ドイツ農民戦争やシュレージェン織布工の蜂起、戦争と平和、母子を描いたケーテ・コルヴィッツ

◆◆ドイツ農民戦争やシュレージェン織布工の蜂起、戦争を描いたケーテ・コルヴィッツ

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【このページの目次】

◆ケーテ・コルヴィッツリンク集

◆ドイツ農民戦争とミュンツァー(小学館百科全書)

1844年のシュレージェンの織工の蜂起

◆ケーテ・コルヴィッツの生涯と作品

◆基地に抗う美術館―沖縄でケーテ・コルヴィッツを観る

◆魯迅とケーテ・コルヴィッツ

◆宮本百合子=ケーテ・コルヴィッツの画業

★★ケーテ・コルヴィッツの絵画より8m

(前半はドイツ農民戦争、後半はシュレージェン織布工の蜂起、そして数多くの母子像などを描く。ワーグナーの「ニーベルンゲンの指輪」のなかの「ジークフリードの死と復活」が「悲惨さ」と「たたかい」を描いたケーテ・コルヴィッツの絵とかみあっている)

Käthe Kollwitz- Beethoven 9ª sinfonía10m

ベートーベンNo.9とともにhttps://m.youtube.com/watch?v=LgMdO5wcpw0

★★ケーテ・コルヴィッツの作品の7動画と解説

http://www.asyura2.com/11/genpatu13/msg/874.html

Kathe Kollwitz (1867-1945)7m

Kathie Kollwitz.mov16m

Käthe Kollwitz- Beethoven 9ª sinfonía10m

Peintures de Käthe KollwitzMSWMM.wmv6m

★ケーテコルヴィッツの描いた152425年のドイツ農民戦争(ルターの宗教改革が契機となりミュンツアーなどが指導した農民一揆。30万人参加、10万人もの農民が虐殺された。動画は、志真斗美恵氏作成)3m

http://video.fc2.com/content/20131214zxg1yfVw

★志真斗美恵氏作成=ケーテコルヴィッツの「戦争」3m

★★こころの時代・普天間基地に接する佐喜眞美術館=コルヴィッツと沖縄館長語る.59m

★★京浜協同劇団演劇・「黒と白のピエタ」ケーテ・コルビッツの生涯120m

Kathie Kollwitzの映画から15m

◆◆0606志真=ケーテ・コルヴィッツの肖像ー職工の蜂起・農民戦争の部分.pdf

◆土井正興編=ヨーロッパ中世の民衆蜂起

イタリア・チオンピ、イギリス・ワットタイラー、ドイツ農民戦争、ロシア・プガチョフの乱など。

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◆◆ケーテ・コルヴィッツ=戦争の残酷さ告発続ける

(赤旗18.08.26

◆◆コルヴィッツの日記を読む

🔵ドイツ農民戦争とは

小学館(百科)=ドイツ農民戦争

瀬原義生

Deutsche Bauernkrieg 

宗教改革期のドイツの大農民一揆(いっき)(1524~25)。規模、地域的広がり、戦闘の激しさから農民戦争と称せられる。

(1) 原因

13世紀より荘園(しょうえん)制が崩壊するにつれて、ドイツ農民の自立化が進んだ。賦役は現物ないし金納地代に変化し、また農民の不自由身分性を示す人頭税、死亡税(相続税)、結婚税も低額の現物あるいは金納の貢租となって、封建的支配の基礎は揺らいだ。これに対し、領主階級、とくに領邦国家は15世紀後半に入って、農民抑圧に乗り出し、賦役の復活、現物、金納地代の増徴、農奴制の復活、村落共有地の用益制限、村落自治の制限などの政策をとった。これが一揆の原因である。

(2)ブントシュー一揆

農民戦争の前史は、15世紀なかばから始まる。1476年ウュルツブルクに近いニクラスハウゼンで、牧夫で笛吹きのハンス・ベーハイムが突如霊感を受け、教会の腐敗を攻撃する説教をしたところ、南ドイツ全域から数万に上る巡礼が訪れる事件が起こった。1493年には、アルザス(エルザス)のシュレットシュタットにブントシュー一揆が発覚した。ブントシューとは、長い革紐(かわひも)のついた農民靴のことで、一揆の象徴として旗に描かれた。1502年、シュパイエル司教管区ウンターグロームバハで、農奴ヨス・フリッツがブントシュー一揆を企てた。この企てが未然に発覚したのち、フリッツは、1513年フライブルク近傍のレーエンで、ついで17年オーベルライン各地でブントシュー一揆を組織している。1514年には、ウュルテンベルク公国で「貧しきコンラート」一揆が勃発(ぼっぱつ)した。こうしたときに、ルターの宗教改革が起こり、相乗作用を起こして大一揆となるのである。

(3)経過

農民戦争は、1524623日、南西ドイツ、シュワルツワルトのシュテューリンゲンSthlingen伯領の一揆に始まる。武力を欠いた領主側が交渉に応じたため、10月に一揆は一時解散したが、冬季期間中に組織化が強力に進められ、25年春になって、蜂起(ほうき)は南西ドイツ全域を覆うことになった。まず2月中旬にオーベルシュワーベンに、バルトリンゲン、アルゴイ、ボーデン湖畔の3農民団が結成され、彼らは3月初旬「キリスト者兄弟団」を結んだ。その共同綱領となったのが、メムミンゲン市の革なめし職人セバスティアン・ロッツァー起草の「十二か条」である。ロッツァーは、該博な聖書の知識に基づいて、牧師選任の自由、農奴制や十分の一税の廃止、賦役・地代・租税の軽減、共有地の解放について要求を述べ、「十二か条」は全ドイツ農民共通の綱領となった。

 3月中旬には、シュワルツワルト、ヘーガウ、ウュルテンベルク、バーデン辺境伯領、ブライスガウ、オルテナウ各農民団が結成され、アルザス地方ではアルトドルフ農民団をはじめとする五つの農民団が成立した。フランケン地方では、タウバータール、ネカータール・オーデンワルト、ビルトハウゼン3農民団が組織された。

 中部ドイツ、チューリンゲン地方では、神学者トマス・ミュンツァーを中心として、ミュールハウゼン、フルダ修道院領、ウェルラ、ランゲンザルツァ、エルフルトなどの農民団が結成され、多くの修道院、城塞(じょうさい)が焼き払われた。北ドイツの有力領主ヘッセン方伯、ザクセン公がフランケンハウゼンの戦いでチューリンゲン農民を破ったのは515日。同27日ミュンツァーは処刑された。南ドイツでは、封建領主連合軍(シュワーベン同盟)が、44日ライプハイムの戦いでバルトリンゲン農民団を壊滅させたのを手始めに、各地に転戦して農民団を撃破し、6月中旬ほぼ全域の一揆を鎮圧することができた。

(4)敗北

農民の死者は10万に達し、戦後、高い罰金を課せられ、劣悪な状態に落とされた。中・小領主、帝国都市の勢力は失墜し、ただ領邦国家だけがその体制を確立し、その主導権のもとで宗教改革が推進された。農民戦争の敗北は、ドイツ社会の後進化の出発点となった。

ドイツ農民戦争を分析したエンゲルスの著作

◆ミユンツアー

小学館(百科)

Thomas Mntzer

1489ころ-1525

ドイツの宗教思想家で、農民戦争の指導者。中部ドイツのシュトールベルクに生まれる。ライプツィヒ大学で学び、初めザクセン各地で下級聖職者として働いた。ルター派とは早くから接触し、当初はこれを支持し、1520年ルターの推薦でツウィッカウ市の説教師となった。そのころより急進的活動を開始し、ツウィッカウを追放されたのち、一時プラハに赴いた。帰国して、1523年アルシュテット市の司祭となり、下層市民、鉱夫、農民に説教し、これを秘密結社に組織した。翌15248月ふたたび追放され、一時南ドイツを遍歴したのち、ミュールハウゼン市に移った。ここでは急進的聖職者ハインリヒ・プファイファーと協力して、市参事会を変革することに成功し、同市を農民戦争の有力な拠点たらしめた。しかし、ヘッセン方伯フィリップら諸侯軍の攻撃を受け、フランケンハウゼンの戦い(1525.5.15)に敗れて捕らえられ、ミュールハウゼンで斬首(ざんしゅ)された。

(中心にいるのがミユンツアー)

 彼の宗教思想は、神秘主義的色彩が濃く、聖書よりは「神の直接的啓示」を至上の宗教的体験とし、その体験を受け入れる前提としていっさいの現世的欲望の放棄を強調した。そして、このような真のキリスト者による平等な「神の王国」の実現は、歴史的必然であり、眼前の農民戦争がそれである、と説いた。領主支配の廃止、「すべては共有である」と説く彼の思想は、現代共産主義の先駆として、今日高く評価されている。

🔵1844年のシュレージェン職工の蜂起

シュレージェンの織布資本家たちは、農民を自工場の下請けとして使い、廉価な賃金と劣悪な労働環境においた。農民は1214時間働き、12歳から労働開始、劣悪な環境(綿糸の埃で気管支疾患にかかるもの多数)におかれた。しかも、地主が高い税金や無償の労働奉仕を課したので、さらに農民は困窮した。また農民の共同作業場であり、燃料その他の取得のできた森が地主その他の権力によって農民から奪われた。こうして「おらの仕事を奪うな」というスローガンで、機械打ち壊しの一揆が起きたのである。機械打ちこわしなどが行われた。ドイツの労働者の初期段階の闘い。その多くは敗北し、困窮した農民は都市難民となりスラムに住んで工場労働者その他の低賃金労働についた。働き手のいなくなった田舎の土地は放牧地になり、農民がまた放逐された。

18446月初め,プロイセン王国シュレージェン州のオイレンゲビルゲ山雄の隣りあった二つの村、 人口合せて18,000人のぺ一クースヴァルグオとランゲンピーラオで、木綿織工と紡ぎ工が工場主たちに むかって実力行使をもって立ちあがった。

たたかいは、「織布工の歌」から始まった。賃下げに反対するある織布工が工場主の門前で、「オーストリアには城がある」の替え歌を次のように歌った。

ここの裁きにくらべれば、

お裁き一つするでなく

さっさと人の首はねる

秘密裁判まだましだ。

なぶり殺しにじりじりと、

拷問台にかけられて、

つく溜息も数しれず、

さぞや辛かろ、苦しかろ

ツヴァンツィガーは、首切り人

家に仕える獄卒が、

いずれ劣らぬ非道ぶり、

人の生き身の皮を剥ぐ

うぬらは、地獄の悪霊か、

貧乏人を食い荒らす

報いにゃ、呪いをかけてやる

いかなる願いも、聞かばこそ、

いかな嘆きも、知らぬ顔

いやならいつでも出て失せろ

野たれ死にでもしろという

世の人、知るや、ここに住む

貧乏人のうき辛苦、

今日のパンにも事を欠く、

憐れと見ずに過ごさりょか

憐れと見るは、人食いの

うぬらが知らぬ優やさごころ、

うぬらが望みは誰も知る

貧乏人の身と肌着

この歌のために、この織布工は、家の中に引きずりこまれ、鞭で滅多打ちにされ、地区の警察に引き渡された。この事件が直接の契機となり、ドイツのバルメンでもシュレージェンと同じ一斉蜂起が起きた。

184464日午後2時頃、プロイセン王国シュレージェン州のオイレンゲビルゲ山雄の隣りあった二つの村、 人口合せて18,000人のぺ一タースヴァルグオとランゲンピーラオで、木綿織工が多数、それに麻織工が加わり工場主たちに むかって実力行使をもって立ちあがった。64日、まずべ一タースヴァルダオの数百人の労働者たちが、自分たちがもっとも憎むツヴァンツガー兄弟商会に殺到し、賃上げを、そしていわぱ寸志を要求した.。嘲笑と悪罵をもってそれを拒否されたかれらは建物に侵入し、ありとあらゆるものを、家具調度・什器・ 装飾品・建具・飾り金具・階段・壁・窓枠などを破壊し、帳簿・手形・書類をひき裂いた。工場の紡績機も打ち壊された。投石によっ てガラスの壊された窓から投げ出されたストックされていた布地類は、裂かれちぎられ、踏みにじられ, あるいは周囲の人々に分配された。翌5日、手斧・干草用熊手・棍棒・石塊などで武装した労働者たち は、ランゲンビーラオその他から合流した者を含めてすでに3000人を超えていた。織布工だけでなくレンガ工、指物工なども加わっていた。やがて隣村へ移動し、ディーリヒ兄弟商会を攻撃の対象としたが、シュヴァイトニツから治安出動した歩兵2個中隊と対峙した。解散命令にも従わず威嚇発砲にもひるまぬ蜂起者たちは、2度の一斉射撃によって11人の死者と20 数名の重傷者を出したが,このことにかえって激昂して反撃に出て出動部隊を退却させた。翌6日、砲兵と騎兵の応援をうけた部隊によって、蜂起は鎮圧された。100人を超える職工たちが逮捕拘禁され、早々と831目にはプレスラオのプロイセン王国高等裁判所において、80人を超える労働者に総計203 年の懲役刑・90年の要塞禁固刑・350回の鞭打刑の判決が下された。 

たたかいは連動した。紡績業が発展し「ドイツのマンチェスター」といわれていたバルメンでもシュレージェンと同じ蜂起が起きた。バルメンは、エンゲルスが育った都市である。

シュレージェンの労働者のたたかいは、マルクス「資本論」やディケンズの小説にも掲載された。エンゲルスも労働者階級のたたかいへの強い確信を抱いた。さらにドイツではハイネが「古いドイツよ おまえの経幟子を織ってやる」と詩を書き、1892年にハウプトマンが戯曲で発表。日本では1933年に築地小劇場で上演された。

マルクスは、「まず『織工の歌』を思いうかべるがいい。この大胆た闘争の合言葉のなかには、かまどや仕班場や居地区のことは一度も述べられず、プロレタリアートはいきなり私有財産制社会にたいするかれらの敵対を、あからさまに鋭くカづよく絶叫している。シュ レージェンの暴動は、フランスやイギリスの労働者の蜂起の終った地点から、すなわちプロレタリアートの本質についての自覚から始まっているのである。行動そのものがそういった卓越した性格を帯びている。たんに労働者の競争相手である機械が 破壊されたぱかりではなく、所有権の証書である取引帳簿までもが破棄された。そして他のあらゆる運動が、まず工場主という目にみえる敵に立ちむかったのに、この運動は、同時に銀行家というかくれた敵に立ちむかっている。結局のところ、どんなイギリスの労働者の蜂起も、どれひとつとしてこれと同じような勇敢さ、熟慮、辛棒づよさをもって行なわれたことはなかった」と述べている。

◆ハウプトマンの「織工」のあらまし

=http://d.hatena.ne.jp/odd_hatch/touch/20120202/1328137743)

1幕 ・・・ 工場の賃金支払い日。高飛車な事務員に品質に文句をつけられ、前借りを断られて、農民たちは困惑。経営者が出てくるものの、賃金のことは事務員に聞けと逃げる。

2幕 ・・・ 農民の家。子だくさんの貧乏、少年少女の長時間労働、インフレ、長雨と洪水によるじゃがいもの不作など農民はつかい つらいことばっかりと女たちがなげく。そこに兵隊になり幸い出世した男が登場。経営者の悪口を織り込んだ民謡を歌うと全員で合唱。もう我慢ならないと農民たちが立ち上がる。

3幕 ・・・ とある酒屋。賃金を切り下げられた織工たちが愚痴をこぼす。ここでは入会地の枯れ枝取りが違反であることを嘆く。そこに第2幕で気勢をあげた連中がやってくる。経営者や事務官の悪口で盛り上がり(これまでタブー)、民謡は革命歌の役割を果たし、老人を除いて全員が出発する。

4幕 ・・・ 経営者の家。牧師と事務員が詰めかけていて、農民蜂起に怯えている。農民の騒乱が自宅周辺に押し寄せてきたとき、彼らは家を捨てて逃亡する。

5幕 ・・・ 蜂起に参加しなかった農民の家。爺さんと婆さんはキリスト教の意図からすると、暴力はよくないねえと話をしている。第2幕で意気をあげた元兵隊が来て、略奪した肉や酒をふるまう。そこに軍隊登場。一部で「逃げろ」の声。そうはさせじと元兵隊が路上に戻る。どこかからの流れ弾が爺さんに命中。家族が爺さんの下に集まる中、幕。

 とくに社会改革のビジョンを持っているわけでもなく、資本家打倒の後の経営をどうするかという方法をもっているわけでもなく、闘争の戦略や戦術をもっているわけではない。あくまで「お上」に力を持って訴え出て、「悪い」資本家やその手先を懲らしめてくれ、ついでに彼らに集中している富を自分らに配分してくれという運動。なので、これは革命でも運動でもなく、暴動や一揆とみなすべき騒擾事件。19世紀になると、ブルジョアは支配層(王族、貴族、宗教組織など)と持ちつ持たれつの関係を作ることに成功している(税金や贈賄で富の一部を差し出す代わりに、彼らの利権と資本の保護を要請していた)。だから一時期の熱狂も軍隊の出動によって、一気に蹴散らされてしまったのだろう。という具合に、いま資本や権力によって不遇な状態にあるものを意気軒昂させる力はありそうだが、これをベースに現実の運動を作るのは難しい。この芝居をみたあとに、演出家と俳優と観客でディスカッションが起こり、ではこれに代わるべき運動形態はどうあるべきかなどと話し合わせたのだろうか。

◆ハイネ=「シュレージエンの繊工」

18447

ハイネ

くらい眼まなこに 涙もみせず

機はたにすわって 歯をくいしぱる

ドイツよ おまえの経幟子きょうかたびらを織ってやる

三重みえの呪のろいを織り込んで

織ってやる 織ってやる

ひとつの呪いは 神にやる

寒さと飢えにおののいてすがったのに

たのめど待てど 無慈悲にも 

さんざん からかい なぶりものにしやがった 織ってやる 織ってやる

ひとつの呪いは 金持どもの王にやる

おれたちの不幸に目もくれず

残りの銭までしぽり取り

犬ころのように射ち殺しやがる

織ってやる 織ってやる

ひとつの呪いは 偽りの祖国にやる

はびこるものは 汚屠と冒漬ぼうとくぱかり

花という花はすぐ崩れ

腐敗のなかに 蛆うじがうごめく

織ってやる 織ってやる

筬おさはとび 機台はただいはうなる

夜も日も休まず 繊りに織る 

古いドイツよ おまえの経幟子を織ってやる

三重みえの呪いを織り込んで

織ってやる 繊ってやる

◆シュレジェンの織工によせて

槇村浩

おなじみの古調で

ハイネはしみじみとシュレジェンの織工の歌をぼくに告げた

無慈悲な神々、王と、不実な祖国とえ三重の呪咀を織りこんだむかしの労働者の歌を

その后ぼくは皇帝の監獄部屋で

皇帝の親衛兵たちのボロを解きながら

皇帝の緋色の衣装を拝受した

このマンチュリアの婦人服に似た着衣は皇帝の女囚によって織られた

三重の呪咀は、高貴な織物の一片々々にしみわたっていた

僕は毎朝監守の前で、わざとおどけた小供のような情熱をもってこの筒っぽの着更に接吻した

(以下喪失)

🔵コルヴィッツの戦争と平和、母子像の作品

◆◆ケーテ・コルヴィッツKATHE KOLLWITZ (GERMAN 1867-1945)

『ケーテ・コルヴィッツの肖像』(志真斗美恵著・績文堂・2500円)のまえがきと目次です。本書の申込みは→績文堂・TEL03-3260-2431 FAX03-3268-7202・mail@dwell-info.comへ

はじめに

天命をまっとうすることができずに迎える不条理な死戦争、テロル、あるいは飢餓による死。残された人びとの悲しみを思うとき、ケーテ・コルヴィッツの作品がわたしの脳裏に浮かぶ。戦争で息子を奪われた両親の像、敬愛する人を失った人びとがならぶ〈カール・リープクネヒト追憶像〉。数々の作品は、深い悲しみとともに、その死を胸に刻み生きてゆこうとする意志を表現している。

ケーテ・コルヴィッツは、二度の世界大戦で、二人のペーターを失った。第一次世界大戦で次男ペーターを、第二次世界大戦で孫のペーターを。

ケーテ・コルヴィッツは、ドイツで戦争と革命の世紀を生きた画家であった。彼女が生まれた一八六七年は、日本では大政奉還・明治維新の年である。ドイツ帝国の誕生(一八七一年)、第一次世界大戦(一九一四~一八年)、ヴァイマル共和国成立(一九一九年)、ドイツ革命の敗北(一九一九年)、ナチスによるファシズム支配と戦争の時代(一九三三~四五年)を彼女は生き、戦争が終結する直前に亡くなった。

彼女は、版画を中心にして、素描、彫刻の分野で五〇年以上にわたる活動を続けた。その生涯に創造した版画作品は二七五点、そのほかに多数の素描や下絵、そして色彩の施された作品と十数点の彫刻がある。その数は、多いとはいえないかもしれない。だが彼女にとって、生きることは、作品を創造することであった。どのように困難なときでも、彼女はけっして絵画や彫刻から離れなかった。彼女の祖父は言った「才能は、同時に使命である」と。

ケーテ・コルヴィッツは思索する芸術家であった。創造の過程で彼女は思考を深めていく。作品を完成させるまで何年も、何十年もかけるのは、稀ではなかった。その長い時間のなかで、彼女は、たえず作品をそのときの現在の光のなかで検証した。少女時代から晩年に至るまで一〇〇点あまりにのぼる自画像は、彼女が自己を凝視するなかから創作する作家であった証でもある。

ケーテ・コルヴィッツは文章を書く人でもあった。自画像を描くだけでなく、文章でも自分を語っている。本を読み、日記を書き、絶えず自分をみつめた。少女時代は『回想』(一九二三年)に、画学生の時代をへて版画家として四〇歳になるまでは『若いころの思い出』(一九四一年)にまとめられている。一九〇八年から書きはじめた日記は、十冊、一五〇〇ページにのぼり、率直で飾り気なく、また自己に対して容赦ない批判の刃を向けている。それは、個人的日録にとどまることなく、作業日誌的要素も持ちあわせていて、彼女の作品をみるときの補助線となってくれる。

ケーテ・コルヴィッツが没して六〇年。いまなお世界各地で戦禍は絶えない。戦争による死者はなくならない。飢えもなくならない。世界六〇億の人びとのうち、八億人以上の人びとが飢餓状態にある。彼女が版画や彫刻で描いた現実は変わっていない。イラクで戦死したアメリカ兵の母親の悲しみは、九十数年前のケーテのそれと同じである。戦場でわが子をさがす母親も、戦争のために寡婦となった妊婦も数知れない。「平和主義」――それは彼女が死を前にしたときの言葉である。ケーテ・コルヴィッツの作品は、いまも平和を考えるための手がかりになるとわたしは確信している。

ケーテ・コルヴィッツの仕事は、彼女が生きた時代ときりはなして考えることはできない。彼女自身が書き残した日記・回想・手紙をてがかりに、激動の時代とかかわりつづけてきた彼女の足跡をたどり、ケーテ・コルヴィッツの生涯をいまからわたしなりに綴ってみたい。作品を時代のなかに位置づけ、言葉でケーテ・コルヴィッツの肖像を描いてみようと思う。

 目 次

1 画家をめざして――自由の風

「自由教団」の影響  ケーニヒスベルクの風にふかれて  画家をめざして  女子美術学校へ  婚約、そしてミュンヘン  習作〈ジェルミナール〉

2 『織工たちの蜂起』――連なっていく記憶

カールとの結婚  ハウプトマン『織工たち』の衝撃  家庭と創作活動の両立  連作版画『織工たちの蜂起』 「社会派」芸術家と呼ばれて  〈あまたの血を流すものたち、おお民衆よ〉  もうひとつの機織労働の記憶――ゴッホ  マルクス、ハイネ、フライリヒラート、ハウプトマン

3 『農民戦争』――主題と技法の追求

ベルリン分離派への参加  『農民戦争』の制作  一九〇四年「パリはわたしを魅了した」 ロダン訪問  一九〇七年イタリア滞在  農民戦争の時代の画家たち

4 貧しい人びとの素描――表現主義運動の渦中で

『ジンプリチシムス』での仕事  生活と創作の苦悩  表現主義運動の高揚  〈三月の墓地〉

5 ペーターの戦死――一九一四年十月

戦争への熱狂  「私の仕事」記念碑の制作  デーメル批判

6 カール・リープクネヒト追憶像――悲しみの転換

初の芸術アカデミー女性会員に 〈カール・リープクネヒト追憶像〉制作へ  バルラハ木版画の衝撃

7 ポスターの制作――「人民の代弁者」

混迷する時代のなかで  「反革命が動きだした」 「この時代のなかで人びとに働きかけたい」  インフレの進行と飢餓  二度と戦争をするな!

8 木版画連作『戦争』――「苦しみは真暗闇だ」

長い歳月を込めて  生命を宿すもの  ロマン・ロランへの手紙

9 国境を越えて――スメドレーと魯迅

スメドレーとの友情  魯迅『ケーテ・コルヴィッツ版画選集』出版

10 記念碑〈父と母〉の像――平和の希求

『プロレタリアート』  ペーターの墓地へ  革命十周年のモスクワ  記念碑の完成  墓地への設置  記念碑の変転

11 最後の連作『死』――ナチス支配の時代

兄コンラートの死  ナチス支配の時代  三人展ナーゲル、ツィレ、コルヴィッツ  レリーフ〈御手に抱かれ安らかに憩いたまえ〉  最後の連作『死』  ゲシュタポの尋問

12 種を粉に挽いてはならない――孤独と希望と

彫刻に没頭  〈ピエタ〉  ケーテの〈嘆き〉とバルラハの〈漂う天使〉  〈たがいに握りあう手〉  夫カールの死と〈別れ〉  〈種を粉に挽いてはならない〉  孫ペーターの戦死  平和主義の思想

エピローグ 励まし――日本の人びとに

文献は「ケーテ・コルヴィッツの肖像」(績文堂)参照。ドイツの女流画家、彫刻家。旧

姓シュミット。ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)生まれ。1885年ベルリンの画家カール・シュタウファー・ベルンに学ぶ。クリンガー、ムンクに私淑し、ロシアおよび北欧の近代文学に親しんだ。91年ベルリンの労働者街に働く医師カール・コルウィッツと結婚、貧困と病苦に悩む労働者の生活に密着した表現を行い、プロレタリア美術の先駆をなした。戦争体験に基づく人間の苦悩を表した彫刻作品と、連作版画『織工』『戦争』『農民戦争』がある。ドレスデン近郊モーリッツブルクで没。

【ケーテ夫と共に】

◆◆ケーテ・コルヴィッツ Käthe Kollwitz

生誕 186778

東プロイセン・ケーニヒスベルク

死去 1945422

モーリッツブルク

国籍 ドイツ人

代表作

『農民戦争』

ケーテ・シュミット・コルヴィッツ(Käthe Schmidt Kollwitz186778 – 1945422日)は、ドイツの版画家、彫刻家。周囲にいた貧しい人々の生活や労働を描いたほか、自分自身の母として・女性としての苦闘を数多くの作品に残した。ドイツ帝国、ヴァイマル共和国、ナチス・ドイツという揺れ動く時代を生きた、20世紀前半のドイツを代表する芸術家の一人である。

彼女は1867年、東プロイセンのケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)で、左官屋の親方である父カール・シュミット、母ケーテ・ループの間に生まれた。彼女は父の仕事場にいた職人から絵や銅版画を学び、父は17歳になった彼女をベルリンへ絵の勉強に行かせた。この時期、彼女はマックス・クリンガーなどベルリン分離派の画家・版画家たちの影響を強く受けた。彼女は学業を終えケーニヒスベルクに戻ったが、再びより芸術的な環境を求めミュンヘンに向かい、フランス印象派絵画などの影響を受ける一方、版画やスケッチが自分に向いていると考えるようになる。1890年、彼女はケーニヒスベルクに戻り、港で働く女性たちの活動的な姿を版画に描くようになった。

1891年、兄の友人で健康保険医のカール・コルヴィッツと結婚した彼女はベルリンの貧民街に移った。彼女は生涯描き続けた自画像に取り組む一方、スラムに住む彼女の周りの住民たちや夫の患者たちに強い印象を受け、貧困や苦しみを描くようになる。

彼女は1897年に、ゲアハルト・ハウプトマン作の下層階級の人々を描いた戯曲『織匠』(Die Weber1892年)を見た印象から制作した最初の版画連作『織匠』(織工の蜂起)を発表し、一躍脚光を浴びる。批評家からは絶賛を浴びたが、当時の芸術家のパトロンたちにとっては難しい題材であった。彼女はベルリンの『大展覧会(Große Kunstausstellung)』で金メダルにノミネートされたが、皇帝ヴィルヘルム2世は授賞に対する許可を与えなかった。

その後彼女はドイツ農民戦争を題材にした連作『農民戦争』(1908年)で評価され、版画に加えて彫刻も手がけるようになったが、1914年、第一次世界大戦の開戦一週間後に末息子のペーターが戦死した。社会全体に開戦への熱気が高まる中で息子のハンスとペーターが兵士に志願した際、彼女は止めるどころかむしろ後押ししてしまったこともあり、彼女は長い間悲しみにさいなまれた。戦後、彼女はペーターの戦死を基にした木版画による連作『戦争』(1920年)や労働者を題材にした『プロレタリアート』(1925年)を発表する一方、息子の死後17年間にわたり彫刻『両親』の制作を続け、1932年にベルギー・フランデレンのRoggevelde にあるドイツ軍戦没兵士墓地に設置された。後に、ペーターの葬られた墓地は近くのVlodslo に移転し、彫刻も移転している。彼女はその他、激戦地だったベルギー・ランゲマルク(Langemarck)の墓地のために四人の黙祷する兵士の像を制作している。

『両親』

ベルギー・Vlodsloの第二次大戦戦没ドイツ兵墓地に移転されている

『母と2人の子』

彼女は1919年、女性としてはじめてプロイセン芸術院の会員に任命され、1929年にはプール・ル・メリット勲章を受章するなど、第一次世界大戦後の国家や社会の各層から高い評価を受け、多くの人々から親しまれた。一方で社会主義運動や平和主義運動にも関与し、『カール・リープクネヒト追憶像』の制作や、ドイツ革命後わずかな間存在した社会主義政府の労働者芸術会議に参加するなどの活動を行っている。

1933年、ナチ党の権力掌握とともに「退廃芸術」の排斥が始まった。彼女も反ナチス的な作家とされ、芸術院会員や教授職から去るように強制された。彼女は最後の版画連作『死』および、母と死んだ息子を題材にした彫刻『ピエタ』(1937年)を制作するものの、1930年代後半以後は展覧会開催や作品制作など芸術家としての活動を禁じられた。宣伝省は人気のあった彼女の作品を『退廃芸術展』では展示しなかったものの、逆にいくつかの作品をナチスのプロパガンダとして利用している。彼女の夫は1940年に病死し、孫のペーター(長男ハンスの息子)は東部戦線で1942年に戦死した。

1943年、彼女はベルリン空襲で住宅やデッサンの多くを失い、ザクセン王子エルンスト・ハインリヒの招きで、ベルリンからドレスデン近郊の町・モーリッツブルクに疎開し、モーリッツブルク城のそばのリューデンホーフという屋敷に住んだ。彼女は制作を禁じられた後もひそかに制作を続けており、最末期の作品には子供たちを腕の下に抱えて守り、睨みつける母親を描いた1941年の『種を粉に挽いてはならない』という版画作品がある。1945422日、第二次世界大戦終結のわずか前、彼女は世を去った。

ケーテ・コルヴィッツの『ピエタ』はその後、1993年、ベルリンの「ノイエ・ヴァッヘ」(国立中央戦争犠牲者追悼所)内部の中央に設置されている。日本において見られる彫刻作品には、「恋人たちII」(1913)(愛知県美術館)などがある。

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🔵沖縄でコルヴィッツに出会う

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佐喜眞(さきま)道夫(みちお)
佐喜真美術館
美術館所蔵のコルヴィッツ作品

★★こころの時代・普天間基地に接する佐喜眞美術館=コルヴィッツと沖縄館長語る.59m

🔵私の戦後70年「沖縄でコルヴィッツと出会う」=佐喜真・徐京植対談

(これは、平成二十七年八月三十日にNHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものである)

🔵佐喜眞美術館館長 佐喜眞(さきま)(みちお)

一九四六年、家族が疎開した熊本県甲佐町で出生。高校卒業まで熊本で過ごす。高校時代、真宗寺の仏教研究会に参加。一九七四年、立正大学大学院文学研究科史学専攻を修了。一九七五年、絵のコレクションをはじめる。一九七九年、関東鍼灸専門学校を卒業。鍼灸院を開業。一九八四年四月、「沖縄戦の図」を描いた丸木位里、丸木俊と出会う。一九九四年、佐喜眞美術館を開館。

🔵作家・東京経済大学教授 徐() 京(キヨンシク)

一九五一年、京都市生まれの在日朝鮮人作家、文学者。早稲田大学文学部卒業。東京経済大学現代法学部教授。兄に立命館大学特任教授の徐勝、人権運動家の徐俊植がいる。本人は四人兄弟の末っ子。

ナレーター: コルヴィッツの作品を沖縄で見ることに特別な意味を見出すのが、在日朝鮮人で作家の徐京植さんです。かつて韓国の軍事政権に二人の兄を奪われた徐さん。コルヴィッツの作品に激しく心を揺さぶられました。十年以上の親交を結ぶ徐さんと佐喜眞さんが、今、沖縄でコルヴィッツのメッセージを受け取ります。

徐: ここはすぐ目の前が基地のフェンスでね。美術館自体が基地に突っ込んでいるような、食い込んでいるような形でありますよね。このケーテ・コルヴィッツというドイツの女性美術家の二十世紀の戦争を経験した人が残した平和への叫びみたいなものが、この美術館からズッと基地に向かって放出しているというか、そういう感じすら受けるんですね。

佐喜眞: そうですか。

徐: そこで佐喜眞さんが、ケーテ・コルヴィッツを収集し始めたきっかけと言いますかね、沖縄にこのケーテ・コルヴィッツがあることの意味と言いますかね、先ずその辺からお話をお伺いできますか。

徐: 我が子にむしゃぶりついている夜叉か悪鬼のような、そういう作品なので、

佐喜眞: そうですね。あの作品は随分高かったんですよ。一晩考えてしまいまして、ほんとに清水の舞台から飛び降りるような気持ちでいたんですよ。買っていいんだろうかと逡巡していましたよ。そして買って持ち帰る時のもう足の軽かったこと。

徐: そうですか。

佐喜眞: 嬉しくてね。

徐: そこが佐喜眞さんらしいですね。凡人は買っちゃって足が重いという。どうなるんだろうという。

佐喜眞: そういうことまで思い出しますよね、作品について。

徐: やっぱり今振り返って見て、そこに沖縄のご出身だということが影響していると思いますか?

佐喜眞: これは大いにあると思いますね。私は、これだけケーテ・コルヴィッツを集めたというのは、沖縄に拘ったからだと思っていますね。だんだんこう集めているうちに、これは沖縄に似合うなと思い出したんですよね。と言いますのは、死んだ子を未だに抱えて悲しんでいるその思いを胸に秘めているお母さんというのは、沖縄にたくさんいるわけですから。

佐喜眞: これは凄いですね。

徐: これは「農民戦争」の「戦場」という作品ですね。離れて見るとあんまりよく見えないけど、闇の中に死骸がたくさん放り出されていて、その中で死んだ我が子を探している母親ですよね。

佐喜眞: 沖縄戦でもこれたくさんあったと思います。

徐: そうでしょうね。

佐喜眞: 例えば、家のお爺ちゃんが死んだとか、孫が死ぬと、戦争で生き延びた人は確認に行くわけですよ。確認に行きますと、ほとんどないんですよ。「何一つ確認できなかった」と言って帰って来たという話が山ほどありますよ。

徐: その場面を、ドイツ農民戦争の場面だというふうにいう説明は、ある意味で必要だけど、ある意味必要なくて、そういう普遍性を持っているわけですね。今、沖縄戦のことをおっしゃったけど、私は、この作品を見た時に、例えば韓国で、一九八年に光州(クァンジユ)というところで、いわゆる光州(クァンジユ)事件がありました。つまり民主化運動に対して、これは自国の軍隊ですけど、戒厳軍が投入されて一般民衆をたくさん殺戮した事件がありますね。その時に、マンゴルドンという墓地に埋められた死骸の中に我が子を求めて、母親たちが慟哭しながら彷徨うというような映像がよく見られたんですよ。それを描いているようにも見えますね。農民戦争というのは、ケーテが生きていた時代からみても、三百七十五年前ですかね、それが一続きの歴史として、つまり彼女は歴史物語を過去のこととして描いているんじゃなくて、彼女の中に今あるリアルとして入っているわけですね。ですからそれが私たちが作品を見た時も、農民戦争の作品を見ても、昔の物語を見ているという感じがしない。ということは、この人自身がそういう感性で受け止めていたということですね。

佐喜眞: 徹底して調べて、そして自分の問題として描いている感じがしますよね。

徐: やっぱり凄いと思うんです。

徐: おそらくケーテが生きていた時代から、もう遙か以前ですけど、こういう風景が、残念なことですけど、世界では非常に、むしろいわば一般化しているということですね。しかしそれは作品として現れないし、また作品として現れても平凡な作品の場合は、それは可哀想だとかね。あるいはむしろもっと悪いのは、ああじゃなくて良かったとかね。だけどそうではない力を不思議なことにこのケーテの作品は持っていると思いますよね。

佐喜眞: そうですね。

徐: 何故この人の作品はそんな力を持ったんだと思いますか?

佐喜眞: これはやっぱり人間に対する理解の深さでしょう。あるいは「祈り」と言ってもいいかも知れません。要するに子どもを戦争に捧げる母の悲しみと言いますか、苦しみだけがあそこに出ている。崩壊していく心理状況が後根になっている。こういうふうに、この画家は戦争を描くのかと。まったく具体的じゃないですね。しかしものの本質をズバッと見せてくれている、そういう深さがありますよね。

徐: そうですね。

佐喜眞: やっぱりケーテは、戦争を、女性といいますか、その死んだ子を抱きしめて深く悲しんでいる母の像として表現しますね。これはやっぱり普遍性を持ちますよ。戦争というのは、そういう人をたくさん作るということに対して、万人がそれはダメだと、そういういうことを直接に伝えますでしょう。そういう点では、ケーテ・コルヴィッツが持っている力というのは、私は戦争を考える上で、相当大きな力になっていると、私は考えていますね。

徐: それでちょっと付け加えていうと、母親というものが、国家のために、子どもを産んで、それを捧げるということの崇高さというふうなイデオロギーを利用している。だけど、コルヴィッツをつぶさに読んでいくと、そういうものを超えるような、しかし自分自身の母親としての感情に対しては忠実でありたいというふうな、そういう芸術的な苦闘というのがあると思うんです。ですからこれはやっぱりむしろそれを見ている、あるいは享受する私たちの側に問われている問題で、私たちの側がそういう知識と知的創造力を柔軟に保ちながら見なければならない種類のものだと思うんですね。

ナレーター: 佐喜眞美術館の屋上からは、隣接するアメリカ軍普天間基地を一望することができます。建物は、基地との境界線ギリギリまで迫()り出すように建てられています。

佐喜眞: このフェンスの向こうはアメリカ軍基地ですね。

ナレーター: 美術館のあるこの場所は、佐喜眞さんが祖母から受け継いだ土地です。

佐喜眞: 私の先祖は、一番奥がありますでしょう。あの辺に住んでいました。あそこに人々が住んで、こちらが墓地で、こちら山で向こうに海があるという、伝統的な自然に恵まれた場所だったですね。

佐喜眞: 復帰した後に、土地代が上がったんですよ。

徐: つまり米軍に収用された土地から入ってくる地代が復帰の後に上がった。

佐喜眞: 本土並になったんです。これは私は非常に不愉快でした。島ぐるみ闘争(1950年、沖縄で起きた大規模な反基地運動)で頑張っている沖縄を、生木を裂く分断策だと。分断策の仕掛けだと思ったんですね。だからこの金は生活費に入れたくないと思ったんですよ。しかし何をしていいかわからんもんだから、それをどうするかという時に、いろいろ三年間ぐらい考えたんですが、自分が一番自分の心の奥底の喜びは何だろうかという時に、絵のコレクションにしようと、全部これを。そういう点では、分断策というものに対して反転していきたいと。反転していきたいという気持ちがあるものですから、やっぱりコルヴィッツみたいな作品を選び取ってしまうんでしょうね。

佐喜眞: 沖縄戦の時に、私の家族は父の赴任地だった熊本に疎開して助かったわけですね。熊本からいつも沖縄を見ているわけですが、この距離感ですね、この距離感は私にとって、今考えると大事だったなと思いますね。私は遠くから沖縄を見て、沖縄の肉親の情の厚さに感激したり、沖縄の温かい風を運んでくる父の知人や友人たちの話に、私は、「ふるさと沖縄は世界一すごい所だ」と確信と誇りをもって育ちましたからね。沖縄は大好きで、そういう人間でしたからね。どういう形で沖縄に参加するかということは、常に考えていたと思うんですね。ですから私にとっては、こういう美術館を作ることは、沖縄闘争に対する参加なんですよ、私の形として。私はこういう形で沖縄に参加しているつもりですね、主観的には。

見学者:  日本の美術館がこのようなケーテ・コルヴィッツのコレクションをしたことに感銘を受けました。普通意識の高い人は資本がなくてできないし、資本のある人は、お金ばかりを追うのでできません。

ナレーター: 徐さんは、コルヴィッツの時代や地域を越えた表現の普遍性を語りました。

徐: 何故この世の中でコルヴィッツを見る必要があるのか。自分自身に問いかけてみないといけません。今の時代、この状況を生きている朝鮮の人たちの悲しみや困難、孤独とは何かを問いだし、自分が今悩んでいる問題は、百年前のドイツの女性であるコルヴィッツが、こうした形で表現していると再発見する。難しいけど、これが必要なのだと思います。

佐喜眞: そうですね。「貧しい人たちの生活の中に美を見出している。だから私は描くんだ」と言っていますよね。

徐: そうですね。だからそういう意味では、やっぱりこの厳しい現実を思い知らされるようなアートのもつ厳しい美しさ、それが我々に与えてくれる力というものが明らかにある。

佐喜眞: やっぱり真実の美しさかも知れませんね。

佐喜眞: ヒトラー政権の下で、自殺することばっかり考えていたことを書いたりしていますね。

佐喜眞: そうですね。

徐: 随分お読みになりましたね。

佐喜眞: 大学時代というより、コレクションをしていく時に非常に参考になりました。

徐: そうですか。

佐喜眞: 私は、その後ろの方に、

「今、作家ケーテ・コルヴィッツは、ヒトラー政権の中で非常に弾圧されている。彼女の作品は、極東まで来て、作品に触れて私の目の前にある。そうなんだ。人類のための芸術作品というのは、どのような力を持ってしても止めることはできないんだ」

と書いていますよね。それに非常に大きな勇気を貰いましたよ。自分が作るコレクションというのは、そういうものでありたいと思いましたね。

徐: 今おっしゃった下りは、大変大事なところで、結局中国人にとっても、この木版画を紹介したという意味もあるけれども、

この画集によって、実際は世界にまだまだ多くの場所に辱められ、虐げられた人のいることを、そして彼らが私たちと同じ友であること、しかもその人々のために悲しみ、叫び、戦っている芸術家もまたいるということがわかる

ということを書いているわけですね。つまりコルヴィッツがいて、それを受け止める魯迅がいたからなりたった。それこそ尺度の大きい長く広い、そういう交流だと思うんですね。

佐喜眞: 魯迅がケーテを尊敬するあまり、ケーテに「中国をテーマにした作品を作ってくれんか」と注文するんですね。そうするとケーテは断るんですよ。「私は中国のことを知らない。だから描けません」と言って断ってくる。それに対して魯迅は非常に感動しましてね。これが大事なんだと。作品というのは、必然性がなければ作る意味はない。必然のないところから作る作品はつまらんものだと。その辺の魯迅の態度というのは、若い頃感動しましたよ。それが私の物差しになっている感じがします。この作品は、必然性があるのかということですね。

佐喜眞: 中国は、六十年前に新しい社会を作ろうと思って革命しました。六十年経って、一部の富裕層と貧民層と農村問題を抱えている。こんな筈ではなかった」という人たちたくさんいるんです。こういう人たちがケーテ・コルヴィッツ展をやりたかった。あ、そうや。それだったら―その時面白かったのは、「いや、ベルリンのケーテ・コルヴィッツ美術館から借りれば、たくさん借りられますよ。だからベルリンから借りた方がいいじゃないですか」と言いましたら、「いや、ベルリンからは借りません。東アジアにあるこのケーテ・コルヴィッツが大事なんです。琉球から借りたい」とおっしゃるもんですから、オッと思いましたね。

徐: 今、こういうことじゃないですか。先ほどの魯迅自身の言葉の中に、「虐げられた人々が、世界の各地にいる」ということを、それを言葉や観念としては知っていても、「ここにいた」という、「ここにいるんだ」ということを、ケーテの芸術を通じて知ると。中国の民衆にそのことを知らせようとしたわけでしょう。その時に出会ったのは、中国の民衆がドイツの労働者、あるいは虐げられた女性に出会ったんだけど、しかしそのケーテを通じて、沖縄の人々に出会った。そうすると、こういう人々の住む場所だというふうに見えるということじゃないですか。

佐喜眞: そうでしょうね。

徐: 変なことを言うようですけれども、沖縄という場所は、日本の中でも周辺というか、辺境というか、そういう場所ですよね。そこにケーテ・コルヴィッツが纏めてあって、中心ではあまり歓迎されないものが、周辺でその人たちの心と響き合いながら所蔵されて、それが周辺から周辺へと受け渡しされたという、そういう感じすら私はするんですけど。

佐喜眞: あ、そうですか。

徐: ここで保存してくださっていることには、大きな意味があると思います。

佐喜眞: 私にとっては沖縄は日本の周辺ではないんですよ。私のケーテ・コルヴィッツのコレクションは、中国に二回貸し出しました。韓国に二回ですね。それはその時のイメージは、やっぱり琉球時代ですね、アジアのネットワークで中心だ。それを芸術を通じて証明するんだというような感覚でありますよ。だから楽しいですね。

徐: 随分立派なお墓で。

佐喜眞: そうですね。

佐喜眞: ちょっとお祈りして入ります。お母さんのお腹を表していると言われています。妊娠したお腹ですね。死んだ人を―身内をお母さんのお腹に納めると。願いとしては、もう一遍生まれ変わって出て来て欲しいと。出てくるんですね、沖縄では。やっぱり私の祖母なんかの姿を見ていますと、沖縄は女性が中心―お婆ちゃんですね。お婆ちゃんが集まってお祈りする。お婆ちゃんは沖縄の社会の中で、文化の中で絶対的な力がありますね。

徐: ご自分のお婆さんはどういう方ですか?ご記憶がありますか?

佐喜眞: 勿論ありますよ。私の祖母は非常に静かな人でした。ただそこに居るだけで安心するような人でしたね。学問があるわけではありません。もう一生懸命神様に祈るわけですね。神様に祈って祈って、「本当のことは何なですか」と。「本当のことは何なのか」と考えて考えて、そしてズバッと言うわけですね。これは迫力がありますよ。一言ズバッと言うわけですね。そういうタイプのお婆ちゃんでしたね。

「母親が座っていて、死んだ息子を膝の間に抱いている。そこにはもう胸の痛みはなく、物思いに耽る姿がある。私が造る母は、年老い孤独で陰鬱な思いに沈む一人の女である」。

徐: ちょっといいですか。

佐喜眞: ええ。彫刻というのは、触ってみてほんとにいいことがわかりますよ。この曲線が実にこうなんとも言えない優しさがありますでしょう。

徐: ありがとうございました。もういいです。もうあんまりこれ以上触りたくない。

佐喜眞: どうして?

徐: 「どうして」って言われても困るんだけど。なんかちょっと少しなんというのかな、肉感的な感じがちょっと私怯(ひる)ませますよね。

佐喜眞: そうそう。

徐: 佐喜眞さんは、ピエタは、どういうふうにご覧になっているんですか?

佐喜眞: いやぁ、これはほんとに死んだ息子を懐に入れて深い静かな悲しみに沈んでいるわけですね。これ私は沖縄の亀甲墓を思い出すんですよ。沖縄の女性もこういう深い思いがあって、ああいうお墓の形になったのかなと。この彫刻を見まして、そう思ったりすることがありますね。死んだ子どもを自分の体に入れ込みたいぐらい深い悲しみ。ですから、沖縄の亀甲墓なんていうのは、死んだ人をお母さんのお腹に戻すんですから。そこから出てきてくださいと。要するに繋がっているわけですね、あの世とこの世が。沖縄では、あの世とこの世が繋がっている文化が色濃くあるわけです。ですから戦死した人たちに対しても繋がっている。

ナレーター: 歴史学者の石母田は、母についての文章を残しています。石母田の父は、近代的な思想の持ち主でした、一方で母は、封建的だと思われていました。しかし石母田は、何があっても息子を信じ、守ろうとする母の人間性に正しさへの本能的な理解を見出しています。

徐: つまり母に象徴されるようなものは、温かくて、いつも無条件に自分を受け入れてくれるものではあるけれども、いわばプリミティブ(primitive: 自然のままで,文明化されていないさま。原始的)なものであるという図式からいうと、そういうふうに貶められてきた母を再発見することが、日本が思想的に立ち直る道じゃないのかということですね。こういうふうな思想的な反省というか省察が、近代の日本、敗戦後の日本で進歩的だと自認する人々にとっても必要だという、そういうメッセージだと、私は理解しているんですね。

佐喜眞: 私は、僕の父から聞いた祖母のイメージしました。

徐: そうでしょう。だから余計にこのことを思い出したんですね。だからそういうところがもっていたものを放り捨てたり、無視したり、あるいは場によっては踏みつぶしたりしながら進んできた。その結果に戦争があり、敗戦があったという話と読むことができるんですね。

佐喜眞: そうですね。

翁長知事: 家族や友人など、愛する人々を失った悲しみを、私たちは永遠に忘れることができません。

安倍首相: 今度も引き続き、沖縄の基地負担軽減に全力を尽くしてまいります。

ナレーター: この日の辺野古では、移設に反対する人々が座り込みを続けました。慰霊の日、佐喜眞美術館には、毎年多くの人が訪れます。屋上の展望台は、六月二十三日、水平線に太陽が沈む方角に合わせ造られています。

見学者: 東京から。

佐喜眞: 東京から。こんなこと知っていたの?

見学者: はい。

佐喜眞: そう、嬉しいね。

見学者: 四年前来た時に、佐喜眞さんとお話をした時に、この話を聞いて、いつか六月二十三日に来たいなと思って。

佐喜眞: それでもう一遍来た。有りがたいね。

見学者: 昨日来て、明日帰ります。感無量というか、感動しますね。

ナレーター: 美術館を建てる時、佐喜眞さんは、ここが揺さぶられた魂を鎮めることのできる場になればと考えていました。

ナレーター: コルヴィッツは言います。「私は、時代に働き掛けたい」。コルヴィッツなら、今の沖縄をどう表現するだろうか。

いつか一つの新しい理想が生まれるでしょう。そしてあらゆる戦争は、終わりを告げるでしょう。この確信を抱いて私は死ぬのです。そのために人は辛い努力をしなければなりませんが、いつか成し遂げられるでしょう。平和主義を単なる反戦と考えてはいけません。それは一つの新しい理想。人類を同朋としてみる思想なのです。

徐: 端的な言い方をすると、このアートを通じて基地と闘い、平和のために戦っておるわけじゃないですか。

佐喜眞: まあ道楽でやっているようなもので。

徐: 勿論そういう意味もあって、道楽は大事なことですね、そういう道楽はね。それは全然否定すべきことじゃないんだけど。だからお寺のように、お寺のような美術館、

佐喜眞: そうだと思いますね。心の内面を調える場、そういうのがお寺だという感じがするんですね。自分の気持ちの奥底を調える場という意味でのお寺みたいな、小さなお寺みたいなものを作りたいとそう思いましたね。それはアートの力を使えばできるんじゃないだろうかと。

徐: 人間の本性というものを、やっぱり改善することはアートによって可能だとお考えですか?

佐喜眞: これはできるでしょうね。

徐: できますか?

佐喜眞: 私は、やっぱり人間の本性の、仏教では「弥陀の本願」というんですね。「弥陀の本願」というのは、要するに表面的な欲はあるけど、表面はいろんな雑事に近い欲望に過ぎないと。金が欲しいとか、もっともっと根源的なあなたの願いというのはあるでしょと。それが仏の願いですよ、という言い方をする。これはちょっと震いますよ。今の資本主義社会というのは、ほんとに表面の欲望によって、人が動き、動かされ、社会が壊れていくと。そして全体をみることができない人間たちが破壊していく。そういう考えを仏教はしているわけですよね。それに本当に自分の問題として気付くならば変わるでしょうね。

徐: だけど、この絵を見ると、例えば農民戦争からナチズムの時代まで、三百年、四百年の間人間は変わらないんじゃないかという、そういうことも言えるし、また沖縄にいらっしゃる現実をみても、どんなに叫んでもその声が届かないんじゃないかとか、どこまで犠牲になれば、人は目覚めるんだとかね、福島の原発がそうですね。あのことがつい近い過去にあったのに、もうそれに目を背けるのかという、そういう気持ちの方に行きがちなんだけど。

佐喜眞: 私もそう行きがちなんですが。

徐: 佐喜眞さんは、沖縄は負ける気がしないと。

佐喜眞: そう。人間は戦争もし、実に愚劣なことをやっているんだけど、絵も描いてきたじゃないか、という思いがあるわけですね。フランスに行った時、コンコルド広場で、あの革命広場で、フランス革命時代に、毎日ギロチンで首を落とすようなとんでもないことが行われていた。美術館へ行くと同じ時代の絵が並んでいるわけです。あそこでギロチンで首をはねられる時期に、こんな絵を描く人がおったのかと。「俺はこっちに賭ける」という気持ちになるわけですね。そういうことを見るならば、やっぱり絵を描く人間の方に自分は賭けたいと思いますよ。

🔵徐京植氏「民衆運動と芸術」語る 赤旗19.08.12

🔵基地に抗う美術館―沖縄でケーテ・コルヴィッツを観る

(ハンギョレ新聞)

徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大学教授

 去る627日、熱暑の沖縄を訪れた。NHKテレビの「こころの時代」という番組のため、佐喜眞(さきま)美術館で館長と対談することが目的である。この美術館は、米海兵隊普天間基地に隣接している。いや隣接というより、半ば以上、基地の敷地内に頭を突っ込むようにして存在している。普天間基地は住宅密集地の中央に位置しているため、「世界でもっとも危険な飛行場」とも呼ばれ、長年にわたって沖縄県民が撤去を要求してきた。しかし、米日両政府はこの要求を拒絶し、同じ沖縄の辺野古(へのこ)に新たな基地をつくって移設するという方針を強行しようとしている。

 美術館の外庭には、琉球の民間信仰による亀甲型の巨大な墓がある。270年前からある佐喜眞一族代々の墓だ。佐喜眞道夫館長は第11代の当主である。終戦後、沖縄を占領した米軍は、住民を強制退去させて基地を建設した。佐喜眞一族も先祖代々の土地を米軍に占拠された。佐喜眞道夫氏は米軍から土地の一部を返還させ、地主に対して支払われる借地代を資金にして、1994年にこの美術館を開館したのである。そこに常設展示されているのは丸木位里(まるきいり)・俊(とし)夫婦の「沖縄戦の図」だ。太平洋戦争末期の米日両軍による激烈な地上戦の過程で、沖縄住民が自国である日本(ヤマト)の軍隊によって「集団自決」を強いられ虐殺された模様を、生存者の証言などにもとづいて描いた大作である。

 「沖縄戦の図」に加えて、さらに佐喜眞美術館を特徴づけているのは、ドイツの女性美術家ケーテ・コルヴィッツのコレクションだ。版画を中心とする59点のコレクションは東アジア最大のものだという。韓国でも北ソウル美術館で今年23日から419日まで初めての本格的な「ケーテ・コルヴィッツ展」が開かれたが、これは佐喜眞美術館から作品貸与を受けて実現したものだ。平和のために生涯を捧げたドイツの女性美術家の作品が、日本の東京や京都ではなく、沖縄にあるということは象徴的だ。そのコレクションは中国や韓国に貸し出されて、平和を求める東アジアの民衆に分かち合われているのである。

 私がケーテ・コルヴィッツの作品を初めて実際に見たのは大学を出て2年目の1976年、京都国立近代美術館で開かれた「ドイツ・リアリズム1919 -1933」展においてだった。「カール・リーブクネヒトの追悼」(図)に烈しい感銘を受けた。美や慰めよりは、直接な痛みを覚えた。ここに描かれている世界は、過去のこと、外国のことではなく、私自身の投げ込まれている現実そのものと思われた。その当時、韓国は維新独裁時代のただ中にあった。私たちはまさに、ここでコルヴィッツが描いたのと同じように、政治弾圧の犠牲者たちの死を見なければならなかった。いや、満足に弔うことすらできなかったのだ。

 その後、東西ドイツが統一された年、大規模なコルヴィッツ回顧展が全国を巡回した。私は、旧東独のドレスデンで、この回顧展を見ることができたが、その中で、私に最も強く衝撃を与えたのは、「死んだわが子を抱いている母」(図)である。佐喜眞館長も、若い日に銀座の画廊でこの作品と出会い、「魂をわしづかみにされ」たことが、美術コレクターの道を歩み始めた始発点だという。佐喜眞館長は、みずからの祖母を含め、そのような母たちの姿を沖縄のいたるところで見たという。

 戦争、飢餓、疾病のために死んでいく子どもと、悲嘆にくれる母。母親の姿は、まるで子どもを喰らう悪鬼のように見える。ほんとうの嘆きとはこういうものだろう。これは、子らの出獄をまちかねたまま無念に死なねばならなかった私の母の肖像だった。韓国と世界に、どれほど、このような嘆きを強いられた母たちが存在していることか。

 しかも、この作品は1903年に制作されているのだ。この作品のモデルを務めた次男ペーターを11年後に起きた第一次大戦で失い、コルヴィッツ自身、悲嘆に暮れる母たちの一員になった。芸術が実際の人生を先どりしたのだ。出征を志願した息子を引きとどめることができなかったことが、彼女の生涯の悔いとなり、平和主義の源泉ともなった。

 コルヴィッツは18677月、プロイセン東部のケーニヒスベルクに生まれた。父は法律を学んだが、職業的法律家の資格を得る寸前にその道を放棄し、修行して石工の親方になったという人物である。13歳のときから美術を学んだケーテは、ゾラ、イプセンの作品に出遭い、社会主義運動とフェミニズム運動に関心を抱いた。1891年、医師のカール・コルヴィッツと結婚した。カールは労働者階級の出身であり貧しい人々を対象とする診療所を営んでいた。

 初期の作品「職工」はハウプトマンの戯曲から霊感を得たものだ。1844年にシレジア地方で起きた職工たちの蜂起は「ドイツ最初の労働者暴動」であったが、プロイセン軍によって無慈悲に鎮圧された。この1898年に大ベルリン美術展で公開され、そのラディカルな主題のためセンセーションを引き起こした。審査委員会は金賞を与えようとしたが、皇帝がそれを拒んだという。「職工」に続いてコルヴィッツは16世紀のドイツ農民戦争をテーマにした「農民戦争」連作を制作した。

 1918年、長く続き膨大な犠牲を出した第一次世界大戦が終わった。ドイツ革命が起こり各地で労農評議会(レーテ)が結成された。戦争中から「スパルタクス団」を結成して社会愛国主義と闘ってきたドイツ共産党の指導者ローザ・ルクセンブルクとカール・リーブクネヒトは、社会民主党のノスケが率いる「義勇軍(フライコール)」によって惨殺された。社会民主党支持者であったコルヴィッツはリーブクネヒトとは政治的立場を異にするが、遺族からデスマスクの制作を依頼された時、ためらうことなくこれを引き受けた。

 1933年にナチ党が政権を奪取して以来、コルヴィッツはさまざまな圧迫を受け、「退廃芸術」の烙印を押されて芸術アカデミーからも追放された。その上、1942年には第二次大戦では、従軍した孫のペーターも失った。老いたケーテは強制収容所に送られるかもしれないという悪夢に苦しめられながら、自殺を考える晩年を送ったあと、1945422日、77歳で世を去った。ヒトラー自殺のわずか8日前のことである。

 中国の新興版画(木刻)運動の育ての親である魯迅は、最晩年、『ケーテ・コルヴィッツ版画選集』を上海で刊行した。中日戦争勃発の直前である。魯迅は1931年刊の雑誌『北斗』に、コルヴィッツの連作「戦争」から「犠牲」(図)という作品を紹介している。1936年に魯迅が書いた「深夜に記す」は、国民党白色テロによって暗殺された若い文学者、柔石を追悼する文章である。≪両目が失明した彼の母だけは、きっと自分の愛児が依然、上海にいて翻訳と校正をしていると思っているだろうと、私は察した。偶然、ドイツの書店の目録でこの「犠牲」を見つけて、すぐこれを『北斗』に投稿した。こうして私は無言の記念とした。≫

 19361019日、魯迅は息を引き取った。彼は最晩年に日本語で書いた文章「私は人をだましたい」の末尾に「終わりに臨んで、血で個人の予感を書いて御礼とします」と書いた。その予感どおり、死の翌年から中国本土への日本の本格的な侵略が強行され、中日戦争から太平洋戦争へとつながっていった。日本が降伏し戦争が終わった後に、広大な廃墟、累々たる屍が残った。

 戦後の日本には真摯な自省とともに再出発を模索する思想的試みも存在した。その代表的な例として、歴史学者・石母田正(いしもだただし)の『歴史と民族の発見』(1952)を挙げることができる。近隣諸民族への侵略戦争が無残な敗北という結果に帰結した日本近代の歩みを、「歴史の主体とは」という問題意識から探求したものである。本書のケースと扉にはコルヴィッツの作品「犠牲」が掲げられている「民衆と女性の歴史によせて」と題された本書第3章に「母についての手紙―魯迅と許南麒によせて」という文章が収められている。許南麒とは、「火縄銃のうた」で知られる在日朝鮮人詩人である。

石母田は戦前、旧制高校で社会科学研究会のメンバーであったことから「アカ」の嫌疑を受けて警察に拘留され、無期停学処分を受けたことがある。この時、無神論者で思想的には進歩的であった彼の父は、出世が台無しになると、ひどく腹をたてて彼を叱った。一方、教育がなく保守的だった母は、決して叱らず、正しいことを行うことを人に恥じる必要がないことを彼に確信させたという。「近代的」な思想の持ち主である父がブルジョア的立身出世主義に毒されているのに対して、「封建的」な母が自分と子供たちの人間性を外部と父親の権力から守るために努力し抵抗した。このような「民衆と女性」の視点に立った深い思索をもって自国の歴史を反省的に洞察しなければならない、というのである。

 この記述は私に、私自身の母を連想させた。そういう感慨を抱くのは私だけではあるまい。日本でも韓国でも、ドイツでも世界のどこにあっても、母たちはそのように必死に子どもを抱きしめて来た。コルヴィッツの「犠牲」はそのような母たちへの讃歌である。ただ、私にはそのように母を讃えることへの躊躇と苦い思いがあること事実だ。まかり間違うと、子供である自分、男である自分による母の二度目の利用、搾取になりかねないと思うからである。現代を生きる私たちは、コルヴィッツをただ「感動的」に消費するだけではいけない、ということであろう。

 いま日本で石母田正を記憶する人は少ない。それどころか好戦的な蛮声が社会全体に満ちている。「日本を取り戻せ!」と叫ぶ安倍晋三政権はいま、不法な「憲法解釈」によって自衛隊が米軍とともに世界各地で軍事行動することを可能とする法改正を強行しようとしている。そのような法改正が必要な根拠として政権がつねに挙げるものの一つが「朝鮮半島有事」事態という想定である。つまり、日章旗をかかげた日本軍が再び朝鮮半島に足を踏み入れ、朝鮮民族に銃口を向けることを想定しているのだ。戦争になれば当然、基地の集中する沖縄の人々も甚大は犠牲を被るだろう。本土では関心が低いが、沖縄では辺野古基地建設反対運動が驚嘆すべき粘り強さで続いている。これは沖縄人自身はもちろん、韓国人さらには東アジア民衆の血を流させないための闘争なのである。

 第二次世界大戦中の1941年、74歳のコルヴィッツは「種を粉に挽いてはならない」を制作した。彼女自身の日記にこう記されている。「その女(年とった女)は子どもらを自分のマントの下にかかえこみ、力づくでも放すものかと、腕を少年たちの上にいっぱい広げている。<種を粉に挽いてはならない>―この要求は<二度と戦争をするな>と同じく、あこがれのような願望ではなく、掟なのだ。命令なのだ。」

 ケーテ・コルヴィッツのこの「命令」をいまに伝える佐喜眞美術館。基地に頭を突っ込むようにして立つその姿は、平和のための闘争の先頭に掲げられた旗幟のように見えた。

徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大学教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

◆普天間の佐喜真美術館

http://www.rurubu.com/sight/detail.aspx?BookID=B5001140

◆佐喜真美術館所蔵

佐喜真氏は、基地の補償費などを活用して施設美術館をつくった。普天間基地に食い入るような場所である。テーマは「生と死」「苦悩と救済」「戦争と人間」。『原爆の図』の作者、丸木位里・俊夫妻が描いた『沖縄戦の図』の常時展示のほか、版画家の上野誠やドイツの画家、ケーテ・コルヴィッツらの作品約600点を収蔵。企画展も開かれる。建物は慰霊の日である6月23日の日没線に合わせ、最上段のコンクリートの壁の窓から太陽が差し込むように設計。米軍普天間基地を望む屋上へ通じる階段が6段と23段に分かれているなど、沖縄に対するこだわりが伺える。屋上のみの見学不可。

🔵魯迅とコルヴィッツ=魯迅が中国ですすめた版画運動

◆魯迅とコルヴィッツ(中国魯迅博物館長・琉球新報)

◆Google Book=魯迅とコルヴィッツ(「獄中への手紙」抜粋)

🔷🔷魯迅とコルヴィッツの木版画

http://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/793より引用

◆井上ひさし「シャンハイムーン」の第1幕2場「歯痛」、上海の内山書店2階で魯迅の横顔をスケッチする奥田とのやりとりで、木版画が話題になる。

奥田に木版画の講師になってくれないか、と魯迅が切り出すのである。

内山完造が事情を説明する。

完造: 上海の若い画家たちのために、先生は二度も版画講習会をお開きになったんですよ。講師というのがわたしの弟で。やっこさん、東京の成城学園で絵の先生をやっているものですから、上海に遊びに来たところを取っ捕えたわけです。

完造の弟というのは、最初世田谷、のちに神田に移って「内山書店」を開く内山嘉吉(かきち 1900-84)のことである。嘉吉は版画家としても知られた人物。兄同様に日中交流に尽力したが、その分野での最大の功績は魯迅に請われて版画講習会を開き、中国における版画芸術の基を築いたことだろう。

中国版画家たちの作品を日本に紹介することにも力を注ぎ、彼の収集した多数の版画作品は神奈川県立近代美術館に寄贈され、同館の重要なコレクションの一つとなっている。

【同館のHPより「内山嘉吉と中国木刻」】

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/collection_particulars.html#uchiyama

◆「木刻」と呼ぶ木版画運動を魯迅が興した理由は「シャンハイムーン」で次のように説明される。

魯迅: (中国の人々は)九〇パーセント、十人のうち九人までが文字が読めない。その同胞たちに文字を、書物を近づけたい。そのためには絵のたくさん入った、おもしろくて質のよい本がもっと出版されなければならない。この国の牛耳を執っている連中は自由自在に文字を操る。文字を操ることで文盲の同胞を食いものにしている。孔子がこう書いているからこうしなさい、孟子がああ申しているからああもしなさい、といったやり方でね。

◆魯迅は海外の版画作品の紹介も積極的に行った。その中でも重要なのはドイツの版画家・ケーテ・コルヴィッツを中国の人々に紹介したことだろう。1931年に彼女の連作「戦争」の第一葉を雑誌に載せ、死の直前には残る情熱を注ぎ尽くすように彼女の選集出版を実現させた。

そこまでコルヴィッツに傾倒したのには理由がある。

亡くなる半年前に書いた『深夜に記す』という五編から成る随想の最初、「コルウィッツ教授の版画の中国へ入ること」という一文に自ら誌す。

雑誌『北斗』の創刊号に、一枚の木版画が載った。ひとりの母親が、悲しげに眼を閉じて、自分の子どもをさし出している絵である。それはコルウィッツ教授(Prof.Kaethe Kollwitz)の木版連続画「戦争」の第一図で「犠牲」という題である。

かつ、中国へ紹介されたかの女の版画の第一図でもある。

この木版画は、私が、柔石(ローシー)*の殺されたのを記念する意味で、寄せたのであった。かれは私の学生であり、友人であり、外国文芸の紹介の仕事の共同者である。ことに木版画がすきで、それまでに欧米の作家の作品を集めて三冊も複製本を――印刷はあまりよくなかったが――出している。それがどういう理由かわからぬが、不意につかまって、間もなく、竜華(ロンホア)で、ほかの五人の青年作家とともに銃殺された。

   竹内好・編訳『魯迅評論集』(岩波文庫p47481981)

*柔石:小説家。国民党政府に逮捕・銃殺された。「瘋人」「希望」などの作品がある(1902-1931)。

◆魯迅は、(政権への遠慮か当局からの圧力のために)新聞で報じられることもないまま黙殺された青年作家・柔石の死への無言の記念として、非道な権力の暴力への告発の思いを込めて「犠牲」を掲載したのである。

◆魯迅は、コルヴィッツの自画像が〈すべての「はずかしめられ、虐げられたもの」の母親の心の画像〉であると見る。そうして彼女の作品が〈世界にはまだまだ多くの場所に「はずかしめられ、虐げられた」人々がいること、かれらが私たちと同じ友であること、しかも、その人々のために悲しみ、叫び、闘っている芸術家もまたいること〉を証明しているのだと述べている。

◆コルヴィッツ(1867-1945)は第一次世界大戦で息子のペーターを失う。17年をかけてその記念碑を制作するが、反ファシストのアピールに署名したために教職もアトリエも失う。

ヒトラー政権のもとで「退廃芸術」の烙印を押されて圧力を受け続けた。

中国の新聞にもしばしば載るようになったヒトラーの絶叫する写真には疲れる、と魯迅は批判的だ。

コルヴィッツ選集出版のやりとりで彼女の苦境もつぶさに知ったようで、次のように書いている。

作者はいま、沈黙を余儀なくされているが、かの女の作品ははるかに数をまして極東の天下に姿を見せることになった。そうだ、人類のための芸術は、別の力でそれを阻止することはできないのだ。

◆その後のコルヴィッツだが、1942年には第二次大戦の東部戦線で孫をも失い、ベルリン空爆によって作品のほとんどが消失した。壮年期から晩年まで二つの大戦を生きたコルヴィッツの苦悩は計り知れない。

🔵闇に刻む光 アジアの木版画運動1930s2010s

20181123日(金・祝)-2019120日(日)福岡アジア美術館企画ギャラリーABC

http://faam.city.fukuoka.lg.jp/

展覧会URLhttps://asiawoodcut.wordpress.com/

展覧会企画:黒田雷児(福岡アジア美術館運営部長)

福岡アジア美術館では「アジアの木版画運動」に焦点を当て、アジアにおける民衆主導の美術の展開を明らかにするとともに、それが社会の動きや歴史の流れと重なりあいながらひとつのうねりを生み出してきた過程を描き出す企画展『闇に刻む光 アジアの木版画運動1930s2010s』を開催する。

本展の中心を為す木版画は、展覧会という場所や時間が限定された「美術作品」とは異なり、より多くの人に身の回りの出来事を伝えることに優れた「民主的メディア」と捉えることができる。加えて、より簡便な材料と技術で複製できるため、植民地からの独立運動、独裁政権からの民主化運動、過酷な労働条件の改善運動、環境破壊への抗議など、アジア近代化の闘いのなかで重要な役割を果たしてきた。本展では、作者の労働が直接版木に刻印され、刷れば彫った部分が白い光となる木版画に、社会の暗黒のなかから自由と独立を求める人々の表現との適性を認め、アジアの木版画の歴史を、苦悩や闘争や政治的な宣伝の記録を超えて、抑圧された人間が主体的に表現する解放の歴史として紹介する。

展覧会は、文学者、魯迅がケーテ・コルヴィッツをはじめとするヨーロッパ各地の近代木版画を上海で紹介し、中国の新興木版画運動の素地となる1930年代からはじまり、日本のプロレタリア美術運動、敗戦後の日本のサークル文化運動、ベンガル(現インド東部とバングラデシュ)の農民運動や反帝国主義、冷戦下にインドネシアが主導した第三世界の連帯、シンガポールの独立運動、ベトナム戦争、マルコス政権下におけるフィリピンの〈カイサハン〉連帯などの美術家グループの運動、韓国の民衆美術運動、2000年代のインドネシア、マレーシアで政治の腐敗や環境破壊を告発、農村・漁村の民衆を支援するなかで、DIY精神から復活を遂げた木版画と、交通や通信手段の発達によるグローバル化以前から、異なる社会に生きながら問題を共有する人たちをつないできた、単なる文化交流を超えた共感のネットワークを提示する。

◆◆魯迅とケーテ・コルヴィッツ

(長春だより)

2014/10/15 

ケーテ・コルヴィッツ(18671945)の版画「織工の行進」(1893-98)の複製を研究室の壁に貼っている。すると先日、中国の学生から魯迅の本を通じて知っていると言われ、少しびっくりした。

確かに魯迅は、1936年に『凱綏珂勒惠支(ケーテ・コルヴィッツ)版画選集』を自ら編集し、上海の三閒書屋から出版している。この画集は日本にも送られており、宮本百合子が敗戦直後に書いた文章「ケーテ・コルヴィッツの画業」の中で紹介している(『真実に生きた女たち』創生社、1946年)。また日中戦争勃発前夜の当時、版画家・上野誠は中国人留学生劉峴の勧めで、東京・神田の内山書店でこの画集を買って傾倒し、以後の版画制作に決定的な影響を受けたという。上野はその時の思い出を次のように記す。

「平塚運一先生の紹介で会った劉峴は、文豪魯迅の序文付の自作版画集を私にくれた。魯迅に推薦される人物なら意おのずから通じるだろうと、先の作品の余白に日本帝国主義戦争絶対反対と書いて渡すと、真意たちどころに通じ硬い握手となった。この劉君が神田一ツ橋の内山書店へ行ってケーテ・コルイッツの画集を買うように勧めてくれた。これは魯迅編集で今は貴重な初版本として愛蔵している。盧溝橋事件が勃発すると、急ぎ帰国するからと挨拶に来た劉君に、何点かの作品を進呈したら、上海で発表すると約束してくれた。この人は立派な版画家になり今も健在である。コルイッツの画業に導かれた劉君との出会い。若き日のこの思い出は、いつも私を初心に帰らせてくれる。」(『上野誠版画集』日本平和委員会、1975年。「ひとミュージアム上野誠版画館」HPの「版画館通信」より重引 http://hito-art.jp/NIKKI-4-6-21.htm )。

このとき、劉峴に託して上海で発表してくれるよう頼んだ上野の版画作品は、日本の中国侵略を告発するものだったという。上野は次のように回想する。

「その頃、いわゆる満州国に駐屯する日本軍は匪賊討伐に名を借り、中国人や在満朝鮮人の抵抗運動に惨虐な弾圧を加えていた。ある時、郷里で一人の帰還兵から弾圧の記録写真を見せられ息を呑んでしまった。たとえば捕らえた人々を縛り上げて並ばせ、その前で一人ずつ首を切る。今や下士官らしきが大上段に振りかざした日本刀の下に、首さしのべ蹲る一人、とらわれびとらの戦慄にゆがんだ顔、諦めきった静かな顔、反対側の日本人将兵はいかにも統制された表情で哂っている者さえいる。屠殺場さながらなのもあった。切り落とした生首が並べられ、女の首まであった。戦利品の青龍刀・槍・銃などが置かれて将校兵士らが立ち、戦勝気取りだが国際法を無視したこのおごり、逸脱退廃、自ら暴露して恥じない力の過信憤激したわたしは、背景に烏を飛び交わせ暗雲を配し、叉銃の剣先に中国人の首を刺し、傍らには面相卑しく肩いからせた将校を立たせた版画を作り、ひそかに持っていた」(同上)。

北京魯迅博物館の黄喬生氏によれば、ケーテ・コルヴィッツの作品が魯迅によってはじめて中国で紹介されたのは1931年のこと。この年の2月、中国左翼作家聯盟(左聯)の五名が国民党政府に殺害される事件が起きた際、魯迅は上海のドイツ書店からケーテの版画作品「犠牲」を買い、左聯の機関誌『北斗』に転載して五名を追悼したのである。黄氏によれば、魯迅が購入したケーテ・コルヴィッツの版画は全部で16幅、そのほとんどはケーテのサインのある原版で、20099月にベルリンのケーテ・コルヴィッツ美術館長が魯迅博物館に来訪した際それを鑑定し、ケーテが信任していたドレスデンの印刷社の手によるものだと判明したという(文化中国、http://culture.china.com.cn/zhanlan/2010-03/28/content_19699625.htm )。

ケーテ・コルヴィッツと魯迅との間の橋渡しをしたのはアグネス・スメドレーらしい。彼女は1919年からベルリンに八年住んでいたが、その間1925年にケーテ・コルヴィッツと知り合い、29年に中国に来て上海に居住し、中国の左翼運動に深く入ってゆく。彼女を通じて魯迅はケーテの作品に出会ったと想像される。

現在、アジアでケーテ・コルヴィッツの作品を最も多く所蔵しているのが、沖縄の佐喜眞美術館だ。1931年に魯迅が紹介したケーテの版画「犠牲」も佐喜眞美術館にある。20119月、北京の魯迅博物館で、魯迅生誕130周年記念として、佐喜眞美術館所蔵の版画・彫刻など58点を展示する展覧会が開催された。北京魯迅博物館長の孫郁氏は、ケーテの作品をドイツからではなくあえて沖縄から借り受ける理由として、「沖縄は東アジアの近現代史を考える上で重要な場所」だとし、支配者が描く歴史ではなく、常に犠牲を強いられる弱者の怒りと悲しみの記憶、そして未来を信じて立ち上がろうとする精神が沖縄にあるからだ、と語った。(琉球新報、201038日 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-158856-storytopic-64.html )。孫館長はまた、「魯迅は国家権力の立場ではなく、民衆の視点で表現活動をしていた。佐喜眞美術館にも、国家の歴史記述とは違う民衆の声、表現の声がある。ケーテの出身地ドイツではなく、沖縄から作品を借りることは、東アジアの歴史的記憶を掘り起こし、沖縄・日本・中国の関係性を新しい視点で見直すきっかけになる」とも述べた(同上紙、201037日 http://ryukyushimpo.jp/variety/storyid-158816-storytopic-6.html )。

ケーテ・コルヴィッツがつなぐ中国と日本そして沖縄。彼女が作品の中に込めた平和への熱意が、東アジアに近年張りつめている固い氷を融かすのに役立つことを心から願う。

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🔵宮本百合子=ケーテ・コルヴィッツの画業

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(青空文庫)

宮本百合子

 ここに一枚のスケッチがある。のどもとのつまった貧しい服装をした中年の女がドアの前に佇み、永年の力仕事で節の大きく高くなった手で、そのドアをノックしている。貧しさの中でも慎しみぶかく小ざっぱりとかき上げられて、かたく巻きつけられている髪。うつむいている顔は、やっと決心して来た医者のドアの前で、自分の静かに重いノックにこたえられる内からの声に耳を傾けているばかりでなく、その横顔全体に何と深い生活の愁いが漲っていることだろう。彼女は妊娠している。うつむきながら、決心と期待と不安とをこめて一つ二つと左手でノックする。右の手は、重い腹をすべって垂れ下っている粗いスカートを掴むように握っている。

「医者のもとで」という題のこのスケッチには不思議に心に迫る力がこもっている。名もない、一人の貧しい、身重の女が全身から滲み出しているものは、生活に苦しんでいる人間の無限の訴えと、その苦悩の偽りなさと、そのような苦しみは軽蔑することが不可能であるという強い感銘とである。そしてさらに感じることは、ケーテ・コルヴィッツはここにたった一人の、医者のドアをノックする女を描きだしているだけではないということである。ケーテはモデルへつきない同感を、リアリスティックなつよい線と明暗とで、しっかり感傷なく描き出して、忘れ難い人生の場面は到るところに在るということを示しているのである。

 世界の美術史には、これまでに何人かの傑

すぐれた婦人画家たちの名が記されている。ローザ・ボヌールの「馬市」の絵だの、「出あい」という作品を残して二十四歳の生涯を終ったマリア・バシュキルツェフ。灰色と薄桃色と黒との諧調で独特に粋な感覚の世界をつくったマリー・ローランサン。しかし、ケーテ・コルヴィッツの存在はドイツの誇りであるばかりでなく、その生涯と労作とは、決してただ画才の豊かであった一人の婦人画家としての物語に尽しきれない。ケーテは何かの意味で、絵画という芸術の船を人生と歴史の大海へ漕ぎすすめた女流選手の一人なのである。

 ケーテは一八六七年(慶応三年)七月八日、東部プロイセンのケーニヒスベルクに生れた。父をカール・シュミット、母をケーテ・ループといい、娘ケーテの生れた時代のシュミット一家は、ケーニヒスベルクの左官屋の親方として、なかなか大規模の生活を営んでいた。

 父親のカール・シュミットという人は、ありふれた左官屋の親方ではなかった。若い時代に大変苦心して大学教育をうけ、判事試補にまでなったのだが、当時ビスマークを首相として人民を圧迫していたウィルヘルム二世の官吏として人民に対することは、自分の良心にそむくことを知って、職をすて、改めて左官屋の仕事を学んだ。左官屋といっても、ドイツではただ壁をぬるばかりが仕事ではなくて、煉瓦を積んで家を建てる仕事や、その家々の装飾の浮彫石膏細工をつくるという風な美術的技量のいることも、やはり左官の職分にこめていたものらしく思われる。

 カールのそのようなはっきり良心にしたがって生きる人柄と人生に対する態度とは、誰でも真似られるという種類のものでなかった。このカールの生き方は、妻であったケーテの家の伝統とも深い精神上のつながりを持ったものであった。ケーテの父はユリウス・ループといって、ドイツにおける最初の自由宗教の牧師であった。知られているとおり、ウィルヘルム二世はビスマークの扶けをもって、正義と皇帝の絶対権とを結びつけて人民にのぞんだが、十九世紀前半のその頃の欧州は近代社会の経済事情の飛躍とともにウィルヘルム、ビスマークのその政治につよく反対していた。文学においては、ドイツのハイネ、ロシアのツルゲーネフなどが新時代の黎明を語った時代で、一般の人々の自主独立的な生活への要望はきわめて高まっていた。ウィルヘルム二世は一八四七年、国内に信仰の自由を許す法律を公布した。ところが、僅か二年ばかりで一時的なその寛大な方法は急に反対の方向に働き出し、一八四九年からケーニヒスベルクの町だけでも何百回となく集会が禁止され、教会や学校が閉鎖され、国外へ追放される人たちが生じた。

 自由宗教の牧師であったユリウス・ループが、この信頼できない権力のためにこうむった災難は、おびただしいものであった。このような閲歴をもつユリウスの娘ケーテが良人として選んだカール・シュミットが、宗教の上で同じ自由宗教の見解をもつ青年であったことはむしろ当然であったし、その人柄が鋭敏な良心に貫かれている人であったこともうなずける。精神の活動力のさかんな祖父と両親とに祝福されてケーテの誕生はもたらされたわけである。

 ケーニヒスベルクの町を流れるプレーゲル河に沿う広い家で、幼い娘ケーテは兄と一緒に育った。重く荷を積んで、暗い煉瓦船が河を辷って行く。ケーテの幼い心に印象づけられた最初のリズミカルな生活の姿はその船の情景であった。屋敷のなかの二つの空地の間に建物があって、そこが石膏の型をこしらえる仕事場になっていた。型からぬきとられてその中に置かれているさまざまの石膏の像は、いつもシュミットの小さな兄妹の好奇心と空想とを刺戟した。

 お母さんのケーテがまた絵心をもっていた。子供たちによく古今の大家の絵を模写してやった。そのような環境の間で十四歳になったとき、ケーテに、初めて石膏について素描することを教えたのが、ほかならぬシュミットの仕事場に働いていた一人の物わかりのいい銅版職人であったという事実は、私たちに深い感興を与える。ちょっとみれば何でもないようなこの一つの事実がもっている意味は豊富であると思う。その銅版職人の聰明さや、少女の才能を発見した洞察の正しさが、そこに語られているばかりでない。親方シュミットの家庭の日常の空気が、職人たちをもちゃんとした独立市民として、礼儀と尊敬とをもって待遇する習慣であったことを物語っている。親方とその子供らと、働いている人々の間に間違った身分の差別が存在しなかった。従って小さい息子や娘ケーテの心の成長は、幼年時代から額に汗して勤労する人々とともに過ごされたことを示している。後年ケーテが正直な働く人々の生活の最も忠実な描き手となったことは、偶然ではなかったのである。

 その職人が、引つづいてケーテに銅版画をつくる技術の手ほどきもした。しかし間もなくケーテがその職人から教わることは種切れとなった。父シュミットは十七歳の娘をベルリンまで絵の勉強に旅立たせた。ベルリンには兄息子が勉強に出ていたのであった。

 ケーテがベルリンで師事した教師はシャウフェルというスイス人で、この人はケーテの才能を愛し、教師として与え得る限りのものを与えた。若い婦人画学生としてケーテは実に熱心で、生きているモデルを描くことに長足の進歩を示した。シャウフェルは、リアリストとしてケーテの生涯のために重要な基礎を与えた教師の一人であったと考えられる。

 生きたモデルについて熱心な研究を続ける一方、若いケーテがこのベルリン時代にドイツのシムボリズムの画家として、その構想の奇抜なことや、色感が特別ロマンティックな点などで人々の注目をひいていたクリンガーの影響をも強く受けたことは注目される。ケーテのある作品をシャウフェルがクリンガーの絵のようだといって感歎したということを伝記者がつたえている。おそらくそれは、クリンガーの作品にある人間の気高い感情を現わそうとする傾向ににている点をさしたのであろう。

 クリンガー(一八五七―一九二〇)の芸術に畏敬と愛を感じながらも、その一つ一つを模写することは自分の真の成長にとって危険なことだと直感していたことは、ケーテの画家としての本質的な健康さであったと思う。

 やがて予定の伯林ベルリン滞在の期限がすんで、ケーテ・シュミットは故郷のケーニヒスベルクへかえってきた。シャウフェルは、父親に、ケーテが完成するまで自分の画塾に止るようにすすめたが、それが実現しないうちに、シャウフェル自身がイタリーのフローレンス市へ去らなければならないことになった。

「彼の辛い人間としての運命の道を終るべく」フローレンスに去ったといわれている。

 ケーテは、ケーニヒスベルクの生れた家で肖像だの河港に働く労働者の姿だのを描きはじめた。今まで鉛筆でだけ描いていたケーテは、筆を使いはじめたが、そのときの教師はエミール・ナイデという故郷の町の芝居がかりの田舎画家であった。

 そういうあぶなっかしい教師しか町では見出し得ない事に困惑した父親が娘の願をきいて、今度はミュンヘン市に修業にやった。このことは、ケーテの芸術に大きい意味をもたらした。当時のミュンヘン市は、ドイツのどの都市よりも芸術に対して開放的で、進歩を愛する空気をもっていた。その時分すでにミュンヘン市の美術界は、フランス印象派の影響が支配的になっていた。ミュンヘンで催された国際美術展をみて、ケーテはドイツの従来の絵画が現代生活をとり入れることと、新鮮な色彩感を導き入れるという点では、はるかに他国の画家よりおくれていることを痛感した。ケーテが若い美術家たちと「コムポニール倶楽部」をこしらえたのもこのミュンヘン修学時代であるし、自分の芸術的表現はスケッチや銅版画に最もよく発揮されることを自覚して、塗ること、即ち油絵具の美しく派手な効果を狙うことは、自分の本来の領域でないという確信を得たのも同じ時代のことである。

 一八九〇年、再び故郷にかえって来た二十三歳のケーテは、一つのアトリエをもち、若い婦人画家には珍らしい黒と白との世界に、ケーニヒスベルクの貧しい人々や港の人々の生活を再現しはじめた。これらの人々の生活は、小さい時分からケーテの身近なものであったと同時に、その虚飾のない生活にあらわれる刻々の生活の姿は、ケーテの創作慾が誘われずにはいない力をもっていた。ケーテは後年、次のようにいっている。「港に働く婦人たちは、社交上の因習のためにあらゆる言動を狭ばめられている上流の貴婦人たちよりも、その姿、その本質をより多く私に示してくれました。彼女たちは、その手を、その脚を、その髪を見せてくれます。着物をとおして肉体をみせてくれます。そして感情の表現も遙かに率直です」と。

 兄の友人であったドクトル・カール・コルヴィッツとケーテが結婚したのは一八九一年であった。良人とともにベルリンに移ったケーテは、それからはずっと労働者街のあるノルデンに住むようになった。カール・コルヴィッツというドクトルはつつましい生活をする勤労者のためにノルデンにあった月賦診療所に働くことを、科学者としての使命と考えていた人で、真に労働者の医者であろうとした人であった。

 父シュミットは、ケーテの幼い時からその才能を認め、画家として成長するためにはすべての助力を惜しまずに来た。けれど、いよいよこの期待すべき娘が、若い医師コルヴィッツと結婚するときまったとき、ひとつの忠言を与えた。それは妻となり母となるためには絵を捨てよ、という言葉であった。ケーテはその父の忠言に対して何と答えたのであったろうか。それは伝えられていない。けれども、その時ケーテの心には日頃「才能というものは一つの義務である」という叡智のこもったいいあらわし方で、くりかえし語っていたお祖父さんユリウス・ループの言葉が、最も親切な力として甦って来たのではなかったろうか。「才能というものは一つの義務である」。才能というものが与えられてあるならば、それは自分のものであって、しかも私のものではない。それを発展させ、開花させ人類のよろこびのために負うている一つの義務として、個人の才能を理解したループ祖父さんの雄勁な気魄は、その言葉でケーテを旧来の家庭婦人としての習俗の圧力から護ったばかりでなく、気力そのものとして孫娘につたえた。多難で煩雑な女の生活の現実の間で、祖父の箴言は常にケーテの勇気の源泉となったように思える。

 事実、ケーテ・シュミットはケーテ・コルヴィッツとなっても画業は決して棄てなかった。それどころか、良人カールの良心に従った生活態度とその仕事ぶりとは、婦人画家としてケーテの見聞をひろく深くし、人間生活への理解を大きくした。そしてその素質に一層よいものを加えたことが窺うかがえる。ケーテの天性にそなわっていた思いやり、洞察、誠意は、良人カールの月賦診療所をめぐって展開される赤裸々な社会生活の絵図と、おびただしい肉体と精神とに負わされている階級社会の重荷とを、苦しみにゆがんでいる顔の一つ一つの皺に目撃することとなったのであった。

 少女時代から育って来た環境から、自然ケーテにとって親密なモデルであった勤労する人々の生活が、真に社会的な意味で理解されはじめたのも、おそらくはカールと結婚した後の成長の結果ではなかったろうか。結婚後六年目の一八九七年にケーテの初めての版画集「織匠」ができ上った。結婚したら絵を止めるようにと忠告したケーニヒスベルクの父シュミットのところへ、ケーテはその画を見せに行った。父シュミットは、折から庭に出ていた妻を呼びながら「御覧! ケーテの描いたものを! ケーテの描いたものを御覧!」と悦んで家を駆けまわった。その姿をケーテ自身ふかい感動をもって語っている。

 最も早くからケーテの才能を認めて、そのために一部の者からは脳軟化症だなどと悪罵された批評家エリアスは、心をこめて、この連作が「確りしたつよい健康な手で、怖ろしい真実をもぎとって来たような像である」ことを慶賀した。

 展覧会の委員は満場一致で、このハウプトマンの「織匠」を題材としたケーテの作品に銀牌をおくることを決議した。が、圧制者であるウィルヘルム二世は、労働者である織匠たちの生活の辛苦と、そこから解放を求めた闘いを題材とするこの全く新しい版画集に、賞を与える決議を却下した。

 一九〇八年に発表した版画の連作「農民戦争」で、ケーテ・コルヴィッツは「ヴィラ・ロマナ賞」を獲得した。一年間フローレンスのヴィラ・ロマナに無料で滞在することのできる賞であった。この連作の題材は、ドイツの農民が、動物のような扱いをうける生活に耐えかねて十六世紀に各地で叛乱をおこし多くの犠牲を出した、その悲劇からとられた。

 このルネッサンス時代の芸術の古都フローレンスの逗留が、四十三歳であったケーテにどのような芸術上の収穫を与えただろうか。一九一〇年にこの旅行から帰ってから、第一次欧州大戦のはじまる迄の四年ばかり、ケーテは全く沈黙した。

 六枚つづきの版画「織匠」は、ケーテ・コルヴィッツの代表的な大作であるばかりでなく、彼女の複雑な資質をそのすみずみまで示している作品として、歴史的な価値をもっている。

 ケーテが、ベルリンの自由劇場に上演されたハウプトマンの「織匠」を観たのは一八九三年(明治二十六年)二月のことであった。当時ドイツは、近代資本主義の国家として生産上の立おくれを急速にとり返そうとする貪慾な資本家、地主に対して、労働者の組織とその運動とが全国にひろまり、ビスマークのきめた「社会主義者弾圧法」もついに一八九〇年で惨酷な権威を失わなければならなくなっていた。マルクスの共産党宣言は一八四八年につくられていたし、ベーベルは「婦人論」を一八七九年に書いていた。ハウプトマンの「織匠」はドイツのシレジアにおいて、国家、資本家、地主と三重の重荷を負わされている「織匠」が耐えかねて反抗した、その事実を主題としたものであった。社会が自由と解放を求める高揚した雰囲気の中で、良人カールとともに、朝から夜まで勤労しながら、ぬけきれない不幸に置かれている多数の人々が、生きるためにどう闘っているかということを目撃しているケーテ、そして、その感情をともに感情としているケーテにとって、「織匠」は震撼する感銘を与えたと思われる。

 版画集「織匠」ができ上ったのはその芝居を観てから四年たった一八九七年である。ケーテはその間にベルリン郊外に住んでいたハウプトマンにも一度会いに行ったりしている。「織匠」の作者ハウプトマンがケーテからうけた印象は、露のあるバラの花のように新鮮な若い女性であるということと、非常につつましく自分の芸術については一言も語らず、しかもどこかに人の注意をひくものをもっている婦人であった、といわれている。

「織匠」を観て深く刻まれた感動を、ケーテが四年の間じっと持ち続けて、ついに作品にまとめたということは、ケーテという婦人画家の天質の一つの特質を語るものではないだろうか。モティーフを、自身の感情の奥深くまで沈潜させ、すっかりわがものとしきらなければ作品として生み出さない画家、決してただ与えられた刺戟に素早く反応して自分の空想に亢奮したままに作画してゆくような素質の芸術家ではなかったこと、これはケーテにとって最も貴重な特質の一つである重厚さであった。

 六枚つづきの「織匠」の後半、とくに第三枚目「相談」は、おどろくべき力でそこにいる四人の男たちの全生活の本質とその精神と肉体とが示している歴史的な立場を描き出している。灯の下に集められた一つ一つの顔、大きいその肩、がんじょうなその手を、画家は、情景の核心にふれて、内部から描いている。明暗の技術も大胆で巧妙で、ケーテのリアリストとしての技術の高い峯が示されているのである。

 興味あることは、この「織匠」にも、強靭なリアリズムの手法と並んで、クリンガーの影響と言われたケーテのシムボリズムがところどころに現れていることである。死の象徴として骸骨が「織匠」第二枚目にあらわれているばかりでなく、「死と女」その他後期の画面にも使われている。

 ロシアでは有名な血の日曜日の行われた一九〇五年に、ケーテの描いた「鍬を牽く人」などの扱い方もシムボリックなところがあってどこかムンクを思わせる。そして、このケーテの内部に交流しているシムボリックな傾向が婦人画家としての彼女に、フライリヒラアツの詩やハウプトマンなどの文学作品から、モティーフを刺戟された題材の版画集を創造させた。しかも芸術作品として彼女のそれらの製作を傑出させているのは、ケーテの確かで深い現実観察からもたらされた写実的な手法である事実は、私たちに多く考えさせるものを持っている。ケーテが民衆の生活を描く画家として属していた歴史の世代が、ドイツにおける社会民主党の擡頭期とその急速な分裂の時代であったことはケーテの芸術のこの特徴と関係が深い。

 ケーテが日常生活から題材をとって描き出しているスケッチには、感動させずにおかない真実がこもっている。ある場合にはむしろ連作版画よりも、もっとみなに愛され高く評価されている意味もわかる。

 貧困、失業、働く妻、母子などの生活のさまざまな瞬間をとらえて描いているケーテの作品を一枚一枚と見てゆくと、この婦人画家がどんなに自分を偽ることができない心をもっていたかを痛感する。何か感動させる光景に出会った時、または心をとらえる人の表情に目がとまった時、ケーテはヨーロッパの婦人にありがちな仰々しい感歎の声ひとつ発せず、自分のすべての感覚を開放し、そこに在る人間の情緒の奔流と、その流れを物語っている肉体の強い表情とを感じとり受け入れたにちがいない。さもなくて、どうして「音楽に聴き入る囚人たち」のこのような内心のむき出されている恍惚の顔つき肩つき、「歎願者」の老婆の、あの哀訴にみちた瞳の光りが描けたろう。

 ケーテのスケッチに充ちている偽りなさと生活の香の色の濃厚さは、私たちにゴーリキイの「幼年時代」「私の大学」「どん底」などの作品にある光と陰との興味つきない錯綜を思いおこさせる。また魯迅が中国の民衆生活に対して抱いた深い愛と洞察と期待とに共通なもののあることをも感じさせる。そして、これらの誠実な芸術家たちが、ゴーリキイはケーテより一つ年下であり、魯迅は十四歳若く、ほぼ共通な文化の世代を経て生き、たたかい、世界芸術の宝となっていることも注目される。

 魯迅は一九三五年ごろに、中国の新しい文化の発展のために多大の貢献をした一つの仕事として、ケーテ・コルヴィッツの作品集を刊行した。その中国版のケーテの作品集には、ケーテの国際的な女友達の一人であるアグネス・スメドレイの序文がつけられた。スメドレイは進みゆく中国の真の友である。そしてアグネス・スメドレイの自伝風な小説「女一人大地を行く」の中に描かれているアメリカの庶民階級の娘としての少女時代、若い女性として独立してゆく苦闘の過去こそ、それの背景となった社会がアメリカであるとドイツであるとの違いにかかわらず、ケーテの描く勤労する女性の生活のまともな道と一つのものであることも肯ける。私たちにとってさらに今日感銘深いのは日本において、スメドレイの「女一人大地を行く」を初めて日本語に翻訳して、日本の婦人に一つのゆたかな力をおくりものとしてくれた人が、ほかならぬ尾崎秀実氏であったことである。

 一九一四年に第一次欧州大戦が始まった。ケーテはその秋、次男を戦線で失った。この大戦の期間から、それにひきつづくドイツの人々の極度に困窮した不幸になった時代、フローレンス旅行以来しばらく沈黙していたケーテの創作は再び開始された。もう六十歳に近づいて、妻として母として重ねたかずかずの悲喜の経験とますます暗い雲に光を遮られた時代に生きる人々への情熱とで、ケーテは「戦争」(一九二〇―二三)「勤労する人々」(一九二五)を創った。五十七歳の時のケーテの自画像には、しずかな老婦人の顔立のうちに、刻苦堅忍の表情と憐憫の表情と、何かを待ちかねているような思いが湛えられている。

 晩年のケーテの作品のあるものには、シムボリックな手法がよみがえっている。が、そこには初期の作品に見られたようなややありふれた観念の象徴はなくて、同じ底深い画面の黒さにしろ、ケーテはその暗さの中に声なき声、目ざまされるべき明るさの大きさ、集団の質量の重さを感得している。

 一九二七年にケーテ・コルヴィッツの六十歳の祝賀が盛大に行われた。彼女の版画はその材料として都会のどぶ板に使う石版を使うからといってウィルヘルム二世から「どぶ石芸術の画家」といわれたケーテは、今やドイツの誇りとして、あらゆる方面からのぎょうぎょうしい新たな称賛と敬意とを表された。

 同時に、ケーテの芸術が真に勤労者生活を描いているからこそ生じている社会的な迫力を、ぼんやりとただ愛という宗教的なものとして解釈しようとする批評家も一部にあらわれた。穏かな言葉ではあるが、ケーテは自身でそういう評価を拒んでいる。

 一九二九年の世界大恐慌から後一九三三年ナチス独裁が樹立するころ、ケーテの生活はどんなふうであったのだろう。シュペングラーが「婦人は同僚でもなければ愛人でもなく、ただ母たるのみ」という標語を示した時、母たるドイツの勤労女性の生活苦闘の衷心からの描き手であったケーテ・コルヴィッツは、どんな心持で、この侵略軍人生産者としてだけ母性を認めたシュペングラーの号令をきいただろうか。その頃から日本権力も侵略戦争を進行させていてナチス崇拝に陥った。ケーテの声は私たちに届かない。

 ケーテには記念碑的な作品がないといわれている。ローザ・ボヌールにおける「馬市」のような作品がないという限りで、それは当っているのかもしれない。けれども、あらゆる世代が人間生活の進歩についてまじめに思いをめぐらしたとき、その一歩のために「才能は一つの義務である」ことをその画筆で示したケーテ・コルヴィッツを忘却することは不可能である。芸術家としてのそのような存在が記念碑的でなかったといい得る者はないはずである。

〔一九四一年三月。一九四六年六月補〕

 追記

 一九五〇年二月、新海覚雄氏によって、「ケーテ・コルヴィッツ――その時代、人、芸術」という本があらわされた。

 一九三三年、ナチスが政権をとってから第二次大戦を通じて、ケーテはどうしていただろうというわたしたちの知りたい点が、新海氏によって語られている。それによると、ケーテ・コルヴィッツは一九三五年、ナチスへの入党をこばんだために、ヒトラー政府から画家として制作することを禁じられた。当時ケーテは六十八歳になっていた。彼女から制作と生活とを奪ったナチス・ドイツが無条件降伏したのは一九四五年五月であり、ケーテは、人類史が記念するこのナチス崩壊の日を目撃してから二ヵ月めの一九四五年七月に、ドレスデンで七十八歳の生涯を終った。

 ナチスの迫害のうちにすごした晩年の十年間が、ケーテにとってどのような時々刻々であったかということは、およそ想像される。それでも彼女はくずおれず、しっかりと目をあいて恐ろしい老齢の期節をほこりたかく生きとおした。ナチスの降服した年の五月、ケーテは、どんな思いにもえて、ドレスデンの新緑を眺めただろう。

 ケーテ・コルヴィッツの死がつたえられるとニューヨークのセント・エチェンヌ画廊で、ケーテの追悼展覧会が開かれた。そこでケーテの未発表の木版画(一九三四―三五年のもの)や「五十七歳の自画像」(一九三四年作)旧作「机の上にねむる」などが陳列された。ケーテ・コルヴィッツの画業が、ナチスのものでありえなかったということは、とりもなおさず、彼女の生涯と芸術が戦争に反対し、人民の窮乏に反対する世界のすべての人々の宝であることを証明したのであった。

 新海氏の伝記の冒頭に晩年のケーテ・コルヴィッツの写真がのせられている。レムブラントの晩年の自画像や老年のゴヤの自画像などは、それぞれの人間像としてわたしたちにつよい感銘を与えるものである。しかし、ケーテのこの写真は、前の二つのどの自画像ともちがっている。暗い帝国主義の歴史が生活の重量となってずっしりと彼女をとりまき、のしかかっているまんなかにいて前方を見ながらテーブルの上に腕をくんでいるケーテの白髪の顔の上には、底知れないねばりと、失われることのない落ついたほこりがただよっている。

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投稿者:

Daisuki Kempou

憲法や労働者のたたかいを動画などで紹介するブログです 日本国憲法第97条には「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれています。この思想にもとづき、労働者のたたかいの歴史、憲法などを追っかけていきます。ちなみに憲法の「努力」は英語でストラグルstruggle「たたかい」です。 TVドラマ「ダンダリン・労働基準監督」(のなかで段田凛が「会社がイヤなら我慢するか会社を辞めるか2つの選択肢しかないとおっしゃる方もいます。でも本当は3つ目の選択肢があるんです。言うべきことを言い、自分たちの会社を自分たちの手で良いものに変えていくという選択肢です」とのべています。人にとって「たたかうこと」=「仲間と一緒に行動すること」はどういうことなのか紹介動画とあわせて考えていきたいと思います。 私は、映画やテレビのドラマやドキュメントなど映像がもっている力の大きさを痛感している者の一人です。インターネットで提供されてい良質の動画をぜひ整理して紹介したいと考えてこのブログをはじめました。文書や資料は、動画の解説、付属として置いているものです。  カットのマンガと違い、余命わずかなじいさんです。安倍政権の憲法を変えるたくらみが止まるまではとても死にきれません。 憲法とたたかいのblogの総目次は上記のリンクをクリックして下さい

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