き出し、主体性をある程度認める小組織集団づくりが官主導のもとに進められた。すなわち青年団、処女会などの名称をもって、知徳の啓発、生活改善、貯蓄奨励、飲酒矯正など、いわば「臣民」としての要素の修養を等しく掲げた「地方改良運動」の展開である。

 やがて昭和初期に入ると、これらの運動が発火剤となってアイヌ自身による二つの動向を生み出した。一つは、近代におけるアイヌの苦悩はまさしく北海道開拓にあると糾弾する個性の形成と、一つは、自主的に自民族の生活改善と「同化」を高めようとする運動の出現である。前者が違星北斗(いぼしほくと)による短歌運動(同人誌『コタン』)であり、後者が北海道アイヌ協会の運動(機関誌『蝦夷の光』)である。満州事変が契機となった「国民自力更生運動」は、アイヌの居住する村々へも浸透し、チン青年団(『ウタリ之光り』)や北海小群更生団(『アイヌの同化と先蹤(せんしょう)』)などの運動となって現れた。そしてアジア太平洋戦争ではアイヌも出征兵士として多数戦場に送られ、中国や沖縄で「皇軍アイヌ兵」として戦った事実が明らかにされている。

 敗戦後、民主化の動きとともにアイヌ問題への新たな取組みが活発化し、『アイヌ新聞』(アイヌ問題研究所)や『北の光』(北海道アイヌ協会)などが発刊された。

 その後1970年代以降、民族問題としてアイヌ民族をはじめ民族を超えた幅広い層の人々によって民族差別、教育、民族文化保存の問題など、民族の誇りと人権の復権を目ざした粘り強い闘いが展開されるに至った。そのような活動とともに1980年代にははじめて『アイヌ資料集』全15巻(19801985年)が刊行され、アイヌ史研究の基本文献が復刻されたり、北海道ウタリ協会アイヌ史編集委員会による『アイヌ史』資料編14、活動編(19881994年)が刊行されるなど、アイヌ民族独自の歴史編纂(へんさん)活動が活発化した。

 これらを受けて1994年(平成66月に北海道立アイヌ民族文化研究センターが札幌に開設され、全国初のアイヌ民族文化の総合的な研究機関が誕生した。それとともに同年7月には萱野茂(かやのしげる)参議院議員が繰上げ当選を果たし、アイヌ民族では初の国会議員の誕生となった。そして懸案だったところの「北海道旧土人保護法」の廃止と「アイヌ新法」の立法化を積極的に働きかけ、19975月「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化法)を公布、同年7月施行となった。これに伴い、「北海道旧土人保護法」「旭川市旧土人保護地処分法」は廃止された。また、アイヌ文化法に基づき同年7月、財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」が設立され、アイヌ民族の誇りが尊重される社会を目ざして大きな第一歩を踏み出した。しかし、いまなおアイヌ民族問題はさまざまな面で多くの課題を残している。[海保洋子]

◆◆アイヌの形質

 和人をはじめとする周囲のモンゴロイド人種と比較した場合、北海道のアイヌは次のような身体的特徴をもっている。

(1)皮膚の色が、黄色みの乏しい明褐色である。

(2)新生児の仙骨部の皮膚の色素斑(はん)(児斑)がまれにしかみられない(11%)。

(3)体毛が比較的太く、かつ長い。

(4)頭毛が波状を呈し、断面形が扁平(へんぺい)である。

(5)脳頭蓋(とうがい)の前後径が大きく、頭長幅示数が長頭に近い中頭型(76.6%)である。

(6)顔高が低く、頬骨弓(きょうこつきゅう)幅が広い。

(7)眉稜(びりょう)、鼻骨の隆起が強く、目はくぼみ、上瞼(まぶた)は二重(ふたえ)瞼が多く、内眼角ひだ(蒙古ひだ)は少ない(5%)。

(8)耳垂が発達し、癒着型は少なく、遊離型がほとんどである(95%)。

(9)耳垢(じこう)は湿型が非常に多い(87%)。

(10)歯の咬合(こうごう)型式は鉗子(かんし)状が多い。

(11)身長は、1890年代の小金井良精(よしきよ)による調査では男性平均156.6センチメートル、1950年代の小浜基次らの調査では同じく160.1センチメートルと報告されており、同時代の和人の平均と大きな差はないが、体の比例についてみると上肢長、下肢長が相対的に長く、胴の長さが比較的短い。

(12)手の指紋には渦状紋が比較的少なく蹄(てい)状紋が多い。以上の特徴は、北海道アイヌばかりでなく、樺太アイヌ、千島アイヌにもほぼ共通して認められるが、樺太アイヌは北海道アイヌに比べてやや顔高が大きく、千島アイヌはやや低身で短頭という傾向をもっている。

 現生人類の人種分類体系のなかでのアイヌの位置づけについては、古くから多くの説があって、いまだに意見の一致がみられていない。皮膚の色、頭毛の形状、体毛の発達、瞼の形態、指紋型や湿型耳垢の頻度などでは、コーカソイド人種の一部やオーストラロイド人種などとの共通性が認められるが、血液型や血清タンパクの遺伝的多型の研究によれば、アイヌはやはり東アジアのモンゴロイドにもっとも近いという。

 近年、北海道における古人骨の研究が進み、北海道縄文時代人が、一方において本州の縄文時代人ときわめて近縁な関係にあり、しかも他方において、続縄文時代以降の連続的な変化を通して歴史時代のアイヌにもつながることが、しだいに明らかになってきている。おそらくアイヌの主たる起源は、モンゴロイドの特殊化のあまり進んでいなかった、旧石器時代から縄文時代にかけての日本列島の先史人類集団のなかに求められるのであろう。[山口 敏]

◆◆アイヌの伝統文化

 アイヌの伝統文化とその技術は、狭義の意味では経験豊かな古老たちが少なくなり、社会的条件も重なって、学習し次世代に継承していくことの困難な状況にあるといえよう。しかし、近年、若い世代を中心に、自分たちの民族的なアイデンティティを確かめ、父祖伝来の文化の継承可能な部分を現在に生かしながら、新たな伝統を構築し裾野を広げていこうとする大きな動きがあることは注目される。ことに19977月施行の「アイヌ新法」に基づく文化振興のための「機構」の設置による事業展開が新しい状況をつくりだしている。つぎに記述するアイヌの伝統文化は、1719世紀半ばごろまでに展開されたもので、アイヌ自身の体験や見聞、口誦伝承、和人の記録などによって再構成されたものである。これらの伝統文化のなかから、現代に再生し、持続させていく試みや実現したものも少なくない。そうした意味で、伝統文化のかなりの部分は時代の状況に応じて変容しながら継承されつつある。[大塚和義]

◆◆アイヌの生業

アイヌは、自らの生活に必要な素材の大部分を自然から得ていた。つまり、食糧はもとより、衣服の素材から建築材料に至るまで、ほとんど自給自足していたのである。しかし、これらを加工する工具や利器となる鉄製品や漆器、木綿やガラス玉などは、大陸や日本との活発な交易活動によって入手していた。したがって、アイヌの生活基盤は、基本的に狩猟、漁労、植物採集という三つの組合せによって成り立っていた。これらの自然の恵みは、年ごとの生態、気候条件などによって獲得できる量の異なることがしばしばおこった。ことに、3年ないし4年ごとに不漁にみまわれるサケ漁の事例はよく知られている。また、内陸のコタン(集落)と海浜のコタンでは、当然のことながら生産対象に相違がみられた。基本的生業である狩猟、漁労、植物採集のほかに、動物飼育と原初的農耕が行われたが、あくまでも副次的な役割しか果たさなかった。イヌに対する去勢、クマの牙(きば)切りなど獣類の管理技術は一定の進展がみられたが、隣接する民族ウイルタのトナカイ飼養のように、牧畜に適した獣類をアイヌの居住地域では飼えなかったことに、その限界が求められよう。

(1)狩猟

 陸獣のなかでもっとも重要な位置を占めたのはシカである。数多く棲息(せいそく)していたうえに捕獲が容易であり、しかも毛皮は上等で、肉も美味であった。シカ肉は安定した食糧として主食的役割を、サケと並んで果たした。このほか陸獣ではウサギ、キツネ、テンなどが毛皮や食肉にされた。海獣では小形のハクジラ類、イルカ、オットセイ、アザラシなどであり、ときたま浜に打ち上げられる「寄りクジラ」も利用された。オットセイは精力剤などとして和人に珍重され、その捕獲を奨励された。鳥類ではワシ、タカ類が矢羽根として高価な交易品になるため捕獲された。またツル、カモ、ヤマドリも捕獲された。狩猟具は、陸獣には弓矢や槍(やり)だけでなく、さまざまな罠(わな)を用いた。また、アマッポ(仕掛け弓)も使われた。海獣狩りや大形魚類の捕獲にはキテ(離頭銛(もり))が効果的であった。鏃(やじり)や銛先に毒性の強いトリカブトを塗って捕獲を容易にした。イヌを慣らして猟犬に使うこともした。

(2)漁労

 丸木舟を自由に操って、河川や湖沼ばかりでなく、かなり沖に出て海漁も行った。漁ではサケ・マス漁が生産性も高く、もっとも重要な位置を占めた。また河口での網によるシシャモ漁、沖漁ではメカジキ漁が好んで行われた。サケ漁には、マレクとよぶ回転鉤(かぎ)がよく使用された。貝類ではシジミ、ホッキガイ、カキなどをとって食用にした。やす、釣り針などの漁具のほか筌(うけ)や簗(やな)も用いられた。結氷した水面を割って魚をとることもされた。サケ漁は産卵場が捕獲しやすいため、それぞれのコタンごとに専有の場所をもっていた。

(3)植物採集

 各種の植物が採集されて食用や薬用、あるいは衣服を織るための繊維として利用された。ことに、ウバユリの球根から得られる良質なデンプンは、食糧生産全体からみても重要な役割を担った。このデンプンを、団子や粥(かゆ)にして食した。デンプンをとった残りかすは、中央に穴をあけた円盤状のものにして乾燥し、保存して、食糧が欠乏したり、飢饉(ききん)にみまわれたときに用いた。クロユリ、ヒシ、カタクリなどのデンプンも食用にされた。果実ではコクワ、ヤマブドウ、野イチゴなど、海藻ではコンブ、フノリなどである。植物採集は主として女の仕事であり、ユリ根などを土中から掘り出す長いへら状の掘り具や手鍬(てぐわ)を道具にした。[大塚和義]

◆◆アイヌ社会

社会組織についての調査は、1951年(昭和26)に日高の沙流(さる)川流域において比較的詳細なものが行われたにすぎず、これをもってアイヌ社会全体を論ずることはできない。あくまでも日高地方の事例としてみるべきものである。

(1)家族

 アイヌには家族を表すことばがないが、1軒の家に生活する単位を家族とすれば、それは一般に父母と未婚の子女である。これに配偶者を亡くした祖父母が同居することもあった。結婚した子女は新しく別に家を建てて住み、1軒の家に2組の夫婦が同居することは通常ではなかった。一般に夫方同居であり、結婚と決まれば親族や友人などが集まって新居を建ててやる習わしであったといわれる。

(2)親族

 親族に近い内容のことばには、ウタリとかイルなどがあるが、いずれもかなり広い範囲をさし、非血縁者も含まれる。アイヌの親族組織を特徴づけるものは、エカシイキリ(男系)とフチイキリ(女系)という、性に基づいて血縁集団を認識する体系の存在であろう。同じエカシイキリに属する男は、共通のエカシイトクパ(祖印)をもち、パセオンカミ(特別に重い神への礼拝)の儀礼をともに行う。また同じエカシイキリの者は、狩猟などの集団労働の単位でもあったといわれるが、詳細は不明である。このエカシイトクパは父から息子へと伝えられる。

 同じフチイキリの女は、同じ編み方でつくった下紐(ひも)(ラウンクッ)を同じ巻き方で腰に巻くものとされている。下紐は、ツルウメモドキの繊維を編んだ細紐を数条巻いたもので、母から娘へと同一の形とその編み方が継承された。出産の手伝いとか病人の世話、ことに葬儀においての手伝いは死者と同一のフチイキリの者でなければならないとされた。

(3)結婚

 婚姻年齢は、男は1920歳、女は1617歳であった。ことに女は、適齢に達するまで口や前腕や手甲にいれずみを施し、結婚と同時に完成させる習慣もかつてあった。婚約は、娘からは、自分の針仕事の腕を振るった刺しゅう入りの着物、男からは、心を込めて彫刻を施した小刀などが贈られる。このほか、男から娘の父親に宝刀や漆器類などイコロとよばれる財貨的品物が贈られる。アイヌは一夫一婦を原則としているが、寡婦が亡夫の兄弟に養われることは社会的に認められていた。婚姻規制としては、近親婚の禁止のほかに、男は母親と同じ下紐の女とは結婚できなかった。

(4)集落

 いくつかの家が近くに散在して一かたまりになっているところを、コタン(集落もしくは村)とよんでいた。自然物にのみ依存するアイヌ社会では、コタンの規模も56軒から大きくて10軒前後であり、生産性が低いため、あまり集中することができなかった。コタンでは、これを統率するコタンコロクルとよばれる首長が選ばれたが、これは絶対的な権力者ではなく、指導的役割を果たすものであった。

(5)イウオロ

 これは、コタンによって占有されている特定の猟場、漁場、植物採集の場を含んだもので、いわばこれ自体がアイヌの小世界を形成していた。イオルのなかでは、さらに仕掛け弓をかける場所や冬眠用の熊穴の場所などが、特定の家の専有とされていることもあった。イウオロという小世界から外にほとんど出ることもなく生涯を終える者も少なくなかったといわれる。[大塚和義]

◆◆アイヌの住居

ずっと昔はアイヌが住居を構える場合いちばん重要なことは、近くで食糧を入手できること、次はチセ(家)の近くに寒中でも凍らない湧水(わきみず)があることであった。家はたいていの場合一部屋で仕切りがなく、夫婦の寝床は蒲(がま)草で編んだ茣蓙(ござ)を垂らしてあった。建て方は、大地に穴を掘り直接柱を立て、柱は腐食しにくいドスナラかエンジュを使った。旭川(あさひかわ)地方は屋根や囲いは笹(ささ)だが、沙流川地方は萱(かや)が主で、その場で手に入れやすい材料を用いる。屋外にはルカリウシ(男女別々の便所)があり、ほかにクマの檻(おり)がある場合もあるが、仔熊(こぐま)を生け捕ったときのみのもので、かならずあるというものではなかった。プ(倉)は干肉や干魚を貯蔵し、ときにはヒエやアワなどを穂のままトッタという大袋に詰めて入れて置き、必要のない場合は梯子(はしご)を外し、ネズミが倉へ入ることを防いだ。仮小屋は、山猟や川漁に行き野宿あるいは数日滞在するときに、フキの葉、青草、松葉などその場で手に入るものを材料にしてつくる。[萱野 茂]

◆◆アイヌの服飾

衣服として一般によく知られているのはアツシ(近年はアットゥシと表記されることが多い)である。これはハルニレ、オヒョウなどの内皮からとった繊維を用いて織った木皮布の一種である。色は自然の褐色で無地が多いが、黒や紺、白などの木綿糸を経糸(たていと)に入れた縞(しま)地などもある。衽(おくみ)はなく、もじり袖(そで)が主。肩や袖口、裾(すそ)などに切伏せ文が入る。

 樺太ではイラクサを用いるためやや白っぽいものとなり、レタラペ(白いもの)の名でよばれる。

(1)木綿衣

 和人との交易や労働の報酬によって得た古着に、アイヌ文様を施したもので、形状はアツシに似るが、色裂(いろぎれ)を多用するために非常に華やかなものとなる。チカラカラペ(われらがつくったものの意)とよばれる衣服で代表される。このほか、絹や木綿の端裂(はぎれ)を縫い合わせたパッチワークのような衣服も伝えられている。

(2)その他の衣服

 アイヌはアツシを発明する以前には、獣皮や魚皮など自然に得られる素材を用いて衣服をつくっていた。そのなかにはアザラシなどの海獣の皮によったウル(獣皮衣)、サケやイトウなどの皮でつくったチェプル(魚皮衣)、エトピリカなどの羽によるラプル(鳥皮衣)、草を編んでつくったケラ(草衣)などがある。

 交易で得たものでは、日本文化から陣羽織や木綿、絹などの古着類。前述のチカラカラペのようにアイヌ風に改める場合と、小袖などをそのまま用いる場合とがある。また沿海州(ロシア)からは俗に山旦服(さんたんふく)、韃靼裂(だったんぎれ)などとよばれる清(しん)朝の朝服などがもたらされている。これらの交易品は、アイヌのなかでも「役蝦夷(やくえぞ)」とよばれる富裕な指導者層の晴れ着として用いられた。

(3)下着

 男は褌(ふんどし)の上に直接着物を着たが、女はモウルというワンピース状の肌着を用いていた。女が人前で肌をさらすことは強く戒められていたため、授乳などの際にも気を配っていたという。また下着とはいえないが、腰には女系を示す下紐を巻いており、これは夫にも見せることのできないものとされていた。

(4)冠物(かむりもの)

 コンチ(頭巾(ずきん))は冬の山猟の際に男がかぶる防寒用のもののほか、喪礼用のチシコンチ(涙頭巾)などがある。またマタンプシあるいはチェパヌップなどという鉢巻類。さらに男が信仰儀礼の際にかぶるサパンペ(イナウルともいう)という礼冠がある。

(5)手甲・脚絆(きゃはん)

 テクンペ(手甲)、ホシ(脚絆)といい、労働用と礼装用との別がある。手袋は樺太(からふと)アイヌが用いていた。ライクルテクンペ、ライクルホシ(死者の手甲、脚絆)は葬儀の際に死者の身につけるもので、普段から用意しておくのがたしなみとされた。

(6)履き物

 冬季や山猟のときなどにはケリ(靴)を履いた。靴は、サケなどの魚皮を用いたものや、アザラシの皮でつくったもの、またブドウづるなどで編んだものなどがあった。

(7)装飾品

 男女ともニンカリ(耳飾り)をするほか、女はタマサイ(シトキともいう。首飾り)やレクトゥンペというチョーカーに似た首飾りを用いた。まれに腕輪をすることもあったが、髪飾りや指輪は用いなかった。また護身の意を込めてマキリ(小刀)を帯に下げた。男は日常、たばこ入れを離さなかった。

 衣服や服飾品につける文様はアイウシ(括弧(かっこ)状)文やモレウ(渦状)文が主体となることは、ほかのアイヌ工芸と同じである。しかし、衣服にはことのほか大胆に文様を展開したものがみられるほか、古くから伝わる衣服類には文様構成や色裂の配置に優れた感覚をもつものが多い。[佐々木利和]

◆◆アイヌの工芸

ユーカラ(アイヌ語ではユカラと表記)の冒頭には、ヒーローならば彫刻に余念がないさまが、ヒロインならば刺しゅうにいそしんでいるさまが、かならず描写されている。この二つはアイヌ工芸の双璧(そうへき)をなすものであった。

(1)彫刻

 木彫りは平彫りが主体であり、現在北海道の観光地でみられる立体的な熊彫りのようなものはごく新しいもので、アイヌの伝統的な彫刻とは異なる。

 マキリ(小刀)1本で、盆、たばこ入れ、小刀鞘(さや)などを彫り出すが、彼らは木の性質を熟知しており、盆にはクルミ、カツラ、たばこ入れにはイタヤを用いるなど、用途によって材料を使い分けている。木彫りのなかでも重要なものはイクパスイ(捧酒箸(ほうしゅばし))である。これは人と神とを仲介する祭具で、アイヌの信仰生活上欠かすことのできないものである。長さ30センチメートル、幅3センチメートルほどの小さなものであるが、このなかにはアイヌ彫刻のあらゆる技巧が用いられている。

 彫刻に限らずアイヌ文様は、彼らの信仰に根ざしており、木片に彫刻を施すことは、それに魂を吹き込むことであり、持ち主の守護神となることである。したがってその一刀一刀に精魂を傾けた。木彫りにみられる文様はモレウ(渦状)文やアイウシ(括弧(かっこ)状)文を展開したものや、組紐文、青海波文などのほか、クマやシャチなどの動物文、家や什器(じゅうき)などを器物をかたどって彫り出したものなどがある。なお、アイヌは漆器を好んだが、その多くは和人との交易品であった。

(2)刺しゅう

 女の工芸の代表的なもの。アツシ(アットゥシ)などの衣服の袖、肩口、背、裾などに黒裂地(きれじ)を切り伏せて刺しゅうをしたものにその典型をみる。この切伏せと刺しゅうとは衣服や服飾品(手甲、脚絆、前掛け、袋物、鉢巻など)にかならず施されるものである。フランス刺しゅうと共通する技法もみられる。

(3)織物・編物

 織物にはアツシがある。アツシはアットゥシカラペという戸外機を用いて織るが、織機の各部には美しい彫刻が施されており、婚約者や夫によりつくられたものという。

 編物ではエムシアッ(刀綬(とうじゅ))や花茣蓙(はなござ)が知られている。このうち、エムシアッは礼装の際、太刀(たち)(エムシ)を肩から下げるための綬で、アツシと同じく樹木の内皮からとった繊維が用いられる。文様は緯糸(よこいと)を使っての編み込みで、非常に複雑な技法がとられている。

 刺しゅうや織物・編物の文様も彫刻と同様にモレウ文やアイウシ文を変形、展開させたものが多いが、エムシアッには亀甲(きっこう)文や菱形(ひしがた)文、花茣蓙には市松文が多くみられる。

 文様は彫刻、衣服などの用途によらず魔除け的な性格をもつとされる。また、その展開は左右対称によく似たものとなる。彼らはこうした文様を施すにあたって下絵を描くようなことはしない。美しい文様の型は幼児のころから両親や祖父母のつくるそれを体で覚えているのである。[佐々木利和]

◆◆アイヌの神話・伝説

アイヌには「ユカラ(ユーカラ)」とよばれる吟誦(ぎんしょう)形式の叙事詩がある。このユカラには鳥獣などの自然のカムイ(神)が自らの身上を叙する「カムイ・ユカラ」(神謡)、アイヌの始祖神の功業を内容とする(日高地方の)「オイナ」(聖伝)、さらに人間の英雄を主人公とし、その武勲、遍歴を物語る狭義の「ユカラ」(英雄詞曲)などがある。そのうち、重要な神話的内容をもっているのは「カムイ・ユカラ」と「オイナ」であるが、その他にも各地の伝説などに断片的ながら神話的説話や観念がみられる。

 この世の初め大地の創造にあたった神はコタンカルカムイ(国造神(くにつくりがみ))とよばれているが、この神は妹神とともに大海の中に陸地を築き、草木のない荒涼たる国土に山や川、島をつくり、そこに住む人間、動物、植物などを創造した。この国造神は鯨を串(くし)刺しにしてあぶったり、湖に入っても膝(ひざ)までしかぬれないというほどの巨人の神である。地上世界の創造が終わると、この神は妹神とともに天上の世界に帰ったが、その際、妹神が脱ぎ捨てたものが蛸(たこ)や亀(かめ)に、妹神の涙や洟(はな)が萱(かや)や他の雑草になったと伝えられている。

 天上世界にはカントコルカムイ(天をつかさどる神)があり、その命によって地上世界の造化がなされたことになっている。カントコルカムイをカンナカムイ(雷神)と同一視する伝承もある。天上世界は多数の神々の世界であり、アイヌの主要な食糧であった鹿や魚を地上の山野や川に下す神々も天上にいる。

 コタンカルカムイによって国土がつくられたが、その人間世界(アイヌモシリ)に降下してアイヌに生活の知恵を授けた、いわゆる文化英雄は、アイヌラックルもしくは、オキクルミであるが、またの名をアエオイナカムイ、オイナカムイなどといい、アイヌ始祖神として尊崇され、その功績は「オイナ」に語り伝えらている。一説ではアイヌラックルは大雪山に美しく立っていたハルニレの木を母神とし、父神は天神とも、雷神とも伝えられ、地上と天上世界を縦横に駆け巡って地上の魔神を征伐して、地下世界へ撃退する。ついで、生活の基盤となる狩猟、漁労、耕作の方法、食用・薬用の植物のこと、彫り物や機織り、刺しゅうなどの男女の手仕事、家や舟のつくり方、着物を仕立てることなどを教えた。さらに、イナウ(木幣)や酒を捧(ささ)げてカムイを敬い祀(まつ)ること、祈り詞(ことば)、さまざまな信仰儀礼の由来ややり方、争いの解決や調停の仕方、男女が各々に伝えるべき伝承に至るまですべての生活習慣がアイヌラックルもしくはオキクルミによって創始されたと語り伝えられている。また、天下る際に自分の脛(すね)のなかにヒエの種を隠し持ち、人間に穀物をもたらしたのはオキクルミである。オキクルミの説話にはサマイクルという兄弟が登場し、愚者、滑稽(こっけい)者の役を演ずることも、文化英雄の性格を知るうえでは留意すべきである。

 以上は創世神話であるが、日常、イナウや酒を捧げて祀られるのはアイヌの生活に直接かかわりのある自然――太陽、月、風、雨、雪や山、川、湖、そこにすむ鳥、獣、魚、昆虫、草や木――のカムイ、さらには火や船、疱瘡(ほうそう)などのカムイである。このような自然のカムイの素性、尊崇し祀られるべきゆえんを明らかにしているのが「カムイ・ユカラ」である。この「カムイ・ユカラ」の特徴は「サケヘ」という繰り返しの句をつけて、一人称形式で謡われることにある。その内容はカムイと人間との相互関係、すなわち、動物や自然そのものと人間とがお互いにどのようにかかわるべきであるかという行動や倫理的規範のわかりやすい説明である。この「カムイ・ユカラ」は、アイヌの口承文芸のもっとも大きな特徴であり、近隣の諸民族に類例のない特異なジャンルといえよう。

 アイヌの伝承では天上と地上の世界のほかに、地下世界が語られているが、この死後の世界については異なる二つの観念がみられる。「オイナ」ではアイヌラックルに滅ぼされた悪神や魔物が轟音(ごうおん)とともに地下世界に墜落していくさまが謡われているが、そこは湿った魔神の国である。それとは別に、人間が死後に赴く下の世界は、地上のアイヌの村と同じ様相を呈し、そこでは地上と同じ生活が営まれている。この世との違いは昼夜や夏冬が逆である点で、このような観念は北方の諸民族にも広く共通している。神話や伝説にみる限り、アイヌの人格神の世界を構成しているのは、天上の神々と文化英雄であり、地上のカムイは人格的であるよりは自然そのものの観念化である。そして、地下世界に君臨する神は明確でない。また、諸神の間にはより「重い」神、すなわち、だいじな尊い神という序列はあっても、上下関係がみられないことは、アイヌの社会との関連で留意すべきであろう。[荻原眞子]

◆◆アイヌの信仰

アイヌは、人間にかかわりあるものであれば、自然物であれ人工物であれ、基本的にはすべての「もの」に霊的なものが存在すると信じていた。しかしながら、霊的存在であってもそれには強弱があり、人間が神の力を借りなくても、その霊力を思うままにできる草木や器物は神になれないのである。神と霊との関係は次のようなものである。たとえば、丸木舟をつくろうと意図して大きな樹を伐採するときには、森を支配する神に理由を述べて許しを請い、その樹に宿る霊を森の神のもとに送り返す儀礼を丁重に執り行わなければならない。この手続を経て初めて森の神の加護が得られ、伐採中にけがなどの人身事故を避けることができるとされた。ついでこの原木から舟の形に手斧(ておの)で削っていくわけであるが、斧を入れる前とか、仕上がったときなど、仕事の折り目ごとに、神とのきずなをよい状態に保つために神に酒を捧げるカムイノミ(飲酒儀礼)を欠かさず行う。さらに、新しくできあがった舟を川に初めて浮かべるときは、チプサンケ(舟おろしの儀礼)をして、その川の神に舟の安全を祈願するのである。

 またサケ漁の場合は、その年に最初にとれたサケを、神からの使者として特別に扱い、初漁の儀礼を行った。このあと、本格的に多量に捕獲するサケに対しては、儀礼とよべるものはなされず、とらえたら暴れさせないで瞬時に魚頭打棒(ぎょとうだぼう)でたたいて殺すことによって、その霊を魚体から離脱させて神のもとに送った。これによって鮮度が保たれ、暴れてうっ血させると味が落ちるということを防ぐ実利的な面も大きかったのであろう。

 人間の手によってつくりだされた器物自体も霊的存在とみなされた。使用できなくなった椀(わん)や鉄鍋(てつなべ)などの什器(じゅうき)類をはじめ祭具も含めて、あらゆる器物は単に捨ててはならず、特定の「送り場」に持って行き、そこで内在する霊を神の世界に返す手続をして、真の意味での形骸(けいがい)としなければならなかった。

 よく知られている「熊祭」は、正しくは飼い熊送り儀礼というべき内容のものであるが、仔熊(こぐま)をたいせつに育てて殺す考えも、肉体と霊との分離にほかならない。つまり、神の世界から人間の世界に熊の姿をして遣わされた熊神は、その仮装を解いて霊的な存在にならなければ、ふたたび神の世界へ帰ることができないのである。仮装に用いていた毛皮や肉は、熊神からアイヌに授けられる土産である。アイヌは、これに謝意を表すために、美しく削り掛けたイナウを立てて祈り詞(ことば)をあげ、団子や干魚などたくさんの土産を背負わせて、熊神の霊を神の世界へ送り届けるのである。このように歓待しておけば、熊神はふたたび自分たちのコタンをかならず訪れてくれるものと信じていた。

 このように、アイヌには、霊魂は不滅であり再生するという観念が確立している。人間の死も、アイヌは同じ考えに基づいている。死は、永遠の享楽を送ることができるユートピアに赴くための手段として欠かせないものである。あるアイヌは、死ぬことは怖くはないが、醜い遺骸(いがい)をこの世に残していかねばならないから悲しいのであると語ってくれた。

 アイヌの世界観は、垂直的には3層で構成されていると信じられていた。つまり、現実の人間の世界(アイヌモシリ)は大地の上にあり、死後の世界(ポクナモシリ)は地下に、そして神々の世界(カムイモシリ)は天上にあるとされた。

 神々の体系は、至高神的性格のものは存在せず、パンテオンを構成していない。しかし、天神や雷神は他の神より高位にあるとされているが、儀礼の目的に応じて主役としての神の位置づけがなされる。たとえば、熊送り儀礼の祭壇であれば、熊神を中心に森の神、水の神、狩猟の神が祀られ、これより一段低い位置に先祖祭祀(さいし)の場が設けられる。

 アイヌの儀礼において、熊送り儀礼よりも場合によっては重要視されたといわれているものにフクロウ送りがある。フクロウはコタンを守護する神としてあるだけでなく、この儀礼の際には熊送りよりも広範な狩猟集団が参加して行われたという伝承がある。

 神々と人間とが儀礼を通して相互に依存しあい交歓することによって、神々から自然の恵みが授けられ、その永続性が保証されるものと信じられていた。したがって、人間のためにならない神であれば祀らないぞと脅かしたりもする。アイヌにおいては、神と人間とがほぼ対等な位置にあるとみてよい。[大塚和義]

遊戯

古くはアイヌの子供の遊びは、大人になってから生活に必要なことを練習する場面が多く、蔓(つる)でつくった輪を転がし、横から突いて止め、槍(やり)の腕を競った。弓矢をもって小魚をとらえるのも、食物を手に入れると同時に弓が上達し、棒高跳びは身軽になるために役だった。アイヌ語だけで生活をしていた時代は遊戯など特別なものはなかったが、遊びの種類は約50種ほどあった。いずれも、狩猟民族としての心得を教えるものが多いように思われる。[萱野 茂]

◆◆アイヌの歌舞

歌はさまざまな儀礼のときに、神と人間とが交歓するためのものであり、善神に対してはその加護を願い、悪神に対しては威嚇して災いを排除するためのものである。旋律は単純なものが多く、これに掛け声や手拍子や行器の蓋(ふた)をたたいて拍子音を加えることが多い。楽器の種類はごく少なく、ムックリ(口琴(こうきん))やトンコリ(五弦琴)などが知られているにすぎない。

 舞踏は、呪術(じゅじゅつ)的行為としてなされるものと、儀礼のあとの余興的性格のものとしてなされるものの2種に分けられよう。前者のおもなものはタプカラ(踏舞)といわれ、長老が刀を振りかざして悪霊を払いながら足を踏みならして示威行動するものである。後者は主として女たちが楽しむ踊りで、ホリッパ(輪舞)、ウポポ(神歌)、ハララキ(鶴(つる)の舞)などがある。[大塚和義]

◆◆アイヌ研究史

 アイヌに関する調査、研究は、16世紀中葉、耶蘇(やそ)会(イエズス会)の外国人宣教師たちによって始まった。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの手紙(1565)やイグナシオ・モレイラの記録(1591)にアイヌに関する記載がある。ついで17世紀に入ると、ポルトガルの宣教師ジロラモ・デ・アンジェリスやディオゴ・カルワーリュは北海道でアイヌと接触し、その風俗習慣を記録にとどめた。

 1669年(寛文9)シャクシャインの蜂起(ほうき)によって人々の北方への関心は高まり、水戸藩では探検船を北海道に派遣し、実地調査を行うほどであった。新井白石の『蝦夷志(えぞし)』(1720)にはアイヌに関する詳細な記事があり、日本人による最初の研究書といえよう。18世紀末、北方からのロシアの南下によって、人々の北方への関心はさらに高まり、幕府自体も、たびたび北海道、千島、樺太(からふと)方面の調査を行った。その結果、北方に関する情報とともに、最上徳内(もがみとくない)の『蝦夷草紙』(1790)、村上島之丞(しまのじょう)の『蝦夷島奇観』(1800)、村上島之丞・間宮林蔵(まみやりんぞう)の『蝦夷生計図説』(1823)、上原熊次郎の『蝦夷方言藻汐草(えぞほうげんもしおぐさ)』(1804)など、アイヌに関する諸記録、図鑑、アイヌ語辞典が刊行された。

 その後、欧米における近代の学問を身につけて来日した学者たちの間で、アイヌの人種論、起源論が日本人種論とともに論争された。ドイツ人学者シーボルト父子は日本石器時代人アイヌ説を、アメリカ人学者モースは、日本石器時代人はアイヌ以前に住んでいたというプレ・アイヌ説を唱え、やがて坪井正五郎(つぼいしょうごろう)をはじめとする日本人学者もこの論争に加わった。一方、バチェラー、金田一京助、知里真志保(ちりましほ)らによるアイヌ語、ユーカラの研究を母体として、風俗、習慣、歴史の研究も広く展開された。そして今日では民族学、民俗学、考古学、形質人類学、言語学などの学問の発達により、アイヌ文化の再検討の機運が熟し、北からみた日本史といった新しい課題を生み出した。また、1997年(平成9)に、アイヌ新法の制定、財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」の設立によって、アイヌ民族の誇りが尊重される社会へ向けて、大きく、力強く一歩が踏み出された。[櫻井清彦]

総論 ▽埴原和郎他著『シンポジウム・アイヌ――その起源と文化形成』(1972・北海道大学図書刊行会) ▽大林太良編『蝦夷』(1979・社会思想社) ▽アイヌ民族博物館監修『アイヌ文化の基礎知識』(1993・草風館)』

歴史 ▽北海道ウタリ協会アイヌ史編集委員会編『アイヌ史』資料編14、活動編(19881994) ▽櫻井清彦著『アイヌ秘史』(1967・角川新書) ▽高倉新一郎著『新版アイヌ政策史』(1972・三一書房) ▽新野直吉・山田秀三編『北方の古代史』(1974・毎日新聞社) ▽宇田川洋著『アイヌ考古学』(1980・教育社) ▽宇田川洋著『アイヌ文化成立史』(1988・北海道出版企画センター) ▽萱野茂著『おれの二風谷』(1975・すずさわ書店) ▽松本茂美他著『コタンに生きる』(1977・徳間書店) ▽新谷行著『増補アイヌ民族抵抗史』(1977・三一書房) ▽結城庄司著『アイヌ宣言』(1980・三一書房) ▽谷川健一編『近代民衆の記録――アイヌ』(1972・新人物往来社) ▽河野本道選『アイヌ史資料集』期、期全15巻(19801985・北海道出版企画センター) ▽海保嶺夫著『日本北方史の論理』(1974・雄山閣出版) ▽海保嶺夫著『幕藩制国家と北海道』(1978・三一書房) ▽海保嶺夫著『近世の北海道』(1979・教育社) ▽海保嶺夫著『近世蝦夷地成立史の研究』(1984・三一書房) ▽榎森進著『北海道近世史の研究』(1982・北海道出版企画センター) ▽榎森進著『アイヌの歴史――北海道の人びと(2)』日本民衆の歴史――地域編81987・三省堂) ▽松井恒幸著『遺稿から――旭川とアイヌ文化』(1983・松井恒幸遺稿集刊行会) ▽砂沢クラ著『ク スクップ オルシペ――私の一代の話』(1983・北海道新聞社) ▽エカシとフチ編纂委員会編『エカシとフチ』(1983・札幌テレビ放送) ▽菊池勇夫著『幕藩体制と蝦夷地』(1984・雄山閣出版) ▽石附喜三夫著『アイヌ文化の源流』(1986・みやま書房) ▽北海道・東北史研究会編『北からの日本史』(1988・三省堂) ▽花崎皋平著『静かな大地――松浦武四郎とアイヌ民族』(1988・岩波書店) ▽上村英明著『北の海の交易者たち――アイヌ民族の社会経済史』(1990・同文館) ▽根室シンポジウム実行委員会編『三十七本のイナウ』(1990・北海道出版企画センター) ▽菊池勇夫著『北方史のなかの近世日本』(1991・校倉書房) ▽海保洋子著『近代北方史――アイヌ民族と女性と――』(1992・三一書房) ▽荒野泰典他編『アジアの中の日本史地域と民族』(1992・東京大学出版会) ▽貝沢正著『アイヌ わが人生』(1993・岩波書店) ▽菊池勇夫著『アイヌ民族と日本人――東アジアのなかの蝦夷地』朝日選書(1994・朝日新聞社) ▽海保嶺夫著『エゾの歴史――北の人びとと「日本」』(1996・講談社) ▽河野本道著『アイヌ史――概説』(1996・北海道出版企画センター) ▽野村義一著『アイヌ民族を生きる』(1996・草風館) ▽小川正人著『近代アイヌ教育制度史研究』(1997・北海道大学図書刊行会) ▽小川正人他編著『アイヌ民族近代の記録』(1998・草風館)』

形質 ▽『人類学講座56 日本人、』(19781981・雄山閣出版) ▽梅原猛・埴原和郎著『アイヌは原日本人か』(1982・小学館)』

生活・言語・文化 ▽金田一京助著『アイヌ叙事詩 ユーカラの研究』(1931・東洋文庫) ▽アイヌ文化保存対策協議会編『アイヌ民族誌』(1969・第一法規出版) ▽萱野茂著『アイヌの民具』(1978・すずさわ書店) ▽山本祐弘著『樺太アイヌ・住居と民具』(1970・相模書房) ▽更科源蔵著『アイヌ文学の生活誌』(1973NHKブックス) ▽金成マツ・金田一京助訳『アイヌ叙事詩 ユーカラ集』全9巻(1993復刊・三省堂) ▽久保寺逸彦著『アイヌの文学』(1977・岩波新書) ▽久保寺逸彦著『アイヌ叙事詩神謡・聖伝の研究』(1977・岩波書店) ▽知里真志保著『知里真志保著作集』(19731976・平凡社) ▽知里幸恵編訳『アイヌ神謡集』(1978・岩波文庫) ▽萩中美枝著『アイヌの文学・ユーカラへの招待』(1980・北海道出版企画センター) ▽四辻一郎編『アイヌの文様』(1981・笠倉出版社) ▽山田秀三著『アイヌ語地名の研究』(19821983・草風館) ▽山田秀三著『アイヌ語地名を歩く』(1986・北海道新聞社) ▽宇田川洋著『イオマンテの考古学』(1989・東京大学出版会) ▽萱野茂著『萱野茂 アイヌ語辞典』(1994・三省堂) ▽大塚和義著『アイヌ――海辺と水辺の民――』(1995・新宿書房)』

その他 ▽松下亘・君尹彦編『アイヌ文献目録・和文編』(1978・みやま書房) ▽ノルベルト・アダミ編・小坂洋右訳『アイヌ文献目録・欧文編』(1991・サッポロ堂書店)』

[関連リンク] | アイヌ民族博物館 http://www.ainu-museum.or.jp/

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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