◆◆山本薩夫監督の映画の世界
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【このページの目次】
◆山本薩夫と映画のリンク集
◆山本薩夫監督の生涯
◆東宝争議とは
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🔵山本薩夫リンク集
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★★山本薩夫監督の生涯 50m
https://m.youtube.com/watch?v=fihAriYiRv4
★★【映画】薩チャン 正ちゃん 戦後民主的独立プロ奮戦記94m
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★予告編10m
【解説】
1950年代から60年代にかけ、業界を独占していた大手映画会社から独立した監督たちが、自分たちのプロダクションを作って数々の名作を世に送り出した。そんな時代を代表する監督・山本薩夫と今井正を中心に、当時を知る関係者の貴重なインタビューや彼らの代表作のシーンを織り交ぜ、“独立プロの黄金期“を描き出す渾身のドキュメンタリー。
ストーリー
経営側と組合が激しく対立して進駐米軍まで介入した“東宝争議“や“レッドパージ“と呼ばれた共産党員弾圧によって、東宝から追われることになった山本薩夫や今井正ら映画監督たち。彼らは独立プロを立ち上げ、質の高い硬派な社会派映画で大手会社に対抗する。
2015年8月29日(土)公開 / 上映時間:94分 / 製作:2015年(日本) / 配給:新日本映画社
◆薩チャン 正ちゃん 戦後民主的独立プロ奮戦記
(赤旗日曜版15.08.23)
【赤旗15.08.28】
【赤旗15.09.01】
【「薩チャン正ちゃん」二人の巨匠特集に寄せて】
(赤旗16.07.22)
◆1503薩ちゃん正ちゃん=戦後民主的独立プロ奮闘記.pdf
◆9308前衛・山田=山本薩夫に学ぶ.pdf
◆031020民青・山田=山本薩夫監督の魅力.pdf
◆山本薩夫監督作品一覧あらすじ(ムービーウォーカーより)
http://movie.walkerplus.com/person/81729/^
★映画=母の曲 (1937年) – 山本薩夫 91m
https://m.youtube.com/watch?v=wArYMeP8RYE
★★映画=暴力の街(1950)暴力団とたたかう地方新聞と市民たち(東宝争議後の独立プロ第1作)
★映画=箱根風雲録(農民たちが用水路つくるたたかい。最後の3m切れ=用水路完成場面)
🔵映画=真空地帯(山本監督)
https://drive.google.com/file/d/1-szkdJUAUhEFsOzwT5csj7WpxhcInign/view?usp=drivesdk
★映画=荷車の歌
★★映画=白い巨塔(山崎豊子原作・山本薩夫監督・田宮二郎主演).150m
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★★映画=華麗なる一族(山崎豊子原作、山本薩夫監督)220m
❶https://drive.google.com/open?id=1b0pmmUn9yr5tPW1923NrqDgIGTjHQXxe
❷https://drive.google.com/open?id=1IPPI7VU5P9se6GjSl0V2jERZ306naZnt
★★TVドラマ・華麗なる一族(木村拓哉主演)
dailymotionで検索のこと=全話あり
例えばhttp://www.dailymotion.com/pc771haruna71
★★映画=金環食 1975年(石川達三原作)130m
https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5QU1LdUJVWlc5MVU
ダム建設をめぐるゼネコンの支配政党への裏献金をめぐる政界の汚職の見事なまでのもみ消し描く。
【今日の政治構図が浮かぶ映画】
(日刊ゲンダイ17.06.22)
★★映画=忍びの者1962
★★映画=続忍びの者1963
(Youkuをスマホで見る場合、画面下のAPPクリックのこと。YoukuをPCで見る場合、Chromを使用して下さい。Firefoxの場合、アドオンにunblock youkuをインストのこと)
★田園交響樂(1937年)– 山本薩夫 / 85m
https://m.youtube.com/watch?v=llwQ7pxiLn4
★母の曲(1937年)– 山本薩夫 /90m
https://m.youtube.com/watch?v=mznjZFYbIoI
★★映画=「松川事件」
★★映画=ニッポン泥棒物語145m
山本薩夫監督・三國連太郎主演。松川事件にまきこまれたある泥棒の物語。
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★山本薩夫 真空地帯 1952 127m
(日刊ゲンダイ16.08.11)
★浮草日記(1955)110m
https://m.youtube.com/watch?v=Ey2F3h8_5Vs
★台風騒動記(1956年)110m
https://m.youtube.com/watch?v=uxW2lUI5Pac
★★石川達三原作、山本薩夫監督・映画「人間の壁」150m150m(1959)
❶http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kameari621&prgid=54984334
❷http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=kameari621&prgid=54984365
【あらすじ=ムービーウォーカー】
S県津田山市。活気のない炭鉱と貧しい漁場の間を街なみが走り、山の麓に小学校があった。新学年が始った。ふみ子は五年三組の担任に決った。夫の健一郎はS県教組の執行委員である。出世主義者で、家庭では横暴だった。数日後、ふみ子は同僚の須藤とともに校長に呼ばれ、退職を勧告された。共稼ぎを理由にして。退職勧告は全国的な規模で行われS県では二六〇人の教師に出された。県当局は、教師の整理で赤字財政を解決しようとしたのだ。国会には教育委員の官選化をめざす法案が提出されていた。--ふみ子と須藤の退職勧告は、組合を通じて正式に拒否された。健一郎は役員改選が迫ると、委員長に立候補した。家を飛び出し、選挙運動に狂奔した。しかし、ふみ子には子供たちがいた。--豪雨が襲った。その雨の朝、教え子の吉男が貨車にひかれて死んだ。普通より三円安いノートを買うために遠い踏切りを渡って行く途中の事故だった。--夏休みの間に、ふみ子は正式に離婚した。選挙に落選した健一郎は東京へ行き、今は立場を変え反動的な論陣をはっていた。ふみ子は、少しずつ組合の仕事に力を注ぎ始めた。最近妻を亡くした沢田先生の級で事故が起きた。小児マヒで足の不自由な内村という子を、同級の与田ら三人がからかったのだ。沢田はこれを見て思わず三人を突きとばした。与田の父親は市の消防団長だった。追従する父兄たちが騒ぎ出した。背後には市のボスたちがいた。沢田は辞職を要求された。組合の力は無力だった。そして、追討ちをかけるように、須藤に四回目の退職勧告が出された。沢田が退職届を出した夜、ふみ子は彼のもとを訪れた。海辺を歩きながら、沢田は言葉少なく自分の考えを語った。ふみ子はその声を聞きながら幸福を感じた。翌朝、須藤から辞表を出すことを書き記した手紙が来た。ふみ子は立ち上った。「わたしは今月から、須藤先生の退職勧告をやめさせるために働きます」と宣言した。ふみ子は校長に会うために廊下へ出た。女の先生が皆立ち上った。ふみ子を先頭に彼女たちは歩いて行った。ふみ子は、強く校長室の扉を叩いた。
★★太陽のない街150m
❶http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=53776548
❷http://m.pandora.tv/?c=view&ch_userid=keiko6216&prgid=53776584
★★映画=武器なき闘い・山本宣治
大東映画1960年作品。監督・山本薩夫。原作・西口克己136m
★★映画=皇帝のいない八月(山本薩夫監督・小林久三原作。自衛隊のクーデター描く)
https://drive.google.com/open?id=1CBt6JjUPxMc0EAGxJaLpwcoTXnVGAKRk
★★あゝ野麦峠(1979年)150m計
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または
❶https://m.youtube.com/watch?v=DIq-LbbtcCY
❷https://m.youtube.com/watch?v=ecJ-Kl-dEZw
★★映画・日の果て=戦争の空しさと残酷さ訴える八木プロ・青俳作品 鶴田浩二105m
【下記の映画=「ドレイ工場」も武田監督ともに山本薩夫監督が総監督となって作成した=詳しくは当ブログ=「ドレイ工場」参照
🔵ドレイ工場(前編)
https://drive.google.com/file/d/1Csrcyym_AlBoNDsMv70FKAmmRr8-AoWO/view?usp=drivesdk
🔵ドレイ工場(後編)
https://drive.google.com/file/d/17Qf9rBvtKQcKn0lneq1zHXHQZA1wd5gf/view?usp=drivesdk
http://blog.livedoor.jp/kouichi31717/archives/2802425.html】
◆山本薩夫親子の映画=アッシイたちの街 赤旗19.01.30
◆山本薩夫監督の映画45ランキング
http://cinema-rank.net/s-kantoku/120459
◆◆山本薩夫=『戦争と人間 』
(Youkuをスマホで見る場合、画面下のAPPクリックのこと。YoukuをPCで見る場合、Chromを使用して下さい。Firefoxの場合、アドオンにunblock youkuをインストのこと)
★★第一部=運命の序曲 105m(194mから一部省略)
https://drive.google.com/open?id=1_8b0UlEI4aKuwQojabcyWvI9dimOZcFY
または
★★第二部=愛と悲しみの山河
182m版
https://drive.google.com/open?id=0B6sgfDBCamz5Y2tsUFpTd0xtWVU
94m版
★★第三部=完結編. 188m
https://drive.google.com/open?id=14NCSpnE87YJaX_wpK5BetV2AkwTke6ZH
または
または以下のリンク説明
◆3作品はYouku提供で中国国内のみになっているので、下記を参照してPCやスマホで見れるように設定して下さい。簡単です。
【中国内限定のYoukuやTudouの動画が見れないときの対策 http://yuyu.miau2.net/watch-youku-tudou-video/】
◆第一部と第二部は一部省略されている。
◆中国語で話している場面の日本語はないので、字幕の中国語で推察して下さい。Openloadも同じ。画面下記の中国語から推察して下さい。
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★戦争と人間第三部から
標耕平の戦死5m
★戦争と人間第三部から
標耕平からの順子あての手紙(吉永小百合)5m
(『戦争と人間』の感動的な名場面。セツルメントで子どもたちへのボランティア活動をしていた順子に憲兵が突然尋ねてくる。順子は憲兵から「標から何か連絡がないか」詰問される。その詰問で戦死したとばかり思っていた順子が耕平が脱走して生きていることに気がつく。憲兵に殴打されながらも順子は、歓喜のなかでいつも読み記憶していた耕平からの手紙を読み上げる)
◆◆山本薩夫監督の映画=『戦争と人間』のあらまし
『戦争と人間』は、1970年(昭和45年)から1973年(昭和48年)にかけて公開された3部作の日本映画である。
日活製作。監督は山本薩夫。五味川純平の同名大河小説『戦争と人間』の映画化作品で、日本映画としては同じく五味川の小説を映画化した『人間の條件』の9時間31分に次ぐ9時間23分の長さを誇る、日活製作による戦争大河超大作。物語は、1928年(昭和3年)の張作霖爆殺事件前夜から1939年(昭和14年)のノモンハン事件までを背景に、様々の層の人間の生き様から死に様までを描いている。そして、その後の太平洋戦争に至る経緯について丁寧に表現されている。
以下KINENOTEから引用
◆第一部=運命の序曲(1970公開)あらすじ
昭和三年。新興財閥伍代家のサロンでは、当主伍代由介の長男英介の渡米歓送会が開かれていた。その場には由介の実弟喬介、由介の長女由紀子、次男俊介、伍代家の女中頭で由介の妾であるお滝、部下の矢次など一族身内の者のほかに、金融家市来善兵衛、陸軍参謀本部の佐川少佐、その部下の柘植進太郎中尉など常連客が招かれていた。
話題は期せずして、張作霖打倒のため蒋介石が北伐をはじめた満州の状勢に集まった。関東軍を出兵させ張作霖軍を武装解除させるべきだという強硬論者は、英介と喬介であった。とくに“満州伍代”と呼ばれる喬介は関東軍参謀河本大佐等強硬派と気脈を通じ、より大きな利権を求めて画策していた。その両腕が、匪賊との生命がけの交渉によって運送ルートを作りあげた男、高畠正典と阿片売買やテロルなどに暗躍する凶暴な男、鴨田駒次郎であった。喬介や英介の意見に反対を唱えたのは、まだ中学生の俊介であり、それに無言の支持を示したのは自由主義者の矢次だった。由紀子は妻帯者である矢次を愛していたが、にえきらぬ矢次の態度は彼女を若い柘植中尉との新たな恋に駈った。出兵のための奉勅命令が得られないあせりから関東軍は列車爆破によって張作霖を暗殺するという挙に出た。だがその陰謀は張作霖の息子張学良と蒋介石の和解、総一抗日勢力の強化という方向に事態を動かした。喬介は新参謀石原中佐の依頼で、運送隊の中に偵察特務員を潜入させたが、匪賊はその報復に、高畠の愛妻素子を連れ去った。そして彼女はふたたび帰って来なかった。
満州の状勢は悪化の一途をたどった。昭和六年九月、関東軍は奉天郊外の柳条溝付近で、自らの手で満鉄列車を爆破、それを張学良の謀略挑戦であるとして、一斉攻撃を開始した。いわゆる満州事変の始まりであった。この戦争は“死の商人”たる伍代家の利益を飛躍的に増大させた。さらに大陸進出を意図する由介は、アメリカ帰りの英介をも満州に送りこんだ。戦闘は拡大し各地に飛び火した。金沢の師団にいた柘植も出征することになった。出発の前日、由紀子がたずねてきた。二人は何も特別なことは語らなかった。この運命のあわただしい転換を前に、愛の約束は意味のないように思えた。巨大な、そして不吉な暗雲をはらんだ昭和史のあゆみは次第にその速度を早めつつあった。由紀子と柘植のみならず、無数の人間たちの運命が、そのなかで翻弄され、屈折を余儀なくされていった。
◆第二部=愛と悲しみの山河(1971公開)あらすじ
伍代俊介は、自由で民主主義的なものが日々失なわれてゆく時代に対しても、長男英介のイニシアチブで軍に接近をはかる伍代家そのものに対しても、いらだちと怒りをつのらせていた。その上、彼は英介のもとの婚約者で、狩野という男と味気ない結婚生活を送っている人妻温子に恋をしていた。若者らしいひたむきさで愛を告白する俊介に対して、温子の心はともすれば動揺しがちだったが、人妻である温子にとって、俊介以上に辛く切ないものだった。俊介の親友である標耕平は、すでにその頃から、将来どのような危険に身をさらそうとも、反戦活動に生きようと決心していた。俊介の妹順子の耕平に対する愛もよくわかっていたが、耕平は順子を危検に捲き込むことを恐れた。事実、耕平に影響を与えた画家の灰山や小説家の陣内はすでに捕えられ、特高刑事の凄惨な拷問を受けていた。活動そのものではなく思想傾向が逮捕の対象になる時代になっていた。一方、満州大陸では、さまざまの人が、さまざまの理想、欲望に向って戦い、暗躍していた。満州国建設は関東軍の手で強引に作り上げられたものだけに、内外に多くの矛盾をはらみ、治安もまた安定していなかった。大財閥に先がけて大陸進出を画策する伍代由介とその弟ですでに満州で商社を経営する喬介は現地の富豪趙大福に接近、合資会社設立を持ちかけていた。実業一点ばりの由介にくらべて、喬介のやり方はもっと荒っぽく、軍の上層部と通じて大規模な阿片密売を行っていたが日本軍の特務機関としてそれを摘発したのは、皮肉にも満州へ転属になっていた柘植進太郎だった。柘植は、伍代家の謀略的なやり方に反対したため左遷されて再び東京に配転されたが伍代家の長女由紀子と再会をはかる間もなく、相沢中佐による永田鉄山軍務局長斬殺事件が起こった。統制派と皇道派という軍内部での主導権争いによる事件だったが、それは皇道派青年将校たちのクーデターにまでエスカレートした。二・二六事件である。深刻な不況と軍部権力の増大は、日本を巨大な戦争に向けて走らせる強力なバネになった。俊介は、息苦しい国内を脱出して、新しい生活を求めて満州に渡った。学業もやめ、自分ひとりの力を試すつもりだった。だが、その前に現われた温子の夫狩野の卑劣な人間性に対する怒りから、一度は断念した温子への愛が再び燃え上った。俊介は、温子を満州によび寄せる電報を打った。大連港のホテルの一室で、俊介は温子のふるえる肩を抱いた。せきを切ったように二人は激しい愛の歓喜に身をゆだねた。しかし、狩野は二人の前に立ちふさがり、陰険な方法で俊介をゆすった。俊介には自由に出来る金はなく、結局喬介に頼むしかなかったが、温子は自分のために俊介が傷つくことに耐えられず、結局、狩野のもとに帰っていくしかなかった。同じ頃、耕平と順子にも、やはり別離の時がやってきた。耕平は反戦運動のために捕えられ、灰山と同じように特高の拷問と戦っていた。ファシズムに対する戦いは、大陸でも執拗に続けられていた。朝鮮人徐在林、満人白永祥は、抗日パルチザンの指導者として武器をとり、趙大福の娘瑞芳も抗日運動に積極的に身を投じた。日本人医師服部は、危検の追った瑞芳を上海に亡命させるために、彼女を鴻珊子に托した。昭和一一年一二月、大陸の抗日運動は歴史的な転換を見せた。張学良の努力で、内戦を続けていた国民党の蒋介石と共産党の周恩来の間に内戦停戦が結成されたのである(西安事件)。のっぴきならぬ力の対立はもはやとどめようもなく全面的戦争に向って突っ走っていった。それは、多くの愛を引き裂き、多くの人々の運命を捲き込んで加速度を増した。昭和一二年七月。蘆溝橋での銃声を合図に、日本は中国に対する長い侵略戦争に踏み込んでいった。
(日刊ゲンダイ17.08.10)
◆第三部=完結編(1973公開)あらすじ
昭和十二年、日中全面戦争は火蓋を切った。同十二月、南京陥落、そして、日本軍による大量虐殺。東京。伍代家では長女・由紀子の結婚披露宴が進められていた。由紀子は、青年将校柘植への情熱を胸に秘めながら、父・由介が決めた東亜銀行頭取・雨宮の令息との政略結婚に身を沈めた。一方、次女・順子は、兄・俊介の友人で、反戦運動に激しい闘志を燃やす標耕平と秘かに結婚式を挙げるため、伍代家をあとにした。彼は順子との束の間の愛をかみしめながら入隊、大陸の戦線へと送り出されていく。そして、日本軍の蛮行を目の当りにしながら自分の主義を守りぬくのだった。順子は標の友人達と平和運動に身を置きながら、遠い大陸の標の無事を祈るのだった。俊介は、軍需産業へと転身した伍代の満州支社へ赴任した。だが彼は、身の危険もかえりみず、戦争の無謀さを軍部に説いた。一方、身売り寸前に俊介に救われた村娘・苫は、伍代家で女中として働きながらも、俊介への慕情を断ちがたく、彼を追って単身、大陸へと旅立つ。そして、俊介と愛の一夜を過した苫は、異国の街へ姿を消した……。後介は反戦活動を問われ、同志の田島とともに投獄されるが、やがて、伍代家の威光で、拷問と闘う田島を残して獄から解かれた。
自らの矛盾に悩む俊介は、対ソ戦の第一線に一兵卒として銃を取るのだった。昭和十四年。満州と外蒙古の国境ノモンハンで、国境紛争からソ連軍との間に大規模な戦闘が開始された。日本軍は高度に機械化された物量を誇るソ連軍に惨敗。俊介の所属する部隊も、ソ連の戦車軍団によって徹底的に壊滅する。柘植は、砲弾が炸裂する中を、ソ連軍の陣地に斬り込み、壮烈な最期をとげた--戦いというより日本軍司令部の苛酷な命令に従った死の突撃だった。天を焦がすどす黒い硝煙の下、累々と地を覆う日本兵の死体。だが、その中で、俊介は生きていた……。伍代家にも時代の嵐が吹きさんで来た。軍部は巨額の軍費を得るべく、伍代財閥にも圧力をかけ始めたのである。一方、順子には既に、標が死んだとの報せが届いていたが、ある日、ものものしい憲兵隊が、標の順子宛の手紙を押収しに来た。居丈高な彼らの態度から、標が生きていることを知った。彼は抗日運動に身を投じたのだった。ノモンハンの荒野は墓場と化し、生き残った帰還部隊がハイラルの街を行く。放心した隊列の中には俊介の姿もあった。涙にまみれた苫との再会も、彼の疲れを癒してはくれなかった。時に、ヨーロッパでは、ナチスがポーランドを占領。やがて、大戦の炎は、不気味に膨張した日本ファシズムを捲き込んでいった……。
◆大林宣彦=山本薩夫監督『戦争と人間』
赤旗15.06.25名作館
◆◆山本薩夫監督『戦争と人間』
(映画の旅人14.08.30朝日新聞)
ベストセラー『人間の條件』を書いた五味川純平(1916~1995)の大河戦争小説を、社会派の巨匠山本薩夫(1910~1983)の監督で日活が製作、70年8月に第1部が公開され大ヒットした。当初は戦後の東京裁判までを描く構想だったが、日活の経営悪化により第3部(73年)で打ち切りに。それでも計9時間23分に及ぶ邦画屈指の超大作になった。
物語は軍部と結託し、旧満州、中国での利権確保をもくろむ新興財閥・伍代家を中心に軍人、社会主義者、中国人、朝鮮人、満州人ら様々な階級、国籍の男女が抱く野望や愛憎、過酷な運命を追った群像劇。歴史的な事実を踏まえ、日中戦争の泥沼へのめり込んでいく侵略の構造も描いた。
▼時代に翻弄された人々の運命を描いた「戦争と人間」
1910年生まれの山本薩夫と、6歳年下の五味川純平。昭和30~40年代にベストセラー作家、ヒットメーカーとして人気を集めながら、戦争の記憶が遠ざかると共に没後、語られることが少なくなった。だが終生反戦を貫いた2人の創作の根底にあった戦争体験は今の時代、再び重みを増しているように思える。
旧満州(中国東北部)に生まれた五味川は、東京での学生時代に治安維持法違反で投獄される。映画の主人公が監獄のセメント壁で冷やした手を、高熱を出した同房の青年の額にあて一晩中看病するシーンはその時の実体験だ。勤務した満州の製鉄会社では、憲兵隊による中国人労働者の処刑に立ちあわされた。召集された最前線では終戦の2日前、ソ連軍との戦闘で部隊は壊滅。生存者は158人のうち4人。そうした壮絶な体験を背景にした人間ドラマと歴史的事実を重ね、戦争が起きる構造に迫ろうと書かれたのが大河小説『戦争と人間』だった。
「いつ完成するか、発表できるあてもない仕事だが、手伝って欲しい」と言われ、作家の澤地久枝さん(83)は刊行前から9年間、五味川の執筆助手を務めた。古書店で文献や資料を集め整理し、解釈を巡って徹底的に討論。その結果を小説としては異例の膨大な注釈にまとめた。
「五味川さんは、文壇と交流せず人間不信が強い面もあった。中国人が5人斬首されるまで制止できなかった体験、自分もきれいな人間ではないという悔恨があったのだろう」と澤地さんは言う。
一方、山本監督も大学時代、軍事教練反対の集会を開き逮捕され、退学処分になる。進んだ映画界も戦時体制が強まり、2本の国策映画を撮り終えた43年に赤紙が来た。すでに妻子ある33歳。入営すると軍隊精神が入っていないと、徹底的に暴力を受け、前歯を2本失った。報道班員として中国に渡り終戦を迎える。
「子ども時代の思い出といえば、質屋通い。焼酎を買いに行っても、1合、2合単位。それだけ貧しかった」と長男の駿さん(75)、次男の洋さん(72)は振り返る。戦後、山本監督は復帰した東宝の労働争議で先頭に立って闘い、退社を余儀なくされる。仲間とつくった独立プロでの映画製作は経済的に厳しかったが反戦、反権力の立場からの秀作を作り続けた。「軍隊生活で味わった屈辱や戦時中に撮った翼賛映画への後悔が、バネになっていたのだろう」と2人は語る。
一方、本人はチャプリンが好きで喜劇を愛していた。「映画はわかりやすいものでなければならない」が信条で、骨太なメッセージを娯楽作品として撮り上げる才覚があった。五味川も観念的に戦争を描こうとはしなかった。そんな俗っぽい部分もあったからこそ、主義・主張を超え、まだ戦争の記憶が共有されていた当時の人々は、「自分たちの物語」として「戦争と人間」に共感したのだろう。
山本監督は大御所になっても「薩ちゃん先生」と現場で呼ばれ、親しまれた。「せっかちで何でも自分でやらなきゃ気が済まない性分。『戦争と人間』でも、馬に向かって“もっと速く走れ!”と怒鳴っていた」と甥(おい)の俳優、山本學さん(77)。映画で演じた中国共産党員役のセリフはほぼ全編中国語。「自分なりに頑張ったが、発音がおかしいと中国からも批判された。私の中では恥ずべき思い出です」と苦笑いする。
第3部「完結篇」のクライマックスを飾るノモンハン事件の戦場シーンは、ソ連(当時)で本物の戦車を使って撮影された。學さんの弟、圭さん(74)は「こんな機会は二度とないだろう」と、自分の出番はなかったが見学者として同行した。だが撮影中、時間がかかる通訳を介した現地スタッフへの指示に、気の短い監督は我慢できない。「圭ちゃん、ちょっとあそこで死んできてくれ」などと頼まれ、20回以上もエキストラとして出演した。戦車が大砲を撃つと、何百メートルも離れていてもすごい衝撃波が届く。「本当の戦争なら、すぐ逃げ出したでしょうね」
山本監督はワンシーンを撮り終えると必ず記録係に「今、何秒?」と確認していたという。監督が描いた詳細な絵コンテにも秒数まで指定されたコマがある。「あれだけスケールの大きな作品でも、すべての場面が頭の中で構成されている。豪華なキャストも含め、いくらお金をかけても、今の時代には作れない。まとめきれる手腕を持った人もそういないでしょう」と圭さんは語る。
ラストシーン。戦死した兵士が荒野で荼毘(だび)にふされ、真っ赤な炎があちこちで燃え上がる。それは流された血の色であり、その後空襲や原爆で焦土と化した日本の運命を暗示するかのようだ。このシーンもまた、終戦の翌年、山本監督が中国から復員するその当日、傍らで亡くなった戦友が焼かれた炎を、列車の中から見た光景を再現したものだった。
40年以上前の作品は現代の人々にどう映るのか。日本軍の激しい暴力や加害描写に、目を背けたり反発を感じたりする人もいるだろう。だが戦後の転換点にいるかも知れない今、原作の一文を記憶にとどめておきたい。「威勢のいいことを云(い)うやつがいたら、そいつが何をするか、よく見るんだ(中略)自分の納得できないことは、絶対にするな。どんな真理や理想も、手がけるやつが糞(くそ)みたいなやつなら、真理も理想も糞になる……」
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🔵Wiki=山本薩夫
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鹿児島市出身。6人兄弟の末っ子として生まれる。官吏だった父が鹿児島県庁から愛媛県庁に転勤することになり、一家は松山に引っ越した。この時期に長兄の友人で、のちに共産党弾圧で獄死した重松鶴之助と知遇を得る。1923年に旧制松山中学校(現:愛媛県立松山東高等学校)に入学するが、兄が東京大学に入学したことを機に一家は上京し、薩夫も明治中学に編入した。1929年、一年間浪人したあと第一早稲田高等学院へ入学した。浪人時代より新劇に興味を持ち始め、学生時代は左翼運動に傾倒していった。1932年、早稲田大学に進学するが、軍事教練反対のための学生集会を開いたため、特高に検挙され中退を余儀なくされた。
中退後は新劇の世界に入りたかったが、当時は新劇への弾圧が厳しく、映画ならば何とか食べていけると考え、重松鶴之助から伊藤大輔を紹介してもらう。伊藤大輔からの勧めもあり、1933年に大手映画会社である松竹蒲田撮影所に入社し、成瀬巳喜男監督の助監督を務める。後に成瀬がPCL(東宝の前身)に移籍することになり、山本も成瀬から誘いもあって行動を共にした。新興映画会社だったPCLでは役者の数が非常に少ない状態で、チーフ助監督だった山本は、弾圧に苦しんでいた宇野重吉や滝沢修といった新劇俳優たちを撮影所に連れて来ては、映画に出演させる機会をできるだけ多く作っていった。
1937年、吉屋信子原作の『お嬢さん』で監督に昇進し、続いて監督した『母の曲』が記録的なヒットとなる。私生活では、学生時代より交際していた小林よ志江と結婚し、2男1女をもうける。戦時中は『翼の凱歌』『熱風』といった戦意高揚映画も監督していたが、『熱風』が完成した直後に召集令状が届き、佐倉連隊に所属し北支を転戦した。この時期、山本が映画監督であることに因縁をつけられ、のちの『真空地帯』で描かれたような上官たちからの執拗ないじめを受ける。その後は報道班に転属し、当地にて終戦を迎える。
1946年6月に復員し、9月には東宝に復帰する。当時、東宝は東宝争議第2次争議の最中であり、山本は組合側の代表格として会社側と敵対するようになる。1947年には戦後第1作目となる『戦争と平和』を監督し、映画は大変な評判を呼び、キネマ旬報ベストテンの第2位に選ばれる。一方、同じ年に山本は日本共産党に入党する。1948年、会社側が千名以上の解雇を通告したことがきっかけとなり、会社側と組合側の間に第3次争議が勃発する。撮影所に篭城した組合側を排除するために、ついにはアメリカ軍も軍事介入する事態になり、一応は山本を含めた組合指導部16名の退職で騒動は決着となった。
その後は同じく解雇された亀井文夫や伊藤武郎と共にカキ氷屋を始めるが商売に失敗する。その頃、争議の解決資金として東宝より振り込まれた1500万円を元手に社会派映画『暴力の街』を監督する。映画は製作費を上回る興行成績をあげ、この成功に自信を持った山本は、1950年に今井正、亀井文夫、伊藤武郎と独立プロダクションである新星映画社を設立し、『箱根風雲録』『真空地帯』『太陽のない街』といった反骨精神旺盛かつ骨太な社会派作品を数多く世に出した。1959年には、全国の農村婦人から10円ずつカンパしてもらい、農村映画の傑作『荷車の歌』を製作し、映画は移動映写機を用意して、全国の農村で上映して回った。
『人間の壁』『武器なき斗い』『松川事件』と独立プロでの製作を続けていたが、大映の永田雅一より仕事の依頼を受け、市川雷蔵主演の時代劇『忍びの者』の監督する。当時としては忍者を初めてリアルに描いた作品として大ヒットを記録し、以降は大手映画会社での製作が中心となる。大映では『傷だらけの山河』『証人の椅子』を、東映では『にっぽん泥棒物語』を世に放ち、1965年には医学会にメスを入れた山崎豊子の問題作であり、山本の代表作となった『白い巨塔』を発表する。
1969年に長編記録映画『ベトナム』を製作した後は、日本の大陸への進出の歴史を描いた『戦争と人間』三部作を監督し、金融界の内幕を暴いた『華麗なる一族』を始めとする一連の山崎豊子作品や、構造汚職を摘発した石川達三原作の『金環蝕』、自衛隊のクーデターを描く『皇帝のいない八月』などの社会作を連続して監督した。
『あゝ野麦峠・新緑篇』を撮影した後は、仕事の合間を見ては自伝の執筆を続けていたが、1983年5月19日に入院し、8月11日に膵臓癌のため死去。享年73だった。自伝は、山本の死後に「私の映画人生」という題名で出版された。野上弥生子の「迷路」、森村誠一の「悪魔の飽食」が次回作として予定されており、また原作の前半部分を山本が映画化した『不毛地帯』の続編(後半部分)の製作も企画されていたが、山本の急逝と共に未完となった。
社会派として反体制的な題材を扱いながらも娯楽色豊かに仕上げる手腕・平衡感覚をもった監督として、興行的にも常に成功していたため、共産党を嫌った大映の永田雅一や東宝の藤本真澄など経営者級プロデューサー達にも起用された。多くの大作を残していることから、「赤いセシル・B・デミル(『十戒』などを監督したハリウッド大作の巨匠)」と呼ばれた。戦後の日本映画独立プロ運動の中心的役割をになうと共に、またソ連や中国をはじめ各国の映画人との交流を深め、ベトナム人民支援、チリ連帯、反核活動、全国革新懇などにおける運動に献身的に参加した。
東宝の副社長をつとめた藤本とは奇しくも同年・同月同日生まれながら、薩摩出身と長州出身、母校もそれぞれ早稲田と慶應義塾、監督とプロデューサー、組合幹部と経営幹部と、常に対立関係にありつつ共に働くという間柄であった。
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◆◆Wiki=東宝争議とは
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東宝争議(とうほうそうぎ)は、1946年から1948年にかけて三次にわたり、日本の大手映画製作会社、東宝で発生した労働争議を指す。特に1948年の第3次争議は大規模なもので、最終的には撮影所の接収に警視庁予備隊および連合国軍の一員として日本の占領業務にあたっていたアメリカ軍までもが出動した。
【東宝争議は、以下のニつの文献参照】
◆◆0212宮森繁=来なかったのは軍艦だけ-東宝争議.pdf
◆◆6505伊藤雅一=霧と砦-東宝大争議の記録.pdf
◆背景
1945年(昭和20年)12月、東宝では、戦後の混乱と社会主義運動の高揚によって、東宝従業員組合(従組)が結成された。従組は全日本産業別労働組合会議にも加盟し、たびたびストライキを行った。今井正や山本薩夫など日本共産党員が戦争中から在籍するなど開放的な社風だったこともあって、労働運動は一挙に盛り上がり、従業員の九割、5600名の組合員を持つ巨大勢力となって会社と対決するようになった。
1946年(昭和21年)3月に第1次争議、同年10月に第2次争議が起こった。第1次争議は比較的穏やかなものだったが、第2次争議は従組が労働時間の制約など様々な新協定を会社側に認めさせた。ストや新協定の混乱により映画撮影はままならず、東宝の製作本数は18本で、他社の半数までに落ちた。
同年11月、ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した大河内伝次郎に賛同した長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子の十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を離脱。渡辺邦男監督なども組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱した。
1947年(昭和22年)3月、「十人の旗の会」のメンバーと、同時に組合を脱退した百数十名の有志が中心となり新東宝を設立した。
東宝は健全な運営は難しくなっていたが、当時の経営陣は巨大な従組と直接対決を避けるため、従組を「第一製作部」、従組離脱組を「第二製作部」として、あえて離脱組を冷遇した。また、離脱したスターの穴を埋める為、三船敏郎、久我美子、若山セツ子、岸旗江、伊豆肇などの新人若手俳優を積極的に起用した。彼らは「東宝ニューフェイス」と呼ばれた。
◆第3次争議勃発
1947年(昭和22年)12月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わった。社長の田辺加多丸が会長に就任し、新社長には外部から元日本商工会議所専務理事・衆議院議員の渡辺銕蔵を招聘した。予てから「反共の闘士」で鳴った渡辺は労務担当重役や撮影所長に強硬派を据え、年が改まった1948年(昭和23年)4月8日に東京砧(きぬた)撮影所従業員270名を突然解雇した。さらに、人員整理のため1200名の解雇計画を発表した。
これを受けて4月15日に従組は生産管理闘争に突入、東京砧撮影所を占拠して資機材を管理下に置き、正面入口にバリケードを作って立てこもった。これによって第3次争議の始まりとなる。一方経営側は、5月1日・メーデーの日に会社は休業を宣言。従組は東京地方裁判所に会社の営業再開を求める仮処分を申請したが、会社側も占有解除を求める仮処分を申請し対抗し8月13日に東京地裁は会社側の申請を認め占有解除の仮処分執行を決定した。
翌14日に裁判所の執行吏が砧撮影所へ向かったが、この時は立てこもっていた従組組合員800名によって入場を拒否される。
改めて8月19日に仮処分執行を決定するが、その前から労働者2500名が砧撮影所に立てこもった。五所平之助、今井正、楠田清、亀井文夫などの映画監督、岩崎昶、伊藤武郎などのプロデューサー、山形雄策などの脚本家、宮島義勇などのカメラマン、ニューフェイスの若山セツ子、久我美子、中北千枝子といった俳優も数多く参加した。各セットの小屋の前には、不燃塗料を詰めた大樽を複数並べ、各樽の上には零戦のエンジンを搭載した特撮用の大型扇風機を持ち出してきて設置した。警官隊が突入してきた際、風圧で砂利やガラス片、塗料を飛ばすものであり、実際にこれは使用された。屋根や窓から、木片やガラス球を詰めた袋を落とす仕掛けも作られていた。電流を流した罠も設置された。
同日早朝、日本の占領業務にあたっていた連合国軍の一角をなすキャンプ・ドレイクに駐留していたアメリカ陸軍第1騎兵師団司令官ウィリアム・チェイス少将は、カービンで武装したアメリカ軍MP150名、歩兵自動車部隊1個小隊、装甲車6両、M4中戦車3両、航空機3機を率いて砧撮影所を包囲した。これらの部隊は、H.F.T.ホフマン代将指揮のアメリカ軍地上部隊だった。チェイスは航空機から指揮を執った。
同日午前8時30分、警視庁予備隊2000名が仮処分の執行援助の為に砧を包囲した。小田急線成城学園前駅での乗降を禁止し、砧撮影所に通じる道を封鎖した。
同日午前9時30分、成城警察署署長もしくは執行吏と会社側代理人の弁護士が、アメリカ軍トラックに乗り、10数人の警官隊に守られながら、砧撮影所の正門まで行き、従組に、執行吏による仮処分受諾を要求し、従組代表と交渉した。
同日午前10時30分、警視庁予備隊部隊が、戦車に先導されて砧撮影所正門前に展開し始めた。亀井文夫が、砧撮影所正門前の予備隊に向かって、「正義は暴力によっては踏みにじられない」と書いた紙を掲げた。その後、従組は、軍に包囲された以上、力での抵抗は不可能と判断し、職員会議を開いて仮処分の受け入れを決定した。
同日午前11時過ぎ、組合員2500名は互いに腕を組み、インターナショナルの歌を歌いながら撮影所を退去し、演劇研究所に撤退した。続いて執行吏が所内に入り、仮処分執行の公示書を掲示した。
このとき、日映演東宝分会は、砧撮影所の他に、東宝営業部門(映画館)も占拠していた。渡辺銕蔵は、映画館を閉鎖されると直接会社経営に響くことから、商売の面から争議の切り崩しを図った。東宝監督の渡辺邦男を、愚連隊の首領・万年東一に遣わして、日比谷の映画館のスト破りを依頼した。万年は、連日“小光”小林光也や“新宿の帝王”加納貢ら、50人から100人の配下を連れて、映画館を襲撃し、組合員を追い出した。また連日の闘争費用を東宝に要求したが、成功報酬は受け取らなかった。
同年10月18日、組合最高幹部の伊藤武郎、宮島義勇は、渡辺社長らと会談。ここで、組合幹部20名の自主的な退社と交換条件で、解雇されていた残り250名の解雇を撤回することで合意がなされた。さらに、大規模な人員整理の凍結などが認められ、組合側と会社側による覚書の調印によって、ようやく第3次東宝争議は正式に決着した。
1950年(昭和25年)、東宝は、東宝争議で解雇が撤回された200名を、レッドパージという形で解雇した。
◆連合国軍出動
1947年に計画されていた二・一ゼネストは、官公庁の大型労働争議であっただけに、GHQ/SCAPが介入するためには、「国民の福祉に反する」という一応の理由があった。また、中止方法も指導者に中止を放送させるという、強引だが「平和的」な解決策をとった。ところが、この事件は一企業の労働争議であったにもかかわらず、裁判所の仮処分を拒否したと見ると、武力を以って労働運動を解散させるという荒業を行った。
二・一ストの際、最高司令官マッカーサーは翌年の大統領選挙に共和党から出馬するつもりで、アメリカ合衆国民の目線を非常に気にしていた。当時共和党は労働組合が大きな支持基盤となっており、日本の労働運動を露骨に弾圧して評判を落としたくなかったため、スト決行の直前まで、直接動くことはなかった。まして、軍を出動させることはもってのほかであった(マッカーシズム及び赤狩りの時代を除き、アメリカ国でも共産党は合法でありアメリカ共産党が政党として存在する。なお、かつてマッカーサーは、ワシントンD.C.に集まった退役軍人のデモを、共産党に操られているとして武力で解散させたことがある)。
しかし、1948年6月の共和党大統領候補の予備選挙でマッカーサーは惨敗してしまい、候補に選出されなかった。このときからマッカーサーはアメリカ国民の目を気にせずに済むようになり、東宝争議はその時期に重なって強制解散させられたとするものである。
また、1948年8月は、ベルリン封鎖問題などでソビエト連邦率いる共産主義勢力が席巻していた時期であり、ソ連と共産主義者による横暴を容認できないアメリカとしては、日本での共産主義的な芽も早いうちに摘んでしまいたかったとの見方もできる。どちらにせよ、GHQ/SCAPがもはや共産主義陣営の影響を受けた労働運動に味方しない事を誇示した事件でもあった。
◆知られざる第4次東宝争議
第4次東宝争議は、参加人員が全国の日本映画演劇労働組合(日映演)の東宝分会で約180名、砧撮影所で140名と、第3次までの東宝争議と比べて極端に少ないために、一般にはあまり知られていないが、1950年5月17日から同年12月29日まで続いた。
1948年に第3次東宝争議が終結した後も、東宝は、社内の派閥や新東宝との不調和によって、赤字を増やし、1950年1月末の借入金その他の債務は約13億円、赤字は1億5000万円にも及んでおり、新たな人員整理の必要性に迫られていた。
1950年5月17日、会社側は、300名の人員整理通告を発表した。整理の対象は、主に、日本映画演劇労働組合(日映演)だったが、それ以外に、日映演から分裂して生まれた全国映画演劇労働組合(全映演)の組合員も対象になっていた。このため、第4次東宝争議は、人員整理によって大きく影響を受ける日本映画演劇労働組合(日映演)が主導した。
5月24日、大映多摩川撮影所、松竹大船撮影所も日映演東宝撮影所分会との共闘を決議。5月25日、吉村公三郎監督の大映の『偽れる盛装』スタッフも首切りに反対の態度を示した。5月26日、山田五十鈴が日本映画演劇労働組合(日映演)への加入を発表。日本映画監督協会、シナリオ作家協会などが東宝の会社側の映画製作に非協力の態度をとるなど支援も広がった。
6月2日スト指令を出した全映演は、6月3日ストを中止し、6月16日妥結した。一方、争議を主導してきた日映演は、6月25日、解雇無効身分保全の仮処分を東京地方裁判所に申請、これに対して、8月10日、東京地方裁判所の勧告が出され、12月28日東京地方裁判所で争議妥結の覚書が作られた。12月29日本社で仮調印が行われ、争議は終結した。
1952年に亀井文夫監督、山田五十鈴主演の劇映画「母なれば女なれば」を製作したキヌタプロダクションは、第4次東宝争議の解決金として日映演に支払われた600万円のうち、200万円を資本金にして設立されたとされる。
◆余波
東宝争議は日本の映画界に大きな爪跡を残した。東宝は争議を乗り切ったものの製作再開の目処は立たないため、第二製作部を母体とした新東宝に映画製作を完全に委託して自身は配給のみを受け持つ、という方針も検討したという。しかし、最終的には新東宝は独自の配給網を築いて東宝と袂を分かち、東宝も自主映画の製作を再開することとなる。(その後、新東宝はスターが相次いで流出し、結局1961年に倒産した)。組合側の指導者であった伊藤武郎、宮島義勇、山本薩夫、亀井文夫といった共産党員は東宝を追われ(今井正は期間を開けて自主的に退社)、しばらくは大手映画会社からも敬遠されたため、独立プロを設立した。
争議後、山本嘉次郎、成瀬巳喜男、黒澤明、谷口千吉監督らは、東宝で映画製作ができないため、退社して「映画芸術協会」を設立、新東宝、大映、松竹といった他社での仕事を余儀なくされた。また、藤本真澄らプロデューサーも退社し、個人プロダクションを設立しての映画製作に当たった。相次ぐ人材の流出に悩まされた東宝は、争議の後数年間は低迷した。東宝が黄金時代を迎えるのは、東宝重役の森岩雄が公職追放解除となって東宝に戻り、黒澤、成瀬、藤本らが復帰した1950年代中頃からのことであった。
◆エピソード
米軍の露骨な介入に対し「空には飛行機、陸には戦車、来なかったのは軍艦だけ」と知れ渡った事件であったが、1948年(昭和23年)8月20日の朝刊各紙では、米軍介入が日本国民に知れ渡り、評判を落とすことを恐れたGHQ/SCAPの検閲によって、東宝争議の「解決方法」が報じられることはなかった。
旧日本陸軍の九七式中戦車から砲塔を撤去し障害物除去用の排土板を取り付けた装甲車両が、警察の装甲車として出動している。
◆争議を主題にした作品
絵画
内田巌『歌声よ起これ(文化を守る人々)』(1948年、東京国立近代美術館蔵)
記録映画
清島利典監督『闘ふ映画人の記録』(1998年、96分、伊藤武郎、岸旗江、花沢徳衛らの証言収録)
小説
宮城賢秀『東宝争議の闇 昭和戦後暗闘史』 (2008年、学研M文庫、学研パブリッシング)
演劇
『けんか哀歌』(劇団「猫のホテル」、本多劇場=2008年5月1日~5月11日、新潟市民芸術文化会館=2008年5月14日)
当時の東宝の製作部門である撮影所は、事実上、生産管理闘争における生産管理状態にあった。
宮崎学『不逞者』幻冬舎<幻冬舎アウトロー文庫>、1999年、ISBN 4-87728-734-5のP.138には「成城警察署」と書かれている。
^ a b c 法政大学大原社研 東宝争議〔日本労働年鑑 第24集 288〕
^ a b c 法政大学大原社研 東宝争議〔日本労働年鑑 第24集 292〕
法政大学大原社研 東宝争議〔日本労働年鑑 第24集 293〕
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